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    失言なんかクソ食らえ! 安倍内閣「在庫一掃セール」のススメ

    のか」と疑問を持つとともに、たたかれることにいささか同情することも多い。今回はそうだ。 今村失言は「東日本大震災はまだ東北だったからよかった。これが首都圏だったら莫大(ばくだい)な被害になっていた」というものだから、事実誤認はないし、誰かを誹謗(ひぼう)しているわけでもない。ただ、「よかった」がいけない。記者会見する今村復興相。フリーの記者に対し「うるさい」などと述べた=4月4日、復興庁 「よかった」など言わなければいいのだ。単に「東日本大震災は、首都圏だったら莫大な被害になっていた」と言えば、問題はなかっただろう。 また、たとえ「よかった」と言ったとしても、今村氏が被災地の東北出身ならそれほど問題にはならなかっただろう。ところが、今村氏は九州・佐賀の出身だから救いようがない。 こうなると、エヴァンゲリオン・ネクタイが逆効果になる。見え透いたことをしていると思われるだけだからだ。よって、ここでの教訓は、自分が好きでもないネクタイなどすべきではないということか-。  現在、安倍政権は、閣僚の失言・暴言と「スキャンダルドミノ」に見舞われている。約4年半にわたる長期政権による弛みが一気に噴き出しているという批判にさらされている。 つい先日、務台俊介内閣府兼復興政務官がおんぶで視察した揚げ句「長靴業界はだいぶもうかった」と失言したと思ったら、山本幸三地方創生相が、地方講演で「一番のがんは学芸員」と続いた。さらに先週は、「ハワイ重婚ウエディング」を強行した史上最強のゲス不倫議員、中川俊直経産政務官が辞任逃亡している。これでは、こういう批判が出るのも無理はない。 さらにさかのぼれば、失言・失態はまだいくらでもある。 たとえば、金田勝年法相の「共謀罪」論議発言には目が点になった。しどろもどろになったうえ「私の頭脳が対応できない」と詫びたのだから、質問者も腰を抜かすしかない。財務官僚を長くやると、このような見事なボキャボラリーが身につくのだろう。一般人はこういう場合、「わかりません」と素直に言う。 また、稲田朋美防衛相にいたっては、首相の女友達なら、嘘をついても、涙ぐめばなにも言わなくても許されるという前例をつくってしまった。国会を学校のホームルームにしてしまい、女子力防衛で「辞めろ」コールを交わしたのだ。そして、いまをときめく「保守女子」のロールモデルをつくり上げた。リアル世界の警察より怖い「個々民の声」 いったいなぜ、こんなことばかり続くのか。前記したように、「長期政権によって議員たちの気が緩んでいる。なにをしても許されるというムードになっている」と言われているが、それだけではないと私は思う。そこで以下、そのことを2点挙げておきたい。 まず、「失言・暴言」というレッテル貼りがいとも簡単に行われ、あっという間に拡散してしまう世の中になったことだ。昔なら、失言かどうかもう少し考え、発言者の背景や意図、その裏にある社会問題をもっと考えた。しかし、いまは、「ネット言論」(とても言論とはいえないが)によりレッテルが貼られると、もう止められない。 しかも、ネット民の、なんとか引きずり下ろそうとする嫉妬心はすさまじく、失言者・暴言者よりもはるかにレベルが上の誹謗(ひぼう)中傷の限りを尽くす。 例えば、今村氏に対するネットの書き込みを見ると、こんな具合だ。 「ばかたれ」「いったい何様だ!」「おめえ、死ね」「さすがにこれはダメだ」「全然こたえていない!クビにしろ!」「こんなゲスが大臣やっていいのか」「いまから東北行ってそれを言ってこい」「辞任、当ったり前だよな」「辞任のときもエヴァのネクタイしてて、ワロタw」 これが正義の声なのだろうか。「国民の声」だというノーテンキなメディアもあるが、「国民の声」などというものはない。あるのは、個々民の声だけではないのか。これらの個々民の声が結集して、「サイバーポリス」(電脳警察)となっている。リアル世界の警察より怖い。なぜなら、リアル警察は法に背く者(違反者)を取り締まるが、サイバーポリスが取り締まるのは違反者ではないからだ。 次に指摘したいのは、トランプという、とんでもない米大統領が出現したため、世界中がなにを言ってもいいという雰囲気になったことだ。いまやこの世界は「ポスト・トゥルース」(真実後)の世界と化し、フェイクニュース(偽のニュース)であふれかえっている。当然、失言・暴言はインフレを起こし、歯止めが利かなくなった。1月11日、米ニューヨークのトランプタワーで行われた当選後初の記者会見で、厳しい口調でメディアを選別するドナルド・トランプ次期米大統領(AP=共同) トランプ氏に比べたら、日本の政治家の失言・暴言などたわいないものだ。かつて、中曽根康弘元首相は「アメリカには、黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い」などと言い、最近では丸山和也参議院議員が「米国は黒人が大統領になっているんです」と言ったが、トランプ氏は「黒人は貧しく、教育も悪い。仕事もなく、58%の若者が失業している。トランプ大統領(オレが大統領)になったとしてもなにを失うというんだ」と言って、大喝采を浴びたのだ。“器が違う人間”は暴言を吐くな 今村失言は、被災者に対する配慮を欠いたものだが、トランプ大統領の登場で、マイノリティー差別発言、人種差別発言など、いくらしても平気になってしまった。配慮など「クソ食らえ」なのだ。 なにしろ、トランプ氏は「メキシコ人はレイプ魔だ」と言い、米大統領選の共和党予備選で対立候補だったカーリー・フィオリーナ氏に対しては、「あの顔を見てみろ、誰があんな女に投票するんだ」と、女性差別発言までやった。さらに、民主党候補だったヒラリー・クリントン元国務長官に対しては「ナスティウーマン(くそたれ女)」、民主党の重鎮エリザベス・ウォーレン上院議員に対しては「ポカホンタス(米先住民の女性)」とまで言って、大統領になったのである。 2014年、東京都の塩村文夏都議が、自民党の鈴木章浩都議に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」とヤジられたことが大問題になったが、器が違う人間は暴言を吐いてはいけないのだ。 話は飛躍するかもしれないが、これでわかるのは、「失言・暴言」に対する糾弾は、発言内容そのものではなく、誰がそれを言ったかのほうが大きな問題だということだ。麻生太郎財務相(鈴木健児撮影) そうでなければ、トランプ氏が大統領になれるわけがない。このことを日本で端的に物語っているのが、麻生太郎副総理だ。私は、麻生氏のボルサリーノ・ハットをかぶったマフィア・スタイルが気に入っていて、そのスタイルから「べらんめえ口調」で失言・暴言が飛び出すのが爽快だ。 なにしろ、憲法改正では「ナチスの手口に学んだらどうかね」、終末期医療では「さっさと死ねるようにしてもらわないといけない」と述べたわけで、本来なら辞任ものだ。さらに、カップ麺の値段がわかるかどうかと質問されたときは、「400円ぐらい?」と答弁した。これで「庶民感覚がない」とものすごくたたかれたが、なぜ庶民感覚がなければいけないのか。私にはよくわからない。 ところで、「暴言=毒舌」で日本を代表する人物といえば、ビートたけし氏である。じつは私は、昨年5月『ビートたけしのTVタックル』で米大統領選を取り上げたとき、トランプ擁護派のコメンテーターとして出演し、「トランプの毒舌はたけしさんも真っ青ですね」と発言して、あとから見たらこの部分はカットされていた。 私の真意は、トランプ氏の暴言はあまりにもひどすぎて、ユーモアやギャグたっぷりのたけし氏を超えすぎているというものだったが、理解されなかった。同じく出演し、「トランプが大統領になったらアメリカから逃げる」と発言したパックンはわかったかもしれない。失言するセンスもなければ、器でもない たけし氏は、失言・暴言続きの政治家に「お笑いを教えたい」と話したことがある。「オレならもっとセンスよく話す」ということだ。つまり、日本の政治家は失言・暴言をするセンスもなければ、その器でもないということだ。 失言・暴言閣僚を生み出す背景には、閣僚になるのが、実力やキャリアでなく、単なる年功だということがある。つまり、議員を何期か続けて初めて大臣候補となり、その中から当選回数の多い順に大臣になっていくということだ。 ところが、最近は自民党が大勝を重ねて、当選回数が多い議員が増えすぎた。今回、失言辞任した今村氏も、「学芸員発言」の山本氏も、衆院当選7回で、昨年8月の内閣改造でやっと初入閣した「逸材」である。 現在、自民党内には当選回数を重ねても入閣できない「待機組」と呼ばれる議員が60~70人いるとされる。この待機組を「在庫」と呼んでいる。つまり、自民党は「在庫一掃セール」を続けていかなければならない宿命にある。ということは、今後も失言・暴言閣僚は、続々登場するということだ。4月8日、福島県浪江町の仮設商業施設を視察する今村復興相(左)と安倍首相 そうとわかれば、メディアも野党も、そしてサイバーポリス気取りのネット民も、今後は、失言・暴言パトロールをさらに強化していくべきだろう。彼らにどんどん失言させて、閣僚の首をすげかえ、自民党に在庫一掃セールを続けさせる。メディアは「今月の失言」ランキングをつくり、ランキング1位を選んだりしてみたらどうだろうか。 自民党も「失言チケット」を切って、3枚たまったら閣僚辞任などとしたらどうか。こうしたことを続けていけば、1、2年後には、素晴らしい内閣ができるだろう。

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    上杉鷹山に学ぶ復興の精神

    いのか、まず先にいえ。そのあとで理由を述べよ」と口を酸っぱくしていわれました。二〇一一年三月十一日、東日本大震災が起こった直後には、重要な決断を次々に下す必要がありましたが、自衛隊時代に学んだことがほんとうに役に立ちました。 童門 時代環境はまったく異なりますが、私も旧海軍時代に学んだことがあります。いわゆる予科練(海軍甲種飛行予科練習生)として、霞ヶ浦(茨城県)畔にある土浦海軍航空隊で訓練を受けていたのですが、日本人の人間関係にはウエットなところがあり、「何をいっているか」という内容よりも「誰がいっているか」という人物を重んじる、ということを身をもって知りました。 村井 それは私も経験上、同感ですね。 童門 当時はまだ十五、六の子供でしたが、「アイツのためなら、喜んで協力してやろう」と思われる人間にならなければいけない、と思いました。軍隊という制約の多い組織でしたが、自分なりの人格陶冶の方法を見つけたいと考え、発見も多くありましたね。 もともと私が少年航空兵になったのは、飛行機に憧れていたからです。土浦での訓練教程を終えると、青森県の三沢基地に配属され、「第一〇五特別攻撃隊」の一員として、出撃を待っていました。ところが、飛べる飛行機がもう一機もなかった。毎朝、沖にいるアメリカの航空母艦から艦載機がやってきて、ダダダッと機銃掃射をする。われわれは逃げまくる以外になく、生と死の境が三〇㎝しかない、というのが日常でした。いまでも好きで口ずさむのが、阿川弘之さんの小説『雲の墓標』の一節「雲こそ吾が墓標/落暉よ碑銘をかざれ」です。つまり、雲を墓標にして潔く散りたかった。丈夫な男の子は軍隊へ、という時代でしたが、そのようなロマンがありましたね。「主権在民」の精神「主権在民」の精神米沢城跡に建つ上杉鷹山立像。行動的な藩主だった 村井 私が上杉鷹山という人物に初めて強い関心を抱いたのは、一九九五年、宮城県の県議会議員になったときです。ある食品の卸会社の会長さんのところに挨拶に行くと、「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の言葉が貼られていました。「いい言葉だなあ」と眺めていると、その会長さんから「村井君、ああいう思いで政治をやれ」といわれました。そこで鷹山の人物像が知りたくて書店で買い求めたのが、童門先生の『小説 上杉鷹山』だったんです。 童門 それはご散財をおかけしました(笑)。 村井 何をおっしゃいますか(笑)。私がいちばん感銘を受けたのは、鷹山の「主権在民」の精神です。士農工商の封建時代において「藩主は人民と国家のために存在するのであって、藩主のために存在する人民と国家ではない」と言い切った。しかもそれを、家督を譲る際の「伝国の辞」として後世に残した。いまでこそ「都民ファースト」「県民ファースト」などと誰でもいいますが、江戸時代に「藩民ファースト」という考えをもつ為政者は稀だったでしょう。ジョン・F・ケネディ大統領が生前「最も尊敬する日本人は」と問われた際、「ウエスギ・ヨウザン」と答えたのも納得できます。 童門 じつは本書は、美濃部亮吉東京都政三期十二年(一九六七~七九年)の反省の書でもあるんです。当時の私は、知事のいわば側近として都政に携わっていました。その経験から、「あれはちょっとやりすぎたかな」とか「もっと丁寧な説明をして、彼らを納得させておくべきだった」という反省が込められています。 鷹山の藩政改革も、反対派による意地の悪い妨害に遭いました。門閥外から有用な人材を抜擢し、封建時代の武士に「愛民」を説いて荒地の開墾までさせたのですから、藩内の保守層の反発を買ったのは、ある意味で当然のことかもしれません。最終的には、鷹山はアンチ改革派に厳しい処分を下しましたが、どんな前向きな改革であっても、必ず協力しない者が出てくるのは、いつの世も同じでしょう。面従腹背は人の世の常なんです。 ちなみに本書のほとんどの登場人物には、実在のモデルがいます。悪く書いた人間はほとんど鬼籍に入り、いまは安心しておりますけれど(笑)。 村井 本書の冒頭に、鷹山が江戸櫻田藩邸の庭にある池の魚をそれぞれ家臣に見立てるシーンがありますが、じつはモデルがいたわけですね。 童門 そういうことです(笑)。 村井 鷹山の改革はけっして順風満帆というわけにはいかなかった。他家からわずか十七歳で名門の上杉家の養子に入った経歴から、家中をまとめるのに苦労しました。時に鷹山は「泣いて馬謖を斬る」厳しい人事を貫きましたが、普段は部下を怒鳴るような真似はしなかった。ほんとうのリーダーとしての資質を備えていたと思います。私は未熟な人間で、鷹山のようにはいきませんが、「為せば成る」の精神で今後もやっていきたいと考えております。 童門 鷹山がいろいろな難事にぶつかった際、教えを仰いだのが師の細井平洲(儒学者)です。平洲の答えはいつも決まって「大事なのは勇気」でした。まさに「為せば成る」の精神ですね。「衆知を集める」という方法「衆知を集める」という方法 村井 いまから十一年前、私が宮城県知事になったのは、四十五歳のときでした。県庁の課長クラスは私よりも年上で、しかも私は、前知事の後継者を破っての就任です。最初、職員は柱の陰に隠れてしまって「いったい、この人は何をやるつもりか」という感じで遠巻きに私を見ていた。たいへん苦しかった記憶があります。2005年10月、宮城県知事選に初当選し、花を受け取る村井嘉浩候補(左)と夫人(撮影・浅野直哉) そこで私が実践したのが、「衆知を集める」という方法です。できるだけ多くの人に会って、意見を聞くようにしたのです。周囲の声に耳を傾けず、いきなりトップダウンで物事を決めると、人心が離れてしまうと思ったからです。童門先生のご本からは、そうした知恵も学ばせていただきました。最初は「何か打ち解けていないな」と思った職員も、だんだん私に近寄ってくれるようになり、とくに東日本大震災の際は、ぎりぎりの状況のなか、よく頑張って協力してくれたと今も感謝しています。 そもそも部下というものは、上役が本気であるかどうか、すぐに見抜きます。さらにいえば、上が全体の利益を考えて行動しているか、それとも私利私欲で動いているか、下の者からはじつによく見えるんですね。 童門 おっしゃるとおりですね。鷹山の改革が成功したのも、「愛民」を貫く誠の精神の持ち主である、と多くの藩士たちが認めたからでしょう。江戸時代には多くの藩が財政再建に取り組みましたが、一部を除いてほとんどが失敗した。「領民のために」という大義が欠けていたからだと思います。 かくいう私自身、偉そうなことはいえません。私が都の職員になったのは昭和二十二(一九四七)年ですが、最初から「主権在民」の精神で働いていたかどうか。ちなみに、初めての仕事は税金の滞納整理でした。 村井 それはたいへんだったでしょう。 童門 もう仕事が嫌で仕方がありませんでした。直属の上司に対して「税金の督促なんて、全然面白くない。こんな仕事よりも福祉とか、公害防止とか、もう少し給料の額のお返しになるような仕事がしたい」といっていたくらいです。上司からは「おまえはバカか。都知事の代わりに仕事をしている気概をもて」とか「予算書の項目ぐらい、諳んじていなければダメだ」とか叱られていました。つねづねその上司から、税金がどう使われているか、都民に説明できるようになれ、といわれたのですが、結局、私は上司のいうことを聞かなかった。 するとある日、「おまえが尊敬する人物は誰だ」と聞いてきた。私が「黒澤明監督です」と答えると、上司は「『七人の侍』をもう一度観てみろ」という。映画の最後に「勝ったのはあの百姓たちじゃ、儂たちではない」という台詞があり、「ああ、上司は俺に『主権在民』の精神をわからせようとしたんだな」と気付きました。このような配慮には、感服するところがありましたね。 村井 素晴らしい上司じゃないですか(笑)。 童門 その上司のおかげで、私は真人間になることができました(笑)。まさに私にとって、師の一人であると感謝しています。「創造的な復興」をめざす「創造的な復興」をめざす 童門 現在、村井知事は被災地の復興の先頭に立っておられますが、復興の現状はいかがですか。 村井 幸い、国を挙げて応援してくれているおかげで、着実に進んでおります。ただ、あれだけの大きな被害でしたので、いまだに仮設住宅にお住まいの方が約一万五〇〇〇世帯、三万人ほどおられます。あと二年程でほぼすべての方に対し、快適な住環境を提供することができる見込みです。 一九九五年に起きた阪神・淡路大震災では、整地を行ない、住民の方々は以前に住んでいた場所に戻ることができました。しかし今回の東日本大震災では、同じ場所に住居を建て直しても、再び津波が来れば流されてしまう恐れがあります。安全な高台に移り住んでいただくことを前提に街づくりをした分、住環境の整備に時間がかかりましたが、多くの方のご支援をいただいて確実に前進しています。民営化された仙台空港出発ロビーの利用者ら=2016年7月1日 震災からの復興にあたり、ただ元に戻すだけの「復旧」では、時代の変化に取り残されてしまいます。そこで、私が掲げたのが「創造的な復興」です。一例を挙げますと、宮城県の沿岸部では亡くなったり、行方不明になったりした方々とその他の地域に移転された方々で四万人もの人口が減少しました。この状態を元に戻すことは残念ながら、困難といわざるをえません。そこで代わりに交流人口、すなわち海外や県外から宮城県を訪れていただく観光客を増やそうと考えました。およそ三三万人の外国人観光客の経済効果は、住民四万人分の効果とほぼ等しい、という試算もあります。さらに国に強くお願いした結果、今年七月に実現したのが仙台空港の民営化です。 童門 全国初の地方空港の民営化の試みとして、話題になっていますね。 村井 ええ。仙台空港の民営化によって、たとえばそれまで全国一律で決められていた着陸料が自由に設定できるようになりました。おかげでLCC(格安航空会社)の参入が増えてきまして、外国からのお客さんも比例して伸びています。 そもそも国の目標として、二〇二〇年の東京オリンピックまでに、外国人観光客数を東北で五〇万人から一五〇万人、宮城県単独では一五万人から五〇万人に増やすという数字があります。宮城県でプラス三五万人を増やす計算になりますが、これは先の経済効果をめぐる試算の三三万人とほぼ等しい。こうした具体的な数字を達成する意気込みで観光誘致をすれば、東北沿岸部は絶対に元気になる、と考えています。 また、「創造的な復興」の一環として水産業復興特区を設けて区画漁業権を一部、漁業者を主体とした企業に免許を付与しました。というのも、現在、宮城県の漁業就労者の平均年齢は六十五歳なんです。必要な投資は惜しみなく行なった鷹山 童門 かなり高齢化しているんですね。 村井 はい。日本全体でみても、高齢化によって毎年漁師が一万人ずつ減っている状況です。このままでは日本の漁業は衰退する一方です。これまで区画漁業権は法律で漁協がもつことに決まっていました。水産業復興特区の導入でこうした「既得権益」を一部見直したところ、大きな反対に遭いました。私は宮城県知事選に出る際に漁協の推薦を得ていましたから、「裏切り者」「おまえだけは許さん」といったお叱りも多くいただきました。 そんなとき、私に勇気を与えてくれたのが『小説 上杉鷹山』だったんです。鷹山は疲弊しきった米沢の地域に農業開発を行ない、養蚕や製紙などの殖産興業を実施して甦らせた。さらに藩校の興譲館をつくり、藩士の教育まで行なった。おそらく周りからみたら「こんなことはできない」と思われるような改革でも、志の力でやり遂げてしまった。私も鷹山の故事に倣い、「全体の利益になることは、どんなに反対に遭ってでもやる」と覚悟を定めることができました。 童門 村井知事のお話を聞いていて「わが意を得たり」の感を強くしました。なぜなら、上杉鷹山というと、倹約だけの人物だと誤解されている向きがあるからです。でも、けっしてそうではない。必要な投資は惜しみなく行なっています。鷹山の政治手法の新しさは、それまで米作一辺倒であった経済を改め、米沢の自然条件に合った植物を植えて、それを原料にした製品を売ることで、藩財政を立て直そうとした点です。たとえば、漆からは塗料や蠟をとり、楮から紙を漉き出し、桑からは生糸を織り出して、絹織物を生産した。新産業の創出で経済が成長すれば、その恩恵は領民にも行き渡って消費力が高まり、さらに内需が拡大します。 藩校の興譲館はこうした鷹山の考えを広めるための「研修機関」「PR機関」であり、たんなる精神論を教えていたわけではありません。 村井 おっしゃるとおりで、質素な格好をしていたから鷹山は立派なわけではない。まず、無駄な出費を抑えるという止血をしながら、入り(収入)を増やしていくための政策を考案し、実行したことに意味があります。まさに、現代のわれわれの自治体がやるべきことです。江戸時代にできた改革がいまの時代にできないわけがない。もしできないとしたら、それは周囲の批判を恐れているからです。反対派の批判を鎮めようとしてバラマキ行政ばかりをやっていては、改革は進みません。その点、私は厳しくやっておりまして、だからこそお叱りばかり受けています。個々人の努力が復興の城となる個々人の努力が復興の城となる 村井 東北の復興において、宮城県が果たすべき役割はきわめて大きいと考えています。原発事故のあった福島県は、想像もできない大変さがあろうかと思いますが、宮城県では、震災で亡くなった方のうち、五割強を占めるなど、大きな津波被害を受けました。これらを乗り越え、われわれには復興のモデルをしっかりつくり、被災地のみならず、東北の経済を牽引していく責務があるのです。先ほど述べた仙台空港の民営化についても、宮城県だけがよくなればいい、ということではなく、東北全体にいかに外国からのお客を呼び込むか、という視点で行なっています。東北の医師不足解消を目的に、全国で三十七年ぶりに東北医科薬科大学(仙台市)に医学部を新設したのも、東北の未来を考えてのことです。 もともと私は「道州制」論者です。四七の都道府県が角を突き合わせて競争しているのは効率的ではない、というのが持論です。国のほうは外交や防衛などに専念してもらい、国会議員の数も減らす。他方、インフラ整備や社会保障などは、「州」や基礎自治体に任せてもらう。もし「東北州」ができた場合、政治の中心は青森県や秋田県でいいかもしれない。ただ、経済的な牽引役は、やはり宮城県が担わなければならない。震災復興もつねにそうした位置付けのなかで進めております。 童門 村井知事の発想は伊達政宗と同じだ、と思いますね。政宗は東北の奥州探題、いまでいう「東北州」の長官という意識をもっていた。支倉常長を欧州に派遣して、中央の徳川政権とは別のかたちで文物や人材の交流を行なおうとした。しかし、当時の幕府は料簡が狭く、諸藩の海外との交易を禁じてしまった。もし〝鎖国令〟がなければ、いまごろ石巻は完全な国際港になっていたかもしれない。そう思えば残念なことです。村井知事のお話を聞いていて、政宗はここに健在なり、と思いました(笑)。仙台城跡に立つ伊達政宗騎馬像 村井 いえいえ。私などは政宗公の足元にも及びません(笑)。 童門 じつは私、震災後、一時的に腑抜けになってしまったんです。被災地の方がたいへんな苦労をされているのに、自分は何もできないというもどかしさと無力感、そして無常観でいっぱいになりました。そんなとき、テレビで宮城県南三陸町の被災者が避難されている体育館の様子を見ました。なぜか、雰囲気が明るい。一人の中学生のおかげだというんです。震災前、悪ガキだった男の子が館内を走り回って、みんなを励ましていた。その男の子は祖母に聞いたらしい。「復興って、何をすればいいんだよ」と。祖母はこう答えたそうです。おまえがいる場所で、やれることをやればいい――。 この言葉を聞いて、目が覚める思いがしました。そうか、自分の今いる場所で、私情を交えず、手を抜かず、仕事をすることで、間接的ではあるけれど、被災地の励ましにつながっていくのだ、と。個々人の努力の小さな積み重ねがやがて大きな石垣となって、被災地の復興の城となる。だからこそ、自分の仕事に手を抜いてはならないのだ、と。 村井 そのとおりだと思います。 童門 私は今年で八十九歳になりますが、被災地の子供に教えられて、また真人間に戻ることができたわけです(笑)。かつては薪を背負って本を読む二宮金次郎(尊徳)の銅像が、あちこちの学校に立っていましたね。その金次郎が読んでいたのは、中国古典の『大学』です。この本が説くのは、修身(身を修める)、斉家(家を整える)、治国(この場合は地方を治める)、平天下(天下を平らかにする)の順序のこと。つまり、まず自分の身を正しくし、次に家のことをしっかり整え、地方の自治を確立し、最終的に天下、つまり国家の平和のために尽くしなさい、という教えです。国民一人ひとりがこのように思わなければ、東北の復興はなりません。ただそのためには、どうしても子供のころの躾が大事というか、教育が絡んできますね。大人になって急に国家のために尽くしたいと思っても、それはハリボテにすぎない。 村井 そうですね。私が小さいころ、父もよくいっていました。お金持ちだからといって、誰も尊敬なんかしない、と。それよりも、全体のために死ねるような人間のほうが、お父さんは偉いと思う。そういう人間になってほしい、といわれたことを思い出します。覇道ではなく、王道の政治を覇道ではなく、王道の政治を 童門 ときどき、市長が集まる会などに呼ばれて講演することがあります。決まったように出る質問は、「いくら正しいことをいっているつもりでも、なかなか人が付いてこない、どうしたらいいか」というものです。そんな難しい問題の解決策を聞かれても困るんですが(笑)、こう答えるようにしています。一〇〇〇人のうち、最初の理解者は五人ぐらいだと思ったほうがいい、と。本人のやる気が町内に徐々に口コミで広がれば、五人が一〇人になり、一〇人が一〇〇人になる。一〇〇〇人全員は無理でも、半数の五〇〇人が味方に付けば、改革は成功するでしょう。 村井 童門先生が『小説 上杉鷹山』でお書きになられているように、まずは少数でもいいから、改革の火種をつくることが大事なのですね。 童門 そう。最初から全員が賛成する改革なんてありません。私利私欲のためではなく、天下万民のために働くリーダーのもとには、自然と人が集まってきます。その意味でも、覇道ではなく、王道の政治をめざしてほしいですね。 村井 今回は童門先生から直接、お話をうかがうことができて、感動いたしました。ご多忙のご様子で、なかなか時間が取れないのではないかと、心配しておりました。 童門 そんなことはありません(笑)。 村井 今日、童門先生にサインしていただいたご本は、親父にも必ず見せるつもりです(笑)。冒頭でも述べましたが、童門先生の『小説 上杉鷹山』が私の傍にあることで、いつでも「県民ファースト」という原点に戻ることができます。加えて、私は「遠方目標」ということを大事にしています。ヘリコプターは遠方目標を捉えておくことで、突発的な風で流されても、本来の位置を見失わずに進むことができる。同様に、つねに政治の原点と復興における遠方目標を見誤らないようにしておくことで、宮城県の復興が可能になると考えています。私は宮城と東北を元気にすることで、日本に対する恩返しがしたいんです。 童門 私の本をご自身の志と結び付けて行政に活かしていただいていることを嬉しく思うと同時に、頼もしく感じますね。これからの村井知事のご活躍を心から願っております。どうもん・ふゆじ 作家。1927年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入る。著書に、『小説 上杉鷹山』(上・下/95年、学陽書房人物文庫。96年、集英社文庫より『全一冊 小説 上杉鷹山』として刊行)、『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫)、『名将 真田幸村』(成美文庫)など多数。むらい・よしひろ 宮城県知事。1960年、大阪府生まれ。84年、防衛大学校を卒業し、陸上自衛官に任官。陸上自衛隊東北方面航空隊(ヘリコプターパイロット)および自衛隊宮城地方連絡部募集課にて勤務。92年、自衛隊退職後に松下政経塾に入塾。95年から宮城県議会議員を3期務める。2005年、宮城県知事選挙に当選し、現在3期目。関連記事■ 東日本大震災5年、いま必要とされる新しい発想の地域づくり(1)■ 『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか』■ 松下幸之助が考えた「自分流」の生き方とは?

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    ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか

    て自ら経験するなかで学ぶという「フィールド・メソッド」が導入されました。こうした流れと、二〇一一年の東日本大震災が重なって生まれたのが「ジャパンIXP(Immersion Experience Program:どっぷり浸かって経験して学ぶプログラム)」です。東京と東北に一週間ずつ滞在して学ぶプログラムであり、担当教授はHBS唯一の日本人教授である竹内弘高氏です。学生たちの力を直接還元するほうが役に立てる ――本書『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか』は、まさにそのジャパンIXPの歩みを記録した歴史書であるといえます。二〇一二年の開始当初は、被災地の復旧について貢献する企業に関するケースを作成するチームプロジェクトと、全員でボランティア活動を行なう二本柱で成り立っていたのが、第四回(二〇一五年)から、東北の企業にコンサルティング(経営指南)を行なうプロジェクトに切り替わっていったそうですね。 山崎 震災翌年には、まだ壮絶な被災の現場が残っていましたが、年を経るごとに体を動かすボランティアが少なくなっていく事情がありました。また、せっかく企業を訪問してケースをまとめても、それを出版するころには課題の変化によって時代遅れになっていることもありました。そうした活動よりも、HBSの学生たちの力を直接、還元するほうが被災地の企業の役に立てると考えたのです。震災から三、四年経つと、受け入れる企業のほうも、未来につながるようなコンサルティングを学生たちに求めるようになってきた、という側面もありました。南三陸町防災対策庁舎近くに移設した献花台を訪れる人ら=2016年4月11日、南三陸町(岡田美月撮影) ――世界最高峰の知性をもつHBSの学生たちが被災地の企業にどのようなコンサルティングを行なうのか。本書の読みどころの一つでしょう。たとえば宮城県南三陸町の農家、小野花匠園に対しては「南三陸での雇用を増やす」というミッションが屋根だとすると、それを支える三つの柱が栽培、加工、販売・配達であるという整理を行ないました。その結果、小野政道社長は売り上げの四割を占めていた大手スーパーとの取引を打ち切るという勇断を行なった。これで逆に利益は大幅に上昇したというのですから、見事なアドバイスといえます。 山崎 HBSの学生たちがスーパーとの取引について直接アドバイスしたわけではありませんが、課題や強みを整理してあげて、気付きを与えたといえます。それによって、栽培に加え、自社で価格を決められる販売力こそ小野花匠園の強みである、と再認識した小野社長が自ら決断したわけです。 ――たった数日間の現地滞在で、そのような課題の整理ができるHBSの学生たちの能力は「すごい」といいたくなります。 山崎 学生たちのスキルに関していえば、前述の「ケース・メソッド」による教授法によって、マーケティングから会計まであらゆるケースについて考える訓練ができています。したがって、どんな課題に接してもすぐに対応できる力が身に付いていると思います。HBSに入学する前はコンサルティング会社に勤めていた学生もおり、そうした経験から得られたものもあるでしょう。何よりHBSの学生は、短期間の滞在でも被災地の企業に貢献したいという強い思いをもっている。ちょっと小ぎれいなプレゼンをして終わるのでは意味がない、自分たちが来たからには本物のインパクトを残したい、と考えていたのです。「真のエリートはナイスな人」「真のエリートはナイスな人」 ――HBSの学生たちに接してきた経験から、山崎さんは「真のエリートはナイスな人」という事実を発見されたそうです。能力だけでもなく、人間的にも「ナイスな人」という意味だと思いますが、なぜそのような学生が育つのでしょうか。 山崎 やはり、教授たちの教育や研究に懸ける熱意が大きいと思います。さらに、日本の大学では教授と職員のあいだに距離がある場合も多いですが、HBSの教授たちは職員をチームの一員として扱ってくれます。そうした教授たちの態度から、学生たちもリーダーのあり方を自然と学ぶのでしょう。ただ、トップが人間的に素晴らしいのはHBSに限らず、私が以前に在籍していたマッキンゼーでも同じでした。多様性のあるチームをまとめるために、アメリカのエリートは意識して「ナイスな人間」になるように努めている気がします。その点、日本企業には上意下達で動く組織文化があり、部下が黙って従うから、上司のほうも甘えてしまっている面はあるかもしれません。 ――本書の執筆を終えて、日本の教育でとくに改善すべきだと考えるようになったことは何でしょうか。 山崎 まず、自分の考えを深め、人の考えを知り、そのうえで、自分の考えを発表するという訓練ですね。日本で広く行なわれている教育では、ただ一方的に先生の話を聞き流しているだけで、相手の話を能動的に聞くこともできません。かつ自分の意見とは何かを考えることもなければ、それを発表することもない。「考える」「聞く」「話す」という基本の動作がまったく鍛えられない。私は日本の大学でそうした訓練を行なう講義を担当しているのですが、砂漠に水を撒くような徒労感を味わうこともあります。ほんとうは小学生のころから、そうした訓練をすべきでしょう。 ――本書の刊行を節目として、山崎さんは十年勤めたHBSを辞めて、新たな道を歩く準備をしているそうです。今後の活動について教えてください。 山崎 並行して二十年近く続けてきたいけばな(華道)を、新たなかたちで社会に広めていく活動をするつもりです。「美」に対する感度を強めることで、経営者や企業人の創造力や発想力を磨く場をつくり出していきたい、と考えています。やまざき・まゆか 元ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)日本リサーチセンター アシスタント・ディレクター。東京大学経済学部、ジョージタウン大学国際関係大学院卒業。マッキンゼー・アンド・カンパニー、東京大学先端科学研究センターを経て、2006年よりHBS日本リサーチセンター勤務。主にHBSで使用される日本の企業・経済に関するケース作成、東北を学びの場とするHBSの2年生向け選択科目ジャパンIXPの企画・運営に従事。また、特任教授として東京大学医学部にてグローバルヘルス・アントレプレナーシップ・プログラムの運営・教育に関与。関連記事■ パックン流・相手の心をつかむ話し方■ 頭がいい人の話し方が身につく3つの「口ぐせ」■ 人間関係に悩まないための「魔法の言葉」とは?

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    菅首相 震災利用し野党抱き込み政権延命しか頭になかったか

     国民の生命・財産が懸かった原発対応では、菅直人首相が自らの政権維持を優先させて国家を危機に陥れた。その“証拠”がある。 震災2日目の3月12日、午後3時から震災対策の全党首参加の与野党党首会談が開かれた。直前の原子力安全・保安院の会見で、「炉心溶融の可能性」が指摘されており、その質問が出た。「これはメルトダウンとはいわない。大丈夫です」――菅首相はキッパリ否定してみせた。 会談の途中で、秘書官から首相にオレンジ色のメモがわたされた。福島原発1号機で起きた水素爆発を報告するものだったが、菅氏は会談の席でそのことには一切触れずに、最後も「大丈夫なんです」と繰り返した。水素爆発が公表されたのは数時間後だった。福島第一原発の2、3号機から煙が出たことで会見に臨む菅首相%u3002後ろは(左から)枝野官房長官、仙谷、福山の両官房副長官=2011年3月18日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影) 挙国一致での危機対応を話し合う党首会談の場でさえ、この総理大臣はウソをつき、事故の重要情報を隠したのである。それが危機管理上、必要な情報管理だったとはとても思えない。各党党首が事態の正確な情報を共有する方が、非常時の政治の決定を早くするためには重要なはずだ。 情報を隠したのは、全党首の前で、「大丈夫だ」と公言した自分の誤りを認めたくないという自称“原子力の専門家”としての小さな自尊心のためだったのか。 そうではあるまい。その後の大連立への姿勢を見ても、最初からこの人の頭には、震災を利用して野党を抱き込み、政権を延命することしかなかったのだろう。彼にとってこの天災は“天恵”に見えていたのだ。 しかし、菅首相が自分の判断の誤りを認めてその後も軌道修正しようとしなかったことが、1万1500トンもの放射性汚染水を海洋投棄することになり、世界の非難を浴びる結果を招いた。そして、処理を間違い続けて国民からの信頼は地に墜ちた。自業自得というには、あまりにも国の損失が大きすぎた。関連記事■ 菅首相 鳩山・小沢氏を「あのPTAの2人にはうんざり」■ 石原都知事 来日したチベット亡命政府首相と会談していた■ 安倍首相 オバマ氏に米中会談の話聞くどころか会うのやっと■ 菅首相がまたもや党首討論に持参したカンニングペーパー公開■ 菅首相 党首討論に「×詰問 ○真摯に」などのカンペを持参

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    震災報道「自衛隊」「米軍」を見出しに載せない大手マスコミ

    いことですが、それと米軍の支援を“世界何十か国からの支援”と一緒くたにしてしまうのはいかがなものか。東日本大震災、気仙沼大島から米海軍強襲揚陸艦「エセックス」の艦内ドックに戻ったLCU(汎用上陸艇)=2011年3月27日、三陸沖(古厩正樹撮影) 当初は産経新聞でさえ伝えていなかったので、産経社会部の編集委員の方から電話があったときに「なぜ米軍や自衛隊の活動を載せないのか」と文句をいったら、翌日から紙面に載り、特集まで組まれていた(笑い)。単なる偶然でしょうが。米軍による支援を見れば、日米同盟や在日米軍の存在意義が改めてわかるはずなのに、各紙がそこに言及していないのも問題です。 青森県の三沢基地は、自衛隊との共同活動拠点になっていますが、産経の『「私たちも逃げない」米軍三沢基地 軍人家族、震災孤児ら救済』(3月29日付)によれば、三沢基地の米軍人の家族らが震災孤児らを収容した児童養護施設に食糧を届ける支援をしているのです。 沖縄の米軍基地からも2500人以上もの海兵隊員が災害支援で出動している。自衛隊と共同演習を積んできたからこそ、このような大部隊が連携して動けるのです。もし在日米軍基地がグアムに撤退していたら今ごろどうなっていたか。朝日や毎日は、在日米軍を邪魔者扱いしてきた現政権に対する批判が決定的に足りないですね。 同様に、3月16日に流された天皇陛下のビデオメッセージの扱いについても、各紙の性格の違いを際立たせた。朝日以外は一面で報じましたが、意外にも日経は『苦難の日々 分かち合う』(3月17日付朝刊)の見出しで、お言葉の全文を一面に掲載していた。産経でも全文は三面に移していたので、これには驚きました。日経にいったい何が起きたのでしょうか。関連記事■ 人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 日米合同軍事演習を終え海兵隊員と陸自隊員が笑顔で肩を組む■ 自衛隊OB 入間基地で「一刻も早く菅政権潰し昔の自民党政権に」

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    「東京目線」で福島を語るなかれ

    の間には『東京目線』っていう合言葉があるんです」。福島の詩人がこの言葉に込めた意味とは何だったのか。東日本大震災から5年。メディアは日本を襲った未曽有の大災害とどう向き合い、何を伝えたのか。

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    韓国の「東北PRイベント」はなぜ中止に追い込まれたのか

    日本大使公邸で両国政府関係者を招いたレセプションを開催していたにも関わらず、直前の中止決定となった。東日本大震災後の復興状況をPRし、風評被害を払拭しようと外務省が主催したこのイベント。なぜ中止に追い込まれたのだろうか。地元自治体が中止を要請 中止された外務省主催のイベントは、「Explore REAL JAPAN(ソウル)」。東日本大震災の風評被害払拭を目的として、2月20日と21日に韓国ソウルの往十里(ワンシムニ)駅で開催される予定だった。イベントでは、被災3県を訪れた韓国の人気ブロガーが、訪問先の食や観光を紹介するコーナーや、福島県の民芸品「おきあがりこぼし」の絵付けを体験できるコーナーなどがあり、ソウル市民に東北の魅力を伝えることを目的としていた。同様のイベントは、2月28日と29日に台湾の台北でも開催された。イベントの中止を知らせる「Explore REAL JAPAN(ソウル)」のサイト 19日には、駐韓日本大使公邸で、レセプションが開催された。レセプションには、日本側からは、若松謙維復興副大臣、浜地雅一外務政務官、別所浩郎駐韓大使などの政府関係者や、イベントに参加する青森県・宮城県・福島県・鹿児島県の自治体関係者などが出席した。韓国側からは、韓国外務省の林聖男(イムソンナム)第1次官などが出席し、日本酒や東北の郷土料理がふるまわれたという。 事態が急転したのは、レセプションが行われていた19日。イベント会場があるソウル市城東区当局から、日本側に「本件イベントを中止すべきとの通報があった」という。イベントを主催した外務省地方連携推進室の担当者によると、外務省は「(城東区による中止の通報により)イベントを安全に確実に実施できる見通しが立たなくなった」として、中止を決めたという。 同推進室によれば、韓国中央政府はこのイベント開催を重視しており、城東区当局に対してイベント期日の直前まで、中止通報を撤回するように働きかけていたという。反対声明を出した韓国の市民団体に理由を聞いた反対声明を出した韓国の市民団体に理由を聞いた しかし、城東区当局は中止通報を撤回せず、イベント会場にもさまざまな団体の人々が抗議に集まってきており、直前でのイベント中止に至った。イベント中止について、同推進室は「極めて残念だ」と悔しさをにじませた。  韓国中央政府も開催を働きかけていたのに、ソウル市城東区当局が中止通報を撤回しなかったのはなぜなのだろう。今回の東北PRイベントに対して、開催反対の声明を出した市民団体「環境運動連合」(KFEM)に、イベント反対の理由を取材した。 KFEMのエナジーコーディネーターの男性は、取材に対し、「今回のイベントは福島県産の食品の輸入制限を解除するために行うものであり、放射能で汚染された食品を輸入する動きは受け入れられない」と反対の理由を述べた。「我々は、福島県産の食品が輸入される可能性について、怒りと懸念を表明するため、今回の反対運動を行った」という。 イベント開催反対運動に対して、城東区当局は理解を示し中止に至ったとKFEMの担当者は話す。「中央政府は、政治的・外交的観点からものごとを進めようとするが、地元自治体は市民の声により敏感だ。特に韓国は4月に総選挙を控えているので、今回我々の声を聞き入れたのだろう」と、運動の成果を強調した。日本産水産物の輸入制限が続く韓国と台湾 日本政府が、韓国で東日本大震災からの復興をPRするイベントを開いた背景には、韓国が行っている日本産水産物の輸入制限がある。韓国は2013年9月から、福島、茨城、群馬、宮城、岩手、栃木、千葉、青森の8県産の全ての水産物の輸入を禁止している。8県以外の水産物であっても、韓国側の調査でセシウムが微量でも検出された場合は、追加検査を要求。この検査が数ヶ月かかるため、生ものである水産物の輸出は、実質的に困難になった。 政府は、韓国の水産物輸入制限が「科学的根拠に基づかない」として解除を求めてきた。日韓の専門家が2014年12月に福島、青森、北海道産の水産物の放射性物質を測定した結果、不検出か、韓国の定める厳しい基準でさえ大幅に下回る結果が出ている。 政府は、韓国が輸入制限を解除する見通しが立たないため、昨年8月にWTO(世界貿易機関)に対して、韓国を提訴した。外務省北東アジア課によると、提訴手続きは、現在、パネリスト(裁判官に相当)が選ばれた状態まで進んでいる。 台湾も、日本産食品に対して輸入規制を行っており、今回、外務省が韓国と台湾でイベントを企画したのは、日本産食品の安全性を市民にPRする狙いがあったといえる。 日本産食品の輸入規制解除には、現地市民の理解が不可欠だ。イベントを主催した外務省地方連携推進室は、来年度も引き続きさまざまな活動を通じて「風評被害の払拭と、正確な情報発信に努めたい」と述べた。(中野宏一/THE EAST TIMES)

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    福島県相馬市で孤独死が少ないわけ 機能した地域社会の絆

    「上昌広と福島県浜通り便り」上昌広(東京大学医科学研究所特任教授) 東日本大震災から5年が経とうとしている。私は福島県相馬地方での医療支援を続けている。 相馬地方とは相馬市、南相馬市、飯舘村、大熊町、浪江町、双葉町、葛尾村を含む地域のことだ。福島第一原発事故で重度に汚染された地域とほぼ重なる。この地域は、いまも原発事故の後遺症に喘いでいる。 毎年、この時期になると読み返す本がある。それは、故額田勲氏が書いた『孤独死 被災地神戸で考える人間の復興』(岩波書店)という本だ。 額田氏は昭和15年神戸生まれの内科医だ。鹿児島大学を卒業後、九州で働いた。その後、昭和55年に神戸に戻っている。阪神大震災後は、西神地区に仮設住宅に診療所を開設し、被災者の診療に従事した。その記録が『孤独死 被災地神戸で考える人間の復興』である。この本を読めば、額賀氏の仕事のやり方がわかる。地域密着だ。特に歴史を重視する。 例えば、「長田は歴史的に長く差別に耐えてきた街である。古くは居住者数が数万という日本最大の被差別部落が存在したし、いまも神戸市の定住外国人(主として在日朝鮮、韓国人)の3分の1がこの街に住む」という記述がある。本質をついている。 神戸といえば、モダンなイメージを抱く人が多いが実態は違う。幕末まで、神戸は寒村だった。歴史の表舞台に姿を表すのは、1864年(元治元年)に江戸幕府が海軍操練所を開いたときだ。1868年(慶応3年)には、この付近が兵庫港として開港され、周辺に居留地ができる。その後、神戸は西洋文化を受け入れ、発展していく。 神戸は基本的に「流れ者」の町だ。その象徴が長田であり、西神地区だ。本文中に登場する長田で被災した谷口淳(仮名)さん夫妻は典型的な住民だ。文中では「谷口さん夫妻は結婚して以来、昭和30年代に建築された賃貸文化住宅の一階に住んでいた」と紹介されている。 高度成長期に労働力を期待され、地方から出てきたのだろう。二人の子どもの成長と共に、6畳と4畳半の部屋は手狭になり、妻は何度も転居を主張したらしい。しかしながら、夫はそれを受け入れず、震災を迎えた。節約した家賃は子どもの学費に充てられ、子どもたちは私立大学を卒業することができたという。 阪神大震災は文化住宅を容赦なく破壊した。そして、谷口さんは妻を亡くした。「甲斐性がないばっかりに」と嘆くが、後の祭りだ。誰も知り合いのいない仮設住宅へと収容されていく。このような被災者こそ孤独死の危険群だ。額田氏は重点的にサポートした。雪が降り続く福島市内の仮設住宅=1月18日午後 この状況は、福島県浜通りとは全く違う。相馬市の仮設住宅で孤独死されたのは、これまでに一人だけだ。南相馬市の精神科医堀有伸氏は「アルコール中毒や孤独死は目立ってはいません」と言う。勿論、程度問題だが、阪神大震災とは比較にならないのは間違いないだろう。 なぜ、相双地区では孤独死が少ないのだろう。堀氏は「比較的出身地の近い方がまとまって住んでいるなど、神戸の反省が随分いかされている面もあるが、それ以上に地域社会が機能していることが大きい」という。 私は、この差は神戸と相馬の歴史に起因すると思う。相馬の歴史は長い。鎌倉時代から明治まで相馬家が領有した。武勇に秀でた一族だったという。わずか6万石の大名が、伊達、豊臣、徳川に滅ぼされなかったのは驚くべきことだ。 生き残りのための努力は涙ぐましい。戦国時代、伊達政宗に対抗すべく、常陸の大大名である佐竹氏に与した。豊臣秀吉の小田原征伐では石田三成に取り入った。関ヶ原の戦いの後は、徳川家康の謀臣本多正信に近づく。危機に際して、外部勢力を使うのが上手い。 住民も必死だった。江戸時代初期には二度の大津波が襲った。慶長・元和の大津波だ。沿岸部は大きな被害を受け、多数の死者を出した。ただ、彼らは負けなかった。故郷を捨てることなく、復興させた。 相馬地方は多くの試練を生き延び、一つのコミュニティーとして成熟していった。婚姻・仕事・学校などを通じて、時間をかけて地域の連携を深めてきた。 このような人間関係は、時に煩わしい。しかしながら、一旦、災害が起こると威力を発揮する。額田氏は「人間関係こそがこの世の最良のライフライン」と言う。悲しいかな、このような人間関係は一朝一夕では形成されない。地域コミュニティーの完成度において、神戸と相馬では大きな差がある。それが、孤独死の差へと繋がった。 放射線問題や医師不足など、相馬地方は多くの問題を抱えている。ただ、この地域には強い地域社会が残っている。さらに、外部ネットワークを用いる伝統がある。私も、その中の一人だ。 歴史は繰り返す。この地方の人々を見ていると、今回の災害も一体となって克服するだろうと思う。このような歴史的大事件に関わることになったご縁に驚いている。微力ながらも引き続き努力したい。

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    「安心して住める住宅を」三陸沿岸部で難航する移転用地造成

    015年12月に開業したばかりの仙台市営地下鉄東西線。その東端の終点、荒井駅の真新しい駅構内に2月、東日本大震災の被害や復興の状況を伝える情報発信拠点「メモリアル交流館」が完成した。地下鉄自体は震災前の2006年に着工しており、急きょ併設されることになった施設で、被災時の写真や年表のパネルを展示している。平日の昼間にもかかわらず、地元住民や市内外からの来客でにぎわっていた。構想から20年以上を経て昨年12月、開業した仙台市営地下鉄東西線の荒井駅。周囲では再開発事業が計画されている。 真冬の青空の下、駅から車で東に4キロほど走ると、津波によって甚大な被害を受けた仙台市若林区荒浜を中心とする太平洋沿岸部に着く。かつては田畑が広がっていたが、今では2階まで浸水した荒浜小学校の廃墟を除けば、見渡す限り荒地が続いている。遠くに復興工事の土砂を運ぶトラックが頻繁に行き来しているのが見える。900人を超す仙台市内の死者・行方不明者の大半は、若林区と隣接する宮城野区の沿岸部の住民だった。現在、両区の海岸部は市の災害危険区域に指定され、安全な内陸の団地への集団移転事業が進められている。その最大の移転先が、荒井駅の周辺地域なのだ。 荒井駅から歩いて10分ほどの場所には、荒浜地区の住民らが暮らすプレハブの仮設住宅が立ち並んでいた。ただ、ほとんどの入居者は既に、近隣の災害公営住宅(復興住宅)や、市が整備した宅地に自力で建築した一戸建て住宅に移り住んでおり、広大な駐車場もがら空きだ。100万人を超す大都市である仙台市の復興は、もともと予算規模が大きく既存のインフラも整備されていることから、他の被災地に比べて早いとされてきた。市の担当者によると、期間を5年間に設定した住宅関連の復興計画は、ほぼスケジュールどおりに進行しているという。 「狭くて暗い避難所や仮設住宅から、ようやく落ち着ける『本宅』に移ることができました」。 震災後、現在の荒井駅付近の避難所や仮設住宅で計4年半暮らした後、2015年11月に近くの一戸建ての市営復興住宅に引っ越した大学(だいがく)公子さん(73)は、安堵の表情を浮かべた。荒浜の深沼海岸沿いにあった自宅は津波に流され、土地を手放して住宅ローンをなんとか返済した。現在の月額家賃は約3万円。年金と、東京でアルバイトをする夫の収入でやり繰りしている。 「生活は大変です。でも、友人もたくさんいるので、これからは料理や大正琴といった趣味を楽しみながら、前向きに暮らしたいと思っています」 その仮設住宅から歩いて十数分の場所には、巨大な集合型の復興住宅「荒井東市営住宅」が2棟、並んでいる。計約300世帯が入居するこの住宅の町内会長、大橋公雄さん(72)も、30年以上住んでいた荒浜の自宅を津波で失った。避難所を転々とした後、区内の仮設住宅で約3年間生活し、2年前に移り住んだ。東日本大震災で被災した仙台市若林区荒浜の住民が多く住む災害公営住宅「荒井東市営住宅」利便性求め、他の被災地から仙台へ転居も大橋公雄さんは、日中は災害公営住宅の集会所にいるようにしている。「ここは住民の活動拠点。一緒に体操などをして交流しています」 「地域の中核になる地下鉄ができたことが何より大きい。利便性がますます高まっています。女川町や石巻市といった他の被災地の仮設住宅からここに入居してきた人もいます」。地区のまとめ役でもある大橋さんは、住民が皆、辛い被災体験を乗り越えながら、穏やかに過ごせるように願っていると強調した。 「80歳、90歳を超えるような高齢者が多いので、頻繁に声がけしたり、見回ったりしています。仮設でも多かったのですが、ここでも最近、独居老人の孤独死が発生しました。命に関わる事態では応急処置が大切なので、市に心臓発作など救命救急時に使う医療機器のAED(自動体外式除細動器)の設置を要望しているところです」 市営住宅から再び荒井駅に向かった。再開発が始まった駅前地区の一角には、荒井地区で江戸時代から9代続く農家が経営するレストラン「もろやファームキッチン」がある。自宅で2000年に開業し、15年12月に移転してきた。自家栽培の旬の伝統野菜を利用した料理が人気で、地元住民や被災地を訪れる多くの客でにぎわっている。「もろやファームキッチン」代表の萱場市子さんは「駅前地区の発展に『食』の面で貢献できればうれしい」 「生産者の強みを生かして、食材の本当の味を自ら伝えたいと思い、種をまく段階からメニューを考えています。各料理に合わせて150種類の野菜類を育てています」。 代表の萱場(かやば)市子さん(67)は、にこやかな表情で店の特長を説明した。震災では自宅は無事だったものの、所有する田畑の大半が海水に浸かり、塩害やがれき撤去のため一年ほど休耕を余儀なくされた。 店も休業せざるを得なかったが、数ヵ月後には再開し、友人の田畑を借りて食材を確保し急場をしのいだ。現在地に移転後は、1日の来客数、売り上げが移転前よりも5倍ほどに増えたという。「地下鉄の開業で街並みが大きく変わろうとしています。地元の人と他所から来る人との交流の拠点になればと願っています」 私は震災直後の2011年3月22日、死者・行方不明者数が最も多かった宮城県内の被災地に入り、海岸線の一帯が軒並み壊滅し、がれきがうず高く積み重なる惨状を目の当たりにした。仙台市内もあらゆる都市機能が麻痺し、JR仙台駅の周辺が騒然としていたのを覚えている。肉親や財産を失った住民の心の痛みは消えることはなく、生活面でも最近の人口集中による地価高騰や物価の高さなどへの不満の声も聞かれたが、5年の月日を経た今、少なくとも仙台では復興への確実な足音を感じる。女川では、まだ仮設の入居率8割女川では、まだ仮設の入居率8割 だが、被災地全体を見渡すと、その歩みにはばらつきがある。最も重要な「住まい」という点でみても、政令指定都市の仙台と、それ以外の県内の自治体とでは大きく違う。例えば、県震災援護室の調べによると、2016年1月28日現在の応急仮設住宅(プレハブ住宅)の入居率は、仙台市が27%であるのに対し、石巻市が58%、気仙沼市が65%、女川町が76%、南三陸町が64%などと極端に高い数字になっている。 三陸海岸沿いの自治体では、まだ安全な高台や内陸の復興住宅などの「本宅」への転居が進んでおらず、「仮設」で暮らし続ける住民が多いのだ。一方で、仙台のように、入居率の低下と転居の増加とともに、仮設住宅の大幅な集約や解体に向けて動き出している自治体がある。 さらに、宮城県が今年1月に発表した国勢調査の速報値(昨年10月1日現在)を見ると、震災前の2010年の前回調査と比べて、津波の被害が甚大だった沿岸部で人口が著しく減っているのが分かる。減少率は最大の女川町が37%、次いで南三陸町が29%、山元町が26%だった。逆に、仙台市は過去最多の108万人強となり、前回調査より3.5%増えている。 仮設住宅の入居率の高さ、人口減ともに、女川町が際立っている。私は、震災直後からほぼ毎年、取材のために現地を訪れており、とりわけ港やJR女川駅周辺の中心市街地、道路、それに基幹産業の漁業が比較的早く立ち直っている様子を見てきたが、この2つの数字は気になる。人口が1万人強から7000人弱にまで激減した同町の住宅の現状はどうなっているのか。仙台市を離れ、さっそく訪れてみた。工事の遅れ、「いつまで我慢すれば…」 車で女川町内に入ると、JR女川駅開業(2015年3月)の3カ月後に訪れた前回の取材時と同様、街中の復興ぶりが際立っていた。中でも、15年末に完成したばかりの駅前のテナント型商業施設「シーパルピア女川」では、遊歩道の両脇にレストランや雑貨店、町営の交流拠点「まちなか交流館」が配置され、買い物客らが行き交う。建物の数が増え、ますますにぎわいを増している印象だ。女川駅前にオープンした商業施設「シーパルピア女川」。まちの景観は格段によくなった。 小雪がぱらつく中、町内の高台に向かうと、森林を切り開いた土地に、仮設住宅や災害公営住宅が立ち並んでいた。傍らでは、新たな公営住宅のための宅地造成工事が盛んに行われている。 女川町に生まれ育った雫石(しずくいし)光子さん(86)は、町民陸上競技場跡地に建設された災害公営住宅に15年7月から独りで住んでいる。津波で自宅を流され、避難所を経て3年間の仮設暮らしを強いられた。今は苦難から解放され、充実した日々を送っているという。 「震災前に住んでいた地区の人々の約半分が、津波で亡くなりました。助かった人も町外に出て行くなどしてばらばらになり、話し相手も減りました。でも、この建物はしっかりしていて快適で、すっかり慣れました。これからも健康で平穏に生きていければ、と願っています」 それでも、なお約2000人が入居する仮設住宅には、厳しい現実がある。 「仮設での暮らしは本当にきつい。冬は寒くて夏は暑いので、体にこたえる。いつまで我慢すればいいのか」――。高台の一角にある町総合体育館近くの仮設住宅に住む木村悟さん(66)は、入居予定の公営住宅がなかなか完成しないことに、いら立ちを募らせている。4月に入居予定だったのが、工事の遅れで1年後の2017年4月に延びてしまったからだ。造成完了待ちきれず、町を出る住民も造成完了待ちきれず、町を出る住民も 仮設住宅に長男、中学生の孫と3人で暮らす木村悟さんは、今は主に家事を担当。「孫の弁当も作ってあげているよ」仮設住宅に長男、中学生の孫と3人で暮らす木村悟さんは、今は主に家事を担当。「孫の弁当も作ってあげているよ」 「長男とその中学生の息子と3人暮らしだから、4畳半2間では狭すぎる。壁が薄くてプライバシーを守れないし……。気が滅入るよ」。津波が来たときはたまたま町外の知人の家にいて命拾いしたが、自宅は流され、最愛の妻を失った。女川原子力発電所施設での避難所暮らしの後、山形県天童市の長女の家で約3年間生活した。だが、大型漁船や港湾工事に使用する船に乗って長年仕事をしてきたこともあり、海に強い愛着があった。「やっぱり故郷の方がいい」と、2014年に長男らと一緒に戻った。 無料の仮設住宅と違い、公営住宅では月1―2万円の自己負担が必要になるが、それでも「仮住まい」よりはずっといい。木村さんは穏やかな表情を浮かべながらも、強い口調で訴える。「よほどの大災害だったから、復興に時間がかかるのは理解できる。でも、いつまでも行政に頼れないと思っているからこそ、とにかく落ち着ける居場所がほしい」 こうした声を同じ地区の仮設住宅に住む女性(56)からも聞いた。「うちは子供のこともあるし、町が造成した宅地に自力で家を再建する予定ですが、完了するのは2018年春だと説明されています。そのころには土地の値段もどうなっているか分かりませんし、予算の計画が立てにくい。最長でも震災後5年のうちには出られると思っていたのに……。近所のかなりの人が、待ちきれずに、仙台や石巻にいる子供のところに引っ越したり、宅地造成や災害公営住宅の建設が早く終わった別の自治体に移ったりしています」高台少ない上に、固い岩盤で工事難航 今回で震災後の女川への訪問は5回目になるが、町は当初から住宅確保を最も重視していた。しかし、女川は他の被災地と比べても、住宅地や中心市街地を含めた町の大部分が酷く破壊された上に、もともと住宅に適した高台が極端に少ない。しかも、造成予定地は予想以上に固い岩盤が多く、工事が難航している。須田善明・女川町長は「苦境の中でも、町民とともに『攻めの姿勢』で前向きに努力したい」 土地造成の手続き自体、全国に散らばる多数の地権者からの同意を得なければならず、思いのほか手間取っている。町によると、離・半島部を除く中心部の災害公営住宅は、本年度末時点で全体の28%が完成する見込みで、2年後の2018年春にようやく全戸が完成する予定になっている。 須田善明町長は、「当初から復興には相当に時間がかかり、人口も大きく減ることは覚悟していた。それでも、町民の住宅確保は最優先の課題だ。特殊な重機を導入したり、岩盤を砕く発破作業を加速したりして、できる限り早く工事を終わらせるようにしたい」と話す。 仙台とは対照的に、震災後に過疎化、少子高齢化がますます深刻となり、見通しは依然として厳しい。そうした中でも、自治体として被災者の期待に応えなければならない。須田町長は「新しいことにどんどん挑戦する町にする」とも強調した。それを実現するためにも、まずは町民の居住基盤の確保を急ぐ必要がある。きくち・まさのり ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。『北海道新聞』の記者を経てフリーに。『AERA』『中央公論』『新潮45』『プレジデント』などの雑誌を中心に人物ルポ、社会派ルポなどを執筆。著書に『速記者たちの国会秘録』(新潮新書/2010年)ほか。

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    フクシマに翻弄された酪農家夫婦の5年

    0年間続けてきた酪農をこの日、廃業した。福島第一原発から25キロにある酪農家 2016年3月11日、東日本大震災の発生から丸5年を迎える。ちょうど5年前、東京電力福島第一原発は津波に襲われて電源を喪失したことで、未曾有の原発事故を引き起こした。放射能汚染で周辺住民は避難を余儀なくされ、現在でも多くの避難民が一時帰宅を除いて故郷に帰還することはできない状態にある。 著者は事故発生の直後から、原発から25キロほど離れた福島県浪江町津島地区の酪農家夫婦の取材を続けてきた。夫婦は40年にわたり、二人三脚で、酪農一本で暮らしてきた。 三瓶夫婦にとって、この5年は一体どんなものだったのか。「酪農は私たちのすべてです」といって憚らなかった夫婦が事故から5年を目前に廃業の決断をした背景には、福島原発事故の亡霊に翻弄され続けてきた苦悩があった。 最初に三瓶夫妻を取材で訪ねた時、彼らは毎日、浪江町の自宅から30キロほど離れた仮の牛舎へ、牛の世話に通っていた。というのも、原発事故で自宅の牛舎に牛は置いておけなくなり、仮牛舎に移動させていたからだ。 夫妻は事故のすぐ後、牛を残して一度は避難した。だが彼らにとって、牛は単なる収入源というだけではない。避難先でも愛おしいという想いが溢れ、見捨てることは到底できなかった。 そして浪江町の自宅から車で1時間ほど行った、原発から遠く離れた本宮市に牛舎を見つけ、牛を全頭移動させた。妻の恵子は当時、何としても酪農を続けたいと語っており、彼らにとって仮牛舎に移動したことは大きな前進だった。寡黙にてきぱきと牛の世話を続ける夫の利仙はある日、浪江町の自宅に帰ると、「1時間かけて通うのは遠い」と本音を漏らしながらも、どこか嬉しそうに見えた。本宮町にある仮の牛舎に入って間もない三瓶夫婦。2011年5月23日。撮影:郡山 総一郎 そんな生活でも、当時は、帰還して再び以前と同じ牛舎で酪農を続ける希望は捨てていなかった。いつでも牛が戻れるようにと、空になった自宅牛舎の清掃を怠らなかった。牧草を敷き、牛が戻った際に滑ることがないようにとカビを防止する粉を牛舎内に撒き続けていた姿が、著者の目には焼き付いている。妻の恵子は「当時は、先があるんだという漠然とした希望があった」と述懐する。 だが結局、いつまでたっても東電の事故は収拾の目処が立たず、数カ月後には三瓶夫婦も仮の牛舎に近いアパートに引っ越した。拠点を移動し、夫婦は酪農を再開する準備を始めた。牛ごと拠点を移し酪農を再開したものの…牛ごと拠点を移し酪農を再開したものの 酪農は大変な労働を必要とする。早朝から3時間ほどをかけて搾乳と清掃を行い、牛に餌を与える。昼にも餌を食べさせ、夕方から再び搾乳と清掃を行なう。乳牛は搾乳を続けなかったり、牛舎の清掃を怠ると病気になるため、毎日の作業を休むわけにいかない。 だが再開後すぐに、夫婦は問題に直面する。放射能汚染の風評被害だ。当時、福島産のほうれん草や原乳から、厚生労働省が定めた暫定基準値を上回る放射能を検出されたこともあり、すでに福島産品に対する風評被害が広がっていた。この現象は「福島差別」などと呼ばれた。事故後やっと牛乳を出荷できるようになって間もないある朝に作業をする三瓶恵子。2011年12月26日。撮影:郡山 総一郎 それでも夫婦は出荷を諦めず、当時義務化された生乳の放射能検査を始めた。1週間に1回の検査で、3回連続して規制値を下回る必要がある。ペットボトルにとれたてのミルクを注ぎ込み、回収に来た酪農組合員に手渡した。結果的には放射能汚染はなかったが、最初は商品にならないために、生乳を捨てながらの作業になった。 そんな問題を乗り越え、それから数年は、赤字を出しながらも、牛乳の出荷を続けた。三瓶夫婦が数年にわたり地道に酪農を続けてきたのは、なんとか元の生活を取り戻し、酪農で生計を立てられる生活を取り戻すためだった。本宮町の牛舎で赤字を出しながら操業を続ける三瓶夫婦。2012年7月20日。撮影:郡山 総一郎巨額賠償金の明暗 そんな中、2013年12月に政府はそれまで目指してきた「避難者全員帰還」という方針を断念。三瓶夫婦はこれで完全に拠点を借りている牛舎に移した。そして避難指示が長期化する帰宅困難区域の三瓶一家などに対しては、東電などから一括で賠償金が支払われることになった。 そしてこの賠償金が思いもよらぬ苦悩を生んだ。賠償金がまとめて支払われたことで、一気に働く気力を失ったのだ。三瓶は「何も状況は変わっていないのに、通帳に見たことないような金額が入った。それを目の当たりにしたとたん、抜け殻のようになってしまった」と言う。 その金額はまさに「宝くじが当たったようなもの」だったと、当時、何人もの避難者が言っていた。事故の被害を考えればこの表現が適切なのかどうかは分からないが、国の試算によれば、帰宅困難区域に暮らしていた一般的な4人家族には1億675万円の賠償金が入った。三瓶夫婦の場合、そうした賠償金に加えて牛舎や酪農機器、土地建物の賠償などがまとめて銀行に振り込まれた。 ちなみに被災地は現在、3つの区域に分けられている。放射線量が最も高いため原則立ち入り禁止の帰還困難区域、立ち入りは出来るが宿泊は出来ない避難指示解除準備区域と居住制限区域だ。賠償金は「居住制限区域」の4人家族で7197万円、「避難指示解除準備区域」では5681万円が支払われている。だがすぐそばに住んでいたのにもらえる金額が違うという現象も起きており、5年経った現在でも揉め事に発展しているケースもある。 三瓶夫婦は、かつて近所に住んでいたが補償金の少なかった知人から当時、「あんた、もらえっからええね」と嫌みを言われた。「そんな言葉がでるなんて、大金の前では被災者同士の思いやりはちっぽけなものになってしまった」と、妻の恵子は嘆いた。 そんな状況でも、三瓶夫婦は酪農を立て直すことに尽力した。ただ、意外なところからも足を引っ張られた。”アベノミクス”だ。言うまでもないが、アベノミクスとは2012年12月に誕生した安倍晋三内閣の経済政策を指す。このデフレ対策により円安が進んだため、ほとんどを輸入に頼る乳牛の飼料代が高騰し、毎月赤字を出しながらの操業からなかなか抜け出せなかった。 それでも”設備投資”の意味で、賠償金から血統の良い牛を数百万かけて購入することもあった。借家の牛舎でできる投資は、そのくらいしかなかったからだ。ただ新たに産まれる子牛を売るなど副収入がある時には、経営が黒字になることもあった。なんとか踏ん張りながら、酪農を続けた。断念 しかし2015年9月までに、別の深刻な問題が浮上する。牛の堆肥を処理できない状態になったのだ。それまでは別の牛舎に頼んで処分していた牛の堆肥が、その牛舎側の様々な事情が重なって難しくなったのだ。堆肥が処分できなくなると、酪農はできなくなる。 三瓶夫婦は思案を尽くした。そして酪農を諦めることに決めた。廃業だ。 妻の恵子は、「5年間がむしゃらに生きてきた」と言う。「難しいのは分かっていたけど、最初は3年やってダメなら辞めようと話していたんです。だけど補償金などもあったから経営は続けることができた。そうだとしても、やはりこの歳でリタイアは悔しい」。夫の利仙も、「賠償に甘えなきゃ経営が成り立たないなら辞めるべきだという結論に至った。5年の節目までに、ね」と語った。 三瓶夫婦は、いよいよ牛を手放すことが決まってから、改めて自分たちが積み上げてきた40年の重みを実感したと言う。「これで本当に終わりなんだという思いが溢れてきた」と恵子が言うと、夫の利仙は、「はっきり言って、先代から続けてきたのに残念でならない」と嘆いた。 現在、夫婦は牛舎から離れた場所に新居を建て、それぞれ新しい仕事を始めている。夫の利仙は、介護施設にある農場の管理や機器の整備をする仕事に従事する。初めて経験するサラリーマン生活である。妻の恵子は、知り合いの牛舎で日に数時間だが搾乳などの手伝いに出ている。 これまでほぼ365日乳牛に触れてきた妻の恵子は、新たな生活習慣にやっと慣れてきたと笑った。そう言いながらも、ボソッとこんな本音を吐露した。 「正直言って、すべてを元どおりに戻してくれるなら、これまでもらったお金はすべて返してやるって今は心から思っていますけどね」注)帰還困難区域:放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施避難指示解除準備区域:将来的に住民の方が帰還することを目指す地域居住制限区域:復旧・復興のための支援策を迅速に実施し、住民の方が帰還できるための環境整備を目指す区域やまだ・としひろ 講談社、ロイター通信社、ニューズウィーク日本版に勤務後、現在、米マサチューセッツ工科大学(MIT)でフルブライト研究員を経てフリーに。国際情勢や社会問題、サイバー安全保障を中心に取材・執筆を行い、訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)、『あなたの見ている多くの試合に台本が存在する』(カンゼン)、著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ハリウッド検視ファイル〜トーマス野口の遺言』(新潮社)。

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    日本人の「決定」〜反原発主義は背景化する

    田中俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表)「日本」らしい 福島県の放射線問題は、原発事故の被害問題を考えるときに非常に「日本らしい」問題を含んでいると、この頃感じ始めた。 それは、「日本」からは誰も逃れられないということであり、放射線の問題にナイーブになればなればなるほど、今現在福島県に住んでいる200万人の人々の生活のあり方はとりあえず置いておかれる問題だ。 具体的には、どれだけ数値的には安全なものだと行政や医療機関が報告しようが、放射線の長期的影響は現時点では厳密には予測できないことから、それら報告の信ぴょう性を疑う人々がいる。 またここに、長年の「反原発主義」と原子力行政への疑いが重なり、すべてのことにおいて慎重になる人々がいる。 その気持ちは僕もわかる。わかるから、そうした潔癖主義には同調していきたいところだ。 が一方で、今日も福島の人々や福島の子どもたちは生活している。 僕は大阪で生きており、福島第一原発からは遠く、原発事故が引き起こした「汚染エリア」からも遠いところで生活している。 そうした立場では何でも好きなことが言えるが、言わないように僕は倫理的に自分を警戒している。 その「警戒」のひとつとして、福島県のすべての状況は「あぶない」などと言うことが含まれる。「日本」の倫理 ガンは長期的に発症し、原因が特定しにくいため(甲状腺ガンすら生存可能性が心配されるほど拡大するまでの発症期間がつかめていないという)、福島第一原発の事故が巻き起こした放射線がどれだけ数十年後のガンの原因になるのかは、いまの時点ではわからないようだ。 スクリーニングよる「発見」の多さは原発事故と直接はつながりにくい、原発事故が原因による発症は今のところはつかみにくい等、多くは否定的論証として(〜ではないから危険だとは言えない)言うしかない。東京電力福島第1原発事故から8カ月後の4号機の原子炉建屋=平成23年11月12日 それが、科学というものであり、特に誠実な科学(誠実な医学や誠実な社会学)であろうとすると、そのような「否定神学的」実証しか難しいと思う。 一方で、福島では200万人の人達が生活している。その中には子どもも含まれるし、避難所で今なお生活する人々も含まれる。 当然、そのような方々の生活も射程に入れなければ、「誠実」な福島原発に関する議論とは言えない。要するに、福島県で生活する人々のガンへの罹患性も視野に入れて、「反原発主義者」は、原発の危険性や子どもたちの健康について議論する必要がある。 この「必要性」こそが、福島第一原発を抱える「日本」の倫理だ。「他者」の声 日本は狭く、福島県のすぐ隣に茨城県や宮城県や山形県がある。 この「狭さ」から我々は逃げ切ることはできない。 その狭い領土の上に繁栄は築かれ、その土地の上で高齢化がすすみ、そして原発事故がある。 放射線からは逃れようのない狭い領土に1億2,000万人の人々が今も生息する。その狭さからは誰も逃れることはできない。 誰も、福島県の人々のことはカッコ(「  」)に入れて、放射線の危険性や子どもたちの健康を語ることはできない。 種々の情報においては、現在の福島県は安全だとされている。 この「安全」を疑い始めると上記のようにキリがなくなる。僕は信じている。 どこかでこの「安全」を受け入れる「決定」が必要なのだ。 これはデリダの言うように、「幽霊/ゴースト/他者」の声として我々に響いてくる。 この他者の声を受け止めることが「倫理」だと僕は思う。この狭い領土の中ではどこにも逃げることはできず、他者の声に従い、みながここで生きていくしかない。 反原発という「主義」が背景化し、幽霊の声が我々をつつみ、今ある情報がよほど怪しいものでないかぎり受け入れていくしかない。こんな「日本」からは誰も逃れられない。 そうした「倫理」として、この問題に関わりながらも潜在化する人々の声が、他者の声が、僕に呼びかけるのだ。(2016年2月8日「my donuts  田中俊英のもうひとつのブログ」より転載)

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    原発事故で自主避難の選択も 福島県の親よ、行動は全て正しい

    事故で自主避難している親子、していない親子へ。福島県の全ての親へ。あなたの行動は正しい。] 3.11東日本大震災、福島第一原発事故から5年。様々な親子が、様々な道を通ってきました。どの選択をした親も、その時々で、最善のことをしてきました。3.11東日本大震災・原発事故・「自主避難」 3.11東日本大震災による福島第一原発事故。国の避難指示が出ていない地域から、放射能の影響を心配して、自らの判断で自主避難した人たち。特に子どもを連れた母親が目立ちます。 同じく原発のある新潟県での調査によれば、やはり半分以上の親が自主避難したいと答えています。<もしも原発事故が起きたら54%の親が子を連れ自主避難:原発がある地域での調査> 私は、福島県内で出産子育てしても何の問題もないと考えています。現実に多くの人々が暮らしています。しかし、不安を感じる人々がいることも理解できます。私が震災後に福島県を訪問した時も、お母さん方はまるで天気予報の話題を話すように、放射線レベルの話をしていました。自主避難した人、しなかった人 自主避難した人、しなかった人、自主避難先から福島県に戻った人、戻らなかった人。それぞれの悩みがあります。 たとえば、いわき市は福島県内からの避難者が大勢います。そのいわき市から、県外へ自主避難している人たちがいます。友人や家族は福島県内いわき市内で暮らしているのに、自分たちが自主避難することに罪悪感を感じる人もいます。周囲に挨拶もできず、転居した人もます。「ガンばっぺ!いわき復興祭」2011.10筆者撮影。大勢の親子が楽しんでいました 一方、福島県内に残った人たちの中には、本当は自主避難したいのに、様々な事情から避難できない人もいます。不安を持ったり、罪責感を持つ人もいます。 福島県内で子育てする人を非難するかのような発言をする人もいます。放射線に関する考えは様々ですが、残念ながら福島県への愛を感じない発言も散見されます。 福島県民のみなさんの考えや思いも様々です。 私がお会いしたある福島県職員の方は、おっしゃっていました。自分はこの先何があっても一番最後まで避難しないけれども、自主避難を決断した人の気持ちも尊重したいし、応援したいと。 自主避難した人も、自主避難しなかった人も、どちらも支援したいと思います。日本全体で福島県や福島県民を支援できないとしたら、そんな国に原発を持つ資格はありません。自主避難先から福島県に戻った人、戻らなかった人 自主避難先では、避難者同士のコミュニティーができたりします。互いに悩みを共感し、助け合います。その中から、福島県に戻ることは、心の苦しみを伴います。自主避難した時の様子にによっては、戻る先での人間関係に不安を持つ人もいます。 自主避難、強制避難してきた子どもたちは、当初希望とやる気にあふれていました。自分たちが、福島に戻り福島を復興させると力強く語っていました。しかし、現実は厳しいものがあります。自主避難先に定住を考える人もいます。高校入試が、一つの分岐点です。徐々に元気な発言が減ってきた子どもたちが悪いわけではありません。希望を持たせられない大人たちの責任です。 福島県に戻る人も、避難先に定住する人も、どちらも支援したいと思います。どちらを選んだ親子も、新しいい希望が持てるように、日本中で支援します。福島県の全ての親たちへ福島県の全ての親たちへ 自主避難した人、しなかった人、避難先から戻った人、戻らない人。どの親の選択も、私は正しかったと思います。子育てはトータルで考える必要があります。どこに住むかは大切ですが、それだけで子どもの人生は決まりません。 それぞれの住む場所で、良いことも困ったこともあるでしょう。不都合なことがあれば、別のことでフォローすれば良いと思います。 自主避難するべきか、しないべきか、戻るべきか、戻らないべきか。子どもと家族のことで悩んでいる親は、それでもう十分です。どんな親も、完璧な子育てはできあません。お金が足りなかったり、時間が足りなかったり、転勤になったり親や祖父母が病気になることもあります。それぞれの事情の中で、親は一生懸命考えて、子どものためになることをしようと心から努力します。福島県南相馬市原町区。朝日が慰霊碑に刻まれた犠牲者の名を照らし出した=3月11日午前6時20分 結局どれが最善の正解なのか。それは誰にもわかりません。どれを選んでも、一長一短です。でも、悩んでいる親は、その時その時に最善のことをしたと、私は信じています。あなたは事情が許す範囲で、最も良いことをしました。これほど子どものことを考えてくれる親がいるなら、その子は幸せです。 地震や津波さえなければ、原発事故さえなければという思いは、この先も続くかもしれません。後になって考えれば、ああすれば良かった、濃くすれば良かったと思うことはあるでしょう。後から考えれば、反省点もあるでしょう。ただ、反省は必要でも、後悔して落ち込んでも良いことはありません。 あなたは、その時その時に、最善のことをしてきました。決して子育てに失敗などしていません。日本中が福島県出身の親子を応援し、子どもの幸せを祈っています。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ふくしま子育ての知恵発信事業:ふくしま親学チャンネル「HOT HUG:ほっとはぐ」 福島県の親向けのサイトです。私をはじめ、多くの方々の動画メッセージがあります。ふくしま子育ての知恵発信事業:ふくしま親学チャンネル「HOT HUG:ほっとはぐ」動画メッセージ心の傷と癒し方:大災害時に様々な心の症状が出るのは当然です。どんな症状が出る可能性があるのかを理解すれば、落ち着いて対応できます。甘えも、乱暴も、症状は必ず治ります。親御さんが自分自身を守る:子どもを守るために、親自身の心と体と人生の健康を守ろう。大人だって辛い。自分を守ろう。子どもは親の幸せを望んでいます。子育てにとって大切なこと:子どもに癒しの場と活躍の場を与えよう。悩んでいる親は、それでOK。その親は、その時々に最善のことをしています。希望は、悲しみと苦しみの中から生まれます。(Yahoo!ニュース個人より2016年3月11日分を転載)

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    地震と放射能を道連れに 明けない夜は無い

    いついたときにつぶやく感じで、最初は熱心ではなかったんです。和合亮一氏(川畑希望撮影) 3月11日に東日本大震災が起きて、16日に妻と息子が山形に避難して一人になって、ほかの福島の住民もどんどん避難していく。5分とか10分に一回、余震に揺られながら、なんでこんなことになってしまったんだろうとか、もっと大きな爆発が起きたら自分も避難しなくてはいけないとか、もう福島は返ってこないとか、いろんな思いが交錯して。すごく孤独な気持になって、この状況を書きたいと思った。そしてその時、ツイッターがあるってひらめいたんです。「放射能が降っています。静かな夜です」 自分がツイートしたもので、一番最初に大きな反応があったのが、「放射能が降っています。静かな夜です」という一行なんですけど、それを色んな人がリツイートしてくれました。どんどん広がって、読んでくれる方が増えてくると、だんだん物を書く自分が思い出されてきた。  3月11日に東日本大震災が起きて、12日に福島第一原発の1号機が爆発した。避難所にもいましたが、原発爆発のニュースが繰り返し流れて、受動的というか、消極的と言うか、没個性的と言うか、なんか呆然として「言葉にできない」という感じでした。福島第1原発事故関連 原発から10キロ圏内を捜索する福島県警 =2011年4月14日午後、福島県浪江町(大山文兄撮影 防護服を着用して撮影を行っています) 震災後1カ月の間で1002回の余震があったのですが、その中で揺らされるたびに、覚醒していく感覚があった。揺さぶられて、目覚めさせられていくような感じ。地震に揺られながら、物を書き続けることで自分の考えが生まれて、戦おう、向かい合おうっていう気持ちになっていったんです。 一晩中、ひとり部屋に閉ざされて、孤独なんですけど、ネットではどんどん広がっていって。フォロワーも1万、1万5千、2万と増えていった。不特定多数の方からメッセージをいただいた、孤独の深まりを感じると同時にツイッターを通してたくさんの人とつながっているっていう、正反対の感情がありました。最初は不定期だったんですけど、リアルタイムで読みたかったというメッセージも多くて、それで夜の10時からやりますと予告をするようになったんです。  ツイッターを読んだ人から精神状態を心配する声がありました。明らかに人格が違う、と。「私」と「僕」と「俺」、3つの主体がでてきて。すごく乱暴的な主体が俺…、僕というのは情けない自分…、私というのは中立の自分…、その3つが入り混じる…。これはこれまでも書いてきた現代詩なんです、と伝えようと思って、3回目で「詩の礫」と言うタイトルをつけました。大きな地震があって逃げようとしてドアを開けた瞬間に「詩の礫」という題名がひらめきました。 瓦礫の「礫」なんです。震災でこのような風景になった(震災の被害を撮影した著書『詩の礫』のカバー写真を指して)。この印象がまず目の前にあります。礫のように降ってくるっていう意味もあるし、礫のように投げるという意味もあるし、すべてが瓦礫になってしまってその中から詩を拾い上げるという意味もある。すべてが崩壊してしまったという感じがありました。大きいものに対して小さくても投げていくという感じですね。ここまで追いつめられたのであれば歯向かってやる 夜の10時から始める「詩の礫」はほとんど即興なんです。2時間くらいの間に60~100くらいツイートをするのですが、朗読をするときのように、ゆっくりツイートをしていって、最後はたたみかけるように短い言葉を連続的にツイートをしたり、リズムをつくったりすることができるんです。私は20代のころからずっと詩の朗読をやっているのですが、朗読会の感覚と似ているんです。和合亮一氏のツイッター 「詩の礫」では「ぶっ殺してやる」とか、地震を「めちゃくちゃにしてやっぞ」とか乱暴で攻撃的な言葉も出てくる。これはやっぱり物を書いているからこその感覚かもしれませんね。書くってことは引っ掻くっていうことから語源がきている。ある意味、大なり小なり攻撃的な何かってのは必ずあるわけですね。地震を「めちゃくちゃにしてやっぞ」っていうのは本当にこの言葉通りで、地震をやっつけてやるみたいな気持ちなんです。ここまで追いつめられたのであれば歯向かってやるみたいな、窮鼠猫を噛むみたいな感じです。書けば書くほど怒りが増していって、来るなら来いっていう気持ちにどんどんなっていきました。 その時はアパートにいたのですが、残っているのはほとんど私だけ。どんなに大きな地震が来ても家具が倒れても、アパートが壊れても最後まで書くっていう気持ちになっていました。一人で泣いたり、大きな声でワーって叫んだりしたこともありました。眠れないし、食べるものもないし、水もないし、お風呂にも入れない。毎日風呂に入らないと駄目なタイプなのに、十日ぐらい入れなかったのがこたえました。福島県双葉町(川畑希望撮影) 放射線の問題もあって外にも出れませんでしたし、ひたすら言葉にしがみついていたというか。頭が白熱していて地震が起きてもツイッターを止めず、パソコンを抱えて打ちながら、階段を下りていくというようなことが何回もありました。階段を降りて、アパートのドアを開けてしまうと放射線が高いから、ドアをあけるべきかどうかの瀬戸際で、入り口でパソコンを打っていたことが思い出されます。 詩の中で「明けない夜は無い」っていう言葉が繰り返し出てくるのですが、特に3月16日に書いた時は、すごく絶望しているんです。「地震と放射能を道連れに」っていう言葉のあと、最後に「明けない夜は無い」って書いたのですが、これは無意識に、自然に湧き出たものです。詩の最後の区切りに書くようになって、「明けない夜は無い」って書くと、詩の終わりなんだっていう印になっていった。今でも詩の礫のサインを書くときに、明けない夜は無いって書いてくださいって言われることがあります。無意識というか、浮かんだことをそのまま書いているので、祈りを込めて書いたのだと思います。 震災から5年が経ちました。「明けない夜は無い」っていうその言葉を改めて考えると、まだ本当に明けてはいないですね。夜明けっていうのはいつ来るんだろうって考えると、呆然としてしまうところがあります。 避難者が十万人超えたり、孤独死や震災関連死が増えたり、補償が打ち切りになったり、汚染土が未だに行き場がなかったり…。家族を失った悲しみは到底癒えるものではありません。『詩の礫 起承転転』(2013年、徳間書店)に書きましたけど、やっぱり「無かったことにされちまうんじゃないか」っていう、そういう不安を持っているんですね。日本人みんなの心にトゲが刺さったまま 3月9日に刊行された新作『昨日ヨリモ優シクナリタイ』は『詩の礫』(2011年、徳間書店)と『起承転転』の延長上にある詩集です。いまでも、福島で暮らす人間のみならず、日本人みんなの心にトゲが刺さったままだと思っていて、5年目にこういう気持ちでいるんだということを言葉にしたいと思ったんです。 「ふるさとに」ふるさとに今すぐ帰りたいという男とふるさとに帰りたくてもそうすることが出来ないという男とふるさとなどもともと知らない男とふるさとを早くに捨ててしまった男とふるさとについて誰彼ともなく語り始めたふるさとについて誰彼ともなく口をつぐんだふるさとについて誰彼ともなく目を細めたふるさとについて誰かが耳をふさいだある男はある男にきみはうらやましいと言ったある男はある男にきみは楽天家だと言ったある男はある男にきみは考えを変えるべきだと言ったある男はある男にきみは寂しい生き方をしていると男たちはいつしか話を止めたそろそろ別れを告げて良い機会なのだろうある男がある男の肩をたたいた別の男は泣いた和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店)より 「故郷」については色んな考えがあって、もう帰れなくてもいいという人もいれば、絶対に帰りたいって人もいる。ここに書いた通り、多かれ少なかれ、みんな温度差があると思います。家族が分断されて、離れ離れに暮らしている家族も多い。その中で故郷とは何かって問われ続けているんじゃないでしょうか。でも故郷を奪っていいものではないと思う。それが人災なわけです。「対話」という詩があります(下記参照)。実際に小高駅の前にいらっしゃったご夫婦に直接聞いた話で、仮設の暮らしを続けていて、もう会社も学校も病院も元には戻らないだろうし、とても心配だとおっしゃっていたお話を聞き書きました。そんな中で避難指示解除になる。帰っていいよって急に手放されてしまっているような現状。戻っていいのか、戻らない方がいいのかっていうことを悩みすぎてしまう。今、そういうことで精神的ストレスを抱えている人が多くなっているそうです。 もちろん、故郷に早く帰りたいという話もよく聞きます。久しぶりに家に戻って2時間ほど掃除をしてきた人が、台所で掃除をしていたら背中をぐっと押されたと。後ろ振り向いても誰もいない。窓を開けて掃除をしていたので、暖かい空気が入ってきたのが背中ぐっと押されたと思ったらしいんですよ。その人は久しぶりに帰って来て、家が喜んでるんだなって思って、涙が止まらなかったそうです。すごく独特な感覚ですよね。やっぱり根本は故郷なんですよね。でも故郷に戻ることができればいいってことでもない。最終的には故郷っていうのは人…、人の中にあるものだと思うんですよ。そのことをこの詩の中に書きたかったんです。「対話」「一年目は怒りと悲しみでした二年目は町に本当に戻れるのか不安と恐れでした三年目はあきらめて笑うしかなくなりましたそのまま四年を迎えました 五年目になりました」「今も 毎週のように 青森から幼い息子さんと 娘さんを探しに海辺にやってくる若いご夫婦がいらっしゃいます日曜日の夕方に戻っていきます」「仮設住宅の暮らしをずっと 続けていますが避難指示解除になったとしても 会社も 学校も 病院も元の通りには ならないだろうしあきらめて笑うしかないのでしょうか」「あの若いご夫婦は 少しも笑わずに 探しています姿を見ていると 大海に抱かれているかのようです」  *福島は 津波だけだったら良かったのにねそんなふうに 遠い街で和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店)より「東京目線」っていう合言葉があるんです 自分の家なのに庭に4つの杭が立てられてて、そこに汚染土がいっぱい埋められているという現実もあります。ついさっきまで親しかった大地が急に別の何かのように思えてくるわけです。触るな、手をつくな、みたいな。そんなふうに、汚染された土が削られて、削られたものがまとめられて、近づくなって印を立てられて。…例えば私たちはこんなふうに心にトゲが刺さったままなんです。仮設住宅の問題とか、補償の問題とか、生活圏外の森林は除染を打ち切るとか、そんなニュースを日々見ていると、どんどん苛まれている現実がある。不条理そのものです。かさ上げ工事が進む宮城県南三陸町=3月11日午後(松本健吾撮影) もっと復興は時間のかかるものなんです。たくさんの人や家が津波で流されて辛い経験をした宮城の浜辺のある小学校。先生たちはなるべく子供たちに震災の話をしないようにしてきたそうなのですが、子供達が海辺に行きたいとある時に言いだしたそうなんです。子供達と一緒に海に行ってみました。辛い思い出しかないはずなのに、子供達はそこでやがて詩を書いたり作文を書いたりしました。先生は子供たちのおかげで私たちもやっと海に行けましたと聞きました。まだこのような段階。例えるなら何もない大地にちょっと芽が少しずつ出だした時なんです。それなのに様々な原発は、早くも再稼働に向けて進んでいる。さあいよいよ東京オリンピック…、オリンピックを決して否定しているわけじゃないですけど、さらに私たち日本人が乗っている一本の巨大列車は今、震災前よりもどんどんと加速していっているような気がします。 最近に放送された討論番組で、東日本大震災の特集をやっていたんですけど。最後にコメンテーターが感想として「まだ原発の災害は終わっていないのです」と言って、締めくくっていらっしゃいました。驚きました。これって反対に自分たちの中では災害が終わっているという感覚の現れなんじゃないかって。私たちの感覚では今もなお有事の中にあります。 このことについて悲しんだり、怒ったりっていう気持ちは我々にはおそらくないです。だけど、知って欲しいって気持ちはある。マスコミがどんどんと静かになっていったからといって解決しているわけじゃない。驚くほどの未曾有の震災があって、それなのにこの5年で意識は、原発の再稼働まで既にいっている。一年目、二年目は声を上げられたことが、今は声を上げられない。諦めて笑うしかない。そういう気持ちになっている。福島県浪江町(川畑希望撮影) 言い方は悪いかもしれませんが、我々の間で「東京目線」っていう合言葉があるんです。東京目線っていうのは要するに上から目線ですね。物語の鋳型に当て嵌めないで、リアルタイムで実際に起きている本当のことを分かち合えるようなメディアであってほしい。最初の祭りは去ったのかもしれません。取材に来るメディアも減って、どんどん静かになって来ているし、5年という節目が過ぎると、さらに静かになっていくんでしょうね。今後はもっと内側から何か風を起こすというか、我々が自分達の力で発信していく努力をしていかなければならないと思います。  僕は詩人として福島のために言葉を見つけたいと思う。福島を語る言葉だったり、福島の人の想いを象徴する言葉だったり、トゲが抜ける言葉だったり、言葉を見つけたい。それをみんなと分かち合いたい。そういう文化を発信していきたいです。(聞き手・iRONNA編集部 川畑希望)わごう・りょういち 昭和43年、福島県生まれ。詩人、県立高校国語教諭。『AFTER』で中原中也賞。ほかの著書に『詩の礫』『ふるさとをあきらめない-フクシマ、25人の証言』『詩の寺子屋』など。3月9日に新刊『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店)が発売された。

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    3月11日フィーバーに向けての苦言 本当の主人公は誰ですか?

    吉川彰浩(一般社団法人AFW代表理事)   東北大震災、原発事故から早4年10か月、これほど長期間に渡り被災地の方々が抱える問題に対して、今も毎月にように訪れてくださるありがたい方々がいる反面、ここぞとばかりに、毎年3月11日が近付く時期にだけ訪れてくる人達がいます。 こちら日刊スポーツで報じられた、ロンドンブーツの淳さんの記事 ロンブー淳 原発問題。都合の悪い歴史こそ残そう 原発事故という歴史をきちんと残していこうとする取り組み自体には、大変共感はしますし、有名人の方の影響力を持って発信してくれることはありがたいことです。 淳さんも信念を持って活動されているのでしょう。そして影響力をご自身が持つことを重々知った上で、何十年と続く課題について関わる覚悟をお持ちのことと思います。原発事故被災地域の方との一コマ。笑顔の裏にある抱えている悩みに寄り添うべきでは ですが、この記事を拝見させて頂いた時、よぎった思いはこの時期だからでは?という思いです。そんな風にうがった見方をしてしまうほど、この時期になると有名人、著名人、ジャーナリストといった方々がこぞって被災地域に来られる現状が続いています。応援ならば有り難いのですが、課題を当事者に変わり社会に伝えるとなると「数度見ただけで理解できるほど単純だろうか」「当事者の声が大切なのでは?」などと思ってしまいます。 筆者が普段活動する、福島県浜通り地方にある双葉郡は、原発事故による避難区域が続いている場所です。長期化した避難区域の現状はとても複雑な状況です。それ故に特に顕著です。普段ひとつも足を運ばない人達が被災地へ訪れ、私は被災地に心を寄せ、復興を願っているという姿勢を持って、数日取材で語られる現状は、時に365日24時間、東北大震災&原発事故後に抱えた悩みに苦しむ方々にとっては、ありがた迷惑に思うことも多々あります。 筆者も毎日が復興の最中で暮らす人間です。毎日もくもくと被災地のフェイズに応じて、やるべき事を進めている方々を拝見させて頂いています。約5年も経てば、経済的事情から思いはあっても続けられないことから、また一人、また一人と復興を担う方は減っています。 3月11日が近付くにつれ、現地で悩みながらも前に進む、普段、陽が当たらない取り組み・人達にスポットが当たることは大変嬉しいですし、ありがたいことですが、普段から取り上げてもらえたら・・・と思うこともしばしばです。朝日に照らされる宮城県南三陸町の防災対策庁舎=3月11日午前6時16分(志儀駒貴撮影) こうした3月11日にだけ、陽が当たるフィーバー現象は仕方がないことと思いつつも、改善出来る方法はあると思います。それは問題の本質を本当に理解されている現地の方々が発信力を持つことです。被災された方が発信力を持つには、社会の支えが不可欠 この約5年の中でほとんど変わらなかったことは、被災された方々が自由に発信できる場が構築出来ても、その発信力を持ちえなかったことです。 被災地域の方々は被災がなければ、日本中の皆さんと同じ普通の人達です。発信力を持つことを求めること自体が難しい要求です。TwitterやfacebookといったSNSでの発信などを続けていても、社会の皆さんが見てくれること、広めてくれることに依存しています。現地の方々が発信力を持つために大切なのは、聞き手読み手の皆さんが寄り添ってくださることです。そうした意味で、3月11日が近付くにつれ東北大震災と原発事故被災地が盛り上がっていくことは大きな力を持ちます。誰のための報道、情報発信という考え 誰かの好奇心を満たすために、東北大震災及び原発事故で苦しまれている方々がいる分けでは決してありません。苦しまれている方々が求めているのは、個人の努力では変えることが出来ない現実への救済です。主人公は間違いなく最前線にいる方々、その方々のためにならない有り方は、いい加減にやめる時期に来ています。 3月11日は被災された方々にとっては、心落ち着かずただ静かに過ごしたい1日です。ですが現実は1年で一番騒がしい日です。少しでも被災された方々に心を寄り添うのであれば、せめて被災された方々にとって利する一日であるように願うばかりです。吉川彰浩 1980年生まれ。元東京電力社員、福島第一、第二原子力発電所に勤務。放射性廃棄物処理設備の保守管理(現場管理、工事設計発注、官庁検査対応)を担当。原発事故により福島県双葉郡浪江町より福島県いわき市に避難生活中。福島第一原発、原発事故被災地域の一次情報を社会に伝える為に2012年6月に退職。民間一般人としての震災後初の福島第一原発視察を実現。「次世代に託すことが出来るふるさとを創造する」をモットーに一般社団法人AFWを運営し、福島県双葉郡地方の復興活動、暮らしにおける福島第一原発に対するリテラシー向上活動を被災地域住民の方々と協働で行っている。(2016年1月12日「Yahoo!ニュース」より転載)

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    遺体は撮るのか、撮らないのか? 東日本大震災と被災者家族の記録

    に記憶が風化していく」現実は否めない。だからこそ「誰かが伝え続けていかなければならない」とも思う。 東日本大震災当時、日本テレビの生情報番組の総合演出をしていた僕は、福島県相馬市の実家が被災。そしてその後、自らカメラを回し、「被災した実家の母」を撮り続けることとなる。 その中で感じた被災地のリアルな苦悩、葛藤・・・そして見つけた小さな希望。当時78歳で、一度は絶望のどん底にいた母が立ち上がっていく姿を見て感じたのは「ニッポン人の逞しさ」だった。 もうすぐ震災から5年。これは、テレビマンとして、被災者の息子として、これまで感じた事を綴った記録である。すべては「忘れずに伝え続ける」ために。 震災後に、民放連の会合で各社の記者やデスク、ディレクターが集まり「震災報道」の課題や問題点を共有するために話し合ったことがある。「『遺体』を撮るのか、撮らないのか!?」 甚大な被害を受けた海岸地域には遺体が累々と並び、とても正視できる状態ではなかった。それでもカメラマンは映像を撮り続けた。いかにひどい出来事であっても、視聴者に伝えるためには、映像として記録しなければならない。 しかし、ある社のカメラマンは、「どうせ放送出来ないのだから」と、はなから遺体を避けて、撮影したという。 確かに今の日本のテレビが、遺体が累々と並ぶ光景を、そのまま放送するわけはない。しかしモザイク加工するにしても、もともと映っていなければ、放送しようがない。 この「はなから遺体は撮らない」という姿勢は、果たして正しいのだろうか? どう放送するかはその時々の責任者にゆだねるにしても、映像財産として、「現実」を記録しておかなければ、次の世代にこの災害の真実を伝えられないのでは? そんなことが議論された。結論は出ない。 今回の被害はそれだけ大きく、最前線で取材する記者やカメラマンも困惑していた。何をどうすれば良いのか、迷っていた。かくいう僕自身も。<未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開け> 2011年3月11日2時46分。 当時担当していたお昼の生放送番組「DON!」の一週間の生放送を終え、ほっと一息つき、翌週分の打ち合わせがてら弁当をかきこんでいるときだった。 東京・汐留にある日本テレビのオフィスビルが突然大きく揺れる。その時僕がいたのは29階の会議スペース。ただならぬ揺れに思わず箸をおき、咄嗟にテーブルを握った。 「やばい・・・これはでかいぞ」 瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。揺れは徐々に激しくなり、周囲からは女性スタッフの悲鳴が聞こえた。移動式ロッカーが右に左に激しくぶつかり、凄まじい音をたてていた。 打ち合わせをしていた普段クールなディレクターは、机の下にもぐりこんだ。涙がでそうなほどの恐怖を感じながら、僕はひたすら「早くおさまってくれ!」と神頼みするしかなかった。ようやく揺れがおさまり、思わずテレビの画面を見る。 「東北震度6強」 瞬間、福島県相馬市でひとり暮らす母・順子の顔が浮かぶ。すぐに携帯から電話をするがまったくつながらない。卓上電話を使ってもダメだった。東日本大震災、捜索活動をする消防隊員ら =2011年3月14日午前9時12分、福島県相馬市、合同ヘリから 「お台場が燃えているぞ!」 誰かの声に窓際に面した喫煙所へ駆けつける。見れば、お台場のフジテレビの裏手から、黒い煙が立ち上っていた。正直、「この世の終わり」かと思った。 母は相変わらず連絡が取れない。そのとき耳に飛び込んできたアナウンサーの音声に、僕は思わず目の前が真っ暗になった。 「福島県相馬市岩の子には7.3メートルの津波が押し寄せ、壊滅状態です!」 そこはまさに実家だった。78歳の母が、ひとり暮らしていた。 「なに!? 壊滅って、なんだよ・・・」 言葉を失っている僕の目に、各地の凄まじい津波の映像が飛び込んできた。これが未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開けだった。震災ニュースを放送するだけがテレビではない<震災ニュースを放送するだけがテレビではない>その後、実家の近所に嫁いだ姉からメールが入る。姉の一家と一緒に避難し、母も無事だという。ほっと胸をなでおろしたが、その後の一文に胸を押しつぶされた。 「家はもう、住める状態ではありません」 3カ月前に父が亡くなったばかり。母のショックは計り知れなかった。しかしそんな中でも、デイリーの情報番組の総合演出として、すぐに実家に帰るわけにはいかなかった。こんな時だからこそ、伝えるべきことがあるはず。 番組は既に3月いっぱいで終了が決まっていた。残り2週間のラインナップは既に決めてあり、ほとんどがロケも進んでいた。担当のディレクターたちにはこの番組で最後となる放送。 しかし彼らの渾身の作品は世に出ることなく、そこから全編「震災関連ニュース」で対応する日々が始まった。 CMは自粛、日本中から音楽が消え、笑い声が消えた。 最後まで自分の任務を果たすべきだと日々震災関係のニュースを伝えながらも、心の中では気になるのはやはり実家の事。その頃、地元の公民館に避難していた母は、幸いにも無事だった近所に住む姉夫婦の家に身を移し、お世話になっていた。 震災から1週間がたった頃から、番組に寄せられる被災地からのファックスに、こんな声が目立つようになった。 「子供が毎日泣いています。どうか地震のニュースだけでなく、アンパンマンも流してください。音楽を流してください」 そのファックスを見つめながら、今テレビがやれることは何なのだろう? と考えた。地震や津波の被害は、日々拡大している。それを伝えるのはもちろん大切なこと。しかし、テレビの役割は、他にもあるのではないか? ほんの少しの時間、辛い現実を忘れるために、「笑う」ことも大切なのではないか? 翌週、「DON!」にとっては最後の1週間。これを震災ニュースだけでなく、あえて「通常放送」に切り替えたいと、上司と共に上層部に直訴した。 「まだ早いのでは?」 そんな声がなかったわけではない。だが、「こんな時だからこそ元気を届ける!」のが、この番組の役割ではないかという我々の想いを、会社は理解してくれた。 3月21日の月曜日。番組冒頭で司会の中山秀征さんはこう言っている。 「こんな時、僕たちに何が出来るのか、スタッフみんなと考えました。やっぱり僕たちは、お茶の間に元気を届けたい!そう思いました。今日も明るく元気でまいります!よろしくお願いします」 かくしてスタジオには久しぶりに笑い声がはじけた。 終盤には「龍馬伝」の題字も書いた書家の紫舟(ししゅう)さんと世界的華人・赤井勝さんが生パフォーマンス! 華やかに彩られた花々に囲まれた中に、「日本一心」という大きな文字が浮かび上がった。 「日本一心」 今こそ、日本をひとつに。心をひとつに。そのメッセージは、ダイレクトに胸に伝わった。スタジオの出演者は、みんな涙ぐんでいた。 放送後、姉から携帯にメールが届く。 「被災地へのメッセージ・・・確かに届きました。お母さんが言っていたよ。『がんばって』って百万回言われるよりも、勇気をもらったって」 その4日後、「DON!」は終了した。生きる希望を失った78歳の母が書いたチラシの裏の震災日記<生きる希望を失った78歳の母が書いたチラシの裏の震災日記> ようやく仕事に一区切りついて帰省したのが3月末。高速道はまだデコボコのままで、深夜の高速バスは、時折激しく跳ねながら、故郷へと向かった。 やがて目に飛び込んできた信じがたい光景に愕然とする。道路の脇に、数えきれないほどの流された車や破壊された家の残骸が散乱している。瞬間、自分の中で何かが音をたてて壊れた。 以来しばらく、何を見ても涙はでなかった。涙を出す機能すら、破壊されていたのかもしれない。 実家に帰ると、母は思いのほか元気そうだった。随分と気を張っていたのかもしれない。一緒に家の様子を見に行くが、床上まで津波が押し寄せ、濁流で畳は見えなくなり物が散乱、壁は崩れかけ、確かにとても住める状態ではなかった。 震災のわずか3ヶ月前に事故で亡くなった父が大好きだった「昼寝用」のソファーも、無残に泥だらけとなっていた。 「お父さんはこんな姿見ないまま逝ってよかったね。大好きだったこの家のこんな無残な姿、見たらさぞかしショックだったでしょ・・・」 力なく母がつぶやく。今回の津波で辺り一面は瓦礫にまみれ、親戚がひとり流されて死んだ。そのお婆さんの娘さんも、行方不明のままだった。(のちに死亡が確認された) 「命助かっただけ良かったね・・・」とりあえずかける言葉が見つからず、僕がそうつぶやくと、母は否定するようにこう言った。 「命助かって良かったんだか、どうだか・・・この年で(当時78歳)家がこんな風になってしまって・・・これからの苦労考えたら、いっそ一気に逝った方が楽だったんじゃないか、って思うときあるよ。お父さんを見送る役目は終えたんだから、いま余震が来てつぶれたって・・・もうどうなったっていいよ。命なくした人たちには申し訳ないけどね・・・」 50年連れ添った夫に先立たれ、意気消沈していた矢先の今回の震災。母は、明らかに生きる希望を失っていた。 「このままではまずい」 長男として何とかしなければならないが、今の自分に何が出来るのか。その時、答えは見つからなかった。 その夜、近所に住む姉夫婦の家に僕も泊まらせてもらった。救援物資や水のタンクなどが散乱する中、ふと足元にあるスーパーのチラシに目をやった。 その裏には、母が何かを書き綴っていた。 「3月11日・・・ あの時猛り狂い 咆哮し 大地を襲った海は 本当にこの海だったのか 今は静かに潮騒の中に 白い小さな波頭が見えるだけ 悠々と流れていく雲よ お前は何を見ていたの 小さな蟻のように 人々がもがき苦しむさまを 黙って見ていたの?」 見た瞬間、頭をハンマーで叩かれたような衝撃をおぼえた。そこには、誰にもぶつけようのない憤りや苦悩が、赤裸々に綴られていた。 チラシの裏にとどまらず、孫の学習ノートの余白などにも、母は誰に読ますためでもなく、自分の想いを綴っていた。 (以下、母の震災日記の抜粋) 「きょうも廊下のキャビネットから写真を出して ヤクルト時代(パート時代)の思い出の写真を見ないで捨てた 私の半生の思い出が いっぱい詰まっていたのに。一枚ずつ見れば あれもこれも想い出してしまうから 思い切ってゴミの中へ どうせ私が死んでしまったら唯のゴミに過ぎないのだから」 「相変わらずの放射能騒ぎ 福島県産 野菜 牛乳 不買決定。泣くに泣けない四次災害ではないか。牛乳が飲めないでどんどん捨てられていく 胸が痛む」 「腰は痛いけど 薬もなくなってきた どうしよう 」 その震災日記を読みながら、自分の中で沸き立つ何かを感じた。ディレクターとして78歳の母にカメラを向けた意味<ディレクターとして78歳の母にカメラを向けた意味> 今回の震災に遭い、テレビカメラの前でインタビューに答えられる人たちは、全体から見ればほんの一握り。多くの人が、それどころじゃなかったり、「うちなんか、他所に比べて被害は浅いから」と嫌がったり。 そしてマスコミは、(自分を含めて)どうしても「被害の大きい」所ばかりに目が向いてしまう。しかし、一見被害が小さい一軒一軒それぞれに、それぞれの苦悩があることを見過ごしては来なかったか? 「被害の大きな」ところにばかり目を奪われ、大切な何かを見過ごしては来なかったか?世にでない「声なき声」の中にこそ、「被災地の本当のリアルな本音」があるのではないか!? この未曾有の災害の当事者を、「母と息子」という距離感で記録し、その真実を伝えることが、いまの自分に課せられた使命なのでは? 番組になるかどうかはわからないが、とりあえず僕は「記録」としてカメラを回すことを決意した。震災の記憶を語り継ぐためにも、風化させないためにも、それが、実家が被災したテレビディレクターの務めであるような気もした。福島・相馬市では震災で崩れた上立切橋の仮設橋が完成し、原発への物資運搬に必要な海岸沿いの交通ができるようになった=2011年5月16日、福島県相馬市(鈴木健児撮影) そして筆者は一本の企画書を書く。タイトルは「ディレクター被災地へ帰る」。 カメラを回し始めた当初、母はとても嫌がっていた。 「他にもっとひどい被害の人たちがいっぱいいるのに、被災者ぶって画面にでるなんておこがましい」 と固辞した。しかし、 「被害が大きい所だけ目を向けてたら真実は伝わらない!」 と僕も食い下がった。震災から2ヶ月が過ぎたころ、母を伴って母が育った新地町へ車で行った。海から延々流木や瓦礫が流されて、畑は埋め尽くされていた。美しかった田園風景は凄まじいまでに一変していた。 満州で生まれ、この福島の地へ引き揚げてきたのは母が13歳の頃。故郷の無残なまでの変貌に、母はぽつりとこうつぶやいた。 「ある意味、戦争より怖いよ。戦争は憎むべき相手があったけれど・・・天のしたこと、憎みようがないじゃない」 そのとき、返す言葉は見つからなかった。 その頃、母は津波で半壊した実家を、毎日片付け続けていた。玄関には市役所職員によって「立ち入り注意」の黄色い紙が貼られていたが、泥に埋もれた部屋を少しずつ片付け、捨てるものと使えるものをより分けたりするのが、唯一の母の生きがいでもあった。 「何とかお父さんのご位牌を置けるようにしなきゃ。それがお母さんの務めだもの」 築50年。家族の思い出がしみついたこの家を、このままにしてはおけない。母は東京に来ることも拒否し、「この家に嫁いだんだから、ここで死ぬよ」と口癖のように言いながら、来る日も来る日も片付け続けていた。 そんな母の姿にカメラを向けながら僕は、なんとか早く元気になってほしい、と願わざるを得なかった。 しかし、そんな生活にも終止符がうたれる。「半壊状態」だった我が家は「放置していては危険」という行政の判断から、「解体」が決まった。 震災から7か月。2011年10月のことだった。実家の解体工事に涙した「失格ディレクター」<実家の解体工事に涙した「失格ディレクター」> 実家の解体当日。この日のことは生涯忘れることはないだろう。 築50年の思い出が染みついた我が家がなくなる。老朽化ではなく、津波のせいで。父の遺影を手に持ちながら、母は崩れゆく家を見守っていた。 ユンボが、丁寧に服を一枚一枚脱がせるように壁を剥ぎ取り、柱を引き抜いていく。しかし、父がお気に入りだった「茶の間」の柱は、最後のあがきのようにビクともしない。震度6にも耐え抜いた屋敷が、最後の意地を見せているようだった。 「家が泣いてるよ・・・負けるもんかって泣いてる。お父さんの死にざまと一緒だ。 こんだけ踏ん張って・・・あっぱれだ」 父の遺影を胸に抱えながら、誇らしげに母が言う。 このとき、筆者はカメラを回しているのが辛くなった。 テレビマンとして、記録しなければ、という気持ちと、長男として、家がなくなる瞬間くらい感傷にひたりたいという気持ちが交錯する。 しかしカメラを回し続けた。「俺はディレクターだ」と、自分に言い聞かせながら。 やがて、茶の間の柱も大きく揺れる。瞬間、父の生前の笑顔が脳裏をよぎった。この部屋は、父にとって「小さなお城」だった。その茶の間がなくなる・・・。ついに力尽きたように柱が倒れ、壁が崩れた瞬間母が目を伏せた。 そして今まで、父の葬儀のときも気丈に泣かなかった母が、その瞬間から慟哭をはじめた。 慟哭。それはまさに慟哭だった。母の泣き顔を見るのは、何よりも辛かった。 カメラを回しながら、その顔を見ていられず後ろに回り込む。再び土煙をあげて壁が倒れこんだが、何度ピントを合わせてもうまく合わない。気が付けば、自分の涙で、ファインダーがよく見えなかった。 「ディレクター失格だ。」 その取り壊しの日の日記に、母はこう綴っている。 「まるで・・・自分の手足が切り刻まれているのを見るようで、辛く、苦しい・・・抜けるような青空だったのに、白い雲が寄ってきた。『孫悟空』みたいにお父さんが雲に乗って、家の最期を見届けにきたのかな・・・家の形が何もかもなくなって・・・未練と悔しさと悲しさを、同時に持ち去ってくれるなら・・・それも良しとしよう・・・」 解体の直後、瓦礫の中から意外なものが見つかる。赤い筒に入れられたそれは、津波被害以来どこへいったかわからなくなっていた「金婚式のお祝い証書」だった。 家が崩れ去り、何もかもが無くなった瞬間、その中から出てきた「金婚式」の証書。それはあまりに出来過ぎたタイミングであり、父からのメッセージだと感じざるを得なかった。 証書を握りしめながら目に涙を滲ませて母が言う。 「私は生きてなきゃ、駄目なんだね。生きて、ちゃんと後始末しなきゃ駄目なんだね」 ・・・この証書見たら、元気にならなくちゃね」 母の見上げた視線の先には、青い空に白い大きな雲が浮かんでいた。<1時間のドキュメンタリー番組になった我が家の記録> 翌日、母を伴い再び母が育った新地町へ。5月に来た時、瓦礫に埋め尽くされていた大地には、今は雑草が生い茂っていた。 まばゆく輝く緑に目を細め、母はつぶやく。 「雑草は踏まれても踏まれても立ち上がる。それが雑草の運命・・・人間だって立ち上がらなきゃね。」 久しぶりに聞いた母の前向きな言葉に、カメラを回しながら思わず涙があふれそうになった。そしてその日の母の日記にはこう書かれている。 「おーい、雲よ・・・あの日の雲ではないだろうけど、あの日の私でもないんだよ。あれから・・・しっかり、生きてきたんだよ。塩水にも負けずに雑草が生き延びた。虫も生きている。ならば、人も生きなければ・・・」 震災から1年。撮り続けた我が家の1年間の記録は、1時間のドキュメンタリー番組になった。 「リアル×ワールド ディレクター被災地へ帰る 母と僕の震災365日」(2012年3月放送・番組審議委員会推薦作品・平成24年度文化庁芸術祭参加)「生きてやろうじゃないの!79歳・母と息子の震災日記」(武澤順子・武澤忠著) テレビディレクターである息子が、震災で被災した母を撮り続けながら「家族とは何か」を自らに問いかけるセルフドキュメンタリー。原発による風評被害や親との確執など、すべてをさらけだしてつくった。 この番組は、こんなナレーションで始まる。 「これは震災のドキュメンタリーではない。震災でも壊れなかった、家族の絆の物語」 そして番組の最後は、母のこんな言葉で終わる。 「生きなきゃいけない運命なら生きなきゃね。だけど生きるってことは、辛いこともあるよ・・・死んだ方が楽だと思うこともあった。でも、いま、生きる方向へ向かうのよ。生きてやろうじゃないの!」 ある種、極めて特殊なこのドキュメンタリーは大きな反響をよんだが、中でも注目されたのが番組で引用した母・順子の「震災日記」だった。誰に読ますためでもなく、赤裸々に綴られた78歳の被災者の心情が、多くの視聴者の共感を呼び、やがて出版社から書籍化の依頼がくる。 そして2012年7月、「生きてやろうじゃないの!79歳 母と息子の震災日記」(武澤順子・忠、青志社)が上梓された。「生きてやろうじゃないの!」が生んだ思わぬ運命の波紋<「生きてやろうじゃないの!」が生んだ思わぬ運命の波紋> その後も筆者はカメラを回し続けた。母は次第に生きる気力を取り戻し、日に日に力強くなっていった。 でも本当は母は、必死に「元気になる自分」を演じていたのかもしれない。息子である僕に、心配をかけないように。 そして本「生きてやろうじゃないの!」の出版により、思わぬ出会いが生まれる。「生きてやろうじゃないの!」を読んだ静岡の中学1年生が書いてくれた読書感想文が青少年読書感想文コンクールで賞をとり、その表彰式に母も招待されたのだ。 そこで感想文を書いてくれた13歳の少女と出会い、今でも学校ぐるみの付き合いが続いている。 そして母の言葉に感動したという福島県いわき市在住の歌手・箱崎幸子さんが「お母さんが書いた言葉を是非歌にしたい」と作詞を依頼。本当にCDとして完成し(「生きてやろうじゃないの」作詞・武澤順子 歌・箱崎幸子 キングレコード)、地元いわき市でそのお披露目コンサートが行われ、母も招待された。 夫の死。 震災の被害。 家の解体。 ・・・様々な日々の中で母が綴った言葉は、被災地の人々にどう響くのか。心配しながらカメラを回したが、客席のなかで涙を浮かべながら聴いている人々の姿に、ほっと胸をなでおろした。 客席にいた女性が、インタビューにこう答えてくれた。 「生きてやろうじゃないの!って言葉・・・聞けばそうか、って思うのに、なんでその言葉が自分の頭の中に思い浮かばなかったかなあ、ってことを感じました。素晴らしい言葉ですよね」被災者としての「誇り」<日本人女性の逞、転んでもタダでは起きない東北人魂> 2013年3月。 3年間撮り続けた記録を「リアル×ワールド 3YEARS 母と僕の震災日記」として放送した。その番組を編集しながら気づいたのは、母の表情が、震災直後と比べてみるみる逞しくなっていくことだった。 そして感じたのは、「日本人女性の逞しさ」であり、「転んでもタダでは起きない東北人魂」だった。 放送後、「お母さんの笑顔に勇気をもらった」「自分も被災者だが、番組を見てとても励まされた」など、多くの反響をいただいた。そして息子として嬉しいのは、そうした多くのメッセージをいただき、母がより元気になり、生きがいをもって生きているという事実である。 あるとき、会社のとても偉い方から直接電話をいただいた。 「番組素晴らしかったですよ。ただ、あの日記は本当にお母様が書かれていたんですか?」 「本当ですよ!僕にはあんな文章書けません!」 苦笑いしながらそう言うと、その方はこう言ってくれた。 「素晴らしい文才ですね。お母様は国語の先生か何かされてたの?」 「いえ・・・普通の主婦です」 そう答えたが、本当はこのとき、こう言いたかった。 「僕の母は、日本一のヤクルトおばさんです!」<被災者としての「誇り」> 「もうすぐ震災から5年・・・」 「風化させずに伝えたい・・・」福島県南相馬市の仮設住宅=2月17日 そんな思いからカメラを手に撮影をはじめて、もうすぐ5年が経つ。震災1年半後の夏には、タレントの間寛平さんが岩手・宮城・福島の被災3県を、9日間かけて縦断する「復興支援マラソン」に密着取材。 462キロを走り続けた寛平さんとともに、被災地の様々な表情を目の当たりにした。 「自分が手を離してしまったから妻が津波にのまれ死んだ」 と悔い続ける80歳の男性。 自分が止めるのも聞かずに人を助けに行って亡くなった夫を恨み続ける未亡人。 消防士の父親にあこがれ、自分も将来人を助ける仕事がしたいと語った少年。 原発事故で故郷を追われた一家・・・等々。 あの人たちはいま、どうしているだろうか・・・。普段はまったく違うジャンルの番組をつくっているが、メディアに生きるものとして、少しでも被災地のことを風化させずに伝えられればと、今回寄稿させていただいた。 戦争と震災・・・ふたつの大きな災いを経て、もうすぐ82歳となる母・武澤順子は、最近日記にこう綴っている。 「今度は『被災者』としてではなく、自分自身が、誰かのお役にたてるよう立ち上がらなければいけないと思う。それが震災で受けた多くの御恩に報いる道であり、『被災者としての誇り』でもある」*BS日テレにて「生きてやろうじゃないの!母と僕の震災日記」が放送決定*3月13日(日)11時55分から13時25分(90分)(メディアゴン 2016年3月11日分を転載)

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    福島の被ばく報道はデマだらけ

    福島の低線量被ばくをめぐる報道は、実に嘆かわしい。日本社会の知的劣化と言わざるを得ない状況だ。活動家が、自らの存在価値を守るために、意図的に倒錯して騒ぎ立てるのはある意味で仕方がない。問題は、専門家を称する人たちや、報道を名乗る者たちがそれに乗っかって、拡散させることだ。

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    福島の人々にありもしない放射能問題をぶつける活動家たち

    大江紀洋(Wedge編集部)「若者を殺して賠償を減らす殺人行為」「直ちにやめろ。殺す気か!」「こんな企画をするなんて悪魔のよう」「美談にすり替えた子どもへの虐待」…… 10月10日に行われた「みんなでやっぺ!! きれいな6国(ろっこく)」。福島県の沿岸部、浜通り地区を縦断する国道6号のゴミを拾おうという清掃活動だ。地元を中心に中高生200人を含む1440人ものボランティアが集った。 当日、あちこちで見られた清々しい笑顔の裏側で、主催者事務局を務めたNPO法人ハッピーロードネットには冒頭のような言葉が寄せられていた。理事長の西本由美子さんは、2011年のうちにいち早く広野町の自宅に戻り、浜通りの復興に心血を注いできた人物である。苦情FAXの束を記者に見せた西本さんの表情は、いつもの活力に満ちたそれとは全く違っていた。 抗議のロジックはこうだ。「国道6号は車外に出ることが禁じられているほど高線量で、放射線の影響を受けやすい子どもは危険」「既に小児甲状腺がんがたくさん発生しているのに、掃除で土ぼこりを吸い込めばさらに内部被ばくする」 国道6号が通るいわき、広野、楢葉、南相馬、相馬、新地には現に人が住んでいる。我が町の我が道のゴミを拾う事がなぜいけないのか。車外に出ることが禁じられているのは確かに高線量地点があるからだが、それは帰還困難区域の話。避難指示が残る浪江と富岡は大人たちで掃除することは情報開示されていた。多くの子どもたちにとって国道6号は通学路でもある。 結果を先に示そう。主催者によればボランティアが身につけた30個ほどの線量計は、全て3時間ほどの清掃活動の積算値で1マイクロシーベルト(μSv)未満だった。記者も線量計を持って同行したが、示す値は大抵毎時0.1~0.3マイクロシーベルトで、たまに0.5がある程度。時々わざと道端の茂みに入ってみたが、最高は瞬間値で毎時1マイクロシーベルトだった。3時間の積算値が1マイクロシーベルトに満たないという測定結果は、記者の線量計の測定値とも符合している。 原発事故によって追加される被ばく線量は年間1ミリシーベルト(mSv=1000マイクロシーベルト)以下とするというのが国の掲げる長期的な目標だが、今回の被ばく量はその1000分の1にも満たない量だったということである。 これがどの程度の値なのか、福島県外の人にはピンと来ないかもしれないが、不幸なことにおそらく放射線量に世界で最も詳しくなっている浜通りの人たちは、0.23マイクロシーベルトを基準に考える。 住んでいる地域の空間線量が毎時0.23マイクロシーベルト以下であれば、原発事故によって追加される被ばく線量が年間1ミリシーベルトに収まるというのが、国が示した換算式だからだ。※詳しく説明すると、0.23から自然放射線0.04を除いた0.19マイクロシーベルトを基に、1日のうち8時間が屋外で16時間が屋内で暮らすと仮定し、さらに屋内は遮蔽効果で屋外の4割の被ばくで済むと考えて、0.19μSv×(8+16×0.4)×365=998.64μSv≒1mSv) 同じように考えて、除染目標も毎時0.23マイクロシーベルトとなっている。だから、3時間の積算が1マイクロシーベルト未満(つまり毎時0.33マイクロシーベルト未満)という値なら、地元の人のほとんどは心配しない。 それでも「ゼロ」でないと心配だ! そんな方は、震災前の日本各地の自然放射線量のばらつきを示した図を見ていただきたい。もともと年間1ミリシーベルトに近い、赤色のエリアは結構存在する。有馬温泉などラドンの温泉は放射線が出ているので、細かく見ていけばもっと放射線量の高いところはたくさんある。 原発事故後5年が経過し、多くの実測データも集まっている。各市町村がガラスバッジ(個人線量計)を配布し、個人ごとの被ばく量を調査しているが、この個人線量実績値がほとんどの場合、空間線量から想定されていた被ばく量を下回っていることも分かってきている(1日のうち8時間が屋外で16時間が屋内、さらに屋内は遮蔽効果で屋外の4割の被ばくという仮定が厳しすぎたということ)。 例えば、南相馬市の結果をみると、配布後は約9割が年間1ミリシーベルト以内に収まっている。ガラスバッジ配布前の初期被ばくの推定結果も99%が累積2ミリシーベルト以内である。また、屋外クラブ活動への参加、通学時間といった屋外活動に関連する生活様式は、被ばく量と有意な関係は認められないことも分かってきている。 つまり、そもそも、避難指示が出ているエリアを除いた、人々が生活している地域において、福島の外部被ばくは全く問題になるような値ではないのだ。だから国道の清掃活動をすることにも、地元の人は多くが抵抗を感じない。 いやいや土ぼこりによる内部被ばくが心配だという人々には、10月9日に発表されたある喜ばしい事実を挙げておきたい。事故後、世界にない小児用のホールボディカウンターをメーカーに開発させて、徹底的に福島の人々の内部被ばくを検査してきた研究者グループによるものだ。「Babyscan」で多くの福島の子供たちの内部被ばくを検査した坪倉正治医師(Wedge) 「福島第一原発事故後、Babyscanを用いた内部被ばく検査では2707名の小児、乳幼児全員から放射性セシウムは検出されず」(東京大学大学院の早野龍五教授、南相馬市立総合病院の坪倉正治医師ら)。この論文タイトルが内部被ばくの実態を端的に言い表している。ちなみにBabyscanの検出限界は全身で50ベクレルという恐るべき低さである(1ミリシーベルトの内部被ばくのためには万ベクレル単位のセシウムの摂取が必要)。放射線管理区域のトリック放射線管理区域のトリック しかし、国道6号清掃活動をとりあげた週刊誌の記事タイトルはこうなっていた。「子どもがセシウムを吸い込む“被ばくイベント”が福島で決行された」(光文社「女性自身」10月27日発売号)「放射能に汚された福島“6国”清掃活動は美談でいいのか」(集英社のウェブサイト「週プレNEWS」) こんな記事を見た地元の人々のショックの大きさを、外部被ばくと内部被ばくの実態を知った賢明な読者の皆さんなら、理解することができるだろう。 タイトルに問題はないのだろうか。弁護士に聞いてみるとこんな解説が返ってきた。「どんなに小さな量でも、このイベントでちょっとは追加的にセシウムを吸い込んだり、被ばくしたりしたでしょうからねえ……、被ばくイベントという表現は間違いとはいえないですよね……。原発事故によって、放射能に汚されたというのも事実ですし……」。 裁判とはそんなものと言うべきか、編集部もそこは弁えていると言うべきか。事は裁判に勝てるかどうかという詮ない話ではなく、「integrity(品格)の問題である」(澤昭裕・国際環境経済研究所所長)。 両記事が依拠する理屈は、原発事故で売れっ子になった元・京大原子炉実験所助教の小出裕章氏らがいつも持ち出す「放射線管理区域」のロジックだ。 週プレ流に言うと「放射線管理区域の基準は1平方メートルあたり4万ベクレルだから、それ以上の汚染土壌がある場所には、放射線管理区域と同じように一般人が立ち入ってはいけない」となる。 法令では、原発作業員や放射線技師など、仕事で追加的に受ける放射線量を「5年で100ミリシーベルト」という線量制限に収めるために、放射性物質を扱う人と場所と扱い方に制限がかけられている。放射性物質等を扱う場所を限定するために定められた区域を放射線管理区域という。 「1平方メートルあたり4万ベクレルというのは管理区域を設定する際の基準であって、極めて安全サイドのシナリオに基づいて定められたもの。その数字を安全と危険の境目のごとく言うのは誤りで、誤解を引き起こすトリックだ」(放射線安全の専門家、多田順一郎・NPO法人放射線安全フォーラム理事)。 女性自身と週プレの記事には、東京から駆けつけた「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」なる団体のメンバーが登場する。 お揃いの蛍光色チョッキを身に付けた彼らは、線量計が先についた長い棒を金属探知機のように扱いながら、ボランティアの脇を歩いていた。その線量計が指し示した最高値は毎時1.3マイクロシーベルト。最高値といっても、ゴミ広いだからずっとその場所で暮らすわけではない。仮に10秒そこにいるとすれば、1.3÷3600×10で、たった0.004マイクロシーベルト追加的に被ばくすることになる。これがどの程度の値かはもう説明する必要はないだろう。福島・浜通り地区で開催された国道6号の清掃ボランティア活動に対し、「高線量で危険」と東京から駆けつけた活動家たち(Wedge)「毎時1マイクロシーベルトを超えた! 離れて!!」わざわざ東京から駆けつけて、そう中高生に声かけする「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」のメンバーの様子は熱心にも映る。 しかし、記者は、空き時間にタバコを吸い、N95マスクと口元の間がきちんと塞がっていない彼らの姿を目撃してしまった。これは、発がんリスクを真面目に考えている人たちの行動とはとても言えないだろう。 低線量被ばく問題は難しい。福島の被ばく量が先述の通り小さかったとしても、数十年後の晩発性障害を現時点で完全に言い切ることはできない。科学者たちは誠実であればある程、確たること以外は語りたがらず、「言い切ることはできない」「今のところはわからない」という言いぶりになる。 そして、その不確実性を悪用して、自らの反原発イデオロギーを補強する専門家も存在する。専門家であれば、親・原発だろうが反・原発だろうが、原発へのスタンスとは切り分けて、福島の被ばくの現実に向き合った発言をしてほしいものだが、世にいろいろな人がいるのと同じで、専門家にもいろいろな人がいる。彼らの言葉をうまくつなぎ合わせれば、いわゆる「エセ科学記事」はいくらでも作れてしまう。 これが「エセ科学記事」がはびこる温床なのだが、まともな科学者の間で一定の相場観は共有されている。記者は科学者ではないからその相場観を書いておきたい。――福島の被ばくはチェルノブイリに比べケタ違いに小さい。とくに内部被ばくはあったとしてもごくわずかでゼロに近い。将来、事故由来の晩発性障害が起きる可能性はかなり低い。放射線を気にするなら交通事故から生活習慣病まで、もっと気をつけるべきリスクが山ほどある。福島は「避難が足りない」のではなく「避難させすぎた」。だから、老人ホームなどで1000人を超す関連死を出してしまった―― 本来、いまの福島について語らなければいけないことは放射能ではない。避難による故郷の喪失や賠償金の多寡による軋轢。分断されたコミュニティの再生という問題である。 国道6号の脇によく落ちているゴミで目立つのは、尿が入ったペットボトルや、便入りのビニール袋だという。国道6号は住民たちが行き交うかつての姿はなく、原発廃炉や除染の作業に従事するダンプカーだらけになっている。トイレで下りるのが面倒な運転手たちがそういったゴミを捨てていくのだろうか。住民の多くが避難したまま帰還せず、廃炉や除染の作業員ばかりが目立つ故郷の姿に、どれだけ地元の人々が悩んでいることか。そして、そんな浜通り地区に、外野からありもしない放射能問題をぶつける活動家たちは本当にズレている。 デマは排除できないが、偏見をもたらし、人々を傷つける。迂遠な取り組みかもしれないが、デマに騙されないリテラシーを多くの人が身につけるしか悪意ある活動家に対抗する術はない。

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    福島のエセ科学者による科学信仰の罪

    越智小枝(相馬中央病院 内科診療科長)「結局のところ福島は安全なんですか、危険なんですか」 福島についての話をすると、今でもそのような質問を受ける。しかしノウハウ本のような「結局Yes/No」という回答を求める方には、今の福島を理解することはできないだろう。本当に福島を知りたいのであれば、まず簡単に脳みそを預けずに、きちんと現状を見ることから始めていただきたい。専門家のためらい 例えば福島でがんが増えているかいないか、という議論にはいまだ決着がついていない。「『専門家』と称する人がそれぞれまったく逆のことを主張するから混乱するのだ」とお叱りを受けることが度々あり、それは全くもってその通りである。 しかし実はこの言葉こそが、福島の現状を端的に表している。つまり、福島の健康問題は専門家ですら意見が二分するほど複雑な問題なのである。まっとうな専門家であれば、現在の福島における「結局…」という質問には、多少なりとも曖昧さを残したスタンスをとるだろう。  一方で、メディアはその体質上、過激な断言にのみ飛びつく傾向にある。そのメディアの注目を浴び、名を売ろうと、福島には断定調の似非科学を携えた自称「専門家」たちが次々と訪れ、良識ある専門家たちの声を排除しようとしている。 科学の限界 少なくとも現在の時点で、福島で「放射能が原因によるがんが」「確かに増えている」という事実を科学的に説明することは難しい。その理由は2つある。 1つには、ほかの地域で起きたことが福島でも同様に起こる、ということ(再現性)を証明することが難しいから。もう1つは、現在の福島の問題の原因が放射能である、という因果関係が証明できないからである。1)再現性の限界 例えばチェルノブイリで起きたことと福島を比較するときに問題となるのは、対象となる人々の背景が異なりすぎる点である。食料と情報の流通が乏しく、放射能未測定の食品を食べ続けなくてはいけなかったチェルノブイリの人々と、自給率が非常に低く、地産地消で暮らすことがむしろ難しい日本に暮らす人々で、内部被ばく量を比較することは難しい。  それだけでなく、元々ヨード不足で外から放射性ヨウ素が入ってくれば大量に被ばくしてしまうチェルノブイリの住民の例をもとに、ダシの文化があり普段からヨード過剰気味で、放射性ヨウ素が飛んできてもあまり甲状腺には取り込まれない可能性の高い日本の住民の甲状腺がんを予測することも難しいのである。  さらに、サンプルバイアス(偏り)の問題がある。例えば健康診断で見つかったがんは、自覚症状も出ない数ミリメートルの大きさで見つかるが、病院データは自覚症状があって受診した患者のものであるから、既に進行して数センチメートルの大きさになったものが殆どである。つまり、これまで病院ベースで得られていた甲状腺がん発症率と、福島の甲状腺スクリーニングで見つかったがんの発症率を比較して「数十倍もある」といっても、それは放射能によってがんが増えている証拠にはならないのである。  (実際に韓国でも甲状腺スクリーニングを受診率が25%ほど増えたら、甲状腺がんの発症率が15倍にもなったという報告もある。)2)因果関係証明の限界 「風が吹いたら桶屋が儲かる」ということわざがある。では桶屋が儲かった時は風のお陰なのだ、ということを証明できるだろうか。桶屋の営業努力かもしれないし、空き家が増えてネズミが増えただけかもしれない。別の桶屋が倒産したかもしれない。東京電力福島第1原発事故による避難指示が9月5日に解除された福島県楢葉町の木戸川で5年ぶりにサケ漁が再開された=福島県楢葉町(鴨川一也撮影) 同じように、今例えば福島県の住民がんになった場合、それが「原発の放射能による増加なのか」ということを証明することは難しい。特にがんは色々な要因で起きるため、もし原発の後に起きても、「原発のストレスによって起きたがん」かもしれないし、「原発後にやけ酒を飲んだせいで起きたがん」「外へ出ず運動をしなくなったせいで起きたがん」かもしれない。また、まったく関係なく「日本人の2人に1人ががんになるから」という可能性も十分にある。これを放射能のせい、と断定することは非常に難しいのである。  少し難しい話になるが、疫学の世界では、A(原発事故)という事象の後にB(甲状腺がん)という事象が起きたときに、因果関係はどのように証明されるのか。 因果関係の判断基準で一番有名なものは「Hillの基準」というもので、以下の9項目を検討するものだ。1. 関連の強さ :原発事故と甲状腺がんがどの程度強力に関連しているか2. 一貫性:色々な手法でデータが集められているか3. 時間的関係4. 生物学的容量反応勾配:量が増えた時に効果も大きくなっているのか5. 特異性:Bの原因としてA以外のものが考え難いか6. 生物学的説得性:AがBを起こすことは生物学的に納得がいくか7. 整合性:AがBを起こすことは論理的に矛盾しないか8. 実験・データの質9. 類似性:過去に類似した報告がなされているか このHillの基準を用いて福島のがんを検討するとどうなるだろうか。事故の前と今とでは何倍増えているかわからないので、事故とがんの関連の強さを判定できないため、1や3の項目は満たさない。住民の被ばく量データが正確ではないので、4も証明は難しい。放射線以外にも癌の誘因があるため6も困難。がんのデータベースすら作られていないので、2や8はこれからの課題である。  とすると、因果関係があると「科学的に」主張するためには、6の生物学的説得性(放射能でがんになりえる、という理屈)と9の類似性(チェルノブイリの先例がある、という事実)で勝負するしかない。つまり、既存のデータは、福島の放射線ががんを引き起こしたという因果関係を示すには十分でないのである。   誤解のないように言うが、「因果関係を示すに十分な情報がない」ということと、「因果関係がある・ない」ということは別物である。つまり、たとえば福島の子供たちの間で原発事故による甲状腺がんが増えているかどうか、ということに関しては、今どんなに議論を尽くしても、結論は出ないのである。「実験科学派」と「症例重視派」のすれ違い「実験科学派」と「症例重視派」のすれ違い このように科学の限界がある中で、何かを断言しなくてはならない、と焦る「専門家」の間では、かみ合わない議論続けられている。中でもかみ合わないのが、再現性と普遍性を重視する「実験科学派」と、1例でも先例があれば事実とする、「症例重視派」(いずれも筆者の勝手な命名である)が互いを論破しようと争う議論だ。 「実験科学派」は、再現性と客観性を重視する人々だ。この人々は、「普遍的真理は条件が代わってもまた真」である、という前提に基づき、再現性と普遍性を重視する。統計学的有意差が好きなのもこのグループに多い。しかし実験科学は、統計学を用いて未来に対する予測を行う学問にすぎず、今現在の事実を端的に説明するものではない。人間社会においては全く同じ条件で再現性を確かめられることは少ない上に、そこには意味がないこともあるため、実験科学のみでは現実社会に対応することには限界がある。  一方、「症例重視派」は1つでも事例があることに重きを置き、因果関係の証明はあまり重視しないない人々である。例えば福島のがんであれば、がんで苦しむ人がいるかどうかを問題とし、それが日本人の2人に1人がかかる一般的ながんであっても、放射能の影響によるがんであっても「福島のがん」である以上俎上に挙げる、という立場をとる。例えば差別の問題などでは、例があるかどうかが問題であるので、1例の症例は確率よりも重視される。しかし、当たり前だが症例をいくつ見つけても「増えていること」の証明にはならない、という限界がある。  つまり「実験科学派」ががんのリスク因子、発がん率、放射線の(一般的な)身体影響を挙げて「今の福島の放射線量ではがんのリスクが上がることは考えづらい」という言い方をする一方で、「症例重視派」は甲状腺がんの数例を提示して 「実際に甲状腺がん患者がいるのになぜそこから目をつぶるのだ」と反論する。まったくもって水掛け論である。症例重視派の「領海侵犯」 この二派がお互いを説得する必要はない。むしろ異なる視点から福島を眺める、というメリットがある。  原発事故が実際にどの程度の健康影響を及ぼしているのか、住民という集団へのインパクトを探り、エビデンスに基づいた対処を政府に求めていくのが「実験科学派」の役割である。一方、人権擁護的な立場から、実際に福島で実際に困っている人がいるのだから因果関係やエビデンスなど待たずにそこに救いの手を差し伸べるべきである、と訴えるのが「症例重視派」のスタンスだ。つまり実験科学派がエビデンスを蓄積するまでの間、人道的な観点から速やかな対処を求める、そのように、2つの「派閥」は時間的にも理論的にも住み分けられるはずである。  しかし今の福島で一番問題を引き起こしているのが、一部の「症例重視派」による「領海侵犯」である。本来個人の体験を重視し人権擁護の視点を持つ人々が、本分を外れてエビデンスを追い求め、自分の求めるようなエビデンスが出なければ科学者を誹謗する、という本末転倒な事態が、ここ福島ではしばしば起きている。  つまり、付け焼刃の知識をもって 「チェルノブイリではXXXなのに、福島では違うというのはおかしい」 「福島で甲状腺がんが100例以上出ているのに、増えていないとはどういうことだ」 と聴衆を煽り、科学者が相手にしなければ 「証拠隠ぺい」「御用学者」と非難する。 先述のように、今現在は科学的知見に基づけば、がんの増加は実際に証明できていない。しかしそれに対し、何で証拠が出ないのだ、と詰め寄るに至っては、一歩間違えれば捏造教唆である。政府に対して声が届かないもどかしさは分かるが、それは科学を歪める理由にはならないはずである。見捨てられる多くの健康被害見捨てられる多くの健康被害 もう一つの問題は、本来個人を救う症例重視派の人々が福島の放射能ばかりにばかり捉われることで、実際に原発事故によって起きた多くの健康問題が看過されていることだ。  実際に福島で起きている健康問題の多くは、放射能の直接影響ではない。むしろによるそれよりも遥かに大きく、複雑である。以下に例を挙げよう。1)大量避難による健康被害 原発事故の直後、屋内退避指示の出た原発20-30㎞圏内では、住民は住むことが許されたものの、外からの支援は一切張り合ない状態となった。震災後2週間、この地域の住民を悩ませたものは、一も二もなく食べ物であった。食料も移動のためのガソリンも手に入らない中、多くの独居老人が衰弱死によりご自宅で命を落とした。 一方、避難することもまた安全ではなかった。20㎞圏内から強制退避となった病院患者のうち数十名が、避難中、あるいは避難直後に環境変化に耐えられず命を落としている。 2)避難生活による健康被害 そればかりではない。避難後の生活もまた住民の健康リスクを挙げた。福島県では、今でも長期の避難生活や失業状態が続いている人が多くある。避難による精神的ストレスは発がん率の増加にもかかわるし、喫煙や飲酒の増加にもつながりうる。あるいは放射能の懸念による食生活の変化、引きこもり、運動不足などにより、肥満・高血圧・糖尿病などの慢性疾患が悪化し、その結果脳卒中や心筋梗塞などの急性期疾患リスクが高くなっている人がある。  福島では震災の直接死1600人に対し災害関連死が1900人と、関連死数が直接死数を超える状況だ。その背景には、このような放射能以外の膨大な健康影響があるのである。 このような「事実」に、本来ならエビデンスは要らない。もし原発に反対したいのであれば、このような方々の声を丁寧に拾い、 「このような被害に対して、再稼働している原発は対策を立てていないではないか」と、非難すればよい。 その手間を惜しみ、話題になるからといって子供につきまとい、「甲状腺がんが増えている」「危険だ」「逃げろ」などと騒ぎ立てる。これは人権擁護を模しながらも実際行っていることは差別であり、虐待である。 説得という名の暴力 このような被害にあっているのは子供だけではない。たとえば私の住む相馬市では乳幼児から高校生まで、数千人という子供が生活している。しかしすべての家庭で完全な安心が得られているわけではない。今でも魚は産地に限らず1匹も食べていない、という高校教師もいれば、洗濯物は外に干さない、という母親もいる。  そのような人達に対し、「これだけ説明したのに何で安心して普通に生活できないのだ」と説得しようとする人も、「危険だと思っているのに逃げないなんて、子供を殺す気か」とわざわざ言いに来る人も間違っている。 ちなみにこの「間違っている」は、科学や理屈云々ではなく、「人殺しはいけない」というのと同じく人の心を傷つける行為として間違っている、という意味だ。専門家であろうがなかろうが、人としての最低ルールは守ってほしいものである。歪んだ科学信仰からの脱却を歪んだ科学信仰からの脱却を そもそも症例を重視する立場ならば、今更エビデンスなどに頼らず、なぜこのような事例もとに正々堂々と戦わないのか。因果関係が証明できないのであれば、「証明に必要ながんのデータベースを作る気がないのは、何かを隠したいからではないか」と科学者を糾弾すればよい。誤った検証を持ち出してまで何かが「証明された」かのように主張する必要は全くないのではないか。 私は、誤った科学を振りかざす人々の中にこそ歪んだ科学偏重があると思っている。科学的論証のないものは社会的に認められない、という誤った劣等感が、似非科学者たちを生んでいるのではないだろうか。  繰り返すが、福島に対し、科学でできることには限界がある。 「…出来事の場合には、まったく予期しない事が最も頻繁に起こるから…『結果を計算する』形式で推理するということは、予期せざるもの、すなわち出来事そのものを考慮の外に置くという意味である。なぜなら『無限の非蓋然性』に過ぎないものを予期するのは非理性的であり非合理的であろうから。…」(ハンナ・アーレント) 私自身、このアーレントの言葉には深く共感する。社会で起きていることは計算などできない。科学的エビデンスの確立を待てない人は、人道を掲げ、事実と考察をもとに堂々と戦えばよいのではないか。  福島では、妙に「科学かぶれ」した人道主義者の捏造に近いエビデンスが住民に甚大な迷惑をかけている。ぜひとも自分たちの本分に専念し、福島の人々を幸せにしていただきたいものである。

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    大手メディアも信用できない 福島にまつわるエセ科学記事の見分け方

    大江紀洋(Wedge編集部) 前篇では、週刊誌記事の問題点を紹介したが、福島の低線量被ばく報道をめぐる問題は、週刊誌に留まらない。信頼がありそうな大手メディアにもおかしな報道はたくさんある。 10月20日、厚生労働省は東京電力福島第一原子力発電所事故後の作業員に対し、がんで初めて労災が認定されたと発表した。原発の業務に従事したのは1年あまり、累積被ばく量は約20ミリシーベルトという40代男性が、血液のがんである白血病を発症したという(職業被ばくの制限は5年で100ミリシーベルト)。 各紙はどう報道したか。 作業に伴う被ばくと疾病に「因果関係がある」としたのは朝日新聞(その後「一定の因果関係」に修正)だ。「因果関係が否定できない」と書いたのは日経新聞と時事通信。厚労省の発表に沿って「因果関係は明らかではないが労働者補償の観点から認定された」と正確に書いたのが毎日新聞、産経新聞、共同通信だ。 国立がん研究センターの調査によれば、40代前半の男性の年間白血病罹患率は10万人あたり4人(2011年のデータ)である。福島第一原発の作業員は事故後約4.5万人を数えるため、数名程度の白血病患者が発生しても自然発生率と変わらない。こうした比較なしに「因果関係がある」(朝日)と書き切ってしまう記者は不思議だ。歩道沿いのごみを拾う高校生ら。「故郷をきれいにしたい」との思いから大勢の人が参加した=10月10日、福島県広野町(野田佑介撮影) 「因果関係が否定できない」という言葉も要注意だ。そもそも、どんな病気でも因果関係がはっきり「ある」と肯定できたり、「ない」と否定できたりする例はなく、多くが「因果関係があるかないかわからない」のである。その意味で因果関係が否定できないという表現は誤りではないが、厚労省が「明らかではない」と言っているのをわざわざ「否定できない」と書くのは何らかの意図があるということだ。 問題はメディアだけではない。専門家であれば信用できるというわけでもない。 「福島で18歳以下の甲状腺がんが多発」とする分析を発表したのは津田敏秀・岡山大学教授だ。10月8日に外国人特派員協会で行われた津田教授の会見を受け、朝日新聞と提携するハフィントンポストは「福島の子供の甲状腺がん発症率は20~50倍」と記事を打ち、ネット上に広く拡散された。 「20~50倍」の比較対象は、国立がん研究センターが調査した罹患率なのだが、これは自覚症状があって病院に行き、エコー検査を受けて甲状腺がんと確定した人の率である。 一方、福島の県民調査は自覚症状のない人もしらみつぶしにエコー検査した結果だから、スクリーニング効果という“掘り起こし”が起きる。津田教授は根拠も示さずに「20~50倍はスクリーニング効果では説明できない」とするが、幅広いエコー検査を導入した韓国では検査率が15~25%に上がっただけで罹患率が15倍になったというデータがある。 なにより、仮に福島で甲状腺がんが多発しているとしても、被ばくとの因果関係は立証することができない。実測や環境から推計される甲状腺の被ばく量は十分に低いからだ。外部被ばくや内部被ばくの実態については、前篇記事をご覧いただきたい。 前篇記事では、「放射線管理区域」という概念を用いたトリックを紹介した。本稿で紹介した白血病や甲状腺がんの「言い回し」に共通しているトリックは、適切な比較対象がないことだ。 賢明なる読者の皆さんは、放射線管理区域を持ち出す記事や、適切な比較対象のない記事の取り扱いにはくれぐれも注意されたい。

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    〝モグラたたきモデル〟が覆した低線量被ばくのドグマ

    澤田哲生(東京工業大学 原子炉工学研究所助教)低線量被ばくの影響をどう捉え,どう受け止めるかは極めて難しい問題である。その背景には、科学的データに基づいた論理と政治的政策的決断に基づいた施策が交錯している現状がある。原爆症 2006年8月9日。長崎の原爆犠牲者慰霊平和記念式典に出席した後、時の総理大臣安倍晋三は、被ばく者の代表の方々と面談し「被ばく認定の範囲をより広くする(認定基準を緩める)」と公言した。これなどが、政治的決断に基づいた施策の代表例である。その結果かどうかは定かではないが、被ばく医療に詳しい碩学から「澤田さん、いまや医者の目にはどうみても単なる胃潰瘍なのに、被ばく認定されたようなケースまでありますよ」と聞いた。2011年のことである。夢の島の展示館に展示の為東京都に寄贈されるビキニ環礁で被爆した第五福竜丸のエンジン ことの発端は、『原爆症』というそら恐ろしい病名がつくられたことにある。それは、1954年に大きな社会問題になった第五福竜丸事件が引き金になった。マグロ遠洋漁船第五福竜丸は米国がビキニ環礁で行った水爆実験のあおりをくって被ばくした。これを、メディアは、日本にとって広島と長崎に続く第三の被爆とした。第五福竜丸の乗組員は、水爆実験によって吹き飛んで空中に舞い上がった珊瑚礁の微粉を雨のように浴びた。核爆発によって生じた放射性物質を含む微粉である。その結果、乗組員達は被ばくした。多くの乗組員に、やけどの症状等被ばくによる急性障害が見られた。入院し加療を受けた乗組員の一人が、約半年後肝臓障害によって死亡した。つまり、被ばくの影響が半年かけてじんわりと身体を蝕んでいったのだと解釈された。同様の行状に合ったもので、その後回復した方もいた。ひとりの船員が死亡したことは事実である。しかし、被ばくと肝臓障害との科学的医学的な因果関係は定かではなかった。そこから、原爆症という呼び名がうまれた。因果関係や正体は不明。しかし、原爆で被ばくした事実がある。そこから生まれた原爆シンドロームである。がまん量 この問題に、社会とむきあう物理学者として当時取り組んだのが京都学派の勇武谷三男である。その編書『安全性の考え方』(1967、岩波新書)に興味深い記述がある。 利益と有害のバランスが許容量 それでは、「許容量」という、ものはどういう量として考えたらいいのであろうか。米原子力委員のノーベル賞学者リビー博士は「許容量」をたてにとって、原水爆の降灰放射能の影響は無視できると宣伝につとめた。 日本の物理学者たちは、討論を重ねた。こうして日本学術会議のシンポジウムの席上で、武谷三男氏は次のような概念を提出した。 「放射能というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないこともある。(中略)そこで、有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて、〝どこまで有害さをがまんするかの量〟が、許容量というものである。つまり許容量とは、利益と不利益のバランスをはかる社会的な概念なのである。」 この考えで、ようやく「許容量」というものが、害か無害か、危険か安全かの境界として科学的に決定される量ではなくて、人間の生活という概念から、危険を「どこまでがまんしてもそのプラスを考えるか」という、社会的な概念であることがはっきりしたのである。(同書、p.123-124。下線は筆者) こうして当時、〝原因不明〟であったがために、原爆症に加えて〝がまん量〟というディスクールが考案されたのである。この背景には、許容量をもってある量以下の影響を切り捨てようとする功利(公益)主義的な考えと、それはないだろう?そうはさせまじという人道主義的な考えの相克があるのである。公益か人道か公益か人道か 今日多くのメディアの二分法的な価値対立の背景には、公益主義の立場に立つのか人道主義に寄りそうのかという立場の違いがある。 両者はなかなか相互理解、相互受入が難しいのである。この相互理解の問題に実践的に取り組むべく、昨年から『原子力ムラ境界線上の「哲」人―“あほ&アホ”―対話』を飯田哲也氏とはじめたが、双方の溝はなかなか埋まる様子は無く、日暮れて尚道遠しの感が弥増している。 さて、『がまん量』という考えは、それから半世紀以上たった今なお健在なようである。2011年3月11日に起こった福島第一原子力発電所の事故(3.11)を受けて国会事故調査委員会が発足した。その委員のなかに高木学校に在籍したことのある崎山比早子氏があった。氏は、当時ことあるごとにメディア上で〝がまん量〟を発信し、そのことをもって低線量被ばくは恐ろしいものであると警鐘したのである。武谷が断じた〝放射能というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。〟というドグマが今世紀的意義をもって再び流布されたのである。 この武谷ドグマは、放射線を本能的に恐れる心(radiophobia)に火をつけ、福島からの自主避難者やその支援者らをノードとするネットワークを広く形成していった。新しい理論 そんななかで、ポスト3.11の時代この武谷ドグマに疑問をもった京都学派の物理学者らがいた。問題提起の根源は、武谷が原爆症やがまん量を吹聴した後に、遺伝子が2重螺旋構造をもっていることがワトソン?クリックらによって発見された。その後、放射線によって損傷を受けた遺伝子が修復する機能をもっていることや、いよいよとなれば細胞が自死して(アポトーシス)その影響を他に伝播させない仕組みがあることが生物学的・医学的に発見されている。医者や生物学者の間では、ある一定量以下の放射線被ばくは、事実上身体に重大な影響を及ぼさないことが常識として共有されている。それなのに、一方では武谷ドグマが生き続けて無辜の市民の心と身体を痛め続けている???おかしいではないか。 こうした疑問のなかから、自分たちで一から考えてみようと取り組まれて生まれたのが〝モグラたたきモデル〟である。このモデルによれば、低線量被ばくの領域では、放射線による遺伝子の損傷はモグラたたきのモグラに喩えられ、私達の身体に本来的に備わっている修復機能がモグラを叩くハンマーである。モグラが顔を出す頻度はいわば放射線の影響による損傷の頻度である。モグラたたきモデルは実験データによって検証されている。このモデルがたたき出したのは、低線量被ばくに対しては、モグラがいくら頻繁に顔を出そうとも、ハンマーを打つ早さがやがて追いついてことなきを得るという姿である。身体が生理的にそのように反応する仕組みになっている。つまり、〝放射能というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる〟という武谷ドグマは葬り去られるのではないか。つまり、ある被ばく線量以下ならば心配しなくても良いというしきい値があるようだ。 そのしきい値は具体的には、モグラたたきモデルからは『100mSv/年を超える模様である』と見えてくる。しかしながら、モデルの開発者らは極めて慎重である。今の段階ではハッキリとした数値は言えない。たださまざまな生物種に関する低線量被ばくに対する修復機能を統一的にモデル化できたことは事実。しきい値に関して具体的なことがいえるためには、さらなるモデルの検証と実験が必要とのことである。 ただし、このモデルが語るもうひとつのもっと重要なことは、低線量被ばくの影響はモグラたたきのようにキチンと潰されていって、時間経過とともにその影響が蓄積しては行かないということである。武谷ドグマは、低線量被ばくの影響が蓄積していくことを前提としている。また、現行の被ばく線量管理の考え方も同様である。 今私達が気をつけなければならないのは、このように新しい科学的知識によって、従来当たり前とされていたことが覆される可能性があるということである。 もうひとつ。さらに大きな枠組みのなかでは、私達は公益主義vs.人道主義を背景にした二分法的価値判断に踊らされてはならないということである。ひとりの人間のうちには、公益的考えも人道的考えも共存して日々私達を突き動かしているはずである。ところが、集団やコミュニティになれば、勢い二分法的煽動に乗せられかねない。そのことを自認し自省することこそが未来を拓いて行くのではないだろうか。 なお、第五福竜丸事件の約半年後に亡くなった乗組員の方については、当時の医療データが後年再度綿密に分析された。その結果、死の原因は輸血の結果感染したC型肝炎であると断定的に公表された。この結論は日米の医療関係社の間では今や共有されている。1954年当時、C型肝炎はまだ発見されていなかったのである。 新しい理論や発見は過去の謎を解き、同時に過去の事実も覆すのである。それは私達が囚われているドグマから、私達を解き放ってくれる可能性がある。

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    誤解にまみれた福島の「理解の復興」のために

    は日本が直面する普遍的な課題と直結している。その認識なくして真の復興は訪れない。「人口流出」の誤解 東日本大震災、福島第一原発事故から4年。さまざまな問題が今も未解決なままだが、あまり意識されないながら、最も大きな問題の一つとなっているのが「理解の復興」だ。 人々が持つ「福島のイメージ」は誤解にまみれている。 例えば、福島からの人口流出についてのイメージ。 私はこの4年間で200回ほど講演会を行ってきたが、いつもその冒頭で聞いている質問がある。それは「震災前に福島県で暮らしていた人のうち、現在福島県外に避難する人の割合は?」という問いだ。 多くの人が「10%」「いや、60%ぐらいだろう」「40%ぐらいではないか」などと答える。これらの声は、実際に日本に暮らす人の認識と大きく乖離(かいり)するものではない。 例えば、東京大学の関谷直也・特任准教授が2014年3月に全国1800人弱にインターネット経由で実施した調査では、「福島県では、人口流出が続いていると思う。○○%程度流出していると思う」という問いに対して、全体の1365名が「流出が続いている」と答え、その平均値は24.38%となった。つまり、日本に暮らす人の8割がたが「福島からの人口流出」を強くイメージし、その割合は福島県の全人口の4分の1程度に及ぶとみていることがわかる。 だが、この「福島からの人口流出についてのイメージ」は大きな誤解だ。実際にどれくらいの「福島からの人口流出」があったのか。 正解は2.5%程度。福島県民は190万人台前半。一方、福島県外への避難者はここ1年以上4万人台で推移している。つまり、「2%台半ば」というのが現実だ。つまり、「現実の福島の人口流出」と「イメージ上の福島の人口流出」の間には実に10倍の差があることになる。「福島ならではの特殊な問題」が増幅させる誤解 私は、今年の3月11日に刊行した『はじめての福島学』(イースト・プレス)の中でこのような福島の現実とイメージの乖離を指摘し、多様な統計データを読み解き、文献調査やインタビュー調査の結果を織り込みながら、その溝を埋めるための作業をした。以下、そこで指摘した問題の一部について述べたい。 福島を取り巻く問題は多岐にわたる。避難・除染・賠償など原発事故や放射線にまつわる「福島ならではの特殊な問題」はもちろんのこと、雇用、教育、医療福祉など「他の地域にも存在する普遍的な問題」もある。 世間に流布する「福島のイメージ」は多くの場合、前者=「福島ならではの特殊な問題」を軸に形成される。言うまでもなく、2011年3月を境に福島は「未曾有の危機に襲われた土地」として時間・空間を越えて多くの人に意識されるようになった。その中では、特異点こそが注目される。つまり、他の場所にも広く存在するようなことは捨象され、日常よりも非日常が、正常よりも異常が優先的に描写される。 例えば、こんな具合に…。 日常を取り戻し穏やかに暮らす「わかりにくい被災者」よりも、泣き叫び怒り狂う「わかりやすい被災者」 世界で最も厳しい水準のもとで行われる放射線検査を乗り越えたほとんどの作物よりも、法定基準値を超える放射線が検出された特異な作物 多くの必要なところに公正に使われたカネよりも、一部の者が不正に使ったカネ 避難を余儀なくされる住民が避難先で興した新たな取り組みの成果よりも、避難先に旧来いた住民との葛藤 無論、特異点を捉えようとすること自体は悪いことではない。そこに困っている人がいる、足りないものがある。そんな情報を共有することで注目が集まり、事態が改善される可能性はあるから。しかし、その結果、誤解や無理解がいつまでたっても無くならないのだとすれば、そろそろ状況を改善すべきだ。先に述べたようなイメージと現実の間にある10倍の誤解は日本国内における話だ。海外における福島のイメージはなおさら誤解されがちであることは想像に難くない。 誤解をとくには、まず客観的データに基づき、震災後の福島の現実を捉え直すことが必要だ。福島の人口減少は、日本全国で起きている現象と同じ福島の人口減少は、日本全国で起きている現象と同じ 先に人口の誤解について触れたが、少し補足する。 原発事故の結果、避難による人口流出が起こったことについて過大なイメージがある。これは三つの問題を示す。 一つは、それだけ県外に暮らす避難者は少数であり孤立しているということだ。県外避難者には仕事や住まいの確保がいまだに不安定な人も多い。全体から見れば少数の住民に対する行政の対応は手薄になり、NPO等からの支援の手は日々少なくなっていく。 二つ目に、大方の人がいまでも福島で暮らしているという事実の認識が必要だ。福島の問題が「避難」を通してばかり語られてきたことがこの誤解を深めたことは否定出来ない。だが、福島の問題はより多様で、常に変化し続ける。これに向き合いながらそこに生きる97%以上の人の抱える日常を見る視点がなければ、福島のことは理解できない。 最後に、その誤解を理解した上で、福島の人口の問題の核心が何なのか、理解し直すべきだ。福島の人口の問題の核心とは「これは日本全体どこでも起こっている問題と同様の人口減少問題だ」ということだ。 福島の人口に関する長期トレンドを見てみよう。 これは1975年から2011年をはさみ、現在までの福島の人口と増減率をみたものだ。日本の人口の大きな動きと同様に、90年代後半を頂点にした山がみられる。注目すべきは2011年以降の動きだ。2011年、原発事故があると人口減少は一気に加速することは増減率の下落から読み取れる。「10倍の誤解」はこのイメージと重なるだろう。 しかしながら、そこからの動きを見るべきだ。2012年、2013年、2014年と増減率はあがり、実は震災前よりもそれは高くなっている。 もちろん、人口減少は続いている。ただし、それは福島に特異なことではなく、震災前から続く人口減少であり、日本全体が抱える課題でもある。実際、すでに秋田県や高知県など、より人口減少が激しいとされる県よりも福島の人口減少率のほうが低くなってきている。確かに、震災・原発事故は急激な人口の流動化を福島にもたらしたが、それは時間の経過とともに日本全体の問題と同期してきているのだ。 日本では2014年に出版された『地方消滅――東京一極集中が招く人口急減 』(中央公論新社)に関する議論が流行っている。これが示すのは、長期的な人口減少社会となった地方が抱える危機的な状況だ。福島の人口の問題の核心が「日本全体どこでも起こっている人口減少問題」と重なりあっていると捉え直した時に、福島の問題は「自分からは遠くで起こっている特殊な問題」ではなく「自分の足元と地続きのところで起こっている普遍的な問題」となるだろう。農作物への放射線被害に対する誤解農作物への放射線被害に対する誤解 この福島の問題が普遍的な問題となっている、そう捉えないと、起こっていることの核心に迫り問題解決につながらないという構図は、人口の問題以外にも通じる。例えば、福島の一次産業は、「放射線によってズタズタになって収穫もままならない」というイメージを持つ人も多いだろう。果たしてそうか。二つの問いかけをする。Q 福島のコメの収穫は震災前(2010年)と比べて、現在まで(2013年)どの程度回復しているのか。 答えは85.8%。2010年に445700 トンだったのが2013年382600 トンとなっている。確かに、1割以上もの収穫量の減少は大きな問題だ。Q 福島産のコメは年間1000万袋ほど生産され、これを対象に放射線について「全量全袋検査」が行われる。このうち放射線量の法定基準値(1kgあたり100ベクレル)を超える袋はどのくらいか。 答えはゼロ。法定基準値を超えるコメは、2012年産が71袋、2013年産が28袋、2014年産が0袋という結果がでている。コメ以外の野菜・果物についても市場に流通するもので放射性物質が特異に含まれるものはほぼ存在しない。 福島第一原発から近い相双地域(双葉地域と相馬地域をあわせてそう呼ぶ)を中心にいまだ生産を再開できない土地がある。ただ、そのような土地でも徐々に生産を再開する土地が出てきていて、双葉町・大熊町ですら、試験的な栽培は始まっている現状がある。作物から検出される放射性セシウムを法定基準値以下に抑える栽培方法・技術もわかってきている。実際、福島産のコメについては厳密な検査がなされ、ほとんど放射性物質が検出されなくなってきている。 「福島産」表示で買い叩かれて大幅な価格低下 ただ、「生産も回復基調だし、放射線への懸念もおさまってきたし、もう問題がない」というわけではない。何が問題か。 それは価格低下だ。 福島産のコメの生産量が壊滅的な打撃を受けたわけではない一方で、その市場での価格は大幅に下がり、固定化している。品種や生産地域、流通方法によってその価格下落の幅は変わるが、例えば、全農県本部が農家から販売委託を受けた際に支払う2014年産米の概算金について言えば、福島産コシヒカリの下落率が高く、浜通りは37.8%、中通りは35.1%の下落。背景には、以前よりあるコメの需要減に加えて過剰在庫、東日本の豊作予想が重なっていることがある。 なぜこれだけ下げなければならなくなるか。それは、そうしないと買い手がつかなくなるからだ。 県産米の46%が関東に流通していることがわかっている。また、52.6%が県外の卸売業者によって買われている。震災、原発事故以前からこの「福島が首都圏の食料庫となってきた構造」は大きくは変わっていない。ただ、他県産米と並ぶ中に「福島産」という表示がつくことで買い叩かれる状況がある。「一般消費者の中には福島産を買い控える傾向がある」とされ、その結果、産地表示などが出にくい外食・中食産業用の低価格のコメとしてしか売れなくなるのだ。 市場メカニズムの中で、一度下がったブランド価値を再び取り戻すのは容易ではない。このような大きな市場での競争を避けて、福島産米の安全性と美味しさを理解する層に直販をする動きなどを通してブランド価値を取り戻す努力をする農家もいるが、部分的なものにとどまる。消費者の“無意識”が日本の農業を衰退させる 価格低下のきっかけは言うまでもなく、原発事故であり放射性物質だ。しかし、その後、被害を拡大させ続ける構造を固定化しているのは市場メカニズムであり、それを動かす消費者自身だ。もちろん、多くの消費者はそんなことを意図も意識もしていないだろう。 「どうせ農業をこれ以上続けても大変なだけだ。ただでさえ、日本の農業は震災前からもうからなくなってきていた。いまが潮時だ」と農家が農業を続けることを諦める。その背中を押す力になっているのは消費者の「無意識」であり、それが福島の農業問題の本質だ。 そう考えた時に、この問題もまた日本の食が抱える普遍的な問題に接続する。TPP(環太平洋連携協定)や農協改革などのニュースがメディアをにぎわすが、今後、日本の食はこれまで以上に激しい市場競争にさらされる。そして、安全性や品質についての理解が生産者にも消費者にも常に求められることになる。 適切な価格で味・安全性ともに質の高い産品を手に入れるには、私たち消費者が、生産・流通の構造や品質の現状に一定の理解をしなければならない。さもなくば、品質がいいものが生産・流通され続ける体制は維持できなくなり、長期的には質の悪い産品が市場に蔓延するリスクも常に伴う。 ひと言で言えば、そんな弱肉強食と理解の必要性が高まる今後の日本の食をとりまく環境の変化を、福島はいちはやく背負ったと捉えることができよう。 『はじめての福島学』では、ここでとりあげた人口や一次産業を含め、復興政策、雇用・労働や家族・子どもに関する問題などさまざまなテーマについてデータを基に福島の実態を取り上げている。 いま福島の現状を見つめなおすことは、日本の未来を見つめなおすことに直結する。それは誰にとっても自分の足元と地続きの問題だ。そう捉えた時に、理解の復興を進めることの必要性は十分に、広く認識されることになるだろう。これなくして福島が抱える問題が根治していかないことも事実だ。(2015年4月24日 記)

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    ネットに蔓延する疑似科学に騙されない思考法を専門家が指南

     ネットで繰り返し問題提起される「疑似科学」。なぜ人は欺されるのか、どう対処するればいいのか。2010年科学ジャーナリスト賞を受賞し、「ゼロリスク社会の罠」の著者でもある佐藤健太郎氏に聞いた。(取材・文=フリーライター・神田憲行) * * * --疑似科学とは、どんなものを指すのでしょうか。佐藤:はっきりした線引きは難しいのですが、もっともらしい用語をちりばめて科学を装いながら、科学的根拠がはっきりしないものを指します。多くは何らかの形でビジネスと結びついています。--たとえばどんなものがありますか。佐藤:典型は「ホメオパシー」でしょうか。200年前にドイツの医師が提唱した“医療行為”なんですが、レメディという砂糖玉を舐めれば人間の自然治癒力が高まり、病気が治るとされました。これは原理的にも考えられませんし、治療効果もないことは厳密な試験で実証されています。砂糖玉を舐めているだけでは毒にも薬にもならないですが、それだけで病気が治ると思い込んで、他の医療行為を拒否するところが問題になるのです。 疑似科学に共通するのは、「シンプルでわかりやすい」「博士やタレントなど広告塔になる権威付け有名人がいる」「意外性があって心に残る」といった点です。 わかりやすさでいえば、たとえば「コラーゲンを食べてお肌がツルツルに」という広告をよく見ますが、科学的な根拠は何もありません。--えっ、でも牛すじとか食べてツルツルになったとかよく言いますよね。佐藤:コラーゲンは皮膚の重要成分ですが、胃の中に入ったらばらばらに分解されるので、肌にそのまま行くことはありません。それだったら頭髪の薄い人は髪の毛を食べればいいということになってしまう(笑)。しかし、一度「私には効いた」と思ってしまうと、自分で体験したことは理屈よりずっと強いですからね。--なぜ疑似科学が蔓延するのでしようか。佐藤:日本人の「ゼロリスク志向」と結びついていることはありそうです。誰しもリスクを避けたいのは当然ですが、そこに「自然」「副作用のない」といったキーワードで語られると、つい耳を傾けてしまう。ただ残念ながら、どんなにしてもリスクはゼロにはなりません。 でも疑似科学が繰り返しいろんなものが登場するのは、メディアの責任もやはり大きい。EM菌やマイナスイオンなど、今でもメディアで肯定的に報じられたりします。おかしいなと思った人が指摘しようにも、手間はかかるし負担も大きく、何か自分の利益になるわけでもない。あえて否定するインセンティブがないんです。--疑似科学に欺されないためにはどうすればいいのでしょうか。佐藤:科学リテラシーを持てといっても簡単なことではないですが、SNSの活用はいいかもしれません。SNSはいかがわしい情報が拡散するのも速いですが、科学者や専門家がそれを打ち消す動きも速い。ちょっと変だなというものが現れたら、それに関するツイートを探してみるのもいいかもしれません。 もうひとつ、「その情報が本当だとしたらどうなるか」をよく考えてみること。擬似科学とはちょっと違いますが、今回の原発事故以降、「鼻血が出た、下痢をする」と放射線被害の心配をしている人がかなり出ました。もしそんな症状が出るなら、福島の近くに行くほど鼻血や下痢を起こしている人が増えるはずですが、そうはなっていない。上空を飛ぶために200マイクロシーベルトの被爆をしている国際線のパイロットや乗客は、みんな毎回鼻血を出してなければおかしい。専門知識がなくとも、判別できることはいろいろあるはずです。【プロフィール】佐藤健太郎(さとう・けんたろう):1970年、兵庫県生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。医薬品メーカーの研究職を経てサイエンスライターに転身。「医薬品クライシス」(新潮新書)で科学ジャーナリスト賞2010を受賞。著書に「『ゼロリスク社会』の罠」(光文社新書)、「化学物質はなぜ嫌われるか」(技術評論社)など。関連記事■ 茂木健一郎氏がホームレス支援牧師と対談し真の絆を問うた本■ 星新一の入手困難なショートショート50編以上を集めた文庫本■ 幸福の科学学園“東大プロジェクト”で合格者数に注目集まる■ 日本のプロファイリングのレベルはかなり高いと専門家指摘■ iPS誤報の共同通信 取材したNY特派員を帰国させて事情聴取

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    私たちにつきつけられた 次の災害まで「災間社会」の課題

    田部康喜(ジャーナリスト) 「災間社会」とは、歴史学者の磯田道史氏がとなえている。東日本大震災後の社会のありように対して「災後社会」と呼ばれてきたことに対して、歴史の光をあてる。 列島に生きる私たちは、襲ってきた災害と次の災害までの時間を生きている。東日本大震災の犠牲者に対するレクイエム(鎮魂歌)を奏でながら、そこから教訓を読み取って、次の災害に備える準備をしなければならない。「イメージする力は生き残る希望につながる」岩手県大槌町江岸寺の墓誌には、命日の3月11日が並んで刻まれ、大槌の海が映りこんだ=2014年3月10日(鈴木健児撮影) NHKスペシャルは、東日本大震災によって引き起こされた社会の変動を示すビッグデータを積み重ねることによって、災間社会の課題を探り続けている。シリーズのFile.4「いのちの防災地図~巨大災害から生き延びるために~」(3月10日放映)である。 次の巨大災害は、南海トラフ地震である。今後30年間に起きる可能性は60~70%と予測されている。震度7の地震が発生し、九州から東名阪に至る広範囲に、最大で34mの津波が襲う。地震直後から1週間で、避難者は東日本大震災の19倍に相当する950万人にも及ぶ。大阪で77万人、名古屋で37万人と推定されている。 長年にわたって南海トラフ地震の脅威について警告してきた、高知大学の特任教授である岡村眞さんは次のように語る。 「防災とは最悪の事態をイメージする力です」と。そして、ビッグデータの解析によって、新しい防災地図を作る必要性を力説する。「イメージする力は、次の災害で生き残る希望につながります」 高知市の下知地区の防災地図づくりが実例である。 この地区の住人は、1万6000人。1946年に発生した「昭和南海地震」の際には、1カ月間も水没した。南海トラフ地震では、地震発生から30分後に3~5mの津波が襲うと推定されている。避難のために指定されているビルは27棟。住民全員を避難させるのは難しい。 岡村さんらは、1000種の情報を重ね合わせた地図をまず製作した。さらに、全国の10階以上の建物の情報の分析をしたうえで、下知地区の建物を改めて検証した。その結果は、最大5mの津波が地区を襲った場合でも、計60棟に避難すれば助かることがわかった。 こうした新しい防災地図に基づいて、地区の住民が短時間に避難する戦略的な計画を立案しようとしている。社会の制度までも変える力をもつ また、長い間にわたって地区が水没する可能性を踏まえて、住民が「疎開」する計画づくりも進んでいる。戦時中の米軍による空襲を逃れようとした疎開が、災間社会で蘇る。 疎開先の選定にも、ビッグデータが使われた。土砂崩れなどで地区の周囲の道路が使えなくなる。しかし、1本は残る。その先の40㎞離れた仁淀川町が候補地である。地区の代表が、その町を訪れて宿泊先や日用品を取り扱っている店舗などを調べている。古い小売店に入って、塩や砂糖などの在庫をみて、「コンビニなどより災害には強い」とうなずく。 東日本大震災の被災地では、巨大地震から1カ月の間に計724人が亡くなっている。いったんは避難して、命を失ったのはなぜなのか。水や医薬品、食糧などが被災地に十分に届かなかったのである。 東洋大学教授の小嶌正稔さんは、震災前後の物流のビッグデータから、燃料の供給が十分でなかったことが大きな原因である、と指摘する。 地震発生の翌日、トラックの動きは震災前の12.5%の水準まで落ちる。主要道路のガレキの撤去は、自衛隊や民間業者が中心となって進んだが、それでも貨物トラックの動きは回復しなかった。京都から宮城県を目指した、物資輸送のトラック運転手はいう。 「予想もしなかった光景に直面した。ガソリンスタンドが閉鎖されていた」 ガソリンを売りつくしてしまったスタンドが続出したのである。長距離トラックは、帰りの燃料のめどがたたないと前には進めない。ガソリンを輸送するタンクローリーは、実はガソリンが陸揚げされる港と、スタンドを往復するように効率的な狭い地域とコースを設定されている。仙台港と塩釜港の拠点が津波にやられると、震災地は深刻なガソリン不足に陥った。 つまり、ガソリンの輸送路は、タンクローリーによる長距離輸送を前提としていなかったのである。しかも、震災地以外の地域には、余剰のガソリンが大量に存在した。システムが輸送を阻んだのである。そして、物資の輸送に滞りがでて、水や医療品などの不足によって、亡くなった被災者がいたと考えられている。 政府がこうしたガソリンの輸送の問題について、震災地以外から長距離の輸送を指示したのは、3月17日になってからのことだ。 東洋大の小嶌さんは、地域別にガソリンを備蓄するシステムを構築すべきだと、提言する。つまり、拠点港とガソリンスタンドを結ぶばかりではなく、災害に備えて、中国地方とか地域別に備蓄基地を整備する案である。 ビッグデータは、社会の制度までも変える力がある、といわれる。 政府は来月から、国の機関や会社のビッグデータを、地方自治体に送るシステムを開始する。 東日本大震災を教訓として、災間社会のありようを示す、NHKスペシャルのこれからのシリーズにも期待したい。たべ・こうき ジャーナリスト。福島県会津若松市生まれ。幼少時代から大学卒業まで、仙台市で暮らす。朝日新聞記者、朝日ジャーナル編集部員、論説委員(経済、農業、社会保障担当)などを経て、ソフトバンク広報室長に就任。社内ベンチャーで電子配信会社を設立、取締役会長。2012年春に独立、シンクタンク代表。メディア論、産業論、政策論など、幅広い分野で執筆、講演活動をしている。関連記事■ 自衛隊こそ震災救援の中核を担う■ 300年沈黙の富士山がもし噴火したら…避難対象75万人 前兆ないことも■  「M9巨大地震から4年以内に大噴火」 過去の確率は6分の6

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    岩手・宮城・仙台・福島 復興それぞれのかたち

     東日本大震災や東京電力福島第1原発事故では、津波や放射線被害で多くの土地が奪われた。自治体は状況に即した形で復興を急ぐが、沿岸部に限らず、計画と現実の乖離(かいり)は大きい。震災当初、宮城県の村井嘉浩知事が掲げた震災後10年の工程は「復旧3年、再生4年、発展3年」。2020年東京五輪に発展期を迎える被災地は、どう変貌をとげているのか。≪岩手 陸前高田市≫「集約」転じて「つなぐ」 「コンパクトシティーという言葉はやめたほうがいい。誤解によるデメリットが大きくなっている」 10月に仙台市で開かれた「東北発コンパクトシティ推進研究会」のシンポジウムで、こんな問題が提起された。発言したのは、東北大大学院工学研究科の姥浦(うばうら)道生准教授だった。 研究者の間では、コンパクトシティー構想とは、自治体の各地域に、それぞれ拠点となる集落を維持することを指す。姥浦准教授も「人や施設を(駅前など)1カ所に集めればいいという発想ではない」と指摘する。 沿岸部の岩手県陸前高田市は、高台に広い土地が少ないためにネットワークづくりを生かしたまちづくりを目指す。主要な施設は高台に移転するが、1カ所に集積できる広さを持った高台はない。結果的に数カ所に分散することになり、コンパクトシティーからかじを切った。岩手・陸前高田市 東日本大震災で津波の直撃を受けた市街地は更地となった。ベルトコンベヤーが走り、高台から土砂が運ばれる。6年後には街が出現する=岩手県陸前高田市(三尾郁恵撮影) 市役所や商店街が集まっていた高田南地区は津波の直撃を受けた。このため、この地区には商店のみを集中させる。住宅の高台移転は544戸の計画だが、最も大きい団地でも100戸程度。30団地に分かれており、うち20団地は10戸にも満たない。 市は高田南地区から高台に向かって南北に延びる市道を2車線から6車線に拡幅するのをはじめ、高台を結ぶ道路計画を進める。BRT(バス高速輸送システム)や路線バスの補完となる、乗り合いタクシーの実証実験も繰り返している。電子カルテなどを使った医療や介護ネットワークの構築も急いでいる。 平成22年の国勢調査では陸前高田市の人口は2万3千人。現在は約1万7千~1万8千人ともいわれ、人口減少に歯止めがかからない。高田南地区の復興工程は31年までかかる見通しだが、「5年後には変わっていると思いますよ」と市担当者は話す。 全長3キロにわたるベルトコンベヤーが、かつては中心市街地だった更地の上を縦横無尽に走る。「希望のかけ橋」という愛称の巨大な人工物は、1日に10トントラック4千台分の土砂を運ぶ。工事が順調に進めば、6年後には、街並みが出現することになる。 仮設住宅に住む佐々木実佐子さん(72)は、その光景を見つめながらつぶやいた。「新しいまちも間違いなく私のふるさと。完成するまで元気でいなくちゃね」≪宮城 石巻市≫「駅前」か「内陸」か 迷い 「誰も歩いていないでしょう。これではね…」 宮城県石巻市のJR石巻駅前にある「立町(たちまち)大通り商店街」で、60年近く店を構える「ヤマキ家具店」の木村恵子さんが、こうため息をついた。最近は客が一人も来ない日も珍しくない。もう店を畳むべきか-。悩みは深い。国道398号の両脇に約400メートル続く商店街は、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。シャッターが目立ち、休日の昼間も歩く人の姿はほとんどない。11月からは、老朽化したアーケードの解体工事が始まった。 昭和46年ごろに設置されたアーケードは、活気ある時代の街の象徴だった。元商店主の男性は当時を「肩と肩がぶつかることが当たり前だった」と懐かしむ。しかし、立町大通り商店街振興組合によると、最盛期には111店舗あったが、震災前までに半減。震災後は37に減った。商店主は木村さんら多くが60代以上という。後継者不足も商店街の衰退に輪をかける。医療施設など集約 死者・行方不明者が3968人。石巻市は、震災で最大の人的被害が出た自治体だ。市役所もある石巻駅前は、まちづくり計画の中心に位置づけられている。市が描くのは、石巻駅前に行政や医療施設を集約し、被災者の入居先となる災害公営住宅も建設する「コンパクトシティー」の構想だ。 震災は人口減少に拍車をかけ、この3年半で市の人口は約1万3千人減の約15万人になった。市は、人口流出と高齢化社会対策を兼ね、石巻駅周辺の活性化と、平成の大合併で編入した旧6町での行政サービスの中核機能強化も狙う。宮城・石巻市 三陸自動車道インターチェンジ近くでは、宅地造成工事が急ピッチで進む。津波被害がなかったため、東日本大震災後は移転者が増加した=宮城県石巻市(大西史朗撮影) ただ、木村さんは市の計画に懐疑的だ。「石巻駅に市役所ができたときは期待もしたけど、結局人は増えなかった。いろんな振興策も試したが、ここではどれも効果がない。資金があれば、蛇田(へびた)に出店するのに」 駅前復興事業も砂漠に水をまく徒労になるのか。 蛇田地区は石巻駅から車で約10分の内陸部にある新市街地だ。仙台市から続く三陸自動車道の石巻河南インターチェンジ(IC)を中心に、日用品店から映画館までそろった郊外型ショッピングセンター「イオンモール石巻」をはじめ、家電量販店、家具店、飲食店などが集積する。 蛇田地区は津波被害を受けなかったこともあり、震災後は震災前以上に移転者が続出した。団地の造成も進み、戸建て宅地と集合住宅の災害公営住宅を合わせ2090戸分が整備される予定だ。石巻漁港近くにあった自宅が津波で全壊し、蛇田地区の仮設住宅に住む石垣てる子さん(80)は移転後、徒歩数分のイオンで買い物をし、店内のいすに座って地元の住民と会話することが日課になった。 病院も徒歩で15分、同じ集落から移転したなじみの美容院も近い。ついのすみかも、この地の災害公営住宅を選んだ。駅前も考えたが、「お店も何もない」と心は動かなかった。 震災後、一軒家を自力で再建でき、車を持つ若い世代の多くは利便性の高い内陸部へ移った。一方、駅前の災害公営住宅に入居予定の住民は多くが高齢者で、駅前では人口流出と同時に高齢化も加速する。市は駅前とは対照的に拡大を続ける郊外を、震災後は一層コントロールできずにいる。駅前にも人を引きつけたいという行政の思惑からはずれた形で、蛇田のまちの発展は進む。人口流出と高齢化 東京五輪が華々しく開幕し、世界からの視線が集まる6年後、造成中の蛇田地区の団地には住宅が立ち並び、IC付近に広がる風景はもっとにぎやかになっているだろう。一方、津波で壊滅的な被害を受けた沿岸の集落は、震災後に加速する人口流出と高齢化を、どう克服しているだろうか。≪仙台市≫読めぬ五輪特需の風圧 地下鉄車両の「顔」には、銀色に輝く三日月の意匠が刻まれた。三日月は、言わずと知れた仙台藩主、伊達政宗のかぶとの前立てだ。仙台市を東西に延びる平成27年開業予定の市営地下鉄東西線。開通すれば現行の南北線と合わせ、杜(もり)の都を十文字に貫く地下鉄網が誕生する。営業距離は高台から沿岸部までの13駅約14キロ。1日に8万人の利用客が見込まれている。不動産バブル 沿線へ経済効果は早くも出ている。三井不動産レジデンシャルによると、昨年末に完成したマンション「THE SENDAI TOWER 一番町レジデンス」は、市中心部にできる東西線の新駅「青葉通一番町駅」の真上にあり、114戸が完売。近くに建設中の「ザ・青葉通レジデンス」は昨年8月から販売を始めた251戸が、今年2月に売り切れた。同社は「即日契約も多い。震災前なら完売まで1年以上かかったのでは」と話す。 市内では東日本大震災以降、不動産バブルが続く。944人の死者・行方不明者が出たが、被災を実感させるものは少なくなってきた。ケー・シー評価システムの不動産鑑定士、千葉和俊社長(58)によると、「仙台のマンション価格はまだ上がっている」という。震災後に進出した企業も多く、「東北の拠点として見直され、人口が集中している」と分析する。 23年3月1日の市の人口は約104万人だったが、今年10月1日には約107万人に達した。 2020年の東京五輪開催が決まった昨年9月。被災地でも歓迎の声があふれた。一方で、別の思いも被災者の胸には去来した。果たして復興との両立は可能なのだろうか-と。 宮城県は災害公営住宅の完成時期を、来年度末から2年後ろ倒しにした。造成工事の遅れが原因だ。公共工事では入札不調が相次ぎ、昨年度の県の入札不調の発生率は25・4%。22年の3・2%と比べれば、異常さが際立つ。県内の建設関係者は「予算が少ない公共工事では割にあわない」と内情を明かす。東日本大震災の住宅不足もあり、マンションの建設ラッシュが続く仙台市内 (大西史朗撮影) 復興工事は激増している。千葉社長によると、資機材や人件費の高騰で、1年前に1部屋当たり約2千万円だった仙台市内のマンション建築費は、今では2500万円以上という。 県が公表する労務単価表でも明らかだ。震災前の22年4月には一般作業員の日当が1万1300円だったが、今年6月には1万6100円に増えた。「五輪の仕事は今後激増する。被災地の仕事はどうなるか…」。東京に本社を置く中堅ゼネコン幹部の口は重い。 実際、作業員の関心も6年後に向き始めている。仙台市沿岸部の工事現場で働く男性作業員(31)は「東京でいい話があれば行こうと思っている人も多い」と、仲間の気持ちを代弁した。同市沿岸部で区画整理工事に就く北海道出身の男性作業員(26)は昨年、被災地にやってきたが、「いい条件なら東京で仕事をやるかもしれない」と本音をのぞかせた。人件費が高騰 「使う側」の思いも複雑に交錯する。ある大手ゼネコン幹部は「影響は限定的」との見方を示す。五輪工事は「3、4年後にピークを迎える」と指摘。その頃には被災地で求められるのは大規模な工事ではなく、個人住宅の建設が中心となる。「五輪の工事が本格化する頃にはゼネコンではなく地元の建築会社が必要とされる。五輪と復興の工事は会社も人材も働く種類が違う」と分析した。 しかし、明るい見通しだけではない。五輪の工事が増えれば、人手確保のために被災地の人件費が高騰する恐れもある。中堅ゼネコン幹部は「受注した工事は期限までに造る。しかし、新規で仕事を受ける量を減らす可能性は否定できない」と影響を示唆した。≪福島≫帰還と流入の融和図る 表土が削られた田んぼに黒い袋が一面に置かれていた。除染廃棄物入りの「フレコンバッグ」だ。周囲には「除染作業中」と書かれた黄色い旗とマスク姿の作業員、その傍らを大型トラックが行き交う。いまだに全村避難が続く福島県飯舘村の大規模除染の光景だ。 放射性セシウムの半減期は約30年。事故から9年後の平成32(2020)年になっても、半減期の3分の1にも満たない。26年に宅地除染、28年に農地などの除染を終わらせようと、急ピッチで作業が進む。 除染作業のために7千人近い作業員が毎日、村内で1軒ごとに家屋と庭、周囲の屋敷林などで放射性物質を取り除く仕事を続けている。事故前の村民約6千人よりも多い。しかし、この作業が「村を救うことになるのか」と、住民は不安を感じている。孫たちには… 「除染しても元の生活に戻れるとは思えない」。比曽地区の菅野初雄さん(76)はそう話す。近所では除染が終わった家屋もあるが、あまり線量は下がらなかったという。 避難前には、母親と妻の紀子さん(74)、息子夫婦、孫2人の7人で暮らしていた。孫の成長を何より楽しみにしていたが、避難で離ればなれになった。村の帰還が決まれば、それを「区切り」として福島市で再び一緒に暮らしたいと考えている。除染廃棄物を入れたフレコンバッグが田畑の多くを覆い尽くしている=福島県飯舘村 以前は山からの湧き水で野菜を栽培し、食事は自給自足だったが、避難後に生活費は大幅に増えた。「私たちは戻りたいと思うが、孫たちには戻ってきてほしくない」(紀子さん) 福島県では現在、11市町村で国直轄の除染が進められており、28年中に終了する予定だ。除染が終了した川内村や田村市都路(みやこじ)地区などでは、避難が一部解除されている。しかし、川内村で完全に帰還した住民は全体の2割、都路地区では3割と、「除染=帰還」とはなっていない。避難区域で生活する草野貴光さん(66)は「解除から月日がたっても、戻って来る人は増えない」と話す。 村で避難が解除された地域は、立ち入り制限が続く富岡町など浜通(はまどおり)地方が生活圏だった。現在は、病院や買い物などは村中心部か田村市などに足を運ばなければならない。車で約20分もかかるため、交通手段を持たない高齢者には厳しい状況が続く。草野さんは「行政や国の支援がなければ生活することができない。元の生活に戻ることはできないと思う」と話す。増える交流人口 山間部の厳しい現状の一方で、原発作業の前線基地ともいえる広野町や楢葉町では、新たな動きがある。 原発から比較的近い広野町は24年3月31日、避難が解除された。町が除染を行っているが、住民はまだ3割ほどしか戻っていない。しかし、作業員たちが流入しているため、「交流人口」は増えている。 広野町には、廃炉作業や復旧作業のために住民票を持たない人が住む。復興需要で、同町などの双葉郡と南相馬市を合わせた有効求人倍率も高く推移している。人口増を望む自治体と、交流ではなく定住を望む復興要員の利害は一致する。しかし、こうした新住民に対し、もとの住民の不安はある。知らない人が増えれば、習慣の違いによるトラブルの心配もある。 6年後には、県内の全ての地域で除染が終わる。しかし、当初期待された「放射線量を減らせば、住民が帰ってくる」という構図は崩れている。 山間部では震災前と同様のコミュニティーがあるまちづくりが、避難区域では新旧住民の共存できる新しいまちづくりが求められる。除染はその一歩にすぎない。 【用語解説】コンパクトシティー 国土交通省によると、都市機能を近づけて「歩いて暮らせる集約型まちづくり」を実現し、拡散した都市機能を集約させる。また、生活圏の再構築を進めていくため、医療施設、社会福祉施設、教育文化施設等の都市のコアとなる施設を集約地域へ移転させ、移転跡地の都市的土地利用からの転換を促進する。関連記事■ 帰還を遅らせる賠償金格差■ まちづくりと雇用の創出 双葉郡8町村の合併を■ 原発輸出 本質を歪める「5つの論点」

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    復興がオーバースペックすぎる

    あたかも高度成長期のような枠組みのなかで、「元に戻す」復興と、「重複する」復興ばかりをやっていれば、必ず将来オーバースペックになり、維持困難という形ではね返ってくるだろう。福島・三陸のルポから考える。

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    福島でも始まる分散復興投資 バラバラに小さな町をつくるのか

    WEDDGE REPORT福島、三陸から考える 町づくりの「選択と集中」(下)Wedge編集部復興遅れる福島は「選択と集中」のチャンス*福島、三陸から考える 町づくりの「選択と集中」(上)はこちら福島第一原発事故による避難指示区域の復興は、三陸に比べさらに2~3年は遅れている印象だ。とくに、住民ですら自宅に帰るのに許可を取らなければいけない帰宅困難区域が町の大半を占める双葉町や大熊町では、がれき撤去も除染もこれからで、3.11のままの光景が残されている。居住制限地域は、除染やインフラ工事が動き始めたため、富岡町や浪江町ではようやく少し変化が起きたというところだ。3.11から時が止まったままの帰宅困難区域(福島県双葉町の中心部) 図のように、浪江、双葉、大熊、富岡の福島第一原子力発電所近傍4町は、住民意向調査で帰還希望が全体の2割未満と、他の市町村に比べ圧倒的に低い。4年間、ほとんど復興の動きなく放置されてきたため、現役世代を中心に避難先での暮らしに根が生え、新たな地で住居を購入するなど踏ん切りをつける人が増えているからだ。大きいのは子どもの存在だ。福島県の避難指示区域ーー各市町村の人口と住民帰還希望割合。(注)人口は各市町村発表。一部を除き2015年3月1日現在。住民票の異動を伴わない避難はカウントされていない。帰還希望割合は避難区域の世帯主に対して14年度に実施されたアンケート調査の結果。 「東京に避難しているうちに標準語を話すようになり、郡山に移ればその方言を使いこなすようになる」(浪江町出身の男性)と言うように、子どもは適応が早いがその分苦労も多く、親は落ち着いた生活をさせてやりたいと願うもの。中学校入学といった節目で転居を決断する例は多い。このまままず除染、その後帰還という政策を一律に進めれば、どの町も人口が大幅に減り、かつ一気に高齢化が進むということになりかねない。各町の人口に帰還希望者の割合をかけ算すれば、1000~3000人規模の町が分散していくつも生まれてしまう。 合理的に考えれば、広野町、楢葉町に投資を集中させるべきだろう。震災の半年後というもっとも早いタイミングで避難指示が完全に解除された広野町でも、人口の約4割、2000人強しか戻っていない。楢葉町は除染もインフラ整備も終わったが、昨年前半には行われるはずだった避難指示解除は、賠償金の打ち切りに直結することもあっていまだに実行されていない。帰還希望割合は45.7%だから、このままでは広野も楢葉も2000~3000人規模の町になってしまう。 広野、楢葉は放射線量も低い。隣のいわき市が、避難者の大量流入で、日本全国の地価上昇ベスト10を全て独占するほどスペースがなくなっていることや、両町にまたがる広大なサッカー施設、Jヴィレッジが東京五輪前に返還されることを考えても、広野・楢葉に数万人規模のニュータウンを建設し、浪江~広野6町の帰還希望者に集住を促すことは、教育、医療、商店といった生活インフラを考えても、町の持続可能性を一気に高める。未撤去のがれきや漁網と除染除去土が混在(浪江町請戸地区) 帰還希望が2割程度というのは、実は先述の閖上などとそう変わらない。自主再建や転出者が増えているのも同じ。現実から目を逸らして分散投資を行うのではなく、自治体の枠を超えた集住という、これまでどこもできなかった決断をすることができれば、福島の復興は歴史的な一歩となるだろう。 このような集住プランは、浪江、双葉、大熊、富岡の復興が後回しになることを意味する。昨年11月号でとりあげたが、賠償金の格差が住民間に深刻な軋轢をもたらしているし、双葉郡8町村に震災のずっと以前から合併の機運がありながら全く進まなかった歴史を考えれば、集住は簡単ではない。建設中の仮説処理施設(浪江町) 弊誌では4町出身の住民たちと座談会を行い、このようなプランに対してどう思うか率直な意見を聞いた。集まったのは30~40代の現役世代である。 「バラバラに投資すれば無駄が多く、小さな町ばかりになって未来がない」 「もうすでに自分たちは避難先で生活も仕事も頑張っている。故郷ではない広野・楢葉へと戻れと言うのなら、何らかのメリットが必要」 「東電の事故で国に勝手に追い出されたのに、双葉や大熊を除染したから戻れと言われればふざけるな、となる。汚れた便所を掃除したから舐めろというようなもの。放射線量の健康影響については勉強して理解しているが、これは科学ではなく気持ちの問題。でも一方で、1%でも帰還の可能性があるなら帰りたいという気持ちもある」 「国はこの4年間、主体的に何かを言ったことは一度もない。それが許せない。もう故郷に戻って暮らすことはできないんだろうなと思っている人は多い。でも、まず国が、もう帰れません、申し訳ない、新たな町に住んでほしいと、はっきりと言うべきだ」 「今戻れるならすぐにでも帰りたい。でも帰れないと言うのならせめて、墓参りくらいは自由にさせてほしい。自分たちの世代が子育てが終わったころには戻れるようにしてもらえないか」がれきや除染廃棄物の処理が始まったかせう処理施設(富岡町)それでも始まる
分散投資と誘致合戦 しかし、そんな福島・浜通りでも分散投資がすでに始まろうとしている。 復興に向けた目玉として掲げられている、新産業創出を目指す福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想。すでに廃炉モックアップ施設の建設が楢葉町で始まり、放射性物質分析施設が大熊町に決まった。さらに4月7日、高木陽介経済産業副大臣が同構想推進会議で「各町は苦労している。国が責任を持って拠点施設を持ってくる」と、浪江、双葉、大熊、富岡の4町に拠点施設を分散整備する考えを明らかにした。これでは、原発誘致をめぐって、各町が反目しあってきた時代に逆戻りである。建設中の廃炉モックアップ施設(福島県楢葉町) 双葉高校をはじめとする双葉郡内の県立高校5校は、2015年4月1日、県立ふたば未来学園高校の開校に伴い、休校となった。名門双葉高校野球部のOBたちは高校の存続を願って、署名運動を続けていたという。「休校の喪失感は大きい」(双高OB)。 双葉高校の校歌はこんな歌詞で始まるという。 「楢葉標葉のいにしえの 名も遠きかな大八洲(おおやしま) その東北ここにして天の恵みは満ち足れり」 双葉の地が、楢葉・標葉(しねは)の2郡に分かれ、この日本を大八州と呼んだのは 思えば遠い昔のこと、という意味だ。平安、鎌倉時代の武将、楢葉氏、標葉氏に由来する2つの「葉」を合わせた造語「双葉」が開校から92年の歴史を経て、卒業生が熱烈な母校愛を抱くほどの一体感に至った。 現段階では母校の喪失感は強くとも、5校を束ねる存在となったみらい学園はまた新たな母校愛を紡いでいくだろう。広域合併や広域連携に反対する地元感情は、地方に行けば行くほど根強い。しかし、ルーツや文化を残しながら、全体として新たな歴史を築いていくことは不可能ではないはずだ。浪江町請戸 自民党は5月に新たな復興プランをまとめ、それを受けて政権が次の5カ年の復興政策を示すと言われている。これまで国は、「地元の意向を尊重」という逃げ口上で、大所高所の方針を示すことを避けてきた。イノベーション・コースト構想に見られるように、利権誘導で個別最適に陥りやすい個々の市町村に寄り添うだけでは、人口減少時代の全体最適はない。一見住民感情に反することであっても踏み込んで道を提示するのが政治のリーダーシップだ。具体的には、賠償金の打ち切りと広域連携への誘導を示すことだ。関連記事■ 帰還を遅らせる賠償金格差■ まちづくりと雇用の創出 双葉郡8町村の合併を■ 原発輸出 本質を歪める「5つの論点」

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    総事業費5363億円 被災地で進むかさ上げ事業に住民不満の声

     東日本大震災から4年──被災者を置き去りにしたまま、巨額の予算がつぎ込まれる「かさ上げ事業」が進んでいる。 かさ上げ事業が組み込まれた土地区画整理事業は3県48地区で工事が進み、総事業費は5363億円に達する巨大プロジェクトだ。なかでも1800人もの犠牲者を出した岩手・陸前高田市は、平成30年までに総事業費1200億円を見込み、126ヘクタールを平均12メートルかさ上げして1376戸が住むことを想定する。かさ上げの土を運ぶベルトコンベアも設置(陸前高田) かさ上げのための土は、山を切り崩し全長3キロの巨大なベルトコンベアが運ぶ。その量、1日10トントラック4000台分に及ぶ。かさ上げされた土地に建物が建つのは3~4年後という計画だ。仮設商店街の店主が話す。 「12メートル地盤を上げるというけど、震災のとき津波は18メートルを超えていたんです。同じ規模の津波に襲われたらひとたまりもありません。役所は『そんなことありません』というけど、納得いく説明がないのに誰が家を建てますか」 同様に、総事業費376億円を見込む土地区画整理事業が進み、3地区85.6ヘクタールを整備する宮城・気仙沼市。「理容 鹿折軒」(ししおりけん)を営む小野寺光男さんは、一時的な避難所としてかさ上げされた土地に昨年移転してきた。漁港エリアのかさ上げされた土地に移り営業を続ける「理容鹿折軒」の小野寺さん一家(気仙沼) 「移転費用は出してもらいましたが、来年の夏にはここから正規にかさ上げされた場所に移るようにいわれています。そこに本格的な商店街を作るという計画ですが、区画整理が終わるのは5年後だそうです」(小野寺さん) 国や自治体は楽観的な将来の青写真を描くが、現実には多くの店舗が廃業や移転を決め、街から姿を消している。かさ上げ工事の様子を眺めながら、商店主のひとりが「潤うのはゼネコンだけだよ」とつぶやく。 被災者につきつけられる険しい毎日と未来への不安。巨額な復興の予算は、最も必要とされるところに本当に使われているのだろうか──。 (撮影 太田真三)関連記事■ 首都圏の葬儀費用は平均256万円で近畿地区より40%高い■ 公共事業大盤振る舞いで自民パーティがゼネコン関係者で盛況■ 親が地方在住の土地持ちなら大都市圏に住み替えで相続税対策■ 五輪建設ラッシュ 215億円で豊洲・汐留結ぶロープウェーも■ 石巻出身者 復興予算がシーシェパード対策費に使われて仰天

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    オーバースペックの復興 1100億円で12mかさ上げる陸前高田

    WEDGE REPORT福島、三陸から考える 町づくりの「選択と集中」(上) Wedge編集部 陸前高田の巨大ベルトコンベヤーはいったいどんな町をつくるのか。震災が一気に進めた人口流出に、市町村ごとの分散投資で抗えるか。 かの有名な「奇跡の一本松」のほど近く。岩手県陸前高田市の中心、高田地区には、全長3キロものベルトコンベヤーが空を覆うほどに張り巡らされている。毎日ダンプ4000台分の土砂を運ぶ巨大ベルトコンベヤー。12メートルのかさ上げ造成に使われる(陸前高田市) 気仙川の向こう側に見える、海伐130メートルほどの愛宕山は、宅地などを造成する高台とすべく、8機の巨大破砕機で50メートルまで削られている。発生する大量の掘削土は、ふもとの今泉地区と川向かいの高田地区に運ばれて、最大12メートル、大半が10メートル超という膨大なかさ上げのために使われる。両地区合わせて約300ヘクタールに上る土地区画整理事業は被災地最大規模だ。 事業主体のUR都市機構によれば「ベルトコンベヤーは毎日2万立方メートル(ダンプ4000台分)の土砂を運べるので、ダンプなら10年かかる工期が4年で済む」。気仙川を跨ぐ土砂専用吊り橋は、市の公募の結果「希望のかけ橋」と名付けられたが、「神への冒涜」と評する人もいる。現地に立つと、津波に流された気仙川の三角州一帯に鳴り響く「ガンガン……」という大型重機の轟音に身震いする。1世帯5000万円もの
造成費をかけて… 人口2万4000人の陸前高田市では、震災で約1800人が犠牲になった。住宅約8200戸のうち、約4割にあたる約3400戸が被災。いまも約1600世帯が仮設住宅で暮らす。区画整理の最大の目的は住宅再建だ。 事業費はなんと約1100億円。地権者は約2200人のため、単純計算で1世帯あたり約5000万円もの造成費がかかっている。しかし、この巨額投資で生まれる町の持続可能性には疑問符がつきまとう。 住民からよく聞かれるのは「あれだけ津波で流されたところに土を盛って住めるのか」という声だ。市側は「一般的な木造2階建てが通常の基礎で建築できる強度を確保し、地盤沈下は工事完了までに収束することを試験盛土で確認済み」と説明するが、埋立地で地盤沈下や液状化が発生しやすいことはよく知られており、計画発表当初、かさ上げした津波浸水域に戻りたいと希望する住民は非常に少なかった。 そこで市は、高田、今泉両地区に高台エリアの住居をそれぞれ約600戸、約300戸用意する土地利用計画を立てた。しかし、その後の換地意向調査で高台希望は285戸、156戸に激減。多くがかさ上げ地希望に変わった。理由は、「宅地引き渡し後2年以内に工務店などと建築契約」が高台移転の条件に加わったことだ。「すぐに宅地を立てる自信がないのでとりあえずかさ上げ希望に丸をつけた」という人が少なくない。大規模な津波被害を受けた平野部の多くはかさ上げ造成が実施されている(石巻市門脇地区) そのほかにも、5戸以上で集団移転する防災集団移転促進事業(防集)や、津波復興拠点整備事業といった枠組みを使い、市による土地の買い上げを希望する人も増えている。他に災害公営住宅も1000戸整備される予定だが、入居を開始している団地ではもう空室が発生している。 市全体の人口は、住民票ベースですら2割減り、2万人を割り込んできている。区画整理事業全体の完了は18年度で、家を建てるのはその後だ。待ち切れない住民たちが次々に自主再建や市外への転居を選択している。 かさ上げ地では町の中心として商業の復興も不可欠だが、被災した約600の事業所のうち、営業再開したのは約半数。一方で廃業は230に上る。高台の人口密度も、かさ上げ地に戻ろうとする住民の意思も、今後さらに薄まっていく可能性は高い。陸前高田の復興計画はどこを切り取ってもオーバースペックになりつつある。 しかし、これは陸前高田に限った話ではない。いま、三陸沿岸を車で走れば、どの道もダンプが溢れている。あちこちで防集を実施し、山を切り出して高台をつくり、かさ上げを行う光景が延々と続く。眼前に現れる漁港は、小さくとも確実に修復工事がなされ、集約されることがない。30人の漁民が使う、ある漁港の復旧には35億円の国費が投じられている。三陸の沿岸はダンプの車列で渋滞し、土埃が舞う(宮城県石巻市の市立大川小学校付近) 震災前から三陸地方は人口減少と少子高齢化が進んでいた土地だ。その上「震災で人口減少が十年程度進んだ」(岩手県大槌町の人口対策計画)。にもかかわらず、各市町村ごとに同じような公共事業が推し進められ、それぞれ後戻りがきかなくなっている。 宮城県名取市閖上地区には、震災前、約5500人が住んでいたが、津波で約800人が犠牲になった。市は当初から現地再建の方針で、3000人規模の町をつくる目論見だったが、住民意向調査で帰還希望は34%と低く、時間が経つと25%まで落ち込んだため、2000人強の規模に縮小した。 区画整理事業は、5メートルのかさ上げ範囲を45ヘクタールから32ヘクタールへと縮小したが、防集を用いた集団移転の移転先は地区内とし、災害公営住宅も地区外を拡大せず、閖上を第2希望、第3希望とした住民も第1希望扱いとするなどして、帰還希望者数を懸命に維持。最終的に755世帯、事業費約270億円の計画で昨年10月に着工した。ここまで市が規模にこだわったのは、国費でかさ上げを行うためには「1ヘクタールあたり40人」という人口要件を満たす必要があったためとみられている。 集団移転を行うにしても、なぜ巨額の資金を要する現地再建にこだわるのだろうか。閖上では多くの住民が内陸移転を求めていたし、隣には仙台市がある。土地の余裕がない陸前高田も、市町村の枠を超えて、隣接する大船渡市や内陸の住田町と集住し、町の規模を維持するような方向は模索できなかったのだろうか。陸前高田、大船渡、住田は合わせて気仙と呼ばれてきた地域なのだが、住民はこう口を揃える。 「大船渡と高田は昔から仲が悪い。合併の話は以前からあるが、大船渡にのみ込まれると高田は警戒してきた」 ある地域のまとめ役はこんな話をしてくれた。 「津波の被害を受けた集落がそれぞれ防集を使って、少し奥地の高台に移転したのだが、地域外への転居も発生しているから、各集落が小さくなりながら不便な奥地へバラバラに引っ込んだような形になっている。私自身は、まとまって集住しないと診療所もスーパーも来てくれないと思うのだが、隣の市はおろか、隣の集落とも仲が悪いのが田舎。合同でニュータウンをつくろうなんてとても言えなかった」 かくして三陸では震災から4年が経った今、土木工事が本格化し、多くの町がもとの場所かそれに近い場所に戻る、現地再建型の復興を進めている。 集中復興期間5年間に用意された復興予算26兆円のうち、インフラ工事には10兆円が使われた。「浸水域すべてに居住制限をかけ、ニュータウンをつくって広域から集住。もしくは逆に、被災者に現金を配って自由な自主再建を促したほうが、現状より安上がりで、かつ集住も進み、持続可能性ある町づくりになったのでは」(ある被災者)という意見はずしりと重い。*(下)へ続く関連記事■ 帰還を遅らせる賠償金格差■ まちづくりと雇用の創出 双葉郡8町村の合併を■ 原発輸出 本質を歪める「5つの論点」

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    希望、未来、尽きぬ祈り

    東日本大震災から4年。津波の被害を受けた仙台市若林区では、朝日が昇る中、手を合わせる人たちの姿があった=3月11日午前6時24分(宮崎瑞穂撮影)漁業仲間を津波で亡くしたという漁師の松木波男さん(79)は、仲間を思いながら石碑に刻まれた名前をなでていた=11日午前、仙台市若林区(宮崎瑞穂撮影)津波で多くの児童と教職員が犠牲となった大川小学校では、朝から雪が舞う中、家族を亡くした男性が祈りをささげた=11日午前、宮城県石巻市(竹川禎一郎撮影)慰霊碑の前で、亡くなった親族や犠牲者の冥福を祈る親子=11日午前、福島県相馬市(早坂洋祐撮影)東日本大震災から4年の朝を迎えた『奇跡の一本松』=11日午前、岩手県越前高田市宮城県三陸町では、多くの人が防災対策庁舎を訪れ、犠牲者を悼んだ=11日午前(大西正純撮影)雪が舞う中、宮城県南三陸町の防災対策庁舎前で犠牲者を悼む男性=11日午前(大西正純撮影)政府主催の追悼式で献花する遺族ら=11日午後、東京都千代田区の国立劇場(代表撮影)津波で児童と教職員計84人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校には、朝から遺族や関係者が訪れて祈りをささげた。この日の早朝は、強い風が吹いて雪が舞い、凍えるような寒さで、周辺はうっすらと雪化粧した(竹川禎一郎撮影)津波で集落一帯が流された福島県浪江町請戸地区の自宅跡地を訪れた後、共同墓地に立ち寄った島さつきさん(58)、歩さん(28)親子。「4年たったからもう大丈夫」と思っていた歩さんだが、「ここに来るとまだ心の傷があり、それが強がりとわかる」と話した=11日午前(早坂洋祐撮影)多くの知人、友人を宮城県南三陸町の防災対策庁舎で失ったという後藤一磨さん(67)は「これからも頑張るぞと伝えました」と涙ながらに語ってくれた=11日午前(大西正純撮影).岩手県宮古市田老地区の巨大防潮堤の上で黙禱する父子がいた。会社員の山本英貴さん(38)と長女の山本雪愛(せら)ちゃん(3)。英貴さんは震災で祖母を亡くしており、「3月日のことは一生忘れない。この子は震災の起きた年の7月に生まれ、祖母の生まれ変わりだと思っている。今日は祖母に僕たち家族を見守ってくださいと伝えた」と海を見つめた=11日午後(鴨川一也撮影)閖上中学校には絵灯籠が灯され、卒業生らが多く訪れた=11日午後、宮城県名取市(宮崎瑞穂撮影)

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    それでも海と生きる

    1万5891人が亡くなり、今も2584人の行方が分からない東日本大震災は11日、発生から4年を迎えた。津波や原発事故で故郷を失っても、多くの人が「それでも海と生きる」と決めた。「復興」の二文字だけが独り歩きする現実。複雑に交錯した人々の思いが被災地を包んだ。

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    「逃げ地図」津波に負けないまちづくり

    間が一目で分かる逃げ地図づくりが全国各地で行われている。北は岩手県から南は高知県まで11都県に及ぶ。東日本大震災の経験と教訓が生んだ新たなリスクコミュニケーションの手法であり、子どもでも作成が可能な地図である。 その作成手法を考案したのは、日本を代表する大手設計事務所・日建設計の若手社員たちで、私は2年前から彼らと研究開発グループを立ち上げ、逃げ地図の作成と活用の全国的な普及と多面的な展開に関わってきた。地図と色鉛筆と紐でどこでも作れる 逃げ地図の正式名称は、避難地形時間地図という。津波のハザードマップや過去の履歴などからの高台等の避難目標地点を設定して、そこまでの避難経路とその所要時間を色塗りする。2,000~2,500分の1程度の地図と12色以上の色鉛筆と紐(ひも)さえあれば、どこでも作成可能である。地図と色鉛筆と紐があれば、どこでも作成可能 ここでいう紐とは、逃げ地図用の物差しである。巻き尺ほど長くなく、5~7cmほどの短い切れ端である。足の悪い高齢者が3分間で移動する歩行距離を平均129mとして設定して、その3分間の距離分を物差しとして用意している。高齢者の交通計画に詳しい秋山哲夫氏によると、高齢者の歩行速度は平均46m/分であるが、坂道や階段等の勾配による歩行速度の低減率を考慮して43m/分として設定した。高齢者の坂道の歩行速度を3分間129mと設定した逃げ地図の物差し この紐を地図にあてて、避難目標地点を起点にした避難経路に3分間までは緑色、3~6分間は黄緑色、6~9分間は黄色、9~12分間は橙色というように色塗りをしていく。その際、振動による倒壊や崖崩れ等で通行不能になるおそれのある道路や橋梁等は×印をつけて避難経路を記す。一通り塗り終わった後、避難経路に避難方向を示す矢印(→印)をつける。 重要な点は、作成された逃げ地図を見て気がついた意見を話し合うことである。つまり、逃げ地図の作成は、あくまでも手段であって、目的ではない。目的は、避難計画の検討にあり、逃げ地図はより満足度の高い安全なまちづくりに向けた合意形成を可能にするプラットフォームであり、ツールである。陸前高田市の米崎地区で作成された逃げ地図復興支援活動から生まれた 逃げ地図の作成手法は、日建設計の業務としてではなく、震災復興支援のボランティア活動の中から生まれた。かつて仕事でお世話になった被災地の建築関連会社の方々から意見を聞く中で、被災地にとって必要なことで彼らができることは、津波からの避難に関するリスクの可視化であった。つまり、逃げ地図の作成を通して、具体的にリスクを把握することが被災者の漠然とした不安を和らげて、復興計画の立案・策定に向けた合意形成が容易になると考えた。 日建設計は、東京ドームや東京スカイツリー等の大規模施設の設計を数多く手がけてきた。設計にあたって避難計画を考えることはごく当たり前のように身体にしみ込んでいたため、避難の地図を作成することは自然であった。 地図作成自体が目的ではなかった。作成した地図をもとに今後の復興計画案の費用対効果を検証することに狙いを置いた。つまり、高台への避難階段や避難道路の整備、あるいは津波避難タワーの整備など、考えられる計画案の整備効果を避難時間の短縮という観点から比較検討するツールとして逃げ地図を活用しようと考えた。 こうした作業は、コンピューター上で行った方が簡単ではあるが、復興計画の立案・策定に向けた合意形成を進めるため、住民ワークショップを基本にした。 逃げ地図作成に類似した既往の手法としては、総務省消防庁が作成して普及してきた「地域ごとの津波避難計画策定マニュアル」に基づく津波避難計画地図作成の住民ワークショップがある。これは2001年度に津波対策推進マニュアル検討委員会がまとめたもので、過去の津波の履歴や津波シミュレーションに基づき、避難対象区域・避難場所・避難路等を設定・指定し、避難計画を立案・策定する。逃げ地図と作成手順が類似しているが、決定的に違う点は避難場所までの避難時間の記述の有無である。同マニュアルでは実際に避難場所まで歩いて避難時間を測定することを指示しているが、逃げ地図はそれが一目で分かる。陸前高田市での逃げ地図の作成 私は、震災直後から陸前高田市に入り、学生たちとともに避難所や仮設住宅で暮らす被災者からの聞き取り調査を実施してきた。小中学生たちがいつ、どの経路を通って避難したかを調べていた時に、日建設計ボランティア部のメンバーと陸前高田市で出会った。今から3年前のことである。その後連絡を取り合い、千葉大学の木下勇教授ら逃げ地図に関心を持つ研究者とともに、逃げ地図の研究プロジェクトチームを2013年4月に立ち上げた。 陸前高田市では、日建設計のメンバーが長部地区で2012年2月に岩手県初の逃げ地図作成ワークショップを開催したが、震災から1年後で高台移転等の懸案事項を抱えていたこともあり、逃げ地図を作成しただけにとどまった。 大きく進展するのは、2013年9月に高田東中学校で中学3年生約60名と地域住民らの計100名以上を集めたワークショップからである。高田東中は震災後に米崎・小友・広田の3中学校が合併し、生徒の通学環境が大きく変わったことから、通学時の生徒の安全を心配する声があがっていた。そこで、米崎・小友・広田の各町の逃げ地図を作成し、避難に係るリスクの共有を図った。陸前高田市の小友地区で開催された逃げ地図ワークショップ 中学生たちが自分たちのまちの逃げ地図を作成したことが功を奏したようだ。広田湾と大船渡湾の両方から津波が押し寄せた小友町では、消防団が立ち上がり、地域住民や小友小学校の関係者と逃げ地図を作成した。 陸前高田市では全国で最も多い51名の消防団員が津波の犠牲になった。消防庁では、その経験と教訓から、消防団の使命と安全確保の両立を図るために、退避ルールの確立や活動可能時間の設定等を内容とする「津波災害時の消防団活動・安全管理マニュアル」の作成をすすめた。陸前高田市でも消防団の地震災害活動マニュアルに「津波予想到達時刻10分前には予め分団で定めた避難場所に必ず退避を完了する」ことが定められたが、要援護者を置き去りにして10分前に避難場所で退避していて住民の理解を得られるのかなど、消防団員の間に戸惑いや葛藤があったという。それが逃げ地図作成を通して、消防団が震災時に交通規制した場所のリスクや避難誘導の方法について点検・議論され、消防団の行動に関する合意形成が進んだ。 一方、小友小学校では、作成された逃げ地図に基づき、震災時の避難場所と避難経路を見直して避難訓練を行い、従来よりも5分短縮できることを確認した。そして新たな避難場所や学校からの避難経路、スクールバスの避難経路等を記載した通学路安全マップを作成し、児童や保護者に配布した。先日、津波注意報が発令された際も、この避難計画に沿って指定した避難場所まで適切に移動した。小友地区で作成された逃げ地図の一部 半島部の広田町では、避難計画の視点から高台移転等の復興事業を検証するために、中高生、消防団、漁協女性部を中心にしたワークショップを3回重ねて、町内7地区の逃げ地図を作成した。2014年12月に陸前高田市が主催した「将来計画策定へ向けた地区別住民懇談会」では、「逃げ地図を参照にすべき」という意見が各地区からあがり、広田町の将来計画に反映されることになった。PDCAのマネジメントサイクルのツールに逃げ地図作成経験のある中学生も参加した都市計画マスタープランの検討会議(下田市) 南海トラフ巨大地震の発生に伴い、高さが最大33mの津波が襲来すると想定された静岡県下田市でも、2014年2月に下田中学校で中学1年生約90名が参加したワークショップが起点になって逃げ地図づくりが市内各地に広がった。 朝日小学校のある吉佐美地区では、地元の自主防災会と吉佐美区(自治会)が東日本大震災後に各集落での検討結果をまとめて合計16カ所(2014年4月時点)の緊急避難場所を指定した。下田中の生徒たちが作成した逃げ地図は、結果的にその避難場所の指定が適切であったことを検証するものになった。しかしながら、崖崩れがあると通れない道路があるという指摘があったことから、吉佐美地区の住民有志が集まり、土砂災害も考慮した逃げ地図を作成することになった。 同じ地区の逃げ地図を複数の班が作成する際には、設定条件を変えると効果的である。例えば、下田市白浜地区では、遡上高10mと20mの津波からの避難、地元が指定した緊急避難場所までの避難という3つのケースの逃げ地図を作成して比較した。その結果、津波の想定条件を変えても10分以内に避難できる地域であることが分かり、地元が指定した避難場所の妥当性も検証することができた。下田中学校のワークショップでは、津波避難ビルを避難場所とする班としない班に分かれ、できあがった地図を相互に比較して津波避難ビルの設置効果を検証した。土砂災害を考慮した逃げ地図の一部。●は緊急避難場所、□内×印は土砂災害に伴う通行不能箇所。 吉佐美地区でも、土砂災害を考慮する班と考慮しない班に分かれ、前者は静岡県のハザードマップを参照して崖崩れで通行不能になる避難階段や道路、トンネルを点検して逃げ地図を作成した。その結果、崖崩れで通行できなくなっても、各集落の避難訓練のルートを通れば、避難時間に大差がないことが明らかになった。しかしながら、集落単位ではなく個人単位で近くて安全な場所へ避難した方が良いという意見が出された。参加した中学生からはルールに縛られすぎると危険な場合があるという意見もあった。逃げ地図ワークショップはこうしたリスクコミュニケーションを図る上で有効な機会と場になっている。 下田市では、この逃げ地図作成と並行して、地区ごとの津波避難計画の策定や都市計画マスタープランの見直しを進めている。吉佐美地区がそうであるように、新たな避難場所や避難経路が確保されると、避難時間が短縮され、逃げ地図の色が変わる。つまり、住民や行政がアクションを起こすと、それが逃げ地図に如実に反映される。逃げ地図は、単に計画をたてるだけでなく、評価をして、新たなアクションを展開するPDCAのマネジメントサイクルのツールでもある。関連記事■ 世界であまり例がない 東京一極集中の是非を考える■ 徹底的に被災者の立場に立った神戸新聞■ 御嶽山噴火は破局の前兆なのか

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    海とともに生きる

    集約し、低地は産業用地として商業、水産加工業、漁業に活用する、と明確に分けている(図1)。女川町は、東日本大震災で死者・行方不明者827名という人口比最大の人的被害を出しているが、復興計画において防潮堤を作らないことをいち早く決定した。海に囲まれた町で海とともに生きてきた町民は、海が見えなくなることを選ばず、その代わりに、津波が来ても逃げられる、建物は失っても人命は失わない町を作ることを決めた。現在、女川町の各所では山を切り開いて宅地を整備し、その土で低地を嵩上げする工事が行われている。図1(出典:女川町復興まちづくり説明会(町中心部)資料 H24.7)表1 主な中心部施設の開業予定 一方、JR女川駅を中心とする低層の産業地の整備事業も着々と進んでおり、2015年3月にJR女川駅が開業するのを皮切りに、新施設が次々とオープンする(表1、図2)。建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した坂茂氏の設計による新女川駅は、羽を広げたウミネコをイメージしたデザイン。温泉施設と展望施設を備えており、女川観光の拠点となる。新設される漁業体験施設は、津波で流された旧女川駅のデザインを生かして建設される。住民と来訪者がともに集う海を生かしたソフトを取り込む中心市街地 新たな女川の町のにぎわいを創出するとともに、町内の事業再生という点でも注目されるのが、女川駅から海に向かって延びるテナント型商店街だ。2014年11月時点で、飲食店、日用品店など25事業者の参画が決定している。ワークショップやイベントが開催できるスペースも設けられ、住民の集う場、来町者を呼び込む場としても活用される。震災前に10,014人だった女川町の人口は、7,197人(2014年10月31日時点)にまで減少した。商店街を含む中心市街地の開発、運営を担うまちづくり会社、女川みらい創造株式会社専務の近江弘一さんは、新たな町のビジョンをこう語る。「直近で定住人口が増えることはないだろうという前提で、人口の新陳代謝ができる町を作りたい。団塊世代の二地域居住、3年間住む若者を生む全寮制高校の設置など、永住ではなくても数年間町に居住する人が生まれる仕組みを作り、人が入れ替わりながら循環することを目指す。その延長線上に定住人口の増加が見えてくるはず。そのために、女川で過ごす時間、女川で体験できることの価値を形にして見せていきたい」。図2(出典:女川町復興まちづくり情報交流館WEB) その軸となるのは、震災前から女川が持っていたもので、これからも女川が持てるもの、だという。女川のまちづくりは海の存在を最大限に生かすことを基本としており、町内各所に海が見える眺望点が設定される。「獲る、調理する、食べる」の一連が体感できる漁業体験施設の開設も、海を生かしたまちづくりを具現化したものだ。商店街にも海鮮を提供する飲食店や鮮魚店など、女川の海の恵みを味わえる店舗の入居が予定されているほか、物産センターには津波被害に遭い現在は仮設店舗での営業を続けている「マリンパル女川おさかな市場」が新しい形で移転することになる。海に面した低層地は公園になる 2015年3月、女川駅の開業に合わせて、不通となっていたJR石巻線の浦宿~女川間が開通する。同年6月までには陸前小野~高城町間が復旧しJR仙石線が全線開通する予定で、仙台から女川への交通アクセスが格段に向上する。駅周辺にコンパクトに魅力が詰まった中心市街地は、旅行者にとって利便性が高く、来町者の増加が見込まれるだろう。そこから長期滞在者を生むことができるかどうかは、訪れた人の期待を上回る体験・価値を提供できるかに懸かっている。「60代は口を出さず、50代は手を出さずに支援する」次世代が中心となったまちづくり 被害の大きかった市町村の中でも群を抜いてスピードの速いまちづくりは、どのように実現へ向かったのだろうか。 近江さんによれば、女川町の復興計画が進んだ理由は「防潮堤は作らないと意思決定したこと、みんなが町の復興を願っている時期にいち早く土地の権利を放棄させ区画整理を進めたこと、継続的に話し合う場が設けられていること」の3点だという。建設が進むJR女川駅舎(左側) 特にポイントとなるのは「話し合う場」だ。「女川町復興まちづくりデザイン会議」が設けられ、2014年10月までに15回開催されている。有識者とともに町長から住民までが参加して、町のゾーニングからシンボルとなる建造物のデザインまで、町全体の方向性を話し合っている。女川のまちづくりには小中学生も参加し、30代、40代が中心となって動き、町の年長者から、「60代は口を出さず、50代は口を出してもいいけど手は出さず」と言われた上の世代が支えているのが特徴だ。震災後の2012年に初当選した須田善明町長も42歳と、まちづくりの中心になっている人々と同世代だ。 現在56歳の近江さんは言う。「まちが作り上げられるのにあと5年かかる。継続的に人を呼び“株式会社女川町”を事業として成立させるのは、それからが本当のスタートライン。だから、持続可能な町の仕組みを作り次世代に引き継いでいくことが自分たちの世代の役目。女川は津波で壊滅的な被害を受け、人口減少率も全国で一番高い。その女川で持続可能なまちづくりができるなら、全国どこででもできるという事例になるでしょう」。 平成の大合併でも独立の道を選び、町民のアイデンティティの強い女川町。女川ならではのまちづくりのビジョンを携え、津波の被害から再び立ち上がろうとしている。(東北復興新聞『[宮城県女川町]千年に一度のまちづくり 人口減少率日本一からの持続可能性への挑戦』より転載)関連記事■ 世界であまり例がない 東京一極集中の是非を考える■ 御嶽山噴火は破局の前兆なのか■ 「美味しんぼ」論争 科学者からの反論

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    被災地アンケートで浮かび上がる貧困の現実

    被災地アンケート 東日本大震災から4年が経過しようとしている。 被災された方々の現実に立脚したとき、復興は果たして進んでいるといえるのか。仮設住宅への入居が長期化する中で、耐久性の強化など、本格的な改修に向けた試験工事が行われた=2014年8月20日、岩手県釜石市(高木克聡撮影) 東京を本拠とするヒューマンライツ・ナウ(震災問題プロジェクトチーム)は、被災地アンケートをもとにした実態調査報告書を先ほど公表した。  被災地アンケートは、今回、岩手県大船渡市の被災者の方々を対象として実施、アンケートを実施するにあたっては、地元のNPO法人夢ネット大船渡の方々に多大なるご協力いただいた。 アンケートを実施した期間は、2014年9月から11月で、岩手県大船渡市の被災者57世帯の方々から回答をいただいた。 本アンケートは震災から3年半以上が経過した段階での集計であるが、まだ多数の被災者の方が仮設住宅での避難生活を余儀なくされており、また、仮設住宅に入居していない被災者も、様々な困難と不安を抱え、先の見えない生活を送り復興と程遠い現実が明らかになった。(1)生活が困窮している被災者 今回のアンケート結果から分かることは、まず第1に、経済的な困難を抱えた被災者が多いということである。 アンケート回答者の年収は、震災前に最も層の厚かった200万円以上400万円未満の人が29名から21名に減り、震災前には8名だった100万円未満から200万円未満の最低所得者層が13名に増えている。 400万円以上の比較的高所得者層も、震災前は合計11名だったのが、現在は5名に減っている。 また、注目すべきは、無職のうち、震災後に無職になった人が14名いたことである。震災によって職を失い、現在も職を得られていない人が少なくないことがわかる。 「生活に困っているか」との質問に対する回答は、困っているが25名、困っていないが29名、無回答が3名であった。しかし、この質問は大変抽象的であり、困っていないと回答した人の中にも、その後の具体的な質問項目での回答を見ると、むしろ困っているのではないかという人も複数見受けられた。 「困っている理由」(Q2-1-2)として、最も多かった回答は、生活費が足りないで12名、次いで健康上の悩みが9名、借金があるが4名、行政に対して不満があるが3名、人間関係の悩みと家族間でのトラブルがそれぞれ2名、就職先が見つからないが1名、その他が8名であった。 その他に回答した人の内訳は、ガイドラインに申請しているがなかなか進まないが1名、被災した宅地の処理の見通しが立たないが1名、住宅の問題が4名、不明が1名であった。 ところが、生活保護に関しては、受給したくないという回答が目立った。 ただでお金をもらうのは申し訳ないとか、人目が気になるとか、そもそも生活保護制度自体がよく分からないからと回答している人が多い。生活保護制度の理解の不十分さが理由となり、客観的には最低生活水準以下に陥っている世帯の生活保護申請を妨げている可能性がある。「生活に困っていない」との回答とあわせて、客観的に困っていながら我慢を重ね、SOSを発することが出来ないという事態が懸念される。(2)高齢の被災者の状況 次に、高齢者の割合が多いことから、高齢者特有の問題も見て取れる。 前述した「生活に困っている理由」として、健康上の悩みと回答した人が、生活費が足りないと回答した人に次いで多かった。高齢者が長引く避難生活によって健康を害しているケースが多いと推測される。 高齢者についての行政等に対しての要望では、介護施設に入所するための補助を充実させてほしいとか、在宅介護のための補助をもっと手厚くしてほしいなど、介護関係の補助に関する要望が多かった。また、買い物等の移動支援の要望も多かった。(3)住宅問題について もう一つは、被災者の住宅に関する問題である。・住まいの実情 震災前の住まいの居住形態は、戸建て(持ち家)が50名、借家が4名、無回答が3名であった。 現在は、建設型仮設住宅と戸建て(持ち家)がそれぞれ25名、民間借り上げ住宅が3名、無回答が4名であった。未だ回答者の約半数が仮設住宅ないし見なし仮設住宅に居住している実態が見て取れる。 そして、現在の住宅設備に関して困っていることや不足しているものを質問したところ、部屋数や部屋のスペース等の問題で困っている、隣の音が気になる、仮設の建物が傷んでいる、防寒設備が不十分と回答した人の割合が多く、仮設住宅の住宅設備としての不十分さやそこでの長期化する被災者の不便な生活が見て取れる。・災害公営住宅 そこで、今後、災害公営住宅への入居を希望するか尋ねたところ、希望するが12名、希望しないが16名、そもそも入居資格がないが14名、無回答が15名であった。 災害公営住宅への入居に際し、どのような点が障害となるか、と聞くと、 最も多かった回答が家賃がかかるで17名、次いで居住地域が不便な場所にあると回答した人及び入居資格がないと回答した人がそれぞれ8名、転居できるかどうかと回答した人が7名、希望に合致する住宅の存在(エレベーターの有無等)と回答した人が6名、その他が5名であった。 その他と回答した人の具体的な記述としては、災害公営住宅の部屋数やスペースに関する点や場所的な利便性等であった。 やはり家賃が発生することが災害公営住宅への入居に際して大きな障害となっていること、また買い物や通院に不便な場所にあるといった場所的な利便性の問題、部屋数やスペース等で被災者の希望が受け入れられないといった問題があるということである。・仮設住宅  震災から4年近く経つ現在においてもまだ仮設住宅に入居している被災者の方は、自宅の再建が難しく、また災害公営住宅の入居も困難であるという人が多い。 仮設住宅に入居している人は、仮設住宅の入居期限のさらなる延長を求める人が多く(Q3-7-1)、仮設住宅の入居期限が区切られていることに不安を感じている(Q3-8-1)ことがわかった。 仮設住宅の入居期限の延長を希望する理由を尋ねたところ、他に行く場所がないため、あるいは仮設住宅を出ると家賃がかかり生活が苦しくなると回答した人が最も多かった。 また仮設住宅の入居期限が区切られていることによって具体的にどのような不安があるかについて尋ねたところ、 住居がなくなることの不安、あるいは生活設計が立てにくいと回答した人が多かった。 これらの被災者にとっては、経済的なことも含めた将来の生活設計や、自分の 住居がどうなるのかの見通しが、震災から4年近くが経つ現在もまだ見えていないことが大きな不安の原因となっているようである。・高台移転 さらに、高台移転に関しては、行政の進める高台移転事業に対する不満として、計画の進行が遅い、高台移転によって生活が不便になる、行政から提示された買取金額が不満である、買取の時期や金額の見通しが見えない等の回答があった。(4)まとめ 今回、大船渡市に限定したアンケート調査であったが、私たちのアンケートの結果から垣間見えたのは震災から4年後の、不安と困窮を深める被災者の状況である。 特に生活再建の基礎となる住宅再建による安定した居住権の確保が実現していないこと、災害公営住宅については家賃負担がネックになっていること、復興計画が充分に進まず、将来の見通しすら立ちにくいこと、そのため仮設住宅の延長を求めたいが、延長が一年ごとで不安定であることに不安を募らせ、その一方で長引く仮設生活の疲れ、仮設住宅の老朽化等も含めた設備の不備などが、被災者を追い詰めている。 私的な感想になるが、私たちの支援対象地のなかでも、大船渡市はあまり不満・不安が顕在化せず、どちらかというと行政の抱える大きな問題は他の被災自治体に比べると見えにくい地域であった。 そうした地域にあって、このような結果が出たことは改めて、声を出さない被災者の方たちが現実には静かに困窮の度合を深めているということを強く私に印象付けた。 そして、このアンケート調査が、NPOの協力を得て行われたことに鑑みても、比較的支援にアクセスしやすい被災者の方々から回答を得ているということであり、アンケートや支援などが届きにくい被災者の実情はさらに深刻なのではないかと思わせるものがあった。政府は何をすべきか。 私たちはアンケートの結果から浮かび上がった課題を踏まえ、国・自治体に被災者支援策の強化を提言した。 深刻な住宅問題に関しては、・行き場所のない被災者を生み出さないように、現在、平成28年3月までとされている応急仮設住宅の入居期限を少なくとも5年間延長し、その後も柔軟な対応をすること。・被災者生活再建支援金制度の上限金額や適用対象者の範囲を広げることにより、同制度のさらなる拡充を図り、住宅再建を促進すること。・災害公営住宅の建設を速やかに進めるとともに、同住宅への入居条件や家賃減免制度の要件を大幅に緩和するなどして、より多くの希望する被災者が同住宅に早期に入居できる措置をとること。移転に伴い生活環境が悪化したり、コミュニティが分断されることがないよう、被災者の希望とニーズに十分に配慮しつつ移転プロセスを進めること。を求めている。 また、高齢被災者について・施設介護、在宅介護を含む介護関係や医療関係の支援制度を充実させること。・高齢被災者の移動支援(買い物や通院など)や、特に仮設住宅の独居高齢者の見回り等の支援を充実させること。も喫緊の課題である。 そして何より、国・自治体として、現在の被災者の経済状態・健康状態・住まいの状況やニーズ等に関する総合的な実態調査を速やかに実施して、実情をきちんと把握すること、そして、その結果を踏まえ、被災者のニーズに即応した施策を検討することを求めたい。関連記事■ 世界であまり例がない 東京一極集中の是非を考える■ 御嶽山噴火は破局の前兆なのか■ まさに地獄! 潜入調査で見たユニクロ下請け工場の実態

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    自衛隊こそ震災救援の中核を担う

    志方俊之(帝京大学教授) 東日本大震災は死者、行方不明者、震災関連死を含め約2万人に上る戦後最大の犠牲を伴った大規模自然災害であった。復興は鋭意進められているが、当初考えていたほどのペースではない。その原因は資材や労働力の不足だけではない。経験したことのない原子力災害からの復興には長い年月を必要とするのだ。残留放射能のため故郷に帰ることのできない人々の心の痛み、いわれなき風評被害など、これまでの災害復興とは全く性質の異なる要素を伴っている。投入される隊員数がカギ仙台空港近くの集落も津波の直撃を受け、降り続く雪の中でも、自衛隊による救出、捜索活動が続けられた=2011年3月17日午後、宮城県名取市(鈴木健児撮影) 他方、われわれはこの大規模災害から多くのことを学んだ。まずこれほど詳細に記録された津波は世界でも稀(まれ)であろう。被災地の各所に設置されていた監視カメラや多くのヘリコプターで撮影された映像は、大規模津波による被害発生状況を詳細に記録した。 また膨大な通信記録はビッグデータとして被災者の避難行動の様子を分析・再現するのに役立っている。これらの記録は今後の津波災害対策に大きい教訓を与えた。国際的な学術遺産とも言える。 今なすべきことは、大規模津波に関する「予知・通報の情報システム」「緊急な救援・復旧のオペレーション」「レジリエント(強靱(きょうじん))な社会への復興」に沿った努力である。ここでは「緊急な救援・復旧のオペレーション」について述べる。 緊急救援活動の最重要な第1段階は人命救助である。すべてのインフラが破壊されている被災現場での捜索活動は「人海戦術」となる。器材の数ではなく投入される隊員の頭数がカギとなるのだ。 東日本大震災の救援活動で、自衛隊は初めて「予備自衛官」を招集し現地に投入した。訓練で招集したことは多いが、実際の災害派遣で現地に投入したのは初めてであった。自宅が被災しているにもかかわらず招集に応じて活躍した隊員もいて、自衛隊は予備自衛官制度に自信を持つことができた。緊急時に際立つ統合機動力 阪神・淡路大震災以降、警察に広域緊急援助隊、消防に緊急消防援助隊が編成され、全国的な規模で部隊を投入できるようになった。しかし、緊急時には何と言っても全ての機能を持ち合わせている自己完結型の陸海空自衛隊の統合機動力に勝るものはない。 陸から近づけぬ被災地には海からホーバークラフト型の揚陸用舟艇が、それもできない地域にはCH-47型大型ヘリ(チヌーク)で部隊を投入した。近い将来、M-22型大型ヘリ(オスプレイ)が配備されれば、空中機動力は飛躍的に大きくなる。 また阪神・淡路大震災当時、在日米軍の協力は物資を貸与する程度に限られた。しかし東日本大震災での米軍の協力は「トモダチ作戦」と名付けられ、大規模かつ迅速であった。豪軍輸送機が参加したことも特筆すべきことである。 やがて緊急救援活動は人命救助から第2段階、被災者への生活支援に重点を移すことになる。大量の水、食料、衣料、毛布、医療品、発電機、燃料などを定常的に補給しなければならない。 ヘリや揚陸艇による物資補給は限界があるから、次に必須な活動は被災地に達する道路網の啓開(瓦礫(がれき)の排除、整地、架橋)である。被災地へ至る道路の緊急な啓開能力を保有しているのは、陸上自衛隊の施設科部隊と国土交通省のテック・フォース(緊急災害対策派遣隊)である。これらの部隊が行う必要最小限の啓開作業と並行して、民間会社による本格的な交通路の維持作業が行われる。国連防災会議で教訓の発信を 第1段階と第2段階に共通して必要な機能は通信機能である。警察、消防も独自の通信網を持っているが、指定公共機関による本格的な通信網が機能するまでは、自衛隊の通信網が大活躍する。特に海上自衛隊の「ひゅうが型護衛艦」は、陸海空統合通信組織の中枢として、また米軍や豪軍との通信網として機能する。 東日本大震災の救援活動の特色は、原子炉事故に伴う放射線量計測、汚染地域からの避難民誘導、原子炉の冷却作業を実施したことである。事故直後からこの任務を組織的に行えたのも自衛隊であった。中央即応集団の配下にある中央特殊武器防護隊を中核に、全国の師団と旅団に配置されている特殊武器防護隊を現地に集中して活動させた。本格的な放射線量計測網ができるまでは、この部隊が計測値をオフサイトセンターに送り続けたのであった。 さらに救援活動で特筆すべきは、全国の自治体が物資だけでなく人材を派遣し被災した自治体を支援したことだ。それが自治体間で平時から応援協定を結ぶ形として残ったのは大きい進歩だった。 仙台で行われる第3回国連防災世界会議(3月14~18日)は「自然災害」「気候変動」「社会のレジリエンス」をテーマに過去10年を振り返って、これから10年の災害リスク削減の指針を提示するものである。 この機会に、われわれは東北復興の成果と難しさを世界に発信し、教訓としなければならない。関連記事■ なぜ環境保護派が原子力を支持するのか■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか■ 御嶽山噴火は破局の前兆なのか

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    福島の人々を苦しめる賠償金の軋轢

    あの大震災と原発事故から3年半。福島県知事選も終わり、浜通りは4度目の冬を迎えます。通い続ける取材班が見て聞いた、「3年半」の現実をお伝えします。 「賠償御殿」─。そんな言葉をよく耳にした。人口30万人の福島県いわき市には、双葉郡から2.4万人の避難者がやってきた。道路も病院も混雑し、アパートを借りるのもままならない。高まるストレスは、否応なしに賠償金の存在に意識を向けさせる。3年半放置された双葉町。道路から生えた草の背が高い(撮影・『月刊Wedge』編集部) 「仕事がある自分は仮設住宅。妻と子どもは避難先。事故前に同居していた両親は別の借り上げ住宅。バラバラを解消したいと、いわき市に家を建てたら、隣の老人にこう言われた。お金をいっぱいもらってるんだろって。悔しくて悔しくて」(30代のある男性) 事故から3年半。今回の取材で最も話題に上ったのが賠償金を巡る軋轢である。昨年まではそれよりも除染の進捗や低線量被ばくだった印象が強い。「金の話はしたくない。そういう人も、最後はやっぱり金の話になる。みんな心のどこかで賠償金が引っかかっている」男性はそう語る。 「いわきとして、避難者の方々にウェルカムというメッセージを発信することなく3年半が経ってしまった。同じ住民として軋轢を乗り越えていけない。でも、現地の人間では買えないような大きな家が建つのを見ると、『賠償御殿』と言いたくなる気持ちは理解できるところもある」。いわき市で生まれ育ったある男性は偽らざる本音を語ってくれた。 賠償金があるから働かず、パチンコに入り浸り、高級車を乗り回す─。事故直後からこの類の話はあふれている。双葉町出身のある男性は、「そんな人はもちろんいるが、ごく一部。偏った報道はして欲しくない」と吐き捨てて、こう続けた。 「大多数のまっとうな避難者は、事故への憤り、やるせなさを賠償金でギリギリ抑えている状態。なのに、仕事を再開しても家を建てても、そうやって前に進もうとすれば、必ず賠償金の存在がついて回って、後ろ向きな評価になるのが辛い」2012年1月、避難先のいわき市内の仮設住宅で開催された「ダルマ市」 避難先で馴染めず、いじめを受ける子どもたちは少なくない。小学校や幼稚園で、住民と避難者の母親同士が距離を取りあう例も散見されるという。多くの親たちが「双葉郡から来たとは言えない」「仕事の場でもなるべく出身は言わない」と口を揃える。賠償金のことを探られたくないからだ。 「子どもになぜここにいるのか説明ができない。このままでは子どもたちが双葉町を忘れてしまう」 そんな思いから、中谷祥久さん(34)は、震災の年のうちに「夢ふたば人」という団体を立ち上げた。毎年1月に開かれる故郷・双葉町の祭り「ダルマ市」を絶やしてはいけないと、2012年1月、避難先のいわき市内の仮設住宅でだるま市を開催した。子どもたちには笑顔が戻り、懐かしい音色、光景に涙ぐむ高齢者もいたという。「こういう取り組みを続ければ、地元住民と避難者のわだかまりも少しずつ消えていくのではないか」と中谷さんは語る。避難指示区域見直しと賠償金の多寡 「今までも住民は許可証があれば入れた。この開通で入れるようになるのは住民以外の人。野次馬や泥棒が増えるのが怖い」(浪江町のある女性)9月15日に全線開通した国道6号線。以前はここから先は許可証がないと入れなかった(富岡町内、撮影・『月刊Wedge』編集部) 9月15日、双葉郡の沿岸部を走る国道6号線が全線開通した。原発事故以来、最後まで通行止めとなったままだったのは、帰宅困難地域にある浪江町~富岡町間の14キロ区間。幹線道路の分断解消で復興の加速につながると評価する声がある一方で心配する向きもある。 開通といっても、6号線から分岐する小道にはバリケードが設置されたままだ。9~17時の間は許可証をチェックするガードマンが配置されているが夜間は警察の巡回がある程度。14キロ区間は通過するためだけの道路であり、延々と続く黄色点滅の信号が他のエリアとの違いを印象付ける。 「この道を越えると……」 事故以来、何度この表現を耳にしただろうか。双葉郡の人々は、故郷を追われた上に、つくられた分断に悩まされてきた。道のあちら側は、夜間居てはいけない。そもそも立ち入りに許可が要る……。多くの避難者が住むいわき市や南相馬市では、賠償金の有無という分断があるが、双葉郡の人々の間には賠償金の多寡という分断がある。 もともと福島第一原発から20km圏内は一様に警戒区域だった(飯館村などは計画的避難区域)。11年12月に福島第一原発が冷温停止状態を達成したことを受け、住民の帰還に向けて政府は避難指示区域の見直しを開始した。事故後1年の段階で、空間線量率から推定した年間積算線量が50mSv超なら帰還困難区域、20~50mSvなら居住制限区域、20mSv以下なら避難指示解除準備区域という3区分である。しかし、この区域見直しは結局13年8月までかかることとなった。 機械的に割り出される数値で区分されるはずなのになぜこれだけの時間を要したか。最大の理由はこの区分によって賠償金に差がついたからだ。