検索ワード:憲法/82件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    天皇はロボットであれと言うのか? 戦後憲法学の「猛毒」は今も健在だ

    であり、占領行為とは戦争行為にほかならない。 占領軍は、徹底的に日本弱体化政策を行った。その中心が、憲法である。 日本国憲法の原本(国立公文書館蔵) そもそも、憲法とは何か。その国の歴史文化伝統そのもの、すなわち国体である。憲法典とは、国家経営のための確認として国体を成文化した法典にほかならない。 大日本帝国憲法は、占領軍により徹底的に破壊され、悪魔化され、打ち捨てられた。何のためか。それだけでなく、それまでの日本の伝統や文化を徹底的に貶め、歴史の断絶を図った。 言うまでもなく、我が国の国体を破壊するためである。 では、我が国の国体とは何か。 皇室と国民の絆である。 戦前憲法学の泰斗である佐々木惣一先生から語り継がれている教えがある。 「皇室と国民の絆が切れた時、国民が皇室を見捨てた時、日本は日本ではなくなる」 あの忌まわしき敗戦の日から70年間、日本を愛する人々は負けっぱなしだった。あの日から今に至るまで、我が国は敗戦体制を抜け出せていない。日本を滅ぼしたい勢力、皇室を亡きものにしたい勢力にやられっぱなしだった。 しかし、皇室と日本国民の絆は切られていない。国民を欺き毒を混ぜようとする輩象徴としてのお務めについてのお気持ちを表明される天皇陛下(宮内庁提供) 今年8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が放送された。その要旨は、「国民との絆を守るために自分は身を削ってきた。しかし、個人の努力だけで今後も永続できるかどうかはわからない。だから皆で考え、話し合ってほしい」だった。 畏れ多いことである。 8月8日の玉音放送を受け、各種調査で国民の90%以上が陛下を支持している。低めの数字で84%、高めだと94%である。陛下のお言葉の中身をわかっているとは思えないが、「それでも、天皇陛下が仰ることならば」との想いであることは間違いない。反対者は、いずれの調査でも数%の、超少数派にすぎない。 もちろん、世論調査がすべてではない。事の本質をわかっていない国民を欺き、毒を混ぜようとする輩もいるだろう。政治家も絶望的なまでに頼りない。 しかし、あえて敵の立場で考えてみよう。70年間、ありとあらゆる手練手管を尽くし、一方的に攻撃を加え続けたのである。その結果が、これである。一体、70年間も何をしてきたのか。 仮に皇室を亡きものにしようとしたら、二千六百年の歴史と一億の国民を敵に回さなければならない。  敵の側に立って勝算が立たないということは、我々圧倒的に有利なのだ。 ならば、何をすべきか。 これが憲法を論じる際の心構えであろう。憲法改正の核心とは さて、憲法改正の核心とは何か。 どこの国の憲法でも、最も大事なことは一条に書く。 日本国憲法第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 占領軍が押し付けてきた日本国憲法でも、第一章は天皇である。その第一条は象徴規定だが、この「象徴」の意味は決して軽くない。 占領軍は、戦前の天皇を独裁者だと勘違いした。そして、イギリスのような立憲君主にさせようとした。「象徴」とは、ウェストミンスター憲章の用語である。これに困惑したのが、当時の日本政府である。そもそも帝国憲法の天皇条項は英国憲法など欧州各国の立憲君主国を参考にし、運用もそのようにしてきたからだ。GHQ民政局の素人集団が急ごしらえで日本に押し付けた日本国憲法 「英国のようになれ」と強制する占領軍と、「最初からそうなのですが」と反論する日本政府の、涙ぐましくも間抜けなやり取りの末に、現行憲法では「天皇は象徴」とされた。 では、象徴とは何のことか。国家元首のことなのである。実際の運用でも、日本の国家元首は天皇である。たとえば、外国大使の信任状を渡すのは国家元首の役割だが、天皇が行っている。天皇が日本の国家元首である。これは厳然とした事実である。 ところが、それを認めない者がいる。宮沢俊義東大法学部教授に始まる、戦後憲法学である。宮沢はあまつさえ天皇を「盲判を押すロボット」と言い切った。宮沢の影響を受けた学校教育でも、「戦前の天皇は主権者であり国家元首だったが、現行憲法では象徴にすぎなくなった」と教えている。 「ロボット」云々は論外としても、戦前の天皇は「主権者」「独裁者」「国家元首」だったが、現行憲法で「象徴」に転落したと誤解している向きもないではない。そのような誤解に基づいて改憲を論じるなら、宮沢の嘘を土台にしている時点で戦後憲法学の枠を一歩も出ていないことになる。 一つ一つ誤りを指摘すると、まず帝国憲法に「主権」などという言葉は出てこない。次に、明治、大正、昭和の三代の天皇のどのような振る舞いが独裁者なのか。1930年代以降、東欧諸国の多くで国王独裁が見られたが、同時代の昭和天皇が同じようなことをしたのか。あるいは、現代のアラブ諸国の専制君主とどこが同じなのか。 そして、現行憲法の「象徴」とは、国家元首の意味である。母法にあたるウェストミンスター憲章のイギリスが象徴である国王あるいは女王を国家元首の意味で使っているのに、なぜ日本では用語の意味が変改されるのか。 おそらく誤解の原因は、君主のあり方には、独裁者か傀儡(ロボット)の二種類しかないと思いこんでいることだろう。 英国の偉大な憲政史家であるW・バジョットは「英国民は、誰も君主が傀儡であることを望んでいない」と強調している。バジョットによれば、君主とは「国家の尊厳を代表する存在」である。すなわち、国家儀礼を行う存在である。 まさに、今の日本国憲法の天皇である。 君主のあり方には、独裁者と傀儡の他に、三つ目の「立憲君主」があるのである。憲法を自らの意思で守る君主を立憲君主と称するのだが、君主国における国家元首が君主であるのは自明である。その地位を象徴と呼ぼうが、なんと呼ぼうが構わない。 お気づきであろうか。現行憲法は、押し付け憲法であるが、占領軍は帝国憲法への誤解から天皇に「立憲君主たれ」と要求したが、「傀儡になれ」とまでは言っていない。むしろ、憲法制定過程を見ると、「象徴とは決して軽い意味ではない」と強調、日本側を説得する姿勢さえ見せている。 真に天皇を貶めているのは、宮沢以下の日本人である。宮沢憲法学の猛毒は健在である。日本人が天皇をロボットにしている 8月8日の玉音放送を受けて、保守と目される論者から、「天皇が政治的発言をしてはならない」との批判の声が上がった。何を超少数派が、と侮るなかれ。政府が招集した有識者会議でも、「天皇の発言が国政に影響を及ぼすことが無いように」との配慮がなされている。 政府の法制官僚が東大憲法学なのはともかく、世に正しい言論を問うべき立場の論者までが宮沢の詐術に騙され続けているとはどういうことか。 正しい理解には、世界中の文明国で共有されている、バジョットの立憲君主に関する見解を復習すべきであろう。外相公邸跡に建てられた「日本国憲法草案審議の地」の記念碑=10月17日、東京都港区 バジョット曰く、「立憲君主には三つの権利が残されている。警告する権利、激励する権利、相談を受ける権利である。賢明な君主ならば、この三つの権利を行使して、国政に影響を及ぼすだろう」と。 立憲君主は、国政に関する権限(Power of command)を有さない。たとえば、立法権は議会に、司法権は裁判所に、というように。だが、君主は物言わぬ傀儡ではない以上、三つの権利は残される。もちろん、大臣との内奏などの限られた場で賢明な君主の発言を、政治家が無視すれば、結果は言うまでもない。ただし、君主の意見を聞くかどうかは、政治家の責任である。これを君主無答責の原則と言う。以上の前提で、立憲君主は国政に影響力(Power of influence)を行使して良いのである。 これは日本国憲法でさえも、本当は認めている。 日本国憲法第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。 権能(Power of command)を有さないだけで、結果として影響力(Power of influence)を行使することまでを封じていない。 8月8日の玉音放送において、陛下は「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」とはじめ、「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。国民の理解を得られることを、切に願っています」と締めくくられた。 警告する権利と相談を受ける権利の行使に、ほかならないではないか。 超少数派が「天皇は政治的発言をすべきではない」と批判するが、何のことだろう。 そもそも、皇位継承が政治なのか。仮にそうだとしても、天皇はロボットであれと言うのか。一切の発言が許されないのか。 現行憲法を押し付けた占領軍の意図を飛び越え、日本人が天皇をロボットにしている。 これを打破することより重要な憲法論議があるだろうか。この意識改革は条文の改正以前の問題である。 天皇はロボットではない。物言えぬ傀儡ではない。国政に関する権能は有しないが、影響力を行使して良い。ただし、聞くかどうかは政府次第、責任も政府が負う。 宮沢憲法学から離れ、このような当たり前の文明国の常識に立脚することだろう。   憲法を論じる際、核心は天皇である。 そして今、絶対に負けるわけにはいかない、しかし負けるはずがない戦いの場にいるのである。 今こそ二千六百年の歴史と一億の国民の強さを見せつける時だ。 国体は永遠に不滅であると。

  • Thumbnail

    テーマ

    今さら聞けない憲法改正の核心

    日本国憲法は公布から70年を迎えた。衆参の改憲勢力は3分の2を超え、安倍晋三首相の下で議論はにわかに活気づく。ただ、「改正」と一言で表現してもそのポイントは何か、きちんと理解している人がどれほどいるだろうか。本日は「今さら聞けない憲法改正の核心」と題して、この議論の本質を読み解く。

  • Thumbnail

    記事

    憲法改正を「ご都合主義」で否定する日本共産党を許してはいけない

    だと考えておりますが、これを一気になくすことはできません」 「私たちが政権を担ったとして、その政権が憲法9条を活かした平和外交によって、アジアの国々とも世界の国々とも平和的な友好関係を築き、日本を取り巻く国際環境が平和的な成熟が出来て、国民みんなが"自衛隊は無くても 安全は大丈夫だ"という圧倒的多数の合意が熟したところで、9条の全面実施の手続きを行う、すなわち自衛隊の解消へ向かうというのが私たちの立場なんです」 志位氏の主張はあきらかにおかしい。第一に、日米安保条約を廃棄することと自衛隊を解体することに関して国民的な合意のレベルが違うというが、本当だろうか。志位氏の主張に従えば、日米安保条約を敵視し、これを廃棄することに関する国民的な合意が形成されているかのようだが、これは実態と大きく異なる「虚構」の議論ではないだろうか。立憲主義の破壊を宣言した志位氏の台詞 平成26年度における内閣府の世論調査の結果をみれば、志位氏の主張が虚構に過ぎないことは明らかだ。内閣府の世論調査では、「日本は現在、アメリカと安全保障条約を結んでいるが、この日米安全保障条約は日本の平和と安全に役立っていると思うか」との質問に対して、「役立っている」とする者の割合が82.9%(「役立っている」38.5%+「どちらかといえば役立っている」44.4%)、「役立っていない」とする者の割合が11.5%(「どちらかといえば役立っていない」8.9%+「役立っていない」2.7%)となっている。 駆け付け警護」の訓練を公開、国連職員に模した人物(青い帽子)を救出する自衛隊員=10月24日、岩手県内の陸上自衛隊岩手山演習場 8割以上の国民が日米安保条約を日本の安全保障のために有益な条約だと考えているのが現状であるにもかかわらず、まるで、日米安保条約の廃棄に関する国民的合意が形成されているかのように語るのは、現実をみようとしない「反知性主義」的な議論か、極めて欺瞞的な議論かのいずれかだと言わざるを得ない。そして日本共産党の自衛隊に関する議論は噴飯物と言わざるを得ないレベルの、欺瞞的な議論だ。 志位氏に従えば、「自衛隊は違憲の軍隊だと考えております」ということになる。しかし、自衛隊を支持する国民が圧倒的大多数である以上、「違憲の軍隊」である自衛隊を直ちには解散しないというのだ。 これは、近代立憲主義を破壊することを宣言した恐ろしい台詞だ。立憲主義とは、行政府、すなわち政府の暴走を食い止めるために憲法を尊重する義務を行政府に課したものだ。この点では、「リベラル」の人々の主張と私の主張とに径庭はない。 私自身は、共産党が主張するように自衛隊が違憲の可能性が高いと考えている。だからこそ、憲法を改正して違憲状態を放置するようなことがあってはならないと主張しているのだ。近代立憲主義を空洞化させないためにも、自衛隊の存在を憲法上に明記すべきだと考えている。 歴代の自民党政権は、本来的には憲法改正を行うべきでありながら、国民が憲法改正、九条改正に反対する可能性を恐れ、非常に際どい、実質的には詐欺まがいの解釈改憲によって、自衛隊を「合憲」と位置づけてきた。こうした憲法に対する極端な解釈は、一人の政治学者としてみれば、許しがたい欺瞞以外の何でもないのだが、一人の国民としてみれば、現実的に日本を守るために致し方なかった選択であったのかとも思えなくもない。憲法を改正しなければならない最大の理由 憲法と自衛隊の関係に関する共産党の解釈は異常なものだ。共産党は、自衛隊の存在そのものが違憲だという。仮に自衛隊の存在そのものが違憲であるならば、ただちに憲法を改正して憲法が自衛隊の存在を認めるか、自衛隊の存在そのものを否定し、憲法を守らなければならない。衆院本会議で安倍晋三内閣不信任決議案の賛成討論をする共産党の志位和夫委員長=5月31日、国会 だが、共産党は、存在そのものが違憲である自衛隊の存在を認めてよいというのだ。要するに憲法に背く存在を認めてしまえという立場なのだ。この立場は恐ろしい。何故、恐ろしいかといえば、違憲の存在が認められるということは、事実上憲法が空洞化することを是認しているからだ。立憲主義の破壊を堂々と宣言しているに等しいからだ。 我々国民の基本的な人権は憲法によって保障されている。だから、基本的な人権が踏みにじられるような行為があった場合、それは憲法の精神に反する行為であり、許されない行為ということになる。だが、共産党の解釈に従えば、憲法に背くような行為であったとしても、共産党が認めれば、そのような行為ですら是認されてしまう可能性を否定できない。 国民の権利、人権を守るためには、行政府の暴走を食い止めなければならない。そのために人類が考案した一つの偉大な防御策が「立憲主義」だ。憲法によって、行政府の暴走を食い止めようというのが最大の狙いだ。だが、共産党は、自分たちの匙加減で「違憲」の存在であろうとも、認めることが出来ると公言しているのだ。こうした「立憲主義」を否定するかのごとき恐るべき言説を許容することは出来ない。 日本国憲法を改正しなければならない最大の理由は、我が国の国防を担う自衛隊が、まるで違憲の存在であるかのように捉えられる憲法第九条第二項を改めなければならないからだ。まるで立憲主義を破壊しかねない共産党のような主張を展開するのではなく、堂々と自衛隊を憲法の中に位置づけるべく、憲法改正を行う必要がある。

  • Thumbnail

    記事

    日本国憲法の語数は世界一少ない?70年間改正を阻む「分量」の盲点

    研究院准教授) 7月の参議院選挙後、衆議院でも参議院でもいわゆる改憲勢力が3分の2を確保したことで、憲法改正が現実味を帯びてきた。そうした事情を踏まえてであろうが、メディアや論壇では以前にもまして憲法問題に関心が寄せられるようになった。 もっとも、そこで行われる憲法改正論議には2つの特徴があるように思う。1つは、個別の改憲項目の是非にのみ注目が集まり、日本国憲法全体の特性が踏まえられていないこと、もう1つは、日本の憲法だけを見て、他の立憲主義国の動向が踏まえられていないことである。そこで以下では、2つの事実から出発して、憲法改正問題をより大きな視点から捉え直すことを試みたい。 1つ目の事実は、日本国憲法が分量の少ない「小さい憲法」であることだ。このことは、日本がお手本にしてきた欧米諸国の憲法と比べると一目瞭然である。憲法の英単語数で比較すると、憲法をもたないイギリスを除外すれば、アメリカ憲法が7762語、ドイツ憲法が27379語、フランス憲法が10180語、イタリア憲法が11708語であるのに対して、日本国憲法は4998語しかない。アジアでも、韓国憲法は9059語を備えている。 もちろん、連邦国家であるアメリカやドイツとは同列に論じることはできないが、しかし、同じ単一国家であるフランス、イタリア、韓国と比較しても、日本国憲法の分量はそれらの半分程度でしかない。各国には固有の事情があるとはいえ、これだけの分量の差はもはや誤差の範囲を遥かに超えている。つまり、日本国憲法は著しく語数の少ない憲法なのだ。  憲法の語数が少ないということは、憲法に含まれる規範の量が少ないということである。それはつまり、憲法として通用するルールが少ないということだ。このことは、次の2つのことを推測させる。 1つは、諸外国では憲法で規定されていることが日本国憲法には定められていないのではないか、である。すぐに思い当たるのは、政党条項である。政党は本来、民間団体であるが、現実の政治において公的な役割を果たしている。そこで各国では、憲法に政党条項を置いて、政党の役割や任務などを規定する反面、民主的な党内運営や憲法遵守などの特別の憲法的義務を政党に課すことが多い。 議院内閣制を採用している日本国憲法においても、政党は当然に「議会民主主義を支える不可欠の要素」(最高裁判所)として位置づけられている。実際、現行法でも、比例代表選挙など政党本位の選挙制度が採用され、また政党助成金として毎年300億円以上の税金が投入されるなど、政党は多くの優遇措置を受けているのだ。にもかかわらず、それに見合った特別の憲法的義務が課されないのは不正常であるとともに、何より他の団体との関係で不公平であろう。憲法に政党条項を置くことには、現状に照らしても十分な理由がある。70年間の変化に一貫して目を閉ざす 2つ目の推測は、憲法の不足が憲法解釈や法律によって埋め合わされているのではないか、である。ここでも直ちに思い当たるのが、衆議院の解散である。衆議院解散権は「総理の専権事項」や「伝家の宝刀」などと当たり前のように語られるが、実はそうではない。そもそも憲法は衆議院で不信任決議が可決された場合の解散を規定するだけで、それ以外の場合の解散については何も言っていない。首相の解散権は、長年の憲法解釈の積み重ねで認められているに過ぎないのである。2012年11月、衆議院解散を伝えるテレビに見入る買い物客=兵庫県洲本市 しかし、衆議院の解散のような重要な国家行為が憲法の明文の根拠なしに行われていることこそ、政治が憲法に基づいて行われるべきとする立憲主義の観点から問題とされなければならないはずだ。憲法の不足・不備を補うことは、本来憲法改正の最優先課題である。今からでも遅くないので、解散権を明文化する憲法改正は早急に取り組まれるべきだ。 そもそも、憲法の分量が少ないということは、権力を統制する文書としては不十分である可能性がある。諸外国の憲法の分量が多いのは、それくらいの分量を備えないと、憲法に基づいた政治ができないということでもある。権力統制の度合いを高める目的の憲法改正は、むしろ立憲主義を重視する立場からこそ提唱されるべきである。なお、2012年の自民党改憲案では政党条項と解散権の何れについても明文化されており、この点は公平に評価すべきだろう。 2つ目の事実は、日本国憲法が制定以来一度も改正を経験していないことだ。この事実は、政治社会や国際情勢の変化にもかかわらず、憲法は何らの応答も示してこなかったということを意味している。つまり、憲法は70年間の社会の変化に一貫して目を閉ざしてきたということだ。 当然のことながら、このような歩みは、日本がお手本としてきた他の立憲主義諸国とは大きく異なる。1949年制定のドイツ基本法は現在までで60回、1958年制定のフランス憲法は24回、そして1787年制定のアメリカ憲法は通算18回、戦後だけでも6回の改正を経験している。もちろん、重要なのは憲法改正の回数自体ではなく改正内容であるが、その動向が詳しく伝えられることはあまりない。 欧州諸国に見られるEU関係の改正を別とすれば、各国の憲法改正の内容は、概ね以下の3つに類型に分けられる。それは①権力バランスの回復、②現代的な統治技術の導入、③新しい理念や価値観の宣言である。参院選で内閣が変わる権力の不均衡 第1の権力バランスの回復とは、権力関係に不均衡が生じた場合にそれを是正することである。具体的には大統領や国会議員の任期や権限を変更する改正である。代表的な例だけを挙げると、フランスでは大統領と議会との「ねじれ」を回避するために、2000年憲法改正で大統領任期(7年)が議会任期と同じ5年に短縮された。また、イタリアでは現在、強すぎる上院の権限を縮小する憲法改正手続が進行中で、12月に国民投票が行われる。 第2の現代的な統治技術の導入とは、憲法制定後に確立した新しい制度や技術を憲法に取り込むことである。実は、統治の制度や技術も時代を経る中で新たに考案される。たとえば、「憲法裁判所」は20世紀前半に考案された新しい国家機関であり、それが普及したのは第二次世界大戦後である。また、韓国やベルギーは、戦後の憲法改正によって憲法裁判所を設置している。 第3の新しい理念や価値観の例としては、環境保護原則が挙げられる。フランスでは環境憲章という独立の法文書が制定され、後に憲法に編入された。また、欧州の基本的原則として死刑の禁止(ドイツ、フランス、イタリアなど)が、あるいは最近では同性婚の禁止(クロアチア)が憲法の原理として書き込まれた例もある。 さらに、フランスは興味深い憲法改正を試みた。女性の社会進出が進まないフランスでは、1999年憲法改正で男女同数原則(パリテ原則)が憲法に規定された。そしてこれを具体化する法律が選挙での比例代表名簿の順位を男女交互に配置することを義務づけたため、2015年12月の地方議会選挙では、全議員のうち女性議員が47.8%を占めるに至った。このように、欧米の立憲主義諸国は、憲法制定後に生じた新たな問題を憲法自体のアップデートによって対処してきたのだった。 こうした諸外国の改正動向は、果たして日本とは無関係なのだろうか。2000年代以降の「ねじれ国会」では、「強い参議院」の実態が明らかになった。実際にも、参院選敗北の責任を負って首相が退陣に追い込まれ(1998年橋本内閣、2007年安倍内閣)、来たる参院選に備えて首相が交替するなど(2001年森内閣、2010年菅内閣)、参院選の結果が政局に直結する事態が相次いで生じた。 しかし、衆議院の信任のみに基づく内閣が参院選を契機として変わることは憲法の予定するところではなく、ここには権力の不均衡が見られる。したがって、その是正のために、憲法改正によって、強い参議院の源泉である衆議院での再可決要件(59条2項)を現行の3分の1以上から2分の1以上に緩和することには十分な理由がある。憲法裁判所は現代憲法の「標準装備」 ②についても、日本の違憲審査制度は機能不全に陥っており、憲法裁判所の設置が検討されてもよい。現行憲法の施行から70年近く経過した現在でも、最高裁が法律を違憲と判断したのは昨年12月に出された再婚禁止期間規定に関する違憲判決を入れてもわずか10件しかない。また、衆参の国会議員選挙に関する一票の格差訴訟で最高裁はここ数年「違憲状態」判決を繰り返しているが、選挙そのものを違憲・無効としたことは1度もない。2015年11月25日、衆院選の「1票の格差」訴訟の上告審判決で最高裁が違憲状態と判断し、笑顔を見せる原告団の升永英俊弁護士(中央)ら 投票価値の不平等は法の下の平等(14条)に違反する人権侵害であるとともに、民主主義を歪める異常事態であるが、最高裁によって長年放置され続けている。このような最高裁の「消極主義」は従来から問題視されてきたが、違憲審査制が現実にあまり機能していないという状況は、権利保障を本質的要素とする立憲主義にとって、最も深刻な問題であるはずだ。 憲法保障・人権保障に専心する憲法裁判所は、立憲主義の統治システムの到達点であり、いまや現代憲法の標準装備とさえ言い得る。昨年夏の安保法論議でも明らかになったように、違憲の疑いのある法律について早期の違憲審査を可能とするためにも、憲法裁判所の導入はもっと真剣に考えられてよい。 さらに、③の理念や価値観については、70年間受け継がれてきた平和主義を引き継ぐことはもちろん大切であるが、環境問題や財政問題など現在および将来の日本が直面する課題への指針として、「環境保護原則」や「財政均衡原則」などを憲法に掲げることも一考に値するであろう。 分量の少ない「小さい憲法」、改正経験が一度もない憲法。これらは否定しようのない事実であるとともに、他の立憲主義諸国にはおよそ見られない日本に特殊な事実でもある。日本国憲法のこのような特性を踏まえたとき、我々に問われるのは、権力をよりよく統制するために憲法に十分な規定を補充し、憲法を社会の変化に応答的なものにしようとするのか否かである。 そしてこの問いは同時に、日本が諸外国並みの憲法に追いつこうとするのか、それともこれまで通り特殊な憲法をもち続けるのか、という今後の日本の針路にもかかわる。憲法改正論議では、個別の問題の是非だけでなく、より大きな視点に立った議論が望まれる。

  • Thumbnail

    記事

    「核の戦国時代」に、どうする日本国憲法

    交政策を展開するために、従来の体制を根本的に変えなくてはならなくなっている。米の軍事力が日本と日本の憲法を覆った米の軍事力が日本と日本の憲法を覆った もっとも、日本でもすでにこの問題について多くの論議がなされている。憲法改正の動きもその一つといえる。 世界のすべての国が憲法を持っているわけではない。たとえばイギリスには憲法がない。だが憲法を持つ国にとっては、それを変えることは国民の社会生活に大きな影響を与えるために、たやすく行えることではない。 日本にとって重要なのは、憲法を変えるか否かという問題もさることながら、これからの日本が国際社会でどのように行動するべきか、という原則を明確にすることである。 私は『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』(PHP研究所)という本を書いたとき、第二次世界大戦後に日本を占領し、サンフランシスコ講和条約で日本に独立を与えたアメリカの政治家や軍人たちが何を考え、どうしてきたかを詳細に調べた。また憲法作成に関わった人々にも直接会って話を聞いた。昭和21年11月に皇居前広場で開かれた日本国憲法公布記念祝賀都民大会 当時、日本を占領していた軍人たちは、あらゆる努力を結集して、日本の新しい憲法が日本人の手によって考えられ、つくられたという体裁を整えようとした。そう努力したのは当然のことである。占領軍が憲法を与えたということになれば、その憲法は占領体制が終わると同時に捨てられてしまう。憲法作成に関わった人々の誰もが私にこう言った。 「占領が終わったら、日本人はこの憲法を廃棄するだろうと思った。だから日本人がつくったのだという形をとることが大切だった」 占領軍の当事者たちはまた、古い明治憲法との連続性を維持することに全力を挙げた。 つまり新しい憲法は、明治憲法と同じように、日本人が作成したものであると、日本人をはじめ内外に示そうとしたのであった。 この試みが成功したのは、憲法そのものが優れたものであったからだ。アメリカの政治学の碩学であるハーバード大学のジョン・ケネス・ガルブレイス教授は、私とのインタビューのなかではっきりとこう言った。 「良い憲法は誰がつくっても良い」 たしかにそうであるが、日本の多くの人が信じ込んでいるように、この良い憲法が日本という国の安全を維持してきたわけではない。日本の安全が保たれたのは、アメリカの軍事力が日本と日本の憲法を覆ってきたからである。アメリカの力が、長い平和を日本にもたらしたのだ。 第二次世界大戦後の70年間にわたって、アメリカの力というドームが日本をすっぽりと覆い隠していたために、中にいる日本は平和な状況が当たり前のことになってしまった。 日本は、ドームそのものも、ドームの外にあるアメリカの力を見ることも認識することもなく、「憲法が平和をもたらしてくれた」と信じ込んでしまった。真の独立国になる機会を逃すな真の独立国になる機会を逃すな このドームが、いまや消えようとしている。憲法は依然として存在はしているものの、日本と日本の憲法を覆っていたアメリカの力が消えようとしている。  すでに触れたが、ドナルド・トランプが『ニューヨーク・タイムズ』の記者や編集者と1時間20分にわたって外交、国際問題を話し合ったなかで、「日米安保はいらない」と述べたことから、日本では日米安保条約の将来と日本の孤立について関心が強くなっている。大統領選の共和党候補トランプ氏(AP) 日米安保条約はアメリカの占領体制が終わり、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年、アメリカの国際戦略の一つとして成立した。 当時のアメリカは、ソビエトや中国と関係を持つ国内過激派が日本政府を転覆させたり、日本がソビエトに基地を提供したりするのではないかと強く危惧していた。 そうした事態を防ぐ目的でつくられた日米安保条約がその後の60年間、アメリカの重要な国際戦略の一つとして存在し続けてきた。 日米安保条約がなくなれば、たしかに日本は孤立する懸念がある。だが、その孤立によって日本の安全が脅かされると、単純に考えるべきではない。日本は孤立することによって、ようやく真に独立した国家になる機会を手にするのである。 日本という国は、その存在のすべてを日米安保条約に基づくアメリカの政策に委ねてきた。このことは世界中の国が見てきたことである。 私は17年半続いた『日高義樹のワシントンリポート』という番組のために、ドイツの指導者、ヘルムート・シュミット元首相3回ほど、インタビューした。 1回目のインタビューの場所は、ハンブルクのアトランティック・ケンピンスキーホテルのスイートだった。シュミット元首相は、どっしりとした安楽椅子の背にもたれ、タバコを片手に、時々それをふかしながら辛口のアメリカ批判を聞かせてくれたが、そのなかで彼がこう言った。 「日本は世界に、アメリカしか友達がいない」 シュミット元首相は、アメリカの軍事力にすべてを頼っている日本は、結局のところ、あらゆることをアメリカに頼っているのだ、と指摘したのである。 日本は国連を金科玉条のごとく尊重し、外交の基本にしているが、国連はアメリカの力によって設立された国際機関である。日本外交は即、国連外交だと世界中から言われているが、それはすべてをアメリカに頼っている外交という意味に他ならない。 日米安保条約が空洞化し、アメリカが日本を見放せば、日本の国連外交は壊滅する。だが日米安保条約が空洞化することは、日本が真の独立国家として存在することを意味する。 世界は「核の戦国時代」に入るだけでなく、予想すらできない困難な状況になろうとしている。 だが逆に言えば、日本は真の独立国になる機会を手にすることになる。この機会を逃してはならない。ひだか・よしき ハドソン研究所首席研究員。1935年、名古屋市生まれ。東京大学英文学科卒業。1959年、NHKに入局。ワシントン特派員をかわきりに、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長を歴任。その後NHKエンタープライズ・アメリカ代表を経て、理事待遇アメリカ総局長。審議委員を最後に、1992年退職。その後、ハーバード大学客員教授、ケネディスクール・タウブマン・センター諮問委員、ハドソン研究所首席研究員として、日米関係の将来に関する調査・研究の責任者を務める。1995年よりテレビ東京で「日高義樹のワシントンリポート」「ワシントンの日高義樹です」を合わせて199本制作。主な著書に、『アメリカの歴史的危機で円・ドルはどうなる』『アメリカはいつまで日本を守るか』(以上、徳間書店)、『資源世界大戦が始まった』『2020年 石油超大国になるアメリカ』(以上 ダイヤモンド社)、『帝国の終焉』『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』『アメリカの新・中国戦略を知らない日本人』『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』『アメリカの大変化を知らない日本人』『「オバマの嘘」を知らない日本人』『中国、敗れたり』(以上、PHP研究所)など。関連記事■ アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた■ 中国は本気で「核戦争」を考えている■ 国際社会は北朝鮮の核兵器開発を阻止できるか

  • Thumbnail

    記事

    オバマ来広のキーマンが語る なぜ「解釈憲法」ではダメなのか?

    三山秀昭氏『世界最古の日本国憲法』(潮書房光人社)著者インタビューWEDGE Infinity 編集部 アメリカ大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領を招き寄せたキーマンが広島にいる。元読売新聞記者でワシントン特派員などを務め、現在広島テレビ社長を務める三山秀昭氏だ。オバマ大統領の広島訪問を願う手紙を募る「オバマへの手紙」というキャンペーンを企画し、2度にわたって集まった手紙をホワイトハウスに届け、被爆者、市民の声を説いた。その三山氏が、なぜ今「日本国憲法」というテーマに取り組んだのか。編集部 オバマ大統領の広島訪問が実現しました。念願が叶いましたね。三山氏 決断をしたのはオバマ大統領自身です。その決断を促したのは広島、長崎の被爆者、市民の「謝罪にはこだわらない」というスタンスです。政治的に組み立ててくれたのは3K(キャロライン・ケネディ駐日米大使、ジョン・ケリー国務長官、岸田文雄外務大臣)の存在です。広島テレビは被爆地のメディアとして、被爆者と市民の心、それにオバマ大統領と涙の抱擁をした森重昭さんの活動をホワイトハウスに伝えただけのメッセンジャーに過ぎません。『世界最古の日本国憲法』(潮書房光人社) オバマ大統領の広島訪問のキャンペーンを思い立ったのは、2011年、広島テレビの開局50周年記念のキャンペーン企画を考えていた時のことです。その中で「Piece for Peace」(平和へのひと筆)というアイデアが立ち上がりました。広島の平和公園には世界中の人々から年間1000万羽の折り鶴が届けられます。届く数の多さに広島市は頭を痛めていました。そこで、この折り鶴を再生紙にして平和を願う「一文字」を、全国から募りました。反響は大きく、外国も含めて1万8000人から「一文字」が寄せられました。これが、「オバマへの手紙」という企画に発展したのです。 「Presidennt Barack Obama, Please pay a visit to Hiroshima」と印刷して、市民にオバマ大統領へのメッセージを書いてもらうように募ったのです。2016年には、サミットが日本で開催されることが決まっていましたし、実質的にオバマ大統領の任期の最終年になるので、上手くサミットとリンクさせれば実現するのではないかと考えていました。編集部 そうした中で、なぜ今「日本国憲法」だったのでしょうか?三山氏 朝3時ごろ、目が覚めて二度寝ができないものですから、朝食までの時間を活用しました。執筆に着手したのは3月で、1カ月かかりました。状況が長年前進して来なかったという意味では、米国大統領の広島訪問と、日本国憲法も同じです。特に憲法については、改憲派も護憲派も「こうすべき」という「論」が先に立ちすぎていることで、客観的な議論ができていませんでした。そこでまず「論より証拠」ではなく、「論よりファクト」を検証しようと思ったのです。 オバマ大統領の広島訪問の日と、書籍の発売日が同時になったのは、本当に全くの偶然です(笑)。もっと早く出版したかったのですが、2カ月で出版になったのは、参議院選挙より前にすることで、余計な憶測を呼びたくないと考えたからです。私学助成金は憲法違反編集部 憲法の中にある参議院に関する間違いを指摘されていますね。三山氏 初歩的なミスなのですが、憲法第7条4項に天皇の国事行為として「国会議員の“総選挙”の施行を公示すること」とありますが、参議院は半数改選であり、「総選挙」はありません。憲法制定の過程で、GHQは一院制の草案を出しましたが、日本側が二院制を要求し、これをGHQが容認したという経緯があります。その中で、この部分を翻訳し忘れたというお粗末な結果なのです。原爆ドームの前で安倍晋三首相(左)と握手するオバマ米大統領=5月27日、広島市中区の平和記念公園私学助成金は憲法違反編集部 私立大学などに対する「私学助成金」も厳格に憲法に当てはめれば、違憲であることには驚きました。三山氏 2015年の集団的自衛権に関する法律審議において「解釈改憲である」という批判を浴びました。しかし、解釈改憲は何も珍しいことではないのです。国際情勢、日本の社会状況の変化によってこれまで何度も行われてきました。その最もわかりやすい例は、「私学助成金」です。 憲法89条には「公金は公の支配に属さない教育に支出してはならない」とあります。それにもかかわらず、1970年に「公の支配に属さない」私立学校に補助金を出すことになり、今日も続いています。本来なら憲法改正しないとできないことですが、当時、佐藤内閣で補助ができるように解釈変更されたのです。この当時は戦後復興、高度成長を経て大学進学率が向上し、私学への進学が増えて、政府予算での補助が必要となっていました。時期に適ったことであり、野党からも「解釈改憲だから認められない」という反対論はほとんど出ませんでした。編集部 日本の憲法が「世界最古」というのもあまり知られていないことです。三山氏 世界197カ国のうち現行憲法で最も古く制定されたのは、1787年の米国憲法です。そいう意味では、日本の憲法は14番目に古いということになるのですが、制定以来一度も、一言一句も変更していないということで、「最も古い」ということになるのです。外国では憲法改正ということは、そんなに仰々しいことではなく、「必要が生じればしばしば行われる」ことなのです。解釈変更こそ憲法軽視編集部 一方で、憲法9条に代表される「平和憲法」は、全く変える必要がないという声もあります。三山氏 国民の大半が自衛隊の存在を認めているのに、なお、「違憲論」があります。憲法9条をどうするのか、議論することはよいことです。ただ、民進党の前身の民主党も党内調査会で9条を含めた改正内容をまとめたことがあるのですが、選挙が近づくと口にしなくなります。今は「安倍晋三内閣での改憲は反対」と唱えています。憲法改正を発議するのは、衆参両院であり、行政府ではないのですよ。議論の根底がズレているし、政局、選挙が絡んでいます。 これまで護憲派、改憲派ともに「違いを際立たせる」ことに注力してきました。そうではなく、「合意を追求する」ことから始めるべきだと思います。参議院の「総」選挙や、私学への助成などについて憲法を修正することに反論する人は少ないのではないでしょうか。 また、東日本大震災においても改めて浮き彫りになりましたが、緊急事態への対応ということについても現行の憲法のままでは対応できないことがあります。2011年の4月には統一地方選が迫っていましたが、この時は法律事項なので特例法によって東北3県の議員や首長の任期が延長されました。しかし、国会議員の場合、憲法45条(衆院)、46条(参院)によって任期が定められているため、特例法のような形で、法律が上位法規である憲法の規定を変更することはできません。この部分の改正の必要性は民進党の枝野幸男幹事長も認めていますよ。解釈変更こそ憲法軽視編集部 それでも、これまで解釈変更でやってきたんだから、これからもそれでよいと言えませんか?三山氏 それこそ憲法を額に入れて“飾り物”にする「憲法軽視、無視主義」で、立憲主義も法の支配も否定する危険な思想ですよ(笑)。憲法はあってもなくてもよい、解釈変更できるので「守らなくてもよい」ということになります。そのような事態を避けるためにも、「不都合であるから修正する」、「新しいニーズができたので追加する」と素直に考えればよいのではないのですか。編集部 ありがとうございました。

  • Thumbnail

    記事

    改憲という革命で新たな「人工国家」を作り出すのは限界がある

    馬淵澄夫(衆議院議員) 憲法については、政府の改憲論議に引きずられて、「改憲是か?非か?」、「憲法草案作成是か?非か?」などの議論に陥りがちだが、それ以前に、我が国に通底する社会的な価値観、規範を考えたときに、「憲法」とはなんぞやとの極めてプリミティブな考察が必要ではないのか?、との強い問題意識を私は持っている。 そもそも、憲法は、革命の産物だ。欧米諸国において、王政などの封建国家から民主革命を経て、衆議を決する仕組みすなわち議会制民主国家へと変わりゆく過程で、権力を抑制する仕組みとして必要とされてきた規範が憲法だった。 まさに、歴史の分断、統治の非連続を補うものとして必要とされた根本規範である。国家を「人工国家」と「自然国家」に分類するならば、このような意味での憲法は「人工国家」をつくる仕組みの一部として位置づけられてきたと言える。 こうした、「人工国家」としての仕組みとしての憲法を否定するものではないし、フランス革命やアメリカの独立戦争など民主化の流れにおいて憲法や独立宣言が必要不可欠であったことは理解できる。 しかし、立憲主義が「憲法」のみを主権の体現とする考えと捉まえることには違和感がある。イギリスでは、王権を存続したままに伝統的価値観、慣習法などから「不成文」の憲法規範・体系を構築した。 議会決議や裁判所の判例、国際条約、慣習等のなかの国家の性格を規定するものの集合体を憲法とみなしたのである。そこでは、「憲法」以前に、国家と国民に根付く価値観や規範が最重要の意味をもつ。衆院本会議 長い歴史の歩みや目に見えぬ価値を守り、「自然国家」としての成り立ちを持つ我が国でも、こうした不文の価値観を憲法(規範)として位置づけるべきだったのではないか。しかし、残念ながら我が国の革命と位置付けられるであろう明治維新の際、明治政府はプロイセンの欽定憲法を採用した。 ドイツは、プロイセンによる近代国家としての統一は19世紀まで無いが、中世ドイツは神聖ローマ帝国として形式上は統一された帝国でもあった。神聖ローマ帝国がドイツ第一帝国、プロイセンによる統一ドイツが第二帝国、ヒトラーによるドイツが第三帝国とされている。憲法改正は骨太の議論が必要 そんな中でのプロイセン憲法がフランスの1848年革命の影響を受けた産物であることは事実だが、ドイツ統一は市民革命によるものではなく、ビスマルクによる上からの統一であり、議会制と国王大権が併存する体系となった。 同じく薩長による上からの「革命」を経た日本が参考として、天皇大権と議会制を共存させようとすることに合致したのであっ た。憲法は「革命」の産物であり、人工的な「国家」を創り出すものである。 従って、憲法改正によってその都度新たな人工「国家」を作り出していくことには限界がある。現行憲法改正という「革命」に短絡的に走るのではなく、国家を語る上では、むしろ自然発生的に受け継がれた歴史的規範を重視しその上で現行憲法をどのように捉えていくべきか考えていく必要がある、というのが、私が今最も関心を持つ事柄なのだ。 2千数百年に及ぶ、我が国の歴史の中で連綿と継がれてきた、「共生」の概念や、「調和」と「順応」、さらに「言挙げせぬ国」としての価値の伝承などであり、それこそ神武天皇の建国の詔から始まり、十七条憲法、律令制、さらには武家社会における数々の統治制度などによって、世界に冠たる精神国家としての礎が築かれてきた。  これらを国民が広く理解し、現代においても知らず知らずの間に我々に内在するこれら不文の規範・概念が、現行憲法を内包する価値観として国民の中にあるということを、再度検証すべきではないかと考える。 過去との連続性と継承の上に、未来を創っていく。その立場に立てば、矮小化された憲法改正論議からは一歩離れて、国家としての「国体」を共有する論議へと昇華させていくことができると、信ずる。 改憲論議では、改憲か護憲か、どの条文をいじるのかといったテクニカルな議論に陥りがちだが、「形式」ではなく、守られるべき価値・規範は何かという「実質」に着目した本質的な議論こそが必要である。 ぜひ、こうした骨太の議論を、憲法議論の中で行っていきたいと思う。(2016年8月25日「まぶちすみおの『不易塾』日記」より転載)

  • Thumbnail

    記事

    国会で憲法9条を「禁治産者」と例えていた安倍晋三首相

    去の自らの見解や政府としての答弁をかなぐり捨てて、「安保法案」(戦争法案)や、集団的自衛権について、憲法9条に違反しない、と言い張っており、支離滅裂な発言をくり返しています。そんななか、意外と顧みられていないのが、安倍晋三首相の過去の発言です。 安倍首相の憲法9条に対する見方が端的に表れているのが、平成12年5月11日の衆議院憲法審査会での意見表明です。 集団的自衛権というのは個別的自衛権と同じようにドロワナチュレル、つまり自然権なんですね。自然権というのは、むしろこれはもともとある権利でありますから、まさに憲法をつくる前からある権利というふうに私は考えるべきなのではないか、こういうふうに思います。 そもそも、この集団的自衛権は、権利としてはあるけれども行使できないというのは極めておかしな理論であって、かつてあった禁治産者、今はありませんけれども、禁治産者の場合は、財産の権利はあるけれども行使できないということでありますから、まさに我が国が禁治産者であるということを宣言するような極めて恥ずかしい政府見解ではないか、このように私は思いますので、これは九条のいかんにかかわらず、集団的自衛権は、権利はあるし行使もできるんだろう、このように私は思います。 出典:平成12年05月11日 衆議院憲法調査会議事録質問に答弁する安倍首相 要約すると、(1)集団的自衛権は憲法以前の自然権である、(2)集団的自衛権を有するが行使できないとする政府解釈はおかしな理論であって禁治産者であることを宣言するような恥ずかしい見解、(3)従って憲法9条のいかんにかかわらず集団的自衛権は行使できる、ということになります。 「恥ずかしいから」の一言で憲法9条を否定する恐るべき価値観ですね。「禁治産者」(平成12年4月に成年後見制度に移行し廃止)を「恥ずかしい」と述べる点にも、差別的な価値観が見てとれます。なお、日本国憲法で禁治産制度に概念が近い制度をあえて挙げるなら、憲法5条と皇室典範に定められた摂政の制度なのですが、安倍首相は摂政の制度も恥ずかしい、というのでしょうか。官房長官としての政府答弁 一方、安倍首相は、小泉政権で官房長官だった平成18年4月17日の政府答弁で、下記の様に述べています。 憲法第九条のもとにおいて許される自衛権の行使は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に、武力攻撃から我が国を防衛するための必要最小限度のものに限られるという解釈でありました。集団的自衛権は、我が国に対する武力攻撃に対処するものではなく、他国に加えられた武力攻撃を武力で阻止することを内容とするものでございますので、権限としては有しているわけでありますが、行使は許されていないというのが政府の解釈でございます。 出典:平成18年4月17日 衆議院国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会議事録陸上自衛隊朝霞訓練場での観閲式に臨む安倍首相=10月23日 ちょうど1年前までの憲法9条に関する政府見解を綺麗に述べていますね。ここから分かることは、少なくとも、安倍首相は、私的な見解と政府の見解を分けて考えることができる人だ、ということです。私見から独立した国家の意思が存在することを認めるからこそ、私見とは全く違う政府見解を答弁することができるのです。 自らの口から、自らの意に反した政府答弁を述べた安倍首相は、自らの意思に反していても、自分も含めて何十年にもわたって繰り返し答弁してきた憲法9条に関する政府見解を勝手に変えてはいけないことは分かっているはずです。それをやったら個人の意思からは独立した政府が、国民に向かって数十年越しのウソをつき、あわせて政府を縛っているはずの憲法を縛られているはずの政府がぶち壊すことになるからです。この間、憲法学者が火のように怒っているのもそのためです。それをやりたいのなら最低でも憲法9条の改憲を国民に訴えるべきでしょう。 それにもかかわらず、安倍首相が憲法を冒して政府見解を変えても平気でいられる心理の底には、上記のように憲法9条による集団的自衛権行使不可≒禁治産≒恥ずかしい、という安倍首相自身の見解があるように思えます。 安倍首相は上記と同じ平成12年5月11日の議事録で憲法の制定過程について以下のように述べています。 たとえ王様が裸であっても、裸であるということを、王様の権威の前へひれ伏してしまって言うこともできなかったという状況に似ていたんではないか、やっと王様は裸であるということが言えるようになったんではないか、私はこのように今思っているところであります。  出典:平成12年05月11日 衆議院憲法調査会議事録 裸の王様は誰なのか、今、攻守は反転しつつあるように思えます。こんな発想に基づいて、我が国の立憲主義を滅茶苦茶にされることだけは、避けなければなりません。

  • Thumbnail

    記事

    自民党改憲草案 反省なき対米追従修正に懸念

    党勝利で改憲勢力が3分の2の議席を確保したことを受けて、にわかに改憲論議が高まっている。最新刊『君は憲法第8章を読んだか』が話題の大前研一氏が、従来の改憲論に「NO」をつきつける。* * * イギリスが2003年にイラク戦争に参戦した経緯などを検証していた独立調査委員会(チルコット委員長)は7月、7年間にわたる調査の結果、トニー・ブレア元首相の参戦判断や計画策定に数々の誤りがあったとする報告書を発表した。さらに報告書は、ブレア元首相が開戦8か月前の2002年7月、アメリカのブッシュ大統領(当時)に「何があっても協力する」と武力行使での連携を書簡で確認したことも明らかにした。7月、独立調査委から2003年のイラク戦争への参戦判断などに数々の誤りがあったと指摘された英のブレア元首相(AP) 要するに、ブレア元首相の決定的なミステークは“アメリカのポチ”になったことだったのである。 これは安倍首相への警告と言えるだろう。集団的自衛権の行使を容認し、他国軍の後方支援のために自衛隊をいつでも海外に派遣できるようにする安全保障関連法は、まさに「アメリカについていきます」という宣言であり、それがいかに危険なことか、前述の報告書が如実に物語っているからだ。 常にアメリカが日本よりも正確な情報を持ち、正しい判断をしているのなら、アメリカに追従するのは仕方がないし、東西冷戦時代であれば西側陣営の一員としての義務もあったと思う。 しかし、前述の報告書を待つまでもなく、アメリカがこの20年間にイラクやアフガニスタンなどで展開してきた中東政策は、ことごとく間違っていた。それ以前の歴史を振り返ってみても、ベトナム戦争という大きな過ちを犯したし、中南米でもパナマ侵攻などのミステークを重ねて反米勢力を増やしてしまっている。 そういう判断力なきアメリカと盲目的な軍事同盟を結ぼうというのが、昨年9月に成立して今年3月に施行された安保関連法である。 そして今、俎上に載せられようとしている自民党の憲法改正草案は、戦争放棄を謳った第9条を次のように変えようとしている。「第2章 安全保障第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」 この改正の狙いについて自民党の「日本国憲法改正草案Q&A増補版」では、次のように解説している。 まず、現行憲法の第9条1項については文章の整理のみとする。さらに2項で「戦力の不保持」等を定めた規定を削除した上で、改めて「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」として自衛権を明示。「この『自衛権』には、国連憲章が認めている個別的自衛権や集団的自衛権が含まれていることは、言うまでもありません」。 これまでの歴代内閣は、集団的自衛権の行使は憲法第9条で禁じられていると解釈してきた。安倍首相は、その解釈を変更し、集団的自衛権は現行憲法の下でも当然認められるということで安保関連法を成立させた。従来の憲法では認められていなかったものを、改憲した上で法律にも反映するという理屈ならわかるが、実際は、新たに施行された法律に合わせて憲法を修正しようということになる。 つまり自民党は、第9条改正によって安保関連法を憲法に反映するという「後付け」で正当化しようとしているのだ。そこにはブレア元首相が犯した過ちへの反省や、アメリカが過去20年間繰り返してきた間違いだらけの中東政策についての反省は微塵もない。これはあまりにも杜で危険だと思う。 とくに日米ガイドラインでは、日本は後方支援するといっても現地に派遣された軍隊はアメリカ軍の司令官の指揮下に入ることになっている。つまり、ひとたび戦地に赴いた場合は、国会も内閣も自衛隊の統制権を失う危険性があるのだ。アメリカの資料に出てくるこうした点の議論も、日本では寡聞にして知らない。関連記事■ 安倍首相 抑止力の意味を含め日本独自の打撃力を備えるべき■ 元防衛官僚が安倍政権の安全保障政策の問題点について語る本■ 尖閣侵略時の自衛隊出動は集団的自衛権ではなく個別的自衛権■ 安倍首相力説の2枚のパネル 憲法解釈変えなくとも対応可能■ 米国内で日米同盟「不平等論」は広範に展開されていた

  • Thumbnail

    記事

    憲法巡る重鎮たちの「殴り合い」 その激しく熱い内幕

     「熱しやすく醒めやすい」のは日本人の特徴のひとつだが、集団的自衛権を巡る議論はまだ続いている。憲法記念日を前に、憲法オタクのフリーライター・神田憲行氏がレポートする。* * * 集団的自衛権について昨年までは違憲派の押せ押せムードだったが、今年に入り、違憲派に疑問を突きつける動きが広まっている。東大大学院法学政治学研究科教授の井上達夫氏 きっかけは元最高裁判事の藤田宙靖・東北大名誉教授が雑誌「自治研究」2月号に掲載した論文「覚え書き-集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」だ。藤田氏はこの中で違憲論議が「必ずしも、一貫した精緻な議論が展開されているようには感じられない」として、違憲説を検証して疑問を指摘している。 この論文に「天啓を得たような感動」と飛び付いたのが、昨年まで国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官を務めていた自民党の礒崎陽輔氏である。昨年、立憲主義について「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」とツイートして一躍脚光を浴びた東大法学部卒の礒崎氏は、藤田論文について「一般の皆さんには難しい点もあるので」と、ブログでその内容を要約している。もっとも藤田論文には安倍首相の発言を捉えて「真に謙虚さと節度を欠いた発言ではあるが」など、ところどころ安倍政権の政治的振る舞いに関して苦言を呈しているのだが、これはスルーされているようだ。 藤田論文に名指しで批判された長谷部恭男・早稲田大教授はかつて出した論文集「憲法の理性」に反論文を掲載してわざわざ増補新版にして出版した。 元最高裁判事vs.学会の権威という、憲法オタクにはたまらない重量級の殴り合いである。 と、ここに、改憲派護憲派ともに石を投げるどころか椅子を投げつける人が現れた。東大で法哲学を教えている井上達夫教授である。3月に出た新著「憲法の涙」(毎日新聞出版)の帯は、《改憲派も/護憲派も/ウソばっかり!》《安倍首相も、/護憲派も、/憲法学者ですら、/私のいうことを/聞いてくれない(涙)/-日本国憲法》ありとあらゆる憲法学者は「欺瞞だ」 帯の通り、井上教授はありとあらゆる憲法学者を「欺瞞だ」と名指しで指弾していく。 井上教授は憲法9条の解釈で自衛隊の存在は認められないから9条を削除すべしというのが持論。その立場から自衛隊を違憲としつつ改憲を否定する護憲派を「原理主義的護憲派」、自衛隊を合憲する立場を「修正主義的護憲派」と呼ぶ。「原理主義的護憲派」については、自衛隊と安保を違憲としながら現状を肯定している姿勢を「欺瞞の蟻地獄でもがいている」と批判。「修正主義的護憲派」には、自ら自衛隊合憲という解釈改憲しながら安倍政権の集団的自衛権を解釈改憲と批判する「政治的欺瞞」と指摘する。 学者についても手厳しい。前出の長谷部・早大教授を繰り返し何度も批判し、小林節・慶応大学名誉教授は同氏の過去の発言に一貫性が無いことを取り上げて、《「豹変」名人の小林さんは無視をするとして》 とスルー技を発揮、東大卒で新進気鋭の木村草太・首都大学東京教授は、《木村さんは学生時代、私の授業をいつも最前列の席に座って熱心に聴いていたまじめな人だったので、憲法学者になってそこまで堕落したとは信じたくないですがね》 と嘆いて見せるのである。批判されている先生方は腹立つだろうが、ただの読者のこちらは「よくそんだけ悪口思いつくな」とゲラゲラ笑ってしまう。 聞き役の編集者もたちが悪い(褒め言葉です)。「私の知り合いも怒ってました」などと(その知り合いで誰やねん)という読者からツッコミを入れたくなるような合いの手を繰り出し、井上教授の怒りの炎にどんどん薪をくべていく。 そして最後は自分の血圧について触れ(これも編集者が「心配する読者がいた」と唐突に話を振る)、《自宅の血圧計で「いい数字」が出るまで何回も測り直している。これって自己欺瞞だよね。「人間は自己欺瞞の天才である」という私の命題、まず我が身に適用して襟を正さねば》 で終わるのである。すごい着地の仕方で目眩がする。 しかしこの本の本当の価値は、そういうユーモアも交ぜながら、読者を安全保障、憲法の真摯な議論に導いていくところである。 井上教授の主張は「憲法9条削除」「徴兵制の復活」である。これだけ並べるとウルトラタカ派のようだが、違う。リベラリストとしての井上教授の平和論が底に横たわっている。たとえば「徴兵制」については、いつも自衛隊を「他者」としてしか議論しないことに異議申し立てをし、「自分のこと」として捉えるためにの方策なのである。徴兵制があったからこそベトナム戦争時代にはアメリカで反戦運動が活発になったと指摘し、日本と同じように軍部の暴走を経験したドイツが徴兵制のなかで何を教えていたか紹介する。 昨年の国会を見て「こんな粗雑な議論で自衛隊の人たちに命を掛けさせるのか」と憤慨した私のような読者なら、徴兵制復活は別にしても井上教授がいわんとすることに共感するだろう。そして、憤慨したまま放置している自分の存在に気づき、井上教授の欺瞞の指弾が自分にも向けられていることに慄然とするのである。関連記事■ 護憲派が守ろうとしているのは憲法ではなく古い解釈改憲だ■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 自衛隊を国防軍にすることが平和の確保に繋がると軍事専門家■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ 人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績

  • Thumbnail

    テーマ

    日本人に国民投票は馴染まない?

    英国EU離脱をめぐる国民投票とその後の混乱は、民主主義の在り方に一石を投じた。そして、わが国でも憲法改正の是非を問う国民投票が現実味を帯び始めた。とはいえ、日本人は「和」を重んじ、「白黒」を嫌う国民性である。そもそも、憲法改正の手続きに国民投票がなぜ必要なのか。その是非から考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    国民の声は「神の声」なのか 政治リーダーへの信頼と民意の不条理

    、おおさか維新の会、日本のこころを大切にする党の四党に無所属議員数名を加えた改憲志向勢力の議席数が、憲法改正国会発議に必要な参議院「三分の二」に達したことは、国民投票という政治プロセスへの対応が現実の課題となったことを示している。憲法改正プロセスは、衆参両院「三分の二」による発議の上に、国民投票による可決を要しているからである。 もっとも、国民投票付託という政治対応は、それ自体としてはリスクの大きいものである。国民投票付託という政治対応の怖さを鮮烈に世に印象付けたのは、英国のEU(欧州連合)離脱の是非を問う国民投票であった。この国民投票に際して、デーヴィッド・キャメロン(英国前首相)は、「ブリメイン」(英国のEU残留)という結果を期待しながらも、「ブレグジット」(英国のEU離脱)という結果を招いた。キャメロンの政治対応は、国際政治上の動揺のみならず、自らの政権運営の終焉を招くことになったのである。EU首脳会議後、記者会見するキャメロン英首相=6月29日、ブリュッセル(ロイター=共同) こうした経緯を前にして、国民投票という政治プロセスの意味を確認することは、大事である。それは、民主主義という政治体制の意義を、どのようなものとして認識するかということに関わる論点であるからである。国家統治に係る最終的な意思決定を国民の判断に委ねるという意味において、国民投票は民主主義の論理の究極形であるという評が一方にあれば、国家統治に係る結果責任を何ら負わない国民に判断を委ねる意味において、国民投票は「ポピュリズム」の跋扈と「モボクラシー」(衆愚政治)への転落を促すという評が他方にある。先刻の「ブレグジット」騒動の最中でも、たとえば、デニス・マックシェーン(元英国欧州担当閣外相)は、「庶民は頭(理屈)でなく腹(感情)で判断する」という言葉とともに、「ブレグジット」を招いた民意の非合理性を指摘した。英国のEC(欧州共同体)加盟以降、四十年に渉り、英国が欧州統合の輪の中で積み上げてきた社会・法制度上の蓄積が一夜にして崩される事態は、国民投票に反映された民意の「非合理性」を象徴的に表している。ド・ゴールと仏国民が互いに寄せた「信頼」 しかしながら、この「ブレグジット」騒動とは異なる国民投票の風景として思い起こすべきは、戦後フランスにおける政治上の「巨星」であるシャルル・ド・ゴールの事績である。第二次世界大戦後、久しく政界を離れていたド・ゴールが復帰した一九五〇年代半ば、フランスの世情は騒然としていた。アルジェリア植民地の独立を求める勢力と植民地権益の護持を唱える勢力の確執は、内乱とも評すべき様相を呈していたのである。ド・ゴールは、戦後のアジア・アフリカにおける植民地独立の動きを見誤ることなく、アルジェリア植民地放棄に道筋を付けたけれども、その折に採られたのも、国民投票付託という政治対応であった。ド・ゴールがアルジェリア独立を承認する国民投票に際してフランス国民に向けて発した言葉は、誠に印象深い。 「フランスは、希望に満ち、国益に一致し、未来にそなえて、無秩序、混乱のアルジェリアではなく、平和で責任あるアルジェリアにむかって決定を下そうとしている。だから私はフランス人たちに《ウィ》の投票を要請する。ためらわずに、圧倒的な《ウィ》を」。 そして、国民投票では、フランス本国在住有権者の七五パーセント、アルジェリア在住有権者の七〇パーセントが、ド・ゴールの期待する《ウィ》の票を投じたのである。パリ・クレマンソー広場にあるシャルル・ド・ゴール像 ド・ゴールは、「国民の声は神の声である」と認識し、自らの執政に対する支持を絶えず訴えたけれども、その政治姿勢は、結局のところは、「国民に対する信頼」に裏付けられていた。往時のフランス国民もまた、ド・ゴールの政治姿勢に相応の「信頼」を寄せていたのである。  こうした政治指導層と一般国民の間の「信頼」こそが、国民投票という政治プロセスを成り立たせる一つの前提である。国民投票に関して、それを「民主主義の究極形」と称揚する議論も、それを「モボクラシーへの近道」として警戒する議論も、それ自体としては余り意味のあるものではない。要は、そこに「信頼」があるかということなのである。「ブレグジット」事態を招いたデーヴィッド・キャメロンの政治姿勢には、そうした「信頼」とは裏腹な「浮薄」の風情が漂っていた。「ブレグジット」という結果に表されるものが、英国のEU離脱の是非といった政策対応の評価も然ることながら、キャメロンに対する不信任でもあったと解するのは、強ち無理だともいえまい。これは、先々の日本における憲法改正国民投票のプロセスを展望する上でも、以て瞑すべき話である。

  • Thumbnail

    記事

    国民投票はパンドラの箱 民主主義の「怪物」は日本人にも宿る

    うちに共有されている価値観がある。そのことを前提に、重要な「変革」をしてきたのである。 英国には成文憲法がないのは、有名な事実である。アメリカ合衆国憲法のような成文憲法は、独立戦争や革命といった劇的なことが起こる国にこそふさわしいのであって、英国のように、徐々に、慣習を積み重ねることによって社会を変えてきた国では、「これが我々の憲法だ」と声高に主張するような「派手な」行為は、むしろ、恥ずかしい、そぐわない、というくらいに思われてきた。 例えば、「首相」という地位でさえ、長年の慣習の積み重ねで、半ば自然発生的に生まれてきたのである。英国史上「最初」の首相と言われているのは、18世紀に活躍したロバート・ウォルポールだが、これも、後から振り返れば「首相」に当たる職務を果たしていた、というだけのことで、明確にそのような地位が設けられたわけではなかった。 英語では、すべてのことを明確に言う、という「俗説」が日本には流布しており、今でもそのように思い込んでいる人がいるが、それは全くの誤解である。おそらくは、同じように英語を話すアメリカの一部の人たちの振る舞いを見てそう思ったのか、あるいは、英語の理解が、そもそも中途半端だったのだろう。 日本人以上に「あうんの呼吸」が重視される英国 実際には、英国でのコンセンサスの形成は、それこそ日本で言う「あうんの呼吸」で行われる。私がケンブリッジ大学に留学していた時に、トリニティ・カレッジで見聞きしたフェローたちの振る舞いを見ても、そうだった。留学後も、私はほぼ毎年英国を訪れているが、実際には、英国人どうしのコミュニケーションは、時に、日本人以上に「あうんの呼吸」で進む。 「そのことについては・・・」と話し始めて、その途中で言いよどむことだってしょっちゅうある。あとは、言外に示唆されたニュアンスを拾って、お互いの理解が進み、また、物事が解決していくのである。 物事をはっきりさせて白黒をつけるよりも、このような曖昧なアプローチをとることには、それなりのメリットがある。 まずは、複雑な現実を、そのまま認識できることである。政治に関わる様々な状況は、単純に割り切ったり、決めつけたりできないことも多い。刻々と変化する状況に合わせて、適切な判断をするためには、一見「曖昧」に見える、慣習の積み重ねの方が適している場合が多い。 次に、人間のすぐれた「直観」の能力を用いることができることである。直観は、大脳新皮質の中の論理だけでなく、身体性と深く結びついている。いわゆる「内臓感覚」(ガッツ・フィーリング)である。英国では、伝統的にサッカーやラグビーなどのスポーツが教育の重要なポイントとされているが、そのようなカリキュラムも、直観を育むためという側面があるのだ。 さて、EU離脱の国民投票である。これまでの英国の伝統から言えば、EUに留まるかどうか、留まるとしてどのような交渉をするかということは、繊細でバランスを考えた状況認識、交渉、そして決断で行われたのではないか。首相官邸前で辞意を表明するキャメロン首相=6月24日、ロンドン 保守党内の突き上げによるものとは言え、キャメロン前首相がEU離脱についての国民投票を実施する、と表明したこと自体が、これまでの英国の政治的伝統から見れば、異質なことだと言える。 さらに、キャメロン首相を受け継いだメイ首相は、国民投票の結果を、文字通り実施すると表明している。これも、従来の英国の伝統から見ると、違和感がある。本来、情勢は微妙に変化するはずであり、ある時点での状況判断が、後にも有効であるとは限らないからである。 国民投票で、一票でも多い方が「国民の意志」であり、それは誠実に実行しなければならない、というのは、一つの「イデオロギー」であろう。多数決は、民主主義の大切なイデオロギーかもしれないが、唯一の考え方ではない。それにもかかわらず、それがわかりやすい「数」の力であるために、国民投票が一度実施されてしまうと、誰にも動きが止められない「怪物」になってしまうことも、また事実である。 英国は、長い伝統の中で、健全な現実主義を培ってきた。共産主義は、ロンドンの大英図書館に通ったマルクスによって構想されたが、英国内では、現実の政治で力を持つことはついになかった。英国の現実主義の中で、共産主義というイデオロギーの「怪物」が跋扈する余地がなかったからである。 では、「国民投票」はどうか。ある時点での、単純な「二択」(「残留」か「離脱」か)を選択させて、その結果に従うことは、本当にその国のためになるのか。EUからの離脱が、スコットランドや北アイルランドの独立の可能性など、さまざまな事態を招き、まさに「パンドラの箱」が開いた様相を呈している英国の状況を見ると、「多数決」という民主主義のイデオロギーの実態が、それが一見正しいものに見えるだけに、大いに疑問に思えてくるのである。 日本もまた、英国と同じように、長い歴史を持つ国である。時代に合わせてさまざまなことを決めていくことは大切だが、必ずしも住民投票、あるいは国民投票というかたちによらなくても良いのではないか。 脳の働きを説明する概念の一つとして、「マインドフルネス」がある。周囲の状況を、いきいきと、そのまま受け取ること。英国の政治の最良の伝統は、リーダーたちのマインドフルネスの中にあったように思う。国民投票の盲信は、刻々と変わる状況に対する「マインドフルネス」を封印することにつながりかねない。

  • Thumbnail

    記事

    ヒトラーも好んだ国民投票、それでも最後の意志決定はこれしかない!

    らです 。つまり、国民投票の結果を批判している人々は、民主主義そのものを否定しているということです。憲法改正は国民投票で決めるべきか? 参院選の結果を受け、日本でも将来の憲法改正の国民投票について注目が集まっているようです。私は現行の憲法を改正する必要はないと考えていますが、有権者が国民投票を望むのであれば、それを否定することは難しいでしょう。発動するのが政府だとしても、その政府を選んだのは有権者であり、日本は民主主義国家だからです。民主主義が嫌だというのであれば、北朝鮮に移住するか、日本国籍を捨てて、巨大なクルーズ船の中に建設された移動国家に住むほかないのでしょう。

  • Thumbnail

    記事

    直接民主主義vs間接民主主義の二項対立発想ではダメ

    のルール変更を言い出して、それを議会が認めちゃったわけですね。投票率50%、有権者の半分というのは、憲法を変えるよりハードルが高い。憲法は投票数の過半数の賛成で変えられるとなっていますが、投票率の条件はありませんから。こんな首長をそのまま黙って置いておくんですか、小平市民は。國分 市長のリコール運動をやってもよかったのかもしれませんが、僕は、前向きになれなかったですね。だって、リコールは非常に否定的な運動でしょう、「あいつをやっつけろ」という。それなら道路建設で失われる雑木林の価値を訴える方向の運動をしたいと思った。少なくとも僕はそういう考えでやっていました。上野 投票した人たちは、住民の何割でしたっけ?國分 35.17%、3人に1人です。上野 3人に1人が投票所に足を運んだなんて、すごいです。でも投票率50%を下回ったからって投票箱が開けられることもなく、塩漬け状態なんですね?國分 市ははじめは投票後90日くらいで捨てると言ってたんですけど、裁判をやっている間は捨てないと言わせました。それは唯一勝ち取った点ですね。上野 廃棄の差し止め請求をやったら止められるでしょ? 投票は公文書と一緒だから。國分 廃棄差し止めはしませんでしたが、情報公開請求はして、すぐはじかれました。上野 はじかれた?國分 情報公開条例を持っている市なのに、やっていることが訳わかんないですね。上野 少なくとも投票用紙の廃棄についてはストップをかけられた。國分 はい。何も言わなかったら廃棄してたと思います。上野 そうでしょうね。それでこの後、小平市は、どうなるんです? みんな固唾(かたず)を呑んで見守ってると思うんだけど(笑)。住民投票不成立でも、まだ打つ手はある國分 先日、道路問題をめぐるイベントを開いて、吉野川の可動堰建設をめぐる住民投票で尽力された村上稔さんという方に来ていただいたのですが、村上さんがとてもあっさりと、「いやあ、まだまだいろいろやることあるんじゃないですか」とおっしゃった。それでスーッと胸のつかえが取れました。 住民投票が不成立に終わって、もう打つ手がないんじゃないかと、僕自身、とても落ち込んでいたんです。でも、それを口に出しては言えなかった。運動をやっていた他のメンバーも実は同じだったようで、イベント後の打ち上げで、みんな口々に、「いやあ、ほんとはもうダメなんじゃないかと思ってました」「ずっと落ち込んでました」と。村上さんの話を聞いて、まだできることがあると気がついて、初めて正直な気持ちを言い合えました。 僕が今、個人的に考えているのは、『来るべき民主主義』の付録1として収録した交通量の話をもっと主張しようということです。東京都が道路建設の根拠として出してきた、「これから交通量が増える」という数字はウソだということを論証しています。僕、この本でいちばん苦労したのが、付録1の数字のところなんですけど、なかなか言及してもらえない。まぁ、2回ぐらい読まないとわからないって言われましたし(笑)。だから、もっとわかりやすくしてパンフレットにしようかなと思ってます。上野 この部分はエビデンス・ベースドの議論で、とっても社会科学的ですね。國分 まあ、いちおう社会科学出身なんですけれど(笑)。上野 50年前はモータリゼーション勃興期でしたから、交通量が増えるという予測でしたが、50年経ったら人口減少社会ですから、交通量予測はほとんど下方修正してますよ。非常に説得力のあるデータだと思いました。國分 ありがとうございます! 社会学者の上野先生からそう言っていただくと嬉しいです。議会が蛇蝎のごとく嫌う「市民ワーキンググループ」議会が蛇蝎のごとく嫌う「市民ワーキンググループ」上野 國分さんは、たとえば住民投票や直接選挙などのルールをつくることを含めて、民主主義は市民の政治参加の1つのルート、そしてそのルートは1つじゃなくて数が多いほどいい、つまり複数の民主主義という素晴らしい提案をしておられます。國分 はい、そうなんです。上野 ただ私が「哲学者っていうのは、能天気で楽天的な人なんだなあ」と思っちゃうのはさ(笑)、こういうルールを決めるのはすべて議会でしょ? 議会っていうのはね、住民参加が大嫌いなんですよ。自分たちの意思決定権の基盤が取り崩されちゃうわけだから。 國分さんは本のなかで「市民のワーキンググループ」とか、いろんなアイデアを出されていますし、実際にいろんなところですでに実施されています。でも、どこでもワーキンググループ方式は、議会から蛇蠍(だかつ)のごとく嫌われていますね。國分 それはよく知っています。上野 現状ではどんな改革案にしても議会が決めるということ自体は、変えられないんじゃないですか?國分 その点は、「決める」という行為をきちんと腑分けする必要があると思うんです。僕は「行政が決める」とは言っていますが、最終的にハンコを押してるのは議会ですよね。そうやってお墨付きを与える行為と、内容をかたちづくる行為とを、区別しなきゃいけない。 議会が最終決定するということは動かないにしても、それ以前のかたちづくるところには影響を与えられるかもしれない。甘いかもしれませんが、たとえば世論、あるいはこういう本によって、「今の議会制民主主義だけではダメだから、いろんな制度がなきゃいけない」という声が高まって、議会でも受け入れざるを得ない、そういう状況をつくっていかなきゃいけないというのが、僕のいちおうの答えです。上野 こういう話をしていていつも思い出すのは、かつて日本一の福祉の町と言われていた秋田県鷹巣町のことなんです。ここではワーキンググループをつくって市民の要求を引き出しました。人口1万9000人の町で、100人以上が福祉政策を提言するワーキンググループのメンバーとなり、これが完全に議会と対立しました。 このワーキンググループは町長主導だったんですね。町長と議会とがねじれ構造になっていたために、町長が市民を味方につけて二重権力状況をつくり出すために、ワーキンググループを利用したというのが議会の見方でした。そして町長が落選したことで、ワーキンググループが主導していた福祉事業も頓挫してしまいました。住民投票だってやればいいわけじゃない國分 その点は非常に注意しなきゃいけない。市町村合併のケースが典型なんですが、市長など首長が、自分たちを正当化するために住民投票を利用することがあります。僕は住民投票はあくまで住民主導で、住民が署名集めして実施するということが決定的に重要だと思います。住民投票さえやれば素晴らしい民主主義だっていうことには全然ならない。この点は本でもはっきりと書いておきました。議会と首長が共謀すれば、住民投票を実施させるのは簡単です。だから、住民投票もワーキンググループも、やればいいってことじゃないのは、強調しておきたい点ですね。東京電力福島第1原発=2016年11月 でも僕は「住民投票なんかやらないほうがいいよ」と直接言われたことは、まだ一度もないんです。ツイッターでも一度もないんじゃないかな。「道路なんかつくらせておけばいいんだよ」とは言われたことがありますけど。だから「行政はあまりにも住民の意見を聞かなすぎる」というコンセンサスは、人々の間にわりとできているのかなという実感を持ちました。上野 こういう例はどうですか? 原発再稼働をめぐって、都民投票をやろうっていう運動がありましたね。あれに良識ある人の中から反対がありました。「今、都民投票なんかやってしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれない」という不安からです。投票する都民を信頼できないっていうね。國分 それは原発というイシューの特殊性もあったのかもしれない。原発をつくる云々っていうのは、東京都庁が決めていることではなかったわけですから。上野 それはそうですが、東京都は東電の最大の株主ですよ。國分 そういう意味ではもちろん大きい影響力を及ぼす可能性がありましたけど、道路とはちょっと違うように思います。 ただ僕は、思い上がりかもしれませんけど、今回の小平の件で、住民投票という言葉がだいぶ広まったような気がしないでもないんです。これをきっかけに、民主主義をめぐる議論、あるいは世論を、いろんなかたちで醸成していけるんじゃないかっていう希望は持ってますね。ご近所同士で政治や原発の話ができるようになったご近所同士で政治や原発の話ができるようになった上野 小平市の住民投票では、道路建設の是非じゃなくて、住民の意思を聞こうという、ワンクッション置いた提案をなさったんですね。つまり市民に、「これ、キミの問題なんだよ。当事者になりなさいね」という、そういう働きかけをなさったと考えていいんですか?國分 そうですね。「あなたは当事者じゃないですか? どう考えますか?」という呼びかけだったと思います。「もし当事者だと感じられたら議論しましょう。そのために住民投票をやりましょう」ということです。 この選択肢をつくった時点では、僕はまだ運動に関わっていなかった。住民グループの方々がすごく議論してつくったんです。僕はその選択肢に心から感動して、これが参加型民主主義だって思った覚えがありますね。上野 道路建設是か非かを問うのではなくて、市民の意思決定への参加を問うところに持っていったのは、ひとつの知恵だったと私も思います。市民参加意識っていうのは、結果よりもプロセスにあるので。 というわけで小平市の3人に1人は市民意識をお持ちになった。諸般の事情で投票に行けなかった人もいるでしょうに、小平市の全有権者の3人に1人は投票に行ったというのはすごいことです。この事実は消えないですよ。國分 それに、地域で政治の話をするようになったんですよ。娘のママ友とか、今までだったら挨拶しかしなかった人とコンビニで会ったときに、住民投票の話をするようになった。それは大きな収穫でした。上野 そうですね。原発事故は大きな犠牲を払いましたけれども、社会学者の小熊英二さんに言わせると、そのせいで、今日本人は、原子力リテラシーが世界で最も高い国民になった。「ベクレル」という言葉がそのへんで通用するし、「シートベルト」が「シーベルト」に読めてしまうっていう(笑)。原発や政治をめぐる話を近隣の人たちとできるようになった、この意識が後退することはないでしょう。政治参加のルートは多ければ多いほどいい政治参加のルートは多ければ多いほどいい上野 もういっぺん、さっきの間接民主主義と直接民主主義の話に行きましょう。この2つを二項対立で考えると、議員を選挙で選ぶのが間接民主主義、つまりエリート政治です。他方、直接民主主義にきわめて近いのが首長選挙で、住民投票もこちらの仲間ですが、これはいいほうにも悪いほうにも働く。 たとえば千葉県では、堂本暁子知事と議会多数派の自民党がことごとく対立して、堂本さんのやりたいことを頑として通さなかった。これは間接民主主義が機能しなかった例だと言えるでしょう。おおさか維新の会の法律政策顧問を務める橋下徹氏 その一方で首長は直接民主主義で選ばれるから、たまに妙な風が吹いて、大阪の橋下さんのような人を権力の座に押し上げちゃう。彼は大阪のおばちゃんたちに人気があるんです。この調子で、「まあ、いっぺん総理やらせたったらええやないか」みたいな感じになったら大変だと思っていたら、最近になって「風俗活用」発言で失速してほっとしています。つまり首長選挙のように直接民主主義と呼ばれるものには、衆愚政治が行われるかもしれないというリスクが伴います。 さっき代議制民主主義は好きになれないと言いましたが、じゃあ、直接民主主義にもろ手を挙げて賛成と言うかというと、ここもなかなかつらい。國分 「直接民主主義」という言葉をどう理解するにせよ、現在のような「人」を選ぶ選挙だけだと、社会で問題になっていることについて自分で考える機会がなかなか与えられないということが問題だと思います。 よく「住民投票はポピュリズムになる」という批判があるけどまったく違う。それとは逆で、自分たちで決めなきゃいけなくなるから、勉強会をやったり、シンポジウムに参加したりして、知識が高まっていくんです。むしろ、ふだんの選挙ではそういうことをやらないから、ポピュリズムになってしまう。今の制度は、有権者が政治について考えることを促進するようなかたちになっていない。とくに選挙運動の期間が短いことは致命的ですよ。「地方の首長自治」になる恐怖上野 想田和弘さんが最近、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか』(岩波ブックレット)っていう恐ろしいタイトルの本を書かれました。彼は、今の有権者の政治参加意識が低い根本的な原因は、自分たちが政治の消費者であるという意識を持つようになった、つまりお客様になっちゃったからだと分析しています。有権者は本当は、お客さんであると同時に、株主なんですよね。会社が潰れたらツケが来るのは株主じゃないですか。なのに、その自覚がまったくなくて、文句だけ言ってる。宮台真司さんの言う「おまかせ民主主義のブータレ」というやつですね。國分 想田さんのおっしゃることはよくわかります。ただ、「消費者」になってしまった人に、「あなたは当事者なんですよ! 何で分からないんですか!」と意識改革を迫っても、何も変わらないと思うんですよ。そこはやっぱり、自分が当事者として、実際に行動をやってみせるっていうのが僕の信念ですね。海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」に着艦する米海兵隊のオスプレイ=鹿児島県西方沖上野 その際、参加のルートは多いほどいい。行政に対しても司法に対しても、世界的なトレンドでは、市民参加の動きが起きています。裁判員制度だって司法への市民参加ですしね。指定管理者制度も評判が悪いけれど、行政への市民参加のひとつではある。公共施設の運営を、市民に委ねる制度です。役人にまかせるよりずっとよい運営ができています。やらないよりはずっとマシだと思います。こういうトレンドは絶対後退させないほうがいい。だから、日本でも政治への市民参加が進んでるのは確かだと思う。國分 そういう点から見たら、僕の言っていることを後押ししてくれるようなトレンドもあると言えるかもしれない。 ただ、僕が重視しているのはやはり行政の決定プロセスへの介入なんです。たとえば僕は、地元で保育園のことにいろいろ関わったりしていたんですけど、保育園の民営化なんかは、市役所が勝手に決めるんですよね。住民が行政に全然関われないということを最初に見たのはその事例でした。そういうことに住民がもっと関わる制度って、簡単につくれると思うんですよ。上野 だったらたとえば公務員を全部任期制にして、5年に1回、実績に応じて契約更新するとか。給料は税金から出ているので、そういうこともありかも。今は地方自治法もかなり大幅に改革されていますから、その気になれば自治体が自由にできる裁量権は前よりもずっと広がっているはずです。國分 ただ逆に「地方自治」という言葉に縛られて、地方でおかしなことが起きていても、国が介入できないという事実にも目を向ける必要があると思います。橋下氏みたいな強力な市長がいると、上からも下からも何も言えなくなってしまう。上野 地方自治は大事です。国策だからって、勝手にオスプレイを配備したり、原発を再稼働してもらったりしちゃ困る。地元自治体の同意が要るというのは、素晴らしい制度です。國分 そういうとき、主権は地域の住民が持っているんだということがきちんと確認されていかないと、「地方自治」が「地方の首長自治」になってしまい、怖い気がしますね。上野 大飯原発再稼働をめぐっては、地元の町議会は、1人だけ反対、残りは全員が賛成でしたね。(構成 長山清子)うえの・ちづこ 1948年、富山県生まれ。東京大学名誉教授。立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘教授。認定NPO法人WAN(ウィメンズアクションネットワーク)理事長。東京大学大学院教授を2011年に退職。日本における女性学・ジェンダー研究のパイオニア。近年は介護とケアへの研究領域を拡大。著書に『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『家父長制と資本制』『生き延びるための思想』(岩波書店)、『おひとりさまの老後』(法研)、『女ぎらい』(紀伊國屋書店)、『ケアの社会学』(太田出版)、『女たちのサバイバル作戦』(文春新書)、『快楽上等!』(湯山玲子氏との共著、幻冬舎)など多数。新刊に対談集『ニッポンが変わる、女が変える』(中央公論社)、共著『毒婦たち』(河出書房新社)。こくぶん・こういちろう 1974年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。主な著書に『スピノザの哲学』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版社)など。『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)は、地元・小平市の住民運動への参加をとおして、現代の民主主義を新たな視点で捉えなおした話題作。関連記事■ 政治参加の正しい方法って何ですか?■ 「民主主義イコール多数決」ではない■ 民主主義についてよく語られる時代は民主主義危機の時代

  • Thumbnail

    記事

    保守もリベラルもこれなら納得! 憲法改正の「落としどころ」

     戦後70年を経てようやく日本国憲法を変えられる可能性が出てきました。私は、安倍政権の間に何としても憲法を改正すべきだと考えていますが、その理由と改正の落としどころを考えてみたいと思います。日本国憲法改正が必要な理由1 憲法が議会制民主主義の正常な機能を阻んでいる 朝日新聞や共産党・民進党の人達が言うように立憲主義とは憲法によって権力を制約する考え方です(ここまでは彼らは正しい)。では、その権力の源はどこにあるのでしょう。もちろん、日本は民主主義国家ですから私たち国民です。つまり、民主主義国家における憲法とは民主主義の暴走を抑えるためにあるのです(ここまで言わないから彼らは嘘つきなのです)。 民主的な手続きによる結論が常に正しいとは限りません。ですから、ある時点の議会内多数派によって決められる法律よりも、憲法を上位に置き、さらに憲法の改正手続きを困難にしておいて、民主主義の暴走により変な法律が生まれないようにしておくのです(これを「硬性憲法」といいます)。民主主義システムを採用する先進国は大抵、このような硬性憲法を有しています。 それでも日本以外の先進国では時々世の中の情勢に合わせて憲法を変更しています。それは、その国にとって丁度良い「硬さ=変更のしにくさ」だからです。それに対して日本国憲法は「硬すぎる=変更しづらすぎる」のです5月3日、東京都千代田区で開かれた改憲派の集会で、スクリーンに映し出された安倍首相 ご存知のように日本国憲法はGHQが作ったものです。しかし、彼らは日本国憲法がこれほど硬くなるとは思いませんでした。何故か?彼らの母国は完全小選挙区制でかつ2大政党制です。そのうえ党議拘束もありません。ですから、世論が傾けば2/3の議員が発議することなど容易いのです(実際アメリカも両院の2/3の賛成で発議をします)。 ところが、日本は当時、中選挙区制を採用しており、そのうえ各政党は党議拘束をかけるので、各議員は自由な投票行動を取れません。その結果、1/3の議員が反対し続けるだけで、国民に憲法の正しさを判断する機会さえ与えられないという、非民主的な事態が生じてしまったのです。 言うまでもなく憲法は国民のものです。ヨーロッパに近い選挙制度を続けるならヨーロッパ程度の固さ(フランス:両院の過半数+国民投票又は両院合同会議で3/5、スペイン:両院の6割、デンマーク:選挙前後で2回の多数決)にすべきです。日本と同程度の硬さなのは同じ敗戦国のドイツだけですが、その代わりにドイツは「戦う民主主義」という政策を取っており、日本共産党などは非合法政党になります。そして実際50回以上改正をしています。 ですから、まずは改正手続き条項を改正して、せめて「両院の3/5で発議できる」ようにしないと、議会制民主主義(討論と妥協と多数決)が機能しないのです。1/3を守るためだけに「誹謗中傷」と「罵り合い」をし、最後は「強行採決」できまるというレベルの低い民主主義を脱却するために、憲法を国民の手に取り戻しましょう。変化する国際情勢に対処できない2 変化する国際情勢に対処できない 憲法9条は第1項で侵略戦争を否定し、第2項でそのための「戦力の不保持」を規定しています。それなのに何故、自衛隊を持つことが可能なのかと言いますと、内閣法制局は「自衛隊は最低限の実力であって戦力ではない」という解釈をしているからです。この解釈は設立当初の弱小な自衛隊の時には通用したでしょうが、武器によっては世界有数の能力を持つ現在の自衛隊には通用しません。 9条第2項は「前項の目的を達するため」という文言が入っています。これは芦田均という人がGHQの目を盗み、将来の日本が独立した時のために入れた文言です(芦田修正といいます)。もちろん、その意図は「侵略戦争のための戦力は持たないが、自衛のための戦力は持つ」と言うためです。内閣法制局は、先人の努力に敬意を表し、早急に芦田氏の意図通りに解釈を改めるべきです。この解釈によって自衛隊はあらゆる武器(例:巡行ミサイル)を保有することが可能になり、単独で大きな抑止力を持てます。ここまでは憲法変更の必要はありません。 最後に残る問題は、第2項の最終文。「国の交戦権は、これを認めない」です。これだけは、どうしても削除する必要があります。なぜなら、この条文のせいで日本の自衛官は「正当防衛」でしか、敵国軍を攻撃することができないからです。今、中国が実際に領海や領空を頻繁に侵しています。本来ならば、そういう場合は警告して、それでも引かない時には、攻撃を加えなければなりません。 これで戦争が起きるような事は通常ありません。フィリピンのような弱小国でも中国船を沈めていますし、トルコでさえロシア機を撃墜しています。ところが、日本の自衛隊だけは相手が撃たないかぎり、領空領海を侵されても何もできないのです。それでも今までは、警告をすれば中国軍は引いていましたが、近年は逆に攻撃を仕掛けてくるようになりました(背後に回る、ロックオンする等)。私たちは、自国内で自衛官の手足を縛り、その命を盾にして、偽りの平和を守っているのです(実際は漁業権を侵され、拉致されているので平和ではないのですが)。また、北朝鮮が核兵器を日本に撃ちそうだとしても、実際に撃つまで迎撃できません。 この状態を是正するためには第2項の最終文だけは削除する必要があります。新しい人権に対処できない3 新しい人権に対処できない 憲法が制定されて以降、環境権やプライバシー権、情報アクセス権など様々な人権が提起されてきましたが、日本国憲法には一文もそれらを保障する文言がありません。生存権(25条)や幸福追求権(13条)を援用して、これらを認める見解もありますが、そろそろ限界です。とりわけ情報アクセス権は、第4の権力とも言うべきマスメディアとの関係で、広く国民に認められるべき権利です。記者クラブという特権的な場所で、役人にサマリーを造ってもらって情報を垂れ流す。日本のメディアは、第二次世界大戦当時の大本営発表を垂れ流した新聞から、ほとんど進化していません。違うのは自民党政権の時には反体制ポーズをとるところだけです(政権がもっと独裁的な政権になれば、きっとそのポーズさえ取らなくなるでしょう)。7月11日、自民党本部で記者会見に臨む安倍晋三首相(納冨康撮影) こういうメディアしか持たない不幸を是正するために、国民が公権力にマスコミ同様、アクセスできる権利を憲法上保障する必要があります。現在も情報公開法や情報公開条例が存在しますが、それに携わっていた者として断言できるのは、役所の都合で情報などいくらでも隠せるという事です。それに一矢報いる武器になるのが憲法への追加だと思っています。 以上、改正条項の改正、9条2項の一部削除、新しい権利(特に情報アクセス権)の新設。とりあえずは、この3つだけでも十分ではないでしょうか。 国民に憲法改正も含めた民主主義を取り戻し、自衛隊による最低限の国土防衛を可能にし、21世紀にふさわしい人権を書き込む。 極左の方々を除き、保守派もリベラル派もそれなりに納得でき、それなりに不満が残る内容だとは思います。でも民主主義社会の結論とはそういうものであり、その気持ち悪さに耐えることが成熟した民主主義を生むのだと思っています。(『森口朗公式ブログ』より2016年7月12日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    ポピュリズムの支配下にある英国 国民投票が招いた愚かなEU離脱

    投票も、国のあり方を国の一部の住民投票で決めようとするもので、民主的でも何でもありません。ウクライナ憲法は、クリミアだけの住民投票でクリミアが独立することを違法としていますし、スペインも、カタルーニャ独立をその住民投票で決めるのは違法であるとしています。今回の件で、キャメロンは首相を辞任しましたが、当然のことでしょう。 英国のEU離脱問題は、今後とも経済面、政治面で大きな影響を与えていくでしょうが、その被害を限定的に抑えるということを念頭に置いた対処法が重要でしょう。 なお、離脱に決まったのは、移民問題の影響が大きいとこの論説は述べていますが、必ずしもそうではないかもしれません。人は、自分の運命は自分で決めたいと言う願望を持っています。EU離脱は主権を回復することになるとの宣伝の効果が大きかったとも考えられます。英国独立党のファラージ党首は6月24日を独立記念日と言いましたが、英国は植民地ではありません。独立記念日というより、連合王国崩壊の始まりの日である可能性もあるのです。

  • Thumbnail

    記事

    棄権多数でも承認? 憲法改正案の国民投票法は疑問だらけ

    ないのも無理からぬものがあります。賛成・反対の単純比較では、このような問題を引き起こします。 日本国憲法憲法改正に関する国民投票では、条文上は過半数ですが、細かい条件は書かれていません。「この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」棄権が多数でも承認される? 国民投票法では、憲法改正案に対する賛成の投票の数が投票総数(賛成の投票数と反対の投票数を合計した数)の2分の1を超えた場合は、国民の承認があったものと規定されています。従って、棄権が多数でも承認されることがあるという制度になっていますが、有効投票率も規定されておらず、極めて疑問の多いものになっています。参照「憲法改正国民投票法案に関する意見書」(日弁連2005年2月18日)「投票に行かない(白票)というのは、現状の追認、支持と同じだと自覚しよう。」  ちなみに恐らくこの理は、安保条約の是非にも関係はあろうかと思いますが、憲法との関係でいえば、最高裁が違憲判決を下せば、それまでという性質のものです。(この点はEU離脱とは決定的に異なります。)衆院本会議=2016年5月31日、国会 他方で、現状で安保を憲法違反と主張しているのは共産党ですが、共産党が政権を取れば日米安保廃棄に向けて段取りをしていくことになるのでしょうが、段取りを踏まずに廃棄に向けて政策転換するということになれば、支持基盤がしっかりしていない限りは無理でしょう。 それは共産党が日米安保廃棄を政権公約に掲げて政権を取らない限りは無理ということでもありますし(通常は、経済の民主化が主要な公約になるため)、逆に安保廃棄を正面から掲げて政権を獲得したのであれば、そのように実行すべきということでもあります。(弁護士 猪野亨のブログより2016年6月25日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    英国のEU離脱が教えてくれた「間接選挙」の良さ

    井本省吾(元日本経済新聞編集委員) 英国が国民投票による僅差の結果でEU離脱を決めた。その後の混乱の大きさが連日、伝えられている。直接選挙の怖さがまざまと知らされた。これは間接選挙の良さを教える教科書的な好例となった。 確かに英国民の52%は48%の残留派を押えてEU離脱に賛成した。しかし議会の国会議員の多数は残留派で占められている。野党の労働党は圧倒的に残留派議員が多く、与党の保守党さえ残留派が離脱派を上回る。この矛盾こそ国民投票という直接選挙の欠陥を示しているのだ。一見、国民のすべての声を反映する直接選挙の方が民主的でいいようだが、今回の事件は間接選挙の良さを明快に示している。 安保法案を巡る日本の現状は、EU離脱を巡る英国と酷似しているので、余計それがわかる。 どのメディアのアンケート調査を見ても、昨年の安保関連法の国会成立を「評価しない」が、「評価する」を確実に上回っている。集団的自衛権の行使に「賛成」する国民は少数で、「反対」者を大きく下回る。このほか、米軍普天間基地の辺野古移設、原発再稼働などの重要政策でも賛成より反対が多い。この傾向は安倍政権誕生以来、変わっていない。一方、民進党などの野党は安保法案の廃棄を全面に打ち出し、安倍自民党政権を退陣に追い込む戦術をとっている。安保関連法が施行されたことを受け、国会前で抗議する人たち=3月29日夜 アンケート調査の線に沿えば、今回の参院選で自民党は敗退する。だが、そう思っている有権者は極めて少ない。野党の支持率は伸びず、自民党の支持率が大きく上回るからだ。 これは何を意味するのか。多くの日本人が望んでいるのは、自分たちが危険にさらされず、米国のような強い国に守っていられる状態が半永久的に続くこと。自分は日米安保にタダ乗りし、サボっていい思いをするという手前勝手の欲望だ。だが、それは自然な感情であり、ソ連との冷戦状態の時は実現していた状況でもあった。その状態を破りそうな安保法制が不人気なのは当然なのだ。 だが、いや「だからこそ」というべきだろう、(今の)民進党や共産党には任せきれない。もっと日本を危うくしそうだからだ。安保法案を国民投票にしたらどうなるか 実際、旧・民主党が政権についていた2009-2012年に日本は中国のごり押しにキリキリ舞いさせられ、米オバマ政権との関係は冷却化した。鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎、岡田克也、仙谷由人の各氏らが行った政治外交は、中国漁船体当たり事件、「米軍基地は最低でも県外」という鳩山首相の発言などに見るように、まさに日本の国益が犯され、「彼らが日本を滅ばす」(佐々淳行氏)と思わせたものだ。 国民はこういう経過を覚えている。国民の多くは「政権はだれでも良い。うまくやってくれればいいいい」と思っているのだ。表面的に安保法案に不安でも、安倍政権があれほど主張するのは「そうしないと、日本が危なくなると思っているからだろう」とにらんでいる。実際、米国が軍事予算を削減し、内向き志向になっている一方、中国・北朝鮮の攻勢が強まっている。安保タダ乗りの時代は過ぎたのだ。 だから、アンケート調査では安保法案に反対しても、選挙では「我々の安全のために比較的うまくやってくれそうな方を選ぼう」と自民党支持者がふえるのだ。ここで、間接選挙の利点が機能する。 だが、安保法案を国民投票にしたらどうなるか。「うまくやってくれそうな政党」かどうかに関係なく、「安保法案反対」に○をつけてしまいがちだ。安保法廃棄が多数を占める恐れは十分ある。 まさに英国でそれが起こったのだ。国会議員の多数はEU残留派で、英国の有権者はそうした議員を「うまくやってくれそう」と選んだのに、直接投票で「離脱」を選んでしまった! 離脱派の英国人も、今の混乱を予想した人はそれほど多くなかったのではあるまいか。「こんなにポンドや株価が下落し、混乱が広がるなら残留で良かった」と反省している人も少なくないと思われる。  離脱派を率いた前ロンドン市長、ボリス・ジョンソン氏は「本心は残留支持だったのではないか」といわれる。3年前のインタビューで「私は単一市場の支持者だ。国民投票が実現したら、残留に投じる」と答えたという。 ではなぜ離脱派に転じたのか。ライバルである英首相、デービッド・キャメロン氏への強烈な対抗心が原因だ。彼の目に今回の国民投票は権力奪取の好機に映った。たとえ国民投票で負けても、離脱派の保守党員の信任を確保できれば、次期党首選出の布石になる。「僅差で負けて存在感を高められるのがベストシナリオ」と考えていたフシすらある。 離脱が実現し、自らが開いた「パンドラの箱」の衝撃を思い知ったジョンソン氏の悩みは深い。「離脱後の英国」がたどるべきシナリオをほとんど考えていなかったといわれる。 民進党の岡田代表も同様ではないか。党勢拡張と安倍政権の追い落としだけが目標で、もしタナボタのように安保法案廃棄が決まったら、日米同盟の関係調整や中国への対抗をどうするか、などあまり考えていないのではないか。そうした事態を回避する意味で、英国は貴重な実例を我々日本人に示してくれたのである。(ブログ『鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌』より2016年7月1日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    予想外の結果を生む「国民投票」 ポピュリストの扇動が孕むリスク

    政策を実施した場合、有権者は次回の選挙でその政党、指導者に投票しないという制裁を下せばいい。例えば、憲法改正という国の行方を決める大きな課題の場合、議会の3分の2の支持が必要な国が多い。  一方、国民投票の場合、そのよう自己規制メカニズムは十分ではない。国民投票で一度決定した政策は無効にするのは難しい。なぜならば、「国家の主権者」の国民自らが決定したからだ。誰がその決定を無効と表明できるだろうか。民主主義下では国民以上の高位の主権者がいない。国民投票のやり直しを主張したり、その無効を叫ぶことは、国民が自身の決定に文句を告げているような錯乱状況を意味する。   それでは、国民投票では国民の意思がなぜ予想外の結果をもたらすのだろうか。国民投票の場合、国民に十分な情報を提供し、その是非を判断できるだけの時間が必要となる。例えば、イスラム寺院の建設問題やイスラム教女性のスカーフ着用の場合、国民は自身の体験から判断できるが、原発建設の是非となれば、国のエネルギー政策から安全問題まで専門的な知識が求められる。だから知識も時間も限定されている多くの国民はポピュリストの扇動などにどうしても影響を受けやすくなるのだ。  国民投票の場合、技術的な問題点もある。国の行方を決定するEU離脱問題を「イエス」か「ノー」の2者択一形式でしか問うことが出来ないから、国民の意思が100%反映した結果をもたらすことは期待できない。だから、重要な議題であればあるほど、国民投票で問うことは賢明ではないと言わざるを得ないのだ。  間接民主主義の最大の利点には、国民はやり直しが出来ることだ。自己規制のメカニズムを有する民主主義も大衆迎合主義に陥りやすい弱点もあるが、現時点では最善な政治システムと言わざるを得ないわけだ。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2016年6月30日分を転載)

  • Thumbnail

    テーマ

    いま、なぜ憲法改正が必要なのか

    きょうは69回目の「憲法記念日」である。戦後長く改憲派と護憲派による観念論争が繰り広げられたが、国民の多くはいまだ「憲法」への理解に乏しく、国民的議論とはほど遠いのも現実である。どうすれば不毛な憲法論争から脱却できるのか。そして、いまなぜ憲法改正が必要なのか。その是非を考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    58人の論客に聞いた! 初の憲法改正へ、これが焦点だ

    に陥った在留邦人は救出されず、拉致された人もそのまま。そのうち危機が訪れるかもしれないのではなく、新憲法施行から数年で国家の危機が起きている。  国民は自分の利害と直接関わりがなければ危機感を持たなくなった。せめて政治家が考えてくれることを期待するが、政治家は考えない。これほど国家と同胞に無関心な国があるだろうか。  占領されて自由を失い、独立してもアメリカが残ったためこうなったのだが、そのアメリカがなんとかしてくれるというのは幻想。これまでの危機にアメリカがなにをしたか振り返ればわかる。 日本の危機はこれからも起こる。もっと大変なことが起きるかもしれない。とりあえず第九条をわかりやすく変えて対処することだ。海上自衛隊の護衛艦「ちょうかい」(奥)と並走する中国海軍のフリゲート艦 =平成23年6月、沖縄県宮古島の東約140キロで共同通信社ヘリから元海上保安官 一色正春1 9条(軍隊の保持も明記する)2 C・9条改正か自衛隊解体かを選択 我が国は、国民や領土を不当に奪われ取り返すことができないでいるばかりか、今また新たに領土を奪われようとしているにもかかわらず、いまだに何ら有効な対応策をとれずにいます。それは我が国が、相手国に比べて国力が劣るからではなくアメリカが作った憲法9条に手足を縛られているからではないでしょうか。そうであるならば、本来、日本国民の幸福のためにあるべき憲法のために異国の地に拉致された人々や奪われた領土を取り戻すことができないのは、本末転倒としか言いようがありません。 そのような憲法を変えることこそが立法府の役割であるにもかかわらず、彼らは約70年間、何もしてきませんでした。もうこれ以上、彼らの不作為を見逃すわけにはいきません。今こそ、憲法を我々日本国民の手に取り戻すときです。東京大学名誉教授 伊藤隆1 9条2 B・緊急事態条項と少なくとも9条改正 憲法の全面的改正を行うべきと想いますが、さしあたり第九条を改正することを急務と考えます。前文と九条は繋がっていますので矛盾してしまいますが、それが気になるなら、石橋湛山が提案したように、世界が前文で述べられているような状況になるまでの間、前項の効力を停止するという形でもいいかと思います。 上述で尽きますが、日本を取り巻く危険な国際情勢が国民の多くに認識されて来ている今日、北朝鮮の核実験、長距離ミサイル発射、中国の帝国主義的膨張政策、それにISやテロの脅威、欧洲における移民騒動などを含めて憲法の前文が想定している世界と全く異質な状態を国民全体に訴え、日本の生き残りのために、上述の措置の緊急性を真正面から訴えかける必要があり、また国民がそれを正面から受け止める状況にあることを政治家も認識すべきことと思います。井上和彦氏「独善的な理想論が許される状況ではない」ジャーナリスト 井上和彦1 9条2 B・9条も同時に 日本を取り巻く安全保障環境は、かつての東西冷戦期よりむしろ厳しさを増しており、独善的な理想論が許される状況ではなくなっている。したがって、もはや機能不全に陥っている現行憲法を一刻も早く現状に即したものにする必要がある。つまり国民の生命を守るために憲法9条の改正が急務なのだ。ところが憲法改正を巡っては、その議論をすることすら危険視される傾向にある。 だが国は本来、あってほしくない「戦争」という最悪の事態を想定して備えておかねばならない。外敵の侵略意図を挫く抑止力と、万が一のときに実力で外敵を排除できる軍隊をもつことは常識以前の問題であり、外敵から国民の生命と国土を守る実力組織の存在に異を唱えるなど論外だ。国民の生命が失われ国がなくなっても、憲法を守れというのだろうか─本末転倒である。第3次吉田内閣当時の吉田茂首相 ※1950年(昭和25年)撮影政治学者 岩田温1 9条2項2 B・9条第2項の削除も併せて行う  我が国は、憲法九条第二項によって、「戦力」、「交戦権」が否定されている。だが、現実には、有事の際、自衛隊が我が国を防衛する。「戦力」と「交戦権」が否定された我が国で、有事の際、自衛隊が戦えるのは何故なのか。  吉田茂は、戦後当初、日本は憲法上自衛戦争すら行うことが出来ないと答弁した。だが、冷戦下で、日本の非武装は余りに非現実的だった。そこで政府は憲法改正を経ることなく解釈改憲によって自衛隊の存在を容認した。「立憲主義」の破壊ともいうべき解釈だった。  自衛隊の存在を憲法に明記するか、非武装のままでいるのか。本来そうした問いが国民に対して為されるべきであった。祖国を守る崇高な任務を課された自衛隊が「違憲」扱いされる余地を残す九条第二項の削除こそ急務である。評論家・拓殖大学客員教授 潮匡人1 9条2 C・9条のみで正面突破 いわゆる「護憲派」にとって、9条こそ死守すべき〝本丸〟であろう。逆に言えば、9条「だけはなんとしても改正すべき」本丸に他ならない。自衛隊は憲法上の根拠を持たない。それどころか9条のせいで違憲の疑義が付きまとってきた。安倍政権下「いわゆる芦田修正論」も否定され、憲法上の疑義はいっそう深まった。9条を避けた憲法論議などあり得ない。緊急事態条項は必要であろう。だがそれは現行憲法典という〝城〟を、いったん打ち壊して新築すべき〝二の丸〟である。本丸の9条に手を付けず、二の丸を新築するのは本末転倒ではないだろうか。なお「自衛隊」は現行憲法のもと創設された実力組織であり、新憲法が明記すべき名称としては適切でない。できれば「皇軍」、無理なら「陸海空軍」(9条)、最低でも「国防軍」(自民党案)とすべきである。江崎道朗氏「ツギハギ改正ではなく、新憲法制定が望ましい」評論家 江崎道朗1 回答不可(すべて改正すべきだ)2 C・誤植の訂正から ツギハギ改正ではなく、全面改正つまり新憲法制定が望ましい。九条二項改正が急務だと思うが、公明党の賛成を得られるとは思えず、かつサヨクとマスコミが猛反対し、国民投票で勝てるかどうか。であるならばデフレ脱却に全力を傾け、現役世代の経済状態を改善することで安倍政権への支持を固めつつ、防衛費増加や領域警備法制定など現行憲法の枠内でできることに取り組むべきだ。 「憲法改正という実績を作っておきたい」という意見もある。その場合、「憲法改正は与野党の合意に基づいて行われた」という先例づくりを重視したい。具体的には民主党やマスコミも反対できない改正、例えば「第七条の四 国会議員の総選挙」の「総」という誤植の削除に取り組む方法がある。急がば廻れだ。国学院大学名誉教授 大原康男1 1条2 B・以下に掲げる条項が必要  前文、一~九条に加え栄典、信教の自由、皇室財産、公金支出、改正要件に関する条項の改正と緊急事態、家族の尊重、国民の法令遵守義務、国民の国防義務についての条項創設が必要である。 理想は全面改正であるが、憲法は公布されてから七十年近く経過したにもかかわらず、一度も改正されたことがなく、憲法改正そのものが〝神聖不可侵〟の禁忌と化している現状に鑑み、部分的改正を段階的に積み重ねていかざるを得ない。 とはいえ、苦労して国会による改正の発議が実現しても、国民投票で過半数を得られなければ、改正の機会がさらに遠のくことは必至である。  したがって、まず国民の合意を得やすい緊急を要する条項を選ぶことと、柔軟な憲法運用を阻害している極端に厳しい改正条項を緩和することに絞って第一回の改正手続を進めるべきであろう。文藝評論家 小川榮太郎1 9条2項2 C・9条2項改正で正面突破 憲法改正の王道は自主憲法制定である。が、それは新たな権力樹立を意味する。革命を用意しないまま唱へられるカラ元気的な自主憲法制定論を私は採らない。となれば日本存続の為にどうしても必要な条文改正があるかが問はれるが、私は9条2項改正こそがそれに該当すると考へる。9条2項がある為に政府、国会は国防政策を堂々と論じられず、国民も又国防を主体的に受け止める事が出来ずにゐる。この状況のまま半永久的に冷戦構造下の平和が続く事などあり得ない。なほ、9条改正への国民の理解が得られないといふ理由による絡め手改正論には私は反対だ。改憲派は国民一般への9条に関する正面きつての啓蒙をしてゐない。正面突破の努力もせずに絡め手を考へるなどといふ姿勢こそが、戦後日本の精神の腐りそのものでなくて何であらうか。呉善花氏「国民が最も恐れるのは政府が機能不全に陥ること」拓殖大学教授 呉善花1 9条に第3項を創設2 C・9条改正のみ 九条第三項として「自衛のための軍隊を持つ。ただし軍隊の海外派遣、移動、撤退については、国民投票によって委任された機関の決議を必要とする」を創設する。主旨は、国境を越えた国軍のコントロール権を国民が持つことにある。二次大戦時の我が国やベトナム戦争時の米国のように、政府が退くに退けない泥沼状態にはまり込んでしまうことを、なんとしても避けるためだ。 「緊急事態条項ならば国民に受け入れられやすい」と考えるのは間違いだ。国民が最も恐れるのは、東日本大震災時の民主党政権のように、政府が機能不全に陥ることだ。あの記憶からも「政府に大権を委ねるべき」との国民合意はいまだ形成されていない。政府の政治指導能力が十分でありさえすれば、災害対策基本法、自衛隊法、警察法などで十分対応できるはずである。明星大学戦後教育史研究センター 勝岡寛次1 24条2 A 憲法第二四条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」し、結婚相手の選択から離婚に至るまで、家族に関する全てのことは「個人の尊厳と両性の本質的平等」に立脚せよと書いてあるが、それを七十年間忠実に履行した結果が、今の日本に他ならない。「お一人様」がかくも増え、「バツイチ」や「バツニ」がかくも増えたのは、〝春秋の筆法〟を以てすれば、親は結婚や離婚のことに口出しするな、それは「個人の尊厳」なんだから「両性の合意」に口出しするなという今の憲法があるからである。「個人の尊厳」ならぬ「家庭の尊厳」をこそ、憲法にきちんと規定すべきである。 但し、今般の憲法改正は、諸外国も一様に規定しており、国民の理解が得られやすい「緊急事態条項」創設一本に絞るべきである。そうしなければ、憲法改正に関する国民の議論は深まらない。中国人民解放軍の統合作戦指揮センターを視察する習近平国家主席=2016年4月20日、北京ノンフィクション作家 河添恵子1 自主憲法制定が望ましく1つは難しい2 A 習近平体制で中国「軍区」が改編され「戦区」になった。核実験を繰り返す北朝鮮が、2月7日には長距離弾道ミサイル発射実験を強行した。だが、常日頃、「戦争反対」「核兵器廃絶」を声高に叫ぶ護憲派たちはシラっとしている。万が一、沖縄周辺にカケラが落ちても、高濃度の放射能が拡散されても、隣国の挑発行為については口を閉ざし、「沖縄に米軍基地が集中しているから」と論点をすり替えるのだろう。個人的には日本人の生命財産、自由と民主、領土領海領空など有形無形の価値を守るため、「抑止力強化のための国防組織」が早急に必要だと考える。だが、「国軍=軍国主義と徴兵制の復活」などと勘違いはなはだしい平和ボケした大多数の有権者に向けて、夏の参院選で「憲法9条の改正」を看板に掲げるのは、刺激が強すぎるのではないかと危惧する。日本国憲法が抱える二大欠陥弁護士・タレント ケント・ギルバート1 9条2項(自衛軍を持つ)2 C 日本国憲法が抱える二大欠陥は、元首の定めがないこと(一条)と、戦力及び交戦権を放棄していること(九条二項)である。天皇は現在も事実上、元首の役割を果たしているが、象徴ではなく元首だと明記すれば、日本が世界一の歴史を誇る立憲君主国である事実を、改めて世界に示せる。 九条二項は、戦勝国である米国が、敗戦国の日本を永遠に依存状態に留める「属国用」の規定である。戦後七十年が経過したのに、属国状態からの脱却を求めないのは、恥ずべき態度である。 世界情勢が激変する中、政府が日本国民の生命と財産、領土を守るには九条が邪魔であり、日本が世界第三位もしくは二位の超大国でありながら、国際社会に相応の貢献ができない原因でもある。早く九条を改正して自立国家になり、混沌とした世界の安定のために貢献して頂きたい。評論家 呉智英1 前文2 A 憲法前文は、憲法全体を規定し、全法律を規定している。前文中「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とあるのは「崇高な理想」にあらず、相当な妄想である。私は九条絶対擁護派ではなく、戦後七十年間、九条をだましながら活用してきたことを巧智として評価する現実派である。まだ活用でいけると思うが、そのためには非軍事的な情報戦・謀略戦が重要となる。引用した前文の一節は、情報戦・謀略戦を排除するものなので、これを改める必要がある。 緊急事態への対処は、憲法規定か通常法か判断に迷うところだが、三・一一のような大災害、将来ありうる北朝鮮崩壊による混乱の波及などを考えれば、早急に考えなければならない。法と統治の関係は常に問われている。元自衛艦隊司令官 香田洋二1 9条2項2 B・9条2項の改正+緊急事態条項 個別的自衛権の発動要件についてさえ「外部勢力によるわが国に対する武力行使」の定義に関する理論的解釈にのみ強く縛られ、現実的な観点に立つ発動要件が明確に定められていない現状は、時宜を得た自衛隊による我が国の防衛活動自体を事実上困難にしている。まず、この現実を速やかに改める必要がある。また、国際的安全保障事案において武力の行使を前提とする自衛隊の貢献が必要な事態においても、この選択が事実上閉ざされている現状は、我が国の国際社会における地位を考慮した場合、その一員としての責任を果たす上で極めて不自然かつ不適切である。この不具合を正す唯一の方法が憲法改正であるが、具体的にはこれらの問題の原点である9条2項の修正と、そもそもの欠落事項である緊急事態条項の創設に絞り、正々堂々と憲法改正を行うべきである。業田良家氏「最初に改正すべきは第9条」漫画家 業田良家1 9条2 C・9条を最初に改正すべきだ 最初に改正すべきは第9条。第1項で日本国民の生命財産領土を守るためであれば武力を行使することを認め、第2項で陸海空軍および国防のための諜報機関を持つことを明記する。自衛隊を正式に軍隊と認め、ネガティブリストで戦闘ができる組織にしないと自衛隊員の生命が守れないと思う。また「前文」に対抗して「後文」を付け加え「本憲法は連合国軍占領下においてGHQにより作られた憲法であることを認め、後日、日本国民の手により一から作り直すことを誓う」と書く。さらに「日本国民は倫理道徳を大切にし、真実を求め美を愛しより善く生きることを誓う」とも付け加えてほしい。日本人は真面目なせいか、憲法に書いてある通りの人間になっていくことが70年をかけてはっきりと分かりましたので。評論家 小浜逸郎1 すべてを改正すべき2 B・9条2項の削除を同時に行なう 上記1と2とは、一見矛盾しているようですが、1は現行憲法の成立事情とそのアメリカ製の基本思想を否定し、天皇を元首とする立憲君主国である日本の国体にふさわしいまったく新しい自主憲法を制定すべきであるという理念を示したものです。一方、2の「緊急事態条項創設と9条2項の削除を同時に」は、いま憲法改正に手を付ける場合に、内外の諸々の事情を考慮して、国民のコンセンサスが得られる可能性があるぎりぎりの地点を示したものです。筆者はすでに、この問題に関して何度か論考と自主憲法草案とを発表していますので、参考にしていただければ幸いです。 著作:『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)ブログ:http://asread.info/archives/2060http://asread.info/archives/2097「今こそ憲法改正を!1万人大会」でガンバロウコールをする櫻井よしこ・美しい日本の憲法をつくる国民の会共同代表(中央)、その左は田久保忠衛・共同代表 11月10日午後、日本武道館 (野村成次撮影)ジャーナリスト 櫻井よしこ1 9条2項2 A・緊急事態条項の創設だけを先行 本来は、日本国憲法の最大の欠陥である前文と9条2項の改正を優先すべきだと考える。しかし、発議に国会の3分の2、改正実現に国民投票で過半数の賛同という非常に高い基準を満たすには、現実的に考えることが必要だ。 緊急事態条項創設は社民共産両党を除く全政党が賛成だ。東日本大震災でわが国の防備が極めて手薄であったこと、その後の対処や復興を妨げた問題が憲法に緊急時を想定した条項がないという驚くべき欠陥故であったことは、すでに多くの国民の理解するところだ。 自然災害に加えて、中国、北朝鮮の生々しい脅威の前で、緊急事態条項創設の必要性は支持されるに違いない。憲法を真に国民のものとするために結果を出さなければならず、そのためには緊急事態条項創設を優先するのが現実的だと考える。佐藤守氏「一旦帝国憲法に戻り、改めて整理すべき」防衛大学校名誉教授 佐瀬昌盛1 96条1項2 B・96条1項も改正すべき 九六条一項で「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で…」とあるのは意味が曖昧すぎる。改正発議時点での「在籍議員の三分の二」と改める。 安倍首相は改憲を呼びかけるとき、当面は九条問題に触れたくない模様だが、九六条一項問題を手掛けた次には九条一項と、前文中の「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とあるのを改めるべきである。理由は、そこに見られる「国際社会性善説」が誤りであるからだ。 なお、小さなことだが、現行憲法は旧仮名づかいで書かれているので、それを改めるべきである。その点では護憲論者も同じことで、新仮名づかいに改めるのにも彼らは「改憲ハンターイ」を叫ぶのだろうか。軍事評論家・元空将 佐藤守1 9条2 B・9条も同時に改正すべきだ 個人的には現憲法を直ちに破棄して一旦帝国憲法に戻り、改めて整理すべきだと考える。理由は「新憲法」第一章第一条の「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とされている条文程、日本人の精神性、日本の歴史と文化を無視したものはなく、天皇こそが日本国体の〝本質〟で、人為的な憲法の枠外にあるべき存在であることが理解できていない外人の作文だからである。帝国憲法の第一条~第四条までの天皇に関する項目は、規定ではなく天皇の存在に関する解説だと理解すべきで、異民族作の「新憲法」は独立と同時に破棄すべきものであった。政治家には、破棄して作り直す勇気を継続して求めたいが、少なくともそれまでに出来るところからやっておくべき、と考えて回答したものである。福井県立大学教授 島田洋一1 81条2 B・緊急事態条項と81条改正を 選挙で選ばれていない15人の人間(最高裁判事)が、選挙を経た人間(国会議員)が衆参両院を通した法律を最終的に無効にできるという81条は民主的なチェック&バランスの原理に反する。例えば、最高裁がある法律を違憲としても議会の3分の2ないし5分の3の賛成でその判決を覆せるようにすれば危険がないだろう。憲法6条2項、79条の規定により最高裁判事は事実上首相の一存で決められる。仮に村山富市、菅直人のような首相が10年も続き、自覚的に左翼人士を任命していけば、司法を通じた左翼革命が可能になる。最高裁判事の任命手続きについても衆参の同意人事としてはどうか。顔も名前も思想傾向も一般国民には全く分からない人物がいわば密室談合で次々最高裁入りしていく今のシステムは余りに不透明だ。石平氏「現在の日本は黒船来航以来の安全保障上の危機」評論家 石平1 新憲法を作るべきで1つに絞れない2 C・廃憲の上で新憲法を制定 現実の必要性からすれば、現在の日本は黒船来航以来の安全保障上の危機にさらされており、アジアの平和を守るためにも日本は新しい憲法を制定して、自国をきちんと守れる体制をつくらなければならない。現行憲法で問題なのはひとつは9条だがそれ以上に、GHQ(連合国軍総司令部)の民政局が自分たちの理念を押しつけた憲法であって、日本の国体・歴史・伝統を無視して作られている点が重大な問題だ。日本は1951年に独立を回復しているのであり、廃憲した上で、明治憲法の伝統を受け継いだ新しい憲法を作るべきだ。現行憲法にある基本的人権の尊重や民主主義などは重要な理念であり、すべてを否定する必要はない。それらは大事にしながらも、憲法9条は廃止し、日本の心、精神を基本とした新しい日本の憲法を、日本人の手で作らねばならない。北朝鮮のミサイル再発射に備え防衛省内に設置された PAC3と周辺を巡回する自衛隊員 =東京都新宿区(長尾みなみ撮影)弁護士 高池勝彦1 1つには絞れず回答不可2 C・全面改正 憲法制定は、国家の基本法ですから、民主的に制定されなければなりません。内容が良ければよいといふものではありません。現行憲法は明らかに占領政策の一環として押し付けられたもので、民主的に制定されておらず、全面改正の必要があります。憲法無効論は、現行憲法が大日本帝国憲法の改正手続きに従つて改正されたこと(国体が護持されたこと)、我が国の主権回復から六十四年も経つてゐること(その間主権国家として現行憲法が施行され続けたこと)などを考へると無理です。 全面改正が政治的に無理であれば、現行憲法を追認することにはなりますが、緊急事態条項とともに前文削除と第九条の改正を合はせてやるべきです。集団的自衛権の行使容認は憲法違反であり認めるなら憲法改正すべきであると詭弁を弄する学者もゐますので、それを逆手に取るべきです。高須クリニック院長 高須克弥1 1条2 A・緊急事態条項の創設を先行 とりあえず早急に改正を望むのは「第一章 天皇」の第一条で、天皇の国家元首としての確固たる地位を示すよう、改めるべきです。いまの一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となっていて、「元首」という言葉すらないのです。「天皇は国の元首にして日本国に君臨するものとす」と書くべきなのです。 また、自らの生命と財産を守るための戦いは人類が保有する基本的な権利であると考えます。 故に、「国の交戦権は、これを認めない」と書かれている九条は、以下のように改めなければなりません。「日本国民は自らの生命と財産を守るための交戦権を保有する」高橋史朗氏「憲法第二四条は根本的に見直す必要がある」明星大学教授 高橋史朗1 24条2 B  憲法第二四条の草案は、ミルズ・カレッジを卒業後、アメリカの戦時情報局で、対日心理戦略プロパガンダの放送台本を書いていた二十二歳のベアテ・シロタ・ゴードンによって作成された。  世界の憲法でこの規定に近いものは皆無であり、ソ連やポーランドなど共産主義国の憲法だけが同様の規定を設けているにすぎない。  日本の男女の関係や家制度などについての固定観念(WGIPの土台となった論文や報告書の思想的影響を受けた)や偏見に基いて作成された憲法第二四条は根本的に見直す必要がある。 しかも、同条の成立過程を検証すると、日本側は次々に反論したが、GHQのケーディス民政局次長がその議論を巧みに封殺して押し付けたことが明らかになっている。こうした事実を踏まえた改正論議が求められる。ジャーナリスト 高山正之1 全改正すべきで1つだけでは回答不可2 A 憲法が米国の押し付けということは安保法制違憲学者の長谷部恭男でも認めている。彼は「米国憲法の理念で作られた」と言うが、それは違う。「日本を原爆で叩き潰し、白人支配を再確立できた」と舞い上がっていた時期、その人種的傲慢さが産み出したものだ。まるで創造主気取りで一国の自衛権、交戦権まで奪っている。しかし冷戦が始まって少しは冷静になってみた瞬間、彼らはその醜悪さに気づいた。まずマッカーサーが「軍隊を持って一緒に戦おう」と言い、続いて副大統領ニクソンが「憲法押し付けは誤りだった」と頭を下げた。歴史的汚点を早く消してほしいと。 日本は原爆の報復権を留保しつつ、寛容さをもって醜悪な憲法を改めてやればいい。第一歩は緊急事態条項創設がいい。ヒトラーを生んだドイツでも、今それを備えている。杏林大学名誉教授 田久保忠衛1 1つには絞れず回答不可2 A 何らの前提もない質問に答えよと言われているようで当惑した。今夏の参院選で与党が、あるいは自民党だけで全議席の三分の二以上を獲得できるのか、それともいずれもその水準に達しないのかによって話は違ってくる。志だけを問われているのであれば日本および日本人のアイデンティティが曖昧な憲法前文は根本的に改めなければならない。国際情勢をみても、国連決議など無視して「水爆実験」や長距離弾道ミサイルの発射など無茶苦茶な行動をする国家や、東シナ海や南シナ海で軍事力を背景に「現状変更」を迫る国々が隣に存在するのに、軍隊を保有するとの規定もない空想的な憲法では話にならない。日米同盟に少しでも支障が生じれば日本の運命そのものが危うくなる。今可能なのは共産党以外与野党七党が賛成している緊急事態条項以外にはない。竹田恒泰氏「九条の最大の問題は、読み手によって如何様にも解釈可能なこと」作家 竹田恒泰1 9条(第1項、第2項共に)2 C・9条のみで正面突破 現行九条の最大の問題は、読み手によって如何様にも解釈可能なこと。「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争は放棄しない」「侵略戦争の実力は保持しないが、自衛戦争の実力は保持する」、という主旨を明記するのであれば、保革を超えて合意可能であろう。また、緊急事態条項から改正するのも手だが、ここは敢えて本丸である第九条を正面から突破すべきである。安倍政権で憲法改正できたとしたら、それは「一回のみ」と心得るべき。安倍政権で九条を改正できなければ、恐らく向こう一世紀は改正不可能。緊急事態条項より九条の方が国民の関心は高くなるであろう。九条改正は安倍総理の悲願である。かつてリンカーンが合衆国憲法修正十三条を改正した時のように、敢えて難しいことに挑み、自らの情熱をぶつけて、国民的議論を喚起し、一撃のもとに仕留めて欲しい。八重山日報編集長 仲新城誠1 9条(軍隊の保持を明記する)2 A 尖閣諸島周辺海域では中国公船が領海侵犯を繰り返しており、領海警備に当たる海保は対応に苦慮している。憲法9条で理念的に両手両足を縛られているような自衛隊は、中国に対する抑止力になっていない。憲法9条の改正で、自国は自らが守るという姿を取り戻さない限り、国境が他国に圧迫される現状は変わらないと感じる。 ただ現時点で日本が即座に憲法9条の改正に踏み出せば、中国は「日本の軍国主義が復活した」と最大限に宣伝し、日本攻撃の材料として活用するはず。米国などが同調すれば、かえって日本に不利な国際情勢が形成されてしまう懸念がある。領海侵犯の増加や巡視船への体当たりなど、中国が逆に挑発行為を強める口実にするかも知れない。まずは「9条は平和主義のシンボル」という誤った概念を払拭する努力が先ではないか。尖閣諸島を含む東シナ海上空。手前から南小島、北小島、魚釣島 =2011年10月(鈴木健児撮影)中央大学名誉教授 長尾一紘1 1つだけの選択は不可2 C 憲法改正の第一の目的は、日本という国を「ふつうの国」にすることにあります。前文・九条の改正、緊急事態条項の導入などが必要とされるのはこのような趣旨によるものです。 憲法にはかなり時代遅れになっているところがあり、これを是正する必要があります。これが憲法改正の第二の目的です。たとえば、人格権や環境権の導入などが必要とされているのです。 改憲の要点は、このように二分することができます。ここで留意すべきことは、護憲論者の反対論がもっぱら前者のグループにかぎられているということです。改憲の第一歩を後者のグループから始めるという考え方も一考に価するものと思われます。第一歩がたとえ人格権や環境権の導入にすぎないものであったとしても「戦後レジーム」からの脱却への巨大な一歩になりうるからです。中西輝政氏「96条改正に再チャレンジすべき」京都大学名誉教授 中西輝政1 96条2 C・96条から改正すべき もちろん、「これだけは改正すべき」なのは、前文と9条、他のいくつかの重要条項である。しかしその改正は、国会議員の3分の2の賛成が必要とする96条がある限り、到底不可能だ。緊急事態条項創設だけを先行させるべき、という選択肢も改憲の実績づくりとして現実的に見えるが、相当難しい。必ず〝隠れ護憲派〟が跳梁して「(緊急時に)国会議員の任期を延長する」だけの改正で骨抜きにするだろう。9条など本命の改正は却って遠のいてしまう。しかも96条が生きている限り、今の政治状況ではその中途半端な改正すらかなり難しいと思われる。安倍政権発足後の2013年に96条改正が一時、大々的に論じられたのに、いつの間にか「立ち消え」にされてしまった。あの時、初志貫徹していれば状況はうんと違ったはず。96条改正に再チャレンジすべきだ。金沢大学教授 仲正昌樹1 緊急事態条項2 D・現時点では憲法改正に反対 安保法制に反発する世論の盛り上がりで明らかになったように、国民の多くは、日本をめぐる国際情勢の緊張やそれへの対処法、法制について十分な認識を持っていない。だから憲法学者の個人的意見や徴兵制の恐怖を煽る反対派の宣伝で簡単に動揺する。改憲派の中にも、自主憲法の制定で対米従属から脱却すると猛々しく叫ぶだけで、日米安保に代わる具体策を考えない、観念的な反米保守が少なくない。今、改憲を発議しても冷静な国民的議論は期待できず、イメージ合戦に終始する。憲法は、その国の歴史・環境と国民の合意に基づいて国家の基本方針を示すものであって、国民の意識を改造したり、パワーバランスを劇的に変化させる手段ではない。新しい安保法制の下で、東アジアの平和維持や緊張緩和に貢献する実績を積んだうえで、本格的な改憲論議を始めるべき。焦ってはならない。サヨクウォッチャー 中宮崇1 アメリカ合衆国憲法第1章第8条第11項2 A・緊急事態条項創設だけ先行 米国憲法の右条項は連邦議会に「戦争を宣言し、船舶捕獲免許状を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設ける権限」を認めています。宣戦布告だけでなく、民間船が実力行使することを認める権限を与えているのです。 独立当初イギリスに比べ圧倒的な海軍小国であったアメリカは、その不利をカバーするために私掠船(海賊船)の活用を図り、その権限について憲法に明記しました。この規定は現在も生きており、特にイラク戦争以降民間軍事会社(PMC)が大きな役割を果たしています。また、戦時に軍組織で働く民間人の割合も年々増加しています。 中国等の脅威だけでなく、ソマリア海賊やテロリスト等国家以外の脅威に柔軟に対処するためにも、軍事における「民活」の是非についての議論は必須でしょう。西尾幹二「右顧左眄せず、正面突破されよ」駒澤大学名誉教授 西修1 9条2 A 質問1に関連し、誰が読んでも自衛戦力さえもてない非武装条項に改めることと、誰が読んでも自衛戦力(軍隊)をもてるようにするための二者択一の国民投票を実施することを提案したい。 質問2に関連し、第一回目として、条文の明白な誤りを是正するための改正を併せて実施するのも一考と思われる。たとえば第七条四号の「国会議員の総選挙」を「衆議院議員の総選挙及び参議院議員の通常選挙」に改めるなど。 本来、日本国民の手で、まったく新しい「日本国憲法」を制定すべきであるが、少なくとも、①前文の見直し、②国家の自立としての国防、国家緊急事態条項の新設、③家族の位置づけ、④環境保護、⑤憲法改正手続きの緩和、⑥健全な国家財政の運営条項の導入は必須。海自試験艦「あすか」(海上自衛隊提供) 評論家 西尾幹二1 9条2項2 C・9条2項の削除 憲法改正問題について私の内心には深い絶望が宿っている。私は平成十二年、『諸君!』七月号に「このままでは『化け猫』が出てくる」という論考を発表した。環境権とか、知る権利とか、プライヴァシー権とか、フェミニズムの権利とかを言い立てる人が現に多く、義務規定に比して権利規定の多い現行憲法にさらに新しい権利規定を盛りこむことばかりを考える今日の国民の政治意識のレベルを考えると、まともに全面改正の大議論をしてもうまく行くまい。公明党を抱え、自民党の三分の二がリベラル派で、これら「化け猫」にやさしい人々である。政府は九条二項の削除のみに限定すべきである。安倍内閣の命運をこの一点に賭けるべきだ。ただし一年以内に国民投票に持ち込んで、確実に実現する。右顧左眄せず、正面突破されよ。東京基督教大学教授 西岡力1 9条2項2 C・9条2項改正で正面突破を 憲法9条2項改正は後回しにできない。そもそも我が国だけが国際法上、全ての国に許容されている自衛のための陸海空軍その他の戦力を持たないとされている2項の規定が異常だからだ。これは、世界の国の中で我が国だけが国軍を持つと邪悪な行動をとりかねないとする差別と偏見の上に成り立っている。真の独立国家となるため国軍保有は絶対に欠かせない。 また、我が国の平和と安全は9条によってではなく、自衛隊と日米安保条約によって守られてきた。しかし、中国共産党政権の軍拡と対外膨張主義、米国の内向化が並行して進む中、現状の体制では平和と安全が守れなくなる危機が近づいている。だから、自衛のための軍事力を急ぎ強化する必要がある。そのためには9条2項を改正して国軍を持つと明記することは避けて通れない。西部邁「英国と同じく不文(慣習)法としての憲法にするのが最善」評論家 西部邁1 ・一つだけ・を挙げるのは不可能2 B・前文2項3項改正と9条2項廃止も 歴史的な存在たる国家の根本規範としての憲法は成文(制定)法として「設形さる」べきものではなく国民の歴史的良識から「成る」べきもので、英国と同じく不文(慣習)法としての憲法にするのが最善である。 成文憲法が欲しいというのなら、現憲法の前文第一項の(国民ならぬ人民の)主権主義、第二項の(他国依存の)平和主義、第三項の(政治道徳の)普遍主義、九条二項の(非武装の)平和主義、十一条の基本的人権における「基本的」ということの意味、十二条の自由権と十三条の個人尊重における「公共の福祉」の基準について、「国民の伝統精神」が憲法意識の根源という見地から修正もしくは廃止さるべきである。なお、最大の争点とされている九条第二項(非武装・不交戦)は、自衛隊が存在する以上、すでに死文とみなすべきだ。皇學館大学教授 新田均1 前文2 B・前文の改正を一緒に図るべきだ 憲法の前文によれば「国民主権」を宣言した理由は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ためであり「われらの安全と生存」の「保持」は「平和を愛する諸国民の公正と信義」に委ねなければならない。つまり、日本国政府はいつ戦争を始めるかわからない邪悪な存在であるから国民が監視しなければならず、他方、諸外国はすべて平和勢力なので、彼らの言うことを素直に聞いていれば何の問題もないというのである。〝憲法は政府権力を拘束するものあるから、憲法改正は憲法違反〟などという議論は絶対王政に対抗した市民革命の理論を国民主権の時代に持ち込んだ時代錯誤の戯言だが、そのような言論が幅を利かせるのは、この前文があるためである。緊急事態への対策は急務だが、それも国民の自己信頼の回復があってはじめて機能する。元開星高校野球部監督・教育評論家 野々村直通1 前文 将来的には全面改正2 B・緊急事態条項と同時に前文と9条 現安倍政権のうちに〝憲法改正〟に着手しなければ二度とチャンスは巡って来ないように思う。日本を取り巻く隣国(中国・北朝鮮)の横暴が表面化している今、国民の国防に関する気運も高まっており、理解を得られる時期に来ている。偏った報道で護憲派の意見ばかりが切り取られて垂れ流されているが、潜在的国民意識の中には危機意識が浸透しているとみる。何としても憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して…」は削除。前文で〝日本の伝統(歴史)と世界に誇る文化を高らかに謳いあげ、国民が日本国と日本民族に誇りをもてる〟ものに変更することが肝要である。国防に関してははっきり条項を定め、愛する日本の国土と国民を守り抜くための国軍を規定する。国防を規定することにより抑止力とすることが独立国家の当たり前の憲法である。秦郁彦氏「争点を第9条に絞った正面突破をはかるのがよい」埼玉大学名誉教授 長谷川三千子1 9条2項削除及びそれに関連した改正2 C・緊急事態条項は1に付随した改正で 拙著『九条を読もう!』(幻冬舎新書)にも書きましたが、日本国憲法第九条二項は、近代成文憲法の条項として、まさにあつてはならない条項です。といふのも、そこに規定された戦力不保持と交戦権の否認は、すべての独立国の責務である、自国の「主権」の維持といふことを不可能にしてしまふからです。「主権」とは単なる抽象概念ではない。それは現実の力の裏付けをもつて、はじめて維持されるものなのです。それをすべて投げ捨てる九条二項のもとでは、「国民主権」も実は成立しえない。九条二項は日本国憲法そのものを破壊してしまふ欠陥条項なのです。憲法改正は、まづこの欠陥条項を取り除くことから始めるべきでせう。現代史家 秦郁彦1 9条2項2 C・9条のみで正面突破 漠然と改憲を打ち出すと、あちこちから提言が乱立して、優先度をめぐる論争になり、収拾がつかなくなる可能性がある。 したがって、政府は争点を第9条に絞った正面突破をはかるのがよい。文芸批評家 浜崎洋介1 1つだけというのは回答不可2 C・9条のみで正面突破 現行憲法がGHQによる手抜き工事の代物であることは自明だが、それなら小手先の改正で堅牢な建築物ができるとも思えない。最低限、前文の撤廃、天皇関係条項の改正、9条の全面改正、緊急事態条項創設、国民の権利義務条項の改正、信教の自由条項の改正、96条の改正などが必要だと思う。ただ、現実的に考えた場合、国民の抵抗が少ない緊急事態条項の創設や96条改正から手を付け、その後に「9条」以下の改正に繋げていくというのが合理的なのだろう。が、「その後」がいつ来るのかは分からない。いや、それより以前に、この「現実的に」という言い訳によって改正が延び延びになってきた戦後70年間の「現実」がまずある。それなら、過度な戦略性よりも、私は「9条のみで正面突破」を選ぶ。事実、「9条」の改正がない限り「緊急事態条項」も画餅でしかあるまい。東谷暁氏「自民党の改正案もひどい」ジャーナリスト 東谷暁1 全改正すべきで1つだけでは回答不可2 C・全面改正(正確には「制定」)を 私は「独立憲法制定」論者なので、「憲法改正」の段取りを質問されたときには、全文改正と答えるしかなくなる。しかし、たとえ状況適応的であっても、部分的な改正がどうしても必要だというのなら、第九条二項削除に反対はしない。 安倍晋三政権が成立してから、第九六条改正先行論が盛んになったのに対しては呆れていた。九六条先行論を振り回した人たちは、以前、現行憲法は限界にきたとの認識を表明していた論者たちであり、それがいつの間に小手先のテクニックでよいと思うようになったのか。 ちなみに自民党の改正案もひどい。以前の制定案は護憲派の芦部信喜憲法学に基づくものだったが現改正案もその延長線上にある。「安保法案は違憲」といって注目された長谷部恭男氏は芦部の弟子であり、自民党の改正案も同じ系譜にある。ハドソン研究所首席研究員 日高義樹1 9条は1項、2項とも削除2 C・緊急事態には憲法も失効。条項不要 国があって憲法が存在している。現在の日本の憲法は現在の日本という国ができる以前からアメリカをはじめ連合軍側がカイロ会議やポツダムでの会議で民主主義的な日本を作るために定めた原則に基づいて作り上げたものである。 そのうえ、アメリカ公文書のひとつ、『アメリカ外交関係一九五〇年第十一巻』の一一二〇頁以降を見れば、日本側がいかに抗弁しようとも、アメリカが占領体制のもとで日本の憲法を現実に作成し、軍事力を持たせぬ代わりに日米安保条約をも作り、憲法と安保の体制を作り上げた。憲法をはじめ法律は国家が作るものであり、他の国の人々が与えるものではない。このことを我々は今一度考えてみるべきである。軍事評論家 兵頭二十八1 「防衛の義務」条項の創設2 C・根幹条項審議が国会を進化させる  創設を要するのは、根幹規定たる国民の義務としての(防衛の義務)条項:「日本国民は、国民の自由を防護するため、日本国民の多数意見が民主主義的に反映される政体を支持し、外敵および外敵の手先からわが国を防衛する義務を有する。」 加えて(間接侵略排除)条項として「国家反逆者は罰する。」も必要だと思料する。  われらが直面する最大脅威は直接侵略ではなく間接侵略だ。国会内に売国奴が混じるという根幹異常事態は、末節的条項では防遏不能だろう。 ほんらい最高裁が「9条2項は近代の立憲精神に違背するもので、制定時に遡って無効」と判断するのが早いのに、日本法曹界の法哲学はレベルが低いゆえ期待をし得ず、情けなく思う。青山学院大学教授 福井義高1 回答不可(名実共に独立後全て)2 D・現時点での憲法改正に反対  西尾幹二氏の前月号論考にあるように、安倍晋三「首相の立場をおもんぱかるのは…政権・与党幹部…あるいは自民党の仕事であって、少なくとも私の課題ではない」。  戦後70年経っても、自国領土とくに首都近郊にある外国軍隊基地を異常と思わない異常性。日米の軍事協力が必要─筆者も賛成である─ということと、米軍基地の永久化は同じではない。  かつて、外国軍隊駐留は独立喪失の象徴とされた。独立国としての憲法改正は、最低限、国内の米軍基地が自衛隊基地となったうえで一部が米軍に提供される体制となるか、米国領土に自衛隊基地が設置されるまで待つべきである。  日米政府や我が国親米派知識人が強調するように、日米同盟が対等であるならば、「非現実的」主張ではないはずだ。沖縄・嘉手納基地拓殖大学客員教授 藤岡信勝1 9条2項2 A 人は誰にも生きる権利があるのと同じように、国家も自己保存の権利を有する。ところが、日本国憲法九条二項には、「国の交戦権は、これを認めない」と書いてある。日本を滅ぼそうと敵が攻めてきても、これと「交戦」する権利が認められていない。やられ放題で滅亡するしかない。そもそも「認めない」と偉そうに言うが、「認めない」主体は誰か。憲法前文には、「日本国民は、(中略)この憲法を確定する」と書いてある。だから、「日本国民」が「日本国民」に対し、「おまえたちは攻められても戦わずに滅びろ」と命令している。こんな狂気の憲法をつくった覚えのない日本国民の一人として、九条二項、必ず削除したい。ただし、国民投票の失敗は許されない。緊急事態条項の制定で、「憲法は改正できる」ことを国民が学習する機会とするのは一つの案である。政治評論家 筆坂秀世1 9条2項2 C・9条のみで正面突破 もともと現憲法は、我が国に国家主権がなかった占領下で作られたものである。国家主権がない国でなぜ憲法を制定できるのか。無効と言われるゆえんである。いずれは国民全体の議論を通じて自前の憲法を制定するのが基本である。だが今はまず憲法は改正することができるということを国民の間に定着させることが大事である。そのためにも、まずは9条2項の改正を行うべきである。 多くの憲法学者は、自衛隊は違憲だとしている。一つの独立国家、主権国家として自衛権はあるのに、自衛権を裏づける軍隊を持たないなどというのは、国家としての体を成していないことになる。これらの憲法学者が非武装国家という非現実的な主張するのならともかく、そうでないのなら9条2項を改正して、自衛隊を軍として明確に位置づけることに賛成しなければ筋が通らない。三浦瑠麗氏「世界観は盛りこまなくてよい」ジャーナリスト 細川珠生1 全改正すべきで1つだけの回答不可2 B・天皇を元首とし家族条項も創設 現憲法は、占領軍によって作られたものであることを考えれば、占領が終わった今、日本国民の手により新しい憲法を制定するのは、当たり前のことである。しかし、そのような制定過程にあり、また数々の日本語の間違いや不可解な箇所がありながらも、一字一句変えて来なかったこの70年を考えれば、何か一箇所でも手を加えることは意味があることだ。かつて衆院でほとんどの政党が賛成を示した「緊急事態条項」の新設を「初めの一歩」にすることは現実的な方法であろう。 それに加えて、首なし国家と言われている状態を解消するために、天皇を国家元首と位置付け、新たに家庭の大切さを伝えるために、「家庭条項」を創設すべきである。家庭の大切さと同時に、家庭は守り、維持していく責任があることも、憲法で規定したい。皇學館大学教授 松浦光修1 1条(天皇を元首と位置づける)2 C・まず明白な表記ミスの修正から 「日本国憲法」の最大の欠陥は、国家として不可欠の要件である「元首」と「国軍」の規定がないところにある。「国軍」に関しては、多くの識者が指摘しようから、ここで私はあえて「第一条」の改正を訴える。なぜなら、たとえ「国軍」が創設されても、その忠誠の対象となる「元首」が明確でなければ、それは「魂の死んだ巨大な武器庫」(三島由紀夫「檄」)になりかねないからである。「元首」と「国軍」がそろって、はじめて国家は国家たりうる。「明白な表記ミスの修正」から着手すべき、とするのは、何人も反対する理由のない部分から確実に「憲法改正」を実現し、近代日本史上初の自力での「憲法改正」を、まず全国民が一度〝体感〟する必要がある、と考えるからである。それは全面的な改正という〝長い旅〟に出かける前の、〝予防接種〟としても不可欠であろう。東京都江東区で開かれた護憲派の集会で「憲法を守れ」などと書かれた メッセージを掲げる参加者=5月3日国際政治学者 三浦瑠麗1 9条2項の削除2 C・その他の方法で現行憲法を改正 憲法改正の目的は、日本を取り巻く安全保障環境と、日本の現実の政策とが合わなくなってきていることにある。安全保障を憲法解釈に代表される詭弁を重ねる法律論で語る悪しき伝統から抜け出す意義は大きい。憲法9条1項は国際法上最も先進的な自衛戦争の理解であり堅持すべき。2項が問題である。しかし、憲法改正を発議するには自民党の2012年改憲草案を撤廃し、たたき台を2005年草案に戻すことが前提。12年草案は、多数派の暴走を防ぎ少数派を保護するための立憲主義という概念を理解していない。現代の民主国家では民主制を守り少数者の権利を守るために憲法があるのであって、いま人造国家を設立するわけでもないのだから世界観は盛りこまなくてよい。また道徳についても自らの願望や価値観と社会の現実とを峻別することが大事となる。宮崎正弘氏「吉田茂の責任は重い」日本文化チャンネル桜代表 水島総1 回答不可(3点の改正から)2 C・全面改正が望ましい 天皇を国家元首と明記し、「国民主権」と九条を削除する。この三点の国体論議の無きまま、憲法が戦後思想の洗脳を受けた「日本国民」の手で変えられることを危惧する。対米従属を続ける我が国の現状と世界情勢を踏まえ、緊急事態条項や九条第二項等の国防安全保障に限った改正への現実的対応は捨てるべきでは無い。しかし私たちは無数の先祖たちから、天皇の国日本の国体の本来の姿を取り戻す確固とした意志と決意が求められている。「国民主権」などという厚顔無恥の「改正憲法」を推進することに、私たちは、先ず皇室に対して、そして、英霊と先祖に対して、深くお詫びし、恥を忍んでの現実的対応であることを痛切に自覚すべきである。今の憲法改正運動は、その畏れと痛みを国民が自覚する国体復古運動であるべきだ。経済評論家 三橋貴明1 9条2 D 日本国憲法(第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。)にもある通り、「法律の定める手続き」に基づき、国民の自由は制限できる。緊急事態条項が憲法になくても、緊急事態法を作成すれば済む話であるし、手続き的にも早い。自民党の改憲案を読むと、「財政の健全性の確保」つまりは財政均衡主義など、絶対に盛り込んではいけない条項が入っている。緊急事態に対応する「法律」を作成することについては賛成だが、今の自民党に憲法改正を進めて欲しくない。どうしても、改正したいならば、王道の「九条」一本で進めるべきである。評論家 宮崎正弘1 全改正すべきで1つだけでは回答不可2 C・廃憲  押しつけという一点だけで主権侵害であり、現憲法は国際法に違反する。占領基本法なのだから独立と同時に廃棄すべきだった。それを怠った吉田茂の責任は重い。  廃棄が正当であり、当然、明治欽定憲法にもどり、この改正というのが法理論的に正しいがすでに枢密院も貴族院もなく、物理的に不可能だろう。 であるなら五箇条のご誓文と十七条憲法に遡及し、日本のマニフェストとして掲げ直し、残りは不文律で良いのではないか。  日本のように歴史の長い、誇りある伝統の国にふさわしく、そうなれば偏向判決などの根拠が失われ、日本は「普通の国」、常識ですべてが判断される国家として国際社会に復権できる。八木秀次氏「天皇を国家元首とすることも必要」日本大学教授 百地章1 要改正点が多く1つには絞れない2 A・正確には本条項を再優先すべき 憲法改正が現実味を帯びてきた中、何を改憲テーマとして最優先するかは極めて重大な問題であるが、以下の視点から現実的かつ可能なテーマを選定すべきだろう。①国の根幹に関わる重大事項で②緊急性を要し③国会各院の三分の二以上および多数国民の賛成が得られそうなテーマである。 (1)と(2)から考えられるのは、「憲法九条二項の改正」と「緊急事態条項の明記」であろうが、前者は先の安保法制をめぐる混乱から推測されるように、決して容易ではない。しかし、後者なら実現の可能性はある。なぜなら先進国で緊急事態措置の認められていない国はなく、衆院憲法審査会でも共産党を除く与野党七党がこれに賛成したこと、それにこれなら国民生活に直結する身近なテーマでもあり、国民多数の賛成が得られそうだからである。それ故、緊急事態条項を最優先すべきである。麗澤大学教授 八木秀次1 9条2項2 C・9条のみで正面突破 現行憲法には多くの欠陥や改善を要する箇所がある。国柄を反映していない前文は全面書き換えが必要だ。天皇を国家元首とすることも必要だ。「国会議員の総選挙」という誤字も直したい。判例を反映した政教の緩やかな分離を示す規定に改正すべきだし、家族を社会の基礎的単位として国家が保護する規定も設けたい。衆参の捻じれによる政治の機能停止を回避すべく衆議院の優越性を高めることも必要だ。大災害や非常時に政府がどう機能するかを規定した緊急事態条項の創設も必要だろう。厳格すぎる改正要件も緩和したい。しかし、改正の最優先順位は9条2項ではないか。占領下に懲罰的に日本の非武装化を強要した同条項は主権国家に相応しくなく、安全保障上も問題だ。現実を反映してもいない。まず自衛隊ないし国防軍を憲法に位置付けたい。これこそ立憲主義の要請だ。憲法フォーラムでの安倍晋三首相ビデオメッセージが送られた=5月3日、東京都千代田区の砂防会館別館(福島範和撮影東海大学教授 山田吉彦1 9条2項 防衛力行使の正当性を明確化2 A・全面改正が望ましいが時間を要する 現在の憲法は、米国の影響下において制定され、すでに70年近い歳月が経つが、かわらずに堅持されている。そのため、グローバル化した社会、あるいは情報化の進展など予想だにしていない。時代の流れの中に憲法が劣化してしまい条文相互に矛盾が生じ、国民生活の指針とはなりえない。早急に現実の社会を反映した国民が豊かで安全な生活を送ることを保障する憲法を作らなければならない。また、1994年国連海洋法条約が発効し、国家が沿岸域を管理する国際的な法制度が構築され世界の秩序が変わった。日本は四方海に囲まれた海洋国であり、新憲法においては、領海、排他的経済水域を我が国の領域と認識し、利用、管理、保護することを念頭に入れるべきである。さらに、世界の平和維持への貢献など、国際社会において日本が果たすべき役割も明確にすべきである。上智大学名誉教授 渡部昇一1 回答なし2 C 現憲法の制定には、日本人が一人も関与しておらず、「国権」の発動たる「憲法」とは言えません。つまり占領軍の日本二重統治時代の「占領政策基本法」であったという事実は動きません。 この立場から論じます。それには国民の三分の二以上の賛成を得ることの出来る草案を作ってから、明治憲法に一時戻ると宣言し、明治憲法の改正規定でその草案を新しい憲法にする。それは某月某日の午前中に明治憲法復帰し、午後に新しい憲法を発布するのです。現状の諸法律は、新しい憲法による改正までは有効とします。 

  • Thumbnail

    記事

    木村草太が憲法記念日に再考「憲法とは何だろう?」

    (THE PAGEより転載) 憲法記念日ということで、憲法について考えてみよう。もっとも、「立憲主義とは」などと抽象的な議論をしたところで、説教くさいばかりで面白くない。そこで、具体例からアプローチしてみよう。今日、取り上げたいのは、辺野古基地建設問題だ。 沖縄県宜野湾市には、日米安保条約に基づき普天間基地が設置されている。普天間基地は市街地のど真ん中にあるため、事故の危険の面でも、都市計画や交通への悪影響の面でも、地元住民にとって重い負担となっている。そこで、日米両政府は、普天間基地移設に合意した。 米軍基地設置の根拠法となる駐留軍特別措置法では、どこに米軍基地を造るかの判断を、内閣にほぼ丸投げする内容になっている。そこで、2005年民主党政権下、鳩山内閣は、沖縄県名護市辺野古への基地移設を閣議決定した。自民党政権下の安倍内閣もそれを引き継ぎ、現在、工事を進めようとしている。 そんな中、4月8日の参院予算委員会で、松田公太議員(日本を元気にする会代表)が、安倍晋三首相に対し、次のような質問をした。 普天間基地の移設先をどこにするかは、「国政の重要事項」なのだから、「全国民の代表」(憲法43条)からなる「国権の最高機関」(憲法41条)たる国会が、辺野古基地設置法のような法律を制定して決めるべき事柄ではないか。また、辺野古基地設置法を成立させるためには、憲法95条に基づく名護市の住民投票(※)が必要になるはずだ。この手続きを踏むつもりはないのか。 これに対し、安倍首相は、移設先は「国政の重要事項」ではあるが、「行政の責任」として内閣が決すべき事柄だから、今ある法律で根拠としては十分だ、と答弁した。 この答弁の際に、菅官房長官が使わないと約束していた「粛々」という言葉を安倍首相が使ったため、大手メディアの関心はそちらに向かってしまった。しかし、この質問と答弁の重要さは、松田議員と安倍首相がそれぞれに、「あるべき憲法」を提案していることにこそある。 つまり、松田議員は、憲法41条、43条、95条を手がかりに、「基地の場所のような国政の重要事項は、国会の議決と住民投票の同意によって決定する憲法」の方が魅力的ではないか、という提案を示した。 これに対し、安倍首相は、「基地の場所のような国政の重要事項についても、法的根拠としては駐留軍特別措置法で十分であり、一内閣が責任を引き受けて決定する憲法」の方が魅力的である、と反論したのだ。 この原稿を読んでいる読者は、どちらの憲法のほうが魅力的だと感じるだろうか。 「松田議員の憲法」では、国会議員や住民の同意を取り付けるための苦労が必要となるが、その過程で、多くの人が決定に参加でき、地元の納得も得られやすくなるだろう。他方、「安倍首相の憲法」では、迅速な決定が可能となる半面、参加や納得という面で不十分になるだろう。 では、どちらが日本国憲法の理解としてふさわしいのか。実は、日本国憲法の文言は、「法律で決めなくてはならないこと」と「内閣の一存で決定していいこと」を細かくは定めていない。だから、憲法を解釈していくことが必要となる。 では、憲法解釈を決めるのは誰か。実は国民である。 もちろん、国の政府は、過去の事例を検討したり、有識者の意見を聞いたりしながら、一つの解釈を選択して実践する。私のような憲法研究者は、憲法条文や、関係する法令、過去の判例、諸外国の例、憲法の歴史など様々な考慮から、「こう解釈するのが良いのではないか」と提案することもある。国会は、憲法解釈をベースに、より良い社会作りのための法律を制定する。裁判所も、さまざまな資料に基づいて、憲法の有権解釈者として、解釈を示す。 しかし、こうした解釈は、すべてある意味では「暫定的な解釈」だ。政府や学者や国会や裁判所が示した解釈がおかしいと思うならば、国民がしっかり議論して、それを政治の実践の場に示していかねばならない。国民のそうした議論を受け止め、時には議論をリードしながら、国民の意思を国会に届け、法律を作るのは国会議員の仕事だ。 ちなみに、4月8日の審議でも、安倍首相は、辺野古基地建設法を作りたければ議員立法をすればよい、という趣旨の答弁をしている。 では、松田議員が、法案提出の条件を整え、国会に「辺野古基地設置法案」を提案したらどうなるだろうか。可決されれば、基地建設の可否は、憲法95条に基づく名護市の住民投票によって決せられる。他方、否決されれば、国会が「辺野古基地NO」の意思を表示したことになる。それを無視して、内閣の一存で基地建設を進めれば、国民の間で、国会と内閣のどちらが基地の場所を決めるべきなのか、議論が巻き起こるだろう。 どちらにしても大変な事態であり、議員立法の行方が注目される。 松田議員と安倍首相は、それぞれに「あるべき憲法」を提示して、国民が憲法を選ぶ機会を与えてくれた。ぜひ、読者のみなさんも、どちらの方が良い憲法なのか、考えて、選んでみてほしい。 「憲法を創る」こと。それは、憲法の文言にむやみに言いがかりをつけたり、思い付きで憲法草案を書いたりすることではない。まったく異なる個性を持つ人々が、互いに尊重しあいながら共存するためのルールを具体的に考え、実践につなげて行くことだ。 良い憲法を創れるかどうかは、国民の地道な努力にかかっている。(※住民投票)憲法95条は、「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」と定める。辺野古基地設置法には、この条文が適用される可能性が高く、名護市の住民投票の承認がない限り成立しない。きむら・そうた 1980年生まれ。東京大学法学部卒。同助手を経て、現在、首都大学東京准教授。助手論文を基に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)を上梓。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東大生協で最も売れている本」と話題に。著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)、『憲法学再入門』(西村裕一先生との共著・有斐閣)、『未完の憲法』(奥平康弘先生との共著・潮出版社)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『憲法の条件――戦後70年から考える』(大澤真幸先生との共著・NHK出版新書)などがある。

  • Thumbnail

    記事

    本気で憲法改正をしたい人たちへ その「方法論」を私が提示する!

    アベ政治は全部反対」への反発だけで「安倍内閣のやることは全肯定」では、子供と同じである。 もちろん、憲法論議でも同じだ。パヨクに批判されているからと、安倍内閣のやっていること、やろうとしていることのすべてを正しいとするのでは、御用評論家と同じである。 iRONNA読者にどう思われようが、構わない。最初に安倍内閣に対する私の二つの立場を言明しておく。 一つは、現在の安倍内閣が日本を良くするなどという幻想は、一片も抱いていない。 そもそも、安倍内閣は「まず経済、そして憲法改正による戦後レジーム脱却」を掲げて再登板した。二年で景気回復し、その勢いで一気に戦後レジーム、すなわち日本を敗戦国のままにさせる体制の本丸である、日本国憲法の改正に切り込むはずだった。ところが、政権樹立から三年、いまだに景気回復はできず、今も財務省と痴話げんかのような戦いを繰り広げている。 この夏の参議院選挙は否応なくアベノミクスによる景気回復の是非が問われ、憲法改正も選挙結果に左右される。衆議院と同日選挙になるのかどうか、アベノミクスを間違いなく腰折れさせる消費増税を阻止できるかどうか、誰にもわからない。満身創痍の中で首相や側近たちは頑張っているとは思う。戦術的には。 しかし、「まず経済」にすぎなかったはずのアベノミクスの是非でイイ勝負をしている時点で、戦略的には負けているのである。 仮に私が、内閣法制局長官の横畠祐介だったとしよう。財務省相手に必死の戦いを繰り広げている安倍首相を脅威に感じるだろうか。しかも昨年の安保法制では、安倍首相は法制局に頼り切りだった。私が横畠長官なら、顔では深刻な表情を装って、腹の中で笑い転げるに違いない。 断言する。今の安倍内閣には、戦後レジーム脱却に手を懸ける力は残っていない。仮に財務省との権力闘争に勝ってアベノミクスをやり抜き、戦後レジームの牙城である内閣法制局をも制圧したとしよう。ではその後、中国や韓国と戦う力があるのか。ましてやアメリカとは。 今の安倍内閣に過大な期待を抱くのは、戦時中の「支那事変の展望が見えなくて苦しいから、対米開戦に活路を見出そう」式の議論にしか聞こえない。 無理なものは無理だと、はっきり言うべきだ。安倍内閣が仮に東京オリンピックまであと四年続いたとしても、こんな調子では戦後レジームは脱却できない。その現実に基づかない議論は空理空論なのだ。 ただし、もう一つの立場もあわせて宣明しておく。現時点で、安倍晋三ほど日本を悪くしない首相はいない。だから、私は安倍内閣を支持している。 現に、今次九州大震災での対応を見よ。何の心配もいらないではないか。 私が公に安倍内閣支持を表明する機会を得たのは、2012年2月だ(『正論』3月号。安倍晋三が憲法改正を旗印に政界再編へ動け、と主張した)。その時以来、私が一度でも安倍首相の悪口を言ったのを聞いた人がいるか。 そもそも政治とは、「よりマシな選択の連続」である。最近の政治の劣化を前にしては、そのセリフを吐きたくないが、しかし本質は変わらない。 仮に安倍晋三に何かあった時、代わるべき政治家は誰か。自民党に安倍晋三以上の政治家は、誰がいるか。それとも、政権交代させて岡田克也に譲るか。 私の立場、「現在の安倍内閣が日本を良くするなどという幻想は、一片も抱いていない」を聞いて絶望するなら、政治に対して関心を持つのをやめた方がいい。ただ、「現時点で、安倍晋三ほど日本を悪くしない首相はいない」を聞いてから考えてほしい。 政治は「よりマシな選択の連続」であると同時に、「可能性の芸術」なのだ。 本稿では、現実に基づかない空想的な観念論を排し、現実的な議論を提示する。「やらねばならぬこと」と「できること」の峻別「やらねばならぬこと」と「できること」の峻別 こんな当たり前のことを大の大人が読む媒体で書かねばならないことに、眩暈がする。 憲法論議でこそ、「やらねばならぬこと」と「できること」を峻別せよ。 しかし現実には、保守の論客諸氏が改憲論を語るたびに公明党や共産党が笑い転げていると聞く。私が逆の立場でも同じ態度をとるだろう。なぜなら、できもしないことに向かって何の作戦もなく無謀な玉砕を繰り返し、貴重な戦力を疲弊させ、結果として戦後レジームは安泰になるのだから。コミンテルンに踊らされて対米開戦に突入した、戦前日本と何ら変わらないではないか。日米共同訓練で、自衛隊のヘリコプターから降りてくる米軍兵=平成22年、北海道・自衛隊上富良野演習場 戦時中、「勝つためのやり方を議論させろ」との主張は封殺された。決まり文句は、「聖戦を冒涜するのか」「非国民」であった。私はこの種の論法を「聖戦貫徹論」式議論と名付ける。そして「非国民」で結構。保守陣営が勝てない戦いを挑もうとするなら、あえて止める。 そして、憲法論議における「聖戦貫徹論」式議論の筆頭として、「九条体当たり論」を挙げさせてもらう。 これこそまさに、戦時中の「支那事変の展望が見えなくて苦しいから、対米開戦に活路を見出そう」式の議論に他ならないではないか。 昭和十六年、蒋介石が弱すぎたから、無意味な支那事変を延々と続けても大日本帝国は滅ばなかった。しかし、長引く戦に苦しみ、国民は増税に次ぐ増税で生活は塗炭の苦しみに喘ぎ、ABCD包囲網と称される外圧に焦燥は頂点に達していた。そして、活路を見出そうと対米開戦へと至るのだが、こんにち、あの決断を正しかったと言える人は何を根拠に言うのか。 言うまでもなく、当時のアメリカの横暴を語るに私は人後に落ちるものではない。正義は明らかに我が国にあった。だが、国家経営と理非曲直は別の問題だ。 対米戦を三か月で片づけると豪語した杉山元参謀総長に対し、昭和天皇が立憲君主として被諮問権を発動するのは有名な逸話だ。 「お前は支那事変が始まる時、一か月で片づけると申したが、四年たった今でも解決していないではないか」と。 これに対し杉山は「支那は広うございまして」と言い訳する。 ここで昭和帝の怒りが爆発する。 「太平洋は支那より広いぞ!」と。 立憲君主に許された最後の権限、警告権の発動だ。しかし、警告する権利や相談を受ける権利には限界がある。立憲君主は、政府が聞き入れなかった場合、その決定を覆すことはできない。もしやったとしたら、それは合法行為ではなく、承久の乱の後鳥羽上皇と同じ「主上御謀反」だ。 無念ながら、歴史は昭和帝の懸念通りに進んだ。 我々が戦後レジームの脱却などと、いまだに言わねばならないのは、あの時の愚かな決断の結果だ。 くりかえすが、対米開戦直前の米国の非道、我が国に対する挑発は目に余るものがあった。明らかに大日本帝国こそ正義であり、悪はアメリカ合衆国だ。 しかし、「支那事変が解決しないので活路を見出そうと対米開戦を行った」などという結論など、百害無益、取り返しのつかない決断以外の何なのか。 今、戦後レジーム脱却、日本は敗戦国のままではイヤだ、との声が上がっている。敗戦七十年ではじめて憲法改正が政治日程にのぼった。これ、ひとえに岡田克也民進党代表のおかげではないか。その岡田克也相手にさえ、安倍内閣は憲法論議で苦戦している。 昨年の安保騒動を見よ。 安倍内閣が「集団的自衛権の行使を可能にする」と握り拳を掲げた安保法案など、国内の心ある人々や米国の親日派からは、「これではまずます行使しにくくなるではないか」と懸念が寄せられた程度の内容だ。現に、9か月も法案審議に時間をかけたあげく、米国が中国への牽制として行った「航行の自由作戦」に、自衛隊はまともに参加しなかった。また、法案内容にも問題がある。北朝鮮有事には自衛隊が救出活動を行えるのかと思いきや、「相手国の同意があれば」などという条件が付く。誰の許可を得るつもりか。だいたい、誰がこんなバカな内容の法案を出したのか。 まだある。自民党がよりによって護憲派のチャンピオンとも言うべき長谷部恭男元東大教授を参考人として推薦し、「安保法案は違憲」と述べて大混乱に陥ったのは記憶に新しい。何を血迷って芦部信喜の葬儀委員長などを推薦したのか。これでは、共産党が倉山満を推薦するようなものではないか。その直後の処理がさらに痛々しい。のどの渇きをいやすために毒を飲む愚の骨頂 なんと、2015年6月10日の衆議院特別委員会で、菅義偉官房長官が、かの辻本清美代議士に論破されたのだ。内容は、菅「安保法案を違憲ではないという学者は沢山いる」辻本「何人いるのですか。挙げてください」菅「三人だ。数の問題ではない」辻本「事前に質問通告してあるので答えてください」とのやりとりだ。完敗である。 現に、反対派は勢いづき、マスコミを巻き込んだ大キャンペーンで、同法案は「戦争法案」とのレッテル張りを完全に成功させた。北朝鮮有事に際し金正恩の許可が無ければ自衛隊を救出に派遣できないなどという法案が「戦争法案」なら、もっとマトモな法律など望めないではないか。 菅官房長官が余人を以て代え難い政権の大黒柱であるのは万人が認める所であろう。かたや辻本氏は名誉棄損にならない表現で形容するのが困難な御仁である。その両者が憲法論議に関しては、これである。菅官房長官でこの有様なら、いわんや他をや。最も失言が少なかった菅官房長官でこれなのだから、他の大臣の無残な答弁に関しては贅言を要したくない。 しつこいが、私は安倍内閣に嫌味や敵対的な言辞を吐いているのではない。安倍内閣に続いてもらわねば困るから、御用評論家が絶対に言わない苦言を呈しているのだ。那覇空港で緊急発進するF15戦闘機=2015年4月13日午前、航空自衛隊那覇基地 安保法案ごときで、これである。最終的には数の力で押し切ったが、去年のマスコミの大キャンペーンで、どれほどのレッテルを張られたかを思い出そう。憲法九条など本丸中の本丸である。どれほどの抵抗が押し寄せるか。それに対して、現在の安倍内閣は「開戦準備」ができているのか? 安保法案でまともな答弁ができなかった安倍内閣に、九条改正など無理だろう。 保守論壇の少なからずの諸氏が、「今こそ九条に体当たりを」と唱えているのは知っている。では聞きたい。どうやって? 見事に当たったところで、どうなるのか? これを「太陽に体当たりする」と置き換えてみよ。当たったところで焼け崩れるだけだし、第一どうやって太陽にたどりつくのだ。 九条のでたらめさなど、言われなくても承知している。何なら、九条のデタラメさだけで大学の講義三十回分をしても良い。ハッタリではなく、やろうと思えば本当にできてしまうくらい、九条はデタラメなのだ。昨年、『学者も政府もぶった斬り! 倉山満の憲法九条』(ハート出版)を上梓した。九条論議の中で、安保法制をめぐる部分だけで、245頁の一冊の本になるのだ。そんな本を書いた私が、あえて言う。 のどの渇きをいやすために毒を飲むなど、愚の骨頂だ。 別に永遠にあきらめろとは言っていない。この夏の参議院選挙に、憲法九条の改正は間に合わない。少なくとも、国民の理解を得られるような準備はできていない。 だから、もっと他の現実的手段を考えよ、と言っているのだ。 何度でも言う。「やらねばならぬこと」と「できること」は違う。では、現実的な改憲論とは何か?では、現実的な改憲論とは何か? 安倍内閣が無敵の強さを誇っていた2013年夏。「改正手続きが厳しすぎるので、衆参両院三分の二による発議を過半数に緩和しよう」との、九十六条改正論が流れた。産経新聞以外のマスコミは一斉に反発し、安倍内閣は参議院選挙の争点にするのをとりやめた。安倍内閣が最も強かったときですら、これなのである。現実は九十六条より難しい改憲は不可能であると示している。つまり、ほとんど改憲可能な条文は残されていないのだが。 ついでに言うと、多くの受験生は日本国憲法の前文や条文を暗記させられている。受験問題で憲法の条文穴埋めは頻出だからだ。だから、九条はもちろん、前文、第三章の人権規定、四十一条の「国会は国権の最高機関」などは絶対に改正できないと考えた方がいい。受験問題に頻出と言うことは、それだけで愛着を持つ日本人が多いからだ。 保守陣営の中では、「九条は無理だから国民の理解が得やすい、緊急事態条項からやるべきだ」との意見があり、「聖戦貫徹」式の九条体当たり論者からは「いや、九条こそが本丸なのだから逃げるべきではない」との頑迷固陋な反論がなされている。 私だって勝ちたい。負けたくない。だからこそ何の作戦も展望もなく、五十年一日の如く「九条改正を」と叫ぶだけの論者を白眼視するのだ。少しでも勝てるやりかたが提示されるなら、たとえそれが1%の勝率であっても、戦わねばならない時には私は戦う。 だが、「九条一点突破」の作戦が「体当たり」では、背を向けざるを得ない。それでは無駄死にだからだ。勝率は0%だ。なぜなら、どうやったら勝ちになるのかの勝利条件すら示せていないではないか。 では、「緊急事態条項」ならば賛成するのかと問われれば、どうするか。 断る。 理由は、今の安倍内閣に「緊急事態」の定義ができるとは思えないし、国民の理解が得られるような条文にするのには、あまりにも時間が無さすぎる。この話をし出すと、これまた一冊の本になるのでほどほどにしておくが、自民党改憲案のように二つくらい条文を付け加えれば事足りるような甘い話ではない。報道されているような「大災害時に国会議員の任期を延長して選挙を行わなくてもいいようにする」などという案を出した瞬間に、敵の罠に嵌る。決して「国民の理解を得やすい話」ではないのだ。 本気で緊急事態条項に取り組んだとしよう。 統帥権、戒厳令、緊急勅令、枢密院、人権制約といった、どれか一つでも持ち出せば、安保法案の、あるいは九条に数倍する反発を招く論点に取り組まなければならないのだ。 果たして、今の安倍自民党内閣にその覚悟と成算があるのか。甘く考えていたのなら、今なら撤退は間に合う。無謀な戦いを直前で取りやめるのは臆病ではなく、勇気だ。 ここまで保守陣営の恨みを買う覚悟で、本気の警鐘を鳴らしてきた。読者諸氏の中には絶望的な気分に襲われた方も多いとは思う。 だが、現実は現実だ。「安倍内閣が強いうちに九条を、いや緊急事態を」などという何の根拠もない希望的観測と願望だけの議論に、大事な安倍内閣を巻き込んではならないと考えているからだ。衆院予算委員会で、民主党の枝野幸男幹事長(左手前から2人目)の質問に答える安倍晋三首相=2016年1月8日午後、国会・衆院第1委員室(斎藤良雄撮影) 安倍内閣が強いなら、なぜ景気回復ごときに、ここまで手こずるのか。そもそも、アベノミクスを腰折れさせるとわかっている消費増税8%など、飲まねばならなかったのか。 安倍内閣は弱いのだ。他が弱すぎるから強く見えるだけだ。少なくとも、内閣法制局・財務省主計局・創価学会公明党には逆らえない。この現実を認識すれば、突破口は見えてくる。 以下、私の策を提言する。・6月に行われる財務省事務次官人事において、安倍首相は意中の人物を送り込む。 この場合、財務省の人事慣例は無視する方が好ましい。その方が総理大臣の政治介入を財務省内にも国民にも印象付けられる。・新財務事務次官人事発令と同時に、「2017年度からの消費減税5%」を発表する。 安倍内閣の快進撃はアベノミクスとともにあった。それが8%の増税で止まった。ならば、5%に戻すしかない。同時に、日銀が追加緩和、黒田バズーカ発射を宣言すれば、なおよし。間違いなくその瞬間に株価は爆上げ、景気は回復軌道に乗るだろう。支持率は憲法改正可能な数字になる可能性が高い。・財務事務次官記者会見と同日に、安倍首相が秋の臨時国会で「財務省設置法改正案を提出する用意がある」と明言する。内容は一点。財務省の名称を、「大蔵省」に戻す。 要するに、景気を回復し、国民とともに歩むなら「大蔵省の看板を返してやっても良い」と宣言する。現在の財務省の増税に賭ける信念は宗教原理主義の如し。まともな経済理論で説得できるような相手ではない。ならば宗教には、それを上回る宗教の教義を持ち出すしかない。財務省増税原理主義者が逆らえない宗教的教義と言えば、「大蔵省」の看板しかない。仮に政権に協力して消費減税などしようものなら、その財務事務次官は何をされるかわからない。官僚の世界とはそういうものだからだ。ならば、財務省の現役OB問わず最も欲している「大蔵省」の看板を返すことにより、政権自体にも求心力が生まれる。 本来の大蔵省は、戦前戦中はコミンテルンと、占領期はGHQと戦った最も愛国的官庁だった。今のいびつな財務省を正し安倍内閣の味方につけることこそ、戦後レジーム脱却に必要ではないのか。 ここまでは6月上旬に閉じる国会の会期中に行うのが好ましい。・以上の三つを行った上で、国会最終日に安倍首相が「アベノミクスの是非と戦後レジームの脱却」を掲げ、選挙に臨む。 本来は衆参同日選挙が望ましいが、九州大震災への対応があるので、この限りではない。単純な政局論では、解散権は温存したほうが良い。・参議院選挙で改憲派が三分の二を得たところで、即座に改憲に着手する。争点は、七条と五十三条。最近は「七五三改憲」とも言われる。七条と五十三条の改正だから、「しちごさんかいけん」だ。詳しくは前回の拙稿を参照されたい。 改憲はこの条文から始めよ!倉山満が評す安倍内閣の憲法論 七条とは、誤植の修正。これが変えられないようでは何もできまいし、日本国憲法に誤植があることすら国民が知らないで、それ以上の議論が熟すはずがない。 五十三条は、野党第一党党首の岡田克也民進党代表が問題提起した不備。憲法改正は、よほどのことが無い限り二大政党の合意のもとで行うのが望ましい。また、野党の権限を整備する内容の方が、第一回の改正としてはふさわしいだろう。    以上は、なんだかんだと安倍首相が現職総理大臣であるというアドバンテージに基づいて立案した策だ。権限上は問題ないし、首相本人の決心で政治力を出せば誰も止めることはできない。 かなりドギツイ事を書いたと思われるかもしれない。しかし、私は本気で勝ちたいのだ。 改憲論者が言う「一度は憲法改正をするべきだ」との論には賛成だ。ならば、国民の最も理解が得やすい、できることから始めるべきではないのかと問いかけたい。

  • Thumbnail

    記事

    憲法改正の「動き」まで否定しては絶対にいけない

    長谷川豊 今日は憲法記念日ですね。 私はかねてから表明している通りで憲法改正…というよりは…「日本人の手で新しい憲法」を作ってほしい、と願っている人間です。 現行の日本国憲法が施行された歴史的な背景を少しでも勉強すれば「普通の感覚の日本人」であれば…私と同じような気持ちになると思うんですけれど…まぁ戦後の左翼バリバリの日教組教育に洗脳されまくってる人では難しいでしょうが…。 ※現行憲法の制定の流れに関しては軽くこちらのコラムで触れているので、未読の方は是非ご一読を。 『わずか9日間で急仕上げさせられた「日本国憲法」にしがみつくのはただの思考停止だ』 今朝の毎日新聞に各政党の『憲法改正』に対する認識が分かりやすくまとめられていました。 ●<憲法記念日>与野党が談話発表(毎日新聞) まず、かねてから私が主張している通りで、この7月に行われる参院選の最大の争点に『憲法改正』が取り上げられるのは確実で、この動きは高く評価したいと思います。 そもそも『自主憲法の制定』を1丁目1番地に掲げながら、これまでの自民党の総裁たちは「選挙に負けるかもしれない」という不安感から積極的な「憲法改正論議」から逃げ続けてきました。私が安倍政権を支持しているのは繰り返し説明している通りで、安倍さんがこの議論から「逃げない」点です。いままで、この程度の当たり前のことから逃げなかった総理がほとんどいないのは悲しいことですが、安倍さんは7月にガチンコでこの「憲法改正」…特に「9条の見直し」を明言しています。この「姿勢」は賛成派・反対派両面から評価されるべきです。少なくとも「考えること」はとても大切なことだからです。 改正に反対なのであれば、安倍さんが提出した「憲法改正の発議」を国民投票で否決すればいいだけの話です。 大阪で橋下徹氏が大阪市民全員に問いかけたように、安倍総理は日本国民に問おうとしています。この姿勢は私は誰が何を言ったところで支持するでしょう。政治家として正しい姿勢だからです。 大阪では、橋下氏の登場により、それまで「ええんちゃうか?」「わろてればええやんか」という姿勢だった市民の政治への関心が飛躍的に高まりました。大阪都構想の住民投票は「反対。“敗北”会見に臨んだ大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長と、幹事長の松井一郎大阪府知事(右)=2015年5月18日未明、大阪市 東京の皆さん、今、恥ずかしくないですか? あの知事を選んで、恥ずかしくないですか? 公用車を自分の持ち物のように使い、ファーストクラスでやりたい放題「外遊」という名の海外旅行三昧です。 もう一度聞きます。 東京の皆さん、あなた方が選んだ「トップリーダーさん」ですよ?恥ずかしくないですか? 大阪の府民・市民の皆さんは少なくとも「逃げずに自分たちで勉強し考えるクセ」が身に尽きました。これは少なくとも、世界中で行われている「当たり前の民主主義の姿」でしかありません。国民は政治に厳しくあるべきです。なので、去年の5月17日に橋下氏が提案した 「大阪都構想」は否決に至りました。橋下氏も政治家を引退しました。 しかし。 橋下氏がした多くの改革は、現在の大阪の確かな財産となっていることもまた事実です。大阪における公用車の使用規定、テレビなどで紹介されていましたね?見ましたか?ちゃんとしてたでしょ?誰が文句がありますか?大阪の旅行費用や公用車の使用規定。日本最高クラスの規制がなされているでしょ? あれらは橋下氏がメディアからも府民・市民からも絶対に「逃げず」に戦い続けて、大阪の「みんなで作り上げてきたもの」なのです。橋下氏が逃げなかったので、メディアも徹底的に戦いました。厳しくいきました。府民も市民も勉強をしました。なので「政治が成長」したのです。 政治が、国が、成長するためには「逃げないリーダーが必要だ」というのが、政治の世界をどっぷりと10年以上取材し続けてきている私のぶれない主張です。 安倍さんが「憲法を…特に9条の矛盾を是正しようと考えている!」というのなら、反対の人は反対意見を言えばいいし、賛成の人は称賛の声を上げればいいのです。日本国民は、日本の憲法の話をしているのだから逃げずに自分たちも勉強すべきです。そして、勉強してから意見を言えばいい。憲法を改正するのは「国民」 民進党と共産党は相も変わらず、バカの一つ覚えの「立憲主義のぉぉぉぉぉ」という主張の繰り返し。覚えたての言葉を使いたくてしょうがないのでしょうかね?サルのオナニーと同じです。一人エッチなら部屋でしろよ、と言いたくなります。以下、記事引用。民進党の岡田克也代表は「憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認、安全保障関連法の成立強行など、立憲主義、平和主義の本質を理解せず、傷つけてきた」と安倍政権を批判。「夏の参院選はまさに日本政治の分岐点になる。誤った憲法改正を目指す安倍政権の暴走を止め、憲法の根幹である平和主義を守り抜く」と訴えた。共産党の小池晃書記局長は「安倍政権が立憲主義を踏みにじって戦争法を強行し、法治国家としての土台が根底から危うくされている」と指摘。夏の参院選に向け「『安倍政権による改憲を許さない』という一致点での共同を大きく広げ、選挙で痛烈な審判を下す」と強調した。 いや、だから安倍さんができるのは「提案」までだってば。憲法を改正するのは「国民」です。最終的には国民投票するんですから。下らなさすぎるのですが2点だけ申し上げます。 一点目。日本国政府や日本国民が守らなければいけないのは「憲法」じゃなくて「今、日本に住んでいる国民」です。世界情勢や生活様式・環境が変わっているのなら…国民のために憲法は「変えて当たり前」です。 二点目。「憲法を守りたい」とガーガー言うのであれば、それはそれで尊重します。しかし、で、あるならばまずは「自衛隊を廃止すべき」です。改正国民投票法は2015年6月13日の参院本会議で、大多数の賛成により可決、成立した 日本国憲法の9条は 「戦争しません」 「なので戦う力は全部持ちません」 という文章です。自衛隊はゴリゴリの軍隊です。立憲主義、守りたいんでしょ?岡田さん、共産党さん、とっとと「自衛隊、撤廃法案」でも出せよ。「立憲主義」を守ってないのはあなたたちでしょうが。 今年の7月の参院選前にはエキセントリックなバカ左翼メディアがまた必死になってネガティブキャンペーンを繰り返すことでしょう。文句を言い続けていれば部数が売れると勘違いしているからです。オオカミ少年のごとく「戦争が起きるぞ~!」と叫べば視聴率が取れると勘違いしているからです。去年の二の舞です。情けない。そういや、始まるって散々叫ばれてた「徴兵制』…いつになったら始まるんでしょうね? 私のコラム読者の皆さん、ウヨク的な思想を持つ必要はありません。でもサヨクメディアは叩かれるべき。嘘つきだからです。レッテル貼りだからです。朝日新聞さん、安倍さんは戦争したくてたまらないんでしょ?まだ戦争始まらないんですが、いつ始まるの?去年煽りまくってた記事内容の回収作業、ちゃんとやれよ。 みなさん、普通でいいんです。 憲法を時代に合わせて変えていくことは世界中で当たり前に行われていることです。日本だけです。こんなに何も変えないのは。普通でよいのです。正常な日本語力がある人が読めばわかるでしょ?あの9条。1項はいいけど2項はおかしいってば。絶対。 私は憲法改正の「動き」を全面的に支持します。 「憲法改正」を支持しているというよりは「動き」を否定すべきでない、と思うのです。「動き」はあくまで「動き」。おかしいと思ったらわれわれ国民が否定すればいいだけだからです。その程度を否定している民進・共産コンビは間違っています。私はこの両党はこのままの主張を続けていけば参院選で制裁を受けると予想しています。その予想はほぼ当たるはずです。単に文句を言っているだけだからです。 議論できない連中なんて、赤じゅうたんの上には必要ない。金の無駄使いだ。(2016年05月03日 長谷川豊公式ブログ「本気論本音論」より転載)

  • Thumbnail

    記事

    今こそ憲法改正、はびこる「立憲主義」という妖怪

    られている。ただし、正確に使用されているとは言いがたい。一部のメディアなどが盛んに唱えているのは、「憲法とは国家権力を縛る」ものと定義づけ、「国民は憲法を守る義務を負わない」「集団的自衛権を全面的に禁止していた政府解釈を変更することは立憲主義の破壊である」などの言説である。 はたして立憲主義に関するこのような捉え方は、正しいだろうか。 第1に、「憲法とは国家権力を縛るもの」という定義それ自体がいたってあいまいである。そのあいまいさをよりどころにして、自分たちの意に沿わない行為が国家によっておこなわれれば、立憲主義違反と決めつける。実に手前勝手な立憲主義論が横行しているように思われてならない。 立憲主義の本質は、国家権力の恣意的行使を制約することにある。 国家の役割がきわめて肥大化してきている今日、国家の機能もそれだけ大きくなる。それと同時に、ともすれば国家はその権力を濫用(らんよう)するおそれがある。そのような権力の暴走を阻止するのが、立憲主義の根本的な考え方である。国家権力が恣意的に行使されているかどうかは、民主主義のルールによって定まる。自民党立党60年記念式典で万歳三唱する安倍晋三(しんぞう)首相(中央)と党役員ら=2015年11月29日午後、東京都港区高輪のグランドプリンスホテル新高輪(酒巻俊介撮影) 第2に「憲法を守らなければならないのは、国家権力保持者であって、国民ではない」と唱えられる。その根拠としてあげられるのが、憲法99条の規定である。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。ここに国民が入っていないことを理由に、国民は憲法尊重擁護義務を負う必要はなく、またそれが立憲主義の原則にかなうと主張される。 曲解といわなければならない。現行憲法の採択が審議された帝国議会で、憲法担当国務大臣の金森徳次郎氏は、次のように述べている。「日本国民がこの憲法を守るべきは理の当然でありまして、ただこの第95条(*現行の第99条)は、憲法という組織法的な一般的な考えに従いまして、権力者または権力者に近い資格を有する者が憲法を濫用して、人民の自由を侵害する、こういう伝統的な思想をいくぶん踏襲いたしまして95条の規定ができております。国民が国法に遵(したが)うということはいうまでもないことでありまする」 要するに、憲法の尊重擁護義務は、ふだん権力を行使する立場にある公務員などを「特別に」対象にしたものであって、国民が憲法を守るべきは「理の当然」だから、条文の中に入れなかったというだけのことなのである。 世界の憲法をみると、多くの憲法に国民の憲法遵守義務が定められている。たとえばイタリアの憲法には、以下の規定がある。「すべての市民は、共和国に対して忠実であり、憲法及び法律を遵守する義務を負う」国の存立のための集団的自衛権 第3に、集団的自衛権に関する今回の政府解釈の変更は、立憲主義の破壊になるだろうか。政府は9条に関連し、何度も解釈を変更してきた。当初は自衛権すら否定するような答弁をしていたが、警察予備隊、保安隊時代は「近代戦争を遂行するに足る兵力ではないので合憲」との解釈を示し、さらに自衛隊が発足すると、「自衛のため必要最小限度の実力は憲法で禁止する戦力に当たらない」との解釈に変えた。論理より現実を先行させた解釈の変更といえる。 政府が自衛隊発足以来、解釈を変えていないのは、「必要最小限度の自衛権の行使」は憲法に違反しないとの立場である。今回の解釈変更は、その「必要最小限度の自衛権の行使」を、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる明白な危険がある場合」に限定して、集団的自衛権の行使を認めたにすぎない。従来の解釈変更より、論理性は保たれている。 政府の最大の任務は、国の存立と国民の生命および諸権利を保全することにある。それはまた、立憲主義存続の前提でもある。国際社会の厳しい現実を直視すれば、限定的な集団的自衛権の行使は立憲主義の破壊ではなく、むしろ立憲主義の存続要因という結論に帰着するはずだ。 「国家権力は敵」という独善的な考え方のもとに、自分たちの政治目的を実現するために立憲主義という言葉を利用する-いわばポピュリズム憲法論が、現代日本に徘徊している妖怪の正体と映る。(にし おさむ)

  • Thumbnail

    記事

    参院選は日本の進路と憲法をめぐる「関ケ原の合戦」になろうとしている

    しかし、「在任中」と明言したのは、今回が初めてです。 安倍首相は2日、参院予算委員会の基本的質疑で、憲法改正について「在任中に成し遂げたい」と述べ、首相在任中の実現に強い意欲を示し、改正時期にも踏み込みました。首相の自民党総裁としての任期は2018年9月までですから、それまでには改憲したいと表明したことになります。 同時に首相は、憲法改正の発議には、衆参両院で3分の2の賛成が必要だとして「わが党だけで3分の2を獲得することはほぼ不可能に近い。与党、さらには他の党の方々の協力も頂かなければ、(改正は)難しいのではないかと思っている」との認識を示しました。自民党だけでは不可能だということも認めた形です。 いよいよ、与野党対決の焦点として改憲の是非が浮上してきたということになります。それも「日本のトランプ」とも言うべき危険な指導者である安倍首相の手によってなされようとしているわけですから事態は重大です。 このような企みを阻止するためには、自民党を孤立させなければなりません。安倍首相自身、「わが党だけで3分の2を獲得することはほぼ不可能に近い」と述べているように、「与党、さらには他の党の方々の協力」を防げば、改憲を阻止することができます。 ここで言う「与党」とは公明党のことですが、石田政調会長は「ちょっと唐突な感じがする。なかなか現実的なのかな……」と述べて、戸惑いを示しているといいます。「他の党の方々」というのはおおさか維新の会ですが、9条改憲という点では自民党と同じではありません。 さし当り、この二つの政党が安倍改憲に協力しないように牽制し、批判を強める必要があるでしょう。また、当面の「お試し改憲」のテーマとされている緊急事態条項導入の狙いと危険性についても明らかにしていかなければなりません。安保関連法に反対し「SEALDs(シールズ)」などが開いた集会。国会議員も登壇し、参院選に向けた野党共闘への支援を求めた=2016年3月13日午後、東京・JR新宿駅前 それ以上に重要なことは、参院選で改憲勢力が3分の2を上回らないようにすることです。具体的には、自民党・公明党・おおさか維新の会の3党の議席拡大を阻み減らすことが参院選での獲得目標となります。 そのためには、「5党合意」に加わっている政党が議席を伸ばさなければなりません。これについて安倍首相は都内のパーティ―で「『自公対民共』の対決になっていく。決して負けるわけにはいかない」「民主党は選挙に勝ちたいがために共産党と手を組む。民共合作だ」と述べて、警戒心を露わにしたそうです。 安倍首相の口から「民共合作」という言葉が飛び出すとは思いませんでした。私の言っていた「民共合作」論が、そこまで浸透したということなのでしょうか。 このことは、安倍首相が最も恐れ警戒していることが民主党と共産党との連携・協力であることを示しています。安倍さんが嫌がるのであれば、それこそが力を込めて行うべき方向であり、「民共合作」こそが目指すべき方向だということになるでしょう。 しかし、今回の「5党合意」は民主党と共産党という2党の範囲にとどまっていません。戦争法の廃止を求める野党5党が安倍内閣打倒に向けて共同歩調を取ることで合意したもので、この点に大きな意味があります。 それは、アベ政治を許すのか許さないのか、政治が進むべき方向はこのままで良いのか転換すべきなのか、という大きな枠組みで参院選を戦うことを可能にしました。さらに、安倍首相の一連の発言によって、これに憲法をめぐる争点が付け加えられたために、日本の現状と未来をめぐる二つの道という対決構図がくっきりと示されることになりました。 こうして、来る参院選は日本の進路をめぐって二つの勢力が真正面から対決する政治決戦になりました。改憲勢力とそれに反対する勢力による現代版の「関ケ原の合戦」です。 改憲に反対する勢力には、公明党の支持基盤である創価学会内で戦争法に反対する人々や解釈で集団的自衛権の行使を可能にすることに反対する保守勢力や自民党員も糾合する必要があります。まして、9条改憲に反対する幅広い人々の結集は不可欠です。 安倍首相が戦争するための国造りを進めていること、それを完成させるためにこそ「在任中」に改憲したいと意欲を強めていること、そのために着々と手を打ち既成事実化を進めていることは、最近の政治の動きに盲目でない限り、国民の多くには理解可能なことでしょう。その結節点として参院選の場が選ばれ、そこで二つの勢力が激突しようとしているわけです。 ここでの勝敗が、これからの日本の運命を決めることになるでしょう。だからこそ、「政治決戦」なのです。 もし、安倍首相が勝利すれば改憲に向けての扉が開かれます。逆に、与野党逆転などによって「敗北」させれば、政治責任を問われて安倍首相を退陣させることができるかもしれません。 安倍首相の勝利か、退陣か。それが問われる選挙戦になろうとしています。 あなたはどちらの側に立つのですか。1人1人の国民にとっては、このことが問われることになります。 改憲ではなく護憲の側に、戦争ではなく平和の側に立ちたいと、私はそう思います。少なくとも、安倍首相を喜ばすような結果にはしたくありません。 2006年参院選の再現をめざそうじゃありませんか。自民党が37議席と歴史的大敗を喫して秋の安倍退陣に結びつき、公明党も神奈川・埼玉・愛知で現職議員が落選して議席を減らした第1次安倍内閣のときの参院選の再現を。(「五十嵐仁の転成仁語」より2016年3月3日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    あいまいな文言が訴訟乱発を生む! 今こそ憲法改正を

    原康男 周知のように「戦後レジームからの脱却」を掲げて登場した、2次にわたる安倍晋三政権の最大眼目は憲法改正である。 公布されてから70年もの年月を波乱なく過ごし、これまで一度も改正されたことのないという現憲法の異常な歴史-一生独身を通して国務に専念した女王、エリザベス1世は“バージン・クイーン”と称揚されたが、“バージン・コンスティチューション”は決して自慢できるものではあるまい。改正の必要ありとされた20条 西修・駒沢大学名誉教授によれば、米国独立宣言など6つの政治文書の寄せ集めたものにすぎない前文から始まって、極めて厳格な改正条項を含む全103カ条の条文の中には今後も堅持すべきだとされるものもあるが、早くから改正の必要ありとされてきたものの一つが20条である。 本条は3つの項から構成されている。1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」はそのまま残すことに異論はないが、それ以外は何らかの改正が施されるべきであろう。中でももっとも問題とされてきたのは3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」である。 本項は1項後段の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と併せて政教分離原則を規定したものであるが、条文を分解すれば、主語としての「国及びその機関」と、述語としての「宗教的活動」から成る。 まず「国及びその機関」を文字通りに解すれば、国会や政府・裁判所や各種の公団などの国家機関を指すことになろうが、政教分離が公権力と宗教の関わりに一定の規制をかけるものとすれば、地方公共団体をその対象から外すことは制度の意義を大きく損なうことになるのは必至だ。そこで行政や学説のほとんどは地方公共団体も「国及びその機関」に含まれるとか、「国及びその機関」に準ずるとかという論理で説明してきた。 私の知る限り、これに異論を呈したのは中山健男名城大教授(故人)にとどまったが、主語の厳密な解釈としては一理あると思う。 何と言っても重要なのは述語である「宗教的活動」の意義である。これには大きく分けて2つの立場がある。1つは「宗教的活動」とは宗教的色彩のある事象の一切を包含するものとし、国や公共団体は宗教から徹底的に分離されるべきであると主張する「完全(厳格)分離」であり、戦後久しく憲法学界の多数説であった。 もう1つは、「宗教的活動」とは宗教的色彩のあるすべてを指すのではなく、「宗教教育」に代表される特定宗教の布教・宣伝のような積極的活動とし、そこまでには至らぬ一定の範囲で国や公共団体も宗教と関わることを認める「限定的分離」の考え方である。 本項について最高裁が初めて憲法判断を下したのは、津市が市の体育館の起工に際して神式地鎮祭を挙行し、神職への謝礼などに公金を支出したことを違憲として提訴された「津地鎮祭訴訟」においてである。 昭和52年に出されたこの判決は「限定的分離」に立つ柔軟な解釈に則(のっと)って原告の主張を却(しりぞ)けた画期的な内容であり、後に若干の逸脱が生じたもののわが国の司法において確立した法理となっている。濫訴を招いた文意の曖昧さ これ以降、最高裁が言い渡した政教訴訟の判決は29件にも及ぶ(その多くは首相の靖国参拝と皇室祭祀(さいし)に関わるもの)。そのうち原告が勝利したのはわずか2件(6・9%)にすぎない。既に最高裁で判断が示されている同種の訴訟が繰り返されることも少なからずあり、あえて「濫訴」と言い切ってもよい状況が続いてきたことは事実である。 厳密に数えたわけではないが、地裁・高裁で確定したもの、あるいは審理中の原告の死亡や訴訟取り下げなどによって終了したものも含めて、これまで提起された政教分離をめぐる訴訟は80件を優に超えている。憲法訴訟の数としては9条に関わる事案を遥(はる)かに上回り、訴訟に至らずに政教事件として片付いたものはその数倍にも達するだろう。 ピーク時には10件以上もどこかの裁判所に係属していたこの種の訴訟も現在は6件にとどまっているとはいえ、楽観はできない。既に縷述(るじゅつ)してきたように、その主たる要因は20条3項の文意の曖昧さにあるからだ。 立法政策としては単なる「宗教的活動」の禁止のような抽象的な表現ではなく、産経新聞社編『国民の憲法』要綱の26条3項「国および地方自治体は、特定宗教の布教、宣伝のための宗教的活動および財政的支援を行ってはならない」のように、禁じられる行為の構成要件を憲法の条文として具体的に明記すべきである。このことを改憲論議の枢要なポイントとして一般の関心を呼び寄せたい。

  • Thumbnail

    記事

    憲法改正>安倍首相が創設を目指す「緊急事態条項」とは?

    (THE PAGEより転載) 安倍晋三首相は年頭の記者会見で、夏の参院選の争点として「憲法改正」に言及しました。その布石として導入を図ろうとしているのが「緊急事態条項」です。昨年の国会でも安倍首相は緊急事態条項を憲法に創設したい意向を示しています。しかし、その中身はよく分からない部分も多いのです。緊急事態条項とは一体どのようなものなのでしょうか? 緊急事態条項とは、「大災害や武力攻撃などによって国家の秩序などが脅かされる状況に陥った場合、政府などの一部機関に大幅な権限を与えたり、人権保障を停止したりする、非常措置をとる」ことを定めた規定です。自民党は2012年に11章から成る「日本国憲法改正草案」を提言。その中の項目として、「緊急事態条項」の創設を提案しました。これは前年の東日本大震災における災害対応の不手際を教訓として盛り込んだとされています。現在議論されているのは、この2012年に発表された緊急事態条項の内容です。離陸するF15戦闘機(航空自衛隊提供) 首相はまず2013年に、憲法96条「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」の要件である“各議院の総議員の三分の二以上の賛成”を“各議院の総議員の過半数”に改正し、改憲のハードルを下げようと試みました。しかし、世論や自民党内部からの反対もあり、取りやめています。そこで首相は、手始めに野党との合意も得られやすい「緊急事態条項」を創設し、憲法改正の動きを活発化させたいとの思惑があるようです。あいまいな?「緊急事態」の定義あいまいな?「緊急事態」の定義 具体的にはどのような内容なのでしょうか? まずはどのような状態を“緊急事態”と想定しているかをみてみます。草案では大きく分けて3つのケースを想定しています。(1)外部からの武力攻撃、(2)内乱等の社会秩序の混乱、(3)大規模な自然災害です。 これに対し、憲法学が専門の聖学院大学政治経済学部の石川裕一郎教授は、規定のあいまいさを指摘します。「条文では『内乱“等”による社会秩序の混乱』と、内乱以外も想定しているのです。例えば、“ストライキ”や“金融不安”なども想定しているのかという疑念があります。さらに問題とするのは、条項の最後に『その他の法律で定める緊急事態』と記載されている点です。法律でこの3つ以外のケースも作り得るのです」。もちろん、緊急事態条項が創設されれば、国会で議論されるので乱暴なやり方はできないにしても、ある程度は政権の思い通りにできる可能性があるのです。 自民党は日本国憲法改正草案の提言と併せて、「Q&A集」も発表しています。その解説には、緊急事態条項創設の目的を「東日本大震災のような大災害のときに、政府が迅速に動けるようにする」とあります。しかしこれらはもう、「現在の災害対策基本法や災害救助法の下、都道府県知事や市町村長の判断でほとんど対応できる」などと、憲法学者や弁護士が主張しています。さらに、日本国内が戦争になったと場合も既存の法律で対応できるのです。敵が攻めてきたり内乱が起きたりした場合は、自衛隊法や警察法があるのです。 自然災害以外での緊急事態条項創設の論拠となるのは「国政選挙」関連です。「衆議院が任期満了で総選挙になったときに、たまたま災害や外部からの武力攻撃で、選挙ができないまま4年経ったとします。衆議院の任期は4年と憲法で決まっていますが、任期延長の規定はありません。法律で任期を延ばすことはできないということで、緊急事態条項の創設という形で憲法に加えようとしているのです」(石川教授)。内閣だけで法律と同等なルールを作れる?内閣だけで法律と同等なルールを作れる? 改憲案では、「緊急事態が宣言、発せられた場合は内閣が法律と同じ効力を持つ政令を発することができる」となっています。石川教授は「国会での法律の審議すらある意味飛ばして、内閣レベルで法律と同等なルールを作れてしまいます。さらにその政令に関し、『憲法14、18、19、21条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない』と書いてある。逆に言えば、尊重さえすれば、憲法で保障されているさまざまな基本的人権をも制約できるとも解釈できます」と、憲法の条文そのものを相対化する危険性を指摘しました。内閣が発する政令次第では、例えば“裁判所の令状なしでの身柄拘束”などが可能となるのです。 一番の問題は、憲法レベルで保障されている基本的人権が簡単に制約されてしまうことです。憲法に創設されるとなると、もちろん違憲でもありません。さらに、石川教授は緊急事態の宣言の手続きについて指摘しました。「緊急事態は内閣総理大臣が発します。これへの歯止めとして考えられるのが国会です。しかし、国会の承認は事前または事後でも認められます。そして、その承認の期限がないのです。 極端な話、緊急事態宣言を発して数か月後の承認でもいいのでしょうか?」と、疑問を投げかけました。 実際に同様な形で1955年から運用されているフランスの事例を見てみます。フランスでは現在、昨年11月のパリ同時多発テロ事件の発生に伴い、大統領が非常事態宣言を発令しています。発令されると、夜間外出禁止や集会の規制、ライブハウスやホールなどの人が集まる施設の営業規制、裁判所の令状なしで昼夜問わずの家宅捜索、令状なしでの不審者の身柄拘束が可能となります。 もちろん問題点もあります。今回のテロ事件に関連し、フランス当局は数千件に上る家宅捜索を行ったのにも関わらず、結果的にテロとの関係が疑われる犯罪の立件は1桁くらいしかないのです。このような状況もあり、フランスでも法律家や市民グループが行政裁判を起こしています。さらに、フランスでも非常事態法で自然災害の想定を記載していますが、これまで6回の非常事態宣言の発令では、自然災害での適用が1回もないのです。現行法でほとんど対応できる? それでは、日本において緊急事態条項は必要なのでしょうか? 石川教授は全て現行法で賄えるとして不要と主張します。「自然災害と武力攻撃は先ほど指摘した法律でほぼ対応可能です。さらに衆議院解散中の空白ついても、実は現憲法で対応できるのです。衆議院には解散がありますが、参議院にはありません。解散がない上に半数ごとの改選なので国会には空白期間が生まれません」。緊急事態を想定し、憲法54条で“参議院の緊急集会(衆議院が存在せずに国会が開催できない場合で、国に緊急の必要性が生じたために参議院で開かれる国会の機能を臨時に果たす集会)”が定められているのです。 憲法改正は安倍首相の宿願であり、緊急事態条項の必要性を認める見方もありますが、議論は注意深く見ていく必要があるかもしれません。(ライター・重野真)

  • Thumbnail

    記事

    憲法を巡る重鎮たちの「殴り合い」 その激しく熱い内幕

    「熱しやすく醒めやすい」のは日本人の特徴のひとつだが、集団的自衛権を巡る議論はまだ続いている。憲法記念日を前に、憲法オタクのフリーライター・神田憲行氏がレポートする。 * * * 集団的自衛権について昨年までは違憲派の押せ押せムードだったが、今年に入り、違憲派に疑問を突きつける動きが広まっている。 きっかけは元最高裁判事の藤田宙靖・東北大名誉教授が雑誌「自治研究」2月号に掲載した論文「覚え書き-集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」だ。藤田氏はこの中で違憲論議が「必ずしも、一貫した精緻な議論が展開されているようには感じられない」として、違憲説を検証して疑問を指摘している。 この論文に「天啓を得たような感動」と飛び付いたのが、昨年まで国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官を務めていた自民党の磯崎陽輔氏である。昨年、立憲主義について「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」とツイートして一躍脚光を浴びた東大法学部卒の磯崎氏は、藤田論文について「一般の皆さんには難しい点もあるので」と、ブログでその内容を要約している。もっとも藤田論文には安倍首相の発言を捉えて「真に謙虚さと節度を欠いた発言ではあるが」など、ところどころ安倍政権の政治的振る舞いに関して苦言を呈しているのだが、これはスルーされているようだ。 藤田論文に名指しで批判された長谷部恭男・早稲田大教授はかつて出した論文集「憲法の理性」に反論文を掲載してわざわざ増補新版にして出版した。元最高裁判事vs.学会の権威という、憲法オタクにはたまらない重量級の殴り合いである。衆院憲法審査会に出席した参考人の(左から)早稲田大の長谷部恭男教授、慶応大の小林節名誉教授、早稲田大の笹田栄司教授=2015年6月4日 と、ここに、改憲派護憲派ともに石を投げるどころか椅子を投げつける人が現れた。東大で法哲学を教えている井上達夫教授である。3月に出た新著「憲法の涙」(毎日新聞出版)の帯は、《改憲派も/護憲派も/ウソばっかり!》《安倍首相も、/護憲派も、/憲法学者ですら、/私のいうことを/聞いてくれない(涙)/-日本国憲法》 帯の通り、井上教授はありとあらゆる憲法学者を「欺瞞だ」と名指しで指弾していく。 井上教授は憲法9条の解釈で自衛隊の存在は認められないから9条を削除すべしというのが持論。その立場から自衛隊を違憲としつつ改憲を否定する護憲派を「原理主義的護憲派」、自衛隊を合憲する立場を「修正主義的護憲派」と呼ぶ。「原理主義的護憲派」については、自衛隊と安保を違憲としながら現状を肯定している姿勢を「欺瞞の蟻地獄でもがいている」と批判。「修正主義的護憲派」には、自ら自衛隊合憲という解釈改憲しながら安倍政権の集団的自衛権を解釈改憲と批判する「政治的欺瞞」と指摘する。 学者についても手厳しい。前出の長谷部・早大教授を繰り返し何度も批判し、小林節・慶応大学名誉教授は同氏の過去の発言に一貫性が無いことを取り上げて、《「豹変」名人の小林さんは無視をするとして》 とスルー技を発揮、東大卒で新進気鋭の木村草太・首都大学東京教授は、《木村さんは学生時代、私の授業をいつも最前列の席に座って熱心に聴いていたまじめな人だったので、憲法学者になってそこまで堕落したとは信じたくないですがね》 と嘆いて見せるのである。批判されている先生方は腹立つだろうが、ただの読者のこちらは「よくそんだけ悪口思いつくな」とゲラゲラ笑ってしまう。聞き役の編集者もたちが悪い(褒め言葉です)。「私の知り合いも怒ってました」などと(その知り合いで誰やねん)という読者からツッコミを入れたくなるような合いの手を繰り出し、井上教授の怒りの炎にどんどん薪をくべていく。 そして最後は自分の血圧について触れ(これも編集者が「心配する読者がいた」と唐突に話を振る)、《自宅の血圧計で「いい数字」が出るまで何回も測り直している。これって自己欺瞞だよね。「人間は自己欺瞞の天才である」という私の命題、まず我が身に適用して襟を正さねば》 で終わるのである。すごい着地の仕方で目眩がする。 しかしこの本の本当の価値は、そういうユーモアも交ぜながら、読者を安全保障、憲法の真摯な議論に導いていくところである。 井上教授の主張は「憲法9条削除」「徴兵制の復活」である。これだけ並べるとウルトラタカ派のようだが、違う。リベラリストとしての井上教授の平和論が底に横たわっている。たとえば「徴兵制」については、いつも自衛隊を「他者」としてしか議論しないことに異議申し立てをし、「自分のこと」として捉えるためにの方策なのである。徴兵制があったからこそベトナム戦争時代にはアメリカで反戦運動が活発になったと指摘し、日本と同じように軍部の暴走を経験したドイツが徴兵制のなかで何を教えていたか紹介する。 昨年の国会を見て「こんな粗雑な議論で自衛隊の人たちに命を掛けさせるのか」と憤慨した私のような読者なら、徴兵制復活は別にしても井上教授がいわんとすることに共感するだろう。そして、憤慨したまま放置している自分の存在に気づき、井上教授の欺瞞の指弾が自分にも向けられていることに慄然とするのである。関連記事護憲派が守ろうとしているのは憲法ではなく古い解釈改憲だイラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告自衛隊を国防軍にすることが平和の確保に繋がると軍事専門家元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績

  • Thumbnail

    記事

    改憲はこの条文から始めよ!倉山満が評す安倍内閣の憲法

    からすべきか 戦後レジームとは何か。日本を敗戦国のままにさせておく体制の事である。その総本山が日本国憲法であるのは言うまでもない。 安倍晋三首相は戦後レジームの脱却を掲げ、憲法改正に意欲を燃やしている。戦後政治の常識では改憲勢力が衆参両院で三分の二以上の多数を得るのは不可能に近いと思われてきたのにだ。しかし、ここに救世主が現れた。 岡田克也氏である。現民主党代表で、維新の会との合併で予定されている新党でも党首に擬されている人物だが、後世の歴史家は間違いなく首相官邸が機密費を使って傀儡に仕立てたスパイであると疑うだろう。真相は同時代を生きている我々には知りえない。また、岡田氏本人も知りえない。なぜなら無能なスパイは、自分が誰のスパイなのか理解できないからだ。そもそも、岡田氏が自発的にスパイと同じ動きをしているのか、それとも誰かに操られているのか、小生のような浅学菲才の身には計り知れない。ただし、これだけは言える。年頭の記者会見をする民主党の岡田克也代表=2016年1月5日午後、東京・永田町の民主党本部 岡田克也氏ある限り、安倍自民党内閣は安泰である。 詳細は省略するが、安倍内閣は多くの政治的失敗を繰り返してきた。それも、三角大福の時代なら政権即死に至るような致命的な失敗を。最近でも甘利経済産業大臣辞任は記憶に新しい。だが、その機会を悉く岡田氏はわざと見過ごしたか生かせなかったのか知らないが、いずれにしても安倍自民党内閣は支持率を向上させ、「一強」状態である。それでいて護憲派野党結集のための新党で、引き続き不人気の岡田氏が参議院選挙まで党首を務めるという。 もはや、安倍首相に「憲法改正をしてください」と言わんばかりではないか。よほどの変わり者でない限り、いくら現状の政策に不満があっても、岡田氏との二択ならば迷うことなく安倍自民党を選ぶであろう。 夏の参議院選挙では、連立与党の自民党と公明党に加え、おおさか維新の会と日本のこころを足せば、三分の二の議席を超えるのではないかとの観測まで出ている。 岡田克也氏のおかげで、敗戦後初めて憲法改正が現実味を帯びているのである。 本稿では、参議院選挙後の政局で予想される憲法論議に関し、戦後レジーム打破勢力としてどの条文の改正から入るべきかを検討することによって、安倍内閣の憲法論を評すこととする。第一案 争点にしない第一案 争点にしない 逆説的な意見から論じよう。安倍自民党内閣は憲法改正など口にすらすべきではないとの意見である。 もちろん、本稿では護憲派など眼中にない。「アベ政治を許さない」「戦争法案」「戦争したくなくて震える」「安倍に戦争をさせるな」などと現実を無視した扇動をしている勢力を相手にすること自体が、利敵行為である。将棋の格言に「遊び駒を相手にしてはいけない」とあるが、「働き場を無くしている敵を攻撃することは、相手を活発化させ味方を疲弊させるだけ」との意味である。そもそも、護憲派の総大将が岡田克也である以上、彼らが多数の国民の支持を得ることはない。よって、歯牙にもかける必要が無いのだ。むしろ昨年の安保法制論議では、「護憲派は狂ったことを言っている。護憲派よりもまともな事を言っている我々改憲派は賢いのだ」という態度が多数の中間的な国民の反感を買わなかったか。「安倍自民党改憲案への批判者は護憲派」のような態度は厳に戒め、我が国にふさわしい憲法とは何か、それを実現するにはどのような戦略戦術が必要かを論じるべきであろう。 自民党改憲案に反対する論者の中にも安倍内閣の支持者は多いのだから、耳を傾けるべきだろう。こうした立場から第一案に立つ論者の要旨をまとめると、「長期計画を持て」「急がば回れ」「玉砕的な無謀な戦いはしてはならない」である。憲法改正を求める集会で、安倍晋三首相はビデオメッセージを通じ「国民的コンセンサスを得るに至るまで(議論を)深めたい」と訴えた=2015年11月10日、東京都千代田区の日本武道館(野村成次撮影) 安倍首相は再起に当たり、「まず経済」を強調した。第一次内閣の退陣後、日本経済は悪化の限りをたどり、バブル崩壊以前からの不況と合わせ「失われた二十年」とも称された。憲法問題を普及する運動を広めようと集会を開いても、若者などは生活が苦しく、そんな集会に参加する余裕が無い。そもそも選挙で憲法が争点になることなどありえなく、圧倒的多数の国民の関心は経済である。たかが経済問題ごとき軽く解決できなくて、何が戦後レジームの脱却か。されど経済問題すら解決できなくて、他の何がなしえようか。 安倍首相は不況の原因が当時の日本銀行だと看做し、自らの意を汲む黒田東彦総裁と岩田規久男副総裁を送り込んでアベノミクスを開始した。適切な金融政策を行えば株価は上がる、株価が上がれば支持率が上がり選挙に勝つ。選挙に勝つから与党自民党議員は安倍内閣についてくる。安倍内閣が「株価連動政権」と呼ばれるゆえんである。平成二十六年三月に就任した当時の岩田副総裁は「二年でデフレ脱却」を公言していた。安倍首相の周辺には「戦後レジーム脱却への施策を急げ」とする保守層と、「デフレ脱却までは経済に専心すべきだ」との非保守層の二つの路線が介在していた。 後者の立場からは「憲法問題など争点にすべきではない」との結論が導き出される。選挙で票が逃げるばかりであり、景気回復はいまだに達成できていない。そもそも、なぜ景気回復が遅れているのか。自らの命綱であるアベノミクスを、消費増税八%によって破壊したのは安倍首相その人ではなかったのか。たかが財務省との権力闘争に負けたような総理大臣に憲法改正のような大事業など可能なのか。八%増税の悪影響はいまだに強いが、経済に専念しなくてよいのか。八%増税で失ったものを取り返すには、消費税を五%に戻す以外にないのではないか。憲法改正など、不況から完全に脱却してからでも遅くないのではないか。第一案の「憲法改正を今次参議院選挙で争点にすべきではない」との論者には、説得力がある意見が多い。少なくとも、安倍自民党の改憲案に反対だからと、護憲派如きと十把一絡げにするような愚をおかしてはならない。 この論に対する反論は一つだ。憲法改正とは、根回しを積みあげる行政行為ではない。究極の政治である。政治とは戦いである。戦いに勝つのに最も肝要なのは、戦機を掴むことである。これを孫子は「己を知り、敵を知らば百戦して百勝す」と述べた。確かに安倍内閣の体制は盤石ではないかもしれない。しかし、敵を見よ。選挙の相手は岡田克也なのだ。この千載一遇の好機を逃してよいのか。 現実の政治論をもう一つ加えれば、安倍首相は公明党や自民党護憲派の抵抗にもかかわらず、再三再四「任期中に憲法改正をやり遂げる」と明言している。それには参議院選挙の勝利が不可欠であり、ここを逃せば、もう勝つ機会はない。すなわち不戦敗はレイムダックなのだ。 アベノミクスを主張する論者の中には様々な観点から改憲論への批判もあろうが、その主体である安倍内閣が死に体になっては、景気回復すら覚束ないのだ。 本稿でも以上の政治的状況を踏まえ、どのような改憲論を打ち出すべきかを論じているのである。第二案 七条と五十三条第二案 七条と五十三条日本国憲法第七条四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。第五十三条内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、【要求があった日から二十日以内に】、その召集を決定しなければならない。【 】内は自民党改憲案に基づき、補足。 多くの日本人は、日本国憲法に誤植があることを知らないだろう。天皇の国事行為を列挙した七条の四号を見よ。「国会議員の総選挙」とある。衆議院の解散とは「代議士を全員クビにすること」であり、必ず総選挙となる。ところが参議院は半数ごとの改選であり、衆参同日選挙となっても、国会議員がいなくなることはありえない。現に参議院選挙は「通常選挙」と呼ばれる。つまり、日本国憲法ある限り「国会議員の総選挙」などありえないのだ。 憲法なのに誤植がある。その誤植一文字すら日本人は変えられずに七十年もすごしてきた。そして、この恥ずかしいこと極まりない事実を、どれほどの日本人が知っているだろうか。むしろ多くの日本人は、「内容が時代に合わないけれど、平和憲法にも効用があった」と思っているだろう。だから、改憲派は言論戦で負けっぱなしのマイノリティーであった。 日本国憲法は完全無欠ではない。この無謬性の打破こそが突破口である。 そもそも、誤植一文字削れなくて、他の何ができるのか。 また、反対するとしたら理由は何なのか。第二次安倍内閣が元気だったころ、三年前の参議院選挙で九十六条の厳しすぎる要件の改正を打ち出したが、産経新聞フジテレビ以外のすべてのマスメディアがいっせいに反対し、公約にすらしなかった。不戦敗である。その時の論拠が「要件を緩和すると、憲法改正がたやすくなる。戦争をする国になる」であった。少しでも憲法学をかじった人間からすると噴飯ものの主張だが、憲法のことなど知らなくても生きていける多数の国民を不安がらせるには十分なアジテーションだった。 では、七条改正に際して護憲派は同じ主張をするであろうか。するならば、やってもらえればよい。「七条の誤植を削ると戦争になる」 社民党の福島瑞穂氏あたりなら言いかねないが、使い方は間違っているだけで地頭(ぢあたま)はいい共産党はプライドが邪魔して反対できまい。また、護憲派ながら論理に拘る公明党にも反対する理由が無い。 仮にその状況で、日本国民の多数が誤植一文字の削除も許さないような狂信的護憲派に与するようならば、いかなる憲法改正もあきらめるしかないではないか。 日本国憲法に誤植があるという事実を知らせること自体に意味がある。そして狂信的護憲派が「誤植を削れば戦争になる」と絶叫してくれれば、それ自体が“曝しあげ”になるではないか。 もう一つ、今次参議院選挙でのみ使える争点がある。五十三条である。 昨年末、岡田克也氏率いる野党は憲法の規定に従い臨時国会の開催を要求した。野党が衆参いずれかの四分の一の数を集め臨時国会の召集を要求した時は、内閣は応じなければならないとの規定に従っての事だ。しかし、五十三条の規定には期限が明記されていない。安倍内閣は外交日程などを理由に拒否し、一月からの通常国会の開会を早めることで対応した。 当然、岡田氏は憲法違反をなじり、自民党改憲案にも「内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」とあるではないかと迫った。 つまり、野党第一党党首である岡田克也氏が指摘する日本国憲法の不備であり、改正を要求している条文なのである。改憲派にとって幸いなことに、どうやら岡田克也氏は新党結成になっても参議院選挙まで党首の地位に留まるらしい。これを奇貨とせず、何とするか。 安倍内閣は、五十三条を「岡田さんが言い出したことなので一緒にやりましょう」と打ちだすべきだ。まさか岡田氏も自分の言い出したことに反対するほど非常識では無かろう……とは自信を持っては断言できぬが……仮にそのような態度をとった場合でも与党や改憲派に損はない。 こうした政局論、現実論から離れて、本質的な憲法論をする。 我が国に限らず、野党第一党が反対する状態での憲法改正は避けたほうが良い。文明国の憲法運用は、「憲法観の合意」を重視するからだ。 たとえば、オーストリア憲法は繁雑なので有名である。数えようによっては一四〇〇条にものぼると聞く。たとえば「健全財政条項」などは二大政党が合意しただけであるが、憲法に含んでいる。日本で言えば「三党合意」のようなものまで「憲法」に含めているのである。戦前のオーストリアでは政争が激しく、オーストリア・ナチス党に付け入る隙を与え、最後はドイツに併合されて亡国の憂き目を見た。この反省から、戦後は二大政党の合意を憲法として扱うようになっているのだ。 また、我が国と同じ敗戦国のドイツでは憲法に当たる基本法を五十回以上改正していると語られることが多いが、これには前提がある。 ドイツ憲法第二十一条第二項  政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危くすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。  内容は、戦前日本の治安維持法と同じである。国家秩序を危うくする政党、すなわち極右のナチスと極左の共産党を禁止しているのである。そして一番右と一番左の両端を切り捨てた圧倒的多数のドイツ国民の合意により発議するので、我が国と同じ三分の二条項であっても、必要に応じた憲法改正が可能なのである。 そして、憲法政治の母国である英国でも、二大政党の合意は重要視される。英国の憲法は「日本国憲法」「○○国憲法」のような形で、文字でまとまっていない。英国憲法の中心は、慣例の蓄積である。小さなことでは、衆議院議長を輩出した選挙区に反対党は対抗馬を立てない。大きなことでは、「政争は水際まで。国益に反するような反対党への攻撃は慎む。特に国際問題を政局に利用しない」などがあげられる。これらの合意は、どこにも明文化されていないが、英国憲政数百年の歴史の蓄積の上で、憲法習律と呼ばれる慣例として憲法体系に組み込まれている。英国は常にアイルランド問題を抱え、伯仲議会では彼ら少数派の発言力がまし、連合王国の存続を脅かすような危機を何度も経験し、乗り越えている。その知恵が、二大政党の合意により憲法体系を維持することなのである。 このように、二大政党制だろうが少数分立制だろうが、憲法とは国家的問題である以上、主要政党(特に二大政党)の合意に基づいて憲法を護る(立憲主義)、あるいは改憲を行うのは、世界の文明国の常識なのである。 逆を考えよう。野党第一党が反対の中で憲法改正を強行した場合、その多数がひっくり返った場合にどうなるのか。革命に近い状況が発生し、法的安定性が損なわれる。何が何でも野党第一党のご機嫌をとれと言っているのではなく、憲法改正は主要政党の合意に基づいて行うのが常道なのである。 我が国では、長らく日本社会党が野党第一党を占めていたので、想像しにくいかもしれない。この政党は「日本は共産主義者に支配されるべきだ」と企む左派と、「共産主義者の侵略から日本を守るためには改憲が必要である」と主張する右派の野合により結党された。 徐々に左派の勢力が強くなり、「与党になって責任をとりたくないので衆議院の五〇%の議席はいらないが、憲法改正阻止を訴えて当選したいから衆参どちらでも良いので三四%の議席は欲しい」とする護憲政党と化した(その過程で、右派は離党し、民社党に流れた)。これでは「自主憲法、自主防衛」を党是とした自民党との間で、二大政党の合意など成立するはずがない。 そして現在の野党第一党党首の岡田克也氏の体質は、往時の日本社会党そのものである。政界の常識に照らせば、二大政党の合意など夢物語である。ところが、岡田氏本人が五十三条改正を言い出してくれたのである。これに乗らない理由があろうか。 憲法は決して変えられないものではなく、日本国民の手によって変えたという実績を作ることが重要であるとの主張がある。また、九条のような対立的な論点ではなく、合意が形成しやすい条文から改正すべきだとの意見もある。 五十三条改正は、野党の権限を強化する改憲である。えてして憲法改正と言うと、政府与党の権力を強化するためであるとの扇動がなされるが、ならば野党少数派の意見を無視しない運用をするための改正ならば良いのではないか。少なくとも多数派の横暴との批判はできない。 七条と五十三条の改正を今次参議院議員選挙で議論すべきだと表明しているのは、日本のこころを大切にする党である(二月十八日中野正志幹事長記者会見)。 論壇にでも、七条に誤植がある事実を取り上げる向きがある。『正論』平成二十八年四月号で「参院選まで残された時間は少ない。憲法改正派の多くが一致して納得できる戦略が早期に打ちだされ、改正機運がさらに高まるよう願っている」との趣旨で、「緊急大アンケート」が行われた。 最も明確に「七条改正」を打ち出したのは、江崎道朗氏である。西修氏、八木秀次氏も言及している。改憲派は江崎氏の戦略の下で一致団結、日本のこころを政界への突破口とし、国民的合意をいち早く形成すべきだろうと思考する。 五十三条と合わせれば、二点突破になるわけだが、一点突破は一か八かの危険な策であるし、三点ではわかりにくい。七条と五十三条ならば絶対に改悪にならない。よって重要な条文と妥協的な条文の両方を出した場合に懸念される、いわゆる「食い逃げ」の心配もない。第三案 緊急事態条項 第三案 緊急事態条項 自民党は「緊急事態条項」の改正から憲法改正をしたいとの報道がなされている。東日本大震災時に統一地方選が予定されていたが、あの時は東北地方での選挙は法律に従い延期された。しかし、国会議員の任期は憲法で規定されているので、もし大災害が起こっても延期できない。だから憲法改正で緊急事態条項を設け、改善しようとのことである。しかし、それこそ大山鳴動してネズミ一匹の類にならないか。 ついでに言うと、国会議員の任期延長は帝国憲法下で一度だけある。悪名高い「翼賛選挙」である。昭和十二年総選挙で当選した代議士の任期は「非常時」を理由に一年延長され、昭和十七年に「翼賛選挙」が行われた。誰がどう考えても、朝日新聞の見出しが目に浮かぶようではないか。 別に緊急時における国会議員の任期延長が必要ないとは言わないが、下手な打ちだし方をすれば攻撃材料を与えるだけだとの認識は持つべきだろう。 そもそも、「緊急事態」とは何なのか。 二年前に書いた小書『間違いだらけの憲法改正論議』(現在は版権終了による絶版。古本で買い求めるか、図書館で読まれたい)から抜粋引用する。自民党など5つの政党が緊急事態条項の新設に言及した衆院憲法審査会=2015年5月7日改憲派が想定する「緊急事態」とは何なのでしょうか。自民党改憲案では「外部からの武力攻撃、内乱などによる社会秩序の混乱、地震などによる大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」となっています。すでにツッコミどころが四点あります。  第一に、「外部からの武力攻撃」など真の有事ではありません。たしかに平和が破られているから平時ではありませんが、ほかの国と交戦になったときのことは、別に憲法で定める話ではなく、法律で対応可能な話です。問題は「終戦のご聖断」のような、何も決められないときに、誰がどうするのか、です。憲法で想定しなければならない真の有事とは、あの敗戦直前のような状態に陥ったときのことです。  第二に、「内乱等による社会秩序の混乱」は、確かに有事にあたります。二.二六事件では、総理大臣が行方不明になり、閣議ひとつ開けず、政府や軍の高官が多数殺され、誰も何も決められない状態です。やはり、このようなとき誰がどうするのでしょうか。  第三に「地震などによる大規模な自然災害」です。これはもう、皆さんの記憶に新しいでしょう。東日本大震災の時の総理大臣が誰だったか、彼が何をして、何をしなかったかを思い出して下さい。阿鼻叫喚の地獄絵図でした。菅直人氏が総理大臣だったらあきらめるしかない、というのは真面目な憲法論ではありません。真の憲法論とは、この地獄絵図に、総理大臣が菅直人氏だったらどうするのかを考えることです。  第四に「その他の法律で定める緊急事態」とは、なんのことでしょうか。あらかじめ法律で定められた緊急事態に対処できるのは当たり前です。真の有事とは、想定もできないような事態のことです。それこそ東日本大震災では「想定外」が連発されましたが、「想定外」の事態に対処するからこその危機管理です。危機管理の基本は、「何が起きるかわからないから万全を期す。想定もしていないようなことが起きるときのことこそ普段から考えておく」です。その意味で、自民党改憲案などは不真面目きわまりないと言えるでしょう。  自民党改憲案を支持する人に問いたい。あなたが支持する憲法案で、菅直人氏が総理大臣でも大丈夫なのですか。いまの日本国憲法を守りたい護憲派の人にも問いたい。あなたは、いざというときに、菅直人氏が総理大臣でもいいのですか。日本国憲法は、敗戦のような大混乱や二.二六事件のような無秩序状態や、大震災のときに菅直人氏が総理大臣であるような状態から守ってくれるのですか。 現状では、ここに書いたことを何一つ変更する必要を認めない。 真の緊急事態とは、内閣機能が麻痺した状態の事である。自民党改憲案の緊急事態条項を見よ。 第九十八条(緊急事態の宣言)第一項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。 第二項 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。 第三項 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。 第四項 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。 第九十九条(緊急事態の宣言の効果)第一項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。 第二項 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。 第三項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。 第四項 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。 緊急事態に対処する主体は内閣総理大臣である。関東大震災のような首相不在、二.二六事件や終戦の御聖断のような内閣機能不全のとき、自民党案は無力ではないのか。 また、「内閣独裁をうむのではないか」との懸念もある。護憲派の粗雑な議論に与する必要は認めないが、帝国憲法の条文と運用は検証する必要があるだろう。 ただ、改憲論をリードしてきた百地章氏の論考が発表された。「現行憲法では危機を乗り切れない 反対派の詭弁に惑わされず緊急事態条項を」(『産経新聞』平成二十八年二月十一日)。ここでは、関東大震災の例が挙げられ、「参議院の緊急集会すら召集できないと…。 この点での論評は、夏に向けて安倍自民党がどのような案を出してくるのかを待ちたい。第四案 前文と九条 第四案 前文と九条 これには絶対に反対である。 思い出していただきたい。第二次安倍内閣は、「まず経済」を掲げ、十五年も歴代政権が手を付けることができなかった日本銀行人事で勝利し、すべての選挙に勝利。さらに戦後レジームの象徴とも言うべき内閣法制局人事にも介入できた。その後、財務省との権力闘争に敗北し、自らの命綱であるアベノミクスを殺しかねない消費増税八%に追い込まれた。いまだに、その悪影響に苦しめられている。相手が弱すぎるから「一強」だが、財務省と公明党が手を組んだ場合、安倍首相にはなすすべがない。だから、増税再延期に向けて、菅官房長官が公明党に日参せんばかりの頭の下げ方をしているのは周知の通りである。 この歴史を振り返ると、平成二十五年三月の日銀人事から七月の参議院選挙勝利までが、間違いなく安倍内閣の絶頂期だろう。この権力は、安倍首相が自力で勝ち取ったものだった。 その時、安倍首相は「九十六条の厳しすぎる改正手続きの改正」を訴えた。返り咲いての代数が九十六代であるので、相当の意気込みであった。ところが前述の通り、産経新聞とフジテレビ以外のすべてのメディアがバッシングをはじめ、不戦敗となった。 今の、岡田克也氏による敵失だけで政権を維持しているに等しい安倍内閣に、九十六条改正より難しいことができるのか。安倍晋三首相が施政方針演説を行った衆院本会議場。首相が憲法改正など「戦後以来の大改革」を訴えると、与党席から大きな拍手がわいた=2015年3月12日 もちろん、日本国憲法前文がいかにおぞましいかは、小書『帝国憲法の真実』(扶桑社、平成二十六年)で一章をかけて書いた。文法の誤りなどを直せとの意見もあるが、小修正よりも全面削除がふさわしかろう。あれを要約すれば、「私たち日本人は悪いことをしました。二度と逆らいませんから、殴らないでください」である。「占領軍への詫び証文」とも言われるのも当然だ。内容があまりにもひどすぎて、「てにをは」を直すレベルではない。全面削除が然るべきだ。現時点で争点化するべきとは思わないが、自主憲法を謳う前文は天皇のお言葉でなければならない。では、どのような前文がふさわしいか。これは、長くなるので『帝国憲法の真実』をご参照されたい。一言で言うなら、帝国憲法の前文にあたる。 しかし、「前文の字句を修正しよう」と言っても、どこをどう修正するのか、改憲派の合意すら、今からでは不可能だろう。やるなら、全面削除だが、代案も難しい。現時点で「天皇のお言葉にしよう」などと訴えることが通るとは思えない。 憲法改正の本丸を九条に位置付ける論者は多い。その是非は、今回は論じない。だが、間違いなく断言できるのは、「九条で一点突破」など、玉砕するだけだと言うことだ。やってみる価値すら、無い。繰り返すが、九十六条ですら絶頂期の安倍内閣が不戦敗なのである。また、去年の安保法案がどうだったか。特に大した内容の法案とも思えなかったが、あの騒ぎである。 では、自民党の九条改正案が、玉砕してでも価値があるほどの法案か。一つだけ挙げる。自民党憲法案第9条の2(国防軍)1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。 緊急事態条項のところでも説明したが、総理大臣不在、内閣機能不全の場合はどうなるのか。総理大臣に関しては、内閣法で継承順位が五位まで決まっているので、誰か一人くらいは生き残るだろうとの楽観論を唱えられるかもしれない。 では、現代戦では極めて普通にありえる、「閣議中の首相官邸にミサイルが撃ち込まれて閣僚全員が死亡」などという事態になったらどうするのか。 帝国憲法下では「宮中序列」があり、総理大臣・枢密院議長を筆頭に、元老から衆議院議員全員に至るまで順位が決まっていた。ここで、いきなり「天皇の統帥権」などと、絶対に受け入れられない議論をしようなどとは思わない。ただ、帝国憲法下では、議会と内閣だけでなく枢密院があり、そして究極の安全保障機関として天皇が存在した。また、いかに緊急事態といえども、政府が「陛下の赤子」である国民の権利を侵害しないような仕組みでもあったのだ。四重の備えであった。実によくできていた。 緊急事態への対処を含めた安全保障の問題と権利尊重のバランスは難しい。 要検討であろう。 少なくとも、今次参議院選挙までに、九条改正の機運が盛り上がるとはとても思えないし、安倍内閣を無意味に危険にさらすだけであろうから、反対である。おわりに~保守陣営よ、戦略を持ておわりに~保守陣営よ、戦略を持て 改憲の機運が盛り上がっているなどと上滑りすべきではない。これすべて、岡田克也氏が与えてくれた僥倖にすぎないのだから、むしろ気を引き締めるべきである。 かつて、コミンテルンは言論界の乗っ取りを手始めに、遂には世界に冠たる大日本帝国を滅ぼした。最近の研究では、当時の日本で勇ましい発言をする者の九割は何の戦略もない思いつきで行動していただけであり、一割のスパイは偽装右翼として潜伏、正論が通りそうになる時だけ全力で潰していたことがわかってきた。 この反省無くして、戦後レジームの脱却などありえない。戦後レジームとは敗戦体制なのだから、昭和二十年八月十五日に始まったのではない。その前に原因があるのだ。我々は負けた反省、特に正しい言論が通らなくなった反省こそ、命懸けで行うべきだ。 党首に返り咲いてからの岡田克也氏の言動を目にするにつけ、安倍内閣を支え、戦後初の改憲を軌道に乗せようとしているとしか思えない。 ここで頭の体操をする。もし私が岡田氏を操る黒幕だったとすれば、何を考えてそれをやるか。毒にこそなれ、薬にはならない改憲案を安倍内閣に発議させ、大騒ぎをしてレッテル張りをした上で通す。そして、まともな改憲案を二度と出させないようにさせる。 かくして、日本が敗戦国のままの体制は、改憲前よりも強固になる。 何の証拠もない頭の体操だが、このような事態が絶対に起こりえないと言えるだろうか。黒幕が居る、居ないにかかわらず。 私が七条と五十三条の改正を参議院選挙で打ちだすよう求めるのは、そのような悪意をも想定しての事なのだ。

  • Thumbnail

    テーマ

    日本国憲法が国民を見殺しにする

    2016年は憲法改正が重大な政治テーマとなる。安倍首相は今夏の参院選で改憲を争点の一つとして訴えることを示唆した。いま、なぜ憲法改正なのか。現行憲法を「お守り」のように崇める護憲派の人たちに問いたい。あなたたちは本当に今でも憲法が日本の平和と国民の命を守ってくれると信じていますか?

  • Thumbnail

    記事

    憲法九条枠内で自衛隊を活かせば日本は世界安定化の道示せる

     戦後左翼思想の支柱である憲法九条は、国際紛争を解決する手段としての戦力は保持しないと定める。平和国家の礎を担ってきた一方で、「在日米軍」という“安全装置”なくして成立しない、との矛盾もはらんでいた。 中国の台頭や世界の警察としての米国の威信低下など国際情勢の変化は、従来の日本の安全保障のあり方に変化を促している。さて、どうする護憲派?  そこでジャーナリスト・松竹伸幸氏が提唱するのは、憲法九条の枠内での自衛隊活用論という画期的な試案である。 * * * ここ数年、護憲派が軍事戦略を持つべきことを訴え、実践している。2年半ほど前、『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)を上梓したが、専門家にも通用する議論にしなければならないと考え、2014年6月には、防衛官僚40年の柳澤協二氏を代表とする「自衛隊を活かす会」の立ち上げに加わった(私は事務局長)。 自衛隊を否定する立場には立たないが、集団的自衛権や「国防軍」路線にも与せず、現行憲法の下で生まれた自衛隊の可能性を探り、活かすことが会の目的である。陸海空の自衛隊元幹部を招いて何回かのシンポジウムを開催し、2015年5月には「提言」を発表した。現在の世界においては、日本防衛と国際貢献の両面で、憲法九条の枠内での自衛隊の活かし方が可能であり、有効でもあることを呼びかけたものである。北朝鮮での核実験を受け、機体下部に調査のための集じんポッドをつけたT4練習機が離陸した=1月6日午後、茨城県の航空自衛隊百里基地(川口良介撮影) この取り組みをめぐって、護憲派にも改憲派にも戸惑いがあるようだ。護憲派の中には、憲法違反の自衛隊を認めるのは許せないという人が存在する。改憲派にとっても、明文で自衛隊を認めないのでは、戦後続いてきたごまかしと変わらないという受け止めがある。 だが、私に言わせれば、この両派とも無責任である。 軍隊をなくすという護憲派の理想を全面否定するつもりはないが、実現するとしても遠い将来であって、それまでの間、何らかの軍事戦略を持っていないと、厳しい国際情勢に立ち向かっていけない。というより、日本周辺の平和を実現できる外交・軍事戦略を持ち、それを実践する努力をしない限り、自衛隊を縮小しようという世論だって生まれないだろう。 一方、改憲派は何十年も改憲を求めつづけており、今後もそうするのだろうが、改憲しないと軍事戦略が立てられないとなると、それまでの間は信頼するに足る戦略が存在しない状態が続くことになる。 唯一実現可能性があるのは自民党の改憲案だが、安倍首相が「国防軍」をめざすのは、「(自衛隊の名称のままでは)『自分だけを守る軍隊』と言われる場合がある。誇りを守るために変更が必要だ」(毎日新聞2013年2月16日付)という自身の発言が示すように、自国を守るためではない。国防軍の「国」とは、我が日本のことではないのだ。 冷戦時代なら、改憲派と護憲派が、お互いに理想を掲げて対峙し、日本には軍事戦略がないという構図でも良かったかも知れない。実際に軍事戦略を持つのはアメリカであって、日本はただそれに従う関係だったからだ。 だが、今はそれでは許されない。アメリカは、冷戦期はソ連の崩壊を戦略目標とし、軍事面ではそれに適合する抑止戦略(壊滅予告戦略)をとってきたが、現在、経済面で中国とは共存共栄の関係になり、新しい軍事戦略が求められるのに、それを見いだせないでいる。国際秩序構築の面でも、ISの広がりが示すように、従来型の軍事戦略が泥沼化しつつある。日本は現代的な専守防衛を実践せよ 日本がとってきた「専守防衛」戦略は、実態的には建前に過ぎなかった。アメリカのソ連壊滅戦略のうち、日本は自国周辺だけを担当するので、専守防衛のように装えたというだけのものなのだ。 しかし、新しい軍事戦略が求められている現在、専守防衛にはふさわしい位置づけが与えられるのではないか。日本は、侵略された場合は自衛権を発動するが(1倍返し程度の反撃だ)、他国を壊滅するような10倍返し戦略はとらない。他国にも同様の戦略を採用するよう働きかけていく。これが現代的な専守防衛戦略である。 国際秩序構築の面でも、軍事力の緊急避難的な使用は否定しないが、臆病だと批判されつつも日本がやってきた資金面の援助とか、対立する民族、宗教の仲介などが最も求められていることは、中東の現状を見れば明らかだ。 もちろん、古い軍事戦略に縛られたアメリカや中国に囲まれている中で、この転換がスムーズに進むはずはないし、あれこれの諍いも生まれるだろう。 だから、自衛隊を否定することはあり得ない。しかし、日本の独立と主権を守り、世界を安定化させる道は、ここにあると考える。現実に即した軍事戦略を持つ護憲派が広がってほしい。そうなれば、改憲派が改憲の理想だけを追い求め(お花畑のように)、まともな軍事戦略を打ち出せないもとで、護憲派への信頼が増していくに違いない。松竹伸幸 1955年長崎県生まれ。一橋大学卒。ジャーナリスト・編集者。かつて日本共産党政策委員会で安全保障と外交を担当する安保外交部長を務めるも、自衛隊に関する見解の相違から2006年に退職。現在は、「自衛隊を活かす会」事務局長。近著に『慰安婦問題をこれで終わらせる。』など 関連記事■ 護憲派が守ろうとしているのは憲法ではなく古い解釈改憲だ■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ 人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績■ 日米合同軍事演習を終え海兵隊員と陸自隊員が笑顔で肩を組む

  • Thumbnail

    記事

    憲法九条は日本の平和のための必要十分条件ではないという話

    」になるとは限りません。 さて次の命題を考えてみましょう。【命題】「日本は平和である。」 ならば、「憲法九条は守られる。」 戦後七十年間「日本は平和である。」状態が続いたわけですから、当然その間戦争放棄を謳った「憲法九条は守られ」てきたわけです。 この命題は「真」です。 ここから「真」を導き出せるのは、この命題の【対偶】です。【命題の対偶】「憲法九条は守られない。」 ならば、「日本は平和ではない。」 これは自明ですね。 さてこの命題の【逆】は、成り立つとは限らないことは重要です。【命題の逆】「憲法九条は守られる。」ならば、「日本は平和である。」  どんなに日本が憲法九条を守って、すなわち他国に日本から戦争を仕掛けることを放棄しても、その結果「日本は平和である。」状態が続くことが保証されるとは限らないのです。 早い話、他国から日本に戦争を仕掛けられれば、それまでです。 さておさらいです、二つの命題p、qがあって、pならばq(記号で表わせば,p→q)が成り立つとき,「pはqであるための十分条件」, 「qはpであるための必要条件」といいます. p→qが成立してなおかつ、逆q→pも成立するとき、「qはpであるための必要十分条件」といいます。【命題】「日本は平和である。」 ならば、「憲法九条は守られる。」 この命題は逆は必ずしも成り立ちません。 すなわち「憲法九条は守られる。」は「日本は平和である。」ための必要十分条件ではありません。 憲法九条は日本の平和のための必要十分条件ではないのです。 九条を守るだけでは日本の平和は保障されません。 極めて論理的な話です。

  • Thumbnail

    記事

    AKB48・内山奈月×伊藤真弁護士 今、知っておきたい憲法の論点

    昨年7月に発売され、異例のベストセラーになった憲法学の入門書がある。九州大学法学部の南野森教授と、AKB48メンバーで「日本国憲法の暗唱」という変わった特技を持つ内山奈月さんの共著、『憲法主義』だ。今、集団的自衛権の是非などを巡り、憲法に関心が高まっている。そこで今回、憲法に関する講演や執筆活動を数多く行なう弁護士の伊藤真氏を内山さんが訪ね、今知っておきたい日本国憲法の論点について話し合ってもらった。<取材・構成=鈴木初日 写真撮影=まるやゆういち>日本国憲法を趣味で暗唱していたアイドル──内山さん、今日はいつになく緊張しているようですが。内山 はい。すごく緊張しています。伊藤 どうしてですか?内山 実は、私の大学の友達が何人も伊藤塾に通っているんです。みんな真剣に、司法試験合格を目指しています。だから、私の高校の同級生だと「大学でサークルに入っていないのは、伊藤塾のメンバーか、AKB48(の私)」っていう感じなんです。伊藤 それはありがたい。キャッチコピーに使わせてほしいくらいです(笑)。内山 だから、「いつも友達が話している、あの伊藤先生とお話できる」と思って、緊張しています。──今回、文庫化された『憲法主義』で、内山さんは憲法についてはじめて本格的に学んだわけですが、どんな変化がありましたか?内山 『憲法主義』のお仕事をいただく以前は、憲法の暗唱は趣味でやっていただけだったんです。伊藤 趣味で?内山 母の教育方針で、小さいころから『方丈記』や『おくのほそ道』のような名文を暗唱する習慣があったんです。日本国憲法は、高校の公民の授業がきっかけでした。でも当時は内容に興味があったわけではなくて。伊藤 南野先生の講義を受けて、条文の背後にある人々の思い、憲法ができてきた歴史を知ることで、より思いを込めて読めるようになったんじゃないですか?内山 はい。憲法って、国のあり方を決めている、日本の政治の中心にあるものだと思うんです。一言一句が私たちの「国のかたち」を決めているものだなと思ったら、すごく身近なものに感じられて、学んでいて楽しくなってきたたんです。大きな存在でありながら、一言一句考えて作られている繊細な面もあって。おもしろくて素敵だなって。伊藤 憲法が面白いと言う人はなかなかいないですよ。素敵だ、と言う人はもっといないでしょう。その感性が素晴らしい。好きな条文はありますか?内山 平等権の14条、あとは25条の生存権の条文ですね。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。伊藤 実は25条って、マッカーサー草案にはなかったんだよね。内山 そうなんですか?伊藤 日本人の意思で、国会で無理やり押し込んだんです。すごいことだよね。恩恵や助け合いとか絆に頼るのではなく、すべての国民が健康で文化的な生活を送る権利を持っている、と言っているわけですから。内山 伊藤先生は、どの条文が特に大切だと思われますか?伊藤 私は、13条だと思っています。「すべて国民は、個人として尊重される」と書いてある。昔は、個人よりも日本という国が大切で、それによって国民が戦争に駆り立てられてしまったこともありました。今は国のために個人があるんじゃなく、個人のために国がある。一人ひとりが大切。私はこれが一番好きだし、大切な条文だと思っています。次代を70年先取りしていた「第13条」次代を70年先取りしていた「第13条」──憲法に対する関心が高まっている昨今ですが、これから問題になる、あるいは社会関心が高まりそうなトピックとして、お二人が注目されているのはどんな点でしょう。伊藤 まずは、今話した13条。この条文は、人はみな違うからこそ大切にされるべきだし、価値があると言っています。最近は企業がダイバーシティ(多様性)の推進を謳うことが多くなっていますし、安倍さんも成長戦略の一つに挙げられていますね。でも、「多様性を尊重する社会のほうが柔軟で変化に対応でき、より強いんだ」ということを憲法は70年前から言っているんです。それが13条の文言「すべて国民は、個人として尊重される」です。ビジネスパーソンのみなさんには特にそれを知ってほしいなと思います。もう一つは、一人1票の実現です。内山 伊藤先生は「1票の格差」の問題で裁判にも関わっていらっしゃるんですよね。伊藤 そうなんです。11月25日に、昨年12月の衆院選の無効を求めた訴訟の最高裁判決が出るんですが(※編集部注:対談収録日は11月9日)。1票の価値が違うというのは、14条の平等権の問題でもあるけれども、それ以上に民主主義の問題でもある。一票の重みに差がある現状では、少ない有権者から議員の多くが選ばれている=少数派が国会議員の多数を選んでいる、ということになる。それは民主主義とはいえない。1票の重みが2倍以内ならいい、といった意見も聞かれますが、たとえば男性は1票、女性は0.6票ですと言ったら「ふざけるな」という話でしょう。 あるいは、年収一千万未満の人は0.6票です、と言ったらどう思いますか?内山 おかしいと思います。伊藤 おかしいですよね。それと同じことだと思うんです。民主主義である以上は、どこに住んでいようと一人1票を実現しなければいけないんです。「新しい人権」と今後の憲法のあり方内山 私が注目しているのは、まだ憲法には盛り込まれていませんが、「新しい人権」についてです。最近、マイナンバー制度が始まって、情報漏洩が問題になったりしていますよね。だから、たとえばプライバシーの権利を憲法に盛り込んだらいいんじゃないかなって。伊藤 なるほど。プライバシー権などの「新しい人権」は、今は13条の幸福追求権の解釈によって認められるとは言われていますが、もっとはっきり、誰が読んでもわかるように書き込むというのは一つの考え方ですね。内山 それと、伊藤先生の『憲法問題』を読ませていただいたのですが、すごく興味深かったです。この中で先生が書いていらっしゃったのが、今の憲法は人間中心の憲法で、他の生物との共存という視点がないって。そういう考え方もあるんだなって、すごくおもしろいと思いました。地球環境がこれだけ問題になっているので、環境についての規定があってもいいなと思います。伊藤 そうですね。ただ、人権というのは、ある人の人権と、別の人の人権がぶつかることがあります。内山 マスコミの表現の自由と、記事を書かれたり写真を撮られたりする人のプライバシー権、などでしょうか。伊藤 そうです。あるいは、環境権という人権は確かに素晴らしいんだけれども、「環境権を侵すような経済活動はダメですよ」と、やはり人権のひとつである経済的自由権を制限する根拠として環境権が使われるということもある。新しい権利が認められるということは、他の人たちの何らかの権利を制約する、その根拠を新たにつくりだすということにもなる。メリット・デメリットを考えながら、みんなで議論してみることが大切です。「知憲」から始まる大人への道「知憲」から始まる大人への道──この夏から秋にかけて、お二人は憲法にかかわるニュースをどんな気持ちでごらんになっていたのでしょう。内山 デモに関するニュースで、はじめて参加するという主婦の方とか、大学生とかがインタビューに答えているのを見ると、憲法に注目が高まっているんだなって。南野先生はいつも「改憲の前に論憲、論憲の前に知憲」とおっしゃるんですけど、改憲にしても護憲にしても、これからいろいろな意見の人たちが議論していく前提として、関心が高まるのは素晴らしいことなんじゃないかなって思います。伊藤 本当ですね。やっぱりまず知らないといけない。私だって、20代前半までは憲法は法律の親分だと思っていましたからね。内山 私も思っていました。伊藤 憲法と法律はまったく役割が違うんですよね。矢印の方向が逆なんです。そこで、「法律は国民を縛る。憲法は国を縛る」という言い方は、30年前に私が言い始めたのがおそらく最初だと思います。そのときには憲法学者や実務家から批判されましたよ。不正確なことを言うなって。内山 そうだったんですね。『憲法主義』では、南野先生が「国民は憲法を守らなくていい」とおっしゃっていました。「守らなくていいのです。憲法を守らなければいけないのは国家権力です。われわれ国民は、法律を守らなければいけないのです」と。伊藤 5、6年前からようやく、メディアでも「憲法と法律は矢印が逆」という言い方を使ってくれるようになりました。単純明快に、本質を押さえるとそうなるんです。内山 それを聞いたときに、憲法を勉強する上での意識が変わりました。「法律は国民を縛る。憲法は国を縛る」というのはすごく印象深いフレーズです。伊藤 最近、それを理解してくださる人が増えてきたのはいいことだと思います。憲法はお固いイメージがあるし、普通の人が憲法を「自分の問題」として考えることは、これまでまずなかった。今回、安保法制の制定の過程で「やっぱり憲法って自分の生活に関わるな」と感じてもらえた。それは素晴らしいことだなと思います。──内山さんは近々AKB48を卒業されます。今後の進路にも憲法を学んだ経験は生かせそうですか?内山 私、将来はマスコミ関連の仕事がしたいと思っているんです。伊藤 うちの塾では現役のアナウンサーも勉強していますよ。テレビ局に呼ばれて、報道に携わるみなさんたちに憲法の講義をすることもあります。情報を発信する人が、ただ原稿を読むだけじゃなくて、きちんと中身を理解して、主体的に考えることはすごく大事です。内山 そうですよね。私はいままで、政治をやっている人は国民の代表だから、基本的に正しいし、政治はプロに任せておけばいいと思っていたんです。でも、憲法を学んでみて、国民が間違った判断をして政権を選んでしまうこともないことはないんだなっていうのを知って。メディアから発信される情報をそのまま受け取るだけではいけない。憲法に限らず、いろいろな問題について、これまでの歴史とか、専門家の意見とか、国民一人ひとりがいろいろなことを知って、自分なりに考えることが大事なんだって思うようになりました。伊藤 それに気づいてくれたことがすごく嬉しいです。報道されることは事実なんだけれども、事実の一部でしかない。その奥に別の事実とか、違うものの見方もあるということに気づく。主体的に生きる、自立した市民として生きていくということ。それが大人になるということだし、憲法が私たちに求めている一番大事なことなんです。そして、主体的に市民が国をつくる。それこそが国民主権です。内山 今日は緊張していたのですが、先生が優しくわかりやすく講義してくださって、今まで学んできたこと以外にも新しい視点に気づくことができました。これからはより興味をもって憲法を学んでいきたいし、ニュースを見ていろいろなことを考えていきたいと思います。伊藤 それはよかった。これからもぜひいろんなことを学んでください。内山 はい、ありがとうございます。いとう・まこと 弁護士、伊藤塾塾長、日弁連憲法問題対策本部副本部長。1958年、東京都生まれ。81年、東京大学法学部在学中に司法試験に合格。82年、大学卒業後、司法修習を経て弁護士登録。95年、「伊藤真の司法試験塾(現 伊藤塾)」を設立。2009年、「一人一票実現国民会議」の発起人となり活動している。日本国憲法の理念を伝える伝道師として、講演・執筆活動を精力的に行なう。著書は多数あり、中でも『伊藤真 試験対策講座』シリーズ(弘文堂)は、法律を勉強する多くの人に広く読まれている。うちやま・なつき アイドル。1995年、神奈川県生まれ。人気アイドルグループAKB48のメンバー。愛称なっきー。2012年5月、AKB48第14期研究生オーディションに合格。13年6月日本武道館における研究生コンサートで日本国憲法を暗唱して話題となる。同年8月に昇格しAKB48Team4に所属。14年4月にAKB48TeamBに異動。慶應義塾大学経済学部に入学。同年6月後の第6回AKB48選抜総選挙で63位に入り初のランクイン。15年6月の第7階総選挙では39位。関連記事■ AKB48・内山奈月が南野森教授に学ぶ憲法講義■ 立憲主義と自民党改憲案―憲法の本質を問う■ 日高義樹 アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた■ 憲法議論の前に知っておきたい「憲法の3つの顔」■ なぜ憲法論議には歴史認識が必要なのか

  • Thumbnail

    記事

    世界秩序が混乱の度を深める中、なぜ日本には危機感がないのか

    いるのと対照的なほど、日本には危機感がない。 大手新聞が昨年11月に実施した自民党の党員意識調査で、憲法改正を「急ぐ必要はない」と答えた者が57%だったという。国際情勢の大局が分かっていないか、世渡りのうまい回答ではないか。 年頭の心配はこの一点だ。たくぼ・ただえ 昭和8年、千葉県生まれ。外交評論家、杏林大学名誉教授。早稲田大学法学部卒。時事通信社でワシントン支局長などを歴任。59年に杏林大学教授、平成8年から現職。専門は国際政治。著書に『戦略家ニクソン』(中公新書)など。第12回正論大賞受賞。

  • Thumbnail

    記事

    ケント・ギルバートが断言 9条こそ憲法違反である

    ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士、タレント) 日本国憲法はおかしいと多くの方が指摘します。日本語がおかしい、短期間に日本を無視して出来た押しつけ憲法だ、寄せ集め憲法、コピペ憲法、コラージュ憲法…と色々と評されます。どれも正しいと思いますが、完成した憲法条文の中に、明らかにおかしい箇所はそう多くありません。確かにおかしいが、世界の憲法に同じような規定があったりする。定め方、手続きに問題はあっても、出来上がった条文自体はそう悪いものではない。日本国憲法の規定を世界各国の憲法と比べても、おおむね遜色はない、ほとんどは妥当な規定が並んでいると私は考えています。 ただし、致命的におかしい点が二つある。まず元首の規定がないこと。どんな組織でも代表者は必要です。国家でも当然です。代表者が明確でなければ、相手にも迷惑が掛かります。当時の事情は知っていますが、天皇が元首だとは憲法に書かなかった。明らかに元首なのに、「象徴」という言葉で誤魔化したわけです。 そして、もうひとつは憲法9条です。何がおかしいかといえば、軍隊を否定している点に尽きます。米国の憲法制定の過程 そもそも憲法学は英国から始まっています。英国に文章化された「憲法典」が無いことはご存じだと思います。「憲法」がないのではありません。憲法の内容は慣習法や判例から自ずと導き出されるので、憲法の文章化にこだわる必要がないのです。 米国は憲法を文章化しました。合衆国という新しい試みについて、連邦政府の権限を明文で規定する必要があったからです。北米大陸にあった十三の植民地が、英国から独立しました。それぞれが英国の不文憲法を受け継ぎ、独立国家のような状態でした。アメリカ合衆国ができたはずなのに、これではちゃんと国の機能が果たせない。各州の決まりはバラバラだし、州の境界線をまたがる貿易に関税を取ったり、連邦政府に税金を払わなかったり。独立戦争の時は結束したけど戦争が終わると、そうはいかない。それで統合機能を強化して連邦政府をもう少し強くしよう、すべての権限は原則として州に帰属するが、一部の権限は、各州から国を束ねる連邦政府に譲ろうということになった。これが最初の合衆国憲法です。よく読んでみると、それだけなんです。 何を中央に譲ったか。外交と国防、それに郵便、州の境界をまたがる貿易のルールなどです。郵便は全国規模でやる必要がある。最初の憲法を見ると郵便は連邦政府の仕事だときっちり書いてあります。十年ごとの国勢調査も国の仕事になりました。州に教育の権限を置く米国 教育などの権限は今でも州にあります。道路も、国道は確かにありますが、国はお金を出すけど整備は州がやっているし、インターステートハイウェイという高速道路も、連邦政府の法律に基づいていますが、実際の建設を行うのは州です。 カーター政権の時、連邦政府に教育省が出来ましたが、教育内容を管理するためではなく、国が出す補助金の管理のためです。国自体が各州の教育について発言する権限は、今でもあまり強くないのです。 米国の学校では朝、必ず星条旗に宣誓しますが、これも州に委ねられています。テキサス親父ことトニー・マラーノ氏は国歌だけでなく、テキサス州歌も斉唱していたそうです。私の育ったユタ州は国歌だけでしたが…。集団的自衛権は憲法以前の話 余談ですが、米国国歌「星条旗」の歌詞は戦場の風景を描いています。一晩戦闘が続いて、朝起きたら星条旗がまだ健在だったという話。感動的ですが、「君が代」とは対照的な、戦争の勇ましい歌です。四番までありますが、三番は最初から最後まで英国の揶揄と批判です。《戦争による破壊と混乱を自慢げに断言した奴等は何処へ家も国もこれ以上我々を見捨てはしない彼等の邪悪な足跡は彼等自らの血であがなわれたのだ》 三番はもう今では歌わないです。私たちも、学校などで国歌斉唱する時は、常に一番だけでした。 合衆国憲法に国歌の規定はありません。習慣的に使われていたこの歌が法的に国歌として正式採用されたのは、かなりあとの1931年3月3日の国会決議可決に基づきます。国旗も州が加わるごとに変わって来ました。私がまだ幼稚園の時に、アラスカ州とハワイ州が増えて国旗が変わったことはよく覚えています。幼稚園でも、必ず国旗が教室に掲げられていました。集団的自衛権は憲法以前の話 私は大学で憲法を勉強しましたが、憲法を学ぶことはとりもなおさずアメリカの歩みを紐解いていくことに他ならない。憲法は国家の基盤ですから当然といえば当然ですが、黒人の問題にしても、結婚のあり方にしても国論を左右する問題は悉く憲法を直撃する。憲法というのはそれだけ重要なものなのです。 話を日本国憲法に戻します。憲法9条のどこが致命的におかしいのか。私は憲法9条こそが憲法違反だと考えているので、理由を説明します。 そもそも国家の自衛権というものは個別的、集団的という区別なく、国際法で認められています。話をわかりやすくするために、まず個人レベルの正当防衛を考えます。 個別的と集団的を分けて考えたがる傾向がありますが、刑法上、両者は全く区別されておらず、一体のものです。刑法36条1項には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は罰しない」とあります。早い話、自分の子供が殺されそうな場面を想像してください。自分が助けなければ子供は殺されてしまう。犯人に立ち向かうのは当然です。その結果、仮に犯人の命を奪っても、過剰防衛でない限りは罰しない。それが正当防衛の趣旨です。この時、自分が守ったのは子供の権利(生命)なので、正当防衛権の中で個別的ではなく集団的な防衛権を行使したことになる。それだけの話です。 次に、国家レベルの話ですが、個別的のみならず集団的自衛権も、国際法で当然に認められています。 国連憲章51条には「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない…」とあります。つまり自衛権は、憲法以前の固有の権利です。憲法に規定があろうがなかろうが、自国の領土や国民を守る自衛権を持たない国はありません。そして先に示したとおり、個別的と集団的という区別に本来大した意味はなく、自衛を目的とした武力行使も、国の当然の権利です。 日本政府も、集団的自衛権を保有している事実を否定したことは過去に一度もありません。憲法上、禁じられていると言ったのは集団的自衛権の「行使」に限っています。権利は持っているが、憲法上、行使は許されないと解釈してきたのです。 しかし、行使が許されない権利というのはとてもおかしな話です。憲法以前の話としてあまねく認められている権利について、その行使を憲法が縛っている。それはとてもいびつであり、無理やりな理屈です。国民を見殺しにする9条の問題点国民を見殺しにする9条の問題点 日本国憲法前文の、次の一文をみて下さい。《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》 皆さんがよく引用する箇所です。さて、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を、果たして誰が信頼できるのでしょうか。軍拡著しいPRC(中華人民共和国)や、核開発を行い、ミサイルを再三日本に向けて発射してきた北朝鮮の「公正と信義に信頼して」、日本人の安全と生存を保持することなど不可能です。正に現行憲法の非現実的な一面の象徴的な一文だと批判される箇所です。 私もこの箇所に注目していますが、従来とは少し違う解釈を示したいと思います。前文の法的な地位については様々な学説がありますが、私は前文の方が各条文よりも上位にあるという学説を支持します。日本政府は、前文には法的拘束力がないという政府見解を持っているようですが、少なくとも憲法の全ての条文を総括し、そのエッセンスを凝縮したものが前文であるということに争いはないでしょう。それならば、前文と各条文に矛盾や齟齬があることは、本来は許されないはずです。 この文章には「平和を愛する諸国民」とか「公正と正義に信頼して」などとありますが、そもそも平和というのは、法律概念でも法律的な用語でもありません。あれこれ修飾が加えられてはいますが、この一文の主語は日本国民です。では述語は何か。当然、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」です。日本国民は自分の安全を確保し生存を保持しようと決意している、国民が国民を守ると決意しているのです。 乱暴な読み方だという人もいるかもしれません。あくまでここに書いてあるのは「武力によらず生存を保持する決意ではないか?」と言いたい人もいるでしょう。 しかし、先ほども述べたように国際法に照らせば、自衛のための武力行使は(個別的・集団的を問わず)憲法以前の話として認められているのです。国に課せられた最低限の責任は、外敵の侵攻から国民の生命、財産を守ることです。その為の有効な手段を憲法が縛った結果、国民が不利益を被るのはおかしな話です。 このような前提で前文を読んだうえで9条の条文を見てください。明らかに矛盾するはずです。《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない》 日本人が外国で誘拐されたとしましょう。まず、前文から行くと、日本国は解決のための手段を用意し、解決を図らなければならない。 ところが、この9条のためにどれだけの日本人の命が見捨てられ見殺しにされたか。海外に駐在したり活動している日本人が現地で襲われ、あるいは拉致され、生命の危機に瀕する事件が頻発しています。にもかかわらずそのたびに何もできない。 逆に日本は、「一人の生命は地球より重い」と、愚にも付かないキレイごとで身代金を払った恥ずべき過去もある。身代金を払う国は、次もまた狙われます。もし国が、国民の生命と安全を真剣に考えるのであれば、人質奪還作戦を敢行すべきです。その足かせとなる9条こそが、憲法違反だと私は言いたいのです。 それに日本国憲法は13条で「すべて国民は、個人として尊重される」と、個人の尊厳を定めています。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」ともあり、幸福追求権と呼ばれています。 25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあって国の責務が定められています。主として福祉政策の充実がうたわれている条文です。 しかし、そもそも国民の生命を守れなかったら、個人の尊重、個人の尊厳などあり得るのでしょうか。個人を尊重するには、まずもって生命と安全を守ることが大前提です。 13条の幸福追求権は、国民の命が守られてはじめて成り立つ話ですし、国民の生命、財産を守ることは、健康で文化的な最低限度の生活を営むための大前提です。25条は生存権と呼ばれますが、9条を文言通りに守るならば、国は生存権の保障どころか、国民の生命を見捨てることを強いられます。だから、北朝鮮拉致被害者を取り戻せないのです。 9条の内容は前文、国際法に矛盾するだけでなく、他の複数の条文とも噛み合わず、日本国民の人権を侵害している。だから私は、9条こそが憲法違反だと言っています。もはや新興宗教!9条信奉者の異常もはや新興宗教!9条信奉者の異常 天皇が国家元首と定められなかった理由や、理不尽極まりない9条が定められた原因、日本国憲法が制定された経緯など、日本人は現実をしっかり認識すべきです。 日本との戦争で、米国は本当に苦戦しました。全体的な戦略には首をかしげざるを得ませんが、日本軍は戦闘では本当に強かったのです。米国が勝つには勝ちましたが、米国の打撃もまた甚大だった。恐怖すら覚えるほど日本は屈強だったのです。 GHQは日本の憲法の原案を短期間で作り上げました。そのさいも日本を二度と米国に刃向かわない国にする意図が、根底にありました。 米国は天皇の処罰を行わず、象徴として残しましたが、元首にはしなかった。天皇の下で日本人がもう一度結束するのは避けたいが、占領統治のためには天皇の権威を利用したい。「象徴天皇」とは、GHQの妥協の産物です。それが日本国憲法の、元首の定めがないという致命的欠陥として残っているわけです。 9条で軍事力を奪ったのも同じ理由です。護憲派のなかにはこれを崇高な規定だと固く信じる人もいます。 例えば、「9条というのはあらゆる事態にも決して武力に頼らずに万事平和的な交渉だけで国際紛争を解決できる、理想的な国家にしようと考えた規定だ」とか、「日本のやり方が世界中に広がっていくよう世界中の憧れの的にしよう」とか、「憲法9条を世界遺産にしよう」というのもありました。妄想もここまで来ると、怪しい新興宗教の教義のようです。 米国人の一人として断言します。現実はそんなことでは決してありません。ただ単に、日本を弱い国にしたいから9条を作ったのです。簡単にいえばペナルティ、制裁です。 もっと言えば、9条とは、強すぎた日本から男性器を去勢した「宮刑」です。それ以外の何でもありません。早く目を覚まして下さい。自衛官って何者ですか? 9条はあまりにも世界の現実を無視した実験的規定でした。新憲法制定直後から米ソ冷戦が深刻さを増し、朝鮮戦争が勃発します。米国も「これはまずい」と気が付いて方針を180度転換します。9条を無視しろと言い出したのです。まだ占領下ですから吉田茂首相(当時)は米国の方針に抵抗できず、警察予備隊ができました。今日の自衛隊の前身です。 今でも9条の文言を気にして、自衛隊は軍隊ではない、自衛のための必要最小限度の実力組織だなどといっていますが実質は軍隊です。装備や訓練は軍隊と寸分変わりません。私は意地悪で言っているのではありません。私に言わせればおかしいのはむしろ、日本は軍隊を持ってはいけないと規定する9条なのです。 先日、安倍晋三総理大臣が、自衛隊を軍隊と発言して大騒ぎになりました。とても不思議な光景でした。「自衛隊が軍隊でない」というなら、憲法に定められた「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(66条)いう規定もおかしいという話になります。 文民とは、軍人でない人のことです。ならば、軍隊が存在しないこの日本国のどこに軍人がいるのでしょうか。自衛隊員はいても軍人は存在しないはずです。自衛隊の発足すら予定していなかった憲法に、なぜ文民規定があるのでしょうか。 日本国憲法は、軍隊の存在を半ば認めているからこういう規定が設けられたと解釈することも可能です。政府見解によると、自衛官は文民ではないそうですが、自衛隊が軍隊ではないのなら、自衛官は軍人ではないはず。そして文民でもないとすれば、自衛官とは一体、何者でしょうか。私だって戦争反対です私だって戦争反対です 平和安全法制のさいも「反対」する方々が国会周辺で騒いでいましたが、これも不思議な光景でした。これから平和安全法制について違憲訴訟が起こされるかもしれません。最高裁がいずれ判断するでしょうが、違憲となる理由が思い浮かびません。国会前で行われた安保法案反対デモ=2015年8月30日、東京都千代田区の国会前(早坂洋祐撮影) 反対派は「9条を守れ」というのですが、憲法違反を主張したければ、自衛隊の存在自体を否定しなければ筋が通りません。現実に、過半数の憲法学者が、自衛隊は違憲だと主張しているのですが、この不都合な真実はなかなか報道されません。 「米国に巻き込まれて戦争になる」などと米国追従を批判する人は、米国に押しつけられた日本国憲法こそが「諸悪の根源」だと主張すべきです。また、米軍の片務的防衛義務に米国世論が疑問を持てば、将来、日米安保条約が破棄される可能性もあります。その場合、日本国を如何に守っていくのか反対派は具体策を示すべきですが、一度も聞いたことがありません。無責任だからです。 「政府がきちんと説明しなかった」、「平和安全法制は説明不足だ」という声もありました。しかし自分で勉強すればいいだけです。雛鳥がピヨピヨと鳴けば親鳥からエサを与えられるように、情報は為政者が与えるべきものだと信じている人は、受動的な思考を反省すべきです。 七十年近くも見て見ぬ振りで先送りしてきた問題ですから、いきなり、全部を理解しろとは言いません。しかし、「戦争法案だ」などという認識は不勉強も甚だしい。デマを喧伝する人間か、または、自分は不勉強だと公言しているようなものです。 私はフェイスブックに「戦争反対に賛成なので、安保法案に賛成です」と書きました。今の時代、時代錯誤な帝国主義国家の指導者を除けば、誰でも戦争反対です。 そもそも、いくら「泥棒反対」と声高に叫んでみても、カギの無い家には泥棒が簡単に入ります。同様に、「戦争反対」と叫んでみても、戦争に巻き込まれるリスクは全く減りません。だから戦争を仕掛けられないように、自衛隊や在日米軍、平和安全法制を通じて、仮想敵を牽制する抑止力が重要なのです。 今回、国会周辺で戦争法案反対と叫んだり、「戦争になる!」と騒ぐ人たち、それを正しいかのように持ち上げていたメディアを見るたびに、うんざりでした。 個別的自衛権だけで国を守る気ならば、スイスを見習うことになります。「永世中立」を守るため、スイスはどこの国にも頼れないので、凄まじく武装しています。当然、徴兵制があります。スイスの徹底した国民皆兵にはナチスも手を出せなかった。手を出すと大変だとわかっていたからです。武装によって隙をなくすこと。ちゃんとした軍隊を持って隙がなければ、相手は攻めて来ないのです。平和を守る、戦争に反対するとは隙のない備えを築くことです。だったら憲法改正しましょうよ 私は今から二十五年前、PHP研究所から「ボクが見た日本国憲法」という本を出版し、そのなかで9条について「9条はそのままでも構わない」と書きました。しかし今は、全然そうは思いません。PRC(中国)の軍拡と帝国主義的野望、北朝鮮の核開発、米国の変容、沖縄の現状など、世の中は戦後七十年で大きく変わっています。 日本国憲法の草案は、神さまではなく、コンピューターもインターネットも無い時代の米国人が、日本から米国を守る目的で書きました。今は無法者のPRCと北朝鮮が最大の恩恵を受けています。国際情勢にあわせて憲法を変えるのは当然です。平和安全法制を成立させたから、民意が頑なになり、憲法改正は難しいという人がいますが、私は逆だと思います。日本の国民はいろんな問題や矛盾に気づき始めました。 今回、国会前で騒いだ人たちから「憲法を改正した上で法案を通すならわかるけれど、憲法解釈を変えるやり方は納得できない」という声が聞かれました。法案反対に利用できるなら何でもありなのかも知れませんが、だったら、これから憲法改正しましょうよ、といいたいです。 本来、今すぐにでも改正すべき憲法ですが、憲法改正には一定の時間がかかる。だから緊急性の高い平和安全法制の成立が先になっただけの話です。反対派は憲法改正後だったら、賛成派に回るのでしょうか。 米国が守ってくれる。そんな依存症が日本国内に蔓延しています。しかし、日本人はそうした病を早く払拭すべきだと思います。自分の国は自分で守るという当たり前のことが、憲法改正を通じて現実になることを願っています。ケント・ギルバート氏 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。83年、TBS系列「世界まるごとHOWマッチ」に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は「不死鳥の国・ニッポン」(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」では辛口の意見を発信中。

  • Thumbnail

    記事

    最高裁は安保法制のオトシマエをつけるか?

    して違憲判決を出すか 我が国の最高裁は基本的には「付随的違憲審査制」を採用しています。法令そのものが憲法に適合しているか否かを抽象的には判断せず、具体的に国民の人権が侵害されたときに、その救済に必要な範囲でしか、憲法違反の判断をしないのです。安保法制との絡みで言えば「安保法制に基づき、政府が海外で集団的自衛権を行使した際に戦死した(生きる権利を侵害された)自衛隊員の家族が、国を相手に国家賠償訴訟を提起した場合」などが典型事例です。しかし、この問題に落とし前をつけるのに、その様な破局的事態を待つべきではないことは明らかでしょう。戦死したからと言って、遺族が訴訟を起こすとも限りません。むしろ、過去の事例からしても、政府は全力を挙げて遺族が訴訟を起こさないように手を打つでしょう。 また、この間有名になった砂川事件最高裁判決(判決要旨は最高裁のサイトでどうぞ)において、最高裁判所は日米安保条約の憲法適合性について、「統治行為論」を採用して、判断を避けました。今後も、最高裁は、外交・防衛上の重要事項については、審査権が及ぶ範囲でも、判断しない可能性が高いでしょう。上記の自衛隊員の戦死の事例ですら、憲法判断がされない可能性が十分あるのです。 最高裁判所が、判決主文で請求を棄却しながら、理由中の判断で安保法制の憲法適合性について判断する可能性は、微粒子レベルであるかもしれませんが、仮にそのような判断をしても、今の政府がそれを無視する可能性は、この間の国会の議員定数不均衡の問題を見ても、極めて高いでしょう。 安保法制が国会で審議されている間、自民党の高村正彦・副総裁や、谷垣禎一・党幹事長など、法曹資格を持つ与党議員が「違憲審査は最高裁が行う」旨を、しれっと発言してきましたが、実は、彼らは最高裁がそんなことはしない可能性が極めて高いことを承知で、国民に対して半ば嘘をついてきたのです。2 果たして憲法の番人は誰なのか いずれにせよ、最高裁が簡単に違憲判断をできないのなら、その部分について、果たして憲法の番人は誰なのだろうか、という疑問が、当然ながら生じます。 これに対する端的な答えは「憲法制定権力であり、主権者である国民自身である」としか言いようがないように思います。つまり、この論考を読んでいるあなたなのです。 国民は、安保法制の憲法適合性(違反性)の問題について、最高裁に下駄を預けることはできないし、安保法制が一旦できてしまったことのオトシマエは、私たち国民自身が国政選挙を通じてつけるしかないのです。安保法制の違憲性を問う訴訟について、その意義を認めるにしても、法廷がこの問題の最終的な決戦場であると考えるのは、的を得ていない考え方だと思います。3 閣議決定を元に戻すと安保法制は止まらざるを得ない では、仮に選挙の結果、安保法制を憲法違反と考える政府(それは昨年6月末までの政府の姿勢です)ができた場合、どうなるのでしょうか。 もちろん、安保法制を廃棄するために、最終的には国会で法を廃止する必要がありますし、そうすべきでしょう。 しかし、政府が法案を廃止するためにはその法案を国会で審議する必要があり、その際、野党になる勢力は激しく抵抗するでしょう。つまり、そんなにすぐにはできないのです。そのような間でも、選挙により新しくできた政府が、安倍政権の集団的自衛権行使に関する閣議決定(2014年7月1日の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」)を憲法違反とし、それより前の政府解釈に戻す閣議決定をした場合、安保法制は政府(行政権)自身の憲法解釈として、たちまち違憲立法となり、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。 」とする日本国憲法98条1項がある以上、政府は法の執行を停止せざるを得ないように思えます。 「一政権の判断で憲法解釈を覆した」結果の安保法制の法的な不安定性は、最後はこのような形で現れてしまうのです。(『Yahoo!ニュース個人』より2015年9月21日分より転載)わたなべ・てるひと 弁護士。1978年生まれ。日本労働弁護団常任幹事、自由法曹団常任幹事、京都脱原発弁護団事務局長。労働者側の労働事件・労災・過労死事件、行政相手の行政事件を手がけています。残業代計算用エクセル「給与第一」開発者。主な著書に『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? ナベテル弁護士が教える残業代のカラクリ』(旬報社)。

  • Thumbnail

    記事

    「戦争反対」と叫ぶなら改憲を訴えるべきだ

    うとしないため、いまだ巷には的外れな意見が散見されます。 ここで確認しておかねばならないのは、日本国憲法には国防に関する条文は戦争の放棄を定めた第9条以外はなく、その憲法のどこにも「自衛権」などという文言は記されておらず、昨年から急に注目を浴び始めた「集団的自衛権」や、我が国の国是とされる「専守防衛」などの言葉は憲法解釈によって生み出されたものだということです。つまり、「専守防衛」や「集団的自衛権の限定行使」という我が国防衛政策の基本方針は政府の憲法解釈に基づいて決められているのです。憲法記念日に横浜市で開かれた憲法集会に参加する作家の大江健三郎さん(前列中央)ら=5月3日、横浜市西区 法令の解釈というものは時代の移り変わりとともに変わるものですから、現在のところ日本政府は、先制攻撃を禁止し集団的自衛権は一部しか行使してはならないとの立場をとっていますが、将来、現行の日本国憲法のまま解釈を変更して先制攻撃や集団的自衛権の全面行使ができるようになる可能性はゼロではありません。 本来、「戦争反対」と声高に叫ぶのであれば、そのような事態を防ぐため解釈の余地を残さない形に改憲するしかないのですが、護憲派を名乗る自称平和主義者の大半は「何が何でも憲法を一字一句変えてはならない」と現実から目をそらし続けてきました。 このため今回に限らず、時の政府は自衛隊の任務が増えるたびに、なんとかそれを正当化しょうと、苦しい解釈改憲を重ねながら、その場しのぎを繰り返してきましたが、今やそれも限界に達しようとしています。 現在、日本への侵略の意図を持った隣国が、その意図を隠そうともせずに我が国領海への侵犯を繰り返すようになり、他にも同朋を拉致して返さない国や領土を不法に占領したままの国に囲まれ、しかもその内の3か国が核兵器を保有しているという、我が国の非常に厳しい現実を鑑みれば、最早、部分的な、その場しのぎの解釈改憲では対応できないことは明白です。  まずは、この日本が置かれている状況を正しく認識する必要があります。そして今の憲法や、その解釈が現代日本の現実に照らし合わせて正しいのか、今一度、我々はそこから考える必要があるのではないでしょうか 国際法の観点からみれば、人が生まれながらに人権を持つように日本国は国家の成立とともに自衛権を備え持っており、国連をはじめとする国際社会もそれを認めています。現在の政府見解においても、「憲法9条は自衛権を否定しない」としていますから、本来であれば憲法の内容いかんに関わらず、誰はばかることなく国防に関して様々な政策等を実行できるはずなのですが、一方で日本政府は自衛権について「必要最小限」のみ認められるとして、憲法が自衛権を制限しているという立場をとっています。 具体的には第9条における「武力」や「戦力」には自衛権を含まないとする解釈により自衛隊を合憲とし、それは自衛権ゆえに必要最小限の武力行使しかできないという理屈で、実質的に自衛権を制限しているのです。つまり日本政府は、憲法は自衛権を否定こそしないが必要最小限に制限しているという中途半端な解釈を行い続けているのです。 また、政府は憲法9条が自衛権を否定しえない理由として、第9条が第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を否定するものではないとしていますが、そうすると第13条で、その「国民の権利」を最大限補償しておきながら、片や第9条で、その「国民の権利」を守るための自衛権を必要最小限に制限するという、おかしな話になってしまいます。 このように、現行憲法には相矛盾する条文が混在しているため、その辻褄合わせに無理な憲法解釈が必要となるのです。そもそも第9条が、すべての国家が保有する、人間に例えれば人権に相当するほど重要な国家の自衛権を真っ向から否定するかのような内容であることが問題の根源なのです。もっと言えば「自衛権」=「国民が自由に幸福かつ平和的に生きる権利」なのですから、その自衛権を必要最小限に制限することは、これら国民の権利を制限することに他ならず、我々日本国民は、具体的な事象が生じていないので気が付いていないだけで「自由に幸福かつ平和的に生きる権利」を制限されているのです。 そして、我が国が武力行使可能な「必要最小限」の範囲も時の政府の解釈次第で拡大縮小する可能性があります。このように国防政策の基本的な重要事項が憲法解釈により大きく変わるという問題は、日本国憲法が国防に関する条文をたった一つしか持たず、しかもそれが国の守りを否定していることが原因であり、そして、それは非常に危険なことなのです。 現行憲法のもと自衛隊は合憲であるという政府の憲法解釈により存在していますが、逆に政府が違憲だという解釈に変更すれば憲法を改正(国民に直接信を問うことを)しなくとも自衛隊を解体することが可能であり、もしも自衛隊廃止を党の綱領に掲げる政党が政権を掌握し自衛隊法などを改正又は廃止すれば、日本は一夜にして丸裸になってしまいかねません。確かに現実味に欠ける話ですが、そのような政党が合法的に存在し、一定数の議席を得ていることを鑑みれば可能性はゼロとは言えません。 また、憲法は「国家権力を縛るためのもの」というのであれば、本来は憲法に国民の生命、自由及び幸福追求に対する権利を保護するため、国家に対して国防の義務を課す条文がなければならないはずです。いずれにしても憲法に国家の重要課題である国防に関する明確な定めがないというのは法律として致命的な欠陥であるといっても過言ではないでしょう。 (つづく)

  • Thumbnail

    テーマ

    憲法9条にノーベル平和賞」の胡散臭さ

    。戦後70年の今年は、自然科学三賞や文学賞の他に平和賞の選考にも注目が集まっている。とりわけ日本では憲法9条の受賞に期待が集まっているが、この妙な期待にはいかんともしがたい政治的な臭いがぷんぷんする。そう、護憲派と呼ばれる人々の思惑です。

  • Thumbnail

    記事

    9条に「ノーベル平和賞」はない 集団的自衛権は「正当防衛」だ

    針に対して、護憲派のマスコミは反発している。『毎日新聞』は、16日付の社説で「集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ」としている。また、『朝日新聞』は5月3日付社説で日本近海での米艦防護を例に挙げ、「個別的自衛権や警察権で対応できる」「ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない」と記した。 だが、「個別的」「集団的」の違いを言挙げして自衛権の問題を論じているのはこの日本だけである。前記の社説をもし英訳して海外に配信したら、世界中の笑い物になるだろう。なぜか。根本的に、法律に関する国際常識を知らないからだ。 その常識とは何か。欧米において自衛権が、刑法にある「正当防衛」との類推(アナロジー)で語られているということである。実際に以下、日本の刑法で正当防衛を定めた条文を見てみよう(太字は筆者)。第36条1、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。2、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。 正当防衛の条文であるにもかかわらず、「他人の権利を防衛する」という箇所があるのに驚かれた読者がいるかもしれない。しかし、これが社会の常識というものである。自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」に遭っていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。そうでない人は非常識な人と見なされ、世間から疎まれるだけである。少なくとも建前としてはそうだ。もちろん実際の場合には、「他人」と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうか、などで助けられる場合も、そうでない場合もあるが。 国際社会の論理も、何ら変わらない。「自己」や「他人」を「自国」「他国」と言い換えれば、つまるところ国際社会では「急迫不正の侵害に対して、自国又は他国の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」。そのまま自衛権の解釈として成立することがわかるだろう。英語でいえば、自衛権も正当防衛も同じ言葉(self-defense)である。 繰り返すが、正当防衛をめぐる条文は、万国問わず「自己または他人」への適用が原則である。したがって自衛権の定義において「個別的か集団的か」という問いが国際的に通じないことはもはや明らかであろう。 冒頭に引用した社説のような「個別的自衛権や警察権で対応できる」という意見は、他国が攻撃されても、自国が攻撃されたと見なして個別的自衛権で対応できるので、集団的自衛権は不要という意味だ。一見もっともらしいが、国際社会では通じない。というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行なう行為を、「自己」の権利侵害と見なす、と定義するからだ。 つまり、他国への攻撃を自国への攻撃と見なして行なうことを集団的自衛権と定義するのであるから、冒頭の社説を英訳すれば、集団的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。そのあとで、集団的自衛権を認めないと明記すれば「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、警官がいなければ見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じである。 いくら自分勝手な人間でも、世間の手前、上のような発言は表立っては控えるのが節度であろう。よく恥ずかしげもなく、とは思うが、しかし戦後の日本政府は、無言のうちにこの社説と同じ態度を海外に示しつづけていたと思うと、憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。 ついでにいえば、憲法前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛権のみを主張するのは、この理念からも反している。 集団的自衛権の反対論者がいう「巻き込まれ論」は、国際的に日本だけが「見て見ぬふり」を公言していることになるのをわかっていない。地球の裏側まで行くのか、という議論も極論である。正当防衛論から見れば、「緊迫性」「必要性」「相当性」が求められているので、地球の裏側というのは、そうした要件に該当するものとはなりにくいから、極論といえるわけだ。 内閣法制局の掌握事項ではない このように正当防衛とのアナロジーで見ると、自衛権に対する批判は利己的なものであり、論理的にも、倫理的にも破綻していることがわかる。 もちろん正当防衛と同じように、国際法のなかでは自衛権の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。正当防衛の条文が示している「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむをえないといえるために、「必要性」と同時に、限度内のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃すなわち「過剰防衛」になってはいけない。さらに、他国の「要請」があることが条件となる。民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも最低必要限度にしなければならない。 国内法や国際法はそれ自体で漫然と存在しているわけではない。互いに厳密な整合性と連関をもっている。個人の正当防衛が認められるにもかかわらず、国家の自衛権が認められないとすれば、日本の刑法36条が憲法違反ということになってしまう。国内法における個人の正当防衛という延長線上に、国際法における国家の自衛権がある。この当たり前の常識を理解している人が日本ではきわめて少ない。 加えて日本特有の事情として、内閣法制局という政府の一部局にすぎない組織が権威をもっている点が挙げられる。内閣法制局の役割は総理に意見具申をするところまでであって、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更」などという大それた権限を掌握できるポストではないのだ。ところが、東大法学部出身の霞が関官僚があたかも自らを立法(国会)と司法(裁判所)の上位に立つかのように、法案づくりと国会の通過、さらに法律の解釈に至るまで関与しようとする。そのこと自体が異常な現象なのである。 にもかかわらず、霞が関官僚の仕事ぶりの基本は「庭先掃除」だから、国内を向いた仕事しかできない。自衛権や正当防衛の国際的理解などは一顧だにせず、ひたすら立法府を形骸化させている。官僚は、表向き立法を司る国会を否定はできないので、内閣に法案を持ち込んで閣法(内閣提案立法)をつくらせ、実質的に立法府の権限を簒奪していく。これは国会議員が仕事をしないからで、議員立法をしない政治家の怠慢が問題である。 「9条にノーベル平和賞」はない もう1つ、自衛権の行使容認に反対する人が決まって口にするのが「憲法9条の護持」である。護憲の主張はおろか、近年では「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会なる組織が活動を行なっているという。国会議員の福島瑞穂氏はこの運動に賛同して、憲法9条に対する「推薦文」をノルウェーのオスロにあるノーベル平和賞委員会宛てに送付した。〈推薦文の概要〉(プログ「福島みずほのどきどき日記」2014年4月18日より、字間の空白は引用ママ)ノルウェー・ノーベル委員会 御中 日本国憲法は前文からはじまり 特に第9条により 徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。特に第9条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。そして、この日本国憲法第9条の存在は、日本のみならず世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が改憲の危機にさらされています。世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第9条を今まで保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください。 国際常識を知る者から見れば、冒頭の社説と同様、顔から火が出るほど恥ずかしい文章である。なぜなら9条にある戦争放棄は、べつに日本の憲法だけにある規定ではないからだ。ノルウェー・オスロにあるノーベル平和センター 次の表は、日本との比較で韓国、フィリピン、ドイツ、イタリアの戦争放棄をめぐる条文を記したものである。一見して、日本国憲法9条の戦争放棄に相当する条文が他国の憲法に盛り込まれていることがわかる。とくにフィリピンの憲法には「国家政策の手段としての戦争を放棄」とはっきり書いてある。「憲法9条にノーベル平和賞を」授与しなければならないとしたら、フィリピンにもあげなければならない。希少性のないものを顕彰する理由はないので、日本の憲法9条にノーベル平和賞が授与されることは、世界で現行の憲法が続くかぎり永遠にない。このように少し調べればでたらめとわかる話で、憲法改正に反対したいためにノーベル賞まで持ち出す意味を筆者は理解しかねる。<日韓比独伊の憲法比較>◆日本第9条(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。◆韓国第5条(1)大韓民国は、国際平和の維持に努力し、侵略的戦争を否認する。(2)国軍は、国の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。◆フィリピン第2条(2)フィリピンは国家政策の手段としての戦争を放棄し、そして一般に認められた国際法の原則をわが国の法の一部分として採用し、すべての諸国との平和、平等、正義、自由、協力、そして友好を政策として堅持する。◆ドイツ第26条(1)諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。(2)戦争遂行のための武器は、連邦政府の許可があるときにのみ、製造し、運搬し、および取引することができる。詳細は、連邦法で定める。◆イタリア第11条イタリアは他の人民の自由を侵害する方法としての戦争を否認する。イタリアは、他国と等しい条件の下で、各国のあいだに平和と正義を確保する制度に必要な主権の制限に同意する。イタリアは、この目的をめざす国際組織を推進し、支援する。出所:https://www.constituteproject.org/ http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worIdjpn/なぜ日米は同盟を結んでいるか 筆者がプリンストン大学で勉強したのは経済学ではなく、国際関係論である。マイケル・ドイル(プリンストン大学助教授、現在はコロンビア大学教授)という国際政治学者が私の先生で、カントの『永遠平和のために』を下敷きにDemocratic Peace Theoryを提唱した人物である。「成熟した民主主義国のあいだでは戦争は起こらない」という理論で、たしかに第二次世界大戦後の世界を見れば、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争やイラク戦争など2国間ないし多国間で戦争が起きる場合、いずれかの国が軍事政権あるいは独裁政権であった。イギリスとアルゼンチンとのあいだで生じたフォークランド紛争でも、アルゼンチンは独裁政権だった。 ドイル先生のいうように、民主主義国の価値観や手続きのなかで戦争が勃発する事態は現代の世界において考えづらい。彼の理論を日本と中国に当てはめれば、日本は民主主義国家だが、共産党一党独裁国家の中国はそうではない。この一点を見れば、なぜ日本とアメリカが共に民主主義国として同盟を結んでいるのか、根本的な理由を知ることができる。 私がドイル先生に国際政治学を学んでいた1998年当時から、日本の平和憲法は特別ではないという点、自衛権の行使を妨げる議論がおかしいことは聞いていた。たいへん説得力のある話で、日本で巷間いわれる平和論がいかに論理を欠いているかを理解することができた。 たとえば国際法をわずかでも勉強すると、集団的自衛権が国連憲章51条に規定されていることに気付く。「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」。 つまり武力攻撃に対しては最終的には国連の安保理によって解決するのが最も望ましいが、それに至る過程でその国が占領支配されないように、(個別的・集団的の別を問わず)自衛権で対処するという発想である。もちろん安保理が機能して対応を図るのが最善だが、そうならない局面も現実には起こりうる。 場合によっては中国のような安保理の常任理事国が紛争当事者となり、拒否権を発動するケースも考えられる。実際に2014年3月、常任理事国であるロシアがクリミアをロシアに併合した際、国連は何もできなかった。万が一、日本が他国からの武力攻撃を受けた際は当面、自衛権でしのぎ、安保理に報告を行ないつつ最終的な解決に結び付けるというのが最も現実的な選択である。 その際、日本一国で中国のような軍事国家の侵攻に持ちこたえられるか、という問題が生じる。だからこそ日本は他国と「正当防衛」を共に行なえる関係を構築すべきだ。 具体的に筆者が提唱するのは、NATO(北大西洋条約機構)のアジア版である。ウクライナがクリミア侵攻を許したのは、ひとえにNATOに加盟していなかったからだ。NATO自体がいわば集団的自衛権の固まりのようなものであり、わが国も安保理の措置が機能しなかった際に、日米の2国間同盟だけでは対処しきれない事態が発生することを想定する必要がある。 2014年5月、中国がベトナムの排他的経済水域(EEZ)を公然と侵し、石油掘削作業を進めようとしてベトナムと衝突した。南シナ海では中国に加えて台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張している。2002年にASEAN(東南アジア諸国連合)が中国と結んだ自制と協調をめざす行動宣言はあっさり無視され、ベトナムが面と向かって中国と対峙せざるをえない状況が生まれた。中国の台頭と膨張により、南シナ海における中沙諸島・西沙諸島・南沙諸島と同じ領土危機が日本の尖閣諸島に起こりうる事態はいっそう切実なものになっている。いま安倍総理が感じている危機意識と「緊迫性」をわれわれも共有すべきではないか。 たかはし・よういち 1955年、東京生まれ。1980年、大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官などを歴任。小泉内閣、第一次安倍内閣で「改革の司令塔」として活確。2008年・山本七平賞受賞。近著に、『消費税でどうなる?日本経済の真相【2014年度版】』(KADOKAWA/中経出版)がある。関連記事■ 小柴昌俊・ノーベル物理学賞受賞者が提唱する「基礎科学のための「国民1人1円」運動」■ 元統合幕僚長・折木良一が語る いま行われるべき安全保障論議とは■ 憲法議論の前に知っておきたい「憲法の3つの顔」■ 2016年、米軍撤退でアジアの大混乱が始まる―日高義樹のワシントン情報■ [李登輝・特別寄稿]日台の絆は永遠に〔1〕

  • Thumbnail

    記事

    政治利用される「ノーベル平和賞」 憲法9条は道具に過ぎない

    竹田恒泰(作家)「ノーベル平和賞」の政治利用 昨年4月、「日本国憲法第9条」がノーベル平和賞の候補になったという変な話が噂になった。どうやら、神奈川県座間市の女性がインターネットで呼びかけたのがきっかけとなり、地元の「9条の会」が協力して実行委員会が結成され、その運動が全国に広がったという。10月になると「ノーベル平和賞ウオッチャー」として知られるオスロ国際平和研究所が、「憲法9条」が最有力候補との予測を発表したことで、日本の大手メディアがしきりにこれを話題にするようになった。そのため、当初「取るに足らない話だ」と思っていた私も「まさか」という不安を覚えるに至った。 ノーベル平和賞は個人や団体しか対象にならないため、「憲法9条を守っている日本国民」がその対象になるのだという。どこかの国の「国民」がノーベル賞を受賞するなどおかしな話ではあるが、たとえば『日刊ゲンダイ』が「安倍首相は真っ青『憲法9条』ノーベル平和賞受賞の現実味」という表題を掲げ「もし受賞すれば、安倍首相の『改憲』のもくろみは吹っ飛ぶことになる」と書くなど、日本の憲法改正議論と絡めて語られるようになった。また、見解を求められた菅官房長官が「仮のことに政府として答えるべきではない」と答える場面もあった。しかも、韓国でも日本の憲法9条をノーベル賞に推薦する署名活動が起こり、元首相や元国会議長などが多数署名したという。 この推薦運動は、安倍内閣が主導する憲法改正を阻止するための政治運動にほかならない。読者も知るとおり、日本の左派勢力と韓国勢力の努力も虚しく、憲法9条は選考に漏れたが、ノーベル賞のなかでも平和賞は他の分野と異なって多分に政治的であり、往々にして政治的に利用される性質があるため、今後も引き続き警戒する必要がある。 戦争放棄を定める憲法9条は日本独自の画期的なものと思っている日本人が多い。これは学校での屈折した平和教育が影響しているように思えるが、実は9条が定めることは、日本国憲法が成立する前からすでに国際社会においては確立された普遍的原則だった。決して日本独自のものでもなければ、日本発祥のものでもないのである。では憲法9条は何を元に作られたのだろうか。戦争放棄は9条の前から 第一次世界大戦を経験した人類は、戦争のない世界を目指して国際連盟を発足させた後、1928年には、戦争を違法とする多国間条約の署名に漕ぎつけた。「パリ不戦条約」である。第1条は次のように規定している。 「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する」 どこかで見たことがある文言が並んでいることに気付いた人も多いだろう。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と記す日本国憲法第9条1項は、その約18年前に署名されたパリ不戦条約が定めたことを表現したものなのである。正確にいえば、パリ不戦条約を発展させた「国連憲章」を基礎としているのだが、それは後述する。 パリ不戦条約は、第1条で国際紛争を解決するための戦争を禁止し、締約国相互での戦争を放棄させる一方で、第2条では紛争は平和的手段により解決することをも規定している。宣戦布告を行わない紛争の扱いが不明確で、侵略と自衛の区別も曖昧だったという問題をはらんでいたが、この条約が、その後の戦争の違法化や国際紛争の平和的処理の流れを作る役割を果たしたのは事実といえる。 条約の精神は、当時の各国憲法に反映された。たとえば、3年後にスペインの第二共和政のもとで成立した「スペイン一九三一年憲法」は、第6条に「国策の手段としての戦争を放棄する」と規定した。また、1934年に米国でフィリピン独立法が可決されると、その翌年に成立した「フィリピン一九三五年憲法」の第2条3項にも同じことが書かれた。いずれも日本国憲法より前の憲法である。ニューヨークの国連本部 しかし、国際社会は、戦争違法化と国際紛争の平和的処理の枠組みを定めたにもかかわらず、不幸にも第二次世界大戦に突入してしまう。先述のパリ不戦条約の不備も一つの大きな原因だったが、大戦が終結すると、不戦の精神は、1945年に署名された「国連憲章」という国際条約で一つの完成を見ることになる。 国連憲章は第2条で、禁止の対象に「戦争」という言葉を使わず、「武力の行使」の語を用いることで、宣戦布告なくして行われる地域紛争も禁止の対象とすることを明確にし、併せて「武力による威嚇」も全面的に禁止した。これにより、安保理が決定した軍事制裁と、自衛権の行使の二つの例外を除いて、あらゆる武力の行使と武力による威嚇が禁止されたのである。 全ての国連加盟国は国連憲章遵守義務があるから、自衛権の行使の例外を除き、いかなる武力の行使も武力による威嚇もしないと、約束させられているのである。日本国憲法第9条はこの「国連憲章第二条」のコピー・アンド・ペースト(コピペ)と言っても過言ではない。もしノーベル平和賞を授与するなら、憲法9条ではなく、パリ不戦条約か国連憲章ではあるまいか。 なぜ日本の憲法はこのようなコピペの文言を書かなくてはいけなかったのかというと、それは日本が戦争に負けたからである。日本さえ大人しくしていれば世界は平和であると信じられていた時期に、日本が戦勝国に押し付けられた結果であろう。だから、押しつけられたコピペを自分たちで改める憲法改正は、日本人が誇りを取り戻す大きな一歩となるのだ。憲法は道具に過ぎない 憲法9条はどのように読めばよいのか。特に9条2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とも規定しているが、日本は戦力を保持しないという割に、誰がどう見ても戦力にしか見えない自衛隊を保有している。にもかかわらず、交戦権を認めないというのだ。交戦権を認めないのでは、他国に攻め込まれても自衛隊は応戦することすらできないことになる。まして第一項では戦争の放棄を宣言しているのであるから、侵略を受けたら無抵抗のまま国を明け渡すことを明言しているに等しい。日本語の意味通りに解釈したら、そう読むしかないだろう。 ただ、条文を日本語の辞書通りに読んでよいのであれば、法学者など必要ない。その法理が成立した背景と歴史、そして運用の実態や判例などを踏まえてテクニカルに読まなくてはいけない。 ではどう読むか。まず、先述のとおり9条の文言は、明らかにパリ不戦条約から発展した国連憲章を焼き直したものであるが、不戦条約の締結過程では、自衛権が認められるべきことは繰り返し確認されている。また、国連憲章には安保理が措置を取るまでの間、自衛権を行使できると条文に明記されている。 つまり、国連憲章は「戦争の放棄」を謳うも、それは侵略戦争を放棄するという意味であって、自衛戦争まで放棄するという意味ではないのであるから、憲法9条がいう戦争や武力行使の放棄も侵略戦争について述べているのであって、自衛戦争は否定していない、と読まなくてはいけない。政府見解はこの考えに立つ。 第2項がいう「戦力」を保持しない、「交戦権」を認めないというのも、侵略戦争のための戦力や交戦権を認めないという意味であって、自衛戦争のための戦力や交戦権を否定するものではないのだ。自衛隊は侵略戦争をする戦力ではない、攻められたら押し返すだけの実力に過ぎないので「合憲」。これが政府見解の立場である。 しかし、これでは、広く国民が理解することは難しいであろう。かといって、これまで眺めてきたような背景を無視して単に日本語の意味だけで読もうとすると、読む人によって様々な読み方ができてしまう。この点が憲法9条の最大の問題といえる。 ならば、誰が読んでも大抵同じような解釈になるような分かりやすい文章に改めるべきではないか。具体的には「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争は放棄しない。侵略戦争を行う戦力は持たないが、自衛戦争のための戦力は保持する」というようなことを書けばよいのではないか。ただし、自衛戦争の名目で侵略戦争を始めることができないように、憲法の条文に自衛隊の海外派遣の条件を書き込んでおくとよいだろう。たとえそのように9条を書き換えたとしても、それは「戦争をしない国」から「戦争する国」に転換することを意味しないだろう。 憲法は、現在と未来の日本国民が幸せになるために人間が作り出した道具に過ぎない。そして、人間は必ず不完全であるがゆえに、人間が作ったものもまた必ず不完全である。よって、憲法も必ず不完全であり、これを必要に応じて変更していくことは国民の幸せのために不可欠なのだ。たけだ・つねやす 作家。昭和50(1975)年、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫。慶応義塾大学卒業、平成26年3月まで同大法学研究科講師も務めた。

  • Thumbnail

    記事

    ノーベル平和賞は憲法9条ではなく自衛隊だ

    ないからである。「海外で戦争する」のは自衛官だけである。大学生その他の民間人が「海外で戦争する」のは憲法違反である。法律上も許されない。その準備行為ですら犯罪となる(私戦予備及び陰謀罪)。実行はもちろん、海外に「ゆく」こと自体が許されない。 集団的自衛権行使で、海外に「ゆくのは、」ポスターの「わたしら」ではない。自衛官である。たとえば私の娘。この春、第63期本科学生として防衛大学校に入校した。国際法上は集団的自衛権の行使として説明される任務も今後はあり得よう。父親としては受忍しがたいが、客観的な事実として最悪、殉職するリスクを完全には否定できない。輸送艦「おおすみ」(左)に近づくエアクッション型揚陸艇「LCAC」(海上自衛隊提供) だが、民間人にそのリスクは微塵もない。ポスターは杞憂である。はっきり言えば、たちの悪いデマである。 いったい誰が、こんなデマを流すのか。その答えもポスターにある。井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子(敬称略・以下同)。以上九名の顔写真と名前が並ぶ。 彼ら彼女らの共通項は何か。その答えもポスターが明示する。ご存知の護憲左派団体「九条の会」、右九名はその「呼びかけ人」である。すでに物故者もいるが、会の存在感や影響力は衰えていない。 今年三月十五日にも集会を開き、大江健三郎が「戦争を起こさない努力をしなければならない。今の首相に期待は全くできない」と安倍政権を非難。澤地久枝が「首相の一存で事が決まるという動きが露骨だ」「(このままでは)徴兵制が始まると思っている」と訴えた(共同通信)。 彼女は本気で「徴兵制が始まると思っている」らしい。集団的自衛権→自衛官が大量退職→徴兵制という護憲派定番のネタである。 だが現実の世界では、風が吹いても桶屋は儲からない。真面目な話、昨年七月一日の閣議決定以降、自衛官の大量退職など起きていない。逆に防大はじめ人気が高まっている。 かつて大江健三郎は「毎日新聞」夕刊コラムで(昭和三十三年六月二十五日付)、防衛大生を同世代の「弱み、一つの恥辱」と誹謗したが、今や時代が違う。大江は続けて「防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたい」とも書いたが、幸い、正反対の方向となっている。現に、娘が受験した文系女子枠の倍率は32・4倍。とくに女子は合格者数を制限しているため、東大と並ぶ難関校であり人気も高い(娘も慶應を袖にした)。もはや大江らの感覚は通用しない。9条が世界遺産? 視点をポスターに戻そう。見るからに自衛官ではない男女に「ゆくのは、わたしら」と言わせたのは、なぜか。集団的自衛権によって「徴兵制が始まる」、だから一般の大学生も徴兵され「海外で戦争する」ことになる、そう不安を抱かせるためであろう。 徴兵制その他、集団的自衛権に関するウソや捏造報道については拙著新刊『ウソが栄えりゃ、国が亡びる――間違いだらけの集団的自衛権報道』(ベストセラーズ)で詳述したが、護憲派は頬かむり。今も「徴兵制が始まる」とデマを流す。九条の会自身「集団的自衛権行使容認反対のポスターです。積極的にご活用下さい。地域、職場、学園に大いに貼り出しましょう!!」と呼びかけている(公式サイト)。 自らは安全な場所(大学や民間)にいながら、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえること」を誓った自衛官の誇りをウソやデマで傷つけながら、恬として恥じない。自分は正しいと思い込み、改憲派や安倍政権を口汚く非難する。実に不潔な連中である。海外では見向きもされまい、と思っていたが、正直、不明を恥じる。今年、彼らがノーベル平和賞を受けるかもしれない。事の次第を説明しよう。 かつて太田光と中沢新一が『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)と訴え、一世を風靡した。同書の護憲論については当時、拙著『憲法九条は諸悪の根源』(PHP研究所)で反論したので繰り返さない。ここでは世界遺産の資格要件に論点を絞ろう。 世界遺産とは、文化遺産か自然遺産、あるいはその両方の価値を備える複合遺産のいずれかである。結論から言えば、九条は右のいずれにも当たらない。「憲法九条」への評価はさておき、客観的な事実として憲法典の条文である以上、自然遺産に当たらないことは言うまでもない。ゆえに、複合遺産にも当たらない。 ならば文化遺産はどうか。文化遺産とは記念工作物や建造物群、遺跡など。記念工作物とは「建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件(中略)であって歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」(条約)。価値の有無を議論する以前に、九条は建築物でもなければ、絵画や物件でもない。念のため付言すれば、建造物群でも遺跡でもない。ゆえに、九条の価値を最大限評価するとしても、有形の不動産でない以上、世界遺産にはできない。 そこで登場したのが、「憲法九条にノーベル平和賞を」と訴える運動である。 ならばノーベル平和賞はどうか。 創設者のノーベルは「国家間の友好、軍隊の廃止または縮小、平和会議の開催や促進に最も貢献した人物に」と遺言した(矢野暢『ノーベル賞』中公新書他参照)。ゆえに、そもそも「人物」でない九条への授与はノーベルの遺志に反する。げんに当初、ノーベル委員会も無反応だった。 本来なら世界遺産と同様、一笑に付されるような話であろう。ところが二〇一四年、ノーベル委員会は申請を受理し、平和賞の候補として登録した。 なぜ登録されたのか。それは「憲法9条」ではなく「憲法9条を保持する日本国民」と申請されたからである。この話には笑えないオチが付く。護憲団体が今年の有力候補に護憲団体が今年の有力候補に「ノーベル平和賞ウオッチャー」として知られるオスロ国際平和研究所のハルプビケン所長が昨年「憲法9条を保持する日本国民」を最有力候補に挙げ、話題を呼んだ。その所長が「9条を保持する日本国民」という名の団体が推薦されていると勘違いしていたというから笑えない(二〇一四年十二月十六日付読売新聞朝刊)。ちなみに、ノーベル委員会のルンデスタッド事務局長も、読売新聞の取材に対し、「誰が(授与式で)賞を受け取るのかとの問題が生じる。推薦した人たちが安倍首相に懐疑的なのに、首相が賞を受け取るのか」などと疑問を呈し、国民(全体)への授与は困難との認識を強く示唆した(同前)。 結果はご存知のとおり。昨年受賞したマララさんらと比べ、平和への貢献度が低いとみなされたのであろう。予想に反し落選した。朝日新聞朝刊の名物コラム「天声人語」は「粘り強く続ける値打ちのある挑戦ではないか」と説いたが、異論を禁じ得ない。《異論もあろう。掲げる理想と日米同盟の現実とがかけ離れているではないか。「押しつけ憲法」ではないか。賞を受けるのは「9条をもつ日本国民」とされているが、そのなかには改憲論者もいるのに、と▼それでも、戦後日本に平和をもたらした9条の役割の大きさを否定できるものではない》(十月十一日付) コラムが「▼それでも」と論旨を逆転させた論拠は明示されていない。まさに「異論」を封殺した独善的な主張ではないだろうか。 天の声(朝日)がなんと言おうが、「戦後日本に平和をもたらした」のは、九条でなく日米同盟である。理想論はともかく、それが現実である。その他の異論は「天声人語」自身が「異論」として明記しているので省略する。注目すべきはノーベル平和賞の行方である。 昨年は落選したが、今年はどうか。報道によると、すでに衆参両院の国会議員61人の推薦状がノーベル委員会に送られている。加えて大学教授ら19人も推薦した。ちなみに昨年も大学教授ら43人が推薦したが、推薦人の中に国会議員はいなかった。南スーダン・ジュバの道路整備作業で、辺りを警戒する陸上自衛隊員(共同) 韓国の動きも見逃せない。「日本平和憲法9条をノーベル平和賞に推薦する韓国委員会」が組織され、座長に李洪九元首相が就任。安倍政権の改憲の動きを牽制する推薦文を作成。すでに元最高裁長官や著名な文化人らが多数、署名している(二〇一四年十二月十九日付産経新聞朝刊参照)。 果たして今年の下馬評はどうか。前出のハルプビケン所長は、移民救援活動を続けるカトリック聖職者ムシエ・ゼライを最有力候補と予想。二位にロシア紙「ノーバヤ・ガゼータ」、三位にNGO「イラク・ボディー・カウント」を挙げる。注目すべきは四位にランクした候補である。それが「九条の会」。所長は共同通信の取材に「国民全体の受賞はあり得ない」との見方を示し、今年の予想候補も「九条の会」に修正したと説明する(共同通信記事参照)。 ノーベル平和賞は他薦のみで推薦資格は国会議員や大学教授、過去のノーベル賞受賞者らに限定されている。以上の動きと併せて考えると、今後「九条の会」などの護憲団体が受賞する可能性は決して低くない。念のため付記するが、呼びかけ人の大江は過去、ノーベル文学賞を受けた。その事実が当落に与える影響は否定できない。 以上のとおり今後、日本の護憲団体がノーベル平和賞を受賞するリスクが高い。戦後七十年であり日韓国交正常化五十周年にも当たる今年は、起こり得る。現に有力候補ではないか。もし実際に受賞したらどうなるか。憲法改正に与えるダメージは計り知れない。改憲に向けた歩みは間違いなく停滞ないし後退する。「想定外」云々の釈明は許されない。リスクを見据えた危機管理が必要である。9条だけではない平和憲法 そもそも憲法9条は、ノーベル賞の候補になるほど価値のある条文なのだろうか。よく「平和憲法」と言われるが、実は現在、158か国もの国々が平和憲法を保持している。牽強付会な見立てではない。平和主義は国際法上の原則である。だから多くの国の憲法で明記されている。日本国憲法の“専売特許”ではない。 平和主義は日本国憲法から生まれた独創的な考えではない。事実、第一次世界大戦以前から、国際条約や諸外国の憲法で条文化されていた。しかし第一次世界大戦が勃発。その反省から国際連盟が誕生したが、やはり第二次世界大戦を防止できなかった。 そこで国際連合は憲章で「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と明記した(2条3項)。国連海洋法条約も「平和的手段によって紛争を解決する義務」を定めている(279条)。いまや「紛争の平和的解決義務は、国際慣習法上の原則ないし普遍的義務」である(山本草二『国際法』有斐閣)。 加えて、第二次大戦後に制定された憲法の多くが、何らかの表現で平和主義をうたっている。188か国中、158か国。全体の84%を占めている。日本だけが「平和憲法」を掲げているわけではない。たとえばハンガリーやイタリア、フィリピンなどの憲法も、日本と同じように「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄」している。 ゆえにもし、憲法改正や解釈変更が平和主義を捨てることになるなら、世界中で戦争が起こっているはずである。なぜなら世界中の国々が・平和憲法・の改正を重ねてきたからである。改憲が平和に反するなら、とうに世界中が軍国主義化しているはずだ。 世界最古の近代憲法は一七八七年制定のアメリカ合衆国憲法だが、すでに18回改正された。一九四七年制定のイタリア憲法も17回、一九四九年制定のドイツ憲法は59回など、敗戦国の独伊を含め、多くの国々が憲法を改正してきた。 日本国憲法はどうか。ご存知のとおり、一度も改正されていない。“世界最古の憲法典”とも評し得る。あっさり言えば、時代遅れの憲法典である。ところが、なぜか憲法改正がタブー視されてきた。なぜ日本に限って「憲法を改正すると平和を守れなくなる」と危惧されるのか。 答えは単純。「護憲派」がそう不安を煽るからである。要は、彼ら彼女らが、憲法改正を阻止するために流したデマに過ぎない。そもそも憲法のどこを、どう変えるのか。その中身を議論せずに、改正そのものを敵視するのは党派的な独断である。 たとえば、戦力不保持を定めた九条二項だけを改正し、侵略戦争の放棄を定めた一項は残す。そして新たな二項で自衛隊を「国防軍」などと位置付ける。国防軍は自衛隊に代わって、より積極的な国際貢献活動に参加する。(内閣の憲法解釈で禁止されている)武力を伴う集団安全保障措置にも参加する。こうした改正なら「平和主義を捨てる」どころか、現在より「積極的」な「平和主義」とも評し得る。要は、中身次第ではないだろうか。 読売新聞による最新の世論調査では(三月二十三日付)、「今の憲法を、改正する方がよい」が51%で「改正しない方がよい」の46%を上回った。時事通信の世論調査でも、「全面的に改め、新しい憲法とすべきだ」が14・4%、「平和主義や国民主権など現行憲法の柱は 堅持した上で、必要な改正を行うべきだ」が58・7%を占め、「憲法改正は行うべきでない」の18・6%を凌駕した(三月十三日配信)。憲法改正への理解や気運は確実に高まっている。絶好のチャンスを無駄にしてはならない。自衛官にこそノーベル賞を自衛官にこそノーベル賞を 護憲派も危機感を抱いているのであろう。いまも集団的自衛権で「平和が死ぬ、戦争になる」「徴兵制になる」等々デマを流し、不安を煽っている。護憲派は、かつて防衛庁が防衛省に昇格したときも、自衛隊がイラクに派遣されたときも、戦後初めて国連PKOに自衛隊が派遣されたときも「憲法違反、平和が死ぬ」と合唱した。だが、結果そうなっていない。すべてデマだった。 名実ともの憲法「改正」なら心配いらない。なぜなら読んで字のごとく「正しく改める」のだから。たとえば前述の改正案なら、抑止力が高まり、むしろ平和と安定に寄与するであろう。そうなると困る陣営がデマを流している。 危険を顧みず、わが国の平和と独立を守っている自衛隊を、日本国憲法は“無視”している。そんな「平和憲法」を守った結果、自衛官の生命や平和が失われる。それこそ本末転倒ではないだろうか。 戦力不保持を明記した憲法は、日本の九条だけではない。スイス憲法もコスタリカ憲法も常備軍の不保持を明記している。 エチオピア憲法のように、軍隊に対するシビリアン・コントロール(文民統制)を明記している国々もあるが、日本の憲法九条にそうした規定はない。六十六条二項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と定めただけである。自衛隊は憲法上、悪く言えば、野放しに近い。「専守防衛」などの基本政策も憲法上は明記されていない。ソマリア沖アデン湾で、航行する船舶の識別作業をする海上自衛隊P3C哨戒機内の隊員=2015年8月1日(共同) カンボジア憲法のように、核兵器の廃絶を明記した国々もあるが、日本の「非核三原則」は憲法で明記されていない。政府は「自衛のためなら核兵器の保有も可能」と解釈しており、日本国はアメリカの「核の傘」に入っている。 またモンゴル憲法のように、外国軍の基地を置かないと明記した国々もあるが、沖縄はじめ日本には米軍基地がある。等々「わが国憲法よりもよほど徹底した平和主義条項をそなえている国が多くみられる」(西修『日本国憲法を考える』文春新書)。 それでもなお、日本国憲法第九条にノーベル平和賞の価値があると言えるだろうか。くどいようだが、戦後の平和を守ってきたのは九条ではなく日米同盟である。陸海空自衛隊と米軍である。 とくに自衛隊は憲法九条のもと、武器使用の手足を縛られながらも、危険を顧みず、内外で驚嘆すべき実績を重ねてきた。それなのに実任務で一人の犠牲者も出していない。命を奪ったこともない。以上の点が米軍とは決定的に違う。世界各国の軍隊とも違う。 日本の自衛官こそノーベル平和賞に相応しいのではないだろうか。私は以前から本気でそう訴えてきたが、残念ながら同調する声は小さい。このままでは「九条の会」が受賞するかもしれない。防大生や自衛官を誹謗し、デマを流し続ける団体が受賞し、自衛官は候補にもならない。それは不条理きわまる。 このままでは木の葉が沈み、石が浮く。彼らの動きを傍観することは許されない。うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。帝京大准教授など歴任。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『日本人が知らない安全保障学』(中公新書ラクレ)など著書多数。  

  • Thumbnail

    記事

    さすがダウンタウン松本「憲法9条はなめられてる」

    はある」「もし本当にこのままでいいと思っているのであれば、完全に平和ボケですよね」と苦言を呈した。「憲法9条は日本を守ったかも知らんけど、言い方変えたら、なめられてる」とも言ったんだ。その通り!女史 よく「平和憲法を守る日本は、世界から尊敬される」なんて言う人いるけど、あれウソだよね。自分の国を守る気のない日本人を外国は本音ではなめている、ていうか、バカにされてるよ。教授 この番組は結構、視聴率いいらしいですから、彼の発言は影響力があるでしょうね。先生 松本は、以前にも「日本が自立するための法案なら賛成」と発言してたんだよ。番組ゲストの女子高生が、反対デモの若者をどう思うか聞かれて、「クラスにああいう子がいたら、引く」と発言したのも痛快だった。女史 やっぱヒクよね。(笑)ABCテレビ「松本家の休日」で道頓堀を周遊するさだ、たむらけんじ、松本人志、宮迫博之(左から)教授 しかし、松本さんとは裏腹に、大物芸能人が反対発言を始めています。笑福亭鶴瓶さんは東海地方ローカルの東海テレビのドキュメンタリー番組「戦後七十年 樹木希林ドキュメンタリーの旅」の収録で「安保法案には断固反対」と明言したそうです。女史 中日新聞8月7日付の夕刊記事に出てたね。鶴瓶さんは「違憲と言う人がこれだけ多いのにもかかわらず、なにをしとんねん」「民主主義で決めるんなら、多い方を取るべきですよ。変な解釈して向こうへ行こうとしているんですけど、絶対あかん」と言ったんだって。議会制民主主義だから、国会で多い方をとったら安保法案は成立すべきということになるのにね。鶴瓶さんは昔から左翼的な発言をする人だよー。先生 9日放送の日本テレビ系の笑点では三遊亭円楽が安倍政権批判だ。鍼灸師に扮し笑わせるお題で「耳が遠くなった気がするので人の声が聞こえるように針をうってもらいたい?」「どこへうっても、国民の声が聞こえないんだと思いますよ、安倍さん」だって。女史 桂歌丸さんの代わりに司会をしてた三遊亭好楽さんも、座布団2枚あげてたけど、そんなにうまい政治風刺かな?編集者 円楽さんの風刺はいつも笑えません。松本人志さんの方に座布団を上げたいですね。女史 松ちゃんは笑点の座布団なんて、いらないよ。(笑)大物左翼・Tが賛成派に…先生 フジテレビ系も他番組では、ひどい発言があったな。8月3日の「みんなのニュース」では、礒崎陽輔首相補佐官が集団的自衛権について「法的安定性は関係ない」と発言したことを、江上剛が「辞任を」「傲慢」と批判したが、礒崎発言はそんなに悪くないぞ。集団的自衛権は、憲法と最高裁判例をどう解釈するかという問題で、既存の憲法と判例を変えるわけではない。そこは安定しているわけだから、礒崎も「法的安定性は関係ない」と言ったまでだろ。法解釈の変更が法的安定性を損なうなら、法改正や憲法改正なんか、もっと損なう。明治憲法を改正した日本国憲法は法的安定性の無視だぜ。安倍晋三首相が出演した7月20日の放送も、ひどかった。せっかくフジテレビ会長の日枝久がきちんと安倍総理を出迎えて、そのシーンも流したのに、議論が始まると批判づくし。やくみつるが「裸のそーり」と子供が叫ぶ漫画でけなすし、いくら安倍総理が安保法案を説明しても、司会のアナウンサー伊藤利尋が「なぜ違憲論が大勢なのに進めるのか」。ちっとも聞いてない。教授 いいコメンテーターも出ていたんですけどねえ…。政治的中立が求められるのが放送局だから、いろんな発言が出るのはやむを得ない部分はあります。この間も同じフジサンケイグループのニッポン放送を聴いていたら、あさ活ニッポンで山口良一さんが反対トークをしていましたが、その後の番組では嘉悦大の高橋洋一氏がきちんと発言していました。編集者 そんな中、意外にも、安保法案大反対の毎日新聞で大物(?)の左翼言論人が集団的自衛権の行使を認める発言をしました。8月11日付の朝刊1面の連載企画で、田原総一朗氏が「政府の容認した集団的自衛権の行使は、日本の存立危機事態を想定した『新3要件』で厳しく限定されている。従来の専守防衛の枠から出ていないと考えます」「ぎりぎり認められる線です」と述べたのです。教授 毎日もよく載せたじゃないですか。ただ、もしかしたら、記者が「田原氏だから当然、反対してくれるだろ」と思って話を聞きにいったら、賛成しちゃったので、仕方なく載せたのかもしれませんね。きちんと載せないと、池上彰氏に怒られた朝日新聞みたいになってしまいますから。(笑) しかし、田原氏の賛成も当然ですよ。あれだけ妥協して、極めて限定的にしか行使できないようになったのだから、法案をきちんと勉強していれば賛成しますよ。先生 ただ、田原が「正しい戦争などあり得ない」と発言している部分は承伏できない。ナチス・ドイツのような絶対悪と戦うのも正義ではないというのか。五木寛之の鋭い分析教授 マスコミが「日本が戦争を起こしそうな雰囲気」というウソを広げることが問題なのです。例えば、8月11日の朝日新聞デジタル版では元朝日記者の早野透氏が「戦後70年の『いやな感じ』」という記事を書いていますね。先生 戦争を起こしそうなのは日本ではない。「いやな感じ」というなら、中国の動きに「いやな感じ」を持つべきなんだ。安倍総理も、もっと反論すべきだよ。教授 政府が安保法案の衆院審議で中国の名前を出さなかったのは失敗でした。首相訪中を視野に入れていたせいでしょうが…。先生 中央公論9月号で、五木寛之が若手の社会学者、古市憲寿との対談で「『今、戦前の雰囲気だ』ってよく言われるんだけど、ぜんぜん違いますよ。『国益を守るために、中国と一戦まじえろ』『韓国を攻撃せよ』という津波のような民意の高まりが、今の日本にありますか」「国民の間に、そういう高揚、過熱した熱狂がなかったら、戦争なぞできるわけない」と述べていた。さすが五木寛之だ。教授 しかし、多くの一般女性は「戦争法案だ」「徴兵制になる」といういい加減な報道を信じているんですね。最近は芸能ネタが売り物の女性週刊誌まで安保法制反対の特集を載せています。編集者 毎日新聞は8月2日付の社説欄「視点」で集団的自衛権合憲論の憲法学者、西修、百地章両先生が「徴兵制も合憲との考えを示す」とウソを書きました。女史 毎日はその後、お詫びと訂正を出していたね。論説委員まで集団的自衛権=徴兵制と真剣に思い込んでいるのかな?教授 徴兵制どころか、自衛隊は自衛官募集に力を入れてますよ。コマーシャルに壇蜜さんを起用しました。彼女の発言を聞いていると、ところどころに保守的な考えがうかがえて良いですね。ただ、壇蜜さんのファンはおじさん中心。若い人にどれぐらいアピールするか未知数ですね。(笑)先生 毎日新聞の7月23日付夕刊に載った「狙われる?貧困層の若者 『経済的徴兵制』への懸念」という記事は、自衛隊の定員割れ、任官辞退に触れて、集団的自衛権の影響で志願者が減っているような印象を与えているが、これもインチキ。自衛隊の定員割れと任官辞退は昔からだ。貧しくて大学にいけない若者が軍や自衛隊に入るのを「経済的徴兵制」と呼んでいるが、冷静に考えたら、これは安保法案とは関係ない教育問題だろ。確かに先進国として、優秀な学生が貧しいから良い大学に行けないのは恥ずかしいし、給付型奨学金の充実で、きちんと行けるようにすべきだけどな。教授 ただ、日本は大学全体の進学率は高いですけどね。先生 専門学校で十分な大学がたくさんあって、勉強もしない学生が集まるのは事実だな。女史 「徴兵制になる」とかアホなウソに本当に欺されてるのかな? ネットでは、スウェーデンやスイスなどの徴兵制の実情をまとめているサイトがあって、冷静な評価があるんだけどなー。先生 そもそも、なぜ徴兵制を導入してはいけないんだ。安倍首相も、国会で「憲法が禁じる『苦役』にあたる」と説明したが、おかしい。国防という高貴な任務は懲役刑と同じ「苦役」なのか。教授 あまりに「徴兵制になる」というウソが蔓延しているために、総理は分かり易く否定する必要があったのでしょう。「非核の傘」ってずぶ濡れじゃない?編集者 残念ですが、それだけ反戦平和の偽善が広がり、法案反対派が勢いを増してます。先生 日本人に本来の誇りがあれば、徴兵制は必要ないんだぜ。ベトナム戦争の米国では、多くの大学生が徴兵ではなく志願して戦場に行ったが、それは「みんなが国のために命をかけているのに、自分だけ逃げるのは卑怯だ」と考えたから。だが、いまの日本はどうだ。反対デモの若者は「戦争したくなくてふるえる」と、自分だけ逃げようとしている。70年前の戦争の時、学徒が動員されたのも、そうしないと兵が足りなかったからじゃないか。皮肉な話だが、反戦平和の思想が広がればますます志願する者は減るから、徴兵制の必要は高まるんだよ。 問題は、国を守る国民の責務が議論されなくなっていることだ。一昔前は「徴兵制導入なら、良心的な兵役拒否を認めるべきだ」と具体的議論までしてたんだぜ。教授 徴兵制だけではなく、かつては日本の核武装論だって保守論壇で議論されていましたね。先生 米国の退潮や中国の台頭などで徴兵制や核武装を真剣に議論しなければならない時期になっていることには、国民も気づいているんじゃないか。それなのに、いざその議論を目前に突き付けられると、「徴兵制反対」「核武装反対」というアレルギー反応が出る。矛盾しているよ。我々国民には自国を守る責務があるんだ。それを堂々と正面から論じない政府も自民党もおかしい。女史 現実を見たくない人が多いんじゃない。日本は米国の核の傘に守られているけど、長崎市の田上富久市長は「『核の傘』から『非核の傘』への転換の検討」を政府に要望したんだって。「非核の傘」って何よ、ズブ濡れってことじゃん。ワケ分かんない。(笑)教授 日本は自分の国を守るために、法整備をし、防衛力をつけようとしているだけなのに、そのことすらマスコミは批判するのです。子供がいじめられないように体を鍛えていたら、教員から「お前は人を殴ろうとしているのか」と叱られるようなものです。先生 そういう意味に限れば、反対デモの学生団体SEALDsを「戦争に行きたくないという考えは極端に利己的考え」とツイッターで批判した衆院議員の武藤貴也も、あながち間違いではない。しかしマスコミはそれも叩く。TBS系サンデーモーニング8月9日放送では評論家の高橋源一郎が「ツッコミどころが多すぎ」、毎日の岸井成格が「議員の劣化が進んでいる」と批判したぞ。女史 自衛官だって死ぬかもしれない戦争にはいきたくないよね。だけど国のために行くんでしょ。自分だけ行きたくないのは、やっぱ「利己的」だよね。教授 SEALDs自体が純粋に若者の声を代弁しているか疑問です。共産党と関係ないのか、マスコミはほとんど論じません。女史 ネットの日刊ゲンダイの記事に、SEALDsが共産党系とみられている労働組合「全労連」の街宣車を使っていたという記事が出てたねー。記事で、SEALDsの中心メンバーは「全労連さんから車を借りたのは事実ですが、それはたまたま車が空いていたから」と説明してたけど、全労連の車が空いていたら、SEALDsは借りられちゃうんだー。仲いいんだね。教授 ネットでは、デモに参加した学生が、就職活動に不利になっているんじゃないかと言われていますね。企業も採用したくないでしょう。女史 今年1月12日付の朝日新聞社説に、デモの話をしたら、内定取り消しになったという女子学生の話が載ってたけど、ネットでは、SEALDs関係の人じゃないかって話題になってる。ネットで写真や名前を出している子も多いけど、それをチェックしている人たちもいるから、就職活動でバレるのも当たり前だよ。先生 ホリエモンこと堀江貴文はツイッターで「安保反対デモに行ってる事カミングアウトしたら私は採用しませんよ。仕事出来ないと思うから」「思想で不採用だと言ってるのではなく、間違った理論に盲従する頭悪そうな奴だなって思うだけ」と書き込んだ。よく書いた! 高須克弥も「高須クリニックは安倍政権賛成デモに参加するくらい根性のある若者を採用します」だって。編集者 ホリエモンはフジサンケイグループの敵です! が、たまには良いことを言いますね…。初めに安倍談話批判ありき教授 8月14日に戦後70年で安倍総理が談話を出しましたが、非常によく考えられたものでした。村山談話も含めた歴代内閣の見解を踏襲し、侵略や植民地支配などにも触れましたが、それを日本だけの問題とせずに、人類の教訓として繰り返してはならないことだと言ったのです。日本人の次の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明言したし、「法の支配」「力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべき」という原則を強調し、しっかり中国にも釘を刺しました。女史 でも朝日新聞とか左翼マスコミは批判してたよ。先生 TBS系で翌15日に放送した報道特集は冒頭からキャスターの金平茂紀が「説得力の乏しい戦後70年談話」と批判した。番組は「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」の部分まで批判したぜ。14日夜のテレビ朝日系報道ステーションでも保阪正康が批判したが、子供たちに「ずっと謝罪し続けろ」と言うに等しいな。女史 とにかく中韓のいいなりにならなきゃ、どんな談話でも叩くんだね。TBS系では、談話発表直後でまだ中韓の反応も出ないうちから、ニュースのNスタの司会者が「果たして中国や韓国からどのような反発が出るのでしょうか」と、番組を締めくくってたもん。反発してほしいんだよ。編集者 安倍談話に先駆けて出た有識者懇談会の報告書は「日本が満洲事変後に『侵略』を拡大した」などと書いていましたが、談話は、肝心な部分は報告書にとらわれずうまく外していました。女史 でも、各新聞は大体、報告書を褒めてたよ。読売新聞は8月7日付朝刊で大々的に礼讃報道して、社説で「過去への反省と謝罪が欠かせぬ」と書いてたもの。先生 この有識者懇の座長は、西室泰三日本郵政社長だが、この人、過去の会計問題が勃発している東芝の社長や会長を務めていたんじゃなかったっけ。本人が問題に関わっていたかは分からないにしても、いま、そんなにありがたがる人なのかね。(笑)教授 報告書のまとめで中心的な人物になった座長代理の北岡伸一氏は、この報告書を大々的に褒めた読売グループのメディアに重用されています。この報告書は読売史観なんじゃないですか。こんなに詳しく近現代史を決めつけるようなことを書いて、北岡氏もこの頃、ちょっと調子にのっているのですかね。先生 韓国が勝手に歴史問題でゴールを動かしているのを批判するゴールポスト論なんかは、委員の宮家邦彦の影響だろ。編集者 あの部分は的を射た指摘じゃないですか。教授 しかし、この種の報告書で、あそこまで詳しく書く必要があったのか疑問です。もっとボンヤリとした書き方で、後は安倍総理に判断してもらうようにすべきだったと思います。総理にすれば、ありがた迷惑だったのでは?女史 具体的に日本の侵略を認めたもんね。脚注には「複数の委員より、『侵略』と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった」とも載せてたけど。先生 その異議の理由ももっと示さないと、「他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを『侵略』と断定することに抵抗がある」とか少し書くだけだと説得力ないぜ。だって、もし侵略が本当で、日本が自分で認めれば、満洲事変はパリ不戦条約後だから重大な国際法違反と言われる。それこそ戦争犯罪にされかねないぞ。編集者 有識者懇の中では激論があったにもかかわらず、まとめる段階で、結局、ああいう形になったのかもしれません。先生 何より「侵略」を否定した新聞報道がなかったのは問題だろ。「侵略ではない」という有識者もいるのに、それを紹介しない。朝日や毎日新聞だけならともかく、産経新聞も含めて、歴史事実を勝手に認定するようなことをした有識者懇に何ら批判をしなかった。安倍総理まで、談話を読み上げる前に、報告書を持ち上げた。歴史にはさまざまな見方があるはずなのに、これでは侵略史観が完全に定着したことになるぞ。編集者 すみません…。教授 ま、この報告書は政府見解でも何でもありませんからね。菅義偉官房長官も、そう明言しています。先生 しかし、影響は大きいですよ、教授。テレビも完全に便乗していました。8月9日のTBS系時事放談では、半藤一利が「侵略」と断定し、フジテレビの新報道2001でも、元NHKアナウンサーの下重暁子が「侵略」。他の出演者も流されて、自民党政調会長、稲田朋美ですら反論不足だったぜ。編集者 自民党三役ですし、問題発言と騒がれると、安保法案の審議に支障を来しますから…。先生 稲田は月刊正論によく出る。どうせ、編集者はご機嫌をとろうとしてんだろ。編集者 そういう訳では…。先生 (笑)ま、いいや。戦後70年は関係ないんだけど、8月3日のNHKニュース7が北海道のフェリー火災を韓国のフェリー「セオル号」事故と比べて報じたのは、NHKにして画期的だったぞ。火災に乗員がきちんと対処していたのに対して、セオル号の船長は乗客そっちのけで逃げ出したよな。それについて韓国人に感想を聞いて、すばらしい日本だ、というコメントを放送していた。教授 戦後70年間で初めてNHKのトンチの利いた報道だったかもしれませんよ(笑)。戦後特集では、ニューズウィーク日本版の8月11、18日合併号がよかったですね。「謝罪は解決策にならない」という米ダートマス大学のジェニファー・リンド准教授の論考が載りました。残念ながら、米国人の方がレベルが高いのですかね。女史 ニューズウィークは去年、「しばき隊」とかが反ヘイトスピーチという理由で暴力的なことをしているのもおかしいじゃないかと、批判していたよね。先生 それに比べてTBS系で8日1、2日に放送したドラマ「レッドクロス」はひどかった。中国共産党の太鼓持ちだよ。軍人が「我々は世界を平和にする中国共産党軍である」というシーンあり、「共産党軍はつねに紳士的な態度で…」というナレーションあり。共産主義の理想を肯定するように、日本人看護婦が「理想が希望に映る」「粛清も一つの方法」と人民裁判まで肯定したぜ。又吉直樹で売る文藝春秋の劣化教授 文藝春秋9月号は「父を靖国から分祀してほしい」というタイトルで、A級戦犯として刑死した木村兵太郎陸軍大将の長男と北海道大学准教授の中島岳志氏の対談記事を掲載したのですが、羊頭狗肉も甚だしい。木村大将の長男は「合祀は望外のことと素直にありがたく思いました」と言っていて、新しい追悼施設を造ることにも反対しているのです。ただ、合祀が天皇陛下や首相が公式参拝の妨げになるなら…と分祀の相談に行ったら「難しい」といわれただけなのです。女史 タイトルは、インタビューを編集した人がつけたんでしょ。木村大将の長男じゃなくて、文藝春秋の編集長が「分祀してほしい」と思ってるんじゃない?教授 中島氏は「ここで整理しておくと、靖国問題は大きく二つの点をクリアしなければなりません…天皇陛下に静かに参拝していただくための環境を整備すること。もう一つは、諸外国のうち特に中国の理解が得られる戦没者慰霊施設にすること」とも言います。女史 「整理」するって言ってるけど、「中国の理解が得られる戦没者慰霊施設にする」というのは、ただの中島君の意見じゃん。教授 中国の理解が得られるようになんかなりませんよ。9月号では、保阪正康氏の「安倍首相 空疎な天皇観」も中身がなかったですね。「空疎」なのは安倍総理の天皇観ではなく、この文章の内容でした。安倍政権が、一昨年の主権回復の日の式典に天皇陛下にお出ましいただいたことなどを「政治的」「脱・歴史」などと非難しているのですが、要は左翼がよくやるお決まりの「天皇の政治利用だ」という批判。国家独立回復の式典に、国のトップが出席されるように取りはからうことのどこが「政治的」なんでしょうか。編集者 最後には「両陛下の歴史への思いが、安倍首相の政治的意思の前に通用しないとすれば、なんと悲しい時代であろうか」と安倍批判をしますが、保阪氏こそ「両陛下の歴史への思い」を、安倍叩きという自分の政治的目的に利用していますね。教授 保阪氏は「安倍首相の天皇観は、佐藤栄作、中曽根康弘といった歴代総理に比べると、その深さにおいて違うように思う。彼らは自らの政治信条のために、天皇を利用することは避けていた」と書き、「皇室と距離をとる」ことが日本政治の常識だといいますが、浅薄な結論です。昭和天皇は日本国憲法下でも具体的な政治問題について頻繁に内奏を求められました。つまり佐藤、中曽根政権時代のほうが現在より皇室と政治との距離は近かったのです。こんな論考が目玉記事になるのだから文藝春秋の劣化は著しい。先生 週刊文春もここのところ劣化の傾向がある。7月16日号のメーン特集「自民党は死んだ」は、ただ政権与党の政策を批判するだけで、雑誌のウリのスクープがなかった。本当に自民党を死なせたいなら、政治家のスキャンダルを載せなきゃ。死んでるのは自民党ではなく文春の方だぜ。教授 しかし、文藝春秋9月号は芥川賞の又吉直樹さんの「火花」が載っているから売れているそうです。私には、彼の小説は一文一文が変に長くて読みにくいですがね。芥川賞選者の一人、村上龍氏も「長すぎる」「途中から飽きた」と酷評していました。編集者 でも雑誌は売れてるんでしょ? あ~あ、又吉さんが正論にも書いてくれないかな~。女史 相変わらず志が低っ!

  • Thumbnail

    記事

    憲法9条もノミネート ノーベル平和賞はどう決まる?

    ノーベル物理学賞受賞に沸く日本ですが、10日午後(日本時間)に発表されるノーベル平和賞には、「日本国憲法9条を保持してきた日本国民」がノミネートされています。ノルウェーのオスロ国際平和研究所(PRIO)が受賞予想のトップ候補に挙げたこともあり、結果に注目が集まっています。日本人の平和賞といえば、「非核三原則」を打ち出した佐藤栄作元首相が過去に受賞していますが、憲法9条は人でも団体でもありません。 ノーベル平和賞はどのように決まるのか、過去の受賞例を振り返りながらみていきましょう。1994年12月10日、中東和平に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞したパレスチナのアラファト大統領(左)イスラエルのペレス外相(中央)とラビン首相の3氏(ロイター/アフロ)【インフォグラフ】数字で見る日本国憲法 3大原理は何?申請して受理されるには? ノーベル賞とはダイナマイトの発明で知られるノーベル(1833~96年)が築いた巨額の遺産ほぼ全額を基金として創設された賞です。簡単にいってしまうと「スウェーデンの賞」(ノルウェーはノーベル存命中はスウェーデンとの連合王国だった)。「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」がスウェーデン王立科学アカデミーによって、「医学生理学賞」はスウェーデンの医科大学が「文学賞」はスウェーデンの語学研究所が決定します。平和賞だけがノルウェーです(1905年に連合解消)。ノーベルの遺言に基づく措置ですが、理由までは分かっていません。 まず前年の9月から候補者の推薦を受け付けます。ノルウェー・ノーベル委員会(5人)が各国の政府(国務大臣)、国会(国会議員)、研究機関(大学教授など)および過去の受賞者や過去・現在のノーベル委員会委員などに候補者推薦要項が届けられます。平和賞だけは個人だけでなく団体も受賞対象となります。 翌年2月に締め切られ、選考スタート。委員会を中心に多くて20程度に絞り込みます。近年の傾向ではこの段階まで達するのに候補者の10分の1程度となっているようです。候補者名も選考過程も秘密で50年経つと研究目的のため公開されます。10月に受賞者を発表し、12月に授賞式という運びです。今回の憲法9条は市民団体が推薦を目指し、候補者を推薦できる大学教授らの承諾を得てノミネートの運びとなりました。 平和賞は、1901年から始まる古い賞で、第一次世界大戦時(1914~16年)と第二次世界大戦時(1939~43年)は「該当なし」でした。どんな選考基準があるの? 選考過程が秘密なのでハッキリとは分かりません。ただ受賞者の受賞理由から大まかな傾向はうかがえます。第二次世界大戦前は文字通りの平和運動家や世界秩序の安定化や紛争を停止した政治家などに多く贈られてきました。 戦後は幅がやや広がり、人権擁護や民主化が大きなキーワードになっています。強権が振るわれている地域での活動家などです。国際原子力機関(2005年)など軍備縮小の歩みを刻んだ受賞も多くみられます。加えて最近では国連気候変動に関する政府間パネル(07年)のように環境保護へも高い評価を与えている傾向があります。過去の受賞例は?「ノーベル平和賞」1990年以降の主な受賞者 ノルウェー・ノーベル委員会委員はノルウェー国会によって選ばれ、ほぼノルウェー人と考えていいでしょう。現在の構成もそうなっています。ただしノルウェー政府は常々「政府とは関係ない独立機関」との見解を述べてはいるのです。 ただ、本当にそうなのでしょうか。例えば1994年の受賞者はパレスチナ紛争に一定のメドをつけてイスラエル建国で住む場所を失ったパレスチナ人とイスラエルの間で、前者の暫定自治政府を認める「オスロ合意」に積極的に関わったとしてアラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長、ラビン・イスラエル首相、ペレス同外相に与えられました。「オスロ合意」の名でわかるように交渉の中心的存在だったのはノルウェー政府です。 ただこの「政府とは関係ない独立機関」が役立つ場面もあります。例えば、中国の民主化運動指導者で服役中の劉暁波氏が2010年に受賞した際には面目丸つぶれの中国政府が猛反発しました。中国は敵視するチベット指導者ダライ・ラマ14世にも1989年に贈られた過去もあり頭に来たのでしょう。それでもノルウェー政府は平然と例の「政府とは関係ない独立機関」論で押し切ってしまいました。こうなると委員会と政府を一体とみなし(一体なのだが)、挑発を続けると中国の国際的印象が悪くなるので、これ以上強いず「無視」という形で通り過ぎさせてきました。 政治的な配慮が過ぎるという批判もあります。2012年受賞の欧州連合(EU)はまさに欧州債務危機の最中でEU崩壊かと不安視する向きもある中でした。応援のメッセージがなかったとは誰も思わないでしょう。「核なき世界」演説が評価された米オバマ大統領の受賞(09年)も「話しただけでノーベル賞か?」と疑問視されました。これもまた一種の応援とみなされます。 なお今回の「日本国憲法9条」がノミネートにまで至ったのもまた一種の「励まし系」でしょう。集団的自衛権の行使容認など安倍晋三政権の「9条骨抜き」批判への応援とも推測できます。ちなみに法律は受賞対象ではないので、受賞すれば対象は「日本国民」となります。 日本人の受賞者は1974年の佐藤栄作元首相のみ。在任中の1968年の国会答弁でいわゆる「非核三原則」(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の基本方針を答弁したのが直接の評価とされています。しかし日米安全保障条約下で基地を提供している日本に米軍が核兵器を持ち込んでいないととは考えにくく、近年の公文書公開などで佐藤首相は持ち込みを知っていて日米首脳会談で米ニクソン大統領との間で密約していたのがほぼ確実となっています。突出する日本の「ノーベル賞信仰」 ノーベル賞が日本で事実上「世界最高の賞」と位置づけられる理由として、もちろん選考委員の努力があったことは認めますが、それにしても評価が絶大すぎます。現に他の北欧の賞があまり注目されてもいません。 そうなった最大の理由は、日本人で初めて受賞(物理学)した湯川秀樹博士(1949年)が、文字通り性格的にも思想的にもすぐれていたので、その類推を後の受賞者に重ねるからでしょう。また湯川博士はすぐれた文章家で、多くの人に著作を通して親しまれたので、教育者のイメージも重ねられているように感じます。 さらにいえば、湯川博士の受賞が敗戦直後であり、打ちひしがれた日本人に誇りを取り戻す効用があった点も見逃せません。ばんどう・たろう 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】

  • Thumbnail

    記事

    憲法違反を恥じない安倍首相こそ本当の「ルーピー」ではないのか

    辺輝人(弁護士) 安倍晋三首相がミュンヘンで記者会見し、今国会に提出されている「安保法制」について、憲法違反ではない、と釈明しました。しかし、この記者会見の内容自体、安倍首相が本当に憲法とか立憲主義とか法の支配とか、そういう概念を理解しているのか大変疑わしい内容になっています。 安倍首相は記者会見の冒頭部分で、ウクライナ情勢に絡み下記のような発言をしています。「私たちには共通の言葉があります。自由、民主主義、基本的人権、そして法の支配。基本的な価値を共有していることが、私たちが結束する基礎となっています。」「力によって一方的に現状が変更される。強い者が弱い者を振り回す。これは欧州でもアジアでも世界のどこであろうと認めることはできません。法の支配、主権、領土の一体性を重視する日本の立場は明確であり、一貫しています。」産経新聞 ここで言う「法の支配」とは、安倍首相が知らなかったという故・芦部信喜教授の教科書によれば以下のような概念です。法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。~中略~法の支配の内容として重要なものは、現在、(1)憲法の最高法規性の観念、(2)権力によって犯されない個人の人権、(3)法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law)、(4)権力の恣意的行使をコントロールする裁判所に役割に対する尊重、などだと考えられている。出典:芦部信喜『憲法 新版』(岩波書店 1997年) 安倍首相は、冒頭部分では、大変崇高な理想を掲げたことになります。が、そもそも安倍首相は「法の支配」の意味を理解しているのでしょうか。根本的な疑問があります。そして、安倍首相は、国内での「安保法制」に対する激しい批判に対しては、以下のように述べ、すでに散々批判され、破綻した理屈と繰り返すだけです。「今回の法整備に当たって、憲法解釈の基本的論理は全く変わっていない。この基本的論理は、砂川事件に関する最高 裁判決の考え方と軌を一にするものだ」「今回、自衛の措置としての武力の行使は、世界に類を見ない非常に厳しい、新3要件のもと、限定的に、国民の命と幸せな暮らしを守るために、行使できる、行使することにいたしました。」「武力行使においても、この新3要件を満たさなければいけないという、この3条件があるわけです。先ほど申し上げた、憲法の基本的な論理は貫かれていると私は確信しております」産経新聞 この砂川事件の最高裁判決を持ち出す言い訳はすでに方々から批判され、最近は言わなくなっていましたが、言うに事欠いてまた出てきたのでしょうか。砂川事件の最高裁判決のテーマは、米軍の駐留の合憲性に関するもので、日本国の自衛権に関するものではありません。自衛権に関して言及した部分も個別的自衛権に関するものであると考えられています。むしろ、今話題の長谷部恭男教授は、2014年3月28日の日本記者クラブでの講演で「集団的自衛権は現在の憲法9条の下では否定をされているというのは、実は砂川事件からも出てくる話ではないかと私は思っております」と述べ、砂川事件の最高裁判決はむしろ集団的自衛権を否定するものとしています。下記動画の30分41秒以降をご覧下さい。追記:砂川事件の最高裁判決については、九州大学の南野森教授も「現在に至るまで、最高裁判所が自衛隊を合憲と判断したことはない」という記事を書いています。 安倍首相が自己正当化の根拠としてもう一つ掲げた「新三要件」なるものも、そもそもこれを決めた2014年7月1日の閣議決定自体が憲法9条違反だとして激しく批判されたものです。さらに、今国会の論戦で、政府はむしろこの「新三要件」を、歯止めを掛ける方向ではなく、自衛隊を積極的に海外に出し、武力行使をするための要件として活用しています。この点については、筆者の「憲法9条、安倍政権を走らす」をご参照下さい。安倍首相をはじめとする政府の国会答弁が分かりにくいのは、憲法9条と「新三要件」のねじれ、「新三要件」と国会に提出した10法案のねじれ、という二重のねじれにより、国会答弁が憲法9条と関係ないものになっているからなのです。安倍首相こそ本当の「ルーピー」ではないのか会見で記者を指名する安倍晋三首相=9月24日午後、東京・永田町の自民党本部 かつて鳩山元首相が米国のワシントンポスト紙に「ルーピー」と罵倒されました。輪っかを意味する「loop」から派生して「混乱した、ばかな」という意味があるそうです。彼のワシントンポストが堂々と使ってる位なので、筆者も使ってよいのではないかと思います。筆者は、散々、憲法違反と名指しされているのに、自省することもなく、まともに反論することもなく、壊れたレコードのように破綻した自説を繰り返すだけの安倍首相こそ「ルーピー」の名に相応しいと思わざるを得ません。安倍首相は、今日、日本に帰ってくるようですが、帰国後はさらに「憲法を守れ」「ルールを破るな」という批判を強める必要があります。(『Yahoo!ニュース個人』より2015年6月9日分より転載)わたなべ・てるひと 弁護士。1978年生まれ。日本労働弁護団常任幹事、自由法曹団常任幹事、京都脱原発弁護団事務局長。労働者側の労働事件・労災・過労死事件、行政相手の行政事件を手がけています。残業代計算用エクセル「給与第一」開発者。主な著書に『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? ナベテル弁護士が教える残業代のカラクリ』(旬報社)。

  • Thumbnail

    記事

    急がれる「安保関連法案」の成立 憲法学者の変節と無責任を問う

    解を得るに至っていない。 しかしながら、安全保障関連法案を速やかに成立させないかぎり、次の課題である憲法改正に取り掛かることはできない。また、憲法改正が容易でないなか、日本の防衛と安全のためいますぐにでもできることは何か。それが「集団的自衛権」に関する従来の政府見解を変更し、法律の整備をすることである。したがって、この問題はきわめて重大である。混乱の張本人は船田元議員 ところが、6月4日の衆議院憲法審査会に呼んだ参考人が、事もあろうに自民党が推薦した学者まで含めて、3人全員が集団的自衛権の行使を憲法違反としてしまった。そのため、野党や護憲派のマスメディアがすっかり勢いづいてしまった。 聞くところによれば、自民党の理事会では参考人候補として筆者の名前も出たが、船田元議員が「色が付きすぎている」とかよくわからない理由で反対し、違憲論者を呼んでしまうことになった。この混乱を惹き起こした張本人は船田議員である。 その後、菅義偉官房長官が記者会見の折、「合憲つまり憲法違反ではないとする憲法学者もたくさんいる」と答えたところ、それは誰かが問題とされ、国会で名前を訊かれた菅官房長官が、西修・駒澤大学名誉教授や筆者ら3人の名前を挙げた。そのため一躍、渦中に引き込まれることになった。日本記者クラブで記者会見する、憲法学者の百地章日大教授(左)と西修駒沢大名誉教授=2015年5月19日午後、東京・内幸町 じつは、筆者の呼び掛けで10人の憲法学者が名乗り出てくれたのだが、それ以外にも「賛成だが名前を出さないでほしい」と答えた著名な国立大学の教授などもいた。憲法学界には依然として自衛隊違憲論者が多く、「憲法改正に賛成」などといおうものなら、それだけで警戒されたり、排除されかねない雰囲気がいまだに存在する。そのため、はっきり意見が表明しにくい状況にある。 これがきっかけとなって、6月19日には日本記者クラブで、同29日には外国特派員協会で、西修先生とともに記者会見をすることになった。そこで、憲法と国際法をもとに集団的自衛権の行使が合憲である理由を詳しく述べたところ、テレビや新聞各紙が意外と丁寧に報道してくれることになった。また、外国特派員協会での会見は、その後『ニコニコ動画』や『YouTube』でもけっこう話題になったようで、7月12日には思いがけず、NHK総合テレビの『日曜討論』にも出演することになった。 違憲論者が多いなかで、筆者らの見解がかえって新鮮に受け取られたのかもしれない。しかし、ごく常識的なことを述べただけだから、それだけ憲法学界が世間の常識とズレている証拠でもあろう。集団的自衛権は国際法上の権利 さて、集団的自衛権であるが、これは「自国と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされたときは、それを自国の平和と安全を害するものとみなして、対抗措置をとる権利」のことである。そのポイントは、他国への攻撃を「自国に対する攻撃とみなして対処する」ことにある。つまり、戦争をするためではなく、それによって武力攻撃を「抑止」することに狙いがある。 このことは、集団的自衛権の行使を認めた各種条約から明らかである。たとえば、北大西洋条約には「欧州または北米における締約国に対する武力攻撃をすべての締約国に対する攻撃とみなし……集団的自衛権を行使する」(5条)とあり、全米相互援助条約なども同じである。 また、集団的自衛権と個別的自衛権は不可分一体の権利であると考えられている。このことは、刑法の「正当防衛」(36条)と比較したらよくわかる。というのは、国内法上、個人に認められた「正当防衛権」に相当するのが、国際社会における国家の「自衛権」と考えられるからである。 刑法36条は、次のように規定している。「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」と。つまり「正当防衛」とは「急迫不正の侵害」が発生した場合、「自分」だけでなく一緒にいた「他人の権利」を防衛することができる、というものである。 であれば、国際法上の自衛権についても、個別的自衛権と集団的自衛権を不可分一体のものと考えるのが自然であろう。 また、集団的自衛権の行使を文字どおり「自国に対する攻撃」とみなせるような場合に限定すれば、アメリカに追従して地球の裏側まで行くなどといったことはありえない。それゆえ、集団的自衛権の行使の範囲を新政府見解のいうように「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定すれば、「必要最小限度の自衛権の行使は可能」としてきた従来の政府答弁との整合性も保たれると思われる。国際社会では国際法が優位 集団的自衛権は、国連憲章51条によってすべての国連加盟国に認められた国際法上の「固有の権利」(フランス語訳では「自然権」)である。それゆえ、たとえ憲法に明記されていなくても、わが国が国際法上、集団的自衛権を保有し行使できるのは当然である。 ところが、集団的自衛権が国際法上の権利であり、米英各国をはじめ世界中の国々が国連憲章に従ってこの権利を行使していることに気付かない憲法学者がいる。彼らは、必死になって日本国憲法を眺め、どこにも集団的自衛権の規定が見つけられないため、わが国では集団的自衛権の行使など認められない、と憲法解釈の変更に反対する。なかには、憲法のなかに集団的自衛権を見つけ出すことは、「ネス湖でネッシーを探し出すより難しい」などと無知をさらけ出している者もいる。それならば、アメリカ、フランス、ドイツなど、諸外国の憲法を調べてみればよかろう。わざわざ憲法に集団的自衛権を明記している国など、寡聞にして知らない。 つまり、通説に従えば条約よりも憲法が優位する国内と異なり、国際社会においては、憲法よりも国際法(条約、慣習国際法)が優先され、国家は国際法に基づいて行動する。それゆえ、集団的自衛権の行使についても、わが国は国連憲章51条によって、すべての加盟国に認められたこの「固有の権利」を行使することができるわけである。 同じ事は、「領土権」についてもいえよう。領土権も国際法によって認められた主権国家に固有の権利であるから、憲法に規定があろうがなかろうが、当然認められる。それゆえ、各国とも国際法に基づいて領土権を主張している。この点、憲法には明文規定がないから、わが国には領土権は認められず、したがってわが国は領空や領海を侵犯する外国機・外国船を排除することなどできない、と主張する憲法学者はいないであろう。日本国憲法には禁止規定なし このように、集団的自衛権は国連憲章によってすべての主権国家に認められた「固有の権利」であるが、憲法で集団的自衛権の行使を「禁止」したり「制約」することは可能である。また、国連加盟に当たって、集団的自衛権の行使について何らかの「留保」をなすこともできる。 しかしながら、日本国憲法憲法9条1、2項をみても、集団的自衛権の行使を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定は見当たらない。つまり、集団的自衛権の行使を「憲法違反」とする明示的規定は存在しない。また、わが国が国連加盟に当たって集団的自衛権の行使を「留保」したなどという事実もない。それゆえ、わが国が他の加盟国と同様、国連憲章に従って集団的自衛権を「行使」しうることは当然のことであって、憲法違反ではない。 ちなみに、京都大学の大石眞教授も、筆者と同様の見解を表明している。教授は「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず、集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」として集団的自衛権の行使を容認している(「日本国憲法と集団的自衛権」『ジュリスト』2007年10月15日号)。 とすれば、「わが国は集団的自衛権を保有するが、行使することはできない」などという奇妙な昭和47(1972)年の政府見解は、国際法および憲法からの論理的な帰結ではなく、あくまで当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。これについて西修教授は、当時の政治状況のなかから生み出された妥協の産物にすぎない、と指摘している(「集団的自衛権は違憲といえるか」『産経新聞』平成27年6月12日付)。それゆえ、政府がこのような不自然な解釈にいつまでも拘束される理由は存在しない。 この点、最高裁も、昭和34(1959)年12月の砂川事件判決で次のように述べている。「憲法9条は、わが国が主権国家としてもつ固有の自衛権を否定していないこと」そして「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な措置をとりうることは、当然である」と。判決を見れば明らかなように、この「固有の自衛権」のなかには個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含まれている。 つまり、憲法81条により、憲法解釈について最終的な判断権を有する最高裁が集団的自衛権を射程に入れた判決のなかでこのように述べているのであるから、憲法違反の問題はクリアできていると考えるべきである。 それゆえ、わが国が集団的自衛権を行使できることは、国際法および憲法に照らして明らかであり、最高裁もこれを認めているのだから、「集団的自衛権の行使」を認めた政府の新見解は、何ら問題ない。 とはいうものの、憲法9条2項は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めており、その限りで集団的自衛権の行使が「制限」されることはありえよう。そのため、政府の新見解も、集団的自衛権の行使を「限定的に容認」することになった。したがって、政府の新見解は「憲法9条の枠内の変更」であって、まったく問題はないし、憲法に違反しないと考えられる。説得力を欠く憲法学者たちの違憲論説得力を欠く憲法学者たちの違憲論 以上述べてきたように、憲法および国際法の常識に従えば、わが国が従来の政府見解を変更して集団的自衛権の限定的行使を認めても、憲法違反ということにはならない。 ところが、テレビ朝日の『報道ステーション』が行なったアンケート調査によれば、安保法制に関する憲法学者の見解は、151名の回答者中、憲法違反が132名、合憲はわずか4名であった(6月15日放映)。また、『東京新聞』の調査でも回答者204人中、法案を違憲とする者が184人、合憲は7人(7月9、11日付)、『朝日新聞』の調査では122名の回答者中、違憲とする者104人、合憲とする者2名であった(7月11日付)。 野党や護憲派マスメディアは早速これに飛び付き、専門の憲法学者たちはほとんど憲法違反としているではないか、と政府を批判しだした。 しかし、その違憲理由たるや「従来の政府見解を超えるもので許されない」「法的安定性を欠く」「立憲主義に反する」といったきわめて曖昧なものであって、どう見ても説得力に欠けている。そこで、6月4日の衆院憲法審査会で違憲論を述べた3人の憲法学者の意見を検討することにしよう。 まず、早稲田大学大学院法務研究科の長谷部恭男教授によれば、(1)集団的自衛権の限定的行使を認めた政府の新見解は、集団的自衛権の行使は許されないとしてきた従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない、(2)このような解釈の変更は、法的安定性を揺るがす、(3)新見解は外国軍隊の武力行使との一体化につながるのではないか、ということが憲法違反の理由として挙げられている。 しかしながら、新見解を違憲とするためには、たんに「従来の政府見解の枠を超える」だけでは足りず、それが「憲法の枠を超える」ことの説明が必要である。しかし、その説明はどこにも見当たらない。また「法的安定性の確保」はもちろん大切なことだが、やむをえない場合もあり、それだけでは憲法違反の理由にはならない。 また、政府見解がこれまで「武力行使との一体化」を禁止してきたこととの整合性であるが、「武力行使との一体化」論は、もともと自衛権の発動とは別の話である。つまり、「武力行使との一体化」論は、「他国軍への後方支援活動」の際の判断基準である。それに対して、集団的自衛権の発動は、「武力行使そのもの」に繋がるものであるから、これは「集団的自衛権の行使」を違憲とする理由にはならない。 ちなみに、長谷部教授は自著のなかで、「国家とは、つきつめれば我々の頭の中にしかない約束事であるから、国家の存在を認めないこともできる」といい、「国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではない」などといっている(『憲法』)。個別的自衛権さえ疑っており、このような人物に集団的自衛権について問うこと自体無意味であろう。 また、長谷部氏は、小林節・慶應義塾大学名誉教授との対談のなかで尖閣諸島問題に触れ、「あんな小島のために米軍が動くと本気で思っているんですかね」と放言するような御仁でもある(『週刊朝日』平成27年6月26日号)。小林節教授の度重なる変節 小林節教授は、かつて『憲法守って国滅ぶ』(平成4年、ベストセラーズ)のなかで、次のように述べていた。 「わが国〔が〕自衛戦争と自衛軍の保持までも自ら禁止したのだという意味に9条を読まなければならない理由はない。……それは、しばしば皮肉を込めて呼ばれている『理想主義』などではなく、もはや、愚かな『空想主義』または卑怯な『敗北主義』と呼ばれるべきものであろう」 「冷静に世界史の現実を見詰める限り、世界平和も各国の安全もすべて諸国の軍事的バランスの上に成り立っていることは明らかである。したがって、わが国が今後もたかが道具にすぎない日本国憲法の中に読み取れる『空想主義』を盾にして無責任を決め込んでいく限り、早晩、わが国は国際社会の仲間外れにされてしまうに違いない」と。 9条の下で、政府見解のいう「自衛力」どころか、「自衛軍」まで保持可能とし、憲法を「たかが道具にすぎない」と述べていた氏は、現在、集団的自衛権の限定的行使でさえ憲法違反とする急先鋒であり、憲法は「権力者をしばるもの」であることのみ強調している。衆院本会議で民主党などが退席するなか安保関連法案が可決した=2015年9月16日午後、国会内(三尾郁恵撮影) たしかに、この本が出てから約20年がたっており、それをいまさら持ち出されても、というかもしれない。であれば、次に述べる「集団的自衛権」についての「変節」については、どのように釈明するのであろうか。 小林氏は2008年には集団的自衛権の行使を「違憲」、2013年には「合憲」、そして2014年になると再び「違憲」としている。 (1)「集団的自衛は海外派兵を当然の前提にしている。この点で、集団的自衛権の行使は上述の憲法上の禁止に触れてしまう」(「自衛隊の海外派兵に疑義あり」月刊『TIMES』2008年1月号) (2)――「集団的自衛権の考え方については、どうですか」。小林節氏「自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です。……だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」 ――「憲法を改正しなくても、集団的自衛権は現段階でも解釈次第で行使することができるというわけですね」。小林節氏「できます」(「『憲法改正』でどう変わる? 日本と日本人【第2回】」『Diamond Online』2013年7月26日) (3)「現行憲法の条文をそのままにして(つまり、憲法改正を行わずに)、解釈の変更として集団的自衛権の行使を解禁することは、私は無理だと思う」(「“解釈改憲”で乗り切れるのか」月刊『TIMES』2014年1月号) 氏は、日本記者クラブでの記者会見でも「安倍独裁」を連発し、「安倍内閣は憲法を無視した政治を行う以上、これは独裁の始まりだ」と力説している。たとえ気に食わないからといって、いやしくも憲法学者と称する人物が、議院内閣制のもと、国会によって指名され天皇に任命された首相を一方的に「独裁」呼ばわりするのはいかがなものであろうか。 最後に、笹田栄司・早稲田大学法科大学院教授だが、氏も長谷部氏と同様、集団的自衛権の行使を認めた政府の新見解は、「従来の定義を踏み越えている」ことを理由に、憲法違反としている。しかし、それだけでは違憲の理由とはなりえない。国家論なき戦後の憲法学者たち 自衛隊違憲論者に共通しているのは、国家観ないし国家論の不在であろう。 筆者は、かつて『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)のなかで、次のようなことを述べたことがある。 政府見解や砂川事件最高裁判決は憲法典以前に「国家」というものを考え、それを前提に憲法解釈を行なおうとする現実的な姿勢がうかがわれる。つまり国家には、当然、固有の権利としての自衛権があるから、どこの国であれ、自国の独立と安全を守るために、自衛権の発動としての武力行使ができないはずはない。したがって、仮に憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、不文の憲法ないし条理に基づき、自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるをえない。なぜなら、「国家は死滅しても憲法典を守るべし」などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。それに前文や9条が夢想するような国際社会など、当分実現するはずがない。このような判断が暗黙のうちに働いているように思われる。 これに対して、少なくとも自衛隊違憲論者たちは憲法典至上主義に立ち、あくまで条文の厳格な文理解釈に固執する。つまり「国家不在」の憲法論である。それとともに、よくいえば理想主義、悪くいえば現実無視の観念論を振りかざす。したがって、現実的妥当性を重視するなどといった大人の常識は通用しない。 同じ事が、集団的自衛権違憲論者たちにもいえるかどうかはわからない。しかし集団的自衛権違憲論者のなかには、水島朝穂・早稲田大学法学学術院教授などのように自衛隊違憲論者も少なくない。 先に紹介した『朝日新聞』の調査では、回答者122名中、「自衛隊を憲法違反と考える」憲法学者が50名、「憲法違反の可能性がある」とする者が27名もいた(『朝日新聞DIGITAL』2015年7月11日)。なんと回答者の3分の2近くが自衛隊を違憲ないし違憲の疑いありと考えているわけである。これが憲法学界の現状である。 このことを考えれば、確たる国家観をもたなかったり、国家意識の希薄な憲法学者が多数いたとしても不思議ではなかろう。 国際法に基づき、集団的自衛権の限定的行使に踏み切るのか、それとも国家意識なき無責任な憲法学者たちの言辞に翻弄され、国家的危機に目を閉ざしつづけるのか、いまこそ国民各自の見識が問われている。ももち・あきら 1946年、静岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了(専攻は憲法学)。法学博士。愛媛大学法文学部教授を経て、現在、日本大学法学部教授、国士舘大学大学院客員教授。著書に、『「人権擁護法」と言論の危機』(明成社)、『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)など多数。関連記事■ なぜ憲法論議には歴史認識が必要なのか■ 憲法議論の前に知っておきたい「憲法の3つの顔」■ 中国は本気で「核戦争」を考えている

  • Thumbnail

    記事

    「立憲主義なんて知らない!」 姑息な安倍総理はやはり信頼できない

    する礒崎陽輔首相補佐官=2015年8月3日(酒巻俊介撮影) 自民党が2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」(以下、「改正草案」とする)を発表したが、この「改正草案」に対しては「立憲主義を理解していない」とする批判がなされた。それに対して自民党の憲法改正推進本部の事務局長にある礒崎陽輔氏は「意味不明な批判」だ、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません」とTwitter上で「つぶやき」物議を醸したことは記憶に新しい。礒崎氏は学部時代真面目に憲法の講義を聞いていたのかという、皮肉めいた批判がなされたが、礒崎氏が学生時代に憲法の講義を真面目に聞いていたのかどうかは大した問題ではない。本質的な問題は、自民党で「改正草案」の作成に中心的な役割を果たしたはずの人物が、「立憲主義」という概念についてよく知らないと堂々と答えたことにある。「立憲主義」をよく知らない人が憲法改正の草案を作成していることが深刻な問題である。歴史の知恵としての「立憲主義」 立憲主義には広い理解と狭い理解がある。広い意味では、立憲主義とは国家権力を法(=憲法)によって縛ることを意味する。この意味での立憲主義の起源は、中世から存在している。しかし、現在問題になる「立憲主義」とは、たんに国家権力を法によって縛ることを意味するのではなく、その場合の法(=憲法)の中味が問題となる。「立憲主義」とは、人が人であるというだけで権利(=人権)を有し、その権利は多数者の意思によってでも侵害できないということを前提とした憲法によって国家権力を縛ることを意味する。「人権」という原理は近代の産物である。その意味で、こうした立憲主義とは特に近代立憲主義と呼ばれることが多い。 近代立憲主義が生まれたきっかけはヨーロッパの宗教戦争にある。人はふつう自分が良いと思うものを他者にも勧めたがる。それは人の性である。しかもことが宗教の場合、それはたんに良いものではなく、相手を救うために強く勧める必要がある。しかし、相手が別の信仰を有している場合、それは「お節介」ではすまない。ある人にとっての信仰は別の人にとっては邪教である。それを押し付けようとすれば、弾圧になるか、弾圧に抗して闘争、そして戦争にまで発展する。異なった信仰を有する人々がどのようにすれば戦争をしないで平和的に共存することが可能か。その問いに対する答えが、信仰に関しては、可能な限り、個人が自分で決定し、みんなで決めることはしない、つまり信教の自由を保障することであった。これが、近代ヨーロッパが血塗られた宗教戦争を経て生み出した知恵である。 だが、人にとって譲れない価値は何も信仰だけとは限らない。それぞれの人にとって何が善い生き方かは異なる。信仰に一生を捧げる人生もあれば、愛する人と暮らすことが最良の人生だと考える人もいる。どの人生が最良の人生かを決めるものさしなど存在しない。そのように考えたとき、信仰に限らず誰でもが大切だと思う、生き方に関わるような価値については、「人権」という形で、可能な限り、その人が自分で決められる領域を確保し、その領域についてはみんなで決めることをしないという約束事が必要となる。この約束事が「人権」というコンセプトであり、立憲主義はそうした「人権」の保障を前提としたものとなった。 いま、世界ではこうした意味での近代立憲主義が花盛りである。1989年の東欧革命を経て社会主義体制から自由主義体制に転換した東欧諸国は、相次いで憲法を制定したが、その憲法には「人権」が刻印されている。「人権」を前提とする近代立憲主義は今ではグローバル・スタンダードである。「訣別宣言」としての自民改正草案 ところが、自民党の「改正草案」はこれとは異なった考え方に立脚している。「改正草案」は、三つの意味での「訣別宣言」だと読める。(1)個人主義からの訣別 第一は、「個人主義」からの「訣別宣言」である。そのことが、端的に見られるのは13条の条文の改正である。日本国憲法において「どの条文が一番大事だと思いますか?」と聞かれると、私は「13条だ」と答えることにしている。憲法13条は、「すべての国民は、個人として尊重される」ということを明確にした条文である。それに対して「改正草案」の13条では、巧みに「個人」というものを落としている。改正草案は「すべて国民は、人として尊重される」としており、「個人」ではなくて「人」として尊重されることに変更されている。 「個人」と「人」は、同じではないかと考える方がいるかもしれない。しかし、「個人」と「人」は異なる。「個人」は、多様で異質な存在である。それを丸ごと可能な限り保護しようというのが、現在の憲法13条があらわしている「個人の尊重」である。それに対して、「改正草案」が掲げる「人」とは、多様性ではなくて、同質性を強調するものであるように思われる。「個人」としては多様だけれど「人」としては同じであるという考え方に「改正草案」の13条は立っているように思える。社会契約論、基本的人権からの訣別(2)社会契約論、基本的人権からの訣別 第二の訣別は、国家と個人の関係に関してこれまで日本国憲法がとってきた考え方からの訣別である。日本国憲法は、いわゆる「社会契約」論に基づいている。それは、ロックやホッブズがつくった国家観で、国家がない状態を「自然状態」として想定し、そこは、「万人の万人に対する闘争」といわれるように互いの力関係が支配する状態で、安定した秩序が保てず、自由も十分に確保できない状態である。そこで、秩序を確保し自由を保障するために、みんなで契約して国家を創るというのが社会契約論である。その場合、国家はあくまでも、契約によって作られる人為的な存在であり、国家を創る最大の目的は個人の自由の確保である。しかし、一旦設けられた国家は、秩序を維持できるだけの大きな権限を持っているので、今度はそれ自体が個人にとっては大きな脅威となる。その脅威としての国家を縛ろうというのが憲法である。ここで大事なことは、国家はあくまで人為的、人工的な存在で、実体的な存在ではないということである。 ところが今回の自民党の「改正草案」前文における国家や憲法の位置づけは、それとは大きく異なっている。まず、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」であり、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とされている。最後に、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するために」憲法を制定すると書いてある。 これは単に人工的、人為的な国家ではなくて、長い歴史、固有の文化、伝統を持った実体的な日本国という国家であり、憲法が保障する自由とは、そうした国の国民の権利であると考えている節がある。たしかに改正草案は、「基本的人権」という言葉自体を削除しようとはしていない。ただし、ここで考えられている「基本的人権」は、社会契約論的な基本的人権、つまり1789年のフランスの人権宣言以来確立されてきた、人が人であるというだけで有する基本的人権という考え方ではなくて、固有の歴史、伝統、文化を持った日本人の権利であるように思われる。 今回自民党はこの「改正草案」のQ&Aを作成しているが、そこでは、「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました」と明記されている(Q&A14頁)。天賦人権説は、アメリカなど「神」という概念を前提とする国家では造物主によって与えられた権利を意味するが、多くの場合は「人は人であるというだけで人権を有する」という基本的人権の考え方を意味する。こうした天賦人権説を斥けて、固有の歴史、伝統、文化を持った、日本国の国民にふさわしい権利にしたいというのが自民党の狙いではないのか。 しかし、これは危険な考え方である。ここでの「日本人」というのは、日本国籍とは関係がない。日本国籍を有している、有していないに関わらず、権力の側が定義する「固有の歴史、文化、伝統」があり、それに見合った人にのみ権利は保障されるということになりそうである。権力の側にとって、「固有の歴史、文化、伝統」を共有しない人は、たとえ日本国籍を有する人であろうと、権利は保障する必要がないということになる。これが危険なことは、戦前の「非国民」というレッテルを貼っての排除と弾圧の経験を見れば明らかである。(3)普遍主義からの訣別 第三は、普遍主義からの訣別である。今回の「改正草案」は現在の日本国憲法の97条を削除している。97条では、基本的人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」と規定されている。ここで大切なのは、基本的人権を「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としていることである。日本だけではない、全人類が頑張って努力して獲得してきたのが基本的人権である、だからこれをきちんと継承し、保障するというのが現在の日本国憲法の立場である。改正草案で考えている基本的人権が、日本の固有の歴史、伝統、文化にのっとっているのだとすれば、普遍的な西欧の人権思想は嫌だから、97条は削除する必要があったのだろうと思われる。2012年4月27日、自民党の憲法改正草案を手に記者会見する谷垣禎一総裁(酒巻俊介撮影) 誤解を恐れずに言えば、大日本帝国憲法、すなわち明治憲法の起草者たちよりも、今度の「改正草案」を作った人たちは劣化しているように思える。それは、大日本帝国憲法の中味が、今回の「改正草案」と比べてどうこうという話ではない。そうではなく、大日本帝国憲法をつくった人たちは、かなり苦労して西欧の憲法思想を取り入れようとしたということである。それに対して、そういう努力を放棄して特殊日本に回帰しようするのが、今回の「改正草案」ではないのか。 1876年に「大日本帝国憲法を制定せよ」という天皇の勅語が出されているが、そこでは「朕爰ニ我カ建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス」とされている。「国憲」というのは国の憲法のことである。大切なのは、二つのことを考えながら大日本帝国憲法をつくりなさいと天皇が勅語で命じていることである。一つは「建国ノ体」、後に「国体」と呼ばれる、特殊日本の神権天皇制である。ただし、それだけで大日本帝国憲法をつくるのではなく、もう一つの「広ク海外各国ノ成法」――これはまさに西欧近代の憲法思想に盛り込まれた普遍的原理のことである――考慮して、特殊日本と普遍的な西欧思想の両方をにらみながら憲法をつくるよう命じている。 実際に、これを受けて伊藤博文らはヨーロッパに行って、ヨーロッパの憲法を勉強して大日本帝国憲法をつくり上げる。大日本帝国憲法というのは、この二つの要素を両方取り込んだ憲法である。もちろん1931年の満州事変以降は、「建国ノ体」のほうが軍部の台頭によって強くなり、天皇制のほうが圧倒的に強くなるわけだが、「海外各国の成法」、つまり西欧近代の憲法思想が取り込まれている部分が大日本帝国憲法にはたくさんある。 このように、大日本帝国憲法は、特殊日本ということだけにこだわるのではなく、なるべく普遍的なものを入れようとした。それに比べると今回の自民党の「改正草案」は、こうした努力はしない、もうやめましょうという話だろうと思われる。 以上のような意味で「改正草案」は三つの意味での「訣別宣言」であると読むことができる。こうした「改正草案」に対して「立憲主義を理解していない」との批判がなされるのは至極当然な話である。礒崎氏が大学で何を勉強したのかは問わない。歴史が生み出した知恵である「立憲主義」がグローバル化し、広く共有されつつあるいまの世界の状況において、「立憲主義なんてよく知らない」と明言する人間が「改正草案」を作成していることは、私には悲劇としか思えない。 もっともこうした人物を憲法改正作業の中核に据えているいまの政権が、歴代内閣が堅持してきた、集団的自衛権は現在の憲法9条の下では行使しえないとの憲法解釈の変更を、憲法9条の改正というきちんとした手段によるのではなく、一内閣による憲法解釈の変更という姑息な手段に訴えて行おうとしていることは理解しやすい。安倍首相は何かにつけて、私が総合的に判断するから信じて下さいと言う。しかし国家権力は信頼できないというのが歴史の教訓であり、「人権」を基本とする立憲主義によって国家権力を縛るというのが歴史から得たわれわれ人間の知恵である。

  • Thumbnail

    記事

    自衛隊員の本音を聞け~災害派遣とPKO活動の現場から

    隊ではない」という特殊な事情をもつ自衛隊の運用を、自民党が進めようとしている「集団的自衛権」に対する憲法解釈の変更だけで、すべて網羅することは難しいからである。  自衛隊という組織は、法律がなければ動けない。現在の自衛隊の法律では「平時」と「有事」の区別しかないため、たとえば「平時」に海上保安庁の船が沈められようとしても、現状では海自は動けない。  「相手側の武装が本格的で、海保では対処困難な場合は、首相の承認を経て防衛大臣から発令される『海上警備行動』(自衛隊法第82条)を法的根拠に出動できるようになっています。しかし結局のところ、武器の使用は自衛隊の警察権行使で“威嚇”や“正当防衛”などに限られています。中国の公船だと何もできないのが現状です」(海自・M二佐)  「海上警備行動」が初めて出されたのは1999年に漁船を装った北朝鮮の工作船が領海の日本海に侵入し、海保の巡視船が振り切られたときだ。しかし船体射撃ができなかったので、最終的に取り逃がした。  さらに、2004年に中国の原子力潜水艦「漢」級が石垣島周辺を領海侵犯したときにも発令された。だが、海保の所属する国交省と防衛庁(当時)との調整や政治的判断によって、発令があまりにも遅かった。その結果、「追跡」だけで終わり、必要な対策を取ることが遅れている。  管轄する省庁間の縦割り行政も見直すべきだ。中国は日本の法律を詳しく分析し、海保の海上保安法と海自の自衛隊法がまったく別の法体系になっていることに注目し、その「隙」を狙ってくるだろう。どんな状況でもシームレスな対応ができる法律を早急につくる必要性がある。  「『海上警備行動』が発令されるまでは、現実的には、護衛艦や潜水艦の艦長には緊急時の対応についての独自の権限がないため、こちらから動くことは難しい。『海上警備行動』が出ても、諸外国と違って、何があっても交戦することは避けるような法体系であり、ROE(交戦規定、部隊行動基準)も曖昧です。  たとえば魚雷を発射されて損害が出た場合に防衛大臣の許可を得て、初めて『正当防衛』が認められ『反撃』できるのではないでしょうか。そのころには味方が数隻沈められているのでは、とたいへん不安に感じています」(海自・T一尉)  もし中国が離島を本気で狙うのであれば、海上警備行動が発令したとしても、上陸を許してしまうかもしれない。時間が経てば離島占拠は既成事実化してしまうだろう。いったん離島が占拠されれば、軍事的な奪還作戦は難しい。  その次の段階は、いきなり有事の際の「防衛出動」となる。自衛権を行使しなければならないほど相手の攻撃意思が明らかな場合、国会承認などの手続きを経て総理大臣が発令することとなっている。「海上警備行動」と「防衛出動」のあいだに何らかの法整備が必要なのではないか。  相手が漁民などの民間人を装い、武装した“軍人”が尖閣諸島などの離島へ上陸してくるといったケースにもしっかり対応せねばならない。このような“グレーゾーン”と呼ばれるケースなどは、「集団的自衛権」の議論とは別に「個別的自衛権」として法整備を加速化させる必要がある。なぜかというと、そもそも「個別的自衛権」というのは、あくまでも「国家対国家」に限定して用いられる法的概念であるからだ。歴代政府のいままでの見解では、組織的、計画的な武力の行使以外に対しては、わが国は自衛権を行使できないという解釈だ。  現実的には、冷戦終結後の国際紛争の多くは「国家対非国家」あるいは「非国家対非国家」の争い。つまり、いくら「集団的自衛権」の行使が可能になったところで、テロ・ゲリラ組織などに対しては「現行法」で対応するには不備が多い。  これらに対応するのが、主に陸自の場合、「治安出動」という(海自における「海上警備行動」に当たる)。警察官職務執行法を準用した武器の使用が可能(自衛隊法89条)であるが、「事態に応じ合理的に必要と判断される限度で」(同法90条)とされている。  だが、この「治安出動」は、自衛隊創設以来、いままで一度も発令されたことはないし、国会でその運用について議論になったことはあまりない。研究されていないまま、いきなり自衛隊が海外における「治安出動」をさせられたのが、国連平和維持活動(PKO)といってもいい。これまで隊員たちが現地で大いに悩まされてきた自衛隊の「海外派遣」について順次考えてみよう。 現地でのギャップに苦悩  自衛隊初の陸上部隊のPKO活動は、1992年9月のカンボジア派遣であった。当時の社会党、社民連、共産党など野党が「牛歩戦術」で国会の採決を引き延ばしたが、同年の6月に「PKO協力法案」が可決され、自衛隊が「海外派遣」されることになったのだ。  筆者は、当時のニュースを短波ラジオでカンボジアのコンポントムで聞いた。翌年、この地で選挙監視ボランティアの中田厚仁氏(当時25歳)が殺害されるほど、現地は混乱していた。  法案には「紛争当事者間の停戦合意」が前提となっていたが、実際には「停戦合意」は守られていなかった。国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の監視にもかかわらず、政府軍(ヘン・サムリン軍)とポル・ポト派のあいだで、実際に紛争は続いていたのである。UNTACが主導する兵員集結や武装解除も一部の地域以外ではまったく進んでいなかった。政府軍に従軍して地雷地帯をようやく抜けても、ゲリラ化したポル・ポト派の砲弾が雨あられと降り注ぐ。  カンボジアに派遣された自衛隊員たちは、政府から説明されていた状況と現地でのギャップに苦悩することになる。  「93年5月に、文民警官の高田晴行警部補もポル・ポト派と見られる武装ゲリラに殺害されました。われわれが駐留した約1年間ずっと内戦状態でした」(陸自・I准尉・当時)  「ゲリラは当然ながら選挙妨害をします。武器は拳銃と小銃しか携行を許されていないし、ROEが厳しく、ほとんど『正当防衛』『緊急避難』以外は使えませんでした。同じ地域の他国のPKO要員も守れないのです。日本の選挙監視員たちを守る法律もないため、孤立した彼らを『パトロール・巡回』と称して、自らが攻撃を受ければ『正当防衛』するという名目でしか、彼らを守れませんでした」(陸自・M二尉・当時)  政府の要請によって、「海外派遣」が決まれば、その命令に従って自衛隊員は黙々と任務をこなした。  94年9月のアフリカ・ルワンダへの人道的な国際救護活動も同様に「現地ザイールは紛争当事国ではなく、任務遂行に危険が少ない」という政府の判断だった。百戦錬磨のアメリカ軍やフランス軍もあまりの惨状に撤退したこの地に「武装は相手を刺激し、自衛隊の海外での『武力行使』に当たるため小銃のほかは機関銃一丁とし、原則的には不使用とする」として派遣したのは、皮肉なことに野党時代に「自衛隊派遣」に反対した村山富市首相である。  筆者は、同年11月に陸自の宿営地を訪れたが、直前に車を強奪され危険にさらされた日本のNGO職員を「輸送」したとして派遣部隊は一部のマスコミから批判を受けていた。自国民を救出し、安全な場所に「輸送」することもPKO法案や実施計画にはないという理由だ。  これらは、現地の情勢をまったく知らないで自衛隊の「手と足を雁字搦め」にして、一方で平和維持活動を全うせよ、という無理難題であった。  当時、現地はかなり緊迫しており、規律の低下したザイール軍や民兵と難民キャンプに潜伏する武装勢力との衝突は連日。ザイール・ゴマ空港では銃撃戦が発生、筆者をナイロビから運んだ空自のC130輸送機も、長い時間駐機するのは危険との判断ですぐに引き返したほどだ。  ゴマは1700mの高地にあり、昼間は熱帯だが、夜はかなり冷え込む。有刺鉄線と土嚢や塹壕があるだけの宿営地から、難民キャンプで医療行為や人道支援を行なうために毎日、出動し、パトロールする。現地では赤痢やコレラが蔓延し、宿営地の上を曳光弾が飛び交う夜もあった。  真夜中に唯一の装甲車両(指揮通信車)へ、銃撃戦の現場から無線が入る。  「死者2名。頭部を撃ち抜かれている模様」。筆者が、「われわれは生きて無事に帰れるのでしょうか?」と問うと、警護班の班長が少し上ずった声で、  「大丈夫です。この地に陸上自衛隊が存在するかぎりは」  と答えたのが印象に焼き付いている。法的にも武器使用は「正当防衛」しか認められず、カンボジア同様、政府は“机上の空論”だけで送り出していた。  2001年12月、ようやくPKO法案改正で防護対象として「自己の管理の下に入った者」が加えられ「自衛隊の武器等」という文言も加えられた。しかしこれも「たんに言葉の遊び」に近く、基本的には武器使用は「正当防衛」のみという状態が続いている。  こうしているあいだに、2003年3月に米国のイラク戦争が勃発すると、自衛隊は中東に派遣された。航空自衛隊が3~4月、7~8月に「人道的な国際救援活動」として活動し、同年7月に国会で「イラク特措法」が成立すると、翌年1月より陸上自衛隊がサマーワに派遣された。  当時の小泉純一郎首相の「自衛隊の活動する地域は非戦闘地域」という答弁で、イラクでの自衛隊の活動は2009年2月まで続けられた(陸上部隊は2007年7月まで)。  「陸自のサマーワでの活動は給水や道路補修などの人道支援を行ない、治安維持はオランダ軍やオーストラリア軍が頼みでした。陸自の施設や拠点付近で豪州軍が暴徒に襲われたときも、傍観しかできなかったことが少なくとも2回ありました。駆けつけ警護は憲法で禁止された武力行使に当たるためできません。自衛隊の武器使用基準を説明しても、どの国の部隊にも理解できず、白い目で見られました」(陸自・O三佐)  「施設では陸自の活動中、ロケット弾や迫撃砲による攻撃を13回にわたって受けています。これらによる死者は運良く出ませんでしたが、まさに『戦闘地域』に当たるのではないでしょうか。イラク特措法で派遣された自衛隊員のうち陸海空合わせて16人が自殺しています(在職中)。派遣後も入れると自殺者は合計28人とされていますが、人道復興支援とはいえ、実際は戦地に行くのですから心のケアもこれから重要だと思います」(陸自・H一尉)  派遣任務自体を否定するつもりはないが、送り出した「政府」の「認識の甘さ」に、現地に派遣された「隊員」が大きく振り回され、心を病んでいったのかもしれない。 国民の理解と支えが必要  自衛官は入隊時より「国を守るために命懸けの仕事をするのが使命」とわかっていても、彼らも一人の人間だ。死ぬことを嫌がらない隊員など、どこにもいないのではないか。  彼らの心情を理解してあげることで、自衛官は危険な任務にも就くことができるだろう。言い換えれば、任務を全うさせるためには、国民の理解と支えが必要なのだ。それがなければ自衛隊は活動できない。  「違憲の存在」「軍国主義の復活」あるいは「海外派兵」などという批判は、彼らではなく、時の政治家に対して発する言葉だろう。  自衛隊が創設されたとき、旧軍のように軍部が暴走することのないように、シビリアン・コントロール(文民統制)の下にその組織を置いたのは間違いではない。  だが、60年という歳月のあいだ、彼らは与えられた任務を全うしてきた。それはわが国の平和と独立を守り、人命救助の災害派遣や国連PKO活動などの国際平和協力活動にも黙々と参加してきたことである。現在、“暴走”しているのは政府のほうではないだろうか。  政治的議論になっている「集団的自衛権」も、首相は「自衛隊が武力行使を目的とした湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と明言しているが、具体的な「歯止め」がきわめて曖昧に残ったままで疑問が残る。  筆者は、1985年8月に起きた日航機墜落事故の御巣鷹山の凄惨な現場で、救出任務から御遺体収集を最後まで行なった隊員たちの姿を見て以来、事あるごとに国内外での自衛隊の活動に同行してきた。現在までに、日本を取り巻く国際環境は大きく変化していることも事実であろう。一方でアメリカ軍の活動にも少なからず同行する機会をもったが、混迷を深める今世紀に入って、彼らが体験したのは、二つの大きな戦争だ。アフガニスタン紛争とイラク戦争である。双方の戦争で犠牲になった兵士の数は、アメリカ軍だけではなく攻撃に参加した多国籍軍も入れると、現在までに約8000人だ。自衛隊員にも「血を流せ」とは現状ではとてもいえない。  ただでさえ東シナ海に進出しようとしている大国・中国を目の当たりにして、自衛隊が戦うべき相手はアメリカの「敵国」ではないだろう。神学論争の末に、自衛隊が「政争の具」にされるのには違和感を覚える。  むしろ急務なのは、“国防最前線”の自衛隊の行動についての法的基盤やROEを定め、安全保障体制を構築することではないだろうか。それこそが“普通の国ニッポン”になることではないか、と筆者は信じる。 せら・みつひろ 1959年、福岡県出身。中央大学文学部フランス語文学文化専攻卒。時事通信社を退職後、集英社フリー編集者を経て、99年に独立し現在に至る。現場第一主義でフィリピン革命や天安門事件、湾岸戦争などをはじめとして世界の紛争地を回り、ルポを発表する。著書に『世界のPKO部隊』(三修社、共著)、『坂井三郎の零戦操縦(増補版)』(並木書房)など多数。

  • Thumbnail

    テーマ

    「戦争法案」と叫ぶ平和ボケ論者に問う

    政府が今国会での成立を目指す安保法案をめぐり、与野党の攻防が一段と激しくなっている。国会前では「戦争法案反対」と主張する学生らのデモが続く。日本を取り巻く脅威には目を背け、まるでお経のように「護憲」と「恒久平和」を唱える人々に問いたい。もう机上の空論はやめませんか?