検索ワード:日本語/13件ヒットしました

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    「感動をありがとう」にノーセンキュー

    して展開してきた言「語」であり、その中間を省略して「国語」と言う。だから必然的に古典が入るのだ。 「日本語」というのは、日常会話レベルのもので外国人用。外国人は日本語は分っても我が日本国語は分らない。 同じく、日本人は英語や米語はできるようになれるが、英国語や米国語は一生かかってもできない。英・米それぞれの歴史・文化・伝統が身についていないからである。 われわれ日本人にとって大切なのは国語である。英米語はいくら学習しても底が知れている。国語学習の徹底が今こそ求められているのだ。かじ・のぶゆき 昭和35年、京都大学文学部卒業。名古屋大学・大阪大学・同志社大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授、立命館大学フェロー。文学博士。中国哲学専攻。著書に、加地伸行著作集全三巻(『孝研究』『中国論理学史研究』『日本思想史研究』・研文出版)、『儒教とは何か』(中公新書)、『沈黙の宗教―儒教』(ちくま学芸文庫)、『論語全訳注』『漢文法基礎』(講談社学術文庫)など。    

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    やっぱ大阪弁はええなぁ

    作品でも大阪弁がよく使われている。ただ、言葉のプロが聞くと不自然さを感じることも多いらしい。それでも日本語表現で最も難しいといわれる「敬称」の使い方をみれば、大阪弁の奥深さの一端がみえてくるという。やっぱ大阪弁はええなぁ。

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    話題の「方言翻訳。」 再生回数10万回超えの大阪弁フレーズは

     最近、若者たちの間でも方言を使う人が増えていると、『出身地(イナカ)がわかる方言』(幻冬舎)著者で、東京女子大学教授の篠崎晃一さんは言う。「日本初。方言+美少女バラエティ」と銘打った番組『方言彼女。』は方言を話す美少女タレントたちが話題を呼び、続編の放送やDVDが発売された 「昨年、缶コーヒーのCMでAKB48のメンバーが各自の出身地の言葉で話し話題になりましたが、『あまちゃん』の能年玲奈など、若い世代が方言を話す違和感が新鮮に映り、親しみやすさが増したようです」(篠崎さん) ヤフー・ジャパンによると、最近多く翻訳されているのは「やばい、なんか好きになっちゃったかも」の大阪弁だそうだが、ネットで話題のYahoo!翻訳『方言翻訳。』の関連動画も再生回数が10万回を超えているという。「ツイッターなどのSNSでは“面白い”“癒される”といった反応があり、息抜き的に楽しまれている傾向があります」(ヤフー・ジャパン塩川和生さん) 夫婦やお姑さんとの会話などで使ってみてはどうだろう。それでは、前出の共通語「やばい、なんか好きになっちゃったかも」をそれぞれ『方言翻訳。』を使って各地の方言に翻訳してみよう。佐賀「あーやばい、なんか好きになったかんしらん」大阪「あーやばいわー、なんか好きになってしもたかもしれん」京都「あーあかん、なんか好きになったかもしれへん」長野「あーどうしよう、なんかめた好きになっちゃったかも」関連記事■ 第一線で活躍する映画字幕翻訳者・戸田奈津子が執筆した自伝■ 一度は諦めながら40歳で出産した翻訳家が体験を綴った書■ 『あまちゃん』で話題の“じぇじぇ” 地元民は殆ど使わない■ “方言萌え”TV番組やCMシリーズなど 方言がウケる時代到来■ 中谷美紀の白くて柔らかそうなナマ脚に悶えちゃいますね

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    関西弁敬語の落とし穴 「好孝はん、いはる?」

    学院、国際広報メディア・観光学院、および国際本部留学生センター、教授。専門はスペイン語学、関西弁学、日本語学、日本語教育。共著に「朝日新聞で日本を読む」(くろしお出版)。著書に「関西弁講義」(講談社学術文庫)など。関連記事■ 意味の要 解けなかった中学入試問題 ■ 「チンする」使う9割超■ 「能うる限り」

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    大阪弁の起源 「大大阪」時代で今の形に

    大阪市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。神戸大学助教授などを経て現職。平成18年、『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房)で新村出賞を受賞。現在、日本語学会副会長、日本語文法学会評議員などを務める。他の著書に『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店)など。関連記事■ 意味の要 解けなかった中学入試問題 ■ 「チンする」使う9割超■ 「めおと」をめぐる甘い話

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    「太夫さん」「ごりょんはん」では不自然か

    清湖口敏(産経新聞論説委員) 日本語で最も難しいのは敬意表現だ―といった声は、日本語を学ぶ外国人だけでなく、日本人の間でもよく聞かれる。 新聞制作の現場でも事情は全く変わらない。 敬意表現の中でも特に重要だと思われる「敬称」の話を、ごく一端ながらご紹介することにしよう。 【竹本越路大夫さん】 平成14年6月24日、文楽太夫で人間国宝の竹本越路大夫さんが亡くなった。当時、大阪の編集局校閲部にいた私は、訃報の中で越路大夫さんに付ける「敬称」をめぐって大いに悩まされた。 弊社の記者ハンドブック(用字用語集)には「文楽や浄瑠璃などの『太夫』『大夫』は、芸名であると同時に称号的意味をもつので、さらに敬称はつけない」との記載があった(その後数次の改版を経た現在でも、この文言は命脈を保っている)。 決まりに従えば、見出しも「竹本越路大夫死去」でいいはずだった。ただ編集局内には「それでは呼び捨てに聞こえないか」との声が上がり、実は私も、ハンドブックの「掟(おきて)」に背いてその声に同調した一人だった。 称号なら確かに敬称を重ねる必要はない。例えば「博士」に「さん」を付けて「~博士さん」とするのはいかにも滑稽だ。 が、だからといって「大夫」に「さん」を付けるのはおかしいというのも、何となく世間の常識的な感覚とはずれているような気がしてならなかった。はたして読者が「~大夫」を、敬称の不要な称号として受け止めてくれるだろうか…。「何だ、産経は亡くなった人間国宝を『越路大夫』と呼び捨てにするのか」と叱られはしまいか…。 迷ってばかりもいられないのが、時間との闘いを余儀なくされる新聞制作の現場である。とにかく「さん」付けでいこうとなって、26日付の新聞ができあがった。気がかりはただただ、他紙がどんな見出しを付けてくるかの一点にあった。 結果は―。産経はじめ毎日、読売、日経がそろって「竹本越路大夫さん死去」との見出しを掲げる一方で、朝日だけが「さん」を付けずに「竹本越路大夫が死去」と書いていた(いずれも同日付の大阪発行版)。正直に告白すれば、あのとき私は人知れず、「4対1で勝った!」と胸を張ったような気がする。 しかし、それからやや間を置いた7月6日、文化・芸能記事を発信する部署から今回の判断に対する見解が寄せられた。概略、次のようなものだった。 《大夫は役称、称号にあたるので「~大夫さん」とするのは不自然だ。文楽の世界でも「~大夫」で敬意を含めた呼称になっている。関係者の間でも「越路大夫さん」との言い方はほとんどせず、「越路さん」という呼び方はするそうである。今回の訃報でもやはり、ハンドブックの記述に従うべきだった》 さても、難しい問題である。 理屈はなるほどその通りだとしても、先述したように読者一般には理屈通りに理解してもらえるだろうかとの疑問はなお、大きい。 人名事典の類では、見出しに立てる人名は「渥美清」「高倉健」といった具合に敬称を省く、つまり呼び捨てにするのが普通であり、そこに「竹本越路大夫」「竹本津大夫」…などと文楽太夫の名前が並んでいれば、多くの人は、それらも呼び捨てだと認識するのではなかろうか。 また、文楽協会が発行する公演の配役表でも「竹本越路大夫」などと書かれている。「大夫」も芸名の一部であり当然といえば当然ながら、協会が自らの所属技芸員を「~大夫」と紹介するくらいだから、「大夫」には敬意が含まれないと一般の人が「誤解」したところで、とくに不自然とはいえまい―。以上が私の全く個人的な見解だが、みなさんはどのようにお考えだろうか。 ところで、この話には「オマケ」がある。全国紙で唯一、「竹本越路大夫が死去」と「さん抜き」で報じた朝日が、その15年前の昭和62年、同じく人間国宝の文楽太夫、竹本津大夫さんの訃報には「竹本津大夫さん死去」の見出しを付けていたのである。 ま、弊紙の場合もいろいろ当たってみれば、整合を欠く表記の一つや二つはすぐにも見つかるかもしれず、とても朝日サンを笑えた義理ではないかとも思うが、ことほどさように「敬称」は難しいという点では、報道各社はほぼ一致しているのではないか―そんなふうに私は思っている。【ごりょんはん】 谷崎潤一郎の長編小説『細雪』は、大阪・船場の旧家を舞台に美しい4姉妹の生活と運命を描いた物語で、作中にはもちろん大阪弁がふんだんに使われている。 「『細雪』がもし東京弁で書かれたところを想像すれば、方言といふものが文学のなかで、どれだけ大きい力をもつてゐるかがおわかりでせう。(中略)谷崎氏は生粋の江戸つ子でありますが、上方に移住してからこの方言の面白さに心を奪はれ、さまざまな関西弁の小説を書きました。『卍(まんじ)』は関西弁で書かれた傑作であつて、あの不思議な、ぬめぬめとした軟体動物のやうに動きをやめない小説の構造は、あの独特な関西弁を除外しては考へられません」(三島由紀夫著『文章読本』)。 三島も書いた通り、谷崎は明治19(1886)年、東京の日本橋で生まれた生粋の江戸っ子である。大正12(1923)年に起きた関東大震災のあと、谷崎は関西に移住することになる。この関西の地で、伝統文化と古典文学とが色濃く薫る「谷崎文学」を花開かせたのである。 江戸っ子だから、大阪弁の小説を書くに際しては恐らく、大阪弁に精通した助手なり助言者なりを身近に置いていたのに違いない。 「谷崎氏は『卍』を書くに当つては、大阪生れの助手を使つたと言はれますが、私の如きなまけ者は、『潮騒』といふ小説を書くときは、いつたん全部標準語で会話を書き、それをモデルの島出身の人に、全部なほしてもらつたのであります」(同)。谷崎もあるいは、「三島方式」で『細雪』を著したのかもしれない―とは、私の勝手な想像である。 ところで、この『細雪』に出てくる大阪弁の「はん」について、使い方が間違っていると鋭く指摘したのが牧村史陽編の『大阪ことば事典』である。こんな解説がみえる。 「『細雪』の中に、ゴリョンハン(御寮人様)・トォハン(嬢さん)という語が出て来るが、これも無理な発音であって、ゴリョンサン・トォサンというのが正しく、ハンといえば大阪弁になると思い誤ったミスである」 なかなか手厳しい。もとが江戸っ子の谷崎本人が誤るのは無理からぬこととしても、大阪弁の「指南役」でさえも気がつかなかったというところに、大阪弁の、わけても「はん」の使い方の、いわく言い難い微妙さ加減と難しさがあるように思われる。 実はこの話にも「オマケ」がある。 念のためにと現在市販されている『細雪』(新潮文庫)をあらためて繰ったところ、そこには『大阪ことば事典』の記述とは明らかに異なる表記の「御寮人(ごりょうん)さん」「娘(とう)ちゃん」が見当たった。当初の表記が改められていたことになる。 『細雪』は先の大戦時、軍部の干渉によって誌上掲載の中断を余儀なくされたが、昭和21~23年に全編(上・中・下巻)の刊行にこぎつけた。以後、相当の歳月が流れ、その歳月のどこかの時点で、誰かが、通説とは一致しない「はん」の使い方を指摘したものと思われる。 困難をきわめながらも執筆を続けた名作の中の大阪弁に、とにもかくにも「朱」が入ったわけである。泉下の文豪はこのことについて、「おおきに」と感謝しているのであろうか、それとも…。関連記事■ 「チンする」使う9割超■ 「めおと」をめぐる甘い話■ 「やぶさかでない」誤解の広がりにも関心を

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    訃報と敬称 「ベイチョウさん、おおきに」

    清湖口敏(産経新聞論説委員) 2月21日に歌舞伎俳優の坂東三津五郎さん、3月19日には上方落語の桂米朝さんと、日本の代表的な芸能を支えてきた2人が相次いで亡くなった。 三津五郎さんの死去を報じた各紙(東京発行の全国紙)に目を通すうち、ふと、どれもが見出しに「坂東三津五郎さん」と書いてあるのに気がついた。それがどうしたと言われそうだが、40年前の昭和50年に河豚(ふぐ)毒にあたって亡くなった先々代(八代目)の三津五郎さんの死亡記事を思い出したのである。 あのとき、産経が「坂東三津五郎丈 フグ食べて急死」と報じるなど、いくつかの新聞が見出しや写真説明で「坂東三津五郎丈」と書いた。「丈」が歌舞伎役者の敬称として一般に広く知られていた時代があったことにいささかの感慨がこみあげてき、いま、十代目の訃報に「三津五郎丈」と書けば、はたして若い人は理解できるだろうかと、不安がよぎった。 米朝さんも、そろって「桂米朝さん死去」の見出しだった。このとき思い出したのは、落語界初の人間国宝となった「柳家小さん」の死去(平成14年)を伝える紙面だった。 「小さんさん」「小さん氏」「小さん師匠」と、新聞によってこれほど敬称がまちまちなのも珍しかった。産経の編集局内では、「さん」付けの「小さんさん」は読みにくいのではないかとの議論が持ち上がったが、恐らく他紙でも同じような議論が交わされたに違いない。 米朝さんの死去を受けた朝日新聞の社説は「米朝はん おおきに」の見出しを掲げていた。この「米朝はん」を読者はさて、どのように読んだろうか。平成21年10月、落語家として初の文化勲章受章が決まり、喜びを語った桂米朝さん(飯田英男撮影) 昨今は、大阪を舞台とするテレビドラマなどで妙な大阪弁が出回ることが多く、例えば「女将(おかみ)はん」「旦はん」といったせりふが飛び交っている。とりあえず「はん」を付けておけば大阪弁らしくなるとの安易な発想が透けて見える。 米朝さんも、その種のいかがわしい「はん」がよほど気になったのか、『「さん」と「はん」』と題する小論(創元社『米朝落語全集』第6巻所収)を著した。大略、次のような原則を示している。上に付く言葉の語尾がア列やエ列の場合は「はん」が使えるが、イ列やウ列では「はん」が付かずに「さん」。ンで終わるときも「さん」である。オ列のときは原則は「さん」だが、近世になってだんだん「はん」になってきた。「三升」をサンショウと引っ張ったときは「さん」が付くが、大阪特有の言い方で約(つづ)まってサンショとなったときは「はん」となる。鴈治郎も「ガンジロウさん」か「ガンジロはん」である-。 イ列で終わる「女将」や、ンで終わる「旦」には「はん」が付かないこと、もはや明白だろう。折しもいま、東京の歌舞伎座では上方を代表する名跡、中村鴈治郎の四代目襲名披露興行が催されており、3月29日付本紙(東京発行)文化面の記事も「『翫雀(かんじゃく)』から『がんじろはん』になった」と書いていた。 「鴈治郎はん」は、何が何でも「がんじろはん」でなければならず、もちろん「米朝はん」も「ベイチョウはん」ではなく、「ベイチョはん」と読むのが正しい。 と、ここまでは通説をご紹介したが、管見の及ぶところでは、「はん」の使い方は大阪人の間でも必ずしも一致しているわけではない。以下は私の個人的な認識ながら、大阪で衣料雑貨を商っていた父に連れられ、子供の頃から船場の問屋街になじんできた私は、店に入るや店員に「社長(しゃちょ)はん、いてはりまっか」と尋ねた客が、社長に向かっては「社長(しゃちょう)さん」と呼びかけたりするのを聞いた覚えがある(なにぶん子供時分の記憶なので確言はできず、ご寛恕(かんじょ)を)。 「はん」は、ごく親しい間柄ならともかく、そうでない場合はともすれば、なれなれしい印象を相手に与えかねない。そんな語感をいつしか身につけた私は、友人らとのお喋(しゃべ)りでは「米朝(べいちょ)はん」と言えても、当の米朝さんに向かって「米朝はん」とは“よう呼ばん”-というのが正直な思いである。 米朝さんのファンではあったものの、ひいき筋を名乗れるほどのおつきあいは残念ながらなかった私はそこで、あらためて申し上げたい。 「米朝(べいちょう)さん おおきに」関連記事■ 「チンする」使う9割超■ 「めおと」をめぐる甘い話■ 「やぶさかでない」誤解の広がりにも関心を

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    意味の要 解けなかった中学入試問題

    者の中村明さんも「薄ら笑い、つくり笑い、失笑、憫笑(びんしょう)などは愉快な笑いとは違う」(『笑いの日本語事典』)と指摘する。 本来は「吹き出して笑う」意だとしても、今日の一般的なニュアンスでは「失笑」は、ある種の屈折した心理をはらんだ言葉といってもよいだろう。 文化庁はあくまで「本来の意味」の理解度を調べただけかもしれないし、ましてや次のような意図は全くなかったものと信じるが、「失笑」のキーワードの一つともいうべき「あきれる」が正答のアではなく誤答のイに取り込まれたあたりに、私はなんだか引っかけの臭いを嗅ぎ取ってしまい、“失笑”を禁じ得なかったのである。(産経新聞論説委員・清湖口 敏)

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    国語世論調査と日本語のいま

    る世論調査』を実施し、その結果を秋に発表しています。少々近寄りにくくはありますが、毎年の報告書からは日本語についての生きた変化を読み取ることもできそうです。少しかみ砕いて世論調査とその周辺の話題から日本語のいまを考えてみましょう。

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    「めおと」をめぐる甘い話

    なか難しい。ここは再び、清湖口論説委員にご登場願うしかないだろう。産経新聞の好評連載「国語逍遙」から日本語をめぐるいくつかの話題と論点を提供したい。

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    「チンする」使う9割超

     「きょどる」に「ディスる」。それって何? 今回の『国語に関する世論調査』の結果を見て、何よりびっくりしたのがこの2つの言葉だった。「国語」担当の論説委員として、街頭や電車の中でも若者の言葉遣いには耳をそばだてる癖がついていたはずだったが、このような言葉に出合ったことは一度もなかった。 《左表》が示すように「きょどる」は、「使うことがある」が全体の15.6%、「聞いたことはあるが使うことはない」が34.9%で、合わせて50%を超える人がこの言葉を知っていた。ああ、それなのに…。 「きょどる」の使用は10~30歳代、「ディスる」は10~20歳代といった若者層にほぼ限られ、60歳以上ではさすがに両語とも1%に満たない数字となっている。 調査項目となった「~る」「~する」形の動詞をいま、便宜的に「る言葉」と名づけるとする(このように命名した国語学者がいたと聞く)と、表に載っている「る言葉」は次のような型に分けることができるだろう。① 「オノマトペ(擬音・擬態語)」接続型=チンする② 「外来語」接続型=サボる(サボタージュ+る)、パニクる(パニック+る)、タクる(タクシー+る)、ディスる(否定を表す英語の接頭辞dis+る)③ 「漢語あるいは漢字」接続型=事故る、愚痴る、告る、きょどる(挙動+る)*「お茶する」の「お茶」はほとんど和語化しているものの、③に準じるものとして扱ってよいだろう 言葉の来歴を考えたとき、面白いと思われるのは①の「チンする」だ。 世論調査は、「電子レンジで加熱する」という意味で「チンする」を聞いたことがあるかないか、使うことがあるかないかを尋ねたもので、70歳以上の高齢者でも86%が「使うことがある」、98%が「聞いたことがある」と回答している。 電子レンジの出現によって生まれた新語にしては、その普及度に目を見張らざるを得ない。後に示すように大正時代には既に使われていたと思われる「サボる」や「愚痴る」より、使用率が高い(「サボる」は70歳以上で72%、「愚痴る」は同19.2%)。電子レンジが日常生活に密着した電化製品であり、使用する頻度が高いことも影響しているものと思われるが、ふと思いついたのは、どちらかといえば新語を受け入れたがらない傾向が強いとみられる高齢層が、この「チンする」にはほとんど抵抗感を覚えなかったことが関係しているのではないかということだった。 というのも「チンする」は、電子レンジよりずっと古く、戦前から使われていた言葉だからだ。私なども子供の頃から、祖母や母に「このお菓子、仏壇にお供えして、チンしといて」と頼まれることがしばしばあった。「チンする」とは、仏壇にある小さな椀形の仏具、鈴(りん)を鈴棒でチンと打つことだった。それが現在では、「チンする」の語形はそのままに、「チン」の音だけが電子レンジのタイマー音に変わった(いや、昨今の電子レンジは「チン」ではなくメロディーを奏でるものも多いから、「チンする」の「チン」に「チン」の音がないという、実にチンプンカンの状態となっている)。高齢者が「チンする」をごく普通の言葉として使うようになったのは、もしかすると、耳朶(じだ)や、それにつながる経絡のどこかに昔から使っていた「チンする」の残響があるからかもしれない。 それはともかく、若者らの間で「きょどる」や「ディスる」といった「る言葉」が次々と生み出されている現状を批判的に捉える声が、高齢者を中心として聞かれる。しかし「る言葉」の生産が何も最近に始まった話ではないことに目を向ければ、一概に批判するのは適切ではないだろう。 先にも述べたように、「サボる」「愚痴る」は随分古い時代に生まれた言葉だ。 日本国語大辞典(小学館)は、「サボる」の用例を1925年の『女工哀史』(細井和喜蔵)に拾い、「愚痴る」については1906年の「其面影」(二葉亭四迷)に拾っている。恐らく、これらの言葉が使われだした当初は、「何だ、この妙ちきりんな言葉は」との憤慨も漏れたに違いない。が、そのうちに普及してくれば、言葉に対する違和感も薄れ、はては「サボる」のように外来語由来であることすら忘れ、誰でも当たり前に使うようになる。 中国文学者の高島俊男さんはその著『お言葉ですが…④』(文藝春秋)で、「英語に『る』をつけて動詞にするのは、われわれ若いころからいろいろとあった」と書き、昭和初年あたりの本には「ニヒる(虚無的になる)」だの「テロる(テロをやる)」だの「ヒステる(ヒステリーをおこす)」だのと、変なのがいっぱい出てくると紹介している。そのような言葉をポンポンと使って友達と議論を戦わす当時の学生の得意満面の様子が目に浮かぶようだ。 以下、参考までに、そのほかに現在でも比較的よく見聞きする「る言葉」を列記してみた。 ○ダブる、ミスる、トラブる(以上、外来語由来)○道化る、皮肉る、湿気る、駄弁る、牛耳る、退治る(以上、漢語由来)○パクる(「盗む、逮捕する」意=オノマトペ由来) そういえば、今では懐かしいが「江川る」(「強引に物事を進める」意)のような人名由来の「る言葉」もあった。 さて、ここまで「る言葉」について縷々(るる)述べてきたが、「る言葉」のように名詞などを動詞化した「転成動詞」は、実は古典の時代にもあった。動詞化するにあたっては、語尾を「ル」だけでなく「ク」、「フ(ウ)」などウ段の音に変化させている。そんな転成動詞とその用例を、広辞苑から拾ってみよう。・料る(りょうる、「料理」を活用させた語=料理する)「残暑しばし手毎に料れ瓜茄子(うりなすび)」(芭蕉)・聖る(ひじる、「聖(ひじり)」を活用させた語=聖らしくふるまう)「若うより聖りて侍りしかば」(沙石集)・彩色く(さいしく、「彩色(さいしき)」を活用させた語=彩色を施す)「御顔は色々に彩色き給ひて」(栄華物語)・敵対ふ(てきたう、「敵対(てきたい)」を活用させた語=敵対する)「平家に敵対はれたによつて」(平家物語)・装束く(そうぞく、「装束(そうぞく)」を活用させた語=よそおう)「いとめやすく装束きて」(宇津保物語)―。 いにしえの人たちも、自由きままに動詞化を楽しんでいたのだろうか。そうだとすると、現代の若者が「る言葉」を使ったからといって、むきになることもあるまい。ただし、次の一点をおさえていればの話だが。それは、言葉の使用は服装と同じでTPO(時と場所、場合)をわきまえなければならないということだ。とりわけ年齢層によって大きく理解度が異なる「きょどる」や「ディスる」などを使うときは慎重を期す必要がある。TPOへの配慮が欠ければ、それこそ膝頭があらわになったジーパン姿で入社試験に臨むようなもので、非常識で愚かとのそしりは免れまい。(産経新聞論説委員・清湖口 敏)

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    「やぶさかでない」誤解の広がりにも関心を

     9月に公表された文化庁の「国語に関する世論調査」(平成25年度)の結果によれば、「まんじりともせず」や「世間ずれ」の意味を取り違えている人が全体の半数を超えていた。 「調査結果を言葉の正しい意味を知るきっかけとしたい」と社説に書く新聞があったように、正しい意味を知ることは確かに大切ではある。しかし同時に、世間で誤解が広がっている現状を調査結果から読み取るのもまた、大切なことだろう。 言葉は生きものといわれるように、変化してやまないものであり、言葉に関する正誤も多分に相対的な判断に委ねられる。仮に100人が足をそろえて行進しているなか、1人だけ左右の出し方が逆だったとしたらどうだろう。たとえその1人が絶対に正しかったとしても、見物の目には「彼を除く99人こそが正しい」と映るはずだ。 「独壇場(どくだんじょう)」が「独擅場(どくせんじょう)」の読み誤りからきた言葉だとしても、もはや国民の99%がドクダンジョウと言っていると思われる現状を考慮すれば、「今日の試合は田中投手のドクセンジョウだった」などと“正しく”発言したのでは、反対に人に笑われる結果になりかねない。 「切れる(若者)」といえば、伝統的には「頭の働きがいい」ことを指すが、今では大抵が「理性的な対応ができない」意に解する。それを俗解だと断じるのは無論構わない。そんな意見も聞かれなくなってしまうと、本来の意味は忘れられ、古い文章の読解もできなくなる。 だが、コミュニケーションというものが辞書に載る「正しい意味」だけで成り立つものでないことも、一面の真理だ。「嫌い」の意味を「好き」と書く辞書はないけれど、女性が「あなたなんか大ッ嫌い」と言うときの「嫌い」は、往々にして「好き」の意になる。言葉を介したメッセージが双方で共有されなければ、残念ながら2人は破局に向かうしかない。 今回の調査で3割近くが「天地無用」の意味を誤って「上下を気にしないでよい」と捉えていた。「天地無用」のシールを貼った荷物を送るとき、自らはその言葉の本来の意味を知っているからといって、荷物が安全に相手に届くとは限らない。受け取った相手がシールを見て「上下を気にしないでよい」と判断し、ぞんざいに扱ったら、荷物はどうなるだろう。 そこで感心したのが宅配業者の知恵だ。ヤマト運輸では「天地無用」よりも大きな字で「この面を上に」と書き、上下が一目瞭然となるよう矢印も示している。他の業者も同様の工夫をしているに違いない。 ある言葉について、国民の大多数が本来の意味を知っているのなら齟齬(そご)もきたすまいが、誤解が浸透している場合には、そのことを念頭に、書き言葉と話し言葉の別、相手の年齢層や教養の程度、誤解がもたらす影響の大きさ…等々にも気を配りつつ言葉を使わないと、情報は正しく伝わらない。 本来は「喜んでする」ことを表す「やぶさかでない」を「仕方なくする」と誤解している人が43.7%もいた。「○△党と合流するにやぶさかではない」などと政治家が頻繁に口にするこの言葉も、調査結果を見る限り、慎重に使った方が得策かと思われる。例えば議員の定数削減に意欲的に取り組もうとしている大臣が「削減するにやぶさかでない」と語ったとき、それを聞いた国民の4割以上が「仕方なくするのか」と受け止める結果となる。ここは「喜んで削減に取り組む」と言った方が思いは確実に伝わるだろう。 それでは「やぶさかでない」は死語化する。本来の意味を国民によく知ってもらうためにも、あえてこの言葉を使い続けたい-もしも大臣がそのような意向だというのなら、それはそれで大いに結構なことであり、私もまた、その意気やよしと賛同するにやぶさかではない。(産経新聞論説委員・清湖口 敏)

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    「能うる限り」

    り貢献し…」 「できる限り」の意で用いられているこの「能うる限り」は、一歩、いや百歩譲っても、正しい日本語というわけにはいかない。正しい表現は「能う限り」である。三省堂国語辞典の「あたうかぎり」の項にも「あやまって『あたうる限り』」との注記がみえる。 「能う」は五段活用(古語の「能ふ」は四段活用)の動詞で、「限り」に接続する連体形は口語、古語ともに終止形と同じ「能う(ふ)」である。 それにもかかわらず産経のほか朝日、毎日、読売も「能うる限り」のままで伝えていたのは、たとえ誤りとの認識があったとしても、さすがに式辞の文言を改めるわけにはいかなかったからだろう。 安倍首相(あるいは首相のスピーチライターか)は、この「能うる限り」がとにかくお気に入りのようである。昨年9月にも国連総会で「シリアの化学兵器の廃棄に向けた国際社会の努力に、わが国は、徹底的な支持と、能うる限りの協力を表明します」と演説していた。 これを報じた某紙の記事は「シリア問題について『あたうる限りの協力を表明する』と述べ…」と、首相の演説通りに「能うる」を使っていたが、本紙の「主張」は「…化学兵器の廃棄に向けて『徹底的な支持とあたう限りの協力』を表明した」と、正しい語形の「能う」に改めたのだった。 さらにさかのぼった第1次安倍内閣の平成19年、インドネシアで行った政策スピーチにも「私と日本国民は、あたうる限りの努力を一緒にさせていただきたい…」と出てくる。 辞書がわざわざ注意を呼びかけるくらいだから、「能うる限り」は首相だけでなく国民一般にも広く浸透した言い方になっているものと思われる。ではなぜ、このような誤用がたやすく起きてしまうのか。以下に愚考を書き連ねてみた。 第一に思いつくのは、「能う限り」とほぼ同義に用いられる「でき得(う)る限り」や「なし得る限り」の「得る」に引っ張られ、言語中枢のどこかで「あた得る限り」に変換されてしまうからではないかということだ。 次には、「あらん限りの力を与えたい」との思いが強かったためか、「与うる限り」との混同が生じたとも考えられる。下二段活用の古語「与ふ」の連体形は「与ふる」である。 また、こんな想像もしてみた。「そして私は、静かに死ぬる、坐つたまんまで」(中原中也「わが半生」/『在りし日の歌』所収)、「もう夜が明くる。往(い)んで欲しいと」(坂口安吾『文章その他』)。この例ではそれぞれ「死ぬ」「明く」と終止形にするのが本来だろうが、「死ぬる」「明くる」と古語の連体形を用いている。 「~る」という形にすることで動詞としての据わりがよくなるのかもしれない。そしてそうだとすれば、ついつい「能うる」と言ってしまうのも、全く分からない話ではなさそうだ。 …と結局、決め手となるような理由が見つからず浅学を恥じ入るばかりだが、負け惜しみとの批判を承知のうえで言わせてもらうなら、「能うる限り」でそれほど騒ぐこともあるまいというのが本音ではある。 それより何より、首相の式辞に「加害責任」への言及を求めた新聞社が、間違った「慰安婦」情報を垂れ流し、日本の名誉と国益を損ねた自らの「加害責任」には一切言及しないことこそ、じつに大きな問題なのではなかろうか。(産経新聞論説委員・清湖口 敏)