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    【鈴木宗男特別寄稿】安倍総理、現実的解決は「2島+α」しかない

    鈴木宗男(新党大地代表) 北方領土問題について現実的解決を目指す安倍総理の対ロ外交は賢明なやり方だ。外交には相手があり日本100点、ロシア0点、逆にロシア100点、日本0点もない。国境画定、領土問題解決はトップリーダーの判断しかない。安倍総理の支持率は60%、一方プーチン大統領は80%を超えている。この強いリーダーの下でしか北方領土問題は解決できない。 戦後の国際社会の枠組みは戦勝国(連合国)、敗戦国(枢軸国)とで区別され、今日に至っている。国連憲章でもいまだ、日本は敵国条項に入っている。1951年にサンフランシスコ講和条約で吉田茂全権は全千島を放棄している。国後島・択捉島は南千島である。この事実を国民はどれほど知っているのだろうか。首脳会談を前にプーチン大統領の出迎えを受ける 安倍晋三首相=5月6日、ロシア・ソチ 1956年の日ソ共同宣言で平和条約締結の後、歯舞群島・色丹島についてはソ連の善意で日本に引き渡すとなっていたが、1960年に日米安保条約が改訂されるとソ連側は、外国軍隊が駐留する国には領土は引き渡さない。1956年宣言も反古(ほご)にすると言ってきた。領土問題はなしとなったのである。そこで日本は四島一括返還、その上即時と強く主張した。 しかし1991年、共産主義ソ連が崩壊し、ロシア連邦共和国が誕生しエリツィン大統領が登場した。エリツィン大統領は「戦勝国、敗戦国の枠組みにとらわれず法と正義に基づいて話し合いで解決しよう」と述べ、日本政府もロシアの変化、柔軟性にかんがみ「四島の帰属の問題を解決して平和条約」と方針転換した。この事実を国民に周知徹底しなかったがゆえに今でも「四島一括」と言う言葉が一人歩きし、北方領土問題解決の足かせになって来た。 外交は積み重ねであり、信頼醸成が一番である。原理原則を一億回唱えても問題解決には繋がらない。歴史の事実、流れを正確に把握し、現実的解決しか方法はない。現在、北方四島はロシアが実効支配し、当然主権もロシアにある。これはアメリカ・イギリスがヤルタ協定以後認めた戦後の国際的諸手続きによってなされてきた。戦争で取られた領土は戦争で取り返すのがこれまでの歴史である。それを一滴の血も流さずに話し合いで平和的に解決しようと努力している安倍総理の外交は世界の手本であり、歴史に残ることだと確信している。 プーチン大統領は、1956年宣言は日本の国会も批准し、現在のロシアの国会にあたる当時の最高会議も批准している法的拘束力のあるものだと認めている。この1956年宣言をスタート台にして北方領土問題を解決するしかない。今回の首脳会談で1956年宣言に基づき、2島返還への具体的協議に入ることで合意できれば満点、大成功だと考えるが、そこまで行くことができるかどうかがまさにポイントではないか。経済協力「食い逃げ論」は誤り 私は「2+α」が現実的解決に繋がる唯一の方法だと考えている。ロシアも良かった、日本も良かったという形にすることで平和条約の締結に繋がる。 プーチン大統領も安倍首相も日本とロシアの間に平和条約がないのは異常なことだと言っている。3日の日露外相会談後の共同記者会見でラブロフ外相は1956年の日ソ共同宣言に関連し「その第一歩は平和条約の締結だ」と述べている。この発言は2島を日本に引き渡すというシグナル、メッセージと受け止めてよいのではないか。 その実現のためには経済協力、北方四島での共同経済活動、自由往来、海の活用等、さまざまなことが考えられる。経済協力についてよく「食い逃げ論」が言われるが、経済協力は国民の税金を使うのではなく、民間が出て行く話である。民間企業は将来性、採算性を十分考えて判断する。日露首脳会談 プーチン露大統領を表敬訪問する鈴木宗男議員 =2000年9月4日、東京都迎賓館  この経済協力について何かしら国がお金を出すように受け止める向きもあるが正しくない。日本の一番のウィークポイントはエネルギー資源のないことである。ロシアは石油、ガスの世界トップレベルのエネルギー資源大国である。これを供給してもらう事だけでも日本のエネルギーの安定供給に繋がり、経済協力することは重要である。北方四島での共同経済活動は経済協力と全く別物である。 元島民の皆さんは「1島でも2島でも還していただけるものは還してほしい。あとは自由に行けるようにしてほしい。国後島周辺の海を使わせてほしい」という思いである。 誰よりも元島民とこれまで向き合ってきた私である。この元島民は平均年齢81.3歳になる。人道的見地からも叶えてあげなくてはいけないのである。 安倍総理も「北方領土問題は何よりも元島民の理解、思いをしっかり受け止めて解決に向けて努力したい」と言っている。安倍総理は乾坤一擲(けんこんいってき)の首脳会談をして、必ず道筋を付けて下さると確信している。 平成3年4月、ゴルバチョフ大統領が来日した際、議長公邸での歓迎式典に安倍晋太郎先生が車椅子で来られた。ゴルバチョフ大統領が歩み寄るとすっくと立ち上がり、正対で握手をされた。大変痩せておられ、お身体が心配されたが、側でしっかりと支えておられたのが当時秘書をなされていた現安倍総理である。その一カ月後に安倍晋太郎先生は亡くなられた。当時、外務政務次官としてその場にいた者として今も鮮明に想い出される光景であり、政治家としての情熱、責任感、魂を知らしめてくれた尊いお姿であった。 その父上、安倍晋太郎先生の思いも持って首脳会談に臨む安倍総理に天国からの晋太郎先生の力強い支えもあるものと信じてやまない。

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    北方領土解決のカギは「主権」 米国依存の日本をプーチンは認めない

    小泉悠(軍事アナリスト、未来工学研究所客員研究員) 本稿では、「主権」をキーワードとして日露関係の今後について考えてみたい。 ロシア政府首脳、たとえばプーチン大統領は、しばしばこの「主権」という言葉に言及する。ただし、その意味するところは、我々のイメージするものとはやや異なっているようだ。2015年9月、米ニューヨークの国連本部でロシアのプーチン大統領(右)と握手する安倍首相(共同) 教科書的に言えば、現在の世界に存在する国家はいずれも等しく主権を持っていることになっている。現在、国際連合には193の加盟国があるが、したがって少なくとも193の主権が存在することになる。 しかし、ロシアのいう「主権」はもう少し狭い。すなわち、自国の在りようを自国で決められる国が「主権国家」なのであり、強大な政治・経済・軍事力を持つ大国だけが本当の意味でこれに該当するという考え方である。 したがって、こうした力を持たず、大国に依存する国家をロシアは完全な主権国家とは認めない。ロシア側の言論において「ウクライナにはどこまで主権が認められるか」という一見極めて傲慢な議論が出てくるのは、こうした考え方を背景としているためである。 このような考え方に基づくならば、ロシアにとっての日本とは完全な主権国家ではない。政治・経済・安全保障などあらゆる面における密接な日米関係を、日本は「パートナーシップの深化」という形で肯定的に捉えるが、ロシアにしてみれば日本は米国に主権を制限された国と映る。 たとえば今月、プーチン大統領は日本メディアの独占インタビューに応じたが、この中で次のように述べた。「日本はロシアへの制裁に加わった。制裁を受けたまま、どうやって経済関係を新しいより高いレベルに発展させるのか?日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどのくらい実現できるのか、我々は見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか」(『読売新聞』電子版、2016年12月13日付) つまり、ロシアは日露関係を純粋な2国間関係とは見ておらず、常に日本の背後にある米国を意識している、と言える。ロシアにおける日本のイメージは決して悪いものではなく、プーチン大統領も日本の文化や武道に強い敬意を払っていることはよく知られているが、これは全く別の話である(ちなみにプーチン氏は、日本への関心は「外国趣味の一つ」とも述べている)。 このようなロシアの「主権」観や日本観は、領土交渉にも大きく影響している。「米国の同盟国」に領土を渡す不信感 日本は8項目の経済協力を柱とする経済面での交流を領土交渉の梃子と位置付けている。一方、ロシア側は、経済協力自体については大いに歓迎しているものの(ロシア全体の経済発展にとっても、衰退の止まらない極東の振興にとってもアジアからの投資は不可欠である)、それでは十分ではないとも見ている。米国の同盟国である日本に領土を引き渡すことへの、安全保障上の不信感が抜きがたく存在するためだ。 たとえば北方領土の国後島及び択捉島を含む千島列島について見てみよう。両島は戦略原潜のパトロール海域であるオホーツク海の出入り口を扼す天然の防衛線であり、2014年以降、カムチャッカ半島に新鋭ミサイル原潜が配備され始めてから、その戦略的価値はさらに高まっている。現在、ロシアは旧式ミサイル原潜3隻と新鋭ミサイル原潜2隻をカムチャッカ半島に配備しているが、今後も装備更新を進め、最終的には新鋭ミサイル原潜4隻体制とする計画である。 その外側に位置する色丹島及び歯舞群島については、島自体の小ささとも相まって戦略的価値は低い(両島の合計面積は北方領土全体の7%に過ぎない)。だが、それでも、そこに米軍や自衛隊が展開してくることの懸念はぬぐえないだろう。大部隊の配備には向かないとしても、電子情報収集システムや信号情報システムの配備拠点となる可能性もあるためである。 ロシアが北方領土を日米安全保障条約の適用除外とするよう日本に求めてきたとの未確認報道もあるが、以上のような戦略的意義を考えるならば、ロシアがその程度の安全保障上の要求を行ってくることは十分に考えられる事態と言える。 もちろん、ロシアは何が何でも領土を譲らない国だというわけではない。2004年に中露が4000kmに渡る国境を画定したことはその好例である。 ただ、プーチン大統領は今年10月、中露には40年に及ぶ信頼関係の積み重ねがあってこそ領土問題を解決できたのだと指摘して日本側をけん制している。また、前述のインタビューでも同じ言葉が繰り返された。 たしかに中露は国境紛争を経験し、その後も長く軍事的に対立してきたし、ソ連は中国に対する核攻撃さえ真剣に検討したことがある。その一方、中国はロシア的な意味での「主権国家」であり、困難な交渉相手ではあっても、両国間の合意は「主権国家同士の合意」である。そして冷戦後は、両国は国境における兵力の引き離しや演習の事前通告、合同軍事演習などを通じて安全保障上の関係を深化させてきた。 ロシアにしてみれば、こうした積み重ねのない日本が安易に中露のような国境画定を期待してもらっては困る、ということになろう。領土問題解決に「50年」の覚悟はあるか ロシアの著名な国際政治学者ドミトリー・トレーニンは、日露間で50年かけて信頼関係を積み重ね、北方領土問題を解決するという遠大なプランを発表したことがある。この構想は日本でも大きく紹介されたが、米国の同盟国である日本に領土を引き渡すというのはそれだけの覚悟が必要なことである、とも言える。歯舞群島・水晶島のボッキゼンベ墓地(旧日本人墓地)に墓参する元島民ら=北方領土・歯舞群島(鈴木健児撮影) また、もしも日本との交渉が難航すれば、ロシアは「北方領土は第二次世界大戦の正当な結果としてソ連(ロシア)の領土になった」という原則論に立ち戻るであろうし(現在はほぼそうなりつつある)、領土問題を棚上げにしたまま日本からの経済協力を引き出すために様々なけん制を繰り出してくるだろう。北方領土におけるさらなる軍事力強化はそのひとつであるし、最悪の場合には尖閣諸島と北方領土の領有を中露が相互に承認する(あるいはそれを示唆する)など、中国ファクターを用いた恫喝に出てくる可能性も考慮しなければならない。 安倍政権としては、ロシアとの関係強化を中国の膨張に対する一種のけん制とする思惑があるとされるが、ロシア側としてもそうした意図は当然、見抜いた上で行動に出てくると想定しておく必要がある。 このようなロシア側の出方を踏まえた上で求められるのは、経済協力と並行してロシアとの安全保障協力を進めることであろう。 もちろん、日本は今後とも日米同盟を安全保障の基軸とし続けるであろうし、それゆえにロシアとの安全保障協力には限界がある。 ただ、ウクライナ危機以前の日露は2プラス2(外務・防衛閣僚協議)や合同SAREX(海上捜索・救難共同訓練)のような形で安全保障協力を行ってきたし、欧米諸国はさらに踏み込んだ協力(たとえば対テロ・対海賊・対ハイジャック訓練、ミサイル防衛、機雷掃海など)を実施してきた。今後、ロシアとの間でこうした協力枠組みを再開・深化させることは一つの方法であろう。特にソマリア沖の海賊問題については、日露はともに同じ海域に艦艇を派遣しており、こうした事態を想定してSAREX以上の合同訓練を行うことは可能かもしれない。 あるいは、欧州や中国との間でロシアが行っているように、互いの国境付近における兵力配備の制限、兵力の移動や演習の事前通告といった信頼醸成措置を実施することも考えられよう。

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    北方領土返還は必ず実現できる

    ロシアのプーチン大統領が来日し、日露首脳会談が行われる。半世紀以上進展がない北方領土交渉をめぐり、両首脳の政治決断に注目が集まるが、直前になってロシア側の消極姿勢が伝わり、国内には悲観論も広がる。「私の世代で終止符を打つ」。会談を前に語った安倍首相の言葉を今こそ信じたい。

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    「4島返還」を狙う安倍首相、プーチン会談に仕掛ける落としどころ

    を示唆していた。だが、その後の同外相の強硬発言からみて、ロシア側からの新提案は期待できそうもない。 日露関係筋によれば、プーチン大統領訪日では、10-20の経済協力案件の文書調印が予定されるが、共同声明の発表は予定されていないという。その場合、北方領土交渉の成果が文書に盛り込まれないことになり、経済協力の「食い逃げ」となってしまう。ようやく実現した大統領訪日で、領土問題の成果が全くない場合、安倍外交への風当たりが強まりかねない。 安倍政権はおそらく、山口会談を本格交渉の「出発点」と位置付け、首相の側から叩き台となる何らかの新提案を提示するかもしれない。 日本側の発表によれば、プーチン大統領は15日午後、特別機で山口入りし、山口県長門市の温泉ホテルで首脳会談とワーキングディナーを行う。両首脳は16日に東京に移動し、首相官邸で昼食を交えた首脳会談と、共同記者会見を行い、大統領は同日夕には帰国の途に就く。安倍首相は今年に入って、5月のソチ、9月のウラジオストク、11月のリマと、二人だけの密室会談を続けており、長門での温泉会談はその延長線上となる。 過去の日露首脳交渉で、山口会談に似た形態の首脳会談があるとすれば、1998年4月の川奈会談だろう。橋本龍太郎首相は個人的親交を深めたエリツィン大統領を伊豆半島の川奈ホテルに招いて1泊2日で会談。非公式協議の位置付けとなり、橋本首相は席上、「両国の国境線を択捉島とウルップ島の間に敷くなら、ロシアの施政を合法的なものと認め、4島の現状を今のまま継続する」との国境線画定提案を行った。「2島返還」まで譲歩できない北方領土問題 エリツィン大統領は身を乗り出して強い関心を示したものの、側近のアドバイスで持ち帰って検討すると答えた。その後、同大統領は健康悪化や支持率低下に陥り、政権担当能力が低下。ロシア側は結局受け入れなかった。後任のプーチン大統領は川奈提案について、「よく考えられた勇気ある提案だが、ロシアとしては受け入れられない」と正式に拒否した。 川奈提案は事実上の4島返還案だったが、プーチン政権は56年の日ソ共同宣言に沿った歯舞、色丹2島の引き渡しには含みを残しながら、国後、択捉の帰属協議に応じる意思を示したことは一度もない。仮に、安倍首相が長門市で行われる会談で、「長門提案」を行う場合、川奈提案よりも要求を下げた内容にならざるを得ない。 選択肢としては、中露両国が国境問題を最終決着させた面積折半方式や、日本が国後、色丹、歯舞の3島を獲得する「3島返還論」も考えられる。だが、プーチン大統領は11月に米ブルーンバーグ通信との会見で、中露と日露の領土問題を比較し、「2つの問題には根本的な違いがある。日本との問題は大戦の結果生じており、国際的取り決めで規定されている。中国との問題は大戦と一切関係がなかった」と一蹴している。 自ら高揚させた戦勝神話と民族愛国主義が国内に広がる中、リスクの多い「国後割譲」には踏み込めないだろう。日本側が「3島返還」を切り出す場合、日本の主張は直ちに「4島返還」から「3島」に歴史的に転換するというリスクがある。北方領土・歯舞諸島 こう見てくると、「相互に受け入れ可能な解決策」の模索は至難の業だが、一定の合意を目指す場合、「長門提案」はたとえば、①ロシアによる戦後の領有を容認する②56年共同宣言に沿って、平和条約締結後の歯舞、色丹引き渡し交渉を進める③国後、択捉の帰属は将来の問題として残す-といったトーンになるかもしれない。 しかし、ロシアの現状から見て、この提案も受け入れそうにない。ロシアでは「歯舞、色丹を引き渡した後、国後、択捉の帰属を協議することはあり得ない」(ロシア外務省当局者)との主張が圧倒的であり、最終的には「2島決着」が最大限の譲歩となる。 安倍首相はこれまで「4島の帰属問題を決着させて平和条約を結ぶ」と強調しており、公の場で「4島返還」に言及したことはない。とはいえ、戦後の自民党政権が「4島一括返還」を主張してきた手前、安倍首相が「2島決着」まで要求を下げることはできないだろう。山口会談は落としどころが難しい会談になる。 山口会談でサプライズが飛び出す可能性に期待したいが、日本としてはこの際、プーチン体制下での国後、択捉返還が困難であることを覚悟しておくべきだろう。不可能を承知で今後も「4島」を要求し続けるのか、屈辱的な「2島」で幕引きを図るのか-。北方領土問題は次第に国内問題となり、日本はいずれ、不愉快な選択に直面するかもしれない。

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    3カ月限定復活 宗谷海峡に「プーチン航路」

    【WEDGE REPORT】吉村慎司 (フリージャーナリスト・北海道国際交流・協力総合センター研究員) 日本とロシアを直に結ぶ唯一の旅客定期航路、稚内―サハリン航路の運航が今週復活した。同区間では1999年以来夏季のフェリー運航が毎年続いてきたが、昨秋、運営主体だった日本のフェリー会社が不採算を理由に撤退。今季の運航が絶望視されていたところにサハリン州政府から協力の申し出があり、新体制での再開に至った。ロシア側は船会社をあっせんするほか、運航経費の一部を負担するなど異例の協力ぶり。背景には、極東振興に取り組むウラジーミル・プーチン大統領の影響力が見て取れる。サハリンからの乗客サハリンからの乗客稚内-サハリン航路 8月1日の昼過ぎ。青空の下、80人乗りの双胴船「ペンギン33」(270トン)が稚内沖に姿を現した。ロシア・サハリン州のコルサコフ港を出発してから約4時間半。穏やかな海面を順調に進み、13時前に無事稚内港に着岸した。新体制による稚内―サハリン航路の第一便である。船から降り立ったロシア人客が報道陣のカメラに笑顔で手を振る。岸壁で出迎えた数十人の地元関係者に、一様に安堵の表情が浮かんだ。 運航するのは日本の会社ではなく、ロシアのサハリン海洋汽船(SASCO=サスコ)だ。サスコがシンガポールの船会社から船員ごとレンタルした船を使う。定員80人で貨物の扱いはなし。昨年まで乗客200人強、車両50台程度を運べるフェリーだったのに比べれば小規模だが、小型化することで運航コストを抑える狙いだ。 「春の時点では、今年の運航はないと誰もが思っていた」と稚内の行政関係者が話す。航路はこれまでビジネスや観光だけでなく、若者の交流事業、旧樺太出身者の墓参など、少ないながらも多様な利用者を運んできた。季節航路を16年維持したハートランドフェリー(本社:札幌市)が昨秋に運航を終えるのと前後して、稚内市と地元経済界はハートランドからの船の買い取り、新たな運航会社の確保などを画策してきた。だが諸条件が折り合わず昨年末までに計画は断念。打開策がないまま今年4月に第三セクター「北海道サハリン航路」を発足し、当面2017年までに航路を再開することを目標に掲げていた。 風向きが変わったのは5月下旬だった。サハリン州政府から稚内市に、資金を含めた協力の申し出が入った。航路は99年のスタート以来黒字化せず、市が補助金で支えてきたが、その間ロシア側からの資金支援は一度もなかったため、関係者に驚きが広がった。支援はオレグ・コジェミャコ州知事の判断だった。 コジェミャコは州外から昨春やってきた、新しい知事である。ロシアの知事は形式上は地元住民による投票で選ばれるものの、実態は大統領による任命制だ。コジェミャコの場合は、前の州知事が昨年3月に汚職容疑で逮捕された際、クレムリンの命を受けて知事代行として州外から赴任した。選挙を経た正式な知事就任は昨年9月。サハリンの前には別の地方の知事を務めており、サハリンの慣習やしがらみにとらわれずに地域を発展させることを中央から期待されている。プーチン、安倍会談プーチン、安倍会談 航路支援申し出の約3週間前、日ロ間では大きな出来事が起こっている。ロシアのソチで5月6日に行われた、プーチン大統領と安倍晋三首相の会談だ。9月に開かれるロシア極東での経済フォーラムに安倍首相が参加する見通しとなり、経済協力の機運は高まっていた。 プーチン政権にとって、人口が少なく経済が立ち後れている極東地域のテコ入れは大きな課題だ。極東の看板都市は9月のフォーラム会場にもなるウラジオストクだが、ほかの地方にも種々の特区を設置するなど極東全体の経済振興に力を入れるのが政権のスタンスだ。その分、各知事は実績づくりのプレッシャーにさらされている。ロシア国内で最も日本に近いサハリン州においては、両国間の交通インフラ整備は格好のアピール材料の一つとなる。 しかしコジェミャコ知事はサハリンに来てからまだ1年強しかたたず、航路について詳しいわけではない。そこで同知事は稚内市に対して5月下旬、航路の現状・課題についての説明を求めた。州政府を尋ねた現地駐在の稚内市職員からレクチャーを受け、支援を即決する。コジェミャコ知事と高橋知事 知事のトップダウンにより、部下も浮き足だった。6月3日、コジェミャコの決定から数日後に開かれた北海道―サハリン官民定期会合で、州政府幹部が「航路を7月15日に再開する」と明言。実はまだ日程はおろか事業スキームも話し合っていない時点のフライング発言だがロシア側メディアでそのまま報じられた。「寝耳に水。いったい何のことを言っているのか」。稚内市や北海道庁などに混乱が広がった。実際には2週間強遅れて8月1日の初運航となる。 関係者間で事業計画が正式にまとまり、調印したのは7月4日。運航経費をロシア側と日本側で折半する内容だ。ただ日本側には船の安全性に疑問を抱く声も多く、また、運航主体があくまでロシア企業であって日本側のコントロールが及ばないことを不安視する向きもある。日本側の三セクの社長を務める藤田幸洋・藤建設社長は、「航路再開に向けては、ロシア側が支援すると言っている今が千載一遇のチャンス。今できることをやらなければ来年や再来年にどうなるかわからない」と語る。 船は週2往復で、9月16日までに計14往復を運航予定。乗客数は1000人を目標とする。「あまり利用者が少ないようだとロシア側が協力をやめる懸念もある」(地元行政関係者)。実質的にわずか2カ月程度で就航したためPRが後回しになっており、関係者は乗客確保に躍起になっている。 復活した稚内サハリン航路は、日ロ地域間経済協力のモデルケースとなるのか、短期間で破綻して失敗事例の一つに加わるのか、予断を許さない。

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    国力回復狙うロシアの次なる一手は?

    【世界潮流を読む 岡崎研究所論評集】岡崎研究所 カーネギー国際平和財団モスクワ・センターのドミトリー・トレーニン所長が、Foreign Affairs誌5-6月号に掲載された論文で、ロシア軍の来し方、行く末を論じ、ロシア軍に限界はあるが、これからも、ロシアがシリア爆撃のように海外で軍事力を行使する可能性はある、と結論付けています。要旨は次の通り。iStockソ連崩壊で地に落ちたロシア軍 ソ連崩壊後、軍は「朽ち果てた」。1988年は500万を数えた兵員が、94年には100万となり、国防予算は2460億ドルが140億ドルに縮小した。海外からは70万の兵力を引き揚げた。軍人は将官級でも200ドル程度の月給しかもらえず、その社会的地位は地に落ちた。 91年~08年にかけては、ロシア軍は旧ソ連域内の紛争対処にのみ用いられた。NATOとの協力に期待がかけられ、96年にはボスニア・ヘルツェゴビナでのPKOに加わった。その期待が裏切られ、NATOが東方に拡大を始め、99年には(ロシアの友好国)セルビアが爆撃され、03年には米国がイラクに侵入した。ロシアは激しく抗議はしたものの、止める力はなく、核兵器に自身の安全確保の最後の望みをかけるのみであった。世界における地位回復狙うプーチン世界における地位回復狙うプーチン 08年のグルジア戦争でロシアは勝利はしたものの、装備の旧式化が露わとなり、その前後からプーチンは軍改革と装備近代化に乗り出した。2020年までに7000億ドルを費やすことが予定されている。その結果、ロシアはクリミア併合、東ウクライナへの介入、シリアでの爆撃を首尾よく行うことができ、ユーラシアに本格的な軍勢力として復帰したのである。また07年には、NATO周縁での偵察飛行を再開した。14年(クリミア併合、東ウクライナ紛争)はこうして、欧州に東西間の軍事対立が復活した年と言える。 シリア爆撃は、ロシア軍が旧ソ連域外に乗り出した初めてのケースである。ロシアの目的は、シリア、イラン、イラク、クルド地域等における地歩・利権を守ることにある。それは、ロシアを国として保持し、世界における正当な地位を回復せんとするプーチンの野望の一環である。そうやって、ロシアは、この25年間失っていた中東における地歩を見事に回復した。 ロシアは次にどこで軍事力を行使するだろうか? 北極圏での資源獲得競争が云々され、ロシア軍は同地域の基地を再開したが、フィンランド、スウェーデンがNATOに加盟する等の急変がなければ、武力紛争は起るまい。もっと可能性が高いのはロシアの南辺、つまり中央アジア方面である。アフガニスタンについてはアフガン戦争敗北のトラウマがあるので、直接介入はしないだろうが、中央アジアはロシアにとって緩衝地帯であるので、ここにISISがアフガニスタン方面から侵入してくれば、ロシアは例えば集団安全保障条約機構(NATOのロシア版)の枠で介入するだろう。 シリア介入で失敗するとか、経済混乱に陥らない限り、ロシアは中国、米国に並ぶ大国だと言い立てて、海外での軍事力行使を続けるかもしれない。 ロシアは、NATO加盟国を攻撃することはない。核戦争につながりかねないからである。しかしバルト諸国、ポーランドはロシアを恐れ、NATOの対応強化を実現した。ロシアはこれに応えて、西部方面での軍編成を変えている。にらみ合いが続くことになろう。兵力不足に悩むロシア ロシアは世界支配の野望は持たない。そして冷戦時代の軍拡競争が経済を弱化させた教訓も覚えている。加えて、軍需産業はこの20年間で弱体化しているし、今後もGDPの4.2%(15年)にも上る大きな国防予算を維持することは難しい。国民は、軍のおかげでロシアの国際的地位が上がったのを歓迎しつつも、それが自分たちの生活に響くとなれば、黙ってはいないだろう。ロシアは専制主義国家だが、国民の支持があればこそ権力を維持していられる。出典:Dmitri Trenin,‘The Revival of the Russian Military’(Foreign Affairs, May/June, 2016)https://www.foreignaffairs.com/articles/russia-fsu/2016-04-18/revival-russian-military*   *   *兵力不足に悩むロシア この論文は、論点を尽くし、米ロ双方の主張の間でのバランスを維持しており、賛成できます。あえて、日本にとって意味のある諸点を指摘すれば、次のようなことが言えるでしょう。 ロシアでも若年人口は減っており、ロシア軍は徴兵制を取っているにもかかわらず、兵力不足に悩んでいます。徴兵は1年しか就役しないため実戦には使えません。従ってシリア等での実戦では、契約に基づく「職業兵」が使われています。しかし、その数も限られているので、ロシアは長期戦、二正面作戦はできません。 この論文が指摘しているように、ソ連崩壊後の20年間に軍需企業からエンジニアが多数去った後遺症は、今でも残っています。T-14戦車、S-400対空ミサイル、極超音速弾頭等優れた兵器も開発されている反面、米国が進めようとしている「軍の無人化」では後れをとっていくことでしょう。 極東方面で問題となり得るのは、(1)シリアで「実験した」新型中距離巡航ミサイルX-101(射程5500km)が核弾頭付きで極東に配備される場合、(2)太平洋艦隊が大幅に増強され、中国艦隊と連携して動く場合、が考えられます。 それでも、安全保障面でのロシアの注意は西方、南方に向けられており、上記①②がなければ、極東におけるロシア軍は、カムラン湾へのロシア艦寄港等、日本にとってはマイナーな意味しか持ちません。日本にとっての脅威は、そうしたことより、中国が建設中の空母2隻のほうがよほど重大です。

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    今こそ、北方領土四島一括返還最後のチャンスだ

    【山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~】中村繁夫 (アドバンスト マテリアル ジャパン社長) 初めて会ったロシア人から「中村さんですね」と言われて驚いた。続けて「私の妻は『馬場真一』の娘です」と聞いてもっと驚いた。世界最大のニッケル生産企業の「ノリリスク・ニッケル」調査部長のDenis Sharypinさんから2月に初対面の挨拶をされたときの話だ。馬場君のお葬式の時にミニスカートにルーズソックスを穿いていたあの高校生の娘さんがデニスさんと結ばれたのだから「縁は異なもの味なもの」である。 馬場真一君とは私の前職(蝶理時代)の同僚である。彼は旧ソ連・ロシア貿易の蝶理のスーパースターで次々と新しいビジネスを開拓したが1998年に志半ばで帰らぬ人となった。彼は物資や化学品の輸出を担当し、モスクワにも10年間以上の駐在をして次のロシア貿易を背負って立つ人材であった。日本の傘や雑貨や水耕栽培プラントの輸出を成功させたのも彼の功績である。モスクワ市内の様子。奥に見える建物がモスクワのターミナル駅の一つであるベラルースキー駅(SHIGEO NAKAMURA) 馬場君の発想はユニークで、当時のガスプロム(世界一の天然ガス国営企業)のキーパーソンとの大口取引に注力していた。ロシアの天然ガスのパイプラインは、あまりメンテナンスはしないから馬場君はそこに目を付けた。日本の塗料を塗れば錆止めになるばかりではなく長持ちするので、そこが馬場君の売込みのツボであった。天然ガスのパイプに使う塗料の大口商談が成立するあと一歩という所で病魔に侵されて他界したのである。 神戸外大時代は野球選手でスポーツ万能だった。癌が進行しているにもかかわらず毎月のようにゴルフに行っていた。「肩の力が抜けて良いスコアが出た」と屈託のない笑顔を見て心強く思っていた矢先の突然の知らせであった。困った時に助ける事こそ真の友好だ困った時に助ける事こそ真の友好だ さて、現在のロシア経済は多重苦に喘いでいる。多重苦とは通貨の暴落と金利の高騰と原油安に加えて欧米(G7)からの経済制裁である。通貨の暴落は昨年モスクワに来た時には1ドルが約30ルーブルだったのが現在は約60ルーブルだからルーブルの価値が約半分になった。私のモスクワの定宿が一年前は300ドルだったのが今回は120ドルになっていた。金利の変化は一般企業への貸出し金利は一年前が10%前後だったのが現在は25%前後まで高騰しているから企業は資金ショートのために正常な生産に支障をきたし始めている。去年の8月に100ドルだった原油価格が今や50ドルを切るところまで来ている。新興5カ国(BRICS)首脳会議で、頬に手を当てるウラジーミル・プーチン露大統領(ロイター) 今回のロシア訪問で面白い話を聞いた。生活が困窮しているにもかかわらずトヨタの高級車レクサスが飛ぶように売れているというのだ。インフレに対抗するために高級車を買い占める発想がロシア人らしい。しかも経済制裁を受けているドイツからの輸入は控えているのである。日本人は北方領土問題の為にロシア人を過剰に誤解しているが、ロシア人は日本人が大好きである。昨年のウクライナ紛争の影響から欧米の経済制裁のためにロシア経済の先行きは益々不透明になっている。 馬場君は「日本とロシアの協力関係は将来、必ず大きく実を結ぶ時が来る」と何時も言っていた。彼ほどロシア貿易に信念と使命感を持っていた商社マンは居なかった。我々のロシアビジネスが飛躍的に発展した時期は過去に3回あった。1回目は旧ソ連の崩壊の時期である。2回目は98年の金融危機の時期で、3回目がリーマンショックの直後であった。 私は資源大国ロシアが多重苦に喘いでいる今こそ、友好国として手を差し伸べ、日露の協力関係を築き上げる時だと思う。それこそ、北方領土四島一括返還の最後のチャンスだ。

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    カネも人も大量流入、北方領土は「中国領」と化している

     日本人が知らない北方領土の現実。実は、現地には中国資本が大規模に浸透し、多数の中国人が住みついているのだ。ロシア政治に詳しい政治学者・中村逸郎氏が警鐘を鳴らす。* * *「国後島を多くの外国人が平然と歩いていて驚いた。とくに目立ったのは中国人で“なぜ、彼らがここにいるのか”と訝しかった」北方領土・色丹島の穴澗で、集落を貫く通りを歩くロシア人家族=10月23日(共同) 今年8月、ビザなし交流で北方領土を訪れた日本人のナマの感想である。 12月のプーチン大統領訪日を控え「北方領土がついに返ってくる」との気運が増すが、多くの日本人は「真実」を知らない。実は現在、日本の領土であるはずの国後と色丹に「中国の影」が多分にチラついているのだ。 転換期は2010年11月だった。この時、ロシアのメドベージェフ大統領(当時)が旧ソ連時代も含めて、ロシアの国家指導者として初めて国後を視察。大騒ぎする日本政府やマスコミを尻目に訪問前後から、ロシアは北方4島へ海外資本を呼び込む動きを本格化させた。各国に向かって「投資を歓迎する」と表明し始めたのだ。 続く2011年3月には、北方4島を管轄するロシア・サハリン州政府の代表団が中国・北京を訪問した。一行は北方4島周辺のクルーズ観光やナマコの養殖施設の建設など、20項目近い投資案件をプレゼンして、サハリンや南クリル諸島(国後、色丹、択捉)の大規模な開発と投資を呼びかけた。 以降、単なる民間ビジネスでなく、ロシア政府や州政府が絡む一大プロジェクトとして、中国資本の導入が進むことになる。 2012年には、国後にある2つの水産加工工場に中国資本が漁業や養殖のため5000万ドル(約50億円)を投資した。うち一つの工場は、中国の漁船が水揚げした魚介類を缶詰にして、バルト三国やドイツ、ポーランドや中国、北朝鮮などに輸出する。輸出高1億4300万ドル(約143億円。2014年)は全ロシアの水産企業中4位という高売上を誇る。 外資ばかりではない。冒頭の日本人訪問者が「体感」した通り、サハリン州政府のプレゼン後、国後、色丹に外国人が急増している。 工場や建設現場で働く季節労働者が多く、実数は見えにくいが、サハリン在住の知人は、「国後と色丹合わせて最大で500~600人の外国人がいる」という。北方4島に潜む闇は中朝だけじゃない 際立つのは中国資本と共に押し寄せる中国人である。直近では2014年3月のクリミア侵攻後、国際社会の経済制裁を受けたプーチンはアジア重視政策に舵を切り、極東ロシアに大量の中国人労働者が流入した。 もともと産業が少ない極東ロシアの人口は最盛期より150万人も減少し、現在は620万人ほど。うち20%を中国人が占め、その一部が国後、色丹に流入していると見られる。 北朝鮮との関係も密接だ。2013年に北朝鮮の羅津港とロシア極東のハサンが鉄道でつながれ、毎年2万~3万人の北朝鮮の労働力がビザなしで極東ロシアを行き来する。公式記録でサハリン州全体に2000人の北朝鮮人が常住し、その一部が北方4島に流れている。 前述の国後・色丹の外国人600人という数は少ないと思われるかもしれないが、両地域を合わせた総人口は約8000人足らず。外国人が人口の1割近くというのは相当な比率である。北方4島に潜む闇は中国と北朝鮮だけではない。 今年4月下旬、プーチン大統領と国民との直接対話で、色丹にある水産加工工場「オストロブノイ」の従業員が、約1000万円の給料未払いを訴えた。激怒したプーチン大統領は当局に捜査を命じ、姿を消した創業者が国際指名手配された。 一連の報道は、北方4島の水産加工業を中心とした経済がマフィアに牛耳られ、腐敗汚職の温床と化していることを示唆する。北方領土返還交渉を経て、日本企業が下手に共同開発などの甘言に乗れば、大切な資産を根こそぎ奪われるだろう。●なかむら・いつろう/1956年島根県生まれ。学習院大学法学部政治学科卒業。モスクワ国立大学およびロシア科学アカデミー国家と法研究所に留学。筑波大学人文社会系教授(国際総合学類)。東京大学総合文化研究科非常勤講師。著書に『シベリア最深紀行─知られざる大地への七つの旅』(岩波書店刊)など。関連記事■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ 北朝鮮が結婚ビジネス進出 美女を100万ドルで外国人に斡旋■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」■ 尖閣、沖ノ鳥島、北方領土、竹島に本籍を置く日本人が増加中■ ロシア語に「奴は中国人百人分くらい狡い」という言葉がある

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    北方領土返還で強化される「対中シフト」

     12月に行われる日ロ首脳会談で話題にのぼる可能性が指摘されている北方領土返還で、極東の軍事バランスはどのように変わるのか。ジャーナリストの惠谷治氏は日本とロシアの新しい対中国シフトの可能性を指摘する。* * * 平和条約締結によって歯舞・色丹の2島が返還されることは疑いないが、残る国後・択捉がどうなるかを考える上で、留意すべきはロシア側の行政区分である。ソ連軍が占領した千島列島(大クリル列島)は3分割され、歯舞・色丹と国後は「南クリル地区」、択捉から新知(シムシル)までが「クリル地区」、その北方は「北クリル地区」となった。交流船「えとぴりか号」から見た択捉島(鈴木健児撮影) つまり、ロシアには日本が主張する「北方四島」という概念はなく、択捉島は国後島と分離されている。北方領土に駐留しているロシア陸軍第18機関銃・砲兵師団の司令部は、択捉の旧天寧に近いガリャーチエ・クリュチに置かれている。 地図を見れば分かるように、択捉は千島列島の最大の島であり、軍事・行政の中心地である。ロシアは千島列島の西に広がるオホーツク海を内海として、核戦略を構築している。 2013年12月、最新鋭の戦略原潜ボレイ級K550が、太平洋艦隊に配備された。それまでの旧式原潜のミサイルの射程は6500kmだったが、8000kmに延伸され、オホーツク海から米本土のほぼ全域を射程に収めるようになり、オホーツク海の戦略的重要性はさらに高まっている。 ロシア軍は昨年から千島列島の幌筵(パラムシル)島と松輪(マツワ)島に海軍施設を建設し、今年に入り、対艦ミサイルのKh35バールやP800バスチオン、自走式短距離対空ミサイル「トールM2U」などを配備し、千島列島の軍事化に取り組んでいる。北方領土の兵力は、ソ連時代の1万名から3500名に大幅縮小されたが、近年になって軍備増強をしているのは、米国や日本に対するものではなく、別の理由が考えられる。 中国は、1999年から調査船「雪龍」をオホーツク海に進出させるようになり、2012年にはカムチャトカ半島南端を通過し、太平洋から大西洋までの北極海航路を往復した。北極海航路は地球温暖化の影響で北極の氷が減少し、近年、ヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路として注目されている。 しかし、中国にとって千島列島は、東シナ海の南西諸島と同様、地政学的なチョークポイント(隘路、あいろ)となっている。この点でオホーツク海を完全に聖域化しようとしているロシアと我が国は、共通の利害関係にあるといってもいいだろう。 ロシアが択捉を手放すことが困難なら、先ずは国後を加えた「3島返還」で平和条約を結べば、北海道の陸自兵力を九州・沖縄に移動させ、空自の戦闘機を沖縄に振り向けることができる。また、ロシアも日本との関係が改善すれば、氷結状況で不安定な北極海航路よりも確実な「欧亜連絡鉄道」というランドブリッジを構築できるだろう。 オホーツク海に潜むロシアの戦略原潜は、米国だけではなく、中国向けでもあり、日露は平和条約締結によって、対中シフトを強化することが可能となるのである。●えや・おさむ/1949年生まれ。早稲田大学法学部卒業。民族紛争・軍事情報に精通するジャーナリストとして活躍。早稲田大学アジア研究所招聘研究員。監修として『空母いぶき』、著書に『世界テロ戦争』(ともに小学館刊)など多数。関連記事■ 共産党だけが北方4島ではなく全千島列島返還を主張中■ 佐藤優氏が読み解く北方領土 2島返還も択捉・国後は困難■ 米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ 佐藤優氏「1854年にロシアは北方四島は日本領と認めていた」

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    強欲ロシアと扶助する日本

    東漸に続き南下を狙うロシアと戦った日本。そのロシアの強欲さと、敵兵でも親身に助ける日本の人の好さは今も変わらない。盗人猛々しいプーチン王朝の本質を見誤ってはいけない。

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    黒鉄ヒロシが教えたいシベリアの孤児を救った日本の美徳

    別冊正論27『「美しい日本」ものがたり』 (日工ムック) より黒鉄ヒロシ(漫画家)「恥」に拘りもつ日本人 何事やらん、善行を施した武士が立ち去ろうとするを押し留めた婦人が「せめて、お名前を――」と縋(すが)るに、「名乗る程の者ではござらぬ」といなして「タビのコロモはスズカケのォ~」などと謡(うた)いながら闇に溶けていく。 時代劇映画に於いては頻繁に出喰わすシチュエーションで、鼻垂れ小僧の分際にも「カッコイイ!」と感じ入るシーンであった。 身に付いたかはさて措(お)き、アレは日本人的美徳の、教育の一環であったやも知れぬ。 美徳とは、ある価値観に支えられた、西欧なら〝ダンディズム〟、日本なら〝武士(もののふ)の心〟という辺りに落ち着くのであろうが、これに無反応、無関心などころか、先の婦人と武士の係わりに重ねれば、「名乗らなきゃ意味がなく、お礼だって貰(もら)えないじゃないか――!」というお国柄もある。「名乗る程の――」の幼児教育が功を奏したものか、先輩達の他国民に成した善行を、日本人の多くが知らない。 更には、学校教育でも触れないし、家庭に於いても話題に上ることもなかった。 全ての因(もと)を「名乗る程の――」の科白(せりふ)に吸収させては安易に過ぎよう。 かくも善行に対し沈黙するは、日本人の美徳と云えばそれ迄(まで)だが、自己宣伝はともかく、ある程度の自己検証なくば、ことあらば嘘のレッテルを貼ろうと手ぐすね引いている国まである昨今である。 原因のひとつは、日本人の「恥」に関しての拘(こだわ)り方にあるのではないか。 一口に恥と云っても、そのカタチは一様ではない。 恥への助走は、スタート以前に既に用意されていて、行動しなかったことに対する恥、したことに対する恥、結果に対する恥――と、ここまでは真っ当な歴史を有する国なら文化として定着していよう。「真っ当な歴史」とは、その良し悪(あ)しや好悪の判断はさて措き、人類の発展の通過儀礼の如くに、封建制度の経験の有る無しに掛かるようである。 更に恥は細分化されて国柄の一翼を担う。 行動の結果、人救けとなって成功であった場合にも、日本ではその後の対処にも恥は付き纒(まと)う。「名乗る程の――」の禁を解いて、抜け抜けと書きつければ、善行の点に於いて、他国に比べ、我国の圧倒的な数の多さは何の所為(せい)に因を求めればよいか。 いざ、具体例に転じて検証せん。トルコが邦人救出してくれたワケトルコが邦人救出してくれたワケ 昭和六十年(一九八五)三月十七日、サダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛行する全ての国の航空機は三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する」と緊急宣言を発表する。 同時に、空港はイランからの脱出民で溢(あふ)れた。 当時のイラン在住の邦人数は二百十五名。 各国の航空機が優先的に自国民を搭乗させるのは、広い人道上はともかく、狭い人情としては理解できる。  ところが、イランへの日本の航空会社の乗り入れはない。 自衛隊による海外への航空機派遣は違法。 この非常事態に、二機の臨時便を日本人救出の為に用立ててくれた国はトルコであった。 このニュースを知った多くの日本人は、トルコ側の真意が理解出来なかった。恐らく功利的な考えが大勢を占めたのではなかったか。 ――日本政府がトルコに大金を払ったのだろう――。 日本人の多くは、凡(およ)そ百年前のエルトゥルル号の一件を知らなかったが、トルコ側は覚えていてくれた。  その一件とは、明治二十三年(一八九〇)九月十三日、トルコ軍艦エルトゥルル号が嵐の為に和歌山県串本村紀伊大島沖で座礁沈没。 大島の島民達は危険な地形をものともせず、身を呈してトルコ兵六十九名を救出、貧しい暮らし向きにも関らず食糧を提供すると共に介抱にこれ努めた。 更に明治政府は軍艦二隻を提供し、生存者達をトルコまで送り届けた。 医療費の支払いを申し出たトルコに対し、大島の医者達は遺族への見舞いに回すようにとこれを断った。 成した善行を誇らぬのも上質の人の道なら、成された恩を忘れぬのもまた上質の人の道である。 トルコ機による日本人救出劇で、日本人は久しく忘れていた二つの道を知った。 エルトゥルル号の一件は、百年を経過して広く日本人の知るところとなった。 今ひとつ、エルトゥルル号の影に隠れてしまったが、トルコの人々が日本に感じていた恩義があった。 日露戦争で日本が勝利したことで、トルコ侵略を含むロシア南下政策が止まったことである。 対露戦の日本の勝利は、後に述べるロシア支配下にあったポーランドにも、勇気を含む多大なる影響を及ぼしていた。 もし、日露戦争の日本の勝利なかりせば、トルコに対するロシアの侵略は実行され、その蹂躙(じゆうりん)の足跡の無惨は如何(いか)ばかりであったことか。 トルコもまた、ポーランド同様にその国を失った可能性は高い。日本人の多くが知らぬ先人の善行日本人の多くが知らぬ先人の善行 味方見苦し――にならぬように、贔屓(ひいき)の引き倒し――とそしられぬように、慎重の上にも慎重に構えてみても、日本人の他国民への善行の多さの理由が知りたい。 同時に、以下に並べる事柄の多くも、つい最近までは日本人の多くは知らなかったという不思議。「美しいか、美しくないか」 ダンディズムの定義には詳しくないが、この判断こそ「武士(もののふ)の心」が完成までの過程で揉(も)みに揉まれ、血で血を洗い、その血文字をもって記したヒトの生き方の奥儀であったのだ。 尊敬の念を抱きつつ、杉原千畝(ちうね)の功績に想いを馳せる時、前段のあったことに思い至る。 杉原が、かの「命のビザ」を発給した頃を遡(さかのぼ)ること二年余、日本政府は「迫害ユダヤ人を排斥せず、平等に扱う」ことを国是としていたのだ。 この原型となる理念が世界の舞台で示されるのが、第一次世界大戦後の大正八年(一九一九)、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いてであった。「人種差別撤廃提案」である。 国際会議に於いて「人種差別問題」を俎上(そじよう)にのぼせたのは世界史上日本が初の国である。 提案の顛末(てんまつ)は、議長を務めた当時のアメリカ大統領ウィルソンによって、「全会一致ではない為、提案は不成立」なる苦し紛れの言い逃れにより不採択になったことはご承知のとおり。 イギリスのアーサー・バルフォア外相の如きは「ある特定の国に於いて、人々の平等というものはあり得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と言い放っている。 余談になるが、このバルフォア、第一次世界大戦中にユダヤ人の経済的支援を取り付ける為に、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに、ユダヤ人の「民族的郷土(ナシヨナルホーム)」建設を支持する〝バルフォア宣言〟を発した人物である。 比較するに、古来日本の国柄は人類皆平等であり、有言だけでなく実行もされた。 昭和十二年、関東軍によるユダヤ人擁護に対するドイツの抗議を突っぱねたのは、当時中将で関東軍参謀長の東條英機であった。 翌十三年、ソ満国境に於いて大量のユダヤ難民を関東軍と満鉄が救援した際にもドイツの抗議があったが、東條は毅然としてこれも撥(は)ねつけ、日本政府は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」として明文化し、「我国は他国民を差別せず」を国家的性格とした。 これを背骨(バツクボーン)としての、杉原の「命のビザ」は為ったのだ。 英国のバルフォア外相の主張など、今となっては信じられないが、当時のアングロサクソン、総じての白人の意見の大勢を占めていたと思われる。杉原千畝とシンドラーは〝別物〟杉原千畝とシンドラーは〝別物〟 時代と都合によって変化する正義、不正義の定義など頼り無いものであるが、普遍的な行動を測る物差しはある。 美しいか、美しくないか。 物差しは、「平時」と「非常時」の二種の目盛りについても迫る。「国を想う」道にも美しさはあろうが、「人を想う」に比べれば、その面積は当然に狭くなる。 美しい人々の棲む、美しい国の、美しい国益――という文字の並びは、一見すると結構のようではあるが、「人々」の持つ様々な感懐を一纒めに括らざるを得ない乱暴さが潜んでいる。 杉原は〈武士の心〉を頼りとして決断した。 外務省やソ連からの退去命令を無視しながら、杉原はビザ発給を続行する。 杉原の勇気によって命を救われた六千人は三世代を経て、三万二千人を数えた。 人道主義が国益に重なるのは、美しい行いに牽引された時に限る。 カウナス駅でベルリン行きの列車に乗り込んでからも窓から身を乗り出して発車間際まで杉原は許可証を書き続ける。 やがて列車が動き始めた時、ホームに残ったユダヤの人々に頭を垂れて次のように言う。「許して下さい、皆さんのご無事を祈っています」 武人が祈るとは泣くことであり、許せとは死ぬことである。 涙の理由を識(し)るからこそ、日本人による善行の数は後が絶えず、度重なる災害を前にしても強いのだ。 ヨーロッパ人も奇天烈で、杉原をして〈東洋のシンドラー〉とは、何を云うか。 日本人の美徳として、他者の勘違いをことさらに言い募りたくはないが、杉原は救けたユダヤ人を後に訪問し、何がしかの援助を受けたことなど断じてない。 如何なるセンスで〈東洋の――〉或いは〈日本の――〉なんぞとスケールを小さくし優位性を保とうとするか。 白人名物、有色人種差別の遺伝子が衣の下から覗くヨロイのように転び出もしたか。 いや、つい感情的になり、日本人として恥ずかしや、平に謝す、許されよ。怨を慈悲に―三十八度線のマリア怨を慈悲に―三十八度線のマリア 平伏した眼を、そのまま朝鮮半島に転じよう。 昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争勃発。 ソウルに攻め入った北朝鮮軍兵士が乳飲み児を抱いた韓国人女性を射殺。投げ出されて泣き続ける以外に 術なき赤児を、救い上げる女性の両の手があった。 手の主は、日本人女性望月カズ、二十三歳。 東京杉並は高円寺の生まれ。父の他界後、母に従い四歳で満洲に渡る。  満洲での母の商いは軌道に乗るが、二年後の母の病死を境にカズの境遇は急変する。 売られた先の家で、カズは日本語を使うことを禁じられたというから、無論その農民は日本人ではない。 売った使用人もまた日本人ではなかろう。 ようやく関東軍に救い出されたカズは、身柄を預かった軍隊内に於いて読み書きその他を教育されたのち独立。 終戦後、一旦は日本に戻るが、そこには親戚も知人の一人も居ず、まるでカズの心地は浦島太郎。 恋しさ募り、他に当て無しのカズは母の墓地を目指すも、既に満洲は政情不安で踏み入る能(あた)わず、朝鮮半島はソウル、かつての京城(けいじよう)に足留め。 そこで先の話へと繋がる。 赤児を抱いて、カズはソウルを逃れて釜山(プサン)に向かうが、途中、瀕死の幼い姉弟二人も救っている。 見ゆるカタチは母子四人連れだが、血の繋がりどころか、縁もゆかりもない。 釜山に辿(たど)り着いたカズはバラックを建て、埠頭で荷下ろしなど手伝い、その日銭で三人を養う。 自分を売り飛ばし、こき使った他民族を恨みもせず、カズが育てた韓国人孤児は百三十三人を数えた。 やがてカズの存在は韓国人社会にも知られるところとなり、孤児達を育て始めた朝鮮動乱にちなみ、「三十八度線のマリア」と呼ばれるようになる。 昭和四十年(一九六五)六月、日韓条約が締結され、両国の国交回復。 六年後、韓国政府は長年の功績を称え、カズを「国民勲章・冬柏章(トンペクチヤン)」に叙した。 韓国側の贈呈者は、当時の大統領、朴(パク)正煕(チヨンヒ)。娘の槿惠(クネ)さんも、未だ疑問符の付く話に拘(こだ)わり続けるより、父君と三十八度線のマリアを偲ぶ方が余程に精神衛生には良いと思うが。戦場で敵兵救助した帝国海軍戦場で敵兵救助した帝国海軍 屈託は半島に残し、次なる〈雷〉と〈電〉を中心とする奇跡の検証の為に昭和十七年(一九四二)二月二十七日から三月一日のスマトラ島とジャワ島の間、スンダ海峡へと飛ぶ。 発端を、マレー沖海戦の日本軍航空部隊の雷撃によって、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の水兵達が次々に海中に飛び込んだところに据えよう。 海原に浮かぶ英水兵を日本機は狙い撃ちすることなく、その上空を旋回。 英駆逐艦が海上の生存者を救出し、シンガポールへと退却するを確認しただけで、一発の機銃も撃たず見送っている。 この時、海上に漂っていた英海軍大尉、グレム・アレンは上空の日本機を見上げながら確信する。「日本軍は、一旦戦さ終われば敵味方勝者敗者の別なく、互いの健闘を讃えるのみで、過剰な追撃は加えない――」 場面を、マレー沖からスラバヤ沖へと転じる。 先に〈雷〉と〈電〉の奇跡と書き始めたが、もちろんあの力士ではなく、第三艦隊所属の駆逐艦〈雷(いかずち)〉と〈電(いなずま)〉のことである。 両艦製造の為の鉄は、善行の多さの秘密を解く鍵を溶かして用いたのではないかと思う程である。 さて、〈電〉の酸素魚雷によって傾斜した英重巡「エクセター」に向かい、艦長竹内一は総員を甲板に整列させ、「沈みゆく敵艦に対し敬礼」と令しながら、今まさに海上に展開する奇妙な光景を見た。 飛び込んだ英水兵達が〈電〉めがけて泳ぎ来(きた)るではないか。 先に「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗っていたグレム・アレンは、今は士官として〈エクセター〉に配属されていたのだ。 アレンは退艦するに際して水兵達に告げていた。「飛び込んだあとは、日本艦艇に向かって泳げ。必ずや救助してくれる」 日本海軍の敵兵救出はこの二例に留(とどま)らない。 昭和十七年時の日本海軍の快進撃は驚異的だが、以下に続けるも世界戦史の奇跡の一頁であって、連戦連勝から生じた余裕などというものではけしてなく、特質を越えた日本人の体質であった。 海戦史上にも異例と思える程の長期に亙(わた)ったスラバヤ沖海戦では同様の景色が随所に見られたのだ。 漂流する敵兵に対し、「全員救助」と下令したのは重巡洋艦「羽黒」の森友一大佐で、敵旗艦「デ・ロイヤル」の生存者二十名救出に始まる。〈雷電〉の〈雷〉の方も、日本人乗組員は黙して一人として語る者は無かったが、元海軍中尉、サミュエル・フォール卿なる英国人が自伝を著(あらわ)したことから世に知られることとなった。 自伝をものした敵国のフォール卿をして「ありえないことだ」と言わしめたこととは。 フォール中尉が乗る英駆逐艦「エンカウンター」はスンダ海峡に於いて〈雷〉によって撃沈された。 真夜中の海へと投げ出された〈エンカウンター〉の乗組員達の運命は絶望的である。 フォール卿の記した「ありえないこと」が起きる。 撃沈した〈雷〉工藤俊作艦長は救難中を示す国際信号旗をマストに掲げさせたのち、海上の「敵兵救出」を命じる。 救助された英兵、実に四百二十二名。 工藤艦長以下〈雷〉乗組員は命を救(たす)けたばかりか、重油まみれの英兵の身体を貴重な真水で洗い流し、アルコール消毒した上で、南国の強い日差しを遮(さえぎ)る為の天幕まで張り、衣服、靴も支給し、牛乳、ビスケット、ビールなども供した。 英兵にとっては全てが意外で、感動に頬を涙で濡らしながらも深意を計りかねた。 奇跡と呼ぶには余りに多く、今やスラバヤ沖海戦の至るところでそれは起きた。 駆逐艦〈江風(かわかぜ)〉は蘭軽巡洋艦〈ジャワ〉の生存者三十七名救助。駆逐艦〈山風〉が〈エクセター〉の生存者の一部の六十七名救助。〈雷〉が英大尉グレム・アレンを含む〈エクセター〉の残りの生存者三百七十六名救助。「神宿る」といわれた、あの「幸運艦」、駆逐艦〈雪風〉も蘭軽巡〈デ・ロイテル〉の約二十名救助。 バタビア沖でも米重巡〈ヒューストン〉乗組員三百六十八名救助。豪軽巡〈パース〉の三百二十九名救助。 一部とはいえ、戦争を美しいとは無神経な物云いと承知はするものの、言語に頼る以上、この景色に想いを馳せれば、他の表現は思い浮かばない。 美しさには、戦さでの劣敗や、救けた救けられたのプライドも関係がない。シベリアのポーランド孤児救援シベリアのポーランド孤児救援 善行にも優劣などあろう筈もないが、日本人が他国民に為した中から、まとめとしてシベリアのポーランド孤児七百六十五人救出の事例を選ぶ。 選ぶことが出来る程に数多きことに、我々は日本という国と文化に感謝と誇りを持つべきだろう。 事例に踏み込む前に、先のエルトゥルル号のトルコ同様、多くの日本人のポーランドに対する知識は心許(こころもと)無いのではないか。 出身者として、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人などが思い浮かぶなら上等だろう。 人名以外に、長く消滅していた国、カティンの森の悲劇などが加わると、にわかに不吉な気配が立ち籠めて、シベリアのポーランド孤児を包み込む。 不吉な気配に眼を凝らせば、先のピアノの詩人と呼ばれたショパン(一八一〇~四九)も、亡命後定住したパリで亡命ポーランド人を中心とした貴族社交界の寵児であったことを思い出すし、キュリー夫人(一八六七~一九三四)が生まれたのも帝政ロシアに併合されて既に国は国家の体を成していない時代であった。 地の利に恵まれたとはよくいうが、ポーランドを中心にまわりの国に眼をやると、地の損というか、全くに心安らかになる余地のない位置にあることが判る。 三方からポーランドを囲むのは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアの三強国。 元より白人の身勝手な思い込みに過ぎないが、弱肉強食の論理が領土にも及んで、拡大と縮小の繰り返しが常なる時代。 囲む三国の勢力争いにまき込まれたポーランドは、一七七二年、一七九三年、一七九五年と分割は続き、遂には国家自体が消滅するに至るのである。 その後、ウィーン条約によって独立は果たすものの、君主はロシア皇帝が兼任するという上辺(うわべ)だけのもので、実情はロシア語教育やロシア正教会への帰順と、強制的なロシア化を迫られ、十一月蜂起(一八三〇―三一)や一月蜂起(一八六三―六四)など、何度も立ち上がった自由の為の抵抗は全て鎮圧される。 蜂起は更なる不幸をポーランドに強いることとなる。侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に ロシアは叛乱(はんらん)に加担した政治犯や危険分子をポーランドから一掃し円滑な統治を図るが、目的の地に選ばれたのが極寒の地、シベリア。 寒過ぎるのか、ウオッカの飲み過ぎか、権力を持ったロシア人の考える事はいつも同じで、危険の排除と土地財産の没収、そして未開の地での強制労働による開発の一石三鳥を目論むことになっている。 第一次世界大戦までにシベリアに流刑にされたポーランド人は五万人余りに上った。 更にその第一次世界大戦で、祖国ポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、追い立てられた流民がシベリアへと流入。 結果、シベリアのポーランド人は十五万人から二十万人に達した。 そんな折、ロシアの権力者が変わる。 一九一七年に勃発したロシア革命である。 権力を掌握したウラジーミル・レーニンは国家体制を帝政から社会主義共和国連邦へと極端な転換を図るが、その際、西欧諸国からのロシア皇帝借金は新政府とは関係ないから返済せずと宣告。 熊の毛皮の帽子を被っても寒さに脳が凍っているのか、突如としてロシア人はイワンのバカになる。 英、仏、米の莫大な借金を踏み倒すと、吐く息とともに高らかに吠えたのだ。 巨額な貸付金の返済拒否は自国の経済破綻に跳ね返る。 更に二年後にはコミンテルンを結成し、共産主義革命の思想を世界に伝染させ始める。 借金は踏み倒すワ、他国の体制の転覆は図るワ、もはや看過(かんか)出来ず、英仏が立ち上がった。 ここにシベリア出兵が実現する。 日本はどうであったか。 英国などから再三に亙って出兵の催促あるも日本議会は強硬な反対派が占めて動かない。 理由はひとつ、大義が無い。 未だ当時の政治家には武士の名残を見る。 日本はロシアへの貸付金こそないものの、革命の影響が満洲や朝鮮半島に及ぶ危惧(きぐ)はあった。 遅れて米国が派兵を決定するに合わせて、大義を見つけた日本も大正七年(一九一八)八月、シベリアへの陸軍派遣に踏み切った。 ポーランド人はどうであったか。 ただでさえ流刑人としての厳しいシベリアでの暮らし向きでの帝政崩壊、加えての共産主義への急激な変更、これら変化に伴う内乱、更に他国の出兵による混乱。 これらの皺寄せが一気に最も弱い立場にあったシベリアのポーランド人の身に襲いかかった。孤児への欧米の薄情、日本の厚情孤児への欧米の薄情、日本の厚情 全ての救いから見放された彼等は、食料もなく、医薬品もなく、暴徒より身を守る術もなく、次の四つ、虐殺、病死、凍死、餓死の中から選ぶ他ない生き地獄へと追い詰められた。 一九一九年、同胞の惨状を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人達によって、ようやく「ポーランド救済委員会」が発足。 しかし、シベリアに出兵している英仏米伊に対する委員会からの窮状救済の懇願はことごとく不調。 各国の、この薄情振りは今日の難民問題処理に重なる。 最後に頼られた日本は、多大なる労力と巨額の費用もものかは、わずか十七日間で救済を決定する。 当時の日本人のフットワークの軽さ、すなわち決断の早さは、武士道に支えられた日頃からの覚悟が背骨にあるように思う。 陸軍の支援のもと、救済活動の根幹を成したのは日本赤十字社で、大正九年(一九二〇)の三百七十五名が東京へ、同十一年の三百九十名の二度に亙るポーランド孤児救出は成った。 孤児達の体調は当然に良好ではなく栄養失調の上に伝染病に冒(おか)され、看護する日本側にも死亡者を出している。 覚悟は途中での自己犠牲も伴うが、日本人は朝野をあげて善意を発揮する。 東京に於いても、大阪に於いても、日本全土からの慰問品や見舞金はひきも切らず、孤児達の為の慰安会も頻繁に催された。 ヒトとしての逆境の限界と云えるシベリアに生まれ落ちて以来、初めて触れる人の温かさに孤児達は精神と体調を回復し、ポーランドへの帰国となる。 言語や習俗習慣が違っても、ヒトとしての善なるものが分母にありさえすれば幼児であっても、意は通じる。 親味に世話してくれた日本人看護婦や保母達との別れを悲しみ、泣いて乗船を拒む孤児も多かったという。 孤児達の心境にはもちろん、看護に当った日本側にも、善意を寄せた当時の全国の日本人にも、今は蒸発しかけたと感じるヒトとしての格を見る。 成したる方、成されたる方を並記すれば、避けたかった〈味方見苦し〉の気配が首を擡(もた)げてしまう。 シベリアから日本を経て、祖国ポーランドへと帰った元孤児の方々も、寿命を迎えて全て亡くなった今、善意の墓標と墓守としての語部(かたりべ)だけが残された。もののふの覚悟の先のDNAもののふの覚悟の先のDNA 数が他国を圧倒するとしても、もちろん善行は日本人の専売などではなく、世界中の歴史に記録され語り継がれているが、ほとんどが平時に多いように感じる。 善行のエッセンスを儒学に探せば、孔子の説く「恕(じよ)」(我事として他人を思いやる)と、孟子の「四端説(したんせつ)」に行き着く。 孟子は、人には先天的に「惻隠(そくいん)(あわれむ心)」「羞悪(しゆうお)(恥じる心)」「辞譲(じじよう)(譲り合う心)」「是非(善悪を判断する心)」の四つの感情が内在すると説く。 孟子の、「惻隠の心は仁の端(たん)なり」の「心」の部分は、『大学』に於いては、「惻隠之情(じよう)」となり、「絜矩(けつく)の道(他人の心を推し量り、相手の好むことをしてやる心情、態度)」と、孔子同様の「恕」の思想を載せる。平時に於いてはこれで結構だろうが、ここに引いた例は、更なる厳しい状況下に於ける判断が求められたのではなかろうか。「義を見てせざるは勇無きなり」は、これまた「論語」であるが、不足の分のエネルギーを日本人は〈武士道〉の覚悟で埋めた。 孟子の、「人の性は本来善なり」と説く「性善説」が正しければ、今少し世界に於ける善行は各人種に散らばっても良さそうではないか。 孔子と孟子に対し浅慮で舌足らずであった。 両先生は、人の素質、素材に就いて云うのである。 玉磨かざれば光なし。 人なる玉の原石を、日本人は〈武士道〉によって磨いた。 トルコの人々も、ユダヤの人々も、ポーランドの人々も、磨いた心を持っての返礼があった。〈武士道〉で押し通す愚説に面喰らった御人もおられようから、他の要素も加えて不足を埋めて、この駄文を閉じようと思う。 不足といっても、遠い先祖に辿り着くような遺伝子にまで至ってはどうかとは思うが、戦さには強かったが、その明け暮れに嫌気(いやけ)がさした一団が日本列島に逃れて土着したとする説がある。 日頃は極めて平和的でありながら、一旦ことあらば負けると判っている戦さでも、素早く覚悟を整えた上で突撃する性癖(せいへき)のような特性は古代より続いている。 土着の逆に、漂流民となっても、ジョン万次郎、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)、大黒屋光太夫(こうだゆう)など、卓越した学習能力を発揮した確率は異様に高い。 異様な程の優秀性が先の説を支える。 土着したのち、万世一系の天皇制の元、列島に住む者が入れ子状の家族の〝カタチ〟となった。 時代は下って、その生活の窮乏著しい戦国に於いても天皇家が存続し、けして消滅しなかった、或いは消滅させられなかった奇跡のような理由も説明が付く。 日本人の本家と云える天皇家を、分家である武士が滅ぼすなど、考えようも無い訳である。 この、王族を取り捲く関係の質に於いても、対処に於いても、他民族には例を見ない不思議。 宗教面にも顕著に証拠を残している。 神道(しんとう)と仏教の関係、更にキリスト教が加わっても〈八百万(やおよろず)の神〉とタフに構え、一緒に祀(まつ)り続けた。 これまた他民族には例のない不思議。 次に、今日では日本人までが誤解しているようだが、この列島に人種的差別など無かった。 白色と有色の差を問わず、尊敬の念を持って歓迎した。 白色が有色と差別するを見ても、「ならばお主は無色か?」とは言い返さず、近年での「名誉白人」なる無礼な呼称も腹も立てなかったのは、拘る意識すら無いからである。 これらの素質を分母に、覚悟の点を〈武士道〉で磨きに磨いて、典型的な〈日本人像〉が成った。「奇跡」を護って進まん「奇跡」を護って進まん「八絋一宇(はつこういちう)」の意味についても、GHQ(連合国軍総司令部)による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=戦争に対する罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)」が功を奏してか、日本人まで「侵略戦争を正当化した言葉」と思い込んでいるようだ。 そも、神武天皇の言葉で、「八絋(あらゆる方角=世界)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん」の謂(いい)であり、大東亜戦争時の日独同盟の際、ユダヤ人迫害政策を迫るドイツに対し、時の陸軍大臣、板垣征四郎が「神武天皇の御言葉に反する」と、これを退けている。 日本の国是として先に述べた「猶太人対策要綱」があり、杉原の功績がそれに続いた。 この要綱は、関東軍の安江仙弘(のりひろ)大佐らのユダヤ人擁護を東條英機参謀長が是認して軍の要領としたことが原動力とも言え、ソ満国境のユダヤ難民救援を経て、板垣征四郎が中心となり国策になったものである。 これら、日本人の決断と行動を善とするなら、当時の西洋諸国の思考は悪となる。 東條、板垣、安江、そしてユダヤ人に救いを差しのべた外国人として『ゴールデン・ブック』にその名を載せる〝ジェネラル・ヒグチ〟コト樋口季一郎もいる。〈ユダヤ人救援〉を支えた軍人の名と、その世界唯一の善なる国策は小さくされ、或いは消そうとされ、杉原一人の個人的善行に矮小化せんとの企てあるやに感じるは何故か、何の所為か。 特に、この世界唯一といえる善なる国策から東條英機の名を引き剥がさんとする衝動の源は何処(いずこ)で、何人(なんぴと)の都合に因るものか。 日本がユダヤ人を救っている時、無慈悲にその扉を閉じたアメリカ、イギリス、西洋諸国は、今、何を思うか。 これらの国が日本に歩調を合わせ、ユダヤ難民を受け入れてさえいれば、後のナチスによる数百万人のユダヤ人虐殺は避けられたのではなかったか。紙幅の関係上、名前を挙げるに留めるが、総領事代理、根井三郎、ユダヤ研究者、小辻節三など、「人種平等の思想」を背骨に、西洋の差別主義と闘った日本人は多い。 かくも差別なき国の存在は、珍しかろう。 末尾に慌しく、その特性を並べたが、手前味噌ではなく、如何に日本人が不思議で、特異な存在であるかはご理解戴けると思う。 云わば、人類の理想型といえる。 他国もまた、理想に到達してくれていれば、善意の応酬によってこの世界から貧、愚、悪などは姿を消す筈なのに未だ果たせないのは何故か。 グローバリズムの未来は新たな軋轢を生み、価値観の再構築の為の大混乱が待ち受けるというに、ヒトは止めようとしない。 他国頼みは無理であり、無駄である。 日本人による「天皇制」と「武士道」の獲得は人類史の奇跡と云える。 先輩達から受け継いだ、この奇跡を回復し、維持し、釈迦の申す犀(さい)の角の如く、一人進むの他はない。くろがね・ひろし 昭和二十年高知県生まれ。三十九年武蔵野美術大学中退。四十三年『山賊の唄が聞こえる』で漫画家デビュー。平成九年『新選組』(PHP研究所)で第四十三回文藝春秋漫画賞、十年『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門の大賞、十四年『赤兵衛』で第四十七回小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。ギャンブル好きで競馬ファンとしても知られるが、政治や国際関係の見識は高く、民主党政権「失われた三年間」のデタラメ政治を痛烈に批判。中韓露の反日プロパガンダに対しても事実を挙げながら、漫画家らしい皮肉たっぷりの反論を展開している。著書に『千思万考』シリーズ、『GOLFという病に効く薬はない』(ともに幻冬舎)、『韓中衰栄と武士道』(角川学芸出版)、『新・信長記』『本能寺の変の変』(ともにPHP研究所)。近著に『刀譚剣記』(同)。

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    日本はロシアを甘く見ることなかれ

    【世界潮流を読む 岡崎研究所論評集】岡崎研究所 フィナンシャル・タイムズ紙が「日本はロシアに注意深く対応しなければならない。短期的リスクが長期的な戦略論理を相殺する」との社説を11月8日付で掲載、日本がG7の団結を乱しているのは深刻な誤りではないかと論じています。社説の論旨、次の通り。 安倍総理はプーチンと不思議な外交的ダンスをしている。ウクライナとシリアでの出来事がロシアの政府と日本の同盟国の米・EUとの距離が広がる中で、彼のタイミングは理解困難に見える。しかし、安倍氏は、長期的でグローバルな論理に反応している。問題は、深刻な短期的リスクと戦略的理由づけをどうバランスさせるかである。 日ロ両首脳は意義のある成果の達成に投資している。安倍氏は北方四島をめぐる領土紛争の行き詰りを打開することに公にコミットしている。この紛争が日露平和条約の署名を妨げてきた。 安倍氏にとり島は重要な成果になる。安倍氏はロシアへのより大きな影響力がより深い中露同盟の形成を抑止すると希望している。ロシアへの接近は日本の対中戦略の一部でもある。東シナ海では尖閣紛争、中国のガス田開発が日中の緊張を高めている。安倍氏はロシアを引きつけることで中露間にスペースを作ることを希望している。 基礎作りのために日本はロシアとの経済関係を拡大しようとしている。プーチンはこのアプローチを好んでいる。彼は特にシベリアにおけるエネルギー・プロジェクトへの外国投資を切望している。彼は紛争中の島について交渉する意欲を示し、日本では希望が出て来ている。ロシアのプーチン大統領(タス=共同) 世界は中国の自己主張に直面し、安定的な力のバランスの維持に焦点を合わせている。日本のアプローチはその面で有益でありうる。ロシアが権威主義ブロックの中の「ジュニア・パートナー」になり、中国の影響下に永久的に入ってしまうチャンスを減らすことになる。しかし、そういう結果がでるためには数十年必要であろう。 中期的には、プーチンへの日本のアプローチはG7の調整を弱め、モスクワに対する制裁を掘り崩す。 日本の国益へのリスクもある。多くの専門家は、日本は1956年の共同宣言で平和条約調印時に返すとされた歯舞、色丹の2島しか得られないだろうという。これは全体の7%であり、経済的、安全保障上の意味はほとんどない。この小さな利得のために、日本は米あるいはEUを疎外するリスクを冒せない。 また中国とのライバル関係で、平和条約調印後でさえロシアが意味のある支持をすると期待すべきではない。ロシアは中国に対し警戒心を持つが、特にガスを東に送るパイプラインについて中国との強い経済関係を望む気持ちはそれ以上に強い。 日本が長期にわたる紛争を片付け、中国の地域での増大する力を相殺する道を捜そうとするのは理解できるが、それをG7の分裂というコストを払ってすることは深刻な誤りであろう。出典:‘Japan must proceed cautiously with Russia’(Financial Times, November 8, 2016)https://www.ft.com/content/65b55402-a501-11e6-8b69-02899e8bd9d1日本は制裁破りを避けるべき この社説は安倍首相のプーチンへの接近を批判したものです。北方領土問題という日本の主権にかかわる問題を打開しようとすることには、欧米、特に米国の有識者もそれなりに理解しているでしょうが、同時に、彼らは、対露制裁を日本が掘り崩すことにならないか、日米関係にくさびを打つというロシアの狡猾な外交に騙されないかとの懸念も持っているように思われます。北方領土・歯舞諸島日本は制裁破りを避けるべき この社説が提起しているG7の団結については、日本は制裁破りを避けた方が良いと思いますが、ドイツもウクライナを迂回するガス・パイプラインのノルド・ストリーム2をポーランドなどの東欧諸国、イタリアの反対にもかかわらず推進しており、制裁破りの指摘を受けずにできる事はあると思われます。またトランプ大統領の選出は米国自身の対露姿勢の変更にもつながりうるので、情勢を注意深く見つつも、G7の団結維持をそれほど気にする必要がなくなる可能性もあります。 しかし、もし政府が対露関係改善で中露離間を図るということを考えているのであれば、それは無理な願望ではないでしょうか。 たとえばガスについては、2018年から30年間、年間380億立方メートルをロシアが中国に供給するという40兆円規模の協定ができています。政治的には中露間には準同盟条約とも言える中露善隣友好協力条約があります。 ロシア人は中国に警戒心を持っていますが、「ジュニア・パートナー」としてでも対米関係上、協力していくしかないと判断していると思われます。長大な国境を共にし、中国北東部には1億以上の人口があり、ロシア極東には600万くらいしかいない中、またGDPで中国の約10分の1しかない中、そういう選択をするのが当然でしょう。ちなみにロシアのGDPは2015年のIMF統計では韓国以下です。 北方領土問題については、4島は日本の領土であるとの正当な立場を堅持したまま(固有の領土であるいかなる島も放棄することなく)2島が先行返還されるということであれば、それは成果と言えるでしょう。

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    敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ

    別冊正論27『「美しい日本」ものがたり』 (日工ムック) より岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)古今随一の陸の名将 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。正装した乃木希典 国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。花も実もある真の武人花も実もある真の武人―水師営の会見― 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。(上)明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍(下)会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と (『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11) このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」 ステッセルは愕然として言った。「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。敵将の不遇知り救済の手尽くす敵将の不遇知り救済の手尽くす ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。第三軍招魂祭で弔文を読み上げる乃木希典 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや 乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る 乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。 乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば二人の息子とともに戦死したかった。戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。 明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』) 東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当時市民の間で交わされた言葉がある。「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」 このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。 ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。 明治天皇の目にも涙があふれた。奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。 あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、朕世を去りたる後にせよ」 乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。 このような軍将が世界のどこにいるだろうか。かつて戦いの歴史にあったろうか。明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、格段の心配りをしてやまなかった。学習院長―教えのおやとして 学習院長―教えのおやとして   明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命した。経緯はこうだ。前年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝した。大山巖に代わり就任早々であったが、日露戦争において心身を燃焼し尽くしたのである。児玉は文武の全才として桂太郎(日露戦争時の首相)の後を継ぐべき最適の首相候補と目された。乃木は長州人として児玉と親交を重ねた間柄だから葬儀委員長を務めた。 陸軍の大御所山県有朋は後任に乃木を推挙し内奏したが、天皇は「乃木については朕の所存もある。参謀総長は他の者を以て補任せよ」と答えた。人物、才幹そして日露戦争の大功よりして誰一人異存のあろうはずのない推挙であった。山県はこれほど天皇の信任厚い乃木をなぜ任用しないのかいぶかしく思った。結局第二軍司令官を務めた奥保鞏(やすかた)が任命された。 しばらくして山県が拝謁すると、天皇は機嫌ことに麗しくこう伝えた。「乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。朕の三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした」 後に山県は「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」と語っている。当時参謀総長は帝国陸軍の最高の要職であり、これまで山県有朋、大山巖、川上操六、児玉源太郎等の最有力者が担当した。その参謀総長よりも、将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのである。(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』) 明治天皇は乃木を伊藤博文、山県有朋ら元老に次ぐ国家の柱石として絶大の信頼を置いた。天皇は乃木に御製を授けた。いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ「おほしたてなむ」は「生ほし立てなむ=立派に育てよう」、「やまとなでしこ」は現在のように女子を指すのではなく、「撫子=かわいい子ら」で「皇孫はじめ日本を背負いたつべき子供たち」の意。 そうしてこう言った。「乃木も二人の息子を亡くして寂しかろうから、代りにたくさんの子供を預けよう」 乃木は当初、あまりの重責に「武人たる自分はとてもその任にあらず」と固辞しようとしたが、この言葉に込められた厚い配慮に感泣し、拝命した。この時次の歌を詠んだ。身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくひざらめや「すべらぎ」は「すめらぎ」と同じく天皇のこと。「よし疲るとも」は「もし疲れ果てようとも」の意。 時に五十九歳。立場こそ異なっても乃木は戦場にある時と同様に尽力、迪宮の教育に渾身の努力を捧げた。これに対して迪宮は何事につけ「院長閣下は…」「院長閣下が…」と乃木を慕い、乃木の教えを実践したという。 昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。廃兵へのいつくしみ廃兵へのいつくしみ 東京の巣鴨にある廃兵院に最も足繁く通う将帥(しようすい)が乃木であった。ここには日露戦争で負傷し不具となった兵士約五十人が暮らした。そのうち十五人が旅順戦の部下だったから、乃木は深い同情と責任を感じていた。毎月一、二度訪れ、各部屋を一人一人慰問して回り、菓子や果物などの手土産を絶やさなかった。時折、天皇からの御下賜品があると真先に分け渡した。 廃兵たちは時をおかずやって来る乃木の厚い情に感泣し、来院を何より喜んだ。乃木が殉死を遂げた時、彼らは慈父を失ったかのように泣き悲しんだ。葬儀への会葬も強く希望した。そこで廃兵院は歩ける者は葬列に加え、不自由ながら外出可能な者は葬列より先に式場に着かせた。葬儀後、一般の国民とともに墓参りする廃兵が後を絶たなかった。ただ一言の〝講演〟 戦後のある年、乃木は長野へ出かけた。私用だったので静かに行き帰りするつもりでいたが、そうはいかず「乃木大将がやって来た」とあちこちで声が上がり、長野師範学校に招かれた。学校では絶好の機会として全生徒を講堂に集めた。校長は乃木を紹介、その勲功を称えた後、講演を乞い登壇を促した。 ところがいかに進められても乃木は演壇に上がろうとはせず講演を辞退した。だが校長はあきらめず「少しでも」と懇願したのは無理もない。やむなく乃木はその場で立ち上がると「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言って頭を垂れ、やがて双頬(そうきよう)に涙を流し、ついにハンカチで拭いながら嗚咽した。これを見た満堂の生徒と教師もみな泣いた。 長野県出身の兵士はみな第三軍に属し、旅順と奉天で数多く戦死している。生徒たちは彼らの弟である者が少なくなかった。その尊い英霊たちの弟に向い、乃木は高い演壇に立って言うべき何ものもなかったのである。日露戦争の最大貢献者、国民的英雄の話を聞けると瞳をこらして待つ純真な生徒を前にして、乃木は万感胸に迫り、この言葉を発したのである。この「たった一言の講演」はその後この地で、感動をもって長く言い伝えられた。街角の孝行少年へのいたわり街角の孝行少年へのいたわり 靖國神社近くの街角で夜ごと辻(つじ)占(うら)売りする十一、二歳の少年がいた。辻占とは占いのみくじ。父は旅順で戦死し、母は長患いで寝たままの生活で、少年は朝は新聞配達、昼は小学校、夕方から辻占売りをして母の面倒を見る評判の孝行息子であった。 陸軍記念日の三月十日夕、人力車で通りかかった乃木は、車夫に少年のこと聞いた。用事を済ませて乃木が少年の長屋を訪ねると、ちょうど借金取りが大声で催促している最中。泣くがごとく猶予を訴える母子を目の当たりにして、代わりに借金を払い帳消しにした。涙を流し畳に額を擦り付けて礼を述べる母子に「礼には及ばん。松(しよう)樹(じゆ)山(ざん)に名誉の戦死をなされたあなたの夫は私の部下だった。夫を殺したのはこの乃木だと、さぞ恨んだことだろう」と打ち明け、「仏前に」と二十円、「孝行するんだよ」と少年に五円を渡した―。乃木神社の旧乃木邸にある「乃木大将と辻占売り少年像」 これは、乃木の逸話の一つとして一世を風靡した講談「乃木将軍と孝行辻占売り」。美談として脚色された部分もあるが、実際にあった。 乃木が少将だった日清戦争前の明治二十四年、所用で金沢を訪れ、街角で辻占売りをする八歳の今越清三郎少年に出会った。夜も働いて家族を支える姿に心動かされた乃木は持ち合わせた二円を渡して励ました。今越少年は乃木の激励を心に刻み、金箔師として精進し、滋賀県無形文化財に指定された。昭和四十九年に九十一歳で亡くなるまで、その恩を各地で語り伝えていた。 乃木は学習院長になっても、陸軍大将と軍事参議官を兼ねていたから多額の俸給があったが、その大半を戦歿者遺族への弔慰、遺族・旧部下の困窮者への支援、傷病者への医薬費、廃兵の慰問、その他公共事業への寄付等に使った。殉死―みあとしたいて殉死―みあとしたいて 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。大正元年九月十三日、大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳である。辞世は次の二首である。(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)                           臣希典上(たてまつる)神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる                                 臣希典上うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり 割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言葉を守ったのである。 凱旋後、乃木は機会あるごとに戦死者の墓を詣でその冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べた。「畢竟(ひつきよう)あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」 乃木は遺言状で、切腹自決の理由として、明治十年の西南の役における軍旗喪失(連隊旗を敵に奪われたこと)のみを記し、これには触れなかった。そこには配慮があった。 戦争で戦死者が出ることは不可避で、勝利したにもかかわらず多数の死者を出したことを自己の責任として自決せねばならぬとすれば、上級指揮官はみなそうせねばならぬことになるからである。それはあくまで乃木個人の道義的な責任観念によるものであった。 だがこの自決は乃木にとり決して悲しい最期ではなかった。何より辞世に乃木の心底が包むところなく吐露されている。いかなる臣下よりも深い恩寵を蒙(こうむ)ったこの世に神と仰ぐ明治天皇のみあとをはるかに拝(おろが)み、みあとを慕いゆくことは、乃木にとりこの上ない悦びに満ちた死出の旅にほかならなかったのである。このとき妻静子もともに殉死した。一世の哀悼―沿道を埋める人々一世の哀悼―沿道を埋める人々 九月十八日、乃木夫妻の葬儀が青山葬儀場で行われた。それは空前絶後の国民葬であった。同日、乃木夫妻を見送ろうと集った人々は東京開市以来といわれた。乃木邸より青山葬儀場までの沿道は数十万の人々で立錐の余地なく埋め尽くされた。各界各層、老若男女が集った。葬列には学習院の生徒と廃兵が加わった。乃木夫妻の柩が目前にくると人々は頭をたれ手を合わせた。ことに乃木の後に続く静子夫人の柩には涙を流し嗚咽した。葬列に加わったある軍人はこう伝えている。「青山斎場に至る間の両側は人垣を以て埋め、前方の数列は土下座して十重二十重に、群衆は無慮(およそ)二十万、まことに前代未聞の光景であった。やがて進み来る将軍の霊柩を拝した群衆は敬虔な態度を以て迎え、厳粛なる気持に粛として声なく、霊柩を見送る眼には稀代の忠臣とその遺体に対して最後の別れを致さんとする姿が反映しており、筆者の胸を打った最も尊き感激であった。乃木夫妻の葬列。立錐の余地もないほど沿道を埋めた人々の前を今、夫妻の霊柩が過ぎようとしている(『回顧乃木将軍』) しかるに次いで来れる夫人の柩、その間約三十歩、その柩を見た瞬間に群衆の態(たい)姿(し)は一変し、敬慕、愛惜、ことごとくが涙であった。合掌礼拝するもの、感極って嗚咽するもの、眼に涙を拭うもの、土下座せる老(ろう)媼(おう)(老婆)は地に顔を摺(す)りつけ慟(どう)哭(こく)する有様、沿道のすべてがそれであった。棺側にあってこの光景を見つつ筆者は一つ一つ胸に迫る衝動に、抑えんとして抑え兼ぬる涙が次から次へとこみあげてくる。ようやく堪えてこの場を通りすぎると、また新たなる同じ感激の場面に遭遇する。ついに我慢しきれず涙は頬に伝わって落ちてくる」 乃木と静子夫人の殉死に日本人がいかに魂を搖さぶられたかが、この記述からよくわかる。また、夫妻の殉死は英米はじめ各国主要紙にも大々的に報じられた。 乃木は近代日本を代表する国民的英雄であった。乃木は「自分の身体はひびが入っている」と言っていた。西南の役で明治天皇から賜った連隊旗を奪われるという過ちを犯した痛切な罪の自覚が、乃木希典という稀有なる人物を玉成させた。 そして「忠君愛国の至誠、献身犠牲の大(たい)節(せつ)を万古(ばんこ)不易(ふえき)(遠い昔より不変)の大信念に貫き、一死以て君国に殉ずるのが日本国体の精華」という一大信念を、身を以て実践した。 乃木希典こそ、東郷平八郎とともに日本人の誉れであり、世界に誇るべき日本人の一典型であった。おかだ・みきひこ 昭和二十一年北海道生まれ。國學院大学中退。在学中から日本の歴史上の人物の研究を続け、日本政策研究センター発行の月刊誌『明日への選択』に多くの人物伝を連載している。平成二十一、二十二年産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載。全国各地で行う人物講演は年間百数十回に上る。著書に『乃木希典―高貴なる明治』『東郷平八郎―近代日本を起こした明治の気概』『小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂』(いずれも展転社)、『日本を護った軍人の物語』(祥伝社)、『日本の誇り一〇三人』(光明思想社)、『二宮尊徳』『維新の先駆者』(日本政策研究センター)など。

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    ドーピングと北方領土、「勝てば官軍」が露の本質

    いう、秩序のための基本的精神が欠如しているのだ。約束を反故にするロシアに笑顔と揉み手で歩み寄る日本 日露関係に関しても日本の指導者や政府はこの面で幻想を抱かず、冷静な目でロシアの行動・論理を直視して対応を考え直すべきだ。最近も、日露間で経済協力の合意が幾つか打ち出された。5月6日のソチでの日露首脳会談でも、日本側から8項目のロシア極東発展に向けた協力提案がなされてロシア側は歓迎し、9月初めウラジオストクで予定されている安倍・プーチン首脳会談で、それらが更に具体化される予定だ。 しかし私が理解に苦しむことがある。それは、領土交渉と平和条約に関するロシアの態度は近年ますます強硬になっており、これに関して両国首脳が過去に署名した諸合意は、歪曲され反故にされている。それにも拘らず、日本政府はプーチンやロシア側に笑顔と揉み手で歩み寄り、経済協力推進などの要望に懸命に応えていることだ。北方領土の歯舞群島。手前は納沙布岬 対等な国家間の外交関係としては異例だが、日本の首相が一方的に数回続けて訪露している。しかもソチでは、「カタール外相との会談」が理由で、遠路訪問の安倍首相をプーチンは1時間も待たせた。もちろん、どちらが会談を懇願しているか、どちらが格上かを示す意図的演出だ。 昨年9月、国連総会の際の日露首脳会談で、遅れそうになった首相が大統領に走り寄り笑顔を振りまく場面がロシアテレビで幾度も放映されたが、これも同じ意図だ。 ソチで安倍首相はこれまでの発想にとらわれない「新アプローチ」を提案したとされる。昨年4月、首相訪米の際、オバマ大統領はG7が対露制裁で協力している状況下での年内のプーチン招待を考え直すよう説得しようとした。しかし首相はオバマ大統領に最後まで言わせずに断固それを拒否し、同席したライス大統領補佐官も首相の剣幕に絶句したという。「ヒキワケ」発言はまやかし また、今年2月、オバマ大統領が電話で首相に、ソチ訪問につき時期を考えるよう再考を促したが、これも強く拒否した。「ヒキワケ」発言はまやかし プーチンに決断の意思はない では、ここまでして強行したソチ会談後、ロシア側の態度は変化したか。会談前の4月14日、プーチンは記者会見で、平和条約問題の「妥協策を見出すためには、継続的に絶えることのない対話を行う必要がある」と述べた。彼は12年3月に柔道用語の「ヒキワケ」「ハジメ」を使い、両国外務省に話し合いの「ハジメ」の指令を出そうと述べ、次官級会議も設けられた。しかし領土交渉は、クリミア事件前の日露最友好期も含めて、1センチメートルも進んでいないどころか大幅に後退している。ロシアが反故にする北方領土に関する取り決め (出所)各種資料をもとにウェッジ作成  両外務省はこれまで数十年、議論すべき事はし尽くした。残るは、両首脳、特に大統領としてのプーチンの政治決断のみだ。しかし彼の提案は、ひと事のように「絶えることのない対話」だけだ。彼には政治決断の意思もその力もない。 プーチンは05年9月に「第2次大戦の結果南クリル(北方4島)はロシア領となり、国際法的にも認められている」と述べた。これを受けロシア外相も「第2次大戦の結果」を認めないと平和条約交渉は一歩も進まない、との強硬論をソチ会談前もその後も繰り返している。6月に訪日したナルイシキン下院議長も同じだ。ラブロフは今年1月、平和条約締結と領土問題解決は同義ではない、とこれまでの両国の交渉を全否定する発言もした。 プーチンは、ソチ会談後の5月20日の記者会見で、経済協力と領土問題の切り離しに成功したのか、との質問に、「一方を他方と結びつけない」と2回も強調した。つまり、領土交渉と関係なく、経済協力のみを発展させるという意味であり、両者を共に進展させるという日本の立場を真正面から否定するものだ。安倍首相の想いとは裏腹に遠ざかる北方領土 01年のイルクーツク声明や03年の日露行動計画などプーチンが大統領として署名し幾度も認めた「択捉、国後、色丹、歯舞群島の4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との東京宣言を、プーチンは完全に反故にしようとしている。この合意は領土問題を認め、それを解決することを謳ったもので、けっして強硬論ではなく中立的な立場の合意だ。 日本政府は対露政策の基本として、両国の合意をロシアが一方的に反故にするのであれば、経済その他の面での協力には自ずと限界があるという意思を、明確に示すべきである。 安倍首相が北方領土問題すなわち国家主権侵害問題の解決を対露政策の最重要課題としているのは、主権国家の首長として正しい。毅然たる姿勢を示すことは、わが国の対外政策、安全保障政策全般にとって重要だ。焦らず長期的な視点から対応すべきである。

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    日ソ共同宣言から「領土問題をも含む」8文字が消えた理由

     北方領土返還交渉の裏では、ロシア側も多くの見返りを求めている。ジャーナリスの櫻井よしこ氏が、ロシア・ソ連のしたたかさを示すエピソードを紹介する。* * * テレビをはじめとするメディアで、「2島が戻ってくるとしたら、それだけでも十分な成果である」といった声が報じられています。日本の国内世論が妥協を是とするなら、プーチン大統領はその点を見逃さないはずです。仮に「歯舞、色丹の2島返還」「残る2島については将来的に解決する」といった形で平和条約を結べば、国後と択捉は返ってこないでしょう。1956年12月、日ソ共同宣言の批准書を交換する重光葵外相(右)とフェドレンコ・ソ連外務次官=外務省 2島が返還されるとしても、残る2島の「返還期日」や「返還プロセス」を盛り込むことで、「4島は日本の領土」という原点を押さえておくことが大事です。ロシア側のしたたかさを示すエピソードがあります。 1956年の日ソ共同宣言が出される20日前、日本側の松本俊一・全権代表とソ連のグロムイコ第一外務次官の間で「松本・グロムイコ書簡」が交わされました。 そこには歯舞、色丹両島を日本に引き渡したうえで、日ソ両国が〈正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続することに合意する〉と明記されていました。 ところが、日ソ共同宣言では、平和条約締結後の「歯舞、色丹両島の日本への引き渡し」は明記されたものの、〈領土問題をも含む〉の8文字は削除されました。 日本側はソ連に「我々の案を飲まないのなら共同宣言を出さなくてもいい」と恫喝されて妥協したのです。当時は当時の厳しい事情があったとはいえ、このことが北方領土問題における日本の立場を後退させました。 ロシアは、少なくとも歴史を振り返れば、約束を平気で踏みにじってきました。日本は法治国家、中国は人治国家と言いますが、ロシアは「力治国家」です。強い力で統治する。外交も強い国の主張には耳を傾けるけれど、そうでない国の主張は聞き入れられないということです。 日本には日本なりの実力と強さがありますが、安全保障面で自立できない弱さもあります。 そうした中、安倍首相は繰り返し「北方4島の帰属問題」と発言していますから、ロシアの手法を十分承知だと思います。「原点」を胆に銘じてプーチン氏との厳しい外交交渉に臨んでほしいと思います。関連記事■ 日本と中国・韓国・ロシア 領土問題の真実をひもといた本■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 大前研一氏 北方領土問題を解決する「3つの提案」とは■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」

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    プーチンと習近平、彼らはなぜ攻撃的外交という「夢」を見るのか

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 中国は南シナ海・スプラトリー(南沙)諸島に岩礁を埋め立てて建設した人工島の軍事拠点化を進めている。それに対し、日本、米国、南アジア諸国は中国側に航行の自由の原則を守り、国際法を順守するように強く要求している。 中国側は人工島から12カイリ(約22キロ)内を領海と主張しているが、同人工島は満潮時には水没する岩礁を埋め立てて建設したのもので、国連海洋法条約ではその周辺を領海とは認めていない。中国側はなぜここにきて米国と対立する危険性を冒してまで人工島の軍事化を急ぐのだろうか。北京で会談し握手するロシアのプーチン大統領(左)と中国の習近平国家主席=9月3日(タス=共同) 目を欧州に向ける。プーチン大統領が率いるロシアはウクライナのクリミア半島を編入する一方、北欧領域に潜水艦を派遣するなど軍事的プレゼンスを強めている。クリミア半島の併合宣言は欧米諸国の強い反発を呼び、対ロ制裁が実施中だ。にもかかわらず、プーチン大統領はクリミア半島から撤退する考えはないばかりか、ウクライナ東部の親ロ派勢力への影響力を強めている。 プーチン大統領は、クリミアが伝統的にロシア領土だったと主張し、国境線の不変更という原則を破ったことに対する国際社会の批判に対し一歩も引きさがる様子を見せていない。 ここで問題とすべき点は、なぜプーチン大統領は国民経済への悪影響も恐れずにクリミアの併合に乗り出したのか。なぜ中国の習近平国家主席は米国の反発を知りながら、人工島の軍事化に乗り出しているのかだ。厳密にいえば、なぜ「今」、両国は超大国・米国の反発を知りながら、国際法を無視してまで拡大政策、攻撃的外交を展開させるのか、という点だ。 冷戦時代のソ連共産党の外交を想起すれば、その疑問に答えを見つけることができる。ズバリ、敵が弱い時には強硬政策を貫徹する一方、敵が強いと分かれば、一歩後退し静観する政策だ。相手国が弱いと分かった時、ソ連共産党政権の攻撃性、野蛮性は特出していた。相手国の抵抗を容赦なく力で抑えた。なぜならば、相手が弱いからだ。一方、相手が自分より強いと分かれば、正面衝突を避け、一歩後退する。キューバ危機(1962年)を想起すれば理解できるだろう。 最近では、ソ連の解体は米国が軍事力、経済力で圧倒的に上回っていると理解したゴルバチョフ大統領(当時)がレーガン米政権の力の外交の前に屈服した例だ。レーガン米政権は最後まで力の外交(例・スターウォーズ計画)を緩めることなく、経済的に裨益していたソ連を圧迫したのだ。 それでは、ソ連解体の悪夢に悩んできたプーチン大統領がクリミア半島を併合し、シリア紛争でも米国側の反発を恐れず、反アサド政権派勢力に空爆を繰り返すのはなぜか。答えは、相手(米国)が弱いと分かったからだ。もう少し厳密にいえば、オバマ大統領を指導力のない大統領と判断したからだ。 同じことが言える。大国の地位の確立を願う習近平主席は、米国の力が弱ってきていることを知っているはずだ。だから、米国と正面衝突を回避しながらも、その拡大を慎重に進めているのだ。プーチン大統領も習近平主席も、オバマ大統領が平和を愛し、戦争を回避する大統領ということを知っている。 米国民の最大の関心は次期大統領選に移っている。オバマ大統領にはこの期間、次期大統領に負担となるような外交決定を下しにくいという事情もあるだろう。 プーチン大統領も習近平主席も「夢」を見る指導者だ。プーチン氏は解体した大国・ソ連を再び復興させたいという夢を、習近平主席は中国の大国化という「中国の夢」を見ている。 「夢」(野心)を待つ指導者の登場が世界の平和に幸福をもたらすか、それとも紛争と混乱を誘発させるだろうか。 いずれにしても、世界は「夢」を持つ露・中国指導者の登場に不安な眼差しを向けている。なぜならば、彼らの「夢」がマーティン・ルーサー・キング牧師の「夢」(I have a Dream)とは全く異質のものと感じているからだ。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2015年11月10日分を転載)

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    「樺太って何?」 16世紀からの日本領も現在は死語!?

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より高橋是清(樺太研究者)「樺太」を知っていますか? こんな質問をすると「当たり前でしょう」という人がいる一方、「何それ?」と答える人が近年急速に増えている。 数年前、私はどうしても、「樺太」という地名が未だ一般的に使われているのか否か知りたくなった。何故ならば、一般社会では「樺太」という地名が通じないように思えたからだ。特に若者や子供たちには、「樺太」という地名を認識しない傾向が強いように思えた。 そこで平成十九年、私は全国八百四十の小中学校に対しアンケートを実施し、十六校より回答をいただいた。アンケートの質問内容は、小中学生が樺太という地名を知っているか否かの一点に絞り、各校の教頭に次の趣旨の手紙を送った。(イ)在籍児童・生徒の何人が「樺太」という地名を知っているか調べていただけるでしょうか。(ロ)可能なら、回答用葉書に分母・分子を記入していただきたい。(ハ)つまり、二十人に質問し、八人が知っていると答えた場合、二十分の八と記入していただきたい。 回答は十六校にとどまったが、突然のアンケート依頼に対応いただいた先生方に深く感謝する。各校からの回答を集計すると、樺太を知っている比率の平均は四割四分八厘にとどまった=表①。 それでも、回答を得た小中学校の多くは、樺太と何らかの関係を持つ地域にあったため、「はい(知っている)」の割合は、全国的により大規模に調査を行った場合に比べ、高くなっているものと推定される。 この結果は、どのように受け止めるべきであろうか。樺太と深い関係がある北海道に於いてさえ、「はい」は六割四分四厘である。これは、もう全国的には、「樺太」という地名は死語になりつつあると考えるのが妥当ではないのか。広辞苑にも「樺太」死語化の波 国語辞典としてよく知られる『広辞苑』(岩波書店)の第二版補訂版(昭和五十一年十二月刊)で「からふと」と引くと、このように載っている。「からふと【樺太】東はオホーツク海、西は間宮海峡の間にある細長い島。明治八年ロシアと協約して全島を千島と交換、明治三十八年日露講和条約により北緯五○度以南は日本領となったが、第二次大戦後ソ連領土に編入。サハリン」 私としては、この記述には抵抗感がある。その理由は後述するし、「樺太」についてちょっとでも調べたことがあれば「自分もこのような記述には抵抗を感じる」という方が少なからず存在するものと確信する。 百科事典の性質も帯びた『広辞苑』は膨大な情報を扱うから「この記述は誤差の許容範囲内」と済ませていいものだろうか。 とはいえ、疑問符が付くこの記述さえ過去のものである。平成十年刊の第五版では「からふと【樺太】サハリンの日本語名。唐太」となる。 この第五版の記述に、私としては、抵抗感のようなものは抱けない。記載が少な過ぎる。ただただ「樺太」という地名が死語になったと感じてしまいそうになる。「感じてしまう」のではなく「感じてしまいそうになる」のだ。それは、私の意識の中で「『樺太』という地名が死語になった」と納得する寸前に、「『樺太』という地名は意図的に使われなくなったのではないのか」という疑義が生ずるからである。 この一例を挙げよう。気象庁ウェブサイト上には「『樺太』は用いない」という備考がある。何故、わざわざ、このような備考を設けているのであろうか。「北海道の北に位置する細長い島」を日本語名で「樺太」と呼ぶことに何か不都合があるのだろうか。あるとすれば、誰にどのような差し障りがあるのだろうか。 いや、この気象庁の件は、不都合や差し障りという類の話ではないのかも知れない。戦後に於いて、我が国が執ってきたあるいは執ってこざるを得なかった政策による、当然の帰結と考えることはできないであろうか。少し論じてみたい。 私は、昭和五十年代に小学校に通ったのだが、この時は、社会科の時間帯に皆で地図帳を広げる機会が度々あって、「北海道の北に位置する細長い島」が「樺太」と呼ばれていた記憶がある。 また昭和の終わり頃に、道行く外国人に世界地図を見せ「日本の範囲をマジックで括ってください」とお願いするテレビ番組があった。外国人の一人が、日本の範囲の中に樺太をも含む状態で我が国を括ったのだが、私は、それを見た進行役の関口宏が「樺太も含まれるのだ」という意味の発言をしたことを覚えている。  つまりは、昭和の終わり頃までは、「樺太」という地名は普通に使われていたものと推測される。ここ三十年の間に、「樺太」という地名を消し去ってしまう程の一大事はあったのであろうか。「大東亜戦争に於ける我が国の敗北」に匹敵するほどの大きな出来事はなかったように思える。 では、戦後、日本政府が執ってきたあるいは執ってこざるを得なかった政策が、ある種の社会現象を引き起こし、その現象が「樺太」を徐々に死語に追いやった(追いやろうとしている)という仮説を立て、話を進める。「日本は悪い」が「樺太」追いやる「日本は悪い」が「樺太」追いやる 戦後、我が国に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)が行った言論統制は、「改革」という名の下で、戦勝国側に都合の悪いことは報道及び掲載を規制し、日本国民の脳裏には、学校教育などの場を通して「日本は悪い国であった」という一方的な考えが刷り込まれた。 もちろん、戦時下で過ちを犯してしまった先人もいるだろう。だからと言って、国民がそのような過ちの部分のみに焦点を当て、祖先の偉業を必要以上に否定してしまえば、結局のところ、後世に事実は伝わらない。歴史の歪曲が起こる。 このようなGHQの占領政策よって醸成されたのが、国民自身による「偏った歴史の見方」である。特に、ソ連が樺太を再併合し、ほかの戦勝国がそれを容認するうえで、日本国民が「日本は悪い国であった」と「偏った歴史の見方」をしていてくれることは、大変都合がよかった。 戦勝国側は、我が国によるアジア諸国に対する「植民地支配」を断罪する過程で、敗戦当時は歴とした日本本土であった樺太までも「植民地」と見なし、事実上、これをソ連に引き渡したのだ。 日本政府は、敗戦からサンフランシスコ講和条約に至るまでの間に幾度も、戦勝国側に対し「我が国が樺太を放棄させられることは不当である」という旨を伝えている。これは「植民地ではない日本本土たる樺太まで何故放棄させられなくてはいけないのか」という抗議と解していい。 同条約により、「日本本土」であった「樺太」は無理やり我が国から切り離された。とは言え、この条約は、樺太が最終的にどの国に組み込まれるか規定していない。尚且つソ連は、我が国の樺太放棄を定めたこの条約への署名を拒否した。ソ連は、サンフランシスコ講和条約への署名を拒否したにも関わらず、当時既に占拠し終えていた樺太の実効支配は継続したのである。 平成二十七年現在、ソ連の継承国たるロシア連邦が、何らの国際法にも基づかず樺太の不法占拠を継続している。樺太は今なお、国際法上「帰属未定地」なのである。樺太の北緯50度以南と得撫島以北の千島列島が帰属未定であることを示す地図(全国樺太連盟) 戦後発生した「日本は悪い国であった」という「偏った歴史の見方」は、いわば日本人の歴史に対する思考停止である。この「思考停止」が「樺太は『日露戦争で日本に収奪された土地』であるが、大東亜戦争敗戦による『日本帝国主義の終焉』に伴い、元々の持ち主であったソ連・ロシアに還された」という誤った認識も生み出した。 この誤認が、日本国民の樺太史に対する思考停止をも生み出し、結果として「樺太」という地名を徐々に死語に追いやった(追いやろうとしている)と考えることができる。「樺太」を死語にさせる別要因 樺太の歴史は、世間一般であまり語られることがない。それには、いろいろな原因があるだろう。前述した様な誤認などもあれば、「樺太史はややこしい」ということも一因と考えられる。樺太の歴史は、それを要約する(考える)時に多少骨が折れ、結果として、世間一般はそれを考えなくなった(なってきている)のではないか。 物事とは、ほんの少し骨が折れる限り、よほど関心の強い人たち以外は、それからドンドン遠ざかっていく。樺太史も例外ではない。樺太史は骨が折れるので、世間一般は敬遠するようになり、こうした現象が樺太史を埋没(風化)させ、結果として「樺太」を死語化させた(させている)別要因と言えるのではないか。 学者たちの多くは、このような側面には触れようとしないが、学習人口が減りつつある(と推定される)樺太史を考察するうえでは、こうした現実も、正面から見据えることが欠かせないと思われる。「樺太」の回復と風化の抑制「樺太」の回復と風化の抑制 「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制は可能であろうか。不可能ではないと私は考える。ただし、それには若年層に樺太への関心を持ってもらう必要がある。とはいえ、それは容易ならざることである。 樺太について一定の知識をもつ人々が、若年層に伝える必要があるが、その際、伝えられる側の立場(理解力などさまざまな要素)を推し量ってやらないと、現実問題としてほとんど何も伝わらない可能性がある。 〝伝える側〟〝伝えられる側〟相互の努力・作用によって樺太という地名の回復とその死語化の抑制を図れるはずだ。表について多少補足すれば、「伝えられる側」は経験もなく、教育も受けていない若年層ということ。「樺太を直接知らない大人たち」は、「樺太について一定の知識を有する人々」と「若年層」のどちらにも属すと見なした。つまり、自身より樺太を知っている元樺太在住者などと接する時は「伝えられる側」となり、自身より知らない「小中学生以下」などと接する時は「伝える側」となり得るからだ。 長々と定義や補足を書いたが、一言で言い換えるならば、「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制には「国民的な関心」が必要であるということになる。樺太の「事実」を列記してみる 私を含む「大人たち」をみても、樺太についての知識は、それぞれの経歴や立場によって千差万別なはずである。そこで、樺太について幾つかの事柄を列記してみる。なるべくわかりやすく書いてみるので、これらの中から樺太について何らかの話題性を見出し、若年層との話の種にしていただければと思う。■横線(北緯五十度線)の意味「北海道の北に位置する細長い島」の日本語名は「樺太」である。何種類もの地図や地図帳で、この島を詳しく見てみると、それらの中には、「樺太」の真ん中に「同島を南北で二分する様な横線」を入れているものが見受けられる。日本語で発行された世界地図には、この線が入ったものが比較的多い。ロシアとの「友好」「協力」ばかりで全樺太がまるで正当なロシア領のように表記する地図(北海道庁) この「樺太を南北に二分するような横線」を一般的には「(樺太上の)北緯五十度線」または「(樺太)国境」と呼ぶ。ご老人や幾分歴史を学んだ学生・生徒には、「北緯五十度線」と聞いた瞬間に、この「樺太上の北緯五十度線」を思い浮かべる人も少なからずいるはずである。■横線(北緯五十度線)の経緯 明治初期、当時のロシア帝国はヨーロッパ列強の一角を占め、強力な領土拡張政策を推し進めており、我が国の統治下にあった樺太も自国に併合しようと目論んでいた。 我が国は、樺太防衛のために手を尽くしはしたものの、強大な軍事力の前に力及ばず、結果として、同国に「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力で樺太を併合されてしまった。 当時のロシア帝国は、明治後期になると、今度は日本全体をも植民地として吸収することを企て始め、(国力で劣る)我が国は、これを同国との対話によって防ごうと試みた。しかしながら、当時のロシア帝国の野心は収まることを知らず、明治三十七(一九〇四)年、緊張は極限に達し、日露戦争が勃発した。 ロシア帝国は、我が国を打ち負かせると確信していたようではあるが、現実には陸海とも我が国に叩き潰され、翌明治三十八年には、我が国との間に講和条約を結ばざるを得なくなったのである。日露戦争緒戦で大勝した帝国海軍連合艦隊(『日露海戦回顧写真帖』昭和10) この時の和平条件の一つが「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」ことであった。この結果、樺太には、「日本に割譲する南半分」と「ロシア帝国が統治し続ける北半分」を明確に区別するため、北緯五十度線に沿って国境線を引くことが決せられた。 樺太の北緯五十度線地帯は当時、密林状態にあったので、日露両国は森林を十㍍幅で伐採して空間を造り、その空間を国境線としたのである。これが、地図上で「樺太を南北に二分するような横線(北緯五十度線)」が入った経緯である。■「割譲」ではなく「返還」 さて、前段で「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」という一文がある。「割譲」という言葉に違和感を覚える方もいるはずである。何故ならば、日露講和に於けるこの「割譲」とは、実質的(歴史的)には「返還」「回復」に相当するからである。これは、我々日本人が明確に認識しておかねばならないことではなかろうか。 日露講和の際、我が国はロシア帝国に対し、事実として何を申し伝え、同国からどのような返答を得たのだろうか。わかりやすく端的に表現するならば、次のようになる。 我が国がロシア帝国との和睦に際し、同国に申し伝えた事実上の内容は「貴国が明治初期に我が国から実質的に武力で奪取した樺太を還していただけないだろうか」ということである。 この申し入れに、ロシア帝国は紆余曲折の結果「樺太の南半部だけを譲る(還す)」と応じてきたのである。 補足となるが、日露の役は、我々の先人方が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。先にも書いたように、ロシア帝国は明治後期に我が国を植民地にしようと企て、樺太を奪ったばかりか、満洲、朝鮮と南下を続け、我が国に迫っていた。ところが、自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、かつて我が国から武力で奪い取った樺太のうち、南半分だけは還さざるを得なくなっただけの話である。「樺太回復期」と「樺太関連呼称」「樺太回復期」と「樺太関連呼称」 元樺太在住者などの樺太関係者の間では「北緯五十度線以南の樺太」が日本領として復帰していた明治三十八(一九〇五)年から昭和二十年(一九四五)年の四十年間を「樺太回復期」と呼ぶことがある。日露戦末期の明治38年7月9日朝、日本軍が樺太・九春古丹(大泊)に上陸した時、ロシアは街を焼き払って退却していた(『日露戦役海軍写真帖』明治39) 前述のとおり、実質的(歴史的)に考えた場合、樺太は日露講和により、その南半分のみが我が国に「割譲」ではなく「返還」された。これによって、樺太は北緯五十度線を以って、「日 本領」と「ロシア帝国領」に分けられたわけである。 その後、北緯五十度線以南を「南樺太」、以北を「北樺樺太」と呼ぶようになった。元樺太在住者の中には、「南樺太」とは五十度線以南の樺太の俗称であり、五十度線以南のみを指す場合でも、単に「樺太」と呼称するのが正しいとする指摘も根強い。 この樺太回復期に、北緯五十度線以北を以南と区別して呼ぶ必要があった場合、これを「薩哈嗹(サガレン)」とも呼称した。「樺太」については、呼び方一つを取っても、難しい側面があると思うので、簡潔に整理してみたい=表②。 樺太=「北海道の北に位置する細長い島」を意味する場合もあれば、状況などにより「北緯五十度線以南の樺太」のみを意味する場合もある。 南樺太=「北緯五十度線以南の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。 北樺太=「北緯五十度線以北の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。 薩哈嗹(サガレン)=樺太回復期  に北樺太を南樺太と特に区別して呼ぶ必要があった場合に用いた。一部文献では樺太全体を指すのに用いているが、樺太回復期に限れば「北樺太」と同義と考えていい。 多くの学者、特に史学者が樺太について述べる際、この様な呼称の違いを理解して自然に使い分けていると思うが、樺太を知らない人々、特に若年層にとっては、同島の呼び方一つを取ってみても、難解な面がある。学者方は、若年層に樺太を語る際、こうした点もぜひ踏まえていただきたい。■樺太呼称と露国号の変遷 樺太と北海道以南の日本との関わりは、出土品等から、七世紀前後に始まったものと推測されている。この長い歴史の中で、樺太の呼称は、江戸時代以降に限っても、幾度か変遷を遂げてきた。また、樺太から我が同胞を二度に渡り締め出し同島を併呑したロシアも、江戸時代以降に限ってもたびたび国号を変えてきた。 これらの史実も、世間一般には樺太史を難解にしている一因かも知れない。そこで樺太呼称とロシア国号の変遷もざっと整理してみたい。 尚、ロシアに先んじて樺太に進出したのは、我が国(松前藩)である。これは重要な史実なので後述もする。また、ロシアが十九世紀に入り突如として樺太の領有権を主張し始め、事実上武力併合したことも、我々日本人が留意すべき史実と思われる。 まず樺太の呼称変遷=表③=で、一口に「蝦夷地」と言っても、その範囲は時代と共に変化してきた。大和の朝廷の統治外にあった東国(東日本)が、蝦夷地と呼ばれていた。私が知る限り、厳格な時系列で蝦夷地の範囲を明確に示している文献は存在しない。よって、ここでは「蝦夷地」とは基本的に江戸時代の「北海道本島」と考えるが、場合により樺太と千島も含まれた。 江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね南半分と千島」を「東蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の太平洋側と千島を東蝦夷地と呼称した」としている。 また江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね北半分」と「樺太」を「西蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の日本海側と樺太を西蝦夷地と呼称した」としている。 江戸時代に樺太だけを指す際、蝦夷地の一部として「唐太(カラフト)」などと呼ばれていたが、幕府は文化六(一八〇九)年に正式名称を「北蝦夷地」に決した。元禄13(1700)年に松前志摩守矩広が江戸幕府に納めた藩領図(写本)。北海道の上方に小さく記載しているのが樺太。測量技術が未発達なため形状はあいまい 明治二(一八六九)年、探検家の松浦武四郎の考案で、明治政府は「蝦夷地」と「北蝦夷地」を、それぞれ「北海道」と「樺太」に改称した。 ロシアの国号の変遷をみる。江戸時代から大正中期までの国号は、細かくみればいろいろあるが、ここでは基本的に「ロシア帝国」に統一する。ソ連の前身国家である同帝国は、大正中期に共産革命により滅亡した。 大正中期から平成初期までの国号は、同じくここでは基本的に「ソ連」に統一する。正式には、「ソビエト社会主義共和国連邦」と邦訳される。ロシア帝国の継承国家であるが、平成初期に民主化によって崩壊した。これ以降の国号を、ここでは基本的に「ロシア連邦」とする。 ロシア帝国(及びその前身国家)は元来、欧州にあるウラル山脈西部で発祥した国家である。十七世紀以降、次々と北アジアを征服し、十七世紀後半には「東進」とも呼ばれる領土拡張の中で、清朝の勢力圏にも入り込むが撃退された。この後、清の勢力圏を避けるようにして、カムチャツカ半島や千島列島北部を併合。十八世紀終盤から十九世紀初頭には遂に、我が国の統治下にあった北海道や樺太に到達し、これらを併呑する兆しを見せ始めた。樺太の概略史樺太の概略史■我が国の「樺太経営」 前述のとおり、「樺太」と「北海道以南(の日本)」との関わりは、出土品などから、七世紀前後に始まったものと推測される。我が国(松前藩)は、樺太にその南部方面から最初に接触した国家であるが、松前藩及び松前氏の先祖がいつ頃から「樺太」の経営(進出)を始めたのかは不明な点も多い。これは、同藩がアイヌ貿易などで得られる利益を独占するため、樺太を含む蝦夷地に関する多くの事柄を外部(時の政権など)に隠していた事が一因と考えられる。しかしながら、遅くとも十六世紀終盤には、松前氏の先祖である蠣崎(かきざき)氏が、豊臣秀吉より、樺太を含む蝦夷地の支配権を付与されている。松前藩は十七世紀前半には、樺太と他の蝦夷地を内包した国絵領図(十五㌻参照)を作成し、これを江戸幕府に提出している。よって、我が国が、最も早く本格的に樺太に進出した国家である事に変わりはない=表④。■シナ王朝と先住民族の関係 周・秦から漢代までの編纂とされる地理書『山海経(せんかいきよう)』には「北倭起于黒龍江口=北倭(倭北部)ハ黒龍江口(河口)ニ起コル」、また一四七一年に朝鮮の領議政(首相)がまとめた『海東諸国記』にも「日本疆域起黒龍江北=日本ノ疆域(領域)ハ黒龍江ノ北ニ起コル」とあり、いずれも黒龍江(河口)より北、つまり樺太北端からが「日本(倭)である」としている。 シナ歴代王朝は、基本的に樺太の直接統治(本格進出)はしなかったが、元王朝だけは例外的に「樺太進撃」を行い、樺太の様子を史上初めて比較的詳しく記録した。十三―十四世に樺太先住民族を朝貢させるために武力で屈服させ、その進撃過程などで樺太について比較的詳しく書き記したのであった。元以降も樺太先住民は、明及び清王朝への朝貢や、大陸沿岸民族との交易などは、途中途切れながらも、十九世紀後半まで続けたが、それは主に樺太北部での北部での出来事であった。 こうしたシナ歴代王朝と樺太先住民の関係は、中華思想の華夷秩序に基づく「周辺の蛮族はみな皇帝に服する」といった程度のもので、直接的な支配や統治はなかった。■領有権を主張し始めたロシア 十九世紀半ば、シナ清王朝は英国との戦争に敗れ、弱体化の一途を辿(たど)る。これに目を付けたのがロシア帝国で、一八五八年に璦琿(アイグン)条約を結ばせた。武力で威嚇した不平等条約で、清国領だった黒龍江左岸を併合した。同時に樺太対岸地域から朝鮮にまで接する外満洲を清露の共同管理地とさせて実効支配を強めた=表⑤。 清朝は「全権使節が勝手に結んだ」として璦琿条約を認めなかったが、ロシア帝国は一八六〇年、同じく不平等条約の北京条約で外満洲を沿海州として併合したのである。樺太対岸地域がロシア領となり、シナと樺太先住民族の関係も途絶えた。 そしてロシア帝国は我が国に対しても、樺太は(清から奪った)樺太対岸地域の属領であるので「我がロシア帝国のものである」と滅茶苦茶なことを言い出したのである。■間宮林蔵の大陸渡航 松前藩は、前述のとおり対アイヌ貿易などの権益は、極力独占しておきたかったので、早い段階からロシア帝国の蝦夷地への南下には気付いていても、江戸幕府への報告を怠っていた。このため、幕府は松前藩の樺太を含む蝦夷地統治能力に疑問をもつようになる。幕府直轄で樺太調査に着手し、文化四(一八〇七)年には、同藩より蝦夷地の統治権を取り上げてしまった。正装して松前藩を訪れる領内のアイヌ酋長一家。従者に土産の干し鮭など担がせている(伝松前藩絵師小玉貞良) 松前藩が十七世紀前半に幕府に提出した地図に、樺太は島として描かれたが、世界的には大陸と地続きの半島という説が広まっていた。幕府は真相を明らかにするため、文化五年に松田伝十郎と間宮林蔵を樺太に派遣した。二人はいったん北海道の宗谷に戻り、間宮が単身で樺太に再渡航。越年して最終的に樺太北部と対岸の大陸の間を船で往復した。高橋是清 この踏査・渡航により、文化六年に樺太が島である事を明確に突き止めた。この功績により、間宮林蔵は歴史に名が刻まれ、海峡名にもなったのである。樺太を平和的に取り戻す■日露和親条約 ロシア帝国は、樺太や千島への武力攻撃を繰り返すなどしたうえで嘉永六(一八五三)年と翌年、日露国境画定などを目的として、我が国にエフィム・プチャーチン提督を派遣した。江戸幕府は、川路(かわじ)聖謨(としあきら)らを交渉役に任じ、長崎と下田で談判を行ったのである。 幕府は、樺太全島及び千島全島が領地であると認識していたが、実際は樺太全島及び南千島までの主張に留めた。樺太について川路は、条約本文の付録に「日本人並蝦夷アイヌ居住したる地は日本所領たるべし」と盛り込むことを主張。「蝦夷島」ではなく「蝦夷」としたことで、蝦夷地(北海道)ではなく「アイヌが住む樺太全島」の意を含み入れたのである。プチャーチンは一旦同意したが、まもなく日本側の意図に気付いて修正・削除を強硬に求めた。 その結果、安政元(一八五五)年に日露和親条約が調印され、樺太・千島の国境画定について次の取り決めがなされた。その内容は、樺太に関して「これまでの仕来りどおり」(これまでどおり樺太は少なくとも北部のラッカ岬辺りまでは日本領であり、そこに境を設けることはしない)とし、千島は「択捉島以南が日本領であり、得撫島以北がロシア領である」とされた。江戸幕府の基本的な主張は、近年樺太にやってきたロシア帝国には、樺太の領有権は全くないというものであった。 ところがロシア帝国は、前述のとおり、清からの黒龍江左岸・外満洲奪取に合わせ、早くも日露和親条約を反故にする兆しを見せる。安政六(一八五九)年には、軍艦数隻を率いたニコライ・ムラヴィヨフ総督を派遣して、樺太は「樺太対岸地域」の属領だから「我が帝国のもの」だと主張したが、幕府はこれを一蹴し、ムラヴィヨフ総督は退散した。■樺太島仮規則と樺太千島交換条約 我が国はムラヴィヨフ総督を駆逐したものの、ロシア帝国の樺太奪取の目論みは続く。慶応三(一八六七)年には、軍事力を背景として樺太島仮規則という仮条約を押し付けてきたのである。内容は「樺太は日露両国の共同管理地(雑居)である」というものであった。ロシア帝国は、仮規則を根拠として樺太を自国の流刑地と見なし、次々と囚人らを送り込んできた。 我が国が明治維新などによる動乱の前後も、樺太領有を巡る交渉を粘り強く続けたため、ロシア帝国は一時「樺太放棄」を考えたが、我が国の高官の中にも樺太放棄論者が存在することに気付くと態度を硬化させ、「樺太奪取に勝算あり」と踏むようになってしまった。我が国は、金銭を支払うので樺太から撤退してほしい旨をロシア帝国に伝えるなど、最後まで抵抗したが不調に終わった。 万策尽きた我が国は、明治八(一八七五)年、樺太千島交換条約を押し付けられ、樺太は「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力でロシア帝国に奪われ、併合されてしまったのである。■日露戦争と日露講和条約 これも前述したが、日露の役とは、我が先人が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。ロシア帝国は樺太奪取後に続き、我が国を植民地にしようと企てたことで自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、実質的に武力で奪い取った樺太の南半分だけは我が国に還さざるを得なくなっただけの話である。日露講和条約は、明治三十八(一九〇五)年に締結され、北緯五十度以南が我が国の領土に復帰した。■樺太回復期 我が国の領土に復帰した時期、樺太は「地獄の島(ロシア帝国の流刑地)」から「宝の島(我が国の開拓地)」に生まれ変わった。紙幅の関係でその詳細には触れないが、日本統治下 の樺太は、漁業や製紙業などにより目覚ましい発展を見せた。最盛期には人口が四十万人を大きく超え、島都豊原(とよはら)は市制を遂げた。第二の都市恵須取(えすとる)も市制施行寸前であったが、終戦直前にソ連が中立条約を無視して樺太に侵攻、不法占領したため、市制施行は幻に終わった。■国際法無視の不法占拠 大東亜戦争敗北により、樺太は無理やり我が国から切り離されたが、同島は歴史的に日本領である。然るべき国際機関で帰属が決められないまま、ロシアが不法占拠している事実を、我々日本人は忘れてはならない。国際法に則り正当に帰属が検討されれば、樺太が我が国に返還される可能性がないわけではない。 ならば我々は、樺太を平和的に取り戻す努力をする必要があるのではないか。現実的な手段として買収なども考えられるが、先ずは国民の合意が必要であり、そのために我々自身が樺太を思い出す必要がある。 ソ連を引き継いだロシア連邦は、北方領土問題について樺太・千島どころか四島ですら「領土問題は存在しない」と、ソ連時代以上に強硬になっている。その背景にはどんな狙いがあるのか、我々は警戒を怠ってはならない。たかはし・これきよ 昭和四十六年東京都生まれ。米国の高校、大学及び大学院に通い、主に数学研究科に在籍。帰国後の平成十三年から東京のコンサルティング会社で電子機器市場の分析を担当。幼少時から樺太に関心が強く、十八年に社団法人全国樺太連盟入会、二十五年から同連盟の樺太史広報を担当。著書に『絵で見る樺太史―昭和まで実在した島民40万の奥北海道』(太陽出版)及び『大正時代の庁府県―樺太から沖縄に置かれた都道府県の前身』(同)など。「樺太は、その歴史を知れば日本であることが分かる。百年、二百年かけても平和的に回復すべきであり、それにはまず日本国民への樺太史の広報啓発が不可欠」が持論。東京で沖縄の八重山日報を定期購読し、国境の島々の情勢にも日々目を配る。プロ野球東京ヤクルト・スワローズの熱狂的ファン。趣味は貼り絵作成と神社仏閣巡り。「お授けいただいた御朱印を見ると幸せな気分になる」

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    まやかしの霧が覆う樺太の歴史

    ロシアの武力威嚇によって掠め盗られた樺太。日露戦争で回復した南半は大東亜戦争後にロシアが不法占拠し続けるが、左翼勢力はこれを是とし、侵略された歴史を何が何でも隠そうとする。改めて日本の北方領域・樺太の歴史を振り返る。

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    樺太はこうして掠め盗られた!日本が受けた列強の領土侵奪

    たが、国後島沖でロシア側に拉致された高田屋嘉兵衛との人質交換が文化十(一八一三)年に成立し、これ以後日露関係はしばらくの間平穏となった。 かくて文政四(一八二一)年、幕府は蝦夷地を松前藩に還付することとし、それに伴って松前奉行を廃止、南部・津軽両藩にも蝦夷地から藩兵を撤収させた。旧領に復帰した松前藩は、蝦夷地の各地に十四基の台場と十一カ所の勤番所を設け、警備体制を整えて行った。 寛政年間(一七九〇年代)以降、千島方面におけるロシアの南下政策は日本側に阻まれ、得撫島以北の島嶼征服というラインに留まっていた。ロシアの東方進出を企てる皇帝ニコライ一世は、その矛先を日本の施政下にあった樺太へと転じ、同地域の占拠を露米会社に命じた。 東シベリア総督ムラヴィヨフを通じてこの指令を受けたバイカル号艦長ネヴェリスキーは、嘉永六(一八五三)年七月に樺太へ来航し、フスナイ河口に守備兵を駐屯させた。また陸軍少佐ブッセも、亜庭(あにわ)湾の久春古丹に上陸して駐兵を強行した。こうして樺太への足がかりを得たロシアは、従来からの要求であった通商の開始と、新たな要求となった樺太における国境画定という二つの課題を掲げて、日本に対する三度目のアプローチを試みることとなる。樺太全島領有の「前提」にスキ樺太全島領有の「前提」にスキ ニコライ一世はロシアの樺太進出を企てる一方で、アメリカが日本開国のため艦隊派遣を計画しているとの情報を得ると、海軍中将プチャーチンをロシア極東艦隊司令長官兼遣日大使に任命し、遣日艦隊の編成を急いだ。プチャーチンは、ロシアの首相ネッセリロ―デから老中に宛てた国書を携え、軍艦四隻を率いて嘉永六年七月に長崎へ来航した。 長崎奉行大沢定宅は、老中阿部正弘の指示を仰いで穏便に国書を受け取り、ロシア艦隊の速やかな退去を促したが、プチャーチンは六十日以内の幕府からの返書と、幕閣との接見を要求し、長崎からの退帆に応じなかった。 幕府は筒井政憲・川路聖謨(としあきら)らを露使応接掛に任命し、プチャーチンと交渉させるべく長崎に派遣した。長崎における日露間の会談は、嘉永六年十二月に五回にわたって行われたが、通商や国境画定をめぐる双方の主張には大きな隔たりがあり、容易に決着を見なかった。日露談判に当たった一人、川路聖謨 特に国境問題に関して、日本側は「択捉島ハ元来我所属タルコト分明ニシテ議論ノ余地ナク、樺太ハ各其所有ヲ糺シテ国境ヲ画定スヘク、『アニワ』湾駐屯ノ露国軍隊ハ我地ヲ奪ハントスルニ非スシテ外寇ニ備フルモノナリトノコトニ付境界確定アル上ハ之ヲ撤退セシムルヲ要ス」と主張したのに対し、ロシア側は「日本領ノ界ハ北ハ択捉島及樺太南部『アニワ』湾トス、樺太島上ノ分界ハ遅滞ナク両国官員会同シテ其所在地分ヲ画定」するとの姿勢を示し、結論は先送りとなった(「ロシア使節プーチャーチンと幕府大目付筒井肥前守政憲・勘定奉行川路聖謨との長崎日露交渉に関する文書(要旨)」)。 その要締は、千島における国境は択捉島と得撫島の間に画定することでほぼ合意したが、樺太については北緯五十度以南を自国領とする日本側の主張と、南端のアニワ湾を除く全島が自国領だとするロシア側の主張が対立したため、両国が官員を派遣して実地見分を行ったうえで画定する、ということになったのである。 その後、日露交渉の場は伊豆の下田へと移され、安政元(一八五四)年十一月に九カ条から成る「日露和親条約」が締結されることとなった。この条約によって、日本はロシアに対し箱館・下田・長崎を開港する(第三条)こととなり、あわせて日露双方が領事裁判権をもつこと(第八条)も規定された。 他方、領土問題(特に樺太における国境線画定)について、幕府は樺太全島が日本所領と認識しており、老中阿部正弘はその旨主張すべしとする訓令を川路らに発していた。そのため日露間での最終的な妥結に至らぬまま、次のような暫定的取り決めがなされることとなった。 第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は露西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし こうした弥縫(びほう)的な対応の背景には、松前藩に任されていた広大な蝦夷地の防衛が不十分で、ロシアのパワー・ポリティクスに対抗できるだけの態勢が日本側に整っていなかった、という現実的問題が存在していたことは否めない。 さらに長崎における日露会談に際し、ロシア側が示した「境界確定幷ニ露船ノ為二港ノ開港ヲ延期スルニ於テハ日本政府ニ容易ナラサルコト多カルヘシ」との外交的圧力もあいまって、結果的に日本側が一定の妥協を強いられたものともいえる。沿海州同様「雑居」で乗っ取り沿海州同様「雑居」で乗っ取りこのように日露和親条約の締結に際して樺太に国境を画定せず、「是迄仕来の通」という名目で未決着のまま先送りしたことは、その後の日露両国人の雑居という曖昧な状況をつくり出し、ロシア側へ樺太進出の口実を与えるものとなった。 この条約を締結した後、幕府は蝦夷地警備を強化する必要から、安政二年に再び松前藩から松前と江差の周辺を除いた東西蝦夷地の上知を行い、南部藩・津軽藩・久保田藩・仙台藩に蝦夷地警備のための派兵を命じた。このうち仙台藩が択捉島・国後島の警備を担当し、当時「北蝦夷」と呼ばれた樺太の警備は久保田藩が受け持つこととなった。 択捉・国後両島に派遣された仙台藩士達は、同地で越冬するにあたり多大の辛苦を舐め、寒冷地の孤島に所定の兵力を常駐させて継続的な警備を行うことの難しさを、朝野に示した。また樺太については、同地の日本人の多くが出稼ぎ漁民だったことから、久保田藩の兵力派遣は島に出漁者が渡航する夏季のみとし、冬季は留守の番人を置いて引き上げるという、従来の遣り方を踏襲した。 一方ロシア側は、安政四年に少数の兵力を樺太の久春内(くしゆんない)と真縫(まぬい)に送り込んで駐屯させ、日露両国人雑居の既成事実化に着手しはじめた。安政五(一八五八)年に「日露修好通商条約」が締結されると、幕府は蝦夷地警備のさらなる強化を図るため、それまでの五藩に会津藩と庄内藩を加えて七藩体制とし、それぞれの藩に蝦夷地を分与して警衛地を区分した。プチャーチンはこの条約を締結する際にも来日して幕府の応接掛と交渉したが、席上日本側が樺太の国境画定について提起すると、プチャーチンはそれに関する全権を委任されていないという理由で、樺太問題の協議に応じなかった。北方領域をめぐり強引な要求を押しつけたエフィム・プチャーチン 翌安政六年、東シベリア総督のムラヴィヨフは、樺太をロシアの領有とすべく、七隻の軍艦を率いて品川沖に来航した。幕府は若年寄の遠藤胤統(たねのり)以下、外国奉行堀利凞(としひろ)・村垣範正らを露使応接掛に任命し、対応にあたらせた。ロシア側は「条約既定(すでにさだむ)ル而(しかし)テ彊界(きようかい)(国境)ノ大事未タ決セス、頃日(けいじつ)我国支那ト約シ黒龍江ノ地ヲ割(さ)キ我ニ属ス(一八五八年璦琿(アイグン)条約)、薩哈連(さがれん)(サハリン)ハ則(すなわち)黒龍江ト同義ナリ宜(よろし)ク露国ニ属スヘシ、請(こ)フ宗谷海峡ヲ以テ両国の彊界ヲ為」すと樺太全島の領有を主張した。強圧的な欧米列強の艦隊への守りとなった台場の一つ品川台場 ロシアの強硬な態度に、日本側は「海峡ヲ以テ界ト為スハ我カ聞ク所ニ非ス…太賴加(たらいか)、幌古丹若(もし)クハ楠内以南ノ我属地タル事明ケシ請フ断然之ヲ以テ界ヲ定ン」と自らの領有を南部だけにすると譲歩しつつも「ロシアの全島領有」には反論して譲らなかった(『北海道志』巻之十七)。 日露双方の主張はここでも平行線を辿ることとなり、結果的にムラヴィヨフは目的を達することなく退帆した。ここにおいて幕府は、樺太の警備を久保田藩だけに任せる従来のやり方を見直し、文久元(一八六一)年には仙台藩・会津藩・庄内藩をこれに加えて、四藩が二年毎に年番で警備に就く体制とした。仮規則を盾に武力で実効支配仮規則を盾に武力で実効支配 文久元(一八六一)年、老中安藤信正は、正使竹内保徳・副使松平康直・監察京極高明以下十八人から成る使節を、開市開港延期交渉のためヨーロッパに派遣した。一行は翌文久二年、ロシアの首都ペテルスブルクにおいて、ロシア外務省アジア局長のイグナチェフと樺太の国境問題解決に向けた交渉を行った。ここでも日本側は、樺太の北緯五十度ラインに国境を設定することを主張したが、全島領有を図るロシア側は、宗谷海峡に国境を設けることを提案してこれを受け入れず、結局「各吏ヲ遣(や)リ島ニ会シテ議決スルヲ約シテ」交渉は打ち切りとなった。 続く文久三年には、ロシア側から樺太の国境画定問題について協議するための使節派遣を要請してきたが、「尊王攘夷」運動への対処という政治問題を抱える幕府側にその余裕がなく、「多事ヲ以テ遷延シテ果サス」という結果に終わった。 こうして樺太問題が先送りされる中、箱館奉行小出秀実(ほずみ)は、「露人唐太(からふと)ニ在リ米人ト互(たがいに)市ス速ニ彊界ヲ定メスンハ我之ヲ詰ルニ由ナシ…仮令(たとい)数歩ヲ譲リ境ヲ縮ルモ速ニ之ヲ決スルノ弊ナキニ若(し)カサルナリ」との建議を幕府に提出した。 これを重く見た幕府は、小出秀実と目付石川謙三郎を慶応二(一八六六)年にロシアへ派遣し、樺太の国境画定問題に関する交渉を行わせた。同年十二月、ペテルスブルクに到着した遣露使節一行はロシア皇帝に謁見し、翌慶応三年一月~二月にかけて外務省アジア局長のスツレモウホフと八回にわたる会談を行った。外国奉行竹内保徳(左から2人目)ら幕府遣欧使節団主要人員 この席上、日本側はそれまでの北緯五十度線に国境を定めるという主張から譲歩し、「山河ノ形勢ヲ点検シテ以テ議ヲ定(さだめ)ン」ことを提案したが、ロシア側は全島領有を主張してこれを拒否し、合意に達しなかった。 結局この交渉においては、両国の間で調印された「樺太島仮規則」にもとづき、樺太を日露両国人の雑居地として再確認するにとどまった。その内容は、第一条で「『カラフト』全島を魯西亜の所領とすへ」きことが示されながらも、第四条で日本側が「承諾難致節は『カラフト』島は是迄の通り両国の所領と致し置く」ものとされ、「両国の所領たる上は魯西亜人日本人とも全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟(か)総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物勝手たるへし」との仮議定が付け加えられた。 そしてロシアは、この仮規則を利用して樺太全島を実効支配するため、兵力の派遣と駐留を開始した。しかし日本側は、折からの明治維新に伴う政権交代の中で、こうしたロシア側の動きに対して有効な手立てを講ずる余裕がなかった。 かくて樺太における国境画定問題は、日本国内の政治的混乱に乗じて実効支配を強めたロシア側が一歩リードした形となり、誕生したばかりの明治政府は苦しい対応を迫られることになった。北海道防衛で無念の樺太放棄北海道防衛で無念の樺太放棄 新生の明治政府は樺太問題について、旧幕府がロシアとの間に締結した「樺太島仮規則」にもとづき、同地を日露両属とする立場を継承した。前記したようにロシア側は、「樺太島仮条約」を利用して兵力の駐留・罪人の流刑・開拓移民の奨励など、樺太の実効支配を強化する政策を進めており、明治初期には現地の日本人との間でさまざまな軋轢や衝突を生じるようになっていた(詳細は秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題―」参照)。樺太千島交換条約の締結交渉に当たった榎本武揚。幕末から欧州軍事事情などを見聞しただけにロシアの脅威を身に染みて感じていたか… ロシアの南下を警戒する日本政府は、明治二(一八六九)年に「蝦夷地」の名称を「北海道」と改めたのに続き、翌明治三年には「樺太開拓使」を設置してこれに備える方針を示したが、十分な対策を実施できる状況になかった。そのため日本政府は、樺太に駐在する官吏から再三にわたって軍隊の出動を要請されたにもかかわらず、武力衝突回避の視点から出兵を見合わせていた。 当時日本側は、樺太問題への対応を誤ればロシアの脅威が北海道にも及ぶとの懸念を有しており、「唐太ハ露人雑居ノ地須(すべか)ラク専(もつぱ)ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シテ事ニ従フヘシ卒爾(そつじ)軽挙シ以テ曲ヲ我ニ取ル可ラス或(あるいは)彼(かれの)非理(りあらざる)暴慢ヲ以テ加フル有ルモ必ス一人ノ意ヲ以テ挙動ス可カラス」という姿勢でこれに臨んでいたのである。 樺太開拓使の開拓次官となった黒田清隆は、日本側による樺太経営の現実と限界を踏まえて、明治四年に「樺太に対する建白書」を政府に提出し、「彼地中外雑居ノ形勢ヲ見ルニ、永ク其親睦ヲ全スル能ハス」との観点から樺太放棄論を示すに至った。 黒田はこの建白書で、明治初年から開始した樺太開拓の成果が挙がっていない現状を指摘し、「之ヲ棄ルヲ上策ト為ス、便利ヲ争ヒ、紛擾(ふんじよう)ヲ到サンヨリ一著を譲テ経界ヲ改定シ、以テ雑居ヲ止ムルヲ中策トス、雑居ノ約ヲ維持シ、百方之ヲ嘗試(しようし)シ、左(さ)支右吾(しゆうご)遂ニ為ス可ラサルニ至テ、之ヲ棄ルヲ下策ト為ス」とし、「樺太ノ如キハ姑(しばら)ク之ヲ棄テ、彼ニ用ル力ヲ移シテ遠ニ北海道を経理スル」ことを提案したのである。 日本政府もこうした黒田の意見を容れ、明治八(一八七五)年にロシアとの間で「樺太千島交換条約」を締結した。これにより、「樺太全島ハ悉ク魯西亜帝国ニ属シ『ラペルーズ』(宗谷)海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることと、十八島から成る「『クリル』全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加(カムサッカ)地方『ラパツカ』岬と『シユムシユ』島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることが定められた。 この条約に関しては当時においても、得撫島(うるっぷとう)以北の千島諸島を代償に、広大な樺太南部を割譲することへの異議が存在していた。しかし明治初期の日本には、樺太の実効支配を「力」で推し進めるロシアを排除し得るだけの国力が備わっておらず、幕末以来の「北門鎖鑰(ほくもんさやく=北方の守り)」という課題に、一定の譲歩を伴いつつ外交的手段で決着をつけざるを得なかったことは、ある意味必然であったといえよう。軍事圧力で領土侵奪した事実軍事圧力で領土侵奪した事実 十八世紀にはじまるロシアの北方領域での南下政策は、当時すでに日本の施政下にあった千島列島・樺太に対する、武力を背景とした外交的侵食という形で進められた。こうしたロシアからの圧力に、徳川幕府はくり返し外交努力を以て対応したが、「日露和親条約」や「樺太島仮規則」の締結を経て、結果的に択捉島以北の千島列島を手放し、樺太についても著しい主権侵害を蒙ることとなった。列強による不平等条約の一つ「樺太千島交換条約」の批准書              さらにロシアは、成立したばかりで政権基盤の固まっていない明治政府に対し、北海道さえ呑み込む勢いで樺太の全島領有化を迫り、「日露和親条約」で自国領とした千島列島を、元々の主権者だった日本側に引き渡すという、強圧的な交換条件を以てその要求を貫徹した。 アジアをめぐる近現代史のなかで、日本はシャム(タイ)と並ぶ、欧米列強からの侵略を受けなかった数少ない国の一つである、と言われることが多い。しかし北方領域における幕末・維新期の日露関係を仔細に見て行くと、この評価は必ずしも正鵠を射たものでないことが知られる。 すなわち、国家としての変革期で財政力・軍事力とも不安定だった当時の日本が、強権的なロシアの領土要求に対して外交的譲歩を強いられるなか、千島・樺太における主権と領土をロシアに侵食されて行った事実を、看過することはできないのである。  このような北方領域における日露関係の歴史を振り返り、その帰属をめぐって両国間で繰り広げられた、外交的攻防の史実を発信することが何より重要である。主要参考文▽献鈴木良彦『日露領土問題総鑑』(平成十)▽開拓使編『北海道志 上・下』(昭和四十八年)▽鹿島守之助『日本外交史 第一巻 幕末外交』(四十五年)▽同『日本外交史 第三巻 近隣諸国及び領土問題』(同)▽原剛『幕末海防史の研究』(六十三年)▽大熊良一『幕末北方関係史攷』(四十七年)▽秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題」(平成五年)あさかわ・みちお 昭和三十五年東京生まれ。五十九年日本大学国際関係学部卒業、平成二年同大学院法学研究科博士後期課程満期退学。十七年「江戸湾内海の防衛と品川台場」で軍事史学会「阿南・高橋学術研究奨励賞」受賞、二十年「品川台場にみる西洋築城術の影響」で博士号取得、同年軍事史学会理事、二十二年日本大学国際関係学部教授。幕末から明治維新までを中心とした政治・軍事・国際関係史が専門で、江戸の「海上の守り」であった品川台場も研究。著書に『お台場 品川台場の設計・構造・機能』(錦正社)、『江戸湾海防史』(同)、『明治維新と陸軍創設』(同)。共著に『日英交流史三 軍事』(東京大学出版会)、『ビジュアル・ワイド 明治時代館』(小学館)など。論文に「幕末の洋式調練と帯刀風俗」「辛未徴兵に関する一研究」「幕末・維新期における近代陸軍建設と英式兵学」など。

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    北方領土問題 ロシアをどうやって位置づけるか

    保立道久(東京大学名誉教授) 外交にとって最低の必要条件は、国際法上の不法をただすことであって、それがないような外交は外交といわないが、歴史学からいわせると、日本外交はつねにそういう種類の外交であった。それを論じて、最後には徳川幕府が結んだ1855年(安政元年)の日魯通好条約と、明治国家が結んだ1875年(明治8年)樺太・千島交換条約の評価に及びたい。 さて、現在、国際法上、どのような立場からしても不法であることが明瞭なのは、ロシアによる北方領土の占領である(アメリカによる沖縄の基地占領については最後に述べる)。これに対する国際法的な法理を正面にすえた異議をとなえない日本の外務省は決定的な職責違反を行っている。また私見では法学界、国際法学界も、この問題についてよるべき十分な仕事をし、必要な主張をしていないように思える。モスクワで開かれた対ドイツ戦勝70周年の記念式典で演説するロシアのプーチン大統領=2015年5月(ロイター=共同) 私は、以下の国際法的な事実は、歴史学界共通の見解である以上、小学校・中学校・高等学校で、社会科学・歴史学のカリキュラムのなかで、順次、学ぶべきものであると考えるが、それができないのは、それをやると外務省の行動が職責を果たしていないことが明々白々になるからであろうか。 まず第二次世界大戦における日本の降伏条件を構成する1943年の「カイロ宣言」には"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expans"、つまり「三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するため、今次の戦争を行っている。同盟国は自国のために利得をむさぼろうとするものではなく、また領土拡張の念も有しない」という「領土不拡張」原則が記されている。そして続けて、" It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914"(以下は中国との関係、省略), つまり、「同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪する」という形で日本の領土をどの範囲に限定するかを明らかにした。 しかし、アメリカ、イギリス、ソ連3国の首脳、ようするにルーズヴェルト・チャーチル・スターリンは、1945年2月、ソ連のヤルタで会談を開き、そこでスターリンがソ連の対日参戦の条件として千島列島の引き渡しを要求し、ルーズヴェルト・チャーチルがこれを認めて、ヤルタ秘密協定に盛り込まれた。そこには「三大国の指導者は、ドイツが降伏し、かつヨーロッパの戦争が終結して二・三ヶ月後、ソ連が左の条件にしたがい、連合国に与して日本に対する戦争に参加することについて合意した」として、(1)外蒙古の現状の維持、(2)1904年の日本の裏切りの攻撃(the treacherous attack)によって侵害されたロシア国の旧権利(樺太南部など)をあげ、さらに「(3)千島列島はソ連に引き渡される(shall be handed over)」という項目を付け加えた。ポーツマス条約における樺太の獲得 第二項目はポーツマス条約(日露講和条約、1905年)における樺太の獲得にふれたものである。それはカイロ宣言における「1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または占領したる島嶼」という条項と異なるが、樺太は日露戦争の敗戦処理のなかでの領土獲得という側面をもつために、国際法上、一定の根拠をもつことになる(ただし、ポーツマス条約の問題性については後述)。 しかし、千島についての第三項目は、明らかにカイロ宣言に対する違反である。このヤルタ協定は密約として日本国には伝えられていない以上、これを降伏条件として日本国に要求することはできない。もちろん、日本の戦争が侵略戦争であったことは明らかであるが、しかし、その責任を問うことと、戦後処理が降伏条件との関係で法的な正当性をもつかどうかは別問題であって、このような秘密協定を潜り込ませたスターリン、そしてそれを容認したルーズベルト、チャーチルの行動は不当なものである。勝った側、さらに戦争において大局的な正当性をもったものが何をやってもよいということではないのである。ルーズヴェルトは原爆投下に消極的であったといわれ、ルーズヴェルトの死が原爆投下の促進要件になったといわれる。それは事実であろうが、ルーズヴェルトをむやみに誉めることはできない。彼にとってもアメリカの狭い国益が第一であったことはいうまでもない。ヤルタ密約に同意したルーズヴェルトの判断自体から問題にされなければならないことも明らかであろう(参照、武田清子『天皇観の相剋』)。 「カイロ宣言」が第二次世界大戦における日本の降伏条件を構成するというのは、ポツダム宣言において"The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine"、つまり「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と確認されているからである。もちろん、明らかなように、この条文の後半は実質上、ヤルタ秘密協定をうけた側面がある。わざわざ「本州、北海道、九州ならびに吾等の決定する諸小島」という用語をいれたことはスターリンの主張に対する曖昧な妥協であった。ポツダム宣言に「(アメリカ・イギリス・中国の)巨大な陸海空軍は西方より(中略)数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加へる態勢を整えた」とあるのは、ソ連の参戦を前提にしたものであるから、ルーズヴェルトとチャーチルはさかんにスターリンに媚びを売ったのである。 藤村信は「ヤルタ体制を結晶させたものは、あいまいな妥協であり、いかようにも解釈できる不明瞭な協定の文字である」と述べているが、ポツダム宣言の上記の条項は、その曖昧さを継承していたということになる(藤村信『ヤルター戦後史の起点』)。たしかに日本はポツダム宣言を受諾したが、右の曖昧な条文によって、カイロ宣言の領土不拡大原則と国際法上の原則をこえて、千島を放棄させられたことは容認すべきことではない。ドイツ・ポツダムでの首脳会議の合間に、スターリン・ソ連首相(左)の宿舎を訪問したトルーマン米大統領=1945年7月24日(AP) このヤルタ密約が前提となってサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)が締結されたのはいうまでもない。その第二章 領域、第二条、(c)項に「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある通りである。ヤルタ密約とそれを追認したサンフランシスコ条約の該当部分は、国際法上の不法行為であって、これの見直し・訂正を求めることは敗戦国とはいっても、日本国民の国際法上の権利であることは明瞭であろう。 もちろん、外務省は、北方四島の返還を要求はするが、それをヤルタ協定が国際法に反するという形では主張しない。ようするに、彼らには、ヤルタ→ポツダム→サンフランシスコという国際密約・協定などの全体を問い直そうという、外交官ならば当然にあるべき覇気と専門職としての自覚がないのである。 ポツダム宣言は原稿用紙4枚ほどにすぎない。それをその歴史的背景をふくめて「つまびらかに」読むことが国家理性の中枢にいる人間の最低の知的レヴェルというべきものであることはいうまでもない。昨年、本当に驚愕したのは「ポツダム宣言の内容をつまびらかにしない」という人を国家中枢にもっていることが明らかになったことであった。そして、最近、「歯舞、これ何だっけ」という人物が沖縄北方担当相であるという、悲しいあきらめをもったが、これらの発言は、職責的知識の欠如が中枢に存在することを示すのみでなく、そのような欠如が、政治的な立場の如何をとわず、きわめて一般的であることを期せずして明らかにしたといえるのかもしれない。 こういう現状を前提とすると、上記のような外務官僚への要求は過大なものということになるのかも知れないが、しかし、さすがに20年前まではいくら対米従属といってもそんなことはなかったのだから、外務官僚が職務怠慢の責めを受けることはやはり否定できないだろう。 これがアメリカによる沖縄の基地占領が国際法上の不法行為であるという問題提起をしないことと共通する問題であることはいうまでもない。戦争行為を直接に無法な土地占取・基地設置に連続させ居住者を追い出す、という沖縄におけるような行為は、国際法上認められていない。沖縄の基地は、サンフランシスコ条約第三条に根拠があることはいうまでもないが、これも違法なものでり、その違法性は沖縄の施政権返還協定によっても完全に解消された訳ではない。 サ条約の改定は、締結諸国全体との外交交渉を必要とし、それは日本側のアジア太平洋戦争に対する総括をふくめて全面的で根本的な態度を必要とする。その方向をとる決意なしには、サ条約第二条の千島放棄の規定の再検討はありえない。そもそも当時の自民党佐藤政府とアメリカがサ条約の改訂という道を取らなかったのは基地を確保するとともに、安保条約を日本全土に拡張するためであった。決定的な誤りを犯した明治政府 たとえば荒井信一氏の仕事が示すように、これらは歴史学においては周知の問題であって、いわずもがなのことであるが、最後に二点を述べたい。 第一に、沖縄の状況であるが、戦後に続いてきたすべての政権がサ条約の不法性を主張せず、それを容認し、沖縄を日本の国家意思として「引き渡し(handed over)」続けてきた。しかし、ともかくも施政権の返還によって、沖縄における不法行為は、国際法上の違反の形式をもつのは基地の占拠に極限されるに至ったということができよう。不法に占拠された基地までも法的な基礎をもつという形式をとっているのは不適法であることはいうまでもないが、しかし、日本の沖縄に対する国家意思が変わらないままでは、国際法上の異議提起は現実には成立しえない状況であり、その意味で施政権の返還の意味は重い。ここで国際法上の不法性が縮減されたことは否定できない。 これに対して、千島のソ連・ロシアによる奪取は、戦後処理のドサクサにおける奪取であって、これについては、日本の国民意思を代表すべき政治は、左翼であろうと右翼であろうと、保守であろうと革新であろうと、「敗戦国」としての正当な戦後処理を受ける国際法上の権利の問題として、サンフランシスコ条約の該当条項の削除を要求すべきものである。日本の戦後における政府は、それができない、それをする意思がない政府であり続けたのである。千島列島・占守島で行われたロシアの調査団による調査(関係者提供・共同) そのなかで、第二次大戦については、「せいぜい」、内向きの発言をするか、韓国・中国の歴史認識に異議をいうだけという姿勢である。「歯舞、これなんだっけ」という閣僚の発言は、そのなかでもたらされたものである。こういう口の裏まで透けて見えるということでは、領土問題に関する外交的な発言に説得力をもたせるのは無理というほかない。 むしろ千島の返還のためには、韓国と日本の関係はきわめて重大であって、しばしばいわれるように、両国を核として東アジア共同体を形成し、さらに中国・アメリカの賛同をえて、それらをバックとしてロシアに対して戦後処理の不法性を主張することこそが、日本外交にとっての本来の正道である。ロシアが北朝鮮の背後にいて利害優先の態度をとっていることも明瞭な事実であって、日本にとってロシア批判は、国内的な立場を越えて優先的な問題なのである。現在のプーチンのロシアが世界とユーラシアの平和にとってきわめて危険な存在であることはいうまでもない。ロシア批判を第一にせずに、中国・韓国の対日態度を論ずるというのは、少なくとも当面の外交上、国益上、真の実効のないことである。 第二の問題は、千島、そして樺太は、本来、日本民族ではない諸民族の領土であったという問題である。日本の「領土」問題において、北方においても、「琉球処分」と同じ種類の問題の検討が必要であることを示している。これは私の専攻する日本の前近代の歴史にも関わってくる。 まず千島については、最近の考古学的な研究によって、ウルップ島より北の北千島には「コロホウンクル(コロポックル)」と呼ばれた北海道アイヌとは言語を異にする民族が分布していた可能性が指摘され、それに対して択捉島以南は北海道アイヌのテリトリーのなかにあったといわれる(瀬川拓郎『アイヌ学入門』、講談社現代新書)。また樺太については、ギリヤーク(オホーツク人)の人びとの強い地であり、そこに北海道アイヌの人びとも古くから進出していたことは以前から明らかになっている。ユーカラが12世紀頃以降のアイヌとギリヤークの戦いを反映しているという金田一京助の盟友、知里真志保の説は有名であって、最近では支持者が多い(榎森進『アイヌ民族の歴史』、草風館。本書については保立『日本史学』人文書院を参照)。 私は、その意味で、徳川幕府が幕末・1855年(安政元年)に結んだ日魯通好条約は、北海道地方における実情を正確に反映していた可能性が高いと考える。つまり同条約は、択捉(えとろふ)島以南を日本領とし、また、カムチャッカ半島につらなる得撫(うるっぷ)島以北をロシア領としたこと、また樺太(サハリン)を民族混住の地とした。これは実情をふまえた賢い判断であった可能性が高い。 これに対して決定的な誤りを犯したのが、明治政府であって、明治政府は、せっかくの日魯通好条約を、北海道開発をロシアとの矛盾なく展開することを主目的として改訂し、1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結んだ。これによって樺太全体がロシア領となり、ロシア領だった得撫島以北の千島が日本領となったのである。これは結果からいって、北海道開発による初期利益という衝動に動かされた愚策であったことは明らかである。明治国家は巨額の戦費を費やして日露戦争に「勝利」し、ポーツマス条約(日露講和条約、1905年)によって樺太を獲得したが、前記のように、これは戦争による領土獲得であると判断され、ヤルタ→ポツダムの経過のなかで、樺太南半部を放棄させられ、さらに全千島を、本来、北海道アイヌ民族のテリトリーとして北海道の一部であった、エトロフ・クナシリ・シコタン・歯舞(はぼまい)までをふくめて奪取されることになったのである。 これはようするに国家の資本主義化のなかで、アイヌ民族の大地(アイヌ・モシリ)を奪い、明治国家の中央集権化・軍事化の資金としようという動きであって、この乱暴な政策が、結局、この列島の北への視野と活動を大きく狭める結果となったのである。他民族を抑圧するものは、いつかしっぺ返しを受けることの好例である。この明治国家のアイヌ民族に対する罪過は、さまざまな意味で、つぐないきれない種類の罪過であったと思う。 以上は、サンダースの外交政策がどうなっていくかということを考えるなかで、世界戦略上、ロシアをどう位置づけるかがキーになるというところから、従来の知見をいちおう整理してみたものであるが、歴史学の側から「領土問題」、北方領土問題を考える基本はここにあることになる。この種の問題は、本源的に、単純な自民族中心のナショナリズムではすまないのである。(2016年2月18日「保立道久の研究雑記」より転載)

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    「南樺太返還期成同盟」という運動が存在した

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より渡辺国武(南樺太復帰同盟会長)御挨拶 この度、平成十二年四月を迎えて社団法人「全国樺太連盟」は機関紙「樺連情報」六百号記念として、昭和二十三年十二月十五日刊行の第一号復刻版を「折り込み資料」として配布してくれました。 私はこれを見て、連盟の別動隊である「南樺太復帰同盟」も、その成り立ちから折にふれての対外活動など、南樺太問題が解決されるまでは樺太引揚者の子孫にも、語り継がれるべきではないかと考えるようになってきたのであります。 幸いにも、二十年前「日中友好協会」会長故岡崎嘉平太氏の主宰されていた「国際問題研究会」の依頼を受け、講演した時のことを思い出しました。ここに、その講演記録と関係資料の集録を発表することとした次第であります。平成十二年六月 九十六翁 渡辺国武樺太返還問題と国際関係南樺太返還期成同盟総本部長           渡辺国武   (南樺太復帰同盟会長と改称) ただいまご紹介にあずかりました南樺太返還期成同盟の総本部長の渡辺国武でございます。 まず、私と樺太の関係を申しあげて、なぜ七十八歳にもなる老人の私が現在そういうことをやっているかということをおわかりいただくために、私と樺太のつながりについて申しあげます。私は明治四十四年、七歳のときに母につれられて樺太にまいりました。私の父は明治三十八年、樺太が日本に帰ってくると同時に北海道から樺太に行っております。その後小学校二年のときに、私は母につれられて樺太にまいりまして、当時、樺太に一つしかなかった樺太庁中学校に大正五年入学、大正十年に卒業しました。その後、樺太の各地に中学校ができたために、その町の名前を入れて、大泊とか真岡という名前を入れましたが、私がはいったときは樺太庁中学校でございました。 卒業と同時に家庭の事情ですぐに王子製紙に入社し、ひきつづき王子製紙が樺太の電気事業を手掛けることになり、そちらの会社に出向を命じられ、昭和二年の秋にそちらの方にまいりまして、そこに終戦までおりました。その当時は樺太電気といっておりましたが、戦時法令として昭和十八年に配電会社法ができ、現在の東京電力が関東配電、東北電力が東北配電というようになったときに樺太電気も樺太配電というようになりました。それは国策会社であり、王子製紙の子会社という形ではないので、そのときに王子製紙を退職して樺太配電の役員として最後は総務部長をおおせつかってやっておりました。 ですから昭和二十二年に引揚げてくるまで、仕事の関係その他で日本内地にはきておりますが、七歳のときから終戦の四十一歳までの間、樺太で過ごしました。したがって樺太で結婚し、子供も樺太で生れました。しかも、中学校を卒業してから王子製紙の関係で終始してきました。 引揚げてきましても、このような樺太との深い結び付きがやはり私の血となり肉となっているのでございましょうか、いまでも樺太は返してもらわねばならないというような情熱をもってやっている次第でございます。全国樺太連盟の設立 終戦後、南樺太在住の日本人の緊急疎開者と昭和二十一年後半より正式の引揚者が多く定住している北海道で、樺太引揚者団体連合会結成の準備がすすみ、その後昭和二十二年十一月にシベリアに抑留されていた樺太における指導者の一人である樺太庁第一経済部長の白井八州雄氏がソ連のエラブガ収容所から帰ってきました。それを機会に全国樺太連盟が設立されることになり、昭和二十三年四月十九日に設立の発起人会を開き、二十三日に創立総会が開かれました。八月一日に社団法人全国樺太連盟設立の許可の申請をしております。そして昭和二十四年九月十五日、当時の林譲治厚生大臣から設立の許可を得ております。全国樺太連盟と南樺太返還期成同盟(南樺太復帰同盟に改称)の本部が入り、元住民らの心のよりどころだった「樺太会館」。平成25年3月に売却され、樺太連盟は近隣ビルに入居した。写真は昭和40年4月の竣工時 本部は、港区麻布飯倉片町十二番地、現在は番地が変更になり麻布台三丁目一番二号樺太会館ビル内にあります。設立の目的は①樺太引揚者同胞を援護し更正せしめ福利をはかること。②残留同胞の引揚促進を運動すること。③樺太に関係あるもの、および他の団体との連絡協調をはかること。④樺太関係者の育英に関すること。⑤その他。というようなことでございます。南樺太返還期成同盟創立当時の状況南樺太返還期成同盟創立当時の状況 昭和二十五年三月、対日講和条約案作成の情報を知ったわれわれ樺太引揚者は、会員の総意をもって、米国トルーマン大統領、マッカーサー連合軍総司令官、シーボルト対日理事会議長に対して南樺太返還の懇願書を提出しました。 昭和二十九年六月二十日、札幌グランドホテルで南樺太返還要求の第一声を樺太連盟北海道大会の名において上げております。同年十二月に、第一次鳩山内閣誕生とともに日ソ復交の動きが高まった情勢をふまえ、全国樺太連盟は抑留同胞の即時帰還と北方領土問題の解決を条件にソ連との復交を進めるべきであるとして、全国樺太関係者に檄をとばし、南樺太返還期成運動を展開しました。南樺太の返還期成大会を報じる機関紙「樺連情報」昭和30年5月号 昭和三十年三月二十三日、南樺太返還期成同盟を創立、本部は全国樺太連盟の中に置いております。初代の総本部長は大津敏男氏で、終戦当時の樺太庁長官です。副本部長は佐々木時造氏です。 南樺太返還期成同盟の目的は、①南樺太の日本復帰を実現するため、樺太人および本同盟の目的に賛同する者を結集し、南樺太の返還を期成する国民運動を展開すること。②南樺太その他の北方領土問題に関して政府その他の関係筋に陳情、献言、激励を行うこと。③南樺太その他の北方領土に対する国民の正しい認識を確立し、これを深めるための啓蒙宣伝を推進すること。④北方領土関係の諸団体と連絡協調すること、というようなことでございます。 次に、返還期成同盟を創立した当時の状況ですが、昭和三十年四月二十四日に南樺太返還要求の貫徹東京大会を現樺太会館ビルにて開催し、宣言文を作成し、すみやかに南樺太の日本返還を期し、あえて全世界にこれを訴えていく宣言をしました。 その参集者は全国各地から五百名くらいありました。このときの主な来賓の国会議員の中に、浅沼稲次郎さん(社会党)が出席しております。社会党は、いまは北方領土、とくに樺太返還の問題については反対の意思を表明しておりますが、現在の社会党と当時の社会党とがこうもちがってきたのかということをとくにご認識していただきたいと思います。 特に今浅沼さんのことを申しましたが、浅沼さんのこの時のあいさつを要約しますと、浅沼さんは小笠原島出身者ですが、小笠原諸島に対する浅沼さんならびに島民の烈々たる思慕の情を例を引いてお話しになられ、「お互いに民族の叫びとして領土返還に邁進すべきであり、南樺太返還同盟の運動には大いに協力する」というふうに述べておられます。なお、当時私は新潟県におりましたが、新潟県の引揚者代表として演壇に立ってお話をさせていただきました。 昭和三十年の六月から八月にかけて、私共は全国各地で南樺太返還要求に関する署名獲得運動を展開し、約二十万名の署名が集り、翌三十一年一月五日に大きな行李三個に収納した署名簿を外務省に持参し、折からロンドン交渉から帰朝中の松本俊一全権に手渡しております。 昭和三十年八月十六日、海軍大将であった野村吉三郎さん、樺太返還期成同盟の総本部長の大津敏男さん、副本部長の佐々木時造さんなどの主催で、大手町の産経ホールにおいて領土問題国民大会を開いております。このときの出席者の中には芦田均さん、西尾末広さんがおられました。 昭和三十三年十一月、大津総本部長が愛知用水の副総裁に就任され、佐々木時造さんが総本部長に就任しました。これまでは樺太連盟の会長が返還期成同盟の総本部長を兼任しておりましたが、この機会に樺太連盟と返還期成同盟とは性格を異にする団体であることを明らかにして、従来、いささか荒削りであった運動を見直し、国内の事情も変化しておりましたので、じっくりと腰をおちつけて宣伝活動をしていこうという形に変ってまいりました。そういうふうにして返還期成同盟の運動が、これを機会に展開していくことになったのでございます。 このときの決議文、すなわち昭和三十年四月二十四日に決議をした中に、現在の私ども返還期成同盟が動いていることと、ちょっとちがったニュアンスがあります。そのときの決議文の第三として「われらが南樺太の日本返還を期し、日ソ両国政府がすみやかにその協定を結ぶことを要求する」という條文がはいっておりますが、これはいま考えるとちょっとまちがった考え方ではなかったかと私は思っておりまして、現在日本はサンフランシスコ条約締結の際南樺太、クリルアイランズを白紙放棄させられて調印しているのですから、アメリカを中心とした条約加盟国に対して新たな国際会議を開いて、その帰属を決定してほしいという方向が正しいものとして運動しております。主な返還運動の経過について主な返還運動の経過について 昭和三十年代の後半になりますと、沖縄や小笠原諸島の返還要求の動きがあり、北方領土に関する活動は表面的には自粛の時期で、この時期には、やはり沖縄や小笠原が帰ってくるということにわれわれとしても協力しなければならないと考えまして、いろいろな印刷物とか、「樺太終戦史」とか「樺太沿革・行政史」とか、後世に樺太では日本はこれだけのことをやったのだというものを、われわれが死んでからでも残るような形で、そういう印刷物をつくるために、その資料の蒐集に全力をそそぎましたので、対外的な活動についてはちょっと自粛した時代でございます。 昭和四十二年十月三十日、自民党内に「北方領土問題特別委員会(委員長・北沢直吉代議士)」が設けられた機会を好機として、私どもも、いままでは遠慮していましたが、この機会に北方領土は四島だけではなく、北方領土の問題の中には南樺太の回復と樺太引揚者の援護のことを含めてもらいたいということを前面に出して、この時期からまた対外的に活発な運動をはじめました。しかし北方領土問題は現在もそうですが、北方四島の問題であるという考え方が主流を占めておりましたので、われわれ樺太引揚者は独自の方向をめざすべきであるという結論に達し、アメリカを中心とした国際世論に、サンフランシスコ条約の未解決の問題として訴えていくという方向に、われわれの運動を徐々に展開していったわけでございます。 樺太返還運動は、そういうようなことでどのような形でやっていったらいいだろうかということになり、全国樺太連盟とも打合せまして、第一に、南樺太返還運動は、われわれ樺太引揚者が存命中に理念を確立しておこうということ、私自身七十八歳にもなろうとしておりますので、生きている間にこの理念を達成しようということで、だいたいこの問題は確立したつもりでございます。 (資料1「南樺太回復のために」参照) 第二に、他力本願ではだめだということです。われわれが今日まで運動してきておりますのは、全国樺太連盟が港区の飯倉片町の、ソ連大使館のすぐ近くの四つ角の場所に地下二階地上六階のビルをもっており、連盟はその六階に事務局を置いておりますが、それ以外は全部貸ビルとして、そこからあがる費用で全国樺太連盟と南樺太返還期成同盟をまかなっております。 他力本願ではだめだということは、ほかから援助を受けますと、われわれが動きたいときに動けないということと、現に北方領土四島の問題が国民運動ではなく、国営運動ではないかとソ連からひやかされているというようなことからいっても、私どもは昨年アメリカヘ行ったり、また返還期成同盟のいろいろな印刷費についても、全部われわれの手弁当でやっております。ですから返還期成同盟ができてから政府の補助を一銭も受けないで現在まできているし、今後もそういう姿でやっていこうということでございます。 余談ですが、一時右翼団体が北方領土返還の名のもとに駅頭などで寄附を集めたことがありました。北連協の会合がありました時、私は北方領土返還の声を出してもらうのはありがたいが、駅頭で寄附を集めることは樺太・千島引揚者が誤解を受けてはいけないので、北連協としてやめさせるように強く抗議をしてほしいと提案し、たまたま右翼団体もこれを聞いてくれ、半年後ぐらいしたらやらなくなりました。 このことは私どもの、この他力本願ではいけないとの考え方、北方領土の問題は民族の問題だという考え方でやってきたことが実を結んだ結果ではないかと思っております。 ところが最近また、ある団体で在外財産の補償ということが叫ばれ、引揚者から五千円とか一万円を集め、もし金を出さない者には、政府が補償する際に恩典にあずかれないということで金を集めていると聞きましたので、全国樺太連盟はそういう団体には入らず、在外財産の補償の問題については独自でやるとの方針をかためた次第です。 第三には、文書活動ならびに関係者の協力を得て記念碑などを建てておくということです。いわゆる北方領土問題については現在の日本政府、大部分の国会議員もそうですが、まだ樺太の問題については理解していただいていないようであります。 でありますので、文書活動をすると同時に関係市町村の協力を得たりして、樺太に関係する記念碑をたくさん建てようではないかという考え方でやっており、そのことが国民の眼を樺太に向けさせるということでございます。 昭和四十八年八月二十三日、樺太開拓記念碑を北海道神宮の境内に建立し、全国樺太連盟主催で毎年八月二十三日に北海道神宮の例祭として樺太に思いを致しております。それから稚内の公園に氷雪の門・九人の乙女の像がありますが、昭和三十八年八月二十日に第一回のお祭りをして今日までつづいております。(註・「氷雪の門」とは慰霊の意味に併せて、いつの日にか樺太が帰って来るようにとの思いがこめられておるのです)大会を前に南樺太返還期成同盟発足を伝える樺連情報昭和30年4月号 それから、樺太引揚三船遭難者慰霊之碑を昭和三十七年八月二十一日に留萌市の千望台に建立いたしました。これは終戦後間もない昭和二十年八月二十二日、樺太における婦女子の日本送還を樺太庁長官の命令でやっていたときに、小笠原丸と第二新興丸と泰東丸がへさきを並べて留萌の沿岸近くにさしかかったときに、国籍不明の潜水艦(後にソ連潜水艦の攻撃と判明した)に撃沈され、三船に乗っていた五千八十二名のうち千七百八名が遭難して死亡しました。これも毎年八月二十一日にお祭りをしております。 また、それと同じものとして、昭和五十年八月二十二日からお祭りをやっておりますが、留萌の少し北の小平町の鬼鹿海岸、同じく苫前町夕陽丘、それから小笠原丸の殉難者の碑が増毛町役場の敷地に建っております。これは千七百八名の遭難者のうち、海流の関係で死体が流れついた地域の人が、この死体を収容して、関係者が引き取りにくるだろうからということで町の墓地に土葬をしていたわけです。 ところが終戦後、相当の日数がたち一部は引き取りにくる人もないので、これらの死体を一括火葬し、昭和五十年にこの碑を建てたわけです。なぜ、わかれているかというと、この土地の市長、町長、土地の有力者の言葉によりますと、緑があって白分たちの海岸に流れついてきたんだから、留萌までいってお祭りをしないで、私たちの町にきた仏は私たちの町でお祭りをさせてもらいたいという形で、熱心にやって下さっている方が今日もまだおられます。このことについて私は感謝申しあげ、ご報告申しあげる次第でございます。対日平和条約調印主要国への働きかけで駐日ニュージーランド大使館を訪問した渡辺氏(左から2人目)ら=昭和56年7月 それから函館に樺太四十万島民のうち約三十二万は、正式の引揚命令が出てから引揚船で函館に上陸しましたが、樺太引揚者上陸記念碑を、函館市の了解を得て市役所の前に建てております。毎年九月十二日に函館市でお祭りをやっております。 文書活動としては。全国樺太連盟の機関紙「樺連情報」があります。昭和二十三年十二月の創刊で、以後毎月発行しております。この費用もはじめは手弁当で、最近は貸ビルからあがる費用でまかなっております。 それから「南樺太を忘れるな」というパンフレットを作成したり、「日本と北方領土」という本を刊行しております。また、「樺太終戦史」「樺太沿革・行政史」という本を刊行しております。これは町村金五さんが北海道知事のとき、北海道資料室で、樺太引揚者のみなさんも大変だろうから北海道庁も手伝いましょうということで手伝っていただきました。 「樺太終戦史」を昭和四十八年に刊行しました。この本を早く先に出したのは、時間が経過すると記憶がうすれるということもあり、生々しい記憶があるうちに作っておこうという形でやりました。「樺太沿革・行政史」の方は、樺太庁作成の資料が比較的ありましたので、少し時間がたってからでもいいだろうということで、これは昭和五十三年六月に刊行しました。これは日本国内の大学の図書館、主な図書館、アメリカの国務省ならびに国会図書館、日本語講座のある大学、ならびにアメリカで日本に理解のある学説をたてている学者などに寄贈しております。 先ほど申しましたように、昭和十八年に配電会社法により樺太電気が樺太配電になりましたが、王子製紙が樺太電気を経営していた十五年間の「樺太電気株式会社十五年史」を、私、引揚げの際に資料を持ってまいりましたので、自費を投じてこの本を作りました。副題は「電気事業より見たる旧王子製紙株式会社樺太開拓史」となっております。 このことについてはのちほど、ソ連の樺太経営批判の項で申しあげたいと思いますが、こういう本をつくり、日本の国会図書館はじめ主な図書館、それからアメリカへも寄贈しております。国会図書館からは、この本を永久保存書として取り扱うという通知がありました。 樺太の開拓、産業の開発について日本が総力を挙げてやったということについて、後々まで国会図書館に残しておこうという表れではないかというふうに考えて、私も喜んでおる次第でございます。平沢発言について…平沢発言について… フオーリンアフェアーズ誌の一九七五年十月号(九月十八日発行)に平沢発言が掲載されていて、北方領土を今世紀の末まで棚上げさせようではないかという主旨だったのです。日本の新聞紙上にも大々的に載ったことはご承知のことと思います。 われわれ南樺太返還期成同盟としては、この問題を取り上げ、昭和五十年十一月四日に「平沢論文に対する公開質問状」を南樺太返還期成同盟と社団法人全国樺太連盟の名で印刷物を作り、平沢さんに発送しました(資料2「平沢論文に対する公開質問」参照)。 また、当時の植木総務長官、外務省の松永条約局長、東欧第一課長に面会し、善処方を申し入れました。さらに植木総務長官に陳情書を出した後、国会内で記者会見をしたのですが、これはわれわれに力がないためか新聞には載りませんでしたが、われわれの主張を述べ、平沢論文に対して大いに論難をしました。併せて衆参両院の全議員にこれを発送し、平沢発言に惑わされることなく、われわれの主張を支持してもらうよう働きかけをいたしました。 この平沢発言に対する反論を英訳するに当たり、日本人が訳したものを外国人が見た場合よくわからないといわれることがありましたので、日本文をまず日本人が英訳し、その英訳と日本文の原文を添えて、英訳をアメリカのしかるべき人にお願いして作成したものを、昭和五十一年三月八日、航空便でフォーリンアフェアーズ誌の編集長宛に送りました。 これに対して同誌から三月十六日付で丁重なお断り状がきました。それには、せっかく立派なご意見をいただいたけれども、誌上に掲載した論文に関しては、その翌月号か翌々月号ならば考えられるけれども、半年も経過しているので、南樺太返還期成同盟の要請は立派であるけれども掲載はできないのでお許しいただきたい、という返書が編集局長名で届きました。 私はこの返書を読んで、われわれのやったことに対しては、ある程度の反響があったのだというふうに考えております。そしてこのことは、ただ国内で樺太を返せと叫んでいて、北方領土四島返還運動の足を引っぱっているというように私どもを批判する人もありますが、他の団体ではここまではまだやっておりません。そういうように、われわれは情熱をもってやっているということを、手前みそですが申しあげたかった次第です(資料2参照)。アメリカの国務省ならびに国連代表部へ行く 昭和五十五年四月十五日にアメリカの国務省へ、四月十八日にアメリカの国連代表部へ行きました。このときに陳情した骨子は、一九五六年九月七日付のアメリカ政府より日本政府への覚書によれば、新たなる国際会議を開催し、南樺太・千島の帰属を決定するという条項があるのです。もう終戦後三十数年もたっているのだから、この機会に新たな国際会議を開催していただけないか、ということなのです。 これについては、実は北方領土四島の返還運動との絡みもあり、外務省にも遠慮いたしまして、昭和五十四年秋に在日アメリカ大使館へ直接行き陳情しました。ところがアメリカ大使館の方では「あなた方が陳情においでになったからといって、すぐにアメリカ本国の方に云々という具合にはいかないよ」という返事でしたので、「私は七十五歳になります。あと生きて運動するとしても四、五年くらいしかありません。樺太引揚者である私たちが運動をしなかったら誰もする人はいません。恥かしいけれども樺太で生れた私の子供でさえも情熱を入れてやっておりません。せめて国際会議開催の陳情に行くだけでも行かせてもらえませんか」と申しましたところ、私のことを六十五、六歳に見たのでしょうか、私の年齢を聞いてアメリカ大使館の人がびっくりして、「わかりました。で、いつごろ行きたいのですか」というので、「できたら来年の四月か五月に行けるようにしていただければありがたい」と申しましたら、「わかりました。いずれ外務省を通して返事をします」ということで、帰って参りました。期成同盟は対日平和条約非調印ながら影響力の大きい中国を昭和57年6、7月に訪問し、各機関に南樺太復帰運動を説明。写真は中日友好協会を訪れた渡辺氏(左) 在日アメリカ大使館では、私らが行ったときにはただ儀礼的に話を聞いておけばよいと思っていたのが、私の年とか樺太引揚者でなければこの運動はやれないのだという熱意に打たれたのか、一週間ほどしましたら外務省の東欧一踝から連絡がありました。そして、渡辺さんがアメリカヘ陳情へ行かれるということを聞いたが、日程など関係資料を至急外務省まで持ってきてくれ、といってきました。その結果、正式に許可を得てアメリカでは国務省と国連代表部へ行きました。国連代表部ではピートリーアメリカ大使が直接会ってくれました。そして、いろいろと話をした結果、「北方領土四島のことでやってきた人はあるけれども、樺太の問題で国際会議を開いてくれといってきたのは、渡辺さんと尾形さん、二人がはじめてですよ」といっておられました。 通訳も先方には頼まずにわれわれの方で雇った通訳を連れて国務省へも国連へも行きました。ピートリー大使とは公式には通訳を通して話を進めましたが、大使は幸いに子供のころ日本で育った方とかで、日本語が非常に達者だということがわかりましたので、私が大使に単刀直入に「これから私が日本語で本当のことをお願いしますから聞いて下さいますか」と申しましたら、通訳がいう前に「どうぞ、どうぞ」という返事がありました。 やはり通訳を通して話すのと、直接に日本語で日本語のわかる人と話をするのでは非常に違いますね(資料3「アメリカ政府に対する私どもの訴え」参照)。在日の各国大使館を歴訪 このようにいい効果を上げて帰国できた、と私どもは自負しております。さらに私どもは、国連の各国大使館へ行ってアメリカ側に出した資料と同じものを持って回りたいとお願いしました。 それに対してピートリー大使は、アメリカとソ連との国際関係があるし、アメリカだけが「はい、わかりました。国際会議をやりましよう」というわけにはいかない。なお、国連にきている各国の大使館というものは、渡辺さんがいわれるような仕事をするためにきている大使ではなく、国連の仕事をするためにきている大使です。一方、日本在住の各国大使館は日本と仲良くしようということで派遣されているのだから、日本に帰ってから在日大使館へ行って、陳情されたらいかがですか。そして各国の主な国からアメリカに向かって、もうそろそろ新たな国際会議を開いて、白紙で放棄させた樺太および千島の帰属を決定するようにというような提案があれば、そのときにはアメリカとしても考えることもあるだろう、という返事がありました。 このようなことで、私は現在、在日の各大使館を回っております。四十八力国の大使館を全部回るわけにはいきませんので、主なところを回っておりますが、また、もう一つアドバイスをいただいたことがあります。 大使は大平前首相が環太平洋圈ということをいわれています。イギリスやフランスは日本から見ると遠い国であり、日本にもっとも近い国、たとえばカナダやオーストラリアという国があるというのです。それからサンフランシスコ条約には調印して加盟していないが、日本の近くには日本と同じような条件下にある中国があるではありませんか、そういうところを回ったらいかがですか、ということです。 ピートリー大使が言われるのは、いわゆる環太平洋圏の国をまず回り、その次のイギリス、フランス、オランダという国を回ったらいかがですか、ということであり、私たちは現在、そのように動いております。 また、昨年アメリカへ行ったときに頼んだ通訳はアメリカ人の奥さんで、土光さんがアメリカへ行かれたときに通訳をした人とのことでした。この人のご主人のアドバイスがありました。 それは、国務省とか国連は日本でいえば事務当局であり、アメリカは世論の国だから会議などにも働きかけるようにしたらいかがですか、ということでした。このことが私の頭にありましたので、帰国後、アメリカ大使館へあいさつに行った際に、来年、アメリカ上院の外交委員会に、昨年アメリカヘ持参したのと同じもので陳情したいので、マンスフィールド大使が会ってくれなくても、その下の公使クラスの人が会ってくれるのではないかと、こういうことで来春か、あるいは来年中にはアメリカへ行きたいと思っております。 場合によっては、大統領府の補佐官のいるところに陳情しなさい、というアドバイスもありますので、心臓を強くして上院外交委員会および大統領府の、いわゆるレーガン大統領のスタッフのところにも行かせてもらいたい、とお願いしようかと考えております(註・後日、マンスフィールド大使に御目にかかり、直接上院外交委員長宛の陳情書を御渡しして、大使より丁重な御手紙をいただいております)。ソ連の樺太経営についてソ連の樺太経営について 樺太は、一八七五年後のロシアの時代には、単に流刑の島という形でしたが、明治三十八(一九〇五)年再び日本に帰属してからは、樺太の産業が大いに推進されました。 例えば、私の勤めておりました王子製紙が、時の政府から樺太の森林活用について、当時の藤原銀次郎社長に話があり、樺太にある針葉樹がスウェーデンやノルウェーにもあるということで、王子製紙の技術者をスウェーデンとノルウェーに派遣し調査の結果、樺太にあるエゾマツ、トドマツと同じようなもので紙を作っておりましたので、まず紙の工場を造ろうということになり、大正三年大泊にテストエ場を造りました。 第一次欧州大戦の時には、樺太でパルプができたために外国から買わなくてもよくなり、日本の製紙産業が発展していったといういきさつがあります。そういうことで徐々に大泊工場のほかに豊原、落合、知取、敷香、真岡、野田、泊居、恵須取という地域に工場がつくられました。 ところが終戦後になると、まったく様変りになりました。私、実は日本の朝日、毎日という新聞については克明に見て、こと樺太に関する記事はみんな切り抜いておりますが、たまたま昭和五十二年七月二十三日の朝日新聞、その他の新聞にも掲載されたのですが、ソ連が樺太の旧王子製紙九工場の改修を打診してきたという記事であります。それはソ連の代表が来日し、政府を通して王子製紙グループに申し入れ、王子製紙が視察団を派遣した、という記事です。大正11年のころの王子製紙豊原工場(王子製紙株式会社案内) ところが、五年後の今年の三月二十四日の朝日と毎日に出た小さな記事ですが、朝日新聞は非常にソ連寄りの考え方をもっていて、私としてはどういうことなのかわかりませんが、見出しなども非常にソ連寄りなのです。〝シベリアにだきこめ、ソ連攻勢活発化、米の圧力をはねつけて西側が色目を出している〟という記事があり、昭和五十二年にソ連が頼んできたけれども、日本から色よい返事がないので、逆にソ連から断ってきた、というふうになっておるのです。 ところで私は過去において王子の社員であったし、現在でも王子製紙関係の役員にもよく会っておりますので、このことについて聞いてみました。実際には、九工場のうち稼働しているのは四工場くらいであるけれども、相当のカネがかかるということです。ところがソ連はカネがないので、できた製品で返すから、とりあえずその工場を直してくれということです。 結局、樺太を昭和二十年に取っておきながら、王子製紙が残した九工場に改良を加えて、もっと設備のいいものにして能力を上げているのなら、私はソ連の経営批判はいたしません。不可侵条約を破って取った九工場をスクラップにし、四工場くらいをヨタヨタにして動かしているのにNHKは、そんな所はカットして一部分のみをニュースとして流しているのです。 現在、日本の製紙業界はご承知のようにカルテルを結んでもらって四苦八苦しております。大昭和製紙などは会社の財産の一部を処分して会社経営をやっていこうというくらい、日本の製紙業界は苦労しております。 紙は余っているのに、樺太の工場でできた紙を、これから五年か十年先になるのかわからないのを、製品で返しますといっても、どんなに馬鹿な日本人でも、日ソ親善だといっても、「はい、そうですか」とは日本政府といえどもいえないと思います。 ですから返事をしぶり、表面は王子製紙から断り、政府から難しいということをいっているのをふまえて、ソ連は逆に五カ年計画を変更したから依頼してきたことは延期する、という返事だということが朝日新聞と毎日新聞に載っておりますが、これがソ連寄りの記事になっているのです。 こういうことからいっても、ソ連はわれわれから樺太を取っておきながら何もできない、いわゆる樺太経営の能力がないのではないかということが言えると思うのです。 炭坑でいえば、王子、三井、三菱という日本の大手が、昭和二十年には樺太の国境近くにたくさん開発稼働していました。それから、石炭乾溜といって樺太に石炭から石油を作る工場(人造石油工場)が二つありました。この二つの工場もソ連が取っておりますが。これも多分、動いていないのではないでしょうか。炭坑については日本が近代的な坑道をつくって機械化したけれども、多分、機械が老朽化して思うように石炭が出ていないのではないでしょうか。 というようなことからいえば、私に言わせれば、いま地球の資源は人類のためにあるものであり、それを立派に活用する国が経営してこそ世界人類の幸福に貢献するのではないでしょうか。それを活用できず、スクラップにするような国が兵隊だけを置いて頑張っていて、世界の人々が許してくれないでしょう。そういうことからソ連には樺太を経営する能力はないというふうに私は断定しようという考え方でおるのです。 こういうことで樺太は、われわれのいた頃と比べればかなり駄目になっております。樺太で初の市となった豊原市の市政施行記念祝賀行列。大勢の市民が見物する中で、豊原駅前の目抜き通りを練り歩いた。写真は赤穂浪士討ち入りのいでたちで進む一団=昭和12年7月1日 電気でいえば、明治四十一年に初めて樺太の守備隊の中に電灯がついたのが、樺太に電灯がついた始まりです。日露戦争で日本に返ってくる前までは、ソ連は電灯もつけておりません。電灯は日本の軍隊が行って明治四十一年十月一日に初めてつけました。 こういういきさつで、樺太の電気事業は遅れましたけれども、終戦時には樺太全島に送電線を張り巡らせました。樺太はご承知のように寒いところですから、火力発電以外にはできないわけです。王子製紙の工場で使う電気のほかに、その町へ送るだけの余力の電気の設備を、例えば五万㌔㍗を使う町には十万㌔㍗が発生する発電設備をして工場を動かし、余力の電気を町に供給しておりました。それを樺太電気会社がやっていたということです。 全島に張り巡らした送電線により、どこの工場に故障が発生しても、他の工場から回すということで文明の利器を利用することができ、産業発達に大いに寄与する、ということをやってきたのです。 ところが、その電力でも、われわれがいた時とほとんど変りのないような状況で活用されているとは考えられません。このように、ソ連には樺太経営の能力がないということを申したいのであります。四島返還運動と南樺太返還期成同盟の立場四島返還運動と南樺太返還期成同盟の立場 北方領土四島返還の問題で、一時期は反発したことがありましたが、南樺太返還期成同盟創立当時の目的を達成するためにわれわれはいろいろなことをやりました。 平沢発言などに対しては、強力に反応して対策を立てました。それから、期成同盟創立二十六周年を迎えて、今年の六月十二日に総理府総務長官と外務大臣に陳情書を出しました。この陳情書は、樺太ならびに得撫島以北の千島帰属決定手段としての国際会議開催を、アメリカその他の国へ申し入れることを建議したものです。これはアメリカヘ参りました時に、もう日本の外務省も遠慮しているときではなく、そろそろサンフランシスコ条約の覚書条項を発動するようにという考え方で動いてもいいのではないか、と思われるようなニュアンスでしたので、この陳情書を出したわけです(資料4「外務大臣、総理府総務長官宛の陳情書」参照)。 それから、昭和五十六年二月四日にプラウダが、日本の学者でも北方領土は日本のものでなくロシアのものだと書いている、と新聞で報じておりましたので、これに対し、北方領土研究家西鶴定嘉氏の見解を得まして、反駁文を出しております。 要約しますと、松平定信が「ネムロは日本地にあらざれば」と言った意味は、ネムロはエゾ地(北海道)のうちで、日本地(本州島)と違って、天皇や将軍が住んでいる土地とは違うから、外国人を追い払うほど酷な扱いをしない、もし何かあったら長崎へ回しなさい、という命令が幕府から出ている、ということを鹿児島大の郡山教授が誤った見解を発表したのに対し、これに便乗し幕府自体もそういうことを言っていると、プラウダがとらえて報道したものを、日本の一部の新聞が発表したのです。これは重大な誤りなので、敢えて史実を解明して発表する事にした次第です。 また私どもとして一番のポイントは、昭和三十年六月から八月にかけて街頭署名運動をやりましたが、近年北方領土四島返還街頭署名運動が行われている時に、私どもが樺太返還の著名の街頭運動をするとすれば、北方領土四島返還の署名運動にブレーキがかかり、また邪魔になってはいけないということで、われわれは自重しておりまして、昭和三十六年六月以来、一度も街頭に立っておりません。 しかし、もう北方領土四島の返還運動とわれわれの樺太回復の国際会議開催の要請ということは別個の問題ではなく、並行して動くべき時期にきているのではないかということを私は申し上げたいのです。 私が今日敢えて遠慮せずに、心臓を強くしてこの席に参りましたのは、いわゆる樺太人の会以外で、この問題について話をさせていただくのは今日が初めての試みであり、誠に有意義であると考えたからであります。今日、このような機会を与えていただいたことは、私の一生の記念に残るものと、厚く感謝申しあげます。(※渡辺氏が昭和五十六年九月に東京・学士会館で行った講演録として平成十二年に改刷されたものを一部語句修正して全編収録した)(資料1)南樺太回復のために(資料1)南樺太回復のために■背景樺太は日本の真北に位置し、アジアの東北沿岸に併行する約六百㍄のやや細めの島です。今、ソ連邦に支配されているサハリンとは、中国名でサガレンのことで、日本では樺太と言われている。北海道に極めて近いこの島に日本は探検、交易、居住、開発の歴史を持っている。 帝政ロシアは東漸してシベリア沿岸地域の踏査を思いだし、十九世紀の初期に樺太に関心を持ち始めたが、一八四九年にはネヴエリースキーがこの地がアムール河口に横たわる島であること、それが戦略上重要であることを知るに至った。 これより先一八〇五年ロシアの探検家クルーゼン・シュテルンが樺太を海上から調査し、日本からこの地を奪い取ることを政府に進言している。一度極東に関心を持ち、樺太の重要性を知ったロシアは、これを掌中に入れるべく、日本に対して着々と圧力をかけてきた。 こうして一八七五年、サンクトペテルブルクで千島列島と引換えに日本は樺太島をロシアに譲渡してしまった。しかし降って一九〇五年の日露戦争におけるロシアの敗北後、日本は樺太の南半を回復した。この部分が樺太であって、先の第二次世界大戦でソ連に占拠されるまで、日本の完全な領土であった。豊原北方の落合町は樺太東線の敷香方面と栄浜支線の分岐駅で、目抜き通りは賑やかだ。雑誌「キング」や眼鏡店、用品店などが見える■樺太の意義 記憶は長く続かないが、南樺太の面積は関東七県と山梨県とを合せた面積とほぼ同じの千四百平方哩近くあったことを、日本人自身が想起しなければならない。 現在、事実上ソ連邦の軍隊に占領されているに過ぎないこの民族遺産をあきらめてよいものか。他国によって一国の領土が掠奪されたまま、うやむやになってしまうとしたら世界は闇である。 なるほど、先のサンフランシスコ平和条約で、日本は南樺太と千島列島の放棄を宣言したことは事実であるが、数世紀にわたる辛苦の結実を失うことは耐えられないことである。しかもこの放棄はソ連邦の手にあっさり引き渡したものではない。対日平和(サンフランシスコ)条約第二十五条も、日本はソ連のために何物も失なうものでなく、またソ連邦は日本領土のいかなる所も与えられるものでないことを明らかにし、この条約ではその帰属を決めなかった。 ソ連邦は南樺太を占領する、何らの権利も持っていないのである。■ヤルタ協定(極東密約) 以上のように問い詰めめられるとソ連は、一九四五年二月のヤルタ協定を持ち出す。ヤルタ協定とは、米国と英国の首脳がソ連邦に対して、対日戦争に参加することを受け入れるならば、日本が敗北した後、南樺太と千島列島を引き渡すことなどを取り決めたものであるが、これは日本の預かり知らない、第三国同士の密約である。 ある一国の領土がこのような方法で奪い取られるとしたら、世界の秩序は夜盗の跋扈に委せられたも同然である。果たせるかな、この協定の指導的当事者である米国は一九五六年九月七日の公式声明で、ヤルタ協定は当時の指導者たちが共通の目標を示した文書に過ぎず、領土移転のいかなる法律的効力をも持つものでないことを宣言している。 何人(なんぴと)もソ連の厚顔無法な行為には、ただただ義憤を感ずるであるだろう。■樺太千島交換条約 南樺太は元ロシアの領分であったのに、日本は戦争を仕かけてロシアから勝ち取ったのだというような、間違った考えを持っている者が少なくないが、これは全く事実に反するものである。むしろ反対に、樺太は元々日本の一部族であるアイヌ人の住んでいた所であります。アイヌに関する記録は一四八五年からある。 十七世紀の後半ロシアは東部シベリアおよびその沿岸を探索した結果、樺太に関心を持ち始めたが、その頃にはもうアイヌ人だけでなく、日本の内地人も住んでいた。 十八世紀の後半になると、ロシアはカムチャッカから千島に南進してきたが、樺太を直接に狙ってきたのは十九世紀に入ってからである。すなわち一八〇六年と一八〇七年の二回、ロシアの海軍将校らが日本人部落を襲撃した。この襲撃が帝政ロシア政府に公認されたものではなかったにせよ、ロシアの野心はもうはっきりしていた。 十九世紀の中頃からロシア政府は海軍力を動員して日本政府に着々と圧力をかけてきた。その頃、日本は政情が不安であり、一八六八年に王政復古となったが、維新に随伴するいろいろな問題を背負って危なっかしい状態にあった。 これより先、すなわち一八五五年に下田において日魯和親(通好)条約が結ばれ、千島の境界その他のことが決められたが、続いて一八六七年にペテルブルクで樺太島仮規則が取り交わされた。 この交渉の中で、ロシアは日本との境を自然の境界としての宗谷海峡にしようと提案したが、この点については日本の合意が得られず失敗した。しかしこの取り決めで、樺太は従来どおり日魯の境を定めず両国の雑居と決められた。 一八七五年、内外の諸問題で手一杯であった明治の新政府は、ペテルブルクで樺太千島交換条約を締結。この条約で日本は米粒ほどの十八島から成る千島列島と引き換えに広大な樺太全体をロシアに引き渡した。 このようなやり取りは、日本がこれ以上にロシアから武力圧力を受け、国を一層深刻な危険に陥れまいとする方針によるものであった。当時日本は他の諸問題に直面し、そのような危難に対する備えはなかった。結局日本は樺太島をあっさり(愚かにも)とロシアに引き渡してしまった。■日露戦争 それにもかかわらずロシアは飽くことを知らなかった。ロシアは一八五八年と一八六〇年における支那との条約で広大な沿海州を獲得し、その国境を朝鮮にまで南進させ、ついに朝鮮の内政にも干渉してきました。このような危機は、日本がたとえ微力であったにせよ、到底黙視することはできないものであった。 かくて一九〇四年、日本はやむなくロシアと対決することとなった。幸に日本は高価な犠牲を払いはしたが、大勝を博した。日露戦争の結果、日本は全樺太を占領してそこに軍政を敷き、間もなく民政を開いた。サンフランシスコ平和条約締結を記念して国会正門前にクスノキを植える吉田茂総理大臣。世は講和と主権回復に浮かれたが、樺太・千島と北方四島の問題は未解決のままだ=昭和26年11月 しかしポーツマス平和条約の談判において日本は、強硬なロシアとアメリカの圧力によって戦争を再開することもできず北緯五十度線以北を放棄することを余儀なくされた。この譲歩(損失)は、戦勝に酔っていた国民には到底納得できないことで、大衆の怒りは暴動と化し、東京では焼打事件を起したので戒厳令を施いて辛うじて鎮圧した。 ポーツマス条約はこのような状態で治まり、樺太は概ね一八七五年の樺太千島交換条約以前の状態に戻された。そして一九〇五年のポーツマス条約の取り決めは、革命後も全面的に効力を有することを一九二五年の日本とソヴィエトとの間の基本条約でソ連政府が承認している。■現状 日中平和条約が成立したと見る間に、米中が握手した。国際社会の流動は、今日をもって明日を卜(ぼく)することはできない。同様に今日、かつての日本領土の上にのしかかっている不法な力が決して恒久であり得ないことを信じる。 武力ではなく、信義と友情こそが、自主独立・同権互尊・共生共栄の秩序ある世界の絆である。このような世界が到来するとき、吾々の旧領土は必ず吾々の手に戻ってくる。しかしこのための、内外の世論をまとめるには、一世紀も二世紀もの歳月がいるかも知れない。それにもかかわらず吾々は日本民族の一環を担うものとして、民族の宿命を自覚し、南樺太回復のために撓ゆまない努力を続けるべきである。 昭和五十四年十一月 南樺太返還期成同盟、社団法人全国樺太連盟(資料2)平沢論文への公開質問(資料2)平沢論文への公開質問 米国の国際誌フォーリン・アフェアーズ秋季号に発表された平沢論文中「日本は国後・択捉島の問題を今世紀末まで凍結したまま残し、まずはソ連と平和友好条約を結ぶべきである」とする論旨は、わが北方領土回復に関する政府の統一方針に反し、これに結集されつつある国論を攪乱して日ソ外交の進展に重大な障碍をもたらすものと思う。 北方領土回復に関する国の方針は去る四十八年九月田中訪ソに先立ち、衆参両院においてそれぞれ超党一致で採決されたところで、その内容は周知のとおり歯舞・色丹・国後・択捉の一括回復を基礎として、日ソ平和条約を結ぶべきことであった。 この決議文が北方領土回復に関する全体を尽くしているとは言えないが、領土回復の最小不可譲の線がそこにあることは日本共産党も確認したところで、当時ソ連側が同党を非難したことも記憶されている。 この決議によって日ソ平和条約と北方領土との位置付けが固定され、領土回復の要求は全国民の叫びであって、ソ連側がいう一部復讐主義者の感情論でないことが明らかとなった。したがってソ連も「領土問題は解決済み」と言えなくなり、同年十月の日ソ共同声明の中に「…第二次大戦の時から未解決の諸問題…」といい代えられ、それについて四十九年中に話し合うことになっていた。豊原の北方100㌔余、樺太東線白浦駅にある機関区で樺太庁鉄道(昭和18年からは鉄道省)の職員 ところがソ連は都合にかこつけてわが要請に応ぜず、今日まで引き延ばし、その間、領土棚上げ諭を持ち出して四十八年の共同声明を反古にしようとする態度を示してきた。ソ連の対日不信は、日ソ中立条約の一方的破棄、条約無視の北方領土侵略にみられたが、またしても国家間取決めの信義を踏みにじろうとする。 そのときに当たって、場を外国誌に求めて、ソ連の代弁と受け取れる平沢論文が公にされた。平沢氏は日本政府がグロムイコ外相の訪日を促しそれを今年中に期待していたことを知っている。さらに国家の方針がどういういきさつでどう決まったか、そして一国の外交問題はまず内側から意見を統一し、それが確乎不動のものとなったら外部に展開すべきだということも熟知のはずである。 ところが平沢氏は敢えてこれらを顧慮することなく、ソ連(イズベスチャ)が得たりと歓迎する諭文を発表した。コラムニストに載ったグロムイコの領土問題を逆戻りさせようとする論文が、平沢凍結論に力を得たものでないといい切れないタイミングにあることは、まことに残念である。以下「凍結論」の流れにしたがい数点を指摘して論者におたずねし、併せて世論に訴えるものである。一、ヤルタ協定を生かしていること ヤルタ協定こそソ連の金科玉条とするところであるが、同協定は「当時の首脳が共同の目標を陳述した文書に過ぎないものと認め、その当事国による何らの最終的決定をなすものでなく、また領土移転のいかなる法律的効果をも持つものでない」ことは米政府の公式見解(一九五六)のとおり。況んや協定の局外にある日本の領土主権に法的効力を及ぼし得るものでないことは明白である。二、「二十の島から成る千島列島」という把握の仕方について これは論者の初めて用いる手法であるが、重大なことである。千島列島(クリルーアイランズ)とは明治八年(一八七五)の樺太千島交換条約の時から日露両国間で確認し合った、第一しゅむしゅ島……第十八うるっぷ島共計十八島のこと(条約第二款)であり、しかもそのことは安政元年(一八五五)の日魯通好条約(第二条)による「今より後、日本国と魯西亜国と境「エトロフ」島と「ウルップ」島との間に在るべし。「エトロフ」島全島は日本に属し「ウルップ」島、それより北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す…」という取り決めを承けている。 以来今日まで百二十年、この概念は国内的にも国際的(条約上)にも変改されていない。論者はこれら日本のための史実を無視し。ソ連にくみする「…二十島」という概念を独断している。三、放棄の範囲について定義しなかったということについて 対日平和会議で吉田代表が初め千島の範囲を定義することなく放棄し、西村条約局長が国会で択捉・国後も含むと発言したことを今さらに引き合いに出すが、吉田代表は「会議」の第八回全体会議で「択捉・国後両島が日本固有の領土であることについては帝政ロシアも何ら異議をさしはしなかった」と述べて放棄の範囲を明かにしているし、西村発言については重光外相、下田条約局長が明快に択捉・国後は含まれないことを闡明(せんめい)し、認識の錯誤による西村発言を抹殺している(西村元局長も誤りを認めている)。四、国後・択捉が固有領土でないと認識されていること(実業の日本誌十一月号インタビュー)について 本来固有領土とは、一国が原始的にその版図として施政して来たところであろう。この意味から択捉・国後両島はいささかの疑問も容れない固有の領土である。この点については先の吉田演説もあり、国際問題として紛議の生じたことは未だかつてない島である。これを固有領土でないとすることは、二十島千島論と併せてその真意を訝(いぶか)らざるを得ない。五、四島一括返還ということは外務省?が考えるほど甘くないという論 外務省の考えということ自体、個人的な対立感を響かせるが、領土問題はとても難しい問題であることを、日本人は相手がソ連であるだけにみな知っている。しかしだから捨てよということは完全な敗北主義、少なくとも独立国家としての立場を忘れた事大主義と思われる。捨てよとは言わず二十五年凍結せよと言ったとの仰せなら、二十五年後にさらっと戻すという見通しは甘くないのか。六、現代の国際信義の大原則は領土不拡大方針である この大原則は大西洋憲章から流れてカイロ宜言(第一)に入り、さらにポツダム宣言(第八)に生かされている。この原則を無視して、独りソ連は西でも東でも領土の拡張を図っているが、これに対して極めて寛容な諭旨(地政学に基くソ連の堅い姿勢と規定してこれを尊重)と、やがて軍備もなくなり、資源平等の宇宙船時代に入る、だから国後・択捉などにこだわるな、という論者のいい分は右の大原則とどんな関係に立つのであろう。日ソ中立条約の調印前に笑顔で握手する松岡洋右外務大臣㊨とソ連のスターリン首相=昭和16年4月13日結び(返還同盟の主張) そもそも北方領土とは一九四五年八月の終戦まで日本の領土・領海であったところで、同年八月九日以来ソ連軍によって不法に占拠されている領域全体のことである。その中に択捉・国後等四諸島が入っていることはもちろん、南樺太とクリル・アイランズも含まれている。そして北方領土問題とはこれらの北方領土を、独立国家の生存権のひとつとしてその回復を図る政治課題のことである。 国後・択捉等四諸島の回復と並んで忘れてならないのは南樺太の回復である。南樺太の固有領土性は別添「南樺太を忘れるな」(詳しくは『日本と北方領土』によって立証している。この島に対する帝政ロシアの飽くことを知らない侵攻によって両国間に、約百年間紛議が続いたが、一九〇五年、ポーツマス条約によって、ついにその南半が原始開拓者である日本の手に戻されたのである。 以来四十年日露(ソ)の友好が続き、一九四一年(昭一六)には日ソ中立条約を結んで第二次世界大戦中も「相互不可侵」を誓い合っていた。 しかるに一九四五年八月八日ソ連はこの条約を一方的に破棄し、翌九日その軍隊は国境を越えてわが領土を侵略してきた。わが南面の戦局はいよいよ切迫し、樺太の防備は手薄になっていたので南樺太全域はたちまちにして占領された。 島民は累代の産を棄てて裸同然の姿で逐い散らされた。奥地から逃れ去る老幼婦女子の惨害は名状すべくもなく、白旗を掲げた軍使さえも銃殺されるという非道が各所で見られた。真岡郵便局の九人の乙女が崇高な殉職を遂げ、塔路太平炭礦病院の看護婦が逃れる途中、集団自決したのをはじめ、いたいけなわが子を道連れに死をもって日本人の誇りを守り抜いた日本婦人の多くの悲話は、この間に起ったのであった。 平和条約は戦争の結末を付けるものであるが、元々日本はソ連を相手とした戦争はしていない。仮にソ連軍の不法な侵攻を戦争とするならば、それの始末は 「戦」時占領の解除が真っ先である。領土その他に関することは、その上での外交交渉に俟(ま)つべきである。しかるにソ連は「戦」時占領を解かないばかりでなく、何の話し合いもなく国内法で日本領土の一部を自国領に編入した。力の暴挙というべきである。 われわれはこの原点に立って、対日平和条約諸国に訴えて「別の国際裁判」を誘起し、これを通じて南樺太を回復する方途を考慮しながら、択捉・国後等四諸島を早急に回復すべきであると主張するものである。 北方領土問題が一両年、五年十年で片づく問題ではあるまいが、目先の経済利益に押しやられる、論者のいう「小さな小さな」問題ではなくて、そこにこそ国家として民族としての長い長い命がかかっている、とわれわれは思っている。 以上、意を尽くさないところもあるが、本論に対する論者の明快な説明を期待し、併せてわれわれの主張を江湖に訴えるものである。 昭和五十年十一月四日(資料3)アメリカ政府に対する私どもの訴え=メッセージ(資料3)アメリカ政府に対する私どもの訴え=メッセージ わが南樺太返還期成同盟は、南樺太から引き揚げた四十万人の代表者によって一九四八年に組織された全国樺太連盟の、領土回復運動を受け持つ別動隊として一九五五年に発足し、今年で満二十五年になります。 第二次世界大戦に敗れた日本が、国際的に厳しく処理されたことはやむを得ないことでありました。しかしその処理とはかかわりなく、ソ連邦が日本の広汎な領域を戦時占領のまま一方的に自国領土に編入してしまったことは全く不法なことで、われわれの絶対に承服できないところであり、対日平和条約(二十五条)によっても否認されております。 このことは、ロンドンで日ソ交渉が行われていた一九五五年七月、日本からの照会に応じて寄せられた貴国の、次のご見解によって明らかにされております。すなわち、①(省略)②ヤルタ協定は、それに参加した連合国指導者の共同の目的を述べたものであって、それ自体最終的効力を有するものではない③ポツダム宣言は、日本の領土の最終決定は、宣言参加国の後日の考慮によるべきことを明示しているから、ソ連邦が単独かつ一方的に決定することはできない④連合国司令官一般命令第一号、連合国司令部訓令第六七七号、対日平和条約第二条は、いずれも領土の最終帰属を決定したものではない⑤南樺太および千島(クリルアイランズ)の最終的処分は決定されなかったので、これは国際協定によって決定される問題である―。 さらに日本が再照会したときも上記と同じご見解に立たれ「ヤルタ協定は領土の譲渡を目的としたものでないし、(領土移転の)効力を持つものでもない」「将来の国際協定こそ、南樺太と千島(クリルアイランズ)の究極的処理となるであろう」と断言されています。 これらの経過と国際法の理論を踏まえ、私どもは次のように主張し、南樺太回復運動の先頭に立っているのであります。 ①択捉島以南の領域は昔も今も完全な日本領土であるから、その領域の島々の一括返還が実現されることを条件としてのみ日ソ平和条約を締結すること。 ②南樺太と千島(クリルアイランズ)は対日平和条約で日本が放棄させられたものであるが、その帰属はまだ決まっていないから、正しい帰属決定が行われる国際会議開催を米・英等に訴えていく。 しかしこのことは現在の国際情勢から見て容易ならぬ課題で、貴国としても軽々に取り上げることはできないだろうし、私どもも短期間の運動で目的が達成されるとは考えていません。けれども、一国の領土が国際法の正しい方法によることなく、移動することは絶対にあり得ません。どの国の領土も民族のかけがえのない遣産であります。いずれの民族を問わず、領土を保全し、それが不法な横奪に遭ったら全民族の力を結集して回復に立ち向うはずであります。どんな方法をとるか、何年かかるかは国際情勢に左右されようが、衰亡する民族でないかぎり世紀を重ねても必ずや初志貫徹すべく頑張っているのであります。 現実の問題として樺太は遠くなり、その地名さえも知らない若者もあるのです。しかしそれだからこそ、樺太開拓の陣列に伍して樺太をつぶさに知っており、既に高齢ながら樺太回復運動に努力している私どもが、次代の国民に日本と樺太の関係と、本来樺太は国際法上いかにあるべきかを次代の国民に知らせるため、樺太生れの若い人々を中心とする樺太回復運動の国際的な土台を、われわれが活動力を有するうちに据えなければならないと思うのであります。 どうぞ私どもの訴えを全日本民族の声としてお受けとり下さいまして、何分のご支援を賜わりたいのであります。尚、日本と樺太の歴史的経済的関係については別紙リーフレットに概説しました。メッセージ手交後、口頭にて補足説明した資料の記録 この度、南樺太(千島十八島も同じこと)の帰属決定に関する問題について参上いたしました。今差し上げた書面にありますとおり、この問題には次の五つのポイントがあるのですが、基本的には対日平和条約第二条C項に関する結末を付けるべき国際会議を開かなければならないということが、四十八の連合条約国の課題として残っていることをご認識いただきたいのであります。樺太西線を北上した泊居の公立杜門小学校の校舎前に並んだ児童や教員ら   ①南樺太と十八の千島は日本が四十八の条約国に対しその領土権を放棄したものであるから、条約加盟国でないソ連邦によって支配されるいわれはない。旧日本領土に対するソ連の支配は力による掠奪に外ならない。そこに国際法上の権利原因は何もないから領土主権の移転という法律行為は存在しないと思うのです。 ②日本の旧北方領域の領土主権の移転に関する国際法は、対日平和条約唯一つでそれ以外には何もないのです。ソ連はヤルタ会談を理由とするが、世界のどのような権威といえども、一国の領土権をその宗主国の参加しない話し合いで動かすことは、絶対にできないはずです。 ③以上のことは貴国が一九五五年と一九五六年において、日本に与えた書面の中に明かにされておりますが、法律論としても、事実の経過から見ても完全に正しいのでありますから、今後ともそのご見解を堅持せられ、これを変更しないことはもちろん、ソ連が何らかの方法で現在の不法な支配を合理化しようとする兆候があるときは、一九五六年九月の声明と同趣旨の声明を出すなど、適切な措置をとられ対日平和条約締結のリーダーとしての権威を発褌していただきたい。 ④私どもの期待する国際会議の開催は、現在の国際情勢では困難としても、その課題の存在を銘記していただきたい。 ⑤南樺太と十八の千島(エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンは日本が放棄した領域外で法律上完全な日本領土)は、歴史的に見ても、民族の平等と公平の原理から見ても、日本に帰属するのが国際的に最も正しいと信じます―。 以上の点を踏まえ、条約加盟四十八カ国に私どもはこの御願書コピーを理解していただくために何等かの方法で通達願えるか、その御考えを御伺いしたい。                    昭和五十五年(一九八〇)四月十五日(渡辺・尾形)(資料4)南樺太返還期成同盟の陳情書(資料4)南樺太返還期成同盟の陳情書外務大臣    園田直殿総理府総務長官 中山太郎殿南樺太返還期成同盟総本部長 渡辺国武 内外多端の折貴大臣には益々ご健勝に日夜ご精励の御事心から慶祝し、且敬意を表する次第であります。当同盟は昭和三十年三月二十三日われらの郷土南樺太の日本復帰を宿題として結成され、ここに創立二十六周年を迎えたのでありますが、その間貴省(府)のご懇篤なご指導をいただきつつ、主として出版物により国の内外に亘り目的達成のための宣伝活動を行っているものであります。 申し上げるまでもなく、南樺太は千島とともに、先の対日平和条約締結のとき連合国に対して放棄したところでありますがその事後処理、つまり帰属先などのことは未決であり、しかも同条約は連合国でない(ソ連などの)いかなる国にも、何ものをも与えるものでないという規定(二十五条)をもっていることに照せば、同島は国際法上日本に帰属し得る状態に置かれているのであります。 私どもの主張と運動はまさにこの観点に立脚しているのでありまして、独り樺太引揚者のみならず、全日本人否全世界の人々の共鳴を得られる活動であると確信しているのであります。この点につきましては昨春私どもは、アメリカの国務省と同じく国連代表部を訪問し、運動の趣旨を訴えるとともに、対日平和条約二条C項や第二十五条の規定、および同国国務省の一九五六年九月七日声明に関する米国の現在の考え方を訊(ただ)しましたところ、国務省日本担当官は「アメリカの考え方は条約当時および声明当時と少しも変わっていない。あなたの考え方と一致している。この問題については日本の政府としても取り上げて然るべきものと思うし、アメリカ以外の連合国にも働きかけられ、成果が挙がってくることを期待する」というのでありました。 私どもはこの期待に応えて、カナダ、英国などの在日大使館を訪問して運動の趣旨を訴えて共鳴を求める段取りを進めているところでございますが、日本の政府としてもこの問題に一層のご理解と、日本民族を代表する代々の政府に、わが旧北方圈回復の責任がかかっているというご認識を深められますよう懇請します。蘭泊で満開となった桜。極寒の樺太にも春は訪れ、日本人の心を寄せる花は大地を彩る(『樺太写真帖』樺太庁編、昭和11) とは申しながらこの問題はわが国外交の基本に係るもので、俄(にわ)かに政府課題として取り上げることは四島回復と絡んで難しいことと存じます。しかしこの問題に関する国民運動が育つか育たないかは国家の重大な関心事でなくてはなりません。四島回復は絶対であり、当面この成功に努力すべきことは諭を俟(ま)たないところ、私どもも多年その運動の中心的な団体として活動して参りました。けれども南樺太はどうでもよいという態度・考え方は民族の重大な潜在権益を放棄するものであります。 この点、貴大臣をはじめ心ある日本人はすでに十分ご認識のところでありますが、わが南樺太の歴史と法的地位に対する理解と見識を欠く者も少くありません。 つきましては私どもの運動が深く根を下ろし、やがて全国民を動かすに足る民族運動体に成長し得るようご指導ご援助を蒙りたく、当面次の諸項について特段のご配慮を賜わりたく陳情致します。 ①樺太の正確な歴史的記録の保存と普及に努めること。巷間樺太についての浅薄・慾意な書きものが流布され、国民を誤らせるからである。 ②わが旧北方圈の歴史的、法的地位を国民教育の中に組み入れること。 ③旧日本領土の主権に変動を与えたものは、対日平和条約唯一つであって、それ以外のものによる領土権の異動はすべて不法なものであるということをすべての外交の基礎として置くこと。 ④政府首脳は、対日平和条約第二十五条後段の文書と一九五六年九月七日の米国務省の公式声明(日ソ交渉に対する米国覚書)の存在を常に念頭に置かれ、機会を見て、国務省声明中段に述べられてあるわが旧領土の帰属解決手段としての国際会議開催を、米国に申入れること。 昭和五十六年六月十二日わたなべ・くにたけ 明治三十七―平成十七。新潟県生まれ。父親が樺太で漁業関係の事業を始め七歳で大泊へ。大正十年旧制樺太庁(大泊)中学卒業と同時に王子製紙入社。昭和三年王子系列樺太電気設立と同時に出向。豊原の本社で営業部長の時に終戦。知人の機転で職場にスターリンの写真を掛けたことで北樺太・シベリア送りを免れた。邦人の疎開を手助けしながら自らも二十一年末新潟に疎開。東京で事業を興し、三十年全国樺太連盟傘下での南樺太返還期成同盟(五十年代後半に南樺太復帰同盟と改称)発足に参加。七十歳を過ぎて会長に就任し「樺太の帰属は平和条約調印国による国際協議で確定すべく米国に働きかけるのが筋」として、自費で米国など主要国を回るなど精力的に活動を展開した。晩年は仙台市の娘夫婦宅に身を寄せた。南樺太復帰同盟は現在休眠状態。

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    ロシアの海洋戦略と北方領土問題  日本は「上から目線」で向き合え

    どのような国益を得るのかという視点が欠けているように思える。あるいは、台頭する中国を牽制するためには日露関係の強化が必要という考えもあるが、ロシアも日中それぞれとの関係をバランスさせるだろう。 安易な妥協は日本の国益を損なう可能性がある一方、中国との関係を有利にする保証はどこにもない。そこで、今回は北方領土問題の本質がロシアの海洋戦略に関連していることを確認し、今後の日露関係について考えてみたい。「暖かい海」を目指してきたロシア 日本は北方領土を江戸時代から自国領としてきた。1855年の日露通好条約、1875年の樺太千島交換条約、1905年のポーツマス条約を通じて、ロシアは北方四島が千島列島の一部ではなく、日本固有の領土であることを確認してきた。実際に、1945年8月まで4島には1万人以上の日本人が居住していた。 ソ連は、第二次世界大戦終結直前に日ソ中立条約を一方的に破棄して北方四島を軍事占領した。その根拠として、ヤルタ協定の中の「千島列島はソ連に引き渡されること」という記述を挙げ、日本がポツダム宣言に基づいて降伏文書に調印するまでに行った占領は合法だと主張している。 これに対し、日本は北方領土がロシアによって「不法占拠」されていると主張している。まず、米ソ英の共通の戦争目標を列挙したに過ぎないヤルタ協定に法的拘束力はない。旧ソ連による北方領土の軍事占領は、日本の主権が「本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等<連合国>の決定する諸小島」と規定するカイロ宣言とポツダム宣言によっても正当化されない。加えて、サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した南樺太及び千島列島をロシアが領有する法的根拠もない。 旧ソ連が国際法の裏づけを欠いてまで北方領土を軍事占領した主な理由は、軍事的なものだと考えられる。オホーツク海の出入り口に当たる北方四島周辺海域は、数世紀にわたって「暖かい海(不凍港)」を目指して南下を続けてきたロシア海軍が太平洋に出るために、極めて重要だからだ。国後水道の重要性と2島返還論国後水道の重要性と2島返還論 スターリン死後の「雪解け」を背景として、1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞・色丹両島の返還が明記されたが、平和条約も在日米軍の撤退を条件とするなどソ連の軍事的な意図は明らかであった。その後も、冷戦の激化をうけて領土問題の存在を否定するなどソ連は強硬姿勢を続けた。 特に、ソ連は冷戦後期になってオホーツク海の「聖域化」を図るようになり、戦略ミサイル原子力潜水艦の通り道として北方領土周辺海域の重要性が高まった。70年代までに米ソの核戦力はパリティ(均衡)に達していたが、ソ連は地上配備の大陸間弾道ミサイル(ICBM)がアメリカの先制攻撃に対して脆弱なため、戦略原潜をオホーツク海(および欧州戦域ではバレンツ海)に常時配備し、長距離ミサイルでアメリカ本土を核攻撃できる態勢を整えた。そして、オホーツク海の戦略原潜を守るため、北方四島の要塞化とウラジオストックを母港とする太平洋艦隊の増強が進められた。 その中で、択捉島と国後島の間にある国後水道は十分な深さがあり流氷の影響も受けにくいため、大型の戦略原潜がオホーツク海と太平洋の間を移動するために重要な航路となった。ロシアが歯舞・色丹の2島返還を基本的な立場としているのは、これら2島を返還しても、国後水道の通航には影響がないからであろう。チャンスは90年代にあった 一方、冷戦が終わると、ロシアの態度に変化が見られ、1993年の東京宣言を経てロシア側から北方領土問題の解決に前向きな姿勢が見られるようになった。 その背景には、冷戦終結で北方四島の軍事的価値が低下し、一方で国力の低下を抑えるために、日本の経済支援を必要としたことが考えられる。おそらく、日本が最も有利な立場で領土交渉を進める余地があったのは90年代だろう。しかし、2000年代に入ってロシアの経済力が回復すると、領土問題で安易な妥協を拒む声が国内で強まり、北方領土の「ロシア化」を進めて、日本との交渉力を強化しようという動きが見られるようになった。 現在、ロシアはこれまで放置してきた北方領土の経済開発に力を入れ始めており、実効支配を強化している。2010年にはメドベージェフ大統領がロシアの大統領として初めて国後島を訪問し、その後も政治指導者による訪問が続いている。昨年7月には大規模な海軍演習を初めて択捉島で実施し、フランスから購入するミストラル級大型強襲揚陸艦2隻に加えて、対艦ミサイルを北方領土に配備する計画もある。そのような中で、ロシアは中韓にも北方領土の共同開発を呼びかける一方、日本との経済協力も模索している。 ロシアが北方領土の実効支配を強化する背景には、中国の存在がある。極東ロシアの人口は少ないが、隣の中国から労働力が流入しつつある。これにともなって、ロシアでは極東地域における中国の影響力の拡大に懸念が高まっている。 加えて、中国の北方海域での海洋進出にも警戒感が高まっている。2000年5月に中国海軍の情報収集監(砕氷艦)が津軽海峡を2日間かけて1往復半し、太平洋に抜けるという事例があった。2008年10月には、4隻の中国艦船が津軽海峡を通過して日本海から太平洋に抜けている。ロシア海軍はこの動きに衝撃を受けたと伝えられている。 地球温暖化の影響で北極海の海氷が溶けていることも見逃せない要素である。北極海の海氷は急速に縮小しており、新たな航路の開通と莫大な海底資源の開発が期待されているため、ロシアは北極海における存在感を強化している。北極海を担当しているのはロシア北方艦隊であるが、今後は太平洋艦隊にも北極海のパトロールを支援することが求められるであろう。実際、すでに北極海航路を通航する中国船の数が増え始めている。その際、北方領土周辺海域はやはりロシア海軍にとって重要な航路となる。(北極海については別稿も参照されたい)アジアにおける存在感の維持が課題アジアにおける存在感の維持が課題 他方、ロシアは老いゆく巨人である。原油価格の高騰により冷戦後に破綻状況にあった経済を立て直したが、それは産業競争力に裏づけられたものではない。ロシアは、BRICS諸国の中で2008年の国際金融危機から立ち直るのが最も遅かった。国民の平均寿命も短く、高齢化も進み、国力は今後も低下していくだろう。ロシアにとっては、国力が低下する中で、経済の成長センターとなったアジアにおける存在感を維持することが戦略上の最大の課題であろう。 ロシアがアジアでの影響力を維持するためには、ソ連崩壊後の財政難でスクラップ状態にある太平洋艦隊を再建しなければならない。ロシアは2010年に6780億米ドル相当の防衛支出計画を発表したが、その4分の1が太平洋艦隊の再建に充てられる。2020年までにロシアは新型の攻撃原潜、弾道ミサイル原潜、フリゲート艦、空母等を20隻導入する予定である。 しかし、ロシアの海軍力の近代化には大きな障害が残っている。ロシアの軍事産業は300万人を雇用しているが、軍事関連企業の25%は破綻状態にあり、保有する技術もソ連時代のものである。とても最新鋭の装備を生産することはできない。ロシアがミストラル級揚陸艦をフランスから購入するのは、ロシアにその建造能力がないからである。今後10年で20隻もの新鋭艦を国内で建造することも難しいだろう。 ロシアは日本との間に領有権問題が存在することを認めており、何らかの解決を望んでいることは間違いない。だが、圧倒的な通常戦力を誇るアメリカに対してロシアが大国の地位にしがみつくには、核戦力に依存せざるを得ず、オホーツク海は依然としてロシアの戦略的要衝であり続ける。他方、中国の海洋進出への警戒から、再び北方四島の軍事的価値を再確認しているだろう。 北方領土の戦略的重要性が高まる中で、ロシアが4島全面返還に同意することはまずないだろう。国後水道の戦略的重要性を考えれば、「面積二等分」や「3島返還」も現実的とは思えない。安易な妥協による解決は目指すべきでない とどのつまり、ロシア側は従来通り2島返還による決着を落としどころとすることに変わりはないはずだ。プーチン大統領のいう「引き分け」も2島返還とみて間違いない。日本がロシア側の動きに惑わされて妥協の姿勢を見せれば、それを逆手に取られ、一方的な経済支援だけをさせられてしまう公算が高い。日露関係の強化によって中国を牽制するとしても、1000億ドルに及ぶ中露の貿易額に比べて日露のそれは半分に満たず、中露の経済関係にくさびを打つことは容易ではない。 日本としては、あくまで不法に占拠されたすべての領土の返還を迫っていくべきだ。北方領土に関しては、4島の日本帰属をまずロシアに認めさせ、実際の返還の方法は柔軟に対応するという政府方針を維持すべきである。そうすることによって、同じく不法に竹島を占拠している竹島の問題も、尖閣諸島に対して国際法の裏づけのない主張を続ける中国に対しても日本の正当性が強化される。日本は国際法に基づいた領土問題の平和的解決を原則とし、これを揺るがすべきではない。 一方、ロシアの態度が戦略環境の変化によって大きく変化することも確かだ。資源輸出に大きく依存するロシアの経済にはいずれ限界が来る。そうなれば、北方領土の軍事的価値よりも、日本からの経済支援の方がロシアにとってより重要となるだろう。不法占拠状態が70年近くも続いてしまったが、今の段階で安易な妥協によって早急な解決を目指すことはない。「上から目線」でロシアと向き合うべきである。

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    日本人はやはりロシア人が嫌いだ

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 「日本人はロシア人に対して不信感を捨てられないのだね」 ワシントンDCに拠点を置くシンクタンク、ピュー研究所(Pew Research Center)がロシアとプーチン大統領への好感度と信頼度に対する調査を実施したが、それによると、日本は調査対象国40カ国の中で4番目にロシアに対する「好感度が低い」という結果が出た。友人はそれを聞いて、先述のコメントとなったわけだ。 ピュー研究所は今年5月24日から27日の間、40カ国、4万5435人を対象にロシアとプーチン大統領への好感度、信頼度調査を実施した。その結果、ロシアへの嫌悪感が好感度より多い国は26カ国で、平均値は非好感度52%、好感度30%。プーチン大統領に対しては24%が「信頼する」一方、58%が「信頼できない」と答えている。 ロシアに対して最悪のイメージを持っている国はポーランドとヨルダンの両国で80%だ。そしてイスラエルの74%。その次に日本が73%と続いている。ドイツとフランス両国は共に70%で第5位だ。参考までに、ロシアに対する好感度が最も良い国はベトナムで75%でトップ、そしてガーナ56%、中国51%と続く。 ポーランドの場合、長い歴史の中でロシアから弾圧され、過去、プロイセン、ロシア、オーストリアに領土を分割され、国を失った悲惨な経験を味わっている。冷戦時代にはソ連の支配下に置かれ、弾圧された歴史もあるから、国民がロシアに対していいイメージを持てないのは理解できる。ヨルダンの場合、隣国シリアに対するロシアのアサド政権支持に対して、国民の反発が強い。シリアからの大量難民がヨルダンに殺到していることもロシアのイメージ・ダウンにつながっている。第2次大戦終結70周年の記念式典で披露された劇の一場面。ソ連兵が日本兵に銃を向けていた=2015年8月29日、ロシア・ハバロフスク(共同) 日本の場合、73%がロシアに対し悪いイメージをもち、好感をもっているのは21%に過ぎない。ポーランドと同様、日本も歴史的な理由を無視できない。ソ連が日ソ中立条約を反故して日本に侵入し、日本固有の領土である北方四島を不法占拠した。その一方、約60万の旧日本軍人や民間人をシベリアに抑留し強制労働に従事させ、6万人以上の抑留者が命を落とした。ソ連の後継国ロシアに対し、一般の日本国民が警戒心を解けず、批判的なのは当然だろう。 ちなみに、読売新聞電子版によると、ロシア政府は10日、「クリル発展計画」を発表したが、それによると、北方領土を含む千島列島の社会基盤の整備と産業振興のため来年から25年まで10年間、約700億ルーブル(約1500億円)を投資するという。また、メドヴェージェフ首相が近日中に北方領土の訪問を予定しているという。ロシアは不法占領地の既成事実化を急いでいるわけだ。 一方、プーチン大統領に対して、39カ国中、ベトナム(70%)と中国(54%)の2カ国だけが「信頼している」が過半数を超えた。平均は「信頼できない」が58%で、「信頼する」24%を大きく引き離している。特に、ウクライナのクリミア半島のロシア併合もあって、欧州のプーチン嫌いが突出している。例えば、スペイン92%、ポーランド87%、フランス85%、英国80%、イタリア77%、ドイツ76%と、いずれもプーチン大統領に対して「信頼できない」と答えている。日本はアジア地域ではオーストラリア(81%)に次いで、プーチン氏への不信感が強く、71%だ。 プーチン大統領の年内訪日が囁かれているが、不法占領の北方領土に対して、同大統領は「4島に対するロシアの主権は第2次世界大戦の結果」と主張し、返還する意思のないことを明らかにしている。それだけに、同大統領が日本を訪問したとしても、どれだけの成果が期待できるかは不明だ。8月は北方領土返還運動全国強調月間だ。 いずれにしても、戦後70周年を迎えたが、日本国民のロシアとプーチン大統領への不信感は想像以上に強いことが今回のピュー研究所の世論調査結果で明らかになったわけだ。(2015年08月13日「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より転載)

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    米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去

     今年5月19日にロシアのラブロフ外相は、北方領土(択捉、国後、歯舞、色丹などの南千島)の返還を求める日本に対し、「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」と、これを批判した。ロシアとの北方領土返還交渉が一向に進まぬ背景には、70年間影を落とし続ける「ヤルタ極東密約」の存在がある。米ソの思惑によって結ばれた密約を、社会学者の有馬哲夫氏が解き明かす。そして、その責任は当時の米・ルーズウヴェルト大統領にあると有馬氏は指摘する。  * * * なぜ北方領土がいまに至るまで不法占拠されているのだろうか。それは秘密・個人外交に走ったルーズヴェルトの責任だといえる。 1944年の米大統領選挙で再選を狙ったルーズヴェルトは、戦争終結のための巨頭会談を選挙戦の目玉にしたかった。そこで、いろいろ贈り物を用意してソ連のヨシフ・スターリンに会談をもちかけた。その一つが日本固有の領土である千島列島のソ連への引き渡しだった。ルーズベルト米大統領(左)とコーデル・ハル国務長官=「昭和」(講談社) しかし、米国務省は、南千島(北方四島)は住民の居住実態からして北海道の一部で、切り離すことができないという報告書をルーズヴェルトに提出していた。ところが大統領がこれを読んだ形跡はなく、千島全島をソ連に引き渡すという極東密約を、米国議会にはからずヤルタ会議で無断で結んでしまった。 この会議で、文書を用意し、管理する役割を担ったのは国務省特殊政治問題局長のアルジャー・ヒスだが、この国務省の高官はソ連のスパイであることが1950年の米国議会による調査で分かった。つまり、南千島はスパイによって奪われたのだ。 ルーズヴェルトが1945年4月12日に死去すると、急遽大統領職を引き継いだトルーマンは、前大統領が秘密・個人外交をしていたために、複雑な事情がわからず、とにかく前大統領の路線を引き継ぐと言明した。だから、米国はソ連が対日参戦したあと、千島列島全体を占拠するのを黙認した。 1951年になって、ようやく米国の議会や国民がこの密約の存在を知ることになって、自分のものでもない領土をソ連に与えるこの恥ずべき密約は、当然ながら破棄された。だが、ルーズヴェルトが勝手にしたこととはいえ、約束をたがえたうしろめたさから、この後も米国政府は、日本の立場を支持しつつも、ソ連を強く非難できない。 そして70年もの時が流れて、現在に至っている。しかし、極東密約が無効であり、日本が主権を放棄していない以上、北方領土を日本が要求するのは当然であり、すぐに返還されるべきなのだ。

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    米大統領欺き北方四島をソ連に投げ与えた伝説的スパイの手法

     日本の戦後史はスパイによって作られた歴史でもあった──終戦から70年以上を経て、貴重な歴史資料が次々に「秘密解除」となっている。そこから衝撃の事実が浮かび上がってきた。戦後史家・有馬哲夫氏が新たに公開された機密文書から戦後秘史を読み解く『SAPIO』の連載から、今回は北方領土をソ連(ロシア)に売り渡した男を綴る。 * * * 去年の5月19日、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は、「北方領土は第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」と発言した。もちろん、これは純然たるプロパガンダだ。ソ連は、先の戦争のあとに、一方的に北方領土(南樺太、北方四島を含む千島列島)を不法占拠したが、それができたのは、ハリー・S・トルーマン米大統領が傍観したからだ。アルジャー・ヒス(Reuters/AFLO) なぜ米国がそうしたのか。大きな要因は米国務省内のソ連のスパイの一人アルジャー・ヒスの工作が功を奏したことにある。簡単にいうなら、ヒスが前代のフランクリン・ルーズヴェルト大統領を欺いて、北方四島(アメリカ側の呼称は南千島)をソ連に投げ与えさせたのだ。 以下では、そもそもヒスとはどんなスパイだったのか、北方四島を巡る米ソ間の密約においてどのような役割を果たしたのかを明らかにしよう。 1950年に米国で吹き荒れたマッカーシズム(*注)のなかで国務省の高官ヒスはソ連のスパイとしてやり玉に挙げられた。彼は「非米活動調査委員会」に喚問され、そこで共産主義のスパイだったことを否定したことに対する偽証の罪で懲役5年の刑を受けたが、実際にスパイだったかどうかは疑問視されていた。【*注:米国で起きた反共産主義運動。共産主義者とみなされた者に対し攻撃・追放が行われた】 ところが、1990年代にソ連側の機密文書などに基づきKGBなどの研究が進められた結果、実際にヒスは1930年代にソ連側にリクルートされたスパイだったことが分かった。いまでは機密文書の公開によってヒスをはじめとして多数のソ連のスパイが米政府官僚として働いていたことが立証されつつある。 米メリーランド州ボルチモアで生まれたヒスはハーヴァード大学法科大学院出身の弁護士だった。やがてヒスは、共産思想に傾倒しソビエト連邦軍(赤軍)参謀第四部のボリス・バザロフからスパイにリクルートされる。1933年、ソ連に流すための米政府の情報を得るため、それまで高給を得ていた弁護士の職を離れる。いくつかの公社勤務を経たのち、さらなる情報を得ようと1936年に国務省に入った。 ヒスは国務省内で順調に出世し、1944年には国務省特殊政治問題局長になり、翌年の2月に開催されたヤルタ会議の準備を担当した。米国はよりにもよってソ連のスパイに戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切らせてしまったのだ。◆大統領に届かなかった勧告書 ヒスは北方四島にかかわる密約の協議においてなにをしたのだろうか。「ヤルタ極東密約」、つまり、対日参戦と引き換えにソ連に南樺太、千島列島、満州での利権を与える約束は、会議前年の1944年の12月14日にモスクワでヨシフ・スターリンと駐ソ米国大使アヴェレル・ハリマンの間で協議され、翌日に文書化されていた。 これに対し米国務省内部から、「北方四島は歴史的にも住民の居住実態からも北海道の一部とみなし、ソ連に引き渡す範囲から除くべき」とする異論が出された。それは12月28日にルーズヴェルト大統領に対する勧告書としてまとめられた。 ところが、上院外交委員会の有力者、カール・マント上院議員のチームが1955年に外交記録を調査したところ、ヤルタ会議中およびそれ以前に、ルーズヴェルト大統領がこの勧告書を読んだ形跡を見つけることができなかった。 事実、「ヤルタ会議文書」に入っている文書すべてに目を通してみても、国務省の件の勧告書およびその内容に関する言及は見られない。にもかかわらず、『米国外交文書集』のなかには、この勧告書はヤルタ会議前に行われた会議の文書の一つとして収められている。 つまり、この勧告書は、事前ないしはヤルタ会議の場で参照されるべき文書の中に含まれていなかったために、ルーズヴェルトの目に触れることなく、葬り去られてしまったのだ。  こうして、米国務省が「北海道の一部である」と結論づけた北方四島は、ソ連に引き渡す範囲に含まれてしまった。ルーズヴェルトの後を引き継いだトルーマンは、日本を降伏に追い込もうと原爆を投下したが、ソ連は予定を切り上げて日本の降伏前に参戦を果たした。 戦争が終わったばかりの時にソ連とことを構えたくなかったトルーマンは、ソ連が北方領土を火事場泥棒的に奪うのを傍観した。その後、ヤルタ極東密約は51年に米議会で破棄されソ連の北方領土に対する主張は根拠を失った。 北方領土は、戦争の結果ではなく、ヒスの工作によってかすめ取られたのだ。ソ連側の機密文書から明らかになったヒスの工作と不当性をラブロフ、およびロシアが認識していないはずはない。にもかかわらず、彼らは強欲にも北方四島を手放そうとしない。【Profile】■アルジャー・ヒス/1904年生まれ。米国の弁護士・元政府高官。米国務省職員として外交政策に携わり1945年のヤルタ会議を取り仕切った。1996年11月15日死去。■ありま・てつお/戦後史家。早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。著書に『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)、『原発・正力・CIA』(新潮新書)など。関連記事■ 米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去■ 米企業 東日本大震災30兆円巨大復興事業に大きな関心抱く■ 大前研一氏 北方4島は米国がソ連に“戦利品”として与えた■ 「スパイの世界に美男美女はほとんどいない」とスパイ事情通■ 「北方領土問題と竹島問題は無関係ではない」とロシア通指摘

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    盗るだけ盗ったソ連の無法 ロシアの四島占拠に根拠なし

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より有馬哲夫(早稲田大学教授)ことごとく根拠失う露首脳 平成二十七年八月二十二日、ロシアのドミトリー・メドヴェージェフ首相が択捉島を訪問し、これに対して日本政府が抗議した時、彼はこう述べた。「日本とは友好関係を望むが、ロシアの領土と関係づけてはならない」。彼が「ロシア領土」と強調しているのは、日本の北方領土(国後、択捉、色丹、歯舞)のことである。 同五月二十三日にもセルゲイ・ラブロフ外相が北方領土の返還を求める日本を次のように批判した。「日本は第二次世界大戦の結果に疑いを差し挟む唯一の国である。北方領土は第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった。敗戦国の日本には返還を求める権利はない」北方領土について強硬発言を続けるドミトリー・メドベージェフ露首相=平成27年8月22日、択捉島の水産加工場 歴史的事実に照らして、メドヴェージェフやロシアの外務省関係者が言っていることは、まったくでたらめである。彼ら自身それを認識していることは、「第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」という抽象的な言い方をしているところに表れている。はっきりした根拠があるのなら、どの国際協定、あるいは二国間協定にもとづいて、そういえるのかはっきり言えばいいだろう。だが、ロシア側は、以下で詳しく述べていく理由によって、かえって窮地に陥るのでそれができないのだ。 「第二次世界大戦の結果」という言い方にも注目する必要がある。というのも、ここにもロシアの弱みが隠されているからだ。つまり、「第二次世界大戦によって」といえば、ソ連の対日戦争は、領土や利権目的の侵略戦争だったと認めることになる。事実、いわゆるヤルタ極東密約といわれるものによって、南樺太の「返還」、千島列島の引き渡し、満洲の利権獲得とひきかえに、日ソ中立条約に違反して、一方的に日本に戦争をしかけてきたのだから、まさに侵略戦争だったのだ。日本人にとって、ソ連による満洲侵攻ほど侵略戦争のイメージにぴったりなものはない。  ロシア側は、「アメリカとの約束」、つまりヤルタ極東密約に基づいて行ったものだと反論するかも知れないが、これもまたあとで詳しく述べる理由で、そうとはいえない。ここではっきりさせておくが、そもそもこの密約はフランクリン・ルーズヴェルト大統領がアメリカ議会に諮ることなく、秘密裡に結んだもので、「アメリカの約束」ではなく、「ルーズヴェルトの約束」でしかない。アメリカの政治制度を知っているソ連にその認識がないわけがない。そして、ソ連が恐れていた通りに、この「ルーズヴェルトの約束」は、アメリカ議会に破棄されて「アメリカの約束」になることはなかった。ロシアの侵略気付かせぬ占領政策ロシアの侵略気付かせぬ占領政策 そもそも、ソ連を含む連合国は、カイロ会議、ヤルタ会談、ポツダム会議で、日本の戦争を非難し、日本がこの手段によって奪った地域は返還させる、あるいは剥奪すると決議した。これと同じ論理で、一度も他国の領土だったことがない南千島を含む千島列島を得ることを目的としたソ連の対日戦争は侵略であり、それによって得た千島列島は日本に返さなければならないことになる。 こんな明白な歴史的事実に日本人が気付かないとすれば、あるいは気付きながらも「いまさら言っても仕方ない」と思っているとすれば、それはアメリカの占領軍が日本人に行った心理戦によって、日本は無条件降伏したのだという「無条件降伏史観」から抜け出せないからだろう。 中国、韓国の政府首脳は、歴史的事実を捻じ曲げる反日プロパガンダを行っているが、彼らが最大限に利用しようとしているのが、この「無条件降伏史観」、つまり「日本は無条件降伏したのだから、いまさらいっても仕方がない」という歴史観だ。「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」というラブロフの言葉もまさにこれを突いたものだ。ヤルタ会談が行われたリバディア宮殿で並んで座る左からチャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、スターリン・ソ連首相。「樺太・千島獲得」の極東密約でスターリンはほくそえむような表情だ 私たちが歴史の教科書で学んだように、日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。だが、戦後教育がしっかり教えてこなかったのは、ポツダム宣言の正式名称は「日本の降伏の条件を定めた公告」で、日本はこれに定めた条件のもとに降伏したのであって、無条件降伏したのではないということだ。さらに、この公告が求めた無条件降伏は、日本軍に対してであって、日本政府でも日本国民でもなかった。したがって、日本軍が武装解除されたあとは、日本政府も国民も、ポツダム宣言の条件のなかで認められた権利を戦勝国に対して主張する権利を持っている。それらの権利とは、政体選択の自由(ポツダム宣言第一二条)、貿易の自由(第一一条)、領土保全(第八条)だ。敗戦日本にも適用の「領土保全」敗戦日本にも適用の「領土保全」 昭和天皇も東郷茂徳(当時外務大臣)ら重臣も、アメリカ側のスポークスマンである戦時情報局のエリス・ザカライアス大佐(本属は海軍)と国務長官代理のジョゼフ・グルーがラジオ放送を通じて大西洋憲章(いかなる国も前述の基本的権利を侵害されないとした)に言及しつつ次のように述べているのを何度か確認している。「日本が降伏しても、大西洋憲章にうたわれた権利は日本に保証される」。そこで、天皇と重臣たちは、ポツダム宣言を受諾しても国体護持が可能だと確信して、降伏に踏み切った。なにもかもあきらめて、すべてをなげだして、無条件降伏したのではない。 とくに最後の領土保全は、他国から取ったのではない本来の領土は、たとえ戦争に負けても奪われることはないということをいったものだ。したがって、ポツダム宣言の条件にしたがえば、「第二次世界大戦の結果」がどうあれ、ロシアは日本固有の領土である北方領土を奪うことはできない。日ソ中立条約に調印する松岡洋右外相。スターリン(右)も同席していた=昭和16年4月13日 戦後七十年もたったのだから、わたしたちはもう「無条件降伏史観」から抜け出さなければならない。そうすれば、ラブロフにつけ入られることなく、北方領土問題に対する意識がより高まり、ロシアが未だに北方領土を占拠していること、しかもロシアの領土として開発しようとしていることが、いかに許しがたいことかより強く認識するようになるだろう。 以下では、ロシアが「無条件降伏史観」を悪用してどのような詐術を行ってきたか、それらは歴史的事実とどのように違っていたのかを明らかにしたい。それによって、ロシアの嘘とごまかしを暴き、北方領土を「ロシアの領土」と呼ぶことがいかに不当であるかを証明したい。 これまでソ連・ロシアは「無条件降伏史観」を利用して、次の四つを理由としてあげて北方領土が「ロシアの領土」になったと日本人に思いこませようとしてきた。 ①ポツダム宣言(正式名称「日本の降伏を定めた公告」)を受諾し、降伏した。 ②一九四五年九月二日に戦艦ミズーリ号上で連合国と終戦協定を結んでいる。 ③サンフランシスコ平和(講和)条約を結び、南樺太および千島列島を放棄した。 ④日本が国連憲章第一〇七条敵国条項に当てはまる国である。 最初にこれら四つが北方領土を「ロシアの領土」とする根拠になり得ない理由を短く説明しよう。そのあとで、詳しい説明を加えていくことにする。ポツダム宣言が日本に履行を求めた「カイロ宣言」「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借(かしやく)ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼(とうしよ)ヲ剥奪(はくだつ)スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島(ほうことう)ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ日本国ハ又暴力及貪慾(どんよく)ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」※台湾では①中華民国が台湾の主権を有するという解釈②カイロ宣言自体の国際法上の有効性―に議論がある。ソ連はポツダム宣言主体から排除 まず①だが、ポツダム宣言の第八条は、降伏後の日本の領土を「本州、九州、四国、北海道および、われわれが決めた島々」としている。だが、ソ連代表ヨシフ・スターリンはこのポツダム宣言に署名していない。よってソ連は「われわれに」は含まれておらず、本州四島以外の島々について決める権利をもっていない。 よくソ連がポツダム宣言に署名しなかったのは、日本に参戦の意図を悟られないようにするためだったとまことしやかにいわれるが、これは誤りである。事実は、ソ連側もポツダム宣言の案を持ってきたのだが、トルーマンはこれに一瞥もくれずに、さっさと自分たちが用意したポツダム宣言を発表してしまったというものだ。参戦の意図を悟られないようにもなにも、米ソは袖を分かっていたのだ。 ポツダム会議の前の一九四五年七月十六日に原爆実験の成功の知らせを受けたトルーマンは、この悪魔の兵器を使えば、ソ連の参戦なしに日本を降伏させられると考え、原爆投下を決断すると同時にソ連を「われわれ」から排除した。したがって、ソ連はアメリカとの合意に基づいて対日戦争に入ったのではなく、勝手にそうしたのだ。降伏調印後も攻撃して領土侵奪降伏調印後も攻撃して領土侵奪 次に②だが、たしかに日本が同年九月二日にミズーリ号上で調印した降伏文書には、他の連合国と同様にソ連も調印している。だが、これは、連合国に対する日本軍の降伏などを布告しただけだ。引き続き発出された連合国最高司令官の一般命令第一号で、各地の日本軍の降伏先が定められ、このなかで交戦状態にあった樺太・千島などではソ連軍に降伏するよう命じた。しかし終戦協定としての同艦上での手続きは、領土について定めたものではない。これによって日本が認めたと見なせるのはせいぜい一時的占領だ。東京湾のミズーリ艦上で日本降伏の文書に署名したマッカーサー連合国軍最高司令官。続いて後方のデレヴィヤンコ・ソ連代表ら連合国各代表も署名した=昭和20年9月2日 そもそもソ連は他の戦勝国とは大きく違う点がある。それは日ソ中立条約に違反して、一方的に攻撃してきたという点だ。不法に戦争に加わったソ連を他の連合国と同じく戦勝国と呼んでいいのだろうか。事後に批准された国連憲章で合法と認められたという馬鹿げた記述を見かけるが、これが信じられるとすれば「無条件降伏史観」のなせる業だろう。罪を犯したあとで、それを無罪とする法律を事後に無理やり作っても、さかのぼってその罪を無罪にはできない。 また、ソ連は日本の降伏通告をほぼ無視して、軍事行動を取り続けた。日本はポツダム宣言を受諾する旨の通知を八月十四日にスウェーデン政府経由でソ連に送っているが、ソ連はこの通知を受け取ったあとも日本の軍民、とりわけ民間人に殺戮、暴行、強姦、略奪を大規模かつ組織的に執拗に行いつづけた。これは八月十五日以降軍事行動を即座に停止したほかの連合国と際立った対照を見せている。樺太・千島への南下侵攻を続けるソ連軍は8月29日に択捉島に上陸して日本側を攻撃。この後さらに南下を続けた さらに、ソ連は降伏文書に調印したあとでさえ、軍事行動をやめなかった。ソ連軍が歯舞群島に達したのは九月三日であり、千島列島全体を占拠したのは、九月五日だ。つまり、ソ連は日本の降伏文書に自ら調印したあとも、ほぼ無抵抗の日本の軍民に対して軍事行動を取り続け、千島列島全体の占領を完了させたのだ。 もっと根源的で私たち日本人が絶対忘れてはならないことは、日本が終戦を決意して仲介を依頼したとき、ソ連はのらりくらりと、時間稼ぎをして戦争準備を整え、矢尽き刀折れて落ち武者同然になった日本を、だまし討ちにしたということだ。降伏するもなにも、そもそも日本はソ連と戦う気などなかったのだ。ヤルタ密約は相手の米国が破棄 次に③だが、ソ連は、中国(共産党中国)と韓国とともにサンフランシスコ平和条約の締結国となっていない。日本はこの条約によって、南樺太と千島列島を放棄させられたが、それらの帰属は未定とされていて、ソ連に与えるとされていない。つまり、①②で見たように、やはりアメリカは、ソ連を自分と同等の戦勝国として認めておらず、したがって、千島列島どころか南樺太まで、ソ連の主権を認めていないのだ。現在でも正式な地図では、南樺太および千島列島は、ロシア領とは別の色になっていて、ロシアの領土とはされていない。 決定的なのは、一九五二(昭和二十七)年にサンフランシスコ平和条約をアメリカ上院が批准する際に、ヤルタ極東密約を破棄するとした付帯決議がなされていることだ。アメリカでは大統領が密約を結んでも、議会が承認しなければ無効なので、ヤルタ極東密約は「ルーズヴェルトの約束」のまま破棄されたことになる。したがって、サンフランシスコ平和条約の時点で、南樺太および千島の帰属が未定になったというより、もう一歩踏み込んで、ソ連の領土とする根拠が消えたのだ。 最後の④だが、ソ連・ロシアにとって最後の砦となっているのがこの国連憲章(第一七章)第一〇七条だが、その内容は「憲章のいかなる規定も、敵であった国の行動について責任を有する政府が戦争の結果としてとり又は許可したもの(休戦・降伏・占領などの戦後措置)を無効にし、又は排除するものではない」というものである。 読んで明らかなように、大戦末期の混乱で生まれた敗戦国(敵国)に不利な状態を国際連合が成立したあとも追認させようという戦勝国のエゴまるだしの取り決めだ。こんな取り決めでさえソ連の北方領土の不法占拠を正当化できない。 北方領土の場合、該当するのは、「占領」だが、ソ連は前に述べた経緯から「旧敵国の行動について責任を有する政府」とはいえない。事実、ソ連は日本が降伏したあと、日本の占領に加わることを要求したが、トルーマン大統領はこれを拒否し、かわりにイギリスに増派を求めた。 また、占領できる期限は、ポツダム宣言に明記されているように、占領目的が果たされるまでであって、そのあとは撤退しなければならない。事実、アメリカは占領目的である「軍国主義の排除と民主化」が実現できたとして昭和二十七年をもって占領を終結させている。したがって、ソ連もとっくの昔に北方領土から撤退していなければならなかった。 占領ではなく、領有だというなら、繰り返しになるが、ソ連は侵略国家だということになり、カイロ会議、ヤルタ会談、ポツダム会議で決議されたように、奪った領土は、奪われた国に返さなければならない。つまり、どっちにせよ、最小限でも北方領土は日本に返さなければならない。原爆実験成功でソ連参戦不要に原爆実験成功でソ連参戦不要に さらに詳しい説明を加えよう。なぜトルーマンはスターリンにポツダム宣言に署名させなかったかだが、それはトルーマンが大統領に昇格して以後の、とりわけポツダム会議中の状況の変化によるものだ。 一九四五年四月一二日にルーズヴェルトの死を受けて大統領職を引き継いだトルーマンは、当初前任者の方針をそのまま引き継ぐと内外に表明した。つまり、ソ連と結んだ協定(極東密約を含む)と無条件降伏方針を変更しないということだ。しかし、ドイツの降伏後、この二つの方針を見直すよう国務長官代理のジョゼフ・グルーが新大統領に強力に働きかけた。 陸軍長官のヘンリー・スティムソンも、多大の犠牲が予想される本土上陸作戦を避けるためにも、無条件降伏ではなく、天皇制存置を認めた条件付き降伏を日本に求めるべきだと主張を始めた。スティムソンの場合は、ヤルタ極東密約をそれほど問題視していなかった。約束なしでも、いずれソ連はそれらを手に入れると思っていたからだ。ホワイトハウスでトルーマン大統領と打ち合わせるスティムソン陸軍長官=1945年8月(AP) このような閣僚の動きを受けて、ポツダム会議に臨んだときのトルーマンの選択肢は、次のようになっていた。一つは、ソ連に対日参戦を求めて日本を無条件降伏させ、ヤルタ極東密約を守ること。もう一つは、ソ連に対日参戦を求めず、日本に皇室維持の条件付きで降伏を認めて早期に講和を結び、ヤルタ極東密約を無効にすること。 これに原爆実験の結果が絡んできて、選択肢が変化した。七月十六日にアラモゴードで原爆実験が成功したあとトルーマンが実際に選択したのは、ソ連の参戦前に原爆投下によって日本を無条件降伏に追い込み、ヤルタ極東密約を無効にすることだった。だから、ポツダム宣言から天皇制存置条項を削除したうえでソ連を「われわれ」から除外したのだ。 トルーマンの計算違いは、日本が降伏する前にソ連がアメリカに無断で満洲侵攻を始めてしまったことだ。奇妙なことに、ソ連は日本がポツダム宣言を「拒否」したことを満洲侵攻の理由としている。トルーマンは苦笑いしたことだろう。わざわざ仲間はずれにしたのに、ソ連側はそれを知りながら仲間だと主張しているのだ。これによってソ連はヤルタ極東密約の要件を満たし、その利権を要求できると思っていた。アメリカ議会が密約を批准すれば、そうなっただろうが、前にも述べた通りこれは否決された。仲間外れで盗るだけ盗ったソ連 思いがけないソ連の参戦によってトルーマンが陥ったジレンマが②に反映されている。アメリカは前述の経緯にもかかわらず、ソ連をミズーリ号上の調印式に加えた。ポツダム宣言のときは署名させないようにしたが、その後ソ連が日本と戦争を始めてしまった以上、降伏調印なのだから加えないわけにはいかない。また、トルーマンはソ連が千島列島全体を占領するのを黙ってみていた。彼からみて、せっかく戦争が終わろうとしているときに、敗戦国のちっぽけな島々のことでソ連とことを構えるのは賢明ではないからだ。だが、スターリンの北北海道の占領の要求は、断固撥ねつけ、その後も日本の占領にソ連軍を加えなかった。 スターリンもトルーマンのポツダムでの仕打ちが何を意味するかよく知っていた。だから、日本のポツダム宣言受諾による降伏の通告も、降伏文書調印も、一切無視して、できるだけ多くのものを日本から奪うことに専念した。トルーマンが約束をたがえようとしているのだから、力によってできるだけ多くの領土、資産、人員を日本から奪って、既成事実化しておこうということだ。満洲ハルビンに侵攻するソ連軍戦車。日本の降伏前にソ連が勝手に満洲に侵攻したのはトルーマン米大統領の計算違いだった… 当然ながら、アメリカ主導のサンフランシスコ平和条約にソ連は加わらなかった。それでなくともヤルタ極東密約は空文化していたのだが、この会議でアメリカがはっきりと破棄しにかかることが予想された。事実、一九五二年三月二〇日の上院で、次の付帯決議によってはっきりとヤルタ極東密約を無効とした。 「上院の助言と決議として、上院はこの条約(サンフランシスコ平和条約)の中には、日本と条約に定める連合国が南樺太やその周辺の島々、千島列島、歯舞、色丹、その他日本が一九四一年一二月七日まで領有していた領土に関する権利や名称や利益をソ連に有利に思われるように減少させたり、誤解させたり、権利や名称や利益がソ連のものであることに合意したとみなされるものはまったくないことを明言する。また、この条約やそれについての上院の助言と同意には、一九四五年二月十一日付の日本に関するいわゆるヤルタ合意に含まれるソ連に有利な条項をアメリカ合衆国が承認したと示唆するものはなにもない」 これによって、ヤルタ極東密約とソ連の領土的野心はとどめをさされた。さらにいえば、千島列島どころか、南樺太の占拠すら不法とされた。帰属を正当協議なら日本返還も 帰属を正当協議なら日本返還も  そもそも間宮林蔵の探検以後、江戸幕府が積極的に移民を送り込んだこともあり、住民の居住実態からしても、樺太はロシア固有の領土とはいえない。日露戦争は公平にみて防衛戦争だったし、南樺太も、得たというより「回復」したと考えることもできる。 たしかに日本は、サンフランシスコ平和条約でこの地域を放棄することに同意したが、ソ連にこの地域を引き渡すとはしていない。 したがって、この地域は、ロシア以外の国が委任統治したり、関係国との話し合いで、望ましいということになれば、再び日本の施政下に置いたりすることもありえる。 それにしても。なぜアメリカ議会がこんなにあとになってこのような決議をしたのかといえば、日本人には驚きなのだが、トルーマン政権がこの密約のことを隠していたからだ。アメリカは外交文書を「アメリカ外交文書」という本にまとめて公表しているが、ポツダム会議の巻が出版されたのは一九五二年だ。それまでルーズヴェルトもトルーマンも、自分がどんな外交をしたのか議会と国民に隠してきた。1945年2月、ヤルタ会談開始前にルーズベルト米大統領(右)の宿舎を訪ねたスターリン・ソ連首相。米議会は2人の「汚い密約」を認めなかった それで思い当たるのは、ポツダム会議でヴャチェスラフ・モロトフ外相から、日ソ中立条約を破って対日戦争に入るよう連合軍がソ連に要請する文書をもらいたいといわれたときの国務長官ジェイムズ・バーンズの対応だ。彼は「モスクワ宣言第五項と国連憲章第一〇三条、第一〇六条で正当化できるので、その必要はない」と答えた。笑えるのは、ソ連側がこの回答をもって対日戦争を正当化する根拠としていることだ。 バーンズおよびトルーマンの真意は、おそらくソ連の参戦はないのだから、日ソ間の協定を知りながら、ソ連に侵略戦争をすることを求める文書などに署名したくないということだ。これを残せば、アメリカ議会の追及を受けるのは必至だし、いずれ公文書として公開されて、孫子の代までアメリカ国民から後ろ指をさされることになる。一般のアメリカ人は、このような政治家や弁護士の「汚い取引」を最も忌み嫌う。 この二人とちがってモラルも良識もあるアメリカ議会は、やはりこの「汚い取引」をよしとしなかった。それどころか、とくに共和党議員は、ルーズヴェルトの秘密・個人外交を断罪し、返す刀でそれを引き継ぎ、隠したトルーマンも非難した。ここがアメリカの懐の深さで、ソ連、中国、韓国とちがうところだ。どうもアメリカ側でまともでなかったのは、政府首脳だけだったようだ。 現在のロシアにもまがりなりにも議会があるのだから、自らの権力強化のために、数千万人の自国民を処刑したり、収容所送りにしたりした独裁者スターリンを断罪したのなら、彼の個人・秘密外交も非難し、こんな密約を結んだことを恥じ、日本から奪ったものを返すと決議したらどうか。戦後処理と関係ない中共・韓国 ちなみに、中国と韓国の厚顔無恥な歴史捏造が目立つのでとくにいっておきたいのは、中国(共産党)と韓国も日本の戦後処理を決めたサンフランシスコ平和条約の加盟国となっていないということだ。 中国共産党は、日本と戦いはしたが、日本軍に追われて、延安周辺をさまよっていて国家の体をなしてなかった。また、この平和条約が締結されたときは、朝鮮半島でアメリカと戦っていた。ポツダム宣言の署名国で、サンフランシスコ条約の署名国となったのは、中華民国、つまり我々が台湾と呼んでいる国である。 韓国にいたっては日本と戦争すらしていない。だから、この国が主張するような戦勝国であるはずがない。現在の韓国人、北朝鮮人および在日朝鮮人は、明治四十三(一九一〇)年の日韓併合から終戦まで日本人だった。だから、ついでにいうが、戦時中彼らは日本人として動員されたのであって、世界産業遺産だろうがどこだろうが、朝鮮人として「強制労働」させられたのではない。 たしかに李承晩ら上海周辺にいた抗日グループは反日運動を行っていたが、これは「抵抗運動」とはいえても彼らが主張しているような「戦争」とは呼べない。サンフランシスコ平和条約をまとめたジョン・フォスター・ダレスもそう判断して、サンフランシスコ会議に戦勝国として参加したいという李承晩の要求をはねつけた。その前には、アメリカ国務省が竹島は韓国の領土だとする主張を根拠がないとして退けていた。  このようなアメリカに対する腹いせとして、海上自衛隊が発足を目前に控えた昭和二十七年一月一八日に国際法を無視して李承晩ラインを引き、竹島をその内側にとりこんだ。韓国は「われわれ」にもサンフランシスコ平和条約署名国にも入っていないのだから、これも侵略であり、不法占拠だ。中韓ほど歴史捏造しない露中韓ほど歴史捏造しない露 ここまでロシアの言い分をつぶしてくれば、なぜロシアが④など持ちだすのかわかる。ほかに出せるものがないからだ。そもそも、日本の戦後処理を決めたサンフランシスコ会議に参加して、はっきりとした協定を結んでいれば、④など持ちだす必要がなかったはずだ。協定を結ばなかった以上、ソ連には日本の戦後処理に関して、自らの権利を主張することはできない。実際、この平和条約では、南樺太と千島列島をソ連のものとはしなかった。権利を放棄したのだから、わざわざ与える必要はないということだ。 この敵国条項にしても、当該二国間で話し合い、合意に達すれば、返還を実行するうえで妨げになるわけではない。ロシアがこの条項をあげるのは、ようするに、日本の要求に応じたくないということだ。つまり、この条項があるから北方領土を返さないのではなく、返したくないからこの条項を盾にしているのだ。 もちろん、日本が敗戦国になったことを思い出させ、心理的ダメージを与えるという意図も含まれている。メドヴェージェフ首相がいうように、ソ連・ロシアが本気で日本と友好的関係を結びたいと思っていたなら、「敵国条項」などというおどろおどろしい名称の遺物を持ちだしたりしなかっただろう。北方領土をめぐり強硬発言を繰り返す露のプーチン大統領㊧とメドベージェフ首相。泥棒こそが自らの盗みの手口を知っている(AP) ただ、一つだけ救いを見つけるとすれば、ロシアは中国や韓国のように歴史の捏造に熱心ではないことだ。ラブロフらにしても、以前のほどにはヤルタ極東密約やポツダム宣言やサンフランシスコ平和条約や敵国条項のことはいわなくなった。それらをもって正当化できないという歴史認識を持っているからだろう。もともとソ連・ロシアの歴史学者は、もちろん研究者にもよるが、中国や韓国の同業者のような歴史とプロパガンダの露骨な混同はやらない。占拠の不法性を自ら認識 政治家にしても、確かにメドヴェージェフの北方領土視察は許しがたいが、このようなことをするようになったのは、ついこの数年のことだ。それまでは、これまでの歴史的経緯も踏まえて(彼らにとってそれどころでなかったことも加わるが)、あの傍若無人なソ連およびロシアが、それなりに自粛していた。これも、歴史とプロパガンダが混然一体となっている中国と韓国には認められない点だ。これら両国は歴史改竄を繰り返すので、要求がどんどんエスカレートし、話せば話すほど距離が開いていく。ロシアはこの点では、彼らよりましだと感じられる。 メドヴェージェフやラブロフの発言は、彼らの歴史認識というよりは、政治的意図が先に立ったものだろう。前述のように、本心では北方領土を占拠する根拠がないということを認識しているようだ。ただ、日本側がかならず食いついてくるので、日本を釣る外交カードとして使っている。今のところ、ロシアは他に有効なカードをもっていないので、これからも使ってくるだろう。ゆえに、このカードを手放すつもりはないだろう。 実際問題として、武力によって奪い取られたものを、平和的手段によって取り戻すことは至難の業だ。はっきりしていることは、奪われたものを取り戻すことは、日本単独ではできないということだ。何らかの形で、日本が他の複数の国と連携してロシアに圧力をかけられる国にならなければ、悲願は達成できないだろう。それまでは臥薪嘗胆するしかない。ありま・てつお 昭和二十八年青森県生まれ。五十二年早稲田大学第一文学部英文科卒業、五十九年東北大学大学院英文学専攻博士後期課程単位取得満期退学。同大教養部講師、助教授などを経て平成九年早大社会科学部(メディア研究)助教授、十一年から同教授。アメリカの占領政策と日本のマスメディアの関係を明らかにする研究に取り組む。また「メディアはすべて広告メディアである」という事実を踏まえ、広告が大衆文化の形成とどのようにかかわっていたのか、それにどのような今日的性格を与えたのかを歴史的に研究する。著書に『原爆と原発「日・米・英」核武装の暗闘』(文藝春秋)、『1949年の大東亜共栄圏―自主防衛への終わらざる戦い』(新潮社)、『「スイス諜報網」の日米終戦工作:ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(同)、『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)など。

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    テーマ

    北方領域へのロシア侵略と売国の徒

    北方領土四島だけでなく、帰属未定の樺太・北千島の不法占拠を続けるロシア。数年来の強硬姿勢は「これが戦後秩序だ」とする主張に、実は国際法上の根拠がないことの〝裏返し〟だという。そして日本にはロシアを利する勢力がある。

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    記事

    党略で樺太を投げ棄てた日本共産党  ロシアを利するおかしな領土解釈

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書) 返還要求を「広さ」で競う? もう三十年くらい前だ。私が駆け出しの「職業革命家」(日本共産党の専従職員を指す党内用語)だったとき、衆議院議員候補者の秘書をさせられ、党中央委員会の幹部でもあった候補者の会話をごく間近で聞くことができた。中選挙区制度下での解散・総選挙を受けて選挙区内を朝から晩まで共に駆け回り、様々な階層の人たちを集めた小集会や演説会を日に何件もこなしていた。 ソ連邦が崩壊するより何年も前で、「ソ連に奪われた北方領土の返還にどう道筋をつけるか」という問題について、集会に出席した人からよく質問が出た。そんなとき、党機関紙「赤旗」の外信部記者として海外駐在経験もある候補者氏はうれしそうにこう説明したものだ。「ソ連から戦争で奪われた領土を取り返すことでは、日本共産党が主張しているやり方が一番筋の通ったものです。『北方領土』の四島返還だけではなく、全千島の返還を主張しています。これは歯舞、色丹、択捉、国後などの四島以外の放棄を決めたサンフランシスコ条約第二条C項の廃棄を通告すれば可能です」「日本共産党は、日露戦争でロシアから賠償として奪った南サハリン(樺太)を除き、日露間の正常な交渉で平和的に画定した領土である全千島列島の返還を求めます。どの政党よりも一番広い範囲の返還をソ連に求めていることになるのですよ」 質問者は「へえ、それはすごいね。共産党だからソ連の仲間だと思ったのに、そこまでものをいうんだね」「そんなに大きな広さの返還を求めているなんて、知らなかった」などと驚いていたように思う。 すると、候補者氏、さらに喜んでこう付け加えたものだ。「日本共産党は自主独立の党で、ソ連でもアメリカでも中国でも、どんな大国に対してもきっぱりものを言ってきましたから」 平成初頭までの党最高権力者、宮本顕治が打ち出していた「自主独立路線」と結びつけて、ソ連からの領土返還論を日本共産党は語っていたのだ。この「自主独立」は、不破哲三など党最高指導者が懐柔され、中国共産党政権の海洋覇権追求のような対外膨張主義にも一切もの申さなくなった最近の日本共産党が、口にしなくなって久しい。 私が候補者氏から「要求面積が最も広い返還」論を聞いた昭和六十年前後から、日本共産党は「四島返還を求める立場にも柔軟に対応する」と称し、毎年二月七日の「北方領土の日」の「北方領土返還要求全国大会」に参加するようになった。 その一方で、相変わらず「日本政府は、千島の南半分の国後、択捉と、千島に含まれない歯舞、色丹のみ返還を求めています。これは日本政府が、一九五一(昭和二十六)年に各国と結んだサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄するという重大な表明をおこないながら、五六年になって『国後、択捉は千島に含まれない』との見解を出し、歯舞、色丹と合わせ『北方領土』として返還を求め始めたからです。この立場は国際的には通用せず、日ロ間の交渉の行き詰まりと迷走の一因」(平成二十二年一月二十七日付赤旗「千島問題をなぜ『北方領土問題』と呼ぶ?」)など、「全千島返還」論を唱える自党のみの正しさを言い続けている。選挙目当てのご都合主義選挙目当てのご都合主義 当時、若さゆえに党の路線と「科学的社会主義」(マルクス・レーニン主義の言い換え)に頭をしばられていた私は、こうした日本共産党のやり方に疑問は持たなかった。しかしその後、国会論戦や政策準備のため、政府側のレクチャー(担当省庁職員による説明)聴取や資料調査を長期にわたって経験し、さらに党から離れるに至る中で見方が変わった。 自分なりの判断として「全千島返還」論など日本共産党の領土問題への主張と対応は「選挙目当てのご都合主義」にすぎないもの、と考えるようになったのである。 理由の第一は、平和条約締結へ向けたソ連・ロシアとの領土返還交渉の経過と到達点を全く無視した、非現実的な議論であることだ。宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長(左) ソ連時代、さらにソ連崩壊後はロシアのエリツィン、プーチン政権との交渉で、ともかくも昭和三十一年の日ソ共同宣言を出発点に領土返還交渉を行うという認識が、日露両国で共有されたのが到達点である。平和条約締結に向けて歯舞、色丹の「二島返還」は最低ラインで、後の問題は協議していくというものだ。 日本共産党の「全千島返還」論は、この到達点を帳消しにして一から交渉し直せというものに等しい。現段階では北方四島を含め全千島、南樺太を不法占拠ながら実効支配するロシアがこんな議論に応じることは、現実的にまったく考えられない。 日本政府が旧島民を含む国民世論を背景に交渉してきた到達点(不十分なものにせよ)に冷水をぶっかける議論が「全千島返還」論だ。こんな乱暴な主張は、政治的にどちらの国を利するものか明白である。 理由の第二は、日露間の領土形成の歴史的事実を覆い隠し歪めた議論が「全千島返還」論の底流にあることだ。まず、「南サハリン(樺太)は戦争でロシアから奪ったもの」とする解釈が、樺太をめぐる我が国とロシアの歴史の事実をまったく無視したデタラメである。 さらに「千島列島全体が一八五五年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好(和親)条約と、七五年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」(同)という説明は、幕末―明治初期の日露の力関係や帝政ロシアの帝国主義的ふるまいに目をつぶったもので不正確きわまりない。これらについては、後述する。北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ 結局、日本共産党の「全千島返還」論は、歴史の事実の中から選挙目当ての自己宣伝に都合のよいものを拾って、単純な理屈になるようつなぎ合わせたものとしかいいようがない。不勉強な候補者や議員でも有権者に説明しやすく加工した子供だましの「日露外交」論なのだ。 まあ、共産党員の身内で何を信じようが勝手だが、これをデマゴギーよろしく有権者の間へ広範に流布し、国政に影響を与えることは日露交渉に有害な影響を与えかねないし、現実にそうだったのではないかと、私は危惧している。樺太の開拓に先んじた日本樺太の開拓に先んじた日本 樺太という名前は、かつて東北地方から北海道、千島列島、樺太全域、カムチャツカ半島に至るまで分布・居住していたアイヌ民族の言葉でこの地を呼んだ「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」(神が河口部に作った島)の中の「カラ・プト」が起源だ。 一方、ロシア側が現在用いている地名「サハリン」は、同地を清王朝時代にツングース系の満洲語で呼んだ「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ」(黒龍江河口の対岸の島)の最初の部分から来ている。これは、十八世紀に清朝がイエズス会修道士に命じて黒龍江沿岸を測地測量させた際に命名されたもので、「黒龍江(アムール川)河口にある島」という意味では、アイヌ語と共通だ。 南北約千㌔にわたり面積は北海道より小さい樺太は、もともと周辺国(大陸や半島の歴代王朝)には地形的つらなりから「倭・日本の一部」として認識されていた。日本による同地の活動で最も古くは、飛鳥時代に斉明天皇(五九四―六六一)が阿倍比羅夫(あべのひらふ)に行わせた蝦夷征伐に続く粛慎(しゆくしん)(黒龍江沿岸から樺太周辺にかけて生活していたツングース系狩猟民族)討伐とする説がある。「正保御国絵図」には樺太(上)や千島(右)などが書き込まれている 十三世紀は、モンゴル帝国(元)と樺太の原住民、それに日本(鎌倉幕府が蝦夷(えぞ)管領(かんれい)を配置し対応)が同地を軸に覇権を争った。一二六四年に元が樺太に軍勢を派遣し、彼らが「骨嵬(クギ)」と呼ぶ現地民を征服したが、八四年には「骨嵬」側が反乱。九七年には蝦夷代官(管領)の安藤氏が樺太原住民(アイヌ民族など)に加勢し、彼らを率いて大陸の黒龍江沿岸まで攻め入って元軍と交戦した。 結局、十四世紀になって「骨嵬」が元に朝貢するようになったが、その後も蝦夷地(北海道)を経由して日本との交流が継続された。 ロシアでの統一帝国(ロマノフ朝)成立が一六一三年であり、樺太周辺での日本の活動の起点を粛慎討伐に置くなら、これより千年近く先んじている。ロシア帝国がその勢力圏を黒龍江河口周辺に届かせ始めたのは一六四四年、同地に辺境討伐のコサック先遣隊が到達してからだ。 江戸時代に入っていたこの時期、松前藩が樺太について幕府に蝦夷地の北にある大きな島として地図を提出。これを含め各藩から提出された地図を基に幕府がまとめた日本全図「正保御国絵図」に樺太は描き込まれていた。 以後、松前藩を軸とした開拓の拠点づくりが進み、一七五二年には樺太での商取引から租税徴収を行う樺太場所(場所請負制度=米を作れない蝦夷地特有の租税徴収システム)が設けられた。一方、北海道太平洋岸と千島は、幕府直轄領とされたので、樺太は松前藩の領地経営の上で、重要な位置づけのものとなった。 以上の経過を見るなら、ロシアはもとより、周辺国よりも先駆けて日本は樺太の開拓に着手していたことがわかる。間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力 ロシア帝国が樺太に対して領土的野心を示し始めたのは、十九世紀に入ってからだ。十八世紀後半にはヨーロッパの大国に数えられるに至ったロシア帝国は、シベリア開発に本腰を入れると共に太平洋岸への進出を図った。 その中で、鎖国政策をとっていた日本に開国と通商を求めるようになったが、文化三(一八〇六)年から四年にかけて、外交官ニコライ・レザノフ(一七六四―一八〇七)配下のロシア海軍艦船と将兵は、通商を日本から拒絶された報復として幕府直轄領の択捉島や松前藩領内の礼文島、樺太の留加多(るうたか)を武力攻撃した。 これを受けて、幕府は蝦夷地や千島、樺太(北蝦夷地)全体を直轄領とし(その後、文政四=一八二一=年に一旦すべてを松前藩に返還)、その防備のために秋田藩、弘前藩、仙台藩、会津藩への出兵を命じた。 一八〇八~〇九年には、ロシア海軍の礼文島襲撃の際に同地に幕吏として赴任していた間宮林蔵(一七八〇―一八四四)が樺太全域と黒龍江下流域の探検調査を実施。伊能忠敬(一七四五―一八一八)から測量技術を伝授された間宮は、享和三(一八〇三)年から伊能と共に蝦夷の測量・地図作製に参画した。その経験を生かして樺太の探検に取り組み現地の地勢を正確に把握するとともに、最北端までの全域踏破により樺太が完全な島であることを確認した。 この探検の際、間宮らは樺太最西端のラッカ岬に「大日本国国境」と刻んだ国標を設置している。これらは、本来、樺太に関する日本の領土的主張の歴史的根拠として不足のない事績であり、間宮の歴史的功績というべきものだ。 また、文化元(一八〇四)年以降、幕府は北蝦夷地のアイヌの住民数を把握(同年で二千百人)。以後明治八年まで、住民数は幕府・明治政府が掌握するに至っている。 幕末期が近づく十九世紀半ばには、東アジア進出へのロシア帝国の野心がいっそう強まり、引き続き江戸幕府への開国要求の機会を狙うとともに東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ(一八〇九―八一)は、海軍に樺太調査を命じ、一八四八年に初めて艦船によるタタール海峡(間宮海峡)の通航を実施。ムラヴィヨフは、樺太領有をめざす対日強硬論者で、その後も軍事力をちらつかせながら日本側に譲歩を迫り続けた。ニコライ・ムラヴィヨフ 安政元(一八五五)年末に日露和親条約が下田で締結された。千島については択捉島と得撫島の間に国境線が引かれ、樺太については「界を分かたず是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)」とした。幕府は「これまでどおり日本領であり、国境を設けるようなことはしない」という認識で、ロシア人の居留も黙認した。このため安政六(一八五九)年にムラヴィヨフ自ら七隻の海軍艦隊を率いて江戸・品川に来航し、幕府との交渉で樺太はロシア領であると強硬に主張した。 以上のように、ロシア帝国は十九世紀の初めから後半にかけて執拗に日本側に軍事力を背景にした圧力をかけ続け、樺太をわがものとし、さらにそこを足場に日本本体にも進出する野心をあらわにしていた。 江戸まで押し掛けたムラヴィヨフの横柄な要求を、幕府は退けた。しかしながら、ロシア以外にも中国大陸や東南アジアに西欧列強(英、米、仏など)が帝国主義的に進出し、日本にも開国を迫る中、長い治世を鎖国状態で推移した江戸幕府は、あまりに非力であった。 こうした圧力下、樺太ではロシアの武力による支配が着実に広がり、日本側との摩擦が強まったので、慶応三(一八六七)年に幕府が国境画定交渉をロシアにもちかけるが、逆にロシアの新規進出を認めてしまう内容の「仮規則」を結ばされてしまう。これでロシアの支配が一層強まり、明治八(一八七五)年、樺太・千島交換条約で日本は樺太を放棄せざるを得なかったのである。日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠 当時の日本としては、自分のものである大きな島を、元々は自分のものだった小さな島と引き換えに泣く泣く手放したという感が強かったとされる。明治政府内も「北辺の樺太を手放して、北海道開拓に力を集中することが長期にわたる国益につながる」とする黒田清隆(開拓次官)らの「樺太放棄・北海道防衛」論と「日露が住み分ける国境を樺太に画定すべし」という副島種臣外務卿(外相)らの「住み分け」論に割れていた。加えて「征韓論」を主張する重鎮たちが下野するなど、新政府として基盤が安定しておらず、大国ロシアに屈せざるを得なかった。 これが、日本共産党の言うところの「戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」した樺太や千島に関する日露両国の経過だ。「平和的な交渉」が大国ロシアの軍事恫喝を背景にしていたことは、歴史の事実をたどれば誰にでもわかる。「南樺太割譲」は過小な失地回復「南樺太割譲」は過小な失地回復 樺太、千島をめぐる日露間の領土、国境変更がなされる次の機会は、明治三十八(一九〇五)年の日露戦争終結にともなうポーツマス講和条約だ。日本はロシアより北緯五十度を境に樺太南部の引き渡しを受けた。 日本勝利が確実となった同年六―七月にかけて陸軍第十三師団が樺太全域を占領した。これが八月からアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠で開始された講和会議で日本側有利をもたらす力のひとつとなった。それは元々日本が開拓した土地を取り戻したとして、日本史上初の近代戦に疲弊した国民を一面で喜ばせた。 ところが、同九月五日に調印された講和条約では「朝鮮での日本の優越権の承認」「ロシアが保有する東清鉄道の南満州支線及び租借地・炭鉱の日本引き渡し」「ロシアが清より与えられた関東州(遼東半島南部、旅順・大連など)の租借権の日本引き継ぎ」「日本による沿海州漁業権獲得」が南樺太回復以外の成果すべてであった。「戦争に勝ったというのに賠償金もとれず、元々日本のものであった土地の一部を返されただけだ」と、多くの日本国民が失望。「日比谷焼き討ち事件」の暴動にも発展した。覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ) 講和による日本の獲得要件が、国民の希望とかけ離れていたのは、陸軍の奉天会戦や旅順攻囲戦、海軍の日本海大海戦など劇的な勝利とは裏腹に、武器弾薬確保や戦費調達に汲々として、これ以上の継戦は難しいというタイミングだったからだ。強気で要求を百%ロシアに呑ませられる状況ではなかった。 こうした中で樺太回復が南部にとどまったことが、国民に相当なマイナス意識を抱かせたことは、樺太千島交換条約から三十年の時点では間違いないだろう。歴史歪曲は国民的議論で克服を歴史歪曲は国民的議論で克服を 日露戦争の終結と講和まで俯瞰すれば、日本が「樺太の一部をロシアから戦争で奪った」といえる実態がないことは自然な歴史的理解だといえる。日本共産党の言い分は、樺太をめぐる日本とロシアの歴史に目をつぶるデタラメきわまるものだ。 その後、第二次世界大戦末期にソ連軍が「火事場泥棒」的に南樺太、全千島列島と北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事侵攻して占領した昭和二十年までを見ても、南樺太の 領有が日本と帝政ロシア・ソ連との国家関係を阻害したことは一度もない。一九一七(大正六)年の社会主義革命でソヴィエト・ロシア共和国が成立し、日本は米英仏などと軍事干渉してシベリアに出兵したが、ソ連邦成立後の一九二二年までに撤兵。尼港(虐殺)事件の賠償保障で占領した樺太北部からも大正十四年の日ソ国交樹立に伴い撤退した。 以後、日本は昭和十年から満洲や朝鮮においてソ連やその衛星国(モンゴル人民共和国)が絡んだ国境紛争に何度か関与したが、樺太国境で武力紛争は生じなかった。それどころか、尼港事件の賠償として日ソ基本条約で取り決めた北樺太石油利権獲得で、日本はオハなど油田開発に資金をつぎ込んで事業を展開した。 日独伊三国同盟成立時にソ連側サボタージュで石油の積み出しが妨害されるなど紆余曲折があったものの、昭和十六(一九四一)年の日ソ中立条約締結を機に、油田と附帯施設すべてをソ連側に譲渡した。 以後、ソ連の日ソ中立条約廃棄通告が誤解に基づくと判明しながら、その有効期限内の昭和二十年八月九日に条約違反の対日宣戦を行ったことが決定的だった。日本が降伏条件を定めたポツダム宣言を受諾し、米戦艦ミズーリ号上で日本とソ連を含む連合国の各国代表が降伏文書に調印(九月二日)後も、ソ連は九月五日まで、最高指導者スターリンが宣言した「日露戦争の報復」を掲げた南樺太、千島列島、歯舞・色丹への軍事侵攻を停止しなかった。 結果として、樺太での真岡郵便通信局での九人の女性交換手自決や三船殉難事件(樺太からの婦女子避難船三隻がソ連潜水艦の攻撃で沈没)などをはじめ、南樺太で生活を営んできたアイヌ民族を含む日本国民は多くの死傷者を出した上に故郷を追い立てられたのである。 以後、樺太はソ連によってサハリン州とされた。日本政府は、公式にはソ連を引き継ぐロシア連邦との平和条約締結がされない限り、北方四島は日本固有の領土であり、樺太南部や千島列島(北千島)は帰属が画定していない地域としている。ただ、千島列島と南樺太はサンフランシスコ条約で放棄したとして、昭和三十一年の日ソ共同宣言以降、ソ連・ロシアとの返還交渉の対象にしたことはない。 しかし「南樺太は日本がロシアから戦争で奪った」とする日本共産党の言い分は、樺太開拓に命をかけた先人の事績に泥を塗り、存命者のある南樺太出身者(多くは北海道各地に避難し、再出発した)の心を傷つけるものだ。こんな虚偽の前提に立つ「全千島返還」論は、国民的議論の中で克服されなくてはならない。 歴史の事実の中での樺太をめぐる経緯、国民生活史の中での位置づけを明確にしてこそ、仮に返還交渉の焦点が北方四島であったにしろ、日本の歴史的主張の正当性を、ロシアを含め国際的に広く知らしめ交渉妥結へ進める道が拓かれるはずだ。しのはら・じょういちろう 昭和三十五年東京生まれ。五十九年立教大学文学部卒業。臨時教員などを経て六十年日本共産党職員に。平成七年党中央委員会に移り、党政策委員長で参院議員だった筆坂秀世氏ら三人の国会議員公設秘書を務める。KSD(中小企業経営者福祉事業団)事件や国後島「ムネオハウス」事件、川辺川ダムなど公共事業問題、沖縄の米軍射撃演習問題などの調査、論戦準備に従事した。十六年に党の査問を受けて除籍された後、政治評論や共産党批判を展開。主な著作に『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』(徳間書店)など。ソ連、中国その他旧社会主義国の政治外交・軍事史や共産主義理論の研究・批判も続けながら国会・地方議員のアドバイザー、海外事業コンサルタントとしても活動している。

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    “宇宙人”鳩山元首相のクリミア訪問を最大限利用するロシア

     [Inside Russia] 欧米発の情報で「日本人は洗脳されている」関屋泉美 「いよいよ宇宙人になった」――。弟邦夫氏にそう酷評された兄の鳩山由紀夫元首相のクリミア半島訪問は、連日、ロシア主要メディアがトップニュース扱いで伝えた。昨年3月のプーチン政権による併合以来、世界の主要国で首脳経験を持つ大物政治家が現地を訪れたのは今回が初めて。新右翼政治団体「一水会」のリーダー、木村三浩氏やジャーナリストの高野猛氏らが加わった代表団を率いた元首相は行く先々で手厚い歓迎を受け、滞在中、日本国内での批判が伝えられると、クリミアへの移住の可能性まで口にした。 欧米が国際法違反と指摘し、ウクライナの領土一体性を侵害する発端となった昨年3月の住民投票について、元首相が「民主的な手続きだ」と評価してその正当性を認めたことは、日本と領土問題を抱えるプーチン政権へ誤ったシグナルを与えかねない。クリミアを訪問した鳩山由紀夫元首相(写真:ロイター/アフロ)一行を国賓級扱いで迎え入れ 鳩山サイドは用意周到にクリミア訪問を準備したようだ。露有力紙コメルサントによると、鳩山氏は昨年8月に訪問の希望を表明、クリミアの地元政府に手紙を送り、正式な招待を受け取った。3月の訪問となったのは、この時期に併合1年の記念行事が行われるため、「現地の人々と交流したい」と強く希望する鳩山氏自身が選択したのだという。 クリミアとの仲介役を果たしたのは、一水会の木村氏とみられる。木村氏は数回、現地入りを果たし、プーチン大統領と関係を持つ地元の政治リーダーたちと交流を深めていた。日本の政府要人や有識者とも関係を持つ木村氏は、日本きっての親露派として、ロシアの外交当局もその行動力を認めている。今回の鳩山氏のクリミア訪問実現について、木村氏は現地メディアに「歴史的な意義がある」と打ち明け、「日本の外交政策に影響を与え、変更するチャンスを与えるものだ」と自賛した。 クリミア地元政府のある幹部は「(鳩山元首相のような)高いレベルの政治家は大きな政治的重みを持つ。国際社会がその意見や立場を注視する」と言い、今回の招待を歓迎した。コメルサント紙は、訪問日程がロシア外務省の現地支部のもとで綿密に作成され、鳩山氏一行を国賓級扱いで迎え入れたことも伝えた。「美しすぎる検事総長」との面会も話題に「美しすぎる検事総長」との面会も話題に ロシアが孤立を深める中で、主要7カ国(G7)の首脳経験者の訪問効果を高めるために最善の策が錬られたのは、日本で知名度の高いナタリヤ・ポクロンスカヤ女史が代表団と面会する日程が組まれたことを見ても明らかだ。クリミア検事総長 ナタリヤ・ポクロンスカヤ氏(写真:Newscom/アフロ) 34歳の若さでクリミア共和国高等検察庁検事長の肩書きを持つポクロンスカヤ氏はその端正な容姿から日本でも「美しすぎる検事総長」として似顔絵や写真がネット上で紹介されている。ロシアでもクリミアの有名人の1人として注目を集め、髪型を変えただけでもメディアの話題に上る。ポクロンスカヤ氏は欧州連合(EU)の制裁対象リストに含まれているが、日本で人気を博していることは、クリミアでも広く知られていた。 ポクロンスカヤ氏は一行の滞在2日目、クリミア共和国指導部との会談の場に現われた。ポクロンスカヤ氏の同席は日本側のたっての希望で実現したのだという。現地通信社「クリムインフォルム」が会話のやりとりを事細やかに伝えている。 この会談の前に報道陣に「その美貌のファンだ」と答えた鳩山氏はポクロンスカヤ氏を前にこう述べた。 「あなたやあなたの活動について伝え聞いている。我々の代表団の中でも、あなたと会いたがっていた者が何人もいる。私も含めてだ。あなたがこの場にいてくれて私たちは幸せだ」 するとポクロンスカヤ氏はこう返答したという。 「あなた方が、(昨年3月にロシア編入の可否を問うた)住民投票がウクライナの法律と国際法に基づき行われたと指摘してくれたことは私にとって光栄なことだ。検事は常に法律の側に立つ。ところがキエフではそうではなかった。ウクライナで女性や子供たちが銃撃された際に国際社会が反応しなかったことは私を驚かせた」 席上では露日友好団体の地元支部のトップにポクロンスカヤ氏が就くことも提案された。鳩山氏は「もしポクロンスカヤさんがロシア側にいるのなら、日本では誰もが賛成するだろう」と持ち上げた。沖縄米軍基地についてクリミアで協力依頼?沖縄米軍基地についてクリミアで協力依頼? 高まる一方の鳩山非難をよそに、ツイッターやネット掲示板で盛り上がる日本国内の反応を見る限り、ポクロンスカヤ氏に焦点を当てた宣伝作戦は成功しているように思える。 ロシアではいま、対露制裁を科す欧米諸国内でも、ロシア寄りの政治家や有名人の発言は大きく取り上げられる状況にある。ロシアが経済的な苦境を極める中で、その傾向はますます顕著になっている。欧米に賛同者がいることを示すことで、プーチン政権の失態をうやむやにし、不満を抱くロシア国民の溜飲を下げる意味合いがある。 プーチン政権が統制下に置く主要メディアが取捨選択して、今回の鳩山氏の言動をどう報じたかを見れば、ロシアがいま何を欲し、外国からどう見られたいのかがわかる。いくつか紹介したい。「自分の目で見る。日本の元首相、クリミアへ到着」「日本の元首相:西側のメディアはクリミアについて一方的な情報しか与えない」(露国営紙ラシースカヤ・ガゼータ)「日本の元首相、クリミアの人々の暮らしぶりについての真実を日本国民に伝えるのを約束する」(全国放送NTV)「鳩山元首相『クリミアの人々は自分たちをロシアの一部と認識』」(ラジオ局ロシアの声)「日本の元首相:クリミアの住民投票は住民の現実の意思を反映している」(ロシア・トゥデイ)「日本の元首相は、クリミアの通りで戦車も貧困な人たちも目撃していないと言った」(タス通信)「日本はクリミアの発展に大きな貢献をすることができる-鳩山由紀夫」(露誌論拠と事実) 特に、ロシアと敵対する米国を批判する論評は強調されるきらいがある。鳩山氏は今回、クリミアで行われた記者会見で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について「米国政府の強い影響下にある」安倍政権が沖縄県に圧力をかけて強引に実現しようとしていることを強く批判してみせた。元首相クリミア訪問の関連記事で、一時的に菅直人氏の写真を「鳩山由紀夫氏」と伝えたロシアの国営通信社・タス通信。見分けがつかなかった? 鳩山氏は会見で「沖縄にこれ以上、米軍基地を作らせないようクリミアの方々にも協力して欲しい」と語ったが、この発言が辺野古移設問題になじみがないクリミアで報じられるのは異例なことだ。鳩山氏が米国の政策に反発する日本の政治家の1人であることがこうした報道の背景にある。 ロシア社会に影響力を持つロシア国営放送は鳩山一家とロシアのつながりをクローズアップし、鳩山由紀夫氏のことを「日本社会に迎合しない自立した政治家」と紹介して見せた。「宇宙人」とは真逆の肯定的な見方としては、確かに言い得て妙だ。 鳩山氏は訪問の最後で、「多くの国民は、間違った情報のもとに洗脳されてしまっている。洗脳された意見というものを変えることは簡単ではない」と語り、自分の目で見たクリミアの真実を語ることを誓ったが、実の弟に「兄は少なくとも日本人ではなくなった」と言われてしまっては元も子もない。 果たして、ロシアから帰国した後、鳩山氏は何を語るのだろうか?

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    ロシアが北方領土返還を拒むのはなぜか オホーツク海の戦略原潜が障害物だ

    榊原智(産経新聞 論説委員) 安倍晋三首相は、ロシアのプーチン大統領とのトップ会談を通じ、日本固有の領土である北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島)の返還を実現したい考えだ。しかし、安倍首相は執念を燃やしているのとは裏腹に、プーチン氏には応じる気配はみられない。  9月28日に国連本部で開かれた日露首脳会談は、平和条約締結に向けた対話の継続で合意した。だが、この会談の席上、プーチン氏から領土問題についての言及はなかった。10月8日にモスクワで再開された次官級協議でも議論は平行線をたどった。ロシアのラブロフ外相は折に触れて、領土交渉を拒否すると強調している。とりつくしまがないとはこのことだ。  ロシアはなぜ、北方領土の返還を拒むのか。領土に強欲な国家だからであることは歴史的に明らかだが、理由はそれに止まらない。1940年にスターリンによって併合されたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国のソ連からの離脱、再独立がソ連崩壊(91年)へ影響を及ぼした例もある。  日本は、ロシアがかたくなに北方領土返還を拒む理由を理解し、それを突き崩していかなければならないのだが、その理由の筆頭に、軍事的理由を挙げることができる。  ロシアの核戦略上、北方領土が接するオホーツク海が極めて重要な位置を占めているのだ。これが、北方領土返還を嫌がる隠された理由である。  オホーツク海に潜むロシア太平洋艦隊所属の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)は、米本土を核攻撃できる。ロシアにしてみれば、北方領土、とりわけ、オホーツク海に面する択捉島、国後島の2島を日本に返還することは、ロシアの戦略原潜の安全にとってマイナスになってしまうのだ。ソ連崩壊後初めて建造中の新世代の原子力潜水艦ユーリー・ドルゴルーキー(タス=共同)  これが北方領土問題をややこしくしている。  まずは、冷戦期に遡らなければならない。  陸上自衛隊の幕僚としてアメリカのシンクタンク、ランド研究所に留学し、冷戦末期の日本の対ソ防衛戦略を編み出したのが西村繁樹元防衛大教授である。その西村氏の著書『防衛戦略とは何か』(PHP新書)から引用したい。 「SSBNは、潜水艦の特性から海面下に潜むことができ、核戦争の最後まで生き残りを図ることができる。 このゆえ、米ソ戦の決をつけるべく最終的な核攻撃を行うか、この残存を梃子に戦争終結交渉に持ち込むか、最後の切り札の役割を担うのである。 ソ連の海軍戦略は、このSSBNの安全確保を最重要の柱として組み立てられた。この作戦構想は、その区域には何ものも入れない、いわゆる『聖域化(たとえばオホーツク海の聖域化)』であり、専門用語では『海洋要塞戦略』と呼ばれた。(略) 極東においても『海洋要塞戦略』の登場により、オホーツク海およびその周辺海域が、核戦略上の中核地域となるに至った」(38~39頁)  「地上戦に敗れるようなことがあっても、SSBNの安全が確保されるかぎり、第二次大戦のドイツや日本のように無条件降伏を押し付けられることもない。そのような要求には『相互自殺』の脅しをもって応えることができるからである」(44~45頁)アメリカへの「最後の切り札」  ソ連のアメリカに対する核戦略上の「最後の切り札」が、オホーツク海に潜む戦略原潜(SSBN)だった。そして、ソ連が崩壊してロシアになった今でも、この構図は基本的に変わらない。  『平成27年版防衛白書』は次のように指摘する。ロシアの核戦力の中で「SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を搭載したデルタⅢ級SSBNがオホーツク海を中心とした海域に配備されている。これら戦略核部隊については、即応態勢がおおむね維持されている模様」であり、2013年10月と14年5月の演習では、「デルタⅢ級SSBNがオホーツク海でSLBMを実射」している。  このとき、ロシア太平洋艦隊の戦略原潜はオホーツク海からロシア北西部のネネツ自治管区へ、ヨーロッパ方面の北方艦隊の戦略原潜はバレンツ海からカムチャッカ半島へ、それぞれSLBMを打ち込んだ。ネネツ自治管区はバレンツ海に面し、カムチャッカ半島はオホーツク海に面している。核戦争への対応能力をはかる大規模演習だ。いずれのときも日本政府は騒がず、大きく報道もされてこなかったことから、日本人は隣国ロシアがオホーツク海をこのように利用していることに気づいていない。  ロシアがオホーツク海に潜ませている戦略原潜は、ロシアにとっては、核大国である米国や中国と軍事的に対峙し、国家の存続をはかるための切り札である。もし、米国から全面的な先制核攻撃を受けても、オホーツク海の戦略原潜さえ生き残れば、米本土の大都市に報復の核の雨を降らせることができる。  このような核攻撃能力(第2撃能力)を持っている限り、ロシアは米国からの先制核攻撃を抑止することが期待できる。最悪の場合でも、無条件降伏せず、停戦交渉に臨むことができる。自国への核攻撃を防ぐとともに、ロシアは、自国を米国ともにらみあうことのできる「大国」とみなし続けられるのだ。  プーチン氏を含めロシア人は、日本人が想像する以上に、軍事優先の発想に立つ人々であって、オホーツク海の戦略原潜の意義はロシア軍部はもとより、ロシア政府の中枢にも認識されているに違いない。  ロシアにとって、核戦力は冷戦期に勝るとも劣らない重要性を持っているわけはもう1つある。ロシアの経済的弱体化、人口減によって、ロシア軍の通常戦力(非核戦力)がソ連軍当時と比べ格段に弱体化しているのだ。  たしかにプーチン氏は、ロシア軍特殊部隊を使って、きわめて巧妙にクリミアを手に入れ、ウクライナ東部を攪乱している。カスピ海に浮かぶ艦船からシリア国内へ巡航ミサイル攻撃をしてみせた。シリアへは陸海空軍を展開して、アサド政権に敵対する勢力に航空攻撃を行っている。鮮やかな手並みだが、あくまで限定的な新しいタイプの戦いを遂行しているだけともいえる。今のロシアに、米軍やNATO軍と正面きって戦う通常戦力はない。  だから、プーチン氏が、ウクライナ情勢をめぐり核攻撃の恫喝を行って世界から顰蹙をかったのだ。核の恫喝は、ロシアが米軍の介入自体や、米国製兵器のウクライナへの供与を恐れているからこその発言だった。日本人からすれば、米軍やNATO軍がロシア軍と戦うなど、それこそ想定外の話で、それはオバマ米大統領にとってもそうだろう。けれども、米軍やNATOから圧迫されていると感じているロシアは言葉による「核口撃」の1つもしたくなる精神状態にあるのだと思われる。それに比べ、強大な通常戦力を誇ったソ連の指導者は、プーチン氏のような核に依存する、露骨な言動をする必要はなかった。  ロシアが北方領土、とくにオホーツク海に面し航空基地もある国後島、択捉島を日本に返還すれば、自衛隊や米軍が潜水艦狩りに乗り出してきた場合、それを防ぐのに大きなマイナスがもたらされる。ことは虎の子の戦略原潜の安全にかかわるのだ。  共同通信は4月2日、「大演習で核先制使用想定 3月にロシア軍 抑止力高める狙いか 北方領土でも『戦闘』」との見出しのモスクワ電を配信した。それによると、「ロシア軍が3月中旬に実施した大規模演習の際、NATO軍や米軍とみられる仮想敵が、北極圏の島や北方領土を含む千島列島を攻撃し戦闘が起きた事態を仮定、核兵器の限定的先制使用の可能性を想定していたことが1日、分かった。(略)仮想戦場となった千島列島は、ロシア太平洋艦隊の戦略原潜が活動するオホーツク海を守る位置にあり、軍事的価値が増している」とある。  「北極圏」はバレンツ海を含むため、NATO軍が登場してもおかしくないが、オホーツク海方面は、米軍に加えて自衛隊も仮想敵視されていたことは容易に想像できる。  これは、冷戦時代ではなく、今年の話である。軍事優先のロシア人がやすやすと北方領土を手放すはずがないことがわかる。10月の日露次官級協議で、ロシアは北方領土を支配する歴史的正当性を唱えたようだ。日本は国際法や歴史的経緯に照らしても、北方領土は日本固有の領土だと主張している。ロシアの理屈は誤っており、日本の主張が真っ当であるのはもちろんだ。  北方領土は、終戦後のどさくさに、ソ連によって無法にも軍事占領された日本固有の島々であり、4島すべての返還を実現しなければならない。  そのために、オホーツク海を戦略原潜にとっての聖域としたいロシアの思惑をどう突き崩すのか。安倍首相や外務省は、このようなロシアの軍事戦略を把握した上で、北方領土を取り戻す算段をしているのだろうか。返還実現後の北方領土をめぐる軍事的取扱いはどうなるのか。オホーツク海をめぐるロシアの核戦略が、主として米国を向いていることから、米国にとっては自国防衛に関わる話となる。軍事の要素がからむ北方領土問題は複雑な上にも複雑なのだ。  深い思慮がないまま交渉を進めても、オホーツク海に面していない、択捉、国後と比べはるかに小さい色丹島、歯舞諸島をめぐる話に限られてしまいかねない。焦ってそのようなことで満足しては、私たちの世代は先達や子孫に顔向けできなくなる。  外交交渉によって、プーチン氏を翻意させ、4島返還につながっていくのが望ましいことは言うまでもない。ただ、本稿で指摘したように複雑な話であるのも事実だ。  それではどうするか。知恵を絞らなければならないが、返還実現のカギは、科学技術かもしれない。科学技術の進展で、戦略環境を激変させる方法だ。たとえばレーザー兵器である。将来技術が進み、レーザー兵器によって、発射され飛翔するSLBMなど核兵器の投射手段を容易に破壊できるようになれば、世界情勢自体が激変する。そのとき、ロシアにとって、オホーツク海ひいては北方領土の軍事的価値は大きく減ずることになる。これは夢想とまでは言えない。米軍の艦船などには一部、初歩的なものながらレーザー兵器の搭載が始まっている。北方領土の全面返還や、核の脅威の排除に向けて、日本も一肌脱いだらどうだろう。※「先見創意の会」コラムより転載。

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    功名心で国家を大きく損ねる 父祖の代から続く「鳩山・河野」コンビ

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より『別冊正論』編集部 大東亜戦争末期に日ソ中立条約を無視して対日侵攻し、樺太など北方領域を占拠し、七十万といわれる日本人捕虜を抑留使役したソビエトロシア。その国交回復を「命題」にした鳩山一郎と河野一郎が昭和三十一年十月に調印した日ソ共同宣言。双方のやり取りやソ連側の対応の変化について産経新聞は平成八年七月、独自入手した秘密資料などから具体的に報じた。そこでW一郎が、領土や七十万人への補償要求を切り捨てて、自らの命題を解決したことが改めて浮かぶ。 このため六十年経った今も、ロシアは北方領土や北洋漁業をめぐる強硬姿勢を崩さず、シベリア抑留の真相究明も進まない。さらにW一郎の手柄の一つとして加盟できた国連(連合国)は、今も日本を旧敵国としている。功名心に駆られた〝政治屋〟はいかに国や国民の利益を損じるか、の言い見本だ。 W一郎の孫や息子は今、公的な肩書を悪用して「尖閣は日本が盗んだ」「日本官憲の慰安婦の強制連行はあった」などと吹聴し続ける。この鳩山・河野コンビは今に始まったものではなく、六十年前から続く「売国の血筋」であることも教えている。 「旧ソ連対日交渉秘密文書を入手 『二島返還論』の真相 国後・択捉継続協議覆す」などと題した記事を再掲(一部修正)する。◇    ◇日本の政争につけこむ 昭和三十一年十月、ソ連との国交回復をうたった日ソ共同宣言の締結をめぐる首脳会談議事録やソ連共産党の指令書など秘密文書を産経新聞は入手した。ソ連側が歯舞(はぼまい)と色丹(しこたん)の返還を決定した経緯や、領土問題継続交渉を明記した草案をソ連側が強引に撤回したやり取りが判明した。 日ソ国交回復交渉は、自由党の吉田茂内閣の後を受けて二十九年十二月、日本民主党の鳩山一郎総裁が内閣を率いてから動き出した。 明らかになった秘密文書は、①三十一年六月に始まったロンドン交渉に関する文書②同九月の鳩山首相とブルガーニン首相との交換書簡③モスクワ交渉での河野一郎農相とフルシチョフ・ソ連共産党第一書記との四回に及ぶ会談議事録④同じく鳩山首相、河野農相と、ブルガーニン首相、ミコヤン副首相の会談議事録―など十四点。この中では、ロンドン交渉の前に、ソ連共産党幹部会の決定として「領土問題は解決済み」としていたソ連側が、交渉途中で歯舞、色丹の返還を打ち出した経緯が初めてわかった。日ソ共同宣言に署名する鳩山一郎㊧とブルガーニン㊨。鳩山は領土とシベリア抑留補償を切り捨てた=昭和31年10月19日、モスクワ 交渉では日本側全権で元駐英大使の松本俊一代議士が歯舞と色丹の返還をとくに強調したことなどから、ソ連側全権のマリク駐英大使は「日本側は歯舞と色丹を除いて国後、択捉両島の返還はあきらめている」との認識を持つに至った。 この報告を受けたソ連共産党幹部会は当初の決定を急いで変更し、歯舞、色丹の二島を返還することで日本との平和条約が締結されるとの強い期待を抱いた。言い換えれば、国後、択捉の返還をあくまで拒否しても日本側は譲歩する、と判断していたことがうかがえる。 しかし、三十年十一月の保守合同で誕生した自由民主党が四島返還を党議決定し、交渉は行き詰まった。翌三十一年五月、漁業交渉で訪ソした河野はブルガーニンとの会談を受けて、「二島返還、残りは継続協議」で党内の取りまとめに動く。 これに吉田派が強く反発し、米国も「北海道の一部である歯舞、色丹とともに、国後、択捉も日本固有の領土」との国務省の覚書を発表して牽制したことから、鳩山内閣としては二島返還による日ソ平和条約の締結がしにくくなった。 このため、鳩山は今回明らかになった同九月十一日付のブルガーニンあての書簡で、平和条約締結をあきらめ、「領土問題の交渉は継続協議」を条件に共同宣言の形で国交回復だけを図る方針に転換。だが、これを阻止しようとする反対派の主導で「二島返還、残りは継続協議」を国交回復の条件とする新党議を決定して勝手な交渉に枠をはめた。 領土問題を後回しにして国交回復を優先させる道を閉ざされた鳩山は、十月十二日にモスクワを訪問した。鳩山に代わってフルシチョフと会談を重ねた河野は、交渉が成功しなければソ連との国交回復に反対する吉田派ら反対勢力によって鳩山内閣が窮地に陥る、と懸命に訴えていたことが議事録でわかる。 河野はブルガーニンが五月の会談で「二島返還、残りは継続協議」を容認したとし、いわゆる〝密約〟をにおわせて迫ったが、フルシチョフは「解釈が違う」と拒否。ブルガーニンも「国後、択捉については話にさえならない」と継続協議を否定した。文書では明確な〝密約〟は見当たらないが、これをあてにしていた河野の期待は覆された形となった。 「歯舞、色丹の返還で領土問題は決着」との堅い姿勢を崩さないソ連側は、その返還時期を米国による沖縄返還と絡める揺さぶりを日本側にかけさえした。さらに、フルシチョフ自ら党幹部会に提案した共同宣言案の「領土問題を含む平和条約締結の継続協議」から「領土問題を含む」の撤回・削除を強硬に主張した。 この部分は日本にとって国後、択捉の継続協議を意味する一筋の光明だっただけに、河野は「すでに東京の了解を取ってしまった」と懸命に抵抗する。だが、それを文章化した自らの誤りと、日本側の意図に気付いたフルシチョフは「解釈をめぐる戦争の危険」という脅し文句まで使って押し切っていた。「政府に相談せず署名する」と河野「政府に相談せず署名する」と河野 河野 貴殿の考えはよく理解したので、領土問題で次の案を提起する。 「日本の希望に応じ、日本国の利益を考慮するソ連は、日本に歯舞群島と色丹島を引き渡す。ソ連と日本は両国間の国交回復後にも平和条約の締結交渉を継続し、戦争状態の結果、両国間で生じた諸問題の全面的な正常化を保証する」 島の引き渡しの時期については、今合意しなくともいい。 フルシチョフ 前半の歯舞と色丹の部分は、あまりよくできていない。ひどく明確すぎる形で述べられており、我々が即時返還しなければ、日本の世論はソ連政府が約束を破ったと見なしてしまう。 河野 受け入れられないのなら、貴殿の文案を提示してほしい。 フルシチョフ 我々の案は沖縄などの返還をめざす闘争の実質的、法的権利を日本に与えるものだ。大事なのは、我々の案による問題解決の結果、日本が米国に強い圧力をかけることができることだ。 河野 貴殿が提案するあらゆる案を検討する用意がある。鳩山と私は自分の政府に相談せず、文書に署名することにした。 フルシチョフ 我々は米国の管理下にある日本領土の返還をめざす闘争の展開のための好ましい政治環境を作ることしか望まない。我々はすでに歯舞と色丹を返還することにしたので、それに対する関心を失った。今の話は引き渡しそのものが日本のためになるというだけのものだ。 一九五六(昭和三十一)年十月十七日付のフルシチョフの党中央委幹部会あて報告書にはこうある。 「十六日に日本の農相河野と会談した。会談全部が領土問題に費やされた。議事録を送付する。終わりに、もう一度、本日十七日に会うよう申し入れがあり会談が行われた。河野は領土問題の文書草案を提出し、我々にも草案を出すよう要望した。 共同宣言草案に入れる領土問題の文書草案を諸君に提起する。同時に、共同宣言には書き込まず、口頭で日本側に伝えるテキストの草案も提起する。同志諸君がこの草案に同意すれば河野に渡す」 フルシチョフが言う共同宣言草案は次のとおり。 「ソビエト社会主義共和国連邦と日本国は、両国間に正常な国交関係が回復した後、領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。同時に、ソ連は日本の要望にこたえ、日本の利益を考慮して歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島はソ連と日本との間の平和条約が締結され、米国の管理下にある沖縄その他の日本に帰属する諸島が日本に返還された後に実際に引き渡されるものとする」 さらに、文書化せず口頭で日本側に伝える文言案は「ソ連は米国の管理下にある沖縄その他の日本に帰属する諸島の解放を待たず、歯舞群島および色丹島をソ連と日本との間の平和条約が締結された後、実際に引き渡すことに同意する」だった。「意に反して領土提起」と鳩山 「意に反して領土提起」と鳩山  鳩山、河野、ブルガーニン、それにソ連副首相のミコヤンの会談は昭和三十一年十月十七日に行われた。 鳩山 私は政治的権限の公職追放が終わった二十六(一九五一)年九月からソ連との関係正常化を絶えず主張し、日本の世論が関係正常化を理解したという意味で成功した。今モスクワにいて、長年の主張を自分で実現できるのは大きな喜びだ。一年以上続く交渉が最終段階に入ったことも私の喜びだ。次の質問をしたい。 領土問題は最も困難で、双方が一番論議した問題である。我々は領土問題なしに関係正常化ができると考えていたが、我が党の中には我々の立場に激しく反対する吉田が率いるかなり大きなグループがある。このため、我々はモスクワに来てから、歯舞・色丹返還問題の再提起を余儀なくされた。繰り返すが我々はこの問題を意に反して提起している。 日本の国連加盟について。形式的なものはいらない。私は文言に力を見ておらず、実際面しか関心がない。ソ連政府が関係正常化の後、他国の加盟問題と関連させず、日本の加盟申請を支持するよう望む。貴殿がこの問題で日本に対して寛容で、国連の家族の一員になりたい希望を支持してくれると確信する。日ソ共同宣言調印を終えて帰国し、書斎でブルガーニンからの土産を孫に見せる鳩山一郎(左)。中央が上の孫、由紀夫=昭和31年10月、「音羽御殿」と言われた東京都文京区の豪邸 抑留者について。提示された名簿に含まれない日本人を捜すため、フルシチョフ氏は調査を続ける項目を入れることに同意した。そこで私は共同宣言草案に次の一項を要望する。消息不明の日本人に関しては、ソ連が領内にその日本人がいるかどうか調べるための措置をとる。 核兵器禁止と国際問題については、今交渉で我々は国交樹立に関係する問題しか討議していないので、こうした問題は正常な外交関係樹立後に討議、解決した方が有意義だと思う。 ブルガーニン 両国の異常な関係終結をめざす貴殿の努力を高く評価する。五一年以来、貴殿の活動を注視し、成功を祈ってきた。貴殿と会い、交渉に踏み出したことに大変満足している。貴殿のモスクワ訪問はソ日関係の歴史に残ると考える。河野氏の精力的な活動も高く評価する。これは外交辞令ではなく、閣僚全員が心から分かち合っている。 領土問題では多くの会談や会議を行った。平和条約締結時に歯舞・色丹を日本に返還してもいい、とすでに我々は主張した。この決定を下した時に我々は大変な決断をし、世論に大きな責任を負った。我々は平和条約の締結で両国関係を正常化したいという希望に導かれていた。 残念ながら日本側は平和条約は締結できないと表明した。日本には大きな選択肢がある。つまり平和条約草案、首相同士の交換書簡、グロムイコ同志と松本氏との交換書簡、フルシチョフ同志が述べた解決案を指針にできる。それらには、われわれの立場が詳しく述べられている。この問題ではいかなる譲歩もできないし、しない。 ソ連政府は、フルシチョフ同志と河野氏との会談に基づく次の二案を提起する…。 〈議事録の注釈・テキストが読み上げられる間、鳩山は再三、ソ連は平和条約締結時に歯舞と色丹を返還するのか、あるいは米国による沖縄などの返還も条件なのか、と聞いた〉 鳩山 この文書に米国の話が出ると、我々の立場が苦しくなる。それを避けたい。 ミコヤン 我々は今読み上げた案によって、米国の管理下にある(日本)領土の返還の闘いが容易になると考えた。鳩山・河野コンビの足元を見透かしながら交渉をロシア主導に進めたニキータ・フルシチョフ 河野 日本の課題を本当に容易にさせるのは、ソ連が国後と択捉(えとろふ)を返還してくれることだ。 ブルガーニン それについては話にさえならない。 ミコヤン 私はその島に行ったことがある。そこが純粋なロシア領であることがわかった。その引き渡しの考えは誰にもなじまない。 ブルガーニン 領土問題に関してはこれがすべてだ。われわれの立場は最終的で揺るがない。 日本の国連加盟について、正常な関係を回復した後に我々は約束、つまり日本の国連加盟を支持する。 抑留者について、処罰された捕虜を含め、抑留日本人を引き渡すための措置をとる。名簿にない日本人を捜すという日本の要請を追加することにも同意する。 国際問題と原水爆兵器禁止の問題では、関係正常化の際に両国政府がこれを確認すれば、この決定は全人類のためになると思うが、この項目を受け入れられないと考えるなら、我々は削除に反対はしない。 河野 我々代表団はこの項目に反対はしないし大きな意義があると考える。ただ、私たちは首相が述べたように別の時期、関係正常化後に扱いたいと思う。 鳩山 我々が関係正常化の結果、国際緊張を幾分かでも緩和させ、新たな戦争の勃発を阻止できれば、全人類の前に最大で最高の義務を果たすことになると考える。 ブルガーニン 同感だ。ソ日の関係正常化は国際関係の緊張緩和に大きく貢献し、我が国民だけでなく全世界の諸国民のためになる。我々の外交の基礎をなすのは、平和と友好への闘いである。 ミコヤン 日本にとって我々との交渉を終えたらすぐ中国とも関係正常化することは意味があると思う。足元見られた「お涙ちょうだい」足元見られた「お涙ちょうだい」  議事録でブルガーニンに述べているように、鳩山にとって日ソ国交回復は悲願でもあった。米国との関係構築を最優先した吉田茂総裁の自由党に対抗し、日本民主党を率いる鳩山は自主外交路線の一環としてソ連、中国との国交回復を主張。官僚派と党人派の対立でもあったが、それは保守合同後も変わらなかった。 スターリン死後、ソ連の最高指導者となったフルシチョフが進めた平和共存路線が、鳩山の期待を一層強めた。だが、米ソ間には一時的な緊張緩和の兆しが見えたとはいえ、ダレス国務長官のもとで対共産圏封じ込め外交を基本とする米国もまた、日本のソ連接近を警戒した。 このため、鳩山は平和条約締結をあきらめ、領土問題をすべて継続協議にして共同宣言で国交回復をめざすが、訪ソ直前になって政権与党の自由民主党は国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、残る二島は継続協議」の党議決定で手足をしばる。 これについて鳩山はブルガーニンとの会談で「交渉に激しく反対する吉田派」によって、いったんはソ連側に提案した領土棚上げの主張を変更せざるを得なくなったと嘆き、それは自らの「意に反して」いるのだとして理解を求める。 議事録はソ連の作成だが、一国の首相が国家の名の下になされた公式提案を、自分の考えとは異なると告白するのは極めて異常だ。 病身の鳩山に代わって交渉を取り仕切った河野もフルシチョフに「日本の内政がそれを強いている」と、党内で厳しい立場に置かれた事情に配慮するよう繰り返している。窮状を訴え、同情を引こうとしたのだろうが、冷徹な外交交渉でのこうした態度は危険でさえある。フルシチョフのペーパーナイフを「北方領土の代わり」として鳩山一郎に贈った河野一郎 鳩山が国交回復を達成したかった背景には党内事情ばかりでなく、①当時まだ多くの日本人抑留者が未帰還②日本の国連加盟にソ連が拒否権を発動している③大量の漁船拿捕など北方漁業の緊張―などがあった。 だが、ソ連側は鳩山内閣の弱い立場に同情するどころか、逆に足元を見透かして強気に出る。国家利益が掛かる外交ではこれが普通だ。この結果、ソ連側は自ら提案した草案の「領土問題を含む平和条約の締結交渉の継続」部分から「領土問題を含む」の削除を日本側に認めさせる。 「国交回復」を命題に掲げた鳩山らにとって、決裂覚悟の厳しい交渉などできるはずはなかった。この削除の見返りとしてソ連側は「提出した(抑留者)名簿以外に拘束している日本人はいない」という前日までの見解を、舌の根も乾かぬうちに撤回し、名簿以外にもいることを突然認めた。これがソ連外交であった。◇ 明らかになった交渉内容について記事の中で木村汎国際日本文化研究センター教授(現名誉教授)は「なぜフルシチョフによる『領土問題を含む』の文言削除申し出を拒絶しなかったのか。これを口実にソ連側は案の定、日ソ共同宣言は二島返還論にほかならないと主張するようになった」と指摘。W一郎の対応を「千載の悔いを残す行為」と批判する。さらに河野が鳩山内閣の苦境を伝え、鳩山の早期帰国のため調印式を一日早めることさえ求めたことを「我が方に締切時間があるという弱味を見せる稚拙な交渉。お涙ちょうだいの浪花節が通じることを前提とする姑息な交渉法」と切り捨てている。◇    ◇ 河野は、領土が懸かる重大な場で、こんなことまでしている。 豊田穣『鳩山一郎』などによるとフルシチョフとさしの会談で「そのペーパーナイフは大きくて美しく実に見事だ。それをくれないか」と言った。フルシチョフは驚いたような表情を見せたが「ダー、ハラショー」とナイフを渡した。会談後、河野は鳩山に「奴さんがこれを振り回すのでヤバくて仕方がないから分捕ってきましたよ。どうです、レーニンの写真が入っているでしょ。北方領土の代わりに総理に進呈しましょう」と鳩山に差し出した。鳩山はそれをそのまま受け取っている。 驚くことに翌日の会談で河野は「昨日もらったペーパーナイフは鳩山総理に進呈したので、僕のを記念にもらいたい」と頼み、フルシチョフからもう一本もらったという。 河野は、交渉に絡めてソ連が北洋水域から日本のサケ・マス漁業を締め出そうした際のブルガーニンらとの会談に、日本側通訳も付けず一人で臨み「漁業を認めてくれれば、代わりに国後・択捉返還要求は取り下げる」とした密約が取り沙汰される。 結局、ソ連は共同宣言から四年後の三十五年、日米安保条約が改定されると、歯舞・色丹の返還すら「日本領土から全外国軍隊の撤退を条件とする」と通告。共同宣言を日本の承諾なしに一方的に変更したのだ。 幕末・明治初頭の北方領域侵奪、日ソ中立条約を無視した対日侵攻と北方領域再侵奪に続く、国交回復交渉でのこの対応。ロシアがロシアなら、日本も日本だった。目先の利益と己の功名心、そして浅はかな独善と、領土もペーパーナイフもいっしょくたにする感性の持ち主が、交渉の代表だった。W一郎の交渉とすら言えない交渉の結果が、今なお日本国民を苦しめている。その孫や息子の言動とともに。

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    プーチンは対日関係改善の意欲喪失 北方領土交渉進展絶望的

     北方領土交渉が、1991年12月の新生ロシア成立後、最大の危機を迎えている。9月2日には、北方領土交渉を担当する責任者(日本側のカウンターパートは杉山晋輔外務審議官)であるモルグロフ外務次官が「私たちは日本側といかなる交渉も行わない。この問題は70年前に解決された」と発言した。今後の北方領土交渉の進展について、作家・元外務省主任分析官の佐藤優氏が解説する。* * * モルグロフは、「根室半島と歯舞群島の間に国境線を画定する、すなわち北方四島がロシア領であることを日本が認めるならば平和条約を締結してもよい」という交渉スタンスを示している。この発言は、過去の日露間の合意を完全に無視するものだ。 まず、1956年10月の日ソ共同宣言で、ソ連は平和条約締結後に歯舞群島と色丹島の日本への引き渡しを約束している。日ソ共同宣言は両国議会が批准した法的拘束力を持つ国際約束だ。 次に1993年10月の東京宣言で、日露両国は、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することに合意している。 さらに、2001年3月のイルクーツク声明で、プーチン大統領が、日ソ共同宣言と東京宣言を明示的に再確認している。東京宣言とイルクーツク声明は、法的拘束力を持っていないが、重要な政治的合意だ。今回のモルグロフ次官の発言は、ロシア外務省がロシア国家とプーチン大統領が過去に日本に対して行った約束を反故にすると宣言した深刻な事態だ。トルコ・アンタルヤでロシアのプーチン大統領(右)と会談する安倍首相(共同) メドベージェフ首相並びにロシア外務省の北方領土交渉に関する消極的姿勢を突破する力はプーチン大統領にしかない。首相官邸の一部にプーチン大統領の政治決断で北方領土問題が進捗するという希望的観測があるが、客観的に見た場合、プーチン大統領に期待はできない。 2010年、ロシア政府は9月2日を「第二次世界大戦終結の日」に定め、毎年、シベリアや極東の各地で記念式典を開いている。これまでプーチンがこの記念行事に参加したことはなかった。今回、日本のシベリア出兵の舞台となったチタで、軍事パレードの観閲に欠席したとはいえ対日戦争記念行事に参加することで、プーチンは第二次世界大戦をめぐる歴史認識についてスターリン主義に回帰した。ソ連のスターリン首相は、東京湾の米戦艦ミズーリ号の上で日本が降伏文書に署名した1945年9月2日に行ったラジオ演説で、〈1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は国民の意識に重苦しい思い出をのこした。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。40年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。 そして、ここにその日はおとずれた。きょう、日本は敗北を認め、無条件降伏文書に署名した。/このことは、南樺太と千島列島がソ連邦にうつり、そして今後はこれがソ連邦を大洋から切りはなす手段、わが極東にたいする日本の攻撃基地としてではなくて、わがソ連邦を大洋と直接にむすびつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役だつようになるということを意味している〉(独立行政法人北方領土問題対策協会HP)と述べた。 チタでのプーチンの立ち居振る舞いはスターリン演説の延長線上にある。この事実は、プーチンは対日関係改善の意欲をなくしつつあることを示すものだ。近未来に北方領土交渉が進展する可能性は皆無だ。日本政府は、ロシアと提携して中国を牽制するという外交カードを失った。関連記事■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ ロシア通記者が露大統領再登板のプーチンの実像を記した本■ 佐藤優氏「日本はロシアとウクライナの諍いに深入りするな」■ 北方領土問題はなぜ解決しないのか 佐藤優氏がその背景解説■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」

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    最大の過ちだったヤルタ協定 歴史修正しているのは誰なのか

    袴田茂樹(新潟県立大学教授) 最近、ロシアの専門家たちとウクライナ問題で何回か議論し、次のような批判も受けた。「日本は遠いウクライナとは政治・経済関係もほとんどないのに、なぜ対露制裁に加わるのか。単なる先進7カ国(G7)への同調あるいは米国の圧力故ではないか」 私は次のように答えた。「そのことを否定するつもりはないが、別の側面もある。それはG7で日本だけが、ロシアに主権と領土保全を侵されているという意味で、ウクライナと共通の問題を抱えている。従って日本が最も主権侵害を批判する権利を有し、また義務もある。中国との間の尖閣紛争をエスカレートさせないためにも、わが国は主権侵害に毅然(きぜん)とした態度を取らざるを得ないのだ」最大の過ちだったヤルタ協定 岸田文雄外相はベルギーで1月20日に「ウクライナで起きていることも北方領土問題も力による現状変更だ」と指摘した。これに対し露外務省はこう批判した。 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに、世界支配を目指して、第二次世界大戦前の“現状”を力で破壊し、多くの国を占領した。岸田発言は、その本質において歴史を転倒させ、大戦の原因と結果に対する一般に認められた理解を修正しようとしている」 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は同22日の記者会見で、歴史の歪曲(わいきょく)だとの批判は当たらないと述べ、日本が1945年8月にポツダム宣言を受諾し、その後旧ソ連軍に占領されたと説明した。露側は9月2日を終戦日と主張するが、しかしソ連は、戦勝国の領土不拡大を謳(うた)い国連憲章の基礎にもなった大西洋憲章(41年)を支持した。またヤルタ協定(45年)でソ連は千島等の領有を認められたと主張するが、同協定に日本は参加せず、国際条約でもなく、戦勝国による力による領土変更だった。ブッシュ米大統領は2005年に同協定を「歴史上最大の過ち」としている。自らの行動を否定する論理 日本政府は、次の点もしっかり指摘して、歴史を修正しているのは露側だと反論すべきであろう。 露外務省が「大戦の結果に対する一般に認められた理解」と言う場合、北方四島が露領だという意味も含まれている。実は日露の平和条約交渉に関連して露政権が「北方四島に対するロシアの主権は、第二次大戦の結果だ」と主張したのは、プーチン大統領が05年9月27日に国営テレビで述べたのが初めてだ。米英ソ首脳が会談を行ったヤルタのリバディア宮殿 それまで日露両政府は1993年の東京宣言における「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との合意を前提に交渉していた。つまり4島の主権問題は未解決だということが共通の公式認識だった。ちなみにプーチン大統領は東京宣言を認めた2001年のイルクーツク声明(「平和条約交渉を東京宣言…に基づいて行う」)、03年の日露行動計画(「両国間の精力的な交渉の結果…東京宣言…を含む重要な諸合意が達成された」)に署名している。 このようにプーチン大統領自身が、4島の帰属問題が未解決だと認めていた。また、日露は1998年に「国境画定委員会」を創設しているが、当然、国境の未画定が前提だ。だからこそ今日まで平和条約交渉が行われてきたのだ。 最近ロシア側は、「南クリル(北方四島)が露領であるのは、第二次大戦の結果」と強調するが、ではなぜ北方四島の帰属をめぐる平和条約交渉を続けてきたのか。今日の露政府の論理は、自らのこれまでの行動を否定するものに他ならない。つまり、歴史を転倒させ修正しているのは、露側でありプーチン大統領自身である。日本批判の「戦勝記念日」 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに…」の露外務省発言に関して付言しておきたい。日本はドイツと1940年に同盟を結んだ。にも拘(かかわ)らず41年に日ソ中立条約を締結して、独ソ戦の間も含め、それを守っていた。ソ連が対独戦に勝利した背景には、日本が中立条約を守っていたという要因があり、今日ではロシアの専門家たちも認める歴史的事実だ。 その中立条約を破って日本を攻撃し、日本の領土を獲得したのはソ連である。ここでも歴史を転倒させているのはロシア側である。 中露は共同で、戦勝70周年を祝おうとしている。両国の共通認識は、「歴史の修正は許さない」というものだ。もちろんこれは、日本批判でもある。しかし、ここに述べたようなロシア側の転倒した歴史認識を基に「歴史の修正を許さない」としてロシアが中国と歩調を合わせることは、日本としては到底、容認できない。 プーチン大統領は5月の戦勝記念日に中国の習近平国家主席とともに、安倍晋三首相を招待している。黙って招待を受けるとすれば、このようなロシアの歴史認識を日本は認めることになる。昨今ウクライナ情勢はさらに悪化しており、G7は対露制裁を緩和できる状況にない。招待にどう対応すべきか、おのずと明らかだろう。(はかまだ しげき)

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    樺太とロシアの非道・残虐

    世界で日本人ほど領土に淡白な国民はいない。無法侵攻したソビエトロシアが樺太で行った非道な住民虐殺と洗脳工作。シナ、朝鮮、ロシアという世界でも特異な国家にわが国は隣り合っていることを忘れることはできない。

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    「樺太の生き証人」が語った 非道ソ連の虐殺と姑息な洗脳教育

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より金谷哲次郎(全国樺太連盟副会長)聞き手 『別冊正論』編集部あちこちで日本女性を集団強姦 ──もう七十年前のことですね。 金谷 昭和二十年八月、私は真岡中学二年、十四歳。樺太庁から強制疎開の通達が出て、真岡は十六日から。十四歳以上の男は残る。それ以外の婦女子は即ですね。おふくろと弟は船に乗り、父と私が残った。兄は東京の大学予科にいました。月末には婦女子は全員疎開できると思ったら、途中で滞ってしまった。そこで問題が起きたんですね、悲劇が。 ──強姦されたんですか? 金谷 そうです。わかるんですよ、露助が何人も囲んでるから。疎開できない私と親父は真岡から豊原まで逃げたんです。二週間くらいするとソ連軍から「元の場所へ帰れ」という命令が出たんで、また真岡に戻った。そこで目撃した。若妻が亭主の前で陵辱され、ことが済んでから二人で首を吊ったとも聞きました。「お母さん疎開できてよかったな」と親父、つくづく漏らしてましたよ。 ──真岡ではどのように? 金谷 もう家はない、焼けちゃって。頑丈な民家が残っていて数世帯と一緒に身を寄せた。十人ほどいたうち、女学生が一人、ご婦人が二、三人いた。しばらくは夜ごと露助が押しかけて「サケダワイ(出せ)」「ムスメダワイ」。僕ら中学生三人が覚えた片言のロシア語で防御しているうちに、地下壕とかあっちこっちに女はみんな隠した。 ──すぐ帰りましたか。 金谷 酔ってしつこく「出せ」と粘るから、ほかの皆が女を隠したのを見計らって中に入れると、その辺を探す。いないから腹立ちまぎれに自動小銃を撃ちまくる。天井や壁に。いやあ、恐かった。そして万年筆とか腕時計とか、日本製で質がいいですから、持ち去るんですよ。 ──盗んでいくわけですね。 金谷 彼らは「盗む」より「取り上げる」っていう感覚ね。ソ連軍の司令部は一応「日本人に危害を加えてはならない」という触れは出していたそうですけど、酒を飲むと二人以上で組んで来ましたね。 ──そういうソ連兵は元々囚人が多いんでしょう。 金谷 ええ、手の甲にね、四桁か五桁の数字が入ってる、刺青で。ふだんは陽気ですから、後で仲よくなって。「これ何?」って聞いたら、チョロマ(監獄)だって言うんです。凶暴なやつばかりじゃなくて、インテリ風のもいましたね。みんな傍若無人を働いた。勝ち戦で抵抗する人はいないんだから。 ──そうですよね。 金谷 あとでおふくろに聞いたら、北海道に疎開して樺太との音信が途絶え、いろんなデマが流れた。真岡はソ連軍の爆撃で全滅したなんて。「哲次郎を連れてくればよかった」と悔やんでいたそうです。勤労動員の〝ケガの功名〟 ──お父様のお仕事は。 金谷 福島から移住した祖父が、大泊の大きな金物問屋から暖簾分けしてもらい真岡に店を構えた。ところが昭和初頭の世界大恐慌で潰れちゃった。小樽高商(現小樽商科大)を出た親父は小学校の教員をしばらくやって、敷香(しすか)町にできた商業学校の初代校長になった。私が五歳の時。急成長した町なんですよ敷香は。王子製紙の東洋一の人絹パルプ(レーヨン用パルプ)工場ができて。 ──北の方ですよね。 金谷 とても大きな町で碁盤の目のようになってるんです。何たって王子製紙はね、樺太で九つ工場持って、昭和十六年統計では当時の日本のパルプ需要の四分の一を樺太でまかなってたんです。 ──お家はどのような? 金谷 そう、横綱大鵬の実家ボリシコ牧場の近くに住んでた。大鵬は生れてなかったけど、お父さんのボリシコさんは穏やかな人で、牛が二十頭くらいいて、牛乳やチーズ、バターやパンを作ってたんで、よくお使いに行った。お母さんは納谷さんっていって働き者だった。上のお兄さんは私より三つか四つ年上で、よく相撲取って遊びましたよ。 ──終戦時は真岡ですよね。 金谷 祖父が亡くなって昭和十八年に真岡に戻りました。親父は商工会議所で戦時下の経済統制の担当になりました。配給切符の裏に親父の判がありました。僕らは二年生から勤労動員されて真岡中学へはほとんど行かず、最後は内幌(ないほろ)炭坑で石炭運びです。そしたら八月十三日の夕方、トロッコに手を挟まれちゃった。不注意で。先生に「ひょう疽(そ)になったら大変だから真岡へ帰って治療しろ」と言われて帰ったのが十四日。治療を受けて翌日炭坑へ戻ろうと思ったら重大な放送があるって。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。親父が「もう内幌へ行かんでいい」と。これ、戻ってたら親父と離ればなれでしたね。 ──紙一重でしたね。 金谷 その後、町内にご婦人は疎開していないから、隣近所の男たちが集まって、当番で飯を準備した。不思議なことに、どこからともなく食糧が出てくるんですね。米、砂糖、醤油、で、牛肉まで。十八、十九の晩は続けてすき焼きです。大人は久しぶりに酒も飲んだ。そして二十日の朝六時頃、朝食の支度をしようと思ったら、ドーンと来たんです。大砲の艦砲射撃。ゲーム感覚で避難民を攻撃ゲーム感覚で避難民を攻撃 ──どうしました? 金谷 親父は「家の前の防空壕はよして、とにかく遠くへ逃げよう」と。幅二十㍍くらいある大通りを皆で匍匐(ほふく)前進です。もうボンボン来るし、上陸して機関銃もバンバン来る。と、気が付いたら両隣の人がいない。後ろで倒れて動かないんですよ。私と親父は何とか逃げて豊真山道へ出た。他の人たちと隊を組んで樺太庁のある豊原まで歩いた。百㌔近く。途中、機銃掃射に追いかけられて。追っかけてくるんです。樺太にも螺(ら)湾(わん)蕗(ぶき)のような二㍍以上ある蕗が自生してて、その下に身を潜める。戦闘機を見ると二十㍍ほどの低空飛行だから操縦士が見えるんですよ。ニヤついてるように見えました。人殺しゲームを楽しんでたんですよ。 ──腹立たしいですね。 金谷 何とか飛び去って蕗の下か皆出てくるでしょう。でも逃げ込む前より少ない。何人かやられてるんですね。一緒に逃げていた若い夫婦の亭主が腸をぶち抜かれて、奥さんが、身重なんですけど、狂ったように「どなたか出刃包丁かナイフを持っていませんか」と。苦しんでかわいそうだから、ひと思いにということなんですど、「ありますよ」なんて誰も貸せませんよ。気の毒でしたね。めったに当たるものじゃないけど、当たる人がいたんですよね。 ──極限状態でしたね。 金谷 生きるか死ぬか、みんな。途中の畑で大根とか人参とか、黙っていただいた。翌朝、豊原に着いたら役所の人が避難先を振り分けている。私たちは豊原高等女学校。校舎だと思ったら校庭の蛸壺(たこつぼ)防空壕。一人しか入れないのが二百くらいあった。がっかりしながらも疲れてたから、死んだように眠った。極限状態で避難した豊原高女。敷地内に掘られた無数の蛸壺防空壕で休息をとったが…(同) ──その、蛸壺の中で。 金谷 中で。翌日午前十時ころかな、戦闘機が二機で来て機銃掃射。私の蛸壺へ土砂がゴロゴロッと入ってくるんですよ。やっとこさ這い出ると、豊原駅の方が真っ赤なんですよ。二㌔足らずだから親父たちが止めるのを振り切って見に行った。駅前は爆撃され、焼夷弾もあって火の海でした。記録では邦人の死者百人とか二百人とかですが、あれはもっと多かった。北の方から避難してきてた人が大勢集まってましたから。そういう人たちは名前なんかわからないですよ。避難民は上から見ても非戦闘員とわかるのに、標的にされたんです。八月二十二日ですよ。多数の避難民が集まった豊原駅や周辺はソ連軍の攻撃で火の海となり、多数の犠牲者を出した(同)樺太でも地上戦、そして最後の空襲 ──非道ですね。 金谷 内地で地上戦が行われたのは沖縄と樺太、そして最後の空襲を受けたのは樺太の豊原なんですよ。 ──日本人でも知らない人が多いですよね。 金谷 終戦の玉音放送から一週間も経ってんのに…ゲームのように避難民を掃射する。いや、許すべきじゃないですよ。でも、官庁の担当者も知らないし、わかっていない。 ──頭がよくてもね、判っていない。「樺太っていうのは日露戦争で南半分をロシアから割譲されたんでしょう」って平気で言うんです。 金谷 ロシアにしても中国、韓国にしても、領土については厳しく教育する。他国から奪ったものでさえ固有の領土だと教える。少なくとも日本は歴史の事実を教えるべきなのにしない。敗戦ボケですね。これは。人々の笑いがあふれ活気だった真岡停車場。駅前には円タクや乗合馬車が停まっている(同) ──敗戦ボケの原因に、GHQやソ連・中共の思想工作があるようですが、終戦後に樺太に抑留されて洗脳を受けたのですか。 金谷 終戦から二年間、樺太に抑留されました。ソ連は占拠した樺太の復興に日本人の労働力が必要だったこと、そして洗脳するためだったと思いますね。というのはね、ソ連軍政下の真岡で学校が再開された、中学、商業、女学校、工業なんかを集めて。教師はかつての中学や女学校なんかの先生の他に、見たこともないような人がいた。そして、何をしたといえば社会主義教育です。 ──ソ連も素早いですね。 金谷 そこに中学で習っていた歴史の先生もいて、終戦前は皇国史観だったのに、第一回の授業から何と唯物史観で始まったんですよ。戦時中はおくびにも出さなかったけど、密かに勉強していたんでしょうね。ショックっていうか、世界が変わってしまったような感覚でした。 ──社会主義はすばらしいと。 金谷 とにかく社会主義のいいところしか言いませんから。みんな平等で、自由でって。僕も魅力的に思ったことがありましたよ。ちょうど、どこからともなく左翼の雑誌や本が出てくるんです。僕はレーニンの著作も貪るように読みんで、まだ子供でわからないなりに、言ってることは大まかにつかめました。そういうの、いっぱいいましたよ、我々の仲間に。それがきっかけで、そちらの世界に入ったのもいたそうです。占拠直後から思想工作徹底占拠直後から思想工作徹底 ──洗脳成功ですね。 金谷 とにかく帝国主義と資本主義と社会主義の違いのようなものを切々と説明したり、日本の天皇制は「悪だ」と言って「お前たち人民は、搾取されているんだ」とね。 ──今の日本にもいますね(笑)。 金谷 でもね、だんだん露助の狙いが透けて見えて「こんなとこで、冗談じゃねえ」と思うようになった。歴史の、つまり社会主義の時間にテストがあったけど、私は白紙で出した。そしたら担任と学校担当のソ連軍少佐に呼ばれました。少佐は「お前は非常に不謹慎である。こんな調子では日本行きが再開しても、お前は帰すわけにはいかん」とカンカン。びっくりして「これから反省して勉強します」と答えて許してもらった。 ──緒にいた日本人の担任はどうだんたんですか。金谷 「金谷君、そんなことじゃだめだよ。今の時世をわかっとるか」って。仕方なしに言ってましたね。 ──それで勉強したんですか。 金谷 日本に帰れなくなったら大変と思い、次のテストまでに社会主義の教科書を一生懸命読んで百点取ったら、少佐はご機嫌でした。でも、これがきっかけで「こんな学校行ってられるか」という思いが強くなり、ほとんど行かくなかった。そのうちに日本への船が出るようになった。今考えても、もう二度とああいう体験はしたくないですね。 ──ソ連の軍人は学校に何人くらいいたのですか。 金谷 ソ連人は軍人ばかりで結構いました。授業をするのではなく学校を管理するために。しかるべき部屋にたくさん。北海道に移る際、皆そこから在校証明をもらったって言うんですよ。僕はほとんど行かなくなってからもらわなかったけど、まだ旧制だった滝川中学に行ったら編入してくれましたよ。 ──ソ連管理下の学校ではスターリンの肖像画なんかも…。 金谷 描かせられました。 ──描く? 金谷 スターリンの肖像をね、よく。「描け」って言うんですよ。「スターリンの写真をよく見て、このように描きなさい」って。みんな、しょうがないから描いてましたよ。 ──各教室にあったんですか。 金谷 ありましたよ。各教室に掲げられていました。まあ、僕らね、年の割に大人でしたね。「こういう場はこうしなきゃならんのだ」と割り切って応じていました。ソ連に抑留されスターリンの肖像の前で洗脳教育を受ける日本人男性」。まだ若い。「同志スターリン指導の下に我が祖国は新なる発展に邁進せん」の標語 ──そういう思想教育を真に受けて「共産主義はすばらしい」となった子は身近にいましたか。 金谷 何人かいました。ただ、そういう子とは会話はしませんでした。やっぱり家族が皆殺されちゃったような子は、頼るところもないまま、そういうことに傾倒してしまったんじゃないでしょうか。 ──日本兵は捕虜収容所に送られましたけど、お父さんはじめ非戦闘員の男性は、抑留されてやはり思想工作、洗脳を受けたんでしょうね。 金谷 いましたよ。戦後しばらくして「日本共産党の誰々は終戦時は樺太の中学生だった」とも聞いたことがある。思想教育がきっかけで、のめり込んだんじゃないですか。だけど大人については、もっとシビアでした。私の母方の祖父は銃殺されとるんです。豊原の機関区長をして、皇太子だった昭和天皇が樺太に行幸された際に車掌を仰せつかった。任務を恙なく終えると恩賜の拳銃をもらったんですよ。大事に桐の箱に入ったのを見たことがあります。戦時中からスパイがソ連に情報 ──それはそれは…。 金谷 ところが戦時中からソ連に通じたスパイがいて「日本の戦争協力一覧」を作って渡していたんでしょうね。祖父も入ってたし、真岡町の重鎮の名前もずらっと入ってる。ソ連軍が侵攻してきたその日に全員呼び出され、海岸に並べて銃殺されたんですよ。近所の方に聞いたら、祖父は中風か何かでふらふらで、足も弱っていたから、よろよろしながら連れて行かれたそうです。 ──お父さんは大丈夫でしたか。 金谷 父も真岡に戻って少しした夜にGPU(ゲーペーウー=ソ連の秘密警察)連行された。町の経済統制を担当したでしょ。幸い三、四日して帰ってきたけど、黒かった髪が真っ白でした。何も語りませんでしたが、拳銃をちらつかせて厳しい尋問があったようです。戦後五十年の時、真岡で鎮魂の碑を除幕したんです。親父は亡くなっていたけど、家族代表のつもりで祖父がどこへ埋められたか探したんです。近所の人の話を手掛かりに。でも地形も変わってわからなかった。 ──そうですよね。 金谷 いやあ…真岡郵便局の電話交換手の九人の乙女が、毒をあおったでしょう。あれと同じころに、祖父が銃殺されとるんですよ。もう五月雨のように町の要人は連れて行かれて、随所でやられてましたね。中には殺されないまでも、シベリアに連行されて強制労働させられた人もいるらしいです。 ──樺太で強制労働は? 金谷 ありました。「対象者はこういうもんだ」って通達が来て、「何月何日どこどこへ集まれ」と。行きますとね、漁港に揚がってくるニシンをさばくとか。塩蔵にするとか、そういう作業に従事されました。ほんのわずか日当が出たと思います。労働力の確保という目的のほかに、血気盛んな若い男子に余計なことを考えさせない、つまり反ソ的な行為をする暇を与えないという意味もあったと思うんです。ニシン漁などでにぎわっていたころの真岡港(同) ──ソ連兵は怖かったですか。 金谷 矛盾してるようですけど、ソ連の兵隊っちゅうのは、立場が変わるって一個人になると気のいい男が多いですね。僕らとずいぶん仲よくなりました。それでも、必ず党員っているでしょ、階級とは別に。目つきでわかる。密告の世界ですからから、あちこちに置いてある。恐ろしい世界です。就寝中に「反日親ソ」ささやく放送就寝中に「反日親ソ」ささやく放送 ──お父さんはどうしていたのですか。 金谷 何かね、友人と一緒に何か仕事の手伝いをしてたらしいんですが、カネがたまると「何月何日、船で脱出するぞ」と言われたことが二度ある。でもポンポン蒸気みたいな船で、夜中に出て必死に進んだはずなのに、明るくなったら港のそばにいたというのを結構聞いていた。海流で戻されちゃうんです。すぐ捕まって場合によったら銃殺、殺されなくてもシベリア送り。だから私ははっきり断りました、親父に。戦後しばらくたって、親父は茶飲み友達に私を指して「俺は、こいつに、実は二度ほど助けられた」と言うんで、何のことか聞いたら、脱出船のことだと言ってました。 ──洗脳に話を戻しますと…。 金谷 いよいよ樺太を後にする段になると、収容所へ二週間くらい入れられて、いろいろと検査受けるんですよ。思想面がどうの、色合いがどうのと、全部調べられる。昼間だけじゃないんです、それが。蚕棚のようなベッドに寝てますとね、毎晩囁くような女性の声で洗脳が始まるんです。おもしろいですね。 ──放送ですか。 金谷 放送。声を低めて「日本帝国主義は人民を搾取してどうのこうの」「資本家だけ富を独占し、あなたたちは搾取され苦しんだんです」ってね。「それに対して社会主義の何とかは」「ソビエトでは人民が平等に…」と。寝てる間に聞かされると印象に残ると言われるじゃないですか。僕は耳ふさいでいましたけどね。 ──一晩中ですか。 金谷 いつも途中で寝てしまいましたから、一晩中かどうかはわからない。でも一定の時間はやってましたね。他にも「耳障りだ」という人はいたけど、耳栓してるのがわかると怒られたから、わからないようにそっとしてたんです。 ──二週間続くと苦痛ですね。 金谷 それよりも参ったのはね、一週間目くらいに中学の担任だった先生が一緒に入っていて、同じ船に乗る予定だったんですけど「おお金谷君、お前はここに入ってる中学生を代表して、党と」、党っていうのはソ連共産党ね、「党とスターリンに感謝文を書け」って言うの。「冗談じゃありませんよ」と断りました。先生は「そうか」って一旦は引き下がったんですけど、その日のうちにまた私のいる部屋に来て「さっきの続きだけどな、やっぱりお前に書いてもらわんとだめだ」と言う。「どうしてですか」と聞くと、「いやいや、ソ連の担当官から、どうしても誰かに書かせろって俺が責められてんだ」って。私じゃなくてもいいんだけど、先生は教え子の私に頼みやすいから「俺の顔を立ててくれ」と。 親父に一部始終話したら「まあしょうがねえな。書け。ただしわかってるな、本心がわかるようなことは書いちゃいかんよ」と言うので、「書きますよ」と返事したら、先生は原稿用紙まで持ってきたんですよ。真岡「九人の乙女」は顔見知り ──何と書いたんですか。 金谷 おべんちゃらですよね。「おかげさまで、この約二年間、私が今まで体験したことのない世界を見せてもらいました。いろいろと教えてもらいました。大変感謝しています。日本へ帰ったら、天皇制を打破し、社会主義国家建設のために働くことを誓います」なんて調子でしたね。最後に署名して。 ──「おかげさまで」の前は「誰」を入れたのですか。 金谷 もちろん「ソビエト共産党、スターリン閣下」です(笑)。自分で書きながら、いやで仕方なかったんですけどね。しかし書かないと…。 ──船に乗せてもらえない。 金谷 そう、乗せてくれないか、先生が窮地に立たされるか。だから「ここまで来たら目をつぶれ」と自分に言い聞かせた。そこに船いるんですから。そしたら、収容所の掲示板に原稿を貼られちゃって参った。苦し紛れに書いたのをわかってる人もいたけど、やっぱり変な目で見る人もいて、ずいぶん尾を引きました。 ──船は大泊から? 金谷 いえいえ真岡から函館。ずいぶんかかりました。揺れるし。赤十字だから乗ってすぐおにぎり出してくれ、食べたかったけど船酔いで戻しちゃうから我慢した。函館に上陸したらケロッと治って無性に腹減って、食べましたよ。何とも言えない、あんなうまい握り飯はなかった。 ──そうでしょうね。 金谷 母親と弟が迎えに来てました、迎えにね。でも船から降りたのはまるで浮浪者の団体。まずヤンキーがね、米兵が全部検閲する。皆シラミだらけだから、収容所で。頭から背中からDDT(殺虫剤)ぶっかけられてね。でも、見るとスマートなんですね、米兵は。着てる服装もいいし。パン屋の旦那みたいな帽子かぶって。新鮮に見えました。 ──ソ連兵とは違いますか。 金谷 ソ連兵は野暮ったいったらありゃしない。 ──体格も貧弱なんですか。 金谷 いや、ソ連の方が頑丈でした。ボディ自体は。すごいですよ。やっぱりスラブの民族ですな。だけど身に着けてるものは粗末でした。靴下っちゅうものを持ってないんですよ。ご存じ? ──へえ。 金谷 戦時中で靴下なんか作ってる暇なかったんでしょう。彼ら長靴(ちようか)履いてるから、足を時々きれいにするのに脱ぐんです。すると足の周りを布で巻いてるの。合理的ですよ。前も後ろもないんだもん。風呂敷を巻き付けるようなもん。「なるほどな」と、僕らも参考にしました。暖かいし、汚れりゃ前も後ろもない。 ──話が戻りますが、真岡で郵便局の九人の電話交換手が自決しました。あのお姉さんたちと話ししたことなどはありますか。 金谷 ええ、知ってますよ。特に親しいわけじゃないけど、郵便局へ用事で行った時お目にかかって、たわいのない会話をした覚えはあります。僕らより五つ、六つ上でしたかね。おふくろは、その一人が知り合いの娘さんでよく知ってると言ってましたね。日本人が忘れてはならない真岡郵便局㊤で起きた電話交換手㊦の集団自決事件。交換手の9人の乙女はソ連軍が目前に迫っても邦人避難の通信確保のため任務を続け、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と通信して青酸カリを呑んだ。ブレスト(交換手用ヘッドホン)と回線のプラグを握りしめた姿の遺体で発見された(稚内市の北方記念館所蔵)7人道連れに自決した教練の教官7人道連れに自決した教練の教官 ──ソ連の無法な侵攻の中で、避難のための通信網を最後まで守り、青酸カリを飲んで… 金谷 ひどかったですな。かわいそうに。豊原から戻った時に、そういう話が広まってました。信じられなかった、そういう光景はね。どんな思いで毒を口にしたのか…。 ──むごいですね。 金谷 むごいといえばね、痛烈な記憶は、中学に軍事教練の教官の将校がいて、五十代かな。息子が同級生で。よく教練の時に「シベリア出兵では敵の赤軍ゲリラを何人も斬った」と話していたけど、優しい人でとてもそんな風に見えないから「またほら吹いてる」って、僕ら本気にしなかった。ところが、八月二十日ね、真岡にソ連の艦砲射撃がドンと来た日。教官の家族は隣近所と一緒にこの日疎開する予定で、早朝から隣の奥さんが小さい娘を連れて相談に来てた。爆弾の音を聞いた教官はキッとなって、「奥さん、出ちゃいかん」と仏間か何かの部屋に閉じ込めちゃった。そして軍刀でバサッとやったんです、首を。それから自分の子供四人、小さい順に。奥さんもやって、最後に自分は腹掻(か)っ捌(さば)いてから頸動脈を斬ったって。 ──古式に則ったんですね。 金谷 そう、古式どおり。家に踏み込んだ露助のソ連兵もびっくりしたらしい。「これはサムライ、ハラキリだ」とね。八つの遺体を手厚く葬ったといいます。それを聞いて教官のシベリア出兵の話は本当だったんだと思いました。辱めを受ける前に自ら処したんですね。 ──いにしえの軍人ですね。 金谷 それから、八十歳を過ぎた今でも夢に見ることがあります。先ほども話したように、真岡に最初にドンと来た時、私が「防空壕入ろう」と言ったら、親父が「やめとけ」と言ったでしょ。とにかく防空壕じゃ危険だと。案の定、上陸したソ連兵は非戦闘員かどうかも確認せず、片っ端から防空壕に手榴弾(しゆりゆうだん)を投げ込んだんです。豊原から真岡に戻って、焼け跡整理が始まった。自宅前の防空壕を崩していったら中に死体が四つ。樺太といえども八月で日にちも経って腐乱してる。ものすごい異臭。顔は崩れてるけど「ああ、◯◯さんだ」ってわかりましよ。そんな防空壕をいくつも掘り起こしましたよ。 それを、家の前にいくつもありましたから。それ、みんなでやりました。今も夢に見る腐乱死体の片付け  ──遺体を運び出すのは?  金谷 私たちで運び出した。持つと崩れるんだけど、もう、マスクなんかないから口と鼻に手拭いを巻いて…。床下をコンクリートの地下壕にしている家があった。建屋は燃えちゃって、地下壕の入り口を引っ張り上げると異臭がバーッと来た。階段を下りると何人か死体があった。全部蒸し焼きですよ、上から。壁に引っ掻いた跡があり、死体は爪がない、取れてるの。もがいたんでしょうな。しかし、始末しなきゃいかんから持ち上げると崩れる。でも素手でやった。ソ連軍の命令だから。服は臭いでだめになった。十四歳の子供もやらされたんです。金谷さんたちより10年も遅れて樺太から避難した人たち。両手に子供を連れ、荷物がほとんどない人が多い=昭和32年8月1日、京都・舞鶴港 ──大変なことでしたね。 金谷 かと思うと地上でね、消防団の制服着て片付け作業をしてるおじさんがいた。これがナチの軍服に似てるってんですって。通りかかったソ連兵が、そのおじさんつかまえて、「シュラ(歩け)」って。おじさん何のことかわからず歩き出したら、後ろから「バン」と射殺。見ていた僕らに「片付けろ」ですよ。 ──へええ……。 金谷 まあ、条理、常識の世界じゃないですね。 ──ソ連がいかに非道なことをしたか日本人も知らされていない…。 金谷 そうです。樺太(南樺太)は帰属未定だから、国際機関で正当に協議して日本固有の領土として返還へ導こうという返還期成同盟も尻切れになり、樺太のことになるとソ連の非道を隠して「日露友好」ばかり言う。とも、国際法無視の非道行為はしっかり非難しなくちゃいかん。やっぱり、外務省ね、腰抜けなんです。真岡郵便局の九人の乙女を題材にした映画『氷雪の門』の上映中止の件も、ソ連の圧力に加えて、「ソ連を刺激したらいけない」っていう官民の過剰な遠慮があった。 ──そう、言論弾圧でしたね。 金谷 まあ、とにかく政府は樺太について無策すぎる。かすかな希望を次世代にかすかな希望を次世代に ──全国樺太連盟は平成三十二年度めどの解散を決めていますね。 金谷 樺太という存在を後世につなごうと我々やってきました。でも政府は何もしないし、一生懸命やっても届かない、僕ら元住民の声がね。そのうち皆年を取って、どんどん亡くなっている。今も真岡に残る王子製紙真岡工場の廃墟。南樺太が日本の領土であり、そこに暮らした人々の暮らし、活発な産業の様子を物語っている ──ソ連不法占拠から七十年。 金谷 今の事務所のすぐ近くに「樺太会館」というビルがあったのを売って何とか法人活動を続けていますが、それがなくなれば終わり。昔は寄附してくれた人や企業もいたけど、悲しいことに今は全然です。 ──日本遺族会も同じ状況ですね。 金谷 そうなんです。あまりに政府が何もしないし、国民にも「サハリンはロシアのもの」みたいに誤解が広まって、元住民の二世、三世ですら振り向かなくなりつつある。だってNHKがね、稚内から「はるかサハリンが見えます。中心地ユジノサハリンスクは…」ですから。「樺太」「豊原」と一言も言わない。領事館開設も影響も大きいですよ。 ──絶望的ですか? 金谷 いや、こんな中でも、たとえかすかでも、希望は捨てません。志のある次の世代がいる限り。 かなや・てつじろう 昭和六年樺太・真岡町生まれ。旧制真岡中学二年生で終戦を迎え、現地に二年近く現地に抑留される。終戦直後に北海道に疎開していた母や弟と再会。滝川町の旧制滝川中学(現滝川工業高校)三年に編入し、新制高校として卒業。三十一年横浜市立大学商学部卒業と同時に野村證券入社。三十四年同證券などが設立の東洋信託銀行に転籍し、六支店の支店長を歴任。六十一年定年退職で系列企業役員を経て、平成五年から三年間日本住宅金融の監査役を務めた。全国樺太連盟には昭和五十一年に入会し、千葉県支部長を経て平成十四年理事、二十二年から副会長。息子は病死し、娘に大学生の孫二人。「今は二つ下の妻と〝老老介護〟ですよ(笑)」。数少なくなった「樺太の生き証人」として講演やインタビューなどに積極的に応じている。

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    北方領土にシベリア抑留 「対日戦勝者」ロシアの正当化

    廣瀬陽子 (慶應義塾大学総合政策学部准教授) 2011年8月15日、日本は66回目の終戦記念日を迎えた。第二次世界大戦の体験者も年々減ってきている。日本の歴史において、第二次世界大戦が持つ意味は極めて重く、甚大な人命の喪失と敗戦国として背負った代償の大きさは筆舌に尽くし難い。 他方、当時のソ連、そしてロシアを中心とするその継承国にとっても、第二次世界大戦(旧ソ連諸国では、「大祖国戦争」と呼ばれる。以後そのように記載する)の意味は非常に大きく、人命の喪失も甚だしかったとはいえ、戦勝国として大きな自信を得て、そこからいわゆる西側陣営との冷戦に突き進んでいった点で、その持つ「意味」は日本と大きく異なると言える。旧ソ連諸国にとっての大祖国戦争の意味と「勝利記念日」 ソ連にとっての大祖国戦争は、「独ソ戦」が主たるものだと言える。人類の敵であるナチス・ドイツによる「独ソ不可侵条約」を犯しての奇襲による熾烈な戦いに勝利したことは、生まれたばかりのソ連にとっては極めて大きな誇りとなった。しかも、ロシア人の60%が、ロシアは同盟国の支援がなくても単独でドイツに勝利できたと考えているという(ユーリー・レヴァダ分析センターが実施した世論調査による)。 そのため、各地に大祖国戦争を記念する記念碑やモニュメントが建設され(ただし、最近、エストニアやグルジアなど反ロシア的な諸国が、大祖国戦争のモニュメントを移動したり、破壊したりしており、それに対し、ロシアは激しく反発している)、現在でも毎年、ドイツに勝利した5月9日の「戦勝記念日」にはロシアはじめ、旧ソ連の数か国で独ソ戦勝利記念軍事パレードが華々しく行われる。また、ドイツが攻撃を仕掛けてきた1941年6月22日を記念し、ロシアはこの日を「記憶と悲しみの日」に制定している。このように、大祖国戦争は、ソ連が解体しても、ソ連諸国をつなぐ共通の誇らしい歴史の記憶であったと言える。 実際、バルト三国(反ロシア的なスタンスで知られる旧ソ連諸国。現在はEU加盟国である)も、ソ連の独ソ戦での活躍については高い評価をしているようだ。すなわち、ナチス・ドイツから欧州を解放したのはソ連であるという見方である。ただ、その直後のソ連の行動により、評価は短期間に一転するのであるが…。 このように、旧ソ連諸国では、大祖国戦争はドイツに対する勝利というイメージが強く持たれているが、ソ連時代には、もう一つの「戦勝記念日」があった。それは、9月3日の「対日本軍国主義戦勝記念日」(以後、「対日戦勝記念日」)である。一般的に「対日戦勝記念日」は、日本がソ連を含む戦勝国に対して降伏文書に調印した1945年9月2日にちなんで設定されることが多いが、ソ連や中国などは9月3日を対日戦勝記念日としていた。ソ連の場合は、降伏文書調印の翌日9月3日に戦勝記念式典を開いたことにその起源がある。 だが、「対日戦勝記念日」を祝う慣習はソ連解体後にはなくなっていた。このことは、旧ソ連諸国にとっては「対日戦」の意味はあまり重くなかったことの証左と言えるだろう。ロシアにとっての対日戦の意味の変化? しかし、2010年には「対日戦勝記念日」を復活させる議案がロシア連邦議会に提出された。ただし、事実上は「対日戦勝記念日」であるが、「第2次世界大戦が終結した日」としてその議論は進められた。そして10年7月14日に、9月2日を「第2次世界大戦が終結した日」とする法案を連邦議会が可決し、同月25日にメドヴェージェフ大統領が署名して、同法改正案は成立した。 実は、「対日戦勝記念日」の復活の動きは10年以上前からあり、ロシア連邦議会でもそのような動きが出たことがあったが、これまでは政府がそれを抑制してきた。しかし、昨年は、大統領府の会議で高い支持が得られたということで、大統領府が支援者となり、これまでとは異なる様相が見られるようになったのである。モスクワでの軍事パレード後、軍人らと握手するロシアのプーチン大統領(AP=共同) そして、昨年9月には、中露が第二次世界大戦での「対日戦勝65周年に関する共同声明」を出すに至る。メドヴェージェフ大統領は、9月26日から3日間の訪中を行い、1904~05年の激戦地だった大連・旅順口を訪問し、日ロ戦争および第二次世界大戦におけるソ連軍・ロシア人の犠牲者追悼行事に参加、北京で首脳会談を行なって共同声明を発表した。その共同声明は、ロシア(当時はソ連)と中国は軍国主義の日本およびファシズム政権のドイツに対して共闘した同盟国であり、対日戦勝の65周年をともに祝すという趣旨となるが、とくに、中露両国が第二次世界大戦の結果を同様に受け止め、その見直しはあり得ないことを盛り込み、両国が言うところの歴史の真実を共に守っていくことが重視されている。*注1 そのため、11月にはロシアのメドヴェージェフ大統領がソ連・ロシアの最高指導者としては初の北方領土訪問を行うに至り、以後、多くのロシアの重鎮たちが北方領土を訪問するようになった。 さらに、ラブロフ外相は今年の2月15日に、「日本が世界大戦の結果を正確に認めない限り、平和条約交渉は無意味だ」と対日牽制を行っている。ロシアは、北方領土がロシア領になったのは、第二次世界大戦の結果、つまり日本の敗戦によるものだという主張を従来からしており、改めて、日本に対して北方領土の返還主張をやめるよう示唆してきたと言える。 このような経緯から、去年よりロシアの対日姿勢が急に硬化したことが感じられるのである。 ただし、9月2日が「対日」という言葉を含まずに「第2次世界大戦が終結した日」と命名されたことには、日本への一定の配慮が感じられる。それは、2011年3月11日に、9月3日を「日本帝国主義者に対する勝利の日」と定める法案が提出された際に、圧倒的与党である「統一ロシア」が反対し、否決されていることからも明らかであるソ連は本当に戦勝者か? しかし、ここでソ連は本当に戦勝者であったのかという疑問が生じる。「対日戦」はソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、*注2 つまり国際条約に違反した形で、長い戦争で疲弊したところに原爆というとどめを刺されて死に体となった日本に対して、8月8日に宣戦布告。広島に続き、長崎に2発目の原発攻撃を受けた8月9日から、大規模な攻撃を開始し、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を次々と制圧・占領。幸いに実現はしなかったが、日本敗戦の折には北海道の占領権まで主張するに至ったという、いわば火事場泥棒的な戦争であった。そして、そのことは、ロシア人も認めるところであり、実際「第2次世界大戦が終結した日」への支援の声はそれほど大きくないようだ。以下に、同記念日の制定に対するロシア世論の一部を紹介しよう。・日ソ戦争は、日本ではなくソ連の方から正当な理由なく攻撃を仕掛けた戦争である。・日本の敗戦によってソ連は南サハリンとクリル(千島)列島を取り戻した。しかし、その領土のすべては、必ずしも日露戦争(1904~05年)で失ったものではない。・日ソ戦争で戦死したソ連兵は約8200人。ドイツとの戦争における戦死者の数は数百万人単位であり、それと比べると桁違いに少ない。・対日戦争はよく計画され、実行されたものであった。しかし、国民の感情に火をつけるほどの「悲劇と栄光の出来事」とは言えない。そのため、国民の中にこれを記念しようという声は沸き起こっていない。(以上、コンスタン・サルキソフ「「対日戦勝記念日」制定にロシア国民の反応は?」、JP Press 2010年4月8日)(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3179)より引用)*注1:拙稿「尖閣諸島問題は北方領土問題に影響するか?」ASAHI WEB RONZAシノドスジャーナル(http://webronza.asahi.com/synodos/2010092800001.html)を参照されたい。*注2:ソ連にとっては、ナチス・ドイツとその同盟国である日本からの東西両面からの攻撃を避けるため、日本にとっては北方の安全保障を確保するという相互の思惑のもと、1941年4月13日にソ連の首都・モスクワで調印されたもの。日ソ両国の相互不可侵及び、一方が第三国と軍事行動の対象となった場合の他方の中立等が取り決められていた。しかし、41年6月22日に、ナチス・ドイツがソ連に対して「独ソ不可侵条約」を破棄して奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)をかけ、独ソ戦が開始されたとき、日本も対ソ連攻撃の準備をしたが、踏みとどまった経緯がある。だが、45年2月4日に、米・英・ソの首脳がヤルタ会談を行い、対独戦後処理とソ連の対日参戦についての密約である「ヤルタ秘密協定」を締結した。そして、それに従って、ソ連は対日参戦をするに至るが、ここで、ソ連は「日ソ中立条約」への違反を犯すことになる。実は「日ソ中立条約」の有効期限は5年間であり、その破棄には満期1年前の不延長通告を必要とするとの取り決めがあったが、その満期日は46年4月だった。だが、日本の敗戦の可能性が高まってきたのを受け、ソ連は45年4月5日に条約の不延長、すなわち条約が満期を迎える46年4月での破棄を通告してきたのである。確かに、条約を延長しない旨の通告はあったが、条約失効まで約8ヶ月を残す段階で、ソ連は対日宣戦布告をしたわけであり、それは間違いなく条約違反であった。ロシア側の「正当化」の論理 この背景には、ロシア首脳陣や一部のロシア人の、対日戦におけるソ連のスタンスの「正当化」の論理があるといえるだろう。 たとえば、ロシアのイタル・タス通信のゴロブニン東京支局長は、日本とロシアの第二次世界大戦の終わりごろについての解釈は大きく異なるという。彼は、「ロシアでは社会の多数の人々は、日本が当時、帝国でナチス・ドイツとの同盟国であり、旧ソ連を脅かしていたと考えている。だから、1945年8、9月の(旧ソ連の)作戦に対しても、この大枠で捉えている。つまり、日本が領土を失ったのは、正当な罰だという考え方だ。」(『産経新聞』2011年5月4日)と述べるが、この見解が日本の見方と大きく異なることは明白である。 また、同氏の主張が、上述のサルキソフ氏が述べるロシア人の世論と大きく異なっていることも興味深い。この違いの理由は何だろうか? イタル・タス通信は、ロシアの国営通信社であるので、もしかしたら、イタル・タス通信側が、政府の意をくんで、世論を創出しようとしているのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか?シベリア抑留問題 他方で、第二次世界大戦の結果の如何にかかわらず、日本がロシアに対して強く主張し続けるべき問題がある。シベリア抑留問題である。 シベリア抑留とは、第二次世界大戦直後に、ソ連が多くの日本人を、日本に復員させることなくシベリアや中央アジアなどソ連各地に抑留して、非人道的な強制労働を行わせたものである。日本人抑留者のほとんどは、旧日本軍の軍人(主に関東軍だが、北朝鮮・樺太・千島などソ連が侵攻した地に展開していた陸海軍部隊も含まれる)だったが、民間人も含まれていたという。日本政府の推計によれば、抑留者数約56万人(約60万人以上という説もある)のうち、全ての抑留者の帰還が終わる1956年までに約5万3千人(約6万9千人という説もある)が死亡したという(日本政府が推計する抑留者や抑留死者数は、帰還者や家族の聞き取りを基にしたもので、少なすぎるという見解が多く出されている。なお、これまでロシアから返還された遺骨は2万柱である)。これは、氷点下70度になる場所もあったような極寒の地で満足な食事も与えられず、森林伐採や鉄道建設などの重労働で酷使されたためである。本稿では、その内容の詳細について述べる紙幅の余裕がないが、シベリア抑留については多くの著書があるので、それを参考にしていただきたい。 なお、日本人の旧ソ連での労働の質は極めて高かったとされている。たとえばウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は日本人抑留者が建設したものであるが、大地震の際に、ナヴォイ劇場だけが無傷で残ったとして、日本人の仕事の質の高さが今でも言い伝えられている。*注3ナヴォイ劇場と記念碑(筆者撮影) このようなソ連の抑留や、捕虜の速やかな送還を明記した「ハーグ陸戦規則」にも、武装を解除した日本軍兵士の帰宅を定めた「ポツダム宣言」にも反するものだが、ソ連は長らく本問題に口を閉ざしてきた。だが、ソ連の最後の大統領だったゴルバチョフが初めて「哀悼」の意を表明し、ロシアの初代大統領エリツィンが初めて93年10月に正式に「ソ連全体主義の犯罪」だとして、正式に「謝罪」した(東京宣言)。だが、その後のプーチン、メドヴェージェフは言及を避けている。*注3:拙著『強権と不安の超大国・ロシア』光文社新書、2008年 を参照されたい。 そのような中で、戦後70年を迎える2015年を前に、シベリア抑留問題への対応が急務となっている。具体的には、抑留者や死亡者の身元確認を中心とした抑留の全体像の究明と抑留者への賃金未払い問題と補償問題である。 2009年7月にモスクワのロシア国立軍司公文書館でシベリア抑留に関する新資料が最大で76万人分が発見された。このカードには、抑留者の名前、生年、収容所異動歴などが記載されていた。全抑留者を網羅する規模の資料発見は初めてで、抑留者や死者の総数確定などに寄与すると期待された。上述の数字より抑留者の数が多い理由は、抑留者の多くが収容所を転々とさせられていたため、移動の際に複数の記録が生まれたことにあると見られている。そして、政府も8月5日には、「シベリア特措法」に基づく、基本方針を閣議決定し、対応が強化されている。 だが、今年の8月現在で、このロシア側の資料と日本側の資料の照合により、身元が確認されたのは2097人に過ぎず、身元は判明したが、埋葬地などが不明な抑留者の数も多いという。厚労省は、作業の迅速化のため、「照合ソフト」も開発し、なるべく早く埋葬地まで明らかにし、遺骨の収集まで進めていきたい意向を示している。やはり重要なのは当時の情報となるが、抑留者の中に生存者が少なくなっていることや、埋葬地の上に建設が行われていたりと、作業は思うように進まないという。今後、厚労省は、資料を誰でも閲覧できるように、死亡者名簿を国立公文書館に移すなど、情報収集に力を入れていくとのことだ。 また、近年、抑留者の「未払い賃金」問題の解決が急務となってきている。当時のソ連政府は抑留者に対して労働証明書を発行しなかったため、日本政府も彼らに賃金を支払わないままで現在に至っているのだ。本問題も、上述の抑留者の身元確認が前提となる。ロシアに補償金を支払わせろという声も一部で高まっている。続く戦後 このように、日本とロシア・旧ソ連諸国では、第二次世界大戦の受け止め方は全く異なる。それは単に結果としての「敗戦国」、「戦勝国」の違いだけではなく、日本が喪失したもの、つまり抑留者や領土に対する考え方にも大きく反映している。それらに対して、「戦勝国」であるロシアは、自分たちの振る舞いがまるで当たり前であるかのような態度を示す一方、日本人にとっては「戦後」がまだ続いていると言って良い。今後のロシアとの関係には、常にこの「第二次世界大戦」の理解の齟齬が絡み合ってくるが、当時のソ連が条約や国際法への違反行為を行ったのも事実だ。日本は、ロシアと歴史認識の違いの溝を埋めながら、真の「戦後」を終わらせるべく、辛抱強い調査や交渉を続けていくことが求められるだろう。

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    ロシア国家犯罪を検証せよ シベリア抑留は70万人、死者10万人だった

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より長勢了治(抑留問題研究者・翻訳家) 独裁者スターリンの非道 敗戦から七十年となった平成二十七年、ロシアは五年前に「第二次世界大戦終結記念日」と定めた事実上の対日戦勝記念日である九月二日に樺太と北方領土で記念式典や軍事パレードを行い、プーチン大統領は中国の習近平国家主席が主催する「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利七十周年」記念式典に向かう途次、東シベリアのチタ市で「戦争犠牲者」の記念碑に献花した。 樺太と千島列島および北方領土を不法に占領した事実を覆い隠し、力による領土拡大を「大戦の結果」として合理化するとともに実効支配を誇示する狙いであろう。ロシアも中国同様、日本に歴史戦を挑んでいる。 ソ連軍は終戦直前の昭和二十年八月九日午前零時、日ソ中立条約を破棄して満洲に侵攻した。北朝鮮にも同日、北部沿岸に爆撃を始めた。樺太には八月十一日から北部国境方面にソ連軍が侵入した。千島列島への侵攻は遅く、終戦後の八月十八日に占守島(しゆむしゆとう)へソ連軍が上陸し、日本軍との間で大規模な戦闘となった。 日本が降伏した八月十五日以降もソ連が攻撃の手を緩めなかったのは満洲、北朝鮮、樺太、千島列島を完全に制圧することを狙っていたからだ。歯舞諸島の占領をもって北方領土の占領を完了したのは九月五日だったから、九月二日を対日戦勝記念日とするのも欺瞞であろう。 スターリンはルーズベルト、チャーチルとの昭和二十年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後二、三カ月で対日戦に参戦し、見返りに樺太、千島列島、東清鉄道、大連、旅順を貢ぐよう約束させた。スターリンはこの密約どおり実行したわけである。 ヤルタ会談ではドイツに関して「国民資産の撤去」「ドイツの労働力の使用」を賠償として明記したことは周知である。スターリンが日本についても同様に考えたであろうことは容易に想像できる。ただし、日本は一方的に侵攻された側なので「賠償」を取られるいわれはない。東シベリア・チタでの戦勝70年行事で記念碑に献花するロシアのウラジミール・プーチン大統領=2015年9月2日(タス=共同) スターリンはすでにドイツ人を始め枢軸国側の捕虜を三百万人以上、国内に連行して使役し味をしめていたから、満洲侵攻後の八月二十三日、有名な「秘密指令九八九八号」を出して五十万人の日本人をシベリアへ連行するよう命じた。同時に満洲、北朝鮮の施設と物資を「戦利品」として大量に掠奪し国内へ移送した。 八月末から翌春にかけて六十万人以上の日本の軍民がソ連とモンゴルに移送され、長期間抑留された。いわゆる「シベリア抑留」である。連行先は、北は極北のノリリスクから南はトルクメニスタンまで、東はカムチャツカから西はウクライナまでほぼソ連の全土に及び、一部はモンゴルにも移送されたから地域的には「ソ連モンゴル抑留」がふさわしい。 ソ連占領地ではソ連軍による居留民に対する残虐行為が多発した。掠奪、暴行、強姦により居留民は塗炭の苦しみを味わった。とりわけ悲惨だったのは開拓民で、根こそぎ動員で男手のない老人と婦女子の集団がソ連軍や現地民に襲われ、陰惨極まりない逃避行を余儀なくされたのだ。 ソ連とモンゴルに連行、抑留された軍民にも悲惨きわまりない運命が待ち受けていた。日本兵はソ連軍が指定した四十四カ所の集結地収容所に集められ、順次列車や徒歩でソ連領へ移送された。満洲は九月ともなれば寒くなる。行軍中に斃(たお)れる者が出るし、列車から脱走する者も出たがソ連軍は容赦なく射殺した。 こうしてソ連への移送途中で、早くも数万人ともいわれる日本人が死亡したが実態は不明である。 ソ連兵は移送の時いつも「トウキョウ・ダモイ(帰国)」と嘘をついて日本人の逃走や反抗を防ごうとした。お人好しの日本人は「トウキョウ・ダモイ」を信じようとし、手もなくだまされた。ダモイの嘘はソ連に対する根深い不信感を日本人に残した。 こうして日本人は約二千カ所ともいわれる収容所に入れられた。シベリアや沿海州を中心として中央アジアやウクライナ、そしてモンゴルへ配置されたのである。収容所で日本人を待ち受けていたのが「シベリア三重苦」といわれる飢餓、重労働、酷寒(マロース)だった。飢餓、重労働、酷寒の三重苦飢餓、重労働、酷寒の三重苦 捕虜収容所に送られた日本人はまず住むところを確保することから生活が始まった。既存の施設を利用できたところもあるが、自分の手でバラックや半地下小屋(ゼムリヤンカ)を建てたり、幕舎(テント)でしのいだところも多かった。劣悪な住環境だった。 ソ連は官僚社会なので様々な基準や規則が定められており、捕虜用の給食基準もあった。帝国陸軍の基準と比べると品目により一割から三割ほど少なかったが、それでも基準どおり支給されれば、栄養失調という名の餓死でバタバタ斃れることはなかっただろう。 問題は当初、実際の給食がこの少ない基準の半分にも満たなかったことである。黒パン三百㌘に雑穀の粥(カーシヤ)、中身のない塩水のようなスープが一日の食事だった。ソ連は独ソ戦で農地が荒廃し、飢饉もあってソ連国民自身が飢えていたのだから仕方ないというが、それならポツダム宣言どおり日本へ直ちに送還すべきだっただろう。スターリンは捕虜の労働力がどうしても必要だったから、飢えさせてでも酷使し続けたのである。 スターリンが日本兵を抑留したのは戦争で荒廃した国民経済を復興するための労働力として使役するのが目的だったことは明らかである。日本人をシベリアと中央アジアに多く配置したのは、そこの労働力が不足していたからだ。 日本人はあらゆる作業に従事させられたが、主な作業は伐採と鉱山労働と建設(建物、道路、鉄道)だった。とりわけ伐採と鉱山労働が重労働で危険な作業でもあった。各作業に厳しいノルマが課され、達成できないと超過労働が強いられたり、減食されたりした。給食は基準(ノルマ)以下なのに労働はノルマの達成を強要された。それでいて賃金はほとんど支払われなかったから、まさしく「奴隷労働」にほかならなかった。 シベリアとカザフスタン、モンゴル高原は温暖な日本の気候とは比べられないほど寒い地域だ。ロシア人は寒冷な気候に慣れていたが、日本人はこの酷寒(マロース)に悩まされた。多くの人が凍傷にかかり凍死した人もいた。関東軍の軍装はシベリアでは役に立たなかったが、ソ連側から支給された毛皮外套(シューバ)、フェルト製防寒靴(ワーレンキ)の保温力は優れていた。 作業停止となる限界気温は収容所長の裁量に任されていたから日本人には耐え難いマイナス三十度から四十度くらいに設定された。時には限界気温以下でも作業出動させられた。日ソ国境紛争ではソ連の衛星国としてモンゴル軍が日本と戦い、日本軍捕虜を監視した=昭和14年のノモンハン事件 これがシベリア三重苦である。この三重苦に耐えられずに多くの人が犠牲になった。ただ、抑留者によってはこの三重苦よりも、後述するシベリア「民主運動」による吊し上げなどの同調圧力の方が苦しかったという。また、抑留者にとって最大の関心事は帰国(ダモイ)だったが、その見通しが立たないことも三重苦に匹敵するほどの不安と苦しみを与えた。 シベリアでは三重苦で一〇%を超える日本人が亡くなった。そのうえ、死者を鞭打つような屍体の扱いや埋葬方法が横行した。死体は死体置き場に運ばれるとすぐにカチカチに凍った。それを墓地に運び裸のまま埋葬する。ただでさえ凍土に穴を掘るのは並々ならぬ作業だったから、死者が増えると十人、二十人とまとめて埋葬することになる。深くは掘れないから薄く盛土すると狼や野犬が食い荒らした。 国際法が定める「丁寧に」「尊敬されるように」とはかけ離れた杜撰(ずさん)で冒涜(ぼうとく)的な埋葬である。ここにも共産主義が現れている。宗教を阿片だとして否定する無神論からすると屍体はただのモノにすぎないし、悼み弔う宗教的儀式も必要ないのである。共産党独裁国家の悪行 共産党独裁国家の悪行  なぜシベリア抑留がかくも苛酷なものとなったのか。それは抑留国がソ連とモンゴルという共産主義国家だったことが大きな要因である。 二十世紀は革命と戦争の世紀といわれ、共産主義が一世を風靡した。マルクス、エンゲルスが唱えた共産主義つまりマルクス主義は「階級のない完全に平等な社会」「個人の自由な発展」という永遠の理想を追求した。その実現のために階級闘争史観、暴力革命論、プロレタリア独裁論、唯物史観といったイデオロギーで武装した。 ロシアで世界初の共産主義革命としてのロシア革命が一九一七年に起きてソヴィエト連邦が成立し、ソ連の後押しで二番目の共産主義国家がモンゴルで誕生した。ソ連では革命直後から反対派を弾圧する「全ロシア非常委員会(チェーカー)」がつくられて血の弾圧(赤色テロル)を実行した。この組織は内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)、国家保安委員会(KGB)などと名前を変えながら人民弾圧機関として一貫してソ連体制の維持を担った。ソ連復興の労働力として使役するため日本兵を抑留したスターリン=クレムリンの執務室 ソ連は理想を目指すとしながら、実態は一切の批判、異論を許さない共産党一党独裁国家だった。反対派、異論派は容赦なく弾圧され全国に設置された囚人収容所(グラーグ)に入れられ多大な犠牲者を出した。収容所群島の出現である。 西欧ではナチスドイツのホロコーストが絶対悪として糾弾され続けるが、それより遥かに多いおよそ一億人もの犠牲者を主にアジアで生み出した共産主義の巨悪にはなぜか寛容である。共産党独裁による悪行を過去のことと葬り去るのではなく、ホロコースト同様、世界史に残る残虐な事実としてさらに深く解明し、歴史に刻む必要があるだろう。その悪行のひとつがシベリア抑留である。 ソ連では捕虜収容所の管理を弾圧機関であるNKVD/MVDのグプヴィ(捕虜抑留者管理総局)が行った。グラーグとグプヴィは双子の兄弟のようなものだった。囚人管理の手法がそのまま捕虜管理に応用されたのである。このように共産主義と弾圧機関の組み合わせがシベリア抑留を非常に苛酷なものにしたのだ。 ソ連は労働力確保のためできるだけ抑留者のダモイを遅らせようとした。ポツダム宣言は「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と定めていたが、ソ連はこれを無視してダモイを遅らせた。満洲侵攻後、降伏した日本軍の武装解除を監視するソ連兵=昭和20年8月28日 それでも日本国内の帰還促進・支援活動の高まりを受けてGHQとソ連代表との交渉が始まり引揚に関する米ソ協定が結ばれたのは、抑留開始から一年四カ月経った昭和二十一年十二月。満洲などからソ連へ移送するのはわずか四カ月ほどで済んだのに、日本への送還は三年以上も時間をかけたのだ。昭和二十五年春までに四十七万人が帰国した。「囚人」として長期抑留「囚人」として長期抑留 しかし、ソ連には抑留者がまだ残されていた。「戦犯」とされて牢獄につながれた長期抑留者である。日本では東京裁判やBC級裁判のせいで戦犯というだけで非常に悪いイメージがつくられていた。だからシベリア抑留者のうち「戦犯」とされた人も同じ目で見られたが、これは大いなる誤解だった。この誤解や偏見がどれほどであったかは、シベリア抑留の研究書でありながら「戦犯」をまったく取り上げない本すら存在することが示している。 しかし、真実は「戦犯」とされた長期抑留者は無実の囚人であり、シベリア抑留の最大の犠牲者だった。 ソ連は「前職者」、すなわち警察官、憲兵、特務機関員、高級将校、司法関係者、満洲国協和会員、政府高官、ロシア語通訳というだけで「戦犯」容疑者と見なした。実際の犯罪行為ではなく平時の職務行為を犯罪と見なし、主にロシア共和国刑法第五十八条の「反革命罪」で有罪を宣告した。第五十八条はソ連の政治犯を裁いた有名な条項である。 罪状はスパイ行為や破壊行為、国際ブルジョアジー幇助などが多かった。取調べから判決まで一応裁判の形式は取ったが、実態はとうていまともな裁判に値するものではなかった。そもそも罪状からして本来の戦争犯罪ではなく「反革命罪」だったから、濡れ衣というほかないものだ。 有罪を宣告されれば、曲がりなりにも国際法で保護される「捕虜」からただの「囚人」待遇に転落し、監獄(チュリマー)か囚人収容所(ラーゲリ)へ送られる。つまりグプヴィからグラーグへの移動だ。昭和27年公開の映画「私はシベリアの捕虜だった」で再現されたソ連兵にムチ打たれて強制労働させられる日本兵捕虜の様子(川喜多記念映画文化財団提供) 長い苛酷な拘禁と労働を経て長期抑留者の帰国が始まったのは赤十字社協定により昭和二十八年十二月からであり、最後の長期抑留者がダモイしたのは日ソ共同宣言により昭和三十一年十二月二十六日のことだった。十一年に及ぶ苛酷な長期抑留だった。長期抑留者の総数は二千六百七十九人だった。 鳩山一郎首相と河野一郎農相がモスクワに乗り込んで署名したこの日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を返還するとして北方領土問題を先送りしただけでなく、第六条で「すべての請求権を、相互に、放棄する」ことに同意したことで、スターリンの大罪であるシベリア抑留に対する補償の請求権すら放棄してしまったことは外交的失策であろう。現地抑留や一般抑留もあった 以上は、いわゆる「シベリア抑留者(ソ連モンゴル抑留者)」のことで、法律上は「戦後強制抑留者」と定義された人たちのことである。しかし、これ以外にもシベリア抑留者に含めるべき人たちがいた。 平成二十七年四月二日、読売新聞は北朝鮮の興南にソ連軍が設置した第五十三送還収容所で死亡した日本人抑留者八百六十九人のソ連側の名簿を報じた。その後も興南第五十三収容所以外に元山第五十一収容所、大連第十四収容所、真岡第三百七十九収容所における抑留死亡者の名簿が報道された。 これらの収容所は日本人を送還するためソ連本国送還全権局が設置した送還収容所である。本国送還のため一時的に滞在する収容所だったので公式には「通過収容所」と命名された。厚労省もこの報道に押されるように所蔵する死亡者名簿を公表した。その数は二千百人以上に上る。 これはソ連とモンゴルに連行された抑留者以外の抑留日本人の存在に光を当てるもので、「抑留者」の再定義を迫るものといえた。 私はかねてソ連関係の「抑留者」を三分類すべきだと指摘してきた。 ①強制抑留者 ②現地抑留者 ③一般抑留者 ①の強制抑留者とは「ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅順大連地区)からソ連本土とモンゴルに連行・抑留された軍民」のことで、法律上は戦後強制抑留者と呼ばれる。「平和祈念事業特別基金等に関する法律」(昭和六十三年五月二十四日施行)および「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」(平成二十二年六月十六日施行)では「昭和二十年八月九日以来の戦争の結果、同年九月二日以降ソヴィエト社会主義共和国連邦又はモンゴル人民共和国の地域において強制抑留された者をいう」と定義されている。 強制抑留者だけが慰労金や特別給付金の交付対象となった。また、政府が公式数字として掲げる「シベリア抑留者五十七万五千人、死亡者五万五千人」は、この強制抑留者だけを意味している。 ②の現地抑留者は、ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅順大連地区)でソ連軍が管理する収容所や病院に収容された軍民のことである。真岡、大連、元山、咸興(興南)の送還収容所を含み、今回、報道・公表された死亡者はまさしく現地抑留者である。現地抑留者の総数や死亡者数はまだほとんど未解明で実態は不明なままである。 ③の一般抑留者は、ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅大地区)でソ連軍が管理する収容所や病院には収容されなかったものの、ソ連軍によって国境を封鎖され一定期間(九カ月~四年)出国を事実上阻止され抑留された民間人である。  ・満洲=昭和二十一年五月から米軍と国府軍の協定で葫蘆島(ころとう)から帰国・北朝鮮=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国・樺太=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国・千島=昭和二十二年四月から米ソ引揚げ協定で帰国・旅大地区=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国 いずれの地区も協定帰国の前に命がけで脱出した人が多数おり、残った人も生きるため大変な苦労をした。非道な政策検証に法改正必要非道な政策検証に法改正必要 私は強制抑留者と現地抑留者を合わせて「シベリア抑留者(ソ連モンゴル抑留者)」と規定し、抑留者数約七十万人、死亡者数約十万人と推定した。公式数字と大きく異なるのは定義が違うことも一因である。 ここで重要なことは現地抑留者も強制抑留者と同じく、ソ連軍の侵攻によって捕えられソ連軍またはソ連内務省が管理する収容所(病院)に入れられて苛酷な扱いを受け多数の死者を出したことである。 どちらもスターリンの非道な政策の犠牲者なのだ。 厚労省が興南などの送還収容所での死亡者をつとに把握しながら公表しなかったのは、これらの現地抑留者が法律の対象になっていなかったからであろう。そうであれば、法律を改正して現地抑留者を含めるようにすべきである。 たとえば「ソ連軍が侵攻した昭和二十年八月九日から満洲から撤退した昭和二十一年四月十五日ころまでの間に、ソ連軍支配地域であった満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅大地区において、ソ連軍とモンゴル軍により日本軍の捕虜または犯罪容疑者として拘束され、ソ連領及びモンゴル領並びにソ連軍支配地域内においてソ連軍またはソ連内務省またはモンゴル政府が管理する捕虜収容施設に強制抑留された日本人及び一部外国人」のように改正すればよい。 実はヴィクトル・カルポフは十八年前の先駆的な研究書『スターリンの捕虜たち』で現地抑留者を含めた死亡者数として通説の六万人を大きく上回る九万二千五十三人と公表していた。ソ連・モンゴルが六万六百七十人、ソ連支配地域三万千三百八十三人である。 このソ連支配地域こそ現地抑留者がいたところだ。改めてカルポフの歴史を見る眼の確かさを確認する想いである。ソ連兵監視の下で木材運搬の強制労働に追われる日本兵捕虜。写真は靖國神社に寄贈された シベリア特措法は特別給付金のほかに重要な項目として第十三条で「強制抑留の実態調査等」について定めている。具体的には次の三項目を基本方針に定めるとした。① 強制抑留中の死亡者についての調査② 強制抑留中死亡者の遺骨と遺留品の収集と送還③ 強制抑留の実態の解明に資するための調査 いずれもきわめて大事なことだが、この調査対象に強制抑留者だけでなく現地抑留者を含めるためにも法律の改正が必要である。未解明部分多い逆送者と現地抑留者 強制抑留者と現地抑留者の双方にまたがるのが一旦シベリアへ移送されながら、ソ連により病弱者として満洲と北朝鮮に逆送され厄介払いされた「逆送者」である。厚生省の『引揚げと援護三十年の歩み』によれば四万七千人いたとされる。 北朝鮮へ逆送された日本人は日ソの資料で約二万七千人と確定できるが、満洲への逆送者は確たる数字がまだ不明である。同書は、入ソ当初から昭和二十一年にかけて延吉、敦化、牡丹江、黒河に一万五千五百人が移送され、途中および到着後に多数の死傷者が出たと記している。 現地抑留者数およびその死亡者数については強制抑留者数と死亡者数以上に裏づける資料がきわめて少ないので今後の大きな課題である。現地抑留者を把握することが困難なのは前記分類③の「一般抑留者」と区別するのが難しいことにもよる。 同書はまた昭和二十一年四月時点で、逆送者一万五千五百人を含む七万五百人がソ連管理下の満洲の収容所と病院に残されていたと記し、その後の運命を次のように推定する。 ▽死亡者二万八千五百人▽昭和二十一年四月以降にソ連へ移送一万千三百人▽中共(中国共産党)軍に移管三万七百人 北朝鮮の現地抑留者については、昭和二十一年九月一日時点のソ連側資料で北朝鮮の収容所には三万千五百八十四人(うちソ連からの逆送者は二万六千七百二十三人)いた。逆送者以外に四千八百人余が元山、興南などのソ連軍収容所に残されたことになる。同じく遼東半島の旅大地区のソ連軍収容所には一万三千五百五十三人いた。 南樺太と千島には、約一万三千人が現地のソ連軍作業大隊に残され使役されたと厚生省の『満洲・北朝鮮:樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況』は記している。 資料の出所が違うが、単純に合算すると現地抑留者は十三万人近くになる。逆送者を除いても八万人以上である。 別のソ連側資料にも現地抑留者を示すと思われる数字がある。グプヴィの昭和二十一年四月一日時点の極東三軍管区における日本軍捕虜に関する調査資料では全部で約十万人が軍管区にいた。これはソ連軍が満洲から撤退する直前の数字である。 ◎ザバイカル・アムール軍管区(旧ザバイカル方面軍)▽チチハル第二収容所九十四人▽長春(新京)第三収容所千七百五十人▽チチハル第六SPL千八百五人▽佳木斯(ジャムス)第十五収容所三百五十一人▽ハルビンKA1収容所二百五十二人=計四千二百五十二人 ◎極東軍管区(旧第二極東方面軍)▽作業大隊九千百十七人▽南樺太三百八十五人▽千島列島二千七十九人=計一万千五百八十一人 ◎沿海軍管区(旧第一極東方面軍)▽軍収容所五万二千五百二十九人▽軍病院(収容所の)七千百四十七人▽前線作業現場二万四千四百五十三人=計八万四千百二十九人 【三軍管区合計】九万九千九百六十二人 地名が明示された数字は現地抑留者と判定できるが、その他も現地抑留者である可能性は高いであろう。 このうち、何人がソ連へ移送され、何人が現地で死亡し、何人が中共軍に引き渡されたのか。 現地抑留者はソ連軍が管理していた以上、国防省の公文書として詳細な資料が残されている可能性が高いので今後の新資料の発掘が望まれる。共産主義の独善が人権踏みにじる共産主義の独善が人権踏みにじる シベリア抑留が苛酷だったのは抑留国が共産党独裁国家だったことが大きな要因であったことは先に述べた。そのことを最もよく表すのがシベリア「民主運動」である。 共産主義はそもそも絶対的に正しいイデオロギーとして大衆に宣伝し、教化し、世界中に広めるという本質を持つ。ソ連は捕虜収容所にいる外国人捕虜にも思想教育し、共産主義イデオロギーを広めようとした。 シベリアの「民主運動」とはソ連当局およびアクチーヴ(活動家)が意図的に用いた用語であり、欧米の民主主義とは異質な共産主義的民主主義(プロレタリア民主主義)を意味した。共産主義国家はすべて共産党一党独裁で言論の自由のない全体主義国家だったから、本来の自由とか民主主義とは無縁である。 ソ連軍政治部はまず日本兵向けの宣伝紙「日本新聞」を発行して政治工作を始めた。編集長はコワレンコで、ソ連側スタッフに加えて浅原正基や相川春喜のような左翼運動経験者などが編集に携わった。強制収容所の重労働と栄養失調で疲労困憊になって休む日本兵捕虜たち 紙上で「日本新聞」友の会の結成を呼びかけて輪読会が組織された。そのうち「民主グループ」が生まれ壁新聞が発行された。リーダーは当初、知識人や左翼運動経験者が多かったし将校クラスもいた。 やがて「民主グループ」を地方で横断的に組織し、リーダーからインテリや将校が追放され出した。一方で政治学校や講習会が開かれてリーダーたるアクチーヴを養成した。 昭和二十三年になると当局は「反ファシスト委員会」の結成を呼びかけた。リーダーには若い労働者、農民層が選ばれ、将校は「反動」として追放。次第に運動が過激化し「批判会」や「吊し上げ」が横行した。反抗はもちろん傍観すら許されず、すべての人が運動に参加するよう強要され、収容所が同胞相食む陰惨な状況に陥った。この「民主運動」の同調圧力はシベリア三重苦より辛かったと述懐する人がいるほどだった。 ドイツ人捕虜の間でも政治工作が行われ「反ファシスト運動(アンチーファ)」が起きたが、同胞に強要することはなかったとされる。 しかし、この「民主運動」の同調圧力に最後まで妥協せず自己の信念を貫いた人が少数ながらいたことは特筆しておかねばならない。草地貞吾大佐や津森藤吉中佐、上村幹男中将などのサムライたちである。GHQの洗脳との共通性 私は自著でこのシベリア「民主運動」とGHQによる思想教育が同根であることを仮説として提示した。この二つを結びつけることに唐突な印象を持たれたかもしれないが、調べるほどに私には同時代の現象として共通性があると確信した。 産経新聞は平成二十七年六月八日付で「GHQ工作 贖罪意識植え付け」「中共の日本捕虜『洗脳』が原点」と報じた。GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だったジョン・エマーソンが戦争末期の昭和十九年十一月に中国の延安を戦時情報局(OWI)要員として訪問し、中国共産党が野坂参三元日本共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)を聞いて、その手法をGHQの対日政策に取り入れたという。 この対日政策とは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」のことである。戦争罪悪感扶植計画――今日までマスコミ、教育界、政官界を拘束し続けている自虐的な歴史観の源泉である。 このWGIPについては二十七年に関通夫『日本人を狂わせた洗脳工作』(自由社)、ケント・ギルバート『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、水間政徳『ひと目でわかるGHQの日本人洗脳計画の真実』(同)と相次いで刊行され、とみに関心が高まっている。 産経報道は、シベリア「民主運動」とGHQのWGIPが中共を介して結びついたことを明らかにし、私の仮説が裏づけられた。 中共の洗脳工作といっても、元々は共産主義特有の政治工作であり、共産主義の本家であるソ連に由来するものである。ソ連共産党は自国民を共産主義思想で教育、洗脳し、コミンテルンを通じて世界中に共産主義を広めようとしたのだ。 野坂参三は昭和六年にソ連に密入国してすぐにコミンテルンの仕事を始め、四年後にはコミンテルンの常任執行委員にまでなった。その裏で野坂が同志の山本懸蔵らを密告して粛清に追いやったことはよく知られている。野坂は『亡命十六年』で「私はモスクワで養成した日本人共産主義者を日本に相当数送ることができた」と語っており、コミンテルン流の洗脳工作に自信をみせている。中共の思想工作でデタラメ証言中共の思想工作でデタラメ証言 野坂は昭和十五年に中国に渡って延安で中共に合流し、毛沢東の支持のもと「日本労農学校」や「第二学校」で日本人捕虜の思想(洗脳)教育を始めた。これはシベリア「民主運動」に先行する日本人捕虜の思想教育である。思想改造された捕虜は昭和一九年二月に野坂が結成した「日本人民解放連盟」に入れて日本軍への宣伝、宣撫工作をやらせた。 中共と野坂参三は天皇制批判を「日本軍国主義者」批判に置き換え、君民一体の日本人を「悪い軍国主義者(軍閥、財閥)」と「だまされた日本人民」に分断し対立させた。この二分法を中共はその後一貫して日本批判に使っている。それだけではない。GHQも同じ二分法を利用して日本人を洗脳した。日本兵捕虜が抑留されたウクライナ東部ハリコフに残る第415収容所。現在は倉庫になっている 延安では軍国主義批判と共産主義思想の注入が続いた。洗脳の手法として自己批判と集団批判が重視された(シベリアと同じである)。こうして日本人捕虜に侵略者としての罪悪感、贖罪意識を植えつけて反戦兵士に仕上げた。やがて日本人全体を精神的捕虜にする狙いだったという。 昭和二十五年七月、スターリンは毛沢東との合意に基づきシベリア抑留者の中から中国に対する「戦犯」として九百六十九人を中国に引き渡した。彼らは撫順戦犯管理所に入れられ、ソ連とは違って衣食住で好待遇を受け、寛大に接遇されるなか巧妙で執拗な思想改造(洗脳)が行われた。日本人が他人の好意に弱いことを見抜いたうえでの好待遇である。これはもちろん延安での日本兵洗脳方法をさらに徹底したものだった。 「罪を認めれば寛大な処置を受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」という露骨な圧力のもとで自白(認罪)を迫られた。ソ連ですでに五年の苛酷な抑留を強いられた後のさらなる抑留であり精神的負担は非常に重い。こうした状況下での自白が任意のものとは到底いえない。 中共帰りの「戦犯」はほぼ半数が「中国帰還者連絡会(中帰連)」を組織して熱心な日中友好運動と日本軍の「悪行」の暴露を行った。中帰連が暴露した「三光作戦」や「中国人強制連行」などの日本軍「悪行」証言は虚偽であると検証されている(田辺敏雄『検証 旧日本軍の「悪行」』)。それでも中国に対する贖罪感、罪悪感は根強く日本社会に残る。洗脳の成果としてのリベラル派 エマーソンは日本に三度滞在経験のある日本専門家である。エマーソンらOWIのスタッフは延安での見聞を「延安リポート」として報告している。その主な内容は中共の八路軍による日本兵捕虜の扱いや野坂参三主導の日本人反戦捕虜による日本軍民への宣伝・宣撫工作であった。 産経報道によると、エマーソンは昭和三十二年三月に米上院国内治安小委員会で証言し「岡野(野坂)と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と述べた。こうして野坂の延安での洗脳工作の手法はGHQの対日思想工作に取り入れられた。それがWGIPである。 GHQにはアメリカの戦略情報局(OSS、CIAの前身)にいたヘルベルト・マルクーゼやハーバート・ノーマンらの共産主義者やシンパが加わっていてGHQの占領政策に影響を与えたが、こうした共産主義者の人脈以外に、エマーソンを介して中共の洗脳方法が取りいれられるという二重の意味で共産主義が影響力を及ぼしていたわけである。 野坂参三は昭和二十一年一月には帰国しており、ノーマンの尽力で釈放されていた日本共産党の幹部徳田球一らとともにGHQを「解放軍」と位置づけて協力していくのである。 WGIPが日本人に広く定着して行った背景に共産主義者がいたことは重要な歴史的事実であろう。日本の左翼リベラルが最もよくWGIPに染まり、戦後思想をリードしたのも理由があったといえよう。昭和二十七年四月にGHQの占領が終わったあとは、日本人がみずからの手でWGIPを引き継いで完成していく。シベリア抑留の〝地獄〟の中で日本兵たちの命を支えた陸軍の防寒靴=東京・西新宿の平和祈念展示資料館 戦後の日本人は戦勝国からシベリアで、中国で、そして日本本土で共産主義的な思想教育(洗脳)を受けるという敗戦国民として痛苦な体験を余儀なくされた。シベリアではおおむね失敗し、延安と撫順では成功、日本本土では大成功だった。 戦後七十年、もう自らの手でWGIPの呪縛を解くべきであろう。◇ 本稿を脱稿したあとの平成二十七年十月十日、舞鶴引揚記念館が所蔵するシベリア抑留関係の資料五百七十点が「ユネスコ世界記憶遺産」に登録された。喜ばしいことで、これを機にシベリア抑留に関する理解が一層深まることを期待したい。遠隔地の人もこの資料を見られるよう主要都市での巡回展なども工夫すべきだろう。一方で、ロシアのユネスコ委員会オルジョニキーゼ書記が「政治利用だ」として登録申請の取り下げを求めたというが、申請資料の信憑性に大きな問題のある「南京事件」とは違って、シベリア抑留はロシア側でも広く研究されて事実関係が明らかになっている史実であり、しかもエリツィン大統領が来日時に謝罪もしている。日本政府は毅然とした対応をすべきである。ながせ・りょうじ 昭和二十四年北海道生まれ。昭和四十七年北海道大学法学部卒業後、三菱ガス化学入社。体調を崩して帰郷後の平成七年、四十五歳でロシア極東国立大学(現極東連邦総合大学)函館校でロシア語を学ぶ。シベリア抑留を研究するきっかけは、北大の恩師に翻訳第一弾としてロシア側の抑留資料を薦められたこと。さらに日露の膨大な資料に当り実態に迫った六百ページ余の大作『シベリア抑留全史』(原書房)を二十五年に刊行。近著に『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』(新潮社)。訳書に『二つの独裁の犠牲者』(P・ポリャーン著、原書房)、『スターリンの捕虜たち』(V・カルポフ著、北海道新聞社)、『ウクライナに抑留された日本人』(O・ポトィリチャクら著、東洋書店)など。事実を基に日本軍民抑留というロシア国家犯罪の追及と、抑留の検証・再定義に取り組んでいる。

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    わかりやすい北方領土と我が国主権のお話

    小名木善行(「日本の心をつたえる会」代表) 北方領土は、日本の領土です。 歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島のことを言っているのではありません。 樺太の南半分と、千島列島はカムチャッカ半島の手前にある占守島までの千島列島の全部が、日本の領土です。 ということは南樺太から千島列島にかけてのオホーツク海と、千島列島から南東に張り出した太平洋の広大な海域が、日本の領海です。 そういうと「ああ、戦前の話か」と思う方もおいでになるかもしれません。 いいえ違います。 すくなくとも「ほんの6年前まで」、樺太の南半分と千島列島全部は、日本の課税台帳に記述があったのです。 課税台帳に記述があったということは、日本政府が「ほんの数年前まで」そこを「領土」として認識していた、ということです。 ところが数年前、そこが領土から「消えて」しまいました。 すこし詳しく述べます。 平成22(2010)年3月31日まで、日本は札幌国税局根室税務署の課税台帳には、樺太の南半分と千島列島全部について、日本の領土としての記述がありました。つまり日本は、そこを日本の領土として認識していたということです。(ロシアは一方的に占領支配していただけです。) ところが、2009年夏、民主党が政権与党となり、鳩山由紀夫内閣が誕生しました。 鳩山内閣は国民に何も知らせないまま、「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」「財務省組織規則の一部を改正する省令」を改正し、南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除してしまったのです。 ですから平成22(2010)年4月1日からは、この広大なエリアは、日本国民が知らない間に、ロシアが占領し軍事的に実効支配する無主地となってしまいました。ひどい話です。 領土に関する話です。 本来なら国会審議が必要なことでしょう。 けれど当時の民主党鳩山総理は、国会審議を要しない「省令」レベルで、北方領土を勝手に日本の領土から外してしまったのです。 こんなことが許されるのなら、たとえば竹島にしても韓国が実効支配し、日本が課税台帳から削除すれば、国民が誰もしらないまま、竹島とその周辺海域は日本の領土から消えてなくなります。 そこで今日は、領土についてすこし詳しく見て行きたいと思います。このことを考えると、実はいろいろなことがはっきりと見えてきます。千島列島の夏 まず千島列島は、北海道の東側にある知床半島、根室半島の先から、ユーラシア大陸のカムチャッカ半島まで伸びている列島です。 一番北側の島々が北千島、まんなかあたりが中部千島、北海道寄りの歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が、南千島です。 「北方領土」というと、多くの方がイメージしているのは、このうちの南千島(歯舞群島、色丹、国後、択捉)です。 けれど本当は、千島列島の「全部」が日本の領土です。 それだけではありません。樺太も南半分は日本の領土です。 そして、そこに日本の領土があるということは、その周辺の広大な海域が日本の領海である、ということです。 近年、その領海の海底には、豊富な海底資源(メタンハイドレード、レアアース)が眠っていることが明らかになりました。 従ってその広大な海域は、豊富な漁場としての値打ちを持つだけでなく、これからの日本や世界の資源エネルギーを語る上でもとても大切なエリアとなっています。北方領土はロシアが軍事占領しているだけ さて、南千島だけでなく樺太や北千島までと書くと、 「そんなことはない。昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島と樺太の南半分を放棄したではないのか」とおっしゃる方もおいでになるかもしれません。 なるほどサンフランシスコ講和条約で、日本はこのエリアに関する「すべての権利、権原及び請求権を放棄」しました。講和条約の第二条Cには、次のように記載されています。日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 「権利、権原及び請求権を放棄する」というのは、日本が当該エリアの領主としての権利、日本がその権利を得ることになった原因となった権利、および、そのエリアに関する租税等の請求権を放棄する、ということです。 このことは、ものすごく簡単に詰めていうと、領土としての「処分権」を放棄した、ということです。ちなみに「処分権を放棄」することは、「主権を放棄」することと、まったく意味が異なります。 わかりやすくたとえていうと、Aさんが自分が所有している(主権を持っている)携帯電話の処分を、Bさんに委ねたとします。 そのとき携帯電話は、 Aさん=所有者 Bさん=処分権者です。 Bさんが処分先をCさんと決めれば、Aさんは約束通りCさんに携帯電話の所有権移転の契約を締結し、携帯電話はCさんのものとなります。 領土の場合は、これを「割譲」といい、「割譲」には割譲するための「条約の締結」が必要です。 条約によって、晴れてその領土はCさんのものとなるわけです。 たとえば日清戦争のあとの下関条約で日本が台湾の割譲を受けたといったように、です。 ところが携帯電話の処分をBさんに委ねたものの、Bさんがその後、何もしなかったら、その携帯は誰のものでしょうか。 当然に携帯電話は、もとの所有者であるAさんのままです。 北方領土についてみると、日本は連合国に北方領土の処分権を委ねましたが、いまだ連合国は北方領土の処分先を決めていません。 決めたという条約もありません。 一方ロシアは、北方領土を実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にロシアははいっていません。 ということは北方領土は、単にロシアが軍事占領しているだけであって、条約に基づく本来の所有者(=主権者)は、日本のままということになります。 なにも欲張って言っているのではありません。 国際条約や法を大事にするという考え方でいけば、そういう結論にしかならないということなのです。 日本は、千島、樺太の処分権を、サンフランシスコ講和条約の相手国である連合国に提供しました。 けれど日本が処分権を放棄した後、千島、樺太が、どこの国のものになるのかは、サンフランシスコ講和条約には明記されていません。 加えて、いま千島・樺太を占拠しているロシアは、サンフランシスコ講和条約に参加していません。 つまり講和条約に基いて領土を受け取る当事者としての資格がありません。 ソ連は、千島、樺太を「軍事占領」していますが、日本とソ連(あるいは現ロシア)との間で、千島樺太に関する領土割譲の条約の締結はありません。 連合国側が、ソ連に対して千島樺太を売却もしくは譲渡したという記録もありません。(ヤルタ協定で密約があったと一時ソ連は主張していましたが、最終的にその主張をひっこめています。) つまり千島も樺太もいまだに日本の領土であり、当該領域の主権者は、実は「日本が保有したまま」ということになります。軍事占領は、主権の剥奪を意味しない もうひとつ申し上げると、ロシアが千島・樺太を軍事占領しても、領有権はそれだけでは移転しません。このことは、「イラクを米軍が軍事占領しても、イラクの領土が米国領になるわけではない」ことを見れば、簡単にご理解いただけようかと思います。 イラクのフセイン政権は、米国と戦争しました。イラクは破れ、フセイン政権も倒れ、米国はイラクを軍事占領しました。 しかし「米軍がイラクを占領した」という事実は、イラクが米国の領地になった、つまりイラクの主権者が米国になったということを意味しません。 世界中の誰も、そんなふうに思ってもいません。 「軍事占領」するということと、「領土の主権を得る」こととは、まったく異なることだからです。 ついでに申し上げると、同じことは大東亜戦争の終期においてもいえます。日本は連合国(代表は米国)が軍事占領しました。 けれど米軍は、日本を領有したわけではありません。あくまでも連合国軍の総司令部(GHQ)として、一時的な軍事占領をしただけです。 つまり日本の主権は日本にあります。ですから日本の軍事占領にあたって、GHQは、日本の主権は日本人にある、と宣言しています。 これが日本国憲法における「主権在民」の意味です。 つまり日本国憲法における「主権在民」は、連合国が日本を軍事占領するに際して、それが日本の領有を意図したものでなく、あくまでも一時的な軍事占領にすぎないことを宣言した文言、ということになります。 軍事占領は、主権の剥奪を意味しませんから(イラクの例に明らかです)、日本の主権は日本にあります。 そして日本に新たな独立政権が誕生する、もしくは元の大日本帝国に戻るとき、日本の主権は当該政権が担うことになる、そういう意味です。 従って「主権在民」は、「軍事占領」とセットの概念です。 主権在民(もしくは国民主権)を、軍事占領と切り離して考えると、非常におかしなことになります。 主権というのは、領土に関する排他的な絶対権だからです。 当然に交戦権をも含みます。 ということは、日本人のひとりひとりが日本の最高主権者ということになります。 日本人のひとりひとりが日本国の領土領海全部のオーナーです。 ということは、いまこれを読んでいるあなたのお隣のお宅は、あなたのものということです。 お隣さんがそれを認めないなら、あなたには交戦権があります(笑)。 要するに主権在民というのは、イラクを連合国が軍事占領して一時的に統治するけれど、あくまでイラクの主権者はイラクの民衆にありますよ、ということと同じ意味でしかないということです。 同様に日本国憲法というのは、日本が占領統治された期間における、「連合国占領統治領日本」のための一時的な軍事占領下における統治憲法であり、主権はあなたがた日本人にあるのですから、いずれ占領が解けた時点では、あなたがたの主権者となる政府もしくは君主とともに、その後の主権者や憲法を確定しなさいという意味のものでしかない、ということになります。 イラクの主権は、イラク国民が持っています。主権在民です。 占領統治下にあっても、日本の主権は日本国民がもっています。主権在民です。 なぜなら軍事占領と領土主権は意味が違うからです。 日本は戦後、GHQによる占領統治を受けましたが、日本は占領統治を受けただけで、日本が連合国の領土になったわけではありません。 そのことは昭和27年のサンフランシスコ講和条約の第一条に明確に書かれています。 そのサンフランシスコ講和条約には、「日本と連合国との戦争状態の終了」がうたわれています。 つまり、サンフランシスコ講和条約の発効の日まで、日本と連合国は「戦争状態」にあったのです。 そして「戦争状態が継続」していたから、講和条約で、日本と連合国は「戦争を終わらせた」と、これはそういう意味の言葉です。 すこし余計なことを書くと、では戦争をしていた当事者は誰なのか、という問題があります。 一方の当事者は米国に代表される連合国(United Nations)です。 そして戦争は、交戦相手があって、はじめて行われるものです。 連合国の相手国である戦争当事者は、間違いなく日本です。 そして戦争をしていたのは、江戸幕府の徳川政権でもなければ、豊臣秀吉政権でもありません。 さらにいえば、軍事占領下にあって占領憲法である日本国憲法を持つ「連合国軍統治領日本」の政権でもありません。 戦争をしていたのは、大日本帝国政権です。左はひまわり7号、右は8号が北海道や樺太付近を撮影した画像(気象庁提供) ということは、戦争をしたのも講和をしたのも、その戦争当事者は大日本帝国です。ですからサンフランシスコ講和条約に「全権」として調印文書に署名した吉田茂全権は、占領統治下の日本国憲法が規定する内閣総理大臣としてではなく、大日本帝国の君主である天皇の名代として署名しています。だから「全権」です。 そして日本がこの条約によって、あらためて独立国として主権を回復したということは、その時点で占領統治憲法は効力を失い、日本は大日本帝国憲法下の日本に戻ったということができます。なぜなら戦争は、占領統治日本としてではなく、大日本帝国として戦争していたからです。 講和条約を、占領統治下日本が締結したというのは、理屈が成り立ちません。占領統治下日本は、連合国の下部組織であり、そうなると双方代理にしかならないからです。日本国憲法が「占領統治憲法」としては有効でも、サンフランシスコ講和条約施行後は無効であるとする議論の根拠もここにあります。 ちなみに、朝鮮半島の場合は、サンフランシスコ講和条約の第二条Aで、日本は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。とあります。日本は、朝鮮の独立を承認し朝鮮半島を領有する権原を放棄したのです。すなわち朝鮮半島は、独立した朝鮮のものです。 連合国が朝鮮半島の独立政権として認めたのは、大韓民国、つまり韓国です。従って国際法的には、北朝鮮は国家でなく「金一族という軍閥が実効支配するエリア」であるということになります。一方、台湾については、千島樺太と同じで、サンフランシスコ条約で、日本は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 とあります。つまり、台湾は日本の九州、四国、沖縄同様、日本一部でしたが、その処分権を連合国に委ねたわけです。 けれど台湾も、北方領土と同様、処分先が明記されていません。そしていまだに連合国も日本も、台湾の日本領土からの割譲条約を、どこの国とも締結していません。 台湾は、終戦直後に、蒋介石率いる支那国民党が軍事占領しましたが、いまなお軍事占領のままです。台湾の割譲条約は、日本と、いま台湾にいる蒋介石政権との間に結ばれていませんし、連合国が蒋介石政権を台湾政府として領土を割譲するという条約を締結した事実もありません。 台湾の場合は、戦後、蒋介石率いる国民党が、いわば進駐軍として台湾に入り込みました。そしていまなお、国民党は台湾に居座っています。これが何を意味するかというと、亡命政権である、ということです。 亡命政権としては、いまインドに亡命しているチベットのダライ・ラマ14世の政権があります。ダライ・ラマ14世は、中共政府の人民解放軍がチベットを軍事制圧後、インド北部のダラムサラに亡命して、チベット亡命政府を作っています。しかし、だからとって、インドのダラムサラが、ダライ・ラマ14世を主権者とするチベットの領土になったわけではありません。 同様に台湾には、いまもともと蒋介石が作った中華民国政権が居ますが、それは亡命政権であって、台湾が中華民国になったわけではありません。では、台湾の国際法上の領土主権者は、今現在どこにあるかといえば、答えは日本です。公式な千島、樺太の領有権者は日本 だいぶ話が脱線しました。北方領土に話を戻します。 そもそも日本が千島列島を領土としたのは、たいへん古い話です。江戸時代の元禄13(1700)年(赤穂浪士討入りの1年前)、この年松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ました。 その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、安政元(1855)年、日本とロシアとの間で「日露和親条約」が締結されました。この条約によって、南千島を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。要するに日本が南千島四島を領有する権原が確定したのです。 ところが日露和親条約で「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、安政3(1856)年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。この問題は、日本国内の政権が明治新政府に移ってからも尾をひきました。 そこで明治7(1874)年に榎本武揚が特命全権大使としてロシアに赴き、 (1) 日本は樺太を放棄する。 (2) 代わりに千島列島の全部を日本領とする。 という2点を要点とする「樺太千島交換条約」をロシアとの間で締結しています。明治8(1875)年5月7日のことです。 この条約は、両国が署名した地名をとって、サンクトペテルブルグ条約とも呼んでいます。 その後日本とロシアとの間には、明治37(1904)年に日露戦争が勃発しました。この戦後処理を行う条約が、明治38(1905)年9月5日に締結されました。これが、サンフランシスコ講和条約に記載されたポーツマス条約です。この条約によって、日本は樺太について、北緯50度以南を日本の領土としてロシアから割譲を受けています。(千島列島の全島は明治7年の時点ですでに日本領です)。前出のサンフランシスコ講和条約をもう一度掲載すると、日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 となっています。日本は、千島列島と、樺太の南半分の「処分権」を、ここで放棄したわけです。サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂首相=1951年9月8日(共同) このサンフランシスコ講和の時点で、すでに千島と樺太は、ソ連が軍事的に実効支配していました。 これは軍事占領しているだけで、いまだ日本との間で領土の割譲条約が締結されていません。 また、サンフランシスコ講和条約にソ連は名を連ねていません。では「公式な千島、樺太の領有権者は誰なのですか?」といえば、答えは「日本だ」という答えにしかならないのです。 ですから平成17(2005)年には、欧州(EU)連盟の議会でさえも、日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択しています。 そうでなければ理屈がなりたたないからです。 サンフランシスコ講和条約締結後、60年も経ち、いまやソ連さえもなくなったにも関わらず、ロシアが樺太、千島を占領し続ける法的根拠はどこにもないからです。 加えて日本国政府は、この問題を軟着陸されるために、もともとの日本領である南千島のみだけでも、日本に返還するようにと、ソ連、そして現代ロシアに対して求め続けています。 そして麻生内閣の時代、麻生総理はロシアのプーチンとの対談し、この北方領土返還については、「我々の目の黒いうちに最終決着をしましょう」とまで、話を煮詰めてきていたのです。 ところが日本の国政が、民主党政権になるやいなや、鳩山民主党政権は、国民からまったくみえないところで、日本の税金台帳から、北方領土の記述を消してしまったわけです。 これこそ実にとんでもない、売国行為です。 とくに千島列島沖合は、北方漁業の大産地であり、我が国の食に書かせない領域です。 魚貝類は日本人にとっての貴重なタンパク源です。 最近では、韓国産の魚貝類が大量に日本にはいってきていますが、韓国産の海産物は大便によって汚染され、大腸菌等が基準値を大幅に上回ることから、いまや世界中、中国でさえも、いまや輸入規制品です。 要するに、本来なら海産物は日本産がいちばん安全なのです。 しかも千島列島産の海産物は、非常においしくて、量も豊富です。 だから終戦まで、千島列島最北端の占守島に、ニチロの海産物缶詰工場があったのです。 そこで作られた魚介類の缶詰が、遠く南方戦線にまで送られていたのです。 そういう我が国にとって大切な領土問題について、私達はもっと大切に考えて行かなければならないのではないか思います。 (「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」2016年1月30日分を転載)

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    殉職した9人の乙女 北方の悲劇とまやかしの解放史観

    平川祐弘(比較文化史家、東京大学名誉教授) 使わずにすんだ青酸カリ「そうだ、あんなものは片付けんといかんな」 と父が言ったのは昭和20年9月、台風一過の晴れた日であった。「あんなもの」とは青酸カリで、親子は照れたように、その用途にふれなかったが、本土決戦になれば自決せねばならぬ事態もあろうかと思って、父はそんな小壜を床のコンクリートの下に隠しておいたのである。昭和天皇の終戦の詔勅の放送によって平和を回復した内地の平川家では、「あんなもの」に手をつけずにすんだ。 8月15日、日本は降伏した。だがソ連軍は戦争をやめない。ソ連の戦車は今はサハリンと呼ばれる樺太で国境線を突破、南下して日本の将兵のみか婦女子も多数殺(さつ)戮(りく)した。死亡者は、引揚船が撃沈されたこともあり、四千数百人にのぼる。ソ連が樺太全域の占領を目指したからで、終戦5日後の8月20日、南の真(ま)岡(おか)にソ連海軍は艦砲射撃を加え上陸した。そのソ連軍のもとへ停戦交渉に赴いた日本側軍使一行は白旗を掲げていたが、射殺された。次の軍使も射殺された。街には火災が発生する。 真岡の名は日本の辞書にはもうないが、世界地図にはホルムスクと出ている。戦争中は人口2万、全人口が40万の南樺太では大都会だった。その真岡郵便局に踏みとどまって最後まで勤務した9人の電話交換手の少女たちは、ソ連軍が迫るや、「皆さん、これが最後です、さようなら」の通信を豊原に送って青酸カリで自決した。当時の私とさして年も違わぬ少女たちである。殉職した9人の乙女 宗谷海峡を見おろす北海道稚内の丘の「氷雪の門」のそばに、受話器を耳にした「殉職九人の乙女の碑」が建っている。ソ連が昭和20年8月9日、日本に対して「解放戦争」をしかけた挙げ句の悲劇であった。 そのロシアは本年、事実上の対日戦勝記念日を制定し、そのサハリンで軍事パレードを行い、「勝利を祝うことは戦争の結果の見直しを許さないという警告である」と述べ、北方領土返還拒否の意思表明をした。そして中国とともに共同声明を発表し解放戦争史観を肯定した。 張作霖の爆殺など政府を無視して独走した日本の軍部に大陸の戦争についての重大な責任はある。しかし肝心の点は、だからといってソ連の対日戦を解放戦争と呼んでいいのか、という疑問である。わが国にも敗戦後、ソ連中国の解放戦争史観を尊重する人がいた。今もいる。 そうした人たちが裏で手をまわしたのだろうか、『氷雪の門』と題された樺太真岡で自決した9人の電話交換手を描いた映画は、昭和49年に製作されたにもかかわらず、「反ソ映画である」として上映を差し止め、「幻の名画」になってしまった。なぜ『氷雪の門』は封印されたのか。ソ連大使館と呼応して映画の上映さえストップできるほど外圧に弱い日本ならば、北方四島も南方の諸島も、力ずくで奪取できると専制国家の軍部や外交部が思いこむのはけだし当然だろう。映画やビデオはきちんと公開せねばならない。ソ連の南樺太(サハリン)侵攻を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の一場面。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。最後の1本の電話プラグを引き抜き、電話交換手の女性9人は命を絶った (ⓒ「氷雪の門」上映委員会)ソ連軍でなくて良かった 敗戦後、私の代々木の家は占領軍に接収された。誰も同情しない。級友の3分の2は空襲で家を焼かれた。米国将校に目をつけられるような邸に住んでいたこと自体が贅沢と思われたからである。父は秋田に嫁いだ姉を呼び戻し妊婦がいるからと接収の先延ばしに成功した。しかし、甥が生まれ姉が秋田に帰ると家は接収された。それでも父は「アメリカに占領されてよかったな。ソ連に占領されたら即刻立ち退きだ」といったが、私も同感した。 東ドイツでは共産党指導者は「ドイツをヒトラーから解放したのはソ連軍のおかげだ」と解放戦争史観を宣伝したが、西ドイツの人は「アメリカに占領されてよかった」と思っている。敗戦直後のソ連軍の略奪やレイプがあまりにすさまじかったからである。「悪人の友をふり捨てて、善人の敵を招け」とは謡曲の詞だが、私は日本が自由主義陣営にとどまったことを良かったと思っている。 戦前戦後の歴史を通観して考える。わが国を暴走させた軍部の責任はまことに重大だ。だが、ヒトラー、スターリン、毛沢東などの独裁専制がなかっただけ、日本はまだしもよかった。私たちの国には強制収容所も粛清も吊し上げもなかった。その史実を率直に認めたい。 私は解放戦争史観に媚びる人が嫌いだ。真岡の電話交換手は義務感から職場に最後まで踏みとどまった。彼女らは工務の技術官に頼んで薬をもらった由だが、私の父が工面して入手したのと同じだ。万一に備えたのである。 碑文には「日本軍の命ずるままに青酸カリを飲んだ」とあるが、戦後日本にはこんなさかしらを書く人が多い。本当に軍に強制されたのか。こんな書き方は死者への冒瀆ではないか。人は国を守り、操を守るためには死を覚悟することもある。 (ひらかわ すけひろ)  

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    「昭和の参謀」瀬島龍三氏 日本兵シベリア売り渡し説の真偽

     戦後、繊維商社だった伊藤忠商事の会長に就き、同社を世界規模の総合商社に発展させた瀬島龍三氏は昭和を代表する実業家として知られている。中曽根康弘・元首相のブレーンとして政財界に大きな影響力を持ち「昭和の参謀」とも呼ばれた人物だ。 明治44年(1911)生まれの瀬島氏は陸軍士官学校を首席で卒業後、関東軍参謀本部で太平洋戦争の指揮にかかわり、無数の日本兵が餓死したガダルカナル島の撤退作戦では立案主任を務めた。 戦後は11年間にわたりシベリアに抑留されたが、その瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる“シベリア抑留密約説”だ。 瀬島氏は終戦直後の1945年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである。東京・新宿の平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 戦後、作家の保阪正康氏や「全国戦後強制抑留補償要求推進協議会」などは、日本側がソ連に示したとされる『対ソ和平交渉の要綱(案)』に「賠償として一部の労力を提供することには同意す」との文言があったことなどを根拠に、密約があったのではないかと疑問を呈した。 瀬島氏はこの密約説を「根拠のない虚構」と一蹴したが、彼を“隠れ共産主義者”と目する向きは少なくなかった。瀬島氏の帰国後、警視庁外事課ソ連欧米担当第一係長を務めていた佐々淳行氏が振り返る。「瀬島氏は抑留中、KGBに最後まで屈服しなかった大本営参謀と評されたが、我々は違う見方をしていた。帰国後、瀬島氏がソ連大使館員と神社仏閣などで接触していた事実を外事課は確認していた」 後に、「シベリア抑留中の瀬島が日本人抑留者を前に『天皇制打倒! 日本共産党万歳!』と拳を突き上げ絶叫していた」というソ連の元対日工作員の証言や「瀬島らはウランバートルで特殊工作員として訓練された」とするソ連の元書記官が現れたことも疑惑を深める一因となった。 関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡したシベリアの悲劇について、瀬島氏は多くを語ることなく2007年にこの世を去った。関連記事■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 明治から昭和を馬と共に生き競馬界の礎となった者たちの物語■ 片岡愛之助 水野晴郎『シベリア超特急』最新作出演計画浮上■ 15万円防犯犬 人になつき過ぎ不審者から頭なでなでされる■ 森喜朗氏 父母眠るロシアに骨埋めると宣言しロシア聴衆感銘

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    大前研一氏 北方4島は米国がソ連に“戦利品”として与えた

     プーチン氏が大統領に返り咲いたロシアと日本の間には、遅々として進まない北方領土問題が横たわる。大前研一氏はこの北方領土について、日本人の間に「2つの誤解」が存在するという。以下、大前氏の解説である。 * * * 1つは、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告なしに北方領土に侵攻して占領した、というものだ。 たしかにソ連は1945年8月8日に日ソ中立条約の破棄を宣言したが、同条約に破棄や失効に関する規定はなかった。宣戦布告は「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として条約破棄と同時に在モスクワの日本大使館に行なったと主張している。 そしてソ連軍は8月9日午前零時に戦闘を開始、11日には日露戦争で日本が奪った南サハリン(南樺太)に攻め込んだ。しかし、千島列島(クリル諸島)の択捉島と国後島、色丹島、歯舞群島を占領したのは、日本が無条件降伏して大本営が正当防衛以外の即時停戦命令を出した15日以降のことである。 しかも、ソ連がドイツ降伏後3か月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する見返りに、サハリン南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことは、1945年2月に行なわれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン書記長によるヤルタ会談の協定(ヤルタ秘密協定)で決まっていた。 それに従ってソ連は、ドイツが無条件降伏した5月8日の約3か月後、日本に宣戦布告したのである。 また、終戦直後にスターリンは、ルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領に、北海道を南北に分割して北半分をよこせと要求している。しかし、日本をドイツのようにしたくないと思っていたトルーマンはこれを拒否した。 つまり、北方4島はソ連が侵略したのではなく、アメリカが“戦利品”としてソ連に与えたわけで、日本は4島を失った引き換えに北海道の南北分割を避けられたとも言える。これは当時のアメリカの公文書に残っている明確な事実だ。 もう1つの誤解、というか日本国民があまり知らない事実は、日本政府が「4島一括返還」を要求することになったいきさつである。実は4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものだ。 当時、日本政府は北方領土問題について歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたが、アメリカとしては米ソ冷戦が深まる中で日本とソ連が接近すること、とくに平和条約を結んで国交を回復することは防がねばならなかった。そこでダレスはソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。 それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。関連記事■ 北方領土問題はなぜ解決しないのか 佐藤優氏がその背景解説■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 元外交官が「米国にとってネットは言論操作の場所」と説く書■ 「北方領土問題と竹島問題は無関係ではない」とロシア通指摘

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    鈴木宗男が説く 北方領土、まず二つ還してもらうのが現実的だ

     今年は、戦後70年の節目の年だ。年内に北方領土解決の道筋をつけなくてはならない。 北方領土で、一つの島も日本に帰ってこないということに、私はつくづく「政治がない」と思います。これにはマスコミの皆さんが勉強不足だった責任もあるのではないでしょうか。13年前のあの鈴木宗男事件のとき、私を国賊扱いしていましたが、私は政府の方針通りに北方領土問題に取り組みました。 「四島一括返還」という言葉はないんです。未だに政治家でもマスコミの方でもそう言ってますが、確かにソ連時代にはそう言い、その上に「即時」とまでつけていた。なぜなら、ソ連自らが「領土問題はない」と言っていたんです。だから日本は強く出たのです。 しかし平成3年、ソ連は自由と民主のロシアに変わりました。それから日本が段階的な解決論に方針転換したんです。つまり、四島の帰属が認められれば返還時期は差があってもいいと。そのことも勉強しないで、鈴木宗男は二島先行返還だとか二島ポッキリだとか国賊だとか言われました。 少なくとも鈴木宗男がやっていたときは、一番、島が近づいたんです。それが、私がいなくなってから島は離れてしまいました。特に小泉政権です。小泉さんは日ロ関係について過去の経緯も知らない。田中眞紀子外務大臣はもっと知らない。その結果、空白の日ロ関係10年になったわけです。本当に外交というのは積み重ねなんです。私の考えを実践していれば、もう四島は還ってきたと思います。ロシアのプーチン大統領(右)と会談する森喜朗首相=2001年3月25日(タス=共同) 私は、森総理時代の平成13年3月25日、イルクーツクでの森・プーチン会談、あのときが一番、島が近づいたときだと思っています。しかし、小泉政権になって、逆に島は離れていってしまった。そして今、安倍さんが解決へ意欲を見せていて、これに期待するしかないと思っています。 交渉を前進させるためにはどうすればいいか。やはり国家主権に関わる問題はトップの判断しかないんです。プーチン大統領は85%の世論支持があります。ロシアは大統領がこうだと判断すればそれで決まりです。あとは日本です。安倍さんのやる気と強い世論支持のあるプーチン大統領の力を生かすしかないと思っています。 やはり物事には順番があります。先に四島を還せと言ったら話し合いになりません。プーチン大統領もラブロフ外務大臣も、平和条約締結の後は日本に還すとした1956年の日ソ共同宣言は、日本の国会も批准し、ソ連の最高会議も認めた法的拘束力のある約束で、同時に平和条約がなくても日本に還すと公に話されております。ロシアの最高首脳がそう言っているわけですから、日本はこれに乗るべきです。 まず二つ還してもらう。残り二島については日本に帰属するかロシアに帰属するかを話し合う。これが現実的な判断だと思っています。要は、安倍さんがどういうカードを切るかにかかっていると思うんです。 そのためにも日本が、ウクライナ問題で欧米の考えに乗る必要はないのです。停戦合意ができた以上、もうロシアの経済制裁などしないと日本が言うべきなんです。 6月のG7首脳会議でも、本来、日本が経済制裁をやめようと口火を切るべきでした。そうする事によって、ロシアとの信頼関係が出来るのです。 安倍首相は「北方領土問題は国民全体の問題であり、ロシアとの交渉を進展させるためには、政府と国民とが一丸となって取り組む事が重要だ」と述べていますが、領土問題はお互いにギリギリのところで決断を下さなければ解決できない。その「ギリギリ」を理解したうえで、交渉を見守ることが大切です。そうして初めて政府と国民は一丸となって北方領土問題に取り組む事が出来るのです。 領土問題、なかんずく国家主権に関わる問題は、トップリーダー・最高首脳の判断でしかありません。 安倍首相も過半数の世論支持を得ており、プーチン大統領は85%近い世論支持があります。この強い二人のリーダーによる決断しか北方領土問題の解決はないと思います。 外交は積み重ねであり、相手があります。日本の主張だけが通り、ロシアの主張は通らない、これでは外交ではありません。 外交はお互いの名誉と尊厳がかかっております。国益の観点に立ち、お互い良かったと言える外交が、良い外交だと私は考えます。 安倍首相は、父上であった安倍晋太郎先生が政治家として、最後まで日ソ関係をダイナミックに進展させたいという、まさに体の張った情熱を一番そばで見てきたと思います。 是非とも、その安倍晋太郎先生の思いを安倍首相には、実現して欲しいと願ってやみません。

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    対露外交で得点狙う安倍首相に不安

    佐藤優(作家、元外務省主任分析官) 水面下で日露関係が動き始めている。きっかけは、6月24日夜、安倍晋三首相がロシアのプーチン大統領にかけた電話だ。約30分の電話会談で、安倍首相は、<プーチン氏が年内に来日する方針を確認した。ウクライナ情勢に関して欧米と歩調をあわせる安倍首相は、ロシアが平和的、外交的な解決に向け、停戦合意の完全履行など建設的な役割を果たすよう要請した>(6月24日「産経ニュース」) 7月になって、クレムリン(ロシア大統領府)から、興味深い情報が流れてきた。ポイントは4点になる。 (1)プーチン氏は、安倍首相が電話をかけてきたことを、日露関係正常化に向けたステップとして高く評価している。安倍首相に対するプーチン氏の個人的信頼感は一層強化された。 (2)会談後、プーチン氏は訪日準備を行うとの方針を確定し、ロシア外務省に対して「日本外務省と協議せよ」と指示した。 (3)クレムリンでも訪日の時期とテーマに関する協議が始まった。関係省庁に対する資料要求も行われている。クレムリンは10月末から11月初頭のプーチン氏訪日を考えているが、具体的日程については日本側の提案を待っている。 (4)訪日では合意文書を作成しなくてはならない。経済的、政治的成果として何が達成されるか、またクリル諸島(北方領土)をめぐる交渉でどのような展望を見いだせるかが、現時点ではまったく明らかになっていない。プーチン氏訪日の狙い会談を前にロシアのウラジーミル・プーチン大統領(右)と握手を交わす安倍晋三首相=2014年11月9日、北京(共同) 今回の日露首脳電話会談を踏まえ、日本外務省もプーチン氏の訪日に向けた準備を始めている。もっとも、外務官僚は安倍首相の強いイニシアチブがあるから仕事をしているのであって、内心では「プーチン氏訪日が実現すると日米関係に悪影響が及ぶのではないか」ということを真剣に心配している。 事実、米国はホワイトハウスも国務省も日露接近を歓迎していない。むしろプーチン氏は、このあたりの事情をわかった上で、日米間にクサビを打ち込もうとしている。プーチン氏の狙いは、G7(先進7カ国)によるウクライナ問題をめぐるロシアへの制裁を解除させることだ。その上で、安倍首相のイニシアチブで、来年の伊勢志摩サミットにプーチン氏が出席し、G8への復帰を果たすことを狙っているのではないかと筆者はみている。 プーチン氏の訪日準備に踏み込むことによって、日本は米国との関係において、かなり面倒なリスクを負うことになる。 日本外務省は内部にさまざまな見解の相違があっても、首相官邸が明確な方針を定めれば、その方向に向けて動く。しかし、ロシア外務省の事情は異なる。ロシアの外交官は、日本との関係を前進させるためには、北方領土問題でロシア側が譲歩しなくてはならないと認識している。しかし、譲歩した場合にロシア外務省が負わなくてはならないリスクが大きすぎる。従って、ラブロフ外相を含め、上から下まで、北方領土問題については強硬姿勢を崩していない。ロビー活動が不可欠 北方領土問題で日本がクレムリンに直接アプローチして、パトルシェフ安全保障会議書記やセルゲイ・イワノフ大統領府長官ら、ロシア外務省の意思を覆すことができるプーチン氏側近を通じた権力中枢へのロビー活動が不可欠になる。NSC(国家安全保障会議)谷内正太郎事務局長には、その役割が期待されているのであろう。 歴代の日本政権をみていると、権力基盤が弱体化し始めると、外交で得点を稼ごうと考える。そのとき選ばれるのが北朝鮮かロシアだ。安倍政権の支持率も下がり始めている。日朝関係が劇的に改善する可能性は低い。このような状況で、安倍政権には、対ロシア外交での得点の可能性が実態よりも大きく見えているのかもしれない。不安を覚える。

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    北方領土問題、解決の糸口

    戦後70年が経っても、不法占拠されたままの北方領土。島の状況を把握することは、将来の返還後の対応を考える上で必要不可欠だが、日本には情報がほとんど入ってこない。

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    佐藤優が分析 ロシアの核恫喝外交は北方領土交渉にも影響する

    佐藤優(作家、元外務省主任分析官) ロシアが外交の手段として核兵器を使い始めた。これは危険な挑発だ。デンマークのコペンハーゲン発のロイター通信は22日、こう伝えた。<駐デンマークのワニン・ロシア大使は、デンマークが北大西洋条約機構(NATO)のミサイル防衛(MD)計画に参加すればロシアの核ミサイルの標的になると述べた。デンマーク紙ユランズ・ポステンがインタビューを掲載した。 デンマークは昨年8月、ミサイル防衛計画に高性能なレーダーを搭載した艦船を派遣する方針を明らかにした。ロシア政府はMD構想に反対していた。 ワニン大使は計画への参加がもたらす結果をデンマーク側が完全に理解していないと指摘。「参加すれば、デンマーク艦船がロシアの核ミサイルの標的になる」と述べた。 これに対してデンマークのリデゴー外相は受け入れられない発言だと強く反発、「NATOのMD構想がロシアを標的とするものではないことをロシア側は十分承知しているはず」と述べた。一方、NATOは平和に貢献しないと批判した>デンマーク艦船を「標的」に ワニン大使の発言は、大使の独断ではなく、ロシア本国の訓令に基づくものと見るのが常識だ。しかし、ロシア当局は常識に反する情報操作工作を展開している。<大使の発言はデンマーク政府の反発を呼んでいるが、ロシアのラジオ局「モスクワのこだま」は「大使はこうした大きな声明を行う権利を付与されていない」とする政権幹部の声を紹介。この幹部は、大事には至らず、大使の独断的な見解だとの見方を示した>(3月22日「産経ニュース」) ワニン大使の寄稿に対して、デンマーク政府の反発が予想を超える激しさだったので、ロシアとしては、とりあえず「現場の暴走」ということで、事態を沈静化したいのであろう。しかし、このような手法自体がシニカル(冷笑的)で不誠実だ。 15日にロシア全土で放映されたテレビ番組「クリミア、祖国への道」で、プーチン大統領が「ロシアはクリミア情勢が思わしくない方向に推移した場合に備えており、核戦力に臨戦体制を取らせることも検討していた。しかし、それは起こらないだろう、とは考えていた」(3月15日露国営ラジオ「ロシアの声」)と述べた。 ワニン大使の寄稿は、プーチン大統領の発言がロシアの新しい核戦略に基づいていることを裏書きするものだ。すなわち、ロシアが自国にとって死活的に重要と考える事項に関しては、核カードを用いてでもロシアの国益を実現するという方針だ。恫喝外交そのものである。対露外交戦略の見直し必要 日本にとって米国は唯一の同盟国だ。中国、北朝鮮からの弾道ミサイル攻撃の脅威に対抗するために米国のMD計画に日本が参加する可能性がある。米国のMD計画に日本が参加する場合、ロシアが「海上自衛隊のイージス艦と在日米軍基地を核攻撃の対象とする」と言い出しかねない。もちろんロシアがそのようなことを言ってきても、日本ははね付ける。そうなると北方領土交渉のハードルをロシアは上げてくるだろう。ビザ(査証)なし交流を一方的に取りやめ、北方領土への日本人の入域に際して日本のパスポートとロシアのビザを要求するようになるかもしれない。 ロシアの核戦略の変更が日本外交にどのような影響を与えるかについて、外務省ロシア課とモスクワの日本大使館はどのような分析をしているのだろうか。ロシアが一方的に外交のゲームのルールを変更している状況で、年内にプーチン大統領の公式訪日を実現することが、日本の国益と国際社会の利益にかなうのであろうか。北方領土交渉の方法を含め、日本政府は対露外交戦略の全面的な見直しをする時期に至っていると筆者は考える。 関連記事■ 日本は今後ロシアとどう付き合うべきか■ 歴史で解き明かす中国とロシアの「正体」■ ケント・ギルバートが説く 日本がサンドバッグから脱するとき

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    知られざる島の実態 北方領土でいま何が起きているのか

    名越健郎(拓殖大学海外事情研究所教授)北方領土は人口増 筆者は2年前、北方領土のビザなし交流に参加して国後、択捉両島を訪れた際、両島で発行されている地元紙の記者と接触し、新聞を添付ファイルのメールで送付するよう依頼した。その後、両紙編集部から有料で毎号届けてもらっている。 国後島で発行されている地元紙は「ナ・ルベジェー(国境で)」、択捉島の地元紙は「クラスヌイ・マヤーク(赤い灯台)」といい、発行部数は国後紙が715部、択捉紙が562部。いずれも週2回発行のタブロイド版4ページ。北方領土に住むロシア人は約1万6000人強で小さな社会ながら、両紙は地元行政府や議会の決定から島で起きたニュースや話題、住民の一口広告まで掲載し、島の生活に寄り添うコミュニティーペーパーだ。 北方四島の面積は千葉県に匹敵し、竹島の2万倍、尖閣諸島の2000倍である。今年で旧ソ連軍による不法占拠から70年となるが、そこでは経済活動や社会生活が営まれ、犯罪もあれば汚職・腐敗も多発する、ロシア社会の縮図だ。近年は、ロシア政府のクリル(千島)社会経済発展計画(2007─15年)に沿ってインフラ整備が進んでいる。 ロシア人がサハリンやウラジオストクでどう生活しようと勝手だが、わが国固有の領土である北方四島に居座る島民の生活は注視せざるを得ない。自宅の庭の一角が武器を持った隣人に不当に奪われて居座り続ける状況では、奪われた庭がいまどうなっているのか、誰もが関心を持つだろう。島の状況を知ることは、将来の返還後の対応を検討するうえで不可欠となる。 ビザなし渡航も近年はロシア側の規制が強く、毎回、同じ場所を案内されて同じ人と交流するだけで、情報収集に限界がある。2つの地元紙を読むことが、北方領土の現状を知る最も有効な手段だろう。本稿では過去2年の紙面から、印象的な記事を紹介しながら四島の実態に迫った。 両紙の刊行は古く、いずれも1947年に創刊された。47年といえば、対日参戦したソ連軍が千島全島を武力制圧してまだ2年。国後の新聞「国境で」は12年11月、創刊65周年記念号を出し、同紙の歴史を紹介した。 それによれば、「遠隔地で地区の新聞を発行することが急務だ」とのスターリンの指示に沿って、国後、色丹、歯舞三島からなるサハリン州南クリル地区の共産党委員会・行政府の機関紙として発行が決定された。国後島の中心地、古釜布(ロシア名・ユジノクリリスク)に小さな新聞社が設置され、輪転機が持ち込まれた。択捉島の「赤い灯台」も、クリル地区機関紙としてスタートした。ロシア国旗がたなびく択捉島・内岡(なよか)港。ロシア国境警備隊が拿捕した日本の漁船(右端から4隻)が、まるで“戦利品”のように並べられていた=2008年8月3日(酒井充撮影) 「国境で」は当初、週3回発行で編集部が15人、印刷部門は10人を擁したという。70年代の発行部数は3500部で、国後、色丹で配布された。過去65年の歴代編集長は15人、取材に携わった記者は300人に上るという。 ソ連時代は「親方赤旗」として安住できたが、ソ連崩壊で市場経済が始まるとスポンサーを失い、経済苦境のなかで必死の経営努力を強いられた。記者を3人に減らして週2回発行とし、発行部数も縮小した。商店や島民の広告も掲載して広告費も稼ぐようになった。択捉島の「赤い灯台」も状況は同様らしい。 90年代のロシア民主化時代、「赤い灯台」は択捉島幹部の汚職・腐敗を追及するキャンペーンを展開するなど過激な論調を掲げ、島民の北方領土返還論も載せたという。しかしプーチン体制による情報統制下、両紙には政府や地元行政府の批判はほとんど載らない。論評自体が少なく、紙面がつまらなくなった点ではロシア本土の新聞と共通する。 それでも、両紙は島の現状を知る貴重な情報源だ。両紙が伝えた行政府の統計によれば、13年末時点の人口は、国後が7355人、色丹が2913人。歯舞諸島には居住者はいないが、南クリル地区への入植者は13年1551人、退去者が988人で563人の純増となった。 13年、誕生した新生児が109人に対して死亡者は68人で、人口増が顕著だ。択捉島でもやはり出生数が死亡者数を上回った。ロシア極東やサハリン州は人口減や少子化が顕著なのに、北方領土は人口増という意外な現象がみられる。 ただし、択捉島の人口は6006人で離島者が多く、前年比で452人減少したという。択捉にはサハリン州最大規模の水産加工企業ギドロストロイの工場があり、産業基盤は国後、色丹より充実しているが、離島者が多い理由は新聞には載っていない。 国後・択捉では13年、結婚が87組に対して離婚は52組で、ロシア本土と同様に離婚率が高い。「国境で」は、「国後、色丹には30の民族が住む」と伝えている。終戦直後、ウクライナなど他の旧ソ連構成共和国の住民が入植した名残だが、島の人口分布は多民族国家・ソ連の雰囲気を残している。 12年の統計では、国後・色丹両島の労働者の平均所得は3万3700ルーブル(約10万円)で、ロシア全体の平均所得2万3000ルーブル(約7万円)よりかなり高い。公務員らに遠隔地手当が加算されるのに加え、高級魚の宝庫という漁業資源の恩恵とみられる。島民にとって、給与が高くなければ辺境の地に暮らす意味がない。 島の経済の生命線は漁業、特にサケ・マス漁だが、昨年は記録的な不作という。「赤い灯台」は9月、「これは漁ではなく破局だ」との見出しで、択捉でのカラフトマスの漁穫はまだ当初予想(2万7000トン)の10%程度にすぎないと伝えた。 「マスが故郷の川に戻ってこなくなった。気候変動などで帰るべき川を間違えているようだ」 「71年から択捉で漁をしているが、こんな不漁は初めて」 との談話も紹介した。択捉経済は苦境に追い込まれている。700人の外国人労働者が700人の外国人労働者が 「赤い灯台」は昨年9月24日、「私たちの記念日」という見出しで、択捉新空港がオープンして開港式が行われたことを写真12枚付きで大々的に報じた。新空港はクリル発展計画の目玉プロジェクトで、07年から中心地の紗那(クリリスク)郊外に建設が進んでいた。中型機の離発着が可能で、当面、オーロラ航空が択捉とサハリンの州都、ユジノサハリンスク間を運航するという。 同紙は、「ロシア全土で新空港がオープンしたのはソ連邦崩壊後初めて」とし、七九年のテレビ中継開始、2011年のアスファルト道路完成、13年の埠頭拡張に続き、新たな歴史が刻まれたと伝えた。建設中の択捉島の新空港。8月1日オープン予定だというが、工事が進んでいるようには見えなかった。結局2カ月遅れの9月下旬に開港した=2014年6月29日(鈴木健児撮影) それまで択捉島では、旧日本軍が建設した太平洋岸の天寧飛行場を改修して軍民両用で使用していたが、霧が多発し、小型機しか離着陸できないことから新空港建設の要望が強かった。 開港2日後には、プーチン大統領側近のイワノフ大統領府長官が択捉新空港に降り立った。同長官は住民に、「すべてはクリル発展計画に沿って実現した。次の段階として、快適な生活条件を目指し、住宅や社会インフラ、文化・スポーツ施設を建設して他の地域に劣らないようにする」と約束した。 クリル発展計画とは、プーチン政権が他地域より生活環境が劣悪な北方領土など千島の開発を図るため、06年の閣議で策定。15年までに総額280億ルーブル(約840億円)を投じて道路・港湾整備、空港、住宅、病院、幼稚園など社会インフラを建設し、漁業や観光業、鉱業の発展を目指すものだ。「潜在力を持つクリルの産業振興を図り、アジア太平洋地域の経済体制と統合させる」としている。 両紙では発展計画が大きなテーマで、「択捉島の別飛(レイドボ)付近の湖岸に温泉施設を備えた総合観光施設が着工」「色丹島の病院建設、完成間近」「国後島で金鉱探査に着手」「国後島の文化宮殿が近くオープン」といった威勢のいい記事が目立つ。 気になるのは、今年で期限切れとなる発展計画が25年まで延長される見通しであることだ。「国境で」(7月24日)は、極東発展省とサハリン州政府が策定した新計画案の内容を伝え、10年間の投資総額は684億ルーブル(2052億円)で、現行計画の3倍近くに膨れ上がると報じた。 連邦政府と州政府がほぼ同額ずつ出資し、最初の5年で大陸を結ぶ貨物・客船航路の整備、輸送・エネルギーインフラの整備、文化・スポーツ施設建設を行う。第二段階の5年間で漁業を総合的に発展させ、ロシアやアジア太平洋諸国の市場に水産加工製品の輸出を図り、「アジア太平洋諸国向けに経済特区を設置する」としている。 これが実現すれば、ロシアは少なくとも25年までは北方領土返還を想定していないことになる。 ただし、ロシア経済はウクライナ問題に伴う欧米諸国の制裁や石油価格下落で危機に直面し、予算規模が縮小されつつある。新計画も承認されておらず、曲折がありそうだ。 同紙によれば、発展計画に伴う人手不足で外国人労働者を誘致しており、国後・色丹では12年時点で、中国や北朝鮮、中央アジアなどからの700人の外国人労働者が働いているという。 北方領土は連邦資金の流入でミニバブルの様相だが、これはあくまで公共投資の効果であり、自律的な経済発展にはほど遠い。資金流入は社会的格差を拡大し、ロシア特有の汚職・腐敗も派生する。気候条件が劣悪で、食糧自給もできない遠隔の北方領土が自立発展できるとは思えない。やがてモスクワからの資金が途絶えた時、疲弊していくだろう。 北方領土を切り売り 両紙には毎号、読者の一行広告が掲載されており、住宅やクルマの売却提案が多い。 「グネチコ通り、2部屋住宅、200万ルーブル(約600万円)」 「修復済み三部屋住宅、230万ルーブル(690万円)」 「35平米、1部屋、150万ルーブル(約450万円)」 択捉紙には、 「中心地から13キロ先の二階建てダーチャ(別荘)、土地私有、委細談」 「修復済みの1部屋、140万ルーブル(420万円)」 などと毎号、数件の住宅売却広告が連絡先の携帯番号とともに記載されている。島では人の出入りが多く、離島者は早急に住宅を売却したいのだろう。原始的な住宅市場が誕生し、ミニ住宅バブルと言える。 クルマの一行広告は、日本製中古車ばかりだ。「トヨタ・ビスタ、95年型」「スズキ・ジムニー、97年型」などと・大古車・も売買されている。タクシーや自動車修理、家屋修理のビジネス広告もあり、隙間産業が生まれているようだ。 一行広告で気になるのは、北方領土で住宅の私有化が進んでいることだ。ソ連時代は土地、住宅はすべて国有・公有だったが、市場経済移行後、住宅の民営化が認められ、ロシア全土ではすでに7割以上の住宅が私有化された。北方領土でも、60%以上の住宅が私有化されたという。 私有化によって住宅の売却、賃貸、遺産相続が可能となる。北方領土が切り売りされていることを意味し、返還時には島民への補償問題が発生しそうだ。 両紙を読むと、島民にとって最も切迫した問題は住宅老朽化であることが分かる。サハリン州のストロガノフ第一副知事は「国境で」との会見で、「南クリル地区で何年も切迫しているのが住宅問題だ。老朽化して危険な住宅は全体の34%、そのうち18%は倒れかけている。これはサハリン州で最も高い数字だ。新住宅が建設されているが、満足にはほど遠い。民間の力も借りる必要がある」と述べた。ロシア全土でも集合住宅の老朽化が深刻化しているが、北方領土は地震多発地域だけに、島民には脅威だ。 「国境で」は昨年2月、色丹島で24部屋の新しい集合住宅が完成し、新住民に住宅の鍵を渡す贈呈式が行われたと報じた。新住宅には、94年の北海道東方沖地震で家を失い、仮設住宅に住んでいた住民が優先的に入るという。クリル発展計画の一環で、国後、色丹でさらに3棟の集合住宅が建設されるらしい。 同紙は、昨年11月に科学アカデミー極東支部が出版した94年10月の地震報告書の要旨を掲載している。それによれば、震度6以上を記録した地震は北方領土に大きな被害をもたらし、四島で計11人が死亡、32人が重傷を負い、400近い住宅が全壊・半壊した。津波が200─300メートルにわたって沿岸部を襲った。産業基盤の多くも破壊されて離島者が急増。震災前の2万2千人の人口規模は、いまだに回復できていないという。 殺人、横領、麻薬……殺人、横領、麻薬…… 火山地帯に位置し、地震や津波、噴火が起こる北方領土の自然条件は過酷だ。「赤い灯台」によれば、オホーツク沿岸の散布山で昨年8月、火山活動の活発化で「異例の強力な噴火」があり、周辺の住宅に被害があったほか、児童を恐怖に陥れたという。同紙は「火山と地震活動が活動期に入った」と警告した。 島は天候も急変し、日照時間が短く、強風が吹く。昨年の正月前後は暴風雪が続き、国後島では恒例の新年祝賀祭が延期された。2月には秒速35メートルの暴風と豪雪で非常事態が宣言された。これに伴って変電所が閉鎖され、停電が起きた。 悪天候に伴う事故も少なくない。2月には、国後島沖500メートルで拘束された外国船舶の検査に向かっていた国境警備隊のゴムボートが高波で転覆し、隊員ら5人が死亡、5人が行方不明となった。13年末にも、国後沖でゴムボートに乗っていた男性2人が行方不明となった。 北方領土では火災も多い。12年12月、32戸の2階建て集合住宅の入り口付近で火災があり、2階の一部が消失。年金生活者ら2人が死亡し、1人が重傷となった。電気のショートが原因で、強風のために消火作業は難航したという。国後島の古釜布でも同時期に集合住宅で火災があり、4戸が焼けた。犠牲者はなかったが、焼け出された住民は日本が建てた「友好の家」で一時的に過ごしたという。箱庭の様だと形容される色丹島の住宅。斜古丹地区にもカラフルな集合住宅が多いが、よく見ると壊れかけた木造で、道路も土舗装のまま。厳しい住環境が伺えた=2012年9月26日(鈴木健児撮影) 「国境で」は、今年も色丹島で火災が頻発しており、6月には建設中の集合住宅が深夜、火災で全焼し、入居予定者にショックを与えたと伝えている。 両紙は、島で起きた事件や犯罪も報道する。12年11月、択捉のロシア軍基地で兵士が同僚をスコップで殴り殺す事件があった。徴兵で配属されたばかりの新兵が、近く退役する兵士と口論になってスコップで何度も殴りつけて殺害し、軍検察官に拘束されたという。 択捉島の太平洋岸・天寧にあるロシア軍基地には冷戦時代、1万人以上の師団が駐留していたが、現在は3000人程度。「赤い灯台」は「基地の将兵はいつも酒に酔っ払っている」との地元住民の話を伝えたが、冷戦も終わり、部隊は暇を持て余しているようだ。 9月には、択捉島のクリルカ川中流でサケの密漁を監視していた警備組織スタッフが猟銃で撃たれて負傷し、紗那の病院に運ばれた。警察は3人の容疑者を拘束。3人は容疑を認めたという。 殺人、脅迫、酔っ払いの喧嘩、交通違反、住居不法侵入、強盗といった事件も報道されている。択捉島では、麻薬吸引者が増加していることも分かった。両紙は「島の犯罪発生率はロシア平均より低い」としているが、治安がいいとは言えない。 択捉島の最高指導者、アベニャン地区長が13年6月、公金横領のため、裁判所によって解任されたことも分かった。実際に存在しない建物の取り壊しに入札を公示し、1000万ルーブル(約3000万円)を着服していたという。 国後島でも水道・衛生事業で、本土の請負企業が飲料水貯蔵施設を実際には建設せずに700万ルーブル(約2100万円)を横領していたことが発覚した。国後島の軍駐屯部隊では、食堂の主任をしていた女性が架空の職員に給与を払い込み、8万ルーブル(約24万円)を着服したとして摘発された。これらは氷山の一角とみられ、膨大な開発予算が幹部の汚職・腐敗に消えている可能性がある。 島にはエンタテイメントが少ないが、13年、国後島では空手クラブが設立され、男女児童45人がロシア人コーチの指導で練習している。10月にサハリンで行われた極東連邦管区の空手大会には18人が参加し、各部門別で計6個のメダルを獲得したという。島のグリークラブ、本土からたまに来る歌手のミニコンサートも数少ない娯楽のようだ。 両紙がキャンペーン的に訴えているのが環境問題だ。あちこちにできたゴミの山の写真が再三掲載され、「ゴミが美しい景観を台無しにする」と批判する。ゴミ処理施設がないため、粗大ゴミが町外れに放置されてしまう。 「国境で」は、国後島の古釜布に設置された津波避難階段兼展望台が空き缶や空き瓶でゴミだらけになっている写真を掲載した。ロシア人は公共衛生意識が希薄だが、他人の島という意識もあるかもしれない。国後、択捉では軍の演習も定期的に実施されて環境破壊に繋がる。返還後はまず、汚された島の環境整備から始める必要がありそうだ。曲がり角のビザなし交流 両紙には海外やロシア本土の情報はほとんど載らないが、昨春のウクライナ情勢は通信社の報道をしばしば転載した。3月17日には、国後島古釜布の中央広場で「クリミアとウクライナ東部のロシア系住民支援集会」が行われ、「南クリル住民はプーチン大統領の政策を支持する」との決議を採択した。同様の官製集会はロシア各地で開かれているが、島でも民族愛国主義が高まった模様だ。 国際問題では、隣国・日本に絡む記事が圧倒的に多い。「国境で」によれば9月2日、第二次世界大戦終結69周年祝賀式典が古釜布の戦勝記念碑前で盛大に行われ、ソロムコ地区長や国後島駐留軍らが参加した。式典は択捉、色丹両島でも行われた。四島にとって「対日戦勝」は自らの存在意義であり、島を挙げての祝賀となるのだろう。 同紙は関連原稿で、千島列島がソ連軍によって占領された経緯を紹介し、「ソ連軍上陸部隊は9月1日に国後に到着。同日、色丹も占領した。2日から歯舞諸島の占領に着手し、4日に完了した」などと伝えた。慎重に読めば、歯舞占領作戦は2日の降伏文書調印後も継続され、国際法違反であることが分かる。 毎夏恒例となったビザなし渡航も必ず報道される。日本側は近年、ファッションショーや着物ショーを島で実施して島民の人気を呼んでおり、各イベントは毎回、写真入りで紹介される。交流の一環として、日本人医師団が無料で行う島民の診療も報じられる。しかし、「赤い灯台」が「日本側医師団はクリル地区側のすぐれた配慮に感謝した」などと、日本側がへりくだったように報じているのが気になった。 「国境で」は、島民が10月に長崎を訪れたことを写真入りで報道、その際に高齢の日本人が突然、島の代表団に北方領土即時返還を要求するハプニングがあったことを指摘し、「この人には島に来てもらい、ロシア国籍を取って一緒に住んでもらおう」と皮肉った。 92年に始まったビザなし渡航では、日本人延べ2万950人が四島を訪問、ロシア人延べ9340人が日本を訪れ、経費はすべて日本政府が負担した。当初、領土問題解決への環境整備と位置づけられたビザなし渡航だが、22年を経てロシア側は「夏の風物詩」と冷ややかに見ている。ビザなし渡航も見直しと新機軸が必要だろう。なごし・けんろう 1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学卒。時事通信社でモスクワ、ワシントン支局、外信部長、仙台支社長などを経て現職。国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授。著書に『独裁者プーチン』など。関連記事■ 読者が知らない共同通信の強大な影響力■ 歴史で解き明かす中国とロシアの「正体」■ ケント・ギルバートが説く 日本がサンドバッグから脱するとき

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    「主権侵害」全く理解できず 看過できない日本の政治家の国際感覚

    袴田茂樹(新潟県立大学教授) 3月初めにロシアで、日露の専門家や政治家がウクライナ問題や日露関係をめぐる非公開の会議を行った。私の最大の関心は、本欄で先月私が書いた見解(編集部注:産経新聞『正論』2015.02.06)に対するロシア人の率直な意見を聴くことだった。「日露の歴史を修正しているのはロシア側」という論だが、以下が私の見解の要点である。「歴史修正」認めたロシア高官 (1)プーチン大統領も含めロシア政府は、北方領土の帰属問題が未決と認めて領土交渉を続けてきたのに、2005年以来「第二次大戦の結果ロシア領と決まった」と主張し始めた(2)ロシアは軍国主義日本がナチスドイツと同盟を組んで、ソ連が被害者になったかの如(ごと)く非難するが、日本は独ソ戦の間も含め「日ソ中立条約」を最後まで守り、それが独ソ戦でのソ連勝利の一因だった。条約を破って日本を攻撃し大西洋憲章の精神に反して領土を拡大したのはソ連だ。 この私の見解に対しては、エリツィン時代にロシア政府高官として日本との領土交渉に直接携わり、交渉経緯を知悉(ちしつ)している人物が、私の見解に完全に同意すると述べた。私は、真実を知っている者は、ロシア人でも私の見解を否定できないと密(ひそ)かな確信を抱いていたので、彼の言葉に得心した。 3月10日にモスクワの国際大学で講演をした。その時もやはり、本欄で書いた見解に対するロシア人学生や教授たちの反応を知るのが私の主たる目的だった。 「日本は政治・経済的にあまり関係のないウクライナ問題で対露制裁に加わっているが、これは単にG7への同調、米国の圧力故ではないか。日本はもっと主体的な対露政策を遂行すべし」との対日批判をまず紹介すると、100人余りの聴衆の殆(ほとん)どがこの見解に賛成した。次いで私は、クリミアとスコットランドの住民投票が、ロシア軍の軍事介入がなかったとしても本質的に異なり、クリミアのロシアへの併合は国際法的に認められないことを、世界各地の「チャイナタウンでの住民投票」を例に出して説明した。その国の政府が認めない「自決権」は国際法的に無効という見解だ。ロシア軍介入下での併合はもちろん論外だ。鳩山元首相への痛烈な質問3月11日、ロシアがウクライナから一方的に編入したクリミア半島の中心都市シンフェロポリで記者会見する鳩山由紀夫元首相(共同) 「日本とウクライナは今やロシアに主権、領土保全を侵されているという共通問題を抱えている。従ってG7の中では日本は他国以上にロシアの主権侵害を批判する権利と義務を有する」との私見を述べた。そして「領土問題ではロシアに別の見解があることは承知だが、日本の立場からするとロシアの対ウクライナ政策を厳しく批判せざるを得ない。それはG7への配慮故だけではない」として、緊張する尖閣問題も説明した。 この説明のあと聴衆の意見を求めた。驚いたことに、直前に紹介した対日批判に賛成した者の殆どが、今度は私の見解は理解できると挙手したのである。 私がモスクワの講演で最も強調したのは、21世紀のグローバル化の時代になっても世界の秩序は主権国家間の関係で辛うじて維持されており、国民国家とか主権・領土という観念は過去のものになるというポストモダニズムの政治論はあまりに楽観的で、安定した主権国家の存在と他国の主権尊重が最も重要、という点である。 この私の見解に対して、痛烈な質問が出された。聴衆の一人が、「日本がロシアによるクリミア併合をウクライナの主権侵害と批判するのは理解できた。では、鳩山由紀夫元首相が本日クリミアを訪問して住民投票によるロシアへの併合を認めたことをマスコミは広く報じている。これをどう理解すべきか」と質問したのだ。ロシア査証でクリミアを訪問した彼の行動は、私自身絶句する事態で心底から赤面した。あらかじめこの質問は予想していたのだが、次のように答えざるを得なかった。安倍政権とは真逆の見解 鳩山氏はわが国でも国家主権や安全保障の問題が全く理解できない「宇宙人」と呼ばれている。しかし、そのような首相や政党を選んだのは日本国民であり、日本人の私自身、赤面している、と。 昨年9月には、自民党の森喜朗元首相が安倍晋三首相のプーチン大統領宛て親書を携えてモスクワを訪問し、「ノーベル平和賞を受けた欧州連合がウクライナを巻き込んでロシア叩(たた)きを考えている。それではノーベル平和賞が泣く。われわれはウクライナ問題に関わる資格はない」とまで述べた。安倍政権や欧米とは真逆の見解で、強い懸念を抱かざるを得ない。 ロシア政府の大使も務めたあるロシア人でさえウクライナ問題で「ロシアは最初から、国際法や自国の評判、さらには自らの良識さえも完全に無視して、力の論理に従って行動してきた」と自国政府を厳しく批判しているのである。 クリミア併合を批判してきた改革派ネムツォフ元副首相の暗殺に対して、モスクワでは数万人の抗議デモが行われた。日本の政治家の国際政治に対する音痴ぶりは、鳩山氏は民主党だから、とは言っておれない深刻な事態である。そして、これは日本国民自身の深刻な問題でもある。関連記事■ クリミアと尖閣は表裏一体 日米同盟の緊密化が世界秩序を維持する■ なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか■ 「成熟民主国家」へ国策の共有を

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    ロシアの極東ターゲットは北海道だ

    日高義樹(ハドソン研究所首席研究員)日本は軍事演習に驚いたが… ウクライナの領土であるクリミア半島を、軍事力であっという間に制圧し占領したロシア陸軍の機動部隊の威力は、世界の国々にとって新たな軍事的脅威になっているが、日本はいまだにその脅威に気がついていないようである。 2014年8月、ロシア海軍はこれまでにない大規模な訓練を実施し、日本周辺の極東太平洋地域で敵前上陸作戦を含む軍事訓練を展開した。ロシアがこのような大規模な軍事行動を行うことは、この数年来、中国についで軍事費を増やし軍事力を強化していることから予想されたことであった。 「日本政府は日本の北方領土の周辺で突然、ロシアが大がかりな軍事行動を展開したことに驚いているようだが、ロシアが軍事力を強化し続けていることにまったく気がつかなかったのだろうか」 アメリカ海軍の首脳がこう述べているが、ソビエトつまり現在のロシアというのは非常に分かりにくいだけでなく、時にはあっという間に変化してしまう国なのである。ロシア極東ウラジオストクの沖合に浮かぶルースキー島の山腹に設置された砲台。日本が仮想敵国だった。いまは博物館となり開放されている 「ソビエトはあと少なくとも50年は続くだろうと考えていた。これほど早くしかも突然、崩壊するとは思ってもみなかった」 世界的な戦略家であるヘンリー・キッシンジャー博士が私の番組に出演してこう述べたことがあるが、冷戦で敗れたソビエトがロシアとして大きく甦っていることに、アメリカのオバマ大統領とその側近も注意をはらってこなかった。 「アメリカがウクライナから、ロシア寄りの指導者を追放しようとした時、オバマ大統領はプーチン大統領が力で反抗してくるとは、予想もしていなかった」 チェイニー前副大統領がワシントンの記者団にこう言ってオバマ大統領を批判したが、たしかにロシアの変わり身の早さに気がついていないのは、日本だけではなかった。 こうしたロシアの軍事的な復活を目にして私が思い出すのは、ハドソン研究所で一緒に軍事問題を研究したアメリカのウイリアム・オドム陸軍中将のことである。オドム中将はカーター大統領の軍事顧問や、アメリカのスパイ組織の大元締めであるNSA国家安全保障局の長官をつとめ、陸軍士官学校、コロンビア大学、イエール大学でも教鞭をとった軍事問題の権威だった。冷戦時代にはソビエトとのタンク戦争の戦術的研究者として世界にその名を知られていた。 「ロシアは強力な軍事力を持ち軍事的に強い。これに比べて中国は軍事的に弱い。もっと言えば軍事的に強いロシアは経済が弱く、軍事的に弱い中国は経済が強い」 これはオドム中将がハドソン研究所の研究会の席上で言った言葉だが、軍事的に強いというロシアの基本的な性格を考えれば、プーチン大統領が軍事費を増やし軍事訓練を強化している今の状況は、ロシアの隣に位置する日本にとって脅威そのものと言える。大国として甦るロシア プーチン大統領は、冷戦後の混乱のなか、議会にたてこもった共産主義者たちや、酔いどれで汚職まみれの大統領エリツインに代わって新しいロシアを建設するために、ロシアのエリートが将来の繁栄を託して擁立した政治家である。 ロシアのエリート、そして国民の期待を担ってプーチン大統領が登場した2000年以来、ロシア経済は順調に拡大して来た。2000年のロシアの国民1人当たりの生産高は1771ドルだったが現在は1万4千ドル、およそ8倍になった。プーチン大統領は、日本はじめアメリカ、ヨーロッパ諸国との関係を良好に保って資本の流入に力を入れ、石油と天然ガスの生産高をサウジアラビア並みに増やしてロシアを資源大国にしたのである。 しかしながら2012年頃からプーチン大統領の弾圧的な国内政治姿勢を嫌って資本がロシアの外に流失し始めた。ちなみに2014年には、前半の6ヶ月だけで750億ドルの資本が逃げ出している。資本の流失はロシア経済の停滞をまねき、プーチン大統領の政治的な危機が、大統領の側近の間からも囁かれるようになった。 「プーチン大統領が軍事力強化に乗り出し、力でロシアの存在を世界に示そうと決意した理由は、国内経済の停滞からロシア国民の目をそらすことにあった」 ハドソン研究所のロシア問題専門家がこう言っているが、プーチン大統領はロシアの国営通信社であるイタルタスの記者に次のように述べている。「ロシアはこれから北極石油の開発に力を入れ、世界の資源国家としての立場を確立することによって、アメリカ、中国、日本に次ぐ経済大国の立場を確立するつもりである」 プーチン大統領はロシア国営のインターネット放送でも「ロシアの経済的立場を確立するために軍事力強化政策をとる」と述べているが、プーチン大統領が、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国との対立をいとわず軍事力を強化し続けているのは、これまでのやり方ではロシア経済の拡大が先細りになるだけでなく、自らの政権の維持が困難になると懸念しているからである。 プーチン大統領は2000年に就任した当時は、外国から資本を取り入れるためにいわゆる微笑外交政策をとり、日本に対しても北方領土を返すという姿勢をちらつかせながら、森総理など歴代の首相を操って来た。だがロシアは、日本政府が気づかない間に変化をとげ、ついに日本周辺で敵前上陸をふくむ訓練というキナ臭い行動をとるところまで来た。 隣の大国ロシアは、昔から日本にとって脅威だったが、ソビエトが冷戦に敗れてその脅威は一時的に消滅した。ところがオドム中将が言う軍事的に強いロシアが大国として甦り、日本の脅威になりつつある。何よりも日本にとって危険なのは、外務省はじめ日本政府がその脅威についてまったく気がついていないことである。エネルギー戦略で軍事力強化エネルギー戦略で軍事力強化 プーチン大統領がウクライナを侵略したのは、ソビエト帝国の再建を夢みてのことだという見方が一般には有力で、アメリカの雑誌『タイム』は、「冷戦第二幕の始まり」などという特集記事も掲載している。ウクライナに対する軍事行動が、かつてソビエト連邦の有力国家であったウクライナを取り戻すためであったというのは、確かに分かりやすい解釈である。だがハドソン研究所の専門家たちは少し違う解釈をしている。 「プーチンがクリミアにある海軍基地を占領したのは、ロシアの黒海艦隊がその基地を自由に使えるようにするためだ。この基地を経由すれば、ロシア南部で生産される天然資源を、黒海から地中海への海上輸送路を使って、自由に運ぶことが出来る。狙いはウクライナの領土ではない」ロシア・黒海艦隊 ハドソン研究所の専門家は私にこう言ったが、ウクライナ制圧がプーチン大統領のエネルギー戦略を達成するためのものだったにしろ、ロシア軍特殊部隊の軍事行動は完璧だった。プーチン大統領は、特殊部隊に民間人の服装をさせ隠密行動をとらせたが、さらに巧妙だったのは、アメリカの誇る、衛星による監視体制を完全に騙しおおせたことである。 「ロシア軍がウクライナ侵略に動くという情報があったが、アメリカ軍はロシア軍の動きを探知することが出来なかった」 国防総省関係者がこう述べているが、後になって漏れてきた情報によると、世界中を監視しているコロラドの宇宙防衛司令部は、ロシア軍がどこにいるかまったく分からず、文字通り悲鳴をあげたという。当時プーチン大統領が陽動作戦として、ロシア軍にウクライナ国境付近で訓練を行わせていたため、アメリカの監視衛星は完全にめくらまされてしまったのだ。 大規模な軍隊を秘密裏に行動させるには厳しい訓練をしなければならない。アメリカの衛星が探知できない通信体制を維持することも必要である。ウクライナ侵攻にあたってプーチン大統領は、2万以上の大軍を動員したといわれるが、ロシア特殊部隊は完全な隠密行動をとることに成功した。 ウクライナのクリミア半島を軍事占拠する前の2013年1月、プーチン大統領は地中海でロシア海軍による大規模な軍事訓練をおこなった。主力になったのは空母「アドミラルクズネツォフ」を中心とする新鋭の機動艦隊で、ロシアがシリアに維持しているタルトス基地などから進出して来た艦艇と、ボスポラス海峡を越えて来た艦艇あわせて50隻以上が、冷戦時代にも見られなかったような大がかりな訓練を展開した。 私は冷戦の最中、「赤い潜水艦を追う」というNHKの特集番組を制作するためソビエトの潜水艦を世界中追い回したことがある。地中海ではナポリのアメリカ海軍基地から空母に同乗し、海底に潜むソビエト潜水艦を見つけたが、今やアメリカの艦隊は姿を消し、代わってロシアの強力な海上艦隊が地中海を制圧し始めている。 アメリカ軍の記録によるとロシア海軍は、2013年1月の大訓練の後も17回にわたって大がかりな訓練を展開した。プーチン大統領のエネルギー戦略にとって何よりも肝要なのは、黒海から地中海へかけての海上航路を制圧し、石油や天然ガスの新しい輸送ルートを確立することなのである。 ロシアから輸出される石油や天然ガスはその大半がドイツに運ばれている。私もテレビ番組のために詳しく取材したことがあるが、バルト海を越えてドイツに運び込まれたロシアの石油や天然ガスが、ヨーロッパの国々に売られている。このバルト海のルートは北方ルートとよばれている。ロシアはウクライナからポーランドを経由する南ルートを作ってはいるものの地理的に制約されている。プーチン大統領は、独自の石油天然ガス輸送ルートを黒海から地中海に確立してロシアの世界的な戦略的、経済的地位を確保しようとしているのである。やがてはアメリカと肩を並べる海上輸送体制を確保する野望を抱いている。 プーチン大統領のエネルギー戦略にとってもう一つ大切になってきたのは、北極の天然資源である。アメリカのエネルギー省のデータによっても、温暖化で北極の氷が溶け始めるとともに、地下にある石油や天然ガスなどの資源を開発する動きが活発になっている。世界の石油と天然ガスの30パーセント近くが北極海の底に眠っていると報告する資料もある。 そうした新しい天然資源地図のなかで、最も有利な立場にいるのがロシアである。地理的にもロシア領土の一部が北極圏にある。この地域には多くの油田が存在しているといわれる。その最大のものは、北極圏ぞいのシベリア西地方、さらに、東西のバレンツ海地方などのほか、サハリンにも広大な石油資源が眠っている。 アメリカエネルギー協会の情報によればロシアは、こうした大きな6つの石油天然ガス地帯の開発についてきわめて有利な立場にある。プーチン大統領は既に新鋭の砕氷船二隻を建造して北極圏に送り込んでいるほか、周辺の海上基地を強化しロシア艦隊を増強している。 プーチン大統領が2013年に地中海で、冷戦時代にもなかったような大規模な海軍訓練を展開したのにつづいて2014年8月、極東太平洋で上陸作戦をふくむ大がかりな演習を行ったのは、北極からの石油や天然ガスを輸送するための安定した航路を確立するためであった。 「北極からベーリング海を通り、日本列島ぞいに東南アジアに至るシーレーンはロシア経済を拡張するための、なくてはならないルートである。今後この海域のロシア太平洋艦隊を強化する」 プーチン大統領は、2014年はじめ、ロシアのテレビでこう述べたが、ロシア海軍は33隻の新しい艦艇を建造し、ウラジオストクを中心に太平洋艦隊を急速に強化する。 「プーチンによる太平洋艦隊強化の表れが、今度の極東太平洋における前例のない大規模な軍事訓練だ」 アメリカ海軍の首脳はこのように指摘している。プーチンは北方領土を返さないプーチンは北方領土を返さない ロシアがアジア極東の海軍力を増強し、日本とアメリカにとって新たな脅威になっていると懸念するアメリカ海軍の首脳が増えている。ラフェッド前海軍総司令官は、2011年3月、アメリカ上院歳出委員会の軍事小委員会でロシア海軍の脅威について警告した。この小委員会の内容は秘密になっている部分もあり全てが明らかではないが、私がよく知るラフェッド前総司令官周辺の専門家が次のように指摘している。 「プーチン大統領はアジア極東戦略を強化する重要な要素として日本との対決を明確にしているだけでなく、北方領土を日本に奪われないために海軍力を強化していると、アメリカ海軍関係者にもらしている」 アメリカ海軍専門家によると、プーチン大統領は今後、最新の原子力空母や潜水艦、戦車上陸用舟艇などを増強しウラジオストクに集結させる。またフランスから最新鋭のミストラル型強襲上陸用空母を4隻購入する計画をたて、そのうちの二隻をウラジオストクに配備することをすでに決めた。さらに、このミストラル型強襲上陸用空母に乗り込ませる海兵隊つまり、ロシアの海軍歩兵部隊の訓練をフランスに依頼している。 プーチン大統領はウラジオストクだけでなく、かつて日本領であった南樺太のユジノサハリンスクの海軍と空軍基地を増強している。さらに北方の千島列島先端にも太平洋艦隊のための海軍基地と空軍基地を作っているだけでなく、後方支援基地としてロシア本土沿岸地域に、数カ所の海軍基地と空軍基地を建造していることをアメリカ軍が確認している。 ウラジオストクから樺太、千島列島さらには、ベーリング海峡、ロシアの沿岸のロシア太平洋艦隊の基地が強化されたり、新たに作られたりすれば、日本にとって大きな脅威になる。とりわけ注目されるのはウラジオストクに配備される、ミストラル型空母を中心とする上陸用集団の強化である。アメリカ海軍の専門家はこう述べている。 「ロシアがウラジオストクを中心としてロシア太平洋艦隊を強化しているのは、軍事的に見るとアメリカの力の後退によって生じる力の真空をうめようとしているからである。この動きの背後には中国の軍事力拡大に対する警戒があるが、基本的には日本を敵視し、北方領土を返さないという決意の表明である」 ラフェッド前海軍総司令官の周辺にいる大佐クラスのなかには、次のような意見も出ている。 「ウラジオストクと樺太、千島の基地を自由に使うためには、ロシア太平洋艦隊が、津軽海峡や宗谷海峡をきままに行動することが必要だ。プーチンはロシアの歴史的な戦略構想に基づいて、北海道の占領も考えている」 ロシアの歴史的な戦略構想とは、第二次大戦後、北海道をソビエト領にしようとした当時のスターリン首相の野望をさしている。プーチン大統領は軍事力を増強してロシア拡大を敢行した独裁者ピョトール大帝や、失敗はしたものの世界的大艦隊を構想したソビエトのブレジネフ最高指導者も手本にしているといわれる。 1990年代、日本から資本を取り込むためにロシア政府の首脳が日本に積極的に近づき、北方領土返還をエサに日本との友好関係を作ろうとした時代は終わりを告げた。プーチン大統領が政治的立場を維持するために始めた軍事力拡大、太平洋から引くという弱気なオバマ大統領の政策から生じた力の真空、そしてアメリカにとって代わろうという中国の野望などがうずまき、極東太平洋における日本の安全は、いまや大きく脅かされている。 ソビエト帝国が崩壊した当時、ロシアは大混乱に陥った。そのロシアが資源大国となり、その資源を売って得た資本によって軍事力を拡大し、極東太平洋でエネルギー戦略を推し進めることになるとは、誰にも想像できなかったことである。 私はロシア専門家ではないが、テレビの番組を制作するにあたって国際情勢全般の動きを取材するため、ソビエト崩壊後のモスクワやウラジオストク、サンクトペテルブルクなどを取材したことがある。いまも印象に残っているのは、ロシアのヒトラーになるといわれたタカ派政治家ウラジミール・ジリノフスキーの言葉である。 「資源のない岩だらけの日本を侵略しようという気はまったくない」 それ以前、NHKの海外放送の責任者であった頃、私はモスクワ支局を通じてロシア政府に当時NHKの新技術であったハイビジョンを紹介し、ロシアの実力者であったアフロメーエフ陸軍参謀長に単独会見もしたが、当時の混乱したロシアと経済大国であった日本の間には、ある意味でたしかに蜜月時代が存在した。しかしながらロシアはすでに述べたように大きな変化をとげ、プーチン大統領は政治的に強硬姿勢をとらざるを得なくなっている。 いま日本の人々が留意すべきは、こうした状況のもとで西太平洋から後退しつつあるアメリカが、再びアジアに関心を持ち本当の意味での抑止力を行使するようになるには20年、30年の長い歳月が必要であるということである。フランクリン・ルーズベルト大統領から始まった、アメリカのアジアへの勢力拡大のサイクルはとりあえず終結期に入った。 そのアメリカの後を襲うべく、経済力をつけた中国が軍事力を拡大しているが、資源を中心とするロシア経済と軍事力の拡大は、中国のそれを上回る勢いである。しかもオドム中将が指摘したように、ロシアはもともと軍事的に強い国なのである。 中国は旧ソビエトが建造した古い空母を買い入れ、アメリカの技術を盗んでステルス戦闘機を作ったりレーダーを開発したりしているが一部、衛星技術で成功しているだけで、アメリカの専門家は中国の軍事力を高くは評価していない。 しかし、日本の国際戦略、外務省の外交、国民の憲法論争などを見ていると、その殆どが、いわば「張り子の虎」である中国の軍事的脅威に関心を奪われている。集団的自衛権構想にしても、中国の脅威とそれに対応する東南アジアの動きに呼応するものに過ぎないようだ。真に日本の安全を図ろうとするならば、もう一つの強力な敵、プーチン大統領のロシアがもたらす危機に対処する戦略を、ただちに構築しなければならない。ひだか・よしき 昭和10(1935)年生まれ。東京大学文学部英文科卒、東京大学新聞研究所を経て34年、NHK入局。ワシントン支局長、理事待遇アメリカ総局長、審議委員を経て退職。ハーバード大学客員教授、同大タウブマンセンター審議委員を経て現職。全米商工会議所会長顧問。テレビ東京で「日高義樹のワシントンレポート」を17年間製作。著書に『アメリカを知らない日本人』(講談社)、『オバマの嘘を知らない日本人』(PHP)など多数。関連記事■ 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    日本は今後ロシアとどう付き合うべきか

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