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    なぜ井伊直虎は「おんな城主」として生きねばならなかったのか

    尼、直虎、直親(同寺提供) しかし、そうした男尊女卑の考え方が一般化するのは江戸時代に入ってからで、戦国時代までは、女性も男性と対等の扱いを受けていたのである。 これについては、戦国時代、キリスト教のイエズス会宣教師として来日していたルイス・フロイスが、『日欧文化比較』という本の中で、いくつかの注目すべき観察をしている。たとえば、「ヨーロッパでは、妻は夫の後を歩くが、日本では、夫が妻の後を歩く」と書いており、また、夫婦別産制のことも指摘している。私が一番びっくりしたのは、ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸しつける。 といった記述である。特例ではあるかもしれないが、山内一豊の妻千代が、鏡箱の底から10両を取り出し、夫一豊に名馬を買わせたエピソードもあるので、ありえた話ではないかと考えている。 また、一般的に、江戸時代の無嗣(むし)断絶、つまり、跡とりの男子がいなかったために大名家が取りつぶしにあったという例が結構あるので、家督は男子しか継げなかったという受けとめ方をされているが、戦国時代には、男子がおらず、女子だけだった場合、女子に家督が譲られていたのである。 たとえば、大友宗麟の軍師として有名な立花道雪は、誾千代(ぎんちよ)という名前の女の子しかいなかったので、家督と立花城督(じょうとく)という地位を娘に譲りたいと申し出て、大友宗麟から許されているのである。 そこで井伊直虎であるが、井伊家は遠江(静岡県西部)の国人領主で、戦国期には戦国大名今川氏の重臣として、井伊谷(いいのや)城(静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町)の城主で、井伊谷領を支配していた。直虎の父直盛には女の子しかいなかった。その女の子が後に直虎となる。消えかかった井伊家をつないだ直虎 直盛は、自分の叔父にあたる直満の子亀之丞(のちの直親)と結婚させ、家督を継がせるつもりでいたが、その直満が、「今川義元に対し謀反の疑いあり」ということで誅殺されてしまい、亀之丞の命も危なくなった。そこで信濃(長野県)に逃がしている。このとき、許婚の亀之丞が姿を消してしまったことで、直盛の一人娘は出家してしまう。龍潭寺(りょうたんじ)の南渓(なんけい)和尚の弟子となり、南渓和尚は将来のことを考えたのであろう。尼という字をつけず、「次郎法師」という名を与えている。「井伊家伝記」には、そのときのいきさつを次のように記している。次郎法師ハ女にこそあれ井伊家惣領に生レ候間、僧俗の名を兼て次郎法師と是非無し、南渓和尚御付成さる名也。次郎法師と虎松(龍譚寺提供) やがて、ほとぼりがさめた頃、亀之丞は井伊谷にもどってきた。次郎法師がそこで還俗(げんぞく)していれば、そのまま夫婦になれたはずなのに、どういうわけか、彼女は還俗しなかった。そこで亀之丞は別の女性と結婚し、直盛の養子となり、元服して直親と名乗るのである。 仮に、そのまま推移していれば、次郎法師が直虎という名で井伊家の家督を継ぐことはなかった。そうなっていれば、女城主は誕生しなかったことになる。ところが、その後、二つの悲劇が重なる。 一つは、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いで、直盛が討ち死にしてしまったことである。当然、跡を養子の直親が継ぐことになる。そして、その直親が2年後の同5年、義元の跡を継いだ今川氏真に誅殺されてしまうのである。直親が三河で自立しはじめた徳川家康と内通していたというのである。 ここで、井伊家の男子はいなくなってしまった。直親には虎松という男の子がいたが、そのとき2歳だったのである。そこで、次郎法師が井伊家の家督を継ぎ、井伊谷城の城主となり、はじめは次郎法師の名で文書を出していたが、やがて、直虎と名乗ることになる。この名前だけ見れば、直虎という男子が井伊家の家督を継いだと思うはずである。しかし、直虎は次郎法師だったのである。 このあと、直虎は、今川氏真が命じた井伊谷に対する徳政令の発効を凍結したが、やがて抵抗できず、徳政令の施行を認めている。ところが、その直後、今川家は、武田信玄・徳川家康に攻められ滅亡することになり、直虎の「女地頭」としての役割も見られなくなる。 それだけであれば、「変わった女城主がいたものだ」くらいで済まされてしまったかもしれない。じつは、その後があるのである。彼女が養育した虎松を、徳川家康に引き会わせ、その虎松が家康の側近となり、のちに「徳川四天王」といわれる井伊直政となる。この井伊家は、周知のように、江戸時代、彦根藩主として譜代筆頭30万石を領し、幕末の直弼まで、何と5人の大老を出しているのである。消えかかった井伊家をつないだのが女城主直虎であった。

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    「おんな城主」井伊直虎の真実

    今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎の素性をめぐり、実は「男」だったという説を裏付ける新たな資料が見つかり、波紋を呼んだ。そもそも直虎に関する資料は乏しく、歴史的実証が難しい人物である。井伊直虎とは何者だったのか。このミステリアスな戦国武将の実像にiRONNAが迫ってみた。

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    井伊直虎はここが凄い! 戦国時代の驚くべき「おんなの発言権」

    の「今川仮名目録」の制定に関与した可能性があるとされている。いわゆる「女傑」だったのだ。 このように戦国時代においては、女性が当主の権限を代行することが珍しくなかった。直虎たちの例はやや極端であるが、戦国大名家における女性たちの発言権は、少なからずあったと指摘されている。 直虎については極端に史料が乏しく、1年を通して放映するにはかなりの想像力が必要に思う。これまでと違った「おんな戦国大名」を主人公として、どのような演出が行われるのか今から大いに期待している。 ここ数年の大河ドラマは、「ホームドラマ化」したといわれて久しい。たとえば、親子や兄弟姉妹の愛情、友達同士の麗しい友情などを含め、さまざまな教育的な配慮がなされている。身分の低い主人公が主人である大名と友達のように会話をするのは、ドラマの進行上やむをえないないのだろうか。 最近では、2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の主人公、江の演じ方があまりに斬新すぎ、いささか不興を買ったようである。かつての時代劇全盛期を知るご年配の方にとっては、いささか物足りないようだ。 戦国時代は、生きるか死ぬかの厳しい時代であり、ときに親が子を殺し、子が親を殺すような非情な時代であった。やはり、時代劇にはかつての名作のように、しびれるような重厚感や見応えがほしいところである。 直虎は、きっと男以上の高い才覚を持っていたのだろう。とにかく「おんな城主 直虎」には、大いに期待したいところだ。

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    「井伊直虎」の名に隠された女城主の宿願と一発逆転人生

    日月(歴史研究家・歴史作家) 今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主役となる井伊直虎。そのいかにも戦国時代の人物らしい勇ましそうな名乗りの持ち主が、実は女性だったというギャップが、ドラマのキーとなりそうだ。直虎を生んだ井伊氏は藤原氏の流れというが、どうもその家系伝承はあやふやで、ほかに異説もある。いずれにしても古くから遠江国(現在の静岡県西部)の浜名湖北東山岳地帯の井伊谷周辺に勢力を張る豪族で、朝廷から遠江介(国司の次官)に任じられるほどの名門だったようだ。龍譚寺にある井伊家御霊屋。右から元祖井伊共保、二十二代直盛、二十四代直政の木像が安置されている(同寺提供) だから、足利尊氏が後醍醐天皇から政権を奪い南北朝の動乱期を迎えると、井伊氏は後醍醐天皇の南朝に味方して足利一族で遠江・駿河(現在の静岡県東部)の守護職をあたえられた今川範国と刃を交えることになる。建武4(1337)年、範国は三方ヶ原で戦った井伊勢を「凶徒」と表現し、井伊氏は後醍醐天皇の子・宗良親王を三岳城に迎えている(この城はいざという時のための詰の城〈最後の砦〉で、その西向かいのもっと低い位置にあった井伊谷城が通常の居城だった)。 井伊氏はこの戦いに敗れ、やむなく今川氏に従う。そして戦国時代に入ると今川氏に代わって遠江守護となっていた斯波氏の配下として今川氏と戦い、また負けて三岳城を攻め落とされた。この戦いで今川氏はふたたび遠江を支配するのだが、それまでの経緯が経緯なので今川氏は決して井伊氏に気を許すことはなかった。範国から7代、戦国時代に今川家の当主となった義元は天文13(1544)年井伊直満を謀反の嫌疑で自害に追い込み、同じ頃に井伊谷城の押さえとして万石(現浜松市中郡町)に砦を築かせ、兵を配置している。いかに井伊氏が警戒されていたかがわかるだろう。 駿河・遠江だけでなく三河国(現在の愛知県東部)までも制する大勢力となった義元は、直満の跡を継いだ甥の直盛をも動員して永禄3(1560)年5月19日に尾張国(現在の愛知県西部)の織田信長との戦いに臨み、桶狭間で予想外の討ち死にを遂げる。この時直盛も義元と運命をともにしたが、それでも今川氏の井伊氏に対する疑心は解けず、2年後には義元の子・氏真が直親(男子の無い直盛の跡を継いだ従兄弟。直満の子)を織田への内通の疑いありと駿河へ呼びつけ、途中で殺してしまった。直親は父と主君の仇に寝返る筈が無いだろう」と身の潔白を主張していたという(『松平記』)。井伊谷は今川を見限って織田と同盟した松平元康(のちの徳川家康)の領国・三河との境に近いだけに、氏真としては因縁のある井伊氏に疑心暗鬼となったのだろう。 このとき氏真は直親の子でわずか2歳の虎松まで殺そうとしたが、周囲の必死の運動で虎松は直盛の妻の兄(今川一族の新野親矩)に引き取られる。この虎松こそが、のちの徳川四天王のひとり、幕府の大老の家格となる彦根藩井伊家初代、井伊直政となるのだ。直虎がその名にこめた願い さて、こうして当主と跡継ぎを失った井伊家では、とりあえず直盛・直親の祖父である直平が老体に鞭打って指揮をとったのだが、悪い事は重なるもので、この直平も永禄6(1563)年に亡くなってしまった。 こうして、やむをえず直盛の娘・次郎法師直虎が主(あるじ)をつとめる事になる。「おんな城主」の誕生である。当時、九州の立花道雪の娘・誾千代など、女性城主の例は次郎法師だけではない。彼女がなぜ次郎法師などという名で呼ばれたかについて『井伊家伝記』(江戸時代中期に著された井伊家の史伝)は彼女が直親の許婚(いいなずけ)で、彼が今川に追われて一時信濃に亡命した際に出家したと説明しているから、その事を表す肩書きなのだろう。「次郎」の方は父・直盛も用いた井伊家総領の通称「次郎」を引き継いだのではないか。想像をたくましくすると、男子のいない直盛の娘として、出家前からその名で通しており、彼女の諱(いみな)の「直虎」も、虎松の「虎」字を用いたのかも知れない。「父とはとこの虎松の代わりに自分が家を守り抜く」  彼女の名前には大きな思いが込められていたのだ。 そして、彼女は母と相談して虎松を松下家に入れ、表面上は井伊氏と無関係をよそおって彼の命を守り、永禄9(1566)年、氏真が発した徳政令の実施を2年間にわたって差し止めた。彼女は陰に陽に氏真の指示に逆らい続けたわけだ。結果、2年後に直虎は実権を奪われたようだが、その年、当の氏真が武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて滅亡。井伊谷は家康から家臣に与えられ、直虎は領地さえ失って逼塞してしまった。 だが、彼女は転んでもただでは起きない。元亀3(1572)年には信玄の侵攻を受け家康の居城・浜松に亡命し、次の年(天正2年)には虎松を養子とする。そして彼女は家康と虎松、ふたりのキーマンに逆転を賭けるのだ。翌年、虎松は直虎とその母から小袖二領をあつらえてもらい、家康に初目見(めみえ)して出仕、井伊万千代となる。その後万千代は家康に寵愛され出世の糸口をつかんでいく。直虎が天正10(1582)年8月26日に亡くなった直後、彼は元服して直政と名乗り、井伊家の家督を継いだ。次郎法師直虎がその名に込めた願いは、19年後に彼女の死とともに実現したのだ。

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    NHK大河ドラマに激震 「おんな城主直虎」は男だった!?

    017年のNHK大河『おんな城主 直虎』のスタッフのプレッシャーは大きいだろうが、前評判は上々だ。「戦国時代のドラマには珍しい女性武将・井伊直虎をクールな柴咲コウさんが演じるというのは興味深い。舞台設定が異色だけに、『真田丸』以上に斬新な展開を期待します」(テレビ誌記者)NHK大河ドラマ「真田丸」主演の堺雅人さんから「おんな城主 直虎」主演の柴咲コウさんへのバトンタッチセレモニーが行われた。ドラマゆかりの地にちなみ堺さんからは「紀州・九度山特産の柿」、柴咲さんからは「浜松の凧」が送られた=2016年11月25日、東京・渋谷(桐山弘太撮影) ところが、放送まで1か月を切ったこのタイミングでドラマの根幹を揺るがしかねない歴史資料の存在が取り沙汰されている。何と実在の直虎は「おんな城主」ではなく、「男」だったというのである。「ドラマと史実が違うのは別に悪いことではないと思っているんです。だから、大河ドラマが間違っているなんて、野暮なことを言うつもりもありません。でも、ドラマはドラマ、史実は史実として分けて考える必要がある。だから僕は史料の存在を明らかにするのです」 そう語るのは、井伊家ゆかりの美術品などを保存・展示する井伊美術館(京都)の井伊達夫・館長だ。井伊家末裔でもある達夫氏は、井伊家が当主を務めた彦根藩の記録を調査し、「直虎は、女ではなく男だった」との結論に至ったという。 大河ドラマの主人公ながら、井伊直虎に関する史料は極めて少ない。そこでNHK公式サイトにある大河ドラマの「あらすじ」をもとに、これまで伝えられてきた直虎の人物像を紐解いてみると──。 直虎は遠江(現在の静岡県西部)の北部にある井伊谷(現在の浜松市北区)の領主・井伊直盛の娘として生まれた。生年も幼名も不明とされている。 出家して「次郎法師」を名乗るものの、相次ぐ戦争や謀略によって家督を継ぐ男たちが次々と命を落とす中、井伊家を守るために還俗(出家した者が俗人に戻ること)。「女城主」として直虎を名乗り、唯一生き残った井伊家の幼い男子を守りながら再興を目指す──というもの。 ちなみに「直虎が育てた男子」とは、後に徳川家康に重用されて「徳川四天王」の一人に数えられた井伊直政。関ヶ原の戦いなどの戦功により彦根に領地を与えられ、彦根藩の初代藩主となった戦国武将だ(江戸時代末期の「安政の大獄」、「桜田門外の変」で知られる井伊直弼は彦根藩第15代藩主)。 こう紹介すれば、江戸時代まで続く名門・井伊家の窮地を救った「女傑」の物語に俄然興味が湧いてくる。 だが、この“壮大な歴史物語”を井伊家末裔が、「史実ではない」と否定したのだから驚くほかない。「ドラマチックにしないと」「ドラマチックにしないと」「井伊直虎が『次郎直虎』を名乗っていたこと、そして井伊直盛の娘に出家して『次郎法師』となった女性が実在したことは明らかなのですが、“次郎法師が井伊直虎になった”ことを示す史料は存在しない。にもかかわらず、2人の『次郎』が同一人物だと一部の歴史家に誤解されてしまった可能性が高いのです。 次郎直虎と次郎法師を同一人物とした場合、説明が成り立たなくなる文献もある。さらに、次郎法師が幼い直政を育てたという(大河の)ストーリーも明確な根拠は存在しません」(達夫氏) そして達夫氏が調査中の文献(彦根藩の記録)によると、「次郎直虎」なる人物は井伊家の家系図に存在せず、「少なくとも井伊直盛(次郎法師の父)とは関係のない男性だった」(達夫氏)とも言うのである。 文献の詳細、つまり「次郎直虎の素性」については「最終的に調査をまとめてから発表したい」(達夫氏)として多くを語らなかったが、11月発刊の『井伊直虎完全ガイド 直虎の真実100』のインタビューでは、〈(次郎直虎は)ごく短い期間、井伊家の実質的な支配者となった人物なのです〉 と、謎の一端を明かした。これらの「新史実」が明らかになれば、大河のストーリーにも影響が出かねないように思えるが──。「大河ドラマスタッフの偉い方が僕の美術館に来た時に、ストーリー作りは“想像に頼る部分が大きい”という話をされていました。やはりドラマにするなら脚色してドラマチックにしないといけない。 繰り返しますが、ドラマはドラマとして描けばいい。史実を解き明かすのは研究者の仕事と責任で、ドラマ制作者ではないのです」(達夫氏) また、達夫氏が発表する史料がすぐに「歴史的事実」と認定されるわけでもないようだ。『時代考証学ことはじめ』の共著者で、本誌でコラム「時代劇を斬る!」(~2015年4月)を連載した安田清人氏はこう語る。「井伊次郎直虎が男だという説は以前からあったのですが、研究者によって説は違う。逆にいえば“直虎が女性だった”ということを示す決定的な史料が存在しないことも事実です。まずは発見された文献の内容を見なければ分かりませんが、複数の研究者による精査が必要ですから、史実かどうかを確定するにしても相当な時間を要するでしょう」 NHKに訊ねると「ドラマはあくまでもフィクションです。1年間、視聴者のみなさまに楽しんでいただける大河ドラマを制作して参ります」(広報局)との回答だった。あるNHKドラマスタッフもこう明かす。「今年の真田幸村も実は幼少~青年期の史料は極めて少ない人物でしたが、だからこそ『真田丸』では三谷さんの演出の自由度が広くなって面白さが増した。それに“史実と違うんじゃないか”という議論は、ドラマの関心が高まるので、実はネガティブな話題じゃない。その点で言えば、史料が乏しい直虎は“美味しいキャラクター”なんです」 どうやら史料が明らかになったとしても、ストーリーの変更はない模様。まァ、“おとこ城主直虎”では、誰も観てくれないのは間違いないが……。関連記事■ 大河ドラマ『直虎』主演の柴咲コウ 凛々しいショートヘア■ 次回NHK大河主演の柴咲コウ 『真田丸』に対抗心■ 柴咲コウ主演「女ばかりの大河ドラマ」に惨敗ドラマとの共通点■ 抱腹絶倒!の小中学生テスト「おバカ解答」実録 【社会】編■ 会津VS長州だけじゃない日本の郷土紛争 彦根VS薩摩の争点

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    マイナスから人生スタートの井伊直政 命惜しまぬ豪胆さで主君に尽くす

     徳川四天王のひとりで、武勇はもとより、戦略と政略に優れた井伊直政は、戦国屈指の武将に数えられる。武田家の遺臣からなる「井伊の赤備え」を率いて武功をあげて「井伊の赤鬼」の異名をとどろかせた勇将である。イラスト・奈日恵太 そんな直政の立身出世のストーリーは、およそ「リストラ」とは縁がなさそうに見える。しかし、彼の人生はもともと「ゼロ」どころか「マイナス」からのスタートだった。じつはリストラ以上に厳しい境遇を乗り越えて生き残った類まれな武将なのである。 井伊家は代々今川家に仕えていたが、父の直親(なおちか)はあらぬ謀反の疑いをかけられて暗殺され、直政は生まれながらに今川から命を狙われる存在だった。出家させて敵の目を逃れ、その後は女性でありながら一時的に当主となっていた井伊直虎(なおとら)に育てられる。養母の直虎は、井伊家の跡継ぎとして直政に英才教育を施した。成長した直政は、寺を出て鷹匠として働いていたところを、鷹狩りに訪れた徳川家康に見いだされて小姓を務めるようになる。直虎の死後は正式に井伊家の当主となり、家康に仕えた。 とはいえ、徳川家にとっては新参者に過ぎない。古くから仕えてきた家臣たちに実力を認めさせるには「結果を出すしかない」と合戦で直政は常に命がけで戦い、鬼神のような活躍を見せる。 もともとは地獄から始まった人生である。どん底の自分を拾ってくれた主君への忠誠心は、誰よりも強かった。つまり「肝の据わり方」が他人とは段違いだったのだろう。すべてを失って地獄を見た男だからこそ、命を失うことなど怖くなかったのかもしれない。 現代のビジネスでも、リスクを恐れてチャンスを失うことは少なくない。安定した生活を失うのは誰でも怖い。変化に対してつい及び腰になるのは仕方のないことだろう。それでも、直政のような経験をしていれば、「失うことなど怖くもない」のである。だからこそ、肝が据わっているのだ。 ただ、彼にとって幸運だったのは、「赤備え」で知られる旧武田軍の優秀な家臣団に支えられたことだ。彼らは若い直政に実戦でのテクニックや武将としての心構えを伝えた。彼らにもかつて戦国最強と呼ばれた甲州軍団の意地があった。「井伊軍は強い」と評判が立てば、「やはり武田軍は強かった」と認められるので彼らも必死だったのだ。 関ヶ原では島津豊久を討ち取ったものの、追撃中に敵の銃弾を受けて重傷を負った。戦後も生き残った西軍の諸将との講和や幕府の基礎固めに尽力したが2年後に急逝。関ヶ原での鉄砲傷の影響で、敗血症を発症して死を招いたという。最期まで勇猛さを貫いた人生だった。(渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

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    井伊直虎だけじゃない、もう一人の「おんな城主」

    長男の景朝は美濃国遠山荘を頼朝から賜り、遠山姓を名乗りました。これが遠山氏の始まりで、この後、同氏は戦国時代に至るまで岩村城により、周辺を治めていたのです。 岐阜県は合掌造り集落(世界遺産!)で有名な白川郷を擁する飛騨国と、司馬遼太郎『国盗り物語』の舞台となる美濃国から成っていますが、いま美濃部分の地図を広げてみると、面白いことに気がつきます。というのは、美濃武士の本場は同国の広々とした中心部(濃尾平野の一部)ではなく、南東の山あいの周辺部なんですね。愛知(尾張)県境に近い多治見・土岐(室町時代の美濃守護家の名字の地)。長野(信濃)県境に近い中津川・恵那。中世の武士は、どちらかというと狭隘(きょうあい)な地域から出ているのです。 遠山氏もそうした家の一つで、最後の当主は景任(かげとう)。彼は信濃を制圧した武田信玄に従い、同時に尾張から美濃に勢力を伸ばした織田信長にも接近していきました。強大な両家に属していたわけですが、これははじめ、織田家と武田家が同盟していたから可能だったのです。時期は不明ですが、景任は信長の叔母(おつやの方、と呼ばれる人)を妻として迎えました。また彼の姪が信長の養女となり、信玄の子である勝頼(後に家督を継ぐが、まだこの時は庶子として遇されていた)に嫁いでいます。 元亀2(1571)年、景任が病没すると信長は五男の坊丸(のち織田勝長)を遠山氏の養子としました。織田・武田両家はすでに同盟を破棄しており、両者の勢力がせめぎ合う岩村城は、戦略的価値の高い城として認識されたのでしょう。景任未亡人は幼少の養子に代わり、実質的な女城主として振る舞いました。 翌年10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に信濃の伊那郡を任せていた秋山虎繁(とらしげ)(大島城主。かつては信友といわれた)に岩村城の攻略を命じました。岩村城はなかなか落ちませんでしたが、虎繁はおつやの方を説得し、妻に迎える(否定する説も出ています)ことを条件に城兵を助け、城を占拠しました。 天正3(1575)年、長篠の戦いでの勝利を受けて、信長は岩村城奪還を計画しました。両軍の5カ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず、城は陥落しました。城主である秋山虎繁とおつやの方は、長良川河川敷で処刑されたといいます。 このあと、信長配下の河尻秀隆や森蘭丸の森一族などがこの城を獲得しますが、江戸時代には松平(大給(おぎゅう)松平)氏が城主であった時代が長くあります。石高は3万石ほどなのですが、今に残る石垣は、それはそれは見事なものです。大名権力の強大さ、ということを思わずにはいられません。 最後に付け加えておきますと、明治から大正期にかけて活躍した女子教育の先覚者、下田歌子は岩村藩士の娘だったのですね。それから、佐久間象山、渡辺崋山(かざん)、横井小楠(しょうなん)らを育てた儒学者、佐藤一斎も岩村藩の家老の息子。同藩の教養の高さがうかがえます。ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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    没後400年・徳川家康の生涯 天下をたぐり寄せた「待つ」選択

     三河の地に生まれ、遠江から天下への階段を駆け上がっていった徳川家康。晩年は駿河で過ごし、75年の生涯を閉じた。今年は没後400年、英傑として知られる武将の歩んだ足跡を、元NHKアナウンサーの松平定知氏が解説する。* * * 豪快で破天荒な信長、ユニークで庶民的な秀吉に対し、家康には老獪でとっつきにくいといったイメージがついて回ります。しかし、あの天下人の陰には、失意と悲しみの前半生があったのです。 まず3歳のとき、母・於大の方と生き別れます。父・松平広忠は今川義元の庇護を受けていましたが、於大(おだい)の方の兄が義元と対立する織田信秀(信長の父)と同盟したため、広忠は於大の方と離縁します。さらに広忠は今川家への忠誠の証として家康を人質に差し出したのです。家康、6歳のとき。 ところが、今川家へ送られる途中、なんと護送役によって織田方に売り払われてしまいます。2年後、人質交換のため家康は今川家に送られ、家康が19歳だった1560年に桶狭間の戦いで義元が信長に倒されるまで人質生活が続きました。最も感受性の強い時期の人生が、大人の事情でかくも翻弄されたのです。 生家・岡崎城に戻った家康は今川家と訣別して信長と同盟を結び、次第に力をつけ、1570年には新しい本城・浜松城を築きます。天守閣が復元された浜松城。石垣は荒っぽい印象を受ける野面積みだ(撮影・芹沢伸生) その頃、反信長同盟のリーダーとなった武田信玄が甲州から信長がいる京を目指します。途中、家康の領地である遠江国を無断で通過しようとしました。信長はやり過ごすよう助言しますが、それでは部下に示しがつかないと、若い家康は聞き入れません。信玄軍は三方ヶ原の台地(天竜川と浜名湖の間)を上っていきます。それを見た家康はほくそ笑みます。「上りきったら、あとは狭い下りの一本道だ。そこを背後から急襲すれば信玄軍を殲滅できる……」 ところが、家康軍が台地に上ったとき、信玄軍は正面を向いて待ち構えていました。戦い巧者の信玄は家康の考えなどお見通しだったのです。家康軍は大惨敗し、家康は恐怖心から馬上で脱糞し、命からがら逃げ帰りました。 この1572年に起きた三方ヶ原の戦いのとき、信玄が徹底して家康を追えば、家康の命はありませんでした。そうなれば江戸時代が到来することもなく、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。しかし、信玄は家康を追いませんでした。家康などいつでも討てると思っていたし、すでに病魔に襲われていたので、京への道を急いだのでしょう。その病、やはり重く、信玄は翌年、道半ばで病死してしまいます。 家康は九死に一生を得ました。この失敗を肝に銘ずるため、顰像(しかみぞう)と呼ばれる肖像画を残しました。そして、身をもって学んだのが「待つ」ことの大切さです。後に家康は「人の一生は重荷負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず」で始まる遺訓を残しましたが、三方ヶ原の戦い以降、家康は「待つ」ことで確実に天下をたぐり寄せました。 それが強く発揮されたのが対秀吉の関係です。家康と秀吉がただ一度戦場で直接対決した1584年の小牧・長久手の戦いで、家康は局地戦で勝利しながら、和睦によって秀吉の家臣となりました。強引に天下取りに進むことなく、いったん待つことを選択したがゆえに、後により大きなチャンスと巡り会います。1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いです。 家康はそれに勝っても、すぐには幕府を開きませんでした。1603年、天皇によって征夷大将軍に任命され、同時に源氏長者の官職を与えられます。名実ともに武家と貴族両方のトップとなるまで待ったのです。それだけではない。さらに大坂冬の陣、夏の陣で豊臣一族を滅ぼすまで、家康はさらに12年の歳月を待ちます。そこまで待って初めて、長きにわたる泰平の世を築くことができました。 家康の我慢と忍耐に成熟した男の器を感じることができるのです。◆松平定知(まつだいら・さだとも):1944年生まれ。早稲田大学卒業後、NHK入局。『19時ニュース』『その時歴史が動いた』など数々の看板番組を担当。2007年にNHKを退局し、現在は京都造形芸術大学教授を務める。武将の智略について考察した『謀る力』(小学館新書)など歴史についての著書多数。関連記事■ 武田に攻められた徳川家康 信長脅して援軍出させた■ 徳川家康没後400年 75年の生涯ゆかりの地を松平定知氏案内■ 信玄(甲斐)と謙信(越後)の2人の銅像が建つのは何県か?■ 「徳川家康は教育パパだった」等歴史上人物の逸話満載した本■ 理想のリーダーに徳川家康、大石内蔵助、島津義弘らが挙がる

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    真田幸村の兄はこんなにも偉大だった!

    真田家が生き残りをかけ、父子が袂を分かつ「犬伏の別れ」。NHK大河ドラマ「真田丸」でもこのシーンが放映され、「神回」と呼ばれるほどの注目を集めた。徳川側についた幸村の兄、信之は、大坂の陣で華々しく散った弟に比べると随分地味だが、一族を守った彼の功績は、実は幸村よりも偉大だった。

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    敵味方に別れた真田父子 家康の信頼を強固にした信之夫妻の決断

    平山優(歴史研究家、大河ドラマ『真田丸』時代考証)犬伏の別れ 真田昌幸・信之・信繁父子は、家康の動員に従い、宇都宮を目指していた。彼らの出陣の時期は明らかでない。この時、昌幸・信繁父子は上田から、信之は沼田から出陣したらしい。小諸城主仙石秀康家臣が後に記した「おほへ」(信補遺下六九)によると、真田昌幸・信繁父子は碓氷峠を越えて下野国に向かった。事前の取り決めで、小諸城主仙石秀康が先に出陣し、真田父子はその後に続く予定だったが、昌幸が所用ありと仙石氏に申し入れ、先に碓氷峠を越える諒解を取り付けたという。真田昌幸(草刈正雄、左)は、自らの思いを息子の信之(大泉洋、右)と信繁(堺雅人、中央)に伝えた そして上野国板鼻に真田父子は到着すると、在陣したまま動かなかったという。後から仙石秀康が到着すると、今度は予定通り、先に仙石軍を通過させ、真田父子は後を追った。この急ぎの用事とは何であったか、不明である。おそらく、昌幸は息子信之との合流を急いだものの、信之の到着が予定より遅れたため、仙石軍を予定通り先に通したのであろうか。信之としては、沼田から直接宇都宮に向かったほうが、遙かに近い。それなのに、父昌幸・弟信繁と上野国板鼻で合流したのには、何か理由があるのだろう。これは、緊迫する上方情勢と無関係ではなかろう。 真田昌幸・信之・信繁父子は、徳川家康との合流を目指し、宇都宮に向かっていたが、下野国佐野表に着陣、ここで一泊することとした。通説では、父子3人は、下野国犬伏宿にいたことになっている。だが黒田基樹氏の研究によれば、昌幸・信繁は天明宿、信之が犬伏宿に在陣していたとされる。着陣した日程ははっきりしないが、概ね7月21日のことと指摘される。 ところがその夜、昌幸のもとに、石田三成が派遣した使者が到着し、7月17日付の「内府ちがひの条々」と三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)連署状が届けられた。これを知った昌幸は、陣所に信之・信繁兄弟を呼び寄せ、人払いを厳命し密談を行い、話し合いの結果、昌幸・信繁と信之は袂を分かち、前者は石田方に、後者は徳川方に味方することになったとされる。これが世にいう「犬伏の別れ」であるが、黒田氏は昌幸・信繁の在陣地天明宿に信之が訪問したと推定し、「天明の別れ」が正しいと主張している。 この密談の内容については、『長国寺殿御事蹟稿』を始めとする後世の軍記物しか頼る史料がなく、しかも内容はほぼ一致している。それらによると、三者が密談の席につくと、昌幸は即座に西軍につく決意を明かし、信繁はすぐ父に同意した。西軍は、真田父子に、信濃一国を与えることを確約していたことも大きかった。 だが信之は、これほど重要な事柄について、軽率に判断できないし、内府家康の動員に応じてここまで出陣して来た以上、今さら逆心を企てるのは如何と昌幸を諫めたという。昌幸は、信之の言い分は正しいが、天下が再び大乱を迎えようとする時流を利用し、家を拡大させ大望を成し遂げるのが武将の生き様だと主張し、譲らなかった。昌幸は、信之説得に努めたが、信之は翻意しなかった。 窮した昌幸は、家臣坂巻夕庵を召し出し、事情を説明して信之説得に加勢するよう求めたが、信之の性格を熟知する夕庵は、今さら説得しても無駄だと辞退したため、父子は別々の道を歩むことになったという(『滋野世記』)。 昌幸・信繁と、信之が袂を分かった背景として、信之は徳川重臣本多忠勝の息女(小松殿)を、信繁は豊臣重臣大谷吉継の息女をそれぞれ正室としているため、双方が話し合いのすえ敵味方に別れることになったとか、昌幸は年来家康に恨みを抱いていたので、これを幸いに西軍につくこととし信繁がこれに賛同した、など様々に語り継がれている。 また『河原綱家家記』には、父子が厳重な人払いのうえで密談していることを心配した重臣河原右京亮綱家が様子を見に行ったところ、昌幸が烈火の如く怒り、下駄を投げつけたといい、それが綱家の前歯に当たり、彼は生涯前歯が欠けたままだったと記されている。だが残念ながら、河原綱家は、この時大坂にいたことが明らかなので、この有名な逸話は、後世の創作であろう。昌幸の沼田入城を拒否した小松殿 かくて3人は談合のすえ、昌幸・信繁は陣払いして上田に帰り西軍に、信之は予定通り宇都宮に進んで徳川方に味方することとなった。両者は互いが追っ手となって襲いかかってくることを恐れ、昌幸・信繁父子は上田への道を急ぎ、信之は全軍に警戒を厳重にさせたともいうから、早くも敵味方として相手を見ていたことになる。実は『朝野旧聞裒藁』所収の『慶長記略抄』には、昌幸・信繁父子と別れた信之は宇都宮に行き、徳川方にこの件を報じると、父昌幸の後を追い、これに鉄炮を撃ちかけたと記されている。もちろん史実かどうかは確認できない。 真田昌幸・信繁父子が引き返したことは、7月24日に徳川方の知るところとなった。そして彼らの上田帰還が、西軍への同調、すなわち敵対であることを、家康は7月27日に認定した。家康は、心変わりした昌幸を改易処分にすると宣言し、上田攻めを決意する。戦に臨む真田昌幸(草刈正雄) 家康は、小諸城主仙石秀康を呼び出し、急ぎ小諸城へ戻るよう命じた。昌幸父子の帰路を阻み、あわよくば討ち取ろうと考えたのであろう。また、真田氏に小諸城を奪取されぬよう、防備を固めさせる意図もあったと推察される。秀康は、小諸を固め、家臣森九郎左衛門を碓氷峠に派遣し、ここを封鎖させ、真田昌幸・信繁父子を通過させぬようにした。真田父子はこれを予想しており、碓氷峠を通過するルートを避け、沼田方面に去った。秀康は、この情報を確認すると、家康に使者を派遣し、小諸は確保したので安心して欲しいと報じたという。小松殿、舅昌幸の沼田入城を拒否す 真田昌幸・信繁父子は、難所碓氷峠が控える中山道ではなく、間道の吾妻街道を通って上田を目指した。途中、徳川方の大名と遭遇することを恐れてのことだったといわれる。そして昌幸父子は、上野国沼田に到着し、城に入ろうとした。これは秘かに沼田城を乗っ取り、徳川方や信之を動揺させる目論見だったという。ところが留守を守っていた信之正室小松殿は、夫信之が同道していないことや、夫から何の連絡もないことなどから、舅昌幸の行動を怪しみ、入城を拒否した。 そして、もし無理に城に入ろうとするなら舅といえど一戦も辞さぬと、城内の女性に至るまで武装させ、戦闘準備を整えさせた。さすがの昌幸もこれには閉口し、何らの意趣なくただ孫の顔を見たいのみだと伝えると、信之夫人は子供らを連れて城外に出て昌幸に孫の顔を見せ、沼田を去らせたという(『長国寺殿御事蹟稿』『大蓮院殿御事蹟稿』など)。その後昌幸は、沼田領の村々に放火し、上田に帰還したという。これは、息子信之が、東軍に残留したことを、父と内通した上でのことと疑われるのを避ける意味があったのではなかろうか。 昌幸は、沼田から吾妻街道を経由し、岩櫃を経て上田へ急いだ。一説に、沼田から大笹(群馬県吾妻郡嬬恋村)にさしかかったところ、行く手を徳川方の一軍に遮られたが、ここは信繁が撃破し、押し通ったとも伝えられる。昌幸・信繁父子は、下野から上田への帰還を果たした。その日程は、定かでない。いっぽうの信之は、徳川氏へ忠節の証として、当時わずか四歳であった次男信政(生母は小松殿)を江戸に人質として出したという。幼い信政に、重臣矢沢但馬守頼幸が随行した。信之の忠節に感動した家康 江戸に到着した信政は、矢沢頼幸に抱かれて家康の御前に参じた。信之の忠節に感動した家康は、信政を側近くまで招き寄せ、吉光の脇差を与えたという(『松城通記』『真武内附録』)。ところで、沼田城に在城していた小松殿が、舅昌幸と義弟信繁の入城を武力で拒んだ逸話はつとに有名である。 しかし、これが事実かどうかは検討の余地がある。私は、前著『真田信繁』で、信之が早くから家康とともに動いていた形跡があり、大坂にあった人質を沼田に取り戻していたのではないかと推定した。その根拠とした史料は、大谷吉継から真田昌幸・信繁父子に送られた、7月30日付書状の一節である。そこには、在坂の真田昌幸の正室山之手殿(寒松院殿)と、信繁正室竹林院(大谷吉継息女)は、大谷に無事に保護されていることが明記されている。いっぽうで、信之の人質については次のように記されている。 『此已後ハ留主御気遣有間敷候、伊豆殿女中改候間、去年くたり候時、左衛門佐方くやミ候様子までを証跡ニ申無別儀候』 大谷吉継は、大坂の人質は無事なので安心してほしいと記した後に、真田信之の人質について、信之は去年(慶長4年[1599])女中改めを口実にして彼女たちを引き揚げてしまっていたと述べている。こうしたことが、可能であったかどうかについては、石田三成らが家康を弾劾した「内府ちかひの条々」の一節に次のような記述がある。 『一諸侍之妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事』 石田三成らは、大坂屋敷に提出させておいた大名・小名の人質について、家康が依怙贔屓に国元に返してしまっていることを、太閤の遺命に背く重大な罪状として取り上げているのである。信之の人質である小松殿や息子たちは沼田にいたというのは、家康の計らいによるものと推定される。小松殿や信政が沼田に在城しており、関ヶ原合戦の直前に、信政が人質として、江戸に提出できた理由も、これで説明できるのではなかろうか。記して後考をまちたいと思う。 ※本記事では「信之」の表記を使っております。ひらやま・ゆう 1964年東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、山梨県立中央高等学校教諭。2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。著書に、『武田信玄』『長篠合戦と武田勝頼』(ともに吉川弘文館)、『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』『天正壬午の乱 増補改訂版』(以上、戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社現代新書)、『真田三代』(PHP新書)、『大いなる謎 真田一族』(PHP文庫)、『真田信繁』(角川選書)などがある。また『マンガで読む真田三代』(すずき孔、戎光祥出版)の監修を務める。関連記事■ 真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す■ 風呂は「熱い」「ぬるい」と言うな…大泉洋が演じる真田信之とは?■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力

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    家康に父らの赦免を嘆願 真田一族を守り抜いた信之の偉業

    平山優(歴史研究家、大河ドラマ『真田丸』時代考証)真田父子の降伏と信之の嘆願 通説によると、真田信之は、父昌幸と弟信繁に死罪を命じようとした家康を懸命に説得し、高野山追放を勝ち取ったとされる。しかし、近年指摘されるように、関ヶ原合戦で処刑されたのは、首謀者の石田三成・安国寺恵瓊・小西行長の3名のみであり、西軍に属して戦った武将も、降伏後はすべて助命されている。昌幸と信繁が処刑されそうだったというのは、信之の孝養と業績を讃えるために創作されたものだろう。 ただし、高野山追放とはいえ、彼らの処置が死罪に次いで重かったのは事実である。追放処分は、八丈島に流罪となった宇喜多秀家とならぶものであった。やはり、秀忠軍と戦い、破ったことが響いたのだろう。 父と弟の赦免のため、真田信之は上洛を果たした。大坂の真田屋敷にいた家臣河原綱家らは、上田城内で焦燥しているであろう昌幸を見舞う書状を出した。それに対し昌幸は、某月(欠損による)二十二日付で上田城から返書を出し、本当ならば自分自身が上洛し、家康に謝罪したいが、それもままならない。今は、信之が上洛して詫び言を行うことになっている。信之からの返事が来たら、そちらにも知らせることにしようと述べている。板挟みに苦しめられながらも成長した真田信之(大泉洋) また某月(欠損による)15日付の昌幸書状も、第二次上田合戦後から追放までの間に、河原らに出されたものである。これは欠損が激しく、判読が困難であるが、昌幸の妻山之手殿らが真田方に確保されたこと、信之が上洛したこと、そして伏見に参上したことなどが読みとれる。山之手殿らは、三成挙兵後、西軍に身柄を確保されていたから、それを真田氏が受け取ったのであろう。 昌幸は、家族の無事を知り、喜んでいる。そして信之が上洛し、伏見城で家康に嘆願することになっていたとみられる。最も有名な逸話として、信之の嘆願に、舅本多忠勝が同調し、家康を説得したというものがある。本多氏は、その後も、真田信之の嘆願を援助しているので、これは事実なのだろう。 信之は、おそらく追放処分などもない赦免を嘆願したとみられるが、結局家康は、上田城に籠城し抗戦したことを許さず、高野山に追放を命じた。かくて昌幸・信繁父子の処分が確定したのである。12月13日、真田父子は上田城を開城し、徳川方に引き渡すと、高野山に出発した。上田城の受け取りは諏方頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らが行い、そのまま城番として城の警固にあたった。 父と弟の高野山追放 高野山に追放された時、昌幸は当時54歳、信繁は30代前半であった。信之は、父と弟に、家臣を随行させている。真田家の記録によると、それらは、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田角左衛門(作之丞とも)、川野(河野)清右衛門、青木半左衛門、大瀬儀八郎、飯島市之丞、石井舎人、前嶋作左衛門、関口角左衛門、関口忠左衛門、三井仁兵衛(仁左衛門とも)、青木清庵(春庵とも)の16人だったと伝わる。父昌幸の遺領を与えられた信之 徳川方から、随行する家臣の人数には制限が設けられていたといわれ、このため同行を願い出て許されなかった家臣窪田作之丞は自刃したとの伝承がある。また『高野山蓮華定院書上』によれば、この他に久保田角左衛門、鳥羽木工なる人物がいたというが確認できない。さらに青柳千弥、三井豊前、高梨采女も随行しており、彼らは若殿真田大助の家老だったという。 この時大助は誕生していないので、おそらく信繁の家臣だったのだろう。後に彼らは、大坂城に籠城したという。この他にも、樋口角兵衛なる人物もおり、彼は大坂城に籠城し、落城の後は上田に帰国したと伝わるが、これも確認できない(『長国寺殿御事蹟稿』)。また、追放された昌幸から、信之に出した書状をみると、これら随行の家臣名にはない人物もおり、必ずしもすべての随行員の名が判明しているわけではないことがわかる。真田家の行き先について思いをはせる真田昌幸(草刈正雄) なお、九度山随行の家臣に対しては、信之から知行が継続して与えられていた。例えば、関口角左衛門については、慶長11年(1606)3月晦日付で30貫文が与えられているし、同じく飯島市之丞については、その配下にいた足軽は、主人が不在となったため、日置五右衛門に付属させられることとなっている。 昌幸・信繁父子は最初、高野山蓮華定院に庇護され、その後、高野山の麓、細川に落ち着いたという。まもなく、同院の仲介により、高野山惣分文殊院より許され、その麓の九度山に屋敷を構えてここに移った。元文年間(1736~1741)に高野山蓮華定院が記した覚書によると、昌幸と信繁はそれぞれ別に屋敷を構えたといい、高梨ら随行の家臣も別宅を持っていたと伝わる。 昌幸屋敷は道場海東(道場垣内であろう)、信繁屋敷は堂海東(堂垣内であろう)というところにそれぞれあったという。このうち、真田昌幸墓所が設けられたのがその屋敷跡とされる。なお、昌幸正室山之手殿は夫と行動をともにせず、上田で生涯を終えた。いっぽう信繁の正室大谷夫人は九度山で夫と合流したらしい。また側室高梨氏や三好氏も伴って、九度山に入ったと伝わる。こうして九度山での配流生活が始まったのである。信之、父昌幸の遺領を与えられる 慶長5年(1600)12月13日、真田昌幸は改易され、上田城は徳川家康によって没収され、小県郡の旧真田領は徳川氏の管理下に入った。上田城には城番が入ったことは、既述の通りである。そして家康は、約束通り、信之に父昌幸の跡を与えた。ただし、その時期については明確にならない。家康からの知行宛行状も残されていない。わずかに、慶長5年(1600)12月26日、信之が小県郡海野の白鳥明神の禰宜に、従前通り、社領30貫500文を安堵する朱印状を与えている。これが、信之による小県郡支配の初見である。海野の白鳥明神は、真田氏の氏神の一つであるから、その神社への安堵をもって小県郡支配を開始したのだろう。 なお、この時、信之が拝領した小県郡の石高は諸説あって定まっていない。現在、最も妥当と推定されている知行石高は、沼田領2万7000石とあわせて、合計9万5000石というものである。これらの知行石高は、昌幸遺領、信繁遺領と沼田領および検地による打ち出しの総計であったと推定されている。  ひらやま・ゆう 1964年東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、山梨県立中央高等学校教諭。2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。著書に、『武田信玄』『長篠合戦と武田勝頼』(ともに吉川弘文館)、『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』『天正壬午の乱 増補改訂版』(以上、戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社現代新書)、『真田三代』(PHP新書)、『大いなる謎 真田一族』(PHP文庫)、『真田信繁』(角川選書)などがある。また『マンガで読む真田三代』(すずき孔、戎光祥出版)の監修を務める。関連記事■ 犬伏の別れと真田信之、小松殿の決断■ 幸隆、昌幸…この父子なくして「真田幸村」の活躍■ 風呂は「熱い」「ぬるい」と言うな…大泉洋が演じる真田信之とは?

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    真田信之・幸村兄弟 関ヶ原の戦いで「東軍」「西軍」に分かれた真相

    松平定知  真田の家名を後世に残すため、真田家の当主、昌幸は、息子2人を敵味方に分けて関ヶ原の戦いに向かわせることにしたことは昨日、触れた。これを知った徳川秀忠は、関ヶ原直前、味方についた「兄」信之(信幸)に、敵側の「弟」幸村(信繁)のいる砥石(といし)城(長野県上田市)を攻めさせた(第2次上田戦争)。 幸村は「兄さんとの直接対決なんて」と、さっさと砥石城を捨てるのだが、これは大勢にはさして影響はなかった。昌幸・幸村軍の15倍の兵力を持っていた秀忠軍は(上田城攻めでは)その油断もあって、押しまくられ、逃げさせられ、結果として関ヶ原の本戦に大遅刻する。秀忠軍がようよう駆けつけたときには、もう戦いは終わっていたという体たらくだった。 15年前の第1次上田戦争で恥をかかされた家康ともども、家康・秀忠父子の、昌幸・幸村父子に対する怨念は深い。そんな昌幸・幸村父子が、関ヶ原後も殺されなかったのは、一にかかって、「兄」信之と、その岳父で、家康の側近中の側近、本多忠勝の尽力のおかげである。 さらに、「弟」幸村のその後の14年にわたる九度山(くどやま、和歌山県九度山町)時代、「兄」信之は、徳川系の真田の女性も総動員して、物心両面で、この「弟」幸村を援助し続けた。立場こそ違え、2人は、基本的には「仲良し兄弟」だったのだ。昌幸の妻が九度山行きに同行しなかった理由 兄弟の父、昌幸は、あの豊臣秀吉をして「表裏比興の者」(=どっちが表でどっちか裏か分からん男)と言わしめたほどの、油断のならない謀略家だった。そうしなければ、信濃の、あの狭隘(きょうあい=狭い)な山里で、いくつもの大勢力を相手に生き延びることはできなかった。板挟みに苦しめられながらも成長した真田信幸(大泉洋) 昌幸はそんな日々を暮らすうち、持ち前の「時代の先を読む鋭い嗅覚」で、「これからの日本は家康」と見切ったときがあったのではないかと私は思う。家名存続のために、昌幸が「嫡男を徳川に」と決めたのはその時だったのだ。同時に、万一の場合に備えて、西軍にも保険をかけた。幸村の妻に石田三成の大親友、大谷吉継の娘を選んだ。あの昌幸のことだ。息子たちの配偶者に、それぞれ両軍の大幹部の娘を選んだのは「偶然」ではなかった(とも私は思う)。 しかし、そんな謀略の大家、昌幸も人の親だった。自分にとっての「初めての子供」でありながら、物心(ものごころ)つくまで自分の出生の秘密も知らず、日々、けなげに育つ源次郎(幸村)を見て、いつもふびんに思っていた。「この子は離さない。この子とは、一生、一緒だ。この子は俺が守る」と誓う。 関ヶ原の戦いで、どうして、「信之が東軍に、幸村と昌幸が西軍に分かれたのか」という疑問は、これで氷解である。 と、ここまで書くと、もう1つの疑問、昌幸の妻が九度山行きの夫に同行しなかった理由は改めて記すまでもない。他の女性に子供を産ませた夫と、「その女の子供」と暮らすよりは、「自分が腹を痛めた子のそばで」と考えるのは、自然だろうから。 まつだいら・さだとも 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」「NHKスペシャル」などを担当。現在、京都造形芸術大学教授、東京芸術学舎教授などを務める。昨年、TBS系ドラマ『下町ロケット』のナレーションで注目された。著書に『松平定知朗読「サライ」が選んだ名作集』(小学館)、『謀る力』(小学館新書)など。

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    真田父子3人、息子の嫁取りで「天下分け目」両サイドに保険

    【戦国夫婦の生き方 松平定知】(1) 今回の連載では「戦国夫婦の生き方」に迫りたい。1回目は、NHK大河ドラマ「真田丸」の主役、真田父子3人の場合である。 父、昌幸の妻(山之手殿、寒松院)は、「京の公家出身説」や「武田信玄の養女説」「石田三成の妻と異母姉妹説」など諸説ある。嫡男、信之(信幸)の妻は、徳川四天王の1人、家康の信頼が最も厚い本多忠勝の娘(小松姫)。また、幸村(信繁)の妻は、石田三成の大親友、大谷吉継(よしつぐ)の娘(竹林院)と、ともに「有名人」の娘である。 父子3人の最大のターニングポイントは、いわゆる「犬伏の別れ」だ。天下分け目の「関ヶ原の戦い」の直前、世の中がどう転ぼうとも真田家が存続するようにと、昌幸が息子2人を敵味方に分かれさせた、あの場面だろう。 でも、あの案は「犬伏」で突如ひらめいたのではない。智将・昌幸は、その10~15年ほど前に、個人的に家康が好きか嫌いかの感情論とは別に、一武将として「これからの日本は家康だ」と読み切った時があったのではないか。近い将来、家康と非家康との戦いが起こるとも予想し、水面下で準備を始めた。 息子の「嫁取り」は、その最も重要な作戦と昌幸は位置付けた。 昌幸は「今後は家康」と思っているから、嫡男はまず「家康側」に置く。その嫁は、家康の側近中の側近の娘に絞る。つまり、この結婚は偶然の成り行きではなかった。この徳川四天王の娘は信之と結婚後、上田城を守り、松代城を守り、幕末まで真田家を立派に継続させる礎を築いた。どっちに転んでも真田家は生き残る 一方、昌幸は、家康より心情的に自分に近い非家康の(三成)側に、自分と幸村を置くという保険もかけた。幸村と吉継の娘との結婚も、幸村の単独プレーではなかったと思う。真田家の行く末を案ずる真田信幸(大泉洋、左)と信繁(堺雅人) 「これで、どっちに転んでも真田家は生き残る」 昌幸は兄2人が「長篠の戦い」でともに戦死し、三男ながら急遽(きゅうきょ)、一族の長になった。以後、彼は「家名の継承」を自分に課した。そうである以上、きれいごとは言っていられない。 そして、昌幸の読み通り、「関が原」が起き、東軍が勝った。昌幸と幸村は死罪ではなく流罪となったが、これは信之の岳父の尽力による。ただ、これも昌幸の「想定内」のことだった。 昌幸と幸村の九度山(くどやま)隠棲生活は、昌幸が11年、幸村は14年に及ぶ(=この長さは想定外だったと思う)。その間、幸村の妻は常に夫のそばにいた。だが、昌幸の妻は最初から夫には同行せず、信之の傍で暮らした。そして、真田家存続の道筋を確認した後、出家した。出家先の大輪寺で夫の死の2年後にひっそりと死ぬ。 三者三様だが、共通点は1つ。それは、「一族のため」。彼らに「戦国夫婦」の典型を見る。◇ まつだいら・さだとも 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」「NHKスペシャル」などを担当。エグゼクティブアナウンサー(理事待遇)を経て、2007年に退職する。現在、京都造形芸術大学教授、東京芸術学舎教授などを務める。著書に『松平定知朗読「サライ」が選んだ名作集』(小学館)、『謀る力』(小学館新書)など。

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    「かわいそうだ、お兄ちゃん」真田信之役の大泉洋、至る所で同情された

     天下分け目の「関ケ原の戦い」迫る-。物語が急速に動き始めたNHK大河ドラマ「真田丸」。今作の主人公・真田信繁(堺雅人)の兄、信幸は、まじめでちょっと堅物なタイプ。謀略大好きの父・昌幸(草刈正雄)と、何事にもソツのない弟・信繁に挟まれ、立ち位置の難しい役どころだ。信幸役の大泉洋(43)は、「私が演じることで、ドラマ史上一番親しみやすい、愛される信幸になったんじゃないかな」と、冗談めかして語った。(本間英士) 《昨年9月のクランクインから間もなく1年》 「真田丸」が始まってからですね、私は至る所で「かわいそうだ、お兄ちゃんは…」と同情されました(笑)。 そういうときは、「今後、もっとひどくなりますよ」と言い返していました。(「関ケ原の戦い」や「正室」問題など)どれだけ板挟みになるんだよ、と思いましたね。ちなみに、(ダメな父親役を演じた昨年の朝ドラ)「まれ」の時によく言われたのは、「しっかりしろ!」でした。 《「真田丸」の信幸についてどう考えているか》 脚本の三谷(幸喜)さんは、人物をコミカルに描くところがあります。信幸は後に真田家存続の礎となり、「信濃の獅子」と呼ばれた人物です。格好良い信幸を期待していた人には申し訳ないという気持ちはありつつ、私が演じることで、ドラマ史上一番親しみやすい、愛される信幸になったんじゃないかな、という気持ちもあります。 史実の信幸は、ずっと弟と父のことを気に掛けていました。これは手紙にも残っているし、「真田丸」でもそうです。だからこそ、「関ケ原の戦い」で信幸はつらかったと思いますね。父と弟が、徳川に対してバンバンむちゃするから。その間に挟まって、大変だったと思うよ。 「大坂の陣」もそうですよね。自分の会社(徳川家)を潰そうとしているやつが、自分の身内なわけでしょ。「何やってるの!」って感じですよね。NHK大河ドラマ「真田丸」で真田信幸を演じる大泉洋 《コミカルな役柄が多い大泉にとって、信幸はいつになくまじめな役だ》 面白いシーンが多いですが、「面白く演じすぎてもいけない」と気を付けています。以前、三谷さんから、「面白いセリフをいう前に、(大泉は)鼻の穴がデカくなる。気を付けてください。まじめにやってほしい」という指摘を受けまして。そうはいっても、クセなんだから、こればっかりは訓練できないし…。難しいところです。 《序盤、事あるごとに信濃の国衆・室賀正武(西村雅彦)から「黙れ小童(こわっぱ)!」と信幸が怒られるシーンがインターネット上で話題に。真田家のおひざ元・上田では、「黙れ小童せんべい」も発売された》 兎にも角にも、言い続けてくださった西村さんの演じっぷりですよね。実は、視聴者の皆さんが盛り上げてくれる前から、僕らも現場で言っていたんですよ。「これは流行語大賞だ」と…。何かあれば「黙れ小童!」と、非常にワード(言葉)として使いやすいんですね。信幸にしたら、何か言おうとしたときに言われるので、悔しい思いをするんですが。 私事で恐縮ですが、7月に北海道で行われた私たちの事務所のイベントで、皆さんが『黙れ小童!』と書かれたうちわを、やたらと振っていたんですね。非常にはやっていることを実感しましたね。 《物語の途中で正室が、こう(長野里美)から稲(吉田羊)に変わった》 戸惑いましたね。信幸にすれば、非常にやりにくい。そのうえ、「コンビか!」ってくらい、どのシーンでも2人はほぼ居合わせる。稲とおこうさんのパートだけ、若干昼ドラみたいな感じでしたね(笑)。 不思議なのが、なんでおこうさんは、侍女になってからあんな元気になったのか。(こう役を演じた)長野さんも戸惑いつつ、「(正室の)プレッシャーだったんでしょうね」と言っていましたが、正室でいてくれたときにもうちょっと元気でいてくれよ、と。ご飯くらいよそってくれよ、と(笑)。 《史実では、昌幸・信繁親子が西軍方に付き、信幸は東軍方に付いた。「関ケ原の戦い」の直前、この3人が東西どちらの陣営につくかを協議した「犬伏の別れ」のシーンを演じ、どう感じたか》 「犬伏の別れ」は、親子が敵味方に別れる悲劇という、真田家を語るうえで大事なところです。だから、そこをどう描くのかは楽しみでした。「真田丸」では、「犬伏の別れ」で真田家が二手に分かれて戦う理由について、三谷さんらしい描かれ方がされています。ぐっとくるセリフがありましたし、私自身も「きた! 信幸、頑張ってる!」と、信幸の成長を感じました。楽しみにしてほしいです。 《信幸・信繁の兄弟は、後に「大坂の陣」で再び相まみえることになる》 信幸は、後に(松代藩主として)真田家を守っていった人。信幸なりの戦い方が、どう描かれるのかが楽しみですね。これからは、なかなか弟(信繁)とも交わらなくなっていきます。「大坂の陣」で、2人はどう関わっていくのでしょうか。史実でもその辺りのことはなかなか出てこないので、私自身、どうなるのかしらと楽しみにしております。

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    代々「信」か「幸」つける真田信幸の子孫 子の名付けに苦労

     4月から新編「大坂編」に入り、視聴率が右肩上がりのNHK大河ドラマ『真田丸』。その魅力の一つが、三谷幸喜・脚本が描く個性豊かな武将たちのキャラクターだ。戦乱の世を生き抜いた彼らの「末裔」を訪ねた。「『よくぞまぁ、ご先祖様は生き残ってくれた』と日曜の夜は毎週ハラハラしながら観ていますよ。なにせ“私が存在するか否か”にかかわるわけですからね」 大泉洋演じる真田信幸の子孫で、真田家14代目当主の真田幸俊氏(47)は笑いながら語る。“殿”の職業は、慶応大学理工学部電子工学科の教授。「次世代の携帯電話の通信ネットワークの研究」に勤しむ。【真田信幸の子孫で真田家14代目当主の真田幸俊氏】「1985年のNHKドラマ『真田太平記』では、渡瀬恒彦さん演じる信幸は切れ者として描かれていました。それに比べると今回の信幸は父・昌幸(草刈正雄)の前でおどおどしたり、自分は認められていないと悩んだりする。実際の信幸は非常に実直でまっすぐな人だったと伝わっているので、『真田丸』のほうが実像に近いように思えますね」 真田家では、当主は代々名前に「信」か「幸」の字をつけるという。幸俊氏は「父も祖父も『幸』の字のつく名前でした。そんなにたくさんパターンはないから、息子の名前を考える時には苦労しましたよ」と苦笑する。「地元の信州では車を運転していても緊張する。もし違反切符を切られて名前を見られるようなことがあれば、真田家の人間であることがバレバレになる名前ですから(笑い)」 当主として、現代でもやるべきことは多い。「毎年10月の『真田十万石まつり』への出席、7年に一度に行なわれる善光寺の御開帳では回向柱となる神木の奉納に立ち会う。それ以外にも、当家ゆかりの方々や真田ファンで構成する『真田会』への出席など、忙しくも楽しい毎日を過ごしています」関連記事■ 真田家14代当主は慶應大学理工学部教授■ 真田昌幸演じる草刈正雄 家では「真田さん」と呼ばれる■ 真田丸スタッフ 大泉洋のカレーに飽き吉田羊のカレーを待望■ 武将が敵味方なく供養される高野山 織田信長と明智光秀も■ 『真田丸』 王道の大河ドラマはこうだという懐かしさ感じる

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    最高視聴率の大河脚本書いたジェームス三木が『真田丸』を語る

     平均視聴率39%超。いまだ破られていないNHK大河ドラマの金字塔『独眼竜政宗』(1987年)や、『八代将軍吉宗』(1995年)、『葵 徳川三代』(2000年)の脚本を書いたジェームス三木さんは、現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』について、こんな独特な言い回しで絶賛する。「ぼくは面白いかどうか、そういう見方は商売敵だから、しないんです。だって、面白いと、悔しいし、腹立たしいですから。逆につまらなかったら、まったく見ません。『真田丸』はまぁ、毎回必ず見ていますよ(笑い)」 ジェームスさんが最後に大河ドラマの脚本を手掛けた『葵 徳川三代』から15年、『真田丸』は、かつての大河とは隔世の感があるという。「昔の言葉遣いとか立ち居振る舞い、礼儀作法を(脚本家の)三谷幸喜さんは、あまり気にしていないように感じます。ぼくなんかの時は、時代考証の先生がついて、廊下の歩き方から目配りの仕方や刀の差し方まで脚本も演出も事細かく直されました。『とんでもございません』というせりふはあり得なくて、『とんでもないことでございます』が正しいとか、随分と叩き込まれてね。 それは大河ドラマを見ている視聴者がそういう古い『時代劇らしさ』を求めていた部分も大きかったと思うんですが、今はそういうお年寄りも少なくなったんでしょう。それに詰まるところ、何が事実かなんて、実際に見た人は誰一人いないわけですから(笑い)」『真田丸』では確かに、武将同士が道や廊下を歩きながらしゃべったり、家来が主君に質問をするなど、ジェームスさんが言う「かつてはあり得なかった場面」がポンポンと出てくる。そういう意味で『真田丸』は、斬新な大河ドラマといえそうだ。関連記事■ 57回の戦で無傷の本多忠勝 小刀で手を切った数日後に死去■ 歴史学者注目の『真田丸』 堺雅人のキャラ変わりが楽しみ■ 『真田丸』 王道の大河ドラマはこうだという懐かしさ感じる■ 草刈正雄 亡き長男の月命日にはHPに遺した絵画を公開■ 武将が敵味方なく供養される高野山 織田信長と明智光秀も

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    「銭の力で戦いに勝ち抜く」信長がもたらした戦国マネー革命

    ある。そしてもう一つ注目されるのが道路政策、インフラ整備である。「防御より物流」を取った信長の深慮 戦国時代なので、戦国大名は、いつ敵が攻めてくるかわからないということもあり、道は狭く、曲がりくねったままで、川には橋を架けていなかった。防御を優先していたからである。信長は、何と、この3つを3つとも逆にいっているのである。まず、道を広げている。しかも、ただ広げただけでなく、道の重要度に応じ、変化をつけているのである。信長は、道を本街道・脇街道・在所道の3つにランクづけし、本街道を3間(約6メートル)、脇街道を2間(約4メートル)、在所道を1間(約2メートル)と決め、道幅を広げ、しかも、主要街道には松と柳を植えさせている。これについては信長のいい分が史料的に残っていて、「夏の暑い盛りでも商人たちの往来ができるようにした」とのことで、文字通り、並木道ができたのである。 道をまっすぐに造り直したことも画期的で、信長はいまでいうバイパスまで造っている。これも、物流を盛んにしたいという思いからきたもので、川に橋を架けたのも同じ理由である。 では、物流を盛んにすることで、信長にはいかなるメリットがあったのだろうか。これが、冒頭述べた「銭の力で戦いに勝ち抜く」という信長の決意と結びついてくる。 それまでの戦国大名は、百姓からの年貢を財政基盤としていた。信長は、百姓からの年貢だけでなく、台頭してきた商人たちから運上金あるいは冥加金のような形で献金させることで財源を確保していったのである。この財源があったから、金で兵を雇う兵農分離が進んだという側面もあった。 ただ、年貢の場合だと、五公五民とか、四公六民などといって、ある程度、年貢率がわかっているが、具体的にどのような形で信長が商人たちから銭貨を徴収していたかはわかっていない。信長ではないが、越後の上杉謙信の場合、直江津・柏崎などの領内の主要な湊に出入りする船に「船道前(ふなどうまえ)」という通行税を課し、その収入が今のお金で年間60億円に達していたというので、信長も、津島湊や熱田湊の商人たちから徴収していたことは考えられる。 なお、信長が永禄11年(1568)、足利義昭を擁して上洛したとき、堺に2万貫の矢銭(軍事費)を出すよう求めている。はじめ、能登屋などの豪商を中心とする会合衆(えごうしゅう)が信長に反抗し、拒否する姿勢をみせたが、結局、その要求に応じている。1貫=10万円で換算しているので、20億円を拠出したことになる。 ちなみに、翌12年、信長は、将軍足利義昭から「副将軍に任命しよう」といわれたとき、それを辞退し、「その代わり、堺と近江の大津および草津に信長の代官を置かせてほしい」と申し出ている。代官を置くということは直轄地を意味するわけで、港湾都市からのあがりが他の都市より群を抜いていたことになる。天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで鉄砲3000挺を用意できたのも、こうした経済力がバックにあったからである。

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    家康との一戦も覚悟した熊本築城「昭君の間」に込めた清正の恩返し

    小和田哲男(静岡大学名誉教授) 戦国武将の中には「公」の字をつけてよばれる武将が何人かいる。山梨県の武田信玄公、静岡県の徳川家康公などはその例であるが、加藤清正はさらにその上をいっている。「せいしょこさん」と、清正公(せいしょうこう)に、さらに「さん」をつけてよんでいるのである。それだけ、熊本市民に慕われていることがわかる。熊本を統治していた時代の長さでいえば、加藤家改易(かいえき)の後に入った細川家の方がはるかに長いが、細川家の歴代の殿様より、清正一人の方が存在感がある。熊本城の加藤清正像 それは、熊本城を築いたのがほかならぬ清正だったからである。日本三名城の一つに数えられる熊本城は、たしかにわが国を代表する名城であり、「築城名人」とか「土木の神様」などといわれる清正が、自分の持てる力をすべて投入した芸術品といってよい風格をただよわせている。扇の勾配といわれる石垣のみごとな曲線は見る者を魅了してやまない。 清正といえば、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて、先陣を切って柴田勝家軍と戦い、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられ、また、文禄・慶長の役のときの朝鮮における虎退治のエピソードが広く知られていて、どちらかといえば猪突猛進型の武将と思われているが、意外と気配り上手でもあった。 天正15年(1587)の秀吉による九州攻め後、論功行賞で肥後一国を与えられたのは佐々成政だった。ところが、成政は検地を強行したため、検地反対一揆が起き、その失政をとがめられ、切腹させられ、代わって、北肥後半国に入ったのが清正だった。ちなみに、南肥後半国に入ったのは小西行長である。清正は、成政の失敗を見ているので、力による支配ではなく、領民の心をつかむための施策に乗り出している。その一つが堤防工事だった。 北肥後には、菊池川・緑川・白川といった3本の大きな川が流れており、その3本の川ともよく氾濫した。それは、それら河川の流域を上流から下流まで一人で押さえるような領主権力がなかったからであった。流域は荒れ放題だったのである。そのようなところに乗りこんだ清正が、はじめに手をつけたのは、それら3本の川の堤防工事であった。自分の居城熊本城の工事より前に堤防工事に着手しており、これは人心をつかむ上でも効果的だった。佐々成政のときのような抵抗を受けることがなかったのである。このとき、清正によって築かれた堤防は清正堤といわれ、その一部は何と、400年以上たった今も機能しているのである。熊本城にもみられた豊臣への忠誠 その後、熊本城の築城にかかっている。清正には築城術にたけた二人の家老がいた。飯田覚兵衛と森本儀大夫である。前述したように、清正のことを「築城名人」とか「土木の神様」というが、実際のところは、築城術にたけた家老を清正が抱えていたといってよいのかもしれない。もっとも、そうした家臣の能力に着眼し、家老にまで引きたてたのは清正なので、清正にそうした能力があったことはいうまでもない。 清正は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いのときは東軍徳川家康方についた。「秀吉子飼いの武将」といわれ、豊臣恩顧の大名だった清正が東軍についたのはなぜだったのか。結論からいってしまえば、清正は石田三成を嫌っていたからである。ただ嫌いだったというだけでなく、豊臣秀頼の将来を考えた上での決断だった。秀頼を三成に託すのがよいのか、家康に託すのがよいのか考え、家康を選んだというわけである。ちなみに、清正はちょうど熊本にもどっていたときに関ケ原の戦いとなったので、関ケ原には参戦していない。しかし、東軍に加わっていたので、戦後の論功行賞では、西軍についた小西行長の南肥後も与えられ、肥後一国54万石の大々名となったのである。 その後、家康が慶長8年(1603)から征夷大将軍になり、豊臣政権簒奪の動きが露骨になってきた。清正および同じく「秀吉子飼い」の福島正則らは次第に家康の目的に気がつくようになる。熊本城内本丸御殿の中に「昭君の間」というものがあり、そこは、清正が、いざというとき、秀頼を熊本城に招き、そこで家康と一戦を交えるつもりだったといわれ、「昭君の間」は「将軍の間」の隠語だといわれている。豊臣家は、将軍ではなく関白なので、果たして、「将軍の間」を意識していたかどうかはわからないが、熊本城が実戦を念頭に置いた縄張りによって築かれていたことはたしかである。清正は最後まで秀頼を盛りたてるつもりでいた。 慶長16年(1611)3月28日の家康と秀頼の二条城会見の場に清正が秀頼のすぐ側にいて、秀頼の護衛をする形だった。会見が無事終わったところで、おそらく、そのときの心労がたたったのであろう。同年6月24日、清正は没している。享年50であった。

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    知られざる「中世の要塞」熊本城

    築城の名手加藤清正によって建てられた熊本城は、外観の美しさだけでなく、実戦と籠城にも適した「中世の要塞」だった。いまでこそ熊本地震で痛々しい姿を見せている熊本城だが、かつては隣国の雄藩薩摩も恐れさせた難攻不落城の魅力に迫る。

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    本丸が落ちても戦い抜く! やりすぎ「防御」熊本城の秘密

    中井均(滋賀県立大学教授) よく日本三大名城と呼ばれる城がある。大坂城と名古屋城と熊本城である。もちろん三城の選定は時代や選び方によって様々なのであるが、荻生徂徠は築城の名手と呼ばれた加藤清正、藤堂高虎の手によるこの三城を名城に挙げている。 ところでこの三城のなかで大坂城と名古屋城は徳川幕府による天下普請の城である。熊本城のみが一大名の居城として築かれた城なのである。その特徴は何といっても石垣にある。築城の名手である加藤清正と藤堂高虎はともに石垣普請の名手でもあったが、二人の石垣には大きな違いがある。清正の石垣が天端三分の一近くのところから反り返る構造であるのに対し、高虎の石垣は極めて直線的に積み上げられている。両者の代表作が熊本城と伊賀上野城の石垣である。 私が熊本城の特徴をあげるならば、その第一は五階櫓という巨大な櫓をいくつも構えている点である。本丸の中心には大天守と小天守からなる連結堅天守を構えているが、本丸の北西隅には宇土櫓と呼ばれる三重五階地下一階の三重櫓が配されている。実際は三重櫓であるが、その威容から五階櫓と呼ばれ、さらには小天守に次ぐ櫓として、三の天守とも呼ばれた。これは名古屋城西北櫓、大坂城伏見櫓(戦災で焼失)とともに日本最大の櫓であり、一階平面が九間に八間あり、四重四階の伊予大洲城の天守をも凌駕する規模であった。工事が始まった熊本城の「飯田丸五階櫓」  熊本城ではさらに西竹の丸(飯田丸)には西竹の丸五階櫓(飯田丸五階櫓)と呼ばれる三重三階の櫓が、数奇屋丸には数奇屋丸五階櫓と呼ばれる三重四階の櫓が、本丸北辺には御裏五階櫓と呼ばれる三重四階の櫓が、東竹の丸には竹の丸五階櫓と呼ばれる三重櫓が配されていた。さらに本丸の東辺には本丸東三階櫓と呼ばれる三重櫓と、北出丸には櫨(はぜ)方櫓と呼ばれる三重櫓も配されていた。このような巨大な櫓が本丸、西竹の丸、東竹の丸、北出丸という中心的な曲輪にそれぞれ配置される構造は熊本城だけである。 これはそれぞれの曲輪に重層櫓を戦闘指揮所として配置していたものと考えられる。熊本城は規模も巨大である。その巨大な城は各曲輪を独立させて防御空間としていた。つまりいくつもの城の集合体として築かれていたわけである。本丸が落ちてもなお、別の曲輪で戦い抜くつもりで設計された城であった。 今ひとつ私が熊本城で注目したいのは井戸である。絵図や文献などから熊本城には一二〇ヶ所もの井戸のあったことがわかっている。現在も城内には十七ヶ所の井戸が残されている。これも櫓と同様に各曲輪に設けられ、籠城戦の際にどの曲輪でも水を確保するために備えられたものである。その極めつけは小天守地下の井戸であろう。天守は決して飾りではなく、実戦に備えて築かれたことがよく示されている。井戸が多いのは籠城戦の教訓から 私が関心を持つのは加藤清正による熊本築城が天正十九年(一五九一)頃より開始されるのであるが、その直後に勃発した豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)により、清正は参戦渡海することとなり、築城は一時中断されたことである。そして役後の慶長四年(一五九九)頃より再開され、慶長十二年(一六〇七)に完成する。 ちょうど築城中に清正は朝鮮半島で戦っていたのであるが、その最大の戦いが慶長二年(一五九七)の蔚山籠城戦である。約六万の明・朝鮮連合軍に囲まれた蔚山城は冬の寒さと飢えで惨状を極めた。こうした籠城戦を戦い抜いた後に熊本築城は再開されたのである。そこには蔚山での教訓を活かした普請がおこなわれたものと考えられる。そのひとつが井戸の多さだったのであろう。 さて、今年四月十六・十七日に熊本を襲った震度七の地震は天下の堅城熊本城をも襲った。私は熊本大地震で映し出された熊本城の惨状に驚き、涙した。そしてマスコミからは、あの熊本城の石垣すら崩れたことに対するコメントを求められた。石垣は決して崩れないわけではない。江戸時代を通じて日本の城で石垣修理をしなかった城などほとんどない。しかもその修理は大半が地震で崩れたことによるのである。まして今回は震度七という激震である。 これからの修復には相当の費用と時間がかかる。石垣修復は旧状に戻すのが原則である。これは石垣も歴史遺産であることで当然なのであるが、問題は耐震補強をどうするかということである。建物に関しては耐震補強がなされてきたが、石垣修理にはこれまで耐震補強は考えられてこなかった。今回の熊本大地震を教訓とするためにも修復に際して議論されるべき課題だと考えている。 今回の地震でお城が市民の誇りであることを改めて認識させられた。城は単なる歴史遺産ではなく、住民にとっての誇りとなっているのである。熊本市民、さらには県民の誇りである熊本城の復興こそが地震からの復興につながるものとなるだろう。

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    西郷隆盛も恐れた熊本城、知られざる「肥薩攻防」の歴史

    、領国を針ネズミのように閉ざしてきた。ことわざにも「汝の敵は汝をして賢人たらしむ」とある。薩摩武士は戦国時代から「いろは歌」の「敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかへして 身をもたしなめ」と諳んじてきた。敵こそが、自分の先生であるという意味である。肥後への警戒を怠らなかった薩摩 肥薩の国境は険阻な自然の障壁があるだけでなく、出水郷の野間の関、大口郷の小川内(おがわち)の関など、名だたる境目番所が置かれ、人や物の出入りに対して厳しい取り締まりが行われていた。国境の各外城(とじょう)ではとくに士風の高揚に努めて警備にあたったが、肥薩国境大口外城の地頭、新納忠元(にいろただもと)は、自ら士風作興の兵児(へこ)の歌をつくっている。 一つ、肥後の加藤が来るならば煙硝肴に団子(弾丸)会釈、それでも聞かずに来るならば首に刀の引手物 五つ、いつも替らぬ加藤奴が片鎌鑓で来るならば、はたやまさかりとぎたててもろ鎌共に討ち落とせ 九つ、ここは所も大口よ肥後の多勢も安々と、只一口に引き入れて口の中にてみなごろし 十、咎なき敵を法もなく殺さば後の罪作り、弱き加藤はそのままにいざや仁愛加へおけ 肥後国境の緊張感は民俗芸能の棒踊りにも反映されており、北薩大口の棒踊りはさながら格闘であるが、南薩の知覧あたりでは、だいぶ風流化(芸能化)している。 薩摩は熊本城があるから肥後への警戒を怠らなかった。こんなエピソードがある。 寛永9(1632)年、加藤氏が改易されて細川氏が入封したとき、薩摩藩主の島津家久は挨拶として、細川忠利に鉄砲200挺を贈った。これについて、翌寛永10年、幕府上使が島津領内を巡見した際、尋問した。城下に多くの鍛冶職人を抱え200挺もの鉄砲をいっぺんに作ったのは、なぜか?というのである。 応対した家老は「細川越中守が隣国の肥後へ入国なされたので、立派な贈り物を調達せよと藩主から命じられました。上方で武具、馬具を買い入れては金がかかるので、鉄が豊富な薩摩ですから鉄砲を作って贈ったのです」と答えて窮地を切り抜けている。薩摩は常に肥後を意識し、大量の鉄砲を製造できる能力を示していたのだ。数え歌の弾丸会釈も脅しではないという。示威行為だったのかもしれない。 今回の地震は、自然が相手ではかなわなかったことを思い知らされた。夏目漱石の門下生で地震学者の寺田寅彦が『天災と国防』で指摘した通りであった。 鶴丸城(鹿児島城)にも屋根が軽く重心が低い「地震の間」がある。地震のときの避難所である。鹿児島県では2012年度から鶴丸城の石垣の調査修復と、2020年を目指したご楼門の復元に取り組んでいる。自身もこの調査修復に関わっているだけに、石垣修復がいかに困難な作業であることを痛感していたが、何よりも伝統技術の再興が望まれる。 また、熊本城の修復を中心として文化財、古文書の保護ネットワークづくりも喫緊の課題であろう。 最後に触れておきたいことがある。 明治10年まで、薩摩では浄土真宗が禁じられていた。「かくれ念仏」という信徒たちは、ひそかに肥後水俣の源光寺で法話を聴いていた。源光寺には「薩摩部屋」という隠し部屋もあった。信仰の絆で肥薩の庶民の心がつながっていたことを特筆しておく。 熊本地震で甚大な被害を受けた九州新幹線や九州自動車道がわずか2週間後に全面開通したことは大変喜ばしい。これに続くよう、今こそ、関係機関が絆を深めて日本が一つになり、熊本城修復を含めた創造的復興に向かうべきである。

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    日本財団はなぜ今、熊本城の再建支援を約束したのか

     日本財団は、熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の再建支援に30億円を拠出することを発表した。日本財団が文化財に拠出する支援額としては、過去最大という。震災直後のこの時期に、異例の早さで文化財保護を約束した背景は何だったのか。 日本財団は19日、熊本地震の被災地に対し、総額93億円の緊急支援策を発表。避難者への医療・福祉支援や非常用トイレの配備、被災者への見舞金といった急を要する支援策とあわせて、30億円の「熊本城再建のための支援」が盛り込まれた。 「毎日暗い話ばかりが流れている。沈んでいる人が多くいる中で、明るいニュースを届けたかった」と、同財団担当者はその意図を説明する。熊本県の象徴である熊本城の再建支援をいち早く約束することで、「被災した人々の心の支えになればと考えました」。辛うじて支えている熊本城の飯田丸の石垣=6月15日、熊本市中央区東日本大震災での経験と教訓を生かして 災害時に後回しになりがちな文化財保護支援を迅速に決めた背景には、東日本大震災での経験と教訓があったようだ。同財団は2011年の東日本大震災の約半年後から、12億円規模の文化財保護支援を始動。被災地の沿岸部の漁村で、津波で流された神社の再建やお祭り道具の支援を続けてきた。同担当者は「地域のお祭りが復活すると、それまで離れて避難していた住民が戻ってきた。文化財や文化への支援は、人々の心の支えや希望になるものだと確信しました」 同財団は2014年、東日本大震災での教訓をふまえ、大規模災害の発生時にすぐに緊急支援を拠出できるように特別基金を創設した。毎年50億円ずつ積み立てる計画で、2年が経った特別基金には100億円が積み立てられていた。この積み立てを生かすことで今回、被災者の生活に必要な緊急支援とあわせて文化財の保護にも予算を充てる目処がつき、早期に文化財支援まで表明することができたという。 熊本城は度重なる地震で、国指定重要文化財のやぐらや石垣が倒壊するなど大きな被害を受けた。日本財団は「今この段階で再建にどのくらいの時間と金額がかかるのか分かっていないが、この支援表明が熊本城再建の機運を高める一つのきっかけになれば」と期待を込めている。(安藤歩美/THE EAST TIMES)

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    熊本城が傷ついたいま考える 建築は日本に何を遺すのか

    森山高至(建築エコノミスト) 建築の社会的役割や価値が問われるような問題が相次いでいます。 普段、私たちが目にする建築といえば、まず住居、次いで職場や学校、病院、商店や駅などでしょうか。これ以外にもさまざまな施設があります。 このうち最も身近な住居建築で起きたのが傾斜マンション問題でした。さらには空港のような巨大な施設でも地盤改良工事データが改竄(かいざん)されていました。これまで聞いたことのない事態でした。これらは皆、建設現場における下請け作業者と元請けまでの一体的な工事組織体制が崩れ始めていることを意味しています。 そして、国民の耳目を集めたのが新国立競技場問題。斬新なデザインの巨大施設が景観に及ぼす影響が心配され、果たして建設が可能かも危ぶまれ、その予定工事金額が定まらないどころか、日に日に増え続けるという異常事態となりました。最終的には2020年の東京オリンピックにも間に合わないことが危惧された結果、国の公共施設計画が白紙見直しに至るという前代未聞の“事件”でした。 計画がきちんと定まる前にあわてて旧国立競技場を壊してしまったのも間違いでした。世界では競技場に限らず、歴史的記念碑になるような建物は伝統を重んじ改修しながら使い続けるというのが一般的だからです。 一方、建築本来の存在価値を問うような自然災害も発生しています。石垣が崩落し、地震の被害が痛々しい熊本城 未曽有の被害をもたらした東日本大震災。今でも完全な復興にはほど遠く、福島ではいまだに原発事故の収束作業が続いています。毎年のように各地で大雨や大風、大雪、河川の氾濫や土砂崩れによる災害も起きています。築400年を誇った熊本城の石垣が倒壊した熊本地震は現在も活発な余震が続いており、まだまだ予断を許しません。街や建築の本来の姿を取り戻せ 日本列島は歴史的にも大きな自然災害を幾度となく被ってきました。古(いにしえ)の工人より地震や洪水など自然の猛威に対処する建築や土木の工夫を凝らし続けたにもかかわらず、近代に至っても完全な防御の術をわれわれは持ち合わせていません。改めて災害時のよりどころである各地の避難所をはじめ、安全な建築がこれまで以上に求められています。 これらの事態からいえるのは、建築に対するこれまでの考え方や社会制度に見直しの時期が来ているということに他なりません。 戦後に建設された多くのビルやインフラ、公共施設の多くが、用途や制度、物理的にも寿命を迎えています。それが引き起こす問題は、日本全国津々浦々で同時多発的に起こります。 現在の日本の街の姿は、太平洋戦争の空襲からの復興によるものです。鉄道や道路網の整備、高速道路の設置、民間工場や住宅地の開発、住宅の高層化、学校の建て替え、スポーツ・文化施設の建設など。前回の東京五輪(1964年)を契機として、現在まで残る日本中の街や建物の大半がこの頃に生まれたといっても過言ではないでしょう。 いま、日本社会の建築をめぐる状況は大きく様変わりしています。 最低限必要なものは既に整備されており、これ以上新たに建設するものがないのです。また、社会情勢の変化によって利用者が変わり、使われていない施設も数多くあります。 そうした状況では、これまでに建設した公共施設をはじめとする社会ストックをどう生かすかが喫緊の課題となっていくでしょう。 日本の街並みと欧州の街を比較し、その景観や雰囲気の違いを嘆く声もよく聞きます。欧州に赴くと、まるで中世から変わらぬような風景に出合いますが、それらはちょうど彼らにとっての高度成長期である大航海時代やルネサンス、産業革命時に建設されたものです。それらを後世にうまく残してきたから現在の街があるのです。 非新築による古い建築の長期にわたる活用が、街や建築の本来の姿なのです。戦後から高度成長期のような、大規模な破壊の後に永遠に新築が続くという誤った建築観を見直す必要があります。次世代にどんな社会資産を残していくことができるかが問われているのです。もりやま・たかし 建築エコノミスト、一級建築士。昭和40年、岡山県生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、設計事務所を経て、同大政治経済学部大学院修了。地方自治体の街づくりや公共施設のコンサルティングなどに携わる。著書に『マンガ建築考』『非常識な建築業界「どや建築」という病』など。

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    「象徴」熊本城と歴史的事実が被災者の心の復興を支える

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授)NHK「ヒストリア」が示した熊本城「400年の愛」 6月3日(土)のNHKテレビ「NHK歴史秘話ヒストリア緊急特集「熊本城 400年の愛」」は、素晴らしい番組でした。 地震で大きな被害を受けた熊本城。築城から400年、これまで何度も危機にあい、そのたびに人々の努力で乗り越えてきた。人々に愛されてきた熊本城の歴史をふりかえる。出典:歴史秘話ヒストリア「熊本城 400年の愛」エピソード1 これが熊本城のスゴさ!エピソード2 熊本城を守りたい 熊本城の“危機”、今回の地震が初めてではありません。400年前の築城直後からたびたび地震や災害に見舞われ、そのたびに修理され復活を繰り返してきました。エピソード3 あの天守をもう一度出典:歴史秘話ヒストリア「熊本城 400年の愛」地震で被害を受けた熊本城(上、4月19日撮影)。下は2012年3月の様子 この番組は、毎回歴史をひもときながら、私たちに勇気と希望を与えてくれる番組です。今回の「熊本城 400年の愛」は、まさに歴史ヒストリアの面目躍如たる放送でした。 熊本城は、日本随一の堅固さを誇る城です。番組では、熊本地震以前に、街のいたるところから見えた熊本城の勇姿を見せます(4年前の取材映像)。さらに、現在の姿を超える築城直後の素晴らしい城全体の様子を、CGで紹介します。 バーチャールカメラは、城の周りをぐるりと回ります。巨大な石垣、数え切れないほどの櫓(やぐら)。その完璧な防御力。番組では、城を攻めようとするものに絶望感を与えるほどの力強さだと評します。 しかし今、名城熊本城は、大きな被害を受けています。その様子を改めて見ると、また心が痛みます。 けれども、熊本城が大きな被害を受けたのは、今回が初めてではありませんでした。敵の攻撃で落城したことはないものの、江戸時代には地震の被害を受けます。明治時代には火事で本丸も消失します。しかしその度に、熊本城は復活しました。 番組では、江戸時代、明治時代、昭和の戦後復興、そして現代の様子を示します。懸命に頑張る城主、立ち上がる市民、私財を投げ打つ人、そして全国からの応援。彦根城も、姫路城も、小田原城も、熊本城を応援します。復興のための災害心理学復興のための災害心理学 番組では、最後に再び現在の大きな被害を受けた熊本城天守閣の様子を映します。客観的に見れば、ひどい状況の熊本城です。しかし、私の目にはもう哀れに壊れた熊本城には見えませんでした。 それは、番組の中で、何度も破壊されては復興してきた様子を見聞きしたからです。白黒写真に残る、かつての災害で破壊された無残なお城の姿。しかし、その熊本城が後に見事に再建された歴史上の事実を、私は知りました。その私の目には、現在の熊本城の姿も、これから復興へと向かう勇姿に見えました。 さて、こんな話は、ただのファンタジーでしょうか。歴史上の事実と言っても、歴史は歴史家が個々の事実を解釈しストーリーを作り上げたものとも言えるでしょう。番組も、もちろん台本があり、演出があります。「私の目には」などと言っても、それは私の感傷的な思い込みに過ぎないでしょうか。 しかし番組は、ただ夢を語っているわけではありません。これまでと同じように、再建には長い時間と莫大な予算がかかることも、解説しています。そして、視聴者一人ひとりの目に、今の熊本城がどのように映るのかという「心理的事実」は、ただの思い込みや綺麗事ではありません。熊本城本丸御殿、豪華な装飾で彩られた「昭君の間」 ある災害心理学者は、大災害の発生時には、被災者は「神」を失うと表現しています。夢や希望、努力は報われるといった価値観すべて、その人にとっての「神」や「世界」と言えるような大切なものを失うという意味です。 ここから、何とか立ち上がらなくてはなりません。たとえ街並みが戻っても、住民たちの心が復興しなければ、本当の復興にはなりません。 そのために効果的なのが、郷土の歴史であり、象徴です。たとえば、東北の人々が何度も困難を乗り越えてきた、三陸の人々は何度も大津波の災害から復興してきた。そのような郷土の歴史は、住民に力を与えます。 熊本の県民性を表す「肥後もっこす」も同様でしょう。熊本県民は、正義感が強く、頑固で妥協しません。熊本県民は、熊本城を守り続けたように、決してあきらめません。 そのようなアイデンティティを持つことが、復興の力とつながるでしょう。 そこから、復興の象徴も生まれます。お金も法律も大切ですが、心を支える象徴も必要です。熊本にとっては、それが熊本城であり、「くまモン」なのでしょう。 熊本県の人気ゆるキャラ「くまモン」が、地震前にユーモアたっぷりに言っていました。「熊本県は、日本でいちばん強そうな県名だと自負しております」。私も同感です。 「熊本城400年の愛」。熊本県民は、400年間熊本城を愛し、互いに敬愛しあい、そして全国から愛され、共に支えあってきました。その愛と不屈の歴史に、今また新たなページが書き加えられるのでしょう。*「熊本地震」ですが、大分県の復興も全国で支援したいと思います。(Yahoo!ニュース個人より2016年6月3日分を転載)

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    韓国匿名掲示板に「日本の地震に募金する人間は売国奴」

     熊本地震の発生後、韓国では日本の災害を喜ぶかのような暴言が数多く飛び交った。主要メディアでは九州で起きた悲劇と、それに耐えて秩序を守る日本人の姿を好意的に伝えているが、ネットニュースをはじめとする一部のメディアで、日本の災害を揶揄するような報道が見られ、匿名掲示板でも日本の地震をあざ笑うような書き込みが相次いだ。どんな内容だったのか。 一例が、韓国ネット新聞『ノーカットニュース』(4月23日)に掲載された「熊本、残念に思えない理由」というコラムだ。  「熊本地震を眺める韓国人の心は複雑である」との書き出しで始まるコラムは、朝鮮出兵で兵を率いた熊本城初代城主・加藤清正を槍玉に挙げ「築城過程でも多くの朝鮮人捕虜の犠牲があった」と主張。  さらに1895年の「乙未事変」(いつびじへん=駐韓公使の三浦梧楼が指揮を執り朝鮮王妃を殺害したとされる事件)に話題を転じると、「王妃を凌辱、殺害した日本浪人のほとんどが熊本出身」とし、「(日本は)真の反省がない国だ。友邦という言葉だけを信じて歴史を忘れれば、再び歴史の審判を受けることになる」と結んだのである。まるで熊本の地震被害が「過去の日本の行いに対する報い」であったかのような物言いだ。  東日本大震災以降、韓国では日本の不幸を嘲笑するネットユーザーやメディアの存在が問題視されてきた。たとえばネット新聞『デイリー光州全羅南道』は、2012年8月18日の編集委員コラムで、慰安婦や竹島問題に対する日本政府の対応を猛烈に非難。日本人を「猿のように卑怯な国の人々」と蔑み、「反省のない日本人には大震災に続き再び天罰が下る」として物議を醸した。  また、2014年1月には、男性誌『マキシム』が「被曝していない日本女性と付き合う方法」と題した特集を掲載。その後、謝罪に追い込まれた同誌編集長は、福島原発事故の被災者を侮辱したタイトルについて「日本の独島関連妄言、安倍首相の靖国参拝、慰安婦問題などを非難し皮肉るつもりだった」と弁明した。今回の熊本地震でも、韓国のネット掲示板には日本への罵詈雑言が溢れ返った。〈エクアドルの地震は残念だが、日本の地震は当然のように起きた天罰ですww〉〈日本は早く私たちに謝罪を。さもなければ、もっと大きな災害で滅びます〉〈日本で何が起きても助けない。恩も知らない猿に過ぎない〉〈日本の地震に募金する人間は売国奴〉 これらの書き込みは主に韓国の匿名掲示板に投稿されたものだが、中にはフォロワー数1万人超の韓国の有名ツイッターユーザーもいた。こんなツイートだった。「日本の国民には悪いが、安倍の畜生のことを考えると天罰だな。それに、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時の熊本城が崩壊の危機にあるとか。すっかり崩れちまえ。安倍、くたばれ」 5年前の東日本大震災では、韓国サッカーチームのサポーターがスタジアムに「日本の大地震をお祝い(し)ます」という横断幕を掲げ、ネットの動画サイトには「日本人は(地震で)一瞬で死んでください」と心無い言葉を浴びせる若者の動画が投稿された。 今回の熊本地震では、このように目立つ行為はなかったものの、隣国の厄災に乗じた侮辱行為は、ネットの匿名性を利用したヘイトスピーチにほかならないのではないか。関連記事■ 韓国人 富士登山で野グソ報告「俺のクソで富士高くなった」■ 韓国人 本田のJリーグへの発言受け「韓国へおいで」と絶賛■ 熊本地震への韓国ネットユーザーの嘲笑に韓国紙も不快感■ 1年間で震度5弱以上の地震が70回発生 福島では26回も■ 韓国では「サザエさん韓国人説」が流布し真に受けている人も

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    豊臣秀吉は史上最強の「大悪党」だった

    天下人、豊臣秀吉の実像に迫る貴重な文書が見つかり、歴史ファンらの注目を集めた。見つかったのは「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる重臣、脇坂安治へ宛てた朱印状33通。かつての主君、織田信長へのコンプレックスを窺い知る中身もあったという。天下を簒奪した秀吉は史上最強の「大悪党」だったのか?

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    書状で鬱憤晴らすねちっこい男? 子飼いの重臣に見せた秀吉の小物ぶり

    小和田哲男(静岡大学名誉教授) 兵庫県たつの市の龍野神社に所蔵されていた「脇坂家文書」は、一時流出していたが、このたび市が購入し、東京大学史料編纂所の村井祐樹助教をはじめとする関係者による修復・調査によってみごとによみがえった。 秀吉から脇坂安治に宛てた36通の朱印状(奉行人奉書1通を含む)で、秀吉関係の文書がこれだけまとまって発見されるのは稀有なことといってよい。しかも、そのほとんどが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いから同15年(1587)の九州攻めまでの文書で、天下人になる前の秀吉の文書がこれだけまとまっている点、信長死後、秀吉が天下統一を果たしていく過程を追いかける上で貴重な文書群である。修復された秀吉の書状。「秀吉」の字(中央下)も確認できる=1月21日、兵庫県たつの市(沢野貴信撮影) 宛所の脇坂安治であるが、脇坂家はもともと北近江の戦国大名浅井氏の家臣であった。浅井氏滅亡後、安治はその遺領に入った羽柴秀吉に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで大活躍をし、福島正則・加藤清正らとともに「賤ヶ岳七本槍」の1人にカウントされている。 もっとも、その後は正則・清正らとくらべると出世は遅れ、同13年に、従五位下・中務大輔に叙任し、淡路の洲本で3万石を与えられ、秀吉の天下統一の戦いに寄与している。安治自身は最終的には伊予大洲5万3500石で終わるが、安治の子安元を経て、その養子安政が播磨龍野に移っている。「脇坂家文書」がたつの市に伝わったのはそのためである。 さて、その36通の朱印状であるが、実に興味深い。秀吉が浅井長政の居城だった小谷城、そのあと築いた長浜城主時代からの家臣という気安さもあったのであろう。2人の親密な関係がうかがわれ、秀吉がたびたび安治を叱責しているが、安治の怠慢もあったにしても、これは、親密な関係があったからだと思われる。何となく、気心の知れた安治に鬱憤(うっぷん)晴らしをしているような印象すらある。 今回の発見で私自身、一番注目したいのは、小牧・長久手の戦いに関して、伊賀の状況がわかるようになってきた点である。小牧・長久手の戦いという戦いの名称から、何となく、戦いは現在の愛知県小牧市および長久手市だけで繰り広げられたように思われているが、実際は伊勢でも激しい戦いがあった。それについてはこれまでにも研究されているが、伊賀に関する情報はほとんどなかったのである。秀吉がしつこく書状を出したわけ 安治は、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞で伊賀において3000石を与えられていた。そのため、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのときの文書は伊賀に関するものである。6月6日付の朱印状で、秀吉は、自分の軍勢が美濃竹鼻城を落とし、引き続き伊勢へ侵攻することを伝えるとともに、伊賀から材木を伐り出すよう命じている。また、9月17日付の朱印状では安治に伊賀国内を鎮めるように命じており、このころ、安治が伊賀平定の中心的役割を負っていたことがわかる。 翌天正13年(1585)には秀吉による北国攻め、すなわち佐々成政討伐の戦いが繰り広げられる。このとき、安治は北国攻めの軍勢から外されていた。禁裏修復の材木担当にあたっていたからである。材木担当では手柄にならないと考えた安治は、秀吉に北国出陣を願い出ているが、それに対する秀吉からの朱印状が7月2日付で出されている。「材木担当を命じたのに北国出陣を願い出るとは何事か」と叱責した内容となっている。おもしろいのは、同じような内容で7月25日付でも叱責している点である。安治が2度も配置換えを願い出ることは考えられないので、秀吉自身の判断で、2度目の叱責をしたものと思われる。しつこい秀吉の性格が垣間見られる。 しつこいという印象は、その年閏8月7日から9日、12日、13日と1日おきぐらいに連日のように安治宛に朱印状を出していることからもうかがわれる。その13日付の朱印状は内容面からも注目される。これは、秀吉の長浜城主時代、黄母衣(きほろ)衆の1人だった神子田半右衛門正治が秀吉に逆らったので分国追放を命じたときのものである。秀吉は、安治に神子田正治を匿わないよう指示しており、その中で、「信長のように甘くはない」と脅しているのである。秀吉が信長後継者としてふるまいはじめたとともに、信長を超えようとしていた秀吉の思いが伝わってくる。 前述のように、安治はこのあと淡路の洲本城に入るわけで、次第に水軍の将として期待されるようになる。たとえば、天正14年(1586)2月14日付の朱印状では、秀吉は安治に、大坂城築城に用いる石材を船で運ぶよう命じており、また、8月26日付の朱印状では、翌年に控えた九州攻めのため、淡路から船を出すよう命じている。 このように、一連の「脇坂家文書」は、秀吉の天下統一過程における秀吉と家臣とのやりとりを時系列で追うことができる貴重な文書群ということができる。

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    後世の人間まで騙し続けた不徳の男、豊臣秀吉の「大魔術」

    井沢元彦(作家) 国民作家、司馬遼太郎は豊臣秀吉のことを「史上、類を絶した大悪党」と呼んでいる。徳川家康を主人公とした小説「覇王の家」においてである。同じ作者の「新史太閤記」や「関ヶ原」を読んだ読者にとっては意外かもしれない。私に言わせれば、関西人である司馬遼太郎はどちらかといえば豊臣びいきであり、関西人特有の「家康嫌い」についてもかなり賛成のように見受けられるからだ。  確かに家康は秀吉と固い約束を交わしたにもかかわらず、その死後あっという間に天下を乗っ取った。しかも秀吉の子孫を根絶やしにした。ここだけ見れば家康の方が大悪党である。しかしながら秀吉という男も実は褒められたものではない。織田信長の天下を、信長が死んだ途端乗っ取ったからだ。しかもその過程で信長の息子の3男信孝を切腹に追い込み、その母と娘つまり本能寺の変以前は秀吉にとって「お方様」であり「姫」だった女性を自らの手で処刑している。まさに大悪党なのである。大阪城二の丸の豊國神社に建つ豊臣秀吉公銅像=平成22年12月18日、大阪市中央区(竹川禎一郎撮影) 家康にしてみれば「秀吉よ、お前が織田家に対してやったことを、オレはやったに過ぎない」と弁明したいところだろう。しかし、秀吉には家康にない優れた能力がある。これも司馬遼太郎が小説「覇王の家」で述べている言葉を使えば「大魔術」の使い手であった。 これを読んでいるあなたは中年以上か、それとも若者だろうか? 中年以上の人ならば秀吉は「大悪党」などとは夢にも思っていない。むしろ子孫が滅ぼされた気の毒な人というイメージすら持っていないだろうか?その点はその通りなのだが、一方で秀吉の織田一族に対する仕打ちというのは、まさに大悪党の仕業と言っていいのが歴史上の事実である。秀吉にとって信長は卑賤の身からとりたててくれた大恩人である。「足を向けて寝られない」ほどの存在だ。にもかかわらず本能寺の変が終わって、わずか数年の間に3男信孝は切腹に追い込み2男信雄はいったん追放した。主君の直系の孫である秀信(三法師、長男信忠の子)には美濃一国は与えたが、天下は返さなかった。まさに忘恩の徒である。 しかし後世の人間は秀吉を悪く言わなかった。同じことをした家康は散々悪口を叩かれたのに、極めて不思議な話では無いか。ここが「大魔術」なのである。最近は新しい傾向として、秀吉のこうした点に注目して、秀吉を腹黒い悪人に書いた小説もある。私が書いた「逆説の日本史」(小学館刊)では秀吉の悪をきちんと追及しているので、こういうことが影響を与えたのかもしれない。つまり若者の中にはあまり秀吉の「大魔術」に騙されていない人もいるということだ。卓越した情報操作でも真実は隠せない だが、そうはいってもやはり「秀吉はいい人」というイメージを抱いている人は少なくない。秀吉の「大魔術」、つまり後世に対する情報操作はそれほど卓越しているのである。 しかし、やはり真実は隠せない。最近、秀吉が忘恩の徒であることを証明する史料が発見された。秀吉の腹心で天下取りに大きく貢献した大名脇坂安治(初代龍野藩藩主)に、天下取りまっただ中の秀吉が細かく指示を出した手紙がまとまって発見されたのである。脇坂家の領地にあった龍野神社(兵庫県たつの市)の旧蔵文書からである。 その内容を簡単にまとめると、まずアメとムチが目立つ。安治の仕事ぶりを責め、こんなことでは担当者を代えなければならないなどと脅すのである。そのうえで本人の適性を見極め能力を最大限に発揮させる。この史料の整理に当たった東京大学史料編纂所の村井裕樹助教は「天下人でありながら、しつこいぐらい細かい性格」(2016年1月21日神戸新聞電子版、以下引用は同記事)と述べている。 そして極めつきは1585年(天正13)秀吉から安治に宛てた手紙であろう。「秀吉の御意に違う侯輩(ともがら)、信長の時の如く少々拘(かか)え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事(くせごと)たるべく候(秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のようにかくまっても許されると思い込んでいると処分する)」というのである。信長の死後をわずか3年しか経っていない。この時点で秀吉は大恩人信長を呼び捨てにしているのである。まだ関白になったわけでもないのに、いかに親しい間柄宛ての手紙とはいえ、呼び捨てはないだろう。つまりこれが秀吉という男の本当の姿なのである。しかも秀吉自身が信長の時代のように甘くはないぞ」というからには、多くの人が抱いている「信長は残酷だが秀吉は優しい」というイメージも実は「大魔術」に乗せられたものだとわかる。 これから先は推理だが、なぜこんなにたくさんの「秀吉の意思に背く者ども」が出たのだろうか?それは秀吉の織田家に対する仕打ちはあまりにも酷いと思っていた人間が大勢いたということではないか。その筆頭であった柴田勝家は賤ヶ岳の合戦で敗北し死んだが、裏切りによって戦いを勝利に導いた前田利家はちゃっかりと生き残り秀吉政権下では重く用いられた。 だが秀吉が死に利家も後を追うようにこの世を去ると、前田家は直ちに家康に人質を出してその傘下に入ることを表明し、石田三成の「家康討つべし」の呼びかけにも応じなかった。そして、一時はその呼びかけに応じ関ヶ原に西軍として出陣した大名のうち、まさに賤ヶ岳の合戦における前田利家のように、最初から西軍を裏切り家康に味方することを決めていた武将がいる。脇坂安治である。 要するに関ヶ原の敗戦、そして豊臣家の滅亡は秀吉の「不徳のいたすところ」であるというのが私の考えである。

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    NHKは豊臣秀吉が嫌い

     先日、千利休をヒストリアで取り上げていました。さすがお金をかけて、どこへでも取材に行け、圧倒的な知名度で豊富な情報を元に創ってある番組で、私の好きなテレビのひとつです。 でも、どこか違和感があります。豊臣秀吉に対してなぜかNHKは否定的なのです。 一時、歴史上の人物で最も人気を誇った秀吉は、往時の面影を残さなくなってきました。自分の努力と才覚で立身出世し、関白まで登りつめる姿は、高度成長期の日本とあいまって、国民の圧倒的支持を得ました。 あの田中角栄も「今太閤」として称されましたが、現在の若者に「今太閤」といってどれだけ通じるのでしょう? 卑しい身分の秀吉は、人脈をつくり、主人を選び、そして選んだ主人にとことん付いていくという忠誠心を発揮して、時を待ち、天下人となったのは皆さんよくご存知ですね。 日本平定後、明国を侵略しようと朝鮮半島へ出兵し、そこで、朝鮮民衆の反撃で野望が費えたという筋書きがNHKにある様に思えてなりません。 秀吉が朝鮮に出兵していた時に、アジアの国々やヨーロッパの国々で何が起こっていたかは、あまり言われません。 アジアの国々は、大航海時代の幕開けと共に、スペイン、ポルトガルがキリスト教を尖兵にして植民地化していたのです。 フランシスコザビエルは日本で布教を2年ほどした後に、大陸へ戻り明の布教に乗り出します。そして、マカオで亡くなるのです。今でもザビエルの手のミイラが残っています。 日本に残った宣教師たちは、火薬や西洋の武器で自分の領国を守ろうとするキリシタン大名を使い、布教を強力に推し進め、その土地の神社仏閣を破壊し、先祖のお墓を壊して地元の住民と諍いが耐えませんでした。 天草四郎で有名な島原へ行っても、キリスト教会はありません。人々もキリシタンに同情する人はあまりいません。なぜなら、彼らは先祖代々の墓を壊したひどい人たちだからです。 あまりにもひどいキリシタンの行いに一度は布教を許した大村純忠も、地元住民と隔離するために、誰も住んでいない山に囲まれた場所を港に提供します。それが長崎で、その後南蛮貿易によって大きく発展しますが、それがまだ400年ほどしかたっていないとは、あまり知る人がいません。 そのキリシタンが猛威をふるっている時に登場するのが秀吉です。 宣教師やキリシタンの行いに激怒し、イエズス会の領土となっていた長崎を取り上げ、全面対決の姿勢を示します。つまり秀吉は、神国日本を異人の手から救ったのです。 そのときに、遠いヨーロッパで神風が吹くのです。ポルトガルの親分であるスペインの無敵艦隊(アルマダ)が当時の新興国のイギリスから壊滅的な打撃をうけ、一挙に制海権を失うのです。 そのために、日本侵攻ができなくなり、宣教師はその後ろ盾を失い、秀吉に対抗できなくなります。 そのときに秀吉が考えたのが、日本の安全保障でした。そのために朝鮮半島がこのままではまた日本の安全が脅かされると思ったのです。だから朝鮮半島へ出兵し、制圧を試みました。 これからまだまだ続くのですが、このように秀吉は日本の安全保障を考えた国際人であったにもかかわらずNHKは朝鮮半島を侵略したひどいやつとしていつも描いているように思えてなりません。 お江もそうでした。秀吉は女たらしの権力欲にまみれた醜い存在として描いていましたし、天地人でも秀吉はむごい天下人と描かれていました。 NHKは秀吉に見て取れる日本の身分制度がゆるく、努力しだいで出世の出来るすばらしい国であったという事実を隠蔽し、努力しても身分制度がひどく、常に日本人は戦争好きな国民で世界に迷惑をかけたと言いたげです。 もうすこし別な面からみませんか? 秀吉がいなかったら、私の住む九州はポルトガルの混血やイギリスの混血がたくさん住むような島になっていたかもしれません。

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    冷静に時流を見極めた脇坂安治 引き抜きに応じ生き延びる

     いかに有能であっても、活かせる環境にいなければ宝の持ち腐れで終わってしまう。無能な上司が優秀な部下の才能を殺してしまうことが少なくないし、部下の側で言えば、上司の能力や将来性を見極めることが重要。戦国の世で、有能な上司を見極めることで出世した典型例が脇坂安治である。 羽柴秀吉の家臣となった安治は、若い頃から勇猛でならし、戦場で大いに武功を挙げた。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで「七本槍」のひとりに数えられて活躍。戦功で山城国に3000石を与えられると小牧・長久手の戦いでも伊賀上野城を攻略する大手柄により、所領は淡路洲本3万石に。16歳で秀吉に召し抱えられた時はわずか3石だったというから、年収「1万倍」の大出世である。 安治は秀吉を「天下人」であると心から信じて身を捧げた。伊賀上野城攻めでは、母親を人質に差し出して敵を油断させて討ち取るという際どい作戦を見せている。肉親を危険にさらしてでも秀吉の忠義に尽くした。そんな安治の忠誠心が本物であると見抜き、秀吉は大いに目をかけたのだ。単なる御機嫌取りであればこうはいかなかったろう。イラスト・奈日恵太 だが、秀吉の死によって運命が暗転する。安治の秀吉への忠義は本物であったが、それは秀吉を天下人と見定めたがゆえだった。そして秀吉亡き後、安治が次の天下人にふさわしいと感じたのは徳川家康だった。 しかし、関ヶ原の戦いに際しては三成らに取り込まれる形で、不本意ながら西軍に参加する。それでも事前に寝返りを決意していた安治は、小早川秀秋の裏切りに乗じて東軍に呼応。ただし、他の寝返り武将とは異なり、事前に立場を明確にしていたことから、家康から戦後も所領を安堵されている。 秀吉が寵愛した秀頼には槍を向けられなかったのか、大坂の陣には参戦しなかった。豊臣家に対する恩義を忘れられなかったからだろう。その後は家督を次男の安元に譲って隠居し、出家して73歳で亡くなるまで京都に住んだ。 関ヶ原で東軍に参加できなかったのは大ピンチだったが、土壇場で寝返りを決断したことが彼の身を助けた。単なる勝ち馬に乗ったのでなく、日和見をせずに事前に態度を決めていたことが決め手となったのだ。 敏感に時流をキャッチし、有能な上司を見極めることができたからこそ、彼は生き延びた。いわば、2代目社長の将来性に不安を持ち、ライバル社の引き抜きに応じたことで、人生の成功者となった…。結果論で見れば単純な図式だが、渦中にいる当人にとっては決して簡単なことではなかったはずだ。(渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

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    なぜ秀吉が茶を飲むとそこが天下茶屋と称されるのか

     天下茶屋の名物といえば薬だった。芽木(めぎ)家のあきなう軍中散(ぐんちゅうさん)と津田家の和中散が住吉街道を往来する旅人あいてに拡販戦争を展開し、宣伝じょうずな津田家の店「ぜさい(是斎)」が当地の名所となった。その名を聞くからにキナ臭そうな軍中散よりも、マイルドで腰の弱げな和中散が太平の江戸の世に支持を得たのだ。「ぜさい」は滑稽小説のベストセラー『東海道中膝栗毛』にも登場し、幕末の錦絵シリーズ『浪花百景』にも取りあげられる。 芽木家の先祖は豊臣秀吉が立ち寄ったという茶店をいとなんでおり、これが地名「天下茶屋」の由来となったわけだが、のちには津田家も秀吉来訪の由緒を言いたて、調薬法を秀吉から授けられたとまで主張したので、こちらの面でも本家争いの火花が散った。阪堺電気軌道阪堺線「北天下茶屋」駅 ここで問題。なぜ秀吉が茶を飲むとそこが天下茶屋と称されるのか、読者の皆さんは正確に説明できるだろうか。言っておくが、秀吉が太閤殿下と呼ばれていたからというよくある答案は、甘くつけても六十点。「太閤殿下」は同時代の語例として一般的ではない。それになぜ「天下」と書き、どうしてテンガと読むのか。テンガはデンカの転訛(てんか)(なまり)なのか。 秀吉は関白の職にあった時期、自筆の手紙に「てんか」と署名していた。正解へのヒントはここにありそうだが、当時は濁点を表記しないことが多く、これを殿下(関白や王族への敬称)とみるか天下(天下人(てんかびと)のこと)ととるか、研究者のあいだでも意見が割れる。 いまでは天下はテンカ、殿下はデンカだが、古くはどちらもテンガとも発音された。ただ秀吉の時代にはおおむね天下をテンカ、殿下をテンガと読みわけていたようで、そのころキリスト教宣教師がつくったポルトガル語との対訳辞書はテンカに「アメガシタ。君主の権、または国家」、テンガに「関白の官位」との語釈をあて、デンカの見出し語は採録していない。秀吉の「てんか」署名は彼が関白職を辞して太閤になるや「大かう」へと変じるのだから、その意味するところは殿下で、当時はテンガと発音されていたのだ。 つまり天下茶屋とは、これが本当に秀吉ゆかりの名前なら、殿下(てんが)すなわち関白様の茶屋のことです。やがて同音で書きやすい「天下」に用字が転化…。──もう、ええ加減にしてんか。 (大阪城天守閣学芸員・跡部信)

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    秀吉が建てたと言われる墨俣「一夜城」今の研究では存在否定

     時代劇ドラマには、時代考証という役割がある。なんとか史実に近くなるようにとアドバイスするが、演劇や物語の歴史の積み重ねから、史実だからと変更しづらくなることもあるという。NHKの大河ドラマで起きた時代考証を妥協した例を、みずから歴史番組の構成と司会を務める編集者・ライターの安田清人氏が解説する。* * *墨俣一夜城 歴史上の事件や人物は、なにもNHK大河ドラマによってはじめて物語と化したわけではない。近代以降は歴史・時代小説や映画によって、無数の事件・人物が取り上げられてきたし、もっとさかのぼれば江戸時代の読本や歌舞伎などの大衆娯楽の多くは、歴史を題材としてきた。 だから、大河ドラマが歴史上の人物を描く際に、すでにさまざまな物語、小説などによってフィクションの肉付けがなされていて、大河ドラマもそれを踏襲したために、結果として史実とは相容れない姿を描いてしまうという場合もある。 平成8年(1996)の〈秀吉〉では、歴史小説や映像作品によって強固に形作られたイメージを、時代考証ではついにつき崩せない場面もあった。秀吉の出世物語を描く上でのエポックとなる、墨俣一夜城の場面だ。織田信長が美濃攻めに苦心していた折り、まだ小身の秀吉が墨俣の地に敵の目を盗んで一夜にして城を築き、美濃攻略の端緒を開いたという、お馴染みの話だ。 しかし、この「一夜城」の存在は、現在の研究ではほぼ全面的に否定され、秀吉の前半生をドラマチックに描くためのフィクションだと考えられているのだ。 ところが、小和田さんが手渡された第6回の脚本は、すでにタイトルが「墨俣一夜城」となっていたという(放送時には「一夜城」)。秀吉の「一夜城話」は人口に膾炙した物語であり、番組スタッフも脚本家も、このエピソードを抜きに秀吉の人生を描くことなど思いもよらなかったのだろう。 その脚本を頭から否定してしまったら、一から書き直しということになるが、現実的には不可能だ。観念した小和田さんは、せめて甚だしい絵空事に見えないよう、墨俣城を石垣や立派な櫓のある「城らしい城」ではなく、柵や井楼が立つ程度の砦のような城にしてくれるよう頼んだという。ドラマを成り立たせるためには、時代考証が妥協することも必要なのだ。■安田清人(やすだ・きよひと)/1968年、福島県生まれ。月刊誌『歴史読本』編集者を経て、現在は編集プロダクション三猿舎代表。共著に『名家老とダメ家老』『世界の宗教 知れば知るほど』『時代考証学ことはじめ』など。BS11『歴史のもしも』の番組構成&司会を務めるなど、歴史に関わる仕事ならなんでもこなす。関連記事■ 大河ドラマの「時代考証」具体的にどんな仕事をしているのか■ 織田信長に滅ぼされた浅井長政の小谷城 本当は燃えていない■ 大河ドラマ主人公・平清盛 相当お洒落だったと専門家分析■ 近藤勇と龍馬が友人の大河ドラマ「設定」はデタラメではない■ 平清盛 暴君イメージ強いが気遣いでき優しい人と文献に記述

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    豊臣秀吉は中国・朝鮮どころか世界征服計画持っていたと識者

     SAPIOが識者50人に実施した最強のタフネゴシエーターは誰か、というアンケートで3位に選ばれた豊臣秀吉。秀吉には壮大な野望があったと評論家、西尾幹二氏は指摘する。* * * 秀吉が中国すなわち大唐国を制圧する企てを公言したのは関白になった直後の天正13年(1585年)で、攻略の目標は朝鮮を越えて明に据えられていた。 しかし文禄元年(1592年)、日本軍が釜山に上陸し、二十日あまりで漢城(現在のソウル)を占領したときに関白となっていた秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はさらに一段と拡大していた。 北京に後陽成天皇を移す。都の周辺の国々10か国を進上する。秀吉自らはまず北京に入り、その後寧波に居を定める。諸侯に天竺(インド)を自由に征服させる。 この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に一大帝国を築きあげようとするものであって、秀吉が北京にいる天皇をも自らは超えて、皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうというようなこのうえもなく大きな企てであった。 これはすなわち、中華中心の華夷秩序をも弊履(へいり、破れたくつの意)のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者として立ち現われた点が注目されなくてはならない。 これを誇大妄想として笑うのは簡単である。結果の失敗から、計画の評価を決めれば、すべては余りに無惨であった。 しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ2世と同じ意識において世界地図を眺めていた、日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として立ち振る舞おうとしていたということが重要なのである。関連記事■ 蓮舫大臣 北京留学で中国語上達せずバスケの練習に打ち込む■ 韓国の時代劇 日本人役が出る時はなぜか豊臣秀吉風の風貌に■ 選挙で有名羽柴秀吉氏 過去に逮捕経験あるも現在資産300億円■ サンマ不漁 最近は中国人がサンマ好きになっているのも影響■ 習近平 深い関係になった女は「2人や3人ではない」との証言も

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    『真田丸』登場の本多忠勝 「人は見た目が9割」的な逸話も

     NHK大河ドラマ『真田丸』において、独特の存在感を放っているのが藤岡弘、演じる徳川家臣・本多忠勝である。「徳川四天王」の一角として、最強の武将と称される彼の史実を紐解くと、豪快な中にも意外な一面が見えてくる。 忠勝は天文17年(1548年)、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の13歳で初陣を飾った。 その後、元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」にも参戦し、家康の本陣に迫りくる朝倉軍に対し単騎駆けで対抗、五尺三寸(約175cm)もの太刀「太郎太刀」を持つ真柄直隆と一騎打ちを行ない、その名を馳せた。 その後、「一言坂の戦い」で武田軍をも感服させ、「小牧・長久手の戦い」では敵方の豊臣軍を前に単騎で乗り入れたうえ、悠々と馬の口を洗うなどの豪胆な行動をとったため、秀吉から「東国一の勇士」との称賛を受けた。【本多忠勝も見た目が9割?(『真田丸』HPより)】 天正18年(1590年)、家康が関東に移るのと同時に上総夷隅郡大多喜(千葉県大多喜町)に10万石を与えられ、上総大多喜藩初代藩主に。「関ヶ原の戦い」では家康本軍に従軍し、前哨戦ともいえる岐阜城攻めなどに参戦、本戦でも武功が認められ、伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石が与えられる。 だがその後の天下泰平の世において、家康の側近として重用されたのは政治に長けた者が主となり、忠勝のような「武闘派」は次第に追いやられ、晩年は不遇だったとされる。 ある日、小刀で彫りものをしていた際に、手元が狂って左手にかすり傷を負う。50数回戦って一度もケガをしていなかった忠勝が死期を悟った瞬間とされ、慶長15年(1610年)、63歳で没した。 忠勝には意外な一面もあった。実は「容姿を気にしていた」というのだ。徳川家康の江戸入府とともに忠勝の居城となった大多喜城の跡地にある、千葉県立中央博物館大多喜城分館の一場郁夫・主任上席研究員はこう語る。「本人の肖像画である本多忠勝画像は絵師に7、8度描き直しを命じ、9度目にやっと納得したものと言われています。また、その画像には自ら葬った敵の魂を弔うための数珠が金箔押にされ、それを襷掛けにした姿で描かれています。 兜の『鹿角脇立兜』の脇立は、何枚もの和紙を張り合わせ黒漆で塗り固めて鹿の角をあしらっており、自分の姿に対するこだわりが見え隠れします」 忠勝が家臣に遺した『本多遺訓』にも、以下のような一節がある。「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」 これは「本多家の家人は、志よりもまず外見から武士の王道に入れ。外見を見ればその人の心根も見え、心の奥まで分かってしまうものである」という意味であるとされる。「人は見た目が9割」とされる現代にも通じるエピソードだ。関連記事■ 57回の戦で無傷の本多忠勝 小刀で手を切った数日後に死去■ 「徳川家康は教育パパだった」等歴史上人物の逸話満載した本■ 『真田丸』 堺雅人の役柄を際立たせる内野、高嶋らの怪演■ 徳川家康没後400年 75年の生涯ゆかりの地を松平定知氏案内■ 武田に攻められた徳川家康 信長脅して援軍出させた

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    真田昌幸のギャンブル人生がヤバすぎる!

    大河ドラマ『真田丸』で、草刈正雄演じる真田昌幸の存在感に圧倒された人も多いのではないだろうか。主役をしのぐ強烈なキャラに魅せられる理由は、戦国の騒乱を生き抜いた昌幸のギャンブル人生があまりにヤバすぎるからに他ならない。戦国の世で「表裏比興」と呼ばれた男。その壮絶な生き様を見よ!

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    真田昌幸の「あほロアー戦略」

    新田哲史(「アゴラ」編集長、ソーシャルアナリスト) 新田です。発売からもうすぐ3か月の拙著「ネットで人生棒に振りかけた!」ですが、金曜夜に久々の書評記事を「Suzie」さんというメディアで掲載いただきました。ありがとうございます。拝読して思い出したのですが、拙著では「真田丸」に絡めたネタも仕込んでおりまして、先週のオンエアで描かれた本能寺の変から始まる甲信越のカオス状態こそ、まさにタイトルの真骨頂でした。  そもそも、「あほロアー戦略」とは何か?産業のライフサイクルが人間の一生よりもどんどん短くなり、そう遠くない将来、人工知能に雇用も奪われる話が出るなど、人類史上かつてないほど変化の激しく、先が見えない時代に私たちは生きております。そんな時、まあ、堀江さんみたいな先を見通す「天才」なら自分で新しい仕組みを作ったり、変化の波にうまく適合したりして生き残っていけるのでしょうけど、私のような「その他大勢」の「凡人」はそんな眼力も才覚ないので、どうしても右往左往するしかありません。 なので、私なりに考えた凡人なりの生存戦略として、自分を「アホ」「凡才」だと割り切って自覚し、時代の先読みができるイノベーター的な人材を友人や取引先にして、徹底してフォロー(後追い)することに勝ち筋を見出すことにしたわけです。そんな生き残り策を、わかりやすく、皆さんに伝えようと、「あほ」と「フォロワー戦略」をかけ造語したのが「あほロアー戦略」というわけです。でも、人口に膾炙せず、己の発信力とプロモ不足に忸怩たる思いです。 そこで真田昌幸が出てくるのは、なんだか唐突に思われましょうが、先人たちの歴史の中でも変化の激しかった戦国や幕末のような時代に参考になる立ち回り方、生き方があったのではないかと探したわけですが、戦国好きの私的には、まさに「あほロワー武将」に認定したくなった武将が3人おり、その1人が真田昌幸だった次第です。 先週放送の第5回「窮地」では冒頭に本能寺の変が勃発。武田家滅亡後からわずか数か月で、信長に巧みに取り入ったはずの昌幸は、信長の突然の横死で一転して真田家や小県の国衆がどうするか岐路に立たされます。 「新選組!」や「清須会議」に代表されるように、三谷脚本の時代劇は史実を描く場合でも、どこぞの民放のお正月時代劇のように総花的に逸話を散りばめるのではなく、事件の焦点を絞り、人々がどのような喜怒哀楽を繰り広げたのか、同時代性を再現するところが真骨頂。まさにこの回でも当上人物たちが本能寺の変の直後のカオスに翻弄される様を描いていて、象徴的だったのが徳川家康のセリフ。 近畿での物見遊山中に変を知った家康が三河への脱出ルートを家臣たちと協議した際、史実の「伊賀越え」をいきなりは選択せず、「逃げ道なんてないではないか!これより、京に上り、上様(信長)をお救い申し上げる」と、狼狽しまくり。家臣にたしなめられるあたり、「その時代に生きていたらそう思うよな」と、リアリティーを感じさせます。実際にそんな発言をしたかは置いておいても、それくらいの驚天動地な事態だったはず。当然、織田の残存勢力、北条、上杉に取り囲まれた真田家のような小領主にとっては、どこに付くか文字通りの生存戦略が試される展開になります。昌幸も、せっかく織田方に領地を献上してまで付いたのに、あっさりクーデターでやられたことに苛立ちを抑えきれず、つい当たり散らしてしまい、「下町ロケット」ばりに、大企業の事情に翻弄される中小企業の社長を彷彿とさせます。 拙著でも書きましたが、史実では、織田軍の撤退で権力の空白地帯になった信州を舞台に徳川、上杉、北条のパワーバランスを睨みながら、付かず離れずで外交戦術を駆使して領土を保全。この間、徳川と紛争した際には巧みな用兵術と籠城戦で敵の大軍を撃退し、豊臣政権下で独立大名として頭角を表していきます。まあ、ドラマ的には、生き残りの代償として、主人公の信繁が上杉や豊臣に人質として送られる不遇の時代もどう描かれていくのかも見ものでしょうが、昌幸視点、つまり経営視点に立ち返ると、「あほロアー戦略」を駆使して、アライアンス先をのらりくらりと変えつつも、どのように着実に版図を広げて行ったのか、その智謀ぶりの描かれ方や、草刈さんの好演が期待されるところです。 ちなみに、昌幸以外の「あほロワー武将」は一体誰なのか?戦国好きの方なら、ご想像が付くかもしれませんが、残り2人の名前は書籍で読んでくださると嬉しいです。(「新田哲史のWrite Like Talking」より2016年2月14日分を転載)

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    『真田丸』 王道の大河ドラマはこうだという懐かしさ感じる

     順調に人気を集めているNHK大河ドラマ『真田丸』。その魅力とはどんな点なのだろうか? 大河ドラマの金字塔・平均視聴率超を叩き出した『独眼竜政宗』(1987年)や、『八代将軍吉宗』(1995年)、『葵 徳川三代』(2000年)の脚本を書いたジェームス三木さんは『真田丸』(三谷幸喜・脚本)について、「家来が主君に質問をする」や「武将同士が道や廊下を歩きながら喋る」など、「かつてはあり得なかった表現がぽんぽん出てくる」斬新なところも魅力だと語る。平均視聴率が39.2%だった昭和63年の大河ドラマ「武田信玄」主役の中井貴一 一方、コラムニストの今井舞さんは正反対に「古きよき大河」のにおいを感じると語る。 「大河といえば思い描くような話の内容、つまり割と有名な武将の生涯を描くといういちばんスタンダードな大河の流れを感じます。大人のおじさんが見られるドラマが本当になくなった中で、『半沢直樹』(TBS系)が一時、大人が楽しめるドラマとして話題になりましたが、やっぱり大河で楽しみたいという感じはありましたから。そんな『大人が見るもの』としての大河ドラマに戻ってくれたのがうれしいです」 今井さんがいちばん好きだったという『独眼竜政宗』との類似点も感じるという。 「男同士は腹に一物あって、女を描く時は、女の秋波に男がほとほと困らされるところが似ていますね。それは別に三谷さんがジェームス三木さんの真似をしているということではなく、面白いものを作ろうと思ったら、こういう形になるんだと思います。 最近のドラマでは、もっぱら説明ぜりふと呼ばれる、登場人物が全員出て来て、延々状況を説明しているシーンが多いなか、説明と感じさせずに処理するのも上手で、そこも懐かしく感じました」 例えば第3話で、昌幸(草刈正雄)が信幸(大泉洋)に上杉景勝(遠藤憲一)への書状を預けたシーン。実はこれ、わざと奪われるように昌幸が仕向けた罠だった。織田信長(吉田鋼太郎)の手に渡り、真田の価値を上げさせようと狙ったのだが、それを弟・信繁(堺雅人)は尊敬のまなざしで見つめ、兄・信幸はもうこの人にはついていけない、という顔で見つめる――。 武田が滅ぼされた後、北に上杉がいて、東に北条、そして織田がいっそう猛威を振るう状況をくどくど説明はせず、しかし、ちゃんとその切迫感が伝わってくる巧みさ。 「しかも、後に関ヶ原の戦いで、昌幸、信繁は西軍に、信幸は東軍に分かれるという物語の伏線にもなっているわけで、王道の大河というのはこうだっていう感じがします。 『真田丸』がかつての大河ほど視聴率がよくないのは、大河を見るという習慣がなくなったからでしょう。昔ながらの大河らしい大河がどういうものかというコンセンサスが取れていた時代なら、もっともっと数字が上がっていたのに、と思っています」(今井さん)関連記事■ 武井咲 11本のCMに出演する17歳美少女のミニスカナマ脚■ 柴咲コウ主演「女ばかりの大河ドラマ」に惨敗ドラマとの共通点■ 最高視聴率の大河脚本書いたジェームス三木が『真田丸』を語る■ 大河『花燃ゆ』撮影をNHK会長も視察 政権に配慮との声も■ 剛力彩芽が走る、走る! 19歳の疾走シーンを独占撮り下ろし

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    上田城 家康も恐怖した真田昌幸の知謀が結集

    【探訪日本の名城 濱口和久】 上田城が歴史の表舞台に初めて登場するのは、天正13(1585)年、上野国沼田(現在の群馬県沼田市)の領有をめぐり真田昌幸(まさゆき)が徳川家康と衝突した第1次上田合戦の時だ。 上田城に籠城する真田軍は昌幸以下兵2000人、一方、徳川軍は兵7000人で上田城を包囲した。3倍の兵力を擁する徳川軍の勝利は火を見るより明らかであった。 しかし、徳川軍は1300人にも及ぶ死傷者を出し大敗北を喫したのである。対する真田軍の死傷者は40人程度だったと真田方の記録に残されている。この合戦で徳川軍を破った昌幸の知謀は、近隣に留まらず全国へと鳴り響いた。 昌幸が天正11(1583)年に築城した上田城は、南側を千曲川支流の尼ケ淵の崖に守られ、北側と西側にかけては矢出沢川を引き込み天然の外濠とした。比較的攻めやすいと見える東側にも蛭沢川や湿地帯があり、天然の要害であった。上田城。江戸時代から残る西櫓 第1次上田合戦から15年後の慶長5(1600)年9月、再び上田城に危機が訪れる。関ケ原の合戦に向かう徳川秀忠率いる徳川軍3万8000人との衝突(第2次上田合戦)である。 秀忠は、豊臣方(西軍)に属し兵3000人で上田城に籠城する昌幸・幸村父子に降伏を勧告するが、父子は拒否した。逆に「十分に準備ができたので一合戦つかまつろう」と徳川軍に宣戦布告をする。秀忠の怒りは頂点に達し、徳川軍は直ちに総攻撃したが、上田城の堅い防備と真田軍の強さは秀忠の予想をはるかに上回るものであった。 かつて第1次上田合戦で昌幸に散々煮え湯を飲まされた徳川軍には、悪夢の再来となった。その惨状は目を覆うもので、徳川家公式文書『烈祖成蹟(れっそせいせき)』にさえ「我が軍大いに破れ、死傷算なし」と記されているほどだ。 徳川軍は上田城を落せずいたずらに日を過ごし6日間も足止めをくらい、秀忠は関ケ原の合戦に間に合わず、家康から叱責を受ける。関ケ原後、上田城は家康によって徹底的に破壊され、昌幸・幸村父子は紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部一帯)九度山に配流となる。 「真武内伝(しんぶないでん)」をはじめ江戸期に成立した戦記物によれば、家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると、思わず立ち上がり、体を震わせながら「父か子か」と尋ね、子の幸村と聞いて、ほっと胸をなで下ろしたという。家康にとって、2度も徳川軍を退けた上田城の攻防は、トラウマだったことを物語っている。 天下人・家康をも恐怖にさらした上田城は、戦国大名として生き抜くための昌幸の知謀が結集された城だったのである。 平成19(2007)年12月14日放送のBS熱中夜話(日本の城 前編)「お城ファンが選んだ 好きな城ベスト10」では、堂々の1位に選ばれている。 【所在地】長野県上田市二の丸【城地の種類】平城【交通アクセス】JR長野新幹線・しなの鉄道「上田駅」から徒歩10分。◇ はまぐち・かずひさ 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。

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    幸隆、昌幸…この父子なくして「真田幸村」の活躍はなかった

    真田丸」時代考証が語る、父子の魅力とは。真田氏への評価は「過小」!? 真田信繁(幸村)をはじめとする戦国時代の信州真田氏といえば、綺羅星の如く居並ぶ戦国武将の中でも、1、2を争う人気を誇ります。しかし、その一方で「真田の活躍の多くは『伝説』に過ぎず、過大評価されているのではないか」という声を耳にすることも少なくありません。真田氏の居城・上田城 しかし、私は2つの点で、そうした論調とは異なる考えを抱いています。 まず、真田氏の活躍は「伝説」に拠るところが多いと捉えられがちですが、彼らは決して史料に乏しい一族ではありません。 真田氏は、独立大名となる前は数カ村単位で地域を支配する「国衆」と呼ばれる存在でした。実は、戦国の国衆の中で圧倒的に史料が残っているのが真田氏であり、むしろ「恵まれている」と言えます。後述しますが、それは信繁の祖父と父にあたる真田幸綱(幸隆)・昌幸父子が、武田信玄・勝頼の右腕として活躍したことと無関係ではないでしょう。 そしてもう1つ、真田氏に対する評価は決して「過大」ではありません。 かく言う私も当初は、実力・実績以上の評価を受けているイメージを抱いていました。しかし、研究を進める過程で、たとえば昌幸がいわゆる「天正壬午の乱」で、北条氏、徳川氏、上杉氏という錚々たる大大名と渡り合った姿に一次史料で触れ、過大評価どころか、むしろ過小評価されているのではないか……。そう考えるようにすらなりました。 ゼロから出発しながらも、智謀を武器に戦国の荒波を潜り抜け、これほどドラマティックに乱世を歩んだ一族は、真田氏を置いて他に存在しません。そして、最初の一歩を踏み出し、文字通り真田躍進の礎を築いたのが幸綱であり、その跡を継ぎ、独立大名としての地位を築いたのが昌幸でした。 真田氏の中では、昌幸の息子で、来年の大河ドラマの主役でもある信繁にばかり目を向けられがちですが、その祖父と父の存在に触れずして信繁を語ることはできません――。「謎」の多い真田氏のルーツ 戦国以前の真田氏については、その発祥は上野国(群馬県)であるという説が一部から提起されるなど、今も多くの謎に包まれています。 清和天皇の子孫を称する名族・滋野一族の海野氏の嫡流ともされますが、近年の研究では完全なる脚色と考えられています。恐らくは真田氏が自称したのでしょうが、これは滋野姓海野氏を名乗ることが豪族を束ねる上で効果的であったからで、当時においては珍しいことではありません。 そんな一族が歴史の表舞台に登場したのが、真田弾正忠幸綱の代でした。 幸綱の誕生は永正10年(1513)ですが、諱(実名)がよく問題にされます。幸綱は、一般的には「幸隆」の名で知られます。確かに、江戸幕府が編纂し、幸綱の孫・信之健在の時代に成立した『寛永諸家系図伝』にも「幸隆」と記録されています。 しかし、一次史料を追うと、壮年期まで「幸隆」と記されたものは皆無です。様々な史料を照らし合わせれば、幸綱は出家を契機として「幸隆」に改名したと考えるのが自然であり、ならば読み方は「こうりゅう」ではないか……。以上が、現時点での私の考えです。幸綱の悲願は「本領回復」父の悲願は「本領回復」 信州小県・真田郷を本拠としていた幸綱ですが、大きな転機が天文10年(1541)の海野平合戦でした。幸綱は村上義清・武田信虎らの連合軍に敗れ、故郷を追われます。 幸綱と村上義清は以前より小競り合いを繰り返していましたが、その上、武田氏まで加われば多勢に無勢、幸綱は上州への亡命を余儀なくされました。「必ずや、故郷を取り返す」。幸綱は心中、断乎たる決意を固めたことでしょう。真田本城跡より この時、幸綱とともに落ち延びたのが、縁戚関係にあったともいう海野氏宗家・海野棟綱の一族で、彼らの多くは関東管領・上杉憲政を頼りました。関東管領といえば当時、トップブランドであり、誰もが「寄らば大樹の陰」と考えたわけです。 しかし、幸綱は異なりました。真田関係の軍記物『加沢記』によれば、幸綱は、 「信州で仄聞していたが、憲政がうつけたる大将だというのは間違いない。いかに関東管領の高位にあるとはいえ、あまりにも事々しい。上杉家は将来が危うく見える」 と冷静に分析し、「恃みにならぬ上杉についても、我らの旧領回復には何の足しにもならない」と早々に見切るのです。そして――幸綱が最終的に身を寄せたのが、甲斐の武田晴信(信玄)でした。幸綱と信玄、運命の出会い 幸綱にとって武田氏は、信虎の代に村上義清とともに自分たちを真田郷から追い払った仇敵に他なりません。 しかし幸綱は、信虎を家中から放逐した信玄が、上杉氏を上回る勢力をもつこと、また真田郷を占拠する村上義清と対立関係に入ったという情報を入手し、幸綱を求める武田氏のヘッドハンティングに応じる決断を下すのです。 私は、この判断に幸綱の「凄み」を感じずにはいられません。 現在に喩えれば、多くが関東管領という大企業にいれば「何とかなる」と思っている中、情報収集能力と分析力を駆使して経営の危うさを見抜き、若手社長率いるライバル企業の一員となって、自らの志を遂げる……。 権威よりも己の考える戦略や戦術、情勢判断を信用したわけですが、この「したたかさ」は、幸綱以降の真田一族にも共通するものです。そして、関東管領上杉氏がほどなく没落し、武田氏が大躍進を遂げたことからも、幸綱の眼力が正しかったことは歴史が証明しているでしょう。 そして幸綱自身も、武田氏躍進の立役者の1人でした。幸綱の活躍といえば、天文20年(1551)の砥石城攻略が挙げられます。砥石城は怨敵・村上義清の拠点であり、信玄でさえ陥とせなかった要害でした。 しかし幸綱は砥石城を独力で攻略してのけ、信玄にその功績を讃えられて、「悲願」の旧領回復を成し遂げます。幸綱の采配ぶりは史料からはなかなか窺えませんが、いずれの文献も「乗っ取る」という表現で記しています。 戦国時代の「乗っ取り」といえば、密かに敵城に近づき、手引きする人間を通じて城中に雪崩れ込み、一気に城を制圧するのが常套手段でした。砥石城の戦いは真田関係の史料にも家臣の戦死の記録がほとんどなく、また、弟・矢沢頼綱が砥石城内にいたことからも、幸綱の戦いぶりがまさにそれであったことが窺えます。 派手な陣頭指揮でなく、まさに孫子の兵法を地で行く、「戦わずして勝利をおさめる」のが幸綱の戦い方であり、だからこそ難攻不落の砥石城を攻略できたのでしょう。 かくして天正2年(1574)にこの世を去るまで、幸綱は武田家を支え続けるのです。転機となった長篠合戦転機となった長篠合戦 幸綱の活躍もあり、真田氏は武田家臣団の中でも極めて特異な存在となります。というのも、外様で真田氏ほど取り立てられた一族は皆無だからです。 幸綱の三男が信玄の母方の大井一族の武藤家に養子入りし、奉行(官僚機構を担う一員)を務めたのも顕著な例といえますが、この三男・武藤喜兵衛こそ、後の真田安房守昌幸でした。 外様で奉行を務めるのは前例のない「快挙」でしたが、これは幸綱の威光のみによるものではないでしょう。昌幸は当初、人質として信玄のもとに送られましたが、信玄の身の回りの世話をする奥近習衆に取り立てられて頭角を現わし、奉行を任されるに至りました。 信玄は昌幸を「武田の宿老分にしたい」とまで語ったといいますが、幼いころから昌幸の将才は抜きん出ていたのです。 昌幸もまた、父・幸綱の智謀を色濃く継ぎつつも、名将・信玄から薫陶を受け、多くを学びました。外交、調略、用兵、作戦立案、軍の編成、実戦指揮……。昌幸にとって信玄の教えは、乱世を生き抜く上での大きな糧となったことでしょう。真田本城跡 そんな昌幸の運命を変えたのが、幸綱が逝去してから1年後に勃発した天正3年(1575)の長篠合戦でした。 昌幸は武藤家の当主として参戦していましたが、真田の家督を継いだ長兄・信綱と次兄・昌輝が奮戦の末に戦死。合戦後、図らずも昌幸が、真田の家を継ぐことになったのです。息子が追いかけた「独立」 真田の当主となった昌幸は、武田勝頼から上野侵攻戦の指揮を一手に任されたこともあり、本領と甲府との行き来で多忙な日々を送るなど、求められる役割も変化しました。 以降、武田家を支える柱石として遺憾なく才能を発揮した昌幸でしたが、織田信長の侵攻を受けて天正10年(1582)、武田家は滅亡。そして本能寺の変での信長横死を受けて惹起したのが、天正壬午の乱です。 旧武田領をめぐり北条氏直、徳川家康、上杉景勝が三つ巴の争奪戦を始め、甲斐・信濃は弱肉強食の時代に逆戻りしました。主家を失った、信濃の小勢力に過ぎない真田氏は、その立場を大いに脅かされることとなります。 昌幸はしかし、幸綱が塗炭の苦しみを経て奪還した真田領の死守はもとより、独立大名の座を勝ち取るべく、北条、徳川、上杉と渡り合っていきました。 その手並みは、戦国史上類を見ないほどの鮮やかさです。 当初、昌幸は上杉に従属しますが、北条軍の信濃侵攻を目前に、北条に鞍替え。ただし、昌幸はこの時、弟・昌春はそのまま上杉に仕えさせています。このあたり、真田ならではの巧みさでしょう。 その後、上杉と北条は川中島で睨み合い、やがて氏直は徳川の侵攻に対応すべく甲斐に転進しますが、昌幸は氏直に「自分が本領に残留して、上杉の追撃を食い止める」と進言、氏直も「土地鑑のある真田に任せれば安心」と怪しむことなく容れました。 しかし実は昌幸は、上杉が新発田重家の存在があるため南下できないと読み、この機に北条と自然な形で距離を置こうと考えたのです。結果、昌幸は北条軍から切り離され、フリーハンドの立ち位置を得るのですが、これが独立への大きなターニングポイントでした。真田の流儀真田の流儀 その後、昌幸は北条から徳川へ鞍替えし、さらには徳川とも手を切ります。いよいよ独立の総仕上げにかかったわけですが、家康が放っておくはずがありません。8,000の兵で2,000人が拠る昌幸の居城・上田城を攻め寄せました。第1次上田合戦(神川合戦)です。 上田合戦についても史料の乏しさが指摘されますが、昌幸が徳川軍を挑発して城を攻めさせ、伏兵で散々に叩き、神川へ追い落とす――という『三河物語』の記述は正しいようです。 昌幸の嫡男・信幸が側面から攻撃して徳川勢を混乱に陥れたのも、他の史料から窺えるので史実でしょう。なお、次男の信繁に関しては上田合戦に参戦していないともいわれますが、私は可能性はゼロではない、と考えています。 いずれにせよ、天正壬午の乱から上田合戦までの昌幸の活躍ぶりは、幸綱、そして信玄から学んだ軍略の集大成であったといえるでしょうし、それによって「独立大名」としての地位を固めるとともに、真田の名を全国に轟かせたのです。 幸綱と昌幸を比べると、2人の違いも見えてきます。幸綱は信玄個人から非常に信頼されながらも、一匹狼的に武田軍団の中で活躍しました。長谷寺の真田幸綱・昌幸の墓 一方の昌幸は、武田重臣の末端に初めから位置づけられて、成長していきます。幸綱が調略を用いて、1人で敵を切り崩すのを得意としたのに対して、昌幸は軍事指揮官でもあるので、自ら軍勢を動かしつつ領土を制圧しました。この違いは、2人のバックグラウンドが影響しているのでしょう。 しかし、根本の部分に注目すると、真田一族の芯が見えてきます。常識に囚われず、大勢に流されず、かつ情にも流されない。この3つを1つの原則としつつ、即断即決で動く。 もちろん即断即決が拙速となり、事態が不利に転じる可能性もあります。しかし真田一族は、「情報」を重んじていたために、即断ながら過つことは稀でした。 また、たとえ不利に転じたとしても、次の手をすぐに打つことで事態を好転させる――それが真田の流儀だったといえるでしょう。 翻って現代は「先行き不透明」といわれて久しいですが、その点は戦国時代と同様です。そんな時代だからこそ、戦国乱世を最も鮮やかに、かつダイナミックに、智略ひとつで生き抜いた真田幸綱・昌幸父子の姿から、私たちは学ぶべきものが多いのではないでしょうか。ひらやま・ゆう 昭和39年(1964)、東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。日本中世史に関する精力的な研究活動を行い、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。著書に、『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(以上、吉川弘文館)、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社)、『真田三代』(PHP研究所)など多数ある。関連記事■ 真田一族の謎―最新研究でわかった数々の真実■ 真田幸綱はなぜ、調略面で活躍できたのか?―最新研究で謎を解く!■ 上田城を徳川、上杉に普請させた真田昌幸

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    獰猛徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略

    工藤章興(作家) 父祖伝来の地は渡さぬ!真田昌幸、獰猛徳川勢を迎え撃つ 「徳川勢など何万騎押し寄せようと恐れるに足りず。家康は三方ケ原で大屋形様(信玄)に散々に打ち破られ、恐ろしさの余り、逃げ帰る馬上で糞を垂らした男ぞ」。不敵な相貌の昌幸が吠えると、将兵らがどっと沸わいた。  天正13年(1585)閏8月、徳川の精兵7000の侵攻に、上田城に拠る真田は2000。しかし、上田城と城下には、恐るべき仕掛けが幾重にも施されていた。 徳川勢、恐れるに足りず 「いかに徳川中納言(家康)といえども、理不尽極きわまりない命令じゃ。武威を恐れて泣き寝入りしては、真田の弓矢がすたる」  天正13年(1585)初秋。残暑に包まれた上田城。真田昌幸が一族と老臣を集めて評議している。天正壬午の乱のおり、家康と北条氏政・氏直父子が講和・同盟した結果、上野は北条氏が領することになり、家康は昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すように命じた。それにどう対応するかの最終評議である。 真田家の行き先について思いをはせる真田昌幸 「沼田は中納言から拝領したものではない。真田家が武略をもって切り取った地だ。唯唯諾諾と引き渡すことはできぬ」 「されば、手切れでござるか」 「うむ。引き渡しを拒めば、中納言がこの城へ攻めかけてくるは必定なれば、弓矢、鉄砲をもって会釈するほかあるまい。ついては、汝らの命、わしにくれい」 家康は三河、遠江、駿河 、甲斐、南信濃で約150万石を領する巨大大名だが、決心の臍は鉄石よりも堅く、武力衝突も辞さない覚悟の昌幸の双眸からは、猛禽類のそれに似た勁烈な光が放たれている。 「はっ。一命はもとより、すべて殿の思し召しのままに」 首を横に振る者は皆無だった。主従、決死の覚悟である。 「徳川勢が何万騎押し寄せようとも、恐れるに足りずじゃ。中納言は三方ケ原で大御屋形様(武田信玄)に完膚なきまでに叩かれ、命からがら遁走する途中、恐怖のあまり馬上で脱糞した男ぞ」  昌幸の相貌に不敵な笑みが浮かんだ。家康との一戦は、長篠設楽原の戦いで討死にした長兄・信綱と次兄・昌輝の弔い合戦でもあり、闘魂はいやがうえにも燃え上がる。  しかも戦国最強武将の信玄に近侍してその戦略・戦術を余すところなく学び、自家薬籠中のものにしている昌幸は、坐して徳川軍の来攻を待っているような凡将ではなかった。  天正壬午の乱後に北信濃にまで勢力圏を拡大していた越後の上杉景勝に次男の信繁(幸村)を人質として差し出し、盟約を結んで加勢を依頼するとともに、家康を膝下に組み伏せての覇権奪取を目論む羽柴秀吉とも誼みを通じるべく書状を送る算段を整えた。稀世の智謀の将ならではの外交戦略である。 上田城 一方の家康は、案の定、沼田領引き渡しの峻拒と景勝への鞍替えに激怒し、上田城攻めの軍勢を催した。  鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世 、柴田康忠らの三河譜代衆に松平康国、諏訪頼忠、保科正直、小笠原信嶺ほかの信濃諸将、三枝昌吉や武川衆らの武田遺臣からなる派遣軍は総勢およそ7000(実数は10000以上?)を数える。  徳川勢雷発の飛報に接した上田城では迎撃準備が急がれる。支城の戸石城には嫡男の信幸以下800を入れ、矢沢城には従弟の矢沢頼康、丸子城には丸子三左衛門を配し、昌幸は400の将士とともに上田城に籠もった。だが、動員できた兵力は徳川勢の3割にも満たない2000ほどでしかない。  そこで、寡兵で大兵を邀撃する一策として、徳川勢の突撃路になると予想される染谷筋(大手筋)の所々に深さ1間(約1.8メートル)、幅1間ほどの堀切を掘り、あちこちに千鳥掛(互い違い)に結い上げた柵を設けた。  かくて迎えた閏8月1日、北国街道を進軍して信濃へ攻め込んだ徳川勢は千曲川南岸に台地をなす八重原に着陣。翌2日、千曲川を大屋付近で渡って神川東岸の蒼久保に進出。小休止する間に神川の浅瀬を探し、一気に押し渡るべく水飛沫を跳ね上げはじめた。決戦!上田合戦(神川の戦い)決戦!上田合戦(神川の戦い)  神川の西岸には、昌幸の密命を帯びた常田出羽と高槻備中が率いる前衛部隊200が邀撃態勢を整えている。だが、1発の銃弾も1本の矢も放たない。徳川勢の先鋒部隊が西岸に達した。それでも抵抗することなく、じりじりと後ずさる。その間にも後続兵は神川を押し渡り、ついに大半が無傷で渡河を終えた。  直後、頃合を見計らっていた常田と高槻が大音声を張り上げる。 「今だ。撃て!」  満を持して待機していた真田勢の鉄砲が一斉に轟発した。徳川勢もすかさず銃撃で反撃すると同時に、敵は寡兵と見て遮二無二突進しはじめた。堀切も柵も無視しての突撃だ。  数を恃んでの大攻勢の前に、真田勢は負け色を見せて弱々しく引き退しりぞく。 「敵は怯ひるんだ。一気に押し崩せ!」  侍大将が叫び、嵩にかかって攻め立てる徳川勢。真田勢はしかし、ずるずるとは退かない。敵が近づけば踵を返して鉄砲を撃ちかけ、逃げては返し、返しては逃げてという繰り引きで城近くまで後退したあと、こらえかねた体で横曲輪へ引き入った。  昌幸が常田と高槻に命じていた巧みな誘引策であり、前衛部隊は囮部隊だったのだが、寄せ手は気づきもしない。  鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らの歴戦の勇将すらまんまと欺むかれ、ここを先途とばかりに大声で下知を飛ばす。 「城は無勢ぞ。付け入れ!」  吶喊。徳川勢が獰猛な四足獣の咆哮にも似た雄叫けびをあげて城際へ押し寄せ、我先にと乗り入れを競う。  迎え撃つ昌幸の雄姿は、上田城の本丸大手門近くの櫓にある。徳川勢が城際に迫っても、胆の巨きさが並みではない昌幸はいささかも動じる風はない。それどころか、甲冑も着さず、六連銭の旗を吹きなびかせた傍らで、禰津利直を相手に悠然と囲い碁を打っていた。  家臣が数度にわたって注進におよぶが、泰然自若として動かず、短切に返すだけだ。 「敵来たらば斬れ、斬れ」  徳川勢が二の丸まで突入してくるのを待っているのだ。  上田城は、東を向いた大手口から直線的に三の丸、二の丸、本丸と門がつづいており、攻撃する際に正面から突入したくなるような縄張りになっている。本丸に兵力を集中し、狭隘な二の丸へ殺到してくる敵勢を邀撃することで相当の犠牲を強いることができるだけでなく、敵の後続部隊がひしめき合って押し出してくるので、前衛部隊は逃げ場がなくなり大混乱に陥るのは必至、という構造だ。  昌幸はそこに罠を仕かけた。  真田勢の囮部隊に誘引された徳川勢は、三の丸橋と二の丸橋を突破して二の丸へ雪崩れ込んだ。その間、真田勢のとかくの反撃はない。徳川勢は城中の兵が少ないからだと侮り、どっと鬨の声をあげて本丸へ迫り、我先にと大手門に取りついた。  それを待っていたかのように、昌幸に近侍する参謀格の来福寺左京が声をかける。 「殿、時分はようござりますぞ」  うむ、とうなずいた昌幸が、碁盤上の石を突き崩してすっくと立ち上がったと思うや、鉄板をも射抜かんばかりの鋭い眼光を放って音声で命じる。 「太鼓だ、鉦だ。貝を吹け!」  太鼓と鉦が乱打され、法螺貝の吹鳴音が響き渡るや、天地をどよもす鯨波があがり、静まり返っていた真田勢の反撃が開始された。  門や塀の上、矢狭間、鉄砲狭間から銃弾と矢を雨注させる。石礫を打つ。かねて用意しておいた丸太や大石を投げ落とし、沸騰した油を降り注がせる。  攻撃しているのは軍兵だけではない。猟師は鳥銃をぶっ放し、農民や町人は石礫を投じ、丸太や大石を運び、女子供は油を沸かすなどの雑用に汗を流している。 「我らが城下に住まう者は百姓であれ町人であれ、皆、わが子も同様じゃ。妻子を引き連れて籠城せよ」 昌幸は徳川勢が来攻する前に城下に触れを出し、希望者の入城を許していた。領民はその仁愛に応えるべく、徳川勢への攻撃に加わったのである。 みすみす罠に嵌まって二の丸へ殺到した徳川勢は、昌幸の目算どおり、大混乱状態に陥った。真田昌幸の智謀と底知れぬ胆力真田昌幸の智謀と底知れぬ胆力  突出攻撃の機をうかがっていた昌幸が馬に打ち跨って命じる。 「門を開け!」  大手門が内側から開かれる。 「突っ込むぞ。者ども、わしにつづけ!」  槍をしごいた昌幸が馬腹に強い蹴りを入れ、先頭切って突いて出た。旗本勢も後れをとってはならじと先を争い、剣戟刀杖をきらめかせて駆けだしていく。  時を移さず、横曲輪へ一旦撤退していた常田と高槻が率いる部隊も横槍に突きかかり、町家に火を放った。放火も昌幸の命令だった。町人は事前に避難させており、無住となっている町家に次々と松明を投げ込んでいく。折から、強風が吹き荒れており、紅蓮の火炎は渦を巻いてたちまち四方に飛び散り、朦々たる黒煙が城下を覆い尽くす。  さらに、昌幸が四方の山や谷に埋伏させていた領民3000余が、城内で乱打される陣太鼓の音を合図に紙旗を押し立てて群がり起こり、徳川勢の側背へ襲いかかった。城内へ入った領民と同じく、昌幸の仁慈に報いての合力であり、鳥銃を放ち、石礫を投げつける。農民は鎌や鍬を、町人は竹槍や棍棒を手にして徳川勢の撤退路に立ち塞ふさがった。  「敵は小勢ぞ。退くな、退くな!」  進退に窮して思わず立ち往生する徳川勢に向かって、大久保ら寄せ手の諸将が鞍壺を叩いて叱咤激励する。  徳川勢はしかし、千曲川と神川を渡河したため戎衣は水に濡れて重くなり、戦闘能力も低下している。指揮系統も寸断されて陣形を立て直す余裕はなく、浮足立って総崩れになった。しかも堀切に落下し、千鳥掛けの柵にさえぎられ、黒煙に眼路を塞がれて進退はままならず、混乱にますます拍車がかかる。 「追え。後を慕たって皆殺しにしろ!」  真田勢の諸将がここぞとばかりに尾撃を命じる。徳川勢の背後に槍が繰り出され、刀が振り下ろされる。一方的な追撃戦だ。  徳川軍の将士のなかに、踏みとどまる者も踵を返す者もいない。死傷者を続出させながら雪崩を打って潰走し、かろうじて神川の渡河地点まで逃れた。だが、そこに新たな敵勢が出現した。戸石城にあって後巻の機会をうかがっていた信幸麾下800の将兵が、染谷郷から横撃してきたのだ。  真田勢は徳川勢を押し包むように三方から攻撃を加える。神川を渡河するしか逃れる術はない。その神川は数日来の雨で増水して激流と化している。水深を探れば渡河はできるが、真田勢に追い落とされてはそれもままならず、溺れ死ぬ者が続出して勝敗は決した。  徳川勢の戦死者は1300余、溺死者は数知れずで、真田勢の犠牲者はわずか40人ほどだった。  徳川勢の惨敗であり、この合戦に参陣した大久保忠教は、自軍の将たちの不甲斐なさを「悉く腰がぬ(抜)けはて」「ふる(震)ゐまはりて物もゆ(言)はず」「げこ(下戸)にさけ(酒)をし(強)ゐたるふぜい(風情)なれば力もなし」(『三河物語』)と慨歎している。  汚名返上を期す徳川勢は同月20日、丸子城を攻めたが攻略に失敗。その後、家康は井伊直政に5000の兵を預けて上田城再攻撃を命じたが、作戦を発動しないまま対峙していた11月、突然全軍を撤兵させた。  家康の腹心だった石川数正が家康から離叛して大坂城の秀吉のもとへ奔ったため、秀吉との関係が再び緊迫して真田攻めどころではなくなったのだ。  この上田合戦(神川の戦い)で、秀吉ですら苦戦を強いられた徳川軍を寡勢でもって撃砕した昌幸の武名は一躍天下に轟き渡り、独立大名としての地位を確立した。そして、鬼神も三舎を避けるほどの昌幸の智謀と底知れぬ胆力の血譜は、信幸・信繁兄弟に受け継がれていくのである。   くどう・しょうこう 昭和23年(1948)、愛媛県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。新聞社、出版社勤務を経て、執筆活動に入る。著書に『大谷吉継と石田三成』『兼続大戦記』など多数。関連記事■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 武田勝頼の最期と真田昌幸の決断■ 真田昌幸は、上田城をいつ、どのようにして築城したのか?―最新研究で謎を解く!

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    本能寺の変勃発! 天正壬午の乱と真田昌幸の智謀

    を示すものでもあったのではないだろうか。はしば・あきら 昭和37年(1962)、大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に歴史研究・執筆を行なう。著書に『真田三代―幸村と智謀の一族』『新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』など。関連記事■ 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 幸隆、昌幸…この父子なくして「真田幸村」の活躍はなかった 

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    日本人は真田信繁の誇りを知れ

    日本人はなぜ真田信繁に魅力を感じるのか。その答えはひとえに信繁の生き様にある。いかなる大敵であっても、臆することなく挑んだ「六文銭」の誇り。では、信繁は何のために戦いに明け暮れたのか。「戦国最後のヒーロー」の人生訓には、日本人がいま学ぶべきヒントがたくさんある。

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    真田信繁は何のために戦ったのか

    歴史街道編集部 「真田幸村」は間違いなのか?   2月号「真田信繁 大敵に挑んだ『六文銭』の誇り」の内容にからめつつ、真田信繁が何のために大坂の陣を戦ったのかを、考えてみたいと思います。  まず今回の特集タイトル「真田信繁」について、「真田幸村ではないのか?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。実は一昨年に「真田信繁と冬の陣」という特集を組んだ際も、「信繁は幸村の兄弟ですか?」と真顔で尋ねられたことがあります。  最近こそ、大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田幸村こと真田信繁です、とテレビでPRされたことで、信繁の名前が浸透し始めていますが、たとえば昨年に和歌山県の九度山町を訪れた際も、地元の方々はすべて幸村と呼び、信繁と言う方にはお目にかかれませんでした。  かく言う私も、まだ幸村の方がしっくりくるような気がします。「幸村と真田十勇士」、「大坂夏の陣と幸村最後の突撃」という具合に、幸村という響きに慣れ親しんでいるからでしょうね。  2月号の特集では河合敦先生にご解説頂いていますが、同時代史料に幸村という名は見当たらず、真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。ちなみに幼名は弁丸、通り名は源次郎、後に与えられた官職名は左衛門佐〈さえもんのすけ〉です。  従って史実に基づけば、真田信繁が正しいということになります。では、幸村は間違いかというと、一概にそうとはいえないのがややこしいところ。というのも、信州松代藩真田家の江戸時代の史料には、「幸村」と記されているからです。大河ドラマ「真田丸」の一場面。大坂夏の陣49歳の信繁は葵の旗をめがけて突撃していく  幸村の名は、江戸時代初め(寛文12年〈1672〉)の軍記物『難波戦記』に登場するのが最初といわれ、以後、講談本などにも用いられて、その人気から広く流布し、ついには真田家の史料にもその名が記されるに至ったようです。  とはいえ、今年の大河ドラマをきっかけに、真田信繁の名が大いに浸透する可能性はあります。果たして幸村から信繁へと変わる記念すべき年となるのか、注目したいところです。当時の人質は幹部候補生? 当時の人質は幹部候補生?    真田昌幸が上杉景勝の支援を得るため従属する際、信繁(当時は元服前なので弁丸)は人質として上杉家に送られました。人質というと、不自由な暮らしを強いられていたように想像しがちですが、戦国期は必ずしもそうではありません。  むしろ将来、主家を支える人材となるよう、文武にわたり教育が施されました。信繁の父・昌幸も武田家に人質として送られましたが、武田信玄の近習として多くの事を学び、結果、信玄を主人とも師とも仰ぐ、武田の重臣へと成長しています。いわば人質とは幹部候補生でもありました。  信繁もまた、人質の身ながら上杉景勝から知行を与えられており、いずれ上杉を支える重臣となることを期待されていた節が窺えます。おそらくは直江兼続にも接していたでしょう。  その後、昌幸の意向で信繁は、上杉家から豊臣家の人質へと転じます。信繁は秀吉のもとでも厚遇されていたようで、やがて奉行衆の石田三成や大谷吉継と出会い、親しく接するようになりました。  特に大谷吉継は、後にその娘(養女とも)を信繁が娶り、正室にしたとされますので、信繁にとって義理の父となる存在。深く親交し、信繁は吉継から多くのことを学んだはずです。  童門冬二先生は特集内において、信繁が三成や吉継との出会いで目を見開かされたのは、彼らが何を拠り所に働いているのかを知ったことではないかと指摘されます。すなわち彼らが目指しているのは、乱世を終息させる統一政権(豊臣政権)の確立でした。  そこにあるのは私利私欲ではなく、戦乱をなくすことで日の本の民が安心して暮らせるようにし、それによって国を富ませるという、大きな志であったはずです。統治者とは、領民の生活を守る存在でなければならない…父・昌幸が大事にしてきたことに通じ、さらに一段とスケールの大きな姿勢を、信繁は吉継らに見出したのかもしれません。   信繁は何のために戦ったのか    関ケ原合戦前夜、真田家が二つに割れたことはよく知られます。すなわち長男の信幸は徳川家康方の東軍に、昌幸と次男の信繁は石田三成方の西軍に分かれました。信幸の正妻は家康の養女(本多忠勝の娘)であり、信繁の正妻が大谷吉継の娘ですから、双方とも義理を果たそうとすれば、分かれるしかなかったともいえます。  また義理だけでなく、信繁にすれば、義父の大谷吉継や石田三成が懸命に作り上げた統一政権と乱世の終息への志を、徳川家康が私欲のためにぶち壊そうとするのを許しがたいという思いがあったのかもしれません。  そして昌幸・信繁父子は上田城に拠って、関ケ原に向かう途中の徳川秀忠軍を相手に散々に翻弄し、合戦に遅参させました。しかし、関ケ原では西軍が敗れ、吉継も三成も落命。昌幸・信繁父子は死罪になるところを辛うじて許され、紀州九度山に流されます。  以後、信繁は大坂の陣までの14年間、九度山で蟄居生活を送りました。蟄居生活11年で、父・昌幸は不遇のまま死去。一説に死の間際、昌幸は徳川と豊臣手切れの際、大坂に味方して徳川に勝つための策を信繁に語ったともいいます。父子ともに、今一度徳川と戦う気持ちは失っていませんでした。  そして慶長19年(1614)、豊臣家からの大坂入城の請いを受け、信繁は最後の戦いへと起ち上がるのです。では、信繁は何のために戦うのか。  真田本家は兄・信幸が継いでおり、次男の信繁は家のことを心配する必要はありません。いわばフリーの立場で、決断することができました。まず念頭にあったのは、父・昌幸から学んだ真田の兵法を、徳川相手に今一度示したいということでしょう。そこには無念の内に他界した父への思いもあったかもしれません。  一方、関ケ原で大谷吉継らの乱世の終息への志をぶち壊した家康が、再び豊臣家に難癖をつけて、無理やり大戦を始めようとしていることへの憤りもあったでしょう。まして豊臣家は信繁の旧主です。そんな旧主が助けを求めてきているのであれば、応えるのは武士として当然と考えたのかもしれません。  「またも私欲で大乱を策す家康に、戦場でただの一度も徳川に後れを取ったことのない真田の兵法のすべてをもって挑み、天下万民が注目する最後の大戦の場で、鉄槌を下す」。  信繁がそう考えても不思議ではない気がします。果たして大河ドラマでは、この辺はどう描かれるのか。こちらも楽しみにしたいところです(辰)関連記事■ 真田信之と信繁は、いつ、どこで生まれたのか?―最新研究で謎を解く!■ 【歴史街道.TV】横須賀歴史散歩■ 年頭のご挨拶に代えて

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    真田信之と幸村、関ヶ原兄弟分裂の謎は「異母説」でわかる

    松平定知(フリーアナウンサー)「異母説」で2つの疑問を解決 太郎、次郎、三郎という兄弟がいたら、まあ、普通は長男、次男、三男と考える。ところが、本稿は、三郎が兄で、次郎が弟だという話である。 この兄弟は、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田幸村(信繁)と、その「兄」の信之(信幸)。真田家の史料によれば、幼名・源三郎の「兄」信之と、同・源次郎の「弟」幸村は年子(としご)で、信之は大男、幸村は小兵、性格も容貌も相当異なっていたという。 だから、「この兄弟は母が違う」と指摘する人は昔から多い。私も実は「ソレ派」である。なぜなら、そう考えると、この兄弟に関しての2つの大きな疑問が同時に解決するからである。NHK大河ドラマ「真田丸」の一場面。真田家の行く先について語り合う真田信繁(堺雅人、左)と兄の信幸(大泉洋) 彼らをめぐる2つの疑問。1つは「天下分け目の関ヶ原の戦い」の直前、謀略のエキスパートの彼らの父、昌幸が、この戦(いくさ)がどちらに転んでも真田家が存続するようにと下した、いわゆる「犬伏の別れ」と言われている結論のことだ。「嫡男の信之は徳川家康率いる東軍に。幸村と自分は石田三成率いる西軍に」という「分け方」と「組み合わせ」の理由は何か。 もう1つは、関ヶ原の前の二度にわたる「上田戦争」での敵対行為と、関ヶ原での敵側の立ち位置にも関わらず、父と「弟」幸村は、家康に殺されることなく、その後、父は11年、幸村は14年という長い歳月を、高野山近くの九度山(くどやま、和歌山県九度山町)で生き延びた。その際、父の妻であり、幸村の母である「山之手殿」は同行せず、さりとて離婚もせず、勝った徳川方に属した信之と一緒の生活を選択したのはなぜか、である。 これは2つとも、兄弟の父、昌幸が、正妻との間の子供(信之)の誕生前に、他の女性に子供(幸村)を成してしまったからだと考えると説明がつく。 「正妻以外の女性との子を真田家の『嫡流』にするわけにはいかない」と悩む昌幸に、程なく正妻懐妊の報が入る。調略家の父はここぞとばかり考えをめぐらし、「子供の順番の交代」にたどり着いた、というのはどうだろう。 もちろん、「誕生年をごまかして順番を逆にするくらいなら、2人の息子の幼名を入れ変えた方がよっぽど造作ない」とか、「昌幸自身も幸隆の三男でありながら幼名は源五郎だし、彼の双子の弟・信尹は源次郎だから、真田家はもともと、子供の名前と数字とは全く無関係」と指摘なさる方、つまり、この「異母説」(兄弟逆転説)に異を唱える方も、たくさん、いらっしゃるのだが…。さあ、以下は次回。関ヶ原の戦いで「東軍」「西軍」に分かれた真相関ヶ原の戦いで「東軍」「西軍」に分かれた真相 真田の家名を後世に残すため、真田家の当主、昌幸は、息子2人を敵味方に分けて関ヶ原の戦いに向かわせることにしたことは前回、触れた。これを知った徳川秀忠は、関ヶ原直前、味方についた「兄」信之(信幸)に、敵側の「弟」幸村(信繁)のいる砥石(といし)城(長野県上田市)を攻めさせた(第2次上田戦争)。 幸村は「兄さんとの直接対決なんて」と、さっさと砥石城を捨てるのだが、これは大勢にはさして影響はなかった。昌幸・幸村軍の15倍の兵力を持っていた秀忠軍は(上田城攻めでは)その油断もあって、押しまくられ、逃げさせられ、結果として関ヶ原の本戦に大遅刻する。秀忠軍がようよう駆けつけたときには、もう戦いは終わっていたという体たらくだった。 15年前の第1次上田戦争で恥をかかされた家康ともども、家康・秀忠父子の、昌幸・幸村父子に対する怨念は深い。そんな昌幸・幸村父子が、関ヶ原後も殺されなかったのは、一にかかって、「兄」信之と、その岳父で、家康の側近中の側近、本多忠勝の尽力のおかげである。 さらに、「弟」幸村のその後の14年にわたる九度山(くどやま、和歌山県九度山町)時代、「兄」信之は、徳川系の真田の女性も総動員して、物心両面で、この「弟」幸村を援助し続けた。立場こそ違え、2人は、基本的には「仲良し兄弟」だったのだ。 兄弟の父、昌幸は、あの豊臣秀吉をして「表裏比興の者」(=どっちが表でどっちか裏か分からん男)と言わしめたほどの、油断のならない謀略家だった。そうしなければ、信濃の、あの狭隘(きょうあい=狭い)な山里で、いくつもの大勢力を相手に生き延びることはできなかった。 昌幸はそんな日々を暮らすうち、持ち前の「時代の先を読む鋭い嗅覚」で、「これからの日本は家康」と見切ったときがあったのではないかと私は思う。家名存続のために、昌幸が「嫡男を徳川に」と決めたのはその時だったのだ。同時に、万一の場合に備えて、西軍にも保険をかけた。幸村の妻に石田三成の大親友、大谷吉継の娘を選んだ。あの昌幸のことだ。息子たちの配偶者に、それぞれ両軍の大幹部の娘を選んだのは「偶然」ではなかった(とも私は思う)。 しかし、そんな謀略の大家、昌幸も人の親だった。自分にとっての「初めての子供」でありながら、物心(ものごころ)つくまで自分の出生の秘密も知らず、日々、けなげに育つ源次郎(幸村)を見て、いつもふびんに思っていた。「この子は離さない。この子とは、一生、一緒だ。この子は俺が守る」と誓う。 関ヶ原の戦いで、どうして、「信之が東軍に、幸村と昌幸が西軍に分かれたのか」という疑問は、これで氷解である。 と、ここまで書くと、もう1つの疑問、昌幸の妻が九度山行きの夫に同行しなかった理由は改めて記すまでもない。他の女性に子供を産ませた夫と、「その女の子供」と暮らすよりは、「自分が腹を痛めた子のそばで」と考えるのは、自然だろうから。まつだいら・さだとも 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」「NHKスペシャル」などを担当。現在、京都造形芸術大学教授、東京芸術学舎教授などを務める。昨年、TBS系ドラマ『下町ロケット』のナレーションで注目された。著書に『松平定知朗読「サライ」が選んだ名作集』(小学館)、『謀る力』(小学館新書)など。

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    敗者の選択を描く三谷幸喜 「真田丸」は先が見えない現代と重なる

    と母・薫(高畑淳子)の次男として生まれた、信繁は兄の信幸(大泉洋)とともに、真田家の生き残りをかけて戦国時代を生き抜こうとしていた。 真田家はもともと、昌幸の先代の幸綱が武田家に仕えていた。昌幸の代になって真田家を最初に襲った危機は、その武田家の滅亡である。 武田信玄なきあと、息子の勝頼(平岳大)があとを継いだが、義弟が織田信長(吉田鋼太郎)側についた裏切りによって、窮地に陥る。 昌幸(草刈正雄)は勝頼に対して、自らが本拠を置く上野(こうずけ)・吾妻(あがつま)軍の山城にいったんは引いて、態勢を整えて反撃にでることを進言する。しかし、勝頼は別の家臣の岩殿城に撤退することを決断する。 それでも、昌幸は次のように言上する。 「われらからも御屋形様にはなむけを差し上げます。御屋形様のお手勢百、岩殿へお連れください」 自らの手勢を割いてまで、勝頼に忠心を尽くした結果、真田家の人々は、本拠地に撤退する道すがら、野盗と化した百姓に襲われることになる。 「敗者に惹かれるといいましたが、『滅びの美学』は好きではありません。信繁は、死に花をさかせるためではなく、あくまでも勝つつもりで大阪城に入ったと思いたい」と、三谷はいう。 真田家の前には、幾つもの分かれ道が待ち受けている。「関ケ原」の戦の前には、佐野の犬伏の地で、父親の昌幸(草刈正雄)と兄の信幸(大泉洋)、信繁(堺雅人)が会談して、昌幸と信繁は石田三成方に、信幸は家康方につくことを決める。時代の流れと大河人気の相関関係 映画などで「三谷組」と呼ばれる、常連の俳優たちが脇を固めているのも、ドラマの展開を三谷らしい自由自在にしていくことだろう。 昌幸(草刈正雄)と敵対する武将の室賀正武に西村雅彦が、秀吉の正室・寧(ねい)に鈴木京香が配されている。 信繁の兄として物語のなかで存在感を示す、信幸役の大泉洋は、映画「清須会議」(2013年)で秀吉を演じた。同じ映画で、丹羽長秀を演じた、小日向文世は今回、秀吉である。NHK大河ドラマ「真田丸」の一場面。徳川勢に見つかりあわてる信繁(堺雅人) 喜劇作家としてみられる三谷であるが、その作品はユーモアの味付けが少々加えられているとはいえ、人間の権力欲や所有欲、愛欲など逃れられない「業(ごう)」に切り込む作家である、と思う。 「ザ・マジックアワー」(2008年)は、太陽が沈む刹那の残光のなかに照らし出される美しい風景が現れる時間を、人生に重ねている。劇中劇ともいえる古い映画のなかで、主役を演じた柳澤眞一が、いまでは老人となってコマーシャルの登場人物となっている。それでも、また主役を演じる夢を抱いている。 夢見ることは、美しい。そんなマジックアワーのセットのライティングは、物語のすべてを現しているようである。時代の流れと大河人気の相関関係 大河ドラマは、制作者の意図を超えて時代の象徴となる。逆に、時代の流れと異なるときには、あまり話題にならない。 前作「花燃ゆ」の視聴率の低迷は、主役の井上真央のせいではない。司馬遼太郎がいう「坂の上の雲」を目指した明治維新の時代相は、現代と不具合をきたしている。 「賊軍の昭和史」(2015年、半藤一利・保阪正康)が話題になったように、維新を成し遂げた薩長閥が太平洋戦争をはじめ、総理だった鈴木貫太郎らかつての賊軍の出身者が終戦に持ち込んだという、歴史の見直しがなされている。 そして、いま時代はその先行きが、ますます不透明となって読めない。メディアは「老人破たん」を声高に報じるが、その対策は示し得ない。 時代の動向を感じられない劇作家はいない。三谷の「真田丸」は家族が、この時代をいかにして生き抜くか、というテーマが底に流れているようにみえる。

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    家康の野望に智謀で挑んだ 真田信繁が戦いを求めた理由

    童門冬二(作家)「真田信繁(幸村)は死に場所を求めて大坂の陣に臨んだ」…。時にそう語られることがあるが、果たして事実か? 温和で誰からも愛された真田の次男坊は、武田信玄を敬慕する父・昌幸の領民を守る姿勢と、大敵相手に智謀で挑む姿から、「真田の戦い方」を学ぶ。そして、大戦を望む家康の言いがかりに窮した豊臣家が助けを求めてきた時、信繁は迷わず起ち上がるのだった。真田昌幸が敬慕した信玄と典厩信繁 真田といえば真田幸村、真田十勇士を連想される方も少なくないことでしょう。かく言う私も、長野県上田市の観光大使を務めており、大使名は十勇士の一人、根津甚八です。 ところが人口に膾炙する幸村という名は、戦国期の史料で確認できず、代わりに真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。最近は歴史研究の場に留まらず、真田信繁の名が一般に浸透し始めており、今年の大河ドラマ「真田丸」でも、主人公の名は信繁にしているそうです。信繁がなぜ幸村と呼ばれるようになったのかについては別稿に譲りますが、信繁という名は、真田氏と武田氏の深い結びつきを象徴するものと私は考えます。 信州小県(現在の上田市周辺)の真田氏が甲斐の武田信玄に臣従するのは、信繁の祖父・幸隆(幸綱)の時のこと。実は幸隆は信玄の父・信虎らによって小県を奪われており、流浪後、信虎を追放した息子・信玄に仕えて、旧領回復の悲願を実現しました。武田の躍進を智謀で助けた幸隆は信玄から重用され、息子たちも武田に仕えます。その中の一人が信繁の父となる昌幸で、幸隆の三男でした。信玄は若い昌幸を人質ではなく、近習として用い、いわば将来の武田を支える「幹部候補生」として自分の側近くに仕えさせたのです。 名将と呼ばれる信玄の政治手腕や軍事における采配を間近で目にしながら、昌幸は多くのことを学びました。とりわけ信玄の領民の生活を守る姿勢、一種の「王道政治」の理念に深く感銘を覚えたことでしょう。 たとえば隣国信濃への進攻について、信濃の豪族たちにすれば武田の侵略ですが、当時の信濃は守護職の小笠原氏が力を失い、豪族たちが勢力争いに明け暮れていて、信濃の領民たちにすれば落ち着いた生活は望めませんでした。むしろ武田の支配下に入り、統治が安定した方が領民にすれば助かるのです。実際、信玄は信濃の大部分を勢力下に置き、さらに信濃守護職にも任じられますが、その背景には領民の支持がありました。つまり円滑な統治の基本は、民の生活を常に守る姿勢にあり、統治者とは「護民官」でなければならないという理を、昌幸は信玄から学ぶのです。真田信繁の目を開かせた人質生活 また、そんな信玄を助け、新たな支配地の人心掌握に尽力したのが、武田の副将にして信玄の弟、武田典厩信繁でした。典厩は99カ条の家訓を残していますが、そこには慈悲の心の大切さも説かれています。つまり信玄と同じ考え方に立って、「護民官」としての兄を支えていたことが窺えるのです。 後世、「まことの武将」と称えられた典厩は、第4次川中島合戦で自ら上杉軍への盾となり、信玄を守って討死。その合戦が初陣であったという昌幸は、命を捨てて兄のために働いた典厩の姿に、武将としての理想像を見出し、その生き方にあやかる意味で、己の次男に信繁と名付けたのではなかったでしょうか。ちなみに真田信繁の誕生は典厩の死から6年後の、永禄10年(1567)のことでした(異説あり)。そして、「統治者は護民官であれ」という信玄の姿勢は、その後の昌幸や信繁らの生き方にも大きな影響を与えることになります。真田信繁の目を開かせた人質生活 人質の身から信玄に見込まれて重臣に引き上げられた昌幸は、信玄を主君として敬愛し、戦国最強を謳われた武田家を支えることに誇りを抱きました。さらに息子の信繁の代になると、武田家に仕えて3代目となり、もはや新参者というコンプレックスはなく、代々の武田家臣の一人という意識であったでしょう。 しかし、さしもの武田家も天正10年(1582)に滅亡します。時に信繁は16歳。主家を失った真田家は、北条・徳川・上杉という大勢力に囲まれる中、昌幸は三者の間を巧みに泳ぎつつ、一大名として独立を図ります。いずれかの家臣になってしまえば楽だったかもしれませんが、昌幸はそうしませんでした。そこには信玄に仕えた武田重臣としての誇りと、父・幸隆が血のにじむ思いで奪還した信州小県から上州に及ぶ支配地への愛情、そして領民を自ら守り抜くという信玄が示した「護民官」としての意識があったはずです。 そんな昌幸に「表裏比興(ひきょう)の者」といった批評が浴びせられることもありましたが、昌幸にすれば笑止千万でした。小勢力が大勢力に呑み込まれずに対峙するには、手段を選ばず、時に相手を手玉に取るほどの智謀を用いなければ、到底叶うものではないからです。とはいえ信玄の姿勢を範とする昌幸は、後ろ暗い策謀には手を染めていません。状況判断に基づき的確に手を打つことで、大勢力を相手にキャスティングボートを握ってのけるのです。 一方、次男の信繁は、真田の誇りを賭けて肚を据えた父の姿を眺めつつ、昌幸の手駒として、越後の上杉家、次いで大坂の羽柴家( 豊臣家)に人質として出向きました。人質である以上、信繁も多くの苦労を重ねたのでしょうが、信繁の面白いところはそれをあまり感じさせず、むしろ朗らかに、自分にとってのプラスの機会に転じたと思える点でしょう。大乱を策す家康に、真田の兵法で挑む 兄の真田信幸(信之)は信繁を「物ごと柔和忍辱にして強からず。言葉少なにして、怒り腹立つことなかりし」と評しています。人当たりが柔らかく、温和な印象を与える人柄であったことが窺えます。そのためか信繁は、人質として赴むいた先で厚遇されました。越後では上杉景勝から1000貫の扶持を与えられ、大坂では豊臣秀吉の勧めで豊臣家重臣の大谷刑部吉継の娘(一説に養女)を娶るのです。もちろんそこには、真田家を陣営に取り込もうとするそれぞれの思惑があったのでしょうが、信繁自身のキャラクターも大きく影響していたのではと思わずにはいられません。 また信繁は、上杉家では景勝や執政の直江兼続と接し、豊臣家では奉行衆の石田三成や大谷吉継らと親しく交わりました。彼らから学んだことも少なくなかったでしょう。 特に豊臣家においては、重視されるのは家柄ではなく、実力です。その点、信繁は何のコンプレックスも抱かずに、小姓として励むことができました。さらに、天下統一に向かう秀吉を実務面で支える三成や吉継が、何を拠り所どころに働いているのかを知ったことも、信繁の目を大きく開かせたかもしれません。彼らが目指しているのは、乱世を終息させる統一政権の確立でした。そこにあるのは私利私欲ではなく、戦乱をなくすことで日の本の民が安穏に生活できるようにし、それによって国を富ませる志なのです。まさに父・昌幸が信玄から学んだ、「統治者は領民の生活を守る護民官であれ」に通じるものでした。そしてこれらをきっかけに、信繁は真田家を外から客観的に眺め、改めて昌幸が守る真田の誇りの本質が「護民」にあることを再確認したのかもしれません。なお、岳父となる大谷吉継は優れた官僚ですが、同時に秀吉が「百万の軍配を預けてみたい」と評するほどの将器の持ち主でした。信繁が軍略の面でも、吉継から多くを学んだ可能性は十分にあるでしょう。大乱を策す家康に、真田の兵法で挑む 「真田信繁は死に場所を求めて、大坂夏の陣に臨んだ」と時に語られることがありますが、私は信繁を悲愴感に満ちた、悲劇の将だとは全く思いません。むしろ彼には天性の明るさがあり、どんな時でも顔を上げて口笛を吹いているような、不思議な陽性を感じます。 慶長5年(1600)の関ケ原合戦前夜、真田昌幸は家を2つに割る決断を下します。すなわち昌幸と次男の信繁は西軍に、長男の信幸は東軍につくという選択でした。信幸は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を正室にし、一方の信繁は大谷吉継の娘を正室にしていたことからの苦渋の決断とされますが、「たとえどちらが勝っても、我らの本領と領民は真田の手で守る」という、昌幸の固い決意の表われと受け取ることもできるのかもしれません。また信繁にすれば、大坂で三成や吉継が私心なく尽力しているのを見ているだけに、統一政権をあえて崩壊させようとする徳川家康の私欲に与することは、望まなかったでしょう。最後の大戦の場で、鉄槌を下す そして昌幸・信繁父子は上田城に拠り、徳川秀忠の大軍を迎え撃って散々に翻弄しますが、関ケ原では西軍が敗れ、三成も吉継も落命します。昌幸・信繁父子は処刑されるところ、死一等を減じられて高野山に配流となりました。父子にすれば「上田城では勝っていた」という無念の思いはあったでしょうが、目論見通り、昌幸の支配地を信幸が代わって治めることになり、領民を真田が守ることができたのはせめてもの救いだったはずです。 父子はほどなく高野山から麓の九度山に移り蟄居生活を続け、11年後の慶長16年(1611)、昌幸は65年の波乱の生涯を終えました。信繁のもとに豊臣家が大坂入城を要請してきたのは、それから3年後のことです。 さて、信繁は何のために大坂の陣を戦ったのでしょうか。前述したように、単に死に場所を求めたという見方は、私は賛同できません。たとえば信繁は、生前の父・昌幸とともに、遠からず徳川と豊臣は手切れとなると読み、高野山の玄関口である九度山を情報収集に活用したといいます。また情報を集めるべく活躍した忍びたちが、真田十勇士のモデルになったとも…。つまり信繁は、やる気満々だったのです。では、何のために戦うのか。 父・昌幸の場合は真田家当主として、領民を自ら守ることに戦う意味を見出していました。しかし信繁は当主ではなく、領民を守る「護民官」としての役目は、兄・信幸(信之)が果たしてくれています。つまり立場的に信繁はフリーでした。そこへ徳川家康が、かつての信繁の主家・豊臣家に言いがかりをつけ、大戦を引き起こそうと画策し、豊臣家が助けを求めて来た。ならば、これに応えるのが武士ではないのか…。そう考えても不思議ではありません。また信繁にすれば、かつて関ケ原合戦を引き起こして、三成や吉継が支えた統一政権を壊した家康への憤りと、不遇のまま配流先で没した父への思いもあったことでしょう。そして「またも私欲で大乱を策す家康に、戦場でただの一度も徳川に後れを取ったことのない真田の兵法のすべてをもって挑み、天下万民が注目する最後の大戦の場で、鉄槌を下す」ことを期したのではないでしょうか。 もちろんこれはあくまで私の推測であり、信繁自身の真意が奈辺にあったのかはわかりません。しかし、だからこそ後世の私たちは、家康を討ち取る寸前まで追い詰めた信繁に、さまざまな思いや夢を仮託して、人物像を思い描くことができるのでしょう。いわば一人ひとりが、それぞれの信繁像を抱いているといっても過言ではないのです。そんな懐の深さを持つ人物は、日本史上でも稀有であり、それがまた、真田信繁が現在でもまばゆい輝きを放ち続けている所以ではないでしょうか。関連記事■ 真田信繁は何のために戦ったのか■ 幸隆、昌幸…この父子なくして「真田幸村」の活躍はなかった■ 真田昌幸・信繁父子は信長と対面したか

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    最高視聴率の大河脚本書いたジェームス三木が『真田丸』を語る

     平均視聴率39%超。いまだ破られていないNHK大河ドラマの金字塔『独眼竜政宗』(1987年)や、『八代将軍吉宗』(1995年)、『葵 徳川三代』(2000年)の脚本を書いたジェームス三木さんは、現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』について、こんな独特な言い回しで絶賛する。 「ぼくは面白いかどうか、そういう見方は商売敵だから、しないんです。だって、面白いと、悔しいし、腹立たしいですから。逆につまらなかったら、まったく見ません。『真田丸』はまぁ、毎回必ず見ていますよ(笑い)」脚本家のジェームス三木さん ジェームスさんが最後に大河ドラマの脚本を手掛けた『葵 徳川三代』から15年、『真田丸』は、かつての大河とは隔世の感があるという。 「昔の言葉遣いとか立ち居振る舞い、礼儀作法を(脚本家の)三谷幸喜さんは、あまり気にしていないように感じます。ぼくなんかの時は、時代考証の先生がついて、廊下の歩き方から目配りの仕方や刀の差し方まで脚本も演出も事細かく直されました。『とんでもございません』というせりふはあり得なくて、『とんでもないことでございます』が正しいとか、随分と叩き込まれてね。 それは大河ドラマを見ている視聴者がそういう古い『時代劇らしさ』を求めていた部分も大きかったと思うんですが、今はそういうお年寄りも少なくなったんでしょう。それに詰まるところ、何が事実かなんて、実際に見た人は誰一人いないわけですから(笑い)」 『真田丸』では確かに、武将同士が道や廊下を歩きながらしゃべったり、家来が主君に質問をするなど、ジェームスさんが言う「かつてはあり得なかった場面」がポンポンと出てくる。そういう意味で『真田丸』は、斬新な大河ドラマといえそうだ。関連記事■ 武井咲 11本のCMに出演する17歳美少女のミニスカナマ脚■ 柴咲コウ主演「女ばかりの大河ドラマ」に惨敗ドラマとの共通点■ 剛力彩芽が走る、走る! 19歳の疾走シーンを独占撮り下ろし■ 金網越しに見た剛力彩芽を撮影 近くて遠い距離がもどかしい■ 剛力彩芽独占撮り下ろし こちらをじっと見つめる瞳が眩しい

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    知将・昌幸をうならせる 真田家の運命を左右した女

    濱口和久(拓殖大学日本文化研究所客員教授) 徳川四天王の1人、本多忠勝(ただかつ)の血を引く小松姫は、徳川家康の養女となって、天正14(1586)年、沼田城(群馬県沼田市)の主(あるじ)、真田信之に嫁いだ。このとき、信之は21歳、小松姫は14歳であった。沼田城本丸跡に建つ鐘楼(提供写真) 結婚後の夫婦仲はいたって良好で、小松姫は長女、まんを筆頭に、長男、信政(のぶまさ)、次男、信重(のぶしげ)、次女、まさの2男2女を儲(もう)ける。 真田氏といえば、徳川氏を3度(第1次上田合戦、第2次上田合戦、大坂夏の陣)にわたって痛めつけたことで有名だ。それが、徳川の治世に、明治維新まで大名として生き残れたのは、小松姫の存在が大きかった。 小松姫の婿選びには逸話がある。小松姫が、徳川家康の前に居並ぶ若武者たちの髷(まげ)をつかんで次々と顔をのぞいていくなか、信之は「御免」と鉄扇(てっせん)で小松姫の手を払いのけた。毅然とした信之の態度に、小松姫は惹(ひ)かれたというものだ。 実際は、天正13(85)年の第1次上田合戦の後、徳川氏と真田氏を仲裁した豊臣秀吉の斡旋(あっせん)によるといわれている。同じ年、信之の弟、幸村(ゆきむら)も秀吉の寵臣(ちょうしん)、大谷吉継(よしつぐ)の娘、お利世を娶(めと)った。 時代が流れ、真田氏の運命を左右するときがきた。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦だ。 合戦53日前の7月21日、犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)に布陣していた真田昌幸(まさゆき)・幸村父子のもとに、石田三成から挙兵を知らせる密書が届く。昌幸は宇都宮(栃木県宇都宮市)に布陣していた信之を呼び寄せると、取るべき道を話し合う。 結果、3人は敵味方に分かれて、妻の実家に味方することを決める。昌幸、幸村は豊臣方(西軍)、信之は徳川方(東軍)となり、袂(たもと)を分けることになった。これが「犬伏の別れ」といわれるものだ。 ちなみに昌幸の妻は、三成の妻と姉妹であったとされる。真田氏にとっては、どちらが勝っても真田の血が絶えないための行動であった。 昌幸・幸村父子は、籠城戦に備え、犬伏から真田氏の居城である上田城(長野県上田市)に馬を走らせた。途中、孫の顔を見たいと思った昌幸は、小松姫が留守を預かる沼田城に立ち寄った。 親子で敵味方に分かれたとはいえ、昌幸は義父に対しては、城門を開けてくれるだろうと思っていた。しかし、小松姫は絶対に城門を開けようとはしなかった。「血脈は安泰」義父・昌幸を感嘆させる城門開けず義父・昌幸を感嘆させる 真田昌幸(まさゆき)・幸村(ゆきむら)父子が、沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄った際、「孫の顔を一目見たい」と昌幸が懇願したのに対し、夫の信之(のぶゆき)に代わって留守を預かる小松姫が城門を開けなかったのには訳がある。 信之は、犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)での密議の後、父、昌幸が上田城(長野県上田市)に戻る途中、沼田城に立ち寄ることを予測した。早馬を走らせ、敵対関係になったことを、小松姫に知らせていたのだ。 小松姫は城内から、昌幸に向かって次のように大声で叫んだという。 「父君の名を騙(かた)る不埒(ふらち)な奴。われは女なれど、沼田城主、真田信之の妻であり、徳川四天王の1人、本多忠勝(ただかつ)の娘である。全員を捕らえて首を取るぞ」 このとき、昌幸は、小松姫の堂々たる姿に驚嘆した。小松姫の態度は、あくまでも真田氏が敵味方に分かれたことを、沼田城を守る家臣らに認識させるためであった。小松姫はひそかに城近くの正覚寺に昌幸・幸村父子を案内し、温かく酒や料理を出してもてなし、孫たちを昌幸に会わせた。 翌朝、昌幸は「さすが本多の娘よ。これで真田の血脈は安泰ぞ」と幸村にいい、上田城への道を急いだ。沼田城跡 昌幸・幸村父子は、上田城で徳川秀忠(ひでただ)の軍を遅滞させ、関ヶ原に遅参させたが、徳川方(東軍)が勝利したことにより、信之は沼田と上田の領地を安堵(あんど)されたが、昌幸・幸村父子は捕えられた。 信之は徳川氏への忠誠を誓って、命懸けで助命嘆願をし、小松姫も実父、忠勝を通じて家康に働きかけた。結果、命だけは助けられ、高野山に流罪となる。すると、小松姫は、昌幸・幸村父子のもとに金子(きんす)や信州の名産品を送り、暮らしを助けた。 慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、昌幸は亡くなっていたが、幸村は高野山を抜け出して大坂方に加わる。再び真田氏は東西に分かれて戦う。 小松姫は、病で出陣できない信之に代わり、長男の信政(のぶまさ)、次男の信重(のぶしげ)を出陣させた。翌年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、幸村は壮絶な死を遂げる。 その後も、小松姫は真田氏の家名を守るために信之を支え続け、元和6(1620)年、48歳で亡くなった。信之は「わが家の灯りが消えた」と嘆いたという。ちなみに信之は、小松姫のおよそ倍の93歳まで生きた。はまぐち・かずひさ 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事などを務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)などがある。

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    真田信之は「縁の下の力持ち」 お家を存続させた高い手腕

     父・真田昌幸と、弟・信繁(幸村)に比べて、真田信之(のぶゆき)はやや影が薄い。しかし、危うい立場の真田家を存続させる難しい役回りを演じ切った信之の手腕は父・昌幸にも劣らない。彼は地味ながら厄介事をすべて引き受けた縁の下の力持ちなのである。 関ヶ原の戦いで信之は東軍についたが、父と弟は、徳川秀忠率いる3万人の大軍を足止めし、関ヶ原本戦に遅陣させるという大活躍をした。つまり、徳川家にとっては憎んでも憎みきれないのが真田である。そこで家康・秀忠親子にみじんも疑われる余地のないように忠誠を尽くしている。父と弟が流刑となると、真田嫡流が受け継ぐ「幸」の字を捨て、名の「信幸」を「信之」に改めて自責の念を表明。それが功を奏したか、切腹の決まっていた父と弟の配流への減刑をも勝ち取っている。 大坂の陣では、弟の信繁が豊臣方として参戦し、獅子奮迅の活躍を見せて討死した。信之自身は病で出陣しなかったため、弟と一戦交えずに済んだのは不幸中の幸いだったろう。やがて家康の死後、真田家に強い恨みをもつ秀忠が将軍を継ぎ、信之の立場は不安定になる。ついには上田から松代に移封を命じられた。表向きは加増なのだが、これは事実上、秀忠の嫌がらせといっていい。 信之も不服だったようで、重要書類をすべて焼き捨て、上田城の樹木や燈篭(とうろう)をすべて持ち去ったという。とはいえ、秀忠が逆らう大名たちを大量に改易に追い込んだことを思えば、その口実を与えなかった信之の政治的手腕は見事だ。 松代移封後は、城下町の整備や新田開発に勤しみ、家督を二男・信政に譲ったのは1656年のこと。91歳となっていた信之は、隠居生活に入るが、その心は休まることはなかった。 信政は61歳の高齢で、2年後に逝去。六男・幸道を後継とする遺書を残すが、幸道はまだ2歳だったため、飛び地となっていた沼田領を納めていた長男の子・信利が介入し、お家騒動が勃発する。信利が老中・酒井忠清に働きかけて藩主に収まろうとしたのだ。御家騒動は取りつぶしの口実になりかねないと危機感を抱いた信之が収拾に乗り出し、幸道を正式に3代藩主とすることでことを収めた。 お家騒動から2年後、当時としては異例ともいえる93歳で信之は世を去る。真田家を存続するために損な役回りを務めねばならなかったが、彼の辣腕(らつわん)ぶりはもっと評価されていい。後に石田三成の書状など、真田にとって不利な書面が真田家に保存されていたことが判明した。やはり本心では信之も徳川が嫌いだったのだろう。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

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    「日本一の兵」真田三代の鬼謀

    大坂の陣の活躍で「日本一の兵(つわもの)」と称えられた真田信繁。信繁の活躍の裏には小領主から身を起こし、実力者たちを翻弄し続けてきた祖父や父から受け継いだ戦国最強の智謀があった。乱世を行き抜いた信繁、昌幸、幸隆と真田家三代の血筋を遡る。