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    織田信長はオカルトマニアだった?

    日本史上最も有名な人物、織田信長についてどんなイメージをお持ちだろうか。時代の革命児であり、その個性は合理主義、神仏を恐れぬ残忍さ、そして誰よりも誇り高き志を持つ。こんな信長像が一般的だが、本当にそうだったのか。歴史研究家、橋場日月が文献などに基づき、信長にまつわる日本人の常識を根底から覆す。

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    神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 2017年。織田信長が天下統一を前に本能寺の変で非業の死を遂げてから435年になる。この間、信長はどういう性格の男と考えられてきただろうか。 同時代の公家、山科言継(やましな ときつぐ)は永禄12年(1569)1月に信長が将軍・足利義昭のために造営を開始した京・二条第の工事現場で何度も接触をはかったが、信長は「機嫌が悪いとして対面しない」ときもあり、また「寒いから」と会わずに済ませることもあったという(『言継卿記』)。 そのほかにも、信長が公家たちと立ち話だけで大事な用件を片付けた例は多い。仮にも当時の上級貴族、朝廷の洗練された礼儀作法や圧倒的な教養、全国へ伝わる情報の発信源ともなる公家に対するこの人もなげなふるまい。体面を気にせず、無駄な礼儀作法や時間の浪費をとことん嫌う彼の性格が表れている。 一方、キリスト教布教のためにはるばる日本へやって来たポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、信長に関する多くの感想を書き遺(のこ)した。彼も「信長はだらだらした長話や無駄な前置きを嫌った」と表現し、言継と同じ二条第工事現場での信長についても「虎皮を腰に巻き、どこでも座れるようにした粗末な身なりをしていた」と記録している。 さらに「地球儀によって地球が丸いことを説明された信長は『理にかなっている』と即座に理解した」とも説いており、当時ヨーロッパでもまだまだ地球が球体であることを納得していない人が多かったことを考えると驚くべき頭脳の柔らかさではないか。 フロイスが見た信長も、時間を有効に使い、人目を気にせず行動するだけでなく、筋道が立った理論であれば先入観無く受け入れる人物だったのだ。横瀬浦公園のルイス・フロイス像(長崎県観光連盟提供) 以上のような同時代人の証言から浮かび上がる信長の姿は、一言でいえば「合理主義者」。だが、こんなものはまだまだ序の口にすぎない。フロイスがこう続けた。 「信長は神と仏に対する祭式と信心をいっさい無視した」 「彼は良い理性と明晰(めいせき)な判断力の持ち主で、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教(非キリスト教)の占いや迷信的慣習を軽蔑していた。(中略)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」(以上フロイス『日本史』)。 日本人のほぼすべてが神々を敬い仏教をありがたがる中で、彼はそれを明確に否定していたというのだ。信長のこの思想については、「日本では自分自身が生きた神・仏になり、石や木で出来たものは神ではない、と言った」と、強敵・武田信玄が死去した直後の天正元年(1573)4月20日のフロイス書簡(『耶蘇会士日本通信』)に顕(あらわ)れたのが一番早い例だ。どうしても気になる2つの文章 しかし、信長はその3年前の元亀元年(1570)には浄土真宗の本願寺との戦争状態に入り、翌元亀2年(1571)には有名な比叡山延暦寺(えんりゃくじ)(天台宗)の焼き討ちもおこなっている。そして何よりも、天文21年(1552)に父の信秀が亡くなった際に信長は葬儀の場で焼香に立つと、「抹香をくわっとつかんで仏前に投げかけて帰った」という若き日の強烈なエピソードもある(『信長公記』)。 無駄な時間と虚礼を嫌う合理主義者であり、神仏を無視した信長。これがあいまって、「彼は無宗教だった」と言われるようになった。そこからさらに進んで、彼が特定の神社や寺を保護した実例もあるから、宗教すべてを完全に否定していたのではない、という論議も出ている。「信長は自分に従わない宗教を敵としただけだ」というわけだ。 だが、全国制覇をめざす信長としてみれば、すべての宗教を敵にまわすなど「時間と労力の無駄」の最たるものだったのではないだろうか? 従来の信仰生活の中で暮らしている家臣たちにも動揺が広がる。信長は、計算ずくで宗教に理解を示すポーズをとることがあった、とも解釈できるのではないか。 これも有名な話だが、先に紹介したフロイスの書簡には、信長は「第六天の魔王」と自称したとも書かれている。第六天魔王というのは仏教の修行を妨げる存在なのだが、これについては後で詳述することにしよう。字面に忠実ならば、これは信長自身が無宗教どころか反宗教であることを公言していたとしか説明できない。安土駅の織田信長像 いずれにしても、現在の一般的な信長像は「科学的な思考法を持つ徹底した合理主義者であり、神仏を否定する無宗教論者」といったところだろう。妥当な信長観であり、筆者自身も、一応それに納得し賛同するひとりである。 ところが、だ。もうひとり、心の奥の方にいる別の私がどうしても異議を唱えたくてうずうずしているのだ。筆者には、以前からどうしても気になって仕様が無い文章が2つある。まずその一つ目を紹介しよう。 皆さんは『甫庵(ほあん)信長記』という信長伝記をご存じだろうか。小瀬甫庵(おぜ ほあん)という人物が、信長の近侍だった太田牛一の『信長公記』を底本としてそれに脚色を加え読み物として整えたもので、大坂冬の陣の3年前、慶長16年(1611)に刊行されたものである。信長は「鬼神を敬った」 その性格上、信頼性という点では割り引いて考える必要があるのだが、その中に信長について、「鬼神を敬い、社稷(しゃしょく)の神を祭らなかった」という一節があるのだ。これは信長が志なかばで死を迎えなければならなかった理由のひとつとして書かれている。 社稷の神というのは土地の神、すなわち氏神のことなのだが、それは取りあえず置いておこう。ここで問題なのは、「鬼神を敬った」という部分だ。当時の日本語を採録した『日葡(にっぽ)辞書』をひいても、「鬼神」は「悪魔」という意味でしかない。信長が鬼、悪魔を信仰していたとしか解釈不能なのだ。 「史料的に信頼性が低い本なのだから、気に留める必要もないのではないか」とも思うのだが、それでは『甫庵信長記』とは比較にならないほど史料価値の高さを認められ、学者や研究家がこぞって参照している『信長公記』はどうだろうか。 同書には、先述したように信長が父の葬儀で抹香を投げつけた逸話以外にも、ハッとする記述が多くある。中でも、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの直前、前哨戦の勝利に喜んだ信長の敵・駿河遠江三河3カ国の大大名、今川義元がこう述べたというのは興味深いところだ。 「義元の矛先には、天魔鬼神も対抗できない」。討ち果たすべき相手の信長を魔神に例え、今川軍はそれを上回る強さなのだ、と誇っている。まぁ、敵を「天魔」と呼ぶのは日蓮や上杉謙信など他にも多くの例が見られるからあえてあげつらう必要は無いのかもしれないが、「鬼神を敬った」と考え合わせると、妙に不気味ではないか。そう思うと、どうにも好奇心がとまらなくなって来る。好奇心は、「信長は鬼神に代表されるオカルト信仰に凝っていたのではないか」と筆者にささやきかけるのだ。夕闇迫る桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像(左)と今川義元像=2016年12月9日、名古屋市緑区(関厚夫撮影) そこで『信長公記』から順を追って信長の生活、行状を見ていこう。抹香を投げつける前の年から、それは始まる。なお、これ以降は意訳だけでなく原文も併記するので、若干お読みいただく手間は増えるかもしれないが、細かいニュアンスを感じていただきたいケースもあると思うので、ご寛恕(かんじょ)願いたい。若き日の異様な服装 天文20年(1551)、信長は数えで18歳だった。この頃までの彼の風体はこう描写されている。 「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」(袖無しの湯帷子を着て半袴をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅や萌黄(黄色っぽい緑色)の糸で巻き茶筅曲げに結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた) 湯帷子(かたびら)というのは現在の浴衣の原型で、それに半袴(長袴ではなく、足首までの長さ)を履き、火打ち石の袋などを腰から下げ、カラフルな糸で髷を結う。朱色の鞘(さや)の太刀は、傾奇者の象徴でもあり、絵に描いたような不良少年の姿なのだが、翌年の信秀の葬儀の場ではどうだろうか? 「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」(長い柄の太刀と脇差しを差しているのだが、その柄を三五縄で巻き、茶筅(ちゃせん)曲げの髪型で袴も穿かず) おやおや、このときには袴すら履かない着流しスタイルだったようだ。岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる この葬儀の翌年、信長はしゅうとで美濃の大名である斎藤道三と面会する(信長の正室は道三の娘、帰蝶だった)。ここでも信長の格好は変わりない。いや、ひとつ異なるところがあった。 「御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ」(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個のひょうたんを付けていた) ひょうたんが何個も腰にぶら下がっていたという。 道三との会見の場で信長は礼式にのっとった正装へと鮮やかな変身を遂げ、以降はまともな身なりをするようになるのだが、それまではこの異様な装いを通していたのだ。 次回はここで問題となる若き日の信長スタイルのアイテムについて、掘り下げていきたいと思う。