検索ワード:榊原智の政権考/14件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    「アジアの解放」と日本―「戦後70年談話」有識者懇が振り返らなかった視点

    榊原智(産経新聞 論説委員) 安倍晋三首相が戦後70年談話(安倍談話)の作成に向けて設置した私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(有識者懇)が6日、報告書を首相に提出した。  有識者懇の正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」で、座長は西室泰三日本郵政社長、座長代理は政治学者の北岡伸一国際大学長だ。  報告書が、日本の安全保障分野での日本の役割の拡大や、平和や法の支配、自由民主主義、自由貿易体制などからなる国際秩序の維持の重要性を強調していることは評価できる。一方で、歴史問題に関して、満州事変以降の日本の戦争を「侵略」と明記しつつ、おわびの必要性は指摘しなかった。これらの問題は、いろいろ論議されるだろう。 有識者会議「21世紀構想懇談会」の座長・西室泰三日本郵政社長(左)から報告書を受けた安倍晋三首相=8月6日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影) アジア解放と日本  そこで本稿は、別の論点を取り上げたい。大東亜戦争(太平洋戦争)をめぐって、歴史的事実を踏まえていないように思われる箇所があるからだ。  報告書の「20世紀の世界と日本の歩み」の項に、次のようなくだりがある。  「日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意志決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断したことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。」  「20世紀の世界が経験した二つの普遍化」の項では、次のように記されている。  「英国、フランス、オランダなどの東南アジアにおける植民地も、日本の進出によって大きな打撃を受けた。戦後、英国、フランス、オランダは植民地支配の回復を目指したが、これを実現することはできなかった。日本はアジアの解放を意図したか否かにかかわらず、結果的に、アジアの植民地の独立を推進したのである。」  敗れたにもかかわらず、日本の戦いがアジア諸国の独立をもたらしたことは報告書も認めるが、それはあくまで「結果として」であり、日本が意図したものではないという。  日本が大東亜戦争において、欧米諸国が植民地にしていたアジアの解放を目指して戦った意味合いがあることを、正面からとらえたくないような書きぶりである。  国の命運と多くの国民の生命を賭して戦う以上、日本の戦争目的は、自存自衛が第一であったのは当然だ。しかし、それとともに、アジアの解放も目的だったことは、はっきりと認めるべきではないだろうか。  大東亜会議――72年前の人種平等サミット  日本が世界史に果たしてきた役割はいろいろあるだろうが、20世紀における最も大きなものは、日本の行動がアジア諸国の独立をもたらし、白色人種優位の世界から、今のような人種平等の世界をつくる原動力となったことである。  この話は、戦争の相手だった欧米諸国が嫌う話である。しかし、私たちは知っておいたほうがいい。そうでなければ、父祖の世代が戦ったあの戦争の意味合いを、私たちはバランスよくとらえることができない。  大東亜戦争当時の日本が国策として、アジアの独立、人種差別の撤廃を目指していたことは、1943年(昭和18年)に東京で開かれた、史上初めての有色人種の国々によるサミット(首脳会議)である「大東亜会議」と、その際の「大東亜共同宣言」を振り返れば、容易にわかるはずである。  筆者は産経新聞の紙上で、大東亜会議について何度か触れたことがあるが、改めて紹介したい。これはいわば、72年前の人種平等サミットなのである。  1943年11月5、6の両日、東京の帝国議会議事堂で大東亜会議は開かれた。今、安全保障関連法案をめぐって侃々諤々の議論が繰り広げられている国会議事堂である。当時の新聞は大ニュースの扱いだった。現代の日本人が忘れているのが不思議なほどだ。  出席したのはアジア7カ国の首脳である。フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマ(ミャンマー)のバー・モウ国家元首、タイのワンワイタヤコーン殿下、中華民国(南京政府)の汪兆銘主席兼行政院長、満洲国の張景恵国務総理、日本の東条英機首相、それにオブザーバーのチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班だった。  現代風にいえばアジア首脳会議、アジアサミットで、いずれも日本の同盟国、友好国の首脳が出席した。  錚々たる顔ぶれだった。フィリピンのラウレルは戦後、逮捕されたが1948年に恩赦となり、1951年の上院議員選挙でトップ当選するなど政界で活躍した。  タイの王族、ワンワイタヤコーンは1947年には国連総会の議長を務めた。外相、副首相も歴任している。  ビルマのバー・モウは戦前、仏・ボルドー大、英・ケンブリッジ大へ留学し、哲学博士、弁護士になった。植民地政府の首相となるが、辞任後は独立運動に身を投じ、反乱罪で英当局により獄につながれた。  汪は中華民国の成立宣言を起草した辛亥革命の志士で、孫文の側近だった。蒋介石と並ぶ中国国民党の有力者だったが、日中戦争の最中に、和平を唱えて重慶から脱出し、その後、南京政府を樹立した。南京政府は日本と同盟を結び、日本は治外法権を撤廃し、租界を返還している。1944年にがんで死去した。  満洲国の張は、清朝の軍人から中華民国の陸軍総長、軍事参議院総長を経て、最後の清の皇帝だった溥儀が即位した満洲国のナンバー2になった人物である。戦後はソ連に逮捕され、1959年に中華人民共和国で獄死している。  チャンドラ・ボースは、インド独立運動の大立て者だった。終戦時に台湾での飛行機事故で亡くなったが、独立運動指導者としてガンジー、ネルーとともにインドの国会議事堂に肖像画がかかっている。日本は、海軍が占領したインドのアンダマン、ニコバル諸島を自由インド仮政府の領土として贈っている。  悲劇として知られる1944年のインパール作戦は、日本軍とともに、自由インド仮政府の6千人のインド国民軍が「進め、デリーへ」を合言葉に、インド北東部の都市、インパールの攻略を目指した戦いだった。  有色人種の国々が世界に訴えたこと  大東亜会議が世界に向けて出した大東亜共同宣言は次のようなものだ(読みやすい表記に改めた)。  「抑々(そもそも)世界各国が、各其の所を得、相扶(たす)けて万邦共栄の楽を偕(とも)にするは、世界平和確立の根本要義なり。  然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ、大東亜隷属化の野望を逞(たくまし)うし、遂には大東亜の安定を根柢(こんてい)より覆さんとせり。大東亜戦争の原因茲(ここ)に存す。  大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。 一、大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基く共存共栄の秩序を建設す一、大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ、大東亜の親和を確立す一、大東亜各国は、相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢(しんちょう)し、大東亜の文化を昂揚(こうよう)す一、大東亜各国は、互恵の下、緊密に提携し、其の経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進す一、大東亜各国は、万邦との交誼をを篤(あつ)うし、人種的差別を撤廃し、普(あまね)く文化を交流し、進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す」  現代文で置き換えてみてほしい。戦争の完遂という戦時中の外交文書である点を除き、他の部分は、普通の首脳会議の宣言にしてもおかしくない内容であることがわかる。その中で、「人種差別の撤廃」「相互に自主独立の尊重」といった表現があることは、欧米植民地支配に対峙する宣言だったことを示している。  会議が開かれた1943年11月は、日本の敗色が感じられるようになった時期だ。それにもかかわらず、アジア7カ国の代表が東京に集まった。日本が要請したからであるが、無理強いしたから集まったにすぎないととらえる人がいるなら、戦勝国の史観にとらわれすぎている。当時の人たちの人種差別や欧米支配への憤りを軽んじるのは、歴史の多面的見方から遠ざかることになるだろう。  チャンドラ・ボースは、大東亜会議で次のように語った。  「かつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しく彷徨したことのある国際連盟の決議、そしてその廊下やロビーを想起しました。  この歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを想います。  この会議は、戦勝者同士で戦利品を分割するための会議ではありません。これは弱小国家を犠牲にしようとする陰謀、謀略のための会議でもなく、また、弱小な隣国を欺くための会議でもありません。この会議は、解放されるべき諸国民のための会議であり、即ち、正義と国際関係における互恵主義および相互援助の原則に基づいて、この東亜の地域に新秩序を創建するための会議なのであります」  フィリピンのラウレル大統領は、「我々は今後再び既往のごとく離散することなく、圧迫、搾取および圧政にあくまでも抗争し、10億のアジア民衆は少数西洋強国の支配および搾取の犠牲とは再びならないことを世界に向って宣言し得る次第であります」と演説した。  米英両国は、1941年に出した大西洋憲章において、人民に政府の形態を選択する権利があると謳った。しかし、英国のチャーチル首相は、その権利は欧州だけのものでアジア・アフリカの植民地には適用しないと述べていたのである。  重光葵――20世紀日本を代表する外交家  東条内閣において大東亜会議を推進したのが、重光葵(まもる)外相だった。  重光は、20世紀の日本における屈指の外交家である。戦時中は、東条内閣後期と小磯国昭内閣の外相を務めた。終戦後、東久邇宮稔彦王内閣の外相となり、政府全権として米戦艦ミズーリ号艦上での降伏文書調印式に臨んだ。その後、A級戦犯として逮捕、起訴され、東京裁判で有罪判決(禁固7年)を受けて服役した。  日本の再独立後、衆議院議員に当選し、鳩山一郎内閣の副総理・外相を務め、日ソ国交回復に尽力した。1956年に日本が国際連合に加盟した際には日本政府代表として国連総会に赴き、加盟受諾の演説をして大きな拍手を浴びている。  重光が大東亜会議と大東亜共同宣言を推進したのは、日本の戦いの目的が自存自衛にとどまらず、アジアの解放にあることをはっきりと世界に示すねらいがあった。  当時、重光は東条に「これで英米の大西洋憲章に対抗できます。大東亜会議を開けば、大東亜戦争の目的はアジアの解放にありという、わが国の戦争目的の正当性を世界に示すことができます」と語っている(福冨健一著『重光葵連合軍に最も恐れられた男』講談社)。  昭和天皇も、重光に「これを進めるべし」と述べられ、大東亜会議を明確に支持していた(前掲書)。  イギリスの歴史家、アーノルド・トインビーは、日本の戦争目的の中に、アジアの解放があったことを認め、歴史的意義を見いだしている。  「第2次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間考えられていたような不死の半神でないことを明らかにした点にある。イギリス人もフランス人もアメリカ人も、開戦当初、ともかく我々はみな将棋倒しのようにやられてしまった」(英紙「オブザーバー」1956年10月28日)と指摘している。  有識者懇の報告書との見方とは大きく異なる。  第1回バンドン会議で大歓迎された日本  もう1つ、筆者が今年1月に産経新聞の記事とし、その後加筆して産経のオピニオンサイト「iRONNA」に載せた「戦後70年落ち着いて歴史を語れる国に」を引用したい。  (---引用始め---)  「よく来たね!」  「日本のおかげだよ!」  日本代表団の団長、高碕達之助経済審議庁(のちの経済企画庁)長官ら一行は、独立したばかりのアジア、アフリカの新興国の代表たちから大歓迎され、相次いで温かい声をかけられた。  1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)での出来事である。  この会議は、第二次大戦後、欧米の植民地から独立したアジア・アフリカの29カ国の代表が一堂に会した国際会議である。  日本は招待状をもらった。占領が終わって国際社会に復帰して間もない時期の日本にとって、不安を抱えながらの参加だった。政府内には見送り論もあったほどだが、案に相違してうれしい歓迎を受けたのだ。  高碕代表に同行した加瀬俊一(としかず)代表代理(国連加盟後の初代国連大使)は生前の講演で、次のように振り返った。  「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。  この時は『大東亜宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました」。  その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」  これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。  本稿の筆者(榊原)は、加瀬氏の子息で外交評論家の加瀬英明氏にも、この講演の存在と内容を確認できた。講演は、バンドン会議出席者の貴重な証言である。  アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていたのである。  バンドン会議には、白人国家は一国も招かれてはいない。旧連合国が、アジアを侵略した日本からアジアの人々を解放したという見方があるが、当時のアジア・アフリカの代表たちはそんな見方はしていなかったようだ。解放の役割を果たしたのは日本の方だったとみられていたと考えるのが自然である。  (---引用終り---)  加瀬俊一は、重光外相の秘書官として、重光とともに大東亜共同宣言の原案を書いた外交官である。  加瀬は著書(「あの時『昭和』が変わった101歳、最後の証言」光文社)でも次のように記した。  「対米戦争は自存自衛のために追い詰められて、立ち上がった戦いだったが、何百年にもわたって西洋の植民地支配のもとにあったアジアを解放したのだった。開戦三年後の大東亜宣言の原案は、重光外相と私が苦心して書いたものだった。  あの降伏調印式の日にそのようなことは互いにいわなかったが、世界史的な戦いが終わって、日本は人類史によって与えられた役割を果たしたという矜持が、胸のなかにあった。負けたのは事実であっても、精神的にはけっして負けていなかったのだ。そういう意地があった。」(82頁)  「わが国では、戦後、この大東亜共同宣言をもっぱら軍部が占領地域を搾取する煙幕に利用したように解釈しがちだが、真意は日本の戦争目的を宣明するにあった。  いずれにせよ、日本の先の戦争を戦ったために独立したアジア諸国は、今日なお大東亜共同宣言を深く多としている。アジアだけではなく、アフリカの諸民族まで、日本が提唱した植民地解放運動に心から感謝していたことは、私が1955年(昭和30年)にインドネシアのバンドンで催されたアジア・アフリカ(AA)会議に、日本政府代表として出席した時や、初代国連大使として国連にあった時に、親しく感得した。  大東亜共同宣言が日本で軽視され、アジア、アフリカにおいて高く評価されているのは、皮肉である。」(105頁) 独立のタネをまく  日本の戦争だけでアジア、アフリカ諸国が独立したのではもちろんない。たとえば、インドネシアは戦後、オランダ軍を相手に激しい独立戦争を戦い、80万人もの犠牲を払って独立を勝ち取った。その戦いに1千人から2千人もの残留日本兵が加わったが、独立戦争の主体はインドネシア人である。  インドネシア独立のために戦う母体となったのは、戦時中に日本が育成した祖国(郷土)防衛義勇軍(PETA、3万8千人)などの青年たちだった。愚民化政策をとったオランダとは異なり、戦時中の日本は官吏育成学校、医科大学、師範学校(教員養成学校)、商業学校などを設けて、国づくりに欠かせない人材を教育していたのである。  世の中の出来事は、多面性があることなど、大人なら誰でも知っていることだ。まして、一国の歴史ともなればなおさらだ。日本では、戦前や戦中の自国の歩みについて否定的にばかりみる言説が、今も満ちあふれている。戦後70年も経ったのに、あまりに公平さを欠いている。  インターネットによって、このような状況は是正されつつあるが、ネットや——恐縮だが——産経新聞などに触れることなく、日本ばかりが悪かったという史観ではない見方があることに気づかない世代、人々はなお多い。  有識者懇の面々は、知識も経験も十分な人々のはずだ。にもかかわらず、日本と「アジアの解放」の関係について、大東亜会議、宣言などを顧みなかったのだろうか。報告書が「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」としたのは理解に苦しむところだ。  大東亜戦争をめぐって、日本の戦いの目的や日本人が抱いた理想と「アジアの解放」を関連づけて考察することは、戦争を美化する話では決してない。戦争とは多くの人々が犠牲になる悲劇であることは間違いない。  それでも、戦争を含め一国の歩みにはさまざまな意味合いがある。「有識者」が振り返るというなら、大きな歴史的事実を踏まえることが必要ではないのだろうか。(この記事は「先見創意の会」2015年08月11日のコラムより転載させていただきました)

  • Thumbnail

    記事

    安倍首相が村山談話を「全体として引き継ぐ」のは何故か

    榊原智(産経新聞論説委員) 安倍晋三首相が、8月に発表する戦後70年の首相談話(以下、安倍談話)をめぐって、いつも語る言葉がある。「歴史認識に関する歴代内閣の立場を、全体として引き継いでいく」というものだ。安倍談話について考える上でカギとなる発言だ。  安倍談話は、村山富市首相談話にあった「侵略」や「おわび」の表現が含まれるかどうかが注目されている。この点だけなら、答えは明白だ。安倍首相による、最近のバンドン会議における演説、米国議会における演説を読めばすぐわかる。首相には、8月の安倍談話の中で、これらの表現を採る考えはないとみていい。  それでは、安倍談話は、自虐史観の払拭や1990年代以降とくに目立つようになった日本の謝罪外交からの脱却を望む人々が期待するような意味合いを持つかといえば、そうではない。歴代内閣の立場を「全体として引き継ぐ」ため、安倍談話は「侵略」を認めることになるからである。 ◇ 首相の発言と村山談話について触れておきたい。  首相は1月5日、伊勢神宮参拝後の年頭記者会見で、次のように語った。  「従来から申し上げておりますように、安倍内閣としては村山談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいます。そしてまた、引き継いで参る」  4月20日にはBSフジの番組に出演し、村山談話などについて「同じことなら談話を出す必要がない。(過去の内閣の歴史認識を)引き継いでいくと言っている以上、これをもう一度書く必要はない」と語った。  ロサンゼルスでの内政懇(5月1日)においても、「戦後50年には村山談話、60年には小泉談話が出されている。安倍内閣としては歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる。今後も引き継いでいく考えだ。戦後70年の談話はそれを前提に作成していく」と語った。  同じことを語り続けているのは、計算した表現だからだ。 ◇ それでは、20年前の村山談話はどのようなものだったか。  自民党、社会党、新党さきがけの3党連立内閣の首班となった社会党委員長の村山首相は当初、戦後50年にあたって、衆参両院での決議を目指していた。  自民党執行部は国会決議を目指したが当の自民党議員から、日本を一方的に侵略国家とみなすような決議文への反発が相次いだ。  衆院では、相当数の自民党議員が姿を現さない中、可決されたが、参院は決議自体が実現しなかった。村上正邦参院自民党幹事長らが「自虐的だ」と猛反発し、参院での採決自体を見送ったためだ。  衆院だけの片肺では、国会決議と誇ることは難しい。そこで村山首相は、首相談話を出すことにした。国権の最高機関である国会でまとまらなかったテーマなのだから、首相談話を出しても、国を代表する談話であるとは言えない情勢だったと思えるが、そこまで気にしなかったようだ。 民間団体の会合の講演で、安倍首相が今夏に出す戦後70年談話をそろって牽制した鳩山元首相(左)と村山元首相=4月21日午後、東京都文京区の鳩山会館(小野淳一撮影) 村山談話の問題のくだりは、次の通りである。  「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」  戦後60年の小泉純一郎首相談話がそうであったように、安倍談話に対しても、村山談話を踏襲して、「侵略」や「おわび」の言葉を盛り込むべきという声が存在している。  そのような声をあげているのは、中国や韓国はもちろんのこと、民主党、公明党、共産党、社民党の議員たち、朝日新聞、毎日新聞、日教組などの左翼・リベラル陣営である。さらに、読売新聞も「侵略」を明言するよう求めている。 ◇ 執拗な批判があるにもかかわらず、「侵略」やそれに対する「おわび」を直接記すことを肯んじない安倍首相が、なぜ村山談話を含む歴代内閣の歴史認識に対する立場を「全体として引き継ぐ」のか。  それは、中国との外交関係の基本構造を崩す政治リスクを冒すことを避けているからなのである。  ポイントは、1998年(平成10年)の「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」(以下、日中共同宣言)と、安倍内閣が昨年11月に中国政府との間でまとめた「日中合意文書」である。  小渕首相と、来日した江沢民国家主席との間でまとまった98年の日中共同宣言の第3項目には次のくだりがある。  「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる」ここでいう95年の内閣総理大臣談話は、村山談話のことである。  「侵略」を認め、「おわび」する村山談話が、日中両政府の政治文書に盛り込まれ、日本は「遵守」を約束してしまっているわけだ。中国が日本に歴史カードを行使する根拠を与えてしまった宣言だ。  この日中共同宣言は、両国政府の間で、日中間の基本4文書の1つに位置づけられている。  基本4文書とは、1972年(昭和47年)の日中共同声明、78年(昭和53年)の日中平和友好条約、98年(平成10年)の日中共同宣言、それに第1次安倍内閣当時の2008年(平成20年)に出された戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明のことである。 ◇一方、昨年11月の日中合意文書は、安倍首相と習近平国家主席の首脳会談の前提として作られたものだ。 合意文書の筆頭項目は、「双方は、日中間の4つの基本文書の諸原則と精神を順守し、日中の戦略的互恵関係を引き続き発展させていくことを確認した」となっている。 安倍内閣は昨年11月の段階で、村山談話の「遵守」を約束した「日中共同宣言」の「諸原則と精神」の「順守」を、中国政府に対して、改めて確認したことを意味している。 このような立場をとるからこそ、安倍首相は、村山談話を引き継ぐ姿勢を示しているのであろう。 ◇ 安倍首相自身がその理由を説明している。首相は一衆院議員だった麻生太郎政権当時、月刊誌「正論」2009年(平成21年)2月号で、次のように述べた。少し長くなるが引用したい。  「村山談話以降、政権が代わるたびにその継承を迫られるようになった、まさに踏み絵だ。だから私は村山談話に換わる安倍談話を出そうとしていた。村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。その時々の首相が必要に応じて独自の談話をだせるようにすればいいと考えていた。むろん、村山談話があまりにも一方的なので、もう少しバランスのとれたものにしたいという思いがあった」  「ところが、とんでもない落とし穴が待っていた。平成10年、中国の江沢民国家主席が訪日した際の日中共同宣言に『(日本側は)1995年8月15日の内閣総理大臣談話(村山談話)を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し…』という文言が盛り込まれていたのです。この共同宣言、53年の日中平和友好条約についで中国が重視していますから、日本が一方的に反古にすることは国際信義上出来なかったのです」  「しかし、『政治が歴史認識を確定させてはならない。歴史の分析は歴史家の役割だ』と国会で答弁した。野党からは『それでは村山談話の継承とはいえない』と批判されましたが、戦後レジームからの脱却がいかに困難であるか、改めて実感しました」 ◇ 中国政府は表面上、「侵略」「おわび」の文言が安倍談話になければ批判してくるだろうが、本音は違う。村山談話を「引き継いで」いれば、日本政府は「侵略」を認め、「おわび」していることになる。「引き継ぐ」場合とそうでない場合とでは、中国政府の反応はまったく違うだろう。後者であれば、その反応は今どころではない激烈なものになるかもしれない。安倍首相や外務省はそのように計算しているに違いない。  そこで、第1次安倍内閣当時とほぼ変わらない構図が続いているわけだ。 ◇ 安倍首相は現実に国の舵取りをしている身として、「とんでもない落とし穴」を埋めるには、内外の政治情勢がまだ許さないと判断しているのだろう。  安倍談話に、「侵略」やそれに対する「おわび」が直接的表現で盛り込まれないのであれば、筆者は過剰な謝罪外交を抑え、日本を侵略国家、日本人を犯罪民族として貶める風潮を減じる点から、意味がないわけではないとは思う。  それでも、98年の日中共同宣言という日本外交の失策にとらわれ、村山談話を認め続けるのは、残念きわまりないことだ。  安倍談話は、歴史認識をめぐっては、「半歩前進」とみなせるものになるのかもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    併合朝鮮をめぐる国政参政権付与

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」 (日工ムック) より榊原智(産経新聞論説委員)帝国議会の朝鮮人代議士 日韓両国の歴史をめぐって、慰安婦のことばかりが論じられています。バランスよく歴史を見ていくには、もう少し別の側面にも関心を寄せた方がよいのではないでしょうか。 今年は、朝鮮や台湾といった外地が、日本の領有を離脱してから70年の節目の年に当たります。この誌上では、併合後期の朝鮮について、衆議院で活動した朝鮮人代議士や昭和20年に決まった朝鮮、台湾在住民に対する国政参政権の付与について紹介したいと思います。当時の日本が、朝鮮をどう位置づけていこうとしたかを考える材料になるからです。 戦前戦中の帝国議会に、朝鮮人の衆議院議員や貴族院議員、台湾人の貴族院議員がいたことをご存じでしょうか。 まず引用するのは、今から82年前、昭和8年1月26日の衆議院本会議における質疑の一部です。読みやすいよう、議事録を今の表記に改めました。 「朴春琴君 質問の前に、今回朴泳孝侯爵が勅選議員になられました事は、国家の為に、また内鮮一家の為にまことに感謝にたえませぬ。(略)私は第一に、参政権問題について内務大臣に承りたいと思うのでありますが、まずその前に各党の総裁の方々が党の大会におきまして、我国の人口は七千万云々ということを再々言っておる。(略)新附の二千万の立場から考えれば、何だか除外されたような気持ちがして仕様がない。(略)国家の為に大不利益と私は思うのであります。(略)併合当時、おそれ多くも明治大帝陛下は二千万人は一視同仁であるということを仰せられたのでありますから、日本国民としてのこの権利義務を明らかにするのが、即ち日本国民の義務と思うがゆえに、内務大臣に私はこの要求をしたいのであります。(略)今までなぜ朝鮮に参政権を与えてないか(略)植民地と言われることは非常に気に喰わないのであります(拍手)」 「国務大臣(男爵山本達雄君) 御質問について(略)参政権の事につきましては、将来においては必ず御質問の如き参政権を与えられるようなる時代も来ることと考えております。しかしながら目下の所において土地、人情及び法律などの点におきまして色々違ったる点が多いのでございます」 この国会質問を手がかりに、さまざまなことが分かります。 朴春琴は、明治24(1891)年に韓国慶尚南道で生まれた朝鮮人政治家です。建設業に関わっていましたが、昭和7年2月の総選挙で東京4区(本所区、深川区)から出馬、当選しました。11年2月の総選挙は当選しませんでしたが、12年4月の総選挙で再び当選し、大東亜戦争中の17年4月まで代議士でした。通算9年間になります。 昭和10年3月16日、衆院の米穀自治法委員会で朴は2回目の当選についてこう語っています。 「朴委員 私は東京で七千票入れられた。その際朝鮮ではどういうことを言われたか、あれは皆本所、深川には朝鮮人の有権者が多い為に、全部朝鮮人が入れたのだろう(略)。ところが事実はこれと反対に、朝鮮で生れた日本人からは、私は四十票か五十票しか貰っていない。これは皆、日本で生れた日本人が入れた」内地人と外地人で同じ選挙制度 当時の衆議院議員選挙法は、日本国民の男子に選挙権と被選挙権を与えていました。ただし、選挙区は、昭和20年までは内地にだけ設定されていました。ですから内地に住む朝鮮人や台湾人も選挙権を行使できました。併合で侯爵となった朴泳孝。閔妃暗殺の犯行を告白して同じ朝鮮人に殺された禹範善が日本に残した長男、長春の養育を援助し、東大で農学を学んだ長春は韓国に渡り「戦後韓国農業の父」といわれた ハングルによる投票も可能でした。以前、フジテレビの番組で、現東京都知事の舛添要一氏が、自身の父が戦前の地方選挙に立候補した際のポスターを見せたことがあります。ハングルでも候補者名が書いてありましたが、戦前の制度に基づくものだったのです。 また被選挙権は、内外地を問わず内地人、外地人とも享受していました。 一方、内地人が朝鮮や台湾に移住すれば、衆議院の選挙権は行使できませんでした。選挙区がないからです。 国政選挙をめぐって内地人と外地人に差別はなく、異なる扱いだったのは内地、外地という地域だったのです。もちろん、故郷の地に住む人が圧倒的ですから、朝鮮や台湾に選挙区がなければ、選挙権を行使できない人の大部分は外地人になります。 この構造を大きく変えたのが、後述する昭和20年の国政参政権付与でした。 女子に参政権がなかった時代であり、選挙は男子に限った話ですが、兵役(男子の徴兵)はどうだったのでしょうか。衆議院選挙東京府4区で当選し、支持者らの祝福を受ける朴春琴 兵役は長い間、内地人にだけ課せられ、内地人は朝鮮に住もうと台湾に住もうと兵役の義務がありました。戦局の激化もあって朝鮮人の徴兵は昭和19年度から、台湾人は20年度から行われました。彼らが訓練を終え、部隊に配属される頃に国政参政権の付与が決まったことになります。用語メモ…内地が本籍の日本国民を内地人(今の日本人)、朝鮮が本籍の日本国民を朝鮮人、台湾が本籍の日本国民を台湾人と称します。朝鮮と台湾を合わせて外地、朝鮮人、台湾人を合わせ外地人と称します。籍は養子など一部の場合を除き、原則変わりませんでした。本籍とは別の地域に移住しても籍は変わらないわけです。朴春琴の激しい要求朴春琴の激しい要求 実際に衆院議員に当選した朝鮮人は朴春琴一人ですが、他にも立候補した人は存在しました。代議士としての朴の質問は鋭いものがありました。帝国議会の議事録を読みますと朝鮮名を名乗ったままの朴は、日本国民であることを強調した上で、兵役や参政権の要求を繰り返しています。併合の枠の中で、朝鮮人の地位向上を求めていたのでしょう。 「朴委員 年々に少なくても二百や三百の人は支那の官民に間違なく虐殺を受けている。(略)殺されながら満洲天地を開拓する皆さんの兄弟、これを今日まで保護したことがあるか(昭和七年六月四日、衆院本会議)」  「朴委員 新附二千万ばかりでなく、内地にいる日本国民の中にも不逞が沢山いる。(略)不逞鮮人とか(略)そういう侮辱的の言葉をやって、俺の言うことに従えと言ってもなかなか従いませぬ(八年二月十七日、衆院請願委員会)」 朝鮮人の利益に立った質問を踏み込んで行っています。政府側は、先に引用した山本大臣(内務大臣)の答弁でもわかりますが、他の内地人代議士向けと同様の丁寧な口調で答弁しています。朝鮮総督府の「施政30周年紀念式典」には多くの朝鮮市民が詰めかけた(朝鮮総督府『朝鮮事情 昭和十六年版』) 昭和10年3月16日の衆院の委員会質疑では、朴は自身の当選について、次のようにも述べました。 「朴委員 朝鮮においても、朴春琴のように日本人として国家的見地の下に働けば、必ず日本人は将来、朝鮮に生れた日本人に向って、大臣も与えるだろうと、大きな期待を持って臨むようになった」 朴は戦後、韓国民団中央本部の顧問などを務め、1973(昭和48)年に亡くなりました。韓国では親日派として厳しい目でみられているそうです。日本の帝国議会の議員だったこと自体が韓国では批判の対象になるのだと思われますが、当時、併合継続を前提とすれば朴のような要求があっても不思議ではありません。 朴春琴の質問の冒頭にある「朴泳孝侯爵が勅選議員」になったとは、朝鮮貴族だった朴泳孝が、帝国議会の貴族院議員に選ばれたことを意味します。朴泳孝は金玉均の同志で、朝鮮の開化党を作ったこともある政治家です。日韓併合に協力し、日本の華族とは別に朝鮮貴族令(明治43年)によって設けられた「朝鮮貴族」に連なりました。 戦後、日本国憲法第十四条にある「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」の「その他の貴族」とは朝鮮貴族を指すそうです。昭和20年の大転換 「鮮台同胞国政参与に 畏(かしこ)くも大詔渙(かん)発(ぱつ)」 これは、昭和20年4月2日付朝日新聞の1面トップ記事の主見出しです。台湾・朝鮮参政権付与の「大詔渙発」を報じる朝日新聞。隣は「沖縄本島に敵上陸」 70年前の日本は、朝鮮と台湾に住む国民に、国政参政権の付与を決め、昭和天皇が詔書で布告されたのです。 同じ日の朝日新聞1面の二番手は、沖縄本島に米軍が上陸したという大ニュースです。読売新聞の1面も同様でした。 なぜ詔書が出るほど、参政権付与が重視されたのでしょうか。それは、大日本帝国の政治構造を大きく変える決定であったためだと思われます。 詔書に合わせ、改正衆議院選挙法と改正貴族院令が公布されました。先に貴族院について説明します。朝鮮、台湾に住む国民で名望ある人から、合計10人を勅選議員にするものでした。以前にも勅選の例はありましたが、朝鮮、台湾枠から選ぶのは初めてでした。 貴族院議員は20年4月3日、朝鮮人7人、台湾人3人が発令されました。戦局の悪化で朝鮮人の貴族院議員は海を渡れず登院できませんでしたが、台湾人議員は実際に登院しています。 一方、衆議院は、朝鮮は各道を選挙区として合計23人を、台湾は各州を選挙区とし5人を、制限選挙で選ぶことになりました。選挙権は国籍をもつ満25歳以上の男子で直接国税を年額15円以上納めている人に与えられました。すでに内地に編入されていた樺太にも3人の定数を設けています。 当時、内地の人口は約7000万で464人の議員定数でした。朝鮮、台湾は3000万で定数は28人です。人口比でも内地よりも少ない制限選挙でしたが、徐々に制限を解いていく方針でした。㊤朝鮮で年々増加した志願兵のための訓練所㊦と実際の教練の様子(『朝鮮事情 昭和15年版』) 外地の領有が保たれ、選挙が実施できる情勢になっていれば、昭和21年予定の衆院選で外地選出の衆院議員がそろう算段でしたが、戦局の悪化はそれを許しませんでした。 日本在住外地人の参政権は、昭和20年12月の、女性参政権を認めた際の改正衆院選挙法の付則で停止されています。 国政参政権は選挙権にとどまりません。官職につくことも含まれます。もともと朝鮮総督府では、13ある道の知事のうち五人は朝鮮人とする慣例がありました。総督、政務総監に次ぐ最高幹部である局長のうち、学務局長に朝鮮人官僚が2回登用された例がありました。 ところが昭和18年度になると、中央省庁、総督府双方への登用が本格化します。高等文官試験に合格した朝鮮人37人のうち、内務省3人、鉄道省2人、大蔵省1人、文部省1人など12人が中央官庁に、21人が朝鮮総督府に採用されました。キャリア組です。内地人をも統治するポストへ進む若手官僚に選んだわけです。大日本帝国の構造を変える道へ大日本帝国の構造を変える道へ 徴兵、高級官僚への登用は大きな出来事ですが、大日本帝国のあり方自体を変える道を開いたのは衆院選挙区の設置でありました。 この道は、数十人単位、いずれは百人を優に上回る数の外地選出議員が帝国議会を占めることを意味します。内地人化が進んだとしても、日本の政治が複数の民族によって運営されるようになっていったかもしれないのです。 もう一つは、内地、外地の区別が消えていき、将来は総督府が廃止されたかもしれない、という点です。 内地では当然、完全施行されていた明治憲法は、朝鮮や台湾では名目的施行にとどまっていました。経済や教育の水準、慣習、日本語の普及などが違いすぎるからで、無理もない面もあります。 このため帝国議会が協賛して決める法律は、外地では一部しか適用されず、総督府が実情に応じて制令(朝鮮)や律令(台湾)という法令を発しました。これを「法域」問題と言います。 法域が同じになれば統治上は内地と同じになるわけです。朝鮮や台湾を内地とあくまで異なる外地にとどめるのか、内地と同様にしていくのかということです。京城では銀行の壁面に「日本精神発揚」「国民精神総動員」「貯蓄報国」などの垂れ幕が懸けられた(『朝鮮事情 昭和15年版』) 敗戦直前の昭和20年に、日本は後者の道を選んだのです。松阪広政司法大臣は同3月20日の衆院の選挙法改正案の委員会で「法域」について「朝鮮、台湾から立法府に議員が出て法律を協賛するということになりますれば(略)法律は朝鮮、台湾にも施行せられるものと見なければなりませぬ」とし、運用上、例外を設けることはあっても、法律は外地でも原則施行すると表明しました。 日本統治下最後の全羅南道知事を務めた八木信雄は著書『日本と韓国』で、内務省と朝鮮総督府の人事交流が始まっていたことを挙げ、「窮極的には総督政治を廃して」いく流れにあったという見方を示しています。 朝鮮総督府は、斎藤實総督当時の昭和4年から6年にかけて、朝鮮に自治議会を置く案も検討していました。 しかし、三・一事件後の大正8年の詔書で「一視同仁」という統治の大方針が明示され、これが内地化を目指すものと解されていたため、自治議会の案は日の目を見ませんでした。 朝鮮統治は、教育や農業、工業の発展を進め、同時に日本語の普及や 創氏改名など内地化を促していきました。そして戦争が激しくなって、参政権を反対給付として促す効果をもつ徴兵が始まったのです。        ありえない「性奴隷」 徴兵の数年前から朝鮮には志願兵制度がありましたし、当時の朝鮮に徴兵実現を求める声も上がっていました。そうであっても、十万単位の若者に軍事訓練を施し、武器を渡す徴兵は重大な選択です。日本の政府や総督府、軍が情勢の悪化した戦争末期に、朝鮮、台湾統治の安定度をどう見ていたかがわかると思います。 ここまで読んでいただいた方の中には、「戦局は悪化し、国政参政権の付与は空手形だったのではないか」と思う人もいるかもしれません。けれども、史料や関係者の回想をみれば、しごく真剣に物事は進められていました。 朝鮮をはじめとする日本の外地統治への評価は、いろいろな視点があって当然だと私は思います。ただ一つ、指摘したいのは、これらの統治への取り組みと、日本が20万人もの朝鮮人の女性を「性奴隷」として駆り立てたという荒唐無稽な話は、どうしても両立しないように思えるのです。 さかきばら・さとし 昭和40年愛知県生まれ。専門は政治、安全保障。東大文学部国史学科卒業(近現代政治史専攻)。平成2年産経新聞社入社。政治畑の記者として、55年体制の幕引きをした宮沢喜一内閣以来の国政を取材。防衛や憲法改正のテーマに取り組み、産経新聞が平成25年に発表した憲法改正案「国民の憲法」要綱の起草作業に参加した。23年から2年間、防衛大学校総合安全保障研究科で、核軍備と日本の安全保障論の歴史的関係について専攻、卒業した。安全保障学修士。共著に『未来史閲覧』『同2』(産経新聞社)など。  関連記事■ 半島国家の悲しき世界観■ 多くの日本人が疑問に思うこと■ 韓国人を理解する単語「ヤンバン」「恨(ハン)」「ジョン」

  • Thumbnail

    記事

    当たり前だよ「わが軍」発言

    榊原智(産経新聞論説委員) 現代日本の政治が取り組むべきことは、自衛隊を「わが軍」と呼ぶことをタブー視することではない。現憲法の下でも、自衛隊が平和と安全を確保するための日本の軍隊であるという「本当のこと」を認め、国民にわかってもらうことだ。 現代日本には、言葉狩りで真実を覆い隠し、国の安全保障力をいたずらに損なう戦後の悪い習わしを続けていく余裕などないはずだ。 政治家も国民も、自衛隊が日本の軍隊だとはっきりと自覚し、戦後長く自衛隊を縛り付けてきた、平和を守る力をいたずらに削ぐような不合理な制度、慣習を改めていった方がいい。これは自衛隊を普通の民主主義国の軍隊へ近づけることになり、抑止力を高めることになる。日本や国際社会の平和と安全を保ち、国民の生命財産を守ることにつながる。憲法9条の改正は、そのような努力の総仕上げにしなければならない。 安倍晋三内閣と与党は、集団的自衛権の行使容認をはじめとする安全保障改革に取り組んでいる。 国家安全保障戦略を定め、国家安全保障会議(日本版NSC)や国家安全保障局を創設した。自衛隊による南西諸島防衛に力を入れ、スパイや情報漏れを防ぐため国の重要な秘密を守る特定秘密保護法を制定した。友好国が先端技術を持ち寄って武器を共同開発するため防衛装備移転三原則をつくり、日米同盟の抑止力を高めるため普天間飛行場の辺野古移設工事を進めている。 改革の真打ちは、集団的自衛権の限定行使を容認することを柱とする安全保障法制の整備と、連動した日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定だ。新ガイドラインは4月下旬にまとまり、安保関連法制は今夏にも制定の運びだ。 このように安全保障の取り組みがずいぶん正常化してきたと思いきや、首相が自衛隊を「わが軍」と呼んだだけで、猛反発する政党やメディアが現われた。時計の針が何十年も昔に巻き戻ってしまったようだ。 首相の「わが軍」発言は次のようなものだった。3月20日の参院予算委員会。維新の党の真山勇一参院議員が、自衛隊と各国軍との合同訓練について質したのに対して、首相はこう答弁した。 「共同訓練については、さきほど大臣から答弁した通りである。付言すると、お互い一緒に訓練する国々との関係が、より密接になっていくわけであるし、絆が強化されていくと言ってもいいんだろうと思う。わが軍の透明性をまさに、一緒に訓練するわけだから、上げていくことにおいては大きな成果を上げているんだろうと思う。自衛隊は規律がしっかりしていると、しっかりとした責任感と厳しい規律の下に、平和に貢献していこうとしているということが、多くの国々によく理解されているんではないかと思う」 当たり前の発言である。 しかし首相発言に対して、野党や一部メディアが攻撃、追及を続けた。 朝日新聞のコラム、天声人語は「首相の言葉は往々、身もふたもない。先月には自衛隊のことを『我が軍』と呼んだ。戦力には当たらないと歴代内閣が積み重ねてきた答弁もどこへやら、ここでも憲法上の原理原則は顧みられていない」(4月11日付朝刊)と批判した。 民主党の細野豪志政調会長は3月24日の記者会見で「これまで積み上げてきた議論をひっくり返すような話だ」とかみついた。維新の党の松野頼久幹事長は「不安をあおるような言い回しには気をつけるべきだ」と記者団に語った。 翌25日の記者会見では民主党の枝野幸男幹事長が、「わが国の自衛隊であり、安倍さんのものではない」と、いささか意味不明な批判まで行った。首相の言う「わが軍」には私兵の意味合いなどあるわけもなく、枝野氏が使った「わが国」と同じ用法だったに決まっている。 枝野氏はさらに、「憲法に陸海空軍その他の戦力を持たないと明記されている。説明がつかない」と、憲法9条を引いて批判した。 これらは、いかにも乱暴な議論だ。 なるほど憲法9条第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と規定している。 しかしこれは、「前項の目的を達するため」とあるように、9条第1項のもとにおける話である。 第1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としている。衆院予算委員会で答弁する安倍晋三首相=3月30日、国会・衆院第1委員室 9条は、侵略戦争を否定するものであって、自衛戦争の遂行まで違憲とする条文ではない。自衛戦争のために陸海空軍を持つことを違憲と考えるのは間違っている。 9条に関する「芦田修正」的な考え方を採らなくても、政府は、憲法前文が示す国民の平和的生存権や憲法13条が生命、自由および幸福追求に対する国民の権利を認めており、自衛戦争を戦うことがあり得るとの立場をとっている。 いずれにせよ、日本における自衛戦争のための武力組織が自衛隊であることから、組織名は「自衛隊」であっても、それを通称として軍隊と呼んでも何ら差し支えはないはずだ。 にもかかわらず、自衛隊を軍隊と呼ぶことを忌避するのは、軍隊がなければ安全をまっとうできない国際社会の厳しい現実から目をそむけがちな戦後政治の過ちを、繰り返すことになる。 おかしな批判に嫌気がさしたのだろう、国会で首相は「わが軍」発言は問題ないと強調しながらも、「そういう言葉は使わない」と表明してしまった。事実に反してまで平気で言葉狩りをすることがある日本の悪癖の犠牲になった格好だが、首相には踏みとどまってほしかった。 3月30日の衆院予算委員会で首相は「私が『わが軍』と言ったことは全く問題がないと今でも思っていることは、繰り返し申し上げておきます」と強調した。しかしそのうえで、「あまり意味のない議論をここで散々やり返すのは、もうやめようじゃありませんか。そういうことではなくて、安全保障の政策について私はもっと議論すべきだと、このように思います。(略)こうした答弁によっていちいち大切な予算委員会の時間がこんなに使われるのであれば、それはいちいちそういう言葉は私は使わないが、ただそれを使ったからそれがどうこういうものではない」と語った。 首相のいらだちはわかるが、自衛隊が軍隊かどうか、軍隊と呼んでよいかどうかは、決して「あまり意味のない議論」ではない。 その後、安倍内閣は4月3日になって、自衛隊を「わが軍」と呼んだ首相の国会答弁をめぐって、「国際法上、一般的には(自衛隊は)軍隊として取り扱われるものと考える。菅(義偉)長官(が記者会見で「問題ない」と表明したのは)は従来の政府の考え方を述べたものと承知している」とする答弁書を、閣議決定した。これは、維新の党の今井雅人衆院議員の質問主意書に答えたものだ。 この答弁書にある通り、日本政府は自衛隊を軍隊だと位置づけている。武力行使はどの国でも、国際法にのっとって行われるものだから自衛隊が軍隊であると明言したのと同じなのだ。 世界各国も自衛隊をそのようにとらえ、遇している。 今年3月には、世界各国の軍隊の制服組トップが集まって国連平和維持活動(PKO)について意見交換する「国連PKO参謀長会議」が国連本部で開かれた。日本からは、陸上自衛隊トップの岩田清文陸上幕僚長が参加している。 要するに、日本の軍隊の名称が「自衛隊」であることを意味する。自衛隊を通称として「わが軍」と呼ぶことを否定するのは、はっきり言っておかしいのである。自衛隊を軍隊と呼べるのかという論議自衛隊を軍隊と呼べるのかという論議 実は、自衛隊が発足した当時も、自衛隊を軍隊と呼べるのかどうか、自衛隊は軍隊かどうかという議論があった。 保安隊から衣替えして自衛隊が発足したのは1954年7月1日である。63年前だ。その年の国会議事録をひもとけば、たくさんのやりとりが見つかる。 たとえば、1954年4月12日の衆議院内閣委員会では、吉田茂内閣の国務大臣である木村篤太郎保安庁長官(7月1日から初代防衛庁長官)の答弁がある。 自衛隊は軍隊かと質されたのに対し、木村長官は「これは意義いかんということをしばしば繰り返して申し上げておるのであります。軍隊の定義いかん。外部からの武力攻撃に対して対処し得る部隊を称して軍隊なりというのならば、自衛隊はまさしくその性格を持っておるから、軍隊と言ってよかろう、こういうのであります」と答弁した。 正式な名称は「自衛隊」とするが、自衛戦争をする実力組織を軍隊とみなすならば自衛隊は軍隊であり、そう呼んでもさしつかえないというわけだ。この木村長官は、検事総長や東京第一弁護士会長、法相を務めた経歴の持ち主だ。 今回の「わが軍」発言をめぐる騒動は、自衛隊発足当時からの論議を繰り返しているのであり、いい加減、目を覚ましてほしいものだ。 「わが軍」発言を批判するメディアは、1967年3月31日の参院予算委員会で、佐藤栄作首相が「自衛隊を、今後とも軍隊と呼称することはいたしません」「私は軍隊という呼称はいたしません」と答弁したことを言い立てる向きもある。 しかしこれは、社会党が猛威をふるった時代の国会対策上の発言である。金科玉条にして威張れるほどの見解ではない。 ちなみに、安倍首相は3月30日の衆院予算委員会で、民主党の野田佳彦内閣の一川保夫防衛相が、2011年10月25日の衆院安保委員会で、「私は、我が国の自衛隊というのは、いろいろな議論があったと思いますが、我が国が直接外国から何か攻められるということであればしっかりと戦うという姿勢でございますから、そういう面では軍隊だというふうな位置づけでもいいと思う」と答弁したことを披露した。 細野氏や枝野氏が、一川防衛相のこの答弁にかみついて訂正させたとは聞いたことがない。民主党政権時代の防衛相の見解さえ知らず、安倍首相を批判したようだ。批判が自分に跳ね返ってくる、相変わらずの「ブーメラン」ぶりにはあきれてしまう。 ところで、安倍内閣が3日に閣議決定した答弁書の本文は次の通りである。 「国際法上、軍隊とは、一般的に、武力紛争に際して武力を行使することを任務とする国家の組織を指すものと考えられている。自衛隊は、憲法上自衛のための必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであると考えているが、我が国を防衛することを主たる任務とし憲法第9条の下で許容される『武力の行使』の要件に該当する場合の自衛の措置としての『武力の行使』を行う組織であることから、国際法上、一般的には、軍隊として取り扱われるものと考えられる。お尋ねの菅内閣官房長官の記者会見において、同長官は、このことを含め、従来の政府の考え方を述べたものと承知している。」 政府は、自衛隊を軍隊とみなしているが、同時に憲法の制約から「通常の観念で考えられる軍隊とは異なる」とも言っているわけだ。 これも、自衛隊発足当時から、政府が語っていたことだ。 先に紹介した木村保安庁長官は、「独立国家たる以上は自衛権があるのだ。その自衛権の裏づけである自衛力を今度の自衛隊が持ち得るのだ、こういうことであります。それを軍隊と称するかどうか、今申し上げた通り、外部からの侵略に対処するものが軍隊なりということであれば、軍隊といってよろしい。しかし厳格な意味において、また軍隊ということはどうかと思うから自衛隊だ、こう申すわけであります」(1954年4月1日、衆院内閣委員会)と答弁している。 また、岡崎勝男外相は「(自衛隊が)戦力に至らざるものであればそれを仮に軍隊と言いたければ軍隊といっても差し支えない、併し普通軍隊とは言えない、そういうように考えております」「軍隊という名前をつけるのは適当でないと我々は考えておりますので、それを軍隊と言われてもそれは仕方がない。併し政府としては軍隊ということは適当でないから、それで自衛隊なり防衛隊なりという字がつくだろうと思っております。自衛のためにそういう戦力に至らざるある程度の力を持つことは差し支えない、こういうわけであります」(同年4月8日、参議院外務委員会)と答弁している。 国を守るために軍隊が必要であるにもかかわらず、そのときの政治情勢に迫られ、組織名としては「自衛隊」とすることを、当時の政府は選んだことがわかる。それを、日本政府は安倍内閣にいたるまで踏襲してきたわけだ。 今回の安倍首相の発言は、国際法的には自衛隊を軍隊と唱え、国内ではあいまいにするという、わかりにくい二重基準をやめる方向へ動くきっかけになるのが望ましかった。首相は安保関連法制の確実な成立を慮ったのかもしれないが、国民には本当のことを伝えてほしい。 自衛隊をはっきりと軍隊と認めないことの弊害や、どのように改めていくべきかはたくさんの課題があり、別稿に譲ることにするが、1つだけ、民主党など軍隊と呼ぶことに反対する人々に従った場合の決定的な不都合について指摘しておきたい。 自衛隊が名実ともに軍隊でないとすれば、自衛隊が防衛出動して外国軍と戦う場合でも、自衛隊員は軍人、戦闘員としての国際人道法(戦時国際法)に基づく保護を受けられないかもしれない、という点である。 国際人道法では、制服を着用し、責任を負う指揮官の存在などの要件を満たせば、戦闘員とみなされる。これは、捕虜になる資格がある、ということだ。国際人道法は変化し続けており、現代ではゲリラも捕虜になる資格をもつ場合がある。 常識で考えれば、自衛隊員は戦闘員の資格が認められそうなものだが、日本自身が「軍隊ではない」とか「(いかなるときも)交戦権がない」などと主張すれば、敵軍が国際法を曲解し、「日本自身が言うのだから、自衛隊員は捕虜になる資格はない」と言い出す恐れさえある。名誉ある軍人として扱われるかどうか、わかったものではない。 戦いにおいて自衛隊が捕虜を出さずに勝利することが最も望ましいが、戦争は何が起きるかわからない。力戦奮闘の後、自衛隊員が捕虜になることまで否定されるべきではない。それは、国際人道法上の当然の権利でもある。米軍は捕虜になった米軍将兵を英雄とみなし、救出に力を尽す。元捕虜は軍務に復帰して、再び戦列に復帰できる。 日本の周囲は国際ルールなど尊重しない傾向にある国が多い。おかしな口実をあたえることはくれぐれも避けなければならない環境にある。自衛隊が軍隊ではないと否定することは無用の混乱をもたらし、有事に不測の事態をまねきかねず、危険極まりない。 「わが軍」発言を批判する人々は、国家国民のため一身を賭して戦う自衛隊員のことを親身になって考えない、知識も人情も足りない人々ではなかろうか。関連記事■ 政治の「大義」とは何なのか■ 国民は知っている「ブレた」岡田氏■ 鳩山氏、菅氏、中川氏…政治家の自覚はないのか■ 河野洋平は戦後最も日本を貶めた政治家である

  • Thumbnail

    記事

    戦後70年 落ち着いて歴史を語れる国に

    榊原智(産経新聞論説委員) 「よく来たね!」 「日本のおかげだよ!」 日本代表団の団長、高碕達之助経済審議庁(のちの経済企画庁)長官ら一行は、独立したばかりのアジア、アフリカの新興国の代表たちから大歓迎され、相次いで温かい声をかけられた。 1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)での出来事である。 この会議は、第二次大戦後、欧米の植民地から独立したアジア・アフリカの29カ国の代表が一堂に会した国際会議である。 日本は招待状をもらった。占領が終わって国際社会に復帰して間もない時期の日本にとって、不安を抱えながらの参加だった。政府内には見送り論もあったほどだが、案に相違してうれしい歓迎を受けたのだ。 高碕代表に同行した加瀬俊一(としかず)代表代理(国連加盟後の初代国連大使)は生前の講演で、次のように振り返った。 「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。 この時は『大東亜宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました」。 その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」元国連大使、外交評論家の加瀬俊一氏 これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ 日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。 本稿の筆者(榊原)は、加瀬氏の子息で外交評論家の加瀬英明氏にも、この講演の存在と内容を確認できた。講演は、バンドン会議出席者の貴重な証言である。 アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていたのである。 バンドン会議には、白人国家は一国も招かれてはいない。旧連合国が、アジアを侵略した日本からアジアの人々を解放したという見方があるが、当時のアジア・アフリカの代表たちはそんな見方はしていなかったようだ。解放の役割を果たしたのは日本の方だったとみられていたと考えるのが自然である。 1956年の国連加盟の際、国連総会において日本を代表して加盟受諾の演説を行ったのは重光葵(まもる)外相である。重光は、戦時中の東条英機、小磯国昭両内閣の外相であり、東京裁判ではA級戦犯として有罪判決(禁固7年)を受け服役している。その重光が、国連総会で加盟受諾の演説をした際、各国代表は大きな拍手を送った。 加瀬俊一氏が講演で語った「大東亜宣言」をご存じだろうか。日本の外交史上、というよりも、日本の歴史上、かなり重要な宣言なのだが、戦後の日本人はほとんど忘れてしまっているものだ。 バンドン会議は、有色人種の国による戦後初めてのサミットだったが、歴史上初めて、ではなかった。近現代史上初めての有色人種国家のサミットは、1943年11月に東京の帝国議会議事堂(現国会議事堂)でアジア7カ国の首脳が開いた大東亜会議だった。 出席者は、中華民国(南京政権)の汪兆銘行政院長、タイのワンワイタヤコーン殿下、満洲国の張景恵国務総理、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマ(ミャンマー)のバー・モウ国家元首、日本の東条英機首相、それにオブザーバーとしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班だった。いずれも当時の日本の同盟国、友好国である。 これらの国々のほかに、アジアに独立国はほぼなかった―チベットやソ連の衛星国、モンゴルが存在した―といってよい。大東亜会議は、今風にいえば東アジア首脳会議であり、人種平等を目指したサミットだった。 7カ国の首脳が世界に発信した大東亜宣言は「大東亜各国は万邦との交誼(こうぎ)を篤(あつ)うし人種的差別を撤廃」するとして、人種平等の原則を掲げた。欧米諸国が主体の連合国は、政治的な打撃を受けたのである。 これに先立ち、米英両国が1941年に公表した大西洋憲章は、人民に政府の形態を選ぶ権利があると謳ったものの、チャーチル英首相は、この権利は欧州だけのものであり、アジア・アフリカの植民地には適用しないと述べていたのである。 大東亜会議と大東亜宣言を推進したのが重光だった。加瀬は秘書官として重光を補佐する役割を担ったのである。ワンワイタヤコーンは戦後、外相や国連総会議長を務めた。バー・モウは、戦後著わした自伝でビルマの解放者は「東条大将と大日本帝国政府であった」と記している。「南京事件」当日に演説する中国の習近平国家主席(代表撮影・共同) 今年は第2次世界大戦の終結から、日本にとっては大東亜戦争の終結から、70年の節目の年である。日本に厳しい視線を注ぐ国や勢力が、戦争をめぐる節目の日がくるたびに日本を侵略国として断罪してくるだろう。歴史戦である。 中国は昨年12月、日中戦争時の1937年の南京占領で起きたとされる「南京事件」の追悼式典を開いた。初の国家主催で習近平国家主席が参加した。日本たたきへの意欲は満々である。韓国は、慰安婦問題で、日本が20万人の韓国人女性を性奴隷にしたと事実に反する宣伝を続けている。 こんなことを許していては、日本は犯罪国、日本人は犯罪民族の烙印(らくいん)を押されてしまう。国民の精神は萎縮し、国の発展など望めないだろう。国際社会で沈黙は認めることに等しい。日本は反論を重ねていかざるを得ない。 ただし、「専守防衛」だけでは国が守り切れない-だからこそ日米同盟がある-ように、歴史戦も防戦的な発想だけでは好転しないだろう。 戦後、学校では先の大戦をはじめとする日本の近現代の歴史について、否定的な話ばかり教えられることが多かった。バンドン会議50周年の2005年に、バンドンで再び開かれたアジア・アフリカ首脳会議での演説で、小泉純一郎首相(当時)は過去への反省と謝罪を強調した。謙虚より卑屈に近いものに聞こえたのも戦後教育の成果だろうか。 日本の戦争についてはさまざまなとらえ方があるだろう。戦後70年の今年は、日清戦争戦勝120年、日露戦争戦勝110年の節目でもある。第1回バンドン会議の各国代表たちのような、戦後日本の「常識」とはいささか違う歴史の見方が、日本の近現代史のさまざまな出来事に対してできるのではないだろうか。 このような取り組みに「歴史修正主義」とのレッテルを貼って排斥するとしたら、知的な態度とはとても言えない。一方的な日本断罪が、思い込みに基づくひどい過ちでありえることは、朝日新聞などの慰安婦問題の虚報をみればわかるはずである。 歴史は多面的に見るよう努めたい。そうすれば、落ち着いた気持ちで歴史を語り、理不尽な非難に史実をもって反論することもできる。未来にも目を向けられる。今年はその良いチャンスである。※産経新聞 平成27年1月3日付朝刊掲載の原稿に加筆しました。関連記事■ 国際平和の視点が足りぬ独立論―スコットランドと沖縄■ 戦後レジームに風穴開けた靖国参拝■ 戦争犯罪と歴史認識

  • Thumbnail

    記事

    国際平和の視点が足りぬ独立論―スコットランドと沖縄

    榊原 智・産経新聞論説委員 中東で過激派組織「イスラム国」に対する空爆作戦に参加している今のイギリスをみればウソのようにも思えるが、この国は先月、スコットランドの独立をめぐって揺れに揺れていた。 9月18日のスコットランド住民投票で独立は否決されたものの、英国のような主要国の一地域が、平和裏に分離独立する一歩手前までいったことは世界に波紋を広げた。日本でさえ、ごく少数とはいえ独立論者が存在する沖縄への影響が取り沙汰されたほどである。 「英国の成熟した民主主義」の証として称える声もあった。クリミアの分離に端を発したウクライナ・ロシア間の紛争を見るまでもなく、地域の分離独立をめぐってテロや内戦、外国との戦いが生じることに比べれば、英国とスコットランドが合意した住民投票ははるかにましな手段ではある。 けれども筆者は、今回の住民投票をみて、英国は衰えたという感が拭えなかった。スコットランドが独立する場合に生ずるであろう国際平和に対する負の影響への考慮、世界にどれほどの迷惑をかけるのかという視点が足りなかったように思われたからだ。国際平和の視点を欠いた振る舞いは、近現代の世界の歴史を左右してきたうちの一国である英国らしくない。 ある国民や地域の住民が、自分たちの利害を主として考え、行動するのは当然であり、批難はできない。けれども、そのことばかりを追い求め、自分たちの国、地域が果たしてきた世界に対する責任に思いが至らないというのでは、いささか身勝手ではないだろうか。 そして、このような国際平和に対する責任感の不足は、スコットランドのケース以上に、沖縄の独立論において一層強いように思われる。英国の弱体化は何をもたらすか 「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」の国名が表わすように、英国は、イングランドやスコットランドなどから成る連合体だ。スコットランドはもともと独立した王国であり、スコットランドを起源とするスチュアート朝のジェームズ1世が、1606年にイングランドの王位も兼ねたことで、イングランドとスコットランドは同君連合の関係となった。1707年にようやく、2つの王国が合併してグレートブリテン連合王国となった。 このような歴史的経緯があったことも一因となって、スコットランドが独立の是非を問う住民投票を求めた時―感心できない政治判断ではあったが―英保守党のキャメロン首相は受けて立ったのだろう。もし、スコットランドの独立が実現していれば、世界の秩序、国際平和にどんな影響が生じただろうか。 英国の国民総生産(GDP)は日本の6割程度、人口はほぼ半分だ。昔のような7つの海を支配する覇権国ではないものの、世界の秩序にとって楔(くさび)の役割を果たす主要国の一員である。 スコットランドのGDP、人口はそれぞれ、英国の1割弱だ。スコットランドが分離すれば、英国はほぼ同規模のフランスと比べ、明らかに小さな国となり、国際政治における力は低下する。 また、英国は自前の核戦力を維持できなくなったかもしれない。そうなれば存在感はさらに小さくなったであろう。 英国は、必要最小限の核戦力として、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)搭載原子力潜水艦を運用している。英原潜の母港は、スコットランド南西部のクライド海軍基地だけだが、スコットランド独立賛成派の多くは、核兵器反対や核搭載原潜の基地撤去を訴えていた。 独立したスコットランドが英原潜の母港の維持を拒否すれば、移転費は3兆数千億円に及ぶとされ、英国の財政が負担に耐えられるかは不透明だった。 英国が核戦力を放棄すればフランスとの間の政治力の格差は決定的になる。フランスと並ぶ西欧の核の一角が崩れることは、北大西洋条約機構(NATO)の安定や、「欧州」の世界に対する発言力の観点から、好ましい結果が出るとはとても思えない。 外交官や学者、マスコミがどんなにきれい事を言っても、国際社会の本質は残念ながら今も「ジャングル」である。他の核兵器国である米国やロシア、中国などの存在感が相対的に増すことにつながる。 現代世界の基本構造を考えてほしい。いろいろ勇み足をするものの、自由と民主主義を掲げる米国が、核戦力を含む巨大な軍事力を背景に、国際秩序の主たる担い手となっている。 であればこそ、石油・天然ガスなどエネルギー源や食料をはじめとするさまざま物資の自由貿易が可能になっている。「イスラム国」のような勢力が中東を席捲(せっけん)するのを放置すれば、日本が原油や天然ガスを輸入できるわけがない。今の国際秩序があればこそ、膨大な金融取引や情報の流通を支えるインフラ、法体系も整備され、機能し続けている。 ただし、米国一国だけではこの秩序は維持できない。政治、経済的には、ロシアを除く主要国首脳会議の参加国であるG7各国などが、軍事的には、大西洋においては北大西洋条約機構(NATO)、太平洋においては日米同盟などが、この秩序を支えている。 このような構造の中で、英国は重要な役割を果たしてきた。オバマ米大統領がスコットランド独立否決を受けた声明において、米英関係は「特別な関係」であり、「英国ほど重要な同盟国はない」と述べたのがその証だ。米英関係は、歴史、言語、海洋国家という幾重もの絆で結ばれた同盟関係であり、海洋国家と大陸国家の関係である米仏、米独関係では代替できない。 英国の政治的、軍事的な弱体化は、中長期的にみて、世界の秩序に遠心力を働かせるだろう。プーチン大統領のロシア、習近平国家主席の中国が、力を背景に国際秩序の変更に乗り出している今、イギリスを弱体化に導くスコットランド独立をもてはやす人々の気が知れない。 筆者の友人である戦略学者の奥山真司氏は、英国に滞在して、スコットランド住民投票をめぐる独立賛成派、反対派の論争をつぶさにみてきた。奥山氏によると、論争の多くは、スコットランド住民の経済的損得に費やされていたという。 安全保障も論じられはしたももの、英原潜の母港の問題にしても、クライド海軍基地を廃止することによる雇用喪失のデメリットが主として語られていたという。 日本とは第1次大戦では味方、第2次世界大戦では敵の関係にあったが、スコットランドを含む英国の国民は、2つの大戦を団結して戦い抜いたはずだ。その連帯の記憶も薄れたのだろう。 ソ連の脅威がなくなり、スコットランド独立賛成派は、経済的には欧州連合(EU)の、安全保障はNATOの下にそれぞれいれば大丈夫だと踏んだのだろう。北海油田の税収による社会福祉の向上も魅力的だったようだ。 生活、経済の問題は切実な問題だろう。しかし、世界の人々の暮らしの基盤をなす世界秩序、国際平和の維持に英国が果たしてきた役割、つまりはスコットランドの人々も英国民として果たしてきた国際的役割の重みについても、プライドをもって論じてほしかった。 英国のような主要国の国民、または地政学的に国際平和の行方に大きな影響を与える地域の住民は、自国や自分たちの地域の動向が、世界にどのような影響を与えるかまで考え抜いて、行く道を論じる責務がある。 この文脈においては、英国のスコットランド独立問題と、たとえばスペインのカタルーニャやバスク各自治州の独立問題とでは、世界における重みは異なる。スコットランドの独立は、われわれ日本人の生存に跳ね返ってくるかもしれないが、カタルーニャやバスクの問題はその度合いがはるかに小さい。沖縄だけの問題ではない「沖縄問題」 同様に、沖縄の問題は、決して沖縄県民だけの問題ではない。沖縄以外の日本国民にとっての重要事ではあるのは勿論だが、アジア・太平洋をはじめとする世界の人々の問題でもある。 スコットランド住民投票の直前の9月17日、内閣改造で新たに入閣した山口俊一沖縄北方担当相が、就任時の報道各社のインタビューで、沖縄独立論への見解を問われ、「今のところ全く現実味がない話だ」と答える場面があった。 山口氏の言いたかったことは、沖縄独立は現実味がない点、そして「(沖縄とスコットランドは)歴史的背景も置かれた状況も全く違う。あまり(スコットランド住民投票の)影響はない」という点にあったのは明らかだ。 ただ、山口氏が「もっと沖縄の世論としてあれば(政府も)ちょっと検討しないといけないが、今のところそういう話は聞いていない」と述べたのは、いかにも余計なことだった。時事通信のように「沖縄独立『世論高まれば検討』=現実味は否定-山口担当相」と報じるメディアもあった。 そもそも日本政府は、日本から一部の地域が独立することについて、憲法に規定がなく、また、憲法に基づく日本の法体系を排斥するものであって、認めないという立場をとっている。 1997年2月の衆院予算委員会で、大森政輔内閣法制局長官(当時)は「独立という言葉は法律的に申し上げますと、我が国の憲法をはじめとする法体系が排除され、現在の憲法秩序とは相いれない事態になる。言葉を換えますと、現行憲法下では適法にそのような行為はできないのではなかろうか」と答弁している。 菅義偉官房長官は、今回のスコットランド住民投票後の記者会見で、沖縄の独立論議について「日本では住民投票で帰属を決めることは歴史的になじまない」と述べた。 山口氏はもっと言葉を選ぶ必要があった。沖縄の世論が今後、独立に傾くことは考えにくいが、万々一そのような動きが出てきたとしても、日本国の政治家の最大の義務の1つは、領土を含む国の一体性を守り抜くことである。 日本の国務大臣は常に、沖縄独立など断固認めないと即座に語るのが当然ではないか。山口氏の発言は、戦後世代の日本の政治家の弱い面が現われたように思われる。国家意識が弱いことはいいことだという戦後の風潮が安倍内閣の閣僚にも及んでいるのだろうか。 もっと驚かされたのは、沖縄県知事選に出馬を予定している下地幹郎元郵政民営化担当相の発言だ。下地氏は8月26日、日本政府との基地問題交渉が決裂した場合、「琉球独立を問う住民投票をやる」と表明した。 下地氏はもともと自民党所属の衆院議員だったが、離党し、無所属などを経て国民新党の幹部となり、野田佳彦第3次改造内閣では閣僚を務めた。日本政府との基地問題の交渉を有利に導く方便として独立投票を持ち出したのかもしれないが、保守政党である自民、国民新の両党に所属し、入閣まで果たした政治家の発想としては残念すぎる。 沖縄にとって米軍基地の負担は避けて通れない課題であろう。しかし、「内地」が沖縄を犠牲にしているとの被害者意識をあまりに強調するのは、世界に対する責任を顧みないスコットランド独立派の議論に通ずるものがあると思わざるを得ない。 今や沖縄は、日本防衛の最前線となっている。急速に軍拡を進める中国が奪おうとしている尖閣諸島は沖縄県石垣市に属する。沖縄の米軍は、朝鮮半島有事、台湾海峡有事、尖閣など日本有事のいずれにもにらみを効かす。日米同盟の抑止力強化にも貢献している。 沖縄は、米軍基地があることでアジア太平洋の平和の要石の役割を果たしている。このような沖縄の安定こそ、アジア太平洋を火薬庫にしないための条件なのだ。 沖縄が独立することで要石の役割を放棄すればどうなるか。人類の歴史を見れば、地政学的価値のある地域(国)が、力の裏付けのない中立を保つことなど絵空事である。日本や米国が引くとしたら、日ならずして沖縄は中国に支配されることになるだろう。 スコットランドを失う場合の英国と同様に、沖縄を失った場合、日本の国際的地位は確実に下降する。これはとりもなおさず、アジア太平洋や世界の秩序、平和、経済などへの日本の発言力の低下を意味する。平和主義の日本が発言力を失うことが、国際平和の増進につながるわけもない。 沖縄を勢力下、支配下に置いた中国は、東シナ海を制すことになる。その海洋進出には拍車がかかり、日本のシーレーン(海上交通路)は脅かされ、日本の対中防衛線は、奄美大島から九州沖にかけての海域に下がることになる。日本に独立を尊ぶ気概が残っていれば、防衛費の大幅な増額が必要になるだろう。 負の影響を受けるのは、日本だけではない。米軍はグァムまでひくことになりかねない。台湾の現状維持は危うくなるし、米中角逐の「主戦場」である南シナ海においても―米国が直ちに敗退することはないにせよ―天秤は中国有利へ傾く。ベトナムやフィリピンは、自国の安全保障が一層厳しい状態になることを自覚せざるを得ないだろう。 さらに、中国国内で弾圧にさらされている人々にとってはどうだろうか。中国の国威が増すことが、ウイグルやチベットにおける圧制を和らげる方向に働くはずもない。 沖縄の独立は、沖縄自身のみならず、日本やアジア太平洋などの安全保障、人々の暮らしにも大きな負の影響をもたらしかねない。 日本国憲法でさえ、前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」としている。「国家」を「地域」と読み替えても同じことであろう。 沖縄には、自分たちがアジア太平洋地域、世界の平和に大きな責任をもっている存在であることを、プライドをもって自覚してほしいものである。基地問題にしても、被害者意識を振り回すのではなく、日本の、アジア太平洋地域の、そして世界の平和や秩序の維持に寄与しているという視点を持てないものか。そのような誇りある沖縄の主張を聞いてみたいものである。

  • Thumbnail

    テーマ

    責任感なき独立論 スコットランドと沖縄

    スコットランド独立は住民投票で否決されたが、一連の動きは世界に大きな波紋を広げた。 日本でも、ごく少数とはいえ沖縄の独立論者が存在することをどう考えるべきか。

  • Thumbnail

    記事

    第二次安倍政権の軌跡を追う・安倍政権考

    ・衆院選―維持された核オプション 2013年1月5日 http://ironna.jp/article/172・「日本のガッツ」示した首相訪米 2013年3月2日 http://ironna.jp/article/175・来年末にも「改憲ダブル選挙」 2013年4月27日 http://ironna.jp/article/177・米中だけが「大国」なのか 2013年6月15日 http://ironna.jp/article/179・韓国の反日ナショナリズムから「旭日旗の名誉を守れ」  2013年8月3日 http://ironna.jp/article/181・日本の平和に貢献する「イプシロン」 2013年9月21日 http://ironna.jp/article/183・出生率「2」を目指せ 2013年11月2日 http://ironna.jp/article/184・「張り子のトラ」には負けられない 2013年12月14日 http://ironna.jp/article/187・日本とインドの深い関係 2014年2月1日  http://ironna.jp/article/189・国民投票法が「改憲阻止法」に 2014年3月22日 http://ironna.jp/article/192・「憲法改正」の時代 政党、重み踏まえ行動出来るか 2014年5月10日 http://ironna.jp/article/194 ・中国を抑止する「機雷掃海」 2014年6月21日 http://ironna.jp/article/196 ・「自衛官の命」を守るためにも 2014年7月26日 http://ironna.jp/article/197

  • Thumbnail

    記事

    野田政権考

    ・党より国の危機管理 2011年9月3日 http://ironna.jp/article/154/・対韓外交 「邦人救出」はどうした 2011年10月15日 http://ironna.jp/article/158/・皇統の生命線は「男系の継承」 2011年12月10日 http://ironna.jp/article/160/・国づくり分かち合う「18歳成人」 2012年2月4日 http://ironna.jp/article/161/・外患を見ない沖縄2県紙 2012年3月31日 http://ironna.jp/article/162/・「震災対策」としての憲法改正 2012年5月26日 http://ironna.jp/article/163/・奇妙な「大阪都」という言葉  2012年7月21日 http://ironna.jp/article/164/・竹島に「防衛出動」しないなら… 2012年9月15日 http://ironna.jp/article/166/・「尖閣防衛」の先にあるもの 2012年11月10日 http://ironna.jp/article/171/

  • Thumbnail

    記事

    菅政権考

    ・「菅コール」なき脱小沢内閣 2010年6月12日 http://ironna.jp/article/193/・短命につながる「3つの過ち」 2010年7月17日 http://ironna.jp/article/195/・旗を立てない民主・保守系議員たち 2010年8月21日 http://ironna.jp/article/198/・「首相に向かない」菅、小沢コンビ 2010年9月25日 http://ironna.jp/article/200/・「張り子のトラ」に位負けの愚 2010年10月30日 http://ironna.jp/article/201/・皇室への敬愛欠く「蛤(はまぐり)の変」 2010年12月4日 http://ironna.jp/article/202/・「北朝鮮崩壊」に備えているか 2011年2月19日 http://ironna.jp/article/203/・大連立より与野党の「復興審議会」を 2011年4月9日 http://ironna.jp/article/204/・憲法論議の「障害物」は? 2011年5月28日 http://ironna.jp/article/205/・「誰が原発を防衛するのか」 2011年7月16日 http://ironna.jp/article/206/

  • Thumbnail

    記事

    鳩山政権考

    ・チベットなき東アジア共同体 2009年9月26日 http://ironna.jp/article/180/・「キングメーカー小沢」の標的は 2009年11月7日 http://ironna.jp/article/182/・戦争している国との基地交渉 2009年12月12日 http://ironna.jp/article/185/・「高杉晋作」がいない民主党 2010年1月23日 http://ironna.jp/article/186/・参院選で「保守の旗」は立つか 2010年2月27日 http://ironna.jp/article/188/・言葉を粗末にする政治家たち 2010年4月3日 http://ironna.jp/article/190/・法律も公約も認めぬ「民主」党 2010年4月3日 http://ironna.jp/article/191/

  • Thumbnail

    記事

    麻生政権考

    ・自分のことは自分でやろう 2008年10月18日 http://ironna.jp/article/159/・「自虐史観」では戦えない 2008年11月15日 http://ironna.jp/article/165/・「分かっちゃいない? 自民党」 2009年1月24日 http://ironna.jp/article/167/・廉恥心(れんちしん)なき「保守」はありえるか 2009年2月21日 http://ironna.jp/article/168/・小沢民主 もう一つの説明責任 2009年3月21日 http://ironna.jp/article/169/・「平和ぼけ」では核ミサイルが落ちる 2009年4月18日 http://ironna.jp/article/170/・鳩山、岡田両氏は果たして「保守」か 2009年5月16日 http://ironna.jp/article/284・安全保障は争点になるか 2009年6月13日  http://ironna.jp/article/173/・尊重すべき天皇の国事行為 2009年7月11日 http://ironna.jp/article/174/・衆院選 自民党が下野する理由 2009年8月1日 http://ironna.jp/article/176/・「急がば回れ、憲法改正」 2009年8月22日 http://ironna.jp/article/178/

  • Thumbnail

    記事

    福田政権考

    ・政権交代の跫音が聞こえる 2007年9月27日 http://ironna.jp/article/144/・「テロ特」中国がほくそ笑む 2007年10月25日 http://ironna.jp/article/145/・国連決議中心主義は合意されたのか 2007年11月24日 http://ironna.jp/article/146/・自衛隊も“溶けた”のか 2007年12月27日 http://ironna.jp/article/147/・中国産食品の輸入の一時停止を 2008年2月2日 http://ironna.jp/article/289・外国人地方選挙権 これが民主党の悲願なのか 2008年3月1日 http://ironna.jp/article/148/・精強な「海軍」へ舵を切れ 2008年3月8日 http://ironna.jp/article/149/・「ねじれ国会」解く改憲案不可欠 2008年4月5日 http://ironna.jp/article/150/・説得力なき政治家たち 2008年5月3日 http://ironna.jp/article/151/・「平沼新党」の掲げる旗は 2008年5月31日 http://ironna.jp/article/152/・子供は国の宝 2008年6月28日 http://ironna.jp/article/153/・「1000万移民」日本改造の権利あるのか 2008年7月26日 http://ironna.jp/article/155/・外国人地方選挙権の地政学的リスクは? 2008年8月23日 http://ironna.jp/article/156/・小沢氏国替え、本気か茶番か 2008年9月20日 http://ironna.jp/article/157/

  • Thumbnail

    記事

    2006-07年・安倍政権考

    ・タブーではなかった「核論議」 2006年11月9日 http://ironna.jp/article/126/・憲法改正 政界再編か自公民協調か 2006年11月23日 http://ironna.jp/article/127/・「インテリジェンス」こそNSCの急所 2006年12月7日 http://ironna.jp/article/128/・「改憲凍結3年」の衝撃 2006年12月21日 http://ironna.jp/article/129/・「憲法改正」がひらく18歳成人 2007年1月4日 http://ironna.jp/article/130/・省昇格を国軍再建の序章に 2007年1月18日 http://ironna.jp/article/131/・北方領土問題に暗雲漂わすな 2007年2月1日 http://ironna.jp/article/132/・安倍カラー発揮こそ唯一の活路 2007年2月15日 http://ironna.jp/article/133/・「共謀罪」でテロに備えよ 2007年3月1日 http://ironna.jp/article/134/・首相と民主の力量試す「国民投票法案」 2007年3月15日 http://ironna.jp/article/135/・「本気」伝わらぬ憲法改正機運 2007年3月29日 http://ironna.jp/article/136/ ・破綻した自公民協調路線 2007年4月12日 http://ironna.jp/article/137/・避けてはいけない「靖国神社」 2007年4月26日 http://ironna.jp/article/138/・波紋呼ぶ「2次草案作らぬ」 2007年5月10日 http://ironna.jp/article/139/・参院選、争点作りを怠ったツケ 2007年6月7日 http://ironna.jp/article/140/・不思議な「非核武装国」 2007年7月5日 http://ironna.jp/article/141/・苦い現実をかみしめているか 2007年8月2日 http://ironna.jp/article/142/・対米協調と自主独立の狭間で 2007年8月30日 http://ironna.jp/article/143/