検索ワード:橋場日月の信長マニア/7件ヒットしました

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    信長の窮地を救った「銭まじない」

    1556年、信長は父子対立で窮地に立たされた斎藤道三を援護すべく美濃に出陣した。「何事も即断即決」「神速」のイメージが強い信長だが、このときは途中で進軍をストップし、おもむろに「銭まじない」を始めたという。なんとも「らしくない」逸話だが、実は後の天下布武にも影響する重大イベントだったのである。

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    道三を見捨てた信長の「銭まじないと下天の決意」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 信長が干ばつをきっかけとして弟の信勝を謀殺する以前、信長は妻の父を喪っている。美濃の斎藤道三だ。信長が道三の娘を正室に迎え、舅(しゅうと)の道三を後ろ盾にしたことについては第3回で述べた。その道三が、弘治2(1556)年4月、長男の義龍に討たれたのである。道三が義龍を嫌い、次男、三男をえこひいきしたことが直接の原因で、その背景には尾張に対してなどの外交方針をめぐる対立があったようだ。道三のバックアップによってようやく尾張での主導権を維持していた信長のこと、当然ながら窮地に立たされた道三を援護すべく美濃に出陣する。 自分をかわいがり、信長が合戦におもむく際には美濃の兵を清洲城の留守番に貸してくれるなど、何かと便宜を図ってくれた舅。それを救うべく美濃におもむくなど、何とも絵にもドラマにもなる話ではないか。 ところが、である。信長の人生を脚色しながら面白おかしく伝えた『甫庵信長記』はじめ、後世の軍記物はこのときの彼の行動にまったく触れていない。『武将感状記』では出陣そのものも道三戦死の後のこととし、「弔い合戦に出陣した信長は義龍が手ぐすねひいて待っているのを知ると気をのまれたのか、途中で引き返してしまった」などと記しているのが唯一の例で、その話自体もまったくさまにならないのだ。 では、実際彼はどのように行動したのだろうか。『信長公記』によると、信長は道三救援のために一応出陣はしている。木曽川、飛騨川を渡って大良(現・岐阜県羽島市正木町の大浦あたり)の南辺りまで進んだ信長だが、彼はここで進軍をストップした。戸嶋東蔵坊という寺の敷地がその本陣とされたのだが、この本陣でちょっとした騒ぎが起こる。 「境内のあちこち、堀や垣根からも銭が詰まった瓶が掘り出され、どこも銭を敷いたような具合だった」(同書、『太田牛一雑記』) 当時、有力な寺は高利貸で莫大(ばくだい)な財産をため込んでおり、東蔵坊もそういう「財テク」で稼いだ金銭を地面に埋めて保管していたのだろう。今でも、中世にそうして埋められたまま忘れ去られた銭の瓶が、たまに発掘されている。金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(本社ヘリから、門井聡撮影) 問題は、なぜ信長が堀や垣根まですべて掘り返していたのか、ということなのだが、考えるまでもなく、本陣を堅固な要害に大改修し陣城に造り替えるためである。道三が布陣している稲葉山城北西の鷺山までは約14km。「こんなところで城作りにかまけ、油を売っている場合ではないぞ!」と誰もが余計な心配をしてしまう呑気(のんき)さではないか。 そして、案の定、その間に道三は義龍との決戦に敗れ、首を取られてしまった。信長の「銭まじない」 どうも、信長は「美濃の国の領地持ちの武士たちは、みな義龍方となった」(『太田牛一雑記』)という情勢に勝ち目なしとみて、戦意を喪失してしまったらしい。そしてサボタージュをごまかすために築城工事にかかり、その工程で無数の銭を掘り出してしまったわけだ。 さて「地中から銭が出てきました」と報告を受けた信長は、その後どうしたのだろうか。同書はいう。 「銭をつながせ御覧候」  銭をひもでつながせて、それを見物したのだ。銭をひもでつなぐというのには、2つのケースが考えられる。1つは100文単位、1000文単位などで銭の穴に縄を通してまとめる「鎈(ぜにさし)」を行ったケース。 当時、銭を保管したり取引に用いたりする際、まとまった単位の鎈がよく用いられたから、それを行わせたのだろうか。 しかし、境内の至るところから出てきた無数の銭を、いちいち計数して単位ごとにつながせ、それを検分するなど、自分の戦意のなさを部下の兵たちや敵のスパイにも見透かされてしまうような振る舞いを信長がするだろうか。 そこで、もう1つのケースが有力となってくる。今でも名古屋とその周辺では5円玉12枚に麻ひもを通し、それを赤ちゃんの産着に結びつける風習が残っている。これは「紐銭(ひもせん)」「帯銭(おびせん)」の一種と考えられ、関西で祝儀袋を結びつけるのと同様、お金に困らないようにというまじないの意味を持つ。信長もこのまじないを実行したのではないか。 かつて中国には「厭勝銭」(えんしょうせん、あっしょうせん)というまじない用の非流通銭があり、日本でも室町時代から盛んに行われた。銭の形には呪術(じゅじゅつ)的な力があると信じられていたのだ。信長も銭の霊験を信じ、地元に伝わる紐銭のまじないを実行して幸運を祈念したのではないだろうか。それならば、部下たちの士気も下げず、敵にも足元を見られずに済むというものだ。名古屋市の万松寺にある幸若舞『敦盛』を舞うからくり人形の信長(中田真弥撮影) このようにして信長が模様眺めをしながら、まじないにふけっているうちに道三を破った義龍の軍勢が大良にも攻め寄せてきた。信長はこれにひと当てした後、自ら木曽川の舟の上で殿軍(しんがり)を務めて配下の兵たちを尾張へと引き揚げさせる。後には、信長の援軍をあてにしていた道三がその交換条件として出した「美濃一国の譲り状」が残った。「(美濃国は)織田上総介信長存分に任すべき」という、有名な内容の書状だ(『妙覚寺文書』)。 信長のまじないは、義龍との不利な戦いを避けるために役立ち、後に彼が美濃に侵攻する際の大義名分までもたらしてくれたのだった。世話になった舅をあっさりと見捨てた信長だが、乱世を生き抜くためには舅でも利用し、都合が悪くなれば見切ることを躊躇(ちゅうちょ)しないという合理主義は、彼の中で厄除けや蛇神にさえ頼るという思想と矛盾しないのだろう。武田信玄の嫌な予感 その翌年、信勝を排除した信長は、永禄2(1559)年に尾張上四郡守護代家、岩倉城の織田信賢を下して国内をほぼ平定する。明くる年にはいよいよ彼の一世一代の大勝負、「桶狭間の戦い」へと突入していくのだが、その前にこの頃の彼の日常に触れておこう。 天永寺というのは清洲城から前回紹介した蛇池を越えてさらに東に進んだ味鋺(名古屋市北区楠味鋺)の寺で、現在も天永寺護国院という名で同地にある。その寺の天沢(てんたく)という学識豊かな僧侶が、関東に下る途中で甲斐を通り、武田信玄に招かれて信長について述べている。 その中でよく知られているのが、 「幸若舞の『敦盛』がお好きで、『人間50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり』と口ずさまれながら舞われます。舞はこの一曲のみです。また、小唄では『死のうは一定(いちじょう)、忍び草には何をしよぞ、一定かたり起こすよの』をよく唄われます」という部分だ。信長を描くドラマでもしばしば紹介されているので、ご存じの方は多いだろう。建勲神社にある「敦盛」の句が刻まれた石碑=2017年12月1日、京都(中田真弥撮影) この幸若舞『敦盛』に出てくる「下天」というのは何かというと、天上界(天界)の最下層の「他化自在天」を意味する。その下天でさえ、時の流れは一日一夜が人間界(俗界)の1600年にあたるという気の遠くなるような長いものであり、人間界に生きるわれわれの50年の人生など一瞬にすぎない、と喝破しているのだ。 信長はこの舞で限られた時間を自覚し、続いて小唄で「短い人生、人はどうせ必ず死ぬのだから、必ずや何事かを仕遂げ、後世の語り草にしてやる」と意欲を燃やす。人生のクライマックスを間近に控え、何が何でも運命を切り開いていこうという決意がうかがえるではないか。 このほかにも信長のやり方を根掘り葉掘り天沢からヒアリングした信玄は「信長が軍事にたけているのも無理はないな」とつぶやき、苦虫をかみつぶしたような顔をしていたという。恐るべき奴が尾張に出てきた、と恐れを抱いたのだ。そして、彼のこの嫌な予感は、この時期から20年あまり後に武田家が信長に滅ぼされることによって的中する。 ところで、この「下天=他化自在天」、もうひとつ別の呼び方を「第六天」という。天上界の下部に位置し、上から四大王衆天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天と続く最後、6番目の天だから第六天、というわけだ。この第六天は今後のキーワードとなるので、心に留めておいていただきたい。 この甲斐での出来事は、その後帰国した天沢によって織田家に伝えられたらしく、太田牛一は『信長公記』に収めた。言うまでもなく、信長の耳にも入っただろう。信長はこれを強烈に覚えていたものと見えて、後に信玄との外交的なやりとりの中でもこの話を伏線として文言に含ませるのだが、それはまたいずれ解説しよう。 次回はいよいよ、桶狭間の戦いで信長のオカルト趣味が炸裂(さくれつ)する。

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    蛇神のためなら「たとえ火の中水の中」信長の脳内が分かる3つの逸話

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 弘治3(1557)年11月2日、干ばつと凶作の結果、信長は必死に雨乞いをおこなった。そして飢饉(ききん)のなかで食糧を確保するため穀倉地帯の篠木を信長と争った弟の信勝は、兄の仮病にだまされ清洲城へおもむき、斬殺された。 それにしても、当時の人々にとって雨乞いは、生命を維持するための作物を得ることができるかどうか、生死に関わる重大事である。竜や大蛇に、ゆかりの場所とゆかりの器具を用いて必死に祈るのもよいけれど、それで実際に効果があがるかどうかは蓋を開けてみなければわからない。せっかちな信長はこれをどう思うだろうか? 「まだるっこしい!」となるのではないか? どうもそれが、その通りだったらしい。 信長が津島で雨乞いの踊りをおこなった前後、おそらくは明くる弘治4(=永禄元、1558)年のことだと思う。清洲城から5・5キロほどをほぼ真東に進むと、庄内川の河畔の長大な堤防にぶつかるのだが、信長の時代にもこの場所に堤防が存在したらしく、『信長公記』に「北・南に長き堤これあり」と出ている。 この堤防の内側には「あまが池」という名の池があるのだが、これが古くから「蛇池」とも呼ばれてきた。その怪しげな池に大蛇が出た、と大騒ぎになったのだ。雨のなか、日暮れ時に目撃した者の話によると、大蛇の胴体は堤の向こうにあり、首があまが池の手前にまで伸びていた。その太さはひと抱えほどもあったというから、周囲170センチとすると直径は50センチ以上と計算できる。化け物の目は星のように光り、舌も紅色に輝いていた。現在の蛇池 この噂は、たちまち信長の耳に入る。自らの生い立ちと深く関わってきた蛇、しかも大蛇が出現したというのだから、信長もひどく興奮したらしい。目撃者を呼び出して話を詳しく聞くと、「明日、池の水を掻い出して大蛇を見つける!」と言い出した。ここでもせっかちな一面が顔を出している。 そして翌日、彼は周辺9カ郷村の農民たちを動員した。農民たちは釣瓶(つるべ)・鋤(すき)・くわを持って池を取り巻き、一斉に水の掻い出しにかかる。最近「池の水ぜんぶ抜きます」というテレビ番組が高視聴率というが、それを約460年前に信長がやろうとしていたというわけだ。 ところがこれが結構大変だった。4時間ぶっ通しで作業を続けても池の水は7割程度にしか減らないのである。この池はその場所からいって、庄内川の調整池の役割を果たしていたのではないかと思われるが、一方で川と地下水脈でつながっていたのかもしれない。とすればいくら水を掻い出しても池が枯れるはずがないのだ。蛇池の逸話に隠された信長の真意 しびれを切らした信長は、とうとう着物を脱いで脇差しを口にくわえ、自ら水中に入っていった。しばらく潜ったあとあがってきた信長は、「なかなかに大蛇らしき物はおらぬわ」と言うと、さらに念のため泳ぎの達人(この男の名、鵜左衛門という。いかにも水泳名人らしい)にも潜って探させたが発見できず、清洲城へと引き揚げていった。蛇池の記述(『尾張名所図会』後編巻三より、国立国会図書館近代デジタルライブラリー) 単純なバカ騒ぎのようではあるが、これが正月下旬の、池の水も凍るような厳寒のなかでおこなわれているのだから尋常ではない。下手をすると死者まで出るのではと思われるほどで、しかも信長自身が命の危険をかえりみずに池水に潜っているのだ。 さてこの一件、果たして信長は好奇心だけで命知らずなおこないをしでかしたのだろうか?答えはNOだろう。 蛇池の正式名称である「あまが池」は「雨が池」と考えてよい。調整池として庄内川が大雨で氾濫すればその水を受け止めて周囲の損害を防ぎ、渇水時にはこの池で雨乞いをおこなったと思われる。雨といえば前回紹介した蛇体の「宇賀神」は水の神である弁才天女とセットにされていたが、本来は穀霊(こくれい)神だったという。穀物の豊穣(ほうじょう)には水のコントロールが欠かせない。そして、『常陸国風土記』に記されている夜刀神(やとのかみ)を代表的な例として、愛知県より東では古くから蛇神は稲作に欠かせない潅漑(かんがい)・水利の無事を守るものとして信仰されてきた。 つまり、信長が傾倒していた蛇・龍、雨乞いがセットになっていた場所こそが「あまが池」なのである。           本連載第2回では幼い信長が那古野城内の天王坊安養寺に通い「祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを倒しその体内から草薙剣(クサナギノツルギ)を得た=オロチの力をわが物とした」という神話に親しく触れていた、と紹介したが、その信長が実際に大蛇(オロチ)が身近にいるかもしれない、と思ったとき、素戔嗚尊の故事にもとづき自分も大蛇の力を獲得して水を支配する力を得られるではないか、という考えに至ったのは自然な流れだったろう。ところが実際の信長は池の水の掻い出しすら思った通りにできない素の人間のままで終わってしまった、というオチでこの話は終わるのであるが。信長が家臣につけた名前の意味 これで信長がいかに大蛇に執心していたかがおわかりいただけたと思うが、ところで、読者の皆さまは何かに熱中したときにどういう行動をとるだろうか。信長のようにそれを手に入れて一体となりたいと思えば、品物であれば高額でもかまわずそれを買い求め、山野を探して回り、自分で造りだそうと寝る間も惜しんで製作にいそしむだろう。人物であれば、その人の髪形・衣装・話し方をまね、メイクも似せようとするだろう。SNSなどのハンドルネームもその人物の名を使ったりする人は多いだろう。 信長の場合はどうしたか。身につけるもの(三五縄)の話は以前にしたが、それだけではない。そのこだわりは、家臣の名前にも残っているのだ。 その家臣の名は、佐久間信盛。信長の重臣であり、他の家老たちがことごとく信長の敵にまわったときでも信長に従い、支え続けた筆頭格の家来で、忠義厚い武士だ。のちには「退(の)き佐久間」とあだ名されるほど、退却戦の殿軍をつとめさせれば抜群の粘りをみせた。これも主君・信長への信頼と忠誠心がなければできることではない。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) そんな信盛が、若い頃に発給した文書がある。天文年間(この時期から4年以上前)に熱田社の関係者に出したものなのだが、そこに記された彼の署名は「佐久間半羽介」というものだった。  筆者は以前、この「半羽介(はばのすけ)」というのは現在の名古屋弁にある「ハバ」と同じものかと考えていた。「ハバ」は仲間はずれ、という意味であり、信長とその近習たちが傾奇者の格好で人も無げに振る舞うのは、自分たちを世間の除(の)け者と規定し、家臣にもそのものズバリの名を使わせていたのではないか、というわけだ。「珍走族」の若者たちが奇抜なグループ名を名乗るのと似通っている。 だが、どうやらそれだけではなかったようだ。実は、「半羽介」のハバは、大蛇の代名詞でもあるのだ。『古事記』などを見ると、ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊の剣の名は「アメノハバキリ(天羽々斬)」なのだが、これはハバを斬るための天剣という意味である。つまり、ハバ=大蛇なのだ。 信長は、信頼する信盛に大蛇と名乗らせて、名前の上からも身の回りを蛇で固めていたということになる。信盛もまた信長の思想に賛同し大蛇の名を喜んでわが身に承(う)けた。そして家来たちはみな信長の大蛇信仰に同調し、集団でその力を追い求めていく。自分の手を焼いてでも信長が許せなかったこと 『信長公記』には、この蛇池のエピソードに続いてもう一つ、興味深い話が収録されている。それは、信長の身内と言ってもよい、乳兄弟(信長の乳母の子)にあたる池田恒興(つねおき)に関するものだ。信長の家臣・織田信房の家来と、同じく家臣・恒興の家来とが刃傷沙汰を起こし、裁判に持ち込まれる。ここで信長が命じたのは、「火起請(ひぎしょう)にせよ」ということだった。 火起請とは当時しばしばおこなわれた判定方法で、炎にくべ真っ赤に熱した手斧などの鉄製品を握らせて所定の場所に置くことができればその者は正しい、あるいは勝ち、ということになる。信長はこれを「三王社の前」でやらせたのだが、これは山王社=日吉神社の前だろう。清洲城跡の南、800メートルほどのところに三王日吉神社が鎮座しているのがおそらくそれだと思われ、この神社の由来にもこの話は自社でおこなわれたとされている。 かつて清洲の総氏神=名古屋の中心的神として大切にされていた神社。その社域の前ということではなく、当然火起請は神前でおこなわれた。つまり神の判断を仰ぐという意味である。 その場で、恒興の家来は焼けた手斧をつかむことができなかった。ところが、恒興は信長の乳兄弟という立場を利用して家来をかばい、命を助けようとしたのである。 これを聞いた信長は、怒った。現地におもむいて関係者全員を前に「どの程度まで手斧を焼いたのか、見せよ」と命じると、再び真っ赤に焼かれた手斧をわが手で受け取り、スタスタと3歩歩いて棚に置き、「見たか」と周囲を見渡し、恒興の家来を成敗させた。信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像(中田真弥撮影) なんともすさまじい話であるが、重要なのはこれが日吉神社の神前だったという点だろう。日吉神社は津島の牛頭(ごず)天王信仰とも関係が深いといわれる。この神社の祭神・大山昨神(おおやまぐいしん。五穀豊穣、植物の成長を司る)はその本家・比叡山の日吉神社が猿を神の使いとし、「真猿」=魔が去る=厄除けの利益をもたらしてくれる神であり、魔除けに余念がなかった信長には大切な神だった。さらにそれだけではなく、厚く尊崇する素戔嗚尊も祀られていたから、その神慮を無視して私欲を優先しようとする恒興を許すことができなかったのだ。 灼熱(しゃくねつ)した鉄で自らの手の肉を焼くというすさまじいやり方をとってまで神意をはばかった信長。その姿は、無宗教主義者というレッテルからかけはなれたものというほかないではないか。 

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    信長「天女のコスプレ」に隠された弟殺しの真相

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長にとって、弘治(こうじ)2(1556)年は父、信秀の死以来積もり積もった家中の矛盾を解決する重要な年となった。稲生の戦いで弟の信勝を支持する家老、林秀貞と柴田勝家らの軍勢を破り、庶兄の信広が美濃の斎藤義龍とむすんで敵対して来たのを数回にわたる戦闘で降参させたのだ。 『信長公記』には「御迷惑なる時、見次者(みつぐもの)は稀なり」と記されているが、これは信長が困っている時に協力してくれる者はほとんどいなかった、という意味だ。ではなぜそこまで孤立していた信長が勝てたかというと、その後に同書は「屈強で武功を重ねた侍衆7~800人が部下として揃っていたからだ」と説明している。つまり、親族や重臣が「見次いで」くれなくても、彼には子飼いの直属武士がいて、団結し機動的に合戦をおこない勝利をつかんだ、というわけだ。 この部下というのが、かつて傾奇ファッションに魔除けアイテムをたくさん提げて町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来たちだった。信頼もおけるし、合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合(うごう)の衆を負かすことができたのだ。尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社 しかし、果たして信長は利家たちの忠誠心だけを頼りにしていたのだろうか?翌弘治3(1557)年の彼の動きを見ると、どうもそれだけではなかったようだ。この年はめぼしい合戦が見当たらず、正月に嫡男の信忠が生まれるなど信長にとってはつかの間の憩いのようなひとときだった。 そんな平穏の中で夏を迎えた7月18日、津島に彼はその姿を現した。 「上総介(かずさのすけ)殿(=信長)は天人の御仕立(おしたて)に御成候(おなりそうらい)て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり」 当時の7月18日は現在の8月22日。つまりお盆の時期だ。信長は「天女のコスプレ」で小鼓を打ち、女舞いを踊ったのである。 そして、その場所は前回触れた、この4年前の斎藤道三との会見をセッティングした人物の屋敷の庭だった。彼の名は堀田道空という。信長の敵に仕えていた道空の正体 道空は通称を孫右衛門、諱(いみな)が正定(正貞)で、のちに道悦と入道名を改めたか、あるいは道悦という兄弟がいるらしい。彼は木曽三川で尾張と美濃を結ぶ舟運業を背景にした財力とネットワークで道三の家老にまでなった津島の有力者だ。道三と信長の会見場を木曽川に近い富田の聖徳寺に用意し、信長に「この方こそ道三様でございますぞ」と紹介した、織田・斎藤両家の取り持ち役である。堀田一族からは津島神社の神官も出ていたというから、その末社で那古野城内にあった亀尾天王社に通い学問をした信長にもゆかり深い。津島の全景=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 この道空、前年に道三が討ち死にした後はその子の義龍に仕えたという。義龍は道三を討った張本人で信長にも敵対していたから、道空は信長にとって「敵側」の人物なのだが、それにもかかわらず信長は彼の屋敷で踊ったのだ。果たしてそこに危険はなかったのだろうか? 津島は織田家の支配下にあり、道空も尾張と美濃の流通で儲けている以上、信長とも良好な関係を築いていた。事実、『尾張群書系図部集』の堀田系図にはこの道空が「織田信長に仕う」と記されており、彼は尾張織田家・美濃斎藤家に両属する形をとっていたと思われる。津島の富を背景にすれば、そんなことも可能だったのだ。 そんな道空だから、この時期、彼としても義龍と信長、どちらが勝っても良いように一段と両面外交に徹し、信長の機嫌もとっておこうと考えていたのだろう。 だが、信長の側には、道空以上に関係を良好にしたい事情があった。信長を評価し期待していた道三が生きているうちは良かったが、義龍の指示で道空が信長と疎遠になり津島衆がそれにならうようなことがあれば、信長は津島という経済基盤を失ってしまうからだ。そして、信長の踊りは、そのためのパフォーマンスだった。 といっても、信長は道空の前で道化を演じ、媚びを売ろうとしたわけではない。この踊りには重要な意味があった。それをひもとくために、まず信長の踊りは何だったのかを確認してみよう。 『尾張名所図会』によれば、この信長のパフォーマンス以後、津島では「津島踊り」が大流行し、貴賤(きせん)上下を問わず皆が踊り楽しんだ、とある。ということは、信長の踊りは流行する以前からおこなわれていた「津島踊り」と解釈できる。 同書にはまた、「道悦(道空)の屋敷で津島踊りという「古雅な戯れ」がおこなわれていた」とあるから、信長の女舞い以前から、堀田屋敷で限定的に津島踊りは開催されていたのだろう。信長の女舞いと「蛇志向」 この津島踊りの流れをひくとされる「くつわ踊り」は傘役、くつわ役などそれぞれ4人がひと組となって踊るが、信長も家来たち4人を「鬼と地蔵」組(地蔵は地獄界や餓鬼界、修羅など六道をめぐり、鬼の責め苦を人々に代わって受ける存在と考えられていた)、同じく4人を「武蔵坊弁慶」組にしていたから、根本は同じと考えて良い。 このくつわ踊りは雨乞いの踊りといわれる。つまり、信長の女舞いは堀田屋敷の雨乞い儀式である津島踊りの一バリエーションだったのだ。しかも信長が演じた天人の女性、つまり天女の代表的な存在である弁才天女は、水の神として祀られていることから、信長自身も雨乞いを強く意識していたと推し量ることができる。 さらに興味深いことに、日本の弁才天女は頭上に宇賀神像を乗せる形でその像が多く造られているのだ。この宇賀神、日本特有の神で、頭は翁、胴体は蛇。これで豊穣をもたらす御利益があるという。本体の弁才天女同様、水の恵みに関連づいているのだろう。 最後尾、扇を持つ天女姿が信長=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 前回のテーマだった信長の「蛇志向」が、こんなところでもチラリと顔を出してきた。 雨乞いと蛇というのは密接な関係を持っており、京の朝廷が雨乞いをする際にも竜や蛇の姿を写した器具を用い、竜や蛇が住むとされる神泉苑や大和の室生山で祈祷がおこなわれた。津島の天王社は前回紹介したようにヤマタノオロチの力を手に入れた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る神社なので、その近くの堀田屋敷で雨乞いの踊りがおこなわれるというのも、これに準じた発想だったのだろう。 実は、このとき尾張の人々は深刻な悩みを抱えていた。正確には尾張だけではなく、日本の多くの国々が同様に苦しんでいた。それは、「旱(ひでり)」である。  「5月26日から8月9日まで、雨1度も降らず、大炎天。諸国の田畑はすべて干上がってダメになってしまった」(『足利季世記』) 「近年にない大飢饉となった」(『重編応仁記』) 各種の記録が示すようにこの年の夏は大干害が発生し、秋には大飢饉(ききん)となる。飢餓の恐怖が迫る中、当時の劣悪な灌漑(かんがい)技術では、人々にできることは神に降雨を祈るよりほかには無かった。尾張の人々も雨を渇望し、天を仰いでいたことだろう。信長の弟殺しは家督争いではなかった? そんな中、津島の雨乞い踊りに信長が参加した。領民の願いを代表して踊る信長に、領民は歓呼する。『信長公記』には、このあと津島の5ヶ村の長老たちが清洲へおもむき、信長の御前でお礼の踊りを披露したと書かれている。これはただ単に信長が自分たちとともに楽しんでくれたことに対する感謝を示したわけではなく、雨を願う気持ちを共有し、ともに神に祈ってくれたことを謝したのだ。清洲城跡の復興模擬天守 長老たちは信長から一人一人言葉をかけられ、団扇であおいでもらったり茶を出されたりして感激し「炎天の辛労を忘れ」るのだが、この辛労というのも津島から清洲におもむく道すがらが暑かったというのんきな話ではなく、この夏の渇水への恐怖と苦労を指していた。 このあと信長の女舞いの効果があって多少なりとも雨が降ったかどうかは別として、少なくとも道空以下、津島衆の気持ちをグッとつかむことはできたはずだ。 さて、今書いたように、信長の雨乞いが功を奏したかについて直接天候を記録した史料は存在しないのだが、降雨の有無はさておき、やはり恐れていた通り凶作、飢饉は発生したようだ。それは、この年の11月2日に彼の弟、信勝(信行)が死亡したことでわかる。 この事件は、信長を排除して織田家当主に就くことをあきらめない信勝を、信長が仮病を構えて清洲城へおびき出し暗殺したというものなのだが、これにこの年の信長の雨乞いを重ね合わせて考えると事件の全貌がはっきり見えてくる。 「信勝は、信長の御台所入りの篠木三郷という収穫高の良い土地を押領しようとした」 これは事件の直前のこととして『信長公記』が記すところなのだが、つまり渇水・干害による凶作で尾張国内は食糧危機に陥り、信勝は実入りが見込める信長の直轄領を奪おうとしていたということになる。篠木荘は那古野城の北東、現在の春日井市にあり、庄内川によって豊かな土壌が形成された水田地帯である。清洲城よりも信勝の本拠の末盛城に近いから、信勝としては何としても支配下に収めて飢饉に苦しむ家来や領民たちを救済する必要があったのだろう。 しかし、雨乞いまでして飢饉回避を願った信長にとっても、篠木荘の収穫は生命線だから譲るわけにはいかない。これが、信長による弟殺しの直接の原因である。織田家家督をめぐる争いの果てというよりも、より動物的で本能的な食糧闘争の結果だったのだ。

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    貧乏だった幼少期、信長の心の隙間を埋めた「大蛇信仰」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 父、信秀から那古野城を与えられた信長。それがいつだったかは諸説あるが、いずれにしてもまだ児童から少年にかけての不安定な時期だったことに違いはない。なにしろ、信長が3歳の時に「大御ち(おおおち)」(大御乳、のちに信長の部将となる池田恒興の母)が乳母の役に就くまでは、次々と乳母の乳をかみ切るほど癇(かん)の強い子供だったというのだから。 癇、すなわち「かんしゃく」は、親の愛情を独占したい、注目を集めたい、という欲求不満が原因らしいけれども、そんな子供が両親から引き離されて那古野城に置いていかれ、いきなり城主となって周囲には林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介の4家老以下、大人たちに囲まれて暮らすようになったのだ。精神的に不安定になるのは自然の成り行きである。 その上、まだ年端もいかない信長にはもうひとつ困った問題があった。『信長公記』によると、この頃の信長の生活は「御不弁かぎりなく」というものだったという。どうしようもなく不弁=経済的に困窮していた、という意味だ。第二家老の平手政秀は、公家の山科言継が「目を驚かされた」と書き記すほど豪華な屋敷を持つ裕福な武将だったが、それでも貧乏だったとはどういうことだろう。 実はこの時期、信長の父・信秀はさかんに隣の美濃・三河に遠征を繰り返しており、その戦費として膨大な金を投入していた。おそらく信秀は那古野城の経費などもほとんどかえりみることなく軍事に有り金をはたいてしまったのだろうが、信長にとっては「城付きの捨て子」のようなものである。物心がついていくなかでこの境遇が彼の精神形成に及ぼした影響の大きさは容易に想像がつくではないか。 そんな中、『信長公記』は彼の日常について、こう言及している。「天王坊と申す寺へ御登山なされ」――。 お寺に参ることを登山するという。寺院の名称は○○山××寺という形で山号と寺号がセットになっているからだ。 この天王坊は、織田家に関わりの深い津島の牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)だともいわれているけれども、それは誤りで、実は那古野城の三の丸にあった亀尾天王社を指している。神社だから登山ではないじゃないか、と思われるかもしれないが、「坊」と付くのは、当時は神仏習合で神社を管理する寺=別当寺というものがセットになっていて、天王社の寺ということなのだ。これは亀尾山安養寺華王院という名称で、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となっている。名古屋城二の丸庭園に遺る那古野城跡の碑 つまり、信長は城内の天王社の中にある安養寺に通っていたのである。それはそうだ、いくら昔の人が健脚でも、そう何度も那古野城から津島まで、約18kmもある道のりを通えるものではなかろう。信長が畏れ憧れた神の正体 現在は名古屋市中区丸の内、名古屋城の南方に移され「那古野神社」となった亀尾天王社は、津島牛頭天王社の末社。神仏の方が出張して来てくれているのだから、何も徒歩なら片道3時間以上、騎馬なら2時間(?)もかけて津島まで通う必要もない。「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵) それに、信長は何も仏様に詣でるために天王坊へ通っていたわけではなかった。では何のためかというと、それは学問修業のためだ。当時の有力武士の子弟は必ず寺院で勉強し、学問と教養を身につけるのがならわしだった。上杉謙信は林泉寺、武田信玄は古長禅寺、今川義元は善得寺、徳川家康は臨済寺と、それぞれ寺院で教育を受けている。当時は僧侶が学問のエキスパートであり、京の上流階級や他の大名とまじわるための嗜(たしな)みを広め伝える文化の担い手でもあったのだ。というわけで、信長も貧乏ながら那古野城の若殿様である以上、日々天王坊に通って学ばなければならないのである。 そしてこの天王坊安養寺が守る、つまり本社の津島牛頭天王社の祭神でもある主祭神に注目しておきたい。それは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だ(ちなみに、安養寺のご本尊はごく普通に阿弥陀如来だったらしい)。 スサノオの物語は皆さんよくご存じだろう。『古事記』に登場するこの荒ぶる神は、出雲で八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ。『日本書紀』では八岐大蛇)を退治しその体内から草薙剣(サクサナギノツルギ)を得た。神話の時代の話ではあるが、オロチを斃(たお)してその「本体」とも考えられる草薙剣を手に入れたということは、オロチの力をわが物としたと解釈できるだろう。 ちなみにこの説話は、スサノオに象徴される大和王権が、すぐれた鋼(はがね)を生み出す出雲に進攻し、製鉄技術を獲得したことを象徴するともいわれている。スサノオはまさにオロチの力を獲得した神なのだ。スサノオは後にこの剣を姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したが、本人は出雲に新居を構えた。その子孫には大国主命がいる。オロチ=出雲の鋼鉄はスサノオが支配し続けたのだから、オロチの力は草薙剣を手放しても彼の手に残ったといえる。 信長からだいぶ話が離れてしまった感があるが、ここで前回の話を思い出していただきたい。信長が刀の柄に巻いていた三五縄の話である。この魔除けの縄が表していたのが蛇。そしてオロチは、蛇、大蛇そのものである。頼る肉親もいない寂しい生活の中、信長は日々天王坊でスサノオの説話に触れて育ったのだから、スサノオが得たオロチの力への畏れ、憧れは深層心理に知らず知らず沈殿していったはずなのだ。もっとも、ここまで話が飛躍すると「なんだ、所詮はこじつけじゃないか。信長は蛇の力なんかに頼らない、自分の力しか信じないタイプの男だろう」と仰せの向きもあるだろう。そういう方は、ぜひもう少し我慢していただきたい。斎藤道元はなぜ信長に入れ込んだのか 孤児のように那古野城で成長した癇癖(かんぺき)の強い信長が傾(かぶ)いたスタイルで往来を闊歩(かっぽ)し、離れて暮らす両親の注目を集めるためか奇矯な振る舞いをくりかえすようになって何年かがたち、天文21年(1552年 異説あり)3月、父・信秀が病のために世を去る。第1回で紹介したように、信長が例の魔除けアイテムづくしのまま葬儀にやって来たのは、このときの話だ。このありさまに心を痛めた平手政秀は、息子が愛馬をめぐって信長とケンカしたこともあって絶望し、信長をいさめるために切腹して果てている。この件については持論があるのだが、テーマから逸(そ)れるので割愛することにしておこう。 その翌年、信長は那古野城から北西、木曽川沿いの富田(とんだ。現在の一宮市の富田=とみた)に向かった。そこで待つのは、信長が5年前に娶(めと)った濃姫(帰蝶)の父親である美濃の大名・斎藤道三だ。道三は、前年の信秀の死の直後、信長の大叔父・玄審允秀敏にこう手紙を書き送っている。「御家中の状態は外聞が悪く、私も困惑している。あまり期待をかけず放置してみて、どうにもならないようなら相談してくれ。三郎殿様は若いので、苦労するのは仕方がない」名古屋市内・大須万松寺にある信秀の墓 三郎殿様というのは信長を指し、その家中が主君の信長にふりまわされて分裂状態になってしまっていたことが分かる。家中の長老として信長を後見する立場の秀敏は、信長の舅(しゅうと)で信秀の同盟者だった道三に事態の深刻さを相談したのだろう。これに対し、道三はさすがにあれこれ周囲が干渉すればかえって信長が反発し収拾がつかなくなる、と見定め、しばらく様子を見るように、とアドバイスし、信長が若いのだから皆の我慢が肝心だ、と諭しているのだ。富田で信長と初めて会おうと彼が申し入れたのは、信長の器量を見定め、今後も同盟関係を続けるかどうかの判断を下すためだったと思われる。信長は魔除けと蛇志向から解放されたのか? 結果として信長はこの会見で長柄の槍や鉄砲を道三に見せつけ、その度肝を抜いた。そのうえ、例の傾奇ファッションで富田にやって来た彼は、会見の席には長袴を着け髪もキチンと結い上げて登場する。これで道三は完全にやられた。帰路、彼は家臣に「わしの子たちは信長の家来となるだろう」と予言し、以後は信長を熱心にバックアップし始める。翌天文23年(1554)、村木砦というところへ出陣する信長のために那古野城へ留守番兵を送り込んだほどで、隙あらば他者の城を奪い取ろうという戦国時代にあって「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた道三が、信長が凱旋(がいせん)してくると那古野城を素直に返しているのだから、その入れ込みっぷりは類を見ない。彼は信長の人間力を見て、その将来性を高く評価したのだ。斎藤道三(東京大学史料編纂所所蔵の模写) では傾奇ファッションを捨ててノーマルないでたちへと大変身を遂げた信長は、これでそれまでの魔除けアイテムへの執着や深層心理にひそむ蛇志向から解放されたのだろうか? それがどうも、そうではないようなのだ。 例えば、この村木砦合戦に際して彼が乗った馬の名は「ものかは(わ)」。「嵐もものかは、外出する」などの用例で分かるように、「問題にしない」という意味の言葉だ。この場合は大敵も物の数ではない、という縁起担ぎを目的としたネーミングだったのだろう。 さらに、後年信長が羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に下賜したという伝承を持つ大阪城天守閣所蔵の信長遺品「緋羅紗地木瓜桐文陣羽織(ひらしゃじもっこうきりもんじんばおり)」。緋(ひ)色の羅紗(らしゃ)というものは当時猩々(しょうじょう。猿のような怪物)の血で染めると考えられており、それは鉄砲の弾を除ける効果を持つとありがたがられたらしい。まさに魔除けのアイテムということになる。これなども信長が呪術的部分を持っていた傍証かもしれない。 この後、尾張統一戦―今川義元との桶狭間の戦い―美濃併合―上洛(じょうらく)と勢力を拡大していく中でその傾向はたびたび顕(あらわ)れる。次回はその最初にして決定的な例を紹介しよう。 

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    信長のヤンキーファッションに隠された「3つの魔除けアイテム」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回の最後で、若き日の信長の風変わりないでたちについて触れた。 浴衣の原型になる袖を外した湯帷子(かたびら)、半袴(足首までの長さの袴)、朱鞘の太刀、紅と萌黄(もえぎ)の2色の糸でハデに結い上げた髷(まげ)までは当時、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた不良少年、青年にありがちな風体ということで理解できるのだが、問題はそれ以外に身につけていたモノだ。太刀と脇差しの柄は三五縄(みごなわ)で巻かれ、腰回りには火燧袋(ひうちぶくろ)と7、8個のひょうたんをぶら下げていたというところに妖しい臭いがプンプン漂っているのである。 まず三五縄だが、これは三五七縄とも書き、どちらも「しめなわ」とも読む。つまりしめ繩だ。もうお分かりかと思うが、神社、神木、神岩などに張られるしめ繩は「ハレとケ(晴れと汚れ)」との境界を示し、ケから清浄なものを守る結界の役割を果たす。家庭で正月飾りに用いるしめ飾りも同様で、家の中にケ(厄)が入ってこないように祓うという意味があるのだ。これを鞘(さや)に巻いたということは、信長がその魔除け効果を期待した、あるいは信長自身が神聖な存在というアピールだったと考えられないだろうか。 無論、「いやいや、合理主義者の信長は戦闘のとき、敵の血でぬれた柄が滑って刀を取り落とさないよう、縄で巻いただけだろう」という解釈も可能だろうが、それなら荒縄で良いではないか。筆者は単なる縄ではなく、しめ繩だったというところに信長の意図を感じるのだ。そして、これは後々、重要な意味を持ってくるので留意しておいていただきたいのだが、しめ繩は「蛇」と密接な関係を持っている。口縄坂、西側の案内碑と説明板 少し話がそれるが、大阪の天王寺(大阪市天王寺区)近く、夕陽丘は活断層によって形作られた上町台地の上にあり、西の市街地とは「天王寺七坂」ほか、多くの急坂で結ばれている。その一つが「口縄(くちなわ)坂」だ。「口縄」は大阪の古語といわれるが、戦国時代の日本ですでに広く使われていた。当時の『日葡辞書』(ポルトガル語を日本語に訳した辞書)にも収録されている日常語で、蛇を意味する。「朽ち縄=古びて切れた縄」が蛇を思わせるところからこの言葉が生まれたことは容易に想像がつくけれども、この坂も起伏が蛇に似ているところから名付けられたという。つまり、緩やかな傾斜が途中から急になるため、蛇が鎌首をもたげて前進する形を連想したのだろう。 「三五縄=しめ繩」もまた、蛇を表す。『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)の中で著者の吉野裕子氏は、しめ繩の形が蛇の交尾に由来していると説く。確かに雄と雌の蛇は体を互いに巻き付かせて交尾し、しめ繩の形にそっくりだ。古代から日本にはヤマタノオロチ伝説や奈良・三輪山の大神神社(奈良県桜井市)の祭神として信仰をあつめる蛇神・大物主(大国主神)などの蛇信仰があった。信長が火打ち石を携帯していた謎 ちなみに江戸時代、摂津国嶋上郡(現在の大阪府三島郡島本町ほか)の原村では、毎年2月8日の天王祭で縄を蛇の形にしてその目を射るという儀式が行われた(『諸国年中行事』)。これは破魔とともに「目当てに的中する」、つまり願い事成就も意味する。蛇自体はケの象徴だが、同時に願い事=ハレをも体現するという面白い位置づけだ。口縄坂、奥で急に斜度があがる 閑話休題。ともあれ、信長が刀の柄に巻いた三五縄は「魔除け、厄除け」の意味を持ち、同時に蛇を表現するものでもあった、ということだ。 次に火燧袋だが、これは火打ち石を入れる袋。ライターもマッチもない当時、どこでも手軽に火を起こせる道具は火打ち石しかない。野遊びが大好きだった信長としては、ぜひ身につけておきたいところだろう…と思うのだが、よく考えてみると信長は腐っても織田家の若様。『信長公記』を見ても、常に従者(小姓衆)を連れ、彼らによりかかったり背中にぶら下がったりして歩いていた、とある。そんな身分の信長が自ら火を起こす必要なんかないではないか。まだ犬千代と言った前田利家ら小姓衆の仕事を取り上げてしまっては「主君失格」なのである。 では信長はなぜ火打ち石を携えていたのか。実は、これもまた魔除けアイテムだったのだ。時代劇オールドファンには、大川橋蔵の「銭形平次」で、出掛ける平次の背に妻のお静が火打ち石と火打ち金(かね)をカチッと打ち合わせるシーンはおなじみだろう。あれは「切火(きりび)を切る」といって、火花を起こすことがおはらい、厄除けになるという民俗信仰から来ている。 少なくとも江戸時代にはこの風習はあったというが、仮に信長の時代にはまだ火打ち石で厄を除けるという考えはなかったとしても、火打ち石が生み出す火や炎は古代神話の時代から清めの効果を持つと考えられてきた。『古事記』では伊弉諾(いざなぎ)神が、死んだ妻、伊弉冉(いざなみ)神の真実の姿を見るときに火を用い、あやうく難を逃れている。京をはじめ各地の神社では毎年11月に「清めの御火焚」が行われるが、これも火の持つ破魔の効用だ(「十二ヶ月風俗図」)。信長の大マナー違反 また、『古事記』には火燧袋自体も登場している。日本武尊(やまとたけるのみこと)も天皇から東国平定を命じられ、倭比売命(やまとひめのみこと)に草薙剣と袋をもらって出発。敵に火を付けられたときに袋を開けると火打ち石が入っていたので、剣で草をなぎ、それに火を付けて向かい火にし、難を逃れた。火燧袋はいわば「ラッキーアイテム」であり、火が厄を祓ったのである。 古事記の時代から200年近くたった平安時代、歌人、源公忠の『公忠朝臣集』には、田舎に下る人に火打ち袋を贈った際の作として 《うち見ても 思ひ出でよと 我が宿の しのぶ草にて すれるなりけり》と詠んだものが収められている。この場合、火打ち石は餞別(せんべつ)として喜ばれる旅の必需品であり、安全祈願のアイテムでもあったということなのだろう。 つまり、信長の時代には切火という魔除けのまじない自体が仮にまだ存在しなかったとしても、火打ち石は魔を祓い厄を除けるための火を生み出す重要な道具と見なされていた、というわけだ。 信長の時代より少しだけ前、享禄元(1528)年に伊勢貞頼が著した武士のマナー指南書『宗五大草紙』などには「火燧袋は40歳以後に提げるべし。それも晴れの時や主君の御前では提げてはいけない。火打ち袋は刀に提げる」と記されているから、通常火燧袋は老境に差し掛かってから非公式の場合のみ、刀に結びつけて提げるものだったようだ。すると、まだ若い内から火燧袋を提げていた信長は大マナー違反をやらかしていたことになる。このあたりも「大うつけ」と呼ばれた信長らしいといえばらしいのだが、マナーを無視してまで魔除けの効用にすがりたい―そんな思いが信長の胸の中にあったのかもしれない。「信長公出陣の像」=愛知県清須市の清洲公園(関厚夫撮影) 最後に、ひょうたんについて触れておこう。ひょうたんが古くからお守り、縁起物、魔除けとして喜ばれたのはかなり知られている。信長の覇業を継いで日本統一を達成した豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例だが、それ以外でも九州福岡の太宰府天満宮では厄除けのためにひょうたんに詰めた酒を飲む風習があって今でも「厄晴れひょうたん」が参拝者に授与されているし、島根の出雲大社の爪剥(つまむぎ)祭でも洞切にした生のひょうたんに柄を付けた柄杓(ひしゃく)でご神水を供えるときに使用している。信長が魔除けグッズに頼った理由 古来、作物の種の入れ物として使われたひょうたんは豊穣(ほうじょう)を意味した。豊穣はすなわち凶作を封じる、厄をけるという意味につながり、またひょうたん固有の機能として酒の入れ物に用いられたことで清めの象徴ともなる。酒が神への供物であり、また外傷の消毒用に使われたことも大きかっただろう。豊臣秀吉の馬印だった瓢箪=2012年2月8日、京都府(安元雄太撮影) その結果、ひょうたんは縁起物として絵や着物の柄などに採用され、家紋にも無数のバリエーションが存在する。日本人の「ひょうたん頼み」は尋常ではないのだ。信長が腰からぶら提げていた7、8個のひょうたんというのも、実用オンリーであればひとつは水、ひとつは酒、ひとつは灯油(当時は荏胡麻油)などフィールドワークで必要ないくつかと、あとは信長が大好きな火縄銃を撃つ際の火薬、弾丸ぐらいは思い浮かぶが、あと2つ3つが何か、思い浮かばない。 砂でも詰めておけば、他のひょうたんと合わせて結構な重量になるから鍛錬にはなるだろうが、よもや「大リーグボール養成ギプス」でもあるまいし、それなら日頃から甲冑をつけるなり、大太刀でも提げておけばよい。何より家来に持ち運ばせるという主人としての「義務」を無視することにもなるから、やはりこれも魔除け効果を期待した「必携グッズ」だったのだろう。 当時、信長はその異様な形(なり)や粗暴なふるまいによって織田家の重臣連から疎まれ、弟の信勝に期待が集まる中、いつ誰から暗殺されるかも分からない日常を送っていた。常に命の危険にさいなまれる中で精神を正常に保つためにはこれらの魔除けグッズに頼るしかなかったのではないだろうか。そして、その魔除けグッズの一つ、三五縄に潜む蛇のイメージ。それを求めた信長の心の源流をこれから探ってみよう。 天文3年5月12日(1534年6月23日)、織田信長は父、信秀と土田御前の次男として生まれた。庶腹の兄、信広がいたものの、正室の土田御前を母に持つ信長は嫡子である。その生地は、現在の名古屋城二の丸辺りにあったとされる那古野城が、当時まだ信秀の支配下となっていなかったということで、勝幡城(現在の愛知県の愛西市勝幡町から稲沢市平和町六輪にかけての一帯)説が有力となっている。その後、那古野城を手に入れた信秀は、まだ「吉法師」と呼ばれていた信長にこの城を与える。そこで信長はある経験をするのだが、その話はまた次回に。

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    神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 2017年。織田信長が天下統一を前に本能寺の変で非業の死を遂げてから435年になる。この間、信長はどういう性格の男と考えられてきただろうか。 同時代の公家、山科言継(やましな ときつぐ)は永禄12年(1569)1月に信長が将軍・足利義昭のために造営を開始した京・二条第の工事現場で何度も接触をはかったが、信長は「機嫌が悪いとして対面しない」ときもあり、また「寒いから」と会わずに済ませることもあったという(『言継卿記』)。 そのほかにも、信長が公家たちと立ち話だけで大事な用件を片付けた例は多い。仮にも当時の上級貴族、朝廷の洗練された礼儀作法や圧倒的な教養、全国へ伝わる情報の発信源ともなる公家に対するこの人もなげなふるまい。体面を気にせず、無駄な礼儀作法や時間の浪費をとことん嫌う彼の性格が表れている。 一方、キリスト教布教のためにはるばる日本へやって来たポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、信長に関する多くの感想を書き遺(のこ)した。彼も「信長はだらだらした長話や無駄な前置きを嫌った」と表現し、言継と同じ二条第工事現場での信長についても「虎皮を腰に巻き、どこでも座れるようにした粗末な身なりをしていた」と記録している。 さらに「地球儀によって地球が丸いことを説明された信長は『理にかなっている』と即座に理解した」とも説いており、当時ヨーロッパでもまだまだ地球が球体であることを納得していない人が多かったことを考えると驚くべき頭脳の柔らかさではないか。 フロイスが見た信長も、時間を有効に使い、人目を気にせず行動するだけでなく、筋道が立った理論であれば先入観無く受け入れる人物だったのだ。横瀬浦公園のルイス・フロイス像(長崎県観光連盟提供) 以上のような同時代人の証言から浮かび上がる信長の姿は、一言でいえば「合理主義者」。だが、こんなものはまだまだ序の口にすぎない。フロイスがこう続けた。 「信長は神と仏に対する祭式と信心をいっさい無視した」 「彼は良い理性と明晰(めいせき)な判断力の持ち主で、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教(非キリスト教)の占いや迷信的慣習を軽蔑していた。(中略)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」(以上フロイス『日本史』)。 日本人のほぼすべてが神々を敬い仏教をありがたがる中で、彼はそれを明確に否定していたというのだ。信長のこの思想については、「日本では自分自身が生きた神・仏になり、石や木で出来たものは神ではない、と言った」と、強敵・武田信玄が死去した直後の天正元年(1573)4月20日のフロイス書簡(『耶蘇会士日本通信』)に顕(あらわ)れたのが一番早い例だ。どうしても気になる2つの文章 しかし、信長はその3年前の元亀元年(1570)には浄土真宗の本願寺との戦争状態に入り、翌元亀2年(1571)には有名な比叡山延暦寺(えんりゃくじ)(天台宗)の焼き討ちもおこなっている。そして何よりも、天文21年(1552)に父の信秀が亡くなった際に信長は葬儀の場で焼香に立つと、「抹香をくわっとつかんで仏前に投げかけて帰った」という若き日の強烈なエピソードもある(『信長公記』)。 無駄な時間と虚礼を嫌う合理主義者であり、神仏を無視した信長。これがあいまって、「彼は無宗教だった」と言われるようになった。そこからさらに進んで、彼が特定の神社や寺を保護した実例もあるから、宗教すべてを完全に否定していたのではない、という論議も出ている。「信長は自分に従わない宗教を敵としただけだ」というわけだ。 だが、全国制覇をめざす信長としてみれば、すべての宗教を敵にまわすなど「時間と労力の無駄」の最たるものだったのではないだろうか? 従来の信仰生活の中で暮らしている家臣たちにも動揺が広がる。信長は、計算ずくで宗教に理解を示すポーズをとることがあった、とも解釈できるのではないか。 これも有名な話だが、先に紹介したフロイスの書簡には、信長は「第六天の魔王」と自称したとも書かれている。第六天魔王というのは仏教の修行を妨げる存在なのだが、これについては後で詳述することにしよう。字面に忠実ならば、これは信長自身が無宗教どころか反宗教であることを公言していたとしか説明できない。安土駅の織田信長像 いずれにしても、現在の一般的な信長像は「科学的な思考法を持つ徹底した合理主義者であり、神仏を否定する無宗教論者」といったところだろう。妥当な信長観であり、筆者自身も、一応それに納得し賛同するひとりである。 ところが、だ。もうひとり、心の奥の方にいる別の私がどうしても異議を唱えたくてうずうずしているのだ。筆者には、以前からどうしても気になって仕様が無い文章が2つある。まずその一つ目を紹介しよう。 皆さんは『甫庵(ほあん)信長記』という信長伝記をご存じだろうか。小瀬甫庵(おぜ ほあん)という人物が、信長の近侍だった太田牛一の『信長公記』を底本としてそれに脚色を加え読み物として整えたもので、大坂冬の陣の3年前、慶長16年(1611)に刊行されたものである。信長は「鬼神を敬った」 その性格上、信頼性という点では割り引いて考える必要があるのだが、その中に信長について、「鬼神を敬い、社稷(しゃしょく)の神を祭らなかった」という一節があるのだ。これは信長が志なかばで死を迎えなければならなかった理由のひとつとして書かれている。 社稷の神というのは土地の神、すなわち氏神のことなのだが、それは取りあえず置いておこう。ここで問題なのは、「鬼神を敬った」という部分だ。当時の日本語を採録した『日葡(にっぽ)辞書』をひいても、「鬼神」は「悪魔」という意味でしかない。信長が鬼、悪魔を信仰していたとしか解釈不能なのだ。 「史料的に信頼性が低い本なのだから、気に留める必要もないのではないか」とも思うのだが、それでは『甫庵信長記』とは比較にならないほど史料価値の高さを認められ、学者や研究家がこぞって参照している『信長公記』はどうだろうか。 同書には、先述したように信長が父の葬儀で抹香を投げつけた逸話以外にも、ハッとする記述が多くある。中でも、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの直前、前哨戦の勝利に喜んだ信長の敵・駿河遠江三河3カ国の大大名、今川義元がこう述べたというのは興味深いところだ。 「義元の矛先には、天魔鬼神も対抗できない」。討ち果たすべき相手の信長を魔神に例え、今川軍はそれを上回る強さなのだ、と誇っている。まぁ、敵を「天魔」と呼ぶのは日蓮や上杉謙信など他にも多くの例が見られるからあえてあげつらう必要は無いのかもしれないが、「鬼神を敬った」と考え合わせると、妙に不気味ではないか。そう思うと、どうにも好奇心がとまらなくなって来る。好奇心は、「信長は鬼神に代表されるオカルト信仰に凝っていたのではないか」と筆者にささやきかけるのだ。夕闇迫る桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像(左)と今川義元像=2016年12月9日、名古屋市緑区(関厚夫撮影) そこで『信長公記』から順を追って信長の生活、行状を見ていこう。抹香を投げつける前の年から、それは始まる。なお、これ以降は意訳だけでなく原文も併記するので、若干お読みいただく手間は増えるかもしれないが、細かいニュアンスを感じていただきたいケースもあると思うので、ご寛恕(かんじょ)願いたい。若き日の異様な服装 天文20年(1551)、信長は数えで18歳だった。この頃までの彼の風体はこう描写されている。 「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」(袖無しの湯帷子を着て半袴をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅や萌黄(黄色っぽい緑色)の糸で巻き茶筅曲げに結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた) 湯帷子(かたびら)というのは現在の浴衣の原型で、それに半袴(長袴ではなく、足首までの長さ)を履き、火打ち石の袋などを腰から下げ、カラフルな糸で髷を結う。朱色の鞘(さや)の太刀は、傾奇者の象徴でもあり、絵に描いたような不良少年の姿なのだが、翌年の信秀の葬儀の場ではどうだろうか? 「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」(長い柄の太刀と脇差しを差しているのだが、その柄を三五縄で巻き、茶筅(ちゃせん)曲げの髪型で袴も穿かず) おやおや、このときには袴すら履かない着流しスタイルだったようだ。岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる この葬儀の翌年、信長はしゅうとで美濃の大名である斎藤道三と面会する(信長の正室は道三の娘、帰蝶だった)。ここでも信長の格好は変わりない。いや、ひとつ異なるところがあった。 「御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ」(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個のひょうたんを付けていた) ひょうたんが何個も腰にぶら下がっていたという。 道三との会見の場で信長は礼式にのっとった正装へと鮮やかな変身を遂げ、以降はまともな身なりをするようになるのだが、それまではこの異様な装いを通していたのだ。 次回はここで問題となる若き日の信長スタイルのアイテムについて、掘り下げていきたいと思う。