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    安倍首相の真珠湾慰霊は日本が「一流国」になった証である

    に乗り移って、力がみなぎってくるような感覚になりました。 真珠湾のことは知らなかったが、アメリカとの戦争は仕方ないということは、常識としてありました。昭和12年に支那事変(日中戦争)が始まって、首都の南京を占領したが、蒋介石率いる中国政府が奥地に引っ込んで徹底的に抗戦し、どこまで追いかけて行ったらいいのか、いくら兵隊が必要なのか、先の知れない不安が日本人の心の中にありました。背後で蒋介石の腐敗した中国政府を支えているのがアメリカだというのも知られていましたから、これは国運をかけた戦争だ。生きるか死ぬかだ。という気持ちは小学校6年生の子どもにもあったんです。 しかしその後、落ち着いて考えると、これは大変なことになったぞと感じました。私は家の商売の関係で3度中国に行ったことがあり、中国がいかに底が深いか知っていた。広大で人口も多く、簡単な国でないことは分かっていました。 終戦前は中学生でしたが、勤労動員として西大阪にある鉄道省のレールやそれに付随する金具を扱う倉庫で働いていました。いつも標的にされて爆撃を受け、バケツリレーで火を消していました。作業が終わると、鉄橋の上を歩いて10キロほど歩いて家に帰る毎日でした。 家では暗幕を閉めてから電気をつけないと光が漏れてB29に狙われるといわれていたので、真夏でも締め切って寝ていました。空襲警報があると、僕が自分で掘った防空壕に逃げ込むのですが、就寝中に二度も空襲警報があって叩き起こされたときは「死んでもいいからここで寝てる」とそのまま防空壕に入らずにいたこともありました。そんなやけくそのような雰囲気もありました。終戦15年の真珠湾を訪れて 昭和20年8月15日、重大放送があるというので、ともに働いていた中学生らと共に総務課に集まり、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げるのを聞いたときは、ただ「戦争が終わったな」というのが第一の感情でした。戦地にいる兵士が戦闘が終わり、敵が撃ってこなくなったのでホッとしたのと同じような感情でしょうか。学校に戻り、私がクラスを代表して中学校の職員室に行き、先生に「これからどうしたらよろしいのですか」と聞いたのですが、先生も分かるはずがなく、「とにかく家に帰りなさい」と言われて、ただ黙々と家に戻りました。家についたら父がいて、「お父さん、戦争が終わったみたいやで」って言ったら、「そうらしいなあ」と答えました。父は病気で召集令状がこなかったので家にいたんです。アリゾナ記念館で海に沈む戦艦アリゾナに花びらをまき、 黙とうする安倍首相(左端)とオバマ米大統領(右から2人目) =12月28日、米ハワイ・真珠湾 終戦から15年後、私はアメリカ、ニューヨークにあるシラキュース大学に留学することになりました。まだ海外渡航の自由がない時代で、現地に行く前に5週間、ハワイ大学のイーストウェストセンターで研修を受け、水洗トイレの使い方から教わりました。 このときに、初めて真珠湾を訪れました。いまあるアリゾナメモリアルのような上等な建物はなく、ただあるのは海だけ。団平船でアリゾナが沈んでいる場所の海上まで行くと、まだぽつんぽつんと、油が浮かんでいました。いろんな考えが浮かびましたが、その中には、人間いつも注意していなければならないということです。日本が奇襲攻撃をした日曜日の朝、米軍の飛行機は一機も空を飛んでいなかった。もし東西南北に分けて3~4機の飛行機に哨戒飛行をやらせていたら日本の真珠湾攻撃は成功しなかった。日本は大敗北で戦争を始めることになって、そうしたら広島も長崎への原爆投下もなかったかもしれない。 毎日新聞の記者時代、真珠湾から40年の節目にハワイを取材したが、現地の人の多くが語っていたのが「Forgive, but never forget」。日本がやったことは許そう、しかし忘れてはならないということでした。 真珠湾攻撃によりアメリカの戦艦6隻中2隻が撃沈、死者は2400人以上に上りましたが、あれだけ軍艦が集まっているのに、空を全然守らないなんて、常識では考えられない。敵はいつどこから攻めてくるかわからない。当時23歳だった通信兵は「あの時点では遅かれ早かれ戦争だと察しはついていたし、戦争なら日本が奇襲をしかけてくることも予想できた。真珠湾が惨憺たる状態になったのは我々の不注意。日本軍がやったことは、まさに我々が何度も演習で準備していたことですから」と語っていました。 真珠湾攻撃については、ああしかやりようはなかったのではないかと思うこともある。山本五十六は連合艦隊司令長官になる前、アメリカに海軍武官として駐在しており、アメリカのことをある程度知っている。アメリカとの戦争に勝つためには西海岸に上陸し、ロサンゼルスやサンフランシスコを平定し、ロッキー山脈を越え、大草原を越え、ミシシッピを渡り、アパラチア山脈を越え、ワシントン、ニューヨークに攻め込んで、敵の大統領がホワイトハウスの前で負けましたというまでやらんといかん。どうしても戦争をするなら、日本人がびっくりするようなことはやれるというようなことを語っていたという。そしてまさにその通りになった。世界中がびっくりした。真珠湾攻撃を一番喜んだチャーチル 真珠湾を守れなかったのはアメリカの大失態でしたが、ルーズベルト大統領はそれを逆転して、日本の裏切りだということを強調しました。ルーズベルトは翌日の両院議員総会で日本への宣戦布告を求める演説で真珠湾攻撃された日を「Infamy(インファミー)」(汚辱、ずるい、狡猾の意味)の日」と表現し、アメリカ議会はたった一人の反対票を残して賛成した。徳岡孝夫さん トランプも言っている「アメリカ第一主義」は当時もありました。アメリカという国は、百年戦争や三十年戦争などを逃れ、新しい国をつくろうと思ってこの地に来たのではないか。あの腐ったヨーロッパの戦いに巻き込まれるなんてバカだと。だから第一次世界大戦でもアメリカは参戦に反対した。 ドイツは毒ガスを使い、タンク(戦車)、そしてツェッペリンという飛行船を作った。昭和15年6月にパリが陥落し、イギリスが危機に瀕したときも、参戦についてアメリカの世論は真っ二つに割れていた。それでもアメリカが参戦してくれたのはなぜか。それはパールハーバーがあったから。アメリカの太平洋艦隊が全滅したことを聞いたとき、一番喜んだのは誰か、それはチャーチルだった。「神様がお救いくださった」とひざまずいて神に祈ったといわれています。 柔道で引込返というのがある。自分が投げられるようなところまで入り、相手を投げる技です。私はアメリカが引込返をやって成功したというところまでは考えていない。修正史観のなかに、チャーチルもルーズベルトも真珠湾攻撃を事前に知っていたというのがある。しかし、ルーズベルトは大統領になるまで海軍次官もやっている。海軍が好きなんですよ。果たして太平洋艦隊を犠牲にしてまで戦争をやるか、という疑問があるんです。 ただし、昭和16年にラニカイ号事件というのがあって、アメリカはラニカイ号という機関銃を撃つ小さいヨットをマニラから西の方へ出すんです。当時イギリス領のマレーシアやオランド領のインドネシアへ行く日本の輸送船がこれを見つけて、沈めるに違いないと。それを口実にして戦争をはじめようという策略だったんです。そこまでやって日本をひっかけようとした。戦争したかったのはラニカイ号事件で明らか アメリカ政府は喉から手がでるほど戦争をしたかった。それにうっかり乗ってしまった日本は奇襲攻撃という戦術では勝ったかもしれないが、戦略では負けた。アメリカと戦うべきではなかった。アリゾナ記念館(奥)を訪問後、演説する安倍晋三首相(中央)。 左はオバマ米大統領=12月28日、米ハワイ州ホノルル市(代表撮影) 修正史観が正しいかどうかは別問題として、アメリカがぼんやりした隙をついて日本が攻撃をした。その攻撃は宣戦布告を渡す前だったというのは事実。それは認めるべきであり、過ちを認めない人間はちょっと粗末だ。国家も同じです。 僕が留学した昭和35年、ニューヨークのエンパイアステートビルの土産物売り場に行ったとき、灰皿や小さなお人形など、土産物の全部が日本製でした。日本は土産物をつくる二流国だったんです。80歳になってから息子と一緒に行って調べさせたら、全部メイドインチャイナだった。 僕は、土産物を作るおばさんたちを知っていた。大阪社会部にいたとき、聞き込みでいろいろ回るのですが、おばさんたちが一軒の家に集まって手仕事をして、リアカーを引いたおっさんが回収にくるんです。「今日は30個もできたか。頑張ったな」なんて会話がある。戦前はそんな商品をアメリカなどに売って鉄を買い、軍艦を作った。そんな取引をして日本は勝てるか。向こうがくず鉄を売ってくれるからなんとか勝ち続けられたが、そんなのは一流国とはいえないし、アメリカに太刀打ちできるわけがなかった。 安倍首相の真珠湾訪問は、現代の動いている歴史には大きな力もなく、変わりもしないかもしれない。しかし、日本はやっぱりすごい国だなってことを考えさせるためには、行くべきだと思った。安倍首相が真珠湾を行くというニュースを読んで、そうか、行くかと。世界中のものを考える人たちがそう思ってくれるだけで十分。行くこと自体に無限の意味があるんですよ。(聞き手・iRONNA編集部、川畑希望)とくおか・たかお ジャーナリスト。昭和5年、大阪府生まれ。京大文学部英文科卒業。フルブライト留学生として米シラキュース大大学院で学ぶ。毎日新聞社で編集次長、編集委員を歴任。「サンデー毎日」記者時代、自決直前の三島由紀夫から手紙と檄文(げきぶん)を託される。61年、菊池寛賞受賞。平成9年、『五衰の人 三島由紀夫私記』で新潮学芸賞。著訳書多数。

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    現代の軍学者が分析した真珠湾攻撃「失敗」のナゾ

    た。 戦時であれば放置されるはずのないこうした問題が放置されていたのも、不思議はなかったのだ。いつ大戦争があるのか分からないのでは、装備の最善の更新時期を、米海軍の将官たちとしては自信満々にホワイトハウスや連邦議員たちに対して説明することはできかねた。従って予算も前倒しにはならないのである。 これが日本海軍ならば、「対米開戦は空母『瑞鶴』の準備が整ってから」とか「陸攻用の滑走路造成が南部仏印で概成してから」などと、一方的に有利なスケジュールを決めることができた。しかし米海軍としては、今から何ヵ月後、あるいは何年後に本格戦争に参入することになるのか、はたまたぜんぜんならないのかは、まったく敵国のアクションおよび自国の政府の時局反応次第なので、組織としては予見が不可能であった。 合衆国では「宣戦権」は大統領にはなく、連邦議会にある。その議員たちのほとんどが、ドイツや日本との本格戦争に合衆国が突入することはないであろうとも考えていた。デバステーター艦上攻撃機 1隻の航空母艦に積み込まれる艦攻と艦爆の比率も、それぞれの国家や組織の固有の事情を反映するものであった。 米空母では、攻撃隊の主役は、高性能な急降下爆撃機である。 どうせ敵戦艦を沈める任務など、米海軍の艦上機には求められもしないのだ。艦隊決戦の前哨戦の段階で敵の空母や重巡洋艦を多少痛めつけてやり、味方主力艦隊の目となる索敵任務を全うできればよい――と思われていたので、それならば迅速・便利にその任務を任せられる艦爆を多数揃えるのが「最適解」であった。米空母では艦攻はそもそも定数も少なく抑制されていた(『エンタープライズ』で12機、『レキシントン』で13機)。 これに対して日本の空母艦隊に乗り組んだ航空系幕僚たちにとり、艦爆よりも艦攻の数が少ないなどということは、あってはならなかった。場合によっては、たとい艦爆は積まずとも必ず艦攻だけは積んで行く。あるいは、敵空母の所在が知られてのちは、艦爆は出撃させずとも艦攻だけは絶対に出撃させる……という、暗黙のコンセンサスがあった(南太平洋海戦で顕著)。 開戦時点では、比較的に小ぶりの『蒼龍』級ですら18機、大型の『翔鶴』級や『赤城』『加賀』になると27機もの艦攻を発艦させることができた。その分、艦爆は米空母よりも少なくされていた。「三座水偵」は決して索敵に向いてはいなかった「三座水偵」は決して索敵に向いてはいなかった ところで、複座の艦爆は、後席の偵察員が電信員も兼ねなければならない。電信員は、もし敵戦闘機に追躡されたときには旋回機銃も担当する。 だから艦爆に単機で長駆偵察任務を命ずることには難があって、米海軍では、編隊で偵察させた。 それに比べると、三座の艦攻は、無線の送信や受信を後席の電信員に担当させておき、中席に座る「偵察員」が航法計算に専念できる。無線機もまた高性能な重いものを積んでいる。それゆえ、単機となっても、遠くから母艦の未来位置へ戻ることに不安が少なかった。 そこで日本海軍の空母艦隊ではしばしば低速の艦攻が、空中攻撃隊全体の「陣頭指揮官機」や「嚮導機」(コース案内役)に任じることになった。真珠湾空襲のとき、第一波の空中指揮官だった淵田美津雄中佐(『赤城』飛行隊長)も、「九七艦攻」の偵察員席に座ったのである。 日本の空母艦隊には巡洋艦が随伴した。その巡洋艦からは、「零式水上偵察機」、通称「三座水偵」といわれた偵察専用の艦載機が、火薬式カタパルトで射出されて、八方を手分けして索敵した。 プラモデルを作ってみるとよくわかるのだが、この三座水偵は、航続性能をことのほかに重視していたためか、主翼面積がすこぶる大。それが3人の搭乗員の下方視界をわざと塞いでしまうようなレイアウトになっていて、まんなかの偵察席に至っては、真下など全く見えもしないのだった。水深約10メートルに横たわる零式水上偵察機=2014年12月、パラオ・アラカベサン島沖(松本健吾撮影) 三座水偵は、かさばったフロート(浮舟)をぶらさげたまま飛び続けねばならない。空気抵抗が大きくて高速ダッシュはできない。したがって、もしも敵戦闘機に不意に近距離で遭遇して喰いつかれでもしたら、雲中に遁入しない限りはまず生きて戻れるチャンスはなかった。 このことは現実に何を結果したか? 索敵飛行中、靄や雲のために眼下の視程が悪いとき、ほんらいならば海面近くまで降りて低く飛ぶべきところでも、三座水偵の乗員たちは、敵戦闘機の脅威からも悪天候の乱気流からもより安全となる「雲上飛行」で済ませてしまおうという誘惑に駆られる。その場合、偶然に雲の切れ間から敵空母を一瞬見通せる位置を航過するという僥倖に恵まれたとしても、下方視界の不良なデザインのおかげで、その幸運な機会はフイにされる確率が高いであろう。 戦争では、敵の所在がそもそも分からないでは、いかなる名作戦参謀でも、攻撃計画も防禦計画も立てようがない。海軍航空本部は、三座水偵の下方視界についてメーカーに「ダメ出し」をしておくべきだったのに、その致命的な欠陥を看過した。 もしもやむをえない事情で、下方視野のすぐれた水偵は手に入らないと知ったならば、艦攻や艦爆をもっと「艦偵」として警戒や索敵任務に多用する着眼を、運用者側が持つべきでもあったろう。 しかし艦攻・艦爆の発艦や収容には、航空母艦の広い飛行甲板をいちいち空けねばならない。短い滑走距離でも発艦ができたのは、零式艦上戦闘機「零戦」であった。 ならば、「零戦」を複座化して後席に偵察員(航法士)を乗せ、「艦偵」や「空戦指揮機」とすることはできなかったのだろうか? 零戦は単座であっても長距離対地偵察の役に立ったことについては、生き残ったエースパイロットの坂井三郎氏の証言が残っている。 1943年になって、内地では正式な複座の練習機型が作られている。武装はそのままで操縦系統だけが二重だから、これは鈍重だったはずだ。それでも後方教官席からの下方視界が佳良だったであろうことは写真からみてとれる。 南方最前線のラバウル基地では、1944年から45年にかけて計4機の零戦を複座に改造し、偵察と連絡に使ったという。その武装をどうしたのかは詳らかにしない。しかし左右主翼の20ミリ機銃とその弾薬を下ろしてしまえば、偵察員(兼電信員)1人分の重さは優に相殺してお釣りが来た。機首の7.7ミリ機銃も2梃のうち左側の1梃を下ろしてしまえば、その分、重量級の無線機や航法装置も積み込めただろう。 単発戦闘機は空中では敏捷さを頼りに敵戦闘機の攻撃を振り切れるので、後席に旋回機銃などを取り付ける必要はない。付けても高G機動中には取り回しなどできず、たんに死重と空気抵抗を増すだけの話なのだ。「複座零戦」があればはいかに重宝したか「複座零戦」があればいかに重宝したか それはともあれ、零戦の複座改造機は、南洋の孤島基地で重宝したからこそ4機もこしらえられた。これは対米開戦前から考慮されるべき着眼だった。 米海軍の高性能を誇った艦偵ドーントレスの3割増しの奥行きの海面を、この複座型の零戦ならば、単機で捜索できたであろう。途中で敵戦闘機に会っても、逃げられた。発艦も収容も、単座艦戦並に簡便である。したがって随時・随意に飛ばし続けるのに、不都合がない。今でいうISR(諜報・監視・偵察)の利便が、機動部隊司令部の航空参謀には、加えられただろう。空母艦隊同士の洋上の遭遇戦で日本側が不覚を取ることも、まずなくなったはずである。 八丈島の海軍簡易飛行場からも、「複座零戦」ならば常続的に哨戒飛行に送り出せたはずだ。そんな態勢が整っていたなら、1942年のドゥーリトル隊の東京初空襲は、最初から企画され得なかったろう。 米海軍が偵察任務を艦爆に任せ続ける限り、「複座零戦」によるISRが、日本側だけの特権的なアドバンテージになったかもしれない。米国製の艦爆の航続距離は、どうしても零戦よりは短いからだ。 さすがに『エセックス』級空母が就役した後となれば、すべての米艦上機の最大離陸重量が増えたので、「複座零戦」の優位も消失しただろう。その頃には米艦上機はレーダーを装置できるようにも進化していた。 それでも「機上レーダー」の間に合わなかった日本海軍としては、偵察機を「目視による早期警戒機」として運用することに価値はあった。四国松山で「紫電改」による本土防空戦を指揮した源田實は、艦上偵察機「彩雲」(1944年制式)を早期警戒機として役立てている。 1942年時点で「複座零戦」が考えられていれば、戦闘機隊による母艦上空での空戦を、兵学校出の偵察員が無線によって高所から、指揮・統制することもできただろう。なまじいに20ミリ機銃などが付いていなければ、敵の雷撃機に吸引されて低空に下がりすぎてしまうようなこともない。終始、戦場を俯瞰しつつ、肉眼のレーダーとなって警戒飛行を続けられたのである。 南雲艦隊が真珠湾を空襲していた当日、米空母『エンタープライズ』は、オアフ島西370キロを東進中だった。米政府は日本海軍の動静兆候分析から、おそらくフィリピンに手をかけると同時にウェーク島(ハワイ諸島からは遥か西南西にあり)を牽制攻撃するのではないかと予測し、『エンタープライズ』を使って守備隊(海兵隊)のために「F4Fワイルドキャット」戦闘機を送り届けていたのだ。12月2日にその輸送任務を了えた『エンタープライズ』は、真珠湾へ還ろうとしている途中だった。 また、もう1隻の空母『レキシントン』は、ハワイ諸島の西北西にあるミッドウェー島の守備隊(やはり海兵隊)に、これまた軍用機を送り届けるため、12月5日に真珠湾を出港して西進。空襲当日は、ミッドウェー島の南東780キロ付近に在った。 両艦ともに「開戦」の急報に接すると、索敵機を四方に飛ばしながら日本艦隊を捜索した。だが、『エンタープライズ』機が10日に『伊170』潜水艦を発見・撃沈できた他には得たものはなく、13日に真珠湾に戻った。米空母エンタープライズ ウェーク島は、真珠湾空襲と同日に日本海軍の陸攻隊によって初空襲されたものの、11日には海兵隊航空隊の「F4F」戦闘機が駆逐艦『如月』を撃沈するなど粘りを見せる。米海軍は、ハワイのキンメル司令部が責任追及騒ぎで麻痺状態に陥ったため、西海岸サンディエゴ軍港に在った空母『サラトガ』にウェーク島救援を命ずるのが遅れた。21日には、呉軍港に戻る途次の空母『蒼龍』『飛龍』から艦上機が発進して在ウェーク島の航空戦力を一掃してしまい、翌日に同島は陥落する。これで万事休したため『サラトガ』もサンディエゴに向けて反転した。 ウェーク島へ分遣されなかった南雲艦隊の4空母の呉帰投は23日から24日にかけてである。 日本海軍は、「開戦劈頭に敵の中枢指揮系統に打撃を与えて全軍を麻痺せしめる」などいう高等戦法を企図したわけではなかった。しかるに米国の文民統制システムが偶然にも、ハワイを中心とする米太平洋艦隊を「ショック硬直状態」に陥れたのが、この19日間であった。 1941年12月時点に太平洋に所在した米海軍の正規空母3隻と南雲艦隊主力の航跡は交わっておらず、米側の「偵察爆撃機」の航続距離も短かったことから、ハワイ空襲直後に空母同士の洋上遭遇戦が生起した可能性は、史実では、ほぼ無い(カタリナ飛行艇か米潜が南雲艦隊を発見した場合は除く)。 だがもし仮に、太平洋艦隊司令部の麻痺が起きなかったとするなら、米海軍の上記3空母のどれかと南雲艦隊との間で、海戦が発生した可能性はあった。 その場合、「艦攻重視」で索敵用航空機の非力な南雲艦隊は、「艦爆重視」で索敵力には遺憾が無かった米空母から、痛撃を喰らった蓋然性があるだろう。着手できなかった「爆戦」構想着手されなかった「爆戦」構想 今日、対空母攻撃の考え方として、「ミッション・キル」と「プラットフォーム・キル」がある。 後者は、敵空母そのものの撃沈を狙う発想だ。対米戦中の日本海軍はこの思想を蝉脱することができなかったために、敗北多くして勝利は少なかったと評し得る。 前者は、敵空母の撃沈などは最初から狙わない。 そもそも空母の主機能とは何だ? 飛行機の運用だ。 ならば、空母の飛行甲板その他を小破させ、当分、艦上機を飛ばしたり収容したりできないようにしてやるだけで、その空母はその後の修理に要する何週間か何ヶ月間は「戦力外」のドンガラに過ぎなくなるのではないか。 日本海軍の将官でこの計算に到達できた男は一人しかいなかった。大西瀧治郎である。大西瀧治郎・海軍中将 彼はミッドウェー海戦後に「爆戦」構想を唱えた。零戦に軽量小型の爆弾複数を吊下させる。その「爆戦」が、敵戦闘機の防禦スクリーンを敏捷に擦り抜けながら、緩降下高速爆撃法によって敵空母の甲板に投網をかけるように投弾すれば「ミッション・キル」は成就するはずであった。 ところが明治時代の「日本海海戦」が昭和になっても理想視され、「敵主力艦は必ず沈めねばならぬ」という宗教じみた強迫観念にとらわれていた旧日本海軍には、組織としてこの合理主義を受け入れる余地が無かった。 やむなく大西が道筋を付けるのが、無理に大きな爆弾を抱えさせた鈍重な「特攻機」による自殺攻撃法である。 陸軍統制派に日本国を全体主義化(=ナチ化またはソ連化)させないためには、海軍は「日本海海戦」をいつでも再現できるのだと国民および陸軍に信じさせておく必要があった。さもないと国内権力(物と人の動員権力)をすっかり陸軍省に明け渡すしかなくなり、マルクス主義かぶれでアンチ・エスタブリッシュメントの統制派から皇室を守る勢力が消えることになるのだ。 それゆえに組織としての日本海軍はあくまで、国民を沸き立たせる「プラットフォーム・キル」を要求した。組織人の大西は「合理的な解」を考えてそれに応えねばならなかった。 「爆戦」の合理性にもし対米開戦前に気付くことができていたなら、日本海軍は、商船や戦艦を改装した低速空母や、軽巡を改造した小型空母から、索敵&嚮導管制機としての「複座零戦」と、直掩用の単座零戦と、「爆戦」任務の単座零戦という、「オール・ゼロ」攻撃隊を運用することができたであろう。 使い捨てのアシスト・ロケットを装着すれば、低速母艦からでも「爆戦」発艦は可能だった。大西は、みずからがシナ事変中に主宰した「空威〔エアフォース/エアパワー〕研究会」の中でロケット爆弾(四号爆弾)を試作させていたから、ロケットについても素人ではなかった。 内地の航空機量産も、零戦だけに集中すればよくなるので合理化が進んだだろう。搭乗員の短期大量養成も、機種が整理されることで、はかどったはずである。緩降下爆撃法は、急降下爆撃や、高々度水平爆撃よりも、格段に習熟は容易で、神技的なスキルなど必要とはしなかったからだ。操縦素養の劣る者は「爆戦」要員とし、操縦天性ある者は「直掩」機要員とし、頭脳怜悧な者は「嚮導・管制」機要員に振り分ければよかった。特攻は、たぶん必要にはならなかったであろう。問うに落ちず語るに落ちた外務省問うに落ちず語るに落ちた外務省 真珠湾奇襲によって対米開戦した1941年末の日本国の流儀は「騙まし討ち」であった。 当時のF・D・ローズヴェルト大統領がおっしゃる通りの、近代人ならば恥ずるべき、卑劣なスニーク・アタックに他ならない。 よりによって日本外務省がフルに共謀・加担しての、近代主義を逸脱した開戦奇襲だったことにより、日本の戦後の立場は、すこぶるまずくなった。 国交断絶や戦争状態の通告をするのに、わざわざ敵国首都の大使館をわずらわす必要などなかった。近代外交ルールの趣旨(民間商業や中立交易商人を開戦に巻き込まないこと)としてタイミングが重要なので、やむをえなければそれは東京からの「短波ラジオ放送」でよかったのだ。もちろん東京の外務省に駐日米国大使を呼びつけて口頭で知らせたって構わない。 日本外務省がその方法を選ばず、わざわざ最も遅延を生ずる可能性が高い手順とさせた理由は、あまり通告が順調に行ってしまうと、もしや海軍によるハワイ方面の騙まし討ちに障礙が生じはせぬかと気を回したためであろう。日本外務省は、開戦が騙し討ちとなってもいいのだと肚をくくって海軍に協力した。 日本時間の12月8日午前7時のNHKラジオニュースの原稿は「戦闘状態に入れり」という表現を用いている。これは外務省が、このたびの対米戦争が、日本が批准書を提出している「1928年のパリ不戦条約」の主旨には違背する「侵略戦争」に該当することを明瞭に認識していたという傍証である。 ワシントンでの野村大使による日米交渉打ち切り通知文書の手交が、実際の攻撃開始よりも遅かったことを、この時点では東京の外務省は知らない。つまり、それが間に合っていたとしても、日本からの計画的開戦は「侵略戦争」になることを、外務省は理解していた。 毒を喰らわば皿までという決心で、彼らは通告が遅くなることはあっても決して早まることはないようにも計らったのだろう。そのうえに交渉打ち切り通知書の文言も、国際慣習法が求める「国交断絶の通知」とは必ずしも解釈できない余地を残すという、姑息な細工付きであった。日本軍の真珠湾攻撃をうけ、炎上沈没する米戦艦アリゾナ(AP) もし、第一次大戦以後の国際法で認められていた「自衛戦争」(セルフディフェンス)を内外に向け主張したいのならば、「米英軍が攻撃してきたので、もっかわが軍が反撃中である」と強弁するのが筋だった。しかし日本外務省にはそこまでの面の皮の厚さはなかった(ヒトラーにはあった。対ポーランド開戦と対ソ開戦の時。詳しくは拙著『「日本国憲法」廃棄論』を見るべし)。 ご丁寧にも、続いて8日午前11時40分には、短文ながらもその文章は事前に政府首脳によって練りに練られたであろうと誰でもわかる「宣戦の詔勅」が、NHKのラジオ・アナウンサーにより読み上げられる。 もし国際法上正当な「セルフディフェンス」だったならば、こんな整った詔勅をこんなに早く声明できるはずがないではないか。 わが日本外務省は問うに落ちずに語るに落ちて、まさしく計画的に日本から米英に侵略戦争を仕掛けましたよと天下に告白してしまったも同然だった。 天皇の「無答責」性を保つためには、日本政府は「宣戦の詔勅」など絶対に出させてはいけなかった。戦争は政府のリーダーシップであるという外見を保持すべきであった。これは外務省のコミットした大逆だった。 この詔勅中にも使われた「自存自衛」という曖昧な日本語を錦の御旗のようにして勝手な軍事外交政策を続けた報いとして、また外務省がこの詔勅の「自衛」をぬけぬけと「セルフディフェンス」と英訳して海外に通牒した報いとして、敗戦直後の日本政府には、「この国は国際条約をこれから遵守するだろう」と近隣諸国に思わせる信用が全くなくなってしまった。それがひいては、新憲法第9条第2項の後段に「国の交戦権は、これを認めない」などという異常きわまる宣言を追加させられる禍機をも招き寄せたのである。 もっと詳しくは拙著『「日本国憲法」廃棄論』に譲るが、「真珠湾攻撃は日本の侵略戦争でした」と日本の外務省が認めない限り、日本人の手による「9条」の改訂は、とても難しいだろうと私は予言しておく。 日本外務省は、ダーティだっただけでなく、粗忽であった。さりながら、潔く着るべき汚名を戦後にうやむやにすることにはほとんど組織の全霊を傾注したから、いまだに多くの日本人は、真珠湾攻撃が「日本による侵略」だったことをまるで理解ができないのである。「野村大使による通告があと少し早ければ騙し討ちではなく、何の問題もなかった」という人が、あなたの周囲にもいるかもしれない。 日米交渉自体が、アメリカを騙す周到なトリックだったとローズヴェルトは指弾したのだ。その外交交渉中にはいささかの警告も発しないでいて、ある日曜日の朝、一足飛びに日本側から一斉に集中攻撃を発起すれれば、日本が侵略者だと客観的に判定されることになるのは、情・理ともに必然であった。 総理大臣クラスの政治家ですら、近代の理解(なかんずくセルフディフェンスの理解)がおぼつかぬ点では今もって12歳の少年レベルから遠くないことがある。 わが外務省の役人たちが組織の過去の無謬性にこだわりぬくものだから、日本国民とアメリカ国民の戦後の相互感情の沈静化には、2世代以上の時間がかかってしまった。 しかし今日、海上自衛隊は事実上、米海軍と一体であるし、それに続いて、航空自衛隊も、F-35戦闘機の導入によって、急速に米空軍との一体化に近づこうとしている。日本人の誰も真珠湾攻撃を反省してはいないのに、よくここまで関係が修繕されたものだ。じつに「地政学」は偉大だと思う。真珠湾の過去が精算されるとき真珠湾の過去が精算されるとき 米国の戦前の地政学者ニコラス・スパイクマン(1893~1943)は、真珠湾攻撃の余煙がまだくすぶっていた12月31日に、〈日本の敗戦はもはや必至である。が、日本の降伏後に極東で強大化するであろう蒋介石のシナに日本列島を併呑させてはならない。アメリカは敗戦後の日本と軍事同盟を結んでシナから日本を守り、日本に航空基地を置き続けることによって、極東でのユーラシア勢力の牽制に努めねばならない〉と説いた。その場で地理学会は日独憎しの感情から猛反発をしたものの、歴代米政府の要路は以後この指針に完全に服している。 2016年にドナルド・トランプ氏が登場するまで、マハン、マッキンダー、スパイクマンと続くアングロサクソンの主流地政学の要点を承知していないアメリカ大統領は、おそらく一人もいなかった。 トランプ氏は、第二次大戦後の「日米安保」の出発点理論であるスパイクマンの本を読んでいなかった最初の戦後大統領となるのであろう。「地政学に無知」ということと「ロシアに甘い」ということは表裏一体の現象なので、トランプ新大統領はいつかロシアから煮え湯を呑まされずにはいないだろう。 もちろん国務省は今あわててトランプ氏に、米国の地政学の要点を「ご進講」している最中であろう。 けれども大統領選挙中、あれだけ何度も〈韓国や日本が米国に十分な防衛費を支払わないのならば、駐留米軍は引き揚げる〉と示唆してきたトランプ氏の「損得勘定」も堅固なのだろうと想像できる。 ここは日本外務省が過去の罪滅ぼしをするチャンスである。 航空自衛隊内に「上級練習戦闘機隊」を新編し、そのパイロットたち(新人ではなく中堅)を各飛行隊から抽出して、アラスカ州のエレメンドルフ空軍基地(正確には陸軍のフォート・リチャードソンとの統合基地)の一画に常駐せしめ、米空軍のお下がりの「F-15C」戦闘機を必要なだけ有料でレンタルして、日々、訓練飛行をさせる。そのような協定を、外務省はトランプ政権に提案できるだろう。 常駐するのであるから、地代も払うし、土木建設工事も地元企業に発注する。常駐のパイロットと整備兵、そしてその家族たちはアンカレジ市で消費するので、地元経済は潤い、米国には税金(消費税)も入る。その総額を示せば、トランプ氏はきっとニッコリするだろう。 この新協定によって、わが航空自衛隊は戦力が2倍になったのと同じことになる。なぜなら、もし中共軍の卑劣な騙まし討ち奇襲により沖縄や九州の空自基地が壊滅させられてしまったとしても、すぐにこの「上級練習戦闘機隊」が、レンタルの戦闘機に乗って千歳へ飛ぶことで、たちまちに空自の穴は埋まってしまうからである。 エレメンドルフの「上級練習戦闘機隊」は、米支有事のさいには、中共海軍が米本土に向けて沖合いから発射してくるかもしれない長射程巡航ミサイルを洋上で迎撃する活動を分担できる(米空軍のF-15Cにはその能力があるので十分可能)。 すなわち日米安保は「双務的」となる。ここでもトランプ氏の大不満は解消に近づく。 トランプ氏は想像したくないだろうが、米露有事もかならずあるだろう。最前線のエレメンドルフ基地が露軍機の空襲の矢面に立ったときに、わが空自パイロットたちは、アラスカとカナダ上空の防衛をも分担できるのである。嘉手納基地のエプロンに並ぶ米空軍のF15戦闘機。左手前(尾翼にAKマーク)がアラスカ州エレメンドルフ基地所属のF-15D、後方が嘉手納基地所属のF-15C(尾翼がZZ) トランプ氏はアラスカ沿岸の海底油田の採掘を加速させたいに違いない。その原油はパイプラインで北米の陸上を縦断させるより、タンカーで日本に売った方が早い。そのタンカーを護衛するため、いずれは海自の哨戒機がエレメンドルフに出張する日も来るであろう。 なおまた、マラッカ海峡が機雷で封鎖された場合に、新パナマ運河を抜けて西周りで日本向けに原油を運ぶタンカーも、大圏コース(最短航路)はアリューシャン列島沿いとなるので、エレメンドルフからエアカバーするのが最も合理的だ。わが「上級練習戦闘機隊」は、哨戒機部隊とともに、日本のエネルギー安全保障を担保することになるだろう。 ちなみに言えば、戦時中に海軍陸攻隊の基地があった北海道の美幌から計って、アンカレジまでは4630キロ。双発の「一式陸上攻撃機」を兵装無しで飛ばしたときの片道航続距離は5880キロであったから、「一式陸攻」は片道の旅でよければアンカレジまで行けたことになる。アラスカは、ハワイよりも近いのである。 地球上の2地点間の最短距離を教えてくれるウェブページ内のソフトで調べてみよう。東京~ホノルル間は6230キロ、東京~アンカレジ間は5550キロで、じつにアラスカこそは戦後の日本本土防衛のバックアップ拠点であったことがよくわかると思う。 朝鮮戦争が勃発して米本土から急遽、陸軍師団を空輸しなければならなかったときにも、大圏コースで千歳まで飛来し、広大な千歳キャンプにいったん兵員たちが屯集したものだった。 今日、わが航空自衛隊のF-15戦闘機は、米空軍が主宰する大規模で本格的な年次演習に参加するために、空中給油を途中で受けながら、エレメンドルフまではるばる飛んで行くことが恒例化している。 「上級練習戦闘機隊」のエレメンドルフ常駐は、決して夢物語ではない。真珠湾の過去は、そのとき、清算される。 真の「日米同盟」の新時代が、そこから始まるであろう。

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    真珠湾攻撃75年目の真実

    1941年12月8日、旧日本軍の空母6隻と航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾の米軍基地を強襲した。米側は軍艦6隻が撃沈し、約2400人が犠牲となった。なぜ日本は真珠湾攻撃を決断したのか。日米開戦75年目の真実を読み解く。

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    なぜ日本はあのとき「真珠湾攻撃」を決断したのか

    はスターリンがヒトラーの東西挟撃戦略を破るために前年12月の西安事件で捕らえた蒋介石を使って起こした戦争である。日本は早期講和を求めて日露戦争当時のように米国に仲介を要請したが、ルーズベルトは仲介を断っただけでなく逆に莫大な援蒋軍事援助を開始し、ソ連と一緒になって日本を攻撃したのである。まさに火に油を注ぐ行為であった。 蒋介石は米ソの援助無しでは一日も戦争を続けることが出来なかったから支那事変は実質米ソの対日代理戦争であった。この結果戦争は泥沼化し日本軍は支那大陸に長期間足止めされたのである。 それではなぜルーズベルトは日本を攻撃したのか。これは19世紀の米国の太平洋政策にさかのぼる。すなわち1890年代に西部開拓を了えた米国は太平洋に進出し、ハワイ、フィリピンを征服し次の目標として支那満州への進出を望んだ。それが1899年のジョン・ヘイ国務長官の支那門戸開放機会均等宣言である。 日露戦争では米国はロシアの満洲全土占領を阻むために日本に講和を仲介したが日本政府が鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収を拒むと、米国は対日友好から一転反日となり、日系人への迫害が始まった。そして1931年の満州事変で日本が翌年1月のスティムソン国務長官の満洲原状回復要求を拒否すると日本打倒を決めたと思われる。満洲事変こそが日米戦争に到る対立の引き金になったのである。 この結果、1930年代の米国社会は政府の反日姿勢に加えソ連の煽動もあり反日一色となった。1934年米国を訪れた吉田茂は駐英大使の資格で行ったのにひどい待遇を受けたと記している。これに対し元外交官で極東専門家のマクマレーは1935年国務省極東部長ホーンベックの要請を受け極東政策について意見を具申した。「皮算用」に終わった米国の極東戦略 それは日本を滅ぼしてもソ連が南下する、蒋介石も米国を利用するだけだから支那満洲は米国の自由にならない、日米戦は双方に甚大な被害を出すだけだから絶対に避けるべき、米国は極東に過度に介入すべきではない、という実に先見性のあるものであり駐日グルー大使も強く支持したがホーンベックは採用しなかった。 独ソ戦を控えたソ連のスターリンの戦略は、日本の軍事力を北上させないことであり、その第一弾が支那事変工作、第二弾が米国の太平洋政策を利用した日米戦争工作であったのである。ヨシフ・スターリン 支那事変を続けるルーズベルトはさらに日本を追い詰めてゆく。1939年には長年の日米通商航海条約を一方的に破棄し、1941年には米陸軍航空部隊を蒋介石の義勇軍(フライングタイガー)に偽装して投入する。明らかな宣戦布告なき軍事攻撃である。しかし日本は日米交渉による平和解決を求めて隠忍自重した。 さらに米国は6月に独ソ戦が始まるとソ連支援のため中立法の解除が必要となり、自衛名目を作るために対日挑発行為を加速した。いわゆる裏口からの参戦である。7月には米国は支那事変に苦しむ日本の在米資産を凍結し、8月には戦争遂行に不可欠な石油、鉄クズ輸出を禁止した。 それでも日本は野村吉三郎を特使として送り必死に日米和解を求め近衛首相は首脳会談まで提案した。しかし米国は頑なに拒否し、その総仕上げが11月27日の支那満州からの全面撤退を要求するハルノートとなったのである。 ちなみにこのハルノートはスターリンが原案を作りNKVD工作員パブロフがワシントンに持参してソ連スパイの財務省次官のハリー・ホワイトに伝え、それが財務長官、大統領経由でハル長官から発出されたものという。ソ連は日米戦が始まれば日本の軍事力は確実に南に向かうので、安心して対独西部戦線に専念できる。発出されたハルノートを見て、スターリンはおおむね満足したという。こうして日本はソ連と米国の謀略により対米戦以外避けることのできない絶体絶命の罠に陥ちていったのである。 日米戦の開戦理由の研究は今でも両国に東京裁判のしばりが残っているようだ。「真珠湾」の著者、歴史家モーゲンスタインは米国では日米開戦前の経緯を調べることは喜ばれないと述べている。 しかし、「米国の鏡日本」を著したヘレン・ミアーズ女史は戦前の外交記録を調べれば米国が日本を圧迫し日本が必死に戦争を回避しようとしたことは明らか、と記している。米国の歴史専門家は真珠湾攻撃が日本の自衛反撃であることを知っているのだ。 その後米国は原爆まで落として1945年に日本を滅ぼしたが、米ソは対立し1949年には支那満洲が共産化し、米国は営々と築いてきた支那の全拠点から追い出されてしまう。まさに米国の極東構想は「捕らぬ狸の皮算用」に終わったのである。 そこで1951年にマッカーサーは米議会で、支那の喪失と共産化は米国太平洋政策百年の最大の失敗と総括した。その後米国は日本防衛の国防費を節減すべく、日本の再独立と再軍備に向けて対日政策を180度転換して行くのである。

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    「ミス」から始まった真珠湾攻撃 九七艦攻隊員が語った奇襲の真相

    井上和彦(ジャーナリスト) 昭和16年12月8日、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母から飛び立った350機の攻撃隊は、撃墜され未帰還となった29機と引き換えに、米太平洋艦隊の主力戦艦8隻を撃沈破した他、軽巡洋艦・駆逐艦・水上機母艦など10隻を撃沈破し、さらに300機以上もの敵機を撃破した。1941年12月7日、ハワイの真珠湾で日本軍の奇襲を受け炎上する米戦艦ウェストバージニア(米国防省提供) 真珠湾攻撃は日本海軍のワンサイドゲームであった。 だが、この真珠湾攻撃も実は、奇襲作戦の成否を左右しかねない「ミス」から始まっていたのだ。 真珠湾攻撃は、一般に「真珠湾奇襲攻撃」とも言われる。その「奇襲」とは、我が方の攻撃が敵に察知されていない状況下、つまり敵戦闘機が迎撃に上がっていない状態での攻撃をいう。真珠湾攻撃では、飛行総隊長・淵田美津雄中佐の指揮官機からの信号弾1発が「奇襲」の合図であった。 その場合、先ず魚雷を抱いた雷撃隊が先行して敵艦に魚雷攻撃を仕掛け、これに続いて水平爆撃隊と急降下爆撃機が、敵艦や地上目標めがけて上空から爆弾を投下する手順となっていた。 ところが我が方の攻撃が敵に察知され、敵戦闘機が待ち構えている状態での攻撃は「強襲」となる。 この場合、指揮官機が信号弾を2発発射し、奇襲のときとは逆に、戦闘機隊と急降下爆撃隊が先行して敵機を追い払い、対空陣地などを制圧した後に、雷撃隊および水平爆撃隊がこれに後続する手はずとなっていた。 空母「加賀」の雷撃隊員として真珠湾攻撃に参加した九七式艦上攻撃機の偵察員だった前田武氏はこう証言する。「飛行総隊長の淵田中佐機からまず1発の信号弾が上がりましたので、我々艦上攻撃機隊はこれを確認して突進を始めたんですが、援護する役目の戦闘機隊が動こうとしなかったんです。そこで、淵田中佐は、戦闘機隊が1発目の信号弾が見えなかったものと判断して2発目の信号弾を撃ってしまったんです。これが失敗でした。今度は、艦上爆撃隊が『信号弾2発』を確認して『強襲』と勘違いしてしまったんです」 こうして九七式艦上攻撃機の魚雷攻撃の前に、爆弾を積んだ九九式艦上爆撃機の艦上攻撃隊が、戦闘機隊と共にフォード島の敵航空基地などに対地攻撃を開始したのであった。攻撃を受けた敵の地上施設や航空機は次々と撃破され、黒煙を噴き上げて炎上したのだった。天が味方してくれた雷撃隊 前田氏はいう。「フォード島には飛行機のほかにガソリンタンクもある。我々艦上攻撃隊が現場にたどり着いたときは、もうすでに真っ黒な煙が上がっていました。この黒煙がもし、我々が攻撃を仕掛ける海側に流れていれば、魚雷攻撃は不可能だったでしょう」 前田氏は続ける。「水深の浅い真珠湾内の敵艦を魚雷で攻撃するには、海面すれすれの高度10メートルで飛び、この超低高度から、深く潜らないように工夫された魚雷を慎重に投下しなければならないんです。ところがもしフォード島の黒煙が海側に流れて、海面を覆うようなことがあれば魚雷攻撃はできなかったかもしれません。ところがこの日は運よく、風が味方してくれて、黒煙が海側に来ることがなく、目標が鮮明に見えたのです」 まさに天が味方してくれたのである。雷撃隊は黒煙に邪魔されることなく敵戦艦群に肉薄し次々と魚雷を命中させていったのだった。 真珠湾の水深はわずか12メートルと浅く、したがって魚雷攻撃には不向きであった。通常の魚雷は、着水後に60メートルほど沈下するため海底に激突してしまう。そこで真珠湾攻撃に使われた魚雷は、特殊な木製のフィンと安定板を取り付けて沈下を防ぎ、超低高度で投下することで水深の浅い真珠湾でも使えるように工夫されていたのだった。だがその特殊改良された魚雷はわずかに40本しか用意されていなかったため、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の雷撃隊に10本ずつ配られていた。そのため各艦の雷撃隊は、この貴重な魚雷を敵艦に命中させるため、鹿児島での厳しい訓練を実施し、その雷撃技術を磨いて実戦に挑んだのである。 実際に雷撃隊が魚雷を投下したパール・ハーバーに立てば、よくぞこのような狭い場所で正確な魚雷攻撃をしたものだと感服させられる。対岸からフォード島に係留された戦艦群までの距離があまりにも短いため、この水路のような場所に魚雷を、しかも超低空で投下するのは至難の業だ。だが日本海軍は、そうした離れ業も、厳しい訓練を積んで不可能を可能にしたのだった。日本人の英知が生んだ大勝利 前田氏は、この特殊改良された魚雷を投下したときの様子を語ってくれた。「戦艦『アリゾナ』を見たら、外側横に修理用の小さな艦が横付けしていたので、雷撃しても魚雷がその小さな艦に当たるのではないかということで、『アリゾナ』を標的から外したんです。そして次に狙ったのが、籠マストが象徴的なカリフォルニア型の戦艦『ウエストバージニア』でした。まず我々二番機に先行していた一番機の魚雷が見事に『ウエストバージニア』のど真ん中に命中して、バァッ!と水柱が上がったんです。その直後に私の機が速度約140ノット、高度10メートルで突っ込んで雷撃したわけです。魚雷は艦橋下部に命中! 私の機が『ウエストバージニア』の上空を航過した後に大音響とともに大きな水柱が上がったのです。私は偵察員として戦果を確認する必要がありましたから、その一部始終を目に焼き付けました。あの光景はいまも忘れられません」1941年12月7日、ハワイの真珠湾で日本軍の攻撃を受ける米戦艦ネバダ(左)、アリゾナ(中央)(ロイター) そして雷撃隊に負けず劣らず、800キロ爆弾を搭載した九七式艦上攻撃機の「水平爆撃隊」の活躍もまた目覚ましかった。 水平爆撃隊は、貫徹力を増した800キロ爆弾を搭載した九七式艦上攻撃機49機が投入されており、この攻撃がまた米戦艦群に大打撃を与えたのである。 この800キロ爆弾は、戦艦「長門」が搭載していた41センチ主砲弾を航空機搭載用爆弾に改良したもので、その破壊力は凄まじかった。そもそも敵戦艦の分厚い装甲を撃ち抜ける戦艦の徹甲弾なのだから、上空から投下されて直撃すれば無傷ではいられない。この爆弾は、甲板を突き破って艦内で爆発する仕組みになっていたのだった。 なるほど戦艦「アリゾナ」には魚雷と同時に800キロ爆弾4発が命中し大爆発を起こして後に沈没したのだった。 真珠湾攻撃は、ミスで始まった奇襲攻撃であったが、厳しい訓練を積み重ねてきたパイロットの高い練度と、そして日本人の英知が生んだ大勝利であったといえよう。

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    近代批評確立した小林秀雄 全身全霊で祖国の戦争に加わった

     戦争が始まったとき、狂喜したのは一般市民だけではなかった。多くの文学者たちが戦意高揚や礼賛の文章を発表している。詩人の三好達治は、真珠湾奇襲成功を祝した詩を発表し、歌人の斎藤茂吉は『何なれや心おごれる老犬の耄碌国を撃ちしてやまん』、会津八一も『ますらをやひとたびたてばイギリスのしこのくろふねみづきはてつも』と歌った。文芸評論家の富岡幸一郎氏が、文学者たちの言葉を読み解いた。* * * それは詩人や歌人ばかりではなく、西洋文学を深く受容して、近代批評を確立した小林秀雄のような理論的な批評家も同じであった。 真珠湾攻撃の機上からの撮影写真から、小林は次のような文章を紡ぎ出す。作家で評論家の小林秀雄=1968年6月12日《空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曳いて。さうだ、漁船の代わりに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、という事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであろう。……そういう光景は、爆撃機上の勇士の眼にも美しいと映らなかった筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去った彼等の心には、あるがままの光や海の姿は、沁み付く様に美しく映ったに相違ない》 戦時中に小林秀雄は『無常という事』『西行』『実朝』『平家物語』など、古典に材をとった名編を執筆している。ランボーやボードレールなど西洋近代の文学を論じてきた小林は、高村光太郎のように開戦に際し歓喜の言葉は記していないが、ここであきらかに日本人の魂の深部に降り立ち、「爆撃機上の勇士の眼」におのが眼差しを重ねている。鋭利な批評家はここで、国民の一人として、全身全霊で祖国の戦争に参加しているといってもよい。 昭和12年、日中戦争の折に小林はすでにこういっていた。《……戦争が始まっている現在、自分の掛替えのない命が既に自分のものではなくなっている事に気が附く筈だ。日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない、たとえ人類の名に於ても。これは烈しい事実だ。戦争という烈しい事実には、かういう烈しいもう一つの事実を以って対するより他はない。将来はいざ知らず、国民というものが戦争の単位として動かす事が出来ぬ以上、そこに土台を置いて現在に処そうとする覚悟以外には、どんな覚悟も間違いだと思う。 日本に生まれたという事は、僕等の運命だ》(「戦争について」) 戦争という「烈しい事実」が、小林秀雄という文学者の魂を揺さぶり、自らのなかにある「日本」を烈しく自覚させたのだ。敗戦後の日本は、このような文学者の声を封印してしまった。 戦争を賛美した者は、戦争責任者として葬り去られた。平和は尊い。たしかにそうであるが、戦後70年ものあいだ日本人は自らが戦った戦争の真実に目を向けてこなかった。しかしグローバルな「戦争」の時代に突入した今こそ、祖国の戦争をあらためて直視すべきだろう。関連記事■ 「戦争ができる国作り」が進む日本の現在の状況を分析した本■ 小林よしのり氏 ネトウヨはイスラム国と戦う勇気ない野次馬■ 老子のタオイズムにも繋がる「おっぱいを好きなだけ吸う」本■ 小林よりのり氏 『戦争論』はある意味誤読されたと語る真意■ TVでおなじみの米国人東大教授が邦人作家6人と対談した本

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    山本五十六の「暴走」に見る日本軍の組織的欠陥

    井本省吾(元日本経済新聞編集委員) 前回書いた林千勝著「日米開戦 陸軍の勝算」を読む、の続編を書く。陸軍省研究班が有力な対英米戦略を策定しながら、山本五十六連合艦隊司令長官が「暴走」したことから日本は敗戦した。これが前回の結論だ。山本五十六・連合艦隊司令長官 世間では未だに「海軍は善で、陸軍が横暴だった」という固定観念が根強い。特に山本五十六は「日米開戦反対を最後まで主張していた。開戦と決まって仕方なく真珠湾攻撃をめざした」という好意的な意見が多い。 だが、ではなぜ米国民を怒らせる真珠湾攻撃を強行したのか。 実は陸軍省研究班の対英米戦略の腹案(アイデア)は、陸軍参謀本部と海軍軍令部の間で基本的に了承され、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で正式に決定されていた。その「方針」は以下の通りだ。<極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置により蒋(介石)政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む> 米国に対してはどういう態度で臨むのか。腹案はこう書いている。<日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む/対米宣伝謀略を強化す/其の重点を米海軍主力の極東への誘致並びに米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き、米国輿論の厭戦誘致に導く> 日本の軍部は、ルーズベルト大統領がチャーチルの要請に応えて第2次大戦に参戦したがっているのに反し、米国民の多くが第2次大戦への参加を拒んでいることを良く知っていた。だから、米輿論の厭戦気分を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた。 山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考えていたようだ。これほど愚かなことはない。力のある者が緒戦で鼻っ柱を叩かれれば、激高して大反撃に出ると考えるのが自然ではないか。 実際に激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩くべし」の声が全米で高まった。米国は当時、経済力が世界最大。太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、イザとなれば一気に戦力を拡大できる。実際、そうなった。 上記の腹案はそれを恐れ、極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。山本五十六はそれと180度違う挙に出たのだ。日本を奈落の底に導いた愚将と言わずしてなんと言おう。なぜ大本営は山本の「暴走」を抑えられなかったのか だが、もっと問題なのは、なぜ大本営はそんな山本の「暴走」を抑えることができなかったのか。もう一度言えば「腹案」が大本営連絡会議で決定したのは昭和16年11月15日である。 真珠湾攻撃によって日米戦の戦端が開かれたのは同年12月9日である。すでに「腹案」決定時には山本五十六率いる連合艦隊は真珠湾攻撃を目指し、大きく動き出していた。最後通牒が米国に手渡されればすぐに攻撃できるように。 これってあり、ですか。「腹案」は米国には極力、こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍をひきつけて」と書いている。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出かける。大本営政府連絡会議を完全に無視した格好である。組織として体を成していない、と言わざるをえない。 これに対して「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して米国に打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はありえた」という意見がある。大本営の「戦略」と山本の「戦術」に齟齬はない、というわけだ。 だが、それは牽強付会というものだ。真珠湾攻撃という「戦術」はどう考えても「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍は極東に誘致する」という「戦略」に対立する。戦術はつねに戦略に従わなければならない。 にもかかわらず、山本の戦術を認めたところに日本の軍部の、そして日本政府の組織的欠陥があったといわざるをえない。 統帥権の干犯問題により、政府は軍部をコントロールできない。のみならず、陸軍と海軍は同格で互いに相手を掣肘できない。できるのは天皇のみだが、それは形式的で、天皇に軍事的、政治的な権限は実質的になかった。 だから、勝手ばらばらというひどい状態だった。海軍、陸軍内においても統率がとれない。陸軍では関東軍の暴走を抑えられなかったし、海軍にも山本五十六という権威を抑える強い権力が存在せず、「腹案」に反する戦術を黙認してしまったのである。 緒戦の真珠湾攻撃で中途半端に勝ったことがさらに組織的欠陥の傷を大きくした。山本五十六は軍神のように当時の新聞などのメディアで賞賛され、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出など「腹案」の逆を行く山本の戦術を阻止できなかった。その結果、大敗し、失敗した。 リーダーの統制がきかず、ボトムアップで勝手な行動を黙認してしまう風潮は今も各省庁、古い体質の大企業に見られる。日本の業病ともいうべき、この組織的欠陥を正さすことが不可欠だ。 安倍政権は曲りなりにも強いリーダーシップを保っている。これを維持、強化する政治、行政を築いていかねばならない。(「鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~」より2015年10月28日分を転載)

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    中国は山本五十六の苦悩を知っているか?

    警戒を怠らず、戦えば勝つという強いメッセージを送った。ハリス司令官の念頭にあったのは、日本との過去の戦争ではなく、中国との将来の対立だったはずだ。接近阻止(A2)、敵を殲滅(AD) 近年、米軍は中国のアクセス(接近)阻止・領域拒否(A2/AD)戦略に警戒を高めている。A2とはある場所に敵が接近することを阻止することで、ADとはある場所にいる敵を殲滅することだ。中国は主に潜水艦と精密誘導ミサイル、そしてサイバー攻撃と衛星攻撃によって、沖縄や東シナ海・南シナ海にいる米軍の排除を目指すとともに、グアムやハワイ、アメリカ本土からやってくる米軍の来援部隊の接近を西太平洋上で阻止しようとしている。 その背景には、アヘン戦争以来中国が海から列強の侵略を受けてきた「屈辱」を繰り返さないという決意がある。より直接的には、1996年の台湾海峡危機で米国が空母2隻を派遣し、手も足も出なかったことをきっかけに、中国はA2/ADに本格的に力を入れ始めた。なお、中国ではA2/ADではなく「介入阻止」戦略と呼ばれる。 米軍はこの中国のA2/ADに対抗するため、エアシーバトル(ASB)という海空戦力のより効率的な一体化を目指す作戦概念の検討を始めた。その後、ASBは陸上戦力の役割が不明確と批判されたため、「グローバルコモンズへのアクセスおよび運用のための統合概念(Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons(JAM-GC))」へと変更された。このJAM-GCの下で、米軍は陸海空という従来の戦闘空間に加え、サイバー・宇宙空間における行動の自由を確保し、A2/ADを克服することを目指している。A2/ADだった第3次「帝国国防方針」A2/ADだった第3次「帝国国防方針」 米軍がA2/ADの挑戦に直面するのはこれが初めてではない。アジア太平洋戦争で日本が取った要撃作戦は、まさに今でいうA2/ADだった。1936年に改定された第3次「帝国国防方針」は、日本が対米開戦に踏み切ったときに作戦計画の元となった。その中では、「東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、かつ本国方面より来航する敵艦隊の主力を撃滅すること」が初期の目的となっていた。具体的には、海軍は作戦当初東アジアにいる敵艦隊を排除し、陸軍と協力してフィリピンとグアムを攻略することが想定されていた。日本に接近してくるアメリカの主力艦隊に対しては、潜水艦と南太平洋の南洋群島に展開する航空機で奇襲攻撃を繰り返して、消耗しきった敵艦隊を日本近海で迎撃するとされた、先制と奇襲を前提とする短期決戦の発想で、ADの後にA2が想定されていた。対米A2/ADが不可能と知っていた連合艦隊司令長官 しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、このようなAD重視の作戦がアメリカに通じないことを誰よりも理解していた。ADである南方作戦が成功しても、帝国海軍が相当の損害を被ることは不可避で、そのような状態でA2としての対米要撃作戦は不可能だった。当初南方作戦を重視していた海軍は南方作戦と対米作戦は切り離せると考えていたが、それは三国同盟で日本がドイツと手を結んだ後では不可能だった。 山本はアメリカの総合的な国力を目の当たりにし、対米戦争に勝ち目がないことを十分認識していた。海軍次官として、山本は大局的観点から三国同盟に強く反対した。しかし、連合艦隊司令長官という立場に立った山本には、勝てない戦争に勝つことが求められた。このため、山本は職を賭してまで捨て身の真珠湾攻撃を立案することになった。 1940年5月、アメリカは太平洋艦隊の主力を真珠湾に常駐させるようになった。日本の南進を牽制するためだった。しかし、日本にこれを奇襲できる航空戦力さえあれば、アメリカの出鼻をくじき、日本が圧倒的に不利な消耗戦を回避し、より有利な条件で早期対米講和に持ち込めるかもしれないと山本は考えた。山本はかねてから航空戦力の重要性を見抜き、帝国海軍の航空戦力を世界レベルにまで引き上げていた。当時の技術では、水深の浅い真珠湾で攻撃力の高い魚雷攻撃を行うことも不可能と考えられていたが、山本はこれを高度の技術開発と激しい訓練によって可能とした。 真珠湾攻撃は正攻法では勝てないが故の奇襲作戦だった。日米交渉が決裂し、12月2日の御前会議で開戦決定がなされた時、連合艦隊はすでにハワイに向けて北太平洋を進んでいた。山本は奇襲作戦を成功させるため、徹底した情報統制を行った。北太平洋を航行中に商船とすれ違うこともなく、天候にも見舞われた。米側の警戒に緩みがあるなど幸運が続き、真珠湾攻撃は大きな抵抗もなく実行に移された。結果は、戦艦5隻の撃沈を含む日本側の一方的な勝利に終わった。ただ、主目標だった米空母は真珠湾にいなかった。山本は不決断のハムレットではなかった 日本は南方作戦でも攻勢を続け、短期間で広大な勢力圏を築いた。しかし、アメリカの空母機動部隊が無傷だったため、アメリカは爆撃機を空母から飛ばして日本本土を空爆し、そのまま中国大陸に着陸させたため(ドーリットル空襲)、アメリカの空母機動部隊を叩き、更なる空爆を防ぐためミッドウェー海戦が急がれた。だが、結果としてミッドウェー海戦で日本は虎の子の空母と艦載機、そして何より熟練パイロットの多くを失い、以後守勢に転じることになった。連合艦隊司令長官の山本五十六大将 真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、A2としては失敗だった。戦略としては致命的だった。結果としてアメリカは第二次世界大戦に参戦し、ドイツを降伏に追いやった後は総力を挙げて日本との戦いに力を注いだからだ。アメリカはA2には屈せず、むしろアジアへのアクセスを確保していった。1度はフィリピンを放棄したが、南太平洋の島々を1つまた1つと日本から奪い、それらを拠点とする航空機と潜水艦で日本と南方の資源地帯を結ぶ補給線を断ち、日本への通商破壊を行った。マリアナが陥落して日本本土への空爆が始まり、レイテ沖海戦で帝国海軍が事実上消滅した時に、日本は敗北した。ただし、敗北という軍事的現実を降伏という政治的決断に移すには、2度の原爆投下とソ連の参戦という外圧が必要だった。山本は不決断のハムレットではなかった 国家の下した決断が誤っている時に、われわれはどう対応すればいいのだろうか。国家の決定に従うのか、それとも抵抗するのか。そのジレンマに引き裂かれながらも、山本は不決断のハムレットではなかった、と歴史家の五百旗頭真教授は指摘する。皮肉なことに、対米戦に最も反対していた山本は、軍人として無謀ともいえる奇襲作戦を成功させ、その火ぶたを切ることになった。そして、結果として国家は滅亡の手前まで追い込まれた。山本がいなければ、真珠湾攻撃は成立せず、日米間の戦争はもっと違ったものになっていただろう。 国家は判断を誤る。それは人類の歴史を通じて繰り返されてきたことだ。中国が軍拡を続け、A2/AD能力を高めても、東シナ海や南シナ海の緊張が高まっても、経済的相互依存のため中国との戦争は起こらないという楽観的な議論が一部で横行している。しかし、戦前の日米間には深い経済関係があったにも関わらず戦争は避けられなかった。われわれは、国家が合理的ではない判断を下す可能性があることを常に念頭に置いておかなければならない。 戦後70年を迎え、日米は強固な同盟関係を維持し、中国のA2/ADの挑戦に立ち向かおうとしている。今後の日米同盟の課題は、中国への建設的な関与を続けながらも、有事に備え、米軍のJAM-GCと自衛隊の統合機動防衛力を融合してすべての戦闘領域で行動の自由とアクセスを確保していくことだ。JAM-GCは、緒戦の段階では米軍を前線から一定の距離まで下げ、長距離攻撃を行うことを想定している。その後アクセスを確保しつつ前線に戻ることになる。しかし、自衛隊には後方に下がる余裕はない。日本の防衛のため自衛隊は前線に留まり、米軍の前線へのアクセスを確保しなければならない。この現実をわれわれは直視した上で、現実的な安全保障の議論を積み重ねて行く必要がある。

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    開戦時の高村光太郎 詩人の率直で純真な感動書き記していた

     多くの文学者たちが戦意高揚や戦争礼賛の文章を発表したが戦後、彼らの言葉は一転して批判され、タブー視された。だが、彼らの当時の言葉にこそ、「戦争」の真実があるのではないか。文芸評論家の富岡幸一郎氏が読み解く。* * *「十二月八日午前六時発表、帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋において米英軍と戦争状態に入れり」彫刻家で詩人の高村光太郎 日本海軍の真珠湾奇襲の報が国民にこのように伝えられたとき、日本人はどのような思いに駆られたのか。驚きは不安をもたらしたのか、それとも何か別の感情であったのか。『智恵子抄』で親しまれてきた詩人の高村光太郎は、宣戦の詔勅を聞いたときの感動を次のように書き記している。《聴き行くうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終ると、みな目がさめたようにして急に歩きはじめた。…頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。 現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。…ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報(しょうほう、注・勝利の知らせ)が、息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した》(「十二月八日の記」) アメリカによる経済的な抑圧政策(いわゆる米・英・中・蘭のA・B・C・D包囲網)は、戦後の東京裁判でパール判事が指摘したようにすでに日本に対する“先制攻撃”であり、日本人はそのことを日々の生活のうちにすでに痛覚していた。開戦時に際しての高村光太郎の言葉は、したがって当時の国民の声を代弁したものであったろう。そこには詩人の率直で純心な肉声が漲っている。 満州事変以後の対中国戦争が泥沼化するなか、苛立ちと後ろめたさを感じ始めていた日本人が、アジア諸国を蹂躙(じゅうりん)してきた白人、その西洋列強の代表たる米英との真っ正面からの戦争に、「世界は一新せられた」と歓喜したのも当然である。関連記事■ 「戦争ができる国作り」が進む日本の現在の状況を分析した本■ 談志の下で26年過ごした志らくが師匠の人となりを明かした本■ 故大島渚の息子兄弟が父の言葉をもとに思い出記したエッセイ■ 「ピッカピカの一年生」コピーライターが作品の背景語った本■ 【キャラビズム】安倍総理に当てはまるシーザーの言葉は?

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    お国のために死ねますか?

    これは危険思想か、それとも愛国心かー。元自衛官が上梓した新刊『国のために死ねるか』がベストセラーとなり、話題を呼んでいる。先の大戦では、国のために命を捧げる日本人が後を絶たなかった。終戦から71年。はたして今の日本に、命を捧げてでも守りたいと思う「価値」なんてあるのだろうか?

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    戦争のプロ」ではなかった旧日本陸軍、餓死者が続出した大戦の真実

    兵頭 二十八(軍学者) 先の大戦中の日本陸軍のエリート幕僚たちに「戦争のセンスが無かった」ことは、争えません。 疲労衰弱死を含めた戦地における「広義の栄養失調死」の陣没者数が、他国軍とは比較にならず多かったという事実……。それを当時も戦後も「作戦計画の初歩的失敗だった」と自覚して恥じている様子が彼らには無いのですから、話にもならんでしょう。 もちろん、参謀本部というよりは「陸軍経理学校」の責任だろうと考えられる分野もあります。近代軍隊の野外兵糧としては最も不都合の多い「生米」の補給体制を見直さなかったことなどはその筆頭です。 もう日露戦争中から「道明寺糒」(どうみょうじほしいい。モチゴメや屑米をいったん蒸してから乾燥させた口糧で、戦地では水でふやかすだけで消化可能になる。燃料は要らず、煙も立たない。ちなみに生米をいくら水でふやかしても人の腸では消化できない)の実用性と、「冬はすぐにガチガチに凍結してしまう」等の飯盒メシの欠陥が幾度も確認されているのに、彼らは漫然と抜本改革を先延ばししました。ミャンマー・チン州で見つかった日本軍の弾薬=2015年3月20日、ミャンマー・ティディム(豊吉広英撮影) 道のないジャングル内で重い弾薬を推進するのに最も合理的な、「荷物をフレームから吊るした市販品の自転車を手で押して歩く」という方法も、彼らは発見することができず(発見したのは戦後のベトナム人たちです)、いかにも机上の思いつきそのままな、リヤカーもどきの専用小型人力荷車などを試作して得々としていた情けない実態が、戦前の経理学校の機関誌を見ると分かります。そんなものが崖道や藪の中で使い物にならぬことは、近くの里山で即日に確かめられたでしょう。「その業界のプロとはいえない者たち」が素人了見で、税金を徒費しながら日々、自己満足に耽っていたのです。 参謀本部にもそれはそっくりあてはまりました。「自活の道具」が事前に考えられていなかった 日本軍に全般にトラックやブルドーザーの数が足りなかったこととか、手榴弾の実用性が劣悪だったこととかは、みな、参謀本部の責任です。予算を付けるのは陸軍省ですが、その予算を要求するのは参謀本部だからです。参本が要求しないアイテムを陸軍省で多目に買わせようとすることはありません。 南方戦線で現地自活に迫られたような場合の事前の教育訓練がほとんど無かったことも、第一義的には教育総監部の責任ではなくて、参謀本部の責任でした(日本国内の農業の持続限界条件を無視して農民を徴兵した責任は陸軍省にあります)。インド国境に近いミャンマー・チン州で見つかった日本軍の手榴弾=2015年3月20日(豊吉広英撮影) 兵隊を飢えさせたら作戦どころじゃない――というのは、いわば戦争のイロハでしょう。補給線が延びると補給量は細る。それを承知で遠隔地に大量の兵隊を送り込む。ならば必然的に生ずるはずの「糧食不足」という最悪事態局面を、彼らは「物資動員」と兵站計画のプロとして事前にどう回避させるつもりでいたか? そのような策案は、存在しませんでした。日本の試験エリート幕僚たちは、じつのところ「戦争のプロ」ではなかったのです。「自活の道具」が事前に考えられていなかった 今日、客船に積まれているゴム製の救命筏(爆雷みたいな形に畳まれて舷側に固縛されています)には、「釣り糸と釣り針」が必ず搭載されています。これは帆船時代からの西欧の伝統です。 南方作戦の無数の島嶼に展開・転戦することになる日本軍部隊には、最初から、「漁網」や、鳥類捕獲用の「かすみ網」などの自活資材を持たせる必要があったでしょう。広大な地域でしかも流動する戦線では、あちこちの部隊が一定期間、無補給の状態に陥るであろうことは、事前に容易に想像できなくてはなりません。そして漁網もかすみ網も、南方のジャングルで即日に自製することなどできやしないのです。 参謀たちに着眼さえあれば、そのための新たな予算枠なども特に必要はありませんでした。防蚊網を漁網にコンバートできる如く、また、迷彩網はそのままかすみ網としても使える如く、最初から「ユニバーサル機能」を持たせるべく、専門屋のメーカーと相談して平時から正規の装備品として発注し、納品させておけばよかっただけの話なのです。 個人用や大天幕用の防蚊網は、夏の北満勤務の際にも必需品で、日露戦争中からその必要は知られていました。安く大量に補給できたのにそうしなかった「導爆線」安く大量に補給できたのにそうしなかった「導爆線」 旧軍の制式手榴弾は、もともと「擲弾筒」というミニ迫撃砲で遠くまで発射できることを主眼に設計されていましたので、手投げ用としては甚だ不便なことが多く、兵士が携行中に発火機構の雷管が自爆したり、外装式の雷管がいつの間にか外れてしまって役に立たなくなっていたりという深刻なトラブルもよく起こしました。 しかも肝心な殺傷威力が小さかった。単独自決なら確実でしたが、もしこれ1発で集団自決しようとすれば、まずほとんどが死に切れずに苦しむだけだったのです(そうした欠陥は周知されていませんでした)。導爆線を爆破薬に縛着する隊員(陸上自衛隊東部方面隊ホームページより) 旧軍兵器の「バッド・デザイン大賞」第一位候補と言えるものでしたけれども、例外的にこれが南方で大いに有り難がられた用途があります。この低威力武器を海や川に放り込んで爆発させれば、ショックで浮いてきた多数の魚が捕らえられたのです。 手榴弾は、戦時には低規格の素材を使って町工場でも量産させることができるもので、まさに戦前の日本の工業段階にはふさわしいアイテムでした。が、設計段階でよくよく考えられていなければ、そして、試作品をよくよくリアルな状況で繰り返しテストして改善にこころがけなければ、けっきょく魚獲りか自決の役にしか立たぬということにもなる。 エリート参謀たちが「ユニバーサルに機能拡張性がある手榴弾」について何の着眼も有しなかったのならば、むしろ、現地部隊が用法を工夫することで無限にユニバーサル性を発揮できるシンプルな兵器資材を、大量生産して大量補給するべきでしたろう。 そんな究極のユニバーサル資材としては「導爆線」がありました。 黒色火薬がゆっくりと燃えて行く「導火線」と違い、導爆線は、細い紐の中に爆薬が封入されているので、手元の端末を雷管で起爆させれば超音速で反対側の端末まで火が走るのです。だから、電気式発破のコード代わりになる。向こうの端末にも雷管をとりつけ、それをたとえば航空機用の250キロ投下爆弾の炸薬に埋め込んで、その爆弾を道路脇に匿しておけば、近頃のアフガニスタンでゲリラが使っている「IED」(手製大威力爆破装置)と同様の「視発式地雷」ができあがりました。シャーマン戦車だろうと、250キロ爆弾に入っている60kgもの炸薬が直近で轟爆すれば、大破させることができました。 導爆線は、それじたいをジャングルの木の幹に何周かぐるぐる巻きつけて点火しますと、衝撃波で木の幹を切断することもできました。これが現地部隊でふんだんに使えたならば、飛行場の開設や、築城土工も、さぞやはかどったことでしょう。 これほど便利な導爆線を、内地の工場で量産させたり、輸送して補給するのは、手榴弾の量産や補給に比べたら、ずっとコストもかかりません。 しかし参謀本部のエリート幕僚たちにそうした「軍事経済」の気が利かなければ、せっかくのポテンシャルもまったく活かされなかったわけです。戦後の開墾事業に役立った砲兵用の牽引車戦後の開墾事業に役立った砲兵用の牽引車 機能の拡張性と、「兼用主義」とは違います。さいきんの米国では、新兵器の開発プロジェクトに何でも「ジョイント」という枕詞を冠して予算を貰おうとするようになっています。「空軍でも海軍でも陸軍でも海兵隊でも使えますからトータルで税金の節約になります」という、メーカー(およびそこに再就職を期待する、たまたま担当になった将官・佐官たち)から連邦議会へ向けたアピールなのです。しかし開発させてみると、往々、酷い金食い虫になります(代表例がF-35戦闘機。じっさいは3機種別々の新規開発なのに、あたかも空軍、海兵隊、海軍で機体が共用であるかのように売り込まれた)。 兼用主義は、進化論の多様化摂理に逆らったところがあって、兵器や需品のサバイバル競争においても、繁栄が約束されないのでしょう。航空観閲式に出席した安倍晋三首相。会場には最新鋭ステルス戦闘機F35Aの実物大模型(奥)も展示された=2014年10月26日、茨城県小美玉市の航空自衛隊百里基地(鈴木健児撮影) それに対して、たとえば出来合いの市販品をみつくろって軍隊で使ってみようという試みは、機能の拡張そのものです。たとえば米陸軍では、「将来の末端の兵隊の通信機はスマホでいいじゃないか」と考えているようです。みなさんもそう思いませんか? 旧陸軍が対ソ戦の主力重砲にしようと思っていた「九六式15センチ榴弾砲」。このくらいになるともう馬では引っ張れませんので、移動させるための、最新型のディーゼル・エンジン搭載の装軌式トラクターが開発されました。「九八式6トン牽引車」といいます。 量産単価はおそらく中型戦車の三分の一かそれ以下だったでしょう。戦車1両の予算で3台以上は製造できたことになります。 この6トン牽引車と、それよりも古い「九二式8トン牽引車」は、南方の戦地では本来の重砲牽引用途以外に、悪路で物資満載のトラックを引っ張ったり、臨時に土工具を取り付けて滑走路の工事をしたりと、万能の働きをしてくれたそうです。 対米戦はほとんど航空戦争だったのですから、戦力貢献度では戦車以上だったと申せましょう(戦車のサスペンションは踏ん張りがきかないために、無理に土工作業をさせても非効率的でした)。 そしてまた、日本の戦車は米軍の戦車と撃ち合っても歯が立たなかったのに比べ、牽引車で展開させた重砲には、米軍戦車を阻止できる威力があったのです(15センチ榴弾の至近弾でシャーマン戦車の履帯は切れた)。  してみると後知恵では、戦車に投入した資金と労力をぜんぶ牽引車やトラック(軍用6×4タイプでも単価は中型戦車の十四分の一です)に回していた方が、日本陸軍の総合戦力は遥かにアップしていたかもしれないわけです。対ソ戦でも航空戦力が決め手になるであろうことは昭和16年には確定的でした。 敗戦後、復員兵と引揚者で内地の人口が溢れ、戦争中は一人もなかった「餓死」が国民の現実の脅威として急浮上したとき、国内の未開墾地に、サープラスの「6トン牽引車」と「8トン牽引車」が、馬代わりに投入されます。これらの改造牽引車は、旧軍のトラック類と同様に、戦後の復興期に完全にスクラップ化するまで各地で駆使されましたため、今日、現物は1両も残っていません。しかし、およそ、よくできた装備品には、意外な機能拡張性があって重宝することを、わたしたちに思い出させてくれる実例なのです。

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    今こそ「敗戦」を直視せよ! 日本が本物の平和国家になるために

    その国と民自身であることを深く自覚してこそ、日本の再評価ができる。 左の自称リベラルからは「ようやく戦争が終わったというのが庶民の気持ちなのに」と責められる。 ゆめ、庶民の味方を僭称なさるな。僭称であることは、東京都知事選での自称リベラル派候補の惨めな言動でもう、ばれている。力を合わせて戦った庶民が「終わった」という深い感慨と同時に「負けるはずはなかったのに負けた」と現実を直視する実感を持っていたことは、多くの記録が物語っている。 終戦ではなく敗戦であると直視すればむしろ、「ただ一度、負けたからといって勝者の言うことを金科玉条にすることはない。世界の主要国はみな敗戦を経験している。日本はそれまで経験していないから、負けたあとこそみずからを確立するという世界の常識を知らなかっただけだ」という真っ当な現実認識に近づく。 そして勝者アメリカもイギリスも今、いったん壊れゆく。すなわち勝者の造った戦後秩序の解体である。敗戦国日本の出番が来ている。海に抱擁するメタンハイドレート、熱水鉱床、レアメタルといった自前資源を実用化して安くフェアに世界に出し、世界でいちばん安全で美味しい農産物をつくる小規模農家の創意工夫を大切にし、その食料をも世界にお分けする。そうやって、世界が資源と食料をめぐって争い、戦争になる時代を超克する。これが本物の平和国家である。 そうすれば敗戦後の日本社会に初めて、共通の目的が生まれる。子供たちは何のために勉強するかの根本が分かり、社会人は何のために働くかの新しい目的が分かり、人間関係に苦しんで自分を見失うことを克服していくだろう。 一身を捧げて惜しくない祖国が、そこに姿を現す。おのれを信じよう。日章旗をブラジルの大地に掲げた、この夏の日本選手のように。

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    戦費でみる大東亜戦争の異常性 GDP換算4400兆円の驚異

    に関する議論においてスッポリと抜け落ちているものがある。それは経済と金融の視点だ。経済体力を無視して戦争を遂行することはできないし、それを強行すれば太平洋戦争のように国家財政を完全に破たんさせてしまう。 日本は明治の近代化以降、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争という3つの大きな戦争を経験してきた。日清・日露戦争は経済体力の範囲内で遂行された合理的な戦争といってよいが、太平洋戦争だけはまるで状況が異なっている。太平洋戦争の異常さは数字を見れば一目瞭然である。  日清戦争における戦費総額のGDP(国内総生産)比は約0.17倍だった。当時の国家予算(一般会計)との比較では約3倍となっている。近代兵器が投入された日露戦争は戦費が大幅に膨らみ、GDP比では約0.6倍、国家予算比では約6.5倍になった。日露戦争はかなり無理をした戦争だったが、それでも国内の経済活動を犠牲にしなくても済むギリギリの水準に収めたとみてよいだろう。 ところが太平洋戦争になると根本的にケタが変わってくる。太平洋戦争(日中戦争を含む)の名目上の戦費総額は約7600億円だが、これはGDP比では33倍、国家予算に対する比率では280倍という途方もない数字である。当時の日本は、無理な戦費調達から歯止めの効かないインフレが進行しており、見かけ上の戦費が大きく膨れあがった。昭和17年4月、大阪・梅田の国債債券売場に女優の初代水谷八重子一座が応援。タスキをかけ戦時債券の販売PRをした インフレを考慮した実質的な戦費は2000億円程度になるが、それでもGDPとの比率では約8.8倍、国家予算との比率では74倍である。先ほどの数字よりは小さいものの、現在のGDPに換算すると4400兆円であり、天文学的なレベルであることに変わりはない。戦費を経済体力の範囲内に納め、国民生活に影響を与えることなく第二次大戦を乗り切った米国との違いはあまりにも大きい。 太平洋戦争の異常さは金額だけではない。その財務戦略もまるで異なっている。日清・日露戦争の戦費は基本的に国庫からの支出や国債の市中消化によって賄われた。特に日露戦争の戦費調達については、英国のシティと米国のウォール街にある投資銀行のネットワークがフル活用された。当時の資金調達の責任者であった高橋是清(のち蔵相・首相、2.26事件で暗殺)は、海外投資家に対して見事なプレゼンを行い、巨額の起債に成功している。 一方、太平洋戦争は費用があまりにも巨額であり、国債を市中で消化させることは到底不可能であった。当時の覇権国家である英国と米国を敵に回しており、グローバル市場で資金を調達することもままならない。結局、日本は戦費のほとんどを日銀の国債直接引き受けで賄った。 つまり日銀が輪転機を回し続けるという政策であり、当然のことながら、この施策は円の価値を激しく毀損させる。結局、日本は終戦をきっかけに物価が約180倍に上昇するという準ハイパーインフレを起こし、経済は完全に破たん。最終的には財産税によって国民の預金を根こそぎ奪う形で帳尻を合わせる結果となった。 日露戦争と太平洋戦争の顛末を比較すると、戦争というものが経済や金融と不可分であることがよく分かる。日露戦争では、日英同盟を背景に英国から最新鋭兵器を自由に調達することができた。資金面においても、シティとウォール街の協力を取り付けることに成功している。場当たり的対応だった太平洋戦争 一方で、経済力の問題から長期の戦争継続が難しいことをよく理解しており、奉天会戦と日本海海戦の勝利をもって、米国の仲介でロシアと講話条約を締結した。維新という半ばクーデターに近い形で政権を掌握した明治政府の指導者に対する評価は様々だろうが、現実主義的でグローバルな視点を持ち合わせていたことだけは間違いないだろう。 太平洋戦争はすべての面においてこれとは逆向きになった。グローバル経済に背を向け、戦費確保の見通しも立たないまま全面戦争に突入し、最後は国家を破たんさせてしまった。 太平洋戦争に至る経緯について、日本側には選択の余地がなかったとする見解が根強いが、果たしてそうだろうか。日露戦争後、満州への進出を強化した日本に対して、これを認めない米国との対立が深刻化したというのが教科書的理解である。だがこれは歴史をひとつの側面から見た解釈に過ぎない。経済やビジネスという視点で一連の経緯を振り返ってみれば、まったく異なった解釈も成立する。南満州鉄道本社(右、Wikimedia) 日露戦争後、米国側からは満鉄の経営を両国でシェアするプランが提示されたが、日本側はなぜかこの提案を蹴っており、これが太平洋戦争の遠因になったともいわれる(桂ハリマン協定)。この協定が本当に戦争の原因だったのかについては諸説あるのだが、ビジネスという視点で考えれば、日露戦争の最大の功労者であった米国と、満州経営に関してパートナーシップを組まないという日本側の決断は常識的とはいえない。 戦争というものは、それ自体が独立しているものではなく、日常的なビジネスの延長線上に発生するものである。日本には日露戦争後の経済的グランドデザインがなく、場当たり的な対応を繰り返すうちに、米国と取り返しのつかない溝を作ってしまったと考える方が自然である。 戦争と経済・ビジネスを切り離して考えるなど、そもそも不可能である。グローバルなビジネス競争を勝ち抜き、豊かな消費経済を維持できる国は、イノベーションが活発になり、結果として戦争遂行能力も高くなる。 日本はバブル崩壊以後、グローバルな競争社会に背を向け、相対的な経済規模を縮小させてきた。国家の安全保障について真剣に考えるなら、日本がまず取り組むべきなのは、グローバル経済における競争力の回復だろう。

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    自衛隊はいつまで「戦争ごっこ」を続けるのか?

    会話の趣旨は御理解いただけたであろう。 果たして戦後日本は、いつまでゴッコを続けるのだろうか。天災も戦争も、忘れたころにやって来る。

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    今も忘れられない、硫黄島の戦友たちの笑顔

    ととなりました。 硫黄島がすでに厳しい状況に置かれていることは、新聞やラジオで広く知られていました。戦争の最前線に赴くわけですから、決死の覚悟で行かねばなりません。 私は元来、気の小さい臆病者です。しかしこの時は喜び勇んで飛び立つ思いで、むしろ出立の日を待ち焦がれておりました。私に限らず、多くの将兵が抱いていた気持ちだったと思います。写真:栗林快枝氏蔵、撮影:佐々木悦久 出立前日、僅かな時間を利用して東京の姉夫婦の家を「別れの挨拶」のために訪れました。姉は私が硫黄島に行くと聞き、終始、泣いていました。戦場に赴く者が勇み、見送る者が涙を流す。私としては、そんな姉の姿を前に「よし、頑張らなくちゃいけない」と決意を新たにしたものです。 また、出立前には故郷・鹿児島の母から千人針の布が送られました。こうした家族の想いを胸にしまい、私たちはあの激戦の島へと向かったのです。 11月30日、東京の立川航空廠に隣接する飛行場で重爆撃機に乗り込みました。飛び立ってしばらくすると、後部座席の航法士が私の肩を叩いて「あれが硫黄島だ」と教えてくれました。 ──こんなちっぽけな島が、日本の命運を握っているのか……。 私は、開いた口が塞がりませんでした。島で出会った意外な光景 島に降り立ち、まず驚いたのが艦砲射撃や空襲で島中が穴だらけだったことです。飛行場には破壊された航空機の残骸が爆弾の穴に無造作に投げ込まれており、稼働可能な航空機は戦闘機4機のみ。飛行場のテントは、所々が破れています。 ──自分はいずれ、この島で命を落とす。私はこの時、改めて覚悟を固めました。同時に頭に浮かんだのが、「玉砕」という言葉。あの悲壮感は、言葉にできません。 ところが、私が赴任した元山飛行場で、意外な光景に出会いました。海軍の兵士や下士官が到着を待ち受けていたのですが、彼らは実に明るく、誰もが笑顔を浮かべていたのです。 何とも潑剌とした、顔、顔、顔……。その表情は悲壮感など微塵もなく、皆が落ち着いていました。祖国のため、内地に置いてきた家族のために、為すべきことを為す。彼らはその一心で、己の任務に向き合っていたのでしょう。そして、その笑顔に触れて、私は生き返った気持になったものです。 「もうすぐ、定期便が来ますよ」 硫黄島に到着したその日、1人の水兵にそう言われました。我々は陸軍ですが、海軍側と協同作戦をとることになったために、打ち合わせていた時でした。 聞けば、1日に4回ほど空襲に来る米軍機を「定期便」と呼んでいるとのことで、しばらくするとB‐29編隊の接近をレーダーがキャッチしました。私たちは、飛行場の滑走路すぐ横のトンネル状の壕に避難しました。 「爆弾投下!」の声があがると、夕立のような風を切るような音がして、耳を塞いでいても鼓膜が破れんばかりの爆発音が轟きました。硫黄島ではこれが日常でしたが、それでも「この島は大丈夫だ」と誰もが活き活きとしていました。栗林中将との思い出栗林中将との思い出 しかし、戦局は好転しません。敵機編隊が近づくと、一式戦闘機隼と海軍の零戦が迎撃に上がりましたが、悲しいかな、雀と鷹の戦い。敵機に撃ち落とされる機、地上で破壊される機、そして戦死するパイロット……。惨状を前に、私はただただ悔しさをかみ殺すしかありませんでした。 12月某日、市丸利之助海軍少将が御訓示をなされる機会がありました。「戦局はまさに重大である。皆心を一つにして各々の持ち場で奮闘せよ。しっかり頼むぞ」という意味の切々たる思いが込められていました。 しかし、年末には使用可能な戦闘機は一機も残っていませんでした。ここに至り、私たちは年明け早々、本土から迎えに来る重爆撃機で硫黄島を去ることになったのです。母からの千人針を手にする西氏 ちなみに、私は空襲の際、お腹に巻いていた母からの千人針の布のお蔭で、重傷にならずに済んだことがありました。母は残念ながら本土空襲で命を落としましたが、母の心配りが遠く離れた私を守ってくれたのです。 1月8日早朝、私が栗林忠道陸軍中将とお会いしたのは、重爆が迎えにくるその日でした。中将は、「ご苦労様でした。皆さんの御健闘は、各方面から感謝されております」と丁寧に礼を述べられました。司令官自ら、私のような末端の兵士にこのように優しい言葉をかけて下さることに、ただただ恐縮するとともに、何の役にも立てなかった恥ずかしさがこみ上げてきました。 また、中将は1人の兵が首にかけていた遺骨に目をやると、「この兵は、どうして亡くなったのですか」と聞かれ、まるで我が子を労わるようにしばし、遺骨を抱かれました。こんな上官のもとならば、死んでも悔いはない──その時に抱いた、率直な思いです。 やがて、迎えのトラックが来たので、これに乗り込みました。周りには、大勢の陸兵が見送りに来てくれています。僅かな期間でしたが、これほどに親密な「戦友」との出会いは他に経験したことがありません。 1人として、「自分も本土に帰りたい」と口にすることはおろか、表情にも出しませんでした。あの彼らの神々しいまでに美しい笑顔は、何時(いつ)までも忘れることができません。 私が島を離れた1カ月後、硫黄島に米軍が上陸し、厳しく、悲しい結末が将兵に待ち受けていました。私は今も、あの戦いで散華した戦友に、自分が生き延びたことへのお詫びと、感謝の思いで過ごしています。こうして、当時の体験を後世に伝えることで、少しでも御霊の慰めになればと思わずにはいられません。関連記事■ 愛する家族のため、大敵に挑んだ「硫黄島のサムライたち」■ 「歴史街道」8月号●硫黄島のサムライたち■ 「この名前、かっこいい!」と思う歴史人物ランキング

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    「鈴木貫太郎親衛隊」が語る昭和天皇による玉音放送の舞台裏

    断は、ポツダム宣言受け入れだろう。それを決断したのは昭和天皇と総理大臣の鈴木貫太郎である。貫太郎は「戦争継続」「本土決戦」を叫ぶ陸軍の主戦派から命を狙われていた。貫太郎を守るため、官邸のなかに極秘の組織がつくられた。「鈴木貫太郎親衛隊」である。 歴史の正史には存在せず、戦後長く封印されてきた「鈴木貫太郎親衛隊」。その生き残りが、いまも函館で静かに暮らしている。90歳の長松幹榮だ。私は、戦後70年を迎えるに当たり、長松に何度もインタビューしてきた。首相就任が決まり、宮中から自宅に戻った鈴木貫太郎(左)。77歳の首相誕生には昭和天皇の意向が強く働いた=昭和20年4月 私は戦争で命を奪われそうになった人の証言を聞くことがあるが、戦争を止めるために命を懸けた人の証言は初耳だっただけにじつに刺激的だった。この老人は70年前の「8・15」の攻防劇を鮮明に覚えていた。 長松がまず見せてくれたのは、自らの身分証だ。古ぼけていて、文字は辛うじて読み取れる。勤務地は内閣総理大臣官舎。交付日は昭和20(1945)年8月12日。終戦のわずか3日前だ。この身分証には、「内閣嘱託」という肩書が明記されている。 「四元義隆さんは、本当に深い人なのです。右翼の大物というと、軍国主義を煽った人物のように思われるかもしれませんが、まったくそれは違います。いかにして戦争を止めるか。それを必死になって考え、行動したのです。私にとっては生涯の師匠です。私がこれまでの人生を過ごせたのは、四元義隆先生とお兄さんの四元義正先生の薫陶を受けたからです」。のっけから飛び出した「四元義隆」という名前。戦前から右翼の大物として知られていた四元義隆は戦後、「政界の黒幕」と呼ばれ、歴代の総理大臣を指南してきた。吉田茂の懐刀となったのを皮切りに、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護熙などに助言してきた。 とりわけ有名なのは、中曽根との親交だ。中曽根は五年間の任期中、167回も台東区にある全生庵に出向いたが、座禅を指示したのは四元だった。 ちなみに総理大臣の安倍晋三は、8年前に病気で辞任した際、月に一度全生庵に通い、座禅を通じて体調が回復した(今年7月24日にも参禅)。中曽根にとって四元は最大のブレーンで、節目、節目で相談を受けた。 マスコミ嫌いで知られていた四元だったが、田原総一朗のインタビューには答えている(1995年6月号『中央公論』「『戦後50年の生き証人』に聞く(6)」)。インタビューで四元は、総理就任を固辞していた鈴木貫太郎を、高僧として知られていた山本玄峰〈げんぽう〉に引き合わせたことを明らかにした。 「玄峰老師がまっ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう』と、意見が一致したんですよ。その帰り、車の中で玄峰老師は、『もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ』と言いましたね」。それから十数日後に、鈴木貫太郎は総理に就任した。 四元は戦前、国粋主義者のテロリストとして知られていた。大蔵大臣の井上準之助や三井財閥の團琢磨らを暗殺した昭和7(1932)年の血盟団事件の首謀者の一人だったためだ。戦中は、近衛文麿や鈴木貫太郎の秘書役を務め、東条英機への反旗を鮮明にしていた。「東条は日本を亡ぼす。このままでは危うい。この戦争は止めなければならない」と、重臣らを説得して回った。東条暗殺計画を企てたともいわれている。 こんな四元を師匠として尊敬する長松は「鈴木貫太郎親衛隊に入るきっかけは高峯道場でした」と語った。この仕事で俺は死ぬこの仕事で俺は死ぬ 長松は神奈川県にあった高峯道場で半年間訓練していた。この道場は、東アジアの現地駐在員を養成する機関だった。現地の言葉を教えるだけでなく、座禅などを通じて人間教育をしていた。道場には、常時40〜50人の道場生がいた。この高峯道場の道場長は、四元義正。四元義隆の兄だ。 長松は昭和20年3月に道場を「卒業」した。直後の東京大空襲の惨状を見て「日本の敗戦は近いのではないか」と不安な気持ちになった。夏になり、高峯道場に戻った。卒業していたものの、5期生の控室があり、そこで寝泊まりしていた。そんなある日、高峯道場の本部から呼び出しを受けた。道場長が緊急の用事があるとのことだった。長松は道場長の四元義正と面談した。 「おまえの出番が来たぞ。重要な任務を遂行してもらう。どんな任務かは話せない。よいか。これからおまえのする仕事は国民からバドリオという汚名を受けることになるが、国家百年ののちには英雄として崇められるだろう」 ピエトロ・バドリオは、イタリアでムッソリーニ失脚後に首相に就いた政治家だ。国王の意向を受けて密かに連合国と休戦交渉を進めた。日独伊三国同盟からみれば、真っ先に連合国側に寝返った「裏切り者」だ。戦時下の日本では、バドリオという言葉は、裏切り者や卑怯者の代名詞だった。 緊張して四元義正の話を聞いた。具体的な任務については、義正の弟の義隆が説明するという。どんな仕事なのだろうか。義隆さん直々に話してくれるそうだが、この仕事で俺は死ぬ。それだけは確かだ。特攻で死んだ同級生もいる。 「この任務遂行でおまえの命はないだろう。身辺整理はちゃんとしろ」、四元義正は命じた。 長松は直ちに控室に戻り、障子紙を探し出した。剃刀を用意したが、さび付いていた。丁寧に砥いだ。長松は思い切って、右親指に剃刀を入れた。その血で書いたのが「七生報国」。これは、後醍醐天皇に仕えていた楠木正成が、足利尊氏に敗れて自刃したときに誓った言葉だ。7回生まれ変わって、逆賊を亡ぼし、国に報いようという意味だ。神戸・ 湊川公園の楠木正成像(Wikimedia) 長松はかねがね、人生最後の局面では、この「七生報国」を書こうと思っていた。 次は父親宛ての遺書だ。墨をすって、書いた。19歳まで育ててくれた感謝の意を示さねばならない。道場の神棚の前で沈思黙考しながら正座した。 およそ30分間かけて、生活用品を雑嚢に入れ、旅の準備を整えると、すでに、後輩の六期生は道場の前の庭で整列していた。長松の壮行会を開くためだ。死んだ母親の顔が浮かんできた。 まず四元義正が壇上に立ち、挨拶した。 「長松くんは、重要な任務遂行のため、東京に出る。おそらく生きて帰れないだろう。ただ、日本という国のため、重要な仕事だ。みんな送り出してやってくれ」 長松は晴れがましい表情だった。 「この道場では、四元先生の教えを受けて、きわめて有意義な時間を過ごせました。本当に感謝しています。二度とお会いできないかもしれませんが、私はお国のために、出陣します」 大急ぎで道場所有の車に乗り込んだ。車窓からは、途中真夏の陽光を浴びる樹木などを眺めた。これで見納めだろう。子供のころ裏山で蝉取りしたことなどを思い浮かべた。「今晩、陸軍が襲撃する」 途中列車に乗り換え、吉祥寺にある四元義隆の家に着いたのは午後3時ごろだった。 薄暗くなる夕刻の時間帯の午後6時。床の間に供えられた神棚に灯明が灯された。義隆の家には、次々に若者が姿を現した。彼らに対し、四元義隆は「命は俺が預かった」と言い放ったあと、具体的な任務を説明した。「日本は窮地に立たされている。広島や長崎で原爆が落とされた。このまま戦争を続ければ、本土決戦は避けられない。ポツダム宣言を受け入れることこそが、日本の国体を維持することになる。鈴木総理は命懸けで、受け入れの準備をしている。ただ、陸軍はそれに強硬に反対しており、いつ反乱を起こすかわからない。総理の身に何かあれば、日本の再興は困難になる。ここにいる4人が総理の警備の柱になってほしい」 鈴木貫太郎を襲ってくる部隊がいれば、素手で立ち向かう。それが四元義隆の命令だった。 この親衛隊の隊長は北原勝雄。四元にとっては、鹿児島二中、七高柔道部の後輩だ。四元からの信頼は厚かった。 四元の話が終わると、各メンバーの前に盃が配られた。一人ずつ、四元の前に進むと、盃にお神酒が注がれた。自分の身を盾にして総理を守ることを誓って盃を空けた。これは、親衛隊の結成式だった。 親衛隊はその後、用意された車で、小石川・丸山町の鈴木貫太郎の私邸に向かった。事前に下見する必要があるからだ。 長松は11日、四元の家に泊まった。翌12日、朝起きて官邸に出向くと、内閣嘱託という身分証を手にした。それから総理官邸での不眠不休の警護が始まった。 なぜ、鈴木貫太郎親衛隊が生まれたのか。四元と書記官長の迫水久常は同じ鹿児島県出身で旧知の間柄だった。当時陸軍のなかでは、徹底抗戦派が殺気立っており、2人はかねがね鈴木貫太郎の護衛に関して懸念を抱いていた。そこで、戦争終結を必死で考えている青年や学生がメンバーとなる親衛隊が必要との考えで一致した。 翌13日、事態は早くも緊迫した。北原のもとに、「今晩、陸軍が襲撃する」という情報が入った。北原は長松ら3人を呼び出した。 「一兵たりとも、総理の部屋に通してはいけない。命懸けで立ち向かえば、お守りすることは可能だ」と鼓舞した。武器を持っていない親衛隊にとっては、身を挺して総理を守るしかない。官邸内は灯火管制で真っ暗だ。親衛隊の部屋は、総理官邸の正面玄関に向かって左2つ目にあった(私邸は、玄関を入り直ぐの間に位置)。真夏なのに窓を閉め切っており、暑い。じっとりと汗が流れた。しかし、この日、陸軍は姿を現さなかった。みな一睡もしないまま夜が明けた。決死の脱出劇決死の脱出劇 そして日本の運命を決めた14日。御前会議で、天皇陛下はポツダム宣言受諾を最終決定した。すべての閣僚が終戦詔書に署名したのは、午後11時過ぎになっていた。その後、日本政府は、連合国側にポツダム宣言受諾を伝えた。鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常 北原は一日中、貫太郎のそばに張り付いていたが、書記官長室で迫水と出会った。迫水の耳元で、「今晩陸軍が蜂起し、官邸を襲うという情報が入っています」と囁いた。迫水は北原に本音を漏らした。 「今晩は総理の私邸に行かずに一緒に泊まっていただけないか」 北原は無下に断るわけにはいかない。総理官邸でしばらく過ごすことにしたが、朝まで総理を私邸に放置するわけにはいかない。迫水には、「午前4時に車を用意してくれませんか。その後は、総理の私邸に向かいます」といった。 午前4時。北原らはすぐに総理私邸に向かおうとした。しかし、迫水と約束した車は見当たらない。そこで車を借りるため桜田門の警視庁に向かった。 長松は、官邸の門で陸軍の一個分隊10人ほどの姿を見た。軍人たちは「への字」の形で並ぶケサ型散開を完了、いつでも銃弾を撃てるように準備していた。北原は長松に対して「よそ見をせずまっすぐ歩いてついて来い」と指示した。 のちに聞いたところ、この陸軍の分隊は東京警備局横浜警備隊長の佐々木武雄が率いており、横浜工専(現横浜国立大学工学部)の学生らも参加していた。 佐々木は警察官数名に拳銃を抜いて「国賊を殺しに来た。刃向かう者は直ちに殺すぞ」といい、貫太郎暗殺を宣言した。それに対し、警察官は「総理はいま丸山の私邸に戻りました。あちらを襲撃すればいい」と告げた。当時の警察官は、士気が落ちており、反乱軍から総理を守ろうという気概はなかった。 一方、北原は警視庁で「俺は内閣の者だ。官邸が襲撃された。総理私邸まで車を出してくれ」と頼んだ。 警視庁は事態が緊迫していることを察知し、すぐにガソリン車のオープンカーを用意してくれた。運転手は警視庁の関係者で、助手席には長松が座った。この運転手は幸いにも、総理私邸付近の地理を熟知していた。 ところが、車が二重橋前に差し掛かろうとした際、銃を持った兵士が「止まれ!」と叫んだ。車は仕方なく、止まった。 「ここから一歩でも動いてみろ。殺すぞ」。一人の兵士は、銃先を車に突き付けてきた。 北原はふいに「右に回れ」と大声で叫んだ。車が急発進し、兵士たちは道を空けた。車は加速し、総理私邸に向かった。この兵士たちは、上司を殺害し、終戦に徹底的に反対した近衛師団所属の反乱軍だったとみられる。皇居を占拠し、天皇が終戦の詔勅を読み上げた「玉音放送」の録音盤を奪おうとしていたグループだ。 北原は、この反乱軍が占拠している宮城(皇居)前の広場を通るのは無理だと思い、宮城を逆回りすることにした。三宅坂、半蔵門から靖国通りに入り、九段を抜けて、小石川・丸山町へ急行するルートだ。空襲にも焼け残った私邸が灰燼に帰す 車が飯田橋の先の道を左折した際、付近で乗用車とトラックが見えた。三角青旗を立てていた。佐々木らの部隊はこの2台に分乗していた。一方、北原は運転手に「なんとか、あの車より早く到着してくれ」と命じた。運転手は裏道を猛スピードで走る。大塚仲町を経て、総理私邸に到着した。ちょうどそのころ、鈴木貫太郎は私邸から脱出しようとしていた。官邸から、襲撃隊が私邸に向かっているとの電話連絡があったからだ。 貫太郎の私邸に到着した北原は、土足のまま家の中に入った。車の前で待っていた長松たちは「北原隊長が、鈴木総理の腕を引っ張って、玄関の外に出したのを見ました」と語る。高齢の貫太郎は動きがゆっくりしていた。やっと車に乗り込み、北原も同乗した。 ところが当時、ガソリンの質が悪く、エンジンがかからない。長松は思い出す。「坂道だったのですが、親衛隊と警備の警察官がみんなで車を押してやっとエンジンがかかりました」。 ぎりぎりのタイミングで貫太郎は脱出できた。それは「偶然の産物」だった。大通りを走っていた佐々木ら襲撃隊の車は、もうすぐそばにいた。しかし、大通りに面した総理私邸が質素なため、通り越していた。大通りの坂の上には大きな豪邸があり、そこが総理私邸だと勝手に思い込んでいたのだ。 そして、もう1つの偶然があった。普段なら総理専用車は方向転換して大通りに面して駐車していたが、この日は、私邸に隣接する左折した道に頭から突っ込んでいた。そのため、総理専用車は裏道をそのまま進んだ。大通りを進んでいたならば、襲撃隊の車と鉢合わせとなっていた。 佐々木ら襲撃隊はその直後に、総理私邸に到着。「総理はどこにいる」と叫びながら土足で私邸に上がり込んだ。そして、一部屋一部屋を押し入れまでチェックし、そのあとガソリンをまいて、火をつけた。鈴木の家は全焼した。空襲にも焼け残った家が灰燼に帰したのだ。 消防団が駆けつけたが、「国を売った総理の家に水を掛ける義理はない」といって本気で消防活動に当たらなかったという。 その後、佐々木らの部隊は、淀橋区西大久保にあった枢密院議長の平沼騏一郎の自宅に向かい、この家にも火を放った。自彊不息 鈴木貫太郎親衛隊の長松は、貫太郎が私邸から脱出したのち、警視庁で借りたオープンカーをエンジンを切らずに待たせておいたので、すぐ残った3名が乗車した。運転手の「次はどこへ」との声に「最も近い駅に着けてください」というと、そこがたまたま駒込駅であった。駅で車を降りると山手線と中央線を乗り継いで、吉祥寺にある四元邸に向かった。長松は巣鴨駅を過ぎた際、山手線の窓から外を見た。朝もやのかかるなか、2カ所から煙が上がっていた。1つは、いましがたまでいた総理私邸だ。もう1つは、平沼枢密院議長の私邸だった。いずれも佐々木たちが火を放った。 長松らは四元に報告した。四元は黙って聞いていた。長松は三日三晩徹夜したが、眠くはなかった。そしてこの四元邸で正午を迎え、玉音放送を聞いた。玉音放送での終戦の詔の後、たくさんの人たちが宮城(皇居)前広場でひざまずき頭を下げた=昭和20年8月15日自彊不息 長松は長い話に多少疲れたようだったが、私にもう一つ見せたいものがあるといって、仏壇の引き出しを開けた。そこには、古い色紙が入っていた。「自彊不息〈じきょうやまず〉」 それは貫太郎の書で、たゆまぬ努力を続けることの大切さを説いたものだ。貫太郎は終戦ののちに、親衛隊のメンバーを親戚の家に呼び、一人一人に直接手渡した色紙という。 貫太郎は昭和11(1936)年の「二・二六事件」の際、陸軍のクーデター部隊に襲われ、3発の銃弾を受けている。平和の尊さ、そして陸軍の恐ろしさを最も痛烈に認識している男だ。死の直前「永遠の平和、永遠の平和……」と繰り返し語った。 長松は貫太郎に対する畏敬の念を抱きながら、「鈴木貫太郎閣下は『戦争が終わり平和になった。君たちは若い。これからの日本に平和が継続するために頑張ってほしい』とおっしゃいました」と語った。 その上で語気を強めた。 「鈴木貫太郎閣下も、四元義隆先生も、そして末端の私も、皆戦争を終わらせるのに命を懸けました。戦争は始めるのは簡単ですが、終わらせるのは大変なのです」 長松の熱い言葉を聞きながら、私は思いを新たにした。戦後70年の日本の平和は、先人たちの魂の上に築かれているのだ。それを忘れてはいけない。〈文中敬称略〉でまち・ゆずる ジャーナリスト。1964年、冨山県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科を卒業後、時事通信社入社。ニューヨーク特派員を経てテレビ朝日入社。番組デスクの傍らで、東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。著書に『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(幻冬社)などがある。経済記者として数多くの企業トップのインタビューも手がける。関連記事■ 戦後70年、「日本軍が侵略した」と騙るすべての人へ■ 従属国家論~日米戦後史の欺瞞(2)■ 軍を捨てて国を残した「阿南惟幾」という男/役所広司

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    国民の殉難を現在の戒めとする行為、靖国英霊の大前こそふさわしい

    て原爆被害者の慰霊碑に詣で来り、謂(い)はばその罪責を自ら認めたのであるから、此の日を無辜(むこ)の戦争殉難者の慰霊を斎行し、その悲痛の記憶を新たにする日とするのは適切であらう。原爆慰霊碑に献花するオバマ米大統領=5月27日(AP) ところで昭和12年7月29日に発生した北京東郊通州での邦人居留民(内地人117名、朝鮮人106名)大量虐殺事件の惨劇について、筆者には別種の或る感慨がある。昭和61年夏の高校用国史教科書外圧検定事件の記憶である。 あの時、原書房から刊行予定の『新編日本史』の監修者の一人として、筆者は文部省教科書調査官の検定意見を拝聴する立場に在つたのだが、この教科書に記述してあつた通州事件の悲劇については57年の検定虚報事件の跡始末として宮沢喜一官房長官の定めた近隣諸国条項の壁は何とか突破したものの、検定合格後に更に加へられたいはゆる外圧修正として遂に削除を命ぜられた記憶を持つ。 その外圧とは、文部省は「向こう側」の要求だとしか言はず、それは何者かとの私共の反問に、只、察してくれ、といふだけだつたが、本紙61年7月5日号は第1面に、それは北京政府と外務省内の親中派の事だ、と判然と認める体の記事を作つてくれてゐる。 あれから本年で丁度30年が経過した。この間平成2年には故中村粲(あきら)氏の労作『大東亜戦争への道』が刊行になつて、済南事件、通州事件共に、漸(やうや)くその実相が具体的に記述されるに至つたが、それ以前は例へば『國史大辭典』の如き斯界の権威たるべき基本的文献に於いてさへも、中華民国側の虚偽宣伝をそのまま批判も加へずに引用したかの如き筆法によつて他人事の様に記してゐるだけである。忘却を強いられた歴史の記憶を取り戻せ 通州事件については最近、藤岡信勝氏が、数少ない生存者からの証言の直接取材によつて極めて具体的な現場検証に近い研究を発表してをられる。この事件を歴史の教科書に記載するといふ懸案も、氏が執筆者の一人である中学校用の教科書で実現した由である。 そればかりでなく氏と同氣同憂の方々は、この事件をユネスコの世界記憶遺産に登録を申請する事にまで踏み込まれた。首尾よく申請が承認される事を祈るばかりである。只、肝腎なのは我々日本国民各自が、この悲惨な事件を、謂はば国民共有の記憶遺産として、日本国の直面する国際関係の諸問題に対処するに当つて常に意識の根柢(こんてい)に蔵しておく事である。 同じ文脈で頭記の殉難者慰霊祭実行委員会代表の現代史研究家、水間政憲氏の「ひと目でわかる」との冠をつけたグラフ形式の近現代史再検証の連作が回を重ねて第9冊に達してゐる事の意味も大きい。重要なのは〈歴史を奪はれた民族は滅びる〉との有名な命題の裏返しとして、今我々は民族として生き延びるための条件である、忘却を強ひられた歴史の記憶を我が手に取り戻す事業を推進しなければならない、この一事である。 念の為に注記しておくならば、靖國神社は嘉永6年の黒船来航以来、国事に身を捧(ささ)げて斃(たふ)れた人の霊を祀(まつ)るお社である。従つて済南事件、通州事件についても、日本居留民及び在外権益の保護といふ官命を受けての公務遂行途上で落命した軍の兵士達の霊は合祀されてあるが、外地で商工業に従事してゐた一般居留民の殉難者の霊は合祀されてはゐない。終戦記念日に多くの参拝者が訪れる靖国神社=2016年8月15日、東京都千代田区 それは、戦闘員ではないが最後まで職場で公務についてゐて自決した樺太真岡の電話交換手達や、官命による学童集団疎開の途上で敵国からも安全を保障されてゐた乗船阿波丸を撃沈されて全員海没してしまつた一般乗客が合祀の対象になつてゐるのに、全国六十余都市に向けての米軍の戦略爆撃の犠牲者は、各自の生業の場での遭難である故に公務死以外は合祀されてゐないのと同じである。 さうした宗教学上の問題はさて措いて、近現代に於ける対外関係の中での国民の殉難の歴史を想起し、改めて記憶に刻み、以て今日現在の戒めとするといふ試みは、やはり国民の守護神である靖國の英霊の大前でが適(ふさは)しいと思ふ。

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    国のために死ねる自衛隊員の人生観とは

     あなたは国のために死ねるか。話題の新書の著者について、コラムニストのオバタカズユキ氏が語る。 都知事選や大量殺人などの騒ぎにおされて、誰も気に留めていなかったが、7月の最終週には北朝鮮の拉致問題関連ニュースが2本流れた。1本は、拉致事件に関与した疑いで国際手配されている元工作員、シン・グァンスが、朝鮮中央テレビに映っていた件だ。日本の警察は2006年から身柄引き渡しを求めているのだが、北朝鮮は未だに彼を英雄扱いしている。 もう1本は、日本の岸田外務大臣が東南アジア諸国連合のラオス会議で、北朝鮮に対し「すべての拉致被害者の帰国を含む一日も早い拉致問題の解決を求める」と述べた件。それがどの程度の実効的意味を持つのかは分からないが、拉致被害者家族が高齢でいつ亡くなってもおかしくないことを考えると、ずっと外交的努力を続けるだけでいいのかよ、という思いにもなる。 日本は平和国家。ゆえに、幾ら効き目がなさそうでも、飽くまで外交的努力でこの難題を解決していく。というコンセンサスが揺るがないなら、自分が拉致被害者家族であれば我慢できないと思う。なぜ実力行使で取り返してくれないのか、自分たちは見捨てられているんじゃないか、と。しかし、戦後の日本はずっと打つ手なしで、乱暴者の北朝鮮にやられっぱなしかというと、そんなこともないのだ。武力を用いて、拉致船と戦った過去がある。 1999年の能登半島沖不審船事件がそれだ。拉致した日本人を乗せて航行中と思われる不審船を、海上自衛隊のイージス艦「みょうこう」が猛追、不審船のわずか200~50メートル前や後や横に何発もの炸裂砲弾を発射した。護衛艦「みょうこう」 その破壊力に参ったか、不審船は真っ暗な日本海のど真ん中に停船。「みょうこう」の若い自衛隊員たちが、まさに死を覚悟し、不審船内に立入検査のため乗りこもうとした。その刹那、不審船は再び逃走。結果的には取り逃がしたのだが、そんな大事件があったことをほとんどの日本人は知らない。かく言う私も昨年の2月に、その事件について触れた毎日新聞の記事を読むまで、まったく知らなかった。この国が国民を守るためそんな無茶をしていたなんて、驚いた。 7月20日に刊行された一冊の新書。『国のために死ねるか』の著者は、海上自衛隊の「特殊部隊」である特別警備隊の創設に携わった伊藤祐靖だ。上記の毎日新聞記事で紹介されていた元自衛官で、いまは警備会社のアドバイザーなどを務めている。そして伊藤は、東京で私塾を開き、現役自衛官らに、自分が身につけた知識、技術、経験を伝えている。 毎日新聞で伊藤祐靖の存在を知り、私は妙に惹かれた。伊藤は自分と同じ1964年生まれ。いい学校、いい会社に入ることが至上価値という標準的な生き方が苦手で、高校時代までずいぶんヤンチャをしていたらしい。私の10代もちょっとそうだった。彼は茨城でドタバタ、私は千葉でモンモン。かつて「チバラキ」という蔑称があったが、育ったエリアもそう違わない。どこか似た者同士かもという勘が働き、会ってみたら案の定、ウマが合い、共に一冊の本を作る間柄になったのである。波乱万丈の伊藤氏の半生記 伊藤祐靖は能登半島沖不審船事件の際、「みょうこう」に航海長として乗船しており、そこで何があったかを詳細に知っている。そして、ほんのついさっきまでバカ話をしていた若い下士官たちが、立入検査の命令を受け、わずか5分ほどで死を覚悟した様を見ている。伊藤は、「これは間違った命令だ」と考えていたそうだ。死を覚悟した若者たちの表情を美しいと感じつつ、「彼らは向いていない」とも思ったとのことだ。 追い詰められたら自爆確実の不審船に乗りこんで拉致被害者を救出するような任務は、「まあ、死ぬのはしょうがないとして、いかに任務を達成するか考えよう」といった人生観の持ち主に任せるべき、と伊藤は言う。彼自身そういう人間だし、自衛隊の中にも一定数そういう連中がいる。その種の者を選抜し、特別に訓練をさせて実施すべきだ、と。 そして、そのわずか2年後の2001年に、自衛隊初の「特殊部隊」である特別警備隊が誕生した。現場リーダーのような立場だった伊藤は、2007年まで特殊部隊に所属、異動の内示が出てそれを拒否、特殊戦の能力を磨くため単身ミンダナオ島に飛んだのだが、この調子だとコラムが終わらない。波乱万丈な彼の半生記は、『国のために死ねるか』で堪能していただきたい。 ただ、日本に特殊部隊がてきて以降、新たな拉致事件はおきていない。おそらく抑止力が効いたのだ。それはそれとして、ここでは本の中に書かれていない、彼の私塾について少し触れておく。 本の完成度を上げたかったから、伊藤祐靖とは議論を重ねるだけでなく、彼の「現場」にも行かせてもらった。私塾に数回、見学者として参加。彼らは、銃の使い方から近距離での戦闘法まで、かなり高度と思われる座学を数時間、その後、実技訓練を繰り返し行っていた。 私塾の訓練は海や山でも行われるが、基本的には東京のビルの地下を拠点にしている。少し秘密基地っぽい地下室に入ると、そこはフィットネスクラブみたいに明るい。だが、すぐさま普通でないと分る。壁にたくさんのモデルガン、奥の方には射撃の的がある。リアルな人の顔の的も設置されている。 でも、そこの空気は柔らかい。伊藤祐靖がそういう人だからなのだが、参加している他者に対して、みんなすごくフラットに接する。見た目は、ヤンチャな感じの若者が主流なのだけど、体育会ではなく同好会くらいの礼儀正しさで、すごく自然体だ。関連記事■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ 人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績■ 福島原発に災害派遣されたのと同じ74式戦車を間近で見られる■ 女性自衛官1.2万人 ヘアカラーやネイルはどこまで許される?

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    共産主義の戦争責任を問う

    戦後70年を迎え、改めて注目される日本の「戦争責任」。本当に、日本だけが悪かったのか。日本は侵略国家だったのか。この問題を考える一助として、近年保守論壇を中心に注目されている「共産主義の戦争責任」についてシリーズで論じたい。

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    アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略

    相次ぐヴェノナ研究の新たな成果を紹介し続けている。 この中では、従来の東京裁判史観とは違って、「日米戦争を引き起こしたのは、ルーズヴェルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのか」という視点まで浮上してきている。東京裁判史観からの脱却をめざす我々にとって、絶好のチャンスを迎えているのだ。 意外なことに、アメリカの反日運動の背景にソ連のスパイたちの暗躍があることに当時から気づいていた人物がいた。日本外務省の若杉要ニューヨーク総領事である。若杉総領事は昭和13年から15年にかけてアメリカの反日運動の実態について詳細な報告書をたびたび作成し、外務省に報告していたのだ。 若杉総領事が作成した報告書の多くは当時機密文書扱いであったが、平成14年からアジア歴史資料センターにおいて公開され、現在はアジア歴史資料センターのホームページにて誰でも見ることができるようになっている。 これら若杉総領事の報告書とヴェノナ文書、コミンテルン文書等を併せ読むことで、ソ連・コミンテルンの対米工作の一端が見えてくる。その実態を最新の研究成果を踏まえ、順を追って再現したい。◇第1段階アメリカ共産党の創設 ソ連の指導者レーニンは1919年、世界共産化を目指してコミンテルンを創設した。 世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、共産党一党独裁政権を樹立することである。ではどうやって世界共産化を成功させるのか。レーニンは、「敗戦革命論」を唱えた。敗戦革命論とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略だ。 要するに、共産主義革命のため、国家間の対立を煽って戦争を引き起こし、自国を敗戦に追い込もうというのだ。なんとひどい発想だろうか。日本にとって不幸だったのは、この謀略の重点対象国が、日露戦争を戦ったわが日本と、世界最大の資本主義国家アメリカだったということだ。日米二つの資本主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、コミンテルンにとって最重要課題であった。現にレーニンは1920年、世界共産化を進めるためアメリカを利用して日本に対抗し、日米両国の対立を煽るべきだと主張している。 こうした「資本主義国間の戦争から敗戦革命へ」という戦略を遂行するために1919年、コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ共産党も設立されたのである。◇第2段階人民統一戦線を構築せよ 1931年、アジアで満州事変が勃発し、ソ連は日本と国境線を挟んで直接対峙することになった。 日本の台頭に恐怖を覚えたコミンテルンは1932年2月、「満州に対する日本の攻撃と反ソ大戦争の準備との密接な関係」を理解していない外国の同志たちを厳しく叱責し、「断固たる大衆動員が必要である。何よりも、あらゆる資本主義国の鉄道を通り、あらゆる資本主義国の港から日本に向けて積みだされる武器と軍需物資の輸送に反対しなければならない」として、日本と戦う中国を支援するとともに、対日経済制裁を起こすよう各国の共産党に指示した(クリストファー・アンドルー他著『KGBの内幕・上』文藝春秋)。 この指示を受けてアメリカ共産党は1933年、「日本の侵略に抵抗する中国人民の闘い」を支援する世論を形成してアメリカの力で日本を押さえ付けるべく、「アメリカ中国人民友の会」を設立した。同会の会長には左翼系雑誌『ネイション』の編集者マックスウェル・スチュアート(4)が、機関誌『チャイナ・トゥデイ』編集長にはフィリップ・ジャフェ(5)がそれぞれ就任した。二人とも当時ソ連との関係を否定していたが、ヴェノナ文書でソ連のスパイだったことが判明している。 この1933年にドイツではヒトラー政権が成立。日独という二つの反共国家の台頭に脅威を感じたソ連は世界戦略を大きく転換する。1935年にモスクワで開催された第7回コミンテルン大会において、従来の「階級闘争・世界共産主義革命路線」を修正し、日独というファシズム国家と戦うためにアメリカやイギリスの資本家や社会主義者とも手を組んで広範な人民統一戦線を構築するよう各党に指示したのである。 一方、ルーズヴェルト大統領も1933年、ハミルトン・フィッシュ下院議員ら保守派の反対を押し切ってソ連との国交を樹立した。 コミンテルンによる人民統一戦線路線と米ソ国交樹立を受けてアメリカ共産党は、「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」という外廓団体を設立し、「教職員組合(AFT)」や「産業別組織労組(CIO、組合員数150万人)」といった労働組合や「アメリカ反戦会議」(ジョン・デューイ会長)といった平和主義団体、そして宗教界、スポーツ界、芸術界などに積極的に入り込んでいった。 共産党色を消したこの反ファシズム運動は、ナチス・ドイツの台頭を憂慮するリベラル派知識人やキリスト教グループなどの参加を得るようになっていく。 この人民統一戦線の指導にあたったのは、コミンテルンの指示で1934年にアメリカ共産党書記長となったアール・プラウダー(6)であった。アメリカに来るまでは、中国において周恩来やリヒャルト・ゾルゲなどと共に諜報工作を行うプロの活動家であったプラウダーは、上海では「南京での市民二十万人虐殺説」を唱えた有名な作家のアグネス・スメドレー女史(7)とも仕事をしていた。 ちなみにスメドレー女史(7)は生前、ソ連との関係を否定してきたが、コミンテルン文書の公開によって、1935年9月2日付でプラウダー(6)がコミンテルンの指導者ディミトロフに出した手紙が見つかり、スメドレー女史(7)がコミンテルンからの資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明している(H・クレア他著『アメリカ共産党とコミンテルン』五月書房)。◇第3段階シンクタンクIPRの乗っ取り この人民統一戦線を理論的に支えたのが、当時アメリカ最大のアジア問題のシンクタンク「太平洋問題調査会(IPR)」だった。 IPRは、アジア太平洋沿岸国のYMCA(キリスト教青年会)の主事(教会の牧師にあたる)たちが国際理解を推進すると共にキリスト教布教を強化する目的で1925年、ハワイのホノルルで汎太平洋YMCA会議を開催した際に創設された。 ロックフェラー財団の資金援助を受けたIPRはアメリカ、日本、中国、カナダ、オーストラリアなどに支部を持ち、2年に一度の割合で国際会議を開催、1930年代には世界を代表するアジア問題についてのシンクタンクへと成長することになる。 このIPRを、アメリカ共産党は乗っ取ったのだ。YMCA主事としてインドや中国で活動したエドワード・カーター(8)が1933年に事務総長に就任するや、中立的な研究機関から日本の外交政策を批判する政治団体へと、IPRは性格を大きく変えていく。カーター事務総長(8)は1934年、IPR本部事務局をホノルルからニューヨークに移すと共に、政治問題について積極的に取り上げることを主張し、機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長にオーエン・ラティモア(3)を抜擢した。 後にマッカーシー上院議員によって「ソ連のスパイ」だと非難されたラティモア(3)はIPRの機関誌において日本の中国政策を「侵略的」だと非難する一方で、中国共産党に好意的記事を掲載するなど、その政治的偏向ぶりは当時から問題になっていた。 にもかかわらず、ラティモアを擁護し続けたカーター事務総長(8)はFBIの機密ファイルによれば、自ら「共産党のシンパだ」と認めており、その周りには共産党関係者が集まっていた。一九二九年にカーター(8)の秘書としてIPR事務局に入ったフレデリック・ヴァンダービルド・フィールド(9)は有名な資産家の息子で、その左翼的言動から「赤い百万長者」と呼ばれていた。そのほか、カーター事務総長(8)のもとでIPRの研究員となったメンバーは、歴史学者で後にカナダの外交官となったハーバート・ノーマン(10)、シカゴ大学出身で1941年には蒋介石政権の財務大臣秘書官となる冀朝鼎(きちょうてい)(11)、そして上海でゾルゲ・グループの一員だった陳翰笙(ちんかんしょう)(12)がいるが、ヴェノナ文書によれば、フィールド(9)も冀朝鼎(11)もソ連のスパイだった。陳翰笙(12)は中国共産党のスパイだったし、東京裁判でA級戦犯選定に関与したハーバート・ノーマン(10)も戦後の1957年、アメリカ上院司法委員会で共産党員ではないかと追及され、エジプトで自殺している。 IPRは一九三九年になると、冀朝鼎(11)、陳翰笙(12)ら共産党員の手で、ハーバート・ノーマン(10)著『日本における近代国家の成立』など日本の中国「侵略」を批判する「調査シリーズ」というブックレット集を次々と刊行し、欧米諸国の外交政策に多大な影響を発揮したばかりか、アメリカの対日占領政策の骨格を決定することになった。 何故ならIPRは戦時中、太平洋方面に派遣される陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与すると共に、『汝の敵、日本を知れ』といった啓蒙用反日パンフレットを軍や政府に大量に供給したからである。 特にIPRが製作に協力したフランク・キャプラ監督の宣伝映画『汝の敵を知れ』は、日本が世界征服を目論んでいたとする田中メモランダムや「国家神道による洗脳」、「南京大虐殺」などが毒々しく紹介され、神道指令や東京裁判における「南京大虐殺」追及へとつながることになった。因みにこの反日宣伝映画の製作や米軍将校教育プログラムをIPRに委託するよう指示したのは、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長(2)だった。◇第4段階中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊 1936年12月、中国で西安事件が起こり、中国国民党の指導者蒋介石は、中国共産党と共に抗日戦争を開始する方向へと政策転換を強いられた。この国共合作を支援するアメリカ世論を形成すべく、「赤い百万長者」のフィールド(9)は1937年3月、『チャイナ・トゥデイ』編集長ジャフェ(5)と共に、中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊する。 その編集部事務所は、IPR事務局と棟続きに置かれ、IPR機関誌の編集長ラティモア(3)、冀朝鼎(11)、そして元在中国宣教師で外交政策協会研究員のT・A・ビッソン(13)が編集委員となった。戦後GHQの一員として財閥解体などを担当したビッソン(13)もまたヴェノナ文書によれば、ソ連のスパイであった。 『アメラジア』を創刊したジャフェ(5)やフィールド(9)は1937年6月、ラティモア(3)やビッソン(13)と共に訪中し、作家のスメドレー女史(7)とも合流して中国共産党の本拠地である延安を訪問、毛沢東、周恩来らにインタビューをしている。来るべき日中戦争に際して、いかなる諜報工作を展開するのか、綿密な協議が行われたに違いない。◇第5段階「ルーズヴェルト大統領一族を取り込め」 1937年7月、盧溝橋事件が起こると、アメリカの反ファシズム団体は一斉に、反日親中運動を開始した。当時、全米24州に109の支部を持ち、会員数400万人を誇る「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」は11月に全米大会を開催し、その名称を「アメリカ平和民主主義連盟」と改め、「平和」「民主主義」を守るという名目を掲げることで、広範なアメリカ民衆を結集しようとしたのだ。 更にこの「アメリカ平和民主主義連盟」のもとに、全米22都市に支部をもつ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国「侵略」反対のデモや対日武器禁輸を国会に請願する活動も開始した。 在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年7月付機密文書『米国内ノ反日援支運動』によれば、「中国支援評議会」の名誉会長に就任したのは、ジェームス・ルーズヴェルト夫人だった。ルーズヴェルト大統領の実母だ。名誉副会長には中国政府の胡適(こてき)元駐米大使が、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長(2)の夫人がそれぞれ就任した。夫の理解がなく夫人がこのような反日組織の理事に就任するとは思えないし、前述したようにマーシャル陸軍参謀総長(2)は戦時中に「南京大虐殺」を非難する反日映画の製作を命じており、その思想傾向はよくよく検証する必要がありそうだ。 ともかく、表向きはルーズヴェルト大統領の実母やマーシャル陸軍参謀総長夫人が役員を務めた「中国支援評議会」だが、その実態はやはりアメリカ共産党の外廓組織だった。 他の常任理事には、フィリップ・ジャフェ(5)や冀朝鼎(11)ら「ソ連のスパイ」が就き、事務局長にはミルドレッド・プライス女史が就任した。ヴェノナ文書によれば、プライス女史は、その姉妹であるマリー・プライス女史(著名な評論家ウォルター・リップマンの秘書)と共に、アメリカの内部情報をソ連に報告していたスパイであった。 ヴェノナ文書が公開された現在だからこそ、彼らがソ連のスパイであることも分かっているが、当時の一般のアメリカ人たちの目には、ジャフェ(5)もプライス女史も中国救援に熱心な人道主義者と映っていたに違いない。中国支援評議会の活動に協力したアメリカ人は約300万人とも言われているが、アメリカの大多数の国民は見事に騙されていたわけだ。「南京」宣伝の背後にゾルゲ この反日国民運動と連携して、日本軍の「残虐行為」を告発する反日宣伝も欧米で活発になっていく。仕掛けたのは、蒋介石率いる中国国民党だった。 中国国民党は1937年11月、中央宣伝部のもとに国際宣伝処を設置し、国際的な宣伝工作を開始した。その一環として国民党が仕掛けたのが、欧米の新聞記者、宣教師、大学教授を使って対日批判を繰り広げることであった。その成果の一つが、イギリスのマンチェスター・ガーディアン紙特派員のH・J・ティンパーリが1938年6月、ニューヨークやロンドンで出版した『戦争とは何か』であった。 南京事件を最初に世界に知らせたと言われているこの本は中国国民党国際宣伝処の要請と資金提供のもとで書かれた宣伝本であり、ティンパーリ自身も中央宣伝部の顧問だった。この宣伝本を分担執筆したのは中国YMCA主事のジョージ・フィッチ(14)とマイナー・ベイツ南京大学教授だが、ベイツもまた中国政府の顧問だった(東中野修道著『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、北村稔著『南京事件の探求』文春新書)。 因みに、この動きにどうやらコミンテルンも関与しているようだ。楊国光著『ゾルゲ、上海ニ潜入ス』(社会評論社)によれば、1937年7月、盧溝橋事件が起きた直後にリヒャルト・ゾルゲはドイツの新聞記者として盧溝橋を訪問。その後、日本の軍用機に相乗りして南京に飛び、南京陥落直後の12月中旬、「南京大虐殺」を目撃したという。南京のドイツ大使館は当時、ドイツ本国政府に「日本軍は殺人マシーンとなって市民を殺害している」という報告書を提出しているが、この報告書にゾルゲが関与している可能性があるのだ。 更に早稲田大学客員教授の加藤哲郎氏によれば、上海でゾルゲやアグネス・スメドレー(7)らに秘密の会合場所を提供していた建築家のルドルフ・ハンブルガーは実は上海のソ連・赤軍諜報部の責任者であり、その妻ルート・ウェルナーはゾルゲの上海時代の諜報活動の助手であった。このハンブルガー夫妻の友人が「南京大虐殺」の証拠の一つと言われている『ラーベ日記』を書いたジョン・ラーベ(ジーメンス社中国総社長)であった。歴史の闇は深く、「南京大虐殺」キャンペーンに、ソ連・コミンテルンのスパイたちが関与していた疑いが浮上している。◇第6段階スティムソン元国務長官を利用したロビー活動 舞台をアメリカに戻そう。1937年12月から翌年の1月、日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は、戦地の模様を映画フィルムでひそかに撮影していた。このフィルムは、中国国民党の顧問だったティンパーリの指示で「侵略された中国」と題して編集され、YMCAによる中国支援・日本非難キャンペーン用の映画としてアメリカ各地で上映された。 この映画を南京からアメリカに持ち出したのが中国YMCA主事ジョージ・フィッチ(14)で、彼は38年4月、首都ワシントンDCにおいてヘンリー・スティムソン元国務長官(15)や、スタンレイ・ホーンベック国務省極東部長(16)ら要人と会見している。何のために? 恐らくルーズヴェルト政権に対するロビー活動を行う組織の創設について相談したのではなかったか。 なぜならフィッチ(14)らが発起人となって38年8月、ニューヨークにおいて「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設立され、対日禁輸措置の実施などをアメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に始まったからだ。 馬暁華(ばぎょうか)著『幻の新秩序とアジア太平洋』(彩流社)によれば、アメリカ委員会設立を最初に言い出したのは、ハリー・プライス元燕京大学教授(17)だった。彼は弟フランク・プライス(在中宣教師)(18)と共に、ニューヨーク地域在住の友人たちに呼び掛け、対中軍事援助の実施や対日経済制裁を求めるロビー団体の必要性について相談した。さらに6月7日にワシントンDCに赴き、国務省極東部長ホーンベック(16)と会見したところ、ホーンベック(16)は、アメリカ社会の孤立主義の空気を変え、アジア問題への関心を高めるため、「キャンペーン活動を行うべきである」との考えを示し、ハリー・プライス(17)の主張を支持した。 国務省の支持を得たプライス兄弟は、「奇跡の人」で有名なヘレン・ケラー女史、元在中国外交官のロジャー・グリーン(IPR理事長でロックフェラー財団理事ジェローム・グリーンの弟)、元在中宣教師マックスウェル・スチュアート(4)、雑誌「アメラジア」編集人フィリップ・ジャフェ(5)、YMCA中国事務局長ジョージ・フィッチ(15)、女性平和団体「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表のジョセフィン・シェイン女史などと共に1938年7月、ニューヨークにおいて「アメリカ委員会」を設立した(正式な設立は1939年1月で、元国務長官ヘンリー・スティムソン(15)が名誉会長に就任した)。 発起人の内、フランク・プライス(18)は中国国民党中央宣伝部国際宣伝処の英文編集委員会主事だった。元在中宣教師マックスウェル・スチュアート(4)はアメリカ共産党の外廓団体「アメリカ中国人友の会」会長で、ジャフェ(5)、ビッソン(13)の2人はヴェノナ文書でソ連のスパイと見なされた人物だ。そして「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表のジョセフィン・シェイン女史は、アメリカ共産党のシンパだったと言われている。 因みにシェイン女史率いる「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」の構成団体の一つである「全国女性クラブ連合」の幹部の1人がエレノア・ルーズヴェルト、つまり大統領夫人であった。 このようにキリスト教関係者を前面に出しながら、その実態は中国国民党の工作員とアメリカ共産党関係者によって構成されていたアメリカ委員会は、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題したブックレット(A5判サイズで80頁)を6万部、『戦争犯罪』と題したパンフレットを2万2千部作製し、連邦議会上下両院のあらゆる議員やキリスト教団体、婦人団体、労働組合などに配布し、大々的なロビー活動を開始した。 このロビー活動を受けてルーズヴェルト政権は、中国支援へと舵を切っていく。ホーンベック国務省極東部長(16)の進言を受けてルーズヴェルト大統領は1938年12月、「対日牽制の意をこめて」、中国国民党政府に2500万ドルの借款供与を決定したのである。共産党の暗躍を見抜いていた若杉総領事 「反ファシズム・デモクラシー擁護」という大義名分に惑わされて、スティムソン元国務長官(15)やホーンベック国務省極東部長(16)ら政府関係者までがアメリカ共産党の工作に引っかかってしまっていた。それほどアメリカ共産党の工作が巧妙だったわけだが、当時のアメリカでは、コミンテルン・ソ連に対する警戒心が薄かったという問題もある。何しろアメリカ政府、具体的にFBIが、アメリカ共産党をマークするのは1939年の後半になってからのことであった。 一方、日本外務省はと言えば、アメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析していた。 若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月20日、宇垣一成外務大臣に対して、『当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件』と題する機密報告書を提出し、アメリカの反日宣伝の実態について次のように分析している。 一、シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況をセンセーショナルに報道している。 二、ルーズヴェルト政権と議会は、世論に極めて敏感なので、このような反日報道に影響を受けた世論によって、どうしても反日的になりがちだ。 三、アメリカで最も受けがいいのは、蒋介石と宋美齢夫人だ。彼らは「デモクラシーとキリスト教の擁護者だ」とアメリカの一般国民から思われているため、その言動は常に注目を集めている。 四、一方、日本は日独防共協定を結んでいるため、ナチスと同様のファシズム独裁国家だと見なされている。 五、このような状況下で中国擁護の宣伝組織は大別して中国政府系とアメリカ共産党系、そして宗教・人道団体系の三種類あるが、共産党系が掲げる「反ファシズム、デモクラシー擁護」が各種団体の指導原理となってしまっている。 六、共産党系は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。 七、共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させてシナ事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることだ。 若杉総領事はこう述べて、近衛内閣に対して、「ルーズヴェルト政権の反日政策の背後にはアメリカ共産党がいる」ことを強調し、共産党による日米分断策動に乗らないよう訴えたのだ。「トロイの木馬作戦」 ルーズヴェルト政権はその後、反日世論の盛り上がりを受けて1939年7月26日、日米通商条約の廃棄を通告。日本はクズ鉄、鋼鉄、石油など重要物資の供給をアメリカに依存しており、日本経済は致命的な打撃を受ける可能性が生まれてきた。一方、蒋介石政権に対しては1940年3月、2000万ドルの軍事援助を表明、反日親中政策を鮮明にしつつあった。 アメリカに対する反発の世論が日本国内に沸き上がりつつある中で、若杉総領事1940年7月25日、3日前の22日に発足したばかりの第二次近衛内閣の松岡外相に対して「米国内ノ反日援支運動」という報告書を提出し、次のように訴えた。 一、アメリカにおける反日・中国支援運動は、大統領や議会に対して強力なロビー活動を展開し効果を挙げているだけでなく、新聞雑誌やラジオ、そして中国支援集会の開催などによって一般民衆に反日感情を鼓吹している。 二、この反日運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンが唆(そそのか)したものだ。 三、その目的は、中国救済を名目にしてアメリカ民衆を反日戦線に巻き込み、極東における日本の行動を牽制することによって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成することだ。 四、中国救済を名目にして各界に入り込もうとする、いわばアメリカ共産党・コミンテルンによる「トロイの木馬」作戦の成功例が「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会」だ。共産党関係者を表に出さず、ヘレン・ケラーといった社会的信用があるリベラル派有識者を前面に出すことで、政界、宗教界、新聞界を始め一般知識人階級に対してかなり浸透している。 五、共産党のこのような作戦に気づいて苦々しく思っている知識人もいるが、一般民衆の反日感情のため、反日親中運動に対する批判の声を出しにくくなっている。 つまり、ルーズヴェルト政権の反日政策に反発して近衛内閣が反米政策をとることは、結果的にスターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだと若杉総領事は訴えたわけだが、その声に、近衛内閣は耳を傾けなかった。 若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は、ゾルゲ・グループの尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を閣議決定し、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど連ソ反米政策を推進していった。◇第7段階政権内部のスパイたちが対日圧迫政策を強行 対抗してアメリカのルーズヴェルト政権も、コミンテルン・アメリカ共産党が築いた反日世論を背景に、対日圧迫外交を強化していく。 ルーズヴェルト大統領は1941年3月、ラフリン・カリー大統領補佐官(19)を蒋介石政権に派遣し、本格的な対中軍事援助について協議している。翌4月、カリー補佐官(19)は、蒋介石政権と連携して日本本土を約五百機の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。JB355と呼ばれる、この日本空爆計画にルーズヴェルト大統領は7月23日に承認のサインをした。日本が真珠湾攻撃をする4カ月以上も前に、ルーズヴェルト大統領は日本爆撃を指示していたわけだ。 エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ』(新潮社)によれば、7月26日、財務省通貨調査局長のハリー・デクスター・ホワイト(20)の提案で在米日本資産は凍結され、日本の金融資産は無価値となり、日本は実質的に「破産」に追い込まれた。それだけではない。ホワイト(20)は財務省官僚でありながら11月、日米交渉に際して事実上の対日最後通告となった「ハル・ノート」原案を作成し、東條内閣を対米戦争へと追い込んだ。 ヴェノナ文書によれば、これら反日政策を推進したカリー大統領補佐官(19)もホワイト財務省通貨調査局長(20)も、ソ連のスパイであった。 かくして1941年12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌々日の12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すというソ連・コミンテルンの戦略は、21年後に現実のものとなったわけだ。 以上のように、ヴェノナ文書やコミンテルン文書、日本外務省の機密文書などが公開されるようになって、コミンテルンと中国共産党、そして「ソ連のスパイたち」を重用したルーズヴェルト政権が戦前・戦中、そして戦後、何をしたのかが徐々に明らかになりつつある。 我々もこれら機密文書を徹底的に研究し、アメリカの保守派とも連携して、堂々とコミンテルンとルーズヴェルト政権の責任を追及していこうではないか。 江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌「祖国と青年」編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、現在政策研究を担当する専任研究員。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。

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    「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略

    められた。あるいは、何の益もないのに停戦せずに戦いが続いた。 さらに、日本が「南進」からアメリカとの戦争に至ったのも、ソ連を日本の攻撃(北進)から守り、日本を対米戦に仕向けて敗北させ、その混乱に乗じて共産主義革命を起こすという「敗戦革命」謀略だった──。 一方で、そんな議論は妄想にまみれた「コミンテルン」陰謀史観である、と切って捨てるのが日本の歴史研究者の「王道」のようである。 コミンテルン(第三インターナショナル、国際共産主義組織)の陰謀ないしは謀略は、本当に実在したのであろうか。 ヨシフ・スターリン治世下のソ連において、ごく少数のトロツキスト等を除けば、スターリンと別の意思を持った共産主義者の組織など世界中のどこにも存在しなかった。コミンテルンも諜報機関も、はたまた日本を含む各国共産党もすべてスターリンの手駒に過ぎなかった。「コミンテルン」という形容詞は、スターリン時代の共産主義の本質を見えにくくする。したがって、上述のような歴史観は、「コミンテルン」ではなく、「スターリン」、「ソ連」あるいは「共産主義」陰謀史観ないしは謀略史観と呼ぶべきであろう。 米露の著名なソ連研究者アーチ・ゲッティとオレグ・ナウーモフが指摘しているように、スターリン以下共産党幹部は、十月革命(1917年)とその後の権力掌握という成功体験から、自らが歴史の産婆役であることを確信し、共産主義の理想と、その実現に自分たちが不可欠であることを本当に信じていた。自分たちの政策が誤っていると想像することなど心底不可能だったのである。もし思わしくない事態が生じたら。それは彼らの無私の努力を妨害する陰謀に満ちた「邪悪な力」(conspiratorial“dark forces”)が働いているに違いないのだ(『大粛清への道』川上洸・萩原直訳)。 ウラジーミル・レーニンの指導下、十月革命を成功させ、その死後、スターリンに率いられた共産主義者が「反共資本主義陰謀史観」の虜であったことは確かである。当然ながら、この「労働者階級の前衛」たちは、相手が邪悪な陰謀をしかけてくる以上、それに対抗せざるを得ない。しかも、全世界共産化という自らの理想は絶対に正しいのだから、謀略や陰謀はもちろん、破壊工作、テロ、さらには虚偽宣伝までどのような手段も許される。 共産主義者が世界共産革命実現を目指すうえで、謀略工作あるいは陰謀を主要な手段の一つとしていたことは否定できない事実である。近年世界各国で進められている、ソ連崩壊後の資料公開に基づく研究がそのことを明らかにした。検討すべき問題は、もはやその存在の有無ではなく、実際にどれだけ有効に機能したか否かであろう。 ここでは、共産党による政権奪取直後から1939年9月の第二次大戦勃発(欧州戦線)までの対日を中心とするソ連外交と世界史の流れを、レーニン及びスターリン自身の発言に沿いながら見て行きたい。 この時代の共産主義者による数々の謀略工作あるいは陰謀については、すでに日本でも多くの文献がある。しかし、これまでの議論ではその細部にこだわる余り、レーニン及びスターリンという謀略工作の最高責任者の言動の検証が疎かになっていたからである。レーニンの基本準則 レーニンは1920年12月6日の「ロシア共産党(ボルシェビキ=以下「ボ」)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」で、全世界で共産主義が最終的に勝利するまでの基本準則(правило основное)というものが存在すると主張した。 二つの帝国主義のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を利用し、彼らをたがいにけしかけるべきだということである。われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは、右の準則をまもらなければならない。すなわち、帝国主義のあいだの矛盾と対立を利用することができなければならない。 このくだりはコミンテルン謀略史観の「バイブル」である『戦争と共産主義』(昭和二十五年、三田村武夫著、のちに『大東亜戦争とスターリンの謀略』として復刊)にも引用されている。ただし、右記に続けて、レーニンが資本主義社会において共産主義者が「利用すべき根本的対立」として挙げた以下の内容は日本国内ではあまり知られていない。 第一の、われわれにもっとも近い対立──それは、日本とアメリカの関係である。両者の間には戦争が準備されている。両者は、その海岸が三〇〇〇ヴェルスタ[ほぼキロメートルと同じ]もへだたっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存することができない。…地球は分割ずみである。日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。日本は五〇〇〇万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い。アメリカは一億一〇〇〇万人の人口を擁し、日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。日本は、四億の人口と世界でもっとも豊富な石炭の埋蔵量とをもつ中国を略奪した。こういう獲物をどうして保持していくか? 強大な資本主義が、弱い資本主義が奪いあつめたものをすべてその手から奪取しないであろうと考えるのは、こっけいである。…このような情勢のもとで、われわれは平気でいられるだろうか、そして共産主義者として、「われわれはこれらの国の内部で共産主義を宣伝するであろう」と言うだけですまされるであろうか。これは正しいことではあるが、これがすべてではない。共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、彼らをたがいにいがみ合わせることである。そこに新しい情勢が生まれる。二つの帝国主義国、日本とアメリカをとってみるなら──両者はたたかおうとのぞんでおり、世界制覇をめざして、略奪する権利をめざして、たたかうであろう。…われわれ共産主義者は、他方の国に対抗して一方の国を利用しなければならない。… もう一つの矛盾は、アメリカと、残りの資本主義世界全体との矛盾である。…アメリカはすべての国を略奪し、しかも非常に独創的な仕方で略奪している。アメリカは植民地をもっていない。…イギリスは、強奪した植民地の一つにたいする委任統治…をアメリカに提供したが、アメリカはそれを受けとらなかった。…しかし、この植民地を他の国々が利用するのを彼らが容認しないことは、明らかである。… 第三の不和は、協商国とドイツとのあいだにある。ドイツは敗戦し、ヴェルサイユ条約でおさえつけられているが、しかし巨大な経済的可能性をもっている。…このような国にたいして、同国が生存していけないようなヴェルサイユ条約がおしつけられているのである。ドイツはもっとも強大で、先進的な資本主義国の一つであって、ヴェルサイユ条約を耐えることはできない。だから、ドイツは、それ自身帝国主義国でありながら、圧迫されている国として、世界帝国主義に対抗して同盟者を探しもとめなければならない。 歴史は第二次大戦まで、ほぼこのレーニンの基本準則に従って推移した。「自然」とそうなった、あるいはレーニンの「科学的社会主義」に基づく「歴史の発展」予測が正しかったのではない。次節以下で示すように、レーニンの「遺言」を継いだスターリンが自覚的にそのように仕向けたのである。臥薪嘗胆、好機を待つスターリン 1923年のドイツでの武装蜂起失敗が象徴するように、欧州赤化の可能性が遠のくと、レーニンの後釜に座ったスターリン主導の下、ソ連は内向きになったかのように見えた。いわゆる一国社会主義路線である。しかし、それは来るべき「資本主義国」すなわちソ連以外の国々との対決に備えた臥薪嘗胆の時期であった。ソ連の第一次及び第二次五カ年計画では、軍備増強がすべてに優先した(デーヴィッド・ストーン『ハンマーとライフル』、未邦訳)。 もちろん、臥薪嘗胆とはいえ、共産主義者を使った破壊工作は継続していた。コミンテルンは1928年に、そのものずばり『武装蜂起』(Der bewaffnete Aufstand)と題する各国共産主義者に向けた「実用的」な教科書を編集、(偽名で)発行している。執筆者はホー・チー・ミンや後に粛清される赤軍の「ナポレオン」ミハイル・トゥハチェフスキーをはじめ錚々たる顔ぶれであり、失敗に終わった中国共産党の広東蜂起(1927年)や上海自治政府樹立(同)の事例が詳細に分析されている。 そして、スターリンが決してレーニンの基本準則を忘れたわけではないことは、1925年1月19日、「ロシア共産党(ボ)中央委員会総会での演説」を見ればわかる。いずれ必ず来る戦争を前に共産主義者はどう行動すべきか。 そのような情勢にたちいたったさい、われわれがぜひともだれかにたいして積極的な行動をおこさなければならないということを意味しない。…われわれの旗は、依然としてこれまでのように平和の旗である。しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう、─われわれは、のり出さなければならないであろう、もっとも、いちばんあとでのり出すのであるが、われわれは秤皿に決定的なおもりを、相手かたを圧倒しうるようなおもりを、なげいれるためにのり出すであろう。 資本主義国が内ゲバで弱ったところに、最後の一撃を加えて世界革命を完遂するという大原則に、最初からスターリンほど忠実な革命家はいなかったのだ。そしてスターリンが仕掛けたのは「最後の一撃」だけではなく、資本主義列強を弱らせる「内ゲバ」だったのである。日本を翻弄するスターリン 満州問題たけなわの1932年6月12日(より以前)、スターリンは側近の政治局員ラーザリ・カガノヴィッチに、日本に対して英米とは異なり、必ずしも滿洲国承認の可能性を否定せず、あいまいな態度を取るとともに、アメリカへの接近を指示する(1933年に国交樹立)。日米対立の利用である。 政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていないようだ。そのなかで最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州では(とくにフォン・パーペン[独首相]への権力移行後)フランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下しはじめたことである。これはきわめて重要な情勢だ。これに応じて、アメリカ合衆国はソ連との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つ[ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行]の代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。 そのすぐ後の1932年6月20日には、カガノヴィッチと首相ヴャチェスラフ・モロトフに今度は日中対立を利用して、日ソ不可侵条約締結を目指すよう指示する。 もし日本が実際に条約に動きだすとしたら、おそらくそうすることで、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させることを望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連との条約調印に日本を急き立てるために、対中交渉を継続して長引かせる必要がある。 この時は見送られたものの、日本は独ソ開戦の直前、1941年4月に日ソ中立条約を締結する。バルト三国、フィンランド後述するポーランドなど、不可侵条約を結んでおいて、侵略(スターリンから見れば解放)するのがソ連の常套手段であり、もちろん、日本も例外ではなかった。 満州国との領事交換に同意するなど、アメリカとは異なり、表向きは対日宥和のポーズをとりつつ、1933年10月21日、スターリンは反日キャンペーン強化を指示する。 私が見るところ、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった(声高ではない!)準備と説得を始める時がきた。…日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある。 実際、10月26日からプラウダで反日プロパガンダ記事が次々と掲載される。「肯定的側面も」というところが、さすがにプロの謀略家である。それにしても、具体的にパンフレットの名前(『日本における軍国ファシスト運動』)まであげるなど、その指示の細かさには驚かされる。日本の「アジア侵略の青写真」として喧伝された偽造文書「田中上奏文」が世界中で急速に浸透した背景に、こうした日本重視のブラック・プロパガンダ戦略があったことは間違いないだろう。 しかし、スターリンを激怒させる事件もあった。朝鮮人を使った滿洲での対日テロ活動が露呈したのである。スターリンは1932年7月2日(より以前)、カガノヴィッチに当事者の厳罰を命じる。 さる朝鮮人爆破工作員たちの逮捕とこの事案への我が組織の関与は、日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す(あるいはしかねない)。ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんなことを必要とするのか。必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。…この紳士たちが我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い。 ここにも、スターリンの「反共資本主義陰謀論」が表れている。自国諜報機関が工作に失敗すると、それは内部に侵入した敵の仕業と考えるのである。 ところで、日本ではソ連スパイというとリヒャルト・ゾルゲを過大視する傾向があるけれども、実際、ゾルゲは数あるスパイの一人に過ぎない。諜報活動にも詳しいソ連研究者、黒宮広昭インディアナ大教授も指摘しているように、支那事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と滿洲国には2千人の明らかなスパイと5万人のエージェント(本人に自覚がない場合も含む)がいると日本政府は見ていた。ヴェノナ文書が明らかにしたアメリカでのソ連スパイ活動の規模から考えて、この数字は日本の治安当局の誇大妄想とはいえない。 支那事変に至るまでの共産主義者の策動については多くの文献があるので、ここでは繰り返さない。支那事変以降のスターリンの対日政策については、黒宮教授の表現を借りれば、以下のようにまとめられる。「スターリンの目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、ソ連から遠ざけておくことにあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるということである。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」 スターリンに翻弄される日本とは対照的に、我が国の対ソ政策はソ連側に筒抜けであった。ロシア人と結婚してスパイとなった外交官泉顕蔵を通じ、ソ連は外交暗号解読書(code book)を入手していたのである。 盧溝橋事件発生翌月の1937年8月、ソ連は中国(国民政府)と日本を念頭に置いた不可侵条約を結び、日本軍が中国で泥沼に陥ることで、ソ連に目が向かないよう、大規模な軍事支援を行う。11月18日にスターリンは、楊杰上将(のちに駐ソ大使)が率いる中国代表団に、ソ連だけでなく、アメリカやドイツからの武器調達の必要性を説き、さらには「信用ならない」イギリスとの連携にも努めるよう促した後、次のような踏み込んだ発言を行っている。 ソ連は現時点では日本との戦争を始めることはできない。中国が日本の猛攻を首尾よく撃退すれば、ソ連は開戦しないだろう。日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時ソ連は戦争に突入する。 ソ連参戦が蒋介石政権を助けるためではなく、日中が疲弊し切ったところで、両者に最後の一撃を加えるためであることはいうまでもない。 スターリンはさらに1939年7月9日、蒋介石にこう語った。 今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴル人民共和国を攻撃している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。 まさに、スターリンの高笑いが聞こえてくるかのようである。日本が対米英中のみならず、ソ連に対しても侵略を着々と準備したうえで戦争を始めたという東京裁判史観は、とりわけスターリンにとって片腹痛い、戦前日本の「過大」評価である。1938年2月7日、日本について立法院長孫科にスターリンが語った次の言葉の方が真実に近いであろう。 歴史というのは冗談好きで、時にその進行を追い立てる鞭として、間抜け(дурак)を選ぶ。戦争挑発に舵を切るスターリン 極東及び欧州で風雲急を告げるなか、共産党中央委員会名で1938年に刊行された『ソ連共産党小史』に見られるように、スターリンは、アドルフ・ヒトラー政権成立以降の民主主義対ファシズムという構図に基づく人民戦線路線から再度転換し、共産主義と資本主義の対立軸を前面に打ち出す。 『共産党小史』刊行を受けたプロパガンダ担当者会議開催中の1938年10月1日、スターリンは大演説を行う。以下はその一部である。 戦争の問題に関するボルシェビキの目的、全く微妙なところ、ニュアンスを説明する必要がある。それは、ボルシェビキは単に平和に恋焦がれ、攻撃されたときだけ武器を取る平和主義者ではないことだ。それは全く正しくない。ボルシェビキ自らが先に攻撃する場合がある。戦争が正義であり、状況が適切であり、条件が好都合であれば、自ら攻撃を開始するのだ。ボルシェビキは攻撃に反対しているわけでは全然ないし、全ての戦争に反対してもいない。今日、我々が防御を盛んに言い立てるのは、それはベールだよベール。全ての国家が仮面をかぶっている。「狼の間で生きるときは狼のように吠えねばならぬ」(笑)。我々の本心を全て洗いざらい打ち明けて、手の内を明かすとしたら、それは愚かなことだ。そんなことをすれば間抜けだといわれる。… 実は、レーニンは資本主義の跛行的発展状況の下、個々の国での社会主義の勝利が可能である、なぜなら跛行的発展つまり遅れる国がある一方、先に進む国があるのだから、と教えてくれただけではなく、レーニンはまた、ある国は遅れる一方、別の国は先に進み、ある国は努力する一方、別の国はもたもたするので、同時の一撃は不可能だという結論にも達していたのだ。… 異なった国の間で社会主義への成熟度合いが異なっており、この事態に直面して、全ての国で同時に社会主義が勝利する可能性があるなどとどうして語りうるのか。全くばかげている。そんなことはかつても不可能であったし、今日においてもあり得ない。どういうわけか、この観点を隠して、個々の国で社会主義の勝利が可能であることだけに言及することは、レーニンの立場を完全に伝えていない。 革命家スターリンの面目躍如たる発言である。レオン・トロツキーのような世界同時革命論ではなく、機が熟した(熟すよう仕向けた)国から徐々に武力で共産化していくという自らの方針こそ、レーニンに忠実な真の世界革命への道であるという強い自負が示されている。 さらにスターリンは、1939年3月10日の第18回共産党大会における報告でも、社会主義すなわちソ連と資本主義の対立という構図を前面に出し、英仏を念頭に自らの立場を明確にした。 慎重を旨とせよ、そして、他人に火中の栗を拾わせる(загребать жар чужими руками)ことを常とする戦争挑発者が我が国を紛争に引っ張り込むことを許してはならない。 五か年計画による軍備増強で世界最大の軍事強国となり、大粛清で独裁体制を完全なものにしたスターリンは、この頃から資本主義国間の対立をさらに激化させ、戦争を煽るるべく行動を開始する。 共産党大会直後に起こったドイツのチェコ併合にも、ソ連は形式的抗議を行っただけで、英仏の宥和政策から強硬姿勢への転換とは好対照であった。英独対立が深刻化するなか、1939年5月には、イギリス人を妻とし英米仏で受けがよかったユダヤ人マクシム・リトヴィノフ外相が解任され、首相のモロトフが外相兼務となり、独ソ連携の動きは加速する。ノモンハンでのスターリンの謀略 さらに、極東では同じ時期、ノモンハン事件が勃発する。上述の黒宮教授は綿密な資料調査に基づき、従来の議論とは根本的に異なるこの事件の背景を、2011年にスラブ圏軍事研究に関する学術誌(Journal of Slavic Military Studies、24巻4号)に掲載された論文「一九三九年ノモンハンの謎」で明示した。関東軍の第二十三師団長小松原道太郎中将がソ連のエージェントだったというのである。 黒宮教授は次のようなスターリンの演説(1937年3月3日)からの引用で始める。 戦争時に戦闘で勝利するには何軍団もの赤軍兵士が必要であろう。しかし、前線でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分だ。 したがって、「ハイラルに小松原がいることは、日本の行動を挑発し、厳しい軍事的教訓を与えるのに絶好の機会であった。これこそスターリンが考えていたことだったように思える。」。 スターリンの狙いはずばり当たった。「ノモンハンは、ソ連に敵対する北方ではなく、米英蘭の権益に敵対する南方に向かうというその後の決断に決定的影響を与えた。ノモンハンは日本の対ソ野望に対するスターリンのとどめの一撃(coup de grace)となったわけである。モスクワがノモンハンで攻撃を挑発したのだとしても、それに応じたのは日本の致命的誤りであった。」 最後に黒宮教授はこの論文をこう締めくくる。「ノモンハンはスパイの重要性に関するスターリンの発言が正しいことを示した。小松原がいなければ、ノモンハンは起きなかったかもしれない。ソ連の勝利が保証されなかっただろうことは確かである。小松原のおかげでそのとき赤軍は戦闘に勝利したように思える。もしそうでなかったならば、日本は全く実際とは違った戦略的行動を取ったかもしれない。20世紀の歴史は違ったものになっていただろうし、ノモンハンの歴史自体、劇的に書き直さねばならないだろう。」 日米戦実現に向けたソ連の謀略といった場合、尾崎秀実ら日本指導層に入り込んだ日本人エージェントたちを使った南進論への政策誘導や、アメリカにおける「雪作戦」(エージェントの名前が財務省高官ハリー・ホワイトであることから名づけられた)が、通常、議論の中心を占める。その重要性は疑いないけれども、陸軍内に一種の対ソ恐怖症を植え付け、対ソ北進論の勢いを削いだノモンハン事件は、それらに匹敵する大きな意味を持つのではなかろうか。ヒトラーをけしかけるスターリン 以下、同時期の欧州情勢について検証したい。1939年春以来、ソ連のドイツへの態度は軟化したものの、ダンチヒ自由市をめぐる争いでイギリスの「白地小切手」を得た(と思った)ポーランドの強硬姿勢に会い、ヒトラーは袋小路に入り込む。スターリンに最後の望みを託し、より踏み込んだ独ソ連携を目指すものの、交渉はなかなかはかどらない。スターリンはより大きな「獲物」を得るべく、ドイツと英仏を競い合わせ、天秤にかけていたのだ。 8月19日もドイツのフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク駐ソ大使とモロトフの交渉は物別れに終わり、大使は帰路に着く。ところが外交儀礼上、異例なことに、モロトフは大使を再度クレムリンに呼びつける。そして、独ソ不可侵条約を締結するようソ連政府に「指示された」(beauftragt、独公文書の表現)と伝えたのである。首相兼外相モロトフに指示できる「上司」はもちろん、この世にひとり、スターリンしかいない。 一方、極東では翌20日、それまでの局地的小競り合いとは一線を画す赤軍の大攻撃がノモンハンで始まり、日本軍は奮戦したものの壊滅的打撃を受ける。 モスクワでは8月23日、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相とモロトフが独ソ不可侵条約に調印し、全世界に衝撃を与える。条約に付された東欧「分割」の秘密議定書でソ連の同意を得たドイツは、9月1日にポーランド攻撃を開始、ヒトラーの期待に反し、しかし、スターリンの思惑通り、直ちに英仏が対独宣戦布告を行う。第二次大戦が始まったのだ。 なぜ、スターリンは不倶戴天の敵であるはずのヒトラーと手を結んだのか。コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフの日記には、9月7日にスターリンがその動機を赤裸々に語った記録が残っている。 この戦争は二つの資本主義国家群(植民地、原料などに関して貧しいグループと豊かなグループ)の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱めあうことに異存はない。ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくのは、悪い話ではない。ヒトラーは、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体制をぶち壊し、掘り崩しているのだ。 権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョアジーだ。 我々は、さらにずたずたに互いに引き裂きあうよう、両者をけしかける策を弄することができる。不可侵条約はある程度ドイツを助けることになる。次の一手は反対陣営をけしかけることだ。 資本主義国の共産主義者は、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。 この戦争が始まるまで、ファシズムとデモクラシー体制を対立させることは全く正しかった。帝国主義列強間の戦争時には、これはもう正しくない。資本主義国をファシスト陣営とデモクラシー陣営に区別することは、かつて持っていた意味を失った。 この戦争は根本的変革を引き起こした。つい先日まで、統一人民戦線は資本主義体制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。帝国主義戦争という状況のもとでは、問題は奴隷制度の絶滅なのだ。今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張することは、ブルジョアジーの立場に陥ることを意味する。こうしたスローガンは撤回される。 かつて歴史的には、ポーランド国家は民族国家であった。それゆえ、革命家たちは分割と隷属化に反対して、ポーランドを擁護した。現在、ポーランドはファシスト国家で、ウクライナ人、ベラルーシ人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅することは、ブルジョア・ファシスト国家が一つ少なくなることを意味するのだ。ポーランドを粉砕した結果、我々が社会主義体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪いことがあるというのか。 我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。しかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった[、たとえ何も得られなくても]。 9月16日に東郷茂徳駐ソ大使とノモンハン停戦に合意したと発表した翌日の17日、モロトフはポーランドの駐ソ大使に、ポーランドはもはや国家として存在しないので、領内に住む「血の同胞」であるベラルーシ人とウクライナ人をソ連が保護せねばならないと通告し、赤軍が「越境」を開始する。スターリンは決して「侵略などしない」。 小松原師団長スパイ説に対しては、あまりに奇想天外だとして疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、仮にスパイでなかったとしても、ここで示したように、ノモンハンと独ソ不可侵条約は、スターリンの戦略のなかで密接に関連していた。 ノモンハン事件と独ソ不可侵条約は、日本対アメリカとドイツ対英仏というレーニンの基本準則に沿って、スターリンが演出した一つのドラマとして理解する必要があるのだ。最後に躓いたスターリン  そもそも自らが陰謀史観の持ち主であったスターリンは、ここまで見てきたように、陰謀あるいは謀略を重視し、実際にも大きな成功を収めた。歴史はほぼレーニンの基本準則通りに進んだのである。 まず、極東においては、スターリンの「完勝」といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずりこみ、ノモンハンで陸軍に一種の対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略が続けられ、日本の対外政策を反ソから反英米に仕向けることに成功する。それに呼応して、アメリカでも対日戦実現に向けた工作が展開され、好都合なことに、フランクリン・ルーズベルト大統領という「パートナー」の存在もあって、スターリンの思惑通り、日米は激突することとなった。 しかし、スターリンは欧州では英仏とドイツの戦争を実現させたものの、予想外のフランスの早期戦線脱落で予定が狂い始め、最後の段階でヒトラーの対ソ先制攻撃を許すという決定的失敗を犯してしまった。資本主義国同士を戦争で疲弊させたうえで、一番後にとどめを刺すつもりだったのに、ソ連は対独戦の主役を引き受けさせられ、第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目になる。 スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。 結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義というもう一つのグローバリズムであった。(付記) レーニン演説及び一九二五年スターリン演説は大月書店刊『レーニン全集』及び『スターリン全集』、その他引用は拙訳を用いた。 福井義高氏 昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。国鉄JR東日本勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』(中央経済社)など。

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    歴史で解き明かす中国とロシアの「正体」

    、異例の事象だった、と考えるほうが肯綮(こうけい)に当たっていよう。 かつて激しい論争になりながら、戦争や冷戦のような事態にまで至らなかったし、今やそうした対立を劇化させる触媒は、ほぼ存在しない。中露が相剋、決裂する要素は、いよいよ希薄になっている。 歴史をみる者にとっては、むしろそう解釈したほうが真相をついているように思うし、だとすれば、その由って来たるところも考えたくなってくる。「同じDNA」をひきつぐ中露 中露関係の歴史は17世紀、ロシアがシベリアを東進し、やはり東アジアに勢力を拡張していた清朝と接触したときにはじまる。その結果、両者が結んだ1689年のネルチンスク条約は、高校の世界史の授業でも習う重要事件で、名前くらいご存じだろう。 この条約がおもしろい。条約とよばれる取り決めなのだから、互いに対等の立場でとりむすんだものである。しかし東西はるかに隔たった当時のロシアと清朝が、まさか全く同一のルール・規範・認識を共有していたわけはない。にもかかわらず、両者は対等で、以後も平和友好を保ちえた。 たとえばわかりやすい点として、条約上でも使われた自称・他称がある。ロシアの君主はローマ帝国をついだ「皇帝(ツァー・インペラトル)」であるけれども、そんなことが清朝側にわかるはずはなく、清朝はロシア皇帝を「チャガン・ハン」と称した。ロシアも中華王朝の正称「皇帝」というのは理解できず、清朝皇帝を「ボグド・ハン」と称した。「ハン」というから、ともにモンゴル遊牧国家の君主であって、「チャガン」は白い、「ボグド」は聖なる、という意味である。つまり客観的に見ると、両者はモンゴル的要素を共有し、そこを共通の規範とし、関係を保っていたことになる。 それは単なる偶然ではない。ロシア帝国も清朝も、もともとモンゴル帝国を基盤にできあがった国である。もちろん重心は、一方は東欧正教世界、他方は中華漢語世界にあったものの、ベースにはモンゴルが厳然と存在した。両者はそうした点で、共通した複合構造を有しており、この構造によって、東西多様な民族を包含する広大な帝国を維持したのである。 だから両者がとり結んだ条約や関係は、いまの西欧、ウェストファリア・システムを起源とする国際関係・国際法秩序と必ずしも同じではない。露清はその後になって、もちろん国際法秩序をそれぞれに受け入れ、欧米列強と交渉、国交をもった。しかし依然、独自の規範と論理で行動しつづけ、あえて列強との衝突も辞していない。これも近現代の歴史が、つぶさに教えるところである。 いまのロシア・中国は、このロシア帝国・清朝を相続し、その複合的な構造にもとづいてできた国家にほかならない。いわば同じDNAをひきついでいる。両国が共通して国際関係になじめないのは、どうやら歴史的に有してきた体質によるものらしい。中露が19世紀以来、対立しながらも衝突にいたらず、西欧ではついに受け入れられなかったマルクス・レーニン主義の国家体制を採用しえたのも、根本的には同じ理由によるのかもしれない。中ソ論争はその意味では、近親憎悪というべきだろうか。クリミアも尖閣も、西欧への挑戦 西欧世界には、モンゴル征服の手は及ばなかった。その主権国家体制・国際法秩序、もっといえば「法の支配」は、モンゴル帝国的な秩序とは無関係に成立したものである。だからロシアも中国も、歴史的に異質な世界なのであって、現行の国際法秩序を頭で理解はできても、行動がついてこない。制度はそなわっても、往々にして逸脱する。 しかも中露の側からすれば、国際法秩序にしたがっても、碌なことがあったためしがなかった。中国は「帝国主義」に苦しみ、「中華民族」統合の「夢」はなお果たせていない。ソ連は解体して、ロシアは縮小の極にある。くりかえし裏切られてきた、というのが正直な感慨なのであろう。中露の昨今の行動は、そうした現行の世界秩序に対するささやかな自己主張なのかもしれない。現代の紛争もそんなところに原因があるのだろうか。 そこで省みるべきは、わが日本の存在であり、立場である。日本はもとより欧米と同じ世界には属さない。しかしモンゴル征服が及ばなかった点で共通する。以後も国家の規模や作り方でいえば、日本は中露よりもむしろ欧米に近い。国際法・法の支配が明治以来の日本の国是(そうでない時期もあったものの)であり、安倍首相がそのフレーズを連呼するのも、目先の戦術にとどまらない歴史的背景がある。 クリミアはかつてロシア帝国の南下に不可欠の橋頭堡(きょうとうほ)であり、西欧からすればそれを阻む要衝であった。尖閣は「琉球処分」にさかのぼる日中の懸案であり、中華世界と国際法秩序の切り結ぶ最前線である。互いに無関係なはずの東西眼前の紛争は、ともに共通の国家構造と規範をもつ中露の、西欧国際法秩序に対する歴史的な挑戦ということで、暗合するともいえよう。 たしかにいまの中露は、欧米に対抗するための「同床異夢」の関係にあるといってよい。考えていることもちがうし、「一枚岩」になれないことはまちがいないだろう。それでも「呉越同舟」はやはりいいすぎであって、両者が呉と越のような不倶戴天の敵にはなりそうもないし、両者と欧米との対立は目先の、短期的なものでもない。あえて「呉越同舟」でたとえるなら、ロシアを含むG8や日中友好がむしろ適合している。 とりわけいまの中露関係は、「舟」「床」でたとえる「同」じ枠組・利害のほうが勝っている。いかに対立しようとも、たとえば相互理解の乏しい日中対立・中米関係のようなことにはなるまい。 目前の情況は容易ではないけれども、まずは長いタイムスパンでロシアと中国の正体をみきわめることが重要である。歴史的な国家構造に由来する規範意識や行動原理に着眼することも、国際情勢の現状分析に無用ではあるまい。