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    信長「天女のコスプレ」と弟殺しの謎

    父、信秀の急死から5年後、信長は弟、信勝を暗殺した。一般的には織田家の家督争いが動機だったとされるが、実はこの年の夏に信長が参加した「津島の雨乞い踊り」にもそのヒントが隠されているという。「天女のコスプレ」姿で舞を披露した信長の弟殺しの真相とは。

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    信長「天女のコスプレ」に隠された弟殺しの真相

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長にとって、弘治(こうじ)2(1556)年は父、信秀の死以来積もり積もった家中の矛盾を解決する重要な年となった。稲生の戦いで弟の信勝を支持する家老、林秀貞と柴田勝家らの軍勢を破り、庶兄の信広が美濃の斎藤義龍とむすんで敵対して来たのを数回にわたる戦闘で降参させたのだ。 『信長公記』には「御迷惑なる時、見次者(みつぐもの)は稀なり」と記されているが、これは信長が困っている時に協力してくれる者はほとんどいなかった、という意味だ。ではなぜそこまで孤立していた信長が勝てたかというと、その後に同書は「屈強で武功を重ねた侍衆7~800人が部下として揃っていたからだ」と説明している。つまり、親族や重臣が「見次いで」くれなくても、彼には子飼いの直属武士がいて、団結し機動的に合戦をおこない勝利をつかんだ、というわけだ。 この部下というのが、かつて傾奇ファッションに魔除けアイテムをたくさん提げて町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来たちだった。信頼もおけるし、合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合(うごう)の衆を負かすことができたのだ。尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社 しかし、果たして信長は利家たちの忠誠心だけを頼りにしていたのだろうか?翌弘治3(1557)年の彼の動きを見ると、どうもそれだけではなかったようだ。この年はめぼしい合戦が見当たらず、正月に嫡男の信忠が生まれるなど信長にとってはつかの間の憩いのようなひとときだった。 そんな平穏の中で夏を迎えた7月18日、津島に彼はその姿を現した。 「上総介(かずさのすけ)殿(=信長)は天人の御仕立(おしたて)に御成候(おなりそうらい)て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり」 当時の7月18日は現在の8月22日。つまりお盆の時期だ。信長は「天女のコスプレ」で小鼓を打ち、女舞いを踊ったのである。 そして、その場所は前回触れた、この4年前の斎藤道三との会見をセッティングした人物の屋敷の庭だった。彼の名は堀田道空という。信長の敵に仕えていた道空の正体 道空は通称を孫右衛門、諱(いみな)が正定(正貞)で、のちに道悦と入道名を改めたか、あるいは道悦という兄弟がいるらしい。彼は木曽三川で尾張と美濃を結ぶ舟運業を背景にした財力とネットワークで道三の家老にまでなった津島の有力者だ。道三と信長の会見場を木曽川に近い富田の聖徳寺に用意し、信長に「この方こそ道三様でございますぞ」と紹介した、織田・斎藤両家の取り持ち役である。堀田一族からは津島神社の神官も出ていたというから、その末社で那古野城内にあった亀尾天王社に通い学問をした信長にもゆかり深い。津島の全景=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 この道空、前年に道三が討ち死にした後はその子の義龍に仕えたという。義龍は道三を討った張本人で信長にも敵対していたから、道空は信長にとって「敵側」の人物なのだが、それにもかかわらず信長は彼の屋敷で踊ったのだ。果たしてそこに危険はなかったのだろうか? 津島は織田家の支配下にあり、道空も尾張と美濃の流通で儲けている以上、信長とも良好な関係を築いていた。事実、『尾張群書系図部集』の堀田系図にはこの道空が「織田信長に仕う」と記されており、彼は尾張織田家・美濃斎藤家に両属する形をとっていたと思われる。津島の富を背景にすれば、そんなことも可能だったのだ。 そんな道空だから、この時期、彼としても義龍と信長、どちらが勝っても良いように一段と両面外交に徹し、信長の機嫌もとっておこうと考えていたのだろう。 だが、信長の側には、道空以上に関係を良好にしたい事情があった。信長を評価し期待していた道三が生きているうちは良かったが、義龍の指示で道空が信長と疎遠になり津島衆がそれにならうようなことがあれば、信長は津島という経済基盤を失ってしまうからだ。そして、信長の踊りは、そのためのパフォーマンスだった。 といっても、信長は道空の前で道化を演じ、媚びを売ろうとしたわけではない。この踊りには重要な意味があった。それをひもとくために、まず信長の踊りは何だったのかを確認してみよう。 『尾張名所図会』によれば、この信長のパフォーマンス以後、津島では「津島踊り」が大流行し、貴賤(きせん)上下を問わず皆が踊り楽しんだ、とある。ということは、信長の踊りは流行する以前からおこなわれていた「津島踊り」と解釈できる。 同書にはまた、「道悦(道空)の屋敷で津島踊りという「古雅な戯れ」がおこなわれていた」とあるから、信長の女舞い以前から、堀田屋敷で限定的に津島踊りは開催されていたのだろう。信長の女舞いと「蛇志向」 この津島踊りの流れをひくとされる「くつわ踊り」は傘役、くつわ役などそれぞれ4人がひと組となって踊るが、信長も家来たち4人を「鬼と地蔵」組(地蔵は地獄界や餓鬼界、修羅など六道をめぐり、鬼の責め苦を人々に代わって受ける存在と考えられていた)、同じく4人を「武蔵坊弁慶」組にしていたから、根本は同じと考えて良い。 このくつわ踊りは雨乞いの踊りといわれる。つまり、信長の女舞いは堀田屋敷の雨乞い儀式である津島踊りの一バリエーションだったのだ。しかも信長が演じた天人の女性、つまり天女の代表的な存在である弁才天女は、水の神として祀られていることから、信長自身も雨乞いを強く意識していたと推し量ることができる。 さらに興味深いことに、日本の弁才天女は頭上に宇賀神像を乗せる形でその像が多く造られているのだ。この宇賀神、日本特有の神で、頭は翁、胴体は蛇。これで豊穣をもたらす御利益があるという。本体の弁才天女同様、水の恵みに関連づいているのだろう。 最後尾、扇を持つ天女姿が信長=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 前回のテーマだった信長の「蛇志向」が、こんなところでもチラリと顔を出してきた。 雨乞いと蛇というのは密接な関係を持っており、京の朝廷が雨乞いをする際にも竜や蛇の姿を写した器具を用い、竜や蛇が住むとされる神泉苑や大和の室生山で祈祷がおこなわれた。津島の天王社は前回紹介したようにヤマタノオロチの力を手に入れた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る神社なので、その近くの堀田屋敷で雨乞いの踊りがおこなわれるというのも、これに準じた発想だったのだろう。 実は、このとき尾張の人々は深刻な悩みを抱えていた。正確には尾張だけではなく、日本の多くの国々が同様に苦しんでいた。それは、「旱(ひでり)」である。  「5月26日から8月9日まで、雨1度も降らず、大炎天。諸国の田畑はすべて干上がってダメになってしまった」(『足利季世記』) 「近年にない大飢饉となった」(『重編応仁記』) 各種の記録が示すようにこの年の夏は大干害が発生し、秋には大飢饉(ききん)となる。飢餓の恐怖が迫る中、当時の劣悪な灌漑(かんがい)技術では、人々にできることは神に降雨を祈るよりほかには無かった。尾張の人々も雨を渇望し、天を仰いでいたことだろう。信長の弟殺しは家督争いではなかった? そんな中、津島の雨乞い踊りに信長が参加した。領民の願いを代表して踊る信長に、領民は歓呼する。『信長公記』には、このあと津島の5ヶ村の長老たちが清洲へおもむき、信長の御前でお礼の踊りを披露したと書かれている。これはただ単に信長が自分たちとともに楽しんでくれたことに対する感謝を示したわけではなく、雨を願う気持ちを共有し、ともに神に祈ってくれたことを謝したのだ。清洲城跡の復興模擬天守 長老たちは信長から一人一人言葉をかけられ、団扇であおいでもらったり茶を出されたりして感激し「炎天の辛労を忘れ」るのだが、この辛労というのも津島から清洲におもむく道すがらが暑かったというのんきな話ではなく、この夏の渇水への恐怖と苦労を指していた。 このあと信長の女舞いの効果があって多少なりとも雨が降ったかどうかは別として、少なくとも道空以下、津島衆の気持ちをグッとつかむことはできたはずだ。 さて、今書いたように、信長の雨乞いが功を奏したかについて直接天候を記録した史料は存在しないのだが、降雨の有無はさておき、やはり恐れていた通り凶作、飢饉は発生したようだ。それは、この年の11月2日に彼の弟、信勝(信行)が死亡したことでわかる。 この事件は、信長を排除して織田家当主に就くことをあきらめない信勝を、信長が仮病を構えて清洲城へおびき出し暗殺したというものなのだが、これにこの年の信長の雨乞いを重ね合わせて考えると事件の全貌がはっきり見えてくる。 「信勝は、信長の御台所入りの篠木三郷という収穫高の良い土地を押領しようとした」 これは事件の直前のこととして『信長公記』が記すところなのだが、つまり渇水・干害による凶作で尾張国内は食糧危機に陥り、信勝は実入りが見込める信長の直轄領を奪おうとしていたということになる。篠木荘は那古野城の北東、現在の春日井市にあり、庄内川によって豊かな土壌が形成された水田地帯である。清洲城よりも信勝の本拠の末盛城に近いから、信勝としては何としても支配下に収めて飢饉に苦しむ家来や領民たちを救済する必要があったのだろう。 しかし、雨乞いまでして飢饉回避を願った信長にとっても、篠木荘の収穫は生命線だから譲るわけにはいかない。これが、信長による弟殺しの直接の原因である。織田家家督をめぐる争いの果てというよりも、より動物的で本能的な食糧闘争の結果だったのだ。

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    信長「御馬揃え」のナゾ

    1581年2月、信長は正親町天皇を招き、盛大な軍事パレードを挙行した。「京都御馬揃え」。記録からは天下統一目前の信長の権勢ぶりがうかがえる。たが、この馬揃えをめぐっては、本能寺の変「朝廷黒幕説」の根拠となる謎がある。信長が天皇を威圧したとの仮説だが、本当にそうだったのか。

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    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    貧乏だった幼少期、信長の心の隙間を埋めた「大蛇信仰」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 父、信秀から那古野城を与えられた信長。それがいつだったかは諸説あるが、いずれにしてもまだ児童から少年にかけての不安定な時期だったことに違いはない。なにしろ、信長が3歳の時に「大御ち(おおおち)」(大御乳、のちに信長の部将となる池田恒興の母)が乳母の役に就くまでは、次々と乳母の乳をかみ切るほど癇(かん)の強い子供だったというのだから。 癇、すなわち「かんしゃく」は、親の愛情を独占したい、注目を集めたい、という欲求不満が原因らしいけれども、そんな子供が両親から引き離されて那古野城に置いていかれ、いきなり城主となって周囲には林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介の4家老以下、大人たちに囲まれて暮らすようになったのだ。精神的に不安定になるのは自然の成り行きである。 その上、まだ年端もいかない信長にはもうひとつ困った問題があった。『信長公記』によると、この頃の信長の生活は「御不弁かぎりなく」というものだったという。どうしようもなく不弁=経済的に困窮していた、という意味だ。第二家老の平手政秀は、公家の山科言継が「目を驚かされた」と書き記すほど豪華な屋敷を持つ裕福な武将だったが、それでも貧乏だったとはどういうことだろう。 実はこの時期、信長の父・信秀はさかんに隣の美濃・三河に遠征を繰り返しており、その戦費として膨大な金を投入していた。おそらく信秀は那古野城の経費などもほとんどかえりみることなく軍事に有り金をはたいてしまったのだろうが、信長にとっては「城付きの捨て子」のようなものである。物心がついていくなかでこの境遇が彼の精神形成に及ぼした影響の大きさは容易に想像がつくではないか。 そんな中、『信長公記』は彼の日常について、こう言及している。「天王坊と申す寺へ御登山なされ」――。 お寺に参ることを登山するという。寺院の名称は○○山××寺という形で山号と寺号がセットになっているからだ。 この天王坊は、織田家に関わりの深い津島の牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)だともいわれているけれども、それは誤りで、実は那古野城の三の丸にあった亀尾天王社を指している。神社だから登山ではないじゃないか、と思われるかもしれないが、「坊」と付くのは、当時は神仏習合で神社を管理する寺=別当寺というものがセットになっていて、天王社の寺ということなのだ。これは亀尾山安養寺華王院という名称で、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となっている。名古屋城二の丸庭園に遺る那古野城跡の碑 つまり、信長は城内の天王社の中にある安養寺に通っていたのである。それはそうだ、いくら昔の人が健脚でも、そう何度も那古野城から津島まで、約18kmもある道のりを通えるものではなかろう。信長が畏れ憧れた神の正体 現在は名古屋市中区丸の内、名古屋城の南方に移され「那古野神社」となった亀尾天王社は、津島牛頭天王社の末社。神仏の方が出張して来てくれているのだから、何も徒歩なら片道3時間以上、騎馬なら2時間(?)もかけて津島まで通う必要もない。「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵) それに、信長は何も仏様に詣でるために天王坊へ通っていたわけではなかった。では何のためかというと、それは学問修業のためだ。当時の有力武士の子弟は必ず寺院で勉強し、学問と教養を身につけるのがならわしだった。上杉謙信は林泉寺、武田信玄は古長禅寺、今川義元は善得寺、徳川家康は臨済寺と、それぞれ寺院で教育を受けている。当時は僧侶が学問のエキスパートであり、京の上流階級や他の大名とまじわるための嗜(たしな)みを広め伝える文化の担い手でもあったのだ。というわけで、信長も貧乏ながら那古野城の若殿様である以上、日々天王坊に通って学ばなければならないのである。 そしてこの天王坊安養寺が守る、つまり本社の津島牛頭天王社の祭神でもある主祭神に注目しておきたい。それは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だ(ちなみに、安養寺のご本尊はごく普通に阿弥陀如来だったらしい)。 スサノオの物語は皆さんよくご存じだろう。『古事記』に登場するこの荒ぶる神は、出雲で八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ。『日本書紀』では八岐大蛇)を退治しその体内から草薙剣(サクサナギノツルギ)を得た。神話の時代の話ではあるが、オロチを斃(たお)してその「本体」とも考えられる草薙剣を手に入れたということは、オロチの力をわが物としたと解釈できるだろう。 ちなみにこの説話は、スサノオに象徴される大和王権が、すぐれた鋼(はがね)を生み出す出雲に進攻し、製鉄技術を獲得したことを象徴するともいわれている。スサノオはまさにオロチの力を獲得した神なのだ。スサノオは後にこの剣を姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したが、本人は出雲に新居を構えた。その子孫には大国主命がいる。オロチ=出雲の鋼鉄はスサノオが支配し続けたのだから、オロチの力は草薙剣を手放しても彼の手に残ったといえる。 信長からだいぶ話が離れてしまった感があるが、ここで前回の話を思い出していただきたい。信長が刀の柄に巻いていた三五縄の話である。この魔除けの縄が表していたのが蛇。そしてオロチは、蛇、大蛇そのものである。頼る肉親もいない寂しい生活の中、信長は日々天王坊でスサノオの説話に触れて育ったのだから、スサノオが得たオロチの力への畏れ、憧れは深層心理に知らず知らず沈殿していったはずなのだ。もっとも、ここまで話が飛躍すると「なんだ、所詮はこじつけじゃないか。信長は蛇の力なんかに頼らない、自分の力しか信じないタイプの男だろう」と仰せの向きもあるだろう。そういう方は、ぜひもう少し我慢していただきたい。斎藤道元はなぜ信長に入れ込んだのか 孤児のように那古野城で成長した癇癖(かんぺき)の強い信長が傾(かぶ)いたスタイルで往来を闊歩(かっぽ)し、離れて暮らす両親の注目を集めるためか奇矯な振る舞いをくりかえすようになって何年かがたち、天文21年(1552年 異説あり)3月、父・信秀が病のために世を去る。第1回で紹介したように、信長が例の魔除けアイテムづくしのまま葬儀にやって来たのは、このときの話だ。このありさまに心を痛めた平手政秀は、息子が愛馬をめぐって信長とケンカしたこともあって絶望し、信長をいさめるために切腹して果てている。この件については持論があるのだが、テーマから逸(そ)れるので割愛することにしておこう。 その翌年、信長は那古野城から北西、木曽川沿いの富田(とんだ。現在の一宮市の富田=とみた)に向かった。そこで待つのは、信長が5年前に娶(めと)った濃姫(帰蝶)の父親である美濃の大名・斎藤道三だ。道三は、前年の信秀の死の直後、信長の大叔父・玄審允秀敏にこう手紙を書き送っている。「御家中の状態は外聞が悪く、私も困惑している。あまり期待をかけず放置してみて、どうにもならないようなら相談してくれ。三郎殿様は若いので、苦労するのは仕方がない」名古屋市内・大須万松寺にある信秀の墓 三郎殿様というのは信長を指し、その家中が主君の信長にふりまわされて分裂状態になってしまっていたことが分かる。家中の長老として信長を後見する立場の秀敏は、信長の舅(しゅうと)で信秀の同盟者だった道三に事態の深刻さを相談したのだろう。これに対し、道三はさすがにあれこれ周囲が干渉すればかえって信長が反発し収拾がつかなくなる、と見定め、しばらく様子を見るように、とアドバイスし、信長が若いのだから皆の我慢が肝心だ、と諭しているのだ。富田で信長と初めて会おうと彼が申し入れたのは、信長の器量を見定め、今後も同盟関係を続けるかどうかの判断を下すためだったと思われる。信長は魔除けと蛇志向から解放されたのか? 結果として信長はこの会見で長柄の槍や鉄砲を道三に見せつけ、その度肝を抜いた。そのうえ、例の傾奇ファッションで富田にやって来た彼は、会見の席には長袴を着け髪もキチンと結い上げて登場する。これで道三は完全にやられた。帰路、彼は家臣に「わしの子たちは信長の家来となるだろう」と予言し、以後は信長を熱心にバックアップし始める。翌天文23年(1554)、村木砦というところへ出陣する信長のために那古野城へ留守番兵を送り込んだほどで、隙あらば他者の城を奪い取ろうという戦国時代にあって「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた道三が、信長が凱旋(がいせん)してくると那古野城を素直に返しているのだから、その入れ込みっぷりは類を見ない。彼は信長の人間力を見て、その将来性を高く評価したのだ。斎藤道三(東京大学史料編纂所所蔵の模写) では傾奇ファッションを捨ててノーマルないでたちへと大変身を遂げた信長は、これでそれまでの魔除けアイテムへの執着や深層心理にひそむ蛇志向から解放されたのだろうか? それがどうも、そうではないようなのだ。 例えば、この村木砦合戦に際して彼が乗った馬の名は「ものかは(わ)」。「嵐もものかは、外出する」などの用例で分かるように、「問題にしない」という意味の言葉だ。この場合は大敵も物の数ではない、という縁起担ぎを目的としたネーミングだったのだろう。 さらに、後年信長が羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に下賜したという伝承を持つ大阪城天守閣所蔵の信長遺品「緋羅紗地木瓜桐文陣羽織(ひらしゃじもっこうきりもんじんばおり)」。緋(ひ)色の羅紗(らしゃ)というものは当時猩々(しょうじょう。猿のような怪物)の血で染めると考えられており、それは鉄砲の弾を除ける効果を持つとありがたがられたらしい。まさに魔除けのアイテムということになる。これなども信長が呪術的部分を持っていた傍証かもしれない。 この後、尾張統一戦―今川義元との桶狭間の戦い―美濃併合―上洛(じょうらく)と勢力を拡大していく中でその傾向はたびたび顕(あらわ)れる。次回はその最初にして決定的な例を紹介しよう。 

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長のヤンキーファッションに隠された「3つの魔除けアイテム」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回の最後で、若き日の信長の風変わりないでたちについて触れた。 浴衣の原型になる袖を外した湯帷子(かたびら)、半袴(足首までの長さの袴)、朱鞘の太刀、紅と萌黄(もえぎ)の2色の糸でハデに結い上げた髷(まげ)までは当時、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた不良少年、青年にありがちな風体ということで理解できるのだが、問題はそれ以外に身につけていたモノだ。太刀と脇差しの柄は三五縄(みごなわ)で巻かれ、腰回りには火燧袋(ひうちぶくろ)と7、8個のひょうたんをぶら下げていたというところに妖しい臭いがプンプン漂っているのである。 まず三五縄だが、これは三五七縄とも書き、どちらも「しめなわ」とも読む。つまりしめ繩だ。もうお分かりかと思うが、神社、神木、神岩などに張られるしめ繩は「ハレとケ(晴れと汚れ)」との境界を示し、ケから清浄なものを守る結界の役割を果たす。家庭で正月飾りに用いるしめ飾りも同様で、家の中にケ(厄)が入ってこないように祓うという意味があるのだ。これを鞘(さや)に巻いたということは、信長がその魔除け効果を期待した、あるいは信長自身が神聖な存在というアピールだったと考えられないだろうか。 無論、「いやいや、合理主義者の信長は戦闘のとき、敵の血でぬれた柄が滑って刀を取り落とさないよう、縄で巻いただけだろう」という解釈も可能だろうが、それなら荒縄で良いではないか。筆者は単なる縄ではなく、しめ繩だったというところに信長の意図を感じるのだ。そして、これは後々、重要な意味を持ってくるので留意しておいていただきたいのだが、しめ繩は「蛇」と密接な関係を持っている。口縄坂、西側の案内碑と説明板 少し話がそれるが、大阪の天王寺(大阪市天王寺区)近く、夕陽丘は活断層によって形作られた上町台地の上にあり、西の市街地とは「天王寺七坂」ほか、多くの急坂で結ばれている。その一つが「口縄(くちなわ)坂」だ。「口縄」は大阪の古語といわれるが、戦国時代の日本ですでに広く使われていた。当時の『日葡辞書』(ポルトガル語を日本語に訳した辞書)にも収録されている日常語で、蛇を意味する。「朽ち縄=古びて切れた縄」が蛇を思わせるところからこの言葉が生まれたことは容易に想像がつくけれども、この坂も起伏が蛇に似ているところから名付けられたという。つまり、緩やかな傾斜が途中から急になるため、蛇が鎌首をもたげて前進する形を連想したのだろう。 「三五縄=しめ繩」もまた、蛇を表す。『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)の中で著者の吉野裕子氏は、しめ繩の形が蛇の交尾に由来していると説く。確かに雄と雌の蛇は体を互いに巻き付かせて交尾し、しめ繩の形にそっくりだ。古代から日本にはヤマタノオロチ伝説や奈良・三輪山の大神神社(奈良県桜井市)の祭神として信仰をあつめる蛇神・大物主(大国主神)などの蛇信仰があった。信長が火打ち石を携帯していた謎 ちなみに江戸時代、摂津国嶋上郡(現在の大阪府三島郡島本町ほか)の原村では、毎年2月8日の天王祭で縄を蛇の形にしてその目を射るという儀式が行われた(『諸国年中行事』)。これは破魔とともに「目当てに的中する」、つまり願い事成就も意味する。蛇自体はケの象徴だが、同時に願い事=ハレをも体現するという面白い位置づけだ。口縄坂、奥で急に斜度があがる 閑話休題。ともあれ、信長が刀の柄に巻いた三五縄は「魔除け、厄除け」の意味を持ち、同時に蛇を表現するものでもあった、ということだ。 次に火燧袋だが、これは火打ち石を入れる袋。ライターもマッチもない当時、どこでも手軽に火を起こせる道具は火打ち石しかない。野遊びが大好きだった信長としては、ぜひ身につけておきたいところだろう…と思うのだが、よく考えてみると信長は腐っても織田家の若様。『信長公記』を見ても、常に従者(小姓衆)を連れ、彼らによりかかったり背中にぶら下がったりして歩いていた、とある。そんな身分の信長が自ら火を起こす必要なんかないではないか。まだ犬千代と言った前田利家ら小姓衆の仕事を取り上げてしまっては「主君失格」なのである。 では信長はなぜ火打ち石を携えていたのか。実は、これもまた魔除けアイテムだったのだ。時代劇オールドファンには、大川橋蔵の「銭形平次」で、出掛ける平次の背に妻のお静が火打ち石と火打ち金(かね)をカチッと打ち合わせるシーンはおなじみだろう。あれは「切火(きりび)を切る」といって、火花を起こすことがおはらい、厄除けになるという民俗信仰から来ている。 少なくとも江戸時代にはこの風習はあったというが、仮に信長の時代にはまだ火打ち石で厄を除けるという考えはなかったとしても、火打ち石が生み出す火や炎は古代神話の時代から清めの効果を持つと考えられてきた。『古事記』では伊弉諾(いざなぎ)神が、死んだ妻、伊弉冉(いざなみ)神の真実の姿を見るときに火を用い、あやうく難を逃れている。京をはじめ各地の神社では毎年11月に「清めの御火焚」が行われるが、これも火の持つ破魔の効用だ(「十二ヶ月風俗図」)。信長の大マナー違反 また、『古事記』には火燧袋自体も登場している。日本武尊(やまとたけるのみこと)も天皇から東国平定を命じられ、倭比売命(やまとひめのみこと)に草薙剣と袋をもらって出発。敵に火を付けられたときに袋を開けると火打ち石が入っていたので、剣で草をなぎ、それに火を付けて向かい火にし、難を逃れた。火燧袋はいわば「ラッキーアイテム」であり、火が厄を祓ったのである。 古事記の時代から200年近くたった平安時代、歌人、源公忠の『公忠朝臣集』には、田舎に下る人に火打ち袋を贈った際の作として 《うち見ても 思ひ出でよと 我が宿の しのぶ草にて すれるなりけり》と詠んだものが収められている。この場合、火打ち石は餞別(せんべつ)として喜ばれる旅の必需品であり、安全祈願のアイテムでもあったということなのだろう。 つまり、信長の時代には切火という魔除けのまじない自体が仮にまだ存在しなかったとしても、火打ち石は魔を祓い厄を除けるための火を生み出す重要な道具と見なされていた、というわけだ。 信長の時代より少しだけ前、享禄元(1528)年に伊勢貞頼が著した武士のマナー指南書『宗五大草紙』などには「火燧袋は40歳以後に提げるべし。それも晴れの時や主君の御前では提げてはいけない。火打ち袋は刀に提げる」と記されているから、通常火燧袋は老境に差し掛かってから非公式の場合のみ、刀に結びつけて提げるものだったようだ。すると、まだ若い内から火燧袋を提げていた信長は大マナー違反をやらかしていたことになる。このあたりも「大うつけ」と呼ばれた信長らしいといえばらしいのだが、マナーを無視してまで魔除けの効用にすがりたい―そんな思いが信長の胸の中にあったのかもしれない。「信長公出陣の像」=愛知県清須市の清洲公園(関厚夫撮影) 最後に、ひょうたんについて触れておこう。ひょうたんが古くからお守り、縁起物、魔除けとして喜ばれたのはかなり知られている。信長の覇業を継いで日本統一を達成した豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例だが、それ以外でも九州福岡の太宰府天満宮では厄除けのためにひょうたんに詰めた酒を飲む風習があって今でも「厄晴れひょうたん」が参拝者に授与されているし、島根の出雲大社の爪剥(つまむぎ)祭でも洞切にした生のひょうたんに柄を付けた柄杓(ひしゃく)でご神水を供えるときに使用している。信長が魔除けグッズに頼った理由 古来、作物の種の入れ物として使われたひょうたんは豊穣(ほうじょう)を意味した。豊穣はすなわち凶作を封じる、厄をけるという意味につながり、またひょうたん固有の機能として酒の入れ物に用いられたことで清めの象徴ともなる。酒が神への供物であり、また外傷の消毒用に使われたことも大きかっただろう。豊臣秀吉の馬印だった瓢箪=2012年2月8日、京都府(安元雄太撮影) その結果、ひょうたんは縁起物として絵や着物の柄などに採用され、家紋にも無数のバリエーションが存在する。日本人の「ひょうたん頼み」は尋常ではないのだ。信長が腰からぶら提げていた7、8個のひょうたんというのも、実用オンリーであればひとつは水、ひとつは酒、ひとつは灯油(当時は荏胡麻油)などフィールドワークで必要ないくつかと、あとは信長が大好きな火縄銃を撃つ際の火薬、弾丸ぐらいは思い浮かぶが、あと2つ3つが何か、思い浮かばない。 砂でも詰めておけば、他のひょうたんと合わせて結構な重量になるから鍛錬にはなるだろうが、よもや「大リーグボール養成ギプス」でもあるまいし、それなら日頃から甲冑をつけるなり、大太刀でも提げておけばよい。何より家来に持ち運ばせるという主人としての「義務」を無視することにもなるから、やはりこれも魔除け効果を期待した「必携グッズ」だったのだろう。 当時、信長はその異様な形(なり)や粗暴なふるまいによって織田家の重臣連から疎まれ、弟の信勝に期待が集まる中、いつ誰から暗殺されるかも分からない日常を送っていた。常に命の危険にさいなまれる中で精神を正常に保つためにはこれらの魔除けグッズに頼るしかなかったのではないだろうか。そして、その魔除けグッズの一つ、三五縄に潜む蛇のイメージ。それを求めた信長の心の源流をこれから探ってみよう。 天文3年5月12日(1534年6月23日)、織田信長は父、信秀と土田御前の次男として生まれた。庶腹の兄、信広がいたものの、正室の土田御前を母に持つ信長は嫡子である。その生地は、現在の名古屋城二の丸辺りにあったとされる那古野城が、当時まだ信秀の支配下となっていなかったということで、勝幡城(現在の愛知県の愛西市勝幡町から稲沢市平和町六輪にかけての一帯)説が有力となっている。その後、那古野城を手に入れた信秀は、まだ「吉法師」と呼ばれていた信長にこの城を与える。そこで信長はある経験をするのだが、その話はまた次回に。

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    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 2017年。織田信長が天下統一を前に本能寺の変で非業の死を遂げてから435年になる。この間、信長はどういう性格の男と考えられてきただろうか。 同時代の公家、山科言継(やましな ときつぐ)は永禄12年(1569)1月に信長が将軍・足利義昭のために造営を開始した京・二条第の工事現場で何度も接触をはかったが、信長は「機嫌が悪いとして対面しない」ときもあり、また「寒いから」と会わずに済ませることもあったという(『言継卿記』)。 そのほかにも、信長が公家たちと立ち話だけで大事な用件を片付けた例は多い。仮にも当時の上級貴族、朝廷の洗練された礼儀作法や圧倒的な教養、全国へ伝わる情報の発信源ともなる公家に対するこの人もなげなふるまい。体面を気にせず、無駄な礼儀作法や時間の浪費をとことん嫌う彼の性格が表れている。 一方、キリスト教布教のためにはるばる日本へやって来たポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、信長に関する多くの感想を書き遺(のこ)した。彼も「信長はだらだらした長話や無駄な前置きを嫌った」と表現し、言継と同じ二条第工事現場での信長についても「虎皮を腰に巻き、どこでも座れるようにした粗末な身なりをしていた」と記録している。 さらに「地球儀によって地球が丸いことを説明された信長は『理にかなっている』と即座に理解した」とも説いており、当時ヨーロッパでもまだまだ地球が球体であることを納得していない人が多かったことを考えると驚くべき頭脳の柔らかさではないか。 フロイスが見た信長も、時間を有効に使い、人目を気にせず行動するだけでなく、筋道が立った理論であれば先入観無く受け入れる人物だったのだ。横瀬浦公園のルイス・フロイス像(長崎県観光連盟提供) 以上のような同時代人の証言から浮かび上がる信長の姿は、一言でいえば「合理主義者」。だが、こんなものはまだまだ序の口にすぎない。フロイスがこう続けた。 「信長は神と仏に対する祭式と信心をいっさい無視した」 「彼は良い理性と明晰(めいせき)な判断力の持ち主で、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教(非キリスト教)の占いや迷信的慣習を軽蔑していた。(中略)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」(以上フロイス『日本史』)。 日本人のほぼすべてが神々を敬い仏教をありがたがる中で、彼はそれを明確に否定していたというのだ。信長のこの思想については、「日本では自分自身が生きた神・仏になり、石や木で出来たものは神ではない、と言った」と、強敵・武田信玄が死去した直後の天正元年(1573)4月20日のフロイス書簡(『耶蘇会士日本通信』)に顕(あらわ)れたのが一番早い例だ。どうしても気になる2つの文章 しかし、信長はその3年前の元亀元年(1570)には浄土真宗の本願寺との戦争状態に入り、翌元亀2年(1571)には有名な比叡山延暦寺(えんりゃくじ)(天台宗)の焼き討ちもおこなっている。そして何よりも、天文21年(1552)に父の信秀が亡くなった際に信長は葬儀の場で焼香に立つと、「抹香をくわっとつかんで仏前に投げかけて帰った」という若き日の強烈なエピソードもある(『信長公記』)。 無駄な時間と虚礼を嫌う合理主義者であり、神仏を無視した信長。これがあいまって、「彼は無宗教だった」と言われるようになった。そこからさらに進んで、彼が特定の神社や寺を保護した実例もあるから、宗教すべてを完全に否定していたのではない、という論議も出ている。「信長は自分に従わない宗教を敵としただけだ」というわけだ。 だが、全国制覇をめざす信長としてみれば、すべての宗教を敵にまわすなど「時間と労力の無駄」の最たるものだったのではないだろうか? 従来の信仰生活の中で暮らしている家臣たちにも動揺が広がる。信長は、計算ずくで宗教に理解を示すポーズをとることがあった、とも解釈できるのではないか。 これも有名な話だが、先に紹介したフロイスの書簡には、信長は「第六天の魔王」と自称したとも書かれている。第六天魔王というのは仏教の修行を妨げる存在なのだが、これについては後で詳述することにしよう。字面に忠実ならば、これは信長自身が無宗教どころか反宗教であることを公言していたとしか説明できない。安土駅の織田信長像 いずれにしても、現在の一般的な信長像は「科学的な思考法を持つ徹底した合理主義者であり、神仏を否定する無宗教論者」といったところだろう。妥当な信長観であり、筆者自身も、一応それに納得し賛同するひとりである。 ところが、だ。もうひとり、心の奥の方にいる別の私がどうしても異議を唱えたくてうずうずしているのだ。筆者には、以前からどうしても気になって仕様が無い文章が2つある。まずその一つ目を紹介しよう。 皆さんは『甫庵(ほあん)信長記』という信長伝記をご存じだろうか。小瀬甫庵(おぜ ほあん)という人物が、信長の近侍だった太田牛一の『信長公記』を底本としてそれに脚色を加え読み物として整えたもので、大坂冬の陣の3年前、慶長16年(1611)に刊行されたものである。信長は「鬼神を敬った」 その性格上、信頼性という点では割り引いて考える必要があるのだが、その中に信長について、「鬼神を敬い、社稷(しゃしょく)の神を祭らなかった」という一節があるのだ。これは信長が志なかばで死を迎えなければならなかった理由のひとつとして書かれている。 社稷の神というのは土地の神、すなわち氏神のことなのだが、それは取りあえず置いておこう。ここで問題なのは、「鬼神を敬った」という部分だ。当時の日本語を採録した『日葡(にっぽ)辞書』をひいても、「鬼神」は「悪魔」という意味でしかない。信長が鬼、悪魔を信仰していたとしか解釈不能なのだ。 「史料的に信頼性が低い本なのだから、気に留める必要もないのではないか」とも思うのだが、それでは『甫庵信長記』とは比較にならないほど史料価値の高さを認められ、学者や研究家がこぞって参照している『信長公記』はどうだろうか。 同書には、先述したように信長が父の葬儀で抹香を投げつけた逸話以外にも、ハッとする記述が多くある。中でも、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの直前、前哨戦の勝利に喜んだ信長の敵・駿河遠江三河3カ国の大大名、今川義元がこう述べたというのは興味深いところだ。 「義元の矛先には、天魔鬼神も対抗できない」。討ち果たすべき相手の信長を魔神に例え、今川軍はそれを上回る強さなのだ、と誇っている。まぁ、敵を「天魔」と呼ぶのは日蓮や上杉謙信など他にも多くの例が見られるからあえてあげつらう必要は無いのかもしれないが、「鬼神を敬った」と考え合わせると、妙に不気味ではないか。そう思うと、どうにも好奇心がとまらなくなって来る。好奇心は、「信長は鬼神に代表されるオカルト信仰に凝っていたのではないか」と筆者にささやきかけるのだ。夕闇迫る桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像(左)と今川義元像=2016年12月9日、名古屋市緑区(関厚夫撮影) そこで『信長公記』から順を追って信長の生活、行状を見ていこう。抹香を投げつける前の年から、それは始まる。なお、これ以降は意訳だけでなく原文も併記するので、若干お読みいただく手間は増えるかもしれないが、細かいニュアンスを感じていただきたいケースもあると思うので、ご寛恕(かんじょ)願いたい。若き日の異様な服装 天文20年(1551)、信長は数えで18歳だった。この頃までの彼の風体はこう描写されている。 「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」(袖無しの湯帷子を着て半袴をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅や萌黄(黄色っぽい緑色)の糸で巻き茶筅曲げに結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた) 湯帷子(かたびら)というのは現在の浴衣の原型で、それに半袴(長袴ではなく、足首までの長さ)を履き、火打ち石の袋などを腰から下げ、カラフルな糸で髷を結う。朱色の鞘(さや)の太刀は、傾奇者の象徴でもあり、絵に描いたような不良少年の姿なのだが、翌年の信秀の葬儀の場ではどうだろうか? 「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」(長い柄の太刀と脇差しを差しているのだが、その柄を三五縄で巻き、茶筅(ちゃせん)曲げの髪型で袴も穿かず) おやおや、このときには袴すら履かない着流しスタイルだったようだ。岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる この葬儀の翌年、信長はしゅうとで美濃の大名である斎藤道三と面会する(信長の正室は道三の娘、帰蝶だった)。ここでも信長の格好は変わりない。いや、ひとつ異なるところがあった。 「御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ」(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個のひょうたんを付けていた) ひょうたんが何個も腰にぶら下がっていたという。 道三との会見の場で信長は礼式にのっとった正装へと鮮やかな変身を遂げ、以降はまともな身なりをするようになるのだが、それまではこの異様な装いを通していたのだ。 次回はここで問題となる若き日の信長スタイルのアイテムについて、掘り下げていきたいと思う。

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    天皇家への挑戦状、井沢元彦が読み解く天才信長の「自己神格化計画」

    ことなのだが、一昔前は「信長シンポジウム」などで「信長は神になろうとしていたんです」と言ったら専門の歴史学者の人々に笑いものにされた。そんなことがあるわけないじゃないかとおっしゃるのである。そういう人々に私が言いたいのは信長の後継者が、神になっているということである。 言うまでもなく徳川家康のことだ。日光東照宮の御祭神は東照大権現、すなわち家康である。信長は神になれず、秀吉は死後1度は神になったが(豊国大明神)家康にそれを取り消され(後に明治に復活)、家康だけが完全な神になることに成功した。 確かに日本とは人間が神になれる国である。しかし、それは菅原道真のように死後周囲の人間がその霊威を畏れ神として祀(まつ)り上げた場合だ。生前自ら宣言して神になろうとしたのは織田信長が最初なのである。ただし、どんなことでもそうだが開拓者は最初必ず挫折する。なぜなら誰もやったことのない行為を成功させるためには試行錯誤を重ねなければいけないからだ。フロイスが記しているように信長は自分の誕生日を聖日として、自分を御神体とする宗教施設に礼拝するように命じた。いきなり自分が神だと宣言し「オレを礼拝せよ」と命じたのである。 このころ信長が造った安土城には奇妙な「装置」がある。地下1階に石造りの宝塔があるのだ。大乗仏教最高の経典とされる法華経には釈迦が最高の真理を説いたときに、地下からそれを祝福するために宝塔が出現したという名場面がある。要するに「信長=釈迦」ということである。また、その「信長神殿」である安土城から「上から目線」で見下ろす本丸部分に、最近の発掘調査で天皇の御所とよく似た構造の建物跡が発見された。信長はここに天皇を動座させ、自分が天皇より上の「神」であることを天下に知らしめるつもりでいたのだろう。しかし、本能寺の変ですべての目算は狂い信長は神にはなれなかった。引き継がれた信長の構想 その失敗を近くでつぶさに見ていたのが家康である。まず、この「自己神格化」プロジェクトのために専門家を雇った。天海僧正だ。このブレーンの言うことをよく聞いて、彼は東照大権現の「神学」つまりなぜ家康が神なのかという説明を作らせた。ライトアップされ、宵闇に浮かぶ日光東照宮の国宝「陽明門」。約40年ぶりの大規模な修復作業を終え、金箔や極彩色がひときわ輝く=4月29日、栃木県日光市(飯田英男撮影) 権現とは、そもそも神がこの世を救うために人間の姿を取ってこの世に下りてくるものである。長い乱世で多くの人が苦しんでいるのを見た「神家康」は、その苦しみから人々を救うため人間の姿でこの世に生まれ、苦心の末に天下を統一するという大偉業を成し遂げ役目を果たしたので天に戻られた、今はそこにおられる。というのが東照大権現の神学である。しかも「東照」は大和言葉で読めば「アズマテラス」と読める。つまりこれまでの日本はアマテラスの子孫である天皇家が治めていたが、これからはアズマテラスの子孫である将軍家が治めるという形を作ったのだ。だから徳川の天下は約300年も続いた。 逆に言えば、最初に信長が神になり天皇を超えようと志したからこそ、家康は成功したわけで、それが歴史の連続性ということだ。この点から見ても、信長が本気で神になり天皇を超えようとしていたことはまぎれもない歴史上の事実なのである。 しかし信長の視点から見れば、「家康神学」には大きな弱点があった。それはほかならぬ東照大権現という神号を朝廷に奏請して、つまり天皇からもらってしまったということだ。天皇からもらったのならば、天皇家と徳川家は対等とはいえず、天皇家の権威の方が上であることを認めてしまったことになる。この弱点が幕末に「天皇家の方が尊いのだから将軍家よりも天皇家に忠を尽くすべきだ。つまり討幕は悪ではなく正しいことだ」という勤皇思想の隆盛を生みだすことになり幕府は滅んだ。 家康ですら天才信長の「自己神格化計画」を完全に達成することはできなかったのである。

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    天皇になろうとした日本人

    皇位簒奪や天皇を超越した存在になろうとした例もしばしばあった。彼らはなぜ「治天の君」を目指したのか。歴史を通して万世一系の意味を改めて考えたい。

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    「日本国王」足利義満の危険思想はこのとき生まれた

    今谷明(帝京大特任教授) 天皇にならんとした人物に、奈良時代称徳朝に弓削道鏡がいる。これに対し、義満は厳密には自ら天皇たらんとしたのではなく、次男義嗣を天皇に、自らは太上天皇として朝廷に臨もうとしたわけである。 このような義満の意図は、当時天皇家において「院政」というスタイルが常態であって、直接天皇の地位を目指すよりも、上皇に収まる方が、ある意味自然な手法であるという事情があった。以下、義満の狙いと意図、その背景について概観する。 1379年の「康暦の政変」によって管領の細川頼之が失脚し、将軍義満の親政が始まるが、まだ二十歳そこそこの若さであり、有力守護大名を統制するのは容易ではなかった。この時にあたって事実上義満の家庭教師の役割を果たし、その政権構想に多大の影響を与えた人物こそ、鎌倉五山から移って建仁寺住職となっていた義堂周信である。  義堂は病により中華留学を果たさなかったが、宋学の意図や四書の新注もよく理解し、当時日本における最高の儒学者であった。1380年8月、紀伝博士の菅原秀長は義満に八朔(はっさく)の祝儀として『孟子』の写本を献じたが、義満は関心すら示さなかった。 それを伝え聞いた義堂は、同年11月、義満に「儒書中、宜く孟子を読むべし」と勧めたので、義満は目が覚めたように孟子に熱中した。孟子は元来、「民を以て重しと為す」とする民本主義を含み、また禅譲放伐を是認するという朝廷にとっては危険思想の面を持つ。公家界の最高権力者になった足利義満(Wikimedia Commons) 理解力の早い義満が孟子に傾倒することを危ぶんだ義堂は、義満を禅宗へ誘導せんとしたものの、時すでに遅し、義満は放伐是認にはまり込み、「力のある者が位も上にあるべきだ」という、歴代武家中にも例がない考えを抱くようになった。 歴代武家で、太政大臣となった清盛を除き、執権北条氏や義満以前の足利二代は、官位が大納言止まりであった。ところが、義満は位階昇進を踏んで清盛も実朝も経験しなかった大臣に昇り、公家界の最高権力者になった。 このような義満の破格は、摂政二条良基はじめ、有力公卿が義満に迎合した故であり、重臣たちに裏切られたかたちとなった後円融上皇の焦慮は深く、一時は自殺を企てるなど、義満との溝は深まった。 一方、幕府の首長としての義満は、美濃の乱、明徳の乱、応永の乱と、次々に有力守護を挑発しては謀叛に追い込ませ、ことごとくこれを弾圧した。このような義満の強勢を見ては、斯波・畠山らの宿老も義満に批判はあっても諫言すらできず、後円融上皇が崩じ、南北朝が合一して以降は、義満の専制権力が確立した。故義満への尊号を拒否した幕府 義満は長子の義持に将軍職を譲り、太政大臣も辞して出家したが、これは天皇の陪臣である限り、明(中国)が入貢を認めないためであり、入道出家後も室町第、のちに北山第において政務を握り続けた。 かくて明国皇帝から「日本国王」に冊封された義満は、公卿界から太上天皇の礼遇を受け、従来宸筆(しんぴつ、天皇の直筆)であった「除目の小折紙」(人事異動の原案)を自ら書き出し、寺社への参詣は後白河上皇や亀山上皇の儀礼にのっとるなど、形式的な人事権を獲得した。 しかし、朝廷には権力・権威とも失ったとはいえ、後円融の皇子であった後小松天皇が在位しており、この天皇を廃立して足利義嗣を皇位に据えるというのは、さすがの義満を以ってしても容易なことではなかった。 1406年末、天皇生母の通陽門院が逝去し、義満の正妻日野康子が「准母」に冊立された。次いで1408年2月、14歳の義嗣が参内して親王元服の準拠として従五位下に叙位された。 同月3月、天皇は北山第に行幸し、義満は繧繝縁(うんげんべり)の畳に座して迎え、天皇が父なる上皇を訪問する朝覲(ちょうきん)行幸の儀礼にならうといわれた。しかし、同年5月、義嗣が参議従三位に叙位されて三日後、義満はにわかに発病し、死亡した。義満が出家後に政務の拠点とした北山第(現鹿苑寺)=京都市北区 義満急死後、朝廷では関白・伝奏(てんそう)らが協議して故義満に「太上天皇」の尊号を宣下し、幕府に伝えた。ところが、案に相違して幕府は尊号を辞退し、朝廷に突き返してきた。これは宿老の斯波義将の主導であったという。 尊号を拒否した幕閣の思惑は、彼ら(有力守護)が尊王思想に傾いていたわけでは決してなく、禁裏仙洞領(上皇の領地)を各地で押領するなど、むしろその逆であった。彼らの本音は、足利氏が天皇と将軍を独占し、しかも国際的に「日本国王」として足利氏が絶対王制となることへの本能的な嫌悪感であったとみられる。 守護家の志向は彼らが封建権力として家職化、すなわち世襲分国を形成することであり、それには足利家が強大すぎるのは望ましくない。そのためには、微弱なりとはいえ伝統のある「天皇家」が存続していた方が、彼らには都合がよいという考え方である。 要するに幕府を支える勢力の政治的思惑から、天皇家は空前の危機を回避することができたといえよう。

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    異例の大出世、平清盛の出生に隠された「天皇のDNA」

    渡邊大門(歴史学者) 平清盛(1118-1181)といえば、武家政権を自らの手で樹立し、栄耀(えいよう)栄華を極めた人物として知られる。清盛が強い存在感を示したのは、保元元(1156)年に勃発した保元の乱のときである。清盛は後白河天皇の勝利に貢献し、その軍事力を大いに誇示した。 平治元(1159)年の平治の乱では、ライバルの源義朝を討ち破り、武家政権樹立の布石を築いた。その後の清盛の昇進は目覚ましく、永暦元(1160)年に参議正三位に叙され、武士として初めて公卿(くぎょう)となった。その7年後には、従一位太政大臣にまで上り詰める。その理由はどこにあったのか。 清盛が台頭した背景には、摂関家や天皇家と積極的に婚姻関係を結んだことにあった。関白・藤原(近衛)基実には、娘の盛子を嫁がせた。基実が亡くなると、その遺領は盛子が引き継いだ。基実の子息・基通には、娘の寛子を嫁がせている。こうして清盛は、全国で500余の荘園を手にすることに成功したという。戦前、いかつく狡猾なイメージで描かれた平清盛。『国史画帖大和桜』(昭和10年刊) また、後白河上皇には、妻・時子の妹・滋子を入れ、上皇の皇子の高倉天皇には娘の徳子を入内(じゅだい)させた。治承4(1180)年には、高倉天皇と徳子の間に安徳天皇が誕生する。こうして清盛は外祖父の地位を獲得し、政治権力を掌中に収めた。天皇すらコントロール下に置いたのである。 平氏一門は隆盛を極めた理由として、日宋貿易で巨万の富を築いたことも挙げられる。また、平氏一門は高い官職を得て、「平氏政権」と称される権力体になった。時子の弟、平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したのは、その自信の裏付けであろう。 この段階で、清盛は天皇に近づいたと言っても過言ではないであろう。 このようにわが世の春を謳歌(おうか)した清盛であったが、その異常なまでのスピード出世には秘密があるとされてきた。それは、清盛の出生にまつわる理由にあった。 清盛が異例の出世を遂げたのには、その出自にあったという説がある。元永元(1118)年、清盛は平忠盛の長男として誕生した。このことは系譜上明らかなことなのであるが、清盛の出生にはいくつもの謎がある。その一つが白河法皇の御落胤(らくいん)であったという説である。 今の教科書には取り上げられていないが、明治時代の小学校の教科書には、清盛の後白河法皇の御落胤説が堂々と記されていた。これは江戸時代に伝わった説を引き継ぐもので、世の人々に広く伝播(でんぱ)するきっかけにもなった。 実際、忠盛には何人もの妻がいた。その事実は、系図集の『尊卑分脈』で確認することができる。妻の名を列挙すると、藤原宗兼の娘(池禅尼)、源信雅の娘、藤原家隆の娘、藤原為忠の娘であり、彼女たちは子に恵まれた。側室が多数いること自体は、特に珍しいことではない。平清盛の母は誰なのか? 清盛の母について記しているのは、源氏と平氏の攻防を描いた『平家物語』である。『平家物語』は大きく分けて、(1)語り系の諸本(一方(いちかた)流、八坂流など)、(2)読み本系の諸本(延慶本、長門本など)になる。そして、それぞれが清盛の母として記している女性は異なっている。『源平盛衰記』の説も合わせて、次に分類して掲出しておこう。(1)白河法皇の寵愛(ちょうあい)した祇園女御(ぎおんにょうご)であったとするもの。(2)祇園辺りにいたある女房とするもの。(3)祇園女御に仕えた中臈(ちゅうろう)女房とするもの。(4)祇園女御と中臈女房の区別が明確でないもの。(5)宮人である兵衛佐局とするもの。 このように、同じ『平家物語』であっても、それぞれの記載している内容に大きな差異を認めることができる。ところで、白河法皇の寵妃である祇園女御については、ほとんど知られていないが、いかなる人物なのであろうか。 祇園女御は、両親や生没年が不明である。その出自に関しても、源仲宗の妻またはその子・惟清の妻であるとか、宮廷に仕えた女房との説がある。女御とは天皇の寝所に仕える職であるが、祇園女御は正式にその職に任じられておらず、居住した祇園にちなんで名乗っていたといわれている。 このほかの史料では、平安末期の歴史書の一つ『今鏡』が清盛を白河法皇の御落胤とする説を繰り返し述べている。では、ほかに清盛出生の謎を探る史料はないのであろうか。次に、その点をもう少し掘り下げてみよう。 明治26(1893)年、東京帝国大学文科大学(今の東京大学文学部)の教授を務めていた星野恒が、『仏舎利相承系図』を学界に初めて紹介している。そこには清盛の出生について、驚くべき内容が記されていた。ちなみに『仏舎利相承系図』とは、滋賀県多賀町の胡宮(このみや)神社が旧蔵していた史料である。 『仏舎利相承系図』には、清盛の母という女房は、祇園女御の妹であったと記されている。そして、女房のことを説明する注記の個所では、「女房が白河法皇に召されて懐妊し、そのまま忠盛に嫁いで清盛を出生した」と書かれている。 白河法皇は崩御の際に、釈迦の遺骨という仏舎利を祇園女御に譲った。譲りを受けた女御は女房の産んだ清盛を自分の猶子(ゆうし、養子)とし、さらに仏舎利を譲ったという。猶子とは、相続を目的としない親子関係のことである。『仏舎利相承系図』は文暦2(1235)年7月の段階で成立しており、この頃から清盛の御落胤説が流れていたのだ。 『仏舎利相承系図』の記述は、根も葉もないことなのであろうか。これを補強する材料として、当時の公家日記である『中右記(ちゅうゆうき)』の記述が重要視されている。『中右記』は平安時代の公家・藤原宗忠(1062-1141)の日記で、当時の世相を知るうえで極めて重要な日記である。御落胤説を裏付ける証拠とは? では、『中右記』には、いかなることが記されているのであろうか。『中右記』保安元年7月12日条には、忠盛の妻が亡くなったとの記事がある。宗忠はこの妻について、「これ仙院の辺りなり」と説明を施している。 仙院とは、上皇・法皇の御所または上皇・法皇のことを意味する。つまり、当時でいえば、白河法皇を意味するのは間違いない。その点を考慮すると、忠盛の妻が白河法皇に繋がる女性であった可能性が俄然(がぜん)高くなる。 保安元年の時点において、忠盛は25歳で、清盛は3歳の幼子であった。決して年代的にも矛盾しない。また、『平家物語』の語り系の諸本では、忠盛が御所の女房と通じていたことが記されている。そのような理由から、清盛の母が白河法皇に仕えたことは、ほぼ間違いないと考えられる。 このように、長らく清盛は白河法皇の落胤であり、皇胤であるとの説が流布してきた。明治以降、『仏舎利相承系図』という新たな史料の出現もあって、清盛御落胤説=皇胤説は補強され、揺るがぬものとなった感がある。では、星野恒以降、この説はいかに継承されたのであろうか。まずは、清盛御落胤説=皇胤説を肯定する立場から確認しよう。 大正時代に入ると、東京帝国大学史料編纂(へんさん)所の和田英松は『仏舎利相承系図』を史実として受け入れ、さらに先の『中右記』を裏付けの証拠とした、さらに、当時、白河法皇の御落胤が実際に存在した事実、そして清盛が幼い頃から破格の待遇を受けていたことも理由とした。『仏舎利相承系図』の史料的価値を重視したのが特長である。平清盛像(重文、六波羅蜜寺蔵)  和田英松が見解を述べて以降、歴史家を中心として、清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられるようになった。特に、戦後になると、日本史の通史が数多く刊行されたが、肯定する説が大勢を占めたのである。むろん、全面的にというわけではないが、若干の疑問を呈しつつも肯定に傾いていったというのが近いであろう。 清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられる中で、これを疑問視する考え方も登場した。その中心となったのは、特に『平家物語』を研究する国文学者たちであった。彼らは、どのように考えていたのであろうか。 清盛御落胤説=皇胤説を否定する人々の論拠とは、どのようなものだったのであろうか。代表的なものをいくつか紹介しておきたい。 先述のとおり、『平家物語』(延慶本)は、清盛の母を祇園女御に仕えた中臈女房としている。この延慶本は『平家物語』の諸本の中で、もっとも古い形態を残すものである。したがって、より信憑(しんぴょう)性が高いのではないかと考えられている。未だに解明されない謎 また、別の見解では、『仏舎利相承系図』に記されていた清盛御落胤説=皇胤説が13世紀初頭に広まっていたとし、それが『平家物語』が成立する際に強く影響を受けたと指摘する。清盛在世中は御落胤説=皇胤説の広まりを確認できないが、12世紀末頃から13世紀初頭にかけて流布したのであろう。 『平家物語』(延慶本)は、清盛御落胤説=皇胤説の記事の最後の部分で「この事、信用に足らずという人もあるらしい」と記している。つまり、言外に清盛御落胤説=皇胤説は史実として認められず、作者による創作であることを匂わせているのである。こうして清盛御落胤説=皇胤説を否定したのである。 ところが、近年では『仏舎利相承系図』の史料価値を疑問視し、当該期の史料から裏付けが得られないので、事実として疑わしいと断言する歴史家もあらわれた。同時に、清盛が御落胤であることは、将来の皇統を受け継ぐ可能性があることから、かえって反対勢力の監視にあって不利であったと指摘している。 清盛が破格扱いを受けていたかという点についても、『今鏡』の記事をもとに疑問視している。白河法皇は清盛を昇殿可能な蔵人(くろうど、秘書役)にも任じることなく、これまでいわれたほど厚遇していないのである。ただし、平氏一門が白河法皇から厚遇され、清盛の出世が早かったのは事実である。そうでなければ、異例なまでの大出世はしなかったはずだ。 以上のように、清盛が天皇の御落胤であるか否かについては、古くから歴史学者や国文学者によって論じられてきた。日宋貿易で輸入された青磁の皿や壺が並ぶ特別展「清盛と日宋貿易」=播磨町の県立考古博物館 結論からいえば、清盛の母は祇園女御の妹であった可能性が高いとされている。忠盛の父である正盛は、早くから祇園女御に仕えており、それは忠盛も同じであった。祇園女御に仕える中で、忠盛はその妹と結ばれ、清盛を産んだのである。ただ、清盛が御落胤であるか否かについては、まだ検討の余地があろう。 清盛の御落胤説については決め手となる史料が乏しく、十分に確証を得られたわけではない。通常、歴史研究では同時代の古文書や日記などの一次史料が用いられ、後世に編纂された二次史料は価値が劣るので、証拠としての価値が劣る。ただ今後、清盛の出生にまつわる一次史料が出てくるとは、到底考えにくい。 今後、状況証拠的な史料を収集・検討し、さらに議論を深める必要がある。清盛御落胤説は、いまだ謎といえるであろう。 清盛は出自の問題もさることながらも、天皇家や摂関家と積極的に姻戚関係を結び、天皇を凌駕(りょうが)する権力を保持したのは確かなことである。

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    天皇の子孫だった平将門が自称した「新皇」の謎

    007年。野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年樋口州男『将門伝説の歴史』吉川弘文館、2015年元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年。森公章『古代豪族と武士の誕生』吉川弘文館、2012年。

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    正親町天皇と織田信長が対立した「蘭奢待切り取り事件」

     天皇と為政者のすれ違いは、時に激しい衝突に発展することもあった。歴代天皇と時の権力者の対立の歴史から、正親町天皇と織田信長が、蘭奢待(らんじゃたい)切り取りで対立した事件について、歴史家の八柏龍紀氏が解説する。* * * 戦国時代、彗星の如く台頭した織田信長は、天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとしていた。 一方、応仁の乱以降、長びく朝廷財政の悪化のなか即位した正親町天皇は、信長の台頭に「ご褒美」の綸旨(りんじ、天皇の意を伝える奉書)や官職を与えて、引き換えに様々な財政援助を引き出そうとした。 その意味で両者は一見、“持ちつ持たれつ”の関係であったが、信長は正親町天皇からの度重なる無心に業を煮やし、東宮である誠仁親王の元服費用を求められた際は、質の悪い悪銭を進上し抗議の意を示したというエピソードもある。 そんな両者の争いが鮮明になったのが、天正2年(1574年)に起きた「蘭奢待切り取り事件」だ。蘭奢待は聖武天皇の遺宝とされる香木で、東大寺正倉院に収蔵される。「天下第一の名香」と謳われ権力者に重宝された。信長は、自身の権力を誇示すべく、この蘭奢待を切り取る勅許を正親町天皇に求めたのである。2016年10月4日、奈良の正倉院で行われた、年に1度、宝物の点検などのため宝庫の扉を開ける「開封の儀」 正親町天皇は、「そんなことをすれば聖武天皇の怒りが天道にまで響く」と怒りを顕わにしたが、最終的には許さざるをえなかった。 大名間の抗争が激化する戦国時代にあって、朝廷の役割には、それらの抗争を鎮め「和睦」を促す、いまで言う「バチカン」的な役割があった。正親町天皇もまた、時の権力者である有力武将や寺社と円満な関係を築くため、全方位に配慮せざるを得なかったのだ。■取材・構成/池田道大●やがしわ・たつのり/秋田県生まれ。慶應義塾大学法学部・文学部卒業。高校教師、大手予備校講師などを経て、現在、淑徳大学エクステンションセンター講師、京都商工会議所主催「京都検定講座」講師。日本近現代史、日本文化精神史、社会哲学など幅広いテーマで執筆、論評、講演を行う。『戦後史を歩く』(情況出版刊)、『日本の歴史ニュースが面白いほどわかる本』(中経出版刊)など著書多数。近著に『日本人が知らない「天皇と生前退位」』(双葉社刊)がある。関連記事■ 後陽成天皇、朝鮮出兵を巡る豊臣秀吉との確執は死後も続いた■ 陛下の過去のお言葉から平和を求めるメッセージを読み解く本■ あなたの知らない「天皇家」の謎 皇室の祖先にワニがいた!?■ 全国で最も多く祀られる八幡神は実在濃厚な最古の天皇御神霊■ 名刀コレクター徳川家康 信長や秀吉保有の名刀群も収集

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    織田信長と比叡山延暦寺 420年の恩讐を越えた和解

    仏を供養する際に花を散布すること)した。 その後、延暦寺執行・小堀光実氏はこう語った。「9月12日は歴史上、『法難』。比叡山のみならず比叡山を取り囲む地元、裾野の方々に対しても、大変な災難を迎えた日です。いまから450年も前とは申せ、後世に伝えていかねばならぬことだと思います」 いまから445年前、延暦寺では忌々しい悲劇が起こった。それは織田信長による焼き討ちだ──。2016年から始まった「平成の大改修」が行われる前の比叡山延暦寺の根本中堂=2014年2月22日、大津市坂本本町 法要が営まれた「元亀(げんき)の兵乱殉難者鎮魂塚」は、この犠牲者を慰霊するために建てられたもの。この日は焼き討ち犠牲者を供養したのだが、それと同時に“加害者”である信長の供養までもが行なわれていたのだ。“怨み”を持っていたはずの延暦寺が信長を鎮魂するに至るまでには、一体何があったのだろうか──。 信長が天下布武を唱え、日本統一を進めていく中で、最も残虐な行為と伝えられるのが元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちだ。 元亀元年からの3年間は、信長にとって苦難の時期だった。1568年、信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した。だが傀儡将軍であることを嫌った義昭は、密かに敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、大阪・石山本願寺、伊勢長島の一向一揆の衆らと通じ、“信長包囲網”を敷いた。 この四面楚歌の状態を打ち破るべく、信長は反目する延暦寺の焼き討ちを企てたのだった。作家で日本史研究家の高野澄氏が解説する。「延暦寺が信長の仇敵である朝倉・浅井連合を領地に匿い、肩入れしたということが表向きの理由ですが、信長は当時の寺社仏閣の宗教勢力が武器を持って『僧兵』となり、大きな力を持ち始めていたことに強い危機感を覚えていた。 特に比叡山は広大な寺社領地や豊富な財力を持っており、琵琶湖の湖上運輸の実権も握っていた。また開山以来、朝廷と近い関係を結んでいたのも気に入らなかった。そのため朝倉・浅井を口実に焼き討ちを決行したのです。言い換えれば、信長は“政教分離”を求めた史上初の人物だったともいえます」信長を「比叡山の恩人」と言い出した大僧正 これには家臣の佐久間信盛や武井夕庵らが「鎮守の王城を焼くとは前代未聞」と忠諫(ちゅうかん)したが、信長が聞き入れることはなかった。そして「比叡山延暦寺焼き討ち」を行ない、泣いて命乞いする僧俗3000人を殺戮したと伝えられている。以来、信長は比叡山のみならず、天台宗信徒から「仏敵」と見なされてきた。だが、冒頭で述べた通り、現在延暦寺では信長の鎮魂のために回向法要を行なっている。 その背景には、これまで「仏敵」だった信長を「比叡山の恩人」と言い出した人物の登場があった。天台宗大僧正・比叡山長臈(ちょうろう)の小林隆彰氏である。 1970年、延暦寺副執行だった小林氏は比叡山発行の『比叡山時報』で、「新生比叡は信長に功あり」と信長仏敵論に異を唱えた。著書『比叡の心』には、こう記されている。〈信長にも焼くべき理屈があっただろうし、比叡山側にも焼かれる原因があった。いたずらに信長を憎むのは仏の道に反する〉 小林氏が主張する延暦寺側の焼かれる原因について、前出の高野氏が解説する。「最澄が開山した当初の比叡山は『人はみな仏になる』という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞、日蓮など、多くの名僧を輩出した。 しかし、平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして『鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず』と嘆かせた」 戦国時代に入ると比叡山の腐敗は更なるものとなる。「衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行なったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。 その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた」(同前) 続けて前出の『比叡の心』で、こう触れている。〈天下が乱れ切り、その一翼を担った比叡山は結局は、焼かれる運命にあったように思うのである。叡山僧が開祖大師のお心を踏みにじって来た仏罰に素直に頭を下げねばならぬ〉 だが、小林氏が「信長恩人論」を掲げると、当然のように天台宗の学者や信徒からは反発の声が相次いだ。「比叡山が生き返ったのは、信長が焼いたお陰だとは何事か」「これを書いた者は即刻比叡山から追放せよ」「信長に焼かれなければ、日本史にとって学界の定説が覆るほどの資料が残っていたはず」 その声は様々だったが、小林氏に賛同する声は圧倒的に少なかった。信長を祭神とする建勲神社(京都市北区)の松原宏宮司も当時を振り返る。「昔は『うちは信長に焼かれた』と嘆くお坊さんもいました。その中で、あのような発言をされたからにはご苦労もあったと思う」「延暦寺が信長を『仏敵』というのは誤解」 逆風の中でも、小林氏は長年にわたり「恩人論」を唱え続けた。〈若(も)し、信長の鉄槌がなかったにしても必ず仏の戒めを受けていたはずである。焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。物に酔い、権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた。山の規則を改め、修学に精進したのである(中略)信長は後世の僧達にとって間違いなく一大善智識の一人であったと思うべき〉(前述『比叡の心』より) 1991年、延暦寺執行に就任した小林氏(大僧正就任は1994年)は、翌年、「怨みの心は濯ぎ、信長とは和睦したい」と慰霊の法要を発願し、犠牲者と信長を合同で供養する前述の鎮魂塚が建立された。420年の恩讐を越えた「和解」が行なわれた瞬間だった。 以来、冒頭のように、毎年9月12日になると追善回向の法要がひっそりと営まれているのだ。 信長と延暦寺の「和解」を示す催しは法要だけではない。2011年5月、信長を主人公とした甲冑能が延暦寺で上演された。この能のテーマは「怨親平等」。 かつての信長の家臣が出家し、主君に縁の地を訪ね歩くうち、いつしか比叡山にたどり着く。そこで休んでいると、夜更けに信長の亡霊が現われ、焼き討ちの模様などを語り始める。僧兵の霊との立ち回りを交えながらも、やがて闘いの虚しさを覚え、供養を頼み消えていく、という内容だ。 まさに小林氏の思いと一致する内容の作品だった。比叡山延暦寺の副執行・水尾寂芳氏が続ける。「そもそも比叡山延暦寺が信長を『仏敵』としていると思われていること自体、誤解されている部分がある。 確かに信長と比叡山は戦争をしており、敵同士でした。だが、伝教大師(最澄)の『怨みをもって怨みに報ゆれば怨み尽きず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽く』という言葉があるように、怨みをずっと持っていたら平和に繋がらない。怨親ともに仏縁であるということです」 焼かれた側はすっかり許しているようだが、一方の焼いた側の織田家は「信長恩人論」をどう受け取っているのか。信長の直系の子孫・織田信孝氏に聞いた。信孝氏は小学生の頃、歴史の授業で習う信長の比叡山焼き討ちをはじめとする大虐殺の影響で、いじめられた過去を持つ。「私は織田家の血を引く子孫であるだけで、織田家の代表という立場ではありませんが、私個人としては小林氏の考えは宗教家として素晴らしいと思います。 単に『時が経ったから水に流そう』ではなく比叡山の非も認めて、そこを起点に更なる上を目指そうとしている。日本人の気高さを感じることができた。 例えば、中国なら南京大虐殺を外交カードに使ったりしてくる。でも日本人はオバマ大統領が広島を訪問したときも過去を非難するのではなく、温かく出迎えた。それと同様の精神を感じます」 延暦寺の思いは法灯とともに後世へと引き継がれるだろう。関連記事■ 凶が多いといわれる浅草寺のおみくじ 古来からの割合を厳守■ 一周忌の高倉健さん 養女以外の遺族は遺骨の場所を知らない■ 織田信長は論理的思考と解析に優れた“システマイザー脳”■ 武将が敵味方なく供養される高野山 織田信長と明智光秀も■ 織田信長作品が注目を集める背景に強いリーダーを求める傾向

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    江戸時代はなぜ260年も続いたのか

    「江戸時代の日本に戻れ」。月刊誌『文藝春秋』の最新号に、人口減少社会を迎えた現代日本が目指すべき「国のかたち」を提唱する細川護熙元首相の論考があった。中身はともかく、近世史研究が進んだ今、江戸時代を再評価する言説が流行りである。とはいえ、ホントに良い時代だったのか?

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    北朝鮮と同じ「世界の三流国化」を受け入れた江戸幕府の大誤算

    (かち、いわゆる下級武士)とは行き来もあったが、上級武士に下級武士が昇格できたのは、中津藩200年の歴史でも数例だけだといっている。 殿様が自分の家臣と意識しているのも、上士だけだった。もっとも、身分制度は藩によってかなり違いがあるのだが、明治になって士族と位置づけられた階級の中でも、馬に乗れて袴(はかま)を履く「上士」、袴は履くが馬に乗れない「徒士」「足軽」、武家奉公人たる「中間(ちゅうげん)」などに分かれていた。 侍というのは上士の中でも上層部を指すことが多かったし、足軽以下は武士ではなかった。したがって、足軽が先祖だったら、「私の祖先は明治時代に士族になりました」とは言えるが、「武士でした」とか「侍の子孫です」「藩士でした」といえば詐称だ。 それでも、科挙があるから無教養ではダメな中国や朝鮮の政府の役人に比べて、旗本や大名の家来はあまり学問を要求されなかったし、出来が悪くても育ちだけで役職に就けた。といっても、当然実務などできるはずがない。そこで勘定方や儒者、藩医、砲術型、剣道師範などといったグループが別にいて、それぞれ世襲で技能を磨いて実務を担当した。福沢諭吉の家系は勘定方だし、久坂玄瑞は藩医、吉田松陰は兵法家の出身だ。 さらに、幕府や藩の財政の仕組みもじり貧にならざるを得ないものだった。戦国大名や信長、秀吉は、米の年貢を基本としたが、ほかの収入も重視した。商工業の発展を図り、鉱山開発を盛んに行ったうえに、貿易から上がる利益も大きかった。 しかし、儒教的な農本主義にたった江戸幕府は、米に対する年貢に頼った極端な税収構造にした。それが差し当たって可能だったのは、徳川将軍家が俗に天領といわれた幕府直轄領を400万石にし、旗本知行地の300万石と合わせて700万石と広く取ったからだ。豊臣家の直轄地が200万石くらいだったからかなり多い。しかも江戸時代の前半には、戦国時代に発達した土木、治水技術の応用で容易に新田開発も可能だった。米偏重で財政は火の車 さらに外政では、朝鮮への再出兵も行わず、外国からの侵略に備えることもせず、琉球を薩摩藩の支配下に置いた。内政ではキリシタンを弾圧し、檀家(だんか)制度で仏教を骨抜きする宗教政策を進め、大名の領地を取り上げて将来の不安を解消することもしなかったので、軍事費が減り、築城や大砲の進歩に対応した城の増強もしなかった。だから、鎖国して貿易利益が縮小しても、当面は大丈夫だったのだ。 ところが、この米中心の財政構造は無理があった。今でいう国内総生産(GDP)に対する租税負担率が徐々に下がることが避けられなかったからである。 まず、米の需要には限りがある。ところが、米以外からでは年貢が取れないので、各藩は米を増産する。そうすると当然過剰生産になり米価が下がってしまった。なにしろ、江戸時代後期には全国の人口が3千万人に対し、米の生産量を示す石高は3千万石だった。 つまり1人あたり1石の消費だが、これは1日換算では5合にもなる。つまり、江戸時代の日本人は無理な税収構造の果てに、過剰生産により安かった米のご飯を、みそだ、漬物だ、小魚だといった貧弱なおかずでひたすらかき込んでいたのである。 また、天変地異に弱い米に偏った作付けは、冷害や干魃(かんばつ)による飢饉(ききん)を何度も引き起こし、そのたびに現代の北朝鮮のように膨大な餓死者を出した。しかも、貿易をしないから輸入ができない上、民政を各藩に任せたために、気の利いた「名君」だけがあらかじめ米を買い占めて自藩の領民を救ったので、特定の藩では生き地獄の事態を招いたのである。 飢饉のときには、餓死までいかなくとも栄養不足により人口減が見られた。現代の北朝鮮でも文字通りの餓死以外に同様の事態がしばしば起こっているのである。 また、年貢の取り方としては、当初は検見(けみ)法といって作柄を役人が調査して税額を決めていた。しかし、これでは収入が不安定だし、検査に経費がかかるし、不正の温床となった。 そこで定免(じょうめん)法という定額制に移行していった。これは、導入当初は税収の安定をもたらし、行政経費の削減にもなって領主にとっては有利だった。しかし、時間がたつと、農民は工夫して増産をしても年貢は変わらなかったので、実質的に税率の低下をもたらした。 さらに、鎖国といえども新しい技術や作物がわずかながら導入され、独自の技術発展もあったので、さまざまな商品作物が栽培され、工業製品も考案されたので、米の年貢から上がる税収の対GDP比率はますます下がった。そこで、西日本の雄藩などは商品作物の作付け奨励や、専売制の実施といった政策で、新しい税収の確保に努めたのだが、幕府や東日本の藩は全般的に、税収確保の流れを「体制の危機」ととらえて抑制した。 その結果、幕府は松平定信の寛政の改革(1790年前後)に代表される贅沢禁止などにより、税収が増えないならGDPを減らせば租税負担率は低下しないというとんでもない政策に走った。また、貨幣改鋳は幕府にとって最大の収入増になるはずだったが、道義的に好ましくないと考えられ、実施されるのはいつも時期外れで、しかも稚拙だった。貿易嫌いの江戸幕府 貿易も、鎖国当初は長崎を通じてかなりの規模で行われていた。そのころは金銀の生産が多かったので輸入が容易だったのである。しかし、鉱山開発の最新技術導入ができないまま、生産はどんどん低下し競争力も失われた。主力品だった陶磁器も明の滅亡前後の混乱による景徳鎮の衰退に乗じて、一時的に市場が拡大したが、中国王朝の復活とヨーロッパでのマイセン焼の発展で全盛期は長く続かなかった。19世紀の長崎 そこで、本来であれば幕府が率先して大々的に輸出産業の振興を図らねばならない。実際、江戸中期に田沼意次が「乾隆帝バブル」の清王朝にナマコやアワビ、フカヒレなどを俵に詰めた俵物(たわらもの)を積極的に輸出して莫大な利益を得た。ところが、田沼失脚後の松平定信は、できればオランダとの貿易もやめたいくらいという貿易に後ろ向きの態度に終始して事態を悪化させた。 当たり前のことだが、鎖国して技術交流もせず、まったく代わり映えのしない製品を国内でつくり、変わらぬ生活をしていれば、産業の国際競争力が落ちる。そうすれば、細々と行っていた貿易でも輸入品に対する国産品の格差が大きくなるのは当然だ。 そのツケは、鎖国期も払っていたが、開国したら、長く職場を離れていた病み上がりの人が新しい仕事に適応できないのと同じことになったのである。そして、特に武器の分野では、火縄銃で最新のライフル銃と対峙(たいじ)する羽目になるほど、ひどい目にあったのである。 先に書いたように、江戸幕府や多くの藩は、生活や経済構造をなんとか変えないようにした。しかし、新しい商品が生産されるのを完全に封じるわけにはいかないので、租税負担率が低下し、その結果、武士の生活は惨めになった。 農民は、商品作物のおかげで豊かになることもあったが、主力作物の米に重税を課された上に米価も低迷したので苦しい生活が続いた。それに対して、町民は税金もあまり取られないため豊かになった。だから農民は逃散して都市に出たがる。実際、飢饉などによる人口低迷もあって、耕作する農民がいない田地が続出したのである。そこで、農民の移住はもちろん、旅行すら原則禁止する藩も多かった。 こういう状態を「農奴に近い」と表現しても何もおかしくあるまい。 一方、町民は自由だったし、武士や農民より良い生活ができた。とくに江戸はインフラもしっかりしているのでなおさらだった。時代劇に出てくる江戸の町民が幸せそうなのは、実際に豊かなわけではないが、地方の農民に比べて格段に恵まれていたのだから当たり前で、それは平壌の市民が体制を熱烈に支持しているのと同じような状態だったのである。 また、藩が農民の逃亡を恐れて縛り付けても、江戸や大坂の周辺には、小領地が錯綜(さくそう)していたので統制のしようがなかったし、都市でアルバイトをするチャンスもあったのは事実だ。 いずれにしても、このように、幕府や東国の各藩が財政破綻、農民の不足、武士の窮乏化に悩んでいるときに、西南雄藩では税収も人口も増え、農民も相対的に豊かになっていった。「東西格差」が明治維新の伏線に また、薩摩藩は琉球を支配していた上に、江戸中期以降は、徳川家との縁組を強化し、ついには、11代将軍徳川家斉と13代将軍徳川家定の御台所を出すまでになり、御三家に劣らない治外法権的な地位を確立した。この地位を利用して密貿易や、大坂商人から強引な借金棒引きにも成功した。 言ってみれば、北朝鮮と韓国の国力差が西日本と東日本でも生じたようなもので、その格差が倒幕と明治維新の伏線になったわけである。 最後に、江戸時代の技術や教育水準について簡単に書いておく。鎖国期には独自の工夫で砂糖や綿花に代表される日本の気候に向かない産物を生産したり、ガラパゴスな技術で工業を発展させた。 しかし、そうした製品は、開国した途端に輸入品に駆逐された。それは東西冷戦時代に、西側から揶揄(やゆ)された東ドイツの「段ボール製自動車」や、ポーランドで温室に石炭をたいて生産していたバナナと同じようなものだ。 江戸時代のそうした工夫を褒める人もいるが、ポーランド産のバナナと同様に、鎖国というバカげた政策のあだ花に過ぎなかった。そして何より問題だったのは、軍事技術で大きな遅れを生じさせ、19世紀を迎えても火縄銃とライフル銃で列強と対峙する羽目になり、日本は危うく植民地にされかかったことである。 「鎖国していなければ植民地にされた」などと愚かなことを言う人がいるが、17世紀のスペインやポルトガルは、インドのゴアのような貿易拠点や、フィリピンのように国家が成立していなかった地域を占領したり、金属製の武器を持たなかった南米を征服したわけで、日本のような国を植民地支配することは不可能だった。 また、日本の教育が先進的だったというのも大嘘だ。よく言われる識字率の高さについては、日本では仮名が読み書きできるかどうかだが、中国では数千字の漢字の読み書きで判断していたのだから、そもそも比較基準が大きく違う。 また、寺子屋の普及も藩校がでそろったのも天保年間(1830-44年)のころで、西洋では既に近代的な学校制度ができ上がっていた。しかも、藩校では算術を教えなかったので、武士たちは軍人としても官僚としても役立たずで、戦国時代の先祖の功績による「年金生活者」に過ぎなかったのである。

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    徳川幕府の危機を何度も救った江戸時代版「3本の矢」の真実

    岡田晃(大阪経済大客員教授、経済評論家) 江戸時代は徳川幕府による長期政権が続いたが、決して平穏だったわけではなく、実は何度か幕府存続の危機に見舞われていた。それを乗り切り長期政権を築くことができた理由を経済的な側面から見てみると、①時代の変化に合わせた戦略転換②徹底した危機管理③幕府財政と国民生活を豊かにする成長戦略――の3つが浮かび上がってくる。いわば「江戸時代版・3本の矢」だ。 家康が幕府を開いて以後、最初に危機が訪れたのは、第3代将軍・家光が死去した1651年だ。周知のように家光は祖父の家康と父の秀忠が築き上げた徳川幕藩体制を完成させ、世の中も安定したかに見えていた。しかし、その家光が48歳の働き盛りで亡くなり、4代将軍となった家綱はまだ11歳だった。今日の企業経営になぞらえれば、代々の創業家社長が強いリーダーシップで「徳川株式会社」を大きくしてきただけに、前途に暗雲が立ちこめる事態となったのだ。皇居・東御苑にある旧江戸城の櫓「富士見櫓」=東京都千代田区 しかもそのころ、幕府に対する反感がひそかに広がっていた。関ヶ原の戦い以後、幕府が大名を次々と取り潰した結果、浪人があふれていたためだ。彼らの一部は、大坂の陣や島原の乱などに加わるといった、すでに社会の不安定要因となっていた。 家光の死去直後には、浪人グループが幕府転覆を企てたとされる由井正雪の乱(慶安の変)が起き、その翌年にも浪人が老中を暗殺しようとする事件が起きている。これら二つの事件は未然に弾圧されたが、幕府にとって重大な危機だった。 そこで幕府は、家光の異母弟である保科正之(会津藩主)が幼い将軍、家綱の後見役となり、その下で老中が幕政を執行するという集団指導体制に移行して、この危機を乗り切った。 政策転換も図られた。それまでのように大名を容赦なく取り潰す武断政治から、大名への統制を緩和し一定の配慮をする文治政治に転換した。戦国時代以来、当たり前とされてきた殉死の禁止にも踏み切った。 武断政治から文治政治への転換は、幕府の基本戦略そのものを転換したことを意味する。今日で言えば、時代の変化に合わせて企業がビジネスモデルを変えていったようなものだ。これがあったからこそ、徳川幕府がその後、長期間にわたって続くことができたのである。 2度目の危機は、1712~16年にやって来た。6代将軍・家宣が病死し(1712年)、唯一の後継ぎだった家継が5歳で7代将軍に就任した。しかし、その家継もわずか8歳で病死したのである(16年)。これで家康―秀忠―家光の子孫の男子は事実上だれもいなくなってしまった。 そこで、紀州藩主だった徳川吉宗が8代将軍に就任したのだった。吉宗は徳川家康の十男、頼宣の孫にあたるが、いわば徳川の分家の子孫という存在であり、普通なら将軍になれる立場ではなかった。しかし、家康が構築していた危機管理策のおかげで将軍に就任することができた。御三家体制の確立 では、家康はどのような手を打っていたのか。家康は長年苦労に苦労を重ね、60歳を過ぎてようやく天下統一を果たしたことから、徳川政権が未来永劫に続くことを願い、徳川政権を脅かす芽を徹底的に摘み取った。 大名の容赦ない取り潰しをはじめ、大名の妻子を人質として江戸に住まわせる、参勤交代や普請(現在の公共事業)などで経済力を弱める、外様大名を遠隔地に移封して幕政に参加させない代わりに石高は多くするなど、謀反を起こさせないように何重にも対策を張り巡らせた。 しかし、肝心の徳川家の血筋が絶えてしまっては元も子もない。そこで家康と、その遺志を受け継いだ秀忠が作ったのが御三家の体制だった。家康の11人の息子のうち、九男を尾張、十男を紀伊、十一男を水戸の藩主とした。もし将来、秀忠の子孫の血筋が絶えた場合に備えて、この御三家の中から誰かが将軍を継ぐことができるようにしたのだ。究極の危機管理策である。静岡市にある徳川家康公之像 吉宗の8代将軍就任は、その危機管理策が約100年後に効力を発揮したことを示している。吉宗が将軍になるにあたっては、次期将軍の座をめぐって尾張藩との争いがあったと言われているが、それも幕府存続を大前提とした中でのことであり、それほど御三家という危機管理策が浸透していたことがうかがえる。 吉宗が享保の改革などで幕府を立て直したことは良く知られるとおりで、それが徳川政権のさらなる長期化につながったことは明らかである。血筋の面でも14代将軍まで代々、吉宗の子孫が将軍となっている。もし御三家という危機管理策がなかったなら、名君・吉宗の登場と徳川の長期政権はなかったかもしれない。 第3は、成長戦略である。江戸時代の経済は成長と低迷を繰り返してきたが、大きな経済成長の波は3度あった。最初の経済成長は元禄時代(1688~1704年)、5代将軍・綱吉の時代である。 これは前述の武断政治から文治政治への路線転換がきっかけとなっている。世の中が安定して各藩主は領国経営に力を注げるようになり、農業生産が上昇した。人々の生活が向上すると余裕が生まれ、その中から文化や学問も発展した。いわゆる元禄文化である。今日で言えば高度経済成長、あるいはバブル経済といったところだろうか。 実は、元禄時代より少し前の時代、江戸は未曽有の大災害に見舞われた。1657年の明暦の大火(振袖火事)で、江戸の大半が焼け野原となり江戸城内にも燃え移り天守閣が焼失した。死者は10万人に及ぶと言われる。 幕府は前述の保科正之を中心に、江戸の復興に取り組んだ。延焼を食い止めるため各地の道路を拡幅し広小路を作った。現在も地名を残す上野広小路はこの時に作られたものだ。また、それまで幕府は江戸防衛の観点から隅田川にはほとんど橋を架けていなかったが、そのために大火の際に多くの人が川を渡って逃げることができず焼死したことから、現在のように川に多くの橋を架けた。 江戸はこうしてインフラ再整備と再開発が進み、復興を成し遂げることができた。これが元禄時代の江戸の繁栄につながったのである。しかし、元禄以後、経済は下降し始める。現代風に言えばバブル崩壊だ。 これには、綱吉の後を継いだ6代将軍の家宣と7代の家継時代の政策も影響している。家宣は生類憐みの令を廃止するなど、綱吉政治を否定する政策をとったが、その一環として貨幣の改鋳を行った。元禄時代に発行された貨幣は金銀の含有率を低下させていたため、将軍のブレーンだった朱子学者の新井白石は「公儀(幕府)の威厳を低下させるもの」と非難し、金銀の含有率を幕府開びゃく当初の慶長金貨並みに引き上げることを提言し実行した。アベノミクスの原点 しかし、それは時代に逆行するものだった。金銀の含有率を引き上げ、新貨幣の価値を保つため貨幣発行量を減少させた。いわばデフレ政策で、景気を冷え込ませる結果となった。 そうした中で登場したのが8代将軍・吉宗だ。吉宗の享保の改革は当初は、質素倹約、年貢の強化などで幕府財政の立て直しを図ろうとしており、いわばデフレ政策の継続が中心だった。 しかし、注目すべきなのは、途中から貨幣の金含有率を再び引き下げて貨幣の発行量を増やすインフレ政策に転換したことだ。デフレから脱却して緩やかなインフレをめざす――今日のリフレ政策、アベノミクスの“原点”とも言えるものだ。 吉宗はまた新田開墾、産業振興を奨励した。成長戦略の導入である。その結果、経済は再び上向き幕府財政も好転する。弱っていた幕府の政治的経済的基盤は強化された。これが江戸時代の経済成長第2の波だ。 吉宗の政策は、次の9代・家重と10代・家治にも引き継がれたが、その時代に実権を握ったのが田沼意次だ。田沼は印旛沼開拓や鉱山開発、蝦夷地開発などを進めるとともに、商業の振興や貨幣経済の発展を図った。長崎貿易を奨励して貿易による収入を増やす方針も打ち出した。田沼の政策は当時としてはかなり先進的で、成長戦略のメニューがそろっていたと言える。その結果、幕府の備蓄金は元禄時代並みの水準まで回復する成果をあげた。 田沼意次は「賄賂政治家」と言われるが、それは当時の反田沼派の批判キャンペーンによって過大に作り上げられたイメージだとの指摘が少なくない。結局、将軍・家治の死去とともに田沼は失脚し、成長戦略は頓挫する。 その後を継いだ11代将軍・家斉の下で老中に就任した松平定信は、田沼政治をことごとく否定し、経済政策においてもデフレ政策に逆戻りさせた。松平定信が行った寛政の改革は、3大改革の一つとして必ず教科書に出てくるが、実際には経済を停滞させる結果となったのである。 その松平定信もまた厳しすぎた政策が原因で失脚し、そのあとに3度目の経済成長の時代を迎えることになる。文化・文政年間(1804~30年)のことだ。元禄、吉宗・田沼時代、そして文化・文政の3度の経済成長期を経て、全国の農業生産は着実に増加していた。 ある推計によれば、全国のコメの生産量は元禄時代の2900万石から、1840年ごろには3400万石へと増加している。年率わずか0.1%余りの低成長だが、技術革新などがほとんどなかったこの時代に生産力向上が持続していたことは特筆に値する。このことが徳川長期政権を支える役割を果たしたことは間違いない。 江戸時代の経済繁栄は文化・文政時代が最後となった。文政の次の天保年間に幕府は老中・水野忠邦の下で天保の改革を行うが失敗に終わり、その後は幕末に向かって崩壊の道を歩むこととなる。幕府とは対照的に、同じ天保年間以後に薩摩や長州などの雄藩は藩政改革に取り組んで自力で経済力を向上させることに成功した。それがやがて明治維新につながったのだ。 「江戸時代版・3本の矢」によって長期政権を築いた徳川幕府だったが、最後の最後で、ペリー来航など時代の変化に合わせて戦略を転換することに失敗し、危機管理の効果も発揮できず、成長戦略も挫折してしまったのだった。逆に言えば、その「3本の矢」がいかに重要な役割を果たしていたかを物語っている。 

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    江戸時代が「パクス・トクガワーナ」と世界から称賛される理由

    大石学(東京学芸大学教授) 来年2018年は「明治維新150年」にあたり、さまざまなイベントが企画されている。政府による「明治の日」制定も議論になっている。「維新元勲」西郷隆盛を主役とするNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」も発表された。 私も、原作・脚本の時代考証にかかわっている。この機会に、あらためて「明治維新」の今日的意義を考えてみたい。 近年、「江戸イメージ」が変わりつつある。かつて江戸時代は、近代化・民主化を阻む「悪しき封建制」の時代として、抑圧・搾取・差別など負の側面が強調されてきた。しかし、昨今は、100年間の「戦国時代」を克服し、250年以上に及ぶ世界史でもまれな「平和=徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の時代として、あるいは現代日本につらなる国家・社会のさまざまな制度やシステムが形成・発展した「文明化」「初期近代(アーリーモダン)」の時代として語られている。画像はイメージです 江戸時代の武士イメージも、戦国時代までの主体性・自立性の強い戦闘者から、勝手な武力行使を禁じられたサラリーマン武士=「官僚」へと変わり、庶民イメージもお上(かみ)頼みの悲惨(ミゼラブル)な被治者から、地域や集団の自治的運営の担い手へと変化しつつある。この結果、「時代劇」もまた、ヒーローや英雄が主役の「勧善懲悪」主義のチャンバラから、善悪・正否の判断や生き方に悩む一般の武士や庶民の生活・感情を、史実、史料、時代考証をもとに、リアルに描く新たな時代劇へとシフトしたのである。 これら「江戸イメージ」の変化は、「平和」「文明化」のもとでの国民的読み書き能力(リテラシー)の向上や、地域・身分を越えた生活・文化の共通化・普及が基礎にあることが指摘されている。これは、同時に今日和風、和式、日本型などとよばれる日本的な文化や習慣が国民規模で成立・浸透する過程でもあった。江戸社会は、明治の「文明開化」以前の、近現代とは大きく異なる、私たちが理解不可能な「前近代」社会から、近現代と連続・地続きの、私たちが理解可能な「初期近代」へと、その枠組みを変えたのである。 この変化は、そのまま「明治維新」評価の転換につながる。それは、従来の薩摩・長州など倒幕派による「江戸の否定(リストラ)」=「維新(これあらたなり、すべて新しくすること)史観」とは異なる、「江戸の達成」という新たな評価である。すなわち、明治維新は、幕府や藩の中下級官僚が政治の主導権を握り、国内の地域や身分など幕藩体制の「壁」を低くし、列島社会の均質化・同質化を進める一方、「開国」により鎖国体制の「壁」を取り払うという国家改造事業と位置づけられるのである。明治維新の今日的意義 列島社会の均質化・同質化に基礎づけられる「江戸の達成」は、明治初年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)を、従来の倒幕派=開明的=近代的軍隊と、佐幕派=保守的=封建的軍隊の戦闘ととらえる「西高東低」維新観とは異なる、近代的装備を備えた軍隊同士の戦争と見ることを要請する。戊辰戦争は、同レベルの武器を使って戦われたヨーロッパのクリミア戦争(1853~56、約90万人死傷)や、アメリカの南北戦争(1861~65、約62万人戦病死)に比して、はるかに少ない死傷者(1万3550人)で終わった。江戸城の桜田巽櫓 明治元年(1868)の大政奉還、同2年の版籍奉還、同4年の廃藩置県、という一連の国家制度改革も、武力抵抗なく平和裡かつ短期間に達成され、明治政府は、倒幕派・佐幕派の「壁」をこえたオールジャパンの官僚制による統治機構を構築した。これは、将軍を代表として、譜代大名や上級旗本など幕府上級官僚が主導する幕藩レジームから、朝廷官僚や藩官僚など中下級官僚を加えた「新政府官僚」主導の維新レジームへの移行が、最小のリスクと犠牲(省エネ、省ロス)のもとで実現されたことを意味する。 さて、「江戸の達成」としての「明治維新」から150年を迎えようとする今日、世界ではイギリスのEU離脱、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」、各地での保護主義・排他主義の台頭が見られる。国内でも、貧困・格差・差別問題など社会の分断が深刻化し、新たな「壁」が作られつつある。しかし、グローバリズムの影響のもと、地球の一地域から起こる戦争、疫病、環境破壊、経済混乱、サイバー攻撃などは、ただちに全世界へと拡大する。一国のみの「壁」に守られた安全・安定・繁栄は、すでに不可能になっているのである。 250年の「徳川の平和」の達成として、「幕藩体制」「鎖国体制」という内外の「壁」を、省エネ・低リスク・短期間のもとで取り払い、近代世界の一員となった体験をもつ日本の国家と社会は、今日、さまざまな「壁」を取り払う意義と役割を自覚し、その重要性を世界に発信する必要がある。「明治維新」の今日的意義は、ここにあるといえるのである。

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    江戸時代の湯屋 混浴禁止令出ても守られなかった

    った大書■ 親孝行サービス 寿司職人デリバリーは2時間10万5千円■ 「徳川家康は教育パパだった」等歴史上人物の逸話満載した本■ 江戸時代の長屋の大家 住人の糞尿で儲け低家賃が可能に

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    「徳川カンパニー」はホワイト企業? 家康の意外な遺産

    のではありません。変革への強烈な意志が大失敗をもたらすときもある。日本は世襲の原理が強く働く国柄で、歴史の推移がおとなしいというか、おだやかです。そのために血で血を洗う凄惨(せいさん)な抗争劇や、町がまるごと地上から消えてしまうような大虐殺は起きていない。でもやはり過度な世襲は、全て「前例の通り」に、という事なかれ主義につながりやすい。若いときに辛酸をなめた人物の方が、社会の不備や欠陥を端的に見抜くことができるのかもしれない。群馬県館林市の善導寺に伝わる徳川家康の肖像(模本、東大史料編纂所蔵) ぼくは徳川家康という人こそ、苦労が人間を大きくした典型ではないか、と思っています。信長のようなある種の天才ではない。秀吉のようなカンの冴(さ)えもない。だが地道に努力し、倦(う)まずに勉強する。子供の頃に生母と引き離されて人質生活を余儀なくされ、父も暗殺された。今川義元が桶狭間で倒れた後にやっと独立したけれど、周囲はよく知らぬ家臣が固めていて、自分の思いは通らない。 後世では忠節無比の三河武士、なんて言われていますが、あれは物語にすぎないんじゃないかな。地元第一で凝り固まった家臣の統制に、駿府という都会育ちの青年・家康は困り果てたんだろうと想像します。だってその証拠に、初代将軍の座を退いてから、家康は岡崎に帰っていませんもの。故郷というのは、「志を果たしていつの日にか帰る」憧憬(しょうけい)の地。でも家康にとって、それは駿府であって、岡崎ではなかった。 ともかく耐える。耐え忍ぶ。信長と攻守同盟を結んだら、それを絶対に破らない。武田信玄が攻めてきても、信長はまともに援軍なんか送ってきません。おかげで三方ケ原の戦い(1573年)ではあわや戦死しそうになって、怖くて大便を漏らして逃げた。愛する妻の築山殿と跡取り息子の信康も、信長の命で殺害した。それでも決して背かない。律義者の仮面をかぶり通したわけです。 徳川家は清和源氏の名門、新田家の子孫を称しています。ところが若き日の家康は「藤原家康」なんて堂々と署名している。おそらく「源平藤橘」の姓と、「新田・織田・徳川」などの家名との関係がよく分かっていなかったのでしょう。でも、そこから彼は歴史を学んで、わが家は源氏であって、だから征夷大将軍になるんだ、という論理を展開するまでになる。彼の好学の気風は九男の義直(尾張藩の始祖)、さらに水戸の光圀に受け継がれていきます。 さて、ここで問題です。家康の学問への真摯(しんし)な姿勢は、私たち中世史研究者(とくに政治史)に具体的な恩恵を与えてくれています。それはいったいどういうことでしょう? ヒントは、彼の本拠地選び、つまり江戸の開発です。「ホワイト企業」徳川の文化貢献 いま学界の主流は「織田信長は、特別な戦国大名では『ない』」という評価です。それはおかしい、信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ? と反論すると、いや、彼にとっての「天下」とは近畿地方を意味するんだ、とくる。いやいや、天下が日本全体を指している用例は鎌倉時代から普通にあるじゃないか、と反論しても、戦国時代に限れば、天下=畿内ですよ、と返される。まあ、信長株はどう見ても下落しているわけですね。 学界のつまはじきであるぼくは、それはおかしいでしょう、と言い続けています。分裂していた日本が一つにまとまる、という大きな変化に、ともかくも注目しようよ。その動きの中心にいた信長が、「特別でない」はずはないでしょ? と。 ぼくはかくのごとく信長を高く評価しているわけですが、でも、彼のような人が現実にいたとしたら、災厄以外の何ものでもないですよね。絶対に関わり合いになりたくない。働く先としても、信長カンパニーには就職したくない。徹底した能力主義で、小さなミスが左遷に直結する。ヘタをすると首がとぶ。小心者のぼくは、怖くて仕事に集中できない。 その点、家康カンパニーは平和です。オーナー=家康は「ケチ」。これはもう疑いようがなく、よその会社なら余裕で昇進だろう、という顕著な実績が、なかなか認めてもらえない。そのかわり、オーナーの気まぐれ人事はほぼない(ウマが合うから、みたいな理由で出世できたのは藤堂高虎くんくらい?)。昇給のスピードは遅いけれど、一度上がった給料は、保証してもらえる。これなら安心して仕事ができる。 さて、ここで先週の問題です。家康の学問への真摯(しんし)な姿勢が、中世史研究者に具体的な恩恵を与えてくれている。それはいったいどういうことでしょうか? というものでした。答えは古代・中世の書物、すなわちぼくたちにとってこの上なく大切なテキストを保存し、伝えてくれた、です。その代表が『吾妻鏡』なのです。 勉強家で好学の家康は数多くの書物を収集し、後世に残してくれました。徳川将軍家の蔵書は江戸城内の紅葉山文庫として知られ(といっても、この呼称は明治時代になってから用いられたもので、江戸時代はもっぱら「御文庫」と呼ばれた)、明治維新後は太政官の管轄となりました。のちに内閣文庫に継承され、昭和46年に国立公文書館が設置されると、他の内閣文庫本とともに移管。一般に公開されたのです。国立公文書館が所蔵する北条本『吾妻鏡』(同館ウェブサイトから) 『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂(へんさん)した正式な歴史書で、これをなくしては鎌倉時代の政治史は研究することができません。通常、私たちが『吾妻鏡』を読むときに用いているのは『国史大系』(吉川弘文館)の中に収録されたもので、これは『北条本』と呼ばれています。 なぜ『北条本』と呼ばれたかというと、戦国大名である後北条氏が収集し保管していたから。豊臣秀吉の小田原攻めの際、戦いの終結に尽力したのが黒田官兵衛。北条家はその労を多として、秘蔵していた『吾妻鏡』を官兵衛に贈った。のちに官兵衛の息子の長政はこれを江戸幕府に献上。かくて『北条本・吾妻鏡』が紅葉山文庫に所蔵された。歴史研究者はそういうふうに認識してきました。 ところが、これは全くの誤りらしい。東大史料編纂所の所長を務めた益田宗(たかし)さん(故人)、それに同じく編纂所で活躍している井上聡さんの研究によると、幕府を開く以前に徳川家康は全国に人を派遣し、時間とカネを使って、今あるかたちに復元した。それが『北条本・吾妻鏡』なのだそうです。これを北条家が所持していた明証は実はない。だから『北条本』は、『徳川本』とか『家康本』と呼ばれるべきものなのです。 源頼朝はご存じのように、鎌倉に幕府を開きました。その物語を熟読しながら、家康は京や大坂の繁栄に背を向け、当時は「ど田舎」といっても過言ではなかった江戸に、幕府を開く方策を練っていたのかもしれません。

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    江戸を守る親分「鬼平」は財テクの鬼でもあった

    時代は放蕩無頼の風来坊で、「本所の銕」と呼ばれて恐れられた。池波正太郎『鬼平犯科帳』の主人公について歴史家・安藤優一郎氏が明らかにする「まさかの素顔」とは。* * *〈「こやつどもを生かしておいてはためにならぬ。刃向かう者は斬れ!!」 と、平蔵は抜き打ちに浪人くずれ二人を、水もたまらず斬って捨てたものである〉(『鬼平犯科帳』より) 罪人たちを厳しく取り締まることで「鬼平」と称される長谷川平蔵。実在した江戸時代中期の旗本で、鬼平は放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改方の頭(長官)だった。厳しさの反面、囚人と酒を酌み交わすなど人情にあふれ、「御頭」と多くの部下や市井の人々に愛された人物である──。フジテレビ系ドラマ「鬼平犯科帳」の一場面。平成17年放送の「山吹屋お勝」から。十手を構える長谷川平蔵(中村吉右衛門、中央) 豪腕で悪人を討ち、江戸の治安を守る現場主義の頼もしい親分が我々が思い描く鬼平像だろう。 だがこれは池波正太郎の『鬼平犯科帳』で描かれた鬼平であり、作品には描かれていない意外な素顔が多く存在する。 無骨で物々しい捕り物現場が似合いそうだが、一方で平蔵は幕府の行政マンとしても立派な業績を残している。寛政の改革の目玉事業として教科書にも登場する石川島の人足寄場の生みの親は平蔵だ。 人足寄場は、主に無宿と呼ばれる仕事にあぶれた無戸籍の人たちを対象にした職業訓練所のようなところだ。当時、生活に窮した無宿者たちの犯罪が問題になっていたため、平蔵が時の老中松平定信に具申し設立され、自ら運営にもあたっていた。 しかし資金不足の人足寄場の運営に持ち出しを余儀なくされるなど平蔵の家計は借金まみれだった。そこで平蔵はもうひとつの顔を覗かせる。それは財テク投資家としての鬼平だ。 平蔵は銭相場に手を出した。幕府から金3000両(現在の貨幣価値で約3億円)を借り受け、銭貨を買い上げた。これにより、銭相場が高騰するとすぐさま売り払い、得た利ザヤを寄場の運営資金に充てることに成功した。 当時の銭相場は低迷しており、銭相場を引き上げたい幕府の思惑もあった。今で言えばインサイダー取引の疑いが強く、平蔵は仕手筋だったとも言える。 また自分の広大な旗本屋敷の土地を商人などに賃貸し人足寄場の運営資金に充当した姿は、さながらマンション経営者だ。ファンドマネージャーとしての平蔵は非常に有能だったのだ。 こうしたノウハウは、火付盗賊改方として裏社会に精通していたことなどで培われたのだろう。 しかし平蔵の財テクや能力は、実績に対して周囲からは白眼視されていた。平蔵は出世に縁のないまま、いち中間管理職のまま生涯を終える。 小説の世界では「御頭」と呼ばれていた鬼平だが、その素顔は役人として突出した能力を持ちつつも組織に認められぬ悲哀の人物でもあった。【PROFILE】安藤優一郎/1965年、千葉県生まれ。文学博士。日本近世政治史・経済史専攻。近年は武士の生活文化の諸相について研究を進める。著書に『鬼平の給与明細』(ベスト新書)、『大奥の女たちの明治維新』(朝日新書)など。関連記事■ 橋爪功 ラジオドラマ『三国志』で登場人物を一人で演じ分け■ 九星占い師 「九紫火星」である日本円の円高来年も続くと占う■ 2002年に誕生した海老蔵の娘の近況 母「今が一番いい関係」■ アメリカンショートヘアー ダーツ状の模様入ると値段も高騰■ 下手な役者がやる芝居は興奮したものばかりと綿引勝彦が解説

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    江戸時代の長屋の大家 住人の糞尿で儲け低家賃が可能に

    記事■ 【書評】日本が400年前に確立した「糞尿商品」流通システム■ 「徳川家康は教育パパだった」等歴史上人物の逸話満載した本■ 荒俣宏が慣れ親しんだ東京の遺物を思い出も含めて語った大書■ 江戸時代 「夜這い」は強姦ではなくノーマルなプレイだった■ 納豆、ねぎま鍋、イカの塩辛を食べると絶倫になると専門家

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    坂本龍馬が「新国家」に託したもの

    幕末の志士、坂本龍馬はどんな「日本の夜明け」を夢見ていたのか。暗殺される5日前に記した書簡は、この謎に迫る第一級の発見である。あの時代に、幕府や公儀という言葉ではなく、なぜ「国家」という新しい政体を意味する二文字を使ったのか。龍馬が専心した新政府樹立の意義を考えてみたい。

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    龍馬暗殺5日前の書状からにじむ「新国家」への執念と先見力

    を推進していたこの永井尚志に「明日」面会する話は、慶応3年11月11日の林謙三宛の龍馬書簡(高知県立歴史民俗資料館蔵)に「今朝、永井玄蕃方へ参り、色々と議論いたしました」という文面とも符合している。中根と永井は旧知の間であるので、それを知っていた龍馬が中根を永井の屋敷に訪ねる際に同行を求めたのであろう。 龍馬がこの手紙でしつこく出仕を求めた三岡は京都へ来て「太政官札の発行」など新政府初期の財政を担当することになった。さらには「五箇条の御誓文」の原案を起草した。三岡は明治維新の基礎をつくったひとりとなったのだ。その点、龍馬が見込んだとおりの人材だったのである。 一方、手紙の宛先である中根雪江は慶応3年に61歳という年齢であった。三岡とともに慶応3年12月には新政府に出仕することになる。中根は松平春嶽の側近であり、穏健な尊王思想をもち、幕臣や諸藩の重臣とも交流が豊富で、幕末史のすべてをよく知っていたようだ。 中根雪江はのちに『丁卯日記』(丁卯は慶応3年のこと)を記して大政奉還後の京都・朝廷の様子を詳細に書き残した。高い理想と権力闘争とが混交したこの時期の京都政界の内情を我々に知らせてくれるのがこの中根の記録なのである。 中根は慶応4年8月には新政府を辞めて福井に隠遁することになるのだが、明治になって蓑笠に釣竿を持った「釣り人スタイル」の写真を残している(そんな古写真を他に見たことがない)。この写真には新政府内部の権力闘争に対する中根の厳しい不満・批判が込められているように筆者には感じられるのである。 今回見つかった手紙は龍馬の新出書簡として歴史的価値がきわめて高いものであり、越前福井藩と龍馬の関わりなどを含め今後の研究の進展が期待される一通である。手紙の本紙は縦16.3㎝、横92.5㎝。和紙に墨書である。

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    新発見から龍馬の「新国家」構想と暗殺の「黒幕」を妄想する

    のために春嶽が出京することを喜び、それこそ中根のおかげと感謝している。越前福井前藩主の松平春嶽(霊山歴史館提供) この書簡以前に、龍馬は10月28日に土佐山内容堂の春嶽宛の手紙を持って福井に到着した(後藤象二郎宛龍馬書簡「越行の記」高知県立坂本龍馬記念館寄託)。あいにく春嶽本人には会えなかったが、手紙は春嶽の側近などに渡せたし、春嶽からの返事ももらえた。容堂の手紙も春嶽の返事も中身は伝わらないが、知られている歴史的文脈から、おそらく容堂の春嶽への出京依頼に春嶽が許可を与えたものと思われる。 さらに、龍馬は福井で、謹慎中の三岡八郎こと由利公正に逢って、新政権の構想を語り合った。そしてますます、三岡を新政権の財政担当者に招聘すべきと意を強くした。そこで中根に三岡の宥免と出京を働きかけた。 それゆえ「先ごろ直接申上げた三岡の出京、出仕の件は、緊急を要する案件で、どうか早々にご許可いただきたいのです。三岡の出京が一日遅れれば、遅れるだけ、それだけ『新国家』の家計が一日先になってしまうのです。したがってこの件に集中してご尽力をお願いしたいのです」とかなり切実である。新政権の予算・財政は、一にも二にも三岡にかかっていると言っている。 この龍馬の働きかけとおそらく中根やその周辺(春嶽など)の尽力で、龍馬暗殺の一ヶ月後になるが、三岡は12月18日朝廷から参与に任命された。三岡は、主に朝廷の予算・財政を司り、三井や小野などの有力商人や中小の商人などから、御用金(寄付金)を募り、3月2日から閏4月8日まで、895名から16万両以上を集めるのに成功したのである(小美濃清明『龍馬の遺言』藤原書店、2015年)。初期明治新政府の財政を安定させ、戊辰戦争の遂行を可能にしたのは、龍馬・中根等の尽力で三岡が新政府に参画したからということを示しており、本書簡はすこぶる重要である。 なお、「新国家」と書いてある書簡は、この書簡以外にない点(宮川禎一氏の本書簡に関する一連のコメント)も重要だ。「新国家」は、私が思うに、新政権、おそらく、天皇を中心として、徳川慶喜も取り込んだ、新しい朝廷を指すものと思われる。この点で、青山忠正氏は、「新国家」を今後の研究課題としながらも「『あらたな主君』や『天皇』を意味した可能性もある」(産経WEST 2017年1月13日)とコメントされている。 私も現時点では、課題だと思うが、本書簡の追伸の中で、慶喜側近の幕府若年寄、永井尚志と「談じたき天下の議論」がたくさんあると言っているので、龍馬の中では「新国家」=「天下」=新政権=オールジャパンの新政権構想だと思う。そして、龍馬は、この時期、まさに新国家構想が実現可能とみる高揚したハイテンションの最中にあったのではないかと思われる。それゆえ、追伸がまたとても重要だ。龍馬が三岡にこだわったわけ ではあらためて、追伸を見てみよう。「今日、すなわち11月10日に永井玄蕃頭(尚志)の屋敷に出向いたが、あいにく会えませんでした。論じたい天下の議論が数々あって、明日また面会する所存であります」として、どうやら、翌日には永井と議論ができる可能性が高かったようだ。 おそらく、翌日は会おうという永井の色よい返事をもらっていたのであろう。それゆえ、「あなた(中根)も御同行いただければ、実に幸せです」と書く。すなわち、中根にも同行を求め、ここでも2人で、三岡の財政担当者としての出仕を実現しようとしたのだと考えられる。 龍馬がここまで三岡にこだわるのは、龍馬が、財政問題特に貨幣鋳造権を江戸の幕府から京都の朝廷の傘下に置くことで、徳川幕府を有名無実化し、京都の朝廷を新政権として自立させたかったからに他ならない。10月10日の後藤象二郎宛書簡で龍馬は、「江戸の銀座を京師にうつし候事」が重要で「此一ケ条さへ」行われれば「将軍職はそのままにも、名ありて実なければ恐るるにたらす」と言っていること(岩下哲典「坂本龍馬、その天下・国家・異国観」『龍馬の世界認識』藤原書店、2010年)をまさに実現しようとしているのである(前掲、小美濃書)。 龍馬にとって、新国家の中心的課題は財政であり、そのもっとも核心的な部分は貨幣鋳造権であった。だれが新国家の中心であろうとも、貨幣鋳造権さえ掌握すれば、新国家は成立すると考えたのである。 これは実に正しい認識だ。ある国家が独立しているからその国家の貨幣が鋳造される。そしてその国家が信用されるから、その国家の発行する貨幣が流通する。流通すれば財政が安定する。貨幣は国家独立の証であり、国家信用の証である。財政問題が解決・安定すれば、戦争も政治も可能なのだ。これが龍馬が到達した「新国家」なのである。 もちろんこれに気付いていたのは龍馬だけではない。西洋事情に詳しいものであれば、西洋の独立国家がいずれも、貨幣鋳造権を有し独自の貨幣を流通させ、国家を運用している。それは、19世紀初頭の長崎でもよく知られた事実であった。「新国家」で意気投合した龍馬と永井 さてこの「新国家」構想はどうなるのか。書簡の翌日11月11日朝、龍馬は確かに永井と面会した。中根が同行したかは不明であるが、同行した可能性は高い。なぜなら、龍馬と永井が「新国家」に関して意気投合したからだ。 龍馬は、大坂に居た薩摩藩士(元広島藩士)林謙三に宛てた書簡で「今朝、永井の屋敷に行っていろいろ話し合いました。天下のことは、実現するかどうかわからないし、また困った状態で、なんとも言葉にできないでいます。あなたも今しばらく命を大切にしていただきたいが、しかし実は今が大事で、為すべき時は今かもしれません。私も早く方針を定めて修羅場でも極楽でも御供致します」と述べている(前掲、宮地書)。 さらに龍馬は、永井は自分と「ヒタ同心ニテ候」と追伸で書いている。永井と意見がぴったり一致したというのである。いささかユーモアで書いたこの書簡の4日後、龍馬は中岡慎太郎と一緒に京都近江屋の離れ土蔵の2階で、幕府京都見廻組、佐々木只三郎以下に襲撃され、まさに修羅場の中で絶命する。 龍馬の意志を継いだ三岡が、新政府で財政担当するのは龍馬暗殺から約1か月後の12月18日、同月9日の王政復古の直後である。龍馬の暗殺をめぐって様々な風説が飛び交ったことから、新出の本書簡は、中根の関係者などが、誤解が生じかねないと「他見ヲ憚ルモノ也」と朱書きしたのかもしれない。坂本龍馬の新政府綱領八策(複製・霊山歴史館蔵、原本・国会図書館) いずれにしても、本書簡は、龍馬暗殺直前の龍馬の「新国家」構想、実態は全国的な貨幣鋳造権と流通の確立、そのための三岡の新政府入り実現に龍馬自身や中根が奔走していたこと、幕府若年寄永井尚志とも龍馬は逢い、構想を語り協力を求めていたことを示す点、すなわち、オールジャパン政権を構想していた点で興味深い。 なぜオールジャパンでなければならないのかといえば、貨幣の全国的流通には、全諸侯の結集が必要だったからに他ならない。龍馬にとって、慶喜を含めた諸侯のうちだれが欠けてもだめなのだ。「新政府綱領八策」で「○○公、盟主となり」は、誰でもよかったが、だれか欠けてもだめなものだったのである。由利公正と永井尚志の生涯由利公正と永井尚志 ここでは、由利公正と永井尚志の生涯と龍馬との接点を探り、書簡へのさらなる理解を深めたい。まず、三岡八郎こと、由利公正は、文政12年、1829年生まれで、龍馬とは6歳違いである(伴五十嗣郎「由利公正」『日本歴史大事典』小学館、カシオEX-word電子辞書版)。もともと三岡姓で、石五郎とか八郎と称した。明治維新後、由利姓となった。福井藩士である。 横井小楠に傾倒し、富国強兵・殖産興業を念頭に藩財政の立て直しに尽力した。安政元年(1854)には兵器製造掛となり、銃砲・火薬の量産を推進した。また、長崎オランダ商館と交渉して藩内特産物の輸出に業績をあげた。文久3年(1863)5月に龍馬と知り合いになった。同年8月挙藩上洛を強硬に推進しようとして、翌月失脚、4年間にわたって蟄居となる。 龍馬は、慶応3年の10月末に福井で、「大政奉還」後の新政権構想を由利と16時間にわたって話し合い、意気投合した(前掲小美濃『龍馬の遺言』)。そこで、一刻も早く由利の新政権財政担当者への就任を中根などの福井藩関係者や新政権関係者(薩摩・長州等)に働きかけた。 財政の重要性を良く知った上での行動だったが、こうした行動は、同じく財政の重要性を認識する大久保や西郷などにはどのように映っただろうか。「大政奉還」以後の政局は、だれが財政を握るかという観点から読み直すべきかもしれない。 ともかく由利は、王政復古後の12月18日、参与に任ぜられ、財政担当者として新政府の財務を一手に担い、前述したように戊辰戦争の戦費調達に尽力した。また、太政官札など金札の発行も担当し、土佐藩士福岡孝弟とともに五箇条の御誓文原案起草も行った。 しかし、太政官札の評判が芳しくなく、明治2年官を辞した。おそらく、薩長の有力者から疎まれたのであろう。有力な後ろ盾がなく官にはとどまることができなかったのであろう。 その後、同4年には東京府知事に返り咲いた。同5年岩倉使節団に随行、明治7年には、板垣退助らと民撰議院設立建白書を提出した。元老院議官、子爵、貴族院議員、麝香間祗候を歴任した。これらの役職は、実務担当者ではなく名誉職のようなもので、由利にとっては愉快なものではなかったと思われる。明治42年(1909)80歳で没した。 龍馬と由利の福井会談から始まった新政府の財政構想、特に全国的な貨幣鋳造権と流通は明治4年の大坂造幣局の開局・稼働に結実したと小美濃氏は言うが、その通りであろう(同上)。大坂造幣局の印刷機械は、遠くイギリス総督府の香港造幣局から運ばれてきた中古品だったが、その払い下げ情報を知り、入手に尽力したのは薩摩藩士小松帯刀や上野敬介、トーマス・ウォートレスなど薩摩人脈であった。ここでも薩摩が新政府の財政に深くコミットしていることが理解できる。よって立つ基盤が同じ三人 永井尚志に関しては、高村直助氏の『永井尚志』(ミネルヴァ書房、2015年)が、現在最も詳しく、参考になる。その年譜を見ると、さまざまなことに気付く。 永井は、文化13年(1816)生まれなので、由利より一回り年上、龍馬とは20歳ほども違う。慶応3年には52歳の老練な政治家だ。もともと永井は、三河譜代の大名大給松平家の生まれだ。ただの幕臣ではない。大名家から、同じ大名家の加納藩主永井家の分家である旗本永井家に養子に入ったのだ。 俊才ゆえに昌平坂学問所で頭角を現し、弘化4年(1847)小姓組番士となり、嘉永3年(1850)には甲府徽典館(学問所)の学頭に任ぜられた。同6年には徒頭、ほどなく目付、翌安政元年(1854)海防掛兼帯、台場・鋳砲・造船所用取扱、長崎在勤となり長崎に赴任し、さらに翌年長崎海軍伝習指揮を命じられた。勝海舟も永井の指揮下だった。 由利も兵器製造掛、二人とも西洋列強に対して国土をいかに防衛するかを真剣に憂い、具体的方法を模索し実行する困難な実務的役職にあったといえる。龍馬も神戸海軍操練所頭取、勝の塾生であり、由利や永井と同じ基礎教養を身につけていた。そのような三人なのである。よって立つ基盤が同じなのだ。 永井はその後、安政4年には江戸築地の軍艦教授所総督、ついで勘定奉行、翌年外国奉行、神奈川奉行兼帯、安政6年軍艦奉行となるも、免職・俸禄没収・差し控えとなってしまう。文久2年(1862)軍艦操練所御用となり、その後、京都町奉行として困難な京都の治安維持を担った。同3年、禁裏御用となるも、閉門。元治元年(1864)大目付で在京、禁門の変を起こした長州藩への詰問使となっている。 こうしてみると永井は、さまざまな役職を経験しながら、免職や閉門などの辛酸も舐めている。由利も4年にわたる謹慎、龍馬も脱藩して逃亡生活をした時期もあり、三人はそうした点でも共通の話題がある。新たに見つかった坂本龍馬が暗殺5日前に書いた直筆の書状=1月13日 さて長州戦争では、永井は総督、徳川慶勝の目付役でもあった。慶応元年(1865)依願免職、ほどなく大目付、外国奉行兼帯、第二次長州戦争でも広島まで赴いた。慶応3年若年寄格、以後、慶喜の側近として、土佐藩のいわゆる「大政奉還」路線、当時の慶喜の言葉では「政権奉帰」路線への道筋をつけた。 その上での同11月14日の龍馬との会見であった。永井も龍馬の構想に賛同し、慶喜を入れた形のオールジャパンの新政権を構築すべく動こうとしたが、龍馬が暗殺されて、すべての目論見が狂っていった。 結局、慶喜も永井も、いきり立つ大坂城の幕臣や徳川シンパの大名たちを抑えることはできず、鳥羽・伏見の戦いに突入し、慶喜が江戸に去ったあと、永井は紀州藩を頼るが、自力で江戸に帰還し、罷免・登城停止・逼塞を命じられる。その後は、品川沖からの脱走した榎本武揚艦隊に身を投じ、榎本と行動を共にし、明治2年(1869)箱館五稜郭の戦いで降伏、収監された。 明治5年に特赦により出獄、すぐに開拓使御用掛、左院少議官、元老院権大書記官を最後に官を辞した。これらの役職はどの程度実務をしたのかわからないが、永井にとって面白い役目ではなかったようだ。以後文雅に生き、明治24年、76歳で死去した。 慶応3年11月、意見を同じゅうした龍馬は凶刃に倒れ、由利は新政府に出仕、その後辞任。永井は箱館で新政府に対抗した。龍馬が暗殺されたことで2人の運命も大きく変わらざるを得なかった。龍馬が生きていて、由利・永井がともにどのように新政権に関わったのか、もう一つの別の明治維新を見てみたかったように思うのは私だけではあるまい。龍馬暗殺の背後に見える者たち龍馬暗殺の背後に見える者たち さきに見たように、龍馬は、山内容堂と松平春嶽との仲立ちをして、土佐藩と福井藩の藩ぐるみの連携を進め、さらに慶喜側近の永井と意見が一致したことで、慶喜を取り込んだオールジャパンの「新国家」政権を構想していた。おそらく、薩摩・長州の突出を抑える対抗勢力の均衡によりオールジャパン政権を構想したのだと理解するのが自然である。それのみならず、全国的な貨幣鋳造権と流通にはオールジャパンが不可欠だった。鹿児島市にある大久保利通の銅像 ところがこの構想は、それまで政局を主導してきた薩摩・長州の激派(一部の武力討幕派)にとっては、特に長州藩にとってみれば、禁門の変以来敵対してきた慶喜を中に取り込まざるを得ないことは同意できないし、薩摩藩にとっては第二次長州戦争以来敵対してきたあの慶喜に政局の主導権を取られかねないという点でまことに都合が悪く、彼らが主導権を握るためには、このまま龍馬に活動されては問題だと考え始めたと思われる。 加えて薩摩も長州も領内の軍事機密などを龍馬に見られており、というか見せてしまっていた。たとえば薩摩は軍事機密のオンパレード集成館事業、長州は個別の村々での軍事教練の様子や領内の軍事拠点などを龍馬に見られたり、軍艦さえも貸与して運用させており、対旧幕府戦争を想定した時、旧幕府側に龍馬がいれば、それだけでたいへんな脅威になるのである。 したがってこのタイミングで龍馬を亡き者にしたいと思っても何の不思議もない。しかし、自分たちが直接手を下すことは、龍馬のシンパ(土佐藩・福井藩等)を敵に回すことになり、あまりにもリスクが高い。 であれば、龍馬に強い恨みを持つ強力な戦闘組織なり、個人に対して、龍馬の居場所情報を漏らせば、それらが首尾よくやってくれる。そう考えるのが自然ではないかと思う。 かくして、私自身は、龍馬が福井藩や旧幕府側の永井と頻繁に接触しているのに危機感を抱いた、薩摩藩の一部の武力討幕派が、龍馬の居場所を京都見廻組にそれとなくわからないように漏らしたのだと考える。もちろん見廻組独自で情報収集は可能だが、より確実な情報をもとに決行したと考える。 なぜ薩摩藩なのかは、やはり龍馬が自ら薩摩藩士、林謙三に書簡を送って情報をもらしていることから、かく考えるものである。また薩摩藩士、大久保利通が、11月15日入京し、18日には後藤象二郎が入京、23日には薩摩藩主、島津忠義が、岩下方平・西郷隆盛を従え入京、23日には広島藩主浅野長勲が京に入った(井上勲『王政復古』中公新書、1991年)。30日には左大臣近衛忠房、右大臣一条実良が辞任し、王政復古への道が開かれる。すなわち、慶喜を排除した王政復古の道筋が敷かれることになったのである。 龍馬の構想したオールジャパン「新国家」政権は、その死と共に葬られ、薩長と一部の公家中心の王政復古になったことを考えると、龍馬暗殺の背後に薩摩藩等の影を見ることは、そうおかしなことでもあるまい。龍馬暗殺で一番得をしたのは薩長の武力討幕派である。 今回見つかった龍馬の書簡からは、福井藩や旧幕府人脈にシフトしたように見える龍馬の姿が垣間見られ、それを十分に自覚せずに薩摩や長州に無邪気にそれを伝えてしまった龍馬の姿も想像できる。龍馬は多くの人から歓迎されながら、多くの人から狙われる存在でもあったのだ。武力討幕派のスケープ・ゴート、それが龍馬だったのである。龍馬暗殺「実行犯」の動静から龍馬暗殺「実行犯」の動静から  最後に、龍馬暗殺下手人のただ一人の生き残り、今井信郎の動向を新史料から紹介する。坂本龍馬が暗殺された近江屋跡に建つ石碑=京都市中京区 最近幕末三舟の一人高橋泥舟(岩下哲典『高邁なる幕臣 高橋泥舟』教育評論社、2012年)の明治4年の日記「公雑筆記」(岩下・高橋泥舟史料研究会編『高橋泥舟関係史料集』第二輯・日記類二、2015年)を読んでいたところ、今井信郎が泥舟の家に来て酔っ払い、翌朝、詫びに来たことが書かれていた。今井は、箱館五稜郭戦争で新政府軍に捕縛され、龍馬暗殺を自白した。ただし、本人は見張り役であったという。 今井は、明治3年9月に司法省から禁固3年・静岡県預かりになっており、すなわち箱館降伏人として静岡に居住していた。ところが、泥舟の日記によると、明治4年2月10日、今井と連れの1人が、あろうことか泥酔状態で泥舟の家にやってきた。その後、旧幕臣の高月と天野もやってきた。翌日、今井が、昨日は申し訳ないと詫びに来たという。 なぜ、今井が詫びに来るほど酔っていたのか、一緒に来たもう一人が誰なのか、日記の記述だけではわからない。その9日後の19日夕方、今度は山岡鉄舟が静岡からやって来て、その夜に今井と旧幕臣、信太歌之助もやってきたという。何を話したのか、泥舟の日記からは何もわからないが、話は坂本龍馬のことにも及んだかもしれない。泥舟も鉄舟も龍馬とは知り合いだし、ましてや今井は龍馬暗殺の実行犯である。 さらに注目すべきは、今井の刑期が切れるのは、本来、明治6年のはずであるが、2年も前の4年の段階でこのように泥酔してくだを巻くほど比較的自由に暮らしていたことである。他県に行くような大きな移動は難しかったと思われるが、静岡と田中(現在の藤枝市)ぐらいの移動は大目に見られていたのだろう。 また、あくまでも見張り役だったこともあろうが、新政府に逆らって箱館戦争を戦った者への待遇として、静岡藩はまったく緩かったとしか言いようがない。前述したように永井尚志が明治5年まで兵部省糾問所牢獄に収監されていた。この違いはかなり大きいのではあるまいか。 その後今井は、明治5年に特赦を受けたとされるが、実質はすでにほぼ自由の身であった。つまり私は、今井は新政府と何らかの取引をしたのではないかと思う。もちろん証拠はない。しかし、今井が比較的自由に暮らせたのは何か理由がないと説明がつかない。今は指摘するにとどめるが、何か割り切れないものがある。 そしてその後、今井は初倉村(現、島田市)に移り、村長等を勤め、大正7年、1918年まで、77歳の天寿を全うした。 はたして龍馬を暗殺した黒幕はいったい誰だったのか。心は騒ぐが、新たな関係史料が見つかることを祈念したい。そして、2017年の丁酉はどんな時代の幕開けになるのかも、とても気になるところである。

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    坂本龍馬の船中八策はフィクションだった?

    を勉強されているそうです。知野さんが書いたその本は、私が読むかぎり、今、世間でしばしば見られるような歴史学の素人による、奇をてらったトンデモ歴史本ではありません。 今の世の中、明治維新や志士を否定的に語り、口汚く罵る本が、かなり出回っています。それらの本のせいで、幕末の志士たちを、平気で「テロリスト」呼ばわりしている人々もいますが、それは、かなり幼稚で、しかも粗雑な歴史認識です。幕末の志士たちは、何の関係もない一般市民を無差別に殺傷したりはしていません。そういう志士たちを、平気で「テロリスト」と呼ぶ人々は、たとえば、大東亜戦争中の「特攻」とイスラム過激派の「自爆テロ」の区別も、たぶんできない人々なのでしょう。 かつて小林秀雄は、「明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないていのものだ」(「歴史と文学」)と書いています。「涙」とまではいかなくとも、たしかに「普通の人間」なら、たとえ薩長側の人物に対してであろうと、幕府側の人物に対してであろうと、その人が、その人なりの「義」に生き、戦い、散ったのであれば、わけへだてなく哀惜の念くらいはもつはずです。それこそが日本人で、その点、いつまでも「恨み」つづけることをよし、とする民族とはちがいます。そういう意味で、今の日本には、「普通の人間」ではない人が、増えているのかもしれません。 話をもとにもどします。知野文哉さんの『「坂本龍馬」の誕生―船中八策と坂崎紫瀾』という本は、今どき、よくあるトンデモ歴史本ではない、というお話をしました。 その本は、関係する文献を広く、かつ誠実に調査し検討し、冷静に考証し、結論も、おおむね妥当です。さらにその本には、詳しい「注」までついていますから、それは、読み物というかたちはとっていますが、「歴史学の専門書」といってよいでしょう。もうひとつの「八策」 詳しい考証の過程は、その本を読んでいただくとして、ここでは、知野さんの本の結論の一文のみを引用させていただきます。 「坂本龍馬は、船中八策という文書は作成しておらず、船中八策は、明治以降の龍馬の伝記のなかで、しだいに形成されていったフィクションである」(同書)とはいっても、知野さんは、何もその文書に書かれていることが、まったく龍馬の考え方から、かけはなれている……といっているわけではありません。知野さんは、こうも書いています。 「『船中八策』がフィクションであるにしても、それは龍馬が後藤に対して、大政奉還を建言しなかったということではないし、『船中八策』に記された国家構想が龍馬と無関係なものであることも意味しない。極端な話、『船中八策』自体は存在しなくても、龍馬が全く同内容のプランを『口頭』で後藤に建言した可能性だってあるのである」(同書) つまり、その文書そのものは龍馬が書いたものではないが、しかしそこに書かれていることは龍馬の考え方そのものということになります。ややこしい話ですが、つまり、龍馬のことをよく知っている人なら、「なるほど龍馬なら、こういうことを考えていただろう……」と思わせる文書が、いつのまにか「龍馬自身が書いたもの」に化けてしまった……という話です。 それにしても龍馬が、長崎から京都・大坂へ向かう夕顔丸という船のなかで、近代日本を先取りした画期的な国家構想を、滔々と語り……サラサラと書き取らせるという名場面は、知野さんの考証によって、じつは「事実ではない」ということになったのですから、龍馬が好きな人にとっては、いささかガッカリかもしれません。しかし、そのようなことは、歴史学の研究をしていくと、しばしばおこることです。 私自身も、かつて「明治維新の思想的リーダーの一人」のようにいわれていた学者・思想家について、十数年も研究したあげく、たどりついた結論が、「どうも……そうではないらしい」ということになった経験があります。自分が長年かけて苦労して導いた結論ながら、いささかガッカリしたものです。坂本龍馬の新政府綱領八策 しかし、「船中八策」が「フィクション」ということになると、本書は、タイトルに『龍馬の「八策」』とうたっているわけですから、読者のなかには、「看板に偽りあり……ではないか」と思われる向きもあるかもしれません。しかし龍馬には、「船中八策」のほかに、じつはもう一つ、タイトルに「八策」という言葉を入れて呼ばれている有名な文書があるのです。それは今、一般に「新政府綱領八策」(あるいは「新政府綱領八義」)と呼ばれています。 もちろん、この文書のタイトルそのものは、「船中八策」と同じく、後世の人がつけたものですが、以下、本書では、そのもう一つの「八策」を「新政府八策」と呼んでいくことにします。なにしろ、「新政府綱領八策」のほうは、日付も署名も、しっかり入った龍馬の筆跡の文書が、2つも残っているのですから、これは、まちがいありません。(中略)「龍馬アホ説」龍馬アホ説? ちなみに、近ごろは「新政府八策」まで龍馬の「発案」ではない、などといっている歴史学者もいます。その理由は、こういうものです。龍馬の「文体は、同時期に一般的であった書簡様文体と比較して、異様」で、それは「彼の学習経歴から見て、書簡様文体を使いこなせなかったため」にちがいない。つまり龍馬は、「国家の政体構想にかかわるような抽象的な概念を、完全には理解」できない男であり、「坂本は、その文体と言語において、抽象的な概念を駆使することはなかった。意図的にそうしたわけではなく、必要であるべきときでも、できなかったと見るべきである。この意味からすれば、いわゆる『新政府綱領八策』なども坂本の発案とは考えにくい」(青山忠正『明治維新の言語と史料』)。 これは暗に「龍馬には、そんな高級なことを提案できる知能はなかった」といっていることと同じです(以下、これを「龍馬アホ説」と呼びます)。しかし、この「龍馬アホ説」は、その前提からしてまちがっています。 おそらく今の日本の歴史学者で、龍馬の手紙に関する研究で、もっとも成果をあげているのは、宮川禎一さんでしょう。その宮川さんは、龍馬が慶応3年6月24日付で、兄・権平にあてた手紙について、「手紙文の定型」を守っているとしつつ、こう断言しています。「これを読めば、龍馬が定型的な手紙文を、書かなかったわけではないことがわかる」(『龍馬を読む愉しさ』)。また、平成28年、京都国立博物館の特別展覧会で、「現存する最古の龍馬の手紙」(相良屋源三郎にあてた安政3年9月29日付のもの)の実物が初公開されています。これも、当時としては「常識的」な礼状です。「書簡様文体を使いこなせなかった」というのが、「龍馬アホ説」の前提ですが、その前提が、そもそも成り立ちません。 その上、たとえば龍馬は、慶応3年4月23日の夜におこった海難事故(「いろは丸沈没事件」)にさいしては、『万国公法』を手に入れています(慶応3年5月11日付の秋山某あての龍馬の手紙)。そして、それにもとづいて事故を処理しようとしているのです。結果的に、その事故処理はみごとなもので、船乗りたちから、日本の航路規則を定めたものとたたえられ、その詳しい経緯を聞きに来る人も、たくさんいました(慶応3年6月24日付の坂本権平あての龍馬の手紙)。そもそも「抽象的な概念」を「駆使」できない「アホ」に、そんなことができるでしょうか。疑う必要のないものまでを疑う ただし、「龍馬アホ説」には、逃げ道が用意してあります。「発案」ではない、という言い方です。「新政府八策」は、龍馬の署名入りの自筆の文書が、複数残っています。ですから、いくら「龍馬アホ説」を唱える人でも、「龍馬が書いたものではない」とはいえないので、龍馬の「発案」ではない、という微妙な言い方になっているのでしょう。岬神社内の坂本龍馬像 =京都市中京区 しかし、そもそも政治的な「発案」に、完全に個人のオリジナルといえるものが、はたして、どれほどあるでしょうか。たとえば、「大政奉還」という「発案」は、少なくとも200年ほどにわたる無数の人々の学問的・思想的な蓄積があって、はじめてかたちになったものです。 ある政治的なアイデアの「発案者」が、ある「個人」に厳密に限定される……という例は、歴史上、それほど多くはないでしょう。たとえ独創的と思える「発案」でも、その背後には、さまざまな学問と思想の、長い歴史的な積み重ねがある……というのがふつうです。 その上、「新政府八策」に書かれていることは、そのころの政治家たちからすれば、それほどビックリするような内容ではなく、その当時は、ある意味ではふつうの政権構想で、また、そうでなければ、さまざま政治勢力の合意形成など、そもそもできなかったでしょう。もしも龍馬が、そのようなふつうの政権構想さえ「発案」できないような「アホ」であるなら、どうして、そのころ幕府、薩摩藩、長州藩、土佐藩、越前藩など、さまざまな政治グループの中心にいる人たちが、生きるか死ぬかという緊迫した政治状況のもと、あれほど龍馬を信頼し、重んじたのでしょうか? 常識的に考えて、ありえない話です。「龍馬アホ説」にもとづいている「新政府八策は龍馬の発案ではない」という見解は、私には、今のところいいかがりとしか思えません。 もちろん歴史の研究をする上で、それまでの通説を疑うということは、大切なことです。しかし、疑う必要のないものまでを疑うというのは、よくありません。そんなことをしていると、かえって人は歴史の真実から、どんどん遠ざかっていくのではないでしょうか。 「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」(『論語』)という金言もあります。 まつうら・みつのぶ 皇學館大学 文学部国史学科教授。昭和34年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部を卒業後、同大学大学院博士課程に学ぶ。現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)。専門の日本思想史の研究のかたわら、歴史、文学、宗教、教育、社会に関する評論、また随筆など幅広く執筆。著書に、『【新訳】南洲翁遺訓──西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』『【新訳】留魂録──吉田松陰の「死生観」』『【新釈】講孟余話──吉田松陰、かく語りき』(以上、PHP研究所)、『大国隆正の研究』(神道文化会)、『やまと心のシンフォニー』(国書刊行会)、『夜の神々』(慧文社)、『日本の心に目覚める五つの話』(明成社)、『日本は天皇の祈りに守られている』(致知出版)など。関連記事■昭憲皇太后の夢にあらわれた坂本龍馬の「留魂」■西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか■長州男児の肝っ玉・高杉の功山寺挙兵

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    「今こそ草莽崛起の時」坂本龍馬を飛躍させた久坂玄瑞の思い

    河合敦(歴史研究家) 文久2年(1862)1月、久坂玄瑞は長州・萩を訪れた坂本龍馬に対して次のように語りかけた。「藩の枠に囚われることなく、自分たち草莽の志士が起ち上がり、攘夷の義挙に出る以外に道はない」。すなわち、「草莽崛起」である。この時の玄瑞の言葉が、約2カ月後の龍馬の脱藩につながる訳だが、両雄が志を共有できたのは、2人が生まれ育った環境も大いに関係している。 「草莽崛起」を唱え始めたのは吉田松陰だが、背景には長州の「風土」があった。関ケ原合戦で敗れ、徳川に大幅に領土を削られた毛利家は、多くの武士が帰農しており、その点、他藩に比べて身分の壁が低かったといわれる。それゆえ、どんな出自であろうが、その人物が優秀であれば、然るべき役職に取り立てる――そんな風通しの良さが、長州には根付いていた。そうした中で、高杉晋作が組織した「奇兵隊」などが生まれた。 低い身分でありながら活躍した典型的な人物が、久坂玄瑞である。彼は医者の家の出であり、石高も少なかった。それでも若い頃から藩の様々な人物から目をかけられ、文久年間には京都での尊王攘夷活動を一手に担い、元治元年(1864)7月の禁門の変の際には家老の福原越後や、来島又兵衛と同じように長州軍を率いている。玄瑞は25歳であったのに対して、来島は48歳。2人は親子ほどに歳が離れていながら、同じ立場で禁門の変を戦ったのだ。 一方、坂本龍馬が育った土佐藩には、厳しい身分差があった。戦国時代、土佐は長宗我部家が治めていたが、関ケ原合戦後に入封した山内家は、長宗我部家の旧臣(地侍)を遠ざけて、譜代家臣を優遇した。そして、譜代家臣は「上士」、地侍は「下士」と峻別され、上士は下士をあからさまに見下すようになる。龍馬も「下士」であり、悔しい思いをしたことは一度や二度ではなかったはずで、山内家に対する忠誠心も薄かった。そんな境遇で育てばこそ、玄瑞の言葉が臓腑に染み、絶大な影響を受けたのだ。もしも龍馬が上士であれば、玄瑞の言葉に共鳴し、「挙国の海軍」を創設しようという思いには至らなかったかもしれない。 玄瑞と龍馬は、「列強の脅威から日本を守る」という、共通の志を抱いていた。しかし実は、期せずして互いのバックグラウンドも、両雄の「共鳴」の素地になっていたところにも、歴史の面白みがあるのではないだろうか。かわい・あつし 作家、歴史家。1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白?高等学校・附属中学校に着任。2013年、東京都を退職。現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。教壇に立つ傍ら、歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。主な著書に、『早わかり日本史』『早わかり江戸時代』(以上、日本実業出版社)、『岩崎弥太郎と三菱四代』(幻冬舎新書)、『読めばすっきり! よくわかる日本史』(角川SSC新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。関連記事■ 吉田松陰・全国周遊から得たものとは■ 吉田松陰とその妹―維新の原動力とは何か■ 【歴史街道脇本陣】あなたの好きな「幕末維新」の人物ランキング■ 信長に勝ち続けた雑賀衆の魅力とは■ 信長に勝ち続けた雑賀衆の魅力とは

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    坂本龍馬 逸話と一致する点が多く「ADHDだった」説も

    や創造性を発揮するという特徴がある。これが、龍馬の逸話と一致する点が多いのだ。 こうしてみると、病が歴史の変化をもたらした事例は枚挙に暇がない。病は歴史を揺り動かしてきたと言える。足利尊氏は、矢傷からの細菌感染により52歳で世を去った。南北朝の動乱を長引かせた尊氏の突然の死は、尊氏だけでなく日本の歴史にとっても予期せぬものだったに違いない。 歴史に「たられば」が許されるなら、という夢想話で名前が挙がるのが武田信玄であろう。天下にその名を轟かせた信玄だったが、胃がんと思われる病で急激に体調を崩し、まさにこれからというところで51年の生涯に幕を下ろす。 それが武田家にとってどれほどのことだったかは、信玄自らが「没後3年の間は秘匿せよ」と遺言を残したことからも想像がつく。事実、武田家は信玄の死後10年も経たず滅亡した。 信玄が病に斃れなければ、死の2年後に起きた長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗する結果とはならなかったかもしれない。長篠の戦いを率いた子の勝頼は、有名な織田の「三段銃陣」に対し正面突破する戦略で甚大な被害を受け、武田家滅亡のきっかけを作ったが、戦略家の信玄が健在だったら別の選択をした可能性は十分あるだろう。関連記事■ 武田家16代当主「『真田丸』は勝頼公自害の回だけ見てない」■ 信玄(甲斐)と謙信(越後)の2人の銅像が建つのは何県か?■ 『少女に何が起ったか』『101回目』他 あまちゃんの小ネタ■ ふるさと納税でモンテディオ山形社長に 選手に訓示もできる■ “美のカリスマ”武田久美子 美しすぎる43才の肢体を独占撮

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    坂本龍馬フリーメイソン説、日本代表者の見解は?

     今日まで、その“謎めいた組織”は様々に語られてきた。曰く、「世界を牛耳る陰謀組織」「日本や世界の歴史を動かした」等々。怪しげな言説に彩られた「フリーメイソン」の実態に迫るべく、日本にある15のロッジ(拠点)を束ねる総本部「日本グランドロッジ」(東京都港区芝公園)に足を踏み入れた。そして日本グランドロッジを主宰する第60代グランドマスターの猪俣典弘氏疑問をぶつけた。 歴史上の大きな出来事にフリーメイソンが関わってきたことは事実だ。フランス革命には人権宣言の起草者ラファイエット、初期の革命指導者ミラボーら多くのメイソンが関わり、米国初代大統領ジョージ・ワシントンもメンバーだ。イタリア統一運動にも多くのメイソンが参加し、トルコ独立の指導者ケマル・アタテュルク、フィリピン独立の英雄ホセ・リサールなど多くの革命指導者がメイソンとされる。──革命や独立戦争をフリーメイソンが主導したというのは本当でしょうか。猪俣氏:ロッジ内で宗教や政治の話はタブーであり、フリーメイソンは反権力や反体制を教えてはいません。ただし、個々のメンバーが命懸けで行う運動や行為について、強い絆で結ばれたブラザー(メンバー)に伝えて、活動の枠を広げた可能性はあります。組織的にではなく、横のつながりで革命などに加わったメンバーならいるかもしれません。 第二次大戦中、メイソンのメンバーは軍服に赤いリボンをつけて戦い、それを見つけた敵方のメイソンは引き金を引く指を止めたといいます。現在、フィリピンではイスラム過激派と政府側が戦っていますが、両者にメイソンがいます。彼らは昼間戦い、夜はロッジで談笑することもあります。──幕末の志士・坂本龍馬はフリーメイソンだったスコットランド出身の商人、トーマス・グラバーに操られており、明治維新はメイソンによるクーデターだという陰謀論が日本では有名ですが……。 猪俣氏:あくまで一次資料を欠く推測で根拠がありませんが、逆に坂本龍馬がメイソンではなかったという証拠もない。ロマンは残しておいていいかなと思います(笑)。関連記事■ フリーメイソン 安倍内閣にもメンバーがいた■ 鳩山太郎氏「何を隠そう、私はフリーメイソンです」■ フリーメイソン 「昇級」に必要なこととは何か■ 「秘密のある結社」フリーメイソンは震災支援も行う■ 東京タワー近くのフリーメイソン日本総本部に潜入

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    黒鉄ヒロシが教えたいシベリアの孤児を救った日本の美徳

    れていて、行動しなかったことに対する恥、したことに対する恥、結果に対する恥――と、ここまでは真っ当な歴史を有する国なら文化として定着していよう。「真っ当な歴史」とは、その良し悪(あ)しや好悪の判断はさて措き、人類の発展の通過儀礼の如くに、封建制度の経験の有る無しに掛かるようである。 更に恥は細分化されて国柄の一翼を担う。 行動の結果、人救けとなって成功であった場合にも、日本ではその後の対処にも恥は付き纒(まと)う。「名乗る程の――」の禁を解いて、抜け抜けと書きつければ、善行の点に於いて、他国に比べ、我国の圧倒的な数の多さは何の所為(せい)に因を求めればよいか。 いざ、具体例に転じて検証せん。トルコが邦人救出してくれたワケトルコが邦人救出してくれたワケ 昭和六十年(一九八五)三月十七日、サダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛行する全ての国の航空機は三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する」と緊急宣言を発表する。 同時に、空港はイランからの脱出民で溢(あふ)れた。 当時のイラン在住の邦人数は二百十五名。 各国の航空機が優先的に自国民を搭乗させるのは、広い人道上はともかく、狭い人情としては理解できる。  ところが、イランへの日本の航空会社の乗り入れはない。 自衛隊による海外への航空機派遣は違法。 この非常事態に、二機の臨時便を日本人救出の為に用立ててくれた国はトルコであった。 このニュースを知った多くの日本人は、トルコ側の真意が理解出来なかった。恐らく功利的な考えが大勢を占めたのではなかったか。 ――日本政府がトルコに大金を払ったのだろう――。 日本人の多くは、凡(およ)そ百年前のエルトゥルル号の一件を知らなかったが、トルコ側は覚えていてくれた。  その一件とは、明治二十三年(一八九〇)九月十三日、トルコ軍艦エルトゥルル号が嵐の為に和歌山県串本村紀伊大島沖で座礁沈没。 大島の島民達は危険な地形をものともせず、身を呈してトルコ兵六十九名を救出、貧しい暮らし向きにも関らず食糧を提供すると共に介抱にこれ努めた。 更に明治政府は軍艦二隻を提供し、生存者達をトルコまで送り届けた。 医療費の支払いを申し出たトルコに対し、大島の医者達は遺族への見舞いに回すようにとこれを断った。 成した善行を誇らぬのも上質の人の道なら、成された恩を忘れぬのもまた上質の人の道である。 トルコ機による日本人救出劇で、日本人は久しく忘れていた二つの道を知った。 エルトゥルル号の一件は、百年を経過して広く日本人の知るところとなった。 今ひとつ、エルトゥルル号の影に隠れてしまったが、トルコの人々が日本に感じていた恩義があった。 日露戦争で日本が勝利したことで、トルコ侵略を含むロシア南下政策が止まったことである。 対露戦の日本の勝利は、後に述べるロシア支配下にあったポーランドにも、勇気を含む多大なる影響を及ぼしていた。 もし、日露戦争の日本の勝利なかりせば、トルコに対するロシアの侵略は実行され、その蹂躙(じゆうりん)の足跡の無惨は如何(いか)ばかりであったことか。 トルコもまた、ポーランド同様にその国を失った可能性は高い。日本人の多くが知らぬ先人の善行日本人の多くが知らぬ先人の善行 味方見苦し――にならぬように、贔屓(ひいき)の引き倒し――とそしられぬように、慎重の上にも慎重に構えてみても、日本人の他国民への善行の多さの理由が知りたい。 同時に、以下に並べる事柄の多くも、つい最近までは日本人の多くは知らなかったという不思議。「美しいか、美しくないか」 ダンディズムの定義には詳しくないが、この判断こそ「武士(もののふ)の心」が完成までの過程で揉(も)みに揉まれ、血で血を洗い、その血文字をもって記したヒトの生き方の奥儀であったのだ。 尊敬の念を抱きつつ、杉原千畝(ちうね)の功績に想いを馳せる時、前段のあったことに思い至る。 杉原が、かの「命のビザ」を発給した頃を遡(さかのぼ)ること二年余、日本政府は「迫害ユダヤ人を排斥せず、平等に扱う」ことを国是としていたのだ。 この原型となる理念が世界の舞台で示されるのが、第一次世界大戦後の大正八年(一九一九)、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いてであった。「人種差別撤廃提案」である。 国際会議に於いて「人種差別問題」を俎上(そじよう)にのぼせたのは世界史上日本が初の国である。 提案の顛末(てんまつ)は、議長を務めた当時のアメリカ大統領ウィルソンによって、「全会一致ではない為、提案は不成立」なる苦し紛れの言い逃れにより不採択になったことはご承知のとおり。 イギリスのアーサー・バルフォア外相の如きは「ある特定の国に於いて、人々の平等というものはあり得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と言い放っている。 余談になるが、このバルフォア、第一次世界大戦中にユダヤ人の経済的支援を取り付ける為に、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに、ユダヤ人の「民族的郷土(ナシヨナルホーム)」建設を支持する〝バルフォア宣言〟を発した人物である。 比較するに、古来日本の国柄は人類皆平等であり、有言だけでなく実行もされた。 昭和十二年、関東軍によるユダヤ人擁護に対するドイツの抗議を突っぱねたのは、当時中将で関東軍参謀長の東條英機であった。 翌十三年、ソ満国境に於いて大量のユダヤ難民を関東軍と満鉄が救援した際にもドイツの抗議があったが、東條は毅然としてこれも撥(は)ねつけ、日本政府は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」として明文化し、「我国は他国民を差別せず」を国家的性格とした。 これを背骨(バツクボーン)としての、杉原の「命のビザ」は為ったのだ。 英国のバルフォア外相の主張など、今となっては信じられないが、当時のアングロサクソン、総じての白人の意見の大勢を占めていたと思われる。杉原千畝とシンドラーは〝別物〟杉原千畝とシンドラーは〝別物〟 時代と都合によって変化する正義、不正義の定義など頼り無いものであるが、普遍的な行動を測る物差しはある。 美しいか、美しくないか。 物差しは、「平時」と「非常時」の二種の目盛りについても迫る。「国を想う」道にも美しさはあろうが、「人を想う」に比べれば、その面積は当然に狭くなる。 美しい人々の棲む、美しい国の、美しい国益――という文字の並びは、一見すると結構のようではあるが、「人々」の持つ様々な感懐を一纒めに括らざるを得ない乱暴さが潜んでいる。 杉原は〈武士の心〉を頼りとして決断した。 外務省やソ連からの退去命令を無視しながら、杉原はビザ発給を続行する。 杉原の勇気によって命を救われた六千人は三世代を経て、三万二千人を数えた。 人道主義が国益に重なるのは、美しい行いに牽引された時に限る。 カウナス駅でベルリン行きの列車に乗り込んでからも窓から身を乗り出して発車間際まで杉原は許可証を書き続ける。 やがて列車が動き始めた時、ホームに残ったユダヤの人々に頭を垂れて次のように言う。「許して下さい、皆さんのご無事を祈っています」 武人が祈るとは泣くことであり、許せとは死ぬことである。 涙の理由を識(し)るからこそ、日本人による善行の数は後が絶えず、度重なる災害を前にしても強いのだ。 ヨーロッパ人も奇天烈で、杉原をして〈東洋のシンドラー〉とは、何を云うか。 日本人の美徳として、他者の勘違いをことさらに言い募りたくはないが、杉原は救けたユダヤ人を後に訪問し、何がしかの援助を受けたことなど断じてない。 如何なるセンスで〈東洋の――〉或いは〈日本の――〉なんぞとスケールを小さくし優位性を保とうとするか。 白人名物、有色人種差別の遺伝子が衣の下から覗くヨロイのように転び出もしたか。 いや、つい感情的になり、日本人として恥ずかしや、平に謝す、許されよ。怨を慈悲に―三十八度線のマリア怨を慈悲に―三十八度線のマリア 平伏した眼を、そのまま朝鮮半島に転じよう。 昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争勃発。 ソウルに攻め入った北朝鮮軍兵士が乳飲み児を抱いた韓国人女性を射殺。投げ出されて泣き続ける以外に 術なき赤児を、救い上げる女性の両の手があった。 手の主は、日本人女性望月カズ、二十三歳。 東京杉並は高円寺の生まれ。父の他界後、母に従い四歳で満洲に渡る。  満洲での母の商いは軌道に乗るが、二年後の母の病死を境にカズの境遇は急変する。 売られた先の家で、カズは日本語を使うことを禁じられたというから、無論その農民は日本人ではない。 売った使用人もまた日本人ではなかろう。 ようやく関東軍に救い出されたカズは、身柄を預かった軍隊内に於いて読み書きその他を教育されたのち独立。 終戦後、一旦は日本に戻るが、そこには親戚も知人の一人も居ず、まるでカズの心地は浦島太郎。 恋しさ募り、他に当て無しのカズは母の墓地を目指すも、既に満洲は政情不安で踏み入る能(あた)わず、朝鮮半島はソウル、かつての京城(けいじよう)に足留め。 そこで先の話へと繋がる。 赤児を抱いて、カズはソウルを逃れて釜山(プサン)に向かうが、途中、瀕死の幼い姉弟二人も救っている。 見ゆるカタチは母子四人連れだが、血の繋がりどころか、縁もゆかりもない。 釜山に辿(たど)り着いたカズはバラックを建て、埠頭で荷下ろしなど手伝い、その日銭で三人を養う。 自分を売り飛ばし、こき使った他民族を恨みもせず、カズが育てた韓国人孤児は百三十三人を数えた。 やがてカズの存在は韓国人社会にも知られるところとなり、孤児達を育て始めた朝鮮動乱にちなみ、「三十八度線のマリア」と呼ばれるようになる。 昭和四十年(一九六五)六月、日韓条約が締結され、両国の国交回復。 六年後、韓国政府は長年の功績を称え、カズを「国民勲章・冬柏章(トンペクチヤン)」に叙した。 韓国側の贈呈者は、当時の大統領、朴(パク)正煕(チヨンヒ)。娘の槿惠(クネ)さんも、未だ疑問符の付く話に拘(こだ)わり続けるより、父君と三十八度線のマリアを偲ぶ方が余程に精神衛生には良いと思うが。戦場で敵兵救助した帝国海軍戦場で敵兵救助した帝国海軍 屈託は半島に残し、次なる〈雷〉と〈電〉を中心とする奇跡の検証の為に昭和十七年(一九四二)二月二十七日から三月一日のスマトラ島とジャワ島の間、スンダ海峡へと飛ぶ。 発端を、マレー沖海戦の日本軍航空部隊の雷撃によって、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の水兵達が次々に海中に飛び込んだところに据えよう。 海原に浮かぶ英水兵を日本機は狙い撃ちすることなく、その上空を旋回。 英駆逐艦が海上の生存者を救出し、シンガポールへと退却するを確認しただけで、一発の機銃も撃たず見送っている。 この時、海上に漂っていた英海軍大尉、グレム・アレンは上空の日本機を見上げながら確信する。「日本軍は、一旦戦さ終われば敵味方勝者敗者の別なく、互いの健闘を讃えるのみで、過剰な追撃は加えない――」 場面を、マレー沖からスラバヤ沖へと転じる。 先に〈雷〉と〈電〉の奇跡と書き始めたが、もちろんあの力士ではなく、第三艦隊所属の駆逐艦〈雷(いかずち)〉と〈電(いなずま)〉のことである。 両艦製造の為の鉄は、善行の多さの秘密を解く鍵を溶かして用いたのではないかと思う程である。 さて、〈電〉の酸素魚雷によって傾斜した英重巡「エクセター」に向かい、艦長竹内一は総員を甲板に整列させ、「沈みゆく敵艦に対し敬礼」と令しながら、今まさに海上に展開する奇妙な光景を見た。 飛び込んだ英水兵達が〈電〉めがけて泳ぎ来(きた)るではないか。 先に「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗っていたグレム・アレンは、今は士官として〈エクセター〉に配属されていたのだ。 アレンは退艦するに際して水兵達に告げていた。「飛び込んだあとは、日本艦艇に向かって泳げ。必ずや救助してくれる」 日本海軍の敵兵救出はこの二例に留(とどま)らない。 昭和十七年時の日本海軍の快進撃は驚異的だが、以下に続けるも世界戦史の奇跡の一頁であって、連戦連勝から生じた余裕などというものではけしてなく、特質を越えた日本人の体質であった。 海戦史上にも異例と思える程の長期に亙(わた)ったスラバヤ沖海戦では同様の景色が随所に見られたのだ。 漂流する敵兵に対し、「全員救助」と下令したのは重巡洋艦「羽黒」の森友一大佐で、敵旗艦「デ・ロイヤル」の生存者二十名救出に始まる。〈雷電〉の〈雷〉の方も、日本人乗組員は黙して一人として語る者は無かったが、元海軍中尉、サミュエル・フォール卿なる英国人が自伝を著(あらわ)したことから世に知られることとなった。 自伝をものした敵国のフォール卿をして「ありえないことだ」と言わしめたこととは。 フォール中尉が乗る英駆逐艦「エンカウンター」はスンダ海峡に於いて〈雷〉によって撃沈された。 真夜中の海へと投げ出された〈エンカウンター〉の乗組員達の運命は絶望的である。 フォール卿の記した「ありえないこと」が起きる。 撃沈した〈雷〉工藤俊作艦長は救難中を示す国際信号旗をマストに掲げさせたのち、海上の「敵兵救出」を命じる。 救助された英兵、実に四百二十二名。 工藤艦長以下〈雷〉乗組員は命を救(たす)けたばかりか、重油まみれの英兵の身体を貴重な真水で洗い流し、アルコール消毒した上で、南国の強い日差しを遮(さえぎ)る為の天幕まで張り、衣服、靴も支給し、牛乳、ビスケット、ビールなども供した。 英兵にとっては全てが意外で、感動に頬を涙で濡らしながらも深意を計りかねた。 奇跡と呼ぶには余りに多く、今やスラバヤ沖海戦の至るところでそれは起きた。 駆逐艦〈江風(かわかぜ)〉は蘭軽巡洋艦〈ジャワ〉の生存者三十七名救助。駆逐艦〈山風〉が〈エクセター〉の生存者の一部の六十七名救助。〈雷〉が英大尉グレム・アレンを含む〈エクセター〉の残りの生存者三百七十六名救助。「神宿る」といわれた、あの「幸運艦」、駆逐艦〈雪風〉も蘭軽巡〈デ・ロイテル〉の約二十名救助。 バタビア沖でも米重巡〈ヒューストン〉乗組員三百六十八名救助。豪軽巡〈パース〉の三百二十九名救助。 一部とはいえ、戦争を美しいとは無神経な物云いと承知はするものの、言語に頼る以上、この景色に想いを馳せれば、他の表現は思い浮かばない。 美しさには、戦さでの劣敗や、救けた救けられたのプライドも関係がない。シベリアのポーランド孤児救援シベリアのポーランド孤児救援 善行にも優劣などあろう筈もないが、日本人が他国民に為した中から、まとめとしてシベリアのポーランド孤児七百六十五人救出の事例を選ぶ。 選ぶことが出来る程に数多きことに、我々は日本という国と文化に感謝と誇りを持つべきだろう。 事例に踏み込む前に、先のエルトゥルル号のトルコ同様、多くの日本人のポーランドに対する知識は心許(こころもと)無いのではないか。 出身者として、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人などが思い浮かぶなら上等だろう。 人名以外に、長く消滅していた国、カティンの森の悲劇などが加わると、にわかに不吉な気配が立ち籠めて、シベリアのポーランド孤児を包み込む。 不吉な気配に眼を凝らせば、先のピアノの詩人と呼ばれたショパン(一八一〇~四九)も、亡命後定住したパリで亡命ポーランド人を中心とした貴族社交界の寵児であったことを思い出すし、キュリー夫人(一八六七~一九三四)が生まれたのも帝政ロシアに併合されて既に国は国家の体を成していない時代であった。 地の利に恵まれたとはよくいうが、ポーランドを中心にまわりの国に眼をやると、地の損というか、全くに心安らかになる余地のない位置にあることが判る。 三方からポーランドを囲むのは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアの三強国。 元より白人の身勝手な思い込みに過ぎないが、弱肉強食の論理が領土にも及んで、拡大と縮小の繰り返しが常なる時代。 囲む三国の勢力争いにまき込まれたポーランドは、一七七二年、一七九三年、一七九五年と分割は続き、遂には国家自体が消滅するに至るのである。 その後、ウィーン条約によって独立は果たすものの、君主はロシア皇帝が兼任するという上辺(うわべ)だけのもので、実情はロシア語教育やロシア正教会への帰順と、強制的なロシア化を迫られ、十一月蜂起(一八三〇―三一)や一月蜂起(一八六三―六四)など、何度も立ち上がった自由の為の抵抗は全て鎮圧される。 蜂起は更なる不幸をポーランドに強いることとなる。侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に ロシアは叛乱(はんらん)に加担した政治犯や危険分子をポーランドから一掃し円滑な統治を図るが、目的の地に選ばれたのが極寒の地、シベリア。 寒過ぎるのか、ウオッカの飲み過ぎか、権力を持ったロシア人の考える事はいつも同じで、危険の排除と土地財産の没収、そして未開の地での強制労働による開発の一石三鳥を目論むことになっている。 第一次世界大戦までにシベリアに流刑にされたポーランド人は五万人余りに上った。 更にその第一次世界大戦で、祖国ポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、追い立てられた流民がシベリアへと流入。 結果、シベリアのポーランド人は十五万人から二十万人に達した。 そんな折、ロシアの権力者が変わる。 一九一七年に勃発したロシア革命である。 権力を掌握したウラジーミル・レーニンは国家体制を帝政から社会主義共和国連邦へと極端な転換を図るが、その際、西欧諸国からのロシア皇帝借金は新政府とは関係ないから返済せずと宣告。 熊の毛皮の帽子を被っても寒さに脳が凍っているのか、突如としてロシア人はイワンのバカになる。 英、仏、米の莫大な借金を踏み倒すと、吐く息とともに高らかに吠えたのだ。 巨額な貸付金の返済拒否は自国の経済破綻に跳ね返る。 更に二年後にはコミンテルンを結成し、共産主義革命の思想を世界に伝染させ始める。 借金は踏み倒すワ、他国の体制の転覆は図るワ、もはや看過(かんか)出来ず、英仏が立ち上がった。 ここにシベリア出兵が実現する。 日本はどうであったか。 英国などから再三に亙って出兵の催促あるも日本議会は強硬な反対派が占めて動かない。 理由はひとつ、大義が無い。 未だ当時の政治家には武士の名残を見る。 日本はロシアへの貸付金こそないものの、革命の影響が満洲や朝鮮半島に及ぶ危惧(きぐ)はあった。 遅れて米国が派兵を決定するに合わせて、大義を見つけた日本も大正七年(一九一八)八月、シベリアへの陸軍派遣に踏み切った。 ポーランド人はどうであったか。 ただでさえ流刑人としての厳しいシベリアでの暮らし向きでの帝政崩壊、加えての共産主義への急激な変更、これら変化に伴う内乱、更に他国の出兵による混乱。 これらの皺寄せが一気に最も弱い立場にあったシベリアのポーランド人の身に襲いかかった。孤児への欧米の薄情、日本の厚情孤児への欧米の薄情、日本の厚情 全ての救いから見放された彼等は、食料もなく、医薬品もなく、暴徒より身を守る術もなく、次の四つ、虐殺、病死、凍死、餓死の中から選ぶ他ない生き地獄へと追い詰められた。 一九一九年、同胞の惨状を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人達によって、ようやく「ポーランド救済委員会」が発足。 しかし、シベリアに出兵している英仏米伊に対する委員会からの窮状救済の懇願はことごとく不調。 各国の、この薄情振りは今日の難民問題処理に重なる。 最後に頼られた日本は、多大なる労力と巨額の費用もものかは、わずか十七日間で救済を決定する。 当時の日本人のフットワークの軽さ、すなわち決断の早さは、武士道に支えられた日頃からの覚悟が背骨にあるように思う。 陸軍の支援のもと、救済活動の根幹を成したのは日本赤十字社で、大正九年(一九二〇)の三百七十五名が東京へ、同十一年の三百九十名の二度に亙るポーランド孤児救出は成った。 孤児達の体調は当然に良好ではなく栄養失調の上に伝染病に冒(おか)され、看護する日本側にも死亡者を出している。 覚悟は途中での自己犠牲も伴うが、日本人は朝野をあげて善意を発揮する。 東京に於いても、大阪に於いても、日本全土からの慰問品や見舞金はひきも切らず、孤児達の為の慰安会も頻繁に催された。 ヒトとしての逆境の限界と云えるシベリアに生まれ落ちて以来、初めて触れる人の温かさに孤児達は精神と体調を回復し、ポーランドへの帰国となる。 言語や習俗習慣が違っても、ヒトとしての善なるものが分母にありさえすれば幼児であっても、意は通じる。 親味に世話してくれた日本人看護婦や保母達との別れを悲しみ、泣いて乗船を拒む孤児も多かったという。 孤児達の心境にはもちろん、看護に当った日本側にも、善意を寄せた当時の全国の日本人にも、今は蒸発しかけたと感じるヒトとしての格を見る。 成したる方、成されたる方を並記すれば、避けたかった〈味方見苦し〉の気配が首を擡(もた)げてしまう。 シベリアから日本を経て、祖国ポーランドへと帰った元孤児の方々も、寿命を迎えて全て亡くなった今、善意の墓標と墓守としての語部(かたりべ)だけが残された。もののふの覚悟の先のDNAもののふの覚悟の先のDNA 数が他国を圧倒するとしても、もちろん善行は日本人の専売などではなく、世界中の歴史に記録され語り継がれているが、ほとんどが平時に多いように感じる。 善行のエッセンスを儒学に探せば、孔子の説く「恕(じよ)」(我事として他人を思いやる)と、孟子の「四端説(したんせつ)」に行き着く。 孟子は、人には先天的に「惻隠(そくいん)(あわれむ心)」「羞悪(しゆうお)(恥じる心)」「辞譲(じじよう)(譲り合う心)」「是非(善悪を判断する心)」の四つの感情が内在すると説く。 孟子の、「惻隠の心は仁の端(たん)なり」の「心」の部分は、『大学』に於いては、「惻隠之情(じよう)」となり、「絜矩(けつく)の道(他人の心を推し量り、相手の好むことをしてやる心情、態度)」と、孔子同様の「恕」の思想を載せる。平時に於いてはこれで結構だろうが、ここに引いた例は、更なる厳しい状況下に於ける判断が求められたのではなかろうか。「義を見てせざるは勇無きなり」は、これまた「論語」であるが、不足の分のエネルギーを日本人は〈武士道〉の覚悟で埋めた。 孟子の、「人の性は本来善なり」と説く「性善説」が正しければ、今少し世界に於ける善行は各人種に散らばっても良さそうではないか。 孔子と孟子に対し浅慮で舌足らずであった。 両先生は、人の素質、素材に就いて云うのである。 玉磨かざれば光なし。 人なる玉の原石を、日本人は〈武士道〉によって磨いた。 トルコの人々も、ユダヤの人々も、ポーランドの人々も、磨いた心を持っての返礼があった。〈武士道〉で押し通す愚説に面喰らった御人もおられようから、他の要素も加えて不足を埋めて、この駄文を閉じようと思う。 不足といっても、遠い先祖に辿り着くような遺伝子にまで至ってはどうかとは思うが、戦さには強かったが、その明け暮れに嫌気(いやけ)がさした一団が日本列島に逃れて土着したとする説がある。 日頃は極めて平和的でありながら、一旦ことあらば負けると判っている戦さでも、素早く覚悟を整えた上で突撃する性癖(せいへき)のような特性は古代より続いている。 土着の逆に、漂流民となっても、ジョン万次郎、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)、大黒屋光太夫(こうだゆう)など、卓越した学習能力を発揮した確率は異様に高い。 異様な程の優秀性が先の説を支える。 土着したのち、万世一系の天皇制の元、列島に住む者が入れ子状の家族の〝カタチ〟となった。 時代は下って、その生活の窮乏著しい戦国に於いても天皇家が存続し、けして消滅しなかった、或いは消滅させられなかった奇跡のような理由も説明が付く。 日本人の本家と云える天皇家を、分家である武士が滅ぼすなど、考えようも無い訳である。 この、王族を取り捲く関係の質に於いても、対処に於いても、他民族には例を見ない不思議。 宗教面にも顕著に証拠を残している。 神道(しんとう)と仏教の関係、更にキリスト教が加わっても〈八百万(やおよろず)の神〉とタフに構え、一緒に祀(まつ)り続けた。 これまた他民族には例のない不思議。 次に、今日では日本人までが誤解しているようだが、この列島に人種的差別など無かった。 白色と有色の差を問わず、尊敬の念を持って歓迎した。 白色が有色と差別するを見ても、「ならばお主は無色か?」とは言い返さず、近年での「名誉白人」なる無礼な呼称も腹も立てなかったのは、拘る意識すら無いからである。 これらの素質を分母に、覚悟の点を〈武士道〉で磨きに磨いて、典型的な〈日本人像〉が成った。「奇跡」を護って進まん「奇跡」を護って進まん「八絋一宇(はつこういちう)」の意味についても、GHQ(連合国軍総司令部)による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=戦争に対する罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)」が功を奏してか、日本人まで「侵略戦争を正当化した言葉」と思い込んでいるようだ。 そも、神武天皇の言葉で、「八絋(あらゆる方角=世界)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん」の謂(いい)であり、大東亜戦争時の日独同盟の際、ユダヤ人迫害政策を迫るドイツに対し、時の陸軍大臣、板垣征四郎が「神武天皇の御言葉に反する」と、これを退けている。 日本の国是として先に述べた「猶太人対策要綱」があり、杉原の功績がそれに続いた。 この要綱は、関東軍の安江仙弘(のりひろ)大佐らのユダヤ人擁護を東條英機参謀長が是認して軍の要領としたことが原動力とも言え、ソ満国境のユダヤ難民救援を経て、板垣征四郎が中心となり国策になったものである。 これら、日本人の決断と行動を善とするなら、当時の西洋諸国の思考は悪となる。 東條、板垣、安江、そしてユダヤ人に救いを差しのべた外国人として『ゴールデン・ブック』にその名を載せる〝ジェネラル・ヒグチ〟コト樋口季一郎もいる。〈ユダヤ人救援〉を支えた軍人の名と、その世界唯一の善なる国策は小さくされ、或いは消そうとされ、杉原一人の個人的善行に矮小化せんとの企てあるやに感じるは何故か、何の所為か。 特に、この世界唯一といえる善なる国策から東條英機の名を引き剥がさんとする衝動の源は何処(いずこ)で、何人(なんぴと)の都合に因るものか。 日本がユダヤ人を救っている時、無慈悲にその扉を閉じたアメリカ、イギリス、西洋諸国は、今、何を思うか。 これらの国が日本に歩調を合わせ、ユダヤ難民を受け入れてさえいれば、後のナチスによる数百万人のユダヤ人虐殺は避けられたのではなかったか。紙幅の関係上、名前を挙げるに留めるが、総領事代理、根井三郎、ユダヤ研究者、小辻節三など、「人種平等の思想」を背骨に、西洋の差別主義と闘った日本人は多い。 かくも差別なき国の存在は、珍しかろう。 末尾に慌しく、その特性を並べたが、手前味噌ではなく、如何に日本人が不思議で、特異な存在であるかはご理解戴けると思う。 云わば、人類の理想型といえる。 他国もまた、理想に到達してくれていれば、善意の応酬によってこの世界から貧、愚、悪などは姿を消す筈なのに未だ果たせないのは何故か。 グローバリズムの未来は新たな軋轢を生み、価値観の再構築の為の大混乱が待ち受けるというに、ヒトは止めようとしない。 他国頼みは無理であり、無駄である。 日本人による「天皇制」と「武士道」の獲得は人類史の奇跡と云える。 先輩達から受け継いだ、この奇跡を回復し、維持し、釈迦の申す犀(さい)の角の如く、一人進むの他はない。くろがね・ひろし 昭和二十年高知県生まれ。三十九年武蔵野美術大学中退。四十三年『山賊の唄が聞こえる』で漫画家デビュー。平成九年『新選組』(PHP研究所)で第四十三回文藝春秋漫画賞、十年『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門の大賞、十四年『赤兵衛』で第四十七回小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。ギャンブル好きで競馬ファンとしても知られるが、政治や国際関係の見識は高く、民主党政権「失われた三年間」のデタラメ政治を痛烈に批判。中韓露の反日プロパガンダに対しても事実を挙げながら、漫画家らしい皮肉たっぷりの反論を展開している。著書に『千思万考』シリーズ、『GOLFという病に効く薬はない』(ともに幻冬舎)、『韓中衰栄と武士道』(角川学芸出版)、『新・信長記』『本能寺の変の変』(ともにPHP研究所)。近著に『刀譚剣記』(同)。

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    敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ

    ター主任研究員)古今随一の陸の名将 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。正装した乃木希典 国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。花も実もある真の武人花も実もある真の武人―水師営の会見― 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。(上)明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍(下)会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と (『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11) このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」 ステッセルは愕然として言った。「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。敵将の不遇知り救済の手尽くす敵将の不遇知り救済の手尽くす ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。第三軍招魂祭で弔文を読み上げる乃木希典 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや 乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る 乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。 乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば二人の息子とともに戦死したかった。戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。 明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』) 東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当時市民の間で交わされた言葉がある。「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」 このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。 ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。 明治天皇の目にも涙があふれた。奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。 あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、朕世を去りたる後にせよ」 乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。 このような軍将が世界のどこにいるだろうか。かつて戦いの歴史にあったろうか。明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、格段の心配りをしてやまなかった。学習院長―教えのおやとして 学習院長―教えのおやとして   明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命した。経緯はこうだ。前年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝した。大山巖に代わり就任早々であったが、日露戦争において心身を燃焼し尽くしたのである。児玉は文武の全才として桂太郎(日露戦争時の首相)の後を継ぐべき最適の首相候補と目された。乃木は長州人として児玉と親交を重ねた間柄だから葬儀委員長を務めた。 陸軍の大御所山県有朋は後任に乃木を推挙し内奏したが、天皇は「乃木については朕の所存もある。参謀総長は他の者を以て補任せよ」と答えた。人物、才幹そして日露戦争の大功よりして誰一人異存のあろうはずのない推挙であった。山県はこれほど天皇の信任厚い乃木をなぜ任用しないのかいぶかしく思った。結局第二軍司令官を務めた奥保鞏(やすかた)が任命された。 しばらくして山県が拝謁すると、天皇は機嫌ことに麗しくこう伝えた。「乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。朕の三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした」 後に山県は「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」と語っている。当時参謀総長は帝国陸軍の最高の要職であり、これまで山県有朋、大山巖、川上操六、児玉源太郎等の最有力者が担当した。その参謀総長よりも、将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのである。(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』) 明治天皇は乃木を伊藤博文、山県有朋ら元老に次ぐ国家の柱石として絶大の信頼を置いた。天皇は乃木に御製を授けた。いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ「おほしたてなむ」は「生ほし立てなむ=立派に育てよう」、「やまとなでしこ」は現在のように女子を指すのではなく、「撫子=かわいい子ら」で「皇孫はじめ日本を背負いたつべき子供たち」の意。 そうしてこう言った。「乃木も二人の息子を亡くして寂しかろうから、代りにたくさんの子供を預けよう」 乃木は当初、あまりの重責に「武人たる自分はとてもその任にあらず」と固辞しようとしたが、この言葉に込められた厚い配慮に感泣し、拝命した。この時次の歌を詠んだ。身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくひざらめや「すべらぎ」は「すめらぎ」と同じく天皇のこと。「よし疲るとも」は「もし疲れ果てようとも」の意。 時に五十九歳。立場こそ異なっても乃木は戦場にある時と同様に尽力、迪宮の教育に渾身の努力を捧げた。これに対して迪宮は何事につけ「院長閣下は…」「院長閣下が…」と乃木を慕い、乃木の教えを実践したという。 昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。廃兵へのいつくしみ廃兵へのいつくしみ 東京の巣鴨にある廃兵院に最も足繁く通う将帥(しようすい)が乃木であった。ここには日露戦争で負傷し不具となった兵士約五十人が暮らした。そのうち十五人が旅順戦の部下だったから、乃木は深い同情と責任を感じていた。毎月一、二度訪れ、各部屋を一人一人慰問して回り、菓子や果物などの手土産を絶やさなかった。時折、天皇からの御下賜品があると真先に分け渡した。 廃兵たちは時をおかずやって来る乃木の厚い情に感泣し、来院を何より喜んだ。乃木が殉死を遂げた時、彼らは慈父を失ったかのように泣き悲しんだ。葬儀への会葬も強く希望した。そこで廃兵院は歩ける者は葬列に加え、不自由ながら外出可能な者は葬列より先に式場に着かせた。葬儀後、一般の国民とともに墓参りする廃兵が後を絶たなかった。ただ一言の〝講演〟 戦後のある年、乃木は長野へ出かけた。私用だったので静かに行き帰りするつもりでいたが、そうはいかず「乃木大将がやって来た」とあちこちで声が上がり、長野師範学校に招かれた。学校では絶好の機会として全生徒を講堂に集めた。校長は乃木を紹介、その勲功を称えた後、講演を乞い登壇を促した。 ところがいかに進められても乃木は演壇に上がろうとはせず講演を辞退した。だが校長はあきらめず「少しでも」と懇願したのは無理もない。やむなく乃木はその場で立ち上がると「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言って頭を垂れ、やがて双頬(そうきよう)に涙を流し、ついにハンカチで拭いながら嗚咽した。これを見た満堂の生徒と教師もみな泣いた。 長野県出身の兵士はみな第三軍に属し、旅順と奉天で数多く戦死している。生徒たちは彼らの弟である者が少なくなかった。その尊い英霊たちの弟に向い、乃木は高い演壇に立って言うべき何ものもなかったのである。日露戦争の最大貢献者、国民的英雄の話を聞けると瞳をこらして待つ純真な生徒を前にして、乃木は万感胸に迫り、この言葉を発したのである。この「たった一言の講演」はその後この地で、感動をもって長く言い伝えられた。街角の孝行少年へのいたわり街角の孝行少年へのいたわり 靖國神社近くの街角で夜ごと辻(つじ)占(うら)売りする十一、二歳の少年がいた。辻占とは占いのみくじ。父は旅順で戦死し、母は長患いで寝たままの生活で、少年は朝は新聞配達、昼は小学校、夕方から辻占売りをして母の面倒を見る評判の孝行息子であった。 陸軍記念日の三月十日夕、人力車で通りかかった乃木は、車夫に少年のこと聞いた。用事を済ませて乃木が少年の長屋を訪ねると、ちょうど借金取りが大声で催促している最中。泣くがごとく猶予を訴える母子を目の当たりにして、代わりに借金を払い帳消しにした。涙を流し畳に額を擦り付けて礼を述べる母子に「礼には及ばん。松(しよう)樹(じゆ)山(ざん)に名誉の戦死をなされたあなたの夫は私の部下だった。夫を殺したのはこの乃木だと、さぞ恨んだことだろう」と打ち明け、「仏前に」と二十円、「孝行するんだよ」と少年に五円を渡した―。乃木神社の旧乃木邸にある「乃木大将と辻占売り少年像」 これは、乃木の逸話の一つとして一世を風靡した講談「乃木将軍と孝行辻占売り」。美談として脚色された部分もあるが、実際にあった。 乃木が少将だった日清戦争前の明治二十四年、所用で金沢を訪れ、街角で辻占売りをする八歳の今越清三郎少年に出会った。夜も働いて家族を支える姿に心動かされた乃木は持ち合わせた二円を渡して励ました。今越少年は乃木の激励を心に刻み、金箔師として精進し、滋賀県無形文化財に指定された。昭和四十九年に九十一歳で亡くなるまで、その恩を各地で語り伝えていた。 乃木は学習院長になっても、陸軍大将と軍事参議官を兼ねていたから多額の俸給があったが、その大半を戦歿者遺族への弔慰、遺族・旧部下の困窮者への支援、傷病者への医薬費、廃兵の慰問、その他公共事業への寄付等に使った。殉死―みあとしたいて殉死―みあとしたいて 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。大正元年九月十三日、大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳である。辞世は次の二首である。(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)                           臣希典上(たてまつる)神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる                                 臣希典上うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり 割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言葉を守ったのである。 凱旋後、乃木は機会あるごとに戦死者の墓を詣でその冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べた。「畢竟(ひつきよう)あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」 乃木は遺言状で、切腹自決の理由として、明治十年の西南の役における軍旗喪失(連隊旗を敵に奪われたこと)のみを記し、これには触れなかった。そこには配慮があった。 戦争で戦死者が出ることは不可避で、勝利したにもかかわらず多数の死者を出したことを自己の責任として自決せねばならぬとすれば、上級指揮官はみなそうせねばならぬことになるからである。それはあくまで乃木個人の道義的な責任観念によるものであった。 だがこの自決は乃木にとり決して悲しい最期ではなかった。何より辞世に乃木の心底が包むところなく吐露されている。いかなる臣下よりも深い恩寵を蒙(こうむ)ったこの世に神と仰ぐ明治天皇のみあとをはるかに拝(おろが)み、みあとを慕いゆくことは、乃木にとりこの上ない悦びに満ちた死出の旅にほかならなかったのである。このとき妻静子もともに殉死した。一世の哀悼―沿道を埋める人々一世の哀悼―沿道を埋める人々 九月十八日、乃木夫妻の葬儀が青山葬儀場で行われた。それは空前絶後の国民葬であった。同日、乃木夫妻を見送ろうと集った人々は東京開市以来といわれた。乃木邸より青山葬儀場までの沿道は数十万の人々で立錐の余地なく埋め尽くされた。各界各層、老若男女が集った。葬列には学習院の生徒と廃兵が加わった。乃木夫妻の柩が目前にくると人々は頭をたれ手を合わせた。ことに乃木の後に続く静子夫人の柩には涙を流し嗚咽した。葬列に加わったある軍人はこう伝えている。「青山斎場に至る間の両側は人垣を以て埋め、前方の数列は土下座して十重二十重に、群衆は無慮(およそ)二十万、まことに前代未聞の光景であった。やがて進み来る将軍の霊柩を拝した群衆は敬虔な態度を以て迎え、厳粛なる気持に粛として声なく、霊柩を見送る眼には稀代の忠臣とその遺体に対して最後の別れを致さんとする姿が反映しており、筆者の胸を打った最も尊き感激であった。乃木夫妻の葬列。立錐の余地もないほど沿道を埋めた人々の前を今、夫妻の霊柩が過ぎようとしている(『回顧乃木将軍』) しかるに次いで来れる夫人の柩、その間約三十歩、その柩を見た瞬間に群衆の態(たい)姿(し)は一変し、敬慕、愛惜、ことごとくが涙であった。合掌礼拝するもの、感極って嗚咽するもの、眼に涙を拭うもの、土下座せる老(ろう)媼(おう)(老婆)は地に顔を摺(す)りつけ慟(どう)哭(こく)する有様、沿道のすべてがそれであった。棺側にあってこの光景を見つつ筆者は一つ一つ胸に迫る衝動に、抑えんとして抑え兼ぬる涙が次から次へとこみあげてくる。ようやく堪えてこの場を通りすぎると、また新たなる同じ感激の場面に遭遇する。ついに我慢しきれず涙は頬に伝わって落ちてくる」 乃木と静子夫人の殉死に日本人がいかに魂を搖さぶられたかが、この記述からよくわかる。また、夫妻の殉死は英米はじめ各国主要紙にも大々的に報じられた。 乃木は近代日本を代表する国民的英雄であった。乃木は「自分の身体はひびが入っている」と言っていた。西南の役で明治天皇から賜った連隊旗を奪われるという過ちを犯した痛切な罪の自覚が、乃木希典という稀有なる人物を玉成させた。 そして「忠君愛国の至誠、献身犠牲の大(たい)節(せつ)を万古(ばんこ)不易(ふえき)(遠い昔より不変)の大信念に貫き、一死以て君国に殉ずるのが日本国体の精華」という一大信念を、身を以て実践した。 乃木希典こそ、東郷平八郎とともに日本人の誉れであり、世界に誇るべき日本人の一典型であった。おかだ・みきひこ 昭和二十一年北海道生まれ。國學院大学中退。在学中から日本の歴史上の人物の研究を続け、日本政策研究センター発行の月刊誌『明日への選択』に多くの人物伝を連載している。平成二十一、二十二年産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載。全国各地で行う人物講演は年間百数十回に上る。著書に『乃木希典―高貴なる明治』『東郷平八郎―近代日本を起こした明治の気概』『小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂』(いずれも展転社)、『日本を護った軍人の物語』(祥伝社)、『日本の誇り一〇三人』(光明思想社)、『二宮尊徳』『維新の先駆者』(日本政策研究センター)など。

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    邪馬台国は「99・9%」九州にあった

    畿内か九州か。古代史最大のミステリー「邪馬台国論争」。女王卑弥呼の墓とされる遺跡の発掘や、中国の歴史書に基づく文献研究などが進み、双方の説を裏付ける学説はいまだ後を絶たない。そこでiRONNA編集部では、あえて「99・9%九州説」の立場から論争に加わり、邪馬台国の謎に迫ってみた。

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    邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎

    た場合、天皇平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれて短くなる傾向が認められる。奈良時代以前の、在位が歴史的に確実な諸天皇について調べると、300年以上の期間、天皇一代の平均在位年数は、11年足らずで安定している。 天皇の一代平均在位年数が、11年足らずという数字をもとに、『古事記』『日本書紀』の伝えるすべての天皇が実在していると仮定し、神武天皇の5代前と伝えられる天照大御神の活躍年代を統計的に推定すれば、天照大御神の活躍年代と卑弥呼の活躍年代とがほぼ重なるのである。  図2の横軸には、天皇の代をとる。縦軸には天皇の没年または退位年をとる。実線で書かれているのは、確実な歴史的事実である。 歴史的な事実である実線部は、やや下に凸(下に向けて曲がる)的傾向を示している。これは、天皇の在位年数が、後代になるにつれ次第に長くなる傾向があるためである。 いま仮に「卑弥呼=天照大御神」とすると、横軸については天照大御神は第1代神武天皇の5代前、縦軸については西暦247~248年に没した人物(卑弥呼)ということで、図中のポイントAが定まる。 このポイントAが、実線の延長線上に極めて自然に乗っていることが読み取れる。ほとんど一目瞭然といってよいであろう。天照大御神のいた場所天照大御神のいた場所 「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。 『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。  いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。 その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。「平塚川添遺跡」の出現 『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。 九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。 筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。佐賀県の吉野ケ里町と神崎市にまたがって広がる「吉野ケ里遺跡」九州と大和の地名の一致九州と大和の地名の一致 地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」 「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。平野・遺跡・人口の分布平野・遺跡・人口の分布 地図2~地図4をご覧いただきたい。 地図2をみれば分かるように、筑後川流域は、九州最大の平野部である。また、地図3は茨城大学の及川昭文氏が『東アジアの古代文化』の60号に発表した論文「シミュレーションによる遺跡分布の推定」で示された資料である。及川氏は、弥生遺跡の発掘された場所の標高、傾斜度、傾斜方向、地形、地質土壌などを調べ、それと同等の性質をもつ場所が、九州においてどのように分布しているかを示している。それが地図3である。 さらに、地図4は国立民族学博物館の小山修三氏が欧文雑誌『Senri Ethnological Studies』(『千里民俗学研究』No.2、1978年刊)に載せられた論文「Jomon Subsistence and Population(縄文時代の暮しと人口)」のなかで示されているものである。小山氏は、青森から鹿児島までの各都道府県教育委員会発行の遺跡地図に収められている集落、食糧貯蔵穴、土器大量出土地などの生活跡のデータを、コンピューターに入れ、時代別に分類し、人口の推計を行っている。そのうちの弥生時代の九州の人口(遺跡)の分布図が地図4である。 以上の地図2~地図4をみれば、筑後川流域は、九州最大の平野部で、遺跡・人口のもっとも密集している地域である。朝倉市などはその地域のなかにある。箱式石棺の分布箱式石棺の分布 宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者、奥野正男氏は述べている。「いわゆる『倭国の大乱』の終結を、二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。つまり、この箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である」(『邪馬台国発掘』 PHP研究所、1989年刊) 「邪馬台国=畿内説」の考古学者、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)も述べる。「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する」(「墓と墓地」、『三世紀の遺跡と遺物』 学生社、1981年刊所収) このように、邪馬台国時代の九州での墓制は、甕棺の次の箱式石棺の時代であった。そのことは、邪馬台国「九州説」の学者も「畿内説」の学者も、ともに認めている。 最近、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博氏の大著『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社、2015年刊)が、刊行された。『箱式石棺』の本により、九州本島で、箱式石棺の出土数の多い「市と町」を示せば、図4のようになる。朝倉市がトップである。 また、箱式石棺の分布の様子を、地図上に示せば、地図5のようになる。箱式石棺は、朝倉市を中心として、分布しているようにみえる。 なお、『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について「棺あって、槨(かく)なし」と記す。箱式石棺であれば「棺あって、槨なし」に合致する。奈良県の纒向遺跡のなかのホケノ山古墳は木槨があり、『魏志倭人伝』の記事に合わない。ホケノ山古墳よりも、時代的に後とみられる箸墓古墳も、竪穴式石室(石槨)」の時代のものとみられ、『魏志倭人伝』記述の墓制の時代よりも、後のものとみられる。邪馬台国が、福岡県にあった確率 邪馬台国が、福岡県にあった確率 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、表1のようになる。 これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」卑弥呼の墓卑弥呼の墓 私は卑弥呼の都、邪馬台国は、朝倉市を中心とする地域にあったと考える。ただ、卑弥呼の墓は、福岡県の糸島市の「平原王墓」であろうと考える。これと同じ考えは、すでに、医師の中尾七平氏が、その著『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1998年刊)で述べている。 また、考古学者の原田大六氏は、平原王墓を天照大御神の墓とする。同じく考古学者の奥野正男氏は、平原王墓を卑弥呼の墓とする。考古学者の高島忠平氏も、平原王墓は卑弥呼の墓である可能性があるとする。福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓(Wikimedia) 私が平原王墓を卑弥呼の墓であるとする根拠は、拙著『卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!?』(勉誠出版、2016年刊)のなかで、やや詳しく述べている。その要点をまとめれば、次のようになる。(1) 平原王墓出土の鏡は、主に方格規矩鏡と内行花文鏡で、これは邪馬台国時代の鏡とみるのにふさわしい。(2) 平原王墓出土の巨大内行花文鏡を、原田大六氏は日本神話にあらわれる「八咫の鏡(やたのかがみ)」とみて、その根拠を詳しく述べている。かなり説得的である。(3) 都の地と墓の地とが離れているケースは、古代においてはよくある。例えば、第12代景行天皇や第13代成務天皇はいずれも、滋賀県にあった「高穴穂の宮」で亡くなり、陵は奈良県にある。第15代応神天皇の都は奈良県にあり、陵は大阪府の古市古墳群にある。第35代の斉明天皇は、福岡県の「朝倉の宮」で亡くなり、陵は奈良県の高取町にある。(4) 「平原王墓」のある伊都国の地は『魏志倭人伝』によれば、女王国に統属している地であり、特に「一大率(一人の統率者)」を置いた地であった。(5) 「平原王墓」の出土品は、断然他を圧倒している。わが国では弥生時代~古墳時代を通じ、約5千面の青銅鏡が出土している。その5千面ほどの青銅鏡の面径の大きさのランキングのベストテンをとれば、次の表2のようになる。 ベストテンの半分の5面は「平原王墓」が占める。 また、一つの墓からの青銅鏡の副葬数のランキングのベストテンをとれば、次の表3のようになる。 古墳時代になって、あれだけ多数の前方後円墳が発掘されながら、それらを含めても、弥生時代の「平原王墓」が、鏡の多数副葬のランキングにおいて、なお、第2位を占めるのである。副葬されている鏡の質と量とにおいて、「平原王墓」を超える弥生時代の墳墓が今後出現する可能性は、まずないといってよい。(6) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について、「大いに塚をつくること径百余歩(約150メートル)」とある。この径百余歩は、すでに、考古学者の森浩一が指摘しているように「墓域(兆域)」と考えるべきである。たとえば、『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵寮」は、第15代応神天皇の陵の「兆域」を「東西五町(約545メートル)、南北五町」とする。応神天皇陵古墳の墳丘全長425メートルよりも、ずっと大きい。第38代天智天皇陵の「兆域」の「東西十四町、南北十四町」などは、一辺63.75メートルの墳丘の大きさを遥かに超える。(7) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき、徇葬(殉葬)の奴婢は百余人であった、と記されている。この奴婢の墓を求める見解がある。しかし奴婢の場合、死体を土にうずめるだけなので、墓は残らないと考えられる。 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)(4) 卑弥呼の墓はどこか。 これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる。

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    邪馬台国「九州説」に徹底反論! 卑弥呼は100%ヤマト女王だった

    遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代(5世紀)の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い3~4世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。 ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された4世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。 また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。 卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。

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    唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する

    れるより、中国の文献にしるされたそれの方がずっと古い。つまり私たちは「外国人が記した文章」によって「歴史以前の我が国の姿」を知るしか無いのだ。しかし、その「外国人が書いた文章の内容」がヤマタイ国の位置を解りづらくしてしまっている。大雑把に記すと— 「倭人が住んでいるのは東南の海の中(の土地)で、昔は100以上の国があり、漢の時代から貢ぎ物を持ってきていた。現在は30の国が使者をよこしている」 「倭国の北の方に位置する狗邪韓国から海へ出て千里余で対馬国に。千戸余があり、長官と副官が居る。→南に海を千里余で一大国。3千戸。海を千里余で末廬国。4千余戸。→陸路を東南に500里で伊都国。千戸余。長官と副官が居る。帯方郡の使者はここにはよく来る。→東南に百里で奴国。2万戸余。長官、副官が居る→東へ100里で不弥国。千戸余。長官、副官が居る。→南へ水路20日で投馬国。5万戸余。→南に水路10日陸路一カ月で、女王の居る邪馬台国。7万戸余」 以上が「女王ヒミコの居るヤマタイ国までの道のり」と記されている。しかし、行程の途中から記述に乱れが生じる。スタート地点から不弥国までの道のりは、陸路、水路ともに「距離」で記してあるのに、不弥国から先の道のりは「日数」で記してある。 つまり、途中までの道のりについては確認がとれているのだが、あるところから先は聞き書きではないか?と思えるのだ。南だの東だのという方角も「聞き書き」かも知れない。 記述に乱れがある文書を元に、日本人は「この行程で行くとヤマタイ国はここ」「このままだと海の彼方の大海に出てしまうから、南と東の書き間違い」「末廬国から先の国への行程は末廬国を基点とした放射状の行程表示ではないか」などと一生懸命辻褄をあわせて ヤマタイ国の位置をさぐろうと苦心する。 「ヤマタイ国がどこか?」を魏志倭人伝から読み解くのはそもそも無理がある。いわゆる「ヤマタイ国」「ヒミコ」といわれている国名や人名は、当時の中国人が耳で聞いた音を適当な文字で表記した「当て字」でしかない。 現代の日本人が耳で聞いた英語の音をカタカナで表記した場合、当然ながら発音は正確には表記しきれない。その「カタカナ英語」を英語圏の人に伝えて、彼らがそれをアルファベット表記に置き換えた場合、元の英語とはかなりかけ離れたものになるはずだ。 古代中国の魏の人が「卑弥呼」と記したもとの音は「ヒメ」「ヒメミコ」だったかもしれない。倭に点在する各国の長官や副官として記されている男性と思われる多くの名も、固有名詞ではなくて立場や身分を表す呼び名の可能性が高い。古代の日本はゆるやかな共同体 固有名詞はさておき「魏志倭人伝」に記された倭人の暮らしは興味深い。「男性は皆顔や身体に墨や朱で入れ墨をし、そのデザインは国により、また身分により違う」「人々は争いを好まず女は慎み深く嫉妬しない」「集会では男女の区別が無く、みな酒を好む」「温暖な気候で生野菜を食べる」「海に潜って魚や貝類をとる」「稲、苧麻、桑、蚕を育て、上質の絹織物をつくる」「喪に服す10日間は肉食を避け、泣き続ける。親族以外は酒を飲み歌い踊る。埋葬後は水に入って浄める」「真珠と青玉(サファイア)がとれる。山椒やみょうがもとれるが倭人はそれらが美味しい事を知らない」「長命の者が多く、百歳の人もいる」など。 なかなか住み良さそうな国、という感想を持つ。争いを好まず、集会で男女の区別が無く、長生きの人が多く、生野菜を食べるなど、平和で清潔な暮らしぶりがうかがえる。「女は嫉妬しない」に関しては疑問を抱くが、現代においても近隣の国々と比べて日本の女性の怒り方はおおむね大人しい。(男性も、だが)日本女性の嫉妬の表現は当時の中国人から見て「怒っていない」ように見えたので「嫉妬しない」と思われたのかも知れない。今も昔も「国民性」というものは変わらないのかも。佐賀県の吉野ケ里町と神崎市にまたがって広がる「吉野ケ里遺跡」  倭にはいくつかの国があり、女王ヒミコが統べるヤマタイ国に従っていた。それは確かな事だろう。女性がトップの立場につき、実務は男性が行う。男同士がプライドというやっかいなものをかけてトップの座を争うよりも、カリスマ性のある女性を頂点として、ゆるやかな連合体を作っている。それが平和の基本。ヤマタイ国の位置が九州であれ畿内であれ古代の日本人は平和的にゆるやかな共同体を維持していたのだ。 文字を持つ前から語り継がれた物語はある。どの民族もアイデンティティーの確立のためには「先祖たちの物語」は欠かせない。神話や伝説による「天孫降臨」「神武東征」などには、九州に大勢力があった事実が反映されているはずだ。「出雲神話」からは日本海側に大勢力があったことがよみとれる。出雲対大和の「国ゆずり神話」には、大和の大勢力が他を飲み込んでいった経過が反映されているのだろう。  神話、伝説の「それなりの時系列」のどの辺りの時代を魏の史書は取り上げているのか? わからない。わからないからヤマタイ国がどこか―についての興味はつきない。これという決定的な証拠が発見されない限り、これからも論争や考察は続くだろう。「どこにあった国なのか」も重要だが「どんな国だったのか」の方に私は興味がある。

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    「ミスター吉野ヶ里」は見た! 邪馬台国九州説の不利覆す環壕集落

    高島忠平(旭学園理事長) 「壕(ほり)がずーっと続くんです。1キロ以上続きそうなんです」 吉野ヶ里の発掘現場から、教育委員会にいた私の元に電話がかかってきた。現場の責任者である七田(しちだ)忠明さんの声は、興奮していた。昭和63年10月。私はすぐに、発掘中の吉野ヶ里の現場に駈け付けた。日本最大の環壕集落跡が見つかった吉野ヶ里遺跡 「この壕は、はるかむこうの壕に連続しています、1キロ以上になるかもしれません」。もう落ち着いたのだろうか。七田さんは電話とは打って変わって、いつも通り淡々とした口調で説明した。今度は私が興奮してきた。長大な壕跡は、吉野ヶ里丘陵の尾根を越えて、めぐっていそうである。「日本最大の環壕集落になるかもしれない」 七田さんもうなずく。「近畿の弥生の大集落跡と、これでやっと対等になれる」。抑えられてきた気持ちをひっくり返すような確信を持った。 奈良国立文化財研究所にいた10年間、近畿各地の弥生時代の遺跡や発掘現場を見て、調査に参加した。奈良県唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡、大阪府の池上・曽根遺跡や四つ池遺跡などなど。どの集落跡も巨大だった。唐古・鍵遺跡は30ヘクタール、池上・曽根遺跡は14ヘクタールある。 これに対し、九州・福岡の南方遺跡は2ヘクタールほどしかない。遺跡や遺物を即物的に比較し、文化や社会のあり方を議論する考古学の世界、特に集落論では、九州は不利だった。 遺跡の大きさの違いは、邪馬台国近畿説の根拠とさえなっていた。邪馬台国九州説の私は、この集落論で忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた。 昭和49年、私は佐賀県教育委員会に赴任し、吉野ヶ里の丘陵に立った。 「広大なこの遺跡を本格調査しよう」。こう企図した。 とはいえ、実際に動き始めたのは56年だった。吉野ヶ里丘陵に工場団地が計画され、そのための事前調査としてであった。 調査対象は約30ヘクタールの範囲、それも3年の期限付きだった。考古学の常識として、1年で数ヘクタールを調査するのが限界だった。 期限内にどうやるか。私は計画の中で、まず発掘対象の全域で、遺構を覆っている表土を重機で一気に剥ぐことを提案した。遺構の概況を判断し、発掘に見通しをつけるためであった。 昭和61年、とにもかくにも、調査は始まった。発掘調査の現場指揮は、七田忠明さんに任せた。彼は誰よりも吉野ヶ里を熟知していた。 吉野ヶ里の丘陵は先人の手により、部分的には発掘されていた。私自身、卒業論文の調査で、丘陵のあちこちから出る土器など遺物に圧倒されたこともある。 先人の考古学者の代表が、忠明さんの父で、旧制神埼中学の教師であった七田忠志さんだ。忠志さんは昭和10年代にすでに「邪馬台国論争に重要な位置付け」と報告している。忠明さんは子供のころから、父と一緒に吉野ヶ里を歩いていた。 発掘調査計画と調査スタッフによって、一挙に遺跡全体の状況が明らかとなった。最終的に、丘陵のあちこちにあった遺跡は、すべて一連一体のものだったことがわかった。南北約1キロメートル、東西約600メートル。約40ヘクタールを超える弥生時代最大の環壕集落であることが確認されたのだ。 環壕集落と密接に関連する同時代の遺構は、南北約6キロメートルの丘陵全体に存在しており、吉野ヶ里遺跡は約300ヘクタールにわたる巨大な弥生時代集落跡であることも窺がえた。たかしま・ちゅうへい 昭和14年12月福岡県生まれ。熊本大学卒業後の39年、奈良国立文化財研究所(当時)入り。平城宮跡(奈良市)、田能遺跡(兵庫県)などの発掘に携わり、49年から佐賀県教委文化課文化財調査係長。吉野ヶ里遺跡発掘を指揮し、「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。平成16年佐賀女子短大学長、18年から同短大などを運営する学校法人「旭学園」理事長。

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    これだけは知りたい! 邪馬台国の基礎知識

    るとき、まず浮かぶのは邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)だろう。もっともその名は中国の歴史書「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)にあるもので、卑弥呼とは女の子というほどの意味の「姫子(ひめこ)」に由来するようだ。「漢委奴国王」とくっきり刻まれた金印が福岡県志賀島から発見された。金印は木簡などをヒモでとじて粘土で封をした封印に使われていた=2000年4月、福岡博物館 彼女が歴史の舞台に登場したいきさつは、倭人伝に詳しい。元は男の王が治めていたが国中が服さず、争いが続いた。そこで三十余の国々がひとりの女性を共にいただいた、というのである。 というのも、卑弥呼は不思議な霊力を持っていた。倭人伝には「鬼道(きどう)に事(つか)えて、よく衆を惑わす」とある。神がかりする巫女(ふじょ)(シャーマン)で、そのパワーが人々の支持を得たのだろう。 卑弥呼は独身で、弟が補佐して国を治めた。千人の侍女に囲まれ、姿を見た人は少なかったという。 こうして成立した「卑弥呼の日本」(女王国連合)は、近畿から九州までを版図としていた。共通の言葉や、流通のネットワーク圏があったのだろう。日本における、初期国家の成立といってもいい。 倭人伝によれば、卑弥呼は248年前後に死亡した。敵対する狗奴国(くなこく)との戦争のまっただ中だった。墓は径百余歩(ほ)(直径約150メートル)もの大きさだったという。 卑弥呼が亡くなったころ、奈良盆地の東南部にそれまでと隔絶する規模を誇る墓、前方後円墳が次々と造られ始めた。奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)はその第1号で、卑弥呼の墓にあてる説が出されている。 ところが不思議なことに、わが国最初の正史の「日本書紀」には、彼女に関した記述がない。わずかに神功(じんぐう)皇后(仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后)の記事に「注記」として、「倭の女王が中国の魏に使節を派遣した」と記されているだけだ。 卑弥呼が亡くなって約500年後、天皇家には彼女についての記憶がなかった。もちろん書紀の編者は倭人伝を読んでいたから、卑弥呼とは神功皇后のことだと想像したのだ。 宮内庁は、箸墓古墳の主を崇神(すじん)天皇の大叔母(孝霊天皇皇女)にあたる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)としている。書紀によれば、百襲姫も神がかりをするシャーマンだった。卑弥呼の出自や墓に関する謎が解明される日は、来るのだろうか。「畿内説」西日本最大の耕地こそふさわしい(2)畿内説 邪馬台国(やまたいこく)が日本列島のどこにあったのかという「邪馬台国論争」は、日本史上最大の謎のひとつと言っていい。「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)の記述をもとに、江戸時代からさまざまな意見が出され続けてきた。2013年2月、考古学者らによる立ち入り調査が行われた箸墓古墳=奈良県桜井市(本社ヘリから) 主張は大きくふたつに絞られる。邪馬台国は畿内、それも奈良盆地にあったとする説と、北部九州にあったとみる説だ。両説が重要視されるのは、奈良盆地はのちのヤマト王権発祥の地であること、また北部九州は紀元前以来、中国大陸や朝鮮半島の国々と長く深い交わりを結んでいたことが根拠となっている。 倭人伝には、朝鮮半島にあった帯方郡(たいほうぐん)から邪馬台国へと至る方角や距離を記した「里程(りてい)記事」もある。しかし、これを実際にたどってゆくと、沖縄周辺の太平洋上に行き着いてしまう。つまり、倭人伝の方角や距離には錯誤があると判断せざるを得ないのだ。 こうして、行き詰まりの様相も見せていた邪馬台国論争が新たな段階に入ったのは、戦後の考古学の進展があったからである。発掘調査によって列島各地から多くの遺跡・遺物が見つかり、邪馬台国の実像を解明していくうえでヒントとなった。 吉野ケ里遺跡(佐賀県)は日本最大級の環濠(かんごう)に囲まれた遺跡で、「楼観(物見櫓)・城柵(ろうかんじょうさく)、厳かに設け」という倭人伝の記述をほうふつとさせる発見として、北部九州説を一躍クローズアップさせた。ただし、吉野ケ里遺跡が最も繁栄したのは弥生時代中~後期で、邪馬台国の時代(弥生末期、2世紀末~3世紀前半)とはずれがある。 これに対し、畿内でも大きな発見が続いた。唐古・鍵(からこかぎ)遺跡や纒向(まきむく)遺跡(いずれも奈良県)での調査だ。しかも、これらの遺跡は時代も邪馬台国と合う。箸墓(はしはか)古墳をはじめ古墳も数多くあり、女王・卑弥呼(ひみこ)が住む宮都があった場所に似つかわしい。 畿内説が有力とされるもう一つの理由は、倭人伝の人口に関する記述だ。九州への玄関口だった末廬国(まつらこく)は現在の佐賀県唐津市・東松浦郡周辺とされ、人口は「4千戸」とある。そして、福岡平野にあったとみられる奴国(なこく)は「2万余戸」。これらに対し、邪馬台国は「7万余戸」である。西日本最大の耕地を抱えていた奈良盆地こそ、邪馬台国の所在地候補とするにふさわしい。「北部九州説」強烈な金印のイメージ(3)北部九州説 福岡市博物館(早良区)で常設展示されている国宝「漢委(倭)奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印をごらんになったことがあるだろうか。1辺2・3センチ、重さ約108グラムの純金製。西暦57年、福岡平野にあった奴国の王が中国・後漢に朝貢したおり、授けられたとされる逸品だ。吉野ヶ里遺跡 金印のこの強烈なイメージが、所在地をめぐる「邪馬台国(やまたいこく)論争」にも少なからぬ影響を及ぼしている。紀元前後、日本列島を代表する王として外交にあたっていた奴国王は、約150年後の卑弥呼(ひみこ)の時代も同様の役割を果たしていたと想像し、邪馬台国は北部九州にあったのでは、と考えてしまうからだ。 だが、弥生時代は政治的激動期だった。特に末期になると列島内の状況は大きく変わっていた。「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)には、倭国は内乱状態に陥り、卑弥呼が共立されたと記している。 それは資源、とりわけ鉄素材の確保をめぐる主導権争いだったのではないだろうか。鉄器は人々の暮らしを飛躍的に便利にしたが、当時の列島内では生産できず、朝鮮半島から求めるしかなかった。鉄を安定的に大量輸入できる「強い政権」が必要とされて誕生したのが、卑弥呼率いる倭国連合だったと考えたい。 とはいえ、北部九州説には新井白石や本居宣長以来の学問的積み重ねがある。松本清張や「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平ら著名人の支持もあった。だが現代の古代史研究者や考古学者はと見渡すと、表立って北部九州説を主張する人はほとんどいない。 平成25年に死去した考古学者の森浩一さんは、「東遷(とうせん)説」を唱えた。最初、卑弥呼は九州で共立されたが、のち畿内に移ったと見るのである。弟子の一人で、桜井市纏向学(まきむくがく)研究センター所長の寺澤薫さんは「卑弥呼政権の権力母体は北部九州勢力と瀬戸内海沿岸勢力を中心として、近畿、山陰、北陸、東海各地方の局地的な勢力を結集して作り上げられた」(「森浩一の古代史・考古学」)と書く。卑弥呼の政権は、明治維新における「薩長土肥(さっちょうどひ)」のような連合政権だったというのだ。 所在地についての探求も大切だが、政権の実態や構造を解き明かすことは、それ以上に重要である。最近の邪馬台国論争の推移を見ていると、そんな印象を抱いてしまう。「ヤマト王権との関係」別勢力ではなくなった?(4)ヤマト王権との関係  邪馬台国(やまたいこく)はその後、どうなったのか、またヤマト王権(大和政権)とはどのような関係にあったのかという謎に迫ってみたい。 「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)によれば長寿を保った卑弥呼(ひみこ)も西暦248年前後に亡くなった。その後、男王が立ったが収まらず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)(壱与(いよ)とも)を共立したとある。その台与も266年、魏の後の王朝である晋(しん)に朝貢して以降の動静は不明だ。 私たちがヤマト王権と呼ぶのは、律令国家(大和朝廷)成立以前の大和を中心とした政治権力のことで、特徴は各地に築かれた巨大前方後円墳。「古墳時代」という時代区分とも、ほぼ重なっている。その古墳時代は昭和30年代半ばまで、「4世紀に始まった」とするのが定説だった。邪馬台国の時代とは半世紀の時間差があるため、両者は別の政治勢力と考えられていた。 ところが、その後の発掘調査の成果や年輪年代法など科学的な年代測定法の進歩によって、古墳の成立は「3世紀半ば」までさかのぼると考えられるようになってきた。最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が、卑弥呼の墓であっても矛盾しなくなったのだ。 奈良県天理市にある崇神(すじん)天皇陵は、その箸墓よりも2、3世代新しい時期の王墓とみられている。崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」(初めて国を治めた天皇)と贈り名されており、「実在したヤマト王権初代の王」とする意見もある。 しかも崇神については、「古事記」に干支(かんし)で「戊寅年(ぼいんのとし)」に死去したと記されていて、これを西暦318年と見る考えがある。歴代天皇の系譜からも、第10代崇神と5世紀に中国・宋に使いを送った15代応神、16代仁徳天皇(倭の五王)らとの年代差は合理的だ。 卑弥呼や台与からヤマト王権へは、それほど時間をおかず続いたのではないか。倭人伝にあったように、「卑弥呼は男弟(だんてい)が補佐して国を治めた」というヒメ・ヒコ制(女性が聖的な祭祀(さいし)を、男が俗的な政治を分担する)が台与の代にも続いていたなら、彼女の弟が崇神だったという大胆な推測も、荒唐無稽ではなくなってくるのだ。

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    畿内説、九州説それぞれに根拠あり 邪馬台国はどこなのか

    訳通ずる所三十國〉邪馬台国や卑弥呼について記された唯一の資料、『魏志倭人伝』の冒頭である。この中国の歴史書に書かれた記述がその後、現代に至るまで日本成立に関わる論争を引き起こした。文化庁主任文化財調査官が邪馬台国の「今」を語る。 * * * 邪馬台国は日本の古代国家成立にかかわる重要なテーマである。古くは江戸時代の儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らがその謎を解き明かそうとした。肝心の所在地をめぐっては、現代まで論争が引き継がれている。『倭人伝』によれば、邪馬台国までの道のりは朝鮮半島中西部の帯方郡から対馬国(対馬)や一支国(壱岐)を経由し、不弥国(福岡県飯塚市付近)まではほぼ特定できる。 しかし、そこから南に船で20日行くと投馬国に着き、さらに船で10日、陸路1月で邪馬台国に着くという記述をそのまま辿ると、邪馬台国は九州のはるか南の洋上に存在したことになってしまう。そこで、投馬国から邪馬台国までを「船なら10日、陸路なら1月」と読む九州説や、不弥国以降の〈南〉を〈東〉と読み替える畿内説などが提起された。 その後、九州、畿内を2大候補地としながらも、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地に可能性が唱えられた。しかし、『倭人伝』を元にした論争は解釈の域を出ることはなく、決着を見ない。そこで考古学の出番となった。考古資料を検証するのである。 中でも重視されてきたのが銅鏡だ。2世紀前半までは九州北部を中心に出土していたのが、2世紀末から3世紀初めには近畿を中心に出土するようになる。例えば「画文帯神獣鏡」は、分布を研究した大阪大学の福永伸哉教授によると、2世紀後半から3世紀初めの近畿を中心に分布している。これにより、卑弥呼の邪馬台国が登場する3世紀半ばまでに、倭国の中心が九州から近畿に移ったとみている。それを根拠に邪馬台国=畿内説を唱える考古学者は多い。そのため、歴史学者など文献史学者は九州説を、考古学者は畿内説を唱える傾向がある。  畿内説を支持する研究者にとって、邪馬台国の所在地として最有力なのが纒向遺跡(奈良県桜井市)だ。3世紀の遺跡で、東西2km、南北1.5kmという当時の集落として類を見ない規模を有し、周辺には卑弥呼の墓と目される箸墓古墳などこの時期の墳墓が多数ある。発掘は現在も続いており、これまで土器や木製品、多数の桃の種などが出土したほか、宮殿ともみられる巨大な建物が整然と並んで建っていたことがわかっている。  今後、纒向遺跡などでまだまだ新発見の余地があり、畿内説の研究者にはその「蓋然性の高さ」を証明できることが期待されている。が、それで邪馬台国の所在地論争が終わるわけではない。  現在、学術関係者ではない、各地の民間有志による邪馬台国研究会が数多く活動しているが、今年、その全国組織「全国邪馬台国連絡協議会」も結成された。その謎をめぐる議論はアカデミズムの枠を超え、古代史にロマンを求める多くの人々を惹き付けてやむことはない。※SAPIO2014年12月号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も

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    畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見

    ており、最大の謎といえるのが、女王・卑弥呼が治めていた邪馬台国はどこにあったのかということ。 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀後半に倭国で起きた大乱が、卑弥呼を女王に立てることで収まり、邪馬台国を中心とする小国の連合が誕生したと書かれている。 だが、肝心の場所については、邪馬台国へ至る道筋をそのまま行くと太平洋上に行き着くなど謎が多く残されており、その解釈を巡って意見が分かれてきた。 論争の歴史は古く、江戸時代後期には、新井白石や本居宣長らが議論を始め、長らく「畿内説」と「九州説」の間で論争が続いてきた。そして、これまでは1986年に吉野ヶ里遺跡が見つかるなど邪馬台国の時代の遺跡や遺物が多数出土する「九州説」がやや優勢だった。 しかし、2009年に邪馬台国の有力候補とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良・桜井市)で、3世紀半ばの大型建造物跡が見つかったことで、この論争は大きな転機を迎えた。卑弥呼の墓との説もある国内最大規模の前方後円墳、箸墓古墳も近くにあり、研究者の間で「卑弥呼の宮殿ではないか」と期待が高まり、「畿内説」がにわかに活気づいたのだ。 今年2月には、陵墓への立ち入りを原則的に禁止してきた宮内庁が、箸墓古墳への日本考古学協会などの研究者の立ち入り調査を許可し、初調査が行なわれたことも、関心の高さを表わしている。発掘調査を担当した市纒向学研究センターの橋本輝彦・主任研究員が語る。 「邪馬台国の女王である卑弥呼が政治機構を持つには、大規模な人工集落があったと考えるのが自然で、纒向遺跡の規模はそれに相応しい。九州説の弱点は、吉野ヶ里遺跡を始めとした複数の遺跡群があるものの、それほどの規模を持つ象徴的な遺跡がないことです」奈良県櫻井市にある箸墓古墳 しかし一方で、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする“科学的物証”もまだ存在していない。九州説を主張する元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう反論する。 「邪馬台国は中国、朝鮮半島と交易していたが、九州北部からその交易を裏付ける文物が多数出土するのに対し、畿内からはほとんど出土例がない。それに加え邪馬台国ほどの国なら、当時交易の中心だった鉄の流通システムを持っていてしかるべきなのに、鉄の出土例も、九州に比べて圧倒的に少ないのです」 双方とも一歩も引く気配のない「邪馬台国」論争。この論争に終止符が打たれるかどうかは、魏から卑弥呼への贈答品の封として使われた「封泥」(ふうでい)の発見にかかっているという。 「封泥とは、箱を縛った紐がほどけないように上から粘土で固め、印を押したもの。公式な贈答品は卑弥呼の前でしか開封されないはずなので、封泥の発見場所こそ卑弥呼のいた場所だといえます。広大な纒向遺跡の発掘調査は継続中で、封泥や何らかの文字資料が出土しないかと期待しています」(橋本氏) 論争はまさしく“泥試合”の様相を呈している。※週刊ポスト2013年5月24日号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 織田信長、坂本龍馬…日本では突出した人物は非業の死遂げる■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も

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    知られざる幕末佐賀藩の「産業革命」

    幕末、西洋近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩が有名だが、開明派の薩摩藩主、島津斉彬が、その先進性を模範とした藩こそ、佐賀藩であった。幕末佐賀藩が「近代化のトップランナー」とも言うべき存在へ躍進したのはなぜだったのか。

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    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

    浦川和也(佐賀城本丸歴史館学芸員)司馬遼太郎「佐賀ほどモダンな藩はない」 「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。退屈せず、倍々(ますます)研究すべし」 嘉永5年(1852)、薩摩藩は鉄製大砲などを鋳造するための反射炉の築造に着手しました。その際、幕末きっての開明派と謳われた薩摩藩主・島津斉彬は、技術者たちを一堂に集めて、そう激励したといいます(『島津斉彬言行録』所収)。 反射炉といえば、薩摩や韮山(静岡県伊豆の国市)のものが有名です。しかし、最初に築いたのは、実は佐賀藩でした(嘉永3年〈1850〉)。当時、佐賀藩の大砲鋳造成功を聞いた斉彬は、「佐賀人」を「西洋人」と並べて、「西洋人も佐賀人も同じ人間である。我々薩摩人にできないことはない」と藩士たちに呼びかけ、鼓舞したのでしょう。 幕末、近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩などを連想する方が多いかもしれませんが、冒頭の斉彬の言葉が示す通り、佐賀藩こそが「近代化のトップランナー」だったのです。 昨年平成27年(2015)にユネスコ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素の中に、佐賀の「三重津海軍所跡」が含まれています。佐賀県の三重津海軍所跡。昨年、世界遺産に登録された(写真提供:佐賀県) その他にも、佐賀市内には、日本で初めて鉄製大砲鋳造に成功した「築地反射炉」や幕府注文の大砲を鋳造した「多布施反射炉」(公儀石火矢築立所)、蒸気機関・写真・ガラスなどを研究した理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」など、幕末佐賀藩の「産業革命」の拠点となった場所があります。作家の司馬遼太郎氏も、「幕末、佐賀ほどモダンな藩はない」と、佐賀藩の先進性を評しました(『アームストロング砲』〈講談社文庫〉)。 ではなぜ、佐賀藩は他藩に先んじて近代化を成し遂げることができたのでしょうか。それはまず、10代藩主・鍋島直正の先進性、マネジメント力、リーダーシップを抜きには語れませんが、ここでは佐賀藩の歴史と、置かれた環境を紐解きながら、「近代化のトップランナー」となった背景を紹介していきましょう。「近代化のトップランナー」の背景「近代化のトップランナー」の背景 佐賀藩といえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠れ』のイメージが強いかもしれません。しかし、実は蘭学の登場も他藩より早く、安永3年(1774)に杉田玄白と前野良沢が『解体新書』を翻訳した頃には、すでに島本良順が藩内に蘭方医の看板を掲げ、その門下からやがて伊東玄朴、大石良英、山村良哲らの名医が育っています。 背景には江戸時代初期より、佐賀藩が幕府より命じられていた長崎警固役がありました。 江戸時代の日本の対外関係は、その多くの時期が〈長崎口〉〈対馬口〉〈薩摩・琉球口〉〈松前口〉の4つの窓口を持つ、いわゆる「四つの口」体制を採っていました。〈長崎口〉は長崎における中国人・オランダ人との通商関係、〈対馬口〉は対馬藩を仲介役とした朝鮮国との交隣関係(通交関係)、〈薩摩・琉球口〉は薩摩藩を通じた琉球王国(日中両属)との宗属関係、〈松前口〉は松前藩を通じたアイヌ民族との関係を言いますが、いずれも中国(明国・清国)を中心とした冊封体制(東アジア朝貢体制)の周縁部にありました。〈長崎口〉は「西洋」を垣間見る唯一の窓口でした。 このような「四つの口」体制になる前に、16世紀から盛んに通商を行なっていたのがポルトガルです。寛永17年(1640)、ポルトガルは通商再開を求めて、長崎へと使節船を派遣しましたが、幕府はポルトガル船を焼き払うなど拒絶します。そして、時の3代将軍家光が、ポルトガルの報復を恐れて設けたのが長崎警固役でした。 長崎警固役とは、長崎警備の軍役のことで、寛永18年(1641)に福岡藩に命じられ、次いで翌寛永19年(1642)に佐賀藩にも命じられ、1年交代で軍役を務めました。佐賀藩が、この長崎警固役を命じられたことは、その後の佐賀藩の進路に影響を与えました。迫りくる列強の脅威を前に 長崎警固役は、大きな財政負担を要しますが、一方で「異国」「西洋」に接する機会がありました。『阿蘭陀風説書』『唐船風説書』を佐賀藩、福岡藩は内々に読むことができました。また、長崎に詰めていた佐賀藩士は、西洋人や、長崎に留学していた知識人と会うこともできたでしょう。佐賀藩の国際感覚は、こうした背景から醸成されたものと思われます。 18世紀後半のイギリスから始まった産業革命の波は、すぐにヨーロッパ各国やアメリカ大陸に及びました。産業革命は、紡績業の発展や製鉄技術の向上、蒸気機関の実用化と蒸気車・蒸気船の開発などをもたらしました。すなわち、欧米列強諸国は、鉄製大砲と蒸気船を手にし、国外の市場や植民地の獲得を目指して、アジア侵出を開始したのです。 また、16世紀後半以来のロシアの東方進出・南下政策も機を一(いつ)にしてこの時期に日本や東アジアに及びました。 文化5年(1808)の英国軍艦フェートン号の長崎港侵入事件(フェートン号事件)も、その流れの中で起こった事件ですが、長崎奉行松平康英は責任をとって切腹し、大きな政治問題になりました。同年に長崎警備を担当していた佐賀藩は、番頭千葉三郎右衛門・蒲原次右衛門を切腹に処すなどの関係者の処分を行ないましたが、幕府から9代藩主鍋島斉直が100日間に及ぶ逼塞(ひっそく)の処分を受けるなど、大きな衝撃を受けました。長崎警固役の緊張感が薄れ、惰性に陥っていたことが、この失敗を招いたものと思います。 よく一般に、幕末佐賀藩にとっての「黒船来航」はフェートン号事件で、ペリー来航よりも45年も早く外圧にさらされた、と言われることがあります。しかしながら、実は、その後20年余り、佐賀藩でも近代化に向けての目立った動きはありませんでした。 9代藩主斉直の時代は、長崎の台場の一部強化などを行ないますが、何より藩財政の破綻が大きな問題となりました。しかしながら、藩主自身の奢侈も改まらず、藩士は世子貞丸(直正)に期待する状況でした。稀有なリーダー・鍋島直正稀有なリーダー・鍋島直正 佐賀藩の財政改革と近代化政策の取り組みは、鍋島直正が10代藩主となった天保元年(1830)が起点となります。 直正は、なぜ近代化を推し進めることができたのか。それは、彼自身の国際感覚と進取の気性、マネジメント力とリーダーシップによるものと思います。その背景には傅役であった古賀穀堂の薫陶がありました。 直正は、藩主となって初めて帰藩した直後に長崎警備を視察し、その際にオランダ商船に自ら乗り込み船内を見学しました。藩主として「前代未聞」の行動です。神ノ島・四郎島填海工事図。佐賀藩が長崎警固役のために嘉永5〜6年(1851〜52)に自力で行なった埋め立て工事の様子を描いたもの。この砲台には、築地反射炉で製造された鉄製大砲が配備された(公益財団法人鍋島報效会蔵) 危険を伴なう蘭船乗り込みは長崎奉行所の特別の許可を得て実現しましたが、以後、直正のオランダ船乗り込みは恒例となりました。アヘン戦争(1840〜42年)後の天保15年(1844)に開国勧告のため来日したオランダ軍艦パレンバン号にも直正は乗船し、艦内を隈なく視察しました。 藩主でありながら身の危険を伴う行動の妥当性は措いて、兎にも角も天保期には既すでに、直正は自らの目で西洋の進んだ文明を実見し、体感していたのです。直正は、オランダ船の頑丈な構造を実見するとともに、海上から陸地を見渡すことで、改めて海防感覚を磨いたことだろうと思います。また、若き藩主の実行力やリーダーシップに藩士たちも感化されていったことでしょう。「近代」=「西洋」に負けないため さらに、アヘン戦争の衝撃も欠かすことができません。東アジア社会に君臨した中国が、欧米の砲艦外交に為すすべもなく敗れ、その後、植民地として蚕食されていく端緒になりますが、この衝撃は日本国内を震撼させました。そして、これに最も敏感に反応したのが直正でした。 「近代」=「西洋」に負けないように、それを誰よりもよく知る直正が出した答えが、鉄製大砲と蒸気船を自力で開発することだったのです。だからこそ、黒船来航(嘉永6年〈1853〉)の時に、唯一佐賀藩だけが鉄製大砲製造が間に合い、日本初の実用蒸気船製造も実現したのだと思います。  日本の近代化のトップランナーだった佐賀藩。その躍進は、藩主鍋島直正の存在を抜きには語れません。●「三重津海軍所跡」公式HPhttp://mietsu-sekaiisan.jp/関連記事■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡

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    若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」

    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    海軍育成と造船所建設、そして実用蒸気船「凌風丸」誕生へ

    幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    アームストロング砲をいち早く造った佐賀藩の「ものづくり力」

    たことに「ものづくり」に特別の関心を寄せる日本社会があったと考えられる。 実は、この時期、後の日本が歴史を刻んできた驚くべきこと・・・日本海海戦、プリンスオブウェールズの撃沈、ホンダのマン島レースの制覇・・・の萌芽が見られた時期でもあった。それが、このシリーズで触れる「蒸気機関の製作」、「スームビング号の江戸回航」、そして佐賀藩の「アームストロング砲」だった。 余談だが、幕末には伊豆の韮山や佐賀の反射炉は立派なものだった、それに続こうと諸藩が急ごしらえで作った反射炉には役立たずもあった。たとえば長州藩の萩にも反射炉があったが、筆者が詳しい調査したところによると、萩市の反射炉には火を入れた形跡はなかった。下関戦争で使った青銅砲も砲弾もともに輸入品と思われる。 製鉄と言えば、安政2年にイギリス国のベッセマーが転炉を発明している。19世紀の初め、トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求めたのでイギリス国の鉄工業は隆盛を極めていて、それがベッセマーの転炉の発明につながる。 この製鉄の技術は戦闘用武器の発展に結びつき、ヨーロッパの軍事力を飛躍的に高めていった。これに対して、アジア・アフリカで追従できる国は日本以外にはただの1カ国も存在しなかった。 「近代鉄鋼技術の罪」は重い。それはヨーロッパ、アメリカにとっては「優れた」技術だったが、アジア、アフリカ人にとっては「悪魔の」技術になった。技術とは、かくも難しいものである。技術の話と言えば白人しか視野に入っていないが、本当の意味の「技術の受け手」は白人の数倍の人口を要していた有色人種だったのである。 鉄鋼の技術を擁して、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカを席巻し植民地化した勢いから考えれば、開国からまもなくして、日本が植民地になるのは確実と思われた。 日本というこの小さな東洋の島国は、250年にわたって鎖国を続け、蒸気機関や火力の強い武器もなく、サムライと呼ばれる刀を差し、甲冑に抜刀という弓矢で戦う武士軍団を形成していた。 それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に、これまでのアジアの諸国と同様、たちまち植民地となり傀儡政権ができて何らの不思議もない。北海道はロシア、本州はアメリカ、四国はイギリス、そして九州はオランダに分割統治されるであろうと感じるのは当然でもあった。  イギリスが中国を理不尽な理由で攻めたアヘン戦争の激戦、鎮江の戦いでは、イギリス軍の損害37名に対し、清国は1600名の損害をこうむっている。それが19世紀のヨーロッパ列強とアジア諸国との間の戦いの哀しい現実であったのだから、日本の植民地化は時間の問題だった。(「武田邦彦ホームページ」より2010年10月6日分を転載)

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    独力で最強海軍を創設 佐賀藩「火術方」は日本一のハイテク研究所

    技術史上の快挙とされている。佐賀藩の海軍基地となった三重津の船手稽古所の図=鍋島報效会蔵(佐賀城本丸歴史館提供) この成功と同じ嘉永5(1852)年には、藩直属の理化学研究所ともいうべき「精煉方(せいれんかた)」を開設。大坂の適塾(緒方洪庵塾)をへて江戸の象先(しょうせん)堂(伊東玄朴塾)塾頭になっていた藩士・佐野常民(つねたみ)を呼び戻す。佐野は帰藩に際して「からくり儀右衛門」とはやされた異能の器械師・田中久重父子や蘭方科学者・石黒寛次、物理・化学者の中村奇輔の在野4人を同伴。彼らは蒸気機関の模型をはじめ、雷管・電信機・火薬・機械・金属・ガラス・薬品など多彩な技術開発に成果を上げる。精煉方はハイテク日本の先駆けとなる超一流の研究機関で、その人材は明治に引き継がれる。 黒船の来航で開国に踏み切った幕府は安政2(1855)年、海軍近代化のためオランダの協力で長崎「西の奉行所」(現在の長崎県庁、出島の北側)に「海軍伝習所」を置き、オランダ国王から将軍に贈られた気帆船スンビン号(日本名「観光丸」=全長53メートル、720トンの木製外輪蒸気船)を操る実地訓練を開始することになった。伝習生は計130人。幕府からは勝海舟や榎本武揚(たけあき)ら40人の幕臣が派遣されたが、佐賀藩からは佐野、石黒ら火術、精錬方の俊秀48人が送り込まれ、伝習所はさながら幕府と佐賀藩のための訓練所になった。 直正はこの伝習所も視察し、オランダ人教官たちと交流している。伝習隊長のカッテンディーケの記録『長崎海軍伝習所の日々』には、直正が伝習所の士官たちを長崎湾を見下ろす別荘に招待し、旺盛な好奇心と知識欲、オランダに対する親近感などを示したことが生き生きと描かれている。 2年後、佐野は直正に「佐賀藩海軍創設建白書」を提出。翌安政5年、佐野の郷里でもある三重津(みえつ)(佐賀市川副町・諸富町)に「船手稽古所(ふなてけいこしょ)(海軍学校)」を仮設し、藩独自の伝習と造船が始まる。三重津には佐賀藩が購入した艦船が続々と集結し、近代日本海軍発祥の地となった。慶応元(1865)年には国産初の蒸気船「凌風(りょうふう)丸」(長さ18㍍、幅3・3㍍、10馬力)がここで進水する。 佐賀藩海軍は明治2(1869)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘となった箱館(函館)戦争(五稜郭の戦い)に政府軍として出動し、榎本武揚率いる旧幕艦隊と激突する。派遣した3隻のうち「朝陽丸」は旧幕府軍の砲撃で火薬庫が爆発を起こして沈没、艦長の中牟田倉之助(のち海軍中将)が重傷、乗員51人が即死するという大惨事に遭うが、海戦には勝利し、戊辰(ぼしん)戦争の幕を引いた。「薩長土」に「肥」が並んだのである。

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    幕末当時の海軍所を「体感」できる三重津の世界遺産

    前田達男(佐賀市世界遺産調査室室長) 世界遺産に登録された三重津海軍所跡の遺跡は、すべてが地下に眠っており、残念ながら現地でそのものを見ることはできません。「三重津ウォーカー」のVRスコープで見た三重津海軍所(提供:佐賀県) では来訪された方に、イメージを膨らませていただくには、何を「見せ」ればいいのか。そうした思いから、現在、佐賀県と協力し、VR(バーチャルリアリティ)をはじめ、映像やイメージ画像でかつての三重津海軍所を見ることができるよう工夫を凝らしています。来訪された方は、隣接する佐野常民記念館で借りることができるVRスコープを持って歩けば、幕末当時の海軍所を〝体感〟できるでしょう。 また、佐野常民記念館の3階では発掘や文書の調査成果も展示しており、跡地と併せて2時間以上かけてじっくりと見て回って、堪能される方も少なくなく、ご好評をいただいています。現在は単なる草地になっている三重津海軍所跡=2015年9月6日、佐賀市 私は、世界遺産調査室室長として遺跡発掘や文書調査に携わりました。そして、幕末、西洋列強の脅威が忍び寄る中で創設された海軍の様子や、日本の伝統技術によって造られたドライドック(船渠)の実像に触れることで、三重津海軍所は日本の近代化の過渡期を象徴する存在だと強く感じたものです。同時に、遺跡発掘や文書調査を行なうことで、実に様々なことが分かるのだということを、改めて教えられました。 たとえば、三重津海軍所の特徴のひとつに、ドライドックがあります。これは現時点で現存が確認できる日本最古のドックで、存在自体は以前より認識されていました。しかしそのスケールや構造、周囲に製作場などの様々な施設があったことは、平成21年(2009)に発掘を行なってはじめて分かったことです。文書などの記録で残るものと、現地に残るものを組み合わせることで、色々なことが見えてくるのだと肌で感じることができました。発掘の最中、ドックの一部を掘り当てた時の驚きは、今でも鮮明に覚えています。昨年(平成27年〈2015〉)10月からは、出土した遺跡の大きな写真パネルを、実際に埋まっている位置の上に置くことで、調査成果を〝体感〟していただく新たな試みを始めています。また、VRスコープを用いた仕掛けも、他の文化遺産に先駆けたものだと思います。  文化財に関心を抱いている方も、世界遺産の雰囲気を味わいたい方も楽しむことができる――三重津海軍所跡は、そんな史跡を目指しています。関連記事■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(後編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

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    「花燃ゆ」よりよくわかる吉田松陰

    「民を救い日本を守るにはどうすればいいのか」。時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯し黒船密航を試みた。そこにあるのは「私利私欲なく日本を守りたい」という一念のみ。維新の英傑を育て上げた稀代の兵学者、吉田松陰の純粋な志に迫る。

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    松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは

    安藤優一郎(歴史家、文学博士 [早稲田大学] )僅か30年の生涯――遺された時代を動かした魂が 安政6年(1859)10月27日。長州藩士吉田寅次郎こと吉田松陰は江戸城近くの評定所に呼び出され、幕府から死罪を申し渡された。 時を移さず、日本橋近くの伝馬町牢屋敷に連行された松陰は、首切り浅右衛門こと山田浅右衛門介錯のもと刑場の露と消える。わずか30年の生涯であった。 この日、松陰は波乱の生涯を終えた。だが、その魂は『留魂録』という形で生き続ける。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という松陰の歌はあまりにも有名だが、実は「留魂録」の冒頭に掲げられた歌だった。150年以上経過した現在でも、松陰が放つ言葉の数々は人々の心に深い感動を与えるが、その象徴たる著作なのである。 『留魂録』を遺した松陰とは、いったいどんな人物だったのか。破天荒な行動と投獄生活――「松下村塾」への源流となる 文政13年(1830)8月4日、松陰は萩城下郊外の松本村で生を享けた。父は長州藩士杉百合之助。母は滝。兄と弟が1人ずつで、妹が4人の計9人家族。杉家は家族が多い上に、藩内での家格は低かった。そのため、武士でありながらも田畑の耕作により生計を支えざるをえず、松陰一家は城下を離れて松本村に土着していた。吉田松陰の生誕地から広がる萩の夜景 松陰は嫡男ではなかったため、叔父吉田大助の養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範の家柄であり、以後兵学者としての道を歩んでいく。 天保11年(1840)に、松陰は藩主毛利慶親の前で兵書「武教全書」を堂々と講義し、一躍注目を浴びる。まだ11歳になったばかりであった。 その後、軍学稽古のため江戸へ出府するが、江戸滞在中に人生最大の師と出会う。西洋兵学者として知られた松代藩士佐久間象山である。 異国船の度重なる来航という対外的危機を受けて、「東洋の道徳、西洋の芸術」を唱える象山の強い影響のもと松陰は破天荒な行動に出る。西洋の文明を知ろうと、密かにアメリカに渡ろうとしたのだ。 まさしく密航である。国禁を犯すことに他ならない。 嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約締結に成功したペリーは、同条約により開港が決まった下田港に艦隊を向かわせた。ペリーの乗船する旗艦ポーハ夕ン号が入港したのは3月21日。 同27日、松陰は足軽金子重之助とともに漁船でポーハタン号に近づき、アメリカに連れて行って欲しいと訴えるが、その拒絶に遭ってしまう。 密航に失敗した松陰は幕府に自首。吟味の結果、国元に強制送還されることとなった。松陰25歳の時である。 10月24日、萩に戻った松陰は幕府に遠慮する藩当局によって城下の野山獄に投獄される。獄中生活は1年以上にも及んだが、その間、松陰は決して無為に過ごしたわけではなかった。自分と同じ境遇の囚人に対して『孟子』や『論語』を講義し、その更生をはかっている。 松陰が出獄したのは翌安政2年(1855)12月15日のことだが、実家の杉家に戻って2日後の17日より、今度は父や兄に対して『孟子』の講義を開始した。『孟子』が終わると、次は兵学書や歴史書の講義へと進んだが、時事問題について熱く論議することもあったという。 その頃になると、松陰の講義の評判を聞き付けた藩士たちがその教えを受けるようになる。松下村塾への源流であった。再び幽囚の身に――老中間部の暗殺計画を宣言 松下村塾は松陰とセットで語られることが多いが、当初は杉家の一室四畳半が教室だった。その後塾生が増えたため、杉家敷地内の小屋を改造して八畳の教室を作ったが、これでも足りず、安政5年(1858)3月に十畳半分の控室を増築した。主宰する松下村塾が幾多の有為の人材を排出したことは、これから述べていくとおりである。 松下村塾の活動が軌道に乗ったのとは裏腹に、アメリカとの通商条約の締結問題を契機として政治情勢は混迷の度を増す。時勢への関心が元々強かった松陰は、事が外交問題であったがゆえに、とても黙ってはいられなかった。先述のように、ペリー再来航時には国禁を犯してアメリカに密航しようとはかったほどである。 よって、自分の思いを貫くために再び破天荒な行動に出た。しかし、これが松陰の人生を太く短いものにする。 幕府は世界情勢を踏まえてアメリカとの通商条約締結に傾いていたが、国論を統一させるため天皇(朝廷)の承認を得た形での条約締結を目指した。外交問題には挙国一致で臨むことが不可欠であり、天皇の政治的権威を利用しようとしたわけである。 ところが、幕府にとり大きな計算違いだったのが、通商条約に対する孝明天皇の強い拒絶姿勢だった。天皇は極度の攘夷主義者であり、元々外国人に対して強い嫌悪感を持っていた。外国との貿易開始によって国内の産物が外国に流れることにも、拒否反応を示した。こうして、通商条約締結の承認を求めてきた幕府の申請を却下してしまう。 通商条約締結問題は暗礁に乗り上げるが、安政5年6月19目、大老井伊直弼は天皇の許可つまり勅許を得ること、なく通商条約の締結に踏み切る。天皇や朝廷はもとより、井伊を快く思わない大名や藩士たち、そして尊王攘夷の志士はその非を鳴らすが、逆に弾圧を受ける。世にいう安政の大獄だ。 勅許を得ず通商条約を締結した幕府に、松陰も激しく憤る。ついには、倒幕まで宣言する。実力行使に出るべく、老中間部詮勝の暗殺を松下村塾の塾生にはかるとともに、それに必要な武器弾薬の貸与を藩当局に願い出た。間部は井伊の指令を受け、京都で弾圧の指揮を取っていたからである。 驚愕した藩当局は、松陰を再び野山獄に入れてしまう。安政5年も終わろうとする12月26日のことであった。松陰の過激な行動を放置すれば、長州藩は幕府から危険視されるに違いない。 果たせるかな、翌6年(1859)4月20日、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう長州藩に命じてきた。いうまでもなく、安政の大獄の一環である。 5月25日、幕命を受けて松陰を護送した駕籠が萩を出立する。1ヶ月後の6月25日、縄目の身の松陰は江戸の長州藩上屋敷に到着した。 幕府の評定所に最初に呼び出されたのは7月9日のことだが、松陰には2つ嫌疑が掛けられていた。京都で捕縛された小浜藩士梅田雲浜と親密な関係だったのではないか。御所内で発見された落し文の主ではないかの2点である。 一方、松陰は間部暗殺計画の件で召喚されたと思い込んでいた。実は幕府はその計画の存在などまったく知らなかったのである。そして梅田雲浜と落し文の件は吟味の結果、嫌疑が晴れてしまう。 ところが、拍子抜けしたのか松陰は流罪に相当する罪を2つ犯したと自ら申し立てる。尊攘派公家大原重徳の長州下向計画と老中間部の襲撃計画だ。 後者の間部の件については、さすがに暗殺計画とは申し立てなかったものの、寝耳に水だった担当の奉行たちは仰天・幕府最高首脳部の襲撃計画だから当然だろう。長州藩邸に戻ることは許されず、そのまま伝馬町の牢屋敷に送られて吟味続行となった。 5年前、アメリカ密航をはかった際に投獄されたのも同じ伝馬町牢屋敷。だが、今回は二度と萩に帰ることはなかった。2日でしたためた遺書 筆まめだった松陰は、獄中から高杉晋作たち弟子に向けて何通も手紙を出している。一連の手紙を読むと、10月16日の吟味までは、死罪に処せられるとはまったく考えていなかったようだ。吉田松陰が獄中で記したとされる「三余説」 間部襲撃計画を自白したことを、さほど深刻には考えていなかったのである。なぜなら、初回の吟味こそ厳しかったものの、その後の吟味は打って変わって穏やかなものだったからだ。国元に送還され、以前のとおり塾を主宰できるのではないかとまで楽観視していたほどである。 だが、吟味側の奉行たちは松陰の自白を重く受けとめていた。間部襲撃計画の報告を受けた井伊は松陰を非常に危険視し、極刑に処す方針を固める。 運命の10月16日がやって来た。評定所に呼び出された松陰は、奉行に署名を強要された口書の内容から、幕府が間部襲撃計画を重く受けとめていることを悟った。極刑は免れられない。 この日から、松陰は身辺の整理に取り掛かりはじめる。もう、時間はさほど残されていなかった。20日には、父百合之助・叔父玉木文之進・兄梅太郎宛に書状をしたためている。後に「永訣の書」と称されることになる家族宛の遺言だ。 同日には、江戸にいた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞に処刑された後の遺体処理を依頼する書状。同じ頃には、「諸友に語〈つ〉ぐる書」もしたためた。 生きて再び、萩に戻ることはできない。文字で書き残すことでしか、家族や弟子たちに自分の思いを伝える道は残されていなかった。 そして25日、松陰は門下生たちにあてた遺書の執筆に取り掛かる。「留魂録」である。松陰は数多くの著作で知られるが、まさしく最後の著作。それも26日夕方には書き上げるという速さであった。 翌日に迫った死期を知っていたかのように、わずか2日で、魂を込めた思いの丈を言葉にした。 死罪の判決が下れば、即刻執行されるのが当時の習い。いつ、評定所から呼び出されて死罪を申し渡されるかわからない。だから、読む者に切迫感が伝わってくるのだ。「留魂録」とは、松陰の鬼気迫る気持ちが凝縮されている題名なのだ。 16ヶ条から成る『留魂録』を、松陰は念のため2冊作成した。1冊は飯田正伯たちを通して萩に届けられ、門下生の間で回し読みされたが、しばらくして消息不明となってしまう。 もう1冊は牢名主の沼崎吉五郎が保管し、明治に入ってから、同じく門下生の野村靖のもとに届けられた。現存しているのは、こちらの『留魂録』である。《PHP文庫『30ポイントで読み解く 吉田松陰『留魂録』より》 あんどう・ゆういちろう 1965年、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業、早稲田大学文学研究科博士後期課程満期退学。江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。JR東日本大人の休日・ジパング倶楽部「趣味の会」、東京理科大学生涯学習センター、NHK文化センターなど生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)『幕末維新 消された歴史』(日経文芸文庫)『山本覚馬』(PHP文庫)などがある。関連記事■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性