検索結果:戦後70年/184件ヒットしました

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    あのころ紅白歌合戦は面白かった

    ニッポンの大みそかの風物詩といえば、多くの人がNHK紅白歌合戦を挙げるだろう。昭和26年の放送開始以来、時代のスターが出場した「紅白」の歩みは、まさに日本人の戦後の歩みそのものだった。ただ、最近は出場歌手の選考や番組構成に疑問符をつけたくなることも多い。なぜ紅白はつまらなくなったのか。

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    「?」だらけの紅白歌合戦は既に死んだも同然である

    ヒット曲をいつまでも歌っていていいのか?と私は思う。トリに選ばれた「大義」ってナニ? 12月8日、「戦後70年 紅白特別企画」でMISIAの出演が決定した。えっ?なんでMISIAなの?と正直思った。なぜならば、戦後70年とMISIAがイメージとして結びつかなかったからだ。今年8月、NHKの戦後70年特集番組「いのちのうた」にMISIAが出演したことがきっかけらしいが、この番組を見ていない人にとっては「?」と言うしかない。戦後70年というならば、今年「平和元年」というアルバムをリリースした元ちとせを私は推めたい。ベトナム戦争真っ最中の1967年にピート・シーガーが発表した「腰まで泥まみれ」など、12編で反戦を願う「平和の歌」を取り上げた元ちとせの方がリアリティーがある。ちなみにこのアルバム「平和元年」は今年の日本レコード大賞企画賞を受賞している。なぜ元ちとせではなくてMISIAなのか? 私には「?」である。 12月12日、紅白のトリが決定。紅組は松田聖子、白組は近藤真彦。本当かな?と思った。紅白のトリと言えば、その年を代表する歌を、それにふさわしい歌手が歌うということが「大義」でしょう。ところが、2人にとって今年めだった活躍やヒット曲があったかというと、残念ながらない。2人共に35周年ということだが、そんなことは一般の人たちには関係ないことだ。その意味では、学芸会の乗りもいいところだ。紅白はいつから学芸会というお遊びになってしまったのか? 聖子、マッチ、2人が紅白トリに選ばれた「大義」を私は知りたい。だから、これまた「?」である。 12月21日、紅白曲目決定。と同時に大トリは松田聖子と決定。このニュースを聞いて、私は今年の紅白は終わった、と思った。石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、伍代夏子「東京五輪音頭」、髙橋真梨子「五番街のマリーへ2015」、松田聖子「赤いスイートピー」、和田アキ子「笑って許して」、五木ひろし「千曲川」、郷ひろみ「2億4千万の瞳―エキゾチック・ジャパン」、細川たかし「心のこり」、美輪明宏「ヨイトマケの唄」、森進一「おふくろさん」など、この選曲はどうひいき目に見ても「懐かしのメロディー」でしかない。紅白はいつから懐メロ番組になってしまったのか? その証拠に、白組トリの近藤真彦は1981年にヒットした「ギンギラギンにさりげなく」、紅組トリで大トリの松田聖子は1982年の大ヒット曲「赤いスイートピー」を歌うとか。共に30数年も前のヒット曲。紅白の両トリが30数年前の歌を歌って終わる紅白っていったい何?と思うのは私だけではないだろう。 結論。「?」だらけの紅白歌合戦は既に死んだも同然である。

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    「特別枠」を乱発しすぎた紅白歌合戦の苦悩と違和感

    影山貴彦(同志社女子大学情報メディア学科教授) 紅白歌合戦は「特別」な番組である。 1951年の第1回目の放送から数えて、今年2015年で66回目の放送となる。1年に1度の放送のはずなのに、回数が1回分多いのでは?と気づいた読者がいるかもしれない。 実は1953年には、第3回の1月2日、第4回の12月31日のあわせて2回、紅白歌合戦は放送されているのだ。現在「大晦日」に放送される国民的番組として知らない人はいない紅白だが、第1回目から第3回目まで「正月番組」であったことは興味深い。 ちなみに過去の最高視聴率と最低視聴率を記しておくと、最高は、第14回(1963年)の81.4パーセント、最低は第55回の39.3パーセントであった。視聴率はいずれもビデオリサーチの調査による関東の数字である。細かいことを申せば、ビデオリサーチの設立は1962年の9月なので、それ以前の紅白の視聴率はわからない。もしかすると80パーセント後半、90パーセント近かったかもしれない。 ここ数年は40パーセントを少し超える程度の視聴率で推移している紅白である。過去の視聴率と比較して、勢いの衰えを主張する向きもいるようだが、時代の流れ、視聴者のテレビとの向き合い方の変化を考えれば、紅白は視聴率の高さひとつをとっても驚異的な存在で、今も変わらぬ「お化け番組」であり、「特別」な存在であることは間違いないところであろう。 民放各局が多くの時間を割いて、その年の紅白の司会者、出場歌手などをニュースとして報道することもよくよく冷静に考えると「敵に塩」の行為なのである。けれどなぜかずっと当たり前のこととして捉えられ続けてきている。 こうして「特別」な存在として扱われる紅白歌合戦を私は好意的に受け止めている。 人々は、何かにつけ「特別」な対象に惹かれるものである。「特別」なものは「特別」なものとして存在し続けることによって、大衆は安堵するのだ。紅白を楽しみに観る人も、民放にチャンネルを合わせる人も、大晦日に限らず、普段からテレビを観ない人も、紅白歌合戦が66回にも渡り放送され続ける事を確認することは、歓迎すべきことなのである。  1981年に公開された「駅 STATION」いう映画を覚えていらっしゃるだろうか。映画「駅 STATION」の舞台、北海道・留萠本線の終点増毛駅前に立つ高倉健さん=1981年3月 私は、高倉健さんが主演した映画の中でもっとも好きな作品である。刑事である主人公は、北海道の小さな町の小料理屋をたまたま訪れる。年末の30日、実家に帰省するための連絡船が欠航となったのだ。その店の女将を演じていたのが、倍賞千恵子さんである。訳ありの二人は互いの背景を多く語ることなく惹かれあう。船は翌日の大晦日も欠航となり、小料理屋のカウンターで二人は寄り添いながら紅白歌合戦を観る。それぞれに去来する思いを胸に秘めながら。10数インチの小さなテレビから流れるのは、1979年の紅白歌合戦、八代亜紀さんの「舟唄」である。「特別」な番組に少々抱く違和感 このシーンでの高倉健さんと倍賞千恵子さんの二人の芝居が素晴らしい。降旗康男監督の演出が素晴らしい。倉本聰さんの脚本が素晴らしい。そして、テレビに映し出される紅白歌合戦の八代亜紀さんの「舟唄」が最高に素晴らしい。大げさでなく、この作品の中で飛び切り重要な役割を演じているのである。 紅白歌合戦が仮に何でもない普通の番組であったとしたら、このシーンは成立しない。 成立したとしても、受け手の大きな感動を呼ぶことはないだろう。紅白が「特別」なものとして私たちひとりひとりの共通認識となっているからこそ、感動はより増幅されるのだ。 ここまで紅白を「特別」な番組として称えてきた私だが、少々違和感を抱いていることがある。それは第58回(2007年)から始まった、「特別枠」制度である。紅組、白組、いずれにも属さない「特別」な歌手という枠組みで何組かを出演させるようになった。今年は4年ぶりに復活を果たした小林幸子さんが話題となっているが、彼女もその「特別枠」での出演である。彼女の復活を喜んでいるファンも多かろう。私自身、彼女の復活になんら異論を唱えるものではない。ただ「特別枠」という点に、いささかのもやもやしたものを払拭できないでいる。その他、視聴者にしっかりと話題を作りたいとの意向が透けてみえる歌手たちも何組か「特別枠」で出演している。 紅白歌合戦は、「紅白」だからこそ意味があるのではなかろうか。「特別枠」の乱発は、むしろ紅白の「特別」感を薄らげることになりはしないか。何より、今も歌手たちの中には「紅白歌合戦」に出場することをひとつの目標として精進し続けている人も少なくあるまい。 正式に紅白出場を果たした歌手たちよりも「特別枠」の歌手たちの方が大きくクローズアップされ、多額の制作費をかけてもらい、長時間出演している現状は、長い目で考えたとき、紅白歌合戦がこれからも「特別」な存在であり続けることと逆行しているように思えてならないのだが、いかがだろう。 と、「特別枠」について少々熱く記してみた。ただ冷静に我が思いを反芻してみれば、こうした主張もまた紅白歌合戦が「特別」な番組である証に他ならないのかもしれない。  いずれにせよ私は、紅白歌合戦は今後も変わらず大きく輝き続けて欲しいと、紅白ファンのひとりとして強く願っているものである。

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    ニッポンを変えた戦後犯罪史

    あの敗戦から奇跡の復興を遂げた戦後日本の70年は、日本人の価値観を変えた数々の凶悪犯罪を抜きには語れない。時代を色濃く映した重大事件は、ニッポンに何をもたらし、何を変えたのか。戦後犯罪史に残るあの事件を当事者や目撃者が振り返り、その深層に迫った。

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    「よど号事件」とは何だったのか 9人が味わった理想と現実

    椎野礼仁(編集者) 「よど号事件について執筆を」という編集部の依頼文の中に、いくつかの執筆希望項目があった。その最初が「過激なテロリストを生みだした社会背景」であった。うーん、ここで私は考え込んでしまう。“テロリスト”と言う言葉に、違和感を覚えるのだ。 実は、この違和感は、“よど号”だけについて感じるわけではない。政治的な事件で暴力性が伴うものをすべてテロという言葉で一括りする昨今の風潮に、「違うんじゃないかなぁ」というかすかな苛立ちを覚えるのだ。 本筋から離れるので、詳しくは書かないが、日本で言えば、1960年の、山口二矢という17歳の右翼少年による、日比谷公会堂壇上での社会党委員長・浅沼稲次郎への刺殺のように、ほかに手段を持たない(と思い詰めた)個人、ないし少数者が、暴力(多くは暗殺など)で政治目的を達しようとする行動がテロだ。圧倒的な専制政治を敷いたロシアの皇帝に対して、若き過激派グループが、その馬車に爆弾の投擲を企図する……そのような営為が典型で、今日の使われ方より、うんと意味が狭い。いや、意味が狭いというより、全く別の概念と思ったほうがいいだろう。 話しは戻る。日本で初のハイジャックをやり、北朝鮮に渡った彼ら・共産主義者同盟赤軍派の9人は、革命家たらんと志していたのであり、テロリストになろうとは、微塵も思っていなかったはずだ。 1970年の3月31日から4月3日にかけて起きた、日航機よど号を乗っ取ってピョンヤンに向かわせた事件が「よど号ハイジャック事件」だ。もっともこの頃は、ハイジャックという単語は誰もが知っている言葉ではなかった。現に、この半月ほど前に、赤軍派のリーダー塩見孝也を逮捕した警察は、彼の手帳の日付に書いてあったHJという文字の意味に気がつかず(?)、まんまと事件(赤軍派の側から言わせれば闘争だが)を成功させてしまう。 成功と簡単に書いたが、富士山上空で日本刀やピストル(オモチャだったが)などで武装した赤軍派9人が立ち上がってから、福岡板付空港にいったん着陸し、その後ピョンヤンと偽って着陸したソウル金浦空港での4日間の攻防については、まるで映画のような紆余曲折・攻防がたくさんあった。それらについては本がたくさん出ているので、興味のある方は当たっていただきたい。1970(昭和45)年3月31日、赤軍派の9人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」を富士山上空でハイジャック、日本刀などで機長を脅し北朝鮮行きを強要した。福岡や韓国・金浦空港で乗客を解放した後、北朝鮮に亡命した。写真は福岡空港での女性や子ども、病人の解放。 とにもかくにも、ピョンヤンに渡った彼らの、その後である。 編集部の注文項目にも「われわれは明日のジョーである! という言葉を残し、出発した彼らの目的、彼らが味わった理想と現実」という一文がある。 彼らの目的は、説明しやすい。1970年3月という時期は、70安保闘争の最大の山場と言われた69年秋の佐藤(首相)訪米阻止闘争が、圧倒的な機動隊の力の前に敗北した後、取るべき次の戦略を巡って、ブント(共産主義者同盟のこと)の分裂が公然化した時期である。 図式的に言うと、この敗北状況を、再度大衆運動の立ち上げから作り直そうという「右派」叛旗派、さらなる暴力の先鋭化で突破しようとした「左派」赤軍派、その中間の主流派(?)という系統である。 赤軍派は、「大阪戦争」「東京戦争」を呼号した、火炎瓶を使って警察などを襲撃する69年秋の闘争で大量の逮捕者を出した。11月には大菩薩峠の「福ちゃん荘」では軍事訓練と称して集まった部隊が一網打尽になり、53人の起訴者を出した。 そんな中で、70年3月に起こしたのが「よど号ハイジャック」である。これは、リーダー塩見が唱えた「世界同時革命-国際根拠地論」に則った計画で、まず北朝鮮に渡り、自派の理論でキム・イルソンをオルグする。そして自分たちは、軍事訓練を受けて、秋には日本に戻り、日本革命運動に再参加する……。 若い読者にとっては、悪い冗談か誇大妄想としか思えないだろう。だが、私も含めて、当時新左翼運動に参加した人々にとっては、それなりにリアリティはないわけではなかった。それはベトナム戦争に反対する世界的な運動のうねりなどとの関連もあるのだが、これもまた、ここで詳しく触れる紙幅はない。 遠大な、ずさんな戦略であり、それに基づいた戦術ではあったが、そもそも当時の新左翼各派の戦術は、敗北が前提だった。「機動隊殲滅!」「佐藤訪米阻止」と叫んだところで、それが実現するなんて、誰ひとり思ってはいなかった。成功した戦術、崩れ去った戦略 ところが赤軍派のこの戦術は、成功したのである。彼らは、日本や韓国の権力者の思惑や妨害をはねのけて、当初の目的通り(きわめて非合法な手段で)ピョンヤンに渡ったのだ。しかし、戦略はもろくも崩れ去ったと言っていい。他力的に崩れ去ったというより、よど号赤軍自らが、その戦略を捨てたのだ。いや、それは日本からの見方で、彼らは、当時の言語で言えば「世界同時革命路線を総括し、止揚した」のだ。ピョンヤンに渡って1年が経過した頃の話だ。 『「拉致疑惑」と帰国』というタイトルのその本がある。いまもピョンヤンに残るよど号グループ6人(男性4人とその後彼らと結婚した女性2人)が書いた手記で、2013年4月に河出書房新社から出版された。その中で、現在のリーダー小西隆裕は、以下のように書く。 「そうした一年を超える歳月、その間の生活を通して、私たちは、自らの理論、路線への確信が大きく揺らいでくるのを覚えていた。それは赤軍派の理論、路線が朝鮮の現実にも日本の現実にも合っていないところからくる揺らぎだったと言える。理論の正否を問うとき、現実にあっているか否かは決定的だ。それはいかなる強弁をも許さない」(同書p38)。 「理論評価の基準を現実に求めると言ったとき、私たちにとって決定的だったのは、やはり日本国内の現実、私たち赤軍派壊滅の現実だった。そもそも、私たちのハイジャック作戦は、この作戦勝利によって鼓舞され強化されるに違いない国内の部隊と、朝鮮での軍事訓練で鍛えられて帰国する私たち遠征隊とのドッキングにより、秋の武装蜂起を成功させるためのものだった。その強化されるはずだった国内が、逆に、官憲の集中弾圧を受け壊滅状態に陥ってしまったというのだ」 赤軍派路線を総括・止揚した後の彼らの行動・生活については、その後、あまり伝わってこなかった。そんなこともあり、その後の我が国の新左翼運動になにか直接影響を与えるようなことはなかった。ただ、かの地に彼らが生きているということが、私たちの気持ちに微温を与えたのは確かだと思う。もちろん、新左翼内部からは、「彼らは主体思想に逆オルグされた」とか「スターリニストの軍門に下った」などの容赦ない言葉が投げかけられたりもしたのも事実である。 北朝鮮に渡った当時は、最年長の田宮高麿が27歳、最年少の柴田泰弘が16歳(ともに故人)だったが、長いピョンヤンでの生活の間に、全員が日本人女性と結婚し、子どもをもうけた。彼らは亡命者として北朝鮮に受け入れられたので、比較的自由な生活が保障され、亡命者パスポートで、日本との犯人引き渡し条約のない国へは渡航もし、その様子を日本の週刊誌(週刊プレイボーイ他)に寄稿したこともある。 1990年代には商社を起こし、日本から中古車を輸入し中国へ転売するなどして、かなり儲けたらしい。「今はもう中国でも日本の中古車需要はないですから、いいときにやめましたよ」とは、私が訪朝した時に小西が語った言葉である。 さて2000年代に入って、よど号グループの名前がしばらくぶりにマスメディアを賑わした。いわゆる「拉致疑惑」である。単に「拉致疑惑」と書くと、彼らが日本に潜入して、北朝鮮の工作員とともに日本人を連れ去ったかのような印象を持たれる方も多いかもしれない。そうではない。彼らに掛けられているのは、「ヨーロッパ拉致疑惑」である。 ヨーロッパに留学していた有本恵子さん(当時22歳)を、言葉巧みにだまして北朝鮮に誘ったという疑いで、警視庁は2002年に「結婚目的誘拐罪」という聞きなれない罪で、よど号グループの一人の逮捕状を取った。その後、グループの女性二人にも、石岡亨さん、松木薫さんの二人の「拉致」にかかわったとして、2007年にやはり「結婚目的誘拐罪」の逮捕状が請求され、今日に至っても更新され続けている。「やってないことの証明は難しい」 逮捕状請求のきっかけになったのは、よど号グループの最年少だった柴田泰弘と結婚した八尾恵の、ある裁判での証言だ。ロンドンで有本恵子さんと知り合い、よど号メンバーの安倍公博と北朝鮮の工作員に引き継いだという証言をしたのだ。 逮捕状請求の背景には、2冊の本の存在も大きい。1冊は、ジャーナリスト高沢皓司が1998年に出版した『宿命』であり、もう一つは2002年に八尾恵が書いた『謝罪します』だった。どちらも、よど号グループがヨーロッパに出入りし、在欧の日本人に接触する様子が書かれていた。二人は、結局、よど号グループと対立することになるのだが、この間の事情も複雑なので触れる余裕はない。 最後に彼らの立場を紹介しておく。 まず、ハイジャックに関しては確かに自分たちの罪であり、どんな大義があろうとも、暴力をもって人を拘束したり、恐怖を与えたり、命を危険にさらすようなことは間違いであった。それについては謝罪もするし、日本で裁判を受ける用意がある。 しかし、仲間の3人に掛けられているヨーロッパの拉致疑惑は、自分たちはまったく関わりがない。なので、逮捕状の取り下げと、これをはじめとするよど号グループの政治利用については、日本政府に謝罪を要求する。それが果たせた段階で帰国し、ハイジャックについての裁きを受ける。 これが、今の彼らの立場だ。こう書いたが、いまひとつ説明し切れないのが、「よど号を巡る政治利用」という箇所だ。日本とアメリカと北朝鮮の政治の渦の中で、よど号の人達の運命はさまざまに翻弄された。アメリカによる北朝鮮の「テロリスト支援国家」指定の理由に「よど号グループを匿っていること」が挙げられたこともある。結局、彼らの処遇はそのままで、アメリカはテロ支援国家指定解除に応じたのだが。 私はフリーの編集者をしている。上で紹介した彼らの手記『「拉致疑惑」と帰国』(河出書房新社)は、私が編集に携わった。その関係もあり、2012年から6回ほど、ピョンヤンの彼らのもとを訪ねた。 もちろん彼らには、結婚目的誘拐罪や、それ以外の時期の活動については、問いただした。答えはもちろん、上に書いた通りだが、私が受けた印象は、果たして彼らがそんなこと(ヨーロッパ拉致)をする必要があっただろうか、なかったのではないか、というものだった。 実は、6回の平壌訪問をもとに、私は講談社プラスα新書から『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である』と言う本を著した(2014年9月刊)。そこに、上のような印象を記したところ、アマゾンのレビューでは「エビデンスも示さずにそんなことを言っても駄目だ」という激しい批判を受けた。それは確かに言えることだが、前記の手記でよど号グループも書いているように、「やってないことの証明は難しい」。 私は、彼らに会い、彼らの説明を受け、思った通りを書いただけだ。エビデンスと言われても困る。では聞くが、その評者は何かエビデンスを持っているのだろうか。彼らについて書かれた著作や新聞の情報(ほとんどが公安警察情報だが)から、自分なりの印象を組み立てて確信としているだけだろう。だったら私の印象も、貴重な第1次情報なのであるから、判断材料の一つにしていただきたい。そう願うだけだ。 ひとつ、付け加えておくと、よど号グループは、結婚目的誘拐罪の逮捕状の撤回を求めて国家賠償訴訟を行なった。結婚目的誘拐罪は親告罪なので本来は被害者本人かその家族の訴えが必要なのだが、それが示されることもなく、また逮捕状請求の根拠も明らかにされることなく棄却された。 彼らは、ヨーロッパ拉致に関して、日本の警察の事情聴取には応じると言っている。そんな折にでも、当局が持っている捜査資料がすべて明らかにされれば、実は無実の「エビデンス」がそこに含まれているのではないか。ひそかにそんなことも考えている。

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    「カルト」は家庭に入り込んだ 社会から置き去りにされたオウム事件

    有田芳生(参議院議員) 地下鉄サリン事件から20年が経った今年は、一つの区切りゆえに、メディアでは例年に増して特集が組まれた。オウム真理教による一連の事件も、こうして消費されていき、いまでは関心の中心が教祖の死刑執行問題に矮小化されていく傾向にある。オウム事件が日本社会に突きつけた問題は解決されることなく、21世紀が進んでいく。この社会はオウム真理教を生み、育てた土壌を掘り返すことなく、いわば眼を閉じたまま、問題の根源を見ないようにしてきた。編集部から依頼されたテーマはオウム事件で何が変わったかというものだ。たとえば日本中に監視カメラが増えたことなど、警察や社会による「異物」に対する過剰警備や監視をあげることができる。しかしわたしの思いは変化よりも「変わっていないこと」にある。見えない、見ようとしない世界に重要な問題が潜んでいるのだ。オウム真理教の集会で信者を前に話す松本智津夫死刑囚=1990年10月、東京・代々木公園 まず捉えておかなければならないのは、オウム事件の歴史的意味だ。1994年6月27日の松本サリン事件を「予行演習」として起きた翌95年3月20日の地下鉄サリン事件とは、人類史においてはじめて都市部でサリンが散布されたことに注目しなければならない。ここからどう教訓を引き出すか。生物化学兵器への対策でもっとも機敏に反応したのはアメリカ議会だった。それに比べて被害当事国としての日本は、残念ながら鈍感だったと言わなければならない。警察当局による捜査は果断だったが、それ以外の多くの課題にどう取り組んだか。振り返って何かを示せるかといえば、犯罪に関わった信者の逮捕と裁判が大きく報じられたぐらいである。わたしの関心でいえば、信者の脱会に資するため、関係省庁連絡会議を設置したが、いつしか機能しなくなったことである。自然消滅だ。 カルト問題の専門家たちが、全国の保健所を活用して、信者の脱会に対応しようと準備していたにもかかわらず、政府からの問い合わせはなかった。サリンを浴びた者の治療に使う解毒剤の備蓄もここ数年でようやく整備されつつある。先進国に比べて20年近く遅れているのだ。日本で起きた事件であるのに、各分野での対応はあまりにも遅いといわざるをえない。わたしがもっとも重視かつ危惧しているのは、カルト(熱狂集団)対策である。世間の多くはいまでもこう思っているだろう――オウム真理教に入った者は、特別な人間であって自分たちとは関係がない、実行犯は凶悪な事件を起こして逮捕され、判決も出たのだから、あとは死刑囚に対する刑の執行が終われば、すべて完結する……。この認識は完全に間違っている。 結論からいえば、オウムに入った若者たちは、どこか遠い存在の特別な存在ではない。人生のそれぞれの課題を抱えながら、ふとした出会いでオウム真理教=カルトに入ったのだ。そして入信の動機を類型化すれば、いくつかの傾向がある。自分の体調を回復するためにヨーガの修行をする。足のO脚を改善したいという女性幹部もいた。教祖が宣伝のために利用した超能力を獲得したいという若者も多かった。自分が解脱し、信者を増やすことによって解脱者が増えていけば、この社会はよくなると思う幹部信者もいた。入り口ではそれぞれの動機から教団に入ったものの、組織の変質に伴い、凶悪事件の実行犯として出口を通過し、有罪判決をうけた信者たちがいた。入信動機の背景にある家族問題 わたしはオウム真理教に限らず、多くのカルト信者、元信者、その家族と会うことで、入信動機の背景に家族問題があると判断している。現代社会では虐待、DV(ドメスティックバイオレンス)をはじめとして家族間で問題が起きることがあり、しばしば報じられている。社会のもっとも基礎単位であり、本来なら「避難所」の機能を果たすべき場が機能不全に陥っているのだ。オウム裁判や信者への取材から、この家族問題がずっと気になってきた。たとえば教祖の側近だった上祐史浩氏(現在は「ひかりの輪」代表)。オウムの外報部長として弁明が饒舌なので、「あー言えばジョーユー」などと事件当時は揶揄されていた。かつてこの欄に寄稿したときに上祐氏が父親との関係で問題を抱えていたことや、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯だった岡崎一明死刑囚も両親の不在があったことを指摘した(http://ironna.jp/article/1150?p=1 参照)。ある男性幹部は「いつまで教団にいるつもりなのか」と問うたとき「あの両親のもとには戻りたくない」と語っていた。 わたしは統一教会(最近名称を世界平和統一家庭連合に変更した)の信者や元信者たちから話を聞く機会も多かった。振り返ってみればこの宗教団体を取材をはじめて30年になる。信者たちは文鮮明教祖(2012年逝去)夫妻のことを「真のお父様」「真のお母様」と呼んでいた。実父母ではなく、教組夫妻が「まこと」だというのだ。その背景には――オウム信者もそうだが――一般的傾向として反抗期の欠如もあった。基本的な人間的資質として素直なのだ。誰にでもある親とのあつれき。そんなとき偶然にカルト教団と出会うことがある。いまでも東京都心の駅前では、「青年意識調査」などの街頭アンケートを取り、若者に近づく。システム化された勧誘コースのなかで、これまでにない親切な対応で接近し、精神のなかに入り込んでいく。ある有名人で統一教会に入り、合同結婚式に参加した女性からは、教団にずっと批判的だったと聞かされた。ではなぜ入信したのか。海外にいたために父の死に目に会うことができず落ち込んだとき、いちばん親切にしてくれた人たちに心を開いた。しかも「あなたがいい成果をあげることができたのは、お父さんのおかげなのだ」とも言われた。そうだと思いたかった。そしていつしかかつて批判的だった集団に入信していた。 カルトと家族問題。日本社会はこうした視点での分析や検討を全体として怠ってきた。宗教法人としてのオウム真理教は消えた。残存しているオウム後継団体の監視を強めようとも「外部」からの批判には限界がある。たとえオウム残党が消滅しても、免疫のない日本にはカルトがいくらでも侵入する。警察庁幹部は語った。「日本にどれぐらいカルトが入り込んでいるかはわかりません。事件が起きてから気がつくのです」。カルト問題は構成員の精神の「内部」から突破しなければ、問題の根本的解決に進んでいかない。地下鉄サリン事件などで社会が変わったのではなく、何も変わっていないところにこそ深刻な問題が隠されているのだ。半世紀あるいは世紀単位で見つめてみよう。オウム事件を経験した日本社会は、この20年で進歩したのだろうか。かりに死刑囚に対する刑の執行が行われようと、事件の背後に潜んでいた課題は残ったままなのだ。わたしは深い危惧をいだいている。

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    沖縄の民意ってなんだ?

    「あらゆる手法を尽くして基地は造らせない」。米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐり、国に対する行政訴訟を起こした沖縄県の翁長雄志知事の言葉である。「民意」を盾に徹底抗戦の構えだが、そもそも沖縄の民意ってなんでしょうか? 捻じ曲げられた声ばかりではなく、たまには本当の声も聞いてみたい。

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    沖縄戦は終わっていない

    佐野眞一(ノンフィクション作家)壮絶なひめゆり部隊の証言 戦後七十年の日本人というと思い出す女性が二人いる。 いずれもウチナーンチュ(沖縄人)で、一人は沖縄戦の孤児で現在七十五歳を超えている。 もう一人は津波古ヒサさんといい、沖縄戦の最後を戦った“ひめゆり部隊”の生き残りである。昭和二年生まれだから今年九十歳近い。 二人の今日までの来歴は、戦後七十年の日本人そのものである。 二人の出会いについては後回しにして、元“ひめゆり部隊”の津波古ヒサさんが、学徒動員されるまでの歴史を簡単におさらいしておこう。 彼女は那覇市の松山小学校から昭和十九年に女子師範学校に進んだ。そして翌二十年三月、学徒動員された。“ひめゆり部隊”は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒二百二十二名、教師十八名で構成された学徒隊の別名である。 だが、彼女の“沖縄戦”は、“ひめゆり部隊”入りする前からすでに始まっていた。 昭和十九年八月二十二日、九州などに学童疎開する対馬丸に引率者として乗った兄夫婦と子どもが、米海軍潜水艦に撃沈されて落命した。対馬丸事件の犠牲者は、学童を中心に一千三百七十三名。 対馬丸に乗っていた肉親は、それだけではなかった。 別の兄夫婦と五人の子ども、それに子どもの面倒を見るためにお姑さんも乗り込んでいたから、犠牲者は全部で十一人にも及んだ。 彼女はそういう辛い歴史を背負って“ひめゆり部隊”に入隊した。津波古さんは米軍の南下作戦に従い、激増する日本兵負傷者の手当てや、死者の遺体埋葬に追われた。「ひめゆりの塔」には修学旅行生の訪問が絶えない=沖縄県糸満市 沖縄本島南部の糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」が出版した記念誌には、その後の米軍の動向と“ひめゆり部隊”の最期がこう記されている。 〈5月下旬米軍が迫るなか、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい迫撃砲の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された教師・学徒240名中136人、在地部隊その他で90人が亡くなりました〉 ひめゆり平和祈念資料館の展示室には、生き残った“ひめゆり部隊”女学生たちが語った生々しい証言がパネルで展示されている。とても全部を紹介することはできないが、主だった証言の見出しだけでも挙げておこう。 痩せこけた兵隊ところころ太った蛆/麻酔なしの手術を申し出る患者/おしっこをゴックンゴックン/鋸で切り落とした足/青酸カリを混ぜたミルク/おしっこしたいよ……学生さん/泥んこを這いずり回る両足切断患者/ドラム缶のように腫れた死体/当美ちゃん……足がない/ミイラになった兵隊たち/姉さん……死にたくない/一ちゃんは目を大きく開いて/フミさんの顔がなくなった/顔がシャモジになった/ジャクジャク ジャクジャク蛆が湧く音が……。危うく殺されそうに危うく殺されそうに 津波古さんには、忘れられない恐怖の思い出がある。あれは、首里の司令部を放棄して南部の摩文仁に撤退命令が出た昭和二十年五月二十七日のことだった。 もう真夜中だった。部屋にいたのは、津波古さんともう一人の“ひめゆり部隊”の看護婦だけだった。 「そのとき、見たこともない人が三人部屋に入ってきたんです。その人たちがあっちこっち探してカンカンを見つけたんです。缶詰の缶です。最初は食事をするんじゃないかと見ていたら、どうも様子が違うんです。 私は退屈だったものですから『手伝いましょうか』と言ったんです。するとびっくりした顔で振り向いて、『何しているか。まだそこにいるのか』と非常に恐ろしい顔で言うんです。それからしばらくして、『お前たちは人間じゃない』なんていう怒鳴り声が聞こえてきた。そこで友達の看護婦さんに『これ、ちょっと変よ。私たちも殺されるかもしれない』と言って、そこから逃げたんです。動けなくなった病人に青酸カリを入れて殺したということは、あとから聞いて知りました」 津波古さんは逃げる途中、学徒隊の引率教師をしていた実の兄に会った。「それでいま、目撃した出来事を話しました。兄は二人の軍医のところに行って何か話したあと、戻ってきて『いまの話は誰にも絶対言うな。もし秘密を漏らしたら軍法会議だよ』と言われました。それ以来、誰にもずっと話さないできました」今日来た子が翌日には…… 津波古さんが真相を知ったのは、戦後も六十年経った頃だった。ある新聞記者の紹介で、いまは京都で暮らす岡さんという人と会ったのがきっかけだった。 岡さんはそのとき、津波古さんにこんな話をした。 普通のミルクと思って口にしたら何か変だったので、すぐ炊事場に行って蛇口から水を飲んで吐き出した。同じ炊事場で、北海道出身の兵隊が苦しそうにもがいていた。その人の首根っこをまえて水をたくさん飲ませ、口に手を入れて毒を吐き出させた。 津波古さんはこの話を聞いて、やはり自分が目撃したのは見間違いではなかったことを確信した。「それで、こんなところはたいへんだと思って、友達と二人で逃げ出した。でも、北海道出身の人は歩けない状態だったから、岡さんの後に這ってついて行った。すると奥の方から若い将校が出てきて二発、バンバンとやったらしいんです。岡さんには当たらなかったけど、後ろからついて行った北海道の人には当たってそのまま動かなくなった。岡さんは息を殺して、射殺した将校たちが現場から立ち去るのを確認してからその場を逃げてきたそうです」 息をのむような話だった。 だが、そのあとに続く話は、戦争の悲惨さを語ってさらに残酷だった。 津波古さんが摩文仁海岸を逃げ回って捕虜になり、百名(現南城市)の病院勤務を経て、コザ(現沖縄市)孤児院で約百名の子どもたちの世話をすることになったのは、昭和二十年六月末のことだった。 彼女は手記で、そのときの様子を次のように述べている。〈到着したのは、焼け残った瓦葺の大きな家で、孤児たちが大勢収容されていました。私たちは、ここで乳幼児の世話をすることになりました。子どもたちは、栄養失調で精気もなく泣いていました。私たちにこの子たちの面倒が見られるのか、一緒に泣き出すのではないかと不安でした〉 津波古さんがコザ孤児院に赴任したのは、僅か十七歳のときである。大勢の栄養失調の孤児たちを前にして、泣き出したくなる気持ちがよくわかる。 南風原市の沖縄県公文書館に、コザ孤児院の子どもたちを目隠し鬼ごっこして無邪気に遊ばせる津波古さんの写真が所蔵されている。お下げ髪で手を叩く津波古さんは先生というより、ちょっと年上のお姉さんである。その幼い姿が戦争の痛ましさを無言で語って胸を衝く。もう埋めるところがなくてもう埋めるところがなくて──コザ孤児院では、毎日のように子どもが亡くなったようですね。「そうですね。小さい子、二、三歳の子は、今日来たかと思ったら翌日にはもう亡くなっていました。もう埋めるところがなくて、弾が落ちた跡の大きな穴に、そのまま埋葬もしないでなかに落としていました」──死因は何が多かったんですか?「栄養失調だったと思います」──寝るときは子どもたちと一緒ですか?「はい、ずっと一緒でした。子どもたちは夜になると泣いて。わあわあ泣くんだったらまだいいんですけど、しくしく泣くんです」──それは辛いですね。「だから、とにかくぐっすり寝かせることを考えて、昼間は鬼ごっこで駆け回らせたりして疲れさせるんですけど、やっぱり熟睡はしないですね」──いくら昼間、疲れても?「夕方になると、小さな子が『おっかあ、おっかあ』と言って泣くんです。あのときは、私も泣きたくなるくらいでした」 津波古さんに特になついた子は、名前はわからなかったが、地名のコザから“コザヨシコ”と名付けられた。沖縄戦は終わっていない 二〇一〇年六月、コザ孤児院で“同窓会”が開催された。この模様は、NHKのドキュメンタリーでも放映された。 この番組の白眉は、同窓会に参加した六十八歳の“コザヨシコ”さんが、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた少女の写真を見て「これは私かもしれない」と叫ぶ場面である。──彼女とはNHKの番組で六十数年ぶりに再会したわけですが、津波古先生が大きくなった“コザヨシコ”さんを抱きかかえて、「これからは私をお母さんと思ってね」と言ってネックレスを渡すシーンは本当に感動しました。あれ以来、彼女から連絡はないのですか。「ありません」──それはなぜなんですか。「いつでも訪ねてきてねって言って、手紙を出そうとしたんですが、住所も言えないんです。学校にも行けず、字もまったく読めないから……」 衝撃的な話だった。沖縄戦で孤児になった少女は孫を持つ身になっても、自分の本当の名を知らないばかりか、読み書きもできない。 戦争はそれほど不幸な人間を生み出す。 戦後七十年、沖縄戦はいまだ終わっていない。

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    松田聖子に勝てない平成のB級アイドル

    昭和、平成と時代が移り変わっても、日本人はアイドルの存在に憧れ、心をときめかせる。今や時代は、AKB48や嵐といった平成のアイドルたちが活躍する黄金期。彼らが昭和を代表する松田聖子の存在をも超える日は来るのか。独断と偏見との批判は覚悟の上で日本のアイドル論を考えたい。

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    「ポスト百恵に松田聖子を」歴代アイドル誕生と卒業の瞬間

    若者を中心に多くのファンを魅了し、時代を彩ってきたアイドル。日本でその呼称が定着したのは昭和40年代の「新三人娘」ブーム以降だが、アイドルの萌芽(ほうが)は30年代から活躍した双子デュオ、ザ・ピーナッツにも認められる。偶像が生まれた背景には、テレビ文化の発展と、新しい音楽文化を希求する情熱があった。双子デュオ、ザ・ピーナッツ和製ポップスを確立させたザ・ピーナッツ 皇太子殿下と美智子さまのご成婚パレードが放送され、テレビが急速に普及した34年、フジテレビ系「ザ・ヒットパレード」は始まった。デビュー間もないザ・ピーナッツがレギュラー出演し、絶妙なハーモニーによる和製ポップスを浸透させた音楽番組だ。 仕掛け人は、フジのディレクターだった作曲家のすぎやまこういちと、渡辺プロダクション創業者の渡辺晋(しん)。渡辺プロが多額の番組制作費を肩代わりする形で始まったが、晋と妻の美佐(現渡辺プロダクショングループ代表)は「絶対にお茶の間に受け入れられる」と確信していた。 渡辺夫妻は、名古屋から上京してきたザ・ピーナッツを自宅に住まわせ、レッスンを積ませてきた。注力したのは歌だけでなく、振り付けや衣装など「いかに楽しく見えるか」という人々の「目」を意識した娯楽性。音楽と映像を同時に楽しめるテレビ時代を見据えた訓練は功を奏し、番組は大ヒットした。 ザ・ピーナッツは日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」などの番組にも出演し、一躍人気者に。司会やコントもこなす一方、映画などにも出演するマルチタレントぶりで新時代のエンターテイナーとしての地位を築いていく。 美佐は語る。 「ザ・ピーナッツはテレビを通じてたくさんの人に愛された。2人が新しいエンターテインメントの形を見せたことで、後のアイドルが生まれる環境が整っていったのかもしれません」 「ザ・ヒットパレード」を手がけたすぎやまはその後、作曲家として渡辺プロ所属「ザ・タイガース」の楽曲などを手がけ、グループ・サウンズブームをもり立てる。映画会社やレコード会社が大きな力を持っていた当時、テレビ局と芸能プロという“新勢力”同士の結びつきが、芸能界に新風を吹き込んでいった。「白雪姫」天地真理 アイドルの語源は「偶像」を意味するラテン語「イドラ」で、1940年代に米国の歌手、フランク・シナトラを指して使われ始めたとされている。日本ではフランスの歌手、シルヴィ・ヴァルタンの曲と映画の邦題「アイドルを探せ」(昭和39年)などで言葉が“輸入”された形跡を確認できる。 ただ、若手人気歌手や俳優は「青春スター」などと呼ばれることが多く、「アイドル」が本格的に定着したのは40年代後半。特に46年、小柳ルミ子、南沙織、天地真理がそれぞれデビューし、「三人娘」(新三人娘)と呼ばれるようになった頃が一つの転換期だ。 天地はTBS系ドラマ「時間ですよ」で「隣のマリちゃん」として登場し、注目を集めた。「白雪姫」のキャッチフレーズで歌手デビューし、「真理ちゃんとデイト」などの冠番組がシリーズ化されるなどテレビを通じて人気が過熱。人形や自転車などアイドルグッズのはしりも発売され、国民的な支持を得る。 天地の楽曲制作ディレクターの一人だった中島二千六(にちろく)(現渡辺音楽出版社長)は、7作目「恋する夏の日」の企画を所属していた渡辺プロ社長の渡辺晋に説明したときのことを鮮烈に覚えている。「天地が高原のテニスコートで白いテニスウエアを着てたたずんでいる」という楽曲のイメージを告げると、晋から厳しく追及された。 「テニスコートの場所は軽井沢か? 山中湖か?」 「…軽井沢です」 中島は、やり取りの意図をこう説明する。 「それだけ背景を想像できる歌詞にこだわっていたということ。イメージを作りあげ、演じさせる。晋社長は『女性シンガーはファンが恋人』と言い、具体的な恋人が登場するような歌詞は避けていた」 本人のチャームポイントを誇張し、疑似恋愛を誘うよう、一種の「演出」を加えて売り出していく-。現在につながるアイドルプロデュースの原型が形作られていった。 40年代後半、10~20代のアイドルの楽曲は徐々にレコード売り上げランキングをにぎわしていく。だが、そうした変化は必ずしも肯定的に受け止められていたわけではなかった。 CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の音楽プロデューサーとして、南沙織や郷ひろみの楽曲を手がけた酒井政利はその頃、あるテレビ局員からこんなことを言われた。 「酒井さんは、アイスキャンディーを売っている」 アイスがすぐ溶けてしまうように、アイドルの旬は短く、たくさん売らないといけない-。そんな含意を感じ取った酒井は「言い得ている」と思うと同時に、別の思いも強くした。 「従来の歌謡曲に飽き足らない、時代や若者が欲している新しい音楽はある。時代をとらえた言葉や音楽は、いい意味で心に痕跡を残せるはずだ」 46年春、16歳だった南と初めて会った酒井は「しっかりした『自己』を持っている」と直感したという。南のデビュー曲「17歳」で重視したのは、私小説的なメッセージ性だった。 軽快なメロディーに乗り、「私は今 生きている」(有馬三恵子作詞)と伸びやかな声で宣言するこの曲は、大ヒットを記録。沖縄返還を翌年に控え、沖縄出身の南への注目は集まり、取材やテレビ出演も相次いだ。酒井は「アイドルとファンの距離はありすぎてもだめなのだと思う。彼女が話しかけ、訴えてくるような近さを、ファンはきっと感じ取ったのではないか」と振り返る。 「17歳」は後のアイドルやアーティストによって何度もカバーされ、CMソングにも採用されるなど、今ではアイドル・ポップスの記念碑的楽曲と見なされている。溶けない「アイスキャンディー」もあることを、月日が証明したのだった。昭和40年代後半から50年代前半にかけて、アイドルは隆盛期を迎える。46年に日本テレビ系の公開オーディション番組「スター誕生!」が始まったことで、「普通」の少年少女にとって、デビューは夢から“手が届く憧れ”に変わる。そして人気絶頂のアイドルが自ら宣言した幕引きは、社会に大きな衝撃を与えた。25社が獲得に名乗りを上げた桜田淳子 47年9月、東京・後楽園ホールで行われた「スター誕生!」の決戦大会で、14歳の少女の獲得に史上最多の25社が名乗りを上げた。名前は桜田淳子。芸能事務所、サンミュージックの福田時雄名誉顧問(83)も、プラカードを上げたスカウトマンの一人だった。 「責任を取らないといけないから、手を挙げるのには度胸がいる。でも、淳子のときは迷わなかった」。交渉の末、福田は桜田という「原石」を獲得する。 番組からは同年、森昌子が第1号として「せんせい」でデビュー。福田も森の獲得を狙っていたが、「2、3年レッスンを積んでからデビューさせたい」と交渉して失敗。その経験から、福田には「スターを生む番組なのだから、すぐデビューさせないといけない」との思いがあった。 桜田は翌48年2月に歌手デビューし、3作目「わたしの青い鳥」でヒットを飛ばす。番組が輩出した同学年の森や山口百恵とともに「花の中3トリオ」と呼ばれ、人気を集めていく。背景には当時、大きな影響力を持っていた芸能事務所、渡辺プロダクションに対抗し、タレント発掘を目指していた日テレの後押しもあった。 福田は「昌子ちゃんのデビューで中学生の応募も増え、淳子や百恵ちゃんも続いた」と語る。3人の呼び名は高1~3トリオと徐々に“進級”。番組と3人の成功は、発掘した原石をそのままメディアに登場させ、磨かれていく過程も見せる日本独自のアイドル像を形作っていった。「スター誕生」数々のアイドルを輩出した「スター誕生!」 「スター誕生!」の放送は58年まで続き、ピンク・レディーや柏原芳恵、中森明菜、小泉今日子など約90人のタレントを輩出。放送12年間で応募総数は200万通にも達したといい、番組は、多くの視聴者にとって縁遠かった芸能界の入り口を示し続けた。 番組の人気が高まり、他局もオーディション番組を相次いで放送し始めていた51年。芸能事務所のホリプロは、自社主催の新人オーディション「ホリプロタレントスカウトキャラバン(TSC)」をスタートさせる。芸能事務所自ら地方都市を回り、大規模に「金の卵」を発掘するという前例のない試みだった。発案者はホリプロ創業者で現ファウンダー最高顧問の堀威夫(ほり・たけお)(81)。ホリプロは「スター誕生!」で森昌子や山口百恵を獲得して躍進していたが、堀は数年前、名乗りを上げた桜田淳子を取り逃がした苦い経験を忘れていなかった。 「『スター誕生!』の仕組みはテレビ局のもの。自分たちがどんなに気に入っても、獲得できないことがある。ならば自分たちで見つけてくるしかない」 色眼鏡で見られがちだった芸能事務所のイメージアップという狙いもあった。TSCでは初代グランプリとして榊原郁恵を発掘。回を重ねるごとに認知度は高まり、堀ちえみや井森美幸、深田恭子ら事務所の「看板」の登竜門に育った。 テレビや芸能事務所が新人発掘の近代的なシステムを整備したことで、業界には本格的な活況と同時に競争が持ち込まれ、アイドルの世代交代への布石になっていく。キャンディーズ最初の自己主張 「普通の女の子に戻りたい」 52年7月。3人組アイドルグループのキャンディーズは、東京でのコンサートで涙を流しながら解散を宣言した。事務所の了承を得ずに「普通」を求めた“掟(おきて)破り”の告白はメディアで大きく報じられ、ファン以外にも衝撃が広がった。CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の音楽プロデューサーだった酒井政利は「アイドルが初めて自己主張をした瞬間だった」と振り返る。キャンディーズ 解散は53年4月まで延期されたが、ファンの熱心な後押しも手伝い、終幕に向かう3人の人気は急速に高まっていく。酒井が手がけたラストシングル「微笑(ほほえみ)がえし」はオリコンチャートで初の1位を獲得し、後楽園球場の解散コンサートには約5万5千人が集まった。 「次第に作り手やファンの間にも、奇妙な共感が広がっていった」と酒井。ただ、その頃、キャンディーズの「宣言」に違和感を表明した歌手がいた。山口百恵だ。酒井によると、山口はあるとき、「私たちが普通の女の子に戻ることなんて、できないことだと思う」とつぶやいたという。 高校を卒業していた山口は当時、歌手としても女優としてもヒット作に恵まれ、絶頂期を迎えていた。酒井は「当時の百恵さんはアイドルというより、アーティストの領域に入っていた。仕事に没入していたからこそ、『普通』の難しさを感じていたのではないか」と推測する。 しかし、山口は54年に俳優の三浦友和との交際を明らかにした上で、55年3月、結婚と引退を記者会見で発表。10月の引退直前には、身を引く理由や歌手、女優としての自身を冷静に見つめた自叙伝も刊行し、ベストセラーになった。 引退表明に先立つ54年12月、山口から決意を打ち明けられた堀は「初めは驚くばかりだったが、後で自分がもし山口百恵だったら同じことができるかと考えた。絶対にできない。降参ですよ」と脱帽する。酒井も「普通に戻れないと思っていた彼女が、戻るための準備を万端に整えた。今に至るまで、彼女は『山口百恵』という像を管理している」と分析する。 最後のコンサートで、キャンディーズは「私たちは幸せでした」と感謝をにじませ、山口百恵は「幸せになります」と誓った。それぞれが最後に見つめた先は過去と未来に分かれたが、ともにアイドルという「物語」に自ら幕を下ろすことで、時代の象徴として今も語り継がれるようになった。 山口百恵が引退した昭和55年は、松田聖子の人気に火が付き、昭和末期まで続くアイドル黄金期の幕が開いた年でもあった。男性アイドルを多数抱えるジャニーズ事務所の隆盛や、多人数グループの元祖、おニャン子クラブ…。多様なアイドルの登場は、ファンが抱く「憧れ」の変化も映し出していた。「『ポスト百恵』に、松田聖子を」 「『ポスト百恵』に、松田聖子を」 山口の引退が発表された55年3月。芸能事務所サンミュージックは、18歳の新人、松田を社を挙げてバックアップする方針を打ち出した。他社のトップスターの引退は、自社タレントを売り出す大きなチャンスでもある。社長の相沢秀禎(ひでよし)らスタッフの狙いは当たり、4月にデビューした松田は、2曲目「青い珊瑚礁(さんごしょう)」でブレークした。 事務所は当初、55年秋のデビューを想定していたが、松田は予定より早い54年夏に上京。相沢の自宅に住み込みながら、テレビドラマなどのオーディションに相次いで合格した。別の新人の売り出し計画が頓挫するという事務所側の偶然も重なり、デビューの前倒しにつながる。大手芸能事務所、サンミュージックプロダクションの相澤秀禎会長(左)と歌手の松田聖子=1980年頃 サンミュージック名誉顧問の福田時雄(83)は「聖子は自分の積極性で運を開いた。彼女ははじめから強いプロ意識を持っていた」と振り返る。 松田はデビュー年、芸能関係の新人賞を総なめにした。一方、ある授賞式で、声を詰まらせながらも涙が出ていなかったことが「嘘泣き」とみられ、「ぶりっ子」(かわいい子ぶっている子)として揶揄(やゆ)や批判の的にもなった。 それでも、毛先をカールした当初の髪形は「聖子ちゃんカット」と呼ばれ、まねをする若い女性が続出。「好き」と「嫌い」の対照的な反応は、新時代のアイドルが持つインパクトの大きさを物語っていた。「花の82年組」 55年以降、アイドルの世代交代は加速する。中でも松本伊代、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、中森明菜らを生んだ57年は、後に「花の82年組」と呼ばれた。男性ではドラマ「3年B組金八先生」をきっかけに田原俊彦ら「たのきんトリオ」の人気に火が付き、「シブがき隊」のブレークとともにジャニーズ事務所が躍進していく。 この時期、ヒット曲をランキング形式で紹介するTBS系歌番組「ザ・ベストテン」にアイドルが続々と登場し、TBS系「スチュワーデス物語」などアイドルが主役を張るドラマも続出。映画でも薬師丸ひろ子ら「角川3人娘」が注目を集めるなど、アイドルはまさに絶頂期を迎えていた。 そんな中、テレビ番組から「どこにでもいそうな女の子の放課後や部活動」という斬新なコンセプトを持つアイドルが生まれた。60年に始まったフジテレビ系バラエティー番組「夕やけニャンニャン」で人気となった「おニャン子クラブ」だ。 「女子高生を集めて素人っぽいままテレビで見せたら面白いんじゃないか。発想はそんな遊び心だった」 番組プロデューサーを務めたフジテレビの石田弘(70)はそう振り返る。 きっかけは石田らが手がけた深夜番組「オールナイトフジ」。出演していた女子大学生のレコードを発表すると反響が集まり、中高生の視聴者からの支持が高いことも分かった。おニャン子はその“低年齢版”。番組企画には、後にAKB48を手がける秋元康も放送作家として参加していた。 約2年半のおニャン子活動期間中、在籍メンバーは計50人以上に及んだ。番組内オーディションで発掘した少女をメンバーに加え、ソロ活動や「うしろゆびさされ組」などのグループ内ユニットを生む手法を考案。このアイデアは、メンバー入れ替えなどの仕掛けを重ねていく現代的アイドルグループの先駆けになった。おニャン子の戦略 おニャン子のデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」の発表イベントは想定以上のファンが殺到し、中止になる騒ぎとなった。ただ、「当事者たち」は驚きながらも過熱していく人気を冷静に受け止めていた。おニャン子 メンバーの一人で現在は演歌歌手として活躍する城之内早苗(46)は「歌番組で同期やライバルと接触することもほとんどないし、本当に部活感覚。みんなで『いつ終わるのかな?』なんて話していた」と振り返る。学業優先で試験期間中は休みもOK。親と本人、スタッフによる「三者面談」も行った。番組出演前に化粧をしていると、スタッフにとがめられたこともあったという。「私たちは“できあがっちゃだめ”だった」と語る。 「ブームがピークを過ぎる前にやめた方がいい」(石田)との考えもあり、おニャン子は62年、番組終了を受けて解散した。アイドル文化に詳しい法政大教授の稲増龍夫(62)=メディア文化論=は、おニャン子人気の背景にはアイドルに対するファン心理の変化があったとみる。 「松田聖子以降、アイドルは虚構=作り物と見られることが多くなる。テレビ局が自前で生み育て、プロデュースの裏側も見せたおニャン子は、疑似恋愛の対象としてのみならず、虚構を楽しむ『メディア現象』としての魅力があった」 一方、松田は60年に結婚。山口をはじめ結婚を機に引退するスターも多かった当時、松田は出産を経て歌手に復帰した。平成元年にはサンミュージックから独立。その後、度重なるスキャンダルを報じられながらも、彼女の歌や生き方は、同性を含む多くのファンの支持を集める。 長年、サンミュージック創業者の相沢を支えた福田は語る。 「聖子が独立したとき、相沢は涙を流した。相沢は事務所を辞めても聖子を愛していたんじゃないかな。彼女は何歳になっても昔の歌を昔のまま歌える。不思議なカリスマ性がある」 自由奔放に見える人生を送りながらも、メディアを介した“虚像”の自分をぶれずに貫き通せる-。それが松田を今も「アイドル」たらしめている理由なのだろう。 平成元年、歌番組全盛期を築いた「ザ・ベストテン」が終わる。改元と前後してアイドルブームも収束し、特に女性アイドルは「冬の時代」に突入していく。「敗者復活」で誕生したモーニング娘 平成に入り、歌って踊る女性アイドルは昭和期のような求心力を失っていく。潮目を変えたのは「モーニング娘。」の登場。そして「AKB48」のブレークが、日本中に空前のアイドルブームを呼び起こしていく。 「落とすのが惜しい子たちがいる」 平成9年、テレビ東京系オーディション番組「ASAYAN(アサヤン)」で行われた「シャ乱Q女性ロックヴォーカリストオーディション」。後にモーニング娘。のプロデューサーとなる、つんく♂(45)や番組スタッフは9月、最終選考で落選した女性5人に「敗者復活」の機会を設けた。 自主制作CDを5万枚売ればデビューできる-。そんな難題を課された彼女たちの奮闘が番組で放送されると、各地のイベントに視聴者が殺到。テレビを媒介にファンが自らの手で行動し、新時代のアイドル誕生の背を押した。 平成に入り、バラエティー番組で活躍する「バラドル」やグラビアで活躍する「グラドル」など、アイドルの細分化は進む。音楽CD市場も活況を呈していたが、安室奈美恵やSPEEDといった若い女性歌手はアイドルというより「女性アーティスト」と呼ばれることが多かった。 つんく♂は、こう振り返る。 「実力派のCDが売れていた当時、自分で『アイドル』と言うのが、何となく恥ずかしい時代だったと思う。だからこそ、アイドルを期待するファンはフラストレーション(不満)を抱えていたはず」 「ASAYAN」はデビュー後もモーニング娘。を追い続け、寺合宿の様子や新メンバーオーディションといった“裏側”もドキュメントで見せていく。当時の「恥ずかしい」アイドル像を裏切るため、曲ごとに曲調や衣装などを変え、新メンバーも続々と追加。つんく♂は「積み上げたものを壊すところから全てが始まった」と明かす。 11年には髪を金色に染めた新メンバー、後藤真希を新たに加え「LOVEマシーン」を発表。懐かしさと新しさの調和したダンスサウンドと独特の振り付けが評判を呼び、大ヒットする。番組でひたむきな努力を見せたメンバーの姿は女性や子供からも支持を集め、現在の若いアイドルを生む新たな「憧れ」の下地を作っていく。 モーニング娘。はその後もメンバーの追加や卒業といった、おニャン子クラブにも似た仕組みを採用。グループ内ユニットや姉妹グループが相次いで生まれ、松浦亜弥らソロ歌手も含めたつんく♂プロデュースの「ハロー!プロジェクト」ブランドが定着していく。これからは『テレビから』じゃない 一方、17年夏、東京の秋葉原を拠点に新たなアイドルグループが産声を上げようとしていた。 「これからのアイドルは『テレビから』じゃない。自前の劇場を作って、そこから発掘していこう」 ダンスプロデューサーの夏まゆみ(52)は、作詞家で後にAKB48の総合プロデューサーとなる秋元康から熱い誘いを受けた。モーニング娘。の育成や振り付けも手がけた夏は、グループをゼロから立ち上げる大変さを知っていたが、「劇場」を仕切れるという魅力から承諾。約3年にわたってAKB48の船出を支えた。 夏は最初のオーディションで前田敦子ら8人に可能性を感じ、「○」をつけた。最終的な合格者は24人。想像を超える人数の多さに戸惑いつつも、後にAKB48を一種の芸能界の「進学校」とし、グループの拡大を狙った秋元の考えに気付くことになる。 劇場は同年12月にオープン。当初は客の入りも低調だったが、公演を繰り返すに従い、徐々にインターネットなどでの口コミで支持が浸透。メンバーは続々と増え、活躍の場もテレビなどに拡大した。ファンが間近で支え、成長を見守れる「会いに行けるアイドル」は、テレビではなく“現場”から育っていった。ファンの心を揺さぶるAKB48「素の強さ」 特に新曲を歌うメンバーをファン投票で選ぶ「選抜総選挙」が21年に始まると、社会的注目も高まった。メンバー間の競争や人気の差が白日の下にさらされ、23年の総選挙では1位に返り咲いた前田敦子が「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と声を震わせた。これはファン以外にも強烈な印象を残した。 夏はAKB48グループの魅力をこう語る。 「総選挙で泣きながら訴える彼女たちは“素”の姿をさらけ出している。そこに嘘でない本物の感情が込められているから、ファンの心を揺さぶる。秋元さんは“素”の強さを理解し、そのお膳立てができるからこそすごいのでしょう」AKB48総選挙で頂点に立った指原莉乃 =ヤフオクドーム AKB48グループは地方都市や海外での姉妹グループ展開などの企画を続々と打ち出し、話題を振りまき続けている。それに呼応するようにここ数年、ご当地アイドルを含むアイドルグループが相次いで活躍し、昨年は主人公がアイドルを目指すNHK連続ドラマ小説「あまちゃん」がブームに。今年5月には岩手県でのAKBの握手会でメンバーらに対する傷害事件も起き、社会に衝撃を与えた。 法政大教授の稲増龍夫(62)=メディア文化論=は、モーニング娘。やAKB48の活躍によって、作り物や疑似恋愛の対象になりがちだったアイドルが「共感の対象として応援したくなるもの」に変わり、世代や性別を問わず親しまれるようになったとみる。 最近は数年で引退や解散するのではなく、グループ内で新陳代謝を図ったり、地道な活動を続けられたりするシステムを確立することで、男女問わずアイドルの“寿命”も長くなってきた。一方、夏は「十分なスキルを積んでからデビューする海外と違い、日本のアイドルは求められるものが違う」と語る。 稲増は日本のアイドルの独自性についてこう指摘する。 「日本では良くも悪くも『未完成』な部分が魅力と見なされる。発展途上だからこそファンは思い入れを持てる。そうした日本独特の感覚が、クールジャパンや『Kawaii(カワイイ)』文化を生む土壌を培っているのかもしれない」 日本でアイドルが生まれて半世紀近く。「未完成」を追求し、成熟してきた文化は今後、「外」にも受け入れられるのか、それとも内向きな娯楽としてさらに進化するのか-。偶像への人々の視線は、形を変えてこれからも注がれ続けていく。=敬称略(三品貴志)※産経新聞【ニッポンの分岐点】アイドル(1)~(4)をまとめました。

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    ピンク・レディーが日本人の音楽体験を変えた

    都倉俊一(作曲家) 私は戦後生まれであるが、物心がついた頃から日本人がアメリカに対し、とても親しみを持っている事はごく自然であった。よく考えて見ると、ついこの間まで殺し合ってきたものが、いとも簡単に親しみを持ったことが長年不思議でならなかった。後年、その理由の一つが終戦直後から進駐軍が持ち込んだアメリカ文化が、日本を席巻した事であることが理解できた。その豊かさ、楽しさは日本人の想像をはるかに超えていたものであったに違いない。 いうに及ばず、日本はアメリカに比べずっと古い、奥の深い文化を持っている。しかし何年もの耐乏生活を強いられていた日本人にとってアメリカ文化は、豊かで、明るく、何よりもてっとり早く、無条件に、わかりやすく、エンタテインしてくれる。それは音楽であり、ハリウッド映画、見たこともない食べ物、飲み物。また普及が始まったばかりのテレビを通じて見るアメリカの車、家、電化製品。すべてが夢の世界だったに違いない。このカルチャーショックが戦時中、軍部に抑圧され「鬼畜米英」と教えられていた日本人のメンタリティを瞬時に変えたことは想像に難くない。1950年代はすべてにおいてアメリカの独壇場だったのだろう。その繁栄も60年代後半から東西冷戦、ベトナム戦争で終焉を迎え、アメリカは冬の時代を迎える。 衰退する欧州、傷ついたアメリカに代わって登場するのが敗戦国から卒業した日本である。70年代というのは日本の文化史にとって重要な時期である。高度経済成長によって先進国の仲間入りをしたことにより生活に余裕ができ、豊かな大衆カルチャーが登場する。古今東西、文化はその国が経済的に豊かになり、社会が成熟して行く過程で花ひらく。日本にとって戦後四半世紀を迎えた1970年代とはまさにそういう時代の幕開けであった。 大衆カルチャーの中心がテレビとレコード産業の発展である。まさにこの時代が日本のエンタテインメントの創世期であり、その中心に音楽とテレビがあったのである。私が大学生だったのがまさにこの時代であった。 結構忙しい大学生であった。法律を学ぶ学生であったが、幼いころからの音楽知識を活用して、学生ながらアルバイト感覚でレコーディングその他の仕事をし、収入も結構あった。この時期、多くのレコード会社が生まれ、各社当時は最先端のカセットテープの製作にも追われていた。 何しろソフトが足りないのである。我々新人も駆り出され朝から晩までスタジオでレコーディングの毎日であった。 そんな中で初めてオリジナル曲の依頼が来た。大学3年生の時である。 曲は「あなたの心に」という曲で、初めて自分の曲がラジオから聞こえてきた時は胸がドキドキした。1969年、私の最初のヒット曲であった。それから15年近く私のガムシャラともいえる音楽作りが続くのである。ピンク・レディー世代がバブルに踊った?日本テレビ「スター誕生!」300回記念で黄金カルテットが顔をそろえた。(左から)ピンク・レディーのミー、ケイ、作曲家の都倉俊一氏と作詞家の阿久悠さん=昭和52年6月8日、東京都文京区の後楽園ホール 話は飛ぶが、バブルも終わって久しい2001年にある社会学者との対談で私は意外な質問を受けた。「今の日本の消費経済のある意味で中核となっている35-40代の女性について責任があるとお考えですか」というものであった。彼の分析はピンク・レディーブームに起因していた。つまりピンク・レディーが出た1976年に6、7歳から12歳くらいの女の子が10年後に大学生、OLになりバブル経済の洗礼を受ける。ブランドバッグを持ち、美味しいものを食べ、ジュリアナのお立ち台で踊っていたというのである。バブルの終焉で宴も終わり、今は普通の主婦やOLなのかもしれないが、皆ピンク・レディー世代で、これには例外はないという。 「それが私に責任…」と笑い話になったのだが、確かにピンク・レディーブームはすごかった。自分で作曲しておいてなんだが、その頂点はもう私たちの手を離れた超社会現象となっていた。その意味で「例外はない」という事になるのかもしれない。日本人の音楽に対する接し方と言うのは“詩(うた)”を聞く、つまり言葉から入る。それを補強するために“節”をつける。つまりあくまでメロディは“従”の立場であった。それが70年代のポップスの時代になり音楽の要素が強くなってくる。ピンク・レディーの音楽に接した若者、子供たちは、少し大げさに言えば、日本人が初めて音楽をリズムで感じ、体で表すことを覚えた新世代なのである。もうこの世代も40-50代になっているであろうがこの感覚は一生ぬけないものである。 バブルを反省し、その後を失われた20年と評するのが一般的であるが、私は必ずしもすべてをネガティヴに捉えてはいない。確かに経済活動が狂い、拝金主義が世の中にはびこったことは事実であろう。しかしその中で育ち贅沢でリッチな思いをした世代が、すべてを失い、奈落の底に突き落とされたかと言うと必ずしもそうではない。いいものを見、着、食べ、贅沢な美しいものに囲まれた経験は彼女たちの記憶に蓄積されている。こういう事は忘れるものではない。これらは彼女たちの子供の教育を通じて次世代の経済、消費、文化活動に繋がってゆく。彼女たちの経験は決して無駄ばかりではないのである。 私が言いたいのは、これから21世紀の日本はどうやって生きて行くのか。勿論もう大量生産、大量消費ではない。物を創るにも日本人にしか作れない付加価値の高いものでなければならない。日本の伝統に裏打ちされた、他がまねのできないもの。実際確実にそういうものが今、世界中に広がり、受け入れられている。 一時代前、日本人が作る製品は優秀であり、品質が良いと言われた。これからは日本人が創るものはすべて優雅で、美しく、贅沢で、面白く、奥が深く、センスがいい。またこういう見方もあるかもしれない。日本人の生活はとてもいい匂いがする、社会の秩序が整っている、身だしなみが良く清潔である、礼儀作法を大切にする、人にやさしい。 昔からどこかで聞いたことがある。もし今、周りに見当たらなかったら少し道を戻って捜したらすぐに見つかる。 世界中が日本の無形な空気に憧れるような国にならなくてはならない。 日本の技術が世界を便利にさせるより、日本の空気に包まれることにより世界の人が幸せを感じるような国にしたいものだ。

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    「お笑い」武器の“吉本ブランド” NMB48はアイドルの進化形か

    「吉本興業研究」検証編より産経新聞連載再録(平成24年9月7日)※肩書、年齢等は当時のまま 大阪・難波を拠点とするアイドルグループ「NMB48」が平成22年の結成以来、順調に人気を伸ばしている。オリコン週間チャートでデビュー以来、5作連続でシングル初週売り上げ20万枚を達成した。吉本興業とパチンコ機器メーカーが設立した合弁会社がマネジメントを担当し、メンバー全員が吉本に所属。AKB48の姉妹グループとして誕生した「お笑い」を武器とする異色の“吉本ブランド”は、アイドル史を塗り替えることができるだろうか。AKB48リーダー・高橋みなみさん(21)「ライバルじゃなく仲間」 --高橋さんから見て、NMB48はどんな存在か 「同じ48グループ(AKB48とその姉妹ユニット)だから、お互いに切磋琢磨(せっさたくま)してがんばっていきたいなと思っています。活動の拠点が大阪で、AKBとはチームのカラーが違うし、持っている特徴も違うので、比べるものではないと思います。ライバルじゃなくて仲間に近い存在ですね」 --NMB48はお笑いを武器にしているが、アイドルとお笑いの両立は難しいともいわれるインタビューに答えるAKB48リーダー、高橋みなみさん=2012年5月18日午後(瀧誠四郎撮影) 「AKB48にもお笑いキャラの子はいるし、私もそっちのタイプです。アイドルとお笑いの両立は確かに難しいかもしれないけど、アイドルだから面白くないというのもまた、おかしな話だと思います。だからいろいろなことにチャレンジして、ぶつかって、違うなと思ったら、そこから変えていけばいいと思います。AKB48もいろいろなことに体当たりでぶつかって、むちゃもやってきましたが、いろいろなことがようやく最近、分かってきました。NMB48も、いっぱいチャレンジして答えを見つけてほしいですね」 --NMB48に、大阪の「笑いのDNA」を感じるか 「彼女たちには『ひとまず何でもやってみよう』という思い切りの良さがあるなと思います。彩(さや)ネエ(山本彩)は、モノマネのお笑いネタを持っています。普通ならやれといわれても、なかなかできないじゃないですか。それを思い切りよくやる度胸はすごいなと思います」 --もし高橋さんがNMB48のメンバーだったら何をしたい 「やっぱり一緒に公演に出たいですね。私は関西の番組ロケで、NMB48の公演に出演させてもらった経験がありますが、本当に雰囲気が違うんですね。(AKB48の)同じ曲をやっていても、NMB色があるんです。気迫というか何というか…。ステージに立つと全然違うんです。メンバーの思いなんかも、一緒に踊るとすごく分かるんです。一緒に公演すると、すごく自分にとってもプラスになるんですよ」NMBリーダー・山本彩 「自信を持ってお笑いPR」NMB48リーダー・山本彩(さやか)さん(19)「自信持ってお笑いPR」  --幅広い層から支持されている 「1期生に、やっと個性が出てきました。劇場でかっこいい曲を歌っている子は女の子から支持され、かわいい曲を歌っている子は男性から支持されています。トークを得意にするお笑い担当の子は、母親世代に支持されていますね」インタビューに答えるNMB48リーダー、山本彩(さやか)さん=2012年5月10日(志儀駒貴撮影) --「お笑い」に特化したキャラクターを売りにしている 「NMB48には(ピン芸コンクールの)R-1ぐらんぷりに挑戦したメンバーもいて、お笑いを得意にするところがちょっと強みです。メンバーの出身地が関西なので、お笑いをそばで感じながら育ってきました。自然と体に染みついているので、みんな好きでやっています」 --所属する吉本に対する印象は 「もともとすごくお笑いが好きで、舞台をよく見に行っていました。プロのお笑い芸人さんと共演するときは、すごく勉強になるので、吉本で良かったなと思います」 --「大阪=お笑い」とのイメージが強い。アイドルとして活動する中で、損をしたり、得をしたりすることはあるか 「損の部分は特にないですね。得したことの方が多いかも。普段もAKB48やSKE48との違いを聞かれた際に、自信を持ってPRできるのはお笑いなので。私たちもすごく好きで楽しくやっています。一番伸ばしていきたいところです」 --吉本を意識して活動をすることはあるか 「お笑い系の番組に出演した際に、芸人さんのノリに乗っかることもよくあるけど、どこまでやってもいいのか線引きで困ったことはあります。たまにアイドルという立場を忘れて発言しがちですね。メンバー同士でアイコンタクトをとったりしながら『危ない、危ない』と自制もしたり。芸人とアイドルの境目がけっこう難しかったりします」 --NMB48を将来どうしていきたいのか 「大阪府内のツアーをしていますが、一番は、もっともっと大阪の人に愛されたいですね。それが無事成功できたら、全国に羽ばたきたいと思っています。一番自然体でいられるのがステージなので、ステージ上の私たちを、ぜひ見てほしいですね」

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    31年ぶり聖子に楽曲提供ユーミン 互いに妥協せず発売延びた

     今年歌手デビュー35周年を迎えた松田聖子(53才)が、10月28日、新曲『永遠のもっと果てまで』をリリースした。作詞は松本隆(66才)、作曲は松任谷由実(61才)が担当。3人がタッグを組むのは31年ぶりのことだった。米映画「PAN~ネバーランド、夢のはじまり~」のジャパンプレミアに出席した松田聖子=10月1日、東京・六本木 10月30日に放送された『SONGSスペシャル 時を超える青春の歌 ~作詞家・松本隆の45年~』(NHK)では、聖子を前にふたりがこう感想を語り合った。松任谷「すごくいい意味で聖子版『MY WAY』」松本「そうそう。ぼくもそれを思った」松任谷「聖子さんが“風雪を越えて、帆をあげて旅立とう”って歌詞を、昔だったら歌えなかったかもしれないんだけど、そこに時間がすごくこもってる。それが伝わってきて…」 すると、それを聞いていた聖子は泣き崩れるようにして、手で顔を覆った。突然の聖子の涙──それは、聖子とユーミンの31年の確執の清算を意味していた。 ユーミンが聖子に初めて曲を書いたのは、1982年1月に発表した『赤いスイートピー』だった。当時、ユーミンはニューミュージックのトップランナー、一方の聖子は『青い珊瑚礁』や『白いパラソル』でトップアイドルとしての地位を確立しつつあった。 「当初、ユーミンは聖子さんに曲を提供することを頑なに断ったそうです。お互いトップを争うライバルですし、ユーミンからすれば、アイドル歌手の聖子さんとは違って、“本気で音楽について勉強してきた”という自負もあったんでしょう」(音楽関係者) しかし、作詞を担当する松本の「ライバルの曲を作ってみない?」という言葉でユーミンは曲を提供することを決める。本名ではなく、ペンネーム『呉田軽穂』で提供した曲は、当時の聖子にとって難易度の高いものだった。 そして1984年5月にリリースした『時間の国のアリス』を最後に、ふたりは袂を分かつことになった。 「1985年に交際を公にしていた郷ひろみさんと破局し、神田正輝さんと電撃結婚しました。一連の報道や聖子さんの会見は、どこかショーのような華やかさがありました。ユーミンは、聖子さんのその姿勢に歌手として大きな違和感を持ったんだと思います。彼女はプライベートをあまり話すような人ではありませんでしたから」(スポーツ紙記者) その後ふたりは、31年の間、ともに音楽の世界を走り続けながらも、交わることはなかった。だが、聖子が35周年を迎えた今年、止まっていた時間の針は大きく動き出した。 「聖子さんのアニバーサリーに相応しい新曲を考えた時に、松本さんの頭に浮かんだのは、やっぱりユーミンでした。彼女とだったら、聖子さんを次のステージに後押しするような曲が作れるかもしれないと思ったんです」(前出・音楽関係者) しかし、それは決して簡単な道のりではなかった。 「ユーミンがこれまでの聖子さんのイメージを打ち破るような新曲を用意するのですが、聖子さんは堂々とその曲に意見する。ふたりともこれまで第一線を走り続けてきたプライドがあるのでお互い一歩もひかなかったそうです。当初は今年の春頃にはリリースする予定だったのが、延びに延びて今回のタイミングになったそうです」(前出・音楽関係者)関連記事■ ユーミンが世に影響を与えてきた軌跡を酒井順子が検証した本■ 松田聖子“元カレ”整体師とビジネスパートナー関係継続報道■ 失神寸前の男性も! 松田聖子がゲイから圧倒的に人気な理由■ 石田純一 松任谷由実を聞いて「夢が持てる音楽だ」と感じた■ 還暦祝いとなったユーミン新年会 千秋、小泉進次郎氏も出席

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    泉麻人が語る 松田聖子が80年代アイドルを完成させた

    泉麻人(作家、コラムニスト) 僕が大学を卒業して「週刊TVガイド」の編集部に勤めるようになったのは70年代晩年の79年。アイドル(歌謡)時代の幕明けは、南沙織と天地真理、それから小柳ルミ子(すぐにイメージは変わったが)のデビューする71年とされているが、当時はそんな最初のアイドル時代の流れが滞りつつある頃だった。 前年春にキャンディーズが解散、翌年引退する山口百恵は“大御所”の域に達し、桜田淳子や岩崎宏美も大人の歌を唄っていた。ヒットチャートの主役はサザンやツイスト、八神純子や庄野真代…といったニューミュージック・テイストの面々で、石野真子や大場久美子はがんばっていたけれど、たとえばこの年のレコ大や歌謡大賞の新人賞を取った桑江知子や倉田まり子も含めて、アイドル畑は小粒だった。「第11回日本歌謡大賞」放送音楽新人賞を受賞した田原俊彦、松田聖子=1980年11月18日、日本武道館 ちなみに僕は、TVガイドの編集部でNHKの局担当をしていたので、アイドル番組の金字塔「レッツゴーヤング」の収録にはよく立ち合っていた。この番組内には“サンデーズ”というデビュー予備軍の新人歌手を集めたグループが編成されていて、先の倉田まり子もその一員だったはずだが、80年度のメンバーのなかに田原俊彦や松田聖子が選出されていた。 田原が「哀愁でいと」でレコードデビューするのは80年6月、すでに「3年B組金八先生」で“たのきんトリオ”(近藤真彦・野村義男)として顔を売っていた彼はすぐにブレイク、一方聖子の方はデビュー曲「裸足の季節」こそスマッシュヒット級だったが、7月発売の「青い珊瑚礁」が大ヒット、田原とともに80年代アイドル時代の礎を築くことになる。そう、当時「レッツゴーヤング」の収録日にNHKへ出向くと、月を追うごとにNHKホールや西口玄関付近に出待ちのファンが増えていったのを思い出す。 70年代のアイドルは、野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹による新御三家(アイドル時代以前、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の御三家が存在した)がいて、彼らに続く城みちる、荒川務、あいざき進也…と男性陣もそれなりの力を持っていたが、80年代はたのきん(といっても田原と近藤)と後続のシブがき隊、少年隊…男の方はほぼジャニーズ勢の独占状態となっていった。雑誌のグラビア、モデルも含めて、アイドルというとまず女性をイメージする時代になったのだ。 聖子とサンデーズの同期に浜田朱里ってコがいて、僕はどちらかというとこちらの方が好みだったのだが、彼女は惜しくも沈んでしまった。当初聖子と対比されたのは河合奈保子、そして松本伊代、中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、石川秀美、といった面々が出揃う82年から数年間は、おニャン子以前のアイドル黄金期といえる。アイドルはウンチしてもオシッコしても大丈夫になった?この年デビュー、インタビューに応じる小泉今日子=1982年10月1日 この時期、僕は裏仕事でマガジンハウスの雑誌などにも原稿を書いていたのでよくおぼえているが、いわゆる82年組のアイドルは「アンアン」や「オリーブ」でデザイナーズ・ブランドの私服姿を披露するようになっていた。まだステージや番組内では御仕着せの衣装も見受けられたが、徐々にオフの衣装のセンスが重要になってくる。原宿や青山のショップに通じたスタイリストがアイドルの取巻きに加わる。この辺は、非日常的なお人形さんルックでよかった天地真理の時代とは随分異なる点だろう。つまり、言葉は悪いけれど、ウンチやオシッコもする日常性が垣間見える方がアイドルとして自然、という意識に変わってきたのだ。なかでもキョンキョン(KYON2、という表記がハヤった)は、サブカル系雑誌の表紙でいきなりモヒカンヘアーを披露したり、インディーズ系バンドとコラボしたり、既成のアイドルの概念を積極的に打ち破っていった。 80年代アイドルの女王は、なんといっても松田聖子だろうが、彼女に関しては見てくれのファッションよりも歌(楽曲)の力が大きい(尤も、聖子ちゃんカットというスタイルもハヤらせたが)。聖子の初期の曲もニューミュージック調ではあったけれど、「白いパラソル」(81年7月)以降の松本隆の作詞、財津和夫やユーミン(呉田軽穂)、細野晴臣の作曲、松任谷正隆のアレンジ――洗練された本格ニューミュージックチームの楽曲によって、新たなアイドル像が作りあげられていった。 グッとシブいスポーツカーで迎えにくる彼、渚のバルコニーでバカネ…と呟く水着を持ってこなかった彼女…ユーミンあるいはティン・パン・アレー系サウンドにノった松本の詞世界は、湘南あたりのドライブシーンにも重ねられる日常性を持っていた。この辺はアンアンやオリーブでオシャレなオフっぽい姿を披露する80年代型アイドルの感性とも一致する。 アイドル歌謡のニューミュージック化は70年代後半の太田裕美や岩崎宏美、キャンディーズあたりから試みられてはいたけれど、聖子によって完成された。しかし彼女、最近は穏やかになったから、ふと書き忘れそうになったが、しばしば芸能ジャーナリズムを騒がせた“スキャンダルの女王”でもあった。アイドルのまま恋愛しても、別れても、ママになっても…つまり、ウンチしてもオシッコしても大丈夫、というスタイルを実証したヒトなのだ。 最後にもう一点、アイドルを語る――アイドル論なるものがメディアに根着いたのも80年代の初頭。その先駆は70年代後半に「ポパイ」誌で連載コラムを始めた近田春夫あたりになるのだろうが、80年代に入って「よい子の歌謡曲」に代表されるミニコミ誌が登場、KYON2についても中森明夫(この筆名からして…)ら新人類評論家によってアカデミックに魅力が論じられた。かくいう僕なども、そういう一員になるのかもしれない。 当時の世相を回想するとき、フジテレビがキャンペーン時に掲げていた「おもしろロマン」とか「軽チャーっぽい」とかのキーワードが浮かんでくる。そう、「アイドル」は「アニメ」や「怪獣」や「B級グルメ」と同じく、ポリ(政治)性の薄れたサブカルチャーの格好の論題となったのだ。

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    AKB旋風で新しいアイドルが生まれ、テレビの凋落が鮮明になった

    アイドルとは何か 「アイドル」の定義は明確に確立しているわけではないが、現在では、いわゆる「アイドル」の辞書的語義である「偶像」に由来していることだけは、おおむね一致している。つまりは、「崇拝」あるいは「憧れ」の存在ということである。 もちろん、「偶像」自体、宗教からきている言葉で、昔から存在したわけだが、アイドル論の文脈でいう「アイドル」は、1960年代くらいから用いられ、1963年に封切られた『アイドルを探せ』というフランス映画によって、広く市民権を得るようになった。 ただ、1960年代に「アイドル」という言葉が登場したと言っても、当時はまだ「スター」という呼称が支配的であり、「アイドル」が本格的に使われたのは1970年代以降である。ちなみに、1971年に、天地真理、南沙織、小柳ルミ子の「アイドル3人娘」がデビューしている。スターとアイドル 図式的に言えば、この二つの呼称は、主たる活躍の場(メディア)で分けられ、簡単に言えば、スターは映画、アイドルはテレビである。 映画の観客=受け手は、わざわざ時間を作って映画館に行き、お金を払って閉鎖空間に身を置く。これは「映画を観たければ映画館に来い」ということで、送り手=制作者がイニシアチブを握っている構図である。スターは、そこに現出された非日常的空間で、勇猛果敢なヒーローや見目麗しき美女を演ずる存在である。だから、そのカリスマ性を維持するために、できる限り日常生活を隠して「神秘性」を高める必要があった。ファンたちも、スターを神格化し崇め奉るわけで、ある意味、「擬似宗教」である。これが、全盛期のハリウッドが構築した「スターシステム」である。 一方、アイドルは、特にわが国で発達した文化表象現象で、圧倒的美男美女よりも、隣のクラスのカッコいい子や可愛い子といった手の届く「親しみやすい」存在である。 そもそもテレビは、初期こそお茶の間やリビングの特等席に鎮座していたわけだが、次第に、食事を食べながら、寝転がりながら見る日常的メディアとなり、それゆえ、次第に受け手が優位であるような錯覚を感じさせてしまうのである。受け手は「選択の自由」しかないわけだが、やはり、視聴率が幅を利かす世界なので、制作者が視聴者に媚びへつらうようになってしまう。 その結果、テレビでは、たんにドラマで演じたり音楽番組で歌ったりするだけではなく、トーク番組やバラエティ番組に出て素顔をさらすことがかえって好感度を高めることになるのである。お高くとまった「スター」は、次第に敬遠されるようになっていった。 言ってみれば、「スター」がカリスマ性を維持できたのは「映画」という非日常的メディアが活躍の場だったからであり、「テレビ」が日常化して、視聴者の生活に浸透していくようになると、「スター」から「カリスマ性」や「神話性」が剥奪され、より親しみやすい存在である「アイドル」が求められるようになっていったのである。モーニング娘。からAKB48へモーニング娘。からAKB48へ ここで、話は1970〜80年代のアイドル黄金時代をワープして一気に21世紀に飛ぶ。まずは20世紀末に、モーニング娘。の大ブレイクが起きた。 モーニング娘。は、1997年に『ASAYAN』(テレビ東京系列)という番組内の「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」の決勝で敗れた5人が、敗者復活的温情で結成されたグループで、当初の期待度は低かったが、番組内で彼女たちの奮闘ぶりをドキュメント的に紹介することで人気が上昇し、1999年の「LOVEマシーン」の大ヒットで国民的アイドルグループへと登りつめた。 新メンバーが加入したり、旧メンバーが卒業したりと、組織内の新陳代謝を活発におこない、2015年現在、第12期メンバーで活動を続けている。「AKB48 22ndシングル選抜総選挙」を終えて、にこやかに談笑する前田敦子(左)と大島優子=2011年6月9日、日本武道館(撮影・大橋純人) このモーニング娘。ブームの勢いにのって、2005年にAKB48がデビューした。その名の通り、東京の秋葉原を拠点にした大所帯のアイドル集団である。現在のメンバーは100名をはるかに超え48というのは実体というより象徴的数字である。名古屋にSKE48、大阪にNMB48、博多にHKT48と拡大し、さらには、海外の上海、ジャカルタにも48システムが展開している。 狙いとしては、ジャニーズや宝塚と同じで、容姿やキャラクターにおいてさまざまなタイプの女の子がいることで、ファンからすれば、多くのメンバーから自分好みを見つけられ、なおかつ、自分が目をつけた「原石」が人気アイドルに成長していくことを見守れるのである。 つまりは、一人のビックアイドルに頼るのではなく、「多様な選択肢」を用意して、後はファンの好みに委ねるというやり方である。マーケテイング的言葉に置き換えると、消費行動における「少品種大量生産」から「多品種少量生産」へという流れである。日本型育成感覚モデル 宝塚を源流に持つ、多くの選択肢から自分好みのアイドルを見つけ出すというシステムは、ある意味、日本的な「育成感覚」モデルである。ハリウッドに典型的な、欧米のショービジネスでは、歌唱力やダンスの実力があるのは当然の条件で、その上で、自分の商品価値を映画会社なりに売り込み使ってもらう。その契約を代行するのが「エージェント」である。 これに対して、日本の芸能事務所は、「原石」となるべき素材を見つけ出し、そのタレントが実力をつけていくのをサポートしていく。ファンたちも、デビュー時に未熟でも、温かい目で成長を見守ってくれる。だから、歌やダンスの技術が低くても、なんらかの「華」や「人間的魅力」があれば、人気が出ていくことがある。 よく、海外からの留学生が、日本のアイドル(の一部ではあるが)、なんで、あんなに歌が下手なんですかと驚いたりするが、日本では、それこそ、自分の子どもが学芸会で頑張っているのを応援するように、成長過程そのものが「商品」になるのである。 ファンが「アイドルを育成していく」という「参加感」を共有するというのは、最終的には「幻想」であるかもしれないが、ある意味、相互補完的な「インタラクティブなメディア行動」であり、欧米型の、一方向的な「実力至上主義」とは異なるビジネスモデルと言えるのである。いつでも会えて、つながっているいつでも会えて、つながっている AKBに話を戻すと、仕掛人=プロデューサーは、おニャン子クラブで成功を収めた秋元康で、多くのメンバーを揃えるという「選択の多様性」と、番組内オーディションでメンバーを決めるという「ファンの能動的関わり」という大きな枠組みにおいては「二番煎じ」にみえるが、そこには、時代性を巧みに取り込んだ新戦略が見て取れる。 まず一つは、マスメディアにせよネットにせよバーチャルな情報が肥大化していく中で、あえて、秋葉原の常設劇場にくれば「いつでも会える」というアナログな「対面コミュニケーション」を売りにしたことで、それは、人気が定着している現在でも続けている(もっとも劇場のキャパが小さいので、チケットは入手困難になっている)。 もう一つは、ファンの能動的関わりをさらに強化した点で、ネットでの口コミなど、制作側がコントロールしにくいメディア環境が進化したということもあり、ファンの評判や人気を重視し、その極致が、毎年恒例の「総選挙」であった。これは、次に出すAKB48の新曲を歌う選抜メンバーをファンの投票で決めるというもので、さらには、その際の歌うポジション(序列)まで決まってしまうのである。毎回、そこに予想外のドラマが生まれ、人気維持に大きく貢献している。アイドル文化の現在進行形 このAKB旋風によって、アイドル文化はさらなる飛躍=拡大を遂げ、多くのグループアイドルがデビューし、少女時代、KARAなど、韓国の「Kポップアイドル」も日本で支持されている。それ以外にも、「地下アイドル」「ご当地アイドル」などのインディーズ的動きも盛んで、必ずしもメジャーデビューだけが目標でないアイドル活動も活性化している。 あるいは、虚構という意味では、実在しない「ボーカロイドアイドル」初音ミクがヒットチャートを賑わし、また、きゃりーぱみゅぱみゅといった「クールジャパン」の代名詞として海外で注目されるアイドルも生まれてきている。こうした新しいアイドルは、ある意味、ネットメディアと密接に結びついており、テレビというマスメディアが勢いを失ったことを鮮明に象徴している。【注】本論考は、拙著「アイドル学・序説」の内容を大幅に圧縮し再構成したものである。興味を持たれた方は『現代風俗学研究16号〜音楽の風俗』(2015年末刊)をお読みください。

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    ソ連の北海道占領計画〝日本分断〟防いだ英断

     【日本史の中の危機管理 濱口和久】スターリンの野望 69回目の終戦の日が過ぎた。終戦直後である69年前のちょうどこの時期、千島列島の北端で、日本軍とソ連軍との間で戦闘が繰り広げられていたことをご存じだろうか。 先の大戦末期の1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミヤ半島のヤルタで米国大統領のルーズベルト、英国首相のチャーチル、ソ連首相のスターリンによる3カ国首脳会談が開かれた。会談でルーズベルトは、ソ連による千島列島と南樺太の領有を認めることを条件として、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。これが「ヤルタ密約」といわれるものだ。ヤルタ会談に臨む英国首相のチャーチルと米国大統領のルーズベルト、ソ連首相のスターリン(前列左から、米国立公文書館) ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは急死。副大統領から昇格したトルーマンは終戦工作を進め、日本はソ連参戦と広島、長崎への原爆投下を経てポツダム宣言を受諾する。そのトルーマンは8月15日、スターリンに対し、ソ連が日本軍の降伏を受理する地域を規定した「一般命令第一号」を送付した。そこではソ連軍の占領地域は満州と北緯度以北の朝鮮となっており、ヤルタ密約とは違って千島列島は含まれていなかった。この内容を不満としたスターリンは翌16日、直ちにトルーマンに次のような要求をする。 (1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること。これはヤルタ会談における3カ国の決定により、ソ連の所有に移管されるべきものである。 (2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域には北海道の北半分を含むこと。北海道の南北を2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線とする。なおこの両市は北半分に入るものとする。 あろうことかスターリンは、北方4島を含む千島列島全島の領有を挙げたのみならず、北海道の半分を要求してきたのである。北海道の占領は、日本のシベリア出兵に対する代償であると主張した。 トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返事が18日には届いたが、スターリンはそれを無視する。ソ連の戦史研究所所長、ボルゴドノフ大将は、スターリンは終戦直前、極東軍最高司令官、ワシレフスキー元帥に「サハリン南部から北海道に3個師団の上陸部隊を出せるように準備指令を出した」と語っている。 近現代史研究家の水間政憲氏はボルゴドノフ大将の発言を裏付ける証拠として、ソ連の「北海道・北方領土占領計画書」を山形県鶴岡市のシベリア資料館で発見し、『正論』平成18年11月号にその内容を発表している。これを読むと、ソ連は北海道の半分どころか、あわよくば全島の占領をもくろんでいたことが分かる。攻撃を続行したソ連軍占守島の戦い カムチャツカ半島の南端から海峡を隔てて10㌔余、千島列島の最北端に、占守島(しゅむしゅとう)という島がある。この島に、将兵の誰もが戦争は終わったと信じていた8月18日午前0時過ぎ、カムチャツカ半島のロパトカ岬からソ連軍長射程砲の砲撃が開始された。「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始す」という電文が北千島方面の第師団長、堤不夾貴(ふさき)中将から札幌にある第5方面軍司令部に入ったとき、司令部では幕僚たちが顔を見合わせるだけでしばらく沈黙が続いたという。 そのとき、司令官の樋口季一郎中将は、自衛のための戦闘を命ずるべきか、戦闘行為を禁じていた大本営の指示に従うべきか悩んだ末、反撃命令を発した。ヤルタ会談が行われたリバディア宮殿。現在は博物館として一般公開されている 実際の戦闘では、ソ連軍は上陸用舟艇16隻など計54隻の艦船、総人員8300人余りで、18日午前2時に島北端の国端岬に急襲上陸を図った。1日で全島を占領し、千島列島を南下する計画だったが、日本軍の予想外の抵抗により大きな被害を出し、変更を余儀なくされた。 結局、ソ連軍は上陸地点にくぎ付けとなったまま、戦闘は8月21日に終結した。ソ連側の記録では、ソ連軍の死傷者は日本軍をはるかに上回ったとされている。ソ連のイズベスチヤ紙などは占守島の戦いを「満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった」と伝えていることからも、いかに激しい戦闘が繰り広げられたかが想像できる。教科書にない真実 もし樋口中将の英断による占守島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、その後のわが国はどうなっていただろうか。 北海道はソ連軍に占領されていたに違いない。そして満州や南樺太で起きた略奪、子女に対する暴行や強姦が繰り返され、多くの民間人の青年がシベリアに強制連行されていたことだろう。さらには北朝鮮や統合前の東ドイツのように共産主義独裁国家が北海道に誕生し、津軽海峡を挟んで同じ民族同士で対立していたであろうことは想像に難くない。 ソ連の北海道占領計画は歴史の教科書に載っていないため、学校では教えられていない。そのため日本人の大半が知らない「歴史の真実」となっているのである。 (拓殖大学日本文化研究所客員教授) 

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    樺太に残された日本人妻が明かす終戦後の壮絶な日々

     「戦前の樺太は活気にあふれててね。自然も豊かで人情もあって。本当にいいところだった…」 南樺太で生まれ育った近藤孝子(84)=東京都三鷹市在住=はこう言って目を細めた。 明治38年、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太は日本領となった。多数の日本人が入植し、林業や漁業、製紙業などで栄え、昭和16年12月の国勢調査では40万6557人が暮らしていた。 米国と戦争が始まっても平穏だった。学校では日本人、ロシア人、朝鮮人が一緒に学んだ。近藤は南樺太でずっと幸せに暮らしていけると信じて疑わなかった。 ところが、昭和20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に一斉侵攻したことで近藤らの人生は大きく変わった。 樺太への侵攻は11日に始まり、ソ連国境近くの古屯(ことん)付近で日本軍と戦闘になった。北部の住民が南部に避難してきたが、近藤らが暮らす落合町など南部は空襲もなく、今ひとつ戦争の実感はなかった。 8月15日正午。近藤は女学校の同級生とともに勤労動員先の陸軍大谷飛行場近くの寄宿舎で、玉音放送を聞き、終戦を知った。 ところが、終戦後もソ連軍の攻撃は続いた。20日には、樺太西海岸の拠点だった真岡町にソ連軍が上陸した。内地への引き揚げ命令が出た22日、ソ連軍は樺太庁のある豊原市(現ユジノサハリンスク)を爆撃、100人以上が死亡した。 同日、引き揚げ者を乗せ、北海道・小樽に向かっていた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻が国籍不明の潜水艦の攻撃を受け、第二新興丸を除く2隻が沈没、1700人以上が死亡した。犠牲者の大半は女性や子供、老人だった。 ソ連はこの事件に関して沈黙を守ったが、ソ連崩壊後、海軍記録などからソ連太平洋艦隊の潜水艦L-12、19が付近海域で船舶3隻を攻撃したことが判明している。この事件を受け、引き揚げ事業は中断され、近藤ら大勢の日本人が南樺太に留め置かれた。× × × サハリンに名を変えた南樺太は無法地帯となった。 ソ連兵は傍若無人だった。短機関銃を構えて民家に押し入っては時計や万年筆、鏡など貴重品を手当たり次第に略奪したが、黙って見ているしかなかった。 強姦(ごうかん)も日常茶飯事だった。近藤ら若い女性は髪を短く切り、作業服姿で男のふりをして日中を過ごし、押し入れか屋根裏で就寝した。ソ連兵が家に押し入ると押し入れで息を潜めた。占領した南樺太(南サハリン)の真岡市(ホルムスク)を行進するソ連軍兵士(ロシア軍中央博物館) そこで若い女性が選んだのは、朝鮮人との結婚だった。少なくない女性が「強姦されるよりも嫁に行った方がいい」と思っていたからだ。近藤も23年5月に朝鮮人と結婚した。 同年10月、親代わりだった叔父夫婦や弟の帰国が決まった。叔父らは「一緒に帰ろう」と勧めてくれたが、夫が帰国対象にならないことから南樺太にとどまった。同じような境遇の日本人妻は数多くいた。× × × サハリンは日本人妻にとってますます住みづらくなった。朝鮮人は男女問わず「日本のせいで故郷に帰れなくなった」と日本人妻をなじった。ソ連当局の監視も厳しかった。 耐えられず朝鮮名に改名する日本人妻も多かったが、近藤は本名を通した。「いつか日本に帰る」と心に決めていたからだ。 唯一の慰めが、ラジオから流れる日本の歌謡曲だった。美空ひばり、三橋美智也-。樺太で生まれ育った近藤は歌詞の日本の地名にはピンとこなかったが、歌を聞く度に「私は日本人なんだ」と勇気づけられた。× × × 日本に一時帰国できたのは平成2年5月。新千歳空港に降り立つと弟が出迎えてくれた。42年ぶりの再会だった。 近藤が末娘一家とともに日本に永住帰国したのは平成12年10月、終戦から55年がたっていた。今も幸せを感じているが、ふとこう思うこともある。 「私が知っている樺太での日本とはどこか違う。日本は戦後、大切なものをなくしてしまったんじゃないか。樺太のことも忘れられていくのかな…」急速にロシア化進む北方四島急速にロシア化進む北方四島 北方領土・色丹(しこたん)島は、標高412メートルの斜古丹(しゃこたん)山など3つの山が丘陵地と入り江を織りなす美しい島だった。島の中心集落・斜古丹(ロシア名・マロークリリスク)から、ぬかるんだ山道を車で1時間余り。日本人墓地は、イネモシリと呼ばれる海を見渡せる丘の上にあった。 だが、墓地の荒廃は進んでいた。クマ笹や雑草が生い茂り、傾いたまま放置された墓石も少なくない。 旧ソ連は北方四島を軍事要塞化し、元島民が近づくことさえ認めなかったが、昭和39年以降、墓参だけは認めるようになった。 元島民が25年に結成した千島歯舞(はぼまい)諸島居住者連盟(札幌市)は「墓参が四島返還の足がかりになる」と考え、ほぼ年1回の集団墓参を実施してきた。 平成に入るとソ連は崩壊し始めた。これを好機とみた日本政府は四島への人道支援を始め、病院や学校、ディーゼル発電所などを次々に建設した。支援を通じて、元島民がビザなしでいつでも帰還できる環境を整えようと考えたからだ。 これが奏功し、入植ロシア人の対日感情は改善され、「四島を日本に返還し、ロシア人も繁栄の恩恵にあずかるべきだ」という声が上がるようになった。 だが平成18年に潮目が変わった。露政府は「クリール(千島)諸島社会経済発展計画」を策定し、9年間で千島列島のインフラ整備や生活向上に計179億ルーブルの資金投入を決定。24年7月には露首相のドミートリー・メドベージェフが国後(くなしり)島入りし「一寸たりとも領土は渡さない」と断じた。今年7月には今後10年間で700億ルーブルの投資を決めた。× × × 18年以降、四島のロシア化は着実に進んでいる。 色丹島では26年12月、「南クリール地区中央病院色丹分院」が開業した。デジタルマンモグラフィーなど最新医療設備が並び、ロシアの全病院で病歴や投薬情報を共有するシステムも導入された。同島のクラボザヴォツク水産加工場もスケトウダラを加工・冷凍する最新の生産ラインを備えた。他にも小中学校などの建設ラッシュが続く。 10歳まで国後島で暮らした大塚誠之助(80)=札幌市在住=はこう語る。 「70年という時は長すぎる。ロシア人が生活の根を張り、昔の面影が消えた島に高齢の私らは今さら移住できない。せめて生きている間に自由に往来できるようになれば…」 昭和20年8月15日、北方四島の居住者1万7635人は米軍の空襲を一度も受けることなく終戦を迎えた。まさか島を追われることになるとは夢にも思わなかったはずだ。 ところが、18日、ソ連第2極東方面軍8千人超が、千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島に侵攻した。陸軍第91師団2万3千人が応戦し、23日の武装解除まで日本兵600人、ソ連兵3千人の死者を出す激戦が続いた。南樺太にもソ連第2極東方面軍が11日に侵攻し、陸軍第88師団と激突した。 もし両師団が応戦していなければ、北海道北半分はソ連に占領されていただろう。第33代米大統領のハリー・トルーマンが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンに「北海道の占領は認めない」と通告したのは8月18日だったからだ。 だが、択捉(えとろふ)島以南に米軍が進駐していないことを知ったソ連軍は8月28日に択捉島、9月1~5日までに色丹島、国後島、歯舞群島を占領した。日本が降伏文書に調印したのは9月2日。国際法を踏みにじる蛮行だった。 ソ連軍の上陸は四島の島民を恐怖のどん底に突き落とした。若い女性は変装して納屋に隠れたが、逃げ場を失い、幼子を抱えて海に身を投げた母親もいた。 ソ連は21年2月に四島を自国領に編入。島民を強制退去させる決定をした。島民は小型船で沖合に出た後、荷物用モッコ網に入れられてクレーンでつるしあげられ、大型貨物船の船倉に降ろされた。完全にモノ扱いだった。× × × 今年3月末の元島民は6774人、70年前の4割以下に減った。四島の入植ロシア人は計1万7千人超で終戦時の日本人数に迫る。元島民の平均年齢は79・8歳。残された時間はあまりない。(敬称略)

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    昭和20年の概念に疑問、攻撃を続行したソ連軍

    小堀桂一郎(明星大教授)昭和20年の概念に疑問 平成七年は戦後五十年の節目の年に当たるということで、各種の記念的企画や行事が早くから取り沙汰されているようである。そこでその「戦後五十年」とは元来如何なる概念なのか、この際少々基本的なところから考え直してみる試みもあってよいだろう。 先づ昭和二十年八月十五日を以て大東亜戦争が「終わった」と見られているが、この把握は正しいだろうか。確かに、いわゆる「終戦の詔書」は昭和二十年八月十四日付で渙発(かんぱつ)され、それは翌十五日にラジオ放送を通じて日本国の全軍隊と全ての一般市民に布告せられた。その詔書の主旨は、昭和天皇が〈非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲〉せられ、その措置の具体的内容は〈米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメ〉るというものだった。 それでは天皇が政府をしてその受諾提案に〈応セシムル〉ことを決断されたポツダム共同宣言とは如何なる趣旨のものだったか。これが日本に向けて発せられたのは七月二十六日のことで、この時ソ連は未だ対日戦に参加していなかったから、共同宣言は米(大統領)、中(政府主席)、英(内閣総理)の三国の政府責任者の名に於いて出されており、その主文はこの三国の代表が〈協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ〉というものだった。そしてこの主文に附して〈日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄〉は三国の巨大な軍事力を以て最後的打撃を加へ続けるであろうことを宣し、その〈巨大ナル軍事力〉には原子爆弾攻撃が含まれるであろうことを言外に、しかしかなり露骨に示唆していた。 日本政府はこの宣言を受けて、相手の言う〈戦争ヲ終結スルノ機会〉を掴んだ。その実現の第一段階として全軍隊に〈抵抗ヲ終止スル〉ことを命じた。政治的措置としての詔書が果たした役割はここ迄であり、それ以上のものではない。サハリン西岸のホルムスク、旧真岡に残る廃虚となった旧王子製紙の工場(共同) 世上往々にして、八月十五日は性格には敗戦の記念日であるのに、それを「終戦の日」と呼ぶことによって国民は敗北の現実から眼を背けようとした、という非難的論議が行われているが、それは当たっていない。「終戦」という概念はポツダム宣言とその受諾という外交的過程から自然に論理的に導きだされてきたことであって、「敗戦」の言い換えであったという様な意味は事実上有していない。 問題は、昭和二十年八月十五日に生じたことは、「終戦」という労多き大事業の第一歩を踏み出したまでのことであって、この大事業は一篇の詔書を以て一挙に完結できるような生易しいものではなかった、この事実についての認識が一般に欠けていることである。攻撃を続行したソ連軍攻撃を続行したソ連軍 何よりも、八月九日に国境を侵犯して満州国領内と樺太の日本領内に進撃してきたソ連軍が日本軍の抵抗停止にも拘わらず、八月十五日以降も攻撃をやめなかった事実があり、さらにソ連軍が千島列島北端の占守島に「敵前上陸」を開始したのは八月十八日の午前二時のことだったという事も忘れてはならない。これは冒頭に引いたほんの一節に微してみても、相互的な義務履行の責任を課した外交文書であるポツダム宣言への違反であることが明白である。つまり戦争は決して八月十五日に終わっていたのではない。千島ではそれ以後になってむしろ新たに始まったのである。 ソ連軍の千島攻略の軍事行動は二十年九月二日の東京湾での降伏文書への調印を横目に見てやっと停止した(但しその戦争目的は北海道本島への上陸・占領といふ野望だけを除いてほぼ完全に達成された)けれども、つまり戦闘行為は形の上では全面的に終わったが、「戦争」はなほ続いていた。八月末に始まった米軍主体の連合軍による日本占領は軍事占領であって、これは法的には戦争の一つの形態に他ならないからである。 九月には占領という事態が現実化する。そしていわゆる「戦争犯罪人」の逮捕、軍事裁判、復讐的処刑という追撃戦が始まる。報道・言論機関に対する厳重な統制、一般市民の私信にまで及ぶ検閲体制の確立、治安維持法違反の政治犯の釈放強制といふ国内法への介入、神道指令を以てしての国民道徳・習俗への攻撃、義務教育における地理歴史の授業停止といった教育行政への介入、財閥解体、農地解放。こうした一連の占領政策の頂点に位するのがハーグ陸戦法規の締約に真っ向から違反する、占領基本法とも称すべき占領軍総司令部民政局即製の日本国憲法の採択強制である。必要なのは過去の直視 これら一連の占領政策の実施は、連合国から日本に向けての「戦争の継続」という観点からでなくては了解できない事態なのであり、従って今必要なのは「停戦後」五十年の感慨に耽ることよりもむしろこの観点からの過去の事態の直視である。 それでは正確な意味での「終戦」の日は何時だったのか。答えは簡単で、国際法上は、連合国との間の平和条約が効力を発生した昭和二十七年四月二十八日である。まだ七年先の平成十四年のことになる真の終戦五十周年をどう扱うかはこの次の問題で、目下の急務は戦争状態の継続としてこの六年半の占領期間中に日本国民が背負い込んだ「負の遺産」をどの様に処理するかという問題の方である。(こぼり・けいいちろう)

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    1945年、占守島…日本を分断から救った男たち

    早坂隆(ノンフィクション作家) 終戦後の「忘れられた戦い」 日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。 しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。 かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。 樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。 運命の、昭和20年8月17日深夜 最も印象的なのが、樋口の孫・隆一さんから伺った逸話です。隆一さんは、季一郎から次のような話を聞かされたと教えてくれました。 「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。 負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」 自らの功を、公に喋るような人物では断じてない。取材を通じて樋口に抱いた印象です。そんな樋口が、占守島の戦いを「語り継いでほしい」と漏らしたのは、なぜなのか。樋口の胸の裡は、あの戦いの「意義」を知ればおのずと見えてきます。 占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。 占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。 昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。 しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。 ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。北海道までを狙うソ連の野望 北海道までを狙うソ連の野望 発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。 しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。 ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。 結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれないのです。なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。 陸軍きってのロシア通だった樋口は、「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、ソ連の野望と日本が直面した未曾有の危機を鋭敏に察しました。戦後、樋口が「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」と指摘したのはそのためです。 樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、占守島で敢然と起ち上がり、肉弾と散った部下たちの姿を後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を孫の隆一さんに語ったのでしょう。故郷に帰る夢を脇に置いて ソ連兵が凄まじい艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到したのは、8月18日午前1時過ぎでした。ソ連軍は8,000を超えていたといいますが、発見した偵察部隊は当初、どこの軍隊か分からず、アメリカ軍だと思った者が大多数でした。 <十八日は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交替の日であるべきであった。(略)然るに何事ぞ。十八日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵攻すると同様の、「武力的奇襲行動」を開始したのであった> 報告を受けた樋口は、当時の心境を『遺稿集』にこう記しています。彼は「斯る『不法行動』は許さるべきではない」と続けており、すぐさま第五方面軍麾下の将兵に「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命じました。 当時、日本軍大本営は「18日午後4時」を自衛目的の戦闘の最終日時と指示していましたが、樋口はソ連軍の日本上陸を水際で留めなければ、その後にどんな惨劇が起こりかねないかを充分に理解していたのです。 絶対に占守島でソ連軍を食い止めなければならない。そう考えていたのは、樋口だけではありませんでした。 「故郷に帰ったら、何をしようか」 8月15日の玉音放送後、第91師団の指揮下にあった占守島の将兵たちは、酒を酌み交わしながら談笑していたといいます。懐かしい故郷に帰り、家族に再会できることを心待ちにしていた者も少なくなかったでしょう。しかし彼らは、手が届きかけていた安穏な暮らしを脇に置き、再び武器を手に取りました。ソ連軍が驚嘆した戦いぶり精鋭「士魂部隊」 占守島の日本軍の中核が、精鋭として知られた戦車第11連隊です。 彼らは「十一」という漢数字と「士」という文字の連想から、「士魂部隊」と呼ばれました。とはいえ、終戦の報せと武装解除命令で、ガソリンも半分ほどは地中に埋めてしまい、車輌も長時間の暖機運転が必要で、出撃までに時間を要する状況でした。前日には「戦車を海に捨てようか」と話していたような状況ですから、無理もありません。 それでも、兵士たちは寸刻を争う中、懸命に出撃準備を進めました。そして戦車第11連隊は18日午前5時30分に出撃し、ソ連軍を次々と撃破。「精鋭・士魂部隊」の名に恥じぬ奮闘を続け、戦局を逆転させるのです。 中には10代の少年兵もおり、爆弾を抱いて敵陣に突っ込んだ兵士もいました。自らの命を犠牲にしてでも、日本に暮らす人たちを、大切な家族を守る。その想いのもと、彼らは軍人としての本分をあくまで全うしようとしたのです。 戦車第11連隊において、池田末男連隊長の存在は大きなものでした。次のような話があります。 池田は下着の洗濯や入浴など身の回りのことはすべて自分で行ない、恐縮する当番兵に「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」と語りました。学徒兵には「貴様たちは、得た知識を国のために活かすのが使命だ。自分たち軍人とは立場が違う」と語ったといいます。 ソ連軍が驚嘆した戦いぶり 池田は18日早朝の出撃に際して、 「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかない」 と訓示を述べました。自分たちが「民族の防波堤になる」とも語り掛けたそうです。心の底から信頼を寄せる池田の言葉に、奮い立たない将兵はいませんでした。 池田は占守島の戦いで常に先頭に立ち、戦車の上に跨って指揮を執り、奮戦の後に斃れました。しかし、戦車第11連隊の面々は連隊長を失ってもなお勇戦を続け、その結果、ソ連軍は「簡単に抜ける」と思っていた占守島で追い詰められ、日本軍の精強ぶりに驚きました。 ソ連軍が侵攻を開始してから4日後の8月22日、両軍は停戦協定を締結。樋口や池田、そして占守島の日本軍将兵すべての覚悟と奮戦が、ソ連軍の侵攻を見事に撥ね返したのです。死傷者は、日本軍800ほどに対して、ソ連軍は2,300を超えました(諸説あり)。 私はこれまで、先の大戦で戦場に立たれた元将兵の方々に話を伺ってきましたが、多くの方が 「戦争に対する怨みはある。ただ、私たちは日本人としての誇りをもって戦い、自分たちの国を守った自負もある」 といった主旨の言葉を、時には涙を零しながら語ってくれました。占守島の将兵も、まさしく同じ想いであったでしょう。知られざる樺太の悲劇知られざる樺太の悲劇 さて、もう1つ忘れてはならないのが、ソ連軍が北方で不法侵攻を仕掛けた地は占守島だけではなかったという事実です。 8月11日、ソ連軍は占守島に先立ち、日本領南樺太への侵攻を開始しました。樺太は千島列島以上に民間人が多く、戦時中は40万人ほどが居住していたと記録されています。 日本軍守備隊は民間人を避難させながらソ連軍と戦いましたが、残念ながら約4,000人もの無辜の市民が犠牲となりました。 樺太では、「女性たちの集団自決」という痛ましい出来事も起こりました。真岡郵便電信局の電話交換手のうち、9名が局内で服毒自殺を遂げたのです。映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の題材にもなっていますが、昭和49年(1974)の映画公開にあたっては、各方面から圧力がかかって上映館が縮小されたともいわれ、残念ながら多くの人々の目に触れる機会がなく、今に至るまで史実が充分に知られているとはいえません。 この真岡郵便局の話以上に語られてこなかったのが、樺太・恵須取町で起きた大平炭鉱病院看護婦の集団自決です。 8月16日、恵須取にソ連軍の空襲が始まり、被害者が次々と病院に運び込まれると「戦争は終わったはずなのに」と思いながらも、目の前の救急活動に追われたと看護婦の片山寿美さん(戦後、鳴海に改姓)は私に語りました。 迫りくるソ連軍を前に、看護婦たちは「最後まで、自分たちの職務を全うしましょう」と、ギリギリまで看護活動を続けたといいます。そして逃げ遅れた彼女たちは、「ソ連兵に見つかったら何をされるか分からない」と考え、自ら命を絶つ決断を下すのです。手首を切った片山さんは幸い朦朧としたところで救助されましたが、23名のうち6名が命を落としました。 なにも、自決することはなかったのではないか。私たちが戦後の物差しで、そう語ることは簡単です。しかし、彼女たちの脳裡には1920年、満洲の日本人居留民がロシア人を主とする共産パルチザンに筆舌に尽くしがたいほどの酷い凌辱を受けた事件が強い印象としてありました(尼港事件)。 ソ連兵の「実態」をよく聞いて育った彼女たちが下した選択を、私たちが軽々に論ずることはできないでしょう。※    ※    ※ 占守島で戦った将兵や、樺太の女性たちに通じるもの。それは、与えられた職務に誇りを持ち、自分のためではなく人のために全うしたということに他なりません。そして、占守島に「日本の防波堤」となった者たちがいたからこそ、私たちは今の日本の国土で、平和な暮らしを享受できているのです。 依然、解決を見ない北方領土問題はもちろん、現代の日本の安全保障を考察する上でも、占守島の戦いは極めて重要な意味を持つのです。 昭和20年8月、北方の島々で何が起きたのか。沖縄戦などと比べて戦後、あまりにも伝えられてきませんでした。「忘れられた戦場」の事実を知り、将兵たちのありのままの姿を「史実」として語り継ぐことは、決して軍国主義でも、戦争の美化でもありません。  占守島で戦った日本人に感謝の念を持って謙虚に頭を垂れ、次世代へと歴史を語り継ぐことこそが、「戦後70年」を経て「ポスト戦後70年」を迎えた現在、私たちに必要な態度ではないでしょうか。(談)はやさか・たかし ノンフィクション作家。1973年、愛知県生まれ。著書に、『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』(PHP研究所)、『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(文春新書)、『鎮魂の旅 大東亜戦争秘録』(中央公論新社)、『昭和十七年の夏 幻の甲子園』(文春文庫)、『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)ほか多数。関連記事■ 池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い■ 占守島(しゅむしゅとう)の真実―「歴史街道」2015年12月号 ■ 奇跡の将軍・樋口季一郎 (2)あくまで「人道」を貫く

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    日本を救った「占守島」の真実

    終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。

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    掠め取られた北方領土  どうして日本のものでなくなったのか

    【紙上追体験 あの戦争】  北から阿頼度島の千島最高峰アライト山(二、三三九メートル)、中千島は松輪島の芙蓉山(一、四八五メートル)、そして国後(くなしり)島の爺々岳(一、八二二メートル)など、いずれも富士山そっくりのコニーデ型火山が連なる千島列島。夏に山々は濃い緑におおわれる。この美しい島々が、明治の初めから敗戦までの七十年の間、日本領土だったことを思うと感無量なものがある。それがどうして、日本のものでなくなったのか。 ここで、時計の針を終戦直後まで戻してみる。 ソ連軍が千島列島北端の占守島に大挙上陸してきたのは、昭和二十年(一九四五年)八月十八日。終戦の三日後だった。進駐というよりは、対岸のカムチャツカから長距離砲の射撃を加えながらの強行上陸だった。対抗上、日本軍も応戦せざるを得ない。 この小さな島に、日本軍は大小八〇門以上の火砲と戦車八五両を持っていた。米軍に大打撃を与えた硫黄島やペリリュー島以上の備えといえたろう。本来これらの重火器は本土決戦に備え内地に還送されるはずが、もう運ぶ手段がなくそのまま残っていたのだ。砲火は波打ち際に集中し、ソ連軍は午後四時の停戦成立までに戦死傷者三千以上といわれる大損害を受けた。満州、樺太を含めた対ソ戦で、日本軍最大の勝利だった。日本統治時代に形作られたユジノサハリンスク、旧豊原の碁盤の目のような町並み(共同) ソ連軍は終戦後になって、なぜこのように無謀な戦闘を仕掛けたのか。ソ連国防省編の戦史の記述は、すでに米ソ冷戦の始まりが背景にあるかのように、「航空基地および海軍基地を千島列島内に設定しようとする米軍の要求を阻止するにあった」としているが、それだけとも思えない。ソ連軍を迎え撃った第九十一師団長(旭川)の堤不夾貴中将は、戦後の手記で次のように回想している。 「ヤルタにおけるルーズベルトのスターリンに対する言質だけの不安に対し、血の裏付け、肉の保持として必要なのか…」 無血占領が約束された地に、あえて出血覚悟で攻め込んだのは、わずか数日の参戦で暴利を得ることへの後ろめたさを消し去る意味があったと、堤師団長は指摘したかったのだと思う。不可解な点が多いソ連軍の行動 占守島占領後のソ連軍の行動にも不可解な点が多い。「昭和史の天皇 7」(読売新聞社)は、当時の軍関係者、千島の島民らの注目すべき証言を集めている。 第九十一師団の作戦参謀水津満少佐は、ソ連軍に日本軍の武装解除に立ち会う役割を頼まれ、占守島から駆逐艦に乗って松輪島、次いで新知島と列島を南下していった。得撫島まで来ると、なかなか上陸しない。水津参謀が聞くと、ソ連軍の参謀長が、「アメリカ軍が来ているかもしれないので、様子を見ているのだ」と答える。結局上陸しないで引き返すので、「択捉、国後まで行かないのか」と聞くと、今度は「択捉、国後は、アメリカ軍がやってくるはずだから、われわれは手をつけずに帰るんだ」という返事。八月二十七日のことだった。 水津参謀が見たのはそこまでだが、改めて出直したソ連軍は八月二十九日択捉島、三十一日得撫島、九月一日国後島に上陸して日本軍の武装解除を行っている。そして九月一日、色丹島へ完全武装で物々しく上陸してきたソ連兵も、出会う島民ごとに、「この島にアメリカ兵がいるか」と聞いて回っている。 これらの証言は明らかに、ヤルタ密約でソ連に約束された島は得撫島以北で、択捉島以南の北方四島は日本固有の領土だから、米軍が占領する領分と、彼らが認識していたことを物語っている。 ここで思い出すのはヤルタ会談でソ連のクズネツォフ海相が、「米軍は千島を占領するのか」とたずねたのに対し、米海軍作戦部長のキング元帥が、「今のところ、その余裕がない」と答えたこと。両者の頭にあった千島が、得撫以北の十八の島だけを指すのか、北方四島も含んでいたのか定かでない。あくまでも推論だが、クズネツォフは、はっきり得撫以北と認識していたのに対し、このころの極東政策に万事ずさんなところがあった米国のキングのほうは、千島の“定義”についてもあいまいだったとみる。 そのあいまいさにソ連は付け込んだ。偵察してみたら北方四島に米軍が来ていないのを知り、火事場泥棒的に強引に掠(かす)め取った、と言っていいだろう。 領土の決定は当事国同士の取り決めによるのが国際法の常識である。日本に断りもなく米・英・ソ三国が勝手に取り決めたヤルタ協定などに日本は拘束されない。また、ポツダム宣言を受諾したといっても、侵略の結果獲得したわけでもない南樺太や千島までソ連へ引き渡す必要はなかったはずだ。別掲の「北方領土の変遷」をたどると、つくづくそう思える。 ただ、そう声を大にして言っても、領土は戻ってこない。国際社会に復帰するためのサンフランシスコ平和条約で、日本が南樺太と千島の権利を放棄したことが足かせになった。これに調印しなかったソ連と、改めて国交回復のための日ソ交渉が始まる。その共同宣言にまた拘束されることになった。ソ連は「将来平和条約が締結された際には、歯舞・色丹を引き渡す」と約束したが、択捉・国後まで入れるのを嫌った。 しかも歯舞・色丹は「返還」でなく「引き渡す」である。さらに、日本が国交回復後も「領土問題を含めて平和条約に関する交渉を継続する」という字句を宣言に入れることを要求したのに対し、ソ連は、領土問題は歯舞・色丹だけで解決ずみとして、「領土問題を含めて」の字句削除を押し通してしまった。 ソ連からロシアに変わって、エリツィン大統領の東京宣言で大きな進展があったかにみえたが、また最近は日ソ共同宣言時に戻った感じすらある、戦後五十五年たっても、この問題解決しない。かつての沖縄返還運動とまではいかないまでも、北方領土返還にも、もっと国民運動の高まりが必要なときである。 (編集委員 牧野弘道)

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    池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い

    歴史街道編集部「まさに教科書に載っていない歴史」(池上彰) 今年の夏以降、にわかに話題を集め続けている太平洋戦争期の「秘史」がある。1945年8月の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」だ。 占守島の戦いとは、太平洋戦争が「終戦」した2日後の1945年8月17日深夜(18日未明とも)、日本領だった千島列島北東端・占守島に、ソ連軍が攻め込んだ出来事だ。当時、日本とソ連は中立条約を締結していたが、ソ連は千島列島、樺太、さらには北海道の北部を日本から奪い取ろうと「不法侵攻」を仕掛けた。 この時、ソ連軍の侵攻を食い止めたのが、占守島に残っていた日本軍将兵だった。この史実は、戦後の日本においては、作家の浅田次郎氏が小説『終わらざる夏』で題材にしたことはあったが、語られることは多くはなかった。 しかし今年の夏、「終戦70年」を契機として、いくつかのメディアが占守島の戦いを取り上げた。また、11月上旬には、今年に占守島などで見つかった日本軍将兵の遺骨が、ロシアから日本の遺族団へと返却されたことも報じられた。 そして、ここにきて再び、地上波のテレビでも占守島の戦いが取り上げられるなど、メディアの注目も高まっている。11月22日(日)19時54分から放送される『池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~』では、実際に占守島をルポ取材。番組についての記者会見で、ジャーナリストの池上彰氏は「(もしも日本軍守備隊の活躍がなければ)北海道北部に『日本民主主義人民共和国』ができていたかもしれない。まさに、教科書に載っていない20世紀の歴史」だと指摘した。 「当時、ソ連のスターリンは第2次世界大戦の戦いを『大祖国戦争』と呼んだ。祖国を守る戦い、ドイツから祖国を守る戦いだったはずが、実は『祖国の栄光のために』と、日露戦争で日本が領有化した土地を『奪い返す』という思いも抱いていました。 実は、占守島で日本軍の守備隊が必死に戦った結果、北海道北部がソ連に占領されないで済んだんじゃないか……。これは、驚くべき話です」(池上彰氏)「8月15日、皆が無事に帰れたわけじゃない」「8月15日、皆が無事に帰れたわけじゃない」(宮崎美子) 同番組に出演し、実際に占守島で取材した宮崎美子氏は、次のように語る。 「終戦って、いつなのか。1945年8月15日じゃなかったのではないか。どこで区切りつけるのか。占守島の戦いは、まさにその話。8月15日に玉音放送があって、その場で全部戦闘は終わり、皆、無事に帰れたわけじゃなかった。そこから始まった戦いがあって、その結果が、今の北方領土問題にもつながっています。 今回、ロシアでの取材で現地の方の話を聞きました。千島列島は、もともとは平和的にロシアと日本で条約が結ばれて、平和裏に日本の領土になったのですが、そうじゃないように現地では教えられていました。『日露戦争の時に奪い取られた千島列島を、我々が血で購って取り返した』と。 『だから北方領土も自分たちのものだ、当然だろう』って怒られたこともありました。そうした点は、実際に取材を行なわないと分からないことです」(宮崎美子氏) ロシアの教科書には、占守島の戦いでは「正義の戦いとして載っている」(池上氏)という。その一方で、日本においては宮崎氏が「正直、私もこれまでは知らなかった」と語るように、ほとんど語られることはなかった。 だからこそ、今こそ占守島の戦いを伝えたい。そう語るのが、池上氏の番組のプロデューサーを務めた堀靖彦氏だ。 「占守島と聞いて、終戦後に日本とソ連が死闘を繰り広げた場所という史実を、果たしてどれだけの日本人が知っているでしょうか。歴史を知ることこそが、私たちの進むべき道を教えてくれます。 正しい歴史認識のためには、正しい歴史教育が必要なのは言うまでもありません。そんな思いを抱くなかで、今回の番組も生まれました」(堀靖彦プロデューサー)  池上氏は、「占守島の戦いに関しては、まだ当時を体験したご存命の方もいらっしゃいます。しかし、これからは、そうした方々がいらっしゃらなくなっても、『日本には色々な戦いがあったんだよ』と伝え続けることが必要ではないでしょうか。今回は占守島の戦いですが、インパール作戦やノモンハン事件もそうでしょう」と語る。 占守島の戦いがなければ、戦後の日本の歴史は、多かれ少なかれ変わっていた可能性が高い。その意味では、終戦後、待ち焦がれていた故郷に帰る夢を置き、再び武器を手に取った日本軍将兵の姿は、池上氏が語るように、先の大戦の史実の中でも、特に今後も語り継がれるべきであろう。関連記事■ 占守島(しゅむしゅとう)の真実―「歴史街道」2015年12月号 ■ 【歴史街道.TV】横須賀歴史散歩■ 好きだった歴史テレビドラマは?ランキング(NHK大河をのぞく)

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    わが国の平和と安全を真面目に考えられなくなった日本共産党

    筆坂秀世(政治評論家)「上からの演繹」で多くの判断間違い どの政党でも自らを天まで持ち上げる傾向があるが、なかでも日本共産党という政党ほど、自己を持ち上げる政党はあるまい。最近でこそ、「前衛」という言葉や労働者階級の中での「最高の階級的組織」などという言い方はしなくなったが、革命の指導政党としてあらゆる組織や運動の一段上に立つ組織というのが、共産党という政党の最大の特質なのである。社会主義国の憲法に、表現はいろいろだが共産党が「指導政党」として明記されていることでも、そのことは明らかである。 こういう絶対的権威を持つ政党は、知らず知らずに無謬主義(誤りを犯さない)に陥ることがある。だが実際には、どうか。文学者、評論家で東大教授でもあった竹山道雄著『昭和の精神史』(中公クラシックス)に次のような指摘がある。「まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである。(中略)このような『上からの演繹(えんえき)』は、かならず間違った結論へと導く。事実につきあたるとそれを歪(ゆが)めてしまう。事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて、都合のわるいものは棄てる」。まさしくこの通りである。 例をあげればきりがないが、朝鮮戦争(1950年~1953年)も最初はアメリカ帝国主義が仕掛けた侵略戦争という評価であった。社会主義国は「平和・進歩勢力であり、侵略などしない。悪いことはしない」という原理を先に立てていたから、このような判断違いを犯す。社会主義国の核実験は「防衛的」などというのも同じ類である。このような事例は、枚挙にいとまがない。ソ連が崩壊した時、ソ連を「巨悪」と表現して崩壊を歓迎してみせたが、そのソ連を社会主義国として最も高く評価してきたのは、日本共産党であった。レーニンの時代は良かった、スターリンになって変質したというが、そのスターリン時代も、その後も、基本的にはソ連を社会主義国として評価してきた。これによってどれほど多くの若者を誤導してきたことか。このことへの反省は微塵もない。 もっと言えば、「前衛」だとか、「最高の階級的組織」などという思い上がった共産党の立場こそが、一党独裁、全体主義を生み出してきた。このことへの根本的反省こそなされるべきであろう。融通無碍―憲法9条に唯一反対した政党が「9条は世界の宝」と いま日本共産党は、「護憲」を大看板にしている。だが憲法制定時、日本共産党は天皇条項と9条に明確に反対し、政党としては唯一現憲法の制定に反対していたのである。その政党が「憲法9条は世界の宝」というプラカードを掲げているのを見るとあきれ果てるしかない。参議院本会議で代表質問をする日本共産党の野坂参三議長=昭和39年1月24日 1946年8月24日、衆議院本会議で反対討論に立った野坂参三は、次のように述べて憲法9条に反対している。 「現在の日本にとってこれ(草案第9条)は一個の空文にすぎない。われわれは、このような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとって相応しい、また実質的な態度をとるべきであると考えるのであります。要するに当憲法第二章は、我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえに我が党は民族独立の為にこの憲法に反対しなければならない」 誠に正論である。当時、吉田茂首相が自衛権すら否定する答弁をしていたこともあったが、平和主義を空文とまで批判しているのである。もともと改憲政党であった 最近、共産党は、その後、吉田首相が自衛権は保持していると国会で答弁したのでこの評価を改めたと説明している。 だがそうではない。野坂討論は、民族の独立のためには、自衛権を持ち、自衛軍を持たなければならないと主張しているのである。他方で現在の9条の下では、自衛隊は憲法違反の軍隊だと規定している。ではどうやって民族の独立を守るのか。憲法9条を改正し、憲法で認められた自衛軍を持つというのが、共産党の立場でなければならないはずだ。 実際、共産党は1990年代後半まで、改憲を目指していた。1973年11月の第12回党大会で「民主連合政府綱領提案」が採択されるが、自衛隊は憲法違反なのでいったんは解散させるが、その後、憲法を改正して「最小限の自衛措置をとる」としていた。1985年版『日本共産党の政策』という政策集でも、「将来の独立・民主の日本において、国民の総意で最小限の自衛措置を講ずる憲法上の措置が取られた場合には、核兵器の保有は認めず、徴兵制は取らず志願制とし、海外派兵は許さないようにします」と明記していた。どこから見ても疑いようのない改憲政党だったのである。 一国の独立、民族の独立を考えるのであれば、至極まっとうな立場であった。それが日米安保条約も廃棄する、自衛隊も解散させる、という丸腰論にまでなってしまったのが、現在の共産党である。 ただ卑劣なのは、自衛隊の解散も、日米安保の廃棄も、「国民合意でやります」と言っていることである。こんな国民合意などできるはずもないことを百も承知でこういうのである。つまり自衛隊の解散も、日米安保の廃棄も真面目で、本気の主張ではないということだ。 少なくとも憲法制定時の日本共産党の態度は、日本の平和と安全にもう少し真面目に対応していたはずだ。にもかかわらず憲法が公布されてから68年、いまでは日本の平和と安全を真面目に考えることが出来なくなってしまったということでもある。核エネルギーの平和利用が一貫した主張だった 日本共産党は、もともと核エネルギーの研究・開発に賛成の立場であった。核実験についても、かつてはソ連の核実験は「防衛的」なものとして賛成していた。そもそも核エネルギーの平和利用について、原理的に反対したことは一度もない。それは当然のことで典型的な進歩主義である科学的社会主義の立場に立つなら、新しい技術開発やエネルギー開発を肯定するのが当然だからである。 だからこそ終戦直後には、共産党は「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』1949年6月号)とか、「『原子力を動力として使えば、都市や工場のあらゆる動力が原子力で動かされ』、冷暖房自在で『飛行機、船舶その他ありとあらゆる動力として、つける』」(日本共産党当時書記長徳田球一の『原爆パンフ』)などと原子力を絶賛していた。 広島、長崎への原爆投下についても、終戦直後に批判したことはなかった。なにしろポツダム宣言を絶賛し、占領軍を「解放軍」と評価したぐらいなので、ある意味当然のことであった。 その後、既存の原発の安全性について、厳しい批判を行ってきたことは事実である。だがそれでも「核エネルギーの平和利用」を否定したことはなかった。 それが3・11以降、急きょ「原発ゼロの日本」を主張し始めたのである。だが共産党の政策文書を見ると「脱原発」という表現はなく、「原発ゼロ」という表現で統一されているようだ。原発をゼロにするための廃炉などのために、原子力の基礎研究は引き続き行うとしているが、「平和利用」のための基礎研究は行わないということなのだろうか。 行わないとするならば、「平和利用」を主張してきた政党として、そもそも「平和利用」という主張自体が原理的に間違っていたという総括をすべきではないのか。そうでなければ無責任の誹りを免れないであろう。

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    いまの自民党がつまらなくなった

    戦後70年の今年、自民党にとっては結党60年の節目である。戦後日本の政治史をひも解けば、それは自民党政治の歴史と言っても過言ではない。この60年、自民党は何が変わり、これからどんな未来が待っているのか。

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    かつての“自民党政治”を否定するための政治改革がもたらした一強状態

    中北浩爾・一橋大教授に聞く安保法案の採決をめぐり、支持率を落としたものの議席数から見れば、自公政権の圧倒的優位は揺るがない。来年の参議院選挙に向けて野党の再編も囁かれているが、分裂した野党が完全に歩調を合わせるのは困難な状況が続くとみられる。そもそも、こうした一強多弱の状況を生み出した原因は何なのだろうか。選挙制度や政治改革の経緯といった視点から、前回(「“敵対”ではなく“包摂”こそが安倍流の党内リーダーシップ」)に引き続き中北氏が解説する。(取材・執筆:永田正行【BLOGOS編集部】) 中北浩爾・一橋大教授(BLOGOS編集部撮影)小選挙区制度の導入が現在の政治状況を生み出した-野党の不甲斐なさが目立ってくると、自民党内のリベラル勢力に期待する声も出てくると思います。つまり、かつてのように中選挙区制の下、自民党の派閥同士で牽制し合いながら、政策をブラッシュアップしていくやり方のほうがと現実的なのではないかという見方もあるのではないでしょうか。中北:まさに「55年体制」においては、そのような形で「擬似政権交代」をしてきたわけです。自民党内に多様性があり、ある人がダメであれば違うリーダーが出てきて、政策を修正する。一党優位ではあるものの、こうした変化を伴うダイナミズムが自民党の内部に存在していました。「55年体制」という自民党長期政権が続いた理由の一つは、そこにあったのです。しかし、1990年代に行われた一連の政治改革は、こうした政治のあり方を否定するところから始まりました。 つまり、擬似政権交代は選挙を経由しない擬似でしかないのだから、きちんとした政権交代を実現する必要がある。政権交代は、選挙という民意によって媒介された形で行われ、有権者が選択権を行使した結果であるからこそ意味がある。このように擬似政権交代を否定して、本当の政権交代のある民主主義を作るということが政治改革の目的だったのです。そして、二大政党が切磋琢磨して政権交代を行うようにするために小選挙区制を導入しました。 小選挙区制が導入された結果、二大政党化が進み、2005年の郵政選挙で躓いたものの民主党は基本的に上り調子で、2009年には政権交代を実現しました。民主党以前には新進党という政党ができましたが、1996年の選挙に敗れて解党してしまいます。民主党は新進党よりは、随分頑張ったかもしれませんが、ご存じのとおり政権奪取後はまとまりきらず、2012年に小沢さんが離党してボロボロになりました。 自民党というのは、60年の歴史があり、その間に蓄積した様々な知恵、組織、基盤があります。これに対抗すべく、様々な勢力を寄せ集めて、二大政党の一翼を担う政党を作ろうと努力するわけですが、上り調子の時はまとまっていられても、苦しくなると一気にバラバラになってしまう。つまり、現在の日本においては、二大政党といっても非対称性があり、現在の一強多弱の状況は、こうした構造の中で生まれてきたものだと考えられます。―現在の政治状況を生み出す要因の一つとして小選挙区制という選挙制度があるということでしょうか。中北:小選挙区制は、二大政党による政権交代をもたらすために導入されたわけですが、小選挙区制が必然的に二大政党制をもたらすかというと、そうではありません。小選挙区制の本質は“勝者総取り”です。一番大きな政党が過剰に有利になるよう設計され、1票でも多ければ、その選挙区の議席を独占できるというのが、小選挙区制という制度の本質です。そうなると、3番目、4番目では話になりません。だから、あくまでも結果として第二党以下が合流を余儀なくされ、二大政党化が進むのです。 したがって、第二党以下が乱立し、結束できなければ、最大政党が圧倒的に有利です。今がまさにその状態と言えるでしょう。自民党自体が相対的に大きい上に、創価学会という強固な支持団体を擁する公明党と連携している。一方の野党はバラバラで話にならない。現在の小選挙区制は、二大政党制をもたらすよりは、一強状態を強化する形で機能していると言えます。一強多弱の下では選挙を何回やっても自民党が勝つでしょう。実際に自民党は2012年、昨年と衆議院総選挙で大勝しています。 中選挙区制では、1つの選挙区から3~5名の議員が選ばれ、自民党は複数の候補者を擁立するので、同士討ちが発生し、派閥が生まれます。同一選挙区でも支持基盤が異なる社会党候補よりも、自民党候補同士の方が関係が悪いという有様だったのです。こうした状況の中で、各候補者は派閥から金銭援助を得たり、演説などの応援を受けたりしながら選挙を戦うことになるので、中選挙区制における選挙区の定数に対応して、三~五大派閥になっていたわけです。派閥間の争いには、候補者の発掘や票の掘り起こしという効果もありました。そして、冷戦や労使対立という状況のもと、社会党に対抗して自民党という派閥連合政党を作っていたのが、55年体制でした。 もはや擬似政権交代を自民党の中でやって欲しいと考えても、難しいでしょう。選挙制度と政治資金制度の改革によって、派閥が非常に弱くなっているからです。現在の自民一強状態と、55年体制における一強状態は外形的には似ているかもしれませんが、実質は異なっています。-派閥政治の否定から政治改革が始まり、小選挙区制が導入されたということですね。一方で、かつての派閥は「議員の教育機関」としての役割を果たしていたという言説もあります。派閥が解体された結果、議員の質が低下したことを政治改革の弊害とする説もありますが、この点についてはいかがでしょうか。中北:「議員の質」については、「最近の若者は…」といった言説に近い部分があると思います。なぜなら「最近の政治指導者は小粒になった」という話は、常に言われているからです。現在、田中角栄が大政治家のように語られていますが、「戦後の政治指導者は小粒になった」などと言われた時代もありました。また、派閥があったからといって、みんなコントロールできていたかといえば、そうではありません。昔から、賭博をやってしまったり、おかしな言動で注目を集める政治家はいました。 とはいえ、かつての中選挙区制のもとでは、きちんと個人後援会を作って有権者と接しないと当選できなかったので、一定の努力を積み重ねることが不可欠だったと思います。しかし、現在では、政党の公認をもらってしまえば、“風”が吹くと当選してしまう。ただ、全体を比較して質がどうかというと、なかなか判断が難しいので、私自身はそうした主張はしないようにしています。 むしろ、派閥がなくなったことで良くなった部分もあると思います。例えば、かつては「金権政治」という批判がありましたが、その面においては、現在の方がかなり改善したと思います。今、“政治とカネ”の問題で話題になるのは、「領収書の処理をちゃんとやらなかった」といったレベルのものが大半です。かつての金権政治に比べると、現在の方がカネで政治が動く度合いは確実に減っているでしょう。 もちろん、様々な形でお金が動いている部分もあります。真相は十分にわかりませんが、官房機密費の問題や政党交付金を手厚く配るなど、カネで政治が動く要素は、まだまだあると思います。ただ、かつてに比べれば、お金が果たす役割は、かなり限定的になってきているのではないでしょうか。まさにそれがかつての派閥政治に対する批判の根源のひとつだったわけですから。より“コンセンサス型”の民主主義に近づけるための選挙制度とは?より“コンセンサス型”の民主主義に近づけるための選挙制度とは?-例えば、橋下徹大阪市長などがよく「民主主義は多数決なんだ」という趣旨の発言をします。それに対して、「いや違う。少数の意見の尊重こそ民主主義なんだ」という反論があります。 先程、小選挙区制度は強者に有利という指摘がありましたが、“勝者の総取り”がしやすいのが現状の選挙制度であるならば、もう少し少数意見の尊重を重視する場合、どのような選挙制度が好ましいのでしょうか。中北:政治学的にも、「多数決イコール民主主義なのか否か」というのは非常に重要な論点です。我々政治学者は民主主義にも様々なタイプがあると考えていますが、そのなかには「多数決こそが民主主義だ」という考え方もあります。多数決というのは、ギリギリ過半数、あるいは過半数以下でも、相対多数で物事を決定するということです。それに対して、なるべく多数派の幅を広げて合意形成を重視するという考え方もあります。100%ではないけれども、排除される人を少なくなるようにするということです。記者会見を終え、笑顔で退席する大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長。右は松井一郎大阪府知事=5月18日未明 このように「多数決型」と「合意型」という2つのタイプのデモクラシーがあるというのが、最もスタンダードな民主主義論です。そして、多数決型の民主主義を構成する最も重要な制度は、小選挙区制です。 それに対して、コンセンサス(合意)型は、主に比例代表制です。ただ、とりわけ比例代表制の場合には、様々なやり方がある。まず衆議院で採用されている拘束名簿式と、参議院で導入されている非拘束名簿式とがあります。そこには「政党を選ぶ」のか、それとも「政党もしくは人を選ぶ」のかという違いがあります。また、比例代表制に近い機能を持つ大(中)選挙区制では、完全に人を選ぶわけです。中選挙区制を背景とする55年体制は、いずれかというと合意型の民主主義として捉えられると思いますが、「人を選ぶ」ことを中心にするものでした。それに対して、拘束名簿式の比例代表制を採用すれば、政党中心の合意型になります。 現在の小選挙区制がやや行き過ぎているということを前提に、コンセンサス重視の方向にしていくとしても、様々な制度設計がありえます。例えば、現在は小選挙区制と比例代表制の並立制ですから、その議席の割合を変えるだけなのか、完全に比例代表制にするかで違ってきます。「人を選ぶ」ことを中心にするのであれば、大(中)選挙区制にするという考えもありますが、そこまで行かないのであれば、非拘束名簿式の比例代表制にすることになります。選挙制度というのは、「AかB」ではなくて、様々な制度設計が可能なのです。 こうした背景があるため、先程の質問については、なかなか一概に回答できないのですが、改めて1994年に行われた政治改革の目的を振り返る必要があると思います。かつての中選挙区制では派閥政治という問題がありました。金権腐敗がつきまとい、利益誘導政治になってしまう。政策そっちのけの派閥争いになっているという批判を受けて、現在の小選挙区制比例代表並立制が導入されたのです。 こうした経緯を踏まえると、中選挙区制に戻すというのは避けるべき選択肢でしょう。現在の選挙制度にも問題はあると思いますが、それなりに定着してきていることも事実なので、当面、現在の並立制の枠内で手直しを考えるのが適切だと私は考えています。 最も現実的なところからいえば、小選挙区と比例代表の重複立候補の制度を廃止することが考えられます。重複立候補は、小選挙区で敗れた候補者の復活当選のために比例代表を使うものであり、比例代表制をそれ自体として機能させるためには、小選挙区制から切り離さなければなりません。復活当選は現在でも批判が多いので、重複立候補の制度の廃止は比較的やりやすいでしょう。さらにいえば、小選挙区と比例代表の議席の割合を変える、あるいは現在の比例代表のブロック単位を改めるといったことも考えられます。 繰り返しになりますが、選挙制度は様々な設計が可能です。ですから、「小選挙区制か中選挙区制か比例代表制か」といった分かりやすい議論に陥るのではなく、もう少し慎重かつ丁寧に考えていくべきではないでしょうか。二大政党制が日本に根付くのは難しい?二大政党制が日本に根付くのは難しい??与党などの賛成多数で安全保障関連法案を可決した衆院本会議。民主党などは採決時に退席した=7月16日(斎藤良雄撮影)-仮に現在の小選挙区制を維持するのであれば、二大政党制を実現する必要があります。しかし、現実的には、一強多弱の状態で「野党再編」という話が出てきても、民主党がそうだったように野合の末に分裂してしまう公算も大きいでしょう。野党がしっかりと機能し得る政治勢力として結集するためには、どのようなことが必要でしょうか。中北:それは非常に難しいですね。現状も自民党そのものが強いというよりも、野党が割れていることが自民党の最大の強みになっていると見ることができます。小泉政権と比較するとよく分かりますが、国民の間で安倍政権に対する熱狂的な支持は乏しい。安全保障法制については反対が多かったし、アベノミクスについても国民は儲かってしょうがないので賛成しているというわけではありません。「現実的な選択肢として自民党しかない」という消極的な支持が多いでしょうし、現に国政選挙をみても自民党の得票率は高くありません。野党が分裂しているから、自公が勝っているというのが現状だと思います。 つまり、大変不幸なことに、有権者に有効な選択肢が与えられていないわけです。二大政党という形で選択肢があるからこそ、小選挙区制が機能するはずであるにもかかわらず、現状では小選挙区制は自民党一強の補強にしかなっていない。しかし、選挙制度改革は容易ではなく、そうだとすれば野党の立て直しが鍵になりますが、これもまた困難です。 新進党の失敗に続いて、民主党は頑張って政権を取りましたが、結局うまくいきませんでした。失敗した過去が2回あるので、「3度目の正直」を期待するよりも、「2度あることは3度ある」と思う人の方が多いでしょう。 仮に民主党が維新から生活・社民までを吸収したとしても、前途多難でしょうし、有権者も野合だと思うでしょう。当然、自民党も攻撃の矛先を向けるでしょう。衆議院の小選挙区や参議院の一人区を考えると、野党は結束しなければなりませんが、ただただ再編をしても、うまくいくことは十分に期待できない。このジレンマは民主党政権が崩壊した2012年以降、野党がずっと直面してきたものです。 自民党には、長い歴史を通じて培われた組織のノウハウがあります。決して人工的に作られたのではなく、試行錯誤しながら自然発生的に蓄積されてきたものです。それに加えて、自民党というブランド、ずいぶん脆弱になってきたとはいえ、地域社会に根ざした後援会や業界団体のネットワークもある。そこに公明党がくっついているわけです。 それに対して残余の勢力は非常に弱い。民主党は支持基盤として労働組合を持っているけれども、決して強いわけではありません。だから、雑多な勢力を人工的に寄せ集めて非自民勢力を作らなければならない。自民と非自民の対立図式になったとしても、自民党という比較的固い有機的な組織と寄せ集めの組織とが対立する、非対称的な構造になってしまうわけです。 この構造は、しばらく続くと思います。自民党は1993年に細川政権が成立した際、いよいよ終わりかと言われました。2009年の政権交代時にも、今度こそ終わりだと言われましたが、それでも復活したわけですから、自民党という組織は今後も崩れにくいとみるべきでしょう。それとは反対に野党側は、民主党の失敗があるから、なかなか再編できない。民主党など野党の政治家が無能だとあげつらうのではなく、以上のような政党政治の非対称的な構造を前提として考える必要があるでしょう。-そうなると、そもそも英国の議院内閣制をモデルした二大政党制というのが本当に現在の日本の政治状況に適しているのか、という疑問も出てくると思うのですが。中北:政治学者の中では多数派ではないかもしれませんが、私は中長期的にはそういう視点が必要だと考えています。二大政党制が日本に根付くのは、かなり難しいのではないかと見ています。 政治は人間がやることなので予測不能な部分も多いのというのが正直なところです。ただし、これまでお話ししただけでも、二大政党制が十分に機能するには非常に難しい問題があることだけはお分かりいただけるのではないでしょうか。 政治学者の中でも「まだ見切るのは早い」といった議論がありますが、政治改革が行われて最初の総選挙は1996年で、それからもう20年近く経っています。この間、7回の総選挙が行われ、55年体制下の13回の半分を超えました。そろそろ次なる政治改革を考え始めてもよい時期に差し掛かっていると思います。 それでも、政治改革がすぐに実現するはずはありませんので、短期的には野党再編を考えなければなりません。やや抽象的な物言いになりますが、寄せ集めという多様性を強みに変えるビジョンと指導力とが鍵になるのではないかと思います。ただし、それと同時に政治システムがこれでいいのかという大きな視点も必要ではないでしょうか。 もしかしたら安倍政権の擁護に聞こえてしまうかもしれませんが、現在の安倍首相の強いリーダーシップは、政治改革が目指してきたものだと言えます。小選挙区制を導入し、51対49で勝った方が強い指導力を発揮するというのは、政治改革のねらいでした。小沢一郎さんが書かれた『日本改造計画』などが典型的ですが、政治改革の落とし子である民主党も、少なくともかつては小選挙区制の下での二大政党制を目指し、政治主導を推進していたわけです。 もちろん、かつての民主党と現在の安倍自民党の間には重要な違いがあります。民主党の場合、総選挙で詳細な数値などを盛り込むマニフェストを提示し、勝利を収めれば、それを国民との契約として実行するという政治を目指しました。白紙委任的な現在の安倍政権と比べて命令委任的であり、その意味で、より民意に依拠しようとしたと言えます。しかし、選挙で勝った政党の党首が期限付きで強いリーダーシップを発揮するという点では、両者は変わりません。 強いリーダーシップは、ファシズムということではなく、政治改革以来の小選挙区制を中心とするイギリス政治への接近という文脈で出てきているとみるべきです。そこには安倍晋三という政治家の好みや人格が反映されていないとは言えないでしょう。しかし、それ以上に、かつての民主党政権を含め、政治改革以来の日本の民主主義のあり方が問われているのだと思います。-左派の人たちは、安倍首相個人のキャラクターに依存したものだと批判することが多いですが、より構造的なものだということですね。中北:民主党は現在、「権力の暴走を許さない。その先頭に立つ。」というスローガンを掲げていますが、振り返れば、かつての民主党政権も暴走ともいえる傾向を帯びていたわけです。例えば、鳩山政権の前原誠司国交大臣が「マニフェストに書いてあるから八ッ場ダムをやめます」と宣言し、地元の住民などから猛反発を食らいましたが、あれなどは非常に乱暴だったと思います。根っこにあるものは、現在の安倍自民党とある程度同じではないでしょうか。白紙委任か命令委任かの違いはありますが、選挙至上主義と政治的リーダーシップを強調する点です。 今回、安倍政権は、大多数の国民が反対しているにもかかわらず、安保法案の成立を推し進め、大規模なデモが発生しました。もちろん、民主主義において最も重要な手段は、選挙です。しかし、選挙以外の回路で表出された民意も尊重し、幅広い合意を作り上げていくことが民主主義にとって大切だというのが、今後の教訓ではないでしょうか。民主党が本気で「権力の暴走を許さない」というのであれば、マニフェスト政治が失敗に終わった反省も踏まえ、多様な民意を受け止めて合意を形成していく、そうした民主主義を目指すべきだと思います。なかきた・こうじ 一橋大学大学院社会学研究科教授(政治学)。専門は日本政治外交史、現代日本政治論。著書に「現代日本の政党デモクラシー (岩波新書)」「自民党政治の変容 (NHKブックス No.1217)」など。関連記事「ホットライン がつながらない!」 中国の冷たい対応に焦る韓国サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか - 村上拓哉 / 国際関係論【衆院予算委】山尾議員、安倍総理の基本的考えと社会認識とのずれを指摘解散後の「SMAP」という商標の行方アベノミクスを襲う中国減速・原油安・暖冬

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    解散で勝てた首相たち 解散できなかった首相たち

    Wedge編集部 アベノミクス解散はいかなる条件を整えていたのか。自民党歴代首相の「解散史」から読み解く。 「大義がない」─メディアに散々そう書きたてられながら、なぜ安倍晋三首相は鮮やかに「伝家の宝刀」を抜くことができたのか。野田佳彦、麻生太郎と歴代首相の結末を思い出していくと、「首相の大権」であるはずの解散権を使いこなせた首相のほうが少ないことに気づく。議長が解散詔書を読み上げると、失職した議員たちが万歳を三唱する(AP/AFLO) 典型は1976年の「三木降ろし」である。自民党内の長老たちを中心とする大派閥連合が三木武夫首相を引きずり降ろそうとした。「挙党体制確立協議会(挙党協)」なる組織まで結成され、与党の7割に背を向けられた三木の政権運営はことごとくつまずいていく。背景には、その年の2月に発覚したロッキード疑惑を「徹底解明する」と言った三木の約束があった。田中角栄の金権体質に対する世間の批判をかわすために、クリーンなイメージのある三木が担ぎ出されたのだが、文字通りの「徹底解明」は許されなかった。 結果、三木は内閣改造も解散もできず、戦後初、かつ、現在に至るまで唯一の任期満了選挙に追い込まれていく。三木は解散のための閣議を招集しようとしたが、派閥領袖の意向を受けた閣僚たちにボイコットされてしまった。総選挙で自民党は過半数の議席を取ることができず、三木は退陣した。 何の因果か。その15年後の91年、三木を敬愛する海部俊樹首相が「海部降ろし」に遭うこととなる。三木同様、小派閥から担がれた首相だったが、政治不信が高まるなか、その清新なイメージで90年の総選挙を大勝に導いていた。しかしその後、目玉の政治改革関連法案が審議未了廃案となり、海部は「重大な決意で臨む」と発言。解散と受け取った各派閥が「海部降ろし」を始めた。支えてきた竹下派が主導して、海部は内閣総辞職に追い込まれる。 これら「解散できなかった首相たち」からわかるのは、解散権を実行するためには、「選挙に勝つ」見込みだけでなく、「首班指名される」見込みがなければならないということだ。「野党に勝つ」に加えて「党内で勝つ」自信があることが、解散の必要条件なのである。 海部に限らず、総辞職に追い込まれた福田赳夫・康夫父子、あるいは、勝算なきまま不本意な解散に追い込まれていった宮澤喜一(内閣不信任案の可決)や麻生太郎(任期切れ間近)など、多くの首相の末期は党内で勝つ見込みが立たないために、今回のような解散が打てない。弱体化した派閥 カネとポストは総裁に 55年体制における自民党の主戦場は、社会党との戦いではなく派閥争いだった。しかし今、自民党総裁の立ち位置は大きく変容している。 さまざまな制度改正と環境変化が、派閥の弱体化と総裁と党本部の権力強化をもたらした。参議院の恨みを衆議院で晴らすという曲芸をやってのけた小泉純一郎首相の「郵政解散」(05年)がその真骨頂だが、かつての総裁に比べ圧倒的に党内を掌握しやすくなっているために、解散が打ちやすくなっている。 「自民党をぶっ壊す」 そう叫んだ小泉純一郎がぶっ壊したのは、党ではなく派閥だった。森派(現・町村派)に属しながら「周辺居住者」と呼ばれ、派閥の領袖ですらなかった小泉が、改革者のイメージを掲げて総裁選に勝利したのは2001年。小泉は党役員人事でも組閣でも派閥推薦を徹底的に排除し、「一本釣り」の多用で総裁に権力を集中させていく。 竹下政権以降、4大派閥のうち総裁を出さない3派閥が党三役を分け合う慣行が続いていたが小泉は無視した。なかでも、小泉が狙いを定めていたのは、当時最強の橋本派(竹下派の流れを汲む。現・額賀派)だ。なぜ小泉が郵政改革と道路公団改革にこだわったのか。それは、自民党の保守本流が既得権益を積み上げてきた分野だったからと見れば理解しやすい。 かつて派閥には、「資金援助」「選挙応援」「公認獲得」「閣僚推薦」の4つの大きな機能があった。 94年の政治資金法改正で議員や派閥への企業献金は厳しくなり、政党助成法で国庫から交付金が注入される党本部の財政は格段に良くなった。各議員の政治資金は、派閥の依存度が下がり、党本部への依存度を強めていく。 小選挙区導入も大きな影響を与えた。同じ選挙区に同じ党に所属するライバルはいなくなり、派閥領袖の応援はさして意味をもたなくなり、党本部からの公認さえ得られれば自民党の地方組織と支援団体のサポートを独占することができるようになった。首相の人気だけで当選する○○チルドレンも大量に生まれる時代となった。 カネもポストも総裁が握ったとなれば、派閥が弱体化するのは当たり前だ。いまでは、国会の進捗を確認する情報収集の場としてのランチが、派閥の最大の効用なのだという。 「実は派閥弱体化の端緒を開いたのは、90年代の政治制度改革ではなく、89年の小沢一郎幹事長です」 毎日新聞で長く政治記者を務めた中村啓三氏の解説は目から鱗だ。89年8月に発足した海部俊樹内閣の下で、47歳という若さで幹事長に就いた小沢は、政治資金集めのフローを大きく変えることに専心する。 「リクルート事件や消費税導入で人気が凋落していた自民党が翌年に迫った総選挙に勝つには、カネに頼る以外にないと考えた小沢は、経団連に献金のとりまとめを要請するというそれまでの慣行を破りました。 財閥など企業グループごとに直接、献金額の交渉を行っていったのです。企業側は資本金で献金額の上限が定められていることを理由に大幅な増額に難色を示しましたが、子会社ごとに献金すれば全体でこの程度積みあがるはずだと譲りません。結果、300億円の目標に対し、260億円程度の献金を党本部に集めたと言われています。 あおりを食ったのは派閥です。もう企業に派閥に回す金はありません。盆暮れに配るモチ代にも事欠いた派閥には、党本部から頭数に応じて資金援助がなされました」(中村氏) それから四半世紀。いまでは国庫からの政党助成金が最大の収入源だと聞くと隔世の感がある。 「自民党総裁は1人で党全体の6~7割の力を握っている」 中村氏によれば、幹事長時代の大平正芳はしばしばこう口にしたと言う。派閥全盛の時代に6~7割なら、いまの首相はいったい何割だろうか。自民党「解散史」にしっかり学んだ安倍晋三 これだけ集中された力を、解散権という大権の実行時に投下させることができるかどうかが分かれ道だ。肝心なのはタイミングである。 今回の解散は野党の選挙準備が整っていない時期を狙ったと言われているが、このモデルになったのは、中曽根康弘首相の「死んだふり解散」(86年)だろう。ちょうど公選法改正が行われている最中で、法施行日までに解散はないと考えられていた時、中曽根は衆参同日選挙に打って出た。自民党は300の大台に乗る大勝を収めた。 解散で大勝に至った中曽根「死んだふり解散」と小泉「郵政解散」に共通しているのは、足下の経済の良さである。本誌1月号の「経済の常識・政策の非常識 拡大版」で原田泰氏が述べているが、この2人の時代しか、財政再建は進んでいない。 このことはある仮説を呼び起こす。派閥も資金集めも気にする必要がなくなった首相がその座を維持するために必要なのは、世論の支持だけだ。それはひとえに経済運営にかかっているのではないか。人々の嗜好が多様化し分断が進む現代において、世論をまとめるには経済が良くなければいけない。逆に言えば、経済さえ良ければ、あとはタイミングを見て解散を打てばよい。経済に陰りが見え始めた時に間を置かず、しかも経済運営そのものを争点化した安倍の戦術は示唆に富む。 小沢が手をつけ、小泉が仕上げた派閥解体と党本部強化。小選挙区制、政党助成金制度、政治資金規正法改正がもたらした総裁への権限集中と、省庁再編による官邸強化。野党の油断を突くのは中曽根「死んだふり解散」に、アベノミクスが是か非かという争点の単純化はもちろん小泉の「郵政解散」に範を取っている。自民党の歴史に埋め込まれた先人たちの教訓と数々の智恵をすべて活かしたのがアベノミクス解散だったと言うのは、後講釈過ぎるだろうか。(文中敬称略)

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    インテリジェンスなき国家が辿った運命

    た。だがこの小野寺緊急電は、統帥部が自ら破り捨てられた疑いが濃い。情報なき国家が辿った運命について、戦後70年を機に、いま一度思いを致してみるべきだろう。

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    田原総一朗がひも解く自民党60年の政治史

    ている。 ただ、問題なのは、新三要件でアメリカが他国から攻撃されることが分かるかということ。例えば、戦後70年の間にアメリカは4回戦争をやっています。ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争。これは全てアメリカが仕掛けた戦争ですよね。実はアメリカが他国から攻撃されたことは一度もないんだよね。もちろん、これからも戦争が起きるかもしれない。だけどね、オバマがね、「世界の警察」をやめたっていうから、もしかしたら起きないかもしれない。やっぱり戦争が起きるとすれば、アメリカが仕掛ける戦争なんでしょう。 それでも、アメリカが攻撃されたことは、たった一度だけあるんですよね。2001年の9・11ですよ。ニューヨークの世界貿易センタービルが自爆テロでやられた、あれです。このとき、ブッシュは「これは戦争だ」と言ったよね。それでアメリカはアフガン戦争、イラク戦争をやったわけだけど。 じゃあ、ああいうことが起きたときに、今の三要件に該当するかと。ニューヨークの世界貿易センタービルがやられた、ペンタゴンがやられたことが、日本の存立を根底から覆す「脅威」といえるのかどうか。僕は何人かの専門家にも言ったんだけど、さすがにちょっと言えないんじゃないかと。新三要件に該当すれば、僕はいいと思いますよ。でも、該当しない事態が起きうるかどうかという問題だってある。もちろん戦争と一言で言っても、ベトナム戦争や湾岸戦争の時のように国同士がぶつかることもあれば、9・11みたいなテロリストと戦う「戦争」だって起こるかもしれない。こういう想定外の戦争が起きたとき、日本は本当に参戦するのかという問題は大きいと僕は思っている。ニッポンの「豊かさ」を求めた自民党政治のその後《岸信介首相が安保改定と引き換えに退陣表明した後、戦後政治の流れでいえば、「所得倍増計画」を謳った池田勇人首相や佐藤栄作首相といった経済成長を前面に出す路線の方にどんどん転換していく。ニッポンの「豊かさ」を求めた自民党政治はその後どうなったのか》 大平正芳の時代にね、ひたすら経済を求める路線から、やっぱり人間とは何かという根源的な豊かさを求める路線に変わった。その後、田中角栄が総理大臣になるとき、そう1972年ですね。香山健一とか佐藤誠三郎とか、公文俊平あたりが、新しい政党の在り方、みたいな論文出すんですよ。その論文が何だったかと一言で言えば、これからは自民党に投票される票数が減っていくという内容だった。要するに、自民党も社会党もどんどん減っていって、これからは無党派層が増えると展望した。 では、彼らが指摘した無党派層とは何かと言うと、政治に無関心な層といった意味ではなく、従来の自民党の在り方、従来の社会党の在り方に不満がある層が増えていると。これになんとしてでも手を打たなきゃいけないと。で、時の内閣は何をしたかと言えば、香山健一とか彼らを自分たちのブレーンにして、大平が「田園都市国家構想」とかね、いろんなものをつくった。 これからは経済中心の時代ではなく、人間中心の時代へ変えなきゃいけない。もっと自民党が自由に討論できる党にしなけりゃいけない。大平の指示で9つの委員会をつくって百数十人の学者、文化人を大量動員して検討を始めたんだけれども、大平は(一般)消費税を導入するというようなことを言い出して、自民党が選挙に負けちゃった。それから自民党内では「四十日抗争」があって、また選挙をしたんだけど、大平が選挙の途中で死んでしまった。その後、大平がつくったブレーンをそのまま自分が引き受けて活用したのが中曽根康弘だった。1983年11月、東京・西多摩の山荘で、来日したレーガン大統領(奥)、ナンシー夫人にお点前を披露する中曽根康弘首相 だから中曽根政治ってのは大平政治そのものなんです。その中曽根は自分が総理大臣になるまでは「憲法改正」と言ってたんだけど、総理大臣になった途端、改正を言わなくなった。それはなぜか。香山健一も書いてたんだけど、当時は自民党内でもリベラル勢力が強かった。共産党や社会党も今よりはずっと強かった。中曽根にしてみれば、もし憲法改正を前面に出してしまえば、自民党に獲って代わってリベラル政党が政権を獲るんじゃないかという恐れもあった。だから自民党はね、党内の派閥の結束を固めて、ミニ政党と手を組まないと政権維持できなくなった。こうした側面もまた、自民党の戦後政治の流れなんです。 この流れはしばらく続いたんだけど、これがひっくりかえる大事件が起きた。1980年代末のリクルート事件ですよ。この事件をきっかけに、これまでの選挙区制度をめぐる国民の不満が爆発した。現在の小選挙区制になる前は中選挙区制でしたよね。中選挙区制で自民党が政権を維持しようと思うと、例えば5人区の中で過半数以上の3人は当選させなきゃいけない。仮に当選した3人は、政策が基本的には同じなんだから、どこに差が出るかと言えば、やっぱり金だ。だから金権選挙になる。金権選挙になれば、当然選挙のための腐敗を招く。 リクルート事件では自民党の幹部たちがみんなやられちゃったから、国民世論は「金権選挙はダメだ」となって選挙制度改革が進んだ。僕もその時、当時宮沢内閣の副総理だった後藤田正晴に言われて「やっぱり小選挙区がいいな」と思った。そのことを後に僕が宮沢さんへのインタビューで突っ込んだんだけど、宮沢さんは全然はっきり答えなかったんだよね。 あの時は僕が宮沢さんをつぶしちゃったとか世間から言われたけど、宮沢さんは政治改革ができなくて結局失脚してしまった。長く続いた自民党政権の終わりを告げる「55年体制」の崩壊なんて当時は騒がれたけど、その後に誕生した細川護熙内閣で選挙制度改革が行われ、中選挙区から小選挙区に変わった。今になって思えばね、小選挙区になったことは良くないと思うんだ。どうもこれが社会を悪くしたと思っている。 小選挙区制は一選挙区で1人しか当選しないでしょ? でも自民党の良さはね、反主流派と非主流派がごっちゃになって絶えず足の引っ張り合いをやっているのが良かったんです。言い換えれば、党内の右も左も自由に討論出来るところが良かった。55年体制当時、自民党の総理大臣が失脚するきっかけは必ずといっていいほど、時の反主流派の台頭によって潰された。社会党や共産党に潰されるんじゃない、反主流派によって潰されたんです。 僕もそうだったけど、当時の政治記者って、社会党や共産党には全然興味ないんですよ。自民党の主流派と反主流派の喧嘩を取り上げるのがとにかく面白かった。これが日本の政治を決める真の論争であり抗争だった。ところが、小選挙区制になって反主流派がいなくなっちゃった。だから、自民党の中でも論争が行われなくなった。やっぱりね、かつての方が良かったんじゃないかな。今の自民党は、安倍首相の「独裁」とか揶揄する人もいるけど、これは安倍が悪いわけじゃない。自民党の中に非主流派や反主流派がいなくなっちゃたことが一番悪い。自民党の中でかつてのような論争が起こらないことが悪い。まあ、強いて言うなら、公明党が唯一、自民党の非主流派の役割をしているみたいなもんだよね(笑)。小泉純一郎を「天才」だと思う理由《55年体制崩壊後、細川護熙率いる連立政権が樹立し、自民党は戦後初めて下野した。当時流行した「新党ブーム」が沈静化すると、自民党は紆余曲折を経て再び政権与党に返り咲いたが、それまでの派閥政治を打破する政治家の登場で自民党はその後大きく姿を変えることになる。そう、小泉純一郎である》 小泉内閣の誕生については、僕は詳しい一人だと思うんだけど、あの時はね、小泉内閣で政調会長や幹事長をやった中川秀直から突然連絡があったんです。「田原さん、一回飯食おうよ」って言われ、東京・赤坂の料理屋の2階で中川と一緒に飯を食った。そしたらね、中川が大真面目な顔で僕にこう聞いてきたんだよ。自民党総裁選挙、小泉純一郎候補(右)のスーツに付いた埃をとる、応援に駆けつけた田中真紀子議員=2001年4月20日、神戸市中央区 「いま小泉純一郎が総裁選に出ようか出まいか迷っている。田原さんはどう思う?」。いきなりそんな事聞かれるから、僕も冗談半分に「今までの自民党は、経世会に全面的な支持を受けるか、あるいは経世会の人間しか首相になれなかった。もし、小泉が経世会の田中派とまともに喧嘩するというなら僕は支持してもいいなー」と言った。でもその後すぐにね、こうも付け加えたんだ。「でもね。経世会とまともに喧嘩したら暗殺されるかもしれないよ(笑)。小泉は本当に政治生命がなくなるかもしれない。それでも、経世会と本気で喧嘩するなら、僕は支持するよ」と。 僕の考えをそう伝えたら、中川がおもむろに「じゃ、ちょっと待ってて」と下へ降りいった。しばらくすると、小泉が中川に連れられて僕の前に現れた。僕もまさかとは思ったけど、中川に言ったことをそのまま小泉にも言ったら、小泉はね、こう言って返したきたの。「おれは殺されてもやる!」ってね。 僕はこっから先の話が、小泉が「天才」だと思う理由なんだけど、もし総裁選に出馬した小泉があの時、国民に向かって「経世会田中派と喧嘩する」とか「潰してやる」とか言ってもね、普通の有権者は何のことかよく分からないし、何が変わるのかさっぱり分からなかったと思う。でも小泉は選挙になると「自民党をぶっ潰す」というフレーズに変えて言った。この人は言葉を巧みに操る天才だと素直に思った。本音のところは、自民党をぶっ潰すというより「経世会田中派」という派閥をぶっ潰すという意味だったんだろうけど、彼はそれを「古い自民党」を壊すという建前にすり替えて広く国民の支持を得た。だから、小泉は凄いと素直に思った。 アメリカでもイギリスでも保守とリベラルっていう思想が根づいている。アメリカで言えば、共和党が保守で民主党がリベラル。イギリスで言えば保守党が保守で、労働党がリベラル。保守とリベラルのどこが違うかと言えば、保守は自由競争。そして、あまり政府は経済に介入しない。「自由競争」「小さな政府」という伝統的な考え方が保守なの。でも、自由競争と小さな政府が続くと、どうしても社会には格差がどんどん開いてくる。 そうすると、市民の不満がどんどん募り、今度は選挙でリベラルが勝つ。民意を得たリベラルは一転して、社会格差をなくすために規制をどんどんつくる。社会保障や福祉の充実をガンガンやろうとするから、今度は財政赤字になる。財政赤字になって市民が危機感を募らせると、次の選挙ではまた保守が勝ってしまう。日本では、自民党が一応、保守政党と言われるんだけど、実は自民党がやってることはリベラルなの。なるべく税金を上げないで福祉をガンガン充実させようとしている。これは日本にとって本当に不幸なことなんだけれど、自民党がダメになって民主党に政権が移ると、もっとリベラルになってしまう。だから、日本には保守政党なんてないの(笑)。でも、日本の政治家の中で唯一、小泉だけは保守だったと僕は思っている。「痛みを伴う構造改革」っていうのは、保守の考え方そのものなんです。こうして振り返ってみると、小泉の後に続いた自民党総裁はいずれも保守ではなくリベラルだった。だから、短命政権で終わったんだと思う。 自民党政治をいろいろ振り返ってきたけど、やはり一番の問題は選挙制度が変わったことだね。これはね繰り返しになっちゃうけど、僕はあの選挙制度改革の時に後藤田に言われて「小選挙区制がいい」と思ったんだけども、やっぱり問題ばかりだったね。ただ、自民党の幹部の何人かに聞くと、小選挙区制が問題なのは分かっているけど、中選挙区制には変えたくないと言うんだ。それはなぜか。一言で言ってしまえば「カネ」。中選挙区制の時はとにかく選挙に金がかかって、1回選挙やれば、一人につき億単位の金がかかったっていうぐらいだから、今の自民党ではとてもそんな大金を用意することはできない。いや、できなくなった。 さっきも言ったように、最大野党の民主党も今のままじゃあダメなんだから、せめて自民党の中に反主流派を育てて、党内で論争が起きるくらいにならないと日本の政治はもっとダメになる。本音を言えば、もっと野党が強くならなきゃという思いもあるんだけど、今の野党は弱いから、もうどうしようもないね。民主党だってさ、安保法制であんだけ自民党を批判したんだから、当然対案ぐらいは出すべきなのに出さなかったよね。13回忌となる池田勇人元首相をしのぶ会で、参院選の勝利を喜び合う(左から)田中角栄元首相、福田赳夫首相、大平正芳自民党幹事長=1977年7月、東京・芝公園のホテル 実を言うとね、僕が好きな政治家は田中角栄なの。いま振り返ってみても、田中角栄が言ったことは全部当たりだったんだよね。田中角栄がやったことはみんな良かったと思う。大体、法案っていうのは役人がつくるわけで、すり替えたり出来ないのよ。政治家は全然勉強してないし。これは堺屋太一(元経済企画庁長官)が言ってたんだけれども、一つの法案を作るときには、これが今までなかった法案であることを世に示さなきゃいけない。だから、政治家だって物凄く勉強しなきゃいけないんです。田中角栄は首相在任中に33もの法案をつくった。こんな政治家いませんよ。彼ほど政策が分かり、人心掌握術があり、官僚を見事に使いこなした政治家なんて見たことがない。ニッポンの戦後は田中角栄が予言した通りに動いていると言っても過言ではないと思う。僕はロッキード事件だって田中角栄は無罪だと思ってるから。僕が講談社から出した「田中角栄無罪論」(『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』)、もしよかったら読んでよ(笑)。 でも、角栄の時代とは違ってね、高度成長の時代が終わって日本の政治家はみんな小粒になった。よく「田中角栄に匹敵する政治家がいるか」とか聞かれるけど、もちろんいなくはない。でもね、一番の問題はやっぱり自民党の中で論争が出来ないことが大きいの。派閥の中でいろいろな論争があって、それを乗り越えてきたからこそ、田中角栄みたいな政治家が生まれた。論争が起こりもしないぬるま湯の中で良い政治家なんて育ちやしない。論争に揉まれていくうちに政治家は逞しくなっていくんでね。それが今はないのが一番残念なんだよね。(聞き手 iRONNA編集長、白岩賢太/編集部、川畑希望)

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    韓国海軍が13年ぶりに参加した3年に一度の「自衛隊観艦式」

    BLOGOS編集部 自衛隊記念日記念行事の一環として、陸海空3自衛隊持ち回りで行われる観閲式。 2013年の「中央観閲式」、2014年の「航空観閲式」に続き、ことしは海上自衛隊により「観艦式」が実施される。42隻の艦艇、37機の航空機が参加して実施(陸上自衛隊航空機4機、航空自衛隊航空機12機、豪海軍、仏海軍、印海軍、韓海軍の艦艇各1隻、米海軍の艦艇2隻を含む)され、特にことしはアメリカ海兵隊のMV-22オスプレイが祝賀飛行を行うほか、13年ぶりに韓国海軍の艦艇も参加することが話題となっている。 編集部では、10月18日の本番を前に、15日に実施された予行演習に参加、観閲部隊の掃海母艦「うらが」から取材を行った。(2012年の観艦式のもようはこちらから)出港〜観閲乗船場所のひとつ、横須賀市の自衛艦隊司令部「うらが」艦橋横須賀沖には、アメリカ海軍の遠征ドック型揚陸艦「モントフォード・ポイント」の姿も浦賀水道から相模湾へ。横浜、木更津などから来た艦艇も合流、観閲地点までに隊形を整えていく進行方向に、単縦陣で進む受閲部隊の姿が見えてくる今年就役した、海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」受閲部隊の艦艇は、海上自衛隊、外国海軍ともに乗組員が甲板で「登舷礼」を行う韓国海軍から参加した駆逐艦「DAEJOYONG」祝賀航空部隊。本番当日はオスプレイの飛行も予定されている訓練展示観閲を終え、順次180度の回頭を行う護衛艦「しまかぜ」による祝砲水しぶきを上げる、エアクッション揚陸艇LCACP-3Cによる対潜爆弾の投下P-1によるIRフレアー発射航空自衛隊ブルーインパルスによる展示飛行 なお、当日は観閲官として安倍内閣総理大臣が観閲艦「くらま」に座乗する。この模様はUstream、ニコニコ生放送でも中継される予定だ。 ・平成27年度自衛隊観艦式 - 海上自衛隊  関連記事「ホットライン がつながらない!」 中国の冷たい対応に焦る韓国サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか - 村上拓哉 / 国際関係論【衆院予算委】山尾議員、安倍総理の基本的考えと社会認識とのずれを指摘解散後の「SMAP」という商標の行方アベノミクスを襲う中国減速・原油安・暖冬

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    戦艦大和「片道燃料」の真実 最期を見た元測距儀兵の証言

     夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言をお伝えしたい。最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に 戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。 大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。 「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。 その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。 「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」 測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。すべてが極秘だった 当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。 「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。日本で唯一のレーザー加工技術を駆使した木製模型の「1/250 戦艦大和」 つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。 「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。物資が枯渇する中、最後の特攻へ 士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。 「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」 北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。 沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。 当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。極秘、2日前に…やはり「特攻」だった 8月の終戦記念日が近づくにつれ、地上派、衛星放送ともに戦争映画のラインナップが増える。近年明らかになった元軍人らの証言などが基となって作られた作品は、戦争未経験の現代人にとって示唆に富むが、戦艦「大和」の元測距儀兵、北川茂さん(90)=三重県在住=の証言は過去のいずれの戦争映画でも描かれたことのない衝撃的な内容だった。 昭和20(1945)年4月1日、山口県の三田尻沖に極秘作戦のもとに集結した大和を旗艦とする艦隊は沖縄特攻に向け、準備を進めていた。 「大和は片道燃料でいいから、油を分けてもらっているんだ」。海上に停泊中の深夜、大和の両舷に船体を横付けし、ホースで給油作業を行う駆逐艦乗員の言葉を聞き、北川さんは愕然(がくぜん)とする。 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に挑む準備をしていたのだ。 以前、私は「大和は片道燃料で出撃した…」という内容の記事を書いたところ、読者から「史実では大和は往復燃料を積んでいた。特攻ではない」と抗議を受けたことがある。 『大和の性能と積載燃料から往復可能』というデータや証言が掲載された資料を根拠に指摘してきたのだろう。こういう“鬼の首を取った”ような抗議を受けることは記者にとって宿命だと痛感している。だが、同時に、戦史の資料には記録されてこなかった北川さんたち兵士の“生きた証言”こそが、歴史の真実を伝えるのだと信じたい。戦闘開始、その直後に被弾 5日午後3時。「大和の甲板に集められた総勢約2600人(3分の1の乗員は持ち場待機)を前に伊藤整一司令長官が言いました。『特別攻撃隊を命ず』。これまでの極秘作戦がついに明らかになったのです。私たちは初めて特攻を知らされました。解散を告げられた後も、私の足は甲板にへばりつき、動きませんでした。周りを見ると、顔面蒼白でした…」 大和を旗艦とする艦隊は沖縄を目指し、洋上を進む。7日午前11時。「いよいよ決戦が近づいてきました。通常正午からの昼食が1時間早められ、私は配られたおにぎり2個とたくあん3切れを食べました」 正午。北川さんは「敵機発見!」の合図で戦闘開始を確認する。その直後、後部艦橋に2発の直撃弾を受ける。すると軍刀を杖に、負傷した乗員が「後部艦橋の総員死亡」と連絡にきた。後にこの乗員も戦死したことを北川さんは知る。「魚雷をわざと命中させバランス取る」 米軍は爆弾では不沈艦の異名を誇る大和の撃沈は無理だと判断、魚雷攻撃を左舷に集中させる。 「魚雷は次々と命中しました。その度にもの凄い反動で揺れるのですが、船内にいる乗員にはその理由が分からない。『なぜ揺れるのですか』という伝送管からの問いに、上官は『大和の主砲を発射する反動だと伝えておけ』に指示していました」 左舷への集中攻撃で大和は大きく傾く。そして、北川さんは自分の耳を疑うような声を聞く。 右舷に攻撃された魚雷を大和がかわすと、「司令長官が『艦長、右舷の魚雷は回避せず当てた方がよかったんじゃないか』。有賀幸作艦長は「そうですね」と話す声が聞こえてくるんです。自分の船にですよ。しかし、よく考えると、左に傾いた大和を復元させるため、右舷に魚雷を命中させてバランスを取れないか、と考えていたようなのです」 左旋回しかできない“瀕死”の状態になりながらも、司令長官や艦長は最後の最後まで打開策を見いだそうとしていた。特攻をあきらめようとしていなかったのだ。そんな悲壮な覚悟を北川さんは上官や同僚たちが次々と命を落とす極限の状況で聞いていた。 大和の主砲の砲弾は1個約1トン。弾薬庫から主砲まではエレベーターでなければ運べない。「弾薬庫から『艦長、船体の傾きを直して下さい。砲弾が運べません』という悲痛な声も聞こえてきました。艦長はそのたびに「よし、分かった」と答えていましたが…」。結局、大和は主砲を1発も撃ち返せず沈んでいった。 午後2時20分、大和は航行不能となり、「総員退去命令」が出る。しかし、測距儀にいた北川さんは「艦橋の一番上ですから海面まで数十メートルはあり、怖くて飛びこめませんでした」と言う。大和が一気に傾いた反動で、北川さんは測距儀にいた同僚と2人、海面へ投げ出された。北川さんは沈む大和とともに海底へ引きずり込まれていく。「このまま溺死か」と覚悟した瞬間、水中で大爆発が2回起こり、その反動で海面へ押し上げられたという。大和は沈没も「極秘」…少ない生存者も孤島に隔離 間一髪、溺死を免れた北川さんは同僚と2人で木切れに捕まり、救助を待つ。しかし、助けにきた駆逐艦3隻の内、2隻が引き返し、雪風だけが残された。日が沈む寸前、木切れの上で、北川さんは同僚と手をばたつかせ、波しぶきを上げて必死で合図を送り続けた。ようやく雪風の甲板の上で双眼鏡を見ていた乗員が、北川さんたちを発見、2人を収容すると同時に雪風はその場を離脱した。 すでに日が沈んでいたが雪風は船内の電灯を消して全速力で航行。北川さんたち乗員には「一切声を出すな」と指示された。 米潜水艦の追尾をかわすためだった。「ようやく救助されたと思ったのもつかの間、日本へ帰るまで生きた心地がしませんでした」 北川さんたちは長崎県の佐世保港へ帰港するが、「島へ連れて行かれ、そこから出ることを許されず、箝口(かんこう)令がしかれました。大和の沈没は極秘扱いだったのです」と北川さんは語った。

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    戦艦「武蔵」艦長の息子「船は墓標」遺族として複雑な気持ち

     鳥取市で行われた戦艦「武蔵」最後の艦長、猪口敏平(としひら)中将の四男、勇さん(76)の講演は、いよいよ今年3月にフィリピン中部・シブヤン海で船体が発見された話に突入する。実は5年ほど前から調査チームから接触があったが、遺族として複雑な気持ちを抱いていたことを明らかにした。そのうえで、「運命的な発見だった」と指摘し、調査チームとの裏話なども披露した。(坂下芳樹)「おやじは沈んだ」と聞いた兄も戦地で散った…戦艦武蔵の艦上(Wikimedia Commons) 戦艦「武蔵」が、シブヤン海で米軍機の攻撃を受けて沈んだのが、昭和19年10月24日でした。そのとき叔父(航空参謀の猪口力平氏)はフィリピン・セブ島で指揮を執っていて、そこにたまたま長兄(海軍所属の猪口智氏)が戦闘機6機の隊長として岩国(海軍航空隊)から送り込まれてきました。そして、指揮官に報告に行こうとするとき、叔父とばったりすれ違いました。 兄の耳には「武蔵が沈んだ」という情報が入っていまして、聞くともなく「おやじは沈んだのかなあ」と独り言を言ったらしいんです。すると、叔父が「沈んじゃったなあ」。兄は「そうか」と言って別れました。 11月2日にフィリピン・レイテ島のタクロバンに、アメリカの飛行機80機が待機しているという情報が入り、翌日、それを撃滅しにいく航空隊が編成されました。兄はそのメンバーに入っていませんでしたが、叔父と一緒に指揮所で(航空隊の)出撃を見送っていたのに、突然、姿を消したそうです。 次に見たときには、(兄は)戦闘服を着て飛行機に駆け寄っていました。「俺が行くから…」と乗っているパイロットに声をかけて下ろしました。兄の方が上官でしたから。それで乗っていって、結局は敵のレーダーにひっかかりやられてしまいました。 おやじ(猪口敏平中将)と兄に関しては、その程度の思い出しかありません。「船体引き上げ」には英霊冒涜の気持ちも… 武蔵の発見については、ちょっとした劇的なことがありました。今年3月1日におやじがおふくろと兄に宛てて書いた手紙を初めて読んだのですが、その翌日に「武蔵発見」というニュースが流れました。何ともすごい運命か…と感じましたねえ。 実は、4~5年前から武蔵を発見した調査隊の一員からコンタクトがありました。「武蔵の沈んだ場所が大体特定できたが、遺族はどう思っているんだろうか」と気にされていて、通訳を通して話がありました。 最初は金目当てと思ったので適当にあしらっていましたが、いろいろ話を聞くとものすごく勉強されていました。武蔵のことはもちろん、おやじのこと、兄のこと、海軍についてもめちゃくちゃ詳しくて、当時の各海戦の名前も全部知っていました。だから、こちらも真剣に対応しました。 僕も(武蔵を)見たいという気持ちもありましたが、残骸(ざんがい)を引き上げられてもいい気持ちはしません。また、海軍では船が沈んだ場合、海はお墓であり、船は墓標であるという考えがあります。それがいじられることは、冒涜(ぼうとく)という面があるかな、という気持ちがありました。 加えて僕の場合は、兄もおやじのすぐそばで沈んでいるので、そこでいろいろされるのはあまりいい気持ちがしません。結局、「そっとしておいてほしい」と言いました。その後、「それは十分にわかっている」という調査隊メンバーからのメールが何回かありました。日本人以上に敬意を払ったアレン氏 武蔵の発見者はポール・アレンさん(米マイクロソフト社の共同創業者)ですが、僕と当初連絡を取っていた人とは違っていました。アレンさんに先を越されたのかと思いましたが、調査隊の中に彼の名前がありました。彼は「スポンサーに降りられた」とちらっと言っていました。アレンさんは大富豪らしいので、彼はそちらに加わって大いに知見を発揮し、武蔵発見という結果になったのでしょう。 アレンさんもものすごく日本海軍や武蔵を尊敬していて、日本人以上にすごい敬意を払っているのを感じました。 「発見直後にいきなり騒ぐのは良くない。作業を始めるにあたって、あなたと簡単なセレモニーをしたい」と言われて、(アレン氏が所有する)豪華客船に誘われました。ところが、直前に台風が来たりして(セレモニーが)流れてしまいました。その間、遺族に払ってくださった配慮には感銘するぐらいでした。 アレンさんは、武蔵を引き上げたら日本にあげようと考えていたらしいですが、日本政府はまったく対応しなかったようです。やはり中国や韓国に配慮しているんじゃないですかね。「対応するセクションがない」とか言って、門前払いみたいになってしまったらしいです。 結局、沈没地点のデータを「公開しない」との契約でフィリピン政府に渡し、アレンさんは手を引きました。僕も「沈んだ場所を教えて」と聞きましたが、「全部契約してしまっているんで言えない」との返事でした。 沈んだ場所はオープンにされていないし、アレンさんもこれ以上は手を出さないことを決めたと聞きました。だから、この後はどうなるんでしょうか。フィリピン政府は意欲を持っているようですが、武蔵を引き上げるには莫大(ばくだい)な金がかかりますから。結局、そのままということになるんじゃないでしょうか。

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    戦艦武蔵の46センチ砲と日本人の技術力

    先の大戦当時、史上最大の超弩級戦艦として世界を驚愕させた戦艦武蔵が、46センチ主砲を発射した瞬間をとらえた貴重な写真が見つかった。武蔵の初代砲術長、永橋爲茂大佐のご遺族よりiRONNA編集部に提供していただいた1枚の写真からは、当時の日本人の技術力の高さがうかがい知れる。

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    元海軍二等兵は「武蔵」「信濃」「大和」沈没の瞬間を振り返る

     いまや戦後生まれが総人口の8割近く。先の大戦の記憶を持つ者は年々減ってきている。今こそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士の証言を聞いてみよう。証言者:幸愛志公(89) 元海軍駆逐艦「磯風」主計科 大正13年生まれ。昭和19年1月大竹海兵団合格、7月駆逐艦「磯風」に乗艦して主計科配属。レイテ沖海戦、坊ノ岬沖海戦(沖縄水上特攻作戦)に参加。最終階級は二等兵曹。* * * 大竹海兵団を卒業して呉海兵団に仮入団中の昭和19年7月、ハワイ作戦以来百戦錬磨の第17駆逐隊が呉と柱島の中間辺りに並んでおり、私は「磯風」に乗艦した。普段は烹炊所(厨房)で、乗員300名分のメシ炊き係だった。日中50度近くにもなるところで、フンドシ一丁での作業となる。 レイテ沖海戦を前に栗田艦隊がブルネイに集結。一度にあれだけの艦船を見るのは初めてで頼もしかった。だが、出撃翌日の10月23日早朝に戦闘配食で握り飯を作っていた時に「ドスーン、ドスーン」と音が聞こえ、早くも重巡洋艦「愛宕」「摩耶」が敵潜水艦に撃沈されてしまった。ポール・アレン氏が公開した2015年3月初めに見つかった武蔵とみられる船体の写真で、「空氣壓力計 右砲噴氣用」などと記されている部分 翌24日にシブヤン海を通過中、敵空母艦載機編隊が猛攻撃を加えてきた。私の戦闘配置は後部二番主砲塔弾庫だったが、空襲の合間には烹炊所へ戻って作業した。 途中、外を見るたびに味方艦の数が減っていった。集中攻撃を受けた味方戦艦が左舷側に傾きつつ前のめりになっていき、夜沈む時には後甲板に生存者がすずなりになっていた。「あれ『武蔵』らしいで」と誰かが言い、“不沈艦”の現実を思い知らされた。 結局、レイテ突入を果たせず呉へ帰還することとなった。帰還中の11月21日未明にも攻撃を受け、戦艦「金剛」と第17駆逐隊「浦風」に火柱が立った。 連合艦隊が大損害を受けたレイテ沖海戦後は、艤装完成のため横須賀から呉へ回航される世界最大の空母「信濃」(「大和」型三番艦を改造)の護衛を命ぜられた。「信濃」は11月29日未明に敵潜水艦の魚雷を受け、やがてグリグリ旋回しだすのが烹炊所から見えた。 曳航を試みたが、巨艦を支えきれず曳航索(ロープ)が切れてしまった。目の前で「信濃」のスクリューが空回りし、飛行甲板の後ろから乗員がズルズルと滑り落ちて行った。全く戦果が無くこんな沈み方をするとは、いよいよ戦争は負けるなと思った。 沖縄特攻作戦では戦艦「大和」を護衛し、昭和20年4月6日徳山沖を出撃。7日に敵機から至近弾を受け、機械室が故障した。電気が消えて、非常燈(赤ランプ)がついた。弾庫長が「上へ上がれー!」と叫ぶのが早いか、海水が入ってきた。砲塔に上がり、「来たぞ!」と声がしたと思うと、敵機が機銃掃射してきた。 海水を烹炊所の一斗缶で汲み出そうと試みた時、「大和」の巨大な火柱が見えた。その後「雪風」移乗の命令が出て、「雪風」へと乗り移った。処分命令が出された「磯風」はその夜、「雪風」の砲撃により沈没。「磯風」がほぼすべての日米主要海戦に参加していたことを戦後改めて知り、乗船できたことを誇りに思う。●取材・構成/久野潤(皇學館大学講師)関連記事■ 軍艦「瑞鶴」 マリアナ沖海戦で被弾わずか1発の幸運軍艦■ 連合艦隊旗艦「長門」 最期の務めは米ビキニ環礁核実験標的■ 元海軍戦艦「大和」高角砲員 大和沈没時の状況を振り返る■ 戦争時に軍にも秘匿したため一般知名度は皆無だった「大和」■ 戦艦大和乗組員 3332人の内生還したのは276人だけだった

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    われわれはなぜ「大和」を活かし切れなかったのか

    《ユニーク対談》福田和也(文芸評論家・慶応大学教授)戸髙一成(呉市海事歴史科学館館長)「大和ミュージアム」の語りかけるもの 福田 戦争に関する展示施設は国内にたくさんありますけれど、その中でも呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)はとても水準の高い施設ですね。今後のメルクマールになるでしょう。とくにメイン展示の戦艦大和の十分の一模型には感動しました。要塞や兵器は二十世紀の典型的な芸術である、という意味のことを語った芸術家がいましたけれど――ポール・ヴィリリオだったか――、大和ミュージアムはそうした美的な関心にも十分応える構成になっていると思います。 戸髙 そうした見方をしていただけるのはとても嬉しいことです。明治以来、〝造船と海軍の町〟として発展してきた呉市の歴史を伝える博物館をつくろうということで大和ミュージアムの計画はスタートしました。戦艦大和はたしかに悲劇的な最期を遂げましたが、世界一の戦艦であったことは間違いない。それを伝えるためには半端な模型であってはならない。そうした意気込みで取り組みました。世界の海事関係博物館を見渡しても、五十分の一の戦艦模型はあっても、十分の一で再現された戦艦模型はありません。ここ(大和ミュージアム)の大和が世界初です。《呉市海事歴史科学館は平成十七年四月二十三日に開館した。四階建て延べ九六〇〇平方メートルの館内や敷地内には、大和の模型のほか潜水調査船「しんかい」や水中翼船、零戦(実機)など資料約二千点が展示されているほか、操船を体験できるシミュレーターや「宇宙戦艦ヤマト」の展示もある。開館後二カ月半で来館者は三十六万人を超え、大変な人気を呼んでいる》 福田 造船の歴史や先の大戦を伝えるという目的は、たしかに大切ですけれど、かりにそれを抜きにしても、美的な感動を与えるものに仕上がっていることが嬉しかったし、大変なことだなと思いました。 戸髙 大和は現在にいたるも世界最大の戦艦ですから、十分の一といっても全長は二六メートルにもなる。しかしその大きさだけを誇っても本質を伝えたことにはならない。細部まで徹底的に復元しようと努めましたから、実際に大砲の弾が飛び出ないことをのぞけば、模型というよりは、精緻にスケールダウンした本物と言っても差し支えないと思います。 たとえば一〇センチ間隔でリベットが打たれている箇所があれば、きちんと一センチ間隔で復元しましたし、ボートデリックの信号索についている小さな滑車なども、親指の先くらいの部品で、展示のときに動かす必要はありませんから、形だけで機能はまったく必要ないのですが、これも設計図から起こして実際に動く滑車を完璧に復元しました。 また、大和の甲板には台湾檜が張られていたのですが、当初は予算の問題もあってベニヤ板を張ってそこに烏口(からすぐち)で線を引いてそれらしく見せる案だったのを、木目が台湾檜の十分の一に詰まって見える木材を探し出して一枚一枚張ってもらいました。木材は縮小がきかないので同じ台湾檜を張っただけでは十分の一にならないし、ベニア板だと安っぽくてどうにもならない。すべてにおいて他と画然と違う水準をめざしたわけです。建造を担った音戸の山本造船は大幅な赤字を覚悟で魂魄こめた仕事をしてくれましたし、作業に当たった全員が、呉市の誇りを見事に体現してくれたと思っています。 福田 かつて戦艦大和を建造した呉市の人々の思い入れの深さが大和ミュージアムにつながっている。 戸髙 ええ。そもそも広島県は原爆の犠牲になっていますから反軍思想が強い。兵器である戦艦大和の模型を展示するのに県が援助してくれるとは思えないし、予算措置をしてくれたらくれたで逆に博物館の構想にあれこれ注文をつけてこないともかぎらない。予算としては約六十五億円の枠組みでスタートしたのですが、十年以上の準備期間があって、資料収集などにかかった費用を含めるともっとかかっていると思います。それを支えてくれたのが一般の募金でした。呉市の商工会議所に募金会を立ち上げてもらって、五億円以上集めていただいた。福田さんがおっしゃったように、自分たちの博物館をつくるんだという小笠原臣也市長はじめ呉市の人々の情熱を強く感じました。 福田 椹(さわ)木野衣氏のような現代美術の生きのいい評論家に大和ミュージアムを見てもらいたいですね。彼は〈戦争と万国博覧会〉というテーマで評論を展開してましたけれど、近年の万博ではパビリオンの建築様式が冷戦下のシェルター建築の影響を受けているとか面白い分析があって、そうした視点を持つ彼らが大和ミュージアムを見たら、またいろいろなことを吸収できるだろうという気がします。《戦艦大和 全長二六三メートル、最大幅三八・九メートル、基準排水量六五、〇〇〇トン、満載時排水量七二、八〇八トン、主機タービン一五万馬力、速力二七ノット、航続距離七、二〇〇海里。主砲は四六センチ三連装砲塔三基(九門、最大射程四二、〇〇〇メートル=東京―大船間に相当)を装備。日本の造艦技術の粋を集めた文字どおり世界最大最強の戦艦だった》 戸髙 大和ミュージアムはどんな博物館ですか、という質問を受ける度に私はこう答えるようにしています。原爆ドームの碑にあるような「過ちは二度と繰り返しません」という反戦平和思想だけでは、広島が経験した戦争体験をすべて語ったことにはならない。物事は片面だけを見せて教えてはならないと思います。広島で原爆の悲劇を見たら、呉にも来て戦艦大和を見てほしい。 当時の日本人が何を大和に託したのか。両方見た上で物事を多面的に考えることが大切ではないでしょうか。われわれは材料を提供するけれど考えは押し付けない。そのとき大事なのは、提供する情報の程度が高くなければいけないということです。程度の低い情報だったら、受け取ったほうはその水準までにしか到達しない。 少しえらそうな物言いになりますが、情報を咀嚼(そしゃく)し判断できる人間をつくることに役立ちたいのです。資料館や博物館に思想や歴史観はない。歴史観に到達する資料を提供する場であって与える歴史観はない。ただ資料が本物か否かについては資料館の責任だから、それについてはきちんとやる。マスコミからは時々こちらの歴史観を問う意地悪な質問が寄せられるのですが(笑い)、私の答えは以上のごとくです。歴史的蓄積が生んだ戦艦「大和」 福田 戦艦大和を設計図や写真としてではなく、立体的な造形物として資料化し提供するというのは並大抵ではない。豊後水道を進む戦艦大和=昭和16年10月20日(Wkimedia Commons) 戸髙 大学で彫刻を学んだことが多少生きているかも知れませんね。それから少年の頃から海が好きで船乗りに憧れていましたから――すぐ船酔いするので実際にはなれませんでしたけれど(苦笑)、ある時代の日本人が海を舞台に戦争をせざるを得なくなり、大和のような巨大戦艦を建造したことの意味、戦艦や戦闘機といった兵器にかぎらず、工業製品はその時代の人間が何を考え求めていたかを具象化したものですから、それをきちんと見ることができれば、その時代や人間の思想がある程度分かるのではないか。そうした問題意識がわりと若い頃からあったのはたしかです。 福田 大和の建造が極秘裡に開始されたのは昭和十二年十一月四日ですね。大正十一年のワシントン海軍軍縮条約で対米英六割の戦艦保有に制限された日本海軍は、条約期限切れの昭和十二年からその劣勢を挽回するために三隻の巨大戦艦の建造に踏み切った。その一番艦が大和で、二番艦が武蔵、三番艦が計画変更でこれまた世界最大の空母信濃になった。 戸髙 設計が開始されたのは起工から三、四年前ですかね。明治維新から七十数年で世界最大最強の戦艦を建造したということは、率直に驚き以外の何ものでもない。 福田 ペリーの来航が嘉永六年(一八五三)ですから、そこから数えても驚嘆すべき早さです。日本は西欧近代に追いつくべく駆けに駆けて大和の建造にたどり着いた。ただこれも日本人のポテンシャルからすれば十分に考えられたことだと言えるかも知れません。黒船来航からほぼ三年後には、日本人は初めて見た文明の利器、蒸気船を外国人の助けを借りずにつくってしまっている。 戸髙 島津斉彬の薩摩藩、鍋島直正の佐賀藩、伊達宗城の伊予宇和島藩の三藩ですね。近代化を成し遂げる素地がすでに江戸時代の日本には備わっていた。それも職人レベルにその能力があったという点がすごい。司馬遼太郎の『花神』は大村益次郎の生涯を描いた小説ですけれど、その中に彼が宇和島藩に兵器製造・洋学担当の雇士として招かれて蒸気船をつくる挿話があります。村田蔵六と名乗っていた頃のことですが、彼は八幡浜のカラクリ職人に実際の蒸気船を組み立てさせている。完成した蒸気船は動力は大したことないのだけれど、とにかく前を向いて波を蹴立てて進んでいく。幕閣の技術者ではなく江戸を遠く離れた一藩の市井の職人がやってしまう。これはやはり当時を思えば大変なことです。 福田 最高水準の技術というのは中央に集中するのが普通ですが、当時の幕藩体制はそうではなかった。多様性を各藩が維持し、しかも市井のカラクリ職人までがその力を持っていたということは、その後日本が近代化を成し遂げた要因として他国に例のない与件です。 戸髙 江戸時代の面白さですね。江戸時代の身分制度は今日否定的な側面ばかりが言われていますけれど、実際には、相手がたとえ侍でも職人気質というのは通じたのです。何か依頼をされても、「そんなの気が乗らねえなあ」と言って断ってしまうことだってあった(笑い)。技術とともに職人気質に対してある種の黙契があったわけです。制度としては士農工商と言いますが、実態としては職人への潜在的尊敬や社会的地位がちゃんと存在していた。 福田 職人修行の仕組もすごいですね。徒弟として親方に仕え苦節の日々に耐えて、一人前になれば、日本全国、どこでも仕事が出来る。技量に対する評価の基準が確立されていた。 戸髙 彼らのすごい点は、新しい技術に接すると必ずそれを自らのものにしてしまうだけでなく、それに独自の工夫を加えてさらに新しい一段上の技術にしていったことです。そうした姿勢を持ち得たのは少なくともアジアでは日本だけでした。たとえば中国は日本の江戸時代の頃からヨーロッパに留学生を派遣したりして技術の導入を図っていますけれど、まったく自家薬籠中の物にはできていない。これは職人の実質的地位、周囲の職人に対する敬意の念の違いが彼我に歴然とあったということでしょう。 福田 アジアが西欧近代と遭遇してから、それを物真似と言われようが紛い物と言われようが、西欧が生み出した物と同じ物をつくり出して見せたのは日本しかない。それゆえ日本はその西欧と総力戦を戦わねばならなくなったとも言えますが、その力を持ち得たことは、素直に父祖の代の日本人が、技術を尊重し蓄積してきた歴史を評価すべきものだと思います。 戸髙 先の敗戦まで、アジアで戦艦を建造できたのは日本だけです。いや現在にいたるまで、オリジナルの戦艦や戦闘機――その時代における第一線級の戦艦や戦闘機――を全部自前でつくれたのは日本だけです。戦前は言うに及ばず戦後の中国にしても、初期にはほとんどがソビエト・ロシアからのライセンス生産ですからね。 技術はそれを受け入れる側の水準がどこにあるかでその後の展開が決まってくる。それが幕末明治の日本のダイナミズム、面白さのポイントだと思います。戦艦大和も零戦も紛れもなくその延長線上にある。ただそのダイナミズムも、日露戦争に勝って明治末年になると官僚国家の体裁が整って少しずつ失われていってしまう。この点を押さえておかないと、その延長線上にある戦艦大和のすごさとその悲劇が映し出すものも分からなくなる。大和の悲劇というのは、取りも直さず先の大戦の失敗が集約されたようなところがありますからね。 福田 幕末から明治までの頃を論じたり喋ったりするのは精神衛生上たいへんよろしい。もちろん独立をまっとうするための苦難は続いているにせよ、少なくとも日清戦争前後ぐらいまでの歴史は心穏やかというか、精神にある種の屈折を抱えずに読めるのですけれど、それ以降は、近代化がなりつつある日本の新たな問題が複雑な影を色濃く投げかけてくる。第一次世界大戦を経験していれば… 戸髙 日露戦争はやらざるを得ない戦争でしたけれど、それ以後は日本人の外交感覚の半径を超える時代に突入してしまったと思います。斬った張ったの歴史を繰り返してきたヨーロッパに、技術力や軍事力で追いつきはしたけれど、それと同じような外交感覚は数十年で身につくものではない。やはり第一次世界大戦を知らずに過ごしたことが、その後の日本にとっては致命的な要素となったと言えるでしょうね。 福田 日英同盟をどう維持するかという問題もありましたけれど、これは日本がイギリスの要請を容れて陸上部隊を西部戦線に派兵しても果たして維持出来たかどうかは分からない。ああいう切られ方はしなかったでしょうが。条約上はインド亜大陸全域が適用範囲の限界でしたから、西部戦線にまで出さなければならない理由はない。明らかにアメリカは日英分断を図っていましたから。 日本はドイツ潜水艦の無制限襲撃に苦しんでいたイギリスのために地中海に巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣し、艦隊指揮官の佐藤皐藏中将が「地中海の守り神」と称されるほどの貢献をしたとはいえ戦死は七十八人、義理を果たしたという程度でしかないのに対し、アメリカ軍は西部戦線で二万数千人が命を落としている。桁が違い過ぎました。 ただ第一次大戦の地上戦闘の凄まじさを日本陸軍が肌身に経験することがあれば、その後の日本軍の戦略、戦術、装備の体系などは大きく変わった可能性がある。もちろん当時も永田鉄山とか鋭敏な軍人はいましたけれども、その下の陸大に入れなかったようなクラスが本当に凄惨な近代戦を経験したら、軍の体質を根底から変える契機になったかも知れない。 戸髙 水雷艇の艇長として日露戦争の各海戦に参加し、戦後『此一戦』を刊行した水野広徳は、第一次大戦中と大戦直後の二度にわたってヨーロッパに私費留学をしているのですが、戦闘の凄まじさに仰天しています。一度の会戦での死傷者が十万とか二十万という数字が発表されて、水野はたまげますが、ロンドン市民はそれを新聞で読んで普通の交通事故の死傷者数を眺めるような感覚でいる、そういう神経を持たないかぎり近代戦争はとてもできないと水野は痛感するわけですね。日本人だったら堪えられない被害規模です。彼がその後反戦平和思想に急速に傾いていくのは、第一次大戦の悲惨さを現場で見たことが大きい。本気の近代戦をやったら一度の会戦で十万単位の人間が死ぬというセンスが、とうとう日本人には分からないまま大東亜戦争に突入してしまった。 福田 今もフランスで「先の大戦」と言ったら第一次大戦のことです。第二次大戦より第一次大戦のほうがよっぽど死者が多い。普仏戦争でも結構死んでいますけれど、第一次大戦のときは当初誰もあんなに死者が出るとは思わなかった。一カ月で終わって、終わりさえすれば勝敗に関係なく酒飲んで遊べると思っていたのが(苦笑)、四年間も続いて大変な惨劇になった。ヨーロッパにおいては、ソビエトはちょっと異なりますが、第一次大戦のほうが第二次大戦よりもはるかに歴史的意味が大きい。自動車の運転にたとえれば、各国がカーブを曲がり損ねた多重衝突が第一次大戦で、第二次大戦はそのハンドル操作を修正するほどの意味合いでしかありません。 戸髙 日本人にはその意味で戦争に対する徹底したシビアさがない。体質的に近代戦争ができないと思います。近代戦争というのは情緒が入り込む要素がありません。作戦命令を見ても彼我の間には特徴的な違いがある。たとえば第二次大戦初頭イギリスの通商破壊を大西洋上で華々しく行ったドイツ装甲艦アドミラル・グラフ・シュペー号は、最期はウルグアイのモンテビデオ港外で自沈するのですが、ドイツはわりあい単艦で遠距離作戦をさせていました。日本へも、昭和十八年頃でも連合国の封鎖線をくぐり抜けて、戦略物資を積んだドイツの艦船が横浜や横須賀によく入っています。 私が史料調査会にいた頃、旧海軍の指揮官クラスの人が日本海軍では出せない命令だと語っていました。なぜなら日本軍では部下が捕虜になることを想定して作戦を立てられない。敵中突破をやらせたら三分の二くらい捕虜になる危険性がある。実際に突破できるなら一割の成功でいいから残りは捕虜になっても構わない。それも任務の内だということでドイツならそういう命令が出せるけれども、日本では自分の命令で部下が捕虜になる可能性のある作戦は立てられない。だから非常に消極的になってしまう。面と向かって干戈を交えるのはともかく、単独で冒険的な作戦をさせることはできない構造になっていると語っていました。捕虜にできないというのは上官としての責任回避という一面もあるのかも知れませんが、日本人としての情の要素も大きかったのではないでしょうか。戦いにおいてアドベンチャーやバーバリズムには徹し切れない。戦艦大和の運用を見ても、決戦兵器のはずがそれに徹した使われ方がなされていません。 福田 ドイツの場合はイギリスという最強のライバルをいかに出し抜こうかと日夜考えていた。イギリスにしても然り。日本にはそんなライバルはなかったし、そういうセンスは鍛えられようがなかった。価値観のあまり差のない者同士が国内で覇を競っている時代が長かったことの幸福であり、異なる敵とまみえるようになってからは、それが常に日本の可能性を制約し続けたとも言える。 戸髙 ヨーロッパでは戦争は一種の冒険だった。第二次大戦のごく初期の頃までイギリス海軍には海賊時代の法が生きていて、敵の船を分捕ったら半分は女王陛下に献上し、残り半分は自分たちで山分けしてよかったんです。だから何とか沈めないようにする(笑い)。事程左様に彼我の戦争観は違っていた。日本は明治開国以来、いろいろなものを西欧から取り入れたけれど、その戦争観までは自らの血肉にできなかった。いや、しなかったと言うべきかも知れない。そのことはもっと深い考究が必要でしょう。職人気質のマイナス面 福田 戦争観の問題は措くとして、先の大戦では、日本は水準の高い兵器をいくつも持ちながらそれを十分に生かせなかった。あるいは兵器の体系に問題があったということは率直に省みなければならない問題だと思います。山本七平さんがご指摘になっていたことですが、ラインアップ主義というか、いろいろな兵器をつくるのだけれど、一つ一つに統一したデザインや設計思想がなかった。兵頭二十八氏もこの点論じておられます。 戸髙 職人気質のマイナス面ですね。幕末から明治初期はともかく職人の力量に頼らざるを得ないところがあったけれど、それをそのまま続けてきてしまったところに問題がある。ドイツだったら戦闘機も爆撃機も偵察機も、操縦者用、偵察者用、爆撃者用と三種類ぐらいしか座席のラインアップがない。誰が設計してもその三種類の座席で間に合うようにつくるのに対し、日本の飛行機は全部座席の仕様が違う。中島飛行機も三菱重工業も同じ仕様になっていない。 福田 各社別々に設計していて、他所のことは考えない。それどころか同じメーカーでも機種が違えばもう部分が合わない。飛行機の本質的な箇所だけ独自設計にして、あとは出来合いでもいいようにすればいいのに、それでは詰まらない、ここに穴を一つ開けたらもっと軽量化できるとか、純粋に設計技術のみの追求に落ち込んでしまうところがあった。 戸髙 極端な話、同じ図面でつくったはずの中島製の零戦と三菱製の零戦が微妙に互換性がない。落下タンクが装着できなかったりする。中島も三菱も自分のところが一番だというプライドがあるから、ライセンスで共通の機体を生産しているはずなのに、「三菱のやつは野暮な設計してるな」とかいって中島が勝手に変えてしまう(苦笑)。その逆もあったわけで、量産品に対する本質的なセンスがどこか欠如していたことは否定できない。 福田 戦争以前の問題ですね。職人仕事の完成度を一機ごとに追求はしても、複数の機体に関わる互換性には目配りが足りなかった。しかしそれは戦後の観念で、アメリカが持ち込んだ大量生産とそれを支える品質保持運動を、日本人は敗戦とともに学んだのですね。戦前にはサイバネスティクス的な価値観はさほどなかった。いささか大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、むしろ戦前の日本人にとってそれは屈辱だったかも知れない。何で同じものをつくらなければいけないんだ、俺は自分のかけたいようにヤスリをかけるぜという具合に。そこに支えられていた部分もたしかにあったのです。 だから、たとえば零戦に搭載された中島の発動機〈栄〉がいい状態で保存されていたとしても、いまの三菱の技術者ではメンテナンスできない。「技術」という言葉の意味がもはや違うからです。職人仕事でものすごくハイパーな勘でつくられたものを、いまの技術者は扱えない。同じ規格で誰がつくっても同じ機体になるという製造センスはアメリカに敗れて日本人は知ることになった。アメリカの物量に負けたとよく言われるけれど、そもそも職人不要の量産品でいいのだという発想がほとんどなかったのですから。 戸髙 機銃の弾でも微妙に口径が違うとか、口径が同じでも薬莢の長さが違うという状況がありました。戦地に行って山のように弾丸があるのに、持っている銃に合わないということがよくあった。旧日本軍の装備の問題は、実は物量の不足にだけあったわけではない。ここにも装備の互換性が不可欠という近代戦争を経験しなかったことの弱みが出ている。 福田 これも山本七平さんが書かれていたけれど、もうろくに水がないのに、キャタピラ式で動く自走式で高性能の高射砲なんかが送られてくる。でもいま欲しいのは土を掘るシャベルなのにそれは来ない。その高射砲自体はアメリカ軍にもない新兵器で、ドイツでもやっと導入するらしいというのに使いようがない。それも一台か二台くるだけだから、焼け石に水みたいな戦力にしかならない。それどころか隠すにも穴が掘れないという状況だったりする。第二次大戦は突き詰めれば大量生産競争における勝者が勝った戦争ですから、日本はそこで負けていた。 戸髙 たとえばソビエトのT34戦車と同じ仕様で日本の戦車設計者が上司に設計図を提出したら、即座に突き返されたでしょうね。砲塔が小さくてとても体格の大きなロシア人には合わないように見えるけれど、量産品として一体鋳造しようと考えれば、当時はあれ以上大きくはつくれない。小さくても兵器として本当の要求を満たすほうが重要視された。「大和」は本当に時代遅れだったか 福田 T34戦車にしろカラシニコフ(軽機関銃)にしろ、技術的な水準からすれば大した兵器ではない。カラシニコフなんか銃身が多少曲がっていても撃てる。砂が入っても大丈夫。日本刀のような美しさや完成度はないけれど、技術的な割り切りと割り切ったあとの量産の凄みに対する感度が日本にはなかった。 戸髙 兵器にかぎらず工業製品は目的があってつくるわけですから、目的に対してどれだけきちっと出来ているかという点で判断しなければならない。そうした意味から戦艦大和を考えると、巷間よく言われているのは時代遅れの大艦巨砲主義に乗っかった「無用の長物」という批判ですね。 福田 当時の世界の戦艦建造状況を見れば決してそうとは言えない。アメリカにしても日本の大和建造とほぼ同時期に十二隻の大型戦艦建造に取り組んでいます。アメリカは真珠湾で戦艦をほとんど沈められて、太平洋方面で作戦可能だったのが航空母艦だけだったから航空作戦中心になったわけで、新造艦が進水する度に戦場に投入していたことからも、戦艦の運用がすでに海戦において時代遅れのものだと否定されていたわけではありません。 戸髙 大和建造を決断したのは海軍軍令部と海軍省ですが、そもそも軍艦をつくる過程は、最初に軍令部が五年先、十年先の海戦の様子をシミュレーションする。そしてそれに対応する要求性能を艦政本部に示して、艦政本部の設計者グループがそれに取り組むわけです。大和の設計主任は牧野茂技術大佐でした。起工は昭和十二年十一月、完成後海軍に引き渡されたのが昭和十六年十二月十六日。第一戦隊に編入され、翌十七年二月に連合艦隊旗艦の座を長門から譲り受けた。アメリカ海軍と艦隊決戦をするならば大和は大きな力になり得たはずですが、現実のほうが軍令部の当初シミュレーションより少し先を行ってしまっていた。しかしだからと言って「無用の長物」ではなかった。少なくとも運用を誤らなければ、大和の世界最大最強の威力を示す戦場はありました。 福田 経済効率から言っても大和に期待されていたことにはある程度の合理性があったと思います。当時はパイロットを一人養成するのも大変でしたから、飛行機を何機も飛ばして魚雷を撃ち込むよりも、アメリカ軍の射程の外側から主砲をガンガン撃ったほうが安上がりだし、相手の弾が届かない所からこちらだけ弾を一方的に撃ち込むことができれば負けるはずはない、という理屈は説得力があった。何と言っても大和の主砲は四六センチ砲で一・五トンの弾丸を四二キロ先に撃ち込むことができた。しかも大和の装甲は四一センチあってこれは大和と同じ四六センチ砲の砲弾に耐えられるように設計された世界一の防御力です。英米どちらにもそんな戦艦はありませんから、日露戦争のときの日本海海戦のような艦隊決戦になれば、その戦闘では勝利した可能性が高い。 戸髙 設計だけならアメリカもイギリスもできたでしょう。しかし実際に建造する能力は呉の海軍工廠にしかなかったと思います。鉄鋼から大砲をつくり、装甲をつくり、それを組み立てて一隻の戦艦にするという現場の力が当時の日本にあった。大和はさまざまな日本人の力が結晶した存在です。だからこそ使うべき決戦場で使わねばならなかった。「戦争は始めるよりも終わらせるほうがはるかに難しい」とは言い古された言葉ですけれど、勝利の目がないとすれば、終わらせる方法は降伏するか、講和に持ち込むかしかない。大和はその講和に持ち込むための決戦兵器になり得たかも知れないと考えています。 大東亜戦争が避けられない戦争だとして私が何か任せられたとしたら、やはり戦艦大和を建造したと思います。そして大和を必ず使う。私なら、まず大和の存在を公表して抑止力として最大限に使いたい。大和の生涯で最も残念なことは――ということは日本にとって残念至極ということですけれど――、使うべきとき、使うべき戦場に投入していないことです。連合艦隊に大和という名刀を使いこなせるだけの名人がいなかったことが残念でならない。なぜわれわれは「大和」を活かし切れなかったか 福田 日露戦争の頃の日本海軍は接敵必戦が徹底していましたね。どんな小さな艦艇でも戦いを避けていない。 戸髙 日下公人さん(東京財団会長)が「いかにして大和を使うべきだったか」について、大艦巨砲主義の時代には、秘密兵器として秘匿するのではなく世界に公開してその能力ゆえの抑止力を働かせるべきだった。次に真珠湾攻撃に成功したあとは、アメリカの太平洋艦隊は壊滅、マレー沖海戦ではイギリス東洋艦隊も壊滅と大和が戦う相手はいなくなっていたから、昭和十七年初めに大和をベンガル湾に派遣してインドの独立運動を支援する態勢を取っていれば、インドからイギリスを駆逐することにつながっていたかも知れない。 そして最後は、陸上砲撃をする浮き砲台として使う方法があったと三つ挙げられていましたが、私も基本的に同感です。兵器は抑止力をふくめ使わなければ意味がないのですから、最終的な目的は大和の保存ではなく、大和を使うことによって最大限の戦局展開を図ることになければならなかった。 福田 ハワイ占領という作戦もあり得ました。陸軍部隊が実際に上陸訓練をしていましたし、山口多聞のプランにもアメリカ本土西海岸への上陸がちゃんと文書化されていた。ハワイを占領し、真珠湾を大和の母港にする。太平洋を渡って日本に近づこうとするアメリカの艦船は真珠湾を拠点にした大和連合艦隊が逐一叩く。 戸髙 ハワイ占領作戦が正式に中止されるのはミッドウェー海戦の敗北後ですけれど、緒戦の有利な状況下で大和を使う手はいくらもありました。ただ、貧乏海軍がやっとのことでつくった大和を沈められでもしたら取り返しがつかないという意識が常に働いて、肝心の戦闘に使われないまま宝の持ち腐れに終わってしまった。 日本海軍の作戦で一番いけないのは、指揮官にマイナスポイントを与えないために必ず目標を二つ与えたことです。本題と易しい目標。本選を失敗しても易しいほうをクリアすればその作戦はうまくいったというふうに認定して、責任を問わない。ミッドウェーのときでも、どうでもいいダッチハーバーに何発か爆弾落として、この作戦は成功したということで内部的にケリをつける。 福田 大抵の作戦に二つ命令が出ていますね。昭和十九年十月のレイテ沖海戦でも、レイテ湾突入と敵の空母が出てきたらそれを叩くと二つあって、どっちを選んでもいいような感じになっていた。サマール沖で米護衛空母群に出くわした大和は、通常弾二十四発、徹甲弾百発の主砲を発射し、それなりの損害を与えはしましたけれど、これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃というのに驚かされる。 しかも追撃をしないままに反転北上してしまう。この海戦で「武蔵」他多くの艦船を失った連合艦隊は事実上壊滅します。史上最大の海戦と言われたレイテ沖海戦ですけれど、勝っても負けても、大和がレイテ湾に突入してくれていればというのが、戦後この海戦の模様を知った国民の多くの思いだったでしょう。大岡昇平でさえ、『レイテ戦記』でそう書いています。 戸髙 指揮をとった栗田健男中将は戦後、「敗軍の将、兵を語らず」と寡黙でしたが、海軍記者の長老伊藤正徳にだけは口を開いて、「三日三晩ほとんど眠らなかったあとだから、からだの方も頭脳の方もダメになっていただろう」と判断ミスを認めています(『連合艦隊の最後』)。しかし判断ミスというよりも、そもそも接敵必戦と戦闘目的が徹底されていなかったというのが本当のところではないでしょうか。とにかく当時の作戦命令書とその結果を見ると私は腹が立ってしようがない(苦笑)。譬えは悪いですけれど、金庫破りが金庫を開けた瞬間に満足して帰ってしまうようなところが常にあった。 福田 作戦命令そのものが内向きなわけですね。 戸髙 しかもそれがその人の履歴を傷つけないという〝配慮〟でなされている。官僚組織の庇い合いという最もよくない点が現れている。せっかく決戦兵器を持ちながら、運用する人間の側に問題があるから威力を発揮できない。昭和二十年四月六日に水上特攻として出撃した大和は、翌七日に四百機近い米艦載機による波状攻撃を受けて九州坊ノ岬沖に沈没してその生涯を閉じますが、その戦闘ですら主砲はほとんど発射されていない。航空機相手の砲ではないのでそれ自体は仕方ないとしても、これほどの戦艦を十分に戦場で働かせられなかったことをこそ省みる必要がある。言わずもがなですが、それは三千名近い現場の乗組員がそれぞれに力を尽くし、義務に殉じた奮闘を生かせなかった全体の戦略や戦術、指揮の問題です。 福田 たしかに悲劇的な最期を遂げた大和ですけれど、その大和がいま甦ってわれわれの目の前にある。それは冒頭でも申し上げましたけれど、日本人のつくりあげた一つの歴史的結晶を思わせる作品として、感動を与える偉容を示しています。戦争という要素を抜きにしても心を揺さぶるものがある。そこから発すれば、いろいろ歴史的な事柄、戦艦大和をつくるにいたった近代日本の筋道も見えてくるでしょう。 ふくだ・かずや 昭和二十三年(一九四八年)宮崎県生まれ。多摩美術大学卒業。(財)史料調査会主任司書、同財団理事を経て平成六年、厚生省戦没者追悼平和祈念館設立準備室(現「昭和館」)に移籍。「昭和館」図書情報部長を経て現職。著書に『日本陸海軍事典』(新人物往来社)、『戦艦大和復元プロジェクト』(共著、角川新書)、『日本海軍全艦艇史』(同、KKベストセラーズ)、『日本海海戦かく勝てり』(同、PHP研究所)など。監訳に『マハン海軍戦略』(中央公論新社)がある。 とだか・かずしげ 昭和三十五年(一九六〇年)東京都生まれ。慶応大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。平成元年、『奇妙な廃墟』(国書刊行会)で注目され、以後気鋭の批評家として文壇・論壇で活躍。平成四年『日本の家郷』(新潮社)で三島由紀夫賞、八年『甘美な人生』(同)で平林たい子賞、十四年『地ひらく』(文藝春秋)で山本七平賞を受賞。近刊に『乃木希典』『山下奉文』(文藝春秋)、『イデオロギーズ』(新潮社)など。慶応大学教授。

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    よみがえる「九一式徹甲弾」大和は今も我々を守っている

    兵藤二十八(軍学者)「九一式徹甲弾」がよみがえる 防衛省は2014年に、〈大型艦艇の外壁を上面・側面から貫徹し、内部の構造物を破壊しうる先進対艦弾頭技術〉を研究する方針を、公表している。 わたしはこの話を聞いてすぐ、これは帝国海軍の戦列艦の主砲から発射できた「九一式徹甲弾」(いわゆる「水中弾」)の復活が考えられているに違いないと直感したのだ。 だって、おかしいだろう。いまどきの「大型艦艇」には、ロクな「アーマー」など貼られてはいないのだ。げんざい防衛省が開発中の超音速対艦ミサイル(ラムジェットで飛翔し、命中時の終速はマッハ3~5になる、ともいう)ならば、かりに在来型の直径35センチ(戦中の『金剛』級や『扶桑』級の搭載主砲より1センチ小さい)の対艦弾頭であっても、その速度エネルギーだけでも、シナのポンコツ空母の左舷から右舷まで、もしくは飛行甲板から艦底までもラクラクと貫通してしまうはずである。それを、わざわざ「上面・側面から」などというあたりまえな話を強調しているのは、これは真の驚くべき攻撃イメージを敵に知られないための韜晦語法に違いない。狙いは水線下のヴァイタル・パーツ(エンジンや弾火薬庫)の直撃破壊にあると見た。シースキミング(水面スレスレ飛行)で敵艦舷側にアプローチし、目標の90m手前で海面にダイブ。そこから水中を突進して敵艦の深さ7mあたりに侵徹して爆発する。 間違いない。帝国海軍の九一式徹甲弾が、間もなく戦術ミサイルの形で復活するのだ。弾頭部分の直径はおそらく46センチほどになるだろう。なぜなら、『大和』級で蓄積されている実射データを、今に活かせるからである。海自の呉軍港と三菱重工長崎造船所の奥の院には、門外不出のそのデータがしっかりと残されているのだ。こういうところが、光輝ある歴史を背負った海軍と、汚職不名誉の過去しかない猿真似軍隊との違いなのであろう。『大和』は、無駄ではなかった。このようにして、今日の我々を守っているのである。 『大和』『武蔵』の46センチ砲から「九一式徹甲弾」を発射した場合、初速が785m/秒。まあざっとマッハ2強だ。そして命中時の存速は、マッハ1強からマッハ2弱というところだったようだ。 従来の国産の対艦ミサイルは、終速が亜音速(マッハ0.7ぐらい)でしかなかったから、この「九一式徹甲弾」を現代に再現しようとしても、できなかった。しかし、ラムジェット(タービンに頼らずに運動速度により吸気を圧縮して燃焼噴射させるエンジン形式)で超音速巡航できる新型国産対艦ミサイルならば、「九一式徹甲弾」の水中挙動を、そっくり再現することも容易なのである。『武蔵』『大和』を破壊した徹甲爆弾は今も「秘密」 『大和』級は、砲塔部分や、弾火薬庫、エンジン周りが、防弾スチールでぶ厚く装甲されていた。 ただし、およそ軍艦というものは、艦首から艦尾まで、あるいは上甲板から底面まで、全周を厚さ数十センチの鋼鈑で多重にくるむわけにはいかなかった。 装甲は、艦をてきめんに重くする。重すぎる軍艦は高速化できない。高速で走れない軍艦は、敵艦との間合いを主導的に選べない。攻めかかろうとしても、間合いを取られてしまう。優速をもって思うがままに敵艦との距離を詰められるのでなければ、どんな主砲も、運動している敵艦に当たる確率は限りなくゼロだった。砲弾が、発射から命中まで1分間以上も抛物線を描いて空を移動し続けるとすれば、それが当然だろう。 だから軍艦は、必要な速度や航続力を得るために、装甲(アーマー)に関しては妥協しなければならなかった。それで、どこの海軍でも、新鋭戦艦の心臓部(ヴァイタル・パーツ)だけを覆うようにしていたものである。 ところで米海軍の艦上攻撃機は、日本海軍機とは異なって、高度2000m以上からの「編隊公算爆撃」(1機あたりの命中率は悪いが確率論的に当たった爆弾の撃速が大となり、徹甲弾の深部破壊威力を狙い通り発揮させ得る)などは試みず、各機が緩降下によって高度1000m以下で爆弾をリリースする流儀だった。もとより急降下爆撃機は、低高度からの投弾を特技としていた。 そのどちらにしても、貫通力よりも、命中率(落下時間が短ければ目標艦は回避機動の余地はない)を重視した思想であった。そして対日開戦から昭和19年春まで、米陸軍航空隊と海軍航空隊とが主用した「GP(ジェネラル・パーパス、つまり対艦/対地兼用)爆弾」は、良質な圧延スチールの弾殻に瞬発信管を取り付けてあったので、爆発が完了する前に殻が割れてしまうという不都合こそ起きなかったが、アーマー貫徹力などは、最初から考慮されていなかった。 そうなのだ。じつは米海軍は、対日開戦直後から昭和19年のある時点まで、日本海軍の戦艦を航空爆弾によっても破壊しなければならないだろう、とは、真剣に考えてはいなかった節がある。 彼らの艦上機から投下させる航空爆弾に、旧来の「GP爆弾」ではない、延時信管付きの「徹甲(AP)爆弾」や「半徹甲(SAP)爆弾」を補給し始めたのは、昭和19年夏のレイテ海戦以降なのだ(マリアナ海戦まではすべて「GP爆弾」)。 シブヤン海の『武蔵』にも、南九州沖の『大和』にも、従来の航空爆弾とは明らかに外見が異なる(そして信管秒時も長い)この「AP/SAP爆弾」が米艦上機から次々と投下され、ヴァイタル・パーツ以外の上甲板や舷側を貫通して艦の内部で爆発したことは、日本側の記録に詳しい。 私は『日本海軍の爆弾』という本(これは2010年に光人社の文庫になっています)を書くときに、比較検討のため、米海軍の当時の航空爆弾についてもできるだけ調べてみた。が、重さ500ポンドから1600ポンドまで数種類があったらしいAP/SAP爆弾の諸元だけは、とうとう分らずじまいだった。開発経緯等も一切が不明なのである。おそらく、今日の英文のインターネット検索でも、その詳細は出てこないであろう。 その理由については、今では見当がつく。中共軍のスパイが、米海軍の核動力空母の原子炉を囲んでいる「装甲鈑」を貫徹して破壊できる「弾頭」のデザインを、模索しているようなのだ。 つまり、『大和』や『武蔵』に対して有効であった「AP/SAP爆弾」を参考にすれば、今の『ニミッツ』級米空母を1発で漂流状態に陥れてやれるような新型対艦ミサイルの弾頭が、できてしまうおそれが高いのだろう。戦術的に一番正しかった『大和』級の「使い道」は? ミッドウェー海戦(昭和17年6月)以降、サイパン島の陥落(昭和19年7月)までの時点で『大和』級が役に立つことがあったとしたら、それはおそらく、サイパン島内での地上戦が始まった直後に、艦内に補給物資を積載してサイパン島へ向けて擱坐前提の「強行増援輸送」に向かわせ、米軍の火力をいささかなりとも『大和』級に吸引して、守備隊の苦しみを軽減してやることであったろう。 サイパン島にB-29の滑走路を造られてしまったら、帝都はもう丸焼け必至だったのであるから、海軍がそのくらいの捨て身の反撃を試みてもバチは当たらないのである。 海軍省の保科善四郎中将(兵備局長)は、おそらくそれに近い考えだっただろう。昭和20年に入ると、前年に保科の言っていたことはいかにも正しかったと、海軍中枢の誰もが内心で承認をせざるを得なくなり、彼は最後の海軍省軍務局長に抜擢されたのであろう。戦術的に一番合理的な『大和』級の「置き場所」は? サイパン島の陥落以降の時点で『大和』(『武蔵』はもうないものとして)を置くべきであったのは、新潟県の信濃川河口付近の海岸である。 新潟県には日本本土として稀有な「油田」があったので、停泊中の『大和』が発電や排水等に必要とした重油燃料を、かろうじて補給してやることが可能であったろう。 またそこは遠浅の海岸なので、防潜網を展張すれば、敵潜も雷撃を成功させる見込みは立たない。 米機動部隊の艦上機も、太平洋側からレンジぎりぎりの往復攻撃を仕掛けるというハイ・リスクは、なかなか冒し辛かったはずだ。 それが傍証には、昭和20年春の、米海軍艦上機による小樽市空襲は、山が迫った地形と、在港の日本海軍艦艇からの高角火器射撃のおかげで、市街地の被害も軽微で済んでいる。これがもし46センチ砲9門の防空弾幕だったなら、新潟市民もさぞかし心強かったであろう。 米側としては、B-29から2000ポンドの大型GP爆弾を落として、至近弾で水線下を破壊するという手があるのみだったろうが、もし浸水して着底しても、『大和』は遠浅の砂の上に安定的に沈座できただろう。 冬の日本海の荒波も、自重が7万トンもある鋼鉄の塊だったら、凌ぎ得るであろう。 この『大和』1隻が新潟沖に全容を留め、米機の爆撃資源を吸引してくれているあいだは、他の諸都市・諸艦船は、それだけ空襲被害が軽減されるのである。これほど正しい税金の使い途はなかったはずだ。 ただし、政治的には、これは不可能なことであった。 海軍が新鋭戦艦を自発的に戦列外に置いている――という噂が国内に広まると、日本国民が帝国海軍に寄せてきた漠然とした「期待」が、消えてしまう。それは中央における海軍の陸軍に対する政治的発言権をゼロにしたであろう。その結果、陸軍による「国体変更」(天皇を松代地下壕に押し込め、ソ連流の統制経済にかぶれた陸軍省のエリート幕僚が国家予算と物資動員のすべてを牛耳る。もちろん海軍予算など十分の一以下にしてしまう)の陰謀が進むおそれがあった。 そのため、海軍省・軍令部としては、役に立たない大型戦艦を、ふだんは国民の目に触れない外地で遊ばせておくか、さもなくば大きな軍港にさりげなく置いておくしかなかったのだ。 かくて昭和20年、海軍の存在感を陸軍に対して証明するためだけに、『大和』の沖縄方面水上特攻が策定された。 クラウゼヴィッツいわく、戦争は政治の部分集合である。陸軍少壮エリートの国体変更謀議を抑止したという点で、あの作戦も、無駄ではなかったのだ。

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    日本の未来への障害となっているのは中韓を煽るメディアだ

     戦後70年の「夏」が終わろうとしている。この夏は、テレビも、新聞も、ラジオも、戦後70年の企画や特集のオンパレードだった。国民の多くが70年前に終わった第二次世界大戦の悲劇の大きさを改めて思い起こしたに違いない。 報道量のあまりの多さに「戦争」と聞いて、辟易(へきえき)している向きも少なくないだろう。私自身は、海外(台湾)まで戦没者の慰霊祭のために出かけるなど、例年にも増して忙しく、印象に残る夏だった。 昨日は、「正論」懇話会の講演で、和歌山まで行ってきた。「毅然と生きた日本人~戦後70周年にあたって~」という演題で話をさせてもらったのである。 そのなかで、私はこの夏に感じたこととして、「日本の未来」に対して「障害」となっているのは「何なのか」という話を、安倍談話を例に出して講演した。それは、中国や韓国との「真の友好」を妨げているのは一体、誰なのか、というものである。 台湾から帰国したあとの8月14日に、私はちょうど「安倍談話」に接した。首相自ら記者会見をして発表した内容は、専門家が長期間、検討して出したものだけに、あらゆるものに配慮したものだったと言えるだろう。 それは、戦争で犠牲になった人々に対して、「国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜(つうせき)の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」というものだった。終戦の日を迎えた靖国神社。開門と同時に多くの人が参拝した=8月15日、東京都千代田区(鴨川一也撮影) そして、「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、わが国は、そう誓いました」と、つづいた。 また、女性の人権についても、「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、わが国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります」と、述べたのである。 さらに「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、建設的な未来への重要性も語った。 それは、戦後、繰り返されてきた過去の談話やスピーチに引けをとらないものであり、実にわかりやすく、印象的なものだったと言える。安倍政権を倒したいメディアでも、さすがにケチをつけにくいのではないか、と私はテレビの画面を見ながら、思ったものである。 しかし、翌日の新聞紙面を見て、私は、溜息が出た。読売新聞や産経新聞を除いて、むしろこの談話を非難するものが「圧倒的」だったのだ。 朝日新聞は、その中でも急先鋒だった。1面で〈引用・間接表現目立つ〉、2・3面も〈主語「私は」使わず〉〈おわび 最後は踏襲〉と攻撃一色で、社説に至っては、〈戦後70年の安倍談話 何のために出したのか〉と題して、徹底した批判を加えた。 それによれば、〈侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワード〉は盛り込まれたが、〈日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされ〉、談話は〈極めて不十分な内容〉であったというのである。 そして、社説子は、〈この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う〉と主張し、〈その責めは、首相自身が負わねばならない〉と締めくくった。 私は、正直、呆れてしまった。それは、いつまで経っても、中国や韓国に「日本攻撃」をするように「仕向ける」報道手法がとられ、これからもそれに添って、中国や韓国が延々と「日本を攻撃していく」という“未来”がわかったからである。 それは同時に、ここまで中国や韓国との間の友好関係が「誰によって破壊されてきたのか」を明確に指し示すものでもあった。 私たちの子や孫の世代、すなわち「未来」に向かって障害となっているのは「誰」なのか、という問いには、自ずと答えが出てくるはずである。それは日本のマスコミが、絶対に日本と中国・韓国との和解と真の友好への発展は「許さない」ということだ。 私は、今から30年前の1985(昭和60)年の夏を思い出す。「戦後40年」を迎えた夏だ。あの時、巷では「戦後政治の総決算」を唱えた当時の中曽根康弘首相を打倒すべく、朝日新聞をはじめ“反中曽根”メディアが激しい攻撃を繰り広げていた。それは、“打倒安倍政権”に邁進している今のメディア状況と酷似している。 この時、中曽根首相の「靖国参拝」を阻止するために大キャンペーンを張っていた朝日新聞が、「人民日報」を担ぎ出し、ついに中国共産党機関紙である同紙に、靖国参拝批判を書かせることに成功するのである。 文化大革命でも明らかなように、中国は「壁新聞」の国である。人民は、“お上”の意向を知るために、北京市の長安街通りの西単(シータン)というところに貼りだされている新聞を読み、上の“意向”に添って行動し、あの文革で権力抗争の一翼を担ったのはご承知の通りだ。 そんな国で、人民日報が取り上げて以降の「靖国参拝問題」がどうなっていったかは、あらためて説明の必要もないだろう。A級戦犯が靖国神社に合祀されたのは1978(昭和53)年であり、それが明らかになったのは、翌年のことだ。その後、この時まで日本の首相は計21回も靖国に参拝しているのに、どの国からも、たった一度も、問題にされたことはなかった。 しかし、朝日が反靖国参拝キャンペーンを繰り広げ、人民日報がこれに追随したこの昭和60年以降、靖国神社は中国や韓国で「軍国主義の象徴」となり、「A級戦犯を讃える施設」とされていった。 靖国神社が、吉田松陰や坂本龍馬を含む、およそ250万人もの幕末以来の「国事殉難者」を祀った神社であることは、どこかへ「消し飛んだ」のである。靖国参拝を完全に「外交問題化」「政治問題化」することに成功した朝日新聞は、より反靖国キャンペーンを強め、中国は日本に対する大きな“外交カード”を手に入れたのである。 慰安婦問題については、これまで当ブログで何度も取り上げ、しかも、昨年、朝日新聞による訂正・撤回問題に発展したので、ここでは触れない。しかし、この問題も朝日新聞によって「外交問題化」「政治問題化」していったことは周知の通りだ。 今回の安倍談話でも、中・韓に怒りを呼び起こすように記事化し、「これでもか」とばかりに一方的な紙面をつくり上げた朝日新聞をはじめとする日本のメディア。私は、溜息をつきながら、これらの記事をこの夏、読んだのである。 折も折、フランスの「ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)」がその2日後の8月17日、興味深い報道をおこなった。同ラジオは、フランス外務省の予算で運営されている国際放送サービスだ。 この放送の中国語版が安倍談話を取り上げ、これを報じた『レコード・チャイナ』によれば、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」「日本は中国への反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」「永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓は、あまりにも遅れている」と論評した。 その内容は、常識的、かつ中立的なものと言える。敗戦国も「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」ものであり、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈したのである。 さらには、「平和主義、民主主義を掲げる日本が、軍事拡張路線、権威主義の中国に屈することはない」と主張し、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めていることは、同じ敗戦国である「ドイツやイタリアでは見られない事態」だというのである。 その報道は、最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめられている。だが、RFIが報じたこの内容は、日本のメディアには、ほとんど無視された。 70年もの間、平和国家としての実績を積み上げてきた日本が、「力による現状変更」で、今や世界中の脅威となっている中国に対して「謝り方が足りない」と当の日本のメディアによって主張されていることを、私たちはどう判断すればいいのだろうか。 私には、代々の日本の首相などが表明してきた謝罪や談話の末に「戦後50年」の節目に出された村山談話で、日本と中・韓との関係は、どうなったかが、想起される。 朝日新聞をはじめ日本のメディアが歓迎したあの村山談話の「謝罪と反省」によって、両国との関係は、むしろ「それまで」より悪化していった。村山談話以降の歳月は、両国との関係が“最悪”に向かって突っ走っていった20年だったのである。 どんなに反省し、謝罪しようが、彼らを“煽る”日本のメディアはあとを絶たず、日本への怒りを中・韓に決して「収まらせはしない」のである。そして、この「戦後70年」夏の報道でもわかった通り、それは「今後もつづく」のである。 どんなことがあっても、日本の未来への“障害”となりつづける日本のマスコミ。私たちの子や孫の世代に大きな重荷を負わせるそんな日本の媒体が、なぜいつまでも存続できているのか、私にはわからない。

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    憲法改正は「緊急事態条項」から一点突破を図れ

    百地章(日本大学教授) 先日、読売テレビの「そこまで言って委員会NP」に出演する機会があった(放映は8月9日)。「保守論客からの緊急提言! チーム櫻井の『大日本大改造計画』」という総合テーマのもと、順に「中国海洋進出阻止計画」「エネルギー安定供給計画」「『修身』の教科書復活計画」と発表され、4番目が筆者に割りあてられた「憲法改正計画」であった。 バラエティ番組とはいえ、東京および関東一円を除く全国ネットで放映されており、多くの視聴者が見ているはずである(視聴率は13%で、当日のトップだったという)。この1~2年のうちに憲法改正を実現することが可能なことを広く訴える絶好のチャンスであり、あだや疎かにはできない。また、スタジオでは、作家の金美齢氏や東京新聞の長谷川幸洋氏、立命館大学客員教授の宮家邦彦氏など錚々たるメンバーが、「実現可能」か「実現不可能」かジャッジを行う訳だから、その点でも結構緊張する。 取り上げたテーマは、「緊急事態条項」であったが、判定は6対1で「実現可能」となった。それまでは4対3とか5対2とかいった判定が続いており、高得点を得たことになる。 そこで、これまで以上に自信を持って(?)、憲法改正は「緊急事態条項」によって「一点突破」を図るべしとの主張を、簡略に紹介しようと思う。現行憲法の最大の欠陥は「緊急事態条項」の欠如 GHQの占領下で制定された現行憲法には、様々な欠陥がみられる。その最大の欠陥は、大規模テロや大規模自然災害といった国家的な緊急事態に対する備えがないことである。大規模テロについていえば、先頃、首相官邸の屋上で小型無人機「ドローン」が発見されたことがあった。幸い、大事には至なかったが、容疑者はブログの中で、原発の再稼働阻止のためテロも辞さないと書き込んでいたという。もし大量のサリンでも撒かれていたら、大変なことになるところであった。 また、いわゆるイスラム国での日本人人質事件をきっかけに、イスラム国は日本におけるテロまで予告してきた。自衛隊法には対テロ対策のため「警護出動」が認められている。ただ、「警護出動」の対象は自衛隊施設と米軍基地に限られているから(81条の2第1項)、万一、原発や新幹線、さらに皇居や官邸がテロに狙われたらどうなるか。 したがって、早急に取り組まなければならないのは、自衛隊法の「警護活動」の対象を拡大しその中に原発や国の重要施設を加えることであろう。しかし、自衛隊法の中に警護活動の対象を次々書き加えるのは大変であろうし、仮にいくら書き加えても、想定外の大規模テロが発生すれば対応できない。 このように考えると、結局、憲法の中に緊急事態規定を定めておき、大規模テロに対処できるようにしておくしかない。憲法改正が必要とされるゆえんである。大規模自然災害と国家緊急事態 他方、大規模自然災害であるが、平成23年3月11日の東日本大震災では巨大地震と大津波さらに原発事故に見舞われたが、民主党政権の対応はきわめて問題の多いものであった。緊急災害対策本部の会議であいさつする菅首相。左は枝野官房長官=2011年3月15日、首相官邸(酒巻俊介撮影) 菅内閣は、次々と「本部」や「会議」を設置したが、それぞれの権限は曖昧な上、指揮系統は混乱し、結局、有効な対策も効果的な措置もとることができなかった。 災害対策基本法では、「非常災害が発生し、その災害が国の経済や公共の福祉に重大な影響を及ぼすような場合」には、「災害緊急事態」を布告できると定めている(105条)。そして、この「災害緊急事態」が布告されると、政府は「緊急政令」を制定し、「生活必需物資の統制や価格統制、さらに金銭債務の支払い猶予」を行ったりすることができる(109条1項)。 にもかかわらず、菅内閣は「災害緊急事態の布告」を行わず、「緊急政令」も制定しなかった。そして、「生活必需物資の統制など必要なかった」とうそぶいていた。実際には、震災直後に、現地ではガソリンが不足し、被災者や水・食糧などの生活必需物資、医薬品などが輸送できなかったりしている。そのため、助かったかもしれない多くの命が失われている。それゆえ「物資の統制」は必要であった。 にもかかわらず「物資の統制」を行わなかった理由について、政府の役人は「国民の権利義務を大きく規制する非常に強い措置であり、適切な判断が必要」であったと答弁している。 つまり、「憲法で保障された国民の権利や自由―経済活動の自由―をそう簡単に制限するわけにはいかない」というわけである。法律では明確に「権利・自由の制限」が認められているにもかわらず、憲法に根拠規定が存在しないため、そう簡単に権利や自由の制限を行うことなどできない、というわけである。 また、ガレキの処理についても、憲法の保障する「財産権」が問題となった。流れ着いた家財や車等のガレキを処理し、緊急道路を開通させようとすると、「持ち主の了解なしに処分するのは財産権の侵害であり、憲法違反だ」といった声が上がり、中々処分が出来なかった自治体もいくつかある。これも憲法に根拠規定がないため、迅速な処理が出来ず、二次被害をもたらした例である。 とすれば、やはり抜本的な解決のためには、憲法の中に緊急時のための規定をしっかりと定めておく必要がある。緊急事態条項の必要性 国家緊急権の目的は、「国家的な緊急事態において、国家(「政府」のことではなく「国民共同体としての国家」)の存立を確保し、憲法秩序を維持することによって、国民の生命と人権を守る」ことある。それ故、国家的な危機を克服し人権を守るために、緊急事態条項は不可欠である。 これは、平時には平時の、そして緊急時には緊急時のためのルールが必要だということである。交通ルールに例えるならば、一般車や歩行者は信号に従って交差点を渡るが、緊急時にはパトカーや消防車などの緊急車両が一般車や歩行者を一時ストップさせ、優先的に走行できる。つまり、通常とは異なる特別ルールに従って走行できるわけである。それと同じであって、日常生活でさえ平時と緊急時のルールが分けられているにもかかわらず、国家レベルでは緊急時のルールが定められていない、というのもおかしな話である。    逆に、もし緊急権が制度化されていない場合、どうなるか。憲法改正に反対する人たちは、「超法規的措置をとれば良い」と言うが、それこそ護憲派が強調する「立憲主義」に反する。危機を克服するためという理由のもと、憲法に定められていない権力が行使される、つまり憲法を無視した権力の乱用がなされるわけであるから、危険きわまりない。それゆえ、憲法を守り、立憲主義を維持するためにも、緊急事態条項は不可欠であって、これが無いようでは、とても立憲主義国家とは言えない。 だから、世界のほとんどの国々が、憲法の中に緊急事態条項を定めている。先進国で緊急事態条項のない憲法など存在しないし、1990年以降に制定された100ヶ国の憲法にも、全て緊急権が規定されている。首都直下型大地震に備えて  東日本大震災のような緊急事態、あるいはそれ以上の緊急事態はいつ起こるか分からない。例えば、心配される首都直下型大地震が発生し、もし、国会が集会できないような大混乱が生じた場合どうするのだろうか。首相をトップとする「中央防災会議」は、昨年3月、「首都直下型地震は国家の存亡に関わる」との報告書を発表した。 首都直下型大地震が発生する確率は、国の予測では「今後30年以内に70%の確率」と言われている。しかし、他方では、過去1300年の間に4回発生したマグニチュード8以上の三陸沖巨大地震の経験をもとに、ここ10年以内に首都直下型地震が発生してもおかしくない、と断言する人がいる。それは京都大学の藤井聡教授で、内閣官房参与もしておられるこの分野の専門家である。 藤井教授によると、三陸沖巨大地震と連動して、前後10年以内に首都直下型大地震が発生したケースが過去に4回もある。最初は、平安時代初期に発生した貞観の三陸沖巨大地震であるが、その9年後に相模・武蔵大地震が起きている。また新しいところでは、大正12年の関東大震災の丁度10年後の昭和8年に、昭和三陸地震が発生している。それゆえ、統計的に言えば、ここ10年以内に首都直下型地震が発生してもおかしくないと、警告を発しておられるわけである。 したがって、一日も早く憲法を改正し、憲法の中に緊急事態条項を定めておく必要がある。 この点、昨年11月7日、衆議院の憲法審査会において緊急事態についての審議が行われたが、共産党を除く与野党の7党すべてが緊急事態規定の必要性を認めている。とすれば、憲法改正の第一のテーマが緊急事態条項になるであろうことは、多分、間違いない。もしかしたら、これが一点突破のカギとなるかもしれない。また、この緊急事態の問題であれば、必ず多くの国民の理解が得られると確信している。

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    傲慢なるメディアの「良心」と「戦勝国」気取りの中韓

    過ぎません。日本はサンフランシスコ平和条約を締結し、形のうえでは独立国の主権を回復しました。ところが戦後70年経った今でも日本人のマインドコントロールはほとんど解けていない。それが様々な分野に悪影響を与えています。 私は40年近く日本に住んでいます。最高に住みやすいし、長く住むほどに日本の皆さんが羨ましくなります。日本に生まれた人はなんと幸せかと思います。東京は世界一の都市です。料理、芸術、文化、治安。どれを採っても最高ですし、何より全てが清潔です。また、素晴らしいのは日本に住む人々です。礼儀正しく、真面目で、働き者。思いやりがある人が圧倒的で、初めて会ったにもかかわらず、すぐに信頼しても大丈夫という人々で溢れている先進国は日本だけです。 それなのに、日本人は世界で最も不幸な国民でもあると思います。第二次世界大戦の敗北以来、70年間も「愛国心」を持つことに罪悪感を抱かされてきたからです。日本の過去を悪い歴史だと漠然と捉え、「反省とお詫びをしなければならない」「謝罪こそが重要だ」と根拠なく感じているのです。贖罪意識を抱え、戦争をどのように捉えるか内外から責められ、日本人が大切にしてきた誇り高き精神は大きく歪められたままです。 それらがWGIPに端を発することはいうまでもありません。しかし戦後の政治家と教育界、そしてマスコミにも大きな責任があると言わざるを得ない。米国による日本人の「精神の奴隷化」を放置し、GHQが去った後も、それを強力に推進しながら今日に至っているからです。今と全く同じじゃないか! 関野氏の著作に終戦直後の1945年9月に定められた正式名称「日本に与うる新聞遵則」(通称「プレスコード」)に規定された30項目があります。私はこれを見てぎょっとしました。順番に読んでみて下さい。 (1)SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判(2)極東国際軍事裁判批判(3)GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判(4)検閲制度への言及(5)アメリカ合衆国への批判(6)ロシア(ソ連邦)への批判(7)英国への批判(8)朝鮮人への批判(9)中国への批判(10)その他連合国への批判(11)連合国一般への批判(国を特定しなくても)(12)満洲における日本人の取り扱いについての批判(13)連合国の戦前の政策に対する批判(14)第三次世界大戦への言及(15)冷戦に関する言及(16)戦争擁護の宣伝(17)神国日本の宣伝(18)軍国主義の宣伝(19)ナショナリズムの宣伝(20)大東亜共栄圏の宣伝(21)その他の宣伝(22)戦争犯罪人の正当化および擁護(23)占領軍兵士と日本女性との交渉(24)闇市の状況(25)占領軍軍隊に対する批判(26)飢餓の誇張(27)暴力と不穏の行動の扇動(28)虚偽の報道(29)GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及(30)解禁されていない報道の公表 これは当時、こうした内容を取り扱ってはいけないと、報道機関に規制対象を命じたリストです。GHQはWGIPを進めるに当たって、自分は表に出ないで日本のメディアを使いました。30項目を見ると「今も全く変わらないじゃないか」と言いたくなります。今のメディアの意識と寸分違わないことに驚きました。 先日、安倍首相が訪米され米議会で演説をしました。日米を「希望の同盟」と位置づけるよう呼びかけた意義ある内容でしたが、日本のメディアの関心はもっぱら日本が大東亜戦争を反省するか、お詫びの文言が盛り込まれているか、という点に向けられていました。日本の「反省度」こそが問われるべき点である、謝罪を明示的に表明することが正しい、という前提に立った報道が多かったと思います。 かつて森喜朗元首相が「日本は神の国」と発言したときもそうでした。マスコミは大騒ぎしましたが、果たして何がいけないのか、さっぱりわからない。プレスコードには神国日本の宣伝が禁止されています。そこに正面から抵触するからでしょう。日本を褒めることなど絶対許されませんし、まして日本を「神の国」と称するなんてとんでもないという理屈でしょうか。未だに日本のメディアのメンタリティーは、GHQの洗脳と命令を唯々諾々と受け継いでいると言わざるを得ないのです。 ナショナリズムの宣伝もダメです。今でも国旗国歌に対して多くの教職員が斜に構えた態度を取っています。メディアも愛国心の養成が、軍国主義思想に直結するかのような報道ぶりです。「愛国心の重要性には決して触れられない」「いや触れてはならない」という心構えが正しいと、彼らは今も本気で考えているのです。 大東亜共栄圏の宣伝も禁止されました。日本人は大東亜戦争という戦争の正式名称を奪われ、太平洋戦争と呼ぶよう強制されたのです。今では先の戦争を学校もメディアも「太平洋戦争」と当たり前に呼んでいます。経緯を何も知らないから、そのことに疑問すら抱いていません。 しかし、これはアメリカが名付けた戦争の名称です。日本の先人は太平洋戦争を戦ったのではありません。大東亜戦争を戦ったのです。今でも大東亜戦争という本来の名称を持ち出せばメディアから「軍国主義につながる、けしからん」と袋だたきにあうでしょう。過ちを肯定することになるから、賛美することにつながるから、あるいはそう批判されるからと、大東亜戦争という呼称を使うことに躊躇する人は大勢いるでしょう。自己検閲が入るのです。韓国よ、君達は戦勝国ではないよメディアに深く浸透する反射的意識 TBSのワシントン支局長だった山口敬之氏をめぐる問題も同じ思いです。彼はベトナム戦争中、韓国軍が慰安所を開設していたことを週刊文春でスクープしました。 山口氏はアメリカ赴任直前の2013年、外交関係者から、韓国軍の慰安所について米政府の資料で裏付けられるかもしれないと耳打ちされます。そこから山口氏の公文書探しの取材が始まります。 そして、14年7月、米軍司令部が「韓国軍による韓国兵専用慰安所」と断定する書簡を発見。米海兵隊の歩兵部隊長の男性から決定的な証言を得ます。慰安所の実態をついにつかみました。 ところが、山口氏の取材はTBSでは放送されませんでした。山口氏は取材結果を文春で明らかにします。ところがそれが問題になり、TBSから15日間の出勤停止処分と営業局のローカルタイム営業部への異動を命ぜられた―というのです。 山口氏はフェイスブックで、異動と懲戒処分の事実を明らかにしました。処分理由を「週刊文春への寄稿内容ではなく、寄稿に至る手続きが問題とされました」。外部メディアに書く場合、事前に届け出―許可ではない―を書面でしなければならないそうですが、そこでの落ち度を咎められたというわけです。「見解の相違はありますが、今回の懲戒処分がTBSの報道姿勢に直接リンクするものではない」とも説明しています。 しかし、なぜTBSは山口氏の取材内容を報じなかったのか、という疑問は残ります。山口氏は「会社が私の取材成果を報道しなかった真意は、私にはわからない」として「事実は揺るぎなく、世に知らしむべきニュースと考えて公表に踏み切りました」と説明しています。 要するに韓国に不利な報道には抑制的になった。それがTBSに限らず、全てのメディアに染みついた反射的意識なのです。これがWGIPの残滓でなければ何だというのですか。考えさせられる出来事でした。 もうひとつ挙げましょう。安倍晋三首相がご自身の公式ホームページで、日本国憲法の成立過程をこう書いています。 《まず、憲法の成立過程に大きな問題があります。日本が占領下にあった時、GHQ司令部から「憲法草案を作るように」と指示が出て、松本烝治国務大臣のもと、起草委員会が草案作りに取り組んでいました。その憲法原案が昭和21年2月1日に新聞にスクープされ、その記事、内容にマッカーサー司令官が激怒して「日本人には任すことはできない」とホイットニー民生局長にGHQが憲法草案を作るように命令したのです。これは歴史的な事実です。その際、ホイットニーは部下に「2月12日までに憲法草案を作るよう」に命令し、「なぜ12日までか」と尋ねた部下にホイットニーは「2月12日はリンカーンの誕生日だから」と答えています。これも、その後の関係者の証言などで明らかになっています。 草案作りには憲法学者も入っておらず、国際法に通じた専門家も加わっていない中で、タイムリミットが設定されました。日本の憲法策定とリンカーンの誕生日は何ら関係ないにもかかわらず、2月13日にGHQから日本側に急ごしらえの草案が提示され、そして、それが日本国憲法草案となったのです》 これは紛れもない事実です。ところがこれを言うと怒り狂ってかみつく日本人が現れ、安倍首相は今、彼らの批判を浴びています。 しかし、国の根本法である憲法の成立過程に関する歴史的事実を詳らかにして、疑問を提起することは、本来なら何も問題ないはずです。野党の国会議員は怒りを露わにして「それを口にすることなど許されない」といわんがばかりの剣幕です。私には歴史的事実の否定や隠蔽を図り感情的に反応する人たちが、最後の悪あがきをする光景にしか見えません。このように洗脳はメディアだけとは限らず、WGIPで見事に洗脳された人(もしくはWGIPによる洗脳効果を持続させたい人)は、他にも大勢いるのです。韓国よ、君達は戦勝国ではないよ夕食会で乾杯する韓国の朴槿恵大統領(左)と中国の習近平国家主席。右はロシアのプーチン大統領=2015年9月2日、北京の釣魚台迎賓館(共同) WGIPは当初、米国のための政策でしたが、韓国とPRC(中華人民共和国)、北朝鮮も大いに恩恵を受けました。北朝鮮は国際社会で最初から相手にされておらず、ここでは触れませんが、韓国とPRCは看過できません。今も彼らは国連はじめ国際社会やアメリカ国内でロビー活動を展開し、日本を狙い撃ちにする「ディスカウント・ジャパン」運動を執拗に続けているからです。 韓国は戦後一貫して、自分達を「戦勝国の一員」と主張しています。しかし、昭和20年(1945)の大東亜戦争終結まで、朝鮮半島はすべて「日本領土」でした。日本は韓国と戦争などしていないのです。これは歴史的事実です。敗戦後になって韓国が建国されましたが、そもそも、終戦時に存在しなかった国なのにどうして「戦勝国」のような振る舞いができるのか。私はとても理解に苦しみます。あまりにも恥知らずです。 子供たちが集まってAチームとBチームで野球をしたとします。試合はAチームが勝ちました。するとBチームにいたK君がAチームにやってきて「ボクも最初からAチームの一員として戦い、勝ったんだ」と言い出すようなものです。今の韓国がやっていることはこれと同じです。日本をはじめとする他の先進国では、あり得ない振る舞いだと思います。戦勝国気どるPRCにレッドカード 「中華人民共和国」にも同じ思いがあります。彼らもまた第二次世界大戦中は存在していませんでした。私は「戦勝国」を自称したがる彼らに大きな違和感を覚えています。 日本が相手にしていたのは最初から最後まで蒋介石の「中華民国」、つまり国民党政府とその軍でした。日本人は「中国」と何気なく言いますが、現政府は中華人民共和国の英語の正式名称の頭文字を取った「PRC」と呼ぶなりして区別すべきです。 毛沢東率いる中国共産党の八路軍が日本軍と戦った事実は確かにあります。が、それは断じて「戦争」ではありません。あくまで彼らは非合法ゲリラ組織に過ぎなかったのです。 ボクシングに喩えましょう。彼らは「日本軍対国民党軍」という公式戦の最中、リングの外から日本軍に空き缶を投げつけるライセンスのない輩のような存在です。公式戦は常に日本軍の圧倒的優勢でしたが、結果は国民党軍の判定勝ちでした。しかし試合でボロボロになった勝者(戦勝国)を今度は先程の輩がボコボコにして追い出してしまう。 彼らは後にライセンスを取得し、ジムの会長になる。そして国際舞台で一定の地位を得て代替わりを重ねるうちに急に「昔、私達が公式試合で日本に勝ったのだ」「自分がチャンピオン(戦勝国)だ」と言い出します。このあたりの感覚は韓国とほとんど同じだと思いますが、PRCの振る舞いはざっとこんな感じです。 先の戦争で日本に勝ったのは米国だけです。「連合国が勝った」と言う人がいますが、オランダ軍やイギリス軍、フランス軍もアジアの植民地から日本軍によってあっさり追い出されました。米軍もフィリピンから一度は追い出されましたが、戻ってきて日本と徹底的に戦って、最終的に勝ったのです。ちなみに米国は対日戦で明らかな戦時国際法違反を数多く犯しました。日本はそれほど強かった。米国はなり振り構わず、死に物狂いで勝利をつかんだのです。 そういうわけで私は韓国やPRCの戦勝国を気どった振る舞いをみるたびに「ふざけるな」と一喝したくなります。ただ、彼らに反論できずにいる日本人にも「もっとしっかりしろよ」と言いたい。70歳にもなるプロパガンダに縛られる必要はありません。世界中で日本ほど他国に昔の戦争で謝罪を繰り返す国はありません。今年は戦争終結70周年の節目の年です。自国を取り巻く外交の現状や史実が正しく理解され、周辺国の執拗な言い掛かりに屈せず、主張すべきことを堂々と主張する。日本の主張がより世界へ広まるよう心から願っています。ケント・ギルバート氏 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。83年、TBS系列「世界まるごとHOWマッチ」に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は「不死鳥の国・ニッポン」(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」では辛口の意見を発信中。  

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    中国で抗日戦争を戦ったのは国民党軍 共産党は成果を横取り

     今年の9月3日、中国共産党は北京で「戦争勝利70周年記念」の式典と軍事パレードを行う。しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。 当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。 同年9月の国共合作で国民党と共産党は手を結んだが、毛沢東の戦略は「夷をもって夷を制す」。すなわち、敵同士につぶし合いをさせることだった。 日本軍と国民党軍が戦闘になるよう工作し、共産党は非戦闘地帯で勢力を拡大させた。ゆえに、日本軍と共産党軍が正面きって戦火を交えた記録は残っていない。「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年」の記念行事に出席した習近平国家主席(左)と江沢民元国家主席=2015年9月3日、北京の天安門(共同) 1945年8月に日本が降伏し、蒋介石の中華民国は戦勝国となった。だが、戦争で戦力を消耗した国民党と、勢力を復活させた共産党との間で内戦となり、蒋介石は台湾へ逃げ、共産党は中華人民共和国を樹立した。 つまり、抗日戦争を戦ったのは国民党軍であり、中国共産党は国民党の“成果”を横取りしたに過ぎない。関連記事■ 西安事件の張学良 蒋介石ら国民党が共産党に負けた理由語る■ 中国反日攻勢 7月7日、25日、8月15日、ハイライトは9月3日■ 中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る■ 国際社会における友好関係は打算の産物か 過去の事例を紹介■ 日本と戦っていない韓国 中国の要請で抗日勝利式典へ参加か

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    どんな戦いで誰が戦った?中国が突如祝い出した抗日戦勝記念

    坂東太郎(早稲田塾講師)(THE PAGEより転載) 9月3日に中国が「抗日戦争勝利70年」を記念する式典を開催します。天安門広場で行われる大掛かりな軍事パレードなど大掛かりなもので、習近平政権が並々ならぬ力を入れています。そこで、中国が喧伝する「抗日戦争」について、どんな戦いで「誰が戦ったのか」について考えてみました。9月3日に大規模な軍事パレードが行なわれる中国・天安門広場(ロイター/アフロ)「抗日戦争」は誰が戦った? 1937年7月7日、北京にある盧溝橋という橋の近くで演習中の日本軍が何ものかによって射撃されました。なぜ中国の首都に日本軍がいたかというと1900年に起きた北清事変を収めた北京議定書に駐留の根拠があります。当初は小さないさかいという認識が大半だったのが結果的に長期間続く戦争のきっかけになってしまいました。1945年の日本の降伏まで続いたこの大陸での戦争を日本は「日中戦争」、中国は「抗日戦争」と呼んでいます。 当時、日本軍が戦った相手は中国の正統政権とされた国民党による国民政府で、トップは蒋介石でした。国号は「中華民国」。戦後、国民党と共産党とが内戦に陥って共産党が勝利し、1949年に中華人民共和国を建国します。蒋介石らは台湾に逃れました。 1941年の日米開戦後、米英ソなどによる連合国共同宣言に蒋介石が署名しました。これが中国を先の大戦における戦勝国とする有力な根拠となっています。 では、戦中の共産党の位置づけはどうだったのでしょうか。蒋介石とはむしろ敵対関係が続いていたところに発生した日中戦争で、国民政府主導による「抗日民族統一戦線」が構築されました。紅軍と呼ばれていた共産党軍のうち華北の部隊は八路軍、華中は新四軍と改められて国民政府軍に編入され日本と戦いました。毛沢東は祝ってこなかった 要するに「抗日戦争」における共産党の役割はせいぜい脇役で、主役はあくまでも蒋介石の国民政府軍でした。しかし毛沢東をリーダーとする中華人民共和国が建国されてから「抗日戦争の主役は共産党だった」と位置づけています。盧溝橋事件以来、一貫して抗日のスタンスを鮮明にしていたのは確かとしても共産党が「主役」は明らかに言い過ぎです。 建国の父である毛沢東もそれはよく分かっていたようです。対日戦争勝利記念日は日本がポツダム宣言を受諾したと昭和天皇がラジオで国民に告げた8月15日か、降伏文書に調印した9月2日ないし3日とする諸国が多いなか、毛沢東は一貫して何らの祝賀行事もしていません。自身が命がけで戦った対日戦争の実態がどうであったのか身にしみて知っていたからでしょう。 毛沢東にとって生涯の敵と呼べるのは蒋介石です。それは蒋介石側も同じはずです。「抗日民族統一戦線」を結んでいても「一丸になって」と表現するにはほど遠い関係で、蒋介石は開戦後も対日戦争より共産党駆逐を狙っていたふしさえあり、米英からも大丈夫かと疑われていました。したがって毛沢東にとっての「戦勝」は蒋介石を追いやって中華人民共和国を成立させた10月1日だったでしょう。変に対日勝利をうたい上げたら、結局は宿敵の蒋介石を賛美せざるを得ないし、それだけは嫌だったのだと思われます。突如祝い出した抗日戦勝記念 風向きが変わったのは2005年あたり。当時の胡錦濤国家主席が3日の「抗日戦争勝利60周年記念」で「国民党と共産党が指導する抗日軍隊」が「それぞれ『正面戦場』と『敵後方戦場』の作戦任務を分担した」と大転換したのです。冷戦の終結や中国が国力を増して自信をつけ「中華民国」こと台湾政権は国連からも追い出され、蒋後継の国民党は「台湾独立」を胸に秘す民主進歩党を牽制するのに好都合の存在にすらみえてきたというのが大きな理由です とはいえ史実である「国民政府軍主体の戦争だった」というところまでは認めていません。習近平政権に変わった2014年は9月3日を「中国人民抗日戦争勝利記念日」としました。合わせて「世界反ファシズム戦争勝利」との概念も示し始めます。共産党は米英などの連合国軍とともに戦ったという点を強調し、70周年の今年は人民解放軍(中国共産党の軍)が持つ戦車部隊などで天安門広場を横切っていく「記念軍事パレード」まで予定しています。「反ファシズム」をキーワードに国際連帯と国威発揚を狙っての行事でしょう。しかし日本はもとより欧米各国首脳は参加しません。1989年に起きた天安門事件が起きた場での軍事パレードなどに出席したら、自由と民主主義という価値観までも疑われてしまいます。歴史の“ねつ造”? 映画「カイロ宣言」 この日にあわせて公開される記念映画が「カイロ宣言」。人民解放軍系の制作会社によって作られました。その宣伝用ポスターに「歴史のねつ造ではないか」と批判が起きています。 カイロ宣言とは1943年にアメリカ大統領ルーズヴェルト、イギリス首相チャーチルと蒋介石が終戦後の中国領のあり方などを取り決めた会談で、米英首脳が直後のテヘラン会談でソ連のスターリンとも共有し、宣言として発表されたものです。1895年の日清戦争の結果として日本が得た台湾と澎湖諸島、さらに満州などを中国に返還するという内容で、ポツダム宣言にも「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」とあり、これを日本が受諾して終戦となった重要な声明です。 ポスターのうち、とりわけ注目されたのが米英中ソの首脳を演じた役者の写真で中国首脳が毛沢東であるかのように紹介された点でした。 映画そのものの内容は分かりません。確かにカイロ会談に毛沢東が国の代表として送られていたら抗日の主役は共産党という中国だけにしか通用しない物語の信用性は高まります。しかし事実として毛沢東はカイロには出向いておらず、蒋介石でした。 先に述べたように毛沢東は蒋介石中心に戦ったゆえに対日勝利の祝祭を行っていません。宿敵であったがためです。それが没後39年目に後輩によってすり替えられるとは。「あいつとだけは一緒にするな。何を考えているんだ」と怒っているのは案外、泉下の毛沢東その人ではないでしょうか。ばんどう・たろう 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】

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    アメリカから見た“終戦の日” 変わりゆく第二次世界大戦のイメージ

    前嶋和弘(上智大学教授)(THE PAGEより転載) 戦後70年を迎えた今年の8月15日。日本ではメディアで大々的な戦争特集が組まれ、歴史の「節目」に太平洋戦争を振り返りました。一方で、 日本がポツダム宣言による降伏文書に署名した1945年9月2日は、アメリカでは第二次世界大戦が終わった“終戦の日”であります。今回は、アメリカからみた第二次大戦とはどのような意味を持ち続けるのか、考えてみます。アメリカにとって、第二次大戦の戦勝記念日は2つあります。1つは、ナチス・ドイツが降伏した日(1945年5月8日)のヨーロッパ戦勝記念日であるVE(ビクトリー・オーバー・ヨーロッパ)デー。もう1つは日本が降伏した対日戦勝記念日「VJ(ビクトリー・オーバー・ジャパンデー」です。中国では時差がある分、9月3日を対日戦勝記念日としているようです。 アメリカの「VJデー」の方は「勝利の日(ビクトリー・デー)」と名前を変え、1975年までは連邦政府の祝日でした。ただ、その祝日なのですが、特定の日付ではなく「8月の第3月曜日」でした。「勝利の日」は、いまは連邦政府の祝日ではないのですが、ロードアイランド州だけは「8月の第2月曜日」を「勝利の日」の祝日として残しています。薄れつつある第二次大戦の記憶 日本の場合、毎年の夏は新聞からテレビのドラマまで戦争特集が繰り返されます。ちょうど先祖を弔うお盆もあり、8月には「戦争行為そのものが悪」という記憶を毎年、再確認している気がします。 日本と比較して、アメリカの夏の戦争特集は多いとはいえません。アメリカのもっとも代表的なニュース源である3大ネットワークの夕方のニュースでは、「VEデー」の5月8日、「VJデー」の9月2日のいずれも、何らかの形で取り上げますが、扱いは必ずしも大きくはなく、特集などがなければ数秒で終わるケースもあります。 誤解を恐れずに言えば、「VEデー」にしろ、「VJデー」にしろ、少しずつ記憶が薄れつつある、歴史的な記念日という扱いです。多くの米兵の犠牲の中で戦局を変えたノルマンディー上陸作戦の「Dデー」(1944年6月6日)はより個人的な壮絶な体験を交えた特集になりえるため、「Dデー」の方が「VJデー」目立っている印象もあります。世論調査に見る「第二次大戦と日本」 世論調査を見ると、とても興味深い現象があります。今年初めにピュー・リサーチセンターの調査では「過去75年間の日米関係で最も重要な出来事は何か」という質問に対して用意した4つの出来事のうち、「第二次大戦」とした回答したのは、日本人の場合17%でしたが、アメリカ人は31%とかなりの差がありました。31%という数字はアメリカ人の回答の中では「2011年東日本大震災」と並んで最も大きな数字となっています。日本人で回答が集中したのは36%の「戦後の日米軍事同盟」で、これについては、アメリカ人は23%でした(複数回答可。用意されたもう一つの出来事は「1980年代から90年代初めの日米経済摩擦」)。 これだけをみるといまだ日本をみつめるアメリカの視点には「戦争で戦った相手」という事実があることがわかります。ただ、アメリカの場合、世代的な差が非常に大きくなっています。65歳以上の場合、「第二次大戦」を挙げたのは、40%に上りますが、50歳から64歳の場合、24%に下がります。戦後に物心がついた層にとっては、やはり第二次大戦はセピア色になりつつあるといえます。 この調査を担当したピュー・リサーチセンターのブルース・ストークス氏を今年2月末に訪ね、お話をうかがったのですが、その際、強調していたのが日本との第二次大戦を見る見方の違いでした。アメリカと違って、日本はどの世代でもほぼ同じ割合で第二次大戦の重要性を上げていて世代間格差がないのに対して、「高い年齢の人が減るに従って、アメリカの場合は第二次大戦の記憶が薄れつつある」と指摘していました。「原爆投下」「謝罪」で日米間に差 この同じ調査ではほかにも日米間の差が大きいものがありました。例えば、「広島、長崎への原爆投下を正当化できるか」という質問に対しては、日本側の79%の回答者が「正当化できない」としたのに対して、アメリカでは34%にとどまり、逆に56%が「正当化できる」と回答しています。また、「第二次大戦で日本は十分謝罪をしたか」という質問については、日本側の48%が「十分に謝罪した」としているのに対し、アメリカ側は37%にとどまっていました。もっとも「謝罪そのものが不必要」としているアメリカの回答は24%もいるので(日本は15%)、両者を足せば、日米はほぼ同じ数字になります。「謝罪そのものが不必要」がアメリカ側に多いのは非常に興味深いといえます。変わりつつある「良い戦争」のイメージ アメリカ人にとって、第二次世界大戦は、ファシズムに勝利した解放戦争であるという意識があり、この意識が少なくとも長い間、共有されていました。それでも記憶が薄れる中、戦争についての見方も変わってきました。例えば上述の原爆投下に対する「広島、長崎への原爆投下を正当化できるか」という質問に対しては、1945年のギャラップの調査では85%が「正当化できる」と答えています。筆者の印象でも、原爆にしろ、東京大空襲にしろ、第二次大戦に対して当時のアメリカの戦略に否定的な世論も時間をかけて増えてきたといえる気がします。 ジャーナリストの故スタッズ・ターケルには、戦った兵士を含め第二次大戦に関与した様々な人にインタビューし、オーラルヒストリー的にまとめた『よい戦争(The Good War)』(1984年)という名著があります。このタイトルは皮肉であって、インタビューを人々の意見が重なっていくと、「良い戦争」とは言えないことが分かってきます。共産主義への勝利に至らず停戦した朝鮮戦争について、アメリカでの形容詞は「忘れ去られた戦争(the Forgotten War)」なのですが、「良い戦争」も「忘れ去られた戦争」も一面的な見方に過ぎないのは明らかかもしれません。生々しい記憶が薄れる中、この一面的な見方が今後も少しずつ変わっていく気がします。※ピュー・リサーチセンターの日米相互の意識についての世論調査についてはこちらを参照まえしま・かずひろ 上智大学総合グローバル学部教授。専門はアメリカ現代政治。上智大学外国語学部英語学科卒業後,ジョージタウン大学大学院政治修士課程修了(MA),メリーランド大学大学院政治学博士課程修了(Ph.D.)。主要著作は『アメリカ政治とメディア:政治のインフラから政治の主役になるマスメディア』(単著,北樹出版,2011年)、『オバマ後のアメリカ政治:2012年大統領選挙と分断された政治の行方』(共編著,東信堂,2014年)、『ネット選挙が変える政治と社会:日米韓における新たな「公共圏」の姿』(共編著,慶応義塾大学出版会,2013年)

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    戦勝国の歴史解釈に異議はないか

    平川祐弘(東京大学名誉教授) 大学入試に次の問題が出たとする。 (1)第二次世界大戦に際して日本のA級戦犯を含む極めて少数の人間が自己の個人的意志を人類に押しつけようとした。 (2)日本のA級戦犯は文明に対し宣戦を布告した。 (3)彼らは民主主義とその本質的基礎、すなわち人格の自由と尊重を破壊せんと決意した。 (4)彼らは人民による人民のための人民の政治は根絶さるべきで、彼らのいわゆる「新秩序」が確立さるべきだと決意した。 (5)彼らはヒトラー一派と手を握った。 受験生にも大臣にも議員にも答えてもらいたい。確実に〇がつく正解は日本が「ヒトラー一派と手を握った」という歴史的事実だけではあるまいか。反日宣伝を繰り返した米国 だが連合国側は日本の東條英機以下少数者は「自己の個人的意志を人類に押しつけんとした」として非難した。米国側の主張を正確に伝えるために冒頭部分は英文も引用する。  A very few …decided to force their individual will upon mankind. 実はこれが1946年6月4日、東京裁判の冒頭でキーナン首席検察官が日本の指導者を論難した陳述である。 侵略戦争非難だが、もしこの通りなら日本は悪玉だ。断罪されて当然だ。だが昭和21年、中学生の私は「難癖をつけられた」と感じた。平成27年の今も東條内閣がこんな誇大妄想狂だったとは思わない。私ばかりか米国でもまともな日本研究者は思わない。 「キーナンの主張はおかしい」と言ったら「ギャング退治で名をはせた検事だが日本のことは何も知らなかった」と、日本研究者であるジャンセンは釈明した。 だが戦争中、米国では敵愾(てきがい)心をあおろうと反日宣伝を執拗(しつよう)に繰り返した。それは当時の人の脳裡(のうり)に刷り込まれ再生産され今も米国人の根本の日本認識となっている。「狂気の侵略戦争」といえるか だから第二次世界大戦はデモクラシー対ファシズムの正義の戦争だった。内外の左翼の歴史学者もそう言っている。するとそれを口実に北方四島が露領であるのは当然だ、第二次世界大戦の結果だとロシアはうそぶく。しかし米国と組んで日本と戦ったソ連や中国が人格の自由を尊重するデモクラシーといえるかどうか。昭和16年12月8日のハワイ真珠湾攻撃に参戦した航空母艦「加賀」の元乗組員が公開した「炎上する米軍施設」の写真(共同) 米国がソ連や中国と組んだのは敵の敵は味方だったからだろう。その露中が今年は共同で戦勝70年を祝おうとし、両国は「歴史の修正は許さない」と言っている。 問題は修正主義にもいろいろあることだ。この点に在日米国大使館も特派員も注意してもらいたい。ナチス・ドイツが正しかったという修正主義は狂気の沙汰だ。私はまた軍国日本がすべて正しかったと主張する修正主義も認めない。昭和10年代、解決のめども立たぬまま大陸で戦線を拡大した軍部主導の日本は愚かだった。 ただしだからといって、勝者の裁判で示された一方的歴史解釈に私たちが従う必要はあるのか。ハル・ノートをつきつけられて開戦に踏み切った日本を「狂気の侵略戦争」といえるか。それは疑問である。正々堂々と歴史の修正を ここでまた入試に次の問題が出たとする。 (1)1941年11月26日、ルーズベルト大統領とハル国務長官は日本に中国とインドシナから軍隊の全面撤退を求めた。 (2)重慶の国民政府以外の政権、いいかえると満洲国や汪兆銘政権の否認を求めた。 (3)日独伊三国同盟の否認を求めた。 (4)これは世界外交史上稀(まれ)に見る挑発的な要求であった。 (5)イタリアのチアノ外相はこの事態を説明して「アメリカ国民を直接この世界大戦に引き込むことができなかったルーズベルトは、間接的な操作で、すなわち日本が米国を攻撃せざるを得ない事態に追いこむことによって、大戦参加に成功した」と日記に書いた。 答えはすべて〇である。 受験生の無知も困るが、多くの内外の新聞人も在日大使館員も日本の政治家も知らないのでは困る。次代の民主党を担う細野豪志氏などは修正主義の名の下にあらゆる歴史の再解釈に拒否反応を呈している。 だがそれでは日本国民の支持は得られまい。軍国日本の失策を認めた上で、なおかつ、戦勝国側の歴史解釈に異議あることをきちんと説得してこそ、政治家や学者の責務だと私は思う。外国語でも納得させることが大切だ。過去の歴史は正々堂々と修正せねばならない。 なお一言書き添えると、黄色人種の日本に先に手を出させることで、米国民を怒らせて米国を参戦させ、連合国を勝利に導いたルーズベルトは悪辣(あくらつ)だが偉大な大統領であったというのが私の歴史認識だ。ユダヤ人の絶滅を企(たくら)んだナチス・ドイツを破るためには米国の参戦は不可欠だったからである。(ひらかわ すけひろ)

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    元NYタイムズ東京支局長「日本軍の野蛮イメージは虚妄だ」

     “和の神髄”について、外国人の目を通して教えられることは少なくない。イギリス人で元「ニューヨーク・タイムズ」東京支局長のヘンリー・S・ストークス氏が、「日本軍から自衛隊に受け継がれた素晴らしきモラル」について語る。* * * 第二次世界大戦に日本が参戦し、アジアの植民地での戦闘が始まったが、日本軍の強さは我が母国のイギリス軍を圧倒するものだった。 イギリス人にとって最も衝撃的だったのは、大英帝国海軍が誇る「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパレス」という2隻の戦艦が日本の小さな戦闘機による魚雷攻撃で、わずか4時間で撃沈されたことだ。 日本人を“イエローモンキー”と呼んで憚らない差別主義者だったチャーチル首相は、若くして海軍大臣に就任し、海軍こそ英国の誇りとしていた。それが数時間の戦闘で壊滅させられたのだ。西洋人が有色人種の強さを体感し、恐怖した最初の瞬間であろう。 当時のイギリス軍は日本人が近眼で飛行機の操縦能力も低いと見くびっていた。しかし、鋭利な角度で飛来してあまりに正確に魚雷を命中させることに驚き、“ドイツ軍のパイロットではないのか?”と乗員らが疑ったほどだった。 日本の帝国海軍は非常にモラルが高く、統率が取られていた。私が著書『英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄』で指摘したように、「日本軍は野蛮で残虐だ」というイメージは、「東京裁判」などで戦勝国が自分たちの理論で作り上げた虚妄だ。実際の日本軍は規律を守り、マナーも優れていた。 私は14歳からイギリスで軍事教練を受け、軍隊の本質を知っている。ジャーナリストとして戦後は幾度も横須賀基地などで自衛隊を取材してきたが、非常に礼儀正しく、規範を大切にしている。彼らは戦前の帝国海軍の伝統を受け継いでいると感じている。 アジアへの日本軍の侵攻は、植民地となったアジア諸国を欧米の帝国主義から解放し、独立に導くものだった。 ここでも、日本軍の果たした役割は大きい。植民地の人々に軍事訓練や教育を施して集団として統率し、独立への手助けを行なった。こうした発想は欧米の帝国主義国家には全くなかった発想だ。 日本軍がアジアを占領するために暴走したということが誤りであるとわかる印象的なスピーチを、イギリスが支配していたインドで国民軍の司令官だったチャンドラ・ボースが1943年に来日した際に行なっている。 そこで彼は「日本がアジアの希望の光だ」とはっきり述べているのだ。彼は日本軍がインド独立のための千載一遇の機会を与えてくれたことに感謝した。これはシンガポールやビルマなどアジア諸国に共通する思いだ。マハトマ・ガンディー(左)とチャンドラ・ボース=1938年(Wkimedia Commons) 日本軍がマレー半島に進攻すると、イギリス軍はなすすべもなく降伏してシンガポールが陥落した。イギリスだけでなく、オランダも含めた西洋の帝国軍が敗れてしまった。 戦後の「東京裁判」はその怨念を晴らす場となり、アジアの解放を目指した軍人は悉く連合国側の論理で「戦犯」として裁かれた。 その後の戦後教育でも、日本がなぜ戦わなければならなかったのか、戦争で日本軍が果たした意義などはタブー視された。このため、現代の日本人は当時の日本軍の功績をほとんど知らないままだ。 しかし、私は希望を感じている。今も続く“占領体制”の呪縛を日本国民が解く日は必ず来ると信じている。●取材・構成/大木信景(HEW)関連記事■ 日本軍の「卑怯な戦法」は中国をモデルにしていたと分析の書■ 英の韓国人留学生 太陽昇る寿司店ロゴに文句つけ韓国で喝采■ 【キャラビズム】いずれアメリカでは白人が少数民族となる?■ 第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備■ 中国反日テーマパークの窓口「明日も9時からオープンだよ」

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    戦勝国の繁栄に何を見た

    飛行機がサンフランシスコ上空にさしかかった途端に、こんな富裕な国と戦争をしたのかと愕然とした。眼下にみえる家並みの豊かさにいやというほどそれを知らされたー。戦後写真界に大きな足跡を残した写真家、林忠彦が見た1955年のアメリカ。ファインダー越しに彼が見た現実とは。

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    こんな裕福な国と戦争をしたのか

    《徳間書店『AMERICA 1955 林忠彦写真集』より》 1955年(昭和30)7月9日、林忠彦はアメリカのロングビーチで開かれたミス・ユニバース・コンテスト特写のため、日本代表の高橋敬緯子(けいこ)に同行、渡米した。林忠彦はこの時、ロングビーチを皮切りに、ニューヨークのウォール街や五番街、セントラル・パーク、グリニッジ・ヴィレッジ、ニューヨーク近代美術館、コニー・アイランド、ロサンゼルスのメキシコタウンやディズニーランド、ハワイなどを活写して回った。Long Beach,CaliforniaNew York City,New YorkConey Island,New YorkNew York City,New YorkLos Angeles,CaliforniaCopyright (C) 林忠彦. All Rights Reserved.  

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    GHQ・もう一つの「検閲」とマッカーサーの素顔

    細谷清(近現代史研究家) 日本を占領した連合国軍の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、米バージニア州ノーフォーク市のマッカーサー記念館に眠る。ノーフォークは彼の母の故郷であり、世界最大の海軍基地がある。海軍兵学校のあるアナポリスも近い。 記念館は、そんなノーフォーク市の中心部にあり、元市庁舎だという建物はなかなかの威容であった。彼の名を冠した広場にあり、付設の図書館と訪問者センターもある。センターには、入口に彼が使った実物の車が置かれ、映画上映室や書籍や土産物を売るコーナーがあった。 記念館はマッカーサーの事績が展示されているが、彼の生涯最大の誇りであったであろう日本占領の歴史で、書かれていないことがあった。「検閲」と「親共産主義」である。マッカーサーの検閲 マッカーサー率いるGHQ(連合国軍総司令部)は昭和二十年九月二日の降伏文書調印式直後の十九日、「日本に対するプレスコード」(連合国最高司令官三十三号指令)を出し、新聞・ラジオ・雑誌・映画等の報道の検閲を始めた。 この検閲政策は米国の占領前からの既定の方針に沿ったもので、占領行政を円滑に進めることが目的の一つ。もう一つの狙いは、これまでの日本国民は政府に情報統制されて洗脳されてきたと勝手に思い込んだアメリカが、その洗脳を解こうというものであった。 指令そのものは、報道は事実と真実を伝えるべきである▽治安を害してはいけない▽意見と事実は分けること―など、表向きは極真っ当な内容であった。しかしGHQは実施段階で、その建前とは全く違った検閲基準を設けた。いわゆる三十項目に分類された規準で、戦前を遥かに越えた厳しい検閲であった。言うなれば当時の日本人は耳も目も口も塞がれその上私信も覗かれる状態で、「民主化」を与えられたのだ。 そのプレスコード発効から八日後の九月二十七日、昭和天皇陛下との会見が持たれた。会見の内容は、公式発表以外は秘密とすることになっていたようだが、マッカーサーは機微に触れることまで回想記で公表した。「天皇は落ち着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりとおもてに現していた」「私が米国製のタバコを差出すと、天皇は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇が感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかった」(『マッカーサー回想記』下巻、朝日新聞社) たとえ陛下でなくとも、あるいは秘密にする合意がなかったとしても、会見した相手について、「落ち着きがない」「手が(緊張で)ふるえている」「天皇が感じている屈辱の苦しみ」などと見下したように書くのは差し控えるべきであろう。 翻ってマッカーサー自身は、「米国製のタバコを差出」し、「そのタバコに火をつけてさしあげた」り、「天皇の気分を楽にすることにつとめ」たうえ、「(陛下の)苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかった」と観察するほど余裕があったようである。しかし、会見後の歴史からはそうは思えない。直後に彼は「天皇制批判」を主張する獄中の共産主義者を釈放させている。それは陛下の権威を畏れたためではないだろうか。マッカーサーと共産党 会見翌日の九月二十八日朝刊に新聞各社が会見の写真を載せなかったことを知るや、GHQは即座に命令を出して、・仕事着・のマッカーサーとモーニング姿の陛下のあの有名な写真を翌二十九日朝刊に各社一斉に掲載させた。 会見一週間後の十月四日には、東久邇宮内閣が辞してまでも反対した治安維持法を廃止させ、十日には、政治犯だけではなく傷害致死などの罪で獄に在った人間でも共産党員と言うだけで釈放させた。二十日には日共の機関紙「アカハタ(のちに赤旗)」が復刊している。紙もインクも払底していた終戦直後にGHQの援助なしにはこうも手際よく復刊出来なかったであろう。 その復刊第一号巻頭の「人民に訴ふ」を見てみる。「連合国軍隊の日本進駐によって日本民主主義革命の端緒が開かれたことに對して我々は深甚の感謝を表」し、「米英及聯合諸国の平和政策に對しては我々は積極的に之を支持する」とGHQを礼賛し、「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民共和政府の樹立にある」「我々の多年に亘る敵だった天皇制」と天皇陛下を批判する言葉が溢れている。これも、共産党幹部らを釈放したマッカーサーの期待に応えたものではなかったか。 しかし日共の放縦な活動は、東西冷戦の激化とともに占領軍への批判と攻撃に転じ、朝鮮戦争直前の昭和二十五年五月三十日に皇居前広場で起きた騒乱(左翼は「人民広場事件」と称した。暴徒は警備に当たった米兵をもお堀に投げ込んだと言われる)を契機に、GHQは日共と赤旗の幹部を追放し赤旗を永久発行停止処分にした。赤旗は講和条約が発効した昭和二十七年四月に、GHQの処分は無効になったとして復刊して現在に至る。新たに判明した検閲規則 GHQが、プレスコードと、いわゆる三十項目の規準による厳しい検閲を行っていたことは詳らかにされているが、それに加えて日本国外から国内に伝えられたり、国内から国外に発信したりする情報も規制していたことは知られていない。プレスコードと相まって、当時の日本人は完璧なまでに目と耳と口を塞がれた状態であったのだ。市役所の旧庁舎を改装したマッカーサー記念館前に立つダグラス・マッカーサー(1880~1964年)の銅像=2014年11月28日、米バージニア州ノーフォーク その規制方針は、昭和二十年十一月十日にGHQ内部で決定された部外秘備忘録「日本に於ける報道検閲方針」(昭和二十年十一月十日付、同十三日に対敵情報局長エリオット・ソープ准将が承認した文書:MEMORANDUM FOR RECORD: Press Censorship Policy in Japan。米国国立公文書館所蔵RG331Box No.8568 CIS07298、国会図書館憲政資料室にて閲覧複写)に示されている(次頁の写真)。 備忘録は、検閲が極めて機密を要するので、ミスは最少にして連合国報道陣との記者会見は二人だけに限定し、海外からのニュースについては特に次の四つを原則とする事を定めていた: ・マッカーサーの占領政策に対する米国及び他の外国から発信された批判は、もし治安を乱す恐れが十分にあると見做されるのであれば許可してはならない。 ・連合国同士の批判は許可される。 ・中華民国に対する他国又は国内の共産主義者による批判は許可される。 ・連合国統治権下にある人民(訳者注:当時は日本国民だけでなく朝鮮・台湾人らも含んでいた)による皇室・天皇・政府に対する批判は許可される。 そして日本人が海外へ発信出来る批判として、次の三つを例示した:(一)トルーマン大統領の米国での政策に関する記事(二)新聞記者自らが書いた、原子爆弾問題の解決の為の提言記事(三)日本人が書いた、占領下のドイツにおける占領軍の政策に関する記事 この備忘録の重点は、日本の元首である天皇陛下と米国の最高位にあるトルーマン大統領に対しての批判報道は許される一方で、マッカーサーに対する批判は一切許さない、とする点である。いわゆる三十項目の検閲実施規準でも真っ先にマッカーサーに対する批判の不許可が掲げられており、当時の日本人はマッカーサーについて書いたり話したりして批判する事も批判を聞く事も世界中から完璧に遮断されていたことになる。 天皇陛下も米国大統領に対しても許される批判を許さない存在を独裁者と呼ばずして何と言えるか。この備忘録を以後「マッカーサー検閲規則」と呼ぶ。文書全文の和訳を資料1として本文末に添付する(訳は細谷)。 このマッカーサー検閲規則にはもう一つ看過できない問題がある。それは、(三)にある中華民国を見放したとも取れる親共産主義と親中共(中国共産党)の姿勢である。 支那大陸ではこれより一カ月前に、国民党の蒋介石と中共の毛沢東の会談があった。この動きに合わせたかのように、中共や国内の共産主義者が国民党を批判することは許したのに、共産主義や中共への批判については言及していない。つまり許可されなかったのだ。 マッカーサー自身は反共主義者と言われ、占領直後のGHQの容共・親共産主義的な政策は、主にGS(民政局)に潜り込んだニューディーラーやソ連のエージェントらによるものと考えられてきたが、この検閲規則をマッカーサーが知らなかったはずはない。彼はこの時点では寧ろ共産主義者に大甘だったのだ。マッカーサー独裁に風穴を開けた記者マッカーサー独裁に風穴を開けた記者 マッカーサー検閲規則に依るのであろう、独裁者に関する新聞記事は礼賛一色であった。例えば憲法施行一年後の二十三年五月三日付朝日新聞朝刊の記事がその一端を示す。 記事は彼が節目で出した声明を一面トップに飾り、「憲法施行一周年 日本の国民へ」「強く守れ・この大憲章 東亜に不落の民主主義」といった理念が躍っていた。 しかし、共産主義国家顔負けの「独裁民主主義」に異を唱えた外国人記者がいた。 日本生れで日本語にも堪能な英国人コンプトン・パケナムである。昭和二十一年六月に「ニューズウィーク」誌の東京支局長として日本での記者活動を開始すると、GHQの占領行政に批判的な記事を米国に送り始めたのだ。「公職追放の裏で 占領軍内部の暗躍」(二十二年一月二十七日号)では、経済界指導者の公職追放が日本経済を混乱させ共産主義が付け込む機会となる、資本主義米国のやることかと指弾したうえで、天皇以上に祭り上げられているマッカーサーが容共の部下に仕事を任せているとして、その占領行政を真っ向から批判した。  当時の日本人の中にも彼の占領施策に異を唱える人たちが協力したから、これだけの内容の記事を書けたのだ。勿論のことだがこれらの記事は当時日本で印刷発行された日本版には掲載されなかった。 的を射ていた記事に、マッカーサーは激怒しパケナムをファシストと迄呼ぶ程に忌み嫌ったと言われる。二十二年八月に米国に一時帰国したパケナムに対して、十二月にGHQは日本での記者活動の不許可と再入国不許可を発表した。ニューズウィークは抗議し、英国議会でも取り上げられるほどの政治問題となった。最終的には米陸軍長官が許可するように命令を出し、パケナムは二十四年四月に漸く日本へ戻り、一年八ヶ月振りに活動を再開した(『昭和天皇とワシントンを結んだ男』青木冨貴子著、新潮社)姑息で周到な声明 パケナムの言論の自由を守る戦いに、陸軍長官がパケナム側に立ったことで、マッカーサーはまさに万事休すであった。命令の陰にはトルーマン大統領がいたと言われている。この騒動の中、二十三年三月にGHQ渉外局長のエコルス大佐は次の声明を発表した。 私(エコルス)がマッカーサー元帥に対してアメリカからの元帥に対する政治的批判が日本の新聞に掲載されなかった原因について注意を喚起したところ、元帥は直ちにこのことは中止すべきであり、日本の新聞は元帥に対するあらゆる政治的批判をも掲載する事を許すべきである旨指示した。これはこのことが元帥の注意を喚起した最初のことである」(朝日新聞二十三年三月十五日付朝刊)。 この声明が出された理由は述べられていないが、パケナム記者の記事と再入国不許可が原因であることは、発表された時期とその内容からして明らかである。 マッカーサーが十分に推敲したであろうこの声明が周到であるのは、部下のエコルスに《元帥の注意を喚起した最初のこと》と言わせて、初めて聞いたような振りをして《高潔な最高司令官》を装い、《(そんなことは良くないので)直ちに止めなさい》と出した指示を部下に声明として日本文で新聞に発表させたことである。 更に周到なのは、英語原文と違う日本語文を作ったこと、あるいは検閲で内容の一部を伏せたことだ(上記朝日新聞二十三年三月十五日付朝刊と三月十三日付エコルス大佐の声明文を比較)。以下に、英語原文を示す(米国国立公文書館所蔵、マッカーサー検閲規則と同じBOXにある)。GHQ FAR EAST COMMANDPublic Information Office (Immediate Release)13 March 1948 The following statement was issued by Col.M.P.Ecols, Public Information Officer: When I called General MacArthur's attention to the fact that political attacks emanating against him from the United States were being censored out of the Japanese press, he at once directed that this should cease and the Japanese press be permitted to carry any American political attacks against him. This is the first time the matter had been called to his attention. そもそも日本語文を読むと、声明の中で傍点を付けた「原因」と「このこと」が何を意味するのか判然としない。しかし英語原文では、その「原因」と「このこと」が、「検閲されていたこと(being censored、下線部)」を明示している。つまり米国向けには「やっていた検閲を直ちに止める」と発表し、日本国内向けには、検閲をしていることもその検閲がマッカーサーに対する一切の批判記事も許さない程に厳しいことを、噯(おくび)にも出さずに発表したことだ。 GHQ自らが検閲をしていることを公にするなと指令している手前、「検閲」を使えないから使い分けたのであろうが、米本国ではこんな検閲の実態を知っていたのであろうか。マッカーサーが犯した罪 では検閲は直ちに止められたであろうか。マッカーサー検閲規則が取り消されたとする書類は見つからなかったが、かわりに検閲が継続されていたことを示す書類を発見した。 GHQ-G2(参謀第二部)内部用文書(G2 Inter-Office Memorandum CIS/CCD:CBS/JJCrg1、二十三年十月十二日付、米国国立公文書館所蔵同CIS07298)は、二十三年十月時点でも検閲していたことを示している。それは彼が当時一政治家に過ぎなかった吉田茂との会談で吉田の首相就任に反対しない旨を表明した、と書かれたロイターロンドン発の記事である。内部文書は、「この記事を発行して問題ない」と発行許可の作業を行っていたことを示している。 この記事については、他部のPPB部(新聞映画放送部)も同様に検閲して発行を許可していた。 この様にマッカーサー検閲規則は生き延び、検閲は従来通りに厳格に続けられていたのだ。 マッカーサーが「米国・米国人からの政治的批判をも掲載することを許すべきである旨指示した」にも拘らず、検閲が続けられていたのは、部下が命令に背いたからであろうか。「俺(マッカーサー)は検閲をやっているなんて初めて聞いた。即刻止めさせる」とする声明を新聞にまで発表させた独裁者の意向を無視して、部下がやったとは到底思えない。彼が部下に「検閲は止めろ」「俺に対する批判は載せろ」とは指示をしなかったからこそ、部下は独裁者の意向を慮って検閲を続けたのが本当のところなのではないか。「独裁民主主義」司令官の解任と帰国後「独裁民主主義」司令官の解任と帰国後 マッカーサーは占領軍軍隊という「剣」の司令官であっただけでなく、検閲による報道の規制によってペンをも支配した独裁者であった。そんな日本国内では完璧だった独裁体制も、外からの「風圧」で崩れていった。日本にとっては神風でなかったか。 風圧は共産主義であり、その脅威にやっと気が付いた米本国政府が占領政策を劇的に転換させたことであり、その脅威が現実となった北朝鮮の南への侵攻、朝鮮戦争の勃発である。そして止めの一撃は、トルーマン大統領による解任であった。 占領政策の転換を一言で言えば、日本の非軍事化・弱体化から復興強化と再武装・同盟国化であった。 欧州復興計画を立案した国務省のジョージ・F・ケナンは、日本をこのまま放置すれば欧州と同様に共産主義に侵食される恐れがあると判断し、その対策案を持って二十三年二月末に来日した。ケナンは国内を視察してその対策案を検証し、国務省に非協力的であったマッカーサーと幾度かの打ち合わせをし、再軍備をのぞく政策・施策の転換で両者は一致した。ここが占領政策・施策の大転換点であった。 マッカーサーが日本の再軍備を許さなかったのは、「日本を東洋のスイス」にすることに固執したからである。自分が独裁者として君臨できる現憲法を変えたがらなかった。一地方司令官が本国の政策に反対して抵抗する姿であった。解任される萌芽は既にこの時からあった。 そんな彼の現実離れした「東洋のスイス」構想や再軍備への反対や抵抗も、北朝鮮の侵攻で始まった朝鮮戦争で微塵にも砕け散った。 日本を防衛していた在日駐留戦闘部隊が朝鮮半島に派遣され、無防備となった日本では、「国家警察予備隊」が創設され、治安維持にあたった。 ソ連・北朝鮮の攻勢を見通せず、中共軍の参戦も見誤ったことで、功を焦ったのか。マッカーサーは戦局が膠着した昭和二十六年三月に満州への爆撃を公然と議員やメディアを使って主張した。大統領選立候補をにらんだ売名行為だったのかもしれない。その結果、マッカーサーは、休戦を目論んでいたトルーマン大統領によって四月十一日に解任された。解任直後の十五日早朝に帰国した独裁者は、当初は凱旋将軍として盛大に迎えられた。一方日本の土はその後二度と踏むことはなかった。 その解任から五ヶ月後、サンフランシスコでは講和会議が開かれていたが、マッカーサーはそれを無視するかのように己の大統領選挙の為に全米を演説して廻っていた。しかし翌二十七年の共和党大統領候補指名選挙では部下だったアイゼンハワーが指名され、自身は前回二十三年に続く惨敗に終わり野望は潰えた。マッカーサー記念館を参観して 冒頭に紹介したマッカーサー記念館では昨年、没後五十年の記念行事が行われた。さびれた建物を想像していたが、今も活動的であったことは意外だった。 センターで放映されている映画と記念館の展示には、彼が行った検閲と共産主義に大甘であった施策に関する説明がまったくなかった。それどころか、「その歩みは同時期反共産主義者で鳴らしたJ・マッカーシー上院議員と合致する」とまで説明していた。 記念館の展示は、農地改革・財閥解体・婦人参政権などで民主化に寄与したとし、「新憲法が最も占領に貢献した」ことを誇らしげに説明している。驚くことに、「GHQのGS(筆者注:当時の民政局はC・ホイットニー局長の下、C・ケーディスが憲法の担当であった)で起草された」と断言しており、憲法第九条については、「マッカーサーは日本人に頼まれたと言っているが、多くの歴史家は彼が創作したと信じている」と説明されていた。 米国人一般が持っているだろう占領政策と日本国憲法についての認識を掴めたことは、館を訪問した一番の成果であった。マッカーサーが反共ではなくむしろ親共であったこと、民主的占領行政でなく厳しい検閲下での独裁的な占領行政であったこと。この二つの事実が展示されていないことが、日米間の歴史認識の違いを生んでいるのではないか。 我々は米国人に、「(残念でしょうが)日本でのマッカーサーは独裁者で且つ共産主義に甘かった(民主主義者ではなかった)」「日本の戦後体制はその独裁者の下で作られた」「今の憲法はその独裁者の下で起草された」と説明し、憲法改正が象徴する戦後レジームからの脱却が、右傾化でも米国からの離反でも何でもなく、米国と基本的価値観を共有する国家としても当たり前の基盤整備であると訴えれば、彼らは憲法改正の狙いも正しく理解するのではないだろうか。 参考文献 児島襄『日本占領・・・』文藝春秋▽ジョージ・F・ケナン回顧録『対ソ外交に生きて』清水俊雄訳、読売新聞社▽目良浩一・井上雍雄・今森貞夫『マッカーサーからの呪いから目覚めよ日本人!』桜の花出版 細谷清氏 昭和24(1949)年、茨城県日立市生まれ。早稲田大学卒業、放送大学大学院修了、大学卒業後プラント製造会社で海外取引を担当。平成二十年より専門学校講師(国際取引)。資料1-複写-部外秘昭和20年11月10日備忘録メモ:日本における報道の検閲について1.日本の報道と他の媒体(メディア)を検閲する問題は、極めて高度の慎重を要することである。このことは関係するより上位の部隊の全ての人に理解され、過失が発生するであろうことが理解され、その内の幾つかは避け難いものであるが、その過失は当然ながら最小限度と成る様に期待されている。2.ソープ准将は近々記者会見を開き、記者達に我々が検閲を実行する政策と、検閲で排除される対象の分類表を示す予定である。その記者会見後に検閲と運用上の職分はそれ以前ほどに自由に議論することは許されない。ソープ准将又はワズワース大佐だけが政策と運用について連合国記者と会見する。3.現下の検閲政策は、嘘や治安を乱す情報は許さないが、全ての点において極めて寛大な政策の一つである。検閲はCCD(民間情報検閲部隊)により、ある種の強制力としてたとえその目的が称賛に値するものであっても如何なる宣伝目的を新聞に提議させて、利用されるものではない。4.報道方針を以下の様に特に説明する: a.流入する連合国の新聞雑誌等のファイルはCCDによって検閲されない。 検閲は、Nippon Timesの様な出版物も含まれる、日本での出版の為に利用する日本人によってその複写が提出された後に行う。 b.検閲が実施されている事の言及は、民間情報検閲を該当した如何なる印刷物所有者に詳細な説明をしてはならない。簡単に、検閲に該当したのでしょうかくらいにしてそれ以上述べるべきではない。我々は削除した事の説明にいちいち関わり合って日々の業務を滞らせられない。 c.流入するニュースに関しては、その問題の記事が事実でない若しくは日本の治安を乱す恐れがない限り、その寛大な(自由な)政策は厳格に遵守される。 ・マッカーサーの占領政策に対する米国及び他の外国から発信された批判は、もし治安を乱す恐れが十分にあると見做されるのであれば許可してはならない。 ・連合国同士の批判は許可される。 ・中華民国に対する他国又は国内の共産主義者による批判は許可される。 ・連合国統治権下にある人民(訳者注:日本国民だけでなく朝鮮・台湾人等も含む)による皇室・天皇・政府に対する批判は許可される。 d. 日本の出版に於いて「星条旗新聞」に掲載の記事又は「軍ラジオ放送」の放送は、疑わしい記事のみをワドワース大佐を通して、その言葉通りに引用出来る。I&E(訳者注:GHQ民間情報教育局)経由で米軍部隊に行くニュースは、検閲してはならない。  これらの記事等に関する日本人のどんな論議でも、宣伝の観点等から通常の検閲手続きに引き続いて検閲を行う。全く治安を乱すもの或は事実でないと分類される星条旗新聞の記事又は軍ラジオ放送の放送は、日本人によって使われてはならない。しかしながらフーバー大佐(訳者注:CCD隊長)が記憶するこれまでに星条旗新聞に掲載され日本の新聞には掲載されなかったものは2つのみであり(未だ決まってない段階で発表された神道主義の撤廃と、朝鮮信託統治について)、その様な記事はごく少数と考えられる。 e.ロシア政府と米国の関係に関する論議は典拠がある事を条件に許可される。 f.日本の報道で許可された批判についての論評や雑誌記事は、日本軍国主義を称賛する資料の禁止を含めた現下の諸法律に違反していない限り、許可される。 g.国務省やその他の省庁から送られたものを含む流入する映画やニュース映画は、検閲を経て入荷する。 h.日本人は世界のどんな問題についてそれが特に日本での占領目的の遂行を邪魔しない限り、(非建設的ではない)批判を発し出版出来る。 その例としては: ・トルーマン大統領の米国での政策に関する記事 ・新聞記者自らが書いた、原子爆弾問題の解決の為の提言記事 ・日本人が書いた、占領下のドイツにおける占領軍の政策に関する記事5.検閲では寛大な方針が採用されるが、法螺話や些細な事を扇情的な話にすることを許す様に悪用されてはならない。6.最後に、検閲係官の健全な判断が基本的に必須である。疑わしい記事は係官部門にとっての価値に照らし、境界線上のケースとして国際的な外交関係者を巻き込んだ形でCCD係官に照会して、特に判断されなければならない。A.L.D. (文起草者のイニシァル)備忘録上記方針はソープ准将により1945年11月13日に承認された。A.L.D.

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    日本は占領期に何をされたのか

    70年前の連合国軍が、わが国の国会に乗り込んできたような光景だった。今年5月、野党がポツダム宣言を振りかざし、首相の歴史認識を問いただした場面である。彼らには先の大戦で敗れた日本人の気持ちが通じないのか。占領期の日本の現実を知れば、彼らの無知、妄言ぶりがよく分かる。

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    元民間出身校長 教育委員会と学校の親分・子分関係を問題視

     大津のいじめ事件を受け、政府は文科省内にいじめ問題に取り組む専門チームを新設した。しかし、教育界の構造的問題を放置したまま「いじめ対策」を掲げても、対症療法にすらならない。かつて東京都で義務教育初の民間人校長となり、辣腕を振るった藤原和博氏(東京都杉並区立和田中学校・前校長)が、淀んだ教育界に風穴を開ける策を提言する。 * * * 現在の教育システムの始まりは連合軍総司令部(GHQ)による教育改革だ。GHQは学校教育が日本の軍国主義化を推し進めたとして、権限を徹底的に分散。教育行政の主体を国から地方へ移譲しただけでなく、首長から独立した機関として教育委員会を設置した。自治体の首長は、自らの選挙で「教育は私の責任ではありません」と言って当選する人はいない。だが、現実は教育委員会に命令する権限がない。 つまり、実質的に国が教員の人件費の大部分を出し、都道府県・政令市教委の事務方トップである教育長が人事権を握り、自治体は学校の設置者として教材や施設などの責任を負うという、権限の3重構造が出来上がっている。これでは誰が最終的な責任を負うのか、よくわからない。戦前の小学校修身教科書 また、教委が独立しているということは、同時に閉鎖的であることを意味する。身内意識が強い中で純粋培養された教員がそのまま校長になるため、教育長(市区町村ではほとんどが校長経験者)と親分・子分の関係になりやすい。当然の帰結として、教育委員会と学校は馴れ合いに陥る。学校に問題が生じた時には「事なかれ」の意識が働く。隠蔽に走る背景には、構造的な庇い合い体質があるのだ。 戦後60年以上にわたり温存され、放置されてきた組織の構造的問題は、教育内容にも影を落としている。 効率重視の高度成長時代には、いち早く「正解」に到達する能力が重視され、学校教育は読み書き計算といった「情報処理力」の正確さを重視した。その成果として、優秀なホワイトカラーやブルーカラーが大量生産された。もちろん、その時代にはこれは正しかった。 しかし、すでに日本は「成長社会」から「成熟社会」へ移行した。多様で複雑化した成熟社会においては、問題に対して答えは一つではない。誰も正解を決められない以上、状況によって知識や教養を応用し、自分や周りの人が納得できる答え――私はこれを「納得解」と呼ぶ――を導くための「情報編集力」こそ必要とされている。 ところが、旧態依然たる構造的問題を抱えた組織のまま運営されている学校教育は、こうした本質的な社会変化に対応できていない。 教育内容にしろ、いじめ問題にしろ、一般社会の抱える歪みが、一番弱い学校という場所に噴出している。関連記事■ 夜回り先生水谷修氏 いじめで死者出たら学校関係者に処罰を■74人が死亡・行方不明になった大川小学校の悲劇に迫る書■ 大津市事件 ネットの義憤は教育現場の無責任さ助長しただけ■ 姿隠す大津いじめ担任 学校は「何喋るかわからない」と危惧■ 大津いじめに教育長「家庭に問題あるなら学校が騒いではだめ」

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    従属国家論~事実の隠蔽によるごまかしの「戦後意識」

    佐伯啓思(京都大学名誉教授) 《PHP新書『従属国家論』より》 戦後70年とわれわれはいいますが、それはいわば通称とでもいうべきものです。このことは大事なことで、戦後の基を作ったのは、1945年から52年までのこの占領期間だった。占領期間という、いわば「戦後」の準備期間があり、あるいは、一種の猶予期間があり、そこで「戦後」が作り出された。  サンフランシスコ講和条約において「戦後」が始まったとするならば、1945年の8月15日は何だったのか。それは、日本の「敗戦」が決定した日です。「敗戦」の日と「戦後」は決して一致しないのです。その間に広がるのは「占領」という特異な時間なのです。  だから、いってみれば、「敗戦」が、この期間をへて「戦後」へと作り変えられてゆくのです。そして1952年にそれを国際的に承認された。文字通り日本は国際社会に復帰し、戦後がスタートする。その意味でいえば、1945年8月15日は「敗戦の日」であり、1952年4月28日が「終戦の日」というべきなのです。  しかしそれを簡略化して、戦後は1945年8月15日に始まるとしてしまうと、戦後の基礎を作ったのがGHQであったという根本的な事実が見えなくなってしまうのです。  まさにこんなところに、日本人の通常の「戦後」意識が現われていて、GHQが作った「仮の戦後」とその後の「本当の戦後」がまったくひと続きになってしまっている。  これをひと続きにする心的なトリックは、GHQを、「占領軍」ではなく「解放軍」だと了解することでした。GHQは、軍国主義的支配から日本国民を解放した解放軍だったということです。  これがわれわれの大多数が持っている通常の「戦後意識」なのです。天皇が終戦の詔勅を出して戦闘が終わった。このときに、軍国主義から民主主義に変わった。ここに「戦後」が始まる、ということです。マイクの周りに黒山の人だかりができた街頭録音風景。「与えられた言論の自由」だった =昭和22年12月、東京・銀座  しかしそういってしまうと、GHQによって武装解除され、民主化がなされたといった事実が隠蔽されてしまう。  あたかも、「われわれが」自ら軍国主義を排除して、民主主義を打ち立てたかのように見えてしまう。実は、すべてはGHQが、もっといえば「アメリカ」が演出しているにもかかわらず。 「戦後」というドラマの主演役者は日本でも、演出を行ったのはアメリカだったのです。  それを、1945年8月15日を終戦の日として、そこから「戦後」が始まったとしてしまうと、あたかも、われわれ自身が、この日を契機に戦争を反省し、懺悔し、民主主義へと向かったかのように見えてしまう。  たとえば、戦後の代表的な政治思想家であった丸山眞男は、常々、この8月15日こそが「戦後民主主義」の原点であり、そこへ立ち戻るべきことを訴えていました。「復初の説」です。  また、憲法学者の宮沢俊義は、有名な「8月15日革命説」を唱えて、この8月15日に、軍国主義から民主主義への体制転換をはかる「市民革命」が生じたと見なすことできる、と述べたのでした。  こうして、「戦後」の出発点にわれわれはひとつの欺瞞を抱え込んだわけです。  端的にいえば、アメリカによって日本の戦後はつくられた、という事実を隠蔽した。それは、アメリカの占領政策や改革の良し悪しという次元のことではありません。それ以前の問題です。「戦後」を生んだのはアメリカだ、ということです。さえき・けいし 京都大学名誉教授。1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。滋賀大学経済学部教授などを経て、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専攻は社会経済学、社会思想史。おもな著書に『隠された思考』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ、東畑記念賞)、『現代日本のリベラリズム』(講談社、読売論壇賞)、『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書)、『反・幸福論』『日本の宿命』『正義の偽装』(以上、新潮新書)、『アダム・スミスの誤算』『ケインズの予言』(以上、中公文庫)など多数ある。 関連記事■ 『歴史の十字路に立って』―石原慎太郎、次世代の日本人へのメッセージ■ 池田信夫・戦後左翼はなぜかくも劣化したのか■ 従属国家論~日米戦後史の欺瞞(2)

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    コミンテルンが歪めた憲法の天皇条項

    江崎 道朗(日本会議専任研究員)女性宮家問題とヴェノナ文書 アメリカ国家安全保障局(NSA)が一九九五年に公開したヴェノナ文書には、いわゆる「女性宮家問題」の根本原因を解明する糸口がある。 ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期にアメリカ内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し解読した記録である。この機密文書の公開によって当時、アメリカ政府の内部にソ連・コミンテルンのスパイたちが大量に潜入し、戦前のアメリカ政府の対日政策だけでなく、戦後のGHQの政策にまで影響を及ぼしていることが、判明しつつある。 特に日本にとって重視すべきは、ヴェノナ文書を研究している歴史家のジョン・アール・ヘインズ氏らの業績だ。ヘインズ氏らは一九九九年、トーマス・ビッソンという著名なアジア問題の専門家が、「アーサー」というカバーネームを持つソ連のスパイであったことを突き止めたのだ(中西輝政監訳『ヴェノナ』)。 後述するように、トーマス・ビッソンこそがGHQの一員として現行憲法制定に際して「国民主権」論を確立し、いわゆる女系天皇を可能とする憲法解釈を生んだ張本人なのである。 周知の通り、現行憲法はアメリカ主導のGHQが日本に押し付けたものだ。 アメリカは真珠湾攻撃直後から戦後の対日占領政策について議論を始めている。そして一九四二年三月十七日、外交関係評議会の会合において元外交官のロジャー・グリーンが、軍部の特権を剥奪するために憲法を改正すべきだと主張した。公の席で対日占領政策との関連で日本の改憲について言及したのは、グリーンが最初であったと言われている。 グリーンは戦前、アメリカ世論を反日・親中国に変えるために大々的な反日宣伝を繰り広げた国民運動組織「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」の理事長を務め、日本を戦争に追い詰めた中心人物であった。そして、この「アメリカ委員会」の発起人の一人が、ビッソンなのである。コミンテルンの思想的影響下にあったアメリカ アメリカ国務省が正式に天皇問題について検討を開始したのは、一九四二年十一月九日のことだった。 きっかけは、国務省顧問のS・ホーンベック博士が国務省極東課に対して、天皇に関するアメリカ政府の方針を検討するよう要請したことだった。その際、ホーンベック博士は、ウィリアム・C・ラモット「戦後の日本はどうなるか」(『アジア』一九四二年十月号)と共に、『アメラシア』一九四二年十月二十五日号掲載のケネス・コールグローブ教授とケイト・L・ミッチェル女史の論文を参照するよう勧めている。『アメラシア』とは、アメリカ共産党の下部組織として創設されたアメリカ中国人民友の会の機関紙『チャイナ・トゥディ』を引き継ぎ、一九三七年二月に創刊された雑誌だ。当時、アメリカ共産党は「ソ連・コミンテルンとは無関係」と言い張っていたが、ヴェノナ文書によって、アメリカ共産党がソ連・コミンテルンの指示で対米工作をしていたことも判明している。『アメラシア』は、ソ連・コミンテルンによる対米宣伝工作の一環として発刊されていたわけだ。 そしてこの『アメラシア』編集部の中心者がやはりビッソンであった。ビッソンは一九三七年六月、『アメラシア』編集部として中国の延安を訪問し、毛沢東や周恩来にインタビューするなど中国共産党とも密接なつながりをもっていた。 当時ノースウェスタン大学政治学部長であったコールグローブ教授はこのような曰くつきの雑誌『アメラシア』において、「もしも天皇が、(政府・国会と軍部という)二重政治体制とともに存置されるならば、再び軍国主義の脅威が生じるだけであり、またもや次の大戦を招来することになろう」と指摘し、「天皇制」廃止を検討すべきだと示唆した。一九四五年三月にソ連のスパイ容疑で逮捕された同誌編集委員のミッチェル女史は「多くの日本問題研究者は、日本における天皇制存置は政治上の民主主義の発展と相容れないものであり、今日、日本の政策を支配している侵略的帝国主義的野心の再現を必然的にもたらすことになると信じている」と指摘し、天皇を擁護するジョセフ・グルー大使らを厳しく非難していた。戦後、心斎橋戎橋商店街に掲げられた「新憲法實施記念」の看板 国務省極東課は、謂わばソ連・コミンテルンの対米宣伝雑誌に掲載されたこの二つの「天皇制」廃止論を参考にしながら対日占領政策の検討を始めたわけだ。ちなみに、この時ホーンベック博士を補佐していたのがアルジャー・ヒスだ。ヒスはヴェノナ文書によってソ連のスパイであることが判明しており、ホーンベック博士が『アメラシア』を参考にするよう極東課に勧めたのは決して偶然ではない。 そして昭和二十年十一月、国務省は、日本の憲法改正の基本方針を明記した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)という政策文書を作成する。この文書では、日本に改憲をさせる目的を、「日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを奨励支持しなければならない」と定めている。国務省は、日本人の手で「天皇制」を廃止させるか、または民主主義的な「天皇制」へと改革するため、憲法改正をさせるべきだと決定したのである。「天皇制」を解体するために現行憲法は押しつけられたのだ。日本政府の果敢な抵抗 国務省のこの文書は昭和二十一年一月七日、アメリカ政府の方針として正式に決定され、この方針に基づきマッカーサーは二月三日、GHQの民政局に対して日本国憲法改正草案の作成を指示した。 民政局が僅か十日で英文の改憲草案、いわゆる「総司令部案」を完成させると、GHQは二月十三日、日本政府に対して「前年十二月に創設された極東委員会においてソ連は天皇制廃止を主張している。ソ連の主張を跳ね除けるためにも、『総司令部案』に基いて憲法を改正すべきだ」と強く迫った。 日本政府は既に独自の改憲草案(いわゆる松本案)を作成していたが、二月二十二日、GHQの「総司令部案」に沿って憲法を改正する方針を閣議で決定した。そして二十七日に内閣法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長を中心に日本政府案の作成に着手し、三月二日までに日本語で「三月二日案」を作成した(憲法草案条文の変遷については、内閣憲法調査会『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』が詳しい)。 その際、日本政府がしたたかだったのは、英文の「総司令部案」を直訳するのではなく、問題のある条文はできるだけ削除し、削除できない条文も日本側に有利に解釈できるような日本語に書き換えたことだ。天皇に関わる条文だけでも以下の七項目を改編している。 ・前文については、「我等日本国人民ハ(中略)此ノ憲法ヲ制定確立ス」との一節が、「憲法改正は天皇の発議・裁可によって成立する」という帝国憲法の原則に反しているという理由で、すべて削除した。 ・第一条の「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」(以下、傍線筆者)については、「人民ノ主権意思」を「日本国民至高ノ総意」と書き換え、「之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」を削除した。もし「皇位は人民の主権だけに基く」という趣旨のこの一節が残っていたら、皇室のあり方を皇室の伝統に基いて考えていくこと自体が否定されてしまった恐れがあった。 ・第二条の「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範ニ依ルヘシ」については、皇室典範は皇室の家法であり、その発議権は天皇に留保すべきであるとの考え方から、「国会ノ制定スル」を削除した上で、「第百六条 皇室典範ノ改正ハ天皇第三条ノ規定ニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案ト同一ノ規定ニ依リ其ノ議決ヲ経ベシ」を追加した。 ・第三条は天皇と内閣、天皇と政治との関係についての条項で、総司令部案にはこう書かれていた。「国事ニ関スル皇帝ノ一切ノ行為ニハ内閣ノ助言と承認(advice and consent)ヲ要ス而シテ内閣ハ之カ責任ヲ負フヘシ。 皇帝ハ此ノ憲法ノ規定スル国家ノ機能(state functions)ヲノミ行フヘシ彼ハ政治上ノ権限ヲ有セス又之ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ。皇帝ハ其ノ機能ヲ法律ノ定ムル所ニ従ヒ委任スルコトヲ得」 日本側はこの条文を二つに分け、前半を第三条、後半を第四条にした。その上で第三条の「内閣ノ助言ト承認」という表現については、大日本帝国憲法の「輔弼」という言葉に書き換え、「天皇ノ国事ニ関スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス」とした。内閣は、天皇の行為を補佐すべきであって、目下の者に対するように「助言と承認」を与えるべきではないとの考え方からである。 後半の第四条は「天皇ハ此ノ憲法ニ定ムル国務ニ限リ之ヲ行フ。政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ。天皇ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得」とした。天皇が国家の歯車であるかのような響きを持つ「国家ノ機能」という言葉は「国務」に、「機能」は「権能」にそれぞれ書き換えることで、天皇が「国務を行う権能」を持っている表現に変更した。 日本がポツダム宣言受諾を決めることができたのは、昭和天皇のご聖断のおかげである。もし天皇が国務に関する権能を失ったなら、国家存亡の際に日本はどうなるのか、というのが当時の日本の指導者たちの共通の思いであった。外国人参政権付与も回避外国人参政権付与も回避 ・第三章の「国民の権利と義務」では、総司令部案第十二条の冒頭に「日本国ノ封建制度ハ終止(cease)スヘシ」という表現があったが、削除した。この一文が残っていたら、廃止すべき「封建制度」とは何かという議論が巻き起こり、日教組などから「国旗日の丸も国歌君が代も封建制度の名残りだ」などと批判され、廃止される事態になったかもしれない。 ・国会議員や地方議員など公務員の選定及び罷免の権利について総司令部案は「第十四条 人民(the people)ハ其ノ政府及皇位ノ終局的決定者ナリ彼等ハ其ノ公務員ヲ選定及罷免スル不可譲ノ権利ヲ有ス」となっていた。額面通り読めば、「国会議員や地方議員の選出も皇位の決定も人民の権利」ということになってしまう。このままだと、「天皇が皇位を継承するに際しては、在住外国人も含む人民投票でその可否を決定すべきだ」とする左翼学者の主張が政策として採用されてしまう恐れがあった。 幸いなことに当時の吉田茂外相(後の総理大臣)がこの一節を問題視し、三月六日午後、ホイットニー民政局長に直接申し入れ、その変更について了解を勝ち取っている。その結果、「人民ハ其ノ政府及皇位ノ終局的決定者ナリ」は削除され、公務員の選定の権利は「国民」にあるとした。この変更がなければ、永住外国人に参政権を付与することも合憲となっていたわけで、吉田茂首相の慧眼に感謝すべきであろう。 ・皇室財産の取り扱いについても論議になった。総司令部案は「第八十二条 世襲財産ヲ除クノ外皇室ノ一切ノ財産ハ国民ニ帰属スヘシ」として、皇室財産は世襲財産を除いてすべて国家が没収するという厳しいものであった。日本政府は、国家による没収を定めた一節を削除し、「第九十六条 皇室経費ニ関スル予算ハ国ノ予算ノ一部トス。世襲財産ヲ除ク皇室財産ニ付生ズル収支亦同ジ」と規定するに留めた。民政局による第一次介入 このように日本政府は「三月二日案」を作成し、三月四日午前、松本烝治国務大臣と佐藤達夫法制局次長がGHQの民政局に提出したが、民政局は、日本政府による書き換えを問題視した。以後、民政局は天皇条項だけでも三回にわたって介入を繰り返した。 第一次介入は、日本政府が「三月二日案」を提出した四日の夕方から翌五日午後まで行われた。民政局次長で憲法改正を担当したチャールズ・ケーディス陸軍大佐は日本の「三月二日案」が「総司令部案」と異なっていることに気づき、法制局の佐藤次長を引き留め、その場で修正協議を始めた。徹夜の協議の結果、主として次の四点が大きく変更された。 ・「日本国民ハ(中略)憲法ヲ制定確立シ」とする前文がすべて復活した。 ・第一条の「天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス」が「日本国及其ノ国民統合ノ象徴タルベキコト」に変更された。「地位ヲ保有ス」との表現だと、天皇が今までの姿をそのまま維持すると解釈されてしまう恐れがあり、それは「天皇の地位を根本的に変える」というGHQの意図に反するとの考えからである。 ・第八十二条の「皇室典範の発議権を天皇が留意する」という日本政府の提案は否定され、第二条に「国会ノ議決ヲ経タル皇室典範」という言葉が追加された。民政局は、天皇の発議権を認めるつもりはなかった。この旨を三月五日、幣原総理が昭和天皇に報告したところ、「今となっては致し方あるまいが、皇室典範改正の発議権を留保できないか」と話されたという。 ・皇室財産については、「すべて国に属する」という趣旨が復活し、あくまで皇室財産を没収する方針が強調された。 かくして三月五日の夕方までに民政局による改悪を経て「憲法改正草案要綱」が完成し、翌六日、政府から公表された。 その後、国語の平易化運動を進めていた「国民の国語運動」(安藤正次代表)が幣原首相に「法令の書き方についての建議」と題する意見書を提出した。これをきっかけに政府は四月二日、GHQの了承を得て、ひらがな口語体による憲法改正草案の作成を始めた。 佐藤法制局次長とケーディスらとの協議と並行して、白洲次郎中央連絡事務局次長と外務省の萩原徹条約局長がホイットニー民政局長と会談し、・条約の締結に際して戦前と同じく天皇が署名をして御璽を押す「御名御璽」を慣行として続けることと、・天皇の国事行為を規定する第七条に「八 批准及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」を追加することを認めさせた。その結果、戦後も天皇は対外的に元首として振る舞うことができるようになった。 戦後、一部の憲法学者は「天皇は象徴にすぎない」と主張したが、条約への署名や外交文書の認証とそれに伴う外国の賓客の接遇を通じて、国民は「天皇は実質的に国家の代表である」との天皇観を持つことができるようになった。民政局による第二次介入 政府が口語体による「憲法改正草案」を公表した翌日の四月十八日、「口語化された草案の字句について異議がある」として民政局は日本側を呼び出した。 ケーディスは内閣による助言と承認に関連して、「第三条と第七条にあるapprovalを日本政府は同意と訳しているが、この言葉の意味について日本人に聞いたところ、同意は対等な二者の間で用いられるようだ。しかしGHQの意図は『内閣が天皇の上に立つ』という意味だ」として、右の拳を高く挙げて「これが内閣」、左の拳をその下のほうに置き、「これが天皇」と言った。激しい口調に驚きながらも佐藤法制局次長は「同意は民法で、三十歳以下の息子の結婚に家長が同意するという場合に用いられており、ここでは明らかに対等の関係ではない」と反論した。結局三十時間にわたる長い議論の末、民政局が示した「承認」という言葉を採用することになった。 次にケーディスは「advice なる言葉は補佐と訳されているが、これはassistanceの意味にして補佐とは下位の者より上位の者に対してのみ言い得ることなので、例えば忠告と修正してはどうか」と述べた。佐藤次長は「忠告」に難色を示し、結局、「補佐」を「助言」に変更することになった。 ケーディスが「内閣による助言と承認」にこれほどまでにこだわったのは、天皇の地位を内閣の下に置くことが日本の民主化のために必要だという認識があったからである。 その背景には、当時のアメリカ政府が「日本が侵略戦争をしたのは、天皇を中心とする軍国主義者たちが権力を持っていたからであり、日本に平和な政府を構築するためには、天皇の政治権力を制限することが必要である」との誤解があった。敢えて「誤解」だというのは、日本が大東亜戦争をせざるを得なかったのは、ソ連の南下政策と中国大陸の混乱、欧米の対日圧迫外交によるものであって、日本の政治体制が主因ではないからだ。 にもかかわらずアメリカ政府が、天皇制こそ侵略戦争の原因だと誤解したのはなぜか。「日本において一八六八年以後に成立した絶対君主制は、その政策は幾多の変化を見たにもかかわらず、無制限の権力をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧および専横支配のための官僚機構を間断なく作り上げてきた」(一九三二年テーゼ)というコミンテルン史観の影響を受けた雑誌『アメラシア』の論調を参考にして対日政策を立案したことが一因であろう。ビッソンと、民政局による第三次介入 民政局の第二次介入で「内閣による助言と承認」へと変更させられた「帝国憲法改正案」が衆議院に提出されたのは昭和二十一年六月二十日のことであった。 この間、四月十日に衆議院選挙が実施され、日本社会党が九十六議席を獲得するなど躍進を見せ、五月三日には東京裁判が開廷、十九日には皇居前広場で「米よこせデモ」が行われるなど情勢は騒然としていた。東欧情勢をめぐって米ソの対立も顕在化し、ソ連は極東委員会を通じてアメリカ主導の占領政策に対しても干渉を強めていく。 衆議院で憲法改正の審議が始まった七月二日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、現行憲法が盛り込むべき原則を初めて示した。委員会内ではソ連やオーストラリアなどが天皇制否定論を叫んでおり、現行憲法制定を通じて「天皇制を廃止するか、または天皇制をより民主的な方向で改革する」ことをGHQに要求したのだ。 この極東委員会の方針を踏まえて動き出したのが当時民政局顧問として来日していたビッソンと、マッカーサー司令官の政治顧問のコールグローブ教授であった。二人は民政局のサイラス・ピークと共に七月十一日、ホイットニー民政局長に対して「覚書」を提出し、次のような要請を行ったのだ。《帝国憲法改正案の第一条は、英文では明らかに「天皇の地位は人民の主権的意思より生ずる」と述べている。しかし、日本語では「天皇の地位は、日本国民の至高の総意に基く」となっていて、「主権」は「至高」に変えられてしまっている。 第四条では、天皇は「政治に関する権能を有しない」と述べている。しかし日本語訳によれば、天皇は国務に関する権能を行使できることになっている。 よって、日本人民の自由に表明された意思に基づく真に民主的な政府への道を切り開くよう、条文が改正されることが絶対に必要だ》(要旨。全文は『ビッソン日本占領回想記』参照) ビッソンらの要請を受けて、民政局のケーディスは直ちに行動を起こす。第三次介入の始まりである。 七月十七日、ケーディスは憲法担当の金森徳次郎国務大臣らと会談し、「憲法草案が、アメリカ側が意図したよりも遥かに保守的に解釈されている模様で気にかかる。日本政府に、天皇の地位は『日本国民の至高の総意に基く』を『主権の存する日本国民の総意に基く』へと代えてくれる意思はあるか」と尋ねたが、金森は「至高」が適当であると反論した。 七月二十三日、ケーディスは再び金森に会って「『主権在民』という考え方はどこかで必ずはっきり述べておかなければならない。特に第一条の最後の部分に『国民に主権がある』という語句を入れるように」と具体的に示した。金森は「そうした変更は難しい」と反論したが、ケーディスは納得しなかった。 その後も七月二十六日、二十九日の会談でケーディスは日本政府に「主権が国民にある」とはっきり書くように圧力をかけた。最終的に日本政府は「至高」をやめて「主権」を採用し、第一条は「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となった。 あわせて、天皇が「憲法の定める国務」に関して「権能」を有すると解釈できた第四条も、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる」と書き換えさせられてしまった。女系天皇の根拠を作ったビッソン女系天皇の根拠を作ったビッソン ビッソンらは七月十一日付「覚書」で、もう一つ、問題提起をしている。《第九十四条において、日本の官僚たちは、「この憲法並びにこれに基いて制定された法律及び条約は、国の最高法規とし」という形で、憲法と同等の地位にあるとみなされるべき法律の存在を明確にしている。 そして第九十六条(現行憲法第百条)は、憲法とともに特別な地位を与えられる法律は施行前に制定することができるとしているが、これらの法律の範囲と性格に何ら制限を加えていない。しかも憲法と共に特別な地位を与えられるために施行前に制定される法律として日本政府は、皇室典範などを考えているようだ(実際、日本政府は、皇室典範を憲法施行前に制定した)。 もし第九十四条の規定のまま、皇室典範などが施行前に制定されたら、皇室典範など多くの法律が憲法と同様に国の「最高法規」となり、現行憲法の適用除外の分野が拡大することになる。よって一連の法律の合憲性を判断する最高裁判所の権限は、大幅に縮小されることになるだろう》(要旨) ビッソンらのこの要請も民政局に採用され、第九十四条の「この憲法並びにこれに基いて制定された法律及び条約は、国の最高法規」の傍線部は削除され、憲法と同じく最高法規となる法律の存在は許されないことになってしまった。 この変更も、日本にとって大きなダメージとなった。大日本帝国憲法では「皇男子孫之ヲ継承ス」として男系男子による皇位継承を定めていた。しかし、現行憲法は「世襲」と規定するだけで、男系による皇位継承の原則の規定は新皇室典範(「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」)に移された。 もしビッソンの介入がなければ、新皇室典範も憲法と同等の最高法規であり、「皇位継承は男系男子による」という原則も最高法規となっていたはずなのだ。しかし新皇室典範が憲法の下位法となってしまった結果、憲法の男女平等条項に基いて「女系継承もありうる」との解釈が成立してしまう余地が残ってしまった。そしてそれは現実となった。 ビッソン介入から五十五年後の平成十三年六月八日、時の福田康夫官房長官が憲法の男女平等条項を踏まえ、「皇統とは男系及び女系の両方の系統を含む」と答弁し、「男系男子による皇位継承」という政府解釈を変更してしまったのだ。この変更により、小泉内閣は女系天皇を認める報告書を出すことができた。 このようにビッソンらによって現行憲法は「日本の国柄」を歪める方向へ更に改悪された。 第一に、「天皇は国務に関する一定の権能を有している」との解釈が成り立たないようにしてしまった。 第二に、「国民主権」が現行憲法の基本原則となってしまい、皇位について左右できる権限が国民にあるかのような余地を残してしまった。 第三に、新皇室典範を現行憲法の下位法とすることで、憲法の男女平等条項に基いて皇室の伝統、特に男系継承の原則を歪める可能性を生じさせた。 その狙いは何か。ビッソンは、アメリカ政府の対日政策に大きな影響を与えた太平洋問題調査会(IPR)の機関誌『パシフィック・アフェアーズ』一九四四年三月号で次のように指摘している。《日本国民が天皇にそむき、天皇を退位させるならば、その行為は賞賛され、支持されなければならない。もしも彼らがそうしないのならば、彼らが必ず黙従すると考えられる根拠があり次第、彼らに代わってただちにその措置をとらなければならない。「そのような方針は連合国がとりうるものではない。なぜならば、それはきわめて微妙な問題であり、天皇崇拝は、日本国民の意識の中にあまりにも深く根をおろしているからだ」という主張もあろう。こういった反対論に対する答として言えば、だれひとり、一日とか一ヵ月かのうちに、あるいは米国軍政府の命令によって成果を挙げることは期待していない。深部からの革命による以外には、一夜にして成果をもたらすことはできないであろう》(『資料 日本占領・ 天皇制』) ビッソンは、日本人民をして天皇制を打倒させるような「深部からの革命」を起こさせるため、現行憲法の天皇条項を改悪することに奔走したのである。十一宮家の皇籍離脱を促した現行憲法 ちなみに現在、男性皇族が少ないことが問題となっているが、敗戦直後の十一宮家の皇籍離脱がなければこうなっていなかったかもしれない。そもそも、なぜ十一宮家は皇籍離脱をせざるを得なかったのか。その要因の一つとして、現行憲法第八十四条によって皇室財産はすべて国に没収され、多くの宮家を維持できる経済力がなくなってしまったことが挙げられる。 皇室財産についても民政局と日本政府との間で激しいやり取りがあったが、最終的に「第八十四条 世襲財産以外の皇室の財産は、すべて国に属する」という形で衆議院に提出された。 この条文の解釈について衆議院提出前の昭和二十一年四月九日と十二日に、ケーディスと日本政府の間で協議が行われた。民政局は、・「国に属する皇室財産」とは株券や御料林など収入をもたらす財産であり、・国に属さない「世襲財産」の中には三種の神器以外にも若干の私的財産が入ると解釈することを認めた。また、皇室に対する経済的特権が廃止されることを受けて「天皇が皇族に対して経済支援をすることは構わない」との言質も民政局から獲得している。 ところが衆議院審議中の八月、極東委員会の指摘で「世襲財産を除く」との一文が削除され、「すべての皇室財産は、国に属する」と改悪され、全皇室財産が国に没収されることになった。 皇室が世襲財産を維持して経済的に自立できていれば宮家の維持は可能であり、十一宮家も皇籍を離脱せずに済んだかもしれない。極東委員会は皇室を経済的に追い詰め、将来、国民の手で「天皇制を廃止」できるよう、天皇条項の改悪に成功したのである。天皇条項について六つの留意点 このように昭和二十一年二月から八月にかけて日本政府はGHQを相手に、憲法の天皇条項をめぐって熾烈な思想の戦いを繰り広げた。ビッソンらによる介入がなければ、戦後の皇室の姿は現状とは大きく異なり、女系天皇、女性宮家といった議論も起こらずに済んだかもしれない。少なくとも、このような視点を踏まえて、皇室についての議論は進めていくべきである。 独立回復六十年の今年、自民党とたちあがれ日本が改憲草案を公表し、改憲論議のさらなる活発化が予想される。今回紹介した現行憲法制定史を踏まえ、天皇条項を検討するに際しては最低でも次の六点に留意すべきだ。 第一に、「主権」の存在だ。当時の日本政府はビッソン介入によって「国民主権」を強制されたあとも、「主権は天皇と国民の協同体にある」(芦田均)との解釈を打ち出すことで「君民一体の国柄は不変である」との最後の一線を守ろうとした。この思いこそ引き継ぐべきであり、ビッソンらソ連のスパイの産物である「国民主権」に拘泥すべきではない。 第二に、皇室の家法という原点に立ち戻って皇室典範改正の発議権を皇室に認めるようにすべきだろう。 第三に、皇室典範を憲法と同等の存在に置くべきだ。そうすれば、男女平等など現代の価値観に振り回されることなく、「皇位は男系男子が継ぐ」という皇室の伝統をしっかりと守っていくことができる。また、憲法の政教分離規定に制約を受けることなく、宮中祭祀を行うことができるようになるはずである。 第四に、GHQから強要され、やむなく「内閣による助言と承認」という言葉を使っているが、この言葉を誤読して、あたかも天皇が内閣の下にあると勘違いする政治家が出てきたことを考えたとき、天皇は元首であることを明記すべきだ。 第五に、国政と天皇の関係だ。政党間の政争に関与されるべきではないが、他国の君主と同じく国家の重要事について天皇に一定の権能をもっていただくことは必要ではないか。東日本大震災での天皇陛下のご発言が国民を大きく励ましたことを思い起こすべきだろう。 第六に、皇室が一定の財産を保持できていれば経済的理由での十一宮家の皇籍離脱は避けることができ、男性皇族がここまで減少することはなかったかもしれない。今後、宮家の拡充が必要であることを考えるとき、皇室の経済的自立を縛る規定は削除すべきだ。 わが国の将来像を考えるにあたっては、占領下でありながら当時の日本政府がGHQ、そしてビッソンらと果敢に戦った歴史を学ばなければならない。えざき・みちお 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌「祖国と青年」編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、現在政策研究を担当する専任研究員。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。