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    戦艦「三笠」の故郷・英バローを訪ねて

    岡部伸(産経新聞ロンドン支局長) 1904(明治37)年2月に始まった日露戦争は、翌年5月の日本海海戦での連合艦隊の勝利で大勢が決した。欧米を驚かせたのは、その大勝利が極東の開国したばかりの非白人小国によって達成されたことだった。「日本は鎖国を解いて50年、海軍をもって10年で早くも世界一流の海軍国になった」(米『ニューヨーク・サン』紙)。しかし、「皇国の興廃この一戦にあり」とZ旗を掲げて勝利した背景に「大英帝国」の存在があったことはあまり知られていない。日本海でロシアのバルチック艦隊を撃破して世界史に残る大偉業を達成した連合艦隊旗艦「三笠」をはじめ日本艦艇の9割が英国で製造され、当時最高級の英国産「カージフ炭」を燃料とするなど英国が少なからぬ側面援助をしていたのだ。世紀の勝利は帝政ロシアと覇を競った英国によって支えられていた。 「三笠」の故郷である英イングランド北部のバロー・イン・ファーネスを訪ねると、一世紀前の日英交流の想い出と「三笠」を建造した誇りが今も語り継がれていた。それは干戈を交えた先の大戦中も変わることがなかったという。語り継がれるMIKASA ロンドンから電車で5時間。アイルランド海に面したバローは造船の町だ。沖合に自動車レースで有名なマン島。近くには「ピーター・ラビット」の作者、ヘレン・ベアトリックス・ポターが創作活動を行なった湖水地方のニア・ソーリーがある。 19世紀後半から20世紀初頭、世界で最初に産業革命に成功した英国が世界の工場だった時代に、バローは造船会社「ヴィッカース」の企業城下町として発展した。現在は、「ヴィッカース」を引き継いだ防衛航空宇宙企業「BAEシステムズ」が原子力潜水艦を建造して英国における安全保障の一端を担っている。 「三笠」は1899(明治32)年、最新戦艦として起工され、1900(明治33)年11月進水した。市内のカンブリア公文書館には、進水式の写真と地元紙の挿絵などが保存されている。駐英日本大使が出席した進水式には、数多くの地元市民が参加して熱烈な声援を受けた。地元紙には「アジアの最新興の列強国日本の発注を受け、最大の戦艦を建造したことは、英国さらにバローのヴィッカースの誇り」と記されている。 百年余を経て、「三笠」を誇りに思う市民の気持ちは現在も変わらない。 街の対岸のウォルニー島に、造船従業員の社宅が立ち並ぶ「ヴィッカース・タウン」がある。通りの名前は同社が建造した船名から名付けており、その一つ(約50m)が「MIKASA ST」と命名されている。「三笠」が建造された1900年に名付けられたのだが、以来116年間、日英が戦った第2次大戦中も名前を変えていない。バローの「MIKASA STREET」(写真:筆者、以下同) 一般的な道路で、命名の由来を記した記念碑もない。玄関の壁に「MIKASA ST」と書かれた通りの発端の「ミカサ・ストリート」56番地に住むウィリアム・ヒギンソンさんは、40年間ヴィッカースで造船工として原潜などを造った。「ミカサ」を「マイカサ」と発音して、「先輩が偉大な戦艦を造ったことを誇りに思う。ロシアを負かしたから。マイカサは私たちの歴史」と述べた。日本が学んだ英国の造船技術日本が学んだ英国の造船技術 日本が「三笠」建造を英国に頼んだのは、当時の造船大国英国をお手本に造船技術を向上させるためだった。ヴィッカースも、新たに開発した技術を海外からの受注艦に実装して試すことができるメリットがあった。その技術は、当時の最新鋭だった。 完成した「三笠」は122mの船体の前後に旋回式の連装砲塔を各一基備え、舷側にずらりと副砲を並べた。進水式で市民から絶賛されたのは、艦橋や居住部、火砲の配置に無理がなく均整が取れた容姿が先進的だったためだ。 1年数カ月かけ兵器などの装備を取り付けて、1902(明治35)年3月1日、サウサンプトンで日本海軍に引き渡された。翌2日、プリマスで英国の戦艦「クイーン」の進水式に参列した初代艦長、早崎源吾は、「英国側から非常なる歓待を受けたのは、日英同盟のおかげ」と海軍大臣、山本権兵衛に書いている。英国が日本と同盟を結んだのは2カ月前だった。いわば「三笠」は日英同盟の象徴として日本に提供されたといえる。 「三笠」を建造した古い石積みの「船渠(ドック)」が残っている。その「船渠」跡地を改造して、造船業の歴史を展示する「ドックミュージアム」がある。博物館前には、船の舵とスクリューを模った記念碑があり、ヴィッカースが建造した船の名前が書かれてあり、「三笠」や「金剛」の名も記されている。 博物館には、「三笠」の1年前に建造されモデルとなったフランスの戦艦「ヴェンジャンス」と共に、日露戦争後、1913(大正2)年8月に竣工された「金剛」の模型などが飾られている。 「金剛」は日本海軍初の超弩級巡洋戦艦として発注した戦艦で当時、世界最大で世界最強、最先端だった。高速戦艦として第二次大戦でも活躍するが、学芸員のグラハム・カービンさんによると、ヴィッカースは「三笠」建造を誇りに日本海軍と親密な関係を続け、「金剛」建造にあたって企業秘密を隠さず「技術供与」を図った。日本側からの造船技術者派遣、調査や船体の図面入手や同型艦の日本国内での建造まで許可した。英国は、同盟国日本に最先端造船技術を惜しみなく提供したのであった。「金剛」の模型を前に語る「ドッグミュージアム」の学芸員 この結果、日本は同型艦「比叡」「榛名」「霧島」3隻を国内で建造して造船技術を世界一流に引き上げた。「三笠」建造以来十数年間、バローには技術者や訓練する水兵ら海軍関係者などの日本人が定期的に滞在し、地元の市民らと積極的な交流が行なわれた。バローの市民が日本に親しみをもっているのは、こうした歴史があるからだろう。 日露戦争当時、日本の主力の戦艦六隻はすべてニューカッスルなど英国で製造された。 装甲巡洋艦8隻のうち半数が英国製だった。当時英国は世界一の造船大国で、同盟国として最先端技術がそろう最新鋭艦を提供した。勝利を収めた要因の一つはここにあった。 日露戦争後も日本は英国に人を派遣して戦艦の造船方法を研究した。「金剛」の建造を通じた技術盗用は成功し、その後日本は独自の造船技術を確立する。バローで造船技術を学んだ技術者のなかには、のちに戦艦「大和」の主砲を製造した者もいる。英国で学んだ造船技術は日本流にアレンジされ、その後の「大和」や「武蔵」など巨大戦艦を造る基礎となり、戦後日本が造船大国として復興する礎にもなった。 同じようにヴィッカースはトルコから戦艦の発注を受けたが、第一次大戦勃発直前に英国が接収して英海軍戦艦「エリン」となり、トルコに渡さなかった。効率よいカージフ炭を輸入効率よいカージフ炭を輸入 日露戦争で日本海軍は英国で採れる「カージフ炭」という石炭を燃料とした。カージフ炭は英国のウェールズで産出される石炭で、当時最高級を誇った。それまで日本で使用していた石炭は、黒煙が多く出るが火力が弱く、艦船用燃料として不都合だった。 そこで日清戦争後、ロシアとの戦争に備えた山本権兵衛海軍大臣は、カージフ炭を英国から大量に買い付けた。山本は1898(明治31)年から日露戦争が終結するまで、7年2カ月海軍大臣を務め、国内造船所や製鉄所の整備、艦上での食事の改良に取り組んだ。英国海軍から取り入れたカレーライスや肉じゃがは現在、日本の国民食として定着している。カージフ炭を輸入して日本海軍の燃料性能は飛躍的に向上、日露戦争の勝利につながった。 さらに、日本海海戦でロシア海軍の主力となったバルチック艦隊は、旧ソ連ラトビアのリバウから7カ月かけて極東まで向かったが、英国は植民地の英領の港に艦隊が入るのを拒んだ。7つの海を支配していた英国は、バルチック艦隊が大西洋、インド洋、フィリピン沖を回航する途中、燃料と食料の補給を妨害したのだ。ようやく日本海に辿り着いたロシア人たちは疲れ果てていた。東郷元帥率いる日本の連合艦隊に負けるのは当然だった。リアリズムから日本と同盟 ただ、日本に多大な便宜を図った英国にも戦略があった。19世紀末、世界は弱肉強食の帝国主義の時代だった。とりわけ不凍港を求めて南下する帝政ロシアと、エジプト、インド、中国を結ぶ海上ルートを支配したい大英帝国は、利害が激突して熾烈なグレート・ゲームが展開された。 クリミアでロシアの地中海進出の野望を挫いた英国は、アフガンでもインド洋への進出を阻止する。ユーラシア大陸の西で出口を失ったロシアは、東の極東に失地回復を求め、シベリア鉄道の建設を進め、日本海に出た。シンガポールから香港を拠点にアジア支配を進めた英国は、朝鮮半島から満洲(中国東北部)まで戦線を拡大できず、日本を武装させて極東でのロシアの南下に対抗させようとした。そこで生まれたのが日英同盟という軍事同盟だった。日露戦争の2年前にあたる1902(明治35)年のことだ。 「栄光ある孤立」として非同盟政策を貫き、欧州の紛争に介入せず、あらゆる国と自由貿易を行ない、自国製品の販売や輸出で世界経済の中心として栄えた英国だが、他の欧州主要国が連合体制(三国同盟、露仏協商)を敷いて優位性が揺らいだことも大きかった。南下政策を行なうロシアとことごとく対立し、同じくアジアでロシアに脅威を抱く新興の日本と手を組む決断を下したのである。 英国からすると、日露戦争で日本がロシアに勝利すれば、自らの手を汚さずにロシアを封じ込められる。たとえ日本が負けても傷がつかない。近代国家として成立したばかりの東洋の新興国日本と軍事同盟を結び、先端軍事技術を惜しみなく提供した背景には、したたかな大国のリアリズムがあった。いわば日本は、英国の帝国主義の先兵とされたとも解釈できる。日露戦争は英国の代理戦争ではなかったかとの見方さえある。 日本は、帝国主義の時代、大国と軍事同盟を結び安全を確保しなければいけなかった。 周辺諸国へ侵略を繰り返すロシアに備えるため、薩長藩閥の日本政府は、明治維新以来、友好関係にあった英国を同盟相手に選ばざるをえなかった側面もある。帝政ロシアを媒介に利害が一致したことは間違いない。横須賀市や舞鶴市と姉妹都市交流を横須賀市や舞鶴市と姉妹都市交流を 「百年近く歴代市長が大切に受け継いできた、日本との交流を示す日本の記念品です」 バローの中心のタウンホール(市庁舎)の市長室で、アン・トンプソン市長が語った。歴代の市長の写真が飾られた市長室の真ん中に、透明のガラスケースに入れて日本製の大皿が大切に飾られていた。東郷平八郎贈呈の記念品と並ぶバローのトンプソン市長 大皿の記念品は手製の「金華山焼」で作製された陶器である。日露戦争後の1911年に、英国王ジョージ5世の戴冠式のため渡英した東郷平八郎元帥がバローまで足を延ばし、「三笠」建造の感謝と新起工される「金剛」の依頼のため当時の市長を表敬訪問した際、連合艦隊を代表して贈呈したものだ。 23歳から7年間も英国に留学した東郷は、かつての留学先の「ウースター」校も訪問して日本海海戦で「三笠」に掲げられた大将旗を寄贈している。バロー市の説明では、「三笠」を建造したバローを東郷は愛し、建造中の「三笠」や「香取」を見学にしばしば足を運んだという。 表敬を受けたバローも日本海海戦における東郷の偉業に敬意を表して、寄贈品の隣に「三笠」のブリッジで日本海海戦の指揮を執る東郷元帥や艦長の伊地知彦次郎を東城鉦太郎画伯が描いた『三笠艦橋之圖』画の写真が誇らしく添えられていた。 タウンホールのロビーには、東郷元帥が日本海海戦で歴史的な勝利を収めたちょうど百年前の1805年、トラファルガーの海戦でネルソン提督率いる英艦隊がナポレオンのフランス・スペイン軍を破った絵画が展示されている。トンプソン市長は「アドミラル・トーゴー(東郷元帥)は、日本のネルソン提督として市民の熱烈な歓迎を受けました。MIKASAの活躍に当時の市長はじめ多くの市民が熱狂したそうです」と語った。東郷元帥を招いて昼食会を開催したバンケットホールは数百人を収容できる天井が高い大ホールで、ロシアを破った「アドミラル・トーゴー」を当時の市長は手厚くもてなしたという。 「ドックミュージアム」には、この歓迎昼食会の式次第とメニューが展示されている。それによると、ヴィッカースの従業員で構成する「バロー・シップヤード・プライズ・シルバー・バンド」の演奏で、「日本の旋律 ホソカ」で昼食会は始まり、「ロマンス ジャポネーズ」「ダンス オリエンタル」や「日本で人気の愛の歌による日本のダンス」も披露された。また、菊の紋章が入ったメニューには「バウムクーヘン」とともに「タルト・トーキョー」などのデザートも供された。 バローには東郷元帥のほかにも、「三笠」が建造された1900年4月、日本海海戦で東郷元帥の下で作戦担当参謀を務め勝利に導いた秋山真之と、旅順閉塞作戦で軍神として名を馳せた広瀬武夫が訪れており、完成間近の「三笠」を見学している。 大戦中もミカサ・ストリートの名前を変えなかったことについてトンプソン市長は、「ミカサはわれわれの誇り。元市長がミカサ・ストリートに住んでいたくらいだ。国同士が交戦しても、私たちが造ったミカサの歴史は変わらない。今後もミカサ・ストリートの名前を変えるつもりはない。市長室に飾ってきた記念品も永遠に飾り続ける」と語った。 現在、「三笠」は横須賀市で保存されている。また横須賀市とともに母港だった舞鶴市には、バローと同じように「三笠通り」がある。「三笠」の生誕地バローのトンプソン市長は、「三笠」の縁を通じて横須賀市、舞鶴市と結び付きを深められないか調査するワーキンググループを立ち上げる方針だ。実現には議会の承認が必要だが、姉妹都市提携などを通じて交流を深め、日本からも「三笠」の故郷に足を運んでほしいと話している。関連記事■ 【歴史街道.TV】横須賀歴史散歩■ 創設150年・横須賀製鉄所なくして日本の近代化はなかった■ 日本海海戦…日露両艦隊の「総合戦闘力」を比較すると■ 敵艦隊を震撼させた「下瀬火薬」と「伊集院信管」

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    連合艦隊はなぜロシアに勝てたのか

    「有色人種が白色人種に勝利した人類史上初の近代戦争」と世界を驚かせた日露戦争。その勝利を決定づけたのが今から110年前、東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海海戦である。空前絶後の大勝利は、奇跡だったのか、それとも必然だったのか。連合艦隊の強さを検証する。

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    日本海海戦 大勝の功労者は下瀬火薬と伊集院信管

    逃走中に沈没したりした。日本側の撃沈は水雷艇3隻だけだった。史上まれに見るワンサイドの戦いだった。 日露戦争の勝利を決定づけるこの戦果に日本中がわいたのは言うまでもないが、その中でも、東京の自宅の病床にあって滂沱(ぼうだ)の涙を流していた一人の海軍関係者がいた。下瀬雅允(Wikimedia) 「下瀬火薬」の発明者として知られる工学博士、下瀬雅允(まさちか)である。 日本海海戦の大勝の理由としてはまず、ロシア艦隊の直前を横切るという大胆な作戦をとった東郷司令長官や幕僚たちの戦術や胆力、指導力があげられる。また、この決戦に備えて鍛錬を重ねた海軍の砲撃の正確さ、そしてバルチック艦隊の長旅による士気の低下などもあった。 しかし忘れてはならないのが海戦に使われた下瀬火薬の存在だった。この火薬の爆発力は当時の世界で群を抜いているといわれ、次々とロシア艦を沈める大きな力となったことは間違いなかった。 下瀬は工部大学校を卒業後、印刷局勤務を経て明治20(1887)年五月から海軍技手として兵器製造所で、火薬の研究を始めた。 昭和18年に松原宏遠氏がまとめた『下瀬火薬考』という本によれば、下瀬に求められていたのは、当時フランスで開発されていたメリニットという炸裂(さくれつ)性の高い爆薬に「匹敵し、あわよくばこれを陵駕(りょうが)する性能をもつ炸薬」だった。 しかし、下瀬は1年足らずの間に早くも第一次の試薬を作り、明治25年には「下瀬火薬」として完成させ、海軍に採用された。そして、32年には東京・滝野川に下瀬火薬製造所を設立、大量生産に乗り出す。今の地名では北区西ケ原、移転する前の東京外国語大のキャンパスがあった場所である。 日本海海戦によって、下瀬火薬も「3歳の子供でも名前を知っている」といわれるほど有名になった。しかし、その成分や製法などは、メリニットと同じピクリン酸を使っているらしいということ以外軍事秘密となっていた。 ただ『下瀬火薬考』には、下瀬自身が日露戦争最中の明治37年12月に行った講演の内容が載っている。それによれば、下瀬火薬はそれまで主流だった綿火薬に比べ乾燥や摩擦に強かった。だから、砲弾に暴発を防ぐための余計なものをつめ込む必要がなかった。火薬の割合が大きい分だけ威力も大きかったというわけである。 とはいえ、従来の火薬との効力の比較は100対120程度だとし、ロシアの砲弾は信管が悪いため不発弾が多いのではないかと分析している。 信管は砲弾の中の火薬を実際に爆発させる装置だが、明治25年に完成した下瀬火薬が27年からの日清戦争で使用されなかったのは、この火薬に合う信管がなかったからだった。 ところが同33(1900)年、海軍の軍人だった伊集院五郎が世界的に性能が優れた「伊集院信管」を発明、下瀬火薬とセットになって日本海軍の砲弾の威力を高めたのだ。 日露戦争前の10年ほどは、日本の科学や技術の花が一度に開いた時期だった。明治30年、志賀潔による赤痢菌の発見をはじめ、32年には豊田佐吉が豊田式動力織機を発明した。さらに33年には高峰譲吉のアドレナリンの抽出、36年の物理学者、長岡半太郎による「土星型原子模型」の仮説発表などが続いた。いずれも、西洋の科学技術と肩を並べるレベルのものばかりで、江戸時代からの高い教育水準や明治政府の科学立国の方針がその背景にはあった。 下瀬火薬や伊集院信管などの軍事技術も、こうした流れの中で生み出されたもので、科学技術が大国ロシアに対抗できるまでに国力を高めた。逆にいえば国家存亡への危機感が科学のレベルを高めたとも言えるだろう。(皿木喜久)関連記事■ 日露開戦・勝利をつかんだ「明治人の原点」とは■ ポーツマスは決裂寸前だった■ 日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁

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    日本海海戦…日露両艦隊の「総合戦闘力」を比較する

    三野正洋(元日本大学非常勤講師)実際の、連合艦隊とバルチック艦隊の実力は? これまで多くの類書が、明治日本海軍・連合艦隊(司令長官/東郷平八郎大将)と、ロシア海軍・バルチック艦隊(艦隊司令長官/A・ロジェストウェンスキー中将)の日本海海戦について、詳細に述べている。ここでは両艦隊の「総合戦闘力」を比較してみよう。 ただし、それぞれの艦種の能力、兵器の性能に限らず、もう少し広範囲の事柄に言及したい。なお、記述の順序は重要度を示しているわけではなく、順不同となっている。 これらの結果からは、日本側の勝利、ロシア側の惨敗はしごく当然であったことがわかろう。しかしこれは、多くの史(資)料、情報が簡単に入手可能な“現在”という時点でのことであり、“当時”という歴史の中ではやはり大日本帝国の存亡を賭した戦いと見るべきである。それぞれの艦種の概要 日本海海戦の参加艦艇の数は、すべてを含めると日本側99隻、ロシア側39隻となっている。もっとも駆逐艦、水雷艇といった小艇を除き、巡洋艦以上の艦種を数えると24隻対18隻となる。 さらに大口径を持つ戦艦とそれに近い装甲巡洋艦に絞ると互いに12隻だ。ロシア海軍のバルチック艦隊が惨敗を喫し、自身の記録としても“壊滅”という言葉を用いているのは、こうした背景を無視はできない。艦艇の整備状況 戦闘の開始にあたって、軍艦が最良の状態に整備されていることは言うまでもなく必須である。この、専門用語でいわゆる〝重整備〟と言われる作業を海上で実施するのは不可能に近い。 兵器はもちろん、もっとも重要なのは艦底の掃除である。これを怠れば、すぐに貝や藻がびっしりと付着してしまい、速力は2、3割低下する。東航を続け、永く海上にあったバルチック艦隊では時折潜水士を潜らせて除去していたのだろうが、完璧に終わらせることは出来なかったはずである。 一方、日本艦隊は100km以内に重整備の可能な佐世保、50km以内に軽整備のプサン(釜山)港を有していたから、すべての艦艇の状況は最高の水準といえた。この違いは数値には表われないものの、互いの戦闘力に大きく影響を与えたことは間違いない。  さらに各種の整備について、ロシア側は最初からこれらを軽視していた。というのも、40隻近い大艦隊を、1万キロの彼方に送り出すのに随伴する工作艦は唯一隻だったのだ。これではとうてい、兵器、戦闘、整備の故障に対応出来るはずはなかった。乗員の訓練の習熟度 ロシア艦隊は遠征途上でたびたび砲撃訓練を行なっている。しかし、これはそれぞれの軍艦がひとつの標的を狙って発砲するだけのものであった。艦隊が戦闘隊形を組んで実戦に即した機動を実施、それと同時に一斉砲撃(斉撃という)を行なうという訓練をした記録は、皆無である。 本来なら、艦隊をふたつに分け、赤軍、青軍といった対抗演習を繰り返すべきである。これが一度として実行されなかったので、乗組員の練度は一向に上達しない。 別な見方をすれば、大艦隊をつつがなく極東に進めることだけが、上層部の目的であり、日本艦隊を撃滅する意欲に欠けていたのだ。これがすべての将兵に伝わってしまい、練度の向上につながらなかった。 他方、日本艦隊はこの年の2月から4カ月にわたり、猛訓練に終止した。個艦の訓練は当然だが、戦艦、装甲巡洋艦、巡洋艦はもちろん、駆逐艦、水雷艇に至るまでが大艦攻撃に取り組んでいる。 さらに、これによっていかに疲労が溜まろうと、すぐ近くに母港が存在し、訓練が終われば休養、回復の場が用意されていた。 数カ月にわたり艦内から一歩も離れることが出来ないロシア軍将兵と、日本側の乗組員とでは、その環境に天地ほどの差があったのである。このような事実も、乗組員の士気に直結したのであった。艦隊編成の問題 この問題に関して、日本側の見解は単純であった。速力が多少遅いものの、砲撃力が大きな戦艦部隊、機動力に優れた装甲巡洋艦、それを補助する巡洋艦、駆逐艦と戦力をはっきり区分する。 主力は戦艦からなる第一戦隊、装甲艦からなる第二戦隊である。この編成は海戦勃発後、互いに連係し合って素晴らしい効果を発揮した。そして昼間の戦闘でロシア側が疲れ切ったとき、軽艦艇が闇を味方に猛攻撃を行なう。この間、日本軍の主力は短時間ながら、休養と整備に時間を費やすことが可能だ。 これに対してロシア側は戦艦、装甲巡、巡洋艦を組み合わせて編成した。砲撃力、速力などの大きく異なる艦艇を雑多に編成した意図がわからないままなのでああった。 また、艦隊編成の不備も挙げられる。海防艦や砲艦など時代遅れのものを除き明確に戦闘力を有する軍艦を見ると、 戦艦8/7、装甲巡洋艦8/4、巡洋艦12/3隻(日本/ロシア)となる。ロシア側が10隻少なく、そのうえ戦艦ばかりだ。本来なら戦闘力に関して艦隊というものはピラミッド型を構成すべきであるのに、 全く逆になっている。 さらに、味方の大型艦を守る〝軽艦艇〟に至ると、日本側の駆逐艦と水雷艇あわせて62隻に対して、僅か9隻。これで夜間戦闘となっては、ロシア戦艦群は護衛なしで戦わなくてはならない。いったん海戦となれば、敵(日本海軍)は、そのような弱点を見逃すはずがない。艦隊の陣形の問題 日本側は最初から最後まで一本のライン、すなわち単縦陣で闘った。海戦に当たって指揮官たちはこれが圧倒的に有利な事実を、15年前の日清戦争のさい、はっきりと知っていたからである。明治25年(1892)の黄海海戦では、 ■日本艦隊:ふたつの艦隊を一本にまとめ単縦陣 ■清国艦隊:ノコギリの歯の形の横陣 の形で、戦闘を交えた。 この海戦における望外の勝利から東郷提督はこれ以外の陣型をいっさい考慮していなかった。戦艦、装甲巡洋艦合わせて12隻が一列に並び、優速をいかして敵艦隊の先頭を押さえたのである。 これに対してロシア側は、4つの艦隊が不規則にかたまった形で戦闘に突入した。したがって、もっとも南側の艦隊は、味方の頭越しに敵を見ることになってしまった。ここでもなぜロシア艦隊が、“固まりのつらなり”のような形を採用したのか、全く不可解と言う他ない。 指揮官のロジェストウェンスキーは、この陣容を指示したというより、明確な考えを持たないまま進撃を続けたのであろう。艦隊指揮官の経験の差 日本艦隊における第一艦隊の東郷平八郎、第二艦隊の村上彦之丞は、それまで、日清戦争のさいはもちろん、この戦争でたびたび実戦を経験している。 旅順軍港封鎖作戦、蔚山海戦、黄海8月10日の海戦と、いずれも激しい海上戦闘であった。これらは一応目的を達成し得たが、失敗も少なくなく、反省、改良すべき点も多々あった。とくに8月10日の海戦では、敵艦隊の主力に大きな損害を与えはしたが、1隻も沈めることは出来なかった。この事実は、連合艦隊首脳に少なからず衝撃と教訓をもたらしたのであった。 ロシア側の戦隊指揮官たちは、全く戦闘の経験を持たなかったばかりか、10カ月前の自軍旅順艦隊敗北の研究を怠り、同時にその事実にも目をつむっていた。 硝煙の染みついた東郷と村上、そして一度も戦場を踏むことなく大艦隊を指揮をとるロシア軍の将校。この事実からも、勝敗の行方は戦う前から決まっていたと言えるかも知れない。乗員の士気 当時にあって帝政ロシアでは革命の気運が高まりつつあった。もともとこの国では貴族と庶民の間に軋轢が存在し、海軍の中でもそれは変わらなかった。バルト海から極東に向う艦隊の大遠征中に、何度となく貴族の士官、庶民の兵員の衝突事件が起きている。 兵員が上官の命令に逆らう例さえも少なくなかった。このような状況下で、充分な訓練を終え完璧な整備を行ない、しかも本国の目の前の海域で待ちかまえる敵軍と戦わなくてはならなかったのである。※   ※   ※   ※   ※ 結局、ロシア艦隊は敗れるべくして敗れた。 日本側を比較して、どのようにひいき目に見ても評価に値する部分はほとんど見当たらない。唯一のそれは、一隻の落伍もなく、バルト海―日本海という大遠征をなし遂げた組織力、艦隊としての航海術の手腕であろうか。 一方、史上最大の海戦の結末は、結局のところ新興の意気に燃える日本と、崩れゆく老大国帝政ロシアとの、国としての勢いの違いがそのまま現れたと見られるのであった。 ともあれ、前述のように、当時の日本海軍には、バルチック艦隊が置かれた状況など知る由もない。司令部は大艦隊を迎え撃つべく、脳漿を絞り、次章より触れられるように、「皇国の荒廃」を決する戦いに挑んでいくのであった。関連記事■ 祖国のため、敵艦隊の動向を報せた世界各地の日本人たち■ 「練度」と「士気」が日本海海戦勝利を導いた■ 2015年6月号総力特集・日本海海戦と戦艦三笠

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    祖国のため、敵艦隊の動向を報せた世界各地の日本人たち

    平間洋一(元防衛大学校教授)バルチック艦隊を見ていた男 日露戦争は、まさしく国民が一丸となって戦った戦争であった。ある日、戦地に赴く兵が馬車に乗ると、御者から「お国のために運賃は要らない」と告げられた。理由を訊くと、「皆がお役に立とうとしているのに、自分は貧しくて寄附すら出来ない。せめて乗せた兵隊さんからお代を頂かないのは当然のことだ」と語ったというのだ。 当時の新聞には、こうした逸話が多く載せられている。明治人がいかに日本の行く末を案じていたかが窺えよう。とりわけ見逃すことができないのが、バルチック艦隊が迫っている様子を日本海軍に知らせた、海外在住の庶民の存在である。 1904年(明治37)10月15日、バルト海リバウ港を出港したバルチック艦隊が、アフリカ東岸、フランス軍政下のマダガスカル島に寄港したのは同年12月29日のことだ。実は、その様子を見ていた日本人がいた。 赤崎伝三郎、天草出身の32歳である。 赤崎は、家業に失敗した赤崎は借金を返済するため、出稼ぎのマダガスカルでホテルを経営していた。彼はすわ一大事と、すぐさま戦艦の種類や隻数、さらには艦隊が積み込んだ石炭や水、食糧の量を極秘に調査し、急ぎインドのボンベイ日本領事館に電報を打った。 赤崎はかなり大胆な諜報活動を行なったようで、ロシア軍の中には「昨日貿易商人に装ひたる一人の日本人間諜、スワロフに乗込みたり」(『露艦隊来航秘録』)と訝(いぶか)る者もいた。まさしく命懸けの行動だったが、赤崎を衝き動かしたのは、異郷にあっても変わらぬ愛国心に他ならなかったろう。「からゆきさん」のアンチ・プロパガンダ  外国の娼館に勤める「からゆきさん」もまた、バルチック艦隊の情報を本国に伝えていた。赤崎と同じマダガスカルにいた「からゆきさん」たちは、黒煙を吐いて日本に向かう艦隊の姿を見ると、 「このままでは、お国が滅ぼされる…!」 と叫びながら、日本の商船を訪ねて情報を知らせた。また、シンガポールでは現地の日本領事館に駆け込み、貯金や着物、簪を「お国のためにお使いください」と差し出した「からゆきさん」もいたという。 特筆したいのは、彼女たちが行なったであろう、アンチ・プロパガンダ(逆情報)だ。 バルチック艦隊は3月16日にマダガスカルを出港するが、この時、ロシア軍には一つの不穏な情報が寄せられていた。すなわち、「日本の巡洋艦がインド洋で待ち伏せている」というものである。  どのような経緯で、ロシア軍がこうした情報を入手したのかは詳(つまび)らかではない。しかし当時、赤崎以外の日本人でマダガスカルにいたのは「からゆきさん」くらいであったことを思うと、彼女たちが懇ろになったロシア兵に吹聴したと考えるのが自然ではないか。 もちろん、日本海軍の待ち伏せはなかった。しかし結果として、バルチック艦隊はこの情報に大いに翻弄される。 史料によれば、彼らは数カ月間の航海において「日本の巡洋艦はいつ現われるのか」「闇にまぎれて、水雷艇が襲ってくるのでは」と疑心暗鬼になり、砲をいつでも撃てるように警戒配備を敷いていたのだ。5月27日に対馬沖に到った時には、ロシア兵の多くは心身とともに疲労困憊であり、とても一大決戦を行なえる状態ではなかったと思われる。勝利を手繰り寄せた遠方からの電報 マダガスカルを出港したバルチック艦隊は、インド洋を通過した後に、ジャワ(現インドネシア)のスマトラ島沖に差しかかる。この時、艦隊の動きを日本海軍に打電したのが、三井物産の社員・津田弘視であった。 津田は軍の密命を帯びてスマトラ島にいた。当時、三井物産は天津、上海、香港、台北、マニラ、シンガポール、ボンベイに支店をもち、日本産の石炭販売を行なっていた。軍はその情報網を活用したのだ。 バルチック艦隊がスマトラ島沖に現われたのは、4月5日。津田は、すぐさまその情報を海軍に打電したという。 一方、イスタンブールで事業を行なっていた実業家・山田寅次郎(宗有)は、トルコからロシア黒海艦隊の様子を伝えた。黒海艦隊が、すでに日本へ向かっているバルチック艦隊と合流するかどうかは、極めて重要な情報であり、政府が寅次郎に動向を探るよう命じたのだ。 これを受けた寅次郎は、現地のトルコ人を二十人ほど雇い、24時間体制で高台からボスポラス海峡を見張り続けた。そして、 「ロシア軍船3隻、ダーダネルス海峡を通過せり」 という情報を、日本にもたらす。敵艦隊の情報に乏しい連合艦隊にとって、この情報は有益であった。寅次郎は日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物として知られるが、日露戦争においても祖国に多大なる貢献をしていたのだ。 日本海海戦は、決して軍艦に乗り込んだ男たちだけの戦いではなかった。世界各国の「名もなき日本人」の活躍で、バルチック艦隊の接近を知ることができ、乗組員を疲労困憊させ、それが「奇跡の勝利」につながったのである。 日本人が一丸となって大国ロシアに立ち向かわんとする当時の空気を、彼らの勇気ある行動から感じ取ることができよう。関連記事■ 敵艦隊を震撼させた「下瀬火薬」と「伊集院信管」■ 2015年6月号総力特集・日本海海戦と戦艦三笠■ 「練度」と「士気」が日本海海戦勝利を導いた

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    「練度」と「士気」が日本海海戦勝利を導いた

    艦隊の動向を報せた世界各地の日本人たち■ 日露開戦・勝利をつかんだ「明治人の原点」とは■ 乃木希典と日露戦争〔1〕 旅順の合理的戦法

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    日本海海戦「勝利は横須賀造船所のおかげ」礼を述べた東郷

    められた瞬間だった。多くの歴史小説を書いた司馬遼太郎も、小栗を「明治の父」と高く評価している。 その日露戦争の勝利を語るうえで忘れてはならないのが、明治35(1902)年1月に締結された日英同盟の存在だ。ちょうどこの年、日本海海戦の連合艦隊旗艦となった戦艦三笠が就航している。 英国が「栄光ある孤立」を捨てて日本と同盟を結ぶ決断をした理由には、明治33(1900)年の北清事変(義和団事件)の際に中国へ出兵した日本兵の規律の高さを高く評価したことと、中国における英国の権益と中国・朝鮮における日本の権益を相互に擁護することで利害が一致したことの2つが、一般には挙げられる。 だがもう1つの理由として、軍艦を修理できる高い技術力を備えたドックを持つ横須賀造船所の存在が同盟締結に寄与したということは、あまり知られていない。 当時、アジアの中で、三笠クラスの戦艦を修理できるドックを持つ造船所は、横須賀のみだった。東郷が「日本海海戦の勝利は横須賀造船所のおかげ」と言ったように、造船大国の英国も、横須賀造船所の能力を高く評価していたのである。1世紀後も現役 横須賀造船所は横須賀海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変えながら、その後も戦艦陸奥、空母信濃をはじめ数々の軍艦がここで建造された。 終戦後は米軍に接収されたが、3基の「ドライドック」は完成から100年が過ぎた今も、米海軍横須賀基地の船舶修理施設として使用され続けている。同盟の相手は英国から米国に代わっても、かつての横須賀造船所で働く日本人技術者はその技術力で同盟の一翼を担い、支えているのだ。はまぐち・かずひさ 昭和43年、熊本県菊池市生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊を経て、日本政策研究センター研究員などを歴任。著書に『だれが日本の領土を守るのか?』(たちばな出版)、『探訪 日本の名城』(青林堂)など。関連記事■ 日露開戦・勝利をつかんだ「明治人の原点」とは■ 南シナ海で暴挙続けば米中開戦の恐れ■ ロシアの極東ターゲットは北海道だ

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    ポーツマスは決裂寸前だった

    村寿太郎の一行はそのまま大北鉄道の汽車に乗り換え、ニューヨークに向かった。日本の勝利が決定的になった日露戦争の講和について、ロシア側と談判(交渉)するためだった。 5日間の米大陸横断の旅だったが、3日目かの朝、列車が山の中の駅に着くと、線路脇に日本人らしい男5人が日の丸を持って立っている。 十数キロ離れた森林で働いている日本からの移民たちだ。小村の一行が通ると聞き、夜を徹し歩いてきたのだという。小村は「達者で働いてくれ」と声をかけたが、その目はぬれていた。遠くから祖国を思う気持ちがヒシヒシと伝わってきたからだ。 小村の秘書官として随行していた本多熊太郎が『魂の外交』などに書き残し、吉村昭氏の『ポーツマスの旗』にも出てくるエピソードである。 日本は5月の日本海海戦の歴史的勝利により、ロシアの海軍を壊滅状態に追い込んだ。だがその陸軍は満州(現中国東北部)北部に健在だったし、余力もあった。これに対し、日本陸軍の兵力補充は限界に達していた。 このため政府は早期講和を目指しており、日本海海戦終結から4日後の6月1日には早くも米国のセオドア・ルーズベルト大統領に斡旋(あっせん)(仲介)を申し入れた。 実はこの米国の斡旋による早期講和は、開戦時から日本が描いていたシナリオだった。このためハーバード大学留学以来、ルーズベルトの親友である貴族院議員、金子堅太郎を開戦直後に訪米させ、頻繁に接触させていた。 自ら「日本贔屓(びいき)」を任じていたルーズベルトは6月9日には、日露両国に講和を勧告、会議の場所として米国大西洋岸のポーツマスを提供した。 小村は日本を代表して会議に臨むため渡米したのだ。だがロシア側にはまだ戦争を続ける意志があるとの情報もあり、講和の行方は厳しい。小村の肩には日本の命運が重くのしかかっていた。それだけに、移民たちによる日の丸での出迎えは身にしみたのだ。 小村とロシアのセルゲイ・ウィッテ元蔵相を首席とする交渉は8月9日に始まった。日本側が12項目の講和条件を示し、それにロシア側が答える形で進んだ。 このうち(1)韓国に対し日本が指導、保護、監理する権利をロシアが認める(2)日露両軍が満州から撤退する(3)ロシアの清国・遼東半島の租借権を日本に譲る(4)ロシアが満州に敷設した東清鉄道南部支線の長春以南を日本に譲り渡す-などの点では、曲折はあったものの妥結した。 最後まで残ったのは賠償金の支払いと樺太(サハリン)の日本への割譲だった。樺太については戦争末期に日本の陸軍が攻め込み、事実上支配していた。だが両方ともロシア側が拒否、交渉は暗礁に乗り上げた。 ウィッテは宿泊していたポーツマスのホテルの勘定を済ませ、9月5日発の汽船を予約、帰国する姿勢を見せた。ウィッテ自身はもともと開戦にすら反対した「講和派」だったが、本国側の姿勢が固かったのだ。 小村は逆に日本の中でも強硬な外交姿勢で知られ、戦争を続けてもいいという「継戦派」だった。彼もまた、ポーツマスを引き揚げるという電報を日本に打った。 何としても講和したい桂太郎首相らは8月28日、小村に交渉を続けるよう命じた。ロシア側も急転直下、賠償金は拒否するが、樺太の南部割譲には応じると回答、小村もこれを受け入れ、劇的に講和が成立する。 「ポーツマス条約」が調印されたのは9月5日、開戦から1年7カ月近くがたっていた。 これに対し日本国内では「勝ったのに一銭もとれないとはなにごとか」という講和反対論が起き、暴動まで発生した。だが、強気の小村でも妥協しなければならないほど、日本は戦争で疲弊しきっていたのである。(皿木喜久)                   ◇【用語解説】金子堅太郎の渡米 金子が後に講演などで明らかにしたところでは、金子に渡米を「命じた」のは枢密院議長の伊藤博文だった。伊藤は日露開戦直前の明治37年2月初め、自らの秘書官を務めたことのある金子を呼び「少なくとも米がロシアに加担しないよう工作してほしい」と要請した。金子がルーズベルトと親しいことを知っていたからだ。金子は「米は露に弱いから難しい」として断るが、伊藤は「生命を賭してやれ」と強く促した。実際に米国に行ってみると、ルーズベルトが歓迎するなど米国は日本に好意的で、工作は順調に進んだ。

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    日露開戦・勝利をつかんだ「明治人の原点」とは

    はまず一門が撃って距離を測り、他の大砲はそれをもとにして一斉に撃つ(斉射)というやり方である。これは日露戦争で日本海軍が世界で初めて実施することになる。質量ともに行なわれた陸軍の強化策 一方の陸軍も、質量ともに強化を行なっていった。明治29年に6個師団を13個師団とする増強案を出し、議会で承認された。これは単に数を増やすというだけではなく、師団の野戦能力を強化するための編制替え(たとえば、近衛師団は近衛歩兵・近衛騎兵・野戦砲兵・工作連隊で編制)や、野戦砲兵連隊、要塞砲兵連隊の創設といった質の面での強化策も織り込まれている。 こうして明治42年(1909)を目指し、平時の野戦兵力が16万3000人、戦時動員兵力が54万5000人体制の陸軍がつくられていくが、明治33年にロシア軍が満洲に進駐したことなどによって、前倒しの必要性に迫られた。 対処に当たったのは、当時陸相を務めていた桂太郎だ。 ――あのロシアを前にしては、悠長な事は言っていられない…。 桂は、屯田兵制の第7師団を通常の師団に改めるなど、さまざまな対策を講じた。この時の桂の迅速な対応があればこそ、陸軍は当初の計画より6年早く、明治36年に54万人体制を実現した。 質の点では、当然ながら教育が重視された。「人」に重きを置くのも日本軍の特徴である。陸軍は独自の「歩兵操典」を定め、戦法、戦術で統一された近代軍隊の育成を進めたし、明治29年から陸軍大学校の定員を2倍、陸軍幼年学校においては3倍に増やしている。さらには陸軍も海軍同様、人材を海外に送り出した。参謀次長として対露戦略を担当することになる田村怡与造は駐在武官としてドイツへ派遣され(明治29年)、満洲軍の参謀となる田中義一はロシアに留学(明治30年)、口シア陸軍に入隊して実情を見聞している。 しかし陸軍が開戦を迎えるまでに、大きな問題がなかった訳ではない。最も衝撃が走ったのは田村参謀次長の急死であった。田村は対露作戦に精魂を傾けた末の過労死と言われる。明治36年10月1日――日露開戦の4カ月前のことであった。 大きな支えを失い、陸軍は困惑した。代わりが務まる人材がいないのだ。福島安正、伊地知幸介、休職中の乃木希典らの名も挙がったが、元老の同意は得られなかった。そこで窮余の策として白羽の矢が立ったのが、ドイツ軍参謀のメッケルが「軍事の天才」と激賞した児玉源太郎だった。だが、児玉は当時内務大臣を務めており、次期首相候補でもある。陸軍内部では「児玉さんが受ける訳がない」との声があがった。何しろ参謀次長就任は児玉にとって、2段階の降格人事となる。 しかし、児玉は自ら声をあげた。 「私が参謀次長になりましょう」 国家あっての我ら、この非常時に個人の肩書きなど問題ではない。大事なのは、国家の為に何をなせるかだ――。児玉の偽らざる心境であった。そしてこの児玉の決断に最も喜んだのが、大山巌参謀総長であった。 「児玉さんが来てくれれば、おいは安心、陸軍は安泰じゃ」 この大山もまた、国家の大事を前に些事を気にする男ではなかった。象徴的なのが海軍軍令部の独立問題である。先の日清戦争では軍令部長が参謀総長の下に置かれたが、それを対等にするよう、海軍の山本権兵衛が強く主張した。「格下」だった海軍と陸軍との調整を進め、陸軍に軍令部の独立を呑ませる――セクショナリズムを排し、これを実現させた人物こそ、大山である。かくして海軍軍令部の独立後、初めて、陸海軍共同作戦計画が立案された。「日本を守るために、なすべきことをなす」という大山巌の強い意志があればこそ、陸海軍の協調が成立したといえよう。 では、大山・児玉は日露戦争をどのように戦おうと考えていたのか。「早期開戦、早期講和」を唱える児玉は、朝鮮半島の中立地帯に上陸するルートと、海軍がロシアの艦隊を抑えている間に遼東半島に上陸するルートを設定し、陸路を満洲の平野にまで進んで決戦するというシナリオを立てた。陸海軍の垣根を越えて戦略を練ったことが窺える。そして、総兵力では劣る日本だが、緒戦は戦場に敵の倍の兵力を集中し、敵を上回る機関銃を配備した。各戦闘における機関銃の数を比べると日本が口シアの1.5倍ほど投入しており、この点はよく準備したというべきだろう。水面下で行なわれた「開戦外交」 三国干渉後、日本はロシアとの協商路線を模索したが、一方でロシアとの戦争に備える手も打っている。ドイツに装甲巡洋艦八雲と水宙艇17隻、フランスに装甲巡洋艦吾妻と水宙艇6隻、アメリカに巡洋艦千歳と笠置を発注したのは、その一例である。戦争になったとき、強力な同盟国があることは望ましいが、同盟を結ばなくても日本に好意的な国を増やしておくことは重要だ。三国干渉の当事者であるドイツとフランスに対してはロシアを応援しないようにという意図を含め、アメリカは日本に好意を寄せる可能性のある国という期待を込めてのことと思われる。 日本は、日英同盟を締結した後もロシアとの交渉を続けた。ギリギリまで戦争回避を模索していたといっていい。戦争をしたら勝てないという状態だったから、当然といえば当然である。それが明治36年の末にアルゼンチンから日進と春日を購入したとき、極東のロシア艦隊を戦力で上まわる目処が立った。つまり、「なんとか勝てるかもしれない」と考えられるようになったのは開戦の2カ月ほど前である。ただし、2隻が廻航されて日本に着くのは明治37年(1904)だ。制海権を掌握できなければ開戦できない。 残念ながら、明治36年から37年にかけてのロシアとの交渉は、日本がハードルを下げれば下げるほど、ロシアが強く出てきて、お互いに譲歩し合うという展開にならなかった。もちろん、そういうところがロシアの特性であることは桂太郎首相も小村寿太郎外相もわかっていたはずで、日露交渉の決裂を念頭に置いていたに違いない。「一致協力」をもたらしたもの 最後に、グランドデザインを実現していくうえで見逃してはならない、民間レベルの協力に触れておこう。たとえば、ジャーナリズムでは徳富蘇峰や福澤諭吉が「強兵」を支持した。「六・六艦隊構想」に対して議会では「海軍力の増強に金を使うより工業の近代化を図れ」との反対が出た。それに対し福澤論吉は「軍艦なければ国防あり得ず」「海軍抜きにして独立はできない」という内容を新聞で主張し、「増税もやむなし」という論陣を張っている。 税金だけではない。政府は大蔵省証券(国庫証券)を発行し、金を集めた。県知事が市町村に国庫証券の購入割り当てを行ない、これに半官半民の「奨兵議会」などが協力した。「奨兵義会」とは、兵士が出征するときに駅で「万歳」を唱えたり、出征兵士の家の農作業を手伝ったりする団体で、いろいろな名称で全国に150ぐらいできた。そこを通して国民に証券を買ってもらうと、愛国心のある人々の団体だから一般に募集するよりもよく売れた。もっとも、日本が負ければ紙くずになるだけに、国庫証券の金利は普通の預金より高かった。 また、明治34年には内田良平などが黒龍会を創設し、ロシア語教育を始めている。ここで育った人々がロシア語の通訳として日露戦争に従軍した。同じ年に奥村五百子が戦死者・遺族の救済と兵士の激励・慰問活動を目的とする愛国婦人会を創設している。閑院宮妃を会長にいただき、会員は46万人を数えた――。 日露開戦までの日本に現代的な教訓を探すならば、国のためにとの「一致協力」である。指導者から一般国民に至るまで、日本を守るために力を合わせた。このことが日本を支える大きな力を生み出したのである。山本や児玉のエピソードに触れる度に、誰もが自分の損得を無視して「やらなければならない」という強い思いを抱いていたことが伝わってくる。 この「己を捨て、目的に向かって進む」という姿勢が「一致協力」という結果をもたらしたのであり、これこそが勝てそうもない巨大な敵に立ち向かって、見事に勝利をつかんだ明治人の原点だったのではないだろうか。 平間洋一(ひらま・よういち)元防衛大学校教授昭和8年(1933)生まれ。防衛大学校卒(1期)。護衛艦ちとせ艦長、第三一護衛隊司令などを歴任し、昭和63年(1988)に海将補で退官。その後、防衛大学校教授、筑波大学講師などを歴任。法学博士(慶應義塾大学)。『日露戦争が変えた世界史』『日露戦争を世界はどう報じたか』『日英同盟』など著書多数。

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    誇りにできる歴史がある

    う海水浴客の姿はない。 南海高師浜駅の駅前に「浜寺俘虜(ふりょ)(捕虜)収容所跡」のレリーフがある。日露戦争で捕虜になったロシア兵の収容所がここにあった。現在は住宅街になっているが、碁盤の目のように整然と区画された道路は収容所の名残である。 明治37(1904)年2月から1年半に及んだ日露戦争では、約8万人の捕虜が日本に送られた。うち最大時には2万8000人が浜寺に収容された。当時の高石村の人口は約3500人だから、地元はさぞ驚天動地だったろう。 この地が選ばれたのは、陸軍第4師団の司令部が大阪に置かれていたのに加えて、戦時には似つかわしくないが、気候温暖、風光明媚(めいび)が決め手になったという。 遡(さかのぼ)る1899年、日本も参加してオランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜、傷病者に対する人道的な扱いが定められた。日露戦争は会議後初めての大規模戦争であり、国際的に注視された。一等国の仲間入りをめざす日本は、とりわけ捕虜の待遇に気を使った。 当初は次々に送られてくる捕虜をテントに収容したが、2万人近い大工や作業員を動員して突貫工事で居住棟を建てた。診療所、礼拝堂、パン工場などが設けられ、日本語教室も開かれた。まだ一般家庭に電気が行き届いていない時代に、収容所内ではどこも電灯がついた。 運動のために外出も許可され、毎朝隊列を組んで大鳥神社、大浜潮場などへ出かけ、夕方に戻った。地元の住民との交流もあり、親しくなって家に招待される捕虜もいたという。 負傷者のために皇后陛下から義手、義足、義眼が贈られ、ロシア政府からは同盟国だったフランスを介して手当金が支給された。 明治39(1906)年2月までに全員がロシアへ送還されたが、収容中に亡くなった89人は共同墓地に手厚く葬られた。 余話もある。捕虜の中に、のちに「イスラエル建国の英雄」と呼ばれたユダヤ人のヨセフ・トランペルドールがいた。親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓った。 やがてパレスチナへ渡り、建国闘争で銃弾に倒れるが、「国のために死ぬほどの名誉はない」と言って息を引き取った。これも日本兵から教えられた言葉だった。 浜寺公園の一角に「日露友好之像」が建っている。平成14(2002)年5月に建立され、碑文には「ロシアの勇猛果敢なる子が永遠に人々の記憶にとどまらんことを!」。当時の小泉純一郎首相、プーチン大統領が署名している。 自虐的に歴史を振り返り、隣国から要求されるまま謝罪を繰り返すより、わずか100年ほど前に、世界に称賛され、胸を張れる史実があったことを覚えておきたい。そして日本人としての誇りをこそ子供たちに教えたい。(しかま こういち)

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    浪花節で語られる乃木将軍

    。 例えば「信州墓参」で、先祖の墓参りに訪れた乃木に対し、それと知らぬ老婦人が毒づく。「自分の息子は日露戦争で死んだ。乃木というやつのせいだ」と。 乃木はじっと耐えるが、彼女は帰ってきた孫から目の前の人が乃木大将で、しかも乃木自らも息子2人を戦争で失ったと聞かされ、平謝りする。 浪花節だけではない。乃木は明治天皇に殉じて自死した後、神様となり、自宅の隣の場所に建つ乃木神社に祭られている。 明治期を代表する陸軍の軍人とはいえ、なぜ乃木は神様となり、浪花節で語り継がれることになったのだろう。それは日露戦争のさい、犠牲的精神で「旅順」を陥落させたためにほかならない。 旅順は満州(現中国東北部)から黄海に突き出た遼東半島のほぼ突端にある港湾都市である。 明治37(1904)年2月、ロシアと戦端を開いた日本はまずこの旅順を標的とした。一帯を清国から租借するロシアがここに太平洋艦隊を集結させていたからだ。日本の海軍としては、この太平洋艦隊を壊滅させて黄海を押さえ、主戦場の満州に陸軍を自由に送り込もうとしていた。 ところがロシア艦隊は周囲をぐるり山に囲まれたこの港に引きこもる。背後の山々には、コンクリートで固めた堡塁(ほうるい)(とりで)を築き、旅順全体を強固な要塞に変えていた。こうして遠く本国からバルチック艦隊の到着を待つ作戦である。 これに対し日本の連合艦隊は旅順港の狭い港口に老朽船を沈め、ロシア艦隊の出港を阻止しようとするがうまくいかない。このため港口での「封じ込め」に労力をさかれ、バルチック艦隊の影におびえなければならなかった。 一方の日本陸軍は、朝鮮半島や遼東半島から上陸、ロシア軍を押し戻すように、満州の地を北上する。だが旅順にロシア軍が健在では自由に攻められない。日本にとって、ノドに刺さった骨のようなものだった。 そこで、旅順の背後、つまり北側からの攻撃を任されたのが新たに編成された第三軍の司令官、乃木だった。第三軍は明治37年8月19日、後方東側の東鶏冠山(けいかんざん)方面から攻撃をかける。しかしロシアの堡塁に阻まれ、6日間で1万6000人の死傷者を出す大敗を喫した。9月、10月にも総攻撃をかけるが、その都度はね返された。 乃木は高潔な人柄で知られ、優れた詩人でもあった。部下を全面的に信頼し、正面からいちずに攻め続けた。将兵たちもその乃木を信頼し、一丸となって攻撃を繰り返した。 だがこうした精神主義的にも見える乃木や第三軍の攻撃姿勢に海軍や陸軍参謀本部の中に疑問が生じた。そして背後の山々の中で、旅順港を見渡せる北西部の二百三高地に標的を絞るよう要請、第三軍は11月末から二百三高地への集中攻撃を加えた。 途中、乃木の若いときからの友人で、現実家の満州軍総参謀長の児玉源太郎が一時、指揮権を握る形で加わったこともあり、12月5日、ついにこの山を奪取した。 山上に観測所を設け、ここからの指示で、日本国内から持ち込んだ28センチ砲という巨大砲で旅順港のロシア艦に砲弾を浴びせ、ほぼ壊滅状態に追い込んだ。周囲の堡塁も次々に破られ、旅順のロシア軍は翌明治38年の元日、ついに降伏する。 5万人にいたる死傷者を出したことで「信州墓参」のように、乃木に対する批判もあった。近年になってからは「愚将論」さえ登場した。だが国民は、旅順の戦いがいかに厳しいものだったか知っていた。批判に耐えながら、黙々と敵陣に挑む乃木に崇高なものを感じ「神」とあがめたのである。 「旅順陥落」で陸軍は満州での戦いに全力を投入、海軍はバルチック艦隊の来航に万全を期すことができた。(皿木喜久)                  ◇【用語解説】旅順港口閉塞作戦 開戦から間もない明治37年2月24日から3回にわたり実施された。旅順港口は幅が約270メートルしかないため、老朽船を沈め港を使い物にならないようにしようとした。だが敵の砲弾が飛んでくる中、自沈作業をし、ボートに乗り移り逃げるという危険な作戦だった。3月27日の第2回作戦で福井丸自沈の指揮をとった広瀬武夫少佐(死後中佐)は部下を捜していてボートに移るのが遅れ、敵弾を受け戦死した。このことは新聞で大きく報道され、広瀬も「軍神」となり、後に故郷の大分県竹田市の広瀬神社に祭られた。

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    敵はロシアと寒さだった

    不足による脚気(かっけ)も蔓延(まんえん)する。 明治から大正にかけての文豪・森鴎外は軍医でもあり、日露戦争では第二軍の軍医部長として戦地に赴いた。戦いで負傷した兵の手当てや病気治療のもようを野戦衛生長官あてに報告し、今、鴎外全集の中に収められている。 奉天の南でロシア軍と対峙(たいじ)していた38年2月16日付の報告では第二軍だけで新たに26人が凍傷を負い、腸チフスは198人、脚気に至っては955人が新たに発症した、とある。まさに満身創痍(そうい)の軍隊だった。 寒さの中、戦端を開いたのはロシア軍だった。1月25日、奉天西南の黒溝台付近で、日本軍の左翼(西)を攻めた。 日本軍もこれに反撃、小康状態となったが、満州軍の大山巌総司令官は2月20日、総攻撃を指示した。氷が解ける春になると、ぬかるみで動きにくくなるからだ。 2月22日、右翼(東)の鴨緑江軍が行動を開始、27日には左翼の第三軍が、ロシア軍の背後を突くかのように前進を始めた。 一種の陽動作戦だったが、クロパトキンはこれにはまり、軍が右往左往する間に、一、二、四軍が中央から攻撃をかけた。ロシア軍は北に向かって退却を始める。3月10日、ついに奉天が陥落、大山総司令官の「入城」となる。 クロパトキンはロシアで名将とされたが、一連の戦いで日本軍を必要以上に恐れ退却を繰り返し、後にロシア国内で非難をあびた。 いずれにせよ日本陸軍は「世界一」とされたロシア陸軍ばかりでなく、満州の寒さや種々の病気にも打ち勝ったのである。(皿木喜久)                   ◇【用語解説】首山堡(しゅざんぽ)の戦い 明治37年8~9月の遼陽の会戦では遼陽の南側の首山堡をめぐる攻防が焦点となった。小高い山や田畑からなるこの地をロシア軍が要塞として固めていたからである。日本軍は8月31日から第二軍を中心にこの首山堡に総攻撃をかけた。中でも大隊を率いる橘周太少佐(死後中佐)は、先頭に立って首山堡の中心、一四八高地を奪う。だがロシア軍の反撃を受け戦死、高地は奪い返されるが、翌日第二軍が攻略に成功、遼陽の会戦勝利の突破口となった。橘はこれにより海軍の広瀬武夫中佐と並ぶ陸の「軍神」と呼ばれることになる。

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    ロシアが「一線」を越えた

    口の朝鮮半島側に竜岩浦という所がある。小さな地図には載らないこの町が近代史に名を残すことになるのは、日露戦争のひとつのきっかけとなったからだ。 明治36(1903)年の5月上旬、韓国に駐在していた日本の武官らから政府に、ロシアの動向に関するある情報が相次いで寄せられた。「竜岩浦を武力で占拠し、兵営工事を始めた」というものだった。後に森林開発を理由にしていることがわかる。 これまでにも書いたが、ロシアは3年前の義和団事件で出兵した軍隊を満州(現中国東北部)にとどめていた。その軍事力を背景に、清国から租借した遼東半島の開発を着々と進めていた。その次の狙いが朝鮮半島にあることは明らかだった。 日本などの要求に対し、この年4月8日を撤兵期限と定めたものの、その日がくるとあっさりと破棄する。日本国民の間にはロシアに対する嫌悪感が高まるばかりで「ロシア討つべし」との声が渦巻いていた。 それでも政府は4月21日、京都で開いた伊藤博文、山県有朋の両元老、桂太郎首相、小村寿太郎外相の4者会談で、ロシアと「満韓交換論」で交渉する方針を決めた。満州におけるロシアの権益に日本が口を挟まない代わりに、朝鮮半島は日本に任せロシアは手を出さないことで妥協する。何とか「話し合い」で解決しようという姿勢だった。 国民感情はともかく、朝鮮半島をロシアの手に落ちないようにすることが、日本の安全保障にとって最重要だったのである。 そんなときに飛び込んできたのが「竜岩浦占拠」の一報だった。日本側から見れば、まさにロシアが越えてはならない「一線」を越えたのだった。 こんどは軍が動いた。陸軍参謀本部は休日返上で事態への意見書を作成、5月12日、大山巌参謀総長から明治天皇への「上聞(じょうぶん)書」の形で示された。 「韓国にして彼の勢力下に置かるるに至らば、帝国の国防亦(また)安全ならざるべし」と危機感を訴えたのである。軍内には「今なら勝てる」という楽観論もあった。 一方、政府は6月23日、明治天皇の臨席を仰いだ御前会議でロシアと本格的に交渉を始めることを決めるが、一向に進展しない。 ロシア内部にもこの時期、朝鮮半島まで利権を伸ばすべきだという強硬論と、満州にとどまってその権益を確保すべきだとの意見が交錯し、国論がなかなか統一されなかったからだとされる。 秋になってようやく小村とロシアの駐日本公使、ローゼンとの交渉が本格化する。この中でロシア側は、朝鮮半島の北部に「中立地帯」を設けようと提案する。一見建設的な妥協案に見えるが、日本からみれば「北はよこせ」と言っているに等しかった。 交渉はこの「中立地帯」の位置などをめぐり双方が何度も修正案を出し合うが、ともに譲らない。この間、日本では著名なジャーナリストの黒岩涙香(るいこう)が主宰する『万朝報(よろずちょうほう)』紙が反戦論から主戦論に転じるなど、マスコミも早期開戦論に傾いていった。 翌明治37年1月12日、御前会議でロシア側に最後の回答を求め、不満足なものであれば、軍事行動に移ることを決めた。そして2月4日、ついに軍事行動と国交断絶を決めた。 正式な「宣戦布告」は2月10日となったが、日本軍はすでに8日夜、陸軍が徹夜で朝鮮半島の仁川に上陸を敢行、さらに海軍は付近にいたロシア艦船を攻撃した。 日本の命運をかけたロシアとの戦争が火ぶたを切ったのである。(皿木喜久)                   ◇【用語解説】万朝報の「転向」  日刊紙『万朝報』は、キリスト教の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水、堺利彦らを社員に擁し、労働問題などを論じるほか、明治30年代には日露開戦反対の論陣をはっていた。しかし36年10月8日、社長の黒岩涙香が「もはや戦いは避けられない情勢であり、それなら全国民が力をひとつにすべきだ」と書き、開戦やむなし論に転じた。これに対し内村、幸徳、堺は退社する。しかし内村はその理由を「国民こぞって開戦と決めたら反対はしない」と述べ、これ以上反対論を書かないためだとした。

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    「ロシアとの平和は一時的だ」

    る。(皿木喜久)                   ◇【用語解説】その後の日英同盟 日英同盟協約は日露戦争の講和を前にした明治38年8月、改定された。日本が韓国に対し指導、監理、保護の措置をとることを英国が認めるなどの内容だった。さらに明治44年には米国に対してはこの協約は適用されないことを規定するなど再改定された。しかし第一次大戦後に東アジアをめぐる日本と米英との対立が生じはじめ、大正10(1921)年、ワシントン会議で調印されたいわゆる「4カ国条約」で日英同盟の終了が明記され、同盟は2年後の大正12年に失効した。

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    日露戦争 誇れる歴史がある

    日露戦争を勝利に導いたものは何か。近代日本の黎明期を支えるために国民一人一人が国家を担う気概を持って、それぞれの分野に愚直なまでに取り組んだ「一致協力」に明治人の気骨を見た。

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    ロシア艦隊見つけたり

    た。通信手段も限られている。敵の動き、とりわけ大海原の艦隊の動きをチェックするなど至難のわざだった。日露戦争が起きたのはそんな時代である。 日本は明治37(1904)年12月、ロシアの旅順艦隊をほぼ全滅させた。それより前、8月には蔚山(ウルサン)(韓国)沖の海戦で、ウラジオストク港に拠点を置く「ウラジオ艦隊」の主力艦を沈め、無力化させている。この結果、日本海から黄海にかけ制海権を握る。 これに対しロシアは37年10月、欧州のバルト海を拠点とするバルチック艦隊を太平洋第二艦隊とし出港させた。皇帝ニコライ2世は司令長官に任命したジノヴィ・ロジェストウェンスキー中将に「極東に遠征し日本艦隊を撃滅せよ」と命じた。戦艦7隻を中心とする堂々たる陣容だった。 だが艦隊は文字通り難航を強いられる。途中立ち寄る港で中立国などとのトラブルが発生する。大型艦は近道であるスエズ運河を通れず、アフリカ南端を遠回りしなければならなかった。 さらに、第二艦隊だけでは心もとないと、バルト海に残った艦をかき集め太平洋第三艦隊を編成、38年2月「応援」に回した。だがインドシナ半島のヴァン・フォン湾で合流するまで時間がかかり、極東遠征は遅れに遅れた。 おかげで東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、艦も兵も十分にリフレッシュできた。天才参謀といわれた秋山真之はこの間に「七段構え」といわれる戦法を編み出し、艦隊は射撃訓練を繰り返した。 ただ困ったことに敵艦隊の動きがつかめない。38年5月14日にヴァン・フォン湾を出たのは確認できたが、その後は不明だ。 最終的に日本海からウラジオストク港に入ろうとすることは確かだが、最短距離の対馬海峡を抜けるのか、太平洋を迂回し津軽海峡か宗谷海峡を通るのか。連合艦隊は対馬海峡とみて韓国の釜山に近い鎮海湾に身を潜め、待ち受けるが、容易に姿を見せない。 実はロシア側にも太平洋を回り小笠原諸島を占拠、奪還にくる日本艦隊を撃退するという案もあったという。だがロジェストウェンスキーは対馬海峡を選ぶ。出港以来7カ月に及ぶ長旅で、一刻も早く着きたいとの気持ちがはたらいたのかもしれない。 5月27日未明、長崎県の五島列島沖で哨戒(見張り)に当たっていた信濃丸が、ロシア艦隊を見つけた。信濃丸は民間の貨物船を徴用した仮装巡洋艦だった。 「敵艦隊見ゆ」の無電は午前5時過ぎには鎮海湾の東郷司令長官のもとに届いた。東郷を乗せた旗艦「三笠」を先頭とした連合艦隊は対馬海峡でロシア艦隊を待ち受け、同日午後2時過ぎ、歴史的大海戦が始まった。 東郷は、丁字(ちょうじ)型に敵の進行方向を抑える作戦をとり、たちまち有利にたった。翌28日夕までの戦いで、ロシア艦隊38隻のうち戦艦6隻など19隻を沈め、13隻を捕獲ないし、武装解除する。逃走中に自沈したり破壊したりした2隻を除き、無事ウラジオストクなどに逃げ込めたのは4隻だけだった。 対して日本側が失ったのは水雷艇3隻だけだった。世界の海戦史上例を見ないワンサイドの勝利である。その理由としては、日本側にロシア艦隊を待ち受ける時間的余裕が生じたことや作戦の奏功、ロシア側の遅すぎた極東到着などが挙げられる。 だがそれより、この一戦に国運をかけた日本と、長い航海で疲れ果てたロシアとの士気の違いが勝敗を分けたといえる。(皿木喜久)                   ◇【用語解説】東郷平八郎司令長官 日露開戦必至となっていた明治36年10月、山本権兵衛海相は、常備艦隊司令長官を日高壮之丞から同じ薩摩藩出身の東郷平八郎に代えた。東郷はそれまで「閑職」とされた舞鶴鎮守府司令長官だった。勇猛さでは随一だが軍中央の指示に従わない恐れもある日高より、無口で自分を出さない東郷を選んだのだ。常備艦隊は同年12月には連合艦隊として改編されたうえ、加藤友三郎参謀長や秋山真之参謀ら優秀なスタッフをそろえてロシア艦隊と対戦、東郷はみごと山本だけでなく国民の期待に応えた。