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    日本共産党への警戒を緩めるな

    はその政治信条では自民党と余り変わらないが、共産党は共産主義というイデオロギーに基づく世界観を有した政党だ。イデオロギー色は少なくなったが、同党が共産主義思想を破棄したとは聞かない。 日本の有権者は共産主義の実態を理解しているのだろうか、と懸念する。冷戦時代、東西両欧州の架け橋的な位置にあったオーストリアは共産主義諸国の実態を間近に目撃してきた。連日、旧ソ連・東欧共産政権から人々が命がけで逃げてきた。オーストリアは冷戦時代、200万人の政治難民を収容した。だから、大多数の国民は共産主義が間違った思想であり、国民を幸福にしないことを教えられなくても知っている。 オーストリアにも共産党は政党として存在するが、国民議会で戦後、議席を獲得したことがない。国民は共産党を信頼しないからだ。一方、日本はどうだろうか。共産党が政権への批判の受け皿になった、ということは何を意味するのだろうか。繰り返すが、共産党の歴史観、世界観、人間観が人間を幸せにしないことは実証済みだ。 多分、日本の有権者の中には、共産党イデオロギーを支持はしないが、与党批判の声として票を投じた国民が多くいたのだろう。冷戦を身近に体験してきた当方は日本の共産党が正式にその思想から決別するまで警戒を解くべきではないと考えている。(ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より)

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    自民党が勝ったわけではない 「普通の感覚」の勝利だ 

    古谷経衡(著述家)総選挙の結果を振り返る 総選挙が終わった。自民党が2議席減、公明党が4議席増で自公政権全体で2議席増と、当初「微減」も囁かれた自公政権にとっては現有議席を積み増す「大勝利」となった。一方、投票率は過去最低を更新した。  今回の選挙をどうみるべきか。それは「安倍政権を積極的に全肯定はしないが、強く否定はしない。でもあんまり過激なのは駄目だよ。とりあえず2年じゃ分からないから、もうしばらくやってみては」という事に尽きる。 要するに日本人は、微温的に「現実路線を選んだ」という事だ。 第二次安倍政権が発足してから未だ2年。アベノミクスの光と影、等と言われることが多いが、経済政策は安定的で統一的な政策が長く続いてこそ、遅効的にその効果が確認できるというもの。2年で経過時点ではそもそも判定のしようがない、というのが正直なところだ。 だから、私は今次の総選挙に「大義がない」とよく言われたことについては概ね同意だった。どう考えても争点が希薄だった。だって「たった2年で何を判断しろというのか」というのが、率直な感想だったからだ。 それでも政権与党が衆議院を解散し、国民に信を問うた。国民の側としては、「いまだ判断材料が足りず、よって黒とも白とも判断できないから、とりあえず継続してみたら」という、消極的だが微温的な現政権への信任という回答が返ってきた。「2年という時間で或る政権の良し悪しを判断するのは無理」というのは、至極現実的で常識的な判断だと思う。平成期、ほぼ1年毎に政権が変わってきた、これまでのあり方が明らかに異常だった。 政権への判断基準は、明らかに「政策」ではなく「失言」とか「イメージ」だった。或いは、世論と関係のない党内力学といった「政局」の結果だった。誠に不健康な政治情勢が続いた。常識のレンジ(間隔)の範囲内で ここに来てようやく有権者は、現実の皮膚感覚に見合った「普通の感覚」で、腰を据えて政治を見るようになってきた。今回の総選挙を一言で締めくくるとすれば、それは日本人が常識的に併せ持つ「普通の感覚」の勝利だといえる。「自民党より右」を標榜して選挙戦を戦った次世代の党が、壊滅的状況となり、野党の中で「一人負け」をしたことも、この「普通の感覚の勝利」を大きく証明することだと思う。 公明党をぶっ潰せ、とか外国人(在日朝鮮人など)の生活保護受給批判、などの主張は、政治的にニュートラルな多くの日本人にとっては「過激」と映った。一部のネット空有では「スタンダード」な言説であっても、市井の日本人にとってそれは普通ではない。 これだけネット社会が拡大し、細分化した「島宇宙」にようになっているネット空間の中の、とりわけ保守的な言説を選択して選挙戦で主張した(ように見える)次世代の党のやり方は、多くの日本人の「普通の感覚」からは乖離していた。 さらには、次世代の党の主張の中には、例えば生活保護に関してそもそも事実と異なる主張も散見された。有権者は冷静に、そのあたりの誠実さの有無を見抜いていたのだろう。全く賢く、常識的で、「普通の感覚」が有権者をして投票所に向かわせたと断言するよりほか無い。穏健な「保守」政権の継続を 安倍内閣の政策には、良い部分もあるが、と同時に様々な問題もある。しかし、だからっと言って、100点ではないから、を理由に使い捨てライターの如く、次から次へと首の挿げ替えを行っていては、「安定的で一貫性のある政策」を実行することは出来ない。だからとりあえず、「経過観察」を続けよう―。 この常識的な理屈が、有権者の中に共有されていた「普通の感覚」なのだ。有権者は、極端なものや過激を嫌い、常識的で微温的で穏健な「保守」を支持した。このことは、間違いのない議席となって今次選挙で証明されたのである。 どんどん、世の中の全てのサイクルが短くなっている。映画もアニメも短いものが好まれるようになった。短期間で結果を出すことが殊更強調されるようになった。 一日の長さは太古の昔から変わっていないのに、我々はより短いもの、より短い期間での判断を求めるようになっている気がする。物事がどんどん短くなり、人々は長いものや長いことに我慢ができなくなり、せっかちになっている。このような風潮は、確実に政治や政治家に、短期間での結果を求めがちな風潮に繋がっていると思う。 今次の選挙は、このような風潮に歯止めがかかった、と言える。腰を落ち着けて物事を判断しようという、当たり前の事に有権者は漸く気がついたのかもしれない。 これから発足するであろう、第三次安倍政権には、こういった「普通の感覚」を背に、極端でも過激でもない、常識的で微温的で穏健な「保守」政権として進んでもらいたいと思う。 今次選挙は、自公政権が勝ったのではない。日本人の中にある、「普通の感覚」が勝利したのだ。

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    「靖国参拝党」をつくってみませんか

    平成8年から導入された小選挙区制により、幕を開けたはずの「二大政党」対決の構図が崩れつつある。日本の政党政治はどこへ向かうのか。もし、あなたが「二大政党」を考えるなら、どんな線引きをしますか。

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    二大政党制じゃなくてなぜ悪い!?

    古谷経衡(著述家) 日本では二大政党制というのは中々定着しない。「55年体制」に於ける自民党と社会党だって、二大政党制とは程遠かった。「二大政党」というには余りにも社会党の議席が小さすぎたし、そのせいで政権交代の可能性がなかった。アメリカやイギリスなどは、4~8年位のスパンで、明確に温度差のある二つの政党が交代を繰り返しているが、このようなダイナミック性が日本政治にはあまり観ることが出来ない。 私は日本において二大政党制が定着しないことは、全く悪いコトだと思わない。寧ろ、白黒をはっきりさせず、微温的な支持で政権が選択されること自体は、物事を常に中間で観るという志向が定着しているからで、健全な感覚に近いと思う。 アメリカの共和党や民主党は、個別の政策という以上に、明らかに人生観や倫理観の違いが本質的な対立点になっている。同性婚の是非、人工妊娠中絶の是非云々、というアメリカの保革の両極で熾烈な争点になりがちなイシューは、個別の政策というよりもそれらを支持する人々の宗教観を背景にしたものである。日本にはこのような、宗教観を背景とした人生や倫理を問う話題が、真っ二つに分裂し、そこに党派性が宿るという事例は、ほとんど観られない。 日本で見られる保革の両極による熾烈な激突は、例えば憲法「9条」問題に観ることができるが、実際には9条の改正については、自民党、維新の党、次世代党などが「改憲」、公明党が「加憲」、民主が「創憲」と、現状の国会における議席の、9割近い議席を占める各党が、現行憲法に対して何らかの形での変化を望んでいることからも、実際にはその方法論はともかく、「国論を二分する状態」になっているとは言いがたい。 日本における護憲政党はわずかに共産・社民・生活などの少数野党で、この全部を合計してもかつての社会党の議席にも遠く及ばない。日本の有権者は常に、極端で過激な主張を嫌い、中間的で微温的な意見に耳を傾けているからだ。 それでも、「もし二大政党制が日本で実現するとしたら」を想像するのは楽しい。日本で、両者が激突する熾烈なテーマというのは何だろうか。 例えば「モテ党」と「非モテ党」というのはどうだろうか。前者は異性に不自由しない人々の団体で「一夫多妻制法案」や「重婚解禁法案」を提出する。他方、異性にモテない後者の団体は、「童貞軽減税制」や「クリスマス禁止法」の制定を求める。国会内で大激論が交わされるのは必至だし、時として流血の事態にすら成るかもしれない。 更に進めば「猫党」と「犬党」というのも大きな対立点だ。基本的に猫や犬を飼っている人間というのは、自分の飼っている動物が「世界で一番カワイイ」と信じ込んでいる。そこへきて、「猫飼育優遇税制」、「犬飼育優遇税制」などが提起される。限られた予算を、犬と猫で奪い合うという骨肉の争い。こちらも大紛糾に成るだろう。 少し真面目な話に戻せば、「持ち家党」と「借家党」。これは大きな対立点になりうる。「持ち家党」は固定資産税の減免と住宅ローン減税を求める。持ち家のバリアフリー化や耐震診断や補強工事を100%国が助成せよと迫る。とにかく土地所有者に有利な法整備をどんどん提言する。自身が大家になる場合もあるから、所謂「敷金訴訟」などは、徹底的に大家側の味方だ。 一方、「借家党」は国による公営住宅の増設やURの入居審査の緩和、借地借家法の更なる弾力化と、特定優良賃貸住宅の入居基準の緩和と物件数の拡大などを要求する。「敷金訴訟」では、預けた敷金の倍額を慰謝料で払え、等という無茶苦茶な大家への濫訴も支持する。礼金や保証金を法律で禁止し、「更新料」を廃止し、家賃値上げ訴訟の場合、弁護士費用は無料にしろと主張する。違反した大家や仲介業者には熾烈なパナルティーを課す。とにかく借り主に有利な法整備をどんどん提言する。 恐らく、これこそが最も大紛糾に陥るのではないか。土地持ちの老人と、もたざる若者の間で本格的な世代間闘争が勃発し、全国各地で粗暴事件や訴訟が激増するだろう。 やっぱり、「二大政党制」は無い方がいい。

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    「派閥の政党化」が2大政党制へのカギ

    くから地盤固めをしっかりしてきた自民党が抜きん出た格好だ。 第三極は沈没し、民主党は伸び悩んでいる。政党政治としてブレていないのは結局、共産党だけ(だからといって、政権担当能力があるというわけではない)というのが透けて見えるのが分かる。 政権交代を可能とした小選挙区制度。確かに、過去に政権交代は起きたが、非自民党政権は長くは続かず、今回の衆院選でも「民主党はノー」という“民意”が突きつけられそうだ。現在の自民党に反対したいのに、投票先がない、野党で受け皿がない。そんな声をよく耳にする。本来、片方がダメならもう片方に任せようとなるのが、2大政党制の持つ意味だからだ。つまりいまなお、日本には自民党に代わる政権担当能力を持つ政党がないということに他ならない。だとしたら、どのような政党であれば、2大政党制が安定して続けられるのだろうか。 2大政党制に関しては、たとえば外交・防衛のスタンス、経済のスタンスなどで振り分けられる。米国の共和党と民主党は、前者が小さな政府、後者が大きな政府(ざっくりとした分け方ですが)を求めている。はっきりした差異が2大政党制には必要で、現在の日本の与野党ではこの差が分かりづらい。それが2大政党制を困難にしている要因の一つだろう。 たとえば、現在の野党を見てみれば分かりやすい。次世代の党は元自民党の石原慎太郎氏、平沼赳夫氏が先頭で引っ張っているが、石原氏は元青嵐会、平沼氏は元師水会で、いずれもタカ派路線。右寄りの議員が多く、安倍首相に近い。 維新の党は、新自由主義を目指し、地方分権、霞が関改革、議員定数削減などを掲げており、経済政策の面で見れば、より強烈なアベノミクス推進だ。 一方、民主党は複雑だ。リベラル保守の色合いを持つものの、ご存知のとおり支持母体に連合があり、旧社会党系の議員もいることから左寄りの政策も出たり、かといえば、松下政経塾出身者による新自由主義寄りの考えを打ち出すこともある。 生活の党、社民党はイデオロギーで異なるものの、政策面では左寄りで似かよっている。 つまり、左寄りの政策か、極端に右に振れているか、それともどっちつかずかが、現在の野党だ。これでは、非自民党の受け皿が見当たらないという有権者の悩みは当然とも言えるだろう。 つまり、リベラル保守が決定的に欠けている。この解決の道は、「派閥の政党化」がカギではないか。これまでの歴史を振り返ってみれば、自民党の派閥による政権たらい回しだった。非自民党政権を樹立したのも、小沢一郎という元自民党の“剛腕”あってのことだった。つまり、自民党で経験した人が中心となって、違った政党で競い合っていく。 ことさら自民党が優れているということではない。しかし、政権を担当するということは、正論を言う、与党を追及するといったことに腐心する野党では計り知れない調整力と先見性、広い視野と冷徹さが求められる。その学習を、階段を一段ずつ上るようにさせていたのが、かつての自民党の派閥だった。 現在の安倍晋三首相は清和会出身。安倍首相の祖父、岸信介元首相の岸派の流れを汲むもので、親米を基調としながら自主憲法制定を唱え、再軍備に積極的であるなどタカ派色が強い。 一方、リベラル色が強く、政策通を自負しているのが宏池会だ。吉田茂元首相をルーツにし、池田勇人元首相が立ち上げた派閥で、その後も大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一が首相の座に就いた名門派閥である。 タカ派とハト派ーー。憲法改正派と九条堅持派は、米国の共和党と民主党のような小さな政府と大きな政府にも分けられる。保守という点では変わりないものの、双方の“思想”には大きな隔たりがある。 現在の自民党内を見れば、宏池会のほか、田中角栄元首相の木曜クラブを前身とした平成研、三木武夫・河本敏夫の流れを汲み“党内左派”と呼ばれたこともあった番町研など比較的ハト派派閥と、清和会のほかには麻生太郎元首相が会長を務める為公会、石原伸晃前環境相が会長の近未来政治研などがタカ派色の強いグループとされる。 この自民党の派閥が分かれることで、野党もどちらかに加わり、徐々に2大政党に収斂していくことが現実的で一番の近道ではないか。いずれにしても、このままでは閉塞感と失望感だけの政治になってしまう。政治家には、一刻も早く2大政党制への道程を突き進んでもらいたい。そう切に願っている。

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    保守二大政党にしかリアリティーがない

    こともあるでしょう。しかし、それが長期的に健全な状況でないことは明らかです。だとすれば、長期的に二大政党制、あるいは政権交代の緊張感を与えるための構造とは何か、ということが大事になってきます。 保守二大政党にしかリアリティーない 日本に安定的な二大政党制が確立したのは大正デモクラシーの時期の政友会と民政党の時代です。権力の中枢であった藩閥との距離感や地域的な偏りなど細かいことはありますが、すごく乱暴に言うとこの二大勢力は、それぞれ「統治利権」と「経済利権」を代表しており、今の感覚から言うと双方ともに保守です。だからこそ、双方が全国的に支持を広げることができたのです。ここで言う「利権」とは、代表される利益や権力基盤という意味です。 日本の地方の実態からすると、そこではいわゆる名望家によるリーダーシップが、明治時代から変わらず、今日に至るまで重要です。地方の首長や地方議会の議員は、地域の有力者であり、大半は経済的・文化的な背景から本質的に保守的傾向があります。日本の選挙制度は、一票の格差や参院選挙区の定数の関係から地方票の影響力が大きくなるように設計されています。結果として、地方の有力者を包含した全国的な組織政党を作り上げるには、保守である以外にリアリティーがないのです。 もちろん、大きな工場が集中して立地され、組織労働者の割合が大きくなった地域では労働界に近い層が力を持つこともありますし、経済的に貧しい階層が集中する地域では左派的な政党が支持を集めやすいという傾向はあるでしょう。しかし、それらはあくまで例外です。 日本という国には、たいへん幸福なことですが、国民の間に深刻なクリービッジ(=分断)が存在しません。これは、明治以来の中央集権化の重要な成果です。二大政党制を安定的に機能させている国にはこの分断があります。英国にとっては階級ですし、米国では人種を中心とする国家像の違いです。そして、この分断が地域的にある程度固定化してしまっています。日本には、これがありません。日本の地方は全部保守で、全部自民です。経済改革を前面に出した野党に期待 自民党の強さの本質は、経済利権と統治利権の両者の上にどっかりと居座っていることです。ですから、日本に二大政党制が確立するかどうかは、野党がこのどちらかを突き崩せるかにかかっています。 経済利権をとりにいくのであれば、政策志向は資本主義重視であり、小さな政府であり、規制緩和や現役世代の負担軽減が重要になってくるでしょう。ただ、通常は小さな政府の主張だけでは有権者の多数を惹きつけられませんので、社会政策や歴史問題などの面で保守的な傾向を併せ持つことになるはずです。 反対に、統治利権を重視するならば、政策志向は大きな政府で反資本主義的で、権威主義的でありながら戦後リベラリズムを擁護する立場となるでしょう。官僚組織とも一定の協力関係を築き上げるような政権です。自民党の議員の多くが二世/三世で経済的にも特権階級化しつつあることを攻撃し、公平な予備選挙を実施したり、女性の比率も高めたりすることになるでしょう。 ここで効いてくるのが国民の中に存在する民主党政権の失敗の記憶です。民主党の中でも、市民運動の流れを汲む方々はムダな公共事業を攻撃し、官僚を攻撃するDNAを持っています。民主党は本質的には統治利権側の政党であるにも関わらず、経済利権的な政治的エネルギーで政権に就いたことに矛盾がありました。それでも、政権を担っている間に、統治能力を発揮できたならば歴史は変わっていたでしょう。歴史に「もし」はありません。日本政治に存在したかもしれない統治利権の側から日本を変えるチャンスは失われました。そのチャンスは、おそらく一世代の間は戻ってこないでしょう。 だからこそ、当面は経済利権のプレッシャーに期待せざるを得ません。経済利権を旗印にした改革は民主党政権では全く進みませんでした。アベノミクスの第三の矢も本当に的を射ることができるか、まだまだこれからです。日本の政治に緊張感を取り戻すためには、野党各党が単なるパフォーマンスの域を超えた本当の経済改革を主張できるかにかかっています。今般の選挙では期待できないとしても、延命したあかつきには、ぜひお願いします。

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    今回の選挙は「夢想家」と「現実主義者」の対決である

    それは、文字通りの“55年体制の終焉”である。周知のように、日本では、1955(昭和30)年に左右の政党がそれぞれ合同し、「自由民主党」と「日本社会党」が誕生した。以後、長く「左右のイデオロギー対立」の時代がつづいた。 その「55年体制」は、90年代半ばに日本社会党が消滅し、自民党も単独での政権維持が不可能になって“終焉”し、今では過去のものとなっている。国際的にも1989年の「ベルリンの壁」崩壊で、世界史的な左右の闘いの決着もついている。 しかし、その考え方を基礎とした対立が、いまだに支配的な業界が「1つ」だけある。それが、マスコミ・ジャーナリズムの世界だ。古色蒼然としたこの左右の対立に縛られているのが、マスコミなのだ。いつまで経っても、ここから抜け出せないことを、私は“マスコミ55年症候群”と呼んできた。 マスコミは、さまざまな業界の中で、最も「傲慢」で、最も「遅れて」おり、最も「旧態依然」としている世界だ。なぜか? それは、マスコミに入ってくる人間の資質に負うところが大きい。マスコミを志向するのは、いろいろな面で問題意識の高い学生たちである。だからこそ、ジャーナリストになりたいのだ。 しかし、そういう学生は、得てして「理想論」に走り、現実を見ない傾向がある。ほかの業界では、社会に放り出されれば「現実」を突きつけられ、あちこちで壁に当たりながら「常識」や、理想だけでは語れない「物の見方」を獲得していく。 だが、マスコミは違う。たとえ学生の時の「書生論」を振りかざしていても、唯一、許される業界といっていいだろう。書生が、そのまま“年寄り”になることができるのが、マスコミ・ジャーナリズムの世界なのだ。 その代表的なメディアが、朝日新聞だ。ただ、理想論をぶち、現実に目を向けず、うわべだけの正義を振りかざしていればよかったメディアである。上から下まで書生ばかりで、“白髪の書生記者”の集合体だと言える。つまり、夢想家、空想家の集団だ。 彼らは、ひたすら現実ではなく、理想や、うわべだけの正義に走ってきた。つまり「偽善」に支配されたメディアである。平和を志向するのは、日本人すべてなのに、自分たちだけが平和主義者だと誤信し、日本に愛着を持ち、誇りを持とうとする人を「右翼」と規定し、「右傾化反対」という現実離れした論陣を張るのである。 その朝日新聞が、信奉してやまないのが中国だ。ひたすら中国の言い分と利益のために紙面を使ってきた朝日は、今、自分たちが書いてきたことが、実は「中国人民のため」ではなく、「中国共産党独裁政権のため」だったことに気づき始めた記者もいるだろう。世界が懸念する「中国の膨張主義」の尖兵となっていたのが、実は「自分たち朝日新聞ではなかったのか」と。脅威かポンコツか、真の実力が問われる中国の空母「遼寧」(中国国防部HPより) 中国が南シナ海のほぼすべてを自分の“領海”であると主張し、フィリピン、あるいはベトナムとの間で、小競り合いをつづけながら、強引に他国の島に滑走路を建設したのも周知の通りだ。 私は、この11月24日に中国が南沙諸島の「永暑礁」周辺を埋め立て、滑走路の造成をしているニュースが流れた時、2008年3月、米太平洋軍の司令官が、「中国海軍が太平洋を二分し、米国がハワイ以東、中国がハワイ以西を管理する分割支配を提案してきた」と暴露したことを思い出した。 すでに中国共産党の雑誌では、尖閣どころか沖縄も中国のものだと主張されている。今回のAPECでも習近平・国家主席はオバマ大統領との首脳会談で「太平洋は米中2つの大国を受け入れる十分な広さがある」と伝え、オバマの「同意」を得ている。11月20日に発表された民主・共和両党で構成する「米中経済安全保障調査委員会」の年次報告書は、「習近平国家主席は、高いレベルの緊張を引き起こす意思を明確に持っている」と指摘している。 朝日新聞などは、「いたずらに中国脅威論をぶち上げる勢力がある」と批判しているが、“脅威”ではなく、もはや中国の侵略の恐怖は“現実”であることは明らかだ。浮世離れした日本の「空想的平和主義」が通用する時代では、すでになくなっているのである。もし、日米安全保障条約「第5条」にのっとって、尖閣を守ろうとした米軍が攻撃されたり、また、邦人を輸送中の米艦船が攻撃されたとしよう。その時、「アメリカの若者だけが血を流していればいいんだ」と、日本が知らんぷりをした瞬間に日米関係は「終わる」だろう。 集団的自衛権とは、いわば日本人の「エゴ」と「覚悟」の闘いであろうと思う。それは同時に現実に目を向けずに理想ばかり語っている「dreamer(夢想家・空想家)」と「rearist(現実主義者)」との対立でもある。 左右対立の時代はとっくに終わっている。お互いを「右翼だ」「左翼め」と罵っている時代ではない。今は、現実を見つめるか、空想に浸っているか、の時代である。つまり、左右対立ではなく、日本はやっと「DR戦争の時代」を迎えたのである。「歴史の転換点」という所以(ゆえん)だ。 それは、インターネットで闘わされている議論を見ても明らかだ。古色蒼然とした「左翼」と「右翼」の対立ではなく、ニューメディアの登場・発展によって、時代は、とっくに「DR戦争」に突入していたのだ。12月14日に有権者がどんな判断を下すか、私は大いに注目したい。