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    私が韓国と断交すべきではないと思う理由

    、得るものよりも失うものが多い」と反対姿勢を鮮明にしている。 程度の差こそあれ、誰が大統領になっても日韓関係が好転することは難しそうな面々だといえるだろう。民主化運動が東アジアの安定と秩序を狂わせた民主化運動が東アジアの安定と秩序を狂わせた 韓国で「この程度の人物」しか大統領候補に挙がらないというのは、国民世論と無関係ではない。韓国はもはや左翼勢力の浸透を防ぐのではなく、彼らに支配された国家機関をどのように奪還するかという段階にある。 朝鮮戦争の際、北朝鮮の攻撃によって韓国は百数十万人もの犠牲者を出しながら、従北派になる心理はわれわれには理解しづらい部分があるが、心理学でいうところの「ストックホルム症候群」が正鵠を得ているのかもしれない。誘拐された人間は長時間、非日常的体験を共有することで犯人へ信頼や愛情を抱くようになるという。長期にわたる休戦状態と北朝鮮と韓国が同じ朝鮮同胞であることや北朝鮮による韓国国内での工作活動、全教組(全国教職員労働組合)による左翼教育が加わり、従北派は勢力を拡大していった(韓国における北朝鮮のスパイ活動史は拙著『韓国「反日謀略」の罠』〈扶桑社〉にて詳述)。 韓国の左傾化には民主化運動が深く関わっている。韓国で民主化を叫ぶ勢力の主力は自由主義者たちではなく、従北派であった。「軍事政権=悪」という戦後日本の短絡的な思い込みで韓国の民主化を讃えるのは誤りであり、これが東アジアの安定と秩序を狂わせた転換点であった、と後世の歴史家たちはその史書に書き加えるであろう。 金大中・盧武鉉大統領が政権を執った約十年のあいだ、国会議員をはじめ、行政・司法・立法などの主要な地位は従北派が占めるようになった。韓国軍までもこれまでの「大韓民国在郷軍人会」に対抗した「平和在郷軍人会」という組織をつくり、従北を支援する動きを取りはじめている。 従北派の狙いは「韓国の内部崩壊」「日韓・米韓関係の悪化(反日・反米)」であり、「中国への従属(親中)」である。 そして彼らは日本の左翼勢力とも密接な紐帯を有している。たとえば沖縄の「高江ヘリパッド問題」では、アメリカ海兵隊の基地である北部訓練場返還をめぐって抗議活動が展開されたが、運動に多くの韓国人が交ざっていたことがインターネットで報じられている。その根底にあるのは、在韓米軍撤退を主導する韓国の従北派が日本の左翼と共闘しているためである。 もともと、前述した全教組は親北朝鮮であった日教組が韓国で創設を指導し、韓国の労働組合(韓国労働組合総連盟〈韓国労総〉、全国民主労働組合総連盟〈民労総〉)創設も日本の労働組合が支援するかたちで広まったが、いまや従北派の勢力は巨大化し、日本の左翼運動を逆に指導するかたちへと変貌した。この一連の背景を知らなければ、なぜ彼らが日本の政治運動に参加しようとしているかの真相に近づくことはできない。韓国と断交すべきではない理由韓国と断交すべきではない理由 韓国の現状をこのように分析してきたが、日韓関係が悪化するなか、保守派の多くから「日本は韓国と断交すべき」との論調が多く聞こえるのも事実である。 気持ちはわかるが、私はその提案には同意しかねる。 第一に安全保障の問題である。 朝鮮半島は南北とも準戦時体制を維持し、平時としては最大限の兵力を投入しており、無理を重ねている。しかも南北ともに反日教育を徹底しており、ここから南北と国内団結の方便を見出している。 ドイツが東西合併後に深刻な経済不振に見舞われたことを考え、北朝鮮の経済を立て直したあとでなければ、南北統一は難しいとの見解もあるが、数兆円ともいわれる統一費用を賄うことができれば不可能ではなくなる(その費用を日本に負担させようと韓国は活動しているようだが)。 一九八〇年に金日成主席は「高麗民主連邦共和国」の創設を韓国に提案したことがある。これは一民族・一国家・二制度・二政府の下で連邦制による朝鮮半島の統一を主張したものであるが、韓国で暗躍する従北派が画策する統一もこの一国二制度案である。先述した文在寅は二〇一二年、大統領となれば北朝鮮の連邦制案を採用して南北統一を図ることを明言している。 いずれにせよ歴史の流れは早晩、南北統一の方向に向かい、朝鮮半島には巨大な兵力と核兵器、中長距離ミサイルを有した反日国家が誕生することになるだろう。 二〇一二年十一月、中国の代表団がロシア・韓国の代表と今後の対日戦略について話し合っている。そこで中国が提案した内容は、①中国・ロシア・韓国で「反日統一共同戦線」をつくる。②中露韓は一体となり、日本の領土要求(北方領土・竹島・沖縄)を断念させる。③「反日統一共同戦線」にアメリカも加える、ということであった。昨年十二月十五日に行なわれた日露首脳会談で、北方領土の返還が「〇島」でありながら経済支援を急いだ理由は、強固になりうる可能性があるこの戦線を破る必要があった、という側面を忘れてはならない。 いうまでもなく日本は縦に長く横に狭いため、敵からの侵攻に対して脆弱であり、そのうえ資源の乏しい国である。貿易立国でなければ生存できない致命的弱点をもつ。このような国が生き残るには、周辺の敵は少なければ少ないほどよい。敵の存在は、わが国の安全保障に深刻な影響を与えることは明白だ。 日本の生存のために、そして反日統一共同戦線を打破するためにも、日本にとって韓国との友好関係はきわめて重要である。今後の東アジア情勢に鑑み、朝鮮半島、とくに半島南部の安定は日本に重要な意味をもたらす。 朝鮮半島と日本を結ぶ対馬海峡を確保した国は、日本海を内海として利用することができる。中国が対馬を確保すれば日本は東シナ海だけでなく、日本海も戦域として想定しなければならなくなる(ロシアが対馬を確保した場合はより最悪の事態となる)。 水上艦ならばまだ対抗できるが、潜水艦は中国海軍も能力を向上させており、ロシアは世界有数の潜水艦大国である。たとえ海上自衛隊が有能であっても行動が受動的になる以上、極度の緊張を強いられることになる。 よって現代の日本にとって韓国の必要性は「対馬海峡の制海権の確保」にある。対馬海峡を確保できれば、日本の側面となる日本海を通過するすべての艦艇は一度、日本の監視下に置かれることになる、この優位性を得るため日本にとって韓国と最低限、安全保障では友好を確保する必要があるのだ。対話を拒絶するのは日朝関係と同じだ 第二は韓国という国の問題である。 一九六五年は日本と韓国が日韓基本条約を締結し、国交回復させた年であるが、それまで日本が歩んだ塗炭の苦しみを思い起こす必要がある。島根県の竹島などに慰安婦像を設置するため、募金運動を始めると表明した韓国・京畿道議会の超党派議員ら=1月16日、京畿道議会(聯合=共同) 韓国初代大統領・李承晩は日本に対し、「反民族行為処罰法」による親日反民族行為者への処罰のほか、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するため新潟日赤センター爆破未遂事件(一九五九年十二月)を指示するなど数々の暴虐を働いたが、その最大というべきものが「李承晩ライン」の制定であった。「李承晩ライン」とは一九五二年一月、サンフランシスコ講和条約発効直前に突如として韓国政府が一方的に海洋資源の独占と領土拡張のため、島根県の竹島を取り込んで軍事境界線・排他的経済水域を公海上に引いた事件である。 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』によれば、日本漁民を拿捕すると彼らは漁民たちに拷問を加え自白を強要し、その獄中生活も雑居房には二十数名が押し込められ身動きができないうえに、食事も腐敗した物を与えられ、栄養失調となり餓死する者まで現れた。 日韓基本条約締結にともない請求権、経済協力協定、日韓漁業協定が締結されるまでのあいだ、日本漁民三九二九名が不当に抑留され、拿捕時に射殺された漁民は四四名、物的被害額は当時の金額で約九〇億円に及んだ。 国交断絶するということは、対話のチャネルを謝絶することであり、現在の北朝鮮と同じ状況になることだ。 国交断絶したのちの韓国が日本に対して〝理性的な行動〟を取ることを前提にしているならば、論者はよほど韓国を信頼しているのだと皮肉りたくもなる。 いまの日韓関係に憤りを感じるのは私も同じだ。しかし一時の感情に身を任せ国交断絶を提唱し、すべてを白紙に戻すような論調を言論人が行なうことは、ハーメルンの笛吹きとなり国民を誤った道へと誘うことになるのではないか。日韓の歴史に鑑み、国益を損なうことがあってはならない。日本が「強い国家」へ変貌すればよい日本が「強い国家」へ変貌すればよい では韓国が北朝鮮化していくことを、日本は止めることはできないのだろうか。断っておくが、私の考える韓国との友好は、韓国への従属ではない。韓国の朴槿恵大統領の即刻退陣を求め、デモ行進する市民ら=2016年12月、ソウル(共同) 一九七二年、アメリカのニクソン大統領は、中国の周恩来に「北も南も韓国人は感情的で衝動的な人びとだ。その衝動的で好戦的な人びとが事件を起こさないようにしなければならない」と語ったという(『朝鮮日報』二〇一三年十一月十三日)。感情的、衝動的、好戦的が韓国人の民族性であるというニクソンの指摘は傾聴に値する。 一方で、韓国人を称して「ひまわりの国」という見方もなされている。ひまわりの国とはつねに太陽(自分より強い者)のみに低頭するという意味であり、強い者にモミ手、おとなしい者には居丈高に出るという韓国人の本質を端的に表している言葉だといえる。 近代史を見てみれば、清が強いときは清を崇(あが)め、ロシアが強いときはロシアを崇め、日本が強ければ日本を崇めてきたことはすぐにわかる事実である。 この国民性を利用することで、韓国の世論を変えることができるはずだ。 つまり従北派を黙らせ、韓国を親日にするには日本が「強い国家」へと変貌を遂げる必要がある。 悪と戦うためには、自らが正義であることだけでは不十分であり、強くなければならない。日本が強い国家となれば、韓国の世論は親日へと転じ、北朝鮮と中国の謀略を打ち破れる公算は高い。当初は反日一辺倒だった朴政権が、末期になるにつれ〝親日的〟になったのも日本政府が圧力に揺るがなかったからにほかならない。 大事なことは、日本は歴史戦などによる圧迫は毅然と突き放す一方、韓国国内の世論工作に取り組むことである。韓国と断交することを考えるのならば、私が以前より主張しているように、韓国国内で少数ながらも日本を信頼し、日韓友好が必要だと信じている人士を支援し、現状の打開を進めるほうがはるかに有益であると付言する。 韓国の保守勢力は、韓国の主要機関に巣食う従北派をどのように駆除していくかを考えている。彼らは韓国が戦後発展できたのは、日米と共に自由主義陣営の一員として生きてきたからだと知っている。  これまで世界の警察として君臨してきたアメリカは、その役目を終えた。これに代わって世界を主導できるのは、世界第三位の経済力を有する日本にほかならない。かつて有色人種を支配し、不死の半神と思われた白人をアジアから駆逐し、世界に独立の光を差し込んだ光輝ある日本人の精神をいまこそ再起させることが、緊張感を増す東アジアの安定のため必要な喫緊の課題だと考えるのである。関連記事■ 共産党スパイ五万人の恐怖■ 呉善花 「反日韓国」の苦悩 ■ 【危ない!韓国】日韓合意というデタラメ

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    少女像をご本尊と崇める韓国「慰安婦信仰」の実態

    竹嶋渉(元在韓ジャーナリスト) 昨年末、釜山の日本領事館の前に、「いわゆる『従軍慰安婦』女性を模した少女像」(以下、「少女像」と呼ぶ)が設置され、この像が日韓間の新たな外交的懸案として急浮上している。この少女像はソウルの日本大使館の前にも設置され、その撤去をめぐって昨年来から日韓間で問題になってきたのは周知のとおりである。 実は、同種の少女像は日本大使館や領事館の前だけではなく、韓国全土に50基以上も設置され、アメリカ・カナダ・オーストラリア・中国などにも設置されている。韓国国外で設置された少女像は、現地日本人との間に少なからぬ反発を呼び起こしてもいる。しかし、将来に向けてさらに数多くの少女像が設置される見込みである。日本総領事館前の慰安婦像=韓国・釜山、2015年12月10日 なぜ、日本の大使館や領事館の前に少女像が設置され、また、なぜ韓国の国内外で少女像がどんどん増殖しているのか。ここでは便宜上、ソウルの日本大使館と釜山の日本領事館の前に設置された少女像のみを考察の対象とする。日本大使館の前に設置された少女像は、2011年12月、慰安婦女性の支援団体である「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が、毎週水曜日に日本大使館前で行っている「水曜デモ」が1000回に達したのを記念し、無許可で設置したものである。 その後、韓国の国内外で少女像の設置が相次ぎ、この流れを受ける形で釜山の日本領事館の前にも少女像が設置されるに至る。釜山の少女像は昨年12月28日、釜山の大学生・市民団体によってやはり無許可で設置されたものである。当初、この少女像は当局により撤去されたが、市民からの抗議に屈する形で30日に設置を認めている。設置を強行した市民団体は「日本政府と日本人の反省を促すためにやった」などと主張しているようだが、日本人にとっては日本に対する嫌がらせやストーカー行為としか思えないだろう。 少女像をめぐる一連の事態を理解するためには、「従軍慰安婦」に対する韓国人の「信仰」を理解する必要がある。現在、韓国で慰安婦像の設置運動を行っているのは、主に元「従軍慰安婦」を支援する市民団体・学生団体である。慰安婦問題が顕在化したのは90年代の初めだが、四半世紀が経過した今、元慰安婦女性は神格化され、慰安婦支援運動は宗教の次元に近くなっている。絶対に風化させないための少女像 元慰安婦女性の意思とは関係なく、彼女らは抗日民族運動の象徴となり、韓国内では、その言動を批判したり、支援団体の主張に反する言動を取ったりすることはご法度になっている。韓国内では「小学生(国民学校生)まで慰安婦として動員された」「朝鮮人従軍慰安婦は20万人いた」「軍による慰安婦狩りがあった」などという真偽のほども定かではない言説が堂々と語られているが、これらの言説を公の場で批判するのははばかられる雰囲気である。また、慰安婦支援団体および一部元慰安婦女性の意に沿わないことを著書(『帝国の慰安婦』)に書いたという理由で、世宗大学校の朴裕河教授が刑事告訴され、民事訴訟まで起こされたのは、その好例と言えるだろう。 しかし、今や生存している元慰安婦女性も残り少なくなっている。さらに、昨年の日韓合意に基づき設立された財団(「和解・癒やし財団」)から、日本政府による拠出金を受け取った元慰安婦女性も相当数にのぼっている(このことについては韓国ではほとんど報じられていない)。日韓両政府が合意を交わしてから1年、合意に反対する集会で 少女像に自分のマフラーを巻く女性 =2016年12月28日、ソウルの日本大使館前 もし、元慰安婦女性がすべて他界してしまったり、全員が日本政府からの拠出金を受け取ったりしてしまったら、支援運動のよりどころがなくなってしまう。そうなると慰安婦問題は風化してしまい、支持者の支援もなくなり、韓国国民一般の関心も薄れてしまう。それを防ぐためには、絶対に風化しない、よりどころが必要となる。それが「少女像」なのである。 このことは仏教における仏像に置き換えると、理解しやすい。仏像は釈迦の生存時や入滅当初には作られなかった。しかし、入滅後には仏教の教理を民衆に広めるという必要に迫られ、仏像はアジア各地で作られていくことになる。少女像もこれと同様である。お気づきの方も多いと思うが、少女像の画像や動画を見ていると、支援者たちは像にマフラーを巻きつけたり、帽子をかぶせたり、傘を差しかけたり、はなはだしくは使い捨てカイロを貼り付けたりしている。お地蔵様によだれ掛けや頭巾をかぶせたりするのと似たような趣向である。少女像が単なるオブジェならば、こうしたことは行わないはずである。少女像が元慰安婦女性に代わる、老化も他界もしない「ご本尊」としての役割を果たしていることのあらわれである。 この少女像であるが、ソウルでも釜山でも公道上にこうした銅像を建てるのは法律違反である。また、日本政府が繰り返し主張しているように外国公館の尊厳を定めたウィーン条約にも明らかに違反している。慰安婦像はそうした条約や法律を超越した、神聖にして犯すべからざる存在なのである。これに異論をさしはさむ輩は「異端者」「背教者」である。少女像はすでに宗教的な高みに 一般の宗教でもそうであるが、信仰に熱心な信者は自分が特に篤い「信仰」の所有者であることを周囲に示そうとするものである。日本ではあまり知られていないが、一昨年の8月12日には一人の市民運動家が「従軍慰安婦」をめぐる日本政府の対応に抗議して、ソウルの少女像の前で揮発油をかぶって火をつけるという事件が起こった。日本ではこうした行為を「焼身自殺」と呼ぶが、これは適切ではない。焼身自殺は死ぬのが目的であるが、これは抗議活動の一種であり、韓国では「焚身(自分の体を燃やす、という意味)」と呼ぶ。この男性は9日後に死亡しているが、韓国のマスコミはこの男性について、まるで抗日運動に殉じた志士のごとく報じていた。遺体が安置された病院には遺影が飾られた祭壇と記帳所が設けられ、遺体は男性の居住地まで運ばれ「民主市民葬」なる葬礼が挙行されている。こうした「殉教者」の出現からも、少女像がすでに宗教的な高みに押し上げられていることが理解できるだろう。日韓両政府が合意を交わしてから1年、合意に反対する集会に 登場した大型の少女像=12月28日、ソウルの日本大使館前 日本の一部識者は、未だに少女像の問題を日韓間の問題と捉えているようであるが、すでに事態は日韓政府の話し合いで済む次元の状況ではない。少女像の問題はすでに韓国の国内問題、それも思想信条(信仰)の問題となり、これに政治的な思惑も絡んでさらに解決困難なものとなっている。 日韓合意の1周年目に日本大使館の前で開かれた抗議集会には、朴元淳・ソウル市長や秋美愛・「共に民主党」代表が参加した。これは何を意味しているのだろうか。言うまでもなく朴市長や秋代表は、朴槿恵大統領と対立する野党系の指導者である。また、朴市長は次期大統領の有力候補でもある。この二人にしてみれば、朴槿恵政権が日本との間で合意した取り決めは日本に対する屈服であり、元慰安婦女性を10億円で売り渡した国辱でしかない。朴市長にしても、秋代表にしても日韓間で慰安婦問題をどう円満に解決するか、などといった腹案など何もないのだが、とりあえず日韓合意をネタに朴大統領を非難していれば、世論を味方につけることができ、自らの政治的立地も強化され、ひいては大統領選挙に出馬する自分や自党の候補に有利に働く、といった計算が働いているのである。朴市長や秋代表だけではない。前回の大統領選挙で朴大統領に敗れた文在寅氏や、後先考えない毒舌で「韓国のトランプ」などと呼ばれている李在明・城南市長も日韓合意を非難し、これを反故にすると公言してはばからない。朴槿恵大統領でさえ反日と批判 問題をさらに複雑にしているのが、韓国政府の無能ぶりと最近の反政権運動にともなう朴槿恵政権の凋落である。韓国政府は世論を意識するあまり、日韓合意から1年が過ぎても少女像については何ら有効な手を打つことができなかった。さらに朴槿恵大統領は自身の側近のスキャンダルにより、国会の弾劾決議を受け、現在は職務停止状態である。 日本では朴大統領は最悪の反日大統領と思われているようであるが、実は韓国ではそうではない。朴政権に反対する野党や左派勢力(自称「民主化勢力」)は何と「朴大統領は親日派である」と主張している。実際に朴大統領が親日的な政策を行ったことなどないのだが、父親が日本軍の将校出身であったことと、朴槿恵政権が今回の日韓合意を主導したため、そうした非難を行っている。そうすることによって自らを反日愛国の闘士としてアピールできるからである。ちなみに韓国において「親日派」は「売国奴」と同義である。朴大統領が完全に指導力を失い、「売国奴」呼ばわりされている現状では、韓国政府に問題の解決を期待するのは難しい。 日本政府は釜山の少女像設置に対して4項目の対抗措置(大使・領事の一時帰国、日韓通貨スワップ協定協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期、釜山領事館職員による釜山市関連行事への参加見合わせ)を発表しているが、どこまで効果があるのかは未知数である。韓国・釜山の日本総領事館前に設置された少女像に 黙とうする女性たち=2017年1月6日 ちなみに、釜山の領事館前に少女像を設置した市民団体は毎週水曜日に「水曜集会」という名の「記者会見」を行う、と主張している。これは、警察が領事館前のデモの届け出を受理しないための方便であるが、今後、ソウルの日本大使館前でのように「水曜集会」が恒例化する恐れは多分にある。釜山の総領事館関係者によると、1月11日には「水曜集会」こそなかったものの、学生たちが自主的に集まっていたそうである。 前でも述べたように、従軍慰安婦支援運動はすでに「信仰」の次元にまで昇華され、少女像はその「ご本尊」である。さらには、この少女像が朴槿恵打倒を掲げる反政権運動や、次期政権を狙う大統領志望者らによって政治的に利用されているという事情もある。そして、一方の当事者でもある韓国政府は無能無策である。このような状況下では、少女像をめぐる日韓間の対立が早急に解消されることは望めず、今後も相当な長期間にわたって続くだろうと予測される。また、これ以上、日本側から何らかの打開策や譲歩を示したとしても、少女像が撤去されることはないだろう。日本政府は問題が長期化することを覚悟し、安易な妥協をなさず、これ以上公館の前で少女像が増殖しないよう、断固とした姿勢で臨んでゆくべきだろう。

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    なぜ韓国人は「慰安婦像」をむやみに設置したがるのか

    山岡鉄秀(AJCN代表) 日韓合意直後の2016年2月7日、私は「未来に禍根を残すな! 慰安婦日韓合意国民大集会」(頑張れ日本! 全国行動委員会主催)で登壇し、下記のようにスピーチした。1年前のことだ。 現時点で政府の見解は、「今は韓国政府のご苦労を見守るのが正しい姿勢」とのことですが、我々AJCNの見解は異なります。様子見期間は終了しました。ここからは、明確なゴールを設定して、そこへ向けて誘導すべきです。さて、韓国は今、何を考えているでしょうか。我々の経験を踏まえれば、次のように考えていていることが推察できます。・民間の反日活動を放置し、日本が如何に酷い国かを世界にアピール・無条件で10億円を払うのが当然だという国際世論を醸成・マスコミ誘導、ロビーイング強化・大使館前の慰安婦像は民間が設置したので政府には何もできないのに、日本政府は撤去が10億円拠出の条件であるかのような理不尽なことを言うので活動家の説得に失敗したと主張・日本政府が10億円払えばしめたもので、韓国側の約束は履行せず、民間の反日活動を放置して合意を骨抜きにする。ユネスコにも民間主導で申請・これまで通り、裏から民間の反日活動を支援 周知の通り、結果は我々の予想通りだ。釜山の日本総領事館前に新たに建てられた慰安婦像に多くの国民が心底怒っているが、いかにも韓国人がやりそうなことだ。我々は一介の市民団体に過ぎないが、多民族国家の豪州で生の韓国人と隣り合わせに生活しているから、赤裸々な現実を見据えて活動している。夢見るお花畑ではない。韓国・釜山の日本総領事館近くの公園で慰安婦像の撤去に抗議する人たち=2016年12月28日(共同) 「さっさと10億円を払って、道徳的に優位に立つ外交をすればよい」と主張した人々がいたが、道徳心がない相手にどうやって道徳的に優位に立つと言うのか。日本人の価値観や規範を前提に外交ができるとでも思っているのか。 10億円もらったら「これでもう何をやっても構わない」と考え、「何度も日本人を騙す我々は戦略性に優れている」と誇りに思うのが韓国人だ。騙される方が悪い、嘘をつくのが当たり前の社会だから、ヘルコリアなのだ。 今回はウイーン条約違反に言及したが、なぜ最初から言及して、ソウルの日本大使館前の慰安婦像撤去を条件にしなかったのか。「民間がやったことだから致し方ない」と韓国政府を擁護したうえ、10億円払って朴大統領を応援しようと宣(のたま)った元駐韓全権大使がいた。10億円もらったら「努力すると言っただけで、撤去するとは約束していない」と言って逃げるに決まっているではないか。良心の呵責を感じるとでも思ったのなら驚嘆すべきナイーブさだ。慰安婦像設置阻止も撤去もできなかったのも無理はない。 それでも、世界から見たら、金をもらってから新たに慰安婦像を建てさせるのは明らかに韓国政府の不誠実に映るから、日本政府は10億円のはした金でまんまと韓国を追いつめた、ボールは相手のコートにある、と主張する方々もいる。亡国プロパガンダを歴史的事実にした日本政府 何度でも言うが、日本は2015年12月28日、日韓合意の発表と同時に歴史的大敗北を喫しているのだ。2016年12月30日、ソウルの日本大使館前の慰安婦像(右)付近で、イベントに参加する学生ら(共同)「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する」 この英訳がまた酷いことは、ジャーナリストの有本香氏と対談した動画を参照いただきたいが、日韓合意とは「慰安婦20万人強制連行と性奴隷化」という朝日新聞と吉田清治のペアが世界中にまき散らした亡国プロパガンダを、日本政府が自ら歴史的事実として確証した、まさに歴史的瞬間だったのだ。この大失態の前には河野談話も吹き飛んでしまう。 私は昨年、ABC(豪州国営放送)、BBC、ロイターといった国際メディアからインタビューを受けた。どのメディアも我々の主張をかなり引用していた。それはこちらが英語で相手が理解しやすいロジックを発信しているからだが、残念ながら、全ての報道は「性奴隷20万人は日本政府が公式に認め、謝罪し、賠償金を払った歴史的事実」として伝えた。あのような声明を出したらそう解釈されるのは当たり前だ。その自明の理が理解できないのは日本政府だけだ。もし、外務省幹部がわざとやったのなら、安倍首相はまんまと罠にはめられたことになる。 日韓合意を米政府が高く評価したから、少なくとも政治外交的には成功だったと評価する方々もいるが、それは対米追従の悲哀を自ら肯定しているだけだ。米国の圧力で実現した日韓合意のシナリオは、もちろん米国人が書いている。米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)のスーザン・ライスが主導したと聞いている。 米国人は、日本の慰安婦制度は性奴隷制度だったと信じているから、その前提でシナリオを書き、それを日本政府が素直に飲んでくれたら上機嫌なのは当たり前だ。日本の名誉がどんなに損なわれても、米国政府は痛くもかゆくもない。日本が真の独立国ならば、まずは米国政府と膝を詰めて議論して双方が納得いくシナリオを練らなくてはならない。ただ与えられたものを咥え、頭を撫でられても、それは政治外交的勝利とは程遠い。 すでに元慰安婦のお婆さんたちの過半数がお金を受け取ったから、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)の力が衰え、反日が収束に向かうと考えたら大間違いだ。韓国の異常な反日洗脳教育はエスカレートするばかりだからだ。韓国内外で激しさを増す異様な反日教育 2013年にソウル市内の公園で発生した、「日韓併合は悪くなかった」と言った95歳の老人を38歳の男が老人の杖を奪って撲殺するという凄惨な事件を覚えておられる方もいるだろう。この男に下った判決はたったの懲役5年だが、韓国では重刑と捉えられ、ネットには男を英雄と賞賛するコメントが溢れている。 年を経るごとに、この異様な反日教育は韓国内外で激しさを増し、今や韓国内外で挺対協の先兵となって慰安婦像設置など反日活動を率先しているのは学生らの若い世代だ。彼らは日韓併合時代はおろか、朴正煕の時代さえ知らない、純粋な洗脳世代だ。韓国南部の釜山市中心部にある日本総領事館前に座り、1人でデモをする女性=2016年1月(聯合=共同) そして私が特に強調したいのは、幼い子供たちほど、特定の民族に憎悪を煽る教育に感化されやすく、純粋な正義感から攻撃的な行動に駆られやすい、ということだ。北米では韓国人子女が、「日本人は悪辣な民族だ、韓国人を殺して苦しめた」と叫んで日本人子女に唾を吐きかけたり、集団で囲んで謝罪を要求し、泣き出すまで追いつめるといった事態が発生している。 YouTubeには、韓国系米国人生徒が製作した「日本軍慰安婦強制連行劇」が投稿されている。学内コンテストに参加した作品だそうだが、逃亡を企てた韓国人慰安婦が日本兵に刺殺され血が溢れるシーンで終わっている。昨年9月には、事態を憂慮した日本人母親グループが安倍首相に嘆願書を提出した。よほどの懸念がなければしないことだ。 シドニーではこんなことがあった。日本人の母親が幼い娘を連れて韓国人が経営する日本食レストランに入った。韓国人のウエイターが子供に出した水をストローで飲むなり、娘が「熱い!」と叫んで泣き出した。出されたのは水ではなく、熱湯だったのだ。 娘は喉を火傷した。慌てた母親が「水をくれ」と頼んだが、韓国人従業員たちは黙って顔を見合わせるばかりで対応しない。やっとしぶしぶ水を出すのに5分以上も経っていた。こんなことは、慰安婦像騒ぎが起こる前は聞いたことがなかった。この母親は、韓国の異常な反日が身近に迫ったことを悟って恐怖を感じたという。 おわかりだろうか。慰安婦問題は、「日本の名誉、英霊の名誉の棄損」といった次元を通り越して、異常な反日教育によって洗脳された若い世代による日系住民への直接的攻撃の局面に入っているのだ。日韓合意は、異様な反日教育にお墨付きを与え、「将来の世代に謝罪の重荷を背負わせない」どころか「今を生きる日本の子供たちに、文字通り煮え湯を飲ませている」のだ。慰安婦問題を焚き付ける「本当の敵」 この尋常ならざる事態にどう対応するか、AJCNの意見を申し述べておく。 まず、駐韓大使の帰国や通貨スワップの協議停止などの制裁措置は、絶対にこちらから緩めてはいけない。繰り返すが、日本は完全になめられている。強きに媚び、弱気をくじくのが韓国の伝統的民族性だ。釜山とソウルの慰安婦像が撤去されるまで、事実上国交断絶でも構わない。韓国が折れて謝罪し、行動で示すまで、絶対にこちらから歩み寄ってはいけない。「条約も守れない国家と協業することは不可能」と宣言してよい。こちらは何も困らない。韓国・釜山での慰安婦像設置を受け、帰国した長嶺安政駐韓大使=1月9日午後、東京・羽田空港(鈴木健児撮影) さらに、慰安婦問題を焚き付けているのは日米韓の離反を画策する北朝鮮直属の組織だとはっきり言った方がいい。韓国政府は北朝鮮の工作機関をコントロールする能力をとうに失っているから、自分では何も解決できないままに、新しい政権が一方的に破棄を通告してくる可能性が高い。その機会を捉え、韓国の「でたらめさ」を徹底的に世界に喧伝したうえで、本格的な歴史戦を開始する。 その時は政府が責任を持って、「慰安婦問題とは何だったのか」を明確かつ詳細に定義しなくてはならない。つまり、立論するということだ。明確な立論なくして反論しても無意味である。相手がどう思おうと、これが我々がまじめに研究して得た結論ですと宣言することから始めなくてはならない。ディベートの基本だ。 杉山晋輔審議官(当時)が国連で口頭で反論するだけでは甚だ不十分だ。外務省のホームページはお詫びと償いの言葉だけが溢れかえり、何の事実検証も記していない。それが日本の名誉の回復に全く役立たないことをいい加減に認めて、やり直すしかない。明確な立論をしないまま、第一次政権の時のように、安倍首相が単騎出動すれば、戦艦大和の水上特攻よろしく一方的な猛攻撃を受けてしまうのは当然だ。 私自身、多くの海外メディアから「慰安婦問題は、日本政府が正式に認め、謝罪して賠償金まで払ったのだから、もはや議論の余地がない。歴史的事実に関する像を建てても、日本人への人種差別には当たらないのではないか」という質問を多く受ける。私がカメラの前で言葉に詰まるのを期待するかのようだ。 しかし私は平然と答える。「安倍首相は安全保障などの重要事項を優先して合意を結びましたが、強制連行や性奴隷化を認めたわけではありません」。相手はたいてい「なるほど」と言って質問を変えてくるが、まず政府が明確な立論をしない限り、一民間人の議論には限界がある。将来の世代に煮え湯を飲ませたくないのなら、これを最後のチャンスと心得てしっかりやってもらいたい。さもなくば、日本人は軍隊を使って生理前の少女を拉致して性奴隷にした極悪民族として永遠に歴史に刻まれることになるだろう。まず邦人保護から着手せよ その一方で、外務省は海外での邦人保護を真剣に考えなくてはならない。外務省がまずしなくてはならないことは、慰安婦像をプロパガンダツールとする韓国の反日教育によって、海外で日系住民に対する差別やいじめが顕在化していることを認知し、政府として憂慮していることを公表することだ。慰安婦像が単なる記念碑ではなく、反日という政治目的を推進するためのツールであることを日本政府が公式に認めることが重要だ。 反日団体は「慰安婦像は二度とこのような悲劇が起こらないように祈念するための平和の像です」とうそぶいて同情を引きながら、公然と反日活動と反日教育を展開している。AJCNはこの動きに対抗して、昨年12月、豪州人権委員会に対し、日本人への偏見と差別を醸成する目的の慰安婦像を教会の駐車場からよりプライベートな場所へ移設することを求めて提訴した。民間の母親と父親がリスクを冒して戦っているのに、外務省が傍観するなら、日本はもはや国家の体を成していない。 もうひとつは、韓国という病んだ国家の崩壊に備えることだ。韓国は北朝鮮という白アリに食い荒らされた家屋と同じで、近い将来倒壊する可能性が高い。そもそも、韓国にはコアがない。なんでも強引に韓国発祥にしたがるウリジナル、整形手術の氾濫、海外への売春輸出と、どれを取っても劣等感と倫理の頽廃を反映している。 そしてこともあろうか、反日を唯一の民族を束ねる綱にしてしまった。歴史的事実など興味もない。北朝鮮に利用されているともわからず、これなら日本を叩けるという、被害者ファンタジー(恨タジー)に逃げ込み、狂奔している。 これはもう、社会学でいうところの「アノミー(無規範、無原則状態)」と言っても過言ではないだろう。来日した韓国人が駅のホームから人を突き落としたり、100以上の仏像を棄損するなどの常軌を逸した犯罪行為に走るのもアノミー発生の証左だ。 そのような暗い情念に取りつかれた民族は自ら溶解し、北朝鮮に取り込まれていってしまうだろう。そのプロセスには幾つものパターンが有り得るが、国際政治学者の藤井厳喜氏が指摘するように、大量の難民が日本に押し寄せる可能性がある。彼らは当たり前のような顔をして助けを求めてくるだろう。 ここで、海外の移民国家に長く暮らす者として明言しておくが、お人よしの日本人に大量の移民を制御する能力はない。これまでやってこれたのは、移民の数が人口比で圧倒的に少なかったからだ。 敵性国家からの移民なり、難民の人口が臨界点を越えて、参政権を持つようにでもなったら、「ここは自分たちの国だ」とばかりに傍若無人を始めるのは確実だ。一旦そこまで行ってしまったら、時計の針を戻すことは不可能で、ドイツ以上の壊滅的打撃を被るだろう。対馬海峡が日本の国防ラインになる日が遠からず来る。 日本という国も大分壊れてきたが、それ以上のスピードで世界秩序が音を立てて崩れていく。日本民族はこの難局を乗り越えることができるだろうか。今回の釜山慰安婦像への対処がその試金石となる。日本政府は、冷徹に現実を見据え、まずは邦人保護に着手して欲しい。日本の復活はそこから始まる。

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    韓国を信じたら、やっぱりこうなった

    どうして、いつもこうなるのか。韓国・釜山の日本総領事館前に新設された慰安婦像のことである。慰安婦問題をめぐる日韓合意からたった1年で約束は反故にされ、隣国を信じて10億円を拠出した日本側の「誠意」は、いとも簡単に踏みにじられた。いくらお人好しの日本人でも、さすがに今回ばかりは看過してはならない。

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    韓国外相はなぜ表に出て来ない! 文明国家の品位欠く「慰安婦暴走」

    西岡力(東京基督教大学教授) 親北左派団体が釜山総領事館前に新たに慰安婦像を設置したことを受け、わが国の政府は大使と総領事の帰国、スワップ協議などの中止を打ち出した。私はこの措置は今後の日韓友好関係のためになる大切な決断だと考える。 2015年12月の慰安婦合意では「韓国政府は、日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し、公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する(下線西岡)」と尹炳世外相が約束した。 しかし、韓国政府はソウル大使館前の慰安婦像を設置した挺身隊問題協議会(挺対協)と慰安婦像移転のための協議を一度も持っていない。その上、釜山の慰安婦像を不法に設置した左派団体に対しても事前に協議の申し入れをしていない。「関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する。」という約束を履行していないのだ。韓国南部の釜山市中心部にある日本総領事館前に座り、 1人でデモをする女性=2016年1月 釜山慰安婦像を設置したのは「未来世代が立てる少女像推進委員会」だ。同委員会の馬ヒジン代表は釜山大学航空宇宙学科3年の学生である。彼女は親北左派団体である「ウリギョレ(我が民族)ハナテギ(一つになる)釜山運動本部」の学生部代表として活動する中で、慰安婦問題を知って像設置運動を開始したと韓国紙とのインタビューで語っている。 また、推進委員会に加わっている団体の一つに「平和ナビ(蝶)」があるが、これは北朝鮮を支持して暴力革命を目指すとして解散させられた統合進歩党の青年部が母体となっている。ソウルの挺対協が北朝鮮と密接な関係を持っていることは関係者周知の事実だ。 だから、韓国政府がソウルや釜山の慰安婦像設置団体に移転のための協議を申し込んでも拒否されるだけだろう。しかし、たとえばサードミサイル配備決定に当たっては黃教安首相(現在の大統領権限代行)が予定地である星州まで足を運んで反対運動を続ける住民に説明を行ない、反対派住民3000人に取り囲まれて6時間監禁された。そのような努力を慰安婦合意の当事者である尹炳世外相は一切行わず表に出てこない。 安倍政権は、日本は合意を忠実に実行している、次は韓国の番だと主張している。先に見たように合意で韓国は慰安婦像の移転を約束してはいない。約束したのはウィーン条約違反である外交施設(大使館、総領事館など)前の慰安婦像の移転のため「関連団体との協議を行う等を通じた努力」だ。 なぜ、尹外相は釜山に行ってウィーン条約を説明して韓国が国際的に通じる当たり前の国になるためには条約を守る、すなわち慰安婦像を外交施設の周囲には立てないことを守る必要があると説得しないのか。ウィーン条約履行は大統領弾劾とはまったく関係ない外交問題であり、朴槿恵政権の発足以来外相の地位をずっと守っている尹外相こそ責任者として関係団体と会うべきなのだ。韓国の保守系新聞は自国批判も その努力があれば、たとえ釜山市が中央政府の方針に違反する決定を行っても、日本政府は韓国国内法の手続きを待つ余裕はあるはずだ。沖縄の米軍海兵隊基地移転問題でも日本政府と沖縄県の立場が対立し、日本は米国に対して行った約束を果たせないまま時が過ぎている。それでも中央政府が毅然として外交約束を守る姿勢を堅持しているから日米関係は悪化しない。 安倍政権は少なくとも尹炳世外相が釜山に行って関係団体と協議するまでは、今回の措置を続けるべきだ。今回の措置の結果、左派新聞は加害者である日本が被害者である韓国を圧迫するのは許せないと安倍非難一辺倒だ。たとえば左派系の京郷新聞は1月9日社説「誰が歴史の加害者安倍が大きな声を出せるようにしたのか」で「力のない隣のうちの妻子を連行して悪いことをおこなってからまとまったカネを握らせて『口を開いたらひどいぞ』と脅迫するやくざと変わるところがない」と安倍首相を誹謗している。破られているのが見つかった慰安婦像付近の横断幕=1月6日、韓国・釜山 しかし、保守系の朝鮮日報と東亜日報は安倍批判をしながらも社説でウィーン条約を紹介して韓国側にも非があることを伝えはじめた。朝鮮日報1月10日社説「日本の『慰安婦像』攻勢、危険だ」では全体としては日本批判をしながらも「外国の忌避施設をその国の公館の前に設置することに対する疑問は韓国内にもある。 国際協約は『相手国の公館の安寧と品位を守る責務』を規定している」、東亜日報1月10日社説「日本安倍の『慰安婦暴走』…黃代行は外交リーダーシップを発揮せよ」もやはり日韓合意とウィーン条約に言及してこう書いた。「日本大使館前の少女像に対して『関連団体との協議を通じて適切に解決するように努力する』と明らかにした韓国政府はその後、どのような努力をしたのか振り返る必要がある。ウィーン条約第22条は『相手国の公館の安寧と品位を守る責務』を規定していて、大使館と総領事館の前の少女像設置が論難の余地があるのも事実だ」。 そして、在野の保守団体である国民行動本部は「少女像をめぐる韓日関係悪化を憂慮する」という声明を出して「釜山の日本総領事館の前に『慰安婦少女像』を再設置したことは韓日間合意精神に背くだけでなく何よりも不法行為だ。文明国家としての国の格を守るためにも法の通りしなければならない。 政府は『慰安婦少女像』を撤去して韓米日同盟関係を修復しなければならない」と主張した。 日本が自己主張をすることで韓国人にウィーン条約を破っている自国の在り方がおかしいのではないかと考えさせる契機を与えることになる。真の日韓友好は健全な相互批判の上にしかないと強調したい。

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    慰安婦「少女像」を作り続ける夫婦の意図とその協力者

     朴槿恵スキャンダルで、2015年末の日韓「慰安婦合意」に暗雲が立ち込めている。日本大使館前に建てられた元慰安婦のモニュメント「少女像」の撤去を巡る問題も、店晒しのまま。それどころか、目下、この少女像が次々と“他国へ輸出”されようとしているのだ。ジャーナリスト・織田重明氏がレポートする。 * * * 慰安婦問題における日韓の捻れを象徴するようになった少女像を作り続け、韓国の市民団体の間で英雄視されるキム・ウンソン、ソギョン夫婦が慰安婦問題と関わるようになった経緯について、夫のキム・ウンソン氏は、韓国のニュースサイト「オーマイニュース」のインタビューにこう答えている(2016年11月7日)。 「2011年1月に、日本大使館の前を通り、水曜集会(毎週水曜日に行われる抗議活動)を見て驚いたのです。『こんな集会を今までやっていたのか』と思った瞬間に、とても申し訳ない気持ちになりました。日本大使館前に置かれた慰安婦像 すでに水曜集会が始まるようになって20年ですが、未だにこの問題は解決されていませんでした。申し訳ない気持ちで挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)を訪ね、『私たちができることがありませんか。すまないという気持ちを減らしたいと思っています』と話したのです」 自ら協力を申し出てきた夫妻に、当初、挺対協は日本大使館前に設置する記念碑の制作を提案した。 夫婦が石碑に文字を刻もうと、デザインを考案したところ、「大使館の前に石碑を建ててはいけない」と日本側から圧力がかかった。 反発した夫妻は、再び挺対協を訪ね、あらためて別の計画を提案したとインタビュー記事にある。それが、文字を刻んだだけの石碑ではなく、より慰安婦の被害を強調できる彫像ではどうか、というものだった。 「そうすれば、日本に謝罪と反省をより強く求めることができる」(同) 2人の提案に、挺対協は喜んで、後押しを約束する。 当初の構想では元慰安婦のハルモニの像とする案もあったが、妻のキム・ソギョン氏は15歳前後の少女の姿にすることを決め、彼女たちは男性によって性暴力を受けたとの考えから、制作も妻が担当した。何も語らない製作者夫婦 かつて朝鮮半島で一般的だった三つ編みでなく、ざくざく短く切った髪型にしたのは、無理矢理連れ去られたことを表し、握りしめた手は一日も早く日本政府から謝罪を勝ち取るという気持ち、そして裸足は被害を受けた元慰安婦のハルモニたちの苦労をそれぞれ象徴しているという。 費用の拠出にはすべて挺対協が関わっている。挺対協をめぐっては、あまりにも鮮明な反日姿勢を掲げ頑なに日本政府に謝罪と賠償を要求してきた経緯から、韓国国内でも批判が少なくない。 2015年には元慰安婦からも、「当事者の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」と、その活動方針を批判されてきた。 そうした市民団体からの依頼と資金で少女像を制作し続けることは、本当に慰安婦問題の解決につながるのか。 筆者が取材した関係者によると、夫婦は今後、さらにカナダやオーストラリア、さらにブラジルに設置するための作品を制作中だという。さらに別の関係者からこんな驚くべき情報を得た。「釜山の日本総領事館前に少女像を設置する動きが進んでいて、設置予定日は12月28日。釜山向けの少女像は既に完成済みでやはり夫婦の手によるものです。日本外務省は韓国側に対して、設置に許可を出さないよう圧力をかけていますが、もはや政府が機能していないので予断を許しません」 12月28日とは、ちょうど日韓合意を発表した日である。その一年後に企画されたこの設置運動は、実行されれば暴挙と言うほかない。 工房を訪ねる直前、夫婦に電話で取材を申し込んだところ、当初は予定が空いていれば喜んで受けると言い、日程を確認して折り返すとしていた。しかし、しばらくすると「日本のメディアは歪曲報道をするので取材に応じられない」とメールで連絡してきた。 工房の前で二日間待っていたが、結局、夫婦は現れなかった。夜の帳が下りると、半島特有の厳しい寒さが身を襲う。慰安婦問題解決の道が再び閉ざされないよう願うばかりである。 関連記事 ■ 反日勢力の急先鋒 韓国挺身隊問題対策協議会はどんな団体か ■ 朴槿恵氏スキャンダルで日韓合意を認めぬ挺対協が勢いづく ■ 韓国反日団体 中国人の「反日」インターンシップ受け入れも ■ 最終かつ不可逆的な日韓合意がひっくり返されるか ■ 韓国の反日スレ「日本に爆弾テロする?」「お前通報シマス」

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    釜山の少女像設置、日本の厳しい世論を知らない韓国

    【韓国の「読み方」】澤田克己 (毎日新聞記者、前ソウル支局長) 韓国南東部・釜山にある日本総領事館前の歩道に昨年末、慰安婦を象徴する新たな少女像が設置された。日本政府は年が明けてから、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事を一時帰国させる対抗措置を発表した。大使と総領事を呼び戻すのは外交的にかなり強い措置であり、韓国側には戸惑いも感じられる。この問題を契機に改めて、慰安婦問題に関する2015年末の日韓合意について考えてみたい。釜山に設置された慰安婦少女像(鴨川一也撮影) 今回、外交問題に発展した契機が釜山の少女像設置にあるのは明白だろう。韓国ではそれまでも合意に対する反対論が主張されていたが、日韓両国の政府はそうした主張から距離を置いていたので外交問題になりようがなかった。もっとも、日本が対抗措置を取った後でも「合意堅持」という点においては日韓両政府とも見解が一致している。だから、新たな少女像の設置やそれに対する対抗措置発動をもって「合意が壊れた」というのは正しくない。問題になるのは「合意の精神」 日韓合意に入っているのはソウルの日本大使館前に建つ少女像についてである。韓国政府は合意で、「公館の安寧・威厳の維持の観点から(日本政府が)懸念していることを認知」したうえで、「適切に解決されるよう努力する」と表明した。日本が10億円を拠出する条件でもないし、韓国が解決を約束したわけでもない。ましてや、釜山の日本総領事館前に少女像が建てられないようにするなどとは言っていない。 ただし、大使館前の少女像に対する日本側の「懸念」を解消するよう努力すると表明しているのだから、新たな懸念材料を生じさせないようにするのは当然である。 ところが、総領事館の建つ釜山市東区は世論の反発を理由に「設置を許可しない」という方針を覆して黙認に転じ、韓国政府も事実上これを放置した。設置後に撤去されるべきだという政府による明確な意見表明も行われていない。朴槿恵大統領に対する弾劾訴追で国政が混乱しているというのは、対外的な理由にはなりえない。 もちろん民間団体が私有地に建てるのなら、政府はこれを止められない。合意は民間を縛るものではないから、そういった行為を問題視するのは難しい。米国やオーストラリアに住む韓国系住民の団体が建てる少女像についても同じことを言える。日本では、少女像と聞くとなんでもかんでも日韓合意と結びつける人もいるが、これは解釈の幅を広げ過ぎだ。 しかし、国際条約によって保護される大使館や総領事館といった外交公館前の公道への設置を黙認するという行為は、明らかにアウトである。本来なら合意があろうと、なかろうと問題があるのだが、わざわざソウルの少女像に言及した合意がある中での黙認だ。「他の公館前には少女像設置を許さない」と明示されているわけではなくても、「合意の精神」もしくは「趣旨」に反するとしか言えない。 だからこそ日本側で強い反発を呼んだのである。特に、大使館前の少女像撤去は簡単ではないと考えていた日本の専門家や政府関係者が受けたショックは大きかったように見える。韓国側の対応を見守るべきで、性急な要求をするのは逆効果にしかならないと説明する論拠を失ってしまったからだ。正直に言えば私も、釜山の少女像が結局建てられたというニュースを見た時には、失望というより強い脱力感を覚えた。日本側の対抗措置に韓国メディアが驚いた理由日本側の対抗措置に韓国メディアが驚いた理由 日本側の対抗措置は、大使らの一時帰国だけではない。日本政府は、金融危機時に通貨を融通しあう「通貨スワップ協定」再開に向けた協議の中断など、経済面での措置にも踏み込んだ。経済協力にまで影響を及ぼすことが適切かどうかは議論の分かれるところだが、韓国側に「日本の本気度」を伝える効果はあったように見える。 私見では、ソウルの少女像に対する日本国内の反感の強さは韓国側にきちんと認識されていない。私は昨年秋、来日した韓国メディアの記者たち(主として政治・外交担当)との意見交換会で、日本の世論は少女像問題に極めて強い関心を持っていることを認識しておいた方がいいと伝えたのだが、韓国人記者たちはピンとこないようだった。 日本側の対抗措置に韓国メディアが驚いた理由の一端は、ここにありそうだ。日本側の関心をきちんとフォローしていないから、「なんでこんなに激しい反発が出るんだ?」と驚いた。だから、「(対露外交など)安倍首相の相次ぐ外交失敗に失望した右翼保守層を結集させ、国内の支持基盤を固めようという意図が見える」(聯合ニュース)、「トランプ政権の発足前に韓国が外交合意に違反しているという主張をして、韓米関係を引き離そうとする動き」(ニュース専門テレビ・YTN)、「韓国の国政空白と米国の政権交代という時期をにらんだ日本の奇襲」(朝鮮日報)などという解釈が堂々と語られるのである。 もちろん安倍政権の支持層に向けたアピールという面はあるだろう。だが、それは最初から日韓合意に不満を持っている人たちに「韓国のやりたい放題にさせるわけではない」というポーズを見せるためと考える方が自然だ。 いたいけな少女をモチーフにした像は感情に強く訴える力を持つ。それは韓国世論に対してだけではない。日本世論を考えても、全く逆のベクトルではあるものの極めて強いインパクトを持つようになっている。韓国側がそのことをもっときちんと認識していれば別の展開があったろうと思われるが、現実はそうならなかった。非常に強い日本の対抗措置が、そのことを韓国側に考えてもらう契機になってくれればと思う。合意は日韓双方の歩み寄り合意は日韓双方の歩み寄り 日韓両国の外相が2015年12月28日にソウルの韓国外務省で発表した合意内容は次のようなものである。 すべての前提となる認識は、▽当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している▽安倍首相は、日本国内閣総理大臣として心からおわびと反省の気持ちを表明する——というものだ。 さらに両国の約束として、▽韓国政府が元慰安婦を支援するための財団を設立する▽日本政府が財団に10億円を拠出する▽国連など国際社会において相互非難をしない▽合意がきちんと履行されることを前提に、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する——ことが明示された。 日本は、慰安所の管理・運営に旧日本軍が関与していたことは認めている。そして、日韓両国間の請求権問題は1965年の国交正常化時に締結された請求権協定で法的には解決済みだが、女性の性的尊厳にかかわる慰安婦問題には「道義的責任」を免れないという立場を取ってきた。これに対して韓国側は、「日本政府や軍などの国家権力が関与した反人道的な不法行為」である慰安婦問題は協定で解決されたとはいえないと主張し、日本政府に「法的責任」を認めるよう要求してきた。 日韓合意で「日本政府は責任を痛感している」という表現になったのは、両国が一歩ずつ歩み寄った結果だ。日本にとっては、どうしても日本の立場が弱くなる国際社会での非難合戦を止められるというメリットも大きかった。当事者の7割が「合意に基づく事業」を受け入れ当事者の7割が「合意に基づく事業」を受け入れ 日韓合意に基づいて韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」は、元慰安婦の名誉と尊厳を回復し、心の傷を癒やす事業を行うとされた。具体的には、合意時点で生存していた元慰安婦46人に対して1億ウォン(約970万円)ずつ、死亡していた元慰安婦199人については遺族に2000万ウォン(約193万円)ずつの支給を進めている。 生存者は、7割を超える34人が受け取りの意思を表明した。昨年中に30人前後への支給が終わった。今年は、遺族への支給が行われることになっている。 合意に反対する人々は「日本の謝罪は心からのものではないし、当事者の意思を無視した」と批判している。韓国では「カネを受け取ったハルモニ(元慰安婦)はだまされたのだ」という主張まであるようだが、ここまで多くの対象者がだまされたと断じるのは無理がある。 一方で安倍首相に対しては、合意発表時に自らの口で謝罪の言葉を公にしなかったことや、おわびの手紙を書かないのかと国会で質問された際に「毛頭考えていない」という強い表現で否定したことへの批判がある。岸田外相が読み上げた「日本国内閣総理大臣としてのおわびと反省」を首相自らがテレビカメラの前で口にしていれば、韓国世論に対してだけでなく、米国をはじめとする国際社会への力強い発信になっていただろう。手紙についても前例を踏襲するかどうかという話なので、少なくともそれほど強い表現で拒絶する必要があったかは疑問だ。橋本龍太郎氏から小泉純一郎氏までの自民党の首相4人は、アジア女性基金を通じて元慰安婦たちに「おわびの手紙」を送っている。今回も、想定されたのは同じレベルの手紙だった。「当事者の納得する措置」を求めていた韓国「当事者の納得する措置」を求めていた韓国 なるべく多くの元慰安婦が存命のうちに問題解決を図りたいというのが日韓合意の出発点だったはずだ。いまや韓国では全否定の対象ではあるものの、朴大統領が「当事者の納得する措置が誠意ある措置だ」と繰り返していた時に異論をはさんだ運動団体や韓国メディアはなかった。それなのに、生存者の7割超が合意に基づく事業を受け入れたことを全く評価せず、ほとんど報道もしないというのは、どうしたことだろうか。 こうした事実をきちんと踏まえた上で、なお残る問題点について指摘するのが筋ではないか。日韓合意に否定的な韓国の有力政治家も同じことだ。当事者の多くが受け入れたことへの評価を明確にしないまま、再協議や破棄を主張するのは無理がある。 日韓合意は、1990年代初めに慰安婦問題が外交問題となってから初めての政府間合意だ。日本による一方的な措置だった河野談話発表やアジア女性基金が国際社会に広く知られることなく終わったのと違い、日韓合意は国際社会に広く発信され、米国や欧州諸国、国連など多くのアクターから歓迎された。それだけに両国とも現実には破棄など簡単ではないし、そんなことをしても得るものはない。破棄しようとしたり、蒸し返したりしようとすれば、かえって外交的なマイナス点を重ねるだけになりかねないだろう。筆者の新刊(2016年1月13日刊行予定)。礒﨑敦仁・慶応大准教授との共著で2010年に出版した「LIVE講義 北朝鮮入門」を全面改訂し、金正恩時代の北朝鮮像を描く。核・ミサイル開発などの最新データを収録。

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    韓国「反日」の現実 目の当たりにした反日教育の徹底ぶり

    【韓国自転車&テント旅1200キロ】(6回目)高野凌 (定年バックパッカー)地方を巡り普段着の韓国を探る・期間:2014年8月30日~10月2日・旅行費用:12万円反日歴史観の集中講座“深夜便” 9月13日 盈徳(ヨンドク)市付近の小さな漁村“オボリ”の東屋で寝袋を敷いて9時前に就寝。暖かかったこともあり降雨の心配もなかったのでテントを設営せず東屋の床に直接寝袋を広げた。海辺の東屋にテントを設営、東海岸の望洋の近く 熟睡していると突然男の大きな声で起こされた。すわ強盗かと飛び起きた。時計を見ると10時過ぎである。日本語で「こんなところでなんで寝ているんだ」と中年の男が言っている。どうも強盗ではないようなので安堵。夕刻近隣の老人たちから許可を得ている旨を説明。その老人の一人がこの男の母親であったらしい。外国人が東屋に泊まっているが日本人かアメリカ人らしいと男に言ったそうである。 寝ぼけ眼で起き上がると男は矢継ぎ早に質問してくる。日本から自転車で韓国一周のテント旅をしているという趣旨を告げると「日本人が一人で旅行するのは危険だ。そもそも日本人はそんな変なことをしないですよ」とかなり流暢な日本語でしゃべりまくる。 住居はどこかと問われ「東京」と回答すると「東京のどこか」と聞くので「実際には川崎市の北のほう」と答えると「川崎は“川向う”で裕仁は皇居を守るために多摩川の南側、すなわち神奈川県で連合軍を防ぐ考えだった。だから沖縄と同様に川崎の住民は裕仁の犠牲にされるところだった。裕仁はそうした人間だ」と異様な論法で天皇批判を始める。確かに多摩川の二子玉川の架橋は陸軍の戦車部隊が聖都防衛のため迅速に通過できるように橋脚が設計されていたと郷土資料館で読んだことがある。 その男、K氏は韓国の商社(どうも財閥系商社のS社ではないかと推測)の元東京駐在員で日本に7年住んでいたという。現在ソウル在住の51歳。偶々故郷の母親に会いに来て私に遭遇したわけである。日本語は相当な水準であり語彙も豊富である。日本のひと昔の猛烈サラリーマンを彷彿とさせるタイプだ。私が退職して何の後ろ盾もなく一人で個人旅行しているので気兼ねなく対日批判ができると思ったのか、K氏が長年にわたって培ってきたと思われる反日歴史観を滔々と披瀝する。ドイツはナチス時代を反省しているのに 日本は真剣に反省しない 眠いのでなんとか穏便に引き取ってもらおうと、なるべくK氏を刺激しないように曖昧に答えようと心がけるが、K氏は巧妙に逃げ場を塞ぎながら私から“日本人の歴史認識”を引き出そうとする。韓国の田舎の漁村の深夜の暗闇という“完全アウェイ”のグランドではゴール際に引いて守り一辺倒にならざるを得ない。 例えば「最近の安倍の言動をどう思うか」と聞かれて「あまりニュースに関心がないので」と逃げようとすると「あなたほどの知識人がニュースを見ていないわけがない。新聞くらい読んでいるでしょう? 産経新聞ですか?」と畳み込んでくる。産経新聞は韓国では右翼の代表と見なされているので地雷を踏まないように「いやいや読売ですよ」とうっかり答えてしまった。K氏は大喜びで「読売新聞とは貴方はやはり相当右寄りですね」と攻めてくる。そもそも一国の天皇や宰相を「裕仁」「安倍」と呼び捨てにすることに不快感を覚えるが我慢していると「日本人の悪いところは問題を直視しないことですよ」と説教してくる。国道7号線で出会った21歳のソウル大学3年生。将来のエリートだドイツはナチス時代を反省しているのに日本は真剣に反省しない 「大日本帝国官憲が朝鮮民衆を虐殺したという歴史的事実を誰も問題視しない。天皇陛下は神様ですべて正しい。その命令で行った官憲の行為も正しいと鵜呑みにする。これは日本が島国でありお互いが慣れ合いで誤魔化しあって権力者や政治家を批判しないという体質に由来するものですよ」と高飛車に断定する。ここで生半可に反論すると敵の罠に嵌まり込む恐れがある。こみあげてくる愛国心をじっと抑えて逃げ道を探すが適当な事例が浮かばない。当方が言いよどんでいると自分の論理に当方が降参したと思い込んで次から次へと一方的に論じたてる。 「本当は日本人も慰安婦問題なんて破廉恥な国家的犯罪を恥ずかしいと思っているんでしょう。日本政府が謝罪して賠償金を払えば韓国政府も韓国民衆も日本軍が行った世界史に例を見ない破廉恥な大罪を赦すと言っているんですよ。こんな寛大な提案を理解しようとしないのは安倍が狂信的軍国主義者で旧日本軍の間違いを認めたら大日本帝国軍隊を復活させる大儀がなくなると心配しているからです」 「例えば100億円くらい補償金を日本政府が出せばそれで赦されるんですよ。ナチスと同じように日本の軍隊が歴史的人道的犯罪を犯したのにたった100億円も出せば問題が解決できるんですよ。ドイツが戦後どれだけいろいろな名目で巨額の賠償金を支払ったことか。それに比べれば安いものですよ」 K氏の話しぶりから韓国の反日教育がいかに詳細にわたり徹底的に行われてきたか推し量られた。荒唐無稽な事例かつ無茶苦茶な論法であるが残念ながら反日歴史観を徹底的に学習している韓国人と議論するほどの確実な知識を持ち合わせていない。そもそも日本人に宗教心がないのは秀吉のせい?そもそも日本人に宗教心がないのは秀吉のせい? 「日本人は可哀想な民族ですね。歴史上常に近隣諸国に迷惑をかけてきたのに何も反省せずに自分たちだけが正しいと思い込んでいる。ドイツ人は少なくともキリスト教という宗教や哲学を持っているから客観的に歴史を反省できるのですよ。日本人は秀吉がキリスト教徒を大量処刑したくらいですからそもそも宗教心がないんですね。」とK氏の歴史講和はエンドレス。私が「キリスト教徒弾圧は徳川家光の時代からです」と指摘するとK氏は一瞬考えたが「まあ同じことですよ。」とにべもない。 私が黙って聞くだけで反論しないので張り合いをなくしたのか「貴方は疲れているようですから明日の朝は私の家に来てシャワーを浴びて、それから朝食を食べて下さい」と提案してきた。これで深夜の拷問から解放されると俄か喜びしてオファーを受諾。時刻は零時半を過ぎていた。朝から再び“従軍慰安婦問題”に 9月14日 なんとも寝苦しい夜を過ごして5時半に目覚める。K氏の母親の家まで自転車で5分ほど走り急坂を登る。シャワーを浴びてから老婆が用意した漬物、小魚の佃煮、ごはん、味噌汁(?)の粗末な朝飯を食べる。老婆は黙って息子と私を見ているが何も語らない。 食後に庭のベンチでネスカフェを啜っているとK氏は慰安婦問題を蒸し返して「少しのお金で日本は国際的な信用を得られるんですよ」と迫ってくる。深夜の暗闇ではないので当方も多少は精神的に余裕が出てきた。一方的かつ誤謬だらけの歴史認識を深夜に説教されて、ここで沈黙したまま帰ることは日本人としての誇りを汚されたままで引き下がることになる。自分の名誉のためにも率直に疑問点を質してみようと思った。 「賠償責任を議論する前に歴史的事実を日韓両国の専門家同士で確認することが必要だと思います。私は慰安婦問題についてあまり知識はありませんが二つだけ確実な歴史的事実があると理解しています。一つは韓国人の従軍慰安婦よりも日本人の従軍慰安婦のほうが多かったということ。日本も当時は貧しく貧乏な家の娘はお金を稼ぐために従軍慰安婦になったという事情があります。二つめは韓国人の慰安婦も日本人の慰安婦も売春業者から報酬を受け取っていたということです。無償の強制奴隷ではないということです。これは従軍慰安婦が当時アジア各地から郵便為替で朝鮮や日本の故郷の家に送金した郵便為替取扱の記録が残っています。この二つの事実関係についてどのように認識していますか?」見えない反日の壁 K氏は「二つとも初めて聞きました」と正直にすこしポカンとした表情で言った。K氏ほどの知識人でも慰安婦問題の根本的な事実関係や日韓両国の争点を知らないというのは韓国の反日歴史教育とマスコミ報道のお粗末さを示しているようで暗澹たる気持ちになった。 最近日本政府は海外の外交官が現地語で慰安婦問題などの複雑な問題をTVの公開討論番組で議論できる水準の語学力を身に着けさせるというプログラムを発表したが、今まで海外で特に韓国や中国や欧米等で敏感な政治問題について政府関係者はどれだけ有効な対外発信をやっていたのであろうか。 それとも私が挙げた従軍慰安婦に関する二つの論点を韓国政府は理解した上で、それでも韓国政府は日本に対して謝罪と賠償を要求しているのであろうか。見えない反日の壁 K氏と別れてから釜山上陸以来の出来事を振り返ってみた。「韓国は政治的には反日だが一般の人々は実は親日」というような解釈はどうも一面的で楽観的過ぎるように思った。確かに私が出会った人達はK氏を除けば非常に親切であったし日本に対して悪い感情は持っていなかったようだ。それどころか仰天するような“おもてなし”を何度も経験した。それゆえ私は韓国の普通の人々は意外に親日的であると楽観していた部分があった。 しかし、田舎町の食堂で店員になぜだか理由は不明であるが“よそよそしい対応”をされたことが二度あったことを思い出した。そもそも私が日本人と認識して積極的にアプローチしてきたり、親切に相手をしてくれる人は元から親日的な一部の韓国人だけではないか。日本人に対して警戒心や悪感情を持っている普通の韓国人は片言のハングルをしゃべっている外国人(中国人の個人旅行者はまずいないので日本人と容易に判別できる)は日本人であろうと判断して遠巻きに冷ややかに見ているのではないか。そう考えると見えない反日の壁が私を取り囲んでいるように感じた。国道7号線に並行する自転車専用道⇒第7回に続く

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    台湾・韓国・中国・日本「慰安婦サミット」に潜入した

     日本を貶める、歪曲された歴史が世界中に拡散され続けている。昨年12月、ついに親日国・台湾でも慰安婦博物館が開館した。オープニングセレモニーとして企画されたシンポジウムには、各国の反日的な慰安婦運動家たちが結集。その現場に西谷格氏が潜入した。* * * 12月だというのに、シャツ一枚で過ごせる心地よい気候。台北駅から20分ほど北に向かって歩くと薄茶色の古めかしい建物が見えてきた。12月10日に開館した、台湾初の慰安婦博物館「阿家(アマーの家=おばあちゃんの家)平和と女性人権館」だ。間口は5~6m程度と狭く、小ぢんまりとした印象だ。 開館翌日のこの日、「歴史から行動へ慰安婦博物館グローバルアクション、国際交流座談会」と題した記念シンポジウムが開かれ、台湾・韓国・中国・日本の4か国から、人権運動や慰安婦博物館の運営に携わる人々が一堂に会して、通訳を交えて報告を行うことになっていた。まさに“慰安婦サミット”である。 受付で氏名を伝え、イベント参加費200元(約700円)を払って施設内へ足を踏み入れた。 1階は洒落たカフェになっていて、その奥と2階部分が展示スペース。思ったより奥行きがあり、縦長の空間が広がっている。受付でもらったパンフレットによれば、建物は100年近く昔の日本統治時代に建てられたものだという。皮肉な因縁を感じつつ、2階の会場へと階段を上った。台湾初の慰安婦記念館に展示された台湾人元慰安婦らの写真 シンポジウムが始まると、教室一つ分ほどのイベントスペースに50人近い来場者が集まった。大半が女性で、日本人男性の私はいわば“加害者”の末裔。何とも言えない気まずさに、背中がむずがゆくなる。 博物館を運営する婦女救援基金会の康淑華執行長がマイクを握り、開会の挨拶を行った。 「私たち共通の目標は、日本政府に対して正式な謝罪と賠償を求めることです。たったこれだけのことが、いまだ何の成果も得られていないのです」と神妙な口調で語ると、マイクを韓国の代表者、申蕙秀氏(「慰安婦の声」ユネスコ記憶遺産計画責任者)に譲った。 「日本の安倍政権は慰安婦問題を解決する気がなく、国際機関からの勧告を徹底的に無視しています」 「彼らは、慰安婦たちが亡くなればこの問題も終わると思っているんです」 そう強い口調で日本を断罪し、2015年に慰安婦をユネスコ記憶遺産に登録申請した件についてこう語った。 「100年、200年後に慰安婦の歴史がどのように定義されるのか。そこで重要な役割を担う」 ユネスコ記憶遺産の申請については、「性奴隷」や「慰安婦20万人」といった主張に明確な裏付けはない。彼女たちの狙いが実現すれば、彼女たちこそが“歴史の改竄”に手を染めることになるのではないか。2015年は申請が却下されたが、「来年(2017年)こそ登録できるよう全力を尽くす」と語気を強めており、まったく諦めていない様子だ。関連記事■ 中国が提出の慰安婦関連史料 性奴隷説が誤りだと明確に示す■ 韓国の反日スレ「日本に爆弾テロする?」「お前通報シマス」■ 中国の働き掛けを受け韓国で「慰安婦記憶遺産登録論」が過熱■ 慰安婦 強制連行の事実はなく高給を得て帰国の自由もあった■ 慰安婦史料のユネスコ登録 オランダ加わればインパクト大に

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    「親切な店」から一転、市場ずし炎上を仕掛けた反日掲示板の正体

    竹嶋渉(元在韓ジャーナリスト) 現在、韓国では、大阪は「嫌韓感情が渦巻く危険な都市」ということになっている。嫌韓感情に駆られた日本人が韓国人に嫌がらせや暴行を繰り返しているというのである。ネットメディアや大手マスコミが連日そうした報道を行っているのであるが、その発端となったのは、「わさびテロ」と呼ばれる事件である。外国人客にわさび増量のすしを提供していた「市場ずし難波店」=大阪市中央区 この事件の顛末は割合と単純である。9月中旬、大阪ミナミのすし店「市場ずし難波店」で韓国人観光客にわさびを大量に入れた寿司を出していたことが、韓国のネット上で話題となった。わさび増量の寿司を出されたという韓国人客がネットの掲示板に「わさびテロだ」「韓国人差別だ」「民族差別的な発言をされた」と書き込み、これが日本のネットに波及する形で炎上、同店を経営する藤井食品(大阪・茨木市)が謝罪に追い込まれた、というのが大まかな経緯である。 すでに事件は一段落しているのであるが、その一方で明らかになっていないこと、首をかしげたくなるようなことも多い。まず、実際に「市場ずし」の従業員が韓国人客にわさびをこってり塗り付けた寿司を出すような嫌がらせをしたのか、という点である。藤井食品はホームページ上で「謝罪」はしているものの、「わさびテロ」や「韓国人差別」に対して謝罪しているわけではない。 掲載された「謝罪文」を要約すると、「海外から来たお役様がガリやわさびの増量を求めるため、事前確認なしにサービスとして提供した」と述べた上で、「わさびなどが苦手なお客様に不愉快な思いをさせる結果となってしまった」ことについて謝罪しているのである。また、「民族差別的な発言に関しては、そのような事実は確認できなかった」としている。実際にわさびの増量を求めていた外国人客がいたことは事実なようで、これがわさびの増量を嫌う韓国客に「嫌がらせ」と認識された可能性はある。韓国料理が非常に辛いため、韓国人は辛さに強いと思われがちだが、実は韓国人が強いのは唐辛子の辛さだけで、わさびやカレーの辛さには弱いのである。その証拠に韓国の練りわさびやカレーはまったく辛くない。「親切でおいしい店」として韓国で有名だった市場ずし ところが、韓国ではそうした可能性がまったく考慮されることもなく、真偽不明の報道がなされ、炎上がエスカレート。10月4日には大手日刊紙・朝鮮日報が「『市場ずし』が韓国人の客だけにわさびを大量に入れていた」「従業員同士が韓国人を指す蔑称を言いながら嘲笑していた」などと報じたが、何とネタ元はネット上の書き込み。さらに、道頓堀で韓国人観光客が暴行を受けたとか、南海電鉄が外国人に差別的な車内放送を行っていたとか、阪急バスがバスのチケットの氏名欄に韓国人を侮蔑する表現を書き込んだとかいう類似の事例も「韓国人差別」「外国人差別」として報道され、結局のところ、現在は「大阪は嫌韓感情が激しくて危険だ」「大阪への旅行は避けるべきだ」という論調が大勢になっている。 ここまでが、日本でもある程度知られている顛末。しかし、その奥はさらに深い。問題の「わさびテロ」の書き込みは韓国のポータルサイト「NAVER」の旅行掲示板(正確には「日本旅行同好会」というカテゴリー)に書き込まれたもの、というのが日本での「定説」になっている。それは事実であるが、実は書き込みが行われたのは今年の5月なのである。また、書き込みが行われた当時には、まったく問題にはならなかった。書き込みが行われた後にも、「市場ずし」は韓国人に評判のいい店で通っていたし、「親切だった」という書き込みも多かったのである。そもそも「市場ずし」が今回、韓国で騒がれたのは、この店がそれなりに「親切でおいしい店」として韓国で有名だったからである。 「わさびテロ」が本格的に話題になったのは「イルベ」(正式名称は「日刊ベスト貯蔵所」)というネット掲示板で、この書き込みが大々的に取り上げられてからである。「ネット掲示板」は日本の「2ちゃんねる」のような電子掲示板であるが、韓国のネット空間ではこうした「ネット掲示板」が大手ポータルサイトとともに大きな影響力を持っている。「イルベ」は韓国人ネトウヨが多く集う「極右掲示板」として知られ、ネット上でもリアル空間でも様々な物議を醸したことでも有名である。この掲示板は「極右」でありながら、反日の度合いはあまり高くないという点が特異だったが、最近、管理者が交代したことによって反日性が強くなり、「わさびテロ」のような話題が炎上する下地ができあがっていた。こうしたネット上のネタは過去のものでも、取り上げ方次第では「祭り(インターネットの掲示板で、特定の事象が激しく攻撃され、盛り上がること)」になりやすい。実際に「わさびテロ」や「阪急バスのチケット問題」も、5月に書き込まれた「事件」なのに、「祭り」になっている。「さび抜き」にしたら「無わさびテロ」だと攻撃する始末 また、こうした「ネット掲示板」では、既存のマスコミやネットニュースの関係者も虎視眈々とネタ探しをしている。なぜなら、「ネット掲示板」はネタの宝庫。しかもネット上でたやすくプレビューを稼げるような猟奇ネタの宝庫なのである。それに、「ネット上の書き込み」がニュースソースなら、追加取材も事実確認も一切不要。責任は書き込みを行ったネットユーザーにあるのであって、マスコミやネットニュースは「書き込み」を再報道したにすぎないからである。そもそも、韓国では日本に対してどんな報道をしようが、どこからも苦情が出ない。基本的に言いたい放題なのである。というわけで、韓国では追加取材も事実確認もなされぬまま、一方的な「わさびテロ」糾弾報道や「差別・嫌韓」告発報道が続いた。 これに刺激を受けた韓国のネットニュース記者が「市場ずし」に謝罪を求めて突撃取材を敢行したり、ネット上で「市場ずし」に対する「報復いやがらせ」が呼びかけられたりする事態に至っている。「市場ずし」では一連の騒動の後に、韓国人客には寿司を「さび抜き」で提供しているそうだが、それにも「無わさびテロ」だと攻撃を加えている始末。要するに「わさび」をネタに日本を貶めたいだけなのである。 一部には、「報復テロ」を呼びかける動きもある。大手ポータルサイト・ダウムに開設された「大阪留学生の集まり」というコミュニティーには「市場ずしに報復しに行く方を募集します」という書き込みがなされた。その書き込みによると、その「報復」とは次のようなものだ。(http://cafe.daum.net/osakalife/)  「始めから暴力を行使したりはせず、(店で)寿司に何か仕掛けられたら、食べかけの寿司を床に捨てて足で踏みつけ、日本語で罵って、相手の挑発を誘導するつもりです。日本語が流暢で、度胸がある人と一緒にやりたいです。寿司代は私が出します。嫌韓チョッパリ(日本人に対する侮蔑表現)に韓国の辛い味を見せつけましょう」 さすがに、この書き込みを支持する反応は皆無だったから、実際に報復を敢行する可能性は低いと思われる。それにしても、日本人の韓国人差別を糾弾しながら、「チョッパリ」などというヘイト表現を用いることには何の疑問も感じていないらしい。毎度のことながら、こうしたダブル・スタンダードには恐れ入る。このことからも「わさびテロ」をめぐる韓国内の言説のレベルがどの程度のものなのかが分かる。「わさびテロ」は本当にあったのか 日本では、このような韓国の内情がほとんど知られていないため、日本のマスコミやネットニュースなども、ほぼ、真偽の確認もないまま韓国の「わさびテロ」報道を引用。ネット上には「識者」のコメントを含め、「日本人として恥ずかしい」「外国人差別はやめよう」などというもっともらしい声が溢れている。嫌がらせや差別が良くないことは自明であるため、一応そう言っておけば、恰好がつくからだろう。日本人であることを恥ずかしがったり、差別を糾弾したりする前に、本当にそうした事象があったのか、最低限の確認作業はするべきだ。訪日外国人や日本人でにぎわう道頓堀 =6月26日、大阪市中央区 また、韓国で日本人がぼったくりに遭ったり、嫌がらせをされたりすることも少なくないのだが、そうした事例はろくに報じないでおいて、日本における事例ばかり熱心に報じるというのも著しく公平性を欠く。日本のネットではこうした「違和感」「不公平感」もくすぶっており、「ウザい○○○(韓国人に対する罵倒用語)は日本に来るな」式の、正真正銘の「韓国人差別」を表現した書き込みも多数見られる。結果的に韓国の「わさびテロ」報道の無分別な引用報道が、新たな嫌韓ネタを提供する形になってしまっている。 現在、「わさびテロ」事件は一応、沈静化に向かっているが、また同様の「ネタ」が新たに炎上する可能性は十分ある。では、我々日本人はこうした事象にどう対応すべきなのだろうか。 外国人観光客が増えれば、それだけ摩擦や苦情も増える。そうした摩擦や苦情に対して、とりあえず頭を下げておけばいい、というのはまったくの誤りである。まずは事実を正確に把握し、原因を徹底的に究明し、そこに問題があれば謙虚に謝罪し、誤解があれば丁寧に説明し、問題がなければ断固反論すべきなのである。そうしてこそ、摩擦や苦情の原因を突き止め、再発を防止できるし、クレーマーの攻撃を遮断することも可能となる。こうした姿勢は外国人観光客を相手にする業者や店舗だけではなく、摩擦やクレームを報じたり論じたりする報道関係者や識者、広くは日本人一般に求められている「作法」なのである。

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    韓国人が被害を訴えた「わさび爆弾」はなぜ炎上したのか

    神田敏晶(ITジャーナリスト) 大阪の「市場ずし難波店」で、韓国人などの観光客に「わさび」が大量に入れられたという苦情がSNSを発端とし、いつしか大手メディアのニュースにまで広がるようになった。現在は市場ずしが公式サイトで謝罪をしたことによって沈静化している。謝罪文を掲載した「市場ずし」のホームページ「すしに多くのわさびを乗せていた件ですが、こちらはそのような事実がありました。海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供したことが、わさびなどが苦手なお客様に対して不愉快な思いをさせてしまう結果となってしまいました。今後はこのようなことの無いよう、しっかりと対応させていただく所存です。また、従業員による民族差別的な発言に関してはそのような事実は確認できませんでしたが、より多くのお客様に満足していただけるよう社員教育を一層徹底してまいります」 事の発端は、2016年9月、韓国の旅行者が、韓国版NAVERの旅行掲示板に韓国語で、「わさびテロに遭った」ということがきっかけだった。外国人観光客からわさびの増量を求められることが多く、1、2年前から韓国人など外国人観光客には確認せずにわさびを通常の2倍程度に増量していたという。しかし、その口コミが増えていくことによって、情報の拡散力がさらに強まっていく。 実際に見る限り、食べログで「市場ずし難波店」は高評価であり、「わさび」問題については何も触れられていない…。一切語られていないのだ。もしかして違う寿司屋かと思うほど何も記載されていない。少し不自然であるため、わさびに関するレビューはなんらかの経緯で削除されているのではと推測するのが正しい。一応、筆者も試験的にわさびに関するポジティブな意見を書き込んでみたが、2時間経って「ワサビ好きとしては、ぜひトライしたいと思いました」とちゃんと反映されていた。もっとも、すぐに消されてしまうかもしれないが。 食べログは口コミベースの広告メディアなので、「標準」の検索結果を「広告優先」という表記に切り替えたばかりだ。「市場ずし 難波店」は食べログでは広告主としてしっかりと認識されている。 また、食べログの口コミガイドラインには、「3.お店へ悪影響を及ぼすかつ内容の確認が困難な事象についての投稿はご遠慮ください」とある。当然、「お店へ悪影響を及ぼす」口コミは削除されるという仕組みになっている。同じく、Rettyの口コミ評価も見てみると、同様に「わさび」の情報は出てこない。 ところが、Yahoo!ロコではレビューの様相が変わってくる。これは個々のお店がビジネスモデルではないプラットフォームのモデルの違いからくるところだ。また、同様にGoogle Mapにも口コミが韓国語などで記載されている。当然こちらはコントロールされておらず、書きたい放題だ。誰もSNSを止められない誰もSNSを止められない インターネットの情報発信がここまで手軽に、まるで空気のように発信できるようになると、あることないこと書かれても仕方がないというあきらめの境地になってくる。しかし、ネットユーザーの大半は悪意があるわけではないのだ。それでも、偶然見かけたインパクトのある記事にユーザーがついつい脊髄反射して、拡散の一助となる傾向も多くなった。燃え上がる栗原敏勝容疑者の自宅=23日午前、宇都宮市(住民提供) また、みんながバッシングしているものには盲目的に参加し、自分のストレス発散ツールとするヤカラも少なくはない。ネットの世界は反応しない大多数よりも、ごく一部の暇でストレスを抱えているごく少数の人たちの“複数連打”が、あたかも大多数の意見のように見える場合があるからだ。さらに、基本的にはコントロールや管理が不可能なメディアだ。しかし、常識を逸脱したものは、ネットの中でも自浄作用が働いて沈静化していく。もっとも問題なのは、なんとか内密に処理したいという行動こそが、一番興味をそそり話題になりやすい。人のプライバシーに関することは、時代を超えて盛り上がる国民性でもあるからだ。 例えば、10月24日に起きた宇都宮連続爆破では、自殺した容疑者のアカウントのYouTube映像がネットでは早い段階から拡散されはじめていた。本人かどうかもわからない状態から、その素性が数分おきにネットで晒され、容疑者の心情分析が行われた。次に、ネットの中で確認された動画がテレビでも流れ始めていく。強烈な爆弾事件と能天気な体操シーンの映像は、犯人に対しての憎悪を醸成しかねない。しかし、実際に容疑者の生前の肉声を聞くと、この事件の社会における位置付けがかなり変わるように感じた。 しかし、元自衛官が爆弾で自殺するのは自爆テロに近い。もしこの容疑者のビデオを映画『マイノリティ・レポート』のように事前に耳を傾けることができたらどうだっただろうか。 事件当事者のfacebookやTwitterで、にわか捜査官が心理分析戦を行うのもSNS時代の他人のプライバシーをネタにした時間消費の一環となり、ネタとしてのコンテンツ消費となってしまっている。そして、その片棒を大手メディアが「ネットで話題」として担いでいる。そしてさらに話題がネットに還流していくことで話が大きくなっていく。わさびの増量だけでは、ここまでハナシは大きくならない。むしろ筆者にとっては、「幸楽苑」の従業員の親指がラーメンに混入していたニュースのほうがわさびよりもショッキングだ。当初、幸楽苑は「爪の一部の異物混入」と発表していたが、ネットでは既に北野武監督の映画「アウトレイジ」の指を詰めるシーンが引き合いに出されている。その後、「人の指」と認めた。 かつてなら店の周辺だけで収まる話が、スマホで一気に証拠の写真やビデオと共に拡散される時代だから、隠蔽は完全に不可能な時代なのだ。「国内グローバル化時代」を迎える日本「国内グローバル化時代」を迎える日本 話をわさび増量に戻そう。実際にこの店舗で、わさび増量で「サービス」が行われていたのか、否定されている「差別」が行われていたのかは、裁判でもしない限り、明確な白黒はつけにくい。差別する側と差別される側の温度差ほど違うものはないからだ。 店舗側が事実として公に謝罪したので、あくまでもこのわさびに関する「増量サービス」は、今後自粛されることだろう。 しかし、昨今のインバウンドツアーでは客のマナーの悪さがいくつか問題になり、海外のツアー会社も日本での行動を厳重に注意している。文化の違いはそう簡単に超えられるものではない。かつてバブル全盛の80年代、パリやミラノのブティックを関西弁のおばちゃんたちが札束ばらまいて買い漁っていた姿は、筆者の記憶に鮮明に残っている。文化の民度は、高度成長期には大目に見るしかないのだ。 しかし、今の日本は老人がひしめきあう少子化社会なので、移民やロボットに依存するしかなくなるのは目に見えている。国内グローバル化の波はますます高まり、移民に対する文化の摩擦もふえてくる。上から目線でインバウンドの旅行者を眺めていられる時代はそんなに長くは続かない。 老後の介護も完全に日本語での話し相手になってほしければ、富裕層にならなければ無理な時代がやってくる。一般層は外国人の移民に介護してもらう時代になるだろう。コンビニのアルバイトしかいなかった外国人留学生はスーパーでもファミレスでも、一般レストランでも当たり前になった。次の時代へと日本は発展しようとしているのだ。

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    「わさび爆弾」は本当に韓国人差別なのか

    どうにもこうにも腑に落ちない。大阪・ミナミの寿司店で起きた、あの「わさび爆弾」騒動である。大量のわさび被害を訴えた韓国人客の書き込みがきっかけとなり、やれ「民族差別だ」「わさびテロだ」と大炎上したが、そもそも韓国人に人気だったという渦中の店側に悪意はあったのか。iRONNA編集部が炎上騒動の内幕に迫った。

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    「わさびテロ」問題で浮かぶ筒井康隆の断筆騒動との共通点

    清義明(フリーライター/オン・ザ・コーナー代表取締役)  大阪のなんばの寿司店で、韓国人にわさびを大量に入れて提供していた件が韓国で話題になったのはしばらく前。韓国人差別ではないかというものである。その後に、実際に韓国人や中国人がわさびの増量を要望する客が多いということがわかり、それを考えた店側が一種のサービスのつもりで、全ての韓国人に(おそらく中国人にも)、わさびをたっぷりと入れていたのが実情なのではないかという見方になりつつある。  もちろん実際には、言葉が通じないゆえの無愛想な接客と相まって、日本文化に常々触れていて、日本語もわかり、来日経験豊富な韓国人には差別的と感じられるシーンもあったのだろう。ただしここはあくまでもブラックボックスであり、実際にどのようなことを店側が行っていたかはわからない。 難波の「韓国人差別」と釜山の「日本人差別」 以前、自分は似たような話を調べたことがある。それは全く逆の話で、韓国で日本人が差別行為にあっているという話である。アルピニストで、現在は様々な社会活動もされている野口健氏が、釜山のサウナで日本人だからということで入湯拒否にあったり、街中のタクシーでやはり日本人だからと乗車拒否にあったという話だ。 (1)野口健氏「韓国のタクシーで反日差別」告白の信憑性を探る (2)野口健氏「韓国で日本人差別」はどこまで本当か…釜山で現地取材  この「わさびテロ」事件のあと、やはり大阪のなんばの道頓堀あたりで韓国人だからという理由で暴行を受けたという話を聞き、さらにこのことを思いだした。韓国のテレビ局の報道によると、父親と道頓堀に来ていた韓国人の13歳少年が、突然何者かに後ろから蹴りをされた、という話である。これがどうやら韓国人観光客に対するヘイトクライムでなはいかということだ。訪日外国人や日本人でにぎわう道頓堀=大阪市中央区 これが本当のことであれば酷い話であるが、言葉が通じない異国では様々なトラブルがあり、野口氏と同じく、そのトラブルをいかようにでも「差別」と結びつけることはできるからである。野口氏の場合は、その背景に竹島領有権などの日韓のトラブルがあり、難波で暴行を受けたという少年の話には、先にあった「わさびテロ」の話があり、それぞれこれらとオーバーラップしてしまっている可能性があるのである。 いずれにしても、良かれと思ったという店側の話をそのまま受け取るとてしも、それが「差別」として認識され、さらには連鎖的な反応を引き起こして、さらに事態が悪化するというのは、日本社会にとってもよろしくないことだし、当の韓国人にとっても気分は悪いことだろう。この件について、以上のようにつらつらと考えていたところで思いだしたことがある。 忘れやすい日本社会であるし、もう20年も前のことになるので、何かの参考にとまとめておこうと思う。それはてんかん患者が差別的に扱われているということで作品と筆者が非難の対象となり、それを巡って一時期大変な騒動になった「筒井康隆断筆騒動」である。差別か管理社会批判か差別か管理社会批判か-筒井康隆断筆騒動 何かの参考になるかと思うので、この件の概要をプレイバックしてみよう。SF作家 筒井康隆氏が書いた短編作品『無人警察』が角川書店の国語教科書に掲載されることになった。ここにあるてんかん患者に対する表現が「差別的」であるとして、日本てんかん協会から抗議をうけ、さらには筒井康隆氏の身辺にまで抗議が続き、結果として角川書店は教科書への掲載をとりやめ、それらの騒動に嫌気がさした筒井康隆氏が、作家としての活動を辞めるとして「断筆」した一件である。筒井康隆氏  問題となった『無人警察』は、現在でも読める作品である。短編(『にぎやかな未来』 (角川文庫) 所収 )であるので、興味がある方は一読願うとして、簡単にプロットはこんな感じである。超管理社会になった未来ではロボットが警察の役目をしている。それにつきまとわれる主人公は、自分がなにか犯罪を犯しているのではないかと疑心暗鬼となる。ロボットは脳波を測定して、犯罪者を特定するからだ。さらにロボットは飲酒運転や運転中のてんかん発作の症状をも特定してしまう。しかし、自分は飲酒しているわけでもないし、ましてや運転するしていないし、てんかん患者でもない・・・なのになぜ? この文章が、てんかん患者を取締りの対象としている世界を描いているため、てんかん患者を蔑視し、あたかも犯罪者のように描いており、偏見を助長するというのが、日本てんかん協会の主張である。断筆宣言への軌跡 (カッパハードカバー) ところが、この短編を読めばわかるのだが、この作品は、てんかん患者をロボットが取り締まるような社会を未来的な管理社会として批判的に描いた作品なのである。 しかし、その弁明は受け入れられることなく、こうして、日本で最も有名なSF作家のひとりである筒井康隆氏が長い「断筆」と相成ったわけである。さて、これでポイントとなるのは、そもそも管理社会を批判することがテーマであるにも関わらず、そのブラックユーモアの背景にある「正義」が別の差別を呼んでしまうというアポリアである。これについて、ブラックユーモアとは誰かを傷つけることで成り立つという、若干うかつな反論をしていた。これがさらに問題化した。ここに表現の自由というさらなるアポリアまで入りこみ、数年にわたりこの議論は続いたのである。「ブラックユーモア」と社会批判が掲載された場所の問題「ブラックユーモア」と社会批判が掲載された場所の問題  というのは、実はこの問題は、作品そのものよりも、もっと違う力点をもっていたからだ。つまり、例えてんかん患者をも含めて人間が過剰管理される社会を批判するものとしても、著者も認めるとおり、ともすればてんかん患者を傷つけるだろう表現がある作品が、国語の教科書に使われてしまったということである。 大学入試センター試験過去問題集国語 2017 (大学入試完全対策シリーズ) 高校といえども、国語教科書に掲載される作品は、その読解術や鑑賞術を学びとることが目的のものだ。つまり、その教科書が提供される生徒は必ずしもその作品のテーマや真意、レトリックや背景などを、必ずしも会得していないということが前提となる。簡単に言ってしまえば、作品のストーリーをそのまま受け取ってしまい、てんかん=悪という考えをもつ可能性もあるのである。 実際、てんかん患者の高校生を持つ親からすれば、これは深刻な懸念であろう。自分がその立場だったら、教科書に掲載などもっての他ということになる。それはもちろん作品の評価とは全く別だし、管理社会批判のテーマへの賛否ともこれまた別の話である。実際にこの作品をてんかんの持病をもつ生徒が読めば、思春期の時期であるから傷つくこともあるだろうことは容易に想像できる。 ようするにもっともこれに関して責任があるのは、その掲載を決めた出版社にある。角川書店は、この後、抗議の殺到に結局は掲載の中止を決め、それがまた作者に了解がなかったものであったため、さらに事態を複雑にした。もちろん作者にも迂闊な反論や、また抗議する側にもあきらかに過剰にやりすぎた面もあったのも付け加えておこう。 この件、それではどのようになったかというと、おおよそ以下のように落ち着いた。・教科書への掲載の取りやめは、いじめなどを引き起こす恐れもあり、作者も同意。・日本てんかん協会は、この種の表現の問題については抗議する自由があることを作者とともに確認。・ただし、表現の自由は尊重されるべきであり、それを物理的に妨害するようなものは許されない。 この「合意」に関する議論はまた別にあるのだが、これは本論と外れるのでおいておこう。ステレオタイプが巻き起こす差別問題ステレオタイプが巻き起こす差別問題 「わさびテロ」も、このような良かれと思った行為が、実は韓国人に対するステレオタイプがもとになったものに過ぎず、客の反応を見ることなく、十把ひとからげに対応したところから始まったのだろう。韓国人からすれば異国の地のこのようなトラブルは差別であると捉えることもあろう。もちろんそこに悪意の差別が介在する余地を想像することもできるが、実態はやはりこんなところなのではなかろうか。角川書店が、読解能力と解釈力に疑問があるだろう高校生の教科書に、気の利いた『ブラックユーモア』による社会批判を掲載したのがトラブルを招いたように。 そうしてみると、最初にこの「わさびテロ」の話をネットで目にした時に酷い話だと思った感情は冷めていき、やがて良かれと思った何気ない行為が、「差別」として人の心を傷つけ、やがてさらに大きなトラブルを招くのは、果たしてこの寿司屋だけではなく、自分自身にもあり得ることなのではないかと考えるようになったわけである。 もちろん、この話、あくまでも善意の「区別」が悪意ある「差別」に受け取られたということを前提にして書いている。釜山のタクシーやサウナの「日本人差別」の有無と同じく「悪魔の証明」となり、必ずしも否定はできない話であることも最後に記しておく。(清義明公式ブログ 2016年10月14日分を掲載)

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    「道頓堀で回し蹴り」わさびテロだけじゃない不可解な韓国人の告発

     室谷克実(評論家) 韓国はいま、経済、政治、軍事…さまざまな分野で、悪いことばかりだ。「総体的状況悪化」に直面している。そんな時、大阪を舞台に“日本人の嫌韓行動”により被害を受けたとする韓国人の告発が相次いでいるのは偶然だろうか。 他人を貶めるために嘘を言った誣告(ぶこく)事件が日本の305倍にもなる韓国の実情、さらには個々の告発の不自然さを見ると、韓国の国策に寄り添うような「民間の反日団体」の蠢(うごめ)きを感じざるを得ない 自作自演による「被害者パフォーマンス」に自己陶酔する。やがて、日本人の中から「自虐的快感」に酔いしれた同調者が出てくる。ここぞとばかり猛然と襲いかかる-慰安婦問題で、日本が学んだ隣国の姿だ。 パターンは同じではないのか。韓国人が言う「わさびテロ」の件だ。 さまざまな証言が錯綜(さくそう)しているが、1つの疑問がある。韓国のファンドが、日本の大手の回転寿司チェーンを買収するという情報と、「わさびテロ」は無関係なのだろうか。 韓国人親子が道頓堀を歩いていたら、いきなり日本人に回し蹴りを食らわされた-本当だとしたら日本人一同おわびだ。 しかし、目撃者が出てこない。防犯カメラの映像も出てこない。診断書もない。被害者は、日本の警察に届けていない。韓国の領事館に届けたそうだが、本当に夜10時近くに「被害届」を受理したのか。加害者を日本人と決めつけた証拠は。不可解なことばかりだ。 大阪府警はしっかり調べるべきだ。結果によっては「正体不明の韓国人」に法的措置を講ずることを、ためらってはならない。 日本で買ったチョコレートに「動物の歯」が入っていたとのネット書き込みもあった。お得意の「謝罪と補償」要求が続くのだが、その商品には「メーカー名の表示がないので、抗議できない」とあった。そんな日本の商品が本当にあるのか。 韓国は外国人観光客数の対日比較を、一種の「戦争」と捉えている。外国人観光客の入国者数が日本より少ないことは、韓国の政権にとって「屈辱」なのだ。 それなのに、韓国人一般を対象にしたアンケートでは、「最も行きたい都市」の1位は大阪だ。 韓国の国際収支統計の「旅行収支」は赤字だ。韓国人の「大阪詣で」を断ち切りたいと、韓国の政権が願うのは当然だ。“嫌韓派日本人による被害”のクローズアップは、大阪詣でのブレーキになる。 韓国には「何でもいいから、国際社会で日本を貶める」という活動方針を掲げる自称「ボランティア団体」がある。その団体が「下手な謀略工作」で有名な情報機関と密接と見るのは、コリア・ウオッチャーの常識だ。 日本人を「加害者」に仕立てる「自作自演」的な「被害者パフォーマンス」は、「総体的状況悪化」の深化とともに広がるかもしれない。 彼らは、日本人の常套(じょうとう)句「すみません」を、「謝罪させた=われらが正しい」と受け取り、次なる要求を高める。かたがた、油断することなかれ。むろたに・かつみ 1949年、東京都生まれ。慶応大学法学部卒。時事通信入社、政治部記者、ソウル特派員、「時事解説」編集長、外交知識普及会常務理事などを経て、評論活動に。主な著書に「韓国人の経済学」(ダイヤモンド社)、「悪韓論」(新潮新書)、「呆韓論」(産経新聞出版)、「ディス・イズ・コリア」(同)などがある。

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    惨めとは思わないのか? 韓国よ、被害者意識から抜け出せ

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 米国の著名なコラムニスト、チャールズ・クラウトハマー氏は世界日報(3月15日付)で「花開いたヘブライ文化」というタイトルのコラムを寄稿し、そこで「ユダヤ系米国人がここにきて民族のアイデンティティーをホロコーストに求める傾向が増えてきている」と警告を発している。非常に啓蒙的な内容なので読者と共に共有したい。ホロコーストの犠牲者の写真を展示するイスラエルの記念館 「ホロコーストは確かに、私のユダヤ人としての意識の中に深く根付いている。問題はバランスだ。私が心配するのは、ホロコーストの記憶が、米国でユダヤ教徒であることの支配的な特長として強調されるようになることだ。ホロコーストの記憶と事実を生かし続ける努力を怠ってはならないが、ホロコーストを後世に伝える遺産の中心に据えることは、米国のユダヤ人にとって悲劇だ」という。そして「被害者意識をユダヤ人としてのアイデンティティーの基礎としてはならない」と主張している。 ユダヤ民族の歴史は迫害の歴史であり、ディアスポラと呼ばれ放浪の民だった。そのユダヤ民族にとっても第2次世界大戦時のナチス・ドイツ軍の大虐殺(ホロコースト)は最も悲惨な出来事だったことは間違いないだろう。 クラウトハマー氏は、「それでも民族の被害者意識が民族のアイデンティティーとなることを恐れる。ユダヤ人は、奇跡の時代を生きている。ユダヤ人の国家を再建し、ヘブライ語を復活させ、ヘブライ文化はユダヤ世界全体に行きわたり、花開いている」と強調し、ヘブライ文化に民族のアイデンテイティーを見出すべきだと主張しているのだ。 当方はこのコラムを読んで日本の隣国・韓国をすぐに想起した。韓国民族も過去、多くの大国、強国の支配を受けてきた。民族には自然に被害者意識が定着したとしても不思議ではないが、その被害者意識が最近では民族のアイデンティティーとなってきているように感じるからだ。世界中に慰安婦像を建てようとする韓国 政府主導の反日教育が行われ、外交上は解決済みの慰安婦問題も今なお、韓国内では燻り続けている。特に、ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦の少女像撤去は実現していない。それどころか、慰安婦の犠牲者がニューヨークの国連を訪問し、慰安婦問題の日韓合意が間違いだと訴えているのだ。 当方が理解できない点は、国内ばかりか世界中に犠牲者の女性の像を設置する韓国国民の精神状況だ。慰安婦の父親だったら、娘を慰安婦とした日本側を憎むかもしれないが、その娘を象徴した像を設置したいとは考えないだろう。それは余りにも惨めだからだ。米首都ワシントンで韓国系団体が開いた「水曜デモ」 しかし、韓国国民の中には慰安婦の像を建立することに躊躇しない人々が案外多いのだ。被害者意識が韓国民族のアイデンティティーになってしまった結果ではないか、と考えざるを得ない。クラウトハマー氏がユダヤ系米国人に警告している内容だ。被害者意識の強いユダヤ人に対し、“ホロコースト・インダストリー”と揶揄する声すら聞かれるのだ。 クラウトハマー氏は迫害の歴史の中でも花開いたユダヤ教文化に民族のアイデンティティーを求めるべきだと提言している。同じように、韓国国民も歴史から継承してきた民族文化、例えば、敬天思想、白衣民族をそのアイデンティティーとして誇るべきではないか。ちなみに、自己憐憫、攻撃的な被害者意識の背後には高慢で自惚れ意識が隠れている、と指摘する心理学者がいることを付け加えておきたい。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2016年3月17日分を転載)

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    「わさびずし」「フリーアナ」騒動 謝罪の拙さが燃料に

     ネットでは謝罪したつもりが燃料投下になり、より大炎上するこもある。2つのケースから、食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が考えた。* * * ずいぶんと長く引っ張るものだ。例のわさびずしの件やフリーアナウンサーの件に象徴される、「インスタントな正義に乗っかる、加速度的匿名ソーシャルバッシング」である。自身が何者かも、責任の所在も明らかにしない。検証もなしに袋叩きにして、また次の標的を探す。なんという不寛容社会だろうか。 もっともここまで状況を引っ張っている責任が当事者にあるのもまた事実だ。昨今の騒動では標的になった側には、叩かれても仕方のない明確な落ち度があった。 外国人客相手に大量のわさびを盛り込んだ”わさびずし”の件は、当初差別疑惑で煙が立ち始めていたところに、店側が「すしに多くのわさびを乗せていた件ですが、こちらはそのような事実がありました。海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供」と説明したことで大炎上。事実を大筋で認めながらも、悪気がないどころか好意でサービスしていたという主張が強引な裏技だと受け止められ、各所から反感を買ってしまった。 一方、某アナウンサーの件は、ネットやジャーナリズム、社会のあり方について理解の浅いタレントが、人工透析患者やその関係者の感情を逆なでするような見出しを立てて大炎上。苦しい言い訳を続けた結果、テレビのレギュラー番組などからの降板を余儀なくされてしまった。渦中で発表された、詫び文すら番組のスタッフによる代筆だということを何のてらいもなく告白するあたりにも、どうにもならない不適格感が漂ってしまう。 両者に共通するのは「事実としての落ち度」と、それと相反するような「謝罪のつたなさ」だ。サービス業もタレント業も、客と適切な関係を取り結ぶ必要がある。だがこうしたやらかしには、客との「適切な関係」についての思慮が足りない印象がついてまわる。 例えばタレント業で言えば、今年の夏、三遊亭円楽がおこなった不倫騒動の謝罪・釈明会見は本当に素晴らしかった(というと語弊があるが)。「聞かれたことにはすべて答える」と冒頭に述べ、実際にすべての質問を受けつけ、「初高座の頃は、『芸人は女性にモテるくらいでないと』とよく言われたものですが、時代錯誤だったと痛感しております。皆様に不快な思いをさせたならば、高座でお返ししたい」と涙ながらに詫びた。かと思えば、同日に復帰会見を行ったベッキーのコメントを拝借したり、記者からの求めに応じて謎かけを披露したり。終わってみれば和やかムードの爆笑記者会見となり、「高座のよう」とも評された。周囲や家族のサポートがあってこそだろうが、それにしてもお見事。噺家としての面目躍如である。 サービス業で言うと、ちょうど1年前、本コラムで「聴導犬拒否騒動 他者に対する不寛容な社会の空気が気になる」という記事を書いた。百貨店で行われた補助犬の啓発イベントの直後、イベント参加者が同百貨店内のテナント飲食店から聴導犬との同伴入店を拒否された騒動について書いたものだ。 その後、百貨店は入店を拒否されたイベント参加者に謝罪。各テナントにも補助犬受け入れ指導を徹底し、店頭にも補助犬受け入れを示すステッカーを貼るなどしたという。今後どこまで徹底されるかが重要ではあるが、百貨店として客に対して適切な対応をしたと考えていいだろう。 よくも悪くも、揺り戻しは必ず起きる。例のすし店での”わさびずし”は日本人客相手にも提供されていたとか、2008年に観光庁が発表した外国人客への対応マニュアル内に、中国人客には練りわさびの多め提供を推奨する一文があるとかいう話が掘り起こされたりもしている。某アナウンサーにもタレント仲間からの擁護の声が上がったりもしているという。 だが節目にくさびを打ちこむことができるのは、騒動を起こした当事者しかいない。前述した噺家や百貨店は、当事者としてそれぞれの”客”に対して誠実な説明と謝罪を行ったからこそ、いまがある。いつまでも騒動がくすぶっているとしたら、それは適切な謝罪ができていないと捉えたほうがいいのではないか。どんなに嘆いても、不寛容な社会がすぐに変質するわけではない。 確かに「人の噂も七十五日」ではあるし、こうした話題は早晩消費される。だが消費された後、騒動の詳細は忘れられても、印象は意外と残ってしまうものだ。鼻にツーンと抜けた鮮烈なわさびの痛みのように。関連記事■ ツイッターで11万人が大感動 おくるみ猫わさびちゃんの87日■ 口裂け女、都市伝説、ネット社会の噂拡散等「噂」検証した本■ ザック監督好物 北朝鮮が没収「チューブ入りわさび」の正体■ 中森明菜 きつねソバ一杯に七味唐辛子を一瓶使い切る■ 分裂騒動後来日したKARA 腕を組んで仲良しをアピール

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    外務省、本日も反論せず~OBの驚愕発言にみる慰安婦「不戦敗」政策

    西岡力(東京基督教大学教授) 私は、現在の安倍晋三政権の国際広報政策について強い懸念を持っている。このままでは、我が国と先祖に対する著しい名誉毀損が国際社会で定着してしまう恐れがある。安倍総理自身はその立場で懸命に努力されているが、外務省が総理を歴史戦の戦場に単騎で送り出し、ともに戦うことを放棄しているように見えてならない。 第1次安倍政権の2007年、米議会で事実無根の慰安婦決議がなされようとする中、安倍総理が国会で慰安婦の強制連行は確認されていないという趣旨の答弁をして、それが海外のメディアに歪んで報道された。そのとき、外務省は総理の答弁を支える広報活動をせず、在米大使館が大使名義で米議会議員に「慰安婦問題について日本は河野談話で謝罪しアジア女性基金で償いを行った」とだけ伝えた。そのときと今の状況が重なる。 その背景には、名誉毀損を払拭する努力は外交上、得策でないという外務官僚多数派の政策判断があるのではないかと、私は疑っている。なぜなら、外務省OBらがほぼ同じ意見を主張しているからだ。本稿では安倍総理と外務省の戦う姿勢の大きな乖離について指摘した上で、その背景にある歴史戦争不戦敗という不作為の政策を紹介し、歴史戦をどう戦うべきか考えたい。安倍総理の意向に沿っていない外務省HPの記述 まず、本年1月18日参議院予算委員会での安倍総理の答弁を紹介する。その日、中山恭子議員が前年12月の日韓慰安婦合意(共同発表)によって、国際社会に著しい日本誹謗が拡散しているとして、次のように質問した。〈日本が軍の関与があったと認めたことで、この記者発表が行われた直後から、海外メディアでは日本が恐ろしい国であるとの報道が流れています。日本人はにこにこしているが、その本性はけだもののように残虐であるとの曲解された日本人観が定着しつつあります。今回の共同発表後の世界の人々の見方が取り返しの付かない事態になっていることを、目をそらさずに受け止める必要があります。 外務大臣は、今回の日韓共同発表が日本人の名誉を著しく傷つけてしまったことについて、どのようにお考えでしょうか。〉 これに対して岸田文雄外相は日本の名誉を守るという強い姿勢の見られない通り一遍の答弁をしたので、中山議員が安倍総理の見解を質した。「3・1独立運動」の記念式典で万歳する韓国の朴槿恵大統領=2016年3月1日、ソウル(共同) これに対して安倍総理は、 1、慰安婦問題に関して海外に正しくない誹謗中傷がある、 2、性奴隷、20万人は事実でない、 3、慰安婦募集は軍の要請を受けた業者が主にこれに当たった、 4、慰安婦の強制連行を示す資料は発見されていない、 5、日本政府が認めた「軍の関与」とは慰安所の設置、管理、慰安婦の移送に関与したことを意味する、 という重大な5つの反論を自分の言葉で、次のように明快に答弁した。その直後の中山議員とのやりとりもあわせて引用する。この5つこそが今後の慰安婦問題での国際広報の骨子となるべきものだ。そして、6つめに総理がここで行った反論は、日韓慰安婦合意後になされたという点も重要だ。合意で自制を約束したのは韓国政府への批判であって、国際社会に広がる事実無根の誹謗中傷には反論していくという総理の意思が以下の答弁に込められている。それを外務省が無視していることを告発するのが本稿の目的だ。〈先ほど外務大臣からも答弁をさせていただきましたように、海外のプレスを含め、正しくない事実による誹謗中傷があるのは事実でございます。 性奴隷あるいは二十万人といった事実はない。この批判を浴びせているのは事実でありまして、それに対しましては、政府としてはそれは事実ではないということはしっかりと示していきたいと思いますが、政府としては、これまでに政府が発見した資料の中には軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかったという立場を辻元清美議員の質問主意書に対する答弁書として、平成十九年、これは安倍内閣、第一次安倍内閣のときでありましたが閣議決定をしておりまして、その立場には全く変わりがないということでございまして、改めて申し上げておきたいと思います。 また、当時の軍の関与の下にというのは、慰安所は当時の軍当局の要請により設営されたものであること、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送について旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与したこと、慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主にこれに当たったことであると従来から述べてきているとおりであります。 いずれにいたしましても、重要なことは、今回の合意が今までの慰安婦問題についての取組と決定的に異なっておりまして、史上初めて日韓両政府が一緒になって慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認した点にあるわけでありまして、私は、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかないと考えておりまして、今回の合意はその決意を実行に移すために決断したものであります。中山 総理の今の御答弁では、この日韓共同記者発表での当時の軍の関与の下にというものは、軍が関与したことについては、慰安所の設置、健康管理、衛生管理、移送について軍が関与したものであると考え、解釈いたしますが、それでよろしゅうございますか。安倍 今申し上げたとおりでございまして、衛生管理も含めて設置、管理に関与したということでございます〉反論を放棄した国際広報 次に、外務省が現在行っている慰安婦問題に関する国際広報が、安倍総理の答弁といかにかけ離れているかを指摘する。 その典型例として外務省のホームページにある「歴史問題Q&A」の慰安婦の項を検討する。その前に、このコーナーの位置づけを簡単に紹介する。米カリフォルニア州グランデール市で韓国系団体によって設置された慰安婦像 外務省のトップページの中段に「トピックス」という見出しがあり、以下の11項目が並んでいる。TPP、安全保障、日米安保 女性、国連外交、日本の領土(北方領土、竹島、尖閣諸島)、拉致問題、歴史関連、日本海、中東支援、戦後日本の歩み。つまり、外務省が現在、内外に広報したい主要項目がここに並んでいると言える。この中から「歴史関連」をクリックすると「歴史関連」コーナーにすぐつながる。同コーナーの最上段を見ると「トップページ>外交政策>その他の分野>歴史関連」と書いてあるので、本来の位置づけは外交政策の中の「その他の分野」の一部ということだが、トップページから直結で飛べるようにしてある点から重点広報項目の一つということが分かる。また、同コーナーは英語版が準備されていることから、国際広報の手段として位置づけられている。「歴史関連」コーナーの一番上に「歴史問題Q&A」があり、そこに入ると以下の8つの問いが設定され、それに対する回答が記されている。〈問1 先の大戦に対して、日本政府はどのような歴史認識を持っていますか。 問2 日本は戦争で被害を受けたアジア諸国に対して公式に謝罪していないのではありませんか。 問3 日本は先の戦争で被害を受けた国や人々に対し、どのように賠償したのですか。 問4 政府間における請求権の問題は解決済みでも、個人の請求権問題は未解決なのではないですか。 問5 慰安婦問題に対して、日本政府はどのように考えていますか。 問6 「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。 問7 極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。 問8 ドイツに比べて、日本は過去の問題への取り組みが不十分なのではないですか〉 この1つ1つについてきちんと検討することは後日に譲り、本稿では慰安婦問題について取り上げる。〈問5 慰安婦問題に対して、日本政府はどのように考えていますか。 1.日本政府としては、慰安婦問題が多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた問題であると認識しています。政府は、これまで官房長官談話や総理の手紙の発出等で、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げてきました。 2.この問題を含めて、先の大戦に係る賠償や財産、請求権の問題は法的に解決済みですが、政府としては、既に高齢になられた元慰安婦の方々の現実的な救済を図るため、元慰安婦の方々への医療・福祉支援事業や「償い金」の支給等を行うアジア女性基金の事業に対し、最大限の協力を行ってきました。 3.アジア女性基金は平成19年3月に解散しましたが、日本政府としては、今後ともアジア女性基金の事業に表れた日本国民及び政府の本問題に対する真摯な気持ちに理解が得られるよう引き続き努力するとともに、慰安婦問題に関する日本の考え方や取組に対し、国際社会から客観的な事実関係に基づく正当な評価を得られるよう引き続き努力していきます。 4.2015年8月14日の内閣総理大臣談話においては、戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりませんとした上で、20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を胸に刻み続け、21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていくとの決意が述べられています。(参考1)アジア女性基金による活動概要(略)(参考2)慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(略)(参考3)慰安婦問題に対する日本政府の施策(略)〉 総理答弁でいわれている誹謗中傷に対する反論はここにはない。これが外務省の現在の慰安婦問題に関する国際広報の有り様だ。まさに2008年在米日本大使が米議会議員に伝えた内容と同じで、「河野談話で謝罪しアジア女性基金で償いを行った」という従来からの事実関係の反論を放棄した広報そのものだ。だから、私は総理が単騎で歴史戦を戦い、外務省はともに戦うことを放棄しているというのだ。クマラスワミへの訂正要求と同じ日に掲げられた"謝罪文書"クマラスワミへの訂正要求と同じ日に掲げられた"謝罪文書" なお、(参考3)として挙げられた「慰安婦問題に対する日本政府の施策」という文書は2014年10月14日に外務省が公表したものだ。私が本誌などで繰り返し批判してきたように、同文書は朝日新聞が慰安婦問題での誤報を認め謝罪した直後に作成されたものだが、内容は、慰安婦問題について河野談話などで謝罪をしつづけてきたことと、アジア女性基金を作って償い事業が行われたことだけをくわしく記したもので、国際社会で日本に対する事実ではない誹謗中傷が拡散していることなどについては一切触れていない。 重大な事実を発見した。この文書が公表された2014年10月14日は、ニューヨークで元国連人権委員会調査官クマラスワミ氏に外務省の佐藤地・人権人道大使が面会して報告書の訂正を求めた日だった。佐藤大使は10月22日外務省で行った会見でクマラスワミ氏に対して「今般、朝日新聞の関連での新たな動きを改めて説明すると同時に、これまでの我が国政府の取り組み、これは報告書が作成されて以降、アジア基金の話も含めまして誠実に対応してきた、そういう取り組みも含めて説明をいたしました(下線西岡以下同)」と語った。 ここでいわれている「これまでの我が国政府の取り組み」の説明資料として、問題の「慰安婦問題に対する日本政府の施策」文書が作成されたのではないか。だから文書の公表日が、大使がクマラスワミ氏への面会日と同じなのではないか。そうであれば、佐藤大使はクマラスワミ氏との会見で、吉田証言などを引用している部分について訂正を求めたかもしれないがそれよりも、日本は報告書が出た後も謝罪と償いをしつづけているという部分の説明に力点を置いていたのではないかとさえ疑ってしまう。クマラスワミ氏 そもそも、クマラスワミ氏と佐藤大使の面会は、菅義偉官房長官が9月5日の記者会見で「報告書の一部が朝日新聞が取り消した記事内容に影響を受けているのは間違いない」と指摘したことが契機となっている。菅長官は面会2日後の10月16日の会見で「朝日新聞が慰安婦問題に関する報道が誤報だったと取り消したのでクマラスワミ氏に説明し、報告書に示された見解を修正するよう求めた。先方は『修正に応じられない』ということだった」と述べ、「政府としては今後、国連人権理事会をはじめ国際社会で適切な機会をとらえて、わが国の考え方を粘り強く説明し理解を得たい」と強調した。 しかし、外務省は日本が報告書のどの部分の修正を求めているのかということすらいまだに公表せず、その代わりに「河野談話で謝罪し、アジア女性基金で償いを行った」ということだけを強調する文書を公表した。クマラスワミ氏への説明用に作られたと推定される「慰安婦問題に対する日本政府の施策」文書を面会のその日に公表し、いまだにそれ以降、慰安婦問題に関する広報資料を一切作成していない。 佐藤大使は先の記者会見で「(クマラスワミ)報告書に盛られた事実関係あるいは法律的な議論、この部分については政府として留保しているところではあったわけですが、このたびの展開も踏まえて、これは一層しっかりと説明をしていく必要があるというように認識しております」と語っている。外務省は1996年2月、クマラスワミ氏が国連人権委員会に報告書を提出する直前に、長文の反論文書を作成配布して、それを突然取り下げるというおかしな対応をとった。同反論文書については本誌2014年6月号と7月号で詳しく紹介されているが、まさに事実関係と法律的議論の二つにおいてクマラスワミ氏の性奴隷説を正面から批判している。 本誌の報道の後、国会や自民党の特命委員会などで何回も反論文書を公開すべきだと議論になったが、いまだに実現していない。つまり、外務省はクマラスワミ氏への面会を行った日に、新しく作った文書を公表し、過去の反論文書は公開しなかった。その新文書では「河野談話で謝罪しアジア女性基金で償いを行った」という従来からの内容だけしか含まれず、反論は入っていない。反論を広報する意思がないとみなさざるを得ない。マグロウヒル社への要請内容も公表せずマグロウヒル社への要請内容も公表せず 以上見たとおり、現在の外務省の慰安婦問題に広報は、安倍総理が参議院予算委員会で事実に踏み込んで明確に反論していることとあまりにもかけ離れている。 もう一つ、事例を挙げる。2014年11月3日の産経新聞の報道により、米大手教育出版社「マグロウヒル」(本社・ニューヨーク)が出版した高校の世界史の教科書に、慰安婦問題などで重大な事実誤認に基づく記述があることが分かった。「日本軍は14~20歳の約20万人の女性を慰安所で働かせるために強制的に徴用し、慰安婦になることを強要した」「逃げようとして殺害された慰安婦もいた」「日本軍は慰安婦を天皇からの贈り物として軍隊にささげた」との内容が含まれていた。米大手教育出版社「マグロウヒル」(本社・ニューヨーク)が出版した高校の世界史の教科書 この報道を受け外務省も訂正のため動いた。11月7日、在ニューヨーク総領事館が出版社に記述内容の是正を申し入れ、12月中旬に正式な話し合いの場が持たれた。しかし、2015年1月15日、同社は文書を発表して、日本政府の関係者が「慰安婦」に関する記述を変更するよう求めてきたが「『慰安婦』の歴史的事実に対する学者の意見は一致している。われわれは執筆者たちの記述、研究、表現を明確に支持する」と訂正要求を拒否した。 また、外務省は同記述の執筆者である米国歴史学者にも訂正を求めた。ハワイ大学マノア校の准教授を務めるジーグラー氏は「出版社と私は日本政府の関係者から個別に連絡を受け、不愉快な書き方に何らかの修正を求められた。出版社も私もそのような考えは一切受け入れていない」とウォール・ストリート・ジャーナル2015年1月15日付けで述べている。 その後、米国歴史学者らが2回にわたって声明を出し、私を含む日本の学者がそれらに反論を出したことは本誌などで紹介されたとおりだ。安倍総理も2015年1月29日の衆議院予算委員会で、稲田朋美議員の質問に答えて以下のように答弁している。〈マグロウヒル社の教科書を拝見いたしまして、私も本当に愕然といたしました。主張すべき点をしっかりと主張してこなかった、あるいは訂正すべき点を国際社会に向かって訂正してこなかった結果、このような教科書が米国で使われているという結果になってきた。 国際社会においては、決してつつましくしていることによって評価されることはないわけでありまして、主張すべき点はしっかりと主張していくべきであり、(略)外務省におきましても、外交におきましても、国際社会の正しい理解を得るべく、今後とも我が国の国益の実現に資するよう、戦略的かつ効果的な発信に努めていきたい、このように思います〉 ところが、外務省は現在に至るまで、マグロウヒル社の教科書のどの記述を日本政府として問題にしているのかについて、公表していない。ただ、同社に働きかけたことだけを認めて、その訂正要求の具体的内容を明らかにしていない。外務省のホームページにはこの問題についての外務省の見解を示す文書は存在しない。 総理は国会で「外務省におきましても、外交におきましても、国際社会の正しい理解を得るべく、今後とも我が国の国益の実現に資するよう、戦略的かつ効果的な発信に努めていきたい」と答弁したが、外務省は発信をしていないのだ。ここでも総理が単騎で戦っている。隠しているような国連女子差別撤廃委での反論隠しているような国連女子差別撤廃委での反論 外務省の慰安婦問題での反論として、杉山晋輔外務審議官が今年2月16日、ジュネーブの国連女子差別撤廃条約委員会で行った発言を思い出すかもしれない。〈日本政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる「強制連行」を確認できるものはなかった〉〈慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された原因は、吉田清治氏が、日本軍の命令で、韓国の済州島において、大勢の女性狩りをしたという虚偽の事実を捏造して発表したためである。(これが)朝日新聞により、事実であるかのように大きく報道され、日本、韓国の世論のみならず、国際社会にも、大きな影響を与えた〉〈「20万人」という数字も、具体的裏付けがない。朝日新聞は、「20万人」との数字の基になったのは、通常の戦時労働に動員された女子挺身隊と、ここでいう慰安婦を誤って混同したことにあると自ら認めている〉〈「性奴隷」といった表現は事実に反する〉 まさに先に見た安倍総理の参議院予算委員会答弁とほぼ同じ内容であり、外務省が事実関係に踏み込んだ反論をしたという点で画期的なものだった。その点は肯定的に評価したい。しかし、杉山発言は国連女子差別撤廃条約委員会の委員からの質問に口頭で答えたものであり、文書で提出された政府の正式回答や杉山審議官が同委員会の冒頭で行った政府見解ステートメントにもこのような内容は一切含まれていなかった。国連女子差別撤廃委員会の会場で立ち話する中国出身の委員(写真右)と韓国人弁護士=2016年2月16日、国連欧州本部(藤木俊一氏撮影)「国際社会への発信」というには物足りないものだった。内容は画期的だが形式があまりに消極的だった。その上、このような質問への口頭回答も、官邸の衛藤晟一補佐官らが総理の意向を汲んで外務省に強く求めた結果実現したものだと聞いている。そこにも外務省の姿勢が表れている。 もう一つ残念なのは、外務省が杉山反論を国際広報の道具として使おうとしていないことだ。杉山反論は外務省のホームページに収録されている。(産経新聞2月26日正論欄で私は「今回の杉山反論も肝心の外務省のウェブページに掲載されていない」と批判したが、本稿執筆の時点では日英両国語がアップされている)。しかし、残念ながらその場所はたいへんわかりにくい。本稿冒頭で見た「歴史関連」コーナーにはつながっていない。 トップページ>外交政策>日本の安全保障と国際社会の平和と安定>女性>女子差別撤廃条約>「女子差別撤廃条約第7回及び第8回報告審査の質疑応答における杉山外務審議官の発言概要」の順に5回クリックしてやっとたどり着ける。その上、題名がただ「女子差別撤廃条約第7回及び第8回報告審査の質疑応答における杉山外務審議官の発言概要」とされているだけなので、慰安婦問題に関する日本政府の見解を知りたいと思って外務省のホームページを閲覧する人がこの発言をみつけるのは不可能だ。つまり、いまだに外務省は事実に基づく反論を国際広報しようとしていないと言っても良いのではないか。外務省OBたちの呆れる認識「過去の再評価は大学で」外務省OBたちの呆れる認識 なぜ、総理を外務省は支えようとしないのか。外務省高官らは国際社会の誹謗中傷を放置することが外交上得策だと今も内心、考えているのではないかと私は疑っている。外務省OBらは以下のごとく、慰安婦問題や南京事件で事実に基づく反論を政府が行うことを否定して、外務省のこれまでの姿勢を擁護しているからだ。 第1次安倍政権のとき、岡崎久彦氏は〈慰安婦問題は、(中略)勝てない、絶対に勝てないということです。ヘルメットを被って、塹壕の中に入って、弾が頭の上をポンポン飛んでいくのをじっと耐えるしかありません〉(『この国を守る決意』2004)という立場から〈総理自身の言葉で謝ったほうが良い。狭義の強制について質問されれば嘘は言えないが、そもそもそんなことは問題の中心ではない。言ってもその直後に、慰安婦制度を持ったことは女性の尊厳を傷つける人権無視の行動として謝罪すればそれで良いのである〉(産経新聞2007年5月14日)とアドバイスしていた。ただし、岡崎氏は同じ頃、すぎやまこういち氏らが主導した慰安婦問題の事実を米国に伝えるための米紙意見広告の賛同者として名前を出しているから、戦う姿勢がなかったわけではない。その点、あとで紹介する元大使や評論家とは違う。 武藤正敏・元駐韓日本大使は、強制連行があったかもしれないなどという驚くべき認識に立ち、事実に基づく反論をするべきでないと次のように述べている。武藤大使の在任中、日本大使館前に慰安婦像が建ったのだから、まさに歴史戦の主戦場にいた外交官だ。その人物が次のように考えているのだから日本国の名誉は守れないはずだ。〈そもそも、軍による「強制性」がなかったと言い切れるかどうか。資料がないというのは理由になるのか。軍人による強制連行を資料として残すとも考えられません。また、「絶対になかった」と明確に否定できる証拠にしても見つかることはないと思います。〉〈日本が注意すべきポイントは、「狭義の強制性はなかった」という主張は決してしないことです。なぜならその主張は、かえって国際社会に「過去の非人道行為を反省していない」との不信感を植え付け、ますます韓国側に同情を集めてしまいかねないからです。この問題の対応は、世界がどう見ているかという視点で考える必要があるのです。〉(『日韓対立の深層』2015、54頁、23-24頁) 著名な外交評論家の宮家邦彦氏は、日本の敵は日本国内の「民族主義的衝動」だと言って慰安婦問題での反論を控えよと次のように説いている。〈過去の「事実」を過去の「価値基準」に照らして議論し、再評価すること自体は「歴史修正主義」ではない。しかし、そのような知的活動について国際政治の場で「大義名分」を獲得したいなら、「普遍的価値」に基づく議論が不可欠だ。いわゆる「従軍慰安婦問題」や「南京大虐殺」について、歴史の細かな部分を切り取った外国の挑発的議論に安易に乗ることは賢明ではない。 過去の事実を過去の価値基準に照らして再評価したいなら、大学に戻って歴史の講座をとればよい。逆に、過去の事実を外交の手段として活用したければ、過去を「普遍的価値」に基づいて再評価する必要がある。歴史の評価は学者に任せればよい。現代の外交では普遍的価値に基づかない歴史議論に勝ち目はないのだ〉(『WEDGE』2015年5月号)〈日本の生き残りにとって最大の障害は中国や統一後の朝鮮ではない。日本の最大の敵は「自分自身」である。新民族主義時代における日本民族のサバイバルのためには、日本自身が普遍的価値を掲げ、自らの民族主義的衝動を適切に制御する必要がある〉〈最も重要なのが、日本の誇りある伝統を普遍的価値の論理で説明する能力を獲得すること、すなわち「保守の進化」である。日本が国際社会において守りたい価値があれば、それらを自由、民主、人権、人道、法の支配といった普遍的価値のロジックで説明していくことだ。日本が世界各国と競争しているのは国際政治であり、過去の歴史の事実関係ではない。 そのことを正確に理解しない限り、国際政治で日本の影響力を高めることは難しい。イルカ、捕鯨、慰安婦……ナショナリズムは時に普遍的価値と対立するが、これを日本人にしか理解できないロジックで何度説明を試みても、結果は生まれない〉(『日本の敵』2015年) 彼らは慰安婦問題で韓国政府がゴールポストを動かしてきたと主張する。この議論は宮家氏が最初に使った比喩だという。しかし、外務省が事実関係で争わずに謝罪だけをしつづけてきたことで、先に日本がゴールポストを下げたのだ。1992年、宮沢喜一総理が慰安婦問題で8回謝罪した直後に私は外務省北東アジア課の幹部に、「権力による強制連行を認めて謝ったのか、貧困の結果、そのようなことをせざるを得なかった女性に人道的に謝ったのか」と質問したが、答えは「これから調べる」だった。 国際社会では、謝罪すれば非を認めたことになるし、反論しなければ相手の主張を認めたことになる。これが国際社会の普遍的ルールだ。貧困の結果、売春業に就かざるを得なかった女性たちに現在の価値観から同情し、慰安所で彼女らを戦争遂行のために使ったことを謝罪することと、性奴隷、20万人、虐殺などという明らかな虚偽に反論することは両者とも普遍的価値に立つものだ。安倍総理はその両者を同時に主張すべきだと言っている。細くて困難な道だがそれしか日本が生き残る道はない。ウソは悪いと聖書も教えている。 外務省は1日も早く、ホームページの「歴史問題Q&A」の慰安婦の項に、安倍総理が国会で答弁した事実に基づく5つの反論を掲載すべきだと最後にもう一度強調しておく。(※編集部注:本稿掲載後、外務省英語版ホームページの「歴史問題Q&A」に杉山晋輔外務審議官(当時)が国連で行った慰安婦問題の事実関係に関する発言内容のリンクが新たに追加されました。産経新聞 2016.8.20)にしおか・つとむ 昭和31(1956)年、東京都生まれ。国際基督教大学卒。筑波大学大学院地域研究科東アジアコース修士課程修了。在ソウル日本大使館専門研究員などを歴任。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)会長。著書に『金賢姫からの手紙』『よくわかる慰安婦問題』(ともに草思社)など多数。

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    韓国にやられっぱなしの日本

    経済危機にある韓国が、日本との「通貨スワップ協定」の再開を検討しているという。まもなくソウルで開かれる日韓財務対話でも議論される可能性が高いが、かつて一方的に協定を打ち切った経緯をもうお忘れか。竹島上陸や慰安婦合意の不履行など非礼の限りを尽くす韓国だが、このままやられっぱなしで本当にいいのか?

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    在米韓国系のロビー活動により米公立高校で慰安婦授業開始へ

     この7月、アメリカでの“日本軍慰安婦教育”を左右する大きな決定が下される。本誌・SAPIO3月号では、カリフォルニア州の公立高校で2017年に改訂される「歴史・社会科学」の教育カリキュラム素案に、「日本軍慰安婦」の記述が含まれていることを報じた。つまりアメリカで“慰安婦教育”が始まるということだ。 そこにはこう記されていた。〈「慰安婦」は制度化された性奴隷の実例として、また20世紀における最も規模の大きい人身売買の好例として教えることができる〉〈慰安婦全体の数の推定は様々だが、多くのものは数十万人の女性が日本軍占領期間中、こうした施設に無理やりに入れられたと指摘している〉 ──言うまでもなく日本軍による「強制連行」の事実は確認されていないし、「数十万人」という数も根拠がない。また、女性たちは常に監視され性交渉を強要されていたような「性奴隷」でもない。 カリフォルニア州教育局はこのカリキュラム案について意見集約し、7月に最終決定する予定だ。本稿締め切り時点で、「20世紀における最も規模の大きい人身売買」という部分の記述は削除される見通しだが、「性奴隷(Sexual Slaves)」の表現は残ると見られている。 カリフォルニアは教育先進州のため、もし同州で「性奴隷」の表現が用いられた教育が始まれば、アメリカ全体の高校教育に影響する可能性もある。“慰安婦教育”導入を推し進めているのは、アメリカ国内での慰安婦像設置運動で世論をあおり立てた、在米韓国系ロビー活動家たちである。 昨年末の日韓合意では「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決」が定められたはずだ。米グレンデール市内に設置された慰安婦を象徴する像と記念撮影をする韓国人ら=2013年7月、米グレンデール カリフォルニア州のグレンデール市では2013年に慰安婦像が設置されているが、同市の市長は日韓合意について支持する意向を表明しており、合意によってアメリカ発の「日本非難」の動きはブレーキがかかったように見えた。 しかし、韓国系ロビー団体は同じカリフォルニア州で“慰安婦教育”を推進すべく、日韓合意後、アメリカ国内での活動を活発化させていたのである。3月には、元慰安婦らと支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」のメンバーたちが訪米。アメリカの韓国系ロビー団体と連携して、「日韓合意反対」を訴えた。元慰安婦らはニューヨークの国連本部を訪れ、潘基文事務総長と面会。潘氏は会談後にこう述べた。「(元慰安婦の)苦しみに同情します。被害者の声を真摯に聞くことが重要です」 アメリカ、そして国連という場を利用して、「やっぱり日本は悪者だ」と国際社会に印象づけようとしているのだ。 同じ3月には、国連のザイド・フセイン人権高等弁務官が国連人権理事会での演説で、慰安婦について「日本軍による、性奴隷制度を生き延びた人々」と表現し、日韓合意を批判した。これにはすぐに菅義偉官房長官が抗議することを表明したが、国連が「日本非難」の場に利用されていることは間違いない。 SAPIO7月号の特集では、日韓合意を受けて韓国政府が日本批判を控えている中、あちこちから「反日」の動きが復活していることをリポートしているが、アメリカや国連をはじめとする国際社会では、日本を貶める活動が止まるどころか、逆に加速していると言える。 日本側は「合意したから大丈夫だろう」と悠長に構えていてはならないのだ。※SAPIO2016年7月号関連記事米軍慰安婦で問われる朴槿恵氏の「歴史と向き合わぬ国」発言米国の高校で始まる慰安婦授業「20世紀最大の人身売買」など日韓合意後も韓国内で慰安婦像が増殖している米公立高校「慰安婦授業」に問題点多数 英文・訳文紹介「息を吐くように嘘を吐く」 朴槿恵政権は信用ならない

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    稲田朋美氏を「極右」と報じる韓国マスコミ

    野田佳彦元総理。2011年に野田氏が首相に就任した時にも韓国マスコミは「日、新しい総理に極右の野田、日韓関係に暗雲?」(東亜日報)、「野田次期総理内定者は歴史認識問題において極右的思考や言動を繰り返してきた」(ハンギョレ新聞)などと、今の稲田氏に対する表現と同じような論調で野田氏を紹介した。理由は、野田氏が過去に「靖国のA級戦犯は戦争犯罪者ではない」と自身の意見を述べたことがあったためである。滋賀県米原市で街頭演説する民進党の野田前首相=2016年6月17日 また、日刊ゲンダイ。「日本の極右マスコミ、五輪出場の李承ヨプ叩き」(東亜日報)というタイトルの記事が出たのは2008年のこと。当時、プロ野球巨人軍で活躍していた韓国人の李承ヨプ選手に批判的な記事を載せた日本のメディアを「極右マスコミ」と報道したのだが、ここで東亜日報が批判したメディアが「日刊ゲンダイ」である。万が一、日本国内の媒体が「日刊ゲンダイ」を極右マスコミなどという紹介をしたら、笑いものになるか、無知を批判されるに違いない。保守政党や政権、特に現・安倍政権を最も辛辣に批判している媒体のうちの一つであるからだ。韓国にとってはその日本マスコミの全般的な「論調」よりも韓国、あるいは韓国人をどんなふうに取り扱うか、が性向を判断するための基準なのだろう。 同様の例としてAERA。2014年11月に韓国の国会図書館で開かれた「嫌韓本・ヘイト本展示会」では朝日新聞系列の雑誌AERAが展示されていた。展示されていた書籍の中身を見ると私の目には「不快」とするほどの内容ではなく、韓国の現状を報告し、苦言を呈しているといった程度の内容だったのだが、それでも、韓国の立場からは「不快」に映るものだったのだろう。韓国で「日本の良心マスコミ」と呼ばれる朝日新聞系列の雑誌であっても、ほんの少しでも韓国の逆鱗に触れれば悪玉になりうるという例である。 野田元首相や日刊ゲンダイを極右と呼ぶことからも分かるように、韓国マスコミの「極右」という表現は、韓国の神経を逆なでしたり、機嫌を損ねるような言動をした相手であることを示すための言葉であり、韓国独自の意味変化を経た結果物といえる。同様に韓国独自の意味変化を遂げた語彙としては「妄言」などが挙げられるのだが、国際的に見たときに、これらの意味に共感してくれる国はあるのだろうか? 中国、北朝鮮なら理解してくれるだろうか?韓国マスコミに期待したいのは「一貫性」「妄言政治家」から「日本の良心」へ――鳩山元総理韓国マスコミに期待したいのは「一貫性」 韓国マスコミの語彙選択についてもう一つ苦言を呈したいのは、彼らがその過激な表現を使うときに、きちんと考察したうえで絶対的な、普遍的な判断としてその語彙を使用しているわけではないということだ。どんなに過激な表現で相手をこき下ろしたとしても、その後に韓国人にとって心地よい言葉を聞かせてもらえれば、いとも簡単にその評価を一変させるのだ。 その好例が、鳩山由紀夫元総理である。2010年当時首相であった鳩山氏が「竹島は日本の領土」だと公の場で発言すると、韓国マスコミは一斉に鳩山氏の発言を「妄言」だと糾弾する批判記事を展開した。北京市内のホテルで記者団の取材に応じる鳩山由紀夫元首相=2016年6月26日 ところが、それから5年後の2015年、鳩山氏がソウルを訪問したときのことである。日本統治期に刑務所として使われていた施設を訪問したのちに、慰霊碑の前で膝をつき、日本の統治について謝罪した鳩山氏を評して、今度は「日本で最も誠実な良心であり勇気」だと一斉に称賛した。ほんの5年前に「妄言政治家」だと批判を繰り広げたマスコミが、である。 起源を一つにする漢字語だったとしても、あるいは発音まで全く同じ単語だったとしても、国が変わり、時代が変われば少しずつ意味にずれが生じ、場合によっては全く違う意味の言葉として使われるようになることもあるだろう。もっと言えば、同じ地域に住んでいる人同士でも、性別、年齢、あるいは個人差で微妙に違うニュアンスをもって言葉が使われることだってある。 だが、それを考慮したにしても、日本の与党も野党も、保守紙もリベラル紙も、その一時の状況次第で「極右」と批判してはばからない韓国マスコミの語彙選択には疑問が残る。せめてもう少し「一貫性」を求めずにはいられないのは私だけだろうか。

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    ミサイル配備が示した朴槿恵大統領の対中外交政策の転換

    [世界潮流を読む 岡崎研究所論評集]岡崎研究所 ウォールストリート・ジャーナル紙の7月13日付社説が、THAAD(高高度防衛ミサイルシステム)の韓国配備決定を、韓国防衛、同盟強化の観点から支持するとともに、これを機に中国は対朝関係を見直すべきである、と述べています。要旨、以下の通り。中国特有の高圧的な警告 韓国による米のTHAAD(高高度防衛ミサイルシステム)の展開決定は、中国にとり打撃である。中国は、中国特有の高圧的な方法で、必要な対応措置を取ると韓国に警告してきた。習近平は朴槿恵に「慎重に扱う」よう告げてきた。 他方で、中国は最近第4回目の核実験や十数回にわたるミサイル実験をしている北朝鮮を抑えることを拒んできた。3月の韓国アサン研究所の世論調査によると74%がTHAAD配備を支持している。朴槿恵は決定にあたって韓国の将来と北の核、ミサイル脅威から国民の生命を守ることが最重要だと述べた。中国は決定を非難したが、未だ報復はしていない。貿易や観光分野で報復をするのではないかとの懸念により韓国化粧品企業や観光企業の株価は下落した。過去に中国は韓国に対して経済報復をしたことがある。 中国がすべきことは北朝鮮支持を再考することだ。金正恩体制は米を懸念させてはいるが、中国の目的であるアジアでの米の能力と同盟の弱体化にはなっていない。韓国の決定により日米韓の協力は強化されている(日本には既に補完的なレーダーシステムがあり今後インターセプターも配備されるかもしれない)。また日米韓三国は先週ミサイル防衛の演習を実施した。THAADは来年末までに実戦配備される。それまでに中国が中朝同盟のコストを知ることになれば、この配備は北のミサイルへの防衛以上の意味を持つだろう。出典:‘South Korea’s Message to Xi Jinping’(Wall Street Journal, July 13, 2016)http://www.wsj.com/articles/south-koreas-message-to-xi-jinping-1468448100 ここ数年米韓、また中韓の間で問題になってきたTHAAD配備がようやく決着したことは歓迎すべきことです。7月8日の決定により、THAAD一基が来年末までに慶尚北道星州(韓国中央部の大邱の西方。韓国空軍施設がある)に実戦配備されます。THAADは飛来するミサイルを、PAC3と比べてより早期にかつより高度で迎撃できます。韓国の報道によれば配備されるTHAADはレーダーと射撃統制装置(発電機含む)、発射台6台、インターセプター48発(発射台あたり8発。最大射程200キロ)で構成されているといいます。韓国政府はインターセプターの追加導入の可能性も示唆しています。中国への傾斜を止めた朴槿恵 北朝鮮、中国、ロシアは配備決定に強く反発しています。中国は当初からレーダーの探知距離(1000~2000キロと言われるので北京も入る)などに鑑み猛烈に反対してきました。ロシアも反対してきました。かかる状況に鑑み、配備決定の米国防総省声明は、これは北朝鮮の脅威に対処するものであり、「いかなる第三国に向けられるものでもない」と述べました。さらに配備地について韓国報道は「THAAD配備地域を慶尚北道星州に決めたのもTHAADレーダーの探知範囲が中国内陸に届かないよう配慮した側面が大きい」と述べています。他方、配備地が南に下がったためソウルがカバーされなくなったので、韓国はソウルに別途PAC3を配備すると言われています。中国への傾斜を止めた朴槿恵 ここ数年迷走してきた韓国の外交・安保政策の経緯はともかく、何とかここに至ったことは良いことです。あれほど中国に傾斜してきた(1年足らず前の対日抗戦勝利式典では習近平と共に天安門の壇上に立っていた)朴槿恵を突き動かした最大の要因は、過去1年の北朝鮮の相次ぐミサイル発射と北朝鮮のミサイル技術の進展です。厳しさを増す安保環境を背景に、安保派が外交派に勝ったともいえます。現に尹炳世外交部長官は最後まで反対したと報じられています。外交部は「事実と異なる」と否定しましたが、あながちありえないことではありません。 来年末までの実戦配備に向けて着実に作業が進められることが期待されます。しかし、二つの問題があります。一つは韓国国内政治です。今や世論の半分はTHAAD展開に理解を示し、大手メディアも展開を支持する社説を書いています。しかし、住民の反対運動は激しくなる様相を示しています。野党や運動家なども攻勢を強めています。ハワイ・カウアイ島で行われたTHAADの発射実験=2010年6月 もう一つの問題は対中関係です。中韓関係は、今後双方で緊張に振れる可能性が高いでしょう。中国は必要な戦略上の措置を取ると警告しています。今韓国の人々が最も恐れるのは中国の報復措置です。2000年に韓国が中国産の冷凍ニンニクなどの関税率を引き上げたところ、中国は猛反発、韓国からの携帯電話やポリエチレンの輸入を中断する報復措置をとり、結局、韓国側が関税率を元に戻すことで問題を落着させざるを得ませんでした。 韓国では中国の強硬な立場に不満が募っています。中韓関係のこれまでの蜜月はどこへ行ったのかと問う声があり、一方で政府の対中外交は何だったのかと政府批判の声もあります。韓国が送り込んだアジアインフラ投資銀行(AIIB)副総裁が国内での収賄疑惑のため休職にされるなど、対中関係は既にギスギスしてきています。

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    少女像移転は条件ではない、慰安婦映画と支援財団を考える

    力する」と表明したのである。少女像の移転が資金拠出の条件だなどとは一言も言っていない。 慰安婦問題が日韓関係の中心課題となったここ数年の間に、少女像は日韓両国において正反対の意味合いを持つシンボルと化してしまった。いくら朴大統領が剛腕だといっても、簡単に突っ走れるのは財団設立までだろう。少女像の移転は極めてハードルが高い。それが、専門家の多くが当初から抱いてきた見立てだ。朴槿恵政権は合意を守ろうとしている それでも朴槿恵政権は、驚くほど合意の精神を守ろうと無理を重ねている。韓国・京郷新聞によると、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産に慰安婦の関連資料を登録しようとする民間団体に対する資金助成が今年の政府予算に計上されていたものの、実際にはまったく執行されていない。韓国の予算は1月から12月までの暦年なので、予算の策定は合意前、執行は合意後ということになる。さらに、韓国政府が鳴り物入りで進めていた「慰安婦白書」は、昨年12月刊行予定だったのに現在も出ておらず、見通しも不透明になっている。当初は、日本語・英語・中国語版も出すという話だったのだが、外国語版は既に白紙化されたという。韓国政府が2014年から慰安婦問題をテーマに開いてきたシンポジウムなどの啓発活動も見直され、今年のテーマは「女性の人権」に変更された。朴槿恵政権に批判的な進歩派である京郷新聞は、こうした姿勢を痛烈に批判している。8月15日、日本統治からの解放を祝う「光復節」で演説する朴槿恵大統領(AP) 元慰安婦たちは既に平均年齢90歳になっている。昨年末の合意時点では46人が存命だったが、7カ月の間に6人が亡くなった。日本政府から100点満点の対応を引き出さねばならないなどと言っていたら、存命の方が誰もいなくなってしまう。一人でも多くの方が存命の間に支援事業を実現させたいというのが、関係者に共通した思いだ。韓国政府の説明によれば、財団側が接触できた37人の元慰安婦の多くは財団に参加する意思を表明したという。認知症などで本人の意思を確認できず、家族との対話となった人もいるようだが、それは仕方ないと考えるしかないだろう。とにかく支援事業の実施は急がれるのである。 日本が10億円を拠出するのは、前述したように明確に合意でうたわれている。合意に入っていない少女像を問題にして資金拠出を先延ばしにするような対応をすれば、「日本が合意を壊そうとしている」ということにしかならない。日韓合意は国際社会に認知されているだけに、それは日本のイメージ低下につながる。昨年末の合意を「最終的かつ不可逆的な合意」にしたいのならば、速やかに10億円を拠出したうえで、財団の行う事業に協力していかなければならないだろう。

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    韓国は110年前に竹島の領有権を放棄した? 謎多き「石島」の真実

    著者 茶阿弥(ブログ「日韓近代史資料集」管理人 九州在住)はじめに 日本と韓国との間の竹島領有権問題は、1952(昭和27)年1月に韓国が「李承晩ライン」を設定し、その中に竹島を取り込んだことから始まった。竹島(韓国では「独島」と呼ぶ)は江戸時代には日本人が自由に利用していた歴史的事実があり、さらに1905(明治38)1月に明治政府は閣議決定によって竹島を公式に日本の領土とした。その間、朝鮮・韓国の政府が竹島に関与したことは何もなかった。   しかし今、韓国政府は「独島は、歴史的・地理的・国際法的に明らかに韓国固有の領土です。独島をめぐる領有権紛争は存在せず、独島は外交交渉および司法的解決の対象にはなり得ません」とした上で、「1905年日本による独島編入の試みは長きに亘って固く確立された韓国の領土主権を侵害した不法行為であるため、国際法的にも全く効力がありません」(韓国外務部『韓国の美しい島 独島』)と述べ、国際法上正当な日本の竹島領土編入を、韓国の領土であった島を日本が不法に奪取したものとして非難する。 しかしながら、実は日本の竹島領土編入から約1年後の1906年、韓国政府(当時は大韓帝国政府)は日本が竹島を領土としたことに異議がないと解釈される文書を発していた。このことは一般にはあまり知られていないと思われるので、本稿で紹介してみたい。産経新聞社が昭和28年12月に撮影した竹島。現在ある韓国の工作物は見当たらない「鬱島郡の配置顛末」  1906年7月13日付の韓国の皇城新聞に「鬱島郡の配置顛末」という見出しの記事がある。文面を現代日本語に訳すればおよそ次のようなものである。鬱島郡の配置顛末 統監府から内務部に公函があって、江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡庁の設置年月を示せということなので回答が行われ、光武2年5月20日に鬱陵島監を置いたが、光武4年(1900年)10月25日に政府会議を経て郡守を配置した。郡庁は台霞洞にあり、当該郡の所管島は竹島・石島で、東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里だということである。 この記事によれば、1906年7月上旬ごろ、当時韓国に置かれていた日本の韓国統監府から韓国政府内務部に宛てて鬱陵島に関する照会があった。照会事項は「鬱陵島の所属島嶼」と「郡庁の設置年月」だという。これに対する回答内容は、鬱陵島には1898年から「島監」という名称の行政責任者を置いていたが、1900年に政府の決定によって新たに「郡守」を置くこととなったこと、郡庁の所在地は台霞洞(「洞」は「村」のような意味)にあり、郡の付属島嶼は「竹島と石島」であることを述べ、最後に「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」という一読しただけでは何を意味しているものか読み取りにくい説明が付されている。 この回答は、基本的には1900年10月27日施行の大韓帝国勅令第41号を説明したものだ。この当時、鬱陵島には多くの日本人が不法に越境渡航して、勝手に古木を伐採搬出したり韓国人島民を圧迫するなどの行為が行われていたため、韓国政府としては鬱陵島に対する監視を強化する必要性を感じていた。その方策の一つとして制定された法令が勅令41号「鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正する件」で、そこでは鬱陵島を「鬱島郡」に格上げして郡守を置くこととし、「郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄する」と規定された。   このように、前記の新聞記事にある回答内容はほとんど勅令41号をそのまま説明したものなのだが、末尾の「東西が60里・・・・・・」の部分は勅令に規定されたものではなく、回答する際に独自に付け加えられたものと見える。韓国政府の「石島=独島」説韓国政府の「石島=独島」説 ところで、この勅令41号は、現在の韓国政府の竹島/独島領有権主張の大きな根拠とされている。前記『韓国の美しい島 独島』では韓国に竹島/独島の領有権がある根拠として、韓国は古くから竹島/独島を鬱陵島の付属島嶼として認識してきたこととともに、「大韓帝国は、1900年の勅令第41号において独島を鬱島郡(鬱陵島)の管轄区域として明示し、鬱島郡守が独島を管轄しました」と述べ、勅令41号によって竹島/独島を公式に韓国領土として扱うことになったことを強調している。つまり、勅令に管轄する島として明示された「石島」がすなわち竹島/独島のことだというのだ。隠岐・島後の白島展望台にある竹島までの距離標識=島根県隠岐の島町 もう一つの管轄の島である「竹島」は、名称が竹島と同じなので紛らわしいが、これは鬱陵島の東方2キロほどの位置にあって「竹島(チュクト)」と呼ばれる島のことだというのは日韓双方の研究者に異論はないので、これは問題とならない。   問題は「石島」のほうで、実は竹島/独島あるいは鬱陵島の歴史において「石島」という名称はこの勅令においてだけ突然に現れ、その後消えてしまって現在は使われない名称だ。しかも、勅令41号が決定される際の一件書類には地図は添付されていなかったようだし、管轄する「竹島、石島」が具体的にどの島を指すのかという記述も特にないことから、「竹島」については前記したように「竹島(チュクト)」のことだということで日韓双方が一致しているものの、「石島」が何を指しているかは意見が分かれる。「石島」は謎の島なのだ。 韓国側ではこの「石島」とは、独島(ドクト)が方言で「石の島」という意味なのでその意味を取って漢字では「石島」と表記したのであってまさに独島を指しているというのだが、これはいかにも説得力に欠け、日本側研究者の間では石島は鬱陵島の東北部に近接して存在する現在「観音島」と呼ばれている島のことだと推定する見方があり、双方の見解は対立している(現実の地理としては、鬱陵島の近辺で「島」というほどの大きさのものは竹島と観音島の二つなので、勅令でもこの二つを規定したと見るのが最も自然だ)。「石島」は竹島/独島ではない「石島」は竹島/独島ではない ところが、この問題に対して本件新聞記事の中の「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」という記述が答えを提供することとなった。この一文を読めば、たいていの人はこれは長方形の四辺について述べたものだと解釈するのではないだろうか。この一文は、統監府の質問のうちの「鬱陵島の所属島嶼」に対応しているように見える。つまり、所属島嶼はどこどこかと質問されて、所属島嶼は「竹島」と「石島」なのだがそういう名前の回答だけでは位置関係が全く分からないから、それは「東西60里、南北40里、合わせて200余里の長方形の範囲にある」と回答したのだと読むのが自然な読み方だろう。つまり、鬱陵島とその付属島嶼の範囲――それはすなわち「鬱島郡」の範囲だが――をそういう形で回答したものと考えられる。 朝鮮の1里は0.4キロという。そうすると鬱島郡の範囲は東西24キロ、南北16キロの枠の範囲であり、鬱陵島自体の大きさは東西・南北ともおよそ11キロ程度なので、鬱島郡の付属島嶼は鬱陵島からそれほど離れていないということになる。ところが竹島/独島は鬱陵島からおよそ90キロも離れている。ということは、勅令に規定された「石島」は竹島/独島ではないことが、言い換えれば、韓国政府が唱えている主張がウソ偽りであることが、この新聞記事から明らかになってしまったという状況がある。 この「鬱島郡の配置顛末」の記事は、「杉野洋明 極東亜細亜研究所」というブログにおいて「本邦初公開?大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠」という題の記事で2008年2月2日に紹介され、同月22日付の山陰中央新報でも「「石島=独島」説否定の記述見つかる」という見出しで報道されたことから、竹島問題に関心を持つ人たちの間では一躍有名になった。また、2014年3月に発行された『竹島問題100問100答』(島根県第3期竹島問題研究会編)においても、そのQ37において「・・・・・回答により1900年、大韓帝国勅令の「石島」が竹島ではないことが確認された」と紹介された(このように韓国政府の主張を正面から否定する史料があるとなると、さすがに韓国側の研究者たちも無視できなかったようで、いくつかの反論らしきものが提出されているが、いずれも説得力のあるものではない)。   以上のように、「鬱島郡の配置顛末」の記事は韓国政府の竹島/独島領有権主張の大きな柱である「石島=独島」説を否定するという重要な意味のあるものだが、そのこととは別に、この記事にある照会と回答が行われた経緯を探っていくとさらに重大な意味が浮上する。統監府がなぜ1906年という年に、鬱島郡の設置という一見したところではどうでもいいようなことを韓国政府に質問したのか、ということだ。1906年のできごと1906年のできごと 日本の竹島領土編入決定は1905(明治38)年1月のことだった。編入に当たって、明治政府は竹島を領土とすることについて韓国政府に対して事前通知も事後通知もしなかった(国際法上、そういうことが求められていたわけではない)。そうして約1年が過ぎた1906年3月28日、島根県の神西由太郎部長一行が新領土となった竹島を視察した後に鬱陵島を訪問するという出来事があった。部長一行は郡庁に郡守沈興沢を表敬訪問したのだが、そのとき一行は「このたび竹島が島根県の管轄になったので視察したのだが、そのついでにここ(鬱陵島)に立ち寄った」という趣旨のあいさつをしたという。このことによって、竹島が日本領となったことが初めて韓国側に伝わることとなった。 これに対応した郡守沈興沢は、竹島/独島が日本領になったということを聞いても特段の反応を見せなかったが、その翌日付で上司に宛てて有名な次のような報告書を発した。 本郡所属独島が本郡の外洋百余里外にあるが、本月四日に輸送船一隻が郡内の道洞浦に来泊し、日本の官人一行が官舎に来て自らいうに、独島がこのたび日本領地となったので視察のついでに来訪したとのこと。その一行は、日本島根県隠岐島司東文輔及び事務官神西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山巌八郎、巡査一人、会議員一人、医師・技手各一人、その外随員十余人だった。まず戸数、人口、土地生産の多少について質問し、また人員及び経費の額など諸般の事務を調査して記録して行った。以上報告するのでよろしくお取り計らい願う。(注:「本月四日」は旧暦によっている) 報告の冒頭にあるように、郡守沈興沢は理由は不明ながら独島/竹島は「本郡所属」だと認識していた。この報告が政府に届いた後、その報告に接した内部大臣李址鎔は、「独島を日本領土というのは全然理がないことで、甚だしく驚愕する」と反応し、参政大臣朴斉純は「報告は見た。独島が日本の領地になったというのは事実無根のことだが、その島の状況と日本人の行動を更に調べて報告せよ」と指示したりしたが、複数の新聞もこの報告を報道した。韓国が不法占拠を続けている竹島(聯合=共同) 1906年5月1日付大韓毎日申報は「無変不有」(変無きにあらず)という見出しで「鬱島郡守沈興沢が政府に報告したところによれば、日本の官員一行が本郡に来到し、本郡所在の独島は日本の属地だと自ら称し、地界の広狭・戸口結摠をいちいち記録して去ったとのことだが、内務部からの指令によれば、遊覧の際に地界・戸口を記録して行くのは容或無怪(理解できないでもない)だが、独島を日本の属地と云うことは必無其理(全く理が無い)ことなので、今こういう報告を聞いて甚渉訝然(非常に疑念を感じる)であるという」と報じた。 また、同月9日付皇城新聞は、「鬱倅報告内部」(鬱島郡官吏から内務部への報告)という見出しで「鬱島郡守沈興沢氏から内務部への報告によれば、本郡所属の独島は外洋百余里の外にあるが、本月四日に日本の官吏一行が官舎に来ていうには、独島が今日本の領地になったので視察のついでに来到した。一行は、日本島根県隠岐島司東文輔及び事務官神西田太郞と税務監督局長吉田坪五、分署長警部影山岩八郞と巡査一人、会議一人、医師・技手各一人、その他隨員十余人で、戸数人口、土地の生産の状況と人員及び経費の状況、諸般の事務を調査記録して帰ったという」と報じた。 二つの記事のいずれも、沈興沢が報告したとおりに「鬱島郡の所属である独島が日本の領地になった」という報道をしている。加えて、大韓毎日申報のほうは内部大臣が「独島を日本領土というのは全然理がないこと」と反応したことも伝えている。つまり「大韓帝国の領土である独島が日本の領土になった、これは不当なことだ」という意味のニュースが世に出たことになる。 そして、その後に、統監府から韓国政府に対して鬱島郡に関して照会があり、これに対する韓国政府の回答が出され、その回答が同年7月13日付皇城新聞に掲載されたという経過になる。 このような経過を見れば、統監府がなぜ鬱島郡の設置に関して質問したのかは明らかだろう。「大韓帝国の領土が日本の領土になった」という意味のニュースが出たことに対して、日本が領土編入した竹島は本当に鬱島郡の管轄下にあったのかどうかを確認しようとしたのだ。 そういう動機から照会したのだということは何かの史料によって立証できるわけではない。しかし、そう考えればつじつまは合うし、逆に、そういう動機を除外して、他に過去の鬱島郡設置の決定について質問する理由というものは見当たらない。だから、統監府の照会の動機・目的は竹島/独島が本当に鬱島郡の管轄下にあったのかを確認するためであったと見てまず間違いないと言える。照会を受けた韓国政府としてもそういうことを感じただろう。   仮にそうでないとしても、韓国政府としては「大韓帝国の領土である独島が日本の領土になった、これは不当なことだ」という認識でいるところに、統監府から「鬱島郡の範囲はどこまでですか」という意味の質問が来たということになるから、いずれにしても、回答するにあたっては沈興沢の報告を十分に念頭に置いて回答をするということになったはずだ。決着していた竹島問題決着していた竹島問題 ところがその回答は、鬱島郡の付属島嶼は「竹島、石島」で郡の管轄範囲は付属島嶼を含めても「東西24キロ、南北16キロ、合わせて80キロの長方形の範囲にある」という意味のものだった。これは、問題となった竹島/独島は鬱島郡の管轄範囲にはないことを認めたものだ。「大韓帝国の領土である独島が日本の領土になった、これは不当なことだ」という認識でいたはずなのに、現実には独島は管轄下にはないという意味の回答をしたのは、おそらく鬱島郡の設置を定めた勅令41号を改めて点検した結果、その勅令には「外洋百余里」にある独島に関する規定など何もないことを確認したからなのだろう。独島は鬱島郡の付属島嶼だというだけの根拠がなかったのだ。 そして、独島/竹島が日本の領土となったことを知った上で、その独島は鬱島郡の管轄下にはないことを認めたということは、すなわち日本の竹島領土編入には韓国政府として異議がないことを表明したことになる。1905年の日本の竹島編入は、沈興沢の報告のために、韓国の官民に一時的に「日本が韓国の島を奪った」という間違った理解を引き起こしたものの、その後の韓国政府の再検討によって、その理解は間違いであり韓国政府として異議を唱える話ではないという形で了解されたのだ。つまり、日本の竹島編入には韓国政府も異議がないという形で竹島問題は1906年に既に決着していたことになる。 なお、そもそも沈興沢がなぜ竹島/独島を「本郡所属」と思っていたのかその理由は不明なのだが、その当時、鬱陵島に住む日本人が鬱陵島の韓国人漁夫たちを連れて竹島/独島に出漁することが行われていたので、郡守である沈興沢は当然そういうことを知っていて、鬱陵島から竹島/独島に行って帰って来るのだから竹島/独島は鬱陵島の付属の島だと考えるようになったのではないかと筆者は推測している。   そういう考えを持つのは現地の責任者としては自然なことかも知れないが、中央政府において竹島/独島を領土として支配管理するための何かの措置が取られていたことはないし、それどころか、中央政府は沈興沢から報告を受けるまで竹島/独島という島があることすら知らなかったのが実情だ。だから、鬱島郡守個人が竹島/独島についてどういう認識を持っていても、国家としての領有権には全く関係のないことだった。おわりに 現在、韓国人たちは大統領からマスコミ、さらにはネットで発言する個人に至るまで、日本人に向かって「歴史を直視せよ」と繰り返し言う。だが、本当に歴史を直視できていないのは韓国のほうであることを今や多くの日本人が知っている。「鬱島郡の配置顛末」も韓国人たちが歴史を直視しないことの一つの現れだ。韓国政府は今から110年も前に日本が竹島を領土とすることに異議がないという姿勢を表明していた。しかし今はそういうことも忘れ去り、「独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲である」などと言いながら日本の正当な領有権主張を非難する。だが事実はそうではない。歴史資料をまじめに見ていけば、竹島問題に関する韓国側の主張は嘘ばかりであることが明らかになるものなのだ。 ただ、「鬱島郡の配置顛末」は新聞記事だ。そして、そこで報道されたところの韓国政府からの回答文書そのものは確認されていない。だから、事実関係を確定させる上での証拠力という点では若干劣るかも知れない。しかし、この新聞記事が虚偽ないし間違いであると言える根拠もないから、日韓間で竹島/独島をめぐって論争を行う上で無視できるものでもない。この記事の「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」の解釈について、これは鬱島郡の範囲を述べたものではないという趣旨の反論が韓国人の論者から提起されている。筆者は3人の反論を読んだことがあるが、そこでは、3人が一致して同じ点を指摘するのでなく、3人三様の説明がなされているのは、この記事に対して有効な反論がないことを示唆しているように見える。 「鬱島郡の配置顛末」の記事は一般にはそれほど知られていないようだが、実は二つの面で大きな意味のある史料だ。本稿が竹島問題に関心を持つ人の論点理解に多少なりと役立つならば幸いに思う。 (平成28年6月26日 記)

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    竹島は「わが国固有の領土」ではないのか

    だが、最近、この「竹島は日本固有の領土」という日本政府の説明に辛辣な批判を加える『竹島―もうひとつの日韓関係史』(池内敏氏著、2016年1月、中公新書) という本が出版された。この本は、古代から現代に至るまでの日韓両国の竹島関連の歴史史料を多数引用し、竹島(韓国では「独島」と呼ばれる)領有権に関する日韓両国政府の主張の妥当性を検証したもので、「誰が分析しても同一の結論に至らざるを得ない、歴史学の到達点を示す」と紹介している(表紙裏)。 この本の大きな特徴は、日韓両国の主張のいずれに対しても否定的なことである。著者(池内敏氏。以下同)は、韓国政府の主張に対しては、例えば、朝鮮の古文献・古地図にしばしば現れる「于山(ウサン)島」が竹島(独島)であって朝鮮は古くから竹島(独島)のことを「于山島」として認知して朝鮮の領土として扱って来たのだとする韓国側の主張(「于山島説」)についてはそれは成り立たないとし、また韓国政府が1900年の大韓帝国勅令第41号で竹島(独島)を「石島」という名前で公式に行政管轄権の範囲にあるものと規定して官報で公示したとする主張(「石島説」)についても、いまだそれが直接的に証明されたことはないとし、韓国側の重要な論拠をいずれも否定する。 一方、日本政府の主張に対しても、まず、「日本は17世紀半ばには竹島の領有権を確立しました」(外務省「なぜ日本の領土なのかがハッキリ分かる! 竹島問題10のポイント」)という説明に対して、日本人が今の竹島(竹島は江戸時代には「松島」と呼ばれていた)に行き来することに中央政府である徳川幕府から公式の許認可があったことは論証不可能なので、この外務省見解は「致命的な弱点を抱えている」という。 また、元禄9(1696)年に幕府が鳥取藩あてに発した元禄竹島渡海禁令(江戸時代の日本では朝鮮の鬱陵島が「竹島」と呼ばれていたが、その竹島への渡海を禁ずるもの)においても、また天保期に幕府の指示で全国各地に高札が立てられた竹島(鬱陵島)への渡航を禁ずる指示(天保竹島渡海禁令)においても、今の竹島への渡海を禁止することを明示する文言はないが、これら禁令が発された経緯を詳細に見ていけば今の竹島への渡航も禁止する趣旨が含まれていたのは明らかで、これら禁令によって我が国は竹島(今の竹島)の領有権を放棄したことは否定できないという。 さらに、明治10(1877)年、ときの最高国家機関である太政官が、島根県から提出された質問について朝鮮の鬱陵島とともに今の竹島についても「日本領外」と判断する指令を下したという。つまり、著者の見方では、日本のそのときどきの中央政府が今の竹島は日本領ではないことを何度も確認してきたということになる。 明治38(1905)年に明治政府が今の竹島を「竹島」という名称で公式に島根県の区域に領土編入する手続きを取ったことは、日本側の竹島領有権主張の最重要ポイントなのだが、著者は、日本政府は編入決定の前に韓国に対して事前照会をしておらず、仮に事前照会をしていたならば、韓国としてもそのころには竹島(独島)に対する領有意識を芽生えさせていたのだからおそらく紛糾が生じたはずだと推測する。そして、戦後の日本の領土範囲を決定したサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領として残ったのだが、このことに関しても著者は、もし1905年時点で竹島編入をめぐって日韓両国間に紛糾があったとすれば、サンフランシスコ講和条約の起草に際してもその紛糾が考慮され、条約で竹島が日本領として残ることにはならなかったかもしれないという推測を述べる。 以上のような検討を経て、著者は「日本側・韓国側の主張には、どちらかが一方的に有利だというほどの大きな格差はない」と結論付けた上で、「日本人・韓国人を問わず、自らの弱点を謙虚に見つめ直し、譲歩へ向けて勇気をふるうことが、いま求められているのではないか」という提言で本をまとめる。 このような主張を載せた『竹島―もうひとつの日韓関係史』は、メディアにおいても、ネットに現れた個人の感想においても、「竹島問題を感情論を排して理解するのに最適」(週刊エコノミスト、2016年2月16日号)などのようにかなりの高評価を得ている。確かに、さまざまな歴史史料を引用しつつ細やかな議論を展開――それも、日韓両国政府の主張に対して共に批判的な観点から――する本書は、一見すれば、本のオビにあるように「思い込みや感情論を排した歴史学による竹島の史実」を書き表したもののような印象を与える。しかし、実際はそうではない。欠けている国際法からの観点欠けている国際法からの観点 竹島問題とは竹島の帰属をめぐる領土問題であり、現代の領土問題というものは国際法にしたがって解釈される。そして、国際法では、ある土地がその国のものかどうかというときに、その国家の統治権(立法権、司法権、行政権)が実際にその土地に対して継続的かつ平穏に及んでいる(いた)かどうかが基本的な判断基準になる(「平穏に」というのは他国からの異議や抗議を受けることなしに、ということを意味する)。竹島が日本固有の領土であることを訴える看板=島根県隠岐の島町布施 そういう国家としての現実の合法的支配という観点から見た場合、竹島は1905年に日本政府が日本領とすることを決定し、その後、隠岐島庁の管轄とする決定、官有地台帳への登録、官有地の貸付け及びそれに伴う使用料の徴収など日本の統治が韓国からの異議・抗議を受けることなく現実に行われてきたという史実がある(つい最近では、昭和9年~13年にかけての竹島一帯でのリン鉱石試掘権の認可に関する資料が確認されたという島根県の発表もあった)。 これに対し韓国側には、独島(竹島)を領土としていたという主張はさまざまあるものの、何一つ証明されるものはない。すなわち、日本には竹島の領有権を主張できるだけの国際法上の十全の根拠があるのに対し、韓国側には全くそういうものがない、という決定的な差がある。加えて、サンフランシスコ講和条約で竹島は日本領であるということが確定している。竹島領有権論争は終わったも同然といえるほどの状況にあるのである。 しかし、本書『竹島―もうひとつの日韓関係史』においては、日本による1905年の竹島領土編入決定について一応の紹介はなされるものの、日本と韓国にはそういう国家による統治の有無という重大な差異があることに着目することなく、日韓の主張に「大きな格差はない」と論じたり、「もし事前照会をしていたならば」という仮定に立って考察を進めるのである。 歴史史料を正確に解釈することは無論大切なことだが、竹島問題が領土問題である以上、その考察は国際法に基づいた検討を軸として進めるべきであり、歴史史料もその中で活用されるべきだろう。本書ではそういうことがほとんど考慮されず、竹島にまつわるさまざまな歴史的出来事が紹介されているものの領土問題とは関係のないことがらも多く、領土問題の解説書としてはピントが外れている。 加えて、本書でさまざま述べられる歴史的事実の解釈や評価それ自体にも、明治10年太政官指令の意味をはじめとして指摘できる問題点は多々ある。この稿でいちいち触れることはできないが、一つだけ、先にも述べた天保竹島渡海禁令の例を挙げておこう。渡海が禁止されていた竹島(鬱陵島)へ密航する者が現われた事件の再発防止策として幕府から全国に指示された禁令には、渡海を禁止する対象として「異国」のほかには「竹島」(鬱陵島)のみが記されていた。高札に書かれたこの指示を見た全国の民は、誰しも禁令の意味を「竹島(鬱陵島)というところには行くなと言っているのだな」と理解したはずである。 しかし、著者は、禁令が発された経緯を詳細に見ていけば、高札に明記されていなくとも今の竹島(当時は「松島」)への渡海も禁止されていることが明らかであるという。このように、通常の常識で考えて理解しがたい考察が本書には見られる。「誰が分析しても同一の結論に至らざるを得ない、歴史学の到達点を示す」というキャッチ・コピーがあるものの、本書は著者の独自の観点からの考察に満ちている。自らの「弱点」を見つめて互いに「譲歩」をという提言もあるが、実際には「譲歩」すべしということに結びつくような「弱点」が日本側にあるわけでもない。「固有の領土論」に対する批判「固有の領土論」に対する批判 外務省の広報文「なぜ日本の領土なのかがハッキリ分かる! 竹島問題10のポイント」を見れば、冒頭の「竹島の領有権に関する日本の一貫した立場」という見出しのもとに、一番に「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに日本固有の領土です」と述べている。この表現が教科書にも記載されることになったわけだ。この「竹島は日本固有の領土」という説明に対する批判を行うことが『竹島―もうひとつの日韓関係史』のメインテーマと思われるのだが、そこにおいても著者の独自の観点からの考察という色合いは強い。本書の終章「固有の領土とは何か」に述べられる著者の主張を要約すれば、およそ次のようなものであろう。8月15日、島根県の竹島に上陸し、万歳する韓国の国会議員ら(聯合=共同) かつて、日本政府は竹島問題が発生した直後の1950年代から韓国政府との間で数次にわたる文書往復による竹島領有権論争を行った。そのうちの1962年の日本政府の文書に「日本政府は、竹島が古くより日本固有の領土であると従来から明らかにしてきた」という文章で竹島は「日本固有の領土」という表現が初めて現われるが、そのころはこの言葉は「歴史的に古い時代から日本のものである」という意味で用いられていた。しかし、この主張は歴史的史料から論証することは不可能なことであって、既に破綻している。そして、近年においては、1905年1月の竹島日本領編入が国際法に基づいて正当になされたという前提に立って、それより前に韓国によって支配された史実が証明されない限り、竹島は「日本固有の領土」なのだという用い方がなされている。同じ「日本固有の領土」という言葉であってもその意味は変化している。 しかし、日本政府(外務省)は中身の異なる二つの「固有の領土」論の「併存」を「放置」している。それは、一つには、「歴史的に古い時代から日本のものである」という古い用法を残すことは、「固有の領土」という言葉によって「過去よりずっと自分たちの領土でありつづけてきた」という印象を国民に容易に与えることができるし、一方、近年の用法は、韓国側が明治政府の竹島日本領編入は日本帝国主義の侵略行為の一環であったと批判してくることに対してその議論を回避できるからである。二つの「固有の領土」論の「併存」は国内用と対韓国用として役割分担をしており、竹島をめぐる歴史、ひいては日韓の近現代史から日本人の目をそらせる役割をしている。 本書のこういう批判の下敷きとなった同じ著者の論文『「竹島は日本固有の領土である」論』(一般財団法人歴史科学協議会会誌『歴史評論』785号=2015年9月号)では、右のような論を展開した最後に、「日本固有の領土」という主張は「放棄すべき対象でしかない」という結論が述べられている。本書にはその言葉はないが、論旨は同じであるから結論としてはやはり「放棄すべき」という気持ちが込められているのだろう。 とすれば、日本の政府は放棄すべきほどの間違った有害な概念を国民に広報し、また教科書に反映させているのだろうか。「竹島は日本固有の領土」の意味「竹島は日本固有の領土」の意味 「固有の領土」という言葉の定義については、「衆議院議員鈴木宗男君提出南樺太、千島列島の国際法的地位などに関する質問に対する答弁書」(平成17年11月4日 内閣総理大臣小泉純一郎)というものがあって(衆議院のホームページで読める)、そこでは「政府としては、一般的に、一度も他の国の領土となったことがない領土という意味で、『固有の領土』という表現を用いている」「竹島は、我が国固有の領土である」という答弁が行われている。この二つの答弁を組み合わせれば、「竹島は、一度も他の国の領土となったことがない我が国の領土である」ということになる。この言い方に何か不自然なところがあるだろうか? これは史実の通りのことなのだ。韓国が不法占拠を続けている竹島=島根県隠岐の島町(聯合=共同) ただ、「固有」という言葉からは「元々の」とか「本来の」あるいは「昔からの」という意味が自然に連想されるし、実際、前記のとおり1962年に日本政府は韓国政府に対して竹島は「古くより日本固有の領土である」という主張も述べているのだが、日本政府のいう定義が前記のようなものだとすると、そこに「古くより」とか「本来の」という類いの意味はないということになるのだろうか。著者が言うように日本政府の意味づけが変化したのだろうか。 実はそうではない。政府が使う用語は意味がはっきりしていないといけないので「一度も他の国の領土となったことがない領土」という定義づけが行われているものと考えられる。これなら、ある土地が「一度でも外国の領土になったことがあるかないか」という判定で「固有の領土」に該当するかしないかが明確に判別できる。だから「定義は何か」と問われればそういう回答になるのだろう。しかし、「一度も他の国の領土となったことがない領土」というものは、その間にそれなりの歴史を持っているものだから、その歴史の限りではあるとしても「元々の(古くからの)日本の領土である」と表現できるのもまた当然なのである。 「元々の」とか「古くからの」という類の表現は定義に明確性を欠くので政府の公式定義には採用されないとしても、意味としては「一度も他の国の領土となったことがない領土」という定義と表裏一体のものであり、本質的には同じものなのだ。竹島の場合は江戸時代(17世紀)に日本人が竹島を利用していた史実が確認されているので、「竹島は日本の固有の領土」という意味は「竹島は、17世紀以来の、一度も他の国の領土となったことがない我が国の領土である」ということになる。これは竹島領有権紛争に関する日本政府としての主張の最終結論なのであって、そこには相異なる二つの意味など存在しようがないし、したがって場面に応じた役割分担などできるものでもない。『竹島―もうひとつの日韓関係史』で展開されている批判は、著者の独自の観点に基づくものにすぎない。竹島の歴史竹島の歴史 「固有の領土」ということに関わる範囲で、ごく簡単に竹島の歴史を振り返っておこう。 前記の外務省「竹島問題10のポイント」では、江戸時代の竹島について、日本人が利用していたことを根拠として「日本は十七世紀半ばには竹島の領有権を確立しました」と述べる。これに対し、著者は、そういう主張は歴史的史料から論証することは不可能であって立論に「致命的な弱点を抱えている」と批判する。このことについてまず触れておきたい。 著者がそう主張する理由は、江戸時代に日本人が竹島(今の竹島)を利用していた事実はあるが、ときの中央政府である徳川幕府に竹島を日本の領土として支配するという意思があったことを示す歴史史料はないから、「領有権を確立しました」という説明は全く成り立たない、ということのようである。だが、支配するという幕府の意思があってもなくても、日本人が朝鮮国からもその他のどこの国からも何の異議も受けることなく約七十年間にわたって竹島を利用してきたという史実が存在している。その状態を素直な目で見るならば、それはまさに「日本の領土」であったわけだ。外務省はそういう状態を指して前記のような説明をしているのであって、その論理に別に「致命的な弱点」など抱えているわけではない。「竹島」(現在の鬱陵島)が記されている「日本国図」 ただし、そのときに「領有権を確立した」と表現されるものは、近代国際法上求められる領土要件――先に記したが、国家の統治権が実際にその土地に対して継続的かつ平穏に及んでいる(いた)かどうか――という観点からは必ずしも万全のものとは言えず、日本人が利用していたという史実のみを根拠として他国と領有権争いをするとなると、現代においては通用しないおそれもある。 しかし、日本は後に1905年に至って竹島を国際法に則って公式に領土に編入して実効的な支配を開始したことによって、国際法上も十全の根拠を有することとなった。その間、日本という国が竹島に対して積極的な関わりをしなかった時期はあるが、著者や韓国側の研究者たちがしばしば主張する「日本の中央政権は三度にわたって竹島は日本領ではないと確認した」という史実はない。一方、韓国については、韓国政府の1952年李承晩ライン宣言によって竹島紛争が発生するまで韓国が竹島を統治した実績はなく、また日本の支配に対して抗議したという事実も確認されていない。 以上を要すれば、竹島は17世紀に事実上日本の領土となり、20世紀に入っては改めて国際法上の根拠をも備えることとなったもので、その間韓国の領土となったことは一度もない。だから「竹島は日本固有の領土」すなわち「竹島は、17世紀以来の、一度も他の国の領土となったことがない我が国の領土」と説明しても何の矛盾もない。日本政府が何かをごまかすために「固有の領土」という言葉を用いているというような批判は当たらないのである。「固有の領土」は「強調」「固有の領土」は「強調」 最後に一つ付け加えたいのだが、実は「竹島は日本固有の領土」という表現には韓国の主張に対する反論の意味が込められている。竹島について韓国が「独島(竹島)は韓国の領土である」と主張することに対して、「そうではない。韓国の領土であったことなど一度もない純然たる日本の領土である」と反論し、明らかな日本の領土であることを強調する表現なのである。竹島紛争がないならば「竹島は日本固有の領土」などと言う必要はそもそもないのであって、おそらく「固有の領土」という用語が用いられる実際上の意義はこの点にあるのだろう。そして、そういう強調をするだけの領有根拠は日本側にはあるが韓国側にはない。 ただ、これを逆に言えば、「竹島は日本固有の領土」という結論は正しいものだが、それは竹島が純然たる日本の領土であることの強調表現なのだから、そういう語句を知ることはもちろん大事であるとしても、より重要なのは、竹島が日本固有の領土であると言えるその根拠が確実に理解されることのほうだろう。その根拠とは、繰り返しになるが、江戸時代に日本人が利用していたという事実、そして1905年以降の国家による公式の領土支配の事実である。 「日本固有の領土」という言葉の日本政府の定義によるならば、この表現に反対したい人たちは竹島が一度以上日本以外の国の領土となったことがあるという論証をすべきだが、そういう論証はできない。なぜならば、そういう史実がないからだ。「竹島は日本固有の領土」という強調表現を批判することによって日本政府の竹島領有権主張が何かいかがわしいものであるかのような印象を与える論評に惑わされることなく、領土教育が着実に進められることを望みたい。(平成28年7月19日 記)

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    外務省よ、日本の名誉を守れ!

    いまや中韓両国だけでなく、国連の場でも従軍慰安婦問題は取り上げられ、事実が歪められている。このままでは「強制連行説」も「性奴隷20万人説」も歴史的な出来事として世界に広まってしまう。日本は異を唱え、反論しているのだろうか。外務省よ、「事なかれ主義」から脱せよ!

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    韓国「二枚舌外交」は限界! 日韓本当の勝負は朴槿惠大統領の次だ

    マイケル・ユー(韓国人ジャーナリスト)聞き手:金子将史(政策シンクタンクPHP総研 主席研究員)反日一辺倒の韓国社会に変化の兆しマイケル・ユー氏――ご著書『「日本」が世界で畏れられる理由』(KADOKAWA)では、重心を反日でも親日でもなく「克日」に置き、知的で理性的な日本理解を韓国人に促しています。のっけから「そろそろ韓国は、日本の短所ばかりをあげつらう『井の中の蛙』状態から脱却したほうがいい」(「はじめに」)と日本のネット右翼が喜びそうな提言で始まります(笑)。ユー この本は、日本でいう『文藝春秋』のような『月刊朝鮮』という総合誌に掲載した原稿などを下敷きにしています。日本人ではなく、むしろ韓国人に向けて書いたもので、韓国人にとって耳を塞ぎたくなる記述も多い。驚いたことに韓国でこの本が増刷を重ねています。『朝鮮日報』の書評にも取り上げられるなど、反響があったようです。――どういった感想が多いですか。ユー ほとんどが肯定的な意見で、「日本を客観的に見ることができた」「いままで日本人に関心を示さなかったことを恥じる」といった反応が寄せられました。 日本の出版マーケットでは、韓国による反日行動を批判する「嫌韓本」の売れ行きが良好で、書店で関連書が平積みされています。同様に、韓国でも日本を否定する「嫌日」の本は人気があり、書店にたくさん並びます。親日はいうまでもなく、知日の立場から日本を描いた書籍は珍しい。そのため、読者が手に取ってくれているのかもしれません。右か左かではなく、真ん中の立場で日本と韓国の関係を客観視したいと思う韓国人が少なくないことを実感しました。――ユーさんがお感じのように韓国の一般社会には日本に対してバランスの取れた見方をしようというベクトルもあるし、さらにいまの韓国社会で「反日一辺倒ではダメだ」という変化の兆しが顕れているのかもしれませんね。ユー 私も含めた韓国の386世代(1960年代生まれで80年代に大学生、2000年代に30歳代を過ごした世代)の特徴として、日本を見る目が2通りあることも関係していると思います。1つは、「戦時中に韓国を植民地支配していた日本を許さない」と怨恨を抱き続ける見方。もう1つは、「苦渋を嘗めてきた経験を2度と繰り返さないために、日本の組織や技術を学ぶべきだ」という未来に向けた前進を求める見方です。不平不満ばかりをいうのではなく、逆境を乗り越え、新しい国のあり方を模索している世代が台頭しはじめたのはよい兆候です。 ところが残念なことに、若い世代になればなるほど、再びこの精神は失われていきます。戦争を経験せず、国内の新聞やテレビにしか触れていない20代や30代の若者からすれば、世界が韓国中心に動いているかのような錯覚に陥るのは無理もないことです。彼らが日本を韓国と同列に見なし、根拠のない愛国心を抱くようになるのは韓国にとってプラスではありません。だからこそ私は、日本に対するコンプレックスを認め、それを自ら乗り越えようとする世代に期待しているのです。「二枚舌外交」はいつまで続くか「二枚舌外交」はいつまで続くか――ご専門である外交戦略についてお聞きします。2016年1月6日、北朝鮮が4回目の地下核実験(北朝鮮は水爆実験と主張)を強行しました。また、南シナ海の領有権問題をめぐり中国が強硬な姿勢を緩める気配は見えず、アジアの海洋権益をめぐる紛争・対立は激しさを増しています。 緊張度が高まる東アジアの地域安全保障面におけるアメリカの役割はいっそう重要になっていくと思われます。ここ数年、オバマ大統領の日韓の歩み寄りを促す姿勢をどう考えていますか。ユー いまや中国の軍事力は自国でコントロールできないほどにまで肥大化しました。アメリカが最も警戒するのは、海外諸国を自国の都合に合わせようとする中国の覇権に韓国がなびくことです。 昨年10月、ヘーゲル国防長官と韓民求国防相は2015年12月に予定していた在韓米軍の撤退(韓国軍への戦時作戦統制権移譲)を再び延期することを決めました。また、韓国がアメリカとFTA(自由貿易協定)を結んでいる点からも、米韓関係が崩れることは当面考えられません。――中国が南シナ海で人工島を軍事拠点化する横暴に対する韓国の反応はどんなものでしょうか。ユー その点は、韓国政府もけっして一枚岩ではありません。朴槿惠大統領を中心に閣僚の多くは中国に肯定的な姿勢を見せていますが、実務レベルでは納得していない者もいます。昨年11月4日にマレーシアで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大国防相会議では、韓民求国防相が「南シナ海では航行の自由が保障されるべきだ」と明言しました。国防相の発言が政府の本音だとわかっていながら、朴大統領は建前上、中国を否定することはできないのです。――なぜ、朴大統領は中国との関係をそこまで重視するのでしょう。ユー 1つには、経済的な理由です。韓国は中国に依存しながら経済活動を維持しています。昨年11月26日の米『フォーブス』誌が発表した「中国依存度が高いランキング」によれば、GDP(国内総生産)に占める対中輸出の割合で韓国は1位の11%でした(台湾を除く)。ちなみに日本はたったの3%、アメリカは1%にも満たないのです。 また昨年10—12月期の韓国の対中貿易額を見ると、初めて日本の対中貿易額を上回り、アメリカに次いで2位に躍り出ました。昨年12月に韓中間のFTAが発効し、両国間の貿易がいっそう拡大すると見込まれれば、今年からは年間ベースでも対中貿易額で日本を上回るのではないでしょうか。このような経済的に相互依存関係にある中国の意向を、韓国は無視することができません。 もう1つの理由は、朴槿惠大統領の個人的な「思い出」です。朴大統領がまだ若いころ、父親である朴正熙元大統領が暗殺されました。そのあと約20年ものあいだ、彼女はKBS(韓国放送公社)の中国語講座を見て中国語を勉強したそうです。――10年以上かけて130編、52万6500字の『史記』を書き綴った前漢の司馬遷のようですね。失意のどん底で、慰めに近い行為だったのでしょう。ユー 朴大統領の過ごした20年というのは、ちょうど鄧小平によって改革開放政策が敷かれ、中国が国際的地位を高めていた時期と重なります。市場経済へと移行し、急成長を遂げた中国の姿を目の当たりにした経験から個人的感情が先立ち、大統領になった瞬間に親中に傾いていったのかもしれません。中韓を強固にしたきっかけをつくった日本――ご著書での第5章で「韓国には、日本に対応するために中国を活用しようと主張する人が多い。……その成果はごく小さいものに留まるだろう」と書かれています。国際舞台における中国の外交力を軽視する主張は、韓国で受け入れられる素地はありますか。ユー 私は、韓国がアメリカと同盟を結びながら、そのアメリカを敵視する中国とも良好な関係を続ける「二枚舌外交」をいつまでも保てるとは思えません。日本に対しても同様で、国内経済が芳しくないなか、親中か親日かを議論するより、国益ベースで日本と中国との関係を再考するべきでしょう。青息吐息の中国経済を尻目に最近では徐々にマスコミの論調も変わりつつあります。 また、意外にも思われることかもしれませんが、そもそも中韓関係を強固にしたきっかけを提供したのは日本です。1894年に日清戦争が起こる前まで、中国と韓国の関係は最悪でした。 朝鮮に住む金持ちの中国人による朝鮮人女性の人身売買も少なくなかった。 朝鮮には、日本でいう夏目漱石のような近代文学家に金東仁という歴史小説家がいました。彼の有名な小説『甘藷』には、無所不為の力をもつ王書房という中国人が登場します。王は朝鮮人の娘・福女を買い取り、性の道具にして最後には殺してしまいます。これだけ残酷な小説を書いても何の責任も刑罰も科せられません。当時の朝鮮では、中国人はいわゆるアンタッチャブル、治外法権が適用されていたのです。中国人による恥辱に対して朝鮮人は何もいえず、憎しみを抱きながらひたすら耐えるしかなかった。ところが、朝鮮が日本の統治下になり、日本への批判が広まると、中国に対する憎しみがだんだん薄れてきます。いまの韓国は、「敵の敵は味方」の論理で中国にすり寄っているだけなのです。会談前に握手を交わす韓国の朴槿恵大統領(左)と中国の習近平国家主席=3月31日、ワシントン(聯合=共同)――日本が中国の身代わりの盾になった、ということですね。ユー 一方で、反中感情が払拭されずに深く刻まれてしまった国が北朝鮮です。いま世界で中国を最も嫌っている国は、北朝鮮ではないでしょうか。 現在、中国と北朝鮮は同盟関係にありますが、信頼に値する関係性ではありません。同盟とは一種のコミットメント(公約)です。有事の際は、互いの信頼に基づいて対応するものでなくてはなりません。しかしある中国の関係筋によると、仮に北朝鮮で有事があっても、中国は本気で介入するかわからない、といいます。朝鮮戦争時に中国の人民志願軍100万が参戦した歴史はあるけれど、情勢が異なれば話は違います。 同様の理屈で「韓国がアメリカと経済的な同盟を結んでも、危機的状況の際に信頼できるパートナーになるとは限らない」という韓国の知識人も少なくないのです。韓国では世代交代が進んでいない韓国では世代交代が進んでいない――日本のシーレーン(海上輸送路)上にある尖閣諸島の領有権問題に関して、韓国はどういった立場なのでしょうか。ユー たんなる日中間の火種としてしか見ていません。韓国人は政治問題を、個人の政治家に対して抱く感情とごちゃ混ぜにして論じる傾向があります。「尖閣諸島は日本の領土だ」と主張する日本政府は、尖閣諸島の買い上げを表明した石原慎太郎氏と同一視されています。――韓国人にとって石原さんは、日本の極右、「韓国の敵」なんですね。ユー 本来、韓国にとって尖閣諸島の領有権問題は対岸の火事ではないのです。たとえば、これから韓国と中国のあいだで火種となりうるのが「離於島(中国名・蘇岩礁)」の領有権問題です。離於島は、韓国で「伝説の島」と称される東シナ海の暗礁です。海中に没し、厳密には島ではないため、中国と韓国の双方が「領土」とはせず、これまで大きな波風は立ちませんでした。しかし尖閣問題の余波で中国がにわかに管轄権を強調したことが引き金となり、韓国世論が中国の「海洋覇権」に警戒感を露わにしはじめました。 離於島は、中韓の排他的経済水域(EEZ)が重なる海域にあたります。韓国は中国に対し1996年以来、EEZの画定交渉をしてきましたが、交渉はまとまらず、この暗礁がどちらのEEZ内にあるかは未確定です。 これまでは朴大統領が中国に斟酌して領有権を主張しませんでした。しかし、次の政権も含めて長期的に韓国が頭を悩ます問題に発展する可能性を孕んでいます。――領有権といえば竹島の問題もありますが、日韓の協力体制が進まないのはやはり歴史問題が大きな障害ですか。ユー はい。そして、互いに引くに引けない状態が続く歴史問題や領土問題に終着点はありません。そこで、現実的な打開策を見出すための前提となるのが政治家の世代交代です。 1960年代から2000年代まで、日本の政治や経済を牽引していたのは団塊世代の人たちでした。世界的に見ても、一世代がこれだけ長い期間イニシアティブを取り続けた例はありません。そして団塊世代は、韓国との良好な関係を重視する世代だったと思います。 しかしいまや時代は変わり、日本の政治の中心は安倍首相と同年代のポスト団塊世代に移行しました。安倍首相は前政権までの外交姿勢にきっぱりと区切りをつけました。これほど大胆な舵切りは、1987年の民主化を担った386世代を政権の中枢に引き入れた盧武鉉元大統領でもなしえなかったことです。 本来、この段階で国と国との関係性もリセットするべきなのですが、残念なことに韓国では世代交代が進んでいません。交渉テーブルに座る者の歴史観や時代感覚が異なれば、いわば大人と子どもの話し合いに終始してしまう。これでは交渉どころではありません。今後、政治交渉における世代間ギャップの軋みはより顕著になるでしょう。 やはり勝負は朴槿惠大統領の次の政権です。韓国の政治家の世代交代が完了して初めて、新しい世代間での建設的な交渉が実現すると思います。フォロワーシップか、リーダーシップか――政治家の問題のほかに、日本と韓国の関係が改善するための打開策はあるでしょうか。ユー ポイントとなるのが、経済的な連携や人的交流です。外交問題で日韓がどんなに激しいつばぜり合いを行なったとしても、経済的に見た関係は別です。実際の経済的な影響はそれほど大きくありません。それは、ある意味で両国が成熟した関係を築けている証拠ともいえます。 一方、中国の場合はそうはいきません。2012年、日本政府による尖閣諸島の国有化に反対し、日系企業の工場や店舗の放火・破壊が頻発しました。中国国内で反日デモが起きたら、日本人はまともに町中を歩くことはできません。 他方で、韓国人は日本大使館前で抗議することはあっても、さすがに日系企業に危害を加えることはありません。これは決定的な違いです。――なるほど。先ほどおっしゃった政治家の世代交代を考えるうえではリーダーの役割も重要になります。日本と韓国の政治リーダーの特徴に決定的な違いはありますか。韓国国会で演説する朴槿恵大統領(下)=6月13日、ソウル(共同)ユー 両国の国会の様子を見比べてみると、一目瞭然です。日本は国会質疑のとき、閣僚が総理大臣の横に並んで座りますが、韓国では大統領が前に出て、ほかの議員は後ろに下がって座る。これはフォロワーシップとリーダーシップのどちらを重視するかの違いです。 日本の政治は、フォロワーシップを重んじる傾向にあります。日本のニュース番組でも、アンカーが「こんばんは」と挨拶をすると、一呼吸置いてほかの出演者が揃ってお辞儀をします。これは日本でしか見られない光景です。フォロワーシップ型の政治の欠点は、何か問題が生じたときに責任の所在が曖昧になってしまうことです。 一方、韓国の大統領に求められるのは何といってもリーダーシップです。韓国では政治家を志す者なら誰もが大統領になりたがる。異分子をまとめあげて、一緒にやり遂げようとする協調性が欠けているのはこのためです。 フォロワーシップ型のリーダーが多い日本から見れば、韓国は自己主張型リーダーが多い印象を受けるし、リーダーシップを重視する韓国は、なかなか決断しない日本のリーダーにやきもきしてしまう。さらにフォロワーシップ型の政治に付きまとう日本特有の「空気」が、韓国人の理解をより難しくしています。――朴槿惠大統領はこれまでに政権批判者宅の押収捜査をしたり、『産経新聞』の前ソウル支局長の加藤達也氏を名誉毀損罪で在宅起訴するなど極端な政治姿勢を貫いています。これも韓国のリーダーシップの特徴でしょうか。ユー それは彼女の生い立ちに由来しているのではないでしょうか。両親ともに暗殺された政治家は世界でも稀有です。疑心暗鬼になるあまり、世の中に対する見方がどこか普通ではないような気がします。貧困問題を解決する日本の“100円コンビニ”貧困問題を解決する日本の“100円コンビニ”――ところで、最近の韓国では失業が問題になっています。貧困による高い自殺死亡率は日韓共通の課題ですが、日本は高齢者や失業者に対して手厚く社会保障を敷いています。一方、韓国が何か効果的な対策を施しているという話はあまり聞きません。ユー そのとおりです。団塊世代が間もなく70歳に到達する世界一の長寿国・日本は、すでに高齢者中心の社会システムを構築しはじめています。一方で、韓国は高齢者が多数を占める社会システムが存在しません。少子高齢化が進み、社会保障も乏しい韓国に、課題先進国・日本の経験値が活かされるはずです。 先日、南千住(東京都荒川区)を歩いていて、弁当から生活用品まであらゆる商品を100円で販売するコンビニエンスストアを見つけました。韓国だと最低でも300〜400円払わないと買えない商品も売っていました。店員さんに話を訊くと、お客さんの8割を高齢者が占めていて、1人暮らしの方も多いようです。1日1000円でも生きていける日本の生活防衛インフラを、韓国も見習わなくてはいけない。 韓国に限らず、日本の“100円コンビニ”は世界の貧困問題を解決するグローバルモデルになりえますよ。――「日本はデフレを輸出している」と非難されるかもしれませんが(笑)。ユー ほかにも、ユニクロを代表とするファストファッション専門店や、リーズナブルな家具用品を扱うニトリが日本の各地にあります。衣食住において高齢者への対応策がこれほど万全な国はありません。全世界が高齢社会になっても生き残れる国は日本でしょう。 ユニクロといえば、銀座店でアルバイトリーダーが中国人に接客の仕方を丁寧に説明している様子を見かけました。韓国ではまだこうした姿は見かけません。日本人の優しさや思いやりは、労働力不足が懸念される将来、外国人労働者を受け入れざるをえなくなった際にも大きな武器になると思います。 日本と韓国の理想的な関係の1つのあり方として、ある問題についてどちらかの国が先に経験していれば、互いに対処法を転用できる点が挙げられます。日本がアジアで最初に対応し西欧諸国に適応して先進国になった経験があったからこそ、韓国はそのノウハウを活用して経済成長を遂げることができた。その意味でも、韓国が超高齢化社会を解決するには、日本を参考にすべきなのです。――これから世界で起こりうる社会問題を解決する万能なシステムを有し、世界に発信できる力こそ、真のソフトパワーなのかもしれません。日本人はその責務があることを自覚しなくては。ユー 難題を前に手をこまねいていても何も解決しません。双方が悪口を言い合うだけでは歴史問題が解決に向かわないのと同じで、お互いに学ぶ姿勢が重要です。――2018年には韓国・平昌で冬季オリンピックが、20年には東京で夏季オリンピックが開催されます。アジアでの開催が続くオリンピックを機に、日韓の連携・協力は実現するでしょうか。ユー オリンピックは地球最大のソフトパワーの祭典です。政治上の建前で批判される可能性は否めませんが、日韓で協力できる点はたくさんあります。先に冬季五輪を開催する韓国が意固地にならず、日本に協力を求めれば、けっして実現不可能な話ではないでしょう。 ソフト面でのコンテンツを日韓の橋渡しにするという意味では、両国からメンバーを選出してAKB48のようなアイドルグループを結成するのも1つの手です。互いの国を行き来してライブを行なえば、ファンも現地に足を運びます。両国のリスペクトできる部分も肌感覚で伝わってくるはずです。このようにして、次の世代を担う若い世代から感情的な憎しみ合いが徐々に薄れるといいですね。 過去ではなく現在から、外側からではなく内側から互いのよい面を探り合うことで、過去の歴史問題を解決する糸口がおのずと見つかるのではないでしょうか。いまや、両国の政治家がリスクを背負ってまで取り組むだけのテーマはじつはほとんど残っていない。最後のレガシーが慰安婦問題です。もし歴史問題が解決すれば、日本と韓国は建前なしのトランスペアレント(透明)な関係になれるでしょう。関連記事■ クリスマスと慰安婦の話■ 呉善花 「反日韓国」の苦悩 ■ 「東郷文彦と若泉敬」の時代

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    紛争はひたすら回避 外交無策の外務省が国を亡ぼす

    著者 長尾勝男 近年、米国内では中国系を中心とする「世界抗日戦争史実維護連合会」が連邦・地方議会をはじめ首都ワシントンなどを舞台に、日本の戦時行動を糾弾し訴訟や宣伝工作を展開しており、慰安婦や南京虐殺にとどまらず、尖閣諸島や竹島領有まで日本たたきが行われている。にもかかわらず、火消し役であるはずの外務省は無策のまま、やられっぱなしの現状である。 なぜなのだろうと思うのは私一人ではあるまい。今まで公表されている書籍や各種メディアを通して得た情報をもとに、その理由について考えるとともに想起される状況について述べることとしたい。紛争回避が我が国外交のスタンス 2010年9月に起こった魚釣島近海で違法操業の中国漁船が我が国巡視船に体当たりした事件は、中国の加害漁船船長を無罪放免にし、犯行現場を撮影した映像を非公開としたことで明らかなように、できる限り波風を立てず、事を穏便に済ませようとしたのがうかがえる。 これらは政府、とりわけ外務省の意向を汲んだ措置である。背景には自国船長の逮捕を知った中国政府による日本向けレアアースの禁輸制裁、日本企業社員をスパイ容疑ででっち上げ逮捕拘留するなどの報復、我が国国民の反中感情が沸騰するのを恐れたことなどによるのは明らかである。 これには過去に幾つかの先例がある。1970年3月に起こった赤軍派によるよど号ハイジャック事件の際には、犯人グループの言うがまま北朝鮮に亡命させた。人質をとり日本政府を脅した、いわゆるテロであったが、極度に人命をおもんぱかったため、やすやすと相手の脅しに乗ったのである。身柄を拘束され、強制退去のため、成田空港に姿を見せた金正男=2001年05月04日 2002年5月、中国の瀋陽事件では、日本領事館に助けを求めてきた脱北者を現地外交官が見殺しにし、中国の官憲に領事館内への侵入を許したあげく逮捕させた。2001年5月の金日正の長男、正男の密入国事件では、成田空港の入国管理局が拘束したものの小泉首相・田中真紀子外相の強い意向で国外退去処分として全日空機を用意しわざわざ北京まで送った。 また「朝鮮王室儀軌」は、韓国の要求にこたえ、返す必要がないのに言われるまま返還、一方で対馬の寺院から盗まれた仏像(銅像観世音菩薩坐像)は、いまだ韓国が日本から略奪されたものだと主張し返還を渋っている。 これらのことを思い起こせば、問題が起きたとき相手を極力刺激しないように配慮するあまり相手の圧力に屈し、予見される紛争をひたすら回避することが外交の基本的スタンスであるとうかがい知ることができる。省内に巣食う反日分子の存在省内に巣食う反日分子の存在 歴史非難に関して、慰安婦問題および世界遺産問題を事例にみると、現在50人の日本の学者たちが'慰安婦'問題に関し、マグロウヒル社および米国学会に抗議を行っているにもかかわらず、外務省は外交手段を用いようともしない。 中国による南京大虐殺文書の記憶遺産登録で問題化したユネスコ審査部は、日本人の審査員を小人数しか置かず、3月7日に国連女子差別撤廃委員会が出した「最終見解」には、慰安婦問題について極めて不当な見解が出されている。その原案には、「皇室典範」の「男系の皇位継承」が女子差別にあたり、改正を求める趣旨の記述まであった。 同委員会委員長の林陽子氏を国連に推薦したのは、ほかならぬ外務省である。1996年、性奴隷と認定したクラスワミ報告書に対し明快な反論文を作成しながら、なぜか別文書にすり替えた件などを考え合わせると、省内に我が国をおとしめようとする勢力が存在するのは明らかである。 平成19年、アジア女性基金解散後、外務省独自にフォローアップ事業と称して毎年度、韓国の元慰安婦と称する人々に1500万円の予算を付け生活必需品を支給したり、中国緑化運動に支援金90億円を計上したりするのは、相手国側に忠節を尽くす意図の表れにほかならない。明らかに君側の奸が存在することの証しである。無責任な体質の継承 1941年12月8日、日本時間の午前8時までに行うべき最後通告が、在米日本大使館員の不手際で間に合わなかった結果、日本は米国に対してだまし討ちをしたことになった。 このことに対し外務省の直接の担当者及びその上司が責任をとったという話を聞いたことがない。在米一等書記官の奥村勝蔵は開戦前日の最後通告解読文をタイプに打ち込む担当であり、最後通告の手交遅延の直接責任者であった。当日遊びに出て大使館を留守にした。その彼が戦後マッカーサーと天皇の通訳を長らく務め、講和条約発効後は外務省の外務次官になっている。 井口貞夫・在米参事官は真珠湾攻撃の前日、本省からあらかじめ万端の準備指示があったにもかかわらず、緊急態勢を敷かなかった。その後彼は1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約締結時外務次官として列席した。結局、外務省は真珠湾だまし討ちの謝罪を公には全くしていないのである。なぜなら自分たちの責任に及ぶからである。 真珠湾50周年に際し、時の外相、渡辺美智雄がワシントンポストに「旧日本軍の無謀な判断で始まった」と述べており、悪いのは軍部で外務省に責任はないと言っているのである。 2年前の2014年7月、北朝鮮とのストックホルム合意に基づき制裁の一部を解除したその後拉致被害者に関する進展はなく交渉に当たった責任者(伊原純一アジア大洋州局長)は何らおとがめなしであるところを見れば、省内に延々と受け継がれていることが分かるのである。つまり、結果に対し責任をとらないでよいことになっていると考えざるを得ない。札束外交の虚しい影響力札束外交の虚しい影響力 昨年11月マレーシアで行われたASEAN国防相拡大会議では、南シナ海問題で意見の一致が見られず共同宣言が見送られた。背景にあるのは中国のASEANに対する経済的、軍事的圧力であり、中国の了解なしには何も決められない実態が明らかである。 安倍首相は福島県いわき市で開催された「太平洋・島サミット」で、パラオなど南太平洋の島しょ国に今後3年間で550億円以上の財政支援を表明した。首相は、「力による威嚇や力の行使とは無縁の太平洋市民社会の秩序」の構築を呼びかけ、名指しは避けたが、中国を牽制した。要するに、島しょ国が“中国寄り”にならないように、カネを渡して日本シンパにしようということだった。「太平洋・島サミット」の首脳会議に臨む、太平洋島しょ国14カ国の首脳ら=2015年5月23日、福島県いわき市 これは、当初から外務省がお得意のODAや各種支援金と軌を一にしたやり方である。なんと、この2年半で、アフリカ支援に3兆円、バングラデシュ支援に6000億円と、ODAや円借款を積み上げると26兆円に上る。支援がすべてムダとは思わないが、いったい、どれほどの成果があったのか。だから手の内を読まれ、足元を見透かされている。外国にとっては、格好のカネづるになりかねない。資金援助してもらえる国はニコニコして、表面上は日本をチヤホヤしてくれるだろうがそれだけのこと。支援が途切れたらソッポを向かれるのは明らかである。亡国への道筋を避けるには はっきり言えば、外務省がやろうしている外交が全く機能しないから、バラマキや軍事的抑止力に頼らざるを得なくなってしまうのである。仮にこのままの外交姿勢を続けていくと、徐々に国家主権を奪われ、いずれ日本は詰んでしまうことになる。 既に首相の靖国参拝参拝がはばかられる事態をはじめ、国連人権理事会や差別撤廃委員会による人種差別撤廃(ヘイトスピーチ)の法的規制や皇室範典の違法性、竹島など主権侵害の進行がそれを物語っている。手を替え品を替えて国民の手足が縛られていくのを、亡国と言わずして何と表すればよいのであろうか。 クラウゼヴィッツの言を待つまでもなく、戦争とは意思を敵国に強要するための暴力行為である。あくまで暴力行為は手段であり、目的は意思の強要である。意思の強要さえできれば、暴力行為は必ずしも必要ではない。外交が血を流さない戦争といわれるゆえんである。外交官はじめ外務省職員がこのような自覚を持たない限り、日本は亡国への坂を下り続けるに違いない。 国際社会は指摘されたことを"素直に認めて謝罪すれば、それで相手は矛を収め、真の和解につながるというほど甘くはない。逆に日本が受け入れられないと拒否する姿勢を示したことで、国連が微妙にスタンスを変更した例が、それを証明している。  例えばクラマスワミ報告に対して、ラディカ・クラマスワミの出身国であるスリランカを、今後、ODAを一切提供しないと恫喝すれば多分採択されなかった可能性が大きい。"良い、悪い"ではなく、国際社会とはそうした力学によって動いているのである。 北朝鮮政策では対話と圧力といわれる。対話については幾度となく行われているが、相手が音を上げるまで圧力をかけたことは一度も聞いたことがない。かけすぎると暴発の恐れがあるとの脅し文句が必ず浮上する。それではいつまでたっても拉致被害者は帰っては来ない。相手の反撃を恐れて手をこまねいていては問題は一向に解決はしないのである。 ただし、ここで忘れてはならないことは、国連詣でを繰り返し、職員を焚き付け、日本をおとしめる勧告を採択させているのは、日本人だということである。何しろ、真の敵は反日日本人なのである。外交の健全化にはまず、このような反日分子及び圧力団体を一掃することが先決である。(海自OB)

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    日本との競合とナショナリズムの暴走で観光客を失った韓国

    大西宏(ビジネスラボ代表取締役) 韓国政府が日本人観光客230万人の誘致に向けてのイベントをはじめるといいます。昨年、日本は訪日外国人観光客が47.1%増とさらに伸びたのですが、韓国はそれとは対照的に、外国人観光客が6.8%減となり、7年ぶりに日本に逆転されてしまったのです。事態の打開をはかりたいということでしょう。昨年、日本から韓国を訪問した観光客が184万人なのでかなり高い目標です。 もちろん、昨年はMERS(中東呼吸器症候群)の流行で大きな打撃を受けたこともありますが、では海外からの観光客がすんなり戻ってくるかというとかなり疑問です。 ひとつの理由は、日本と競合関係になってきたことです。 これまでは、日本は円高もあって観光先としての注目度があまり高くなかったのですが、円安とビザ緩和によって、それが一変しました。そうなると、旅行先の体験の魅力度や満足度で、観光客の吸引力で差がついてきます。 ところが、訪韓数でもっとも多い中国人観光客の満足度がいまひとつのようです。 韓国観光文化研究院のデータによると、2010~2013年の中国人観光客の満足度は、調査した16カ国中14位、「また来たい」と答えた割合も14位だったと報じられています。韓国メディア、「割引と韓流以外にあと何が?」と自国の観光業に警鐘=中国人観光客の満足度の低さに危機感:レコードチャイナ どうも、安いツアーを売りにしているために、コストの安いレストランを使うことが満足度を下げているようです。韓国の飲食、外国人観光客から「C」の低評価、日本人が満足し中国人が不満な理由とは? また、一昨年のセウォル号事故、昨年の高速鉄道のトラブル、また大韓航空のナッツ姫問題などで社会の未熟さを印象づける出来事が相次いで起こったこと、また経済成長に急ブレーキがかかり、国としての活気を失ったことも韓国の魅力を大きく低下させているのだと思います。 そして、昨年訪韓した日本人観光客がなんと19.4%減と、日本からの観光客が激減してしまいました。韓流ブームがピークアウトしたこともあるのでしょうが、あれだけまるで国中がカルトにはまったようにメディアが煽り、慰安婦問題で反日キャンペーンを繰り返したのですから、韓国とは関わりたくないという心情になった人が増えたのも当然です。自業自得というか排外主義に走ってしまったツケといわざるをえません。 感情に任せ、怒りをぶつける。怒りの感情を煽って、高揚感にひたるうちに、韓国社会全体が、まるで反日カルト、慰安婦カルトに陥ってしまったように見えます。その代償として日韓の国民感情の間に自ら溝を深めてしまったのです。以前指摘しましたが、韓国は朝鮮戦争やベトナム戦争当時の慰安婦問題や集団レイプ問題などの時限爆弾を抱えているので、慰安婦問題を言えば言うほどリスクを背負います。 慰安婦問題では、日韓政府が合意したものの、いったん洗脳を受けたひとびとが冷静にものごとを判断できるようになるには時間を要するのではないでしょうか。学術書「帝国の慰安婦」の朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授が在宅起訴され、給料が差し押さえられるというのが現実です。【「帝国の慰安婦」問題】著者の朴教授、給料が差し押さえられる 「全く予想していなかった」 - 産経ニュース 韓国は時代の節目にさしかかったのだと思います。経済も、日本が数十年前に迎えた高度成長期の終焉にようやくさしかかったばかりです。これから成熟した国への道を歩むのでしょうが、社会や文化の成熟は、追いつけ追い越せのハングリー精神で実現できるものではありません。 日本からの訪韓観光客を取り戻そうと、韓国政府が高い目標をかかげてキャンペーンを行うことを通して、これまで韓国が行ってきたことが、いかに自らの国家を辱めてきたか、また負の遺産として残ったかという現実に気づけば、また韓国にも違った対日外交の道が見えてくるのではないでしょうか。(「大西宏のマーケティング・エッセンス」より2016年2月17日分を転載)

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    戦争求める中国軍 ミャンマーへの宣戦布告を建議したことも

     今や粛清の嵐は、中国人民解放軍にまで吹き荒れるようになった。怨嗟と不満が渦巻く軍をこのまま放置していれば、予期せぬ叛乱が勃発する可能性すら指摘され始めている。ジャーナリストの右田早希氏がレポートする。* * * 習近平主席は現在、「軍の汚職追放キャンペーン」を展開中である。要は汚職追放にかこつけて、230万人民解放軍の掌握を図るべく、権力闘争を仕掛けているのだ。 その過程で、江沢民元主席が抜擢し、江沢民・胡錦濤時代を通じて人民解放軍に君臨した徐才厚・郭伯雄の両元中央軍事委員会副主席を粛清した。徐才厚上将は昨年3月に拘束され、今年3月に死去。郭伯雄上将は、息子の郭正鋼浙江省軍区副政治委員ともども、今年3月に拘束された。「徐才厚と郭伯雄の両巨頭を粛清したことで、習近平は軍全体を敵に回してしまった」海外メディアはそのような憶測記事を飛ばしているが、こちら北京で人民解放軍関係者に話を聞くと、事実とはまったく異なる。 ある海軍中堅幹部は、次のように述べた。「徐才厚と郭伯雄が支配した江沢民・胡錦濤時代の解放軍は、まるでシロアリに蝕まれた倒壊寸前の家のようなものだった。出世のための賄賂が全軍に横行し、軍人の仕事はビジネス&宴会と化していたからだ。 それを習近平主席は、『軍人の本分は戦争して勝つことだ』と檄を飛ばし、毛沢東時代の人民解放軍に戻してくれたのだ。そのため今は賄賂漬けになっていた幹部たちを除けば、軍の士気は高まり、戦争への準備は整っている」 この海軍中堅幹部は、一つのエピソードを明かした。「軍内部で2012年以降、毎年夏に、『いかにして日本軍(自衛隊)に勝つか』というテーマで、多方面から中日両軍の比較検討を行うセミナーを開いている。昨年の結論は、『わが軍がいくら空母を建造しても、内部の腐敗を一掃しなければ日本軍には勝てない』というものだった。だが今年は違う結論になるだろう」 この中堅幹部に南シナ海の埋め立て問題について聞くと、次のように答えた。南シナ海のパグアサ島の沖合に停泊する中国海警局の「海警2305」=18日(提供写真・共同)「習近平主席や呉勝利司令員が唱える『新たな大国関係』を構築するには、『不動の空母』とも呼ぶべき埋め立て地が絶対に必要だ。これはわれわれ現場サイドからの要請なのだ。 4月29日に呉勝利司令員がグリナート米海軍作戦部長と行ったテレビ会談で、『(滑走路を建設予定の)用地は米軍に貸してもよい』と述べたが、あの発言も同様だ。要は、中国軍が東アジアの海を管理できていなければ、戦争ができない」 陸軍の中堅幹部にも心情を聞いたが、答えは大同小異だ。「人民解放軍は1979年の中越戦争以降、戦争を経験していない。『戦争しない軍隊は腐る』とは習近平主席の言葉だが、まさにその通りで、われわれ中堅若手は戦争を求めているのだ。 3月13日にミャンマーの爆弾が誤って国境を越え、雲南省に落ちて中国人5人が死亡する事件が起きたが、われわれは上層部に、ミャンマーへの宣戦布告を建議したほどだ。北朝鮮の金正恩政権も、物騒な核ミサイル実験を止めないのであれば、解放軍が介入して政権を転覆させるべきだと具申している」 ここで強調しておきたいのは陸軍と海軍の中堅幹部が共に、次のように結んだことだ。「もしも習近平主席が対外戦争を躊躇するならば、われわれは『戦争できる指導者』に代わってもらうまでだ」関連記事習近平氏 腐敗、堕落の解放軍に危機感で大粛清に動く可能性習近平副主席妻 軍芸術部門トップ就任でやり過ぎを懸念する声中国人民解放軍 腐敗蔓延で4万5000人処分、佐官級760人も中国人民解放軍サイバー部隊は約40万人所属 精鋭部隊は2000人習近平が3大権を掌中にしたのは共産党の歴史でも希有の事態

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    「恨の法廷」をひっくり返した韓国の思惑

    央地裁は無罪判決を言い渡した。言論の自由か、大統領の名誉を守るかで注目を集めた異例の公判の結末には、日韓関係や国内外の世論に配慮した朴政権の思惑も透けてみえる。

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    韓国の自由民主主義を救った産経前支局長の無罪判決

    西岡力(東京基督教大学教授) 本日、産経新聞加藤達也元支局長の名誉毀損裁判で無罪判決が出た。言論の自由という観点で当然な判決だ。加藤元支局長をはじめとする関係者のご苦労に敬意を表したい。韓国にとっても良かった。私は約40年間、韓国を研究してきた。北朝鮮に一党独裁の軍事政権が存在し、虎視眈々と赤化併呑しようと狙っている中、韓国の自由民主主義は紆余曲折を経つつも進歩してきた。しかし、今回の加藤記者に対する裁判は、その歩みに逆行するもので憂慮していた。 自由民主主義国である韓国では最高指導者も言論の批判の対象だ。加藤記者が書いたコラムはまさに公人としての朴槿恵大統領の動静に関する公的関心にもとづくもので、記者本人が主張しているように、大統領個人を誹謗するものではない。日本語ウェブサイトに日本人読者を対象に書いた記事が、韓国の国内法で裁かれること自体あまりにも異例であり、政治的意図すら感じてしまった。無罪判決をうけて、会見にのぞむ加藤達也前支局長。知人を見つけ笑みをのぞかせた=17日、韓国・ソウル (大西正純撮影) 産経新聞が歴史認識問題などで現在の韓国側の主張を批判してきたことが、今回の起訴の背景だという憶測が広がっていた。私は様々な機会に、そのような憶測が広がっていること自体、韓国にとって大きなダメージであると強調してきた。 韓国の言論界や法曹界でも無罪判決が当然だという意見はかなり多かった。また、私は裁判開始後、ソウル市内の飲食店で加藤元支局長と何回か飲食を共にしたが、そのとき聞いた街の声はみな加藤氏を激励し、言論の自由の観点から朴槿恵政権を批判するものだった。その意味で、無罪判決は韓国の自由民主主義を救ったと言えよう。 なお、判決の前に、韓国外務省が、朴大統領をめぐる噂については既に虚偽と明らかになっていることやこの裁判が韓日関係改善の障害になっていることなどを考慮し、「善処を望む」という要望が提出されたという。噂が虚偽だったという点は、裁判の過程で明らかになった事実だが、本来なら韓国政府は、最初から刑事裁判ではなく言論を通じて噂を否定するべきだった。 韓国の言論の自由に関して、先人たちがどのような努力をしてきたのかを象徴する次のエピソードを私は繰り返し書いてきたが、それをここでも再録しておく。1970年代、朝鮮日報の大幹部S氏が私の韓国研究の師匠である田中明先生に次のような経験談を紹介した。両氏とも故人であり、確認することができないので細部は違っているかもしれないが、大筋はこのような話しだった。 70年代に始まった南北対話の一環としてS氏が韓国代表団の一員に選ばれて、北朝鮮代表と対話した。そのとき、北朝鮮側はS氏が言論機関の幹部だと知った上で「なぜ、韓国の言論機関は朴正熙政権の独裁と人権弾圧を批判しないのか。韓国には言論の自由がない」と非難した。それに対してS氏は「韓国と北朝鮮のどちらに言論の自由がないのか、確かめよう。私はここで朴正熙のバカ野郎というから、あなたも金日成のバカ野郎といいなさい」と迫った。それを聞いた北朝鮮代表はばつの悪そうな顔をして黙った。 そのS氏は、韓国の情報機関が野党政治家金大中氏を日本から拉致した事件直後に、韓国政府の説明に納得できないという趣旨の社説を一人で書いて、最終版にだけ載せて、新しい下着を準備して逮捕されるのを待っていたという武勇伝の持ち主だ。そのとき朴正熙政権はS氏を起訴しなかった。そのような先輩記者らの体を張った戦いによって韓国の言論の自由は守られてきた。今日の無罪判決によってそのような韓国の言論の自由が守られたことは良かったと、率直に思っている。

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    産経前支局長判決は韓国民主主義の「弱点」を露呈した

    下川正晴(毎日新聞元論説委員) 加藤達也・産経新聞前ソウル支局長の「名誉毀損」事件に対するソウル中央地裁の判決は、無罪だった。これまでの韓国内での判例から見ても順当な判決だが、外国人特派員を刑事事件の被告にしたてた異例の裁判は、韓国型民主主義の弱点を露呈したものである。韓国的リーダーシップの悪弊と、韓国の伝統的悪習である「大統領への過剰忠誠」が、検察当局による起訴処分を引き起こした。言論の自由をめぐって「国際的常識」にほど遠い現状について、韓国は深刻な自省が必要だ。 検察側の敗北は、すでに昨年10月の起訴時点で予測されたことであった。韓国の言論法学者や法廷関係者の中では、「産経有罪」に持ち込むのは至難の業だという判断が多かったからだ。それでも検察側が起訴に持ち込んだのは、青瓦台(大統領官邸)の意向に配慮したというしかない。こういう「事大主義」が韓国が伝統的に持つ最大の弱点である。 今回の裁判を通じて、韓国が国際的に被った「民主主義国家」としての信用の失墜は、測りがたいほどに大きい。検察側は控訴せざるを得ないだろうし、韓国の民主主義が持つ弱点が容易に改まるとは思えないからだ。韓国外務省が判決を前に「善処」を要請したというのも、国際的に恥ずかしい事態だ。「産経起訴」に関して社説にもとりあげず、口を閉じたばかりであった韓国の保守メディアの醜態も改めて指摘しておきたい。加藤達也前ソウル支局長の公判が行われるソウル中央地裁につめかけた報道陣=19日、韓国・ソウル (大西正純撮影)韓国民主主義への誤解 産経前支局長に「無罪」判決を下したことによって、一部では韓国司法の独立性が保たれた、と評価する向きが出て来るかもしれない。しかし、これは、いささか甘い観測だ。韓国では民主化以降、司法と教育の現場が「反権力」「反保守」の牙城でもあるからだ。慰安婦問題をめぐる憲法裁判所判決が、政権末期の李明博政権に打撃を与えたように、今回の判決はレームダック化が進む朴槿恵政権にも、甚大な影響を与えことになりそうだ。反政権の野党とメディアが勢いづくのは必至である。 「韓国の民主主義」をめぐっては、日本国内に一種の誤解が韓国内外にある。韓国の至上価値とも言える「政治権力」に対する目配りが十分でないのだ。 韓国の「民主主義の発展」に関しては、朴正煕時代の「軍事独裁」によって呻吟して来た民主化勢力が、朴の亜流である全斗煥政権時代の末期に起きた民主化抗争(1987年)を経て、金泳三の「文民政権」、さらに金大中政権によって実現したとの理解が一般的だ。この流れが盧武鉉、李明博、そじて現在の朴槿恵政権に引き継がれて来たとされる。 しかし、この観察はあまりにきれいごとだ。 私は「民主化への転換期」である1987年前後から、この隣国を新聞記者として観察して来た。その目からすると、韓国の民主主義は「伝統的な政治風土=権威主義」を温存したまま発展して来たものである。日本人研究者の一部にあるように、手放しで韓国の民主化を礼賛する立場には立てない。私の危惧は、産経前支局長や朴裕河氏(「帝国の慰安婦」著者)が「名誉毀損」で起訴される事態になって、顕在化したと言える。 韓国の近現代は李氏朝鮮の崩壊後、日本の植民地、解放後の混乱、朝鮮戦争、李承晩の独裁、学生革命、軍事クーデター、朴正煕の独裁・・と混乱と独裁の時期を繰り返して来た。この間に蓄積された韓国の政治的伝統は、米国の韓国研究者グレゴリー・ヘンダーソンが約50年前に指摘したように、大統領の席をめぐって国民が二つに分裂して争っている姿だ。権力の中心をめぐって、ありとあらゆる階層の人々が押し寄せ、ひしめきあい、巨大な渦巻きを形成する。裁判官も、検事も、新聞記者も、大学教授も、文化人も、そして一般国民も例外ではない。至上の権力は「大統領」(実は、日本人が開発した翻訳用語)なのである。 この政治風土は「民主化」以降も維持された。民主政治家と評価された金大中にしても、実際には家父長的なカリスマ政治家だった。その後の盧武鉉、李明博、朴槿恵という弱体政権も、必死になって大統領権限を振り回してきた。その最悪の姿が、国内外政策で漂流を続ける現政権である。韓国の急進主義、日本の保守主義韓国の急進主義、日本の保守主義 韓国の民主主義の「弱点」とは何か。私見によれば、3つの観点があると思う。 ひとつは、民主主義の成熟度の問題だ。これは朴正煕政権以降の「急進主義」が引き起こした弊害でもある。1987年の「民主化抗争」当時を回想すると、韓国民にとって「民主化とは賃上げ」だった。その急先鋒だった現代重工業労組は、組合員の年収が1000万円を突破し、韓国の大卒初任給は日本のそれを追い越した。民主主義のポイントを、社会各層からの多様な要求のバランス形成だとすると、現在の韓国社会は財閥資本と労働貴族が跋扈し、非正規労働者が依然として貧困状態に呻吟する状態だ。あまりに社会的なバランスを喪失しており、非民主的である。 韓国の歴代政権は「民主化」以降、表面的には、左派政権(金大中、盧武鉉)と右派政権(李明博、朴槿恵)と、政権交代を果たして来た。しかし実際には安定した社会秩序の形成に失敗した。韓国社会の底辺層には「難治の民」の不満が鬱積し、時にマグマ噴出を繰り替えしているのが現状だ。そういった社会不満をそらす外的な標的が、日本であり、韓国批判を続ける「産経」であった。 次に、唯我独尊的な民主主義観だ。朴槿恵が「大統領に対する冒涜は、大統領を選んだ国民に対する冒涜であり、許されない」との趣旨の発言をしたことがある。これは、「ハダカの王様」による暴言だと言うしかない。韓国の伝統的な権威主義が、醜悪な形で21世紀社会に露呈した姿でもある。無罪判決をうけて、会見場にはいる加藤達也前支局長=17日、韓国・ソウル(大西正純撮影) 韓国で流布している言説の中に、「韓国の民主化は、敗戦によって米国から民主主義を与えられた日本とは違い、自らの力で勝ち取った民主主義である」というものがある。対日優位感を満たそうという欲望に裏打ちされたドグマだ。各国史における歴史過程は文化と伝統が違えば、自ずから民主主義の軌跡にも違いが生じる。日本の民主主義(保守主義が基調にある)の歴史には、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」、明治天皇による「五か条のご誓文」、大正期の自由民権運動、戦後の民主化ーーの系譜が容易に指摘される。そういった他国の歴史過程に関する理解を欠いた夜郎自大的な言説が、今の韓国ではまかり通っているのだ。韓国マスコミは権力闘争の道具 3番目に、産経支局長問題に直結する韓国マスコミの問題だ。これはインターネット時代になるにつれ、さらに問題が深刻化した。 非政府組織「フリーダムハウス」は2010年、韓国における言論の自由の状況を、「自由」から「部分的に自由」に引き下げた。「国境なき記者団」による国際評価は、2015年には60位に落ちた。福島原発事故に関する報道が問題視された日本よりも高いが、アルゼンチンやクロアチアより低い順位だ。この理由について、サンディゴ・カリフォリニア大学客員教授のステファン・バガードは、「名誉毀損に対する持続的な処罰の強化」「過度に厳格な選挙運動関連法規」「インターネットコンテンツに対する検閲増加」「国家保安法」をあげた。(韓国・中央日報3月23日) 今回の「産経支局長事態」によって、名誉毀損に対する持続的な処罰はさらに進んだ。 この手法は実は、金大中政権や盧武鉉政権といった「民主化政権」(実は左派政権)によって着手されたものである。両政権は朝鮮、東亜、中央という保守3紙をターゲットに、脱税容疑の社長逮捕や名誉毀損訴訟を繰り返し行なった。「言論との闘争」が、民主化時代の主たるイシューになったのは、韓国型民主主義の「歪んだ姿」を指し示すものに他ならない。 今回の「産経支局長起訴」に当たって、産経記事の発端を作った朝鮮日報の記者は放免され、朝鮮日報は現政権の意向を代弁するかのように産経批判を強め、起訴を批判する記事は見られなかった。その一方で、ハンギョレや京郷などの反政府紙は検察批判の記事を書いた。韓国マスコミが権力闘争の道具であることを改めて示した事態でもあった。「是々非々主義」で個別の事態に対応すべきマスコミが、その政治的立場によって紙面を左右するという醜態を見せたのである。 日韓国交正常化50年の節目の年に、名誉毀損をめぐる産経支局長に対する地裁判決がくだり、慰安婦問題の韓国人著者が起訴されたのは、「民主主義」理解をめぐって日韓両国に極端な落差があることを端的に示した。日本も韓国も「歴史的な転換期」に立っていると言うしかない。(文中・敬称略)

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    国連委が韓国政府のメディア規制に勧告 市民社会全体の問題として考えよう

    児玉克哉(社会貢献推進機構理事長) メディアは気を緩めるとあっという間に政府御用達のメディアになってしまいます。常に政府に歯向かうというのも問題ですが、ある一定のところはチェック機能を持たなければなりません。やや反政府くらいがバランスが保てるというものでしょう。 国連の自由権規約委員会は韓国に関する審査の報告を公表し、「政府を批判した人が名誉毀損に問われ、重い懲役刑を科される例が増えているとして『懸念』を表明し、名誉毀損への懲役刑の適用の廃止を韓国した」ことが読売新聞で報道されています。国連の委員会が勧告をしているといことは重く受け止めるべきでしょう。韓国メディアは今は自主規制が強くなっているといいます。これではメディアのチェック機能が果たせません。 産経新聞前ソウル支局長の加藤達也氏が朴槿恵大統領に対する名誉毀損の罪で、懲役1年6ヶ月を求刑されているケースも挙げられているようです。加藤氏は、昨年のセウォル号沈没事故当時の朴大統領の行方に対する疑惑を報道しました。このレベルで、罪に問われるとしたらメディアは政府関係のことを書けなくなってしまいます。韓国は民主主義の国としてグループ化されますが、かなり厳しくなっていると言えます。産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の判決に関するワイドショーを流す街頭のテレビ=17日、東京・有楽町(長尾みなみ撮影) ただ、韓国はインターネットの先進国でもあります。一般メディアが規制されても、インターネットの世界ではまだかなりの自由があります。時代はインターネットメディアに移りつつあります。新聞の購読数が減り、影響力が落ちています。インターネットメディアやSNSの影響力が年々強まっているのです。もしインターネットにまで政府の規制が強まるとなると、これは全体主義国になってしまいます。こうならないことを祈りますし、そうさせてはなりません。これは韓国の問題だけにとどまらないのです。 こう書くと、ほぼ必ずと言っていいほど日本はどうなんだ、という声があがります。私は韓国ほどではないとは思っていますが、日本も問題が現れつつあると思っています。韓国の問題だけでなく、日本でもありえる問題です。実際に日本でも政府がメディアに対するチェックを強めています。韓国だけの問題ではなく、いわゆる自由主義国の市民社会の問題として捉えるべきでしょう。 メディアの論調にも問題はあるのでしょう。実際に私も問題だと感じる時もあります。しかし、全体としてはやや政府に厳しい論調の方が健全といえます。批判的なメディアを名誉毀損で訴えるというのは大きな問題です。メディアが萎縮すると、社会も萎縮します。開かれた市民社会がなくなってしまいます。 とは言っても、メディアも強権的になることもあります。メディアが権力を持っていると誤解することもあります。メディアが政府からの力でなく、自ら戒め、健全な言論社会を築くことが必要です。インターネットメディアとのバランスもこれから求められるでしょう。社会全体で考えていく必要があります。政府はとりあえず黙っておいてほしいです。(「児玉克哉のブログ『希望開発』」より2015年11月6日分を転載)

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    韓国の理不尽主張に迎合する日本のマスコミ等は民主主義の敵

     産経新聞前ソウル支局長・加藤達也氏が書いた記事が朴槿惠大統領への名誉棄損にあたるとし、在宅起訴され、出国禁止措置を受けた件については、表現の自由や民主主義を脅かすものとして、世界的な話題となった。  この件によって、韓国の司法が政治判断にも支配されていることが白日の下に晒されたわけだが、それは日本がかかわる場合にだけ適用されるわけではない。韓国経済にとって、巨大財閥グループの存在感が非常に大きいため、司直が恣意的にしか見えない判断を下す場合が多い。例えば、2009年8月にはサムスングループの李健熙(イ・ゴンヒ)・元会長が1128億ウォンの脱税などで懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受けたが、同年12月には赦免されている。 一方、国民感情が反映されたような判決が出ることもある。大韓航空の「ナッツリターン事件」の公判がそうだ。産経新聞・加藤達也前ソウル支局長の判決公判が開かれるソウル中央地裁前の報道陣(共同) ナッツの出し方が気に食わないといって自社の飛行機をUターンさせた大韓航空の趙顕娥(チョ・ヒョナ)・前副社長。財閥トップの長女という立場が生んだ驕りに、国民から猛批判が殺到した。 彼女は公判の中で「私が悪かったのはわかっています」などと書いた反省文を声を震わせながら読み、ひたすら謝罪の意を表したが、それに対してソウル西部地裁は「自ら考えたのではなく、会社関係者が考えたとみられる。本当に反省しているのかは疑問」として、今年2月の一審では懲役1年の実刑判決を言い渡した(5月の二審判決で執行猶予付きに)。 世論の風向きに敏感に反応しながら、判決を出しているように見える。裁判の中身だけではない。趙被告は検察による逮捕後、拘置所に移送される直前に報道陣の前に立たされ、数十人の記者にもみくちゃにされながら謝罪を繰り返した。 世論の後押しがあれば、司法の場に移る段になっての“リンチ”のような行為も認められてしまう。 1991年、異色の長編小説『恨の法廷』(徳間文庫)で、韓国の反日感情の本質を鋭く描き出した作家・井沢元彦氏は現実の法廷でも国民感情に流されたように見える判決が相次ぐことについて、こう語る。「要するに韓国は本当の法治国家でもなく民主主義でもないということです。われわれ日本人はもっと韓国人の宣伝戦略に対抗してこうした事実を世界に訴えていく必要があります。 肝心なのは、そうすることが結局韓国の真の民主化を促進し韓国人にとっても利益になることです。この点、韓国の理不尽な主張に迎合する日本の一部のマスコミや文化人は、日韓双方にとって民主主義の敵といっても差し支えないでしょう」 こうした国民性を日本人はもっと理解した上で、この隣国との付き合い方を探っていかなければならない。関連記事■ 小沢一郎氏「土地取引で強制起訴も無罪判決」全文を一挙公開■ 韓国では「サザエさん韓国人説」が流布し真に受けている人も■ 韓国人の7割が「不倫したら懲役刑」の姦通罪を支持している■ 韓国人 本田のJリーグへの発言受け「韓国へおいで」と絶賛■ 韓国人が語る「○○は韓国が起源」に長崎ちゃんぽん、豆腐等

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    もう韓国とは国交断絶せよ!

    韓国の裏切りによって、日本は産業革命遺産登録において煮え湯を飲まされた。同じ失敗を繰り返さぬためにも、日本人はもっと韓国人の本性を理解し、「対韓意識」を抜本的に練り直す必要がある。

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    日韓和解は幻想だ 「強すぎる日本」を構築せよ

    権を放棄した。そうすることにより日韓の懸案事項が解決するという約束が日韓基本条約と協定だった。これで日韓関係は未来志向になると日本人は思った。これが日本人の良さであり、お人好しなところだった。国交断絶は、日本人の良さを自己否定するものだ。誠意と思いやりと自己規制をもとに戦後外交防衛政策をしてきたので、国際社会から認められているのが日本だ。日本が選択した戦後の選択を将来、韓国人が心の隅に置いてくれる日がやってくるかもしれない。 ここで対韓外交、新3原則を提唱したい。 その1。日韓関係はあわてて何かをするのは控えるのがよろしい。日本から喧嘩もふっかけない。沈黙して日本が正しいと思う道をゆく。粛々と国務大臣は靖国参拝を続ける。アジア金融危機になればドルを融通することはしない。中韓のスワップ協定は韓国のドル枯渇には助けにならない。中国が韓国に供与するのは人民元だから。それでも日本は静観する。友人を助けないというのではない。将来の致命的な日韓摩擦を防止するためだ。金融危機のときに日本が軽々に緊急支援をしたらどうなるか。後に「韓国経済を牛耳るために韓国経済の苦境に乗じて韓国にドルを貸した」と韓国の歴史家が記述するだろう。そのような誤解は防止したい。戦後の日本はカネを出しすぎた。謝りすぎた。談話を出しすぎたのである。 その2。優先順位の上位にある国家との関係改善を優先する。モンゴル、中央アジア、ベトナム、インド、フィリッピン、米国、豪州との関係強化はいうまでもない。日米豪の防衛協力網にインドを加えた同盟関係を構築する。話せる相手から順に話をするのはあたりまえではないか。政府開発援助をたくさん受け取ったあと、日本の新幹線関連の資料を受け取って中国の高速鉄道導入を決めたインドネシアとの関係はどうなるのか不明だ。 その3。「強すぎる」日本を創造する。韓国が中国と良い関係を構築できたのは、中国が強すぎるからだった。日本が強いときは、日韓関係は良かった。弱くなったと判断した韓国の大統領は竹島に上陸した。安倍政権になり、経済に復調の兆しがでてきた。安倍政権があと3年は続きそうだ。国際社会は日本の主張に耳を傾けるようになった。米国は日本との防衛協力を重視している。日本が復調してきたとき、韓国は日韓首脳会談の開催に前向きになっている。安保法制が成立してから日中では高官レベルの往来が復活している。「強い日本」が日中、日韓関係の改善に貢献している。「強すぎる日本」が日韓、日中関係改善を加速するだろう。そのとき日朝関係に動きがでてきて拉致問題解決のシナリオが見えてくる。 繰り返すが韓国は目標をたてて、国家戦略を持ち、感情を抑えて交渉戦術を練り、国家予算を投入できる国だ。世界文化遺産登録事案では、日本に「強制労働」を認定させようとした。国家戦略を持ち、国家予算を投じて慰安婦像、慰霊碑を米国や他の国に設置するロビー活動をしている。 驚くほどの巧妙な韓国のユネスコの世界遺産登録に関する会議戦術、対馬の仏像の返却拒否の背景にある韓国の戦略戦術を読み取ろう。売り言葉に買い言葉といって国交断絶で応えたら、日本が国際社会で発言する機会を減らすことになる。北朝鮮問題も同じだ。「拉致被害者に関する完璧な調査報告を出さないのであれば日朝協議は無用。制裁強化」という主張がある。問答無用、対話打ち切り、制裁強化、国際圧力をというのが日本社会の多数派だろう。これも問題解決にはならない。そうして拉致被害者が日本に帰国する日が早まるのだろうか。北朝鮮も計算して日本に対する政策を立案している。 本論の結論は、戦略と戦術と計算が巧みな韓国と北朝鮮とのつきあい方は、日本が巧みな交渉術と国家戦略を前面に出して、その間に「強すぎる日本」をせっせと構築することだろう。

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    朴槿恵政権を「親日」と見る早計

    加瀬英明(評論家)呉善花(拓殖大学教授)加瀬 日韓国交回復をしたのは安倍さんのおじい様の岸信介首相でした。朴正熙大統領の時代ですね。アメリカはアイゼンハワー政権だったのですが、李承晩が過激な反日だったため、冷戦下で日本と韓国の仲が悪いので困っていたんです。ですから、日韓国交回復を、ドイツのアデナウワー首相とフランスのドゴール大統領の歴史的和解のアジア版だと言って、大喜びした。 今もアメリカは、日韓の不仲に悩んでいますが(笑)、今度こそ岸さんのお孫さんと朴大統領のお嬢さんが、歴史的和解をしてほしいと思っているんですね。 岸さんから晩年お伺いしたのですが、朴大統領は日本語が大変お上手で、宴会のときに、「私はパクパク食べるからパクなんです」といって皆を笑わせた(笑)。呉 朴大統領は日本の陸軍士官学校を出ていますからね。韓国の戦後の軍事制度も、日本のシステムを導入しているんです。 朴大統領について、日本人は独裁政権のイメージと、日韓国交回復させたことで、あたかも親日家であるかのような、二つのイメージがありますよね。加瀬 日本で、朴さんのことを「独裁者でけしからん」と言っているのは朝日新聞などの、左派の人たちで、保守側は総じていい印象をもっています。朴政権が反日教育をした呉 日本人は、韓国の「悪いところを見たくない」というイメージがあると思います。だから、朴大統領に関しても、親日家的側面しか見ていません。彼は個人的には日本が好きでしょうが、一番強烈な反日教育を行った張本人なんですよ。加瀬 朴大統領の演説集には「李朝があまりにも腐敗して、国家の体をなしていなかったから日韓併合につながった」とありますよ。呉 表向きはそう言いますが、朴大統領が反日教育をしたツケが今の韓国人なんですから。加瀬 でも、反日教育は李承晩政権のときからですよね。呉 李承晩のころは根深いものではなかったんですが、朴大統領のときに徹底した反日教育をやってしまった。朴槿恵は、その反日教育を受けた世代です。加瀬 お母さんの陸英修夫人も日本の女学校を出ているでしょう。呉 にもかかわらず、反日教育をしたんです。朴槿恵の主張からすると、親がどうであれ、反日感情のレベルは普通の韓国人と同じです。 竹島問題に関しても「日本側が正しい認識をもってほしい」と言っています。これは他の歴史認識同様、あくまでも韓国の考え方が正しいものであって、日本側は誤っているという解釈です。日本の朴槿恵政権に対する認識は甘すぎます。加瀬 本人の内心はともあれ、韓国世論があるからそう言わなければならないということですか。呉 というよりは、骨がらみ反日教育で育った世代だということです。 これは李明博大統領も同じです。彼が日本で生まれたというだけで、幻想を持っている。ところが、反日教育を受けた一般の韓国人となんら違う考えを持っていない。判断力がないんです。ですから、今の反日教育世代からずば抜けた日本人観をもった人が出てくるのは極めて難しいですよ。安倍首相は「shameful」?加瀬 さきの総選挙の投票日にワシントンにいて、固唾を飲んでみていたら安倍自民党が圧勝したので安心したんです。その直後にニューヨークタイムズが「今度の安倍首相は河野談話の見直しを行うということを言っている」と社説で論じ、そのタイトルが「shameful」=「恥知らず」の考え方、というものでした。呉 安倍さんに対してそんな失礼なこと言っているんですか。加瀬 「韓国の若い女性を無理に性奴隷に仕立て上げた罪を否定するとはshamefulだ」と言っているんです。日本専門家のマイケル・グリーンは、「首相が靖國神社に参拝しても理解できるだろう。しかし、河野談話を否定するとなると、上下両院、地方議会などで大変な反発を招くだろう」と言っていました。今月もニューヨーク・タイムズで「村山談話を否定するならば、日本は中国・韓国をはじめとするアジア諸国を侵略した罪を否定する、大変ひどいことだ」と書いていた。呉 それは、日本と韓国の教育が作り上げた結果でしょう。加瀬 日本も韓国と同じように「日本がひどいことをした」という妄想に囚われています。 でも、安倍さんを「shameful」と批判する三カ月くらい前のニューヨーク・タイムズは「韓国は売春大国だ」と書いていた(笑)。呉 世界でワースト1ですから(笑)。加瀬 それに、韓国では賃金の大きな差がありますね。呉 良い大学を出ても就職できない。まともな会社に就職しようと思ったら、選ぶべき大学はおのずと絞られてしまいます。だから受験競争が激しくなる。韓国では″知=学歴〟が一番大切ですからね。加瀬 儒教の影響ですね。しかし、世界にはニューヨーク・タイムズのような認識をもっている人たちはたくさんいる。呉 それをこれからどのように正していくかが大きな政治的テーマでしょう。安倍政権は、それを期待されてこれだけ圧勝したわけです。しかも、安倍総理は力強く出ていますからね。加瀬 韓国の妄想につける薬はまったくないと思いますが(笑)。呉 少なくとも、「朴槿恵が親日」という妄想だけは、早く壊さないと危ない。加瀬 朴大統領が軍事クーデターを起こしたときに参加した金鍾泌さんとはたいへん親しくさせていただいたんです。彼も日本語を話すのが大好きで、親日でした。「漢江の奇跡」は日本の援助「漢江の奇跡」は日本の援助呉 朴大統領やその周りの方々は親日でも、戦後の「漢江の奇跡」は日本からの援助によってなされたものだと発表していない。ソウル市街と、街の中心を東西に流れる漢江 私は新日鉄の会長だった有賀敏彦さんとは親しくさせていただいたんですが、新日鉄は韓国のポハン製鉄に技術提供をし、韓国の地下鉄などに多大な貢献をしているんです。そのため、韓国の青瓦台の大統領官邸に呼ばれ、賞をいただいたそうです。しかし、賞を頂くのに〝個室〟で誰にも知らせないでたった一人でもらったという(笑)。 ウラでは、評価しているし、援助に対する感謝の気持ちもあるけれど、国民どころかまわりの官僚にも言わない。このようにして、徹底した反日教育を行ったことの結果が表れているんです。加瀬 日本語が得意で、日本が好きだった方に「なぜ反日教育を行ってきたのか。同じような状況だった台湾は親日であるのに、なぜ韓国は違うのか」と聞いたことがあるんです。すると、「日本が悪い」と──。「日本が戦争に負けたから悪くて、あと十五年、つまり五十年間日本が統治していたら、台湾に負けない親日になっていただろう」と言われたことがあります。 それにもかかわらず、どうして朴政権は反日政策を施したのでしょうか。呉 私も不思議でならないんです。朴大統領は、韓国人は朝鮮時代に腐敗したどうしようもない国民性を持っていることは知ってらっしゃるんです。『人間改造の民俗的課題 韓民族の進むべき道』で韓国朝鮮民族のどうしようもないところを指摘して、変えるべきだと言っています。例えば、特殊特権意識。これは韓国人はすごく強い。お金がある、学閥や門閥が優れているということに対しての執着が強いんです。民族の共同利益と繁栄を阻害していると指摘しています。もう一つは過去の国家政策のすべてが歪曲されていること。自党の利益のためだけに政策が実施されてきたと言っています。加瀬 今の韓国そのものですね。呉 李承晩政権の反日教育はわずかな期間でしかないし、全国民が教育を受けられるような環境でもなかった。朴大統領は、あれだけの力を持っていたのですから、反日教育を変えることが出来たはずなのに、むしろ徹底した反日路線を継承してしまった。加瀬 李朝五百年の間に何も誇れることがないから、反日を韓国の愛国心の柱にするしかなかったんですね。呉 これまでもお話ししてきたように、漢字廃止とハングル礼賛、そして反日ですね。加瀬 朴正熙大統領は強硬な反日政策をとったにもかかわらず、盧武鉉政権のときには日本の士官学校を出たというだけで、親日というレッテルを貼られてしまいましたね。呉 それは朴槿恵に対する牽制です。親日派の娘ということで潰したかったんです。加瀬 朴政権の頃の韓国によく通いましたが、政府の方、国会議員、学者も親日ぶりを披露ばかりするもので、反日のムードがあることに全然気がつきませんでした。呉 トップの方たちはそうかもしれませんが、一般では反日ムードが強く、日本人たちは韓国に行くのが怖かったと聞いています。加瀬 全斗煥時代からではなくて?呉 私が日本に来たのは全斗煥時代でしたけど、そのときにはすでに反日教育を受けていましたから。日本人観光客を見ると学生たちは指差して揶揄したり……。 むしろ、今の方が落ち着いている気がします。何が何でも反日というのではなくて竹島や慰安婦というキーワードに反応し、それも全国民が立ちあがるのではなく、一部の団体が騒いでいるのが現状です。鳥もネズミも知らない内に加瀬 従軍慰安婦問題に火をつけたのは朝日新聞です。呉 ええ。昔は個別の問題で騒ぐのではなく、〝漠然とした〟反日でした。私が日本に来た頃は、韓国からの留学生たちが集まると、とにかく反日的な言い方をしないと韓国人ではないという扱いを受けました。私も当時は凄かったんですよ(笑)。加瀬 おや、どのようなことをおっしゃっていたんですか。呉 「日本人は血も涙もない国民だ」とか(笑)。加瀬 それから二十五年経って、韓国の現状はどうですか。呉 変わってない(笑)。ただ、今は行き来する人が増えたので、実は昔ほど根深いものではないという印象ですね。 最初に本を書いたころは、親日的なことは書けない時代でした。韓国には「鳥もネズミも知らない内に」という言葉があって、夜行性のネズミも知らない内に拉致されて、どうなるか分からない……。それくらい朴政権というのは怖いという印象があった。加瀬 韓国人で面白いのは、反日を言いつつも、日本製品が大好きですよね。女性なら化粧品、男性なら電化製品……。イスラエルはユダヤ人ですから、ホロコーストをやったドイツ人が大嫌いです。だからドイツ製品も、ベートーベンも一切だめ。でも、韓国は違いますね。日本が大好きという一面もある。呉 消費社会はいいんです。でも、漠然とした日本というもの、国家となると拒否反応が出るんですよ。加瀬 最近、韓国では日本の居酒屋が流行っているそうです。日本酒もブームだとか。ビールは「アサヒビール」が若い人には好まれているようですね。呉 「サケ」という言葉が特許を取っているくらいです。韓国人にとって、「酒」というのは最高級品です。加瀬 この二重人格というか、複雑な日本観は何とも不思議ですね。呉 感情的なんですよ。イスラエルのように、〝理性的に〟排除することはせず、矛盾した二つの日本観が同居しているのが韓国なんです。加瀬 日本人をいい奴だと思っているんでしょう、「いい奴がつくっているならいい国だ」ということにはならないんですか。呉 一般の韓国人にそんなまともな冷静さはありません(笑)。 この感覚を知らなければ、韓国人とはまともに付き合えないと思います。たとえ父親が日本の学校を出ていたとしても、この感覚で育ってきた朴槿恵に期待しすぎたら痛い目を見ますよ。本質を知る気がないのなら、中途半端な韓国との付き合いはやめるべきです。加瀬 分裂症みたいですよね。呉 そうですね。加瀬 中国には逆らいませんが、それも国民性というか、二千年のDNAなんでしょうね。呉 中国人にも韓国人にも共通している点なんですが、上から物事を見たい。見下したいんです。さきに公明党代表が中国で習近平に会いましたね。その時の態度が、まさしくそれを表しています。日本人はお辞儀をするけれど、彼らはしません。韓国でもお辞儀は下位のものが深く、上位者は軽く頭を下げる程度です。 李朝時代、朱子学一本でピラミッド型の国づくりを進めていきました。次第にそれが家庭生活まで貫くようになり、一つの乱れもない階級社会が出来てしまった。これが結局は戦後、韓国人が唯一の価値観で動くことに繫がっています。完璧なたった一つの真理が貫いている北朝鮮を理想とする若者がいるのも、硬直した価値観があるからなんです。その価値観に当てはめると、韓国と日本は……。加瀬 両班と常民の関係ですね。日本人はいつも「すみません」と深々と頭を下げているからね。呉 外交はパフォーマンスですから、非常に大切なわけです。日本人は謙虚な気持ちの表れで、上に行けばいくほど深くお辞儀をする。韓国人からしてみると、深く、もしくは何度もぺこぺこするのは、卑屈に見えて仕方がない。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざは、日本だけで通じる美学だと考えた方がいいのです(笑)。加瀬 なるほど。韓国では一度しかお辞儀をしないんですよね。複数回するのは死んだ人にだけです。ましてや、慰安婦問題のように事実でないことについて何度もおわびをするというのは、本当に卑屈なことですね。呉 「ほら、自分で認めたじゃないか」ということになってしまいます。「もっとよこせ」と要求するもっとよこせ加瀬 河野談話については、石原信雄官房副長官というキャリアのお役人が「韓国人女性を強制的に拉致してきて慰安婦にしたということを日本が一回認めれば、もう二度と言いませんから」という韓国側の主張を信じて、上役の河野官房長官に談話を発表させたんです。いまでは「私はだまされた」と言っていますが……。呉 日本人は「謝ったほうが勝ちだ」というような自分たちの価値観で勝手に判断したんです。中国は「謝ったら終わり」でしょう(笑)。加瀬 韓国人にとって「負けるが勝ち」というのは理解出来ない言葉だそうですね。呉 ないですよ! 「勝てば官軍」です!加瀬 中国の人に同じ質問をしたら、「そんな発想はまったく中国にない」と言われました。呉 ″助ける〟ということもそうです。なにかあった時に助けるということになったとしますよね。余計な助けは、逆に良くないんです。 韓国人の性格がそうなんですが、助けてもらうということは、「私」に力があるからということになる。助けてもらうのではなく、「あなたが助けてくれるべきでしょう」と。加瀬 計算をして、後に得をするために、援助をしたと解釈するんですか。呉 というよりも、「私にそれだけの価値があるから、私を助けてくれる。だから私を助けなさい」という発想なんです。それが受ける側の価値になる。 経済的援助を例にすると、小さな金額で助けてもらうと「私の価値をこれだけしか判断できないのか」とものすごく怒るんです。それで「もっとよこせ」と要求する。たくさん相手に助けてもらえるということは、その人の力と判断されるんです。加瀬 日本が日韓条約で大変な金額をあげたんですよね。ところが今は全然感謝されない(笑)。呉 「そんなのはハシタ金にすぎない、足りない。もっとよこしなさい!」と(笑)。加瀬 いまの中国の発展は、日本のODAのおかげですよ。「日中友好は大切だから」と一番初めに中国に進出したのは松下。今回の反日暴動で一番初めに襲撃を受けたのは、パナソニックの工場なんですよ。日本では「どうして恩を仇で返すのか」とキョトンとしているけれど、これと同じ話ですね。呉 ありがたいという気持ちがないんです。助ければ助けるほど、「それくらいしか私の価値を認めないのか」と怒り狂って、「もっとよこせ!」と要求するんです。こういうことで存在意義をアピールする。国家間も、普通の人間関係も同じです。働くことは卑しい加瀬 韓国では、食堂や料亭では、常連から高くとるんですよね。「よく来るから、高くとってもいいだろう」という発想です。日本だと、常連さんには安くする。呉 そうですよね。「ありがたい」という気持ちですね。 韓国の店は「常連としてくるということは、それだけこの店に価値があるからだ。だからもっと払え」となる。だから次はもっと高いお酒を出して(笑)。本当に日本人とは違うんです。加瀬 現金で払うと、常連客にはおつりをくれないんですよ(笑)。呉 もっと言うならば、「働かないでもタダでもらえる」ということもその人の力だと考えるんです。日本人にとっては、タダで誰かからお金をもらって生活するなんて、みっともないことでしょう。 韓国では、どうすれば働かなくても助けてもらえるかがその人の力なんです。「私に〝徳〟があるからみんな持ってくるんだ」という発想につながるんです。生まれつき、あるいは先祖から受け継いだ徳に対する対価と考える。だから、汗水たらして働くというのは、不幸なことなんですよ。 この間、韓国人と会って「あれ?」と思ったことがあったんです。手先が器用で才能がある人は日本ではどう評価しますか。加瀬 「匠」として尊敬され、高く評価を受けますよね。呉 韓国では、器用な人は不幸になると言われているんです。色々な仕事が出来てしまいますから、たくさん働かなくてはならない。加瀬 要するに、働くことは卑しいことなんですよね。呉 この前、韓国人が私の家に来たんです。「これもあれも私が作ったのよ」と言ったら「器用ですね」と誉めてくれたんです。嬉しいなと思ったら、そのあと「昔から器用な人は不幸な運命の持主だと言われるけど」って(笑)。そんなことを言われて、本当にがっかりして……。加瀬 両班は自分の手の届くところにあるものしかとらないというし、馬に乗るのも、従者に腰を高く持ちあげてもらうんですよ。自分の力は使わない。 日韓併合のときの日本の調査で、両班は五〇パーセントだった。明治に入ったときの士分は八パーセント以下。韓国では働かない両班がどんどん増えていって、国が潰れてしまったんです。日本は武士だって畑を耕しました。呉 働かなくても食べていけることが幸せ。今でも、そういう人は幸せの象徴なんです。このような国民の精神性が、国家間の外交問題にすごく表れているんです。 汗水たらして働くことを美徳としている日本人は、〝低い〟人たちと判断される。だから、日本人に働かせて、お金を稼がせて、それを韓国人が使うべきなんだという発想です。加瀬 不当な生活保護受給者みたいですよね。呉 韓国の牧師さんの説教があったんです。「キリスト教を信じなければ、日本は滅びる。その証拠に、汗水たらして働いているのに、日本人が住んでいるのはウサギ小屋ではないか。日本人はお金を稼ぐが、それを使っているのは、クリスチャンであるアメリカ人ではないか。日本人は呪われている奴隷である」と言っていたんです。 これに象徴的に表れていますよね。日本人はお金を持っていても、使うのが下手だから、韓国人が使ってあげなくてはならないという感覚はものすごく強いんです。これに対する罪の意識はありません。むしろ、韓国人が使ってあげないと日本人がダメになるという発想です(笑)。加瀬 ハハハ、ありがとうございます(笑)。カムサハムニダ!!かせ・ひであき 1936年、東京都生まれ。慶應大学経済学部卒業後、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。『ブリタニカ国際大百科事典』初代編集長を経て、評論家として活動。映画『プライド 運命の瞬間』(98年)『ムルデカ 17805』(01年)の監修も担当した。海外での講演も多い。お・そんふぁ 1956年、韓国生まれ。拓殖大学国際学部教授。大東文化大学卒業後、東京外国語大学地域研究科修士課程修了。韓国時代に四年間の軍隊経験あり。東京外国語大学大学院時代に発表した『スカートの風』が大ベストセラーに。また『攘夷の韓国 開国の日本』で第5回山本七平賞受賞。著書『私はいかにして「日本信徒」となったか』『虚言と虚飾の国・韓国』(共にワック)など多数。 

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    悪業と非道──李承晩大統領は蛮族の酋長

    小名木善行(日本の心をつたえる会代表) 二〇一二年の李明博大統領の竹島不法入国や陛下に対する侮辱発言をはじめとする韓国の非道ぶりに腹をたてている方も多いかと思います。 けれど実は、韓国の対日侮辱はいまに始まったことではありません。 もともと韓国は、五百年もの間支那の属国だった国です。 国内に産業らしい産業はなく、国は貧しく国民は飢え、その劣悪な環境から、平均寿命は二十四、五歳。主な輸出品目は、支那に献上する女性だけ。国内では両班と呼ばれる貴族が横暴の限りをつくしていた。ひらたくいったら未開の野蛮国です。 ところがいまから百年ほど前、支那の清王朝が滅びました。韓国は封主を失ったのです。 一方でお隣の日本は、日清日露の大戦に勝利して世界の一等国の仲間入りを果たしました。韓国は手のひらをかえして日本にすり寄りました。支那の属国ではなく、日本の属国となろうとしたわけです。けれどそれは日本にとって、何のメリットもない提案でした。 日本の韓国併合について、支那やロシアの脅威に対抗するための軍事的理由をあげる人がいます。 が、それは間違いです。 かつてのヨーロッパ諸国にとってのアフリカや東南アジア諸国、あるいはかつて戦った日米にとっての太平洋の島々と同様、当時の列強というのは、軍事的必要があれば勝手にそこを通過し、軍事施設を作りました。つまり国家というのは、世界に認められた一部の強国を指し、それ以外は「未開の蛮族の生息する地域」とみなされたのです。日本もそのようにみなされるところを、あと一歩のところで近代国家の仲間入りをはたし、韓国は名前こそ「大韓帝国」といさましくしたけれど、国際的には「蛮族が生息する地域」としてしかみなされないエリアだったのです。 日本は、日清日露の戦争においても、朝鮮半島に一方的に軍を進めていますし、軍の施設を置いています。韓国の都合に関わりなく、日本にとってその都合があったからです。軍事的には、併合する意味などまるでありません。「属国になりたい」伊藤博文は韓国属国化に反対したために韓国人に狙われた ところが、日本が韓国の「属国にしてほしい」という要求を拒否すると、韓国はびっくりするような挙にでます。何をしたかというと、属国拒否の中心人物であった伊藤博文を暗殺してしまったのです。そして殺害の翌月には、「韓国は日本と『対等に』合邦して新たな帝国を築く」というとんでもない声明を世界に向けて発表しました。 このことは、当時の世界にあって大爆笑の「珍事」でした。世界の一等国として英国とさえ対等な同盟関係にある列強の日本が、国とさえ認識されていない「未開の蛮族」から「対等な」合邦を言い出されたのです。 世界列強諸国は、日本に「隣にあるのだから、すこしは蛮族の面倒をみてやったらどうだ」と言い出しました。この結果行われたのが、明治四十三年(一九一〇)八月の日韓併合です。要するに当時の国際外交(未開の蛮国は含まれません)にあって、日本は朝鮮半島の面倒を見ざるを得なくなってしまったのです。文献史料によっては「日本が韓国を併合して良いか列強諸国に聞いて回った」としているものがありますが、事実はまるで反対です。日韓併合 日本は困り果てました。平素から人種の平等を唱える日本が、隣にある「未開の蛮族」を押し付けられたのです。欧米のように奴隷支配するなら話は簡単ですが、それをしたら日本の主張する「人種の平等」は噓になってしまいます。であれば、併合し蛮族を教育して近代国家人に仕立て直すしかない。そうすることで有色人種も人であることを立証するしかなくなったのです。 結果日本は、韓国を併合しました。以後三十六年間にわたって、莫大な国費と人材を朝鮮半島に投下し続けました。 おかげで朝鮮半島では、八つあった言語がひとつに統一され、数校しかなかった小学校は五千二百校になり、それまで教育を受けたことなどなかった人々を二百三十九万人も無料で就学させ、名前のなかった女性に名前をつけ、戸籍をつくり、住民台帳を整備し、道路をつくり、橋を架け、鉄道を敷設し、上下水道を整備し、路上大便があたりまえだったのをトイレでさせ、病院をつくり、電気を敷き、ビルを建て、半島内に古くからある不条理な刑罰や牢獄を廃止するなど、可能な限りの誠意と力を尽くして韓半島の近代化を押し進めたのです。韓国の人口は二倍に増えています。 もっとも日本が統治をはじめた当初には、抵抗運動もあるにはありました。ある地元の宗教団体が、民衆を煽動して「日本による搾取を許すな!」と宣伝し、民衆が蜂起したのです。しかし、民衆のあいだに日本統治による治安や、なにより「臭気のない清潔な暮らし」が徐々に浸透すると、抗日運動も自然と沈静化していきました。そして朝鮮半島は、すくなくとも表向きは、蛮族ではなく、近代国家の人士の体裁を整えるようになっていったのです。李承晩の帰国朝鮮戦争時、金浦空軍基地に到着したマッカーサー将軍を出迎える李承晩 ところが、こうした日本の努力がまだ実りきらないうちに、大東亜戦争で日本が負け、朝鮮半島から去ることになったのです。 朝鮮半島には、新たな統治者として米軍が上陸しました。そして米軍と一緒にやってきたのが、米国内で李氏朝鮮王朝時代を東洋の天国のように崇拝し宣伝していた李承晩でした。 李承晩は日本が韓国を併合した当時、上海で「大韓民国臨時政府」を作って、その大総理におさまっていた人物です。ところが、「臨時政府」どころか韓国を独立国でなく、国際連盟の「委任統治領」にしてくれと李承晩が米国に依頼したことがバレてしまいます。これは韓国を米国の植民地にするということです。臨時政府のメンバーにこのことを糾弾された李承晩は、ひそかに上海から逃亡し、米国に渡りました。 そして米国内で李承晩は、李氏朝鮮時代をまるでファンタジックなおとぎ話のように賛美する作り話を英文にしてあちこちに寄稿し、たまたまこれが対日戦争を仕掛けようとする米国の意向に添ったことで、米国内で名前と顔が売れていきました。 もっとも、米国内でそれなりの政治家との繫がりをもったとはいえ、韓半島に帰還した李承晩には、半島内での人脈も政治活動のための資金力もありません。これに目をつけたのが日本とのパイプで力をつけていた湖南財閥で、旧統治者であった日本がいなくなると、財閥としての力を失わないために米国内に顔がきく李承晩の支援を申し出たのです。これによって李承晩は、湖南財閥の資金力と国内人脈を手に入れ、ついに昭和二十三年(一九四八)八月、大韓民国(いまの韓国)が建国され、初代大統領に就任したのです。 大統領に就任した李承晩が大統領として最初にやった仕事が、「親日派の抹殺」でした。彼は公の場で「日本統治時代はよかった」「今の政府は駄目だ」などと発言した者を片端から政治犯として逮捕投獄したのです。収監した者に対しては、日本が統治するようになってから禁止したはずの李氏朝鮮時代の残酷な拷問道具を復活させてこれを用い、刑務所がいっぱいになると、入獄の古い者から次々と裁判もなしで殺害しています。まるで蛮族の酋長ですが、おかげで李承晩が初代大統領に就任してからたった二年で、政治犯として投獄された囚人数は、日本が朝鮮を統治した三十六年間の投獄者の総数をはるかに上回っています。対馬、竹島領有宣言 李承晩が次にした仕事が昭和二十四年(一九四九)の「対馬領有宣言」です。李承晩ライン これは例えていえば、建国したてのアフリカの某国の酋長がいきなりカリフォルニアは我が領土と言い出したようなものです。これまた世界からみれば、ただの笑い話ですが、韓国国内には、たいへんな衝撃がありました。かつての封主国の領土を「我が領土」と一方的に宣言したわけです。権威あるものを貶めることに快感を覚える人というのは、世の中に少なからずいるもので、新国家建設でナショナリズムにわく韓国民の一部は、このニュースは実に気宇壮大な誇り高いものに思えたのです。 調子に乗った李承晩は、宣言だけでなく、こんどは日本に対する竹島の返還請求まで行ないました。李承晩ラインの設定より三年も前のことです。 とはいえ、韓国内には衝撃を与えたこれらの発言は、当時韓国を占領していた米軍にとっても、米国本国政府にとっても、また日本にとっても、何の関心もひかないものでした。ただのポーズであり、相手にする必要ナシと判断されたからです。言っただけで何かできるだけの実力は、当時の李承晩にはまだありませんでした。 その李承晩は、反日だけに凝り固まっていたわけではありません。同時に共産党も頭から嫌っていました。李承晩のこのあまりの反共ぶりに危機感を募らせた金日成は、ソ連と謀り、ソ連から武器と資金の供給を受けて朝鮮半島北部に日本が築いた工業地帯を軍事制圧してしまいました。 これは韓国にとっては一大事です。朝鮮半島の富の源泉を共産党金日成軍閥に奪われたのですから。そして財力を身に付けた金日成は、昭和二十五年(一九五〇)六月、ソ連製の強力な戦車隊と、十一万の陸兵をもって、ソウルを急襲します。朝鮮戦争の勃発です。 そもそも朝鮮戦争というのは、実はしなくて済んだ戦争です。なぜなら昭和二十年の終戦直後に朝鮮半島では、もとの朝鮮総督府の呂運亨らが中心となって「朝鮮人民共和国」建国が宣言されていたのです。この「朝鮮人民共和国」には、後に朝鮮半島を二分する勢力となる金日成も新政府メンバーとして参列していました。つまり、共産党もそれ以外の政党も、まずはひとつの統一朝鮮としての新国家建国を目指していたのです。 もしこれが成功していたら、他の国々同様、政権内部での言論戦は多々あったろうし、局地的デモによる逮捕者などはあったかもしれないけれど、国を分けての戦争など起こっていません。 しかしこの「朝鮮人民共和国」は、建国宣言の翌日には、上陸してきた米軍によって潰されてしまいました。米国にいた李承晩が、米政治家を動かし「共産主義者が一緒にいる統一政権は建国を少し見合わせて、先に実態調査をした方がいい」ということになったからです。 結局、「朝鮮人民共和国」建国は見送られ、李承晩が新たに建国した大韓民国の初代大統領に就任したのですが、そのことがきっかけとなり、北の金日成が決起して朝鮮戦争に至っています。つまり、朝鮮戦争を導いた最大の原因は、李承晩の存在そのものにあったということです。サンフランシスコ講和条約 朝鮮戦争による死傷者数がどれほどのものであったか。死傷者は韓国軍二十万。他に米軍十四万、その他連合軍二十二万、北朝鮮軍二十九万、中共軍四十五万が死傷しています。さらに民間人は韓国百三十三万、北朝鮮二百五十万人が殺害されたとされています。たった三年間の、しかも朝鮮半島内という局地で行われた戦争で、南北合わせて五百万人を超える死傷者が出ています。いかに朝鮮戦争が悲惨で酷い戦争だったかということです。ちなみにこの戦争で米軍が投下した爆弾の総重量は約六十万トン。これは大東亜戦争で日本に投下された爆弾の約四倍です。 それだけ悲惨だった朝鮮戦争ですが、この戦争が行われた期間は、昭和二十五年六月から昭和二十八年七月までです。 そして、この戦争のまっただなかに行われたのが、サンフランシスコ講和条約による日本の主権回復でした。 この条約は昭和二十六年に締結され、昭和二十七年四月に発効しています。これが何を意味するか。時期を考えれば答えは簡単に見えてきます。それは悲惨さの増す朝鮮戦争に、日本を狩り出そうという意図です。米国も財政面では、日本との戦争ですでに逼迫したものとなっていました。そこへ重ねて朝鮮戦争が起こったのです。多くの米国民は、もうすでに戦争に倦んでいました。なぜわざわざアジアまで出かけていって米国民が命を落とさなければならないのか。そんなことをしなくても、日本に再軍備させて、朝鮮の対応をさせればよいではないか、というわけです。 ところがそうなると困るのは李承晩です。なぜなら李承晩にとっては、もし日本が朝鮮戦争に参戦すれば、強兵をもって鳴る日本軍です。米軍とともにまたたく間に北朝鮮と中共軍を蹴散らして戦争を勝利に導くことは、火を見るよりも明らかです。現に同じ韓国兵でも、旧日本軍所属だった兵隊と、新たに登用した韓国兵では、実力の違いは天と地でした。もし日本が参戦し、日米で北朝鮮を駆逐すれば、今度は日本が戦勝国として再び朝鮮半島に還って来る。そうなれば、反日を煽り非道の数々を行ってきた李承晩は、一〇〇パーセント間違いなく政権を追われます。なんとかしてサンフランシスコ講和を潰したい。けれど李承晩には、サンフランシスコ講和に参加する資格がありません。なぜなら大東亜戦争に韓国は参戦していないからです。大東亜戦争の最中には、韓国は日本の一部であり、国でさえなかったのです。李承晩の貪欲ぶり李承晩の貪欲ぶり そこで李承晩は、サンフランシスコ講和そのものを邪魔するのではなく、日本と韓国の対立を深めることを画策します。 李承晩は、昭和二十六年(一九五一)七月、サンフランシスコ講和条約の草案を起草中の米国政府に対して「要望書」を提出しました。内容は、〈一〉日本の在朝鮮半島資産の韓国政府への移管〈二〉竹島、波浪島を韓国領とする そういう要求でした。 米国は驚きました。せっかく日本をなだめすかして朝鮮戦争を戦わせようとしている矢先に、肝心の韓国が日本との対立関係を故意にあおってきたのです。日本と韓国が対立関係になれば、日本が韓国のために出兵する可能性は、一〇〇パーセントなくなります。 米国は、翌月には李承晩に「在朝鮮半島の日本資産の移管については認める。それ以外の要求は一切認めない」というたいへん厳しい内容の書簡を発行しました。「ラスク書簡」です。そして、その一カ月後の昭和二十六年九月八日、日本との間にサンフランシスコ講和条約を締結したのです。隣接海洋に対する主権宣言韓国によって拿捕され、取り調べを受ける日本漁船の船員たち。1953年12月 ところが、講和条約締結にますます危機感を募らせた李承晩は、さらなる暴挙に出ました。昭和二十七年一月八日に、突然日本との国境を一方的に定めた「隣接海洋に対する主権宣言」を発表したのです。これが世に言う「李承晩ライン」です。 どう対策しようか迷う米国に対して李承晩は、同月二十七日、さらに追い打ちをかけます。「李承晩宣言韓国政府声明」を発表したのです。この声明で李承晩は、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に「国内だけで」宣言します。そんなことをすれば当然日本は怒る。怒れば日本は対北朝鮮戦争参加を拒否するにきまっています。そして日本が参戦しなければ、米軍の朝鮮戦争での損耗はますます激しくなります。 米国は、ここへきてようやく事態を重く考えました。そして「サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である」「李承晩の一方的な宣言による李承晩ラインは国際法上違法である」と韓国政府に伝達します。 ところが李承晩はこの伝達を握りつぶし、対馬海峡上で操業する日本人漁船に銃撃を加え、船員を拿捕してしまいます。日本漁民への暴虐解放された日本人漁民。人間のすることとは思えない虐待を受けたことがまざまざとわかる 日本漁船拿捕にあたっては、韓国漁船を装った船で日本漁船に近づくという卑劣な手口も使いました。漁船で近づき日本語で「調子はどうですか」などとにこやかに声をかけたうえで、付近に船を待機させ、日本漁船が網の巻き上げ作業にはいったところ(つまり身動きがとれなくなったところ)を見計らって、警告なしに機関銃を乱射して日本人船員を殺害し、慌てて網を切り落として逃げ出そうとする日本漁船を追尾して、これを漁船ごと拿捕するという極めて卑劣な手口でした。軍事は当該国の軍服を着用して行うことというのが、国際法のルールです。 襲われた日本漁船はたいへんです。船内は血の海、怪我をした者は息があっても治療してもらえない。運良く生き残っても収容施設は六畳一間に三十人を押し込むという非道さです。食事は残飯、水も三十人で一日に桶一杯です。満員電車のような室内では、誰ひとり横になることもできず、トイレも行かせてもらえない。立ったまま室内に大小便垂れ流しという状態にされたのです。 取り調べと称して部屋から連れ出されるときは、もっと大変です。牢屋を出される瞬間に、殴る蹴るの暴行を受ける。ぐったりして抵抗できなくなったところで、ようやく取調室に連れ出されると、そこでまた殴る蹴るの暴行です。 結局、この李承晩ラインは、廃止となった昭和四十年(一九六五)六月まで、なんと十三年間も続きました。そしてこの間に韓国によって拿捕された日本漁船は、合計三百二十八隻、拿捕された者三千九百三十九人、殺害された者四十四人にのぼります。 写真は、ようやく解放されて帰国した日本人漁民です。ガリガリに痩せ細った体、腫れ上がった顔、焼けただれた頭皮、さらに全身が打撲と裂傷で紫色に変色しています。あまりにも酷い姿です。竹島占領 李承晩の非道はそれだけではありません。李承晩ラインによって、一方的に領海線を敷いた彼は、一緒に朝鮮戦争を戦ってくれている米軍にも内緒で、勝手に竹島に兵を入れ、これを軍事占領してしまっています。 もっとも、李承晩のこうした暴挙を、日本政府は上手に活用しています。すなわち韓国の日本に対する暴挙と、日本に与えられた〈日本は軍事力を持たない〉という占領憲法を盾に、朝鮮戦争への参戦を拒んだのです。 要するに、まだ大東亜戦争の傷跡の癒えない日本は、戦争に駆り出されるより、日本国内の復興を優先させたのです。また、韓国に拉致された被害者の漁船員たちについては、米軍に依頼して、そのつど日本への返還を要求し、船員たちをもらいうけています。このときの日本の動きは、結果として日本の朝鮮戦争参戦を拒否し、国内の復興を促進するという好ましい結果をもたらした反面、サンフランシスコ講和の時点で本来破棄すべき占領憲法(現・日本国憲法)を温存するというマイナス面を残して現在に至っています。 李承晩の暴挙によって、せっかくの日本の参戦を棒に振った米国は、あくまで北朝鮮との継続戦を望む李承晩を無視して、彼の頭越しに北朝鮮と休戦協定を結びます。これが昭和二十八年七月二十七日の出来事で、以来、朝鮮半島は北緯三十八度線を境に北と南に別れることとなりました。失脚 もっとも、この休戦を不服とした李承晩は、韓国内に収容した北朝鮮軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙を行っています。放逐された捕虜たちは韓国各地で事件を起こし、多くの韓国民に惨事を招いています。米国政府は、この李承晩の勝手な行動に猛抗議をしていますが、あとの祭りでした。李承晩の専横政治に民衆が蜂起、韓国全土に打倒デモが広がった こうして大統領というよりも、まさに暴君としての専制政治を行った李承晩でしたが、彼の専横政治がようやく倒れたのは、昭和三十五年(一九六〇)になってからのことです。韓国国内で民衆による李承晩打倒デモが起こったのです。 韓国全土に広がったこのデモは、百八十六人もの死者を出し、ついに駐韓米国大使のマカナギーが李承晩を訪れて、大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止するとまで宣言します。米国に見放された李承晩は「行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる」と発言するのだけれど、これがまた韓国民衆の怒りを買い、民衆によってパゴダ公園にあった李承晩の銅像が引き倒され、韓国国会は全会一致で、李承晩の大統領即時辞任を要求するという事態に至っています。これによって、李承晩体制にようやく終止符がうたれます。そして李承晩は養子にとった息子まで自殺するなかで、ひとり米国に逃亡し、九十を越える歳までしぶとく生き延びました。 李承晩自身は失脚しますが、「李承晩ライン」は、その後も維持されました。これが廃止されたのは、昭和三十一年(一九五六)に軍事クーデターが起こり、韓国内に朴正熙大統領の新政権が誕生してからのことです。日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正熙大統領は、昭和四十年(一九六五)六月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止しました。そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げます。 ただ、この日韓基本条約において李承晩ラインは廃止となったものの、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされませんでした。このため、竹島はいまだに日韓の火種となってしまったのです。大統領=酋長なみ さて、私たち日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持ちます。けれど韓国における大統領は、未開の蛮族酋長と同様、ある種の絶対権力者です。そしてその絶対権力者が、市民をあおり、反日侮日工作を行うわけです。昨今の李明博政権もその典型です。そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩なのです。李承晩はあわてて米国に亡命する(左から二人目)。左端は李承晩の亡命後、過渡的に大統領代行を務めた許政 ひとつ申し上げたいことがあります。李承晩は(いまの韓国もそうですが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いています。その「理想国家」を打ち壊し破壊したのが日本だというわけです。けれど、この路線を敷いた李承晩は、その李氏朝鮮王朝について、何ら畏敬の念も尊敬の念も敬愛の情も持っていなかったことは、以下の事実が証明しています。 李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しているのです。日本は戦前、朝鮮を統治するにあたって、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子である李垠殿下を、日本の皇族と同じ待遇をして日本に招きました。李垠殿下は日本の陸軍中将として軍事参議官まで勤められました。李承晩は、その李垠殿下を、事実上の国外追放状態のままにしたのです。結局、李垠殿下は、生涯を日本の質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。このとき韓国政府からの出席者は皆無でした。日本からは三笠宮崇仁親王殿下がご出席賜わり、その様子に参列した全員が涙を流しています。 要するに李承晩には、李氏朝鮮時代への憧憬などまるでなかったわけで、あったのは己の権力欲だけだったということです。そしてその李承晩の妄想から、いまも韓国は抜け出せないでいる。 しかし、おのれの権力欲とイデオロギーにこだわり、結果として朝鮮戦争という大戦をひき起し、同国民を百万単位で殺し、戦後二十年間も韓国を貧国のままにした李承晩の妄想は、結局のところ、韓国人に幸せをもたらしたでしょうか。 そして権力にしがみつかんがために、朝鮮戦争の最中に李承晩ラインをひき、竹島を占拠した。そのことが韓国国民のために、いったい何の役にたっているのでしょうか。争いの種を撒いただけのことでしかない。 日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。そして同様に心ある韓国の人々が一日もはやく、歴史の真実に目を覚ましてくれることを願うばかりです。おなぎ・ぜんこう 1956年生まれ。大手信販会社にて債権管理、法務を担当し、本社経営企画部のあと、営業店支店長として全国一の成績を連続して達成。その後独立して食品会社経営者となり、2009年より保守系徳育団体「日本の心をつたえる会」を主催、代表を勤める。ブログ「ねずさんのひとりごと」は、政治部門で常に全国ベスト10に入る人気ブログとなっている。

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    国際貢献度で韓国に圧倒的に先行する日本 フェアな未来志向を築けるか

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 韓国では新しい為政者が登場する度に、「日韓の両国関係は未来志向でいくべきだ」と発言する。その度に日本国民は、「やっと過去問題から解放されて、新しい関係が樹立できる」と受け取ってきたが、隣国の国内情勢が厳しくなると、その為政者は日本の過去問題を争点化し、国民に媚を売るのを日本国民は何度も目撃してきた。最近では、李明博前大統領の豹変ぶりは特出していた。韓国の朴槿恵大統領(右)との会談に臨む額賀元財務相=2015年6月22日、ソウルの青瓦台(聯合=共同) そのような歴史が繰り返されてきたので、韓国の政治家が、「日本とは未来志向で……」と発言したとしても、日本国民はもう何の感動も湧いてこなくなった。「ああ、そうですか、どうぞご自由に」と白けてしまうだけだ。 当方もそんな日本人の一人だったが、「未来志向の関係」という言葉の意味がここにきて分かってきたのだ。21世紀の日韓は、「国際社会にどれだけ貢献する国となるか」を競う関係こそ「未来志向の関係」という意味だったのだ。 「過去のあの時、こうだった」とか、「迫害されてきた」といった類のテーマに時間を注がず、世界の紛争解決や開発途上国の開発援助にどれだけ貢献したかの競い合いこそ、日韓両国がエネルギーを投入しなればならない課題だ。 それでは現時点で日韓両国の国際貢献度はどうだろうか。当方が日本人だから言うのではないが、日本は貢献度レースでは韓国に圧倒的に先行している。簡単な例として、ノーベル賞受賞者の数だ。物理学、化学、医学生理学などの分野で日本人学者はノーベル賞を受賞済みだ。ノーベル賞を受賞するということは、その分野で国際貢献を果たしたことを意味する。 一方、韓国は、数億ドルを北朝鮮の故金正日総書記にプレゼントしてその代価として実現した南北首脳会談が評価されて受賞した故金大中氏の平和賞1つだけだ。明らかに、韓国は日本に大きく水をあけられている。 政府開発援助(ODA)の支出額や国連への救出金では韓国は日本より大きく遅れている。世界が日本人を好ましく受け取り、一定の尊敬を払うのは当然の結果だ。国際社会への貢献度が高いからだ。 誤解を恐れずにいえば、国際社会は日韓両国間の過去の問題など余り関心がないのだ。戦時の慰安婦問題や植民地時代での強制労働といった問題は、日本よりも欧米諸国がいち早く体験済みだ。日韓両国がそんな問題で争うのをみて、欧米諸国は「時間とエネルギーの浪費だ」と受け止めたとしても不思議ではないだろう。 国際社会は世界の紛争解決や開発支援で貢献する国に対しては尊敬を払う。過去の問題を取り上げて中傷、誹謗しあっても、国際社会から歓迎されることはないだろう。 繰り返すが、日韓両国以外の国にとって、日韓両国が国際貢献でフェアな戦いを演じてくれたほうがどれだけ頼もしいことだろうか。未来もいつかは過去になる。「未来志向の関係」とは、次の世代の為に“フェアな過去”を積み重ねていくことではないか。そして、フェアな過去が悲惨な過去より少しでも長くなれば、それだけ日韓両国間は喜ばしい関係となるのではないか。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2015年7月19日分より転載)

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    韓国「科学研究の本質を忘れノーベル賞に没頭」との指摘あり

     日本以上の苛烈な学歴社会である韓国。学生の学習量でいえば、日本よりも韓国の方がはるかに勝るのだろうが、なぜかノーベル賞受賞者の数となると日本の圧勝だ。韓国人も、なぜノーベル賞を取れないのか自問自答している。そこで注目されたのが日本の教育だった。ノンフィクションライター・高月靖氏がレポートする * * *「ノーベル賞シーズンになると憂鬱なソウル大学」。韓国三大全国紙の1つ『中央日報』は昨年10月、こんなタイトルのコラムを載せた。  ソウル大学は、日本の東京大学に相当する韓国のトップ校。だがノーベル賞獲得を期待されながら、まだ1人も受賞者を輩出したことがない。  しかも昨年はライバル視する日本から、中村修二氏、天野浩氏、赤崎勇氏の3名が物理学賞を受賞。同大学の工科系教授は、記事中で次のようにコメントしている。「韓国もある程度、成長しているはずだと考えていた。だが今回の受賞結果に接して、科学研究のレベルが日本と大きく隔たっていることを痛感した」。  こうした視点から、「日本に学べ」という声が改めてメディアや教育界でわき起こったわけだ。 輸出国として国家ブランド力の向上にこだわる韓国。とりわけ競争力の源泉となる科学分野でのノーベル賞受賞は、国民的悲願だ。だが韓国が受賞したノーベル賞は、金大中元大統領の平和賞(2000年)のみ。いっぽう日本は自然科学分野の受賞者だけでも19名に上る。「なぜ日本は受賞できて、我々はできないのか」。毎年ノーベル賞授賞式の時期には、こうした分析記事が主要メディアを飾る。  日本との比較分析から浮かび上がるのは、韓国の国民性、社会風土だ。KAIST(韓国科学技術院)のユン・ドギョン名誉教授は現地紙『ファイナンシャルニュース』のインタビューで、「科学研究の本質的な価値を忘れ、『ノーベル賞』という目的に没頭している」と指摘。そもそものノーベル賞に固執する風潮が、目的と結果をはき違えていると批判した。  周知の通り、韓国は儒教の学識が権力と結びついた歴史を持つ。そこから学術的な権威を重要なステータスとする風潮が根づいた。「ノーベル賞は特に世界的な権威ということで、韓国社会で大きな関心の対象になっている」(在韓日本人教育関係者)。  政府もまた賞に固執するあまり、学術全体の振興よりも「ノーベル賞に近そうな学者に巨額の予算を与えるだけ」(ソウル大人文系教授、『中央日報』)のような支援策に終始。さらに受賞できそうな研究者を海外から招く動きもあるというから、五輪のメダルか何かと勘違いしそうだ。  いっぽう前述のユン名誉教授は、韓国と対照的な日本の特質として「研究を楽しむ」ことを挙げる。ノーベル賞という目先の成功に執着するのでなく、日本のようにコツコツと楽しみながら研究に打ち込む姿勢が必要との主張だ。関連記事■ 「活版印刷」と「羅針盤」 韓国が起源は韓国人の間では常識■ 「ノーベル賞受賞者精子バンク」創設されるも天才出なかった■ ノーベル賞山中教授が研究に没頭した時期や研究内容語った本■ 老子のタオイズムにも繋がる「おっぱいを好きなだけ吸う」本■ 文化功労者選出のちばてつや氏とノーベル賞受賞者2人の写真

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    知らぬふりの韓国 歴史に刻んだ愚行

    国連総会で「紛争時の女性に対する性暴力は人道に反する」などと慰安婦問題の解決を訴えた朴槿恵・韓国大統領。併合前の保護国期から日本が非人道的な身分制度を廃し被差別民の解放に努めるまで、特権階級を除いて女性を蔑み、物のように扱っていた自国の愚行の歴史も知らぬふりだ。

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    韓国メディアが騒いだ歴史学会の慰安婦声明が日本で報道されぬ理由

    大西宏(ビジネスラボ代表取締役) 韓国メディアに大きく取り上げられていたのが、日本の「歴史学研究会」や「日本史研究会」などの16の団体が、国会内で記者会見して発表した、従軍慰安婦問題の強制連行は否定出来ない事実で、それから目をそらすことは近隣諸国との緊張を増すだけだとする声明です。 しかし、検索してみると、日本でこの声明を取り扱ったメディアはNHKとしんぶん赤旗ぐらいで、あとは日刊ゲンダイぐらいでしょうか。 声明文の詳細は、こちらでお確かめください。「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明 - 東京歴史科学研究会 ふたつの点がよくわかりません。なぜ今のタイミングで何を意図してそんな声明を出す必要があったのかと、韓国メディアが嬉々として取り上げるのは理解できるのですが、 なぜ国内メディアはほとんどが取り上げなかったのかです。日本のメディア総スカンの状態というのは、いかに歴史学者が束になってかかっても影響力がないということでしょうか。 タイミングについては、政治的に考えれば、米国でも韓国の慰安婦キャンペーン疲れがでてきていて、また韓国国内ですら反日姿勢を貫く現在の外交への疑問がではじめていたさなかでした。朝鮮日報が典型ですが、「韓国の国益を害す歪んだ対日認識」という 尹平重(ユン・ピョンジュン)韓神大学教授のコラムの寄稿があった翌々日に、「歴史学研究会」などの声明文が取り上げた記事が掲載されたのが象徴的でした。韓国の反日世論を呼び戻す動きを導き出したのです。韓国の国益を害す歪んだ対日認識(朝鮮日報) 今月初めに米ハーバード大学のエズラ・ボーゲル名誉教授らの安倍政権の歴史修正主義を批判した流れを受けてのものなのか、あるいは中央大学の吉見義明教授が、日本維新の会の桜内文城衆議院議員を名誉毀損で訴えた裁判の署名活動を盛り上げようというのでしょうか。賛同署名追加募集のお知らせとお願い - 吉見義明教授の裁判闘争を支持し、「慰安婦」問題の根本的解決を求める研究者の声明 吉見教授については、池田信夫さんが厳しく批判されています。 最初、朝日は吉田清治のいうような「慰安婦狩り」が多数行なわれたと報道したのに、それが嘘だとわかると「挺身隊の強制連行」にすり替え、それが嘘だとわかると「強制性」に定義を拡大してきた。こういうごまかしの主犯が吉見義明氏だ。池田信夫 blog : 主犯は吉見義明氏である あまりに政治的な色彩を色濃く感じるタイミングなり、しかも「学会」として声明をだすという行動に驚かされるのですが、声明文の中味を見てもなにか釈然としません。 たとえば、声明文にはこんな記述があります。 強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラ ン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含む ものと理解されるべきである。 よくわからないのは、「多くの史料と研究によって実証」されてきたというのであれば、政治的な声明文を出す前に、広く日本の国民に知らせることが筋だと思います。これだけ長い間議論されてきて、「日本軍」による確たる連行の証拠がない、あるいは乏しいからなかなかスッキリした結論がでないままなのです。 諌山裕氏もブログでその点を指摘されています。『「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明』に足りないこと あとは「本人の意思に反した連行」すべてを含め、際限なく「強制性」の範囲を広げていけば、たとえば極端な話として、韓国人の女衒が若い女性を拉致して慰安所に売り飛ばしても「日本軍による強制連行」になってしまいそうです。問題がなになのかを明らかにしていくためには、また日韓でコンセンサスをつくるためには、「強制性」を情緒でなく、客観的な定義でとらえることが必要なはずです。 しかし、韓国が従軍慰安婦問題で政治的な反日キャンペーンを続けることで、日本の国民はほんとうに嫌気をさしてしまっています。もはや「嫌韓」ビジネスも成り立たないと感じるぐらい、韓国をスルーする雰囲気になってきています。 慰安婦問題について韓国の態度に辟易とするのは、今の現役世代でなくとも、すくなくとも団塊の世代前後でも、売春が非合法化されたなかで育ってきたので、いくら韓国が批判しようとリアリティがないのです。それを謝れと言い続けるのですから感情的に反発が起こって当然です。 日本は戦後の早い時点、1956年に売春防止法が制定され、1957年から施行されています。まだ当時は小学生でしたが、近くに遊郭があって、近隣の商店街もずいぶん賑やかだったのですが、売春禁止法の施行を境に町が寂れていったことが鮮明に記憶に残っています。売春については、一部では現代も存在するとしても、厳しく取り締まってきた日本です。 韓国はどうかというと、「性売春特別法」が制定されたのがなんと2004年になってからで、それまでは外貨を売春で稼ぐキーセン観光などが政府容認のもとに公然と続けられていました。キーセンも貧困からそうせざるをえなかった、歴史学会で言う強制性があってキーセンにならざるをえなかったのでしょう。 恥ずかしいことに、日本からもそれを目当てにした団体旅行が組まれていました。それよりも犯罪性を感じるのは、朝鮮戦争やベトナム戦争時に設けられていた慰安所です。それも韓国が政権ぐるみでやっていたのですから、それで日本だけを批判するのもどうかと感じてしまいます。 実際、朝鮮戦争休戦後、在韓米軍基地周辺で米兵を相手に売春をさせられたとして韓国人女性122人が韓国政府に賠償を求める訴訟をソウル中央地裁に起こしています。元「米軍慰安婦」が韓国政府を提訴 韓国人女性122人:朝日新聞デジタル 服藤早苗教授が従軍慰安婦の強制動員を否定する人々は少数で、専門家ではないと発言をされ、朝鮮日報の記事タイトルに使われているのですが、いつから史実は多数決で決まるようになったのでしょうか。しかも少数であれ、反対の立場の人をばっさり切ってしまうのは、人権の衣を被った新しいファシズムを感じます。慰安婦:日本人学者「否定する人々は専門家ではない」 テレビに出て『慰安婦を強制動員したという証拠はない」という政治家や学者がいるが、そのような人々は多数ではなく、専門家でもない。史料をきちんと研究した人は誰もが慰安婦問題を認め、実際には私たちのように考えている学者が多数だ。 こんな政治的な意図を感じ、韓国で利用されるのがわかりきっている声明文を出す前に、学者として、きちんと史実にもとづいた議論を重ね、国民のコンセンサスを形成する努力をすべきじゃないでしょうか。(「大西宏のマーケティング・エッセンス」より2015年5月27日分を転載)

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    突然自信のなさを露呈する韓国の「後進国」トラウマ

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 韓国日刊紙「中央日報」日本語電子版を読んでいたら、「またぶり返す後進国トラウマ」というタイトルのコラム記事(10日付)があった。記者は中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルス対策の遅れを指摘し、「通常、後進国の特長には不透明性、閉鎖主義、権威主義と低い市民意識などが挙げられる。これに対し先進国の特長は開放性、自律性、協力などだ。ところがMERS処理過程で見せた韓国社会のシステムは後進国のそれだった。どの病院で発生したかもわからず、患者がその病院を出入りし続けて感染者が広がり、保健当局は無能さの極致に加え閉鎖主義で問題を拡大した」と嘆く。韓国保健福祉省が10日、MERSの感染者が13人増え、計108人に達し、死者も2人増えて計9人になったと発表したばかりだ。 激しい熱情をもち、何事にも積極的な国民性の韓国だが、いったん危機に直面すると、その熱意は政府や関係省庁批判に向けられるだけで、肝心の問題解決には注がれなくなる。昨年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」の沈没で約300人が犠牲となるという大事故が起きた時も、救援活動よりも船舶会社批判、ひいては政府批判でもちきりとなった。そして遺族関係者は、事故現場に追悼に訪れた朴槿恵大統領すら追い払うほど、その批判や怒りは攻撃的、爆発的だった。韓国で中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルス感染が拡大、ソウル市内の観光地でマスク姿の人たち=2015年6月3日(共同) 同じように、MERSで感染を防ぐことが出来なかった病院や行政機関、ひいては大統領府まで批判の矢は飛んできた。朴大統領は10日、14~19日に予定していた訪米を延期することに決め、国内に留まり、MERS対策に全力を注ぐと発表した。大統領がこの時期、米国に飛び、オバマ大統領と会談したとしても得るものは少なく、国民の批判は一層高まると予想されたための緊急決断だった。 ちなみに、間近に迫った訪米計画を延期することは通常、考えられない。オバマ米大統領との会談日程は簡単には実現できないからだ。ひょっとしたら、年内の訪米は難しくなるかもしれない。にもかかわらず、朴大統領は国内に留まり、対策に乗り出すと決意したわけだ。それだけ、大統領への国民感情は厳しいというわけだろう。 中央日報コラム記者は、「わが国は経済的には立派な先進国だ」と指摘し、様々な経済統計を挙げながら強調している。「韓国は後進国なのか。違う。あらゆる指標をすべて突きつけても先進国に分類される。経済的基準では世界10大先進国に属する。国連開発計画(UNDP)が実質国民所得、教育水準、識字率などの指標を統合して調査発表する人間開発指数で見ても世界15位圏。経済協力開発機構(OECD)の高所得加盟国、国際通貨基金(IMF)が分類した先進経済国など国際機関の分類でも上位圏だ」という。 にもかかわらず、韓国国民は、「自国が後進国ではないか」というトラウマを抱えているというのだ。記者の言葉を借りるならば、「自信がない」のだ。 今回のMERSの対応はその不安を再び浮上させてきたわけだ。「中国ですら2次感染が出ていないのに、わが国は3次感染、2次流行の波だ」というのだ。 慰安婦問題では強気で反日批判を繰り返してきた韓国メディア関係者ですら、状況が一変すれば、「わが国は後進国ではないか」と自信なさを暴露してしまうわけだ。 ハッキリとしている点は、先進国のメディアは「自国が先進国か、後進国か」といった意味のない問いかけはしないし、国民がそのような問題でトラウマとなって悩むことは絶対にないということだ。 韓国は世界第一の整形手術国だ。外観を最重視する国民性は裏返しに言えば、自分に自信がないからだ。だから常に外観を飾り、ナンバーワンを目指し、先進国の日本と全ての分野で競争する。性犯罪発生率では世界トップを走る国が、慰安婦問題となると「道徳の優位性」を主張し、日本を牽制する。しかし、今回のMERS感染問題のように想定外のことが生じると、国民は急に自信を失い、心は一層揺れ動きだすというわけだ。 記者は「唯一の対案は市民社会の道徳性と責任意識を生き返らせることなのかも知れない」と述べ、コラムを閉じている。その結論は正しいだろう。 孔子の言葉で「躬自厚而薄責於人」がある。問題が生じた時、先ず、自ら内省し、人には寛大に接することが重要だという意味だ。 韓国国民は戦後、全てのことにパリパリ(早く、早く)といって考えずに走ってきた。そして一応、経済的には先進国入りした。韓国が新たな発展を実現するためには、政府も国民も内省の時を持つべきだろう。禍を転じて福となす、という諺がある。MERS問題も朴大統領と国民が結束して対応していくならば、必ずよき結果が生まれてくるはずだ。日本政府も支援を惜しまないでほしい。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2015年6月11日分より転載)

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    85年も前に日本が行った先進の朝鮮災害復興支援

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より別冊正論編集部語りかける〝小冊子〟 別冊正論『総復習「日韓併合」』の編集作業で、国立国会図書館の蔵書を調べていた時のことだ。『昭和五年朝鮮風水害誌 朝鮮總督府』と簡素な白無地の表紙に題された一冊の報告書が目に付いた。 別冊正論より一回り大きいものの、記載わずか43頁の、本というより冊子という方がいいものだ。1千頁級の長大な書籍をはじめ東京本館だけで約2500万点といわれる膨大な蔵書の中で偶然出合ったこの小冊子は、まるで「もう一度読んで!」と訴えているようだった。 冒頭、「凡例」でこう述べている。「一 昭和五年の風水害は朝鮮未曾有のものなるを以て之が狀況を編述し、將来の參考に資せんとするものなり 一 本誌は昭和五年六、七月中に惹起(じゃっき)せる数囘(かい)の水害及風害全部に就き調査蒐録(しゅうろく)せり 一 本誌は主として罹災者救恤(きゅうじゅつ)方面より観察編(へん)纂(さん)せるものなり 昭和六年六月 日 朝鮮總督府内務局社會(しゃかい)課」 目次は大きく「口繪(くちえ)」「一、状況」「二、被害の状況」「三、皇恩優(ゆう)渥(あく)」「四、罹災者の救助」「五、義捐(ぎえん)金品の募集と分配」「六、救濟實施(じっし)計畫(けいかく)(附罹災者移住状況)」。そして「附録」として「一、義捐金百圓以上の寄附者調(しらべ) 二、各地の雨量 三、重なる河川の水位調」。 未曽有の風水害に当たり、概況として記録するのは、ひとえに将来の防災対策の参考にするためであり、度重なる全ての被害状況を調査し、被災者の救助・支援の視点から観察・編集した、という。 この記述は、被災者への深い同情と、痛ましい被害を再び繰り返すことのないよう防災対策をしっかり講じなくてはいけない、という願いと決意のように読める。  一枚の写真に浮かぶ担当者の視線  「口繪」の被災地写真八枚のうちの一枚は、慶尚北道軍威郡缶渓面(面は村)大栗洞で7月15日に発生した山津波(土石流)被災地の一コマだ。説明は「水害狀況寫眞(其の六)同上屍體運搬状況」。朝鮮総督府『昭和五年朝鮮風水害誌』より 農道を、3人の男性と1人の少年が茅に巻いた犠牲者を担架で運んでいる。3人は裸足。前後を担ぐのは村の壮年の男たちだろうか。 枕元に寄り添う年配の男性は髷(まげ)を結い、はだけた胸にあばらが浮く。その表情は悲しみのあまり呆然としているようにさえ見える。  足元に付き添う少年は埋葬にでも使うのか木の棒を手にし、背負子に筵(むしろ)などを積んでいる。悲しげな顔のその頬は、まるで涙の跡がついているようにさえ見える。年配の男性と少年は父子だろうか、そして犠牲者は妻であり母であったのか。 暴風雨が去った後の一見のどかな田園を、照らし付ける強い夏の日差しが、この悲しみを際立たせているようで、まことにいたましい。 総督府から派遣された担当職員らが、奥深く貧しい農村の被災地にいち早く駆けつけ、被害状況を詳しく調べながら、被災者の悲嘆や辛苦に真摯な視線を向けたからこそ、この情景が写し出され、「凡例」の言葉が述べられたのだろう。四たびにわたる被害 「概況」によると、朝鮮では毎年7、8月に長雨があり「多少の水害」はあるが、昭和5年は6月下旬から南鮮地方に豪雨があり忠清南、全羅南北の三道に激甚災害をもたらした。 7月中旬にかけては朝鮮中部から北鮮地方に断続的に豪雨があり、さらに日本海に面する慶尚南北、江原、咸鏡南北の五道は強烈な暴風雨が襲来。河川の氾濫、土砂崩れ、高波などが各地に起き「罹災民の窮狀其の極に達し朝鮮未曾有の慘害を惹起するに至りたり」と述べている。山津波に襲われた慶尚北道軍威郡缶渓面大栗洞の中心部。山鳴りと同時に土石流が起き、約20分で70戸余が呑まれ62人が犠牲になった(『昭和五年朝鮮風水害誌』) 被災面積は1万415平方里に及び、被害がなかったのは平安南北と黄海の三道のみだったという。 一度目の被害は、シナ南部に発生した低気圧が東シナ海から6月21日、さらにシナ安徽省と揚子江(長江)流域の低気圧が28、29日に相次いで南鮮地方に到達した。 二度目は、シナ山東地方から台風が蛇行しながら朝鮮に達し7月3―6日を中心に中部、南部で豪雨。 三度目は、台湾付近から北西に進んだ台風と満洲に停滞する低気圧の影響で7月13日を中心に中部朝鮮が未曽有の豪雨に。 四度目は、長崎付近を襲った台風が北東に移動しながら7月18日に朝鮮半島を南北に縦断した。 仁川観測所がまとめた6月20―7月15日の主要都市の総降雨量一覧を見ると、京城714ミリ、全州490ミリ、大邱329ミリ、釜山274ミリなど、期間の長さからすれば珍しくない数字だが「今回の豪雨は降雨期極めて短時間なると場所に依り甚だしく差等あり 一例を示せば全北(全羅北道)井邑郡泰仁面の如き7月11日の数時間に330粍(ミリ)の降雨ありたるが如き狀況を以て右表に依り全般の雨量を推定するは至難なるべし」と注釈がある。 今日の日本で頻発する局地・短時間型の集中豪雨が何度も襲来したと思われる。「慘状眞に見るに忍びざる」「慘状眞に見るに忍びざる」 「被害の狀況」は分野別に調査・集計されている。 人の被害は、江原道の死亡・行方不明1070人、負傷723人、慶尚北道各百184人、113人、咸鏡南道各143人、29人、全羅北道各51人、93人など10道で死亡・不明1683人、負傷1092人にのぼった。 家屋の被害は10道で流失2779戸、全壊4805戸、半壊6923戸、浸水3万4713戸。船舶は流失・波没472隻、全壊・破損3599隻を数えた。大栗洞で遺体発掘に当たる地元民(『昭和五年朝鮮風水害誌』) 被害が「朝鮮未曾有」とされる説明がある。大正14年に13道全てが被災した風水害でも死亡・行方不明は821人で、今回は範囲が10道である半面、被害者が倍増したこと。さらに「局部的に慘害を極めたるもの多く就中(なかんずく)江原道寧越郡水周面の如きは一面にして死者行方不明者百七十七名の多きに達し又慶尚北道達城、軍威、漆谷、氷川の四郡界にある八公山崩壊し五箇面内の數箇里に於て死者行方不明者百五十名負傷者四十八名を出したるが如き其の慘狀眞(まこと)に見るに忍びざるものありたり」と分析、同情している。 土木面の被害は、道路の破損と流失・埋没が合わせて33万4089間(1間約1・8メートル)、橋梁の破損と流失が計4465カ所、堤防の破損と流失・埋没が43万7839間。被害額は1761万8千余円に上った。 昭和5年当時の貨幣価値を、給与水準(内地)から現在に換算すると5千―1万倍になるといわれる。 農業面の被害は、耕地の浸水、埋没、流失が計22万4569町9反(1町は約99アール)、農作物は被害面積20万8824町、被害額1246万9801円。 被害農民には道ごとに「應(おう)急(きゅう)措置」と「善後對(たい)策(さく)」が講じられた。 例えば被害面積が最も広かった全羅北道は応急対策として、水車やポンプによる排水、稲の茎葉洗浄、泥土除去、除草、施肥を行い、トラックで無事な苗を収集して被災者に配り、近所同士や児童生徒が植え付けを手伝うことを奨励。補植苗が足りない被災者にはソバ、豆類、ヒエなどの種子を配布した。 被害額が最も大きい忠清南道は応急措置の中に「貧困の爲苗の購入資力なきもの及び自ら種子準備能はず地主より補給を受くる途なきものに對しては苗代及運賃の補給を爲し又は代用種子を購入配布せり。其の金額合計一二、四六〇圓九九銭(地方費凶(きょう)歉(けん)救濟費)」と記載。 善後策には「水害の爲生業を失ひ窮し居る農家四四六戸に對しては郡農會より叺(かます)(筵を縫った袋)縦(たて)機(ばた)一臺及原料藁購入費を貸付せり(農會は道臨時恩賜金より二、二三〇圓の貸付を受け之を各農家に分配したるものなり)」の記載がある。 山林の被害は、8道の34郡で山崩れや地滑り、倒木などが計3324カ所あり、被害額は7万2484円にのぼった。被災者への具体支援 甚大な被害に対し、皇室もいち早く対応。これを「天皇皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后)に於かせられては痛く蒼生(そうせい=人々)の窮狀に御軫(しん)念(ねん)あらせられ親しく侍従の海江田子爵を實地に差遣し慘害の跡を視察せしめ罹災民正の酸苦を見舞はせ給ふと共に罹災民救恤の御思召により御内(ない)帑(ど)金(きん)(天皇家のお金)三萬圓を下賜せられたるは眞に天恩鴻大恐懼感激の至りに耐へず」と記述している。 7月28日付で下賜された3万円について総督府は、人、家屋、船舶の被害に応じた分配額(死亡・行方不明は1人4円)を決め、被災規模ごとに10道に全額分配した。 同時に国庫補助や各道予算、大正14年水害義捐金の残金などを加え、罹災者に対し次のように支給した。 死者・行方不明者弔慰金は1人30円以内、負傷者の見舞金は同10円以内、小屋掛費は家屋流失で15円以内、全壊10円以内、半壊5円以内、船舶流失・沈没は15円以内、破損同10円以内。 被災者への炊き出し、応急救護、食糧支給などを含めると被災者への直接援護費用は計26万3782円。漁船被害にも95万円余、土木復旧工事には昭和5、6年度だけで約120万円を支出した。 義捐金は「罹災民の窮狀洵(まこと)に同情に堪へざる處にして共に其の不幸を頒(わか)つは社會人類の義務なりし」という総督府の呼びかけで「財團法人朝鮮社會事業協會」を通じ計16万4608円96銭が寄せられた。 うち協会本部扱い分は6万2700円72銭で、内訳は朝鮮内の官公署、企業、個人からが2万8182円62銭、内地と満洲などからが3万4518円10銭。 さらに義捐の衣服が京城淑明女子高等普通学校校友会や新聞社などを通じ1954点寄せられた。 義捐金と衣服は被災地に分配されたが、義捐金のうち預金利息を含む8896円19円が残り「右分配殘額は他日に於ける災害の際應急的救助費に充當すべく同協會に於て保管室しつゝあり」という。 こんなところにも日本人らしい生まじめさがにじんでいる。移住支援と根本対策も移住支援と根本対策も 驚くことに、総督府は復旧困難者らを対象に移住のための全面支援まで行っている。 「江原道に於ては被害尤(もっと)も激甚なりし寧越郡水周、兩邊兩面の罹災者中特に慘害を蒙り其の地に在りて再興の途なき者に對し此の際根本的救濟策を施し生計の安定を圖(はか)ると共に一面同地方に於る當時の大慘害が火(か)田(でん)民(みん)の冒耕に依る地辷(すべ)りに原因するに鑑み治水上、又林政上の禍根たる火田の整理促進に資せん」170人が犠牲になった江原道寧越郡水周面の地滑りで倒壊した火田民の住居。焼畑による禿山が大災害を誘発した(『昭和五年朝鮮風水害誌』) こうして計200戸1000人が別の郡の平坦地にある農場に移住。1戸平均2町余の小作地が割り当てられた。 「現住地に於て移住者を區分し十戸内外を一團(だん)とし之(これ)に團長を置き團體一切の世話を爲さしめ郡面職員引率の上移住を爲せり」 移住者には汽車・トラック賃、6日分の宿泊費、洗面器や釜、火鉢、食器、牛の飼養釜など家財道具一切、鍬(くわ)などの農具、当面の農耕に必要な苗や種、耕牛の購入費、半年分の食糧費、家屋建築費などを支給し、共用井戸4基も設置。合計すると3万5654円余、1戸当たり平均178円余を費やしている。 この費用は「江原道災害救濟會」が募集した義捐金で賄われた。日本が見せた人権尊重の手本 火田民とは李朝時代に王府や特権支配層の両(ヤン)班(バン)の過酷な支配に耐え切れず、目の届かない山奥に逃げ延びて焼畑農業を行った人々で、李朝の木材濫費と相まって朝鮮特有の禿山を増加させた。 日本は併合前から朝鮮支配層の行き過ぎた特権と厳しい身分差別などの陋(ろう)習(しゅう)是正に取り組み、治水面から禿山の植林を続けたが、併合20年の当時は道半ばだった。昭和5年朝鮮風水害でも、総督府の取り組みは変わることなく続いた。 冒頭の「凡例」や写真を再び見てほしい。腐敗し切った特権階級に抑圧され、差別され、棄てられた人々にも、区別することなく真(しん)摯(し)な同情と人間としての温かい眼差しで対応した朝鮮總督府の担当者たちの姿勢に、胸打たれはしないだろうか。 報告書の内容は、今日の日本で行われる災害復興支援の記録と見まがうばかりだ。このような人道尊重の災害復興支援を、85年前の総督府はすでに行っていた。 保身と権力維持に執着し、賤民層を人間として扱わなかった李王府と両班の支配が続いていれば、果たしてこの人道支援は行われたろうか。 今日を生きる私たち日本人は、隣国が何を言おうと、この総督府の取り組みを捻じ曲げることなく、誇りをもって粛々と学び、伝えることが大切だと思わずにはいられない。   

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    日本統治時代の朝鮮における「女性の人権」向上 

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より荒木信子(朝鮮研究者・翻訳者)歪曲構図への異議申し立て 日本と朝鮮半島が一つの国として歩んだ時代が終わって今年で70年になる。併合時代はおよそ35年だから、その倍の時間が過ぎたことになる。 これほど遠ざかりつつあるにも拘わらず、韓国は慰安婦問題で日本に攻撃をし続けている。 その核心は、日本が朝鮮女性を虐待したという構図である。その構図が強調され、同時期の女性への言及は慰安婦ばかりが先行している感がある。あたかも当時、日本によって組織的、計画的に女性の人権が蹂躙されたかのような認識が広まってはいないだろうか。 本稿はそうした見方への異議申し立てである。さらに日本による朝鮮統治の全体像を把握するための入り口となれればと願う。飛躍的に高まった女子の教育機会 日本が統治した時代、朝鮮半島での女子教育はどのようなものであったか。日本は女子教育を妨げたのだろうか。 初等教育課程の児童数は、1911年が男子1万8920人(同年の学生数に占める割合。以下同。93・7%)、女子1274人(6・3%)。1926年には41万9904人(83・6%)、8万2120人(16・4%)、1941年には、119万825人(66・9%)、58万8900人(33・1%)となった。 中等教育課程の生徒数は、1911年に男子2352人(85・7%)、女子394人(14・3%)だったのが、1926年に1万8232人(85・0%)、3207人(15・0%)1941年には6万6210人(79・3%)、1万7274人(20・7%)となっている。 高等教育課程は生徒・学生数は1926年に男子2962人(95・3%)、女子147人(4・7%)、1941年は4222人(72・4%)、1609人(27・6%)である。 裕福で開明的な考えを持った家庭の子女の中には、日本、米国などへ留学する女性もいた。日本へ留学した学生は、1926年は男子1716人(95・1%)、女子88人(4・9%)、1941年7111人(93・9%)、462人(6・1%)である(上記数字は朴宣美『朝鮮女性の知の回遊』平成17年より)。 時代が下るにつれて在籍数は増え、女子の比率が上がっているのがわかる。また、初等→中等→高等と教育段階が上がるにつれて人数の桁数が減っていくことから、高等教育を受けたり留学することは、たいへん恵まれたことである。 日本時代に男子よりは低いものの、女子の就学率は向上した。上流家庭の女性たち 京城に在住していたある日本人女性は、父が竜山中学教師、母が京城第二高等女学校の教師だった。母はその後昭和10年頃に作られた進明女学校の教師に迎えられた。同校は朝鮮王族や貴族の女子のために作られた学校だったという。こうした上流階級の少女たちについて次のように語っている。京城女子高等普通学校の校舎前に整列した生徒と教員ら(幣原坦『朝鮮教育論』大正8年) 「(母が教えた生徒はみな=筆者注)王族などの上流階層の娘さんたちでみな優秀な人たちでした。彼女たちの家に連れられて行って大門が開けられますと、たくさんの使用人たちが庭の両側にずらっと列をつくって並んで、丁寧にお辞儀をして迎えてくれるんです。…彼女たちの黒色のチマチョゴリを着た姿は、とてもすてきで品のよいものでした。正月にはテクトンチョゴリを着て、その上に黒い羽織を着て私の家に挨拶に来ました。座るときは、羽織を両側にちょっと開いてなかの華やかなチマチョゴリがチラッと見えるようにして座るんです。彼女たちはいつも丁寧で静かにしていまして、その身のふるまいも態度も本当に上品で優雅でした。彼女たちはみな日本語が上手で、私のことを妹のように可愛がってくれました」(吉田多江「ソウル上流家庭の女性たちの品格」呉善花『生活者の日本統治時代 なぜ「よき関係」のあったことを語らないのか』平成12年) 当時朝鮮に、上流家庭の優雅な女性たちも暮らしていた。後に一般的な女性たちについて触れるが、日本統治時代の朝鮮女性にはいろいろな階層の人がいたという当然のことが忘れられているのではないか。新女性の登場新女性の登場 高等教育を受けた女性たちの中から、それまでの因習に囚われず、自由な行動様式を持とうとする「新女性」と呼ばれる人たちが現れた。 「新女性」について、昭和2年、京城放送局において京城帝大教授によって次のような談話が放送された。 「近頃我が国にモダーンガールといふ言葉が使われてをる。これは現代風の様相をして、風俗壊乱的行為を為す婦人を指すのであるが、新婦人とは決して斯くの如き婦人を意味するものではなく、従来の婦人の境遇地位、待遇に満足せず、男子の為せる総ての権利を要求し、男子のなせる総てのことを為さんとする婦人であつて、その目的を達するが為に謂ゆる婦人運動を開始し、数世紀に亘る悪戦苦闘の結果、今日は稍々その目的を達するに至つた婦人運動の始めより、目的を達したる結果のその影響を略述致したいと思ふ。 …(その影響とは=筆者注)先ず法律上男女の区別を撤廃して平等ののものとなし、女子も役人となり得るのみならず、公共に盡(つく)すことが出来るやうになつた。臨時恩賜金事業の一環の江原道機業伝習所。日本女性が朝鮮女性に織物技術を指導している(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10年) 又従来不完全なる文化の発達を匡正して全面的となしたのである。又公衆衛生の改善、母性保護、小児、囚人保護、不具者の救助に盡し、公平に且つ積極的に努力することとなつた」(京城帝国大学教授法学博士泉哲《談》「婦人運動に就て」『朝鮮社會事業』昭和2年11月号) この談話の中で、1826年米国ボストンに世界初の高等女学校ができ、1927年に婦人参政権が26か国で認められたことに触れている。これに比べれば内地も朝鮮も欧米の後塵を拝している。 しかし1920~30年代の欧米の動きに日本も朝鮮も連動していた。20世紀初頭、世界の中心にいたのは白人で、歴史を動かすプレーヤーとなり得たのは一握りの欧米諸国だった。白人以外では日本がかろうじてその一角に食い込んでいた。 つまり朝鮮において「新女性」が出現したことや、後述するような女性に対する施策が行われたことは先進的なことだったのである。日本統治下、そのくらいの自由と豊かさがあったということだ。 彼女たちは内地で内地人と交流を重ね、著名人等の支援も受け、様々なことを学んだ。朝鮮に帰って、新しい思考様式、行動様式を持ち込み、教師や医師などとして働いた。職業を持つ女性たち 次は朝鮮の女性と職業婦人に関して、昭和15年に雑誌に掲載された文である。筆者は釜山職業紹介所に勤務した経験から、昭和2年から14年の間の変化を踏まえつつ、職業婦人について述べている。昭和10年代半ばは戦中であり、女性の労働力を必要としていた時期である。 「従来の半島婦人が結婚前はいはずもがな、家庭婦人と成るや教養も培はぬ儘に内房に入り、全く社會の空氣より遊離し自らが社會的活動部面を限定しつゝ只管盲目的に自身の主人にのみ仕ふるを以て事足れりと爲し、據つて來る我儘や自制心なき狀態を徒らに増長させ、甚しき至りては中流以上の家庭に於ける主婦が家政すらみやうとせず、而も新らしき教養に育まれたる近代半島婦人が因習を蹴りて職業戰線に進出せんとするや、之を蔑視するの傾向すら見受らるゝは勿論、正しき職業に從事するを極力反對阻止するが如き、事實或る官廳に就職せる一女性に對し、同人の一家眷族擧りて之を嫌厭反對したりといふ挿話を知らば、節制訓練尚ほ日淺く、過渡期に於ける逕庭とし半島職業婦人が移動性に富み組織的に業務には不適なりとの一部の非難を受けつゝも、昨今デパート店員、銀行、會社、官廳事務員、給仕、タイピスト、バスガールさてはエレベーターガール等大量婦人群の職業戰線に進軍しつゝあるを眼前に直視するとき正に隔世の感深きものありと云はなければならぬ。尤も半島婦人の職業分野開拓に對し鮮内の社會的一段情勢はなぼ前述の如き偏見を全的に拂拭したりと斷言し得ざるものありとするも、この十三年間に於ける着實にして果敢なる鮮内婦人の求職狀況を詳細に検討せば、其處に興亞新女性たるの抱負と自覺に燃ゆる雄々しき姿が見出され、何か心强き頼母しさを覚え、私かに欣びの禁じ難きものがある」(河村静観「職業婦人の實相とその動向」『朝鮮社會事業』昭和15年10月号) では彼女たちはどのような職業に就いていたか。前記の文より少し前のものになるが、「昭和五年朝鮮国勢調査報告」によると、女性1003万9219人のうち「無業」が676万5280人で七割近くを占めている。また有業の女性のうち最多の「農業」が261万3041人である。農業の次に多いのが「工業」で27万8645人、一桁少ない。京城の朝鮮ホテルにあるサンルームでお茶を楽しみながら談笑する朝鮮女性ら(朝鮮総督府鉄道局編『半島の近影』昭和12年) さらに詳しく見ると、専門職とも言える通信(交換手)、教育従事者、宗教家、医療従事者は1万96人である。さきほどデパート店員が取り上げられていたが、「商業的職業」19万2050人のうちのほとんどが「露天商人、行商人、呼売上人」4万2458人、商業手助(原文ママ)2万9600人、物品販売業主2万7316人で、その殆どを占める。 また「商業」のうち「接客業に従事する者」を詳しく見ると、「旅館、料理店、飲食店、貸席業の番頭客引き」4万2942人が最多で、次が「料理店、飲食店、貸席、質屋業主」2万6625人、以下多い順に職業を挙げると、「旅館、下宿屋、料理店、飲食店の女中、給仕人」1万602人、「旅館業主、下宿業主」4724人、「芸妓(伎生)」3621人、「娼妓」1664人、「理髪師、髪結、美容師」114人、「浴場業主・使用人」112人。接客業には売春と関連するものを含む。 昭和4年10月に東亜日報が「職業婦人となるまで」というテーマで手記を募集。掲載された23例のうち2例が「自立志向」と分類され、その他はみな経済的理由であった。 職業婦人となった理由・経緯の中で、両親の死、望まない結婚、夫の不義で困窮し、親や親代わりの者に売られそうになったり売られたという経験が非常に目につく。 列挙するとこうだ(井上和枝「植民地朝鮮における『職業婦人』の創出と存在実態」鹿児島国際大学大学院学術論集平成21年)。 「孤児になり叔母に十五歳差の夫と結婚させられる」(伝導婦人) 「両親のすすめで結婚…夫は工場職工になるが月給は酒色で浪費…夫は花柳病にかかり…」(飲食店経営者) 「李某が家に来て療養のために温陽温泉に連れて行くと騙して連れ出す(実は母がカネで娘を売った)。彼と結婚し従順に従う。二人(母と夫=荒木注)から逃れてバスガールに」(バスガール) 「父母を失い、義母と住んでいたところ、叔父が十二歳で嫁入りさせようと図る」(看護婦) 「十五歳で強制結婚…二十歳で夫が家を顧みず放蕩したため破産し」(豆腐行商) 「……強制的に結婚させられる。結婚後数ヶ月で本妻と子供が出現……」(看護婦) 「夫は金持ちの女性の家に入り浸りになり…」(うどん売り) 「ソウルで勉強している男性と結婚。初産中に夫が同じ学校の女性教師と親しくなり、産後『お前は無知なので一緒に住めない…』と言われた」(製紙工場女工) 「豊かな家庭に生まれ天真爛漫に育つ。…父母が次々と病死…。おじはカネのため二百円で売る」(伎生) 生活をしていくため経済上の理由に迫られてというケースがほとんどである。職業婦人という言葉は先進性、専門性を連想させるが、職業を持つ女性の全てがそれに該当するわけではないようだ。男尊女卑 男尊女卑 ところで朝鮮半島では伝統的に男児が尊ばれる風潮が強かった。これに関して、昭和12~15年頃、全羅北道金州在住の産婦人科医師、篠原弘蔵氏が回想している。 「当時の戸籍法では男児を産まないとお家断絶となりますので、男児を熱望することは日本の比ではなく、七十歳にもなるお爺さんが男性ホルモン注射のために入院したり、男の児が生まれるまでお嫁さんを次から次へと変えたり、蓄妾したりすることがあたりまえにされたりして男女同権どころではありません。鉗子分娩などで難儀をして胎児を娩出させ元気なウブゴエを股間に聞いてヤレヤレと思つた瞬間、産まれた子供が女児であるために附添の家族は申すに及ばず産婦までが悲嘆にくれる有様は、憐れというより寧ろ悲愴なるものがあります。施術者までが何だかにくまれたようで実にガツカリささせられます」(「朝鮮のお産」『助産婦雑誌』昭和27年9月号)。こうした男尊女卑は捨て子の事情にも現れる。朝鮮総督府済生院養育部の子供たちが「お遊戯」を楽しむ様子(『朝鮮総督府救済機関』大正2年) 朝鮮・大邱において捨て子の救護に関わった藤井忠治郎氏は、昭和8年、内地全体の捨て子数が1年間に150人内外であるのに対し、朝鮮全体の捨て子が200人以上と推計されるという。 2対1で内地の人口の方が多いことを考えれば、朝鮮は捨て子が多いと言える。氏は大邱に捨て子が多いことを指し、「棄児の多い地方は生活苦の甚大なるを意味し同時に救貧防貧の施設が充分でないと云ひ得るであろう」と述べている。 藤井氏が昭和4年から8年10月の間に扱った捨て子292人のうち、1カ月未満の嬰児が3分の1、1歳未満が全体の65%であるというから、ほとんどが1歳にならずに捨てられている。また半数が「栄養不良及び畸形、不具者」であり、5分の4の子供はボロ切れを着用。捨てられた理由は「貧困」と「不義の結果」に大別される。「人絹の上衣」や「新らしいネルなど上衣」を着せられ「顔立も田舎児のようではない」子供もいて、それは「不義の結果」と想像されるという。 興味深いのは、捨て子に男尊女卑の思想が露骨に出ていること。1カ月未満で捨てられる子は男児26人に対し女児は65人。5カ年未満に年齢幅を広げてみても男児77人、女児207人で、やはり女児が「はるかに多数」である。 ところが5歳以上となると男児17人、女児8人と逆転する。藤井氏はこれを「下卑奴隷に使うため」であると指摘している。 少女に対するぞんざいな扱いについて、咸興(現在は北朝鮮)在住のある日本人は、内地人の家庭で家事手伝いをする朝鮮人少女たちを通して次のようなことを書いている。朝鮮総督府済生院養育部で手に職を付ける授産作業をする子供たち(『朝鮮総督府救済機関』大正2年) 「咸興に来て先づ感じたことは年少の鮮人少女達があまりにも多くの内地人の家庭に入つて働いてゐることであつた。これは咸興に於てのみ見る現象であろうか?…之等の少女の現在の状態を見、其の将来を思ふといろゝ考えされれる事が多い…彼女たちの最も伸び易い大切な時期を何とかしてもつと将来の為になる様な方法を考へてやりたい。内地人の家に働いてゐた者だつたら、嫁に貰つても大丈夫間違いない、と云はれる様にしてやりたい」 これが藤井氏の望みなのである。少女たちの境遇は次のようなものである。 「住込の者は非常に少く遠方に家のある者でも朝晩通ふのである。其の家庭は殆んど貧困で父親が無職なのが非常に多い。成長するのを待ち兼ねた様にして子守奉公に出し、漸く年頃になると私娼に売飛ばされるといふ悲惨な実例もある」(渡邉生「内地人家庭に働く朝鮮少女を思ふ」『朝鮮社會事業』昭和8年6月号)。 その当時の日本人男性の目にも、男尊女卑が甚だしく、女性の人権が尊重されていないと映っていた。もっともこれらを綴っている人々は医療や社会事業に関わり、人権といったものに関心が高い人々である。朝鮮の女性の立場 次は朝鮮在住のある産婦人科医の書いたものである。 「自分は明治三十九年、日本公使館の病院婦人科部長に聘せられて渡鮮したものであるが、赴任早々から、朝鮮の婦人の社會的地位が悲惨なる狀態にあるを目撃して、一種の憤怒すら感じて、其向上と救濟とを自分の専門方面から盡すことを畢世の天職と自覺して、先ず手始に、朝鮮には産婆と称するものが一人も無かつたので、李王家に建白すると同時に、藤田嗣章閣下に建言して産婆養成機關を設立し、李王殿下の御手許金を以て出版したのが、現今坊間に行はれてゐる諺文の婦人衞生書である」(京城婦人病院・工藤武城「外国人の観たる朝鮮婦人」『同胞愛』昭和12年3月号) 明治39(1906)年は日韓併合前である。当時赴任した日本人婦人科医が「悲惨なる状況」と書き、産婆養成について李王家に建白するなど行動を起こしている。李王家は朝鮮の王家である。文中の藤田氏については後述する。 工藤氏はその他にも朝鮮女子の犯罪の特殊性や女子奴隷についての研究も行った。朝鮮女子の犯罪に関する研究は、朝鮮総督府法務当局の援助を得て、昭和元年から8年にかけて研究し、総督府文書課から発行したという。 この研究との関連は不詳だが、朝鮮女子の犯罪について、総督府法務局の最近の調査として、京城日報発行『朝鮮社會事業』昭和元年11月号に「朝鮮女子の犯罪」という見出しで次のように掲載されている。 ・朝鮮の女子の犯罪は十八歳未満が最も多く、四〇%を占めている。三十五歳未満がこれに次ぎ、それ以後は漸減。 ・十八歳未満のものの犯罪は殺人放火が最多。これは朝鮮の早婚の弊害の一つである。 ・古来朝鮮人は十二、三歳で嫁ぎ、男子は十歳前後で娶る。女子の方が年長で、性欲の不均衡から姦通が多い。 ・その結果、姦夫と謀って夫の殺害を企てるのが、殺人の多い一つの理由。 ・性的不満から離婚がしたくても夫に離婚を請求するのは道義に反するとされているので、放火又は殺人の犯罪を犯す。 犯罪にはその社会の矛盾が極端な形で表出すると考えれば、女性の置かれた状況の一端が窺われるのである。街中の川で大勢でにぎやかに洗濯をする朝鮮女性たち(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10年)首都でも糞尿垂れ流しの衛生環境 ところで直前に引用した産婦人科医の文にある藤田嗣章氏(昭和16年に88歳で死去)は、日清日露の戦争の際に陸軍軍医として戦地へ赴き、その後台湾や朝鮮で医療、衛生面で功績のある人で、後に陸軍軍医中将に就任した。 朝鮮へは工藤氏と同じ明治39年に韓国駐箚(ちゅうさつ)軍事医部長として渡り、統監府医務顧問、朝鮮総督府医院長などを歴任、大正3年まで朝鮮で任務に当たった。 藤田氏は次のように語っている。「當時の京城の有樣は、韓國の人々は汚物の排除は一切しない。塵芥は勝手に捨て、糞尿は垂流しといふ狀態で、此の方面などを歩けば窓から小便をかけられたほどであつた。即ち李朝五百年の糞便や塵芥は、風雨に依て自然的に掃除されてゐたに過ぎなかつたといふ狀態で、人為的の清掃は全然行はれなかつたのである」(「漢城衛生組合の創設其他の囘顧」『陸軍軍医中将藤田嗣章』昭和18年、漢城は当時のソウルの呼称)京城の朝鮮総督府医院全景(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10年) 明治四十年に皇太子殿下(のちの大正天皇)が朝鮮を訪問されることになっていたが、その前に朝鮮でコレラが流行した。まだ併合前で、伊藤博文統監の時代である。藤田氏が伊藤統監にコレラ撲滅策を説明すると即座に採用され、総監は防疫を長谷川軍司令官に一任した。 その時の主意は「苟(いやし)くも人権を害せざる限り戒厳令的に行ふを妨げず、費用は望みに任せて支出せしむる…(以下略)」というものであった。コレラを制圧し、無事に皇太子殿下の訪問の日を迎えることができたという(同書)。朝鮮の衛生状態が劣悪だったこと、人権に配慮しつつ厳しい対策が採られたことが窺われる。劣悪だった朝鮮のお産劣悪だった朝鮮のお産 昭和12~15年頃のお産の状況を前出の篠原氏が次のように書いている。 「朝鮮のお産といつても新しい教育をうけた都会の婦人では日本とあまり変わつたところもありませんが、そのほかの大部分の婦人の場合には民族、風俗、旧い慣習やら迷信、教育程度の相違等の関係で一寸日本に居ては想像のつかないようなお産風景に屢々遭遇します。生命に関係する様な合併症か、方策盡きた様な異常分娩でもない限りはメツタに私共産科医や助産婦を訪れることは先ずないとみてよいでしよう」(『朝鮮のお産』) 分娩後の処置に窮して篠原医師の元を訪れる患者は相当症状が進んでいるのだが、その具体例を文中で挙げて述べている。こうした状況を「抗生物質もない当時こんな人々が産褥(さんじょく)熱のため死亡しなかつたのが不思議な位です。何か特別菌抵抗力があるとでもいうものでしようか?」(同)と書いている。 また医学的知識が無いまま危険な民間療法で婦人病に対処し、状況がかえって悪くなることが少なくないようである。 この体験談からも、「朝鮮に於ける妊娠と出産に関わる女子の死亡率は内地の約二倍で、朝鮮婦人は特にその割合が著しく高い」(朝鮮総督府学務局社会課「妊産婦保護に關する調査」『朝鮮社會事業』昭和8年3月号)というのは頷(うなず)ける。 当時、産婦人科の病院は少なく、お産と言えば産婆さんが普通だった。朝鮮の産婆について、昭和12年の第73回帝国議会説明資料の中で朝鮮総督府は次のように書いている。 「古來鮮人は分娩に當り他人の介補を受くることを嫌忌(けんき)するの風習あり。爲に併合前に在りては助産を業とする者なかりしが爾来(じらい)内地人の感化を受け漸次之が必要を認むるに至れるも其の數未だ僅少なり。 内地人産婆は内地人增加に伴ひ漸次其の數を加へつつあるも多くは都會地に開業し僻陬(へきすう)の地に於ては殆(ほと)んど其の影を見ざるの有様に付、京城帝國大學醫學部附屬醫院竝大邱、平壤、咸興及晋州の四道立醫院其の他鐵道醫院等に於て養成するの外、各道に於て試驗を施行し極力之が增加普及を計りつつあり」産婆養成に尽力した総督府 産婆数を見ると、併合以来順調に増えている。 明治43年に192だったものが、2年後の大正元年に278、昭和元年に987、翌2年に1407と4桁に増える。その後も増え続け、昭和11年は1911(同調査)、昭和15年には2057になったが、翌16年は1941(「朝鮮年鑑昭和19年」)であった。朝鮮総督府医院の明るく清潔な病棟内(『朝鮮総督府救済機関』大正2年) 産婆の内訳を見ると、大正15年6月19日現在の数は807人中、内地人が739人、朝鮮人61人、限地産婆7人となっている(鈴木公重『朝鮮と医業』大正15年)。この数字は帝国議会説明資料とは区切り方が異り一致はしない。限地産婆については後述する。  昭和11年十12月末現在では、総数1911人、うち内地人1446人、朝鮮人464人、外国人1人となっている。地域別でみると、これまでにも言及があったように、都市部、特に京城を中心とする京畿道550人と偏在していることがわかる(帝国議会説明資料)。 限地産婆とは、例外的に産婆の営業を許可されたものである。 朝鮮で産婆になるためには、「産婆規則」(大正3年7月4日、朝鮮総督府令第一〇八号)第一条に「二十年以上の女子にして、左の資格を有し、警務総長の免許を受けたることを要す」とある。「左の資格」とは産婆試験に合格する、指定の助産婦科や学校を卒業するなど五つの条件を指す。 「産婆規則」附則に「警務部長(京城では警務総長=筆者注)は、当分の内、本令に依り産婆と爲るべき資格を有せざる者と雖も、其の履磿竝に技倆を審査し、期間を定め其の管轄内一定の地域を限り、特に産婆営業を許可することを得」とあり(高田義一郎『産婆規則講義』大正9年)、これが限地産婆と思われる。咸興慈恵医院で診察を受ける朝鮮女性ら(『朝鮮総督府救済機関』大正2年) なお内地では明治32年に「産婆規則」が定められ、内務省が管轄していた。台湾、樺太にも同様の産婆規則があった。 このころ妊産婦のための施設といえば、産院と巡回産婆であった。 昭和4年、内地の産院数は40カ所、東京、大阪など全て都市部にある。巡回産婆は同年公私設合わせて378カ所であった。昭和5年の内地の助産婦数は約5万人、女子1万人に15・7人となる。 それに対し、朝鮮では妊産婦保護施設はほとんどなく、一般助産婦も女子1万人に1・3人。朝鮮は他の外地に比べても貧弱である。樺太は昭和5年に同じく女子1万人に18・2人、台湾は女子1万人に6・8人となっている(朝鮮総督府「妊産婦保護に關する調査」)。 前述したように産婆数が増えていたとは言え、まだ十分では無かったようである。母性に対する法的保護 では、妊産婦保護に関してどのような法律があったか、前出の「妊産婦保護に關する調査」を見てみる。 工場法と鉱業法では、出産予定日から4週間以内の者が、工業主又は鉱業権者に対して休業を求めたとき、また産後六週間経たないときは就業を禁止している。 健康保険法では、被保険者の出産に対して、分娩費として20円、出産手当金として分娩の前28日、分娩の日以後42日以内に、労働しなかった期間1日につき日額の100分の60に相当する額を支給。場合によっては産院に収容し助産の手当をすることが規定されている。 上記の法律が適用されるのは工場や鉱山で就業する人であるが、「一般貧困の妊産婦」は救護法の対象となった。この法律は昭和4(1929)年2月公布「法律第三九号」で、昭和21年に生活保護法に移行した。 救護法の「被救護者」とは①65歳以上の老衰者②13歳以下の幼者③妊産婦④不具廃疾、疾病、傷痍其の他精神又は身体の障碍に因り労務を行ふに故障ある者―となる。 この調査がまとめられた時点で、妊産婦保護に関する法律はこれ以外になく、イギリスの母子福利法(1918年)、ドイツの妊産婦保護法(1922年)、フランスの母性保護法(1919年)に比べれば遅れていると、この調査は述べている。 昭和12年3月に「母子保護法」(法律第一九号)が公布され、翌1月1日から実施。それによると保護の対象について以下のようにある。 「十三歳以下の子を擁する母(祖母も含まれる)、貧困の為、生活すること能わず、または其の子を養育すること能わざるときは本法により之を扶助す。但し母に配偶者(内縁も含む)ある場合はこの限りに在らず。母に配偶者ある場合と雖もそのものが左の各号の一に該当するときは前項の規定の適用に付いては母は配偶者なき者とみなす」わが子を抱いて「国語講習会」に参加する朝鮮女性ら(朝日新聞社『戦ふ朝鮮』昭和20年) 「左の各号」とは①精神又は身体の障碍により労務を行うこと能わざるとき②行方不明なるとき③法令により拘禁されたるとき④母子を遺棄したるとき―である。 この法律は13歳以下の子を養育する母及び同年齢の孫を養育する祖母が対象である。この点に関し、当時、13歳以下の子を養育する姉、伯叔母、曾祖母らを対象にしていないことに批判的な声もあったらしいが、13歳以下は救護法でカバーできるという反論もある(米谷豊一「母子保護法の精神と対象」=「同胞愛」昭和14年6月号) もちろんこれらの法律だけで貧困対策が万全だったとは言えないが、何もしなかったわけではない。貧困ゆえの売春貧困ゆえの売春 極端な男尊女卑の風潮は女性のモノ扱いへとつながる。実際、親など身近な者に売られた例が少なくない。強制的な結婚が多く、結婚が破綻すれば経済的に困窮する。 また、朝鮮半島全体で見れば現在とは比べものにならないほど貧しかった。こういった諸事情から当時の女性たちにとって売春は近いところにあったと言えるのではないだろうか。内地でも大きな違いがあったわけではない。下層農民とその家(朝鮮総督府『生活状態調査其七慶州郡』昭和9年) 朝鮮における売春は、制度的な妓生(キーセン)のほか種々の形態があった。妓生には王宮や両班に仕えた「官妓」もあったが、いずれも賤民の身分で、一部例外を除き妓生の子は妓生の身分であった。 併合から6年後の大正5年、総督府は公娼制を全土に敷いた。貸座敷娼妓取締規則にある娼妓の年齢下限こそ内地より1歳低い17歳だが、制度内容は同じであった。公娼になるには戸主(父親など)の承諾を得たうえで警察への登録が必要で、自らの意思による廃業を含むあらゆる自由が保障され、定期的な性病検査など衛生管理も定められた。 もちろん内外を問わず現実はそう簡単ではないうえ、私娼も多くいたが、それでも公娼の待遇保全には一定効果はあったといえる。ただ、公娼制度導入で朝鮮人業者による悪質な人身売買 や誘拐が横行し、総督府による取り締まりが続いた。 日本統治下の朝鮮で行われた社会事業は、総督府の他に京城府など各地方でも行っていたが、その中にはこうした娼妓に対して、直接的な救済策というものは出てこない。為政者たちが彼女たちのことを見棄てていたというよりも、それは社会的背景や考え方が今とは異なるからではないだろうか。 一般的に売春婦の存在には貧困が大いに関係する。つまり貧困対策は彼女たちを転落から救うことになる。具体的には職業紹介、貧困に陥った際の救援、医療補助などが行われたが、これは直接的な支援である。 他方、服役後出所した人、モルヒネなどの薬物中毒者の更生を図る取り組みもあった。 あるいはもっと身近なところでは、禁酒を勧めたり、勤労を奨励する、時間を守る、家事を合理化するなど生活を改善、向上させようという取り組みもあった。 内地人家庭で働く少女について先述したが、父親が無職で中には娘を売ってしまう者がいるという話があった。このようなケースはまさに禁酒、勤労奨励が必要な事例なのでないだろうか。現在の朝鮮半島では? 現在、韓国は女性大統領以下、「慰安婦問題」で我が国を執拗に攻撃している。この問題は「強制連行」の一パターンとして始まったのに、いつの間にか反論がしにくい「女性の人権」が論点になっている。 既に縷々(るる)述べたように、彼らの社会こそ「女性の人権」を尊重するという発想が元々稀薄である。 韓国において現在、女性に対する性犯罪や家庭内暴力は日本に比較して頻発し、しばしば社会問題として取り上げられている。 北朝鮮では、今も人民が餓死するほど貧しく、歴史の発展からエアポケットのように取り残されている。 北朝鮮の女性たちは、人身売買など苛酷な状況におかれている。そのことを、多くの脱北者や支援者が訴えている。 韓国は今救えるはずの「同胞」を放置したまま、70年以上前のことを事実誤認に基づいてあげつらっている。「慰安婦」は一部である 現在、韓国では少なくない人々が朝鮮(韓国)社会の悪い特徴は「日帝」がもたらしたものと解釈するが、必ずしもそうではない。 当時朝鮮は日本帝国の版図内にあったわけだが、その時代、女子教育は広まり「新女性」が登場した。「新女性」は近代化の象徴であったが、その一方で多くの朝鮮女性は目の前の生活に追われていた。日本の統治によって妓生も身分解放され、建前上は廃業の自由も保障された(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮旅行案内記』昭和9年)あどけなさが残る妓生。14~15歳にしか見えない(南満洲鉄道社京城管理局『朝鮮之風光』大正11年) 日本統治時代、お産の近代化が行われた。在朝日本人のためという側面があったにしても、朝鮮での母性保護に果した効果は否めない。また、貧困対策、生活改善をはかる様々な社会事業も行われた。 このような日本の朝鮮統治が組織的、制度的に女性の人権を踏みにじっていた、虐待したと果して言えるだろうか。当時の朝鮮女性、朝鮮社会、ひいては日本による統治の全体像を無視、あるいは歪めて、「慰安婦」という一部だけを拡大して扱うことがいかに不自然かわかる。あらき・のぶこ 昭和38年横浜市生まれ。61年横浜市立大卒、韓国・ソウル大学留学を経て平成4年筑波大大学院修了。修士論文は「韓国人の日本観」。朝鮮の歴史、民族性を分析しながらその思考や言動を考察する。近著に『なぜ韓国人は中国についていくのか 日本人が知らない中韓連携の深層』(草思社)。著作に「『日帝は朝鮮語を抹殺した』と言われたら」(鄭大均・古田博司編『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』文藝春秋)。訳書に金完變『親日派のための弁明』、辺映昱『「偉大なる将軍様」のつくり方 写真で読み解く金正日のメディア戦略と権力の行方』など。坪井幸生著「ある朝鮮総督府官僚の回想」、朴贊雄著「日本統治時代を肯定的に理解する―韓国の一知識人の回想」などの編集にも携わった。   

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    近代日本による刑政大改革と人権向上 ―韓国の歴史から見えるもの

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より古田博司(筑波大学大学院教授)朝鮮はずっと古代の「廊下」だった さて今回、『別冊正論』編集部の私への依頼は、朝鮮の法治、とりわけ刑政について語ってほしいということである。なるべく分かりやすく説明したいのだが、煩瑣な専門用語がどうしても邪魔になる。李朝は漢文の世界だから、下手をすると突兀(とつこつ)とした文字面になってしまう。それを何とか避けながら語ってみよう。 まず押さえておきたいのは、朝鮮の地政学的な位置である。大陸からここを通ってくる敵に対しての自然の防壁が全くない。ただの「廊下」である。異民族の侵入に抗することができないので、朝鮮半島の歴代の王はみな逃亡してしまう。 李朝では、海沿いの江華島に逃亡用の王宮までしつらえられていた。10世紀から11世紀に遼(契丹(キタイ)族)が高麗を攻めたときも、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮の役でも、17世紀の後金(後の清、女真(ジュシェン)族)の侵攻でも、王は逃げた。 これは近代でも変わっていない。20世紀、朝鮮戦争の時も北の侵攻に対し南の大統領・李承晩は民衆や軍隊を置き去りにしたまま、漢江にかかる橋を爆破して南に逃げてしまう。逆にアメリカ軍がくると、今度は金日成が軍事を中国援軍の彭徳懐将軍に丸投げにして、中朝国境まで逃げこんでしまった。 このような国では安定した国家運営はむずかしい。民衆が為政者を信頼した歴史をもたない。国政混乱・綱紀紊乱(びんらん)・強権強圧がふつうなのである。 日本が来るまでシナ・コリア地域たる東洋は、ずっと古代だった。現在の中国共産党がアヘン戦争までを古代とし、歴史認識に「中世」期をもたないのはある意味で正しい。ただ、日本に敗けた日清戦争からが近代なのだ。それが嫌でアヘン戦争からだと言い張っている。でも、彼らがずっと古代の王朝国家だったことに変わりはない。まず土地の所有権がない。長期間継続する使用収益を根拠とする文書の交換だけである。これは社会主義政権下の中国では、土地の国家所有や集団所有に引き継がれた。 一方、朝鮮に民法典を与え、私的所有権を認めたのは近代日本である。さかのぼって李朝時代には、売買が成立せずに小売商さえいなかった。京城・平壌・開城その他の重要都市には商人がいたが、官府の貢進物を売買する御用商人のみである。 では一般では日常品をどうするかといえば、ぜんぶ市場での物々交換でまかない、物品供給は行商人がになっていた。今のソウルの南大門や東大門の市場は、その市の名残だ。清は「少しましな古代」、李朝は「ひどい古代」と思うとよいだろう。 次に、シナ・コリア地域の関係性が問題になる。これは例を挙げながら述べてみたい。朝鮮の法令もシナ事大主義だった 李朝では国初より14世紀の明国の法令、「大明律」をもって自国の法律と同一視した。それでも足りないところは、その都度、補助法規集を刊行し、これを補ったのである。 それらには、経国大典(1470)、大典続録(1492)、大典後続録(1543)、受教輯(しゅう)要(よう)(1698)、続大典(1744)、大典通編(1785)、大典会通(かいつう)(1865)などがあり、「大典」と名付くものの「刑典」部分には、全て「大明律を用う」と、ある。 結論から言えば、異国の法律を事大主義で正典として適用したものであるため、非常な無理が生じた。たとえば、18世紀の続大典に「(墓の)坑処を穿ち放火し、あるいは穢物(わいぶつ)を投げ込んで戯(ざれ)をなした者は、(大明律の)『穢物、人の口と鼻に灌ぐ律』により(罪を)論ず」とある。 この背後には、李朝後期になると、山争いが頻発し綱紀紊乱するという時代背景があった。朝鮮では墓は土饅頭で山にある。一族で山を占拠し、代々の墓を守るのである。山の数には限りがあるから、自然、他族との闘争が始まる。ひどい時には、前の墓を掘りかえして棺桶を焼いてしまう。風水信仰で棺のなかの骨には一族繁栄のパワーが宿っていると信じていたので、焼かれた側は激怒する。こうして一族郎党で鎌や棍棒をもって山にせり上がり大乱闘が始まるのである。 この条文は、その闘争の初期を封じているのだ。人の墓に放火したり、汚物を投げ込んだものを大明国の律で罰しようというのである。  問題の大明律の条文の方を見てみよう。大明律刑律闘殴条にある。「人の一歯および手足一指を折り、人の一目を眇(つぶ)し、人の耳鼻を抉毀(えぐ)り、人骨を破り、銅鉄汁(スープ)で人を傷つけるがごとき者は、杖(こんぼう)一百。穢物を以て人の口鼻内に灌ぐ者、またかくのごとし」という私闘の際の罰則規定であり、山争い・墓争いとは何らの関係もない。李氏朝鮮の拷問。右から角形枡に膝を突っ込ませ棒で打つ「跪膝方斗」、足指の間に熱した鉄棒を挟む「足指灸之」、逆さに吊るし鼻孔に灰水を注入する「鼻孔入灰水」(朝鮮総督府『司法制度沿革図譜』昭和12) 明国の方もヘンである。平成22年11月11日付産経新聞「産経抄」に、中国密航船員が脱糞して女性海上保安官に投げつける話があるが、それを彷彿させる。 目くそが鼻くそをまねるというと私が品格を失ってしまいかねないが、両国の関係とはこのようなものだった。朝鮮は法令で、シナ人の顔面を朝鮮人の墓面に置きかえるという無理をしてまで、シナの権威にすがろうとしたのである。 シナ・コリア地域を過大評価して、朝鮮は中国に「挑戦すれば討伐されるが、朝貢すれば共存できる」という関係を維持したのだと、思いこんでいる方が日本にはおられるが、そうではない。朝鮮はシナに「挑戦など考えられない、臣従して生きるしかない」という、もっと切実な関係に甘んじてきたのである。 第一、派兵能力がちがう。シナは5万人、朝鮮は1万5千人。勝てるわけがない。だからシナの王朝は朝鮮を征伐したこともなければ、する必要もないのである。 第二に朝鮮には権威がない。「行き止まりの廊下」の地勢で国民を守れたことがない。与(くみ)しやすしと見られると、満州のジュシェン(女真)族が直ぐに鴨緑江を越えて、物を奪い、人を狩って農奴にする。 ジュシェンと交流して友好策を図ろうとすると、シナの王朝が邪魔をする。「お前は忠貞なる、うちの東の家来だったではないか」と、文書でしかりつけてくる。シナはシナで一緒になって攻めてくることを恐れている。「夷を以て夷を制する」にしくはなし、と見る。 ジュシェンの方は諸部族に分かれ満州で暮らしていた。甲賀者や伊賀者の里のようなところで、捕まえてきた明人や朝鮮人に農耕をさせる。根拠地も忍者の砦のように城をもたず、時々移動するので居場所がよくわからない。朝鮮はシナの権威で国内を押さえ、同権威で国境に睨みを利かせるしかなかったのである。官庁ごとに私設の監獄があった官庁ごとに私設の監獄があった さて話は変わって、日本統治時代の朝鮮に、元京城刑務所長だった中橋政吉という人物がいた。日韓併合後に朝鮮にわたり、大正12年(1923)頃刑務官となり、近代日本が彼の国を近代化する有様をつぶさに見た。文献を集め、沿革の史料を求め、『朝鮮旧時の刑政』(昭和11年)一冊を書き残している。 貴重なのは、李朝末期を生きた朝鮮人の古老からの聞き書きである。二十八、九歳の時、典獄署の書吏をしていた金泰錫氏から監獄の見取り図を得、地方の郡守だった朴勝轍氏から斬刑の目撃談を聞き、李朝時代の前科者の尻に残る笞(むち)痕(あと)を見、隆煕2年 (1908)の旧軍隊の解散の際の暴徒の首謀者で、島流しにされた鄭哲和氏から当時の配流生活を知る。史料価値も一級である。 今この書を読者に紹介しつつ、私の知るところを織りこんで、以下綴(つづ)ることにしたい。 今のソウルは、李朝では京城あるいは漢城と漢語で書き、時の発音ではショヴォルといった。語尾のオルを同じくする地方はシゴル(郡)といい、対立概念である。両方合わせて「中外」と称する。 京城の公式の監獄には二つあった。義禁府の禁府獄(きんぷごく)(今の鍾路(チョンノ)の第一銀行(チェイルウネン)の場所)は官人の犯罪者を拘留し、国王の命令がなければ開くことができない特別裁判所だった。構内に南間、西間の獄舎があり、オンドル式だった。四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓があり、出入口には戸扉がはめられた。これを金吾獄ともいう。 刑曹(けいそう)所属の典獄署の典獄(てんごく)(金吾の道を挟んだ対面)には庶人の犯罪者を拘留していた。構内の円形の墻(しょう)内に半分オンドルの獄舎を設け、庁舎はその周りに配されていた。シナの六部の縮図が六曹で、所轄の刑曹はその一つ、裁判と刑罰担当である。 その他に、兵曹、司諌府、備辺司、補盗庁などにも各権限に応じて日中の逮捕の権があった。煩瑣なので各官庁の説明は省く。その獄舎は留置場程度で、そうでない立派な監獄は兵曹所属の補盗庁(ほとうちょう)のみで、左獄・右獄といわれ恐れられた。 京城の夜は外出禁止なので補盗庁が夜回りと盗賊逮捕をになっていた。構内には五間ばかりの板場の獄舎と隣接して絞首刑執行場があった。獄舎の四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓、出入口は板戸に横木でカンヌキがしてある。舎内の壁には丸木が露出していた。 こうした各官庁の監獄は時代を経るにつれてどんどん増えていった。つまり分業がうまくできず、あちこちの官庁が勝手に留置場を設けてしまうのである。これを「私獄濫設の弊」という。1725年、軍関係の五つの軍営にまで拘留の間があると報じられ、英祖王はこれを禁じた。 18世紀前半に各官庁の擅囚(せんしゅう)の弊が極に達した。「擅囚」とは読んで字のごとしで、「ほしいままに捕えた囚人」のことである。百司百官で私獄のないものがない状態になった。庶民はいつ役人に捕縛されるやも知れず戦々兢々(きょうきょう)としていた。 1740年の報告では、各官庁の私事の逮捕監禁がひどい、私的な怒りで捕えたものばかりだ、とあった。翌年、王は濫囚するものがあれば報告せよと命じた。これを「擅囚の弊」とか「濫囚の弊」といったが、改まらなかった。 地方官も六曹の縮図のように六房を置き、刑房に裁判・禁令・罪囚・監獄の事務をさせていた。道獄、府獄、郡獄と呼ばれる地方獄があった。地方官に司法権を兼掌させたために、司法と行政が区別されず錯綜していた。地方では観察使(かんさつし)(=道知事)以下の行政官が、裁判権をほしいままにしていた。彼が何を観察するかと言えば、民衆の儒教道徳実践を観察するのである。 裁判は役所の前庭のお白州で行われ、審理には拷問が付き物だった。審理は、死罪は30日、流刑は20日、笞杖(ちじょう)(鞭と棍棒)刑は10日の期限を定め、故意に延ばすものは誤決と同罪として処罰することとし、中央の刑曹には毎月1日に判決の月日を報告させることにしていた。 みだりに捕え、放っておく弊害 ところが、監獄で憂慮されたのは、国初から「違法濫刑」、「獄囚延滞」にともなう凍死と疫病であった。これも読んで字のごとく、「濫(みだ)りに刑罰を科し、判決を出さずに延ばし延ばしする」のである。審理・判決の期日は、結局守られなかった。 1427年の冬には凍死の恐れがあるから囚人を解き放てと命じている。つづく世祖王代には官吏を派遣して地方の監獄を調べさせたが、先の濫刑、延滞の二項がとくに甚だしかった。1457年には、獄囚延滞が無きようにと地方に命じた。この王さまはわりと良い人だった。役所ごとに勝手に行われた李朝からの〝お裁き〟日本によって導入された近代法制下の京城地方法院の裁判(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 1466年の冬には凍死せぬように釈放令を出した。朝鮮の冬はもちろん、吐く息が凍るほどの零下である。睿宗(えいそう)元年(1469)、忠清道の囚人は400人に達するとの報告があり、濫囚の弊が甚だしかった。 1567年には、濫刑の官吏をひどく罰せよと王が命じた。この頃より、各役所が濫りに人を逮捕して監禁し、権勢を振るう弊害が表面化した。この後、30年で豊臣秀吉軍の侵攻にさらされることになる。治まって、1625年、仁祖王が擅囚の弊をいさめたが、効き目なし。債務強制のための監禁の弊が表面化した。つまり負債を返せないと、どしどし投獄した。貸す方も悪(わる)だが借りる方も踏み倒しの悪である。 そんなことをやっているうちに、翌々年、ジュシェン(女真、後の清)のヌルハチの子、ホンタイジが攻めてきた。仁祖王は、江華島に逃げた。寝返った朝鮮人の武将が船でやってきて、「お前は泥人形か」と、王を侮辱した。王は降伏したふりをしたがばれて、もう一度攻められた1636年、京城は落城した。 時はたったが、監獄は変わらない。1651年、ソウルの獄で衣服、薪炭が行き届かず凍死するものが多かった。翌年、獄にいるハンセン病患者に薬物を与えた。獄内では不潔不衛生により伝染病その他の病魔に襲われる。獄内に充満する吸血虫の弊害で皮膚病にかかり命をおとすに至るのである。 第一、ソウル自体が不衛生の巣だった。だいぶ下って、19世紀の英紀行家マダム・ビショップに世界第二の不潔都市と紀行文に書かれた、「誇り高き不潔都市」である。ちなみに第一位は、シナの紹興だった。ソウルのメーンストリート鐘路も併合前はこんなだった(東京朝日新聞『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』明治39) 1680年、獄囚延滞で89人も死んだと粛宗王は報告を受け、責任を問うた。地方はもっとひどい。罪が重いと処決せずに数十年延滞しているとの報告があり、1697年には、疫病が京城の典獄(庶人監獄)にも広まった。刑曹の報告により保釈する。禁府獄(官人監獄)も重病の者を上に報告して保釈した。 1707年、監獄で湿所に病を発する者が多いので板を敷けと命じられた。つまり朝鮮の監獄は土間だったのだ。朝鮮おそるべしである。粛宗王代には王室の祭祀忌辰(先祖の祭や命日)で裁判の開廷を止めることが多く、獄囚延滞の弊が特にひどかった。李朝古代から日本近代への大改革 李朝古代から日本近代への大改革 1745年、「替囚(たいしゅう)の弊」甚だしと、報じられた。これは何かというと、罪人に替えてその親族が入獄するのである。夫の替りに妻が入るのを「正妻囚禁」、子の替りに父が、弟の替りに兄が入るのを「父兄替囚」といった。 後者は人倫に反するというので粛宗代に「制書有違律」で処罰された。これも大明律の官吏の罰則で、王の言を制、それを記したものを書という、「詔(制書)を奉じてその施行にたがうものがあれば、棍棒で百回殴る」という律で、替囚とは何の関係もない、こじつけである。 本場シナの方にしても、王言がそのまま錯誤・遅滞なく実行されたとはとても思われない。東洋の法治はこのようなファンタジーとこじつけに満ちているのである。 正祖王の8年(1784)、獄囚に飢餓迫る。獄中の食事は自弁できない者には官給せよと命じた。これはこれまで何度か命じたが効果なし。食事の官給はなかった。 高宗王の8年(1866)に天主教(カトリック)弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録『京城幽囚記』によれば、食事はクワンパン(たぶん官飯(クワンパプ)の意)という朝夕に米ほんの少しばかりの食事で、二十日もたてば骸骨となってしまうという。 当時、囚人には盗賊、負債囚、天主教徒の三種類がいた。収監されるとチャッコー(着庫)という足枷(あしかせ)をはめられるが、盗賊以外はチャッコーから足を抜く方法を獄卒から教わり、夜は仰臥できる。盗賊は昼夜足枷をはめられ、疥癬(かいせん)に侵され、杖毒(杖刑の不潔な棍棒で打たれ病原菌に感染すること)で肉は腐り、飢餓に苦しむ。死が近づけば獄卒が蹌踉(そうろう)とした囚人を屍体部屋に連れ出し、死ねば菰(こも)にくるんで城外に捨てに行った。女囚は足枷をしないが、チフスなど疫病にかかりやすい。乳飲み子を連れている女もいた。 東学党の乱など内政が乱れる朝鮮をめぐって清と対峙する日本政府は、日清戦争勃発直前の明治27年(1894)6月、清からの朝鮮独立を促す改革案を閣議決定し、翌七月に官職の綱紀粛正、裁判の公正化、警察・兵制の整備などの内政改革を朝鮮政府に求めた。 朝鮮では高宗王の31年(1894)、甲午改革を進めるために置かれた軍国機務所から、大小官員で贈賄を犯したものが下僕を替囚して罰金を払い、そのまま下僕を獄囚延滞するという弊害があるから、今後は本人を収監せよという命令が出た。 1895年の改革で、未決囚と既決囚を区別して収監すること、共犯者は監房を別にすること、収監には裁判所または警察署の文書が必要であること、携行の乳飲み子は3年までこれを許すことなどが決められた。典獄署は監獄署と改名、義禁府は法務衙門権設裁判所と改名し、両獄の罪囚は全部監獄署に移した。地方は官制を定めなかった。日清戦争と下関条約の結果、朝鮮はシナから独立開国し、ようやく近代化の途についたのだった。  1896年の改革(乙未改革の一環)で、日本東京府の各監獄が警視庁の所轄であったことにならい、警務庁を設けて監獄署を一分課として所属させた。この警務庁時代に丸山警務顧問が進言し、西大門外の仁旺山(におうさん)麓、金鶏洞に5万円で監獄を新築し、1907年竣工した。木造、庁舎80坪、獄舎480坪、監房は丁字型、工場あり、浴室あり、500人収容可だった。 明治37年(1904)、第一次日韓協約で統監府を置き、1906年、地方に13カ所の理事庁を設け、日本人の犯罪者を獄舎に収監した。1905年の第二次日韓協約で、1908年から監獄官制が施行された。 刑政を控訴院検事長の管轄下に置き、地方裁判所在地と同様に監獄を全国8カ所(計293坪にすぎなかった)に設置し、事務室、監房、炊事場、浴場を設備した。水原(スウォン)の京畿監獄のみが完備されていた。また典獄以下の職員の大部分は日本人を採用した。法務大臣に趙重応、京城控訴院検事長に世古祐次郎が任官した。併合前からの監獄。丸太をまばらに立てた壁は隙間だらけ。ここにこれだけの囚人を詰め込んだ…日本によって開設された近代的な京城の刑務所(『写真帖朝鮮』) 1908年、各地の理事庁獄舎を増加し、永登浦監獄を設け、未決囚のみ京城に、既決囚は永登浦監獄に移した。これが永登浦監獄の起源である。翌年、韓国の司法および監獄事務を日本に委託する約定が成立し、統監府監獄官制が布(し)かれた。統監府理事庁監獄に日本人、朝鮮人共通の監獄ができた。監督機関として、統監府司法庁が置かれた。 1908年の改革(刑法大全改正)のとき、典獄(鐘路の庶人監獄)に拘留されていた者は309人(未決囚123人、既決囚186人)だった。各地方の監獄はすでに2千人を超え、大邱監獄の監房は全部で3室総面積15坪しかない所へ収監者150人だった。房内に縄を張り、それに両足をかけて上半身だけ床に横たえさせた。公州監獄では房内へ便器を入れる余地なく、外に四樽を備え、漏斗で内から放尿させていた。 朝鮮総督府監獄官制の実施、大正8年(1919)11月1日より3カ月で監房面積は1479坪、収監人数7021人、一坪当たり収容人員は4・7人で、半分以下に緩和され、房内衛生も大幅に改善された。放政ゆえの苛政と「恨」の起源  統監府は設置から5年後の明治42年(1909)、新たな戸籍制度を導入した。賤民層にも等しく姓を名乗らせる一方、身分記載を廃して身分解放を進め、教育の機会均等も促した。独立した司法制度を敷いて私刑を廃した。水原の京畿道地方裁判所に赴任後、残酷な拷問をたびたび目にした日本人法務補佐官の建言で1908年に取り調べにおける拷問を禁止している。 日本の朝鮮に対する改革は、古代を近代にする改革だった、とひとまず言えるだろう。その初期の目的は日本の安全保障のための併合だったとしても、これを放置するにはあまりにも浪費が多く、コストがかかりすぎた。近代的な改革を施さないわけにはいかなかったのである。 これはロシアとの開戦の最中も、着々と朝鮮統治の施策を実施していたことから明白であろう。 李朝の政治は苛政というよりは放政ゆえの苛政というべきである。古代経済社会のうえに、中国古代のファンタジーを権威模倣として採用し、地政学上の「廊下」を往来する異民族の来襲から王は民衆を放りだして逃走した。 国政混乱・綱紀紊乱のさなか、為政者不信の民衆を強権強圧する官僚を王が儒教の徳目で牽制する(これには両者の役割が逆の時代もあった)という形で、李朝は500年間崩壊することなく、放政と苛政の均衡を保ったのである。 これにはおそらく、「行き止まりの廊下」の行き止まり部分が有効に働いている。民衆は逃げ出そうにも廊下の先は海なのである。これが民衆の耐性を育てた。この無念と諦めの鬱屈を「恨(ハン)」という。 私はよく読者から、朝鮮が本当に好きなのかと、問われる。嫌いならば40年間もの研究生活を送れたはずがない。ただ、私は、好きなものの味方はしないのである。好きなものの味方をすれば、好きなものが悪くなったときに、その悪いところを隠そうと、良い部分をデフォルメして喧伝するようになるだろう。 今の中国研究者、朝鮮研究者には、そのような運動家となった人々が叢生している。悪いものの敵になる運動家ならば筋が通るのだが、悪いものの味方をする運動家はいただけない。これは嘘つきである。 今の韓国をつらつらみるに、法治主義の失敗と民主主義の破綻、過去の東洋的専制主義への退行は明らかなのだから、韓国がどんどん悪くなっていることは否定できない。そのとき、韓国の歴史がどんなに苛政だったか、それを知らなければ韓国の行き先も見えないことになってしまうだろう。そのような立ち位置で今回の仕事を引き受けたのである。 それでは立ち位置を明らかにしたので、われわれは先に進むことにしたい。つぎに李朝の刑罰の歴史に入って行こう。斬首から始めたい。 斬首刑は光武9年(1905)の刑法大全制定により廃止された。それまで、大逆犯の処刑は南大門や鍾路の辻で行われることがあった。1896年の国王毒殺事件の犯人、金鴻陸(きんほうりく)を処刑して梟(きゅう)したのも鍾路だった。梟(ふくろう)の棒先にとまるように首をさらすので梟刑という。逆賊を誅するときには、首を切り、臂(ひじ)を断ち、脚を断ったので、五殺といった。 斬首刑の場合、「待時囚(たいじしゅう)」と「不待時囚」と二種類があった。待時囚は、春分前、秋分後に執行し、不待時囚は判決後、時を待たず直に執行した。 十九世紀後半の高宗時代には刑場は龍山(ヨンサン)近くに二カ所、待時囚用があった。セナムトとタンコゲである。刑木に髷(まげ)を吊りさげて首と胴を断った。不待時囚用は武橋洞(ムギョドン)、待時囚の緊急用は西小門(ソソムン)外だった。刑木に吊りさげずに斬るので首と胴は離れなかった。 執行方法は、まず罪人を監獄から引き出して、車に乗せて牛に牽かせる。車に乗せるには、罪人の両手を広げ、両脚を揃えて踏み台の上に起立させ、牛車の箱に縛りつけておく。途中南大門を過ぎる時に踏み台を取り除き、牛を疾駆させる。罪人は両手のちぎれるばかりに振られ、舌は歯の振動で鮮血がほとばしり、刑場につく頃は死人同然となった。大きな鈍刀で囚人の首を斬る様子。首はそばに立てた竿に吊って見せしめにした(『司法制度沿革図譜』) 執行日は家族に知らせる。家族が来て、刑吏に賄賂をおくり、なるべく苦痛がないように一遍に斬ってもらうためだ。後年、斬刑は獄内でも密行されるようになり、構内でうつぶせにして斬った。「行刑刀子」といい、薙刀(なぎなた)のような大きさの鈍刀で、ただの重みで叩き斬った。朝鮮人もシナ人も、刀に刃をつけるのがどうも苦手のようである。 かわって薬殺は得意だった。王族や士大夫の罪人の面目を重んじて王より毒薬を賜い、これを嚥下させる。砒素(ひそ)を用いたらしい。流刑で外地に出した場合、後の報復が予想されるときには到着する前に、使者に薬をもたせて途中で罪人に服毒させて殺した。儒者官僚・宋時烈が済州島に流される途中で客死したのも、粛宗に廃妃を諌めた朴泰輔らが配流の途中死んだのも賜薬(しやく)による。 磔刑(たっけい)や絞首刑は、朝鮮人には物足りなかったためほとんど行われなかった。日本人の逆である。絞首刑が行われるようになったのは、比較的新しい。 高宗3年(1866)に天主教弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録によれば、補盗庁左獄で刑場は監房に隣接し、刑場の中央を板壁で仕切り、その壁の上部に穴をあけて縄を通して縄の端に受刑者の首をくくり、隣室から縄を引いて絞め殺したという。日本人と異なる東洋の処刑法 日本人と異なる東洋の処刑法 1908年から監獄官制が施行された。当時残っていた旧八監獄を改修したが、水原(スウォン)の京畿監獄のみ、施設が完備された。 中橋政吉の見たところ、水原の京畿監獄だけ、刑場が二階式だった。鍾路監獄では物置のような場所の低い天井の梁に鉄製の井戸車を吊るして縄をかけ、床下3尺ばかり掘り下げて縄巻き器をすえ、回転させて巻き上げた。大邱監獄では丸太3本を三叉に組んで、その中央に縄を吊るして執行した。 海州監獄では監房の一つをあけて、上記の補盗庁のようにしていた。平壌監獄では元の観察使、後の平壌地方裁判所の構内の建物の一つをあけて上記の梁木・滑車式で殺した。そこには死刑囚が暴れたときに殴るため洗濯棒のような棒が備え付けられていた。 凌遅(りょうち)刑という、日本人には聞き慣れない刑罰がある。シナ清代では阿片を吸引させ陶酔したところで四肢から生きたまま切り刻むのだが、朝鮮では死者に対してこれを科した。 大逆罪の屍骸の頭、左右腕、左右脚、胴の順で六つに断ち、残骸を塩漬けにして各地に分送する。この刑罰は17世紀、光海君の代に隆盛を見た。仁祖王代に厳禁としたが廃するに至らず、英祖王代に叛逆を謀った尹光哲と李夏徴なるものの屍骸に凌遅の刑を施した。 19世紀の高宗王代、金玉均(きんぎょくきん)にも凌遅の刑が科せられた。 日本の明治維新を手本に朝鮮の近代化を目指し、1884年、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こしたが清の介入で失敗し、三日天下で日本に亡命してきた。各地を転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇に銃で暗殺された。 遺体は清国軍艦咸靖号で朝鮮に運ばれ凌遅刑に処せられた。頭と胴は漢江の楊花津頭に梟し、手足は八道に分梟し、躯(むくろ)は漢江に投げ入れ魚腹に葬らせた。 日清戦争後の下関条約で朝鮮は独立し、1895年の改革で、「処斬凌遅」等の刑の廃止令が出て凌遅刑は終わった。だが今日でも「殺してもあき足らない奴」というときに、「凌遅之刑(ヌンチヂヒョン)・当(タン)ハル奴(ノム)」と韓国語で悪口を言うことがある。 最後に、追施刑という刑がある。追施刑とは死者の棺を掘り起こして加える刑罰である。 15世紀、燕山君の史獄のとき、刑曹判書(=刑曹長)金宗直を大逆罪とし、その棺をこわし屍骸を掘り出して斬った。その後、燕山君の生母、尹氏を廃妃にした謀議に加わった数十人を捕え処刑したが、そのうちすでに死んだ者は棺を壊し屍骸を引きずりだして斬り、骨を砕いて風にさらし屍は江に投じた。 追施刑の結果は罪人の子または親も同時に連座させられるので、英祖32年(1756)に王政の忍ばざるところとして廃止されたが、これで終わった形跡はない。なぜこのような刑罰をしたのかというと、風水信仰で屍骸の骨には一族繁栄のエネルギーが宿っていると信ずる。そこで生きている親族を連座させてこれを行い、残族に還流するエネルギーを根本から断つのである。 この刑罰もシナが本場である。日本と提携し、シナの近代化を求めた政治家・汪兆銘(おうちょうめい)は、死後の民国35年(1946)1月15日、国民党軍により墓のコンクリートの外壁を爆破され、棺とともに遺体を引き摺りだされ、灰にされ野原に捨てられた。賄賂次第の笞刑、身代わりの下僕 ここらあたりで日本の普通の読者は、胸糞がわるくなって、もううんざりということになるのではないだろうか。お気づきとは思われるが、日本人は地理上は“東アジア”人であっても、歴史文化上の“東洋”人では決してない。独立採算制の地域分業とでもいうべき「封建制国家」の子孫であり、「王朝国家」は遥か12世紀に終わっている。 その王朝の頃でも、シナの肉刑・宮刑・奴隷制など「人間の家畜視」は受け入れなかった。風水信仰も湿潤な日本では発達しなかった。陰宅(死後の家、墓)の骨など埋めても腐るから、一族のエネルギーの元などにはなり得ようもない。陽宅(生きているときの家)の方角などの吉凶占いだけが残った。 というわけで、私もこの辺で終わりにしたいのだが、別冊正論編集部から依頼された紙幅にはまだ届かない。申し訳ないがもう少し陰惨な東洋の話をつづけることにする。つぎは、笞(むち)と杖(こんぼう)から始まる。 朝鮮の打撃刑は、高麗時代から笞刑と杖刑が区別されていた。軽いものには笞を用いる。李朝ではいずれの官庁も、刑具も執行方法も勝手放題。賄賂の多寡により刑を加減したためバラバラになったのである。犯人の夫を捕えた刑吏に牛と反物を賄賂として渡し釈放を願い出る妻(『写真帖朝鮮』) 賄賂をした者は始めの三打まで手加減し、四打以降は外観のみ強く打つように見せ、受刑者にわざと号泣させた。賄賂しない者には強打し、賄賂を促した。賄賂しない者は永久に消えない傷跡を臀部に残した。中橋政吉はこれを当時の前科者から目撃したという。 杖でも笞でも、硬質の木材のものもあれば、桐のような軟木もあり、甚だしきは紙製のものに朱漆を塗って外観だけ丈夫にしたものもあった。これを朱杖(しゅじょう)という。刑具は受刑者の負担として自分で作って官へ持参させた。笞は自然に繊弱に流れ、すぐ折れるので数十本の予備の笞を要することがあった。 1673年、広州府尹(=府知事)の李世華の検田に過失があり、杖刑の命が下ったが、判義禁(=義禁府長)の金寿恒が上大夫に杖刑は奴隷と同じだから他の刑に代えてほしいと上奏し、王はこれを許した。このような例はいくらでもあった。 両班に対して笞刑を加える時にはその名誉を重んじ、庶民のように臀部を打つことはせず、「楚撻(そたつ)」といって、木の小枝で両脚の前脛部を打って済ませたものだった。それが、後には代人を出し、下僕が笞刑を受けるようになった。 17世紀、粛宗王代に「累次の兵乱を経て法制みだれ、杖を大きくするの弊がひどい。これからは笞を用いよ。軍律処断以外の者に棍棒を用いてはならない」と、命じた。18世紀、正祖王代に欽恤(きんじゅつ)典則が制定され、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。 1896年、刑律名例を制定し、刑罰を死・流(る)・徒(ず)・笞(ち)の四種に改め、古来の杖刑を廃し、笞刑は従来の回数10ないし50を、範囲を広めて10ないし100とし、十等に区別した。1905年制定の刑法大全では、死・流・徒・禁獄・笞の五種とし、杖刑は認めず。笞刑は刑量を定め、婦女に対しては水に濡らした衣を着せること、姦通罪の場合は衣を着せずに執行とした。 日韓併合後も、刑法大全の笞刑は朝鮮人に限り適用されていたが、明治45年(1912)9月制令第三号をもって、笞刑は代用刑に改められ、懲役・拘留・および金刑(金額に代える)に代えて行うこととしたため、自然に磨滅していった。流刑には妻や妾を随伴した 流刑には妻や妾を随伴した 流刑には海と陸とがあり、海の島に流す場合も、有人島と無人島の別があった。その他に「安置」「囲籬(いり)安置」「充軍」の分類がある。安置は、配所で更に場所を指定して幽居させる。いわゆる閉門である。王族または高位高官の者に限られた。 罪の重いものは絶海の孤島に流す「絶島安置」があり、軽いものは本人居住の郷で幽閉する「本郷安置」があった。だが実際には政敵を葬るために、ほしいままに絶海流配することはいくらでもあった。 本郷安置には二種類があり、最初から本郷におかれるものと、いったん島に送られ、蕩滌(とうじょう)(罪名を除くこと)によって配流を解かれて本郷に帰還して安置されるものとがあった。また王命により遠島に処せられることなく自宅に置かれるものは、「杜門(ともん)不出」といった。 囲籬安置は「加棘(かきょく)安置」ともいい、棘のあるカラタチの木を周囲に植えて籬(まがき)とし、その内側に幽閉した。カラタチの木は全羅道に産するため、この道の島地で行われた。18世紀の景宗王代、壬寅の禍で、領義政(=首相)金昌集を巨済島に、領府事(=中枢府長)李頤命(りいめい)を南海に、判府事(=中枢府職)趙泰朱を珍島に囲籬安置した。 充軍は、辺境を守備する軍に投じて配流するものである。これはかなりきつい。国境付近で凍死して客死するので、遺体が行方不明になることがあった。 その他、流刑は千里以上だが、「遷徙(せんし)」といい、千里の外に配流するものがあった。ただし、流刑を二千里ないし三千里と定めたのは、シナの制度をそのまま持ってきただけで、朝鮮の千里は日本の百里ほどであるから、朝鮮の尺の二千里ないし三千里ということである。それでも狭い朝鮮では長距離になってしまうので、各地を大迂回して距離を積算して辻褄を合わせたこともあった。 また、「移郷」あるいは「放逐田里」というものがあり、居を田野に移し、居住地や王都に入ることを禁じた。1545年、清州人の父を救うために殺人した者を移郷に処した。明宗代には、権勢家の尹元衡の爵を削り移郷したことがあった。「全家徙辺(しへん)律」といい、罪人の全家族を辺境に移すものがあったが、英祖20年(1744)に、廃止されこの処分はなくなったという。 元々流刑の軽重は距離によるものであり、期間に制限はなかった。ゆえに恩赦や「量移(りょうい)」によって減刑されて帰還する以外なかったが、頻繁に行われたので大抵は帰還した。量移というのは、配流者が多数になったとき、整理するために減刑し帰還させるのである。運悪くどちらにもかからず一生を過ごす者もいた。 流刑者には家族の随伴を許していた。今の韓国の五千ウォン札の絵柄になっている儒者・李栗谷の時には、妾を伴っていたことが彼の日記に見える。正祖14年(1790)、重ねて流人の妻または妾が随従を願うときには許せと命じた。その他、士大夫で遠地に送られるものには衣食を給したこともあった。配流は日本に比べ、けっこう楽勝だった。 大典会通(1865)では、70歳直前の流刑者には、70までの期日に一日1両4銭をかけて金銭を納めれば帰還を許した。1905年の刑法大全制定では、本人が病気の時と親の喪に遭ったときは暫時の保釈を許した。婦女、70歳以上の男子、15歳以下の男子で、流刑10年以下の場合には、極寒猛暑の折には保釈とした。 流刑に処せられたものはすべて刑曹の帳簿に記載すべきことになっていた。流刑地で最も多かったのは、陸地では咸鏡南北道、平安北道の国境線の穏城・鐘城・三水・甲山(カプサン)・江界(カンゲ)が最も多く、島地では南沿岸の島地が最も多かった。 古来、陸海いずれに送るも適宜だったが、隔離するには島地が便利だったので、刑法大全では、原則として島地に押送するものとした。その頃の流配の島地は済州島・智島・珍島・楸子島・莞島・鉄島だけだった。島で商売や学塾経営で成功して気楽な余生を送るものもいた。 明治43年(1910)、日韓併合の恩赦で流刑者は全部流刑地から引き揚げ、最寄りの監獄に移した。次いで政治犯全部に大赦を行い、獄内においても流刑者はその姿を消した。 他に大明律記載の徒刑(配流して労働刑に処す)があったが、李朝では行われた形跡がない。拷問は脚折りと緊縛が主流 拷問刑は法令上定めたところがない、法外の刑である。わが国の石抱きのような圧膝(アプスル)や、周牢刑(カセチュレ)といい両脚を緊縛しその中間に棒を挿入して左右に開く刑があり、補盗庁で行われた。棍棒で乱打する乱杖刑などもあった。18世紀の英祖王代に残虐の刑は廃止されたが、その後逆転し、依然無統制の状態から脱することができなかった。 現在の韓国で展示されている「日帝による拷問」では、周牢刑や乱杖刑などが再現されているが、これは伝統を日本のせいにする、お得意の「歴史の歪曲」である。 さて、正祖王代に欽恤典則を制定し、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。1905年の刑法大全制定により、次の六種の刑具が定められた。まず枷(かせ)(項鎖)、朝鮮語でモッカルといい、長さ五尺五寸の板に刳り抜かれたところに頭を挿入し、横より栓を施して鍵をかけた。長い板が首にかかっているので日中はほとんど動けない。李氏朝鮮時代とみられる周牢刑の写真。人々の目前で交差した棒に体重を掛け、囚人の脛骨を折っている 杻(ちゅう)(手枷)は実際には使われなかった。鍾路監獄では麻縄で両手を束ね、これをさらに強く腹部に縛り付けておいたもので、食事に手が使えないため、犬のような格好で頭を垂れて直に口を付けて食べていた。桎(しつ)(足枷)、朝鮮語でチャッコー(着庫)といい、数人まとめて連施したもので、左右より交互に罪囚の左足または右足を一本ずつはめ込み、抜き差しできないよう鍵をかけた。 厠に行く場合には外すが、夜これを施したまま寝かせることもあった。その他、紅絲鎖(捕縄)、朝鮮語でオラチウルといい、紅色の糸を撚り合わせた縄で、端に龍頭飾りをつけ、12個の環を通してあった。環は肩先より腕に流れ、龍頭は胸に垂れ、威厳を感じさせたという。恩赦濫発の伝統は今も生きる恩赦濫発の伝統は今も生きる 恩赦は、①建国時②国王即位、立后、立太子、太后尊号、王と王族の誕生、薨去など③国王行幸時④宮の造営と罹災⑤極寒猛暑に際し獄囚を憐れんだ時⑥天地異変、彗星出現時など⑦女真族を成敗した時⑧瑞象出現⑨疫病流行⑩個人特赦(父殺しの仇打ち)などで頻発された。 恩赦はあまりに頻繁で数えることができないほどだった。歴代の王が赦をもって徳治となして、これを行うことですべての災厄から逃れることができると信じたことによる。 その弊害を「濫赦の弊」という。粛宗10年(1684)に、奸人の僥倖(ぎょうこう)を開いてしまったと言い、恩赦を行いすぎたことを悔いて官をいさめた。英祖王代にも、自分の濫赦を悔い、今後の王は行うなと戒めた。これらは濫赦の弊害を伝える。 浅見倫太郎「朝鮮法制史」中に、「寛典(あまい法律)の弊に至っては苟免(こうめん)無恥(一時逃れの恥知らず)の思想を誘致し、半島人をして非行を為すを以て意に介せざるに至らしめたるものなり」とある。罪囚のすべてが恩赦の前例を知っているので、長期刑を下されても苦にせず、釈放機会を予期して待ったという。 現代の韓国でも、この「濫赦の弊」は、伝統として続いている。蓄財で逮捕された元大統領や、贈賄で収監された元会社社長、左翼運動で事件を起こし死刑判決を受けた元学生などが平然と出獄し、豊かな老後を送ったり、死刑宣告を勲章のようにして左翼政党の議員として返り咲いたりするのはこのためである。 以上より、「濫囚」「濫刑」「濫赦」が彼らの「放政」の伝統であることは明らかだろう。したがって私は、今の韓国の地で、いかに日本人が不当な逮捕、審問、判決、投獄をされようとも驚かないのである。ふるた・ひろし 昭和28年横浜市生まれ。54年慶應義塾大大学院修士課程修了。55年に渡韓、57年からソウル大師範大学院留学、延世大などで61年まで講師を務める。下関市立大講師、筑波大助教授などを経て平成16年から現職。第一期日韓歴史共同研究委員会委員、第二期日韓歴史共同研究委員会委員教科書班チーフを歴任。朝鮮半島研究、韓国論にとどまらず文明論や思想でも論考を発表。11年サントリー学芸賞、16年読売・吉野作造賞、18年正論新風賞。近著に『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(WAC BUNKO)、『ヨーロッパ思想を読み解く―何が近代科学を生んだか』(ちくま新書)など。

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    「被害者の立場は千年変わらぬ」説く韓国に加害者の過去あり

     韓国人の日本に対する「恨」(ハン)は秀吉の朝鮮出兵まで遡る。だが、鎌倉時代・中国を支配していた「元」による九州への攻撃・「元寇」における高麗軍の蛮行について、韓国は未だ固く口を閉ざしたままだ。* * * 韓国大統領・朴槿恵は2013年3月1日の「3・1独立運動記念式典」で日本統治時代を振り返ってこう発言した。 「加害者と被害者という立場は1000年の時が流れても変わらない」 この“被害者メンタリティ”に凝り固まった韓国人が「最も嫌いな日本人の一人」とするのが、16世紀に朝鮮出兵した豊臣秀吉だ。最近も韓国では、秀吉軍を海戦で打ち破った民族の英雄・李舜臣を描く映画『鳴梁』が大ヒットした。 しかし、明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は、韓国の一方的な被害者意識に異を唱える。 「実は秀吉の朝鮮出兵の300年前に韓国(高麗)軍は日本に侵攻し、暴虐の限りを尽くしました。この事実を韓国は都合良く忘れています」 1274年、中国を支配していた元が鎌倉時代の日本に侵攻した。この時、元に征服されていた高麗は遠征軍に加わり、対馬と壱岐に攻め入ったのだ。 当時、元への警戒を鎌倉幕府に呼びかけた日蓮聖人の遺文を集めた『高祖遺文録』に元・高麗連合軍侵攻時の残忍な記録が残っている。 《百姓等ハ男ヲバ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲバ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス》 住民の男は殺されるか生け捕りにされ、女は手に穴を開けられ数珠つなぎの捕虜にされたという記述だ。勝岡氏が文献を解説する。 「『高祖遺文録』を所収した『伏敵編』の編者で歴史学者の山田安栄氏によれば、捕虜の手の平に穴を開けて縄を通すのは、百済の時代から朝鮮半島の伝統であり、“数珠つなぎ”は高麗軍の仕業と推測しています。また『高麗史』によれば、高麗軍は日本で200人もの童男童女を生け捕りにして、高麗の忠烈王とその妃に献上したということです」蒙古兵相手に奮戦する竹崎季長(右)=「蒙古襲来絵詞」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵、部分) 2度目の元寇となる1281年の「弘安の役」でも高麗軍の非道ぶりは際立っていた。蒙古襲来直後に成立した寺社縁起の一つである『八幡愚童訓』には、こんな記述がある。 《高麗ノ兵五百艘ハ壱岐・対馬ヨリ上リ、見ル者ヲバ打殺ス》 この時、上陸した高麗兵を怖れ山奥に逃げた島民は赤子の泣き声を聞いた兵が押し寄せるのを避けるため、泣く泣く我が子を殺めたという。「地元では今でも泣く子をあやすための“むくりこくり(蒙古高句麗)の鬼が来る”という伝承が残っている。元寇は当時の日本人に700年経っても消せない恐怖心を植えつけたのです」(勝岡氏) しかも、元寇そのものが高麗の執拗な働きかけの産物だったと勝岡氏は指摘する。 「『元史』によると、フビライ・ハンに仕えていた高麗人の趙彜(ちょうい)が日本への使節派遣を促した。更に高麗の世子椹(後の忠烈王)もフビライに盛んに東征を勧めたという記録もあります。高麗が進言しなければ、元寇は起きなかった可能性すらあるのです」 2度に及ぶ元寇は日本に深い傷跡を残し、その後の歴史を動かす原動力となった。 「元寇で窮乏した御家人が海賊となり、残虐な高麗に報復しようとしたのが倭寇の始まりです。秀吉の朝鮮出兵も、究極的な原因は元寇にあったという説すらあります」(勝岡氏) 最大の問題は、この歴史的な事実を韓国が「なかったこと」にしていることだ。 「韓国の歴史教科書は、秀吉の朝鮮出兵に多くの紙幅を割く一方で、高麗が元をそそのかした経緯や、元寇における高麗軍の残虐行為には一切、触れていません。日本への加害は民族的記憶から消し去り、自らの被害だけを強調して教えているのです。“被害者の立場は1000年変わらない”と訴える韓国こそ、日本に対する“加害者だった歴史”を直視すべきです」(勝岡氏)関連記事■ 大河『軍師官兵衛』 秀吉の「朝鮮出兵」はどう描かれるのか■ 世界初の飛行機は秀吉朝鮮出兵時に城から脱出した「飛車」説■ 拉致問題や拉致被害者の家族は韓国政府にとって厄介な存在■ 拉致命じられ日本に潜入した韓国秘密工作隊の悲劇を描いた本■ 朝鮮民族の「恨」は恨み辛みや不満を生きる力に転換した状態

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    恩に仇する韓国の「日本隠し」

    韓国では日本の朝鮮統治を「日帝の七奪」と非難し続ける。戦後も、日本の多大な経済協力に感謝するどころか唾して平然としてきた。現在の韓国人が、戦前の日本が半島に注いだ努力を「侵略」「大罪」などと非難するのは、彼らがきっと「歴史」を知らないからに他ならない。

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    実際はこうだった!併合前後の朝鮮殖産振興

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より杉本幹夫(近現代史・植民地研究家)第一節 土地調査事業 日本の朝鮮統治で最も非難されるのは、「土地の収奪」である。1995年発行の韓国国定高校歴史教科書には、「土地調査事業により、不法に奪い取られた土地は、全国農地の40%に達した」とある。 日本が朝鮮を統治して驚いたのは、行政の乱雑さであった。基本である土地の所有者、面積、使用状況が、はっきりしていないのである。飢饉で租税が納められない耕作者が逃亡し、その跡地を無断で開墾し売買したり、いつの間にか管理人が実質上の所有者になっていたり、権利関係が極めて不明確になっていた。そこで始められたのが、土地調査事業であった。土地調査事業で実際に行われた測量作業の様子(朝鮮総督府臨時土地調査局『朝鮮土地調査事業報告書追録』大正8) 韓国併合翌年の明治44(1911)年から大正7年まで約8年かかった。この調査は韓国政府でも1895年(明治28年)に量田調査として始められたが、政変により中断されていたものである。 この調査で最大の問題点は、駅屯土と総称される、元々は公共用地・宮室用地であったが、実質上民間の所有となっていた土地約12万町歩(1町歩=約9900平方㍍)の所有権をどうするかであった。この裁定に当たり、総督府は数百年にわたり故事来歴を調べ、それまでの韓国政府の主張を認め、多くの土地で民の所有権を否定した。 その他、定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がなかったりで、接収された土地が2万7000町歩あり、合計14万7000町歩の耕地が接収された。当時の全耕地面積は約450万町歩で、約3%強である。作業から戻った担当者らは測量結果を詳しく記録し地図も作成した これに正当な売買による取得地を加えた、大正11(1922)年末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5000町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5000町歩で全耕作面積の6%弱に過ぎない。 それでは韓国歴史教科書が主張する、40%と言う数値はどこから出てきたのであろうか。全錫淡他著・梶村秀樹他訳『朝鮮近代社会経済史』によると、「駅屯土として国有地に編入された耕地は13万4000町歩で、全耕地の5%に当たる」としている。 5%と言う数値から、この時の全耕地面積は270万町歩としていることが分かる。未墾地と認定された90万町歩を含めると接収面積は100万町歩を超え、韓国教科書の言う40%以上と合致する。 即ち耕地面積約270万町歩と考え土地調査したところ、全耕地面積は420万町歩以上あり、その他に未墾地が90万町歩あったのである。この未墾地は持ち主不明ということで、接収されたのである。しかし、この未墾地はあくまで未墾地であり、その後の統計でも耕地面積に含まれていない。土地調査の測量地をもとに作成された図面(同)李朝時代からのおおざっぱな土地区分図は誤差が大き過ぎる(同) この持ち主不明の土地の接収は裁判によるものであるが、この結果接収した土地を日本人に払い下げ、30万人以上の朝鮮農民に不満を残した事は、寺内正毅総督の失敗だと言わざるを得ない。土地の所有権を国に移管しても、小作権を残す方法もあったように思う。寺内正毅総督 平成8年文部省認定、清水書院発行の中学校歴史教科書には「国と少数の地主しか土地の所有権を認めなかった」と書いてあるが、土地調査完了時、土地の所有を認められたのは187万人もおり、明らかに間違いである。第二節 斎藤総督の文化政治 二・二六事件で凶弾に倒れた斎藤実総督は大正8年8月から昭和6年6月まで、途中、宇垣一成臨時代理(後の第六代総統)、2年弱の山梨半造第四代総督を挟んで、第三代と第五代の総督として延べ十年も朝鮮に君臨した。日本の朝鮮統治が36年であるからその3分の1近くが斎藤時代であった。彼の統治は、寺内・長谷川好道の武断政治に対し、文化政治と言われ朝鮮統治の基礎を築いたのである。斎藤実総督 彼が朝鮮総督に任じられたのは、大正8(1919)年3月1日に発生した、三・一独立運動により、長谷川総督が辞任したことによる。アメリカ大統領の民族自決主義に勢いづいた朝鮮学生は、キリスト教、天道教の反日勢力と結び、前国王・高宗の国葬を機会に暴動を起こした。それから一年、全朝鮮を揺るがす大騒乱事件に発展した。この事件に頭を悩ませた原内閣は、海軍大臣を辞任後、5年も隠退生活を送っていた齋藤實を引っ張り出したのである。李太王(高宗)国葬の葬列(『李王家紀念写真帖』大正8) 彼が統治に当たり立てた五大政策は―一、治安の維持、二、地方制度の整備三、教育の普及及び改善四、産業の開発五、交通・衛生の整備―であった。 治安の回復の第一歩として憲兵警察を止め、一般警察に移行した。朝鮮人警官のみにあった巡査補の階級を廃止し、巡査に統一、日本人と朝鮮人の格差を無くした。 また、朝鮮人官吏と日本人官吏の基本給の差を無くした。但し内地人は基本給の五割とか六割に及ぶ在勤加俸があったが、内地に帰ればその加俸分は無くなるのである。公立普通学校長にも大正8年、初めて朝鮮人を登用したが、その人数も次第に増やした。地方の課長クラスや裁判所の判・検事にも朝鮮人を登用し、内地人や外国人の事件にも、参画させるようにした。 地方行政では、地方議会に当たる道評議会、府(内地の市に相当)・面(内地の村に相当)協議会等の制度を作り、民意の吸収を図った。彼の功績は色々あるが、一番は教育の普及・改善であろう。二度の制度改正により、内地の小学校・中学校等の制度と同じにした。 特筆されるのは京城帝国大学の設置である。これについては、後ほど述べる。慶尚北道評議会の様子(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10)第三節 朝鮮農業の実態 日本外交が朝鮮に進出すると、後を追うように日本人商人が進出した。彼らは上海・長崎で仕入れた綿織物を輸出し、米の輸入を考えた。そこで知ったのは、灌漑設備の不良による広大な荒れ地である。そのことを知った細川侯爵家や後に不二興業を設立した藤井貫太郎等は農地の買収と共に、大蔵省主計局長等を経て第一次日韓協約(明治37年)により韓国財政顧問となった目賀田種太郎に働きかけ、水利組合の制度を作らせた。この水利組合に低利の金を融資させ、灌漑設備の整備を図ったのである。京畿道振威郡青北面で干拓によって生まれた広大な農場(同) 大正七年、富山の米騒動に端を発した全国的な「米よこせ運動」により、内外地一体となった米の増産計画が立てられた。朝鮮でも大正9年、水利事業を中心に品種改良、耕作法の改善により、920万石の増産計画が立てられたが、第一次世界大戦後のインフレで、14(1925)年までの6年間で予定の半分しか実績を上げられなかった。 この第三代斎藤実総督時代に、総督に次ぐ政務総監として登場したのが下岡忠治であった。学友の大蔵大臣浜口雄幸や元大蔵大臣井上準之助を動かし、国庫補助金、大蔵省預金部からの低利資金等を引き出すことに成功した。下岡忠治政務総監 朝鮮の西海岸は干潟が重なり、海岸線が入り組んでいるので、比較的少額の費用で干拓が大いに進んだ。ところが昭和初期の大不況により破綻する事業組合が続出し、この計画は中断に追い込まれた。 しかしこの一連の対策により、耕地面積は土地調査終了時の耕地面積450万町歩が昭和11年には494万町歩に増え、灌漑比率面積が、水田面積の20%しかなかったものが、70%まで増えた。 昭和6(1931)年、宇垣一成が第六代朝鮮総督に就任した頃は、世界的な農村恐慌で有名な時期である。代表的な産物である米は大正8(1919)年をピークにして、3分の1に値下がりした。当時は物々交換の時代から貨幣経済の時代に入っていた。農民は自分で作った米は現金に換えるため食べられず、粟(あわ)か稗(ひえ)しか食べられなかった。 宇垣総督は着任後、直ちに農村を視察し、農村振興運動を展開した。この運動で宇垣が最も主張したのは、「心田開発」であった。即ち心の持ち方であった。「奉公の精神、共同の精神、自助の精神」であった。朴正煕時代の「セマウル運動」との違いは「奉公」が「勤勉」に変わっただけである。宇垣一成総督 この運動と同じ時期、日本で行われた農村経済更正運動との最大の違いは、個人レベルを指導の対象としたことである。適当な農村指導者のいる集落を指導集落に選定し、各戸に家計簿を付けさせた。当時読み書きのできない人が大半だったので、村の吏員が聞き取り記帳を代行したのである。 その課程で読み書き算盤を教え、「入(い)るを量(はか)り、出(い)ずるを制す(・・)」経営の基本を教えたのである。また同時に昭和9年、簡易学校の制度を発足させ、文盲の解消を図った。なお、これらの団体は反日運動の温床として、それまでは極めて抑制的な方針を取っていたのである。 当時の朝鮮農家の最大の問題点は、一日の作業時間が短いことであった。田の除草、施肥、堆肥作り、家畜の飼育の奨励等により日本の農家並みに働くことを求めた。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花作り等を推奨した。これらの方針の徹底を期すべく、青年団、婦人会等を積極的に活用した。 この結果、内地の半分強しかなかった米の作付面積当たり収量が急速に増え、農村経済は立ち直ったのである。この運動は戦後に社会経済改革をめざしたセマウル運動の原型となり、当時宇垣の秘書でブレーンでもあった鎌田沢一郎は、韓国に何回も呼ばれ、指導に当たった。総督府は農地拡大と農村振興のため各地に水利組合を設立させた。全羅北道全州郡東上面大雅里の渓谷に益沃水利組合が建設した貯水量3万3千立法㍍のダム式貯水池(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮之風光』昭和2) 「聖者と呼ばれた日本人」第四節 「聖者と呼ばれた日本人」 重松髜(まさ)修(なお)という人物がいる。『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(田中秀雄著、草思社)で詳しく紹介されている。高松宮家編『有栖川宮記念厚生資金選奨録』(昭和9)で紹介された重松髜修 重松は明治24年愛媛県の生まれである。裕福な地主の子供で、明治44年松山中学を卒業し、後の拓殖大学、東洋協会専門学校に入学した。同校は桂太郎が新領土経営に要する人材の育成のため、設立したものである。在学中の大正2年の夏休みに重松は、友人と朝鮮旅行を行った。汽車で新義州まで行き、鴨緑江の壮大な眺めを見て感動した。 大正4年卒業し、総督府の土地調査局に勤めた。大正6年秋に農工業開発や金融緩和を目的として日本が各地に設立した金融組合に転籍した。 大正8年、三・一独立運動が発生、右足に被弾、貫通銃創の重傷を負い、松葉杖が離せなくなった。大正14年7月平壌の東、40㌔の江東金融組合に理事として転勤した。 その年9月総督府は、朝鮮農家経済に関する調査結果を発表している。全朝鮮で総農家283万戸の内、窮農16万戸余りである。彼らは小作も出来ず、農家の労役に従事しているだけのものである。彼らのうち転業しても手に職がない人は、都会の浮浪者になる他はない。全羅南道の務安金融組合の総会風景(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 平安南道の場合、総転業者は約15万人、労働者或いは雇われ人になる人7万人、内地への出稼ぎ人2万5000人、商業への転業者2万4000人、工業及び雑業への転業者1万7000人、 一家離散者6800人、その他4600人であった。全く現在では考えられない悲惨な時代であった。 着任した重松は、数日後3人の書記を集め、この地方に適した副業はないか、相談した。その時、ふと窓の外を見た重松の目に飛び込んできたのは、数羽の鶏であった。養鶏ならどこの家でも行っている。ただしあくまで自家用である。 重松はこれを副業としてやれないかと提案したのである。「鶏は総督府が推薦している品種を勧め、卵は共同販売とし、販売代金は郵便貯金にする」。この案に書記達は、これがうまくいけば、大変な事業になると興奮し、この案の実現に努めることになった。 彼は「隗より始めよ」と、まず自宅で始めることにした。鶏舎を建て、卵から育て、農家に有精卵を無償で配布するなどして、次第に事業を拡大した。それと共に出来るだけ、農民との会話に努めた。それは養鶏を強制するものではなかった。しかしそれが農民の心を掴み、養鶏は次第に普及し、自立農家が次第に増えたのである。第五節 教育の普及 生活改善の基本は、民度の向上である。  朝鮮では、科挙の制度に対応し、首都に成均館、各地に郷校が設置され、その予備校として、両班が書堂を経営し、子弟の教育に当たっていた。成均館は今日も成均館大学として残っている。 しかし日本が併合した頃、書堂の数は約1万7000、生徒数14万人で推定学齢人口の7%弱に過ぎなかった。遡ること三十余年の明治11年でも日本の就学率は41%だから、大分遅れていた。 1894年日清戦争が勃発し、日本の働きかけで行われた甲午改革の一つとして、近代学制の整備があり、師範学校、中学校、小学校の制度が定められた。その結果主要都市に幾つかの小学校が出来たが、日本が統監府を置いた翌年の明治39年でも、僅か22校、生徒数2000人弱に過ぎない。併合前からある書堂の授業の様子門前から見た書堂の外観(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 明治43年の併合後、日本は教育の普及に努めた。昭和18~21年頃の義務教育全面実施を目標にしていたが、戦争の激化・敗戦により、全面実施には至らなかった。 中高等教育の分野では京城帝国大学の設立が特筆される。大正13年設立は東京、京都、東北、九州、北海道に続く6番目である。先に日本統治下に入った台湾より2年早い。この設立により、小学校から、大学までの体制が整った。日本の統治によって本格導入された学校教育全羅北道錦山公立普通学校の授業風景㊦平安北道宜川公立普通学校で広々した校庭に整列する児童ら(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 朝鮮文字ハングルは、朝鮮第四代国王世宗が学者を集めて、1446年制定されたものである。しかし科挙が漢文で行われていたため、諺文として書堂等では教えられなかった。字数が少なく、発音通りなので、ふりがなとして使われたりして、自然にある程度普及していた。 最初にハングルを普及させたのは、キリスト教であった。彼らは聖書をハングルに訳し、利用した。次は朴泳孝である。1882年訪日した彼は福沢諭吉に感化され、新聞の発行を始めた。当初漢文であったが、甲申事変で中断後、1886年「漢城通報」として復活した時、漢字とハングルの混淆(こんこう)文とした。 甲申事変から十年後の甲午改革で、法律・勅令はすべて「ハングルを以て正文とする」とすることが決められ、小学校でハングルを教えられることになった。この結果、朝鮮人の発行する新聞も次々とハングルを採用し、ハングルは朝鮮人では必須の文字となり、日清戦争後はすべてハングルに統一された。 明治38(1905)年第二次日韓協約による韓国の保護国化で、教育行政が動き始めた。最初の普通学校(小学校)の授業時間は、1、2年は週28時間、3、4年は週30時間であった。そのうち韓国語、日本語が共に週六時間、漢文が週4時間であった。6年制になったのは大正9年であった。 併合により日本語が十時間になり、その分朝鮮語と漢文が合計で六時間に減った。それと共に教育言語が日本語に代わった。これは児童にとって大変負担になったと思われる。 朝鮮の産業革命第六節 朝鮮の産業革命 大正末期、後に日本工営社長として活躍した久保田豊は朝鮮を旅行し、大量の地図を買ってきた。その地図から鴨緑江上流の赴戦江、長津江をせき止め、流れの方向を変え、逆方向の日本海に落とすことにより、大変有利な発電が出来ることを発見した。その計画は当時日本最大の蟹寺発電所が4万5000キロワットの時代に、10万キロワット以上となるものであった。 しかし如何に有利な発電所であっても、使ってくれるユーザーが無ければどうしようもない。彼はパートナーの森田一雄と共に、森田の友人である日本窒素社長の野口遵を口説き落とした。当時化学肥料は最大の電力消費工業だったのである。北部・咸鏡南道の咸興が水力発電で急速に工業化していることを伝える朝鮮総督府鉄道局編『半島の近影』(昭和12)。写真は日本窒素が設立した朝鮮窒素興南工場 彼らの熱意により、赴戦江第一発電所13万㌔㍗が完成した。それと共に興南に一大化学工場が完成した。そして久保田と野口の二人三脚による大化学工業地帯の建設が始まった。この計画はアメリカのテネシー川開発(TVA)に匹敵するものであった。 その後赴戦江第一(13万キロワット)に続き、長津江第一・第二、虚川江第一と進み、最後に鴨緑江の水豊(70万キロワット)へと進んだ。戦後日本で騒がれた黒四ダムの建設当初出力は26万キロワット弱である。如何に巨大な計画か分かる。 この電力はソウルにも送電された。送電電圧は20万ボルトである。日本の当時の最高送電電圧は15万4000ボルトである。電力は「電圧×電流×力率」であり、大電力を送るには高電圧にする必要があった。北部・黄海道の日本製鉄兼二浦製鉄所と鉄鉱石を供給した平安南道の价川鉄山を紹介する『半島の近影』 設備をどれだけ残しても、その設備を運転し、保守する人材が育っていなければ、宝の持ち腐れである。日本の敗戦後、後を引き継いだのは、分社化された発電会社の社長である。朝鮮人エンジニアも差別なく育てていたのである。 それと共に産業革命の起爆剤となったのは、鉱業の発展であった。宇垣総督は古来朝鮮の金細工が発達していることに目をつけ、金の探鉱・ 採掘に奨励金を出した。 その結果北朝鮮は鉱物の標本室と言われる位、各種鉱物資源が豊富にあることが分かった。今日北朝鮮が核開発を行っているが、その原料のウランも国産品である。第七節 アメリカのフィリピン統治  日本が朝鮮を統治したのは1910年からである。日露戦争が終わり、朝鮮が保護国(半植民地)化されたのが、1905年である。一方フィリピンが米西戦争により、スペインからアメリカに統治権が移ったのは1898年である。 朝鮮、フィリピンとも大東亜戦争により、独立している。即ちほぼ同時期、同期間片方は日本に、もう一方はアメリカに統治された。このことにより、この二つの国がどのように変わったか、検証することは、極めて重要なことと考える。  フィリピンは1521年マゼランのアメリカ経由、世界一周探検隊により発見された。豊臣秀吉の頃より、スペインの統治下にあった。フィリピンは広い国である。ミンダナオ島等は全く開発が進んでいなかったが、ルソン島南部、セブ島等からはスペインへ留学する人も多く、西欧文明を吸収していた。 米西戦争に勝ったアメリカは、「教育こそ最大の武器」として、日本と同じく、大量の教科書を持ち込み、現地人教育を始めた。フィリピンではスペイン時代からセント・トーマス大学等いくつかの大学があった。 1886年当時、セント・トーマス大学の学生約2000人の内7割が現地人だった。アメリカが大学を作ったのは、1908年のフィリピン大学である。日本の韓国併合前である。日本が京城に帝国大学を設立したのは1924(大正13)年である。東京、京都、東北、九州、北海道に次ぎ6番目に設立された京城帝国大学(『京城帝国大学一覧』) 鉄道の敷設もフィリピンは早い。1892年マニラ―ダイバンの195㌔が完成している。只この路線は米西戦争により経営が破綻し、工事は中断した。1906年工事が再開され、1909年南部線が開通した。それに対し、朝鮮は日露戦争で兵站線の強化のため、突貫工事で、釜山、京城間が明治38(1905)年、京城、新義州間が、翌39年開通している。日本の資金投入によって路線が拡充した鉄道網(朝鮮総督府鉄道局編『半島の近影』昭和12) これらのことから、当時のアメリカが、如何に真摯にフィリピン統治に努力していたか分かる。 しかし1913年アメリカ大統領が、民族自決で有名な民主党のウィルソンに代わった。これに伴い政府のフィリピン関係の予算は大幅に削減され、フィリピンに移住していたアメリカ人は、本土に引き揚げた。かくしてフィリピンの発展は止まった。 アメリカは「植民地は搾取の対象」と考えた。それに対し日本は「本土と植民地は国家発展のパートナー」と考えた。マルクス主義では資本家は労働者を搾取するものだと主張するが、近代経済学では、資本家と労働者は企業経済発展のためのパートナーと考える。この事例はマルクス主義が如何に間違っているかの実証例である。すぎもと・みきお 昭和8年富山県生まれ。東京大学卒業後、日本セメント(現・太平洋セメント)入社、平成元年埼玉工場長で退職。「朝日新聞の『従軍慰安婦』をはじめとするマスコミ報道や、大東亜戦争、韓国併合などについて「謝罪」した細川護煕元首相ら一部政治家の反日・偏向姿勢に強い疑義を抱き、自ら検証しよう」と、國學院大大学院で国史学を研究し、8年に修士課程修了。著書に修士論文をもとにした『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』(龍渓書舎、平成9年)、『日本支配36年「植民地朝鮮」の研究―謝罪するいわれは何もない』(展転社、14年)など。八十代となった今もフェイスブックなどで発信を続ける。23年に夫人を亡くしたが「残りの人生も充実して過ごしたい」と、中高年サークルなどに積極的に参加し、活動的な日々を過ごしている。   

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    戦後の対韓協力と韓国の仕打ち 恩に仇する〝何が何でも日本隠し〟

    という関係では、被害妄想のように顕著に現れる。これら韓国人の歴史、民族性を踏まえたうえで、特に戦後の日韓関係を眺めると、日本人の対韓認識が、どれほど誤っていたか、はっきりする。発展には日本教育世代が活躍発展には日本教育世代が活躍 昭和40(1965)年、日韓基本条約が、締結される。今年は、その五十周年に当たるが、日本は、僅か18億㌦しかなかった外貨準備のなかから、有償無償あわせて五億㌦を、韓国に提供した。この資金が、韓国の高度成長の基礎を築いたのである。逆説めくが、韓国の発展は、すべて日本のおかげだということを、日本人も、常日頃から、言いたてないと、日韓関係は好転しない。日本窒素水豊発電所の巨大な吸出管(『日本窒素事業概要』昭和15) 当時の朴(パク)正熙(チョンヒ)大統領は、国民の反日傾向のなかで、日本との修好を進めたわけだが、これは、韓国動乱(朝鮮戦争)の戦火さめやらぬ時代だったため、北朝鮮との間で、復興の遅れから、溝を開けられていることを、計算に入れたからである。第5~9代韓国大統領朴正煕 この日本からの資金が、京釜(キョンブ)高速(コーソク)道路(トーロ)をはじめ、韓国の高度成長の基礎となるインフラにまわされた。つまり、日本のおかげなのである。日本人は、こういう事実を、絶えず韓国に対して言いつづけないと、日韓関係の好転は望めない。 以後、日本人は、熱心に韓国へ関わって行く。そこに、“元日本人”への共感と、一種の贖罪感が作用したから、あらゆる面で、心から韓国の復興、繁栄を願って、惜しまず協力したのである。先進国の仲間入りした韓国の現代の繁栄は、日本人の協力によってもたらされたものと、はっきり断言できる。しかも、日本人が、恩着せがましくしない点に、今日の問題の全ての淵源がある。 現在、日韓のあいだには、多くの問題があるが、その多くは、日本人が、こうした事実を、いちいち韓国人に確認しなかったことから発生したのである。日本人は、恩着せがましくされることを嫌うし、相手にも恩着せがましくすることはない。だが、韓国人相手には、言外の言、理外の理は、通じない。 寅さんの決め台詞だが、日本人は「それを言っちゃあ、おしめえよ」と、言うべきことも言わずに、相手が察するのを待つのが、ふつうである。確かに、日本人同士では美徳だが、韓国人相手では、これは逆効果しか生まない。 韓国の建国に当たっては、日本で教育を受けた人々が、大きな役割を担った。朝鮮戦争における活躍によって、韓国では救国の英雄とされる白(ペク)善燁(ソニョプ)将軍は、日本での軍事教育を受けている。韓国で栽培される野菜、果物など、ほとんどの品種は、多くの日本人の善意に支えられ、東大に学んだ種苗学者の禹(ウ)長春(チャンチュン)博士が、日本からもたらしたものである。実際、禹博士は、常日頃日本人への感謝を口にしていたそうである。禹長春博士 しかし、こうした日本世代の日本に感謝する気持ちは、現代の韓国では受け継がれていない。林檎のフジという品種は、日本から導入されたものだが、富士と言う漢字を韓国音で読み換えて、プサという名で知られている。一般の韓国人は、プサという林檎が、日本からもたらされたものだという事実を知らない。 条約の締結の以前から、日韓の協力の動きは、すでに始まっていた。先年、94歳の天寿を全うされた全仲(チョンジュン)潤(ニュン)氏は、韓国屈指のインスタントラーメン会社である三養(サミャン)食品(シクプム)の創立者として、よく知られる。全氏は、朝鮮戦争の惨禍から回復できず、食糧難に苦しんだ1960年代の初め、日本で口にしたインスタントラーメンの味を忘れられず、日本の明星食品の奥井清澄社長を頼った。奥井社長は、国民を食糧難から救いたいという、全氏の志を受け入れて、ラーメンの製法を、無償で提供し、技術指導に当たった。全仲潤・三養食品前会長発売当時の三養ラーメン 当時、多くの日本人が、元日(・・)本人(・・)である朝鮮半島の人々に、同胞意識を抱いていたからである。朝鮮半島の人々も、“元日本人”として、本土の日本人に親近感を持っていたからでもある。実際、全会長は、生涯、奥井氏を含めた日本人への感謝を、口にしていたそうである。 日韓条約によって、日本を知る人々、日本から戻った人々が、日韓の窓口、橋渡しの役割を務め、日本からの技術協力・移転が、さらに加速されていった。早くからあった〝日本隠し〟早くからあった〝日本隠し〟       しかし、日本の協力、努力、誠意が、いっこうに韓国人の感謝の対象とならない、いわゆる〝日本隠し〟の事実は、早くから顕在化した。 1974(昭和49)年、ソウルの地下鉄の一号線が、日本の協力によって竣工した。ソウル駅から、東のターミナル清涼里(チョンニャンニ)駅へのルートである。東京で言えば、東京駅と新宿駅を結ぶような幹線に当たる。建設費用のほとんどが、日本からの借款で賄われたばかりか、日立製の最新型の車両60両が、提供された。 しかし、その竣工式では、日本の協力があった事実は、すべて伏せられていた。立ち会った日本人関係者は、臍(ほぞ)を噛む思いだったという。 こうした韓国人の〝日本隠し〟の性癖は、まだ、日本人のあいだでは、広く知られることもなく、日韓の技術提携、技術協力は、加速されていった。日韓の経済協力に関わった松本氏が作成された上記表を見ていただければ、すぐ判る経緯なのだが、昭和60年の時点で、今日の韓国が得意とする技術分野における日本からの技術移転は、広範な規模でほぼ完了しているのである。豊田有恒著『いい加減にしろ韓国』より これらの技術に関して、私が眼で見たケースだけ眺めても、韓国経済がテークオフするに当たって、日本からの協力が不可欠だったどころか、商売の域を越えた日本人の献身的な努力に支えられたことが判る。自動車は日本が全面協力 私事ながら、車とバイクが趣味なので、自然な成り行きで、この趣味は、韓国へも向かって行った。70年代、ソウルの太平路(テピョンノ)の世宗(セジョン)会館(フェグァン)の向かいに、現代(ヒョンデ)自動車(チャドンチャ)のショールームがあり、なんどか通った。現代ポニーは、最初の量産車だった。貧しかった韓国では、外貨節約のため。せめてタクシー需要だけでも、国産でまかないたいという当時の朴大統領の命令で、いわば国策として進められたプロジェクトであり、日本の三菱自動車が、エンジンの提供などをふくめて、おおいに協力した。 昭和53年「韓国の挑戦」を上梓した際、韓国の自動車産業の発展のポテンシャルに言及したが、当時、韓国が自動車生産国になると予見した日本人は、口はばったいようだが、私以外にはいなかった。 当時、拙著を読まれた業界の関係者と思われる方から、丁重な手紙を頂戴した。その方は、専門家らしく、多くの論拠をあげて、韓国の自動車産業が発展する可能性は皆無だと断定しておられた。 現代ポニーは、三菱からランサーのシャシー、サターン・エンジンなどを提供されたが、デザインは、イタリアのスーパーカーで有名なジョルジエット・ジウジアーロに委託した。私も、ハンドルを握らせてもらったことがある。タクシー需要を見こんだため、サスペンションは固く、乗り心地が良くなく、造りも雑だったが、流麗なファストバックのボディは、いかにも魅力的で、商品性があると思えた。三菱自動車の全面協力で誕生した初代現代ポニー このポニーの成功が、韓国の自動車生産の基礎となる。エンジン、シャシーの技術は、日本に仰いだが、デザインには金を惜しまず、それが成功につながった。日本車と酷似したデザインを臆面もなく採用する今日と比べると、当時の韓国には、それなりのプライドがあった。 自動車業界の日韓提携の動きは、この現代だけに留まらない。起亜((キア)自動車は、日本時代からの部品メーカーで、老舗の少ない韓国では例外的な存在だが、マツダと提携して早くからオート三輪の生産を行なっていて、マツダ・ファミリアをプリサの商品名で生産するようになり、自動車業界の一翼を担うことになった。ただ、乗用車としては、現代ポニーに及ばなかったため、ワンボックスワゴンに特化して、マツダ・ボンゴのライセンス生産に力を入れた。 私も、日本のテレビ局のコメンテーターとして、なんども韓国での取材に参加したが、ロケバスは、ボンゴばかりだった。ちなみに、韓国では、今も、ワンボックスワゴンのことを、ボンゴと呼ぶほど、普通名詞化しているのである。韓国でワンボックス車の代名詞にもなったマツダ初代ボンゴ 現代、起亜という老舗ばかりでなく、韓国の自動車産業には、多くの日本メーカーが関わっている。日産も早くから、現地メーカー新進(シンジン)と提携していたが、これにトヨタが加わったため提携を解消している。代わったトヨタも、コロナなど現地生産したものの、やがて手を引いた。 部品の国産化比率を引き上げられ、達成不可能だとしたせいだとするが、巷説では当時のKCIAの実力者李(イ)厚洛(フラク)氏が関わっていたため、あまりにも露骨に賄賂を要求され、嫌気がさしたとも言われている。 やがて新進自動車は、大宇(テーウ)グループの傘下に入り、再編されることになる。グローバル戦略からGM系列に加わったため、日本からスズキも提携することになり、スズキ・アルトを生産している。 アメリカ大使館の裏手の大林(テーリム)産業(サノプ)のショールームにも、なんどか足を運んだ。ここでは、日本のホンダと提携してバイクを生産していた。70~80年代には、韓国のモータリゼーションも未だしの感があり、バイクは趣味的なものではなく、大きな荷台を取り付けて輸送用にも使われていたが、日本のバイクは、こうした過酷な使用法にも、じゅうぶん応えられたのである。 見栄っ張りな韓国人の国民性からか、カラフルなカウルをつけた荷物用バイクが街中を走り回っていた。これには違和感をおぼえた。フロントカウルは、空気抵抗を減らすためだろうから、街中を低速で走る荷物用バイクには、必要あるまい。感謝はなく、技術まで盗む感謝はなく、技術まで盗む 今から30年ほど前、新日鉄に勤める知人T氏に頼まれ、同社の独身寮で講演した。韓国人の国民性、文化、歴史など、入門的に話し、好評だったが、帰り際に、T氏は、思いがけないことを口にした。なんと、こう言ったのである。 「講演、たいへん面白かったのですが、うちの会社には、韓国が好きだという人間は、ひとりもいませんからな」 そのときは唖然としたものである。訊いてみると、浦項(セハン)製鉄所(現POSCO)に、同社はじめ日本の各社が技術援助し、当時最新鋭の君津製鉄所とほぼ同じレイアウトの工場を完成させ、操業に漕ぎつけたものの、相手からはなんの感謝もなく、その後は、新日鉄のシェアを奪うばかりで、多くの新日鉄社員が、肚に据えかねる思いなのだという。新日鉄など日本側の全面支援で計画された浦項製鉄所現POSCO)の完成模型浦項製鉄所は昭和45年から建設が始まった 日本人なら、双方ともに感謝を口にし、和を保つところだが、韓国人は、得意の〝日本隠し〟に走り、まったく日本の援助がなかったかのように振る舞ってしまう。 一時期、家族ぐるみでつきあった国際人のT氏は、海外勤務も長く、スイス人の奥さんを持ち、偏狭なナショナリストではない。この方が、そこまで言われるのだから、技術移転に当たり、相当なトラブルがあったのだろうなと、鉄鋼業界には素人ながら、妙に納得した記憶がある。 その後、推理作家協会の訪韓団で、POSCOを訪れる機会ができた。迎賓館のような豪華なゲストハウスに泊めてもらい、工場も見学したのだが、すべて自社開発したかのような説明に終始し、日本側の協力に関しては、一言も言及されなかった。その際、あのときT氏が口にした言葉が、真実だと、実感した。 こうした際、日本人なら提携相手先の協力に感謝するだろう。そのほうが、単に相手を立てるばかりでなく、より自分を立派に見せることにつながるのだが、韓国人は、そういう大人の態度が取れないのである。 その後、新日鉄と、POSCOのあいだで、係争が発生する。新日鉄を辞めた技術者が、方向性電磁鋼板という最新技術を、POSCO側に売ったというのだが、この件では、アメリカも絡んで、複雑な展開に至っている。現・新日鉄住金は、POSCOの大株主でもあるわけで、告訴に至ったのは、よほど肚に据えかねる事情があったからなのだろう。 総じて、韓国の企業は、自意識過剰と言うか、自社製品を誇大に言いたてるきらいがあるが、日本の技術がからんでいるとなると、なんとかして隠そうとする。他の多くの分野でも知られる〝日本隠し〟という性向のためだが、事実を枉(ま)げても、あたかも全てを、自社開発したように、捏造するから問題なのである。排斥してもケロリ顔で輸入再開排斥してもケロリ顔で輸入再開 私と関わりのある例を、もう一つ挙げてみよう。韓国のアニメである。かつて日本国内の人件費高騰から、日本アニメ界は、韓国に進出した。 私の知り合いでも、技術指導に行ったアニメーターは少なくない。例えば「コンバトラーV」というアニメは、韓国で製作されたものである。韓国は、日本の善意と協力によって、アニメ技術をマスターした。しかし、そのうち、例の悪い癖も出てくる。私がSF設定を担当した「宇宙戦艦ヤマト」そっくりのシリーズが登場した。「銀河(ウナ)艦隊(ハムデ)地球号(チグーホ)」という。これには、あきれた。「宇宙戦艦ヤマト」そっくりな「銀河艦隊地球号」 70~80年代から続く傾向なのだが、韓国は、対日貿易赤字を抱えている。ライセンス料、精密加工機器、中間原材料など多くを日本に負っているからで、それだけ、日本が韓国の発展に協力した証でもある。 ところが、奇妙で歪んだ歴史観からか、韓国では、対日赤字が許せないものに思えてきた。当時、貿易(モヨク)帝国(チェグク)主義(チュウィ)という穢(きたな)い言葉が、日本に向けて、投げつけられたものである。つまり、日本が、技術、原材料などを餌に、韓国を隷属させようとしているというのである。 しかし、韓国経済が日本に依存したのは、かれらが選択した事実であり、ことさら無視しようとするから、そこに無理が生じる。 三菱自動車のサターン・エンジンのように、ただ同然のライセンス料で、提供された技術に関しては、旧式な技術を韓国に輸出し、有利な立場に立とうとしているという言いがかりのような非難もあった。もし、ライセンス料が高額だったら、それはそれで、日本に搾取されているというような非難が、一斉に沸き起こったことだろう。 こうした際、主義主張が先立ち、冷静に事実が見えなくなるのは、韓国人の悪い癖である。日本から恩恵を受けたくないという願望からか、盧(ノ)泰愚(テウ)政権のころだったと思うが、輸入先多角化法案が成立した。つまり、日本から輸入されている部品、中間原材料などを、なるべく別な国からのものにシフトするというもので、助成金も設けられた。全斗煥元大統領(右)とともに1996年、粛軍クーデターや民主化運動弾圧の罪で控訴審判決を受ける盧泰愚元大統領 法令に基づいて、これまで日本から輸入していた部品などを、まったく取引のなかった欧米メーカーから輸入してみたものの、規格が合わないケースが続出したばかりか、法外な技術料を請求される事態も起こった。韓国のほとんどの産業は、親韓的でお人よしの日本という国からの、善意あふれる協力で、これまで発展してきた。いきなり欧米からの部品に切り替えようとしても、すぐさま応用がきくわけではない。 規格が合わない部品によって、工場の操業が停止に追い込まれた例もある。また、これまで通り、日本製の部品を輸出したため、日本のメーカーの社員が、ソウルへ到着するなり逮捕される事件も起こった。日韓双方に、混乱を招いただけで、韓国経済にとって、なんの利益も生まない空しい結果に終わる。 輸入先多角化法案は、まもなく骨抜きになり、日本からの輸入に頼ることに戻ってしまった。こうした際、あれほど、日本を排斥したのが、まるで嘘だったかのように、けろりとした顔で、取引の再開を求めてきたので、あきれたという日本側担当者の感想を、耳にした。つけ込んで生き延びる歴史つけ込んで生き延びる歴史 繰り返すが、このケースのように、韓国人は、主義主張が先走り、現実が見えなくなることが少なくない。意見が対立した際、日本や欧米のように、それぞれ論拠を挙げて、最善の方法を選択することが、きわめて苦手である。自分と異なる意見にでくわすと、自分の主張を押し付け、なんとしても相手を黙らせようとする。議論が成り立たない社会なのである。大声を上げ、相手を罵(ののし)り、力ずくで意見を圧殺するのが、ポピュラーな展開である。それが通じないときは、話題をすり替える。 たとえば、竹島の不法占拠でも、竹島領有の根拠を、日本側が示そうとすると、まず怒って怒鳴りちらす。しかも、日本が、もともと朝鮮王朝のものだった竹島を、日韓併合の布石として、軍事力を背景に奪い取ったのだと、頑強に主張する。 確かに、竹島を国際法上の無主地(むしゅち)として、日本が領有宣言をしたのは、明治三十八年、日韓併合に先立つこと五年である。しかし、竹島領有と日韓併合は、なんの関係もない。あの帝国主義の時代である。併合の布石として本気で奪うつもりなら、竹島では、岩山ばかりで利用価値がないから、鬱陵島(ウルルンド)か済州島(チェジュド)のほうが、軍事的に利用価値がある。 韓国側は、もともと韓国領だった獨島(トクト)(竹島)を、日本が奪ったという虚構から、出発するのだから、まったく議論にならない。それが通じないと見てとると、今度は、日本が竹島領有を主張するのは、日本で軍国主義が復活したからだと、言い返してくる。軍国主義の話をしているわけではなく、竹島領有の根拠について、議論しているつもりだが、これが韓国人相手では通じないのだ。 過酷な歴史の後遺症で、韓国人は、自国に不都合なことは、忘れようと努力する。特に、異民族から、なんらかの恩恵を受けた際には、かならず過大な対価を課せられたから、なんとしても認めないのである。認めないうちに、自分に納得させるためか、恩恵を受けても受けなかったことにしてしまう。事実と異なっても、そう考えるほうが、精神衛生上も、好ましい効果を上げる。特に日本の朝鮮統治は、実際には近代化の引き金ともなったが、それを認めると、プライドが傷つくと見えて、断固として認めない方針を貫こうとし、算盤勘定ができなくなる。 日本人としては、これまで、全て逆の対応をしてきたのである。韓国人の気持ちを忖度(そんたく)して、配慮を示すことが、日韓友好に寄与すると、錯覚したのである。だが、ここが、ボタンの掛け違いのはじまりである。 こちらの好意は、疚(やま)しさ、弱さとしか、受け取られない。強大な異民族の征服者と伍していくためには、相手の好意、譲歩などに、つけ込むしかなかった歴史である。好意、善意を示せば示すほど、言葉は悪いが付け上がる民族性なのである。 島根県が、竹島の日を制定したとき、民主党政権は、韓国を刺激することを恐れ、政府高官の派遣を手控えた。ところが、韓国からは、マスコミをはじめ、大勢が松江に押し掛け、路上で暴れまわるなど、乱暴狼藉を働く始末だった。つまり、こちらが、疚しいことがあるから、譲歩したと見てとり、かさにかかった態度に出たわけだ。「はず」「べき」民族 韓国人は、はずべき民族である。ヘイトスピーチを始めたのではない。韓国は、“はず”と“べき”の社会ということだ。われわれは、優れている“はず”だ。日本などに、してやられる“はず”がない。竹島は、われわれのものである“べき”だ。われわれの婦女子は、日本軍など相手に、売春などす“べき”でないし、した“はず”がない。われわれの会社は、日本から技術援助されたりす“べき”でないし、された“はず”がない。そう言っているうちに、事実と“はず”、“べき”が、しだいに混同してくる。 その結果、竹島は、韓国のものになり、日本の技術提供はなかったことに、されてしまうのだ。 ここは、日本人も、声を大に叫ばないといけない。庶民は文盲が多く、王朝は人民そっちのけで権力闘争に明け暮れ、中国への事大主義にしがみついた。その朝鮮に、鉄道、工場、学校、炭鉱、発電所など、多くの社会基盤を整備したのは、まぎれもなく日本である事実を再認識してもらおう。当時、日本と韓国は併合していたのである。自国民を強制的に、軍隊相手の売春婦に仕立てたり、勝手に、殺したりすることは、許されなかった事実も、はっきり伝えよう。訪韓した中国の習近平国家主席を握手しながら見上げる朴槿恵大統領 戦前のことだけではない。今日、韓国が先進国並みになれたのは、自国の努力があるにしても、総じて誰のおかげかを、データを挙げて、懇切丁寧に説明しようではないか。歴史認識が、必要なのは、どっちの国かも、改めて示してやらないと、理解できないらしい。インスタントラーメンから、鉄鋼にいたるまで、すべて日本人が技術を提供したのだ。こうした事実を改めて示そう。 ここまでやらないと、眼を覚ましてくれそうにない民族であることも、厳然たる事実なのである。もし、将来、日韓友好がもたらされるとすれば、日本側が有無を言わせず強硬に振舞った後のことだろう。とよた・ありつね 昭和13年前橋市生まれ。父の医院を継ごうと医者をめざし、合格した東大を嫌い慶應大に入るも、目標が変わり武蔵大に入学。第一回日本SFコンテストなどに相次いで入賞して在学中の37年作家・シナリオライターとしてデビュー。手塚治虫のもとで「鉄腕アトム」のシナリオを二十数本担当。「スーパージェッタ―」「宇宙少年ソラン」の脚本も手掛ける。『倭王の末裔 小説・騎馬民族征服説』が46年にベストセラーとなる。47年東アジアの古代史を考える会創設に幹事として参画。五十年「宇宙戦艦ヤマト」の企画原案、SF設定を担当。SF作家クラブ会長、島根県立大学教授などを歴任。63年オートバイ日本一周を達成。近著に『日本の原発技術が世界を変える』『どの面下げての韓国人』(ともに祥伝社新書)など。