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    世界秩序が混乱の度を深める中、なぜ日本には危機感がないのか

    いるのと対照的なほど、日本には危機感がない。 大手新聞が昨年11月に実施した自民党の党員意識調査で、憲法改正を「急ぐ必要はない」と答えた者が57%だったという。国際情勢の大局が分かっていないか、世渡りのうまい回答ではないか。 年頭の心配はこの一点だ。たくぼ・ただえ 昭和8年、千葉県生まれ。外交評論家、杏林大学名誉教授。早稲田大学法学部卒。時事通信社でワシントン支局長などを歴任。59年に杏林大学教授、平成8年から現職。専門は国際政治。著書に『戦略家ニクソン』(中公新書)など。第12回正論大賞受賞。

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    最高裁は安保法制のオトシマエをつけるか?

    して違憲判決を出すか 我が国の最高裁は基本的には「付随的違憲審査制」を採用しています。法令そのものが憲法に適合しているか否かを抽象的には判断せず、具体的に国民の人権が侵害されたときに、その救済に必要な範囲でしか、憲法違反の判断をしないのです。安保法制との絡みで言えば「安保法制に基づき、政府が海外で集団的自衛権を行使した際に戦死した(生きる権利を侵害された)自衛隊員の家族が、国を相手に国家賠償訴訟を提起した場合」などが典型事例です。しかし、この問題に落とし前をつけるのに、その様な破局的事態を待つべきではないことは明らかでしょう。戦死したからと言って、遺族が訴訟を起こすとも限りません。むしろ、過去の事例からしても、政府は全力を挙げて遺族が訴訟を起こさないように手を打つでしょう。 また、この間有名になった砂川事件最高裁判決(判決要旨は最高裁のサイトでどうぞ)において、最高裁判所は日米安保条約の憲法適合性について、「統治行為論」を採用して、判断を避けました。今後も、最高裁は、外交・防衛上の重要事項については、審査権が及ぶ範囲でも、判断しない可能性が高いでしょう。上記の自衛隊員の戦死の事例ですら、憲法判断がされない可能性が十分あるのです。 最高裁判所が、判決主文で請求を棄却しながら、理由中の判断で安保法制の憲法適合性について判断する可能性は、微粒子レベルであるかもしれませんが、仮にそのような判断をしても、今の政府がそれを無視する可能性は、この間の国会の議員定数不均衡の問題を見ても、極めて高いでしょう。 安保法制が国会で審議されている間、自民党の高村正彦・副総裁や、谷垣禎一・党幹事長など、法曹資格を持つ与党議員が「違憲審査は最高裁が行う」旨を、しれっと発言してきましたが、実は、彼らは最高裁がそんなことはしない可能性が極めて高いことを承知で、国民に対して半ば嘘をついてきたのです。2 果たして憲法の番人は誰なのか いずれにせよ、最高裁が簡単に違憲判断をできないのなら、その部分について、果たして憲法の番人は誰なのだろうか、という疑問が、当然ながら生じます。 これに対する端的な答えは「憲法制定権力であり、主権者である国民自身である」としか言いようがないように思います。つまり、この論考を読んでいるあなたなのです。 国民は、安保法制の憲法適合性(違反性)の問題について、最高裁に下駄を預けることはできないし、安保法制が一旦できてしまったことのオトシマエは、私たち国民自身が国政選挙を通じてつけるしかないのです。安保法制の違憲性を問う訴訟について、その意義を認めるにしても、法廷がこの問題の最終的な決戦場であると考えるのは、的を得ていない考え方だと思います。3 閣議決定を元に戻すと安保法制は止まらざるを得ない では、仮に選挙の結果、安保法制を憲法違反と考える政府(それは昨年6月末までの政府の姿勢です)ができた場合、どうなるのでしょうか。 もちろん、安保法制を廃棄するために、最終的には国会で法を廃止する必要がありますし、そうすべきでしょう。 しかし、政府が法案を廃止するためにはその法案を国会で審議する必要があり、その際、野党になる勢力は激しく抵抗するでしょう。つまり、そんなにすぐにはできないのです。そのような間でも、選挙により新しくできた政府が、安倍政権の集団的自衛権行使に関する閣議決定(2014年7月1日の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」)を憲法違反とし、それより前の政府解釈に戻す閣議決定をした場合、安保法制は政府(行政権)自身の憲法解釈として、たちまち違憲立法となり、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。 」とする日本国憲法98条1項がある以上、政府は法の執行を停止せざるを得ないように思えます。 「一政権の判断で憲法解釈を覆した」結果の安保法制の法的な不安定性は、最後はこのような形で現れてしまうのです。(『Yahoo!ニュース個人』より2015年9月21日分より転載)わたなべ・てるひと 弁護士。1978年生まれ。日本労働弁護団常任幹事、自由法曹団常任幹事、京都脱原発弁護団事務局長。労働者側の労働事件・労災・過労死事件、行政相手の行政事件を手がけています。残業代計算用エクセル「給与第一」開発者。主な著書に『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? ナベテル弁護士が教える残業代のカラクリ』(旬報社)。

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    「戦争反対」と叫ぶなら改憲を訴えるべきだ

    うとしないため、いまだ巷には的外れな意見が散見されます。 ここで確認しておかねばならないのは、日本国憲法には国防に関する条文は戦争の放棄を定めた第9条以外はなく、その憲法のどこにも「自衛権」などという文言は記されておらず、昨年から急に注目を浴び始めた「集団的自衛権」や、我が国の国是とされる「専守防衛」などの言葉は憲法解釈によって生み出されたものだということです。つまり、「専守防衛」や「集団的自衛権の限定行使」という我が国防衛政策の基本方針は政府の憲法解釈に基づいて決められているのです。憲法記念日に横浜市で開かれた憲法集会に参加する作家の大江健三郎さん(前列中央)ら=5月3日、横浜市西区 法令の解釈というものは時代の移り変わりとともに変わるものですから、現在のところ日本政府は、先制攻撃を禁止し集団的自衛権は一部しか行使してはならないとの立場をとっていますが、将来、現行の日本国憲法のまま解釈を変更して先制攻撃や集団的自衛権の全面行使ができるようになる可能性はゼロではありません。 本来、「戦争反対」と声高に叫ぶのであれば、そのような事態を防ぐため解釈の余地を残さない形に改憲するしかないのですが、護憲派を名乗る自称平和主義者の大半は「何が何でも憲法を一字一句変えてはならない」と現実から目をそらし続けてきました。 このため今回に限らず、時の政府は自衛隊の任務が増えるたびに、なんとかそれを正当化しょうと、苦しい解釈改憲を重ねながら、その場しのぎを繰り返してきましたが、今やそれも限界に達しようとしています。 現在、日本への侵略の意図を持った隣国が、その意図を隠そうともせずに我が国領海への侵犯を繰り返すようになり、他にも同朋を拉致して返さない国や領土を不法に占領したままの国に囲まれ、しかもその内の3か国が核兵器を保有しているという、我が国の非常に厳しい現実を鑑みれば、最早、部分的な、その場しのぎの解釈改憲では対応できないことは明白です。  まずは、この日本が置かれている状況を正しく認識する必要があります。そして今の憲法や、その解釈が現代日本の現実に照らし合わせて正しいのか、今一度、我々はそこから考える必要があるのではないでしょうか 国際法の観点からみれば、人が生まれながらに人権を持つように日本国は国家の成立とともに自衛権を備え持っており、国連をはじめとする国際社会もそれを認めています。現在の政府見解においても、「憲法9条は自衛権を否定しない」としていますから、本来であれば憲法の内容いかんに関わらず、誰はばかることなく国防に関して様々な政策等を実行できるはずなのですが、一方で日本政府は自衛権について「必要最小限」のみ認められるとして、憲法が自衛権を制限しているという立場をとっています。 具体的には第9条における「武力」や「戦力」には自衛権を含まないとする解釈により自衛隊を合憲とし、それは自衛権ゆえに必要最小限の武力行使しかできないという理屈で、実質的に自衛権を制限しているのです。つまり日本政府は、憲法は自衛権を否定こそしないが必要最小限に制限しているという中途半端な解釈を行い続けているのです。 また、政府は憲法9条が自衛権を否定しえない理由として、第9条が第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を否定するものではないとしていますが、そうすると第13条で、その「国民の権利」を最大限補償しておきながら、片や第9条で、その「国民の権利」を守るための自衛権を必要最小限に制限するという、おかしな話になってしまいます。 このように、現行憲法には相矛盾する条文が混在しているため、その辻褄合わせに無理な憲法解釈が必要となるのです。そもそも第9条が、すべての国家が保有する、人間に例えれば人権に相当するほど重要な国家の自衛権を真っ向から否定するかのような内容であることが問題の根源なのです。もっと言えば「自衛権」=「国民が自由に幸福かつ平和的に生きる権利」なのですから、その自衛権を必要最小限に制限することは、これら国民の権利を制限することに他ならず、我々日本国民は、具体的な事象が生じていないので気が付いていないだけで「自由に幸福かつ平和的に生きる権利」を制限されているのです。 そして、我が国が武力行使可能な「必要最小限」の範囲も時の政府の解釈次第で拡大縮小する可能性があります。このように国防政策の基本的な重要事項が憲法解釈により大きく変わるという問題は、日本国憲法が国防に関する条文をたった一つしか持たず、しかもそれが国の守りを否定していることが原因であり、そして、それは非常に危険なことなのです。 現行憲法のもと自衛隊は合憲であるという政府の憲法解釈により存在していますが、逆に政府が違憲だという解釈に変更すれば憲法を改正(国民に直接信を問うことを)しなくとも自衛隊を解体することが可能であり、もしも自衛隊廃止を党の綱領に掲げる政党が政権を掌握し自衛隊法などを改正又は廃止すれば、日本は一夜にして丸裸になってしまいかねません。確かに現実味に欠ける話ですが、そのような政党が合法的に存在し、一定数の議席を得ていることを鑑みれば可能性はゼロとは言えません。 また、憲法は「国家権力を縛るためのもの」というのであれば、本来は憲法に国民の生命、自由及び幸福追求に対する権利を保護するため、国家に対して国防の義務を課す条文がなければならないはずです。いずれにしても憲法に国家の重要課題である国防に関する明確な定めがないというのは法律として致命的な欠陥であるといっても過言ではないでしょう。 (つづく)

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    憲法9条にノーベル平和賞」の胡散臭さ

    。戦後70年の今年は、自然科学三賞や文学賞の他に平和賞の選考にも注目が集まっている。とりわけ日本では憲法9条の受賞に期待が集まっているが、この妙な期待にはいかんともしがたい政治的な臭いがぷんぷんする。そう、護憲派と呼ばれる人々の思惑です。

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    政治利用される「ノーベル平和賞」 憲法9条は道具に過ぎない

    竹田恒泰(作家)「ノーベル平和賞」の政治利用 昨年4月、「日本国憲法第9条」がノーベル平和賞の候補になったという変な話が噂になった。どうやら、神奈川県座間市の女性がインターネットで呼びかけたのがきっかけとなり、地元の「9条の会」が協力して実行委員会が結成され、その運動が全国に広がったという。10月になると「ノーベル平和賞ウオッチャー」として知られるオスロ国際平和研究所が、「憲法9条」が最有力候補との予測を発表したことで、日本の大手メディアがしきりにこれを話題にするようになった。そのため、当初「取るに足らない話だ」と思っていた私も「まさか」という不安を覚えるに至った。 ノーベル平和賞は個人や団体しか対象にならないため、「憲法9条を守っている日本国民」がその対象になるのだという。どこかの国の「国民」がノーベル賞を受賞するなどおかしな話ではあるが、たとえば『日刊ゲンダイ』が「安倍首相は真っ青『憲法9条』ノーベル平和賞受賞の現実味」という表題を掲げ「もし受賞すれば、安倍首相の『改憲』のもくろみは吹っ飛ぶことになる」と書くなど、日本の憲法改正議論と絡めて語られるようになった。また、見解を求められた菅官房長官が「仮のことに政府として答えるべきではない」と答える場面もあった。しかも、韓国でも日本の憲法9条をノーベル賞に推薦する署名活動が起こり、元首相や元国会議長などが多数署名したという。 この推薦運動は、安倍内閣が主導する憲法改正を阻止するための政治運動にほかならない。読者も知るとおり、日本の左派勢力と韓国勢力の努力も虚しく、憲法9条は選考に漏れたが、ノーベル賞のなかでも平和賞は他の分野と異なって多分に政治的であり、往々にして政治的に利用される性質があるため、今後も引き続き警戒する必要がある。 戦争放棄を定める憲法9条は日本独自の画期的なものと思っている日本人が多い。これは学校での屈折した平和教育が影響しているように思えるが、実は9条が定めることは、日本国憲法が成立する前からすでに国際社会においては確立された普遍的原則だった。決して日本独自のものでもなければ、日本発祥のものでもないのである。では憲法9条は何を元に作られたのだろうか。戦争放棄は9条の前から 第一次世界大戦を経験した人類は、戦争のない世界を目指して国際連盟を発足させた後、1928年には、戦争を違法とする多国間条約の署名に漕ぎつけた。「パリ不戦条約」である。第1条は次のように規定している。 「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する」 どこかで見たことがある文言が並んでいることに気付いた人も多いだろう。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と記す日本国憲法第9条1項は、その約18年前に署名されたパリ不戦条約が定めたことを表現したものなのである。正確にいえば、パリ不戦条約を発展させた「国連憲章」を基礎としているのだが、それは後述する。 パリ不戦条約は、第1条で国際紛争を解決するための戦争を禁止し、締約国相互での戦争を放棄させる一方で、第2条では紛争は平和的手段により解決することをも規定している。宣戦布告を行わない紛争の扱いが不明確で、侵略と自衛の区別も曖昧だったという問題をはらんでいたが、この条約が、その後の戦争の違法化や国際紛争の平和的処理の流れを作る役割を果たしたのは事実といえる。 条約の精神は、当時の各国憲法に反映された。たとえば、3年後にスペインの第二共和政のもとで成立した「スペイン一九三一年憲法」は、第6条に「国策の手段としての戦争を放棄する」と規定した。また、1934年に米国でフィリピン独立法が可決されると、その翌年に成立した「フィリピン一九三五年憲法」の第2条3項にも同じことが書かれた。いずれも日本国憲法より前の憲法である。ニューヨークの国連本部 しかし、国際社会は、戦争違法化と国際紛争の平和的処理の枠組みを定めたにもかかわらず、不幸にも第二次世界大戦に突入してしまう。先述のパリ不戦条約の不備も一つの大きな原因だったが、大戦が終結すると、不戦の精神は、1945年に署名された「国連憲章」という国際条約で一つの完成を見ることになる。 国連憲章は第2条で、禁止の対象に「戦争」という言葉を使わず、「武力の行使」の語を用いることで、宣戦布告なくして行われる地域紛争も禁止の対象とすることを明確にし、併せて「武力による威嚇」も全面的に禁止した。これにより、安保理が決定した軍事制裁と、自衛権の行使の二つの例外を除いて、あらゆる武力の行使と武力による威嚇が禁止されたのである。 全ての国連加盟国は国連憲章遵守義務があるから、自衛権の行使の例外を除き、いかなる武力の行使も武力による威嚇もしないと、約束させられているのである。日本国憲法第9条はこの「国連憲章第二条」のコピー・アンド・ペースト(コピペ)と言っても過言ではない。もしノーベル平和賞を授与するなら、憲法9条ではなく、パリ不戦条約か国連憲章ではあるまいか。 なぜ日本の憲法はこのようなコピペの文言を書かなくてはいけなかったのかというと、それは日本が戦争に負けたからである。日本さえ大人しくしていれば世界は平和であると信じられていた時期に、日本が戦勝国に押し付けられた結果であろう。だから、押しつけられたコピペを自分たちで改める憲法改正は、日本人が誇りを取り戻す大きな一歩となるのだ。憲法は道具に過ぎない 憲法9条はどのように読めばよいのか。特に9条2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とも規定しているが、日本は戦力を保持しないという割に、誰がどう見ても戦力にしか見えない自衛隊を保有している。にもかかわらず、交戦権を認めないというのだ。交戦権を認めないのでは、他国に攻め込まれても自衛隊は応戦することすらできないことになる。まして第一項では戦争の放棄を宣言しているのであるから、侵略を受けたら無抵抗のまま国を明け渡すことを明言しているに等しい。日本語の意味通りに解釈したら、そう読むしかないだろう。 ただ、条文を日本語の辞書通りに読んでよいのであれば、法学者など必要ない。その法理が成立した背景と歴史、そして運用の実態や判例などを踏まえてテクニカルに読まなくてはいけない。 ではどう読むか。まず、先述のとおり9条の文言は、明らかにパリ不戦条約から発展した国連憲章を焼き直したものであるが、不戦条約の締結過程では、自衛権が認められるべきことは繰り返し確認されている。また、国連憲章には安保理が措置を取るまでの間、自衛権を行使できると条文に明記されている。 つまり、国連憲章は「戦争の放棄」を謳うも、それは侵略戦争を放棄するという意味であって、自衛戦争まで放棄するという意味ではないのであるから、憲法9条がいう戦争や武力行使の放棄も侵略戦争について述べているのであって、自衛戦争は否定していない、と読まなくてはいけない。政府見解はこの考えに立つ。 第2項がいう「戦力」を保持しない、「交戦権」を認めないというのも、侵略戦争のための戦力や交戦権を認めないという意味であって、自衛戦争のための戦力や交戦権を否定するものではないのだ。自衛隊は侵略戦争をする戦力ではない、攻められたら押し返すだけの実力に過ぎないので「合憲」。これが政府見解の立場である。 しかし、これでは、広く国民が理解することは難しいであろう。かといって、これまで眺めてきたような背景を無視して単に日本語の意味だけで読もうとすると、読む人によって様々な読み方ができてしまう。この点が憲法9条の最大の問題といえる。 ならば、誰が読んでも大抵同じような解釈になるような分かりやすい文章に改めるべきではないか。具体的には「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争は放棄しない。侵略戦争を行う戦力は持たないが、自衛戦争のための戦力は保持する」というようなことを書けばよいのではないか。ただし、自衛戦争の名目で侵略戦争を始めることができないように、憲法の条文に自衛隊の海外派遣の条件を書き込んでおくとよいだろう。たとえそのように9条を書き換えたとしても、それは「戦争をしない国」から「戦争する国」に転換することを意味しないだろう。 憲法は、現在と未来の日本国民が幸せになるために人間が作り出した道具に過ぎない。そして、人間は必ず不完全であるがゆえに、人間が作ったものもまた必ず不完全である。よって、憲法も必ず不完全であり、これを必要に応じて変更していくことは国民の幸せのために不可欠なのだ。たけだ・つねやす 作家。昭和50(1975)年、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫。慶応義塾大学卒業、平成26年3月まで同大法学研究科講師も務めた。

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    ノーベル平和賞は憲法9条ではなく自衛隊だ

    ないからである。「海外で戦争する」のは自衛官だけである。大学生その他の民間人が「海外で戦争する」のは憲法違反である。法律上も許されない。その準備行為ですら犯罪となる(私戦予備及び陰謀罪)。実行はもちろん、海外に「ゆく」こと自体が許されない。 集団的自衛権行使で、海外に「ゆくのは、」ポスターの「わたしら」ではない。自衛官である。たとえば私の娘。この春、第63期本科学生として防衛大学校に入校した。国際法上は集団的自衛権の行使として説明される任務も今後はあり得よう。父親としては受忍しがたいが、客観的な事実として最悪、殉職するリスクを完全には否定できない。輸送艦「おおすみ」(左)に近づくエアクッション型揚陸艇「LCAC」(海上自衛隊提供) だが、民間人にそのリスクは微塵もない。ポスターは杞憂である。はっきり言えば、たちの悪いデマである。 いったい誰が、こんなデマを流すのか。その答えもポスターにある。井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子(敬称略・以下同)。以上九名の顔写真と名前が並ぶ。 彼ら彼女らの共通項は何か。その答えもポスターが明示する。ご存知の護憲左派団体「九条の会」、右九名はその「呼びかけ人」である。すでに物故者もいるが、会の存在感や影響力は衰えていない。 今年三月十五日にも集会を開き、大江健三郎が「戦争を起こさない努力をしなければならない。今の首相に期待は全くできない」と安倍政権を非難。澤地久枝が「首相の一存で事が決まるという動きが露骨だ」「(このままでは)徴兵制が始まると思っている」と訴えた(共同通信)。 彼女は本気で「徴兵制が始まると思っている」らしい。集団的自衛権→自衛官が大量退職→徴兵制という護憲派定番のネタである。 だが現実の世界では、風が吹いても桶屋は儲からない。真面目な話、昨年七月一日の閣議決定以降、自衛官の大量退職など起きていない。逆に防大はじめ人気が高まっている。 かつて大江健三郎は「毎日新聞」夕刊コラムで(昭和三十三年六月二十五日付)、防衛大生を同世代の「弱み、一つの恥辱」と誹謗したが、今や時代が違う。大江は続けて「防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたい」とも書いたが、幸い、正反対の方向となっている。現に、娘が受験した文系女子枠の倍率は32・4倍。とくに女子は合格者数を制限しているため、東大と並ぶ難関校であり人気も高い(娘も慶應を袖にした)。もはや大江らの感覚は通用しない。9条が世界遺産? 視点をポスターに戻そう。見るからに自衛官ではない男女に「ゆくのは、わたしら」と言わせたのは、なぜか。集団的自衛権によって「徴兵制が始まる」、だから一般の大学生も徴兵され「海外で戦争する」ことになる、そう不安を抱かせるためであろう。 徴兵制その他、集団的自衛権に関するウソや捏造報道については拙著新刊『ウソが栄えりゃ、国が亡びる――間違いだらけの集団的自衛権報道』(ベストセラーズ)で詳述したが、護憲派は頬かむり。今も「徴兵制が始まる」とデマを流す。九条の会自身「集団的自衛権行使容認反対のポスターです。積極的にご活用下さい。地域、職場、学園に大いに貼り出しましょう!!」と呼びかけている(公式サイト)。 自らは安全な場所(大学や民間)にいながら、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえること」を誓った自衛官の誇りをウソやデマで傷つけながら、恬として恥じない。自分は正しいと思い込み、改憲派や安倍政権を口汚く非難する。実に不潔な連中である。海外では見向きもされまい、と思っていたが、正直、不明を恥じる。今年、彼らがノーベル平和賞を受けるかもしれない。事の次第を説明しよう。 かつて太田光と中沢新一が『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)と訴え、一世を風靡した。同書の護憲論については当時、拙著『憲法九条は諸悪の根源』(PHP研究所)で反論したので繰り返さない。ここでは世界遺産の資格要件に論点を絞ろう。 世界遺産とは、文化遺産か自然遺産、あるいはその両方の価値を備える複合遺産のいずれかである。結論から言えば、九条は右のいずれにも当たらない。「憲法九条」への評価はさておき、客観的な事実として憲法典の条文である以上、自然遺産に当たらないことは言うまでもない。ゆえに、複合遺産にも当たらない。 ならば文化遺産はどうか。文化遺産とは記念工作物や建造物群、遺跡など。記念工作物とは「建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件(中略)であって歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」(条約)。価値の有無を議論する以前に、九条は建築物でもなければ、絵画や物件でもない。念のため付言すれば、建造物群でも遺跡でもない。ゆえに、九条の価値を最大限評価するとしても、有形の不動産でない以上、世界遺産にはできない。 そこで登場したのが、「憲法九条にノーベル平和賞を」と訴える運動である。 ならばノーベル平和賞はどうか。 創設者のノーベルは「国家間の友好、軍隊の廃止または縮小、平和会議の開催や促進に最も貢献した人物に」と遺言した(矢野暢『ノーベル賞』中公新書他参照)。ゆえに、そもそも「人物」でない九条への授与はノーベルの遺志に反する。げんに当初、ノーベル委員会も無反応だった。 本来なら世界遺産と同様、一笑に付されるような話であろう。ところが二〇一四年、ノーベル委員会は申請を受理し、平和賞の候補として登録した。 なぜ登録されたのか。それは「憲法9条」ではなく「憲法9条を保持する日本国民」と申請されたからである。この話には笑えないオチが付く。護憲団体が今年の有力候補に護憲団体が今年の有力候補に「ノーベル平和賞ウオッチャー」として知られるオスロ国際平和研究所のハルプビケン所長が昨年「憲法9条を保持する日本国民」を最有力候補に挙げ、話題を呼んだ。その所長が「9条を保持する日本国民」という名の団体が推薦されていると勘違いしていたというから笑えない(二〇一四年十二月十六日付読売新聞朝刊)。ちなみに、ノーベル委員会のルンデスタッド事務局長も、読売新聞の取材に対し、「誰が(授与式で)賞を受け取るのかとの問題が生じる。推薦した人たちが安倍首相に懐疑的なのに、首相が賞を受け取るのか」などと疑問を呈し、国民(全体)への授与は困難との認識を強く示唆した(同前)。 結果はご存知のとおり。昨年受賞したマララさんらと比べ、平和への貢献度が低いとみなされたのであろう。予想に反し落選した。朝日新聞朝刊の名物コラム「天声人語」は「粘り強く続ける値打ちのある挑戦ではないか」と説いたが、異論を禁じ得ない。《異論もあろう。掲げる理想と日米同盟の現実とがかけ離れているではないか。「押しつけ憲法」ではないか。賞を受けるのは「9条をもつ日本国民」とされているが、そのなかには改憲論者もいるのに、と▼それでも、戦後日本に平和をもたらした9条の役割の大きさを否定できるものではない》(十月十一日付) コラムが「▼それでも」と論旨を逆転させた論拠は明示されていない。まさに「異論」を封殺した独善的な主張ではないだろうか。 天の声(朝日)がなんと言おうが、「戦後日本に平和をもたらした」のは、九条でなく日米同盟である。理想論はともかく、それが現実である。その他の異論は「天声人語」自身が「異論」として明記しているので省略する。注目すべきはノーベル平和賞の行方である。 昨年は落選したが、今年はどうか。報道によると、すでに衆参両院の国会議員61人の推薦状がノーベル委員会に送られている。加えて大学教授ら19人も推薦した。ちなみに昨年も大学教授ら43人が推薦したが、推薦人の中に国会議員はいなかった。南スーダン・ジュバの道路整備作業で、辺りを警戒する陸上自衛隊員(共同) 韓国の動きも見逃せない。「日本平和憲法9条をノーベル平和賞に推薦する韓国委員会」が組織され、座長に李洪九元首相が就任。安倍政権の改憲の動きを牽制する推薦文を作成。すでに元最高裁長官や著名な文化人らが多数、署名している(二〇一四年十二月十九日付産経新聞朝刊参照)。 果たして今年の下馬評はどうか。前出のハルプビケン所長は、移民救援活動を続けるカトリック聖職者ムシエ・ゼライを最有力候補と予想。二位にロシア紙「ノーバヤ・ガゼータ」、三位にNGO「イラク・ボディー・カウント」を挙げる。注目すべきは四位にランクした候補である。それが「九条の会」。所長は共同通信の取材に「国民全体の受賞はあり得ない」との見方を示し、今年の予想候補も「九条の会」に修正したと説明する(共同通信記事参照)。 ノーベル平和賞は他薦のみで推薦資格は国会議員や大学教授、過去のノーベル賞受賞者らに限定されている。以上の動きと併せて考えると、今後「九条の会」などの護憲団体が受賞する可能性は決して低くない。念のため付記するが、呼びかけ人の大江は過去、ノーベル文学賞を受けた。その事実が当落に与える影響は否定できない。 以上のとおり今後、日本の護憲団体がノーベル平和賞を受賞するリスクが高い。戦後七十年であり日韓国交正常化五十周年にも当たる今年は、起こり得る。現に有力候補ではないか。もし実際に受賞したらどうなるか。憲法改正に与えるダメージは計り知れない。改憲に向けた歩みは間違いなく停滞ないし後退する。「想定外」云々の釈明は許されない。リスクを見据えた危機管理が必要である。9条だけではない平和憲法 そもそも憲法9条は、ノーベル賞の候補になるほど価値のある条文なのだろうか。よく「平和憲法」と言われるが、実は現在、158か国もの国々が平和憲法を保持している。牽強付会な見立てではない。平和主義は国際法上の原則である。だから多くの国の憲法で明記されている。日本国憲法の“専売特許”ではない。 平和主義は日本国憲法から生まれた独創的な考えではない。事実、第一次世界大戦以前から、国際条約や諸外国の憲法で条文化されていた。しかし第一次世界大戦が勃発。その反省から国際連盟が誕生したが、やはり第二次世界大戦を防止できなかった。 そこで国際連合は憲章で「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と明記した(2条3項)。国連海洋法条約も「平和的手段によって紛争を解決する義務」を定めている(279条)。いまや「紛争の平和的解決義務は、国際慣習法上の原則ないし普遍的義務」である(山本草二『国際法』有斐閣)。 加えて、第二次大戦後に制定された憲法の多くが、何らかの表現で平和主義をうたっている。188か国中、158か国。全体の84%を占めている。日本だけが「平和憲法」を掲げているわけではない。たとえばハンガリーやイタリア、フィリピンなどの憲法も、日本と同じように「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄」している。 ゆえにもし、憲法改正や解釈変更が平和主義を捨てることになるなら、世界中で戦争が起こっているはずである。なぜなら世界中の国々が・平和憲法・の改正を重ねてきたからである。改憲が平和に反するなら、とうに世界中が軍国主義化しているはずだ。 世界最古の近代憲法は一七八七年制定のアメリカ合衆国憲法だが、すでに18回改正された。一九四七年制定のイタリア憲法も17回、一九四九年制定のドイツ憲法は59回など、敗戦国の独伊を含め、多くの国々が憲法を改正してきた。 日本国憲法はどうか。ご存知のとおり、一度も改正されていない。“世界最古の憲法典”とも評し得る。あっさり言えば、時代遅れの憲法典である。ところが、なぜか憲法改正がタブー視されてきた。なぜ日本に限って「憲法を改正すると平和を守れなくなる」と危惧されるのか。 答えは単純。「護憲派」がそう不安を煽るからである。要は、彼ら彼女らが、憲法改正を阻止するために流したデマに過ぎない。そもそも憲法のどこを、どう変えるのか。その中身を議論せずに、改正そのものを敵視するのは党派的な独断である。 たとえば、戦力不保持を定めた九条二項だけを改正し、侵略戦争の放棄を定めた一項は残す。そして新たな二項で自衛隊を「国防軍」などと位置付ける。国防軍は自衛隊に代わって、より積極的な国際貢献活動に参加する。(内閣の憲法解釈で禁止されている)武力を伴う集団安全保障措置にも参加する。こうした改正なら「平和主義を捨てる」どころか、現在より「積極的」な「平和主義」とも評し得る。要は、中身次第ではないだろうか。 読売新聞による最新の世論調査では(三月二十三日付)、「今の憲法を、改正する方がよい」が51%で「改正しない方がよい」の46%を上回った。時事通信の世論調査でも、「全面的に改め、新しい憲法とすべきだ」が14・4%、「平和主義や国民主権など現行憲法の柱は 堅持した上で、必要な改正を行うべきだ」が58・7%を占め、「憲法改正は行うべきでない」の18・6%を凌駕した(三月十三日配信)。憲法改正への理解や気運は確実に高まっている。絶好のチャンスを無駄にしてはならない。自衛官にこそノーベル賞を自衛官にこそノーベル賞を 護憲派も危機感を抱いているのであろう。いまも集団的自衛権で「平和が死ぬ、戦争になる」「徴兵制になる」等々デマを流し、不安を煽っている。護憲派は、かつて防衛庁が防衛省に昇格したときも、自衛隊がイラクに派遣されたときも、戦後初めて国連PKOに自衛隊が派遣されたときも「憲法違反、平和が死ぬ」と合唱した。だが、結果そうなっていない。すべてデマだった。 名実ともの憲法「改正」なら心配いらない。なぜなら読んで字のごとく「正しく改める」のだから。たとえば前述の改正案なら、抑止力が高まり、むしろ平和と安定に寄与するであろう。そうなると困る陣営がデマを流している。 危険を顧みず、わが国の平和と独立を守っている自衛隊を、日本国憲法は“無視”している。そんな「平和憲法」を守った結果、自衛官の生命や平和が失われる。それこそ本末転倒ではないだろうか。 戦力不保持を明記した憲法は、日本の九条だけではない。スイス憲法もコスタリカ憲法も常備軍の不保持を明記している。 エチオピア憲法のように、軍隊に対するシビリアン・コントロール(文民統制)を明記している国々もあるが、日本の憲法九条にそうした規定はない。六十六条二項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と定めただけである。自衛隊は憲法上、悪く言えば、野放しに近い。「専守防衛」などの基本政策も憲法上は明記されていない。ソマリア沖アデン湾で、航行する船舶の識別作業をする海上自衛隊P3C哨戒機内の隊員=2015年8月1日(共同) カンボジア憲法のように、核兵器の廃絶を明記した国々もあるが、日本の「非核三原則」は憲法で明記されていない。政府は「自衛のためなら核兵器の保有も可能」と解釈しており、日本国はアメリカの「核の傘」に入っている。 またモンゴル憲法のように、外国軍の基地を置かないと明記した国々もあるが、沖縄はじめ日本には米軍基地がある。等々「わが国憲法よりもよほど徹底した平和主義条項をそなえている国が多くみられる」(西修『日本国憲法を考える』文春新書)。 それでもなお、日本国憲法第九条にノーベル平和賞の価値があると言えるだろうか。くどいようだが、戦後の平和を守ってきたのは九条ではなく日米同盟である。陸海空自衛隊と米軍である。 とくに自衛隊は憲法九条のもと、武器使用の手足を縛られながらも、危険を顧みず、内外で驚嘆すべき実績を重ねてきた。それなのに実任務で一人の犠牲者も出していない。命を奪ったこともない。以上の点が米軍とは決定的に違う。世界各国の軍隊とも違う。 日本の自衛官こそノーベル平和賞に相応しいのではないだろうか。私は以前から本気でそう訴えてきたが、残念ながら同調する声は小さい。このままでは「九条の会」が受賞するかもしれない。防大生や自衛官を誹謗し、デマを流し続ける団体が受賞し、自衛官は候補にもならない。それは不条理きわまる。 このままでは木の葉が沈み、石が浮く。彼らの動きを傍観することは許されない。うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。帝京大准教授など歴任。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『日本人が知らない安全保障学』(中公新書ラクレ)など著書多数。  

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    9条に「ノーベル平和賞」はない 集団的自衛権は「正当防衛」だ

    針に対して、護憲派のマスコミは反発している。『毎日新聞』は、16日付の社説で「集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ」としている。また、『朝日新聞』は5月3日付社説で日本近海での米艦防護を例に挙げ、「個別的自衛権や警察権で対応できる」「ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない」と記した。 だが、「個別的」「集団的」の違いを言挙げして自衛権の問題を論じているのはこの日本だけである。前記の社説をもし英訳して海外に配信したら、世界中の笑い物になるだろう。なぜか。根本的に、法律に関する国際常識を知らないからだ。 その常識とは何か。欧米において自衛権が、刑法にある「正当防衛」との類推(アナロジー)で語られているということである。実際に以下、日本の刑法で正当防衛を定めた条文を見てみよう(太字は筆者)。第36条1、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。2、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。 正当防衛の条文であるにもかかわらず、「他人の権利を防衛する」という箇所があるのに驚かれた読者がいるかもしれない。しかし、これが社会の常識というものである。自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」に遭っていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。そうでない人は非常識な人と見なされ、世間から疎まれるだけである。少なくとも建前としてはそうだ。もちろん実際の場合には、「他人」と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうか、などで助けられる場合も、そうでない場合もあるが。 国際社会の論理も、何ら変わらない。「自己」や「他人」を「自国」「他国」と言い換えれば、つまるところ国際社会では「急迫不正の侵害に対して、自国又は他国の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」。そのまま自衛権の解釈として成立することがわかるだろう。英語でいえば、自衛権も正当防衛も同じ言葉(self-defense)である。 繰り返すが、正当防衛をめぐる条文は、万国問わず「自己または他人」への適用が原則である。したがって自衛権の定義において「個別的か集団的か」という問いが国際的に通じないことはもはや明らかであろう。 冒頭に引用した社説のような「個別的自衛権や警察権で対応できる」という意見は、他国が攻撃されても、自国が攻撃されたと見なして個別的自衛権で対応できるので、集団的自衛権は不要という意味だ。一見もっともらしいが、国際社会では通じない。というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行なう行為を、「自己」の権利侵害と見なす、と定義するからだ。 つまり、他国への攻撃を自国への攻撃と見なして行なうことを集団的自衛権と定義するのであるから、冒頭の社説を英訳すれば、集団的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。そのあとで、集団的自衛権を認めないと明記すれば「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、警官がいなければ見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じである。 いくら自分勝手な人間でも、世間の手前、上のような発言は表立っては控えるのが節度であろう。よく恥ずかしげもなく、とは思うが、しかし戦後の日本政府は、無言のうちにこの社説と同じ態度を海外に示しつづけていたと思うと、憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。 ついでにいえば、憲法前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛権のみを主張するのは、この理念からも反している。 集団的自衛権の反対論者がいう「巻き込まれ論」は、国際的に日本だけが「見て見ぬふり」を公言していることになるのをわかっていない。地球の裏側まで行くのか、という議論も極論である。正当防衛論から見れば、「緊迫性」「必要性」「相当性」が求められているので、地球の裏側というのは、そうした要件に該当するものとはなりにくいから、極論といえるわけだ。 内閣法制局の掌握事項ではない このように正当防衛とのアナロジーで見ると、自衛権に対する批判は利己的なものであり、論理的にも、倫理的にも破綻していることがわかる。 もちろん正当防衛と同じように、国際法のなかでは自衛権の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。正当防衛の条文が示している「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむをえないといえるために、「必要性」と同時に、限度内のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃すなわち「過剰防衛」になってはいけない。さらに、他国の「要請」があることが条件となる。民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも最低必要限度にしなければならない。 国内法や国際法はそれ自体で漫然と存在しているわけではない。互いに厳密な整合性と連関をもっている。個人の正当防衛が認められるにもかかわらず、国家の自衛権が認められないとすれば、日本の刑法36条が憲法違反ということになってしまう。国内法における個人の正当防衛という延長線上に、国際法における国家の自衛権がある。この当たり前の常識を理解している人が日本ではきわめて少ない。 加えて日本特有の事情として、内閣法制局という政府の一部局にすぎない組織が権威をもっている点が挙げられる。内閣法制局の役割は総理に意見具申をするところまでであって、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更」などという大それた権限を掌握できるポストではないのだ。ところが、東大法学部出身の霞が関官僚があたかも自らを立法(国会)と司法(裁判所)の上位に立つかのように、法案づくりと国会の通過、さらに法律の解釈に至るまで関与しようとする。そのこと自体が異常な現象なのである。 にもかかわらず、霞が関官僚の仕事ぶりの基本は「庭先掃除」だから、国内を向いた仕事しかできない。自衛権や正当防衛の国際的理解などは一顧だにせず、ひたすら立法府を形骸化させている。官僚は、表向き立法を司る国会を否定はできないので、内閣に法案を持ち込んで閣法(内閣提案立法)をつくらせ、実質的に立法府の権限を簒奪していく。これは国会議員が仕事をしないからで、議員立法をしない政治家の怠慢が問題である。 「9条にノーベル平和賞」はない もう1つ、自衛権の行使容認に反対する人が決まって口にするのが「憲法9条の護持」である。護憲の主張はおろか、近年では「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会なる組織が活動を行なっているという。国会議員の福島瑞穂氏はこの運動に賛同して、憲法9条に対する「推薦文」をノルウェーのオスロにあるノーベル平和賞委員会宛てに送付した。〈推薦文の概要〉(プログ「福島みずほのどきどき日記」2014年4月18日より、字間の空白は引用ママ)ノルウェー・ノーベル委員会 御中 日本国憲法は前文からはじまり 特に第9条により 徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。特に第9条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。そして、この日本国憲法第9条の存在は、日本のみならず世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が改憲の危機にさらされています。世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第9条を今まで保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください。 国際常識を知る者から見れば、冒頭の社説と同様、顔から火が出るほど恥ずかしい文章である。なぜなら9条にある戦争放棄は、べつに日本の憲法だけにある規定ではないからだ。ノルウェー・オスロにあるノーベル平和センター 次の表は、日本との比較で韓国、フィリピン、ドイツ、イタリアの戦争放棄をめぐる条文を記したものである。一見して、日本国憲法9条の戦争放棄に相当する条文が他国の憲法に盛り込まれていることがわかる。とくにフィリピンの憲法には「国家政策の手段としての戦争を放棄」とはっきり書いてある。「憲法9条にノーベル平和賞を」授与しなければならないとしたら、フィリピンにもあげなければならない。希少性のないものを顕彰する理由はないので、日本の憲法9条にノーベル平和賞が授与されることは、世界で現行の憲法が続くかぎり永遠にない。このように少し調べればでたらめとわかる話で、憲法改正に反対したいためにノーベル賞まで持ち出す意味を筆者は理解しかねる。<日韓比独伊の憲法比較>◆日本第9条(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。◆韓国第5条(1)大韓民国は、国際平和の維持に努力し、侵略的戦争を否認する。(2)国軍は、国の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。◆フィリピン第2条(2)フィリピンは国家政策の手段としての戦争を放棄し、そして一般に認められた国際法の原則をわが国の法の一部分として採用し、すべての諸国との平和、平等、正義、自由、協力、そして友好を政策として堅持する。◆ドイツ第26条(1)諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。(2)戦争遂行のための武器は、連邦政府の許可があるときにのみ、製造し、運搬し、および取引することができる。詳細は、連邦法で定める。◆イタリア第11条イタリアは他の人民の自由を侵害する方法としての戦争を否認する。イタリアは、他国と等しい条件の下で、各国のあいだに平和と正義を確保する制度に必要な主権の制限に同意する。イタリアは、この目的をめざす国際組織を推進し、支援する。出所:https://www.constituteproject.org/ http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worIdjpn/なぜ日米は同盟を結んでいるか 筆者がプリンストン大学で勉強したのは経済学ではなく、国際関係論である。マイケル・ドイル(プリンストン大学助教授、現在はコロンビア大学教授)という国際政治学者が私の先生で、カントの『永遠平和のために』を下敷きにDemocratic Peace Theoryを提唱した人物である。「成熟した民主主義国のあいだでは戦争は起こらない」という理論で、たしかに第二次世界大戦後の世界を見れば、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争やイラク戦争など2国間ないし多国間で戦争が起きる場合、いずれかの国が軍事政権あるいは独裁政権であった。イギリスとアルゼンチンとのあいだで生じたフォークランド紛争でも、アルゼンチンは独裁政権だった。 ドイル先生のいうように、民主主義国の価値観や手続きのなかで戦争が勃発する事態は現代の世界において考えづらい。彼の理論を日本と中国に当てはめれば、日本は民主主義国家だが、共産党一党独裁国家の中国はそうではない。この一点を見れば、なぜ日本とアメリカが共に民主主義国として同盟を結んでいるのか、根本的な理由を知ることができる。 私がドイル先生に国際政治学を学んでいた1998年当時から、日本の平和憲法は特別ではないという点、自衛権の行使を妨げる議論がおかしいことは聞いていた。たいへん説得力のある話で、日本で巷間いわれる平和論がいかに論理を欠いているかを理解することができた。 たとえば国際法をわずかでも勉強すると、集団的自衛権が国連憲章51条に規定されていることに気付く。「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」。 つまり武力攻撃に対しては最終的には国連の安保理によって解決するのが最も望ましいが、それに至る過程でその国が占領支配されないように、(個別的・集団的の別を問わず)自衛権で対処するという発想である。もちろん安保理が機能して対応を図るのが最善だが、そうならない局面も現実には起こりうる。 場合によっては中国のような安保理の常任理事国が紛争当事者となり、拒否権を発動するケースも考えられる。実際に2014年3月、常任理事国であるロシアがクリミアをロシアに併合した際、国連は何もできなかった。万が一、日本が他国からの武力攻撃を受けた際は当面、自衛権でしのぎ、安保理に報告を行ないつつ最終的な解決に結び付けるというのが最も現実的な選択である。 その際、日本一国で中国のような軍事国家の侵攻に持ちこたえられるか、という問題が生じる。だからこそ日本は他国と「正当防衛」を共に行なえる関係を構築すべきだ。 具体的に筆者が提唱するのは、NATO(北大西洋条約機構)のアジア版である。ウクライナがクリミア侵攻を許したのは、ひとえにNATOに加盟していなかったからだ。NATO自体がいわば集団的自衛権の固まりのようなものであり、わが国も安保理の措置が機能しなかった際に、日米の2国間同盟だけでは対処しきれない事態が発生することを想定する必要がある。 2014年5月、中国がベトナムの排他的経済水域(EEZ)を公然と侵し、石油掘削作業を進めようとしてベトナムと衝突した。南シナ海では中国に加えて台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張している。2002年にASEAN(東南アジア諸国連合)が中国と結んだ自制と協調をめざす行動宣言はあっさり無視され、ベトナムが面と向かって中国と対峙せざるをえない状況が生まれた。中国の台頭と膨張により、南シナ海における中沙諸島・西沙諸島・南沙諸島と同じ領土危機が日本の尖閣諸島に起こりうる事態はいっそう切実なものになっている。いま安倍総理が感じている危機意識と「緊迫性」をわれわれも共有すべきではないか。 たかはし・よういち 1955年、東京生まれ。1980年、大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官などを歴任。小泉内閣、第一次安倍内閣で「改革の司令塔」として活確。2008年・山本七平賞受賞。近著に、『消費税でどうなる?日本経済の真相【2014年度版】』(KADOKAWA/中経出版)がある。関連記事■ 小柴昌俊・ノーベル物理学賞受賞者が提唱する「基礎科学のための「国民1人1円」運動」■ 元統合幕僚長・折木良一が語る いま行われるべき安全保障論議とは■ 憲法議論の前に知っておきたい「憲法の3つの顔」■ 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    さすがダウンタウン松本「憲法9条はなめられてる」

    はある」「もし本当にこのままでいいと思っているのであれば、完全に平和ボケですよね」と苦言を呈した。「憲法9条は日本を守ったかも知らんけど、言い方変えたら、なめられてる」とも言ったんだ。その通り!女史 よく「平和憲法を守る日本は、世界から尊敬される」なんて言う人いるけど、あれウソだよね。自分の国を守る気のない日本人を外国は本音ではなめている、ていうか、バカにされてるよ。教授 この番組は結構、視聴率いいらしいですから、彼の発言は影響力があるでしょうね。先生 松本は、以前にも「日本が自立するための法案なら賛成」と発言してたんだよ。番組ゲストの女子高生が、反対デモの若者をどう思うか聞かれて、「クラスにああいう子がいたら、引く」と発言したのも痛快だった。女史 やっぱヒクよね。(笑)ABCテレビ「松本家の休日」で道頓堀を周遊するさだ、たむらけんじ、松本人志、宮迫博之(左から)教授 しかし、松本さんとは裏腹に、大物芸能人が反対発言を始めています。笑福亭鶴瓶さんは東海地方ローカルの東海テレビのドキュメンタリー番組「戦後七十年 樹木希林ドキュメンタリーの旅」の収録で「安保法案には断固反対」と明言したそうです。女史 中日新聞8月7日付の夕刊記事に出てたね。鶴瓶さんは「違憲と言う人がこれだけ多いのにもかかわらず、なにをしとんねん」「民主主義で決めるんなら、多い方を取るべきですよ。変な解釈して向こうへ行こうとしているんですけど、絶対あかん」と言ったんだって。議会制民主主義だから、国会で多い方をとったら安保法案は成立すべきということになるのにね。鶴瓶さんは昔から左翼的な発言をする人だよー。先生 9日放送の日本テレビ系の笑点では三遊亭円楽が安倍政権批判だ。鍼灸師に扮し笑わせるお題で「耳が遠くなった気がするので人の声が聞こえるように針をうってもらいたい?」「どこへうっても、国民の声が聞こえないんだと思いますよ、安倍さん」だって。女史 桂歌丸さんの代わりに司会をしてた三遊亭好楽さんも、座布団2枚あげてたけど、そんなにうまい政治風刺かな?編集者 円楽さんの風刺はいつも笑えません。松本人志さんの方に座布団を上げたいですね。女史 松ちゃんは笑点の座布団なんて、いらないよ。(笑)大物左翼・Tが賛成派に…先生 フジテレビ系も他番組では、ひどい発言があったな。8月3日の「みんなのニュース」では、礒崎陽輔首相補佐官が集団的自衛権について「法的安定性は関係ない」と発言したことを、江上剛が「辞任を」「傲慢」と批判したが、礒崎発言はそんなに悪くないぞ。集団的自衛権は、憲法と最高裁判例をどう解釈するかという問題で、既存の憲法と判例を変えるわけではない。そこは安定しているわけだから、礒崎も「法的安定性は関係ない」と言ったまでだろ。法解釈の変更が法的安定性を損なうなら、法改正や憲法改正なんか、もっと損なう。明治憲法を改正した日本国憲法は法的安定性の無視だぜ。安倍晋三首相が出演した7月20日の放送も、ひどかった。せっかくフジテレビ会長の日枝久がきちんと安倍総理を出迎えて、そのシーンも流したのに、議論が始まると批判づくし。やくみつるが「裸のそーり」と子供が叫ぶ漫画でけなすし、いくら安倍総理が安保法案を説明しても、司会のアナウンサー伊藤利尋が「なぜ違憲論が大勢なのに進めるのか」。ちっとも聞いてない。教授 いいコメンテーターも出ていたんですけどねえ…。政治的中立が求められるのが放送局だから、いろんな発言が出るのはやむを得ない部分はあります。この間も同じフジサンケイグループのニッポン放送を聴いていたら、あさ活ニッポンで山口良一さんが反対トークをしていましたが、その後の番組では嘉悦大の高橋洋一氏がきちんと発言していました。編集者 そんな中、意外にも、安保法案大反対の毎日新聞で大物(?)の左翼言論人が集団的自衛権の行使を認める発言をしました。8月11日付の朝刊1面の連載企画で、田原総一朗氏が「政府の容認した集団的自衛権の行使は、日本の存立危機事態を想定した『新3要件』で厳しく限定されている。従来の専守防衛の枠から出ていないと考えます」「ぎりぎり認められる線です」と述べたのです。教授 毎日もよく載せたじゃないですか。ただ、もしかしたら、記者が「田原氏だから当然、反対してくれるだろ」と思って話を聞きにいったら、賛成しちゃったので、仕方なく載せたのかもしれませんね。きちんと載せないと、池上彰氏に怒られた朝日新聞みたいになってしまいますから。(笑) しかし、田原氏の賛成も当然ですよ。あれだけ妥協して、極めて限定的にしか行使できないようになったのだから、法案をきちんと勉強していれば賛成しますよ。先生 ただ、田原が「正しい戦争などあり得ない」と発言している部分は承伏できない。ナチス・ドイツのような絶対悪と戦うのも正義ではないというのか。五木寛之の鋭い分析教授 マスコミが「日本が戦争を起こしそうな雰囲気」というウソを広げることが問題なのです。例えば、8月11日の朝日新聞デジタル版では元朝日記者の早野透氏が「戦後70年の『いやな感じ』」という記事を書いていますね。先生 戦争を起こしそうなのは日本ではない。「いやな感じ」というなら、中国の動きに「いやな感じ」を持つべきなんだ。安倍総理も、もっと反論すべきだよ。教授 政府が安保法案の衆院審議で中国の名前を出さなかったのは失敗でした。首相訪中を視野に入れていたせいでしょうが…。先生 中央公論9月号で、五木寛之が若手の社会学者、古市憲寿との対談で「『今、戦前の雰囲気だ』ってよく言われるんだけど、ぜんぜん違いますよ。『国益を守るために、中国と一戦まじえろ』『韓国を攻撃せよ』という津波のような民意の高まりが、今の日本にありますか」「国民の間に、そういう高揚、過熱した熱狂がなかったら、戦争なぞできるわけない」と述べていた。さすが五木寛之だ。教授 しかし、多くの一般女性は「戦争法案だ」「徴兵制になる」といういい加減な報道を信じているんですね。最近は芸能ネタが売り物の女性週刊誌まで安保法制反対の特集を載せています。編集者 毎日新聞は8月2日付の社説欄「視点」で集団的自衛権合憲論の憲法学者、西修、百地章両先生が「徴兵制も合憲との考えを示す」とウソを書きました。女史 毎日はその後、お詫びと訂正を出していたね。論説委員まで集団的自衛権=徴兵制と真剣に思い込んでいるのかな?教授 徴兵制どころか、自衛隊は自衛官募集に力を入れてますよ。コマーシャルに壇蜜さんを起用しました。彼女の発言を聞いていると、ところどころに保守的な考えがうかがえて良いですね。ただ、壇蜜さんのファンはおじさん中心。若い人にどれぐらいアピールするか未知数ですね。(笑)先生 毎日新聞の7月23日付夕刊に載った「狙われる?貧困層の若者 『経済的徴兵制』への懸念」という記事は、自衛隊の定員割れ、任官辞退に触れて、集団的自衛権の影響で志願者が減っているような印象を与えているが、これもインチキ。自衛隊の定員割れと任官辞退は昔からだ。貧しくて大学にいけない若者が軍や自衛隊に入るのを「経済的徴兵制」と呼んでいるが、冷静に考えたら、これは安保法案とは関係ない教育問題だろ。確かに先進国として、優秀な学生が貧しいから良い大学に行けないのは恥ずかしいし、給付型奨学金の充実で、きちんと行けるようにすべきだけどな。教授 ただ、日本は大学全体の進学率は高いですけどね。先生 専門学校で十分な大学がたくさんあって、勉強もしない学生が集まるのは事実だな。女史 「徴兵制になる」とかアホなウソに本当に欺されてるのかな? ネットでは、スウェーデンやスイスなどの徴兵制の実情をまとめているサイトがあって、冷静な評価があるんだけどなー。先生 そもそも、なぜ徴兵制を導入してはいけないんだ。安倍首相も、国会で「憲法が禁じる『苦役』にあたる」と説明したが、おかしい。国防という高貴な任務は懲役刑と同じ「苦役」なのか。教授 あまりに「徴兵制になる」というウソが蔓延しているために、総理は分かり易く否定する必要があったのでしょう。「非核の傘」ってずぶ濡れじゃない?編集者 残念ですが、それだけ反戦平和の偽善が広がり、法案反対派が勢いを増してます。先生 日本人に本来の誇りがあれば、徴兵制は必要ないんだぜ。ベトナム戦争の米国では、多くの大学生が徴兵ではなく志願して戦場に行ったが、それは「みんなが国のために命をかけているのに、自分だけ逃げるのは卑怯だ」と考えたから。だが、いまの日本はどうだ。反対デモの若者は「戦争したくなくてふるえる」と、自分だけ逃げようとしている。70年前の戦争の時、学徒が動員されたのも、そうしないと兵が足りなかったからじゃないか。皮肉な話だが、反戦平和の思想が広がればますます志願する者は減るから、徴兵制の必要は高まるんだよ。 問題は、国を守る国民の責務が議論されなくなっていることだ。一昔前は「徴兵制導入なら、良心的な兵役拒否を認めるべきだ」と具体的議論までしてたんだぜ。教授 徴兵制だけではなく、かつては日本の核武装論だって保守論壇で議論されていましたね。先生 米国の退潮や中国の台頭などで徴兵制や核武装を真剣に議論しなければならない時期になっていることには、国民も気づいているんじゃないか。それなのに、いざその議論を目前に突き付けられると、「徴兵制反対」「核武装反対」というアレルギー反応が出る。矛盾しているよ。我々国民には自国を守る責務があるんだ。それを堂々と正面から論じない政府も自民党もおかしい。女史 現実を見たくない人が多いんじゃない。日本は米国の核の傘に守られているけど、長崎市の田上富久市長は「『核の傘』から『非核の傘』への転換の検討」を政府に要望したんだって。「非核の傘」って何よ、ズブ濡れってことじゃん。ワケ分かんない。(笑)教授 日本は自分の国を守るために、法整備をし、防衛力をつけようとしているだけなのに、そのことすらマスコミは批判するのです。子供がいじめられないように体を鍛えていたら、教員から「お前は人を殴ろうとしているのか」と叱られるようなものです。先生 そういう意味に限れば、反対デモの学生団体SEALDsを「戦争に行きたくないという考えは極端に利己的考え」とツイッターで批判した衆院議員の武藤貴也も、あながち間違いではない。しかしマスコミはそれも叩く。TBS系サンデーモーニング8月9日放送では評論家の高橋源一郎が「ツッコミどころが多すぎ」、毎日の岸井成格が「議員の劣化が進んでいる」と批判したぞ。女史 自衛官だって死ぬかもしれない戦争にはいきたくないよね。だけど国のために行くんでしょ。自分だけ行きたくないのは、やっぱ「利己的」だよね。教授 SEALDs自体が純粋に若者の声を代弁しているか疑問です。共産党と関係ないのか、マスコミはほとんど論じません。女史 ネットの日刊ゲンダイの記事に、SEALDsが共産党系とみられている労働組合「全労連」の街宣車を使っていたという記事が出てたねー。記事で、SEALDsの中心メンバーは「全労連さんから車を借りたのは事実ですが、それはたまたま車が空いていたから」と説明してたけど、全労連の車が空いていたら、SEALDsは借りられちゃうんだー。仲いいんだね。教授 ネットでは、デモに参加した学生が、就職活動に不利になっているんじゃないかと言われていますね。企業も採用したくないでしょう。女史 今年1月12日付の朝日新聞社説に、デモの話をしたら、内定取り消しになったという女子学生の話が載ってたけど、ネットでは、SEALDs関係の人じゃないかって話題になってる。ネットで写真や名前を出している子も多いけど、それをチェックしている人たちもいるから、就職活動でバレるのも当たり前だよ。先生 ホリエモンこと堀江貴文はツイッターで「安保反対デモに行ってる事カミングアウトしたら私は採用しませんよ。仕事出来ないと思うから」「思想で不採用だと言ってるのではなく、間違った理論に盲従する頭悪そうな奴だなって思うだけ」と書き込んだ。よく書いた! 高須克弥も「高須クリニックは安倍政権賛成デモに参加するくらい根性のある若者を採用します」だって。編集者 ホリエモンはフジサンケイグループの敵です! が、たまには良いことを言いますね…。初めに安倍談話批判ありき教授 8月14日に戦後70年で安倍総理が談話を出しましたが、非常によく考えられたものでした。村山談話も含めた歴代内閣の見解を踏襲し、侵略や植民地支配などにも触れましたが、それを日本だけの問題とせずに、人類の教訓として繰り返してはならないことだと言ったのです。日本人の次の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明言したし、「法の支配」「力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべき」という原則を強調し、しっかり中国にも釘を刺しました。女史 でも朝日新聞とか左翼マスコミは批判してたよ。先生 TBS系で翌15日に放送した報道特集は冒頭からキャスターの金平茂紀が「説得力の乏しい戦後70年談話」と批判した。番組は「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」の部分まで批判したぜ。14日夜のテレビ朝日系報道ステーションでも保阪正康が批判したが、子供たちに「ずっと謝罪し続けろ」と言うに等しいな。女史 とにかく中韓のいいなりにならなきゃ、どんな談話でも叩くんだね。TBS系では、談話発表直後でまだ中韓の反応も出ないうちから、ニュースのNスタの司会者が「果たして中国や韓国からどのような反発が出るのでしょうか」と、番組を締めくくってたもん。反発してほしいんだよ。編集者 安倍談話に先駆けて出た有識者懇談会の報告書は「日本が満洲事変後に『侵略』を拡大した」などと書いていましたが、談話は、肝心な部分は報告書にとらわれずうまく外していました。女史 でも、各新聞は大体、報告書を褒めてたよ。読売新聞は8月7日付朝刊で大々的に礼讃報道して、社説で「過去への反省と謝罪が欠かせぬ」と書いてたもの。先生 この有識者懇の座長は、西室泰三日本郵政社長だが、この人、過去の会計問題が勃発している東芝の社長や会長を務めていたんじゃなかったっけ。本人が問題に関わっていたかは分からないにしても、いま、そんなにありがたがる人なのかね。(笑)教授 報告書のまとめで中心的な人物になった座長代理の北岡伸一氏は、この報告書を大々的に褒めた読売グループのメディアに重用されています。この報告書は読売史観なんじゃないですか。こんなに詳しく近現代史を決めつけるようなことを書いて、北岡氏もこの頃、ちょっと調子にのっているのですかね。先生 韓国が勝手に歴史問題でゴールを動かしているのを批判するゴールポスト論なんかは、委員の宮家邦彦の影響だろ。編集者 あの部分は的を射た指摘じゃないですか。教授 しかし、この種の報告書で、あそこまで詳しく書く必要があったのか疑問です。もっとボンヤリとした書き方で、後は安倍総理に判断してもらうようにすべきだったと思います。総理にすれば、ありがた迷惑だったのでは?女史 具体的に日本の侵略を認めたもんね。脚注には「複数の委員より、『侵略』と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった」とも載せてたけど。先生 その異議の理由ももっと示さないと、「他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを『侵略』と断定することに抵抗がある」とか少し書くだけだと説得力ないぜ。だって、もし侵略が本当で、日本が自分で認めれば、満洲事変はパリ不戦条約後だから重大な国際法違反と言われる。それこそ戦争犯罪にされかねないぞ。編集者 有識者懇の中では激論があったにもかかわらず、まとめる段階で、結局、ああいう形になったのかもしれません。先生 何より「侵略」を否定した新聞報道がなかったのは問題だろ。「侵略ではない」という有識者もいるのに、それを紹介しない。朝日や毎日新聞だけならともかく、産経新聞も含めて、歴史事実を勝手に認定するようなことをした有識者懇に何ら批判をしなかった。安倍総理まで、談話を読み上げる前に、報告書を持ち上げた。歴史にはさまざまな見方があるはずなのに、これでは侵略史観が完全に定着したことになるぞ。編集者 すみません…。教授 ま、この報告書は政府見解でも何でもありませんからね。菅義偉官房長官も、そう明言しています。先生 しかし、影響は大きいですよ、教授。テレビも完全に便乗していました。8月9日のTBS系時事放談では、半藤一利が「侵略」と断定し、フジテレビの新報道2001でも、元NHKアナウンサーの下重暁子が「侵略」。他の出演者も流されて、自民党政調会長、稲田朋美ですら反論不足だったぜ。編集者 自民党三役ですし、問題発言と騒がれると、安保法案の審議に支障を来しますから…。先生 稲田は月刊正論によく出る。どうせ、編集者はご機嫌をとろうとしてんだろ。編集者 そういう訳では…。先生 (笑)ま、いいや。戦後70年は関係ないんだけど、8月3日のNHKニュース7が北海道のフェリー火災を韓国のフェリー「セオル号」事故と比べて報じたのは、NHKにして画期的だったぞ。火災に乗員がきちんと対処していたのに対して、セオル号の船長は乗客そっちのけで逃げ出したよな。それについて韓国人に感想を聞いて、すばらしい日本だ、というコメントを放送していた。教授 戦後70年間で初めてNHKのトンチの利いた報道だったかもしれませんよ(笑)。戦後特集では、ニューズウィーク日本版の8月11、18日合併号がよかったですね。「謝罪は解決策にならない」という米ダートマス大学のジェニファー・リンド准教授の論考が載りました。残念ながら、米国人の方がレベルが高いのですかね。女史 ニューズウィークは去年、「しばき隊」とかが反ヘイトスピーチという理由で暴力的なことをしているのもおかしいじゃないかと、批判していたよね。先生 それに比べてTBS系で8日1、2日に放送したドラマ「レッドクロス」はひどかった。中国共産党の太鼓持ちだよ。軍人が「我々は世界を平和にする中国共産党軍である」というシーンあり、「共産党軍はつねに紳士的な態度で…」というナレーションあり。共産主義の理想を肯定するように、日本人看護婦が「理想が希望に映る」「粛清も一つの方法」と人民裁判まで肯定したぜ。又吉直樹で売る文藝春秋の劣化教授 文藝春秋9月号は「父を靖国から分祀してほしい」というタイトルで、A級戦犯として刑死した木村兵太郎陸軍大将の長男と北海道大学准教授の中島岳志氏の対談記事を掲載したのですが、羊頭狗肉も甚だしい。木村大将の長男は「合祀は望外のことと素直にありがたく思いました」と言っていて、新しい追悼施設を造ることにも反対しているのです。ただ、合祀が天皇陛下や首相が公式参拝の妨げになるなら…と分祀の相談に行ったら「難しい」といわれただけなのです。女史 タイトルは、インタビューを編集した人がつけたんでしょ。木村大将の長男じゃなくて、文藝春秋の編集長が「分祀してほしい」と思ってるんじゃない?教授 中島氏は「ここで整理しておくと、靖国問題は大きく二つの点をクリアしなければなりません…天皇陛下に静かに参拝していただくための環境を整備すること。もう一つは、諸外国のうち特に中国の理解が得られる戦没者慰霊施設にすること」とも言います。女史 「整理」するって言ってるけど、「中国の理解が得られる戦没者慰霊施設にする」というのは、ただの中島君の意見じゃん。教授 中国の理解が得られるようになんかなりませんよ。9月号では、保阪正康氏の「安倍首相 空疎な天皇観」も中身がなかったですね。「空疎」なのは安倍総理の天皇観ではなく、この文章の内容でした。安倍政権が、一昨年の主権回復の日の式典に天皇陛下にお出ましいただいたことなどを「政治的」「脱・歴史」などと非難しているのですが、要は左翼がよくやるお決まりの「天皇の政治利用だ」という批判。国家独立回復の式典に、国のトップが出席されるように取りはからうことのどこが「政治的」なんでしょうか。編集者 最後には「両陛下の歴史への思いが、安倍首相の政治的意思の前に通用しないとすれば、なんと悲しい時代であろうか」と安倍批判をしますが、保阪氏こそ「両陛下の歴史への思い」を、安倍叩きという自分の政治的目的に利用していますね。教授 保阪氏は「安倍首相の天皇観は、佐藤栄作、中曽根康弘といった歴代総理に比べると、その深さにおいて違うように思う。彼らは自らの政治信条のために、天皇を利用することは避けていた」と書き、「皇室と距離をとる」ことが日本政治の常識だといいますが、浅薄な結論です。昭和天皇は日本国憲法下でも具体的な政治問題について頻繁に内奏を求められました。つまり佐藤、中曽根政権時代のほうが現在より皇室と政治との距離は近かったのです。こんな論考が目玉記事になるのだから文藝春秋の劣化は著しい。先生 週刊文春もここのところ劣化の傾向がある。7月16日号のメーン特集「自民党は死んだ」は、ただ政権与党の政策を批判するだけで、雑誌のウリのスクープがなかった。本当に自民党を死なせたいなら、政治家のスキャンダルを載せなきゃ。死んでるのは自民党ではなく文春の方だぜ。教授 しかし、文藝春秋9月号は芥川賞の又吉直樹さんの「火花」が載っているから売れているそうです。私には、彼の小説は一文一文が変に長くて読みにくいですがね。芥川賞選者の一人、村上龍氏も「長すぎる」「途中から飽きた」と酷評していました。編集者 でも雑誌は売れてるんでしょ? あ~あ、又吉さんが正論にも書いてくれないかな~。女史 相変わらず志が低っ!

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    憲法9条もノミネート ノーベル平和賞はどう決まる?

    ノーベル物理学賞受賞に沸く日本ですが、10日午後(日本時間)に発表されるノーベル平和賞には、「日本国憲法9条を保持してきた日本国民」がノミネートされています。ノルウェーのオスロ国際平和研究所(PRIO)が受賞予想のトップ候補に挙げたこともあり、結果に注目が集まっています。日本人の平和賞といえば、「非核三原則」を打ち出した佐藤栄作元首相が過去に受賞していますが、憲法9条は人でも団体でもありません。 ノーベル平和賞はどのように決まるのか、過去の受賞例を振り返りながらみていきましょう。1994年12月10日、中東和平に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞したパレスチナのアラファト大統領(左)イスラエルのペレス外相(中央)とラビン首相の3氏(ロイター/アフロ)【インフォグラフ】数字で見る日本国憲法 3大原理は何?申請して受理されるには? ノーベル賞とはダイナマイトの発明で知られるノーベル(1833~96年)が築いた巨額の遺産ほぼ全額を基金として創設された賞です。簡単にいってしまうと「スウェーデンの賞」(ノルウェーはノーベル存命中はスウェーデンとの連合王国だった)。「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」がスウェーデン王立科学アカデミーによって、「医学生理学賞」はスウェーデンの医科大学が「文学賞」はスウェーデンの語学研究所が決定します。平和賞だけがノルウェーです(1905年に連合解消)。ノーベルの遺言に基づく措置ですが、理由までは分かっていません。 まず前年の9月から候補者の推薦を受け付けます。ノルウェー・ノーベル委員会(5人)が各国の政府(国務大臣)、国会(国会議員)、研究機関(大学教授など)および過去の受賞者や過去・現在のノーベル委員会委員などに候補者推薦要項が届けられます。平和賞だけは個人だけでなく団体も受賞対象となります。 翌年2月に締め切られ、選考スタート。委員会を中心に多くて20程度に絞り込みます。近年の傾向ではこの段階まで達するのに候補者の10分の1程度となっているようです。候補者名も選考過程も秘密で50年経つと研究目的のため公開されます。10月に受賞者を発表し、12月に授賞式という運びです。今回の憲法9条は市民団体が推薦を目指し、候補者を推薦できる大学教授らの承諾を得てノミネートの運びとなりました。 平和賞は、1901年から始まる古い賞で、第一次世界大戦時(1914~16年)と第二次世界大戦時(1939~43年)は「該当なし」でした。どんな選考基準があるの? 選考過程が秘密なのでハッキリとは分かりません。ただ受賞者の受賞理由から大まかな傾向はうかがえます。第二次世界大戦前は文字通りの平和運動家や世界秩序の安定化や紛争を停止した政治家などに多く贈られてきました。 戦後は幅がやや広がり、人権擁護や民主化が大きなキーワードになっています。強権が振るわれている地域での活動家などです。国際原子力機関(2005年)など軍備縮小の歩みを刻んだ受賞も多くみられます。加えて最近では国連気候変動に関する政府間パネル(07年)のように環境保護へも高い評価を与えている傾向があります。過去の受賞例は?「ノーベル平和賞」1990年以降の主な受賞者 ノルウェー・ノーベル委員会委員はノルウェー国会によって選ばれ、ほぼノルウェー人と考えていいでしょう。現在の構成もそうなっています。ただしノルウェー政府は常々「政府とは関係ない独立機関」との見解を述べてはいるのです。 ただ、本当にそうなのでしょうか。例えば1994年の受賞者はパレスチナ紛争に一定のメドをつけてイスラエル建国で住む場所を失ったパレスチナ人とイスラエルの間で、前者の暫定自治政府を認める「オスロ合意」に積極的に関わったとしてアラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長、ラビン・イスラエル首相、ペレス同外相に与えられました。「オスロ合意」の名でわかるように交渉の中心的存在だったのはノルウェー政府です。 ただこの「政府とは関係ない独立機関」が役立つ場面もあります。例えば、中国の民主化運動指導者で服役中の劉暁波氏が2010年に受賞した際には面目丸つぶれの中国政府が猛反発しました。中国は敵視するチベット指導者ダライ・ラマ14世にも1989年に贈られた過去もあり頭に来たのでしょう。それでもノルウェー政府は平然と例の「政府とは関係ない独立機関」論で押し切ってしまいました。こうなると委員会と政府を一体とみなし(一体なのだが)、挑発を続けると中国の国際的印象が悪くなるので、これ以上強いず「無視」という形で通り過ぎさせてきました。 政治的な配慮が過ぎるという批判もあります。2012年受賞の欧州連合(EU)はまさに欧州債務危機の最中でEU崩壊かと不安視する向きもある中でした。応援のメッセージがなかったとは誰も思わないでしょう。「核なき世界」演説が評価された米オバマ大統領の受賞(09年)も「話しただけでノーベル賞か?」と疑問視されました。これもまた一種の応援とみなされます。 なお今回の「日本国憲法9条」がノミネートにまで至ったのもまた一種の「励まし系」でしょう。集団的自衛権の行使容認など安倍晋三政権の「9条骨抜き」批判への応援とも推測できます。ちなみに法律は受賞対象ではないので、受賞すれば対象は「日本国民」となります。 日本人の受賞者は1974年の佐藤栄作元首相のみ。在任中の1968年の国会答弁でいわゆる「非核三原則」(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の基本方針を答弁したのが直接の評価とされています。しかし日米安全保障条約下で基地を提供している日本に米軍が核兵器を持ち込んでいないととは考えにくく、近年の公文書公開などで佐藤首相は持ち込みを知っていて日米首脳会談で米ニクソン大統領との間で密約していたのがほぼ確実となっています。突出する日本の「ノーベル賞信仰」 ノーベル賞が日本で事実上「世界最高の賞」と位置づけられる理由として、もちろん選考委員の努力があったことは認めますが、それにしても評価が絶大すぎます。現に他の北欧の賞があまり注目されてもいません。 そうなった最大の理由は、日本人で初めて受賞(物理学)した湯川秀樹博士(1949年)が、文字通り性格的にも思想的にもすぐれていたので、その類推を後の受賞者に重ねるからでしょう。また湯川博士はすぐれた文章家で、多くの人に著作を通して親しまれたので、教育者のイメージも重ねられているように感じます。 さらにいえば、湯川博士の受賞が敗戦直後であり、打ちひしがれた日本人に誇りを取り戻す効用があった点も見逃せません。ばんどう・たろう 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】

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    憲法違反を恥じない安倍首相こそ本当の「ルーピー」ではないのか

    辺輝人(弁護士) 安倍晋三首相がミュンヘンで記者会見し、今国会に提出されている「安保法制」について、憲法違反ではない、と釈明しました。しかし、この記者会見の内容自体、安倍首相が本当に憲法とか立憲主義とか法の支配とか、そういう概念を理解しているのか大変疑わしい内容になっています。 安倍首相は記者会見の冒頭部分で、ウクライナ情勢に絡み下記のような発言をしています。「私たちには共通の言葉があります。自由、民主主義、基本的人権、そして法の支配。基本的な価値を共有していることが、私たちが結束する基礎となっています。」「力によって一方的に現状が変更される。強い者が弱い者を振り回す。これは欧州でもアジアでも世界のどこであろうと認めることはできません。法の支配、主権、領土の一体性を重視する日本の立場は明確であり、一貫しています。」産経新聞 ここで言う「法の支配」とは、安倍首相が知らなかったという故・芦部信喜教授の教科書によれば以下のような概念です。法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。~中略~法の支配の内容として重要なものは、現在、(1)憲法の最高法規性の観念、(2)権力によって犯されない個人の人権、(3)法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law)、(4)権力の恣意的行使をコントロールする裁判所に役割に対する尊重、などだと考えられている。出典:芦部信喜『憲法 新版』(岩波書店 1997年) 安倍首相は、冒頭部分では、大変崇高な理想を掲げたことになります。が、そもそも安倍首相は「法の支配」の意味を理解しているのでしょうか。根本的な疑問があります。そして、安倍首相は、国内での「安保法制」に対する激しい批判に対しては、以下のように述べ、すでに散々批判され、破綻した理屈と繰り返すだけです。「今回の法整備に当たって、憲法解釈の基本的論理は全く変わっていない。この基本的論理は、砂川事件に関する最高 裁判決の考え方と軌を一にするものだ」「今回、自衛の措置としての武力の行使は、世界に類を見ない非常に厳しい、新3要件のもと、限定的に、国民の命と幸せな暮らしを守るために、行使できる、行使することにいたしました。」「武力行使においても、この新3要件を満たさなければいけないという、この3条件があるわけです。先ほど申し上げた、憲法の基本的な論理は貫かれていると私は確信しております」産経新聞 この砂川事件の最高裁判決を持ち出す言い訳はすでに方々から批判され、最近は言わなくなっていましたが、言うに事欠いてまた出てきたのでしょうか。砂川事件の最高裁判決のテーマは、米軍の駐留の合憲性に関するもので、日本国の自衛権に関するものではありません。自衛権に関して言及した部分も個別的自衛権に関するものであると考えられています。むしろ、今話題の長谷部恭男教授は、2014年3月28日の日本記者クラブでの講演で「集団的自衛権は現在の憲法9条の下では否定をされているというのは、実は砂川事件からも出てくる話ではないかと私は思っております」と述べ、砂川事件の最高裁判決はむしろ集団的自衛権を否定するものとしています。下記動画の30分41秒以降をご覧下さい。追記:砂川事件の最高裁判決については、九州大学の南野森教授も「現在に至るまで、最高裁判所が自衛隊を合憲と判断したことはない」という記事を書いています。 安倍首相が自己正当化の根拠としてもう一つ掲げた「新三要件」なるものも、そもそもこれを決めた2014年7月1日の閣議決定自体が憲法9条違反だとして激しく批判されたものです。さらに、今国会の論戦で、政府はむしろこの「新三要件」を、歯止めを掛ける方向ではなく、自衛隊を積極的に海外に出し、武力行使をするための要件として活用しています。この点については、筆者の「憲法9条、安倍政権を走らす」をご参照下さい。安倍首相をはじめとする政府の国会答弁が分かりにくいのは、憲法9条と「新三要件」のねじれ、「新三要件」と国会に提出した10法案のねじれ、という二重のねじれにより、国会答弁が憲法9条と関係ないものになっているからなのです。安倍首相こそ本当の「ルーピー」ではないのか会見で記者を指名する安倍晋三首相=9月24日午後、東京・永田町の自民党本部 かつて鳩山元首相が米国のワシントンポスト紙に「ルーピー」と罵倒されました。輪っかを意味する「loop」から派生して「混乱した、ばかな」という意味があるそうです。彼のワシントンポストが堂々と使ってる位なので、筆者も使ってよいのではないかと思います。筆者は、散々、憲法違反と名指しされているのに、自省することもなく、まともに反論することもなく、壊れたレコードのように破綻した自説を繰り返すだけの安倍首相こそ「ルーピー」の名に相応しいと思わざるを得ません。安倍首相は、今日、日本に帰ってくるようですが、帰国後はさらに「憲法を守れ」「ルールを破るな」という批判を強める必要があります。(『Yahoo!ニュース個人』より2015年6月9日分より転載)わたなべ・てるひと 弁護士。1978年生まれ。日本労働弁護団常任幹事、自由法曹団常任幹事、京都脱原発弁護団事務局長。労働者側の労働事件・労災・過労死事件、行政相手の行政事件を手がけています。残業代計算用エクセル「給与第一」開発者。主な著書に『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? ナベテル弁護士が教える残業代のカラクリ』(旬報社)。

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    急がれる「安保関連法案」の成立 憲法学者の変節と無責任を問う

    解を得るに至っていない。 しかしながら、安全保障関連法案を速やかに成立させないかぎり、次の課題である憲法改正に取り掛かることはできない。また、憲法改正が容易でないなか、日本の防衛と安全のためいますぐにでもできることは何か。それが「集団的自衛権」に関する従来の政府見解を変更し、法律の整備をすることである。したがって、この問題はきわめて重大である。混乱の張本人は船田元議員 ところが、6月4日の衆議院憲法審査会に呼んだ参考人が、事もあろうに自民党が推薦した学者まで含めて、3人全員が集団的自衛権の行使を憲法違反としてしまった。そのため、野党や護憲派のマスメディアがすっかり勢いづいてしまった。 聞くところによれば、自民党の理事会では参考人候補として筆者の名前も出たが、船田元議員が「色が付きすぎている」とかよくわからない理由で反対し、違憲論者を呼んでしまうことになった。この混乱を惹き起こした張本人は船田議員である。 その後、菅義偉官房長官が記者会見の折、「合憲つまり憲法違反ではないとする憲法学者もたくさんいる」と答えたところ、それは誰かが問題とされ、国会で名前を訊かれた菅官房長官が、西修・駒澤大学名誉教授や筆者ら3人の名前を挙げた。そのため一躍、渦中に引き込まれることになった。日本記者クラブで記者会見する、憲法学者の百地章日大教授(左)と西修駒沢大名誉教授=2015年5月19日午後、東京・内幸町 じつは、筆者の呼び掛けで10人の憲法学者が名乗り出てくれたのだが、それ以外にも「賛成だが名前を出さないでほしい」と答えた著名な国立大学の教授などもいた。憲法学界には依然として自衛隊違憲論者が多く、「憲法改正に賛成」などといおうものなら、それだけで警戒されたり、排除されかねない雰囲気がいまだに存在する。そのため、はっきり意見が表明しにくい状況にある。 これがきっかけとなって、6月19日には日本記者クラブで、同29日には外国特派員協会で、西修先生とともに記者会見をすることになった。そこで、憲法と国際法をもとに集団的自衛権の行使が合憲である理由を詳しく述べたところ、テレビや新聞各紙が意外と丁寧に報道してくれることになった。また、外国特派員協会での会見は、その後『ニコニコ動画』や『YouTube』でもけっこう話題になったようで、7月12日には思いがけず、NHK総合テレビの『日曜討論』にも出演することになった。 違憲論者が多いなかで、筆者らの見解がかえって新鮮に受け取られたのかもしれない。しかし、ごく常識的なことを述べただけだから、それだけ憲法学界が世間の常識とズレている証拠でもあろう。集団的自衛権は国際法上の権利 さて、集団的自衛権であるが、これは「自国と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされたときは、それを自国の平和と安全を害するものとみなして、対抗措置をとる権利」のことである。そのポイントは、他国への攻撃を「自国に対する攻撃とみなして対処する」ことにある。つまり、戦争をするためではなく、それによって武力攻撃を「抑止」することに狙いがある。 このことは、集団的自衛権の行使を認めた各種条約から明らかである。たとえば、北大西洋条約には「欧州または北米における締約国に対する武力攻撃をすべての締約国に対する攻撃とみなし……集団的自衛権を行使する」(5条)とあり、全米相互援助条約なども同じである。 また、集団的自衛権と個別的自衛権は不可分一体の権利であると考えられている。このことは、刑法の「正当防衛」(36条)と比較したらよくわかる。というのは、国内法上、個人に認められた「正当防衛権」に相当するのが、国際社会における国家の「自衛権」と考えられるからである。 刑法36条は、次のように規定している。「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」と。つまり「正当防衛」とは「急迫不正の侵害」が発生した場合、「自分」だけでなく一緒にいた「他人の権利」を防衛することができる、というものである。 であれば、国際法上の自衛権についても、個別的自衛権と集団的自衛権を不可分一体のものと考えるのが自然であろう。 また、集団的自衛権の行使を文字どおり「自国に対する攻撃」とみなせるような場合に限定すれば、アメリカに追従して地球の裏側まで行くなどといったことはありえない。それゆえ、集団的自衛権の行使の範囲を新政府見解のいうように「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定すれば、「必要最小限度の自衛権の行使は可能」としてきた従来の政府答弁との整合性も保たれると思われる。国際社会では国際法が優位 集団的自衛権は、国連憲章51条によってすべての国連加盟国に認められた国際法上の「固有の権利」(フランス語訳では「自然権」)である。それゆえ、たとえ憲法に明記されていなくても、わが国が国際法上、集団的自衛権を保有し行使できるのは当然である。 ところが、集団的自衛権が国際法上の権利であり、米英各国をはじめ世界中の国々が国連憲章に従ってこの権利を行使していることに気付かない憲法学者がいる。彼らは、必死になって日本国憲法を眺め、どこにも集団的自衛権の規定が見つけられないため、わが国では集団的自衛権の行使など認められない、と憲法解釈の変更に反対する。なかには、憲法のなかに集団的自衛権を見つけ出すことは、「ネス湖でネッシーを探し出すより難しい」などと無知をさらけ出している者もいる。それならば、アメリカ、フランス、ドイツなど、諸外国の憲法を調べてみればよかろう。わざわざ憲法に集団的自衛権を明記している国など、寡聞にして知らない。 つまり、通説に従えば条約よりも憲法が優位する国内と異なり、国際社会においては、憲法よりも国際法(条約、慣習国際法)が優先され、国家は国際法に基づいて行動する。それゆえ、集団的自衛権の行使についても、わが国は国連憲章51条によって、すべての加盟国に認められたこの「固有の権利」を行使することができるわけである。 同じ事は、「領土権」についてもいえよう。領土権も国際法によって認められた主権国家に固有の権利であるから、憲法に規定があろうがなかろうが、当然認められる。それゆえ、各国とも国際法に基づいて領土権を主張している。この点、憲法には明文規定がないから、わが国には領土権は認められず、したがってわが国は領空や領海を侵犯する外国機・外国船を排除することなどできない、と主張する憲法学者はいないであろう。日本国憲法には禁止規定なし このように、集団的自衛権は国連憲章によってすべての主権国家に認められた「固有の権利」であるが、憲法で集団的自衛権の行使を「禁止」したり「制約」することは可能である。また、国連加盟に当たって、集団的自衛権の行使について何らかの「留保」をなすこともできる。 しかしながら、日本国憲法憲法9条1、2項をみても、集団的自衛権の行使を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定は見当たらない。つまり、集団的自衛権の行使を「憲法違反」とする明示的規定は存在しない。また、わが国が国連加盟に当たって集団的自衛権の行使を「留保」したなどという事実もない。それゆえ、わが国が他の加盟国と同様、国連憲章に従って集団的自衛権を「行使」しうることは当然のことであって、憲法違反ではない。 ちなみに、京都大学の大石眞教授も、筆者と同様の見解を表明している。教授は「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず、集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」として集団的自衛権の行使を容認している(「日本国憲法と集団的自衛権」『ジュリスト』2007年10月15日号)。 とすれば、「わが国は集団的自衛権を保有するが、行使することはできない」などという奇妙な昭和47(1972)年の政府見解は、国際法および憲法からの論理的な帰結ではなく、あくまで当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。これについて西修教授は、当時の政治状況のなかから生み出された妥協の産物にすぎない、と指摘している(「集団的自衛権は違憲といえるか」『産経新聞』平成27年6月12日付)。それゆえ、政府がこのような不自然な解釈にいつまでも拘束される理由は存在しない。 この点、最高裁も、昭和34(1959)年12月の砂川事件判決で次のように述べている。「憲法9条は、わが国が主権国家としてもつ固有の自衛権を否定していないこと」そして「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な措置をとりうることは、当然である」と。判決を見れば明らかなように、この「固有の自衛権」のなかには個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含まれている。 つまり、憲法81条により、憲法解釈について最終的な判断権を有する最高裁が集団的自衛権を射程に入れた判決のなかでこのように述べているのであるから、憲法違反の問題はクリアできていると考えるべきである。 それゆえ、わが国が集団的自衛権を行使できることは、国際法および憲法に照らして明らかであり、最高裁もこれを認めているのだから、「集団的自衛権の行使」を認めた政府の新見解は、何ら問題ない。 とはいうものの、憲法9条2項は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めており、その限りで集団的自衛権の行使が「制限」されることはありえよう。そのため、政府の新見解も、集団的自衛権の行使を「限定的に容認」することになった。したがって、政府の新見解は「憲法9条の枠内の変更」であって、まったく問題はないし、憲法に違反しないと考えられる。説得力を欠く憲法学者たちの違憲論説得力を欠く憲法学者たちの違憲論 以上述べてきたように、憲法および国際法の常識に従えば、わが国が従来の政府見解を変更して集団的自衛権の限定的行使を認めても、憲法違反ということにはならない。 ところが、テレビ朝日の『報道ステーション』が行なったアンケート調査によれば、安保法制に関する憲法学者の見解は、151名の回答者中、憲法違反が132名、合憲はわずか4名であった(6月15日放映)。また、『東京新聞』の調査でも回答者204人中、法案を違憲とする者が184人、合憲は7人(7月9、11日付)、『朝日新聞』の調査では122名の回答者中、違憲とする者104人、合憲とする者2名であった(7月11日付)。 野党や護憲派マスメディアは早速これに飛び付き、専門の憲法学者たちはほとんど憲法違反としているではないか、と政府を批判しだした。 しかし、その違憲理由たるや「従来の政府見解を超えるもので許されない」「法的安定性を欠く」「立憲主義に反する」といったきわめて曖昧なものであって、どう見ても説得力に欠けている。そこで、6月4日の衆院憲法審査会で違憲論を述べた3人の憲法学者の意見を検討することにしよう。 まず、早稲田大学大学院法務研究科の長谷部恭男教授によれば、(1)集団的自衛権の限定的行使を認めた政府の新見解は、集団的自衛権の行使は許されないとしてきた従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない、(2)このような解釈の変更は、法的安定性を揺るがす、(3)新見解は外国軍隊の武力行使との一体化につながるのではないか、ということが憲法違反の理由として挙げられている。 しかしながら、新見解を違憲とするためには、たんに「従来の政府見解の枠を超える」だけでは足りず、それが「憲法の枠を超える」ことの説明が必要である。しかし、その説明はどこにも見当たらない。また「法的安定性の確保」はもちろん大切なことだが、やむをえない場合もあり、それだけでは憲法違反の理由にはならない。 また、政府見解がこれまで「武力行使との一体化」を禁止してきたこととの整合性であるが、「武力行使との一体化」論は、もともと自衛権の発動とは別の話である。つまり、「武力行使との一体化」論は、「他国軍への後方支援活動」の際の判断基準である。それに対して、集団的自衛権の発動は、「武力行使そのもの」に繋がるものであるから、これは「集団的自衛権の行使」を違憲とする理由にはならない。 ちなみに、長谷部教授は自著のなかで、「国家とは、つきつめれば我々の頭の中にしかない約束事であるから、国家の存在を認めないこともできる」といい、「国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではない」などといっている(『憲法』)。個別的自衛権さえ疑っており、このような人物に集団的自衛権について問うこと自体無意味であろう。 また、長谷部氏は、小林節・慶應義塾大学名誉教授との対談のなかで尖閣諸島問題に触れ、「あんな小島のために米軍が動くと本気で思っているんですかね」と放言するような御仁でもある(『週刊朝日』平成27年6月26日号)。小林節教授の度重なる変節 小林節教授は、かつて『憲法守って国滅ぶ』(平成4年、ベストセラーズ)のなかで、次のように述べていた。 「わが国〔が〕自衛戦争と自衛軍の保持までも自ら禁止したのだという意味に9条を読まなければならない理由はない。……それは、しばしば皮肉を込めて呼ばれている『理想主義』などではなく、もはや、愚かな『空想主義』または卑怯な『敗北主義』と呼ばれるべきものであろう」 「冷静に世界史の現実を見詰める限り、世界平和も各国の安全もすべて諸国の軍事的バランスの上に成り立っていることは明らかである。したがって、わが国が今後もたかが道具にすぎない日本国憲法の中に読み取れる『空想主義』を盾にして無責任を決め込んでいく限り、早晩、わが国は国際社会の仲間外れにされてしまうに違いない」と。 9条の下で、政府見解のいう「自衛力」どころか、「自衛軍」まで保持可能とし、憲法を「たかが道具にすぎない」と述べていた氏は、現在、集団的自衛権の限定的行使でさえ憲法違反とする急先鋒であり、憲法は「権力者をしばるもの」であることのみ強調している。衆院本会議で民主党などが退席するなか安保関連法案が可決した=2015年9月16日午後、国会内(三尾郁恵撮影) たしかに、この本が出てから約20年がたっており、それをいまさら持ち出されても、というかもしれない。であれば、次に述べる「集団的自衛権」についての「変節」については、どのように釈明するのであろうか。 小林氏は2008年には集団的自衛権の行使を「違憲」、2013年には「合憲」、そして2014年になると再び「違憲」としている。 (1)「集団的自衛は海外派兵を当然の前提にしている。この点で、集団的自衛権の行使は上述の憲法上の禁止に触れてしまう」(「自衛隊の海外派兵に疑義あり」月刊『TIMES』2008年1月号) (2)――「集団的自衛権の考え方については、どうですか」。小林節氏「自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です。……だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」 ――「憲法を改正しなくても、集団的自衛権は現段階でも解釈次第で行使することができるというわけですね」。小林節氏「できます」(「『憲法改正』でどう変わる? 日本と日本人【第2回】」『Diamond Online』2013年7月26日) (3)「現行憲法の条文をそのままにして(つまり、憲法改正を行わずに)、解釈の変更として集団的自衛権の行使を解禁することは、私は無理だと思う」(「“解釈改憲”で乗り切れるのか」月刊『TIMES』2014年1月号) 氏は、日本記者クラブでの記者会見でも「安倍独裁」を連発し、「安倍内閣は憲法を無視した政治を行う以上、これは独裁の始まりだ」と力説している。たとえ気に食わないからといって、いやしくも憲法学者と称する人物が、議院内閣制のもと、国会によって指名され天皇に任命された首相を一方的に「独裁」呼ばわりするのはいかがなものであろうか。 最後に、笹田栄司・早稲田大学法科大学院教授だが、氏も長谷部氏と同様、集団的自衛権の行使を認めた政府の新見解は、「従来の定義を踏み越えている」ことを理由に、憲法違反としている。しかし、それだけでは違憲の理由とはなりえない。国家論なき戦後の憲法学者たち 自衛隊違憲論者に共通しているのは、国家観ないし国家論の不在であろう。 筆者は、かつて『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)のなかで、次のようなことを述べたことがある。 政府見解や砂川事件最高裁判決は憲法典以前に「国家」というものを考え、それを前提に憲法解釈を行なおうとする現実的な姿勢がうかがわれる。つまり国家には、当然、固有の権利としての自衛権があるから、どこの国であれ、自国の独立と安全を守るために、自衛権の発動としての武力行使ができないはずはない。したがって、仮に憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、不文の憲法ないし条理に基づき、自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるをえない。なぜなら、「国家は死滅しても憲法典を守るべし」などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。それに前文や9条が夢想するような国際社会など、当分実現するはずがない。このような判断が暗黙のうちに働いているように思われる。 これに対して、少なくとも自衛隊違憲論者たちは憲法典至上主義に立ち、あくまで条文の厳格な文理解釈に固執する。つまり「国家不在」の憲法論である。それとともに、よくいえば理想主義、悪くいえば現実無視の観念論を振りかざす。したがって、現実的妥当性を重視するなどといった大人の常識は通用しない。 同じ事が、集団的自衛権違憲論者たちにもいえるかどうかはわからない。しかし集団的自衛権違憲論者のなかには、水島朝穂・早稲田大学法学学術院教授などのように自衛隊違憲論者も少なくない。 先に紹介した『朝日新聞』の調査では、回答者122名中、「自衛隊を憲法違反と考える」憲法学者が50名、「憲法違反の可能性がある」とする者が27名もいた(『朝日新聞DIGITAL』2015年7月11日)。なんと回答者の3分の2近くが自衛隊を違憲ないし違憲の疑いありと考えているわけである。これが憲法学界の現状である。 このことを考えれば、確たる国家観をもたなかったり、国家意識の希薄な憲法学者が多数いたとしても不思議ではなかろう。 国際法に基づき、集団的自衛権の限定的行使に踏み切るのか、それとも国家意識なき無責任な憲法学者たちの言辞に翻弄され、国家的危機に目を閉ざしつづけるのか、いまこそ国民各自の見識が問われている。ももち・あきら 1946年、静岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了(専攻は憲法学)。法学博士。愛媛大学法文学部教授を経て、現在、日本大学法学部教授、国士舘大学大学院客員教授。著書に、『「人権擁護法」と言論の危機』(明成社)、『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)など多数。関連記事■ なぜ憲法論議には歴史認識が必要なのか■ 憲法議論の前に知っておきたい「憲法の3つの顔」■ 中国は本気で「核戦争」を考えている

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    「立憲主義なんて知らない!」 姑息な安倍総理はやはり信頼できない

    する礒崎陽輔首相補佐官=2015年8月3日(酒巻俊介撮影) 自民党が2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」(以下、「改正草案」とする)を発表したが、この「改正草案」に対しては「立憲主義を理解していない」とする批判がなされた。それに対して自民党の憲法改正推進本部の事務局長にある礒崎陽輔氏は「意味不明な批判」だ、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません」とTwitter上で「つぶやき」物議を醸したことは記憶に新しい。礒崎氏は学部時代真面目に憲法の講義を聞いていたのかという、皮肉めいた批判がなされたが、礒崎氏が学生時代に憲法の講義を真面目に聞いていたのかどうかは大した問題ではない。本質的な問題は、自民党で「改正草案」の作成に中心的な役割を果たしたはずの人物が、「立憲主義」という概念についてよく知らないと堂々と答えたことにある。「立憲主義」をよく知らない人が憲法改正の草案を作成していることが深刻な問題である。歴史の知恵としての「立憲主義」 立憲主義には広い理解と狭い理解がある。広い意味では、立憲主義とは国家権力を法(=憲法)によって縛ることを意味する。この意味での立憲主義の起源は、中世から存在している。しかし、現在問題になる「立憲主義」とは、たんに国家権力を法によって縛ることを意味するのではなく、その場合の法(=憲法)の中味が問題となる。「立憲主義」とは、人が人であるというだけで権利(=人権)を有し、その権利は多数者の意思によってでも侵害できないということを前提とした憲法によって国家権力を縛ることを意味する。「人権」という原理は近代の産物である。その意味で、こうした立憲主義とは特に近代立憲主義と呼ばれることが多い。 近代立憲主義が生まれたきっかけはヨーロッパの宗教戦争にある。人はふつう自分が良いと思うものを他者にも勧めたがる。それは人の性である。しかもことが宗教の場合、それはたんに良いものではなく、相手を救うために強く勧める必要がある。しかし、相手が別の信仰を有している場合、それは「お節介」ではすまない。ある人にとっての信仰は別の人にとっては邪教である。それを押し付けようとすれば、弾圧になるか、弾圧に抗して闘争、そして戦争にまで発展する。異なった信仰を有する人々がどのようにすれば戦争をしないで平和的に共存することが可能か。その問いに対する答えが、信仰に関しては、可能な限り、個人が自分で決定し、みんなで決めることはしない、つまり信教の自由を保障することであった。これが、近代ヨーロッパが血塗られた宗教戦争を経て生み出した知恵である。 だが、人にとって譲れない価値は何も信仰だけとは限らない。それぞれの人にとって何が善い生き方かは異なる。信仰に一生を捧げる人生もあれば、愛する人と暮らすことが最良の人生だと考える人もいる。どの人生が最良の人生かを決めるものさしなど存在しない。そのように考えたとき、信仰に限らず誰でもが大切だと思う、生き方に関わるような価値については、「人権」という形で、可能な限り、その人が自分で決められる領域を確保し、その領域についてはみんなで決めることをしないという約束事が必要となる。この約束事が「人権」というコンセプトであり、立憲主義はそうした「人権」の保障を前提としたものとなった。 いま、世界ではこうした意味での近代立憲主義が花盛りである。1989年の東欧革命を経て社会主義体制から自由主義体制に転換した東欧諸国は、相次いで憲法を制定したが、その憲法には「人権」が刻印されている。「人権」を前提とする近代立憲主義は今ではグローバル・スタンダードである。「訣別宣言」としての自民改正草案 ところが、自民党の「改正草案」はこれとは異なった考え方に立脚している。「改正草案」は、三つの意味での「訣別宣言」だと読める。(1)個人主義からの訣別 第一は、「個人主義」からの「訣別宣言」である。そのことが、端的に見られるのは13条の条文の改正である。日本国憲法において「どの条文が一番大事だと思いますか?」と聞かれると、私は「13条だ」と答えることにしている。憲法13条は、「すべての国民は、個人として尊重される」ということを明確にした条文である。それに対して「改正草案」の13条では、巧みに「個人」というものを落としている。改正草案は「すべて国民は、人として尊重される」としており、「個人」ではなくて「人」として尊重されることに変更されている。 「個人」と「人」は、同じではないかと考える方がいるかもしれない。しかし、「個人」と「人」は異なる。「個人」は、多様で異質な存在である。それを丸ごと可能な限り保護しようというのが、現在の憲法13条があらわしている「個人の尊重」である。それに対して、「改正草案」が掲げる「人」とは、多様性ではなくて、同質性を強調するものであるように思われる。「個人」としては多様だけれど「人」としては同じであるという考え方に「改正草案」の13条は立っているように思える。社会契約論、基本的人権からの訣別(2)社会契約論、基本的人権からの訣別 第二の訣別は、国家と個人の関係に関してこれまで日本国憲法がとってきた考え方からの訣別である。日本国憲法は、いわゆる「社会契約」論に基づいている。それは、ロックやホッブズがつくった国家観で、国家がない状態を「自然状態」として想定し、そこは、「万人の万人に対する闘争」といわれるように互いの力関係が支配する状態で、安定した秩序が保てず、自由も十分に確保できない状態である。そこで、秩序を確保し自由を保障するために、みんなで契約して国家を創るというのが社会契約論である。その場合、国家はあくまでも、契約によって作られる人為的な存在であり、国家を創る最大の目的は個人の自由の確保である。しかし、一旦設けられた国家は、秩序を維持できるだけの大きな権限を持っているので、今度はそれ自体が個人にとっては大きな脅威となる。その脅威としての国家を縛ろうというのが憲法である。ここで大事なことは、国家はあくまで人為的、人工的な存在で、実体的な存在ではないということである。 ところが今回の自民党の「改正草案」前文における国家や憲法の位置づけは、それとは大きく異なっている。まず、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」であり、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とされている。最後に、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するために」憲法を制定すると書いてある。 これは単に人工的、人為的な国家ではなくて、長い歴史、固有の文化、伝統を持った実体的な日本国という国家であり、憲法が保障する自由とは、そうした国の国民の権利であると考えている節がある。たしかに改正草案は、「基本的人権」という言葉自体を削除しようとはしていない。ただし、ここで考えられている「基本的人権」は、社会契約論的な基本的人権、つまり1789年のフランスの人権宣言以来確立されてきた、人が人であるというだけで有する基本的人権という考え方ではなくて、固有の歴史、伝統、文化を持った日本人の権利であるように思われる。 今回自民党はこの「改正草案」のQ&Aを作成しているが、そこでは、「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました」と明記されている(Q&A14頁)。天賦人権説は、アメリカなど「神」という概念を前提とする国家では造物主によって与えられた権利を意味するが、多くの場合は「人は人であるというだけで人権を有する」という基本的人権の考え方を意味する。こうした天賦人権説を斥けて、固有の歴史、伝統、文化を持った、日本国の国民にふさわしい権利にしたいというのが自民党の狙いではないのか。 しかし、これは危険な考え方である。ここでの「日本人」というのは、日本国籍とは関係がない。日本国籍を有している、有していないに関わらず、権力の側が定義する「固有の歴史、文化、伝統」があり、それに見合った人にのみ権利は保障されるということになりそうである。権力の側にとって、「固有の歴史、文化、伝統」を共有しない人は、たとえ日本国籍を有する人であろうと、権利は保障する必要がないということになる。これが危険なことは、戦前の「非国民」というレッテルを貼っての排除と弾圧の経験を見れば明らかである。(3)普遍主義からの訣別 第三は、普遍主義からの訣別である。今回の「改正草案」は現在の日本国憲法の97条を削除している。97条では、基本的人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」と規定されている。ここで大切なのは、基本的人権を「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としていることである。日本だけではない、全人類が頑張って努力して獲得してきたのが基本的人権である、だからこれをきちんと継承し、保障するというのが現在の日本国憲法の立場である。改正草案で考えている基本的人権が、日本の固有の歴史、伝統、文化にのっとっているのだとすれば、普遍的な西欧の人権思想は嫌だから、97条は削除する必要があったのだろうと思われる。2012年4月27日、自民党の憲法改正草案を手に記者会見する谷垣禎一総裁(酒巻俊介撮影) 誤解を恐れずに言えば、大日本帝国憲法、すなわち明治憲法の起草者たちよりも、今度の「改正草案」を作った人たちは劣化しているように思える。それは、大日本帝国憲法の中味が、今回の「改正草案」と比べてどうこうという話ではない。そうではなく、大日本帝国憲法をつくった人たちは、かなり苦労して西欧の憲法思想を取り入れようとしたということである。それに対して、そういう努力を放棄して特殊日本に回帰しようするのが、今回の「改正草案」ではないのか。 1876年に「大日本帝国憲法を制定せよ」という天皇の勅語が出されているが、そこでは「朕爰ニ我カ建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス」とされている。「国憲」というのは国の憲法のことである。大切なのは、二つのことを考えながら大日本帝国憲法をつくりなさいと天皇が勅語で命じていることである。一つは「建国ノ体」、後に「国体」と呼ばれる、特殊日本の神権天皇制である。ただし、それだけで大日本帝国憲法をつくるのではなく、もう一つの「広ク海外各国ノ成法」――これはまさに西欧近代の憲法思想に盛り込まれた普遍的原理のことである――考慮して、特殊日本と普遍的な西欧思想の両方をにらみながら憲法をつくるよう命じている。 実際に、これを受けて伊藤博文らはヨーロッパに行って、ヨーロッパの憲法を勉強して大日本帝国憲法をつくり上げる。大日本帝国憲法というのは、この二つの要素を両方取り込んだ憲法である。もちろん1931年の満州事変以降は、「建国ノ体」のほうが軍部の台頭によって強くなり、天皇制のほうが圧倒的に強くなるわけだが、「海外各国の成法」、つまり西欧近代の憲法思想が取り込まれている部分が大日本帝国憲法にはたくさんある。 このように、大日本帝国憲法は、特殊日本ということだけにこだわるのではなく、なるべく普遍的なものを入れようとした。それに比べると今回の自民党の「改正草案」は、こうした努力はしない、もうやめましょうという話だろうと思われる。 以上のような意味で「改正草案」は三つの意味での「訣別宣言」であると読むことができる。こうした「改正草案」に対して「立憲主義を理解していない」との批判がなされるのは至極当然な話である。礒崎氏が大学で何を勉強したのかは問わない。歴史が生み出した知恵である「立憲主義」がグローバル化し、広く共有されつつあるいまの世界の状況において、「立憲主義なんてよく知らない」と明言する人間が「改正草案」を作成していることは、私には悲劇としか思えない。 もっともこうした人物を憲法改正作業の中核に据えているいまの政権が、歴代内閣が堅持してきた、集団的自衛権は現在の憲法9条の下では行使しえないとの憲法解釈の変更を、憲法9条の改正というきちんとした手段によるのではなく、一内閣による憲法解釈の変更という姑息な手段に訴えて行おうとしていることは理解しやすい。安倍首相は何かにつけて、私が総合的に判断するから信じて下さいと言う。しかし国家権力は信頼できないというのが歴史の教訓であり、「人権」を基本とする立憲主義によって国家権力を縛るというのが歴史から得たわれわれ人間の知恵である。

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    「戦争法案」と叫ぶ平和ボケ論者に問う

    政府が今国会での成立を目指す安保法案をめぐり、与野党の攻防が一段と激しくなっている。国会前では「戦争法案反対」と主張する学生らのデモが続く。日本を取り巻く脅威には目を背け、まるでお経のように「護憲」と「恒久平和」を唱える人々に問いたい。もう机上の空論はやめませんか?

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    自衛隊員の本音を聞け~災害派遣とPKO活動の現場から

    隊ではない」という特殊な事情をもつ自衛隊の運用を、自民党が進めようとしている「集団的自衛権」に対する憲法解釈の変更だけで、すべて網羅することは難しいからである。  自衛隊という組織は、法律がなければ動けない。現在の自衛隊の法律では「平時」と「有事」の区別しかないため、たとえば「平時」に海上保安庁の船が沈められようとしても、現状では海自は動けない。  「相手側の武装が本格的で、海保では対処困難な場合は、首相の承認を経て防衛大臣から発令される『海上警備行動』(自衛隊法第82条)を法的根拠に出動できるようになっています。しかし結局のところ、武器の使用は自衛隊の警察権行使で“威嚇”や“正当防衛”などに限られています。中国の公船だと何もできないのが現状です」(海自・M二佐)  「海上警備行動」が初めて出されたのは1999年に漁船を装った北朝鮮の工作船が領海の日本海に侵入し、海保の巡視船が振り切られたときだ。しかし船体射撃ができなかったので、最終的に取り逃がした。  さらに、2004年に中国の原子力潜水艦「漢」級が石垣島周辺を領海侵犯したときにも発令された。だが、海保の所属する国交省と防衛庁(当時)との調整や政治的判断によって、発令があまりにも遅かった。その結果、「追跡」だけで終わり、必要な対策を取ることが遅れている。  管轄する省庁間の縦割り行政も見直すべきだ。中国は日本の法律を詳しく分析し、海保の海上保安法と海自の自衛隊法がまったく別の法体系になっていることに注目し、その「隙」を狙ってくるだろう。どんな状況でもシームレスな対応ができる法律を早急につくる必要性がある。  「『海上警備行動』が発令されるまでは、現実的には、護衛艦や潜水艦の艦長には緊急時の対応についての独自の権限がないため、こちらから動くことは難しい。『海上警備行動』が出ても、諸外国と違って、何があっても交戦することは避けるような法体系であり、ROE(交戦規定、部隊行動基準)も曖昧です。  たとえば魚雷を発射されて損害が出た場合に防衛大臣の許可を得て、初めて『正当防衛』が認められ『反撃』できるのではないでしょうか。そのころには味方が数隻沈められているのでは、とたいへん不安に感じています」(海自・T一尉)  もし中国が離島を本気で狙うのであれば、海上警備行動が発令したとしても、上陸を許してしまうかもしれない。時間が経てば離島占拠は既成事実化してしまうだろう。いったん離島が占拠されれば、軍事的な奪還作戦は難しい。  その次の段階は、いきなり有事の際の「防衛出動」となる。自衛権を行使しなければならないほど相手の攻撃意思が明らかな場合、国会承認などの手続きを経て総理大臣が発令することとなっている。「海上警備行動」と「防衛出動」のあいだに何らかの法整備が必要なのではないか。  相手が漁民などの民間人を装い、武装した“軍人”が尖閣諸島などの離島へ上陸してくるといったケースにもしっかり対応せねばならない。このような“グレーゾーン”と呼ばれるケースなどは、「集団的自衛権」の議論とは別に「個別的自衛権」として法整備を加速化させる必要がある。なぜかというと、そもそも「個別的自衛権」というのは、あくまでも「国家対国家」に限定して用いられる法的概念であるからだ。歴代政府のいままでの見解では、組織的、計画的な武力の行使以外に対しては、わが国は自衛権を行使できないという解釈だ。  現実的には、冷戦終結後の国際紛争の多くは「国家対非国家」あるいは「非国家対非国家」の争い。つまり、いくら「集団的自衛権」の行使が可能になったところで、テロ・ゲリラ組織などに対しては「現行法」で対応するには不備が多い。  これらに対応するのが、主に陸自の場合、「治安出動」という(海自における「海上警備行動」に当たる)。警察官職務執行法を準用した武器の使用が可能(自衛隊法89条)であるが、「事態に応じ合理的に必要と判断される限度で」(同法90条)とされている。  だが、この「治安出動」は、自衛隊創設以来、いままで一度も発令されたことはないし、国会でその運用について議論になったことはあまりない。研究されていないまま、いきなり自衛隊が海外における「治安出動」をさせられたのが、国連平和維持活動(PKO)といってもいい。これまで隊員たちが現地で大いに悩まされてきた自衛隊の「海外派遣」について順次考えてみよう。 現地でのギャップに苦悩  自衛隊初の陸上部隊のPKO活動は、1992年9月のカンボジア派遣であった。当時の社会党、社民連、共産党など野党が「牛歩戦術」で国会の採決を引き延ばしたが、同年の6月に「PKO協力法案」が可決され、自衛隊が「海外派遣」されることになったのだ。  筆者は、当時のニュースを短波ラジオでカンボジアのコンポントムで聞いた。翌年、この地で選挙監視ボランティアの中田厚仁氏(当時25歳)が殺害されるほど、現地は混乱していた。  法案には「紛争当事者間の停戦合意」が前提となっていたが、実際には「停戦合意」は守られていなかった。国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の監視にもかかわらず、政府軍(ヘン・サムリン軍)とポル・ポト派のあいだで、実際に紛争は続いていたのである。UNTACが主導する兵員集結や武装解除も一部の地域以外ではまったく進んでいなかった。政府軍に従軍して地雷地帯をようやく抜けても、ゲリラ化したポル・ポト派の砲弾が雨あられと降り注ぐ。  カンボジアに派遣された自衛隊員たちは、政府から説明されていた状況と現地でのギャップに苦悩することになる。  「93年5月に、文民警官の高田晴行警部補もポル・ポト派と見られる武装ゲリラに殺害されました。われわれが駐留した約1年間ずっと内戦状態でした」(陸自・I准尉・当時)  「ゲリラは当然ながら選挙妨害をします。武器は拳銃と小銃しか携行を許されていないし、ROEが厳しく、ほとんど『正当防衛』『緊急避難』以外は使えませんでした。同じ地域の他国のPKO要員も守れないのです。日本の選挙監視員たちを守る法律もないため、孤立した彼らを『パトロール・巡回』と称して、自らが攻撃を受ければ『正当防衛』するという名目でしか、彼らを守れませんでした」(陸自・M二尉・当時)  政府の要請によって、「海外派遣」が決まれば、その命令に従って自衛隊員は黙々と任務をこなした。  94年9月のアフリカ・ルワンダへの人道的な国際救護活動も同様に「現地ザイールは紛争当事国ではなく、任務遂行に危険が少ない」という政府の判断だった。百戦錬磨のアメリカ軍やフランス軍もあまりの惨状に撤退したこの地に「武装は相手を刺激し、自衛隊の海外での『武力行使』に当たるため小銃のほかは機関銃一丁とし、原則的には不使用とする」として派遣したのは、皮肉なことに野党時代に「自衛隊派遣」に反対した村山富市首相である。  筆者は、同年11月に陸自の宿営地を訪れたが、直前に車を強奪され危険にさらされた日本のNGO職員を「輸送」したとして派遣部隊は一部のマスコミから批判を受けていた。自国民を救出し、安全な場所に「輸送」することもPKO法案や実施計画にはないという理由だ。  これらは、現地の情勢をまったく知らないで自衛隊の「手と足を雁字搦め」にして、一方で平和維持活動を全うせよ、という無理難題であった。  当時、現地はかなり緊迫しており、規律の低下したザイール軍や民兵と難民キャンプに潜伏する武装勢力との衝突は連日。ザイール・ゴマ空港では銃撃戦が発生、筆者をナイロビから運んだ空自のC130輸送機も、長い時間駐機するのは危険との判断ですぐに引き返したほどだ。  ゴマは1700mの高地にあり、昼間は熱帯だが、夜はかなり冷え込む。有刺鉄線と土嚢や塹壕があるだけの宿営地から、難民キャンプで医療行為や人道支援を行なうために毎日、出動し、パトロールする。現地では赤痢やコレラが蔓延し、宿営地の上を曳光弾が飛び交う夜もあった。  真夜中に唯一の装甲車両(指揮通信車)へ、銃撃戦の現場から無線が入る。  「死者2名。頭部を撃ち抜かれている模様」。筆者が、「われわれは生きて無事に帰れるのでしょうか?」と問うと、警護班の班長が少し上ずった声で、  「大丈夫です。この地に陸上自衛隊が存在するかぎりは」  と答えたのが印象に焼き付いている。法的にも武器使用は「正当防衛」しか認められず、カンボジア同様、政府は“机上の空論”だけで送り出していた。  2001年12月、ようやくPKO法案改正で防護対象として「自己の管理の下に入った者」が加えられ「自衛隊の武器等」という文言も加えられた。しかしこれも「たんに言葉の遊び」に近く、基本的には武器使用は「正当防衛」のみという状態が続いている。  こうしているあいだに、2003年3月に米国のイラク戦争が勃発すると、自衛隊は中東に派遣された。航空自衛隊が3~4月、7~8月に「人道的な国際救援活動」として活動し、同年7月に国会で「イラク特措法」が成立すると、翌年1月より陸上自衛隊がサマーワに派遣された。  当時の小泉純一郎首相の「自衛隊の活動する地域は非戦闘地域」という答弁で、イラクでの自衛隊の活動は2009年2月まで続けられた(陸上部隊は2007年7月まで)。  「陸自のサマーワでの活動は給水や道路補修などの人道支援を行ない、治安維持はオランダ軍やオーストラリア軍が頼みでした。陸自の施設や拠点付近で豪州軍が暴徒に襲われたときも、傍観しかできなかったことが少なくとも2回ありました。駆けつけ警護は憲法で禁止された武力行使に当たるためできません。自衛隊の武器使用基準を説明しても、どの国の部隊にも理解できず、白い目で見られました」(陸自・O三佐)  「施設では陸自の活動中、ロケット弾や迫撃砲による攻撃を13回にわたって受けています。これらによる死者は運良く出ませんでしたが、まさに『戦闘地域』に当たるのではないでしょうか。イラク特措法で派遣された自衛隊員のうち陸海空合わせて16人が自殺しています(在職中)。派遣後も入れると自殺者は合計28人とされていますが、人道復興支援とはいえ、実際は戦地に行くのですから心のケアもこれから重要だと思います」(陸自・H一尉)  派遣任務自体を否定するつもりはないが、送り出した「政府」の「認識の甘さ」に、現地に派遣された「隊員」が大きく振り回され、心を病んでいったのかもしれない。 国民の理解と支えが必要  自衛官は入隊時より「国を守るために命懸けの仕事をするのが使命」とわかっていても、彼らも一人の人間だ。死ぬことを嫌がらない隊員など、どこにもいないのではないか。  彼らの心情を理解してあげることで、自衛官は危険な任務にも就くことができるだろう。言い換えれば、任務を全うさせるためには、国民の理解と支えが必要なのだ。それがなければ自衛隊は活動できない。  「違憲の存在」「軍国主義の復活」あるいは「海外派兵」などという批判は、彼らではなく、時の政治家に対して発する言葉だろう。  自衛隊が創設されたとき、旧軍のように軍部が暴走することのないように、シビリアン・コントロール(文民統制)の下にその組織を置いたのは間違いではない。  だが、60年という歳月のあいだ、彼らは与えられた任務を全うしてきた。それはわが国の平和と独立を守り、人命救助の災害派遣や国連PKO活動などの国際平和協力活動にも黙々と参加してきたことである。現在、“暴走”しているのは政府のほうではないだろうか。  政治的議論になっている「集団的自衛権」も、首相は「自衛隊が武力行使を目的とした湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と明言しているが、具体的な「歯止め」がきわめて曖昧に残ったままで疑問が残る。  筆者は、1985年8月に起きた日航機墜落事故の御巣鷹山の凄惨な現場で、救出任務から御遺体収集を最後まで行なった隊員たちの姿を見て以来、事あるごとに国内外での自衛隊の活動に同行してきた。現在までに、日本を取り巻く国際環境は大きく変化していることも事実であろう。一方でアメリカ軍の活動にも少なからず同行する機会をもったが、混迷を深める今世紀に入って、彼らが体験したのは、二つの大きな戦争だ。アフガニスタン紛争とイラク戦争である。双方の戦争で犠牲になった兵士の数は、アメリカ軍だけではなく攻撃に参加した多国籍軍も入れると、現在までに約8000人だ。自衛隊員にも「血を流せ」とは現状ではとてもいえない。  ただでさえ東シナ海に進出しようとしている大国・中国を目の当たりにして、自衛隊が戦うべき相手はアメリカの「敵国」ではないだろう。神学論争の末に、自衛隊が「政争の具」にされるのには違和感を覚える。  むしろ急務なのは、“国防最前線”の自衛隊の行動についての法的基盤やROEを定め、安全保障体制を構築することではないだろうか。それこそが“普通の国ニッポン”になることではないか、と筆者は信じる。 せら・みつひろ 1959年、福岡県出身。中央大学文学部フランス語文学文化専攻卒。時事通信社を退職後、集英社フリー編集者を経て、99年に独立し現在に至る。現場第一主義でフィリピン革命や天安門事件、湾岸戦争などをはじめとして世界の紛争地を回り、ルポを発表する。著書に『世界のPKO部隊』(三修社、共著)、『坂井三郎の零戦操縦(増補版)』(並木書房)など多数。

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    なぜ憲法学者は「集団的自衛権」違憲説で一致するか?  

    木村草太(首都大学東京准教授)(THE PAGEより転載) 憲法学者の長谷部恭男・早稲田大教授と小林節・慶応大名誉教授が、衆院憲法審査会で安全保障関連法案を「違憲」と指摘した。長谷部教授は「95%を超える憲法学者が違憲だと考えているのではないか」とも語る。憲法学者による疑義に対し、菅官房長官は、「安保法制を合憲と考える学者もたくさんいる」と反発したが、後日、「数(の問題)ではない」と述べ、事実上前言を撤回した。そもそも、なぜ圧倒的多数の憲法学者が集団的自衛権を違憲と考えるのだろうか。憲法が専門の木村草太・首都大学東京准教授に寄稿してもらった。1.集団的自衛権はなぜ違憲なのか 6月4日の憲法審査会で、参考人の憲法学者が集団的自衛権行使容認を違憲と断じた。このことの影響は大きく、政府・与党は釈明に追われている。もっとも、集団的自衛権行使容認違憲説は、ほとんどの憲法学者が一致して支持する学界通説である。まずは、「なぜ学説が集団的自衛権違憲説で一致するのか」確認しておこう。 日本国憲法では、憲法9条1項で戦争・武力行使が禁じられ、9条2項では「軍」の編成と「戦力」不保持が規定される。このため、外国政府への武力行使は原則として違憲であり、例外的に外国政府への武力行使をしようとするなら、9条の例外を認めるための根拠となる規定を示す必要がある。 「9条の例外を認めた規定はない」と考えるなら、個別的自衛権違憲説になる。改憲論者の多くは、この見解を前提に、日本防衛のために改憲が必要だと言う。 では、個別的自衛権合憲説は、どのようなロジックによるのか。憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。 つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。 では、集団的自衛権の行使を基礎付ける憲法の条文は存在するか。これは、ネッシーを探すのと同じくらいに無理がある。国際法尊重や国際協調を宣言する文言はあるものの、これは、あくまで外国政府の尊重を宣言するものに過ぎない。「外国を防衛する義務」を政府に課す規定は、どこにも存在しない。 また、外国の防衛を援助するための武力行使は、「防衛行政」や「外交協力」の範囲には含まれず、「軍事」活動になるだろう。ところが、政府の権限を列挙した憲法73条には、「行政」と「外交」の権限があるだけで「軍事」の規定がない。政府が集団的自衛権を行使するのは、憲法で附与されていない軍事権の行使となり、越権行為になるだろう。 つまり、日本国憲法の下では、自衛隊が外国の政府との関係でなしうる活動は、防衛行政としての個別的自衛権の行使と、外交協力として専門技術者として派遣されるPKO活動などに限定せざるを得ない。 以上のように、個別的自衛権すら違憲と理解する憲法学者はもちろん、個別的自衛権は合憲と理解する憲法学者であっても、集団的自衛権の行使は違憲と解釈している。憲法学者の圧倒的多数は、解釈ロジックを明示してきたかどうかはともかく、集団的自衛権が違憲であると解釈していた。さらに、従来の政府も集団的自衛権は違憲だと説明してきたし、多くの国民もそう考えていた。だからこそ、集団的自衛権の行使を容認すべきだとする政治家や有識者は、改憲を訴えてきたのだ。2.集団的自衛権を合憲とする人たちの論拠 これに対し、政府・与党は、従来の政府見解を覆し、集団的自衛権の行使は合憲だといろいろと反論してきた。その反論は、ある意味、とても味わい深いものである。記者会見で安全保障関連法案の廃案を求める声明を発表した「国民安保法制懇」の憲法学者ら=2015年7月13 日午後、東京・内幸町 まず、菅官房長官は、6月4日の憲法審査会の直後の記者会見で、「全く違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」と述べた。しかし、解釈学的に見て、集団的自衛権を合憲とすることは不可能であり、合憲論者が「たくさん」と言えるほどいるはずがない。もちろん、合憲論者を一定数見つけることもできるが、それは、「ネッシーがいると信じている人」を探すのは、ネッシーそのものを探すよりは簡単だという現象に近い。数日後の報道を見る限り、菅官房長官は発言を事実上撤回したと言えるだろう。 ちなみに、合憲論者として政府・与党が名前を挙げた人のほとんどは、憲法9条をかなり厳格に解釈した上で、「許される武力行使の範囲が狭すぎる」という理由で改正を訴えてきた人たちである。改憲論の前提としての厳格な9条解釈と集団的自衛権行使合憲論を整合させるのは困難であり、当人の中でも論理的一貫性を保てていない場合が多いだろう。 また、合憲論の論拠は、主として、次の四つにまとめられるが、いずれも極めて薄弱である。 第一に、合憲論者は、しばしば、「憲法に集団的自衛権の規定がない」から、合憲だという。つまり、禁止と書いてないから合憲という論理だ。一部の憲法学者も、この論理で合憲説を唱えたことがある。しかし、先に述べたとおり、憲法9条には、武力行使やそのため戦力保有は禁止だと書いてある。いかなる名目であれ、「武力行使」一般が原則として禁止されているのだ。合憲論を唱えるなら、例外を認める条文を積極的に提示せねばならない。「憲法に集団的自衛権の規定がない」ことは、むしろ、違憲の理由だ。 第二に、合憲論者は、国際法で集団的自衛権が認められているのだから、その行使は合憲だという。昨年5月にまとめられた安保法制懇の報告書も、そのような論理を採用している。しかし、集団的自衛権の行使は、国際法上の義務ではない。つまり、集団的自衛権の行使を自国の憲法で制約することは、国際法上、当然合法である。国際法が集団的自衛権の行使を許容していることは、日本国憲法の下でそれが許容されることの根拠にはなりえない。 第三に、「自衛のための必要最小限度」や「日本の自衛の措置」に集団的自衛権の行使も含まれる、と主張する論者もいる。憲法審査会でも、公明党の北側議員がそう発言した。しかし、集団的「自衛権」というのがミスリーディングな用語であり、「他衛」のための権利であるというのは、国際法理解の基本だ。それにもかかわらず「自衛」だと強弁するのは、集団的自衛権の名の下に、日本への武力攻撃の着手もない段階で外国を攻撃する「先制攻撃」となろう。集団的自衛権は、本来、国際平和への貢献として他国のために行使するものだ。そこを正面から議論しない政府・与党は、「先制攻撃も憲法上許される自衛の措置だ」との解釈を前提としてしまうことに気付くべきだろう。 第四に、合憲論者は、最高裁砂川事件判決で、集団的自衛権の行使は合憲だと認められたと言う。これは、自民党の高村副総裁が好む論理で、安倍首相も同判決に言及して違憲説に反論した。しかし、この判決は、日本の自衛の措置として米軍駐留を認めることの合憲性を判断したものにすぎない。さらに、この判決は「憲法がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と述べるなど、自衛隊を編成して個別的自衛権を行使することの合憲性すら判断を留保しており、どう考えても、集団的自衛権の合憲性を認めたものだとは言い難い。3.「まさか」の展開 このように、政府・与党の要人の発言は、不自然なほど突っ込みどころに溢れている。なぜ、こんな穴だらけの議論を展開するのだろうか。本当に日本の安全を強化するために法案を通したいなら、「集団的自衛権」という言葉にこだわらずに、「個別的自衛権」でできることを丁寧に検証していけばいいはずだ。 まさか、わざと穴のある議論を展開し、「国内の反対」を理由にアメリカの要請を断ろうと目論んででもいるのだろうか。なんとも不可解だ。 ちなみに、集団的自衛権を行使する要件とされる「存立危機事態」の文言は、憲法のみならず、国際法の観点からも問題がある。 国際司法裁判所の判決によれば、集団的自衛権を行使できるのは、武力攻撃を受けた被害国が侵略を受けたことを宣言し、第三国に援助を要請した場合に限られる。ところが、今回の法案では、被害国からの要請は、「存立危機事態」の要件になっていない。もちろん、関連条文にその趣旨を読み込むこともできなくはないが、集団的自衛権を本気で行使したいのであれば、それを明示しないのは不自然だ。 まさか、法解釈学に精通した誰かが、集団的自衛権の行使を個別的自衛権の行使として説明できる範囲に限定する解釈をとらせるために、あえて集団的自衛権の行使に必要とされる国際法上の要件をはずしたのではないか。 そんな「まさか」を想定したくなるほど、今回の法案で集団的自衛権の行使を可能にすることには無理がある。こうした「まさか」は、山崎豊子先生の小説なみにスリリングで楽しいのだが、これを楽しむには、あまりに専門的な法体系の理解が必要だ。そんなものを国民が望んでいるはずはない。いや、国民は、それもすべて承知の上で、憲法学者の苦労を楽しんでいるのか? やれやれ。 いずれにしても、これだけは憲法学者として断言しよう。「個別的自衛権の範囲を超えた集団的自衛権の行使は違憲です。」きむら・そうた 1980年生まれ。東京大学法学部卒。同助手を経て、現在、首都大学東京准教授。助手論文を基に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)を上梓。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東大生協で最も売れている本」と話題に。著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)、『憲法学再入門』(西村裕一先生との共著・有斐閣)、『未完の憲法』(奥平康弘先生との共著・潮出版社)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『憲法の条件――戦後70年から考える』(大澤真幸先生との共著・NHK出版新書)などがある。

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    「安保法案」成立で永遠に不可能になるかもしれない憲法9条改正

    た。安保法案の成立によって、日本の防衛力は着実に増強の方向にすすむだろう。2014年の集団的自衛権の憲法解釈変更と合わせて、私は一定程度、この安保法案の通過を評価する立場にある。 しかし一方で、これで憲法(9条)の改正は相当、遠ざかるだろう。いやもう永遠に無理かもしれない。そのような思いから、私は安保法案の通過を複雑な心境で見つめていた。衆院本会議で可決した「安保法案」に拍手する安倍総理と石破氏(写真:ロイター/アフロ) 「我が国は国際法上、集団的自衛権を保有するが、その行使は許されない」との政府見解が出された鈴木善幸内閣の1981年以来、約30年に亘って続いてきたこの解釈は既に述べたとおり2014年に変更された。しかし、この「持っているが使えない」という集団的自衛権に関する珍妙な解釈は、この間、憲法改正を目指す保守派(以下改憲派)にとって、「憲法9条改正の理由」として必ず引き合いに出されるロジックであった。 「集団的自衛権は、国連憲章に書いてあるように、国家が生来持つ自然権である」という自然権説を改憲派は必ず引用し、「だのに、日本がそれを行使できないというのは、異常である」と現行憲法の「特殊性・異常性」を指摘し、「異常だからこそ、憲法9条を改正するべきなのだ」と長年主張してきた。『日本人のための集団的自衛権入門』(新潮新書)の中で石破茂は、JRの座席指定券の例を出し、鈴木内閣以来の集団的自衛権解釈の「矛盾」を以下のように形容する。 あなたがJRの指定券を持って、指定された席に座っていたとします。その席に座るのは当然指定券を買ったあなたの権利であり、その権利の行使として実際そこに座っています。そこへ突然誰かがやってきて、「ここに座っているのはたしかに君の権利だが、しかし座ることは出来ないのだ。私に席を譲りなさい」と言われたとしたら、いったい何がなんだか分からなくなりはしないでしょうか。出典:『日本人のための集団的自衛権入門』(新潮新書 石破茂著 P.71) 確かに、こう言われれば明確な理論展開だ。権利の保有は行使と普通イコールと考えられるのだから、「持っているのに使えません」というのは、常識的な皮膚感覚の中では、異様な解釈のように思える。この「異様性」を強調して、「だからこそ、(異様な)憲法9条を改正するべき」という改憲派の主張には、この間、一定の説得力があったように私には思える。盛り下がる改憲機運の理由 図は、日経リサーチ社による、直近10余年における憲法改正に関する世論調査(各4月)の推移を筆者がまとめたものである(数値は全てパーセント)。これを見ても分かる通り、調査開始年の2004年(小泉内閣)時代、赤字で示した「改憲」と青字で示した「護憲」は、約2倍の開きがあって改憲派が相当優勢であった。実際には、調査方法や媒体にもよるが、概ね改憲を志向する世論は、1990年を過ぎてから一貫して護憲を上回るようになっている。 これは所謂、金だけを拠出してクウェートによる感謝状に日本の名前が載らなかった「湾岸戦争ショック」を始めとして、冷戦後の国際情勢の変化に際して世論が敏感に反応したことと、既に述べたように改憲派が現行憲法を「異様」なものであると訴え、現行憲法のままでは集団的自衛権の行使が不能であり、よって国際社会から日本が孤立化することを盛んに喧伝した効果が含まれていよう。 繰り返すように、先にあげた石破の「指定席の話」に代表されるロジックには、相応の説得力があったので、このような改憲の傾向はゼロ年代にあっても、上下はあるものの2014年の第二次安倍政権下でも強いものがあった。日経の調査によれば、最も改憲機運が高いのが2013年4月の調査であり、「尖閣諸島沖漁船衝突事件」(2010年)等に代表される「中国脅威論」などが影響していると思われる。 しかしこのような「改憲優勢」の機運は、図を見てもわかるように2015年の4月の最新調査で、僅差だがここ10数年で初めて護憲が改憲を上回った。他に各社世論調査の最新動向によると、「憲法改正不要48%、必要43%」(朝日新聞5月1日報)、「憲法改正賛成42%、反対41%」(読売新聞3月15日報)など、ここ十数年の「改憲優勢」の世論が、初めて逆転するか拮抗するかの情勢となっていることが明らかである。 つまりこの世論の動きは、「現行憲法が異様であるから、日本国憲法を改正するべきだ」という従来改憲派が繰り返して来た改憲のためのロジックが、昨今の集団的自衛権の解釈変更と、安保法案の成立により「解消された」と評価されているということだ。よりわかりやすく言えば、「現行憲法下で集団的自衛権が行使できるということになれば、わざわざ憲法を改正するまでもないのではないか」という、これまた普通の感覚で改憲派のロジックが弱体化してしまった結果なのである。「最良の時代」であり、「最悪の時代」でもある これまで護憲派は、主に「現行憲法を変える必要はない。なぜなら、解釈改憲でこれまでも通用してきたからだ」と改憲派を牽制してきた。それに対して改憲派は、「解釈改憲では限界がある。例えば集団的自衛権があるではないか」と、反論してきた。今回、安保法案が成立したことで改憲派は集団的自衛権を担保とした改憲ロジックを事実上、封印されたことになる。憲法を変えないまま、集団的自衛権の解釈を変更し安保法制が成立したとなれば、「何のために憲法を変えるのか」という疑問に抗しきれない。 先に引用した石破は、「現行憲法下で集団的自衛権の解釈変更は可能だ(2014年2月)」と明言し、「集団的自衛権の行使の根拠は憲法ではなく、政策判断にすぎない」として、(集団的自衛権の行使を)憲法にその根拠を求めてしまったこと自体が誤りではなかったのでしょうか。憲法9条のどこを読んでも、「集団的自衛権は行使できない」という理論的根拠を見出すことは出来ません。そもそも解釈が間違っている、いない、という論争ではなく、これは政策判断であったのだとすれば、何も憲法を改正しなくても行使は可能となるはずだ、と私は考えています。出典:前掲書P.78、括弧内筆者 としている。確かに、石破の指摘通り政策判断にすぎないとなれば憲法改正の必要性はない。しかし、長年改憲派が依拠してきた憲法改正の重要な根拠は、「持っているのに行使できない」という政府の憲法解釈を日本国憲法の異様性に結びつけることで成り立っており、その部分が達成された(解消された)となると、いみじくも石破の指摘の通り「何も憲法を改正しなくとも…」という結論に達し、改憲機運は弱まるのは自然だ。 改憲派は憲法9条によって日本が手足を縛られ、冷戦後の国際環境下では日米同盟にヒビが入り、日本の存立をも危うくなることを盛んに喧伝して憲法改正を訴えてきた。今回の安保法制の通過(成立)によって、改憲派が唱えていた最大の理論的支柱が失われ、憲法改正の国民的機運は急速に衰えているのは既に示したとおりである。むろん、政府は集団的自衛権の解釈変更と安保法制の成立をもってしても、「憲法9条の縛り」があることを強調しているが、その理屈は相対的に弱まってしまうのは必然だ。 「戦後レジームからの脱却」を掲げ、その最大の争点を岸総理からの「憲法改正(自主憲法制定)」として捉えてきた安倍総理と改憲派にとって、今回の安保法制は実質的な意味では憲法改正に近いものであるが、名目的には却って、憲法改正が著しく遠ざかったことを意味する。 安倍総理は就任翌年、「96条の改正」(改憲要件緩和)を目指したが肝心の改憲派・保守層からも批判にさらされ、参議院選挙の争点とすることを断念した。思えばこの時に既に、安部総理は、名目上の憲法改正を断念していたのかもしれない。 「憲法9条改正」は、自民党にとって、保守派にとって、最大の悲願であり目標であった。それは現在も変わっていないものの、実質を取って名目を捨てた(ように思える)安倍政権は、「中国の脅威が増す中で、やむを得ない現実主義」と形容されるのか、はたまた「永遠に憲法改正の可能性を摘んでしまった」と形容されるのかは、後世の歴史家の評価に委ねられるだろう。 しかし私流に、現在という時代を観測すれば、それはディケンズの『二都物語』の言葉を借りて次のように評するよりほかない。 「それは(保守派にとって)最良の時代であり、また最悪の時代であり…」

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    憲法改正は「緊急事態条項」から一点突破を図れ

    画」「エネルギー安定供給計画」「『修身』の教科書復活計画」と発表され、4番目が筆者に割りあてられた「憲法改正計画」であった。 バラエティ番組とはいえ、東京および関東一円を除く全国ネットで放映されており、多くの視聴者が見ているはずである(視聴率は13%で、当日のトップだったという)。この1~2年のうちに憲法改正を実現することが可能なことを広く訴える絶好のチャンスであり、あだや疎かにはできない。また、スタジオでは、作家の金美齢氏や東京新聞の長谷川幸洋氏、立命館大学客員教授の宮家邦彦氏など錚々たるメンバーが、「実現可能」か「実現不可能」かジャッジを行う訳だから、その点でも結構緊張する。 取り上げたテーマは、「緊急事態条項」であったが、判定は6対1で「実現可能」となった。それまでは4対3とか5対2とかいった判定が続いており、高得点を得たことになる。 そこで、これまで以上に自信を持って(?)、憲法改正は「緊急事態条項」によって「一点突破」を図るべしとの主張を、簡略に紹介しようと思う。現行憲法の最大の欠陥は「緊急事態条項」の欠如 GHQの占領下で制定された現行憲法には、様々な欠陥がみられる。その最大の欠陥は、大規模テロや大規模自然災害といった国家的な緊急事態に対する備えがないことである。大規模テロについていえば、先頃、首相官邸の屋上で小型無人機「ドローン」が発見されたことがあった。幸い、大事には至なかったが、容疑者はブログの中で、原発の再稼働阻止のためテロも辞さないと書き込んでいたという。もし大量のサリンでも撒かれていたら、大変なことになるところであった。 また、いわゆるイスラム国での日本人人質事件をきっかけに、イスラム国は日本におけるテロまで予告してきた。自衛隊法には対テロ対策のため「警護出動」が認められている。ただ、「警護出動」の対象は自衛隊施設と米軍基地に限られているから(81条の2第1項)、万一、原発や新幹線、さらに皇居や官邸がテロに狙われたらどうなるか。 したがって、早急に取り組まなければならないのは、自衛隊法の「警護活動」の対象を拡大しその中に原発や国の重要施設を加えることであろう。しかし、自衛隊法の中に警護活動の対象を次々書き加えるのは大変であろうし、仮にいくら書き加えても、想定外の大規模テロが発生すれば対応できない。 このように考えると、結局、憲法の中に緊急事態規定を定めておき、大規模テロに対処できるようにしておくしかない。憲法改正が必要とされるゆえんである。大規模自然災害と国家緊急事態 他方、大規模自然災害であるが、平成23年3月11日の東日本大震災では巨大地震と大津波さらに原発事故に見舞われたが、民主党政権の対応はきわめて問題の多いものであった。緊急災害対策本部の会議であいさつする菅首相。左は枝野官房長官=2011年3月15日、首相官邸(酒巻俊介撮影) 菅内閣は、次々と「本部」や「会議」を設置したが、それぞれの権限は曖昧な上、指揮系統は混乱し、結局、有効な対策も効果的な措置もとることができなかった。 災害対策基本法では、「非常災害が発生し、その災害が国の経済や公共の福祉に重大な影響を及ぼすような場合」には、「災害緊急事態」を布告できると定めている(105条)。そして、この「災害緊急事態」が布告されると、政府は「緊急政令」を制定し、「生活必需物資の統制や価格統制、さらに金銭債務の支払い猶予」を行ったりすることができる(109条1項)。 にもかかわらず、菅内閣は「災害緊急事態の布告」を行わず、「緊急政令」も制定しなかった。そして、「生活必需物資の統制など必要なかった」とうそぶいていた。実際には、震災直後に、現地ではガソリンが不足し、被災者や水・食糧などの生活必需物資、医薬品などが輸送できなかったりしている。そのため、助かったかもしれない多くの命が失われている。それゆえ「物資の統制」は必要であった。 にもかかわらず「物資の統制」を行わなかった理由について、政府の役人は「国民の権利義務を大きく規制する非常に強い措置であり、適切な判断が必要」であったと答弁している。 つまり、「憲法で保障された国民の権利や自由―経済活動の自由―をそう簡単に制限するわけにはいかない」というわけである。法律では明確に「権利・自由の制限」が認められているにもかわらず、憲法に根拠規定が存在しないため、そう簡単に権利や自由の制限を行うことなどできない、というわけである。 また、ガレキの処理についても、憲法の保障する「財産権」が問題となった。流れ着いた家財や車等のガレキを処理し、緊急道路を開通させようとすると、「持ち主の了解なしに処分するのは財産権の侵害であり、憲法違反だ」といった声が上がり、中々処分が出来なかった自治体もいくつかある。これも憲法に根拠規定がないため、迅速な処理が出来ず、二次被害をもたらした例である。 とすれば、やはり抜本的な解決のためには、憲法の中に緊急時のための規定をしっかりと定めておく必要がある。緊急事態条項の必要性 国家緊急権の目的は、「国家的な緊急事態において、国家(「政府」のことではなく「国民共同体としての国家」)の存立を確保し、憲法秩序を維持することによって、国民の生命と人権を守る」ことある。それ故、国家的な危機を克服し人権を守るために、緊急事態条項は不可欠である。 これは、平時には平時の、そして緊急時には緊急時のためのルールが必要だということである。交通ルールに例えるならば、一般車や歩行者は信号に従って交差点を渡るが、緊急時にはパトカーや消防車などの緊急車両が一般車や歩行者を一時ストップさせ、優先的に走行できる。つまり、通常とは異なる特別ルールに従って走行できるわけである。それと同じであって、日常生活でさえ平時と緊急時のルールが分けられているにもかかわらず、国家レベルでは緊急時のルールが定められていない、というのもおかしな話である。    逆に、もし緊急権が制度化されていない場合、どうなるか。憲法改正に反対する人たちは、「超法規的措置をとれば良い」と言うが、それこそ護憲派が強調する「立憲主義」に反する。危機を克服するためという理由のもと、憲法に定められていない権力が行使される、つまり憲法を無視した権力の乱用がなされるわけであるから、危険きわまりない。それゆえ、憲法を守り、立憲主義を維持するためにも、緊急事態条項は不可欠であって、これが無いようでは、とても立憲主義国家とは言えない。 だから、世界のほとんどの国々が、憲法の中に緊急事態条項を定めている。先進国で緊急事態条項のない憲法など存在しないし、1990年以降に制定された100ヶ国の憲法にも、全て緊急権が規定されている。首都直下型大地震に備えて  東日本大震災のような緊急事態、あるいはそれ以上の緊急事態はいつ起こるか分からない。例えば、心配される首都直下型大地震が発生し、もし、国会が集会できないような大混乱が生じた場合どうするのだろうか。首相をトップとする「中央防災会議」は、昨年3月、「首都直下型地震は国家の存亡に関わる」との報告書を発表した。 首都直下型大地震が発生する確率は、国の予測では「今後30年以内に70%の確率」と言われている。しかし、他方では、過去1300年の間に4回発生したマグニチュード8以上の三陸沖巨大地震の経験をもとに、ここ10年以内に首都直下型地震が発生してもおかしくない、と断言する人がいる。それは京都大学の藤井聡教授で、内閣官房参与もしておられるこの分野の専門家である。 藤井教授によると、三陸沖巨大地震と連動して、前後10年以内に首都直下型大地震が発生したケースが過去に4回もある。最初は、平安時代初期に発生した貞観の三陸沖巨大地震であるが、その9年後に相模・武蔵大地震が起きている。また新しいところでは、大正12年の関東大震災の丁度10年後の昭和8年に、昭和三陸地震が発生している。それゆえ、統計的に言えば、ここ10年以内に首都直下型地震が発生してもおかしくないと、警告を発しておられるわけである。 したがって、一日も早く憲法を改正し、憲法の中に緊急事態条項を定めておく必要がある。 この点、昨年11月7日、衆議院の憲法審査会において緊急事態についての審議が行われたが、共産党を除く与野党の7党すべてが緊急事態規定の必要性を認めている。とすれば、憲法改正の第一のテーマが緊急事態条項になるであろうことは、多分、間違いない。もしかしたら、これが一点突破のカギとなるかもしれない。また、この緊急事態の問題であれば、必ず多くの国民の理解が得られると確信している。

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    「戦争法案反対」は戦争したい国の思う壺

    ドライン)。そのキーワード「シームレス(seamless)」を、日本政府が「切れ目のない」と訳した。憲法9条以下、関連法制は英語で論じたほうが分かりやすい。 シーム(seam)がないからシームレス。シームとは「縫い目、継ぎ目」。「弱点、隙」との意味もある(前出辞典)。それがない。つまり「縫い目のない」「継ぎ目のない」「一体となった」「スムーズな」「完璧な」状態を差す(同前)。「切れ目のない」と言ってもよい。 逆に言えば、現行法制には「切れ目」があり、スムーズな対応ができない。日本防衛上も隙があり、それが弱点となっている。だから切れ目をなくしてシームレスな対応を可能とする安保法制を整備する。政府与党は今年四月まで、そう説明してきた。 ところが、出来た法案はどうか。名実とも「切れ目のない安全保障法制」ではなかった。安全保障関連法案の可決について報じる2015年7月16日付の中国各紙(共同) 政府資料「『平和安全法制』の概要」の副題「我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備」には、辛うじて「切れ目のない」というキーワードは副題で残されたものの、「法制」ではなく「体制」と書かれた。想像できる理由は単純。グレーゾーン事態における「切れ目のない」対応を可能とするための法整備が見送りとなったから。法案すらなくなったのに、「法制」とは呼べない。そういう次第であろう。 法整備を断念した政府はどうしたか。 今年五月十四日、平安法案に加え、グレーゾーン事態についての対処を閣議決定した。要点は「治安出動・海上警備行動等の発令手続の迅速化」。これにより「電話等により各国務大臣の了解を得て閣議決定を行う」ことができるようになった。電話しても「連絡を取ることができなかった国務大臣に対しては、事後速やかに連絡を行う」。それでよしとされた。 皮肉を込めて護憲派に問う。以上は閣議の軽視ではないのか。「内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする」と明記した内閣法4条が空文化する。文民統制が形骸化する。「いつか来た道」だ。立憲主義に反する。なぜ、そう批判しないのか。「こんな大事なことを一内閣の閣議決定で決めてよいのか」となぜ、いつもの調子で非難しないのか。 グレーゾーン事態は存立危機事態(集団的自衛権)より生起する蓋然性が格段に高い。にもかかわらず、野党や一部マスコミは後者ばかり論じている。これで「切れ目のない体制」? 政府与党にも問う。電話閣議や事後連絡で「発令手続の迅速化」を図るのではなく、「領域警備法」を制定し、平時から自衛隊に領域警備の任務と権限を付与すべきではなかったのか。憲法上の要請に加え、そのほうが実務上の要請にも叶う。なぜなら電話閣議の時間すら致命傷となり得るからだ。 さらなる問題は「治安出動・海上警備行動等の発令」後である。海警行動が発令されると、海上保安庁法20条2項が適用され(自衛隊法93条)、武器使用権限が拡大する。ただし同条は武器使用の対象となる「外国船舶」について「軍艦及び各国政府が所有し又は運航する船舶であつて非商業的目的のみに使用されるものを除く」と明記する。 したがって日本領海を・有害航行・する中国の軍艦は適用除外。つまり武器を使用できない。警告射撃も許されない。いくら発令手続を迅速化しても武器を使えない以上、対処には限界がある。潜没航行する中国潜水艦も同様である。日本政府の方針は、海警行動発令後「自衛隊が当該潜水艦に対して、海面上を航行し、かつその旗を揚げる旨要求すること及び当該潜水艦がこれに応じない場合にはわが国の領海外への退去要求を行う」。それはよいが、海自の「要求」に応じない中国原潜に、どう対処するのか。 同様の疑問は中国の「海警」にも当てはまる。「外国政府が所有し又は運航する船舶」である以上、前記条文により武器使用できない。これでも「切れ目のない体制」と呼べるのだろうか。 中国「海警」を含め、想定されるグレーゾーン事態の相手は「警察」かもしれない。ならば当方も、一義的に警察や海上保安庁が対処することになる。政府がいう「切れ目のない体制の整備」には、法整備に加え、海保を含む警察力を向上させていく必要がある。そうしないと警察力と防衛力の間に「切れ目」が残ってしまう(自衛隊の能力を下げれば、切れ目はなくなるが、それでは本末転倒)。 だが他ならぬ日本の法律が、それを阻んでいる。たとえば海上保安庁法。「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」(25条)。憲法9条に配慮した条文であろう。本来こうした条文もすべて改正すべきであった。たとえば「国家安全保障基本法」を制定して。 そもそも国際法上、軍艦や政府船舶は「いずれの国の管轄権からも完全に免除される」(国連海洋法条約)。それを「警察権」(法執行権)で対処しようとするから無理が生じる。国際法上は警察権ではなく「自衛権」として説明しないと、警告射撃以上の措置は取れない。同様に今回、自衛隊による邦人救出も警察権と説明され、「領域国政府の同意」がある場合に限られた。「同意」が得られない場合、平安法は邦人を見殺しにする。 治安出動時も同様である。警察官の武器使用は(有名な)警察官職務執行法7条が適用されるが、自衛官は加えて隊法90条が適用されるため鎮圧などの権限が拡大する。治安出動時に警察官の武器使用を、今後も平時と同じ要件で縛る合理的な理由はなにか。ぜひ聞かせてほしい。 それだけではない。新たに制定される「国際平和支援法」により自衛隊を派遣する際には例外なき事前の国会承認が必要となった。公明党の要求に自民党が屈した結果である。政治に妥協や譲歩は不可避だが、今回は一線を越え、筋を曲げた。私はそう懸念する。 国会閉会中や衆院が解散されている場合、迅速に対応できない。どうしてもタイムラグが生じる。対応に「切れ目」が生まれる。特措法制定に伴う「切れ目」をなくすべく一般法(恒久法)として国際平和支援法を整備するはずだったのが、連立与党やマスコミ世論に屈し「歯止め」を設けた結果、「切れ目」が残った。そういうことであろう。平和ボケの批判/現場の不満平和ボケの批判/現場の不満 護憲派が問題視する「重要影響事態」も例外でない。彼らは「周辺」という言葉が外れ、地球の裏側まで自衛隊が「後方支援」で派兵されると非難するが、元々「周辺」は地理的概念ではない。彼らの「懸念」は無視し、実務上の懸念を挙げよう。 現行の「周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律」は「重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律」に改正される。弾薬提供が可能になるなど、現行法制よりは多少ましだが、依然として抜本改正とは程遠い。 たとえば、現行法の「別表(第五条関係)」は改正されない。ゆえに「乗船しての検査、確認」できる船舶は「軍艦等を除く」。しかも「当該船舶の停止を求め、船長等の承諾を得て」からしか乗船検査できない。 相手が停船の「求め」に応じない場合どうするか。法は「これに応じるよう説得を行うこと」。なら「説得」に応じない場合どうすべきか。現行法すなわち平安法が許すのは「説得を行うため必要な限度において、当該船舶に対し、接近、追尾、伴走及び進路前方における待機を行うこと」。警告射撃すら許されない。法改正が検討されたが、公明党が難色を示し、実現できなかったという。 そもそも「国家安全保障基本法」の制定を主張してきた自民党が、公明党の要求に譲歩を重ねた結果が現在の有り様である。膨大な平安法案となり、「重要影響事態」や「存立危機事態」など新概念が乱立している。 善かれあしかれ「右向け、右」や「撃て」といった簡潔な命令で動く自衛隊を規律すべき法制度としては複雑に過ぎよう。すでに現場からは戸惑いの声が出ている。今後、現場は混乱するに違いない。とくに「事態」が重なるケースや、ある「事態」から別の「事態」に秒単位で移行するケースで混乱する。どちらのケースも十分あり得る。 要するに「撃ってよいのか」。それが明示されなければ現場は必ず逡巡する。たとえ「撃て」と言われても、月村了衛著『土漠の花』(幻冬舎)が描いた通り、逡巡する隊員も少なくあるまい。だからこそ、法律要件を具体化した「ROE(交戦規定・武器使用基準)」を策定する必要がある。そのためにも国会質疑で法律要件を具体化すべきなのに、「平和主義に反する、立憲主義に反する」といった(質問ならぬ)結論ありきの主張だけが繰り広げられている。「戦争法案」と叫ぶわりには、平和ボケした間抜けな連中ではないか。 いわゆる集団的自衛権の行使要件も世界で最も厳しい。一言で評すれば、×(違憲)との憲法解釈を、△(限定容認)に変更しただけ。自国軍の活動を、ここまで厳格に縛っている法令が海外にあるだろうか。 私がくだす安保法制への評価は△である。決して◎でも、○でもないが、少なくとも×ではない。「ないよりはマシ」。この春にそう「夕刊フジ」の連載に書いた。だが、その評価すら甘いのかもしれない。「○なら欲しいが、△なら要らない」――それが現場の本音である。すでに「こんな法制なら要らない」と不満が漏れ出した。「ないほうがマシ」と断言した幹部もいる。こんな平和安全法制に誰がした。結局「歯止め」が増えただけではないか。私は悔しい。 この程度の平安法なのに「戦争法案」と誹謗する政党がある。朝日新聞も「国際平和支援法」という名称には「戦争支援という実態を糊塗する意図があるのではないか」と勘ぐった(4月16日付社説)。 だが、集団安全保障措置(としての協力支援)は「戦争(支援)」ではない。それどころか国連憲章上の責務でもある(25条)。朝日社説は「なにより、自衛隊の海外派遣は慎重であるべきだ」とも書いたが、国際法上の義務に「慎重であるべき」と主張する感覚は真っ当でない。名実とも権利である集団的自衛権とは話が違う。相変わらず両者の違いを理解していない。南シナ海は、今そこにある危機 閣議決定翌朝の朝日一面ヘッドラインは「政権 安保政策を大転換」(5月15日付)。毎日も「安保政策 歴史的転換」。NHKも「戦後日本の安全保障政策の大きな転換」と報じた。およそ同じ法案を読んだ人間の評価とは思えない。以上のどこが「大転換」なのか。彼らは平気でウソをつく。昨年来その姿勢に変化はない(拙著『ウソが栄えりゃ、国が亡びる――間違いだらけの集団的自衛権報道』ベストセラーズ)。 最近では、五月二十日付朝日社説が「南シナ海問題―安保法制適用の危うさ」と題し、南シナ海で「将来的に海上自衛隊が警戒監視活動を担う可能性がある」と書いた。社説の最後を「万が一にも軍事衝突にいたれば、日中両国は壊滅的な打撃を被る。その現実感を欠いた安保論議は危うい」と締めた。その限りで大きな異論はない。事実すでに米海軍第7艦隊のトーマス司令官や太平洋軍のハリス司令官が海自の警戒監視活動へ期待を表明した。六月下旬には、南シナ海で海自とフィリピン軍による初の本格的な共同訓練がある。 さて実際に海自が南シナ海で警戒監視活動を行えば、どうなるか。間違いなく中国は対抗措置をとるだろう。まず「中国の軍事警戒区域から出て行け」と脅す(今春、米軍機にそう明言した)。パイロットの視界を奪うべく強い光を当てる(フィリピン機に実行した)。その他、危険な近接飛行や火器管制レーダー照射(ロックオン)等々(両者とも中国に前科があり、被害者は自衛隊)。それらを「軍事衝突」と呼んでいいなら、その確率は「万が一」どころか確実である。 ただ現状、南シナ海に派遣し、常続的に警戒監視するのは、海自哨戒機P3―Cの航続距離を考えれば容易でない。他方、海賊対処の部隊を含め海自艦艇は南シナ海を航行している。その際、わざと速度を落とす。漂泊する。停泊する。護衛艦から哨戒機を発艦させる…等々なら比較的容易である。 かりに海自がそうすれば、中国側はどうするか。中国は南シナ海にも防空識別区を設定し、当局の指示に従わなければ、防御性緊急措置をとる方針であろう。実際にスクランブル発進するつもりなのか。先日、人民解放軍(中国軍)の将官らに聞いてみた。案の定、対抗措置を否定しなかった。そのとき軍事的な緊張は一気に高まる。北京の天安門前をパレードする中国人民解放軍の女性兵士=9月3日(共同) いたずらに脅威を煽っているのではない。中国外務省の陸慷報道官は六月十六日、南シナ海の南沙諸島で中国が進めてきた浅瀬の埋め立てが「近く完了する」と会見した。翌週アメリカで開催される米中戦略対話や九月の習近平国家主席訪米を睨み、沈静化と同時に既成事実化を図った発言であろう。中国紙「環球時報」は「アメリカが埋め立て停止を求めるなら、一戦は避けられない」と強硬姿勢を露わにしていた(5月25日付)。その中共政府が、自衛隊の警戒監視を容認するはずがない。解放軍は確実に対抗措置をとるであろう。 日本政府はどうするつもりなのか。これも防衛大臣に聞いてみた。答えは「警戒監視を行なうかは、『防衛省の所掌事務の遂行に必要な範囲』かどうかという観点で決められる」。中谷元大臣は「具体的な計画はない」とする一方「今後の課題と認識しています」と語った(「Voice」四月号)。つまり海自が南シナ海で警戒監視する可能性を否定しなかった。中国は埋め立てが完了すれば軍事基地建設に動く。この問題こそ「今そこにある危機」ではないだろうか。 以上を前提として、先の社説に話を戻す。問題は朝日がこう書いたことだ。「政府は今回の安保法制で周辺事態法から『周辺』の概念を外す抜本改正をめざしており、重要影響事態法という新しい枠組みの中では、南シナ海も適用対象となる」何でも安倍総理のせい?何でも安倍総理のせい? くどいようだが「周辺」を外しても警告射撃すらできない。それを「抜本改正」と呼べるのか。百歩譲って、そこは立場の違いと認めてもよい。視点が違えば、見える風景も変わる。私が許せないのは、朝日ら護憲派が南シナ海問題を「今回の安保法制」として論じていることだ。 朝日は「将来的に海上自衛隊が警戒監視活動を担う可能性がある」というが、防衛大臣が認めたとおり、現行の防衛省設置法を根拠に「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究」(4条)として、いつでも活動できる。現に今も東シナ海などで警戒監視している。 かつて9・11の同時多発テロ直後、横須賀から出港する米空母を、海自の護衛艦が名実とも・護衛・したが、その際の法的根拠もこの「調査研究」名目だった。これに「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる」と明記した自衛隊法95条の「武器等の防護のための武器の使用」を併用すれば、選択肢は際限なく広がる(かもしれない)。当時そう朝日新聞紙上で、「歯止めのない拡大解釈につながる危険がある」と批判したのは他ならぬ私である(2001年9月25日付)。 朝日陣営が一貫して、そう批判し続けてきたのなら咎めないが、今や誰もそうは批判しない。他方で存立危機事態(集団的自衛権)や重要影響事態の「危険」は言い続ける。「立憲主義や平和主義が揺らぐ」と批判する。それは、いかなる理由からなのか。 想像できる理由は一つ。そもそも現行法制を理解していないから。証拠を加えよう。 五月二十六日の「報道ステーション」(テレビ朝日)は「国の形を変える論戦が始まった」と国会審議を報じた。コメンテーターの立野純二・朝日新聞論説副主幹が「平和主義の原則を変える重要な法案なのに説明があらっぽい」など定番の独演をしたが、問題は中国の国防白書を報じた次のコーナー。立野副主幹がこうコメントした。「この安保法制が出来た後に自衛隊が南シナ海の警戒監視に行くことになるかもしれません。その際にもし米軍の艦船に攻撃があったら自衛隊はどうするんでしょうか。その米艦船を守るんでしょうか。そうなれば南シナ海の米中の衝突に日本が巻き込まれるという可能性は十分ある。こういったことも論議してほしい」南シナ海の南沙諸島にあるスービ礁=2015年8月1日撮影(デジタルグローブ提供・ゲッティ=共同) 六日前の朝日社説(前出)は、彼が書いたのかもしれない。どちらにせよ、間違っている。「この安保法制が出来た後」どころか、廃案になっても、自衛隊が南シナ海の警戒監視に行くかもしれない。そうなれば、「米艦船を守る」前に、中国軍の威嚇や挑発を受ける。それは「米中の衝突に日本が巻き込まれるという可能性」より、桁違いに大きな蓋然性である。なぜ、そのリスクは黙認するのか。頼むから、何でもかんでも、平安法の問題にするのは止めてほしい。 あと二例だけ挙げよう。「安保法制国会―リスクを語らぬ不誠実」と題した五月二十八日付朝日社説はこう書いた。「戦闘現場になりそうな場合は休止、中断し、武器を使って反撃しながらの支援継続はしないと説明するが、休止の判断は的確になされるか、それで本当に安全が確保されるのか」 一般論なら右の疑問はあり得る。ただし平安法(固有)の問題ではない。なぜなら現行の周辺事態法や過去の特措法にも当てはまるからである。たとえばイラク派遣でも。逆に言えば「リスクを語らぬ不誠実」は派遣当時の小泉純一郎内閣にも当てはまる。同様に、その前日付朝日社説「真価問われる国会―なし崩しは認められない」もこう書いた。《不意を突く砲撃や仕掛けられた爆弾などによる被害を百%防ぐことなど不可能ではないか。前線の他国軍を置いて自衛隊だけが「危ないので帰ります」などと本当に言えるのだろうか》 これも現行法や過去の特措法に当てはまる疑問である。いいかげん、何でもかんでも、平安法の問題にするのは止めてほしい。学者よりも現場の声を彼らに誇りを! 護憲派は重要影響事態や存立危機事態のリスクは喧伝するくせに、なぜか国連PKOのリスクは語らない。日本人警察官の犠牲者が出たにもかかわらず。多数の外国軍人が犠牲になってきたにもかかわらず。 私は自衛隊派遣に反対しているのではない。逆である。高いリスクがあるからこそ、民間人でも警察官でもなく、自衛隊を派遣すべきなのだ。今までもリスクはあったし、今もある。たとえば南スーダンPKOや海賊対処の現場において。 そもそも武器弾薬を扱うのだ。常にリスクはある。それなのに、野党やマスコミは、存立危機事態(や重要影響事態)のリスクばかり言いつのる。対照的に政府はリスクを正面から認めない。マスコミには左右両極の元自衛官ばかり登場する。いつも現場は置いてきぼりだ。 もはや報道はどうでもいい。与野党の全国会議員に直訴する。 国会で憲法学者の話を聞く暇があるなら、一度でいいから現場の声も聴いてほしい。できれば、日米が一体化している現場を見てほしい。憲法学者や法制局の「一体化論」が無意味だと分かるはずだ。 平安法案を閣議決定した五月十四日の会見で(テレビ朝日の足立)記者の質問を、総理はこうかわした。「PKO活動(略)を広げていくという、新たな拡大を行っていくということではない。(略)南シナ海における件におきましては、これは全く私も承知しておりませんので、コメントのしようがないわけであります。そしてまた、例えばISILに関しましては、我々がここで後方支援をするということはありません。これははっきり申し上げておきたいと思います」 すべて本心から出た言葉なのか。今後PKO活動は拡大しないのか。南シナ海の件を本当に知らなかったのか。対ISIL作戦の後方支援すらしないのか。万一そうだとしても、なぜそう「はっきり」言う必要があったのか。正直まるで理解できない。以上すべて高いリスクを伴う活動だからなのか。ならば、総理の姿勢は間違っている。リスクを認め、活動の意義を説くべきだ。国民にも部下隊員にも率直に。たとえば以下のごとく。「建軍の根幹である犠牲的精神、すなわち、名誉ある犠牲心はわれわれの美的概念とも道徳的概念ともきわめてよく合致する。それゆえに、哲学も宗教もこの概念を常に理想としてきた」「今こそ、精鋭の軍人は自らの重き使命を自覚し、戦いの一事に専念し、頭をあげ、高い理想を見つめる時である。剣の刃先を鋭く研ぎすますために今こそ、精鋭の軍人は己にふさわしい哲学をうちたてる時である。そうすれば、そこから、より高次の展望と、自らの使命に対する誇りと国民の尊敬が生まれてくる。栄光の日の訪れを待つ、有為の人士が手にする唯一の報酬は、この誇りと国民の与える尊敬だけである」(シャルル・ド・ゴール『剣の刃』文春学藝ライブラリー) 宰相が語るべきは「平和」でも憲法論でもない。それらは役人や学者に任せておけばよい。最高指導者が語るべきは右のような「理想」や「哲学」である。日本には戦後一貫それがない。 総理は部下隊員に「報酬」を与える責務がある。「誇りと国民の尊敬」という報酬を。それがなければ、誰がどんな法整備をしても空しい。安倍総理なら、できるはずだ。うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。現在、東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)も務める。   

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    憲法が日本を骨抜きにする

     今回は、この憲法の最大の特徴であり最大の問題点である第九条について考えてみます。  まずは、その条文を読んでみましょう。第一項  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第二項  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 この第一項だけを素直に読めば、単に「二度と戦争はしない」という意味ではなく、たとえ戦争のように大掛かりでなくとも他国に対して一切の武力を行使することはおろか、威嚇すなわち抑止力を持つことすら禁じられています。しかも「永久」にです。ここに当時のアメリカが、如何に日本軍を恐れ、それを封じ込めようとしていたのかということが良くわかります。 そして我々日本国民は、この条文のために(条文だけが原因ではありませんが)他国が領土を侵略しても、同胞が殺され連れ去られようとも何もできませんでした。 今も、その問題は続いていますが、偽りの平和にどっぷりとつかっている人達は、その現実に目を塞いだままです。 続く第二項では「戦力」の不保持と「交戦権???」を否認するという念の入れ方で、徹頭徹尾、日本軍の復活を封じようとしています。ちなみに「交戦権」というのは今も昔も国際的に定義は確立されておらず(ただし、現在、日本政府は日本国憲法の交戦権について独自の見解を発表しています。)憲法起草の実務的な責任者で当時民政局次長であったチャールズ・ケーディス氏ですら、昭和56年に行われた日本の新聞社のインタビューの中で「交戦権ということが理解できなかった。正直なところ今でも分からない」と答えています。  おまけに、占領軍がいかに大雑把に日本国憲法を作り、それを日本に押し付けたかということを認め、日本国民が主権回復後も自分たちが占領中に適当に作った日本国憲法を、いまだに使い続けていることが理解できないようでした。防衛力を持たない国家は存続可能? 普通の人間が、この第二項を素直に読めば「日本は軍隊どころか、いかなる戦う力をも持たない。従って、いついかなる時も戦わない」と解しますが、果たして独立した国家が戦う力=防衛力を持たずに存続可能なのでしょうか? 前文解説の繰り返しになりますが、この憲法を作った時、日本はアメリカの占領下であったため軍隊はなく大幅に主権が制限された状態でしたから、この問いに関して、さして問題意識はなかったのでしょう。しかし、憲法公布から3年後に朝鮮半島で戦争が勃発すると、この問いが現実問題として日本憲法を作ったアメリカに突き付けられました。 それは、それまで日本を占領しながら内外の敵に睨みを利かせていた占領軍が朝鮮半島に出兵する必要に迫られ、そうなると日本列島に、ぽっかりと力の空白ができてしまうからです。 そして、その答えは簡単にでました。当時は冷戦が既に始まっており、力の空白は新たなる紛争を生む危険性を高めるため、アメリカは日本に治安維持部隊の創設を命じ、その結果できたのが、今の自衛隊のもととなる警察予備隊です。当初は、その名前の通り日本国内の治安維持を主任務とする警察のような組織でしたが、国際情勢の変化に合わせて徐々に軍隊のような国家防衛のための組織へと名称と共に変貌を遂げ、それに合わせて武装も強化されていきました。 本来は警察予備隊創設時や組織変更の度に、その都度、憲法改正を含め、しっかりとした議論を行わなければいけなかったのですが、左翼陣営の感情的な反対論に対して、責任を取りたくない政府与党が正面切っての対決を避け、その場しのぎの策を弄して妥協し問題を先送りしながら、反対陣営の批判をかわし続けてきた結果、日本が主権を回復したにも関わらず、物事の本質が占領中と変わらないまま60年以上の歳月が流れ、今に至っているのです。 そして今、日本を守っているアメリカの国力が低下していく中で、逆に日本を敵視する国の軍事力が大きくなってきているため危機が表面化し、今までアメリカに庇護されていることすら気がつかず、国防について考えることがなかった人たちも、ようやくそれに気が付くようになってきたのです。しかし、それにもかかわらず、現在の日本は抜本的に有効な対応策を見いだせていません。緊急発進で航空自衛隊那覇基地を離陸するF15戦闘機=4月13日 それは、今までアメリカに頼りきりで、いかにして国をまもるのかということを考えてこなかったツケが、ここにきて一気に回ってきているため、日本国民の思考回路が現実に追いついていないからです。そろそろ我々日本国民は、この憲法に代表される国際社会では通用しない戦後日本の誤った常識を捨て去り現実を直視しなければなりません。そうしなければ日本は国際社会の荒波に飲み込まれ、国家としての存続すら危うくなるでしょう。  さて抜本的な話として第9条の何が問題かと言いますと、自衛隊が事実上、第二項で保持を禁じられている「戦力」であることです。もっとはっきりと言えば、自衛隊の存在自体そのものが憲法違反の疑いがあるということです。物事には様々な解釈があるとはいえ、最新鋭の戦闘機、イージス艦、戦車を保持した20万人以上の訓練された隊員が所属する部隊を「戦力」ではないと強弁するのは相当無理があるのではないでしょうか。 だとすれば、違憲状態を解消するには「自衛隊を解体するか」それとも「憲法を変えるか」という二者択一の話になるはずなのですが、不思議なことに日本の憲法学者の大半が自衛隊は違憲であるが憲法解釈の必要はないと言い、このまま違憲状態を続けるべきであるという目茶苦茶な話をしております。彼らは現実世界の話などはどうでもよいと考え、永久にこのまま難解な日本語で書かれているが故に、専門家の解釈を必要とする憲法が存続することだけを目的としているのではないかと疑ってしまう程です。 現実問題として考えれば、日本は「軍隊を持たない国が、どんな悲惨な目に遭うか」ということを北方領土や竹島で体験済みですから、普通は軍隊を持たないという選択肢はあり得ず、憲法を改正するしか方法はないはずなのですが、なんと日本政府が、この問題を解決するために編み出した方法は、言葉や解釈を変えるというものでした。  まずは、その政府解釈を見てみましょう  わが国が独立国である以上、この規定(憲法9条)は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではない。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。  相変わらず、分かりにくいですね。  要は、 ・日本は主権国家であるので国家の成立時から自衛権を持つ、それは独立国家と不可分な自然権であるため憲法により武力の行使を禁じていたとしても行使が可能・故に憲法で戦力の保持を禁じていたとしても、自衛権を行使するために必要最小限度の実力を持つことは可能・それが自衛隊で、その基本方針は専守防衛であるということです。  つまり、憲法で「国権の発動たる戦争」や「武力による威嚇又は武力の行使」と「戦力の保持」を禁じていますが、それは「主権国家が当然の権利として保有する自衛権を否定するものではない」という解釈によって自衛隊が合憲であるとしているのです。もし、逆に憲法が「自衛権」をも否定するという解釈が成り立つのであれば、たちまち自衛隊の存在自体が違憲となってしまいます。 斯様に国家の安全保障の根幹に関わる重大事が、解釈一つで引っくり返る様な憲法で、果たして良いのでしょうか。実際、解釈変更は過去に何度も行われており、憲法制定当時の吉田首相は昭和21年に憲法改正草案の審議が行われた衆議院本会議において、共産党の野坂参三代議士の「自衛権は認めるべき」という質問に答えて「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発する所以であると思うのであります。(一部抜粋)」と自衛権そのものを否定する答弁をしており、当時の政府見解は自衛権を否定するものでした。(ちなみに当時、自衛隊は存在しなかった。)個別は良くて集団はダメという屁理屈個別は良くて集団はダメという屁理屈 私は、独立した主権国家が自衛権を保持するということは自明の理であるという説に対して異論はありませんが、第三章で、あれほど国民の権利について色々と定めているのに比べて、国家の基本的かつ重大な権利について明文化していないのは、片手落ちという他ありません。肝心なことを明記していないがために「解釈改憲」の余地が生まれ、自衛権について様々な解釈が罷り通るようになり、個別は良くて集団はダメなどという屁理屈をこねる人たちが出てくるのです。 軍隊を持つか持たないか、いずれにしろ分かりにくい文言を止め、誰が読んでもわかりやすく、肝心なところに様々な解釈が入り込む余地がないようにするのが、本来の憲法があるべき姿ではないでしょうか。 今のように、屁理屈をこねくり回して「軍隊は認めないが必要最小限の自衛戦力は許される」というような中途半端な状態で、日本が保持する実力行使のための組織が「戦力」にあたらないと言いたいが為に、組織の名称を「軍」ではなく自衛「隊」とし、階級も帝国陸海軍の「大佐」「少佐」から「一佐」「三佐」に変え、「駆逐艦」を「護衛艦」、「歩兵」を「普通科」と呼ぶのは、「自分たちが『軍』ではないと言っているのだから、自衛隊は『軍』であるはずがない」と強弁しているようなもので、何か舌先三寸で黒を白だと言いくるめているような、いかにも姑息な印象は免れず、これでは、いつまで経っても日本は健全な独立国とは言えません。 また、これらの議論は日本国内でのみ通じる話で、海外では議論の余地なく自衛隊は「軍」として認知されており、自衛隊は一歩国外に出れば軍として扱われるにも関わらず、国内においては「軍」ではないという縛りにより雁字搦めになっています。このことは非常に大きな問題で、国際法では軍隊以外の者が戦闘行為を行えば違法行為となり処罰の対象となるだけではなく、捕虜となる権利をはじめとする様々な権利を享受できません。つまり実際に戦闘行為を行った場合、自衛官が国内法に従えば国際法に抵触し捕虜になることすらできず、かといって国際法に基づけば国内法に違反するという、どちらにしても非難を受ける恐れがあるのです。 それを避けるには都合よく国際法と国内法を使い分けるしかありませんが、実際の戦闘中にそんな複雑なことが行えるのでしょうか。また仮に、そのような都合のいい話が国内的には通用したとしても対外的に通用するのかは甚だ疑問です。このような自衛官の生死を分けるかも知れない大問題を、そのままにして自衛官のリスクを語るなど笑止千万としか言いようがないのですが、残念なことに、それを問題だと感じる人が少ないのが今の日本の現状です。そして、それ故に真面目な自衛官ほど、そのギャップによるストレスに苦しんでいます。 具体的な話として、イラク復興支援部隊に参加していた人から、現地で行われた複数国による合同訓練に自衛隊だけが集団的自衛権を理由に参加できず、「当日は、恥ずかしくてキャンプから一歩も出ることができなかった」と聞いたことがあります。他にも外国人の目には、自衛隊が軍であるにもかかわらず決して紛争地域に足を踏み入れないことや、ひとたび紛争が起これば無条件に退却するという話は奇異なものとしてしか映らず、このような二重基準(ダブルスタンダード)はなかなか理解されません。そもそも危険を忌避して輸送作業や土木作業だけを行うのであれば、運送会社や土建会社に任せれば良いだけの話であり自衛隊が行く意味がありません。  今後、自らが望むと望まざるにかかわらず、我が国が国際紛争の第一線に立つ日が来ることが避けられそうにもないという現実を直視すれば、このままこのような二重基準を続けていくことは、国際的にも国内的にも許されません。他国がうらやむような装備を持つ自衛隊が、憲法を理由に「他国のためには血を流さない」というのは、もう通用しないのではないでしょうか。そのようなことを続けていれば、いずれ日本は国際的な信用を失い孤立するでしょう。 逆に、国際社会の圧力により、中途半端な法改正で自衛官に手かせ足かせをはめたまま海外に送り出すのは、あまりにも無責任な話です。一国を代表する軍事組織が政治家の都合のいいように、軍隊になったりならなかったりするというのは他国では決してありえない話であり、「自衛隊が軍になれば危険だ」と言う人もいますが、使い方を誤ると国家の存亡にかかわるような自衛隊という実力組織を法的に中途半端な状態にして解釈次第でどうとでもなるという状態のほうが余程危険です。 日頃、いわゆる平和活動を行っている人たちの多くは憲法を変えてはならないと言いますが、これらの問題を根本的に解消するためには、憲法を改正するしか方法はないでしょう。 また、世界中の国では軍人に対して、自らの命を賭して国家を守るという任務の重さに比例した名誉と地位が与えられていますが、我が国自衛官は厳しい任務を課せられても、それに相応しい名誉や地位が与えられていません。これも自衛隊が法的に中途半端な組織だからです。  さて、我が国は、なぜ国防という国家の最重要任務に従事している人たちが、軍隊と名乗ることすらできず卑屈な態度をとり続けなければいけないのでしょうか。それは第二次世界大戦の敗戦国だからでしょうか? 確かに、それも理由の一つでしょうが、同じ敗戦国でもドイツには国軍があります。ドイツと日本との違いは何か。それは憲法です。第二次世界大戦直後、アメリカは国際法により禁じられているにも関わらず、恐るべき強敵であった日本が二度と自分たちに立ち向かってこないよう、日本人の精神を骨抜きにするため自分たちに都合の良い憲法を押し付け、それを崇め奉るよう報道機関を検閲するなどして巧妙に日本人を洗脳しました。 そして公職追放により学会や教育界を含む日本の主要なポストに就いていた人たちが大量に排除されたことにより、それまで日の当たらなかった人たちが棚ぼた式に要職に就くようになりました。彼らは、それを恩義に感じてか自らの地位を守ろうとしてかアメリカ占領体制=日本国憲法の維持に全力を傾けるようになり、主権回復後も反日勢力と一体となり長い間、占領軍の言い付けを守り、大半のマスコミが、それに協力してきた結果、多くの素直な日本人が、この異常な状態に疑問を持たなくなってしまったのが今の日本です。 一方のドイツは占領軍から新しい憲法を作るように命令されましたが、将来、占領軍が去った後、自らの手で自主憲法を制定すべく「憲法」と名乗らず基本法を制定し、それを施行後50回以上も改正しています。日本では幼いころから教師やマスコミが、日本が平和なのは憲法第9条のおかげであるという幻想を子供に刷り込んでいますから、素直な人ほど信じてしまうのは、ある意味、仕方がないのかもしれませんが、それにしても思考停止している人が多すぎます。 だいたい今の憲法が、本当に日本人自身が自分たちの国や家族そして仲間などのことを考えて作ったものであるならば、領土領海が侵略され同胞が殺され連れ去られても、憲法の定めによりどうすることもできないというような馬鹿げたことにはならないでしょう。 終戦から70年の歳月が流れ、強烈な戦争体験やアメリカの洗脳工作も冷静に判断できる環境が整ってきた今こそ、我々日本人は、誰が何のために、この憲法を作ったのかということを踏まえたうえで、日本の国が進むべき道を虚心坦懐に考え、この憲法をどうするかという結論を出すべきではないでしょうか。(つづく)

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    憲法学者の間違った「憲法論」

    憲法を聖典よろしく盲信し、「安保法制は違憲だ」と批判する憲法学者たち。国家は如何にあるべきかなぞ頭になく、憲法条文の字面との整合性しか考えていない彼らの意見など、気に留める必要はまったくない。

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    正当な自衛権に「歯止め」など百害あって一利なし

    )筋が通らない野党、平和主義者の主張 安全保障関連法案審議のために平成27年6月5日に開かれた衆議院憲法審査会において、自民・公明両党推薦の長谷部恭男早大教授、民主党推薦の小林節慶大名誉教授、および維新の党推薦の笹田栄司早大教授の三人が参考人として出席した。参考人質疑において、なんと与党推薦の長谷部氏を含めた三人全員が「安全保障関連法案は憲法違反である」と批判した。 野党は鬼の首でも取ったように勢いづいてしまって、違憲の法案は撤回するようにと要求する始末。平和安全特別委員会は紛糾してしまったので、当初予定していた会期中に法案を通過させることは難しくなったと考えざるを得ない。6月10日、衆院平和安全法制特別委で、民主党の辻元清美氏(左下)の質問に答える菅官房長官 菅義偉官房長官が談話で「合憲と考える憲法学者もいる」と述べたが、辻元清美委員から言葉尻を捉えられて「それは誰か、何人か」と迫られた。「西修駒澤大名誉教授、百地章日大教授、長尾一紘中央大名誉教授」と答えたが、「たったの三人か」と逆襲された。菅官房長官は「数ではない」と苦しい答弁をした。くだらないやり取りだが、一般の国民は政府に不信感を持ったであろう。 自民党の佐藤勉国会対策委員長はこの人選ミスに激怒して、同党の船田元審査会筆頭幹事に「参考人の人選には十分配慮してほしい」と申し入れた。単なるミスでは済まされない、全くお粗末な一幕であった。 与党が推薦した長谷部氏は筋金入りの護憲派で、もともと集団的自衛権には反対なのだから、この発言は予想できたはずだ。氏は、宮沢俊義から芦部信喜と続くエスタブリッシュメント憲法学者ラインの中心である。芦部氏の葬儀の折には、長谷部氏が葬儀委員長を務めたほどである。 長谷部氏は宮沢・芦部両氏の憲法論を若干修正して、次項に述べる憲法の性格や自然法との関連についても詳しく論じている。しかし、いざ現実への応用のための条文解釈になると、一般法(民法、刑法、商法などの実定法)の解釈論から一歩も出ていない。憲法九条の条文と現実との整合性に捉われてしまっているのだ。 長谷部氏は、立憲主義と絶対平和主義は両立し得ないとまで言って、「国民全員が無抵抗で殺されてでも九条を護れ」などという絶対平和主義に対しては厳しく批判をしている。かつて『構造と力』を著して、ニュー・アカデミズムの代表とまでいわれた浅田彰京都造形芸術大学教授が若かった京都大学準教授時代に、「(九条は)侵略があれば全滅してもよいという覚悟を語っているのだから、平和憲法はラディカルだ」といったことを思い出させる。 野党やいわゆる平和主義者が、「他国から侵略されたら殺されてもよい」と覚悟をしているのなら筋が通っている。彼らが覚悟をするのは勝手だが、それを他人に押し付けないでほしい。もし覚悟がないのなら筋が通らないので、主張がメチャクチャだ。 長谷部氏は以前から、現行憲法でも個別的自衛権で武力は行使できると解釈すべきであるとの意見表明をしていたので、自民党の人選担当者が間違ってしまったものだろう。しかし、制限的な武力行使は専守防衛に行き着くから、決して勝ってはいけないことを法律で定めるに等しい。 敵は撃退されてもその都度、体制を整え直して何度でも安全に攻めてくることができるから、日本は決して勝つことができない。負けて殺されてしまうわけだから、長谷部氏の平和主義批判は中途半端で貫徹できないことになる。殺されたくないのであれば、憲法に何と書いてあろうとも、自衛隊には「歯止め」なしに全力で抵抗してもらわなければならないのだ。 長谷部氏は、個別的自衛権までは容認するにしても、集団的自衛権には反対だった。本法案を「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と批判し、「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と述べた。要は「歯止め不十分論」である。 審査会で長谷部氏の発言を引き出した民主党の中川正春元文部科学相は、党代議士会で「憲法審査会で久しぶりに痛快な思いをした」と満足げに語ったという。日本が滅びてしまったら、もっと満足なのだろうか。「歯止め」論は百害あって一利なし 与党はこれまで、集団的自衛権を容認させるために、自衛権に十分な歯止めをかけて集団的自衛権を容認させようという作戦を取ってきた。そして今回、その根拠法となる法案を成立させておこうとしている。長い間の空想的平和主義者の力が強かった状況のなかで、何とか集団的自衛権を容認させるためのものだ。現実と妥協したやむを得ない政治的判断だったのだろう。 しかし筆者に言わせれば、その作戦こそがボタンの掛け違いの始まりであった。そろそろ憲法とは何か、現行の憲法成立の経緯、第九条の合憲性(?)、という正面突破作戦に移行する必要がある。正当な自衛権にはそもそも「歯止め」などは不要で、百害あって一利なしなのである。 長谷部氏の言うとおり、「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」のは事実である。しかし、もっと重要なのは、変転する国際情勢のなかにおいて、有効に平和と安全を確保するためには日本は如何にあるべきかを考えることであった。憲法九条の条文との整合性にこだわって、「歯止め」論中心に議論を進めるべきではなかったのである。 坂元一哉大阪大学教授は、平成19~20年の日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の有識者委員を務め、常に傾聴に値する正論を吐いてきた学者である。 しかし彼でさえも、6月8日の産経新聞において「特に大切な『歯止め』議論」という一文を発表した。本稿が提案する、今後の長期的な正面突破作戦の足を引っ張るものだ。 坂元教授は「憲法の平和主義と、安全保障の実効性を両立させる観点から、(『歯止め』議論は)とくに大切な議論だと思う」とし、「憲法の平和主義は、わが国の武力行使を、自衛のための必要最小限のそれに限っている」と指摘、その歯止めの代表例として「海外での武力行使を一般に禁じる政府の解釈」(昭和29年の参議院決議)があり、これは簡単に外せるものではないと述べている。 さらに、「私は新法案が、自衛隊派遣に国会の事前承認を例外なく義務づけたことを評価する」とまで述べている。 海外派遣の派遣地にしても、政府は「戦闘状態ではないと判断される地域」のみと説明しているが、そんな地域があるわけがない。その地域が戦争になったら一目散に逃げるだけなのか、駆け付け警護に来てくれた同盟軍が、もし別の時に危機に襲われた時に日本の自衛隊は助けに行けないのか。そんな国際的に軽蔑されるような品格の欠如した法律を自衛隊に押し付けて良いのか。 武力行使の新三要件などは、いくら反対派を黙らせるためとはいえ、自衛隊を不必要に束縛して日本人の名誉を傷つけるものだ。要は、国内でも海外でも、日本が他国にしてほしいことを日本もできるようにすることだ。「歯止め」論こそ、自衛隊のリスクを増大させる この安全保障関連法案は自衛隊のリスクを増大させる戦争法案だ、などとわけのわからない反対論をぶつ人間がいるのも困ったものだ。新しい任務ができれば、それに伴う新しいリスクが生じるのは当たり前だ。しかし、集団的自衛権を行使できるようになれば抑止力は増すから、戦争が起こる危険性は減少する。つまり、自衛隊のリスクの総量は減少するというのが理屈だ。 しかし何よりもここで強調しておきたいのは、本当に自衛隊のリスクを増すのは「歯止め」論である。制限的・限定的自衛権を唱えて「歯止め」論を振りかざしている輩こそが、自衛隊員のリスクを増やしているのだ。 こうした「歯止め」論の前提は下記の三つの想定を根拠としている、と筆者は考える。三つながらにして事実誤認で、全く根拠がない想定だ。しかも自分勝手で卑怯だから、日本を貶めることになる。 第一の前提は、現在の自衛隊の戦力は世界に比類のないほど強大なので、どんな歯止めを掛けても掛け過ぎることはないし、十分、国防の任を果たすことができるという想定だ。 根拠のない希望的な期待だから盲信といってよい。一旦戦争になったら、互いに技術の粋を尽くしてのハイテク戦争となって「死ぬか生きるか」の戦いになるのだから、「歯止め」などを掛けていたら話にならない。自衛隊の戦力を削ぐのではなく、支援増強する策が必要なのだ。 第二の前提は、日本国民は歯止めなしにはすぐに侵略戦争に乗り出しかねない好戦的な国民だという想定だ。特に他国における武力行使は、よほどのことがない限り原則禁止にしておくべきであるというものだ。自尊心も名誉もかなぐり捨てた卑しい想定である。日本国民をこれほど侮辱した発想はないだろう。 憲法第九条は、日本が二度と復活して国際舞台に登場してくることができないようにするために、ポツダム宣言(占領相手国の法律を力で変更させてはならない)に違反してまで連合国が押し付けた条項である。日本側(松本委員会)がこれに抵抗しようとしたら、マッカーサーにそれでは日本の国体維持を保証することはできないと恫喝されて呑まされた条項である。 第三の前提は、日本に対して武力で侵略してくる国はないか、あってもすぐに撤退してしまうだろうという想定だ。現状の国際情勢に全くの音痴の前提としか言いようがない。中国が天安門広場で、ウイグルで、チベットで何をしてきたか。さらには、東シナ海と南シナ海で現在何をしているかを見ればすぐ分かることだ。 甚だしい事実誤認だから官邸、外務省、防衛省、自衛隊も国民に対して現状をよく説明すべきである。 つまり、三つの前提とも極めて非現実的な想定で成立しないのだから、残るは憲法第九条の字面と現状との整合性の問題だけである。現状との整合性の問題は、政策の妥当性や国家の安全性などの価値判断分野とは何の関係もない。新法案はポジティブ方式からネガティブ方式に切り替えよ 今次の安全保障関連法案は「自衛隊法」などの十本の法律改正案と一本の新法、すなわち「国際平和支援法」から成り立っている膨大なものである。筆者は、この法案は是非とも通過させることを願っている者であるが、あくまでもこれは憲法改正までの間に集団的自衛権に法律的根拠を与えるための経過措置的な法整備と考えている。 しかもこれらの法律の本質は、自衛隊の戦力を縛るための「歯止め」論である。ポジティブリスト方式(許可されることを列挙して他は全て禁止)であるから、現実には臨機応変の対応は不可能である。たとえ許可される行動を予め何千例、何万例挙げておいても、全てのケースを網羅することはできないし、現場の指揮官が全ての法定許可事項を瞬時に判断することなどもできない。 坂元教授が評価する「自衛隊派遣に国会の事前承認を例外なく義務づけた」などは、極めて現実を無視した暴論だ。事前承認を取る暇がなかったら何もしないのだろうか、自衛隊に超法規的処置を迅速に取るように期待するのだろうか、それともそんなケースは起こり得ないとでもいうのだろうか。 したがって将来、めでたく憲法改正(特に第九条)が成就した暁には全部をいったん無効として、改めて一本にまとめてほしいと考えている。要は、「武力行使が生じたら絶対に勝つこと、国際法に違反すること以外は何をやってもよいこと、及び具体的判断は全て現場の指揮官に任せること」を明らかにして、あとは手続き論を定めておけば良いのだから、一本にまとめることはそう難しくないはずだ。 とにかく、現場の自衛隊と十分に打ち合せを行って実効性のあるものに作り直していただきたい。作り直す新法律は、是非とも他国と同様なネガティブ方式(国際法違反などの禁止事項のみを決めておいて、他は現場指揮官の判断に任せる)というものにしてほしい。 “下衆の勘繰り”かもしれないが、筆者はこんな大部の法律案ができてしまったのは、怠け者の官僚の責任転嫁精神の産物ではないかと疑っている。田母神俊雄元自衛隊航空幕僚長が近著『田母神「自衛隊問答」』のなかで語っておられるが、「自衛隊が縛られる理由として、(官僚は)何かあったときに自分たちがトラブルに巻き込まれないよう、あらかじめ先手を打ち、文句をいいそうなところにお伺いをたてておく体質が染みついていることが大きいと思うようになりました。(中略。官僚に疑問点を)聞いたら必ず向こうに縛られる。だから『規則に書いてあることを、私はこう解釈してやりました』といえ」と命令したとのことだ。 昭和53年(1978)に自衛隊のトップである栗栖弘臣統幕議長が「現行法制では有事の際、超法規的に行動せざるを得ない」と発言して、当時の金丸信防衛庁長官から解任されてしまったことがある。 この事件の大方の受け取り方は、シビリアン・コントロール原則に違反するというものだったが、栗栖氏の真意は「こんな自衛隊の手足を縛る法律ばかりでは動きが取れないから、いっそ何もないほうが自由に動けるから効果的だ」というものだったろう。憲法学者ほど憲法を知らない憲法学者ほど憲法を知らない 憲法は自然法に基づいて、国家のあり方の基本を規定する法律である。刑法、民法、商法などの一般法とは全く性格が異なる。ところが、日本の多くの憲法学者は自然法、法哲学、法理、立法論などの分野に全く疎いという大問題がある。裁判官、検事、弁護士などの職業的法律家もそうだから、司法試験制度の弊害なのかもしれない。 これは、現在の憲法学者がかつて教えを受けた当時の憲法学者の権威たちが、GHQが日本国民に押し付けたWGIP(戦争責任情報プログラム)の影響を受けて、自虐的な憲法理論を展開してきたことに遠因があるといって良いだろう。 当時、国際法の世界的権威と目されていた横田喜三郎東京帝国大学教授(当時)は、驚くことに東京裁判が正統なものであったと論じた。 彼は『戦争犯罪論』を書いて東京裁判史観を無批判に受け入れ、かつ「ほとんどすべての国家の間で、侵略戦争を国際犯罪と見ようとする強い意向のあることは、疑いを入れない」とまで述べた。安全保障関連法案の廃案を求める声明を発表する小沢隆一・東京慈恵医大教授(中央)ら=7月3日午前、東京・永田町 憲法学者を含む当時の多くのエスタブリッシュメント法律学者も雪崩の如く、これに追随してしまった。かく言う筆者は憲法学者ではないが、学位は法律論(情報法)で取得したのでまるっきりのド素人というわけでもないし、法哲学はカバーしてきたつもりだ。 いろいろな意見が飛び交うのが当然のこうした問題で、こうも多数の憲法学者の意見が違憲であると一致してしまうのは異常としかいいようがない。 日本の憲法学者のほとんどは一般法と同じ法律的アプローチで、つまり一般法の法解釈学をそのまま援用して憲法解釈を行う。したがって、憲法は如何にあるべきかという立法論的発想は全く欠落しているし、自然法の法理のほうが優先するなどとは夢にも思わない。この意味で、日本の憲法学者の多くは間違った憲法論を展開していると断じざるを得ない。 米国の最高裁には、憲法のある条文全体を実質的に無効にしてしまうような判例を打ち立ててしまった例がある。米国の修正憲法第一条は言論の自由の絶対的自由を定めているが、米・最高裁のホームズ判事は「あらゆる自由や権利は互いに競合するのだから絶対的な自由も権利も存在しない」というのが法理であるとして、「明白かつ現在の危機(Clear and present danger。現在は『明白かつ切迫した危険』に改定)がある場合には言論の自由を制限しても違憲ではない」という判例を確立した。 これは、修正憲法第一条全体を実質的にほとんど無効にしてしまうものであった(本誌の昨年8月号拙論「内閣法制局の体質改善を!」をご参照願いたい)。憲法九条で基本的人権を守ることはできない 日本の憲法の根幹は主権在民平和主義、および基本的人権の尊重である。この点については筆者も異論はない。しかし現実の条文の構成には、それとは整合性がない部分が多い。 たとえば、第九条の文言をそのまま実行したら、主権者たる国民の生命と財産を有効に護ることも、国民の基本的人権を護ることもできない。したがって、自然法が優先するという法理に従えば、第九条全体が無効であると言わねばならない。 つまり、まともな憲法学者ならば「現行憲法は主権者たる国民の生命と財産を護らないから自然法に反し、したがって無効である」と言わなければならないのだ。少なくとも、第九条は制限的・限定的に読むべきではなく、自然法の趣旨を活かす方向、つまり積極的かつ広範囲に解釈すべきである。「歯止め」などは“憲法の根幹”に背くものなのだ。 しかし、現在まで最高法規として通用させてきてしまったという現実があるから、それとは妥協しなければならないだろう。その経過措置としての法律的手続きが今回の安全保障関連法案なのだ、と筆者は解釈している。したがって、後述するように憲法改正が行われたらさっさと無効化して、“憲法の根幹”に添ったものに作り直してほしいと考えている。 6月11日の憲法審査会において、自民党の高村正彦副総裁(弁護士出身)は「自衛隊ができた時にも日米安全保障条約ができた時にも、日本の憲法学者のほとんどは反対であった。憲法学者の言うとおりにしていたら、今頃は自衛隊も日米安全保障条約も存在しない」と反論した。 憲法学者は選挙で選ばれた国民の代表ではないし、憲法の番人でもない。それに彼らが問題にする合憲性というのは、現行の法律制度と現行憲法の条文の字面との間に整合性があるかどうかを意味するだけである。国際情勢や政治情勢と日本の現状の間に整合性があるかどうかを意味するものではない。合憲だからと言っても、安全保障上の価値があるわけではない。砂川判決での基本原理 某野党議員はテレビで、「砂川判決のような“古い見当違いの判決”を持ち出すのはおかしい」と発言して、自らの無知と不勉強さを露呈した。分からないのだったら発言しないでほしい。長谷部教授や民主党の枝野幸男幹事長(弁護士出身)は、砂川判決は日米安全保障条約に基づく米軍駐留の合憲性についての判決であって集団的自衛権を認めたものではない、と主張をしているが当たらない。 憲法はその第81条において、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定している。憲法問題についての最終判断は最高裁が行うもので、政治家や憲法学者が行うものではない。 日本は米国と同じ、付随的違憲審査制といって具体的案件についての訴訟が生じた時にのみ、最高裁が違憲審査を行う制度を採用している。つまり、・手掛かり・となる具体的な訴訟がまだ提起されてもいないのに、予め憲法およびその他の法律上の問題が発生するであろうと最高裁が予測して、予め判断を下すことはないのだ。他の、憲法裁判所があって抽象的違憲審査制を採用しているオーストリア、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ大陸の国々や韓国とは異なる点である。 たしかに長谷部氏の指摘するとおり、砂川訴訟は米軍駐留という具体的案件についてであった。最高裁は日米安全保障条約については統治行為論を援用して判断を避けたが、下した判決の主要な点は「自国の存立のために必要な自衛措置は認められると」という基本的原理についてだ。 この基本的原理こそが重要なのだ。米軍駐留の合憲性という具体的案件についての判断は、単なる付随的なものである。“手掛かり”としての具体的案件については、判断が下されないことさえある。 最高裁が示す基本的原理の汎用性については、警察予備隊の合憲性が争われたケースがある。 昭和25年(1950)8月に創設された警察予備隊が憲法第九条に反するので違憲であることを、日本社会党の鈴木茂三郎が最高裁判所に訴えた。最高裁大法廷は全員一致で、具体的案件の“手掛かり”性を否定して訴えを却下した。訴訟目的の警察予備隊の違憲性については、判決には一切言及されていない。判決が示した基本原理は「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」というもので、警察予備隊の合憲性を暗に示唆している。 問題の砂川判決は、米軍駐留という具体的案件を“手掛かり”にして、「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」という基本的原理を決めた極めて重要な最高裁の判例であるから、“古い見当違いの判決”でも何でもない。現行憲法は即時、全面的に廃棄すべき 誤った立憲主義の解釈に、「憲法というのは政権を縛るものであるから、縛られる立場の政権が憲法を変えるというのはおかしい」がある。たしかに、憲法の歴史的成立過程においてはそうした一面があったのは事実である。しかし現在では、一国の法律体系を律する最高法規という位置づけのほうが中心となっている。 憲法は国の在り方についての根本的な姿を定めるものだ。したがって、先ず国を取り巻く国際的環境はどうか、政治的社会的環境はどうかなどという問題と国の姿との間に整合性があるかどうかこそが重要なのだ。 つまり、本当の立憲主義とは条文の字面に捉われることではなく、激変する国際的・政治的社会的情勢のなかで、憲法を変遷せしめて最高法規としての規範性を保つことだ。これこそが真の護憲の姿勢だ。 たとえば、道路の舗装も自動車の性能も悪かった時代には、速度制限が時速40キロであっても合理性がある。しかし道路事情が格段に整備されて自動車の性能も良くなったら、たとえば100キロ制限に改正するのが合理的であり、社会情勢の変化に即応している。 40キロ制限のままでは誰も法律を護らなくなる。法律を改正せずに「悪法も法なり」としてスピード違反を取り締まるのでは、法としての規範性が保てない。 憲法の条文自体の変更はしないが、解釈を変えることによってその規範的意味が修正されることを「憲法の解釈変更による変遷」という。解釈変更による憲法の変遷は姑息な手段であり、法を蔑ろにしているとの批判があるが、これは全く当たらない。改正規定があまりにも厳しい場合には、解釈の変更によって憲法を実質的に変遷せしめることによって、憲法の最高法規としての規範性を維持するしかない。 基本的には、筆者は現行の憲法は連合国による強制的押し付けによって制定されたものであるから正統性がないので、即時に全面的に廃棄して日本独自の憲法を作るべきであるという意見である。しかし、制定してから現在に至るまでの長きにわたって、日本の最高法規として有効に機能してきた事実が厳として存在するので、その事実とは妥協しなければならないとも思っている。 現状では緊急の事態が迫っているにもかかわらず、硬性憲法および政治的混乱の故をもって迅速な対応ができないままでいる。したがって已むを得ざる妥協策として、解釈変更による対応も現実的であると考えている。「安全保障関連法案は、先ず憲法改正を行ってから提出するのが順序ではないか」というのはもっともらしく響くが、実は反対のための反対に過ぎない。 筆者が「歯止め論抜き」の完全な集団的自衛権を持つべきであると主張するのは、日本は究極的には米国と組んでアジア太平洋地域の安全保障のために、北大西洋条約機構(NATO)をモデルとした太平洋条約機構を作るべきだ、と考えているからである。 現状の国連・安保常任理事会はロシアと中国の拒否権のおかげで機能不全であり、アジア太平洋地域の安全保障には何の寄与もしていない。それどころか、国連憲章上は日本は「敵国」の位置づけだ。さらに、人権理事会は韓国からの慰安婦問題を鵜呑みにして、日本を非難攻撃している。 そういう国連に、日本は米国に次ぐ多額の財政上の負担をしているのだからお人よしにも程がある。日本は国連の現状が改まらないのであればさっさと脱退して、アジア太平洋諸国の集団的自衛権を糾合し、太平洋条約機構の構想推進に邁進すべきである。そのためには、まず日本がフルセットの自衛権を持たなければ話にならない。  

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    憲法を聖典と心得る阿呆ども

    九段靖之介憲法に沿うか沿わないかの堂々巡り 安保法制をめぐって、国会で神学論争が続いている。 「おっしゃることが、よくわからない」 「それでは答えになっていない」 ラチもない質疑の繰り返しだ。詰まるところ、憲法に沿うか沿わないか、それをめぐって堂々巡り。いつ果てるともしれない。 会期を延長したところで、議論は尽きない。結局は例によっての強行採決となろう。それが野党の狙いで、これまた例によって「多数の横暴だ」「立憲主義に反する史上稀に見る暴挙だ」などと言い立てて、「安倍独裁」を印象づける算段だ。 この議論、大方の日本人にはわかるまい。いや、わかろうともしない。どうでもいい議論、所詮は野党のパフォーマンスと冷ややかに見ている。それもそのはず、この種の神学論争に日本人ほど無縁な民族も珍しい。 古来、西欧や中東では、聖書やコーランの解釈をめぐって血みどろの抗争が続いてきた。聖典の解釈権を独占した者が、人間を内心から縛り上げるほどの権力を得る。実態は権力闘争で、それと知らない善男善女が踊らされて血みどろの抗争となる。ちなみに、英語で宗教を意味する religion の語源は、ラテン語の religio=「縛る」からくる。 くらべて日本には聖典に当たるものがない。神道には教典もなければ教祖もいない。そんなものは要らないよ、と大方の日本人は思って暮らしてきた。よって聖典をめぐる抗争は起こりようがない。たまさか仏典の解釈権をめぐって宗派間の争いがあっても、大方の日本人はそれをヨソ目に知らんふりだ。野党の緊急院内集会に臨む、(右から)民主党の岡田克也代表、共産党の志位和夫委員長、「生活の党と山本太郎となかまたち」の玉城デニー幹事長。後ろはテレビに映る、記者団の質問に答える安倍晋三首相=7月16日午後、国会内(長尾みなみ撮影) 目下の国会のラチもない論争は、憲法を聖典と心得るところからくる。かつて明治憲法は「不磨の大典」とされ、天皇は「現人神」で、その「御心」に沿うかどうかをめぐって権力闘争が展開され、挙げ句は「八月十五日の悲劇」に至った。明治憲法を策定した伊藤博文の曰く、 「西洋にはキリスト教なるものがあって、これが国の機軸をなすが、日本にはそれに相当するものがない。よって皇室をもって機軸とし、あえて西欧流の三権分立制を取らず」(帝国議会における説明) 「現人神」を擬制することによって、内に忠誠心を調達し、二百余州を束ねて外に対抗する。軍服を着た三代の天皇は、日本史上きわめてヘテロ(異質)な時代だが、これによって西力東漸をハネ返し、歴史家トインビーにいわせれば「アジアで羊のごとく毛を刈り取られることのなかった唯一の国」たり得た。本来、憲法は一種の慣習法 明治憲法は支払うものも大きかったが、得たところも大きい。メリットとデメリットを併せ持つシステムだったといえる。国のシステムの長所を活かし、短所を減じることができるのは議会の他にはない。最大の短所は軍の統帥権で、議会はそれと気づきながら改変の勇気と努力を欠き、挙げ句は機能不全に陥り、「八月十五日」に至った。 憲法を「不磨の大典」、アンタッチャブルなものにしてはいけない。本来、憲法は一種の慣習法で、国の構成員(国民)の多数が集団生活のルールとして諒とする約束事で、これを時代に即応して内に向けても外に向けても自在に変えていくのは当然で、何の不都合もないはずだ。 アメリカ憲法は二十七回、ドイツ基本法(憲法)は数十回も修正されている。一代の論客・福田恆存は現行憲法を「当用憲法」と呼んだが、憲法を含めて法律のあらかたは「当座の用に間に合わせるもの」で、これを不磨のプリンシプル(原理・原則)とすれば、時代に即した動きができなくなる。民主党が何かと遅延行為を繰り返す理由 鉄血宰相ビスマルクの箴言がある。 「政治においてプリンシプルを振り回すのは、長い棒を口にくわえて森の中を駆け回るようなものだ(口が裂けて怪我をする)」 日本を取り巻く国際環境は日々に厳しくなっている。早い話、いまの憲法を抱えたままで中国の脅威に対抗できるか。元幕僚長から聞いたことがある。 「いまの自衛隊は引き金に指をかけながら、憲法違反になるかどうか考える、そんな状態で国を守れますか」 目下、衆院で共産党と社民党を除く超党派の議員連盟五十人によって、憲法改正を視野に入れた憲法審査会が始まっている。改正の原案作りを目指すが、議論は入り口で頓挫し、一向に原案作りに進まない。最大のブレーキは民主党だ。民主党が何かと遅延行為を繰り返すのは、原案作りが具体化すれば、それをめぐって党内分裂が生じるからだ。 さきごろ「政界引退」を表明した橋下徹が、自らのツイッターでこう言っている。 「民主党は日本にとって良くない政党です」  

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    平和主義は「無防備」ではない 集団的自衛権の本質突く議論を

    坂元一哉(大阪大学大学院教授) 国会で審議されている安保関連法案について、多くの憲法学者から、たとえ限定的であっても、集団的自衛権の行使を容認する法律は、憲法違反ではないかとの批判が出ている。 政府と与党が、長い時間をかけて慎重に検討した重要法案だけに、そうした基礎的なところに批判が出たことは、残念というしかない。だが、専門家がそう批判する以上、政府は、集団的自衛権の限定行使を容認する新しい憲法解釈に基づく法律が、なぜ憲法違反ではないのか、国民に対し、より一層、丁寧かつ分かりやすく説明する必要があるだろう。平和主義は「無防備」ではない いうまでもないことだが、ある法律が憲法違反にあたるかどうかを最終的に判断するのは、最高裁判所の仕事である。その意味で、いま政府が、集団的自衛権の限定行使を容認する法案が憲法違反にあたらないとするのは、学者の批判が正しいか正しくないかは別にして、この法案が国会の審議を経て現実に法律になり、その法律に関連して訴訟が起こっても、最高裁判所が憲法違反の判決を下すことはない。そう判断している、ということだろう。 その判断の根拠は何か。政府が説明に使う最高裁の砂川事件に関する差し戻し判決(1959年)は、憲法の平和主義が「決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と述べたうえで、わが国が「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」だとしている。 またこの判決は、たとえば安保条約が違憲かどうかというような「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する」問題は、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」との判断も示している。 この砂川判決を前提にすれば、将来、最高裁判所が政府がいう意味での集団的自衛権の限定行使について違憲判決を出すようなことはない。政府はそう判断しているのだろうが、私には、ごく当然の判断のように思える。議論混乱させた舌足らずの説明 というのも、政府が新しい憲法解釈でできるとする集団的自衛権の限定行使のための武力行使は、あくまで砂川判決にいう、国の「存立を全うする」ための、「自衛のための措置」としての武力行使、それも必要最小限の武力行使だからである。それが「他衛」にもなるからといって、最高裁が「一見極めて明白に違憲無効」と認めるとは考えにくい。 むろん、この安保関連法案が、国会審議を経て法律になった後、万一、最高裁がその法律を違憲だと認めれば、法律は、改正しなければならない。その前提で法案を審議するのが立憲主義のルールだろう。6月22日の衆院平和安全法制特別委で意見を述べる宮崎礼壹・元内閣法制局長官 最高裁の砂川判決に関連して、憲法学者のなかには、この判決でいう「自衛のための措置」は個別的自衛権のことであって、集団的自衛権は含まれない、と議論する人がいる。国際法上の集団的自衛権の意味を誤解した議論だと思う。「自衛のための措置」とはもちろん自国を守るための措置のことだが、個別的自衛権も集団的自衛権も、どちらも自国を守るための措置として、国家に認められた国際法上の権利だからである。 この点、国会に参考人として呼ばれた元内閣法制局長官が、集団的自衛権の本質は「他国防衛」だ、と述べたことには考えさせられた。歴代政府のそういう舌足らずの説明こそが、議論を混乱させてきたのではないだろうか。死活的な地域の防衛は自衛措置 もし集団的自衛権の本質が他国防衛なら、なぜその権利を「自衛」権と呼ぶのか。また日米安保条約では米国は、この権利に基づき日本を助ける(武力攻撃に共同対処する)ことになっているが、それは日本への武力攻撃が米国の「平和及び安全を危うくする」(第5条)からである。米国にとって日本防衛は「自衛のための措置」ではないのか。 集団的自衛権という言葉は、個別的自衛権と同じく、国連憲章(45年)ではじめて使われた言葉である。だがこの権利の考え方自体は、それ以前から存在していた。それがよく分かるのは、英国が、国際紛争解決の手段としての戦争を禁じた不戦条約(28年)を結ぶ際に、自衛権に関して付けた留保である。そのなかで英国政府は、世界には英国の平和と安全に「特別で死活的な利害関係」のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、英国にとって「一つの自衛措置」だと明確に述べている。 集団的自衛権の本質は「自衛のための措置」としての他国防衛なのである。従来の舌足らずの説明を修正して、国の「存立を全うする」ため、他に適当な手段がない場合に限り、必要最小限、この「自衛のための措置」をとりうるようにする。それが、新しい政府憲法解釈の要点である。さかもと・かずや 1956年、福岡県出身。京都大学大学院修士課程修了、三重大学助教授などを経て大阪大学大学院法学研究科教授。「戦後日本外交史」で吉田茂賞、「日米同盟の絆」でサントリー学芸賞、正論新風賞(2008年)など日米関係に関する活発な評論活動で知られる。 

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    政治主導で一閣僚に解釈委ねていたのに 護憲唱える「パリサイ人」たち

    員兼政治部編集委員) 一口で「護憲派」といっても、当然のことながらいろいろな人がいる。その中でも現行憲法を絶対視・神聖視し、さらに内閣法制局の官僚がその時々の社会・政治情勢に応じてひねり出したにすぎない憲法解釈を聖典のようにあがめ奉る学者やメディア、政治家を見ると、イエス・キリストの次の言葉を思い出す。 「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」 ユダヤ教の律法を厳格に解釈し、やがては律法そのものより自分たちの解釈を重んじる本末転倒を演じたパリサイ人を強く批判している。彼らが自分勝手な律法解釈と神学大系を築き上げ、権力と権威でそれを民衆に強いる危険性をイエスは説いたのである。米大統領にご注進 4月のオバマ米大統領の来日前には、民主党の蓮舫元行政刷新担当相や小西洋之参院議員ら有志15人が、在日米大使館に対し、安倍政権が目指す集団的自衛権の行使容認を支持しないよう求める文書を提出した。 文書は、集団的自衛権をめぐる憲法解釈変更は「日本が立憲主義や法の支配を失う国となりかねない」と主張し、来週中に報告書を出す政府の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)についてこう批判する。 「通説的な憲法学者が一人も参加していない」 この行為にも、イエスのことを人心を惑わすとして当時の支配国だったローマ政府に訴えたパリサイ人を連想した。民主党の長島昭久元防衛副大臣がツイッターで「属国でもあるまいし、嘆かわしい」とつぶやいたのももっともだろう。 結局、オバマ氏は集団的自衛権見直しの取り組みに「歓迎と支持」を表明したのだから、彼らは二重に恥をかいたことになる。 彼らは安倍晋三首相が「(憲法解釈に関する)政府答弁については、(内閣法制局長官ではなく)私が責任を持つ」と述べたことについて、「憲法は権力を縛るもの」という立憲主義の否定だと批判する。参院予算委員会で質問に答える枝野幸男経産相(当時)=2012年3月13日(酒巻俊介撮影)民主政権の時は… 内閣の一部局にすぎない内閣法制局を首相の上に置くような議論も倒錯しているが、そもそも彼ら自身が権力の座(与党)にいるときはどうだったか。 民主党政権は「政治主導」の名の下に内閣法制局長官の国会答弁自体を認めず代わりに法令解釈担当相を設けた。自分たちが政権を運営しているときには一閣僚に憲法解釈の権限を委ねておきながら、野党になると首相にすらそれは認めず「憲法破壊だ」などと言い募っている。また現在、盛んに安倍政権を批判する憲法学者らが民主党政権時代にも同様に、あるいは今以上に警鐘を鳴らしていたとは寡聞にして知らない。結局、自分たちの意向やイデオロギーに沿うかどうかで対応は変わるのだろう。 「みずからの正義について多弁を弄する一切の者たちを信用するな!(中略)彼らが自分自身を『善にして義なる者たち』と称するとき、忘れるな、パリサイの徒たるべく、彼らに欠けているのは-ただ権力だけであることを!」 哲学者、ニーチェはこう喝破している。権力を持ったときは好き勝手に振る舞い、権力を失うと正義の仮面をつけて反権力を気取るのだ。パリサイ人には現在、「偽善者」「形式主義者」という意味もある。この種の人には気をつけたい。

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    有事に戦えぬ自衛隊を変えるには戦死者出すしか、と内部の声

     イスラム国と称するテロ組織(ISIL)による邦人殺害事件を受け、安倍晋三首相は「自衛隊による在外邦人救出のための法整備」に意欲を示した。集団的自衛権の行使容認を軸に日本の安全保障政策が大きな転換期を迎えようとする中、自衛隊員たちは何を考えているのか、ジャーナリストの田上順唯氏がレポートする。* * *「今まさに国民が殺されようとしているのに、われわれは見ているだけで何もできない。これほど辛いことはない」 イスラム国に拘束された湯川遥菜さんと後藤健二さんの殺害が報じられた直後、30代前半の2等陸曹は唇を噛み締めこう呟いた。部隊の班長として若手隊員をリードする彼が自衛隊に志願したのは10代のころ。多感な時期に発生した北朝鮮工作船事件(2001年)や米国の同時多発テロ(同)がきっかけだった。「阪神大震災の災害派遣で献身的に任務を遂行する自衛官に憧れていたこともありますが、北朝鮮の不穏な動きや対テロ戦争を目の当たりにし、いつか日本にも有事が迫るという危機感を持つようになったのです。われわれの世代から下は、『いざというときに国民の楯になる』という強い意志と覚悟を持って自衛官になった者がとても多い。 ところが現状では、武力による国民の奪還すらできません。国民の生命が危機に晒されたとき、国家として自衛隊を活用するというオプションは当然必要だと考えています」 こうした若手自衛隊員の“リアルな戦争”に対する意識の高まりは、韓国の反日暴走や中国の軍事挑発がエスカレートしたこの10年間で一気に膨張し、陸・海・空全部隊に浸透したと言われている。陸上自衛隊海田駐屯地の記念行事で雨の中を行進する陸上自衛官 防衛省幹部は「あくまで現場レベルの話ではあるが」と前置きした上でこう語る。「尖閣を巡る中国軍の執拗な挑発に業を煮やし、『やれるものならやってみろ』、『われわれのほうが錬度は上だ』といった声が上がっているのは事実だ。“命令されればやる、やるなと言われればやらない”という組織としての高度な意識は徹底されているものの、『周辺国にここまで挑発されて沈黙を守る市ヶ谷(防衛省)を変えるには、戦死者を出す以外に方法はない』という過激な声もある」 その言葉通り、現場では“有事に戦えない”自衛隊に対する不満が燻っていた。「市ヶ谷は20年の東京五輪を前に制服の一新を計画しているが、平和ボケとしか言いようがない。現場では必要な装備品や人員が慢性的に不足している。日本を巡る安全保障が急激に悪化する中、自衛隊が現実に即した『実力集団』になるためにも、ある種の“危機”が必要と考える隊員は少なくない。余暇を利用し、戦技・戦術を隊員同士で研究、訓練することは、もはや一般部隊でも日常的光景だ」(20代の陸曹長)関連記事■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 女性自衛官1.2万人 ヘアカラーやネイルはどこまで許される?■ 山崎豊子氏遺作は戦争しない軍隊・自衛隊を描いた未完の大作■ 日米合同軍事演習を終え海兵隊員と陸自隊員が笑顔で肩を組む■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書

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    日本国憲法のここがおかしい

     我が国は、明治23年(1890年)に近代憲法を施行して以来、125年の長きに渡り一度も自らの手で憲法を変えた事がないという、とても特殊な国です。 アメリカが現在の形に憲法を変えてからでも約70年、その間一度も国民レベルで改正の論議すら行われて来ませんでした。 本来、現行憲法は我が国の主権が大幅に制限された状態下で、アメリカから来た法律の素人が日本を服従させるために考えたものなのですから、昭和27年4月28日の日本(沖縄など一部島嶼地域を除く)が主権を回復した日に、改正若しくは追認(独立しても、この憲法を使い続けるという意思確認)など、日本国民自らが何らかの意思表示をすべきでした。 しかし、占領軍に検閲を強いられ、それが習い性になったマスコミ、公職追放によって棚ぼた式に要職に就いた官僚や学者など、日本の敗戦により得た自己の利権を守りたい人たちの手により、長らく日本国憲法は不磨の大典として扱われ、本来、国民が持っているはずの「改憲」の権利は奪われ続けてきました。 何しろ10年くらい前までは「改憲」と一言発するだけで、条件反射のように「軍国主義者」呼ばわりされるくらい憲法は神聖視されていましたから、改正は疎か批判すること自体が禁止されていたようなものでした。与野党7党が鬼塚誠・衆院事務総長(左から4人目)に国民投票法改正案を提出 2014年4月8日、国会内(酒巻俊介撮影) 驚くのは平成22年に日本国憲法の改正手続きに関する法律(国民投票法)が施行されるまで、60年以上も憲法を変える手続きが定められていなかったことです。これは、日本国民の大半が憲法を変える気がなかった、あるいは変える事が不可能と思い込んでいたとはいえ、法治国家としてはあまりにもお粗末です。 この責任は、主権者である日本国民全員が負うものですが、中でも「新憲法制定」を結党の理念に掲げ、誕生してから約60年の間、ほとんど政権を担っていたにもかかわらず何もできなかった自由民主党をはじめとする国会議員の職務放棄に近い怠慢は特に非難されてしかるべきでしょう。  このように戦後利権という分厚い氷に守られていた日本国憲法ですが、ここ数年で改憲に関して具体的な話ができるようになり、早ければ来年にでも国会で改憲の発議が行われる可能性が高くなってきました。そうなれば、我国において初めての国民投票が行われるわけですが、多くの国民が長らく憲法について考えることを避けてきた為、今一つ憲法に対する理解が足りないような気がします。 今後、憲法改正の国民投票が行われたとき、憲法をよく知らないまま投票するのは、あまりにも勿体無いとしか言いようがありません。そこで、今一度日本国憲法を見直してみようと思います。まずは、前文です。 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 ざっと読んだ感想を一言でいえば「分かりにくい」というものですが、それもそのはず原文が英語なのですから日本語の表現になじまないのは当然です。それに表現の問題だけではなく内容自体も首を傾げたくなる様なところも多々ありますので、特に気になる個所を抜き出してみます。 『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする』 いったい、どこの国の政府のことを指しているのでしょうか? 日本だけが何もしなければ戦争が起こらないのでしょうか? 『人類普遍の原理』 西欧的価値観の押しつけである、日本には日本の価値観もある。 『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』  確かにこの憲法が作られたときは、日本はアメリカの占領下にあり、軍隊は廃止させられていたので自身で自国の防衛はできませんでした。そのため「平和を愛する諸国民」=アメリカにまもってもらうのは当然であったと言えるでしょう。しかし、独立国となった昭和27年4月28日以降も他国に自分たちの安全と生存を委ねるというのは国家の重大な責務を放棄しているとしか言いようがありません。そして、この文言をそのまま読めば、自分たちの安全と生存を他者にゆだねているのですから、自衛隊の存在自体を問いなおさなければなりません。この前文の精神が浸透した結果、当時のアメリカが、そこまで意図していたのかどうかわかりませんが、多くの日本国民は自分で自分の身をまもることを止め、他人にまもってもらうのが当たり前だと思うようになってしまいました。  とはいえ、ここに記されていることのすべてが、間違いというわけではありません。例えば『専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ』という部分です。名誉ある地位という表現は抽象的で分かり辛いのですが、おそらく、例示されているような人権侵害を撲滅するために努力するという意味なのでしょう。だとすれば至極当然のことなので、それ自体は問題ないのですが、実際の行動が伴っているかというと、そうではないと言わざるを得ません。本当に、そうであるならば、日本はこれらの人権侵害を現在進行形で行っている国家などに対して積極的にそのような蛮行を止めさせるように働きかけるべきなのですが、残念ながらそのようなことはなされていません。国益を考えて直接言うのが難しいとしても、せめて援助などの人権侵害の助けとなるようなことは行うべきではないでしょう。他にも『自国のことのみに専念して他国を無視してはならない』とありますが、これも言っていることは正しいですが、実際の行動はどうでしょうか。この憲法の殻に閉じこもりながら「日本だけが平和であれば良い」と、国際社会からの危険を伴う人的支援の要請を断り、他国を無視してはいませんか。ただ単に金をばらまくだけでは、他国からの尊敬を受けることなど難しく、ましてや名誉ある地位などほど遠いでしょう。(続く)

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    もうダマされない「戦争への道」

    「違憲」「海外派兵」「戦争への道」……野党の主張は壊れたテープレコーダーか。

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    紛糾する国会「安保法制」審議  アメリカはどう見ているのか?

    を示してくれるかもしれない。しかし、大多数のアメリカ人は「ジャパン・ハンド」ではない。日本がいくら、憲法の制約について一生懸命説明しても、「言い訳ばかり」と受け止められてしまう可能性は高い。「総理があれだけ色々約束して帰っていったのに、色々と言い訳ばかりで、結局、何も進まないじゃないか」――安保法制を成立させた後の日本がアメリカからこのような視線で見られる事態を、果たして日本は回避することができるだろうか。たつみ・ゆき スティムソン・センター主任研究員。キヤノングローバル戦略研究所主任研究員。東京生まれ。国際基督教大学卒業後、ジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究大学院で修士号取得。在米日本大使館専門調査員、戦略国際問題研究所(CSIS)研究員などを経て2008年より現職。2012年よりキヤノングローバル戦略研究所主任研究員を兼任。専門は日本の防衛政策、日本の国内政治、日米安全保障関係、米国の対アジア安全保障政策。

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    「朝ドラ歴史観」からの脱却を

    現代の日本人がイメージできる戦争はやはり先の大戦です。ただ、そのイメージも「ドラマで観たもの」に引きずられているように思えます。野党や一部マスコミの言う「戦争法案」が可決されれば、私たちはモンペをはいたり、竹やりを持ったりしなければならないのでしょうか。

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    「徴兵制」と憲法解釈の関係 恐怖感あおる陰謀論には要注意

    高橋洋一(元内閣参事官・嘉悦大教授) 民主党の枝野幸男幹事長が、「憲法解釈を都合よく変えてよいとなったら、次は徴兵制」と発言したと報じられた。ほかにも民主党議員らによる徴兵制についての言及が目立つが、そもそも徴兵制は合理的な選択肢としてあり得るものだろうか。 朝日新聞の報道によれば、枝野氏は街頭演説で「徴兵制だって、集団的自衛権と一緒で、憲法に明確に(禁止と)は書いていない。(中略)いまは『徴兵制なんて考えていません。憲法違反』と、国会で答えている。だが、『(憲法は)苦役は駄目だと言っているだけで、徴兵は苦役じゃない、名誉だ』と言い出せば、憲法違反じゃなくなる」と述べたという。党首討論で安倍首相に質問する民主党の岡田克也代表=6月17日午後、国会・参院第1委員会室(酒巻俊介撮影) まず、徴兵制は、近代においては不必要になっている。兵器技術の進歩から、大量の専門性に欠ける兵士は必要ではない。このため、戦後フランス、ドイツ、スウェーデンなど、徴兵制度をやめる国が増えており、先進7カ国(G7)はすべて徴兵制ではない。 先進20カ国(G20)では、欧州連合(EU)と、文献によって採用と不採用が不明なインドネシアを除く18カ国でみると、日本のほか、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、イタリア、サウジアラビア、南アフリカ共和国、英国、米国の13カ国が徴兵制を実施していない。ブラジル、韓国、メキシコ、ロシア、トルコの5カ国が徴兵制の国だ。 このような世界の現実をみれば、日本で徴兵制が導入されるという「前提」がちょっとおかしいと言わざるをえない。安全保障の議論の際、いつものことではあるが、いわゆる「立憲主義者」の議論はリアルではなく、極端なものばかりだ。徴兵制もその典型であり、議論にならないはずのものを無理やりもってきて、恐怖感をあおっている。 本コラムでは、日本国憲法第9条に相当する条文は、韓国、フィリピン、ドイツ、イタリアの憲法に盛り込まれていると指摘してきた。それらの国のうち、韓国、フィリピンでは徴兵制が行われ、イタリアは2005年に停止されるまで、ドイツも11年に停止されるまで実施していた。 こうした意味で、実際には不必要な徴兵制ではあるが、憲法の条文との関係で、制度として廃止されるべきものとまでは言いがたいのも事実だ。 もっとも、もし仮に徴兵制を議論するのであれば、国政選挙の前に、実施したい政党は公約に盛り込むはずなので、その時点で国民が判断すればいい。今の政府・自民党は、公約で徴兵制を打ち出しておらず、徴兵制を否定している。 枝野氏が「勝手に時の権力者の解釈で(憲法解釈を)変更できることにしたら、いずれ間違いなく、徴兵制は憲法違反じゃないと言い出す権力者がでてくる。そうなってからでは、遅い」というのは、陰謀論に近い言い方であり、政治論争にならない。 最高裁の違憲立法審査権を意味がないと否定するなど、立憲主義者は独裁者と似ているのではないか。たかはし・よういち 1955年、東京都に生まれる。東京大学理学部数学科・経済学部経済学科卒業。博士(政策研究)。1980年、大蔵省入省。理財局資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、内閣府参事官(経済財政諮問会議特命室)、総務大臣補佐官などを歴任したあと、2006年から内閣参事官(官邸・総理補佐官補)。2008年退官。金融庁顧問等を経て、現在、嘉悦大学教授、政策工房会長。主要著書に『財投改革の経済学』(東洋経済新報社)、『さらば財務省』(講談社)、『こうすれば日本はもの凄い経済大国になる』(小学館)、『アベノミクスの逆襲』(PHP研究所)、『【図解】ピケティ入門』(あさ出版)など多数。関連記事■ 立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更■ 参考人全員「違憲」は改憲へのチャンスである■ 「慰安婦」「八紘一宇」…ここがおかしい民主党幹部の歴史認識

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    国防を「悪玉視」して貶め続けた朝日 偏向の大罪

    は信じがたい」 一連の議論のさなかで、欧米の識者や外交官から、こうした声を聞かされた。 だが、日本国憲法には9条がある。戦争への反省から自らの軍備にはめてきたタガである。占領政策に由来するとはいえ、欧米の軍事常識からすれば、不合理な制約と映るのだろう。 自衛隊がPKOなどで海外に出ていくようになり、国際社会からの要請との間で折り合いをつけるのが難しくなってきていることは否定しない。 それでも日本は9条を維持してきた。「不戦の国」への自らの誓いであり、アジアの国々をはじめ国際社会への宣言でもあるからだ。「改めるべきだ」という声はあっても、それは多数にはなっていない。 その大きな壁を、安倍政権は虚を突くように脇からすり抜けようとしている》 本末転倒―その一言に尽きる。こちらが恥ずかしくなるほどの論理である。では聞こう。 朝日新聞は「抑止力を高める必要はない」「PKOで助けなくてもよい」とお考えなのか? 朝日新聞が憲法9条をこよなく愛していることはわかった。しかし、憲法9条を守っても国民の命を守らなくて良いという免罪符には成りえない。安倍首相の最大の使命は国民の命を守ることである。 憲法9条の制約から集団的自衛権が行使できず、世界の平和を維持するためにPKOの現場で共に汗を流す他国の軍人の命を助けなくてよいという理屈もまた通らない。朝日新聞は「9条を守る」ことだけを強調するが、その結果、国や国民にもたらされる害毒に責任を負えるのか。 憲法9条を改めるべきだというアジアの声が「多数にはなっていない」ともあった。これもおかしい。では多数に達したら変えてもよいのか。日本国憲法の変更には外国の承認が必要とでも言っているようで綻びだらけの立論なのだ。 さらに暴走は続く。 《首相はきのうの記者会見でも、「国民の命を守るべき責任がある」と強調した。 だが、責任があるからといって、憲法を実質的に変えてしまってもいいという理由にはならない、国民も、そこは見過ごすべきではない》 《この政権の暴挙を、跳ね返すことができるかどうか。 国会論戦に臨む野党ばかりではない。草の根の異議申し立てやメディアも含めた、日本の民主主義そのものが、いま、ここから問われる》 戦争にならないよう抑止力を高める。そのために集団的自衛権行使容認を閣議決定したのだ。抑止力を高めれば、わが国への侵略意図を未然に挫くことにつながる。“他国の戦争に加担する”ためでは断じてない。わが国と国民の生命を守るためなのだ。そういう論理を頭から全否定して始まる朝日新聞の報道こそむしろ“暴挙”ではないのか。 産経新聞は『「積極的平和」へ大転換』と大見出しをつけ、『首相「今後50年 日本は安全だ」』と題した記事で、閣議決定の目的を正確に伝えた。主張も《戦後日本の国の守りが、ようやくあるべき国家の姿に近づいたといえよう》と切り出し《反対意見には、行使容認を「戦争への道」と結びつけたものも多かったが、これはおかしい。厳しい安全保障環境に目をつむり、抑止力が働かない現状を放置することはできない》と書いた。わが国をとりまく安全保障環境は劇的に変化している。それに間断なく対処せねばならない。防衛体制に不備があれば当然それは是正する責任がある。 読売新聞も『集団的自衛権 限定容認』と、閣議決定内容を正確に伝え、田中隆之政治部長の『真に国民を守るとは』と題した記事があった。 《今回の見解にあるように一国では平和を守れない。日本が集団的自衛権を限定的に認め、対米連携を深めることが不可欠だ。それこそが真に国民を守る手段となる。時代にそぐわない憲法解釈を安倍首相が正したことは高く評価できる》 閣議決定の目的と主旨を正確に伝えている。社説でも《今回の解釈変更は、内閣が持つ公権的解釈権に基づく…いずれも憲法の三権分立に沿った対応であり、「立憲主義に反する」との批判は理解し難い》として解釈変更に何の問題もないと指摘している。 しかし、朝日新聞は、こうした冷静な報道を一顧だにしない。社会面に『不戦 叫び続ける』と題した記事を掲載、若者の「びびってます」とか元兵士の「限定的でも引きずり込まれる」といった声をちりばめて『列島 抗議のうねり』と牽強付会にあおるのだ。 日本列島が反対一色であるかのような記事だが、福井市のJR福井駅前での“市民団体”の呼びかけに応じて集まったのは、わずか「30人」だったらしい。これのどこが『列島 抗議のうねり』なのだろう? 日本列島が抗議のうねりに呑みこまる状況など一体どこに存在したのだろう。空自ヘリと取材ヘリ、ニアミスしたのは…平成19年空自ニアミスの報道 これだけではない。平成19年4月9日の朝刊ではこんな見出しが躍った。空自ヘリ、ニアミス墜落機の救助中 NHK取材ヘリと 見出しの横には『墜落機の救助中 NHK取材ヘリと』とある。ということは、墜落機の救助中の空自ヘリが取材中のNHKヘリに近づきすぎてニアミスを起こしたということになる。ところが本文を読んでみると… 《空自ヘリが遭難地点に侵入するために左旋回したところ、相手ヘリが右に旋回して急速に接近した》 つまり“相手ヘリ”が、空自ヘリに異常接近したのであって空自ヘリがニアミスをおかしたのではなかったのだ。本来この記事の見出しは、『NHK取材ヘリ、ニアミス』とすべきだろう。あたかも空自ヘリがNHKヘリにニアミスしたと読者が錯覚するような見出しを付けているのだ。NHKヘリはなぜか「相手ヘリ」として社名を隠し、空自ヘリを際立たせているところにも自衛隊への悪意が垣間見える。 しかもこの事故の隣には 持ち出し、イージス艦中枢情報も という見出しの海上自衛隊の情報漏えい事件の記事が併記されている。読者は「なんだ、航空自衛隊も不祥事をおこしたのか!」と瞬時に連想してしまう。実に巧妙な印象操作だと言わざるを得ないのだ。 そもそもこの遭難事故は、平成19年3月30日に鹿児島県徳之島で発生した救急患者の緊急空輸のため、那覇基地を飛び立った陸上自衛隊第101飛行隊(現・第15飛行隊)の大型輸送ヘリコプターCH47JAが徳之島の天城岳山中に激突して機長以下4名の隊員が殉職した痛ましい航空機事故があって、このとき陸自機の捜索・救難にあたったのが、同じ那覇基地にある航空自衛隊の那覇救難隊の救難ヘリUH60Jだったのである。 いずれにせよこの“ニアミス事故”なるものの非は、NHKの取材ヘリにある。朝日新聞の自衛隊を貶めようとする意図を感じざるを得ない。海自「おおすみ」と釣り船衝突 平成26年1月15日、瀬戸内海の広島沖を航行中の海上自衛隊輸送艦「おおすみ」に釣り船が衝突して釣り船の船長と乗客の2名が死亡するという海難事故が発生した。海上自衛隊輸送艦「おおすみ」と転覆した釣り船(手前右)=2014年1月15日午前、広島沖(本社ヘリから、山田哲司撮影) この事故を取り扱った読売新聞の見出しはこうだ。 衝突、同方向に航行中海自艦と釣り船 重体の船長死亡 ところが朝日新聞の見出しはこうなっている。 回避行動の状況調査へ 海自艦衝突 追い越す船に「義務」 海自艦と釣り船が衝突したのに、表記されているのはなぜか海自艦だけだ。これではまるで海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」に責任がある印象を読者に与えかねない。 この記事のリードも問題である。 《一方、安倍政権は過去に起きた自衛艦の事故の苦い経験を踏まえ、影響を最小限にとどめようと迅速な対応をアピールした》 書き手の悪意がにじみ出たおかしな書きぶりである。そもそも“迅速な対応”は褒められこそすれ、揶揄されることではないからである。逆に、対応が遅ければ、厳しく非難される。迅速に対応すると今度は「影響を最小限にとどめようとアピールした」。ここから安倍政権を叩いてやろういう魂胆が行間から読み取れる。始末に負えない書きぶりだ。 平成12年9月に石原慎太郎都知事(当時)の旗振りで実施された陸海空自衛隊を動員した災害派遣訓練“ビッグレスキュー”を取り扱った朝日新聞のいやみな批判記事は今も忘れられない。 一面には装甲戦闘車両の写真の下に『銀座上空に対戦車ヘリ』の見出しが躍り、銀座上空に物騒な対戦車ヘリが飛んできて軍事訓練したかのような記事となっている。 さらに社会面だ。『迷彩服だらけの首都防災訓練』と『大通り装甲車堂々』と見出しがあって『憂いあり』。いずれも白抜きの大きな文字だ。いったい何に対して、どんな憂いがあるというのだろうか? 誇大妄想も甚だしい。東京都の総合防災訓練。都営大江戸線による自衛隊部隊集結訓練で、地下鉄に乗り込んだ自衛隊員ら=2000年9月3日 迷彩服は自衛隊の制服だ。いったい何が問題なのか。装甲車は大通りを堂々と走行してはいけないのか。装甲車は人目をはばかるように移動せよというのか。 おまけに『憂いあり』の文字の下には『「治安出動」批判派デモ』なる小さな記事がぶら下がっている。自衛隊を動員した都心での災害派遣訓練がどうして「治安出動」に結び付けられて批判されなければならないのか。 どうも朝日新聞の記事には、読者を自らの偏った政治主張や特定イデオロギーに引きずり込もうとするいかがわしいトラップが随所に仕掛けられていると言わざるを得ない。気の毒なのは正確な事実が伝えられず公正な判断ができない読者である。海自「あたご」と漁船の衝突事故 コラムもやりたい放題である。 平成20年2月19日におきた海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船が衝突した海難事故について、平成20年3月3日の「ポリティカにっぽん」と題するコラムで、朝日新聞コラムニストの早野透氏はこう書いている。 《石破茂防衛相が「ハイテクの極致」とたたえるイージス艦、ハワイのミサイル防衛の訓練に疲れ、艦長が居眠りしている間に千分の一の「親子船」を撃沈してしまうとは!》 「艦長が居眠りしていた」などと、まるで任務中にコックリコックリと居眠り運転していたかのように書いている。だが、そもそも艦長は交代で就寝中だったのであって、訓練に疲れたせいでオペレーション中にうっかり居眠りしたのではない。艦長は、航海長に艦の運航の指揮を委任しており、就寝したことは何ら問題ではないのだ。「訓練に疲れ」という言葉が付け加えられ、これに続けて「居眠り」とある。これでは間違いなく誤解を誘発する書きぶりだ。 「親子船」という無条件に国民の同情を誘う言葉を使う一方で、自衛隊には「撃沈」なる言葉を使うのも首を傾げてしまう。そもそも「撃沈」とは、相手を沈める意図があって砲撃や雷撃・爆撃などの攻撃で沈没させることだ。イージス艦「あたご」に漁船を沈める意図など微塵もない。撃沈では決してないのだ。これはほとんど“捏造”の域といっていい。自衛隊の事故なら何を言っても構わないという空気に乗じたゆゆしきコラムである。中国国防費に対する記事も酷かった中国国防費めぐる報道 2010年(平成22年)の中国国防費に対する記事も酷かった。読売新聞(平成22年3月4日)はこんな見出しだ。中国国防費7・5%増2けた伸び21年止まり 開発費除外か これが朝日新聞になるとどうなるか。中国国防費 伸び鈍化10年は7・5% 22年ぶり1ケタ このニュースで読者に伝えなければならない最重要ポイントは、中国の国防費がこの年もまた7・5%も増えた客観的事実で次に兵器の開発費が除外されている可能性だ。これまで20年以上にわたって続いてきた国防費の前年度比2けたの伸び率が2010年は1けただったことは、単なる参考データでしかない。その意味で読売新聞の見出しは、このニュースの伝えるべきポイントを要領よくおさえている。 一方の朝日新聞は、参考データに過ぎない国防費の伸び率が1けただったことをまず強調し『中国国防費 伸び鈍化』と大見出しで『22年ぶり1ケタ』とアピールし、読者に、あたかも中国の軍拡がスローダウンしたかのような印象を与える記事となっている。 最も肝心な前年度比7・5%もの非常に高い国防費の増額については、『10年は7・5%』とだけ記載し、「増」の文字がない。これでは「7・5%」という数字が意味するところがよくわからないのだ。朝日新聞は「7・5%もの増額」という大幅な増額を巧みにごまかしたのである。ちなみにこの年のSACO関係費を除いた日本の防衛費は前年度比0・4%減だった。いかに中国の7・5%という伸び率が驚異的であるか。おわかりいただけよう。自衛隊と韓国軍のイラク派遣報道 自衛隊がイラクに派遣されたさいも朝日新聞は批判を繰り返した。平成19年5月16日の社説はこう述べた。 《英国ではブレア首相が世論の批判から退陣に追い込まれた。ブッシュ大統領も、米軍の期限付き撤退を条件とする予算案や決議を議会から突き付けられた。支持率は最低水準に低迷している。 そんな中で、日本では自衛隊の派遣延長がすんなりと国会を通っていく。これといった総括や反省もないままに、大義に欠ける、誤った米国の政策に参画し続ける。なんとも異様と言うよりない》 最後はこう結んだ。《政府はすみやかに自衛隊を撤収し、イラク支援を根本から練り直すべきだ》 ところが朝日新聞はこの同じ年の1月31日付の紙面で、イラク北部に派遣された韓国軍に対しては『復興支援 韓国がっちり』という見出しをつけ、こう言っているのだ。 《治安悪化で泥沼化するイラクで、唯一安全といえる北部クルド地域に2300人の部隊を駐留させる韓国が、軍と政府機関による復興事業を着々と進め、地元の信頼を勝ち得ている。すでに民間企業も進出するなど、治安の問題から南部サマワで十分な復興支援ができなかった日本との差を際立させている》 ちょっと待てよ!といいたい。あなた方は「大義に欠ける、誤った米国の政策に参画し続けている」と日本を批判したのではなかったか。なぜ韓国だけは“異様”でないのか。これは明らかにダブルスタンダードである。矛盾していることに自ら気づかないのだろうか。 記事には、『安全バックに事業次々』という小見出しがあった。 《韓国の民間人スタッフは全員、韓国軍基地内に居住。町へ買い物やレストランでの食事にも出かけるが、現地で雇った武装警護員を必ずつける。 さらに韓国軍も復興事業として学校54カ所、診療所11カ所、井戸200カ所を建設。基地内で開く自動車修理、コンピュータ技術から菓子料理までそろえた職業訓練コースは、月給110ドルがもらえる上、軍の送迎付きとあって市民に大評判だ。各地でテコンドークラブが作られ、韓国兵らが指導に当たっている。 ハウラミ・スレイマニア商工会議所会頭(32)は「韓国には本当に感謝している。投資促進にも非常に前向きだ。我々は先に来てくれた人を大切にしたい」と話す》 なぜ自衛隊と韓国軍のイラク派遣に対する評価がこうも違うのか。彼らの偏向こそ“異様”であり“異常”である。 朝日新聞は、イラクで自衛隊がどこの国の軍隊よりも歓迎され、そして感謝されていたことを知らないのだろうか。自衛隊はイラク南部サマワで病院や学校の建設、加えて橋や道路の整備を行なって地元イラクの人々からいたく感謝され、地元住民らによる自衛隊への感謝の意を表するためのデモ行進まで起きている。また自衛隊の撤収時には、地元住民が、自衛隊との別れを惜しんで涙したなどという感動のエピソードもある。朝日新聞はそんな数々の話をまったく耳にしたことがないのだろうか。否である。実は朝日新聞はこうした事実を知っているはずだ。なぜ書かないか。自衛隊を利するから書かなかったと私は考えている。海自イージス艦派遣めぐる報道 防衛報道、自衛隊報道における朝日新聞の恣意について述べてきた。最後に私自身の経験を話そう。かつて筆者は謝罪文を朝日新聞から書面で受け取ったことがあるからだ。 平成13年11月23日付の朝日新聞(西部本社発行版)に筆者のインタヴューコメントが掲載された。これは、世界を震撼させた9・11テロに端を発する対テロ戦争で海上自衛隊補給艦による多国籍軍艦艇へのインド洋上での燃料補給任務の護衛に海自イージス艦を派遣させるかどうかの問題が持ち上がったことへの筆者のコメントだった。 朝日新聞はわざわざ佐世保支局からインタヴューを取りに来た。私は記者に、相当時間を割いて海自イージス艦派遣の意義と問題点などを説明し、この記者もよく理解して帰っていった。筆者の主張の要旨はこうだった。 「洋上補給は、補給艦と受給艦が長時間真っ直ぐ並走せねばならず、そんなときに脅威が迫っても迅速な回避行動がとれない。そのため脅威をできるだけ遠くで発見しなければならず、したがって広域の上空および洋上監視ができるイージス艦がこの任務に最適である。 だがそもそもイージス艦の派遣がなぜ問題になるのか。国は、国家の命令によってインド洋に派遣される海上自衛隊の補給艦を全力を挙げて守らねばならないのだから、そのために必要なら、イージス艦であろうとなんであろうと必要な艦艇や航空機を総動員してでも守るべきだ。にもかかわらず派遣を命じた側の国会議員の中に、日本がイージス艦を派遣すると周辺諸国に脅威を与えるのではないかとか、集団的自衛権の行使はできないなどと言っている者もいるようだが、まず政府は、派遣される自衛官の命を守るために万策を講じることを最優先に考えるべきだ」 限られた字数に収めるため、掲載記事内容について記者と電話で文言や字数の調整などを繰り返した。短くなったが着地点を見出して私も納得した。ところが翌朝の新聞を見て仰天してしまった。 私のコメントは、『実績優先し 派遣迷走』という記事の中で、こう短く取り扱われていた。 《安全保障分野を得意とするジャーナリストの井上和彦氏(38)は、今回の派遣論議に自衛官の安全を考えた立場からの議論がなかったと批判する》 これではイージス艦の派遣に賛成なのか反対なのかすらわからない。ただ「批判」という最後の言葉の印象が強いため、反対しているようにも受けとれる。 私は猛然と抗議した。 その結果、次のような謝罪文が送られてきたのだった。 《先日は、ご多忙の中、取材に応じていただき、ありがとうございました。23日付、西部本社発行版(九州・山口)の第3社会面で掲載された記事の中に、井上様との取材の一部を使わせてもらいました。本紙を郵送させてもらいます。 編集の関係で短い扱いとなり、井上様のご意見を十分にくめなかった点があることは、否めません。お時間を取って頂きながら、ご不満を抱かれたことに、お詫び申し上げたいと思います。 今後とも、安全保障分野で取材をお願いすることもあると思います。こちらも、より細心の注意を払うようにします。今後ともよろしくお願いいたします》 私のコメントが朝日新聞の編集方針にそぐわず、最終段階でコメントの核心部分を外し、都合よくつなぎ合わせたのだろう。いずれにせよ、私の言いたかったことは闇に葬り去られたのだ。いのうえ・かずひこ 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。著書に『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)など多数。関連記事■ 立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更■ 朝日新聞、「角度つき」安全保障報道の系譜■ 「重く受け止めて」ないじゃないか! 驚愕の朝日・慰安婦社説

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    「徴兵制が来るぞ!」という反日呪文の意味

    濫りに批判者への加罰手段として私した陋劣は、神聖な国防史を不可逆的に汚損した。 にもかかわらず、成文憲法にひとことも書いてなくとも、近代立憲国家の有権者には「国防の義務」が全員にある。人民も君主も協同して納得のできる近代法治空間をつくっているのが近代立憲体制だ。じぶんたちで作り出したじぶんたちに最も具合のよい法制や秩序や生計を防衛するのはじぶんたち以外にない。なぜなら主権国家のその上には警察(常設国連軍)が無いのである。 かりに民主政体を構成する国民に国防の義務が無いとしよう。総選挙などいっぺんもやったことのない古代的な専制帝国の中共軍が、ある日、日本領土に上陸して、わが国の近代法体系を蹂躙したときに、一部国民がすすんでそれに助力し、国家と人民の裏切り者となり、儒教圏から来た外国人の支配者様の下で特権を享受しようと図っても自由だということになる。そう、それこそが、某政治集団や一部言論人が堂々とやりたくてたまらぬことなのだ。 近代憲法の条文で「人を食べてはいけない」と釘をさすことはめったにない。あたりまえだからだ。「立憲体制に叛逆した者はゆるさない」というのも、あたりまえなので書かれぬことがある。近代法規範としてそれは条文以前に当然に厳存する総意なのだ。しかし「近代への経験」の浅い国家(日本は残念ながらこれに相当し、法哲学発達史の理解が法曹界においてすら未熟な段階にある)では、それが明文化されていないことを乗ずべきセキュリティ・ホールとみなす害意ある隣国の手下たらんことを志願した者による百般の憲政破壊工作が進行する。「徴兵制が来るぞ!」の常套句も、近代立憲主義の理解から人民を遠ざけ、「後方」と「指導層」を共に愚昧化した上で、日本の防衛が成立し難くなるよう誘導する政治戦術なのである。 昭和50年前後、近代法の普及史を咀嚼していないことにかけては旧軍の指導層と互角であった経済界の老耄幹部たちはしばしば「徴兵制を再評価しよう」と口走り、反日左翼言論に「弾薬」を進上したものだ。 高度成長期には、軍隊(自衛隊)は、民間企業と若い人材をとりあいせねばならない。自衛官は他の公務員よりも定年が早い。その上に給与水準もパッとしないというのだから、能力ある若者には魅力的に映らない。さりとて自衛官給与を民間並みに厚遇してやれば、日本は先進国であるからたちまちに国防費は人件費だけで膨満し、財政の弾撥性を阻害するか、企業増税につながる。そういう大蔵省からの耳打ちを私企業の重役たちがひきとって、だったら自衛官を「安い兵隊」に替えて、ついでに若者に「反組合教育」もしてくれたなら好都合だ……との思い付きだった。国防は銃後も含めた全国民が分担する義務でなくて、若年者の「3K」仕事だ――と思いたがるのは、ようするに朱子学(反近代)の発想である。 当時のじいさんたちの理想が実現している「朱子学の楽園」は、今の韓国だろう。韓国軍の二等兵(徴兵)の月給は8100円ほど(台湾兵ならその4倍は貰う)。兵役年限は21ヶ月。さればこそ、最低賃金が時給400円の国で68万人の常備軍を維持できている。だが、もし中共軍が本気で攻めてくれば、若い韓国兵は財閥のために戦死する気などサラサラ無いであろう。ひょうどう・にそはち 昭和35(1960)年生まれ。軍学者。自衛隊勤務後神奈川大卒。東京工業大学社会工学専攻(修士)。関連記事■ 立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更■ 野党や一部メディアの安保論議は平和ボケにしか聞こえない■ 参考人全員「違憲」は改憲へのチャンスである

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    防衛庁長官時代から自衛隊を“軽侮”していた加藤紘一氏

    阿比留瑠比(産経新聞政治部編集委員) 初代内閣安全保障室長、佐々淳行氏の新著「私を通りすぎた政治家たち」(文芸春秋)が面白い。第2章「国益を損なう政治家たち」を読むと、田中角栄、三木武夫両元首相や生活の党の小沢一郎代表ら大物政治家がけちょんけちょんにやっつけられている。 特に、佐々氏が防衛施設庁長官として仕えた自民党の加藤紘一防衛庁長官(当時)に対する評価は辛辣(しんらつ)そのものである。本書によれば、加藤氏は長官として迎えた最初の参事官会議で無神経にもこう言い放った。 「若いころマルクス・レーニンにかぶれないのは頭が悪い人です」 会議に出席していた佐々氏をはじめ統合幕僚会議議長、陸海空の各幕僚長も背広組も、みんな共産主義には縁遠い人ばかりだったのにである。佐々氏らは会議後、「私たちは若いころに頭が悪かったんですな」と顔を見合わせたという。野蛮呼ばわり自民党の加藤紘一・元幹事長=2009年7月14日(酒巻俊介撮影) 加藤氏が陸上自衛隊第1空挺(くうてい)団の行事「降下訓練初め」に列席した際のエピソードも出てくる。寒空の下、上半身裸になった隊員が、長官を肩車で担いで練り歩く恒例の歓迎を受けた加藤氏は防衛庁に戻ると、こんな不快感を示した。 「日本にもまだあんな野蛮なのがいたんですか」 ほかにも、加藤氏がゴルフなど私用で護衛官(SP)を使うのをいさめたら怒り出した話や朝日新聞に極秘情報を流した問題…など実例が紹介されている。 中でもあきれるのは、加藤氏が毎朝、制服幹部や防衛官僚ではなく、農水省の役人の報告を真っ先に受けていたというくだりだ。佐々氏はこう書いている。 「加藤防衛庁長官にとっては、国防・安全保障よりも山形の米の問題などが優先順位として高かった」 さらに佐々氏らが憤慨していたのは、加藤氏が朝一番に秘書官に聞くことが「円とドルの交換比率」であり、防衛庁のトップでありながらドル買い、ドル預金をしていたことだった。 これについて佐々氏に直接確かめると、いまだに憤っていた。佐々氏は言う。 「『有事のドル買い』という言葉もあり、戦争があるとドルが上がる。言葉ひとつで為替レートすら動きかねない防衛庁長官の立場にある者が自らドル買いをするのは、倫理に反すると感じていた。彼は防衛庁・自衛隊を(身分の低い)『地下人(じげびと)』扱いしていた」適材適所願う そんな加藤氏は今年5月、共産党機関紙「しんぶん赤旗」に登場し、訳知り顔で集団的自衛権の行使容認反対論を語っていた。 「集団的自衛権の議論は、やりだすと徴兵制まで行き着きかねない。なぜなら戦闘すると承知して自衛隊に入っている人ばかりではないからです」 筆者はこの根拠も脈絡もよくわからない発言について5月22日付当欄「自衛隊を侮辱した加藤紘一氏」でも取り上げた。そして今回、佐々氏の著書を通じ、加藤氏が現職の防衛庁長官時代から自衛隊を軽侮していたことがよく分かった。 ちなみに、加藤氏が好きらしい朝日新聞は今月12日付朝刊の政治面記事中でさりげなくこう書いている。 「『徴兵制』に現実性は乏しい」 佐々氏は今、「加藤氏は何で防衛庁長官を引き受けたんだろうねえ」と振り返る。来月3日の安倍晋三内閣の改造では、適材適所の人事が行われることを願いたい。関連記事■ 立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更■ 「萎縮」が阻んだ拉致打開 今は北朝鮮に萎縮させるときだ■ 「謝るほどに悪くなる日韓関係」ついに終止符を打つ時が来た

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    安保法制論議に揺らぎはないか 宗教家や法律家の発想を持ち込むな

    櫻田淳(東洋学園大学教授) 6月上旬、衆院憲法審査会での参考人質疑の席で、小林節、長谷部恭男、笹田栄司の3教授は、集団的自衛権行使を織り込んだ安全保障関連法案に関して、憲法学者として「違憲」見解を示した。それは確かに「永田町」に大きな衝撃を与えたようである。政治家としての価値判断 外交・安全保障を含む広い意味での政治を語る際に避けなければならないのは、「牧師(宗教家)」や「法律家」の発想を持ち込むことである。 牧師、即(すなわ)ち宗教家にとって物事の価値判断の基準は、「道徳上、それが正しいか正しくないか」である。「汝、殺すなかれ」や「不殺生」の戒律を第一に尊重する宗教家の倫理は本来、国防や治安維持に際して「暴力の行使」を当然のように織り込む政治の営みには相いれない。そして、法律家にとっての価値判断の基準は、「法律上、それが正しいか正しくないか」である。故に、小林、長谷部、笹田の3教授のような憲法学者を招いて、彼らに「法律家」の発想に拠(よ)る安保法制についての見解を求めれば、憲法学上の多数学説に拠った「違憲」見解が示されるのは、寧(むし)ろ当然であろう。彼らの「違憲」見解は「憲法学者の大勢は、そのように語るであろう」という話でしかない。その後に報じられた歴代内閣法制局長官の「違憲」見解もまた、彼らが法務官僚として「法律家」の発想に拠る評価を示したものに過ぎない。安全保障関連法案に反対する国会包囲集会に集まった大勢の人たち。夕暮れの国会周辺に「戦争法案絶対反対」のシュプレヒコールが響いた=6月24日午後(共同通信社ヘリから) 実際、筆者が政治学徒ではなく憲法学者であれば、多分、彼らと同様に憲法学上の多数学説としての「違憲」見解を披露するのであろうと想像する。彼らの見解に、「遂(つい)に日本の良識が示された」と悦(よろこ)ぶのも、「彼らは安全保障が分かっていないではないか」と慨嘆するのもお門違いの沙汰である。 一方、政治家にとっての価値判断の基準は「それが必要か必要でないか」である。政治家の採るべき態度は、「道徳上、不実であろうと、あるいは法律上、怪しかろうと、それが国家、国民の利益のために必要であるかどうか」である。筆者を含む政治学徒には、そうしたニコロ・マキアヴェッリの言葉にある「必要性」(Necessita`)の評価の他に、「それが賢明であるか愚劣であるか」という価値判断の基準が加わる。多面的な議論踏まえる必要 政治を語る際には、宗教家や法律家とは全く異なる価値基準に拠ることが要請される。それ故にこそ、ジョージ・F・ケナン(歴史学者)は、米国外交を念頭に置き、その「道徳家的、法律家的な手法」を批判したのである。 現下の安保法制論議の奇観は、前に触れた3教授の見解に引っ張られる体裁で安保法制の「憲法解釈」に議論の焦点が過剰に当たった結果、その「必要性」に絡む議論が消えていることにある。 そもそも、現下の安保法制整備の下地になっているのは、多くの政治学者や外交専門家を中心にした議論の上で公表された「安保法制懇」報告書である。現下、政治家が手掛けるべき議論とは、その安保法制の「必要性」の検証に他ならない。安倍晋三内閣・与党は、「憲法解釈」論議に付き合うのではなく、安保法制の「必要性」を国民各層に説くことに専念すべきである。 かたや、民主党を初めとする野党は、安保法制整備に抗(あらが)うのであれば、その「必要性」への疑義を論証しなければなるまい。 安保法制の「必要性」の検証には、中国や北朝鮮の動向を含む安全保障上のリスクの評価から、米国を含む友好国の動向への評価、さらには日本の国力や採り得る政策選択肢の評価に至るまで、多面的な議論が要請される。そうした議論を踏まえてこその安全保障論議なのである。安倍内閣の姿勢を支持する そうであるとすれば、現下の安保法制論議に際して、その「必要性」を多面的に検証するのではなく、「合憲か違憲か」という半ば定型的な「憲法解釈」論議に走って何かを語ったように錯覚する風潮は、いかにも安直なものである。そうした安直な風潮こそが、従来、日本の安全保障論議の「堕落」と「窒息」を招いてきた要因なのである。 「憲法学者の見解は示された。だが、われわれは必要なことを断行する」。それが今次国会会期を9月下旬まで延長させた安倍晋三内閣の姿勢であろう。筆者は、安保法制の「必要性」を政治学徒として認識している故に、そうした安倍内閣の姿勢を決然として支持する。無論、現下の安保法制それ自体にも、不充分なところがあるという指摘はある。日本内外の「平和と繁栄」を担保するためには、安保法制整備だけではなく多面的な努力が要請されているという指摘にも、筆者は首肯する。 ただし、こうした指摘もまた、安保法制それ自体の「必要性」を否定する論拠とはならない。今、安倍内閣の姿勢に不安があるとすれば、その「必要性」を国民各層に説く構えに「揺らぎ」や「迷い」、あるいは「疲れ」といったものはないかということである。さくらだ・じゅん 1965(昭和40)年、宮城県生まれ。北海道大学法学部卒、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。衆院議員政策担当秘書などを経て現職。専門は国際政治学、安全保障。著書に「国家への意志」「『常識』としての保守主義」など。関連記事■ 立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更■ 戦後70年 多様な中身持った「安倍談話」に■ 農業による地方創生は「日本全国、ブルゴーニュ化」

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    参考人全員「違憲」は改憲へのチャンスである

    著者 KeroChan(東京都) 6月4日に行われた衆院憲法審査会において、参考人として招致された憲法学者3人全員が安保関連法案に対して「違憲」としたことが話題となっている。とりわけ、与党側が招致した学者が「違憲」としたことは各メディアにおいて大きく報道され、与党内にも衝撃が走ったそうだ。これを受けて、安保関連法案の改正に反対する護憲派や左派系マスコミは「憲法学者の声を無視するのか」「長谷部教授(与党側が招致した早稲田大学法学学術院教授)はよくやった」などと述べ、この法案の廃案に向けた動きを強めている。衆院憲法審査会に出席した参考人の(左から)早稲田大の長谷部恭男教授、慶応大の小林節名誉教授、早稲田大の笹田栄司教授=6月4日午前 普段、「学歴や職業で人を区別するのはよくない!」と叫び、原発問題の際には「専門家や大学教授を絶対視してはいけない!」と語る人々やマスコミが、「憲法学者」という権威に頼っている姿は何とも滑稽である。また、自分たちが招致した憲法学者が「違憲」の述べたことを大げさに騒ぎ立てる与党も情けないと思う。 私は、今回の事件をきっかけに与野党は、堂々と憲法改正の議論を行うべきであると思う。この法案における大きな問題は、憲法9条と矛盾し、我が国の安全保障の根幹を変えるような話題にも関わらず、これを解釈と法律のみで変えるということである。また、自衛隊がいつ、どこまでの実力を行使できるのかについての議論もまだまだ不十分であることも問題だ。こうした応急処置的で中途半端な議論で終わっては、この法案が目的としている安全保障の強化がむしろ後退してしまうのではないかと私は危惧する。 このようなことを防ぐためにも、「ネトウヨ」や「戦争法案」などと情けないレッテル貼りで終わるのではなく、堂々と改憲議論を行い、論戦を繰り広げることが我が国の安全保障と発展に向けた道になるはずだ。参考人全員「違憲」の騒動を改憲へのチャンスにできるかは、今後の改憲派の実力にかかっている。関連記事■ 左翼メディアよ、そんなに集団的自衛権が憎いのか■ 政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない■ 文官が総理より偉い? 懲りずに安倍政権を中傷するメディア

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    長谷部恭男氏・小林節氏「安保法制は違憲、安倍政権は撤回を」

    BLOGOS編集部 15日、憲法学者の長谷部恭男氏(早稲田大学法学学術院教授)と小林節氏(慶應義塾大学名誉教授、弁護士)が会見を行った。二人は、政府・与党が今国会での成立を目指す安全保障関連法案について笹田栄司氏(早稲田大学政治経済学術院教授)とともに、4日に行われた衆院憲法審査会で「違憲」との認識を表明していた。  会見で両氏は、改めて法案は違憲であり、撤回すべきだと主張、安倍政権が止まらないのなら、次の選挙で政権を交代させるべきだと述べた。  ─政府は集団的自衛権を行使する場合の想定シナリオをなかなか出さない。具体的には、どういう事態を想定しているのか。なぜ出さないと思うか。  また、安全保障法制を「合憲」としている3人の学者は皆「日本会議」に属している。その意味や、「日本会議」の影響力をどう見ているか。(エコノミスト) 長谷部教授:最初の質問については私の方から。具体的な例は簡単には思いつきません。政府が果たして具体的な例を想定しているのかどうかも私にはわかりません。ホルムズ海峡の件については、ご存知のようにイランとアメリカは友好的な関係を迎えつつ有りまして、ホルムズ海峡が封鎖されることも具体的には想定しにくいと思います。  むしろ、政府の側は、集団的自衛権が行使されること、それ自体が目的なのではないかと考えております 小林教授:日本会議に沢山の知り合いがたくさんいるので私が答えますが、日本会議の人々に共通する思いは、第二次大戦で敗けたことを受け入れ難い、だから、その前の日本に戻したいと。かれらの憲法改正案も明治憲法と同じですし、今回もそうですが、日本が明治憲法下で軍事五大国だったときのように、アメリカとともに世界に進軍したいという、そういう思いを共有する人々が集まっていて、かつそれは、自民党の中に広く根を張っていて、かつよく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだったひとたちの子孫が多い。そうするとメイクセンスでしょ(笑)。  ─先生方が国会で発言した際の自民党からの反応について、2つの質問があります。  山東昭子元参院副議長が、長谷部先生を招致することをを決めた方は処罰されるべきだと発言しました。この発言を聞いてどう思われましたか。  次に、高村正彦副総裁が「国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、自衛のための必要な措置が何であるかについて考え抜く責務があります。これを行うのは、憲法学者でなく、我々のような政治家なのです。」という発言をされました。これについてはいかがでしょうか。 長谷部教授:私が証言した日の憲法審査会のメインテーマはconstitutionalism(=立憲主義)について、でした。その専門家として事務局が私を選び、それを自民党が受け入れたと、いうふうに伺っております。  ですから私はconstitutionalismの専門家として呼ばれたのでありますけれども、その人間がたまたま9条について発言をしたのがけしからん、というのが山東さんの発言の主旨なのだろうと思いますが、しかし、質問があれば私は自分の思っていることを答えるだけだと思います。  それから、二番目の質問ですが、私は今回の安全保障法案は、むしろ日本の安全を危うくすると思っております。日本を確実に守りたいなら、ぜひ学者の意見を聞くべきだと思います。  ─ガイドライン(日米防衛協力のための指針)で、すでに日本は米国と色々な約束してしまっています。その約束を果たすために、今安全保障法制が議論されているのだと思います。もし法制が整備されないとなると、日米の関係が悪化することが考えられないでしょうか。(ブルームバーグ) 長谷部教授:まず、できるかできないかもわからないことを先に約束してしまうということが大変リスキーな戦略だったと思っています。そして最近のガイドラインの内容は、元々の日米安保条約の枠をはみ出しているのではないかという批判もあります。  従いまして、これがうまく成立しなければ日米の関係が悪化することもあるかもしれませんが、それはもともと無理な約束をしたことに原因があるのだと思います。 小林教授:私は日米関係は悪くならないと思います。つまり、日本とアメリカの官僚は頭がいいですから、ガイドラインが法的拘束力がないことを知っていますから、勝手に夢を語り合って、ガイドラインの上に法律があって、法律の上に条約があって、条約の上に憲法があって、"あ、やっぱだめだった"、で済むんじゃないですか。(会場から笑い)  ─まだ現段階では早いかもしれませんが、数の力で強行採決することも考えられると思います。その場合、どのような法的手段で対抗できると思いますか。  もし違憲訴訟がおきたとしても、最終的な判決が出るまで法律は生きたものでになりますので、その間、どうなるのでしょうか。また、今までの最高裁判決を見ますと、明らかに違憲であったとしても"違憲状態"という判断をし、"無効"という判断をしてくれないようにも思う。(ロイター) 長谷部教授:最近、最高裁は変化をしつつありますので、今までと違う態度を取る可能性はあると思っています。  ただ他方、裁判所に頼りすぎるのも良くない。まず次の国政選挙で新しい政府を成立させ、一旦成立したこれらの法律を撤回させることを考えるべきだと思います。 小林教授:弁護団の一員として、訴訟の準備をしています。それは法律が有効になった瞬間から、今までの日本には無かった、海外で戦争をする危険が具体化するんですね。ですから、平和に生きる権利が憲法前文と9条で保証されているならば、今は海外派兵ができないからそれが守られているんですけど、法律ができた瞬間から、それが侵されたと理解して、平和が傷つけられたという政府に対する訴訟を準備しています。かなり技術的に難しいですが。  次の段階は、具体的に海外派兵の命令が下って、その部隊の一員がそこから逃げたした時、懲戒処分を受けた場合、それが違憲無効だと訴える。一番悲劇的なのは海外派兵で死んだ人が居た場合ですが、違憲な戦争で家族が殺されたと訴える。その準備を我々は既に始めています。  ─今のお話に関連しますが、日本では憲法に違反すると思われる法律が出来たとしても、実際に誰かがその法律に違反する行為を行った場合に、そもそもその法律は違憲だとして訴えるという形を採らないと違憲か合憲かを争えないということを多くの人が知りません。日本には憲法裁判所のようなものもありません。また、安保に関わるものは「統治行為論」という判断で、裁判所はそうした問題には介入すべきではないと言うわけです。では一体、誰が違憲かどうかを決める立場にいるのでしょうか。  もう一点、このような仕組みは意図したものなのかそれとも、ある種の欠陥なのか 長谷部教授:最初の質問について、日本においては内閣法制局がこの種の問題について違憲合憲の判断を下してきまして、従来は一貫して、集団的自衛権の行使は違憲ですと、何度も何度も言ってきています。したがって、そういった法案が提案されることなかった。ところが、今の内閣の下、内閣法制局はプレッシャーに負け、解釈を変えた。そこに問題があるということになります。  二番目の質問についてですけれども、日本はアメリカと同じシステムを採っております。従って、裁判の解決にとって必要な限りでしか、裁判所は法令の違憲性・合憲性については判断を下しません。ドイツには憲法裁判所がありますが、ただドイツの憲法裁判所も、圧倒的多数ケースは、やはり事後的な、実際に事件が起きた後で合憲性の判断を下すということになっております。 小林教授:高村副総裁が勝手に引用している判決が全てを言っておりまして、戦争というのは国の存続に関わる大問題ですから、選挙で選ばれていない最高裁の15人の裁判官が決めるわけにはいけない。これはアメリカ・フランスの先例に学んだんですね。だから、あの判決の中、一次的には国会と内閣が決める、だけど最終的は主権者である国民が決めると言っているんです。さきほど長谷部教授も言われるように、狂ってしまった政治は、次の選挙で倒せばいいんです。 自衛隊のそのものの存在 ─集団的自衛権に関する議論が加熱しているが、基本的な問題がその前にあるんではないでしょうか。つまり、自衛隊のそのものの存在です。私は法律の専門家ではありませんが、陸海空の戦力を保持しない、と書いてあるのは、理解できます。とはいえ、1950年代の世界情勢を考えれば、そういうものが必要になったという政治判断も理解できます。  ただ、今まで積み重なってきあ解釈というのは、政治的な要素と合わさって、新しい憲法の問題を生んできたと思います。ですから、最終的には、道徳的、倫理的な法学者が、集団的自衛権の問題だけでなく、そもそも自衛隊を持つことはどうかということを議論すべきではないでしょうか。(タイムズ) 小林教授:自衛隊については、二つの根拠がはっきりしていまして、9条には「国際紛争を解決する手段としては」という条件がついていまして、これは1928年のパリ不戦条約の文言と同じで、それ以来、国際法上の普通の標準的な理解としては、これは侵略戦争の放棄で自衛戦争を放棄していないと読むんですね。  もうひとつは、国際法上の独立主権国家の自然権として自衛権はありますから、条文の根拠が要らないんです。それに基づいて自衛隊は存在しているし、砂川判決も書かれている。  そして、終戦直後に自衛隊がなかったのは、日本が危険だったから、米軍が完全占領して持たせなかった。そちらの方が政治的な問題で、不自然です。 ─インドネシア人の私から見れば、当たり前のことですが、もし国が攻撃されたらインドネシア人は死ぬまで闘うと思います。国を守るため自衛隊があるということを憲法に書かなければ行けないと思います。専門家から見て、憲法の文言はどのように書かれるべきでしょうか。 長谷部教授:攻撃を受けた場合、反撃が出来る。憲法で個別的自衛権は認められているので、それで十分だと思います。 ─安倍政権は今回の法案を撤回すべきだと思いますか。その理由は。 長谷部教授:撤回すべきだと思います。核心的な部分、つまり集団的自衛権を容認している部分は明らかに憲法違反であり、他国軍隊の武力行使と自衛隊の一体化、これをもたらす蓋然性が高いからです。 小林教授:私も結論は撤回すべき。違憲というのはもちろんですが、恐ろしいのは、憲法違反がまかり通ると、要するに憲法に従って政治を行うというルールが無くなって、北朝鮮みたいな国になってしまう。キム家と安倍家がいっしょになっちゃうんです(会場から笑い)。これは絶対に阻止しなければならない。そして、安倍さんの言うとおりにすると、自衛隊はアメリカ軍の二軍になってしまって、その結果日本は傷ついた上に破産してしまいます。だから何一つ良いこと無いんですね。撤回しないならば選挙で倒すべきだと思います。  ─内閣法制局について理解できていないのですが、三権分立の原則を考えると、内閣からは独立したものなければではないのではないでしょうか。 長谷部教授:日本の内閣法制局はフランスのコンセイユ・デタ(Conseil d'État)をモデルに作られましたが、これは内閣や議会に対して法的なアドバイスを行うのが役割で、その意見は尊重され、政治からも独立しているのが伝統でした。これまでは。 小林教授:日本の違憲審査を考えると、入り口で内閣法制局がやって、出口は最高裁が担っていたんですが、ご指摘の通り内閣法制局は単に内閣の下にある一部門に過ぎない。でもなぜそれがコンセイユ・デタのように力を持ってきたかというと、人間の力だったんですね。優秀な人がプライドを持って守ってきたんです。今回人事権を行使されて、法制局は単に内閣官房に付いている局の一つ、形式通りの弱さになってしまった。これは歴史的なことだと思います。 ─官房長官や政府の人たちは合憲という憲法学者もいっぱいいるとおっしゃいました。先生方は、日本でどれくらいの憲法学者が違憲だと言うと思われますか。また、裁判所の裁判官も含めて、法曹の方の考え方の主流が違憲なのであれば、判決にも反映されると思うんですが、それについてはいかがでしょうか(AFP) 長谷部教授:本日の夜10時からの報道ステーションが、憲法学者へのアンケートの結果を報道することになると思います。そちらをご覧いただければと思います(笑)。私の推測では95%を超える憲法学者は「違憲だ」と言うと思います。  裁判官も含めた法曹一般の中では、例えば、裁判官前の前の山本庸幸内閣法制局長官は、現在、最高裁判事ですが、就任の会見の際に「地球の裏側まで言って武力行使するのは違憲だ」と述べられておりました。 小林教授:専門家の中でどれくらいなのかは出ていまして、大学教授の95%が違憲だとするなら、それに習った人々ですから、弁護士会もそのような状態で、今運動を行っています。  弁護士会が可哀想だったのは、もうずっと1年くらい前から運動をしていたのに、メディアが問題にしてなかったんですね。ところが、こないだの憲法審査会以来、死んでいたメディアが生き返って、弁護士会の活動も取り上げてくれるようになったので、弁護士会も生き返りました。  個人的に、高いランクの裁判官や検察官からも仰るとおりだ頑張ってくれと連絡があります。やはり専門家の常識を国民が共有していなかったのが問題なわけで、それはメディアの責任だと思うんですね。 ─民主党の岡田代表が法案成立後に最高裁が違憲判決を出した場合、その時の内閣は総辞職に値すると発言しました。法の重さ、政治の責任につきまして、時の政権はどのように対応すべきだと思いますか。(ニコニコ動画・七尾氏) 長谷部教授:私は岡田代表の会見を存じ上げていないので、正確なお答えになるかわからないのですがいま、仮に法律が成立するとして、最高裁が出すまで相当時がかかるわけですね。仮に最高裁が違憲判断を出した時に、時の政権が負っている責任は、それを維持してきたというこだと思いますが、そこまでの内閣全てにも責任があるということになるだろうと思います。 小林教授:どうしてもそういう話になるので私はいらいらするんですが、つまり、最高裁が違憲判決を出すまでに大体4年かかるんですよ。それまでどうして放っておくのか。 いま世論調査が支持率が下がれば、安倍内閣は次の選挙が怖くなってやめるんですよ。やめなかったら、それは露骨にひどい事だしたとして、次の選挙で交代させればいい。参議院選挙で自民党が沈めば憲法が改正できなくなるんです。その次の衆議院選挙で自民党政権を倒せばいいんですよ。これが4年後の最高裁判決を待つよりよっぽど早いですよ。 関連記事【動画】「戦争反対!」渋谷で若者らによる安全保障法制反対デモ【全文】山崎拓氏、亀井静香氏らが安全保障関連法案に反対表明会見【全文】公明党・山口代表が安全保障法制について会見【詳報】「"戦争法案"などという無責任なレッテル貼りは全くの誤り」〜安全保障法制関連法案の閣議決定で安倍総理が会見【動画】「自国に関係のない戦争に参加するのは良くない」安保法制「閣議決定」に抗議する人々 関連記事「ホットライン がつながらない!」 中国の冷たい対応に焦る韓国サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか - 村上拓哉 / 国際関係論【衆院予算委】山尾議員、安倍総理の基本的考えと社会認識とのずれを指摘解散後の「SMAP」という商標の行方アベノミクスを襲う中国減速・原油安・暖冬

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    安保法制論議のカラ騒ぎ

    「戦争に巻き込まれる」「憲法を守れ」。安全保障関連法案に対するばかげた意見が世論をにぎわしている。文官統制も安保法制も十把一からげの護憲派マスコミに、「昔の名前」の面々が批判会見する唐突感。

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    立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更

    式のナイーブな情緒主義ではさすがに説得力をもたない。というわけで、護憲派が担ぎ出したのは「政府による憲法解釈の変更が立憲主義に抵触する」なる理屈であった。もっとズルイのは「解釈変更するなら堂々と憲法改正すべきだ」というサヨクで、改憲派がいうならわかるが、憲法改正を阻んできたものがしたり顔で述べるのはあまりにみっともない。 しかしこの「憲法解釈の変更は立憲主義の破壊だ」もかなりズルイ。この主張がまったくの暴論であることはわざわざ論じるまでもなかろう。 憲法はその国の基本的原理を書いたものであって、現実への適用において解釈の余地がでてくるのは当然で、だからこそ「憲法解釈」という作業が要請されるのだ。一方、現実は常に変化してゆくから、憲法の運用を憲法に即して解釈変更することは何ら憲法逸脱にはならない。まして自衛権の行使について現行憲法は必ずしも明確に規定してはおらず、その解釈が常に論じられてきたとなれば、解釈変更自体は問題ではない。 もしも、この解釈変更による政府の行為が憲法に抵触するというなら、今後整備される関連法についてその合憲性を司法が判断すればよい。それこそが立憲主義というものだろう。 それはそうとして、もっと重要なことがある。そもそも立憲主義とは何なのであろうか。われわれは立憲主義なるものを理解しているのだろうか。 護憲派は、立憲主義をあたかも憲法至上主義と理解している。つまり、「立憲主義(constitutionalism)」と「法の支配(rule of law)」を同一視している。しかもその上で、「立憲主義」とは、近代憲法の原理である基本的人権保障の普遍性を守るものだという。それは破ることのできない普遍原理だ、だから憲法を超えるものはない、という。集団的自衛権行使容認反対の集会で「9条こわすな」と「戦争反対」をアピールする参加者=東京・日比谷 しかし同時にまた、近代憲法は国民主権をうたい、「主権」とは最高権力であって、その意味では主権を超えるものはない。主権の発動は議会(国会)においてなされ、議会によって内閣が構成されるなら、内閣は主権の代理的な発動機関になる。もちろん、内閣も暴走しうるので、それを憲法によって抑制するという考えはあり、それが「憲法とは権力を抑制するものだ」という近代憲法の思想とされる。 しかしこのことは実は大きな矛盾をはらんでいる。そのことにわれわれはあまりに無頓着であろう。というのは、「では、そもそも憲法は誰が作ったのか」というと、それは「主権者」だからだ。憲法を作ったものが本当の「主権者」なのである。国民主権ということは、国民がその憲法を作ったということである。そして、主権者の最大の仕事は、その国の秩序維持であり、国民の生命・財産の安全確保にある。とすれば、主権者は、国民の生命、財産を守るために憲法秩序を超えることができるのである。むろん、そのために、憲法改正や解釈の手直しをはかるのは当然である。それこそが主権の発動なのである。 だから、知識人だけではなく、立法府に属する国会議員までが、解釈変更は立憲主義に反するなどというのは、ほとんど立法府の議員の自覚に欠けるということになろう。 どうしてこういう始末になったのか。それは、戦後憲法を「われわれ」の手で作ったのではない、からだ。1946年に日本には「主権」はなかった。擬似主権者はGHQであり、国民は、その主権を米製憲法によって与えられた。だから、護憲派とは、与えられた米製憲法を至上のものとする人たちで、戦後、護憲派が支配したのは、確かに、国民(われわれ)が憲法を作ったわけではなかったからだ。憲法は上(GHQ)から与えられたものだから変更できないと彼らはいうのである。 憲法(constitution)とはまた「国体」である。国を「組み立てる(constitute)」ことである。どう組み立てるのか。その国の歴史的に形成された様々な慣習的ルールを憲法(国体)の基礎におくのが「法の支配(rule of law)」なのである。ここでは本当の主権者は慣習的ルールとしての「法」(歴史的な法)なのだ。国民はみずから、その国の歴史的成り立ちとルールを自覚し、それに従うというのが、真の意味での立憲主義である。その意味では、戦後憲法そのものが立憲主義になっていないといわざるをえないのである。さえき・けいし 昭和24(1949)年生まれ。東大大学院経済学研究科博士課程単位取得。関連記事■ 左翼メディアよ、そんなに集団的自衛権が憎いのか■ 政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない■ 文官が総理より偉い? 懲りずに安倍政権を中傷するメディア

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    首都直下地震 憲法の「緊急権」こそ緊急課題である

    百地章(日本大学教授) 2年後に好機を迎える憲法改正実現に向けて真っ先に挙げられるテーマの一つが、緊急事態条項である。首都直下型大地震の危機が叫ばれる中、当然といえよう。国家存立と立憲主義かかる 「憲法は平常時においてだけでなく、緊急時および危機的状況にあっても真価を発揮しなければならない。憲法が危機を克服するための配慮をしていないときは、責任ある国家機関は、決定的瞬間において憲法を無視する挙に出るほかにすべはないのである」。これは良く知られたドイツの代表的憲法学者K・ヘッセの言葉である。それ故、超法規という名の無法状態に陥ることを避け緊急事態においても「立憲主義」を維持するため、この条項は不可欠である。 緊急権は戦争、内乱、大規模災害などの国家的な危機に際し、危機を克服し国家の存立と憲法秩序を維持するために行使される例外的な権限である。もちろん、ここでいう「国家」とは単なる政府や権力機構のことではなく、国民共同体のことである。時の権力のためではなく、「国民共同体としての国家」や憲法秩序が危殆(きたい)に瀕(ひん)しているときに、国民を守るために発動されるのが緊急権である。 ところが、わが国では「国民共同体としての国家」に対する認識が乏しく、国家を権力としか考えない憲法学者が多い。そのため、緊急権乱用の危険のみが強調されてしまうわけだが、国家の存立なくしてどうして国民の生命や人権が保障されるであろうか。 諸外国では憲法に緊急権を明記しているのが普通である。法律だけでは対応できない この点、大災害については、わが国には災害対策基本法、大規模地震対策特別措置法、原子力災害対策特別措置法、さらに首都直下地震対策特別措置法や南海トラフ地震対策特別措置法といった法律が存在する。しかし、法律だけでは対応できないことは、先の東日本大震災で経験した通りである。 災害対策基本法では「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合」には、「災害緊急事態」を布告できる旨、定めている(105条)。そして、この「災害緊急事態」が布告されれば、政府は「緊急の政令」を制定し、生活必需物資の統制、物品や役務の価格統制、債務の支払い延期などの緊急措置が実施できることになっている(109条1項)。 にもかかわらず、菅直人政権は「災害緊急事態の布告」を行わず「緊急政令」も制定しなかった。「緊急政令」は国会が「閉会中」などの場合に限られており、当時は国会が開会中であったことが理由とされたが、「生活必需物資を統制する必要はなかった」という言い訳は通じまい。 実際には震災直後に、現地ではガソリンが不足したため、被災者や生活必需物資が輸送できなかったりして、助かる命も助からなかった。したがって「物資の統制」は必要であった。それなのに「物資の統制」を行わなかった理由について、国会で答弁に立った内閣府の参事官はこう答えている。「国民の権利義務を大きく規制する非常に強い措置であり、適切な判断が必要であった」と。 つまり、憲法で保障された国民の権利や自由を安易に制限するわけにはいかない、ということであろう。事実、被災地ではガレキの処分をめぐって、財産権の侵害に当たり所有権者の了解が必要だなどという議論もあったという。 今年2月、山梨県などを襲った大雪の中で、路上に放置された車を自由に撤去することができなかったのも、「財産権の不可侵」(憲法29条1項)との兼ね合いが問題となったからだ。もちろん、財産権といえども「公共の福祉」によって制限することは可能だが(同条2項)、現実にはこの「財産権の不可侵」がネックとなり、土地収用法で定められた強制的な公共事業用地の取得でさえ、実際には「土地所有者等がどうしても用地買収に応じてくれないという極限の場合」しか用いられないという(小高剛『くらしの相談室 用地買収と補償』)。 こうした大災害時において速やかに国家的な危機を克服し国民生活を守るためにも、憲法に緊急権を定めておく必要がある。「命令」制度の採用を急げ もう一つは、国会が機能しない時のためである。例えば、首都直下型大地震によって国会が集会できない場合には、新たに法律を制定することもできない。そこで、このような場合には、内閣が法律に代わる「命令」を発することを認め、後で国会の承認を求めようというのが、「緊急命令」制度である。 これはイタリアやスペインの憲法にも規定され、自民党の憲法改正案や産経新聞の「国民の憲法」要綱でも採用されている。 先の衆院憲法審査会では、自民、民主、日本維新の会、みんな、生活の各党は緊急事態条項の新設に前向きであった。国会により一日も早く憲法改正の発議が行われることを期待したい。ももち・あきら 京都大学大学院法学研究科修士課程修了。愛媛大学教授を経て現在、日本大学法学部教授。国士舘大学大学院客員教授。専門は憲法学。法学博士。比較憲法学会理事長。産経新聞「国民の憲法」起草委員。著書に『憲法の常識 常識の憲法』『憲法と日本の再生』『外国人の参政権問題Q&A』など。関連記事■ 富士山噴火史からひも解く最悪のシナリオ■ 御嶽山噴火は破局の前兆なのか■  「M9巨大地震から4年以内に大噴火」 過去の確率は6分の6

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    憲法改正は次世代のために

    著者 Tohgou(静岡県) GHQ主導で制定された憲法だから改正する。という観点から、論を展開する改憲派の主張は、至極真っ当である。私は、ごく普通の一般人だが、改憲派の主張に賛同している。 現憲法の継続は、おかしな現状維持か悪化かの二択であり、好転の可能性は全く感じられない。また、自信を持って次世代へ継承すべきものでもない。皮肉にも、護憲派の行動や主張に接し、その思いを深めるケースが多い。憲法記念日に横浜市で開かれた憲法集会に参加する作家の大江健三郎氏(前列中央)ら=5月3日、横浜市西区 5月3日、憲法記念日に合わせ護憲派の大集会が開かれた。主題は「平和といのちと人権を!」。「平和」を目指す思いは私も同じである。しかし、現憲法で平和が保たれているなど、悪ふざけも甚だしい主張だ。そんな嘘は、われわれ市民であっても見抜ける。そして彼等の主張を真面目に聞けなくなる。  日本は米軍庇護下にあり、また東西冷戦の核による緊張状態があったことで、たまたま戦争がなかっただけではないか。その恩恵を現憲法に見出すのは意味不明である。その恩恵はどう考えても、在日米軍と自衛隊の存在だ。そう考えた時、自衛隊と矛盾する憲法九条は害でしかない。  憲法前文の「平和を愛する諸国民」を「平和を愛する世界各国」と解釈するならば、これ程愚かな憲法はないとも言える。それは自明な筈であるが、護憲派は耳を貸さないのだろう。 彼等もその位は理解できる筈だ。ただ、矛盾があろうとも、妙なイデオロギーに突き動かされ、黙殺し決して相容れることがない。であれば彼等の行動は、日本の為ではない。妙なイデオロギーの為である。護憲派という分類すら誤りであるが、とにかく彼等の主張は、背後に隠れた本意がある限り、まともに聞けないのである。 55年体制は保守が連合し、憲法改正を掲げて始まった。もう60年も経過していることを考えると、憲法改正論議の始まった現在は当時よりも落ち着いているのだろうか? 妙なイデオロギー汚染は沈静化に向かっているのだろうか? しかし、GHQに植えつけられた戦争の贖罪意識を想起させるためなのか、日本の周辺は騒がしい。そして、これらに呼応する日本人が少なくない。憲法だけではなく歴史や基地問題にも絡めて騒いでいる。病的に見えてならない。 私は、こういった日本人の存在を見かけるたびに、憲法改正の必要性を痛感する。彼等の声が大きいほど、現憲法の危険さを感じるのである。戦後70年経過した現在でも、この手の勢力が存在し続けるのは、そういう日本人を育ててきた、という誤りの証明に見えてならない。 そういう意味で、教育は憲法に影響を受けると言っても良いと思う。国柄の表記である憲法を基にし、教育を行うのは当然といえる。これ以上、妙な日本人による妙な活動を拡大させない為にも、教育の視点で憲法改正を考えていくことが重要だと思う。 平成18年に教育基本法は改正されているが、これが功をなす為には、その根幹である憲法改正は欠かせないものだろう。改正教育基本法と憲法改正。教育視点では、これらをまとめて考え、行動することで、真価を発揮するものと思う。 勿論、憲法には教育に直結しない条文も多くあるが、全ては次世代の日本人を念頭に議論すべき問題であることは揺ぎ無いだろう。今われわれがなすべきこと、それは、次世代の日本人育成を考え、次世代へ自信を持って継承できる憲法へ改正することではないだろうか。

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    日本国憲法、私はこう考える

    68年前のきょう、日本国憲法が施行された。先の大戦で敗戦した日本が新たな時代へ歩み出した記念すべき日でもある。そしていま、現行憲法の在り方をめぐり活発な議論が繰り広げられている。時代遅れの「代物」なのか、それとも普遍の価値を称えるのか。日本国憲法について考えたい。

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    与野党は真の日本示す新憲法を示せ 作成は国民の責務だ

    西修(駒沢大学名誉教授)国会上に「女神像」の構図 昭和21年11月3日、東京都交通局が「日本国憲法公布記念」として発行した電車往復乗車券(金80銭)には、国会議事堂の屋上に「自由の女神像」が据えられている。また翌年5月3日に逓信局が発行した「日本国憲法施行記念」の切手シートには、1円と50銭切手の下に、憲法前文の抜粋が英文と日本文で掲示されているが、英文に全体のスペースの約3分の2が割かれている。昭和22年5月3日に発行された「日本国憲法施行記念」切手 いったい、どこの国の憲法を「記念」したのだろうか。これらの記念発行物に対しても、連合国軍総司令部(GHQ)の関与があったのだろうか。押しつけがましく、侮辱感すら抱かせる構図になっている。 本日は、日本国憲法公布から68年の記念日を迎える。日本国民の手からなる日本国憲法を作り直そうという声が上がってから、何十年も経過している。内閣に創設された憲法調査会が『報告書』を発表したのは、昭和39年7月のことである。衆参両議院に設けられた憲法調査会がそれぞれの『報告書』を公にしたのは、平成17年4月のことだ。その後、19年8月には衆参両院に憲法審査会が設置され、すでに7年以上がたっている。そして今年6月20日、改正国民投票法が施行された。憲法改正の手続きは整ったのである。 本来ならば、各党から憲法改正に付すべき項目が提出され、審議されていなければならない時期である。しかしながら、そのような動きはいっこうに見られない。 衆院憲法審査会では、今月17日に岩手県盛岡市で公聴会が予定されている。公聴会で広く意見を聴取すること自体は否定されるべきでないが、憲法調査会時代から、何度行われてきたことか。参院憲法審査会でも議論が行われているが、堂々めぐりを繰り返しているだけで、具体的な進展は全く見られない。荏苒(じんぜん)、時を過ごしているように感じられてならない。 憲法審査会は、日本国憲法について調査し、憲法原案を審査する機関と位置づけられている。改正国民投票法が施行された時点で、調査から、憲法原案の審査に移行しなければならないはずだ。まずカード並べなくては 各党は、できる限り早い時期に、それぞれ国民投票に付すべき原案を提示することが求められる。一部に、環境権、国家緊急事態、財政の健全化に絞るという見解があるようだが、まずは各党から、これぞと思う原案を提示すべきである。 最初からカードを限定するのではなく、テーブルの上に並べられた多くのカードからいくつかに絞り込むというのが踏まれるべき手続きであろう。 自民党は、すでに『日本国憲法改正草案』を決定している(平成24年4月27日)。民主党は、17年10月31日に『憲法提言』を発表、環境権や生命倫理などの「新しい権利」の確立、国家緊急権の明示などを盛り込んでいる。 公明党は、自衛のための実力組織や新しい権利などを加える加憲を唱えている。維新の党は、憲法改正要件の緩和、道州制の導入などをうたっている。みんなの党と次世代の党は、現在、共同で憲法改正案を作成中であると聞く。これらの党で優に両院の3分の2を超える。 まずは第1弾として、具体的にどの条項をどう改めようとしているのか、あるいはいかなる条項を加えようとしているのか、衆議を尽くし、国民に提案するという作業にとりかかるべきである。 現行の憲法改正国民投票法は、改正案ごとに個別に賛否を問う形式になっている。それゆえ、1問ごとにブースを設置しなければならず、あまり多くを問えない。この方式では、憲法を全面的に改正することは不可能である。全面的な改正を可能にするには、現行法を改正して、一括方式が導入される必要がある。国民の手でつくる責務 現行憲法の最大の問題点は、日本国民自身の手で作られていないことである。マッカーサーは、日本での連合国軍最高司令官の地位を離任後、1951年5月5日の米上院軍事外交委員会で、「近代文明の成熟度の基準にてらして、われわれが45歳の壮年であるのに対し、日本はまだ12歳の少年のごときである」と証言した。 憲法については、未熟な日本人に対して、教え諭すという態度だった。その後、68年間で随分と成長したはずだ。成人になった証しとして新憲法を作成すること-それが現代に生きるわれわれ日本国民の責務であるといえよう。 憲法全体を改めてこそ、日本国民は、真の意味の「日本国憲法」を獲得したといえる。そのためには、改憲勢力が合同して知恵を出し合い、新憲法草案を作成するのが最も望ましい。 国民投票に付し、一括して「賛成」票を得られるような新憲法の制定作業に入るのが、本来のとるべき方策といえよう。純粋の「日本」を示す「新日本国憲法公布記念」の切手シートの発行を期待したいものだ。にし・おさむ 早稲田大学大学院博士課程修了。政治学博士、法学博士。現在、駒沢大学名誉教授。専攻は憲法学、比較憲法学。産経新聞「国民の憲法」起草委員。著書に『図説日本国憲法の誕生』(河出書房新社)『現代世界の憲法動向』(成文堂)『憲法改正の論点』(文春新書)など多数。

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    木村草太が考える 日本国憲法とは何か?

    木村草太(首都大学東京准教授)驚くほど「身近」な法 いま、日本国憲法に強い関心が集まっている。しかし、そもそも、日本国憲法とは何なのか。よく分からないという人も多いだろう。そこで、それが定められた目的、制定の経緯、大日本帝国憲法(以下、明治憲法)との比較の三つの観点から、考えてみたい。 まず、なぜ日本国憲法があるのか、考えてみよう。憲法は、自分の生活からかけ離れた、遠い世界のものだと感じている人も多いのではないだろうか。しかし、憲法は、驚くほど「身近」な法だ。 例えば、今の日本では、普通に街中を歩いているだけで根拠もなく逮捕されることはない。税務調査員が、いきなり家に立ち入ってくることもない。読みたい新聞を読めるし、原発再稼働に賛成するデモでも反対するデモでも好きな方に参加できる。選挙で野党に投票しても不利益に扱われることはないし、どの政党を支持していようが、裁判所は公平に裁判してくれる。 こうした自由や公正は、私たちにとって空気のように「当たり前」なことだ。しかし、過去の歴史では、それが「当たり前」でないことの方が多かったし、現在でも、それが実現できていない国はたくさんある。独裁国家では、令状はもちろん、さしたる理由もなく警察に逮捕されたり、住居に押し入られたりするのは日常茶飯事だし、公正さのかけらもない「選挙」や「裁判」が行われる国もたくさんある。 では、なぜ、私たちにとっては、自由や公正が「当たり前」なのか。日本国憲法が、それを強く保障しているからだ。日本国憲法は、私たちの「当たり前」の生活を保護するためにある法なのだ。「押しつけ」だから不当なのか そんな日本国憲法について、「押しつけ憲法」だから不当だという人もいる。だが、本当にそうなのだろうか。日本国憲法の制定プロセスを簡単に振り返ってみよう。1946年10月、衆院本会議で憲法改正法案が可決し、日本国憲法が成立した 1945年の夏、連合国は、ポツダム宣言にて、日本政府に対し、降伏とともに、「民主主義に対する一切の障害を除去」し、「基本的人権の尊重」を確立するよう要求した。これは、憲法改正を含む大胆な改革を求めるものだった。8月14日、日本政府はこれを受諾し、10月からは、改憲草案を準備し始める。しかし、翌1946年2月、GHQは、日本政府の改憲草案があまりにも保守的と考え、自ら草案を作り、日本政府に交付した。2月から3月にかけて、「翻訳」や「折衝」が行われ、4月に政府案が完成する。これが、帝国議会に提案され、一部修正ののち制定。1947年5月3日から施行された。 ここに、連合国の意向が強く働いたのは確かである。しかし、ポツダム宣言受諾は、日本政府の意思であり、「翻訳」や「折衝」、帝国議会での審議のプロセスで、日本政府や日本国民の意向も汲まれている。そもそもGHQ案自体、明治憲法はもちろん、当時の日本国民の作った民間の憲法草案を参照しており、単純な占領軍の一方的押しつけではない。そうなると、日本国憲法のどこからどこまでが「押しつけ」で、どこからどこまでが「自発的」なものなのかを区別することは難しい。例えば、衆参の二院制は、日本政府の要望で設けられた制度である。とすれば、「押しつけ憲法」論は、話を単純化しすぎている。 また、明治憲法と比較したとき、日本国憲法の制定は、民主主義や基本的人権保障を発展させるものだと評価できる。表現の自由を例に考えてみよう。 1889年に制定された明治憲法は、他の非西欧諸国に先駆けて近代的な議会政治を樹立するものだった。そのことの意義は、日本史的にも、世界史的にも大きい。「憲法を立てた」国であることを誇り、党名に「立憲」という言葉を入れた政党も多かった。言論の自由に限界があった明治憲法 帝国議会の成立は、言論の自由の保障の点でも重要である。この憲法ができる以前、政府は、(議会がないので当たり前だが)議会の承認なしに政府を批判する言論を禁じたり、政府にとって不都合な出版物・新聞記事を差し止めたりすることができた。他方、明治憲法29条は、言論の自由を保障し、帝国議会の定めた法律の根拠なしに、それを制限してはならないと定めたのだ。それによって、政府は、集会や結社を規制しにくくなったし、新聞や出版も好き勝手に差し止めるわけにはいかなくなった。 とはいえ、この憲法には、限界もあった。帝国議会が承認さえすれば、言論の自由は制限できたのだ。1909年に制定された「新聞紙法」は、内務大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣が、不適当と認める新聞記事の差し止め命令を出すことを認めるものだった。当時の大臣たちは、国民に不人気な条約の交渉を秘密にしたり、テロ事件の報道のタイミングをコントロールしたりして、世論操作に使った。 もし、いまこの法律があれば、例えば、TPP交渉をしている事実自体を秘密にできるし、災害対応にミスがあっても報道を差し止められる。現在の私たちの基準からすれば、とんでもない法律だろう。しかし、当時の憲法は、そのような法律を制定することも認めていたのだ。 そこで、日本国憲法は、「一切の表現の自由」を保障する第21条を設けた。この自由は、議会によっても奪えないものとされていて、新聞紙法のような法律を作れば違憲無効である。この条文は、明治憲法の内容を発展させるものとして、高く評価できるのではないだろうか。そして、表現の自由以外にも、明治憲法の民主主義や人権保障を発展させた条文はたくさんある。 日本国憲法は、私たちの「当たり前」の生活を守るための法だ。それは、GHQの関与の下で作られたが、単純な「押しつけ憲法」というわけでもない。内容面では、明治憲法の内容を改善し、民主主義や人権保障を発展させるものだった。 日本国憲法については、国立国会図書館のホームページの「日本国憲法の誕生」と題された特集で、明治憲法との比較や、制定過程の詳細を知ることができる。改憲・護憲の議論に興味のある人は、ぜひ一度、その特集を見てほしい。どちらの立場からも新しい発見があるはずだし、日本国憲法の制定に関わった人たちの気持ちや努力が痛いほど伝わってくるはずだ。関連記事■ 昭和は日本の二十世紀だった■ 反ヘイトの問題と選挙における議論の幅■ 社会の分断を深めない政治を

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    国家と憲法と私たち

    著者 一大学生(東京都) 「憲法」は英語で”Constitution”であり、これは「国体」をも意味する。憲法はその国の最高法規であるとともに、国柄を表すものでもある。大日本帝国憲法においては、告文や憲法発布勅語の中で、神武天皇より代々受け継がれてきた皇位を継承し、伝統文化を保持すること、歴代天皇が常に臣民と共に国を作り上げてきたことなどが記されており、天皇を中心とする日本のあり方が示されていた。 一方、現在の日本国憲法の前文には何が記されているか。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することを堂々と謳っている。世界には平和を愛する心優しい人や国しか存在しないと信じるのは勝手だが、そんな曖昧なものに「われらの安全と生存」まで委ねてしまうのは看過できない。現に日本はテロの恐怖を味わったばかりであり、その脅威は今もなお拭いきれない。また、中国の習近平国家主席は「中華民族の偉大な復興」を標榜しており、防衛費を年々増大させ、南シナ海では基地建設を始めている。これは明らかに覇権主義であり、この事例を考えるだけでも、現行憲法の前文がいかに非現実的なものであるかが理解できる。そのような現状も踏まえた上で、他力本願な幻想じみた前文は廃し、自立した国としての日本のあり方を明確に記すべきである。 昨年7月、集団的自衛権の限定的な行使容認の閣議決定が行われた。これを機に、各種報道で憲法9条に関する話題が大きく取り上げられるようになったと感じている。的外れな批判も多いが、まずは9条に対する問題意識を国民が共有しなければならない。 そもそも現憲法制定当時は、個別的自衛権すら認めないという解釈であった。解釈はその時々によって変化してきたが、そういった流れを無視して昨年の閣議決定だけを抜き取り、立憲主義の否定だと大騒ぎするのは不思議である。しかし、解釈改憲だけで済ませて良い問題ではないことも確かだ。時の政権のさじ加減で解釈の変更を行い、ある時は集団的自衛権を認め、ある時は認めない、といった状態になれば、国際的な信用を著しく損ない、私たち国民も安心して暮らすことができなくなる。最終的には憲法改正によって9条が抱える矛盾を解消し、自分の国は自分で守るという当たり前のことを記す必要がある。 日本が戦後70年間平和の歩みを続けてきたのは、9条があったからだと豪語する人がいるが、それは明らかに見当違いである。日本が平和国家として続いてきたのは日米同盟、在日米軍という抑止力が働いていたからに他ならない。フィリピンから米軍が撤退した後に中国が南シナ海へと進出したこと、イラクから米軍が撤退した後にテロ組織が跋扈するようになったことなどを考えれば、米軍の影響力が如何ほどのものかは自明である。アメリカの庇護の下で平和を享受している現実には目もくれず、9条の理念を信奉し続け、平和国家だと胸を張っている姿はあまりにも滑稽に映る。そんな態度は内輪でしか通用しない。 日本国憲法が制定された時、日本はGHQの占領下にあり、主権を持っていなかった。主権を持たない国が憲法を制定することなどできず、この憲法の正当性はあまりにも脆弱である。現実離れした条文を含み、正当性すら危うい憲法は一刻も早く改正されるべきである。主権を回復した現在、再び日本人の手によって日本の憲法を作り上げなければ、真に独立した国家とはなりえない。戦後に目覚ましい復興を遂げ、経済大国へと成長した日本だが、国柄すら明記されていない憲法をいつまでも大切に抱え込んでいては、精神的な成熟を見込むことはできない。 衆院の向大野新治事務総長(右)に、選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公選法改正案を提出する自民党の船田元・憲法改正推進本部長=3月5日 以上、僭越ながら憲法に対する拙い私見を述べたが、憲法問題で最も危惧していることは、国民の間でこの問題意識が十分に共有されているか、ということである。早ければ来年の参院選から、選挙権付与の対象が18歳以上に引き下げられる見通しだが、今の若者は政治に無関心な層がほとんどである。憲法問題などのテーマで話し合う雰囲気はほとんど無く、ファッションやドラマ、誰かのゴシップなどの話題が大半を占める。学生の身である私自身、日本の根幹に関わる重要な問題を共有し、話し合える友人は片手で数えるほどしかいない。また、昨年の12月に行われた衆院選での投票率が戦後最低を記録したことからも、国民の政治に対する無関心さが読みとれる。これでは議論を交わすことすら難しい。 だが、国民の無関心さを憂いてばかりもいられない。ある野党の党首は、総理は憲法を軽視しており、現政権下で議論をすること自体が危うい、といった趣旨の発言をしており、議論を拒否する姿勢を見せている。これでは一体何のために立候補したのか甚だ疑問である。有権者に選ばれたからには、そういった問題に対する論議を重ねて国を導くことこそが責務ではないのか。総理の憲法観が危険だと感じているのなら尚のこと、与党を牽制するような議論を行い、野党としての存在感を高めるべきである。 憲法問題の是非を論ずる前に、有権者も議員も責任を自覚しなければならない。特に新しく選挙権を得る世代への教育は肝心である。問題を論じるための土俵づくりを疎かにしてしまっては、日本が変わることはできない。戦後70年という節目を機に、憲法問題が広く共有され、活発に議論が交わされることを期待したい。

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    安易な先送り避け憲法改正急げ 沖縄の人々に改正権の行使を

    百地章(日本大学教授) 憲法改正の発議とその賛否を問う国民投票の時期は来年夏の参院選後であり、安倍晋三首相も同意したとの報道が各紙で伝えられている。情報源は自民党憲法改正推進本部の船田元本部長だが、果たして安倍首相の真意だろうか。船田発言が勝手に独り歩き 報道によれば、船田本部長が「参院選後に」と述べ、首相は「それが常識だろう」と答えたとある(朝日、毎日新聞、2月5日付)。が、首相は国会で時期など明言していない旨答えており(2月19日衆院予算委員会)、船田発言が勝手に独り歩きをしている。参院本会議=2013年12月6日(酒巻俊介撮影) 船田氏の構想は、次の参院選で3分の2の改憲勢力を確保し、改憲の発議をというものだろう。「早ければ来年秋、遅くとも再来年の春には実現すべく全力を尽くしていきたい」ともいう(産経新聞、2月15日付)。現状では自公両党だけでは3分の2に及ばず、それも分からないことはない。 しかし昨年秋、船田議員は「次の参院選までに1回目の憲法改正の発議まではやりたいと思います」と述べており(産経新聞、平成26年9月1日付)、明らかに後退である。果たして参院選後で大丈夫だろうか。 また、次の参院選で3分の2の改憲勢力を確保できる保証は本当にあるのか。それに再来年春には消費増税が控えている。そんな時に国民投票など無謀過ぎないか。 前回の選挙後、参議院では与野党を合わせて改憲派議員が75%を占めているが(朝日デジタル、25年7月23日)、3分の2を超えたのは憲法制定以来初めてである。決して容易ではなかろうが、自公にこだわらず今与えられているこの最大のチャンスを生かせずして次の展望も開かれまい。安易な先送りは避けるべきだ。 昨年暮れの総選挙後、安倍首相の積極的な改憲発言が目を引く。首相も改憲論議が盛り上がりを欠いていることは認識しており、もどかしいのではないか。だから2月12日の施政方針演説では「憲法改正に向けた国民的な議論を深めていこうではありませんか」と訴え、「全国に議員が出て行って国民に直接訴えていくことも大切」(2月20日衆院予算委員会)とまで述べているのであろう。国民投票は参院選に併せて 筆者は、予(かね)て国政選挙に併せる形で国民投票を行わなければ勝ち目はなかろうと、繰り返してきた。その理由は簡単である。 護憲派はいかなる改憲にも反対であり、もし国民投票ということになれば、必死に投票に向かうであろう。他方、改憲派の中にはムード的に憲法改正を支持しているだけの国民も少なくないし、いざ国民投票となった場合にどれだけの人々が投票所に足を運んでくれるのか、いささか悲観的である。 しかし、国政選挙と同時であればその懸念は薄れる。少なくとも国民投票だけ実施した場合と比べて、より多くの改憲派を投票所に向かわせることができよう。逆に単独で国民投票を行った場合、改憲支持の議員とその後援会組織が、果たして全力をあげて憲法改正を訴えてくれるだろうか。 しかも、テーマ次第では投票率が懸念される。これは住民投票でも同じで、所沢市の「小中学校へのエアコン設置の是非」をめぐる投票では、比較的身近な問題であったにもかかわらず、投票率はわずか32%にとどまっていた。 とすれば、わが国の平和と安全を守るための9条2項の改正や、国家的な緊急事態対処規定などであればともかく、環境権や財政均衡条項のために改憲支持の国民がどれだけ投票に向かうだろうか。なぜなら、こんなテーマでは、是が非でも憲法改正を、との意欲も情熱も湧いてこないからである。 また、国民投票には約850億円の経費がかかるというが、国政選挙と一緒となれば無駄が省ける。事務の煩雑さも衆参同日選挙や首長選挙と同時のケースなどを考えれば、心配には及ぶまい。沖縄の人々に改正権の行使を もう一つ、改憲を急ぐ理由は沖縄県の人々のことである。 2月11日、那覇市で行われた建国記念の日の講演に招かれ、地元選出の衆院議員、宮崎政久氏とお話をする機会があった。その時、言われたのは「沖縄県民は、現行憲法の制定に関わっていない」ということであった。 確かに憲法制定当時、沖縄県はアメリカの施政権下にあり、「この憲法を確定」したはずの「国民」の中に、沖縄県民は含まれていない。とすれば護憲派も言うように「憲法は国民のもの」であり、このままで良いはずがない。 にもかかわらず、国会が改憲の発議をしなければ、沖縄ばかりか奄美や小笠原の人々は憲法制定に参加できなかっただけでなく、改正権も行使しえないことになる。 衆参両院憲法審査会の重要な役割の一つが「憲法改正原案」の提出である。衆院審査会ではすでに憲法前文から最高法規まで、参院審査会でも緊急事態、二院制、環境権などの審査を終えており、もはや堂々巡りは許されまい。一日も早い憲法改正原案の国会提出を切望している。ももち・あきら 京都大学大学院法学研究科修士課程修了。愛媛大学教授を経て現在、日本大学法学部教授。国士舘大学大学院客員教授。専門は憲法学。法学博士。比較憲法学会理事長。産経新聞「国民の憲法」起草委員。著書に『憲法の常識 常識の憲法』『憲法と日本の再生』『外国人の参政権問題Q&A』など。

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    政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない

     憲法をめぐる問題は、戦後日本の政治対立を象徴する論点である。改憲、護憲、加憲、創憲などの政治的立場に色分けされた戦後日本ほど、憲法が政治対立の中心にあって国民を分断し続けてきた国はないかもしれない。政治評論の世界でも、憲法はまさにイデオロギー対立の主戦場だった。そして、衆議院で3分の2の議席を有し、2016年夏の参議院選挙でも3分の2の議席をうかがう与党によって、憲法改正ははじめて現実的な政治カレンダーに乗ってきた。 筆者は憲法学者ではないし、そうした憲法学に則った議論を以下で展開するわけではない。政治学者として憲法論議について思うところを記したい。日本においては、あらゆる政治問題を憲法と結びつけて論じる思考方法が日本の政治言論を貧困にしてきたと感じている。政治問題には、おのずから論者が拠って立つ立場というものがある。それをいちいち憲法問題にする必要はない。憲法自体も抑制的であるべきだし、憲法論議も抑制的であるべきというのが、筆者の立場である。 民主主義下における憲法とは、お互い立場は違うが、同じ国の中で隣り合って生きていかなればいけない者同士を縛る最低限のルールといってもよい。つまり、イデオロギーや立場の違いをめぐる争いが暴力に帰着したり、多数派による少数派の弾圧に繋がったりしないようにすることが最も重要なことなのである。そこにおいて、憲法を通じて民主主義そのものを縛ることが重要になってくる。現行憲法においては、基本的人権に関する項目が自由主義を守っているが、この最低限という部分が重要だと考える。 さまざまな立場の人間が、それでも一緒に生きていくためのルールであるので、最低限度を踏み越えた瞬間、無用の摩擦を生むのは必定だ。個人に保障された自由は、他人の自由を侵害しないという「公共の福祉」の他からは制約されるべきでないという発想である。憲法とは生き方を強制するために存在するのではなく、生き方を強制されないために存在するからだ。衆院憲法審査会の参考人質疑=2014年5月 憲法を通じて政治論議を展開することの一番の副作用は、憲法の無用の拡大を生むことである。政治には政治の空間が準備され、憲法には憲法の空間が保障されるからこそ、本当に守らなければいけない価値が守られるのであって、憲法が論争的であるという戦後日本的な政治空間がそもそも不健全なのだ。歴史的な経緯はもちろん無視できないが、この観点は重要だと思う。 抑制主義を基調とする発想に立つ場合、現実的な改正論議の中心にある自民党の改憲草案については、様々な価値観が入れ込まれていることが最大の欠点だろう。入れ込まれている価値観の一つ一つには害のないものが多いのも事実だし、前文に掲げられた和を尊ぶことも、第24条に掲げられた家族を尊重することにもなんら異存はありません。ただ、他人から、ましてや国家から尊重しろと押し付けられることには大いに異存がある。この感覚が、自由を愛する者の感覚であって、学者にせよ、実務家にせよ、報道にせよ、この感覚が共有できないと暗澹たる気分になる。 この気持ち悪さは、同時に美しくないという審美眼の問題ともつながっている。何を美しいと感じるかは人それぞれで、憲法は法的な文書であるゆえに独特の言い回しが必要なのは仕方がない。それでも、憲法には国民が共有するものとしても美しさがあることは重要なのではないだろうか。その点、数多くの識者からそうした批判を受けていることは謙虚に受け止めていただきたい。美しさというものは、多くを求めすぎると支障も出てくる。従って、ここで提唱しておきたいのは、美しさをまず無駄のない削ぎ落されたものとして捉えることだ。例えば、前文は無駄なく、リズム良く、格調高く書いていただきたい。 最低限を超えた価値観を入れ込むべきではないという原則は、ここでは、「言わぬが花」という日本文化の重要な原則に反しているとも見ることができる。 もちろん、憲法に書き込むということに意味がある場合も存在する。それは、国権の最高レベルで承認を与えるということであり、例えば、基本的人権の項目に障害者に関する記述を加えることには意義があるかもしれない。この部分は、過去70年で国民の意識が随分と変化した部分だからだ。しかし、憲法を政争の具にするような姿勢は慎むべきだ。例えば、外国人参政権に関する方針を憲法に書き込んでしまおうという姿勢はいただけない。外国人の地方参政権という課題自体は様々な立場がある、論争的な政策だからだ。論争がある問題を憲法に入れ込み、憲法を過度に政治化してしまうのは民主主義の発想として健全でないということを分かっておかなければならない。戦後の左派勢力は、安全保障政策について、憲法を盾にとって戦ってきた。結果として、安全保障の世界は法律論に席巻されて本来行われるべき論争が行われず、この分野の日本の民主主義を歪めてしまった。戦後政治のそのような負の伝統を今度は右の側から再生産するのが良いことだとは思えないのである。 憲法改正の最大の目的は安全保障関連の項目であり、憲法9条が体現する平和主義の精神を継承しつつ、時代に合わなくなった部分を是正することだと思う。仮に、憲法9条だけを国民投票にかけると負けるかもしれないので、他の雑多な条文も加えて政治性を薄めようという意図があるとすると、さすがに姑息な印象を抱かざるを得ない。 かつての世代と比べ、若い世代には憲法は一字一句変えてはいけないと考える層は少なくなってきた。筆者も、政治や安全保障を研究する者として改憲には意義があると思っている。理想を言えば、改憲が国民を分断するものではなくて統合するものであってほしい。その統合は、特定の価値観を押し付けるものではなくて、戦後70年の時代認識と、日本国民の歩みの中から沸きあがってくるコンセンサスを抑制的に反映するプロセスであるべきなのだ。関連記事■ 「我が軍」と呼べば呼ぶほど憲法改正は遠ざかる(かも知れない)■ 「冷戦後」の終わりの始まりを予感させたロシア危機■ 保守二大政党にしかリアリティーがない