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    坂本龍馬が「新国家」に託したもの

    幕末の志士、坂本龍馬はどんな「日本の夜明け」を夢見ていたのか。暗殺される5日前に記した書簡は、この謎に迫る第一級の発見である。あの時代に、幕府や公儀という言葉ではなく、なぜ「国家」という新しい政体を意味する二文字を使ったのか。龍馬が専心した新政府樹立の意義を考えてみたい。

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    新発見から龍馬の「新国家」構想と暗殺の「黒幕」を妄想する

    のために春嶽が出京することを喜び、それこそ中根のおかげと感謝している。越前福井前藩主の松平春嶽(霊山歴史館提供) この書簡以前に、龍馬は10月28日に土佐山内容堂の春嶽宛の手紙を持って福井に到着した(後藤象二郎宛龍馬書簡「越行の記」高知県立坂本龍馬記念館寄託)。あいにく春嶽本人には会えなかったが、手紙は春嶽の側近などに渡せたし、春嶽からの返事ももらえた。容堂の手紙も春嶽の返事も中身は伝わらないが、知られている歴史的文脈から、おそらく容堂の春嶽への出京依頼に春嶽が許可を与えたものと思われる。 さらに、龍馬は福井で、謹慎中の三岡八郎こと由利公正に逢って、新政権の構想を語り合った。そしてますます、三岡を新政権の財政担当者に招聘すべきと意を強くした。そこで中根に三岡の宥免と出京を働きかけた。 それゆえ「先ごろ直接申上げた三岡の出京、出仕の件は、緊急を要する案件で、どうか早々にご許可いただきたいのです。三岡の出京が一日遅れれば、遅れるだけ、それだけ『新国家』の家計が一日先になってしまうのです。したがってこの件に集中してご尽力をお願いしたいのです」とかなり切実である。新政権の予算・財政は、一にも二にも三岡にかかっていると言っている。 この龍馬の働きかけとおそらく中根やその周辺(春嶽など)の尽力で、龍馬暗殺の一ヶ月後になるが、三岡は12月18日朝廷から参与に任命された。三岡は、主に朝廷の予算・財政を司り、三井や小野などの有力商人や中小の商人などから、御用金(寄付金)を募り、3月2日から閏4月8日まで、895名から16万両以上を集めるのに成功したのである(小美濃清明『龍馬の遺言』藤原書店、2015年)。初期明治新政府の財政を安定させ、戊辰戦争の遂行を可能にしたのは、龍馬・中根等の尽力で三岡が新政府に参画したからということを示しており、本書簡はすこぶる重要である。 なお、「新国家」と書いてある書簡は、この書簡以外にない点(宮川禎一氏の本書簡に関する一連のコメント)も重要だ。「新国家」は、私が思うに、新政権、おそらく、天皇を中心として、徳川慶喜も取り込んだ、新しい朝廷を指すものと思われる。この点で、青山忠正氏は、「新国家」を今後の研究課題としながらも「『あらたな主君』や『天皇』を意味した可能性もある」(産経WEST 2017年1月13日)とコメントされている。 私も現時点では、課題だと思うが、本書簡の追伸の中で、慶喜側近の幕府若年寄、永井尚志と「談じたき天下の議論」がたくさんあると言っているので、龍馬の中では「新国家」=「天下」=新政権=オールジャパンの新政権構想だと思う。そして、龍馬は、この時期、まさに新国家構想が実現可能とみる高揚したハイテンションの最中にあったのではないかと思われる。それゆえ、追伸がまたとても重要だ。龍馬が三岡にこだわったわけ ではあらためて、追伸を見てみよう。「今日、すなわち11月10日に永井玄蕃頭(尚志)の屋敷に出向いたが、あいにく会えませんでした。論じたい天下の議論が数々あって、明日また面会する所存であります」として、どうやら、翌日には永井と議論ができる可能性が高かったようだ。 おそらく、翌日は会おうという永井の色よい返事をもらっていたのであろう。それゆえ、「あなた(中根)も御同行いただければ、実に幸せです」と書く。すなわち、中根にも同行を求め、ここでも2人で、三岡の財政担当者としての出仕を実現しようとしたのだと考えられる。 龍馬がここまで三岡にこだわるのは、龍馬が、財政問題特に貨幣鋳造権を江戸の幕府から京都の朝廷の傘下に置くことで、徳川幕府を有名無実化し、京都の朝廷を新政権として自立させたかったからに他ならない。10月10日の後藤象二郎宛書簡で龍馬は、「江戸の銀座を京師にうつし候事」が重要で「此一ケ条さへ」行われれば「将軍職はそのままにも、名ありて実なければ恐るるにたらす」と言っていること(岩下哲典「坂本龍馬、その天下・国家・異国観」『龍馬の世界認識』藤原書店、2010年)をまさに実現しようとしているのである(前掲、小美濃書)。 龍馬にとって、新国家の中心的課題は財政であり、そのもっとも核心的な部分は貨幣鋳造権であった。だれが新国家の中心であろうとも、貨幣鋳造権さえ掌握すれば、新国家は成立すると考えたのである。 これは実に正しい認識だ。ある国家が独立しているからその国家の貨幣が鋳造される。そしてその国家が信用されるから、その国家の発行する貨幣が流通する。流通すれば財政が安定する。貨幣は国家独立の証であり、国家信用の証である。財政問題が解決・安定すれば、戦争も政治も可能なのだ。これが龍馬が到達した「新国家」なのである。 もちろんこれに気付いていたのは龍馬だけではない。西洋事情に詳しいものであれば、西洋の独立国家がいずれも、貨幣鋳造権を有し独自の貨幣を流通させ、国家を運用している。それは、19世紀初頭の長崎でもよく知られた事実であった。「新国家」で意気投合した龍馬と永井 さてこの「新国家」構想はどうなるのか。書簡の翌日11月11日朝、龍馬は確かに永井と面会した。中根が同行したかは不明であるが、同行した可能性は高い。なぜなら、龍馬と永井が「新国家」に関して意気投合したからだ。 龍馬は、大坂に居た薩摩藩士(元広島藩士)林謙三に宛てた書簡で「今朝、永井の屋敷に行っていろいろ話し合いました。天下のことは、実現するかどうかわからないし、また困った状態で、なんとも言葉にできないでいます。あなたも今しばらく命を大切にしていただきたいが、しかし実は今が大事で、為すべき時は今かもしれません。私も早く方針を定めて修羅場でも極楽でも御供致します」と述べている(前掲、宮地書)。 さらに龍馬は、永井は自分と「ヒタ同心ニテ候」と追伸で書いている。永井と意見がぴったり一致したというのである。いささかユーモアで書いたこの書簡の4日後、龍馬は中岡慎太郎と一緒に京都近江屋の離れ土蔵の2階で、幕府京都見廻組、佐々木只三郎以下に襲撃され、まさに修羅場の中で絶命する。 龍馬の意志を継いだ三岡が、新政府で財政担当するのは龍馬暗殺から約1か月後の12月18日、同月9日の王政復古の直後である。龍馬の暗殺をめぐって様々な風説が飛び交ったことから、新出の本書簡は、中根の関係者などが、誤解が生じかねないと「他見ヲ憚ルモノ也」と朱書きしたのかもしれない。坂本龍馬の新政府綱領八策(複製・霊山歴史館蔵、原本・国会図書館) いずれにしても、本書簡は、龍馬暗殺直前の龍馬の「新国家」構想、実態は全国的な貨幣鋳造権と流通の確立、そのための三岡の新政府入り実現に龍馬自身や中根が奔走していたこと、幕府若年寄永井尚志とも龍馬は逢い、構想を語り協力を求めていたことを示す点、すなわち、オールジャパン政権を構想していた点で興味深い。 なぜオールジャパンでなければならないのかといえば、貨幣の全国的流通には、全諸侯の結集が必要だったからに他ならない。龍馬にとって、慶喜を含めた諸侯のうちだれが欠けてもだめなのだ。「新政府綱領八策」で「○○公、盟主となり」は、誰でもよかったが、だれか欠けてもだめなものだったのである。由利公正と永井尚志の生涯由利公正と永井尚志 ここでは、由利公正と永井尚志の生涯と龍馬との接点を探り、書簡へのさらなる理解を深めたい。まず、三岡八郎こと、由利公正は、文政12年、1829年生まれで、龍馬とは6歳違いである(伴五十嗣郎「由利公正」『日本歴史大事典』小学館、カシオEX-word電子辞書版)。もともと三岡姓で、石五郎とか八郎と称した。明治維新後、由利姓となった。福井藩士である。 横井小楠に傾倒し、富国強兵・殖産興業を念頭に藩財政の立て直しに尽力した。安政元年(1854)には兵器製造掛となり、銃砲・火薬の量産を推進した。また、長崎オランダ商館と交渉して藩内特産物の輸出に業績をあげた。文久3年(1863)5月に龍馬と知り合いになった。同年8月挙藩上洛を強硬に推進しようとして、翌月失脚、4年間にわたって蟄居となる。 龍馬は、慶応3年の10月末に福井で、「大政奉還」後の新政権構想を由利と16時間にわたって話し合い、意気投合した(前掲小美濃『龍馬の遺言』)。そこで、一刻も早く由利の新政権財政担当者への就任を中根などの福井藩関係者や新政権関係者(薩摩・長州等)に働きかけた。 財政の重要性を良く知った上での行動だったが、こうした行動は、同じく財政の重要性を認識する大久保や西郷などにはどのように映っただろうか。「大政奉還」以後の政局は、だれが財政を握るかという観点から読み直すべきかもしれない。 ともかく由利は、王政復古後の12月18日、参与に任ぜられ、財政担当者として新政府の財務を一手に担い、前述したように戊辰戦争の戦費調達に尽力した。また、太政官札など金札の発行も担当し、土佐藩士福岡孝弟とともに五箇条の御誓文原案起草も行った。 しかし、太政官札の評判が芳しくなく、明治2年官を辞した。おそらく、薩長の有力者から疎まれたのであろう。有力な後ろ盾がなく官にはとどまることができなかったのであろう。 その後、同4年には東京府知事に返り咲いた。同5年岩倉使節団に随行、明治7年には、板垣退助らと民撰議院設立建白書を提出した。元老院議官、子爵、貴族院議員、麝香間祗候を歴任した。これらの役職は、実務担当者ではなく名誉職のようなもので、由利にとっては愉快なものではなかったと思われる。明治42年(1909)80歳で没した。 龍馬と由利の福井会談から始まった新政府の財政構想、特に全国的な貨幣鋳造権と流通は明治4年の大坂造幣局の開局・稼働に結実したと小美濃氏は言うが、その通りであろう(同上)。大坂造幣局の印刷機械は、遠くイギリス総督府の香港造幣局から運ばれてきた中古品だったが、その払い下げ情報を知り、入手に尽力したのは薩摩藩士小松帯刀や上野敬介、トーマス・ウォートレスなど薩摩人脈であった。ここでも薩摩が新政府の財政に深くコミットしていることが理解できる。よって立つ基盤が同じ三人 永井尚志に関しては、高村直助氏の『永井尚志』(ミネルヴァ書房、2015年)が、現在最も詳しく、参考になる。その年譜を見ると、さまざまなことに気付く。 永井は、文化13年(1816)生まれなので、由利より一回り年上、龍馬とは20歳ほども違う。慶応3年には52歳の老練な政治家だ。もともと永井は、三河譜代の大名大給松平家の生まれだ。ただの幕臣ではない。大名家から、同じ大名家の加納藩主永井家の分家である旗本永井家に養子に入ったのだ。 俊才ゆえに昌平坂学問所で頭角を現し、弘化4年(1847)小姓組番士となり、嘉永3年(1850)には甲府徽典館(学問所)の学頭に任ぜられた。同6年には徒頭、ほどなく目付、翌安政元年(1854)海防掛兼帯、台場・鋳砲・造船所用取扱、長崎在勤となり長崎に赴任し、さらに翌年長崎海軍伝習指揮を命じられた。勝海舟も永井の指揮下だった。 由利も兵器製造掛、二人とも西洋列強に対して国土をいかに防衛するかを真剣に憂い、具体的方法を模索し実行する困難な実務的役職にあったといえる。龍馬も神戸海軍操練所頭取、勝の塾生であり、由利や永井と同じ基礎教養を身につけていた。そのような三人なのである。よって立つ基盤が同じなのだ。 永井はその後、安政4年には江戸築地の軍艦教授所総督、ついで勘定奉行、翌年外国奉行、神奈川奉行兼帯、安政6年軍艦奉行となるも、免職・俸禄没収・差し控えとなってしまう。文久2年(1862)軍艦操練所御用となり、その後、京都町奉行として困難な京都の治安維持を担った。同3年、禁裏御用となるも、閉門。元治元年(1864)大目付で在京、禁門の変を起こした長州藩への詰問使となっている。 こうしてみると永井は、さまざまな役職を経験しながら、免職や閉門などの辛酸も舐めている。由利も4年にわたる謹慎、龍馬も脱藩して逃亡生活をした時期もあり、三人はそうした点でも共通の話題がある。新たに見つかった坂本龍馬が暗殺5日前に書いた直筆の書状=1月13日 さて長州戦争では、永井は総督、徳川慶勝の目付役でもあった。慶応元年(1865)依願免職、ほどなく大目付、外国奉行兼帯、第二次長州戦争でも広島まで赴いた。慶応3年若年寄格、以後、慶喜の側近として、土佐藩のいわゆる「大政奉還」路線、当時の慶喜の言葉では「政権奉帰」路線への道筋をつけた。 その上での同11月14日の龍馬との会見であった。永井も龍馬の構想に賛同し、慶喜を入れた形のオールジャパンの新政権を構築すべく動こうとしたが、龍馬が暗殺されて、すべての目論見が狂っていった。 結局、慶喜も永井も、いきり立つ大坂城の幕臣や徳川シンパの大名たちを抑えることはできず、鳥羽・伏見の戦いに突入し、慶喜が江戸に去ったあと、永井は紀州藩を頼るが、自力で江戸に帰還し、罷免・登城停止・逼塞を命じられる。その後は、品川沖からの脱走した榎本武揚艦隊に身を投じ、榎本と行動を共にし、明治2年(1869)箱館五稜郭の戦いで降伏、収監された。 明治5年に特赦により出獄、すぐに開拓使御用掛、左院少議官、元老院権大書記官を最後に官を辞した。これらの役職はどの程度実務をしたのかわからないが、永井にとって面白い役目ではなかったようだ。以後文雅に生き、明治24年、76歳で死去した。 慶応3年11月、意見を同じゅうした龍馬は凶刃に倒れ、由利は新政府に出仕、その後辞任。永井は箱館で新政府に対抗した。龍馬が暗殺されたことで2人の運命も大きく変わらざるを得なかった。龍馬が生きていて、由利・永井がともにどのように新政権に関わったのか、もう一つの別の明治維新を見てみたかったように思うのは私だけではあるまい。龍馬暗殺の背後に見える者たち龍馬暗殺の背後に見える者たち さきに見たように、龍馬は、山内容堂と松平春嶽との仲立ちをして、土佐藩と福井藩の藩ぐるみの連携を進め、さらに慶喜側近の永井と意見が一致したことで、慶喜を取り込んだオールジャパンの「新国家」政権を構想していた。おそらく、薩摩・長州の突出を抑える対抗勢力の均衡によりオールジャパン政権を構想したのだと理解するのが自然である。それのみならず、全国的な貨幣鋳造権と流通にはオールジャパンが不可欠だった。鹿児島市にある大久保利通の銅像 ところがこの構想は、それまで政局を主導してきた薩摩・長州の激派(一部の武力討幕派)にとっては、特に長州藩にとってみれば、禁門の変以来敵対してきた慶喜を中に取り込まざるを得ないことは同意できないし、薩摩藩にとっては第二次長州戦争以来敵対してきたあの慶喜に政局の主導権を取られかねないという点でまことに都合が悪く、彼らが主導権を握るためには、このまま龍馬に活動されては問題だと考え始めたと思われる。 加えて薩摩も長州も領内の軍事機密などを龍馬に見られており、というか見せてしまっていた。たとえば薩摩は軍事機密のオンパレード集成館事業、長州は個別の村々での軍事教練の様子や領内の軍事拠点などを龍馬に見られたり、軍艦さえも貸与して運用させており、対旧幕府戦争を想定した時、旧幕府側に龍馬がいれば、それだけでたいへんな脅威になるのである。 したがってこのタイミングで龍馬を亡き者にしたいと思っても何の不思議もない。しかし、自分たちが直接手を下すことは、龍馬のシンパ(土佐藩・福井藩等)を敵に回すことになり、あまりにもリスクが高い。 であれば、龍馬に強い恨みを持つ強力な戦闘組織なり、個人に対して、龍馬の居場所情報を漏らせば、それらが首尾よくやってくれる。そう考えるのが自然ではないかと思う。 かくして、私自身は、龍馬が福井藩や旧幕府側の永井と頻繁に接触しているのに危機感を抱いた、薩摩藩の一部の武力討幕派が、龍馬の居場所を京都見廻組にそれとなくわからないように漏らしたのだと考える。もちろん見廻組独自で情報収集は可能だが、より確実な情報をもとに決行したと考える。 なぜ薩摩藩なのかは、やはり龍馬が自ら薩摩藩士、林謙三に書簡を送って情報をもらしていることから、かく考えるものである。また薩摩藩士、大久保利通が、11月15日入京し、18日には後藤象二郎が入京、23日には薩摩藩主、島津忠義が、岩下方平・西郷隆盛を従え入京、23日には広島藩主浅野長勲が京に入った(井上勲『王政復古』中公新書、1991年)。30日には左大臣近衛忠房、右大臣一条実良が辞任し、王政復古への道が開かれる。すなわち、慶喜を排除した王政復古の道筋が敷かれることになったのである。 龍馬の構想したオールジャパン「新国家」政権は、その死と共に葬られ、薩長と一部の公家中心の王政復古になったことを考えると、龍馬暗殺の背後に薩摩藩等の影を見ることは、そうおかしなことでもあるまい。龍馬暗殺で一番得をしたのは薩長の武力討幕派である。 今回見つかった龍馬の書簡からは、福井藩や旧幕府人脈にシフトしたように見える龍馬の姿が垣間見られ、それを十分に自覚せずに薩摩や長州に無邪気にそれを伝えてしまった龍馬の姿も想像できる。龍馬は多くの人から歓迎されながら、多くの人から狙われる存在でもあったのだ。武力討幕派のスケープ・ゴート、それが龍馬だったのである。龍馬暗殺「実行犯」の動静から龍馬暗殺「実行犯」の動静から  最後に、龍馬暗殺下手人のただ一人の生き残り、今井信郎の動向を新史料から紹介する。坂本龍馬が暗殺された近江屋跡に建つ石碑=京都市中京区 最近幕末三舟の一人高橋泥舟(岩下哲典『高邁なる幕臣 高橋泥舟』教育評論社、2012年)の明治4年の日記「公雑筆記」(岩下・高橋泥舟史料研究会編『高橋泥舟関係史料集』第二輯・日記類二、2015年)を読んでいたところ、今井信郎が泥舟の家に来て酔っ払い、翌朝、詫びに来たことが書かれていた。今井は、箱館五稜郭戦争で新政府軍に捕縛され、龍馬暗殺を自白した。ただし、本人は見張り役であったという。 今井は、明治3年9月に司法省から禁固3年・静岡県預かりになっており、すなわち箱館降伏人として静岡に居住していた。ところが、泥舟の日記によると、明治4年2月10日、今井と連れの1人が、あろうことか泥酔状態で泥舟の家にやってきた。その後、旧幕臣の高月と天野もやってきた。翌日、今井が、昨日は申し訳ないと詫びに来たという。 なぜ、今井が詫びに来るほど酔っていたのか、一緒に来たもう一人が誰なのか、日記の記述だけではわからない。その9日後の19日夕方、今度は山岡鉄舟が静岡からやって来て、その夜に今井と旧幕臣、信太歌之助もやってきたという。何を話したのか、泥舟の日記からは何もわからないが、話は坂本龍馬のことにも及んだかもしれない。泥舟も鉄舟も龍馬とは知り合いだし、ましてや今井は龍馬暗殺の実行犯である。 さらに注目すべきは、今井の刑期が切れるのは、本来、明治6年のはずであるが、2年も前の4年の段階でこのように泥酔してくだを巻くほど比較的自由に暮らしていたことである。他県に行くような大きな移動は難しかったと思われるが、静岡と田中(現在の藤枝市)ぐらいの移動は大目に見られていたのだろう。 また、あくまでも見張り役だったこともあろうが、新政府に逆らって箱館戦争を戦った者への待遇として、静岡藩はまったく緩かったとしか言いようがない。前述したように永井尚志が明治5年まで兵部省糾問所牢獄に収監されていた。この違いはかなり大きいのではあるまいか。 その後今井は、明治5年に特赦を受けたとされるが、実質はすでにほぼ自由の身であった。つまり私は、今井は新政府と何らかの取引をしたのではないかと思う。もちろん証拠はない。しかし、今井が比較的自由に暮らせたのは何か理由がないと説明がつかない。今は指摘するにとどめるが、何か割り切れないものがある。 そしてその後、今井は初倉村(現、島田市)に移り、村長等を勤め、大正7年、1918年まで、77歳の天寿を全うした。 はたして龍馬を暗殺した黒幕はいったい誰だったのか。心は騒ぐが、新たな関係史料が見つかることを祈念したい。そして、2017年の丁酉はどんな時代の幕開けになるのかも、とても気になるところである。

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    龍馬暗殺5日前の書状からにじむ「新国家」への執念と先見力

    を推進していたこの永井尚志に「明日」面会する話は、慶応3年11月11日の林謙三宛の龍馬書簡(高知県立歴史民俗資料館蔵)に「今朝、永井玄蕃方へ参り、色々と議論いたしました」という文面とも符合している。中根と永井は旧知の間であるので、それを知っていた龍馬が中根を永井の屋敷に訪ねる際に同行を求めたのであろう。 龍馬がこの手紙でしつこく出仕を求めた三岡は京都へ来て「太政官札の発行」など新政府初期の財政を担当することになった。さらには「五箇条の御誓文」の原案を起草した。三岡は明治維新の基礎をつくったひとりとなったのだ。その点、龍馬が見込んだとおりの人材だったのである。 一方、手紙の宛先である中根雪江は慶応3年に61歳という年齢であった。三岡とともに慶応3年12月には新政府に出仕することになる。中根は松平春嶽の側近であり、穏健な尊王思想をもち、幕臣や諸藩の重臣とも交流が豊富で、幕末史のすべてをよく知っていたようだ。 中根雪江はのちに『丁卯日記』(丁卯は慶応3年のこと)を記して大政奉還後の京都・朝廷の様子を詳細に書き残した。高い理想と権力闘争とが混交したこの時期の京都政界の内情を我々に知らせてくれるのがこの中根の記録なのである。 中根は慶応4年8月には新政府を辞めて福井に隠遁することになるのだが、明治になって蓑笠に釣竿を持った「釣り人スタイル」の写真を残している(そんな古写真を他に見たことがない)。この写真には新政府内部の権力闘争に対する中根の厳しい不満・批判が込められているように筆者には感じられるのである。 今回見つかった手紙は龍馬の新出書簡として歴史的価値がきわめて高いものであり、越前福井藩と龍馬の関わりなどを含め今後の研究の進展が期待される一通である。手紙の本紙は縦16.3㎝、横92.5㎝。和紙に墨書である。

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    「今こそ草莽崛起の時」坂本龍馬を飛躍させた久坂玄瑞の思い

    河合敦(歴史研究家) 文久2年(1862)1月、久坂玄瑞は長州・萩を訪れた坂本龍馬に対して次のように語りかけた。「藩の枠に囚われることなく、自分たち草莽の志士が起ち上がり、攘夷の義挙に出る以外に道はない」。すなわち、「草莽崛起」である。この時の玄瑞の言葉が、約2カ月後の龍馬の脱藩につながる訳だが、両雄が志を共有できたのは、2人が生まれ育った環境も大いに関係している。 「草莽崛起」を唱え始めたのは吉田松陰だが、背景には長州の「風土」があった。関ケ原合戦で敗れ、徳川に大幅に領土を削られた毛利家は、多くの武士が帰農しており、その点、他藩に比べて身分の壁が低かったといわれる。それゆえ、どんな出自であろうが、その人物が優秀であれば、然るべき役職に取り立てる――そんな風通しの良さが、長州には根付いていた。そうした中で、高杉晋作が組織した「奇兵隊」などが生まれた。 低い身分でありながら活躍した典型的な人物が、久坂玄瑞である。彼は医者の家の出であり、石高も少なかった。それでも若い頃から藩の様々な人物から目をかけられ、文久年間には京都での尊王攘夷活動を一手に担い、元治元年(1864)7月の禁門の変の際には家老の福原越後や、来島又兵衛と同じように長州軍を率いている。玄瑞は25歳であったのに対して、来島は48歳。2人は親子ほどに歳が離れていながら、同じ立場で禁門の変を戦ったのだ。 一方、坂本龍馬が育った土佐藩には、厳しい身分差があった。戦国時代、土佐は長宗我部家が治めていたが、関ケ原合戦後に入封した山内家は、長宗我部家の旧臣(地侍)を遠ざけて、譜代家臣を優遇した。そして、譜代家臣は「上士」、地侍は「下士」と峻別され、上士は下士をあからさまに見下すようになる。龍馬も「下士」であり、悔しい思いをしたことは一度や二度ではなかったはずで、山内家に対する忠誠心も薄かった。そんな境遇で育てばこそ、玄瑞の言葉が臓腑に染み、絶大な影響を受けたのだ。もしも龍馬が上士であれば、玄瑞の言葉に共鳴し、「挙国の海軍」を創設しようという思いには至らなかったかもしれない。 玄瑞と龍馬は、「列強の脅威から日本を守る」という、共通の志を抱いていた。しかし実は、期せずして互いのバックグラウンドも、両雄の「共鳴」の素地になっていたところにも、歴史の面白みがあるのではないだろうか。かわい・あつし 作家、歴史家。1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白?高等学校・附属中学校に着任。2013年、東京都を退職。現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。教壇に立つ傍ら、歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。主な著書に、『早わかり日本史』『早わかり江戸時代』(以上、日本実業出版社)、『岩崎弥太郎と三菱四代』(幻冬舎新書)、『読めばすっきり! よくわかる日本史』(角川SSC新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。関連記事■ 吉田松陰・全国周遊から得たものとは■ 吉田松陰とその妹―維新の原動力とは何か■ 【歴史街道脇本陣】あなたの好きな「幕末維新」の人物ランキング■ 信長に勝ち続けた雑賀衆の魅力とは■ 信長に勝ち続けた雑賀衆の魅力とは

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    坂本龍馬の船中八策はフィクションだった?

    を勉強されているそうです。知野さんが書いたその本は、私が読むかぎり、今、世間でしばしば見られるような歴史学の素人による、奇をてらったトンデモ歴史本ではありません。 今の世の中、明治維新や志士を否定的に語り、口汚く罵る本が、かなり出回っています。それらの本のせいで、幕末の志士たちを、平気で「テロリスト」呼ばわりしている人々もいますが、それは、かなり幼稚で、しかも粗雑な歴史認識です。幕末の志士たちは、何の関係もない一般市民を無差別に殺傷したりはしていません。そういう志士たちを、平気で「テロリスト」と呼ぶ人々は、たとえば、大東亜戦争中の「特攻」とイスラム過激派の「自爆テロ」の区別も、たぶんできない人々なのでしょう。 かつて小林秀雄は、「明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないていのものだ」(「歴史と文学」)と書いています。「涙」とまではいかなくとも、たしかに「普通の人間」なら、たとえ薩長側の人物に対してであろうと、幕府側の人物に対してであろうと、その人が、その人なりの「義」に生き、戦い、散ったのであれば、わけへだてなく哀惜の念くらいはもつはずです。それこそが日本人で、その点、いつまでも「恨み」つづけることをよし、とする民族とはちがいます。そういう意味で、今の日本には、「普通の人間」ではない人が、増えているのかもしれません。 話をもとにもどします。知野文哉さんの『「坂本龍馬」の誕生―船中八策と坂崎紫瀾』という本は、今どき、よくあるトンデモ歴史本ではない、というお話をしました。 その本は、関係する文献を広く、かつ誠実に調査し検討し、冷静に考証し、結論も、おおむね妥当です。さらにその本には、詳しい「注」までついていますから、それは、読み物というかたちはとっていますが、「歴史学の専門書」といってよいでしょう。もうひとつの「八策」 詳しい考証の過程は、その本を読んでいただくとして、ここでは、知野さんの本の結論の一文のみを引用させていただきます。 「坂本龍馬は、船中八策という文書は作成しておらず、船中八策は、明治以降の龍馬の伝記のなかで、しだいに形成されていったフィクションである」(同書)とはいっても、知野さんは、何もその文書に書かれていることが、まったく龍馬の考え方から、かけはなれている……といっているわけではありません。知野さんは、こうも書いています。 「『船中八策』がフィクションであるにしても、それは龍馬が後藤に対して、大政奉還を建言しなかったということではないし、『船中八策』に記された国家構想が龍馬と無関係なものであることも意味しない。極端な話、『船中八策』自体は存在しなくても、龍馬が全く同内容のプランを『口頭』で後藤に建言した可能性だってあるのである」(同書) つまり、その文書そのものは龍馬が書いたものではないが、しかしそこに書かれていることは龍馬の考え方そのものということになります。ややこしい話ですが、つまり、龍馬のことをよく知っている人なら、「なるほど龍馬なら、こういうことを考えていただろう……」と思わせる文書が、いつのまにか「龍馬自身が書いたもの」に化けてしまった……という話です。 それにしても龍馬が、長崎から京都・大坂へ向かう夕顔丸という船のなかで、近代日本を先取りした画期的な国家構想を、滔々と語り……サラサラと書き取らせるという名場面は、知野さんの考証によって、じつは「事実ではない」ということになったのですから、龍馬が好きな人にとっては、いささかガッカリかもしれません。しかし、そのようなことは、歴史学の研究をしていくと、しばしばおこることです。 私自身も、かつて「明治維新の思想的リーダーの一人」のようにいわれていた学者・思想家について、十数年も研究したあげく、たどりついた結論が、「どうも……そうではないらしい」ということになった経験があります。自分が長年かけて苦労して導いた結論ながら、いささかガッカリしたものです。坂本龍馬の新政府綱領八策 しかし、「船中八策」が「フィクション」ということになると、本書は、タイトルに『龍馬の「八策」』とうたっているわけですから、読者のなかには、「看板に偽りあり……ではないか」と思われる向きもあるかもしれません。しかし龍馬には、「船中八策」のほかに、じつはもう一つ、タイトルに「八策」という言葉を入れて呼ばれている有名な文書があるのです。それは今、一般に「新政府綱領八策」(あるいは「新政府綱領八義」)と呼ばれています。 もちろん、この文書のタイトルそのものは、「船中八策」と同じく、後世の人がつけたものですが、以下、本書では、そのもう一つの「八策」を「新政府八策」と呼んでいくことにします。なにしろ、「新政府綱領八策」のほうは、日付も署名も、しっかり入った龍馬の筆跡の文書が、2つも残っているのですから、これは、まちがいありません。(中略)「龍馬アホ説」龍馬アホ説? ちなみに、近ごろは「新政府八策」まで龍馬の「発案」ではない、などといっている歴史学者もいます。その理由は、こういうものです。龍馬の「文体は、同時期に一般的であった書簡様文体と比較して、異様」で、それは「彼の学習経歴から見て、書簡様文体を使いこなせなかったため」にちがいない。つまり龍馬は、「国家の政体構想にかかわるような抽象的な概念を、完全には理解」できない男であり、「坂本は、その文体と言語において、抽象的な概念を駆使することはなかった。意図的にそうしたわけではなく、必要であるべきときでも、できなかったと見るべきである。この意味からすれば、いわゆる『新政府綱領八策』なども坂本の発案とは考えにくい」(青山忠正『明治維新の言語と史料』)。 これは暗に「龍馬には、そんな高級なことを提案できる知能はなかった」といっていることと同じです(以下、これを「龍馬アホ説」と呼びます)。しかし、この「龍馬アホ説」は、その前提からしてまちがっています。 おそらく今の日本の歴史学者で、龍馬の手紙に関する研究で、もっとも成果をあげているのは、宮川禎一さんでしょう。その宮川さんは、龍馬が慶応3年6月24日付で、兄・権平にあてた手紙について、「手紙文の定型」を守っているとしつつ、こう断言しています。「これを読めば、龍馬が定型的な手紙文を、書かなかったわけではないことがわかる」(『龍馬を読む愉しさ』)。また、平成28年、京都国立博物館の特別展覧会で、「現存する最古の龍馬の手紙」(相良屋源三郎にあてた安政3年9月29日付のもの)の実物が初公開されています。これも、当時としては「常識的」な礼状です。「書簡様文体を使いこなせなかった」というのが、「龍馬アホ説」の前提ですが、その前提が、そもそも成り立ちません。 その上、たとえば龍馬は、慶応3年4月23日の夜におこった海難事故(「いろは丸沈没事件」)にさいしては、『万国公法』を手に入れています(慶応3年5月11日付の秋山某あての龍馬の手紙)。そして、それにもとづいて事故を処理しようとしているのです。結果的に、その事故処理はみごとなもので、船乗りたちから、日本の航路規則を定めたものとたたえられ、その詳しい経緯を聞きに来る人も、たくさんいました(慶応3年6月24日付の坂本権平あての龍馬の手紙)。そもそも「抽象的な概念」を「駆使」できない「アホ」に、そんなことができるでしょうか。疑う必要のないものまでを疑う ただし、「龍馬アホ説」には、逃げ道が用意してあります。「発案」ではない、という言い方です。「新政府八策」は、龍馬の署名入りの自筆の文書が、複数残っています。ですから、いくら「龍馬アホ説」を唱える人でも、「龍馬が書いたものではない」とはいえないので、龍馬の「発案」ではない、という微妙な言い方になっているのでしょう。岬神社内の坂本龍馬像 =京都市中京区 しかし、そもそも政治的な「発案」に、完全に個人のオリジナルといえるものが、はたして、どれほどあるでしょうか。たとえば、「大政奉還」という「発案」は、少なくとも200年ほどにわたる無数の人々の学問的・思想的な蓄積があって、はじめてかたちになったものです。 ある政治的なアイデアの「発案者」が、ある「個人」に厳密に限定される……という例は、歴史上、それほど多くはないでしょう。たとえ独創的と思える「発案」でも、その背後には、さまざまな学問と思想の、長い歴史的な積み重ねがある……というのがふつうです。 その上、「新政府八策」に書かれていることは、そのころの政治家たちからすれば、それほどビックリするような内容ではなく、その当時は、ある意味ではふつうの政権構想で、また、そうでなければ、さまざま政治勢力の合意形成など、そもそもできなかったでしょう。もしも龍馬が、そのようなふつうの政権構想さえ「発案」できないような「アホ」であるなら、どうして、そのころ幕府、薩摩藩、長州藩、土佐藩、越前藩など、さまざまな政治グループの中心にいる人たちが、生きるか死ぬかという緊迫した政治状況のもと、あれほど龍馬を信頼し、重んじたのでしょうか? 常識的に考えて、ありえない話です。「龍馬アホ説」にもとづいている「新政府八策は龍馬の発案ではない」という見解は、私には、今のところいいかがりとしか思えません。 もちろん歴史の研究をする上で、それまでの通説を疑うということは、大切なことです。しかし、疑う必要のないものまでを疑うというのは、よくありません。そんなことをしていると、かえって人は歴史の真実から、どんどん遠ざかっていくのではないでしょうか。 「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」(『論語』)という金言もあります。 まつうら・みつのぶ 皇學館大学 文学部国史学科教授。昭和34年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部を卒業後、同大学大学院博士課程に学ぶ。現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)。専門の日本思想史の研究のかたわら、歴史、文学、宗教、教育、社会に関する評論、また随筆など幅広く執筆。著書に、『【新訳】南洲翁遺訓──西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』『【新訳】留魂録──吉田松陰の「死生観」』『【新釈】講孟余話──吉田松陰、かく語りき』(以上、PHP研究所)、『大国隆正の研究』(神道文化会)、『やまと心のシンフォニー』(国書刊行会)、『夜の神々』(慧文社)、『日本の心に目覚める五つの話』(明成社)、『日本は天皇の祈りに守られている』(致知出版)など。関連記事■昭憲皇太后の夢にあらわれた坂本龍馬の「留魂」■西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか■長州男児の肝っ玉・高杉の功山寺挙兵

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    坂本龍馬フリーメイソン説、日本代表者の見解は?

     今日まで、その“謎めいた組織”は様々に語られてきた。曰く、「世界を牛耳る陰謀組織」「日本や世界の歴史を動かした」等々。怪しげな言説に彩られた「フリーメイソン」の実態に迫るべく、日本にある15のロッジ(拠点)を束ねる総本部「日本グランドロッジ」(東京都港区芝公園)に足を踏み入れた。そして日本グランドロッジを主宰する第60代グランドマスターの猪俣典弘氏疑問をぶつけた。 歴史上の大きな出来事にフリーメイソンが関わってきたことは事実だ。フランス革命には人権宣言の起草者ラファイエット、初期の革命指導者ミラボーら多くのメイソンが関わり、米国初代大統領ジョージ・ワシントンもメンバーだ。イタリア統一運動にも多くのメイソンが参加し、トルコ独立の指導者ケマル・アタテュルク、フィリピン独立の英雄ホセ・リサールなど多くの革命指導者がメイソンとされる。──革命や独立戦争をフリーメイソンが主導したというのは本当でしょうか。猪俣氏:ロッジ内で宗教や政治の話はタブーであり、フリーメイソンは反権力や反体制を教えてはいません。ただし、個々のメンバーが命懸けで行う運動や行為について、強い絆で結ばれたブラザー(メンバー)に伝えて、活動の枠を広げた可能性はあります。組織的にではなく、横のつながりで革命などに加わったメンバーならいるかもしれません。 第二次大戦中、メイソンのメンバーは軍服に赤いリボンをつけて戦い、それを見つけた敵方のメイソンは引き金を引く指を止めたといいます。現在、フィリピンではイスラム過激派と政府側が戦っていますが、両者にメイソンがいます。彼らは昼間戦い、夜はロッジで談笑することもあります。──幕末の志士・坂本龍馬はフリーメイソンだったスコットランド出身の商人、トーマス・グラバーに操られており、明治維新はメイソンによるクーデターだという陰謀論が日本では有名ですが……。 猪俣氏:あくまで一次資料を欠く推測で根拠がありませんが、逆に坂本龍馬がメイソンではなかったという証拠もない。ロマンは残しておいていいかなと思います(笑)。関連記事■ フリーメイソン 安倍内閣にもメンバーがいた■ 鳩山太郎氏「何を隠そう、私はフリーメイソンです」■ フリーメイソン 「昇級」に必要なこととは何か■ 「秘密のある結社」フリーメイソンは震災支援も行う■ 東京タワー近くのフリーメイソン日本総本部に潜入

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    坂本龍馬 逸話と一致する点が多く「ADHDだった」説も

    や創造性を発揮するという特徴がある。これが、龍馬の逸話と一致する点が多いのだ。 こうしてみると、病が歴史の変化をもたらした事例は枚挙に暇がない。病は歴史を揺り動かしてきたと言える。足利尊氏は、矢傷からの細菌感染により52歳で世を去った。南北朝の動乱を長引かせた尊氏の突然の死は、尊氏だけでなく日本の歴史にとっても予期せぬものだったに違いない。 歴史に「たられば」が許されるなら、という夢想話で名前が挙がるのが武田信玄であろう。天下にその名を轟かせた信玄だったが、胃がんと思われる病で急激に体調を崩し、まさにこれからというところで51年の生涯に幕を下ろす。 それが武田家にとってどれほどのことだったかは、信玄自らが「没後3年の間は秘匿せよ」と遺言を残したことからも想像がつく。事実、武田家は信玄の死後10年も経たず滅亡した。 信玄が病に斃れなければ、死の2年後に起きた長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗する結果とはならなかったかもしれない。長篠の戦いを率いた子の勝頼は、有名な織田の「三段銃陣」に対し正面突破する戦略で甚大な被害を受け、武田家滅亡のきっかけを作ったが、戦略家の信玄が健在だったら別の選択をした可能性は十分あるだろう。関連記事■ 武田家16代当主「『真田丸』は勝頼公自害の回だけ見てない」■ 信玄(甲斐)と謙信(越後)の2人の銅像が建つのは何県か?■ 『少女に何が起ったか』『101回目』他 あまちゃんの小ネタ■ ふるさと納税でモンテディオ山形社長に 選手に訓示もできる■ “美のカリスマ”武田久美子 美しすぎる43才の肢体を独占撮

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    黒鉄ヒロシが教えたいシベリアの孤児を救った日本の美徳

    れていて、行動しなかったことに対する恥、したことに対する恥、結果に対する恥――と、ここまでは真っ当な歴史を有する国なら文化として定着していよう。「真っ当な歴史」とは、その良し悪(あ)しや好悪の判断はさて措き、人類の発展の通過儀礼の如くに、封建制度の経験の有る無しに掛かるようである。 更に恥は細分化されて国柄の一翼を担う。 行動の結果、人救けとなって成功であった場合にも、日本ではその後の対処にも恥は付き纒(まと)う。「名乗る程の――」の禁を解いて、抜け抜けと書きつければ、善行の点に於いて、他国に比べ、我国の圧倒的な数の多さは何の所為(せい)に因を求めればよいか。 いざ、具体例に転じて検証せん。トルコが邦人救出してくれたワケトルコが邦人救出してくれたワケ 昭和六十年(一九八五)三月十七日、サダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛行する全ての国の航空機は三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する」と緊急宣言を発表する。 同時に、空港はイランからの脱出民で溢(あふ)れた。 当時のイラン在住の邦人数は二百十五名。 各国の航空機が優先的に自国民を搭乗させるのは、広い人道上はともかく、狭い人情としては理解できる。  ところが、イランへの日本の航空会社の乗り入れはない。 自衛隊による海外への航空機派遣は違法。 この非常事態に、二機の臨時便を日本人救出の為に用立ててくれた国はトルコであった。 このニュースを知った多くの日本人は、トルコ側の真意が理解出来なかった。恐らく功利的な考えが大勢を占めたのではなかったか。 ――日本政府がトルコに大金を払ったのだろう――。 日本人の多くは、凡(およ)そ百年前のエルトゥルル号の一件を知らなかったが、トルコ側は覚えていてくれた。  その一件とは、明治二十三年(一八九〇)九月十三日、トルコ軍艦エルトゥルル号が嵐の為に和歌山県串本村紀伊大島沖で座礁沈没。 大島の島民達は危険な地形をものともせず、身を呈してトルコ兵六十九名を救出、貧しい暮らし向きにも関らず食糧を提供すると共に介抱にこれ努めた。 更に明治政府は軍艦二隻を提供し、生存者達をトルコまで送り届けた。 医療費の支払いを申し出たトルコに対し、大島の医者達は遺族への見舞いに回すようにとこれを断った。 成した善行を誇らぬのも上質の人の道なら、成された恩を忘れぬのもまた上質の人の道である。 トルコ機による日本人救出劇で、日本人は久しく忘れていた二つの道を知った。 エルトゥルル号の一件は、百年を経過して広く日本人の知るところとなった。 今ひとつ、エルトゥルル号の影に隠れてしまったが、トルコの人々が日本に感じていた恩義があった。 日露戦争で日本が勝利したことで、トルコ侵略を含むロシア南下政策が止まったことである。 対露戦の日本の勝利は、後に述べるロシア支配下にあったポーランドにも、勇気を含む多大なる影響を及ぼしていた。 もし、日露戦争の日本の勝利なかりせば、トルコに対するロシアの侵略は実行され、その蹂躙(じゆうりん)の足跡の無惨は如何(いか)ばかりであったことか。 トルコもまた、ポーランド同様にその国を失った可能性は高い。日本人の多くが知らぬ先人の善行日本人の多くが知らぬ先人の善行 味方見苦し――にならぬように、贔屓(ひいき)の引き倒し――とそしられぬように、慎重の上にも慎重に構えてみても、日本人の他国民への善行の多さの理由が知りたい。 同時に、以下に並べる事柄の多くも、つい最近までは日本人の多くは知らなかったという不思議。「美しいか、美しくないか」 ダンディズムの定義には詳しくないが、この判断こそ「武士(もののふ)の心」が完成までの過程で揉(も)みに揉まれ、血で血を洗い、その血文字をもって記したヒトの生き方の奥儀であったのだ。 尊敬の念を抱きつつ、杉原千畝(ちうね)の功績に想いを馳せる時、前段のあったことに思い至る。 杉原が、かの「命のビザ」を発給した頃を遡(さかのぼ)ること二年余、日本政府は「迫害ユダヤ人を排斥せず、平等に扱う」ことを国是としていたのだ。 この原型となる理念が世界の舞台で示されるのが、第一次世界大戦後の大正八年(一九一九)、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いてであった。「人種差別撤廃提案」である。 国際会議に於いて「人種差別問題」を俎上(そじよう)にのぼせたのは世界史上日本が初の国である。 提案の顛末(てんまつ)は、議長を務めた当時のアメリカ大統領ウィルソンによって、「全会一致ではない為、提案は不成立」なる苦し紛れの言い逃れにより不採択になったことはご承知のとおり。 イギリスのアーサー・バルフォア外相の如きは「ある特定の国に於いて、人々の平等というものはあり得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と言い放っている。 余談になるが、このバルフォア、第一次世界大戦中にユダヤ人の経済的支援を取り付ける為に、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに、ユダヤ人の「民族的郷土(ナシヨナルホーム)」建設を支持する〝バルフォア宣言〟を発した人物である。 比較するに、古来日本の国柄は人類皆平等であり、有言だけでなく実行もされた。 昭和十二年、関東軍によるユダヤ人擁護に対するドイツの抗議を突っぱねたのは、当時中将で関東軍参謀長の東條英機であった。 翌十三年、ソ満国境に於いて大量のユダヤ難民を関東軍と満鉄が救援した際にもドイツの抗議があったが、東條は毅然としてこれも撥(は)ねつけ、日本政府は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」として明文化し、「我国は他国民を差別せず」を国家的性格とした。 これを背骨(バツクボーン)としての、杉原の「命のビザ」は為ったのだ。 英国のバルフォア外相の主張など、今となっては信じられないが、当時のアングロサクソン、総じての白人の意見の大勢を占めていたと思われる。杉原千畝とシンドラーは〝別物〟杉原千畝とシンドラーは〝別物〟 時代と都合によって変化する正義、不正義の定義など頼り無いものであるが、普遍的な行動を測る物差しはある。 美しいか、美しくないか。 物差しは、「平時」と「非常時」の二種の目盛りについても迫る。「国を想う」道にも美しさはあろうが、「人を想う」に比べれば、その面積は当然に狭くなる。 美しい人々の棲む、美しい国の、美しい国益――という文字の並びは、一見すると結構のようではあるが、「人々」の持つ様々な感懐を一纒めに括らざるを得ない乱暴さが潜んでいる。 杉原は〈武士の心〉を頼りとして決断した。 外務省やソ連からの退去命令を無視しながら、杉原はビザ発給を続行する。 杉原の勇気によって命を救われた六千人は三世代を経て、三万二千人を数えた。 人道主義が国益に重なるのは、美しい行いに牽引された時に限る。 カウナス駅でベルリン行きの列車に乗り込んでからも窓から身を乗り出して発車間際まで杉原は許可証を書き続ける。 やがて列車が動き始めた時、ホームに残ったユダヤの人々に頭を垂れて次のように言う。「許して下さい、皆さんのご無事を祈っています」 武人が祈るとは泣くことであり、許せとは死ぬことである。 涙の理由を識(し)るからこそ、日本人による善行の数は後が絶えず、度重なる災害を前にしても強いのだ。 ヨーロッパ人も奇天烈で、杉原をして〈東洋のシンドラー〉とは、何を云うか。 日本人の美徳として、他者の勘違いをことさらに言い募りたくはないが、杉原は救けたユダヤ人を後に訪問し、何がしかの援助を受けたことなど断じてない。 如何なるセンスで〈東洋の――〉或いは〈日本の――〉なんぞとスケールを小さくし優位性を保とうとするか。 白人名物、有色人種差別の遺伝子が衣の下から覗くヨロイのように転び出もしたか。 いや、つい感情的になり、日本人として恥ずかしや、平に謝す、許されよ。怨を慈悲に―三十八度線のマリア怨を慈悲に―三十八度線のマリア 平伏した眼を、そのまま朝鮮半島に転じよう。 昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争勃発。 ソウルに攻め入った北朝鮮軍兵士が乳飲み児を抱いた韓国人女性を射殺。投げ出されて泣き続ける以外に 術なき赤児を、救い上げる女性の両の手があった。 手の主は、日本人女性望月カズ、二十三歳。 東京杉並は高円寺の生まれ。父の他界後、母に従い四歳で満洲に渡る。  満洲での母の商いは軌道に乗るが、二年後の母の病死を境にカズの境遇は急変する。 売られた先の家で、カズは日本語を使うことを禁じられたというから、無論その農民は日本人ではない。 売った使用人もまた日本人ではなかろう。 ようやく関東軍に救い出されたカズは、身柄を預かった軍隊内に於いて読み書きその他を教育されたのち独立。 終戦後、一旦は日本に戻るが、そこには親戚も知人の一人も居ず、まるでカズの心地は浦島太郎。 恋しさ募り、他に当て無しのカズは母の墓地を目指すも、既に満洲は政情不安で踏み入る能(あた)わず、朝鮮半島はソウル、かつての京城(けいじよう)に足留め。 そこで先の話へと繋がる。 赤児を抱いて、カズはソウルを逃れて釜山(プサン)に向かうが、途中、瀕死の幼い姉弟二人も救っている。 見ゆるカタチは母子四人連れだが、血の繋がりどころか、縁もゆかりもない。 釜山に辿(たど)り着いたカズはバラックを建て、埠頭で荷下ろしなど手伝い、その日銭で三人を養う。 自分を売り飛ばし、こき使った他民族を恨みもせず、カズが育てた韓国人孤児は百三十三人を数えた。 やがてカズの存在は韓国人社会にも知られるところとなり、孤児達を育て始めた朝鮮動乱にちなみ、「三十八度線のマリア」と呼ばれるようになる。 昭和四十年(一九六五)六月、日韓条約が締結され、両国の国交回復。 六年後、韓国政府は長年の功績を称え、カズを「国民勲章・冬柏章(トンペクチヤン)」に叙した。 韓国側の贈呈者は、当時の大統領、朴(パク)正煕(チヨンヒ)。娘の槿惠(クネ)さんも、未だ疑問符の付く話に拘(こだ)わり続けるより、父君と三十八度線のマリアを偲ぶ方が余程に精神衛生には良いと思うが。戦場で敵兵救助した帝国海軍戦場で敵兵救助した帝国海軍 屈託は半島に残し、次なる〈雷〉と〈電〉を中心とする奇跡の検証の為に昭和十七年(一九四二)二月二十七日から三月一日のスマトラ島とジャワ島の間、スンダ海峡へと飛ぶ。 発端を、マレー沖海戦の日本軍航空部隊の雷撃によって、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の水兵達が次々に海中に飛び込んだところに据えよう。 海原に浮かぶ英水兵を日本機は狙い撃ちすることなく、その上空を旋回。 英駆逐艦が海上の生存者を救出し、シンガポールへと退却するを確認しただけで、一発の機銃も撃たず見送っている。 この時、海上に漂っていた英海軍大尉、グレム・アレンは上空の日本機を見上げながら確信する。「日本軍は、一旦戦さ終われば敵味方勝者敗者の別なく、互いの健闘を讃えるのみで、過剰な追撃は加えない――」 場面を、マレー沖からスラバヤ沖へと転じる。 先に〈雷〉と〈電〉の奇跡と書き始めたが、もちろんあの力士ではなく、第三艦隊所属の駆逐艦〈雷(いかずち)〉と〈電(いなずま)〉のことである。 両艦製造の為の鉄は、善行の多さの秘密を解く鍵を溶かして用いたのではないかと思う程である。 さて、〈電〉の酸素魚雷によって傾斜した英重巡「エクセター」に向かい、艦長竹内一は総員を甲板に整列させ、「沈みゆく敵艦に対し敬礼」と令しながら、今まさに海上に展開する奇妙な光景を見た。 飛び込んだ英水兵達が〈電〉めがけて泳ぎ来(きた)るではないか。 先に「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗っていたグレム・アレンは、今は士官として〈エクセター〉に配属されていたのだ。 アレンは退艦するに際して水兵達に告げていた。「飛び込んだあとは、日本艦艇に向かって泳げ。必ずや救助してくれる」 日本海軍の敵兵救出はこの二例に留(とどま)らない。 昭和十七年時の日本海軍の快進撃は驚異的だが、以下に続けるも世界戦史の奇跡の一頁であって、連戦連勝から生じた余裕などというものではけしてなく、特質を越えた日本人の体質であった。 海戦史上にも異例と思える程の長期に亙(わた)ったスラバヤ沖海戦では同様の景色が随所に見られたのだ。 漂流する敵兵に対し、「全員救助」と下令したのは重巡洋艦「羽黒」の森友一大佐で、敵旗艦「デ・ロイヤル」の生存者二十名救出に始まる。〈雷電〉の〈雷〉の方も、日本人乗組員は黙して一人として語る者は無かったが、元海軍中尉、サミュエル・フォール卿なる英国人が自伝を著(あらわ)したことから世に知られることとなった。 自伝をものした敵国のフォール卿をして「ありえないことだ」と言わしめたこととは。 フォール中尉が乗る英駆逐艦「エンカウンター」はスンダ海峡に於いて〈雷〉によって撃沈された。 真夜中の海へと投げ出された〈エンカウンター〉の乗組員達の運命は絶望的である。 フォール卿の記した「ありえないこと」が起きる。 撃沈した〈雷〉工藤俊作艦長は救難中を示す国際信号旗をマストに掲げさせたのち、海上の「敵兵救出」を命じる。 救助された英兵、実に四百二十二名。 工藤艦長以下〈雷〉乗組員は命を救(たす)けたばかりか、重油まみれの英兵の身体を貴重な真水で洗い流し、アルコール消毒した上で、南国の強い日差しを遮(さえぎ)る為の天幕まで張り、衣服、靴も支給し、牛乳、ビスケット、ビールなども供した。 英兵にとっては全てが意外で、感動に頬を涙で濡らしながらも深意を計りかねた。 奇跡と呼ぶには余りに多く、今やスラバヤ沖海戦の至るところでそれは起きた。 駆逐艦〈江風(かわかぜ)〉は蘭軽巡洋艦〈ジャワ〉の生存者三十七名救助。駆逐艦〈山風〉が〈エクセター〉の生存者の一部の六十七名救助。〈雷〉が英大尉グレム・アレンを含む〈エクセター〉の残りの生存者三百七十六名救助。「神宿る」といわれた、あの「幸運艦」、駆逐艦〈雪風〉も蘭軽巡〈デ・ロイテル〉の約二十名救助。 バタビア沖でも米重巡〈ヒューストン〉乗組員三百六十八名救助。豪軽巡〈パース〉の三百二十九名救助。 一部とはいえ、戦争を美しいとは無神経な物云いと承知はするものの、言語に頼る以上、この景色に想いを馳せれば、他の表現は思い浮かばない。 美しさには、戦さでの劣敗や、救けた救けられたのプライドも関係がない。シベリアのポーランド孤児救援シベリアのポーランド孤児救援 善行にも優劣などあろう筈もないが、日本人が他国民に為した中から、まとめとしてシベリアのポーランド孤児七百六十五人救出の事例を選ぶ。 選ぶことが出来る程に数多きことに、我々は日本という国と文化に感謝と誇りを持つべきだろう。 事例に踏み込む前に、先のエルトゥルル号のトルコ同様、多くの日本人のポーランドに対する知識は心許(こころもと)無いのではないか。 出身者として、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人などが思い浮かぶなら上等だろう。 人名以外に、長く消滅していた国、カティンの森の悲劇などが加わると、にわかに不吉な気配が立ち籠めて、シベリアのポーランド孤児を包み込む。 不吉な気配に眼を凝らせば、先のピアノの詩人と呼ばれたショパン(一八一〇~四九)も、亡命後定住したパリで亡命ポーランド人を中心とした貴族社交界の寵児であったことを思い出すし、キュリー夫人(一八六七~一九三四)が生まれたのも帝政ロシアに併合されて既に国は国家の体を成していない時代であった。 地の利に恵まれたとはよくいうが、ポーランドを中心にまわりの国に眼をやると、地の損というか、全くに心安らかになる余地のない位置にあることが判る。 三方からポーランドを囲むのは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアの三強国。 元より白人の身勝手な思い込みに過ぎないが、弱肉強食の論理が領土にも及んで、拡大と縮小の繰り返しが常なる時代。 囲む三国の勢力争いにまき込まれたポーランドは、一七七二年、一七九三年、一七九五年と分割は続き、遂には国家自体が消滅するに至るのである。 その後、ウィーン条約によって独立は果たすものの、君主はロシア皇帝が兼任するという上辺(うわべ)だけのもので、実情はロシア語教育やロシア正教会への帰順と、強制的なロシア化を迫られ、十一月蜂起(一八三〇―三一)や一月蜂起(一八六三―六四)など、何度も立ち上がった自由の為の抵抗は全て鎮圧される。 蜂起は更なる不幸をポーランドに強いることとなる。侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に ロシアは叛乱(はんらん)に加担した政治犯や危険分子をポーランドから一掃し円滑な統治を図るが、目的の地に選ばれたのが極寒の地、シベリア。 寒過ぎるのか、ウオッカの飲み過ぎか、権力を持ったロシア人の考える事はいつも同じで、危険の排除と土地財産の没収、そして未開の地での強制労働による開発の一石三鳥を目論むことになっている。 第一次世界大戦までにシベリアに流刑にされたポーランド人は五万人余りに上った。 更にその第一次世界大戦で、祖国ポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、追い立てられた流民がシベリアへと流入。 結果、シベリアのポーランド人は十五万人から二十万人に達した。 そんな折、ロシアの権力者が変わる。 一九一七年に勃発したロシア革命である。 権力を掌握したウラジーミル・レーニンは国家体制を帝政から社会主義共和国連邦へと極端な転換を図るが、その際、西欧諸国からのロシア皇帝借金は新政府とは関係ないから返済せずと宣告。 熊の毛皮の帽子を被っても寒さに脳が凍っているのか、突如としてロシア人はイワンのバカになる。 英、仏、米の莫大な借金を踏み倒すと、吐く息とともに高らかに吠えたのだ。 巨額な貸付金の返済拒否は自国の経済破綻に跳ね返る。 更に二年後にはコミンテルンを結成し、共産主義革命の思想を世界に伝染させ始める。 借金は踏み倒すワ、他国の体制の転覆は図るワ、もはや看過(かんか)出来ず、英仏が立ち上がった。 ここにシベリア出兵が実現する。 日本はどうであったか。 英国などから再三に亙って出兵の催促あるも日本議会は強硬な反対派が占めて動かない。 理由はひとつ、大義が無い。 未だ当時の政治家には武士の名残を見る。 日本はロシアへの貸付金こそないものの、革命の影響が満洲や朝鮮半島に及ぶ危惧(きぐ)はあった。 遅れて米国が派兵を決定するに合わせて、大義を見つけた日本も大正七年(一九一八)八月、シベリアへの陸軍派遣に踏み切った。 ポーランド人はどうであったか。 ただでさえ流刑人としての厳しいシベリアでの暮らし向きでの帝政崩壊、加えての共産主義への急激な変更、これら変化に伴う内乱、更に他国の出兵による混乱。 これらの皺寄せが一気に最も弱い立場にあったシベリアのポーランド人の身に襲いかかった。孤児への欧米の薄情、日本の厚情孤児への欧米の薄情、日本の厚情 全ての救いから見放された彼等は、食料もなく、医薬品もなく、暴徒より身を守る術もなく、次の四つ、虐殺、病死、凍死、餓死の中から選ぶ他ない生き地獄へと追い詰められた。 一九一九年、同胞の惨状を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人達によって、ようやく「ポーランド救済委員会」が発足。 しかし、シベリアに出兵している英仏米伊に対する委員会からの窮状救済の懇願はことごとく不調。 各国の、この薄情振りは今日の難民問題処理に重なる。 最後に頼られた日本は、多大なる労力と巨額の費用もものかは、わずか十七日間で救済を決定する。 当時の日本人のフットワークの軽さ、すなわち決断の早さは、武士道に支えられた日頃からの覚悟が背骨にあるように思う。 陸軍の支援のもと、救済活動の根幹を成したのは日本赤十字社で、大正九年(一九二〇)の三百七十五名が東京へ、同十一年の三百九十名の二度に亙るポーランド孤児救出は成った。 孤児達の体調は当然に良好ではなく栄養失調の上に伝染病に冒(おか)され、看護する日本側にも死亡者を出している。 覚悟は途中での自己犠牲も伴うが、日本人は朝野をあげて善意を発揮する。 東京に於いても、大阪に於いても、日本全土からの慰問品や見舞金はひきも切らず、孤児達の為の慰安会も頻繁に催された。 ヒトとしての逆境の限界と云えるシベリアに生まれ落ちて以来、初めて触れる人の温かさに孤児達は精神と体調を回復し、ポーランドへの帰国となる。 言語や習俗習慣が違っても、ヒトとしての善なるものが分母にありさえすれば幼児であっても、意は通じる。 親味に世話してくれた日本人看護婦や保母達との別れを悲しみ、泣いて乗船を拒む孤児も多かったという。 孤児達の心境にはもちろん、看護に当った日本側にも、善意を寄せた当時の全国の日本人にも、今は蒸発しかけたと感じるヒトとしての格を見る。 成したる方、成されたる方を並記すれば、避けたかった〈味方見苦し〉の気配が首を擡(もた)げてしまう。 シベリアから日本を経て、祖国ポーランドへと帰った元孤児の方々も、寿命を迎えて全て亡くなった今、善意の墓標と墓守としての語部(かたりべ)だけが残された。もののふの覚悟の先のDNAもののふの覚悟の先のDNA 数が他国を圧倒するとしても、もちろん善行は日本人の専売などではなく、世界中の歴史に記録され語り継がれているが、ほとんどが平時に多いように感じる。 善行のエッセンスを儒学に探せば、孔子の説く「恕(じよ)」(我事として他人を思いやる)と、孟子の「四端説(したんせつ)」に行き着く。 孟子は、人には先天的に「惻隠(そくいん)(あわれむ心)」「羞悪(しゆうお)(恥じる心)」「辞譲(じじよう)(譲り合う心)」「是非(善悪を判断する心)」の四つの感情が内在すると説く。 孟子の、「惻隠の心は仁の端(たん)なり」の「心」の部分は、『大学』に於いては、「惻隠之情(じよう)」となり、「絜矩(けつく)の道(他人の心を推し量り、相手の好むことをしてやる心情、態度)」と、孔子同様の「恕」の思想を載せる。平時に於いてはこれで結構だろうが、ここに引いた例は、更なる厳しい状況下に於ける判断が求められたのではなかろうか。「義を見てせざるは勇無きなり」は、これまた「論語」であるが、不足の分のエネルギーを日本人は〈武士道〉の覚悟で埋めた。 孟子の、「人の性は本来善なり」と説く「性善説」が正しければ、今少し世界に於ける善行は各人種に散らばっても良さそうではないか。 孔子と孟子に対し浅慮で舌足らずであった。 両先生は、人の素質、素材に就いて云うのである。 玉磨かざれば光なし。 人なる玉の原石を、日本人は〈武士道〉によって磨いた。 トルコの人々も、ユダヤの人々も、ポーランドの人々も、磨いた心を持っての返礼があった。〈武士道〉で押し通す愚説に面喰らった御人もおられようから、他の要素も加えて不足を埋めて、この駄文を閉じようと思う。 不足といっても、遠い先祖に辿り着くような遺伝子にまで至ってはどうかとは思うが、戦さには強かったが、その明け暮れに嫌気(いやけ)がさした一団が日本列島に逃れて土着したとする説がある。 日頃は極めて平和的でありながら、一旦ことあらば負けると判っている戦さでも、素早く覚悟を整えた上で突撃する性癖(せいへき)のような特性は古代より続いている。 土着の逆に、漂流民となっても、ジョン万次郎、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)、大黒屋光太夫(こうだゆう)など、卓越した学習能力を発揮した確率は異様に高い。 異様な程の優秀性が先の説を支える。 土着したのち、万世一系の天皇制の元、列島に住む者が入れ子状の家族の〝カタチ〟となった。 時代は下って、その生活の窮乏著しい戦国に於いても天皇家が存続し、けして消滅しなかった、或いは消滅させられなかった奇跡のような理由も説明が付く。 日本人の本家と云える天皇家を、分家である武士が滅ぼすなど、考えようも無い訳である。 この、王族を取り捲く関係の質に於いても、対処に於いても、他民族には例を見ない不思議。 宗教面にも顕著に証拠を残している。 神道(しんとう)と仏教の関係、更にキリスト教が加わっても〈八百万(やおよろず)の神〉とタフに構え、一緒に祀(まつ)り続けた。 これまた他民族には例のない不思議。 次に、今日では日本人までが誤解しているようだが、この列島に人種的差別など無かった。 白色と有色の差を問わず、尊敬の念を持って歓迎した。 白色が有色と差別するを見ても、「ならばお主は無色か?」とは言い返さず、近年での「名誉白人」なる無礼な呼称も腹も立てなかったのは、拘る意識すら無いからである。 これらの素質を分母に、覚悟の点を〈武士道〉で磨きに磨いて、典型的な〈日本人像〉が成った。「奇跡」を護って進まん「奇跡」を護って進まん「八絋一宇(はつこういちう)」の意味についても、GHQ(連合国軍総司令部)による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=戦争に対する罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)」が功を奏してか、日本人まで「侵略戦争を正当化した言葉」と思い込んでいるようだ。 そも、神武天皇の言葉で、「八絋(あらゆる方角=世界)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん」の謂(いい)であり、大東亜戦争時の日独同盟の際、ユダヤ人迫害政策を迫るドイツに対し、時の陸軍大臣、板垣征四郎が「神武天皇の御言葉に反する」と、これを退けている。 日本の国是として先に述べた「猶太人対策要綱」があり、杉原の功績がそれに続いた。 この要綱は、関東軍の安江仙弘(のりひろ)大佐らのユダヤ人擁護を東條英機参謀長が是認して軍の要領としたことが原動力とも言え、ソ満国境のユダヤ難民救援を経て、板垣征四郎が中心となり国策になったものである。 これら、日本人の決断と行動を善とするなら、当時の西洋諸国の思考は悪となる。 東條、板垣、安江、そしてユダヤ人に救いを差しのべた外国人として『ゴールデン・ブック』にその名を載せる〝ジェネラル・ヒグチ〟コト樋口季一郎もいる。〈ユダヤ人救援〉を支えた軍人の名と、その世界唯一の善なる国策は小さくされ、或いは消そうとされ、杉原一人の個人的善行に矮小化せんとの企てあるやに感じるは何故か、何の所為か。 特に、この世界唯一といえる善なる国策から東條英機の名を引き剥がさんとする衝動の源は何処(いずこ)で、何人(なんぴと)の都合に因るものか。 日本がユダヤ人を救っている時、無慈悲にその扉を閉じたアメリカ、イギリス、西洋諸国は、今、何を思うか。 これらの国が日本に歩調を合わせ、ユダヤ難民を受け入れてさえいれば、後のナチスによる数百万人のユダヤ人虐殺は避けられたのではなかったか。紙幅の関係上、名前を挙げるに留めるが、総領事代理、根井三郎、ユダヤ研究者、小辻節三など、「人種平等の思想」を背骨に、西洋の差別主義と闘った日本人は多い。 かくも差別なき国の存在は、珍しかろう。 末尾に慌しく、その特性を並べたが、手前味噌ではなく、如何に日本人が不思議で、特異な存在であるかはご理解戴けると思う。 云わば、人類の理想型といえる。 他国もまた、理想に到達してくれていれば、善意の応酬によってこの世界から貧、愚、悪などは姿を消す筈なのに未だ果たせないのは何故か。 グローバリズムの未来は新たな軋轢を生み、価値観の再構築の為の大混乱が待ち受けるというに、ヒトは止めようとしない。 他国頼みは無理であり、無駄である。 日本人による「天皇制」と「武士道」の獲得は人類史の奇跡と云える。 先輩達から受け継いだ、この奇跡を回復し、維持し、釈迦の申す犀(さい)の角の如く、一人進むの他はない。くろがね・ひろし 昭和二十年高知県生まれ。三十九年武蔵野美術大学中退。四十三年『山賊の唄が聞こえる』で漫画家デビュー。平成九年『新選組』(PHP研究所)で第四十三回文藝春秋漫画賞、十年『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門の大賞、十四年『赤兵衛』で第四十七回小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。ギャンブル好きで競馬ファンとしても知られるが、政治や国際関係の見識は高く、民主党政権「失われた三年間」のデタラメ政治を痛烈に批判。中韓露の反日プロパガンダに対しても事実を挙げながら、漫画家らしい皮肉たっぷりの反論を展開している。著書に『千思万考』シリーズ、『GOLFという病に効く薬はない』(ともに幻冬舎)、『韓中衰栄と武士道』(角川学芸出版)、『新・信長記』『本能寺の変の変』(ともにPHP研究所)。近著に『刀譚剣記』(同)。

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    敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ

    ター主任研究員)古今随一の陸の名将 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。正装した乃木希典 国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。花も実もある真の武人花も実もある真の武人―水師営の会見― 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。(上)明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍(下)会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と (『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11) このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」 ステッセルは愕然として言った。「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。敵将の不遇知り救済の手尽くす敵将の不遇知り救済の手尽くす ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。第三軍招魂祭で弔文を読み上げる乃木希典 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや 乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る 乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。 乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば二人の息子とともに戦死したかった。戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。 明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』) 東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当時市民の間で交わされた言葉がある。「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」 このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。 ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。 明治天皇の目にも涙があふれた。奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。 あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、朕世を去りたる後にせよ」 乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。 このような軍将が世界のどこにいるだろうか。かつて戦いの歴史にあったろうか。明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、格段の心配りをしてやまなかった。学習院長―教えのおやとして 学習院長―教えのおやとして   明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命した。経緯はこうだ。前年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝した。大山巖に代わり就任早々であったが、日露戦争において心身を燃焼し尽くしたのである。児玉は文武の全才として桂太郎(日露戦争時の首相)の後を継ぐべき最適の首相候補と目された。乃木は長州人として児玉と親交を重ねた間柄だから葬儀委員長を務めた。 陸軍の大御所山県有朋は後任に乃木を推挙し内奏したが、天皇は「乃木については朕の所存もある。参謀総長は他の者を以て補任せよ」と答えた。人物、才幹そして日露戦争の大功よりして誰一人異存のあろうはずのない推挙であった。山県はこれほど天皇の信任厚い乃木をなぜ任用しないのかいぶかしく思った。結局第二軍司令官を務めた奥保鞏(やすかた)が任命された。 しばらくして山県が拝謁すると、天皇は機嫌ことに麗しくこう伝えた。「乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。朕の三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした」 後に山県は「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」と語っている。当時参謀総長は帝国陸軍の最高の要職であり、これまで山県有朋、大山巖、川上操六、児玉源太郎等の最有力者が担当した。その参謀総長よりも、将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのである。(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』) 明治天皇は乃木を伊藤博文、山県有朋ら元老に次ぐ国家の柱石として絶大の信頼を置いた。天皇は乃木に御製を授けた。いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ「おほしたてなむ」は「生ほし立てなむ=立派に育てよう」、「やまとなでしこ」は現在のように女子を指すのではなく、「撫子=かわいい子ら」で「皇孫はじめ日本を背負いたつべき子供たち」の意。 そうしてこう言った。「乃木も二人の息子を亡くして寂しかろうから、代りにたくさんの子供を預けよう」 乃木は当初、あまりの重責に「武人たる自分はとてもその任にあらず」と固辞しようとしたが、この言葉に込められた厚い配慮に感泣し、拝命した。この時次の歌を詠んだ。身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくひざらめや「すべらぎ」は「すめらぎ」と同じく天皇のこと。「よし疲るとも」は「もし疲れ果てようとも」の意。 時に五十九歳。立場こそ異なっても乃木は戦場にある時と同様に尽力、迪宮の教育に渾身の努力を捧げた。これに対して迪宮は何事につけ「院長閣下は…」「院長閣下が…」と乃木を慕い、乃木の教えを実践したという。 昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。廃兵へのいつくしみ廃兵へのいつくしみ 東京の巣鴨にある廃兵院に最も足繁く通う将帥(しようすい)が乃木であった。ここには日露戦争で負傷し不具となった兵士約五十人が暮らした。そのうち十五人が旅順戦の部下だったから、乃木は深い同情と責任を感じていた。毎月一、二度訪れ、各部屋を一人一人慰問して回り、菓子や果物などの手土産を絶やさなかった。時折、天皇からの御下賜品があると真先に分け渡した。 廃兵たちは時をおかずやって来る乃木の厚い情に感泣し、来院を何より喜んだ。乃木が殉死を遂げた時、彼らは慈父を失ったかのように泣き悲しんだ。葬儀への会葬も強く希望した。そこで廃兵院は歩ける者は葬列に加え、不自由ながら外出可能な者は葬列より先に式場に着かせた。葬儀後、一般の国民とともに墓参りする廃兵が後を絶たなかった。ただ一言の〝講演〟 戦後のある年、乃木は長野へ出かけた。私用だったので静かに行き帰りするつもりでいたが、そうはいかず「乃木大将がやって来た」とあちこちで声が上がり、長野師範学校に招かれた。学校では絶好の機会として全生徒を講堂に集めた。校長は乃木を紹介、その勲功を称えた後、講演を乞い登壇を促した。 ところがいかに進められても乃木は演壇に上がろうとはせず講演を辞退した。だが校長はあきらめず「少しでも」と懇願したのは無理もない。やむなく乃木はその場で立ち上がると「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言って頭を垂れ、やがて双頬(そうきよう)に涙を流し、ついにハンカチで拭いながら嗚咽した。これを見た満堂の生徒と教師もみな泣いた。 長野県出身の兵士はみな第三軍に属し、旅順と奉天で数多く戦死している。生徒たちは彼らの弟である者が少なくなかった。その尊い英霊たちの弟に向い、乃木は高い演壇に立って言うべき何ものもなかったのである。日露戦争の最大貢献者、国民的英雄の話を聞けると瞳をこらして待つ純真な生徒を前にして、乃木は万感胸に迫り、この言葉を発したのである。この「たった一言の講演」はその後この地で、感動をもって長く言い伝えられた。街角の孝行少年へのいたわり街角の孝行少年へのいたわり 靖國神社近くの街角で夜ごと辻(つじ)占(うら)売りする十一、二歳の少年がいた。辻占とは占いのみくじ。父は旅順で戦死し、母は長患いで寝たままの生活で、少年は朝は新聞配達、昼は小学校、夕方から辻占売りをして母の面倒を見る評判の孝行息子であった。 陸軍記念日の三月十日夕、人力車で通りかかった乃木は、車夫に少年のこと聞いた。用事を済ませて乃木が少年の長屋を訪ねると、ちょうど借金取りが大声で催促している最中。泣くがごとく猶予を訴える母子を目の当たりにして、代わりに借金を払い帳消しにした。涙を流し畳に額を擦り付けて礼を述べる母子に「礼には及ばん。松(しよう)樹(じゆ)山(ざん)に名誉の戦死をなされたあなたの夫は私の部下だった。夫を殺したのはこの乃木だと、さぞ恨んだことだろう」と打ち明け、「仏前に」と二十円、「孝行するんだよ」と少年に五円を渡した―。乃木神社の旧乃木邸にある「乃木大将と辻占売り少年像」 これは、乃木の逸話の一つとして一世を風靡した講談「乃木将軍と孝行辻占売り」。美談として脚色された部分もあるが、実際にあった。 乃木が少将だった日清戦争前の明治二十四年、所用で金沢を訪れ、街角で辻占売りをする八歳の今越清三郎少年に出会った。夜も働いて家族を支える姿に心動かされた乃木は持ち合わせた二円を渡して励ました。今越少年は乃木の激励を心に刻み、金箔師として精進し、滋賀県無形文化財に指定された。昭和四十九年に九十一歳で亡くなるまで、その恩を各地で語り伝えていた。 乃木は学習院長になっても、陸軍大将と軍事参議官を兼ねていたから多額の俸給があったが、その大半を戦歿者遺族への弔慰、遺族・旧部下の困窮者への支援、傷病者への医薬費、廃兵の慰問、その他公共事業への寄付等に使った。殉死―みあとしたいて殉死―みあとしたいて 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。大正元年九月十三日、大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳である。辞世は次の二首である。(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)                           臣希典上(たてまつる)神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる                                 臣希典上うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり 割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言葉を守ったのである。 凱旋後、乃木は機会あるごとに戦死者の墓を詣でその冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べた。「畢竟(ひつきよう)あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」 乃木は遺言状で、切腹自決の理由として、明治十年の西南の役における軍旗喪失(連隊旗を敵に奪われたこと)のみを記し、これには触れなかった。そこには配慮があった。 戦争で戦死者が出ることは不可避で、勝利したにもかかわらず多数の死者を出したことを自己の責任として自決せねばならぬとすれば、上級指揮官はみなそうせねばならぬことになるからである。それはあくまで乃木個人の道義的な責任観念によるものであった。 だがこの自決は乃木にとり決して悲しい最期ではなかった。何より辞世に乃木の心底が包むところなく吐露されている。いかなる臣下よりも深い恩寵を蒙(こうむ)ったこの世に神と仰ぐ明治天皇のみあとをはるかに拝(おろが)み、みあとを慕いゆくことは、乃木にとりこの上ない悦びに満ちた死出の旅にほかならなかったのである。このとき妻静子もともに殉死した。一世の哀悼―沿道を埋める人々一世の哀悼―沿道を埋める人々 九月十八日、乃木夫妻の葬儀が青山葬儀場で行われた。それは空前絶後の国民葬であった。同日、乃木夫妻を見送ろうと集った人々は東京開市以来といわれた。乃木邸より青山葬儀場までの沿道は数十万の人々で立錐の余地なく埋め尽くされた。各界各層、老若男女が集った。葬列には学習院の生徒と廃兵が加わった。乃木夫妻の柩が目前にくると人々は頭をたれ手を合わせた。ことに乃木の後に続く静子夫人の柩には涙を流し嗚咽した。葬列に加わったある軍人はこう伝えている。「青山斎場に至る間の両側は人垣を以て埋め、前方の数列は土下座して十重二十重に、群衆は無慮(およそ)二十万、まことに前代未聞の光景であった。やがて進み来る将軍の霊柩を拝した群衆は敬虔な態度を以て迎え、厳粛なる気持に粛として声なく、霊柩を見送る眼には稀代の忠臣とその遺体に対して最後の別れを致さんとする姿が反映しており、筆者の胸を打った最も尊き感激であった。乃木夫妻の葬列。立錐の余地もないほど沿道を埋めた人々の前を今、夫妻の霊柩が過ぎようとしている(『回顧乃木将軍』) しかるに次いで来れる夫人の柩、その間約三十歩、その柩を見た瞬間に群衆の態(たい)姿(し)は一変し、敬慕、愛惜、ことごとくが涙であった。合掌礼拝するもの、感極って嗚咽するもの、眼に涙を拭うもの、土下座せる老(ろう)媼(おう)(老婆)は地に顔を摺(す)りつけ慟(どう)哭(こく)する有様、沿道のすべてがそれであった。棺側にあってこの光景を見つつ筆者は一つ一つ胸に迫る衝動に、抑えんとして抑え兼ぬる涙が次から次へとこみあげてくる。ようやく堪えてこの場を通りすぎると、また新たなる同じ感激の場面に遭遇する。ついに我慢しきれず涙は頬に伝わって落ちてくる」 乃木と静子夫人の殉死に日本人がいかに魂を搖さぶられたかが、この記述からよくわかる。また、夫妻の殉死は英米はじめ各国主要紙にも大々的に報じられた。 乃木は近代日本を代表する国民的英雄であった。乃木は「自分の身体はひびが入っている」と言っていた。西南の役で明治天皇から賜った連隊旗を奪われるという過ちを犯した痛切な罪の自覚が、乃木希典という稀有なる人物を玉成させた。 そして「忠君愛国の至誠、献身犠牲の大(たい)節(せつ)を万古(ばんこ)不易(ふえき)(遠い昔より不変)の大信念に貫き、一死以て君国に殉ずるのが日本国体の精華」という一大信念を、身を以て実践した。 乃木希典こそ、東郷平八郎とともに日本人の誉れであり、世界に誇るべき日本人の一典型であった。おかだ・みきひこ 昭和二十一年北海道生まれ。國學院大学中退。在学中から日本の歴史上の人物の研究を続け、日本政策研究センター発行の月刊誌『明日への選択』に多くの人物伝を連載している。平成二十一、二十二年産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載。全国各地で行う人物講演は年間百数十回に上る。著書に『乃木希典―高貴なる明治』『東郷平八郎―近代日本を起こした明治の気概』『小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂』(いずれも展転社)、『日本を護った軍人の物語』(祥伝社)、『日本の誇り一〇三人』(光明思想社)、『二宮尊徳』『維新の先駆者』(日本政策研究センター)など。

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    邪馬台国は「99・9%」九州にあった

    畿内か九州か。古代史最大のミステリー「邪馬台国論争」。女王卑弥呼の墓とされる遺跡の発掘や、中国の歴史書に基づく文献研究などが進み、双方の説を裏付ける学説はいまだ後を絶たない。そこでiRONNA編集部では、あえて「99・9%九州説」の立場から論争に加わり、邪馬台国の謎に迫ってみた。

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    邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎

    た場合、天皇平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれて短くなる傾向が認められる。奈良時代以前の、在位が歴史的に確実な諸天皇について調べると、300年以上の期間、天皇一代の平均在位年数は、11年足らずで安定している。 天皇の一代平均在位年数が、11年足らずという数字をもとに、『古事記』『日本書紀』の伝えるすべての天皇が実在していると仮定し、神武天皇の5代前と伝えられる天照大御神の活躍年代を統計的に推定すれば、天照大御神の活躍年代と卑弥呼の活躍年代とがほぼ重なるのである。  図2の横軸には、天皇の代をとる。縦軸には天皇の没年または退位年をとる。実線で書かれているのは、確実な歴史的事実である。 歴史的な事実である実線部は、やや下に凸(下に向けて曲がる)的傾向を示している。これは、天皇の在位年数が、後代になるにつれ次第に長くなる傾向があるためである。 いま仮に「卑弥呼=天照大御神」とすると、横軸については天照大御神は第1代神武天皇の5代前、縦軸については西暦247~248年に没した人物(卑弥呼)ということで、図中のポイントAが定まる。 このポイントAが、実線の延長線上に極めて自然に乗っていることが読み取れる。ほとんど一目瞭然といってよいであろう。天照大御神のいた場所天照大御神のいた場所 「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。 『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。  いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。 その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。「平塚川添遺跡」の出現 『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。 九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。 筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。佐賀県の吉野ケ里町と神崎市にまたがって広がる「吉野ケ里遺跡」九州と大和の地名の一致九州と大和の地名の一致 地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」 「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。平野・遺跡・人口の分布平野・遺跡・人口の分布 地図2~地図4をご覧いただきたい。 地図2をみれば分かるように、筑後川流域は、九州最大の平野部である。また、地図3は茨城大学の及川昭文氏が『東アジアの古代文化』の60号に発表した論文「シミュレーションによる遺跡分布の推定」で示された資料である。及川氏は、弥生遺跡の発掘された場所の標高、傾斜度、傾斜方向、地形、地質土壌などを調べ、それと同等の性質をもつ場所が、九州においてどのように分布しているかを示している。それが地図3である。 さらに、地図4は国立民族学博物館の小山修三氏が欧文雑誌『Senri Ethnological Studies』(『千里民俗学研究』No.2、1978年刊)に載せられた論文「Jomon Subsistence and Population(縄文時代の暮しと人口)」のなかで示されているものである。小山氏は、青森から鹿児島までの各都道府県教育委員会発行の遺跡地図に収められている集落、食糧貯蔵穴、土器大量出土地などの生活跡のデータを、コンピューターに入れ、時代別に分類し、人口の推計を行っている。そのうちの弥生時代の九州の人口(遺跡)の分布図が地図4である。 以上の地図2~地図4をみれば、筑後川流域は、九州最大の平野部で、遺跡・人口のもっとも密集している地域である。朝倉市などはその地域のなかにある。箱式石棺の分布箱式石棺の分布 宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者、奥野正男氏は述べている。「いわゆる『倭国の大乱』の終結を、二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。つまり、この箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である」(『邪馬台国発掘』 PHP研究所、1989年刊) 「邪馬台国=畿内説」の考古学者、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)も述べる。「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する」(「墓と墓地」、『三世紀の遺跡と遺物』 学生社、1981年刊所収) このように、邪馬台国時代の九州での墓制は、甕棺の次の箱式石棺の時代であった。そのことは、邪馬台国「九州説」の学者も「畿内説」の学者も、ともに認めている。 最近、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博氏の大著『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社、2015年刊)が、刊行された。『箱式石棺』の本により、九州本島で、箱式石棺の出土数の多い「市と町」を示せば、図4のようになる。朝倉市がトップである。 また、箱式石棺の分布の様子を、地図上に示せば、地図5のようになる。箱式石棺は、朝倉市を中心として、分布しているようにみえる。 なお、『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について「棺あって、槨(かく)なし」と記す。箱式石棺であれば「棺あって、槨なし」に合致する。奈良県の纒向遺跡のなかのホケノ山古墳は木槨があり、『魏志倭人伝』の記事に合わない。ホケノ山古墳よりも、時代的に後とみられる箸墓古墳も、竪穴式石室(石槨)」の時代のものとみられ、『魏志倭人伝』記述の墓制の時代よりも、後のものとみられる。邪馬台国が、福岡県にあった確率 邪馬台国が、福岡県にあった確率 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。県ごとの確率は、表1のようになる。 これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」卑弥呼の墓卑弥呼の墓 私は卑弥呼の都、邪馬台国は、朝倉市を中心とする地域にあったと考える。ただ、卑弥呼の墓は、福岡県の糸島市の「平原王墓」であろうと考える。これと同じ考えは、すでに、医師の中尾七平氏が、その著『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1998年刊)で述べている。 また、考古学者の原田大六氏は、平原王墓を天照大御神の墓とする。同じく考古学者の奥野正男氏は、平原王墓を卑弥呼の墓とする。考古学者の高島忠平氏も、平原王墓は卑弥呼の墓である可能性があるとする。福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓(Wikimedia) 私が平原王墓を卑弥呼の墓であるとする根拠は、拙著『卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!?』(勉誠出版、2016年刊)のなかで、やや詳しく述べている。その要点をまとめれば、次のようになる。(1) 平原王墓出土の鏡は、主に方格規矩鏡と内行花文鏡で、これは邪馬台国時代の鏡とみるのにふさわしい。(2) 平原王墓出土の巨大内行花文鏡を、原田大六氏は日本神話にあらわれる「八咫の鏡(やたのかがみ)」とみて、その根拠を詳しく述べている。かなり説得的である。(3) 都の地と墓の地とが離れているケースは、古代においてはよくある。例えば、第12代景行天皇や第13代成務天皇はいずれも、滋賀県にあった「高穴穂の宮」で亡くなり、陵は奈良県にある。第15代応神天皇の都は奈良県にあり、陵は大阪府の古市古墳群にある。第35代の斉明天皇は、福岡県の「朝倉の宮」で亡くなり、陵は奈良県の高取町にある。(4) 「平原王墓」のある伊都国の地は『魏志倭人伝』によれば、女王国に統属している地であり、特に「一大率(一人の統率者)」を置いた地であった。(5) 「平原王墓」の出土品は、断然他を圧倒している。わが国では弥生時代~古墳時代を通じ、約5千面の青銅鏡が出土している。その5千面ほどの青銅鏡の面径の大きさのランキングのベストテンをとれば、次の表2のようになる。 ベストテンの半分の5面は「平原王墓」が占める。 また、一つの墓からの青銅鏡の副葬数のランキングのベストテンをとれば、次の表3のようになる。 古墳時代になって、あれだけ多数の前方後円墳が発掘されながら、それらを含めても、弥生時代の「平原王墓」が、鏡の多数副葬のランキングにおいて、なお、第2位を占めるのである。副葬されている鏡の質と量とにおいて、「平原王墓」を超える弥生時代の墳墓が今後出現する可能性は、まずないといってよい。(6) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について、「大いに塚をつくること径百余歩(約150メートル)」とある。この径百余歩は、すでに、考古学者の森浩一が指摘しているように「墓域(兆域)」と考えるべきである。たとえば、『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵寮」は、第15代応神天皇の陵の「兆域」を「東西五町(約545メートル)、南北五町」とする。応神天皇陵古墳の墳丘全長425メートルよりも、ずっと大きい。第38代天智天皇陵の「兆域」の「東西十四町、南北十四町」などは、一辺63.75メートルの墳丘の大きさを遥かに超える。(7) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき、徇葬(殉葬)の奴婢は百余人であった、と記されている。この奴婢の墓を求める見解がある。しかし奴婢の場合、死体を土にうずめるだけなので、墓は残らないと考えられる。 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)(4) 卑弥呼の墓はどこか。 これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる。

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    邪馬台国「九州説」に徹底反論! 卑弥呼は100%ヤマト女王だった

    遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代(5世紀)の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い3~4世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。 ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された4世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。 また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。 卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。

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    唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する

    れるより、中国の文献にしるされたそれの方がずっと古い。つまり私たちは「外国人が記した文章」によって「歴史以前の我が国の姿」を知るしか無いのだ。しかし、その「外国人が書いた文章の内容」がヤマタイ国の位置を解りづらくしてしまっている。大雑把に記すと— 「倭人が住んでいるのは東南の海の中(の土地)で、昔は100以上の国があり、漢の時代から貢ぎ物を持ってきていた。現在は30の国が使者をよこしている」 「倭国の北の方に位置する狗邪韓国から海へ出て千里余で対馬国に。千戸余があり、長官と副官が居る。→南に海を千里余で一大国。3千戸。海を千里余で末廬国。4千余戸。→陸路を東南に500里で伊都国。千戸余。長官と副官が居る。帯方郡の使者はここにはよく来る。→東南に百里で奴国。2万戸余。長官、副官が居る→東へ100里で不弥国。千戸余。長官、副官が居る。→南へ水路20日で投馬国。5万戸余。→南に水路10日陸路一カ月で、女王の居る邪馬台国。7万戸余」 以上が「女王ヒミコの居るヤマタイ国までの道のり」と記されている。しかし、行程の途中から記述に乱れが生じる。スタート地点から不弥国までの道のりは、陸路、水路ともに「距離」で記してあるのに、不弥国から先の道のりは「日数」で記してある。 つまり、途中までの道のりについては確認がとれているのだが、あるところから先は聞き書きではないか?と思えるのだ。南だの東だのという方角も「聞き書き」かも知れない。 記述に乱れがある文書を元に、日本人は「この行程で行くとヤマタイ国はここ」「このままだと海の彼方の大海に出てしまうから、南と東の書き間違い」「末廬国から先の国への行程は末廬国を基点とした放射状の行程表示ではないか」などと一生懸命辻褄をあわせて ヤマタイ国の位置をさぐろうと苦心する。 「ヤマタイ国がどこか?」を魏志倭人伝から読み解くのはそもそも無理がある。いわゆる「ヤマタイ国」「ヒミコ」といわれている国名や人名は、当時の中国人が耳で聞いた音を適当な文字で表記した「当て字」でしかない。 現代の日本人が耳で聞いた英語の音をカタカナで表記した場合、当然ながら発音は正確には表記しきれない。その「カタカナ英語」を英語圏の人に伝えて、彼らがそれをアルファベット表記に置き換えた場合、元の英語とはかなりかけ離れたものになるはずだ。 古代中国の魏の人が「卑弥呼」と記したもとの音は「ヒメ」「ヒメミコ」だったかもしれない。倭に点在する各国の長官や副官として記されている男性と思われる多くの名も、固有名詞ではなくて立場や身分を表す呼び名の可能性が高い。古代の日本はゆるやかな共同体 固有名詞はさておき「魏志倭人伝」に記された倭人の暮らしは興味深い。「男性は皆顔や身体に墨や朱で入れ墨をし、そのデザインは国により、また身分により違う」「人々は争いを好まず女は慎み深く嫉妬しない」「集会では男女の区別が無く、みな酒を好む」「温暖な気候で生野菜を食べる」「海に潜って魚や貝類をとる」「稲、苧麻、桑、蚕を育て、上質の絹織物をつくる」「喪に服す10日間は肉食を避け、泣き続ける。親族以外は酒を飲み歌い踊る。埋葬後は水に入って浄める」「真珠と青玉(サファイア)がとれる。山椒やみょうがもとれるが倭人はそれらが美味しい事を知らない」「長命の者が多く、百歳の人もいる」など。 なかなか住み良さそうな国、という感想を持つ。争いを好まず、集会で男女の区別が無く、長生きの人が多く、生野菜を食べるなど、平和で清潔な暮らしぶりがうかがえる。「女は嫉妬しない」に関しては疑問を抱くが、現代においても近隣の国々と比べて日本の女性の怒り方はおおむね大人しい。(男性も、だが)日本女性の嫉妬の表現は当時の中国人から見て「怒っていない」ように見えたので「嫉妬しない」と思われたのかも知れない。今も昔も「国民性」というものは変わらないのかも。佐賀県の吉野ケ里町と神崎市にまたがって広がる「吉野ケ里遺跡」  倭にはいくつかの国があり、女王ヒミコが統べるヤマタイ国に従っていた。それは確かな事だろう。女性がトップの立場につき、実務は男性が行う。男同士がプライドというやっかいなものをかけてトップの座を争うよりも、カリスマ性のある女性を頂点として、ゆるやかな連合体を作っている。それが平和の基本。ヤマタイ国の位置が九州であれ畿内であれ古代の日本人は平和的にゆるやかな共同体を維持していたのだ。 文字を持つ前から語り継がれた物語はある。どの民族もアイデンティティーの確立のためには「先祖たちの物語」は欠かせない。神話や伝説による「天孫降臨」「神武東征」などには、九州に大勢力があった事実が反映されているはずだ。「出雲神話」からは日本海側に大勢力があったことがよみとれる。出雲対大和の「国ゆずり神話」には、大和の大勢力が他を飲み込んでいった経過が反映されているのだろう。  神話、伝説の「それなりの時系列」のどの辺りの時代を魏の史書は取り上げているのか? わからない。わからないからヤマタイ国がどこか―についての興味はつきない。これという決定的な証拠が発見されない限り、これからも論争や考察は続くだろう。「どこにあった国なのか」も重要だが「どんな国だったのか」の方に私は興味がある。

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    「ミスター吉野ヶ里」は見た! 邪馬台国九州説の不利覆す環壕集落

    高島忠平(旭学園理事長) 「壕(ほり)がずーっと続くんです。1キロ以上続きそうなんです」 吉野ヶ里の発掘現場から、教育委員会にいた私の元に電話がかかってきた。現場の責任者である七田(しちだ)忠明さんの声は、興奮していた。昭和63年10月。私はすぐに、発掘中の吉野ヶ里の現場に駈け付けた。日本最大の環壕集落跡が見つかった吉野ヶ里遺跡 「この壕は、はるかむこうの壕に連続しています、1キロ以上になるかもしれません」。もう落ち着いたのだろうか。七田さんは電話とは打って変わって、いつも通り淡々とした口調で説明した。今度は私が興奮してきた。長大な壕跡は、吉野ヶ里丘陵の尾根を越えて、めぐっていそうである。「日本最大の環壕集落になるかもしれない」 七田さんもうなずく。「近畿の弥生の大集落跡と、これでやっと対等になれる」。抑えられてきた気持ちをひっくり返すような確信を持った。 奈良国立文化財研究所にいた10年間、近畿各地の弥生時代の遺跡や発掘現場を見て、調査に参加した。奈良県唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡、大阪府の池上・曽根遺跡や四つ池遺跡などなど。どの集落跡も巨大だった。唐古・鍵遺跡は30ヘクタール、池上・曽根遺跡は14ヘクタールある。 これに対し、九州・福岡の南方遺跡は2ヘクタールほどしかない。遺跡や遺物を即物的に比較し、文化や社会のあり方を議論する考古学の世界、特に集落論では、九州は不利だった。 遺跡の大きさの違いは、邪馬台国近畿説の根拠とさえなっていた。邪馬台国九州説の私は、この集落論で忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた。 昭和49年、私は佐賀県教育委員会に赴任し、吉野ヶ里の丘陵に立った。 「広大なこの遺跡を本格調査しよう」。こう企図した。 とはいえ、実際に動き始めたのは56年だった。吉野ヶ里丘陵に工場団地が計画され、そのための事前調査としてであった。 調査対象は約30ヘクタールの範囲、それも3年の期限付きだった。考古学の常識として、1年で数ヘクタールを調査するのが限界だった。 期限内にどうやるか。私は計画の中で、まず発掘対象の全域で、遺構を覆っている表土を重機で一気に剥ぐことを提案した。遺構の概況を判断し、発掘に見通しをつけるためであった。 昭和61年、とにもかくにも、調査は始まった。発掘調査の現場指揮は、七田忠明さんに任せた。彼は誰よりも吉野ヶ里を熟知していた。 吉野ヶ里の丘陵は先人の手により、部分的には発掘されていた。私自身、卒業論文の調査で、丘陵のあちこちから出る土器など遺物に圧倒されたこともある。 先人の考古学者の代表が、忠明さんの父で、旧制神埼中学の教師であった七田忠志さんだ。忠志さんは昭和10年代にすでに「邪馬台国論争に重要な位置付け」と報告している。忠明さんは子供のころから、父と一緒に吉野ヶ里を歩いていた。 発掘調査計画と調査スタッフによって、一挙に遺跡全体の状況が明らかとなった。最終的に、丘陵のあちこちにあった遺跡は、すべて一連一体のものだったことがわかった。南北約1キロメートル、東西約600メートル。約40ヘクタールを超える弥生時代最大の環壕集落であることが確認されたのだ。 環壕集落と密接に関連する同時代の遺構は、南北約6キロメートルの丘陵全体に存在しており、吉野ヶ里遺跡は約300ヘクタールにわたる巨大な弥生時代集落跡であることも窺がえた。たかしま・ちゅうへい 昭和14年12月福岡県生まれ。熊本大学卒業後の39年、奈良国立文化財研究所(当時)入り。平城宮跡(奈良市)、田能遺跡(兵庫県)などの発掘に携わり、49年から佐賀県教委文化課文化財調査係長。吉野ヶ里遺跡発掘を指揮し、「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。平成16年佐賀女子短大学長、18年から同短大などを運営する学校法人「旭学園」理事長。

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    これだけは知りたい! 邪馬台国の基礎知識

    るとき、まず浮かぶのは邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)だろう。もっともその名は中国の歴史書「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)にあるもので、卑弥呼とは女の子というほどの意味の「姫子(ひめこ)」に由来するようだ。「漢委奴国王」とくっきり刻まれた金印が福岡県志賀島から発見された。金印は木簡などをヒモでとじて粘土で封をした封印に使われていた=2000年4月、福岡博物館 彼女が歴史の舞台に登場したいきさつは、倭人伝に詳しい。元は男の王が治めていたが国中が服さず、争いが続いた。そこで三十余の国々がひとりの女性を共にいただいた、というのである。 というのも、卑弥呼は不思議な霊力を持っていた。倭人伝には「鬼道(きどう)に事(つか)えて、よく衆を惑わす」とある。神がかりする巫女(ふじょ)(シャーマン)で、そのパワーが人々の支持を得たのだろう。 卑弥呼は独身で、弟が補佐して国を治めた。千人の侍女に囲まれ、姿を見た人は少なかったという。 こうして成立した「卑弥呼の日本」(女王国連合)は、近畿から九州までを版図としていた。共通の言葉や、流通のネットワーク圏があったのだろう。日本における、初期国家の成立といってもいい。 倭人伝によれば、卑弥呼は248年前後に死亡した。敵対する狗奴国(くなこく)との戦争のまっただ中だった。墓は径百余歩(ほ)(直径約150メートル)もの大きさだったという。 卑弥呼が亡くなったころ、奈良盆地の東南部にそれまでと隔絶する規模を誇る墓、前方後円墳が次々と造られ始めた。奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)はその第1号で、卑弥呼の墓にあてる説が出されている。 ところが不思議なことに、わが国最初の正史の「日本書紀」には、彼女に関した記述がない。わずかに神功(じんぐう)皇后(仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后)の記事に「注記」として、「倭の女王が中国の魏に使節を派遣した」と記されているだけだ。 卑弥呼が亡くなって約500年後、天皇家には彼女についての記憶がなかった。もちろん書紀の編者は倭人伝を読んでいたから、卑弥呼とは神功皇后のことだと想像したのだ。 宮内庁は、箸墓古墳の主を崇神(すじん)天皇の大叔母(孝霊天皇皇女)にあたる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)としている。書紀によれば、百襲姫も神がかりをするシャーマンだった。卑弥呼の出自や墓に関する謎が解明される日は、来るのだろうか。「畿内説」西日本最大の耕地こそふさわしい(2)畿内説 邪馬台国(やまたいこく)が日本列島のどこにあったのかという「邪馬台国論争」は、日本史上最大の謎のひとつと言っていい。「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)の記述をもとに、江戸時代からさまざまな意見が出され続けてきた。2013年2月、考古学者らによる立ち入り調査が行われた箸墓古墳=奈良県桜井市(本社ヘリから) 主張は大きくふたつに絞られる。邪馬台国は畿内、それも奈良盆地にあったとする説と、北部九州にあったとみる説だ。両説が重要視されるのは、奈良盆地はのちのヤマト王権発祥の地であること、また北部九州は紀元前以来、中国大陸や朝鮮半島の国々と長く深い交わりを結んでいたことが根拠となっている。 倭人伝には、朝鮮半島にあった帯方郡(たいほうぐん)から邪馬台国へと至る方角や距離を記した「里程(りてい)記事」もある。しかし、これを実際にたどってゆくと、沖縄周辺の太平洋上に行き着いてしまう。つまり、倭人伝の方角や距離には錯誤があると判断せざるを得ないのだ。 こうして、行き詰まりの様相も見せていた邪馬台国論争が新たな段階に入ったのは、戦後の考古学の進展があったからである。発掘調査によって列島各地から多くの遺跡・遺物が見つかり、邪馬台国の実像を解明していくうえでヒントとなった。 吉野ケ里遺跡(佐賀県)は日本最大級の環濠(かんごう)に囲まれた遺跡で、「楼観(物見櫓)・城柵(ろうかんじょうさく)、厳かに設け」という倭人伝の記述をほうふつとさせる発見として、北部九州説を一躍クローズアップさせた。ただし、吉野ケ里遺跡が最も繁栄したのは弥生時代中~後期で、邪馬台国の時代(弥生末期、2世紀末~3世紀前半)とはずれがある。 これに対し、畿内でも大きな発見が続いた。唐古・鍵(からこかぎ)遺跡や纒向(まきむく)遺跡(いずれも奈良県)での調査だ。しかも、これらの遺跡は時代も邪馬台国と合う。箸墓(はしはか)古墳をはじめ古墳も数多くあり、女王・卑弥呼(ひみこ)が住む宮都があった場所に似つかわしい。 畿内説が有力とされるもう一つの理由は、倭人伝の人口に関する記述だ。九州への玄関口だった末廬国(まつらこく)は現在の佐賀県唐津市・東松浦郡周辺とされ、人口は「4千戸」とある。そして、福岡平野にあったとみられる奴国(なこく)は「2万余戸」。これらに対し、邪馬台国は「7万余戸」である。西日本最大の耕地を抱えていた奈良盆地こそ、邪馬台国の所在地候補とするにふさわしい。「北部九州説」強烈な金印のイメージ(3)北部九州説 福岡市博物館(早良区)で常設展示されている国宝「漢委(倭)奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印をごらんになったことがあるだろうか。1辺2・3センチ、重さ約108グラムの純金製。西暦57年、福岡平野にあった奴国の王が中国・後漢に朝貢したおり、授けられたとされる逸品だ。吉野ヶ里遺跡 金印のこの強烈なイメージが、所在地をめぐる「邪馬台国(やまたいこく)論争」にも少なからぬ影響を及ぼしている。紀元前後、日本列島を代表する王として外交にあたっていた奴国王は、約150年後の卑弥呼(ひみこ)の時代も同様の役割を果たしていたと想像し、邪馬台国は北部九州にあったのでは、と考えてしまうからだ。 だが、弥生時代は政治的激動期だった。特に末期になると列島内の状況は大きく変わっていた。「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)には、倭国は内乱状態に陥り、卑弥呼が共立されたと記している。 それは資源、とりわけ鉄素材の確保をめぐる主導権争いだったのではないだろうか。鉄器は人々の暮らしを飛躍的に便利にしたが、当時の列島内では生産できず、朝鮮半島から求めるしかなかった。鉄を安定的に大量輸入できる「強い政権」が必要とされて誕生したのが、卑弥呼率いる倭国連合だったと考えたい。 とはいえ、北部九州説には新井白石や本居宣長以来の学問的積み重ねがある。松本清張や「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平ら著名人の支持もあった。だが現代の古代史研究者や考古学者はと見渡すと、表立って北部九州説を主張する人はほとんどいない。 平成25年に死去した考古学者の森浩一さんは、「東遷(とうせん)説」を唱えた。最初、卑弥呼は九州で共立されたが、のち畿内に移ったと見るのである。弟子の一人で、桜井市纏向学(まきむくがく)研究センター所長の寺澤薫さんは「卑弥呼政権の権力母体は北部九州勢力と瀬戸内海沿岸勢力を中心として、近畿、山陰、北陸、東海各地方の局地的な勢力を結集して作り上げられた」(「森浩一の古代史・考古学」)と書く。卑弥呼の政権は、明治維新における「薩長土肥(さっちょうどひ)」のような連合政権だったというのだ。 所在地についての探求も大切だが、政権の実態や構造を解き明かすことは、それ以上に重要である。最近の邪馬台国論争の推移を見ていると、そんな印象を抱いてしまう。「ヤマト王権との関係」別勢力ではなくなった?(4)ヤマト王権との関係  邪馬台国(やまたいこく)はその後、どうなったのか、またヤマト王権(大和政権)とはどのような関係にあったのかという謎に迫ってみたい。 「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)によれば長寿を保った卑弥呼(ひみこ)も西暦248年前後に亡くなった。その後、男王が立ったが収まらず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)(壱与(いよ)とも)を共立したとある。その台与も266年、魏の後の王朝である晋(しん)に朝貢して以降の動静は不明だ。 私たちがヤマト王権と呼ぶのは、律令国家(大和朝廷)成立以前の大和を中心とした政治権力のことで、特徴は各地に築かれた巨大前方後円墳。「古墳時代」という時代区分とも、ほぼ重なっている。その古墳時代は昭和30年代半ばまで、「4世紀に始まった」とするのが定説だった。邪馬台国の時代とは半世紀の時間差があるため、両者は別の政治勢力と考えられていた。 ところが、その後の発掘調査の成果や年輪年代法など科学的な年代測定法の進歩によって、古墳の成立は「3世紀半ば」までさかのぼると考えられるようになってきた。最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が、卑弥呼の墓であっても矛盾しなくなったのだ。 奈良県天理市にある崇神(すじん)天皇陵は、その箸墓よりも2、3世代新しい時期の王墓とみられている。崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」(初めて国を治めた天皇)と贈り名されており、「実在したヤマト王権初代の王」とする意見もある。 しかも崇神については、「古事記」に干支(かんし)で「戊寅年(ぼいんのとし)」に死去したと記されていて、これを西暦318年と見る考えがある。歴代天皇の系譜からも、第10代崇神と5世紀に中国・宋に使いを送った15代応神、16代仁徳天皇(倭の五王)らとの年代差は合理的だ。 卑弥呼や台与からヤマト王権へは、それほど時間をおかず続いたのではないか。倭人伝にあったように、「卑弥呼は男弟(だんてい)が補佐して国を治めた」というヒメ・ヒコ制(女性が聖的な祭祀(さいし)を、男が俗的な政治を分担する)が台与の代にも続いていたなら、彼女の弟が崇神だったという大胆な推測も、荒唐無稽ではなくなってくるのだ。

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    畿内説、九州説それぞれに根拠あり 邪馬台国はどこなのか

    訳通ずる所三十國〉邪馬台国や卑弥呼について記された唯一の資料、『魏志倭人伝』の冒頭である。この中国の歴史書に書かれた記述がその後、現代に至るまで日本成立に関わる論争を引き起こした。文化庁主任文化財調査官が邪馬台国の「今」を語る。 * * * 邪馬台国は日本の古代国家成立にかかわる重要なテーマである。古くは江戸時代の儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らがその謎を解き明かそうとした。肝心の所在地をめぐっては、現代まで論争が引き継がれている。『倭人伝』によれば、邪馬台国までの道のりは朝鮮半島中西部の帯方郡から対馬国(対馬)や一支国(壱岐)を経由し、不弥国(福岡県飯塚市付近)まではほぼ特定できる。 しかし、そこから南に船で20日行くと投馬国に着き、さらに船で10日、陸路1月で邪馬台国に着くという記述をそのまま辿ると、邪馬台国は九州のはるか南の洋上に存在したことになってしまう。そこで、投馬国から邪馬台国までを「船なら10日、陸路なら1月」と読む九州説や、不弥国以降の〈南〉を〈東〉と読み替える畿内説などが提起された。 その後、九州、畿内を2大候補地としながらも、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地に可能性が唱えられた。しかし、『倭人伝』を元にした論争は解釈の域を出ることはなく、決着を見ない。そこで考古学の出番となった。考古資料を検証するのである。 中でも重視されてきたのが銅鏡だ。2世紀前半までは九州北部を中心に出土していたのが、2世紀末から3世紀初めには近畿を中心に出土するようになる。例えば「画文帯神獣鏡」は、分布を研究した大阪大学の福永伸哉教授によると、2世紀後半から3世紀初めの近畿を中心に分布している。これにより、卑弥呼の邪馬台国が登場する3世紀半ばまでに、倭国の中心が九州から近畿に移ったとみている。それを根拠に邪馬台国=畿内説を唱える考古学者は多い。そのため、歴史学者など文献史学者は九州説を、考古学者は畿内説を唱える傾向がある。  畿内説を支持する研究者にとって、邪馬台国の所在地として最有力なのが纒向遺跡(奈良県桜井市)だ。3世紀の遺跡で、東西2km、南北1.5kmという当時の集落として類を見ない規模を有し、周辺には卑弥呼の墓と目される箸墓古墳などこの時期の墳墓が多数ある。発掘は現在も続いており、これまで土器や木製品、多数の桃の種などが出土したほか、宮殿ともみられる巨大な建物が整然と並んで建っていたことがわかっている。  今後、纒向遺跡などでまだまだ新発見の余地があり、畿内説の研究者にはその「蓋然性の高さ」を証明できることが期待されている。が、それで邪馬台国の所在地論争が終わるわけではない。  現在、学術関係者ではない、各地の民間有志による邪馬台国研究会が数多く活動しているが、今年、その全国組織「全国邪馬台国連絡協議会」も結成された。その謎をめぐる議論はアカデミズムの枠を超え、古代史にロマンを求める多くの人々を惹き付けてやむことはない。※SAPIO2014年12月号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も

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    畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見

    ており、最大の謎といえるのが、女王・卑弥呼が治めていた邪馬台国はどこにあったのかということ。 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀後半に倭国で起きた大乱が、卑弥呼を女王に立てることで収まり、邪馬台国を中心とする小国の連合が誕生したと書かれている。 だが、肝心の場所については、邪馬台国へ至る道筋をそのまま行くと太平洋上に行き着くなど謎が多く残されており、その解釈を巡って意見が分かれてきた。 論争の歴史は古く、江戸時代後期には、新井白石や本居宣長らが議論を始め、長らく「畿内説」と「九州説」の間で論争が続いてきた。そして、これまでは1986年に吉野ヶ里遺跡が見つかるなど邪馬台国の時代の遺跡や遺物が多数出土する「九州説」がやや優勢だった。 しかし、2009年に邪馬台国の有力候補とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良・桜井市)で、3世紀半ばの大型建造物跡が見つかったことで、この論争は大きな転機を迎えた。卑弥呼の墓との説もある国内最大規模の前方後円墳、箸墓古墳も近くにあり、研究者の間で「卑弥呼の宮殿ではないか」と期待が高まり、「畿内説」がにわかに活気づいたのだ。 今年2月には、陵墓への立ち入りを原則的に禁止してきた宮内庁が、箸墓古墳への日本考古学協会などの研究者の立ち入り調査を許可し、初調査が行なわれたことも、関心の高さを表わしている。発掘調査を担当した市纒向学研究センターの橋本輝彦・主任研究員が語る。 「邪馬台国の女王である卑弥呼が政治機構を持つには、大規模な人工集落があったと考えるのが自然で、纒向遺跡の規模はそれに相応しい。九州説の弱点は、吉野ヶ里遺跡を始めとした複数の遺跡群があるものの、それほどの規模を持つ象徴的な遺跡がないことです」奈良県櫻井市にある箸墓古墳 しかし一方で、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする“科学的物証”もまだ存在していない。九州説を主張する元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう反論する。 「邪馬台国は中国、朝鮮半島と交易していたが、九州北部からその交易を裏付ける文物が多数出土するのに対し、畿内からはほとんど出土例がない。それに加え邪馬台国ほどの国なら、当時交易の中心だった鉄の流通システムを持っていてしかるべきなのに、鉄の出土例も、九州に比べて圧倒的に少ないのです」 双方とも一歩も引く気配のない「邪馬台国」論争。この論争に終止符が打たれるかどうかは、魏から卑弥呼への贈答品の封として使われた「封泥」(ふうでい)の発見にかかっているという。 「封泥とは、箱を縛った紐がほどけないように上から粘土で固め、印を押したもの。公式な贈答品は卑弥呼の前でしか開封されないはずなので、封泥の発見場所こそ卑弥呼のいた場所だといえます。広大な纒向遺跡の発掘調査は継続中で、封泥や何らかの文字資料が出土しないかと期待しています」(橋本氏) 論争はまさしく“泥試合”の様相を呈している。※週刊ポスト2013年5月24日号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 織田信長、坂本龍馬…日本では突出した人物は非業の死遂げる■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も

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    知られざる幕末佐賀藩の「産業革命」

    幕末、西洋近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩が有名だが、開明派の薩摩藩主、島津斉彬が、その先進性を模範とした藩こそ、佐賀藩であった。幕末佐賀藩が「近代化のトップランナー」とも言うべき存在へ躍進したのはなぜだったのか。

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    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

    浦川和也(佐賀城本丸歴史館学芸員)司馬遼太郎「佐賀ほどモダンな藩はない」 「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。退屈せず、倍々(ますます)研究すべし」 嘉永5年(1852)、薩摩藩は鉄製大砲などを鋳造するための反射炉の築造に着手しました。その際、幕末きっての開明派と謳われた薩摩藩主・島津斉彬は、技術者たちを一堂に集めて、そう激励したといいます(『島津斉彬言行録』所収)。 反射炉といえば、薩摩や韮山(静岡県伊豆の国市)のものが有名です。しかし、最初に築いたのは、実は佐賀藩でした(嘉永3年〈1850〉)。当時、佐賀藩の大砲鋳造成功を聞いた斉彬は、「佐賀人」を「西洋人」と並べて、「西洋人も佐賀人も同じ人間である。我々薩摩人にできないことはない」と藩士たちに呼びかけ、鼓舞したのでしょう。 幕末、近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩などを連想する方が多いかもしれませんが、冒頭の斉彬の言葉が示す通り、佐賀藩こそが「近代化のトップランナー」だったのです。 昨年平成27年(2015)にユネスコ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素の中に、佐賀の「三重津海軍所跡」が含まれています。佐賀県の三重津海軍所跡。昨年、世界遺産に登録された(写真提供:佐賀県) その他にも、佐賀市内には、日本で初めて鉄製大砲鋳造に成功した「築地反射炉」や幕府注文の大砲を鋳造した「多布施反射炉」(公儀石火矢築立所)、蒸気機関・写真・ガラスなどを研究した理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」など、幕末佐賀藩の「産業革命」の拠点となった場所があります。作家の司馬遼太郎氏も、「幕末、佐賀ほどモダンな藩はない」と、佐賀藩の先進性を評しました(『アームストロング砲』〈講談社文庫〉)。 ではなぜ、佐賀藩は他藩に先んじて近代化を成し遂げることができたのでしょうか。それはまず、10代藩主・鍋島直正の先進性、マネジメント力、リーダーシップを抜きには語れませんが、ここでは佐賀藩の歴史と、置かれた環境を紐解きながら、「近代化のトップランナー」となった背景を紹介していきましょう。「近代化のトップランナー」の背景「近代化のトップランナー」の背景 佐賀藩といえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠れ』のイメージが強いかもしれません。しかし、実は蘭学の登場も他藩より早く、安永3年(1774)に杉田玄白と前野良沢が『解体新書』を翻訳した頃には、すでに島本良順が藩内に蘭方医の看板を掲げ、その門下からやがて伊東玄朴、大石良英、山村良哲らの名医が育っています。 背景には江戸時代初期より、佐賀藩が幕府より命じられていた長崎警固役がありました。 江戸時代の日本の対外関係は、その多くの時期が〈長崎口〉〈対馬口〉〈薩摩・琉球口〉〈松前口〉の4つの窓口を持つ、いわゆる「四つの口」体制を採っていました。〈長崎口〉は長崎における中国人・オランダ人との通商関係、〈対馬口〉は対馬藩を仲介役とした朝鮮国との交隣関係(通交関係)、〈薩摩・琉球口〉は薩摩藩を通じた琉球王国(日中両属)との宗属関係、〈松前口〉は松前藩を通じたアイヌ民族との関係を言いますが、いずれも中国(明国・清国)を中心とした冊封体制(東アジア朝貢体制)の周縁部にありました。〈長崎口〉は「西洋」を垣間見る唯一の窓口でした。 このような「四つの口」体制になる前に、16世紀から盛んに通商を行なっていたのがポルトガルです。寛永17年(1640)、ポルトガルは通商再開を求めて、長崎へと使節船を派遣しましたが、幕府はポルトガル船を焼き払うなど拒絶します。そして、時の3代将軍家光が、ポルトガルの報復を恐れて設けたのが長崎警固役でした。 長崎警固役とは、長崎警備の軍役のことで、寛永18年(1641)に福岡藩に命じられ、次いで翌寛永19年(1642)に佐賀藩にも命じられ、1年交代で軍役を務めました。佐賀藩が、この長崎警固役を命じられたことは、その後の佐賀藩の進路に影響を与えました。迫りくる列強の脅威を前に 長崎警固役は、大きな財政負担を要しますが、一方で「異国」「西洋」に接する機会がありました。『阿蘭陀風説書』『唐船風説書』を佐賀藩、福岡藩は内々に読むことができました。また、長崎に詰めていた佐賀藩士は、西洋人や、長崎に留学していた知識人と会うこともできたでしょう。佐賀藩の国際感覚は、こうした背景から醸成されたものと思われます。 18世紀後半のイギリスから始まった産業革命の波は、すぐにヨーロッパ各国やアメリカ大陸に及びました。産業革命は、紡績業の発展や製鉄技術の向上、蒸気機関の実用化と蒸気車・蒸気船の開発などをもたらしました。すなわち、欧米列強諸国は、鉄製大砲と蒸気船を手にし、国外の市場や植民地の獲得を目指して、アジア侵出を開始したのです。 また、16世紀後半以来のロシアの東方進出・南下政策も機を一(いつ)にしてこの時期に日本や東アジアに及びました。 文化5年(1808)の英国軍艦フェートン号の長崎港侵入事件(フェートン号事件)も、その流れの中で起こった事件ですが、長崎奉行松平康英は責任をとって切腹し、大きな政治問題になりました。同年に長崎警備を担当していた佐賀藩は、番頭千葉三郎右衛門・蒲原次右衛門を切腹に処すなどの関係者の処分を行ないましたが、幕府から9代藩主鍋島斉直が100日間に及ぶ逼塞(ひっそく)の処分を受けるなど、大きな衝撃を受けました。長崎警固役の緊張感が薄れ、惰性に陥っていたことが、この失敗を招いたものと思います。 よく一般に、幕末佐賀藩にとっての「黒船来航」はフェートン号事件で、ペリー来航よりも45年も早く外圧にさらされた、と言われることがあります。しかしながら、実は、その後20年余り、佐賀藩でも近代化に向けての目立った動きはありませんでした。 9代藩主斉直の時代は、長崎の台場の一部強化などを行ないますが、何より藩財政の破綻が大きな問題となりました。しかしながら、藩主自身の奢侈も改まらず、藩士は世子貞丸(直正)に期待する状況でした。稀有なリーダー・鍋島直正稀有なリーダー・鍋島直正 佐賀藩の財政改革と近代化政策の取り組みは、鍋島直正が10代藩主となった天保元年(1830)が起点となります。 直正は、なぜ近代化を推し進めることができたのか。それは、彼自身の国際感覚と進取の気性、マネジメント力とリーダーシップによるものと思います。その背景には傅役であった古賀穀堂の薫陶がありました。 直正は、藩主となって初めて帰藩した直後に長崎警備を視察し、その際にオランダ商船に自ら乗り込み船内を見学しました。藩主として「前代未聞」の行動です。神ノ島・四郎島填海工事図。佐賀藩が長崎警固役のために嘉永5〜6年(1851〜52)に自力で行なった埋め立て工事の様子を描いたもの。この砲台には、築地反射炉で製造された鉄製大砲が配備された(公益財団法人鍋島報效会蔵) 危険を伴なう蘭船乗り込みは長崎奉行所の特別の許可を得て実現しましたが、以後、直正のオランダ船乗り込みは恒例となりました。アヘン戦争(1840〜42年)後の天保15年(1844)に開国勧告のため来日したオランダ軍艦パレンバン号にも直正は乗船し、艦内を隈なく視察しました。 藩主でありながら身の危険を伴う行動の妥当性は措いて、兎にも角も天保期には既すでに、直正は自らの目で西洋の進んだ文明を実見し、体感していたのです。直正は、オランダ船の頑丈な構造を実見するとともに、海上から陸地を見渡すことで、改めて海防感覚を磨いたことだろうと思います。また、若き藩主の実行力やリーダーシップに藩士たちも感化されていったことでしょう。「近代」=「西洋」に負けないため さらに、アヘン戦争の衝撃も欠かすことができません。東アジア社会に君臨した中国が、欧米の砲艦外交に為すすべもなく敗れ、その後、植民地として蚕食されていく端緒になりますが、この衝撃は日本国内を震撼させました。そして、これに最も敏感に反応したのが直正でした。 「近代」=「西洋」に負けないように、それを誰よりもよく知る直正が出した答えが、鉄製大砲と蒸気船を自力で開発することだったのです。だからこそ、黒船来航(嘉永6年〈1853〉)の時に、唯一佐賀藩だけが鉄製大砲製造が間に合い、日本初の実用蒸気船製造も実現したのだと思います。  日本の近代化のトップランナーだった佐賀藩。その躍進は、藩主鍋島直正の存在を抜きには語れません。●「三重津海軍所跡」公式HPhttp://mietsu-sekaiisan.jp/関連記事■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡

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    若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」

    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    海軍育成と造船所建設、そして実用蒸気船「凌風丸」誕生へ

    幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    アームストロング砲をいち早く造った佐賀藩の「ものづくり力」

    たことに「ものづくり」に特別の関心を寄せる日本社会があったと考えられる。 実は、この時期、後の日本が歴史を刻んできた驚くべきこと・・・日本海海戦、プリンスオブウェールズの撃沈、ホンダのマン島レースの制覇・・・の萌芽が見られた時期でもあった。それが、このシリーズで触れる「蒸気機関の製作」、「スームビング号の江戸回航」、そして佐賀藩の「アームストロング砲」だった。 余談だが、幕末には伊豆の韮山や佐賀の反射炉は立派なものだった、それに続こうと諸藩が急ごしらえで作った反射炉には役立たずもあった。たとえば長州藩の萩にも反射炉があったが、筆者が詳しい調査したところによると、萩市の反射炉には火を入れた形跡はなかった。下関戦争で使った青銅砲も砲弾もともに輸入品と思われる。 製鉄と言えば、安政2年にイギリス国のベッセマーが転炉を発明している。19世紀の初め、トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求めたのでイギリス国の鉄工業は隆盛を極めていて、それがベッセマーの転炉の発明につながる。 この製鉄の技術は戦闘用武器の発展に結びつき、ヨーロッパの軍事力を飛躍的に高めていった。これに対して、アジア・アフリカで追従できる国は日本以外にはただの1カ国も存在しなかった。 「近代鉄鋼技術の罪」は重い。それはヨーロッパ、アメリカにとっては「優れた」技術だったが、アジア、アフリカ人にとっては「悪魔の」技術になった。技術とは、かくも難しいものである。技術の話と言えば白人しか視野に入っていないが、本当の意味の「技術の受け手」は白人の数倍の人口を要していた有色人種だったのである。 鉄鋼の技術を擁して、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカを席巻し植民地化した勢いから考えれば、開国からまもなくして、日本が植民地になるのは確実と思われた。 日本というこの小さな東洋の島国は、250年にわたって鎖国を続け、蒸気機関や火力の強い武器もなく、サムライと呼ばれる刀を差し、甲冑に抜刀という弓矢で戦う武士軍団を形成していた。 それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に、これまでのアジアの諸国と同様、たちまち植民地となり傀儡政権ができて何らの不思議もない。北海道はロシア、本州はアメリカ、四国はイギリス、そして九州はオランダに分割統治されるであろうと感じるのは当然でもあった。  イギリスが中国を理不尽な理由で攻めたアヘン戦争の激戦、鎮江の戦いでは、イギリス軍の損害37名に対し、清国は1600名の損害をこうむっている。それが19世紀のヨーロッパ列強とアジア諸国との間の戦いの哀しい現実であったのだから、日本の植民地化は時間の問題だった。(「武田邦彦ホームページ」より2010年10月6日分を転載)

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    独力で最強海軍を創設 佐賀藩「火術方」は日本一のハイテク研究所

    技術史上の快挙とされている。佐賀藩の海軍基地となった三重津の船手稽古所の図=鍋島報效会蔵(佐賀城本丸歴史館提供) この成功と同じ嘉永5(1852)年には、藩直属の理化学研究所ともいうべき「精煉方(せいれんかた)」を開設。大坂の適塾(緒方洪庵塾)をへて江戸の象先(しょうせん)堂(伊東玄朴塾)塾頭になっていた藩士・佐野常民(つねたみ)を呼び戻す。佐野は帰藩に際して「からくり儀右衛門」とはやされた異能の器械師・田中久重父子や蘭方科学者・石黒寛次、物理・化学者の中村奇輔の在野4人を同伴。彼らは蒸気機関の模型をはじめ、雷管・電信機・火薬・機械・金属・ガラス・薬品など多彩な技術開発に成果を上げる。精煉方はハイテク日本の先駆けとなる超一流の研究機関で、その人材は明治に引き継がれる。 黒船の来航で開国に踏み切った幕府は安政2(1855)年、海軍近代化のためオランダの協力で長崎「西の奉行所」(現在の長崎県庁、出島の北側)に「海軍伝習所」を置き、オランダ国王から将軍に贈られた気帆船スンビン号(日本名「観光丸」=全長53メートル、720トンの木製外輪蒸気船)を操る実地訓練を開始することになった。伝習生は計130人。幕府からは勝海舟や榎本武揚(たけあき)ら40人の幕臣が派遣されたが、佐賀藩からは佐野、石黒ら火術、精錬方の俊秀48人が送り込まれ、伝習所はさながら幕府と佐賀藩のための訓練所になった。 直正はこの伝習所も視察し、オランダ人教官たちと交流している。伝習隊長のカッテンディーケの記録『長崎海軍伝習所の日々』には、直正が伝習所の士官たちを長崎湾を見下ろす別荘に招待し、旺盛な好奇心と知識欲、オランダに対する親近感などを示したことが生き生きと描かれている。 2年後、佐野は直正に「佐賀藩海軍創設建白書」を提出。翌安政5年、佐野の郷里でもある三重津(みえつ)(佐賀市川副町・諸富町)に「船手稽古所(ふなてけいこしょ)(海軍学校)」を仮設し、藩独自の伝習と造船が始まる。三重津には佐賀藩が購入した艦船が続々と集結し、近代日本海軍発祥の地となった。慶応元(1865)年には国産初の蒸気船「凌風(りょうふう)丸」(長さ18㍍、幅3・3㍍、10馬力)がここで進水する。 佐賀藩海軍は明治2(1869)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘となった箱館(函館)戦争(五稜郭の戦い)に政府軍として出動し、榎本武揚率いる旧幕艦隊と激突する。派遣した3隻のうち「朝陽丸」は旧幕府軍の砲撃で火薬庫が爆発を起こして沈没、艦長の中牟田倉之助(のち海軍中将)が重傷、乗員51人が即死するという大惨事に遭うが、海戦には勝利し、戊辰(ぼしん)戦争の幕を引いた。「薩長土」に「肥」が並んだのである。

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    幕末当時の海軍所を「体感」できる三重津の世界遺産

    前田達男(佐賀市世界遺産調査室室長) 世界遺産に登録された三重津海軍所跡の遺跡は、すべてが地下に眠っており、残念ながら現地でそのものを見ることはできません。「三重津ウォーカー」のVRスコープで見た三重津海軍所(提供:佐賀県) では来訪された方に、イメージを膨らませていただくには、何を「見せ」ればいいのか。そうした思いから、現在、佐賀県と協力し、VR(バーチャルリアリティ)をはじめ、映像やイメージ画像でかつての三重津海軍所を見ることができるよう工夫を凝らしています。来訪された方は、隣接する佐野常民記念館で借りることができるVRスコープを持って歩けば、幕末当時の海軍所を〝体感〟できるでしょう。 また、佐野常民記念館の3階では発掘や文書の調査成果も展示しており、跡地と併せて2時間以上かけてじっくりと見て回って、堪能される方も少なくなく、ご好評をいただいています。現在は単なる草地になっている三重津海軍所跡=2015年9月6日、佐賀市 私は、世界遺産調査室室長として遺跡発掘や文書調査に携わりました。そして、幕末、西洋列強の脅威が忍び寄る中で創設された海軍の様子や、日本の伝統技術によって造られたドライドック(船渠)の実像に触れることで、三重津海軍所は日本の近代化の過渡期を象徴する存在だと強く感じたものです。同時に、遺跡発掘や文書調査を行なうことで、実に様々なことが分かるのだということを、改めて教えられました。 たとえば、三重津海軍所の特徴のひとつに、ドライドックがあります。これは現時点で現存が確認できる日本最古のドックで、存在自体は以前より認識されていました。しかしそのスケールや構造、周囲に製作場などの様々な施設があったことは、平成21年(2009)に発掘を行なってはじめて分かったことです。文書などの記録で残るものと、現地に残るものを組み合わせることで、色々なことが見えてくるのだと肌で感じることができました。発掘の最中、ドックの一部を掘り当てた時の驚きは、今でも鮮明に覚えています。昨年(平成27年〈2015〉)10月からは、出土した遺跡の大きな写真パネルを、実際に埋まっている位置の上に置くことで、調査成果を〝体感〟していただく新たな試みを始めています。また、VRスコープを用いた仕掛けも、他の文化遺産に先駆けたものだと思います。  文化財に関心を抱いている方も、世界遺産の雰囲気を味わいたい方も楽しむことができる――三重津海軍所跡は、そんな史跡を目指しています。関連記事■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(後編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

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    「花燃ゆ」よりよくわかる吉田松陰

    「民を救い日本を守るにはどうすればいいのか」。時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯し黒船密航を試みた。そこにあるのは「私利私欲なく日本を守りたい」という一念のみ。維新の英傑を育て上げた稀代の兵学者、吉田松陰の純粋な志に迫る。

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    松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは

    安藤優一郎(歴史家、文学博士 [早稲田大学] )僅か30年の生涯――遺された時代を動かした魂が 安政6年(1859)10月27日。長州藩士吉田寅次郎こと吉田松陰は江戸城近くの評定所に呼び出され、幕府から死罪を申し渡された。 時を移さず、日本橋近くの伝馬町牢屋敷に連行された松陰は、首切り浅右衛門こと山田浅右衛門介錯のもと刑場の露と消える。わずか30年の生涯であった。 この日、松陰は波乱の生涯を終えた。だが、その魂は『留魂録』という形で生き続ける。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という松陰の歌はあまりにも有名だが、実は「留魂録」の冒頭に掲げられた歌だった。150年以上経過した現在でも、松陰が放つ言葉の数々は人々の心に深い感動を与えるが、その象徴たる著作なのである。 『留魂録』を遺した松陰とは、いったいどんな人物だったのか。破天荒な行動と投獄生活――「松下村塾」への源流となる 文政13年(1830)8月4日、松陰は萩城下郊外の松本村で生を享けた。父は長州藩士杉百合之助。母は滝。兄と弟が1人ずつで、妹が4人の計9人家族。杉家は家族が多い上に、藩内での家格は低かった。そのため、武士でありながらも田畑の耕作により生計を支えざるをえず、松陰一家は城下を離れて松本村に土着していた。吉田松陰の生誕地から広がる萩の夜景 松陰は嫡男ではなかったため、叔父吉田大助の養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範の家柄であり、以後兵学者としての道を歩んでいく。 天保11年(1840)に、松陰は藩主毛利慶親の前で兵書「武教全書」を堂々と講義し、一躍注目を浴びる。まだ11歳になったばかりであった。 その後、軍学稽古のため江戸へ出府するが、江戸滞在中に人生最大の師と出会う。西洋兵学者として知られた松代藩士佐久間象山である。 異国船の度重なる来航という対外的危機を受けて、「東洋の道徳、西洋の芸術」を唱える象山の強い影響のもと松陰は破天荒な行動に出る。西洋の文明を知ろうと、密かにアメリカに渡ろうとしたのだ。 まさしく密航である。国禁を犯すことに他ならない。 嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約締結に成功したペリーは、同条約により開港が決まった下田港に艦隊を向かわせた。ペリーの乗船する旗艦ポーハ夕ン号が入港したのは3月21日。 同27日、松陰は足軽金子重之助とともに漁船でポーハタン号に近づき、アメリカに連れて行って欲しいと訴えるが、その拒絶に遭ってしまう。 密航に失敗した松陰は幕府に自首。吟味の結果、国元に強制送還されることとなった。松陰25歳の時である。 10月24日、萩に戻った松陰は幕府に遠慮する藩当局によって城下の野山獄に投獄される。獄中生活は1年以上にも及んだが、その間、松陰は決して無為に過ごしたわけではなかった。自分と同じ境遇の囚人に対して『孟子』や『論語』を講義し、その更生をはかっている。 松陰が出獄したのは翌安政2年(1855)12月15日のことだが、実家の杉家に戻って2日後の17日より、今度は父や兄に対して『孟子』の講義を開始した。『孟子』が終わると、次は兵学書や歴史書の講義へと進んだが、時事問題について熱く論議することもあったという。 その頃になると、松陰の講義の評判を聞き付けた藩士たちがその教えを受けるようになる。松下村塾への源流であった。再び幽囚の身に――老中間部の暗殺計画を宣言 松下村塾は松陰とセットで語られることが多いが、当初は杉家の一室四畳半が教室だった。その後塾生が増えたため、杉家敷地内の小屋を改造して八畳の教室を作ったが、これでも足りず、安政5年(1858)3月に十畳半分の控室を増築した。主宰する松下村塾が幾多の有為の人材を排出したことは、これから述べていくとおりである。 松下村塾の活動が軌道に乗ったのとは裏腹に、アメリカとの通商条約の締結問題を契機として政治情勢は混迷の度を増す。時勢への関心が元々強かった松陰は、事が外交問題であったがゆえに、とても黙ってはいられなかった。先述のように、ペリー再来航時には国禁を犯してアメリカに密航しようとはかったほどである。 よって、自分の思いを貫くために再び破天荒な行動に出た。しかし、これが松陰の人生を太く短いものにする。 幕府は世界情勢を踏まえてアメリカとの通商条約締結に傾いていたが、国論を統一させるため天皇(朝廷)の承認を得た形での条約締結を目指した。外交問題には挙国一致で臨むことが不可欠であり、天皇の政治的権威を利用しようとしたわけである。 ところが、幕府にとり大きな計算違いだったのが、通商条約に対する孝明天皇の強い拒絶姿勢だった。天皇は極度の攘夷主義者であり、元々外国人に対して強い嫌悪感を持っていた。外国との貿易開始によって国内の産物が外国に流れることにも、拒否反応を示した。こうして、通商条約締結の承認を求めてきた幕府の申請を却下してしまう。 通商条約締結問題は暗礁に乗り上げるが、安政5年6月19目、大老井伊直弼は天皇の許可つまり勅許を得ること、なく通商条約の締結に踏み切る。天皇や朝廷はもとより、井伊を快く思わない大名や藩士たち、そして尊王攘夷の志士はその非を鳴らすが、逆に弾圧を受ける。世にいう安政の大獄だ。 勅許を得ず通商条約を締結した幕府に、松陰も激しく憤る。ついには、倒幕まで宣言する。実力行使に出るべく、老中間部詮勝の暗殺を松下村塾の塾生にはかるとともに、それに必要な武器弾薬の貸与を藩当局に願い出た。間部は井伊の指令を受け、京都で弾圧の指揮を取っていたからである。 驚愕した藩当局は、松陰を再び野山獄に入れてしまう。安政5年も終わろうとする12月26日のことであった。松陰の過激な行動を放置すれば、長州藩は幕府から危険視されるに違いない。 果たせるかな、翌6年(1859)4月20日、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう長州藩に命じてきた。いうまでもなく、安政の大獄の一環である。 5月25日、幕命を受けて松陰を護送した駕籠が萩を出立する。1ヶ月後の6月25日、縄目の身の松陰は江戸の長州藩上屋敷に到着した。 幕府の評定所に最初に呼び出されたのは7月9日のことだが、松陰には2つ嫌疑が掛けられていた。京都で捕縛された小浜藩士梅田雲浜と親密な関係だったのではないか。御所内で発見された落し文の主ではないかの2点である。 一方、松陰は間部暗殺計画の件で召喚されたと思い込んでいた。実は幕府はその計画の存在などまったく知らなかったのである。そして梅田雲浜と落し文の件は吟味の結果、嫌疑が晴れてしまう。 ところが、拍子抜けしたのか松陰は流罪に相当する罪を2つ犯したと自ら申し立てる。尊攘派公家大原重徳の長州下向計画と老中間部の襲撃計画だ。 後者の間部の件については、さすがに暗殺計画とは申し立てなかったものの、寝耳に水だった担当の奉行たちは仰天・幕府最高首脳部の襲撃計画だから当然だろう。長州藩邸に戻ることは許されず、そのまま伝馬町の牢屋敷に送られて吟味続行となった。 5年前、アメリカ密航をはかった際に投獄されたのも同じ伝馬町牢屋敷。だが、今回は二度と萩に帰ることはなかった。2日でしたためた遺書 筆まめだった松陰は、獄中から高杉晋作たち弟子に向けて何通も手紙を出している。一連の手紙を読むと、10月16日の吟味までは、死罪に処せられるとはまったく考えていなかったようだ。吉田松陰が獄中で記したとされる「三余説」 間部襲撃計画を自白したことを、さほど深刻には考えていなかったのである。なぜなら、初回の吟味こそ厳しかったものの、その後の吟味は打って変わって穏やかなものだったからだ。国元に送還され、以前のとおり塾を主宰できるのではないかとまで楽観視していたほどである。 だが、吟味側の奉行たちは松陰の自白を重く受けとめていた。間部襲撃計画の報告を受けた井伊は松陰を非常に危険視し、極刑に処す方針を固める。 運命の10月16日がやって来た。評定所に呼び出された松陰は、奉行に署名を強要された口書の内容から、幕府が間部襲撃計画を重く受けとめていることを悟った。極刑は免れられない。 この日から、松陰は身辺の整理に取り掛かりはじめる。もう、時間はさほど残されていなかった。20日には、父百合之助・叔父玉木文之進・兄梅太郎宛に書状をしたためている。後に「永訣の書」と称されることになる家族宛の遺言だ。 同日には、江戸にいた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞に処刑された後の遺体処理を依頼する書状。同じ頃には、「諸友に語〈つ〉ぐる書」もしたためた。 生きて再び、萩に戻ることはできない。文字で書き残すことでしか、家族や弟子たちに自分の思いを伝える道は残されていなかった。 そして25日、松陰は門下生たちにあてた遺書の執筆に取り掛かる。「留魂録」である。松陰は数多くの著作で知られるが、まさしく最後の著作。それも26日夕方には書き上げるという速さであった。 翌日に迫った死期を知っていたかのように、わずか2日で、魂を込めた思いの丈を言葉にした。 死罪の判決が下れば、即刻執行されるのが当時の習い。いつ、評定所から呼び出されて死罪を申し渡されるかわからない。だから、読む者に切迫感が伝わってくるのだ。「留魂録」とは、松陰の鬼気迫る気持ちが凝縮されている題名なのだ。 16ヶ条から成る『留魂録』を、松陰は念のため2冊作成した。1冊は飯田正伯たちを通して萩に届けられ、門下生の間で回し読みされたが、しばらくして消息不明となってしまう。 もう1冊は牢名主の沼崎吉五郎が保管し、明治に入ってから、同じく門下生の野村靖のもとに届けられた。現存しているのは、こちらの『留魂録』である。《PHP文庫『30ポイントで読み解く 吉田松陰『留魂録』より》 あんどう・ゆういちろう 1965年、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業、早稲田大学文学研究科博士後期課程満期退学。江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。JR東日本大人の休日・ジパング倶楽部「趣味の会」、東京理科大学生涯学習センター、NHK文化センターなど生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)『幕末維新 消された歴史』(日経文芸文庫)『山本覚馬』(PHP文庫)などがある。関連記事■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    久坂・高杉・伊藤-松下村塾に集まった若者たち

    吉田松陰が塾生1人ひとりに贈った言葉は若者を感激させ、自信を与え、奮起させた。 松下村塾に学び、志を抱いた主な若者たちを紹介しよう。久坂玄瑞(くさか・げんずい)1840~64 享年25 藩医の三男に生まれた眉目秀麗の青年才子・玄瑞は、松陰の妹・文との縁談を打診され、器量を理由に拒む。すると、仲立ちした中谷正亮に「色香に迷うとは何事か」と一喝されたという。 松陰が最も信頼した一番弟子の久坂は、「才能は自由自在、縦横無碍」「才あり気あり、獣心として進取す」と師から最大級の賛辞を贈られている。 晩年の松陰が牢内から弟子たちに指示した、攘夷実行のための「伏見要駕策」には反対。無謀であることを手紙で師に諄々諭した。しかし松陰の処刑後は師の熱情を継承、長州の若き重鎮として攘夷・反幕運動へと奔走し、下関で外国船砲撃の指揮を執る。禁門の変で落命するが、その短い生涯はまさに松陰の愛弟子と呼ぶに相応しい。高杉晋作(たかすぎ・しんさく)1839~67 享年29 百五十石どり上士の一人息子で、親は晋作が村塾に通うのを許さなかった。 晋作を松陰に引き合わせたのは久坂であったという。松陰はわざと晋作の前で久坂を誉め、晋作を発奮させた。松陰の狙い通り学力が「暴長」した晋作は、久坂とともに「松門の双璧」と称されるに至る。晋作は松陰にいかに死ぬべきかと問う。その答えが、あるいは晋作の生涯を決定づけたかもしれない。「死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」「死生は度外に置くべし」。松陰の死後、身分に縛られない近代的軍隊「奇兵隊」を組織、四力国連合艦隊との交渉、功山寺挙兵、四境戦争と命を削って疾駆した晋作の死生観は、松陰の教えではなかったか。門下生にはさまれた吉田松陰の像(中央)。左は高杉晋作、右は久坂玄瑞(山口県萩市の道の駅「萩往還公園」)吉田稔麿(よしだ・としまろ)1841~64 享年24 足軽の長男で通称栄太郎。松陰に可愛がられ、無逸という字〈あざな〉を授けられた。 人物評が得意で、松陰が野山獄で同囚だった富永有隣を塾に迎えると、「一見、容貌魁偉の偉丈夫ながら気立ては婦女子のように優しい」と有隣を評し、松陰も交えて塾生が大笑いしたという。 老中間部詮勝要撃計画を進めた松陰が投獄されると、稔麿も謹慎を命じられ、以後、親から同志との交わりを禁じられた。松陰も稔麿の心中を察し、理解を示している。しかし松陰の刑死後、脱藩・江戸の旗本妻木田宮に仕えて、徳川の内情を探った。妻木に信用された稔麿は幕臣に人脈を得て、長州藩に帰参後、藩と幕府を繋ぐ重要なパイプ役となる。しかし江戸に向かう途中、京都で池田屋事件に遭遇し闘死。入江九一(いりえくいち)1837~64 享年28 足軽の長男で通称杉蔵。弟・和作の紹介で松陰と出会い、村塾に入門する。 下級役人に過ぎない九一を、松陰は「甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」と評価し、九一を感激させた。それもあり、師の間部詮勝要撃計画を弟子たちが反対する中、九一・和作兄弟のみは従い、獄中の松陰も同志として信頼した。その後、伏見要駕策に動いた件で兄弟ともに投獄。九一は師の江戸檻送に落涙している。 松陰の死後、武士身分となり、下関で外国船砲撃、奇兵隊創設に尽力。禁門の変では鷹司邸で久坂より後事を託されるが。重傷を負い自刃した。久坂、高杉、吉田、入江を松門四天王という。野村 靖(のむら・やすし)1842~1909 享年68 入江九一の弟で通称和作。兄の入江姓は九一が入江家を継いだためで、兄弟の本来の姓は野村である。 16歳で村塾に入門。松陰より「才気あり、頗る読書を好み候」「小年中の傑出」と評された。兄とともに師の計画のために動き、投獄。松陰の死後、士分に抜擢され、下関攘夷戦、四境戦争に参加する。維新後、枢密院顧問、内務大臣、逓信大臣などを歴任した。前原一誠 (まえばら・いっせい)1834~78 享年43 四十石の下級藩士佐世家の長男で、はじめ佐世八十郎と称した。父親の勧めで入門。その時点で最年長の塾生に。 松陰は一誠の人柄を愛し「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ。その才は久坂に及ばす、その識は高杉に及ばざるも、その人物の完全なること、2人も遠く及ばない」と語った。藩命で洋学を研究。四境戦争では小倉攻撃軍の参謀、戊辰戦争では北越征討総督府参謀を務める。維新後、政府の旧士族への処遇を見かね、萩の乱を起こし処刑された。伊藤俊輔(いとう・しゅんすけ)1841~1909 享年69 庄屋下役の農家に生まれ、親子ぐるみで足軽伊藤家に養子入りした。利介とも称し、のちに博文と名乗る。 来原良蔵の紹介で村塾に入門。松陰から「中々周旋家になりそうな」と評されるが、在塾期間は短い。師の死後は高杉らと親しく、英国から帰国後、功山寺挙兵に加わった。維新後、政府の要職を歴任し、初代内閣総理大臣。八ルビン駅頭で凶弾に倒れた。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心

    親切このうえもない人たちだからである。 しかし、講演が終わって質疑に移ると、穏健な萩人の内面にひそむ歴史への誇りと先人への奥ゆかしい尊敬心がにじみ出てくる。こと歴史となると、人びとは熱く過去を語り現在に及ぶのである。なかでも「松陰先生」と必ず敬称をつけるのがならいの地では、松陰への敬愛の念が自然ににじみ出てくる人も多く、職業柄歴史上の人物を呼び捨てにする私などはいかにも“異邦人”めいた存在というほかない。それでも、外から来た人間、それもイスラムや中東を本来の専門とする学者の松陰論を虚心坦懐(きょしんたんかい)に聞いてくれるあたりに萩人の懐の深さがあるといえよう。 松陰の生きた時代は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への加盟交渉への参加すら逡巡(しゅんじゅん)し、円高・金融不安に揺れながら、まかりまちがえば沖縄県民の離反を招きかねない日米関係の歪(ゆが)みが進行する現在と共通する点も少なくない。 松陰は、外国人の圧迫で日本が消滅しかねない危機の深化のなかで、日本史と世界史が人びとの日常生活から外交安全保障に至る多領域で切迫した危機を最初に意識した日本人の一人である。焦りにも似た義務感 浦賀にペリーの黒船到来と聞くと、松陰は矢も盾もたまらず夜に船を出したが船脚は遅く、風も潮も思わしくなく翌朝10時にやっと品川に着いた。すぐに上陸し陸路で目的地に向かい、夜10時にたどり着いた。明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像(国立国会図書館蔵) この行動力こそ現代人が松陰から学ぶべき点である。船の方が理屈では早く着き、身体にも疲れが残らないはずだ。しかし自分だけの楽や、わがままを求めないのが松陰なのだ。 風も潮流も順調でなく思いや気だけはせく一方である。それでも、浦賀に寸秒も遅れずに見るべきものがあると信じるからこそ、自分の目で見届けたいのだ。何をおいても気迫が理屈に勝るのが松陰なのである。 自分の見聞が一秒でも遅れるなら、国の滅びもそれだけ早まると考えるのが松陰の発想であった。この焦りにも似た義務感が松陰に陸路をとらせ昼夜兼行の強行軍となった原因である。松陰も初めて見た蒸気船の威容に度肝を抜かれた。 松陰は、日本の台場(砲台)にある大砲の数もすこぶる少ないと地団太(じだんだ)を踏んでくやしがる。こうした混乱状況で松陰の師筋たる佐久間象山と塾生たちも多数集まってきたが、「議論紛々に御座候」と師たちも周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するありさまが手にとるように分かる。松陰が幕府の老中など門閥大名はもとより象山とも違うのは、国際情勢など冷静に分析し、何故に日本がかかる事態に陥ったのかを学び、何をなすべきかを検討するあたりであろう。松陰といえば熱情をすぐに連想するが、緻密な冷静さでも際立っていたのである。東アジアの国際戦略 松陰は、遅れた軍事力を抱えたまま国際政治のパワーポリティクスに対面した日本が外国軍艦の襲来に対処できる道筋を考えた。第一は西洋兵学の採用による軍事的近代化と貿易勧業による富国強兵への道である。第二は、「帝国主義の時代」が近づく19世紀半ばの東アジアで国際戦略を作りあげることだった。 松陰は、養家の吉田家が山鹿流兵学を教える師範であり、軍事戦略にも関心を示したのも当然である。吉田寅次郎こと松陰は、わずか10歳で藩校明倫館で兵学を講義し、11歳で御前講義をした神童の誉れ高い少年であった。それでいて才に溺れ傲慢になることもない。西洋式の大砲や軍艦の購入や製造から洋式訓練や陣立の導入、外国語教育の実施など説く方向は多岐に渡っていた。 松陰は人に向かって説教するだけでなく、自らも西洋兵法を学ぶことを決意した。懸案があれば、教師でありながら生徒として新たに学ぼうとするのだ。松陰の底知れぬ謙虚さはいつも向学心に結びつくのである。TPPの問題などに直面して狼狽する政治家に必要なのは、松陰のように「教えながら学ぶ」「学びながら教える」といった柔軟な姿勢であろう。歴史を学習する政治家 松陰は、黒船来航を機にめまぐるしく変転する幕末の状況を、世界史における西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を受けた日本の危機としてとらえた。 松陰は危機を抽象的な世界観でなく、歴史で人間に示された具体的な行為のなかで理解しようとした。純粋な理屈でなく事実に即して人びとにリアルに訴えるほうが、効果も大きく切実に納得してもらえると信じたからだ。 哲学的観念論でなく賢人や豪傑の仕事ぶりを実例で学ぶ作業のほうが、危機の説明として分かりやすいという主張は現代にも通じる。 松陰は代表作『講孟余話(こうもうよわ)』のなかで、いつも歴史書を読んで古人の仕事を学び自分の志を励ますことを勧めながら、「是亦(則)故而已矣の意なり」という有名な言葉を残した。「これまた故(こ)に則(のっと)るのみ」とは、自分の行いもすべて歴史の故事や偉人の振る舞いに学んだという意味にほかならない。しかし行動派でもある松陰は、西欧に侵略された清帝国やオスマン帝国が洋務運動やタンジマート改革の近代化を始めた動機にもまして、日本の行く末にもっと切迫感をもっていた。その結果、彼は守勢一辺倒でなく積極攻勢に出て侵略をはねかえすべきだと信じるにいたった。軍事政略と通商航海の結合 安政5(1858)年に入って修好通商条約の締結が日程に上ると、世上の論議もかまびすしくなるが、条約を拒否する主戦論者の説は古典的な鎖国論にとどまり、平和論者の航海貿易策は欧米諸国に屈従しかねない避戦論であり、一種の“ねじれ”が生じていた。松陰神社の桜=東京都世田谷区 この矛盾を解くために松陰は、「雄略」というアイデアで軍事政略と通商航海とを有機的に結合し、大攘夷(じょうい)や開国攘夷と称される遠大な戦略デザインを構想した。 彼のデザインは、大艦をつくって海軍を伝習調練し国内各地を往来して航海に習熟した後に、朝鮮・満州や清国とも交渉を始め、広東・ジャガタラ(ジャワ)・喜望峰・オーストラリアに居館をつくり将士を置いて、四方の情勢を分析しながら通商貿易で利をあげるというスケールの大きなものだった。吉野誠氏の要約に従えば、この事業を3年ほどで終わらせた後、米国のカリフォルニアに赴いて交渉に入り、日本にやってきたペリーら使節らの努力に酬いて条約を結べば、「国体」を失わずに列強争覇の世界で日本の独立を堅持できるというのが松陰の壮大な構想なのである(『明治維新と征韓論』明石書店)。 何というスケールの大きさであろうか。全然萎縮したところも卑屈な点もない。この構想は未完に終わったが、松陰独特の開国攘夷論は単純なアジア侵略の第一歩だったとは必ずしも言えない。松陰の未完の言説には少なくとも、明治政府成立から日清戦争や日露戦争に向かう時代の政治感覚との連続性だけで議論できないセンスや志が含まれているからだ。 政治外交の懸案解決策として武力攘夷や武力遠征だけに頼る愚をたしなめた松陰にとっては、むしろ東アジアからそれを越える大アジアの国々との連携や同盟さえ見えていた可能性も高いからだ。彼が生き永らえ大好きだった歴史への関心を、中国や朝鮮だけでなく、インドやイスラムの世界にまで視野を広げていたなら、同時代の欧米人とは異なる独特な歴史解釈を発展させていたかもしれない。松陰が欧米によるアジアやアフリカの植民地化の動きに単純に追随し模倣したとは思えないのだ。 29歳の若さで刑死した吉田松陰は、「空言」(抽象的言辞)よりも「行事(こうじ)」(具体的仕事)で考える歴史的思考法を大事にした孔子の言葉に何度も触れている。松陰は、孔子が歴史の名著『春秋』を作り、孟子も聖人と賢人の業績について事実を挙げながら具体的に称賛した面を高く評価したからである。「観察者」であり「行為者」に 政治と歴史を常に結びつけて発想した松陰は、歴史を学習すれば世のために2つの面で役立つと強調した。 第一は、歴史家が時事をきちんと遠慮せずに書くために、官僚も畏怖して不正をおこさないことだ。第二は、時事のプラスマイナスや施策の善悪をきちんと学べば、別の政策を考える場合にも大いに役立つからである。いまの政治家や官僚には是非に耳を傾けてほしい言葉なのだ。 松陰の考えは、歴史的な実例を手本にすれば宗教と世俗のいずれでも有益な効果をあげられると述べたチュニジア生まれのイブン・ハルドゥーンの言説にも似ている。『歴史序説』を書いた14世紀アラブの歴史家と19世紀の吉田松陰が時空を超えて問題関心を天才的に共有していた点は興味をそそられる。いずれにせよ、政治家と歴史家は、事物の観察スタイルにおいて似通った面がある。それは、過去と現在の人間のいずれを重視するかの違いがあるにせよ、人間の行為の「観察者」であると同時に「行為者」でもあることだ。 政治家は歴史家にもまして、自然科学のような外的な観察でなく、内側から理解する能力がないと務まらない職業なのだ。歴史家に要求されるのは、人びとや物事の動機・態度・意図・出来事を順序だてて整理できる能力である。そして、歴史で重要なポイントを無駄なく指し示せる歴史家の仕事は、政治をできるだけ複雑にせず紛糾させない政治家の営みによく似ている。私が最新著『リーダーシップ』(新潮新書)で強調したように、政治家に過去の偉大な歴史家の古典的書物に接してほしいと願うのはこの点にあるのだ。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    幕末の日本人に見る進取の気性

    のもうなずけよう。琉球王国の首里を訪問するペリー(出典「ペルリ提督日本遠征記(1857年版)」=霊山歴史館蔵). もちろん、オランダから情報が提供されていたこともあるが、ここでは幕末日本人による国際認識の事例として、嘉永3(1850)年に長州の萩から平戸、長崎、熊本に遊学した吉田松陰を取り上げてみたい。 松陰は遊学先で清国やオランダから持ち込まれた文献の漢訳本を片っ端から読破するが、その一つにフランスの砲将ペグサンが著した『百幾撤私(ペキサンス)』がある。そこには蒸気船の優位性とともに、ペグサン開発のボンベ・カノン(ペグサン砲)が紹介されていた。 従来の大砲は誤爆の危険もあり、軍艦に搭載する大砲の玉は内部に火薬を詰め込まない単なる鉄球だったが、新式大砲は火薬入りの玉を安全に発射できる。 若き兵学者は刮目(かつもく)して筆録した。「葛農(カノン)蒸気船は何方の風にも、又風なきも、皆意に従ひて港内に出入し得るなり。…水浅けれども渡行すべく、檣(ほばしら)を建てず、帆を揚げず、近きに至らざれば認め難し。故に盆鼈葛農(ボンベカノン)を備へ、敵に一驚を食(くら)はしむべし」と。 この時松陰は21歳、ペリー来航の3年前のことである。無名の若者がこれだけの情報を得ていたのだから、幕府の役人が知っていて当然なのである。 異なる文明に接して衝撃を受けながらも、一方で可能なかぎりの最新知識を身につけて対応した幕末日本人の進取の気性。──われわれもあやかりたいものである。(中村学園大学教授 占部賢志)関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち

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    志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒

    つ)する。かつ西は満州に連なり、北はロシアに隣する。国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗の歴史の地である。だが残念至極、自分はまだ東北を知らない」 だから、ゆくのだ-。 嘉永4(1851)年末(旧暦)、満21歳の吉田松陰は『東北遊日記』の冒頭にそう記している。 松陰が奥州の起点・勿来の関を越えたのは翌年1月23日のこと。ここに至るために彼は、長州藩のエリートコースから逸脱するばかりか、藩主を見限る脱藩という大罪をおかしていた。 旅の前半は雪また雪。《雪の深さ幾丈か測ることできず》とは会津から新潟に向かう山中の漢詩だ。 そして佐渡へ。金山の採鉱現場を訪ね、頑健な者でも数年で「体が動かなくなるか、死に至る」という過酷な労働環境を知る。 その後北上し、津軽では数々の義憤に駆られた。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいた。また近年、津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりだったからだ。「黒船来航」は約1年半後のことである。 松陰の旅は続く。 盛岡城の西北にある厨川(くりやがわ)の古戦場では、源氏と戦って「実に八百年前」に滅亡した俘囚(ふしゅう)(帰順した蝦夷(えみし))の長、安倍氏を追想。その後南下し、平泉・中尊寺で奥州藤原氏をしのんだ。 以降、南東に道を取り、石巻から塩竃(しおがま)神社、多賀城跡を経て仙台へ。松陰は当時、無名の若者で、見方によっては「お尋ね者」だった。しかし、みちのくはどこも彼に温かかった。仙台藩では藩校・養賢堂の学頭で、西洋学問所や庶民の教育所を開設した重鎮、大槻習斎が快く迎えた。■ ■ ■ 松陰の本名は「矩方(のりかた)」。通称は寅(大)次郎。「松陰」は雅号である。彼は別に「二十一回猛士」という雅号を「松陰」以上に愛した。 これは、生涯で21回の猛(「常識を覆す壮挙」とでも訳すべきか)を発する武士という意味である。松陰は、脱藩・東北行を猛の「第1回」とした。みちのくへの思いが史上の志士「松陰」を生んだといえようか。 松陰はこの旅を10歳年上の熊本藩兵学師範、宮部鼎蔵(ていぞう)、また博覧強記の元盛岡南部藩士で3歳上の那珂通高(なか・みちたか)とともに計画。長州藩は当初、松陰の東北行を認めていたが、直前になって「不可」とした。 同行する那珂が敵討ちを計画しており、松陰がそれに助太刀する覚悟であることを察知したからだとされる。松陰には脱藩するしか、友への誠を証明するみちはなかった。■ ■ ■ 《宮部痛哭(つうこく)し、五蔵(ごぞう)(那珂の変名)五蔵と呼ぶこと数声、余(松陰)も亦(また)嗚咽(おえつ)して言ふ能はず。五蔵顧みずして去る》 残念ながらNHK大河ドラマ『花燃ゆ』では割愛されたようだ。が、嘉永5年1月28日、福島県白河市郊外で、助太刀を申し出る松陰と宮部を振り切り、一人ゆく那珂。その描写は『東北遊日記』の絶唱である。 しかし…。 那珂いわく《屡(しばしば)機会を失》っている間に、南部藩の重臣だった敵(かたき)は失脚し、敵討ちはうやむやのうちに終わる。「武士の鑑(かがみ)」から一転、那珂は失望と中傷の的となった。 那珂の後半生は数奇である。1859年、安政の大獄で松陰が刑死するのに前後して南部藩に復帰、藩校教授に登用される。そして戊辰戦争では藩参謀格として、皮肉にも松陰の弟子たちが率いる「官軍」と刃を交えた結果、幽閉される。《遺恨、勤王の心撤せず(中略)受ける逆臣の名》とはその無念を詠んだ漢詩である。 その後、那珂は新政府の官吏に。「低い地位だったが、当時、文部省から出る教科書は一々那珂通高閲とあって、文部省の送り仮名の元祖だった」(金田一京助)ことで才能の片鱗(へんりん)をみせたが、明治12(1879)年、急逝した。51年と半年の生涯だった。■ ■ ■ 松陰と那珂の交遊は年々薄くなっていった。しかし、郷土史家、高野豊四郎さん(70)は「那珂と松陰は後々も友情を保っていた。進む道は違ってしまったが、通高はひとすじに道を歩む松陰を終生、認めていたはず」と話す。 松陰と那珂の「志士のみち」は対照的となったが、教育者としてはともに門弟に恵まれた。ご存じの通り、松下村塾からは幕末維新の英才が輩出。一方で「那珂門下」も偉才を発揮した。 その一人が原敬である。「平民宰相」となる前年、故郷・盛岡で開かれた戊辰戦争後50年の追悼式典で、彼は「逆臣」とされた人々の無念を代弁する格好で、「(東北人の)勤王の心は昔も今も変わらない」などと述べたうえでこう断言した。 《戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其(その)真相を語るものなり》◇ ◇ ◇陽気で草木も芽が出たいと思うが「おめでたい」なり 《不忠不孝の重罪人恙(つつが)なく今日帰着仕(つかまつ)り候》 脱藩から東北行を経て故郷に送還された嘉永5年5月、妹婿となる小田村伊之助-ではなく、門下生に送った吉田松陰の手紙だ。同じころ宮部鼎蔵には「天気晴朗だが内心憂鬱、でも時に持ち前の諧謔(かいぎゃく)を発揮している」としたためている。松陰の妹の文、後の楫取美和子 諧謔とは滑稽、ユーモアのこと。松陰はどんな逆境にあっても、明るさを失わない人だった。 「目というのは目玉の事ではない。目玉どもが元日から出たらろくな事ではあるまい。目というのは木の芽、草の芽の事じゃわい。冬至から一日一日と陽気(はるのき)が生ずるに従って草も木も萌(もえ)出づる。この陽気は物を育てる気で、人の仁愛慈悲の心と同様、天地にとっても人間にとっても好ましき気なり。ゆえに陽気が生じて草も木も芽が出たいと思うのが『おめでたい』なり」 これは安政2年元日、獄中から末妹の文(ふみ)-ではなく長妹の千代にあてた手紙。「あけましておめでとう」を説き明かした一節だ。 2歳下の千代は松陰と一番親しかった妹(文は13歳年下)。おそらく『花燃ゆ』の主人公「文」は、文と千代の2人を投影した人物像だろう。でも、「史実と違う」と目くじらをたてるのはやぼというもの。史上の名画『シンドラーのリスト』の名脇役「シュターン」も、実在した何人かの人物の「合作」とされる。 少々横道にそれたが、最後にもう一つ、お正月にちなんだ松陰の別の手紙を。以下は、やはり獄中から千代にあてた一節である。 「神前で柏手(かしわで)を打ち、立身出世や長命富貴を祈るのはみな大間違いなり。神と申すものは正直なる事、清浄なる事を好みたまう。それゆえ神を拝むにはまず己(おの)が心を正直にし、己が体を清浄にしてほかに何の心もなく、ただ謹み拝むべし。これを誠の神信心という」関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    今の日本人が誰よりも忘れるべきでない男

    【時空を超える偉人たちの一声 辞世のうた 田中章義】身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂どんな時代のどんな将軍よりも、どんな業績を成したどんな総理大臣よりも、今の日本人が忘れるべきでない男がいるとしたら、それは吉田松陰なのではないだろうか。 1830(文政13)年8月4日、萩城下松本村に長州藩士の次男として生まれてから、1859(安政6)年10月27日に亡くなるまでに、松下村塾の主宰者として、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義(あきよし)らを育てた松陰。ここでは単に文学や机上の学問のみならず、登山や水泳も実施していた。吉田松陰と2人の弟子の久坂玄瑞、高杉晋作を取り上げた修身教科書 自ら東北から九州まで足を伸ばして、現場現場を己の両目で見つめた松陰は、「飛耳長目(ひじちょうもく)」の実践者として知られている。飛耳長目とは、いかなる時も情報を収集し、然るべき未来の判断材料として役立てよ、という意味だ。 「百年の時は一瞬に過ぎない」「志を立て、それをもって万事の源と為せ」「志を実践していくためには人と異なることを恐れてはならない」「君たちよ、どうかいたずらに時間を過ごすこと勿(なか)れ」等、松陰の遺した言葉は今も古びることなく、胎動を続けている。 そんな松陰が幕府の大老・井伊直弼が推進した安政の大獄によって、捕らえられ、斬刑に処されたのが1859年10月27日だった。 自らの死を覚悟した松陰は、その前日に友人や弟子たちに向けて遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を書いた。「身は~」の歌はその冒頭に置かれたものだった。時に、本人が語り遺した三十一文字(みそひともじ)は、どんな長い評伝にも優り、人格と人柄を偲ばせる。 松陰は翌日(死の当日)、「吾(われ)今、国の為に死す。死して君親(くんしん)に背(そむ)かず。悠々たる天地の事、鑑(かがみ)照らす明神(めいしん)あり」という言葉も遺している。 家族あてには『永訣書』も綴り、この中に記された「親思ふ心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」という歌も、辞世の歌として名高い。 今一度、思い返したい。これらの歌を詠んだとき、吉田松陰はまだかぞえ年歳だったのだ。あの時代、20代・30代の青年たちが国を思い、世を思いながら、生命がけで事にあたろうとしていたのだった。こうした人々が本気で歩んでくれたからこそ、今の日本が存在している。 松陰の首を斬った人は明治17年まで生き、この時の松陰の様子を語り継いでいる。「悠々と歩み、首を斬る私たち役人たちにすら、御苦労様ですと一礼をしてくれました」。あまりに毅然とした立派な態度に思わず心を揺さぶられたそうだ。◇ たなか・あきよし 歌人・作家。1970年、静岡生まれ。第回角川短歌賞受賞。國學院大學神道文化学部和歌講座講師。TVコメンテーターも務める。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    松陰24歳 佐渡屋の長逗留から

    維新の激動で、高杉晋作や久坂玄瑞ら松陰の門下生の多くは、死んでしまった。このため、松陰の名前も一時、歴史から消えかかった。 それを発掘したのが蘇峰である。その点では、土佐の坂本龍馬と似ている。龍馬も行動家だったが、松陰の「行動」はもっぱら同志と知り合い、師を探すための旅であった。その足跡はハンパではない。 嘉永3年の九州北部一帯の旅からはじまり、わずか4年間ほどで、中国地方はもちろん、京、大坂など畿内一帯、東海道、中央道、東北と、北海道と南九州をのぞく、日本の主要地域を、ほぼ踏破している。東北では竜飛崎まで足をのばし、新潟では佐渡島にもわたっている。幕末には吉田松陰も滞在した仲村家住宅=大阪府富田林市 畿内を訪れたのは大和五條に住む儒者、森田節斎の塾で学ぶためである。ところが節斎は松陰が訪れたとき、所用で佐渡屋に行く約束をしていた。 松陰は五條から葛城山越えで富田林に入り、もっぱら佐渡屋で、節斎から厳密な文法に従った文章術の教えを受けた。萩にある家元には「節斎文律を論ずる精緻、毫厘(ごうりん)を析(ひら)き、而も大眼、全局を一視す、最も其の長ずる所なり」と感激したように書きおくっている。*  *  * 松陰は佐渡屋を「拠点」がわりにし、堺や岸和田まで足をのばした。行く先々で同じ志を持った武士たちと夜を徹して、論争した。 節斎もいくぶんかは、持てあまし気味だったらしい。なにしろ駕籠(かご)に乗った節斎の横にぴたりと伴走し、質問しつづけたほどである。 節斎が佐渡屋に長逗留したのは、同家の息子の結婚にまつわるモメ事を解決するためだったらしい。だが徳兵衛にとっては、節斎は「先生」だが、いつもぴたりとついてくる松陰はたんなる同伴者である。 徳兵衛は文化的な造詣も深く、空海の書や雪舟の画なども収集していた。寺内町でも文化サロンのような場所で、さまざまな文人が出入りしていた。 松陰について、佐渡屋の記録には、「長洲浪人吉田と申すもの」が長逗留したと記載されているだけである。 下アゴがほそくとがり、つねに激したようなつり上がった細い眼をした若者は、佐渡屋の邸内でも異彩をはなっていたはずである。酒造りの職人などは、「けったいな、やっちゃな--」とウワサしあっていたかもしれない。 大坂を離れた松陰は江戸にむかった。着いた直後、ペリーの黒船が浦賀に来航し、国交を開くことを求めた。松陰は驚愕(きょうがく)した。翌7年3月、伊豆・下田に再来航した米国艦船に乗り込もうとしたイキサツは、あまりにも有名なのではぶく。 このとき、萩から江戸に向かう途中の京で、松陰は1年ぶりに節斎とあった。松陰の渡航計画にたいし、節斎は「暴挙」だと諭した。だが松陰は無視し、のちに「先生には二度と会うことはない」という手紙を送りつけた。少々、無礼な態度である。 蘇峰は「彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり」と評した。節斎は、その革命性を見抜くことができなかったのであろう。(福嶋敏雄) 関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性