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    獰猛徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略

    工藤章興(作家) 父祖伝来の地は渡さぬ!真田昌幸、獰猛徳川勢を迎え撃つ 「徳川勢など何万騎押し寄せようと恐れるに足りず。家康は三方ケ原で大屋形様(信玄)に散々に打ち破られ、恐ろしさの余り、逃げ帰る馬上で糞を垂らした男ぞ」。不敵な相貌の昌幸が吠えると、将兵らがどっと沸わいた。  天正13年(1585)閏8月、徳川の精兵7000の侵攻に、上田城に拠る真田は2000。しかし、上田城と城下には、恐るべき仕掛けが幾重にも施されていた。 徳川勢、恐れるに足りず 「いかに徳川中納言(家康)といえども、理不尽極きわまりない命令じゃ。武威を恐れて泣き寝入りしては、真田の弓矢がすたる」  天正13年(1585)初秋。残暑に包まれた上田城。真田昌幸が一族と老臣を集めて評議している。天正壬午の乱のおり、家康と北条氏政・氏直父子が講和・同盟した結果、上野は北条氏が領することになり、家康は昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すように命じた。それにどう対応するかの最終評議である。 真田家の行き先について思いをはせる真田昌幸 「沼田は中納言から拝領したものではない。真田家が武略をもって切り取った地だ。唯唯諾諾と引き渡すことはできぬ」 「されば、手切れでござるか」 「うむ。引き渡しを拒めば、中納言がこの城へ攻めかけてくるは必定なれば、弓矢、鉄砲をもって会釈するほかあるまい。ついては、汝らの命、わしにくれい」 家康は三河、遠江、駿河 、甲斐、南信濃で約150万石を領する巨大大名だが、決心の臍は鉄石よりも堅く、武力衝突も辞さない覚悟の昌幸の双眸からは、猛禽類のそれに似た勁烈な光が放たれている。 「はっ。一命はもとより、すべて殿の思し召しのままに」 首を横に振る者は皆無だった。主従、決死の覚悟である。 「徳川勢が何万騎押し寄せようとも、恐れるに足りずじゃ。中納言は三方ケ原で大御屋形様(武田信玄)に完膚なきまでに叩かれ、命からがら遁走する途中、恐怖のあまり馬上で脱糞した男ぞ」  昌幸の相貌に不敵な笑みが浮かんだ。家康との一戦は、長篠設楽原の戦いで討死にした長兄・信綱と次兄・昌輝の弔い合戦でもあり、闘魂はいやがうえにも燃え上がる。  しかも戦国最強武将の信玄に近侍してその戦略・戦術を余すところなく学び、自家薬籠中のものにしている昌幸は、坐して徳川軍の来攻を待っているような凡将ではなかった。  天正壬午の乱後に北信濃にまで勢力圏を拡大していた越後の上杉景勝に次男の信繁(幸村)を人質として差し出し、盟約を結んで加勢を依頼するとともに、家康を膝下に組み伏せての覇権奪取を目論む羽柴秀吉とも誼みを通じるべく書状を送る算段を整えた。稀世の智謀の将ならではの外交戦略である。 上田城 一方の家康は、案の定、沼田領引き渡しの峻拒と景勝への鞍替えに激怒し、上田城攻めの軍勢を催した。  鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世 、柴田康忠らの三河譜代衆に松平康国、諏訪頼忠、保科正直、小笠原信嶺ほかの信濃諸将、三枝昌吉や武川衆らの武田遺臣からなる派遣軍は総勢およそ7000(実数は10000以上?)を数える。  徳川勢雷発の飛報に接した上田城では迎撃準備が急がれる。支城の戸石城には嫡男の信幸以下800を入れ、矢沢城には従弟の矢沢頼康、丸子城には丸子三左衛門を配し、昌幸は400の将士とともに上田城に籠もった。だが、動員できた兵力は徳川勢の3割にも満たない2000ほどでしかない。  そこで、寡兵で大兵を邀撃する一策として、徳川勢の突撃路になると予想される染谷筋(大手筋)の所々に深さ1間(約1.8メートル)、幅1間ほどの堀切を掘り、あちこちに千鳥掛(互い違い)に結い上げた柵を設けた。  かくて迎えた閏8月1日、北国街道を進軍して信濃へ攻め込んだ徳川勢は千曲川南岸に台地をなす八重原に着陣。翌2日、千曲川を大屋付近で渡って神川東岸の蒼久保に進出。小休止する間に神川の浅瀬を探し、一気に押し渡るべく水飛沫を跳ね上げはじめた。決戦!上田合戦(神川の戦い)決戦!上田合戦(神川の戦い)  神川の西岸には、昌幸の密命を帯びた常田出羽と高槻備中が率いる前衛部隊200が邀撃態勢を整えている。だが、1発の銃弾も1本の矢も放たない。徳川勢の先鋒部隊が西岸に達した。それでも抵抗することなく、じりじりと後ずさる。その間にも後続兵は神川を押し渡り、ついに大半が無傷で渡河を終えた。  直後、頃合を見計らっていた常田と高槻が大音声を張り上げる。 「今だ。撃て!」  満を持して待機していた真田勢の鉄砲が一斉に轟発した。徳川勢もすかさず銃撃で反撃すると同時に、敵は寡兵と見て遮二無二突進しはじめた。堀切も柵も無視しての突撃だ。  数を恃んでの大攻勢の前に、真田勢は負け色を見せて弱々しく引き退しりぞく。 「敵は怯ひるんだ。一気に押し崩せ!」  侍大将が叫び、嵩にかかって攻め立てる徳川勢。真田勢はしかし、ずるずるとは退かない。敵が近づけば踵を返して鉄砲を撃ちかけ、逃げては返し、返しては逃げてという繰り引きで城近くまで後退したあと、こらえかねた体で横曲輪へ引き入った。  昌幸が常田と高槻に命じていた巧みな誘引策であり、前衛部隊は囮部隊だったのだが、寄せ手は気づきもしない。  鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らの歴戦の勇将すらまんまと欺むかれ、ここを先途とばかりに大声で下知を飛ばす。 「城は無勢ぞ。付け入れ!」  吶喊。徳川勢が獰猛な四足獣の咆哮にも似た雄叫けびをあげて城際へ押し寄せ、我先にと乗り入れを競う。  迎え撃つ昌幸の雄姿は、上田城の本丸大手門近くの櫓にある。徳川勢が城際に迫っても、胆の巨きさが並みではない昌幸はいささかも動じる風はない。それどころか、甲冑も着さず、六連銭の旗を吹きなびかせた傍らで、禰津利直を相手に悠然と囲い碁を打っていた。  家臣が数度にわたって注進におよぶが、泰然自若として動かず、短切に返すだけだ。 「敵来たらば斬れ、斬れ」  徳川勢が二の丸まで突入してくるのを待っているのだ。  上田城は、東を向いた大手口から直線的に三の丸、二の丸、本丸と門がつづいており、攻撃する際に正面から突入したくなるような縄張りになっている。本丸に兵力を集中し、狭隘な二の丸へ殺到してくる敵勢を邀撃することで相当の犠牲を強いることができるだけでなく、敵の後続部隊がひしめき合って押し出してくるので、前衛部隊は逃げ場がなくなり大混乱に陥るのは必至、という構造だ。  昌幸はそこに罠を仕かけた。  真田勢の囮部隊に誘引された徳川勢は、三の丸橋と二の丸橋を突破して二の丸へ雪崩れ込んだ。その間、真田勢のとかくの反撃はない。徳川勢は城中の兵が少ないからだと侮り、どっと鬨の声をあげて本丸へ迫り、我先にと大手門に取りついた。  それを待っていたかのように、昌幸に近侍する参謀格の来福寺左京が声をかける。 「殿、時分はようござりますぞ」  うむ、とうなずいた昌幸が、碁盤上の石を突き崩してすっくと立ち上がったと思うや、鉄板をも射抜かんばかりの鋭い眼光を放って音声で命じる。 「太鼓だ、鉦だ。貝を吹け!」  太鼓と鉦が乱打され、法螺貝の吹鳴音が響き渡るや、天地をどよもす鯨波があがり、静まり返っていた真田勢の反撃が開始された。  門や塀の上、矢狭間、鉄砲狭間から銃弾と矢を雨注させる。石礫を打つ。かねて用意しておいた丸太や大石を投げ落とし、沸騰した油を降り注がせる。  攻撃しているのは軍兵だけではない。猟師は鳥銃をぶっ放し、農民や町人は石礫を投じ、丸太や大石を運び、女子供は油を沸かすなどの雑用に汗を流している。 「我らが城下に住まう者は百姓であれ町人であれ、皆、わが子も同様じゃ。妻子を引き連れて籠城せよ」 昌幸は徳川勢が来攻する前に城下に触れを出し、希望者の入城を許していた。領民はその仁愛に応えるべく、徳川勢への攻撃に加わったのである。 みすみす罠に嵌まって二の丸へ殺到した徳川勢は、昌幸の目算どおり、大混乱状態に陥った。真田昌幸の智謀と底知れぬ胆力真田昌幸の智謀と底知れぬ胆力  突出攻撃の機をうかがっていた昌幸が馬に打ち跨って命じる。 「門を開け!」  大手門が内側から開かれる。 「突っ込むぞ。者ども、わしにつづけ!」  槍をしごいた昌幸が馬腹に強い蹴りを入れ、先頭切って突いて出た。旗本勢も後れをとってはならじと先を争い、剣戟刀杖をきらめかせて駆けだしていく。  時を移さず、横曲輪へ一旦撤退していた常田と高槻が率いる部隊も横槍に突きかかり、町家に火を放った。放火も昌幸の命令だった。町人は事前に避難させており、無住となっている町家に次々と松明を投げ込んでいく。折から、強風が吹き荒れており、紅蓮の火炎は渦を巻いてたちまち四方に飛び散り、朦々たる黒煙が城下を覆い尽くす。  さらに、昌幸が四方の山や谷に埋伏させていた領民3000余が、城内で乱打される陣太鼓の音を合図に紙旗を押し立てて群がり起こり、徳川勢の側背へ襲いかかった。城内へ入った領民と同じく、昌幸の仁慈に報いての合力であり、鳥銃を放ち、石礫を投げつける。農民は鎌や鍬を、町人は竹槍や棍棒を手にして徳川勢の撤退路に立ち塞ふさがった。  「敵は小勢ぞ。退くな、退くな!」  進退に窮して思わず立ち往生する徳川勢に向かって、大久保ら寄せ手の諸将が鞍壺を叩いて叱咤激励する。  徳川勢はしかし、千曲川と神川を渡河したため戎衣は水に濡れて重くなり、戦闘能力も低下している。指揮系統も寸断されて陣形を立て直す余裕はなく、浮足立って総崩れになった。しかも堀切に落下し、千鳥掛けの柵にさえぎられ、黒煙に眼路を塞がれて進退はままならず、混乱にますます拍車がかかる。 「追え。後を慕たって皆殺しにしろ!」  真田勢の諸将がここぞとばかりに尾撃を命じる。徳川勢の背後に槍が繰り出され、刀が振り下ろされる。一方的な追撃戦だ。  徳川軍の将士のなかに、踏みとどまる者も踵を返す者もいない。死傷者を続出させながら雪崩を打って潰走し、かろうじて神川の渡河地点まで逃れた。だが、そこに新たな敵勢が出現した。戸石城にあって後巻の機会をうかがっていた信幸麾下800の将兵が、染谷郷から横撃してきたのだ。  真田勢は徳川勢を押し包むように三方から攻撃を加える。神川を渡河するしか逃れる術はない。その神川は数日来の雨で増水して激流と化している。水深を探れば渡河はできるが、真田勢に追い落とされてはそれもままならず、溺れ死ぬ者が続出して勝敗は決した。  徳川勢の戦死者は1300余、溺死者は数知れずで、真田勢の犠牲者はわずか40人ほどだった。  徳川勢の惨敗であり、この合戦に参陣した大久保忠教は、自軍の将たちの不甲斐なさを「悉く腰がぬ(抜)けはて」「ふる(震)ゐまはりて物もゆ(言)はず」「げこ(下戸)にさけ(酒)をし(強)ゐたるふぜい(風情)なれば力もなし」(『三河物語』)と慨歎している。  汚名返上を期す徳川勢は同月20日、丸子城を攻めたが攻略に失敗。その後、家康は井伊直政に5000の兵を預けて上田城再攻撃を命じたが、作戦を発動しないまま対峙していた11月、突然全軍を撤兵させた。  家康の腹心だった石川数正が家康から離叛して大坂城の秀吉のもとへ奔ったため、秀吉との関係が再び緊迫して真田攻めどころではなくなったのだ。  この上田合戦(神川の戦い)で、秀吉ですら苦戦を強いられた徳川軍を寡勢でもって撃砕した昌幸の武名は一躍天下に轟き渡り、独立大名としての地位を確立した。そして、鬼神も三舎を避けるほどの昌幸の智謀と底知れぬ胆力の血譜は、信幸・信繁兄弟に受け継がれていくのである。   くどう・しょうこう 昭和23年(1948)、愛媛県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。新聞社、出版社勤務を経て、執筆活動に入る。著書に『大谷吉継と石田三成』『兼続大戦記』など多数。関連記事■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 武田勝頼の最期と真田昌幸の決断■ 真田昌幸は、上田城をいつ、どのようにして築城したのか?―最新研究で謎を解く!

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    幸隆、昌幸…この父子なくして「真田幸村」の活躍はなかった

    真田丸」時代考証が語る、父子の魅力とは。真田氏への評価は「過小」!? 真田信繁(幸村)をはじめとする戦国時代の信州真田氏といえば、綺羅星の如く居並ぶ戦国武将の中でも、1、2を争う人気を誇ります。しかし、その一方で「真田の活躍の多くは『伝説』に過ぎず、過大評価されているのではないか」という声を耳にすることも少なくありません。真田氏の居城・上田城 しかし、私は2つの点で、そうした論調とは異なる考えを抱いています。 まず、真田氏の活躍は「伝説」に拠るところが多いと捉えられがちですが、彼らは決して史料に乏しい一族ではありません。 真田氏は、独立大名となる前は数カ村単位で地域を支配する「国衆」と呼ばれる存在でした。実は、戦国の国衆の中で圧倒的に史料が残っているのが真田氏であり、むしろ「恵まれている」と言えます。後述しますが、それは信繁の祖父と父にあたる真田幸綱(幸隆)・昌幸父子が、武田信玄・勝頼の右腕として活躍したことと無関係ではないでしょう。 そしてもう1つ、真田氏に対する評価は決して「過大」ではありません。 かく言う私も当初は、実力・実績以上の評価を受けているイメージを抱いていました。しかし、研究を進める過程で、たとえば昌幸がいわゆる「天正壬午の乱」で、北条氏、徳川氏、上杉氏という錚々たる大大名と渡り合った姿に一次史料で触れ、過大評価どころか、むしろ過小評価されているのではないか……。そう考えるようにすらなりました。 ゼロから出発しながらも、智謀を武器に戦国の荒波を潜り抜け、これほどドラマティックに乱世を歩んだ一族は、真田氏を置いて他に存在しません。そして、最初の一歩を踏み出し、文字通り真田躍進の礎を築いたのが幸綱であり、その跡を継ぎ、独立大名としての地位を築いたのが昌幸でした。 真田氏の中では、昌幸の息子で、来年の大河ドラマの主役でもある信繁にばかり目を向けられがちですが、その祖父と父の存在に触れずして信繁を語ることはできません――。「謎」の多い真田氏のルーツ 戦国以前の真田氏については、その発祥は上野国(群馬県)であるという説が一部から提起されるなど、今も多くの謎に包まれています。 清和天皇の子孫を称する名族・滋野一族の海野氏の嫡流ともされますが、近年の研究では完全なる脚色と考えられています。恐らくは真田氏が自称したのでしょうが、これは滋野姓海野氏を名乗ることが豪族を束ねる上で効果的であったからで、当時においては珍しいことではありません。 そんな一族が歴史の表舞台に登場したのが、真田弾正忠幸綱の代でした。 幸綱の誕生は永正10年(1513)ですが、諱(実名)がよく問題にされます。幸綱は、一般的には「幸隆」の名で知られます。確かに、江戸幕府が編纂し、幸綱の孫・信之健在の時代に成立した『寛永諸家系図伝』にも「幸隆」と記録されています。 しかし、一次史料を追うと、壮年期まで「幸隆」と記されたものは皆無です。様々な史料を照らし合わせれば、幸綱は出家を契機として「幸隆」に改名したと考えるのが自然であり、ならば読み方は「こうりゅう」ではないか……。以上が、現時点での私の考えです。幸綱の悲願は「本領回復」父の悲願は「本領回復」 信州小県・真田郷を本拠としていた幸綱ですが、大きな転機が天文10年(1541)の海野平合戦でした。幸綱は村上義清・武田信虎らの連合軍に敗れ、故郷を追われます。 幸綱と村上義清は以前より小競り合いを繰り返していましたが、その上、武田氏まで加われば多勢に無勢、幸綱は上州への亡命を余儀なくされました。「必ずや、故郷を取り返す」。幸綱は心中、断乎たる決意を固めたことでしょう。真田本城跡より この時、幸綱とともに落ち延びたのが、縁戚関係にあったともいう海野氏宗家・海野棟綱の一族で、彼らの多くは関東管領・上杉憲政を頼りました。関東管領といえば当時、トップブランドであり、誰もが「寄らば大樹の陰」と考えたわけです。 しかし、幸綱は異なりました。真田関係の軍記物『加沢記』によれば、幸綱は、 「信州で仄聞していたが、憲政がうつけたる大将だというのは間違いない。いかに関東管領の高位にあるとはいえ、あまりにも事々しい。上杉家は将来が危うく見える」 と冷静に分析し、「恃みにならぬ上杉についても、我らの旧領回復には何の足しにもならない」と早々に見切るのです。そして――幸綱が最終的に身を寄せたのが、甲斐の武田晴信(信玄)でした。幸綱と信玄、運命の出会い 幸綱にとって武田氏は、信虎の代に村上義清とともに自分たちを真田郷から追い払った仇敵に他なりません。 しかし幸綱は、信虎を家中から放逐した信玄が、上杉氏を上回る勢力をもつこと、また真田郷を占拠する村上義清と対立関係に入ったという情報を入手し、幸綱を求める武田氏のヘッドハンティングに応じる決断を下すのです。 私は、この判断に幸綱の「凄み」を感じずにはいられません。 現在に喩えれば、多くが関東管領という大企業にいれば「何とかなる」と思っている中、情報収集能力と分析力を駆使して経営の危うさを見抜き、若手社長率いるライバル企業の一員となって、自らの志を遂げる……。 権威よりも己の考える戦略や戦術、情勢判断を信用したわけですが、この「したたかさ」は、幸綱以降の真田一族にも共通するものです。そして、関東管領上杉氏がほどなく没落し、武田氏が大躍進を遂げたことからも、幸綱の眼力が正しかったことは歴史が証明しているでしょう。 そして幸綱自身も、武田氏躍進の立役者の1人でした。幸綱の活躍といえば、天文20年(1551)の砥石城攻略が挙げられます。砥石城は怨敵・村上義清の拠点であり、信玄でさえ陥とせなかった要害でした。 しかし幸綱は砥石城を独力で攻略してのけ、信玄にその功績を讃えられて、「悲願」の旧領回復を成し遂げます。幸綱の采配ぶりは史料からはなかなか窺えませんが、いずれの文献も「乗っ取る」という表現で記しています。 戦国時代の「乗っ取り」といえば、密かに敵城に近づき、手引きする人間を通じて城中に雪崩れ込み、一気に城を制圧するのが常套手段でした。砥石城の戦いは真田関係の史料にも家臣の戦死の記録がほとんどなく、また、弟・矢沢頼綱が砥石城内にいたことからも、幸綱の戦いぶりがまさにそれであったことが窺えます。 派手な陣頭指揮でなく、まさに孫子の兵法を地で行く、「戦わずして勝利をおさめる」のが幸綱の戦い方であり、だからこそ難攻不落の砥石城を攻略できたのでしょう。 かくして天正2年(1574)にこの世を去るまで、幸綱は武田家を支え続けるのです。転機となった長篠合戦転機となった長篠合戦 幸綱の活躍もあり、真田氏は武田家臣団の中でも極めて特異な存在となります。というのも、外様で真田氏ほど取り立てられた一族は皆無だからです。 幸綱の三男が信玄の母方の大井一族の武藤家に養子入りし、奉行(官僚機構を担う一員)を務めたのも顕著な例といえますが、この三男・武藤喜兵衛こそ、後の真田安房守昌幸でした。 外様で奉行を務めるのは前例のない「快挙」でしたが、これは幸綱の威光のみによるものではないでしょう。昌幸は当初、人質として信玄のもとに送られましたが、信玄の身の回りの世話をする奥近習衆に取り立てられて頭角を現わし、奉行を任されるに至りました。 信玄は昌幸を「武田の宿老分にしたい」とまで語ったといいますが、幼いころから昌幸の将才は抜きん出ていたのです。 昌幸もまた、父・幸綱の智謀を色濃く継ぎつつも、名将・信玄から薫陶を受け、多くを学びました。外交、調略、用兵、作戦立案、軍の編成、実戦指揮……。昌幸にとって信玄の教えは、乱世を生き抜く上での大きな糧となったことでしょう。真田本城跡 そんな昌幸の運命を変えたのが、幸綱が逝去してから1年後に勃発した天正3年(1575)の長篠合戦でした。 昌幸は武藤家の当主として参戦していましたが、真田の家督を継いだ長兄・信綱と次兄・昌輝が奮戦の末に戦死。合戦後、図らずも昌幸が、真田の家を継ぐことになったのです。息子が追いかけた「独立」 真田の当主となった昌幸は、武田勝頼から上野侵攻戦の指揮を一手に任されたこともあり、本領と甲府との行き来で多忙な日々を送るなど、求められる役割も変化しました。 以降、武田家を支える柱石として遺憾なく才能を発揮した昌幸でしたが、織田信長の侵攻を受けて天正10年(1582)、武田家は滅亡。そして本能寺の変での信長横死を受けて惹起したのが、天正壬午の乱です。 旧武田領をめぐり北条氏直、徳川家康、上杉景勝が三つ巴の争奪戦を始め、甲斐・信濃は弱肉強食の時代に逆戻りしました。主家を失った、信濃の小勢力に過ぎない真田氏は、その立場を大いに脅かされることとなります。 昌幸はしかし、幸綱が塗炭の苦しみを経て奪還した真田領の死守はもとより、独立大名の座を勝ち取るべく、北条、徳川、上杉と渡り合っていきました。 その手並みは、戦国史上類を見ないほどの鮮やかさです。 当初、昌幸は上杉に従属しますが、北条軍の信濃侵攻を目前に、北条に鞍替え。ただし、昌幸はこの時、弟・昌春はそのまま上杉に仕えさせています。このあたり、真田ならではの巧みさでしょう。 その後、上杉と北条は川中島で睨み合い、やがて氏直は徳川の侵攻に対応すべく甲斐に転進しますが、昌幸は氏直に「自分が本領に残留して、上杉の追撃を食い止める」と進言、氏直も「土地鑑のある真田に任せれば安心」と怪しむことなく容れました。 しかし実は昌幸は、上杉が新発田重家の存在があるため南下できないと読み、この機に北条と自然な形で距離を置こうと考えたのです。結果、昌幸は北条軍から切り離され、フリーハンドの立ち位置を得るのですが、これが独立への大きなターニングポイントでした。真田の流儀真田の流儀 その後、昌幸は北条から徳川へ鞍替えし、さらには徳川とも手を切ります。いよいよ独立の総仕上げにかかったわけですが、家康が放っておくはずがありません。8,000の兵で2,000人が拠る昌幸の居城・上田城を攻め寄せました。第1次上田合戦(神川合戦)です。 上田合戦についても史料の乏しさが指摘されますが、昌幸が徳川軍を挑発して城を攻めさせ、伏兵で散々に叩き、神川へ追い落とす――という『三河物語』の記述は正しいようです。 昌幸の嫡男・信幸が側面から攻撃して徳川勢を混乱に陥れたのも、他の史料から窺えるので史実でしょう。なお、次男の信繁に関しては上田合戦に参戦していないともいわれますが、私は可能性はゼロではない、と考えています。 いずれにせよ、天正壬午の乱から上田合戦までの昌幸の活躍ぶりは、幸綱、そして信玄から学んだ軍略の集大成であったといえるでしょうし、それによって「独立大名」としての地位を固めるとともに、真田の名を全国に轟かせたのです。 幸綱と昌幸を比べると、2人の違いも見えてきます。幸綱は信玄個人から非常に信頼されながらも、一匹狼的に武田軍団の中で活躍しました。長谷寺の真田幸綱・昌幸の墓 一方の昌幸は、武田重臣の末端に初めから位置づけられて、成長していきます。幸綱が調略を用いて、1人で敵を切り崩すのを得意としたのに対して、昌幸は軍事指揮官でもあるので、自ら軍勢を動かしつつ領土を制圧しました。この違いは、2人のバックグラウンドが影響しているのでしょう。 しかし、根本の部分に注目すると、真田一族の芯が見えてきます。常識に囚われず、大勢に流されず、かつ情にも流されない。この3つを1つの原則としつつ、即断即決で動く。 もちろん即断即決が拙速となり、事態が不利に転じる可能性もあります。しかし真田一族は、「情報」を重んじていたために、即断ながら過つことは稀でした。 また、たとえ不利に転じたとしても、次の手をすぐに打つことで事態を好転させる――それが真田の流儀だったといえるでしょう。 翻って現代は「先行き不透明」といわれて久しいですが、その点は戦国時代と同様です。そんな時代だからこそ、戦国乱世を最も鮮やかに、かつダイナミックに、智略ひとつで生き抜いた真田幸綱・昌幸父子の姿から、私たちは学ぶべきものが多いのではないでしょうか。ひらやま・ゆう 昭和39年(1964)、東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。日本中世史に関する精力的な研究活動を行い、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。著書に、『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(以上、吉川弘文館)、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社)、『真田三代』(PHP研究所)など多数ある。関連記事■ 真田一族の謎―最新研究でわかった数々の真実■ 真田幸綱はなぜ、調略面で活躍できたのか?―最新研究で謎を解く!■ 上田城を徳川、上杉に普請させた真田昌幸

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    日本人は真田信繁の誇りを知れ

    日本人はなぜ真田信繁に魅力を感じるのか。その答えはひとえに信繁の生き様にある。いかなる大敵であっても、臆することなく挑んだ「六文銭」の誇り。では、信繁は何のために戦いに明け暮れたのか。「戦国最後のヒーロー」の人生訓には、日本人がいま学ぶべきヒントがたくさんある。

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    家康の野望に智謀で挑んだ 真田信繁が戦いを求めた理由

    童門冬二(作家)「真田信繁(幸村)は死に場所を求めて大坂の陣に臨んだ」…。時にそう語られることがあるが、果たして事実か? 温和で誰からも愛された真田の次男坊は、武田信玄を敬慕する父・昌幸の領民を守る姿勢と、大敵相手に智謀で挑む姿から、「真田の戦い方」を学ぶ。そして、大戦を望む家康の言いがかりに窮した豊臣家が助けを求めてきた時、信繁は迷わず起ち上がるのだった。真田昌幸が敬慕した信玄と典厩信繁 真田といえば真田幸村、真田十勇士を連想される方も少なくないことでしょう。かく言う私も、長野県上田市の観光大使を務めており、大使名は十勇士の一人、根津甚八です。 ところが人口に膾炙する幸村という名は、戦国期の史料で確認できず、代わりに真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。最近は歴史研究の場に留まらず、真田信繁の名が一般に浸透し始めており、今年の大河ドラマ「真田丸」でも、主人公の名は信繁にしているそうです。信繁がなぜ幸村と呼ばれるようになったのかについては別稿に譲りますが、信繁という名は、真田氏と武田氏の深い結びつきを象徴するものと私は考えます。 信州小県(現在の上田市周辺)の真田氏が甲斐の武田信玄に臣従するのは、信繁の祖父・幸隆(幸綱)の時のこと。実は幸隆は信玄の父・信虎らによって小県を奪われており、流浪後、信虎を追放した息子・信玄に仕えて、旧領回復の悲願を実現しました。武田の躍進を智謀で助けた幸隆は信玄から重用され、息子たちも武田に仕えます。その中の一人が信繁の父となる昌幸で、幸隆の三男でした。信玄は若い昌幸を人質ではなく、近習として用い、いわば将来の武田を支える「幹部候補生」として自分の側近くに仕えさせたのです。 名将と呼ばれる信玄の政治手腕や軍事における采配を間近で目にしながら、昌幸は多くのことを学びました。とりわけ信玄の領民の生活を守る姿勢、一種の「王道政治」の理念に深く感銘を覚えたことでしょう。 たとえば隣国信濃への進攻について、信濃の豪族たちにすれば武田の侵略ですが、当時の信濃は守護職の小笠原氏が力を失い、豪族たちが勢力争いに明け暮れていて、信濃の領民たちにすれば落ち着いた生活は望めませんでした。むしろ武田の支配下に入り、統治が安定した方が領民にすれば助かるのです。実際、信玄は信濃の大部分を勢力下に置き、さらに信濃守護職にも任じられますが、その背景には領民の支持がありました。つまり円滑な統治の基本は、民の生活を常に守る姿勢にあり、統治者とは「護民官」でなければならないという理を、昌幸は信玄から学ぶのです。真田信繁の目を開かせた人質生活 また、そんな信玄を助け、新たな支配地の人心掌握に尽力したのが、武田の副将にして信玄の弟、武田典厩信繁でした。典厩は99カ条の家訓を残していますが、そこには慈悲の心の大切さも説かれています。つまり信玄と同じ考え方に立って、「護民官」としての兄を支えていたことが窺えるのです。 後世、「まことの武将」と称えられた典厩は、第4次川中島合戦で自ら上杉軍への盾となり、信玄を守って討死。その合戦が初陣であったという昌幸は、命を捨てて兄のために働いた典厩の姿に、武将としての理想像を見出し、その生き方にあやかる意味で、己の次男に信繁と名付けたのではなかったでしょうか。ちなみに真田信繁の誕生は典厩の死から6年後の、永禄10年(1567)のことでした(異説あり)。そして、「統治者は護民官であれ」という信玄の姿勢は、その後の昌幸や信繁らの生き方にも大きな影響を与えることになります。真田信繁の目を開かせた人質生活 人質の身から信玄に見込まれて重臣に引き上げられた昌幸は、信玄を主君として敬愛し、戦国最強を謳われた武田家を支えることに誇りを抱きました。さらに息子の信繁の代になると、武田家に仕えて3代目となり、もはや新参者というコンプレックスはなく、代々の武田家臣の一人という意識であったでしょう。 しかし、さしもの武田家も天正10年(1582)に滅亡します。時に信繁は16歳。主家を失った真田家は、北条・徳川・上杉という大勢力に囲まれる中、昌幸は三者の間を巧みに泳ぎつつ、一大名として独立を図ります。いずれかの家臣になってしまえば楽だったかもしれませんが、昌幸はそうしませんでした。そこには信玄に仕えた武田重臣としての誇りと、父・幸隆が血のにじむ思いで奪還した信州小県から上州に及ぶ支配地への愛情、そして領民を自ら守り抜くという信玄が示した「護民官」としての意識があったはずです。 そんな昌幸に「表裏比興(ひきょう)の者」といった批評が浴びせられることもありましたが、昌幸にすれば笑止千万でした。小勢力が大勢力に呑み込まれずに対峙するには、手段を選ばず、時に相手を手玉に取るほどの智謀を用いなければ、到底叶うものではないからです。とはいえ信玄の姿勢を範とする昌幸は、後ろ暗い策謀には手を染めていません。状況判断に基づき的確に手を打つことで、大勢力を相手にキャスティングボートを握ってのけるのです。 一方、次男の信繁は、真田の誇りを賭けて肚を据えた父の姿を眺めつつ、昌幸の手駒として、越後の上杉家、次いで大坂の羽柴家( 豊臣家)に人質として出向きました。人質である以上、信繁も多くの苦労を重ねたのでしょうが、信繁の面白いところはそれをあまり感じさせず、むしろ朗らかに、自分にとってのプラスの機会に転じたと思える点でしょう。大乱を策す家康に、真田の兵法で挑む 兄の真田信幸(信之)は信繁を「物ごと柔和忍辱にして強からず。言葉少なにして、怒り腹立つことなかりし」と評しています。人当たりが柔らかく、温和な印象を与える人柄であったことが窺えます。そのためか信繁は、人質として赴むいた先で厚遇されました。越後では上杉景勝から1000貫の扶持を与えられ、大坂では豊臣秀吉の勧めで豊臣家重臣の大谷刑部吉継の娘(一説に養女)を娶るのです。もちろんそこには、真田家を陣営に取り込もうとするそれぞれの思惑があったのでしょうが、信繁自身のキャラクターも大きく影響していたのではと思わずにはいられません。 また信繁は、上杉家では景勝や執政の直江兼続と接し、豊臣家では奉行衆の石田三成や大谷吉継らと親しく交わりました。彼らから学んだことも少なくなかったでしょう。 特に豊臣家においては、重視されるのは家柄ではなく、実力です。その点、信繁は何のコンプレックスも抱かずに、小姓として励むことができました。さらに、天下統一に向かう秀吉を実務面で支える三成や吉継が、何を拠り所どころに働いているのかを知ったことも、信繁の目を大きく開かせたかもしれません。彼らが目指しているのは、乱世を終息させる統一政権の確立でした。そこにあるのは私利私欲ではなく、戦乱をなくすことで日の本の民が安穏に生活できるようにし、それによって国を富ませる志なのです。まさに父・昌幸が信玄から学んだ、「統治者は領民の生活を守る護民官であれ」に通じるものでした。そしてこれらをきっかけに、信繁は真田家を外から客観的に眺め、改めて昌幸が守る真田の誇りの本質が「護民」にあることを再確認したのかもしれません。なお、岳父となる大谷吉継は優れた官僚ですが、同時に秀吉が「百万の軍配を預けてみたい」と評するほどの将器の持ち主でした。信繁が軍略の面でも、吉継から多くを学んだ可能性は十分にあるでしょう。大乱を策す家康に、真田の兵法で挑む 「真田信繁は死に場所を求めて、大坂夏の陣に臨んだ」と時に語られることがありますが、私は信繁を悲愴感に満ちた、悲劇の将だとは全く思いません。むしろ彼には天性の明るさがあり、どんな時でも顔を上げて口笛を吹いているような、不思議な陽性を感じます。 慶長5年(1600)の関ケ原合戦前夜、真田昌幸は家を2つに割る決断を下します。すなわち昌幸と次男の信繁は西軍に、長男の信幸は東軍につくという選択でした。信幸は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を正室にし、一方の信繁は大谷吉継の娘を正室にしていたことからの苦渋の決断とされますが、「たとえどちらが勝っても、我らの本領と領民は真田の手で守る」という、昌幸の固い決意の表われと受け取ることもできるのかもしれません。また信繁にすれば、大坂で三成や吉継が私心なく尽力しているのを見ているだけに、統一政権をあえて崩壊させようとする徳川家康の私欲に与することは、望まなかったでしょう。最後の大戦の場で、鉄槌を下す そして昌幸・信繁父子は上田城に拠り、徳川秀忠の大軍を迎え撃って散々に翻弄しますが、関ケ原では西軍が敗れ、三成も吉継も落命します。昌幸・信繁父子は処刑されるところ、死一等を減じられて高野山に配流となりました。父子にすれば「上田城では勝っていた」という無念の思いはあったでしょうが、目論見通り、昌幸の支配地を信幸が代わって治めることになり、領民を真田が守ることができたのはせめてもの救いだったはずです。 父子はほどなく高野山から麓の九度山に移り蟄居生活を続け、11年後の慶長16年(1611)、昌幸は65年の波乱の生涯を終えました。信繁のもとに豊臣家が大坂入城を要請してきたのは、それから3年後のことです。 さて、信繁は何のために大坂の陣を戦ったのでしょうか。前述したように、単に死に場所を求めたという見方は、私は賛同できません。たとえば信繁は、生前の父・昌幸とともに、遠からず徳川と豊臣は手切れとなると読み、高野山の玄関口である九度山を情報収集に活用したといいます。また情報を集めるべく活躍した忍びたちが、真田十勇士のモデルになったとも…。つまり信繁は、やる気満々だったのです。では、何のために戦うのか。 父・昌幸の場合は真田家当主として、領民を自ら守ることに戦う意味を見出していました。しかし信繁は当主ではなく、領民を守る「護民官」としての役目は、兄・信幸(信之)が果たしてくれています。つまり立場的に信繁はフリーでした。そこへ徳川家康が、かつての信繁の主家・豊臣家に言いがかりをつけ、大戦を引き起こそうと画策し、豊臣家が助けを求めて来た。ならば、これに応えるのが武士ではないのか…。そう考えても不思議ではありません。また信繁にすれば、かつて関ケ原合戦を引き起こして、三成や吉継が支えた統一政権を壊した家康への憤りと、不遇のまま配流先で没した父への思いもあったことでしょう。そして「またも私欲で大乱を策す家康に、戦場でただの一度も徳川に後れを取ったことのない真田の兵法のすべてをもって挑み、天下万民が注目する最後の大戦の場で、鉄槌を下す」ことを期したのではないでしょうか。 もちろんこれはあくまで私の推測であり、信繁自身の真意が奈辺にあったのかはわかりません。しかし、だからこそ後世の私たちは、家康を討ち取る寸前まで追い詰めた信繁に、さまざまな思いや夢を仮託して、人物像を思い描くことができるのでしょう。いわば一人ひとりが、それぞれの信繁像を抱いているといっても過言ではないのです。そんな懐の深さを持つ人物は、日本史上でも稀有であり、それがまた、真田信繁が現在でもまばゆい輝きを放ち続けている所以ではないでしょうか。関連記事■ 真田信繁は何のために戦ったのか■ 幸隆、昌幸…この父子なくして「真田幸村」の活躍はなかった■ 真田昌幸・信繁父子は信長と対面したか

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    真田信之と幸村、関ヶ原兄弟分裂の謎は「異母説」でわかる

    松平定知(フリーアナウンサー)「異母説」で2つの疑問を解決 太郎、次郎、三郎という兄弟がいたら、まあ、普通は長男、次男、三男と考える。ところが、本稿は、三郎が兄で、次郎が弟だという話である。 この兄弟は、今年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田幸村(信繁)と、その「兄」の信之(信幸)。真田家の史料によれば、幼名・源三郎の「兄」信之と、同・源次郎の「弟」幸村は年子(としご)で、信之は大男、幸村は小兵、性格も容貌も相当異なっていたという。 だから、「この兄弟は母が違う」と指摘する人は昔から多い。私も実は「ソレ派」である。なぜなら、そう考えると、この兄弟に関しての2つの大きな疑問が同時に解決するからである。NHK大河ドラマ「真田丸」の一場面。真田家の行く先について語り合う真田信繁(堺雅人、左)と兄の信幸(大泉洋) 彼らをめぐる2つの疑問。1つは「天下分け目の関ヶ原の戦い」の直前、謀略のエキスパートの彼らの父、昌幸が、この戦(いくさ)がどちらに転んでも真田家が存続するようにと下した、いわゆる「犬伏の別れ」と言われている結論のことだ。「嫡男の信之は徳川家康率いる東軍に。幸村と自分は石田三成率いる西軍に」という「分け方」と「組み合わせ」の理由は何か。 もう1つは、関ヶ原の前の二度にわたる「上田戦争」での敵対行為と、関ヶ原での敵側の立ち位置にも関わらず、父と「弟」幸村は、家康に殺されることなく、その後、父は11年、幸村は14年という長い歳月を、高野山近くの九度山(くどやま、和歌山県九度山町)で生き延びた。その際、父の妻であり、幸村の母である「山之手殿」は同行せず、さりとて離婚もせず、勝った徳川方に属した信之と一緒の生活を選択したのはなぜか、である。 これは2つとも、兄弟の父、昌幸が、正妻との間の子供(信之)の誕生前に、他の女性に子供(幸村)を成してしまったからだと考えると説明がつく。 「正妻以外の女性との子を真田家の『嫡流』にするわけにはいかない」と悩む昌幸に、程なく正妻懐妊の報が入る。調略家の父はここぞとばかり考えをめぐらし、「子供の順番の交代」にたどり着いた、というのはどうだろう。 もちろん、「誕生年をごまかして順番を逆にするくらいなら、2人の息子の幼名を入れ変えた方がよっぽど造作ない」とか、「昌幸自身も幸隆の三男でありながら幼名は源五郎だし、彼の双子の弟・信尹は源次郎だから、真田家はもともと、子供の名前と数字とは全く無関係」と指摘なさる方、つまり、この「異母説」(兄弟逆転説)に異を唱える方も、たくさん、いらっしゃるのだが…。さあ、以下は次回。関ヶ原の戦いで「東軍」「西軍」に分かれた真相関ヶ原の戦いで「東軍」「西軍」に分かれた真相 真田の家名を後世に残すため、真田家の当主、昌幸は、息子2人を敵味方に分けて関ヶ原の戦いに向かわせることにしたことは前回、触れた。これを知った徳川秀忠は、関ヶ原直前、味方についた「兄」信之(信幸)に、敵側の「弟」幸村(信繁)のいる砥石(といし)城(長野県上田市)を攻めさせた(第2次上田戦争)。 幸村は「兄さんとの直接対決なんて」と、さっさと砥石城を捨てるのだが、これは大勢にはさして影響はなかった。昌幸・幸村軍の15倍の兵力を持っていた秀忠軍は(上田城攻めでは)その油断もあって、押しまくられ、逃げさせられ、結果として関ヶ原の本戦に大遅刻する。秀忠軍がようよう駆けつけたときには、もう戦いは終わっていたという体たらくだった。 15年前の第1次上田戦争で恥をかかされた家康ともども、家康・秀忠父子の、昌幸・幸村父子に対する怨念は深い。そんな昌幸・幸村父子が、関ヶ原後も殺されなかったのは、一にかかって、「兄」信之と、その岳父で、家康の側近中の側近、本多忠勝の尽力のおかげである。 さらに、「弟」幸村のその後の14年にわたる九度山(くどやま、和歌山県九度山町)時代、「兄」信之は、徳川系の真田の女性も総動員して、物心両面で、この「弟」幸村を援助し続けた。立場こそ違え、2人は、基本的には「仲良し兄弟」だったのだ。 兄弟の父、昌幸は、あの豊臣秀吉をして「表裏比興の者」(=どっちが表でどっちか裏か分からん男)と言わしめたほどの、油断のならない謀略家だった。そうしなければ、信濃の、あの狭隘(きょうあい=狭い)な山里で、いくつもの大勢力を相手に生き延びることはできなかった。 昌幸はそんな日々を暮らすうち、持ち前の「時代の先を読む鋭い嗅覚」で、「これからの日本は家康」と見切ったときがあったのではないかと私は思う。家名存続のために、昌幸が「嫡男を徳川に」と決めたのはその時だったのだ。同時に、万一の場合に備えて、西軍にも保険をかけた。幸村の妻に石田三成の大親友、大谷吉継の娘を選んだ。あの昌幸のことだ。息子たちの配偶者に、それぞれ両軍の大幹部の娘を選んだのは「偶然」ではなかった(とも私は思う)。 しかし、そんな謀略の大家、昌幸も人の親だった。自分にとっての「初めての子供」でありながら、物心(ものごころ)つくまで自分の出生の秘密も知らず、日々、けなげに育つ源次郎(幸村)を見て、いつもふびんに思っていた。「この子は離さない。この子とは、一生、一緒だ。この子は俺が守る」と誓う。 関ヶ原の戦いで、どうして、「信之が東軍に、幸村と昌幸が西軍に分かれたのか」という疑問は、これで氷解である。 と、ここまで書くと、もう1つの疑問、昌幸の妻が九度山行きの夫に同行しなかった理由は改めて記すまでもない。他の女性に子供を産ませた夫と、「その女の子供」と暮らすよりは、「自分が腹を痛めた子のそばで」と考えるのは、自然だろうから。まつだいら・さだとも 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」「NHKスペシャル」などを担当。現在、京都造形芸術大学教授、東京芸術学舎教授などを務める。昨年、TBS系ドラマ『下町ロケット』のナレーションで注目された。著書に『松平定知朗読「サライ」が選んだ名作集』(小学館)、『謀る力』(小学館新書)など。

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    敗者の選択を描く三谷幸喜 「真田丸」は先が見えない現代と重なる

    と母・薫(高畑淳子)の次男として生まれた、信繁は兄の信幸(大泉洋)とともに、真田家の生き残りをかけて戦国時代を生き抜こうとしていた。 真田家はもともと、昌幸の先代の幸綱が武田家に仕えていた。昌幸の代になって真田家を最初に襲った危機は、その武田家の滅亡である。 武田信玄なきあと、息子の勝頼(平岳大)があとを継いだが、義弟が織田信長(吉田鋼太郎)側についた裏切りによって、窮地に陥る。 昌幸(草刈正雄)は勝頼に対して、自らが本拠を置く上野(こうずけ)・吾妻(あがつま)軍の山城にいったんは引いて、態勢を整えて反撃にでることを進言する。しかし、勝頼は別の家臣の岩殿城に撤退することを決断する。 それでも、昌幸は次のように言上する。 「われらからも御屋形様にはなむけを差し上げます。御屋形様のお手勢百、岩殿へお連れください」 自らの手勢を割いてまで、勝頼に忠心を尽くした結果、真田家の人々は、本拠地に撤退する道すがら、野盗と化した百姓に襲われることになる。 「敗者に惹かれるといいましたが、『滅びの美学』は好きではありません。信繁は、死に花をさかせるためではなく、あくまでも勝つつもりで大阪城に入ったと思いたい」と、三谷はいう。 真田家の前には、幾つもの分かれ道が待ち受けている。「関ケ原」の戦の前には、佐野の犬伏の地で、父親の昌幸(草刈正雄)と兄の信幸(大泉洋)、信繁(堺雅人)が会談して、昌幸と信繁は石田三成方に、信幸は家康方につくことを決める。時代の流れと大河人気の相関関係 映画などで「三谷組」と呼ばれる、常連の俳優たちが脇を固めているのも、ドラマの展開を三谷らしい自由自在にしていくことだろう。 昌幸(草刈正雄)と敵対する武将の室賀正武に西村雅彦が、秀吉の正室・寧(ねい)に鈴木京香が配されている。 信繁の兄として物語のなかで存在感を示す、信幸役の大泉洋は、映画「清須会議」(2013年)で秀吉を演じた。同じ映画で、丹羽長秀を演じた、小日向文世は今回、秀吉である。NHK大河ドラマ「真田丸」の一場面。徳川勢に見つかりあわてる信繁(堺雅人) 喜劇作家としてみられる三谷であるが、その作品はユーモアの味付けが少々加えられているとはいえ、人間の権力欲や所有欲、愛欲など逃れられない「業(ごう)」に切り込む作家である、と思う。 「ザ・マジックアワー」(2008年)は、太陽が沈む刹那の残光のなかに照らし出される美しい風景が現れる時間を、人生に重ねている。劇中劇ともいえる古い映画のなかで、主役を演じた柳澤眞一が、いまでは老人となってコマーシャルの登場人物となっている。それでも、また主役を演じる夢を抱いている。 夢見ることは、美しい。そんなマジックアワーのセットのライティングは、物語のすべてを現しているようである。時代の流れと大河人気の相関関係 大河ドラマは、制作者の意図を超えて時代の象徴となる。逆に、時代の流れと異なるときには、あまり話題にならない。 前作「花燃ゆ」の視聴率の低迷は、主役の井上真央のせいではない。司馬遼太郎がいう「坂の上の雲」を目指した明治維新の時代相は、現代と不具合をきたしている。 「賊軍の昭和史」(2015年、半藤一利・保阪正康)が話題になったように、維新を成し遂げた薩長閥が太平洋戦争をはじめ、総理だった鈴木貫太郎らかつての賊軍の出身者が終戦に持ち込んだという、歴史の見直しがなされている。 そして、いま時代はその先行きが、ますます不透明となって読めない。メディアは「老人破たん」を声高に報じるが、その対策は示し得ない。 時代の動向を感じられない劇作家はいない。三谷の「真田丸」は家族が、この時代をいかにして生き抜くか、というテーマが底に流れているようにみえる。

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    真田信繁は何のために戦ったのか

    歴史街道編集部 「真田幸村」は間違いなのか?   2月号「真田信繁 大敵に挑んだ『六文銭』の誇り」の内容にからめつつ、真田信繁が何のために大坂の陣を戦ったのかを、考えてみたいと思います。  まず今回の特集タイトル「真田信繁」について、「真田幸村ではないのか?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。実は一昨年に「真田信繁と冬の陣」という特集を組んだ際も、「信繁は幸村の兄弟ですか?」と真顔で尋ねられたことがあります。  最近こそ、大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田幸村こと真田信繁です、とテレビでPRされたことで、信繁の名前が浸透し始めていますが、たとえば昨年に和歌山県の九度山町を訪れた際も、地元の方々はすべて幸村と呼び、信繁と言う方にはお目にかかれませんでした。  かく言う私も、まだ幸村の方がしっくりくるような気がします。「幸村と真田十勇士」、「大坂夏の陣と幸村最後の突撃」という具合に、幸村という響きに慣れ親しんでいるからでしょうね。  2月号の特集では河合敦先生にご解説頂いていますが、同時代史料に幸村という名は見当たらず、真田昌幸の次男の名は「信繁」と記載されています。ちなみに幼名は弁丸、通り名は源次郎、後に与えられた官職名は左衛門佐〈さえもんのすけ〉です。  従って史実に基づけば、真田信繁が正しいということになります。では、幸村は間違いかというと、一概にそうとはいえないのがややこしいところ。というのも、信州松代藩真田家の江戸時代の史料には、「幸村」と記されているからです。大河ドラマ「真田丸」の一場面。大坂夏の陣49歳の信繁は葵の旗をめがけて突撃していく  幸村の名は、江戸時代初め(寛文12年〈1672〉)の軍記物『難波戦記』に登場するのが最初といわれ、以後、講談本などにも用いられて、その人気から広く流布し、ついには真田家の史料にもその名が記されるに至ったようです。  とはいえ、今年の大河ドラマをきっかけに、真田信繁の名が大いに浸透する可能性はあります。果たして幸村から信繁へと変わる記念すべき年となるのか、注目したいところです。当時の人質は幹部候補生? 当時の人質は幹部候補生?    真田昌幸が上杉景勝の支援を得るため従属する際、信繁(当時は元服前なので弁丸)は人質として上杉家に送られました。人質というと、不自由な暮らしを強いられていたように想像しがちですが、戦国期は必ずしもそうではありません。  むしろ将来、主家を支える人材となるよう、文武にわたり教育が施されました。信繁の父・昌幸も武田家に人質として送られましたが、武田信玄の近習として多くの事を学び、結果、信玄を主人とも師とも仰ぐ、武田の重臣へと成長しています。いわば人質とは幹部候補生でもありました。  信繁もまた、人質の身ながら上杉景勝から知行を与えられており、いずれ上杉を支える重臣となることを期待されていた節が窺えます。おそらくは直江兼続にも接していたでしょう。  その後、昌幸の意向で信繁は、上杉家から豊臣家の人質へと転じます。信繁は秀吉のもとでも厚遇されていたようで、やがて奉行衆の石田三成や大谷吉継と出会い、親しく接するようになりました。  特に大谷吉継は、後にその娘(養女とも)を信繁が娶り、正室にしたとされますので、信繁にとって義理の父となる存在。深く親交し、信繁は吉継から多くのことを学んだはずです。  童門冬二先生は特集内において、信繁が三成や吉継との出会いで目を見開かされたのは、彼らが何を拠り所に働いているのかを知ったことではないかと指摘されます。すなわち彼らが目指しているのは、乱世を終息させる統一政権(豊臣政権)の確立でした。  そこにあるのは私利私欲ではなく、戦乱をなくすことで日の本の民が安心して暮らせるようにし、それによって国を富ませるという、大きな志であったはずです。統治者とは、領民の生活を守る存在でなければならない…父・昌幸が大事にしてきたことに通じ、さらに一段とスケールの大きな姿勢を、信繁は吉継らに見出したのかもしれません。   信繁は何のために戦ったのか    関ケ原合戦前夜、真田家が二つに割れたことはよく知られます。すなわち長男の信幸は徳川家康方の東軍に、昌幸と次男の信繁は石田三成方の西軍に分かれました。信幸の正妻は家康の養女(本多忠勝の娘)であり、信繁の正妻が大谷吉継の娘ですから、双方とも義理を果たそうとすれば、分かれるしかなかったともいえます。  また義理だけでなく、信繁にすれば、義父の大谷吉継や石田三成が懸命に作り上げた統一政権と乱世の終息への志を、徳川家康が私欲のためにぶち壊そうとするのを許しがたいという思いがあったのかもしれません。  そして昌幸・信繁父子は上田城に拠って、関ケ原に向かう途中の徳川秀忠軍を相手に散々に翻弄し、合戦に遅参させました。しかし、関ケ原では西軍が敗れ、吉継も三成も落命。昌幸・信繁父子は死罪になるところを辛うじて許され、紀州九度山に流されます。  以後、信繁は大坂の陣までの14年間、九度山で蟄居生活を送りました。蟄居生活11年で、父・昌幸は不遇のまま死去。一説に死の間際、昌幸は徳川と豊臣手切れの際、大坂に味方して徳川に勝つための策を信繁に語ったともいいます。父子ともに、今一度徳川と戦う気持ちは失っていませんでした。  そして慶長19年(1614)、豊臣家からの大坂入城の請いを受け、信繁は最後の戦いへと起ち上がるのです。では、信繁は何のために戦うのか。  真田本家は兄・信幸が継いでおり、次男の信繁は家のことを心配する必要はありません。いわばフリーの立場で、決断することができました。まず念頭にあったのは、父・昌幸から学んだ真田の兵法を、徳川相手に今一度示したいということでしょう。そこには無念の内に他界した父への思いもあったかもしれません。  一方、関ケ原で大谷吉継らの乱世の終息への志をぶち壊した家康が、再び豊臣家に難癖をつけて、無理やり大戦を始めようとしていることへの憤りもあったでしょう。まして豊臣家は信繁の旧主です。そんな旧主が助けを求めてきているのであれば、応えるのは武士として当然と考えたのかもしれません。  「またも私欲で大乱を策す家康に、戦場でただの一度も徳川に後れを取ったことのない真田の兵法のすべてをもって挑み、天下万民が注目する最後の大戦の場で、鉄槌を下す」。  信繁がそう考えても不思議ではない気がします。果たして大河ドラマでは、この辺はどう描かれるのか。こちらも楽しみにしたいところです(辰)関連記事■ 真田信之と信繁は、いつ、どこで生まれたのか?―最新研究で謎を解く!■ 【歴史街道.TV】横須賀歴史散歩■ 年頭のご挨拶に代えて

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    最高視聴率の大河脚本書いたジェームス三木が『真田丸』を語る

     平均視聴率39%超。いまだ破られていないNHK大河ドラマの金字塔『独眼竜政宗』(1987年)や、『八代将軍吉宗』(1995年)、『葵 徳川三代』(2000年)の脚本を書いたジェームス三木さんは、現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』について、こんな独特な言い回しで絶賛する。 「ぼくは面白いかどうか、そういう見方は商売敵だから、しないんです。だって、面白いと、悔しいし、腹立たしいですから。逆につまらなかったら、まったく見ません。『真田丸』はまぁ、毎回必ず見ていますよ(笑い)」脚本家のジェームス三木さん ジェームスさんが最後に大河ドラマの脚本を手掛けた『葵 徳川三代』から15年、『真田丸』は、かつての大河とは隔世の感があるという。 「昔の言葉遣いとか立ち居振る舞い、礼儀作法を(脚本家の)三谷幸喜さんは、あまり気にしていないように感じます。ぼくなんかの時は、時代考証の先生がついて、廊下の歩き方から目配りの仕方や刀の差し方まで脚本も演出も事細かく直されました。『とんでもございません』というせりふはあり得なくて、『とんでもないことでございます』が正しいとか、随分と叩き込まれてね。 それは大河ドラマを見ている視聴者がそういう古い『時代劇らしさ』を求めていた部分も大きかったと思うんですが、今はそういうお年寄りも少なくなったんでしょう。それに詰まるところ、何が事実かなんて、実際に見た人は誰一人いないわけですから(笑い)」 『真田丸』では確かに、武将同士が道や廊下を歩きながらしゃべったり、家来が主君に質問をするなど、ジェームスさんが言う「かつてはあり得なかった場面」がポンポンと出てくる。そういう意味で『真田丸』は、斬新な大河ドラマといえそうだ。関連記事■ 武井咲 11本のCMに出演する17歳美少女のミニスカナマ脚■ 柴咲コウ主演「女ばかりの大河ドラマ」に惨敗ドラマとの共通点■ 剛力彩芽が走る、走る! 19歳の疾走シーンを独占撮り下ろし■ 金網越しに見た剛力彩芽を撮影 近くて遠い距離がもどかしい■ 剛力彩芽独占撮り下ろし こちらをじっと見つめる瞳が眩しい

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    真田信之は「縁の下の力持ち」 お家を存続させた高い手腕

     父・真田昌幸と、弟・信繁(幸村)に比べて、真田信之(のぶゆき)はやや影が薄い。しかし、危うい立場の真田家を存続させる難しい役回りを演じ切った信之の手腕は父・昌幸にも劣らない。彼は地味ながら厄介事をすべて引き受けた縁の下の力持ちなのである。 関ヶ原の戦いで信之は東軍についたが、父と弟は、徳川秀忠率いる3万人の大軍を足止めし、関ヶ原本戦に遅陣させるという大活躍をした。つまり、徳川家にとっては憎んでも憎みきれないのが真田である。そこで家康・秀忠親子にみじんも疑われる余地のないように忠誠を尽くしている。父と弟が流刑となると、真田嫡流が受け継ぐ「幸」の字を捨て、名の「信幸」を「信之」に改めて自責の念を表明。それが功を奏したか、切腹の決まっていた父と弟の配流への減刑をも勝ち取っている。 大坂の陣では、弟の信繁が豊臣方として参戦し、獅子奮迅の活躍を見せて討死した。信之自身は病で出陣しなかったため、弟と一戦交えずに済んだのは不幸中の幸いだったろう。やがて家康の死後、真田家に強い恨みをもつ秀忠が将軍を継ぎ、信之の立場は不安定になる。ついには上田から松代に移封を命じられた。表向きは加増なのだが、これは事実上、秀忠の嫌がらせといっていい。 信之も不服だったようで、重要書類をすべて焼き捨て、上田城の樹木や燈篭(とうろう)をすべて持ち去ったという。とはいえ、秀忠が逆らう大名たちを大量に改易に追い込んだことを思えば、その口実を与えなかった信之の政治的手腕は見事だ。 松代移封後は、城下町の整備や新田開発に勤しみ、家督を二男・信政に譲ったのは1656年のこと。91歳となっていた信之は、隠居生活に入るが、その心は休まることはなかった。 信政は61歳の高齢で、2年後に逝去。六男・幸道を後継とする遺書を残すが、幸道はまだ2歳だったため、飛び地となっていた沼田領を納めていた長男の子・信利が介入し、お家騒動が勃発する。信利が老中・酒井忠清に働きかけて藩主に収まろうとしたのだ。御家騒動は取りつぶしの口実になりかねないと危機感を抱いた信之が収拾に乗り出し、幸道を正式に3代藩主とすることでことを収めた。 お家騒動から2年後、当時としては異例ともいえる93歳で信之は世を去る。真田家を存続するために損な役回りを務めねばならなかったが、彼の辣腕(らつわん)ぶりはもっと評価されていい。後に石田三成の書状など、真田にとって不利な書面が真田家に保存されていたことが判明した。やはり本心では信之も徳川が嫌いだったのだろう。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

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    知将・昌幸をうならせる 真田家の運命を左右した女

    濱口和久(拓殖大学日本文化研究所客員教授) 徳川四天王の1人、本多忠勝(ただかつ)の血を引く小松姫は、徳川家康の養女となって、天正14(1586)年、沼田城(群馬県沼田市)の主(あるじ)、真田信之に嫁いだ。このとき、信之は21歳、小松姫は14歳であった。沼田城本丸跡に建つ鐘楼(提供写真) 結婚後の夫婦仲はいたって良好で、小松姫は長女、まんを筆頭に、長男、信政(のぶまさ)、次男、信重(のぶしげ)、次女、まさの2男2女を儲(もう)ける。 真田氏といえば、徳川氏を3度(第1次上田合戦、第2次上田合戦、大坂夏の陣)にわたって痛めつけたことで有名だ。それが、徳川の治世に、明治維新まで大名として生き残れたのは、小松姫の存在が大きかった。 小松姫の婿選びには逸話がある。小松姫が、徳川家康の前に居並ぶ若武者たちの髷(まげ)をつかんで次々と顔をのぞいていくなか、信之は「御免」と鉄扇(てっせん)で小松姫の手を払いのけた。毅然とした信之の態度に、小松姫は惹(ひ)かれたというものだ。 実際は、天正13(85)年の第1次上田合戦の後、徳川氏と真田氏を仲裁した豊臣秀吉の斡旋(あっせん)によるといわれている。同じ年、信之の弟、幸村(ゆきむら)も秀吉の寵臣(ちょうしん)、大谷吉継(よしつぐ)の娘、お利世を娶(めと)った。 時代が流れ、真田氏の運命を左右するときがきた。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦だ。 合戦53日前の7月21日、犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)に布陣していた真田昌幸(まさゆき)・幸村父子のもとに、石田三成から挙兵を知らせる密書が届く。昌幸は宇都宮(栃木県宇都宮市)に布陣していた信之を呼び寄せると、取るべき道を話し合う。 結果、3人は敵味方に分かれて、妻の実家に味方することを決める。昌幸、幸村は豊臣方(西軍)、信之は徳川方(東軍)となり、袂(たもと)を分けることになった。これが「犬伏の別れ」といわれるものだ。 ちなみに昌幸の妻は、三成の妻と姉妹であったとされる。真田氏にとっては、どちらが勝っても真田の血が絶えないための行動であった。 昌幸・幸村父子は、籠城戦に備え、犬伏から真田氏の居城である上田城(長野県上田市)に馬を走らせた。途中、孫の顔を見たいと思った昌幸は、小松姫が留守を預かる沼田城に立ち寄った。 親子で敵味方に分かれたとはいえ、昌幸は義父に対しては、城門を開けてくれるだろうと思っていた。しかし、小松姫は絶対に城門を開けようとはしなかった。「血脈は安泰」義父・昌幸を感嘆させる城門開けず義父・昌幸を感嘆させる 真田昌幸(まさゆき)・幸村(ゆきむら)父子が、沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄った際、「孫の顔を一目見たい」と昌幸が懇願したのに対し、夫の信之(のぶゆき)に代わって留守を預かる小松姫が城門を開けなかったのには訳がある。 信之は、犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)での密議の後、父、昌幸が上田城(長野県上田市)に戻る途中、沼田城に立ち寄ることを予測した。早馬を走らせ、敵対関係になったことを、小松姫に知らせていたのだ。 小松姫は城内から、昌幸に向かって次のように大声で叫んだという。 「父君の名を騙(かた)る不埒(ふらち)な奴。われは女なれど、沼田城主、真田信之の妻であり、徳川四天王の1人、本多忠勝(ただかつ)の娘である。全員を捕らえて首を取るぞ」 このとき、昌幸は、小松姫の堂々たる姿に驚嘆した。小松姫の態度は、あくまでも真田氏が敵味方に分かれたことを、沼田城を守る家臣らに認識させるためであった。小松姫はひそかに城近くの正覚寺に昌幸・幸村父子を案内し、温かく酒や料理を出してもてなし、孫たちを昌幸に会わせた。 翌朝、昌幸は「さすが本多の娘よ。これで真田の血脈は安泰ぞ」と幸村にいい、上田城への道を急いだ。沼田城跡 昌幸・幸村父子は、上田城で徳川秀忠(ひでただ)の軍を遅滞させ、関ヶ原に遅参させたが、徳川方(東軍)が勝利したことにより、信之は沼田と上田の領地を安堵(あんど)されたが、昌幸・幸村父子は捕えられた。 信之は徳川氏への忠誠を誓って、命懸けで助命嘆願をし、小松姫も実父、忠勝を通じて家康に働きかけた。結果、命だけは助けられ、高野山に流罪となる。すると、小松姫は、昌幸・幸村父子のもとに金子(きんす)や信州の名産品を送り、暮らしを助けた。 慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、昌幸は亡くなっていたが、幸村は高野山を抜け出して大坂方に加わる。再び真田氏は東西に分かれて戦う。 小松姫は、病で出陣できない信之に代わり、長男の信政(のぶまさ)、次男の信重(のぶしげ)を出陣させた。翌年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、幸村は壮絶な死を遂げる。 その後も、小松姫は真田氏の家名を守るために信之を支え続け、元和6(1620)年、48歳で亡くなった。信之は「わが家の灯りが消えた」と嘆いたという。ちなみに信之は、小松姫のおよそ倍の93歳まで生きた。はまぐち・かずひさ 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事などを務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)などがある。

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    「日本一の兵」真田三代の鬼謀

    大坂の陣の活躍で「日本一の兵(つわもの)」と称えられた真田信繁。信繁の活躍の裏には小領主から身を起こし、実力者たちを翻弄し続けてきた祖父や父から受け継いだ戦国最強の智謀があった。乱世を行き抜いた信繁、昌幸、幸隆と真田家三代の血筋を遡る。

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    「難攻不落」上田城を徳川、上杉に普請させた真田昌幸の策略

      徳川勢の前線基地のはずだった上田城    天正11年(1583)4月13日、越後の上杉景勝は、家臣である北信濃の島津左京亮に書状を送りました。直江兼続の添え状も合わせたその内容は、次のようなものです。  「真田昌幸が海士淵〈あまがふち〉に臨む崖上に寄居〈よりい〉(城塞)を築き始めたと、海津城より報告を受けた。そこで北信濃4郡全域の武士を虚空蔵山に集め、築城を妨害すべく真田を攻めることにする。ついては島津左京亮には、検使(監視役)を務めてもらいたい」  当時、太郎山から西に続く虚空蔵山の北まで、上杉氏の支配が及んでいました。昌幸が築き始めた新城はその数キロ先、まさに目の前であり、上杉方は危険視したのです。この城が、昌幸が従っている徳川家康勢の前線基地になるであろうということからでした。  実際、築城にあたって昌幸は、徳川家康の許可と援助を請い、家康より「近辺の城主へ望みの通り、人夫など助成申すように」と、後押しの確約を得ています(『真武内伝』)。  これは家康が、昌幸の上田築城が、上杉勢力圏である北信濃4郡に対する、徳川方の重要拠点に成り得ると判断したからに他なりません。もちろん、昌幸もそれを織り込んだ上での援助依頼でした。  そして昌幸は3月下旬、虚空蔵山を攻め、守備していた上杉勢を追い払いました。上杉景勝が、虚空蔵山に北信濃4郡の兵を集めることを命じたのは、この後のことです。  上田築城は、天正11年4月10日頃、徳川全体の事業として始められたと見られます。工事には昌幸以下の小県〈ちいさがた〉の者はもちろん、大久保忠世配下の佐久勢やその他の徳川勢も参加し、突貫工事で進められました。  一方、虚空蔵山に北信濃の兵力を集めた上杉勢は、筑摩郡北端の麻績〈おみ〉城に小笠原貞慶が攻め寄せたため、急きょ、そちらに転戦(従来は翌年とされてきました)。また国許で新発田氏が蠢動し、さらに上田築城に大久保忠世ら徳川勢が本格的に関与しているのを見て、うかつには手を出せませんでした。以後も虚空蔵山から睨むに留まるのです。  おそらく昌幸は、上杉のそうした事情もある程度、読んでいたのでしょう。思惑通り、上田城は着々と築かれました。そして天正13年(1585)、上田城は一応の完成を見たのです。   上杉方にとっても重要拠点となった上田城   上田城 ところで当時、上田城は、上田城と呼ばれていません。最初は「伊勢崎城」と呼ばれていました。昌幸はその頃、砥石城麓の伊勢山に居所を置いており、千曲河畔に築いた伊勢山の崎の城ということで、伊勢崎と称したのではともいわれます。  昌幸が伊勢崎城から上田城に名を改めたのは、一説に天正17年(1589)。そうであるならば、それより以前の第一次上田合戦は、本来、伊勢崎合戦になるのかもしれませんね。  さて、天正12年(1584)、羽柴秀吉と小牧・長久手合戦に入った家康は、北条氏と和睦した際の条件であった上野国沼田城の譲渡を、北条氏から迫られます。沼田城は、昌幸の城でした。  家康はそれについて昌幸に打診しますが、昌幸はこれを拒否。立腹した家康は、小県の国人領主・室賀氏に昌幸暗殺を命じますが、これを見破った昌幸が逆に室賀氏を討ちました。  そして近々、家康と手切れになると見た昌幸は、上田築城をめぐって対立した上杉景勝に接近していきます。翌天正13年4月、家康からの正式の使者に対して昌幸は「沼田は家康公より拝領した城ではなく、われらが血を流して勝ち取った城。北条に渡すいわれはない」と、完全に徳川と手を切りました。  7月15日、上杉景勝は昌幸の帰順を認め、援軍派遣も約束しました。景勝が度々煮え湯を呑まされた昌幸の帰順を許した背景には、生き残りを賭けた武士としての昌幸の気概をよしとしたことに加え、おそらくは上田城の存在価値があったでしょう。  閏8月2日から始まる第一次上田合戦は、後顧の憂いのなくなった昌幸の変幻自在の戦術で、見事に徳川の大軍を撃退しました。かつて築城に力を貸した大久保忠世らにすれば、勝手を知ったはずの城で翻弄されたことに、口惜しさが倍増したことでしょう。  敗れてもあきらめきれぬ徳川勢がまだ佐久に陣を布いて、上田の様子を窺っていた9月下旬から10月、上杉景勝は北信濃の武将を動員して、改めて上田城の普請を行ないました。かなり大規模に行なわれたようで、動員された島津忠直が直江兼続に宛てた書状には次のようにあります。  「伊勢崎御普請寸隙〈すんげき〉も油断を存ぜずこれを致し候、近日成就仕〈つかまつ〉るべく候」  上田城が、上杉氏にとってもそれだけ重要な拠点であったことが窺えます。佐久までを勢力下に押さえた徳川と、更埴地方までを勢力下とする上杉氏がぶつかる最前線が小県地方、すなわち上田城でした。まさに最前線の最重要拠点であり、上田城は単なる真田氏の居城ではなかったといえるでしょう。  しかし同年冬、上杉氏の人質となっていた次男信繁(幸村)を大坂に出仕させた昌幸は、羽柴秀吉に臣従、独立大名として認められることになります。これは上杉景勝にとっては寝耳に水のことで、また翌年、改めて真田を攻めようとした家康も、秀吉によって調停されました。  こうして見るとやはり、本能寺の変から始まる信濃の大乱の中で、常にキーマンとしてキャスティングボートを握っていたのは、真田昌幸であったように思われます。  それにしても徳川や上杉の力を借りて難攻不落の城を築かせ、それをすべて我が物とした昌幸の深謀遠慮、読みの深さ、そしてしたたかさは、見事の一語に尽きるのではないでしょうか(辰) ※寺島隆史「上田築城と城下町の形成」他を参考にさせて頂きました

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    真田幸隆と昌幸、「智謀」で戦国に挑んだ父子

    上杉謙信も認めた真田幸隆の智謀  戦国の真田氏といえば、まず思い浮かぶのは真田幸村(正しくは信繁)でしょう。来年の大河ドラマ「真田丸」の主人公でもあります。ドラマもいよいよクランクインしたということで楽しみですが、その幸村の活躍も、祖父の幸隆、父の昌幸の奮闘なしにはあり得ませんでした。  「智謀は七日の後れあり」とは、かの上杉謙信が真田幸隆(幸綱)を評した言葉です。戦国最強武将ともいわれる謙信は、「我、弓を取らば真田に劣らぬが」と前置きをした上で、智謀面で敵方の武田の部将・真田幸隆の実力を認めました。  また武田信玄は、若い頃から側近くに仕える真田昌幸(幸隆の3男)の器量を大いに買い、将来は武田の宿老にしたいと期待を寄せています。昌幸の2人の兄、真田信綱、昌輝も侍大将に取り立てられており、幸隆と3人の息子全員が武田二十六将図に描かれています。  よく知られる武田二十四将図にも、図によってメンバーは異なりますが、4人のうち3人が入ることが多く、一つの家からこれだけ有力武将が輩出されているのは、粒ぞろいの武田家中においても珍しいことでした。しかも真田は幸隆が信玄に仕えて以来という、家臣としての経歴の浅い外様衆なのです。  その一事だけを見ても、真田氏がいかに活躍をしたかが窺えようというもの。よく真田の活躍は伝説に拠るところが多く、過大評価されているのではという見方もありますが、今月号の巻頭にご登場頂いた歴史家の平山優先生は、一次史料を追っていくと、むしろ過少評価されているのではないかという思いすら抱く、という旨をご紹介されています。  幸隆の生涯の転機を二つあげるとすれば、一つは間違いなく、天文10年(1541)の海野平合戦に敗れ、故郷である小県の真田の地を奪われ、流浪の身になったことでした。信州の真田といえば、山間の小さな集落をイメージします。しかし、幸隆は旧領回復を悲願とし続けました。なぜ、それほど真田にこだわったのか。  実は真田の地は単なる山深い集落ではありません。当時において交通、物流の要地であり、全国の情報が集まる場所であったのです。この事実は、以後の幸隆・昌幸・幸村の活躍にも大きく関わるところであり、これについて今月号では時代考証家の山田順子先生が目から鱗が落ちる解説をして下さいました。  さて、幸隆から故郷を奪ったのは、隣接する豪族・村上義清と、甲斐の武田信虎らでした。上州に逃れた幸隆は、関東管領上杉氏をあてにせず、武田信虎が息子の晴信(信玄)に追放され、晴信が村上義清との対決姿勢を取ると、仇敵であるにもかかわらず仕官するのです。  故郷「真田」を回復するのは、武田に仕えることが最も現実的であるという判断からでした。しかし信玄は村上義清を相手に苦戦します。上田原の合戦で敗れ、さらに砥石城攻略をめぐる砥石崩れでは、その生涯最大ともいわれる大敗を喫しました。  その信玄の苦境を救うことになるのが、幸隆でした。砥石崩れの翌年、天文20年(1551)に、幸隆は手勢のみで、しかもほとんど兵を損ずることなく、砥石城を攻略してのけるのです。この幸隆の手腕に信玄は感嘆し、褒美として幸隆は悲願の旧領回復を果たしました。  力攻めではなく、調略をもって兵を損なわずに勝つ。これこそ情報戦略・諜報を得意とした真田ならではの戦法でした。謙信をうならせたのも、こうした幸隆の手腕であったのでしょう。 三大勢力を翻弄し、独立を勝ち取った真田昌幸  一方、幸隆の3男・昌幸は、幼少より近習として信玄に仕え、信玄の軍略を間近に接しながら成長していきます。二人の兄がいるため、信玄は昌幸に甲斐の名族・武藤家を継がせ、昌幸は武藤喜兵衛尉昌幸と名乗りました。  やがて元亀4年(1573)に信玄が西上途中で没し、翌年に幸隆も病没。そして天正3年(1575)に、武田家の一大転機が訪れます。長篠の合戦の大敗でした。  そしてこの敗戦は、昌幸にも大きな変化をもたらします。長篠で二人の兄が討死したため、思いがけず昌幸は真田家に戻り、家督を継ぐことになったのでした。武田勝頼も真田家に対する信頼は厚く、昌幸は以後、勝頼を支えて奮闘することになります。  しかし、武田家の凋落は止まらず、天正10年(1582)、織田信長によって武田家は滅ぼされました。ところがその直後、信長も本能寺で横死。この事態に、武田の旧領は周辺大名の草刈り場となり、そこに小勢力の真田家が呑み込まれることになります。  すでに真田と、上州の岩櫃、沼田を結ぶ一帯を押さえた昌幸は、この所領を死守すべく、競合勢力とわたりあいました。織田家の滝川一益が関東を去ると、昌幸はまず上杉景勝に従い、次に北条氏直、徳川家康と次々と手切れと盟約を繰り返していきます。  しかも昌幸は、大勢力に唯々諾々と従うのではなく、常にキーマンとしての立ち位置を確保しました。上杉と睨みあった北条が、次に徳川との対決に向かう際、上杉への押さえとなったのが昌幸であり、北条と対峙する徳川が、北条の後方を脅かす存在として期待したのも昌幸であったのです。  さらに昌幸は、上杉の脅威を家康に訴え、徳川の力を借りて、上田の尼ヶ淵(海士淵)に上杉に備える兵力を配置できる新城を築きました。これが上田城です。徳川の力を利用して、まんまと新拠点を獲得したわけです。  そして家康が北条との取り決めで、上州の沼田城を北条に譲るよう命じると、昌幸は迷わずに家康と手切れ。上杉に再び従うことを望みました。そして、これに怒った家康が上田攻めに踏み切り、第一次上田合戦が勃発。昌幸は鮮やかな采配で大軍の徳川勢を翻弄し、撃退してのけるのです。  さらに昌幸は羽柴秀吉と誼を通じ、秀吉の声がかりで信州の争乱は停止となり、昌幸は独立大名の座を得ました。その手腕は、見事の一語ではないでしょうか。こうした昌幸の姿を見て育つのが、息子の信幸と幸村(信繁)なのです。  旧領回復の悲願を成し遂げ、武田信玄から深く信頼された真田幸隆。信玄亡き後の武田家を支え、武田家滅亡後は見事な手腕で独立大名の座を勝ち取った真田昌幸。この父子が伝える、真田の智謀の真髄とは何か、幸村は二人から何を継承したのかを、ぜひ今月号の総力特集「真田幸隆と昌幸」から読み取って頂ければ幸いです(辰)

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    風呂は「熱い」「ぬるい」と言うな…大泉洋が演じる真田信之とは?

    歴史街道編集部 30年前は渡瀬恒彦 先日、主要キャストが発表された来年のNHK大河ドラマ「真田丸」。三谷幸喜さん脚本ということもあり今から話題となっていますが、その中でも注目を集めているのが、大泉洋さんの出演でしょう。 大泉さんが演じるのは、真田信之(信幸)。「真田丸」の主人公であり、数多くいる戦国武将の中でも1,2を争う人気を誇る真田信繁(幸村)の実兄です。30年前に放送されたNHKの連続TVドラマ「真田太平記」では渡瀬恒彦さんが演じられました。 ちなみに、同作で信繁を演じたのが、来年の大河ドラマで、信之・信繁兄弟の父である真田昌幸に扮する草刈正雄さん。三谷さんならではのキャスティングであり、今から熱演を楽しみにしている方も多いのではないでしょうか。 信之というと、どうしても弟の信繁と比べると印象が薄いと感じる向きもあるかもしれません。しかし、真田家にとっては、きわめて重要な存在でした。ここでは、簡単ではありますが大泉さん演じる真田信之について紹介しましょう。 弟・信繁(幸村)との分かれ道 信之が生まれたのは、永禄9年(1566)のことです。有名な桶狭間の戦いの6年後のことであり、石田三成や直江兼続の5歳ほど年下です。なお、当初は「信幸」と名乗っていたものの、関ケ原の戦い後に「信之」としたと伝わります。 初陣は、天正13年(1585)の第1次上田合戦(神川合戦)とされます。当時、徳川家康軍が真田家の居城・上田城に大軍で攻めてきました。 この時、城主・真田昌幸は智略を巡らせ、徳川の精兵を散々に翻弄しましたが、信之もこれに大いに貢献しました。弱冠20歳でしたが、すでに名将の片鱗を見せた戦いぶりだったといいます。 この第1次上田合戦の翌年、真田家が豊臣秀吉の仲立ちにより家康の配下になると、信之はやがて家康のもとに出仕します。弟の信繁は大坂城の秀吉のもとに出仕していますから、兄弟はすでに分かれて道を歩み始めていたことになります。NHK大河ドラマ「真田丸」の出演者発表会見に臨む(前列左から)内野聖陽、堺雅人、大泉洋、木村佳乃ら =7月10日、東京・渋谷のNHK放送センター (中鉢久美子撮影) その後、慶長3年(1598)に秀吉がこの世を去ると、真田家も戦雲に巻き込まれます。秀吉亡き後、徳川家康に対して石田三成が挙兵すると、昌幸・信繁は石田方(=西軍)、信之は徳川方(=東軍)につくのです。 これが、いわゆる「犬伏の別れ」であり、最新研究によれば時期は定かではありませんが、「真田」の家を守るため、彼らが非常なる決断を下したのは事実です。 関ケ原合戦で東軍に与した信之は、戦いの後、敗れた西軍についた父と弟の助命嘆願をしたといいます。そして信州松代藩の礎を築き、寛永13年(1636)には江戸城外堀にあたる四谷の真田濠開削を行なうなど、幕府からのお手伝い普請をしっかりとやり遂げ、真田家を守り抜きました。 この「真田家を守り抜く」というのが、父や弟と別の道を歩んだ信之が己に課した使命だったのでしょう。 子孫が伝える真田家の教え 人柄を伝えるエピソードも残ります。子孫で現在、松代真田家14代当主の眞田幸俊氏によれば、松代真田家には、 「家臣が沸かしたお風呂に入った時、湯加減を聞かれたら『いい湯だ』と答えなければならない。『熱すぎる』『ぬるい』と言えば、沸かした家臣の首が飛んでしまうからだ。殿様たる者、まずは家臣を守らなければならない」 という教えが伝わっているといいます。藩祖・信之の考えが色濃く残っている教えであるといい、誠実で律義な人柄がうかがえます。 信之は、父・昌幸が配流先の高野山九度山で没したと聞くと、葬儀を行ないたいと徳川に談判し、また弟の信繁にも幾度も手紙や生活費、身の回りのものを送っていたといいます。 他の真田家の人間に比べて派手さはありませんが、このように一族を愛し、家臣や領民を愛して守ろうと奔走した信之だからこそ、今も信州で慕われ続けているのでしょう。 そんな信之を大泉さんがどう演じるのか…。今から、楽しみでなりません。(水)

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    激闘で器量を見込んだ幸村 敵将「鬼の小十郎」に遺児を託す

     豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣で、徳川方の「独眼竜」伊達政宗隊の先鋒隊長、片倉小十郎重綱は「鬼の小十郎」と恐れられた。慶長20(1615)年の夏の陣で、徳川家康が最も警戒した後藤又兵衛ら豪傑を相次いで倒し、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と呼ばれた真田信繁(幸村)の赤備え隊とも激闘を繰り広げた。幸村から幼子たちを託されるほど知勇兼備の将と見込まれたのだ。(川西健士郎) 片倉小十郎といえば、昭和62年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で西郷輝彦が演じた重綱の父、片倉小十郎景綱の名がまず上がるだろう。景綱は10歳年下の政宗の名参謀として奥羽制覇への道を切り開く。 天正12(1584)年に誕生した重綱。美男だったと史書に記され、大河ドラマでは高嶋政宏が演じた。勇猛な逸話も多い。 慶長5(1600)年、家康の東軍についた政宗は上杉景勝の領地だった白石城(宮城県白石市)を攻めた。当時15歳の重綱は留守を命じられていたが、戦場に駆けつけて果敢に石垣を攻め登ったと伝わる。奪った白石城には景綱が1万3千石の城主として入り、片倉家が代々城主を務めた。 大坂の陣では病床の景綱に代わり、重綱が初めて片倉隊を率いる。勇名をとどろかせたのは慶長20年5月6日の道明寺の戦い(夏の陣)だ。 徳川方の大軍は小松山を占拠した「大坂五人衆」の一人、後藤又兵衛の隊を攻めあぐねていたが、片倉隊は正午近くに一気に後藤隊を襲い、ついに又兵衛を打ち倒す。 伊達の兵力1万のうち片倉隊は1千。「鉄砲300丁、槍200本、弓100張の混成騎馬隊で、景綱と戦場をともにしてきた歴戦の兵士も多かった」と、白石市生涯学習課の日下和寿学芸員は話す。片倉小十郎重綱と真田幸村の戦いの舞台となった誉田八幡宮に立つ「誉田林古戦場」の碑=大阪府羽曳野市 片倉隊は小松山を越え、石川を渡り、大坂一の怪力とうたわれた豪傑の薄田(すすきだ)隼人も倒す。そして目前に真田幸村隊が現れた。片倉隊はあられのような銃撃を加え、真田隊を壊乱状態に陥れる。 が、ここから幸村の知略が炸裂する。幸村は兵を並べて草の上に伏せる。兜(かぶと)を脱がせ、槍も置かせた。猛烈な射撃の中、幸村は姿勢を保つよう前線で励ます。そして片倉隊が約1キロに迫ったとき、兵に兜を着けさせ、約200メートルで槍を持たせた。 〈勇勢新ニ加テ兵気愈盛ニナル〉 『正武将感状記』は兜をつけたときの士気の高まりを強調しており、戦場心理を熟知した幸村の「心理作戦」だったといわれる。 片倉隊が目の前に迫ったとき、幸村は兵を一斉に立ち上がらせ、突撃を加えた。今度は片倉隊が総崩れとなった。 〈手つから太刀打し敵四騎斬落す〉 『片倉代々記』は、重綱自らが太刀を持って奮戦したと記す。「幸村が一枚上手だったが片倉隊は何とか持ちこたえ、重綱は名を高めた」と日下氏。互いの戦闘力を知り、両者は深追いせずに退却する。 翌日、家康の本陣に切り込んで戦死する幸村は器量を見込んだ重綱に孤児を託し、意気に感じた重綱はこれを引き取ったと伝わる。孤児たちは白石城で養育され、娘の阿梅(おうめ)は重綱の後妻となり、次男の大八は伊達藩士に取り立てられた。

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    戦国を生き抜け!昌幸・信之・幸村に見る真田の流儀

    因を忠義と見ることを否定している。昨年、共著出版した『戦国・江戸 真田一族』(新人物往来社)では、「戦国時代を生き抜いてきた一族にとって、家の興亡こそが真の関心ごとだった」とつづっている。 「武士たる者は、(中略)かようの時節にのぞみ、家をも興し、大望を遂げようと思う」 『滋野世記(しげのせいき)』にある昌幸の言葉が、その根拠だ。 上田市立博物館の寺島隆史館長補佐も「武士は二君につかえず、といった忠義の思想は江戸時代にできたもの」と言い切る。さらに、家系を守るために計画的に息子を東西に分けたという説についても、「結果的にはそうなったが、意図的に狙ったのか、文献もなく分からない」と言う。 「犬伏の別れ」には今も謎が多いのは確かだが、昌幸の苦悩と野望を、2人の息子が目の当たりにしたことは間違いない。息子の適性見抜いた稀代の策士 真田親子の「犬伏の別れ」が、忠義からでも家系を残す計算からでもなかったとすれば、父と2人の息子はそれぞれ、どのような思いでその道を受け止めたのだろう。 息子2人については、ほとんどの研究者の考えが一致している。それぞれが、出仕していた側と姻戚関係にあったため、仕方なく受け止めたという説だ。 昌幸の嫡子・信之は東軍の徳川家康の家臣、本多忠勝の娘を妻とし、次男の幸村は西軍の奉行、大谷吉継の娘をめとっていた。特に信之は、家康の思慮深さや先見の明を目の当たりにし、東軍の勝利も見越していたといわれる。 不明なのは昌幸が、どういう気持ちで西軍に寝返ったかである。昌幸は、西軍の宇田頼次に娘を嫁がせており、寝返りを誘う密使を送ってきた石田三成とも姻戚関係があった。しかし、西軍は当時、有利とはいえなかったし、西軍に寝返った東軍側の大名は、昌幸以外になかった。 その心中について、小林計一郎・信州短大名誉教授は『戦国・江戸 真田一族』(新人物往来社)の中で「家康と本質的にあわない何物かがあって、その反発心が昌幸を石田方に向かわせたのだろう」と記している。長野県上田市立博物館の寺島隆史館長補佐も「徳川に対する複雑な感情があった」と話す。自ら武力で取った沼田領を家康が、秀吉との講和という政治手段で奪ったことなどが、その原因とみられる。昌幸の武将としての意地が、家康にくみすることを許さなかったのであろう。上田城で与えた試練 長野市の真田宝物館は、真田家の家督を継いだ信之が藩祖となった松代(長野市)藩ゆかりの品を保存、展示している。その一つ、真田家文書は、松代藩の家宝として伝わる吉光御腰物箪笥(たんす)箱に収められている。文書のほとんどは、昌幸の足跡を示すものである。 その一枚に、三成から昌幸・信之・幸村にあてた書状がある。日付は慶長5年8月5日。「犬伏の別れ」(慶長5年7月21日)から半月後。関ケ原の戦いの約40日前である。 「つまり昌幸は、犬伏の別れから半月後以降に、それまで受け取った書状を信之に伝え、自分は西軍につくことを最終決断した」と、真田宝物館などを管理運営する松代藩文化施設管理事務所の原田和彦学芸員は言う。昌幸が由緒ある書状を信之に渡したことは、真田家の行く末を信之に託したことを意味した。 昌幸は信之と別れた後、幸村とともに上田城に篭もり、徳川の精鋭を率いて関ケ原に向かう家康の子、秀忠を10日間にわたって足止めし、家康をあわてふためかせた。江戸時代から残る上田城の西櫓 その際、一度は城を明け渡すそぶりを見せ、仲介にきた信之まで欺いた。戦国時代の時間かせぎの常套(じょうとう)手段だが、肉親の情に頼った息子の浅慮を、強烈に指摘したとも受け取れる。 「昌幸は元々、(大切な)沼田城を信之に任せていたし、教育も、長く手元に置いた信之に傾注していた」と寺島館長補佐は言う。その分、年少のころから上杉景勝や豊臣秀吉らに人質に出し、まさに客地から学ばせた幸村に比べ、信之の甘さを不安視していた。上田城をめぐる戦いは、昌幸にとって、たもとを分かった信之に与えた試練でもあったのである。見込み通りの律儀さ 昌幸が信之に真田家を託したのは、その律儀さゆえであろう。 信之は、昌幸が最初に家康と戦った第一次上田城合戦で、大久保忠世ら徳川勢を誘い込むおとりとして前線に立っている。徳川勢は約7000、真田勢の約4倍の大軍である。父と真田家を守る信念なしには、迫り来る弓矢の前には立てなかったであろう。 関ケ原の戦い後には、信之は、父弟の助命を必死に家康らに嘆願した。上田城の抵抗で関ケ原の戦いに遅参し、家康の激しい怒りを買った秀忠は、昌幸、幸村らの切腹を主張した。『常山紀談(じょうざんきだん)』によると、信之は「ならば父より先に自分に切腹を命じてほしい」と願い出たという。信之は、昌幸の謀(はか)りごとで面目を失ったにもかかわらず、父を恨みすらしていないのである。 死を免じられた昌幸は、幸村とともに高野山麓の九度山に流されるが、その生活費の多くは信之の元から出された。信之の妻もしばしば、手紙や鮭の子などの土産を送っている。 昌幸は亡くなる1カ月前、病床から信之に、平癒(へいゆ)後は十数年ぶりになんとか一度会いたい、と書を送っている。信之の律儀さ、情愛の深さはおそらく、昌幸の見込んだ通りだったに違いない。 真田一族の活躍と分裂を見つめ続けた上田城は平成の今、大手門の内部が展示室になり、昌幸、幸村とその息子、大助の3人の人形などが飾られている。まるで幸村が城主を務めたような印象すら受ける。 昌幸の家康への反発心、武将としての野望を受け継いだのは、昌幸の死までの9年間、九度山で蟄居生活を共にした幸村である。その幸村が、大坂の役で、昌幸譲りの縦横無尽の戦術で武名を轟かせたことを思えば、この扱いもやむを得まい。 しかし、仮に、真田家のために生涯を尽くした信之が今、この城を見たとしても、「父と弟が喜んでくれるなら」と、目を細めてほほ笑むような気がする。2人の息子の性格、適性をそこまで見抜き、家の安泰と「真田」の高名の両方を手に入れた昌幸はやはり、稀代の策士だったと言うべきだろう。家の安泰と高名を手中に 紀伊半島の中央部に、標高1000㍍級の山々に囲まれた高野盆地が広がる。四季を通じて気温は麓より数度は低い。長野県真田町と似た気候だ。 その盆地の入り口に真田氏の菩提(ぼだい)寺、蓮華定院(れんげじょういん)がたたずむ。入り口には、真田家の紋、六文銭が描かれた提灯(ちょうちん)がかかり、寺の宿坊で使う調度品や什器(じゅうき)にもその紋が入る。10畳ほどの畳間「上段の間」は、1度焼失しているが、基本的な造りは、真田昌幸と次男の幸村が関ケ原の戦いの後、流された慶長5(1600)年当時そのままと伝えられる。 「真田のファンの皆さんは武勇伝を期待して来られますが、ここ高野山での暮らしはいたって素朴なものだったようです」と、添田隆昭住職は話す。昌幸は、信州の長男、信之に再三、仕送りを頼んだり、赦免(しゃめん)の仲介を願っていたという。 たとえば、昌幸は書状で「臨時の扶助金40両のうち、まだ着かない残りの20両を早く送ってほしい」と催促している。晩年には、信之の側近に、信之の病気平癒(へいゆ)の祝いを述べ、自分も患っていることを伝えたりしている。 死去する1、2年前、信之に宛てた書状には、老いを自覚した昌幸の弱音ものぞく。筆跡から、幸村の代筆と見られるが、その要旨は次のようなものだ。 〈そちらの様子を承りたい。こちらは変わったこともないから、ご安心下さい。しかし、この一両年は年をとり、くたびれました。ここの不自由、ご推量ください。我ら、大くたびれ者になりました〉 昌幸は蟄居(ちっきょ)から9年後、65歳で他界した。信之は、昌幸の葬儀を故郷で盛大に行おうとしたが、幕府の目をはばかった。結局、上田に廟所(びょうしょ)を建てず、先祖の地、真田郷の長谷寺に埋葬した。高野山から大坂城へ 昌幸の死後、幸村は一層わびしく暮らしたと伝えられる。坊の一角には今、幸村が書いた2通の書状の写真が、額に入れて展示されている。 1通は、山の麓の親しい左京という人物に出したもので、「焼酎を壺2個分、その口までいっぱいに詰めてほしい」と所望する内容だ。武将のものとは思えないほどつましい文面だが、逆にそこから、率直な人柄も伝わってくるようだ。 「幸村が大坂城で戦ったときの統率力を見れば、彼の人柄を慕っていた侍も多かったのではないか、と想像できますね」と添田住職は言う。 幸村は、この蟄居の土地で、息子2人を含む5人の子供に恵まれ、二男六女の父親になったという。 だが、幸村が昌幸から受け継いだのは、罪人としての静かな生活だけではなかったとも伝わる。『武将感状記』によると、昌幸は臨終の間際、徳川と豊臣の手切れを見越し、大坂の役についての密計を幸村に授けた。信之を藩主に戴く松代藩の記録には、その戦法は、南北朝期に楠木正成が採った陽動作戦と策略を再現させた、と評されている。 慶長19(1614)年10月、幸村は、豊臣家の招きで大坂城に向かう際、監視役だった近所の庄屋らに酒食を振る舞い、酔いつぶして高野山麓の九度山を抜け出したという。江戸時代の川柳では、その様子はこう読まれた。 〈村中を酔わせて真田ずっと抜け〉 酒食を振る舞う名目は父、昌幸の法事だった。幸村にとっては、徳川を討つことは父の法事だったのであろう。 大坂に向かった一行は長男、大助を含む約100人。下山方法や大坂へのルートについては諸説あるが、はっきりは分かっていない。鬼神のように戦い 幸村は大坂冬の陣では、大坂城東南に出丸の「真田丸」を築き、敵を近くまで引き寄せてから銃撃などで撃退する戦術で徳川勢を苦しめた。それは、昌幸が、上田城をめぐる徳川勢との合戦で何度も用い、最も得意とした戦法だった。 豊臣家が滅んだ大坂夏の陣では、7人の影武者を使って徳川の大軍を混乱させ、家康の本陣に肉薄したとも言われる。冬の陣での武略を恐れた家康は、信之らを通じて幸村を調略しようとしたが、幸村は寝返らなかった。 「花のようなる(豊臣)秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて」 滅亡する豊臣家のための絶望的な戦いで、鬼神のように働き、それに殉じた幸村を、後の庶民はこう歌ってたたえた。 大阪市天王寺区、安居神社の境内には今、幸村の戦死跡碑が立つ。幸村は碑の近くの田のあぜで休息中、松平忠直隊に首を取られたと伝わる。享年47歳。昌幸の死から6年後だった。 信之は、父と弟の死の前後、病床にあったが、大坂の役の後、つきものでも落ちたように回復。その後、当時としては驚異の93歳まで長命した。あたかも真田の家名を保つという、昌幸の願いをかなえるように。 幸村の子孫については、宮城県出身の小西幸雄氏が『仙台真田代々記』(宝文堂)で、次男の大八が仙台伊達家の直臣になっていたという説を発表し、話題になった。大坂落城の際、姉の阿梅(おうめ)らとともに伊達家に保護されたという内容で、最近まで公開されていなかった『仙台真田系譜』を根拠にしている。 ただしこの説は、研究者の間では、徳川幕府に従う伊達政宗が幸村の男児を引き取るはずはないという判断から、強く否定されている。真偽はともかく、こうした説が現代になっても出るのは、幸村の根強い人気の証しであり、その高名こそ昌幸が求めたものだったであろう。 ※この記事は2000年8月から12月にかけて産経新聞で掲載した連載記事「21世紀に語りつぐ 親と子の日本史」を再録したものです。登場人物の肩書き、団体名などは執筆当時のものです。 

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    「日本一の兵」真田信繁、最期まで豊臣への忠義貫く

     2016年NHK大河ドラマ「真田丸」で俳優、堺雅人(41)演じる主人公が真田信繁。「幸村」のほうがなじみ深いかもしれないが、「幸村」は後年に講談や小説などで使われて一般的になった名であり、本稿では「信繁」と呼ぶことにする。 真田昌幸の次男として生まれ、主君の武田氏の滅亡後、真田家は織田信長に恭順して所領を安堵(あんど)されたが、その後は上杉氏、北条氏、徳川氏という3者の争いに巻き込まれる。 真田家は豊臣秀吉に臣従して自立。信繁は大坂城の秀吉のもとに人質として差し出された。後に秀吉の側近だった大谷吉継の娘を正室に迎え、豊臣姓を下賜されるなど、秀吉には厚遇されたらしい。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、父・昌幸とともに西軍についた。一方で、兄の信之は東軍について敵味方に分かれたが、これは戦いがどちらに転んでも真田家を存続させるための策であったことは有名だ。 上田城に籠った信繁は、東軍の徳川秀忠の大軍を迎撃して奮戦。結果、秀忠軍を関ヶ原本戦に遅参させるという大活躍を見せる。しかし西軍が敗北したため、リストラのピンチに陥る。それでも信之と、しゅうとである本多忠勝の取りなしによって死罪を免れ、信繁は父とともに紀伊国九度山への配流を命じられた。 14年間の蟄居(ちっきょ)生活を強いられ、父は老衰で死んだ。経済的にも困窮し、「髪もひげも真っ白で歯も欠けてしまった」と老化を嘆く手紙も書いている。イラスト・奈日恵太 それでも、信繁にとって最後に一花咲かせるチャンスが巡ってきた。徳川と豊臣の関係が険悪化し、豊臣家は浪人を集めて徳川への抗戦を決めたのだ。信繁は決死の脱出を敢行して大坂城へ向かった。大坂冬の陣が開戦すると、信繁は「真田丸」なる出城を築いて敵兵を蹴散らし、徳川方の先鋒(せんぽう)隊はたちまち撤退。信繁の武名は天下にとどろいたのである。 両軍の間で講和が結ばれたが、家康は信繁に寝返りを持ちかける。「信濃一国を与える」という好条件を出されても、信繁の心が揺らぐことはなかった。講和が結ばれると、大坂城は堀を埋められて無防備な城に成り下がり、真田丸も跡形もなくなってしまった。 やがて大坂夏の陣が開戦。死を覚悟して決戦に臨んだ信繁は、家康の本陣に突撃した。真田隊のすさまじい勢いに圧され、家康も一時は自害を覚悟したといわれる。しかし、兵力で勝る徳川勢に盛り返されてさすがの信繁も退却。最後は安居神社の境内で休んでいたところを敵兵に発見されて討ち取られ、見事な最期を遂げた。享年49。 戦いにこそ敗れたものの、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」とまで賞された信繁の勇名は、後年の創作物によって現代まで語り継がれている。(渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

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    朝鮮出兵、日本武士が一つになった日

    戦国乱世に終止符を打った天下人、豊臣秀吉にとって、二度にわたる朝鮮出兵は、晩節を汚す無謀な賭けだった。それでも、文禄の役で雌雄を決した「碧蹄館の戦い」は、日本武士が一丸となって奇跡の勝利に導いた数少ない武勇伝でもある。見知らぬ大陸で命を賭けた戦国の漢たちの雄姿に迫る。

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    文禄の役・碧蹄館の戦い 戦国の漢たちはなぜ迎撃を決断したのか

    童門冬二(作家)《『歴史街道』2015年9月号「総力特集:碧蹄館の真実」総論》漢城を出て、城外で雌雄を決すべし!「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。雌雄を決せんに如しかず」そんな立花宗茂の言葉に即座に賛意を示したのが、老練なる重鎮・小早川隆景であった。文禄2年(1593)1月下旬、攻め来る明軍を前に、漢城に集結した日本軍諸将は選択を迫られていた。籠城か、釜山まで後退か、それとも…。この時、迎撃に向けて男たちの心を一つにしたものとは、何であったのか。籠城か、後退か、迎撃か 「漢城の守りを固めて籠城するか、釜山まで後退して内地からの援軍を待つか、それとも打って出て、明軍を迎え撃つか…」 宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂、黒田長政、加藤光泰、さらに石田三成、大谷吉継、増田長盛らの奉行衆も加わった軍評定で、諸将の意見は割れました。文禄2年(1593)1月下旬(一説に25日)、漢城(現在のソウル)においてのことです。 天下統一後、明国征服を企図する豊臣秀吉は、李氏朝鮮に対し服属と明遠征の案内役を求めます。そして朝鮮がこれを拒んだことから、文禄元年(1592)4月、一番隊から九番隊まで、15万余りの軍勢で釜山に攻め込みました。いわゆる朝鮮出兵の文禄の役です。朝鮮出兵の拠点となった名護屋城跡。前方には玄界灘が広がる=佐賀県唐津市 日本軍は勝利を重ねつつ北上、5月3日には首都漢城が落ち、朝鮮国王宣祖は逃亡。6月15日には小西行長らが平壌を制圧しました。しかし、朝鮮国王の要請で明の援軍が派遣され、7月16日、平壌の奪還を図る祖承訓率いる5000が急襲します。平壌を守る小西らはこれを大いに破り、撃退しますが、主敵である明の国土にまだ一歩も足を踏み入れぬうちに、明軍が早くも駆けつけてきたことは、日本軍に少なからぬ衝撃を与えました。 日本軍諸将は評定を開き、年内の進撃はとりあえず平壌までとし、軍監の黒田官兵衛は小西に、「平壌から後退し、明軍に備えて漢城の北方に堅固な砦を築くべき」と勧めます。しかし、秀吉の意向に反して明との講和を進めたい小西はこれに従わず、平壌に戻り、明と50日間の休戦協定を締結しました。ところがこれは、明が態勢を整えるための方便でした。翌文禄2年1月6日、講和交渉をよそに李如松率いる4万余りの精兵が朝鮮軍とともに平壌を襲い、小西らは大敗。辛うじて黒田長政の拠る龍泉山城に逃げ込んだのです。 明軍の反攻に、平壌と漢城間の諸城に詰めていた日本軍諸将はすべて漢城に集結。一方、勢いに乗る李如松は平壌から開城へと進軍し、自信満々で漢城攻略を窺いました。冒頭の「籠城か、後退か、迎撃か」の軍評定は、そんな緊迫した状況下で行なわれていたのです。 石田・大谷・増田ら奉行衆が籠城策を勧める中、城外での迎撃を決然と主張したのが立花宗茂、小早川隆景らでした。 「(宗茂は)合戦は吾願ふところなり、我まず先駆せむといふ、小早川左衛門佐隆景も、尤も同心して、先陣せむといふ、爰に於て諸将異義に及ばず」(『加藤光泰貞泰軍功記』)。 「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。夫れ城に嬰りて守らば大兵合圍援路四絶焉んぞ久を支えん。兵を城外に出し雌雄を決せんに如かずと。隆景大に之を賛し群議遂に決す。又隆景の推挙により宗茂をして先鋒たらしむ」(『大戦記』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。 ここに、漢城における軍評定は、城外で明軍を迎撃する作戦に決するのです。日本武士の意識と、立花を推す小早川 籠城や後退の意見も出る中、迎撃で軍議がまとまったのはなぜなのか。1つに「大兵合圍援路四絶」と『大戦記』にあるように、明の大軍に漢城が包囲されれば補給が断たれ、兵粮攻めされる恐れが高いという判断でしょう。孤立する日本軍としては、避けたいところです。しかし、より大きな理由として私が考えるのは、同書にある「我国の恥辱を奈何せんや」という部分です。このまま敵に後ろを見せては「日本国の恥」、という気持ちが諸将に芽生ていたのではないでしょうか。 そもそも日本軍は、豊臣秀吉からそれぞれの家の所領を安堵された、いわば「縦割り」の意識を持つ領主たちの集まりでした。ところが海外に出て、明・朝鮮軍を相手に窮地に立たされた時、個々の家の名誉より、また豊臣家への忠誠よりもっと普遍的なもの、いわば「横」方向へ意識が広がったと思うのです。つまり「自分たちは日本国の武士である」と。そして危機にあって、明の大軍に立ち向かうべきという宗茂や隆景の果敢な主張が、他の武将たちに「異国の兵に嘲られるような恥ずかしい戦を、日本武士がすべきではない」という意識を呼び起こさせたのでしょう。籠城を唱えていた石田三成らも迎撃に頷いたのはこのためで、日本軍にそれまでなかった団結力を生み出す源になったと想像します。 また宗茂や隆景らは、迎撃策をやみくもに主張したわけではありません。宗茂はすでに、李如松の明軍と干戈を交えていました。 平壌陥落の報せに宗茂は1月8日(10日とも)、弟の高橋統増とともに3千の兵で平壌へ向かい、途中、敗残の小西勢とすれ違います。小西は「敵の大軍がすぐそこまで迫っている」と宗茂に告げて去り、それを聞いた統増が「小西勢を引き留めて、ともに敵にあたるべきでは」と問うと、宗茂は笑って「敗戦の輩は役に立たぬ」と応じました。そして兵を5隊に分けて潜ませると、ほどなく7、8千の敵が数を恃んで押し寄せます。宗茂は敵を十分に引き付けて、潜ませていた軍勢に突如、鯨波を上げて三方から打ちかからせると、敵は大いに慌て、一支えもできずに潰走。立花勢は敵を千人も討ち取ったといわれます(『立齋奮闘記』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。龍泉の戦いと呼ばれるものでした。この戦いで宗茂は、明軍の力量や武器、戦法、士気の高さなどを相当正確につかんだことでしょう。さらに宗茂は前年7月の、祖祥訓率いる明軍を撃退した平壌防衛戦でも活躍していますから、宗茂の迎撃の主張は、彼なりの十分な勝算があってのことと考えられるのです。小早川隆景木像 (大阪城天守閣蔵) その宗茂を先鋒に推したのが、小早川隆景でした。隆景は文禄の役で六番隊1万5千人余りを率い、宗茂は与力の一人です。当時、27歳の宗茂に対し、隆景は61歳。親子ほどの年齢差で、実際、永禄12年(1569)の多々良浜の戦いに父・毛利元就とともに出陣した隆景は、大友宗麟の部将であった宗茂の義父・立花道雪と戦っています。そして道雪の巧みな戦術で、数で優る毛利軍が一転、敗北する体験をしました。そんな敵ながら天晴れな名将道雪が見込んで婿養子にしたという宗茂を、隆景も深く信頼していたのです。 当時、隆景は筑前・筑後に三十七万石を与えられ、いわば九州の押さえとしての役割を秀吉から期待されていました。一方で隆景は、兄・吉川元春とともに毛利宗家を補佐する「毛利の両川」と謳われ、「此人、常に危ふき戦ひを慎み、謀を以て敵を屈せしむる手段を宗とし給ふ」(『陰徳太平記』)智将として知られています。そんな隆景ですから、宗茂を「道雪の婿養子」というだけで評価していたわけではないでしょう。常に家臣らと苦楽をともにする宗茂が家臣たちから慕われ、主従の結束が極めて強く、だからこそ数々の合戦で殊勲をあげている事実を見抜いていたはずです。 「小勢ではあるが、立花殿こそ先手を仕っても決して誤つことのない御仁である。立花が3千は余人の1万にもおとるまじけれ」 老練な重鎮・隆景の推薦に、漢城に集結した諸将は異論なく、宗茂を先鋒に決しました。有利な地に誘い込み、得意の戦法で叩く有利な地に誘い込み、得意の戦法で叩く 明軍を率いる李如松は、1月24日に開城に入ります。日本軍の抵抗は皆無で、また副総兵の査大受率いる斥候が、日本軍の物見を破った報告を受けたことで、李は敵を侮りました。明軍は大きく2つの部隊で構成されています。北方の女真族との戦いで武功をあげた李直属の騎兵部隊と、南方の宋応昌率いる重火器部隊でした。そして平壌攻城戦で活躍したのが宋の重火器部隊であったことから、李は次の漢城攻略は、子飼いの騎兵部隊に手柄を立てさせたいと考えます。そこで25日未明、李は重火器部隊に後続を命じると、騎兵部隊を率いて先発しました。 一方、24日に味方の物見が敗走し、敵の接近を察知した立花宗茂は、25日に漢城を出立。高橋統増を含めて3千の兵力でした。丑の刻(午前2時頃)、立花隊の物見が敵の伏兵を追い立てると、宗茂は漢城に宛てて敵が迫っていると急報し、さらに前進します。 立花隊と明軍が衝突したのは、26日の卯の刻(午前6時頃)。漢城の北西約20キロメートル、およそ5キロの回廊状の溪谷が続く碧蹄館でした。漢城と開城を結ぶ街道の要所で、中国と朝鮮を往来する使節の館があったといわれます。まず立花隊の十時伝右衛門ら5百余人が敵の騎兵2千と衝突、十時らは奮戦の末に敵を破り、追撃しますが、新手の7千が駆けつけると苦戦に陥り、十時以下百余人が討死しました。これを見た宗茂は、本隊を率いて打ち掛かります。 「宗茂兄弟二千餘騎一度に駈付其間三町計り隔て鬨をドットあげ、左の方より横鑓に掛るを見て、敵一度に崩れて引退く。宗茂八百餘騎堅固に備へて、残る勢に追討にうたせらる。敵を討事二千餘人」(『天野源右衛門朝鮮軍物語』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。 宗茂は、明軍を大いに破りました。しかし敵は次々に新手を繰り出し、立花隊は熾烈な戦いを続けます。そこへ巳の刻(午前10時頃)、小早川隆景隊が到着し、碧蹄館の戦いはクライマックスを迎えました。以後の戦闘の詳細は別稿に譲りますが、私が注目したいのは、碧蹄館という狭隘の地で戦っている点です。これは決して偶然ではないでしょう。 碧蹄館の戦いでの明・朝鮮連合軍の実数は諸説ありますが、日本軍よりは多かったはずです。少なくとも緒戦は立花隊の3千のみですから、数倍の敵を相手にしていました。寡兵で大敵と戦う場合、包囲されないことが鉄則です。そのためには狭隘の地などに敵を誘い込んで、軍勢を展開できぬようにし、数の優位を封じることが有効でした。おそらく宗茂ら日本軍は事前に開城から漢城に至る街道を調べ上げ、碧蹄館付近が大敵を迎撃するのに最適と知っていたのでしょう。こうした戦法は、山地の多い日本で戦いを重ねてきた戦国武将たちには、手慣れたものです。一方、北方の女真族を相手に、広大な平原を騎兵で戦ってきた李如松ら明軍は、この種の戦いに不慣れでした。朝鮮の柳成龍が著した『懲毖録』には、次のような記述があります。 「後方に匿れていた賊が、山の背後から不意に山に上った。その数はほぼ1万余であった。明国兵はこれをながめて心中恐れおののいたものの、時すでに刃を接しており、どうすることもできなかった」 さらに道は険しい上、前夜の雨でぬかるみ、明軍の騎兵は進退がままならず、日本軍に討たれてしまったという記録もあります。 「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器無く、路険しく泥深く馳騁する能はず。賊長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵無し」(『宣祖修正実録』) 日本軍は自軍に有利な地に敵を誘い込み、得意の戦法で敵を見事に痛撃していたのです。 碧蹄館の勝利は、攻勢に転じた明・朝鮮連合軍を手痛く叩き、李如松の戦意を著しく阻喪させ、文禄の役を講和へと導いた点で大きな意味がありました。もし碧蹄館で敗れていたら、嵩にかかった明・朝鮮軍に追われて、日本軍は壊滅の危機に瀕したかもしれず、講和も覚束なくなったことでしょう。そうした点で碧蹄館の勝利が、文禄の役の明暗を分けたといっても過言ではないのかもしれません。 またその勝利を呼んだのは、窮地に追い詰められた日本軍の中に初めて芽生えた、「日本武士として恥ずべき戦はしない」というオールジャパンの意識と誇り、そして国内の戦乱で磨き上げられた武将としての能力の高さと勘の冴えにあったことは間違いありません。 戦国史の中でこれまであまり語られてこなかった碧蹄館の戦いですが、立花宗茂、小早川隆景はじめ錚々たる面々が漢城に顔を揃え、敵の大軍を迎撃する決断を下し、激闘の末に見事に勝利してのけた事実を、私たちは知っておいてもよいのではないでしょうか。どうもん・ふゆじ 作家。1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。関連記事■ 小早川隆景と立花道雪■ 小早川隆景は、なぜ、秀吉の大返しを追わなかったのか■ 最新研究に見る「真実の」織田信長■ 地形で読み解く「関ケ原合戦」~地の利は西軍にあった ! ?■ 石田三成・失敗の研究~関ケ原での計算違い

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    「被害者の立場は千年変わらぬ」説く韓国に加害者の過去あり

     韓国人の日本に対する「恨」(ハン)は秀吉の朝鮮出兵まで遡る。だが、鎌倉時代・中国を支配していた「元」による九州への攻撃・「元寇」における高麗軍の蛮行について、韓国は未だ固く口を閉ざしたままだ。* * * 韓国大統領・朴槿恵は2013年3月1日の「3・1独立運動記念式典」で日本統治時代を振り返ってこう発言した。 「加害者と被害者という立場は1000年の時が流れても変わらない」 この“被害者メンタリティ”に凝り固まった韓国人が「最も嫌いな日本人の一人」とするのが、16世紀に朝鮮出兵した豊臣秀吉だ。最近も韓国では、秀吉軍を海戦で打ち破った民族の英雄・李舜臣を描く映画『鳴梁』が大ヒットした。 しかし、明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は、韓国の一方的な被害者意識に異を唱える。 「実は秀吉の朝鮮出兵の300年前に韓国(高麗)軍は日本に侵攻し、暴虐の限りを尽くしました。この事実を韓国は都合良く忘れています」 1274年、中国を支配していた元が鎌倉時代の日本に侵攻した。この時、元に征服されていた高麗は遠征軍に加わり、対馬と壱岐に攻め入ったのだ。 当時、元への警戒を鎌倉幕府に呼びかけた日蓮聖人の遺文を集めた『高祖遺文録』に元・高麗連合軍侵攻時の残忍な記録が残っている。 《百姓等ハ男ヲバ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲバ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス》 住民の男は殺されるか生け捕りにされ、女は手に穴を開けられ数珠つなぎの捕虜にされたという記述だ。勝岡氏が文献を解説する。 「『高祖遺文録』を所収した『伏敵編』の編者で歴史学者の山田安栄氏によれば、捕虜の手の平に穴を開けて縄を通すのは、百済の時代から朝鮮半島の伝統であり、“数珠つなぎ”は高麗軍の仕業と推測しています。また『高麗史』によれば、高麗軍は日本で200人もの童男童女を生け捕りにして、高麗の忠烈王とその妃に献上したということです」蒙古兵相手に奮戦する竹崎季長(右)=「蒙古襲来絵詞」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵、部分) 2度目の元寇となる1281年の「弘安の役」でも高麗軍の非道ぶりは際立っていた。蒙古襲来直後に成立した寺社縁起の一つである『八幡愚童訓』には、こんな記述がある。 《高麗ノ兵五百艘ハ壱岐・対馬ヨリ上リ、見ル者ヲバ打殺ス》 この時、上陸した高麗兵を怖れ山奥に逃げた島民は赤子の泣き声を聞いた兵が押し寄せるのを避けるため、泣く泣く我が子を殺めたという。「地元では今でも泣く子をあやすための“むくりこくり(蒙古高句麗)の鬼が来る”という伝承が残っている。元寇は当時の日本人に700年経っても消せない恐怖心を植えつけたのです」(勝岡氏) しかも、元寇そのものが高麗の執拗な働きかけの産物だったと勝岡氏は指摘する。 「『元史』によると、フビライ・ハンに仕えていた高麗人の趙彜(ちょうい)が日本への使節派遣を促した。更に高麗の世子椹(後の忠烈王)もフビライに盛んに東征を勧めたという記録もあります。高麗が進言しなければ、元寇は起きなかった可能性すらあるのです」 2度に及ぶ元寇は日本に深い傷跡を残し、その後の歴史を動かす原動力となった。 「元寇で窮乏した御家人が海賊となり、残虐な高麗に報復しようとしたのが倭寇の始まりです。秀吉の朝鮮出兵も、究極的な原因は元寇にあったという説すらあります」(勝岡氏) 最大の問題は、この歴史的な事実を韓国が「なかったこと」にしていることだ。 「韓国の歴史教科書は、秀吉の朝鮮出兵に多くの紙幅を割く一方で、高麗が元をそそのかした経緯や、元寇における高麗軍の残虐行為には一切、触れていません。日本への加害は民族的記憶から消し去り、自らの被害だけを強調して教えているのです。“被害者の立場は1000年変わらない”と訴える韓国こそ、日本に対する“加害者だった歴史”を直視すべきです」(勝岡氏)関連記事■ 大河『軍師官兵衛』 秀吉の「朝鮮出兵」はどう描かれるのか■ 世界初の飛行機は秀吉朝鮮出兵時に城から脱出した「飛車」説■ 拉致問題や拉致被害者の家族は韓国政府にとって厄介な存在■ 拉致命じられ日本に潜入した韓国秘密工作隊の悲劇を描いた本■ 朝鮮民族の「恨」は恨み辛みや不満を生きる力に転換した状態

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    日本人奴隷の存在に激怒した愛国者・豊臣秀吉

    に関西人には愛されている=大阪市中央区(竹川禎一郎撮影) 奴隷制というのは、日本の内部の話ではない。戦国時代、多くの大名たちが欧米人との間で奴隷貿易を行っていた。これも教科書に記載されていない重要な事実だ。多くの日本人が奴隷として売りとばされ、哀しい想いをしていた。これに関して、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師に対して詰問する。 「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」 私自身、この秀吉の言葉を知ったのは、奴隷について一生懸命研究するようになった後だ。多くの日本人は、愛国者であり、日本人を奴隷とすることに断固として反対した秀吉の姿を知らないはずだ。 先に引用した言葉を何度も読み返してほしい。私は非常に真面目で、同胞を想う秀吉の愛国心、同胞愛が滲み出たよい言葉だと思う。 何故、教科書では、こうした豊臣秀吉の功績を記載しないのだろうか。伴天連追放令が出されたことだけを取り上げれば、まるで秀吉がキリスト教を弾圧しただけのような話に聞こえるが、この伴天連追放令の前段階で、キリスト教徒たちによる奴隷売買に秀吉が激怒しているのだ。 こうした事実を記さなければ、「伴天連追放令」に至る理屈が理解できないだろう。 人種差別の歴史は根深いが、私たち日本人の先祖が奴隷として売りとばされていた事実を多くの国民は知らない。こうした過酷な事実を知ることは、大きく日本史を眺める際に重要なことだろう。 教科書で「南京事件」「慰安婦」の問題が取り上げられることは多いが、こうした豊臣秀吉の功績については、問題にすらされていない。どうか、一人でも多くの国民に、秀吉の素朴な愛国心と同胞愛を知っていただきたいと思う。

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    立花宗茂の並外れた勇気と義「力の限り働けば必ず浮かぶ瀬」

    勇気と義に厚く 立花宗茂の勇気と義に厚く、男らしい行動は、並の豪傑大名とは違っている。 文禄の役で朝鮮に出兵したときの宗茂の活躍はよく知られているが、太閤秀吉が死んだという報せが入ると、諸将は直ちに撤兵して帰国の途につこうとした。ところが、先へ進み過ぎた小西行長が順天というところに数百の兵とともに取り残されることになった。 小西行長は奸(ねいかん)な気性で諸将に嫌われていたせいもあり、見捨てて帰国する議に決まりかけた。このとき宗茂一人、異を唱えた。 「行長は将星(しょうせい)の一人である。見捨てれば兵は降伏し、行長は虜囚(りょしゅう)となろう。これを見捨てることは、日本の武士として最も愧(は)ずべきことだ。拙者は行長に何の恩怨(おんえん)もないが、武士として見殺しには出来ぬ。順天に進み、共に撤退する。衆寡敵せず生死を賭くるも又止むを得ない。これは行長のためではない、わが日本国のために敢行する」と言い放った。 この壮烈な言葉に島津義弘と寺沢広高が同意し、宗茂は撤退を急ぐよう急報し助けの軍を出した。明・韓連合の大軍が海陸から分断作戦に出たが、激戦の末、漸く行長と将兵を救い出したのである。 宗茂の用兵の妙は諸葛孔明(しょかつこうめい)を思わせるものがあると多くの史家が激賞するが、かれの真骨頂は戦さ巧者の武将にあるのではなく、その人格の高潔さだ。 有名な碧蹄館(へきていかん)の戦いも明の大軍を前にして消極的な篭城戦に決まりかけたのを宗茂が力説して攻撃に転じ大奮戦して打ち破った。この報を安辺というところに 滞陣していた加藤清正が聞いて、 「先陣は立花宗茂であろう」 といった。正にその通りであった。 だが、外国での戦いなので当時詳細が伝わらなかったのも事実である。 秀吉の側近である石田三成が軍目付として戦地にやって来て、宗茂にいった。「貴殿が度々の戦さに大功をたて、殊に碧蹄館の先陣は抜群のお手柄と存ずる。然れども事実は必ずしも上聞(じょうぶん)に達せず、総指揮の宇喜多秀家の手柄になっております。如何であろう、私にお頼みあれば、実情を殿下のお耳に入れましょう」。目付なら黙って実情を上奏すればいいのに、わざわざ自分に頼め、というのは、賄賂しだい、という誘いである。 汚い男だ。宗茂はこういう欲深の卑劣漢が最も嫌いだ。 「これは面白いお奨めだ。戦さの次第を見聞きし、ありようを殿下に報告するのが貴殿のお役目なのに、特にお願いしなければ、事実が伝わらぬとは、呆れたことだ。苞(ほうしょ)(賄賂)の多寡で勲功にありつくなど拙者の好みではない。たとえいかようなことになろうとも、武士は武運しだい。御申し出の儀、断り申す」 こういう廉白な武将にかかっては、石田三成はひたすら赤面するしかない。 「只今の話は…ま、お聞き流し下され」 と詫びて倉皇(そうこう)と席を立ったという。 こうした不正を憎み巧利を除ける精神も、宗茂の天才的な戦術家として頭脳と死を恐れぬ武辺の勁(つよ)さからくるものであろう。寡勢よく敵の大勢を打ち負かした宗茂なればこそ、加藤清正でも前田利長でも島津義弘でも誘い水を向けたのだ。世にあるとき力の限り働いていれば浪人しても必ず浮かぶ瀬があるのである。将、軍ニ在ラバ 文禄元年の事変なので文禄の役ともいうが、秀吉の命令で朝鮮に渡海した日本軍の将は宇喜多秀家であった。 上陸するや近辺の砦をあっさり屠った。さて、これから進軍は如何、と迷ったのだ。秀家は太閤秀吉の意向を聴かずに進発すれば逆鱗(げきりん)に触れることを怖れた。 賛否両論にわかれたが秀吉は漸く肥前名護屋城に着いたころだ。返事を待っていては時間がかかる。二十三歳の立花宗茂は諸将の意見を黙って聞いていたので小早川隆景が、宗茂の意見をもとめた。 「されば、不肖、考えまするに、異国まではるばる参っての足踏みこそ 面妖(めんよう)に存ずる。それがし嘗(かつ)て聞くに“将、軍ニ在ラバ君命受ケザル所有リ”と。今、渡海して出兵あるに、一々、内地の殿下にお伺いを立てていては、戦機を失ってしまいます。敵の王城は未だ警備整わず、兵力も少しとか。直ちに長駆して王城を奪取すべきと存じます」 堂々と進言した。 「成程。道理だ。だが、軍備が整わぬとどうしてわかる?」 「もしも王城が堅固ならば、釜山・東莱斯(とうらいし)がかく容易に潰(つい)えるはずがない。この様子から見て、王城また然り。虜囚(りょしゅう)の言では、途中 艱険(かんけん)の要所あり、猶予を与えれば要害を築き、また明国からの援兵も来り会して困難になると思われます。一時も早く決断して進撃こそ肝要と存じます」 機先を制して先手先手と猛進撃こそ勝利だと力説したので、隆景も納得、進撃を命じたので、数日で京城に達して攻め取った。 碧蹄館(へきていかん)の戦いでも、敵の大軍にひるんで消極的な防戦に傾くのを、宗茂が鼓舞して攻撃に攻撃をかけ、常に宗茂は先陣を切って縦横に奮戦している。 宗茂が生涯を貫いて守ったのは“道に背かぬ”ことであった。したがってかれ自身の生きざまも、すべて理にかない、道に従っている。立花宗茂は関ケ原の戦いで西軍につき改易、浪人となった。のちに本多忠勝の推挙もあり、家康によって大名に返り咲き、旧領柳川に復帰することになる。宗茂が、亡き妻・誾千代のため創建した良清寺=福岡県柳川市西魚屋町(渡部裕明撮影) 大阪夏の陣のとき、家康は秀忠の攻城に宗茂の意見を徴するよう本多正信に命じて招かせている。 「秀忠は若年であり相談相手が要る。立花は心安くすべきではないが、軍功者で信義のある者じゃ。相談相手になるよう伝えよ」 宗茂は正信より聞いて伏見城に伺候すると、秀忠は、「このたびの戦さに、太閤恩顧の福島・加藤・毛利・浅野など、如何に出てくるか。その方、福島や加藤は年頃旧知なれば、心情もわかっているであろう」 と、聞いた。かれらの向背が勝敗を左右する。 宗茂は答えた。 「加藤・福島は太閤お取り立ての者なれども、太閤殿下の所行(しょぎょう)仕打ちに許せぬものがござる。かれらの女房を呼びつけるなど人倫に悖(もと)る行いに、かれらも内心、憤りを抱いていました」 恩怨(おんえん)の関係だけでなく、世の中には、ものの道理があること、それに従って行動する、その順応性で世間が動くことを説いている。 「太閤殿下の恩がござったゆえ関ヶ原合戦では秀頼公のために身命を賭し、わが家を潰してしまいました。これ即ち太閤殿下への報恩でございます」 十三万石を捨てて浪人となった。そのことで義理は果たしたのだ。宗茂の澄明(ちょうめい)な態度は天地に恥じることのない生き方から来ている。(さおとめ みつぐ)

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    小早川隆景は、なぜ秀吉の大返しを追わなかったのか

    近衛龍春(作家)《『歴史街道』2014年5月号[特集]より》あえて追撃せず!大返しの先を読んでの決断 (すまぬ……。されど、これで毛利は救われる)羽柴軍に水攻めを受けていた備中高松城主・清水宗治が自刃を受け入れたと聞き、隆景は心の中で呟いた。ところが――胸を撫で下ろすのも束の間、信長横死の報が届く。退却する羽柴軍を追撃すべしと怒号する兄元春。一方、隆景の眼には、後の天下が見えていた。備中高松城、水攻め 日差山から北の眼下を眺めると一里四方にも及ぶ巨大な湖ができており、その中心にぽつんと高松城の一部が覗けていた。 (彼奴、なにゆえ下知を聞かぬのじゃ) 顔を顰め、小早川隆景は肚裡で吐き捨てた。「此人、常に危うき戦ひを慎み、謀を以て敵を屈せしむる手段を宗とし給ふ」と『陰徳太平記』に記されている隆景は、毛利元就の三男として誕生し、9歳の時に竹原小早川家の養子となることが決まり、12歳の時に同家を継承。18歳の時に本家の沼田小早川家を乗っ取り、当主となった。天文16年(1547)の備後・神辺城攻めで初陣を果たして諸戦場で活躍。兄の吉川元春ともども毛利の「両川」として、毛利本家の輝元を支えている。 天下統一を目前にした織田信長の中国方面司令官として、羽柴秀吉が2万余の兵を進めて諸城を攻略。清水宗治が守る備中の高松城を水攻めにしたのは天正10年(1582)5月のことであった。高松城址公園資料館内にある備中高松城水攻めのジオラマ 秀吉は足守川を塞き止め、洪水避けに築かれていた堤防に普請を加えて高松城を人工湖に沈め、日増しに水位は上昇していた。 (まさか、あの小者が我らを脅かすとはの) 永禄12年(1569)頃、都で奉行をしていた秀吉が毛利氏に対する申次衆にも抜擢され、隆景が書でのやりとりを開始した時、秀吉はまだ木下藤吉郎と名乗っていた。 その秀吉が高松城を水攻めという驚愕の作戦を執っていることに隆景は愕然とした。 清水宗治からの求めを受け、救援に駆けつけた毛利軍は足守川の西、高松城から半里ほど西の岩崎山に吉川勢、同山から10町ほど南西の日差山に小早川勢、同城から4里ほど南西の猿掛城に毛利家当主の輝元が備えた。総勢1万5千の軍勢である。「気持ちは分かる、されど…」 毛利軍は羽柴軍を威嚇するが、秀吉らは挑発に乗らずに水攻めを続行。なにもせずとも水嵩は増すばかりで籠城兵は餓死、溺死を待つといった様相である。打開策がないので、隆景は清水宗治に降伏を申し出て西に退くように下知したが、宗治は「武士の意地」と撥ね付け、籠城を続けていた。 清水宗治にすれば、命を賭けて気概を示すので、援軍にきた毛利軍も覇気を示して羽柴軍を追い払ってくれ、という気持ちであろう。 (気持ちは、痛いほどに分かる。されど……。毛利の行く末を考えると、迷惑な話じゃ) 隆景の本音である。近く、信長が大軍を率いて参陣するという噂を聞いていた。信長は3ヵ月前、一度も鎧に袖を通すこともなく、戦国最強と謳われた武田家を滅ぼしている。 羽柴軍だけでも手に余るのに、敵の総大将と対峙すれば、毛利家の命運に直結する。 既に信長の呼び掛けに応じて豊後の大友宗麟が兵を挙げ、背後を脅かされている。毛利軍は早く帰陣して備えたいところである。 膠着状態が続く中の6月3日晩、秀吉から新たな提案が提示された。これまで、秀吉は毛利家に6カ国の割譲を要求していた(諸説あり)。これを備中、美作、伯耆の3カ国に譲歩するが、清水宗治には切腹させることで、一旦和睦しようということであった。 隆景は5ヵ国で事を収めようと交渉を行なわせていた。これは『小早川家文書』や『毛利家文書』で確認できる。それだけに戸惑った。 「妙じゃの。これまで強硬に6カ国の割譲を主張していたのに、なにゆえ有利な羽柴が折れる? 羽柴の陣になにかあったのか?」 隆景は秀吉の身辺を探るように家臣に命じたが、簡単に近づけるはずもなかった。 「清水殿は切腹に応じたようにございます」 奉行筆頭の井上春忠が報せた。 「なんと!?」 驚きが半分、もう半分は安堵であった。 「恵瓊殿が説いたようにございます」 安国寺恵瓊は安芸の守護職・武田信重の息子として生まれ、父が毛利元就に攻められて自刃したのちは出家し、安国寺や都の東福寺で修行し、毛利家の外交僧となっていた。 「鼻薬でも嗅がされたか」 以前より、恵瓊は隆景の指示で何度も上洛し、秀吉と交渉を行なっていた。折衝の最中、恵瓊は信長と秀吉を、「信長の代は3年や5年は持ちましょう。来年あたりは公家(殿上人)にも成るかもしれません。されど、高転びにて仰向けに転ぶと見受けられます。なお、藤吉郎は、さりとてはの(なかなか見所のある)者です」と評している。 いずれにしても清水宗治が応じた以上、説得して長対峙を続ける必要はなくなった。 6月4日巳刻(午前10時頃)、清水宗治は船上で自刃して46歳の生涯を閉じた。籠城していた隆景の家臣の末近信賀、清水田右衛門、国府市正も別の船の上で後を追った。 (すまぬ……。されど、これで毛利は救われる) 罪悪感の中、隆景は胸を撫で下ろした。 一世一代の決断 翌5日、恵瓊から毛利輝元に、事後処理として清水宗治自刃の報せが届けられた。 輝元、元春、隆景3氏に対して、秀吉は約束は必ず守りますという3カ条からなる血判起請文を発し、撤退準備を始めさせた。 秀吉は堤防を破壊して帰途に就いた。俗に言う中国大返しの始まりである。 人工湖の水は濁流と化して流れた。激流は羽柴軍と毛利軍を見事に分断したことになる。 羽柴軍が退きにかかってすぐ、紀伊の雑賀衆から猿掛城に本能寺の変の報せが届けられた。この時、元春と隆景は同城におり、今後の対応を相談しようとしていた矢先のことであった。 「騙しおって。即座に追い討ちをかけよ!」 猛将で知られる元春は怒号した。ほかの毛利家の重臣も同調する。 (羽柴め、やりおるの。やはり、さりとてはの者か、と感心している場合ではないの) 隆景も腹立たしい。とはいえ、元春には断乎、同意できない。 「既に羽柴と起請文を交わした以上、これを破棄することはできぬ」 「筑前(秀吉)めは最初から我らを騙したのじゃ。起請文など、ただの紙切れと同じじゃ」 唾を飛ばして元春は叫ぶ。 「されど、この現状をいかがなされる? 羽柴は足守川を暴れ川に変えた。兵の移動は困難でござる。海もまた怪しい限り」 秀吉は村上水軍の来島通昌を調略しており、海から円滑に追撃できなくなっていた。 「山を迂回すればよい」 「主の仇討ちをせんとする兵は強い。これを追えば、必死に戦う。すぐに大友と戦わねばならぬ我らが、無駄に兵を損じることもござるまい。それに彼奴らは一年中戦ができる」 毛利家は織田家のように兵農分離をしていないので、農繁期に出陣できなかった。 「そちは、この屈辱、なんとも思わぬのか」 「実を取りましょう。追えば相応の打撃を与えられるが、羽柴を討てねば羽柴は憎しみの塊となる。さして我らに恨みを持たぬ信長にすら、ここまで追い詰められたのでござる。憎しみを持った羽柴が再び兵を進めてくれば、こたびの比ではござらぬ。明智が信長を討っても、主殺しが長く栄えた例はござらぬ。見事に我らを騙して、仇討ちに戻った羽柴らが勝利するに違いなし」 隆景は一息吐いて続けた。 「ここは恩を売ってやりましょう。上方が纏まるには数年を要するはず。その間、我らは失った地を取り戻し、内を固めるが先決。亡き父上(元就)も上方に望みを持つなと申されたではござらぬか」 憤怒する元春を、隆景は柔らかく宥め、渋々納得させた。さらに隆景は毛利家の旗差物まで貸してやった。お人好しな行動であるが、隆景の説得で毛利軍が追撃しなかったことで秀吉は山崎の合戦で明智軍を破り、天下取りの契機を掴むことができた。 のちに秀吉は隆景に恩義を感じ、輝元と隆景は年寄(大老)に席を列ねることになる。 毛利は追撃しなかったことで消耗戦を避けて乱世を生き延び、幕末の雄藩として明治維新を達成することに繋がった。このえ・たつはる 作家。昭和39年(1964)、埼玉県生まれ。フリーライターを経て、『時空の覇王』でデビュー。著書に、『毛利は残った』(毎日新聞社)『大いなる謎 関ヶ原合戦』(PHP文庫)など多数。関連記事■ [本能寺の変]秀吉と官兵衛の関与はあったのか?■ 真相が知りたい日本史の謎 ランキング■ 黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは■ 信長はなぜ石山本願寺を攻め続けたのか?― 地形で解く日本史の謎■ 地形で読み解く「関ケ原合戦」~地の利は西軍にあった ! ?

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    家康肉薄、豊臣の最期に殉じ…随一の忠義の士・毛利勝永

     豊臣家と徳川家が天下の覇権をかけて争った400年前の大坂の陣。最終決戦となった夏の陣での天王寺口の戦いで、徳川家康の本陣に突撃した知将、真田信繁(幸村)に劣らぬ活躍をした武将がいる。父の代から豊臣家への忠誠を貫いてきた毛利勝永。「大坂五人衆」の一人だ。獅子が羊の群れを散らすかのように躍動し、家康本陣への血路を開いたが、最期は豊臣秀頼を介錯して自害した。(川西健士郎) 毛利といっても、中国地方の雄、毛利元就とは関係ない。勝永の父、森吉成(勝信)は尾張(愛知県西部)の出身で、天下人となった豊臣秀吉の親衛隊「黄母衣衆(きほろしゅう)」を務めた古参の家臣だった。秀吉の九州攻略で武功を挙げて小倉城主となった際、秀吉の提案で森姓を毛利姓に変えたとされる。 慶長2(1597)~3年の慶長の役(朝鮮出兵)には吉成、勝永の父子で参戦。5年の関ケ原の戦いでは西軍に応じて家康の東軍と対峙し、勝永は前哨戦の伏見城の戦いで活躍した。が、本戦ではまともに戦う機会がないまま東軍に敗れて領地を没収され、やがて土佐の山内一豊に父子とも預けられた。 「一豊も豊臣恩顧の武将で毛利父子とは相通じるところがあった。最初は加藤清正が父子を預かったが、一豊は自ら申し出て引き取り、それぞれに屋敷を用意して優遇した」。土佐山内家宝物資料館の古賀康士学芸員はそう話す。 慶長16年、吉成は土佐で客死した。その3年後、大坂冬の陣に出陣する際の勝永と妻のやりとりを、江戸中期の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』はこう記す。 「命を秀頼公に奉りてんと思へども、われここを忍び出でなば、憂きがうへにもなほ憂き事や御身の上に添ふらん」。大坂に駆けつけたい思いとともに妻ら家族の身の上を案ずる勝永がそう言って涙を流すと、妻は武士の妻が何を恐れることがあろうかと笑い、「はや此(こ)の暁(あかつき)船に乗りて、武名を潔(いさぎよ)くし給へ」と促す-。 死をも覚悟した妻の言葉に意を固めた勝永は、徳川方につくと偽って土佐を出航したとされる。 ほとんど無名だった勝永の名を高めた夏の陣・天王寺口の戦いは、慶長20年5月7日正午頃、徳川軍先鋒の猛将・本多忠朝(ただとも)(千葉の大多喜藩主)隊と毛利隊の銃撃戦で激戦の火ぶたが切られた。大坂冬の陣の陣図屏風(肉筆模写)より「本町橋の夜討ち」(大阪城天守閣所蔵) 毛利隊は忠朝に続いて信州の名家である小笠原秀政(長野の松本藩主)を相次いで討ち取ると、榊原康勝(群馬の館林藩主)や仙石忠政(長野の小諸藩主)らの第二軍、酒井家次(群馬の高崎藩主)や相馬利胤(福島の相馬中村藩主)らの第三軍を蹴散らし、4千の兵で2万の大勢を壊乱させる。 「あの兵の引回しが際立っているのは誰か」 豊臣家との縁が深いため後方に控えて戦闘を眺めていた秀吉の軍師・黒田官兵衛の嫡男、長政(福岡藩主)は、感嘆のあまり、近くにいた加藤嘉明(伊予松山藩主)にそう尋ねたと伝わる。秀頼から賜(たまわ)った錦の陣羽織をまとった勝永の指揮ぶりは、徳川方についた歴戦の武将の目をくぎ付けにしたのだ。 混乱する徳川方の間隙を縫い、精鋭騎馬隊で家康の本陣を急襲したのが幸村だったが、勝永も本陣を襲い、家康は逃げるしかなかったとされる。 しかしその後、盛り返した家康の孫、松平忠直(福井藩主)の大軍に圧されて幸村が落命し、敗北は決定的に。それでも勝永は藤堂高虎隊を撃退するなど退却戦でも統制を失わず、大坂城に帰城する。 翌8日、秀頼を介錯し、後を追って切腹。豊臣家とともに38年間の人生を閉じた。

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    碧蹄館で大勝利 部下の一芸一能を見逃さなかった小早川隆景

     文祿の役で、隆景の指揮下で行動した立花宗茂は、隆景のことを島津忠恒にこう語っている。 隆景は絶えず陣中を巡回して、部下の疲労に気を配り、雑兵や人夫にまで親しく声をかけた。行軍のときは他軍が五里行くところを三里で兵を休ませるので、福島正則などは大いに不平だった。 ところが明の大軍が南下来襲し、諸将が狼狽の色を隠せずにいるのに、隆景は悠然と予期したごとく、休養充分の兵を励まして碧蹄館(へきていかん)で大勝利をおさめた。これによって宗茂も正則も、初めての大軍を迎えるときの準備、心構えを隆景から学んだという。 隆景は家来の用い方も綿密周到で、部下の持つ一芸一能を見逃さず、器量に応じた使い方をした。部下の諫言も好んで聞き、近臣たちには、つねづね、 「自分が喜ぶようなことは、身の毒になると思い、自分が嫌だと感じることは、みな薬になると思うようにせよ」 「世には、主人のために労苦して、かえって憎しみを受けたり、その反対に、私欲を図って愛される者も少なくないから、将たる者はその分別が肝要だ」 と諭した。伝毛利元就画像(模本、東大史料編纂所蔵) 隆景の生涯は、元就の教訓に従って、宗家の毛利を立てることに徹底した。元就の孫・輝元に対してもその姿勢は終生変わることがなかった。輝元が幼少の頃は、隆景の輔育は厳格で、ときには輝元を折檻したこともあったという。 天正十四年、吉川元春が病死したあとは、隆景が一人で輝元を補佐したが、毛利宗家の主として輝元を立て、小早川はあくまで分家として仕えるという立場を崩さなかった。たとえば輝元がいる座敷の前を通るときでも、隆景はかならず膝をかがめ、手を下に突いてから通り過ぎたという。 「毛利の臣」という姿勢は、秀吉や外部の者に対しても貫かれた。四国征伐のあと、秀吉から戦功として伊予一国を与えられたときも、隆景は、 「このたびの恩賞は、いったん輝元に賜り、然るのち、それがしに賜りたし」 と願い、小早川はあくまで毛利に仕える立場であることを強調している。さらに九州征伐の論功行賞では、筑前一国と筑後、肥前の一部を与えられたが、隆景は秀吉に辞退を申し出ている。 このときは、毛利の勢力を分散し、将来は九州へ移してしまおうという秀吉の意図を、隆景が見抜いたからだが、直接には、宗家と離れて筑前に住むのは不都合だからで、名誉や私情は別であった。だが秀吉は辞退を許さず、隆景は筑前名島に城を築いて移住するが、新領地の筑前でも隆景は仁政を心掛けた。 領地が増えれば家臣も増えるわけで、隆景は夜な夜な城を抜け出し、新参の家臣の屋敷辺を巡り歩いて、彼らの暮らしぶりを知るように努めたという。 (のむら としお)

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    夜討ちの大将・塙団右衛門 ただ「名」を天下に売らんがために

    と)を迎えた際に造られた。治郷の正室は仙台伊達藩主の娘。団右衛門と櫻井家も伊達家と深い関係があった。戦国時代屈指のカリスマ、あの「独眼竜」である。 尚さんは「団右衛門の娘が伊達政宗の側室に迎えられて以来、伊達家との交流が続いた。櫻井家の繁栄はやはり団右衛門を抜きに考えられない」と語る。 製鉄は第二次大戦後に廃業。現在、櫻井家住宅の隣に建つ歴史資料館で、製鉄で身を起こし、地域の発展に尽力してきた歴史を紹介し、元祖に団右衛門を位置づける。 「名を売ろうとする姿ばかりが面白く取り上げられてきたが、歴戦の戦国大名にも認められたように高い素質をもち、信望を集めた武将だったのだろう」

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    信長は「革命児」ではなかった

    信長が戦国乱世の「革命児」というイメージは、後世が作り上げた虚像だったのか。最新の研究では、従来の信長像に否定的な見方を示す学説が提唱され、大きな注目を集めている。これまでの常識にとらわれず、全く別の角度から光を当てることで、真実の信長の姿が浮かび上がる。

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    最新研究に見る「真実」の信長

    972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある。関連記事■ 吉田松陰・全国周遊から得たものとは■ 桜田門外の変・水戸浪士たちの刀■ 安土城の謎~戦国の覇王・織田信長が築城した天下の名城

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    「人物伝」相次ぎ出版 若き執筆者ら最新研究を反映

    渡部裕明(産経新聞論説委員兼編集委員) 日本史の分野で、「人物」に対する関心が深まっている。伝記や評伝の新たな出版が相次いでいるのだ。最も伝統がある吉川弘文館(東京都文京区)の「人物叢書(そうしょ)」シリーズで新作が話題になっているほか、ミネルヴァ書房(京都市山科区)の「ミネルヴァ日本評伝選」、山川出版社(東京都千代田区)の「日本史リブレット人(ひと)」などが続々、刊行されている。清文堂出版(大阪市中央区)からは今年3~7月に『中世の人物 京・鎌倉の時代編』全3巻が出た。いずれも最新の研究成果が盛り込まれ、歴史ファンにはうれしい限りだ。脇役にもスポット 「中世史への関心が高まり、研究成果も蓄積されている。成果をきちんと残すタイミングだったんです」 『中世の人物』の編集を手がけた清文堂出版の松田良弘さん(50)は言う。同社は平成17年から1巻で多くの人物を取り上げる『古代の人物』シリーズ(全6巻)を刊行中で、手応えも感じていた。 3巻が対象とした時代は、「ムサ(武者)の世」の到来を告げた保元元(1156)年の保元の乱から鎌倉中期まで。取り上げた人物は約80人にものぼり、後白河法皇、平清盛、源頼朝といった有名人はもちろん、関白で白河法皇に追放された藤原忠実(ただざね)や清盛と提携した藤原邦綱、幕府御家人の千葉常胤(つねたね)、宇都宮頼綱ら渋い脇役にもスポットを当てている。 また清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)と妻の二位尼(にいのあま)、鳥羽天皇の皇女の八条院、2代将軍・源頼家の娘の竹御所(たけのごしょ)ら史料の少ない女性も対象に。法然や貞慶(じょうけい)、重源(ちょうげん)、叡尊(えいそん)ら仏教者を、社会の変革に関わった人物として取り上げているのも新しい視点だ。 「この時代に関しては、従来の武士のイメージが完全に塗り替えられるなど、研究の進展が著しいのが特徴です。それに対応するため、執筆陣に若い研究者を迎えました」。第1巻『保元・平治の乱と平氏の栄華』の監修にあたった京都大学の元木泰雄教授は胸を張る。出版が相次ぐ人物伝シリーズ。手前が『中世の人物 京・鎌倉の時代編』全3巻。上は左から「ミネルヴァ日本評伝選」「日本史リブレット人」「人物叢書」新シリーズ続々と 日本史の人物伝といえば、昭和33年に刊行が始まった吉川弘文館の人物叢書シリーズが最も有名だ。1冊で1人の人物を紹介し、これまでに278冊が出ている。高名な研究者が執筆し、信頼性が高い一方、対象が戦前までの著名人に限られる上、いまだ出ていない人物も少なくない。 それでも最近では年5冊のペースで刊行され、2年前に出た池上裕子著『織田信長』は、目立った売れ行きを示した。同社取締役編集部長、一寸木(ますき)紀夫さんは「徳川家康や豊臣秀吉ら超有名人も、まだ出せていません。それに刊行から年月が経過し、記述が古くなるのが悩みのタネ」と打ち明ける。 これに対し、平成15年からスタートしたのがミネルヴァ書房のミネルヴァ日本評伝選シリーズ。古代から近現代まで幅広く対象にしており、比較的自由な著述が特徴。現在、138冊が出ている。さらに21年からは、山川出版社が日本史リブレット人を始めた。コンパクトで読みやすく、こちらは50冊が刊行されている。 いま、伝記や評伝の出版が相次ぐのはなぜだろうか。ミネルヴァ日本評伝選の監修を務めている京都大学の上横手雅敬(うわよこて・まさたか)名誉教授(日本中世史)は「日本史ブームが根底にあるのはもちろんだが、歴史を動かすのはやはり人間だ、ということに行き着いたのではないか」と話す。 さまざまな歴史的事件を知ろうと思ったとき、それに関係した人物の人となりや生涯を丹念に探る。このような視点で見直すとき、物言わぬ歴史も読者の前に新しい魅力的な姿を現すということなのだろう。「虚像」打破期待 『中世の人物』全3巻を、関心の赴くまま読んでみた。まずは執筆者の多くが30、40代の若い研究者ということが目を引く。そしてそれぞれの評伝に、コンパクトな副題が添えられていることも理解を助ける。これが、執筆者が最も主張したいことだからだ。 平清盛を執筆した大阪大学の川合康教授は、副題を「『おごれる』権力者の実像」とした。清盛はかなり長期間にわたって後白河法皇や藤原摂関家との協調を重んじたことが書かれており、専制政治家のイメージは「平家物語」によってできあがったことがよくわかる。 藤原頼長は「保元の乱」を起こした人物だが、中国の古典に精通した大学者としても知られる。歴史にif(もしも)は禁句だが、筆者である京都府立大学の横内裕人准教授による「彼の政治が実現していたら、日本中世の道のりはどのような行程を辿(たど)ることになったのだろう」との問題提起は斬新だ。 清盛亡き後に平氏を率いた平宗盛は「凡庸で無能な人物」の評価が定着しているように見える。しかし、責任感を持って後白河法皇とも政治的に対決した「闘うリーダー」(国立歴史民俗博物館の田中大喜(ひろき)准教授)だったとする著述にも、目を開かされた。 歴史ブームの中で、手垢のついた評価は飽きられ、新しい人物像を求める声は日々、高まっている。新しい史料や視点に基づく人物伝の出版は歴史ファンの喜びであるとともに、研究者同士の刺激にもつながる。出版不況が言われて久しいが、後世に読み継がれる良書が今後も生まれ続けることを期待したい。

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    信長は革命者ではなかったのか

    金子拓(東京大学史料編纂所 准教授) のっけから恐縮だが、題を裏返してみる。「信長は革命者であった」。そう言われると、たしかにそのとおりと感じる人が多いのではあるまいか。 兵農分離を実行し、専門の軍隊をつくった。楽市楽座を奨励して自由な経済政策を推進した。いくさにおいて画期的な鉄炮戦術をとった。最終的には自己を神格化しようとし、将軍はおろか天皇さえ超越しようとしていた。複数の権力が併存するような中世社会から脱皮し、武家権力者による全国統一政権を志した。織田信長のこの志は本能寺の変により途中で潰えたが、そのあとを引きついだ羽柴秀吉・徳川家康によって統一政権は完成した。 「大うつけ」と称される青年の頃の奇矯な身なりや、父の葬儀での型破りのふるまい。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をあざやかに破った「奇襲」攻撃。長島一向一揆に対する非道ともとれる虐殺。比叡山延暦寺への容赦ない焼討ち。空前の豪華さを誇った安土城。 これらのことをすべて含めて、織田信長を、この時代、いや日本史上に突出して強烈な個性をもった人物であると見る人は多く、その人気は衰えをしらない。彼の人物像をひと言で「革命者」と呼ぶのなら、それを敢然と否定することはできそうにない。金華山麓の岐阜公園内には若き日の織田信長像が設置されていた=2010年5月(竹川禎一郎撮影) ここで題を元に戻してみる。「信長は革命者ではなかったのか」。誰しもが疑っていなかったようなことを疑おうとしている。そのときはじめて、「では『革命者』とは何を意味するのか」ということばの定義に対する疑問が浮上してくる。 たしかに乱世によって各地に独自の権力をもった戦国大名が出現するなか、そのひとりでもあった信長の登場によって室町幕府が一時的に復興し、世の中が京都を中心とした「天下」に収束する動きを見せはじめた。最終的にはそうした状況が江戸幕府につながってゆく。信長没後三十年程度で確立された江戸幕府の姿を知るわたしたちにとって、結果的に信長は時代の流れを大きく変えるきっかけをつくった「革命者」であったと考えることは可能である。 しかしそのいっぽうで、最近の研究では、先にあげたような楽市楽座・兵農分離のような信長の先進性を示すといわれた政策、自己神格化の志向などに疑義が呈されている。「革命者」を根拠づけていたような個々の特徴が、「実はそうでもなかった」とされるようになってきたのである。 一研究者としてのわたしも、この流れから無縁ではない。ただ、それとは別に、個人的な研究関心から近づいていた信長と朝廷との関係についての主題にかかわる史料を読んでいるうち、信長は天皇・朝廷を本気でつぶそう(あるいは超越しよう)などとは考えていなかったのではないかと考えるようになり、さらに、「信長は、秀吉や家康が目的とし、成し遂げたような〝全国統一〟など考えていなかったのではないか」と感じるようになった。 しかしわたしは研究者であるから、この感覚を感覚だけに終わらせず、学問的に実証し、受け入れてもらわなければ意味がない。たんなる居酒屋談義に終わってしまう。突飛な考えだとは思ったが、日本史研究者という職業を十数年つづけて身につけているはずの職業的直感にも、いちおうの自負はある。知り合いの研究者何人かにこの突飛な考えを話すと、最近の革命者信長像への懐疑という潮流もあってか、お話にもならない愚論と否定されるどころか、そうなのかもしれないと賛同してくれる人もいて、いくぶんかの勇気をもらった。 ただ、史料からわかることをひとつひとつ積み上げて明らかになったことを論じるという自分自身の研究姿勢からは、革命者信長像を覆すという大きな議論ができそうもない。ひとまず信長と朝廷の関係を掘り下げて考えてみることで、信長が天皇や朝廷に超越しようとしていたといった考え方に反論を提示するところから、信長像の再考を提起してみたい。そうして書いたのが『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書)であった。 右の新書と、そこでの叙述の土台になった史料分析に関する論文をまとめた論文集『織田信長権力論』(吉川弘文館)によって、信長は天皇・朝廷を超越するどころか、室町将軍にかわる「天下人」として支えようとする義務感を持っていたことを明らかにしえたと思っている。 いま書いた「天下人」ということばについても説明が必要だろう。最近では「天下」の空間を日本全国というより、畿内とその周辺に限定して用いられた語句として捉える考え方が浸透しつつある。もちろん「天下」の概念はそれだけに固定化されず、より柔軟に、全国を意味して使われたばあいもあれば、時間の経過によって信長自身が使うばあいもより広域な空間を指すようになったという指摘があり、これを否定するつもりはない。 ただ、信長が本気で〝全国統一〟を考えていなかったのではないかという仮説に、この「天下」概念の限定的な理解は強力な裏づけとなる。信長の伝記的記録を編述した家臣太田牛一の『信長記』(信長公記ともいう)のなかで、牛一はこれを「信長公天下十五年仰せ付けられ」たことの記録であると書いている。別に書かれた異本には「信長京師鎮護十五年」を書いたと説明されている。つまり牛一の認識では、「京師鎮護」(京都を守ること)が「天下を仰せ付け」たことにほかならないのである。信長の「天下」は思った以上に狭いのかもしれない。 「織田がつき羽柴がこねし天下餅座りしままに食ふは徳川」という有名な狂歌がある。信長が目指し挫折した全国統一事業を秀吉が受け継ぎ、家康が完成させた。全国統一という目標に対し三英傑がリレーして実現に至ったとみなすこのような考え方を〝天下餅史観〟とでも呼んでみよう。 ところがそもそも信長は全国統一を考えていなかったという仮説にもとづけば、〝天下餅史観〟は成り立たなくなってしまう。秀吉は、当初から信長の全国統一事業を引きつごうとして(天下を獲ろうとして)明智光秀を討ち、清須会議にのぞみ、さらに織田信雄・信孝らの遺子たちや柴田勝家らとの権力抗争を戦い抜いたわけではない。右の過程のどこかの時点で、旧主信長の考えにはなかった全国統一という目標を見いだし、そこにむけて舵を切ったのである。 近年大きく進展した清須会議前後の政治状況をめぐる研究や、秀吉の構想した政権構造の研究にもとづき、右の仮説を信長死没直後の状況において考えてみても、大きな矛盾は生じないようであった。詳しくは近刊『秀吉研究の最前線』(日本史史料研究会編、洋泉社歴史新書y)に書いた小文(「秀吉は、本能寺の変後から全国統一をめざしていたのか」)のなかで述べたので、ご参照いただきたい。 最後にもう一度題に戻ろう。「信長は革命者ではなかったのか」。いままで「革命者」の要素として考えられてきたようなことがらからは、かならずしもそうはいえなくなってきている。しかしながら、秀吉と家康によって実現した中世から近世へ、戦国乱世から統一政権へという時代の変革をもたらしたという意味では、歴史という大きな川の流れに埋もれさせてはいけない「革命者」であった。体のいい逃げ口上かもしれないが、いまのところはそう考えるほかないのである。

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    「センゴク」宮下英樹が語る真実の信長

    常識とは違う目線というか、そういう人ってのは「世の中がすべて作りごと」に見えてくるんですよね。例えば戦国時代は場合によっては、人を殺しても許されるじゃないですか。なんか曖昧なルールの中で生きているわけですよね。こういう挨拶をしなければならないとか、こういうしきたりがあるとか、こういう序列でとか。そこから外れて、当時の一般社会のルールから外れた目線を持ってるという意味でも、ある種の異能者なんです。もう一つの目を持ってるという描写はそういった意味で表現しました。 いま僕たちもこうやって会話を交わしているけど、でも社会のルールには則っているわけじゃないですか。どこか心の奥底では「馬鹿馬鹿しいやりとりしてるな」って思うことも、時にはある。腹が立ったら殴り合えばいいし、ここでお互いに唾を吐きかけてもいいはずなのに、それをせずになんか一定のルールを守っている自分と、どっかで「このくだらないやりとりは何?」って冷めた目を持っている自分がいる。織田信長(右)と明智光秀=「センゴク一統記」3巻(C)宮下英樹/講談社 それを光秀に当てはめてみると、信長に仕える前は幕府に仕えていましたが、意味があるのかないのかよく分かんないしきたりの中で生きてるんですよね。その最中に信長と出会ってなんとなく絶対的なものを見るというか、拠りどころとしてというか、「この人はなんか曖昧なルールの世の中で絶対的な頼るべきものを持ってる」という風に信奉していく。自分の中で「神」のような存在にしていくわけですよね。キリストの下にいた伝道師みたいなものですよね。何を置いてもまずはキリストを絶対と立てて、その中の善悪の中で生きていくというか。光秀にとっては信長ってそういう存在で、善悪の規範だったり、世の中にある曖昧なことをかっちり変えてくれる人なんです。 でも、自分の中で絶対神であったのが、時間の経過とともにちょっとずつそれが崩れていく。人は神様がいないって思った瞬間、パニックになるんですよね。神様がいないとしたら、じゃあ我々はどういう善悪基準で生きていけばいいんだって。誰もがうろたえるはずなんですけど、光秀もそういう状態に陥っていくっていう感じなのかな。 信長にしても、さっき言った拡大路線の中で限界が出てくる。領土拡大の限界とか、経済的限界とか、統治の限界とか。拡大したところでこれは終わらないし、いずれ自転車操業になる。光秀にしてみれば、自分の肉体的限界も迫り、近い将来、絶対的な信長がいなくなったら、自分はどう生きていけばいいのか。彼の中でパニックを起こす心理状態になる。 そして、その先に見たのはキリストと一緒で、死ぬことで絶対になるという発想です。きっと光秀もそういう答えにたどり着いたんだと思う。信長は死してこそ絶対神になるみたいな。よく言われますけど、ゲバラも死ぬことで神格化されちゃうから、実はなるべく殺害したくなかったとか。うまい例えが見つからないけど、光秀の中で本当は一番恐れていたはずの信長の死を、ある時を境にそこから急に死によって絶対視しようって考えるようになった。もちろん、信長を絶対視した政権をつくろうという光秀の内面は僕の勝手な妄想ですけど、漫画的な流れでみてもそういう流れの方がおもしろいですしね。センゴクに込めた想いセンゴクに込めた想い 本能寺の変で信長が横死し、政権が改変しました。これは言い換えれば、前政権に問題があったという意味でもある。前政権のやり方に問題があったのだから、それを改変するのが次の政権の役割ですよね。だからこそ、信長の次の政権を担当した秀吉は、何よりもまず信長の経済政策は危なかっしいと思ったはずなんです。後に政権交代した徳川家康も、秀吉のやり方とは違うことをやりました。これは山本七平さんの受け売りなんですけど、秀吉と家康の違いって、実は家康の方が官僚機構をちゃんとつくっていて、秀吉は「五大老五奉行」っていうのをつくったのに結果的にうまくいかなった。織田家の新たな政略を信長に上申すべく、帷幄で謀る羽柴秀吉、石田三成、黒田官兵衛ら=「センゴク一統記」2巻(C)宮下英樹/講談社 本来であれば、政治的には五奉行の権力を大きくすべきなのに、実際は五大老の権力の方が大きかった。でも、それをやったのが家康じゃないですか。自分が中心となり五奉行を抑えつけたのに、政権を担うことになった途端、家康は武断派を外してむしろ官僚機構を制度化した。その一方で藩ごとに政治を任せたり、ある程度は藩の中で自由に統制できる余地も残した。 そうやって考えると、秀吉の統治のやり方は家康とは真逆で、各藩を統制しすぎたことに加え、武断派を外せなかったっていうのが禍根として残ったんだと思う。政治的にはそういう部分で秀吉の限界がきっとあったんです。 それと、やっぱり百姓から天下統一まで成し遂げた人だから、どこか虚無的になっちゃうんだろうなあと。これは単純な見方なのかもしれないけど、プロ野球選手が日本でトップになってしまうと、「もうメジャーに行くしかない」みたいな。もちろん、秀吉には信長への憧れもあったでしょうし、信長が日の本統一後に夢見た征明も多少なりとは影響を与えていたと思います。 武士というのはすごく不器用な生き方しかできないから、一度戦いを始めたら、すぐには止められないなんてこともよくあったそうです。信長にしろ、秀吉にしろ、どこかにそんな生き急ぐみたいな気持ちがあったと思う。僕の漫画の主人公である仙石秀久にはむしろ、そんな感じを出していきたいんですよね。「センゴク」シリーズの主人公、仙石秀久(C)宮下英樹/講談社 彼は一般的にはあまり知られていない存在でしたが、すごく描き甲斐があるんです。善悪の尺度がよく分かんない時代でしたから、敵には嫌われていても、味方には慕われているということがよくあります。仙石自身にしても長宗我部家とか、島津家に嫌われて、信長になぜか好かれていたとか。まあ秀吉にも好かれていたし、徳川秀忠(江戸幕府2代将軍)にも好かれていましたしね。 半面、(ルイス・)フロイスには、ぼろくそ書かれてますよね。だけど、仙石が「悪」でフロイスが「善」であるかって一概には言えませんよね。フロイスだって、当時は日本の占領計画を密かに進めていたり、布教のために寺社をぶっ壊したりとかしてるんで。見方を変えれば、すぐに善悪が正反対になる仙石秀久というキャラは、どっちの顔も描くことができるから、描き甲斐があるんですよね。 もちろん、彼の人生そのものもおもしろいですよね。連載を始めた動機で言うと、それが一番大きいですね。復活劇というか、彼の場合は他の復活劇とはちょっと違う。大失敗してから呼ばれてないのに自分から戦場に行って、自分で武功を挙げて復活するんです。それは他の武将にないんですよね。立花宗茂みたいに自分から浪人になってその才能がもったいないって大名に召し抱えられる人もいますけど、仙石の場合はそういうのではなくて、呼ばれてもないのに自分で機会を求めていく。まあ、昔の仲間とかが集まっては来るんですけど、美濃時代の仲間が集まって復活するっていう、そういう人柄もちょっと好きですね。自分にも重なる部分 実を言うと、連載当初の僕はほんとにゲームぐらいの歴史の知識しかなくて。知識がないところから始めているから、より分かりやすく描こうってことだけ気を付けています。自分が面白いと思っていた人物はどんどん分かりやすく描くっていう風に。いまさらですけど「独眼竜政宗」って、こんなに面白いのがあるんだってぐらい疎いっちゃ疎くて。歴史の知識がない分、現代にある問題と照らし合わせたりして、人間の感情とか、知性のもつれみたいなものを想像するしかないんです。でも今となれば、それが逆に武器になっているのかなとも思っています。 歴史というのは、当事者性というか、どうしても結果だけをみて後知恵で語ることがあるじゃないですか。信長について言えば、後世の人は信長がすべて見通してやったっていうふうに見るけど、実はそうじゃない。その当時の葛藤とか苦悩とか、人知れず苦労してようやく解決策を見つけ出してきたはずなんです。 なぜこんな戦が起こり、この戦に勝つために大将はどう悩んでどう対処したか。もっと別の視点で言えば、戦を未然に防ぐ策はなかったのかとか。現代にもつながる教訓にしたいんですよね。できれば読者には一つのイベントごとに、どうやればこの戦を未然に防ぐことができたのか、まで想像を膨らませてほしいですよね。 仙石秀久っていう人物は、特別な才能に恵まれた人物じゃありません。自分の才能を発揮する場所を選べるような立場にはなかったと思うんです。当時、才能のない国人たちはもうどっちが生存の可能性が高いかで選ぶしかなくって、でも選んだ先によっては滅びてしまうことが当たり前だった。もちろん、武士の美学みたいな発想で奉公先を選んだ人もいたでしょうけど、仙石の場合は選んだからにはそこで突っ走るっていう考え方だったと思うんです。宮下英樹氏=東京都文京区の講談社 自分がここと決めたからには、ここで突っ走る。才能がなくて失敗してもいつか必ず取り返してみせる。そんな精神の持ち主というか、境遇というか、なんとなく自分にも重なるところがあるんですよね。(聞き手 iRONNA編集部、白岩賢太/川畑希望/溝川好男)宮下英樹(みやした・ひでき) 昭和51年、石川県七尾市生まれ。富山大工学部中退後、3年間のアシスタント生活を経て、平成13年にちばてつや大賞を受賞した「春の手紙」でデビュー。センゴクシリーズのほか、今川義元が主人公の「センゴク外伝 桶狭間戦記」などの作品がある。関連記事■ 突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 安土城 信長の画期的な発想が随所に

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    「センゴク」宮下英樹が語る真実の信長

    織田信長とはどんな人物だったのか。多くの研究者や歴史ファンを虜にする彼の人物像は、いまだ多くの謎に包まれる。数々の古戦場や城跡を踏査し、膨大な資料を読み解いた独自の解釈が専門家をも唸らせる人気漫画「センゴク」の著者、宮下英樹氏に、自身が思う信長像を大いに語ってもらった。

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    日本の大築城時代 戦国の山城の謎

    囲には敵の進入を防ぐ土塁が巡らされ、尾根筋は遮断線となる堀切を設けて切断した。この曲輪、土塁、堀切が戦国時代の山城の最大の防御施設として紹介される場合が多いが、最も重要な防御施設は、曲輪の周囲を急傾斜となるように削り込んだ、切岸と呼ばれる施設である。山城の防御は、いかに敵に登らせないかであり、そのため曲輪周囲を急傾斜となるように、できるだけ削り込んだのである。登城道が失われた城跡では、現在もこうした切岸を登らなければならないのであるが、手で樹木を持たなければ、とても登ることはできない。築城当時の切岸はもっと急で、樹木も生えておらず、四つん這いにならなければ登れなかったであろう。そこへ頭上からは石が落とされ、矢が射かけられたのである。安土城跡 さらに曲輪や堀切が複雑に配置されることにより、城は迷路となり、ますます攻め難くなってゆく。そうして組み合わされた配置を縄張りと呼び、山城の生命線となる。戦国時代の山城で、縄張りを形成する土木施設のことを普請と言い、櫓や門などの建物を作事と言う。しかし、山城において作事はほとんど必要なく、土木施設こそが城そのものであった。天守や櫓という建造物を伴う近世城郭とは大きな違いである。まさに土から成る城だった。 そしてこうした人工的な防御施設を伴った山城は在地の領主の累代の詰城として維持管理される。南北朝期の城が戦争のときのみに用いられたのとは大きく異なる点である。さらに戦国時代後半になると防御施設はさらなる発達を遂げる。城の出入り口となる虎口は直進して城に入れないような喰違虎口や、枡形虎口となり、土塁には折という屈曲がつけられて側面からの射撃を可能とした。さらには緩斜面の切岸の斜面移動を封鎖するために竪堀を連続して設ける畝状竪堀群や、虎口への進入を阻止するために、馬出しと呼ばれる橋頭堡が虎口前面に設けられるようになる。 こうして16世紀の後半には土の城としての到達点を示す山城が各地で出現するが、これらは土の城からは脱皮することはなかった。 ところが織田信長によって築かれた小牧山城では石垣が導入され、岐阜城では金箔瓦が葺かれ、安土城では天主が造営された。以後、日本の城は信長によって創造された石垣、瓦、天主という3つの要素を兼ね備えた城へと姿を変える。近世城郭の誕生である。関連記事■ 安土築城は「神格化」への布石だった?■ 信長はなぜ石山本願寺を攻め続けたのか?■ 信長、秀吉も畏怖 梟雄「松永久秀」の見せる城

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    信長殺害は「手違い」だった?伊東潤が推理する本能寺の変

    伊東潤(作家)昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。 それでは、本能寺の変に至るまでの明智光秀の軌跡を整理してみよう。 天正10(1582)年5月17日=備中への援軍を命じられ、安土から坂本城へ▽同26日=坂本城を発し、丹波亀山城へ▽同27日=愛宕山に参詣し、一晩籠もる▽同28日=連歌を興行し、発句を詠む。その後、亀山に帰る(天正10年5月は「小の月」なので29日まで)▽6月1日=亀山城を出陣、山陰道を進む▽同2日=未明に桂川を渡り、本能寺を襲撃 一方、織田信長の関心は、少ない供回りで安土にやってきた徳川家康を、どこで殺すかである。忠実な同盟者を安土で殺してしまっては、天下の威信を失う。光秀は、この点を指摘したのではないだろうか。本能寺跡を示す石碑 信長は、出陣支度で大わらわの安土では、饗応(きょうおう)が十分に尽くせないことを理由に、家康に京都行きを勧める。この話を家康は断り切れない。 この頃の家康の行動を整理すると、以下のようになる。 5月15日=安土入り▽同17日=安土での饗応▽同19日=安土そう見寺(そうけんじ)で能興行▽同21日=京都入り▽同22~27日=京都見物▽同28日=京都出発、その日のうちに大坂入り▽同29日=大坂出発、堺入り▽6月1日=堺で1日3回の茶会▽同2日=信長の命により京都に向けて出発 家康は、信長の命によって畿内を行き来させられた。しかもこの日程は、信長の指示によって頻繁に変えられた。おそらく光秀は、野盗か野伏(のぶせり)を装って家康を襲撃し、信長の信用を落とさないようにして家康を葬り去ろうと、信長に提案していたのだろう。 しかし家康は隙を見せない。しかも家康には、茶屋四郎次郎という諜報機関があり、信長の行動は逐一、入っていた。それゆえ光秀はそれを逆手に取り、信長本人を囮(おとり)として家康をおびき出そうとした。 5月29日、信長は備中への後詰めのために入洛する。しかし供回りはわずかで、馬廻(うままわり)衆をはじめとした主力部隊は安土にとどまっている。15日に救援要請が入ったのだから、16日には陣触れを出しているはずで、兵農分離が進んでいる織田軍団としては、あまりに遅い。つまり信長から馬廻衆に、安土にとどまるようにという指示が出ていたとしか思えない。 京都に来るよう信長から命じられた家康は、6月2日の朝、堺を出発した。むろん茶屋四郎次郎からの情報により、織田軍主力が安土にとどまっていると知って、安心して上洛の途に就いたはずである。 危ういのはその途次である。家康は先触れを出して慎重に進んだ。しかし信長は、家康を本能寺に招き入れ、自分が抜け出した後に、野盗を装った明智勢に襲わせようとしていた。しかし、そこで手違いが生じた。ないしは信長がいると知っていながら、光秀は本能寺を襲った。 『信長公記』によると、襲撃前日の6月1日に重臣たちに決意を語っているので、“確信犯”の可能性が高い。だとすると黒光秀の面目躍如である。しかし、変後の準備不足を考慮すると、手違いが生じて信長を殺してしまったという線も捨てきれない。 さて、これが私の考える本能寺の変である。もちろん、状況証拠を積み上げた末の仮説にすぎないことは断っておく。 黒光秀なら、家康を討つと言っておきながら、信長をだまし討ちにした可能性は十分にある。問題は、本能寺の変を成功させた後である。これまで用意周到だった光秀が、人が変わったように後手に回り、勝者から敗者へと転落している。とくに味方を増やせないまま、秀吉と戦い、無残な敗北を喫するのは、いかにもおかしい。 こうなると光秀という人物の本質がどこにあったのか、本当に分からなくなる。手違い説だと、うまく説明できるのだが、それ以外、変後の計画性がないことを説明できない。 本能寺の変は謎のベールに包まれている。その理由の一つは、光秀という人物の「己を偽装するのに抜け目がない」と言われるほどの捉えどころのなさに起因している。黒か白か、または二面性を有していたのか。人というのは実に謎に満ちている。完璧な作戦で勝者となったにもかかわらず、その後の計画性がなく、光秀は敗者に転落した。そこには、何か大きな謎が介在していたとしか思えない。【注】そう見寺の「そう」は手へんに頭にノを付けた口の中に夕、下に心※産経新聞の連載「敗者烈伝」の完全版は月刊「J-novel」(実業之日本社)で連載中です。関連記事■ 謀反の狙いは信長、秀吉の殲滅? 「電撃作戦」失敗の理由とは■ 官兵衛の本心を疑った家康■ 秀吉と官兵衛の関与はあったのか?

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    信長が光秀を折檻した裏に「家康暗殺計画」?

    伊東潤(作家)昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。 明智光秀というのは、どうにも捉えどころのない人物である。残された記録が、両極端な人物像を示しているからだ。 日本人の書いた種々の記録では、光秀は穏やかな性格で民に優しく、信心深い上に詩歌文学にも通じた教養人であり、礼儀正しく謹厳実直ということになる。これが、いわゆる白光秀である。 一方、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にある光秀像こそ、黒光秀の典型だろう。「徳川家康公フィギュア」 「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」 慈悲深い仏のような白光秀では、いかに吏僚(りりょう)として優れていても、信長家臣団の首座を獲得するのは難しい。つまりフロイスの描く黒光秀は、かなり実像に近いと思われる。だとすると、ほかの記録との辻褄(つじつま)が合わない。 おそらく「己を偽装するのに抜け目がない」という一節に、光秀の二面性ないしは多面性が示されているのだろう。 さて本能寺の変にまつわる諸説は、大別すると野望説・突発衝動説・怨恨(えんこん)説・黒幕説に分けられる。野望説については、黒光秀の観点からは最も妥当なように思える。しかし、本能寺の変成功後の無計画さから、常に疑問が呈されている。 最近では、怨恨説の一種である四国問題説というものが注目を集めている。すなわち信長が、「四国の儀は元親(もとちか)手柄次第に切り取り候へ」(『元親記』)という約束を反故(ほご)にし、四国進攻作戦を行おうとしたことで、光秀が恨みを抱いたというものである。しかし面子(めんつ)をつぶされたくらいで、謀反に及ぶだろうか。 天正10(1582)年3月11日、信長は武田勝頼を滅ぼし、天下統一まで、もう一歩となった。この時、信濃国の諏訪で行われた祝宴の席上で、「われらも長年にわたって骨を折ってきたかいがあった」という光秀の言葉を聞きつけた信長が、「お前がどれほどのことをしてきたのか」と怒り、光秀の頭を欄干に叩(たた)きつけたという逸話がある(『祖父物語』)。 この話は、史実としての信憑(しんぴょう)性が低いとされるが、常識では考えられない異常な行動だからこそ、真実ではなかったか。武田家を滅ぼした信長の自己肥大化は、この頃、急速に進んでいたからである。 いずれにせよ武田家の遺領は、功を挙げた者たちに分け与えられることになった。この時、徳川家康は駿河一国を拝領する。 甲斐国からの帰途、徳川領を通った信長は、家康を安土城に招いた。駿河一国拝領の御礼もあり、家康は、その誘いを断ることができない。ちなみに武田家が滅亡することで、信長にとって、家康は不要な存在になっていた。 かくして5月15日、家康は安土に伺候(しこう)する。この時、家康の饗応(きょうおう)役に指名されたのが光秀である。しかし饗応方法をめぐって信長と意見の対立があり、激しい折檻(せっかん)を受けたという。 これは仮説だが、この時、自己肥大化の極にあった信長は、安土で家康を殺せ、と光秀に命じたのではないか。しかし光秀は拒否した。それで信長は切れて折檻に及んだ-。 この時、光秀が代替え案を提示したことで、信長は矛を収め、光秀に備中高松城行きを命じる。むろん、信長が合意した秘策があってのことである。 実はこの頃、秀吉が高松城を攻撃しており、苦戦を強いられていた。その救援要請が安土に届いたのは、家康が安土に到着したと同じ15日である。※産経新聞の連載「敗者烈伝」の完全版は月刊「J-novel」(実業之日本社)で連載中です。関連記事■ 突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 安土城 信長の画期的な発想が随所に

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    信長の何よりの「新しさ」は発想の転換

    の印。岐阜城の攻略後、信長はこの印章を用い、「天下」平定を高らかに宣言した ぼくも大好きなのですが、戦国時代を舞台にしたゲームをしていると、どんな戦国大名も天下の統一を目標としている。天下人になるために隣国を侵略しよう、他の大名をうち倒そうと、もう毎日、がんばって努力している。あれ、本当なんでしょうか? 小田原城の後北条氏(ごほうじょうし)が欲しかったのは、一貫して関東です。上方(かみがた)への対応を怠って、豊臣秀吉のすごさがわからず、滅ぼされちゃった。毛利元就(もとなり)も一生、吉田郡山城(広島県安芸高田市)というさほど大きくない山城に住み、中国地方に覇を唱えることを目標としている。それ以上は望んでいない。 一国を支配することで満足している大名もいます。越後の上杉謙信、越前の朝倉義景(よしかげ)、美濃の斎藤道三などはそのタイプでしょう。だいたい、けわしい山や大きな川など、地理的な条件によってひとまとまりになっている地域が「国」として区画されていたわけですから、その国を支配の単位とする、というのはリーズナブルだったわけです。戦国大名は地域の「王さま」 駿河(するが)の今川義元は桶狭間で織田信長に討ち取られてしまったために、京都の文化にかぶれた暗愚な人物としてテレビやゲームに登場しますが、実際には「海道一の弓取り(戦上手)」と謳(うた)われた有能な大名でした。彼は今川領国の法律というべき「今川仮名目録」を制定し、その中で力強く宣言します。 「いま、大名は自身の力量でもって法律をかかげ、領国内を穏やかに保っている。だから、わが今川家の権勢の及ばぬことが、国内にあってはならない」 天皇や将軍の権威をあてにせず、領国を自らの実力で支配する戦国大名。彼らはその地域の「王さま」と呼ぶべき存在です。彼らの興味の対象がもっぱら自国に限定され、天下だとか、国家だとかが意識されなかったのは、むしろ当然ではなかったでしょうか。「日本」を作っていった信長信長の花押(かおう)(サイン)で平和な世に出現する霊獣、麒麟(きりん)の「麟」の図形化。戦乱のない世を意識していたのだろう。 諸大名が牽制(けんせい)しあう中でいち早く上洛(じょうらく)を果たしたのが織田信長で、彼は室町将軍を奉じて天下に号令し、やがて天下人へと成長していく。ぼくたちは何となくそう理解していますが、よく考えてみると、これは全くおかしい。一つには、信長が上洛する以前にも京都周辺には三好長慶(ちょうけい)や松永久秀など権力者は常にいたわけですが、彼らが天下人を志向していたようには見えません。 もう一つ、根本的な問題として、実力が重んじられていた戦国の世に、将軍を奉じるという大義名分が有効に機能した、というのがヘンテコリンです。このあたりは研究者によって意見が分かれるところですが、先に見たように「自らの力量」で領地を治めていた大名たちが、伝統的な権威をかつぐ信長にひれ伏した、とするのは矛盾というほかはない。 じゃあ、どう考えるか。この列島は統一されるべきだ。そう発想を転換したところに、信長の何よりの「新しさ」があった。ぼくはそう解釈したいのです。信長は実力を蓄えるために、経済的にもっとも豊かな畿内の制圧を進めた。他の大名を圧倒する生産力に依拠しながら、信長は「日本」を作っていったのではないでしょうか。関連記事■ 信長の次男織田信雄 プライド捨てて秀吉に臣従 ■ 先見性をもたなかった凡将・謙信■ 小牧山城からみえる信長の驚くべき築城技術

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    織田信長、築城革命の真実

    織田信長が初めて築城した小牧山城の最新発掘調査で、信長が当時群を抜く高い築城技術を持っていたことが改めて証明された。従来の信長像を否定する最新研究に注目が集まる中、近世城郭の始祖とされる信長の築城術から見えるものとは何か。戦国築城革命の全貌に迫る。

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    信長、秀吉も畏怖 梟雄「松永久秀」の見せる城

    れる。それ以前の城は、戦闘目的に特化した土造りが一般的と考えられていた。しかし、最新の発掘調査では、戦国時代の奈良市周辺で、信長以前にも瓦を使用するなど、「戦国三大梟雄(きょうゆう)」の一人に数えられる武将・松永久秀によって独自の発展を遂げていた可能性が浮上。専門家から「安土城以前に畿内では『戦う城』から『見せる城』への転換があったのではないか」と脚光を浴びている。屈指の山城 奈良市との府県境に近い京都府木津川市の鹿背山(かせやま)城。市教委が平成20年度から現地調査を進めている。ここで安土城よりも古い時代の城の瓦が出土した。 鹿背山城はそもそも、興福寺(奈良市)の勢力下にあり、街道や木津川の水運を押さえる交通の要衝だったとされる。武将・松永久秀が入手し、改修を加えて城の防御力を強化したとみられる。 安土城以降、普及する天守閣や石垣を備えてはおらず、基本的には土造りの城だが、滋賀県立大の中井均教授は「土造りの城の最終段階ともいえる防御施設で、久秀が大和を守る最前線の城として強化した」と注目する。 この城跡からは、畿内以外の同時期の城にはない瓦も出土しており、中井教授は「畿内では他の地域のような巨大勢力が成長せず、あまり防御施設は進歩しなかったが、見た目で周囲を威圧するという独自の発展を遂げたのではないか」とみている。久秀の「見せる城」 瓦ぶきの城は、信長、さらに豊臣秀吉の時代に一般的となる。しかし、それ以前に造られた「見せる城」として注目されるのが奈良市の多聞山(たもんやま)城だ。これは安土城よりも約20年前に、久秀が築城を始めている。 久秀をめぐっては、「室町幕府の将軍・足利義輝を暗殺した」「東大寺を焼き打ちした」など多くの逸話が残る。さらに、その築城技術は現在も高く評価されている。 奈良市中心部は当時、興福寺が絶大な権力を誇り、武士の本格的な築城は珍しかったが、久秀は興福寺などの寺院勢力を次々と屈服させ、東大寺や春日大社も見下ろす標高115メートルの小高い山の上に多聞山城を築いた。 それまでの城造りは、居館を山麓に設け、城は周辺を見渡す険しい山の上に防御施設を巡らすのが普通だった。しかし、多聞山城は、その常識とは異なり、東側の若草山(標高332メートル)よりも低く、山頂から内部の防御施設をのぞかれる恐れもあった。 それでも久秀は、寺を見下ろす場所を選んで築城した。麓に居館はなく、城の中に屋敷を構えて居住したとみられる。三笠霊苑から見た多聞山城跡=奈良市城の先進性 多聞山城には、立地以外にも特徴がある。 当時、城を訪れた宣教師や僧侶らが残した文献には「城壁と堡塁(ほうるい)の壁は白く輝いていた」「すべての家屋と堡塁は美しい瓦でおおわれていた」と書かれている。「四階建ての櫓」の記述もあり、後の「天守閣」に相当する建造物ではないかとも考えられている。 多聞山城跡は現在、奈良市立若草中学校の敷地となっている。中学校は文化財保護法が制定される前の昭和23年に建てられたため、十分に発掘調査もされずに城の遺構は破壊されたが、瓦は出土していた。 久秀が支城とした鹿背山城のほか、奈良市の南側にある同県天理市の龍王山城でも瓦が出土している。 中井教授は「畿内では『戦う城』ではなく、ふんだんに金と技術をかけ、見た目のインパクトで周囲を威圧する『見せる城』へと進化を遂げたのでは」と推測。「戦争に使う防御施設としては『先進的』とは言いがたいが、それまでの城とは一線を画すという意味では“畿内先進型”ともいうべき独自の進化だ」と評価する。信長にも影響? 「将軍と三好氏は(久秀の)望むこと以外何もできない」と言われるほど勢力を伸ばした久秀だが、筒井氏ら地元の武士の巻き返しに遭い、窮地に立たされたこともある。 その頃、畿内に乗り込んできたのが信長だった。 久秀は信長と会い、大和一国を任されて援軍を授けられ、勢力を盛り返す。 久秀は信長を裏切って再度許され、さらに裏切って死亡するという複雑な経緯をたどるが、一度目に裏切って許された際、多聞山城を信長に献上している。 しかし、信長は天正4(1576)年から、久秀の多聞山城の破城(取り壊し)を始める。 久秀に代わり大和を任された筒井順慶は、奈良市に隣接する現在の同県大和郡山市に拠点を置いたため、“先進的”な多聞山城はわずか16年間で姿を消すのだが、信長が多聞山城を訪れた記録が残されている。その後、信長が安土城の築城を始め、天守閣や漆喰の壁、瓦ぶきの屋根、石垣などを採用しているため、「多聞山城が近世城郭の先駆けか」「信長にも影響を与えたのでは」とする説も依然根強い。 信長が畿内に入る前に築城した岐阜城(岐阜市)や小牧城(愛知県小牧市)でも瓦は使われているため、中井教授は「(信長が)畿内の城について知っていたとは思えない」とするが、「信長と畿内で、同時に『見せる城』の発想が生まれたのではないか」と推測する。 さらに、久秀が多聞山城の築城で動員したとみられる、奈良の大寺院の瓦をふいていた職人集団は、信長も安土城築城の際に集めている。このため、中井教授は「畿内の城の“先進性”を支えた技術は、信長以降も受け継がれ、全国の統一基準として広まった」と関連を指摘する。 古代史ばかりが注目を集める奈良。だが、「見せる城」が独自発展したかも知れない戦国時代にも“発掘”すべき魅力が秘められている。(橋本昌宗)関連記事■ 安土築城は「神格化」への布石だった?■ 戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■ 謀反の狙いは信長、秀吉の殲滅? 「電撃作戦」失敗の理由とは

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    信長の城と近世城郭

    信長の城の歴史的意義 中世から近世にかけて日本全国でおよそ3万カ所にもおよぶ城が築かれた。中世には武士だけでなく、有力な寺社も、自治的な都市も、自立的な村も、それぞれ城を構え、自らの政治的主張を行い、生命と財産を自力で守った。さまざまな集団が多様な城を分立的に築いたのが中世社会であった。そうした時代に織田信長は現れた。 信長は当時の城が大名と家臣との横並びの関係でできていたのを打破し、自らを頂点とした城へとつくりかえた。さらに武士だけが城を築くように転換し、城を城下の中心に据えて、都市プランの中に大名を頂点とした社会を表象させた。つまり信長が次々と築いていった城は、中世的世界を脱却し、近世的世界を生み出していく大きな原動力であった。だから信長は近世城郭の成立に大きな役割を果たしただけでなく、近世社会の成立そのものに深く関わったのである。「仙台城」の大手門脇櫓 一説に、天守や石垣、礎石建物・瓦の使用などをもって近世城郭の画期とする考え方がある。しかしこうした歴史観では、近世城郭でも石垣を用いなかった関東地方の城郭や、寒冷な気候に合わせて瓦を用いなかった東北地方の城郭を、不完全な近世城郭だったと評価することになってしまう。 また江戸時代の城で天守を建てなかった仙台城や福岡城も、やはり近世城郭として不完全ということになる。さらに多くの近世城郭は落雷などで天守を失い、その後再建しなかった。これらの城も最初は完全な近世城郭であっても、途中から不完全な城郭になったといわなくてはならないのだろうか。つまり天守、石垣、礎石・瓦の使用を近世城郭の指標として城を捉えるのは歴史観として大きな問題があり、適切ではない。近世城郭成立の指標 それでは近世城郭成立の本質的な指標とすべきものは何か?それはずばり城のかたち、とりわけ階層的な城郭構造の成立といえる。一般的に城は、本丸、二の丸、三の丸のように階層的な構造だったと理解している方が多いだろう。最も守られていた本丸が中心にあり、次に守られたのが二の丸、その外側に三の丸といった城のかたちをイメージしていただくとわかりやすい。ところが信長が活躍しはじめたころ、多くの城は本丸を中心にした階層的な構造になっていなかった。 戦国期のほとんどの城郭は、大名のいた場所と、家臣のいた場所は基本的に横並びの関係にあり、家臣のいた場所も本丸同様に独立したひとつの空間として完結した防御力を備えた。こうした中世的な城の構造は、大名と家臣たちとの権力が拮抗していて、大名が必ずしも絶対的な力をもっていなかったことに起因した。信長が若き日に城主になった愛知県名古屋市の那古野城、清須市の清須城も、そうした城であった。いずれも城といっても館を基本に堀をめぐらした館城で、主体となる那古野城や清須城のまわりには、家臣が暮らした大小の館城が群在していた。 尾張統一に向けて奔走した若き日の信長は、ときに重臣に反目され、自らの親衛隊を頼りに戦わなければならなかった。しかし信長は1560年(永禄3)に桶狭間の戦いで今川義元を破り、推戴していた守護の斯波氏を追放して、名実ともに戦国大名としての地位を確立していった。そうした変化をふまえて1563年(永禄6)年から信長が築いたのが、愛知県小牧市の小牧山城であった。小牧山城から岐阜城へ 小牧山城は古くは美濃攻めの砦とされてきたが、筆者の研究で南山麓に大規模な城下の町を建設したことが明らかになった。その後の小牧市教育委員会による発掘で、小牧山城の中心部は石垣で固めた本格的な居城であったことも確実になった。山麓から山腹までは直線的な大手道が伸び、山腹から本丸まではつづら折れの屈曲道の大手道にしたのも、のちの安土城と共通した。小牧山城の復元想像図(小牧市教委提供) 信長は室町時代以来の伝統的な館城を廃して山城へ移行し、最も高い位置にあり、石垣を独占して使用し、自らが住んだ本丸とその周辺を特別な空間として、家臣と差をつけた。1567年(永禄10)に信長が城を移転した岐阜城を、1569年にたずねたイエスズ会の宣教師ルイス・フロイスは、信長は家族とともに山頂の山城に住み、信長の許可がなければ何人も山城へは登城できなかったと記した。信長だけが圧倒的な高さの山城に暮らし、柴田勝家や羽柴秀吉などの家臣たちは山麓の屋敷地に住まわせて、信長は家臣に対して超越者としてふるまおうとしていた。安土城天主と近世城郭安土城跡 1576年(天正4)から築城を開始した安土城に、信長が城づくりを通じてめざしたものが凝縮されている。信長は高石垣と地形によって最も守られた城の頂点に、さらに人為的な高みとしての天主を築いた。信長は天主を住まいにしたことで、自分自身を象徴したシンボルとして天主を位置づけていった。天主すなわち可視化された信長を頂点に、一族や家臣たちは序列化されて屋敷を与えられ、天主を核とした階層性は、城下の町におよんだ。つまり安土城で信長が実現したのは、信長自身を頂点とした世界そのものであった。 本能寺の変後、信長の天下統一を受け継いだ豊臣秀吉や徳川家康も、日本各地の大名も信長の城づくりを継承していった。信長の城づくりは「織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)」として、近世城郭の標準になったのである。「織豊系城郭」は1987年に筆者が提唱した概念で、戦国期城郭から近世城郭が形成されていく過程は、信長と秀吉の城と、それを規範とした城が各地に成立していく動きとして説明できることを明らかにしたものである。 近世城郭が普遍的に備えた階層的な城郭構造そのものが、信長の城を継承した証であり、天守や石垣や瓦がなくとも、近世城郭が近世城郭たり得た根本であった。このように考えると、信長が築いたひとつひとつの城は廃城になっても、信長がめざしたものは、日本各地の近世城郭にはっきりと刻まれ、生きつづけたといえるだろう。関連記事■ 安土築城は「神格化」への布石だった?■ 戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■ 謀反の狙いは信長、秀吉の殲滅? 「電撃作戦」失敗の理由とは

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    小牧山城からみえる信長の驚くべき築城技術

    は何といっても石垣の検出であろう。 城なのだから石垣が使われていて当然と思われるかも知れないが、実は戦国時代の城に石垣はほとんど用いられていない。日本列島には14世紀から17世紀に至る300年の間に約3~40,000にのぼる城が築かれたのであるが、そうした中世の城は文字通り土から成る土木施設であった。 こうした土の城を石の城へと一変させたのが織田信長であった。信長は石垣に止まらず、瓦、礎石建物をも導入し、それまでの城郭とはまったく異なる城郭を築いたのである。この3つの要素を持つ城の出現は、日本城郭の革命的変化といっても過言ではなく、今見る城の祖形が誕生したのである。3つの要素を今少し詳しく分析すると、石垣は高石垣、瓦は金箔瓦、礎石建物は天主に置き換えることができる。この3つの要素は単に軍事的な防御施設ではなく、見せる城を意識したものと考えられる。戦国時代の城が戦うことに重点を置いていたことに対して、信長の城は天下統一を具現化するシンボルとしての見せる城を意識したものであった。小牧山の航空写真(小牧市教委提供) ところで、従来では石垣、瓦、礎石建物を伴う城として最初に築かれたのは、天正4年(1576)の安土城(滋賀県近江八幡市)だと考えられていた。それが小牧山城跡の発掘調査によって再検討する必要が生じたのである。さらに岐阜城跡(岐阜県岐阜市)でも近年の継続的な発掘調査によって大きな成果があがっている。 岐阜城は金華山の山に築かれた山城と、山麓に構えられた居館から構成される山城である。近年、その山麓の信長居館が発掘され、ほぼ全域が石垣によって築かれていることが明らかになった。石垣には巨石が用いられ、その構築には高度な技術者集団が関与していたことはまちがいない。さらに門があったと考えられる個所からは金箔を施した飾り瓦をはじめ軒瓦が集中して出土しており、門や主要な建物には瓦が葺かれていたことも明らかとなった。これら石垣や瓦は信長時代のものと考えて間違いない。 つまり信長の見せる城はすでに永禄10年(1567)の岐阜築城によって意識されていたことが明らかとなったのである。 小牧山では発掘調査を開始する以前から山頂部のまわりに積まれた石材が認められ石垣の存在は知られていたが、いつの時代のものであるかは不明であった。それが発掘調査によって山頂部の主郭まわりがすべて巨石を用いた石垣によって築かれており、その構築年代も信長時代のものと判明した。つまり信長による新しい城造りは岐阜城よりも古く、永禄6年(1563)に築かれた小牧山城までさかのぼることが明らかとなったのである。 ここで小牧山城跡で検出された石垣の構造について詳しく見ておこう。ほぼ主郭部の周囲に築かれた石垣は二段に築かれているのが大きな特徴となっている。これは主郭周囲を一気に高い石垣を築く技術がまだなく、3~4mを積んで、いったん犬走を設け、セットバックさせて、さらに一段を積む段築工法であった。上段の石垣と下段の石垣は同じ工法ではなく、上段では長辺が2mにおよぶ巨石が用いられている。その石材は粗割りされたチャートが用いられており、石材と石材の隙間には間詰石が詰められているのであるが、どうもただ単に詰めているのではなく、装飾的に配置している。下段の石垣は上段に比べ小さな石材となるが、均等な大きさの石材を選び、横目地を通そうとしている。これも視覚的効果を狙ってのことと思われる。高さを築く限界はあったものの、段築にも工夫のあったことがわかる。 ところで、石垣の石材に墨書が認められたことも大きな成果である。「佐久間」と判読され、その佐久間とは信長の有力な家臣である佐久間信盛のことであろうと考えられる。信長は石垣の構築に家臣を割り振りをしてあたらせていたようである。石垣構築はその後、割普請と呼ばれる分担体制が確立し、徳川幕府は諸大名を動員する天下普請をおこなう。発見された墨書はこうした割普請がすでに小牧山築城段階に存在したことを示している。 さて、今年度の調査は主郭の北面で実施されたのであるが、また新たな発見がいくつかあった。ひとつは上段石垣の背面構造が明らかとなったことである。主郭は盛土によって造成されているのであるが、そこに石垣を築いては崩落の恐れがあるため、盛土の前面にまず人頭大の石材を縦に積み上げ、その前面に栗石(裏込石)を充填させて石を積み上げて石垣としていることが判明した。石垣はただ石を積み上げるだけではなく、崩落を防ぐため、背面にこうした工夫をしていたのである。 今ひとつは、三段目の石垣の発見である。北面もこれまで同様に二段の段築石垣と見られていたのであるがもさらに下段にもう一段石垣が築かれていたことが判明したのである。この最下段の石垣はこれまでの段築石垣の石材に比べかなり小さな石材を用いているのが大きな特徴となっている。また、高さも上の二段に比べてかなり低く築かれている。こうした構造より、見せる石垣というものではないようである。小牧山は南・東・西面は比較的なだらかで、そこを段築して曲輪となる平坦面を築いている。ただ北面だけは急傾斜となっており、曲輪もほとんど構えられていない。三段目の石垣は、急斜面の上部に二段の石垣を築くため、その崩落を防ぐための土留めとして構えられた石垣と見られる。 今年度の調査によって小牧山城の石垣が、単に石を積み上げるだけではなく、崩落防止のために背面や、基礎も入念に工事が施されており、技術力の高さを知ることができたのである。 信長の築城では、小牧山城ですでに石垣の導入が始まっていることが明らかとなったのであるが、その石垣は決して初源的な工法ではなく、すでにかなりの水準に達していた石垣技術が導入されていたのである。小牧山城跡で検出された巨石を積むという工法は、後の岐阜城にも用いられており、山麓の信長居館の枡形にも巨石が用いられている。おそらく小牧山築城に参加した石工集団が岐阜築城にも動員されたものと考えられる。 小牧山城跡で検出された石垣 ところがこれまで信長の革命的な築城のスタートラインに位置づけられていた安土城は小牧山城、岐阜城とは様相を異にし、巨石を用いなくなってしまった。一見すると小牧山城や岐阜城の石垣普請に従事した石工集団とは別の工人が動員されたように思えるが、私は同じ工人が関与した可能性が高いと考えている。これまで安土城の石垣は近江の石工によって積まれたといわれているが、その関与を示す史料は後世のものであり、同時代史料は存在しない。常識的に小牧山築城や岐阜築城に関与した工人を利用しないわけがない。むしろ積極的に安土築城に従事したのではないだろうか。石材は小さくなるものの安土城では8mにおよぶ高石垣が出現する。見せる石垣は石材の大きさから、威圧感を与える高さが求められるようになったのである。また、石垣上に重量建物が築かれるようになり、勾配が取り入れられたのである。 近江では近年石工に関して重要な調査成果があった。それは岩瀬谷古墳群(滋賀県湖南市)の発掘調査で検出された矢穴痕である。花崗岩などの石材を割る場合、まず母岩に鑿(ノミ)で長方形の溝を点々と刻み、そこへ鏨(タガネ)を入れて玄能(ゲンノウ)で叩くと、岩は溝のラインで割ることができる。こうした割り方を矢穴技法と呼んでいる。いわば切手のミシン目の原理で石を割るのである。鎌倉時代に中国より伝えられた技術である。岩瀬谷古墳群の矢穴は13世紀頃のものと考えられ、さらに周囲の少菩提廃寺や善水寺では14世紀に矢穴技法によって割られた石材を加工した石仏が確認されており、矢穴は当初仏教勢力が求めた石造物製作のために導入され、以後寺院の技術として脈々と伝えられる。 安土築城の20年前、弘治2年(1556)に築かれた観音寺城(滋賀県近江八幡市)の石垣にはこの矢穴技法によって割られた石材が用いられている。さらに観音寺城の城主である六角氏に関わる佐生城(滋賀県東近江市)、小堤城山城(滋賀県野洲市)、三雲城(滋賀県湖南市)などでも矢穴技法によって割られた石材を用いた石垣が残されている。 このように近江の石垣技術は寺院勢力による矢穴技法で割られた石材が用いられていたのである。この矢穴は信長の安土城には導入されておらず、やはり安土築城に近江の石工は動員されておらず、小牧山城や岐阜城の石垣を積んだ石工集団が安土城の石垣を積んだものと考えられる。 今回の小牧山城の発掘により、信長の城郭への石垣志向が小牧山築城にまでさかのぼることが明らかとなり、さらにその石垣構築は現場で適当に積んだものではなく、高度な技術によって積まれていたことも判明した。今後は小牧山築城で、その技術がどこから伝えられたものかが大きな課題となるだろう。関連記事■ 安土築城は「神格化」への布石だった?■ 戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■ 謀反の狙いは信長、秀吉の殲滅? 「電撃作戦」失敗の理由とは

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    信長苦戦ス! 姉川の合戦と小谷城の謎

     元亀4年(1573)8月、織田信長は浅井長政の居城小谷おだに(滋賀県長浜市)を攻め、その際、長政が妻(市)と娘の三姉妹(茶々・初・江)を信長に託した話は有名です(『浅井三代記』)。 しかし、信長はその小谷城を攻め落とすのに3年もかかっています。 今回は、小谷落城にかかわる姉川の合戦の謎と落城の真相に迫ってみたいと思います。 元亀元年(1770)6月、信長は朝倉義景を討つべく越前に侵攻し、金ヶ崎(敦賀市)を落としますが、そのとき信長の耳に、「長政離反」の一報がもたらされました。 長政は信長の義弟。そのとき、信長は「浅井は歴然御縁者たるの上(中略)虚説たるべき」(『信長公記』)といい、すぐには信じませんでした。 それだけ長政を信じていたのでしょう。 結果、信長は命からがら京へ逃げ帰ることになります(金ヶ崎崩れ)。 信じていたぶん、信長の怒りは激しいものでした。 その年の6月、信長は裏切り者の長政を成敗すべく、大軍を率いて長政の居城小谷を包囲しました。 しかし、織田軍の勢いもそこまで。何しろ、小谷城は峻険な山城。天下に名高い堅城を、そう簡単には攻め落とせません。 そこで信長は、浅井勢を平地に引っ張り出し、野戦に持ちこむ作戦にでます。写真は小谷城のある小谷山 小谷城は峻険な山城です。 そこで信長は、浅井勢を平地に引っ張り出し、野戦に持ちこむ作戦にでます。 まず信長は、羽柴(のちの豊臣)秀吉らに命じて城下を放火してまわらせました。 そうして、籠城していた長政と援軍の朝倉勢を姉川北岸に誘い出すことに成功します。 一方の織田勢は姉川の南岸に陣し、加勢の徳川軍と共に、6月28日の未明、姉川を挟んで両連合軍の決戦の火蓋が切って落とされます。 ところで最近、信長が傘下の武将へ、二十八日までに岐阜城(当時の信長居城)へ軍勢を終結させるように求める史料が発見されています。 もし、彼らを決戦に投入する考えだったと仮定したら、信長の予想より早く、浅井勢は姉川を挟んで織田勢と対峙したことになります。 そして、そのことがこの合戦に大きく影響するのです。この碑は浅井勢らが陣した姉川北岸にあります。 旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』の記述をみるかぎり、両連合軍の兵力は、「織田二万九〇〇〇・徳川五〇〇〇」(計三万四〇〇〇)に対して、「浅井八〇〇〇・朝倉一万」(計一万八〇〇〇)の兵力差がありました。 しかし、ほぼ3倍の兵力を誇る織田勢は、浅井勢に押しまくられ、『甲陽軍鑑』によると、十五町(約1.6㌔)も後退させられます。 ところが徳川勢の奮戦によって、ようやく逆転勝利を得たといいます。 結果、『信長公記』は、 「宗徒(主な武将)千百余討取。大谷(小谷の誤り)まで五十町追討ち、麓を御放火」 と記し、通説は織田・徳川の勝利だとしています。 つまり、織田との決戦に敗れ、ふたたび居城に籠城するしかなくなった浅井勢は、このまま衰退の一途を辿るかのようにみえます。 ところが、朝倉方の史料(『朝倉始末記』)には「互角ノ合戦ニソ成ニケル」とあり、逆に織田方の将兵「千余人」を討ち取ったと書かれています。 それぞれ“身びいき”の部分を割り引いて考えると、勝負は引き分けとみるのが妥当でしょう。 だとすると、織田勢2万9000に岐阜城からの後詰の兵が加わり、数の上で浅井・朝倉連合軍をより圧倒してしまっていたら、この合戦で織田・徳川連合軍が完膚なきまでに敵を粉砕していた可能性もなくはありません。 ただ、浅井側からすると、この合戦の勝敗はそう大きく態勢に影響しませんでした。 というのも、長政は、信長の誘い出しに引っかからず、合戦に8000の兵だけ送って兵力を温存させていたからです。 この勝負は、まず長政の“作戦勝ち”であったとみるべきでしょう。 そして信長は、このとき浅井勢の力を温存させたことを激しく悔やむことになります。 信長はその生涯において、なんどか窮地に陥っていますが、そのひとつに直面するのです。  姉川の合戦から三ヶ月、元亀四年(1573)の九月二十三日、三好三人衆が籠る大坂の野田・福島砦を攻撃中、信長は陣を引き払い、京へ急行しようとしました。  三好三人衆と連携する浅井・朝倉勢が信長の留守(出陣中)を狙い、京へ軍勢を進めているという急報が入ったからです。  しかし、京へ急ぐ信長の前に荒れ狂う江口川(現・安威川下流)が立ちはだかります。  三好勢らによって渡し船が撤去され、織田軍は一歩も前へ進めなくまりました。  殿軍(しんがり)を和田惟政・柴田勝家の両将に命じているとはいえ、三好勢に背後を襲われたら、進むに進めず、織田勢は壊滅する危険もありました。  そのとき信長の冷静な分析力が的確な判断を下します。  実際に馬を川に乗り入れ、流れが見た目ほどでないと確信するや、全軍に渡河命令を下したのです。  かくして、信長の判断どおり雑兵も徒歩で無事渡河することができました。  ところが、その翌日には徒歩ではとても渡れないほどの水かさになったため、江口付近の人々は、 「奇特不思議の思ひをなす事なり」(『信長公記』) といって皆、驚いたというのです。  しかし、すべては、姉川の合戦で浅井勢の力を温存させてしまったがために招いた窮地だったといえるでしょう。 姉川の合戦で「織田・徳川連合軍」が勝利したとみるのが一般的です。 しかし、徳川時代に書かれた史料には、徳川勢の奮闘を誇張し、彼らが信長の窮地を救ったとする作為が感じられます。 また、信長側も、当時、将軍足利義昭と険悪な関係にあったため、結果以上に合戦の勝利を喧伝する必要がありました。 したがって、「織田・徳川連合軍」の勝利という話は、こうしたことから生まれた虚報といえるでしょう。 信長にしたら、姉川の合戦で浅井勢の息の根を止められなかったことが痛手となります。 大坂の野田・福島で窮地に立たされたこともそうですが、その後、難攻不落の小谷城はなんど攻めても落ちませんでした。 それはやはり、小谷城が峻険な山城であったためでしょう。 小谷城は清水谷と呼ばれる逆V字形に切れこんだ谷を挟んで、右側の峰と左側の峰に分断されています(下の写真参照)。 右側の峰の山頂付近にある本丸へ攻め上がる方法はふたつありました。小谷城の模型 小谷城は清水谷と呼ばれる逆V字形に切れこんだ谷を挟んで、右側の峰と左側の峰に分断されていました。 右側の峰の山頂付近にある本丸へ攻め上がる道はふたつあります。 まず、ひとつは峰下の大手口を突破する方法です。大手道 しかし、写真からおわかりいただけるとおり、大手道はかなり急峻で、道の途中にはいくつも出丸がもうけられていました。 ここから攻め上がるには、かなりの被害が予想されます。 もうひとつが、本丸のある右側の峰と左側の峰を分かつ清水谷方面から水之手道を攻め上がる戦術です。清水谷から水之手道方面を望んだところ 姉川の合戦の2年後、実際に信長はこの戦術を取ろうとしますが、攻めきれずに引き返しています。 というのも、左側の峰の山頂にもうけられた支城の大嶽おおづく城とその尾根上にある出丸から背後を攻撃されたからです。 つまり、小谷城は右側の本城と左側の支城(大嶽城)が独立しながら、互いに連携できる“鉄壁の守備陣形”を敷いていたのです。 それではなぜ、信長はこの難攻不落の山城(小谷城)を攻め落とすことができたのでしょうか。 信長が清水谷方面からの城攻めに失敗した翌年の八月、小谷城は陥落して長政は自害します。 市(長政の妻)が幼い三姉妹(三女の江については小谷落城後に生まれたとする説もあります)を連れ、炎の中、城を脱出するのはこのときのことです。 その年、浅井にとって最大の後ろ盾だった武田信玄が他界し、小谷城から至近の距離にある山本山城主・阿閉あつじ貞さだ征ゆきが織田方へ寝返ったことが痛手となります。 信玄を失って孤立していた長政を、貞征が見限った形です。 やがて、貞征に呼応するかのように大嶽城に付随する砦(焼尾砦)の守将も織田方へ寝返り、これで万事休ス。 大嶽城はあえなく陥落してしまいます。 前述したように、小谷城は、大嶽城(左峰)と本城(右峰)が連携して、難攻不落の威を誇っていました。 大嶽城が落城してしまえば、“丸裸”も同然といえるでしょう。 こうして、水之手道を攻め上がった羽柴秀吉らの前に、落城します。 ただし、もし姉川の合戦で織田勢が大勝利をおさめ、そのとき長政の首を挙げていたとしたら、信長はここまで浅井勢に苦しまなかったでしょう。 だとすると姉川の合戦は、戦略的にみて浅井方の勝利とみなすほうが適切かもしれません。 (筆者注 以上の内容は「信長、秀吉、家康 「捏造された歴史」 (双葉新書)から一部引用したものです)関連記事■ 安土築城は「神格化」への布石だった?■ 戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■ 謀反の狙いは信長、秀吉の殲滅? 「電撃作戦」失敗の理由とは

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    安土城 信長の画期的な発想が随所に

     政治家たちは国の発展や幸福を何も考えていない  織田信長の最後の居城「安土城」は、天正10(1582)年、家臣の明智光秀の謀反により、信長が京都・本能寺に没すると、13日後に原因不明の火災で炎上し灰燼(かいじん)に帰した。豪華を極め、絢爛(けんらん)と輝いていた天主(安土城のみが天守のことを天主と呼ぶ)は、わずか3年の命運であった。 安土城天主は、それ以前の軍事的役割は減少し、信長の権勢と「天下布武(ふぶ)」の象徴としての壮大な建築物であった。近世城郭における権威の象徴としての天守は、安土城によって確立されたと言ってもいいだろう。安土城天主に続いていた大手道 実際、天主は不等辺八角形の天主台に、5層6階、地下1階、高さは石垣上32・5㍍、本丸から46㍍という巨大なもの。琵琶湖の湖面から計算すると、天主頂上部分までの高さは「霞が関ビル」(147㍍)に匹敵するものであった。 安土山は高い山ではないが、近江一円を見渡すことができた。東海・北陸と京都を結ぶ要地であり、北・東・西の三方を琵琶湖に囲まれた要害の地でもあった。 要害の地に山城を築く発想自体は、戦国大名であれば誰もが考えることではあるが、安土城の縄張は信長の画期的な発想が盛り込まれている。 当時の城は、外敵が攻めてきたときに守りやすいように、何重にも道をくねくねさせるのが常識だったが、信長は天主へと続く一番重要な道を真っすぐにつくった。信長の心意気は、武田信玄や上杉謙信のように「領国だけを守る城」ではなく、「天下を治め統一する城」をイメージしたためといわれている。 安土の城下には斬新な政策が次々と実行され、「楽市楽座」や「関所の撤廃」などで経済都市として繁栄し、家臣たちが在所を離れて城下に住むことで、兵農分離が進んだ。 信長は、戦国乱世に暮らす人々に、天下統一による平和で安寧な時代の到来と織田政権の力を、安土城築城によって知らしめたかったに違いない。 【所在地】滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 【城地の種類】山城 【交通アクセス】JR東海道本線(琵琶湖線)「安土駅」から徒歩約20分。 はまぐち・かずひさ 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。

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    戦国史上最も謎に満ちた名将2人の決戦

    玄との決戦直前に、小田原城に拠る北条氏康も攻めているのでしょう。第4次川中島合戦は、桶狭間と連動する戦国時代の大きなうねりの中で起きていたのです。通説を生みだした『甲陽軍鑑』 それでは、第4次川中島合戦はどんな経過を辿ったのか、一般に流布している通説に基づいて簡単にお話ししましょう。 永禄4年8月14日、謙信は春日山城を出陣し、16日に妻女山に布陣。武田方の海津城の西に位置する小山で、城を見下ろせたといいます。軍勢は、1万3000でした。 一方、海津城主・高坂昌信(春日虎綱)の煙火によって謙信出陣を知った信玄は、8月18日に甲府を出陣し、24日に妻女山西北の茶臼山に布陣しました(雨宮とも)。ここで上杉方の出方を見つつ、29日に海津城に入ります。軍勢は2万。ここからしばらくは、海津城の武田軍、妻女山の上杉軍の睨み合いとなります。 膠着状態の末に先に動いたのは、武田方でした。山本勘助の献策による、いわゆる「啄木鳥戦法」で勝負に出るのです。1万2000の別働隊で妻女山を背後から奇襲、驚いて山を下りてきた上杉軍を、八幡原で待ち受ける 8000の本隊で挟み撃ちにする作戦です。9月9日夜、武田軍は行動を開始。高坂昌信率いる別働隊が妻女山の裏にまわり、信玄自らは本隊を率いて八幡原に向かいました。 明けて9月10日早朝。武田軍本隊は、別働隊に追われてくるはずの上杉軍を待ち構えていました。ところが霧が晴れた時、目の前に現われたのは、隊伍を整えた上杉軍でした。 前日、謙信は海津城の炊煙がいつもより多いことから武田軍の意図を見抜き、信玄と決戦すべく夜半密かに妻女山を下りていたのです。そして、いわゆる「車懸り」の陣で、攻撃を開始。車輪状の陣形でぐるぐると回り、常に新手で敵と戦うものといわれます。 出し抜かれた武田軍本隊は押しに押され、武田信繁や山本勘助が討死。そして乱戦の中、謙信が信玄本陣に突入し、両雄は一騎打ちに及ぶのです。 しかし午前10時ごろ、妻女山に向かっていた武田軍別働隊が八幡原に到着。これによって戦局が逆転し、謙信は兵を引くこととなりました。勝敗は「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされ、ライバル同士の名勝負として語り継がれることとなったのです。 こうした通説は、基本的には『甲陽軍鑑』(以下、『軍鑑』)に依拠しています。江戸時代に甲州流軍学書として広く読まれ、それに様々な脚色が加えられて、現在のような流れになったものでしょう。 しかし『軍鑑』という史料がありながら、なぜ、合戦の実像がわからないのか。それはこの書が、極めて複雑な性質を持つからに他なりません。江戸時代には権威を誇った『軍鑑』ですが、明治以降は「武田遺臣・小幡景憲が後世、高坂昌信に仮託して創作した偽書」などと批判に晒され、史料的価値がはとんど認められなくなりました。内容に明らかな事実誤認があり、また山本勘助が架空の人物と見なされていたからです。 ところが近年の研究で、『軍鑑』は再評価されつつあります。国語学者・酒井憲二氏により、戦国当時の言葉遣いが使われていることが判明し、さらに平成20年に新史料が発見され、軍師か否かは別として、山本勘助の実在が確実となりました。もはや「後世の偽書」とはいえないのです。ただし難しいのは、史実と合致する部分がある一方で、やはり事実誤認もある点でしょう。史料として使える部分と、そうでない部分があるのです。 第4次川中島合戦についていえば、武田信繁と山本勘助が討死し、多数の死傷者が出たことは史実と符合します。しかしこれも不思議なのですが、他の合戦と比べると両将の発給した感状が著しく少なく、細部までの虚実を明らかにできないのです。他にも、明確に不自然な部分があり、そのために『軍鑑』をベースにした通説に対し、今も様々な疑義が呈されているのです。謎が謎を呼ぶ諸説 特に疑問視されているのが、「啄木鳥戦法」です。真夜中とはいえ武田軍別働隊の動きを謙信に察知されないわけがない、信玄がそんな作戦を立てるだろうか、といった見方が古くからあります。また、迂回ルートでは時間がかかりすぎるという指摘もあります。 私も迂回ルートとされる道を実際に歩いたことがありますが、道幅が狭く、夜中に大軍が移動するのは困難だと感じました。また不自然なのは、武田軍本隊より別働隊の方が人数が多い点です。これは明らかに合戦の常道に反しており、啄木鳥戦法については再検証の余地があるでしょう。 念のため付言すると、『軍鑑』は「啄木鳥戦法」という名称は使用しておらず、別働隊の攻撃ルートも明示していません。通説の啄木鳥戦法は、後世の解釈によって創作された部分もあるのです。 謙信の「妻女山布陣」も議論されています。敵勢力下の妻女山に布陣すれば、越後への退路を断たれる恐れがあり、謙信がそんな危地に赴くだろうか、というのです。また最近では、妻女山付近には武田方の城砦群があり、「それらを攻略して、上杉軍が妻女山に布陣するのは困難」とする見方も出されています。妻女山後方には鞍骨城、川中島西側には横田城などの城砦があったという指摘です。 私が横田城跡を見た印象では、謙信が攻略できぬほどの城であったかどうかは正直わかりませんでした。一方、妻女山に登ると、当時つくられたものかはわかりませんが、曲輪を思わせる遺構もあり、妻女山布陣を完全には否定できないと思いました。 両軍の死傷者が約 8000に及んだことも、疑問を呼んでいます。決戦の結果として、この数自体は妥当と思われます。しかし『軍鑑』が記した通りの白兵戦であれば、戦いの常識として、これほどの損害が出る前にどちらかが撤退するはずだというのです。そのため両軍は行軍中、濃霧のために意図せずして衝突し、大混戦の中で死傷者を増やしたのではないか、という「不期遭遇戦」説があります。 これも史料では立証できないので、何ともいい難いものです。ただ以前、私は旅行会社の企画で合戦当日(新暦の10月28日)に、川中島を訪ねたことがありますが、その日の早朝、川中島は深い霧で覆われていました。それを踏まえると、霧の中の衝突は、可能性としては高いのかもしれません。 これら以外に、地元に残された伝承にも興味深いものがあります。例えば、両軍の激戦地とされる八幡原の西側には旧川中島神社と陣馬公園があり、伝承によると合戦の際、両軍のいずれかが陣を構えたといいます。そうなると、戦いの状況も異なる可能性が出てきます。また飯山市では、謙信側の勢力圏だったにもかかわらず、「上杉軍が逃げてきて、川に架かる橋を切って落とし、武田軍の追撃を免れた」という伝承も残ります。 こうして見ると、第4次川中島合戦がいかに謎に満ちた戦いかが、おわかりいただけることでしょう。桶狭間合戦や長篠合戦も諸説ありますが、それらに比べても、あまりにも全容が謎めいているのです。 最後に、川中島合戦の歴史的意義についてお話ししましょう。戦いの実像がわからないとはいえ、第4次合戦で信玄と謙信が戦国最大級の死闘を演じたのは事実であり、その後も両者は戦い続けました。歴史に残る名勝負ですが、あえて酷な言い方をすると、両者にとっては痛恨の戦いともいえます。激闘の間に、織田信長の台頭を許してしまったからです。仮に信玄と謙信が同盟、もしくは和睦していれば、戦国史は大きく変わったはずです。 一方で、どちらかが勝っていれば、その勝者が信長を圧倒していてもおかしくはありません。そうすると、織田、豊臣、徳川と受け継がれた天下人の系譜が変わっていたかもしれないのです。つまるところ、川中島合戦は単なる名勝負にとどまらず、現在に至るまでの日本史の流れを左右した、一大合戦というべきものだったのです。おわだ てつお 1944年、静岡市に生まれる。1972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある。関連記事■ [本能寺の変]秀吉と官兵衛の関与はあったのか?■ 黒田長政・父譲りの調略で呼び込んだ関ケ原の勝利■ 家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る■ 楠木正成 ・「痛快無比の英雄」の魅力■ [八重と幕末会津](1)会津若松城籠城戦を戦い抜く

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    信玄と謙信「川中島の戦い」の謎

    戦国最強の両雄、武田信玄と上杉謙信が12年余にわたり激突した川中島合戦は、現存する史料がほとんどなく、軍記書の『甲陽軍鑑』等が描く内容が定説化してきた。闇に埋もれた戦いの姿と両雄の実像に迫る。

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    信玄と謙信の一騎討ちは史実か?

    いたものの、前久が返書で省略したのでしょうか。そう考えるほうが不自然だと思います。 なぜなら、いかに戦国時代といえども、大将どうしの一騎打ちはそうある話ではないからです。相手が本当に敵将の信玄だったのなら、返書であっても、前久は“信玄と太刀討に及ばるる段”と記し、省略しないはずです。 そうしなかったのは、謙信の手紙に、そんな事実は記されていなかったからだと思います。 乱戦のなか、大将の謙信みずから太刀をとり、武田の将兵と戦っていたのは事実でしょう。ただ問題は、その中に信玄が含まれていたかどうかということです。 ここで上杉方の史料に目を向けてみましょう。 『上杉家御年譜』によると、本陣を崩された信玄は、千曲川にそそぐ御幣川(おんべいがわ)のあたりまで逃げのびたことになっています。 この内容を信じるなら、上杉勢に本陣を蹴散らされ、信玄は雨宮の渡しで千曲川を渡り、本国の甲斐方面へ逃走しようとする魂胆がみえみえです。それをみて、上杉勢は御幣川の下流へと馬足を速めます。そして、武田方の兵が弓矢を捨ててこぞって逃走するなか、信玄を猛追した武将がいたのです……。 『上杉家御年譜』によると、信玄は千曲川にそそぐ御幣川(おんべいがわ)のあたりまで逃げのびたことになっています。それをみて、上杉勢は御幣川の下流へと馬足を速めます。その上杉勢の中に、信玄を猛追した武将が1人いました。川中島の合戦の両雄一騎討ちの武田信玄と上杉謙信の銅像 荒川伊豆守という無名の武将です。その伊豆守は信玄をとらえ、斬りかかります。そのときの情景を『上杉家御年譜』はこう記しています。 「(伊豆守が信玄へ)三太刀マテ討共(うつとも)徹セズ(目的を達せず)、信玄太刀ヌキ合(あわ)スル間(ま)モナク(太刀を抜く暇もなく)、團(うちわ)ヲ以(もっ)テ受(うけ)ハツス」 伊豆守が三太刀、信玄へ斬りかかりますが、うまくかわされ、信玄は執拗な伊豆守の攻撃を何とか軍扇でかわしたというのです。 『甲陽軍鑑』の記述と酷似している話です。 そのあと、信玄の危急を知った武田家重臣の原大隈守が伊豆守へ槍をいれ、「信玄忽チ運ヲ開ク」と記されています。 しかし、信玄の太刀打の相手が無名の武士であったことで、『甲陽軍鑑』の内容とは大きく異なっています。 いったい、武田方の史料(『甲陽軍鑑』)と上杉方の史料(『上杉家御年譜』)のどちらが正しいのでしょうか。ここはひとつ、両陣営に属さない公平な史料に答えを求めたいところです。 しかし、残念ながら、そういう史料は見当たりません。ただし、この合戦を目撃していた第三者的な”ある有名人”がいました。 天海僧上その人です。ご存じ、のちに徳川家康の参謀となる怪僧ですが、前半生は謎につつまれています。 その天海が当日、近くの山から、合戦の模様を見学していたと、ある史料に記録されているのです。 果たして天海の目に、この合戦はどう映ったのでしょうか。 天海はこのころ武田家に寄宿し、川中島の合戦を目撃していました。 その目撃談には、 「御幣川の中へ両方(馬を)乗り入れて輝虎(謙信)も太刀、信玄も太刀にて(中略)戦い候」 とあります。 ここでも、信玄が御幣川まで逃げてきたことになっています。やはり、乱戦の中、信玄の本陣が切り崩され、大ピンチに陥っていたのはたしかなようです。 そして、注目すべきは、信玄の太刀討ちの相手を謙信だといっていること。しかし、結果からいうと、それは天海の見間違いでした。というのも、その日の激戦が終わり、天海が信玄の御前に伺候したときのことです。 謙信との太刀討ちの話になると、信玄の顔色が急に変わり、不機嫌な様子でこう吐き捨てたといいます。 「謙信と太刀討ちしたるは我にあらず。甲冑を同じくさせ候、信玄真似の法師武者(影武者)なり」 そのくせ、信玄は傷を負い、後ろに凭れなければならない状態。影武者どころか、信玄本人がその日の合戦で誰かと太刀討ちしていたのは明らかです。 それでなぜ信玄は、天海に嘘をつかなければならなかったのでしょう。それは、相手が謙信ではなかったからだと考えるしかありません。 武田方の『甲陽軍鑑』の著者は、信玄が名もない武者と一騎打ちしたのでは末代までの恥となるため、相手が敵将の謙信であり、それも正々堂々、本陣に突入してきた相手の太刀を軍配で受け返したと偽装したのでしょう。 この一騎打ちの真相はどうやら、信玄の相手を荒川伊豆守とする上杉方の史料(『上杉家御年譜』)に軍配があがったようです。 つまり、大乱戦の中、信玄も謙信も互いに太刀をとって戦ったが、大将どうしが相まみえることはなかった――というのが正解なのではないでしょうか。関連記事 ■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 三成・失敗の研究~関ヶ原での計算違い■ 秀吉の死 その時官兵衛は何を目指したのか■戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か

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    「川中島」とうとう勝負がつかなかったわけ

    【激闘の日本史 戦国編・井沢元彦】「どう戦国は終わったか」 信長以外の戦国大名が採用している徴兵制の第1の欠点は、兵士の9割が農民との兼業兵士であるために、農業が忙しい時期、つまり農繁期には、思い切った戦いはできないということだ。 たとえば武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の合戦」、前後5回にわたって戦いながらとうとう勝負がつかなかったという。 その理由は「双方とも名将であったから」ではない。実は戦国大名がいちばん思い切った戦いができるのは晩秋から翌年の春までである。つい最近まで東北の農民が「出稼ぎ」に出ていた時期に重なると言えばおわかりだろう。この時期は農作業がない。だから領主も農民を最大限徴兵して戦争に専念できる。イラスト・吉田光彦 ところが信玄と謙信が戦った川中島は信濃国(長野県)で、この時期には雪が降る。また謙信の本国越後国(新潟県)は完全な雪国である。この時代、雪の中で戦う事は出来ない。それどころか下手をすると帰れなくなる。 つまり川中島の合戦というのは、両者が思い切って戦おうと思っても、その時期は「稲の刈り入れが終わってから初雪の降るまでの間」という極めて短い期間に限定されてしまうのである。これでは決着はつかない。ボクシングで言えば12ラウンドやらずに、常に3ラウンドで引き揚げてしまうようなものだからだ。 しかも、もう一つ問題なのは、「戦いには勝った。しかし数千の兵を失った」というのは本当の勝利とは言えないことだ。なぜなら兵は同時に農民であり、その分農業の生産力が低下するからだ。これが徴兵制の持つ第2の欠点である。 そして第3の欠点もこれに関することだが、戦死した兵の補充に極めて時間がかかるということだ。農民一家の父が足軽となって出征して戦死したとしよう。父の代わりはいないから、息子達が成長するまで待たねばいけない。その間数年、下手をすれば十数年かかる。だからこそ思い切った総力戦は出来づらいということにもなる。 そしてもう一つ、人間タダ働きだと身が入らないということがある。ほとんど無給なのである。いくら家族が人質に取られているからといって、無理矢理命のやりとりをさせられるのだ。ときには「やってられねぇや」と思うこともあるだろう。 そういう時、大将は「この城を落としたら、城内の物は自由に奪っても良いぞ、女も自由にせい」などと命令を出す。足軽たちは歓声をあげて仕事に精を出す。こうでもしなければ士気を向上させることは難しい。つまり、戦国大名の軍勢は敵の領内に突入したら略奪や乱暴は当たり前なのである。その意味では野盗強盗と変わりはない。 ここで大河ドラマなどでも散々取り上げられたエピソードを思い出していただきたい。信長が初めて京に入ったとき、部下の兵士に「庶民から略奪するな、乱暴も決して許さぬ」という命令を出し、実際にそれを厳しく守らせたため、信長軍は京の民の信頼を得たというエピソードである。これは確かな記録にもある本当の話なのだが、問題は信長軍にはなぜそれが可能だったか? という点である。 もうお分かりだろうが他の大名の軍隊だったら、庶民に対して略奪や乱暴を繰り返し、あっという間に信頼を失っただろう。実際、平安時代末期に平家を初めて京から追い出した木曽義仲は、それで民の信頼を失ったのである。しかし信長は兵に給料を払っている。だから兵は略奪などせず、銭を払って商人からちゃんと物を買うのである。関連記事 ■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 三成・失敗の研究~関ヶ原での計算違い■ 秀吉の死 その時官兵衛は何を目指したのか■戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か

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    先見性をもたなかった凡将・謙信

    【戦国武士秘録 中村彰彦】 戦国の世は兵農分離以前の時代だから、第一章で見たような雑兵たちには農民もふくまれる。ということは、将たる者が大軍勢を動員して遠征をおこなうのは農閑期にせよ、ということでもある。 田植え時、稲刈りの季節などに農兵をかき集めようとしたりしたら一揆が起こるかも知れないし、年貢高が減少して大名家の屋台骨が揺らぎかねない。だから上杉謙信はいつも稲刈りがおわってから関東へ出撃し、翌年の田起こしの季節までに帰国するのをつねとした。謙信が越後と上野(こうずけ)の国境(くにざかい)の三国峠(標高1244メートル)を越えた回数については、12回説と14回説がある。 対して小田原北条氏およびその息のかかった関東の土豪たちは、きわめて巧みに動いた。 圧倒的に強い上杉軍がやってくると息を潜め、帰国すれば取られた土地を取り返す。これについて私は、「謙信からすれば、果てしなくモグラ叩きをさせられるようなものであった」と評したことがある(『名将がいて、愚者がいた』講談社文庫)。上杉謙信 こうして次第に疲れを体内に溜めこんでいった謙信は、遠征途中に豪雪の三国峠を越えるときも大きな馬上杯から酒を飲んでいたようだ。過労、ストレス、過度の飲酒癖に由来する脳溢血というのが、かれの真の死因であろう。 それでは、謙信が過労とストレスを溜めこまない方法はあったのか。答えはイエス。そしてこのとき参考になるのは、信長が何度も居城を替えた事実だ。 駿河の今川氏から遠ざかるため尾張の那古屋(なごや)城から清須城へ。美濃の斎藤氏を攻めるため同城から北東の小牧山城へ。美濃を奪って岐阜城へ。ついで、より京に近い安土城へ。 天下取りをサッカーになぞらえるなら、信長というフォワードはゴールを狙うためにポジションを変えるのが大変うまかった。対して謙信は越後の春日山城から越中、能登方面に居城を移すこともなく、関東にしっかりとした城郭を築いて小田原北条氏に対抗しようともしなかった。厩橋(うまやばし)城という関東経営のための前線基地を持ち、ここに城代を置いていたにもかかわらず、だ。 信長と比較しては気の毒かもしれないが、こう眺めてくると謙信はとても天下統一のためにリーダーシップを発揮できるような名将ではなく、ゾーン・ディフェンスに明け暮れたローカルな武将だったといってよい。 しかもまったくハチャメチャなことに、生涯独身だった謙信は景勝、景虎のふたりを養子として迎えながら、どちらに上杉家の家督を相続させるのかを明言しないまま死んでいった。そこから直江兼続を筆頭とする景勝派と景虎派の間に血で血を洗う争い(御館の乱)が起こったことを考えれば、謙信は領国の経営問題、政庁の移転問題、家督相続問題等のすべてにわたって先見性をもたなかった凡将だ、という結論になる。関連記事 ■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 三成・失敗の研究~関ヶ原での計算違い■ 秀吉の死 その時官兵衛は何を目指したのか■戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か

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    天下をとるべく動き出すのが遅すぎた信玄

    【戦国武士秘録】中村彰彦 上杉謙信の能力の限界に触れた以上、すでに何度か名前の出た武田信玄にも言及しておきたい。 天文10(1541)年6月、父の武田信虎を駿河へ追放して甲州に自立した晴信のちの信玄は、翌年から信州を併合することに意欲を見せた。信虎の同盟者だった諏訪頼重を滅ぼすかと思えば、信濃府中(のち松本)の林城主小笠原長時、葛尾(かつらお)城主村上義清らを連破したあたりはなかなかのものだ。 信玄には、甲州と信州とを平等に扱おうとした気配も見える。信州の善光寺と瓜ふたつの甲府善光寺を建立したこと、諏訪頼重の娘に産ませた四男勝頼を後継者に指名したことなどはその一例といってよい。 しかし、誤算もあった。越後の上杉謙信が村上義清の加勢依頼に応じて信越両国の国境へ南下をこころみ、両雄は天文23(1553)年から永禄7(1564)年までの丸12年間に、何と5回も川中島で戦うことになったのだ。 これは、信玄の年齢でいえば33歳から44歳にかけてであり、武将として、いや人間としてもっとも充実する時期に当たる。信玄も天下に野心があるなら謙信のことはもう少しうまくあしらっておいて、信長のようにせっせと京への足掛りを築くよう努めるべきだった。 だが、信玄が実際に西上を開始できたのは小田原北条氏と和睦した元亀3(1572)年10月のこと。同年12月、信玄は遠州三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康軍を破ったまではよかったが、あけて翌年4月12日には陣没してしまった。享年53。あきらかに信玄は、天下を取るべく動き出すのが遅すぎたのだ。 さらにかれの第二の誤算は、勝頼が期待したほどの器ではなかったことだ。 妙に強気だった勝頼は先の大戦中の日本軍のように戦線を拡大していった結果、天正3(1575)年5月21日におこなわれた長篠の合戦(対織田・徳川戦)に惨敗を喫した。信玄・勝頼の二代に仕えた「武田二十四将」のうち9人はすでに死亡していたが、残る15人のうち7人までが長篠で討死してしまったのだからすさまじい。 しかも勝頼は、長坂釣閑(ちょうかん)、跡部勝資(あとべかつすけ)の側近ふたりに政治をゆだね、ふたりが賄賂で私腹を肥やしているのを咎(とが)めようともしなかった。いわば勝頼には信玄のような求心力とリーダーシップがともに欠落していたのであり、それが武将たちの相次ぐ離反を招いた。木曾福島城主木曾義昌は信長に接近、武田一族の穴山梅雪(ばいせつ)は家康と同盟……。 信長・家康が武田家討伐に踏み切る直前の天正10(1582)年初め、すでに勝頼は兵力を7、8千人しか動員できなくなっていた。三方ヶ原の戦いには二万七千人が出動したというのになぜこんな数字になってしまうかというと、武田家の甲信二州の支配の実態はゆるやかな豪族連合でしかなかった。だから豪族(武将)たちが背けば、その家臣団も消えてしまうのだ。 ◇ 武田勝頼の兵力が、一気に7、8千まで激減してしまったという話のつづき。 これと併行して武田討伐を開始した織田信長・信忠父子は、計12万の大軍を木曾から伊那谷へ侵入させた。すると、飯田城を守る武田側の兵力五百は、戦わずして逃げ散ってしまった。 その理由を知るには、城を守るには周囲の家を焼きはらって敵兵の潜む余地をなくする、という戦術が一般的だったことを頭に入れておいていただきたい。守兵たちが籠城戦を覚悟して城外を見つめるうちに夜となり、闇の奥には点々と赤い火が明滅するようになった。守兵たちはそれを織田の鉄砲足軽組の構えた鉄砲の火縄の列と思いこみ、抵抗を諦めて逃亡したのだ。 しかし、この闇に明滅する赤い火の正体は、実は馬糞にほかならなかった。守兵たちが周辺の家を焼いたときにあたりに落ちていた馬糞も燃え、夜になるとそれが「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、火縄の列であるかのように感じられたのだ。 「馬糞ニ脅(おびやか)サレ、城ヲアケタリ(ト)云(いう)事ハ嘆(なげき)テモ猶(なお)余(あまり)アリ」 とは、武田側史料『甲乱記』の著者の溜息だ。 高遠城を守っていた弟の仁科盛信も玉砕したと知って勝頼が韮崎の新府城へ兵を引いたとき、その兵力はわずか一千しかいなくなっていた。これでは織田軍と最後の一戦をこころみ、戦場に華と散ることも叶わない。勝頼は家老職のひとり小山田信茂の提案に従い、その領地都留郡に逃れることにした。 だが、馬300匹、人夫500人を出せと命じてもだれも出てこない。しかも、やっとのことで都留郡に近づくと、小山田信茂自身が裏切り、関所を作って鉄砲を撃ちかけてきた。 こうして100人ほどしかいなくなってしまった勝頼一行は、3月11日、田野(たの)の奥に潜んでいたところを織田家の猛将滝川一益勢に発見され、万事休した。勝頼の16歳の長男信勝も同時に自刃して武田家はここに滅亡したから、同家は信玄の死後9年間しか保(も)たなかったことになる。 その最大の要因は、信玄が後継者選びを間違えたことだ、と私は思う。もしも信玄が四男勝頼ではなく五男仁科盛信に家督を相続させておけば、供が100人しかいなくなって山奥へ逃げこむなどという情ない最期だけは遂げなかったに違いない。 たしかに、盛信の守る高遠城は3月1日に玉砕した。しかし、籠城軍3000のうち雑兵をふくめて2580余人が討死したのに対し、20倍に及んだ織田軍のそれは2750余人(『高遠記集成』)。もしも両軍がまったく同数だったら、前者が勝っていた可能性が高いのだ。 しかも籠城者たちは、明日は決戦と知っても飯田城のようには浮足立たなかった。謡曲や小唄舞の一節を吟じ合って別れの宴とするなど、最後までみごとに団結していた。これは盛信が兵を練るのに長じていたためであり、この人物に全武田軍の指揮を取らせてみたかった、と思うのは私だけではあるまい。関連記事 ■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 三成・失敗の研究~関ヶ原での計算違い■ 秀吉の死 その時官兵衛は何を目指したのか■戦国の覇王が築城した安土城の謎に迫る■突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か

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    三成暗殺未遂 秀吉の死で勃発した“内紛”

    加藤清正らの奇襲を逃れた三成は伏見城に立て籠もった秀吉の死で勃発した“内紛”の行き着く先は不協和音 秀吉の生前からいがみ合っていたこの両派。特に三成と清正、正則、さらには豊前中津城主・黒田長政との対立は覆いようもなかった。 幼い頃から秀吉のもとで目をかけられていた4人だった。だが、会社でいう管理部門の道を歩んだ三成と営業部門の道を進んだ3人とは価値観を違えるようになる。 そこに、文禄元(1592)年、朝鮮半島を舞台に起きた「文禄の役」では後方支援担当のはずの三成が秀吉の権威をバックに現場に口を出したうえに、独自の目線で秀吉に戦況報告する始末。 続く第二次朝鮮出兵「慶長の役」では、最大の戦いとなった蔚山(うるさん)城攻防戦で三成配下の軍目付が、明国軍の攻撃で長政らは戦わなかったなどと誤った報告をするなど、軍目付と現場とが評価をめぐってトラブルを続出させる。 さらに秀吉の死で撤兵して大坂に戻ると、そこにいたのはわがもの顔で戦後処理を仕切る三成。激怒した清正ら現場の諸将と三成の間にできた不協和音は修復不可能なところまできていた。 そんなときに両派のつなぎ役になったのが利家だった。優れた武勇を誇り、人柄も温厚。まさに仲裁役としてうってつけの存在だった。 しかし、秀吉が亡くなる直前から体調を崩していた利家の衰退ぶりは隠しようもなく、その死はすでに予期されたものであり、豊臣政権の中でも、まもなく分裂が訪れることを予感させていた。襲撃 分裂の到来はあまりにも早かった。 利家が3月3日に玉造の屋敷で病死した知らせを聞いた武闘派はその夜、天神橋近くの清正の屋敷に集まると、大坂城の北隣、備前島(現在の大阪市都島区網島町)の三成邸へと向かった。 襲撃場所については、前田利家の屋敷にいた三成が出てきたところを狙おうとしたという説もある。 清正の屋敷に集まったのは、正則、長政のほか、三河吉田・池田輝政▽丹後宮津・細川忠興▽甲斐甲府・浅野幸長▽伊予松山・加藤嘉明-の各城主で、のちに清正を入れて「七将」と呼ばれることになる。 朝鮮出兵のときからいずれは三成を討つ決心をしていた7人は、かねてから念入りに示し合わせていたのだろう。百戦錬磨の猛将の集団を印象づけるには十分なほどに統一された鮮やかな行動だった。 「先手をとった」と思ったことだろう。三成の屋敷に向かう諸将の顔も自信に満ちていた。 清正の屋敷から三成の屋敷までは1・5キロほどしかなかったので、30分足らずで屋敷前に到着した一団はまわりを囲んだ。だが、屋敷から反撃に出てくる兵はなく、シーンと静まりかえっていた。 そして怪しみつつ邸内に入り込んだところ、いたのは三成の兄・正澄(まさずみ)らわずかな手勢のみ。屋敷内を捜すも三成ら主だった面々の姿はなかった。 「三成にまんまとしてやられたわ…」。作戦が三成に見破られて悔しがる清正らの顔は、次第に焦りの表情へと変わっていった。伏見へ 実は、今回の襲撃情報をいち早くつかんでいた者がいた。秀吉の子、秀頼に仕えていた桑島治右衛門だった。七将の不審な動きを怪しんでいたところで、ひそひそ話でも聞きつけたのだろう。伏見城の内堀跡にできた池。三成邸間際まで堀があったことから「治部池」と呼ばれている 桑島からの報告を受けた三成は、政権内で最も信頼していた常陸(ひたち)水戸城主・佐竹義宣(よしのぶ)を頼ると、間一髪のところで自邸を抜けて佐竹邸に身を移した。 ところが、大名の屋敷という屋敷をしらみつぶしに捜し始めた武闘派の手勢が佐竹邸に迫ってきたため三成に女装をさせ、姫が使う駕籠に乗せると、五大老のひとり宇喜多秀家の玉造屋敷へ向った。 さすがに大老の屋敷までは追っ手も来なかった。命からがら逃げた三成はひと息つく暇もなく伏見の自邸に向かう決意をする。 伏見にある三成の上屋敷は「治部少丸(じぶしょうまる)」と呼ばれる。天正13(1585)年に秀吉が関白に就任したとき、三成が任じられた朝廷の官位、治部少輔に由来する。 秀吉時代の最晩年に建てられたもので、伏見城西の丸の西隣にあり、屋敷の間際まで迫っていた内堀は今も残り、「治部池」と呼ばれている。 このように城に組み込まれていた屋敷なので、いくら武闘派といっても無謀なことはできないだろうという三成なりの計算が働いたのではないだろうか。 4日、義宣に伴われて伏見城に入ると自分の屋敷に立てこもった三成は武闘派軍団を待ち受け、追いついてきた七将と堀を挟んでにらみ合いの状態がしばし続いた。 「出てこい」「一戦交えよ」。ときおり屋敷に向けての怒声が、殺伐な空気が漂う伏見城周辺に大きく響きわたった。敵対する三成を七将から救った真の狙い〝豊臣内紛〟の調停に登場した家康敵対する三成を七将から救った真の狙いとは対立のメカニズム 3月4日夜、伏見城内の自邸・治部少丸(じぶしょうまる)に逃げ込んだ三成。三成に追いつこうと七将は追い上げをみせるも捕獲に失敗し、結局は三成が出てくるのを待つしか方法がなくなった。伏見城の模擬大手門 とはいえ、清正らの表情からは大坂中の大名屋敷をしらみ潰しに家捜ししたときの焦りは消えていた。大坂城と並ぶ豊臣政権のおひざ元を騒がすのは、自分らにとっても得策ではないことを十分に心得ていたからである。 ある意味、これまで三成にはやられっ放しの七将だった。 三成は命令されれば目の前にサッとそろえてしまうほどに、事務方としての能力の高さは随一だった。このため秀吉もそばに置いて重宝に使った。それは戦場でも変わりなく、武器、兵糧調達などでもソツのない動きをみせた。 だが、戦場が朝鮮となると事情は少し違った。海を越え、しかも戦場が広域にわたった。朝鮮を制覇するならば長い半島を突き進まなければならない。 しかも敵の兵力も分からず、作戦も十分に練れない中で戦線は伸び切り、補給も届かない。勝って先に進めば進むほど、補給がどんどん難しくなるのは当然のことだった。 この結果、最前線で戦う兵士は補給なき戦いに絶望したことだろう。特に最前線で采配を振るった清正はその思いが強かった。 しかも帰ってみると恩賞はないどころか、戦下手(いくさべた)の三成らの戦況報告を受け叱責される大名もいたのである。 三成からすれば自分の仕事をこなしたまでのことなのかもしれないが、現場の不満は増すばかりだった。家康登場 伏見に着いた七将が陣を置いたのは、伏見城の南に広がる巨椋池(おぐらいけ)に浮かぶ向島(むかいじま)とされている。豊公伏見城の図から。伏見城の下に見える向島城。家康も一時、居城としていた 今はその面影もほとんどなくなったが、当時は周囲16キロの広さを誇った巨大池で、秀吉はその中にいくつかあった島のうち向島に城と堤を築き、一大防御拠点とした。 このとき向島城を居城としていたのは、内大臣・徳川家康だった。秀吉の次に朝廷の官位は高く、秀吉から秀頼が成人するまで、まつりごとを託されていた家康だけに、秀吉が亡くなると急接近する大名が増えていく。 ここで家康はこの立場を利用し、清正や長政、正則のほか伊達政宗らと、政権で禁じていた大名同士の結婚を積極的に進め、着実に支持を広げていった。 これに対し、政治を豊臣の手に戻したい三成ら奉行衆は、秀頼の守(も)り役として家康と勢力を二分していた大老・前田利家の力を背景に、公然と法度を破る家康に猛抗議する。 この結果、慶長4年に入ると家康、利家両派に分裂。さらにエスカレートする危険性もはらんできたため、ここはトップ同士の和解で事なきを得る。でも、これで家康と七将との関係はさらに強まっていった。 それから2カ月後に起きた今回の事件。七将は時がたつにつれ不利になっていく事態の打開策として、家康に周囲を騒がせた非礼をわびるとともに協力を要請する。 これまでの経緯からみても快諾してくれるだろうと思っていた七将だが、家康の返答は意外に「NO」だった。その裏では 実はこのとき三成方が先手を打ち、七将に屋敷を囲まれる前に三成に同行した常陸水戸城主・佐竹義宣を通して、家康に七将との調停役を依頼している資料も見受けられる。第一次蔚山城の戦いの評価がもとで三成ら文治派と長政ら武断派の分裂は決定的となった 利家亡き今、調停役を果たせるのは家康しかいなかった。ここで七将と一戦をやる愚かさは、いくら戦に疎(うと)い三成とはいえわかっていたのだ。 三成が伏見に着いて以後は、家康の屋敷に直接逃げ込んだという話がよく知られているが、これは江戸時代後期に書かれた資料をもとにしている。 これに対して家康のお抱え医師、板坂卜斎(ぼくさい)が書いた記録によると、三成は伏見に着くなり治部少丸に入ったとされている。また江戸時代前期に編集された「関原軍記大成」でも、「伏見の城内に入りて我屋敷に楯籠(たてこ)もる」などと書かれている。 こうして三成は伏見城内の自邸に籠もると義宣が交渉事を引き受けた。大坂で保護してくれた五大老のひとり、宇喜多秀家の添え状などもあったのではないだろうか。 一方、家康は調停役を引き受けた後だったので、ここは七将の求めを拒否すると、秀頼が幼いうえ秀吉が亡くなって間もないとき、むやみに紛争を起こした七将を戒めたのだ。 この年の1月に秀頼が大坂城に移り、秀吉時代の栄華が消えたとはいえ、大勢の兵が伏見城を取り囲んだものものしい雰囲気は、周囲から見ると政権崩壊を予期させるような光景だったに違いない。 これで三成は命拾いするが、家康の腹の中には豊臣家をまだ刺激したくないという考えと同時に、もっと深い考えが巡っていたことを、まもなく知ることになる。「生かして、殺す」家康の深謀遠慮「生かして、殺す」家康の深謀遠慮にはまった三成ときは関ケ原へ三成、謹慎する 「ここで死ぬか、生きるか」。家康に仲裁役を頼んだ三成は一世一代の賭けに出た。でも、家康といえども大坂城と並ぶ豊臣家の拠点、伏見城を血で汚すことはできないはずという目算があっての行動だった。関ヶ原合戦時の石田三成陣跡(笹尾山)。竹矢来(敵の進入を防ぐ囲い)が組まれていた 確かに伏見城で戦いを仕掛けるのは、後々、家康自身に問題が降りかかってくる可能性がある。ここで七将の要求どおり三成を捕まえて渡してしまえば、それはそれで収まるかもしれない。 だが、それでは三成を支持する文治派の面々から不満が噴出することは間違いないところ。 そこで家康がとった措置というのが、三成の命を助ける代わりに奉行職を退いてもらうのと同時に、三成の居城・佐和山城での謹慎の勧告だった。 「このまま伏見にいても再び襲われる。ここは、奉行職を退いたうえで佐和山で隠居し、世継ぎをのちのち奉行にするようならば悪いようにしない」 家康を頼った時点でこれぐらいのことは予想していた三成。「とにかく命が助かれば、いずれは…」と家康の求めに応じた。 三成が佐和山城に戻ったのは、三成ら五奉行を支えた大老・前田利家が亡くなってから1週間たった3月10日だったとされる。 三成は家康の次男、結城秀康を護衛に伏見城を出たが、何度も護衛を断ってきたため、秀康は仕方なく引き返したという。 佐和山城から派遣された三成の兵に引き継いだのかもしれない。また、「敵の兵に守られたくない」とする武将としての意地がそうさせたとも考えられる。家康の伏見城入城 家康にとって今回の事件が、三成という目の前の政敵を打ち払うのに願ってもない好機になったことは間違いない。ここで家康は動き出した。 事件を見事に裁いたことで支持率が急上昇中のところでもあり、この機を見計らって伏見城の西の丸に入ると、幼い秀頼に代わって政権を担当する意思を天下に表明する。襲撃事件後、家康に命じられて三成が蟄居した佐和山城の城跡=滋賀県彦根市 それまで家康は「伏見支城」ともいわれていた向島城に身を寄せていた。 伏見城が3年前の7月に発生した地震で大損害を出し、まだ復興の途上であったほか、屋敷が三成の治部少丸(じぶしょうまる)の隣接していたため、いざというときのことを考えてのことだった。 だが、事件直前の1月に秀頼ら豊臣一族が大坂城に移り主不在の中、五奉行が交代で管理していた城に誰に遠慮することなく入った家康は、堂々と秀頼の後見役を自ら買って出たのである。 三成が佐和山城に隠居したわずか3日後の3月13日のことであり、これを佐和山で聞いた三成は、あまりの家康の行動の早さに舌を巻いたに違いない。 と同時に、じっと待ちつつ、絶好の機会をつかむとソツなく物事を進める家康の老獪(ろうかい)さを思い知ったことだろう。 利家が亡くなり、豊臣家のために奔走した三成は隠居してしまい、頼るのは家康ただひとり。このため秀頼とその母・淀君も、このプロポーズを受け入れるしかなかった。 「クソおやじめ。ついにやりよったわ」。政権を豊臣の手に戻す機会を狙いつつも、今はじっと耐えるしかない三成の姿があった。生かして、殺す 伏見城に入城してから約半年たった9月7日、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)両奉行の要請という名目で家康は大坂城の西の丸に入ると、本格的に政治を行うようになった。このときから自分と対極にある政権中枢の武将を追い払うようになる。伏見城の遺構ともされる西本願寺唐門 五奉行の筆頭・浅野長政を「自分の暗殺計画を企てた」などとして謹慎処分にしたほか、前田利家の子で共犯とされる加賀藩第2代藩主・利長に対しては加賀に兵を派遣して滅ぼすことを計画する。 これについては、利長は実母を江戸に人質として差し出し、徳川に服従の意思を示したことで加賀征伐計画は中止になっている。 このように、脅したりすかしたり。強引な手法が目立つようになると、「家康の慢心」とみなした文治派の不満はしだいに大きくなっていった。そこに、反家康派の旗頭として出てきた名前が石田三成だった。 そう、これこそが七将による三成の大坂屋敷襲撃事件で家康が狙った最終目的だった。 襲撃事件のとき、七将に引き渡してしかるべき三成の命を助けて隠居させたのは、再び政権内部を二分することが目的だった。反家康派を三成という旗に集めたのちに一戦を交えて、根絶(ねだ)やしにしようとする意図があったからにほかならない。 慶長5(1600)年6月、三成は会津・上杉景勝と謀り、家康が会津征伐に不在のところを狙って徳川方の鳥居元忠が守る伏見城を落城させるという、なんと皮肉なこと。 ここに関ケ原の戦いが切って落とされる。清正ら七将は当然、徳川方についたことはいうまでもない。

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    三成・失敗の研究~関ヶ原での計算違い

    瀧澤中(作家、政治史研究家)《PHP文庫『「戦国大名」失敗の研究』より》 合戦はほとんどの場合、偶然の出来事で勝敗が決まることはない。外交によって敵よりも多くの味方を得、多くの兵を揃え、多くの武器を持ち、有利な場所に展開することが勝因となる。味方を得ることも兵や武器を揃える経済力を整えることも、すべては大名の政治力にかかっている。周りを巻き込んで、動かす力にかかっているのである。  政治力のないリーダーは、どんなに能力があろうと、資金があろうと、正統な後継者であろうと、人々を動かすことはできない。  名将と謳われた者、圧倒的な権威者、有能な二世、将来を嘱望された重臣など、本来「敗れるはずのなかった者」が敗れたのは一体、なぜか? 本書『「戦国大名」失敗の研究』では、政治力を1つの視点に、今までと少し違った角度から戦国大名の生き様を考察し、現代にも通じるリーダーが犯しがちな失敗の教訓を導き出す。 では、石田三成が天下を取れなかった理由について考察した「あり得なかった関ケ原合戦の計算違い」からその一部分をご覧ください。裏切りが出る前までは完璧な企て 石田三成の遺骨が、明治40年に発掘調査された。 調査にあたった学者は三成の頭蓋骨の形から、彼が腺病質、つまり病弱で神経質であったと推定しているが、しっくりこない。 トゲトゲした神経質な官僚、というイメージがそこから派生して想像できるが、三成の行動を仔細に見れば、神経質どころか、大胆不敵という以外にない。 近江・佐和山19万4000石の三成が、関東250万石の徳川家康と一戦交える。よほどの度胸がなければやれなかったであろう。 と同時に、緻密に戦略を練り、幾通りもある戦いの推移を想定し、こちらの弱点を補い敵の弱点を突く準備をしていたはずである。病弱で神経質な人間にできるものであろうか。 数字を検討してみよう。 わかっている範囲で言えば、西軍(石田三成)側と東軍(徳川家康)側の国力の差は、以下のとおりである(旧参謀本部編「日本の戦史・関ヶ原の役」ほか参照)。 西軍 1124万石 東軍  968万石 兵力の差は、単純に石高から見れば西軍有利であり、実際、関ヶ原に陣取った兵力は、 西軍 8万2000 東軍 7万4000 であった。 ただし、ここには変数がたくさんあって、その最も大きなものは、西軍から東軍に寝返った者たちである。 小早川秀秋をはじめ、石高で言えば約86万石が東軍に移動した。 さらに言えば、当日、南宮山にいた毛利勢は結局本戦に参加せず、こういう傍観組もいた。 三成が計算したのは裏切り者が出る前の数字であり、関ケ原本戦が始まる前で言えば、見事にプロジェクトを開始させたわけである。 では三成の何が、失敗を招いたのか。「勢力」を持っていたかどうか「勢力」を持っていたかどうか それは、「勢力」について、見誤っていたのだと考える。 社会心理学者のジョン・フレンチとバートラム・レイブンは、勢力について興味深い分類をしている(斉藤勇編『社会的勢力と集団組織の心理』)。(1)報酬勢力:AはBに対して報酬を与える力を持っている、とBが考える。(2)強制勢力:AはBに対して、罰を与える力を持っている、とBが考える。(3)正当勢力:AはBの行動を決める正当な権利を持っている、とBが考える。(4)準拠勢力:BがAに対して魅力を感じ、Aと一体でありたい、と考える。(5)専門勢力:Aは特定分野で、専門的な知識や技術を持っている、とBが考える。 これに加え、バートラム・レイブンは(6)情報勢力:Aの知識や情報の伝達が、集団の外にいるBに影響を及ぼす。 という勢力を加えた。 石田三成や徳川家康に当てはめながら見ていきたい。 まず、(1)報酬勢力。AはBに対して報酬を与えてくれる力を持っている、とBが考える。 これは、徳川家康も石田三成も、どちらも勝利後の報酬(役職や加増)を約束し、またこれを期待させるに十分な根拠も持っていたので、互角といっていい。 (2)の強制勢力。AはBに対して、罰を与える力を持っている、とBが考えるのも、家康、三成、ともに存在していた。 家康は豊臣政権下では五大老で、上杉景勝に対して軍を動かしたのも、懲罰が名目である。また三成も豊臣政権下では五奉行の1人として、朝鮮の役における諸将の行動について、懲罰を与えている。西軍の実質的なトップとなった三成は当然懲罰の力も持っていた。 (3)の正当勢力であるかどうか。 家康は豊臣秀頼の代理として、上杉討伐を行うため出兵したのであり、三成は、「豊臣家を家康の横暴から護る」という大義名分で諸将を集めた。 (1)報酬を与える(アメ)、(2)強制する(ムチ)、(3)正当である(題目)については、家康も三成も揃っている。 問題は、残りの3つである。小早川秀秋の忘れ得ぬ思い出 (4)の準拠勢力。 BがAに対して魅力を感じ、Aと一体でありたい、と考えるかどうか。 西軍を裏切った小早川秀秋を例に見てみたい。関ヶ原の戦いの時の笹尾山の石田三成陣跡 小早川秀秋は、秀吉の正妻・おねの兄(木下家定)の子、つまり秀吉の甥である。三歳の時、子のいなかった秀吉の養子となるが、秀頼が生まれると小早川家に養子に出された。 幼い頃は利発だったらしいが、成長するにつれて普通になり、やがて「愚鈍」とも言うべき性格になったと伝えられている。 この、普通か、やや劣ると後世評価される19歳の若者が、52万石という大きな所領を背景に関ヶ原合戦を目前にして、「三成につくか、家康につくか」と悩んだわけである。 小早川秀秋に対する工作は、東西両軍ともに行われていた。 家康側は、秀吉の本妻であり秀秋の叔母である北政所(おね)を利用した。秀秋は北政所から、「江戸内府(家康)を裏切るでないぞ」と言われる。 他方、三成は秀秋に豊臣政権での地位(秀頼の後見役)と、領国の拡大を約束した。 小早川秀秋は秀吉の養子であった時期がある、と書いた。ということは、一時的であれ秀吉の跡継ぎの可能性があった。 このことは本人も意識していたらしく、それゆえに、三成から「秀頼さまのご後見役として」と頼まれて悪い気はしない。 さて。 報酬を与えてくれる、つまり(1)報酬勢力の面で言うと、明らかに三成のほうが秀秋に対して好条件を出したようである。だが、秀秋は三成を裏切った。なぜか。 秀秋には、忘れられない出来事があった。 朝鮮出兵の折、秀秋は奮戦して手柄を立てたのだが、秀秋の評価が高まることをおそれた三成が秀吉に対し、「秀秋は大将のくせに足軽のごとく、自ら敵陣に突入して敵を斬り伏せる行為を行った」という讒言に近い報告をした。 秀吉は激怒して、帰国した秀秋を叱責。秀秋は秀吉から褒められるとばかり思っていたら、ひどく叱られショックを受けた。 それが三成の報告のせいだと知った秀秋は、「治部少(三成)を出せ!」と大坂城内で騒ぎ、出てきた三成に本気で斬りかかろうとしたのである。 その場にいた家康がなだめて、秀秋を屋敷に連れ帰った。 するとそこに、追い討ちをかけるように秀吉の使者がやってきて、「秀秋の所領である筑前・筑後52万石を取り上げ、越前北庄15万石へ転封する」と言い渡されたのである。 秀秋は再び怒り狂ったが、家康が秀吉からの使者に、「『秀秋は仰せを承りました』、と言上願います」と告げてなんとか取り繕い、その後、家康は秀吉に話を通して、52万石取り上げの件はうやむやになったのである。 かつて、斬り殺そうと考えた三成。 所領を大幅に減らされそうになって、それを助けてくれた家康。 どちらに親しみを感じるか、言うまでもない。目に見えない勢力の差目に見えない勢力の差 「金銀や火薬が必要ならば、要求ありしだい、すぐに秀頼さまからお送りします。太閤さま(秀吉)が蓄えられた金銀や空いている領地は、忠節をつくしてくだされば与えられます」(『古今消息集』より意訳) これは、石田三成が信州・上田城にいる真田昌幸に宛てた手紙である。こうした手紙、あるいは一種の買収が、頻繁に行われていたと見て間違いない。 豊臣家の資産については、かなりの額にのぼっていることが知られていたから、諸大名は三成の言葉をウソだとは思わなかったであろう。しかし現実には、三成ですら豊臣家の金を自由に出し入れできず、自腹を切っていた模様である(増田長盛に宛てた手紙などで窮状を訴えている)。 ただ、本人は自腹でも、受け取る側は豊臣家からの金だと思う。となれば、誰も三成に感謝をしない。これでは金銀贈与の効果は半減である。 また、西軍に参加した大名たちの家康に対する感情も、三成のように尖鋭的に「家康滅ぼさずして豊臣家の安泰はない」とまでは考えていなかった(事実、三成が思ったとおりになったが)。 豊臣政権で実質的に政治を行っていた五奉行のうち、浅野長政と石田三成は合戦前に政権を離れていたが、残りの増田長盛、長束正家、前田玄以のうち増田と前田の2人は、戦前から家康に逐一、西軍の状況を知らせていた。 彼らを「卑怯者」と論じるものも多いが、元々、西軍に参加した多くの大名が、「できることなら、家康を中心に秀頼さまを立てて政権運営を」と願っていたのである。家康と対峙する側がこの状態では、三成の苦労も半端ではなかったであろう。 対する家康方、東軍に参加した豊臣系の加藤清正や福島正則などは、「三成を殺さずして、豊臣の健全な政治は実現できない」と確信を持っており、やる気満々なのである。 整理をすると、西軍に参加した少数の大名だけが「絶対に家康を滅ぼす」と息巻き、他の西軍諸将はそこまで強く家康滅亡を望んでいたとは言いがたい。 対して東軍は一致して、「三成、赦しがたし」で固まっていた。 現代の政治でも、意思を持たない100人が集まるよりも、強い意志を持つ5人のほうがはるかに強い力を発揮するが、関ケ原合戦時の西軍と東軍では、こうした数量化できない要素が、見た目の勢力と違う状況をつくり出していたのである。自前の勢力をつくれなかった三成 黒田如水は、「関ケ原合戦が1日で終わるとは」と思ったらしいが、これは他の大名も同じ思いであったろう。 そして、仮に関ケ原の本戦が1日で終わったとしても、まだ大坂城がある。 大坂城で秀頼を戴いて抵抗すれば、東軍にいる豊臣系の大名たちは、大坂城を攻めることはできなかった。 西国に集中している西軍であったから、大坂で一戦交える覚悟があれば、まだまだ勝敗はわからなかった。しかし、大坂籠城は実現せず、西軍総大将の毛利輝元は大坂城を離れ、大坂城を目指して逃亡していた三成も捕まって、処刑される。 西軍陣営は徹底的に家康と戦う覚悟がなかったから、三成や宇喜多秀家ら「家康討つべし」の大名たちが関ケ原で敗れたことをもって、すべてが終わってしまった。まだまだ戦う力があったにもかかわらず、西軍の崩壊は防げなかったのである。 勢力として固まっていない集団は、勝てる機会が残っていても、最初のダメージで崩れてしまう。 三成は、家康がどんどん勢力を伸ばしてくる政治状況を合戦で引っくり返そうとした。しかし本来は、家康の勢力を削り、向こうにいる者をこちら側に引き寄せ、家康が弱ったところで一気に潰す(もしくは支配下に入れる)のが、本当の政治力である。 三成は、豊臣秀吉が見いだしたきわめて能力の高い人物だったが、彼はあまりにも豊臣政権の動かし方を知りすぎていた。 自前の勢力をつくらなくても、家康に代わる名目上の筆頭大老を担いで人数を揃えれば、つまりは豊臣政権を動かしさえすれば、それで家康に勝てると踏んだ。 三成の失敗はすなわち、戦意を持った戦える勢力をつくり得なかった、というところに帰結するのではなかろうか。関連記事■ 黒田長政・父譲りの調略で呼び込んだ関ケ原の勝利■ 地形で読み解く「関ケ原合戦」~地の利は西軍にあった!?■ [鬼島津戦記]大敵に勝つ! 薩摩の意地■ 小早川隆景は、なぜ、秀吉の大返しを追わなかったのか■ エグゼクティブリーダーに必要な能力は「徳」と「才」