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    黒鉄ヒロシが教えたいシベリアの孤児を救った日本の美徳

    れていて、行動しなかったことに対する恥、したことに対する恥、結果に対する恥――と、ここまでは真っ当な歴史を有する国なら文化として定着していよう。「真っ当な歴史」とは、その良し悪(あ)しや好悪の判断はさて措き、人類の発展の通過儀礼の如くに、封建制度の経験の有る無しに掛かるようである。 更に恥は細分化されて国柄の一翼を担う。 行動の結果、人救けとなって成功であった場合にも、日本ではその後の対処にも恥は付き纒(まと)う。「名乗る程の――」の禁を解いて、抜け抜けと書きつければ、善行の点に於いて、他国に比べ、我国の圧倒的な数の多さは何の所為(せい)に因を求めればよいか。 いざ、具体例に転じて検証せん。トルコが邦人救出してくれたワケトルコが邦人救出してくれたワケ 昭和六十年(一九八五)三月十七日、サダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛行する全ての国の航空機は三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する」と緊急宣言を発表する。 同時に、空港はイランからの脱出民で溢(あふ)れた。 当時のイラン在住の邦人数は二百十五名。 各国の航空機が優先的に自国民を搭乗させるのは、広い人道上はともかく、狭い人情としては理解できる。  ところが、イランへの日本の航空会社の乗り入れはない。 自衛隊による海外への航空機派遣は違法。 この非常事態に、二機の臨時便を日本人救出の為に用立ててくれた国はトルコであった。 このニュースを知った多くの日本人は、トルコ側の真意が理解出来なかった。恐らく功利的な考えが大勢を占めたのではなかったか。 ――日本政府がトルコに大金を払ったのだろう――。 日本人の多くは、凡(およ)そ百年前のエルトゥルル号の一件を知らなかったが、トルコ側は覚えていてくれた。  その一件とは、明治二十三年(一八九〇)九月十三日、トルコ軍艦エルトゥルル号が嵐の為に和歌山県串本村紀伊大島沖で座礁沈没。 大島の島民達は危険な地形をものともせず、身を呈してトルコ兵六十九名を救出、貧しい暮らし向きにも関らず食糧を提供すると共に介抱にこれ努めた。 更に明治政府は軍艦二隻を提供し、生存者達をトルコまで送り届けた。 医療費の支払いを申し出たトルコに対し、大島の医者達は遺族への見舞いに回すようにとこれを断った。 成した善行を誇らぬのも上質の人の道なら、成された恩を忘れぬのもまた上質の人の道である。 トルコ機による日本人救出劇で、日本人は久しく忘れていた二つの道を知った。 エルトゥルル号の一件は、百年を経過して広く日本人の知るところとなった。 今ひとつ、エルトゥルル号の影に隠れてしまったが、トルコの人々が日本に感じていた恩義があった。 日露戦争で日本が勝利したことで、トルコ侵略を含むロシア南下政策が止まったことである。 対露戦の日本の勝利は、後に述べるロシア支配下にあったポーランドにも、勇気を含む多大なる影響を及ぼしていた。 もし、日露戦争の日本の勝利なかりせば、トルコに対するロシアの侵略は実行され、その蹂躙(じゆうりん)の足跡の無惨は如何(いか)ばかりであったことか。 トルコもまた、ポーランド同様にその国を失った可能性は高い。日本人の多くが知らぬ先人の善行日本人の多くが知らぬ先人の善行 味方見苦し――にならぬように、贔屓(ひいき)の引き倒し――とそしられぬように、慎重の上にも慎重に構えてみても、日本人の他国民への善行の多さの理由が知りたい。 同時に、以下に並べる事柄の多くも、つい最近までは日本人の多くは知らなかったという不思議。「美しいか、美しくないか」 ダンディズムの定義には詳しくないが、この判断こそ「武士(もののふ)の心」が完成までの過程で揉(も)みに揉まれ、血で血を洗い、その血文字をもって記したヒトの生き方の奥儀であったのだ。 尊敬の念を抱きつつ、杉原千畝(ちうね)の功績に想いを馳せる時、前段のあったことに思い至る。 杉原が、かの「命のビザ」を発給した頃を遡(さかのぼ)ること二年余、日本政府は「迫害ユダヤ人を排斥せず、平等に扱う」ことを国是としていたのだ。 この原型となる理念が世界の舞台で示されるのが、第一次世界大戦後の大正八年(一九一九)、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いてであった。「人種差別撤廃提案」である。 国際会議に於いて「人種差別問題」を俎上(そじよう)にのぼせたのは世界史上日本が初の国である。 提案の顛末(てんまつ)は、議長を務めた当時のアメリカ大統領ウィルソンによって、「全会一致ではない為、提案は不成立」なる苦し紛れの言い逃れにより不採択になったことはご承知のとおり。 イギリスのアーサー・バルフォア外相の如きは「ある特定の国に於いて、人々の平等というものはあり得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と言い放っている。 余談になるが、このバルフォア、第一次世界大戦中にユダヤ人の経済的支援を取り付ける為に、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに、ユダヤ人の「民族的郷土(ナシヨナルホーム)」建設を支持する〝バルフォア宣言〟を発した人物である。 比較するに、古来日本の国柄は人類皆平等であり、有言だけでなく実行もされた。 昭和十二年、関東軍によるユダヤ人擁護に対するドイツの抗議を突っぱねたのは、当時中将で関東軍参謀長の東條英機であった。 翌十三年、ソ満国境に於いて大量のユダヤ難民を関東軍と満鉄が救援した際にもドイツの抗議があったが、東條は毅然としてこれも撥(は)ねつけ、日本政府は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」として明文化し、「我国は他国民を差別せず」を国家的性格とした。 これを背骨(バツクボーン)としての、杉原の「命のビザ」は為ったのだ。 英国のバルフォア外相の主張など、今となっては信じられないが、当時のアングロサクソン、総じての白人の意見の大勢を占めていたと思われる。杉原千畝とシンドラーは〝別物〟杉原千畝とシンドラーは〝別物〟 時代と都合によって変化する正義、不正義の定義など頼り無いものであるが、普遍的な行動を測る物差しはある。 美しいか、美しくないか。 物差しは、「平時」と「非常時」の二種の目盛りについても迫る。「国を想う」道にも美しさはあろうが、「人を想う」に比べれば、その面積は当然に狭くなる。 美しい人々の棲む、美しい国の、美しい国益――という文字の並びは、一見すると結構のようではあるが、「人々」の持つ様々な感懐を一纒めに括らざるを得ない乱暴さが潜んでいる。 杉原は〈武士の心〉を頼りとして決断した。 外務省やソ連からの退去命令を無視しながら、杉原はビザ発給を続行する。 杉原の勇気によって命を救われた六千人は三世代を経て、三万二千人を数えた。 人道主義が国益に重なるのは、美しい行いに牽引された時に限る。 カウナス駅でベルリン行きの列車に乗り込んでからも窓から身を乗り出して発車間際まで杉原は許可証を書き続ける。 やがて列車が動き始めた時、ホームに残ったユダヤの人々に頭を垂れて次のように言う。「許して下さい、皆さんのご無事を祈っています」 武人が祈るとは泣くことであり、許せとは死ぬことである。 涙の理由を識(し)るからこそ、日本人による善行の数は後が絶えず、度重なる災害を前にしても強いのだ。 ヨーロッパ人も奇天烈で、杉原をして〈東洋のシンドラー〉とは、何を云うか。 日本人の美徳として、他者の勘違いをことさらに言い募りたくはないが、杉原は救けたユダヤ人を後に訪問し、何がしかの援助を受けたことなど断じてない。 如何なるセンスで〈東洋の――〉或いは〈日本の――〉なんぞとスケールを小さくし優位性を保とうとするか。 白人名物、有色人種差別の遺伝子が衣の下から覗くヨロイのように転び出もしたか。 いや、つい感情的になり、日本人として恥ずかしや、平に謝す、許されよ。怨を慈悲に―三十八度線のマリア怨を慈悲に―三十八度線のマリア 平伏した眼を、そのまま朝鮮半島に転じよう。 昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争勃発。 ソウルに攻め入った北朝鮮軍兵士が乳飲み児を抱いた韓国人女性を射殺。投げ出されて泣き続ける以外に 術なき赤児を、救い上げる女性の両の手があった。 手の主は、日本人女性望月カズ、二十三歳。 東京杉並は高円寺の生まれ。父の他界後、母に従い四歳で満洲に渡る。  満洲での母の商いは軌道に乗るが、二年後の母の病死を境にカズの境遇は急変する。 売られた先の家で、カズは日本語を使うことを禁じられたというから、無論その農民は日本人ではない。 売った使用人もまた日本人ではなかろう。 ようやく関東軍に救い出されたカズは、身柄を預かった軍隊内に於いて読み書きその他を教育されたのち独立。 終戦後、一旦は日本に戻るが、そこには親戚も知人の一人も居ず、まるでカズの心地は浦島太郎。 恋しさ募り、他に当て無しのカズは母の墓地を目指すも、既に満洲は政情不安で踏み入る能(あた)わず、朝鮮半島はソウル、かつての京城(けいじよう)に足留め。 そこで先の話へと繋がる。 赤児を抱いて、カズはソウルを逃れて釜山(プサン)に向かうが、途中、瀕死の幼い姉弟二人も救っている。 見ゆるカタチは母子四人連れだが、血の繋がりどころか、縁もゆかりもない。 釜山に辿(たど)り着いたカズはバラックを建て、埠頭で荷下ろしなど手伝い、その日銭で三人を養う。 自分を売り飛ばし、こき使った他民族を恨みもせず、カズが育てた韓国人孤児は百三十三人を数えた。 やがてカズの存在は韓国人社会にも知られるところとなり、孤児達を育て始めた朝鮮動乱にちなみ、「三十八度線のマリア」と呼ばれるようになる。 昭和四十年(一九六五)六月、日韓条約が締結され、両国の国交回復。 六年後、韓国政府は長年の功績を称え、カズを「国民勲章・冬柏章(トンペクチヤン)」に叙した。 韓国側の贈呈者は、当時の大統領、朴(パク)正煕(チヨンヒ)。娘の槿惠(クネ)さんも、未だ疑問符の付く話に拘(こだ)わり続けるより、父君と三十八度線のマリアを偲ぶ方が余程に精神衛生には良いと思うが。戦場で敵兵救助した帝国海軍戦場で敵兵救助した帝国海軍 屈託は半島に残し、次なる〈雷〉と〈電〉を中心とする奇跡の検証の為に昭和十七年(一九四二)二月二十七日から三月一日のスマトラ島とジャワ島の間、スンダ海峡へと飛ぶ。 発端を、マレー沖海戦の日本軍航空部隊の雷撃によって、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の水兵達が次々に海中に飛び込んだところに据えよう。 海原に浮かぶ英水兵を日本機は狙い撃ちすることなく、その上空を旋回。 英駆逐艦が海上の生存者を救出し、シンガポールへと退却するを確認しただけで、一発の機銃も撃たず見送っている。 この時、海上に漂っていた英海軍大尉、グレム・アレンは上空の日本機を見上げながら確信する。「日本軍は、一旦戦さ終われば敵味方勝者敗者の別なく、互いの健闘を讃えるのみで、過剰な追撃は加えない――」 場面を、マレー沖からスラバヤ沖へと転じる。 先に〈雷〉と〈電〉の奇跡と書き始めたが、もちろんあの力士ではなく、第三艦隊所属の駆逐艦〈雷(いかずち)〉と〈電(いなずま)〉のことである。 両艦製造の為の鉄は、善行の多さの秘密を解く鍵を溶かして用いたのではないかと思う程である。 さて、〈電〉の酸素魚雷によって傾斜した英重巡「エクセター」に向かい、艦長竹内一は総員を甲板に整列させ、「沈みゆく敵艦に対し敬礼」と令しながら、今まさに海上に展開する奇妙な光景を見た。 飛び込んだ英水兵達が〈電〉めがけて泳ぎ来(きた)るではないか。 先に「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗っていたグレム・アレンは、今は士官として〈エクセター〉に配属されていたのだ。 アレンは退艦するに際して水兵達に告げていた。「飛び込んだあとは、日本艦艇に向かって泳げ。必ずや救助してくれる」 日本海軍の敵兵救出はこの二例に留(とどま)らない。 昭和十七年時の日本海軍の快進撃は驚異的だが、以下に続けるも世界戦史の奇跡の一頁であって、連戦連勝から生じた余裕などというものではけしてなく、特質を越えた日本人の体質であった。 海戦史上にも異例と思える程の長期に亙(わた)ったスラバヤ沖海戦では同様の景色が随所に見られたのだ。 漂流する敵兵に対し、「全員救助」と下令したのは重巡洋艦「羽黒」の森友一大佐で、敵旗艦「デ・ロイヤル」の生存者二十名救出に始まる。〈雷電〉の〈雷〉の方も、日本人乗組員は黙して一人として語る者は無かったが、元海軍中尉、サミュエル・フォール卿なる英国人が自伝を著(あらわ)したことから世に知られることとなった。 自伝をものした敵国のフォール卿をして「ありえないことだ」と言わしめたこととは。 フォール中尉が乗る英駆逐艦「エンカウンター」はスンダ海峡に於いて〈雷〉によって撃沈された。 真夜中の海へと投げ出された〈エンカウンター〉の乗組員達の運命は絶望的である。 フォール卿の記した「ありえないこと」が起きる。 撃沈した〈雷〉工藤俊作艦長は救難中を示す国際信号旗をマストに掲げさせたのち、海上の「敵兵救出」を命じる。 救助された英兵、実に四百二十二名。 工藤艦長以下〈雷〉乗組員は命を救(たす)けたばかりか、重油まみれの英兵の身体を貴重な真水で洗い流し、アルコール消毒した上で、南国の強い日差しを遮(さえぎ)る為の天幕まで張り、衣服、靴も支給し、牛乳、ビスケット、ビールなども供した。 英兵にとっては全てが意外で、感動に頬を涙で濡らしながらも深意を計りかねた。 奇跡と呼ぶには余りに多く、今やスラバヤ沖海戦の至るところでそれは起きた。 駆逐艦〈江風(かわかぜ)〉は蘭軽巡洋艦〈ジャワ〉の生存者三十七名救助。駆逐艦〈山風〉が〈エクセター〉の生存者の一部の六十七名救助。〈雷〉が英大尉グレム・アレンを含む〈エクセター〉の残りの生存者三百七十六名救助。「神宿る」といわれた、あの「幸運艦」、駆逐艦〈雪風〉も蘭軽巡〈デ・ロイテル〉の約二十名救助。 バタビア沖でも米重巡〈ヒューストン〉乗組員三百六十八名救助。豪軽巡〈パース〉の三百二十九名救助。 一部とはいえ、戦争を美しいとは無神経な物云いと承知はするものの、言語に頼る以上、この景色に想いを馳せれば、他の表現は思い浮かばない。 美しさには、戦さでの劣敗や、救けた救けられたのプライドも関係がない。シベリアのポーランド孤児救援シベリアのポーランド孤児救援 善行にも優劣などあろう筈もないが、日本人が他国民に為した中から、まとめとしてシベリアのポーランド孤児七百六十五人救出の事例を選ぶ。 選ぶことが出来る程に数多きことに、我々は日本という国と文化に感謝と誇りを持つべきだろう。 事例に踏み込む前に、先のエルトゥルル号のトルコ同様、多くの日本人のポーランドに対する知識は心許(こころもと)無いのではないか。 出身者として、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人などが思い浮かぶなら上等だろう。 人名以外に、長く消滅していた国、カティンの森の悲劇などが加わると、にわかに不吉な気配が立ち籠めて、シベリアのポーランド孤児を包み込む。 不吉な気配に眼を凝らせば、先のピアノの詩人と呼ばれたショパン(一八一〇~四九)も、亡命後定住したパリで亡命ポーランド人を中心とした貴族社交界の寵児であったことを思い出すし、キュリー夫人(一八六七~一九三四)が生まれたのも帝政ロシアに併合されて既に国は国家の体を成していない時代であった。 地の利に恵まれたとはよくいうが、ポーランドを中心にまわりの国に眼をやると、地の損というか、全くに心安らかになる余地のない位置にあることが判る。 三方からポーランドを囲むのは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアの三強国。 元より白人の身勝手な思い込みに過ぎないが、弱肉強食の論理が領土にも及んで、拡大と縮小の繰り返しが常なる時代。 囲む三国の勢力争いにまき込まれたポーランドは、一七七二年、一七九三年、一七九五年と分割は続き、遂には国家自体が消滅するに至るのである。 その後、ウィーン条約によって独立は果たすものの、君主はロシア皇帝が兼任するという上辺(うわべ)だけのもので、実情はロシア語教育やロシア正教会への帰順と、強制的なロシア化を迫られ、十一月蜂起(一八三〇―三一)や一月蜂起(一八六三―六四)など、何度も立ち上がった自由の為の抵抗は全て鎮圧される。 蜂起は更なる不幸をポーランドに強いることとなる。侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に ロシアは叛乱(はんらん)に加担した政治犯や危険分子をポーランドから一掃し円滑な統治を図るが、目的の地に選ばれたのが極寒の地、シベリア。 寒過ぎるのか、ウオッカの飲み過ぎか、権力を持ったロシア人の考える事はいつも同じで、危険の排除と土地財産の没収、そして未開の地での強制労働による開発の一石三鳥を目論むことになっている。 第一次世界大戦までにシベリアに流刑にされたポーランド人は五万人余りに上った。 更にその第一次世界大戦で、祖国ポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、追い立てられた流民がシベリアへと流入。 結果、シベリアのポーランド人は十五万人から二十万人に達した。 そんな折、ロシアの権力者が変わる。 一九一七年に勃発したロシア革命である。 権力を掌握したウラジーミル・レーニンは国家体制を帝政から社会主義共和国連邦へと極端な転換を図るが、その際、西欧諸国からのロシア皇帝借金は新政府とは関係ないから返済せずと宣告。 熊の毛皮の帽子を被っても寒さに脳が凍っているのか、突如としてロシア人はイワンのバカになる。 英、仏、米の莫大な借金を踏み倒すと、吐く息とともに高らかに吠えたのだ。 巨額な貸付金の返済拒否は自国の経済破綻に跳ね返る。 更に二年後にはコミンテルンを結成し、共産主義革命の思想を世界に伝染させ始める。 借金は踏み倒すワ、他国の体制の転覆は図るワ、もはや看過(かんか)出来ず、英仏が立ち上がった。 ここにシベリア出兵が実現する。 日本はどうであったか。 英国などから再三に亙って出兵の催促あるも日本議会は強硬な反対派が占めて動かない。 理由はひとつ、大義が無い。 未だ当時の政治家には武士の名残を見る。 日本はロシアへの貸付金こそないものの、革命の影響が満洲や朝鮮半島に及ぶ危惧(きぐ)はあった。 遅れて米国が派兵を決定するに合わせて、大義を見つけた日本も大正七年(一九一八)八月、シベリアへの陸軍派遣に踏み切った。 ポーランド人はどうであったか。 ただでさえ流刑人としての厳しいシベリアでの暮らし向きでの帝政崩壊、加えての共産主義への急激な変更、これら変化に伴う内乱、更に他国の出兵による混乱。 これらの皺寄せが一気に最も弱い立場にあったシベリアのポーランド人の身に襲いかかった。孤児への欧米の薄情、日本の厚情孤児への欧米の薄情、日本の厚情 全ての救いから見放された彼等は、食料もなく、医薬品もなく、暴徒より身を守る術もなく、次の四つ、虐殺、病死、凍死、餓死の中から選ぶ他ない生き地獄へと追い詰められた。 一九一九年、同胞の惨状を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人達によって、ようやく「ポーランド救済委員会」が発足。 しかし、シベリアに出兵している英仏米伊に対する委員会からの窮状救済の懇願はことごとく不調。 各国の、この薄情振りは今日の難民問題処理に重なる。 最後に頼られた日本は、多大なる労力と巨額の費用もものかは、わずか十七日間で救済を決定する。 当時の日本人のフットワークの軽さ、すなわち決断の早さは、武士道に支えられた日頃からの覚悟が背骨にあるように思う。 陸軍の支援のもと、救済活動の根幹を成したのは日本赤十字社で、大正九年(一九二〇)の三百七十五名が東京へ、同十一年の三百九十名の二度に亙るポーランド孤児救出は成った。 孤児達の体調は当然に良好ではなく栄養失調の上に伝染病に冒(おか)され、看護する日本側にも死亡者を出している。 覚悟は途中での自己犠牲も伴うが、日本人は朝野をあげて善意を発揮する。 東京に於いても、大阪に於いても、日本全土からの慰問品や見舞金はひきも切らず、孤児達の為の慰安会も頻繁に催された。 ヒトとしての逆境の限界と云えるシベリアに生まれ落ちて以来、初めて触れる人の温かさに孤児達は精神と体調を回復し、ポーランドへの帰国となる。 言語や習俗習慣が違っても、ヒトとしての善なるものが分母にありさえすれば幼児であっても、意は通じる。 親味に世話してくれた日本人看護婦や保母達との別れを悲しみ、泣いて乗船を拒む孤児も多かったという。 孤児達の心境にはもちろん、看護に当った日本側にも、善意を寄せた当時の全国の日本人にも、今は蒸発しかけたと感じるヒトとしての格を見る。 成したる方、成されたる方を並記すれば、避けたかった〈味方見苦し〉の気配が首を擡(もた)げてしまう。 シベリアから日本を経て、祖国ポーランドへと帰った元孤児の方々も、寿命を迎えて全て亡くなった今、善意の墓標と墓守としての語部(かたりべ)だけが残された。もののふの覚悟の先のDNAもののふの覚悟の先のDNA 数が他国を圧倒するとしても、もちろん善行は日本人の専売などではなく、世界中の歴史に記録され語り継がれているが、ほとんどが平時に多いように感じる。 善行のエッセンスを儒学に探せば、孔子の説く「恕(じよ)」(我事として他人を思いやる)と、孟子の「四端説(したんせつ)」に行き着く。 孟子は、人には先天的に「惻隠(そくいん)(あわれむ心)」「羞悪(しゆうお)(恥じる心)」「辞譲(じじよう)(譲り合う心)」「是非(善悪を判断する心)」の四つの感情が内在すると説く。 孟子の、「惻隠の心は仁の端(たん)なり」の「心」の部分は、『大学』に於いては、「惻隠之情(じよう)」となり、「絜矩(けつく)の道(他人の心を推し量り、相手の好むことをしてやる心情、態度)」と、孔子同様の「恕」の思想を載せる。平時に於いてはこれで結構だろうが、ここに引いた例は、更なる厳しい状況下に於ける判断が求められたのではなかろうか。「義を見てせざるは勇無きなり」は、これまた「論語」であるが、不足の分のエネルギーを日本人は〈武士道〉の覚悟で埋めた。 孟子の、「人の性は本来善なり」と説く「性善説」が正しければ、今少し世界に於ける善行は各人種に散らばっても良さそうではないか。 孔子と孟子に対し浅慮で舌足らずであった。 両先生は、人の素質、素材に就いて云うのである。 玉磨かざれば光なし。 人なる玉の原石を、日本人は〈武士道〉によって磨いた。 トルコの人々も、ユダヤの人々も、ポーランドの人々も、磨いた心を持っての返礼があった。〈武士道〉で押し通す愚説に面喰らった御人もおられようから、他の要素も加えて不足を埋めて、この駄文を閉じようと思う。 不足といっても、遠い先祖に辿り着くような遺伝子にまで至ってはどうかとは思うが、戦さには強かったが、その明け暮れに嫌気(いやけ)がさした一団が日本列島に逃れて土着したとする説がある。 日頃は極めて平和的でありながら、一旦ことあらば負けると判っている戦さでも、素早く覚悟を整えた上で突撃する性癖(せいへき)のような特性は古代より続いている。 土着の逆に、漂流民となっても、ジョン万次郎、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)、大黒屋光太夫(こうだゆう)など、卓越した学習能力を発揮した確率は異様に高い。 異様な程の優秀性が先の説を支える。 土着したのち、万世一系の天皇制の元、列島に住む者が入れ子状の家族の〝カタチ〟となった。 時代は下って、その生活の窮乏著しい戦国に於いても天皇家が存続し、けして消滅しなかった、或いは消滅させられなかった奇跡のような理由も説明が付く。 日本人の本家と云える天皇家を、分家である武士が滅ぼすなど、考えようも無い訳である。 この、王族を取り捲く関係の質に於いても、対処に於いても、他民族には例を見ない不思議。 宗教面にも顕著に証拠を残している。 神道(しんとう)と仏教の関係、更にキリスト教が加わっても〈八百万(やおよろず)の神〉とタフに構え、一緒に祀(まつ)り続けた。 これまた他民族には例のない不思議。 次に、今日では日本人までが誤解しているようだが、この列島に人種的差別など無かった。 白色と有色の差を問わず、尊敬の念を持って歓迎した。 白色が有色と差別するを見ても、「ならばお主は無色か?」とは言い返さず、近年での「名誉白人」なる無礼な呼称も腹も立てなかったのは、拘る意識すら無いからである。 これらの素質を分母に、覚悟の点を〈武士道〉で磨きに磨いて、典型的な〈日本人像〉が成った。「奇跡」を護って進まん「奇跡」を護って進まん「八絋一宇(はつこういちう)」の意味についても、GHQ(連合国軍総司令部)による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=戦争に対する罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)」が功を奏してか、日本人まで「侵略戦争を正当化した言葉」と思い込んでいるようだ。 そも、神武天皇の言葉で、「八絋(あらゆる方角=世界)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん」の謂(いい)であり、大東亜戦争時の日独同盟の際、ユダヤ人迫害政策を迫るドイツに対し、時の陸軍大臣、板垣征四郎が「神武天皇の御言葉に反する」と、これを退けている。 日本の国是として先に述べた「猶太人対策要綱」があり、杉原の功績がそれに続いた。 この要綱は、関東軍の安江仙弘(のりひろ)大佐らのユダヤ人擁護を東條英機参謀長が是認して軍の要領としたことが原動力とも言え、ソ満国境のユダヤ難民救援を経て、板垣征四郎が中心となり国策になったものである。 これら、日本人の決断と行動を善とするなら、当時の西洋諸国の思考は悪となる。 東條、板垣、安江、そしてユダヤ人に救いを差しのべた外国人として『ゴールデン・ブック』にその名を載せる〝ジェネラル・ヒグチ〟コト樋口季一郎もいる。〈ユダヤ人救援〉を支えた軍人の名と、その世界唯一の善なる国策は小さくされ、或いは消そうとされ、杉原一人の個人的善行に矮小化せんとの企てあるやに感じるは何故か、何の所為か。 特に、この世界唯一といえる善なる国策から東條英機の名を引き剥がさんとする衝動の源は何処(いずこ)で、何人(なんぴと)の都合に因るものか。 日本がユダヤ人を救っている時、無慈悲にその扉を閉じたアメリカ、イギリス、西洋諸国は、今、何を思うか。 これらの国が日本に歩調を合わせ、ユダヤ難民を受け入れてさえいれば、後のナチスによる数百万人のユダヤ人虐殺は避けられたのではなかったか。紙幅の関係上、名前を挙げるに留めるが、総領事代理、根井三郎、ユダヤ研究者、小辻節三など、「人種平等の思想」を背骨に、西洋の差別主義と闘った日本人は多い。 かくも差別なき国の存在は、珍しかろう。 末尾に慌しく、その特性を並べたが、手前味噌ではなく、如何に日本人が不思議で、特異な存在であるかはご理解戴けると思う。 云わば、人類の理想型といえる。 他国もまた、理想に到達してくれていれば、善意の応酬によってこの世界から貧、愚、悪などは姿を消す筈なのに未だ果たせないのは何故か。 グローバリズムの未来は新たな軋轢を生み、価値観の再構築の為の大混乱が待ち受けるというに、ヒトは止めようとしない。 他国頼みは無理であり、無駄である。 日本人による「天皇制」と「武士道」の獲得は人類史の奇跡と云える。 先輩達から受け継いだ、この奇跡を回復し、維持し、釈迦の申す犀(さい)の角の如く、一人進むの他はない。くろがね・ひろし 昭和二十年高知県生まれ。三十九年武蔵野美術大学中退。四十三年『山賊の唄が聞こえる』で漫画家デビュー。平成九年『新選組』(PHP研究所)で第四十三回文藝春秋漫画賞、十年『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門の大賞、十四年『赤兵衛』で第四十七回小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。ギャンブル好きで競馬ファンとしても知られるが、政治や国際関係の見識は高く、民主党政権「失われた三年間」のデタラメ政治を痛烈に批判。中韓露の反日プロパガンダに対しても事実を挙げながら、漫画家らしい皮肉たっぷりの反論を展開している。著書に『千思万考』シリーズ、『GOLFという病に効く薬はない』(ともに幻冬舎)、『韓中衰栄と武士道』(角川学芸出版)、『新・信長記』『本能寺の変の変』(ともにPHP研究所)。近著に『刀譚剣記』(同)。

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    敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ

    ター主任研究員)古今随一の陸の名将 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。正装した乃木希典 国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。花も実もある真の武人花も実もある真の武人―水師営の会見― 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。(上)明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍(下)会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と (『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11) このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」 ステッセルは愕然として言った。「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。敵将の不遇知り救済の手尽くす敵将の不遇知り救済の手尽くす ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。第三軍招魂祭で弔文を読み上げる乃木希典 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや 乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る 乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。 乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば二人の息子とともに戦死したかった。戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。 明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』) 東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当時市民の間で交わされた言葉がある。「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」 このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。 ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。 明治天皇の目にも涙があふれた。奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。 あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、朕世を去りたる後にせよ」 乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。 このような軍将が世界のどこにいるだろうか。かつて戦いの歴史にあったろうか。明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、格段の心配りをしてやまなかった。学習院長―教えのおやとして 学習院長―教えのおやとして   明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命した。経緯はこうだ。前年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝した。大山巖に代わり就任早々であったが、日露戦争において心身を燃焼し尽くしたのである。児玉は文武の全才として桂太郎(日露戦争時の首相)の後を継ぐべき最適の首相候補と目された。乃木は長州人として児玉と親交を重ねた間柄だから葬儀委員長を務めた。 陸軍の大御所山県有朋は後任に乃木を推挙し内奏したが、天皇は「乃木については朕の所存もある。参謀総長は他の者を以て補任せよ」と答えた。人物、才幹そして日露戦争の大功よりして誰一人異存のあろうはずのない推挙であった。山県はこれほど天皇の信任厚い乃木をなぜ任用しないのかいぶかしく思った。結局第二軍司令官を務めた奥保鞏(やすかた)が任命された。 しばらくして山県が拝謁すると、天皇は機嫌ことに麗しくこう伝えた。「乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。朕の三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした」 後に山県は「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」と語っている。当時参謀総長は帝国陸軍の最高の要職であり、これまで山県有朋、大山巖、川上操六、児玉源太郎等の最有力者が担当した。その参謀総長よりも、将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのである。(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』) 明治天皇は乃木を伊藤博文、山県有朋ら元老に次ぐ国家の柱石として絶大の信頼を置いた。天皇は乃木に御製を授けた。いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ「おほしたてなむ」は「生ほし立てなむ=立派に育てよう」、「やまとなでしこ」は現在のように女子を指すのではなく、「撫子=かわいい子ら」で「皇孫はじめ日本を背負いたつべき子供たち」の意。 そうしてこう言った。「乃木も二人の息子を亡くして寂しかろうから、代りにたくさんの子供を預けよう」 乃木は当初、あまりの重責に「武人たる自分はとてもその任にあらず」と固辞しようとしたが、この言葉に込められた厚い配慮に感泣し、拝命した。この時次の歌を詠んだ。身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくひざらめや「すべらぎ」は「すめらぎ」と同じく天皇のこと。「よし疲るとも」は「もし疲れ果てようとも」の意。 時に五十九歳。立場こそ異なっても乃木は戦場にある時と同様に尽力、迪宮の教育に渾身の努力を捧げた。これに対して迪宮は何事につけ「院長閣下は…」「院長閣下が…」と乃木を慕い、乃木の教えを実践したという。 昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。廃兵へのいつくしみ廃兵へのいつくしみ 東京の巣鴨にある廃兵院に最も足繁く通う将帥(しようすい)が乃木であった。ここには日露戦争で負傷し不具となった兵士約五十人が暮らした。そのうち十五人が旅順戦の部下だったから、乃木は深い同情と責任を感じていた。毎月一、二度訪れ、各部屋を一人一人慰問して回り、菓子や果物などの手土産を絶やさなかった。時折、天皇からの御下賜品があると真先に分け渡した。 廃兵たちは時をおかずやって来る乃木の厚い情に感泣し、来院を何より喜んだ。乃木が殉死を遂げた時、彼らは慈父を失ったかのように泣き悲しんだ。葬儀への会葬も強く希望した。そこで廃兵院は歩ける者は葬列に加え、不自由ながら外出可能な者は葬列より先に式場に着かせた。葬儀後、一般の国民とともに墓参りする廃兵が後を絶たなかった。ただ一言の〝講演〟 戦後のある年、乃木は長野へ出かけた。私用だったので静かに行き帰りするつもりでいたが、そうはいかず「乃木大将がやって来た」とあちこちで声が上がり、長野師範学校に招かれた。学校では絶好の機会として全生徒を講堂に集めた。校長は乃木を紹介、その勲功を称えた後、講演を乞い登壇を促した。 ところがいかに進められても乃木は演壇に上がろうとはせず講演を辞退した。だが校長はあきらめず「少しでも」と懇願したのは無理もない。やむなく乃木はその場で立ち上がると「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言って頭を垂れ、やがて双頬(そうきよう)に涙を流し、ついにハンカチで拭いながら嗚咽した。これを見た満堂の生徒と教師もみな泣いた。 長野県出身の兵士はみな第三軍に属し、旅順と奉天で数多く戦死している。生徒たちは彼らの弟である者が少なくなかった。その尊い英霊たちの弟に向い、乃木は高い演壇に立って言うべき何ものもなかったのである。日露戦争の最大貢献者、国民的英雄の話を聞けると瞳をこらして待つ純真な生徒を前にして、乃木は万感胸に迫り、この言葉を発したのである。この「たった一言の講演」はその後この地で、感動をもって長く言い伝えられた。街角の孝行少年へのいたわり街角の孝行少年へのいたわり 靖國神社近くの街角で夜ごと辻(つじ)占(うら)売りする十一、二歳の少年がいた。辻占とは占いのみくじ。父は旅順で戦死し、母は長患いで寝たままの生活で、少年は朝は新聞配達、昼は小学校、夕方から辻占売りをして母の面倒を見る評判の孝行息子であった。 陸軍記念日の三月十日夕、人力車で通りかかった乃木は、車夫に少年のこと聞いた。用事を済ませて乃木が少年の長屋を訪ねると、ちょうど借金取りが大声で催促している最中。泣くがごとく猶予を訴える母子を目の当たりにして、代わりに借金を払い帳消しにした。涙を流し畳に額を擦り付けて礼を述べる母子に「礼には及ばん。松(しよう)樹(じゆ)山(ざん)に名誉の戦死をなされたあなたの夫は私の部下だった。夫を殺したのはこの乃木だと、さぞ恨んだことだろう」と打ち明け、「仏前に」と二十円、「孝行するんだよ」と少年に五円を渡した―。乃木神社の旧乃木邸にある「乃木大将と辻占売り少年像」 これは、乃木の逸話の一つとして一世を風靡した講談「乃木将軍と孝行辻占売り」。美談として脚色された部分もあるが、実際にあった。 乃木が少将だった日清戦争前の明治二十四年、所用で金沢を訪れ、街角で辻占売りをする八歳の今越清三郎少年に出会った。夜も働いて家族を支える姿に心動かされた乃木は持ち合わせた二円を渡して励ました。今越少年は乃木の激励を心に刻み、金箔師として精進し、滋賀県無形文化財に指定された。昭和四十九年に九十一歳で亡くなるまで、その恩を各地で語り伝えていた。 乃木は学習院長になっても、陸軍大将と軍事参議官を兼ねていたから多額の俸給があったが、その大半を戦歿者遺族への弔慰、遺族・旧部下の困窮者への支援、傷病者への医薬費、廃兵の慰問、その他公共事業への寄付等に使った。殉死―みあとしたいて殉死―みあとしたいて 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。大正元年九月十三日、大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳である。辞世は次の二首である。(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)                           臣希典上(たてまつる)神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる                                 臣希典上うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり 割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言葉を守ったのである。 凱旋後、乃木は機会あるごとに戦死者の墓を詣でその冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べた。「畢竟(ひつきよう)あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」 乃木は遺言状で、切腹自決の理由として、明治十年の西南の役における軍旗喪失(連隊旗を敵に奪われたこと)のみを記し、これには触れなかった。そこには配慮があった。 戦争で戦死者が出ることは不可避で、勝利したにもかかわらず多数の死者を出したことを自己の責任として自決せねばならぬとすれば、上級指揮官はみなそうせねばならぬことになるからである。それはあくまで乃木個人の道義的な責任観念によるものであった。 だがこの自決は乃木にとり決して悲しい最期ではなかった。何より辞世に乃木の心底が包むところなく吐露されている。いかなる臣下よりも深い恩寵を蒙(こうむ)ったこの世に神と仰ぐ明治天皇のみあとをはるかに拝(おろが)み、みあとを慕いゆくことは、乃木にとりこの上ない悦びに満ちた死出の旅にほかならなかったのである。このとき妻静子もともに殉死した。一世の哀悼―沿道を埋める人々一世の哀悼―沿道を埋める人々 九月十八日、乃木夫妻の葬儀が青山葬儀場で行われた。それは空前絶後の国民葬であった。同日、乃木夫妻を見送ろうと集った人々は東京開市以来といわれた。乃木邸より青山葬儀場までの沿道は数十万の人々で立錐の余地なく埋め尽くされた。各界各層、老若男女が集った。葬列には学習院の生徒と廃兵が加わった。乃木夫妻の柩が目前にくると人々は頭をたれ手を合わせた。ことに乃木の後に続く静子夫人の柩には涙を流し嗚咽した。葬列に加わったある軍人はこう伝えている。「青山斎場に至る間の両側は人垣を以て埋め、前方の数列は土下座して十重二十重に、群衆は無慮(およそ)二十万、まことに前代未聞の光景であった。やがて進み来る将軍の霊柩を拝した群衆は敬虔な態度を以て迎え、厳粛なる気持に粛として声なく、霊柩を見送る眼には稀代の忠臣とその遺体に対して最後の別れを致さんとする姿が反映しており、筆者の胸を打った最も尊き感激であった。乃木夫妻の葬列。立錐の余地もないほど沿道を埋めた人々の前を今、夫妻の霊柩が過ぎようとしている(『回顧乃木将軍』) しかるに次いで来れる夫人の柩、その間約三十歩、その柩を見た瞬間に群衆の態(たい)姿(し)は一変し、敬慕、愛惜、ことごとくが涙であった。合掌礼拝するもの、感極って嗚咽するもの、眼に涙を拭うもの、土下座せる老(ろう)媼(おう)(老婆)は地に顔を摺(す)りつけ慟(どう)哭(こく)する有様、沿道のすべてがそれであった。棺側にあってこの光景を見つつ筆者は一つ一つ胸に迫る衝動に、抑えんとして抑え兼ぬる涙が次から次へとこみあげてくる。ようやく堪えてこの場を通りすぎると、また新たなる同じ感激の場面に遭遇する。ついに我慢しきれず涙は頬に伝わって落ちてくる」 乃木と静子夫人の殉死に日本人がいかに魂を搖さぶられたかが、この記述からよくわかる。また、夫妻の殉死は英米はじめ各国主要紙にも大々的に報じられた。 乃木は近代日本を代表する国民的英雄であった。乃木は「自分の身体はひびが入っている」と言っていた。西南の役で明治天皇から賜った連隊旗を奪われるという過ちを犯した痛切な罪の自覚が、乃木希典という稀有なる人物を玉成させた。 そして「忠君愛国の至誠、献身犠牲の大(たい)節(せつ)を万古(ばんこ)不易(ふえき)(遠い昔より不変)の大信念に貫き、一死以て君国に殉ずるのが日本国体の精華」という一大信念を、身を以て実践した。 乃木希典こそ、東郷平八郎とともに日本人の誉れであり、世界に誇るべき日本人の一典型であった。おかだ・みきひこ 昭和二十一年北海道生まれ。國學院大学中退。在学中から日本の歴史上の人物の研究を続け、日本政策研究センター発行の月刊誌『明日への選択』に多くの人物伝を連載している。平成二十一、二十二年産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載。全国各地で行う人物講演は年間百数十回に上る。著書に『乃木希典―高貴なる明治』『東郷平八郎―近代日本を起こした明治の気概』『小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂』(いずれも展転社)、『日本を護った軍人の物語』(祥伝社)、『日本の誇り一〇三人』(光明思想社)、『二宮尊徳』『維新の先駆者』(日本政策研究センター)など。

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    邪馬台国は「99・9%」九州にあった

    畿内か九州か。古代史最大のミステリー「邪馬台国論争」。女王卑弥呼の墓とされる遺跡の発掘や、中国の歴史書に基づく文献研究などが進み、双方の説を裏付ける学説はいまだ後を絶たない。そこでiRONNA編集部では、あえて「99・9%九州説」の立場から論争に加わり、邪馬台国の謎に迫ってみた。

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    邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎

    た場合、天皇平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれて短くなる傾向が認められる。奈良時代以前の、在位が歴史的に確実な諸天皇について調べると、300年以上の期間、天皇一代の平均在位年数は、11年足らずで安定している。 天皇の一代平均在位年数が、11年足らずという数字をもとに、『古事記』『日本書紀』の伝えるすべての天皇が実在していると仮定し、神武天皇の5代前と伝えられる天照大御神の活躍年代を統計的に推定すれば、天照大御神の活躍年代と卑弥呼の活躍年代とがほぼ重なるのである。  図2の横軸には、天皇の代をとる。縦軸には天皇の没年または退位年をとる。実線で書かれているのは、確実な歴史的事実である。 歴史的な事実である実線部は、やや下に凸(下に向けて曲がる)的傾向を示している。これは、天皇の在位年数が、後代になるにつれ次第に長くなる傾向があるためである。 いま仮に「卑弥呼=天照大御神」とすると、横軸については天照大御神は第1代神武天皇の5代前、縦軸については西暦247~248年に没した人物(卑弥呼)ということで、図中のポイントAが定まる。 このポイントAが、実線の延長線上に極めて自然に乗っていることが読み取れる。ほとんど一目瞭然といってよいであろう。天照大御神のいた場所天照大御神のいた場所 「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。 『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。  いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。 その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。「平塚川添遺跡」の出現 『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。 九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。 筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。佐賀県の吉野ケ里町と神崎市にまたがって広がる「吉野ケ里遺跡」九州と大和の地名の一致九州と大和の地名の一致 地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」 「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。平野・遺跡・人口の分布平野・遺跡・人口の分布 地図2~地図4をご覧いただきたい。 地図2をみれば分かるように、筑後川流域は、九州最大の平野部である。また、地図3は茨城大学の及川昭文氏が『東アジアの古代文化』の60号に発表した論文「シミュレーションによる遺跡分布の推定」で示された資料である。及川氏は、弥生遺跡の発掘された場所の標高、傾斜度、傾斜方向、地形、地質土壌などを調べ、それと同等の性質をもつ場所が、九州においてどのように分布しているかを示している。それが地図3である。 さらに、地図4は国立民族学博物館の小山修三氏が欧文雑誌『Senri Ethnological Studies』(『千里民俗学研究』No.2、1978年刊)に載せられた論文「Jomon Subsistence and Population(縄文時代の暮しと人口)」のなかで示されているものである。小山氏は、青森から鹿児島までの各都道府県教育委員会発行の遺跡地図に収められている集落、食糧貯蔵穴、土器大量出土地などの生活跡のデータを、コンピューターに入れ、時代別に分類し、人口の推計を行っている。そのうちの弥生時代の九州の人口(遺跡)の分布図が地図4である。 以上の地図2~地図4をみれば、筑後川流域は、九州最大の平野部で、遺跡・人口のもっとも密集している地域である。朝倉市などはその地域のなかにある。箱式石棺の分布箱式石棺の分布 宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者、奥野正男氏は述べている。「いわゆる『倭国の大乱』の終結を、二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。つまり、この箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である」(『邪馬台国発掘』 PHP研究所、1989年刊) 「邪馬台国=畿内説」の考古学者、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)も述べる。「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する」(「墓と墓地」、『三世紀の遺跡と遺物』 学生社、1981年刊所収) このように、邪馬台国時代の九州での墓制は、甕棺の次の箱式石棺の時代であった。そのことは、邪馬台国「九州説」の学者も「畿内説」の学者も、ともに認めている。 最近、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博氏の大著『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社、2015年刊)が、刊行された。『箱式石棺』の本により、九州本島で、箱式石棺の出土数の多い「市と町」を示せば、図4のようになる。朝倉市がトップである。 また、箱式石棺の分布の様子を、地図上に示せば、地図5のようになる。箱式石棺は、朝倉市を中心として、分布しているようにみえる。 なお、『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について「棺あって、槨(かく)なし」と記す。箱式石棺であれば「棺あって、槨なし」に合致する。奈良県の纒向遺跡のなかのホケノ山古墳は木槨があり、『魏志倭人伝』の記事に合わない。ホケノ山古墳よりも、時代的に後とみられる箸墓古墳も、竪穴式石室(石槨)」の時代のものとみられ、『魏志倭人伝』記述の墓制の時代よりも、後のものとみられる。邪馬台国が、福岡県にあった確率 邪馬台国が、福岡県にあった確率 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、表1のようになる。 これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」卑弥呼の墓卑弥呼の墓 私は卑弥呼の都、邪馬台国は、朝倉市を中心とする地域にあったと考える。ただ、卑弥呼の墓は、福岡県の糸島市の「平原王墓」であろうと考える。これと同じ考えは、すでに、医師の中尾七平氏が、その著『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1998年刊)で述べている。 また、考古学者の原田大六氏は、平原王墓を天照大御神の墓とする。同じく考古学者の奥野正男氏は、平原王墓を卑弥呼の墓とする。考古学者の高島忠平氏も、平原王墓は卑弥呼の墓である可能性があるとする。福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓(Wikimedia) 私が平原王墓を卑弥呼の墓であるとする根拠は、拙著『卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!?』(勉誠出版、2016年刊)のなかで、やや詳しく述べている。その要点をまとめれば、次のようになる。(1) 平原王墓出土の鏡は、主に方格規矩鏡と内行花文鏡で、これは邪馬台国時代の鏡とみるのにふさわしい。(2) 平原王墓出土の巨大内行花文鏡を、原田大六氏は日本神話にあらわれる「八咫の鏡(やたのかがみ)」とみて、その根拠を詳しく述べている。かなり説得的である。(3) 都の地と墓の地とが離れているケースは、古代においてはよくある。例えば、第12代景行天皇や第13代成務天皇はいずれも、滋賀県にあった「高穴穂の宮」で亡くなり、陵は奈良県にある。第15代応神天皇の都は奈良県にあり、陵は大阪府の古市古墳群にある。第35代の斉明天皇は、福岡県の「朝倉の宮」で亡くなり、陵は奈良県の高取町にある。(4) 「平原王墓」のある伊都国の地は『魏志倭人伝』によれば、女王国に統属している地であり、特に「一大率(一人の統率者)」を置いた地であった。(5) 「平原王墓」の出土品は、断然他を圧倒している。わが国では弥生時代~古墳時代を通じ、約5千面の青銅鏡が出土している。その5千面ほどの青銅鏡の面径の大きさのランキングのベストテンをとれば、次の表2のようになる。 ベストテンの半分の5面は「平原王墓」が占める。 また、一つの墓からの青銅鏡の副葬数のランキングのベストテンをとれば、次の表3のようになる。 古墳時代になって、あれだけ多数の前方後円墳が発掘されながら、それらを含めても、弥生時代の「平原王墓」が、鏡の多数副葬のランキングにおいて、なお、第2位を占めるのである。副葬されている鏡の質と量とにおいて、「平原王墓」を超える弥生時代の墳墓が今後出現する可能性は、まずないといってよい。(6) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について、「大いに塚をつくること径百余歩(約150メートル)」とある。この径百余歩は、すでに、考古学者の森浩一が指摘しているように「墓域(兆域)」と考えるべきである。たとえば、『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵寮」は、第15代応神天皇の陵の「兆域」を「東西五町(約545メートル)、南北五町」とする。応神天皇陵古墳の墳丘全長425メートルよりも、ずっと大きい。第38代天智天皇陵の「兆域」の「東西十四町、南北十四町」などは、一辺63.75メートルの墳丘の大きさを遥かに超える。(7) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき、徇葬(殉葬)の奴婢は百余人であった、と記されている。この奴婢の墓を求める見解がある。しかし奴婢の場合、死体を土にうずめるだけなので、墓は残らないと考えられる。 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)(4) 卑弥呼の墓はどこか。 これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる。

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    邪馬台国「九州説」に徹底反論! 卑弥呼は100%ヤマト女王だった

    遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代(5世紀)の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い3~4世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。 ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された4世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。 また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。 卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。

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    唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する

    れるより、中国の文献にしるされたそれの方がずっと古い。つまり私たちは「外国人が記した文章」によって「歴史以前の我が国の姿」を知るしか無いのだ。しかし、その「外国人が書いた文章の内容」がヤマタイ国の位置を解りづらくしてしまっている。大雑把に記すと— 「倭人が住んでいるのは東南の海の中(の土地)で、昔は100以上の国があり、漢の時代から貢ぎ物を持ってきていた。現在は30の国が使者をよこしている」 「倭国の北の方に位置する狗邪韓国から海へ出て千里余で対馬国に。千戸余があり、長官と副官が居る。→南に海を千里余で一大国。3千戸。海を千里余で末廬国。4千余戸。→陸路を東南に500里で伊都国。千戸余。長官と副官が居る。帯方郡の使者はここにはよく来る。→東南に百里で奴国。2万戸余。長官、副官が居る→東へ100里で不弥国。千戸余。長官、副官が居る。→南へ水路20日で投馬国。5万戸余。→南に水路10日陸路一カ月で、女王の居る邪馬台国。7万戸余」 以上が「女王ヒミコの居るヤマタイ国までの道のり」と記されている。しかし、行程の途中から記述に乱れが生じる。スタート地点から不弥国までの道のりは、陸路、水路ともに「距離」で記してあるのに、不弥国から先の道のりは「日数」で記してある。 つまり、途中までの道のりについては確認がとれているのだが、あるところから先は聞き書きではないか?と思えるのだ。南だの東だのという方角も「聞き書き」かも知れない。 記述に乱れがある文書を元に、日本人は「この行程で行くとヤマタイ国はここ」「このままだと海の彼方の大海に出てしまうから、南と東の書き間違い」「末廬国から先の国への行程は末廬国を基点とした放射状の行程表示ではないか」などと一生懸命辻褄をあわせて ヤマタイ国の位置をさぐろうと苦心する。 「ヤマタイ国がどこか?」を魏志倭人伝から読み解くのはそもそも無理がある。いわゆる「ヤマタイ国」「ヒミコ」といわれている国名や人名は、当時の中国人が耳で聞いた音を適当な文字で表記した「当て字」でしかない。 現代の日本人が耳で聞いた英語の音をカタカナで表記した場合、当然ながら発音は正確には表記しきれない。その「カタカナ英語」を英語圏の人に伝えて、彼らがそれをアルファベット表記に置き換えた場合、元の英語とはかなりかけ離れたものになるはずだ。 古代中国の魏の人が「卑弥呼」と記したもとの音は「ヒメ」「ヒメミコ」だったかもしれない。倭に点在する各国の長官や副官として記されている男性と思われる多くの名も、固有名詞ではなくて立場や身分を表す呼び名の可能性が高い。古代の日本はゆるやかな共同体 固有名詞はさておき「魏志倭人伝」に記された倭人の暮らしは興味深い。「男性は皆顔や身体に墨や朱で入れ墨をし、そのデザインは国により、また身分により違う」「人々は争いを好まず女は慎み深く嫉妬しない」「集会では男女の区別が無く、みな酒を好む」「温暖な気候で生野菜を食べる」「海に潜って魚や貝類をとる」「稲、苧麻、桑、蚕を育て、上質の絹織物をつくる」「喪に服す10日間は肉食を避け、泣き続ける。親族以外は酒を飲み歌い踊る。埋葬後は水に入って浄める」「真珠と青玉(サファイア)がとれる。山椒やみょうがもとれるが倭人はそれらが美味しい事を知らない」「長命の者が多く、百歳の人もいる」など。 なかなか住み良さそうな国、という感想を持つ。争いを好まず、集会で男女の区別が無く、長生きの人が多く、生野菜を食べるなど、平和で清潔な暮らしぶりがうかがえる。「女は嫉妬しない」に関しては疑問を抱くが、現代においても近隣の国々と比べて日本の女性の怒り方はおおむね大人しい。(男性も、だが)日本女性の嫉妬の表現は当時の中国人から見て「怒っていない」ように見えたので「嫉妬しない」と思われたのかも知れない。今も昔も「国民性」というものは変わらないのかも。佐賀県の吉野ケ里町と神崎市にまたがって広がる「吉野ケ里遺跡」  倭にはいくつかの国があり、女王ヒミコが統べるヤマタイ国に従っていた。それは確かな事だろう。女性がトップの立場につき、実務は男性が行う。男同士がプライドというやっかいなものをかけてトップの座を争うよりも、カリスマ性のある女性を頂点として、ゆるやかな連合体を作っている。それが平和の基本。ヤマタイ国の位置が九州であれ畿内であれ古代の日本人は平和的にゆるやかな共同体を維持していたのだ。 文字を持つ前から語り継がれた物語はある。どの民族もアイデンティティーの確立のためには「先祖たちの物語」は欠かせない。神話や伝説による「天孫降臨」「神武東征」などには、九州に大勢力があった事実が反映されているはずだ。「出雲神話」からは日本海側に大勢力があったことがよみとれる。出雲対大和の「国ゆずり神話」には、大和の大勢力が他を飲み込んでいった経過が反映されているのだろう。  神話、伝説の「それなりの時系列」のどの辺りの時代を魏の史書は取り上げているのか? わからない。わからないからヤマタイ国がどこか―についての興味はつきない。これという決定的な証拠が発見されない限り、これからも論争や考察は続くだろう。「どこにあった国なのか」も重要だが「どんな国だったのか」の方に私は興味がある。

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    「ミスター吉野ヶ里」は見た! 邪馬台国九州説の不利覆す環壕集落

    高島忠平(旭学園理事長) 「壕(ほり)がずーっと続くんです。1キロ以上続きそうなんです」 吉野ヶ里の発掘現場から、教育委員会にいた私の元に電話がかかってきた。現場の責任者である七田(しちだ)忠明さんの声は、興奮していた。昭和63年10月。私はすぐに、発掘中の吉野ヶ里の現場に駈け付けた。日本最大の環壕集落跡が見つかった吉野ヶ里遺跡 「この壕は、はるかむこうの壕に連続しています、1キロ以上になるかもしれません」。もう落ち着いたのだろうか。七田さんは電話とは打って変わって、いつも通り淡々とした口調で説明した。今度は私が興奮してきた。長大な壕跡は、吉野ヶ里丘陵の尾根を越えて、めぐっていそうである。「日本最大の環壕集落になるかもしれない」 七田さんもうなずく。「近畿の弥生の大集落跡と、これでやっと対等になれる」。抑えられてきた気持ちをひっくり返すような確信を持った。 奈良国立文化財研究所にいた10年間、近畿各地の弥生時代の遺跡や発掘現場を見て、調査に参加した。奈良県唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡、大阪府の池上・曽根遺跡や四つ池遺跡などなど。どの集落跡も巨大だった。唐古・鍵遺跡は30ヘクタール、池上・曽根遺跡は14ヘクタールある。 これに対し、九州・福岡の南方遺跡は2ヘクタールほどしかない。遺跡や遺物を即物的に比較し、文化や社会のあり方を議論する考古学の世界、特に集落論では、九州は不利だった。 遺跡の大きさの違いは、邪馬台国近畿説の根拠とさえなっていた。邪馬台国九州説の私は、この集落論で忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた。 昭和49年、私は佐賀県教育委員会に赴任し、吉野ヶ里の丘陵に立った。 「広大なこの遺跡を本格調査しよう」。こう企図した。 とはいえ、実際に動き始めたのは56年だった。吉野ヶ里丘陵に工場団地が計画され、そのための事前調査としてであった。 調査対象は約30ヘクタールの範囲、それも3年の期限付きだった。考古学の常識として、1年で数ヘクタールを調査するのが限界だった。 期限内にどうやるか。私は計画の中で、まず発掘対象の全域で、遺構を覆っている表土を重機で一気に剥ぐことを提案した。遺構の概況を判断し、発掘に見通しをつけるためであった。 昭和61年、とにもかくにも、調査は始まった。発掘調査の現場指揮は、七田忠明さんに任せた。彼は誰よりも吉野ヶ里を熟知していた。 吉野ヶ里の丘陵は先人の手により、部分的には発掘されていた。私自身、卒業論文の調査で、丘陵のあちこちから出る土器など遺物に圧倒されたこともある。 先人の考古学者の代表が、忠明さんの父で、旧制神埼中学の教師であった七田忠志さんだ。忠志さんは昭和10年代にすでに「邪馬台国論争に重要な位置付け」と報告している。忠明さんは子供のころから、父と一緒に吉野ヶ里を歩いていた。 発掘調査計画と調査スタッフによって、一挙に遺跡全体の状況が明らかとなった。最終的に、丘陵のあちこちにあった遺跡は、すべて一連一体のものだったことがわかった。南北約1キロメートル、東西約600メートル。約40ヘクタールを超える弥生時代最大の環壕集落であることが確認されたのだ。 環壕集落と密接に関連する同時代の遺構は、南北約6キロメートルの丘陵全体に存在しており、吉野ヶ里遺跡は約300ヘクタールにわたる巨大な弥生時代集落跡であることも窺がえた。たかしま・ちゅうへい 昭和14年12月福岡県生まれ。熊本大学卒業後の39年、奈良国立文化財研究所(当時)入り。平城宮跡(奈良市)、田能遺跡(兵庫県)などの発掘に携わり、49年から佐賀県教委文化課文化財調査係長。吉野ヶ里遺跡発掘を指揮し、「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。平成16年佐賀女子短大学長、18年から同短大などを運営する学校法人「旭学園」理事長。

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    これだけは知りたい! 邪馬台国の基礎知識

    るとき、まず浮かぶのは邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)だろう。もっともその名は中国の歴史書「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)にあるもので、卑弥呼とは女の子というほどの意味の「姫子(ひめこ)」に由来するようだ。「漢委奴国王」とくっきり刻まれた金印が福岡県志賀島から発見された。金印は木簡などをヒモでとじて粘土で封をした封印に使われていた=2000年4月、福岡博物館 彼女が歴史の舞台に登場したいきさつは、倭人伝に詳しい。元は男の王が治めていたが国中が服さず、争いが続いた。そこで三十余の国々がひとりの女性を共にいただいた、というのである。 というのも、卑弥呼は不思議な霊力を持っていた。倭人伝には「鬼道(きどう)に事(つか)えて、よく衆を惑わす」とある。神がかりする巫女(ふじょ)(シャーマン)で、そのパワーが人々の支持を得たのだろう。 卑弥呼は独身で、弟が補佐して国を治めた。千人の侍女に囲まれ、姿を見た人は少なかったという。 こうして成立した「卑弥呼の日本」(女王国連合)は、近畿から九州までを版図としていた。共通の言葉や、流通のネットワーク圏があったのだろう。日本における、初期国家の成立といってもいい。 倭人伝によれば、卑弥呼は248年前後に死亡した。敵対する狗奴国(くなこく)との戦争のまっただ中だった。墓は径百余歩(ほ)(直径約150メートル)もの大きさだったという。 卑弥呼が亡くなったころ、奈良盆地の東南部にそれまでと隔絶する規模を誇る墓、前方後円墳が次々と造られ始めた。奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)はその第1号で、卑弥呼の墓にあてる説が出されている。 ところが不思議なことに、わが国最初の正史の「日本書紀」には、彼女に関した記述がない。わずかに神功(じんぐう)皇后(仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后)の記事に「注記」として、「倭の女王が中国の魏に使節を派遣した」と記されているだけだ。 卑弥呼が亡くなって約500年後、天皇家には彼女についての記憶がなかった。もちろん書紀の編者は倭人伝を読んでいたから、卑弥呼とは神功皇后のことだと想像したのだ。 宮内庁は、箸墓古墳の主を崇神(すじん)天皇の大叔母(孝霊天皇皇女)にあたる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)としている。書紀によれば、百襲姫も神がかりをするシャーマンだった。卑弥呼の出自や墓に関する謎が解明される日は、来るのだろうか。「畿内説」西日本最大の耕地こそふさわしい(2)畿内説 邪馬台国(やまたいこく)が日本列島のどこにあったのかという「邪馬台国論争」は、日本史上最大の謎のひとつと言っていい。「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)の記述をもとに、江戸時代からさまざまな意見が出され続けてきた。2013年2月、考古学者らによる立ち入り調査が行われた箸墓古墳=奈良県桜井市(本社ヘリから) 主張は大きくふたつに絞られる。邪馬台国は畿内、それも奈良盆地にあったとする説と、北部九州にあったとみる説だ。両説が重要視されるのは、奈良盆地はのちのヤマト王権発祥の地であること、また北部九州は紀元前以来、中国大陸や朝鮮半島の国々と長く深い交わりを結んでいたことが根拠となっている。 倭人伝には、朝鮮半島にあった帯方郡(たいほうぐん)から邪馬台国へと至る方角や距離を記した「里程(りてい)記事」もある。しかし、これを実際にたどってゆくと、沖縄周辺の太平洋上に行き着いてしまう。つまり、倭人伝の方角や距離には錯誤があると判断せざるを得ないのだ。 こうして、行き詰まりの様相も見せていた邪馬台国論争が新たな段階に入ったのは、戦後の考古学の進展があったからである。発掘調査によって列島各地から多くの遺跡・遺物が見つかり、邪馬台国の実像を解明していくうえでヒントとなった。 吉野ケ里遺跡(佐賀県)は日本最大級の環濠(かんごう)に囲まれた遺跡で、「楼観(物見櫓)・城柵(ろうかんじょうさく)、厳かに設け」という倭人伝の記述をほうふつとさせる発見として、北部九州説を一躍クローズアップさせた。ただし、吉野ケ里遺跡が最も繁栄したのは弥生時代中~後期で、邪馬台国の時代(弥生末期、2世紀末~3世紀前半)とはずれがある。 これに対し、畿内でも大きな発見が続いた。唐古・鍵(からこかぎ)遺跡や纒向(まきむく)遺跡(いずれも奈良県)での調査だ。しかも、これらの遺跡は時代も邪馬台国と合う。箸墓(はしはか)古墳をはじめ古墳も数多くあり、女王・卑弥呼(ひみこ)が住む宮都があった場所に似つかわしい。 畿内説が有力とされるもう一つの理由は、倭人伝の人口に関する記述だ。九州への玄関口だった末廬国(まつらこく)は現在の佐賀県唐津市・東松浦郡周辺とされ、人口は「4千戸」とある。そして、福岡平野にあったとみられる奴国(なこく)は「2万余戸」。これらに対し、邪馬台国は「7万余戸」である。西日本最大の耕地を抱えていた奈良盆地こそ、邪馬台国の所在地候補とするにふさわしい。「北部九州説」強烈な金印のイメージ(3)北部九州説 福岡市博物館(早良区)で常設展示されている国宝「漢委(倭)奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印をごらんになったことがあるだろうか。1辺2・3センチ、重さ約108グラムの純金製。西暦57年、福岡平野にあった奴国の王が中国・後漢に朝貢したおり、授けられたとされる逸品だ。吉野ヶ里遺跡 金印のこの強烈なイメージが、所在地をめぐる「邪馬台国(やまたいこく)論争」にも少なからぬ影響を及ぼしている。紀元前後、日本列島を代表する王として外交にあたっていた奴国王は、約150年後の卑弥呼(ひみこ)の時代も同様の役割を果たしていたと想像し、邪馬台国は北部九州にあったのでは、と考えてしまうからだ。 だが、弥生時代は政治的激動期だった。特に末期になると列島内の状況は大きく変わっていた。「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)には、倭国は内乱状態に陥り、卑弥呼が共立されたと記している。 それは資源、とりわけ鉄素材の確保をめぐる主導権争いだったのではないだろうか。鉄器は人々の暮らしを飛躍的に便利にしたが、当時の列島内では生産できず、朝鮮半島から求めるしかなかった。鉄を安定的に大量輸入できる「強い政権」が必要とされて誕生したのが、卑弥呼率いる倭国連合だったと考えたい。 とはいえ、北部九州説には新井白石や本居宣長以来の学問的積み重ねがある。松本清張や「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平ら著名人の支持もあった。だが現代の古代史研究者や考古学者はと見渡すと、表立って北部九州説を主張する人はほとんどいない。 平成25年に死去した考古学者の森浩一さんは、「東遷(とうせん)説」を唱えた。最初、卑弥呼は九州で共立されたが、のち畿内に移ったと見るのである。弟子の一人で、桜井市纏向学(まきむくがく)研究センター所長の寺澤薫さんは「卑弥呼政権の権力母体は北部九州勢力と瀬戸内海沿岸勢力を中心として、近畿、山陰、北陸、東海各地方の局地的な勢力を結集して作り上げられた」(「森浩一の古代史・考古学」)と書く。卑弥呼の政権は、明治維新における「薩長土肥(さっちょうどひ)」のような連合政権だったというのだ。 所在地についての探求も大切だが、政権の実態や構造を解き明かすことは、それ以上に重要である。最近の邪馬台国論争の推移を見ていると、そんな印象を抱いてしまう。「ヤマト王権との関係」別勢力ではなくなった?(4)ヤマト王権との関係  邪馬台国(やまたいこく)はその後、どうなったのか、またヤマト王権(大和政権)とはどのような関係にあったのかという謎に迫ってみたい。 「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)によれば長寿を保った卑弥呼(ひみこ)も西暦248年前後に亡くなった。その後、男王が立ったが収まらず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)(壱与(いよ)とも)を共立したとある。その台与も266年、魏の後の王朝である晋(しん)に朝貢して以降の動静は不明だ。 私たちがヤマト王権と呼ぶのは、律令国家(大和朝廷)成立以前の大和を中心とした政治権力のことで、特徴は各地に築かれた巨大前方後円墳。「古墳時代」という時代区分とも、ほぼ重なっている。その古墳時代は昭和30年代半ばまで、「4世紀に始まった」とするのが定説だった。邪馬台国の時代とは半世紀の時間差があるため、両者は別の政治勢力と考えられていた。 ところが、その後の発掘調査の成果や年輪年代法など科学的な年代測定法の進歩によって、古墳の成立は「3世紀半ば」までさかのぼると考えられるようになってきた。最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が、卑弥呼の墓であっても矛盾しなくなったのだ。 奈良県天理市にある崇神(すじん)天皇陵は、その箸墓よりも2、3世代新しい時期の王墓とみられている。崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」(初めて国を治めた天皇)と贈り名されており、「実在したヤマト王権初代の王」とする意見もある。 しかも崇神については、「古事記」に干支(かんし)で「戊寅年(ぼいんのとし)」に死去したと記されていて、これを西暦318年と見る考えがある。歴代天皇の系譜からも、第10代崇神と5世紀に中国・宋に使いを送った15代応神、16代仁徳天皇(倭の五王)らとの年代差は合理的だ。 卑弥呼や台与からヤマト王権へは、それほど時間をおかず続いたのではないか。倭人伝にあったように、「卑弥呼は男弟(だんてい)が補佐して国を治めた」というヒメ・ヒコ制(女性が聖的な祭祀(さいし)を、男が俗的な政治を分担する)が台与の代にも続いていたなら、彼女の弟が崇神だったという大胆な推測も、荒唐無稽ではなくなってくるのだ。

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    畿内説、九州説それぞれに根拠あり 邪馬台国はどこなのか

    訳通ずる所三十國〉邪馬台国や卑弥呼について記された唯一の資料、『魏志倭人伝』の冒頭である。この中国の歴史書に書かれた記述がその後、現代に至るまで日本成立に関わる論争を引き起こした。文化庁主任文化財調査官が邪馬台国の「今」を語る。 * * * 邪馬台国は日本の古代国家成立にかかわる重要なテーマである。古くは江戸時代の儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らがその謎を解き明かそうとした。肝心の所在地をめぐっては、現代まで論争が引き継がれている。『倭人伝』によれば、邪馬台国までの道のりは朝鮮半島中西部の帯方郡から対馬国(対馬)や一支国(壱岐)を経由し、不弥国(福岡県飯塚市付近)まではほぼ特定できる。 しかし、そこから南に船で20日行くと投馬国に着き、さらに船で10日、陸路1月で邪馬台国に着くという記述をそのまま辿ると、邪馬台国は九州のはるか南の洋上に存在したことになってしまう。そこで、投馬国から邪馬台国までを「船なら10日、陸路なら1月」と読む九州説や、不弥国以降の〈南〉を〈東〉と読み替える畿内説などが提起された。 その後、九州、畿内を2大候補地としながらも、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地に可能性が唱えられた。しかし、『倭人伝』を元にした論争は解釈の域を出ることはなく、決着を見ない。そこで考古学の出番となった。考古資料を検証するのである。 中でも重視されてきたのが銅鏡だ。2世紀前半までは九州北部を中心に出土していたのが、2世紀末から3世紀初めには近畿を中心に出土するようになる。例えば「画文帯神獣鏡」は、分布を研究した大阪大学の福永伸哉教授によると、2世紀後半から3世紀初めの近畿を中心に分布している。これにより、卑弥呼の邪馬台国が登場する3世紀半ばまでに、倭国の中心が九州から近畿に移ったとみている。それを根拠に邪馬台国=畿内説を唱える考古学者は多い。そのため、歴史学者など文献史学者は九州説を、考古学者は畿内説を唱える傾向がある。  畿内説を支持する研究者にとって、邪馬台国の所在地として最有力なのが纒向遺跡(奈良県桜井市)だ。3世紀の遺跡で、東西2km、南北1.5kmという当時の集落として類を見ない規模を有し、周辺には卑弥呼の墓と目される箸墓古墳などこの時期の墳墓が多数ある。発掘は現在も続いており、これまで土器や木製品、多数の桃の種などが出土したほか、宮殿ともみられる巨大な建物が整然と並んで建っていたことがわかっている。  今後、纒向遺跡などでまだまだ新発見の余地があり、畿内説の研究者にはその「蓋然性の高さ」を証明できることが期待されている。が、それで邪馬台国の所在地論争が終わるわけではない。  現在、学術関係者ではない、各地の民間有志による邪馬台国研究会が数多く活動しているが、今年、その全国組織「全国邪馬台国連絡協議会」も結成された。その謎をめぐる議論はアカデミズムの枠を超え、古代史にロマンを求める多くの人々を惹き付けてやむことはない。※SAPIO2014年12月号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も

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    畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見

    ており、最大の謎といえるのが、女王・卑弥呼が治めていた邪馬台国はどこにあったのかということ。 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀後半に倭国で起きた大乱が、卑弥呼を女王に立てることで収まり、邪馬台国を中心とする小国の連合が誕生したと書かれている。 だが、肝心の場所については、邪馬台国へ至る道筋をそのまま行くと太平洋上に行き着くなど謎が多く残されており、その解釈を巡って意見が分かれてきた。 論争の歴史は古く、江戸時代後期には、新井白石や本居宣長らが議論を始め、長らく「畿内説」と「九州説」の間で論争が続いてきた。そして、これまでは1986年に吉野ヶ里遺跡が見つかるなど邪馬台国の時代の遺跡や遺物が多数出土する「九州説」がやや優勢だった。 しかし、2009年に邪馬台国の有力候補とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良・桜井市)で、3世紀半ばの大型建造物跡が見つかったことで、この論争は大きな転機を迎えた。卑弥呼の墓との説もある国内最大規模の前方後円墳、箸墓古墳も近くにあり、研究者の間で「卑弥呼の宮殿ではないか」と期待が高まり、「畿内説」がにわかに活気づいたのだ。 今年2月には、陵墓への立ち入りを原則的に禁止してきた宮内庁が、箸墓古墳への日本考古学協会などの研究者の立ち入り調査を許可し、初調査が行なわれたことも、関心の高さを表わしている。発掘調査を担当した市纒向学研究センターの橋本輝彦・主任研究員が語る。 「邪馬台国の女王である卑弥呼が政治機構を持つには、大規模な人工集落があったと考えるのが自然で、纒向遺跡の規模はそれに相応しい。九州説の弱点は、吉野ヶ里遺跡を始めとした複数の遺跡群があるものの、それほどの規模を持つ象徴的な遺跡がないことです」奈良県櫻井市にある箸墓古墳 しかし一方で、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする“科学的物証”もまだ存在していない。九州説を主張する元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう反論する。 「邪馬台国は中国、朝鮮半島と交易していたが、九州北部からその交易を裏付ける文物が多数出土するのに対し、畿内からはほとんど出土例がない。それに加え邪馬台国ほどの国なら、当時交易の中心だった鉄の流通システムを持っていてしかるべきなのに、鉄の出土例も、九州に比べて圧倒的に少ないのです」 双方とも一歩も引く気配のない「邪馬台国」論争。この論争に終止符が打たれるかどうかは、魏から卑弥呼への贈答品の封として使われた「封泥」(ふうでい)の発見にかかっているという。 「封泥とは、箱を縛った紐がほどけないように上から粘土で固め、印を押したもの。公式な贈答品は卑弥呼の前でしか開封されないはずなので、封泥の発見場所こそ卑弥呼のいた場所だといえます。広大な纒向遺跡の発掘調査は継続中で、封泥や何らかの文字資料が出土しないかと期待しています」(橋本氏) 論争はまさしく“泥試合”の様相を呈している。※週刊ポスト2013年5月24日号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 織田信長、坂本龍馬…日本では突出した人物は非業の死遂げる■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も