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    中国が仕掛けるオンナの「歴史戦」に断固対抗せよ

    杉田水脈(前衆議院議員)×河添恵子(ノンフィクション作家)宋美齢、アイリス・チャン、クマラスワミ……。米中を舞台とするオンナたちの策動で、日本は不当なレッテルを貼られてきた。私たちは同じオンナとして、日本人として、もう黙ってはいられない!!天安門事件(1989年6月)以前からの中国社会を熟知するノンフィクション作家の河添恵子氏と、国連へ乗り込み、慰安婦問題の嘘に果敢に斬り込んだ前衆議院議員・杉田水脈氏。保守の女性論客2人が世界での見聞・体験をまじえながら、日本は「歴史戦」にいかに臨むべきかを徹底討論した『「歴史戦」はオンナの闘い』が、PHP研究所より発売された。そこで今回は「中国が仕掛けるオンナの歴史戦」について、本書よりその一部を抜粋して紹介する。戦後70年の8月15日にオープンした「抗日戦争記念館」 河添 中国は上海閥のドン、江沢民が国家主席だった1990年代より、「愛国主義教育模範基地」と称した「反日拠点」を国内に設け、アメリカなどの華僑・華人団体とも密接につながり、韓国系とも連携し、アメリカを主舞台に「南京大虐殺」「従軍慰安婦」など、捏造の史実の拡散と戦争責任の追及に心血を注ぐ活動を展開しています。 現在、その中心的な海外拠点と言えるのが米カリフォルニア州サンフランシスコ市です。私は同市を基点にカリフォルニア州の広範囲を取材し、書籍や雑誌などで記事を発表しながら定点観測も続けてきました。そして恐れていたというか、やっぱりそうなったかという事態が2015年8月に報じられました。 杉田 サンフランシスコ市のチャイナタウンにできた、「抗日戦争記念館」の件ですね。 河添 そうです。中国国外で初となる抗日戦争記念館が、終戦70年の8月15日にオープンしました。中国語の表記は「海外抗日戦争紀念館」で、財団創設者で名誉館長は在米女性実業家で社会活動家の方李邦琴(フローレンス・ファン、Florence Fang)。海外初の抗日戦争記念館=2015年8月15日、米カリフォルニア州サンフランシスコの中華街 中国語と英語で併記されたA4のパンフレットの挨拶文には、「第二次世界大戦のあいだ、ナチス・ドイツに約600万人のユダヤ人が虐殺され、全世界に167カ所のユダヤ記念館や記念碑がある。一方、日本軍国主義により3500万人以上の中国人が抹殺されたが、海外に記念館は一つもない。これではこの悲惨な歴史を世界が理解できない」などと記されています。新たな「歴史戦」への宣戦布告 杉田 中国人だけで3500万人! ありえない数字です。 河添 「中国人同士で殺し合った死傷者数ですか?」ってね。「展示コーナー」の盧溝橋事件(1937年7月7日)から始まる展示パネルに何らリアリティはないのですが、記念館は将来的に地下階までフロアを広げる予定で、パンフレットには「戦争の遺産は世界各所にまだある。同館は現物の日本語の資料の収集も広く行っている。是非とも提供をお願いしたい」との呼びかけまで記されています。 開館にあたってはチャイナタウンの街頭で開幕セレモニーを催していますが、戦後70年を区切りに、新たな「歴史戦」への宣戦布告をしたのだなと私は受け取りました。 杉田 同感です。まさに新たな「歴史戦」が火蓋を切っていますね。カリフォルニア州ロサンゼルス郡グレンデール市に行った際、ユダヤのホロコースト記念館や博物館に慰安婦の展示コーナーを設けるといった話が進んでいると聞きました。「日本軍の侵略、さらには慰安婦の強制連行、性奴隷はユダヤのホロコーストに匹敵する、酷い戦争犯罪だ」と印象づけるためにね。 抗日戦争記念館の関係者には、日系三世のマイク・ホンダ下院議員の名前も含まれていますよね。 河添 そろそろ用なしかと思っていたのに、しぶとくて困ったジイさんです。その他、抗日戦争記念館の創設に関係した人物として、戦後に台湾へ逃げた中華民国陸軍上将で1919年生まれの郝柏村の名前もありますし、フライング・タイガー・ヒストリカル・オーガニゼーションのチェアマンの名前も記されています。郝柏村の息子、郝龍斌は台北市長や中国国民党副主席を務めるなど台湾政界のエリートです。 名前こそ記されていませんが、超大物の陳香梅女史、英語名ではアンナ・チェン・シェンノートも関わったようです。「海外抗日記念館の名誉議長」との記述もあります。 1930年代、日本軍と戦争状態にあった中国国民党政府を支援し、日本軍を攻撃するためのアメリカ空軍兵らによる義勇兵組織、フライング・タイガー(飛虎隊)を指揮したクレア・L・シェンノート将軍の妻だった女性です。すでに九十歳をすぎていますが、創設者の方李邦琴女史とのツーショットの近影も確認しました。 陳香梅女史は、私の見立てでは戦後の米中台関係、丁寧に表現しなおすと、アメリカの共和党と民主党、そして中華民国の中国国民党、そして中華人民共和国の中国共産党の関係構築に表で裏で奔走してきたナンバーワン・ロビイストです。 彼女の母方の家系は孫文側近の廖仲凱です。その息子で、共産党政権で華僑工作を一手に取り仕切った廖承志ともつながるわけです。中国の政治工作はオンナの使い方が巧み!中国の政治工作はオンナの使い方が巧み! 杉田 抗日戦争記念館は、「世界抗日戦争史実維護連合会」のサンフランシスコ支部が置かれていた建物ですよね。 河添 そうです。「世界抗日戦争史実維護連合会」の本部はカリフォルニア州クパチーノ市にありますが、サンフランシスコ支部が置かれていた建物をリフォームして、抗日戦争記念館としてリニューアルしました。建物の所有者は方李邦琴女史です。 1994年前後に発足した世界抗日連合会の英語名は、Global Alliance for Preserving the History of WWII in Asiaですから、中国名とはまったく違いますよね!  杉田 中国名と英語名の違いについて、私も以前、訪米した際に在住邦人の方からお話を伺いました。中国名には「抗日」とあるのに英語名にはその表現が含まれていないので、日本バッシングが目的だとわかっていないアメリカ人がほとんどだと。 河添 ホント巧妙というか、我々日本人にはわかりやすいウソ(苦笑)。アメリカ、カナダ、香港を中心とする世界中の30歳前後の中国系、韓国系、日系団体を結集させて世界抗日連合会を結成させた、といった内容を読んだことがありますが、結成の目的は、「日本政府に正式に謝罪させること」「人民はじめアジアの被害者すべてに補償を実施させる」「日本の歴史教科書の誤りを正す」「日本が再び不当な侵略行為を開始することを阻止するため、アメリカ、中国、日本および他の諸国で、過去の日本の侵略に対する批判が高まるよう、国際世論を喚起する」などです。 そして1997年、手始めに中国系アメリカ人のアイリス・チャンに『ザ・レイプ・オブ・南京』を書かせて、大々的に宣伝し、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りに反対する署名を全世界規模で数千万人集めたり、2012年9月には、日本政府による尖閣諸島の国有化に抗議する反日デモをサンフランシスコで指揮するなど、これまで数々の「実績」があります。米カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のロスアルトス市の小高い丘の上にある中国系米国人ジャーナリスト、アイリス・チャンの墓。「最愛の妻で母、作家、歴史家、人権活動家」。墓碑にはそう刻まれている=2014年11月 杉田 アイリス・チャンも世界抗日連合会のメンバーだったようですが、若くして亡くなりましたよね。 河添 公には自殺ですが、「他殺では?」との声もずっとくすぶっています。しかもサンフランシスコの抗日戦争記念館に、アイリス・チャンの足跡や彼女の著書の展示コーナーはあるのですが、中2階をさらに進み、「プライベート」と書かれたドアを開けて、階段を上った場所、つまり通常の参観コースから外れた、お蔵入り寸前のエリアにひっそりと─なんですよね。 杉田 すでに用済みってことでしょうね。「女子力」こそが鍵 河添 使い倒されて、おしまいってことかな。ここで注目しておきたいのはアイリス・チャンが中国系アメリカ人だったことのみならず、大学院卒の若き才媛だった点です。中国の政治工作は、オンナの使い方が実に巧みなのです。アピール度の高い美女がリクルーティングされ、適材適所で操られます。チャン女史は、自らの意志というより誰かに指図されてチャイナドレスを着たのではないかと思います。勝負服というか演技服ってことでしょうかね。 もしベテランのおじいちゃん学者や歴史作家が、『ザ・レイプ・オブ・南京』を発表していたら、いくらヤラセ本だったとはいえ、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラーリストに10週間も掲載されることはなかったはずです。 アメリカ社会から「中国人女性は、日本軍に酷い目に遭ったのね」的な同情をマックスで盛り上げるためには、「女子力」こそが鍵ってことなんです。 杉田 なるほど! 私も慰安婦問題に取り組むなか、「この問題は女性がやったほうがいい」とよく言われます。性の問題はどうしても「男が強者で女が弱者」というイメージがあり、広める側がそれを巧みに使っていることは徐々に気づいていましたが、「女子力」という視点は斬新です。国連も、私が奮闘している部署は左派女子の世界ですからね! 河添 これからも要所、要所、キーパーソンとして女性が登場しますよ! これが、我々の「女子会」ならぬ「女子対談」の肝になりそうです。 日本人男性は、とくに中国の政治や戦史を考察する際、妻やら愛人やらオンナが何をしていたのかがよくわかっていないというか、その視点が抜け落ちているように感じます。現代のハニー・トラップもそうですが、中国社会はいつの時代もオンナが実に上手く立ち回っている、表に裏に暗躍している社会なのですけれどね。 抗日戦争記念館にしても、いま申し上げたとおり、在米女性実業家で社会活動家の方李邦琴……まぁ、この方は現在すでに十分ご年配で80歳を超えたようですが、若き時代もあったわけですし、長年、サンフランシスコの反日活動のキーパーソンでありつづけているのです。 方は夫の名字で李が彼女の名字ですが、フローレンス・ファンがクリスチャンネームですし、「ファン女史」と呼ばせてもらいます。 ファン女史は若い頃から眼鏡がトレードマークのようですが、知的でスラッとしたなかなかの美女で、ここ一番のときに体の線にピッタリのチャイナドレスを身にまとい、中華民族を全面にアピールしています。胸に詰め物でも入れているかなと疑いたくなるほど、お年の割には胸の形もお美しい。アメリカ社会は、老婆でも「強姦されました」なんて自慢する社会ですしね。 杉田 男性の意識もですが、女性の意識も日本人とはかなり違いますね(笑)。 河添 日本は「カワイイ文化」、西洋社会は「セクシー文化」です(笑)。かわそえ・けいこ ノンフィクション作家。1963 年、千葉県松戸市生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、1986 年より北京外国語学院、1987 年より遼寧師範大学(大連)へ留学。1994年に作家活動をスタート。2010年に上梓した『中国人の世界乗っ取り計画』(産経新聞出版)は、ネット書店Amazon〈中国〉〈社会学概論〉の2部門で半年以上、1位を記録するベストセラー。主な著書は『世界はこれほど日本が好き №1親日国・ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」』(祥伝社)、『だから中国は日本の農地を買いにやって来る TPPのためのレポート』『豹変した中国人がアメリカをボロボロにした』(共に産経新聞出版)、『国防女子が行く』(共著、ビジネス社)など。世界の学校・教育関連の取材・著作物として図鑑(47冊)他、『エリートの条件――世界の学校・教育最新事情』(全て学研)などがある。『産経新聞』や『正論』『WiLL』『週刊文春』『新潮45』『テーミス』などで執筆。NHK、フジテレビ、テレビ朝日ほか、TVコメンテーターとしての出演も多数。ネットTV(チャンネルAJER、チャンネルくらら)にレギュラー出演中。40 カ国以上を取材。すぎた・みお 前衆議院議員。1967 年、兵庫県神戸市生まれ。前衆議院議員(1 期)。日本のこころを大切にする党(旧:次世代の党)所属。鳥取大学農学部を卒業後、住宅メーカー勤務を経て、兵庫県西宮市役所に勤める。2010 年に退職し、2012 年、日本維新の会から出馬し、衆議院議員初当選。従軍慰安婦問題など数々のタブーに切り込み一躍注目を浴びる。他にも子育てや歴史外交問題に積極的に取り組む。充電中の現在も、国際NGOの一員として国連の「女子差別撤廃委員会」「人権基本理事会」などで日本の真実を国際的に発信するなど、東奔西走の日々を送る。国家基本問題研究所客員研究員、チャンネル桜、チャンネルくらら、チャンネルAJERのキャスターを務める。先の著書に『なでしこ復活――女性政治家ができること』(青林堂)、『みんなで学ぼう日本の軍閥』(共著、青林堂)、『胸を張って子ども世代に引き継ぎたい:日本人が誇るべき〈日本の近現代史〉』(共著、ヒカルランド)。現在、『産経新聞Web』に「杉田水脈のなでしこレポート」を連載中。関連記事■ 日本の底なしの「性善説」が自ら招く罠■ 慰安婦問題に対するアメリカ人の対日批判が後退している実態!■ 政治家の世代交代が進めば日韓関係は改善するか

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    日本は今もGHQの占領下 共産党がいまだ党勢拡大できる理由

    ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士)どの局も同じような報道 40年以上前に初めて日本にやって来て、徐々に日本語がわかりはじめるようになったころ、最初に不思議だなと感じたことの一つが、日本のメディアがあまりにも共産党や社会党を持ち上げ、あるいはソ連や共産中国(PRC)を賛美していることでした。 アメリカでは、共産主義活動が連邦法で禁止されていますからね。日本は自由主義と民主主義を採用した西側諸国の一員であり、政府自体も安定した自民党政権なのに、なぜテレビや新聞は左翼ばかりを賛美しているのか、理由がわからなかったのです。 実際、テレビ放送でも、圧倒的多数の支持を誇っていた自民党の発言機会は少なく、社会党の主張に多くの放送時間が割かれており、自民党が何か一言発すると、社会党には反論をする時間が10倍ぐらい与えられている感じがしましたし、新聞媒体なども大半が左翼的な意見で埋まっていました。メディアはあからさまな意図をもって左翼思想を喧伝していました。その結果、日本人の多くは保守政権を支持しながらも、自由主義と民主主義の解体を目論む社会党・共産党に対して、それほど警戒感をもたなくなったのではないかと思います。強大な権力を背景に、戦後の日本の民主化政策を推し進めた連合軍総指令部(GHQ) その主な原因は、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)がWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を通じて、日本人に「自虐史観」と「東京裁判史観」を効率よく刷り込んだことでした。左翼人士は大手メディアや教育界、法曹界を通じて日本人全般を洗脳し弱体化させることで、わが世の春を謳歌することができたのでしょう。 他方、アメリカではメディアが非常に発達しています。ユタ州にある拙宅では、ケーブルテレビの基本契約をしただけで400チャンネルくらいの視聴が可能です。だからこそ、メディアに対して疑問を抱く習慣も発達しています。政治的見解などは、放送局によっていうことがバラバラなので、疑問をもたざるをえないという側面もあります。たとえば、CNNとFOXニュースを見比べたら、「どっちの話が本当なの?」と誰でも考えます。 一方の日本では、NHKとTBSがまったく違う見解を報じたりはしません。私にいわせれば、どの局も気持ち悪いくらい同じような報道ばかり行なっています。世の中ではもっとさまざまな出来事が起きているはずなのに、報じられるニュース内容はどの局も不思議なほど同じで、放送の順番までそっくりです。長いものには巻かれる日本人の感覚 日本人は、とにかくお人好しで騙されやすいのが最大の弱点です。「オレオレ詐欺」などという犯罪は日本人の「人の好さ」に付け込んだ犯罪で、日本特有のものといっても過言ではないでしょう。物事を疑う習慣のない人がパニック状態に追い込まれると、簡単に騙されます。これは日本人が、政治的プロパガンダに乗せられやすいことを意味します。 日本人のもう一つの弱点は、とにかく権威ある職業や組織(学者、医師、弁護士、大企業、大手マスコミなど)から発せられる情報であれば、ほとんど疑うことなく、すべてを信じる傾向があるということです。 このような、「お上」には逆らわず、「長いものには巻かれろ」という感覚は、決して日本人が、純粋無垢で従属的だったからではないと私は考えています。むしろ、かつての日本の権力者や大商人というものが、伝統的に庶民の信頼を勝ち得ていたからではないでしょうか。庶民は、権力者を信じて付いていけば決して悪いようにはならない、と感じていたのです。『古事記』の「因幡の白兎」、あるいは「海幸彦・山幸彦」などの神話、仁徳天皇の「民のかまど」の逸話、数多くある「恩返し」の昔話などから、日本という国は太古の昔から、「正直で誠実に、そして慈悲深く仲良く暮らしていれば、きっと良いことがある」と教えられ、それを信じることのできる社会が、現実に存在したのです。 このようななかで、歴代天皇はもちろんのこと、将軍や大名、あるいは武士にせよ、大商人にせよ、農村の長にせよ、世の中のリーダーは民の信頼を決して裏切ってはならないと考え、逆に民は、権威あるリーダーに全幅の信頼を寄せて精進しさえすれば、いつか必ず報われるというコンセンサスがあったのではないでしょうか。 こうした日本人の特性は、GHQにとって、占領政策を実行するうえで予想以上に好都合であったことでしょう。GHQにしてみれば、彼らがやるべき最初の仕事は、自らが「権威」になることでした。その結果、マッカーサーを頂点とするGHQは、天皇陛下に代わって新たな「神」となったのです。 戦後すぐに撮影された、昭和天皇とマッカーサーが一緒に並んで写った写真は、まさに「神の交代」という意味を無意識のうちに日本国民に植え付けたはずです。そして、新しい神であるGHQによる、邪悪で巧妙な日本解体作戦が、あまりにも功を奏した結果、戦後の日本は71年間も自虐史観に苦しめられ、汚名を着せられ、国家は計り知れないほどの損失に苦しんできたのです。なぜ左翼思想が広まったかなぜ左翼思想が広まったか 最近、日本共産党がなぜか人気だそうです。先の参議院議員選挙でも、民進党などの野党が軒並み議席数を減らすなかで、共産党だけは比例区5議席と選挙区1議席の計6議席を獲得。改選前の3議席から倍増を果たしました。共産党本部で開かれた中央委員会総会=9月20日午前、東京都渋谷区 これは、マスメディアが共産党を含む反・安倍政権的な野党連合を擁護するかのような報道スタンスを取ってきたことも影響していると思います。新刊の『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』(PHP研究所)にも詳しく書きましたが、日本の戦後の思想状況を一言で表すと、「GHQが残した負の遺産を左翼が徹底的に利用して、日本人を洗脳してきた」ということに尽きます。 左翼の人々は、日本の過去をすべて否定し、文化や伝統を軽視し、歴史を捏造し、社会のなかの価値観を徹底的に破壊することに専念したのですが、このことを今日になってもまだ、それほど実感していない日本人が多いことに驚かされます。 共産党を支持している人たちのなかには、性格も本当に穏やかで人間的な方もいます。物事の考え方が良心的なのです。そんな人たちと接していると、「まあ、共産党とはいっても、旧ソ連やPRCなんかとは違うのだろうし、この人たちはいい人だから、少しは応援してもいいかな」という気になるわけです。 共産党をそうやって支持する人たちは、非常に良心的であり、また、あまりに純粋無垢であるがゆえに、一部の確信犯的共産主義者(国家解体を目論む者たち)に騙され、利用されているのです。 つまり、良心的な左翼人士の大半は、共産党の正体がわかっていないのです。 良識ある日本人を無意識的で無自覚な左翼思想へと洗脳したのは、戦後のメディアです。GHQがつくり上げた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」を、占領中は全面的に受け入れるしかありませんでした。しかし、GHQの占領が終わったあとも左翼思想を日本に蔓延させたのは、メディアの大罪です。 たとえば、大手メディアは今日も、60万人もの日本人が違法に拘留され、塗炭の苦しみを味わったシベリア抑留や、満洲におけるソ連軍の鬼畜のごとき行動について、ほとんど報道しません。占領時代に報道を禁止されていた事項だからです。それにもかかわらず、やってもいない慰安婦強制連行や、嘘にまみれた南京大虐殺なる問題については、徹底的なキャンペーンを張るのです。 こんなマスコミに71年間も毎日洗脳されつづければ、良心的な人が祖国を愛さず、左翼的になってしまうのは致し方ないことです。そしてじつは、WGIPの実施者たちそのものが共産党と同根なのだ、という点を認識する必要があります。 日本弱体化をめざしたWGIPは、GHQの民政局に入り込み、日本を骨抜きにする日本国憲法をつくった共産主義者たち(ニューディーラーたちを含む)が実施したものです。だからこそ、共産党が狙っていた日本の「国体」の破壊、すなわち皇室制度とそれに由来する日本人の古き良き国民性の破壊と、完全に合致していたのです。 日本国憲法の原案は、昭和21(1946)年2月13日に、松本烝治国務大臣が外相官邸において、GHQ民政局のホイットニー准将らから「マッカーサー憲法草案」として渡されたものが最初ですが、松本はその幼稚な内容に驚愕。さっそく幣原喜重郎首相にその内容を報告し、「総理、じつに途方もない文書です。まるで共産主義者の作文ですよ」 と伝えています。娯楽化した報道番組娯楽化した報道番組 共産主義とか左翼思想とかいわれても、今日のほとんどの日本人は、その実態に対しては無頓着です。そもそも「外来種」である共産主義の思想に日本人の考え方が合致するわけがないのですが、なぜこんな思想が今日もまだ日本国内に残っているのかということを、考えなければなりません。 その最大の原因の一つは、繰り返しますが、マスメディアです。「慰安婦強制連行誤報問題」を引き起こした『朝日新聞』をはじめ、日本の新聞がそうとうに偏向している事実は、ようやく国民の常識となってきましたが、日本人洗脳工作においてメディアを最大の道具として活用したのがGHQでした。NHKを使って『眞相はかうだ』など一連の戦争プロパガンダ放送を流し、その方針をほとんどの民放各局や新聞などのメディアが今日まで維持してきました。そんな71年間の洗脳工作は、GHQが予想した以上の効果を発揮しましたが、そこは共産主義者や、それに影響を受けた左翼人士が跋扈する世界でした。 本来、メディアの最大の役割は、事実を事実として、余計な色を付けずに報道することですが、戦後のメディアの多くはGHQの影響を受けたせいで、そんな基本的な事さえできなくなってしまいました。その理由の一つは、これまで述べてきたようにメディアを左翼人士が牛耳ったからにほかなりませんが、それ以上に報道番組が「娯楽化」したということもあると思います。 報道番組を最初に本格的な娯楽に変えたのは、おそらくは久米宏氏だったと思います。久米氏は1982年から始まった日本テレビ系列の『久米宏のTVスクランブル』で、日本国内のさまざまなニュースを取り上げ、それに笑いを交えることで大きな視聴率を得ました。私もかつて、TBSの『サンデーモーニング』に放送開始から10年間レギュラー出演していました。その当時は、みんなでかなり自由かつ真面目に議論をしていたことは間違いありません。 これはある意味で、テレビ界の革命だったのかもしれません。時代の風雲児のような久米宏さんは、少しでもニュースを面白くさせ、視聴者を楽しませようとしたのでしょう。結果として視聴率が良かったせいもあり、それが同時に、日本の報道番組全体が徐々に娯楽化するきっかけになったのだと思います。 一方、アメリカの主要な報道番組では今日でも、コメンテーターが意見を述べるのは、特定の問題に限ったコーナーの中だけで、基本的にはキャスターだけが粛々とニュースを伝える形態を崩していません。求められる自浄作用 私自身がTBSの『NEWS23』への出演を依頼され、インタビューに応じたのですが、信じられないほど不快な思いをさせられました。詳しくは新刊の『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』を参照していただきたいのですが、この事件をきっかけとして、私は任意団体である「放送法遵守を求める視聴者の会」の呼びかけ人の一人として名前を連ねることになりました。 この団体は、国民主権に基づく民主主義の下、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の「知る権利」を守る活動を行なう、というのが主な趣旨です。 間違いのないように付け加えますが、この団体には特定の政治的思想はありません。たとえば共産党支持者のように、私や他のメンバーと異なる政治的主張をもつ人であったとしても、フェアに情報が出されることに賛同されるのであれば大歓迎です。 TBSのみならず、日本のマスコミの多くはあまりに偏向しているので、「放送法遵守を求める視聴者の会」の活動はむしろ、いまの日本社会には絶対に必要だと私は信じています。求められる自浄作用 マスコミは「第4の権力」ともいわれるほどの影響力をもっています。だからこそ、反省すべきはきっちりと反省するという自浄作用がなければ、やがてテレビそのものが、その傲岸不遜さゆえに社会から置き去りにされる日がやがて来るだろうと思います。 インターネットとともに、ツイッター、フェイスブックを含むソーシャルメディアの発達で、かつてマスコミが謳歌した言論統制社会は、急速に過去の遺物になっています。いまではもはや、嘘や隠し事が通用しない社会になっているのです。 人間というものは、限られた、一方的な情報にだけ触れていると、結局、それを信じて流されてしまう生き物です。全体主義とは、そういった大衆の無知を利用し、さらなる愚民化政策で社会を牛耳ろうとする考え方です。最近のテレビ番組はあまりにもバカらしく、低俗なものが増えており、日本国民をターゲットとした愚民化政策がますます強化されているような気がしてなりません。 大手テレビ局は視聴率主義に走るのではなくフェアで公正な番組づくりや、教養度の高い内容を日々追い求めてほしいものです。 マスコミが、自らのあり方に大きな疑問をもち、少しでもそれを是正して、もっと真面目に戦えるコンテンツをつくろうということになれば、日本のマスコミの質はもっと上がるでしょう。その結果として、日本国民はソフト面でもっと強い社会をつくることができるはずです。『眞相はかうだ』の検証を『眞相はかうだ』の検証を 私が最初にやってほしいと願っているのは、NHK自身によって行なわれた、『眞相はかうだ』に関する検証ドキュメンタリー番組です。GHQが台本を書き、NHKが流した『眞相はかうだ』の内実をすべて検証してほしいのです。題名は「『眞相はかうだ』の真相」というのが面白いですね。 NHKは台本などの1次資料をすべてもっているわけですし、当時はGHQの命令に抗することができなかったという視点でもまったく構いません。それが事実だったのですから、そういう方向で検証すればよいのです。 しかしその一方で、『眞相はかうだ』が戦後日本人の歴史観に多大な影響を与えたという事実を、しっかりと指摘してほしいのです。『眞相はかうだ』はのちに書籍化されています。それはいま、国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」のデジタルデータになっており、ネットでも内容を読むことができます。本の制作者として、日本放送協会ではなく、「連合軍総司令部民間情報教育局編」ときっちりと書かれていて、誰でも無料で閲覧が可能です。 もし、NHK自身がそんな検証番組などつくれないというのであれば、民放でも構いません。NHKが映像や資料協力をするというかたちでもよいのです。 これができれば、「メディアにおける戦後」は初めて終わりを告げると思います。逆にいうならば、こういったものをつくれないうちは、日本のメディアはまだGHQの占領下にあるのに等しいのです。 まともなメディア人であれば、自分たちがまだ71年前の占領軍に思想を支配されているということに気付くはずです。自分の祖国である日本や、それを命懸けで守ってくれたご先祖様を貶める行為を無自覚のまま続けている事実に愕然とし、それを悔しいと感じるはずです。 WGIPは、メディアが国民に対して平気で嘘を語ることを覚えさせ、またそれを継続させてきました。いまこそ、高い意識をもつメディア人が立ち上がり、自らの意識がいまだにGHQに占領されている事実を悟り、それを克服していただきたいのです。若いプロデューサーのなかには優秀な人も多いのですから、ぜひ、それらをやっていただきたいと思います。ケント・ギルバート(Kent Sidney Gilbert) 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ生まれ。1971年に初来日。1980年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は『不死鳥の国・日本』(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。関連記事■ 【危ない!韓国】日韓合意というデタラメ■ 韓国は日本のストーカーだ!■ 中国のチベット人虐殺こそ世界記憶遺産に登録せよ!

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    GHQの思想改造から日本を「解放」できるのは安倍首相しかいない

    した。 安倍談話は「歴史総括として、極めて不十分」で、「多くの国民と国際社会が共有している当たり前の歴史認識を覆す無理」(『朝日新聞』)を通そうとしたもので、「すでに定着した歴史の解釈に異を唱え、ストーリーを組み替えようとする歴史修正主義からきっぱりと決別」(『毎日新聞』)すべきだというのは、日本は自らの歴史の解釈権を放棄したまま戦勝国の歴史解釈に従う「敗者の戦後」を今後もずっと歩き続けよ、といっているに等しい。 日下 「すでに定着した歴史の解釈」とは何だと(苦笑)。 上島 これらの社説に共通するのは、戦前日本の歩みと大東亜戦争の評価を「すでに定着した歴史の解釈」に委ね、それに従うことでしか日本は国際社会に生きられないという現状追認で、GHQの検閲に従って生き残った新聞社の自己肯定と重なっています。『産経新聞』だけが「謝罪外交の連鎖を断ち切れ」と主張しましたが、いったい日本人はいつまで「敗者の戦後」を引きずるのか。 日下 たしかに東京裁判の「諸判決」を日本は敗戦の結果として受け入れましたが、裁判を主宰した戦勝国の歴史観を是としたわけではない。「すでに定着した歴史の解釈」とは、戦勝国がその利益と優位を永続させるために自己都合丸出しでこね上げた歴史の解釈でしかない。 上島 その無理を彼らも承知しているから、折あるごとに敗者にそれを認めさせる政治的な作業を行なう。歴史修正主義というレッテル貼りがその1つですが、日本人はいい加減、「平和を愛する諸国民」の存在という幻想を捨て、国際社会では実際に銃砲弾が飛び交わなくとも、自国優位を確保するために熾烈な情報戦や宣伝戦が繰り広げられているという認識をもたなければいけない。 日下 彼らの解釈の範囲でしか物を見たり考えたりできないとすれば、それは歴史のイフを禁ずることで、歴史について「イフを許さない」というのでは、歴史から教訓を導き出すことがあってはならないといっているのと同じです。そして、このとき大切になるのが、拡散思考なのです。「優位戦思考」といってもよい。 優位戦は、攻めることも守ることも自在。戦いのルールから、勝敗や和平の定義まで決められる立場から仕掛ける戦いです。一方、劣位戦はそれらのイニシアティブがない立場からの戦いです。「日本は悪かった」「日本は間違っていた」というのは劣位戦思考から出てくる答えでしかなく、優位戦思考から歴史のイフを考えると別の答えが出てくる。そして、未来の日本に必要なのは、日本人の可能性を広げる別の答えなのです。 日本人は歴史の解釈においても、優位戦思考を取り戻さなければならない。仮に侵略戦争をしたというのなら、それは日本だけではない。人類の歴史を見れば、強国はみんなした。問題は強いか弱いかだけで、強国で自分より力の劣る国に手出しをしなかった国は、1つとしてないといってもよい。 かつてある機会にそう話したら、同席していた当時の大来佐武郎外相が、「君のいうとおりだが、日本は直近にやったから最も罪が重い」といったのですが、これは、まったくの間違いなのです。 たとえば、日本が大東亜戦争後ベトナムから撤兵すると、宗主国だったフランスはまた軍隊を送って植民地支配を継続しようとした。すでに独立を宣言していたホー・チ・ミンが抵抗し、ディエンビエンフーでフランス軍を破って独立を果たすのですが、フランスの侵略は日本のあとです。日本がインドネシアから引き揚げたあとにも、オランダが軍隊を送って独立宣言していたスカルノ大統領と戦っています。オランダのほうが新しい侵略者です。 アメリカも日本が去ったあとフィリピンに入っています。フィリピンはすでに1943(昭和18)年に日本が解放を手助けして独立国となり、「われわれは独立国家である」と主張しました。ところがアメリカは「日本による独立は承認しない」といって再びフィリピンを植民地にし、翌年アメリカの手で独立を与えるという手段を取りました。アメリカはこの経緯のなかで、ルーズベルトが署名した「大西洋憲章」に謳う民族自決の尊重や領土不拡大を自ら無視したわけで、その意味では日本より新しい侵略者であるといえる。 ビルマとイギリスの関係も同じで、こういうことは「日本は侵略戦争をした」と一方的に非難されたときには、ぜひ思い出さなければいけない。それをいっても国際社会に通用するのか、というのは、日本が現に国際社会の有力な一員であることを忘れ、劣位戦思考に陥っている表れでしかない。物事を相対化し、自らの立場を少しでも優位に置こうとするのは、国家の振る舞いとして当然です。 上島 いかにも日本は大東亜戦争でビルマやマレー、インドシナ、フィリピンなどで戦い、そこで現地の人びとを戦火の巻き添えにしたことは否めませんが、日本はけっして現地の人びとを敵としたわけではない。そこに居座っていたヨーロッパと、アメリカと戦った。「アジア諸国に迷惑をかけた」という場合にも、その具体的な意味を踏まえる必要があります。 安倍談話に関する政府の有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は、「日本は侵略戦争をした」「安倍首相に『日本が侵略した』といってほしい」「日本は侵略して、悪い戦争をした」といった発言を重ねましたが、東大名誉教授の伊藤隆氏が、ゼミの教え子でもあった北岡氏に向け、こう述べています。「歴史上『侵略国』という烙印を押されたのは『敗戦国』ドイツと日本だけです。(略)侵略の定義というものはない。だから、唯一成り立ちうる定義があるとしたら、『侵略国とは戦争に負けた国である』。それしかない。侵略国イコール敗戦国。また、『侵略』を定義するなら、『侵略とは敗戦国が行った武力行使である』。それ以外に言い様がない」(『歴史通』2015年5月号「北岡君の『オウンゴール発言』を叱る」) 私もまた、「敗者の弁明は通らない」という「引かれ者史観」で日本全体を染め上げてくれるなといいたい。 戦後の日本人がそうした歴史観に立つかぎり、大東亜戦争は、「悪が正義に勝てるはずもない。無謀で、愚かな戦争だった」と断じざるをえないことになります。なぜ父祖たちは戦わざるをえないと考えたのか。さらに、戦う決断をした以上、そこに勝機を見出すことは本当に不可能だったのか。こんな問題意識から対談をお願いし、1冊にまとまったのが『優位戦思考に学ぶ―大東亜戦争「失敗の本質」』(PHP研究所)ですが、視点を変え、発想を広げて「劣位戦思考」ではなく「優位戦思考」から日本の戦争目的や戦争設計を考えてみると、あの戦争にいったいどんな可能性と意味が浮かび上がってくるか。これを日本人自身が知ることなく戦後を生きてきたという気がします。戦争目的に照らして大東亜戦争を考察する戦争目的に照らして大東亜戦争を考察する  日下 戦後の日本人の多くは、戦争を「道徳」や「個人の良心」の範囲で考えています。戦争について論じること自体をタブー視し、ただただ平和を希求し、呪文か念仏のように「戦争反対」と唱えていれば、戦争は起きないと思い込んでいる。GHQの思想改造の影響といえますが、これを目の当たりにしたのが先ごろの安保関連法制をめぐる“騒動”で、戦争の歴史を考えるときに「史実」を離れ、たんなる“道徳の教科書”になってしまっていること。安保法制を「戦争法案」と言い換え、中身の吟味もせずに非難するほうがかえって危険だと感じられないこと等々、今日の日本人には戦争について考える予備知識がまったくない。国会議事堂前で、安保法案反対を訴える人々=2015年7月15日 戦争と軍事を知らずして外交は語れず、平和がいかなる状態を指すのかもわからない。戦争の歴史を知らずして、未来の日本の設計はできない。大東亜戦争の教訓はそこに繋がらなければならないのですが、先に述べたように「すでに定着した歴史の解釈」などというものに拠っていては、戦勝国に隷従し続ける「反省」と「謝罪」、自らの独立意志の放棄につながる「不戦の決意」がその疑いようのない結論となってしまう。そうではなくて、次なる戦いに勝つための教訓を私たちは導き出す必要があります。 実際に銃砲弾が飛び交う戦争であれ、相手の心理や感情に働きかける情報戦、宣伝戦であれ、戦争は設計して行なうものです。戦争は外交の失敗から起きるとは一概にいえません。クラウゼウィッツは『戦争論』で「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」と述べましたが、戦争の開始から終わりまで政治はずっと機能していなければならない。戦争目的を決定するのは政治であり、政治の都合によって戦争は中止になったり、続いたりする。 上島 「戦争は他の手段をもってする政治の継続」と考えるかぎり、戦いのための戦いはあってはならない。戦争はただの大量殺戮、大量破壊であってはならず、政治目的を達成するための手段である。したがって戦争の勝敗は武力の優劣だけでは決まらないこともある。軍事的に負けても、政治的な目的を達すれば戦争に勝ったことになる。こうした視点から大東亜戦争を見ると、勝つ見込みのない無謀で愚かな戦争だったと結論づけるのは単純にすぎ、戦争目的に照らしての考察がなければならない。 日下 大東亜戦争で最大の問題は、政治が機能しなかったことです。詳しくは単行本全編を読んでいただきたいが、開戦の詔書に記された戦争目的は「自存自衛」でした。当時の日本は、繊維製品を輸出して稼いだお金で原材料と機械を買っていた。ところが、関税障壁でアメリカ、カナダ、それから南米までが日本製品に高い関税をかけた。 政治的、軍事的に支配しなければ商品の輸出もできないと日本人に思わせたのは、アメリカの保護貿易が原因で、自由貿易をアメリカが維持するといえば、日本は戦う必要がなかった。 上島 日本に開戦を決意させたのは、1941(昭和16)年11月に米国務長官コーデル・ハルが突き付けた「ハル・ノート」にあるというのが一般的な受け止め方です。 日下 あまりに挑発的、非妥協的な内容から、大本営政府連絡会議で「日本が臥薪嘗胆で行く場合、米国が攻撃してくるとは思われぬ」と訴えた東郷茂徳外相ですら「米国政府に対日交渉への熱意なし。唯日本に全面的屈服を強要するもので、(これを受け入れることは)日本の自殺に等しい」と憤慨した。日本を戦争に引きずり込みたいと企図するアメリカにまんまと嵌められたという話にもなってくるわけです。 上島 同年8月1日、アメリカが主導してイギリス、オランダも加わっての対日全面禁輸措置がありました。石油をはじめ資源が入ってこない。このままではジリ貧で、戦うならいましかないと日本は追い詰められた精神状態で、とうとう堪忍袋の緒を切った。 日下 たしかに「満洲国と汪兆銘政権の否認」「支那や仏印からの即時全面的無条件撤兵」「日独伊三国同盟の廃棄」などを要求したハル・ノートについては、東京裁判でパール判事が「こんなものを突き付けられたらモナコやルクセンブルクといえども銃を持って立ち上がるだろう」といったあるアメリカ人の言葉を引いて、その非を指摘したほど特異な外交文書でしたが、もはや妥協の余地なしと開戦に踏み切ったのは、心情的には理解しても反撃の手段としては単細胞だったと思います。 日本には、その時点でもいくつもの選択肢がありました。追い詰められた戦争というのは気分の問題であって、冷静に現状と彼我の国力を考えたうえで、軍事力行使の目的とその設計さえすれば、米英相手ではなくオランダ相手の限定戦争で「自存自衛」は可能だった。それがなぜできなかったのかという反省は不可欠です。 上島 政治と軍事の問題ですね。戦前は軍部が暴走したというのは簡単ですが、ではその暴走の中身は何か。日清、日露戦争を経て、当時、世界の大国になった日本がその国家運営を誤ったとするならば、それは政府や軍において具体的にどんな誤りであったか。明治国家の対外戦争は戦う相手を選べませんでした。日露戦争は大東亜戦争よりもっと無謀だったと思いますが、日本人が「奴隷の平和」を拒否するかぎり避けえぬ戦争でした。しかし大東亜戦争は、対日禁輸措置で経済的に締め上げられていても、米英相手の一大戦争を起こさずに、限定的な戦争で生存を確保することは、不可能ではなかった。 開戦の詔書に明らかなように、大東亜共栄圏の確立は当初の戦争目的とは直接結び付いていません。第一義は日本の「自存自衛」で、そこに公明正大な理念を掲げようと努めたのは重光葵でした。彼は「日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して、各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現がすなわち戦争目的であり、この目的を達成することをもって日本は完全に満足する」と訴えた。これは大西洋憲章に対抗する意味もありました。 重光はもともと「日本自身の破綻になることがあまりに明瞭である戦争への突入を、最後の場面においても阻止する努力をしなければならぬ」と考え行動した外交官ですが、戦うことに決した以上、今度は「堂々たる主張がなければならぬ」と覚悟を固め、さらには、この戦いに敗れた場合、日本の戦争には「アジアの解放と独立」という歴史的意味のあったことを戦勝国の掲げる正義に対置する必要があると考えた。これはこれでギリギリ1つの戦争設計で、日本の名誉のための布石だったと思います。組織の利益あって日本国家なし 組織の利益あって日本国家なし  日下 日本の戦争目的を第1に「自存自衛」、次いで「東亜の解放」の2つと考えると、軍人・民間人合わせて約310万の死にどんな意味があるか。たしかに大東亜戦争には数々の過誤や失敗がありましたが、1943(昭和18)年11月に開かれた大東亜会議で発せられた大東亜共同宣言に謳われた「共存共栄」「互助敦睦」「伝統尊重」「経済発展」「人種差別の撤廃」の精神はいまや世界に伝播し、現実の国際社会に公然と人種差別のできない時代を到来させた。これは物理的な勝敗を超えた日本の勝利です。戦勝国が何といおうとも、人種差別が公然とできなくなった新しい世界をもたらしたのは、その引き金を引いたのは、この世界にあって日本という国です。 もう少し厳密に、国内における反省を込めていえば、その勝利は、政治の機能不全、陸海軍の「軍益」あって国家なしといった当時の状況のなかで、「必死」の特攻作戦にまで殉じて究極の奮闘をした日本の庶民の力だと私は思っています。 上島 大雑把な物言いになってしまいますが、指導者の不作為や過怠をそれぞれ現場の庶民が救ったと私も思います。本来、国家運営に献身することが求められた政官軍の秀才エリートが、どれほど私欲や保身に走ったか。卑怯な振る舞いをしたか。大東亜戦争について、日本の庶民の命と力を活かし切れなかった指導者の過誤は不問にしてはならず、将軍・参謀たちの責任論は、同胞相食むなどということではなく、けじめをつけなければならないと思います。 日下 昭和の陸海軍や官僚機構の問題は、今日の組織論にも通じます。国家として制度が整うにつれ学歴による選別、エリート養成コースが敷かれ、それ以外の脇道からは入れず登用されない硬直性と横並び意識が確立されていった。当然ながらエリートにも能力差はある。しかし「もう上り詰めたのだから、そこでさらに競争はしたくない」という馴れ合い、庇い合いが常態化すると、組織はそれ自体の温存を第1に考え、何のための組織かという目的が形骸化し、まさに「組織(軍や官僚機構)の利益あって日本国家なし」になってしまう。 また、そうした組織における秀才は、一定の手順にそった課題はソツなくこなしますが、未知の事態には対応できない。わが国の歴史でその未知は何かといえば日露戦争後にわが国が到達した国力に見合う優位戦思考であり、劣位から優位になったときにどうすべきかの学習と経験が不足した。日本が不幸だったのは、学歴がなくとも、また学習しなくとも対応できる直感力や「暗黙知」をもった人間(庶民)を見出し、登用することに意を注がなかったことです。安倍首相には優位戦思考がある 安倍首相には優位戦思考がある  上島 その意味で跳躍して現在を見ると、安倍首相はまさに学歴エリートではない強みと個性をもっていますね。 日下 東大卒のエリートは安倍さんを見下しているところがあるかもしれませんが、安倍さんには優位戦思考があります。その実践を一例だけ挙げておきましょう。 2007年6月、ドイツのハイリゲンダムで開催された主要国首脳会議で、安倍首相は中国に胡錦濤主席との会談を申し入れた。元台湾総統の李登輝氏が来日する予定を知っていた中国側の返事は、「李登輝が来日するのなら首脳会談の雰囲気は醸成されていない」というものでした。安倍首相は「雰囲気が醸成されていないことが、首脳会談ができないという意味ならば、李登輝さんの来日は変えられませんから、また別の機会にしましょう」と投げ返した。すると「いや、こちらは会談をやらないといっているわけではない」、次いで「李登輝が公開の場で講演するのは止めさせてほしい。その場に報道陣を入れないでもらいたい」という条件を出してきた。安倍さんは、「日本には言論の自由も報道の自由もあるから、それはできない。会談はまたの機会で結構です」と答えた。そうすると、最終的に彼らは何事もなかったかのように首脳会談の受け入れを伝えてきた。 これについて私は、ある雑誌の対談で直接、安倍さんに確かめたのですが、安倍さんは「経緯はともかく」と断りながら、こう語りました。「胡錦濤主席との会談が予定されていた朝、李登輝さんは靖国神社に参拝された。今度はわが外務省がびっくりして、これは会談がキャンセルになるかもしれないといってきた。しかし、胡錦濤主席も私も、何事もなかったかのように会談を行ない、李登輝さんに触れることなく相互に必要な話をした。そのとき私の秘書官が嘆息しながら口にしたのは、“ああ、こうやってこれまでは中国の要求に膝を屈してきたんだなあ”という言葉だった。偽りない彼の実感だったろうが、いってみればこれはゲームなのです」 昔もいまも国際政治はある種のゲームです。そうしたゲーム感覚が、劣位戦の経験しかない人間にはわからない。彼らには教科書にない戦争や紛争処理のための設計(ゲームプラン)はできない。 上島 大東亜戦争の教訓は、明治開国以後、劣位戦を勝ち抜いてきた日本が、今度はいかに優位戦思考をもつかということですね。 日下 そうです。優位戦思考による国家運営です。関連記事■ 優位戦思考に学ぶ 戦後70年と大東亜戦争■ 「優位戦思考」で強い日本を取り戻せ■ 沈む欧州、崖っぷちの米国、そして日本が“独り勝ち”?

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    日本の左翼が国連という権威をバックにした反日活動強化中

     何だか最近、国連がいやに日本に厳しい。たとえば昨年10月、ユネスコの世界記憶遺産に中国の申請によって、いわゆる「南京大虐殺」が登録された。そこでどれくらいの人が死んだのかといった議論は未決着のまま、「世界の重要な記憶遺産の保護と振興を目的に」(文部科学省ホームページより)運営されている世界記憶遺産が“お墨付き”を与えたのだ。中国・南京市内の「南京虐殺記念館」で行われた「南京事件」の追悼式典 同じく昨年10月、国連の「児童売買、児童買春及び児童ポルノ」特別報告者のマオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏が来日。記者会見で「日本の女子学生の30%は援助交際を経験している」と発言し、物議をかもした(後に「13%」と訂正)。 極めつけは今年3月、国連女子差別撤廃委員会が、皇位継承権を男系男子に限定する日本の皇室典範について「男女差別である」とする勧告書を出そうとした問題だろう(これは日本の国会でも「おかしい」といった声があがり、同委員会の最終見解には盛り込まれなかった)。 ほかにも同委員会は、いわゆる「従軍慰安婦」問題で元慰安婦への金銭賠償や公式謝罪などの「完全かつ効果的な賠償」を行うことも要求している。 これら国連の見解は著しく公平性を欠いているようにしか見えない。しかしなぜ、国連はここまで日本に厳しいのか。「南京や慰安婦の問題がここまで大きくなったのと、構造はほとんど同じです。日本の左派的な活動家が足しげく国連諸機関に通い、そこで日本のネガティブなイメージを拡散している事実があるのです」 そう語るのは、前衆議院議員の杉田水脈氏である。“意図ある日本人の巣”で広められる悪印象 国連では加盟各国のNGOなどを集めたセッションを定期的に開催。そこから世界の“市民の声”を吸い上げる形で、さまざまな報告書を作成している。以前から、国連の“反日的”な姿勢に疑問を感じていた杉田氏は、昨年7月と今年2月にスイスのジュネーブで行われた国連女子差別撤廃委員会のセッションに参加。 しかしそこで杉田氏が見たものとは、日本から遠く離れたジュネーブの地に詰めかける、大勢の日本人の姿だった。「100人はいたでしょうか。そしてその日本人たちのほとんどは、左派系の市民団体のメンバーでした。セッションでは参加者によるスピーチも許されたのですが、彼らは口々に『旧日本軍に強制連行された性奴隷の従軍慰安婦』といった話をする。 私が登壇して『慰安婦の強制連行はありません』と話したら、国連のスタッフの方々が『初めて聞く話だが、本当なのか』と驚いていたのがとても印象的でした」(杉田氏) つまりこれまで、国連とはこうした“意図ある日本人の巣”のようになっていて、そこで日本に対する一方的な悪印象が広められ続けていたのだ。ただ杉田氏は自らが参加した女子差別撤廃委員会の場で、皇室典範に関する議論は一度も耳にしなかったという。「おそらくそれは非公開協議の場で話し合われたことだと思うんです。そこには国連の認定NGOとして一定期間の活動実績があり、特別な認証を受けた団体の関係者しか加わることができません。日本の保守派はほぼこの認証を持っていません」(同前) もちろん、国連に伝えられる情報が客観的なデータに裏付けされたものであれば、話は別だ。しかし、前述の「女子学生の30%が援交経験者」のような歪んだ数字が伝達されているとしたら、見過ごすことはできない。 この問題の構造を指摘するのが、国連の問題に詳しい外交問題アナリストの藤木俊一氏だ。「そもそも国連は第2次世界大戦の“連合国”。旧敵国・日本への批判は通りやすい組織風土があります。そこに日本の左派団体が行って反日的なスピーチなどをすれば非常に歓迎されて、それに基づいた勧告などがつくられてしまう流れがある。日本の左翼はそれを利用し、いま国連という権威をバックにした反日活動を強化させているのです。 ただ問題は、日本の保守派は今まで国連をあまりに軽視していて、認定NGOを育てる努力もしないなど、欠席裁判状態を放置してきたこと。この現状は左派、保守の双方に責任がある」 慰安婦問題を例にとると、朝日新聞の「吉田証言」取り消し以降、国内の左派団体の主張は軒並み力を失った。その挽回のため、劣勢の国内を避け、保守言論の力が及ばない国連の場が選ばれているということなのか。 ちなみに杉田氏がジュネーブで見た左派系団体で「目立つ存在だった」という国連認定NGO「新日本婦人の会」に取材を申し込むと、「貴誌の取材は受けられない」との答え。同じく国連認定NGO「ヒューマンライツ・ナウ」事務局長で「女子学生の30%は援助交際経験者」発言の国連ブキッキオ氏と事前接触をしていたと一部報道があった弁護士の伊藤和子氏にも取材を申し込んだが、締め切りまでに回答はなかった。 国連と左派の“密会現場”は、左派の思惑と保守の無策でつくられたカーテンで、覆われているのだ。●文/小川寛大(ジャーナリスト)/1979年、熊本県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。宗教業界紙「中外日報」記者を経て、現在「宗教問題」編集長。関連記事■ 韓国紙 外相が国連総会で安倍首相の足引っ張るかで沸き立つ■ 中国は自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と明記していた■ 韓国 対馬を自国領とし、沖縄にも権利が及ぶと主張している■ 女三四郎・山口香が不祥事続く柔道界の問題点を鋭く突いた本■ 日本に厳しい国連 日本のリベラル系団体の溜まり場に

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    日本軍「残虐行為」はどう創作されたか? 中国に洗脳された日本人

    別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より田辺敏雄(昭和史研究家)「中国の旅」で集団ヒステリーに わが国をめぐって中国が喧伝する「歴史問題」をつきつめれば、日本軍による残虐行為、残虐事件の存否と程度の問題に帰着すると思う。となれば、これらを乗り越えないかぎり問題の好転は期待できない。 中国における残虐行為は二つの経路でわれわれ国民にとどいた。一つは朝日新聞を筆頭とするメディアによる現地ルポであり、一つは終戦後、中国に囚われた日本人いわゆる中国戦犯の「証言」であった。昭和四十年代後半、両経路による日本軍断罪が同時にはじまった。朝日の本多勝一記者による「中国の旅」と「天皇の軍隊」である。著者自ら中国の言いなりの内容を検証もせず書いたことを認めた『中国の旅』 昭和四十六年八月から十二月まで、朝日は本多記者の「中国の旅」を約四十日間にわたって連載。「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」など手持ちの媒体も総動員して、日本軍断罪の一大キャンペーンを開始したのである。いずれも読んでいて気持が悪くなったという人もいるほど、日本軍および民間人が行った残虐非道な行為であふれかえっていた。 連載は平頂山(へいちようざん)事件にはじまり、万人坑(まんにんこう)、南京事件、三光政策とつづいた。このルポは日本側の裏づけ取材がなく、中国の説明を鵜呑みにしたものにもかかわらず、いずれも事実とされ高校用歴史教科書(一部は中学校用も)、百科事典に採用された。 連載は単行本、文庫本となり、さらに『中国の旅』の写真版という『中国の日本軍』(創樹社)が出版された。人骨累々の写真が教育に有効として『中国の日本軍』を「必読文献」に推薦した高校用教科書もある。連載に触発されたのだろう、メディアは競うように中国に出かけては日本軍の悪行を聞き出して報じた。 山本七平は「『中国の旅』がまき起こした集団ヒステリー状態は、満州事変直前の『中村震太郎事件』や日華事変直前の『通州事件』の報道がまき起した状態と非常によく似ているのである」とし、日本人の受けた衝撃の大きさを記している(『日本はなぜ敗れるのか』 角川書店)。「中国の旅」連載とほぼ同時期、月刊誌「現代の眼」に「天皇の軍隊」と題した取材報告が連載された。著者名は熊沢京次郎とあるが、筆者は本多勝一と長沼節夫(時事通信記者)である。連載は同名の単行本(現代評論社)となり、後に二人の実名をもって朝日文庫に加えられた。発行当初は話題になったが現在では「悪書」の一言で片づけられる『天皇の軍隊』 内容はといえば、中国山東省に駐留した第五十九師団による数々の残虐事件、残虐行為を「日本兵の証言」をもって糾弾したものである。軍紀は死語同然、やりたい放題の日本兵の姿があった。討伐作戦とは「女あさりにカッパライ」、女と見れば強姦は日常茶飯事、あげくに異様な手段での殺害も珍しくない。男の方は拷問、菜切り庖丁で胸から腹まで断ち割るといった凄まじさである。『中国の旅』に加えて『天皇の軍隊』を読めば、国民はかつての日本軍に嫌悪感をつのらせ、同師団にとどまらず日本軍全体が同様であったと考えるだろう。ところが「日本兵の証言」というのが曲者で、登場人物を調べたところ予想どおり、残虐行為の証言者はことごとく中国戦犯だったのである。「中国戦犯」と「洗脳」について「中国戦犯」と「洗脳」について 六十万人といわれるソ連抑留者のうち九百六十九人が選別されて中国に送られ、撫順(ぶじゆん)戦犯管理所という名の監獄に収容された。昭和二十五年七月のことであった。引き渡しはスターリンと毛沢東の合意という見方がある。 一方、中国山西省では日本降伏後も国民党系の閻(えん)錫山(しやくざん)軍と共産八路(はちろ)軍とが戦闘状態にあった。閻は「日本人居留民を帰国させる」などの条件で、日本軍(第一軍)に残留を要請、受け入れた日本軍は閻とともに八路軍と戦うことになった。結果は八路軍の勝利に終わり日本軍は投降、第一軍関係者ら百四十人が太原(たいげん)戦犯管理所に収容された。撫順組と太原組を合わせた千百九人が中国戦犯といわれる人たちである。 軍関係では師団長四人(いずれも中将)、内訳は藤田茂師団長以下二百六十人という最多の第五十九師団、佐々眞之助師団長以下二百人の三十九師団、ほかに鈴木啓久(ひらく)第百十七師団長、岸川健一第六十三師団長(抑留中死亡)であった。文官の方は満州国高官・古海忠之らが含まれた。 六年後の中国共産党の軍事法廷で、軍上層部を中心に四十五人が有罪(有期の禁固刑)となり、残る約千人は起訴免除となって昭和三十一年に帰国した。したがって、ソ連の分と合わせれば十年以上も捕虜の身となった人が大部分だったのである。 この六年の間に彼らは洗脳されたのではないかと帰国当時から言われた。帰国時の発言と中国に書き残した手記を集めた『三光』(カッパブックス、昭和三十二)の出版が影響したものと思われる。描かれた行為が異様なほど残忍だったからである。 撫順戦犯管理所に日本語通訳として勤務、日本人の指導・監督にあたった金源所長は、総括とも呼べる日本兵の残虐ぶりを次のように記している。「あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を撲殺した後、その肝と脳味噌を食べたのである。このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は、枚挙にいとまがない」と。 彼らは帰国後に「中帰連」 (中国帰還者連絡会)を組織し、初代会長に藤田茂第五十九師団長が就任した。藤田は「自筆供述書」の最後に「私は私に斯かる罪行を犯さしめたる裕(ひろ)仁(ひと)に対し、心よりの憎恨と斗争を宣言するものであります」と書いている。呼び捨てにされた「裕仁」は昭和天皇のことである。 心理学が専門の小田晋・元帝塚山学院大学教授は、洗脳について以下のように説明している。 〈広い意味での「洗脳」は、他人の意思を屈従変更させるための精神操作の手法をいいます。つまり、宗教的、政治的、商業的(販売の手段としてのコマーシャル)、犯罪的な手法を総称して「洗脳」といいます。(略)狭い意味での「洗脳」は、旧共産圏の秘密警察や特務機関が捕虜または政治犯を告白させたり転向させたりするためにもちいた手段を指します。〉(「歴史と教育」平成十五年三月号) 「中国側は洗脳なんて言葉の存在も知らないと否定する」(小田氏)が、「洗脳」は中国の造語である。「ブレイン・ウォッシング」は洗脳の英訳であり、洗脳の技術を中国が保有していたことに間違いなかろう。米ジャーナリストのエドワード・ハンター著『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』(法政大学出版局、昭和二十八)は、このことを含め、説得力のある説明が実例をもって示されている。収容所の思想改造過程とは…収容所の思想改造過程とは… 撫順戦犯管理所に収容された日本人は三カ月後の昭和二十五年十月、朝鮮戦争の激化に伴いハルビンと呼蘭の両収容所に移動、前者は佐官級以上、後者は尉官級以下が入所した。そして六カ月後、少尉以下六百六十九人が撫順に復帰し、残りは二十八年十月までハルビンにとどまった。〝日本人を使った中国の宣伝書〟であった『三光』。中帰連自らが新編や完全版も出している 呼蘭収容所で思想改造のための基礎づくりが進行していた。思想改造は「坦(たん)白(ぱい)(自白)」を促す前の過程である。尉官以下七百余人の思想改造教育にあたった呉浩然によると、まず学習を望んだ八十余人で六つの学習組を作り、国友俊太郎、大河原孝一、小山一郎ら六人を学習組長に選び先行教育を行ったという。六人はソ連時代、捕虜の上に君臨したアクチーブ(積極活動分子)で、撫順でも思想改造の推進役となった。 一方、ハルビンに残った組からも尉官十四人が選ばれ、先行教育が行われた。彼らの大部分もまたアクチーブであり、帰国後は「中帰連」で中心的役割を担ったのである。 まず学習。教材はレーニンの『帝国主義論』や日本共産党編纂の資料などが選ばれた。狙いは階級闘争理論の習得で「その基本精神をのみこんでから、実際と結び付けて討論」するのだという。討論は週一回、当初の議題は朝鮮戦争関連が多かったようだ。学習者たちは「資本主義帝国主義の反動的本質をある程度認識し始め」ると、なかの一人は討論中「日本の社会は、資本主義から帝国主義社会に到達したので、国外にむけての拡張となり、中国に対する侵略戦争を引き起こした。この歴史発展の過程は、レーニンの本と同じだ」と述べたという。 もどった撫順戦犯管理所は収容棟が七棟、尉官以下を収容する棟は十五程度の小部屋からなり、十七人が一組になって収容された。呼蘭で先行学習した八十人を意識的に各部屋に配置したと呉浩然は書く。以下、学習、坦白、認罪と進むが、重要と思われる事項に触れておきたい。 ①強調された「二つの態度と二つの道」 「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」と絶えず強調された。同時に、罪の大小で処分が決まるのではなく、「罪行は重くとも完全に共産主義思想になった者は許す。罪行は軽微でも、思想を改造できない者は重く処分する」と強調されつづけた。 恐ろしい論法と思う。身に覚えのないことでも、取り調べる側が「事実」だという心証を持つなり、あるいは何らかの意図を持てば「自白」を引き出すことが可能だからである。死刑になるかもしれない恐怖、故国へ帰りたいという熱望、これらを背景に「二つの態度と二つの道」が使い分けられれば、どのような結果を生むかおおよその見当はつく。 ②「自白」中心の取り調べ 取り調べにあたって、検察側が具体的な犯罪事実を提示することはなく、ほとんどが「自白」といってよい。有罪者の一人、横山光彦・元ハルビン高等法院次長の記述からもうかがえる(『望郷』 サイマル出版会)。〈「お調べがついているでしょうから、それをお示しください。そうすれば私も思い出せることもあるでしょう」というのだが検察員は聞き入れない。「中国は、お前が自らの記憶に基づいて述べることを要求する。誠実な態度であれば思い出せるはずである。今日は監房へ帰れ」となんべん言われたことか〉 ③下を落としてから上位者へ 取り調べは階級の低い方を先に、上位者は後からが原則であった。下位者の「罪行」を得ることによって、上位者の「罪行」を追及しやすくなるからである。相互批判と誘導「告白」で総崩れ相互批判と誘導「告白」で総崩れ 星野幸作軍曹(六十三師団独立歩兵第八十七大隊)の記録が残る。軍曹は同大隊の戦友会によくでていたというが、私が参加したときは体調不良とのことで会えなかった。 呼蘭収容所の生活は不潔の一言で「水の不便と南京虫には泣かされ」、皮膚病に手を焼いたという。これといった取り調べもなく、退屈な日々を手製の麻雀などで過ごす。撫順にもどって嬉しかったのは一年ぶりの風呂だった(以降、入浴は週一度)。最初のうちは高粱(コーリヤン)と粟、二年目頃より米の飯が与えられた。ソ連時代のように「空腹を抱えて」といったことはなく、腹一杯食べられたのは嬉しいことだったと記している。かわら生産など軽作業(佐官級以上は免除)と学習をしながら過ごしていく。現在も建物が保存、一般公開されて反日プロパガンダの舞台になっている旧「撫順戦犯管理所」 二年余が経過したある日、全員が屋外に集められた。壇上に上がった所長から、中国人民を何人殺し、どんな被害を与えたのか、「即ち、『焼く』『殺す』『犯す』等々を何処でどうして行ったか」を書いて出すよう指示がでた。「やっぱりくるときがきた」と思ったものの、所長の態度から深刻に考えなかったという。 昭和二十八年九月中旬、再び全員が集められ所長が壇上に立った。いやな予感がしたという。「中国人民は君達のような帝国主義思想の持ち主は絶対に許さない。(略)中国人民は君達を招待したのではい。勝手に中国に乱入したのだ。そして我々の同胞を殺し、極悪非道の犯行を平気でやってきた。(略)その重大な犯罪を中国人民は許すと思うか。お前達を殺すも生かすも中国人民の権利であり、自由意志である」。 話し終わった所長の顔は真っ赤だったと星野軍曹は記している。先々を思うと目の前が真っ暗になる。無言のまま部屋にもどると集会が開かれ「民生委員」が選出される。そこで、「認罪運動」を秘めた学習方法が提唱されたというのである。ソ連抑留と違って、見たこと聞いたことなど「事実の晒しあい」で、いつ自分が槍玉にあがるかわからないため命の縮まる思いをしたという。「学習」「討論」「認罪」の繰り返し、これが自分の運命を決する問題と知りながらも、その心境をどう表したらいいか「言葉さえ見つからない」と書いている。数カ月後、再び「供述書」の提出を命ぜられ、紙切れ一枚残さず提出した。 二十九年四月、抑留者にとって忘れられない日が訪れた。その日の所長は「今日の私が閻魔様に見えるか、それとも仏様に見えるかは、君たち自身が決めること」だといい、真面目に学習し思想改造している者には仏様に見えるはずだと話す。 また、認罪とは素直に自分の罪行を認め、「焼く」「殺す」「犯す」の重大犯行を具体的に書き出すことだというのである。そして、真面目に学習したという数人が壇上に立ち、みずからの「犯行」を告白した。 初めに立ったのは宮崎弘中尉(三十九師団二百三十二連隊、機関銃中隊長)。ハルビンで先行教育をうけた十四人の一人でアクチーブであった。宮崎は全身を震わせ、涙とともに自らの残虐行為を告白する。内容は、部落襲撃のとき、老人子供を銃剣で刺殺、逃げ遅れた妊婦を裸にして皆の前で刺殺したというのであった。 呉浩然は、認罪態度のよい宮崎弘に「全所の戦犯の前で、認罪・告白・摘発の模範的発表をさせた」とし、「身をもって説く典型的な発言は、強烈な影響力があり、その他の戦犯認罪にしっかりした推進作用を引き起こした」と書いている。 この告白は他の日本人にとって衝撃であった。宮崎の告白は機関銃中隊長のできる所業ではないという醒めた見方もあったが、大勢は一気に「認罪」へと向かったのである。二カ月後、「徹底した綿密な工作によって」、尉官級以下四千余件の摘発資料、上司や他者の罪行一万四千余項目を摘発したと呉は記している。 こうして上官や他者の犯罪資料をも獲得し、個人の認罪から「グループ認罪」へと進めていった。二十九年五月頃のことである。グループ認罪は同じ部隊の者十余人一組となって行う。各自が順に「坦白」を行い、「自己批判」と「相互批判」を通じて共通の「認罪」に到達させるものであった。こうしてグループに共有された罪行をもって佐官、将官級に認罪を迫るのである。 この過程を富永正三中尉(二百三十二連隊第十中隊長、元中帰連会長)は次のように説明している。 仲間から「まだ隠している」「殺される被害者の無念の思いがわかっていない」等の声があがり、食事もノドを通らぬ状況も出、自殺者まででた。「この深刻な命がけの自己批判と相互批判の学習が数か月」つづき、将官、佐官の場合はさらに長くつづいたという。そして「内容が検察官の資料と一致し、改悛の情が認められてやっとパスする」のだといい、この命がけの学習を経て「鬼から人間に立ち帰った」と強調する。こうして告白したものを「ウソ」とは何事かと言うのである。「自筆供述書」「手記」の内実「自筆供述書」「手記」の内実 こうした経過の後、彼らが残した「証言」を三分類するとわかりやすいかもしれない。 第一は、検察官による取り調べの末に書いた「自筆供述書」である。供述書は中国と折り合いのいい新聞社や学者らを通して散発的に日本で紹介されてきた。 平成十年四月、有罪となった四十五人分の「自筆供述書」を、中帰連とつながりの深い報道写真家・新井利男が中国から入手、朝日新聞社と共同通信社に持ち込んだ。新井の目論見どおりだったろう、朝日を含めた四十五紙が報じ、十七紙が一面トップ扱いの報道だったという。 この時点における生存者はわずか四人と朝日は報じている。わけても、すでに他界していた鈴木啓久中将の供述書に、「慰安婦強制連行」の記述があったため注目を集めた。 そして十六年経過した平成二十六年七月、中国中央公文書館はネット上に四十五人全員の「自筆供述書」を全ページ写真版で公開した。さらに二十七年八月、金子安次(五十九師団機関銃中隊、伍長)ら三十一人の供述書(一部)を公表した。 三十一人は女性を見ると見境なく強姦、輪姦し、多くの兵士が彼女らを殺害する残忍さだ。この供述書公開は韓国との共闘が視野にあってのことだろう。また世界記憶遺産登録の狙いもあるだろう、八百余人分、百二十冊、二万六千㌻の『供述書選集』を発行すると中国メディアは報じた。撫順戦犯管理所で有罪とされた日本軍将兵45人の「供述書」について、3面にわたり大々的に報じる平成10年4月5日付朝日新聞。共同通信も「供述書」の内容をそのまま報じ、地方紙などに大きな影響を与えた 二番目は「手記」である。手記は取り調べが終了し、判決を待つ間に「有志」が書いたとされ、昭和三十一年に十五人の手記を編んだ『三光』が発行された。三光とは殺光、焼光、奪光(搶光)を指す中国語で、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」の意である。「生体解剖」「細菌作戦」「毒ガス攻撃」「労工狩り」などあらゆる犯罪行為を当事者として語っていた。編者の神吉(かんき)晴夫は想像を絶する行為だと言い、「いくら戦争といっても、私たちの同胞が、こんなことまではたしてできるのだろうか。しかし、残念ながらこれが事実なのです」と書き、疑う様子はない。 だが、書名となった手記「三光」からして、部下が読めば「作り話」とわかるように書いた小田二郎少佐の苦心作なのである。「問題の手記『三光』の隠されたシグナル」(月刊「正論」平成十年十一月号)に報告してある。 時をおいた昭和五十七年、中帰連は現状を「急激な右傾の道をたどる情勢」と認識、自らの手で『新編三光 第一集』(カッパブックス)を発行した。前回の『三光』と同様、十五人の手記を掲載したもので、銃剣で妊婦の腹を裂く「胎児」、農民の生き胆を取り出して食う「群鬼」など、相変わらずのものであった。本多勝一が「まえがき」を書き、作家の野間宏は「胎児」を信じ込み、井上ひさしも「日本民族を鍛え直す研(と)石(いし)である」とする推薦文を寄せている。 この年は「教科書誤報問題」が起こり、文部省の教科書検定の是非などをめぐって騒がしかった。前後して吉田清治の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』、ベストセラーとなった森村誠一の『悪魔の飽食』も発行され、この後も手記集の出版はつづいた。 帰国後の「証言」と同調する学者帰国後の「証言」と同調する学者 三番目は帰国後の「証言」である。平成元年八月、NHKは「撫順・太原戦犯管理所 1062人の手記」を放送した。中帰連の知名度は一気にあがり、取材やら学校からの講演依頼やらが舞い込んだ。「アサヒグラフ」も取材のうえ「いま戦争を問い直す」とした特集を組んだが、相変わらず彼らの言を鵜のみにし、裏づけをとった様子は見えない。 中帰連は「反戦平和部」を強化、番組に出演した小島隆男中尉(五十九師団機関銃中隊長)が部長に就任、とくにマスコミの取材に積極的に応じる一方、出版活動も強化していった。中帰連はメディアの有力な情報源の地位を確立したのである。 小島中尉は自ら範を示そうとしたのか、後述の「八千人強制連行」、七三一部隊「コレラ作戦」などを積極的に証言する。また、中国に出かけては聴衆の前で強制連行を告白・謝罪する。それを朝日新聞が写真入りで「元機関銃中隊長、しょく罪、告白の行脚」(平成五年七月十五日付)などと大きく報じた。中帰連が組織された当初は、抑留中の補償を日本政府に求めるなど経済問題が中心であったが、この時点では「日本の右傾化を阻止する」ため、天皇の戦争責任追及を含めた政治活動へと変質していたのである。 四十五人の供述書が朝日と共同通信社に持ち込まれたことは既述したが、月刊誌「世界」に三人の師団長を含む八人の供述書が公開された。藤原彰・元一橋大学名誉教授が冒頭「史料の意義について 『三光政策』の実態」とした解説を加えている。藤原教授といえば、南京事件による犠牲者二十万人以上を主張した大虐殺派の大御所であった。 まず供述内容について「本人が事実をすべて認めているだけでなく、その内容がきわめて詳細でかつ正確なのである」と総括。日本側の「戦闘詳報」などの史料と照合しても明らかだとも言い、手放しの傾倒ぶりである。そして、抗日根拠地に対する燼滅(じんめつ)掃討作戦、遮断壕の構築、無人地帯などをあげて「三光政策そのもの」だとし、さらに「慰安所の設置と『慰安婦』の強制連行などが、軍による組織的行為として行われていたことも明らかにされている」など、供述書を全面肯定した。 これらは『侵略の証言』(岩波書店、平成十一)になった。藤原は解説「『三光政策』の実態」を書いているが、「史料の意義について」という表題は消え、おかしなことに右に引用した部分がことごとく消えているのである。批判の前に「うまくない」とでも思ったのだろう。中帰連は「すべて事実だ」とし、少なくない学者が藤原同様の見方をしている。 となれば、多くの虚偽例を示すことこそが、藤原らの主張が見当違いだと言うために必要であろう。以下、「中国の旅」の検証結果と中国戦犯証言の信憑性について略記する。「中国の旅」の検証結果は…「中国の旅」の検証結果は… 連載で最初に報じられた「平頂山事件」は昭和七年九月、撫順炭鉱が襲撃されたことに端を発した日本軍による住民殺害事件である。中国のいう犠牲者三千人が、検証抜きで教科書、百科事典などに載った。だが、資料、証言はことごとく六百人前後を示している。事件は軍の蛮行で非難は免れない。ただし、中国の報告書『平頂山大屠殺惨案始末』は創作部分が多く信頼性は低い。「平頂山事件」が捏造であることを田辺氏が検証し、著書としてまとめた『追跡 平頂山事件』(図書出版社、昭和63) 「万人坑」とは、主に満州の日本経営の鉱山や大規模な工事現場で、労働者にろくな食事も与えず過酷な労働を強要、ケガや病気などで使いものにならなくなると、生きながらも捨てた「ヒト捨て場」だと説明されている。犠牲者二十五万―三十万人の撫順炭鉱、一万七千人の南満鉱業が取りあげられた。後者は人骨発掘現場に記念館が建つ。 本多はアウシュビッツ収容所を見たことはなく、「だからこの万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてであった」とし、その衝撃は「脳裏に終生消えることのないであろう擦痕を残した」と書いている。 中国は大同炭鉱、豊満ダムなど二十カ所近く、人骨の展示館を開設している。だがこれらは中国のでっち上げである。証明はそれほど難しくない。「万人坑」と検索のうえ、大量の写真を集めたサイトを見てほしい。もしこのでっち上げが事実とされたら、日本の異議など世界は相手にしなくなるだろう。「南京事件」については、「百人斬り競争」を蒸し返し、「三十万人大虐殺」を流布したとだけ記しておく。田辺氏㊥の質問に「慰安婦狩りなどなかった」ときっぱり否定した炭江秀郎㊨、森友衛㊧の両副官=平成10年10月「三光政策」について、本多は「南京大虐殺」は市民や捕虜多数を無差別に殺害したが、それでも「軍の最高方針による計画的虐殺ではなかった」とし、八路軍の活躍が目立ちはじめた昭和十五年頃から「三光作戦」としての皆殺し、「三光政策」としての計画的虐殺が本格化したというのである。根拠のあやふやなこの解釈が幅を利かした。 だが、「三光作戦」という作戦名はもちろん、「三光」という言葉さえ前線の日本兵は聞いたことがないのである。ただ、「三光政策の村」として取りあげられた「潘家峪(はんかよく)」の出来事は存在する。例によって死者数など違いは大きいが、現場にいた下士官(複数)から話は聞き取ってある。慰安婦強制連行と人肉食のデタラメ慰安婦強制連行と人肉食のデタラメ  中国は鈴木啓久中将の強制連行を認める供述を「決め球」としているようだ。中将は帰国後、『中北支における剿共(そうきょう)戦の実態と教訓』『第百十七師団長の回想』という長文の手記を残している。この二編は供述書の検証に貴重な資料となる。「強制連行」は二カ所でてくるが、ほぼ同一内容なので第二十七歩兵団長時代(少将)の方を紹介しよう。「私は各所(豊潤、砂河鎮其の他二、三)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約六〇名であります」 二十七歩兵団は支那駐屯歩兵一―三連隊を主力に構成された。第一連隊の戦友会会長・内海通勝は「軍が慰安婦狩りなどやるわけがないよ」といって戦友会ともども調査に協力してくれた。当時、鈴木少将の副官であった炭江秀郎は、慰安婦狩りを行ったとする冀(き)東(とう)作戦の作戦命令すべてに目を通してきたとし、「歩兵団長の意向を受けて作戦命令を起案、裁可を得る。副官の側印がなければ作戦命令は出せない。だから、慰安婦狩りが事実なら知らないわけがない」と否定する。「冀」は河北省の別称である。炭江の次に副官をつとめた森友衛も「その事実はない」と否定し、他の十九人も結論は同じであった。 鈴木中将は「謹厳実直」「古武士風」であったと森副官は形容し、酒、タバコとは無縁、夜の食事前に謡をうたうのが常だったという。また、習字や読書で過ごすことが多かったと炭江は百十七師団史『大黄河』に思い出を寄せている。撫順戦犯管理所で撮影されたとみられる鈴木啓久中将 中将は会津若松出身、義和団事件(北清事変)で連合国から賞賛された柴五郎中佐(後に大将)と同県人であり私淑していたようだ。二編の手記に慰安婦記述はない。 平成二十七年八月、中国国家档案局は特集「慰安婦 日本軍性奴隷文書選」をネット上に公開した。その一つに文献テレフィルム「『慰安婦』 日本軍の性奴隷」と題した十五分ほどの動画がある。英語のナレーションと字幕がついているから、アメリカなど英語圏で流すのが目的だろう。ここに「強制連行の証人」二人が登場する。鈴木中将と絵鳩毅軍曹(五十九師団独立歩兵四十四大隊)で、中将は供述書、絵鳩は本人の録画証言である。絵鳩は語る。 「それは捕虜の中の一名の女性が、ある下士官の慰安婦に連れていた。それが索格荘の駐在が長くなって、食べ物に若干苦しむようになったとき、彼はその女性を殺害しその肉を食べ、自分で食べたばかりでなく中隊に、今日は大隊本部から肉がわたったから(と)ごまかして、それを中隊の全兵隊に食べさせたという噂をききました」 この証言は、噂話を聞いたものだが字幕に訳されていない。中国はこうした尉官、下士官級の証言を丹念に記録していて、絵鳩証言は他の七人とともに最近公開された。「ある下士官」というのは榎本正代曹長(旧姓新井、同師団百十大隊)である。 この話は『天皇の軍隊』(朝日文庫)と『私たちは中国でなにをしたか』(中帰連編、新風書房)の双方にでてくる。榎本は『天皇の軍隊』の主要な証言者で、強姦など当たり前、満期除隊になる兵士の土産話にと農夫を捕まえ「野菜包丁で胸から腹まで絶ち割って見せた」といった猟奇的告白が目立つ。証言の真偽は両者の記述の違いから与太話と見当がつく。およそ、実体験では起こりえない相違があるからである。 ―終戦も近い昭和二十年四月の秀嶺作戦中、伊藤誠少尉の率いる第二中隊はある山村に宿営する。宿営三日目、指揮班長の榎本曹長は誰にともなく「今日はもう肉類が全然なくなっちゃったんでどうするかなあ」というと、伊藤少尉は「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」と榎本をのぞき込むようにいう。少尉は宿営中の部落から娘を連れてきた。少尉が後ろから娘を「突き飛ばすのと、曹長の短剣が娘の胸を刺すのと、ほとんど同時だった」と本多勝一は書く。二人は短時間で処理できる太ももを切り取り、スライスして油で炒めると全隊員七十人に配った―以上が『天皇の軍隊』の記述である。人民日報ネット版の絵鳩毅軍曹の記事を2015年8月15日に転載した香港・蘋果(りんご)日報系ニュースサイト。「1956年に中国が釈放した日本戦犯の絵鳩毅は、2013(平成25)年に訪ねた中国の研究員に対し『山東である下士官が一人の少女を無理やり自分の慰安婦にし、後に殺してその肉を食べた。大隊本部から肉が支給されたと言って中隊の全員に食べさせた』と語った」などとある。 後者になると話が違ってくる。まず、娘は榎本が二日前から慰み者に連れていたのだが、何とか処置しなければと思っていた。「このまま殺してはつまらない」と思い娘を裸にして強姦、包丁で刺し殺すと手早く肉を切り取る。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配る。兵隊は人間の肉とも知らず久しぶりの配給に喜び、携行していた油で揚げたり焼いたりして食べた―というのである。 伊藤中隊長の姿が、後者にはでてこない。二人で密かに殺害、料理をしたというのにである。短剣と包丁の違い、娘についての違いも明らかだから説明は省く。大体、中隊長が隊員の副食をつくるなど、軍隊経験者なら信じやしない。 念のため百十大隊の隊員にあたった。秀嶺作戦に参加した工兵の萩原広松は「娘を食ったなどとんでもない。『天皇の軍隊』など誰も信用していない。自分たちが一番よく知っている」と歯切れよく話す。伊藤中隊に所属したことのある第三中隊小隊長・都筑健一は「無辜の人間を食用にすることは如何に隠密裡に処理しても必ずわかります」とし、噂にも人肉食の話は聞いていないという。 ばかばかしい話と一笑に付してはいけない。ある著名な精神科医は「信じ難い残酷さだ」としながらもこの話を信じてしまい、日本人の「罪の意識」を感じる能力の乏しさを嘆く例もみられるのである。米欧人が信じないわけがない。創作「労工狩り」「うさぎ狩り」創作「労工狩り」「うさぎ狩り」 平成五年五月、NHKは行方不明だった「外務省報告書」発見とトップニュースで報じた。つづく八月十四日、NHKスペシャル「幻の外務省報告書─中国人強制連行の記録」を放送し、同名の本を出版している。いわゆる「河野談話」が八月四日で、新聞もテレビも「慰安婦強制連行」であふれた時期である。国民はまたかと思ったことだろう。もっともこの報告書は知られていたもので、例えば『草の墓標─中国人強制連行の記録』(新日本出版社、昭和三十九)などで取り上げられていた。 昭和十七年十一月、東條内閣は国内の労働力不足を補うため中国人労働者の移入方針を閣議決定した。これにより「約三万九千人が日本国内に連行され、炭鉱などで過酷な労働を強いられるなど約六千八百人が死亡、連行の際に強制半強制という事実が浮かび上がった」という。歴史教科書の「四万人強制連行」はこうした記述に基づいたものである。『中国人強制連行』(西成田豊、東京大学出版会)はこの報告書を含め多角的に言及した分厚な研究書である。まず、強制連行の証言者として大木仲治、大野貞美、榎本正代(前出)の三人が登場し、「労工狩り」「うさぎ狩り」などと呼ぶ日本軍の悪逆な作戦が語られる。この「労工狩り作戦」は労働力調達のほかに目的があったとし、「作戦展開地区を無人地帯に近い状態につくりあげ」ることによって、抗戦主力である華北民衆の力を根こそぎ奪うことだったと著者は断定する。「無人地帯」は三光政策の一環で、「中国人皆殺し作戦」だと主張する日本人学者もいる。三人の証言は多くの本に引用される。だが、三人が中国戦犯であった事実を書かない本があり、この書もその例にもれない。私の知るかぎり「うさぎ狩り作戦」の証言者は十四人を数えるが、ことごとく中国戦犯であった。 大野貞美曹長(六十三師団)の証言を見ると、昭和十七年十月頃、北支部隊の一万人以上が山東省の一角に集まって包囲網を作り、部落に放火し「十八才から四十五才ぐらいまでの男という男を」全部ひっくくったのだという。 ところがである。「私は中隊にいて実際作戦に参加していなかったが」と大野は証言しているにもかかわらず、肝心のこの部分が引用されてないのである。「うさぎ狩り作戦」が事実かどうか、小島隆男中尉(五十九師団独歩四十四大隊、機関銃中隊長)の「八千人強制連行」が創作と証明された例をあげれば、あとは見当がつく。「私はね、この強制連行では実際に中隊長として山東省で作戦をやったんです。この作戦では八千名の方を捕まえたんです」とし、意の向くまま虫けらのように捕らえては殺したと証言する。秋田放送「風の叫び─中国人強制連行のいま」の一コマで、平成六年一月末に日本テレビ系列で全国放送された。NHK「〝戦犯〟たちの告白 撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」(平成元年8月15日放送)で「日本軍の悪事」をかたる小島隆男中尉。NHKもこうした話を事実であるかのように垂れ流した 小島によれば、「うさぎ狩り作戦」は総勢数万、一個中隊が四㌔横隊になり、直径三十二㌔の包囲網を作る。機関銃や大砲を撃って包囲を縮め、各隊の進み具合を調整するために飛行機を飛ばす根こそぎ作戦という。 これに反発したのは四十四大隊の戦友会である。会長の千葉信一中尉(第四中隊長)は小島と盛岡予備士官学校の同期で戦後も行き来があったが、そのような命令を受けたことも作戦に参加したこともないと明言する。千葉が小島と連絡をとり、小島側三人と千葉側七人が面談した。小島側から大河原孝一(元中帰連副会長)、千葉側からは小島が中隊長であった全期間部下だった内田行男軍曹も同席した。「八千人の強制連行が中隊長のときとあるが、そのようなことを私は知らないが」と千葉が問うと、小島は「それは四十四大隊のときではなく、第十二軍予備隊付きのときである」とアッサリ証言を翻す。「それではウソではないか」と糺(ただ)すが答えはない。「八十人の間違いではないか」と言う千葉に対して、八千人は第十二軍が流したものだと小島は説明した。 八千人という数は、おそらく第三次魯東作戦(昭和十七年末)の戦果「遺棄死体千百八十三、俘虜八千六百七十五」(防衛庁戦史室、『北支の治安戦2』)から得た知識だと推測するが、これは武器を持つ兵と兵との戦いであった。包囲作戦は日本軍がよく使った戦法で、証言者が農民狩りに作り替えたのだろうと思う。 大木仲治軍曹については、抑留中に「労工狩り」と題した手記を書き、手記集『三光』に収められた。このため引用される頻度が高い。昭和十七年の博西作戦で、大木軍曹が所属する池田第三中隊長の「土百姓(どんびやくしよう)どもを一人も残さず全部捕まえる」の怒号のもと百五十人の農民を、大隊で二千人を捕らえ日本や満州に送った―というのである。 大木証言に対して、同じ千葉県出身で同年兵の染谷鷹治は「我々は承知しているからいいが、一般人が読めば真実と受け取ります。正すべきです」と調査に協力してくれた。染谷は平成二十六年八月放送のNHKスペシャル「いつまでも夢を」に出演、シベリア抑留で苦労を共にした作曲家、吉田正の想い出を語っている。染谷は中国送りを免れ帰国した。「強制連行や万人坑問題は、華北や『満州国』に関して論じられることが多いが、華中にも視野を広げることが求められている」(杉原達『中国人強制連行』 岩波新書)とあるように、強制連行は万人坑と結びつけられる危険性が大きい。中国は満州への強制連行数を三百万人とも四百万人とも言っている。「三光政策」と城野宏の〝詐話〟「三光政策」と城野宏の〝詐話〟 「中国の旅」が報じた三光政策(作戦)は歴史教科書に早速反映された。〈中国共産党の指導する軍民の抵抗に悩まされた日本軍は、一九四〇~一九四三年にかけて、華北の抗日根拠地に対する攻撃のなかで、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」いわゆる「三光作戦」をおこなった〉(実教出版「高校日本史」)に見られるように、内容は本多解釈と瓜二つである。「三光」は中国語なのだから、日本軍が「三光作戦」という名称を使うわけがないくらい誰にでもわかる。それに、同作戦に参加したはずの華北駐留の将兵に確かめたが、三光作戦という作戦名を誰一人として知らなかった。その場にいた将兵の知らない作戦が後の世代に教えられるのは異常である。 念のために記しておこう。一九三一(昭和六)年十一月、江西省と福建省の境、瑞金に毛沢東を主席とする中華ソビエト政府が成立、敵対する蒋介石軍はソビエト地区を数次にわたって攻撃する。形勢不利となった共産軍は瑞金を脱出、「長征」がはじまる。この攻撃を指して共産党は「三光政策」と非難した。 ほかにも例がある。アメリカに亡命した中国社会科学院政治学研究所の厳家其と夫人の共著『中国文化大革命』に、林彪(りんぴよう)一味は「意見を異にする幹部に対して、『三光政策』(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)に近い中傷迫害を実行した」とする記述がある。要するに、三光政策とは相手を非難するための用語であって、それを真に受ける日本の学者らがおかしいのである。 城野(じようの)宏は終戦後も山西省に残留した「太原組」の一人で、帰国がもっとも遅かったために「最後の戦犯」といわれた。城野は証言する。戦犯管理所で日本から面会に訪れた妻子と面会する城野宏中尉 昭和十五年、北京で開かれた北支那方面軍の兵団長会議で決定された晋西北作戦の記録に、敵地区に侵入したさい食料は輸送か焼却、家屋も破壊または焼却、また人を残すななどと記してあったとし、「男は見つけしだい殺す。命令には女は殺せとは書いてないが、これはわざわざ書くまでもないというだけのこと」で、慰みものに使ったあとは殺してしまうのが普通だった―というのである。  そして具体的な残虐行為の証言に移る。一例をあげると、独立混成第三旅団のある部隊が山西省楼煩鎮(ろうはんちん)で酷いことをしたと話す。 ―ある民家に踏みこむと妊娠中の若妻がいた。裸にして椅子に縛りつける。好奇心にかられた一人が陰部に唐辛子を突っこむ。女は痛さに泣き叫ぶ。ある下士官が腹の中はどうなっているかとばかり「銃剣を陰部にさしこんで、下から徐々に裂いていったんですな」とその場面を説明。そして、腹から胎児を取り出すとしばらく観察し「〝あっ汚い〟とばかりに庭の石にたたきつけて殺してしまったというんです」―というのである。目撃したものか伝聞なのかはっきりしない。 この「証言」は月刊誌「潮」に「日本人と三光作戦」として掲載され、加筆の上『日本人は中国でなにをしたか』(潮出版社、昭和四十七)と題し出版された。単行本『中国の旅』と同時期で、内容は城野証言で占められている。 この話、多くの人が信じたことだろう。城野の肩書きが高級軍人を思わせる「山西野戦軍副司令官」であり、東京帝大法学部(政治学科)の卒業者だからだ。だが、「副司令官」は正規の日本軍の階級とは無縁である。終戦後、日本軍に山西残留を要請した閻錫山が見返りに三階級特進などを提示した結果、あらたにできた職位、階級だからである。 城野は昭和十三年十二月、東京目黒の輜重(しちょう)(輸送)兵第一連隊入隊、幹部候補生となって十五年十一月少尉に任官、十六年一月、山西省運上の輜重兵三十七連隊に転任する。最終階級は陸軍中尉であった。この間、運上特務機関(政治班長)、第一軍参謀部(政治課)ほかに勤務している。 となれば、階級と時期から彼が証言する昭和十五年の北京における兵団長会議の資料を見る機会はありえない。独立混成第三旅団の戦友会(福島)に出席するなどして、楼煩鎮での残虐行為を当地に駐留経験のある下士官などに確かめたところ、「聞いたことはない」「ありえない話だ」など反発の声があがった。戦犯法廷に立つ城野中尉。中国当局が2014年7月明らかにした自筆供述書によると、昭和18年から4度にわたり1500人の機動兵力を派遣して食料15万㌧、鉄20万㌧を日本軍のものとした。21~24年には閻錫山の反共作戦に加わり、人民解放軍に2千数百人の損害を与えるなどしたとあるだけで、「三光作戦」など一言も触れていない 公表された自筆供述書は百二十枚の長文で読むのも一苦労だが、前半が戦中の、後半が山西省残留後の記録である。問題の前半を見ると、三光作戦はもとより「三光」という言葉がどこにもない。自ら最前線で戦った記録もなければ、強制連行や残虐行為の記述もないのである。すると城野の「罪行」とは何なのだろう。それは保安隊の組織化に力を入れたことであり、地下組織の活動を鎮圧するために住民戸籍簿をつくったことなどである。要するに、最前線の戦闘とは関係ないのである。城野証言には首をひねらざるをえない。 最後のページに「自分の敵は裕仁等の戦争販売人であり」、吉田茂売国政府を打倒、美帝を追い出し、中国やソ連の道を歩むべしとある。三光作戦と鈴木中将の「ためらい」三光作戦と鈴木中将の「ためらい」 鈴木中将は二編の手記のほか、母校の仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」のインタビューに昭和五十四年六月応じた。「どんな裁判だったのですか」の質問に、「軍事裁判で一審だけですからな。(略)そして、ありもしないことを住民がなんだかんだと言いますからね〝鈴木部隊が、ここにこういう風に入って来た〟と住民がいうので〝そんな所に私の兵隊を配置したことはありませんよ〟といったって〝住民のいうことに間違いはない〟と言うんだから(略)罪を犯した本人が居らなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って〝ああ、そうですか〟って」と発言している。 鈴木啓久中将が帰国後に防衛庁戦史室(当時)の依頼で書いた回顧録「中北支における剿共戦の実態と教訓」 三個連隊を率いて河北省東部と中部の警備に当たった第二十七歩兵団長時代の二年三カ月間が、鈴木中将のもっとも苦労した時代であった。蒋介石軍の大部分は重慶にあったが、傍系軍は多く徹底抗日を叫ぶ。日本軍が彼らを駆逐するとかならずそこには共産軍が進出したという。 密偵などから敵集結の報を受けて出動してもほとんどが空振りに終わる。中将の表現である「空撃」が手記に頻繁に顔を出す。戦闘の実態はゲリラ戦であって、相手が知悉(ちしつ)した土地での闘いに翻弄される日本軍の様が詳細に記述されている。 南京、河南省を含む在中五年間で、唯一の成功例が魯家峪(ろかよく)の闘いであったと書いている。その戦果は「約三百殲滅(せんめつ)」。「魯家峪で殲滅したような成果を挙げたのは全く例外」で、ほかはほとんど空撃であったと説明している。供述書を見ると「魯家峪部落付近の山地に避難せる中国人民の農民二三五名を、中にも妊婦の腹を割り等の野蛮なる方法を用いて惨殺し、(略)尚且つ婦女の強姦百名にも達したのであります」とある。帰国した鈴木中将の歓迎会の様子 この作戦に参加した数人から話を聞きとっている。部落付近は荒涼とした地帯で、日本軍がしばしば伏撃に遭い、ときには大打撃をこうむる。追尾してこの付近にくると足跡を見失う不思議な所とされていた。ここに秘匿陣地のあることがわかり討伐が行われる。 洞窟内に逃げこんで頑強に抵抗する八路軍との戦いであった。後にわかったことだが、洞窟内には機関銃、地雷はもちろん山砲、迫撃砲まで備えていたという。鈴木中将は「逮捕者中、八路軍兵士は捕虜として後送せしめ、他は釈放することを命じて成功を賞して戦斗司令所に帰った」と手記に書いている。 NHKのETV特集「日本人 中国抑留の日々」(平成十一年十二月七日)は、未公開フィルムとして昭和三十一年六月に開かれた軍事法廷の模様を報じた。大物戦犯がぞくぞく登場、自らの罪状を「告白」し謝罪する。「鈴木啓久中将はいわゆる三光作戦を中心になって指揮した将軍です」と断定するナレーションにつづいて中将の告白場面に移る。一部を再現すると、「申しあげますれば、母の所にあった赤ん坊をもぎとって、地べたに叩きつける(と)、妊婦の腹を裂く(と)、生き埋づめを果たす、その上に芝草をかけて焼き殺す。あるいは、銃剣、機関銃あらゆる武器を以って、一時にして、(略)千二百八十余名という大勢の平和人民を三光政策の犠牲としたのであります」 「申しあげますれば」と言ったまま一瞬、中将は間を置く。躊躇しているように見える。さらにナレーションは、「三光作戦が徹底して行われたのは、かつての満州と中国の境界線付近でした」として「無人地帯」をあげる。無人地帯を「住民抹殺作戦」というのである。 結論だけ記すと、日本側の呼称「無住地帯」は部落に敵が紛れこみ、武器など物資の保管場所になるのを防ぐために取った住民の強制移住策である。でなければ、中将が記すように二十日間の猶予を与え、運べるかぎりのものを持って立ち退くよう命じるわけがない。以降いかなる理由があっても帰住は認めないとし、家屋は焼却した。だが、追い払っても追い払っても舞いもどる住民が少なくなかったという。鈴木中将は「之等の処置を中国は『三光政策』と呼んだ」と記しているだけである。強いられた偽証「コレラ作戦」強いられた偽証「コレラ作戦」 各人の「認罪」がおおむね終った後、「グループ認罪」へと移る。グループ全員が認めた事件がまったくの虚偽と証明されたら、多数の証言は何を物語るのだろうか。 ―昭和十八年九月、五十九師団独歩四十四大隊が駐留する山東省の臨清(りんせい)一帯は連日の雨つづきであった。八路軍に手を焼く日本軍は絶好のチャンスと捉え、「衛河(えいが)」と呼ぶ幅数十㍍の運河を決壊させ、農民を根こそぎ抹殺しようと企てた。これに先立ち、日本軍はコレラ菌を付近一帯に散布した。狙いどおりコレラが流行すると大部隊を動員し「コレラ作戦」を開始した。村に行ってはコレラ患者を追いたて、コレラが発生していない村に患者を追い込む作戦である。そうすればコレラが蔓延し農民を根こそぎ絶やせるからであった。衛河決壊作戦とコレラ作戦の結果、犠牲者は二万人とも二十万人ともいう膨大な数に上った― 以上は『三光』所収の難波博少尉の「手記」と『天皇の軍隊』が描く事件の骨格である。数人の部下とともに、哀願する農民の目の前でみずから円(えん)匙(ぴ)(小型シャベル)をもって堤防を決壊させたと証言するのは小島隆男少尉(機関銃小隊長)で、「八千人強制連行」を証言した小島中尉と同一人物である。この出来事の証言者として、少なくとも十四人が供述書に書き残している。 この話はでっち上げである。衛河が決壊したのは事実で、コレラ発生も事実である。だが、決壊は増水による自然決壊で、それどころか日本軍は決壊を防ごうと奮闘したのである。この年はコレラが大流行、山東省各地から満州に向かった労働者を通して、撫順や他地区に飛び火した。 矢崎賢三見習士官(歩兵砲中隊)の供述書で、大隊長から決壊命令を受けたと書かれた蓮尾又一第二中隊長は「全く噴飯もので天地神明に誓って『ノー』である。そのような話は聞いたこともない。命令を受けたことは絶対にない」と否定、同じように名指しされた中村隆次第五中隊長も「とんでもない嘘で笑止千万である」とし、望楼付近の水漏れを発見したため兵士が防ごうとしたのだという。日本軍が衛河を決壊させたなどとする偽証を「噴飯ものだ。そんな命令はなかった」と証言する蓮尾又一第2中隊長(右から2人目)ら独歩44大隊のOB。左端は田辺氏=平成10年4月 決壊を防ごうとしたことは、小島少尉の部下である金子安次(兵長)が『天皇の軍隊』ではからずも証言しているのである。金子ら二十人は望楼の周囲に掘った壕を補強するため、土嚢(どのう)を作り、飯も食わずにフンドシ一つで作業をする。三時間の後、「川が切れたぞ」という日本兵の叫び声を聞き、「やっぱりカーブに当たるところがやられたんだな」と金子の脇でだれかが言ったというのである。だが、機関銃隊員の金子は大隊長の命令で「破壊活動に参加し、円匙で五十㌢堤防を切り崩した」と書き、「コレラ菌を散布せよとの命令を受けた」とも供述書に書いている。 小島の長年の部下で、「八千人強制連行」に関わる両者会談に同席した内田行男軍曹(前出)は、『天皇の軍隊』の小島証言に対し「なぜ、そんな証言をするのか」と電話で抗議した経験を持つ。話が全然違うからだという。「いくらなんでもそんなことやりませんよ」と同様に否定するのは、同じ中国戦犯だった新村隆一兵長(大隊本部)である。何度か会って直接話を聞いた。このほか作り話とする根拠は数多くある。 だが、小島中尉は「私たちは七三一部隊とも協力しました。コレラ菌を対象地域にまきました」と茨城県つくば市で講演するなど、とどまることがなかった。その要旨が『証言・731部隊の真相』(ハル・ゴールド、廣済堂出版)に取り上げられ、世界に拡散していくのである。虚偽を逆手に歴史イメージ回復を虚偽を逆手に歴史イメージ回復を 南京事件に簡単に触れると、中国戦犯の関係者は三人と思われる。 佐々木到一旅団長(十六師団)は昭和三十年獄死、認罪を拒否したのか供述書の類は残っていないようだ。太田寿男少佐については平成二年十二月、〈「南京虐殺」の供述書入手 「十五万体処理」克明に〉と毎日新聞が一面トップで報じたが、見つかった梶谷健郎軍曹の日記により供述書の信頼性は崩壊した。 もう一人は東口義一一等兵で秦郁彦論考「『撫順戦犯裁判』認罪書の読みかた」にでてくる。東口は難民区で六百人殺害と「上官罪行検挙書」に書いたが、佐々木旅団長を「告発」する材料だったようだと秦は推測している。 事実とかけ離れた残虐行為がわれわれ日本人の歴史イメージを決定づけたばかりでなく、世界にまで拡散し浸透している。さらに、中国と韓国の攻勢に事態は深刻度を増す。中国との人口比を考えれば、将来の日本人の安全にとって由々しい問題と思う。この窮地を脱出するために、究明された事実を内外に発信すべしとよくいわれる。 では、具体的にどうする。 以前から考えていたことを記しておきたい。 まず、メディアを通して知ったであろう日本軍の残虐イメージは、虚偽あるいは極端に誇大化されたものかもしれないと、米欧人に疑問を起こさせるわかりやすい事実の提示からはじめる。イメージ回復作戦である。その先陣となりうる打ってつけの材料がある。万人坑である。 なぜ中国が大々的にとりあげ、日本を非難しないのか不思議に思っていた。理由があるはずである。 まず、主だった展示館と内部の人骨を写真と動画に撮り、それらが「真っ赤なウソ」であることの説明をつけ、ネット上に乗せる。視覚に訴えるだけにわかりやすくインパクトもある。米欧人に理解するための証明も可能である。中国では古代からの戦争、そして国共内戦でも大量殺戮・餓死が繰り返され、そのたびに人棄て穴が形成された。それを日本軍民の仕業に仕立てるなどしている。写真は大同炭鉱の万人坑記念館 その上で南京問題等を加えるのがいいのではないか。「五万七千四百十八人」の殺害を目撃した魯甦証言、また「二千八百七十三人」がいつのまにか「二万八千七百三十人」に増えた上新河の殺害、むろん崇善堂の十一万余体の処理も加える。『THE RAPE OF NANKING』に掲載された女性の陰部に棒を突き刺した写真を、通州事件と関連づければ説得力があるだろうし、慰安婦連行写真も候補になる。 これらの組み合わせ方一つで、中国の主張に疑問を持ち、虚偽を見抜く人もでるはずだ。希望的と思わぬでもないが、真面目にそう考えている。 万人坑を事実とする日本人学者(ほとんど大虐殺派)、また炭鉱職員の抗議に対し、中国の代弁をしただけだから「抗議をするのであれば、中国側に直接やって」と言い放った本多勝一、それに口先だけで行動しない朝日新聞に対して、改めて責任を問う契機にもなるのではないか。  たなべ・としお 昭和十三年東京生まれ。東京理科大学中退。会社勤務を経て五十一年に企業の業務改善を進める経営コンサルタントとして独立。一方で支那事変などでの日本軍をめぐる「残虐行為」記述・報道に疑問を抱き、独自に調査を始める。特に中帰連の「証言」宣伝については、該当する部隊などの生存者を一人一人尋ねては真正証言を集め、デタラメであることを実証し続けた。著書に『「朝日」に貶められた現代史―万人坑は中国の作り話だ』(全貌社)、『追跡 平頂山事件 満洲撫順虐殺事件』(図書出版社)、『検証 旧日本軍の「悪行」 歪められた歴史像を見直す』(自由社)。平成十七年からネット上に「脱・洗脳史講座」を開設し、中共による反日洗脳工作や日本での同調組織・人物の実態を究明し、逐一そのプロパガンダを検証し、虚偽であることを実証している。

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    大虐殺は「中華のファンタジー」  娘と見続けた南京の虚像と現実

    や資料にあたり、「南京大虐殺は幻だ」と言ってもみても、なんの効果もないからだ。なぜなら、南京大虐殺は歴史認識問題ではなく政治問題だからだ。日本軍攻略で敗残国民党軍が街を破壊し尽くした南京にも、今や中心地の新街口周辺には摩天楼が林立する 政治問題であるなら、いまさら論争する必要はなく、単にその現場を見ればいいだけだ。娘の留学先だったナンチン これまで私は何度も南京に行っている。ただ、記念館に足を運んだのは一度だけで、その時は家内を連れて、当時、南京で暮らしていた娘に案内してもらった。 二〇〇六(平成十八)年の初夏、南京の中心街、新街口(シンチエコウ)から記念館までタクシーに乗った。タクシーに乗り込む前から、娘は「日本語を使わないほうがいい」と、家内と私に釘を刺した。 中国では二〇〇五年に最初の大規模な反日デモが起こっていて、南京はとくに反日感情が強いと言われていた。当時、娘はジョンズ・ホプキンス南京センター(中国名・中美文化研究中心=ジョンズホプキンス大学SAIS大学院が南京大学と提携して開設した中国研究所)に留学していて、すでに何度か記念館に行っていた。 南京に留学した当初、「大学の中はいいけど、街に出たら日本人とわからないようにしている」と言っていたので心配していた。しかし、その心配はいらなかった。というのは、娘はいっさい日本語を使わなかったからだ。南京大学と提携して開設しジョンズ・ホプキンス南京センターには英語圏からの留学生も多い ジョンズホプキンス南京センターは、アメリカからの留学生と地元の中国人学生が半々で、一緒に中国経済、文化、歴史について学ぶ。一九八七年に設立されており、アメリカの大学のアジアでの提携プラグラムとしては、もっとも古いものの一つだ。 アジアでの進出先として、最初は日本を考えたというが、日本の大学から断られ、南京大学になったという。南京大学(ナンチンターシュエ)は、中国では、北京大学、清華大学、中国科学技術大学、復旦大学に次ぐ五番手の大学だ。 娘のルームメートは南京大学の職員の一人娘で、日本への留学経験があり日本語も話せた。それで、ただ一人の日本人留学生である娘のルームメイトになったが、二人は常に英語か中国語で話していた。ほかのアメリカ人留学生も同じだった。中国語で話していれば、娘は中国人に見られる。また、英語で話していれば、今度はアジア系アメリカ人に見られる。 中国人はとくにアメリカ人には弱い。これは、アジア人ならみな持っている抜きがたい白人コンプレックスで、中国に行くたびに私は、「この点だけは日本人と同じだ」と思ってきた。 たとえば、留学中のアメリカ人学生は街に出ると、中国語ができても英語で通す。そうすると、買い物でも飲食でも中国人はじつに親切に応対してくれる。彼らが中国語を使うのは、なにかトラブルが起こった時だけだ。そうすると、中国人は「中国語が話せるのか」と驚き、それ以上文句を言わなくなる。日本で常識の捏造写真を堂々展示日本で常識の捏造写真を堂々展示 記念館のチケット売り場で、娘は英語でチケットを買った。そうして、中に入っていきなり目についたのが、「犠牲者30万人」の掲示だった。これには、正直驚いた。 記念館は二〇〇七年に大幅リニューアルされているので、ここからの記述は現在とは異なっているかもしれないが、資料館に入ると、まずガラス張りの「万人坑」遺祉の遺骨の展示があった。これは、大虐殺で殺された人々の遺骨ということだが、全部レプリカだった。そして、延々と日本軍の残虐行為や抗日戦争に関するパネルと資料の展示が続いていた。 日本人なら誰もが知っている〝捏造写真〟も堂々と飾られていた。百人斬りの展示もあった。そういう展示を見ながら、娘は英語で「ウソばっかりでしょ」と言った。私は、気分が沈み、返す言葉も失っていた。建物の外側だけでなく内部にも「これでもか」と「300000」の数字が迫りくる=「南京大虐殺記念館」 記念館には、大勢の観光客にまじって、近所の小学生の一団が、教師に連れられて見学に来ていた。展示物の前で、教師が子供たちに何か説明している。 それで、娘に何を言っているのか聞くと、「あなたたちのおじいさん、おばあさんの中には、このように日本軍に殺された人もいますと言っている」と言う。さらに、見学者が記帳するノートに何か書いていたので、あとからそれを見ると、「日本人は鬼だ」「日本人は皆殺しにせよ」と書いてあると娘が教えてくれた。「こんなのもう見慣れているから、驚かない」と、娘は続けたが、私はますます落ち込んだ。 その後、資料館を出て広場に出ると、先ほどの小学生たちが、お弁当を食べたり記念写真を撮ったりしてはしゃいでいた。遠足といえばそれまでだが、少なくともワシントンDCにある米国国立ホロコースト記念博物館では、こんな光景は見たことがなかった。「大虐殺」「靖國」絡めた朝日 南京大虐殺記念館が建てられたのは、一九八五(昭和六十)年の夏である。それまで、南京市がある江蘇省の小中学生たちは、春の清明節(日本のお盆にあたる)に、国民党との内戦で死亡した共産党員を祀る「烈士霊園」を訪れていたという。 つまり、あの戦争が終わって四十年間、南京大虐殺という歴史認識問題は、日中間には存在しなかったのである。毛沢東は「共産党が国民党に勝てたのは日本軍のおかげ」と言っていたし、彼の記録を読む限り南京大虐殺に関する記述は一行もない。 八五年の夏といえば、私がまず思い出すのは、御巣鷹山に墜落して死者五百二十人を出した日航機事故である。当時、私は週刊誌の編集部にいて、この事故の取材に忙殺されていたので、南京に記念館ができたことなどまったく知らなかった。 これを知らせてくれたのは朝日新聞で、しかも朝日新聞は、突如として総理大臣の靖國神社参拝を批判する論陣を張った。それまで、日本の首相は計五十八回も参拝しているというのに、なぜかこの年から靖國参拝は問題化し、南京大虐殺と併せて日中間の歴史認識問題になってしまった。 ついでに書くと、従軍慰安婦問題にしても平成四(一九九二)年に朝日新聞が捏造記事を書くまでは存在しなかった。つまり、歴史認識問題というのは、ほぼ日本側がつくり出したもので、それに乗って対日批判、反日政策を取る中国・韓国に「歴史の誤解だ」と反論しても意味がない。 私は四十年ほどメディアの仕事をしてきたが、自国民をこれほどまでに貶(おとし)め、しかも捏造を平気で行う大メディアがある国を知らない。これをやるから、外国メディアも興味津々で取り上げる。プロパガンダに踊らされる欧米プロパガンダに踊らされる欧米 私は、日本にいる欧米メディアの記者の何人かと親交があるので、彼らがどのような経緯で日本の記事を書くのか知っている。簡単な話、彼らは日本語があまり得意でない。そこで日英バイリンガルの日本人アシスタントを使い、日本の報道をリサーチさせる。 そうして、その中でいかにも日本的、東洋的なトピックで本国の編集者や読者に受けそうな部分を強調して伝える。要するに、日本の報道をコピーするわけで、これをやると論調まで同じになることが多い。 日中、日韓の歴史認識問題は、こうした記者たちの格好のテキストになる。欧米にとって日本は異質の国であり、「日本異質論」は欧米読者が好むからだ。しかも、問題は時代錯誤の「大虐殺」「靖國」「慰安婦」である。日本女性を妻にしたり恋人にしたりしていない限り、彼らの日本史理解は浅薄だ。 そのため、南京大虐殺は史実の検証などされずに、ナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と同じ扱いにされ、英語でそのまま「Nanjing Massacre」(南京大虐殺)となる。靖國神社は一般の欧米人に「Yasukuni」と言ってもわからないうえ、神社などに興味はないから「war shrine」(戦争神社)となる。従軍慰安婦も同じで、これは単純に「sex slave」(セックス奴隷)と書かれる。 このような英語で表現されると、日本のイメージは抜きがたく悪化する。日本軍は戦争神社にお参りし、戦地ではセックス奴隷を使い、住民を虐殺したということになってしまう。日本の研究で捏造と実証されている多くの写真が堂々と展示される館内。若者や家族連れが見入っている=同 いったんこうしたイメージができてしまうと、もはやひっくり返すことは難しい。ただ、記者なら、私が次のようなことを言えば耳を傾ける。「当時、日本軍は中国の目ぼしい都市のほとんどを占領した。それなのに、なぜ南京でだけで虐殺を行ったのか、誰も合理的に説明できないし、ナチスのような記録も残っていない」「当時、南京には海外メディアの人間も多くいた。その誰もが虐殺の目撃記事を書いていない。南京陥落を伝えたNYタイムズの記者も書いていない。また、陥落と同時に日本人記者も百人以上入ったが、戦後、誰も虐殺を証言していない」「中国政府は虐殺で三十万人が殺されたと言っている。しかし、当時の南京市の人口は二十万人ほどだ」先入観で事実歪曲した米映画 欧米人の南京に対するイメージが、いかに単純かということを、さらに書き留めておきたい。 私が南京虐殺記念館に行った翌年の二〇〇七年は、「大虐殺七十周年」にあたった。日本軍が南京に入城したのは昭和十二(一九三七)年十二月十三日。それから約一カ月間にわたって虐殺が繰り返されたことになっている。ならば、この壮絶な〝史実〟をドキュメンタリー映画にしようと、あるアメリカ人が考えた。その人間は、AOLのテッド・レオンシス副会長。彼がスポンサーになり、昔の資料や証人を当たり、史実を忠実に再構成するというのだ。 この報道を最初に耳にした時、これはもしかしたら、本当のことが描かれるかもしれないと、私は思った。しかし、レオンシス氏がこの映画を思いついたのはアイリス・チャンの自殺を知ったからだと聞いて、自分の考えが間違っていることがわかった。アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』を下敷きにしているのは明白だからだ。 実際、日本軍が進駐した南京市内に安全区を設立して、住民を虐殺から保護したという欧米人たち、とくにドイツ人のジョン・ラーべを〝中国のシンドラー〟と位置づけていた。つまり、ユダヤ人をホロコーストから救ったオスカー・シンドラーが、南京にもいたというわけだ。 実は、この映画を制作することになったハリウッドのパープルマウンテン・プロダクションは、二〇〇六年の春、ロケ隊を組んで南京を訪れた。南京には虐殺記念館の他に、虐殺を記録する記念碑がいくつも建っている。南京大学は、当時、安全区になっていて、避難民が何千人も収容されていた。そして、ここでも虐殺が行われたとされ、記念碑が建っている。 そんなこともあり、娘は英語と日本語、中国語ができるということで、ロケ隊のアシスタントとして駆り出された。   娘によると、ロケ隊は、当時の日本の資料(雑誌や新聞など)を持ってきて、「この記事の内容は?」「この写真は?」と聞いてきたという。 そこで、娘は正確に訳して伝えたが、「そんなはずはない」と取り合ってもらえなかったという。彼らが持ってきたのは、たとえば、ほかの中国戦線で撮られた写真のキャプションを捏造して南京大虐殺の写真としているというような、日本人なら〝やらせ〟とわかるものばかりだったという。「企画書の導入部に〝日本軍は二十万人以上を虐殺して、何万人もの中国女性をレイプしました〟とあったので、本当に嫌な気分になった」と、娘は言ってきた。 ロケ隊が帰った後、娘は、ルームメートの中国人学生と、南京大虐殺記念館の訪問記と意見を、南京のタウン誌『城市指南』に寄稿し、素直な感想を述べて、日中友好を訴えた。 映画『南京(NANKING)』は、二〇〇七年一月にアメリカのサンダンス映画祭(インディーズ映画の世界最大の映画祭)で初上映された。その後、中国全土でも封切られた。しかし、大した反響を呼ばなかった。まだ現代中国人監督の方が柔軟まだ現代中国人監督の方が柔軟 この話にはまだ続きがある。 平成十九(二〇〇七)年九月、友人の国際政治学者の藤井巌喜(げんき)氏が、こう言ってきた。「チャンネル桜の水島総社長が、映画『南京』を見て憤っている。それで、『向こうがそうならこっちは〝南京大虐殺は幻だ〟という映画をつくろう』と言っている。そのために、南京関連の一次資料を徹底的に当たりたいという。ついては、娘さんにアメリカに行ってもらえないか?」「アメリカのどこに?」「米国国立公文書館(ナショナルアーカイブス)だ」 米国国立公文書館(新館)はメリーランド州カレッジパークにある。ここには、アメリカの歴史・政治などに関するあらゆる資料が保存されている。東京裁判や南京に関連する資料も、実はすべてここにそろっている。 娘にこの話をすると、バイト代をくれるなら行くというので話は決まった。こうして〇七年十月、娘はカレッジパークに行き、モーテルに泊まりながら毎日、米国国立公文書館に通った。そうして、資料フィルムの概要が書かれたインデックスカードを一枚一枚検索し、松井石根、マギー牧師など、関連人物のカードを片っ端から探し出し、そのカードに記載されているフィルムのコピーを下請け業者に発注した。 帰国後、娘が言うには、資料の量は膨大で、最初はいつ終わるかわからないと思ったという。娘は、この作業を一週間以上繰り返し、ほぼすべての資料のコピーを日本に持ち帰った。しかし、この映画はまだ制作されていない。 ところで、南京大虐殺は、その後も映画になったり、テレビ向けのドキュメンタリーになったりしている。最近では、二〇一五年十二月に、江蘇省ラジオ・テレビ総局が製作したドキュメンタリー『外国人から見た南京大虐殺』が、中国中央テレビ(CCTV)と江蘇衛星テレビで放映された。映画「南京!南京!」を制作した陸川監督 これは、中国政府が十二月十三日を「南京大虐殺犠牲者の国家哀悼日」にしてしまい、中国全土で式典が開かれるようになったこと、世界記憶遺産になったことを記念してつくられたもので、中国政府のプロパガンダである。だから、見る意味はない。 見る意味があるとしたら、二〇〇九年に封切られた映画『南京!南京!』(City of Life and Death)である。これは、中国の第六世代、陸(ルー)川(チユアン)監督の作品でドキュメンタリーではないが、はるかに史実に忠実で、真実が描かれている。 モノクロ映画で、南京戦が日本兵の視点から描かれていて、そこには日本兵の人間としての苦悩も中国側の葛藤も織り込まれている。陸川監督は、この映画の制作にあたり「日本軍兵士の日記など資料を徹底的に読んだ」と語っているが、ステレオタイプのアメリカ人より中国人の若手・中堅のほうが、より柔軟に歴史をとらえているのだから、本当に皮肉だ。外に出れば、より強く日本を意識外に出れば、より強く日本を意識 実は私の娘は、幼稚園から高校まで日本のインターナショナルスクールに通ったため、一度も日本の学校教育を受けていない。高校卒業後はアメリカ東部メーン州のべイツカレッジに進学し、その後、ジョンズホプキンズ大学のSAIS大学院で学んだ。そして、前記したように約二年を南京ですごしたので、この間、友人知己によく聞かれたことがある。「それでは日本人として育たないのではないか?」 これに対する私の答えは、こうだ。「日本の中で日本人だけに囲まれて育つより、よほど日本人らしい日本人になる。それは外側から日本と日本人を見られるからだ」「東は東、西は西」(East is East, West is West)という有名な言葉を残した『ジャングル・ブック』の作者、作家ラドヤード・キップリングは、こういう言葉も残している。「イングランドしか知らない人に、イングランドの何がわかるか」 キップリングはインド生まれの英国人だった。それゆえに、もっとも英国人らしい英国人となり、英国のことをこよなく愛した。 一般的に、インターのような国際学校に通うと、日本人としてのアイデンティティーは希薄になると思われがちだ。しかし実際は逆で、インターに通ったり、海外留学をしたりしたほうが、日本人としてのアイデンティティーは強化される。 とはいえ、日本の学校教育を受けないのだから、日本の歴史や伝統文化に関して学ぶ機会は少ない。とくに歴史は、親が教えなければならない。 私が学校で学んだ歴史は、ただの詰め込み式の暗記教育だった。極論すれば、たとえば「いい国つくろう鎌倉幕府」というように、年時とイベントをセットで暗記するだけ。しかも、たいていは明治で終わってしまった。三学期はテストが多くて現代まで行かない。行ってもせいぜい昭和の初めぐらい終わっていたので、あの戦争から現代までの事がすっぽりと抜け落ちている。 それで私は、自分が受けた歴史教育の反省もあって、娘には、とくに現代史を中心に教えた。そのなかに「日中戦争」も「南京大虐殺」もあったのはいうまでもない。また、現代史ということは、家族が歩んだ歴史でもある。家族の歴史こそが、日本の現代史だからだ。 小さいころから私が娘に言ってきたのは、私の父と母が、あの戦争のとき何をしていたかである。 戦争の悲劇に国境はなし戦争の悲劇に国境はなし 私の父は昭和十九(一九四四)年、十九歳で招集され、北支那(きたしな)派遣軍第五十九師団に配属され満洲で戦った。そして、終戦時、侵攻してきたソ連軍に捕まり、シベリアに輸送されることになった。ところが、発疹チフスに罹(かか)り、チチハルで輸送列車から放り出された。その後、満人に助けられて新京(長春)まで下り、その後、復員船に乗って帰還した。 「もしあのとき、発疹チフスに罹らなかったら、シベリアへ行って死んでいただろう」と、父はよく言っていた。 また、私の母は昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲の時、当時暮らしていた南区通町の家から近所の防空壕に逃げた。このとき、火の手が迫っていたので大岡川に逃げた家族もあったが、B29の次に来たP51の機銃掃射でみな死んだという。 「あとから行ってみると、川が真っ赤に染まっていた。あのとき川に逃げたら、私も死んでいた」 と、母はよく言っていた。  だから私は、娘にこう言った。「おじいちゃんもおばあちゃんも、いま生きているのは偶然だよ。おじいちゃんとおばあちゃんが生きていなければパパも生まれなかったし、お前もいないんだよ」  娘はジョンズホプキンス南京センターを修了した後、アメリカ人の親友と満洲の旅に出た。 私がいつかは行こうと思っていて行けなかったハルピン、チチハルに行き、満洲を一周して帰ってきた。長春では旧満鉄の大和ホテルに泊まり、瀋陽や大連の日本軍の史跡を訪ね歩いた。  このとき娘は、私の父が書いた小説を手にしていた。私の父は作家で、満洲での体験を『日本工作人』(現代社、昭和三十三=第三十九、四十回直木賞候補作)という長編小説に書き残している。 「死ぬまでにもう一度、満洲を見たい」と言っていたが、五十八歳の若さで心筋梗塞で逝ってしまった。  今日まで、娘も私も、多くの中国人と付き合ってきた。とくに娘が南京にいた時は、ルームメートの両親によくしてもらった。彼らは私たち夫婦と同年代で、聞いてみると両親は戦争中相当苦労したと言う。また、戦後も「大躍進」「文化大革命」と苦労続きだったと言う。 ただ、日本に対しては何の恨みも持っていなかった。北京政府と、一般の中国人との間には大きな温度差があることを私は知った。 それでも、時として、中国人と戦争の話になることがある。私は極力そういう話題を避けているが、たまたま向こうが同年輩で、酒が入ると「じつは、私の叔父は杭州で日本軍に殺された」というようなことを言われることがある。そう言われると戸惑うが、それならと私も父の話をすると、不思議と話は収まる。 国家や政治という大きな枠組みを離れれば、結局は、日本人も中国人も、歴史の流れに翻弄されて生きてきたのである。反日で「中華帝国復興」狙う習近平反日で「中華帝国復興」狙う習近平 二〇〇七年七月、娘は再び南京に行った。 南京大学とジョンズホプキンス大学の提携が二十周年を迎え、記念式典が開かれることになったからだ。 来賓にはアメリカからヘンリー・キッシンジャー元国務長官が招かれた。この式典は、南京市長から共産党幹部まで、南京市の有力者がすべて出席し、彼のスピーチに盛大な拍手を送った。 キッシンジャー氏は、日本より中国が好きで、とくに周恩来を高く評価していた。米中国交樹立の立役者だから、中国にとっては大恩人である。だから、彼が市内を移動するときは厳重警備態勢が敷かれた。新街口の道路の両側には公安がずらっと並び、道路は封鎖された。キッシンジャー氏の南京訪問は、翌日の新聞もテレビニュースもトップ扱いだったという。見学の小学生はニセモノ展示を信じ込まされて熱心にメモを取る。シナ数千年の愚民政策は今も続く そうした厳戒態勢の中、式典後、彼のクルマが向った先は宴会場。そこには、ジョンズホプキンス南京センターの卒業生が出迎え、南京料理が並び、名物の餃子が山盛りになっていた。 そうした様子を見ていた娘は「こんなに中国とアメリカが仲良くなったら、日本は困る」と思ったという。それで、アメリカ人学生にそれを伝えると、こう言われた。「実は、キッシンジャーは中国は好きだけど、中華料理は嫌いだ。見ろよ、餃子をひとつも食べていないだろ」 一時あれだけ接近した米中は、いまは対立姿勢を取るようになった。 習近平は「中国の夢」を唱え、二〇四九年、つまり中華人民共和国の建国百年までに民族の偉大なる復興を成し遂げようとしている。アヘン戦争で英国に負け、列強の半植民地となり、日本に侵略されて戦い続けた一九四九(昭和二十四)年までを「屈辱の百年」、その後の百年は「復興の百年」と定義している。 このように定義するのは勝手だが、「復興の百年」に反日政策を使うのは、迷惑このうえない。汚濁と混沌の現実汚濁と混沌の現実 いまの私は、中国に対する興味をすっかり失っている。娘が中国にいた頃までは、プライベートや取材で度々行ったが、ここ四年はまったく行っていない。 なぜなら、「この国では人間らしい生活はできない」と結論したからだ。空気、水、油、この三つが徹底的に汚染されているのだから、とてもではないが、まともに暮らせない。最近、北京のPM2・5汚染が大きく報道されるようになったが、もう何年も前から冬の北京はマスクなしに歩けなかった。こうしたことは拙著の『「中国の夢」は100年たっても実現しない』(PHP研究所、平成二十六)に書いたので、興味のある方は是非読んでいただきたい。 汚染と言えば、南京でも進んでいる。南京市の北西側を悠久の大河・長江が流れている。この長江の風景は、たとえば、李白が七言絶句「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」(黄鶴楼(こうかくろう)にて孟(もう)浩然(こうねん)の広陵に之(い)くを送る)で描いた「孤帆遠影碧空盡 唯見長江天際流」(孤帆(こはん)の遠影碧空(へきくう)に尽き 唯(ただ)見る長江の天際(てんさい)に流るるを)になっていない。「遠ざかる帆影はやがて碧空の彼方に消え、そこには、長江の碧水と碧空が溶け込んだ世界がある」などと思って行ってみると、完全に裏切られる。 長江には「南京長江大橋」という、一九六八年に完成した道路と鉄道が両方通る橋としては当時世界一の長さを誇った橋が架かっている。観光スポットで展望塔もあるので行ってみたが、長江の水は「碧水」ではなかった。赤茶けた土色で、よく見ると、表面にはゴミなどの浮遊物が山のように浮いていた。まさに、長江は巨大すぎるドブ川と化していた。 長江大橋は、北岸にある浦口区(プーコウチユ)と南岸の南京城側にある下関区(シアクアンチユ)とを結んでいる。この下関には、南京陥落時、かなり大規模な停車場と波止場があり、ここで「中国兵の処刑が行われ、その遺体は長江に流された」という。それが本当なら、長江は真っ赤に染まっただろう。 ところで、この長江大橋は、中国一の「自殺スポット」としても有名だ。一九六八年の完成から現在まで、なんと約二千人がここから長江に飛び込んで死んでいる。中国人にとって長江は母なる大河で、母の元に帰ろうと身を投げるのだという。  自殺者の多くは若い農民工(農村出身の労働者)で、都市に出て懸命に働いても将来が開けず、絶望すると、長江大橋にふらりとやってくる。そして、身を投げる。まさに、経済成長、経済成長だけで拡大してきた中国の〝負の側面〟である。虐殺記念館は幻想のテーマパーク これからも、南京大虐殺に対する歴史認識問題は、日中間でもめ続けるだろう。いくら論争しても埒(らち)が明かないだろう。それなら、いっそのこと沈黙してしまえばいいと私は思っている。政治問題なのだから、相手を言い負かしてもけっして解決しない。 それに、これに火を点けたのは、元を正せば日本側である。洗脳でなければ幼稚な正義感なのか、それに染まったメディアのせいで、私たちは背負いきれない重荷を背負わされてしまった。 しかも、日本政府の公式な立場も最悪である。「日本軍による民間人(非戦闘員)の殺害または略奪行為があったことは否定できない。しかし、その人数はわからない」「孤帆の遠影碧空に尽き…」は今やファンタジー。空は汚れ河は濁り、人々は絶望して濁流に身を投げる…それが中華の現実 これでは、曖昧すぎてどうしていいかわからない。 否定するか肯定するか、それとも沈黙するかの三通りのどれかに絞るべきだった。「殺害または略奪行為があったことは否定できない」では、あったと認めたのと同じである。 つまり、いまさらこれをひっくり返せない。 たとえば、英国は植民地支配時代にあらゆる搾取、略奪を繰り返した。しかし、彼らはそれを認めず、けっして謝らなかった。だから、時を経てそれを問題にする国はなくなってしまった。 要するに、歴史は常に書き換えられることができる。中国の王朝の歴史を見れば、勝者になった者は必ず自分に都合のいい見方で歴史を書き換えてきた。現在の北京も同じである。彼らは日本に勝ったわけでもないのに、勝ったとして「抗日戦争勝利記念式典」を毎年行っている。 ただし、この問題が解決する時は必ずやってくる。それは、何十年、何百年先になるかわからないが、人類がタイムマシンを発明した時だ。タイムマシンに乗って、一九三七年の南京を訪れれば、そこで何があったかは誰の目にも明らかになる。 そうなると、南京虐殺記念館は、実はテーマパークで、ディズニーランドと同じような〝ファンタジーの世界〟であることがわかるだろう。 それで、最後にこう言いたい。《さあ、南京に行こう! 行って世界記憶遺産として登録された素晴らしいテーマパーク「南京大虐殺記念館」を見てみよう!成田空港と関西空港からたった二時間半で着きますよ》やまだ・じゅん 昭和二十七年横浜市生まれ。立教大学卒業後の五十一年光文社入社。週刊誌『女性自身』や新書「カッパブックス」の編集部を経て平成十四年「光文社ペーパーバックス」初代編集長。二十二年から独立し編集プロデューサーも務める。経済・ビジネス分野の取材・執筆の一方、近年は日本の近現代史について、歪曲を排した事実の発掘に心血を注ぐ。主な著書に『出版大崩壊 電子書籍の罠』『資産フライト「増税日本」から脱出する方法』『円安亡国 ドルで見る日本経済の真実』(いずれも文春新書)、『永久円安 頭のいい投資家の資産運用法』(ビジネス社)、『本当は怖いソーシャルメディア』(小学館新書)などのほか、『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP研究所)、『日本が2度勝っていた大東亜・太平洋戦争』(ヒカルランド)など。父親は作家の津田信。

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    メディア報道は、もう少し両論併記できないか?

    長谷川豊(フリーアナウンサー) メディアは「情報」を操作します。そこに「ある」ものを「なかった」ことにすることも、いとも容易くできます。私自身もやってきたことです。 例えば、終戦直前、南海トラフと想定できる地震が…実は発生していたことって…皆さん、ご存知ですか? 一昨日、建設大臣も務められた大阪の自民党重鎮・中山正暉(まさあき)氏とお話ししたのですが、その時に教えてくれました。終戦直前の時期、毎日のように空襲が行われていたその時。奈良の生駒に疎開していた中山氏が目にしたのは、地震で壊滅状態になった和歌山から立ち上る7本の煙。昭和19年の末か20年の前半。南海トラフと想定出来る巨大レベルの地震が、和歌山を襲っていたのです。実はこの話は、私も昔、祖母から聞いた思い出があります。和歌山辺りにお住まいの方、80代以上の方が近くにいらっしゃったら聞いてみたらいいと思います。覚えている方もいるでしょう。 しかし、混乱を招く、と考えたのか、もしくは戦後日本を占領統治したGHQにとって「不都合な情報」だったのか、その「和歌山巨大地震」のデータは日本全国、完全に抹殺されているのです。どうか日本人には分かってほしい。戦争の終わり前後には… 明らかに多数の「消された・変革された歴史」が存在する。 本当に日本人が愚かだったのか?バカでアホで暴走してアメリカに竹やりで挑んでいただけなのか?もちろん、全部ウソとは思わないのですが…私には、少し疑問に感じる部分があるのです。中国で出版された「南京大虐殺辞典」第1巻(新華社=共同) 有名なのが「南京大虐殺」の話。こちらのデータを見てください。◆広島原爆投下による死亡者数→297,684名(H27原爆死没者名簿登録) ◆長崎原爆投下による死亡者数→168,767名(H27原爆死没者名簿登録) ◆太平洋戦争全体でのアメリカ合衆国民間人死亡者数→1,704名  (英タイムズ・アトラス『第二次世界大戦歴史地図 コンパクト版』/2001年発行)  これは正式に発行されている資料のデータをハンドルネーム「お節介オヤジ」さんが送ってくれたものです。広島における原爆投下による「民間人」の大量虐殺。この犠牲者の数が30万人近かったことから、東京裁判において、アメリカが数値を改ざんして「南京での大虐殺というストーリー」をでっち上げたことはあまりに有名です。日本が「最低のクソ国家」というストーリーを作り上げたアメリカ 『人類に対する罪』という名目で、終戦後に戦勝国たちの手で一方的な裁判(東京裁判)を始めるわけですが、東京大空襲でも10万人の女性や子供を焼き尽くしたアメリカは、それまで全くニュースにすらなったことのなかった南京大虐殺という話を作り上げました。ご丁寧に、日本の朝日新聞はそれをでかでかと宣伝して、売り上げを伸ばすことに成功しました。 1937年12月。南京を日本軍が占領しました。その直前に公式に行われた南京政府の手による人口調査が20万人。日本軍の占領直後…1か月後に行われた人口調査の結果が25万人。 戦争中なので、何らかの犯罪行為はあった可能性がは否定しません。全く物的証拠もないですが、そこは戦争中ですしね。しかし、30万人はないわ。いまだに朝日新聞が必死になって宣伝した「南京大虐殺」を信じている人の脳ってどうなっているのか逆に興味がある。 アメリカは戦争に勝ったことをいいことに、日本を「最低のクソ国家」だというストーリーを作り上げました。クソ国家だったから我々は大量虐殺をしてもよかったのだ、と。自分たちの戦争犯罪をごまかす為に。ま、パフォーマンスです。偉そうに言ってますけど、我々メディアもよくやる手口なんですけど。 私は、第2次世界大戦におけるアメリカの「民間人の大量虐殺行為」は許されるべきではない「非人道的行為」だと思っています。私は「一人の日本人」としてアメリカの大統領が来るのであれば、それは「謝罪」はしなくていいけれど、「間違いは認めるべき」だと考えていました。民間人の大量虐殺は戦争犯罪だ。アメリカは間違いなく、戦争における大犯罪者だと思うのです。 補足しますが、私は、日本の総理も真珠湾に行くべきだと思っています。そして「宣戦布告もせずに不意打ちで基地を破壊した行為」を間違いだったと認めるべきだと考えています。こちらも「謝罪」は必要ないと思っています。でも両者ともに、ナァナァにせずに「認めるべきは認めるべき」だと考えていました。 何か違う、と思う点があるなら…誰か『論理的』に「物証」とともに反論してもらえるかな?出来るなら。 今回の広島訪問。癒された人々もいるのでしょう。それは悪くはなかったと思いますし、その救いはきっと必要だったのでしょう。でも、冷静に冷たくてもジャッジする必要もあると思うのです。 本当に評価するだけでいいのか? あんなレームダックにナァナァにされただけの訪問を、そんなべた褒めだけでいいのか? 頼むからメディアにいる正常な人間は、もうちょっとだけでいいので深く掘り下げる報道もしてくれ。突き放さなくていい。両論の併記をお願いしたいのです。(2016年05月29日 長谷川豊公式ブログ「本気論 本音論」より転載)

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    記憶遺産に「南京虐殺」?ヘタ外交はどうすればよいか!

    中田宏(元横浜市長) 今回はニュースになっているユネスコの世界記憶遺産についてです。まず、日本から申請した『シベリア抑留者の引き上げ記録「舞鶴への生還」』と京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書」の登録が決定し、喜ばしい限りです。しかし今回、問題になっているのは、ユネスコが中国が申請していた「南京大虐殺文書」の登録をも認めたことです。 そもそも南京大虐殺についてはその人数も諸説紛々ありますが、中国の申請内容である30万人以上は事実ではありません。当時の南京の人口は最大で約20万人で、仮に「全員」としても30万人はありえません。この一点でも、間違った数字の申請をユネスコがやすやすと認めるのは大問題と言わざるを得ません。「南京大虐殺記念館」を訪れる人たち(共同) ユネスコそのものですが、予算分担率と順位は、1位のアメリカ22%に次いで日本は11%・2位です。金額は分担金と任意拠出金を合わせて4494万8000ドル(日本円で54億円)にもなりユネスコに大変貢献しているわけです。こうした予算でユネスコは職員約2200人を雇用し運営しているのです。 今回、ユネスコに対する日本の措置を見直すべきという意見が出ていますが、私は賛成です。ユネスコはそもそも政治的な場ではないと前提にされつつも中国は明らかに政治利用して歴史的根拠が不明なものを申請しました。これをユネスコがやすやすと認めるのであれば、政治の場として活用してよいとユネスコ自体が認めるようなものです。 アメリカの分担率は22%だと前述しましたが、実はここ2年、アメリカは拠出を見合わせています。理由は、パレスチナがユネスコに加入したことにアメリカは反対をしているからで、極めて政治的な理由でアメリカは分担金・拠出金の支払いを停止しています。 日本もユネスコのあり方に問題提起をするために、そして南京大虐殺のように事実でない申請は認めさせないためにも、拠出金支払いを見合わせることには賛成です。すでに自民党の二階総務会長や菅官房長官も同様に言及しています。ただ今回も教訓とすべきは、こうした事案の結果が出てから事後に分担金をやめるのではなく、起こる前に見合わせておくべきだったということではないでしょうか。事の後で分担金を見合わせるぞ・止めるぞというのは圧力としては弱いですし、しかも一国の官房長官まで言及してしまうと、今度は本当に見合わせなければそのことそのものが今後のマイナスになってきてしまいます。 横浜市長時代、国から羽田空港の再整備に協力を求められ、横浜市は6年間かけて計100億円の無利子貸付けを行いました。しかし貸付けが始まると横浜市が条件にしていた羽田空港の「国際化」について国は明言しなくなり、単なる「再拡張」だと言い出したことがあります。 横浜市は約束を違えるのであればお金を出せないとして、予定していた年度の24億5千万円の貸付けを実際に停止させました。その後、政権が変わったこともあり羽田空港は国際化路線に戻り、今の羽田があります。 このように結果に実を結ぶためには、先に見合わせるなどより効果的な方法やタイミングがあるはずです。国内と国際問題でも、根本的な違いはないでしょう。日本の国際政治の立ち振舞いとして支払い停止に賛成ですし、そもそもユネスコへの供出金54億円は全て国民の税金です。国はしっかりと主張してください。(2015年10月14日「中田宏公式ブログ」より転載)

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    原爆投下は「不幸だが必要」だったのか ボストン大教授が日米の認識を比較

    (THE PAGEより転載) 「原爆投下は不幸だが必要なこと」だったーー。これがアメリカ社会の世間一般の通念だが、果たして本当なのだろうか。学者の間では議論がある。 「カリフォルニア大学の長谷川毅教授は、日本の戦争遂行能力は、当時いずれにせよ崩壊しつつあり、特に1945年8月にソ連が侵攻してからは、日本が降伏するまでは時間の問題だったと主張している。また、原爆を1個ではなく2個落としたことは、妥当だったのかどうかという議論もある」 9日、長崎に原爆が落とされてから70年を迎えた。70年前の8月に原爆が広島と長崎に投下されたことを今、日本や世界中の人々が思い出している。その原爆の記憶は、当事者のアメリカではどのように認識されてきたのだろうか。ボストン大学で国際関係学の教授を務めるトーマス・バーガー教授に、アメリカ国内での原爆に対する認識について話を聞いた。「ヒロシマとナガサキの記憶は、いまもアメリカで生き続けている」 原爆投下前、アメリカのニュース映画が原爆の破壊力と人的影響は小さいと強調していたにも関わらず、原爆によってもたらされた被害は甚大なものだった。この見方は、戦後数年でアメリカ社会へと広がっていった。取材に応じたボストン大のトーマス・バーガー教授 「1950年代には既に、アメリカ人を含む広い国際社会で、原爆はひどい出来事だという認識があった。私はこの理解は、今もアメリカ人の中に残っていると考える。ヒロシマの記憶は、アメリカ国内で何十年にもわたり、映画や英訳された『はだしのゲン』といった漫画などで語られてきた。戦後70年を経て、直接関わった世代がほとんどいない中、ヒロシマとナガサキの記憶がアメリカ社会で現在も生き続けていることは、とても注目に値する」とバーガー教授は語る。原爆投下は「不幸だが必要」だったが支配的 バーガー教授は、原爆投下の是非について知識人の間では大きな議論となってきた一方で、政治的なレベルでは議論にならなかったと指摘する。 「原爆投下について、アメリカ人と日本人の考え方には大きな違いがある。日本は、原爆投下をほとんど『許し難い残虐行為』だと、ずっと考え続けている。アメリカにおいて支配的な見方は、『原爆投下は不幸だが必要なこと』というままだ」 「原爆投下は不幸だが必要」とは、どういうことか。バーガー教授は続ける。 「もし原爆を広島と長崎に落とさなければ、戦争が続き、多くのアメリカ人の命が失われたという考えだ。アメリカ側の予想では、沖縄や硫黄島を含む太平洋の島々で日本が示した頑強な抵抗を思えば、アメリカが本土に侵攻した場合、多くの犠牲者が出るというものだった。さらに、本格的に日本に侵攻したならば、膨大な数の日本人の命も失われるのではないかという懸念があった。スティムソン陸軍長官は、東京を含む日本の大都市に対して行われた、通常の空襲が残した甚大な被害の写真を見た際にショックを受けた」。ゆえに、「アメリカ国内の支配的な見方は、『原爆投下は不幸だが必要なこと』であり、『原爆投下が終戦を早めた』という考え方であったし、今もそうであり続けている」原爆投下の妥当性は「生きた争点」になっていない原爆投下の妥当性は「生きた争点」になっていない 「原爆投下は不幸だが必要なこと」だったーー。これがアメリカ社会の世間一般の通念だが、果たして本当なのだろうか。学者の間では議論がある。 「カリフォルニア大学の長谷川毅教授は、日本の戦争遂行能力は、当時いずれにせよ崩壊しつつあり、特に1945年8月にソ連が侵攻してからは、日本が降伏するまでは時間の問題だったと主張している。また、原爆を1個ではなく2個落としたことは、妥当だったのかどうかという議論もある」 しかし、ほとんどのアメリカ人は、その点について全くといっていいほど考えていないとバーガー教授は指摘する。「アメリカは原爆を1個だけ落とすべきだったのかや、原爆の破壊力を見せつけるだけで良かったのではないかという点は、今日『生きた争点』になっていない。そのような点は、アメリカ人の原爆の記憶の中軸になっていない」「大統領による謝罪」も検討されていた ただ驚くべきことに、「アメリカ政府内において、大統領によるハイレベルな意思表示をすべきかどうかについて、多くの議論がなされてきた」とバーガー教授は話す。意思表示とは例えば、大統領が広島平和記念公園を訪れるなどして、原爆は私達アメリカ人が後悔すべき事柄だということを示し、何らかの形で謝罪するということだ。 アメリカ国内にはこれに賛成する意見もある。核兵器不拡散を推進するために、原爆について謝罪をするのも選択肢の一つだという意見だ。北朝鮮やインド、パキスタンなどといった国々が次々核を開発し「核不拡散体制」がもはや危機に瀕している中、大統領が核兵器の恐ろしさを伝える象徴的な意思表示をすることは、核の不拡散に役立つかもしれない。 しかしそのような動きは、すさまじい国内の政治的抵抗に遭う。大統領にとってこの選択を追求することは政治的なコストとなる。よって、大統領による謝罪はいまだに実現していない。「本当に日本の人々に共感と理解を示し、核兵器に関する国際社会の議論に影響を与えたいのであれば、駐日大使レベルではなく、大統領レベルで広島に行きたいと思うはず」とバーガー教授は語る。 原爆投下という1945年の出来事は、世界が原爆を思い出し、安倍首相とオバマ大統領が核兵器不拡散の推進を試みるたびに表面化する。核のない世界を願う被爆者の思いは、いまだに実現していない。■トーマス・バーガー ボストン大学教授(国際関係学)。マサチューセッツ工科大Ph.D、ジョンズ・ホプキンス大准教授を経て現職。学生時代に東京大で佐藤誠三郎教授に学ぶ。特に日本及びドイツの安全保障論、政治文化論が専門。主な著書は「反軍国主義の文化―ドイツと日本の安全保障」「戦争と罪、第二次世界大戦後の世界政治」(聞き手・文:Matthew Kolasa、撮影協力:Wenlin Fei(NewTV)、翻訳・構成:THE EAST TIMES)

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    日本を歴史問題で貶め続ける中韓の「戦勝国包囲網」に気をつけよ!

    大問題です(笑)。スパイ活動はともかく、日本は海外向けの宣伝活動にもっとお金を使うべきですよ。日本の歴史認識や政策を広めるためには当然のことでしょう。経済規模からいっても、日本は十分に「大国」です。しかし、自国の正義なり、政策を外国に説明するような体制をもたない大国なんていうものが世界にありますか。さらにいえば、自分の防衛をすべてヨソの国に委ねている大国がありますか。アメリカ頼みの時代はもう終わったのですから、取るべき政策を早く取ってほしいですね。小浜 自国の基地に外国の軍隊がこれほど駐留している国は大国どころか、そもそも独立国家の名に値しません。日本に課せられた役割は、名実ともに大国となり、アジアの平和を守る盟主として台湾やフィリピン、ベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドなど利害の一致する友好国をまとめ上げ、中共や北朝鮮に対抗する集団安全保障体制を築くことなのです。Kent Sidney Gilbert 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ生まれ。1971年に初来日。1980年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は『不死鳥の国・日本』(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。こはま・いつお 批評家。1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)など多数。関連記事■ 少年法は改正すべきか■ 中国のチベット人虐殺こそ世界記憶遺産に登録せよ!■ 韓国は日本のストーカーだ!■ 五輪エンブレム問題から学ぶ――現代人が守るべき表現倫理とは

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    田母神閣下、あなたの持論だけは正しかった

    元航空幕僚長、田母神俊雄容疑者が公職選挙法違反容疑で逮捕された。在職中に発表した「田母神論文」で更迭された後も過激な持論を曲げず、「閣下」のあだ名で熱狂的なファンがいたことでも知られる。政治とカネが仇となり、足元をすくわれた田母神閣下。あなたの「野望」もこれで終わりですか?

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    【載録】日本は侵略国家であったのか

    田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将) 民間の懸賞論文に応募する形で、先の大戦を日本の侵略とする見方に疑問を呈し、集団的自衛権行使容認を求める論文を公表した防衛省の田母神俊雄航空幕僚長が、先の大戦を「侵略」とした村山富市首相談話を踏襲する麻生内閣の゛政府見解″に反するとして、更迭された。空自トップである現職の幕僚長が先の大戦を侵略戦争と決めつける見方に異論を唱えるのは極めて異例。政府、野党、マスコミは一斉に田母神氏を非難したが、国民の論議を喚起すべく、非難の的となった論文をここに載録する。◇    ◇ アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は十九世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。国民大会開会式で演説する蒋介石 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。一九三六年の第二次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって一九三七年二月十五日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(乱暴で道理がない)を膺懲(こらしめる)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。日本だけが植民地の内地化を図った 一九二八年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。『マオ(誰も知らなかった毛沢東)』(ユン・チアン、講談社)、『黄文雄の大東亜戦争肯定論』(黄文雄、ワック出版)及び『日本よ、「歴史力」を磨け』(櫻井よしこ編、文藝春秋)などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の一九三七年七月七日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「『大東亜解放戦争』(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の一九三二年一月には三千万人の人口であったが、毎年百万人以上も人口が増え続け、一九四五年の終戦時には五千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか十五年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の三十五年間で一千三百万人の人口が二千五百万人と約二倍に増えている(「朝鮮総督府統計年鑑」)。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。かつての満鉄線を走る列車=中国・瀋陽(喜多由浩撮影) 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また一九二四年には朝鮮に京城帝国大学、一九二八年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降九つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は六番目、台北帝国大学は七番目に造られた。 その後八番目が一九三一年の大阪帝国大学、九番目が一九三九年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校二十六期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。先んじて人種差別撤廃に動いた日本 朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその一期後輩に金錫源(キンソグオン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約一千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜(ママ)勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の二十九期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で十歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。大砲を量産し列強に対抗した韮山反射炉=静岡県伊豆の国市 陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために一九三〇年に新居を建設した。 現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥傑(フケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第二次大戦前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第一次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。 時間は遡るが、清国は一九〇〇年の義和団事件の事後処理を迫られ一九〇一年に我が国を含む十一カ国との間で義和団最終議定書を締結した。アメリカの罠で日本は戦争に引きずりこまれた その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初二千六百名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また一九一五年には袁世凱政府との四カ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華二十一箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。 中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし四年後の一九一九年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華二十一箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「『日本史から見た日本人・昭和編』(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。一九〇一年から置かれることになった北京の日本軍は、三十六年後の廬溝橋事件の時でさえ五千六百名にしかなっていない「『廬溝橋事件の研究』(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し三百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成十八年五月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは一九四〇年から一九四八年までの八年間これをモニターしていた。当時ソ連は一回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である一九四三年から解読作業を開始した。そしてなんと三十七年もかかって、レーガン政権が出来る直前の一九八〇年に至って解読作業を終えたというから驚きである。 しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し一九九五年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば一九三三年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には三百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機百機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ一カ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。ルーズベルト米大統領(左)とコーデル・ハル国務長官=「昭和」(講談社) 日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二、第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。 強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。 しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。東京裁判のマインドコントロールが今も日本人を惑わせている 現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は六十年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後六十三年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は二十年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。東京裁判の際、戦犯容疑者が多数勾留された巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)=昭和27年8月2日、東京都豊島区(産経新聞社機から撮影) 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。 私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)

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    田母神論文の意味するところ

    他人の論評の中から都合の良いところを引用して、バランスに欠ける論旨を展開している点である。あの程度の歴史認識では、複雑な国際環境下での国家防衛を全うできない。 大戦に至る歴史の中で日本が道を誤る転換点となった張作霖爆破事件は、満州権益の保護拡大のため関東軍が独断専行の結果引きおこしたものであることは各種証拠からほとんど間違いない。このときの処置のあいまいさや満州での激しい抗日運動、関東軍の独断がその後の満州事変の引き金になり、満州国建国、上海事変、シナ事変へと続いていったのである。この歴史的事実をもって日本は侵略国家でないというのはあまりに偏った見方である。 我々が心得べきことは、大戦に至る数十年、日清・日露戦争で勝利した奢(おご)りから軍の独善が進み、国家は「軍の使用」を誤ってアジア諸国に軍を進め、多くの尊い人命を失い、国益を損なったことである。これは日本が近代国家を建設する過程での重大な過誤であり、責任は軍人はもとより国家・国民が等しく負うべきである。この過誤を決して繰り返してはならない。政治感覚の著しい欠如 ところで、田母神氏は自衛隊員として論文の部外発表手続きを踏んでいない。それを十分承知の上で、日常の不満・鬱憤(うっぷん)をこういう形で、一石を投じる目的をもって公表したのであれば、それによってもたらされる影響についても責任を有する。政府の村山談話がおかしいと思うなら防衛省内で大臣相手に堂々と議論すべきであり、懸賞論文に出すなどと言う行為は政府高官のすべきことではない。 さらにこれによって防衛省改革や防衛大綱の見直し、防衛費や自衛隊の海外派遣問題などにマイナス影響を与えかねない。それが分かっていて発表したというなら政治的な背信行為であり、分からなかったというなら、幕僚長がその程度の政治感覚もなかったのかと言うことになる。防衛省の対応には疑問 自衛隊員は呼称は何であれ、武力行使できる実行組織を指揮するのであるから、いわゆる「軍人」である。一般市民が自衛隊員をどう見ているかを、高官になれば分かっていなければならない。田母神氏は、日本の自衛隊はいかなる国より文民統制がしっかりしていると国会答弁しているが、自衛隊員がこれを言っても説得力はない。 国民には、文民統制は自衛隊員に意図があれば機能しなくなると考えている人がいる。しかし戦後半世紀、文民統制に大きな疑惑が起きなかったのは、この間の先人の自己抑制努力によるものである。今回の論文によって文民統制への信頼性を失ったとすればその責任は大きい。防衛省の対応には疑問 他方、防衛省の対応措置には納得がいかない。田母神氏を懲戒処分にする手続きをとらずに解任し、空幕付きにして退職させた。懲戒にしなかった理由を防衛省は、審理に通常10カ月近くかかり、その間に本人が定年を迎えるので、と説明した。懲戒処分といっても実際には、個人の表現の自由が認められている限り、懲戒免職にはできず、それより軽い処分ですむ。1日も早く防衛省から辞めさせてしまいたい、審理に入ることにより省内で歴史論争がおこるのを防ぎたいという事情が合わさったのであろう。 幕僚長という地位にあるのであるから、大臣は本人に面談のうえ身の処し方を協議すべきであった。国会も参考人質疑で歴史認識論議を避けたが、立法府こそ堂々と歴史認識を論議すべきである。 今後、部外発表をチェックする制度を強化すると、自衛隊員は部外に個人の思想・信条を吐露しなくなる。何を考えているか分からない23万人もの実力部隊が存在することの方が不健全である。文民統制の本義を履き違えた議論は戒めるべきであり、自衛隊員の部外発表を規制することは論外である。 一方で、自衛隊も人材育成や教育を見直す必要がある。自衛官が政治の場を体験する機会を増やすことも考えるべきだ。幕僚長以上を国会の同意人事にすることは違和感があるが、そうするのであれば、彼らを国会審議に引き出す制度を作る必要があろう。 今回は国内世論が左右にはっきり分かれた。これは歴史認識が確立していないからであり、近代史に関する歴史教育の重要性を痛感させられる。(もりもと さとし)(※iRONNA編集部注:肩書き等は産経新聞掲載当時のものです)

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    田母神戦争大学の白熱講義「レッテル貼りに負けるな!」

    日本真正保守党を設立します! 「中国が軍事的に強いという認識は間違いだ!」と言い切る著書『田母神戦争大学』(産経新聞出版)を刊行した田母神俊雄元航空幕僚長が都内で講演した。田母神氏といえば今年2月の都知事選でスクランブル(緊急発進)し、61万票を集めたことが記憶に新しい。この日の講演では「いったん政治の世界に足を踏み入れた以上、カタギの世界には戻れない」と、新たに「日本真正保守党」を立ち上げることまで宣言したのだった。(溝上健良)『田母神戦争大学 心配しなくても中国と戦争にはなりません』(田母神俊雄、石井義哲著、産経新聞出版) 6月2日に東京・潮見のホテルで開かれたのは、アパグループの元谷外志雄代表による著書『誇れる祖国 日本復活への提言II』の出版発表会。同書は元谷氏(ペンネーム・藤誠志)の最近1年間の社会時評エッセー12本をまとめたもので、すべて英訳付きとなっている。「憲法を改正して独立した軍を持てる国家を目指せ」といった主張を、英訳することで海外にも発信することは非常に意義のあることだといえる。 かくいう小紙も5月1日、「国民の憲法」要綱の主要部分を英訳して紙面に掲載し、本MSN産経ニュースを通じて世界に発信した。筆者もこの企画の末端に携わったのだが、いかんせん英検3級の英語力のため、さほど戦力にはなれなかった。 いざ「国民の憲法」英訳版を発表してみると、海外からも英語での感想が寄せられてきた。この反響をまとめるため筆者も和訳の作業に携わったのだが、小紙の取り組みを「Great attempt」と評価してくださった方がいた。ちょっとうれしくなって「偉大なる挑戦」と訳していると、後ろからのぞきこんだ大先輩記者に「そこは『素晴らしい試み』くらいの訳が妥当なんじゃない~」と注意されてしまった。うーむ、やはり英検3級の身にはこの仕事は厳しいか…。 そんなことがあってから数日後、目の前が真っ暗になる記事が小紙に掲載された。いわく「英検、幼児のお受験過熱 10年で5倍の2500人」。何と小学校入学前に準2級や2級といった高校レベルの検定に合格している子供が増えてきているとのこと。もう穴があったら入りたくなってくる。とはいえいまさら英語を勉強する気分にもなれないし、それくらいなら「ネルフ」とか「ゼーレ」や「パンツァー・フォー」とか、ドイツ語を学んだほうが楽しいし。河合栄治郎も不朽の名著『学生に与う』で「Leben ist Kampf(人生は戦いだ)!」と喝破している。ちなみに、小紙の科学担当論説委員によると、ドイツ人が話す英語は聞き取りやすく、海外出張の際にはドイツ人と親しくなるのがスムーズな取材活動の秘訣(ひけつ)なんだとか。「次は××××抜きでやろうぜ!」の一言で仲良くなれるのだという(推奨はしません。あくまで自己責任でどうぞ)。 さて『誇れる祖国 日本復活への提言II』は5万部を発行し、アパホテルの各部屋に配備して、海外からの宿泊客の目にとまるようにするのだという。なるほどその手があったか。日本発の声を海外にどう伝えていくか、新聞社としてもいろいろ考えていく必要がありそうだ。 続いて開かれた出版記念パーティーには29カ国の在日大使館関係者をはじめ約千人の招待客が詰めかける中、藍より青き(「空の神兵」)ネクタイをビシッと締めた田母神元空幕長が登壇した。レッテル貼りに負けるな!講演する田母神俊雄氏=2014年8月6日※今回の講演ではありませんレッテル貼りに負けるな! 冒頭、田母神氏は「危険人物の田母神でございます」とお約束のあいさつで場を和ませ、聴衆の関心を一気に引きつけた。かつての石原慎太郎元都知事の「暴走老人の石原であります」の名文句が想起される。これは某元女性国会議員によるレッテル貼りを逆手に取ったものだったが、この手法はいろいろと使えそうだ。 レッテル貼りといえば左翼・リベラル勢力の専売特許といえる。その点、朝日新聞は見事なもので、『空飛ぶ広報室』『碧空のカノン』『永遠の0』といった作品が注目されるとすかさず「愛国エンタメ」とレッテルを貼り、『悪韓論』『呆韓論』『日本人が知っておくべき嘘つき韓国の正体』『どの面下げての韓国人』『韓国人による恥韓論』『虚言と虚飾の国・韓国』『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』『朝鮮崩壊』『中国という蟻地獄に落ちた韓国』『ニッポンの懸案 韓・中との衝突にどう対処するか』『中国崩壊前夜』『嘘だらけの日中近現代史』『面白いけど笑えない中国の話』…といった書籍がヒットすれば「嫌中憎韓本」が流行していると警鐘を鳴らしてみせる(毎日新聞はさすがに「憎韓」は乱暴だと考えたのか「嫌韓嫌中」本と報じていましたね)。こうしたレッテル貼りをどう切り返すべきか、田母神氏のあいさつは一つのヒントを与えてくれているように思われる。 そういえば最近は集団的自衛権をめぐる議論で「行使を認めれば『戦争できる国』になる」とのレッテル貼りも目立つ。これを田母神氏がどうひっくり返すのかも、今回の講演の聞きどころといえそうだ。 気分がのって参りましたので、さらにもう一つ。朝日新聞は5月20日の朝刊1面で、東京電力福島第1原発の所員の9割が大震災4日後の朝、吉田昌郎所長(当時)の命令に反して10キロ離れた福島第2原発まで撤退していたと報じた。本当ならとんでもないニュースである。これについては『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)の著者、門田隆将氏が言論サイト・ブロゴスの「お粗末な朝日新聞『吉田調書』のキャンペーン記事」と題する長文の記事で、朝日記事の核心部分が「誤報」だと解説している。生前の吉田氏に長時間取材を敢行した作家による分析だけに重いものがあり、「おすすめ」が軽く1万を突破する注目度の高さである。日本国民必読の記事といえるだろう。 おっと朝日新聞並みに暴走してしまった。そういえばかつて「命がけで暴走します」という名言もあったような…。ま、時には小紙あたりが僭越(せんえつ)ながらA紙のブレーキ役を果たさねばならないのかもしれない。 なお田母神氏の講演中、演壇の脇では『田母神戦争大学』の共著者、石井義哲元空将補がSPのように目を光らせていたのが印象的だった。今回の著書は田母神氏にとっては記念すべき50作目の、石井氏にとっては初の著作とのこと。小柄な田母神氏と長身の石井氏が編隊飛行のように対になって行動するさまは、プラウダ高校の隊長・カチューシャと副隊長・ノンナの絆を想起させるものがあった(突然の戦車道ネタで済みません。詳しくは「ガールズ&パンツァー」をごらんください)。私も空軍ですから私も空軍ですから さて本題の講演に話を戻すと、田母神氏はブラジルへの講演旅行から帰国したばかりとのことだった。 「(5月)23日から31日までブラジル日本会議から講演依頼を受けまして、2カ所で講演をしてきました。ブラジルはちょうど日本とは地球の反対側にあって、時差がちょうど12時間なんで時計の針を直す必要がまったくないんですね…」画像はイメージです そしてブラジルの日系人が中韓などにいじめられている日本の現状を心配していることに触れ、話題は日本の政治に移っていった。 「いま、日本の政治状況をみますと、自民党が公明党の支援を受けている今の体制では安倍総理がなんぼ頑張っても『日本を取り戻す』のは無理なんではないかと思います。私は、自民党と公明党が離れなければならないと思うんですね。安倍総理が何かやろうとすれば必ず野党が足を引っ張る。公明党は“与党内野党”で足を引っ張る。そこで日本維新の会の一部議員の方々が中心となって、自民党の右側にしっかりとした柱を立てていただいて『自民党よもっとしっかりしろ』という健全野党ができないといけないと思います。そしてその健全野党がある程度の力を持って、自公を分裂させて、健全野党と自民党との連立ができるということが必要なのではないか、そうしなければ『日本を取り戻す』ことは無理なんではないか、というふうに思います(拍手)」 「私も都知事選に出てしまいましたので、私も空軍ですから、いっぺん飛び上がったら敵空母を撃沈するまで戦うしかない(拍手)。政治の世界に足を踏み入れたら、もうカタギの世界には戻れないんじゃないかと思います(会場爆笑)」 「それでどうするか。まあ状況をみながらですけれど、私はでかいことを言うのが好きですから『政党をつくる』ということを一昨日、ツイッターで流してしまったんです。『議員でもないお前が何を言っているんだ』『そんなことできっこないじゃないか』と言われますが、私はでかいことを言うのが好きなんです。でかいことを言って自分を追い込んでしまう、そうすれば後はやるしかない、ということで、名前まで決めてしまおうかということで『日本真正保守党』という名前にしたいと。略称は『真保党(しんほとう)』にするかな、ということなんですけれど、名前だけ決まってスタッフも何も決まっていないけれども『やりますよ』という宣言だけさせていただきました(拍手)。たぶん、多くの政治家の先生方は『何を言っているんだ、政治のことも分からないのに』と思っておられるであろうことは分かりますが、とにかく頑張ろうと思っております」(中略) 「戦後の日本は、ものすごい勢いで日本社会がぶち壊されてきたと思います。いま、年金問題が起きています。少子化問題が起きています。老人の孤独死の問題が起きています。こうしたことは戦後、日本の家督相続制度や大家族制度が壊されたことが大きな原因ではないかと思うんですよね。戦争が終わって2DKの住宅がいっぱい作られた。『戦争が終わって住むところがないから、とりあえず小さな家でもいい』というのが主たる狙いではなかったんです。これはアメリカ占領軍が、日本の大家族制度をぶち壊すことを狙いに、2DK住宅がいっぱい作られたんです」 「公民館が全国津々浦々に作られましたが、何のために作ったんですか。昔は地域共同体の中心に神社がありました。集会は神社で行われていたんです。みんな何かあると神社に集まっていたんです。日本国民と神社とを切り離すために、公民館が全国津々浦々にいっぱい作られたんです。巧妙にやられていますから、多くの日本国民はその狙いに気がつかないんです」総理の靖国参拝も毎月やったらどうか 「いま、東京には1人暮らしのおじいちゃんおばあちゃんが70万人もいるそうですが、これがあと20年もすると100万人を超えるだろうという予測があるんですね。死んでも1、2週間、気づかれないという例も多い。『なんか2週間前に死んでいたらしいぞ』と、なんぼ都会であってもこういう街でいいはずがない。やっぱり隣近所がある程度のつき合いをもって生きていくような日本でなければならないんじゃないかと思います」 「日本は戦後、経済復興に全力を尽くして、世界第2の経済大国といわれるまでになりましたが、その陰で壊されてきたものも多い。日本はいまだに自分の国を自分で守る態勢ができていません。世界第2の経済大国といわれながら。まあ中国が日本を抜いたといわれていますが、あれは粉飾決算の最たるものですから…(会場爆笑)。自分の国を自分で守れない先進国など、他にありません」航空自衛隊の主力戦闘機F15(空自提供) 「日本はアメリカ製の戦闘機を使っている。ミサイルもアメリカ製。これらは自動車とは違うんです。自動車ならアメリカから買ってきて、アメリカと手を切っても日本で整備して動かすことができます。しかし戦闘機やミサイルはそうはいかない。これは製造国が継続的に技術支援をしてくれないと動かないわけです」 「近年の兵器はソフトウエアがその能力の半分以上を決めますから、アメリカの兵器を使っているということは、外交交渉をアメリカとやっていると、『日本はいうことを聞かないのか、それならいつでも自衛隊(の機能)を止めるぞ』と、そんなことは口に出しては言いませんが、無言の圧力がかかるわけです。で、日本は武器は買ってくるのはいいけれど売ってはいけない、となっているわけですよね。これは自ら自分の首を絞めているようなものだと思います」 「よその国で普通にできることが日本では普通にできない。例えば総理大臣の靖国参拝。これは外国では、総理大臣や大統領が戦没者のところにお参りするのはごく普通のことですよね。このごく普通のことが、日本では大問題になるわけです。集団的自衛権も問題になっていますけれど、日本以外の国は普通に行使するわけです。こうした、他国で普通に行われていることが日本だけはできない、ということに問題を感じていない政治家の先生方がいっぱいおられるわけですよ。よその国でできることが日本でだけはできない、という状態である限り、日本は圧力をかければ最後は必ず要求をのむ、と外国には思われるし、日本から中国・韓国・アメリカに対して、『どうぞ圧力をかけてください』というシグナルを常時、発信しているようなものです」 付け加えれば憲法が時代に合わなくなってくれば改正するのは諸外国ではごく普通のことだが、日本の場合は天地をひっくり返すような大騒ぎになってしまう。この拒絶反応もどうにかしたいものだ。毎度のことながら長くなりそうなので以下、解説抜きで講演の再現を続けたい。 「靖国神社の首相参拝も慰安婦の問題も、集団的自衛権の行使の議論にしても『ちょっと今は時期が悪いんじゃないか』という人がいます。ではいつ、いい時期が来るのかという話ですよね。来ないですよ。どんどん状況は悪くなるだけですよ。だから戦うしかない。大騒ぎになるかもしれませんが、それを乗り越えて戦うという政治の意思がなければ、『日本を取り戻す』のは無理なんではないかと私は思います(拍手)」 「総理の靖国参拝も、私は毎月やったらどうかと思うんです。そのうち中国も韓国もくたびれて何も言わなくなりますよ。(参拝は)特別のことではないんです。よその国では普通にやっていることを、日本もやりますよというだけのことです。しかしこれの足を引っ張るのがマスコミなんですね。占領下では検閲がありましたが、マスコミはまだ当時の『プレスコード』にしばられているんです。これは簡単にいえば、アメリカや連合国はみんないい国ですよ、日本は悪い国ですよ、という30項目の規定があって、これに抵触することは報道できなかったわけです。そして『日本はいい国だ』という報道はいまなおできていない、だから日本のマスコミは反日なんだと思います。いったいどこの国のマスコミなんだ、と思う場面がありますが、いまなおこのプレスコードに支配されているということなんです」プロレスラーは襲われないプロレスラーは襲われない 「やはり『プレスコードに支配されるな』という運動を、保守派の国民が騒いでいかなければならないのではないか(拍手)。私は『頑張れ日本!全国行動委員会』という団体の会長をしているんですけれど、日本では保守系の人というのはおとなしいんですね。『そのうちわかる』『いずれ彼らも理解する』と、主張はしますがデモ行進や集会を保守系の人はあんまりやらない。しかしその間に、左巻きの人は一生懸命頑張るわけなんですね。私も最近、左翼の人には出会っただけでわかります。だいたいみんな、体が左に傾いているんですね。でも彼らは戦後、ものすごく頑張ってきたんです。その努力の方向はホレボレするくらい間違っていますが(会場爆笑)、努力の量はすごい。それで日本は左に傾いてきたわけです」 「そこで私はそうかと、左翼をまねて運動もするしデモ行進もしようと、あちこちで保守派としては珍しく集会やデモをやっているんです。それで私は『危険人物』とかいわれていますけれど、私は本当にいい人なんです。5分~10分、私と話をしてもらえば『本当に穏やかでいい人なんだな』とすぐわかるはずです。だけれどもマスコミなんかでは危険人物ということになっているんですけれど、日本という国を私は大好きなんですね。自分の国を悪くいいたい、そういう人はいったい何なんだと私は思うんです。『そんなに日本が嫌いなら、どうぞ中国にでも韓国にでも行ってください』と、私は本当にいいたいですね(拍手)」試作機「先進技術実証機」の地上滑走試験を視察する中谷防衛相(左から2人目) =2月24日午前、愛知県小牧市の航空自衛隊小牧基地(代表撮影) 「よその国は、軍隊を自国の財産として使うんですね。ところが日本は自衛隊を使うとロクなことにならないから、法律でがんじがらめにしばっておけ、ということになっているんですね。ですから世界の国の軍隊は国際法で動きます。国際法というのは条約と慣習法の集合体で、主に禁止規定なんですね。『これとこれとこれはやってはいけません、あとは何でもやります』というのがよその国の軍隊です。日本の自衛隊は根拠規定、ポジティブリストで動きます。自衛隊法とか、イラク特措法とかで任務か決められていて、あらかじめ『やれ』といわれたことだけやっていい、ということになっています。インド洋に『外国の艦艇に給油をしなさい』という目的で派遣された自衛隊の艦船が、目の前で海賊に襲われている商船を見たとします。助けていいのか。助けられないんです、これは。やってはいけないといわれているんです。よその国の軍隊だったらすぐに助けるのに」 「日本は集団的自衛権についても行使できないという状態のままですが、よく考えてみると『オレがやられたときは助けてくれよな。でもお前がやられたときは、オレは助けられないから、逃げるから』というわけです。こんな非道徳的な状態を国家が放置していていいのかと思います。集団的自衛権を行使できるようになると『戦争ばかりする国になる』のではないかと、社民党の党首だった福島瑞穂さんなんかは『戦争できる国』にするんですかというわけですが、福島さん、実はその通りなんです。『戦争できる国』のほうが、戦争に巻き込まれないんです。これは歴史をみれば分かります。プロレスラーに飛びかかるバカはいないんです、強いから。飛びかかられるのは弱い人ばかりですよ。軍事力が強くて、仲間がいっぱいいるほど、攻撃を受ける可能性は低くなるんです」 「だから集団的自衛権の行使のように、よその国がやっているようなことを普通にできるということは、抑止力を高めることになるんです。(どこかの国が)『日本をぶん殴ろうか』と思ったときに(抑止力が高ければ)『いやちょっと、これは反撃されるからマズイ』と思うわけですよね」 「だけど今の日本は反撃しないわけですね。反撃能力もない。アメリカに反撃してもらうことになっているんですけれど、これも危ういものですね。(日本は)ボクシングのトレーナーがミットを持って、中国や韓国が殴ってくるのをミットで受けているだけのようなものです。私は攻撃をしなければダメだと思いますね。『1発殴られたら3発殴って返すぞ』ということが抑止力になるわけです。けれども、日本ではこの抑止力という考え方がなかなか伝わりにくく、いまの日本は攻撃力を持てていないという状態なんですね」田母神氏は続けた。「やはり自衛隊が米軍を離れて独自に軍事力・防衛力を発揮できるような態勢にならないといけない。いまの自衛隊は残念ながら、米軍が協力をしないと実力を発揮できない。戦闘機もミサイルシステムも、米国の暗号を、米国の敵味方識別装置を使っています。だから残念ながら、米国が協力してくれなければ自衛隊は動けないという状態にあります。ですから、現状の日米安保条約を維持しながら、一歩ずつ『自分の国は自分で守れる』という態勢にしていくべきだと思います。そのためには主要兵器はやはり国産にしなければダメです」 そういえば最近、話題になった小説『尖閣喪失』(大石英司著/中公文庫)では、米国の協力が得られずに自衛隊が尖閣諸島を守りきれないという非情な事態が描かれていた。そうした想定が現実化しないように、自衛隊の装備も「自分の国は自分で守れる」ものへと整えていく必要がありそうだ。 「米国も日本も同じF15という戦闘機を使っていますけれど、米国によって日本のソフトウエアは2ランク、能力が下げられたものになっているわけです。ですから日本と米国のF15同士が空対空戦闘をすれば必ず米国が勝つようになっています。これは米国に限らず、兵器輸出の原則です。イギリスもフランスもロシアも、他国に兵器を輸出する際にはその国に負けないように、能力を下げたものを輸出するわけです。ロシアなんかはご丁寧に、中国に輸出するものは3ランクくらい能力を下げています。インドに輸出する場合は2ランクくらい下げている。もしインドと中国が戦えばインドが勝つ形になっています(会場爆笑)。これが国際社会の現実です」日本はどう生き残っていくべきなのか こうした国際社会の中で日本はどう生き残っていくべきなのか。田母神氏は国家として自立することの必要性を訴えかけた。「日本というのは本当にいい国なんですよね。『日本列島は日本国民だけのものではない』と話すほど立派な総理大臣が出るのが日本なんですね。それを言うのなら鳩山さん、『音羽御殿は鳩山家だけのものではない』と言ってからにしてください、と思いますけれど。日本が自分の国を自分で守るためには、自衛隊が自立しないとダメですよね。国家の自立は、軍の自立と同義語なんです」 「軍が自立していなければ国家政策の自立はありえない。圧力をかけてくれば、守ってくれるアメリカのいうことを聞かなければならないということになる。私は別に、米国とケンカしろと言っているわけではないんですね。米国とうまくやりながら、やはり独立国としては自分の国は自分で守りたいというのは当然でしょう。だから日本はその方向へ行くことを、米国と調整しながら進めるべきだと思います。もちろん米国は全力をもって妨害するでしょう。米国の対日戦略としては日本を絶対に軍事的に自立させない、そして経済的に支配するということだと思います。ですから米国は米国製の戦闘機やミサイルシステムをどんどん日本に売るわけですよね」 「日本ではF35という戦闘機を航空自衛隊が導入することがついに決まってしまいましたが、米国としては開発する必要のなかった戦闘機です。米国はすでにF22というステルス(レーダーに映らない)戦闘機を持っている。F35は何のために開発したかというと、9カ国共同開発で、基本ソフトウエアは米国がつくり、これをよその国に使わせるので、よその国の戦闘機の能力を米国が全部、コントロールできるんですね。そこへ日本は10カ国目として入っていきますので、すでに製造分担が決まった後なので、日本は米国が作る分の一部を作らせてもらって後は組み立てるだけで、日本の戦闘機製造・開発技術はこれで失われてしまう。これが米国の真の狙いなんですね」 「(米国が)北朝鮮のミサイルの脅威をあおるのは、守りにもっとお金をかけさせて、日本に攻撃力を持たせないための、米国の情報戦ですよ。『北朝鮮がミサイルを撃つかもしれない』と年に2回くらい大騒ぎをしますけれど、北朝鮮がある日突然、日本にミサイルを撃ってくることなんてないんですよ。自衛隊が動く必要はまったくありません。まあ(北ミサイルに備えて)自衛隊が動くことで、国民の軍事アレルギーが少しは減るか、という思いで動いているかと思いますが」 「日本が自立するためには武器輸出を解禁しなければダメですよと、私は何度も政府には申し上げているんですけれど、武器輸出を解禁すれば日本はやがていいものを作ります。そして今ある米国製の戦闘機やミサイルシステムが逐次、日本製に置き換わって、初めて自衛隊が自立し国家の自立ができる、ということになると思います」(中略) 「日本の核武装についても『核武装なんて考えているのか、あいつ頭がおかしいんじゃないか』といわれます。5年前、私がそう主張したときにはそんな感じでしたが、最近は少し変わってきました。国際社会に出て『核武装するよりも、核武装しないほうが国は安全ですよ』といった意見が通るか、といえばまったく通りません。日本でだけ通る意見です。私は(現役当時)世界の空軍参謀総長会議に2回出ましたけれど、インドの空軍参謀総長が『おい田母神、日本は核武装をしないのか』と聞くものですから、『いやオレはその気があるんだけれど、日本政府にその気がないから』と応えると、インドネシアの参謀長が言いました。『そうだ、アジアではやっぱり日本が核武装すべきだ』と。まあリップサービスもあったのかもしれませんが。隣で米国の参謀長がニコニコ笑いながら聞いていました。これが国際社会の常識だと思います。しかし日本では、軍事のことについては常識が通らない。そうしてがんじがらめにされている。私は憲法もそうだと思うんですよね…」 ここで、日本が核武装することは日本国憲法に照らしてどうなのか、みておく必要があるだろう。憲法9条があるから日本は核武装できないのか。いやいや、できるのだ。昭和34年3月の参議院予算委員会で、岸信介首相は「政策として核兵器は保有しないが、憲法としては自衛のための最小限の核兵器を持つことは差し支えない」と答弁している。半世紀以上も前にこうした検討が行われているのだ。 もっとも核兵器があっても、相手国まで運ぶ手段がなければ抑止力の意味がない。普通に考えてミサイルや爆撃機が必要となるが、こちらは憲法上、問題が生じてくる可能性がある。ただし警世の書『東京に核兵器テロ!』(高田純著/講談社)に示されたように、マンパワーで小型の核兵器を相手国に持ち込むのであれば、この限りではないだろう。なお夕刊紙「日刊ゲンダイ」で現在、スバリ「日本核武装」という小説が連載されている。ご参考まで。 さて日本国憲法について。「(前文に)『諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と書いてありますけれど、これは平たく言えば、日本は悪い国だ、ということですよね。この憲法にはあちこちに『日本は悪い国だ』ということがちりばめられていて、どこをどう直してもなかなかまともな憲法にはならないと思います。だから新しい憲法を作って、日本国憲法と置き換えていかないと私はダメだと思うんですよね」 「憲法に日本の国は悪い国だと書いてあるから、日教組なんかは憲法に忠実に『日本は悪い国だ』と学校で教えるわけです。そう教えているので、出来上がった総理大臣候補にしてもロクな人間がいないんですね。その欠陥製品が鳩山由紀夫氏や菅直人氏だと私は思うんですが、日本は悪い国だと教え込む歴史教育は本当におかしい、直していかなければならないものだと思います」真正保守が目指すもの真正保守が目指すもの 講演では中国の核の脅威はどの程度のものかにも言及してほしかったが、時間の都合もあってか触れられなかった。詳しくは『田母神戦争大学』で、ということだろう。そして日本の政治に話が及んでいった。 「日本という国は長い歴史の中で、国家の最適化が図られてきたと思うんですね。社長と新入社員の給料の差は日本の場合、10倍くらいしかない。アメリカでは500倍くらいだとか、よその国ではもっと大きいものなんです。日本という国は安心して暮らせるいい国だったのが、だんだん日本の政治も経済も金融も雇用もシステムが壊されて、だんだん不安な国になってきているんですよね。終身雇用や年功序列、これ自体にいろいろ欠陥はありますけれど、これがあって皆、安心して暮らしていたと思います。『頑張れば何とかなる』んだと。今は頑張ってもどうにもならない。それは結局、日本が米国に守ってもらっている状況下で、日米構造協議とか、年次改革要望書とかで、米国のいうことを飲まされてきた結果だと思います」 「この20年、『改革、改革』といっていろんな法律を変えてきました。その結果『あの改革で本当に良くなったね』といえるものが皆さん、一つでもありますか。まったくないと思いますよ私は。みんな悪くなっているだけ。結局、日本政府が先頭に立って日本のぶち壊しをやってきたのがこの20年ではないかと思うんですよ。その結果、世界での経済競争にも敗れ、世界のGDPが2倍になる中で日本は20年前よりもGDPが減っているという状況です。GDPが緩やかに伸びるというのは政治に課せられた最低限の使命でしょう。GDPが20年前より減っている政治は、どれほど言い訳をしても正しい政治とはいえないと思います」 「自由と繁栄が人間を幸福にする基本的要件だと思いますが、そういう意味ではこの20年の政治は間違いだったといえるでしょう。今、安倍総理が誕生して、緊縮財政は間違いだった、として積極財政に打って出たわけですよね。これで私は景気が良くなっていくのではないかと思っています。人類の歴史をみれば、緊縮財政で国が立ち直ったということは一例もありません。ちなみに、地方分権で国が立ち直ったという例もありません。緊縮財政とか地方分権ということは、国を弱体化させるための情報戦みたいなものです」 だんだん「日本真正保守党」の目指す方向がみえてきたように思う。 「いま世界では、軍事力では富や資源を分捕りには行かないんです。情報によって富や資源が分捕られる時代になっている。TPPにしても米国は自国がもうかるシステムしか提案しません。外交とはそういうものです」 「北方領土にしても米国やドイツが四島一括返還を支持しており、日本国民は『米独が日本の味方をしてくれている』と思うかもしれませんが、ロシアは核抑止上、国後、択捉両島を日本に返すわけにはいかないでしょう。ですから四島一括返還と言っている限り、日露の問題は解決しない。日露が永久に仲良くなれない、ということを米独両国が狙っている可能性が大であると私は思っています。国際政治というのは本当に腹黒なんです。日本だけが腹の中が真っ白ですから簡単にだまされる。国際社会では『信じる者はだまされる』のです。外国は自国を強くし日本を弱体化させるためにいろいろ言いますが、靖国参拝や集団的自衛権の行使のようによその国が普通にやっていることは、どれほどいっとき問題があろうとも乗り越える必要があるでしょう。そういう意味で、安倍首相がやることの砕氷船的な役割を果たす政党が必要だろうという思いで、自民党の右側に柱を立てて安倍首相が仕事をやりやすくなるような政党を作りたいと思って宣言をしてしまいました。もう殺されてもやるつもりで頑張ります。どうもありがとうございました」 万雷の拍手を受けて講演を終えると、田母神氏と石井義哲元空将補は“一撃離脱”でサッと会場を後にした。意外に俊敏な月刊『正論』編集部のA氏と一緒にあわてて後を追い、ぶら下がり取材に入った。 メモを取れる状況でもなかったので正確な再現はできないが、田母神氏は「都知事選で応援してくれた人たちの思いに応えないわけにはいかない」「石原慎太郎氏の新党とは将来的に政策協議や、あるいは合流といったことはあるかもしれないが、当面は別々でやっていきたい」「党として衆参両院に候補者を立てる方向で、自分自身の立候補も視野に入れている」といった趣旨のことを話していた。国政への進出を断言したわけではないので、今秋の福島県知事選への出馬もあるかもしれないが、そこはあえて聞かなかった。もう一度、スクランブル(緊急発進)をみてみたい気もするし。 それでも「もし国会議員になったら、首相を目指します。それは国会議員として当然のことでしょう」と話していた。これは大変なことになりそうだ。自衛隊出身の首相はまだいない(旧軍出身者はいるが)。田母神氏が首相になる可能性が出てくれば、憲法の「文民条項」に照らしてどうなのかという議論が起こるだろう。そうなれば「文民」とは何かが議論され、この条項の不可解さ、さらには日本国憲法の成立過程のいかがわしさにも議論が及ぶことは必至だ。「首相公選制」の導入論議にも一石を投じることになるだろう。…気分がのって参りましたので、歌を歌います! ♪雲に波に 敵を破り 轟くその名 ラバウル航空隊~ 「敵空母撃沈」を期して発進した“田母神航空隊”の行方から当分、目が離せそうにない。

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    吉田茂はどうやって気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか

     連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が始まった昭和20年9月。全国の都市部は焼け野原が広がり、バラック建ての闇市が点在した。東京では、新宿、新橋、上野、池袋などに闇市ができた。 江戸東京博物館館長の竹内誠(82)は毎日のように上野の闇市を通って旧制上野中学に通った。 饅頭(まんじゅう)、クジラベーコン、ピーナツ、タワシ、茶碗(ちゃわん)-。食料や生活用品が所狭しと並び、「これを足して、さらにおまけで」と威勢のよい声が響いた。飲み屋のバラック街もあり、夜になると「カストリ」と呼ばれる密造焼酎を求め、男たちが集まった。21年に入ると瓦礫(がれき)は次第に撤去され、並木路子の「リンゴの唄(うた)」があちこちで流れるようになった。 上野駅前には小箱を脇に抱えた子供たちが進駐軍相手の靴磨きをしていた。上野山の坂道には米兵相手の娼婦(しょうふ)「パンパンガール」が並び、理由は分からないが、頻繁に髪の毛をつかみ合ってけんかしていた。 竹内と母親が上野公園で弁当を開いたら、後ろから子供の手がニュッと伸びて握り飯をつかんだ。戦災孤児だった。仕方なしに「どうぞ」と渡すとニヤッと笑って走り去った。竹内は懐かしそうにこう振り返る。 「戦争で敗れてどん底だったが、みんなは意外と明るく活気があった。今日より明日、明日よりあさってと世の中がよくなっていくイメージをみんな持っていたんだな…」■  連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの主要な任務は、戦争犯罪人の処罰▽非軍事化▽民主化-の3つだった。そこでマニラの極東司令官時代からの部下「バターン・ボーイズ」をGHQの要所に配し、権力をより固めた。占領下の日本で長く首相を務めた吉田茂。茶目っ気のある皮肉でマッカーサーとの信頼関係を築き上げた 中でも信頼を寄せたのが、弁護士出身の将校である民政局(GS)局長、コートニー・ホイットニーだった。GHQ内で唯一マッカーサーとアポなしで面会でき、ほぼ毎夕1時間ほど面談した。これにより、ホイットニー率いるGSはGHQ内で覇権を握り、主要な占領政策をほぼ独占して推し進めることになった。 だが、GSの「民主化」は急進的かつ社会主義的だった。戦前の政府要人や大物議員、財界人は「反動的」とみなして次々に公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れしたため、政界は混乱が続いた。 GSは、外相を経て首相となる吉田茂も敵視した。吉田の孫で、現副総理兼財務相の麻生太郎(75)はこう語る。 「祖父はマッカーサーとの信頼関係を醸成することでGSの介入を排除しようとしたんだな。ホイットニーに呼ばれても『わしはトップとしか会わんよ』と無視を決め込んでいたよ」 では、どうやって吉田は、気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか-。                    ◇ マッカーサーは執務中ほとんど席に着かず、室内を歩き回るのが癖だった。しかも軍人らしく7歩歩くと回れ右、また7歩歩くと回れ右-。これを見た吉田はちゃめっ気たっぷりにつぶやいた。 「まるで檻(おり)の中のライオンだな…」 マッカーサーは一瞬ムッとした後、ニヤリと笑った。マッカーサーがフィリピン製の葉巻を勧めると、吉田は「私はキューバ製しか吸わないんだ」と懐から葉巻を取り出した。 誰もが恐れる最高権力者に対して不遜極まりない態度だが、マッカーサーは「面白いやつだ」と思ったらしく、吉田との面会には応じるようになったという。 ある日、吉田は「食糧難がひどく、このままでは大量に餓死者が出る。至急食糧支援をお願いしたい」と申し出た。マッカーサーは「では必要量を統計からはじいてくれ」と即答し、米国から大量の小麦粉や脱脂粉乳などを送らせた。 ところが大量の在庫が出た。マッカーサーが吉田に「一体どんな統計データを基に必要量をはじいたんだ」と迫ると、吉田は平然とこう言ってのけた。 「日本がきちんと統計をできるなら米国と戦争なんてしていない」■ 果たしてGHQの「民主化」は成功といえるのか。 マッカーサーのせっかちな性格を反映し、その動きは確かに素早い。昭和20年10月4日には内相の山崎巌と特高警察の警官ら約4千人を罷免、政治犯の即時釈放を命じた。11日には婦人解放や労組活動の奨励などの5大改革指令を出した。 12月には日本政府に農地改革を命じ、国家神道を禁じる神道指令を発した。国会では婦人参政権を付与する衆院議員選挙法を改正・公布。その後も警察や内務省の解体などを着々と進めた。 翌21年2月3日、マッカーサーは「戦争の放棄」など3原則を示し、GSに憲法草案の作成を命じ、憲法草案はわずか1週間ほどで完成した。4月には戦後初の衆院選を実施、11月に新憲法の公布にこぎ着けた。 農地改革は全国の小作農の喝采を浴び、GHQの求心力を高めた。だが、あまりに農地を細分化したため、専業農家はその後減り続けた。後継者不足で耕作放棄地ばかりとなった農業の現状を見ると手放しでほめることはできない。 20万人超の公職追放は政財界に大混乱をもたらし、社会党や労組への肩入れは労働運動の先鋭化を招き、社会不安が深刻化した。財閥解体も産業界の復興を遅らせただけ。鉄道や道路などインフラ整備などにはほぼ無関心で、激しいインフレが人々を苦しめた。■ GHQの占領政策の当初目標は、日本が二度と米国に歯向かわないよう、その潜在力をたたきのめすことにあった。「平和憲法」制定を含め、その目的は達成したといえる。 だが、国際情勢がそれを許さなかった。欧州で米ソの対立が深刻化し、米政府内で「反共」の防波堤としての日本の重要性が再認識され始めたからだ。これに伴い戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーら知日派の「ジャパン・ロビー」が復権した。GHQ内ではGSと他部局の覇権争いがあり、23年10月の第2次吉田内閣発足時にはGSは力を失っていた。 占領政策は「民主化」から「経済復興」に大きくかじが切られた。だが、超緊縮財政を強いるドッジ・ラインで大不況となり、日本の本格的な復興が始まったのは、皮肉にも25年6月に勃発した朝鮮戦争により特需が起きたからだった。■ GHQの「非軍事化」「民主化」の切り札はもう一つあった。民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。 これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪(しょくざい)意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。 言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、進駐軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。 GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。 「日本軍=悪」「米軍=正義」という歴史観を刷り込む宣伝工作も着実に進められた。 20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。 12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。 CIEの手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔(ざんげ)」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。 放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。 ところが、23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。 こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。 GHQの洗脳工作は見事に成功した。26年9月8日のサンフランシスコ講和条約を経て独立を回復した後も、GHQの占領政策は肯定され、戦前は負の側面ばかりが強調された。 文芸評論家の江藤淳が『閉(とざ)された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕(むしば)んでいる。(敬称略)

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    将軍の気づき

    「軍人は戦争なんかしたくないんですよ」田母神(元航空幕僚長)さんからよく聞かされたセリフがこれ──大なるもののために生命を投げ出す覚悟はあるものの、フツーの人が思うほど軍人は戦争好きではないのだ。

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    マッカーサーの密命を受け朝鮮戦争に「参戦」した日本男児

     朝鮮戦争は、東アジアの秩序を決める転換点である。この戦いに、「参戦」した日本人がいた。米国の要請を受けた吉田茂首相の密命によって結成された日本特別掃海隊。国会で議論されているペルシャ湾での掃海作業は、今から半世紀前、彼らによって原型が作られていた。ジャーナリスト・城内康伸氏が65年前に朝鮮半島沖で繰り広げられた掃海の実態をレポートする。 * * * 1950年10月2日、大久保武雄・海上保安庁長官は、米極東海軍司令部参謀副長のアーレイ・バーク少将から、海上保安庁の掃海部隊を朝鮮半島沖に派遣するよう突然、要請された。 その年6月、北朝鮮軍の南侵で朝鮮戦争が勃発している。米軍は9月15日、仁川(インチョン)への奇襲上陸に成功し、マッカーサー連合国軍最高司令官は北朝鮮への突入を計画する。補給線確保のため、北朝鮮東岸に揚陸港が必要となり、元山(ウォンサン)が選ばれたのだった。 元山沖は、北朝鮮が敷設した3000個に及ぶ機雷の海だった。しかし、朝鮮水域を管轄する米海軍第7艦隊に配備された掃海艇はわずか14隻しかなく、圧倒的に不足していた。このため米軍は戦前からの技術と経験が豊富な日本の掃海部隊に応援を求めた。  3年前に施行されていた日本国憲法は、戦争放棄を定めている。戦時下にある朝鮮水域での掃海は、明らかに戦闘行為に当たる。 しかし、対日講和を前にした日本に、米国の要請を断る選択肢はなかった。大久保長官が指示を仰ぐと、吉田茂首相は言った。「極秘でやってくれ」 海上保安庁は10月4日、各地の掃海隊に下関・唐戸基地に集結するよう指示。6日の指揮官会議は「憲法違反ではないか」と紛糾したが、田村久三総指揮官が「北緯38度線を越えることはない」と約束することで何とか収束した。  8日未明、掃海母船「ゆうちどり」を先頭に、掃海艇4隻、巡視船3隻の日本特別掃海隊第2掃海隊が行き先を知らされぬまま、出港する。隊員は計207人。極秘行動のため、海上保安庁のマークや船名を塗りつぶし、日の丸の掲揚は禁止。無線は封鎖、各艇の連絡は手旗信号と発光に制限された。 2015年9月10日、軍の記念イベントで朝鮮戦争時の戦いを再現する韓国軍兵士ら(AP) 彼らは同日夕、対馬東方海上で、米掃海部隊と合流した。米側の「我々の左側に縦列になって同行せよ」との指示に従って、朝鮮半島の東側を北上し続ける。  下関を出て一昼夜が過ぎた9日夕。第2掃海隊の能勢省吾指揮官の手記によると、彼が乗る掃海艇MS03号で、乗組員が声を上げた。「北緯38度線を突破したぞ。大変なことになるぞ!」 総指揮官の約束はあっさりと、反故にされたのだ。10日未明、元山沖に着いた。海上には、戦艦や空母、巡洋艦など多数の米軍艦が浮かんでいた。元山前に広がる永興(ヨンフン)湾の湾口付近で、米駆逐艦が陸上に向けて砲撃を繰り返していた。能勢指揮官は手記に「とうとう戦場に来た」と当時の心境を記している。当初の日本の掃海作業は、米軍ヘリコプターの銃撃によって掃海を終えた後、残存機雷を処分する比較的、危険度の低いものだった。だが、米軍の掃海艇が相次いで触雷したことによって、未掃海面を直接掃海するよう求められた。 触雷の危険は格段に高まる。そして、日本の掃海隊は17日、運命の時を迎えた。 指定された掃海海域は旧日本海軍の飛行場があった沖合で、付近の海岸は砂地。上陸に都合が良いだけに、その阻止のため、多数の機雷が敷設されていることが予想された。  ドーン!  午後3時21分、鼓膜が破れそうな大音響が響いた。元山沖に浮かぶ麗島の南西4.5kmの海上で、MS14号が触雷したのだ。  巨大な水柱が天を突き上げた。MS14号の前を航行していたMS03号に乗っていた能勢指揮官は、こうふり返る。 「低い轟音と共に私がハッと思って振り向いた時には、煙とも水煙ともわからない薄黒いものが瞬間的に広がり、辺り一面の海面上を覆って何も見えない。その煙がようやく消えて付近が少し見えるようになった時には、既にMS14の姿はなかった。遠くから見ると、木片か人の頭か分からない黒い物が点々として海面に浮かんでいるだけであった」 MS14号は一瞬にして飛び散った。ほとんどの乗組員が、重油で表面が覆われた海に投げ出された。全23人のうち米軍艇などに引き上げられたのは22人。うち18人が負傷。ただ1人、烹炊(ほうすい)員として乗り組んでいた21歳の中谷坂太郎氏は発見されなかった。  それでも、元山の掃海は続いた。第2掃海隊に代わり、第3掃海隊が作業を引き継ぎ、10月25日には、上陸海岸までの水路掃海を終えた。  このほか、日本特別掃海隊の掃海は12月初旬まで、朝鮮半島の各地で行われ、延べ1200人の隊員が極秘の掃海活動に参加している。特別掃海隊は約2か月間の任務を終え、12月15日に解散した。  日本政府は長い間、特別掃海隊出動の事実を隠そうとした。1954年1月の衆議院本会議。特別掃海隊出動について野党議員から追及を受けた吉田首相は「私には、現在記憶がない」と、すっとぼけてみせた。 彼らの活動が公式に明らかにされたのは1978年のことだ。関連記事■ 旧帝国海軍の系譜は海上自衛隊より海上保安庁が継承と識者■ 北朝鮮軍 韓国に「ワタリガニ合戦」の軍事挑発仕掛ける恐れ■ 拉致命じられ日本に潜入した韓国秘密工作隊の悲劇を描いた本■ 北朝鮮と韓国との全面戦争はあるか? 専門家はないと説明■ 「互いの違い知り相手を尊重」日中韓友好のヒント与える新書

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    マッカーサーが日本で晴らした「私怨」

     本時事通信が間遠になっているので、本年に入り、空いた時間に何に取り組んでいるかをお伝えする意味で、去る、二月二十一日、難波神社で行われた「大和心のつどひ」で話したことがらのなかから、以下、東京裁判と日本国憲法の関連について述べておきたい。 我が国の戦後を考える場合、まず第一に念頭に置いておくべきことは、我が国を軍事占領した占領軍のトップである連合国最高司令官マッカーサーというやつが、非常に嫌な、歪な性格の人物だったということである。 もともとマッカーサーは、卑劣な復讐心と自己正当化の衝動が非常に強いのだが、こういう性格の男が、我が国の第十四軍によってフィリピンのバターン半島に追い詰められ、昭和十七年四月、コレヒドール島から部下を見捨てて自分だけ命からがらオーストラリアに逃げた。連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーだが、米国での人気は絶大で、ニューヨークやシカゴなどで行われたパレードには総勢数百万人が集まった。写真は1951年4月20日(ゲッティ=共同) これで、さらにどれだけ、性格が歪になるか。日本軍によって、軍人として世界に恥を晒すことになった。このマッカーサーが、こともあろうに、我が国を占領する連合国最高司令官になって昭和二十年九月、コレヒドール島から乗って逃げたB17、その名も「バターン号」に乗ってきて厚木に降り立ったのだ。 このマッカーサーが、日本に来て為そうとしたことは、「復讐を実行しつつアメリカは正義で日本は不義だと世界と日本人に刷り込むこと」である。その為に、彼が実施したのが東京裁判と他の多くの戦犯裁判だ。そこで、これらの裁判では、起訴状は連合国側つまりマッカーサー側が提出するのであるが、日本側からもその起訴状を補強し裏付ける文書が必要だと彼とその幕僚(コミンテルンのフロント達)は考えた。そして、その為の文書として日本国憲法がつくられた。 彼は自分が屈辱を受けたフィリピンの二人の将軍に対して、襲いかかるように復讐する。かつて緒戦でシンガポールを陥落させたマレーの虎といわれた猛将の山下奉文大将は、フィリピンで投降したが、この山下大将に対して、マッカーサーは、日本に来た翌月の昭和二十年十月二十九日に裁判を開始し、同十二月七日判決で翌昭和二十一年二月二十三日に軍服も着せずに絞首して殺している。 次は、マッカーサーをコレヒドール島から追い出した昭和十七年の第十四軍司令官本間雅晴中将に対して、昭和二十年十二月十九日に裁判を開始し、翌二十一年二月十一日判決、同四月三日午前0時五十三分死刑執行。この本間中将に対する判決日は紀元節二月十一日である。そして、死刑執行の日と時間は何か。四年前のその日、その時間、即ち、本間雅晴第十四軍司令官は、バターン半島に立て籠もって頑強に抵抗するマッカーサーを司令官とするアメリカ軍にたいし、昭和十七年四月三日午前0時五十三分、総攻撃を下命した。マッカーサーは、その日のその時刻に、本間雅晴中将を殺害したのだ。つまり、私怨を晴らした。私が、冒頭に、マッカーサーは実に嫌な奴だと書いた理由がお分かりいただけたと思う。それともう一つ、マッカーサーの癖が既に顕れている。それは、日付けにこだわる、ということだ。本間裁判の判決日、死刑執行日がそれだ。 この山下、本間両将軍が死刑になるなら、日本軍と戦ったアメリカ軍の全ての将軍も死刑でなければならない。アメリカ軍は日本の民間人を殺す目的で軍事行動をしていたからである(サイパン、沖縄はおろか東京、大阪、広島、長崎を見られよ)。更に、ベトナム戦争におけるウェストモーランド統合幕僚長も間違いなく絞首刑だ。にもかかわらず、マッカーサーが後に書いた「回顧録」には、自分が行った裁判は完全に正義に基づくものだったと強弁している。特に、本間中将の妻が、東京でマッカーサーに、「夫の助命嘆願をしているのではない、裁判記録に自ら目を通してほしい、そうすれば何を為すべきかお分かりいただけると信じている」と願い出たことに関しても、よくもまあぬけぬけと嘘がつけるなあ、と思うほど誤魔化している。 以上の通り、マッカーサーの、恨みのフィリピンにおける二人の日本軍の将軍に対する措置とその時の癖を述べた。このことを念頭に置いて、次の日付けを見ていただきたい。 東京裁判に関して 起訴、昭和二十一年四月二十九日(天皇誕生日) 審理開始、同五月三日 判決、同二十三年十一月十二日 死刑執行、同十二月二十三日(皇太子誕生日) 日本国憲法に関して 公布、昭和二十一年十一月三日(明治節、明治天皇誕生日) 施行、同二十二年五月三日(東京裁判審理開始日) フィリピンの本間中将裁判であれ、東京裁判であれ、精根尽きた敗戦後に日本国民が初めて迎える紀元節と天長節(天皇誕生日)にそれぞれ判決をなし審理を開始している。そして、連合国最高司令官司令部(SCAP)において、東京裁判と日本国憲法制定が、ばらばらに進行していたのではなく、両者は不可分のものとして同時並行させていたことは、日付けから見ても明らかである。東京裁判の審理開始の日から一周年の同じ日が、日本国憲法施行日とされている。さらに、その内容は、先に述べたように、東京裁判の起訴状を日本国憲法が補強し裏付ける関係に立つ。日本国憲法の特に「前文」を読まれたし。前文は、日本を戦前と戦後に分断し、戦前は「人類普遍の原理に反する」と宣言している。 このことを更に裏付ける文書がある。それは、GHQの30項目にわたる検閲指針である。この検閲の根拠は、GHQの発した放送遵則と新聞遵則であるが、驚くべきはその遵則の内容だ。それは、冒頭、「連合国最高司令官(マッカーサー)は、日本に言論の自由を確立せんが為に・・・」とその目的を掲げ、第一として「報道は厳に真実に即する旨とすべし」と定めていることである。連合国最高司令官は、日本に言論の自由を確立するためと厳かに宣言しながら、日本の言論の自由を根絶やしにする完璧な検閲を密かに実施していたのだ。何度でも言うが、マッカーサーほど嫌な奴はいない。そして、彼に率いられた幕僚達、彼等の本国に帰ってからの「生き方」を知る必要がある。如何なる人間であったのかが分かるからである。鼻持ちならん奴であったことは推測できる。 次に、この検閲指針を三十項目全て掲げておく。その理由は、未だに我が国の言論は、この検閲指針通りに自己規制しているからである。従って、今こそ、この検閲指針を熟読吟味する必要がある!  そもそも、現在に至るまで、学校で、日本人が日本国憲法を書いたと教えているのは、この検閲指針が今も生きて機能しているからである。安倍元総理が、菅直人のアホに質問されて、「宣戦の詔書」に祖父の岸信介国務大臣が副署したことは過ちであったと答弁してしまったのは、この検閲指針が未だに生きているからだ。以前私がテレビで、日本を何時までも朝から晩まで非難し続け、時に日の丸を焼いて気勢をあげる朝鮮人や韓国人を日本人は到底好きになれない、と当然のことを言っただけで、スタジオの皆から「レッドカード!」と非難されたのも、この検閲指針が生きているからだ。本稿の主題である東京裁判と日本国憲法の関連については、検閲指針の①、②、③、④を見られたし。語るに落ちるとはこのことである。まことに、無念ではないか。 検閲指針①連合国最高司令官司令部(SCAP)に対する批判、②極東軍事裁判批判、③SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判、④検閲制度への言及、⑤合衆国に対する批判、⑥ロシアに対する批判、⑦英国に対する批判、⑧朝鮮人に対する批判、⑨中国人に対する批判、⑩他の連合国に対する批判、⑪連合国一般に対する批判、⑫満州における日本人の取り扱いに付いての批判、⑬連合国の戦前の政策に対する批判、⑭第三次世界大戦への言及、⑮ソ連対西側諸国の冷戦に関する言及、⑯戦争擁護の宣伝、⑰神国日本の宣伝、⑱軍国主義の宣伝、⑲ナショナリズムの宣伝、⑳大東亜共栄圏の宣伝、21その他の宣伝、22戦争犯罪人の正当性及び擁護、23占領軍兵士と日本女性の交際、24闇市の状況、25占領軍軍隊に対する批判、26飢餓の誇張、27暴力と不穏の行動の扇動、28虚偽の報道、29SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及、30解禁されていない報道の公表

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    従順で素直な日本人よ! もっと現実を直視せよ

    ケント・ギルバート(米加州弁護士・タレント)米中の軍事衝突はない アメリカのイージス艦「ラッセン」が、南沙諸島を航行しました。これは「航行の自由(Freedom of Naviga-tion)」作戦と呼ばれ、アメリカはこのような作戦を数週間から数カ月続けるそうです。 対して中国外務省は「中国の主権と安全保障上の利益を脅かす」として、抗議声明を出し、米艦監視のために中国艦を追尾させました。 しかし、非があるのは明らかに中国であり、アメリカの行為は極めて真っ当です。南シナ海を中国に領有させる理由は全くありません。この海域を中国が支配しても、中国を利するだけで、国際的にはマイナスでしかない。 それに米艦が航行しても、国際法上問題がありません。国連海洋法によれば、島は「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるもの」(百二十一条)で、島であれば領海などの主張が認められます。ところが、暗礁となると、岩が海中に完全に隠れてしまい、同条文は適用されません。 また、同法には「人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない」(第六十条)とありますから、中国が暗礁に人工島を作っても、その周囲に領海など存在しないのです。ですから、アメリカの船が公海であるこの付近を航行しても、何ら問題はない。米海軍横須賀基地を出港するイージス駆逐艦ラッセン%u30022015年10月に、南シナ海で中国が「領海」と主張する人工島周辺の12カイリ(約22キロ)内を航行した=1月6日午前、神奈川県横須賀市(米海軍提供) 今回の事態について、日本のメディアは「米中間の緊張が高まっている」とし、あたかも戦争前夜かのような報道をしています。軍事のことがまるでわかっていない。現実的に考えて、両国の武力衝突が起こるわけがありません。 アメリカが艦を派遣したのは、あくまでも現状の把握です。偵察衛星で人工島の状況はわかっていますが、それだけでは捉えられない内容もあります。それを調べるためでしょう。加えて、実際に〝押して〟みたら、どう反応してくるかを確かめる意図もあったのでしょう。いずれにせよ、今は様子見、下調べの段階です。 アメリカが派遣したイージス艦には、高度な情報収集能力や索敵能力が備わっています。ですから、もし中国が不穏な動きを見せれば、何もかもがアメリカに筒抜けになります。通信の内容が分析され、どういう設備が付近にあり、それがどの程度の性能かといったことが、アメリカにすべて知られるのです。まさに、真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の動きを完全にキャッチしていたのと同じです。 となると、中国はバレるのを覚悟で行動に出るか、黙っているしかない。もし行動に出たら、「張子の虎」の中国軍の完敗は確実です。中国軍もバカではないでしょうから、仕掛けませんよ。せいぜい抗議して、中国艦に追尾させるだけで終わるでしょう。 アメリカはそれをわかった上で、イージス艦を選んだと思います。本当にアメリカはこういう悪知恵がよく働きます。異常な九条崇拝 日本国民が軍事オンチなのは、憲法や戦後教育の影響が否めません。ご承知の通り、戦後、GHQは現行憲法がどのような過程で制定されたのか論じることを禁じました。それに加えて、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって、現行憲法がいいものだという洗脳が日本人に施されました。 近年になって、改憲の議論が盛り上がっていますが、実を言うと、日本国憲法の大部分は普通です。世界各国の憲法にも似たような条文がありますし、いくつかの条文間の矛盾に目をつぶれば、致命的な不備はそれほどありません。 しかし、二つだけ、世界のどこへ行っても見当たらない異常な箇所があります。 一つ目は第九条です。この条文が入ったのは、アメリカの誤解によります。 当時のアメリカには、「日本人は赤ん坊から年寄りまで、軍国主義に染まっていて取り返しがつかない」「みんなが残虐で、精神が完全に狂っている」という思い込みがありました。日本人全員を殺さないといけないと本気で考えていたアメリカの議員もいたほどです。 なぜそう思ったか。日本が強かったからです。本当に恐ろしかったのです。ですから、本土決戦になれば、アメリカ軍に百万人もの犠牲者が出るとアメリカは試算していたと言います。だから、日本から戦争ができる能力を徹底的に奪う必要があると思ったのです。 ところが、GHQが来日してみると、日本人は従順で優しく、素直な民族でした。冷戦の激化で、九条を入れたのは大失敗だったと気付くのですが、今さら取り下げられない。それで、ずるずると引きずったまま現在に至るわけです。 九条は憲法内に矛盾を生じさせています。九条二項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあり、日本は軍隊を持っていないことになっています。 自衛隊はどう考えても軍隊ですが、軍隊ではないとしておきましょう。軍隊がなければ、文民と軍人の区別は不要なはずですし、自衛隊員は文民のはずです。それなのに、なぜ「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(第六十六条第二項)と書かれているのでしょうか。結局、〝切り貼り〟で作られたから、こうした矛盾があるのです。〝憲法九条信者〟は、九条が世界でも類を見ない理想的な思想を表わすと信じ、崇拝しています。ところが実情は、単なるアメリカによる「罰」なのです。 また、〝信者〟のみなさんは平和憲法と言いますね。あの憲法があったから、七十年間平和だったと思っています。ですが、日本が平和でいられたのは、アメリカに軍事的に依存していたからです。憲法のおかげではない。 そもそも、戦後の日本は本当に平和だったのでしょうか。竹島が奪われ、北方領土は戻らず、拉致被害者も取り返せず、沖縄は危うい。日本人はこの現実を直視すべきです。今こそ変革のとき もう一つおかしいのは、天皇が元首ではないという点です。元首が定められていないのは、世界中の憲法と比べて異常なことです。 天皇の扱いについては、終戦後、天皇の戦争責任を問う声が大きく、簡単に事は進まなかったようです。「東京裁判をする以上は、天皇も被告として出廷させるべき」、「天皇が存在したままでは、日本は軍国主義から脱しない」という意見もありました。 しかし、知日派から「天皇がいなければ、日本はまとまらない」という助言があり、最終的には天皇を象徴として残すことで決着したのです。 この判断は正解でした。天皇という日本人の精神を取りまとめる強い〝指導者〟がいたおかげで、GHQは終戦後に、あれだけ大幅な改革を断行できました。これは世界の歴史を見ても、日本が唯一の成功例でしょう。象徴としてでも天皇を残したことは、GHQの功績と言っていいでしょう。 改革の実務はマッカーサーが担当しました。彼については賛否両論ありますが、少なくとも指導力はありました。例えば、民主化の名目で共産党を残しましたが、併せて反共政策も実行しています。これは日本がソ連の影響下に入り、共産化することを阻止するためです。ソ連も連合国の一つでしたから、その恐れは十分にあったのです。 農地改革は、反共政策の一環です。一九四七年から、GHQの指示の下で日本政府が安値で強制的に土地を買い上げ、小作人に分け与えました。この政策で自作農が増えたため、共産主義者は「地主が小作人を搾取している」と訴えられなくなりました。 また、ソ連兵を含む進駐軍が、赴任地から二十五マイル以上離れることを禁止した。共産主義者は全国各地を飛び回って革命運動の拠点を作りますが、それが不可能になりました。 大戦から七十年経って、日本国民の目は憲法に向きつつあります。しかし、それでも改憲の議論が進まないのは、多くの日本人はこのままでいいと思っているからです。 先日、私が読売テレビの『そこまで言って委員会NP』に出演したとき、「日本はこのままでいい」と言った出演者がいました。桂ざこばさんと八田亜矢子さんの二人です。何も不都合を感じていないと言っていました。日本人はもともと変化をあまり好みません。安定を求めます。現状に著しい不都合が生じたときのみ、変化を求めます。 でも実は今、安全保障問題を筆頭に、「著しい不都合」が生じています。日本人が気付いていないだけです。戦後、憲法に関する議論を禁じられ、日教組の洗脳によって自虐史観を植えつけられ、報道も偏向している。そのツケが今になって回ってきているのです。デモ隊こそ民主主義を否定 平和安全法制の議論では、マスコミも反対の論調が目立ち、反対デモが日本各地で行なわれました。デモ隊は決まって「民主主義を取り戻せ!」と声高に叫びます。でも、少し考えてみて下さい。世界のどこにデモ隊の意見を聞く民主主義国家があるのでしょうか。 民主主義とは何かと言えば、日本の場合、国民の代表である議員を選挙で選んで、国政を任せるということです。これが日本の民主主義です。デモ隊はそれを否定しています。 自分の意見を政治に反映させたいのなら、選挙権を行使するのが第一です。テレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演したときも、「投票に行きなさい。それが自分の声を聞いてもらう一番の方法だよ」と繰り返し言いました。自ら選挙権を放棄するのも結構ですが、それは発言権を放棄したことと同義です。民主主義の主柱は、デモはなく選挙です。 国会での議論で、安倍総理は非常に上手な答弁をしていました。総理は「明白な危険が『ない』と確認できない場合に、行使に踏み切る可能性」を示唆し、野党に危険が「ない」ことの証明を迫った。これは「悪魔の証明」とも呼ばれ、証明するのが非常に難しい。 そして、野党はしきりに「何が脅威か」を総理に言わせようとしていましたが、総理は決して明確には答えなかった。「中国か」「海峡のためか」と問われても、総理は、衆議院での審議の間は、決して明言しませんでした。安保関連法案に反対する大規模集会で、手を取り合い野党共闘をアピールする党首。(左から)生活の党の小沢共同代表、民主党の岡田代表、共産党の志位委員長ら=2015年8月30日午後、国会前 もちろん、野党は脅威があることを承知で総理に質問しています。ですが、総理は「違う」と言う。であれば、現状に著しい不都合もなく、変化を求める必要はありません。野党はこういう論理構成で主張すればよかったのですが、しなかった。 何より野党の一番の失敗は、対案を出さなかったことです。維新の党が辛うじて提出しましたが、党内分裂のせいか遅すぎた。民主党の中には、安保法制に賛成の議員もいたはずです。しかし、党議拘束があって結局は全員が反対に回りました。 アメリカの場合、所属する党の主張がどうであれ、議会内での投票は各議員の判断に委ねられます。造反という概念が無いのです。一応、議長や院内総務は全会一致を目指して取りまとめますが、強制力はありません。二大政党には罰則も党議拘束もありません。各議員が選挙を意識して、あくまでも選挙民の意向に沿った行動を取るのです。 共産党は「徴兵制になる」と騒いでいましたが、なるわけがありません。今の時代、一般人を自衛隊に雇っても役に立ちません。「戦争になる」という煽りも全く根拠がない。 最近、共産党に票を投じる人が増えていると聞きます。人気が出てきたのではなく、仕方なく共産党に入れているようです。知り合いにも共産党に投票した人がいました。驚いて「共産主義者になったのか」と聞いたところ、「他に入れるところがなかった」と言いました。「共産党の歴史や綱領を知っているのか?」と言いたい。以前、瀬戸内寂聴さんが「共産党はブレない」と発言しましたが、確かに日本を壊そうとする意志が決してブレない。まともに反論しない反対派 集団的自衛権については、私はフェイスブックでも意見を書いており、読者と議論をしています。コメントを見ていると、どうしても納得しない人がいます。納得しないのですが、反論もしない。挙句の果てに、誹謗中傷や、私がモルモン教徒だからとか、神様の意志がどうのとか、関係のない話に持って行こうとする。まともな反論は、ほぼ皆無です。「あちら側」には、論点をずらすテクニックを持った人はたくさんいても、真正面から堂々と議論する知識や気概を持った人は滅多にいないようです。 大げさに言えば、私は日本人の〝覚醒〟のために投稿しています。現実を無視して目を閉じたままの人が、論点ずらしで他の人を誘導するのでは、投稿が無意味になります。 ですから、無関係な書き込みをする人には、まず注意します。それでも改めない人のコメントは削除します。最悪の場合、相手をブロックすることにしています。 どうも日本人は自己主張や議論が下手で困ります。それは穏やかな性格や争いの少なさの表れでもあるでしょう。ただ、その代償として、日本人はストレスを溜めこみます。 日本のテレビドラマを見ると、それがよくわかります。日本のドラマでは、主人公が言いたいことを言えずにストレスを抱え、最終回でようやく自分の思いをぶつける、という展開が多い。そうやって一クール(十二週)持たせるわけですね。アメリカ人の私からすれば、「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ!」と思わずにはいられません。 アメリカ人は強く自己主張をします。日本人には、意見を戦わせることでストレスが溜まるように見えるようですが、問題が解決するので議論の後はお互いスッキリします。反日の源泉 これまで朴槿惠大統領は日本の呼びかけにも頑なに応じませんでしたが、十一月二日、三年半ぶりに日韓首脳会談が開かれました。十月中旬の米韓首脳会談の際に日本との関係修復をアメリカから求められ、安倍総理をソウルに招いた。アメリカの知識層も「告げ口外交」にはウンザリしています。「〝夫婦喧嘩〟に巻き込むな。面倒だから当事者で話し合え」というのが、オバマ大統領の本音だと思います。 会談にあたっては、相変わらず韓国は慰安婦への謝罪を条件に出してきましたが、日本政府は拒否しました。当然です。韓国には「七十年談話を読みなさい」と言ってやればいい。安倍談話は、これまで謝罪してきたのだから、これ以上謝らないと言っています。その意味では、韓国の主張を無視した談話です。 韓国が慰安婦問題について騒ぎ続けるのは、一体何のためか。実は中国のためなのです。日米の信頼関係が弱くなり、最終的に日米安保体制が崩壊すれば、米軍は日本から引き揚げる。そうなると、日本は中国の傘下に入るはず……このシナリオが実現したときのために、韓国は中国に協調して反日路線をとり、慰安婦問題をしつこく追及するのです。 そもそも韓国は反日の源泉とも言うべき、ある心情を抱いています。それは嫉妬心です。かつて、日本へは中国から朝鮮半島経由で文明がもたらされました。もちろん、日本はそのまま使ったわけではなく、日本流にアレンジしたわけですが、韓国は日本の兄だという優越感を勝手に持っている。 ところが、弟であるはずの日本のほうが韓国よりも豊かな国になってしまった。だから、悔しいのと同時に、日本が羨ましくて仕方ないのです。 それでも、一般の韓国人は反日教育を受けていても、実は根っから日本嫌いだという人は少ない。なぜかと言うと、日本は憧れの存在だからです。 しかしこれが政府レベルになると、看過できない反日に変貌します。とにかく相手を貶めることだけが目的で、見苦しい〝告げ口〟や〝嫌がらせ〟をしています。 韓国政府が反日を煽る背景には、国を一つにまとめるものが、それしかないという事情があります。幸いなことに日本には天皇という精神的支柱があります。しかし、民主主義体制になって間もない韓国には、国民の心の支えがない。韓国には儒教が根付いていますが、階級社会を肯定する権力と統治の教えは、民主化の役に立ちません。 韓国は国内情勢が行き詰っているのも、全て日本のせいにしています。財閥がいまだに経済の大部分を支配し、貿易は中国に過度に依存しています。自分らが改革を怠ってきたせいなのに、なぜか日本が悪いと言う。韓国は〝ストーカー〟 歴史を繙いてみると、韓国は日本に助けられてばかりです。上下水道、道路、鉄道、教育、社会制度……日本はどれだけ朝鮮半島に投資し、その発展に貢献したことか。ですが、韓国には感謝の気持ちが全くありません。感謝の気持ちを忘れた国が栄えるはずがない。これは人間社会の摂理です。 台湾の馬英九総統は本土寄りですが、その彼でさえ、日本が主導した嘉南大圳や烏山頭ダムなどの水利事業によって台湾に恩恵がもたらされたと認めました。そして、「日本統治時代には悪いこともあったが、良いことを記憶しておくことも重要だ」と述べたのです。本来なら、韓国も同じように日本を評価してもいいはずです。 日韓併合時代、アジア唯一の先進国だった日本の国籍を得た朝鮮人は、喜びました。「将来有望なイケメン実業家と結婚できた」と思ったのです。ところが日本は事業に失敗(敗戦)して無一文になる。強制的に離婚させられた後、「ろくでもない男と無理やり結婚させられた上にDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けていた」と噓を言い始める。ところが日本は驚異的な戦後復興で、すぐ先進国に舞い戻った。嫉妬に狂った元妻は「あんただけ幸せになるのはズルい」と、離婚慰謝料を求めます。一九六五年の「日韓基本条約」で全て支払いました。でも、元妻は経済が傾いたらお金をせびればいいと思うようになった。もはや〝ストーカー〟状態です。 こういう国に正面から対応してはいけません。どんな要求も無視して応じなければいいのです。毅然としていればいい。 誠実、規律正しい、おもてなしの心がある、時間を守る……日本人にはいい面がたくさんあります。しかし、このような心構えで外交に臨んだら負けが見えている。日本人の良い面が裏目に出ているのです。このことは、アパ日本再興財団が主催している「第八回『真の近現代史』懸賞論文」の応募論文でも指摘したところです(最優秀藤誠志賞受賞)。 ですから、韓国との付き合い方も含め、日本的感覚で世界を相手にしてはいけない。これを肝に銘じなければ、歴史戦には絶対に勝てません。けんと ぎるばーと 1952年、アメリカ、アイダホ州生まれ。70年にブリガムヤング大学に入学し、71年にモルモン宣教師として初来日。80年、同大学大学院を修了し、法学博士号・経営学修士号を取得。その後、国際法律事務所に就職し、法律コンサルタントとして再び来日。タレント業にも携わり、『世界まるごとHOWマッチ』などの番組に出演する。著書に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)など多数。

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    「あれは日本の自衛戦争だった」 敵将マッカーサー証言は重い

    渡部昇一(上智大学名誉教授) 第二次政権における安倍総理の大きな特徴の一つは、第一次政権時のスローガンであった「戦後レジームからの脱却」という言葉を使わなくなり、まず、アベノミクスと呼ばれるデフレ克服の経済政策を優先したことである。2015年1月19日、エルサレムのホロコースト記念館で 平和貢献への決意を述べる安倍首相 これは、安倍総理が戦後体制の変革や憲法改正に消極的になったわけではなく、野に下っている間にじっくり考えた結果であると思う。戦後の国際秩序はアメリカ主導で行われたものであるから、「戦後レジームからの脱却」を性急に推し進めると、アメリカの反発を招くことに気がついたのだろう。現に、アメリカ政府のなかには安倍総理を「リビジョニスト(歴史修正主義者)」と呼んで批判する者もいる。 村山談話などを言下に否定すると中国と韓国が大騒ぎするが、現在のオバマ政権下のアメリカは中国に対して非常に弱腰で、とにかく事を荒立てたくない、問題を起こしたくないという臆病さが顕著に見られる。尖閣問題にしても、「尖閣列島は日本の施政権下にあり、安保条約の範囲内にある」とまでは言うものの、日本領であるとまでは決して言わない。 そういうオバマの臆病さを安倍総理は見てとったのだと思う。それでも、アメリカの大統領であるオバマの言うことには応じなければならない。しかし一方で、米軍関係者たちはオバマとは考え方が違うことも十分に観察してわかっているようだ。オバマが大統領になってから軍の最高司令官が数人退任しているのも、オバマと軍とが相容れない関係にあるからだろう。それで安倍総理は軍との話を重要視しながら政策を進めているような気がする。 だから、もどかしく思う人もいるかもしれないが、それは戦後レジームから脱し、日本のあるべき姿を取り戻したいけれども、それに対してアメリカがどう反応するかということを慎重に見きわめているからだと考えなければいけない。 こうした対米関係のジレンマを解決する手がかりが一つあると思う。それは、終戦からまだ間もない時期に行われたマッカーサーの証言である。 その証言内容は、まさにマッカーサーこそリビジョニストであったことを明確に示しているのだ。「リビジョニスト」の意味「リビジョニスト」の意味 リビジョニスト(歴史修正主義者)という呼び名は現在、批判的に使われているが、本来はとくに悪い意味ではない。もともと十九世紀の後半にイギリスにおける教会の論争で使われていた言葉であった。 それがマルクス主義者の間で使われるようになり、古典的マルクス主義を批判したドイツ社会民主党のベルンシュタインを、頑迷なスターリン主義者たちが「修正主義者」と呼んで大論争になった。戦後の日本では、暴力革命に消極的な日本共産党の一派を武力闘争派が「修正主義者」として糾弾した。つまり、マルクス主義の原理に変更を加えようとするのを異端視して「修正主義」と呼んだのである。 ところが、アメリカではまったく別の使い方をしている。 アメリカはこれという理由もなく第一次世界大戦に参加した。ウィルソンという大統領は理想主義者ではあるが、国際連盟の創設に意欲を燃やしながら、結局米上院議会の反対でアメリカが参加できなくなるなど、現実にそぐわない理想を語るところがあった。そのせいもあり、ドイツは悪であると信じて、アメリカは戦争も末期になってから大戦に参加した。しかし、アメリカは近代戦争に慣れていなかったものだから、予想外の死傷者を出してしまった。銀行や大企業の経営者は大いに潤ったが、その反動で大不況も起こった。一般の国民からすれば、これほど多くの犠牲を払ってまで、いったい何のために戦争をしたのかと納得がいかなかった。 そこでもう一度、歴史を見直してみようというリビジョニストが現れたのである。すると第一次大戦はドイツが始めたものではない、必ずしもドイツが「悪」であるわけではないことがわかった。ドイツが軍事動員令を出したのはフランスやロシアよりも遅かったのだから、これではドイツが戦争を起こしたとは言えないではないか。 だから、アメリカのリビジョニストたちは非常に意義のある歴史の見直しを行ったわけである。ところが不幸なことに、それと時を同じくしてヒトラーが登場した。そのため、リビジョニストが弁護したのは第一次大戦時のドイツ政府であったのに、ヒトラーを弁護したかのようにとらえられた。それ以来、アメリカでは「リビジョニスト」といえばヒトラーの支持者ということになってしまった。いまでいえばネオナチの信奉者である。 しかし、歴史を見直すという作業はいつの時代でも当然行われるべきことである。そして、大東亜戦争を見直した最大のリビジョニストが、実はマッカーサーだった。マッカーサーの重大証言 マッカーサーは朝鮮戦争で核攻撃を主張して、昭和二十六年(一九五一)四月、戦争のさなかに更迭された。そして五月にアメリカ上院軍事外交合同委員会で、当時の日本の状況を述べたあと、「したがって日本人が戦争に入った目的は、主として自衛のためであった(Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.)」と重要な証言を行ったのである。1951年4月19日、米議会上下両院合同会議で 退任演説をするマッカーサー これは彼の独白でも、プライベートな席で友人に語ったものでもない。民間人を前にして演説したのでもない。上院軍事外交合同委員会という、これ以上ない公の場で証言したのである。これは一点の曇りもない決定的な歴史的事実である。だから、マッカーサーこそ最高のリビジョニストだということができる。 この証言について私が初めて耳にしたのは、松井石根大将の秘書だった田中正明氏の「マッカーサーも日本の侵略戦争を否定している」という話だった。しかし、どこで読んだのかは覚えていないというので、調べたところ、機密文書でも何でもない、『ニューヨーク・タイムズ』に証言の全文が掲載されているというのである。ところが私は専門家ではないから、わざわざアメリカまで探しに行くわけにもいかない。そこで、東京大学には新聞研究所もあることだから、東大教授の小堀桂一郎氏に頼んで探してもらった。小堀氏はさっそく記事を見つけ出し、コピーを送ってくれた。 私はその原文を雑誌『Voice』(PHP刊)で発表した。これが広く日本人の目に触れた最初のケースであった。専門家である外務省情報調査局局長だった故岡崎久彦氏ですら、マッカーサーがこんな証言をしていたことを知らず、驚いて私に資料提供を依頼してきたほどである。外務省が知らなかったくらいだから、他の官僚や政治家が知るわけがなかった。 その重要な部分の日本語訳は以下のとおりである。〈日本は絹産業〔蚕〕以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれらの一切のものがアジアの海上には存在してゐたのです。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。〉(小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫564、565ページ) この内容は東條英機首相の東京裁判における主張と一致する。東條首相は、宣誓供述書のなかで「日本は侵略戦争をやったのではない。常に受身で、自存自衛のために戦ったのである」と語っている。 東京裁判は、連合国がナチスを裁いたニュールンベルグ裁判と同様に日本を裁こうとしたものだが、その全権を連合国から委譲されたのがマッカーサーであった。だからマッカーサーは国際法によらず、マッカーサー条例で裁いた。言い換えれば、東京裁判とはマッカーサーそのものである。 東京裁判で日本を侵略国であると決めつけたのが公式的な世界の見方になっているのだが、その首唱者であるマッカーサー自身が、東條首相の死刑執行(昭和二十三年)から三年後に、まるで弁護人のように東條と同じ主旨の証言を行っているのである。ニュールンベルグ裁判でナチスを裁いた人間が、後にヒトラーやゲーリングの弁護をするなどということがあっただろうか。「東條・マッカーサー史観」への転換「東條・マッカーサー史観」への転換 にもかかわらず、マッカーサーのこの発言は当時の日本の大新聞で報道されたことがなく、今日に至るまでマスメディアで報道されたという話を聞いたことがない。 このマッカーサー発言が行われた当時の日本はまだ米軍の占領下にあったから、報道できなかったのかもしれない。しかし、翌年の独立回復を待って「それっ!」とばかりに書き立てればよかった。昭和二十六、七年といえば、まだ戦争の記憶も生々しかったが、占領軍が教科書の都合の悪い部分を墨で塗りつぶさせ、日本が一方的に悪かったという宣伝を大々的に行っていた時代だったから、その効果は絶大だったろう。七十年後の今日もなお日本が東京裁判史観に呪縛されているようなことなどなかったかもしれない。 浮かばれなかったのは戦死者の遺族である。私はいまでもある未亡人の「かくばかり卑しき国となりたれば 捧げし人のただに惜しまる」という和歌を覚えている。夫を戦争に出したくはなかったが、お国のためだからと捧げたのに、戦後は犬死にのように言われるのが、「ただただ惜しい」と悲嘆にくれているのである。 息子を捧げた親もいるし、兄を捧げた弟妹も大勢いた。このマッカーサー証言が大々的に報道されていれば、そうした遺族たちはどれだけ救われた気持ちになったことだろう。この事実はすべての日本人が知るべきであり、世界中の人に知らせるべきものである。 私自身も機会あるごとにマッカーサー証言について語ってきたが、私の読者は知っていても、なかなか世に広まっていかない。「チャンネル桜」でも何カ月間か毎日放送してくれたのだが、地上波ではないし、やはりすでに知っている保守系の人ばかりが観るので、なかなか広がらない。しかし、この事実を利用できないのは何としても惜しい。 いまだに世界と日本の戦後史観を支配している、いわゆる「東京裁判史観」は、「東條・マッカーサー史観」に換えられるべきであろう。「リビジョニスト」マッカーサーの証言を、世界に対して恒久的に発信し続けることが、第二次安倍政権の重要な使命の一つであると思う。 政治の場であまり性急にやると反動が大きすぎるかもしれないから、すべての日本人が、「マッカーサーは、大東亜戦争は侵略戦争ではなく、自衛戦争だったと証言している」と、ことあるごとに言い続けるべきであろう。何しろ、「開けゴマ」の呪文のようなもので、日本を侵略国家だと騒ぎ立てる相手にそのことを言うと黙ってしまうのだから。誰もそれを否定できないのだから当然である。 マッカーサーがリビジョニストだったことは、アメリカでは一時よく知られていた。だから、そのころのアメリカは、日本人に友好的だった。一九六〇年代に二度ほどアメリカの空港で「日本人か?」と話しかけられ、そうだと答えるとコーヒーを奢ってもらうようなことがあった。しかし、いまではアメリカ人もそんなことは忘れてしまっている。日本が知ろうとしないことを向こうがいつまでも覚えているわけがない。 だから、われわれ日本国民がそのことをまず十分に知らねばならない。そうして民間から徐々に世界に広げていく必要があるのだ。中国に対する日米の軍事協力 安倍総理が対米関係を慎重に進めている理由の一つに中国の問題がある。 中国は猛烈な勢いで軍拡を続けている。十数年前くらいまでは、自衛隊の軍事力のほうがずっと上だと言われていた。しかし現在では、日本独力で中国と戦うことは不可能だ。アメリカ軍だけでも難しいのではないか。 平成八年(一九九六)、台湾の李登輝元総統が初の総統直接選挙を行ったとき、中国は台湾に向けてミサイル発射実験を行って威嚇した。そこでアメリカが台湾海峡に航空母艦二隻を派遣して牽制すると、とてもかなわないというので中国は矛を収めた。いまでは、そんな脅しがきくかどうか疑問である。 ところが、安倍総理は集団的自衛権を行使できるようにした。これは非常に重要なことで、集団的自衛権の行使によって日本とアメリカが軍事的に手を握れば、さしもの中国も手が出せなくなる。 考えてみればわかることだが、七十年前の戦争で機動部隊を持っていたのは日本とアメリカだけである。ドイツにもソ連にも航空母艦はなかった。イギリスには航空母艦はあったが、機動部隊はつくれなかったのである。日米の海軍力は圧倒的だった。その日米が手を組んだら、いかに中国が軍拡に血眼になろうとかなわない。そうやって戦争を回避し、にらみをきかせてジッと待っていればいい。そのうち中国共産党が崩壊するか、うまくいけば総選挙をするような国になるかもしれない。どこの国でも、総選挙があれば現段階で戦争などできはしない。 たしかに、現在の米中関係は経済的利害で結びついている。米ソ冷戦時代は、アメリカとソ連のあいだに経済関係も貿易関係もなかったから、図式としては非常にわかりやすかった。外交官のジョージ・ケナンがソ連と共産主義の「封じ込め作戦」を主導し、米ソは軍拡競争をエスカレートさせていった。そのうちにソ連がついていけなくなって崩壊した。 中国にはアメリカ資本も深く入り込んでいるから冷戦時代のようには簡単にはいかないが、発想としてはケナンと同じでいい。中国の民度が上がり、総選挙が行われる時代が来るまで、日本は必要とあれば軍事費を増やし、武力を増強して、日米が手を携えて中国を封じ込めながら待つしかない。そのためにも、日米関係を良好に保つ必要がある。日本の今後は対米外交と自衛力増強にかかっていると言える。 これまで経済政策を優先させてきた安倍総理だが、戦後七十年を迎え、この四月には米国連邦議会の上下両院合同会議で四十五分にわたる演説を行った。いよいよ本腰を入れて日米関係を含む戦後体制の改革に取り組むことであろう。AIIBは危険なバスAIIBは危険なバス 最後に、中国が主導するAIIB(アジアインフラ投資銀行)についても触れておこう。AIIBには創設メンバー国として世界五十七カ国が参加した。主要国で参加を見送っているのは、日本とアメリカだけである。これに対して民主党などは、外交上の誤りであるとか日本が孤立したとか批判している。もしも民主党政権であったら真っ先に参加しただろうと思うと、背筋が寒くなる。 中国の習近平は「大中華帝国の復興」などと誇大妄想的な発言をしている。しかし、「大中華帝国」などあったためしがない。かつて広大な領土を支配した清朝は満洲族の国であり、シナは征服された植民地にすぎなかった。元朝は蒙古人の大モンゴル帝国の一部であった。 しかも、レアアースなどの資源を生産しているのはモンゴルやウイグルやチベットなどの周辺地域であって、シナ人(漢民族)がもともと住んでいた地域には、天然資源などもはやなきに等しい。近衛(文麿)内閣と東條内閣で大蔵大臣を務め、北支那開発総裁であった賀屋興宣が、「シナというのはなんにもない国だなあ」と言ったことがある。 だから中国政府は、インフラ整備の名目でアフリカや東南アジアに進出し、現地で資源開発を行うなど、狂ったような資源外交に乗り出したのである。ところが、その大半が失敗だったことが明らかになっている。中国人がつくった道路や橋の質の問題は別として、何かといえば中国から労働者を連れてきて資源開発を行い、現地人を雇わないばかりか、中国から来た連中は帰らずに現地に居坐る。初めは中国のインフラを歓迎していた国々も、いいことは何もない、まるで植民地だというわけで、ミャンマーもカンボジアもスリランカも完全に離反してしまった。 しかたがないので、インフラ銀行をつくろうというのが中国の目論見である。ところが、先立つものがない。三兆ドルの外貨があるから、そのうちの五百億を使うとか言っているが、中国は世界銀行などから借りている金をまだ返してもいないのに、三兆ドルもあるはずがない。そもそも、そんな国が自分たちの主導で国際金融機関をつくろうなどというのは図々しいにも程がある。 では、イギリスやドイツ、フランスはなぜ参加したのかといえば、理由は極めて単純明快で、輸出先がなくて困っているからである。 これまでは、たとえばギリシャやスペイン、ポルトガルのような技術的後進国は、優秀な技術や機械をどんどんドイツから買っていた。普通ならば関税がかかるが、EU(欧州連合)になったものだから、それもかからない。丸儲けである。ところが最近では、EUの各国とも破産寸前でモノが売れなくなってきた。イギリスもフランスも同じようなものである。 それでロシアに目を向けて販売拠点をつくったところが、ロシアの外貨収入のほとんどは石油や天然ガスだけだから、原油の突然の暴落とウクライナ問題で経済制裁を受けてロシアに購買力がなくなってしまった。 そんなときに、自分たちの国のものを買ってくれる唯一の可能性のある中国に誘われたら渡りに船である。欧州の国にとってどうせ出す金はわずかなものだし、アジアの軍事的脅威など彼らには興味がないから、とりあえず入っておこうというさもしさから参加しただけのことだ。中国の機嫌を損ねない程度にお付き合いして、市場を確保しておこうというわけである。 ところが日本とアメリカはほかの国とは立場が違う。まず軍事問題が無視できない。それに日本とアメリカはIMF(国際通貨基金)とADB(アジア開発銀行)の最大の出資国である。そこから金を借りて返さない国が新しくつくる金融機関など話にならない。だから、いかにも日本とアメリカが金融界で孤立したようなことを言うメディアがあるが、あの傲慢な中国が、ことAIIBに関しては実に腰が低い。安倍総理との会談の席でも、習近平は以前の仏頂面とはうってかわってつくり笑いを浮かべていた。日本が参加しなければ動きがとれないからである。 さらに、中国の元は国際通貨ではない。国際通貨は現在ドル・ポンド・ユーロ・円の四種類で、スイスフランも通用するかもしれないが、規模が小さいから、国際的に決済できるのはこの四つだけである。習近平は「大中華帝国」の夢のために「元通貨圏」をつくりたいのだろうが、そもそも元を国際通貨にするには固定相場制を廃して自由にしなければならないが、そうしたら中国経済は大変なことになる。  決済能力のない通貨を持ち、国際的な融資をした経験もない国が国際銀行をつくるというのは滑稽でしかない。だから、日本は名誉ある孤立を守り、これについてもジッと見守っていればいいのである。このバスには乗り遅れてもよいのだ。中国共産党がハンドルを握っている危険な金融バスなのである。わたなべ しょういち 上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。一九三〇年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr.phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『日本興国論』などの話題作やベストセラー多数。小社より、『渡部昇一 青春の読書』絶賛発売中。【キャプション】

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    厚木の凱旋将軍 「マッカーサーは失禁していた」

    髙山正之(ジャーナリスト) 自慢にもならないがナマのマッカーサーを間近で見たことがある。 トルーマンに首にされて帰国した昭和二十六年四月十六日、こちらが麻布小学校の三年生だったころの話だ。以下記憶のまま書く。 月曜の朝、登校すると先生に下履きのまま校庭に集まれと言われた。 校長がいつものように朝礼台に立って話し始めた。いつもと違う改まった口調だった。 「マッカーサーさんが都合あってお国、アメリカに帰ることになりました。お世話になった人です。これからみなさんでアメリカ大使館に行き、元帥をお見送りします」 そのころGHQのレッドパージが結構賑やかにやられていた。いい気になっていた共産党員がどんどん捕まり、職場から追われた。赤い教員も教壇を去った。 そういうとき朝礼で校長が「なんとか先生は都合があってお国に帰ります」というのが形だった。 だから校長の話を聞いて児童たちは「マッカーサーもアカだったんだ」と驚いた。ませた子が「真っ赤ーサーっていうぐらいだもの」と言ってみんなを笑わせた。マッカーサー元帥解任発表翌日の総司令部前(1951年4月12日)  アメリカ大使館は学校から子供の足で十五分くらいか。高松小とかほかの学校の児童も来ていて、こちらは大倉集古館、今のホテルオークラの側に並んだ。マッカーサーの住む大使公邸の前、黒い鍛鉄製の門をやや右手に見る位置だった。 いきなりその門から黒塗りのでかいアメ車が飛び出してきてあっという間に走り去った。フェンダーに五つ星が並んだ細長い元帥旗がぴんと張っていたのと、後部座席に大きな男の影があったのを覚えている。 「ナマのマッカーサーを一瞬、見た」に近いが子供たちは結構、腹を立てていた。わざわざ見送りに来て旗も振ってやったのに挨拶するでなし、手を振るでなし。その怒りは間もなくもっと膨らんだ。 学校に戻って一時間の授業が終わると教頭が「屋上に上がれ。さっき振った旗をもってこい」という。一年生から六年生まで屋上に並ぶと「今から空に向かって旗を振れ」で、かなり長い間振らされた。 これは一体なんなのか。子供たちは意味不明の振りつけを問うた。教頭はマッカーサーがこの時間、東京上空を一周するからどの学校の生徒も校庭や屋上で見送るように指示されていると言った。 彼の乗機はバターン号と言った。ロッキード社製の垂直尾翼が三枚あるスーパーコンステレーションというタイプだ。 羽田にはこの独裁者の専用機格納庫が整備場地区に長らく残っていて、進駐軍が帰ったあとは確か「日ペリ」こと全日空が使っていたはずだ。 そのバターン号が羽田を飛び立って東京の上空を一周している。はっきり言ってそんな機影は見たかどうか覚えがない。 多分、機内のマッカーサーも「おお麻布小学校も南山小学校も旗を振っている」なんて見ているわけもない。有色人種が懸命にご主人様のために舞う。それを尊大に無視するのが白人の偉大さだと思っている。子供心にも忘れがたい屈辱だった。 だいたい彼の回顧録『Reminiscenc-es』にも学校の児童生徒を校庭なり屋上に立たせて旗を振らせたとかの言及はない。 それどころか彼は「私を慕う日本人が二百万人、大使館から厚木までの沿道を埋めた。泣いている者もいた」と書く。 お前が向かったのは羽田だ。それに日本側の資料では二十万人だ。それも大半がいやいや動員された児童生徒だった。一ケタ増やしたうえに飛行場の名も場所も違う。泣いたのもその理不尽への抗議の涙のはずだ。「狡猾で利己的で高慢で」「狡猾で利己的で高慢で」 もう一つ。彼は「daybreak(夜明け)に帰った」とある。不思議なことに袖井林二郎『マッカーサーの二千日』にも「午前七時二十三分、バターン号は滑走を始めた」と。 それは間違いだ。こっちはいつも通りの時間に登校した。同級生に麻布の水橋酒店の若旦那もいた。彼はマッカーサーの側近たちが出入りした外人専用の「麻布ホテル」に配達していた。ホテル支配人は解放同盟の松本治一郎だ。彼が用意した女をケーディスとかが部屋に連れ込んでいた。 その若旦那も朝礼後にアメリカ大使館まで歩かされ、屋上に立たされたことを覚えている。それからマッカーサーは第一京浜を下って出発式典をやって「羽田発七時何分」とかはあり得ない。だいたい午前五時、六時台に二十万人もが沿道で見送るわけもなかろう。 いずれにせよ、マッカーサーは強権を振って児童を動員しておいて、かくも尊大な偽りを書く。子供の気持ちをここまで踏み躙った外国人を他に知らない。 その腹立ちもあってその後、マッカーサーの話は嫌いなもの見たさでついつい気になって結構、目を通してきた。 面白いもので例えば英戦史家のクリストファー・ソーンは彼を本当に嫌っているし、チャーチルと彼との連絡をしていたジェラルド・ウイルキンソン中佐も「マッカーサーは狡猾で利己的で高慢で、道義心に欠けて」とこっちの睨んだ通りに語る。 米国人も同じ。アリゾナ大教授マイケル・シャラーも彼が閉所恐怖症で、臆病者で、戦略も展望も持たない、実にくだらない男だと彼の著書『マッカーサーの時代』で仄めかせている。 日米開戦の日、マニラで見せた狼狽ぶりにもそれは窺えるし、朝鮮動乱の始まったときにもこの東京で頓珍漢ぶりを発揮している。 そのくせ彼は実に無慈悲で、白人優越主義を振りまき、日本人を本気で滅ぼそうとしてきた。 あの醜悪な憲法がその一端を示すが、それなのに日本人の評価はシャラーらとまったく違う。 彼がクビになったときの朝日新聞は社説で「われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった」(五一年四月十二日)と書く。論説主幹の笠信太郎が書いたのだろうが、この当時から朝日新聞は何にも見えていなかった。 朝日だけでなく、国会も「マッカーサー元帥に感謝する」決議をし、終身国賓待遇まで付与している。ちなみにマッカーサーは昭和三十六年七月、フィリピンにいくために日本の米軍基地に立ち寄ったが、基地の外には出なかった。よほど日本人が嫌いだったのか、自分の薄汚さに比べ、日本人の天真爛漫さが耐えられなかったのか。 民間有志もマッカーサー神社を建てようと言い出し、彼への感謝を伝える国民の手紙五十万通が米国に送られ、それは今もバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に陳列されている。 しかし彼が帰国して二週間後に始まった軍事・外交委員会の聴聞会で彼が「日本人は十二歳」と発言したことが分かり、彼の別の一面に気付いたのか、マッカーサー神社建立話は急速にしぼんでいった。 それでもマッカーサーに対する思いはヘンなところに残っていて、例えば九〇年代末に新潟の中小企業主がマッカーサーのブロンズ像を寄贈し、今はゆかりの厚木飛行場に置かれている。米通信社の写真米通信社の写真 こういう善意の人までまだ騙し続けるマッカーサー神話が許せないが、彼が狡猾でケチな男だというはっきり目に見える証拠はなかなか見つからないものだ。 偉大なマッカーサーが歴史に定着するのかと思っていたところに新聞記者時代、警察庁の記者クラブで世話になった共同通信の井内康文氏から『写真で綴る戦後日本史』が送られてきた。「中におもしろい写真があったので」と。公益財団法人・新聞通信調査会発行『写真でつづる戦後日本史』(2014年1月24日発行)に掲載されたマッカーサーの写真(ACME)には、ズボンの股間にはっきりとした染みが写っている それが一九四五年八月三十日、二代目バターン号C54輸送機で厚木に降り立ったマッカーサーの写真だった。例のコーンパイプを咥え、レイバンのサングラスをかけて自信満々にタラップを降りてくる図柄だ。 彼がここに来るわずか四週間前まで米艦船に向けてそれこそ死にもの狂いの特攻機が突っ込んでいた。 二週間前にも降伏を潔しとしない青年将校が決起して、皇居に殴り込み、上官を射殺もしている。そうした恐れを知らない精鋭の将兵が関東一円だけで二十二個師団三十万人もいた。 そのただ中をマッカーサーは丸腰で、コーンパイプを片手に悠然と降り立った。強い米国、「I shall return(必ず帰ってくる)」の言葉を守り、今メルボルンからここに来た。自信と誇りに満ち溢れた威厳ある姿。そういう図。「でもよく見てほしい」と井内氏の手紙は続く。「タラップを降りた彼の股間部を」。 見てちょっと固まった。マッカーサーのズボンの前立ての左側部分にはっきり濡れ滲みが見える。光の加減ではない。 彼の厚木到着の写真は各国記者団に交じって同盟通信の武田明と宮谷長吉が撮っている。武田は「マッカーサーは顔に化粧を施していた」というコメントを残している。ファンデーションにドーランを塗っていたと。 宮谷はタラップから日本の大地に一歩を下した瞬間を狙ったという。恐らくこの写真のことだろうが、ただ、股間の濡れ染みについては語っていない。武士の情けなのだろう。 ほぼ同じアングルで米通信社ACMEの写真がある。別に「米海兵隊撮影」もある。光文社の『米軍カメラマンの秘蔵写真・東京占領1945』も念のため見た。 その表紙の写真は彼を出迎えたアイケルバーガーと語りながら、という図柄だが、それもマッカーサーのズボンの左側部分が変色しているのをはっきり示していた。 彼は強がっていた。誰よりも先にタラップに出た。しかし、心の底ではいつ襲われるか、いつスナイパーの一発が彼の額を撃ちぬくか、不安に打ち震えていたのだろう。 一歩、二歩、降りるごとにその恐怖がいや増していった。いくら強がったって体も交感神経もついていけなかったのか。 これが失禁のシミだと見るべきだと、彼の過去のいくつかのエピソードが語っている。以下、その状況証拠を挙げてみる。 彼が日本軍とまみえることになったフィリピンは、実は彼の父アーサーの代から馴染んできたところだ。 アーサーは米国がここを植民地にした一八九八年当時の陸軍司令官で、独立を目指すアギナルド将軍以下の現地人抵抗者やその家族四十万人を虐殺している。後に息子ダグラスが上陸するレイテ島もそのときに一歳の幼児まで全島民が殺されている。 マッカーサーは父の後を追って駐屯米軍の指揮官として赴任し、民からは「虐殺者の息子」として恐れられた。彼の現地広報官カルロス・ロムロも、自分の見ている前で父を水責めの拷問で殺されている。 彼は三度、ここにきて四度目のマニラ赴任が米陸軍退官後の一九三七年(昭和十二年)だった。米傀儡政権ケソンの軍事顧問がその肩書きだった。表向きは独立を前にしたフィリピンの国軍づくりだが、実際は近く始まる対日戦争用の戦力に仕立てることだった。英軍には弾よけにインド兵がいる。白人米兵にはフィリピン兵というわけだ。 で、その日米戦はいつか。「早ければ四二年春とルーズベルトは読んでいた」(M・シャラー『マッカーサーの時代』)。 日本にどこで戦端を開かせるか。本来は、そして今現在もカリフォルニア州サンディエゴにある米太平洋艦隊基地を、大統領はそれでこの時期に日本軍の手の届く真珠湾に移している。少なくとも四〇年(昭和十五年)春の艦隊訓練が終わったあと、空母を除く主力戦艦を真珠湾に密集して置きっ放しにした。 明らかに日本に襲わせるための囮だった。海軍側がそれを指摘したが、大統領は取り合わなかった。そして一年半後に日本軍はここを襲った。 この米太平洋艦隊の真珠湾足止めと同じ時期に米国は日本への鉄の禁輸を決めた。経済封鎖で苛立たせ、戦争に誘う最終段階がこのときに始まった。日本の攻撃に呆然自失日本の攻撃に呆然自失 一方で、ルーズベルトはフィリピンの軍備に力を入れた。追い詰められた日本が資源豊かな南方に出る。その入り口にあるのがフィリピンだ。だから必ず日本軍はここに来る。現地兵の養成を急ぐ一方で、大統領は米地上部隊と空軍の増強を急いだ。 後にバターン死の行進の被害者と吹聴するレスター・テニーもこのころ戦車隊の一兵員としてマニラに送られてきた。 空軍増強の中心は四発重爆撃機B17。これを四一年秋までに三十五機、送り込んだ。 「空飛ぶ要塞」の異名をとるB17は本当に無敵だった。戦闘機に劣らない機速と厚い防護と十丁の十二ミリ機銃は逆に戦闘機を撃ち落とし、過去に一機も撃墜されたことがなかった。 B17の一機は高速巡洋艦一隻なみの破壊力を持つと評価され、スチムソンは「B17は日米の力のバランスを変えた」と言い、ルーズベルトも日本が対米戦争突入を諦めはしないか、本気で心配したほどだった。 英国も米国に倣う。四〇年に入ると、九龍国境を要塞化し、マレーにもジットラ・ラインを築いた。そして想定開戦に間に合わせるように戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスをシンガポールに送ってきた。 この二艦が入港してすぐ日本軍は真珠湾と香港を襲い、マレー半島に大部隊が上陸した。そしてフィリピンも当然標的になった。 マッカーサーは午前三時過ぎ、側近からの電話で真珠湾攻撃を知った。彼は宿舎のマニラホテルから米極東軍司令部に出向いたが、その時点から丸半日、沈黙する。 午前五時、航空部司令官ルイス・ブレアトン准将が先手を打って台湾の基地奇襲を提案したが、返事なし。准将は夜明け後、再度申し出るが、許可が出たのは昼前だった。空中退避していたB17以下がクラーク基地に降りて出撃準備中に日本軍機が襲来した。 被害は同基地にあった二十一機のB17のうちブレアトンが偵察に出した三機を除く十八機すべてとP40戦闘機五十三機など計百四機が破壊された。施設は焼かれ、整備員の多くが死傷し、フィリピン空軍は事実上壊滅した。 真珠湾から半日たった午後三時五十分、マッカーサーの執務室をセイヤー高等弁務官が訪ねたが、「彼は部屋の中を行ったり来たり」(増田弘『マッカーサー』)ただ狼狽えるだけだった。半日間、彼は何を下命すべきか何も分からずに過ごしたのだ。 しかし回顧録では「真珠湾攻撃があったと聞いたが、もちろん米側が反攻して勝ったと思い込んでいた」と言い訳し、クラーク基地の全滅も「敵軍は七百五十一機の大勢力で攻撃してきた。貧弱な装備のわが軍の二倍以上の兵力だった」から負けたと書いている。実際の日本軍機は百九十一機。対するフィリピン空軍機はB17を含め二百四十機にも上る。この男は平気で噓をつく。リンガエン湾に上陸する本間雅晴中将 おまけに彼の不始末をよく知るブレアトン准将はマッカーサーからジャワに行くように命ぜられ、以後、英空軍に配属され、セイロン、ニューデリー、カイロと回される。 マッカーサーはその後、バターン半島の先、コレヒドール島に逃げ込む。フィリピンが攻められたときの手筈「レインボー5」によればフィリピン軍十個師団と在比米軍三万、B17以下の空軍力で上陸日本軍を水際で抑える。破られればバターンに退き、六カ月間こもる間に太平洋艦隊が救援にくる予定だった。 しかしマッカーサーはただおろおろし、虎の子のB17を失い、なお日本軍主力部隊のリンガエン湾上陸の阻止もできなかった。米国の対日作戦はこの男一人によって崩れた。 尤も、英米側も誤算があった。日本が強すぎた。日本を震え上がらせると思ったプリンス・オブ・ウェールズは開戦二日目に沈められた。チャーチルが震えた。 B17も然り。欧州戦域では最強の機も開戦二日目に日本の零戦に会って即座に落とされ、まさかと思ったらその数日後、ボルネオで二機まとめて落とされた。そして半年後、ニューギニア・ラエ上空で五機のB17の編隊と零戦九機が遭遇し、B17は全機落とされた。 日本相手では「空飛ぶ要塞」もセスナと変わらなかった。若い猛者でも震えた若い猛者でも震えた さてコレヒドールには彼が作らせたマリンタ要塞がある。要塞と言っても高さ六メートルの大きなトンネルで、内部の左右の壁に横穴があって、そこが隠れ場所になる。なぜ頑強な地下要塞にしなかったか。答えは彼の閉所恐怖症のせいだ。 彼はそのトンネルの入り口で半日を過ごし、目の前のバターン半島で戦う部下をよそに毎日、新聞発表を送信していた。まるで米軍が勝ち続けているみたいな内容だった。 三カ月後、バターンの陥落が見えてくると、彼は「I shall return」の一言とすべての将兵を残して魚雷艇で逃亡した。 魚雷艇とはなんと勇気ある行動だと評価されるが、どうして、これも潜水艦が怖くて乗れなかったからだ。 彼はそのマリンタのトンネルでもう一つ悪さをしている。彼は傀儡政権のケソン大統領も連れてきた。 ケソンはこの土壇場でフィリピン人の魂を見せる。「戦争しているのは日本と米国だ。フィリピンは関係ない。私は日本に対して中立を宣したい。米国は出て行って別の場所で戦ってほしい」と。 マッカーサーはそれを無視した。有色人種が生意気を言うな。代わりにケソンに軍事顧問としてフィリピン軍を育ててやった謝礼をよこせと要求した。「ケソンは米国にあるフィリピン政府の口座からニューヨーク・ケミカル銀行のマッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ」(『マッカーサーの時代』)。 彼は「入金を確かめたうえでケソンが日本側の手に落ちないよう潜水艦でオーストラリアに送り出した」(同)。ケソンは二度と祖国に戻ることなく、そしてマッカーサーの恐喝について、祖国のあり方について語る機会をもてずに死んだ。 マッカーサーが敵前逃亡できた最大の理由は英軍司令官パーシバルがシンガポールで日本軍の捕虜となったからだ。これで米軍司令官まで捕虜ではさすがの白人連合も恰好がつかない。ルーズベルトにすればB17を潰され、対日戦の手順もすべて彼によって狂わされてしまった。腹立たしい思いは「それでも彼に勲章を出そう」(C・ソーン『米英にとっての太平洋戦争』)という言葉に表れる。 大統領は彼に脱出を命じ、以後、彼はメルボルンのビクトリア・バラックに一室を与えられ、そこで例のバターン死の行進の噓っぱちを捏ね上げた。半島から収容所まで百二十キロ。半分は貨車で行く。残り六十キロをコーヒーブレイク、海水浴つきで二泊していく。バターン半島を制圧した日本軍 前述のレスター・テニーはそれを「地獄の兵役」の題で書いたが、六十キロは六十キロだ。すぐ歩き終わってしまうから、収容所で「日本軍に水責めの拷問を受けた」という。 水責めは「板の上に大の地に寝かされ、足の方を十インチ上げる。それで汚水を漏斗で無理やり四ガロンも呑ませる」と。それは米国がフィリピンを植民地化するとき、抵抗する者をそうやって拷問した。米上院公聴会には「最後は土人の膨れ上がった腹の上に米兵が飛び降りる。土人は口から六フィートも水を噴き上げて絶命した」とある。 日本人はそんな拷問は知らない。テニーの噓がそれでばれる。こういうのを蛇足という。 マッカーサーの臆病で嫌な性格がこれで十分窺えると思うが、失禁につながるもっと強力な傍証もある。 彼が厚木に降り立つ二日前、先遣隊百五十人がC46輸送機などでここに飛来した。彼らはつい昨日まで最前線で日本軍と渡り合ってきた猛者たちだが、着陸を前に「我々はひどく興奮し、怯えていた」(週刊新潮編集部編『マッカーサーの日本』)と、一番機に搭乗していたフォービアン・パワーズ少佐が語っている。 いかに怯えていたか。同機のラッキー操縦士は南風の吹く厚木に南側から追い風に乗って進入した。 操縦要員は必ず滑走路わきの吹き流しを見る。南の風なら北から向かい風で降りる。機速を絞りながらなお揚力を得るためだ。 そのイロハのイを操縦室にいた全員が失念していた。「機は(失速気味に)六回バウンドしてやっと止まった」とパワーズは言う。脚を折って暴走したか、オーバーランしたか、大事故になるところだった。 若手の猛者でもここまで震えていた。マッカーサーがいくら気張ろうが、彼の生理は正直に作動し、ちびりは止まらず、濡れジミをあそこまで大きくした。 最後にマニラに戻ったばかりのマッカーサーと会ったカメラマン、カール・マイダンスの話を披露したい。彼は朝鮮戦争に戦場カメラマンとして参加し、ライカもなにも凍りつく中で日本のニコンの優秀性を広く知らしめた人だ。 「マッカーサーに会うと本間雅晴へのあてつけにリンガエン湾から上陸してやったと語る。ただ残念なのはその場にカメラマンがいなかった。再現するから撮ってくれという」 マッカーサーは一週間後に本当に部下と何百人もの兵隊まで連れてリンガエン湾再上陸を再現してみせた。  「あの男は自分を美しく飾ることに何のためらいももたない」と。同盟通信カメラマンが「化粧していた」というのも真実味がある。 そんな男が失禁と受け取られかねないシミをつけたままタラップを降りるだろうか。 そんなシミのついた男が書いた憲法を日本はまだ大事に抱えている。もういい加減日本人も目覚めていいころと思うが。たかやま・まさゆき 一九四二年生まれ。六五年、東京都立大学卒業後、産経新聞社入社。社会部デスクを経て、テヘラン、ロサンゼルス各支局長を歴任。九八年より三年間、産経新聞夕刊の辛口時事コラム「異見自在」担当。著書に『「モンスター新聞」が日本を滅ぼす』(PHP研究所)、『変見自在 オバマ大統領は黒人か』(新潮社)、『白い人が仕掛けた黒い罠』(ワック)などがある。

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    満州の歴史に見る「破壊者」支那の流儀

    小名木善行(日本の心をつたえる会代表) もともと「清」という国は、現在の支那の東北省、昔の満洲国のあたりに住んでいた女真族の王のヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した「後金国」が前身です。ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始する等、満洲人が発展する為の基礎を築き、1619年にサルフの戦いで明軍を破りました。 1636年、女真族、モンゴル族、漢人の代表が瀋陽に集まって大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られて、ヌルハチが大清皇帝として即位して「清」は建国されました。そして女真の民族名を「満洲」に改めました。 「満洲」という民族名は“文殊菩薩(もんじゅぼさつ)”に由来たと言われています。文殊菩薩というのは、梵名をマンジュシュリー (मञ्जुश्री [maJjuzrii])といいます。智慧を司る仏で、武力ではなく「智慧」で国を治めようとした建国の理念が、そうした名称にも表れているといえます。 もっとも清王朝で独自に考えたわけではなくて、どうやらチベットから、いわゆる「よいしょ」された文殊菩薩から、満洲の名が生まれているようです。 清を支那全土の王朝にしたのは第四代皇帝である康熙帝(こうきてい:在位1661年~1722年)です。康熙帝は、清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされいます。自ら倹約に努め、明代の1日分の経費を1年分の宮廷費用として遣ったり、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らすなど国費の無駄遣いを抑え、さらに治安の維持を図って、支那全土の物流を盛んにし、内需を拡大し、民の生活の向上を図ったとされています。 また「康熙字典」、「大清会典」、「歴代題画」、「全唐詩」、「佩文韻府」などを編纂し、「古今図書集成」の編纂を命じて文学の興隆を図り、また朱子学を尊重し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったともいわれています。「朱子全書」、「性理大全」など、朱子に関する著作をまとめ、明史を編纂し、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらを用いて、支那で初の実測による支那全土の地図「皇輿全覧図」を作成させたりもしています。 要するに、歳費の無駄を省き、自ら質素倹約を旨とするとともに、国内経済の振興を図り、民を豊かにし、文化の興隆を図った立派な皇帝だったわけです。 康熙帝が行った重要な命令に「封禁令」というものがあります。どういう命令かといいますと、「漢人は清国皇帝の聖地である満洲国に入るべからず」としたのです。 要するに康熙帝は、自らの出身地である満州地方を聖地とし、漢人の立ち入りを禁じたのです。これが今日のお話の最大のポイントです。清の第四代康熙帝 康熙帝は、漢人(支那人)の立ち入りを禁じただけでなく、支那と満洲の国境である山海関に、関所を設け、支那人の入国を規制しました。 要するに明代末期に支那の治世が乱れ、漢人に平和と安定を脅かされた女真族が、ついには漢人の本拠地を占領して皇帝となり、自らの出身地である満州を聖地化して、漢人の立ち入りを禁じて、故郷の平和と安定を図ったわけです。 逆にいえば、女真族(満洲人)が、自国の平和と安定を図るためには、暴虐極まりない支那(漢人)たちの本拠地を制圧し、そこに首都を移転して漢人たちに君臨し、自国(満洲)の平和と安寧を図るしかなかったということです。ロシアの南下と蛮行 万里の長城の出発点には「山海関」という城門があります。康熙帝は、封禁令によって、満洲国と支那との間の交通は、この関所以外、一切認めませんでした。立ち入れば、即、死刑です。おかげで、満洲地方は、この後約二百年にわたり、平和と安定を得ています。 ところが、清の治世が乱れ、欧米列強が支那の大地への浸食を始めると、満洲地方の安定が損ねられてしまうようになりました。何が起きたかというと、ロシアの南下です。 義和団事件(1894~1901)の後、乱の当時はろくな働きをしなかったロシアが、勝手に南下をはじめ、ついには大連のあたりまで浸食してしまうのです。 ロシア人も漢人と同じです。武力を用いて一般人を脅し、富と女を収奪します。 ロシア人たちが南下したとき、どれだけヒドイ仕打ちを現地の人にするかは、戦後、満洲から引き揚げようとする日本人達に、彼らがどのような振舞をしたかを見ても明らかだし、カザフやその他、何何スタンと名のつく国々が、ロシアや旧ソ連によってどれだけ酷い仕打ちを受けてきたかの歴史をみれば、なお一層明らかです。 ベラ・ルーシー(白ロシア)という名称があります。これはモンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき、湖沼が多い白ロシアの地を避けて通った。だから「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」ルーシーと呼ばれています。 どういうことかというと、13世紀のモンゴル軍というのは、支配地における強姦が将兵の職務となっていた。だからモンゴルの正統な継承国であるロシアは、それが現在にいたるまで不変の文化として残っていて、そうした文化は、そのまま旧ソ連に引き継がれた。ソ連軍による無制限の強姦については、数限りないほどの証言が残っています。 「ドイツ人の女性は老女から4歳の女児に至るまで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも250人に暴行された少女に出会った」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著) 「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は9万5千ないし13万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた十万の女性のうち、その結果死亡した人が1万人前後、その多くは自殺だった」 「東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでは、すくなくとも2百万人のドイツ女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽる」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜) こうしたロシア兵が、満洲に南下し、さらに朝鮮半島を経由して日本に襲いかかろうとした、というのが明治の中頃の日本の持っていた危機感です。日本は、国を守るために、朝鮮北部から満洲にかけて(当時は朝鮮は日本の一部です)南下するロシア軍との戦いに臨みました。これが日露戦争(1904~1905)です。 日露戦争が終わると、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に手に入れました。ところが当時の満州は、「馬賊と阿片は満洲の花」といわれるくらいの、盗賊王国、麻薬王国です。 そりゃあそうです。清の国力が弱まり、ロシアが南下して暴行のし放題。田畑は荒らされ、仕事はなく、飯も食えない。女房や娘は強姦され、子供たちは虐殺されたのです。 ある程度元気の良いものは、馬賊になって徒党を組んで強盗団にでもならなければ生きていけなかったし、馬賊となった人々を食わせるためには、馬賊の頭領は、アヘンを売り捌くのがいちばん手っ取り早かったのです。リットン調査団ですら日本を賞賛 日本は、混迷を続ける満洲で、きわめて生真面目に馬賊を退治し、法を定めて治安を保ち、産業を興し、農業を活性化し、道路や街を作り、あのリットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくり、国づくりを行いました。 下の図は、全満洲の発電量のグラフです。当時の満州は、発電機、変圧器、送電線など、世界水準を超えるものとなっていた。 これだけではありません。日本は、満洲に「国道建設10か年計画」を策定し、道路や橋梁を築いた。昭和12(1937)年頃には、全満洲の全国道は、1万キロを超え、四季を通じて自動車の運行が可能にしています。 なにもない荒野に、新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルピン、吉林、チチハル、承徳、営口、錦洲、牡丹江といった近代都市を次々建設しました。鞍山製鉄所では、年間20万トンもの鉄鋼資源が製造され、大連発電所、豊満ダム他、数々の近代工業設備投資が行なわれました。 満州人、朝鮮人、支那人にわけへだてなく諸学校を作り、近代的医療を施し、司法・行政機関を作り、支那大陸の歴史始まって以来、初の法治が行われました。近代的警察制度を行い、軍閥や匪賊を討伐し、街を整備してアジアの奇跡と呼ばれるほどの近代化を促進したのです。要するに、日本が行ったことは、現地人を教育し、彼らの生活水準を日本の内地と同じ水準に引き上げるというものです。これは、欧米列強による植民地化・・・富の収奪を目的とするものと、その心得がまるで違うものです。 このため当時の満州は、治安は日本の軍が守り、街は建設の息吹に燃えました。そこには旺盛な労働需要が発生し、農業も振興され、日本の指導によって、きちんと灌漑が行われて土地が肥沃になりました。 つまり満洲は、食えて、働けて、安心して住むことができる土地になったのです。 断っておきますが、ここまでの満洲の国家的インフラ整備は、満洲事変前、つまり、満洲国が起こる前の出来事です。いまでもそうだけれど、支那人という人種は、そこが食えて、働けて、住めるということがわかると、大挙して押し寄せます。 マンションの一室に、ある日、支那人が住み始める。気がつくと、その支那人の親戚やら友人といった連中が、次々と支那からやってきて、そのマンションに住み始める。気がつくとそのマンションは、ほぼ全棟、支那人ばかりという情況になる。こうした行動パターンは、古来、支那人(漢人)の特徴です。 当時の満州は、日本が介入して後、わずか20年ほどの間に、もとは満蒙人しか住んでいなかったのに、なんと9人中8人までもが漢人(支那人)になってしまいました。【昭和5年当時の満洲の人口】満蒙人   300万人支那人  2600万人朝鮮人   100万人日本人    23万人 このことを、左翼系に偏向した歴史教科書などは「清王朝の政策によって支那人の満洲地方への入植が行われた」などと書いていますが、とんでもない大嘘で、当時の清朝政府には、それだけの指導力も資金力もありません。要するに、南京において、日本が統治を始めたわずか2ヶ月後には、南京の人口20万が、25万人に増えたのと同様、民衆は、治安が保たれ、仕事があり、食えるところに人が集まったのです。毎年100万人規模で支那人達が満洲へ 支那全土が軍閥や共産主義者、窃盗団等によって、好き放題荒らされ、農地が荒廃し、建物が破壊され、惚れた女房は強姦され、旦那や息子が虐殺されるという無法地帯と化した中にあって、多くの人々が、治安が良くて仕事があり、安心して暮らせる土地を目指したというのは、ごく自然な行動です。 その結果、昭和になると、なんと毎年100万人規模で、支那人達が満洲に流入しました。満州事変勃発前の昭和5(1930)年には、ついに全人口の9割が支那人になりました。支那人が増えるとどうなるか。これも昨今の日本の各所でみることができるけれど、彼らは彼らだけのコミュニティを作り、平気で暴行を働き、治安を乱します。そしてついに、満洲国内で、支那人たちによる主権をも主張するようになりました。 これは支那人のいわば習い性のようなもので、彼らの行動は、時代が変わってもまるで変化しない。いまでも支那共産党が、チベット、東トルキスタン、南モンゴルなどで異民族を統治するに至る方程式は、まるで同じです。これからはアメリカが危ないかもです。1 まず漢人が入植する。はじめは少数で。次第に大人数になる。2 漢民族との混血化を進めようとする。はじめは現地の人との婚姻で。次第に大胆になり、果ては異民族の若い女性を数万人規模で拉致し、妊娠を強要する。3 現地の文化財を破壊する。4 天然資源を盗掘し、収奪する。5 漢人だけの自治を要求し、国家を乗っ取る。 昭和のはじめの満洲がそうでした。人口の9割が漢人になると、自分たちで軍閥を営み、満洲の自治を奪いました。これをやったのが、張作霖(ちょうさくりん)です。 張作霖は、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭で、勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てました。昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元だった。そのうち、1億2百万元を、張作霖は自己の利益と軍事費に遣っています。なんと歳入の8割を軍事費にしたのです。 いまで言ったら、汚沢一郎が支那の人民解放軍を率いて日本の政府を乗っ取り、95兆円の歳費の8割にあたる76兆円を軍事費に振り向けた、というに等しいことです。しかもその軍事力の矛先は、なんと自国に住む満州人です。ありえないお馬鹿な話です。 要するに、せっかく都市インフラが進み、みんなが豊かに生活できるようになったと思ったら、その富を横から出てきた漢人で、まるごと横取りしたのです。         張作霖 張作霖が、実質的な満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。1 財産家の誘拐、処刑2 過酷な課税  なんと5年先の税金まで徴収した。農作物や家畜にまで課税し、収税の名目はなんと130種類。3 通貨の乱発  各省が勝手に紙幣を乱発。当然通貨は大暴落した。4 請負徴収制度  税吏は、税額を超えて集金した分は、奨励金として自分の収入になった。 いま日本では、友愛などというゴタクを並べる総理がいたり、大喜びで支那に朝貢する売国議員などがいて、支那人達に労働力1000万人受け入れを約束したり、彼らの最低時給を1000円にしようだとか、ついでに参政権まで与えようなどと言い出す、ボンクラがいるけれど、そういう行動がもたらした結果がどうなるかが、当時の満洲に見て取れるわけです。支那人の「人治主義」 日本人は、道義主義の国家です。だから規則があればそれに従います。日本人のマインドは、常に相互信頼が基本にあるから、信頼に応えるためには、リーダーであっても規則があればそれに従うのが常識です。 ところが支那人は、人治主義です。法より人が偉い社会です。法をどれだけ無視することができるかが、大人(だいじん)の風格として尊ばれます。先日来日した習近平の行動もその典型で、日本に1ヶ月ルールを破らせることが、大物としての風格(あるいは貫禄)の証明とされています。法よりも人が偉いから、権力を持った人間は、なんでもかんでも好き放題できるし、それをすることが偉い人を偉い人たらしめる理由となります。 張作霖は、満洲国を軍事制圧すると、国民から税金として金銭をむしりとり、自身は老虎庁と呼ばれる豪邸に住み、贅沢の限りを尽くしました。そしてついに張作霖は、日本を追い出して満州を完全に自己の支配下に置こうとしたのみならず、支那までも征服し、支那皇帝にまでのぼりつめようと画策しました。張作霖の公邸「老虎庁」 そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けていたけれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと書かれているともいいます。 すなわち、張作霖を爆死させ、それを日本軍のせいにすることによって、日本を糾弾し、さらに日本と支那最大の軍閥である蒋介石を戦わせることで、両国を疲弊させ、最後にソ連が、支那と日本の両方をいただく・・・というシナリオであったという説ですが、実態は藪の中です。 張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民がどういう反応を示したかというと、これが拍手喝采して喜んでいます。当然です。むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのです。その張本人がいなくなれば、みんな大喜びになる。ごく自然なことです。 張作霖が死ぬと、その息子の張学良が後継者として奉天軍閥を掌握し、蒋介石を頼って反日政策を進めました。ところが張学良は、満州事変で満洲から追い出されます。すると支那共産党と結び、蒋介石との国共合作に引き入れる西安事件を起こしています。 朝鮮半島でも、支那、満洲でも同じなのだけれど、いわゆる反日・侮日政策を採った者たちには、「民衆の幸せ」という観念がないという共通点があります。。どこの国にも、多くの民衆がいて、誰もが家族の幸せ、生活の安定を求めて生きているのです。それは昔も今もなんら変わることのない、人々のごく普通な、普遍的な思いです。 日本が統治した国は、いずこもそこに平和と安定と建設の息吹が芽生えています。台湾、朝鮮半島はいうにおよばず、インドネシア、パラオ、タイ、ビルマ、シンガポール、マレーシア、カンボジア等々。満洲人の不幸は、内乱が続く支那と陸続きでかつては同一行政単位の国だったということです。 満洲の政治が安定し、工業や農業が盛んになり、学校や医療設備ができ、治安が良くなると、そこに内乱が続く支那から、こぞって漢人たちがやってきた。そしてこの漢人という種族は、大量にやってくるだけでなく、放置しておけば、その国の国民の数をはるかに凌駕するだけの人を呼び込む。そして自分たちだけの自治を要求する。その国のや文化や伝統を破壊する。そしてひとたび政権を取るや否や、権力を利用して、普通の神経では考えられないような暴政をひき、逆らう者、邪魔になるものは、かつての恩人であれ、平気で奪い、殺し、足蹴にする。 これが過去の歴史が証明している支那・漢人の流儀です。いま日本は、きわめて親支那寄りの政権が誕生し、実際にあった過去の真実の歴史を踏みにじり、日本の庶民が築いてきたありとあらゆる文化・伝統を破壊し、企業活動を損ね、経済を壊そうとしています。そして支那から1000万人の労働力を呼び寄せ・・・1千万人で終わるはずがない・・・彼らに最低時給1000円を保障し、日本の戸籍を与え、ついでに参政権まで与えようとしています。その先にあるものは、どのような日本なのでしょう。 京都に青蓮院というお寺があります。このたび青蓮院は、1200年ぶりにはじめてのご本仏、青不動尊の御開帳を行いました。しかも京都近郊の不動尊を一堂に集めての御開帳でした。 なぜそのようなことをしたのかというと、我が国の道徳心の荒廃があまりに顕著であり、まさにいま、「1200年来最大の国難のときにある」からだからなのだそうです。辛い事件があまりにも多すぎます。「この混迷の世の中で、青不動の強いお力をいただいて、いろいろな問題を少しでも良い方向に導いていただきたいと考え、ご開帳を行うことにいたしました」のだそうです。 日本を護るということは「庶民の幸せこそ国家の幸せである」という人類共通の理念を護るということなのではないかと、思います。 その日本がいま、貶められ、解体されようとしています。私たちは、わたしたちの手で、この日本を護りぬかなければならない。 そうしなければ、この国を、そして「民の幸せ」を希求して亡くなっていかれた英霊たちに申し訳ない。そのように思います。(「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」 2011年2月2日より転載)おなぎ・ぜんこう 1956年生まれ。大手信販会社にて債権管理、法務を担当し、本社経営企画部のあと、営業店支店長として全国一の成績を連続して達成。その後独立して食品会社経営者となり、2009年より保守系徳育団体「日本の心をつたえる会」を主催、代表を勤める。ブログ「ねずさんのひとりごと」は、政治部門で常に全国ベスト10に入る人気ブログとなっている。

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    日本を無謀な戦争に巻き込んだ「戦犯」は朝日と毎日との指摘

     1941年9月、日本は日中戦争を行ないつつ対米戦争に踏み切るという、勝ち目のない二方面作戦を選択した。これは陸軍の強硬派だけが主張し、実行したためであると多くの日本人が考えている。しかし、事実は違うと作家・井沢元彦氏は言う。週刊ポストの連載「逆説の日本史」から、日本を戦争に引きずり込んだ「戦犯」の正体を解き明かす井沢氏の解説をお届けする。* * * 戦後日本ではしばらくそういう教育をしていた。つまり多くの国民は戦争に反対していたが、軍部の強硬派が満州事変など次々に既成事実を作って日本を戦争に引きずり込んだ、というストーリーを歴史上の事実として教えていたのである。有楽町にあった朝日新聞社旧社屋(1979年1月撮影) そうした側面もまったくなかったとは言わないが、もし日本を無謀な戦争に引きずり込んだ人間を「戦犯」あるいは「戦争犯罪人」と呼ぶならば、陸軍の強硬派に匹敵する、いやある意味でそれ以上の「戦犯」がいる。朝日新聞あるいは毎日新聞(東京日日新聞)といった戦前からある新聞社である。  戦前はテレビは無く、雑誌とラジオはあったがマスコミといえば新聞が中心であった。マスコミ=新聞と言っても過言ではない。その新聞社がいかに日本を戦争の方向に誘導したか、日本人がとにかく戦争で物事を解決するように煽動したか。 私や私よりは少し年上の団塊の世代の人々は、いわゆる戦後教育において、戦前の新聞社は軍部の弾圧を受けた被害者だと教えられてきた。学校で近代近現代史の授業は受けられなくても小説や映画やテレビドラマを通じて、戦前の新聞社はいかに軍部の弾圧に対して抵抗したかという英雄的ストーリーを叩きこまれてきた。それは大嘘である。 確かに昭和十八年以降敗戦が決定的になった頃、その事実を隠した大本営発表を強要する軍部に対し一部抵抗した記者がいたのは事実だ。だが、抵抗の事実はほとんどそれだけである。それ以前まさに、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変からの一連の日中戦争そして日米開戦まで、「日本は戦争すべきだ」と常に国民を煽り続けたのが新聞社であった。これが歴史上の真実である。 特に朝日新聞社は、満州事変が始まると戦争推進派の評論家などを動員し全国で講演会や戦地報告会を多数開催した。またテレビ以前の映像メディアとして「ニュース映画」というものがあったが、朝日のカメラマンが現地で撮影してきた事変のニュース映画も全国で多数公開された。 昔は普通の映画館に隣接して全国各地に「ニュース映画専門館」があったことを、団塊の世代ならかろうじて覚えているだろう。もちろん、これらの朝日のキャンペーンは、この戦争が正義の戦いであるから、国民は軍部の方針を支持するように訴えたものである。  それだけではまだ不充分だと朝日は戦意高揚のための「国民歌謡」の歌詞を全国から公募した。しかし応募作の中には朝日の意に沿うような作品がなかったのだろう。結局朝日新聞記者の作品を当選作としプロの作曲家に作曲を依頼し完成したのが『満州行進曲』である。これは大ヒットし親しみやすい曲調からお座敷などでも盛んに歌われた(戦後作られた「反戦映画」にはこうしたシーンはほとんど出てこない)。 世の中には新聞を読まない人、ニュース映画を見ることができない人もたくさんいたが、そういう人々にこの歌は「戦争することが正しい」と教えた。その結果日本に「満州を維持することが絶対の正義である」という強固な世論が形成された。 軍部がいかに宣伝に努めたところでそんなことは不可能である。やはり、「広報のプロ」である朝日が徹底的なキャンペーンを行なったからこそ、そうした世論が結成された。それゆえ軍部は議会を無視して突っ走るなどの「横暴」を貫くことができたし、東條(英機)首相も「英霊に申し訳ないから撤兵できない」と、天皇を頂点とする和平派の理性的な判断を突っぱねることができた。  新聞が、特に朝日が軍部以上の「戦犯」であるという意味がこれでおわかりだろう。 朝日新聞社にとって極めて幸いなことに、戦後の極東軍事裁判(東京裁判)によって東條らは「A級戦犯」とされたが朝日にはそれほどの「お咎め」はなかった。そこで朝日は「A級戦犯である極悪人東條英機らに弾圧されたわれわれも被害者である」という世論作りをこっそりと始めた。 たとえばその手口として「反戦映画」に「新聞社も被害者」というニュアンスを盛り込むというのがある。「よく言うよ」とはこのことだが、特に団塊の世代の読者たちはずっと騙され続けてきた。いやひょっとして、今も騙されている人がいるのではないか。身近にそういう人がいたら、是非この一文を読ませてあげてください(笑)。関連記事■ 日本の新聞 戦意高揚させて日露開戦を煽って部数を伸ばした■ 朝日新聞発の自分史出版事業 粗利高くOB再雇用の一石二鳥■ 野坂昭如が体罰問題や農業政策などを独自視点で記した時評集■ 2000件超問い合わせの朝日新聞発自分史事業 30部111万円も■ 朝日の視線の先にあるのは権力者の顔色や大新聞仲間との関係

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    女優「李香蘭」は日中にとってどんな存在だったのか

     (THE PAGEより転載) 「李香蘭」の名で広く知られ、戦後は参院議員もつとめた女優・歌手の山口淑子(やまぐちよしこ)氏が2014年9月7日、94歳で亡くなりました。若い世代の人は、李香蘭という名前を知らないかもしれませんが、かつて日本が満州を支配していた時代には、日中両国において、知らぬ人がいないほどの有名人でした。李香蘭とはどのような人だったのでしょうか。 李香蘭は、女優です。美しい容姿とネイティブ並みの中国語能力を持っていた山口氏は、李香蘭の名前で中国人女優としてデビューしたのです(山口氏の父親は満鉄で社員に中国語を教えていた)。 山口氏が李香蘭としてデビューした背景には、大陸に進出しようとしていた当時の日本の国策がありました。日本は満州事変をきっかけに、清朝最後の皇帝溥儀を迎え、満州国を設立しました。日本は軍事力で大陸を支配しようとする一方、文化的な支配も実現しようと試みており、そのために設立されたのが満映という会社でした。「李香蘭」の名で知られた山口淑子さん(1959年1月撮影) 当時の満映理事長には、元陸軍憲兵で、無政府主義者殺害の容疑で服役したこともある甘粕正彦氏が就任していました。日本側は日中の架け橋となるような大女優を求めており、白羽の矢が立ったのが山口氏だったわけです。少し古い映画ですが、溥儀の生涯を描いた「ラストエンペラー」では、音楽家の坂本龍一氏が、音楽を担当すると同時に、甘粕氏の役で出演しています。 軍部の狙い通り、李香蘭は日中で大変な人気となり、次々と映画に出演し、歌も大ヒットします。しかし中国の人は、李香蘭が本当に中国人だと思っていました。このため、日本が無条件降伏を受け入れた際には、日本軍に協力した罪(漢奸罪=国家反逆罪)で起訴されてしまいます。 その後、日本人であることが法廷で証明され、ようやく日本に帰国することができます。帰国後は、日本での芸能活動を経て、自民党から参院選に出馬し、参議院議員を3期つとめています。 山口氏は女優としてデビューすることにあまり乗り気ではありませんでしたが、父親が満鉄の関係者だったこともあり「お国のため」と仕事を引き受けたそうです。しかし、日本人であるにもかかわらず、それを隠して中国人女優として活動してきたことについて、山口氏には相当な葛藤があったといわれています。 女優として有名になり、日本公演のために一時帰国した際には、日本の入国係官から「おい!」と呼び止められ「一等国民である日本人が三等国民である中国人の服など着て恥ずかしくないのか。それでも日本人か」と罵声を浴びせられたと自著に記しています。 日本は大陸進出にあたり「五族協和」というスローガンを掲げ、アジア人が団結して欧米に対抗すべきだと主張していました。しかし、現実は相当かけ離れていたようです。

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    今や「戦国時代」の様相 中国の目先の利益に乗るな

    石平(評論家) 今月(編集部注:2015年11月)に入って中国は、アジア太平洋地域において一連の慌ただしい近隣外交を展開してきた。 1日、韓国のソウルで李克強首相は3年半ぶりの日中韓首脳会談に参加し、日本の安倍晋三首相との初の公式首脳会談を行った。5日には、今度は習近平国家主席が就任後初めてベトナムを訪問し「関係の改善」を図った。10日、王毅外相はマニラを訪れてフィリピンの大統領、外相と相次いで会談した。 この一連の外交活動の対象となった3カ国が抱えている共通問題といえば、やはり南シナ海だ。同海での中国の拡張戦略に対し、当事者として激しく反発しているのはベトナムとフィリピンの両国である。一方の日本もまた、自国のシーレーンとなる南シナ海の「航海の自由」を守るべく、中国の戦略に強く反対する立場を取っている。こうした中で中国がこの3カ国に急接近してきた意図がはっきりと見えてくる。 10月末の米海軍による南シナ海哨戒活動の展開によって米中対立が一気に高まった中、中国政府は南シナ海問題の当事者諸国との緊張を緩和させることによって、中国批判を強める米国を牽制(けんせい)するつもりであろう。当事者同士が話し合いで問題解決に向かうのなら「部外者」のアメリカは口出しが難しくなる計算である。 さらにAPECの前に、関係諸国を取り込んだ上でアメリカの攻勢を封じ込めておくのが一連の中国外交の狙いだったろう。 要するに、アメリカを中心とした「有志連合」が中国の拡張戦略に立ち向かおうとするとき、「有志連合」の参加国と個別に関係改善を図ることによって「連合」の無力化を図る策略なのだ。それは中国で古来使われてきた伝統的得意技である。 中国では紀元前8世紀から同3世紀まで戦国という時代があった。秦国をはじめとする「戦国七雄」の7カ国が国の存亡をかけて戦った時代だったが、7カ国の中で一番問題となったのが軍事強国で侵略国家の秦であった。 いかにして秦国の拡張戦略を食い止めるかは当然他の6カ国の共通した関心事であったが、その際、対策として採用されたのが、6カ国が連合して「秦国包囲網」を作るという「合従策」である。 6カ国が一致団結して「合従」を固めておけば、秦国の勢いが大きくそがれることになるが、一方の秦国が6カ国の「合従」を破るために進めたのが「連衡策」である。6カ国の一部の国々と個別的に良い関係をつくることによって「合従連衡」を離反させ、各個撃破する戦略だ。 この策で秦国は敵対する国々を次から次へと滅ぼしていったが、最終的には当然、秦国との「連衡」に応じたはずの「友好国」をも容赦なく滅ぼしてしまった。秦国の連衡策は完全な勝利を収めたわけである。 それから二千数百年がたった今、アジア太平洋地域もまさに「戦国時代」さながらの様相を呈している。中国の拡張戦略を封じ込めるために米国や日本を中心にした現代版の「合従連衡」が出来上がりつつある一方、それに対し、中国の方はかつての秦国の「連衡策」に学ぶべく、「対中国合従連衡」の諸参加国を個別的に取り込もうとする戦略に打って出たのである。 その際、日本もベトナムもフィリピンも、目先の「経済利益」に惑わされて中国の策に簡単に乗ってしまってはダメだ。あるいは、中国と良い関係さえ作っておけば自分たちの国だけが安泰であるとの幻想を抱いてもいけない。 秦国によって滅ぼされた戦国6カ国の悲惨な運命は、まさにアジア諸国にとっての「前車の轍(てつ)」となるのではないか。

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    「中国侵略」の肝といわれる満州事変はなぜ起きたのか

    筒井清忠 帝京大学教授北村稔 立命館大学名誉教授等松春夫 防衛大学校教授実証的昭和史として筒井 間違いの多い不正確な昭和史の本が広く読まれているという困った状況のなか、きょうは、実証的で正確な昭和史を広めたいという私の主張をよく知ってもらうよい機会になりそうですので、やってまいりました。さて、さっそく主題の満洲事変のことですが、どういう経緯で満洲事変が起こったかについては、さまざまに語られてきました。が、いま一つわかりにくいのは、日本側の軍事行動の当事者の石原莞爾らだけから事変を見たり、リットン調査団の報告書の一面的理解だけで片づけてしまったりしているからだと思います。軍隊が実際に動くに至るまでには、もっと複雑で色々な事情が交錯しているはずです。筒井清忠『満州事変はなぜ起きたのか』 (中公選書) そこで自分自身で調べてみると、「満洲事変で軍の暴走が始まった」というような単純な話ではなく、それ以前にいろいろな経緯があり、その結果として満洲事変が起きていることがよくわかりました。「満洲事変─日中戦争─日米戦争」という以後の流れだけから説明できるほど事態は簡単なものではありません。日露戦争が終わった明治末期から満洲事変が起こった昭和初期までのほぼ四半世紀にわたる出来事をよく理解する必要がある。それらをまとめたのが『満州事変はなぜ起きたのか』(中公選書)です。   この時代、各国から不平等条約を押しつけられていた中国には大きな不満がたまっていた。一方、日本の側には、当時の国際法によって認められた範囲で当然のことをしているという思いがある。そこに両者の根本的な見解の相違がありました。そういう日中関係にアメリカ、イギリス、それにドイツ、ソ連などの思惑が絡んで、非常に複雑な国際関係が展開していた。最終的には、中国はターゲットを日本一国に絞って欧米諸国とうまく関係を取り結び、対日包囲網を形成しました。そうしたなか、日本の行動は色々な意味で単純に過ぎたと言わざるをえません。 これは現代にも通じるところがあって、イギリスは最近中国中心のアジアインフラ投資銀行AIIBに突然入って驚かされましたし、訪英した習近平国家主席を「大歓迎」しましたが、イギリスが中国に対して抜け駆け的行動をとる傾向があるのは、一九二六年に「十二月メモランダム」という中英提携を突然発表して日本から「ワシントン条約の精神を無視し」たと強硬に抗議された時と変わっていません。 また、中国と最初に平等な条約を結び、日中戦争時に蔣介石を軍事支援していたドイツは、現在のメルケル首相に至るまで非常に親中的です。 こうした大国間の複雑な関係の中でワシントン条約体制という国際協調関係に一番忠実だったつもりの日本は気が付いたら孤立していた。日本が国際社会において失敗を繰り返さないようにするためには、こうした孤立に陥らないようにすることが大事ではないかと思います。「国際中間地帯」等松 日本の近現代史を国際的文脈の中に置いてケース・スタディとして見ると、国際連盟を脱退した日本が、なぜそれ以降も国際連盟規約で規定されていた委任統治を南洋群島において続けられたのかという疑問がわきます。一九三〇年代には満洲問題と南洋群島の問題がパラレルで出てくる。英仏豪のような国際連盟の委任統治に関わっている国々、あるいは米ソ独のような南洋群島に関心のある国々はそれをどう見ていたのか。満洲事変は日中間の問題であると同時に、誰が実効支配しているかよくわからない曖昧な地域を巡る紛争、つまり世界的に存在していた問題の一つでもあったのです。 そのことに一部の先覚者は当時から気づいていて、たとえば神川彦松という著名な国際政治学者は、複数の国家が権利を主張する地域を「国際中間地帯」と呼んでいました。ヨーロッパでいえばバルカン半島やクリミア半島やシレジア地方がそれにあたり、帝国主義の時代には列強のせめぎ合いの場になっていた。のみならず現地のローカルな勢力もそれぞれの思惑のもとに蠢いている。ご承知のように第一次世界大戦はバルカン半島というヨーロッパの国際中間地帯を巡る争いから始まりました。いま現在でもクリミア半島では同様のことが生じています。これは普遍的な、現在でも解決されていない問題です。東アジアにおいては満洲がまさに「国際中間地帯」でした。満洲は日中間だけの問題ではなかった。 第一次世界大戦後に国際連盟が作られ、委任統治制度が設けられた目的の一つも、国際中間地帯における武力紛争を避けるためでした。そういう観点から満洲事変を見ると、帝国主義批判、あるいは日中関係のみで見るのとはずいぶん違う景色が見えてきます。 一九三二年秋に発表された「リットン報告書」を読み直してみると、満洲をどのようなかたちで国際管理下におくか、治安をどう維持するかに関して、公表されていない部分では、連盟主導の暫定統治であるとか、現在で言う多国籍の平和維持軍のようなものまで、複数の構想があったことがわかります。ところが日本がリットン報告書を不服として早々と国際連盟からの脱退を通告してしまったため、そこから先の議論が進まなかったのですが、蔣介石は中国の権利さえ保障してもらえれば満洲をしばらくのあいだ国際管理下におくことに基本的に賛成でした。 実は日本でも、「リットン報告書」が発表されたときには、外務省や陸軍の一部には国際連盟の提案を受け入れて考え直そうという意見があった。しかし、満洲国に対する世論の熱狂的な支持があったり、満鉄や関東軍が権益を手放そうとしなかったりで、「リットン報告書」の構想は幻に終わりますが、実は国際的な正統性を獲得できれば満洲国も生き延びることができたのかもしれないのです。安易に使われすぎる「侵略」安易に使われすぎる「侵略」北村 「満洲事変」は満鉄の線路が爆破された昭和六年(一九三一)の柳条湖事件に端を発し、日本の〝侵略戦争〟の出発点とされるわけですが、「侵略」というのは、単純に考えれば他人が住んでいるところへ一方的に攻め込んでいって勢力下におくようなものでしょう。しかし、日本にそんなつもりはなくて、むしろ中国人のほうが戦争をする気満々だった。そもそも「侵略戦争」というのは“aggressive war”の訳語ですが、東京裁判で道義的、犯罪的な意味で使われるまでは、「先に攻撃を仕掛けた」という戦争の開始状態を示すだけで特別なニュアンスはなかった言葉だから、安易に使うべきではありません。 もともと日露戦争に勝った日本はロシアから賠償金を取れずに、遼東半島の旅順・大連(関東州)と東清鉄道南部支線の一部(後の南満洲鉄道)および附属地を譲り受けることで講和しました。しかし、これはもちろん領土の割譲ではなく、期限付きの借地のまた貸しみたいなもので、主権は〝地主〟の清にある。だから、十年後の「対華二十一カ条」(一九一五)で租借権の期限延長をめぐって揉めますね。しかも、「対華二十一カ条」要求に怒った中国人がやがては日本人を襲い、現地の日本人居留民は中国人にたびたび暴力をふるわれ、ひどい目にあわされることになる。日本人は最近ようやく中国人の乱暴さや無法さを知ったようですが(笑)、それは昔から変わらない。 だから、満洲国をつくったのは、ある意味しかたのないことだったのかもしれませんね。いつまでも近代化しないし、法の支配が及ぶ国にならない。しかし満洲には日露戦争後の一九〇七年に清朝が省制度を導入し行政区画を万里の長城の内外で一体化していた。また二千万人といわれた住民の九割は漢人種です。清朝が倒れそのあと国民党による国民革命が唱えられて久しい一九三〇年代に、旧満洲人皇帝の権威で新国家を作る建国理念は、五族協和(満、日、漢、蒙、朝鮮の各民族の協調)を唱えても説得力に欠けます。張作霖も張学良も、みな漢人種です。満洲国とイラク等松 仮に日本人が中国に居留するとしたら、どうやってガバナンスを確立するか、どうやって安定した状態を保つかというのが大きな課題でした。清朝末期から民国初期の中国は混乱状態で、軍閥が割拠する力の世界だから法の支配さえ怪しい。匪賊とさして変わらないような軍閥が勝手に税金を取ったり住民を酷使したりする。 そういう状況を安定させるには、帝国主義の全盛期ならば武力で支配すればよかったのですが、第一次世界大戦を境にして、ベルサイユ会議以降、植民地主義への反省から「民族自決主義」という潮流が生まれました。そのあたり、イギリスなどは新しい時代の流れの中でうまく立ち回っています。狡猾というか賢明というか、逆に自国の行動を〝合法化〟していくのです。日本の場合には旧式の外交から新時代の外交、つまり帝国主義から反帝国主義への切り替えがうまくいかず、中国だけでなく中国に利権を持つ列強と衝突してしまう。イギリスなどと比べて明らかに日本は立ち回りが下手だったと言えます。 実は満洲事変とほぼ同じ時期にイギリスはイラクの問題を抱えていました。第一次世界大戦中にイギリス軍はオスマン=トルコ軍をメソポタミアから追い出してイラクを占領した。満洲以上に治安が悪い地域で、北部にはクルド人がいるし、アラブ人もスンナ派とシーア派に分かれて争っているから、イギリスは強権で支配した。しかし、第一次大戦後の潮流のなかでは、そのまま植民地にしてしまうと帝国主義であるとの批判を浴びますから、それはできない。とはいえイラクは石油も出るし中東支配の要だから、ぜひとも確保したい。そこでイラクを国際連盟のA式委任統治領にして自らが受任国となるのです。こうして事実上イラクはイギリスの保護国となったのですが、国際連盟のお墨付きですから、合法性があります。将来は独立させて有利な条約を結ぶ。いわば「名を捨てて実をとる」戦略です。 奇しくも満洲国建国と同じ一九三二年にイラクは独立して国際連盟に加盟し、そして独立国としてイギリスと条約を結びます。しかし、独立国とは名ばかりの虚構の国家で、イギリス人顧問があちこちにいて、英国軍の駐留も認め、イギリスに最恵国待遇を与えるなど、その内容は日満議定書と大差ないものでした。ただ国際連盟の委任統治制度を経ての「独立」ですから、合法性・正統性という点ではまったく問題がない。 日本の場合は、出発点であからさまな軍事力の行使という形で国際連盟規約を破っていますから、イラクにおけるイギリスと同様のことをしていても国際的に非難され、国家としての実態はイラクとさして変わりなかったのに、満洲国はついに広範な承認を得られませんでした。既存の制度や国際秩序を巧みに利用したイギリスに比べ、われわれには関係ないとそれを頭から否定してしまった日本は率直と言えば率直ですが、早まったとしか言いようがありません。このように、満洲国もイラクも、まさに国際中間地帯の管理をめぐるテーマだったわけです。「幣原外交」と「田中外交」「幣原外交」と「田中外交」幣原喜重郎北村 満洲事変が起こった頃、雑誌『文藝春秋』に掲載された世論調査をみると、ほとんどの人が軍の行動を全面的に支持しています。協調外交、いわゆる「幣原外交」でいくべきだと言っている人はほんのわずかで、「満蒙は日本の生命線である。弱い女子供まで襲う憎き中国人を懲らしめるのは当然だ」という意見が圧倒的多数を占めている。筒井 再検討しなければいけない史実の一つは、加藤高明・若槻禮次郎内閣の外務大臣、幣原喜重郎の国際協調外交、いまおっしゃったいわゆる「幣原外交」ですね。 中国人労働者の大規模なデモと発砲が起きた五・三〇事件(一九二五)ではイギリスの再三の日本軍出兵要請にも幣原外相はなかなか動かず、第二次南京事件、漢口事件でも「不干渉政策」の方針に基づいてイギリスの共同軍事行動の呼びかけを拒絶し、日本だけが砲撃に加わらなかった。イギリスも怒りましたが、日本人居留民の出兵要請にも応えなかったから、国内でも幣原外交に批判が集まった。田中義一 若槻内閣に代わって組閣した田中義一首相は、居留民保護のため第一次山東出兵を行います。これはイギリスとアメリカに大歓迎され、とくにイギリスは田中外交に大きな期待を寄せました。戦後、田中メモランダムがあったせいもあり田中外交は強く批判されていましたが、これが偽書であったこともはっきりしています。 そうすると幣原外交と田中外交をどう見直すかという問題が出てくる。ただし、幣原外交であまりに隠忍自重しすぎた結果、不満がたまって関東軍や世論が暴発したように見えるのですが、それなら、一々小刻みに反撃していたら、そうはならなかったのかというと、一概にはそうとも言えないような気がします。そのあたりは難しいところですね。等松 当時の国民感情がそれだけ反中的になってしまった理由の一つには、日本も不平等条約に苦しめられた過去があったからではないでしょうか。日本の場合は徳川幕府という前政権が安政年間に結んだ不平等条約を、明治新政府が鹿鳴館の舞踏会のような涙ぐましい努力までしながら徐々に改正し、五十年以上かけて明治時代末期の一九一一年にようやくすべて改正することができた。 ずっと屈辱に耐えてきた日本人の国民感情からすれば、蔣介石が「革命外交」と称して実力行使に訴えることに反発する気持ちはわかります。石橋湛山は、「われわれにもかつては欧米列強の横暴に対して激昂した尊皇攘夷の時代があった。いまの支那はそれと同じなのだから、もう少し静観すべきだ」と言っていました。結果的には正論だったと思うのですが、「そんな甘いことを言っていられるか」というのが自然な国民感情だったという気はします。東京・日比谷公園で講和条約反対を訴える民衆によって開かれた 決起集会を発端に日比谷焼打ち事件が起こった(1905年9月5日)筒井 明治の末期から、群衆・大衆というものが日本の政治に大きな影響力を持つようになります。その最初の事件が「日比谷焼打ち事件」(一九〇五)でした。新聞は連日「日本の大勝利」という報道をしていたのに、国民から見ると賠償はほんのわずかだったから、国民の不満が爆発して暴動が起こった。日本で最初の戒厳令が敷かれ、死者十七名、負傷者約二千名、検挙者約二千名を出す大事件になりました。 その後、桂太郎内閣を倒した護憲運動(一九一一)、日本最大の民衆反乱だった米騒動(一九一八)、反排日移民法運動(一九二四)など、群衆騒擾事件が相次ぎます。統治する方から見れば、恐るべきことだったでしょう。米騒動以降、元老の山縣有朋は米相場の指数を毎日見ていたといいます。反排日移民法運動では反米の歌までつくられ、アメリカ大使館の前で切腹する人が出たり、幕末の攘夷運動のように横浜でアメリカ人が襲撃されたりした。この運動はなぜかよく研究されていませんけれど。北村 「排日移民法」以後、アメリカは日本をどんどん追い詰めていった。一九三二年の満洲事変直後には、米国務長官のスティムソンが、日本の大陸における領土拡張はいっさい認めないという声明を出している。いわゆる「スティムソン・ドクトリン」です。筒井 日中関係と日米関係はつねにリンクしています。日露戦争の直後、アメリカの鉄道王ハリマンが南満洲鉄道の共同開発をもちかけたときから、アメリカは日中間の問題に関わってくる。日露戦争で疲弊したいま、米国資本を満洲に導入したほうが国益にかなうと判断した時の桂太郎首相はこの提案を受け入れ、覚書が交わされます。 ところが、ポーツマス講和条約を終えて帰国した外務大臣の小村寿太郎が共同開発に猛反対し、白紙撤回させる。異説もありますが、国民が日露戦争の賠償が少なすぎると騒いでいるところへ、さらに満洲の権益をアメリカと分け合うようなことをしたら国民は絶対に納得しないだろうというのが小村の考え方だと見られています。ここにも世論がはたらいているのです。「日比谷焼打ち事件」で日本の政治シーンに初めて「大衆」が登場し、デモや暴力によって世論が表明されるようになった。以後、湧き上がる大衆世論の支持なしには政治や外交の方向が決められなくなった。そして、そうした世論とそれを煽動するマスメディアとが、大正から昭和初期に中国との関係を悪化させる一つの大きな要因になったのです。国際連盟脱退北村 国際連盟総会に日本主席全権として派遣された松岡洋右は、西園寺公望に「連盟を脱退するつもりはない」と言っていたようですね。にもかかわらず、松岡は「欧米諸国は日本を十字架上で磔刑に処そうとしているが、キリストが後世において理解されたように、日本の正当性も後々必ず明らかになるだろう」という有名な大演説をして国内で喝采され、「リットン報告書」が圧倒的多数で採択されると、脱退を宣言して退場してしまいました。その要因も大衆世論と国民感情でしょうか。等松 大衆社会的な現象が現れ、日本の政党政治がまだ十分に成熟していなかったこともあって政府が世論に振り回されてしまった。正統的なエリートではなかった松岡は世論を味方につける必要もあり、ポピュリストにならざるを得ないところもありました。筒井 罰則規定はないのだから、日本は脱退する必要はなかった。リットン調査団の勧告が出たと言われたら、「そうですか」と受け流しておけばよいと東大国際法の立作太郎教授なども言っており、そうするはずだった。日本は時間を稼いで情勢の変化を待つべきだったのです。 その後、イタリアがエチオピアに侵攻し、ソ連はフィンランドを侵略して国際連盟を除名されている。国際情勢はつねに流動的で、国際連盟をめぐっていろいろな問題が起こり、日本の位置も変わっていくのですから脱退しなければよかったのです。そうすればまた国際社会に復帰できた。が、「ゆきつくところ戦争も辞さない」(朝日新聞)などという圧倒的な世論の脱退論に松岡らは迎合してしまったのです。等松 これは意外に忘れられがちですが、一九三三年三月の時点で日本は連盟脱退を通告しただけで、実は通告から二年後まで発効しないという規定がある。言い換えれば通告後も二年間は加盟国としての義務を果たさなければならないのです。だからその間に脱退通告を取り下げることもあり得た。英米仏などの列強が日本に対する道徳的な非難以上のことはせずに事態を静観していたのは、「満洲国」という新国家の建設は容易なことではないし、いずれ頓挫するだろうと考えていたからです。そうなると連盟に戻って「リットン報告書」を基に満洲の国際管理を認めるかもしれないから、あまり日本を刺激せずにしばらく様子を見ようとしていた。すなわち、一九三三年から三五年という二年間は、実はいろいろな可能性があった時期だったのです。 逆に言えば、列強が強硬な態度をとらず、対日経済制裁も行わなかったために満洲国建国が順調に軌道に乗り、日本もこれで行けるぞと思ってしまったのではないか。筒井 私は、松岡は後藤新平的大風呂敷ラインにつながっていると思います。後藤新平という人は何かといえば大風呂敷を広げるから、マスメディアには人気があった。 アメリカに対抗するための「ユーラシア大陸ブロック連合」構想のような後藤の大風呂敷に影響を受けた松岡は、日本・中国・満洲を中核とした「大東亜共栄圏」をつくるなどと言ってマスメディアと大衆を喜ばせました。世界を四つのブロック(アメリカ、ロシア、西欧、大東亜)に分けるというのです。当時日本のやるべきことは泥沼に陥った日中戦争を解決することに専心するしかなかったはずです。そういう地に足が着いていない大風呂敷が亡国につながったと私は思いますね。 日露戦争の終結後も陸軍が満洲に留まって「軍政」を敷き続けたため英米が強硬に抗議してくるという国際的紛議が起こったときの当事者の中にも後藤がいました。児玉源太郎参謀総長とその配下だった後藤は、軍政を長期化させ、そのまま統合的植民地支配にもっていこうと考えていたようです。児玉・後藤コンビは一九〇〇年にも、義和団事件に際して厦門占領を企てて英米列強の批判を浴びています。 この厦門事件は伊藤博文がことを収めたのですが、在満陸軍に対する英米の抗議を受けて開かれた政府首脳会議でも、当時は韓国統監だった伊藤博文がリーダーシップを発揮して、満洲の軍政を排し、日本の権益の明確化、限定化を行ってことなきを得ました。この会議で伊藤は、「満洲における日本の権利は、講和条約によってロシアから譲られた遼東半島租借地と(南満洲)鉄道のほかには何もない。満洲はわが国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である」と発言しています。この伊藤の見識は何度でも見直されるべきでしょう。重光葵の言葉重光葵の言葉等松 わが国は国際社会の中でどの程度の国なのかという明治以降の日本人の自己イメージの問題もあったのではないでしょうか。何も明治が素晴らしくて昭和がダメだったという司馬史観のような単純なことを言うつもりはありませんが、明治維新の第一世代、第二世代までは弱小国日本が欧米列強による植民地化の危機にさらされ、不平等条約を押しつけられたことを実体験していますから、慎重な人たちが多かった。ただ、その次の次の世代ぐらいになると、日本の国力増進と自らの精神形成期がほとんど重なっていますから、実力以上に国力を過信したところがあるような気がします。 これは単なる「if」ですが、もし日本が第一次世界大戦に本格的に参加して悲惨な目に遭っていれば、もう少し堅実な帝国になったかもしれません。実際には第一次世界大戦のとき、日本陸軍は非常に熱心に戦争を研究しているのです。調査員を何百人も欧州の戦場に派遣して研究させ綿密な報告書を大量につくっている。しかし、堅実な道を選ぶのではなく、将来の国家総力戦に備えなければならないという結論になった。場合によっては米中ソと同時に戦争になるかもしれないから、資源を押さえて防衛線をなるべく外側へ延ばしておきたい、それには満洲を確保する必要がある。そういう思考をたどったと思います。そういう意味では、満洲事変は第一次大戦の結果の一つだったと言えるかもしれません。重光葵筒井 この時期の日本は世界の五大国、三大国のひとつとまで言われるようになっていましたが、重光葵は、「日本の地位は躍進したが、日本は個人も国家も謙譲なる態度と努力によってのみ大成するものであるという極めて見やすい道理を忘却してしまった」と言い、結局、日本はまだ大国として成長していなかったと結論づけています。等松 江戸時代まで三千万人足らずだった日本の人口が、医学の進歩や産業の発達によってどんどん増えていって、先の大戦のころには本土だけで八千万人ぐらいになった。戦時中のスローガン「進め一億火の玉だ」というのは植民地朝鮮・台湾の人口を含めての数字でした。農業中心の自給自足で養える本土の人口は三千万ぐらいが限度であるにもかかわらず、幕末からたかだか七十年で二倍半になってしまった。そこで、人口爆発に対処するために朝鮮や台湾、さらには満洲に出て行こうということになるのです。北村 ただ満洲移民は二十三万人くらいだからそんなに大きな数ではありませんね。実際問題としては国内で人が余ってどうしようもないという状況ではなかったのに、数字に惑わされてしまったということでしょうか。「のらくろ」開拓団等松 たしかに宣伝されたほどには移民していない。メディアが発達した弊害かもしれませんが、人口問題について人々が情報を鵜呑みにしてしまう、あるいは何らかの意図があって国民に信じさせたところがあると思います。工夫すれば国内産業だけでも十分食べていけると冷静な主張をする人が多ければ、安易な移民政策は取らなかったかもしれませんし、ましてや悲惨な結末に終わった満洲への武装開拓移民などせずに済んだと思います。昭和37年(1962)に復刻された普通社版『のらくろ二等兵』。後ろはブル連隊長 ところで、戦前に大人気を博した「のらくろ」という田河水泡作の漫画がありますね。野良犬の黒吉が「猛犬連隊」という軍隊に入って活躍し、二等兵から徐々に出世していく話ですが、日本の世論のバロメーターの一つとして見るとおもしろい。昭和六年、ちょうど満洲事変勃発の年に『少年俱楽部』で連載が始まるのですが、実は同年の年末号が「満洲事変特別号」で、子供向けにわかりやすく書かれた「満洲事変はなぜ起こったのでしょうか」というイラスト入り記事が掲載されています。「日本は合法的に権利を持っているのに、暴虐なシナ人が日本を貶めようとしているから、ついに正義の日本は立ち上がって、国際社会での孤立も恐れずに悪いシナ人を懲らしめているのだ」というような内容です。 一方、「のらくろ」はその後大尉で退役して大陸に渡り、歓迎してくれた朝鮮半島出身の白犬「金剛くん」を従え、大陸のブタ、羊、ヤギとともに開拓団をつくって資源を開発するという展開になる。そうして見つけた金鉱や炭坑を現地の動物たちに譲ってしまって、さらに奥地の開拓に旅立つところで終わります。 そういうものを読んで育った子供は、昭和六年の連載開始当時十歳くらいとすると、ちょうど昭和十六年の日米開戦のころは軍隊へ行く年齢になっています。『少年俱楽部』や「のらくろ」はメディアとして子供たちに大きな影響を与えたのではないでしょうか。さきほどの「大衆とメディア」の話につながる気がします。ソ連への警戒心ソ連への警戒心北村 満洲事変の二年前に、ソ連が持っていた権益を国民政府が回収しようとして中ソ戦争が起こっていますね。ソ連も同じことをしていたからといって、日本の行動をすべて正当化するつもりはありませんが、やはり満洲を侵略したというより日本は面倒に引きずり込まれたという印象を受けます。等松 中ソ戦争といっても、その実態は張学良軍と極東ソ連軍との戦いでしたが、北満洲でソ連に対してさまざまな嫌がらせをしていた張学良の軍隊はさんざんにやられて惨敗を喫し、利権回収はできませんでした。 これは関東軍にとって、いろいろな意味で教訓になったと思います。ソ連のように強権を発動し、軍事力で断固として利権を守るべきだ。極東ソ連軍は、およそ三十万人の張学良軍を約三万の兵力で破っていますから、一万程度の関東軍でも装備と戦略次第では烏合の衆の張学良軍には勝てるだろう。同時に、極東ソ連軍の脅威に対処するため、いまのうちに南満洲をしっかり固めておかなければいけないという発想にもなったはずです。 それから、一九二四年に外モンゴル、いわゆる外蒙がモンゴル人民共和国となります。一九二一年にモンゴル人民の要請を受けたと称してソ連が軍事介入し、やがてモンゴル人民革命党による一党独裁の傀儡政権をつくった。一九七九年のアフガン侵攻と同じ論理です。 満洲事変に先立ってソ連がまさに満洲国建国と類似のことをしていたと言えるわけで、関東軍は、同じことが南満州でできないかと考えたと思います。これも満洲事変の伏線となりました。 ですから中ソ戦争やモンゴル人民共和国の成立は、満洲事変の前史としてきちんと位置づけなければならない。愛新覚羅溥儀北村 モンゴル人民共和国ができるまで、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀は一九一二年に清朝が滅んで退位したあとも、ラストエンペラーとして袁世凱政府から歳費をもらって紫禁城に住んでいました。清の皇帝はモンゴル人にとっては大ハーンだったし、チベット人にとってはチベット仏教の大施主だったから、モンゴルやチベットを自分たちの側につなぎ止めておくためでした。 ところがモンゴル人民共和国ができてしまうと、モンゴルと歴史的に深いつながりのある溥儀が邪魔になる。それで、ソ連から援助を受けていた、いわばソ連の手先である馮玉祥が紫禁城に乗り込んで溥儀を追い出してしまった。それがまさにモンゴル人民共和国が誕生した一九二四年のことです。 その溥儀を日本人が担ぎ出して満洲国の皇帝にした。もともと満洲は愛新覚羅氏の故地で、溥儀は満洲人の皇帝だったわけですから、それなりの筋は通っています。等松 先ほどのイラクの話ですが、実はイギリスも、日本が溥儀を連れてきたのとまったく同じことをしている。外部から王朝を移植しているのです。愛新覚羅氏とハーシム家北村 ほかの国から王様を連れてきたのですか。ハーシム家のファイサル一世等松 第一次世界大戦、例の「アラビアのロレンス」の時代ですが、聖地マッカやマディーナなどアラビア半島の西岸を支配していた名門のハーシム家をイギリスは支援して中東に介入していった。ところが、ハーシム家は大戦後の勢力争いでサウド家という新興勢力に敗れ、アラビア半島がサウジアラビアという別の国になってしまったため、イギリスは手が出せなくなった。 そこでイギリスはハーシム家の人々を強引にイラクとトランスヨルダン(現在のヨルダン)の王として連れてきたのです。 イスラーム世界では預言者ムハンマドの子孫であるハーシム家は大変な名門で権威もあるのですが、しかし、イラクやヨルダンの地元にもそれなりの有力者たちがいるわけで、両地域の住民にとって所詮はよそ者ですから、大きな反発を買いました。それをイギリスは軍事力で抑え込み、イラク国王にファイサル一世、トランスヨルダン国王にアブドゥラー一世を据えたのです。 満洲事変を正当化するための議論と思われては困るのですが、イギリスも、アラビア半島の西岸、紅海の近くにあった王朝の一族をメソポタミアやパレスチナに連れてくるなどという強引なことを実はしているのです。北村 天津の日本租界にいた溥儀を連れてきて、もともと満洲人の皇帝だった人間を元首にした日本はまだかわいげがあった。筒井 当時の日本政府・外務省には多様な意見があったこともよく理解しておく必要がありますね。 代理駐華公使だった重光葵は、中国の激しい利権回収・排日運動は「民族解放主義思想」に基づくもので、人為で阻止することは不可能だから、日本は不平等条約の根本的な改定に先鞭をつけて好意を示すべきだとして、蘇州・杭州の居留地の返還を提議しています。そうすれば決してどこまでも帝国主義的ではない日本の立場を明示することにもなり、列国の理解が得られるだろうと重光は考えたのです。 しかし、幣原は、いまの政府にその力はなく、とうてい実現不可能だと重光の提案を受け入れなかった。そこで重光が主張したのは、軍部に慎重な態度をとらせて衝突を起こさないように努め、そうした方向で日本の世論を導くとともに、国際連盟のような国際的な場所に出ても外国を納得させられるよう公明正大なものに日本の立場をはっきりとさせておくべきだということでした。つまり、日本の方から暴発しないようにしつつ中国の条約上の違法行為については英米などが納得するようにあらかじめ理解させておく必要があるというわけです。 そのために重光は国民政府の要人と通じ事態の解決に勤しんでいたのですが、その努力が実を結ぶ前に、残念ながら満洲事変が勃発してしまった。だから、中国と協調関係を確立することに力を尽くした重光葵のような人間がいたことにも目を向け、尊重するようにしなければいけませんね。 冒頭でも言いましたが、満洲事変に限らず、この時期の歴史について先進国で日本ぐらい不正確で実証的でない歴史がまかり通っている国はありません。その点でマスメディアの責任は大きいと思います。清沢洌が言っていますが、昭和の前期もそうでした。これでは敗戦から何も学んでいないことになります。最近『昭和史講義』(筒井清忠編・ちくま新書)という正確な歴史研究の成果に基づく研究者・一般向けの昭和史書を出しましたが、これを第一弾にして、こうした努力を続けていき、二、三年中には、不正確なものはなくなるというようにしていきたいと思っています。みなさんのご協力をお願いしたいですね。 不正確なものを見つけたらどんどん声を上げて行きましょう。つつい・きよただ 1948年大分県生まれ。帝京大学文学部日本文化学科教授・文学部長。東京財団上席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。著書に『昭和戦前期の政党政治』『二・二六事件とその時代』『近衛文麿』『二・二六事件と青年将校』『西條八十』『満州事変はなぜ起きたのか』など。きたむら・みのる 1948年、京都府生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程中退。三重大学助教授を経て、立命館大学教授。法学博士。著書に『第一次国共合作の研究』(岩波書店)、『「南京事件」の探求』(文春新書)、『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP新書)、共著『日中戦争』(PHP研究所)など。とうまつ・はるお 1962年、米カリフォルニア州生まれ。防衛大学校人文社会科学群国際関係学科教授。オックスフォード大学大学院国際関係学研究科博士課程修了。博士(政治学)。専門は政治外交史、比較戦争史。著書に『日本帝国と委任統治』、共著に『日中戦争の軍事的展開』『日英交流史1600-2000 3 軍事』『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』など。

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    五十六神話を捨てるとき

    「真珠湾奇襲」は戦術・戦略において本当に効果的だったのか。ニイタカヤマノボレ、トラトラトラ……と聞くと我々はつい興奮してしまう。まるで赤穂浪士たちが憎っくき吉良邸に討入りを果たした元禄の大事件が語り草になったように。

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    山本五十六の長男 「父は『騙し打ち』を最も嫌っていた」

    その夜、ちゃぶ台の上に20センチほどの小さな鯛が置かれていたという。一家そろっての最後の夕餉。翌朝、学校へ行く息子を父は珍しく玄関まで見送った。「行ってまいります」「行ってきなさい」。この短い会話が父・山本五十六と長男・義正氏が交わした最後の言葉だった。 「私と父は、互いにもう二度と生きて会えないことを知っていました。私は父の視線を背中に感じながら玄関を出たんです。けっして振り向くまいと自分に言い聞かせながら…」(義正氏) 山本五十六・連合艦隊司令長官率いる日本海軍が、ハワイの真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃するのはその3日後、昭和18年12月8日のことである。瀬戸内海に停泊中の旗艦長門で「攻撃成功」の第一電を受けた山本は、その戦果を祝して次のような和歌を詠んだ。 《突撃の 電波は耳を 劈きぬ 三千浬外 布哇の空より》ラバウル基地で兵士を見送る連合艦隊司令長官、山本五十六。生前最後の写真=「昭和」(講談社)より 成功を喜び祝う五十六だが、じつはこのとき一つの心配事があった。攻撃前に対米最後通告が確実に届いているのかどうか。このことは開戦前から何度も確認したが、結局、開戦通告は真珠湾攻撃の後になり、日本は「騙し討ち」の汚名を着せられることになる。 「長岡藩の武士として育った父にとって『騙し討ち』という評価は最も嫌なものだったはずです」(義正氏) しかし、アメリカは開戦前に真珠湾攻撃を察知していたという説が根強くある。ルーズベルト大統領はそれを知りながら日本を戦争に誘い込んだというアメリカ陰謀論だ。陰謀の真偽はともかく、少なくとも、アメリカは真珠湾攻撃前に日本の暗号電報を傍受・解読していた…こう断言するのは戦史研究家の原勝洋氏である。 「真珠湾攻撃の1週間前、日本の外務省は『暗号機の破壊およびコード表の焼却』という内容の外交電報を在米大使館に打電しています。暗号の焼却という指令は、開戦が間近に迫っていることを示しているわけですが、じつはこの暗号電報さえ、アメリカは解読していたんです。米軍は日本外務省の暗号機を模造した『パープル』を使って暗号を傍受・解読していたのです」 原氏がアメリカの公文書館で調査したところ、米議会の『真珠湾調査合同委員会記録』には、7月1日から開戦までに227通の日本の機密電報が傍受・解読されていたことが記録されているという。 「それだけではありません。外交電報だけでなく、より重要な日本海軍の暗号まで真珠湾攻撃前にアメリカは解読していたんです」 その証拠文書を、このたび原氏がアメリカで発見した。これは終戦後に米海軍通信機密保全課が作成した文書で、そこには「真珠湾攻撃前に旧日本海軍の暗号を解読した」という一文が明記されていたのだ。 「文書には’39年(昭和14年)夏から解読開始とあります。アメリカは開戦の1年3カ月前から日本海軍の暗号を断片的に解読していたわけです」(原氏) となると、やはりアメリカは真珠湾攻撃を事前に察知しながら、知らないふりをして日本を戦争に誘い込んだ可能性が出てくるのだ。関連記事戦争映画No.3・真珠湾攻撃を描いた作品を小池百合子氏が語る日本人スパイ 真珠湾偵察のために女性とドライブをしていた真珠湾攻撃の総隊長 キリスト教洗礼受け全米で伝道活動した真珠湾から生還パイロット証言 奇襲攻撃は失敗から始まった92歳の元海軍空母「加賀」乗組員 真珠湾攻撃当日を振り返る

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    元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」

    (THE PAGEより転載) 私ほど人の命をあやめた人間はいない――。元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。<原田要さんの講演要旨> 8月で99歳になる老兵、原田要です。戦闘機の実戦の体験者ですが、70年も前のことで記憶も薄れがちです。 17歳のときに一生をお国のために海軍の一兵卒として使ってもらおうと考えました。それから12年余、いろいろなことがありましたが、私は世界一、非人道的な人間になってしまったのです。その間約10年の航空生活を通じ8000時間余の飛行時間、その私ほど人の命をあやめた人間はいないのです。ソロモン諸島上空を飛行するゼロ戦(Wikimedia Commonsより) 結局は戦争という罪悪のために、こうしたみじめな人間が生まれてくるのです。だから戦争をなくしてほしいと感じるわけです。もうだめだと思ったことが4回ありました。それを皆さんに伝えて、こうした苦しいことがもうない世の中になるようにと最後のお願いにあがりました。 昭和11年にパイロットになり、さっそく中国の南京陥落に関係する作戦で戦闘機に乗りました、ところが中国船に交じっていた米英の船舶を攻撃したことが国際問題になり、下士官にまで及ぶ処分が行われて、私も内地に戻って操縦の指導に当たっていました。 そのうち日米の関係が悪化し昭和16年の秋、海軍の大艦隊はひそかに移動を開始。北に向かうのでいぶかしく思っていましたが数日後の朝、気がつくと周りが雪に覆われた湾に入っていました。エトロフ島でした。赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴の航空母艦、潜水艦などの大艦隊が集結したのです。戦争を憎み、なくしていくために そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2~3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15~16歳の少年兵たちがいました。  私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。(高越良一/ライター)

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    日米開戦、確執は満州での「すれ違い」から始まった

     今から74年前の昭和16年12月8日、旧日本軍はハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、太平洋を舞台にしたアメリカとの戦いに突入する。当時、アメリカの生産力が日本の10~20倍もあったため日本の軍部の中にも対米戦に消極的な声もあったのだが、なぜ踏み切らなければならなかったのか。その原因は、真珠湾攻撃の36年前に日露戦争の講和を仲介したアメリカとのすれ違いから始まっていた。ターゲットは満州 明治33(1900)年6月、欧州列国が相次いで清国に進出する中、山東省で起きた排外運動「義和団の乱」がまたたく間に北京へと拡大していった。 このため日本など8カ国が現地に住む自国民保護を目的に軍隊を出して乱を鎮めたまではよかったが、各国は兵を引き揚げさせたのに対しロシアは兵を満州に送り込んできた。 そんなロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメリカだった。真珠湾で撃沈された後、引き揚げられた戦艦オクラホマ=1943年5月(AP=共同) 南北戦争後、欧州にならい支配力を広げたいアメリカはハワイ、フィリピンに続いて狙ったのが満州であり、日本も本土をロシアから守る防衛線として満州が必要だった。 そしてロシアの進出を抑えるため、明治37年に起きた日露戦争で日本を資金援助したアメリカが、日露両国の講和締結に積極介入したのも、満州の利権が欲しかったからにほかならなかった。 そこで講和締結後、アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンは日本がロシアから得た権益のうち、新京(長春)から大連間を走る鉄道(南満州鉄道)の共同経営を1億円の財政援助とともに持ちかける。 明治36年の国家予算が約2億6千万円という時代の1億円である。首相の桂太郎はハリマンの提案を歓迎して受け入れる。 ところが、ハリマンとすれ違いに帰国した外相・小村寿太郎は反対する。多くの国民の犠牲を払って得た権益をアメリカと分けると他国に足もとを見られるというのが理由だが、最終的には奪い取られるといった疑いを持っていたとみられる。 結局、桂は小村に従うのだが、突然の破棄にハリマンの怒りは収まりがつかなかった。以後、日本とアメリカは対極の立場をとるようになる。対立深める日米 こと満州のことになるとアメリカの態度は執拗(しつよう)だった。明治42年、日露両国が握る満州内を走る鉄道の権益を中立化させて自分たちを含む共同管理を提案したほか、清国と満鉄に並走する鉄道建設なども計画するが、失敗に終わる。 それでも諦めないアメリカは大正11年、ワシントンに主要9カ国を集めた軍縮会議を開催すると、日英同盟破棄や清国崩壊後に成立した中華民国への進出の抑制など日本の弱体化を狙った合意を引き出す。 さらに満州を治める張作霖(ちょうさくりん)政権と満鉄に対抗する鉄道建設と同時に、満鉄とつらなる大連港に対抗し、大連と渤海(ぼっかい)湾を隔てた対岸に位置した葫芦島(フールータオ)に貿易港の建設も計画。中国の抵抗もアメリカの支援のもとで強まっていった。 そんな中、昭和6年に奉天郊外で起きた満鉄爆破事件に端を発した中国との武力衝突(満州事変)に続いて、6年後には北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で中国・国民党軍との紛争が発生するなど戦線は拡大する一方だった。 そんな強気の姿勢を崩さない日本に業を煮やしたアメリカは、「中国でのアメリカの権益が日本軍に侵害された」として14年に日米通商航海条約破棄を通告する。 つまり、資源に乏しい日本にガソリンや鉄など戦争継続に必要な物資の輸出を禁じたことで日本の弱体化を図ろうとしたのだ。 はじめは動揺を隠せなかった日本だったが、東南アジアの資源地帯に目をつける。当時、協調関係にあったドイツがフランスに勝ち、フランス領インドシナ(仏印=現在のベトナム・ラオス・カンボジア)がパックリ口を開けて待っていたからだ。 だがアメリカにとっても仏印は、中国側に物資を送る輸送ルート上にあったたため、日本軍の仏印進駐を強硬に反対する。ニイタカヤマノボレニイタカヤマノボレ 昭和15年、日本軍はそんなアメリカのいらだちを知りながら北部仏印に進駐すると、ドイツ、イタリアと軍事同盟を締結。16年には南部仏印に進出したことでアメリカとの対決姿勢はさらに鮮明となった。 そんな状況下、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、アメリカと戦うならばまずハワイのアメリカ太平洋艦隊を潰し、その後の戦いを優位に進めるしかないとして航空機による攻撃を計画する。 航空母艦(空母)6隻と航空機400機という世界でも類例のなかった機動部隊を編成すると、対米交渉中にもかかわらず、宣戦布告直後の奇襲攻撃を狙って11月22日、ハワイに進路をとった。 それから10日後にあたる12月2日、荒れ狂う太平洋上を進む空母「赤城」の艦橋内で、機動部隊の指揮をとる南雲忠一中将は依然として定まらない対米交渉の行方を気にしながら、雨と波がたたきつける窓の外をみつめていた。 結果次第では引き返すことも考えられたが、午後5時半、ドアが開き、やや興奮の様子で入ってきた通信参謀が「長官、電文であります」と山口の連合艦隊から送られた電文を差し出してきた。 南雲が「読め」と静かに指示すると、しっかりした口調で「本文、ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」と読み上げた。12月8日に開戦すべしとする内容だった。 ニイタカヤマ(新高山)は、日本が当時、統治していた台湾の山(現在名は玉山)。標高が3、952メートルと富士山より高い、日本の最高峰だった。 電文を聞いた南雲は隣の参謀長、草鹿龍之介少将の方を見て、「うまくいくのかな」と話しかけたともいわれている。◇当時の世相映した国策映画「潜水艦1号」 対中戦争を進める日本は昭和14(1939)年に映画法を制定すると、「海軍爆撃隊」「燃ゆる大空」などといった、娯楽色を廃して軍国主義を強めた映画の製作を強制的に進めるようになる。「潜水艦1号」もそんな1本。真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇=広島県江田島市の海上自衛隊 アメリカと対決色を強めていった昭和16年5月に公開されている。明治43年、技術的に未熟の域にあった潜水艇の艇長として乗り込んだ久間勉大尉は沈没事故で生命が絶望視される中、冷静に艇内の様子を記録した精神力は当時の軍人の手本ともされていた。 映画は、そんな佐久間大尉の故郷で育った少年2人のうち、1人がのちに潜水艦の設計士として最新鋭艦を設計し、もう1人が艦長としてその艦に乗り込んで試験航海に臨むといった内容になっている。 まだ戦闘シーンがあるわけではないが、「必ず米英と戦うときが来る」と艦内の居住性を廃して、武器などに重点を置いて新鋭艦開発を進める姿に、当時の緊迫した世相を垣間見ることができる。 

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    中国は山本五十六の苦悩を知っているか? 真珠湾攻撃とその教訓

    小谷哲男 (日本国際問題研究所 主任研究員) 真珠湾攻撃から74年が過ぎた。筆者は、2年前の12月7日にパールハーバーで開かれた真珠湾攻撃記念式典に出席する機会に恵まれた。第二次世界大戦中のプロペラ機の上空飛行、軍艦の閲覧航行が行われたのに続き、日本人僧侶が「平和の祈り」を捧げるなど、かつての敵意を感じさせることなく厳かな雰囲気の中で式は進んでいった。式典を通じて、「PHS(Pearl Harbor Survivors:真珠湾攻撃の生存者)」への賞賛、犠牲者への哀悼、そして日米の和解が強調されていると感じた。 日本による「だまし討ち」が批判されることもなかった。式典で海軍を代表して演説をした日系のハリー・ハリス米太平洋艦隊司令官(現・米太平洋軍司令官)は、父が真珠湾攻撃の生存者で、母の神戸の実家が米軍の空襲に焼かれたという複雑な事情を語るとともに、真珠湾を忘れず、いつでも警戒を怠らず、戦えば勝つという強いメッセージを送った。ハリス司令官の念頭にあったのは、日本との過去の戦争ではなく、中国との将来の対立だったはずだ。接近阻止(A2)、敵を殲滅(AD) 近年、米軍は中国のアクセス(接近)阻止・領域拒否(A2/AD)戦略に警戒を高めている。A2とはある場所に敵が接近することを阻止することで、ADとはある場所にいる敵を殲滅することだ。中国は主に潜水艦と精密誘導ミサイル、そしてサイバー攻撃と衛星攻撃によって、沖縄や東シナ海・南シナ海にいる米軍の排除を目指すとともに、グアムやハワイ、アメリカ本土からやってくる米軍の来援部隊の接近を西太平洋上で阻止しようとしている。 その背景には、アヘン戦争以来中国が海から列強の侵略を受けてきた「屈辱」を繰り返さないという決意がある。より直接的には、1996年の台湾海峡危機で米国が空母2隻を派遣し、手も足も出なかったことをきっかけに、中国はA2/ADに本格的に力を入れ始めた。なお、中国ではA2/ADではなく「介入阻止」戦略と呼ばれる。 米軍はこの中国のA2/ADに対抗するため、エアシーバトル(ASB)という海空戦力のより効率的な一体化を目指す作戦概念の検討を始めた。その後、ASBは陸上戦力の役割が不明確と批判されたため、「グローバルコモンズへのアクセスおよび運用のための統合概念(Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons(JAM-GC))」へと変更された。このJAM-GCの下で、米軍は陸海空という従来の戦闘空間に加え、サイバー・宇宙空間における行動の自由を確保し、A2/ADを克服することを目指している。A2/ADだった第3次「帝国国防方針」 米軍がA2/ADの挑戦に直面するのはこれが初めてではない。アジア太平洋戦争で日本が取った要撃作戦は、まさに今でいうA2/ADだった。1936年に改定された第3次「帝国国防方針」は、日本が対米開戦に踏み切ったときに作戦計画の元となった。その中では、「東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、かつ本国方面より来航する敵艦隊の主力を撃滅すること」が初期の目的となっていた。具体的には、海軍は作戦当初東アジアにいる敵艦隊を排除し、陸軍と協力してフィリピンとグアムを攻略することが想定されていた。日本に接近してくるアメリカの主力艦隊に対しては、潜水艦と南太平洋の南洋群島に展開する航空機で奇襲攻撃を繰り返して、消耗しきった敵艦隊を日本近海で迎撃するとされた、先制と奇襲を前提とする短期決戦の発想で、ADの後にA2が想定されていた。対米A2/ADが不可能と知っていた連合艦隊司令長官 しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、このようなAD重視の作戦がアメリカに通じないことを誰よりも理解していた。ADである南方作戦が成功しても、帝国海軍が相当の損害を被ることは不可避で、そのような状態でA2としての対米要撃作戦は不可能だった。当初南方作戦を重視していた海軍は南方作戦と対米作戦は切り離せると考えていたが、それは三国同盟で日本がドイツと手を結んだ後では不可能だった。山本はアメリカの総合的な国力を目の当たりにし、対米戦争に勝ち目がないことを十分認識していた。海軍次官として、山本は大局的観点から三国同盟に強く反対した。しかし、連合艦隊司令長官という立場に立った山本には、勝てない戦争に勝つことが求められた。このため、山本は職を賭してまで捨て身の真珠湾攻撃を立案することになった。山本は不決断のハムレットではなかった 1940年5月、アメリカは太平洋艦隊の主力を真珠湾に常駐させるようになった。日本の南進を牽制するためだった。しかし、日本にこれを奇襲できる航空戦力さえあれば、アメリカの出鼻をくじき、日本が圧倒的に不利な消耗戦を回避し、より有利な条件で早期対米講和に持ち込めるかもしれないと山本は考えた。山本はかねてから航空戦力の重要性を見抜き、帝国海軍の航空戦力を世界レベルにまで引き上げていた。当時の技術では、水深の浅い真珠湾で攻撃力の高い魚雷攻撃を行うことも不可能と考えられていたが、山本はこれを高度の技術開発と激しい訓練によって可能とした。 真珠湾攻撃は正攻法では勝てないが故の奇襲作戦だった。日米交渉が決裂し、12月2日の御前会議で開戦決定がなされた時、連合艦隊はすでにハワイに向けて北太平洋を進んでいた。山本は奇襲作戦を成功させるため、徹底した情報統制を行った。北太平洋を航行中に商船とすれ違うこともなく、天候にも見舞われた。米側の警戒に緩みがあるなど幸運が続き、真珠湾攻撃は大きな抵抗もなく実行に移された。結果は、戦艦5隻の撃沈を含む日本側の一方的な勝利に終わった。ただ、主目標だった米空母は真珠湾にいなかった。 昭和16年12月8日のハワイ真珠湾攻撃に参戦した航空母艦「加賀」の元乗組員(写真班長)、藤井保雄さん=徳島県阿波郡市場町=が公開した「炎上する米軍施設」の写真。「加賀」は17年6月、ミッドウェー海戦で米海軍に撃沈されたため、大半の写真は兵士とともに海に沈んだという。(共同)  日本は南方作戦でも攻勢を続け、短期間で広大な勢力圏を築いた。しかし、アメリカの空母機動部隊が無傷だったため、アメリカは爆撃機を空母から飛ばして日本本土を空爆し、そのまま中国大陸に着陸させたため(ドーリットル空襲)、アメリカの空母機動部隊を叩き、更なる空爆を防ぐためミッドウェー海戦が急がれた。だが、結果としてミッドウェー海戦で日本は虎の子の空母と艦載機、そして何より熟練パイロットの多くを失い、以後守勢に転じることになった。 真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、A2としては失敗だった。戦略としては致命的だった。結果としてアメリカは第二次世界大戦に参戦し、ドイツを降伏に追いやった後は総力を挙げて日本との戦いに力を注いだからだ。アメリカはA2には屈せず、むしろアジアへのアクセスを確保していった。1度はフィリピンを放棄したが、南太平洋の島々を1つまた1つと日本から奪い、それらを拠点とする航空機と潜水艦で日本と南方の資源地帯を結ぶ補給線を断ち、日本への通商破壊を行った。マリアナが陥落して日本本土への空爆が始まり、レイテ沖海戦で帝国海軍が事実上消滅した時に、日本は敗北した。ただし、敗北という軍事的現実を降伏という政治的決断に移すには、2度の原爆投下とソ連の参戦という外圧が必要だった。山本は不決断のハムレットではなかった 国家の下した決断が誤っている時に、われわれはどう対応すればいいのだろうか。国家の決定に従うのか、それとも抵抗するのか。そのジレンマに引き裂かれながらも、山本は不決断のハムレットではなかった、と歴史家の五百旗頭真教授は指摘する。皮肉なことに、対米戦に最も反対していた山本は、軍人として無謀ともいえる奇襲作戦を成功させ、その火ぶたを切ることになった。そして、結果として国家は滅亡の手前まで追い込まれた。山本がいなければ、真珠湾攻撃は成立せず、日米間の戦争はもっと違ったものになっていただろう。 国家は判断を誤る。それは人類の歴史を通じて繰り返されてきたことだ。中国が軍拡を続け、A2/AD能力を高めても、東シナ海や南シナ海の緊張が高まっても、経済的相互依存のため中国との戦争は起こらないという楽観的な議論が一部で横行している。しかし、戦前の日米間には深い経済関係があったにも関わらず戦争は避けられなかった。われわれは、国家が合理的ではない判断を下す可能性があることを常に念頭に置いておかなければならない。 戦後70年を迎え、日米は強固な同盟関係を維持し、中国のA2/ADの挑戦に立ち向かおうとしている。今後の日米同盟の課題は、中国への建設的な関与を続けながらも、有事に備え、米軍のJAM-GCと自衛隊の統合機動防衛力を融合してすべての戦闘領域で行動の自由とアクセスを確保していくことだ。JAM-GCは、緒戦の段階では米軍を前線から一定の距離まで下げ、長距離攻撃を行うことを想定している。その後アクセスを確保しつつ前線に戻ることになる。しかし、自衛隊には後方に下がる余裕はない。日本の防衛のため自衛隊は前線に留まり、米軍の前線へのアクセスを確保しなければならない。この現実をわれわれは直視した上で、現実的な安全保障の議論を積み重ねて行く必要がある。

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    日本の真珠湾攻撃情報は 「007」から「FBI」に伝えられていた

    岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)攻撃を示唆する「質問表」 日本が真珠湾を攻撃して日米が開戦してから十二月八日で七十四年になる。 真珠湾攻撃の報を聞いた英国の首相、チャーチルは日記に、「これで我が国は救われた気分になり、感謝に満ちた心でグッスリ眠った」と書いている。〈十七カ月の孤独の戦いと恐るべき緊張の後、真珠湾攻撃によって我々は勝ったのだ。イギリス連邦とイギリス帝国は生き残るだろう。我々英国の歴史が終わりはしない。ヒトラーの運命は決まった。日本人に至っては微塵に打ち砕かれるであろう〉 米国の本格参戦で勝利を確信したチャーチルが驚きよりも感謝して安眠したのは、まるで日本の真珠湾攻撃を察知していたかの如き反応だった。日本の最高機密だった真珠湾攻撃情報をチャーチルは知っていた──。そんな疑念が戦後七十年を経過した今日、広がっている。日本軍の“奇襲”に炎上する真珠湾の米軍基地 ロンドン郊外キューガーデンにある英国立公文書館には英国が真珠湾攻撃の兆しをんでいたと推察される機密文書があった。英国内での外国スパイや共産主義者らの摘発などカウンター・インテリジェンス(防諜)を行う内務省管轄の情報機関、MI5(情報局保安部)の防諜担当部署、セクションBのトップ、ガイ・リッデル副長官が著した日記に大戦中、暗躍した英独の二重スパイが日本軍による真珠湾攻撃の可能性を事前に察知し、MI5が把握していたと見られる記述があったからだ。 真珠湾攻撃から九日後の日記に、二重スパイが奇襲四カ月前にドイツ側から真珠湾と米艦隊などを偵察するように指示された「質問表」(調査リスト)を「われわれ(MI5)は所有している」と記していた。これはMI5が日本軍による真珠湾攻撃の可能性を示唆する秘密情報を得ていたと解釈できる。二重スパイは回顧録で、米FBIにも真珠湾奇襲情報を伝えたが、ジョン・フーバー長官が握り潰したと告白している。五人の二重スパイ まずは連合国を勝利に導いた英国の「ダブル・クロス」(二重スパイ)制度について紹介したい。 第二次大戦の帰趨を決した連合国軍の「ノルマンディー上陸作戦」成功の背後には「フォーティチュード作戦」と名付けられた史上最大の欺瞞作戦があったことはあまり知られていない。ドイツのスパイを二重スパイに変える「ダブル・クロス・システム」で英国のスパイになった五人の二重スパイが上陸目標地点を英本土から最も近いパ・ド・カレー地方との偽情報をベルリンに送り、ドイツ軍をカレー地方に足止めさせる策略だった。 英国のインテリジェンスに通暁した元タイムズ紙コラムニストでノンフィクション作家のベン・マッキンタイアーによると、英国に存在した全てのドイツのスパイ(約三十九人)を二重スパイに仕立て上げ、ドイツに対して戦略的に欺瞞情報を送り続ける作戦は、MI5(情報局保安部)の防諜部門、セクションBの将校・通称「ター」ことトミー・アーガイル・ロバートソンが発案し、彼をリーダーにスタートした。第二次大戦でナチス・ドイツが初めて大敗を喫する「バトル・オブ・ブリテン」が始まった一九四〇年九月ごろのことである。 そして翌四一年一月には、その活動を監督、調整する極秘組織として二十(XX)委員会が設立され、委員長にはオックスフォード大学の歴史家、ジョン・マスターマン卿が就任する。委員会は陸、海、空軍の各情報部の部長と、MI5、英外務省管轄の通称「MI6」、秘密情報部(SIS)、本国部隊及び本土防衛隊の各代表で構成され、毎週木曜日にMI5本部で会合を開き、二重スパイを活用する戦略や敵側に与える餌(少しだけの無害で真実を確認できない偽情報)を、総力をあげて練り上げた。「チキン・フィード」と呼ばれた敵に流す偽情報の「餌」を国家総出で考案して諜報戦に臨んだところにインテリジェンス大国の真髄がみてとれる。それは大戦の勃興期から始まり、終戦まで続けられた。ボンドのモデル「トライシクル」「エニグマ」解読 英国の「ダブル・クロス・システム」が奏功した要因の一つに、バッキンガムシャーにあるイギリスの暗号解読センター(政府暗号学校)、ブレッチリ―・パークの暗号分析官たちがドイツなど敵側のスパイの無線通信を傍受、暗号を解読して敵スパイの動向をつぶさに把握したことがあった。難攻不落と言われたドイツの暗号機「エニグマ」を数学者のアラン・チューリングらによって解読に成功したことは、第二次大戦だけではなく、あらゆる情報戦において最大の勝利を導いた。ベルリンと各地のアプヴェール(国防軍情報部)支部との無線通信を傍受出来るようになり、イギリス軍は一九四〇年末からドイツが無条件降伏するまでドイツ軍の情報作戦を最初から最後まで追跡し、情報に基づき計画を立てることが出来た。つまり英国にとって敵側スパイはブレッチリー・パークの解読班によって「丸裸」にされていたのだ。このため英国に送り込まれた敵側スパイの多くは身柄を拘束され、尋問の末に二重スパイとなったという。 史上最大の欺瞞作戦の中核となった二重スパイは、遊び好きで両性愛者のペルー人女性「ブロンクス」、ポーランド軍の小柄な戦闘機パイロット「ブルータス」、移り気なフランス人女性「トレジャー」、養鶏学の学位を持つ変わり者のスペイン人「ガルボ」、そしてセルビア人のプレイボーイ「トライシクル」(三輪車)の五人だった。ボンドのモデル「トライシクル」 しかし、「トライシクル」ことポポフほどキャラが立つ傑出したスパイはいなかった。映画「007」の原作者であるイアン・フレミングが華麗なるスパイ、ジェームズ・ボンドのモデルとしてイメージを膨らませた人物である。実際に英国海軍情報部に勤務したフレミングはポポフの監視役で、リスボンのカジノで大金をかけて大立ち回りをしたポポフの「活躍」を処女作、『カジノ・ロワイヤル』で活写している。 金銭と女性と車とパーティ、ギャンブルを一度に楽しむ長身でハンサムなプレイボーイ。「トライシクル」(三輪車)のコードネームがついたのは大きな車輪(ポポフ)と小さな車輪二つ(二人の工作員)で活動、「部下二人雇って三人で情報収集した」からとも、「ベッドで女性二人を侍らせる」精力絶倫からとも言われている。ちなみにドイツ側では「イヴァン」の暗号で呼ばれていた。トライシクルことポポフ バルカン半島のドブロブニクの裕福な実業家に生まれたポポフは、ドイツ南部のフライスブルグ大学を卒業後、弁護士となった。ところがドイツがポーランドに電撃侵攻して第二次大戦が勃発すると、一九四〇年初め、大学の親友だった大きな海運会社の跡取り息子に勧誘され、中立国ポルトガルのリスボンでドイツのアプヴェール(国防軍情報部)のスパイとなった。 アプヴェールの一員となれば、兵役を免除されることも大きかった。表向きはロンドンとリスボンを往復するセルビア人貿易商として情報活動を始める。しかし、ポポフはナチズムに強い嫌悪感を持っていた。そこで、そのことをユーゴスラビアのMI6責任者に打ち明け、ロンドンの高級ホテル「サボイ」でMI5のロバートソンに会い、彼が率いるセクションB1A所属のスパイになる。ドイツのスパイをやりながら、イギリスに情報を流す二重スパイである。ドイツの空襲が激しかった四〇年十二月のことであった。 『英国二重スパイ・システム』(ベン・マッキンタイアー)によると、尋問に包み隠さず真実を答えたポポフの反ナチの信念と冒険を求める強い想いに感激したロバートソンは、知り合って四日後に、「のんきな態度のセルビア人青年は二心がなく、命を懸ける覚悟が出来ている」と確信し、「我々は掘り出し物を見つけたのだと強く感じている」と書き記している。また前出・二十委員会委員長のジョン・マスターマン卿は、ポポフに、「ダブル・クロス」(二重スパイ)の選手の中でも非凡な才能を持つ(クリケットの)一番打者になれる可能性を見出したと思っていたという。 四一年一月にリスボンにポポフを送りだしたロバートソンは、「彼(ポポフ)は、高い資質を持った新たな工作員になれる素質があると思う」と報告し、ポポフは人間的魅力だけで身を守れるだろうと確信していた。MI5副長官の悔恨 ポポフは、当初からイギリス当局に人間的に信用され、有益な情報をもたらす優秀な二重スパイとみなされたことがうかがえる。MI5が終戦までポポフの英国への忠誠心とインテリジェンス内容に信を置いていたことは間違いない。いかにポポフに浪費癖があってもMI5はその莫大な経費を工面した。後に米国で娯楽や社交に使った総額八万六千ドルもの借金も肩代わりしている。インテリジェンスの世界では、現場で情報を集めることと同時に前線から送られてくる情報の価値を正しく判断する中枢の分析が肝要である。MI5では信頼したポポフ情報を最大限に評価して国策に生かしたのである。 その最大の功績がノルマンディー上陸作戦を支えた欺瞞作戦であった。ダブル・クロス委員会では大戦中にドイツ側スパイ三十九人を「転向」させてイギリス側の二重スパイとして戦略的にドイツに偽情報を送り、ドイツ軍を混乱させたが、中でも最も優秀な五人がDデイ作戦を成功させ連合軍の勝利に導いた。とりわけ傑出していたのがポポフだった。 このほかポポフは①ドイツのロケット開発と攻撃状況をイギリスに伝えた、②ドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘連絡手段「マイクロドット」を英米両国にいち早く知らせた──などの功績があった。このためポポフは大戦終了時に英国国籍を得たほか、戦後、秘かに名門ホテル「リッツ」でイギリス王室から叙勲の栄誉に浴している。英国に忠誠を尽くした見返りだった。ドイツから七億円 ドイツから活動資金を引き出し、MI5の資金とする「ミダス計画」は二重スパイとしてポポフが英国に貢献した真骨頂であった。ミダスとは、ギリシャ神話に登場する王で、手に触れるものすべてが金に変わったといわれる。この神話を参考にして、ポポフはドイツ側からの信用を背景に英国内でのエージェントへの活動資金を名目に大量の資金をドイツ側から調達してMI5に提供したものだった。 英国のインテリジェンス研究家、マッキンタイヤーは「ミダス計画は、大戦中で最も利益を上げながら最も知られていない作戦の一つになった。ポポフは手数料として一〇%を取って英国での諜報活動に資金提供されることにドイツ側は大喜びした」と『英国二重スパイ・システム』で書いている。これで「ダブル・クロス・システム」は資金調達の心配がなくなり、利益があがるようになった。二十委員会委員長のジョン・マスターマン卿は、「ドイツ側が、彼らの組織であり我々の組織でもある集団に一九四〇年から一九四五年の間に供給した資金は、当時の額で八万五千ポンドほどであった」と述べている。これは現在の価値で四百五十万ポンド以上(日本円で約七億円)に当たる。MI5副長官の悔恨 日本にとって最も重要なのは、ポポフが真珠湾攻撃情報を得て報告していたことだ。ポポフは真珠湾攻撃の四カ月前の一九四一年八月、ドイツのスパイとして米国に派遣される際、ドイツから渡された「質問表」の中で、枢軸側が真珠湾に大きな関心を持っていることを把握し、親友のイプセンから得た情報と重ね合わせ、日本軍が真珠湾攻撃に踏み切る可能性があることをんだ。これを米FBI(連邦捜査局)に伝えたものの、フーバー長官は信用せず、個人的に握りつぶしたと回想録『スパイ/カウンタースパイ』に著している。ところが、報告を受けたMI5は逆にポポフ情報を信用していたことをうかがわせる秘密文書が英国立公文書館にあった。 MI5の防諜担当部署、セクションBのトップ、ガイ・リッデル副長官は内気で、チェロを弾くのが趣味の「スパイ・ハンター」だった。リッデル副長官は大戦前から膨大な日記を残しており、そこには秘密機関MI5が大戦中に展開した情報活動の実態が赤裸々に描かれている。その原文が英国立公文書館で秘密解除されている。リッデル副長官は、真珠湾攻撃から九日後の一九四一年十二月十七日の日記(KV4/189)に『トライシクルの質問表』という形で「真珠湾情報」について記していた。トライシクルの質問票〈『トライシクルの質問表』は今、われわれ(MI5)の手元にある。これは八月にドイツ人たちが真珠湾について特別に関心を示し、可能な限りのあらゆる情報を入手したがっていたことを極めて明瞭に示している〉 ポポフがドイツの情報機関から米国に派遣される際、渡された「トライシクルの質問表」(調査リスト)には真珠湾の軍施設、米艦隊の状況を偵察する指示があった。それが真珠湾攻撃九日後、「今、われわれ(MI5)の手元にある」と書いているのだ。回顧録『スパイ/カウンタースパイ』でポポフは英国側に質問表を渡し、ドイツ(日本)による真珠湾奇襲の警告を発したと書いている。 リッデル副長官が真珠湾攻撃から九日後の日記に「トライシクルの質問表」を持っていると書いたのは、ポポフの証言通り、警告の意を含んだ「質問表」がMI5に伝えられて組織内で情報共有されていたことを示している。「われわれの手元にある」というのは、MI5が国家の命運を左右する貴重なインテリジェンスとして評価していたことを意味している。 では、「質問表」とは一体何であろうか。『スパイ/カウンタースパイ』によると、「トライシクルの質問表」は、ポポフが四一年七月、ポルトガルのリスボンでドイツ側のコントローラーであるアプヴェール(国防軍情報部)のリスボン支部長、フォン・カルストホーフから「米国でスパイ網を組織せよ」との指令を受け、渡された調査リストだった。三つの質問項目三つの質問項目 大戦中、中立を守り通したポルトガルの首都リスボンは、連合国、枢軸国両陣営のスパイが入り乱れ、諜報戦のメッカだった。貿易商として頻繁にリスボンとロンドンを往復したポポフは、リスボンではカルストホーフの指示を受けていた。 ユーゴスラビア情報省代表として渡米するため、飛行機の空席待ちで待機していた四一年七月のことである。別荘でカルストホーフからマニラ紙で出来た何枚かの書類を見せられた。それが、「質問表」で、最初の一節は〈海軍情報〉という見出しで始まり、アメリカとカナダが海外へ派遣する部隊に関する質問だった。そして二番目の見出しが〈ハワイ〉で、真珠湾のあるオアフ島の弾薬庫と機雷貯蔵庫を始め米軍施設や米艦隊など真珠湾に関する詳細な質問項目が記されていた。 英国立公文書館には、ポポフの個人ファイル(KV2/849)の中に四一年八月二十三日付で、MI5でポポフの上司、ロバートソンがイギリス陸軍総司令部のホッグ大佐あてに「パールハーバー 質問表」と題して送った「質問表」のドイツ語原文と英訳した機密文書の原本が保存されている。これは少なくとも八月二十三日の段階でMI5は「質問表」にある調査事項からドイツ(日本を含む枢軸側)が真珠湾に関心を持っていたことを察知していた事実を示している。 最初は「海軍情報」で二番目から真珠湾関連の質問項目が記されている。五つある質問項目のうち真珠湾に関する質問項目は「ハワイ」「飛行場」「海軍基地パールハーバー」の三つで、次の通りだ。 ●ハワイ:弾薬集積場、機雷貯蔵所一、 海軍の弾薬集積場と機雷貯蔵所、パールハーバーのクシュア島にあり、その詳細。できればスケッチせよ。二、 ルアルレイの海軍弾薬集積場の正確な位置、鉄道の有無。三、 陸軍の主弾薬集積場はクレーター・アリアマスの岩場にあると思われるが、その位置は。四、 クレーター・パンチボールは、弾薬集積場として使われているか、もしそうでなければ、陸軍の集積場はどこか。●飛行場:一、ルケフィールド飛行場──詳細(できればスケッチを)、格納庫の状況と数、作業所、爆弾貯蔵所、燃料貯蔵所に関して、地下燃料施設はあるか。水上機基地の正確な位置。二、 海軍航空基地カネオヘ(前項とほぼ同じ)三、 陸軍ウイッカム飛行場とホイーラー飛行場(前項とほぼ同じ)四、 ロジャー空港─戦時、陸軍か海軍によって使用されるのか、いかなる準備がされつつあるか。格納庫の数、水上機の着陸の可能性について?五、 パンアメリカン航空の空港─正確な位置(可能ならばスケッチ)、ここは、ロジャー空港と同一のところか、それともその一部か(パンアメリカン航空の無線基地はモハブウ岬にあるが)●海軍基地パールハーバー:一、大埠頭、桟橋の施設、作業場、燃料施設の状況、第一乾ドックと新しく建設中の乾ドックの状況、それぞれの詳細とスケッチ二、潜水艦基地の詳細、どんな地上施設があるか三、機雷探知機の基地はどこか。入口と東部および南東部の水門の浚渫作業はどのくらい進んでいるか。水深はどのくらいか四、投錨地の数は五、パールハーバーに浮きドックはあるか、浮きドックを移動する計画はあるか「質問表」は真珠湾の米軍施設を詳細に調査する内容だが、空襲が計画されたり、日本軍の奇襲が迫っていたりすることも示唆していない。日本から依頼されたことも明記されていない。ただ単にドイツ側が真珠湾に強い関心を示していたことを示すだけで、米太平洋艦隊の司令部があったハワイの真珠湾に枢軸側が興味を持ったとしても不自然ではなく、「質問表」が真珠湾攻撃の兆しとして日本の奇襲計画情報を米国に伝えたというポポフの主張は信頼性に欠けるとの見方もあった。 しかし、二十委員会でポポフら二重スパイを統括したジョン・マスターマン卿は、回顧録『二重スパイ化作戦』の中で、こう記している。〈トライシクルのアメリカへの質問表には……その後起こった真珠湾奇襲に対する、地味だが見過ごされた警告があった。(中略)彼は(ドイツ側に)非常に信頼されていたので、彼らのために大規模なスパイ網を張るべく、渡米することになった。(中略)やっと八月十日に、一連のピリオド(マイクロドット)に隠された質問表を携えてアメリカに向かった。八月十九日、われわれはMI6から質問表のコピーを受け取ったが、この質問表は、二十委員会の席上で読まれ、その英文に直したものは国家機関の職員たちに送られた。ピリオドは写真に撮られ、米FBIの手によって拡大されたことは記憶にとどめられよう。したがって、FBIは、質問表にあった情報はすべて所持していたのである〉 マスターマン卿も、ポポフの「質問表」情報を「警告」と評価し、それがFBIに渡されていたことを認めていた。英海軍のタラント奇襲英海軍のタラント奇襲 ポポフが日本の真珠湾攻撃の可能性を確信したのは「質問表」に加えてアプヴェールの同僚、イプセンからの情報があった。イプセンから四〇年十一月、イギリス海軍が航空機でイタリア南部の軍港タラントを奇襲した攻撃手法に日本が関心を持ち、日本の依頼でイプセンがタラントを現地調査したことを聞いていた。またドイツの日本専門家で東京駐在の空軍武官だったグロノー男爵もタラントを訪れ、日本は石油備蓄量の関係から、四一年末までには米国と戦争状態になる、と予想したことをイブセンから聞いていた。 さらにポポフは「オアフ島に関することは、ドイツのアジアの同盟国(日本)のためのものに違いありませんね」と尋ねると、ドイツのフォン・カルストホーフは、「誰でもそう思うだろうな」と答えたと回想録に記している。 こうしたことからポポフは日本がタラント海戦に倣って真珠湾を攻撃すると推測した。そこで、この情報をロンドンに送り、渡米して自らの見解を添えて伝えることになった。 アメリカは一日、ドイツ、日本など侵略国とみなす国への石油輸出を全面禁止し、七月二十五日には在米の日本資産を凍結していた。着々と開戦準備を進め始めていたのだ。二重スパイ嫌いのFBI長官 八月十日、渡米したポポフには試練が待っていた。独断的で強引なフーバー長官の下、FBIは防諜活動に全く異なる対応をしていたからだ。歓迎ではなく「二重スパイ」に対する不信と嫌悪の眼だった。FBIのニューヨーク支部長、フォックスワースと面会し、「質問表」にイプセンの情報を交えて「日本が今年末までに真珠湾を奇襲する可能性がある」と報告したが、FBIのニューヨーク支部長は、「あまりにも正確すぎて、すぐ信じるわけにはいかない。フーバー長官の特別指示を仰がねばならない」とだけ答えた。一方、「質問表」は書類のほかドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘の連絡手段「マイクロドット」として手渡された。高倍率の顕微鏡で覗いたFBIの係官らは驚いた。見ると、微細な文字が判明する仕組みだった。ポポフは連合国のスパイとして初めてドイツの革命的なスパイ技術を知り、英米に伝えた。シモーヌ・シモン しかし、フーバー長官は、ポポフに冷淡だった。面談を拒否したあげくポポフに終始、尾行をつけ、真珠湾を調査するためのハワイ行きも認めなかった。FBIから疎んじられ、積極的な諜報活動も一切出来なかったので、ポポフは後世語り継がれる『グレート・ギャツビー』を想起させる豪勢な「どんちゃん騒ぎ」を全米で行った。 英国人女優とフロリダを旅行。高級ホテル「ウォルドーフ・アストリアホテル」からパーク・アヴェニューの高級アパートのペントハウスに居を構え、ロング・アイランドの高級住宅地に夏の別荘を持ち、ビュイックの赤のコンヴァーチブルを乗り回し、旧知のフランス人のハリウッド女優、シモーヌ・シモンと同棲する豪奢な生活を送った。度が過ぎた出費を注意されてもポポフは「私には裕福な道楽者という仮面を維持する必要がある」と馬耳東風だった。このことがフーバー長官には気に入らなかった。 九月半ば、フーバー長官は、ニューヨーク支部にポポフを呼んで、「どこかから来て六週間もたたないうちに、パーク・アヴェニューのペントハウスに住みつき、映画スターを追いかけまわし、重大な法律を破った。もう我慢がならん」と罵声を浴びせた。ポポフが「私は、いつ、どこで、どのように、誰があなたの国を攻撃するかについて、正確で重大な警告を持って来ました」と反論したが、フーバー長官は、「君ら二重スパイはみな同じだ。ドイツの仲間に売る情報が欲しいだけだろう。それで大金を稼いで、プレイボーイになる」と一喝し、ポポフの「真珠湾」情報を一顧だにしなかった。「開戦前夜」日本を把握「開戦前夜」日本を把握 渡米するためポポフがリスボンに渡ったのは四一年六月。この頃、イギリスでは極東の植民地を脅かす仮想敵国、日本の動向に警戒を強めていた。リッデル日記(KV4/188)にもそのことが記載されている。 ドイツがソ連に侵攻したのは六月二十二日だが、その約二週間前の六月六日付で、「ドイツはロシア国境に軍を集中させ、侵攻の準備を進めている。日本も、それに続く兆候がある。イギリス国内でほぼ全ての日本の企業が国外退去を始めている」と記載し、MI5がドイツのソ連侵攻と共に同盟国日本が戦争に加わる兆候を嗅ぎ取っている。 さらに六月九日付では、英国のアジア植民地を脅かす日本の行動も記している。〈シンガポール支部から(マレー作戦に向けて活発化させている)日本の(諜報)活動を十分カバーできないとの不満が寄せられている。急遽、オフィサーを派遣する指示を出した〉 日本がマレー半島で侵攻作戦に向けたインテリジェンス活動を積極的に進めていることを把握しながら、対処できないもどかしさを吐露している。 さらに七月二十八日、日本が日米関係に決定的な亀裂をもたらし、開戦不可避となる南部仏印進駐を始めると、七月二十五日付で「日本はインドシナの占領を始める」と書いている。翌二十六日には、「リスボンのエージェントは日本の公使から、『日本が(石油を狙って)オランダ領東インド(現在のインドネシア)侵攻を検討している』ことを聞きだした」と記しており、日本が資源確保のため東南アジアに進攻する計画を英国が早い段階でんでいたことがわかる。 十二月に入ると、一日付で、「日本は領事館の電話線を切った。一般市民を含む日本人を抑留する協議をした」「もしも日本が宣戦布告すれば、東京から各国大使館に暗号無線で知らせるだろう。BBCが注視している」「在ロンドン日本大使館は暗号機の解体を指示した」などと記している。経済制裁などで追い込んだ日本が宣戦布告せざるを得ないことを予測していたとも受け取れる。MI5は対日戦が間近に迫っていることを明確にんでいたことは間違いないだろう。 六日付では、「アメリカは日本がタイを攻略(マレー作戦)すれば、完全にサポートすることに同意した。日本の軍艦に護送された輸送船がタイに向かっている。侵攻(マレー作戦)は差し迫っている」と記している。二日後に控えたマレー作戦開始の動きをリアルタイムで捉えていた。MI5は日本が「開戦前夜」にあることを掌握していた。とすれば、マレー作戦のみならず対米戦の端を開く真珠湾攻撃も相当の情報を得ていたと考えられる。英国は日本の対米英開戦への動きを正確に捉えていた。その中でポポフから寄せられた「質問表」による真珠湾情報が情勢判断の中心にあったことは想像に難くない。 ポポフは「自分とイプセンは、この『質問表』が日本軍による真珠湾攻撃の可能性を示唆していることに最初から気づいていた」と語っている。 リッデル副長官は毀誉褒貶が激しい二重スパイのエース、ポポフに信を置いていた。「質問表」が届いた四一年八月十四日付の日記(KV4/188)に、こう書いている。〈部内でトライシクルの扱いにねじれがある。彼が海外で入手する情報は私たちには死活的に重要だ。トライシクルと私たちの目的は同じだから彼を自由に行動させ、海外で得る情報をもっと注意深くカードとして利用すべきだ〉 ポポフが渡米して四カ月後に日本軍は真珠湾を攻撃し、米国が参戦した。連合国は歴史を変えたかもしれない重要な秘密情報を見逃してしまったのだろうか。 ベン・マッキンタイアーによると、ポポフの上司のター・ロバートソンは、「私たちが犯したミスとは、真珠湾情報を取り出して別個にルーズベルトへ送らなかったことではない。フーバーがこれほど救いようがないバカだとは誰一人思わなかったのだ」とFBIを非難している。1941年10月の真珠湾「ワレ遂に勝利セリ」 ポポフを統括した二十委員会のマスターマン卿は『二重スパイ化作戦』で、自責の念を込め、「重要性」を強調すべきだったと書いている。〈(日本と)アメリカが戦争になったとき、真珠湾が最初に攻撃されること、そしてその攻撃の計画が一九四一年八月までにかなり進んでいたことをこの(ポポフの)質問表が極めて明確に示唆していた。明らかに質問表を正しく評価して、そこから推論するのはわれわれではなく当然アメリカの仕事だった。とはいえ、われわれの方がその事情とこの人物(ポポフ)をよく知っていたのだから、もっとその重要性を強調すべきだった。さらに数年の歳月を重ね、経験を積んでいたら、きっとわれわれは肘鉄砲をくらう危険を冒しても、アメリカの友人たちにその書類の重要性を指摘出来たに違いない〉 副長官のリッデルの日記に記されていたことで、ポポフの「質問表」の真珠湾情報は、少なくともMI5では、国家の命運を決する最重要情報として位置付けられていたに違いない。そして、そのインテリジェンスは米国FBIのフーバー長官にもみ消されたものの、英国の最高責任者のチャーチル首相に伝えられていたと考えるのが自然だろう。チャーチルは日本が真珠湾攻撃することを事前に察知していたからこそ「奇襲」の一報に接して、「ワレ遂に勝利セリ」と叫んだのではないだろうか。おかべ・のぶる 一九五九年生まれ。産経新聞ロンドン支局長。八一年、立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。社会部で警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て九七年から二〇〇〇年までモスクワ支局長。『消えたヤルタ密約緊急電──情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書)で第二十二回山本七平賞を受賞。ほかに『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)などの著書がある。

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    米軍事アナリストが徹底分析 「五十六神話」完全崩壊

    アラン・D・ジム(軍事アナリスト)翻訳・浦辺忠德(翻訳家) 「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」──赤城、加賀、蒼龍、飛龍……単冠湾を出撃した空母機動部隊、ト連送による突撃命令、赫々たる戦果──真珠湾奇襲は今なお語り草となっている。だが、冷静な目でみるとこの作戦は穴だらけ。米軍事アナリストの徹底分析をみれば、もはや「山本五十六」は神話でしかない……。戦略の現実妥当性 日本海軍は宣戦布告なしに攻撃の火ぶたを切る伝統があり日米戦争の劈頭に真珠湾攻撃をすることは異例な考えではない。 一九二九年には海軍大学で二隻の空母による真珠湾攻撃の図上演習が行われた。翌年には山本五十六大佐は海軍水雷学校で真珠湾攻撃の必要を説いた。山本は徹底して真珠湾攻撃に固執した。 ハワイはサンフランシスコ、サンディエゴ、フィリピン、東京の中間に位置しその致命的重要性は理解されていた。一九四〇年に太平洋艦隊の根拠地になり修繕施設や補給施設が整備され日本への反撃拠点であるとともに米本土の最後の防御線になった。 ワシントン海軍軍縮条約において戦艦の対英米比を六割に抑えられた日本海軍にとってそのハンディの克服が最大の課題であった。 海軍の伝統的な戦略は、開戦となればマーシャル、マリアナ諸島など委任統治領を根拠に潜水艦と航空機により米艦隊を攻撃して漸減させ日本艦隊と対に持ち込み日本近海で決戦するという漸減作戦であった。軍令部としては開戦になっても早期に米国との講和を図る腹積もりであった。山本五十六は連合艦隊司令長官の辞職をほのめかし真珠湾攻撃を押し通したが、これにより軍令部の短期戦戦略は排除された。 山本は米海軍と米国民の士気を阻喪させるべく開戦劈頭で米国の主力艦隊を撃破すべきと信じていた。開戦第一日目にして戦争の帰趨を決するというものだ。 山本は何を達成しようとし対価は何だったのか。  山本は海軍航空の父とされ戦艦無用論者とされるが、米国民には戦艦はシーパワーと同義語であり、象徴的な戦艦を沈めることで士気を阻喪させる甚大な効果があるとみて戦艦の撃沈に集中した。そのためには魚雷が必須であり計画の過程で真珠湾が浅く魚雷を使用できなければ攻撃を断念する考えであった。空母であれば急降下爆撃機によって破壊できるので、あくまでも戦艦が目的であったということだ。Attack on Pearl Harbor by Alan D. Zimm Copyright 2011 © Alan D. Zimm Japanese reprint arranged with Casemate Publishers, Havertown, PA through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo 実は、山本は徹底した空母主義者ではなく、やはり戦艦を艦隊の華とみていた節がある。〝隠れ戦艦派〟だったのだ。山本は真珠湾攻撃のリスク、とくに陸上基地からの爆撃機による機動部隊攻撃の脅威を懸念していた。さらに日本の空母が米空母による攻撃から無傷で生き残れるか。実際には米空母が出払って洋上にあるとの報告を受けても攻撃を続行させた。山本の狙いは米戦艦でありその対価は日本空母であった。 奇襲の二十四時間前に艦隊が捕捉されても攻撃を強行せよという作戦指令はそれを裏付けている。 第二の目的は日本が南方資源地帯を攻略する際の妨害を排除するために米太平洋艦隊を六カ月釘づけすることである。日本は作戦の策定において米国のロジスティックスを無視したが、これは自己の認識を相手に投影(mirror image)する自己投影に過ぎず、日本軍の作戦の随所にみられる。米海軍においてロジスティックスは艦隊行動の大前提であり、大艦隊を出動させるには各種補給、支援体制など全て整えるには六カ月を要する。この意味で真珠湾攻撃は必要がなかったといえる。 山本の構想で仮に太平洋艦隊の侵攻を六カ月遅らせることに成功しても、新造艦計画による米国の物的優位を妨げられるものではない。真珠湾攻撃により全米国人の憤激は頂点に達し、官民あげて戦争目的の完遂に邁進することになった。実際、米国が真珠湾、フィリピンの敗戦によって戦意を喪失して講和するなど論外である。山本は根本的なことを大きく読み違えている。結局、真珠湾が成功しても講和にならなければ、必然的に日本が勝利する見込みのない米国との長期戦となる。 真珠湾攻撃は米国との長期戦を誘発するものであり、その他のありえた日本の可能性のすべてを放棄させた。仮に最後通牒が間に合ったとしても、これは形式要件を有しないものであり事態に影響はない。日本政府の最後通牒は宣戦布告ではない!翔鶴から発進準備中の零戦(21型)最後通牒の要件 日本政府が最後通牒をワシントン時間午後一時に米国政府に手渡すことが遅れたことは書籍や映画で何度も取り上げられており、開戦にいたる重要なエピソードになっている。しかしこの時手渡された覚書は宣戦布告とみなされるものではない。「よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」と結ばれている。交渉が妥協点を見いだせなかったとは振り出しに戻ることであり、次のステップが戦争であると伺わせる言葉は全くない。外交関係の断絶や外交団の召喚にも触れていない。 ルーズベルト大統領も十二月八日の有名な「屈辱の日」のスピーチにおいて、十四部の覚書につき、「この回答は現在の外交交渉を続けることが無用であると思われると述べているが、戦争もしくは武力攻撃の脅しやそれを伺わせるものは何も含まれていない」と述べている。野村、来栖大使も覚書を手渡し戦争勃発と知り驚いたとされる。枢密院の会議を経て帝国政府による英米に対する正式な宣戦布告がされたのは東京時間の十時四十五分(真珠湾時間十五時十五分)であり攻撃開始の七時間後である。最後通牒手渡し遅延のエピソードが定着しているが、ことの本質を惑わすものである。 山本は最後通牒が予定通り通告されたか最後まで気にしていたというが、その指揮下の潜水艦はその前日に米国領海内においてラハイナ泊地の偵察を行い、特殊潜航艇は前夜に領海侵犯し、水上偵察機による領空侵犯が一時間前になされている。主要な攻撃目標 山本は真珠湾攻撃の実行可能性について大西瀧治郎少将に意見を求めたが当初の結論は非常に困難で全滅の恐れもあるというものであった。大西は第一航空艦隊の航空参謀源田実に検討させ「困難ではあるが不可能ではない」との感触をえた。源田は奇襲が肝要と考えていた。主な目標は敵主力艦で陸上の飛行機にも高い優先度を与えた。真珠湾は獲物が豊富であり魚雷、爆弾、戦闘機を用いたバランスの取れた攻撃を勧告した。多くの目標に軽い損傷を与えるより、主要目標に大きな被害を与えるべきと主張した。 主要目標としては第一に主力艦、第二に日本の攻撃機及び軍艦の安全を確保するための目標、第三に基地インフラ及び補給施設である。大西は修正の上、源田案を採用、山本に提出、真剣な実行計画の検討が開始された。目的は米艦隊を六カ月釘付けにする被害を与えることである。修繕施設がフルに稼働しても魚雷、爆弾により達成可能とされた。97式艦上攻撃機99式艦上爆撃機一列縦隊の攻撃は見事な選択だった兵器と目標の組み合わせ 格闘戦闘機であるゼロ戦はその前の世代より重装備で七・七㎜機銃と二十㎜機関砲を備えた。ゼロ戦の他に空母搭載機としては三人乗りで高高度水平爆撃機としても雷撃機としても使え二百五十㎏の通常爆弾及び通常六十㎏爆弾六発もしくは二百五十㎏爆弾二発搭載可能な九七式艦上攻撃機がある。さらにドイツのユンカースJu-87と同類の二人乗り二百五十㎏爆弾を搭載する九九式急降下爆撃機がある。 兵器目標テーブルは各目標の種類に応じてどの兵器を使用するのが適切であるか示すものでXはおよその対応を示すが必ずしも最適な対応を示すものではない。その兵器システムが目標に対する妥当な能力を有することを示すに過ぎない。SEAD(Suppression of Enemy Defenses)は敵の防空の制圧を意味しており機上掃射または爆撃で達成する。 真珠湾作戦には六隻の空母が作戦に割り当てられた。追加の翔鶴、瑞鶴の完成は出発日の数週間前に過ぎず飛行甲板要員の訓練には不十分だった。練度に応じて両艦の搭乗員の攻撃目標としては敵航空基地が指定された。六隻の空母が提供するのは四百十七機の航空機で機種はほぼバランスがとれていた。攻撃直前の99式艦爆。後ろは空母蒼龍 雷撃機は目標の指定に優先方式を採用していた。作戦上の優先順位は戦艦と空母で、優秀な諜報により各戦艦の位置を把握しており、一から八まで順位をつけていた。九七式艦上爆撃機は最初の戦艦四隻を攻撃して空母が停泊中であれば空母を狙うとされた。空母が居なければ、残り五〜八の戦艦を攻撃。九九式急降下爆撃機は巡洋艦を担当する。 但し、この説明は作戦命令とは合致しない。空母攻撃隊作戦命令三号では、「第一波の目標は四隻の戦艦と四隻の空母に限定され、順序は戦艦、そして空母」とされている。 戦後、雷撃機搭乗員の多くは第一優先順位として空母を攻撃するよう指定されたと述べている。明らかに公式の優先順位は最高指揮官の意図を意識したものだ。山本には戦艦が最優先であると報告された。先端の技術に通じた源田と淵田美津雄は雷撃機の四〇%は空母を目標にすることを考えていた。 雷撃隊は淵田の決定によって一列縦隊で攻撃したがこれは見事な選択だった。戦艦に対しては何本もの魚雷を回避できないように並列が常道であるが、真珠湾は入り江が狭く妨害物が多いので長い列が最適と考えた。 次の図から問題なのは十八攻撃ルートのうち十一ルートが交差しており、相互に干渉しかねない。良好な通信と緊密な指揮があればよいが、各指揮官は最良とみなすルートを選ぶ権限を有しており、各機は指揮官との通信ができない状況であった。さらに異なる攻撃隊との攻撃ルートとも交差していた。これでは空中衝突、ニアミスが起こりうる。雷撃機は一列縦隊で攻撃することになっていたが、違う空母から発進した雷撃機の場合、調整はできない。戦闘が開始された後の指揮は指揮官にとって悪夢であった。 日本海軍の通癖であるが計画通りに行くことを想定して、うまく行かなかった場合の是正がなされない傾向がある。優秀な諜報を受けながら十分いかしきれなかった計画の全体的印象 日本軍は非常に早い段階で魚雷と水平爆撃機の配分を決めていた。艦上攻撃機の殆どは最初雷撃訓練を受けるべきだった。その間に爆撃の指揮官を十分訓練しておく。結果として雷撃隊はより少なくてよいとなったら雷撃要員を爆撃にふりむけることは容易だ。爆撃は指揮官に続けばよいので雷撃ほどの技術は要しないからである。日本軍は優秀な諜報を受けながら十分いかしきれなかった。もし搭乗員が雷撃も高高度爆撃もできるように訓練しておけば出撃直前の水雷防御網、停泊戦艦、空母数、並列停泊戦艦数の諜報に基づいて最も適切な割り振りが出来たはずである。この柔軟性の欠如によって計画が達成できたであろう戦果が制限された。 計画はその時点における最先端の利用できる戦術と技術を使ってはおらず、明らかな問題を予測できなかった。戦艦を対象に海上で演習した兵器を結び付けたアプローチをしなかった。計画も計画者自体も著しく柔軟性を欠いており変化する条件や諜報に対応する決定プロセスが組み込まれていなかった。予行演習によって明らかになった問題に対しても計画は対応していなかった。三種類の飛行機全てについて割り当ての決定も目標の優先順位も疑問であった。日本軍は攻撃前日に艦隊が停泊中でマウイ沖にはおらず、空母は不在で水雷防御網は敷設されていないとの正確な情報を得ていた。攻撃発進前に当然計画を大幅修正すべき重要情報であったが適切な変更はされなかった。もし米軍が通常の警備態勢で対応していたら雷撃は完全な失敗であった可能性が極めて高い。攻撃の評価(1)淵田の照明弾の致命的な不手際 照明弾を使って伝達する方法は考え抜かれていなかった。照明弾一発は奇襲成功、二発は奇襲不成功、即ち強襲と決められていた。淵田は奇襲成功と判断して照明弾を一発発射したが、戦闘機隊が反応しないように見えたので、見過ごしたと思いさらに一発発射した。雷撃機は奇襲成功と理解して直ちに降下して攻撃態勢に入ったが、一方急降下爆撃機は奇襲不成功(強襲)とみて攻撃を開始したために、同時に攻撃をかける結果となり混乱が生じた。 雷撃機は低空を低速で接近するため敵が射撃態勢に入る前に攻撃することが絶対条件とされた。当日、真珠湾の軍艦はコンディション3の状態にあった。対空火器の二五%に臨戦態勢をとらせるものだったがロックされていた。淵田のミスにより発射ができるまでの時間が稼げた。警戒が殆ど解除状態に関わらず対空火器が応戦できるまでの時間は戦艦が五分、巡洋艦が四分、駆逐艦が七分で日本側の予想よりはるかに早い。最初の爆弾は最初の魚雷がユタに命中する二分前に着地したが、その数分前に戦艦群への攻撃は始まっていた。 戦艦群を攻撃する雷撃機は砲火をもろに受けた。奇襲にも関わらず魚雷を発射する前から機関銃の弾雨を受けたと雷撃隊指揮官が述べている。時宜を得ない警告を米側に与えてしまったばかりに五機の雷撃機が失われ、発射する前に貴重な魚雷が無駄になり、十二機は効果的な攻撃ができなかった。雷撃機が起こした心理的、物理的エラー(2)雷撃の無駄 源田の計画の原則は多くの戦艦にほどほどの損害を与えるより一隻に致命傷を負わせる方がよいというもので、山本も戦艦が使用不能になるか沈められることを望んだ。米国の海軍大学の試算では条約型戦艦を日本軍の航空魚雷で沈めるのには六、七本必要とし、命中が十五分以内に集中する場合は反対注水が間に合わないので四、五本で転覆するとみていた。米国の戦艦は速度を犠牲にして重装甲や魚雷防御を強化していた。戦艦が海上にあるときは水密措置が徹底されるので港にあるより強靭であることを日本は知っていた。 戦闘においては拙劣な目標設定や発射など決断ミス、心理的エラーや物理的エラーが起こりがちであるが雷撃機はこの両方のエラーをおかした。 最初の大きなエラーは空母泊地攻撃を命ぜられた雷撃隊がおかした。停泊していたのは老齢で除籍されて標的艦になっていたユタと二十㎝砲の初期型巡洋艦ラレイとデトロイト及び貨物船改造の水上機母艦タンジールであった。時代遅れの巡洋艦は一応優先リストで認められた目標であったが、ユタは明らかに貴重な兵器の無駄遣いだった。 飛龍の攻撃隊長松村大尉は伝声管を通して「空母を探せ」と見張りに伝えたが、フォード島の北西にそれらしき巨艦が見えたが上部構造を取り外し板張りの甲板だけになった艦齢三十年の廃艦に近い標的艦ユタであった。発艦前に隊員にはこの艦はほうっておけと命じられていた。長井大尉指揮下の森二飛曹はこの攻撃を目撃して「奴らは停泊艦の二隻は巡洋艦だと分からないのか。少し離れたところに戦艦が居るのに魚雷を無駄遣いするのは犯罪的だ」と思った。警告にも関わらず、雷撃機六機がユタを攻撃した。この魚雷の無駄遣いは空母不在との重要情報にもかかわらず、空母に固執する余り戻っているかもしれないとの全く根拠がない期待から、当初予定通り空母泊地の攻撃を命じたことによる。攻撃隊員を惑わせ遠路日本から運んだ貴重な六本の魚雷を無駄にした全責任は参謀にある。在ハワイの海軍予備士官吉川猛夫が届けた最後の情報は活かされなかった。日本軍機から撮影された、魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦(3)攻撃ルートと衝突回避 秩序立った攻撃はされなかった。投下後に前機が左旋回して衝突を回避する基本的手順は常に実行されたわけではない。飛行経路は対空砲火と煙で妨げられ編隊は入り乱れた。戦後のインタビューでは搭乗員は目標の優先順位よりも予想外に熾烈な対空砲火や目標を見分ける難しさ、どれであれ戦艦を攻撃したかったことなど話した。最も歴戦の搭乗員だけが攻撃の分散について語った。計画者は単純な任務とみていたが実際の戦闘はそうならなかった。計画では攻撃に二分と見ていたのが、実際は十一〜十五分かかったことがこのことを物語っている。(4)過剰破壊 淵田は天皇に説明するための一九四一年十二月二十七日の地図では三十六本の魚雷が命中と示している。二十一本がオクラホマとウェスト・バージニアで、必要量の二倍である。ヘレナには五本で一〇〇%以上の過剰破壊であり、ユタへの六本はすべて無駄であった。 淵田の報告からは三十六本の魚雷の内十九本(五三%)は過剰破壊か無駄であった。雷撃機のパイロットからすると二十〜三十秒間隔の攻撃では、その前の魚雷の上げる水柱を目撃するのみで自分の前にどれだけ目標に命中したか判別が難しい。オクラホマに上がる水柱を見て次のより狙いやすい目標としてウェスト・バージニアに移る。何発かウェスト・バージニアに当たる間にオクラホマの水柱は収まっているので、追加の魚雷がオクラホマに向けられる。赤城と加賀の攻撃機で七十秒のギャップがあることも問題を難しくした。優先方法の下で魚雷を適切に振り分けるためには自分の目で確かめる以上に情報が必要であった。さもなければ容易な目標に命中が繰り返されることになる。このことは予行演習でも起こっていたが是正されなかった。 さらには優先方法自体が日本人の心情に反していた。武士道精神に満ちた日本の戦士が二千六百年の日本の歴史で最も重要な戦闘において二次的な目標を攻撃して、凱旋して「二次的な目標を攻撃しました」と報告できるだろうか。二次的目標と思って魚雷を投下したパイロットはいなかった。(5)総括 戦記の常識とは裏腹に真珠湾攻撃の作戦自体も実行も不完全であり、多くの側面において必ずしも当時の世界の最先端をいくものではなかった。・計画は基本的に柔軟性を欠いていた。戦艦攻撃兵器九七式艦上攻撃機は徹甲爆弾も魚雷も搭載可能であるが兵器の配分は計画初期に行われており、この配分は訓練、テストさらには真珠湾に魚雷防御網が敷設されていないとの最終情報によっても変更、調整されることはなかった。魚雷についての最大の課題は浅海面雷撃ができるかだが、これはぎりぎり出撃二週間前に解決された。・計画者は浅海での魚雷攻撃の問題、魚雷防御網の有無に関わらず戦艦攻撃をすると決めていたので、このことが九七式艦上攻撃に高高度爆撃をさせるための爆弾を過剰配分する結果になった。攻撃隊全体としての最適成果をあげるための配慮はなされず、潜在攻撃能力は十分発揮されなかった。・徹甲爆弾の多くは正しく炸裂しなかった。・訓練の段階から戦闘機、水平爆撃機、急降下爆撃機の連携、調整が欠けていた。・日本軍は攻撃二十四時間前に詳細な諜報情報を得ていたにも関わらず計画の修正をしなかった。参謀たちは空母不在の情報を受けていながら当初の計画に固執して予定通り不在の空母泊地を攻撃させた。この硬直性はあらゆる局面にみられた。・日本海軍はとくに在ハワイの予備士官吉川猛夫が長期にわたり極めて優秀な諜報活動をしたが必ずしも有効に活用されなかった。・九七式艦上攻撃機へより多く魚雷を配分していたら米側の被害ははるかに大きかったであろう。このため破壊可能な魚雷目標八隻のうち三隻は被雷を免れた。・計画は奇襲成功をすべての前提としており強襲になる可能性も高いに関わらず対応は一切とられなかった。当然二次攻撃以降は一〇〇%強襲である。従って雷撃機への戦闘機による対空砲火制圧による支援は考慮外であった。雷撃機は攻撃の瞬間まで一切援護を受けず砲火に晒された。・雷撃機の為の計画は杜撰で攻撃ルートの交通整理は全くされておらず互いに干渉しあうことになり目標照準、攻撃を大きく阻害した。・日本軍の目標についての優先スキームは実行しがたいものであった。その責任は搭乗員に任されたが彼らには十分な情報がなく、相互の通信手段もなかった。・淵田が攻撃信号の不手際で二発発射したことで攻撃順序に大きな混乱が生じ攻撃機の間の緩衝、攻撃の不正確さや犠牲の原因となった。・日本軍の空中通信は極めて非効率であった。とくに淵田の初動の不手際によって後続の指揮官は効果的な指揮ができなくなった。雷撃機の場合は指揮官機に続いて十二機の爆撃機が五百ヤード以上の間隔で一直線に突っ込む戦法なので初動の混乱の影響は大きい。・急降下爆撃機のネバダへの攻撃は兵器の不適切な使用であった。攻撃の目的達成には何の寄与もなかった。・水道で戦艦を沈めて軍港を封鎖する考えは中途半端で極めて拙劣な決断であった。・艦隊目標に振り当てられた急降下爆撃機は殆ど貢献しなかった。この任務に充てられた八十一機のうち主目標である巡洋艦に命中させえたのは二機にすぎない。八隻いた巡洋艦のうち六隻は大きな被害を免れた。・急降下爆撃機の二百五十㎏爆弾の相当数は欠陥品であった。・急降下爆撃機の目標の特定は余りに拙劣であった。補給船を戦艦、駆逐艦を巡洋艦、乾ドックを戦艦と錯覚するなどひどいものだった。・戦闘機の用法についての計画も拙劣だった。第一波の戦闘機による援護も攻撃における重要性にそったものではなく、雷撃隊も全くエスコートされず上空援護もなかった。真珠湾攻撃に関わる通説の殆どは間違っている 真珠湾攻撃に関わる従来の通説の殆どは間違っている。・日本軍はスーパー搭乗員の部隊を使わなかった。翔鶴、瑞鶴などの搭乗員は極めて経験が浅く地上攻撃にむけられた。日本海軍の搭乗員が急速に練度をあげてピークに達するのはインド洋作戦の頃であろう。・第三波の攻撃をしたとしても真珠湾全体の修理能力にさしたる影響はでなかった。被害が出ても短期間に回復可能であった。戦争日程には大きく影響はなかったとみられる。・燃料タンクは日本軍の攻撃で殆ど破壊されたかもしれないが回復可能である。それにより太平洋艦隊が真珠湾を放棄することはありえず戦争日程にも重大な影響はでない。・日本の十四部の外交文書は宣戦布告とはみなされず、仮に間に合ったとしても、卑怯な奇襲であるとして米国民が激怒したことに変わりはない。・五番目の特殊潜航艇が潜入してオクラホマやアリゾナへの雷撃に成功した可能性は極めて小さい。さらに駆逐艦ウォードが攻撃より一時間以上前に他の特殊潜航艇を撃沈している。これは通常であれば真珠湾全体が直ちに緊急態勢に入る事件である。レーダー探知された未明の水上偵察機の偵察機の動きと言い日本海軍の奇襲の可能性は完全に消滅していた筈である。 真珠湾攻撃についての従来の解釈は歴史的事実を大きく歪曲しており、権威ある戦闘指揮官の言葉であっても額面通り受け入れるのは危険である。的確な南雲長官の判断 第三次攻撃をしなかったことで南雲忠一長官は臆病な提督との不当な烙印を押されてきた。評論家の多くが海軍工廠、修理施設、潜水艦基地さらに燃料タンク群を攻撃しなかったことで日本が大きな機会喪失をしたと指摘している。『真珠湾は眠っていた』の共同著者であるゴールドスタインおよびデイロンに至っては、個々の艦船を破壊するよりも太平洋艦隊をより効果的に無力化できたであろうとさえ述べている。米国海軍は「日本軍は真珠湾海軍基地の陸上施設を攻撃しなかったが、これらは第二次大戦における連合軍の勝利に重要な貢献をした」との公式見解を出した。これらの評価は他ならぬ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツの「戦争を二年長引かせたであろう」とのコメントに由来するとみられる。しかし第三次攻撃につき淵田から南雲長官に強い進言があったともいわれるが、それを裏付ける証言は全くない。現実には筆者の分析によっても、第三次攻撃によって得られる施設、燃料タンク群の破壊効果は限定的である。 南雲はもともとこの作戦の成功の可能性には懐疑的であり、潜水艦のミスで奇襲の前提が崩れることを恐れていた。参謀長の草鹿龍之介も攻撃により仮に目先の優位が得られても長期的成果の保証はないと冷めた見方をしていた。味方機の犠牲は第一次攻撃の九機から第二次攻撃は二十機と急増しており、米軍の迎撃態勢も出来ていることは間違いなく、何よりも二隻の航空母艦の行方が不明である。所在不明の空母がいかに潜在的脅威であるかはミッドウェーで証明される。南雲は攻撃重視の連合艦隊に危惧を持ち、空母の喪失は日本の攻撃能力を削いで敗戦に繫がりかねないとして提言したが殆ど退けられた。 筆者の分析においても第三次攻撃は僅かな追加的な戦果のためにすべてをリスクに晒すことになったであろう。この上ない責任と重圧のもとで南雲は最少の損失で自己の使命を完全に全うした。第三次攻撃についての南雲の名誉は回復されるべきである。燃料タンクへの攻撃効果燃料タンクへの攻撃効果 海軍工廠や燃料タンク群への攻撃の提言については触れていない。計画者の間で幾らか考慮されたことはあるが、源田は兵器の分散使用は対効果で無駄になるとして、限られた兵器を向けることに反対した。数千マイル離れた連合艦隊司令部においても山本五十六、宇垣纏参謀長始め、太平洋艦隊のより完璧な殲滅を望んだようであるが、インフラは考慮外であった。 現実に限られた兵器で海軍工廠や修理施設に決定的打撃を与えることはできなかったであろう。一部が破壊されてもハワイには陸上、海上に軍および民間を含めて優秀な工員を抱え極めて大きい修復能力を有していたので被害があっても短期間で回復可能であった。珊瑚海海戦で大損傷を受け修理に数カ月かかるとされた空母ヨークタウンを僅か三日で戦列に復帰させたことは好例である。 燃料タンク群を破壊、炎上させる手段としては機銃掃射と爆弾がある。燃料タンクは燃料と屋根の間に蒸発した燃料が溜まり爆発する危険を避けるために屋根が燃料レベルまで下がる構造になっている。燃料タンクの外板は〇・七五インチから一・五インチの厚さで下にいくほど厚くなっている。日本の軍用機の標準装備は七・七㎜機銃である。零戦は二十㎜機関砲を二門、弾丸各六十発装備しているが飛行機のアルミ製の軽い外板で破裂するように設定されており燃料タンクの外板は貫徹できない。屋根に当たれば破裂して穴が開くだろうが、破片が貫いても燃料が発火するだけのエネルギーと酸素は供給されない。 爆弾の場合、二百八十発の二百五十㎏爆弾ですべての爆弾がタンク群のエリア内に落下したとする。タンク外板の厚さを一インチとしてコンピュータシミュレーションすると一千回のトライアルで、九〇%のケースで二十二〜三十五タンクが直撃を受けて三タンクに破片が及ぶ。これは燃料タンクの四六%〜六九%、二十五万九千〜三十八万九千メータートンに相当する。各燃料タンクは全容量を受けられる土手で囲まれている。輻射熱が隣接するタンクに及ぶのは少なくとも一時間かかる。タンク群には火の拡散を防ぐため放水パイプが巡らされており、各タンクには防火泡沫システムが内蔵されている。燃えているタンクや土手内の燃料はポンプにより安全なタンクに移し替えることができた。攻撃時点では十〜十五ノットの風が吹いており風上のタンクが燃えればその煙で爆撃は困難になる。実際にはタンクに着火させるのは思うほど簡単ではない。湾岸戦争においてもミサイルの熱い破片がタンク内に入ったが発火しなかった。 タンクの構造は簡単であり、破損したタンクの再建に必要な鉄鋼は約五千トンである。喪失した燃料補充に必要なタンカーは一カ月であれば十三〜二十隻、二カ月であれば七〜十隻、三カ月であれば五〜七隻である。これは調達可能でありニミッツの判断は間違っていることになる。キンメル大将とショート中将の失態キンメル大将とショート中将の失態 米国太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル大将は不当な扱いを受けスケープゴートにされたと見る向きが多い。キンメルはワシントンが必要な情報を伝えなかったと主張。さらに三百六十度の哨戒に必要な飛行機が不足していたと訴えたが、ハイリスク期間の短期哨戒は可能だった。キンメルは十二月七日以前にワシントンから極めて高度の「戦争警告」を受けている。さらに東南アジア侵攻のための日本の大船団が移動中との情報を得ており、実際十二月六日に日本海軍の九〇%は出動していた。当然哨戒をさせるべきだった。「外方哨戒線」への哨戒を実施していれば日本の空襲部隊の接近を発見して攻撃四十分前に警告できたはずである。四十分あれば地上の飛行機を分散配置して、準備できた飛行機を離陸させ、対空射撃態勢を十分整えられたはずである。 最も不足していたのは航空情報センター(AIC)が機能していなかったことである。機能していれば四十分の事前警告は可能で艦隊および陸軍の対空防衛体制をとらせるのに十分であった。AICの運用テスト成功後も機能させる措置をとらなかった責任の一端がある。キンメルは攻撃七週間前の十月十四日に以下の永続命令を発令している。 「宣戦布告に先立ち(1)真珠湾内の艦船への奇襲、(2)運用エリアにおける艦船への潜水艦攻撃、または(2)両方の組合せの可能性がある」 軍事基地としての真珠湾の防衛責任者がウォルター・ショート中将だった。ショートは攻撃前夜まで高度の警戒レベルを維持していたが、不可解なことに「戦争警告」を受けるとショートは弾薬を弾火薬庫に戻し、移動高射砲を倉庫に移し戦闘機パイロットに基地を離れることを許可し、戦闘機を整備に回したその弾薬を格納庫にしまわせた。ショートは事実上、防空体制の武装解除をした。日系人のサボタージュを警戒して飛行機の翼がつくように付けて並べた。これらのすべては戦争が切迫しており、日本船隊が移動中との情報を得た後である。ショート中将は職務を果たすのに十分な人と装備を有していた。AICが機能して適切な警告がされていれば陸軍の防空部隊が日本軍に痛打を与えていたはずである。四十分の明暗 十二月七日の陸軍の防空は完全な停止状態だった。前週までは高度警戒の防衛でパイロットは自分の飛行機で待機、日の出とともに哨戒に飛び立ち高角砲は実弾を装塡し待機していたのと対照的である。 攻撃数カ月前に陸軍では英国のバトル・オブ・ブリテンで使われた航空警戒サービス・システムに倣ったレーダーと観測員からなるAICを構築した。AICは空襲の二カ月以上前、一九四一年の九月二十一日に試験が成功していた。艦載機を使ったテストではオアフから八十四マイルで捕捉、防衛側に四十分の余裕を与えた。このシステムは敵味方の識別はまだできなかったが、空母発進の大編隊は十分識別できた。但し、ショートとキンメルは将校を配備しての運用開始を開戦後としていた。 十二月七日、AICのレーダーサイトの一つがオアフ島北方百三十六マイルに攻撃隊を補足した。その前には二機の水上偵察機を追跡している。AICが動いていれば太平洋艦隊と陸軍は警戒態勢をとるほぼ五十分の時間があった。米軍が事前警報を受けていたら米軍が事前警報を受けていたら・艦隊:艦隊はコンデイション3だった。戦艦は高角砲の四分の一に兵員が配備され砲一門当たり十五発、〇・五〇口径機関銃二門で各三百発。訓練した兵員であれば一分で二十発発射可能である。土曜日は上陸日であるが宿泊施設があまりないので下士官兵の殆どは艦に戻っていた。士官クラスは結婚している者も多く艦によっては五〇%位が不在だった。・陸軍:陸軍はオアフ島に大きな対空能力を有していた。防空担当の沿岸砲兵部隊が三インチ固定高角砲二十六門、三インチ移動高角砲六十門、三十七㎜一機関砲二十門、〇・五〇インチ口径機関銃百七門。その他。・陸軍航空隊:陸軍航空隊はP-40、六十四機、P-36、二十機、P-26、百機が稼働可能だった。他に整備中が九十機。十一月二十八日までは警戒2であったがショート中将がサボタージュ対策を意味する警戒1にした。十二月六日に制約が外れた当番将校以外週末休暇が認められ、平時に従い弾薬は飛行機から外されて倉庫にしまわれた。・艦隊への四十分前の警告:空襲四十分前に総司令部(GH)が全艦隊向けに設置されるが、設置に必要な時間は最大二十分である。高角砲、電力供給、高角砲用高圧空気、消火用水圧担当が戦闘配備につく。日曜朝は士官の六五%、乗員の九五%が乗艦しており十分対応できた。当時米国海軍は世界最先端の方位盤と、世界最高の高角砲5/38を備え、前年から訓練を重ね高い練度と士気を保っていた。七時五十分から八時五分にかけ約三十二機を撃墜した可能性がある。第一次攻撃隊の撃墜の推定は下限で四十一機、上限で五十二機である。珊瑚海海戦やミッドウェーでは五〇%以上、場合によっては七五%の飛行機が喪失したことから、真珠湾には艦載の高角砲よりも多くの砲を導入できるのでこの被害推定はむしろ低めである。さらに雷撃機二十〜三十四機が魚雷投下前に撃墜されると見られ、残るのは二十〜二十八機となる。英国の地中海戦闘の調査でも防空体制をとる艦船への命中率は六〇%下がるとされる。・米陸軍飛行隊(AAC)への四十分前の警告:十一月二十八日までのコンディション2においては常に待機状態でパイロットは飛行機についていた。日本海軍は当初この警戒期間中の攻撃を計画していた。十二月七日に稼働可能な飛行機は九十四機で通常より少ない。機銃整備中のものを加えると使用可能な機体は百六機であり、十一月二十八日機の防空戦闘機による撃墜数は推定の下限で六十一機、上限で八十三機である。・陸軍の全面防空警戒:陸軍は真珠湾攻撃の直前に七日間の演習を実施した。全ての高角砲が動員され実弾装塡された。然るに十二月六日に武装を取り外す指示がでた。警戒期間中に日本軍の攻撃があったとすれば、移動三インチ砲七十六門が防衛に加わり十二機から四十八機が更に撃墜され陸軍の三インチ高角砲と併せて十八機から七十八機撃墜できたとみられる。 全ての防空体制を加えると以下の推定下限および上限となる。 もっとも有りうるのは攻撃隊の五〇%台とみられる。これは一九四二年から四三年にかけての海戦における喪失機数に沿っている。珊瑚海海戦における日本側の喪失数は三〇%、飛龍の米空母への攻撃による喪失は六三%で、ミッドウェーにおける米国の雷撃機は八六%である。真珠湾における日本機の喪失も同様に恐ろしい数字になった可能性がある。 以下の表は搭載機の喪失により稼働不能となる空母である。 日本空母は搭載機数の三分の一から三分の二を喪失することになり、実質的に残る二隻が稼働して残りは一九四二年後半ごろまで回復しなかったかもしれない。・結論:日本の攻撃が一、二日早く警戒2であったら空母の三分の一から三分の二が稼働できなくなるだけの機数を喪失したであろう。熟練した搭乗員の半分以上を失った可能性が強く太平洋戦争の帰趨に大きく影響したとみられる。 現代の海軍では戦闘作戦の後には、“Hot Wash-Up(直後の洗い出し)”と呼ばれるプロセスで参加者が実際の経緯、決定、エラーを徹底的に洗い出して教訓を記録に残す。批判を封じることは禁じられており、そのデータはしばしばオペレーション・リサーチのアナリストによりさらに詳しく分析される。仮に真珠湾攻撃の直後にHot Wash-Upが実施されていたら日本側の計画、実行、リスクについての評価は相当異なるものになっていた可能性がある。アラン・D・ジム ジョンズホプキンズ大学応用物理学研究所の航空システム及び先端コンセプト部門のヘッド。元米国海軍の指揮官で物理学、OR及び行政学の学位を有し政策分析及び戦略策定のプロ。著作、論文も多く第二次大戦の海上戦闘のコンピューター分析で受賞。また一九九九年には米国海軍協会からアーレイ・バーク賞を受賞している。うらべ・ただのり 一九四五年、長崎県生まれ。東京外国語大学スペイン科卒業。スタンフォード・ビジネススクール留学。大和証券サンパウロ駐在員事務所長。アメリカ大和証券日本企業部長。スペイン大和証券社長。国際協力事業団パラグアイ国経済開発調査副総括。長年国際金融業務に従事。著書に『世界の資本市場スイス』(共著、教育社)、訳書に『For that One Day』(原題『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社)。

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    歴史の大転換「戦後70年」から「100年冷戦」へ

    西岡力(東京基督教大学教授)島田洋一(福井県立大学教授)江崎道朗(評論家)中国共産党の「冷戦」「悪しき所業」隠し西岡 戦後70年を迎えて第二次世界大戦についての日本の謝罪をめぐる議論が再び盛んになっています。私は、このこと自体に強い疑問をもっています。なぜ70年も経っていまだに議論せねばならないのか。第二次世界大戦で負けてから50年、60年、そして今年の70年と、10年ごとにわが国の敗北を記念して議論することが妥当なのか。 しかも、その後に第三次世界大戦と位置づけられるべき東西冷戦があり、そこで日本は勝利した自由主義陣営に属していた。にもかかわらず日本は謝罪し続けなくてはならないという議論に巻き込まれている。私には理解できません。 二つの勢力が日本の過去を糾弾しています。一つは中国共産党です。もう一つは朝日新聞に代表されるような、自国の過去の悪だけを強調する国内勢力です。私は後者を反日日本人、反日勢力と呼んでいます。 今年2月に国連安保理で創設70周年の記念討論会が開かれ、中国の王毅外相が「過去の侵略の罪を糊塗しようとするものがいる」と婉曲表現ながら日本や安倍首相をあてこすった演説をしたことが話題になりました。ただ、この演説の最大の問題点は、「戦後70年間、国連の創設メンバーで、安保理の常任理事国の中国は、常に国連憲章の精神に従い、国連の役割を支え、平和と安定を守ることに尽くしてきた。今日の開かれた討論会が、反ファシスト戦争勝利と国連創設70年の記念の序幕になることを望む」(2月25日付読売新聞朝刊)という箇所です。 まさに虚偽だらけの内容です。中国共産党政権の中華人民共和国は、国共内戦に国民党が敗れて1949年に成立したのであって、1945年に国連が創設された当時のメンバーは中華民国でした。中華人民共和国の国連加盟は1971年です。 朝鮮戦争(1950年~)を考えると、演説の嘘はより明らかです。金日成の北朝鮮が韓国を武力侵略したとき、国連の安全保障理事会は国連軍を組織して侵略者を撃退すべきだと決議しました。国連史上、国連軍での戦いを決議した唯一のケースですが、その侵略者・北朝鮮の側に立って国連軍と戦ったのが中国共産党であり、中華人民共和国です。国連と戦った中華人民共和国が国連創設メンバーであるとか、国連の役割を支えて平和と安定を守ってきたなどと、よくも言えたものだと開いた口が塞がりません。 これは冷戦を無視、隠蔽する議論であり、こうした欺瞞が日本をいまだに第二次大戦に縛り付けているのではないか。そんなことを話し合いたいと思います。江崎 中国共産党は近年、尖閣諸島問題にからめて日本が「戦後国際秩序に挑戦している」と盛んに批判しています。しかし中国共産党の所業を考えると、「戦後国際秩序に挑戦」してきたのはまさしく彼らです。 中国共産党は1950年代から60年代、アジア各国に「革命の輸出」を試み、騒乱を起こした加害者です。インドネシアはその最たるもので、中国の周恩来から支援を受けていたインドネシア共産党が1965年に起こした軍事クーデター「9・30」事件では、約80万人が死んだと言われています。カンボジアでは、数百万人を大虐殺したクメール・ルージュのポル・ポト派を支援し、1979年にはポル・ポト政権を崩壊させたベトナムを「懲罰する」といって中越戦争を起こした。日本に対しても、60年安保や赤軍派の一連の事件などを引き起こすに至った新左翼過激派の活動、成田闘争に手を突っ込んでいました。西岡 1958年~60年の「大躍進政策」では、2000万~3000万人ともいわれる自国民を餓死させ、60年代後半からは文化大革命と称して知識人を弾圧して国内に大動乱を引き起こし、やはり数百万から1000万人以上の死者が出たといわれています。歴史も民族も異なるチベットに軍事侵略をして帝国主義的植民地統治をし、ウイグルや内モンゴルでも、同じことをしている。近年は異常な規模の軍拡を続け、周辺諸国に侵略的行為を繰り返しています。そして何より、民主化を求める学生たちを、軍を出動させて虐殺した天安門事件(1989年)です。江崎 中国共産党が自らの悪しき所業を隠すために、「反ファシズム戦争勝利」を言い立てているのが見え見えです。島田 「反ファシズム戦争」という言葉ですが、そもそも第二次大戦の構図は、戦勝国の英・米・仏・中・ソが自由・民主主義の「陣営」を組んで、日・独・伊の「ファシズム陣営」と戦ったといった単純なものではありません。その始まりは、ナチスのヒトラーとソ連のスターリンが「同盟」を組み、1939年9月に東西からポーランドに侵攻したことです。独ソは同年8月に結んだ不可侵条約の秘密議定書で、東ヨーロッパを両国の勢力範囲に分割することを約束していました。 そもそもソ連は共産党一党独裁で、しかもスターリンは20世紀でも指折りの人権弾圧者です。経済は市場メカニズムを排除する点でファシズム以上に抑圧的で、政治的な自由度も当時の日独伊を遙かに下回っています。この点だけでも、「第二次大戦は反ファシスト陣営が勝利した戦争だ」という議論のおかしさは明らかです。西岡 中国共産党はトウ小平の改革開放のかけ声で、経済における社会主義理論を捨て、計画経済をやめて生産手段の私有を解禁してマルクスの言うところの「搾取」を認め、市場経済を導入しました。しかし、社会主義市場経済など理論的にあり得ない。マルクス・レーニン主義は下部構造の経済が上部構造である政治を規定するとしています。下部構造で社会主義をやめて資本主義を復活させたのに、上部構造では、社会主義のための人民民主主義、プロレタリアート独裁を続けるという理論は矛盾しています。共産党独裁統治の根拠はすでに崩壊したんです。そのために、自分たちは反ファシズム戦争を戦って勝利したという歴史を必要としている。 簡潔にいえば、労働者を搾取する資本家を絶滅させたことが正統性の根拠だったのに、敵である資本家を復活させた。だから、日本軍国主義ファシズムと戦って中国を勝利させた歴史を捏造したうえ、軍国主義が復活しようとしているというフィクションで現在の日本を敵に仕立て上げ、それと中国共産党は戦うのだという虚構を独裁統治の正統性の根拠に利用している。 しかし、実際に日本と戦ったのは中国国民党であって、中国共産党ではない。八路軍や新四軍とよばれた中国共産党軍は日本とは戦闘らしい戦闘をせず、専ら自らの勢力拡大に勤しんでいました。 だから「戦後」という枠組みで歴史を議論すること自体、中国共産党の欺瞞統治戦略の土俵に乗ることになってしまう。中国共産党の罠に陥るのです。中国は帝国主義的ファシズム国家北京郊外にある盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館で各国大使らに公開された抗日戦争70年に関する展覧会島田 概念的に整理しましょう。ファシズムという用語の起源ともなった象徴的人物は、第二次大戦中のイタリアの指導者ベニト・ムッソリーニです。彼は若いころは純粋社会主義者で、レーニンから「イタリア唯一の真の革命家」、欧州共産主義の次代を担う存在とまで評価されていました。ところが第一次大戦中に、労働者階級の国際連帯など幻想に過ぎず、また生産手段のあくなき国有化は国力の衰退を招くと痛感し、資本主義のエネルギーも利用した国家主義的独裁を打ち立てるべきだと考えた。西岡 ムッソリーニはトウ小平だったということ?島田 そう。ファシズムの最大公約数的な定義は、資本主義のエネルギーを抑圧体制活性化のため利用する、ということです。もちろん自由な言論や議会制民主主義を否定し、ある国家宗教的理念を体現した指導者に束(イタリア語で「ファッショ」)になって付き従うべきだという原理もファシズムの特徴の一つです。 ちなみにアメリカのルーズベルト政権も、ブレーンのほとんどがムッソリーニに畏敬の念を抱いていました。当時のアメリカもファシズム的傾向と無縁ではなく、ソ連と抵抗なく手を結んだのは、側近にコミンテルンのスパイが多かったせいだけではありません。なお、優越人種主義や領土拡張主義はファシズムの本来的属性とは言えません。ムッソリーニのファシスタ党にはユダヤ人の幹部が少なからずいましたし、スペインのフランコ政権は、ヒトラーの再三の圧力にも拘わらず枢軸側で参戦せず、内にこもる傾向が顕著でした。ナチスにも、ナンバー2のゲーリンクなど、破滅を危惧し領土拡張に慎重だった幹部がいます。すなわち、ファシズムに偏執的人種主義が加わったのがナチズム、さらに際限なき拡張主義が加わったのがヒトラリズムと言えるでしょう。なお、自集団を頭部と位置づけ有機的な支配圏拡張を図るのが帝国主義ですが、ヒトラリズムは帝国主義の破滅的形態とも言えます。 中国はトウ小平時代に改革開放の名で、原始共産主義を捨てファシズムに転換しました。その後の中国は政治・経済体制として典型的なファシズムであり、少数民族弾圧政策をとっている点ではナチズムの要素もある。ではヒトラリズムに該当するかどうか。現在、いわゆるサラミスライス戦術でじわじわと無法に領土を拡張しており、ヒトラーほど無謀ではないけれども、有機的拡張主義という点では同類です。一言で表せば、現在の中国は「帝国主義的ファシズム」と言えるでしょう。ファシズムに加えて、ナチズムの要素を持ち、ヒトラリズムの傾向をも見せている中国が、反ファシズム戦争の勝利を祝うのは倒錯の極みです。西岡 直感的に言えば、日本は確かにナチスと組んだけれども、アメリカもルーズベルト大統領がスターリンと組んだ。そして戦後に冷戦が始まり、スターリンがナチスと同じような「悪」だということに気づいた。中国大陸を共産党にとられ、朝鮮戦争も始まった。そこで日本に憲法第9条を押しつけたり社会主義的政策を行ったりしたことが失敗だったと悟り、いわゆる「逆コース」政策をとるようになった。再軍備を迫って朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に警察予備隊がつくられ、その後の自衛隊創設につながったわけですね。江崎 それでも中華人民共和国は国連常任理事国になっている。これは、アメリカがソ連との冷戦を有利に戦うため、あるいはベトナム戦争停戦のために1972年、ニクソン大統領が訪中して、中国と組んだからです。アメリカが理念的には敵であるはずの北京と組んでソ連と戦おうとしたため、中国共産党の本質に目をつぶってしまった。その結果、今日まで中国共産党の犯罪的行為が厳しく問われてこなかったのが残念です。左派リベラルも同罪左派リベラルも同罪西岡 生き残るために戦前日本を問題視し続けているのは、朝日新聞など国内のリベラルや左派勢力も同じです。敗戦後米軍に占領されていた日本がアメリカなどと講和条約を結んで独立を回復したとき、全面講和か片面講和かという国内を二分する大議論が起きました。そこで自由主義陣営とだけではなく、冷戦の敵であったソ連中心の共産主義陣営とも講和し、日本は非武装中立国となるべきだという全面講和論を叫んだのが、その左派リベラル勢力です。 彼らはそれ以降、日米安保条約に反対し、日韓国交正常化に反対し、ベトナム戦争もアメリカの侵略だとして反戦運動をし、西側陣営の一員としての日本、日本に軍を駐留させているアメリカの足を引っ張り、両国の同盟関係を破壊しようとしてきました。 「資本主義の総本山アメリカが戦争を引き起こす」というのが彼らの世界観です。それは誤りであったことが、今では証明されています。ベトナム戦争でアメリカが撤退したらベトナムはカンボジアと戦争をし、中国とベトナムも戦争した。そしてカンボジアでは大虐殺があったということが明らかになった。 そうした過ちを認めたくないから、過去の日本を糾弾する枠組みに逃げ込んで、戦前の日本を糾弾し続けている。そして、冷戦で彼らと戦って勝った保守勢力に対して、「過去の日本を復活させようとしている歴史修正主義者だ」という濡れ衣を着せようとしている。江崎 いまの日本を国際社会の敵に仕立てようとする中国共産党の対日戦略のお先棒を担いでいるのが、左派リベラル勢力ということです。 マイケル・シャラーという歴史学者によると、実はニクソン大統領は、アジアでは日本と組んで共産陣営と戦いたいと考えていて、憲法改正や核武装を含む本格的な再軍備をしてほしいと日本に繰り返し打診していた。ところが、日本側が色よい返事をしなかったために、「アジアを守るために日本が戦わないのであれば、北京と組むしかない」と対中接近を決断したというのです(『「日米関係」とは何だったのか』邦訳・草思社)。 日本はなぜニクソンの打診を拒否したのか。60年安保もそうですし全面講和論もそうでしたが、背景には北京の対日工作がある。左派リベラル、社会党や労組が北京と一緒になって「反戦平和」という名の反日・反米闘争を繰り広げて、自民党政権がそれに屈してしまったわけです。自由・民主主義陣営の勝利を妨げるもの江崎 ベルリンの壁崩壊から25年経った昨年2014年、アメリカの共産主義犠牲者財団が記念ビデオを作製しました。ベルリンの壁の崩壊によってソ連共産主義との戦いに勝利したことを振り返ると共に、「アジアでは、核開発を強行する北朝鮮と、天安門事件を引き起こした中国がいまなお人権弾圧を繰り返しており、アジアでの共産主義との戦いはまだ続いている」というキャンペーンを繰り広げています。 アメリカの保守派の中には、戦後70年ではなく、アジアの冷戦という現在進行形の課題に強い問題意識を持つ人たちがいるのです。そうしたアメリカの議論がほとんど日本で紹介されてないというのも、やはりおかしい。島田 冷戦を、自由民主主義とそれに対抗する全体主義抑圧体制との理念闘争だと捉えれば、終わったのはヨーロッパにおいてだけで、アジアでは終わっていませんね。西岡 ベルリンの壁崩壊と同じ1989年に自由・民主を求める学生を虐殺した天安門事件で、中国共産党はファシズムを続ける選択をした。アジアでは、自由・民主主義陣営対ファシズム中国という構図を中心にした冷戦は終わっていないという評価は理論的に正しい。 一方で、日本が冷戦で自由主義陣営の一員として戦い、ソ連との勝利に貢献したことは、現在も続く冷戦を戦うためにも評価すべきだと思います。 日本は講和条約締結にあたって、全面講和論を退けて自由・民主主義陣営に入る決断をした。そして日米安保条約を結んで相応の役割も果たしてきた。最近、米軍関係者から、日米の軍事協力が実際に成功した例があると聞きました。米海軍と海上自衛隊がソ連潜水艦の太平洋進出を完全に阻止したことが、冷戦勝利に重大な貢献をしたというのです。海自のP3C機による対潜哨戒能力をアメリカは高く評価しています。そんな目には見えない戦いが世界中で繰り広げられた結果、91年にソ連が崩壊したのです。 モスクワでは5月、北京では9月に「反ファシズム戦争勝利70年」の記念行事が行われるんですよね。江崎 ええ。西岡 モスクワでの「反ファシズム」を冠した行事に、北朝鮮の金正恩まで参加するという話もあって、もうお笑いのレベルだけど。彼らの歴史の誤魔化しを暴く意味でも、今年から来年にかけ、1991年の冷戦勝利25周年を記念する行事を日米が中心となって開催すべきです。そのことによって、自由主義陣営は冷戦で共産党一党独裁のソ連を倒し、アジアにおける戦いで日本も貢献したけれども、現在も全体主義抑圧体制との戦いは続いているという歴史を明確にすることができる。江崎 ASEAN創設に寄与して国連のハマーショルド賞を受賞したマレーシアのガザリー・シャフェー元外務大臣が1993年に来日したときに話をする機会がありました。彼は「ソビエトに自由主義陣営が勝利できたのは、経済力を持つ日本とドイツがアメリカに味方したからだ。戦争に勝つには経済力が重要な要素であり、冷戦勝利に対する日独の貢献は莫大だ」と言っていました。日本は戦後、自由主義陣営の一員であることを選択し、アメリカと共にソ連と戦い、勝利した戦勝国であることを誇るべきであったのです。 ところが当時の日本は、慰安婦問題で河野談話が出た直後で、「次は戦後50年だ」、「中国など“近隣諸国”に謝罪すべきだ」という議論に明け暮れ、「敗者としての日本」にこだわらざるを得なかった。西岡 島田先生に教えていただいた話で、自由・民主主義陣営に冷戦勝利をもたらしたアメリカのロナルド・レーガン元大統領は1992年の共和党大統領候補指命大会の演説で、「われわれは冷戦に勝った。しかし私はときに疑いを持つ。この『われわれ』とは誰か」と問いかけました。参加者たちは「あなたが勝利者だ」「共和党が勝ったのだ」「民主党は違う」などの答えを叫んだといいます。アメリカは勝ったけれども、アメリカ人全員が勝者なのではなく、対ソ融和論を主張していた人々は本当の勝者ではないということです。 日本も自由・民主を選択して冷戦に勝ったけれども、違う選択をせよと主張し、冷戦終結後の大切な時期に過去にばかり目を向けるよう仕向けた左派リベラルは、負けた側ではなかったか。我々もレーガンと同じ問いかけをして、彼らの責任を追及すべきだと思う。島田 レーガンの問いは、民主党や主流派メディアに対してだけではなく、共和党内のデタント派、すなわち対ソ宥和的な平和共存主義をとった勢力にも向けられていました。デタントは、実は極めて今日的課題でもあります。中国がアメリカに向けて「新型大国関係」を持ちかけ、オバマ政権は同意したのかしていないのか曖昧な態度をとっている。お互いが勢力圏を認めあって共存しようというのが新型大国関係で、まさにデタントの発想です。 レーガンがデタント派を厳しく批判したのは、冷戦は理念の闘争であるという信条からでした。ソ連を「悪の帝国」と呼んだ有名な演説がありますが、「悪の帝国」の存続を認めていてはこちらの理念を捨てたことになる。ソ連の体制は倒すしかないと考えたのです。 天安門事件当時の大統領は、レーガンの後任のジョージ・ブッシュです。父ブッシュはデタント派でした。彼は天安門事件後間もなく、世界が中国に経済制裁をかけている中で、側近のブレント・スコウクロフト(国家安全保障担当大統領補佐官)やローレンス・イーグルバーガー(国務副長官、九二年から国務長官)を密かに北京に送り、「議会の圧力で制裁をしているが、できるだけ早く制裁を解除したいと思っている。日本にもそう働きかけている」といった宥和的メッセージを送っていました。それでトウ小平も安心して抑圧政策を維持できた。 日本でもアメリカでも、対中政策に関してデタント派がいまだ主流である状況は大きな問題です。西岡 われわれは拉致問題や慰安婦問題で外務省を再三批判してきました。まさにデタント思考だからです。ところが、朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に外務省が公表した「朝鮮の動乱とわれらの立場」と題するパンフレットをみると、まったく異なる印象を持ちます。レーガン路線そのものです。「民主主義と共産主義という、とうてい相容れない二つの勢力が全世界にわたって拮抗している情勢のもとでは、いかにわれわれが『不介入』や『中立』を唱えてもそれはとうていできない相談である。共産主義は全世界にわたる民主主義の絶滅を終局の目標としているから、共産主義に全面的に屈服しないかぎり、その国はすべて共産主義の『敵』であり、共産主義国の辞典には『中立』や『不介入』などという言葉はあり得ないのである」 理念の戦いに相当する「思想戦」という言葉も使っています。「思想戦の見地から見て、すでに戦場にあるともいうべきわれわれがあいまいな態度を取ることは、実戦における敵前逃亡と同じ結果をもたらし、われわれの希望にもかかわらずかえって自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供することとなり、真の意味における自主独立の回復にはなんら役立たないのである」 その思想戦において、共産主義を武器にしていた陣営は、いまや歴史、捏造の歴史を武器にして自由主義陣営に戦いを挑んできているわけです。島田 レーガンは大統領就任前にこんなことも言っています。「私の対ソ戦略はシンプルだ。われわれが勝つ。彼らは負ける(We win and they lose)」。明確で力強い。デタント派のように共産党独裁体制が永続すると考えること自体がインテリの弱さであって、とにかく倒すというレーガン的発想を思想戦において持たねばならないと思いますね。そこには歴史戦、歴史情報戦も含まれます。西岡 イスラエルの政治家で、かつてソ連で人権活動をしていたナタン・シャランスキーという人物は、レーガン大統領の「悪の帝国」演説を批判するソ連共産党の機関紙プラウダの記事を収容所で読んだそうです。独房同士、便器を通じて話ができたため、「レーガンがソ連を『悪』だと言ってくれている」という話が収容所内に広がって勇気づけられたと言っています。 「悪」を否定する価値観は国境を超えて大きな力になります。ところがデタント派は、相手が力を持っていることは認め、足して二で割って物事を進めようとする。相手を不倶戴天の「悪」だと考えるのか、「悪」でも力を持っているから存在を認め妥協すべきだと考えるのか、大きな違いです。 さきほど私は朝鮮戦争時の外務省を評価しましたが、30年後の1980年には同じ外務省とは思えないほど理念的に堕落していました。当時の全斗煥政権が日本に対し、共産主義陣営の軍事的脅威と戦うため60億ドルの経済支援を申し込んだ際、外務省はこんな驚くべき内部文書を作って、ともに共産主義と戦うことを拒絶したのです。 (1)全斗煥体制は、軍事ファッショ政権であり、これに対して日本が財政的てこ入れをすることは、韓国の民主化の流れと逆行するのではないか(略)。(2)韓国への経済協力は、韓国への軍事的協力のいわば肩代わりであり、日・韓・米軍事同盟(強化)の一環として極東における緊張を激化させる。(3)南北間の緊張が未だ激しく、南北対話の糸口さえ見出しえない現在、その一方の当事者である韓国のみに多額の経済協力を行うことは朝鮮(半島)政策として理解しがたい―。 当時の鈴木善幸首相も「日米同盟は軍事同盟ではない」と発言して物議をかもしましたが、外務省は北朝鮮と韓国のどちらが味方なのかさえ分からなくなっていたんですね。経済支援を拒絶したツケを、日本は教科書誤報事件で払うことになります。82年に日本メディアが、「文部省が高校日本史教科書の検定で、華北に対する『侵略』を『進出』と書き換えさせた」と誤報したときに、全斗煥政権は中国共産党や日本の反日左派勢力と組んでこれを外交問題化し、経済支援を改めて迫ったのです。 この問題をきっかけに日本の教科書検定に近隣諸国条項ができ、その後の歴史教科書の自虐化を招きましたが、韓国にも大きな禍根を残しました。日本の歴史問題で中国共産党と共闘する先例をつくってしまったことが一つ。もう一つは、左傾反韓史観が韓国内に蔓延する素地をつくってしまったことです。全斗煥政権が日韓基本条約締結時に解決した歴史問題を外交に持ち出すという禁じ手を使ったことで、「反日」の価値観が高まった。その結果、日本の陸軍士官学校を卒業した朴正熙大統領らによる韓国の発展を否定し、一方で「抗日の英雄」金日成を戴いた北朝鮮は民族的正統性が高いと評価する北朝鮮発の謀略的「反韓自虐史観」が広まった。この反韓史観によって韓国では80年代から従北派が勢力を急速に拡大したのです。 全斗煥大統領が日本に経済支援を求めたのは冷戦のためでした。アメリカは当時、ソ連と軍拡競争を行っていました。ソ連はそれに耐えられずに崩壊したわけですが、日本にも韓国にも軍拡が求められていました。アメリカの庇護のもと共産独裁全体主義のソ連、ファシズムに変質しつつあった中国共産党の全体主義の脅威と正面から向き合わずにすむ日本が、その武力侵略に直面してやむなく自由・民主主義の一部を制限した全斗煥政権をファシズムだと考えた。まさにデタント派、リベラル左派のバランスを欠いた思考が、現在の東アジアの安保環境の悪化を招いたのです。1955年の外務省が「思想戦であいまいな態度を取ることは…自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供する」と指摘した通りです。人権を取り戻して武器とせよ人権を取り戻して武器とせよ島田 全体主義体制や専制抑圧国家と戦ううえで大切なのは、人権です。物理学者でソ連の反体制人権活動家として有名だったアンドレイ・サハロフに「人権問題は国内問題ではなく国際問題でもある。自国民の人権を尊重しない体制が他国の権利を尊重するはずがないからだ」という言葉があります。中国のような人権抑圧体制を放置することは、日本やベトナム、フィリピンに対する権益侵害、つまりは侵略を許すことになる。その意味でも中国は自由・民主化あるいは分割民営化ならぬ地域の文化や自律性をも重んじた民主化をさせるべきであり、それは可能なのだという発想を持たねばなりません。西岡 新たなデタント派は、中国は共産主義を捨てて市場経済を導入したのだから民主化するはずだ、賃金の安い労働力も利用できるし市場としても魅力があるのだから共存すべきだと言い続けてきました。トウ小平の微笑路線に騙されてきたわけです。 しかし、ファシズム人権抑圧体制下の市場経済では、国民は実質的奴隷労働を強いられることになる。実際に中国はたいへんな格差社会になって国民全体の福祉向上にはつながっていません。アパルトヘイト政策を採っていたかつての南アフリカの奴隷労働によって製造された安い製品と同様、普遍的人権の観点から、経済に短期的にマイナスになっても中国と距離を置くという議論をするべきです。日本の長期不況の一つの要因は中国に生産施設をどんどん移転したことですから、その点でも中国との関係を見直すべきなのです。島田 中国は市場経済化したのではなくて、ファシズム体制下で市場経済の要素を導入しただけです。いわゆるクローニーキャピタリズム、縁故資本主義に過ぎない。だから共産党幹部ら一部に富が集中して激烈な格差が生じている。自由公正な競争がないから、イノベーションも中途半端で技術力が高まらず、最新のイノベーションはアメリカや日本から盗む。かつてソ連がある程度経済を維持できたのも、最新テクノロジーを産業スパイで盗んでいたからです。つまり資本主義のエネルギーを産業スパイという形で不正導入することで生き残りを図ってきた。この体制はやはり潰さないといけない。江崎 それはアジア全体の利益でもあります。平成8年ごろ、インドネシア陸軍大学の元学長と話していて、「日本はアジアのために何をしたらいいですか」と尋ねると、「中国に対する援助をやめてくれ。中国の拡張主義を日本が応援することで、東南アジアは中国の支配下に陥る。それだけはやめてくれ。余計なことしてくれるな」と厳しい口調で即答されたのを覚えています。 実際に日本は中国を経済的に肥大化させることで、結果的に東南アジアの産業を潰してきました。インドネシアやベトナムの靴、衣料産業がそうです。日本には現在のような歪んだアジアの経済状況を是正する責任があります。 オバマ政権で親中姿勢が顕著なアメリカですが、その内情は一枚岩ではありません。レーガン大統領の流れを汲んだ安倍首相のような考え方の政治家が確かにいる。アメリカ軍、特に太平洋軍の中にも、中国の拡張主義と戦おうと考えている人たちがいる。しかし肝心の日本がこれまでデタント思考で旗幟鮮明にしないできたために、慰安婦問題も含めて本当の意味でのアメリカの味方を引き込むことができていない。 安倍首相が今年、談話を出すのであれば、中国の拡張主義に警戒心を持っているアメリカの保守派やアジア太平洋諸国を味方にするようなメッセージこそ必要です。具体的には、「我々日本は人権、自由、民主主義という価値を守るため、アメリカやASEAN諸国と共に、共産主義陣営あるいは全体主義抑圧体制と戦ってきた」という冷戦を見据えた談話を出すべきです。その上で同時に日本はアメリカやASEAN諸国だけでなく、インドやオーストラリアなどとも連携して今後ともアジアの自由と民主主義と人権を守る責任を果たすことも打ち出すべきです。西岡 70年談話で第二次世界大戦について触れるのであれば、現在も続く自由・民主主義の戦いという観点で、スターリンとヒトラーという二つの「悪」にアメリカと日本が分かれて同盟し、お互いに戦ってしまったという悲劇的が過去にあったという点で、日本の誤りや敗北を認めてもいいかもしれません。 一方、安倍首相が内外の反日勢力から継承を迫られている村山談話には、自由・民主主義の戦いについて何も書かれていません。村山談話は、自分たち社会党が、日米安保に反対したり自衛隊が憲法違反だと言っていたりしたことや、ベトナム戦争でアメリカは侵略者だと言っていたことをごまかすために、過去の日本の「悪」を意図的にフレームアップしたのではないか。 人権で言うと、安倍外交によって国連人権理事会に北朝鮮の人権問題や拉致問題の調査委員会ができ、北朝鮮の人権抑圧は人道に対する罪だという報告書が出され、金正恩の国際司法裁判所(IOC)での訴追をも可能にする「北朝鮮人権決議」が昨年12月に国連総会で採択されました。土壇場の安保理でIOC付託に反対したのが、まさに今年、「反ファシズム戦争勝利70年」記念行事を開く中国とロシアです。 人権理事会は反日勢力、左翼の独壇場で、毎年のように日本が慰安婦問題で北朝鮮や韓国から非難されてきました。これは歴史問題の縮図であって、70年前の話をするなら70年間全体を取り上げるべきなのに、日本は70年前を謝ることで蓋をしようとして、誹謗中傷され続けてきたわけです。 だからこそ、70年前だけをいう歴史の枠組みに与してはならない。戦後70年間、どちらの側が収容所をつくって人権を抑圧し、いまも抑圧しているのかを問うべきです。江崎 人権の理念を左派リベラルから取り戻さねばならない。冷戦の敗北で日本社会党も大きなダメージを受けましたが、そこで彼らは党内に「国際人権研究会」という組織をつくり、弁護士の戸塚悦朗氏らと共に国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したのです。日本の「戦争犯罪」をでっち上げ、人権問題と結び付けて政治問題化することで、ソ連や中国、北朝鮮の深刻な人権弾圧を隠蔽した。日本の過去の問題で騒いで現在の問題を隠蔽するという手法で彼らは一貫しています。島田 左派リベラルには知的羞恥心というものがありませんからね。レーガン大統領を「戦争屋」だの、すぐに拳銃の引き金を引く「トリガー・ハッピー」だ、核のボタンを押したがる「ボタン・プッシャー」だのと非難していた勢力が、今やしばしばレーガンを「一発も撃たずにソ連を巧みに崩壊させた」と評価する。狙いは、テロとの戦いを進めたブッシュ・ジュニア共和党政権を「トリガー・ハッピー」だと非難することにあるわけですが、レーガンを引き合いに出すあたり実に厚顔です。 定見のない左派リベラルの誹謗中傷など気にせず「ソ連は悪の帝国だ」と力強く打ち出し、抑圧体制の被害者を鼓舞したレーガン大統領のように、安倍首相には「中華人民共和国こそファシズムの典型だ」と大いに口にしてもらいたい。これは知的に正しい議論です。「反ファシズム戦争勝利」を言い立てる中国共産党の欺瞞に反論する国家リーダーがいないような国際社会にしてはなりません。西岡 議論をまとめます。ソ連崩壊で終わった冷戦第一期においては、勝利した自由・民主主義の陣営で日本も戦った。しかしアジアの冷戦はいまも続いている。中国ファシズムに対する自由・民主主義の戦いというこの第二期冷戦の主軸は日本であるべきだが、冷戦を隠蔽して日本だけを「悪」とする戦後七十年史観の罠にはまっていては正しく戦えない。冷戦を見据えた新たな歴史観の枠組みを提示すべきだ、ということですね。江崎 今日は話題にできませんでしたが、私は、日本にとっての冷戦はわが国に共産主義思想が押し寄せてきた大正期に始まり、大東亜戦争に影響を与えて現在も続いていると考えます。2017年はロシア革命100年、2019年は世界革命を目指した国際組織コミンテルン創設百年です。戦前・戦中も含めてこの100年を見通した「100年冷戦史観」とでも言うべき歴史観の確立に向けて、今後も議論させていただきたいと思います。

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    捻じ曲げられたポツダム宣言

    日本に戦争終結を促したポツダム宣言は全13カ条から成る。日本がこの宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。しかし、その裏側には大国の駆け引きやトルーマン大統領の思惑も交錯する。アメリカの戦争犯罪の側面も見え隠れするのだが……。

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    河野洋平と村山富市

    先月、河野洋平元官房長官と村山富市元首相がそろって公の場で安倍批判を繰り広げました。もう随分とお歳を召され、好々爺らしくなっていましたが、この時ばかりは相変わらずの上から目線の発言が目立っていました。それにしても、お二人とも「老害」という言葉まですっかりお似合いになられたようで……

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    「謝るほどに悪くなる日韓関係」ついに終止符を打つ時が来た

    黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在客員論説委員) 戦後70年(韓国では解放・光復70年)、日韓国交正常化50年を迎えた今年、韓国のメディアでは予想通り年初から“反日報道”が荒れ狂っている。2015年日韓歴史戦争の幕開けである。 直近でいえば、ISIL(イスラム国)による日本人殺害事件に関連し、韓国政府は朴槿恵大統領が安倍晋三首相に哀悼の書簡を送るなど対日姿勢を軟化(?)させているが、メディアは一斉に「安倍、自衛隊の海外武力行使拡大へ」(2月2日、東亜日報)など逆に“安倍叩き”に熱を上げている。 あるいは定番の慰安婦問題では、日本政府が米国の学校教科書の誤った記述に是正を求めている話にかみつき、米国の学者・研究者19人(!)が日本非難の声明を出したといって、何日かにわたって大々的に持ち上げている。 きわめつきは安倍談話問題。安倍首相がNHK「日曜討論」(1月25日)やその後、国会答弁などで「歴代首相の談話と同じ表現を必ず使うとはいわなかった」として、早くも「反省無き終戦70年談話」「中身の抜けた談話はコメディ」などと非難キャンペーンを展開している。東京都内で開かれた日韓国交正常化50年の韓国側記念行事であいさつする安倍晋三(しんぞう)首相(右)と、韓国・首都ソウル市内の日本側記念行事で演説する韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領=2015年6月22日(共同) そんな中で発刊された前大統領・李明博の回顧録『大統領の時間 2008―2013』には2010年、菅直人首相によって出された「日韓併合100年」の「談話」の経緯が記されている。 回顧録は、菅首相から談話内容については事前に電話で知らされたとし、過去の謝罪と反省が今回は韓国に特定されたことに加え、李王朝文書返還など「自分が求めてきた(謝罪と反省の)具体的行動」が込められていたとし「村山談話を越えて韓日関係を進展させる歴史的措置だった」とべたぼめしている。 しかし戦後50年の村山談話や慰安婦問題の河野談話(1993年)もそうだが、韓国が守れ、守れと日本にしきりに要求して騒ぎ立てる、韓国にとってそんなに好ましい素晴らしい内容だったのなら、そこで「納得」となって過去は終わりとなっていたはずではなかったのか。 それが終わらず蒸し返されてきた。1998年、「日韓共同宣言」と銘打って文書で完璧に「謝罪と反省」を明記し、これを取り付けた金大中大統領など「これで過去は清算された」と言ったのに、韓国側はその後も過去を蒸し返し続けている。 安倍政権に対してはスタート以来、右傾化とか軍国主義復活、歴史歪曲……などと非難の大合唱を続けてきた韓国では、どんな内容になろうが「安倍談話」は認めず叩きまくろうと手ぐすね引いている。ということは、韓国相手にはもはや「謝罪と反省」は何の意味も効果も持たないということだ。「謝るほど悪くなる日韓関係」に終止符を打つ時である。 その意味で「戦後70年安倍談話」は韓国にこだわる必要はない。そして70年前いや1945年以前にこだわることもない。むしろ1945年以降、これまでの70年間の歴史をしっかり振り返った方がいい。日本は過去の反省、教訓の上でいかに国際社会に貢献したかを語ることだ。 そして韓国、中国を含むアジアに対しては、過去の反省に立った日本の支援がアジア諸国の発展に寄与できたことをうれしく思うと、堂々と述べればいい。戦後70年とは別に「日韓50年談話」も必要なら出していい。その際も併合や日本統治時代の話などではなく、新しい日韓協力の50年間が韓国の現在のめざましい発展につながったことに感謝(!)し、共に喜びたいと語ればいいのだ。“歴史戦争”は相手にこちらの主張をいくら認めろといっても耳は貸さない。狙いはむしろ外野というか国際社会だ。韓国、中国を含む戦後アジアの発展への日本の寄与これこそが“過去イメージ”を乗り越え、国際的共感を得るものであり、歴史戦争に勝てるキーワードなのだ。関連記事■ 李明博前大統領の回顧録 竹島上陸を自画自賛する記述が並ぶ■ 朴槿恵大統領の言論抑圧 ISや北朝鮮テロに免罪符与えかねず■ サムスン 栄華の象徴だった六本木自社ビルから飯田橋に移転■ 事故続発の韓国・第2ロッテワールド 扉はドイツ関連と説明■ 韓国人作家「蔑称『チョッパリ』はただの哀れな呻き」と指摘

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    村山談話、削られなかった“4文字”の文言 元「参院のドン」村上正邦氏が激白

    安積明子(ジャーナリスト) 村山富市元首相が1995年8月15日、戦後50年の節目に発表した「村山談話」に対して、「謝罪ありき」「秘密裏につくられた」といった批判が広まるなか、自社さ3党が同年6月、衆院で強行した「戦後50年決議」が改めて注目されている。参院での決議を踏みとどまらせた、かつての「参院のドン」こと、村上正邦・元参院自民党議員会長に聞いた。 「参院での決議は絶対に認められなかった」 村上氏はこう語った。 戦後50年決議は、正式には「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」という。内容は「植民地支配」と「侵略」を認めて謝罪した村山談話とほぼ同様だ。国会決議は全会一致が原則だが、反対が多く、与野党から欠席者が続出するなか、衆院では強行採決され、参院に回ってきた。 村上氏は「(参院での)決議が予定されていた前日、私は衆院側の自民党役員室で執行役員ら、なかでも、当時の加藤紘一政調会長と主に話し合った。決議案を見せられた私は『この4文字を削ってくれ』と言った」と振り返る。 削除を求めたのは、決議案の「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為…」の中の、「こうした」という4文字だ。村上正邦氏 「これでは日本が『植民地支配や侵略的行為』を行ったことになってしまうが、事実はそうではない。東京裁判で、インドのパール博士が主張したように『日本が戦争を起こしたのは、侵略のためではなく、西洋諸国によって挑発されたため』なのだ。戦禍に倒れた幾多の人々は、自立自尊の日本国をただひたすら守り続けようとされた、その思いをくみ上げることこそが、決議の意義であると」と村上氏。 話し合いは深夜11時まで続き、最終的に「文言を削る」ということで決着した。ところが、村上氏が「印刷した修正文案がほしい」というと、自民党幹部は「それはできない」という。 それでも、同じ政党の仲間だからダマすことはしないだろうと、村上氏が参院側にある幹事長応接室に戻ると、大勢の人々が詰めかけて「何も変わっていないじゃないか!」と憤っていた。 直前に正式発表された決議案には、削ることで合意したはずの「こうした」の4文字が入っていたのだ。 驚いた村上氏が衆院側の役員室に戻ると、すでに誰もいなかった。 「私をペテンにかけたのか! そんなことをするのなら、参院では決議しない!」 こうして、参院では決議案の提出自体が見送られた。 「村山談話」については最近、「謝罪ありきで、言葉の定義はあいまい、理論的裏付けもなく、秘密裏につくられた」という批判も多く、作成経緯を検証するプロジェクトチームが始動している。その過程で、不可解な「戦後50年決議」も検証されそうだ。

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    河野洋平氏の「歴史的大罪」、そして国会招致についての必要性

     みなさんの記憶に新しいと思いますが、米カリフォルニア州グレンデール市に設置された「慰安婦」像の撤去を求め、日系人や在米日本人らが連邦裁判所に訴訟を起こしました。 昨年3月、原告であるNPO法人「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」は国会内で帰国報告会を開きました。 その中で私は、歴史の真実を求める世界連合会代表の目良浩一元米ハーバード大助教授に対し、このような問いかけをしました。 「皆さんはアメリカで孤軍奮闘、本当によく頑張ってくださっている。日本にいる私たちができることはなんですか?もし我々が、『河野談話』を撤回することができれば皆さんの力になりますか?」 目良氏は大きくうなづいてくださいました。 この裁判は被告グレンデール市の請求にこたえ、裁判所が今回の訴訟をSLAPP(strategic lawsuit against public participation 直訳すると「市民参加を妨害するための戦略的訴訟」)と認定。結果、今年に入って早々に、昨年一審判決があった連邦裁判所と同じく州裁判所も原告の訴えを棄却しました。 そして国内でも我々は未だ河野談話を撤回するどころか、河野洋平元官房長官の国会招致すら実現できていません。 目良氏をはじめとする在米日本人の方々との出会いは、一昨年12月にさかのぼります。 臨時国会終了後、実際に慰安婦像が建立されたアメリカカリフォルニア州グレンデール市を訪問しました。 これまで日本国内では忘れられていた慰安婦問題でしたが、この年5月の橋下徹日本維新の会共同代表の発言を始め、産経新聞の検証記事、NHK会長に就任した籾井勝人氏の就任会見での発言など、国内外でにわかに注目を集め始めていました。 私たちの前にグレンデール市を訪問した国会議員はいません。今回の訪問が日本国、韓国、そしてアメリカに及ぼす影響を考えてやめた方がいいという意見が多くありました。 でも、現場主義を自認している私は何としても実際に何が起こっているかを知りたかったのです。この時背中を押してくださったのは、中山成彬先生、山田宏先生でした。 特に中山先生は、現地で慰安婦像撤去の運動に携わっていらっしゃる方を何人か紹介してくださいました。そのうちの一人が目良浩一氏で、滞在中の我々のガイド役も買って出てくださいました。2月20日、提訴後に会見する「歴史の真実を求める世界連合会」の目良浩一・元ハーバード大助教授(右)。左は原告代理人の弁護士ら(中村将撮影) 2泊4日の強行軍でしたが、とても充実した視察となりました。 実際にアメリカに行ってみて、「中韓の国家を挙げての情報戦に大きく差をつけられて負けている日本」を思い知らされました。目良さんたちのような有志の一般人のみの活動ではとてもじゃありませんが勝てません。 でも、河野談話を撤回すれば、日本に一筋の光が見えてくると思います。河野談話がある限り、中韓に何を言われても反論できないし、外務省も動き難い。いくら、日本が真実を叫んでも「河野談話」がある限り「日本政府が認めているではないか」と世界中から反論されます。 アメリカから帰国した私に、予算委員会での質問のチャンスが巡ってきます。NHKの中継入りの委員会において一年生議員が質問に立てるのは異例です。私に与えられた20分をすべて慰安婦問題でやりきろうと思いました。海外で頑張っている人の力になりたい。なんといっても先人に着せられた汚名を晴らしたい。 念入りに原稿を用意し、練習し、本番に臨みました。 はじめに、対外広報予算がどうなっているのか?を質問。中韓の海外での展開している情報戦において、日本が国家として対応すべきだということを主張しました。 続いてグレンデール市をはじめとするアメリカ本土での慰安婦像建立の実態について、実際に取材してきた現地の状況を話しました。 そして最後に、河野洋平元官房長官の参考人招致を要求、予算委員会の理事会での検討をお願いしました。時間はぎりぎりでしたが、二階俊博予算委員会委員長から「検討します。」という発言を引き出すことができました。 このあと、中山成彬先生が再度河野元官房長官と当時官房副長官だった石原伸雄氏の参考人招致を要求した結果、なんと石原氏の予算委員会招致が実現しました。(「血圧が上がるような質問をしないこと」という条件付きでした。) そしてこの歴史的質疑を行ったのは、山田宏先生。石原氏の口から、談話作成時に韓国とのすり合わせがあったこと、強制連行の証拠が見つからない為、元慰安婦の証言を基に談話が作成されたこと、また、その証言の裏付け調査を行っていないこと等の真実が明らかになりました。 これを受け、政府は河野談話の検証を行うことを約束。直ちにその作業に着手しました。 一方、日本維新の会(当時)が行った河野談話撤廃を求める国民運動は、1ヶ月あまりの間に14万筆を超える署名を集めました。中山先生、田沼隆志先生とともに官邸に署名を届けに行った時、受け取ってくださった菅官房長官が、「私も気持ちはみなさんと一緒です。」と、おっしゃってくださったことが今でも印象に残っています。  さて、現状の話をします。 政府は河野談話の検証は行いましたが、それだけで、談話の見直しや撤廃にはつながっていません。 昨年末の選挙で次世代の党は大敗を期しました。現在国会で、慰安婦問題を口にする議員は存在せず、河野洋平元官房長官の招致も実現する機運がありません。 朝日新聞が慰安婦問題の捏造を32年間の長きにわたり行っていたことを認め、訂正記事を出したにもかかわらず、日本国民はこのことにほとんど関心がありません。また、海外に対して全く発信されていません。大きな手ごたえがあったと思った「慰安婦問題」ですが、現状は何ら変化がないと言わざるを得ません。 一年前の雑誌のインタビュー記事の中で私は、 「今は河野談話の見直しに向けた動きが注目されています。これをブームで終わらせるつもりはありません。もっと言うなら“河野談話を見直し、撤回若しくは新しい菅談話、安倍談話を作成することでブームを終わらせる”、そんな覚悟で挑んでいきたい。」 と、発言しています。昨年のような盛り上がりはなく、ブームは去ったとみられているかもしれません。 でも、我々の戦いは続いています。 慰安婦問題をこのまま放置してしまうと、私たちの子どもや孫世代も中韓の嘘に謝り続けなくてはならない。そのような事態を避けるためにも、この問題は私たちの世代で解決しなくてはなりません。 先日、村山富市元首相と河野洋平元官房長官が対談し、お互いの談話をたたえ合ったという報道に驚きました。元社会党と元自民党の要職であった二人が一緒に記者会見をする。国内外のマスコミが押し掛け、主要紙やテレビがそれを報じ、海外にも発信されました。 反日勢力は必死です。政党の枠を超えて、大きな一つの塊になろうとしています。一方の保守勢力はいつまでたっても一つになれない。目的が一緒でも政党が違えば手を組むことを阻まれます。そればかりか、経済政策や外交手段等の意見の違いで、分裂し、お互いを攻撃し合っています。 私はそのような状態を憂いでいますが、ただ嘆いていても始まりません。今は国会議員ではないので、活動も限られますが、自分がやれることからやっていかなければいけないと思っています。 7月下旬にスイスジュネーブで開かれる女子差別撤廃委員会に合わせて、慰安婦問題について日本の真実を訴えるため、ジュネーブ入りをしたいと考えています。 また後日、その報告をさせていただける機会があれば、うれしいです。

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    あっけにとられた村山氏の「善意」と河野氏の「真実」

    阿比留瑠比(産経新聞政治部編集委員)  村山富市元首相と河野洋平元官房長官が9日、日本記者クラブで行った対談と質疑応答にはあっけにとられた。日本記者クラブから色紙への揮毫(きごう)を求められた河野氏は、あろうことかこう書いたのである。 「真実」 平成5年8月、証拠資料も信頼に足る証言もないまま、慰安婦募集の強制性を認める「河野談話」を発表した当人が河野氏だ。 河野氏はメディアのインタビューなどで、河野談話の根拠は韓国人元慰安婦16人への聞き取り調査だと強調していたが、実は聞き取り調査の前に談話の原案が作成されていたことが判明している。しかも、聞き取り調査の実態はアリバイづくりのための「儀式」(外務省内部文書)だった。6月9日、日本記者クラブで対談する河野洋平元衆院議長(左)と村山富市元首相=(栗橋隆悦撮影) 河野氏はまた、河野談話の趣旨・文言をめぐって韓国政府との間で事前にすり合わせが行われたことを否定し続けていた。だが、実際のところ談話は、大幅に韓国側の要求を取り入れた合作であったことも明らかになっている。 にもかかわらず、河野氏は色紙に「真実」と記し、その理由について「ジャーナリストの仕事は真実を追究すること」と前置きした上でこう説明した。 「とにかくまず最初は事実を認めることが大事。真実、事実を認めることからやらなきゃダメだ。一つ細かいことを持ってきて、だからなかったんじゃないかと言って否定する。よそでもやっているからいいじゃないか、と言わんばかりの言い方をする。こんなことが、どのくらい日本人の名誉を傷つけているか。私は非常に怒っている」「中国の本心は『軽蔑』」 ほとんど悪い冗談のようなセリフだ。事実関係を軽視し、旧日本軍や官憲がやってもいないことを浅薄な政治判断で認め、現在まで日本人の名誉をおとしめ続けてきた河野談話の当事者が河野氏なのである。天につばするとはこのことだ。 自国民より特定近隣国の要望を優先させてきたかのようにみえる河野氏は、自らの独善的で軽薄な言動にどれだけ多くの日本人が非常に怒っているか、まだ分からないのだろうか。 小泉純一郎政権当時、外務省チャイナスクール(中国語研修組)のある幹部から聞いた次のような河野氏の評価を思い出す。 「河野さんと加藤紘一さん(河野氏の前任の官房長官)はライバルであり、どちらがより親中派かでも競い合っている。だから、加藤さんが訪中すると、すぐに河野さんも訪中して、ともに靖国神社参拝などで小泉政権を批判する。中国は便利だから彼らを厚遇するけど、本心ではわざわざ外国に来て自国をけなす彼らのことを軽蔑している」「政治の未熟児」 一方、村山氏は対談後、色紙に「思いに邪(よこしま)なし」としたため、こう語った。 「私の気持ちに邪なものはありません。まっすぐです。(河野氏の)『真実』と同じですよ、表現が違うだけで」 両氏とも、自身を「善意の人」と認識しているのだろう。とはいえ、ドイツの政治家で社会学者のマックス・ウェーバーは有名な講演録『職業としての政治』の中でこう語っている。 「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。(中略)これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」 両氏には、もう少し年齢相応に振る舞ってほしいと願う。

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    河野洋平氏はなぜ「上から目線」でモノを言えるのか

    「河野談話」で日韓関係は良くならなかった 河野洋平元官房長官、村山富市元首相の「上から目線」の発言が止まらない。安保法制について、三人の憲法学者が集団的自衛権の行使について、「違憲」だと発言したことに勢いを得ているかのようだ。6月9日の日本記者クラブでの対談では、平成5(1993)年の「河野談話」、平成7(1995)年の「村山談話」を互いにたたえあってみせた。 この中で村山氏は、「河野談話発表後、日韓関係は前進していたのに、現政権が寝た子(韓国)を起こした」と発言したという。事実誤認も甚だしい。民主党政権の首相だった野田佳彦氏は、平成26(2014)年8月に自身のブログである「かわら版」でそのことをはっきり証言している。 野田氏が平成23(2011)年12月に李明博当時大統領と会談した際、李大統領は時間の大半を費やして慰安婦問題の解決を求めてきたそうである。これに対して野田氏は、昭和40(1965)年の日韓請求権協定によって法的には完全に決着しているという態度を貫いたという。その上で野田氏は「両国関係の悪化は残念ながら野田政権の時から始まっていました。その時、日本は右傾化していたのでしょうか。むしろナショナリズムとポピュリズム(大衆迎合主義)を連動させる動きが韓国側から始まったと見るべきでしょう」と言うのだ。 野田氏の見立ては正しい。そもそも「河野談話」によって日韓関係が改善した事実があるのだろうか。韓国の要求に屈した「河野談話」6月2日、共同通信加盟社論説研究会で講演する河野洋平元衆院議長 「河野談話」は、表向きには日本政府が自主的に、独自の判断で作成されたものとなっている。だが実際には、「河野談話」の文言について、韓国側との緊密な協議が行われていたことが、明らかになっている。内閣官房と外務省によって設置された河野談話作成過程等に関する検討チームの報告書「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯~河野談話からアジア女性基金まで~」(平成26年6月20日)によれば、「韓国側との調整の際に、主な論点となったのは、(1)慰安所設置に関する軍の関与、(2)慰安婦募集の際の軍の関与、(3)慰安婦募集に際しての『強制性』の3点であった」ということである。 報告書によれば、この協議で韓国側は、(1)の慰安所の設置については、日本側は軍当局の「意向」という表現を提示したのに対して、韓国側は軍当局の「指示」という表現を求めてきたという。これに対して、日本側は「軍の『指示』は確認できないとしてこれを受け入れず、『要望』との表現を提案」しているが、最終的には「要請」になっている。 (2)の慰安婦募集の際の軍の関与については、「韓国側は『軍又は軍の指示を受けた業者』がこれに当たったとの文言を提案」してきたが、「日本側は、募集は、軍ではなく、軍の意向を受けた業者が主としてこれを行ったことであるので、「軍」の募集を主体とすることは受け入れられない、また、業者に対する「指示」は確認できない」として、「軍の『要望』を受けた業者との表現」を提案している。これに対して韓国側は、「改めて軍の『指図(さしず)』という表現を求めてきたが、最終的には「軍の『要請』を受けた業者」ということで決着している。 (3)の慰安婦募集に際しての「強制性」については、強制連行を裏づける資料は発見されなかったにもかかわらず、韓国側の意向を受け入れ、「甘言、強圧による等本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担」という表現が盛り込まれることとなった。 このように韓国側の意向を大きく取り入れて、軍による強制を強く示唆する内容で作成されたのが、「河野談話」であった。論点となった三点を見れば明白なように、韓国側がこの問題で最も重視してきたのが、「軍による強制」ということであった。「河野談話」は、この核心部分で韓国側に譲歩を行うことにより、慰安婦問題での政治決着を図ろうとしたものである。 河野氏は、談話を発表した際の記者会見で、強制連行を裏付ける資料がなかったことに関連して、「強制ということの中には、物理的な強制もあるし、精神的な強制もある」。精神的な強制というのは、「官憲の記録に残るというものではない部分が多い」などと述べ、強制性に駄目押しする発言までして韓国側を喜ばせた。だが政治決着には至らなかった。 「補償は要求しない」の約束は破られた この際、韓国側の“殺し文句”が、「元慰安婦への補償を要求しない」ということであった。93年3月13日の金泳三大統領は、「(慰安婦問題で)日本政府に物質的補償を要求しない方針であり、補償は来年から韓国政府の予算で行う」と表明している。その後も韓国側は、金銭的な補償は求めない方針であることを再三説明してきた。 ところが韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)などが、日本の国家補償を求めてきたために、韓国政府の方針も覆ってしまうことになる。日本側では、「女性のためのアジア平和国民基金」(「アジア女性基金」)を立ち上げ、民間からの募金による「償い」をすることになったが、韓国との関係では何の解決策にもならなかった。 要するに「河野談話」は、日韓関係の改善どころか「反日」の機運に火をつけただけのことなのである。韓国の日本大使館前やアメリカ各地には慰安婦像が建てられているが、これは未来永劫、日本を貶めようとするものである。河野氏はこれをどう思うのか。河野氏の自宅前に慰安婦像を建てても結構だとでも言うのだろうか。

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    米国の日本悪玉論

    「日本には行き過ぎた愛国主義者が存在している」─米歴史学会の重鎮ジョン・ダワー先生の「ご託宣」です。それゆえに「日本悪玉論」を展開されておられる…。

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    なぜアメリカ離れできないのか

    松田武(大阪大学教授)北村稔(立命館大学教授) アメリカの対日占領政策については、これまで多くの研究がなされてきた。アメリカの本音は、日本が二度と再び武器をとって立ち上がることのないよう、その“背骨”をへし折ることだった「日本精神」の中枢は神道であり天皇にちがいない――。 目的を達成するためには手段を選ばない。私信の開封、メディアへの事前検閲、映画演劇への容喙など、あらゆる手法で戦後日本をマインドコントロールしようとした。 一方で冷戦がはじまっており、日本を弱体化するだけでは、まずい。西側の一員として対共産圏への防波堤にしなくてはならなくなった。そこに対日戦略のさまざまな相貌があらわれてくる。1 ジャパン・バッシング ――松田先生が書かれた『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』を読むと、アメリカが戦後の日本に対し、何をどうコントロールしようとしたのか、そのプロセスがよくわかります。知識人へのアプローチや教育などの「文化戦略」によって、うまく統治をしていった。これを研究テーマに選ばれた動機は何だったのでしょうか。松田 1980年代、経済摩擦により発生した「ジャパン・バッシング」がきっかけです。ジャパン・バッシングがおこった際、日本のアメリカ研究者に、なぜかくも厳しいバッシングを日本が受けるのか、国内むけに説明してくれという社会的な要求があったのに、彼らは沈黙を保ったんですね。知識人として果たすべき本来の役割や義務に対して彼らは腰砕けだった。それは、「The Complicity of Silence=口をつぐむ事による知と権力との共犯関係」になるんです。 そのときに、「私たちは何のためにアメリカを研究しているんだろう」と、大変なショックをうけた。それが80年代に強烈にインプットされました。 私は、アメリカの研究生活をとおして〈研究者たるもの、今がたとえ望ましい状況であっても、よりよい状況を醸成しようとする精神を養成する必要がある〉と若いときから言われてきました。それを日本のアメリカ研究者たちは実践してないんですね。「なぜ口をつぐむのか?」と考えたときに、深い根があるように思えました。それを研究テーマにすえたとき、アメリカによる「ソフト・パワー」に屈し、また一方では、それに迎合してしまった日本の対米依存体質が見えてきました。 ――欧米のジャーナリストたちは、経済力ばかり巨大化して国際的な分野では積極的な発言をしない日本をとらえて、「口のしびれた巨人」なんて言っていました。松田 日本アメリカ学会の会長を務めた斎藤眞先生は『アメリカ史の文脈』(岩波書店)の中で、日本の姿をこのように指摘しています。〈日米関係の基底には、どうも日本のアメリカに対する甘えの姿勢が流れており、そのことが対米依存や、逆に対米反発を招いているように思われる。1970年代の後半より、日米関係史の文脈が現実に変わりつつあるのに、意識の構造はあまり変わりないようである〉 先輩の少数の先生方は、おかしいおかしいと感じていたわけです。私の本にこれまでになかった利点があるとするならば、それを実証的に裏付けたということですね。 ――「ソフト・パワー」とは何をさすのでしょうか?松田 もともとこの言葉は、さきごろ駐日米国大使候補にあげられていた、ハーバード大学の政治学者、ジョセフ・S・ナイ二世によって紹介されたものです。 「ソフト・パワー」という言葉は、「人や制度への敬愛=文化力」によって、相手に自分の望むような行動をとらせることです。しかし、文化力だけでは強制力がなく、たんなる説得にしかならない。ソフト・パワーだけでは人の行動を望む方向に変えることはできないのです。 パワーというのは、したくないことを相手にさせる能力です。ソフト・パワーの役割は、軍事・経済などのハード面を補完することですね。 軍事力、経済力は有無を言わさぬ強制力がある。しかし、それにつきものの抵抗を抑えるために、ソフト・パワーとしての文化力があるのです。 つまり、軍事力・経済力・文化力、この三つがそろって、はじめてパワーが機能するのです。 アメリカは覇権国家となるために、このソフト・パワーを利用して日本国内に親米派の知識人をつくり、彼らに一般国民に対しアメリカについて親和感を抱かせること、そして冷戦における支援者となってもらうことを目的としました。 日米文化交流事業として、日本の知識人によるアメリカ研究振興、フルブライト交流計画、国際文化会館の創設、東京大学とスタンフォード大学共催による『アメリカ研究セミナー』などが実施されました。アメリカ研究者にたいして、合衆国から潤沢な資金援助がされたのですが、それが後々大きな禍根を残すことになります。 ――戦後の対日ソフト・パワー戦略には、国務長官のジョン・フォスター・ダレスの存在が大きいと言われていますね。松田 戦後、対日講和条約の交渉担当官だったダレスは、20年代、30年代の対日戦略の失敗から、文化の力を大変重要視していました。ダレスは、第一次世界大戦のヴェルサイユ講和条約のときも、アメリカ講和使節団の一員として出席しています。それ以来、日米関係をずっと観察しているわけです。 51年のサンフランシスコ講和条約のときには、すでにそれを十分知っていたので、戦後日本に対して早速ソフト・パワーを使おうとしたわけです。 1920年初頭は、戦争の影響からたちあがった栄光の20年代と言われるだけあって、世界経済が浮揚していました。 その範囲において、日本とアメリカもワシントン体制という友好関係にあって、一緒に中国を開発しましょうということだった。 20年代前半の、アメリカによる日本の単独行動を抑制するメカニズムはなんだったかいうと、経済的なテコ、資本の輸出、そして技術導入であり、幣原喜重郎はじめとする日本の指導者とアメリカの指導者の世界観が一致していました。リベラル・インターナショナリズム(自由主義的国際主義)です。しかし、その後のウォール街の株価大暴落、それに続く1931年の満洲事変を皮切りに、日米関係は崩壊していきます。 この間の日米関係の成功と失敗、そしてその原因を考えた結果、第二次大戦後においては、1920年代にはあまり意識していなかった文化の力をフルに動員して、親米派をつくることを重要視しました。 そしてダレスは、「脱亜入欧」という明治維新以来の、西欧世界の仲間入りをしたいという日本国民の願望を見抜いていました。そこで「アングロ・サクソン民族のエリート・クラブ」の一員として、日本を平等に、正当に扱うことにすれば、日本を“抱き込む”ことができると考えていたのです。北村 ご本の中には、ダレスが頻繁に出てきますね。ダレスはこんなに日本人のことを知っていたのかと、びっくりしました。パリ講和会議のときから日本を見ていたからよく分かっていたんですね。ロックフェラー三世の役割 ――日米文化交流事業において、重要な役割を果たしてきた人物に、ジョン・D・ロックフェラー三世がいます。彼の思想と役割についてお聞きしたいのですが。ジョン・D・ロックフェラー3世松田 ロックフェラー三世がロックフェラー財団の理事をしているときに、理事長を務めたのがダレスでしたので、二人は非常に親しい間柄でした。ダレスは、これからの外交というのは政府対政府、官僚対官僚ではなくて、people-to-people diplomacy、すなわち民間外交が重要になると思っていました。民間の人の心をまないと、いくら経済力と軍事力を行使しても、日米の友好関係は長続きしないと考えたのです。そこで、文化の力が重要になった。文化交流を通して人々に影響を及ぼし、国民の政治的な行動を変えようとしたわけです。 そこで、東アジアに造詣が深く、教育・文化にも強い関心をもつ慈善家として広く知られていたロックフェラーに白羽の矢がたったのです。その意味でダレスとロックフェラーは同じ価値観を持っているんですね。 ダレスは51年、サンフランシスコ講和条約の締結のため来日する際、ロックフェラーを文化関係の責任者として「ダレス講和使節団」に入れています。 しかし、ロックフェラーは、国家戦略による文化交流がはらむ潜在的に危険な問題、「文化帝国主義」の危険性に気づき、慎重に行動をします。 その結果、文化交流の原則として、「双方向性」ということを唱えました。日本文化には他国に提供しうるものがあるのだから、「双方向性」の原則は「文化帝国主義」の批判からアメリカを守れるだろうとの思惑もありました。 また、彼は知識人へのアプローチというものを強調します。権威主義の強い日本において、一般国民へ影響を及ぼすには、指導者である知識人を通すことが効果的であるという理由からでした。北村 ダレスとロックフェラーのコンビが、対日ソフト・パワーの両輪だったということですね。2 アメリカ文化の強大な引力圏松田 自由主義的国際主義=リベラル・インターナショナリズムには、いい面もあるということを認めなければなりません。しかし一方で、「負の側面」もある。 私のこの本の英訳タイトルは「Soft Power and Its Perils(ソフト・パワーとその危険性)」なんです。落とし穴があるということですね。意図的にそうしているわけではなく、知らず知らずにアメリカ文化の強大な引力圏に引き寄せられてしまい、結果として依存体質に陥ってしまう。それに日本人もアメリカ人も気づいていなかった。 ソフト・パワー自体は意図的に日本人を骨抜きにしようとしたわけではありません。それはダレスもロックフェラーも同じです。というのも、アメリカ側が相手にしたのは、「親米派」であり、かつ「自らの価値体系や行動様式を自分の手で構築」できる知識人でした。 しかし、受け手側の日本の留学生たちが、アメリカのソフト・パワーとしての「資金や留学の機会」を、自分達の帰国後の社会的ポジション獲得や権威づけに使った。彼らは「親米派」であるけれども、「精神的に弱々しい、権力を受容する」タイプの日本人となっていった。それは資金提供者としてのアメリカが意図したものとは、微妙にズレがあります。 そして、親米派養成のため費やされた「カネ」は、日本の研究者のアメリカ批判の抑止につながり、それが冒頭にお話をした、ジャパン・バッシングの際のアメリカ研究者の態度にも伝統として表れてしまった。 それは、日本のアメリカ研究にゆがんだ影響を与えただけでなく、米国の権威・資金への依存体質を生み出してしまいました。 ――吉田茂をはじめ、戦後の日本の政治家がソフト・パワーをうまく利用した面もありますか?松田 日本の占領期、アメリカにはグローバルなインタレストと、日本の再建という二本立ての目標があった。そのためには、アメリの目指している国際秩序のもと、平和主義的で民主的な日本の再建を行うという枠組がもっとも望ましいわけです。 日本にとっても「寄らば大樹の陰」で、アメリカから甘い汁を吸って、そこで発展をしていくという方法は魅力的だったでしょう。北村 アメリカのソフト・パワーを上手に使っていけば、国を再建できるという思いが、日本の指導者たちには当然あったでしょう。冷戦の最中にあっても、中国・ソ連とは正面から向き合わずに経済発展だけ考えて、安全保障はアメリカに任せておけた。松田 そうです。また、アメリカにとっては日本を太平洋戦争の戦利品として自由主義世界に抱き込むことにより、ソ連側につかせないということ。そういう点で利害が一致したのでしょう。しかし、日本側の、ソフト・パワーとそれによる権威を甘受するという姿勢が、「対米半永久的依存体質」をつくった原因と言えるでしょう。日本人がいる「鉄の檻」北村 アメリカ研究をしている人たちで、アメリカに対しcritical(批判的)に冷静に、モノを言う人ってあまり見当たりませんね。それを言ってしまうと、自分の研究がアメリカにおいて取りあげてもらえなくなるからでしょうか。松田 彼らは慎重に内容を選んで、議論を展開していますね。アメリカの政治文脈の中でサバイブしようと思えば、思うとおりのことは言えない。これは難しい。批判するのはやさしいですが、きわどい路線を歩まなければ生き残れないですね。北村 「言論の自由の国」だといっても、アメリカには全体としてはまとまった路線というのがキチッとあって、それから外れると相手にしてもらえないでしょう。松田 アメリカのリベラリズムというのは思想の幅が広いんですが、そうかといって社会主義を目指す人達にはものすごく冷たい。対決姿勢をとります。社会主義者には教職もないし、村八分にされてしまう。 戦後の日米安保体制というのは、アメリカのヘゲモニーのもとで、アメリカのエリートの指導者と、吉田茂のようなエリートの指導者の間の共同作業によって築かれたわけです。戦後日本の政治、経済、社会、文化の幅広い領域に及んで、日本社会全体を支配する巨大な秩序界でありました。  言い換えれば、日本国民の圧倒的多数がそのもとに生まれ、その殆どが好むと好まざるとに関わらず、その中で生きていかなければならない、言わば、「鉄の檻」のようなものです。そして、アメリカを主たる権威の源とするこの巨大な秩序界は、国民の中から、日米安保に必要な人間をつくり育てます。 そのことは、知識人を例にとると分かりやすい。もし、ある知識人が、その規範に適応できない、あるいは適応しようとしない場合、さらにはそれに反して行動する場合は、その知識人は正当な思想領域から逸脱者と規定され、彼の政治的行動を極小化するために、知的共同体から追放されるか、あるいは知的集団の周辺に追いやられ、遅かれ早かれ淘汰されることになります。 この巨大な秩序界は、淘汰の過程を通して、国民の中から、日米安保体制維持に必要な人間をつくり育ててきただけでなく、多くの知識人はアメリカの権威に強く依存するようになった。これが私の基本的な視点なんです。北村 驚いたのは、本書の第八章「分権か対抗か—京都アメリカ研究セミナー」で詳しく述べられている、アメリカのソフト・パワーの受け入れ窓口になった日本知識人の代表である大学人のあいだで、当初セクト主義による凄まじい軋轢が発生し、アメリカ側が当惑していた事実です。 東大と京大を二大軸とする関東と関西の対立、さらには同じ関西軸の中の京大と同志社の対立、また京大と同志社双方による関西軸からの立命館大学の放逐など、大学間交流の進む現在の状況からは、考えられない事態が起こった。 このようなセクト主義は、積年の日本アカデミズムの学閥による閉鎖的人事が生み出したものですが、アメリカ側は資金援助を切り札にして、やがてこのセクト主義体制を新たに再編するかたちで、日本の大学の中に自らのソフト・パワーの受け入れ体制を作ってしまいますね。 ――要は助成金の“ぶんどり合戦”を演じたのですね。東大の南原繁など、京都勢を牽制して「特許の侵害行為」とまで言っている。日米関係を提示せよ北村 私も学生のとき、「安保粉砕」「闘争勝利」と騒いだことがありますが、しばらく考えたら、「安保条約があるから現体制がある」ということが分かりました。安保を粉砕するということは全部を変える、つまり「革命」をするということです。それは、どうやったって不可能だと思いました。そうなると、この状況の中で自分は保守的に生きていくのかと思い悩みました。七〇年代のことです。そしてそこから、自分の生存基盤と矛盾しない「良き保守の思想」とは何かを模索し始めたわけです。松田 日米関係を維持するというのと、日米安保体制というのは区別して考える必要があると思います。好むと好まざるとに関わらず、日本とアメリカは隣同士ですから、関係は保っていかないといけない。どのような関係を保っていくのか、ということが知識人に問われているのだと思います。 戦後の日米体制はベストなのか。日本が世界のなかで、尊敬され、かつ生きていくためには、どういう日米関係が望ましいのか。 これを知識人は100%の正確さではなくても、提示すべきだと思うんです。 日本の知識人が、構想力を発揮して提示するということと、それがアメリカに100%無修正で受け入れられるかは、別です。国対国の力関係がありますから。ものによってはアメリカはつぶしに来ると思います、あの国はそういう厳しい面をもった国です。 ――冷戦が崩壊して、日米同盟も大きく揺らいできました。日本の自立を確保しつつ、同盟を実のあるものにすることが求められているのでしょう。3 日本の知識人の怠慢北村 日本人が世界に誇れる「売り」、これだけは負けないぞというものを、もっとアピールするべきだと思いますね。例えば国民の知識レベルがおしなべて高いとか、国内が安定しているとか、危機に際しての団結力があるとか。そういうところをもっと発信して、アメリカへの従属的な立場に甘んじていてはならないのに、それを変えていこうという気概さえないですね。今でも、官僚はアメリカに留学する人が多い。 ――霞ヶ関の官僚をはじめとする、日本からのエリート留学生は指導教授から言われるそうです。「お前は日本という小さな窓でしか世界を見ていない。それが日本の研究者のウィークポイントだ」と。アメリカというグローバルな視野をもつ国と、日本という島国の視野をどう重ね合わせるか、ということでしょうか。松田 多くの血税を予算の形で計上して派遣しているわけですけど、彼らのいくところはアカデミックにみても質のいいところです。アイビーリーグのハーバード、プリンストン、イエール……。しかしそこに集中しますと、二つのことが起こります。 一つは、彼らはアメリカに行ったとしても、図書館にこもりきりになりますから、実際のアメリカは知らない。市井の人と交流せずに、担当教授とばかり交流する。そして二つ目、彼ら官僚をアメリカに呼ぶのは、日米関係を良好にしたいという人たちです。ということは、彼らアメリカ側と日本からの留学生である官僚が、権力を補強し合っているとも言える。そういう人たちが、アメリカの日本研究者であって、日本のアメリカ研究者だという事です。 だから、カリフォルニアなどの太平洋岸地域や中西部の人たちの気持ちっていうのは、日本にあまり伝わってこないし、日米関係に反映されないんです。「実際のアメリカと、伝わってくるアメリカが違う」というのは当然のことなんです。そういう非常に歪んだ研究なんですね。誇れるものがあるのに北村 確かにわれわれはアメリカのことを、実はあまりよく知らないんじゃないか。ハリウッド映画なんかで見るアメリカと、実際にいってみて見るアメリカはだいぶ違うと思いますね。アメリカも、東部と中西部では全く違う。皆が自動車に乗ってハデな生活をしていると思っているけれども、アメリカの実像が上手く日本に入ってきてませんね。松田 最近アメリカにいって、ワシントン、ウィスコンシン……と各地で知識人をはじめ、農民、大工などいろんな人たちと交流をしてきました。その方たちの中で日本でホームステイをしたり、軍人として駐留したり、留学したりと、何らかの形で日本と触れ合ったことのある人たちが、日本のことをどれだけほめることか。 彼らは、日本人の親切さ、きめ細かい配慮、清潔さ、組織力など、日本のよさを十分に、そして正確に把握して評価しています。 ところが日本の論壇の一部の人たちは、自国のことを叩くばっかりで、いい所に言及しない。マゾヒズムか知りませんけど。「いい所はいい」と言って我々は自信をつけるべきです。 それと、日本に来たことがある人は、日本の良さを十分にわかっているんですが、そういう人たちはアメリカの人口の1%にもなりません。そうではない99%の人たちは、日本のことを知りたいと思っている。敗戦後、なぜあんなに短期間で成功したのか、犯罪率がなぜあんなに低いのか、理由を知りたいと思っている。生活の背景にある日本人の考え方、価値を知りたいと思っています。日本の知識人はそのメッセージを伝えていません、怠慢と言えますね。 そして日本政府は、東部だけでなく、中西部や山岳部にも留学生を派遣して、日本のことをもっと知らしめれば、今のようなジャパン・パッシング、ジャパン・バッシングは起きないと思います。 私は世界中を見てまわりましたが、日本には誇れるものがたくさんあるんですよ。北村 日本人が世界に向かって、もっと自らのメッセージを伝えなければならない点については、私も同感です。日本人に何故それができないのか……。例えば、西洋人には宣教師の伝統がありますよね。外に向くベクトルが歴史的にある。 一方で日本人は、外にむかって文化を発信していこう、という姿勢ではなく、外からいろんな文化を吸収して自分たちで発展させよう、という内向きのベクトルです。しかしこれからは発信をしていかなければ。松田 日本人の中には、「わび」「さび」なんて外国人に説明しても分からないだろう、という思いがあると思います。しかし、現在はアニメに代表されるジャパン・ソフトパワーというものが世界的に認識されている。世界的に、老いも若きも熱中している。そしてそこから更に進んで、日本人の考え方、価値観を知りたいと思っているんですよ。 それにはアメリカ東部の大学だけに留学し、交流するだけでは不十分なんです。「ギアチェンジ」が必要ですね。無視された江藤論文 ――以前、江藤淳さんが『閉された言語空間』(文藝春秋)という本でアメリカによる検閲の実態を書かれましたが、このときの日本の論壇の反応は、非常にクールでした。むしろ「無視しよう」という空気だった。「アメリカの検閲によって、大した被害を受けていないのに、なぜ江藤はそんな本を出すのか?」と。占領期の問題について先取りしたような形でしたが、今日ようやくその当時のことが注目されるようになりました。松田先生の本の版元である岩波書店が『占領期雑誌資料体系』を刊行しているのも、そのいい例ですね。松田 1930年代後半から40年代にかけて、アメリカは第二次世界大戦に入りますね。戦時下において、アメリカの自由主義思想、言論の自由、良心の自由という建国以来の原則が、国家のサバイバルのために一時曲げられました。戦争遂行のために、プロパガンダ活動をしたわけです。 ドイツのゲッベルスに代表される、中南米における反米プロパガンダに対抗するという理由でした。それは真珠湾攻撃後の、対日プロパガンダでも同様です。 しかし、これは例外的な特別措置で、戦争が終われば解除するということだったのに、45年からアメリカとソ連との関係が険悪になってくると、ソ連が行った心理戦争に対抗するために、カウンター・プロパガンダとして、アメリカも文化政策というものを本格化してくるわけです。 少なくとも第二次世界大戦までは、政府主導の文化政策というのはなかったんです。それまでは、民間の宣教師や、医師、技師たちに任せていた。それを国務省が中心となって、民間の活動を補助するという形で政府が介入するようになりました。ジョン・F・ダレス 日本の場合、日本の1945年から46年にかけて、アメリカの国家目標と日本の国家目標が一致したんです。それは何かというと、「非軍事化」「民主化」ですね。二度と日本がアメリカの脅威とならないために、構造を変えていこう、心の中も変えていこうとした。そのためには、外から入ってくるアメリカやGHQに批判的なプロパガンダ、これをコントロールしようとした。民主化という大義のためにも、これは当然だとしました。そして第二に、冷戦が始まったことで、政府が情報をコントロールする責任があるとしました。 47年から48年、「逆コース」という言葉が出てきます。それまでは日本の民主化、社会構造の再構築化、という方向でやってきたけれども、四七年に入ると、冷戦という新しい世界戦略が出てきます。民主化がスローダウンして、それ以後はイデオロギー戦争に入っていくわけですね。そしてアメリカは二極化する世界で、日本の技術力と工業力を、絶対に失うことはできないと考えました。「世界の将来は、西ドイツと日本をその支配下に置けるかどうかにかかっている」というダレスの言葉も残っている通り、共産主義との戦いに勝つための鍵は、ドイツと日本にあると考えた。 そして、アメリカは日本に民主主義の思想を伝播させるために、「非民主的な」検閲でもってそれをコントロールしました。そこにアメリカの自己矛盾がある。しかし、第一の目標である非軍事化、民主化のために押し通したのだと考えています。 ――検閲の過程をみると、日本の伝統的なものの考え方を必要以上に壊してしまったんじゃないか。これはソフト・パワーの負の側面ではないでしょうか?「骨抜きにするつもりはなかった」かもしれないが、後遺症は残った。かなり民族的な損失を被ったんじゃないのでしょうか?北村 封書の開封を平気でやって、占領軍に対する批判的意見をチェックするのを手始めに、死者の霊魂とか、死にまつわる儀式などまでチェックしたようですね。精神面に立ち入っていますよね。松田 アメリカは日本に対して精神革命をもたらすという意識でしたからね。アメリカは徹底主義者で、根こそぎやろうと思っていたのは確かです。 ――神道に代表される伝統的なもの、イコール軍国主義という考えでした。北村 それはひどい誤解ですよ。あとで「しまった」と気づく松田 アメリカは分かっていなかったんですね。 ――忠臣蔵まで“仇討ちもの”として禁止したのは、狂信的すぎますね。松田 そうですね。そのために日本国民、あるいは知識人の間に「精神的な真空状態」を作ってしまった。日本の軍事的敗北、天皇の人間宣言によって、日本人にとって自らが拠り所にするもの、外部に対して抵抗する力がなくなってしまった。そこへ共産主義が入り込む危険性が出てきて、アメリカは「ああ、しまった」と思った。 それは後から気がつくんですね。北村 アメリカではフロイトが流行りましたけど、余りに明快な精神分析はヨーロッパでは流行らなかった。ちなみに「政治学」はアメリカでは「political science」です。あくまで科学なので、1+1=2という明快な答えが出なければならない。しかし、イギリスだと「political studies」。種々の要因が絡み合って存在するという基本認識があります。アメリカ人は単純な合理性がともなわないと政治ができない。 アメリカが日本と戦争するぞと政策転換をしたときも、日本が1938年の11月に、日・満・支(国民政府)による「東亜新秩序建設」というブロック経済圏構想を打ち出したら、中国での機会均等を補償する九ヵ国条約違反だと言い出したりして、相手がこう出れば自分はこう出る、といったように、ギアをガチャンと変えて、その後はずっとそのまま進んでいきます。 日本の占領政策の場合でも、日本をこう変えようと決めたら、そのようなギアをガチャンと入れてしまって、おし進める。 物事を非常に単純化して進めてしまう癖があるから、取り返しがつかないことになる。松田 占領当初は、日本にとってもいい効果はあったと思います。戦前・戦中に、日本国内で民主化の気配はあっても、実際はできませんでしたからね。戦後、アメリカの力を借りて達成したことを考えると、そうマイナスのことばかりではないと思います。アメリカは被害妄想の国まつだ・たけし 1945年生まれ。米国ウィスコンシン大学大学院歴史学研究科修了(Ph.D.)。現在、大阪大学大学院国際公共政策研究科教授。専攻はアメリカ史、アメリカ対外関係史、日米関係史。主な編著書に『ヘゲモニー国家と世界システム』(共編著・山川出版社)、『現代アメリカの外交』(編著・ミネルヴァ書房)などがある。松田 アメリカ人の考え方には、「good(善)」と「evil(悪)」、敵か味方か、という二項対立的なマニ教的思考があります。これは、近代の価値が持っている内面的な矛盾とも言えます。 「自由」という言葉には、活動の自由、労働の自由、財産形成の自由……と、よい面もありますが、一方で財産を手に入れた途端に他者に奪われてしまうのではないかという、不安感、他者への不信感など負の面も内包します。自由=略奪、自由=差別、自由=排除・武力行使……。これが近代の価値観には同居しているわけです。これをいかに超克するかというのが問題なわけです。 戦後、日本のアメリカ研究の主流は、日本の社会を民主化するというニーズから、アメリカの近代の価値がもっているいい面、明るいところを取り入れようとした。しかし、アメリカの価値というのは、いいとこ取りができない。善と悪、陰と陽、二つの側面をみながら、どうアメリカ像を構築して伝えるかが、我々の仕事なんです。 また、ピューリタンたちはイギリスからアメリカへ渡ってきて、丘の上に町をつくるわけです。そして「ユートピアをつくった」という思いをもった。でも、まわりにはインディアンもいるし、イギリス以外からも人が流入してくる。いつなんどき、油断をしたらこのユートピアを崩されてしまうかもしれないという「包囲心理」がありました。自由なんだけれど、敵が包囲している、だから常に軍事力でもって守るということになる。その近代の価値が持っている矛盾が、今もずっと続いています。 戦後から91年のソ連の崩壊までは、アメリカはコミュニズムという敵をつくりました。そして今度は、アルカイダというテロリストをつくった。そして次は……。そういう心理構造がアメリカにはある。 私は、あなたたちにはそういう心理構造がある、だからもっとリラックスをして自由になってほしい、ということを伝えたいんですね。それが研究テーマのひとつでもある。北村 アメリカ人は No. 1になるのが好きな国民性なのかと思っていましたが、いつなんどき襲われるのではないかという、被害妄想からきているんですね。日本は海に囲まれた島国で安全でしたから、国民性も能天気で危機感がない。全く違いますね。松田 彼らの考えの底にあるのは、自分たちは世界にはないユートピアをつくるんだという使命感で、実際にそれをつくり、豊かになりました。そして、その原点は間違っていないという信念があって、それを世界に広めたいんですよ。北村 ピューリタニズムはまだ生きているんですね。今の言葉でいう「グローバリゼーション」ですね。松田 このピューリタニズムの考え、そしてロックの自由主義、いわゆる資本主義の思想とが、あるときには手を携え、あるときには対立しながらアメリカを支えています。北村 アメリカの高等教育の中では、そういう伝統構造を変えることなく、教育しているのでしょうか?松田 大学に行くまでに、家庭、教会、それに学校で教え込まれます。北村 アメリカは自由主義だと言いますけれど、そういう確固たる信念を叩き込むわけですね。松田 それを「アメリカの信条」という言葉で表しているんですね。それに対して、異をはさまない。そこが大前提になっているんです。4 膨張とピューリタニズム松田 アメリカ人は「善意」を強調するんですけど、その善意には条件があるんです。ディーン・アチソン元国務長官いわく「私たちはあなたたちを助けたい。アメリカの歴史をみるとこれだけ成功してきた。助ける上の条件としては、アメリカ人がやった方法で助けたい」。つまり、自由市場経済制度を適用するということです。ウッドロー・ウィルソン大統領の有名な十四カ条の一つ、self determination(民族自決)はアメリカの方法を学べば認めましょうということ。リベラリズムの大きな「枠」「檻」の中にいるならば、アメリカは「善意・寛大」になるということです。北村 その「檻」を出ようとすると、叩いてくるわけですよね。松田 それは何故かというと、ウィリアムズの歴史哲学ですが「アメリカ国民の繁栄、福祉、民主主義の発展は膨張することで成り立っている」ということなんです。アメリカの膨張がストップする、あるいは抑制されると、国内で失業を生み、暴動を生み、社会不安になって、財産追求の自由も侵害される。 膨張がストップするというのは、世界中に社会主義、共産主義の国ができるということです。アメリカのカネ・モノ・サービスが自由に入っていける空間があるうちは、アメリカは助かるんですね。戦後の日本を西側に入れたのも、当然ですよね。北村 アメリカによる「人権外交」というのも、そういうことですよね。「内政干渉」という外交次元の論理を超越する「人権」という価値観を錦の御旗にして、他国へどんどん入っていく。アメリカは怖い国松田 political economyという言葉がありますが、政治と経済、アメリカの民主主義とfree market economyというのは、同じことなんです。分けることができない裏と表なんです。きたむら・みのる 1948年、京都府生まれ。京都大学文学部史学科卒業、同大学院博士課程中途退学。三重大学助教授を経て立命館大学文学部教授。法学博士。専門は中国近現代史。主な著書に『第一次国共合作の研究』(岩波書店)、『「南京事件」の探求』(文春新書)、『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP新書)など。北村 そうしてみると、アメリカというのは恐い、扱いにくい国ですね。 中国共産党も膨張していますが、基礎になっている経済発展は、共産党が外国企業に安い労働力と土地を提供するブローカー業の所産であり、内実は脆弱で、国内矛盾もいっぱい抱えています。 しかしアメリカの場合は、膨張主義の歴史が長いですね。バックボーンにはピューリタニズムという宗教的なものもありますし、確信的です。松田 アメリカの行動、世界観を変えるためには、やはり高等教育を変えないといけないと思います。外国のアメリカ研究者の役割は何かといったら、そこに入り込むことですよ。北村 批判的に分析をして教えてあげるということですね。松田 そういうことです。それをしなくてはいけない。北村 向こうの情報を入れるだけではダメですよね。こちらから発信し、批判して教えないと。でも、今の文科省の言っている英語教育では、単なるビジネス英語どまりですよ。まずは日本語の国語教育を徹底して、発信のための内面世界をつくり上げなくてはダメです。 日本人は戦後、アメリカの占領政策に対して、柔道ではありませんが、押したり引いたりしてうまく対応してきました。冷戦構造の中で、アメリカという支配者をうまく使ったといってよい。そして昨今では、アメリカの「枠」や「檻」が役に立たなくなってきて、どうしようかとは迷っているのだけれど、ズルズルと現在まで来てしまっている。 関係を再構築できていないから、アメリカの国債を買ってご機嫌を取り結んでいる。カネと技術に期待松田 決してアメリカの庇護はタダではないということです。アメリカの行動原理はギブ&テイク。たとえキリスト教関係の団体であっても、完全な持ち出しはないのです。 ――湾岸戦争のとき、日本の海上自衛隊の掃海艇をアメリカがとても評価しましたね。他の国はどこもできないきめ細かい技術を、日本の海上自衛隊は持っていますから。松田 アメリカが日本に求めているのは、カネと技術力ですね。それがアメリカのグローバル戦略を補強する形で使えればいいと考えている。民族自決の問題で言えば、日本人が独自の意思と考えで技術とカネを使った場合、アメリカから“注文”がくるでしょう。それとどう交渉していくかが、これからの世代の責任と義務、技量とセンスでしょう。北村 アメリカによる日本の位置付けをひと言で言うなら、「お金と技術を提供してくれて、アメリカの言うことについてきてくれればいい」ということなんでしょうか。松田 そうです。「アメリカ合衆国は日本を対等で重要なパートナーと見なしている」というセリフがアメリカ高官からよく発言される一方、日本は多少の不満があってもアメリカについてくるしかないので、日本の利益を無視しても大過なくやっていける、という考えをアメリカはもっています。しかし今後もそれで日本の国民が納得するかどうかでしょう。指導層とそれぞれの国民の間の考え方に、あまりにもギャップがあると思います。北村 しかし今、すでに冷戦構造が崩れてしまったために、日本はアメリカとだけ上手くやっていけばいい、という従来のやり方が通用しなくなりました。 今後どうやって独自の道を切り開いていくのか、喫緊の課題ですね。

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    「日本悪玉論」を拡散するジョン・ダワー

    岡部伸(産経新聞編集委員)米国の反日研究者 連休の最中の5月2日、天皇制を批判し、日米同盟の強化も危険と論じる米国の日本研究家がまた「日本悪玉論」を説教めいて語った。TBSの「報道特集」に「戦後70年 歴史家からの警告」と題して登場した『敗北を抱きしめて』の著者、マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー名誉教授である。 「日本には行き過ぎた愛国主義者が存在しているので、戦争が日本にもたらした結果や日本人がアジアで行ってきたことに真摯に向き合えなかった。未だに向き合えていない。『あれはひどい戦争だった』という声にもう一度耳を傾けるべき」 行き過ぎた愛国主義者のせいで反省が出来ないと叱った。いつもの自虐史観の押しつけである。「アジアへの加害者責任」と謝罪を唱えるのは、まるで従軍慰安婦や南京虐殺などで反日プロパガンダを繰り返す中国と韓国の代弁者のようだ。同じ頃に慰安婦問題などを取り上げて安倍政権に「侵略の過ちを清算せよ」と叱責する米国の日本研究者ら「187人(さらに賛同者が増え5月末までに457人)の声明」にも名前を連ねたダワー教授が日本に「過去への反省」を訴えるのは初めてではない。『朝日新聞』2008年12月22日付朝刊には「田母神論文『国を常に支持』が愛国か」と題して寄稿している。〈アジア太平洋戦争について、帝国主義や植民地主義、世界大恐慌、アジア(とくに中国)でわき起こった反帝国主義ナショナリズムといった広い文脈で論議することは妥当だし、重要でもある。(中略)しかし、一九三〇年代および四〇年代前半には、日本も植民地帝国主義勢力として軍国主義に陥り、侵攻し、占領し、ひどい残虐行為をおこなった。それを否定するのは歴史を根底から歪曲するものだ〉 日本が「悪者」で、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」を事実と決めつけ、「帝国主義」国家が「侵略」し、人民は抑圧されたとみなす。それ以外の史観を、「歴史修正主義」と排外視するのはなぜだろうか──。E・H・ノーマン ダワー教授が日本研究家として大先輩であるハーバート・ノーマンを敬愛し、日本を「解体すべき危険なファシズム国家」と位置づけるノーマン理論を引き継いでいるからだ。英国立公文書館所蔵の秘密文書でMI5(英情報局保安部)が共産主義者と断定したノーマンの歴史観は自虐史観というよりマルクス主義史観である。 ダワー教授の著作を見れば明らかだ。2002年に加藤周一編『ハーバート・ノーマン 人と業績』で、「この領域(近代日本史研究)の欧米の学者として、ずば抜けて鋭く最も影響力ある地位を確立した。実際、彼以前にそのような偉業をなし得た人物はいなかった。他に誰がなし得ただろうか」とノーマンを絶賛し、2013年に上梓された『忘却のしかた、記憶のしかた』では、第一章を「ノーマン再評価」にあて、「戦後や占領後の学界の傾向は、『明治国家の権威主義的な遺産』というノーマンの考えにたいし、根源的な敬意をもっていた」と指摘した上で、「(ノーマンは)一九三一年以降の日本の侵略が、(中略)日本という国家の性格がまねいた結末でもあった(と解釈して)(中略)、明治維新の不完全な性格や、軍国主義的な政策、権威主義的な構造から生まれた問題こそが、彼(ノーマン)の近代日本分析の核心だった」と深い敬意を持って論評している。「未完の占領政策」 「戦前まで封建社会にあった日本は専制的な軍国主義国家がすべて悪い。容赦なく国家体制を解体し人民を解放すべし」というノーマンの「暗黒史観」は日本を弱体化させる占領政策を進めていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のニューディーラーたちに重宝された。ところが冷戦が始まり、米ソ対立が激化すると、マルクス色が強い赤い「民主化」政策が変わる。いわゆる「逆コース」である。 1949年に共産中国が誕生し、翌50年に朝鮮戦争が勃発し、米国は日本を東アジアの共産主義の防波堤に活用した。懲罰的な占領政策は取りやめて日米安保条約を結んで日本を同盟国に格上げしてサンフランシスコ講和条約発効とともに西側自由主義陣営の一員として経済復興を支援するようになる。この政策転換を支えたのが駐日米国大使となったエドウィン・ライシャワーの理論だった。「戦犯裁判や公職追放を通じて一部の軍国主義者たちを排除した結果、日本は再び民主主義国家として再出発できる」と対米従属の日米安保条約のもとで、日本を同盟国として扱うことを正当化した。蜜月だった日本共産党は非合法化され、徳田球一も野坂参三も中国に逃亡する。公職追放が解除されて旧政財界人等の復帰がはじまり、レッドパージにより、保守勢力の勢いが増した。マッカーサー命令による警察予備隊の編成が再軍備の端緒ともなった。 米国内でノーマンが共産主義者でソ連のスパイではないかとの疑惑が広がるのは、ちょうどその頃である。50年にカナダ外務省は46年8月から駐日カナダ代表部主席を務めていたノーマンを解任する。カナダ外務省本省からカナダの国連代表となったノーマンに対して米上院司法委員会国内治安小委員会が共産主義との関連を追及するのは51年8月からだ。ここに来てようやく米国ではノーマンは「アジアの共産化を企てる共産主義者」と批判されるようになり、学問的影響力を失う。カナダ政府は、ノーマンは共産党員でもソ連のスパイでもないとして、ニュージーランド高等弁務官、エジプト大使に昇進させたが、1957年4月、ノーマンはカイロで生命を絶った。 その後、「忘れられていた歴史家」ノーマンが米国で再び注目を集めるのはベトナム戦争が終結した1975年ごろからである。前述のダワー教授が同年に『近代日本国家の起源─ノーマン選集』の形で99ページに及ぶ解説をつけて『日本における近代国家の成立』(1940)と『日本政治の封建的背景』(1944)を再刊行して、ノーマンの歴史観の再評価を訴えたからだ。 評論家の江崎道朗氏によると、ノーマン復権を唱えたダワー教授の理論の下敷きになったのが米国でベトナム反戦運動を展開したニュー・レフト(新左翼)だった。彼らは、ソ連の支援を受けた北ベトナムが勝利し、共産政権ができれば、東南アジアにも共産主義政権が誕生し、世界共産化が進むと考えた。ところが1965年のインドネシア共産クーデターが阻止され、反共を掲げる東南アジア諸国連合(ASEAN)が創設された。そこでニュー・レフトの理論的指導者、カリフォルニア大学のヘルベルト・マルクーゼ教授が1969年、『解放論の試み』を出版し、アジア・アフリカ諸国で共産革命が進まないのは、革命闘争を欧米の資本主義国が豊富な資金と武器援助によって抑圧するためと分析し、アジア・アフリカの解放には、共産勢力の強化より、資本主義国の弱体化が必要と訴えた。皇室解体と加害責任追及 このマルクーゼ理論を基にダワー教授は、ベトナム、ひいてはアジアの民主化を阻害する米国の帝国主義者たちがアジアで影響力を保持するのは、日米同盟と日本の経済力があるからだとして、日米同盟を解体し日本を弱体化することが、アジアの民主化につながると考えた。そしてダワー教授らは次のように訴えた。 「占領政策で日本の民主化は進んだものの、日本の官僚制を活用する間接統治と『逆コース』で占領政策が骨抜きとなり、『天皇制』など戦前の専制体制が温存された。さらに昭和天皇の戦争責任を不問にするなど東京裁判が不徹底に終わったため、日本は『過去の侵略を反省できない、アジアから信頼されない国家』になった。そこでもう一度、徹底した民主化(憲法の国民主権に基づく皇室解体)と東京裁判のやり直し、アジア諸国への加害責任の追及を行うべきだ。そのため民主化と加害責任の追及を行う日本の民主勢力(例えば、家永三郎氏のような『勇気』ある歴史家たち)を支援するべきだ(ダワー教授は1999年、後述する『抗日連合会』や土井たか子元社民党党首らと連携して、家永三郎氏にノーベル平和賞を授賞させる運動を展開している)」 「暗黒史観」であるノーマン理論を引き継いで「未完の占領改革」を徹底せよというのである。こうして日本の加害責任を改めて追及して日本を弱体化させ、アジアの民主化を促すという世界戦略が米国のニュー・レフトの間で確立されたのである。米の再評価で日本で復権するノーマン理論ノーマン理論復権 米国でのダワー教授のノーマン再評価を受けて日本でもノーマン理論が復権する。没後20年を期して77年に全集が刊行され、87年には全集の増補が刊行される。さらに左派リベラル勢力が「一般国民もアジア侵略の加害者である」と戦争責任を問い始めた。 その理論を支えた一人となった一橋大学の油井大三郎名誉教授は1989年にノーマンを再評価する『未完の占領改革─米国知識人と捨てられた日本民主化構想』を上梓し、「武装解除されても、天皇制が残るならば、日本は他の世界にとって未解決な危険な問題であり続ける」とのノーマンの発言を引用して、アジアから信頼を得るには、日本人自身が天皇制解体や加害責任追及を完遂するべきだと唱えた。言い換えれば東京裁判をやり直し、日本の加害責任を徹底追及しなければ、「占領改革」が完了しない、と訴えかけた。 こうしてノーマンが説いた「アジアへの加害者責任」の自虐史観は日本に浸透し、日本で謝罪外交の必要性が理論化された。日本国内で運動の中心的役割を果たすのが家永教科書検定訴訟支援運動だった。この結果、1980年代後半ごろから日本を始め世界各地に日本に謝罪と補償をさせる「反日」組織が誕生する。 東南アジアなどの戦争の被害地を訪問して加害者としての日本の歴史を確認する「ピース・ボート」運動が83年に辻元清美衆院議員が発起人となって始まる。84年には家永教科書訴訟を支援する形で「南京事件調査研究会」が発足され、84、87年に中国を訪問し、中国側の主張に沿って『侵華日軍南京大屠殺資料専輯』を翻訳して出版するなど「南京大虐殺」キャンペーンを始めている。また八六年には、中国、韓国などの反日活動家を訪日させ、日本の加害責任を追及する国際ネットワーク構築が始まった。 韓国で親北系のハンギョレ新聞で「『挺身隊』怨念の足跡取材記」の慰安婦キャンペーンが始まるのは90年1月だった。翌2月17日、戸塚悦朗弁護士が国連人権委員会で「従軍慰安婦・強制連行」を取り上げている。 在米中国人が日本の戦争責任を蒸し返して米国や国連を舞台に日本に謝罪と補償を求めて反日宣伝を行う「対日索賠中華同胞会」が出来るのは87年だ。狙いを「南京大虐殺」に絞った「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」を結成、翌92年にはカリフォルニアで「抗日戦争史実維護会」が組織される。 米国での中国系反日運動に連動して88年に香港で「香港紀念抗日受難同胞聯會」が結成されたのを皮切りにカナダなど世界各地で同趣旨の組織が結成され、94年12月、30を超える中国系反日組織を結集させる連合体として「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)が結成される。中国政府と連携した中国系米人たちが「日本に戦争での残虐行為を謝罪させ、賠償させる」ことを主目的に設立した「抗日連合会」が、「歴史戦」の主役として北米で日本の戦争責任を追及する苛烈な反日プロパガンダを20年にわたって繰り返している。南京事件のほかに捕虜虐待、七三一部隊、慰安婦を挙げてきた。戦犯裁判や対日講和条約での日本の責任受け入れを一切、認めない点で明白な反日組織だ。昨年、カリフォルニア州グレンデール市やニュージャージー州で慰安婦像を設置したのは記憶に新しい。「南京大虐殺」を目撃したとするドイツ人のジョン・ラーベの日記を発掘し、ドイツを「南京大虐殺」キャンペーンに捲き込んだり、反日集会に参加したアイリス・チャンに『ザ・レイプ・オブ・南京』を執筆させたりしたのも「抗日連合会」だった。 21世紀になると、ノーマンの再評価が広がる。ライシャワーの駐日大使時代の特別補佐官で、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院の学院長を務めたジョージ・パッカード氏も2001年に東京・六本木の国際文化会館で、「ライシャワーの日本近代史観は楽観主義が強すぎて軽視される一方、ダワーの『敗北を抱きしめて』やハーバート・ビックスの『昭和天皇』などの著作にみられるように、ライシャワーと対照的なノーマンの史観に評価が高まっている」とライシャワーを批判し、ノーマンを持ち上げた。 こうしたノーマン再評価を背景に中国、韓国はじめ、米国やカナダ、香港でも「日本の加害者責任」と人権を結びつけ、日本を弱体化させる反日国際ネットワークが次々と構築され、反日プロパガンダは現在も世界で広がっている。中国が仕掛ける「歴史戦」の活断層はこのあたりにあるともいえる。中国人スパイが指南役 では、英国立公文書館所蔵の秘密文書で、MI5がケンブリッジ大学留学時代に共産主義者であったことを断定したノーマンがいつ、どのような経緯で、ソ連諜報部のスパイ・工作員(GHQ参謀第二部G2のチャールズ・ウィロビー部長)となったのだろうか。 MI5の秘密文書によると、神戸のカナディアン・スクールを経てカナダのトロント大学に入学してマルクス主義に傾倒したノーマンは1933年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学すると、極秘にイギリス共産党に入党してインド人留学生をコミンテルン秘密工作組織へリクルートする非公然活動を行っている。欧州からアジアでの共産革命に路線変更したコミンテルンはインドで共産主義によって独立運動を進めることは最重要課題であった。当然ながらインドを植民地とする宗主国の英国にとって、独立を通じてインドを共産化するコミンテルンの非公然活動は最も危険な脅威だった。日本生まれで日本語に堪能なアジア通の白人留学生だったノーマンは、この工作に最適任で、ソ連諜報機関から高い評価を受けたとみられる。 奨学金の期限が切れたため1935年にケンブリッジ大からカナダに帰国したノーマンは翌年にハーバード大学大学院に入学して博士号をめざすまでの約一年間、カナダ国内で共産党活動に関わっている。「カナダ中国人民友の会」の書記となり、中国革命運動との繋がりができるのだ。これは日本の侵略に抵抗して中国の左翼革命を支援する団体でカナダ共産党の下部組織に位置づけられていた。ここで初めてノーマンは「反日」思想に目覚め、突然ハーバード大やコロンビア大で「日本研究」を志す。そこに導いたのが中国共産党の大物工作員で米国共産党の秘密党員だった冀朝鼎だった。 その後、冀朝鼎は、ノーマンがハーバード大学大学院留学やカナダ外務省入省、戦後の東京での占領政策など人生の節目で必ず顔を出して、ノーマンのキャリア形成や工作活動に影響を与えた形跡が窺え、指南役「コントローラー」だった可能性が高い。 第二次世界大戦前後に米国内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、米陸軍情報部が傍受し解読した記録「ヴェノナ文書」を1995年、米国家安全保障局(NSA)が公開し、第二次世界大戦前後に、米政府内に約300人のソ連のスパイが潜入し、ルーズべルト政権はソ連や中国共産党と通じていたことが確定しているが、冀朝鼎もその一人だった。 冀朝鼎は中国共産党の要職を担いながら、そのことを秘して1941年から重慶の国民政府の財務部長(大臣)アドバイザー(秘書官)を務める大物工作員だった。中国の山西省に1903年に生まれ、北京の清華学校に学んだ後、シカゴ大とコロンビア大で学位を取る。1920年代にはソ連にわたり国際共産主義運動の総本山であるコミンテルン本部に務め、28年のコミンテルン第六回大会では、中国共産党代表団の一員として参加。30年代は米国に渡り、米国共産党の秘密党員として北米各地で情報工作を仕掛ける一方、ノーマンらと共にマルクス主義の研究組織、太平洋問題調査会(IPR)米国支部に研究員として参加し、偽名で執筆活動も行っている。ルーズベルト政権中枢にも人脈を広げ、蔣介石国民政府の財政部長のアドバイザーに就任したのも、やはりヴェノナ文書でソ連のスパイと判明した米財務省の財務次官補だったハリー・デスクスター・ホワイトの推薦だった。冀朝鼎を通じてノーマンがソ連のスパイにして日米開戦に関係する「ハル・ノート」を起草したホワイトと繋がりがあったことは歴史の偶然ではないだろう。ちなみに冀朝鼎は大戦中に財政部長アドバイザーのポストを利用して国民党が支配する地域の経済を意図的に悪化させて戦後の国共内戦で中共側の勝利に貢献したと言われている。共産革命が成功するや冀朝鼎は北京に戻り、対外投資を統括する中共政府の要職に就任。1927年のニクソン米大統領訪中の際に通訳を務めた弟の冀朝鋳は、駐英大使を経て国連事務次長まで上り詰めた。冀兄弟は中国共産党の「ノーメンクラツーラ」であった。 ノーマンは、冀朝鼎の紹介から蔣介石政権の「特別顧問」を務め、「天皇制廃止」を唱えた米国有数の中国研究家、オーエン・ラティモアや1945年の「アメラジア事件」でソ連スパイとしてFBIに逮捕され、ヴェノナ文書でもソ連のスパイとされたフィリップ・ジャッフェと関係を深め、「反日」日本研究を始める。ケンブリッジ大で欧州中世史を学んだノーマンが冀朝鼎との出会いから、それまで興味が無かった「日本」研究に関心を持つのは、対日情報活動を意識してのものではなかったか。日本に生まれ育ち、家族が日本に住んでいれば、日本に興味を持ち、日本に出入国するのは不自然ではない。そこに冀朝鼎らコミンテルン、中国共産党が目を付けて「日本専門家」の肩書をもつ「スパイ・工作員」に仕立てあげ、外務省に就職させたのだろう。ノーマン理論による「ジャパン・ディスカウント」運動が世界で展開される現在、最初にノーマンを操ったのが冀朝鼎だった事実は、中国が仕掛ける「歴史戦」の奥深さを浮き彫りにして、背筋が凍る気がする。亡命KGB高官の証言同性愛関係 カナダ外務省の外交官だったノーマンがいかなる理由でソ連諜報部のスパイ・工作員とみなされたのだろうか。ケンブリッジ時代に共産主義者であったことは英国立公文書館が公開したMI5の機密文書で判明したが、ケンブリッジ卒業後も共産主義から離れずソ連のスパイとして働いていたとMI5が疑念を抱いたのはノーマンと同時代にケンブリッジ大トリニティ・カレッジで学び、重要なエリート・スパイとなってGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)とKGB(ソ連国家保安委員会)から「マグニフィセント・ファイブ(素晴らしき五人組)」と呼ばれた「ケンブリッジ・スパイ・リング」との接点だった。 五人組とは英外務省やMI6(英秘密情報局)に侵入したキム・フィルビー、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン、MI5に侵入したアンソニー・ブラント、外務省から大蔵省に転じたジョン・ケアンクロスだが、ソ連諜報機関からリクルートされた彼らは、いずれも最高度の二重スパイとしてソ連のために働いた。バージェスとマクリーンは1951年5月にスターリンの「モグラ」であることが発覚、ソ連に逃亡するが、ガイ・リッデルMI5副長官は同年10月1日の日記に、「ノーマンが1934年から36年に『ケンブリッジ・グループ』の一員で、初期の左翼主義が今まさに深刻」と記して、ケンブリッジで共産党活動歴があったノーマンが失踪した2人らと関係があったことを指摘している。 コロンビア大学で博士号を取得したカナダ在住のトロント大学のジェームズ・バロス教授がカナダや米国などの情報機関の機密文書を渉猟歩して著した『全くの悪気もなく─ハーバート・ノーマンのスパイ事件』(James Barros, No Sense of Evil:The Espionage Case of E. Harbert Norman, Ivy Books)によると、ノーマンはケンブリッジに着いて6週間後の1933年11月にキャンパス内でバージェスが組織した「反戦デモ」に参加して以来、バージェスと親しくなり、卒業後も連絡を取り続けた。ノーマンを高く評価したバージェスは終始仲間に引き込もうとしていた。イギリス王室の美術顧問として「英美術界の重鎮」となったブラントは、スパイ疑惑発覚後、バージェスやフィルビーらのようにソ連に逃亡せず、英国に留まり、古巣のMI5などに秘密情報を暴露したが、バロス教授は、MI5高官からの情報として、ブラントが1964年にMI5に対して、「ノーマンは我々(五人組)の仲間だった」と告白したと記している。またノーマンと面識や交流がなかったブラントがノーマンの秘密(ソ連スパイ)を知り得た理由として、「ブラントはノーマンを良く知るバージェスと同性愛関係にあったため、バージェスから寝物語として聞いたのだろう」と書いている。亡命KGB高官の証言 もう一つ根拠がある。ソ連から亡命したKGB高官の内部告白である。バロス教授によると、1961年12月、フィンランドの首都ヘルシンキにあるCIA(米中央情報局)支部に妻子を連れてモスクワから駆け込んだKGB幹部、アナトリー・ゴリツィンが「ノーマンは(ケンブリッジ卒業後、カナダ外務省入省後も)長期間、共産主義者でKGBのエージェントだった」と証言していた。ゴリツィンはKGB第一総局に属して米国、カナダ、英国における諜報活動を統括し、NATO(北大西洋条約機構)内のソ連スパイから報告を受ける要職に就いていて、ノーマンに関する秘密情報も知り得る立場にあったという。 このほかにもバロス教授は、ノーマンがGHQの対敵諜報部を経て駐日カナダ代表部主席として戦後日本に滞在した占領期に、朝鮮戦争が勃発する1950年まで、本省に報告することなく夜間に開催されていたマルクス主義を研究する勉強会に参加し続けていたことは看過できないと書いている。 また濱田康史著『カナダの対日インテリジェンス、一九四二年-一九四五年』(「ジェンダーの国際政治」日本国際政治学会編)によると、日米開戦となり、42年9月にカナダに帰国したノーマンはオタワにあったカナダ外務省の対外情報機関である調査部特別情報課で対日インテリジェンスの責任者となり、英米が傍受した日本の外交電報などを元に日本情報の収集や分析、情勢判断を行った。この中でノーマンは44年2月以降、同年6月にノルマンジー上陸作戦が始まる前、佐藤尚武駐ソ連大使の電報に着目し、「北樺太の権益をソ連に移譲し、日ソ関係を良好にすることで、(中略)英米とソ連を離間させることを東京に求めた」として「日ソ開戦ではなく日ソ接近こそが今後の日本の方針であり、したがって英米はソ連との結束を維持すべきで、これを補完することがカナダの役割である、と提言した」という。つまりノーマンは日本の対ソ接近を見抜いて米英の連合国がソ連と結束を継続してノルマンジー作戦を遂行するように働きかけていたのである。ソ連との結束維持 欧州でドイツと死闘を繰り広げていたスターリン首相は米英が第二戦線(西部戦線)を開き、反撃することを熱望していた。実際に43年11月、テヘラン会談の冒頭で、スターリンはルーズベルト米大統領とチャーチル英首相に「北フランスで第二戦線を形成すれば、対日参戦する」と約束している。一方で日本は重光葵外相らが44年前半から中立条約を結んでいたソ連を頼って独ソ和平を斡旋する形でソ連と交渉するため特使派遣を打診したがソ連から拒絶されている。こうした日本のソ連傾斜を把握して、大戦中にノーマンが「英米はソ連との結束を維持し、カナダが補完するべし」と、クレムリンの「国益」に合致する提言をしていたことは注目してもいいだろう。連合軍のノルマンジー作戦が成功してベルリン攻略は加速された。ノーマンがソ連のためにインテリジェンスを行ったとも解釈できそうだ。 こうしたノーマンのソ連や共産主義との「関係」についてカナダ政府は、90年に公文書(ライアン報告書)を出して「ひとかけらの証拠もない」とノーマンの忠誠を訴えている。しかし中西輝政京都大学名誉教授によると、これは専門外の学者に書かせたもので、客観性を欠き、彼と彼を引きたてたレスター・ピアソンに関する史料を公開していない。首相や国連総会議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したピアソンは「カナダの偉人」であり、ノーマンがソ連のスパイであったことが確定すれば、「偉人」にも嫌疑が広がり、輝かしい業績に傷がつく。こうしたことからカナダ政府が情報公開を回避しているのであれば、世界で反日包囲網が広がり、ダワー教授らが「日本悪玉論」を発信する原点となった「日本の敵」ノーマンを取り巻く戦後日本の「本質」は永遠に明らかにならないだろう。おかべ・のぶる 1959年生まれ。産経新聞編集委員。81年、立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。社会部で警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て97年から2000年までモスクワ支局長。『消えたヤルタ密約緊急電──情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書)で第22回山本七平賞を受賞。ほかに『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)などの著書がある。

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    日米戦争は「人種戦争」だった

    渡辺惣樹(日米近現代史研究家)アジア人種への恐怖 アジア人排斥連盟(the Asiatic Exclusion League)のカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州支部が結成されたのは1907年のことです。メンバーの中心は労働組合員で、彼らの標的は国際貿易港バンクーバーに流れ込む支那人や日本人労働者でした。低賃金を厭わない支那や日本からやってきた「奴隷」労働者は、炭鉱や魚の缶詰工場あるいは港湾作業場に溢れていました。 カナダにやってきたアジア人労働者は1907年だけでも1万1千に及んでいます。経営者層には重宝なアジアからの低賃金労働者は、白人の労働組合にとっては黄色い悪魔でした。彼らの恐怖が怒りに変わり爆発したのは1907年9月7日のことです。「数千人の男たちがバンクーバーのダウンタウンにある市役所前に集まってきた。手に手に『カナダは白人の国(Keep Canada White)』、『カナダを黄色い人種から守れ(Stop the Yellow Peril)』と書いた横断幕を掲げ、鉱山王ダンズミュアの人形を焼いた。彼は支那人を積極的に雇っていた男だった」「群集をアジっていた男が近くにあるチャイナタウンに向かえと叫んだ。そこにはリトルトーキョーもあった。群集は支那人や日本人の暮らす町で四時間にもわたって破壊行為の限りを尽くした。店の窓ガラスを割り商品を掠奪した」「支那人たちは無抵抗であったが、日本人はこの暴徒に立ち向かった」(*1) 日本が日露戦争に勝利したことで、白人種のアジア人種への恐れはカナダ西海岸だけの現象ではなくなりました。この日にはワシントン州アベルディーンで、東インドからやってきたヒンズー教徒と白人労働者が衝突しています。似たような人種間衝突はサンフランシスコ(5月20、21日)、オレゴン州ボーリング(10月31日)、ワシントン州エヴェレット(11月2日)、カリフォルニア州ライブオーク(1908年1月27日)と連続しています。北米太平洋岸は反オリエンタルの憎悪に満ちていたのです。 ヨーロッパ諸国はアメリカと日本がもうすぐ戦争を始めると思っていました。余りの日本人排斥運動の過激さに、誇り高い民族の国日本が傍観するはずはないと考えたのです。 セオドア・ルーズベルト大統領が、万一日本との戦争が現実のものになった場合を想定し、メトカーフ海軍長官らと戦略会議を開いたのは、1907年6月27日。この会議でアメリカ大西洋艦隊を日本に派遣し、アメリカ海軍力を日本に誇示することを決めています。 10月には、日本との緊張関係を緩和するため、大統領はウィリアム・タフト陸軍長官を東京に派遣し、西園寺公望首相と会談させています。タフトの日本訪問は1905年に続いての訪問でした。アメリカは日本との衝突を回避する道を選択したのです。 1907年から08年は、日米の衝突は避けられないのではないかと思われていた時期でした。しかし戦後に教育を受けた者はこの時代の緊迫感を知りません。日米の緊張関係を学ぶのは1924年の排日移民法からです。 しかし日米の緊張はそのずっと以前から存在していたのでした。1907年当時、アメリカやカナダに移民した日本人は町を歩くことさえ怖かったに違いないし、日本は同胞がそうした扱いを受けることに我慢がならなかったのです。『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』(草思社) 本書の著者カレイ・マックウィリアムスは、カリフォルニア州の特異な歴史と人種観を分析し、1900年には既に、日本とカリフォルニアの間に人種戦争が勃発していたことを論じています。 太平洋がアジアとアメリカを分かつ障害物から、アジアとアメリカを繋ぐハイウェイとなったのは、太平洋汽船航路の開設(1867年)に続いて大陸横断鉄道が完成した1869年のことでした。爾来、カリフォルニアはアジア人やアジア文化と接する最前線となります。 しかし、カリフォルニアの白人種は黄色いアジア人種を受け入れるほどには成熟していなかった。異種のビールスを拒否するように、カリフォルニアはアジア人の排斥を始めたのです。 このカリフォルニアの人種偏見に、黒人隔離政策を墨守する南部諸州が加勢します。カリフォルニアでアジア人を平等に扱われたら、南部の黒人隔離政策に批判が及ぶのは避けられなかった。南部諸州にとってカリフォルニアにはアジア人を排斥し差別してもらわなければならなかったのです。WASPを脅かした日本 そこに東部のWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)も加わってきます。WASPはアメリカ建国以来の支配民族でしたが、移民の流入で少数派に転落する恐怖感にさいなまれていました。ロシアに勝利した黄色人種日本人はWASPの人種的優秀さを脅かす象徴でした。 20世紀初頭のアメリカは、アジア人を受け入れるほどには成熟していなかったのです。マックウィリアムスはこの時代のアメリカを手厳しく自己批判しています。アメリカが人種偏見を止めない限りアメリカの将来は危ういと憂えるのです。 本書ではその多くのページが、真珠湾攻撃後に実施されていた日本人強制収容政策の批判に費やされています。しかしこの書の真骨頂は、カリフォルニアの歴史的な特異性を分析し、そこから不可避的に発生した人種偏見形成過程の考察(第一章 カリフォルニアの特異性及び第二章 カリフォルニア州の対日戦争一九〇〇年から一九四一年)です。 彼が本書を世に問うたのは、未だ日本との戦いが続いていた1944年のことです。読者は、この時期にこれほど日本人を好意的に、いやもっと正確に言えば公平な目で、分析する書物がアメリカ国内で出版されていることに驚きを覚えるに違いありません。 もちろん日本との戦いの進行中に出版されているだけに、著者はその表現に苦心しています。随所に日本の為政者を、そして日本人気質を批判する記述がありますが、それは日本や日本人を批判しながら、実はアメリカ本国の政治家に対する批判でもあることには注意しておく必要があるでしょう。1944年においてはやはり指桑罵槐による権力者批判が必要だったのです。 私たち日本人にとって、なぜあの戦争を戦わなければならなかったかを問い続ける作業はこれからも続くでしょう。あの時代をリードした政治家や軍人を批判するのはよい。しかし、私たち日本人同胞が、黄色い肌を忌み嫌う白人種の敵対の中で生きていた現実は忘れてはならないのです。 日本人の私がその恐怖を語る書を記すことはもちろんできるでしょう。しかし、日本人差別、アジア人差別が続いているその渦中にあった同時代人マックウィリアムスの語りには遠く及びはしないでしょう。 あの戦争以来、私たちの人種観は大きく変わりました。私はその変化の程度はアメリカにおいてこそ激しいものであったと信じています。多くの日本人は1861年から65年にかけて争われた南北戦争は奴隷解放の戦争であると教育されています。しかし当時の資料を丹念に読み解けば、南北戦争はけっして奴隷解放を目的としてはいないことがわかるのです。 南部諸州の離脱はリンカーンが大統領就任前に始まっていました。リンカーンが大統領選挙に当選しただけで南部諸州は連邦からの離脱を決めています。実はリンカーンは奴隷解放宣言(1863年)で示された過激な奴隷解放など考えてはいませんでした。大統領就任前のリンカーンの言葉は、彼自身も白人の優位性を疑ってはいなかったことや、彼の進めるだろう奴隷解放の政策は極めて緩やかなものになることを示唆していました。リンカーンの奴隷解放宣言の本質は、南部連合を支援するイギリスとフランスに軍事介入の口実を作らせない高等な外交政策と考えるのがより適切なのです。心にもない奴隷解放心にもない奴隷解放アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーン。実は奴隷解放など心にもなかった!? イギリスにもフランスにも、アメリカが二つに割れることを望んでいる勢力がありました。大国となるポテンシャルを持つアメリカが二つになって欲しかったのです。軍事介入し、停戦を実現し、南部連合を国として承認したかったのです。奴隷制度を忌み嫌う英仏内の知識人リーダー層を刺激して、英仏両国に、奴隷制度維持の南部連合に軍事的肩入れをさせないことがリンカーン大統領とその右腕であったソワード国務長官の戦略でした。アメリカの政治家の本音は、黒人は白人と同等などと考えるものではなかったのです。 あの南北戦争は、保護貿易思想で国内産業を保護育成したい北部諸州と、イギリスとの自由貿易による利益を享受し続けたい南部諸州の関税政策を巡るいがみ合いがその根本原因であったことは、拙著『日米衝突の根源』(草思社)で詳述したからここでは語りません。心にもない奴隷解放を実施してしまったアメリカは、その後遺症に悩み続けるのです。 南部諸州を支持した民主党は南北戦争の敗北で壊滅的打撃を受けるのですが、戦後は一貫してかつての白人優位を回復する政策を標榜してその勢力の回復を図ってきました。彼らの進める「強固なる南部政策(Solid South)」では黒人隔離政策は当たり前でした。19世紀末から20世紀初頭のアメリカでは、南部民主党の勢いが盛んになってきた時期でした。その民主党にとって、1900年前後に始まったカリフォルニア州をはじめとする太平洋岸諸州の反日本人運動は、勢力拡大の絶好のチャンスだったのです。 19世紀後半のアメリカ知識人は概して日本に好意的でした。日本人は「アジアのヤンキー」であると本気で考え、日本の近代化を助けました。1901年にマッキンレー大統領の暗殺を受けて副大統領から大統領職についたセオドア・ルーズベルトはそうした知識人の一人でした。西海岸の日本人排斥の原因は日本人が帰化不可能人種であることだといち早く気づいたルーズベルトは、議会に日本人を帰化可能人種にすることを検討させました。しかしその提案は一蹴されてしまうのです。 1904年の大統領選挙でルーズベルトは勝利します。しかし南部諸州ではすべて敗北したのです。黒人隔離政策を推し進める民主党は、少なくとも南部諸州では復権したのです。民主党の真の復権は1912年の大統領選挙で達成されました。当選したのは民主党のウッドロウ・ウィルソンでした。彼は劣勢であったカリフォリニアの票を得るために、日本人排斥を主張する労働組合のリーダー連中にその支援を約束したのでした。 第一次大戦後の国際連盟設立にあたって、人種間の平等をその設立趣意に盛り込もうとする日本全権牧野伸顕の主張をウィルソンが一顧だにしなかったのは、彼の出身基盤である民主党の復権の歴史を顧みれば当然のことでした。 マックウィリアムスは日本人分析の中で日本人は粗末な衣服をまとい、わずかな所持金でやってきたが「日本文化という所持品」を持っていたことも日本人への差別の原因になったと述べています。またいつでもまとまって行動し、必要に応じて日本領事館に駆け込む態度があったことを日本人の負の特性として描写しています。 「彼らの文化が人々をあたかもモザイク画のようにしっかりと一体化したのだった。日本人移民にとっては仲間内の関係が極めて重要な意味を持っていた。彼らは家族そして共同体の価値観が個人のそれよりも重要と考えていた。伝統的な価値観に支えられた大きな擬似家族集団。カリフォルニアの地にあってはそれは特異な集団であった」張本人は新聞メディア そのことは確かに日本人集団を目立たせてはいましたが、そうした特異性も反日本人のプロが騒ぐまでは、ほとんど気にもならなかったことだったのです。すべての民族はそれぞれ一風変わった習慣や文化を持っています。アイルランド人もイタリア人もユダヤ人も、その意味では日本人と同じように特異な集団であることに変わりはありませんでした。 それにもかかわらずなぜ、日本人の特殊性だけが際立たせられることになったのか。マックウィリアムスは、反日本人勢力と結びついた新聞メディアがその張本人だとして厳しく断罪しています。 「一九四三年三月二十三日付けの『ロサンゼルス・イグザミナー』紙は『太平洋を巡る戦いは東洋人種と西洋人種の戦いである。どちらが世界の支配者になるかの戦いなのである』と主張していた」 カリフォルニアではメディアの世界でも反日本人の狂気が覆い尽くしていたのです。そんな病に侵された土地にあっては、日本人の一挙手一投足が嫌悪の対象に成り果てていったのです。 マンザナーの日系人強制収容所(撮影・東洋宮武) マックウィリアムスの著作の後半は日本人強制収容の実態の描写に費やされています。その描写で日本人移民が被った悲しみは十分すぎるほど伝わってきます。その事実を知ることは確かに重要ではありますが、私には彼が歴史的分析を通じて明らかにしたアメリカの人種差別の真因にこそ、この著作の本当の意義があると感じています。 マックウィリアムスが指摘する「カリフォルニアの対日戦争」は、もうひとつ重要な視点を提供してくれます。それは石油に象徴される日本のエネルギー供給元がカリフォルニアであったという事実と重ね合わせることでより明確になります。 1920年代にもロサンゼルス周辺に続々と大型油田が発見されていました。ハンティントン・ビーチ油田(1920年)、サンタフェ・スプリング油田(1920年)、シグナルヒル油田(1921年)。そして日本は次第にカリフォルニア産の石油に依存していくことになります。日本の石油の9割がアメリカからの輸入となり、その8割近くはカリフォルニアに産する石油だったのです。 反日本人のメッカである「カルフォルニア共和国」にエネルギーを極端なほどに依存していた戦前の日本人の恐怖を、私たちは忘れてならないでしょう。アメリカへのエネルギー依存度を何とかして下げたいと考えるのは、日本の安全保障を担う者にとっては当然の責務でした。 それにしても、アメリカは黒人差別に象徴される人種差別の呪縛からあの戦争を経ずして解放され得たのだろうかとつくづく思います。アメリカの最近の歴史研究では、なぜ日本は負けることがわかり切った戦争を決意したのかについての真摯な議論が出てきています。そうした研究では、日本の軍国主義化がその原因などとするような黴の生えた議論はありません。なぜ日本をそこまで追い込んだのかを自省的に分析する研究が増えているのです。人種差別問題もエネルギー問題もそうした研究に重要な材料を提供しています。 いつかそうした最新の研究を紹介することができたらとも考えています。*1:Anti-Asian riot in Vancouver : 1907 URL:http://marcialalonde.weebly.com/uploads/9/3/8/2/9382401/anti-asian_riots.pdfわたなべ・そうき 1954年、静岡県生まれ。77年東京大学経済学部卒業。日米近現代史研究家。米国・カナダで30年にわたりビジネスに従事。カナダ・バンクーバー在住。著書に『日本開国』『日米衝突の根源1858-1908』『TPP知財戦争の始まり』、訳書に『日本1852』『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』(以上、草思社)などがある。

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    「日本無罪論」パール博士の言葉

     京都・東山の霊山護国神社。幕末の志士、明治維新の元勲らの墓碑や先の大戦の慰霊碑が数多く並ぶ。そこにラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑がある。 パール博士は、東京裁判(極東国際軍事裁判・昭和21~23年)で、戦犯として訴追された25被告に対して「全員無罪」を判事11人のうち唯一主張したインド代表判事として知られる。初秋の清明な空気が流れる今月20日、碑の建立17周年式典が行われた。ラダ・ビノード・パール博士 式典には、建立に尽力した近畿偕行会員、インドのアシーム・マハジャン駐大阪・神戸総領事、陸上自衛隊幹部ら約70人が参列した。東京裁判で死刑判決を受けた7被告の一人、木村兵太郎陸軍大将の長男、太郎氏(83)の姿もあった。碑はインド独立50周年記念で建立され、名だたる多くの協賛企業の社名が刻まれている。 博士はよく訪れた京都をこよなく愛したという。先月末から来日したインドのモディ首相は京都にまず入った。出迎えた安倍晋三首相とこの顕彰碑をもし訪れたとしたら、両国の絆を内外に示す絶好の機会となっただろう。東京・迎賓館でのスピーチで、モディ首相が「パール判事が東京裁判で果たした役割は忘れていない」とたたえた。留飲が下がる思いだった。 歴史家、田中正明氏の名著に『パール判事の日本無罪論』がある。法の支配と史実からの「無罪」の判示が明晰(めいせき)につづられる。 博士が判決後に案じ続けたのは、日本の断罪が判示されたいわゆる「東京裁判史観」が、影を投げ続けていくことだった。 博士は昭和27年10月の2度目の来日時に、羽田空港での記者会見で前年に調印されたサンフランシスコ平和条約と日本の独立について質問され、次のように答えた。 「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許(もと)で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観というゆがめられた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ、とわたくしはいいたい」(『パール博士のことば』田中正明著から抜粋) 博士は判決内容が国際的には法学者らの間で問題視されていたことを示し、来日時の大阪弁護士会での講演では次のように述べた。 「肝心の日本ではいっこうに問題視されないのはどうしたことか。これは敗戦の副産物ではないかと思う。すなわち一つに戦争の破壊があまりに悲惨で、打撃が大きかったために、生活そのものに追われて思考の余地を失ったこと、二つにはアメリカの巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、バックボーンを抜かれて無気力になってしまったことである」(『パール判事の日本無罪論』から抜粋) 「過去の一切があやまりという罪悪感」との至言は、戦後の日本の言論空間に靄(もや)のようにかかり続けるいわゆる「自虐的論調」にもつながる指摘だ。日本と中韓との間に漂い続ける歴史の澱(よど)み。集団的自衛権など国の守りに対する基本姿勢。ひいては「国家観なき国家」…。博士の言葉の数々を今こそかみしめる時ではなかろうか。(近藤豊和)

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    占領軍と癒着した「反日日本人」

    高橋史朗(明星大教授) 朝日新聞は2014年の8月5、6日付朝刊で、慰安婦問題をめぐる同紙の過去の報道に誤報があったことを認めたが、議論をすりかえ、国際広報もせず、自らの責任を明確にして謝罪することもしなかった。 盧泰愚大統領(当時)は、慰安婦問題は「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚(た)きつけ、国民を憤激させてしまった」と指摘した。「従軍慰安婦」と「女子挺身(ていしん)隊」とを混同し、吉田清治氏のウソの証言を報道した朝日新聞が、日本は「性奴隷」国家であるという不当な国際誤解の元凶であったことが明白になった以上、言論機関としての社会的責任、国際的な説明責任が問われるのは当然である。 中韓との教科書騒動の元凶も日本の新聞報道であったが、このような「反日日本人」のルーツは、占領政策を継承し拡大再生産していく「友好的日本人」による「内的自己崩壊」を仕組んだ占領軍の「精神的武装解除」政策にあったことを見落としてはならない。 憲法をはじめとする占領政策をアメリカが押しつけたことのみを問題視する傾向があるが、そのような責任転嫁はもはや許されない。在米占領文書によれば、米軍は日本の歴史、文化、伝統に否定的な「友好的日本人」のリストを作成し、占領政策の協力者として「日本人検閲官」(約5千人)など民政官を含む各分野の人材とし高給を与え積極的に登用した。 これらの占領軍と癒着した「反日日本人」が戦後日本の言論界、学界、教育界などをリードしてきた事実を直視する必要がある。 ドイツと違って、軍国主義は日本人の道徳(精神的伝統)や国民性、神道に根差していると誤解した米軍の対日文化・心理戦略が、日本人の道徳、誇りとアイデンティティーを完全に破砕する「精神的武装解除」政策として実行され、「内的自己崩壊」をリードする「反日日本人」を活用して、背後から巧妙にコントロールした。 在英秘密文書で共産主義者が憲法制定や公職追放、戦犯調査などに深く関与し、米戦略諜報局の対日占領計画の背景に、英タヴィストック研究所の「洗脳計画」があったことが判明した。 伝統文化や男らしさ女らしさを否定する教育など、抵抗精神を弱体化する「洗脳計画」によって、占領軍の眼をはめこまれた「反日日本人」が日本の国際的信頼を自ら貶(おとし)めてきたのである。 昭和20年8月15日、朝日新聞は「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙」との見出しで、「英霊よ許せ」「『天皇陛下に申し訳ありません…』それだけ叫んで声が出なかった」(一記者謹記)という記事を掲載している。 朝日が「反日」に転じた契機となったのは、占領政策に反するという理由で発行禁止になったことにあり、以来朝日は発行停止にならないように、占領軍の目で反日記事を書くようになった。 江藤淳はこの占領下の「閉ざされた言語空間」について鋭く指摘したが、「反日日本人」が戦後日本に与えた影響について歴史的に検証し総括する必要があろう。単純な米中韓との対立図式では捉えられない戦後の思想的混迷の原点がそこにあると思うからである。 中韓首脳会談で慰安婦問題の共同研究が合意されたが、河野談話の作成経緯に関する検証結果を踏まえた新談話を発表し、不当な国際誤解を払拭する必要がある。

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    あぐらをかく戦勝国と我慢する敗戦国…米国の傲慢な歴史修正

    阿比留瑠比(産経新聞政治部編集委員) 戦後70周年を迎える平成27年は、歴史認識をめぐる「歴史戦」の年になる。米紙ニューヨーク・タイムズなどは早速、日本の保守勢力に「歴史修正主義」のレッテルを貼ってきたが、戦勝国の立場にあぐらをかき、歴史を修正してきたのはどちらか-。 そんなことをぼんやり思いながら昨年末の休暇中、高校書道部を舞台にした漫画「とめはねっ!」(河合克敏著)を読んでいて、思わず息をのんだ。 作中、見開きで大きく紹介されていた昭和20年3月10日の東京大空襲を題材にした元教師の書家、井上有一氏の書「噫(ああ)横川国民学校」(群馬県立近代美術館所蔵)があまりに衝撃的だったからだ。 「アメリカB29夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄」「親は愛児を庇(かば)い子は親に縋(すが)る」「全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる」「噫呼何の故あってか無辜(むこ)を殺戮(さつりく)するのか」「倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし」 書幅いっぱいに埋め尽くすように書かれた文字は、積み重なり、苦しみながら焼き殺された人々に見える。自身は一命を取り留めたものの教え子を失った井上氏が、血涙で書いたかのような印象を受けた。 約10万人が死亡した東京大空襲は、非戦闘員の殺傷を目的としており、もとより国際法違反である。米田建三・元内閣府副大臣の調査によると、東京大空襲の「作戦任務」(同年3月9日付)の目標は、軍事施設ではなく「東京市街地」と明記されている。最初から一般住民を標的にしていたことは明らかなのだ。 また、東京大空襲・戦災資料センターが東京都から寄贈された被害者の名簿3万人分のうち、年齢が分かる人について調べた結果がこの空襲の性質を表している。 それによると、被害者の年齢層で最も多いのは0~9歳の20%で、次いで10~19歳の18%だった。実に4割近くが未成年だったのである。これは通常の戦争遂行行為ではなく、米軍による子供の大量虐殺(ジェノサイド)にほかならない。 しかも米国は戦後、こうした自らの罪を日本人の目から隠そうとした。明星大戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏の著書「抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪(ゆが)めたもの」(明成社)によると、連合国軍総司令部(GHQ)は検閲で、例えば米軍の東京大空襲での国際法違反行為を指摘したこんな文章を削除した。 「無辜の一般市民に対して行へる無差別的爆撃、都市村邑(そんゆう)の病院、学校、その他文化的保護建物の無斟酌(しんしゃく)の破壊、病院船に対する砲爆撃等、計(かぞ)へ来らば例を挙ぐるの煩に堪へぬほど多々あつた」(信夫淳平氏「我国に於(お)ける国際法の前途」) 「米国は原子爆弾と中小都市焼爆で日本全土を荒廃し数百万人の非戦闘員を殺傷せしめた」(石原莞爾氏・宋徳和氏対談「満州事変の真相」)米空軍のカーティス・ルメイ大将(後に空軍参謀総長) 米国は、自分に都合の悪い歴史は堂々と修正し、歴史から抹殺しようとしてきたのである。当時、日本に対する空襲について「史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」(ボナー・フェラーズ准将)と自覚していたのは間違いない。 焼夷(しょうい)弾を使用した夜間無差別爆撃に踏み切ったカーチス・ルメイ少将の下で、作戦計画作成に当たったロバート・マクナマラ元国防長官は記録映画「フォッグ・オブ・ウォー」(2003年公開)の中でこう赤裸々に証言している。 「ルメイも私も戦争犯罪を行ったのだ。もし、負けていればだ」 だが、戦勝国は全部を正当化し、敗戦国はすべてを我慢するなどという状態が70年以上ももつわけがない。米国は傲慢になりすぎない方がいい。

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    恥ずかしくなる米歴史学会の研究レベル

    モーガン・ジェイソン(フルブライト研究者) ──今は早稲田大学で研究されているんでしたね。モーガン 法制史をメインに研究しています。早稲田大学の中央図書館には歴史的に貴重な資料が豊富にありますので、毎日資料を探っています。最近は『法律時報』という雑誌のバックナンバーを延々とコピーしています。 ──どのような内容なのですか。モーガン この雑誌の編集長は末弘厳太郎でしたが、これを読めば法社会学の輪郭が見えてきます。 ──早大はいい資料を持っていると聞きましたが。モーガン 関東大震災で、東大などは資料が完全に全焼してしまいましたが、早稲田は奇跡的に被害が少なかったそうです。第二次世界大戦時もあまり被害がなかったので、古い本もたくさん残っているようです。 ──モーガンさんのお祖父様は大戦中に日本軍と戦われたそうですね。モーガン 祖父はプリンストンとボノム・リシャールという二つの空母に乗り、通信兵をしていました。毎日激しい戦闘の中で、パイロットの友人が出撃して戻らないこともあったと言っていました。毎日が死と隣り合わせで、いつ特攻機が襲って来るかわからないことが、一番恐ろしかったと話していました。日本本土に近付いたら、すぐに特攻攻撃に見舞われた。沖縄の上陸作戦には参加していませんが、近くの海域にいたのではないでしょうか。終戦後、数カ月して本州に上陸したときも、殺されるかもしれないという恐怖があったそうです。 ──日本本土にも上陸されたのですか。モーガン ええ、一年ほど滞在していたようです。上陸部隊の全員が殺されるかもしれないという恐怖を持っていたといいます。リンゴの中のムシ ──勝ったとはいえ、敵国ですからね。モーガン ただ祖父はそのときにとても驚いたと言っていました。“大歓迎”ではありませんが、日本人から温かい歓迎を受けたそうです。この国は普通の国じゃないと、そのときに気付いたと言っていました。 ──どこにおられたのでしょうか。モーガン おそらく横須賀じゃないかと思います。鎌倉の大仏と写っている写真が実家にありましたので。鎌倉では大仏さんの胎内に入ったと言っていましたよ(笑)。 ──モーガンさんが日本の歴史に興味を持たれたきっかけはありますか。モーガン やはり祖父の話を聞いたのが大きかったと思います。今もずっと自分の中で悩んでいることがあるんですよ。……原爆投下の件です。祖父は原爆投下を本当に非人道的な行為であると見ていました。兵士に対して使用したのであれば、話は別だったと思うのですが、一般市民を相手に、何十万人も殺傷したのはあまりにも残酷だと考えていたようです。私自身も初めて原爆の話を聞いたとき、自分の国がそのようなことを行ったことに、驚きと言いますか、信じられない気持ちがありました。そこからなんと言えばいいのか……。一匹の虫がリンゴの中身を食い荒らすのと同じように、原爆投下の事実が、私の心の中を食い荒らしているような感じがするのです。 ──その“虫”が動きはじめたのは何歳ころからですか。モーガン 確か7歳か8歳のころだったと思います。私は天皇陛下を大変尊敬しています。普通の人はもちろん、大統領であったとしても桁が違うほど、上の存在だと感じていました。その天皇が治める国に原爆を投下したことは、本当に正しいのか。そのことに私はずっと悩んでいたのです。 ──誠実なお人柄なんですね。モーガン 私の弟やいとこは祖父の戦争の話にあまり興味を持っていませんでしたが、私は気になって仕方がありませんでしたので、よく話してくれたのだと思います。万葉集に出会う ──お祖父様が亡くなられたのは……。米海軍記念碑の前に立つ祖父(左)。隣にいるのは弟モーガン 2010年ですね。4月の終わりでしたので、もう5年ですか。私はそのころ日本に住んでいましたが、入院したとの連絡がありましたが、わずか数日のうちに、亡くなってしまいました。急いで帰国してお葬式に参列しましたが、顔を合わせて「さよなら」と言えなかったのが心残りです。 ──お祖父様のお話があったからこそ、日本に興味を持たれたわけですね。ただ、日本で歴史を研究しようというのは別の問題だと思うのですが、それはどのようなきっかけですか。 モーガン 高校生のときに葛飾北斎や日本の浮世絵に興味があり、美術を勉強しようと思いましたが、大学に入ると、私には才能がないことに気付きました。それで専門をギリシャ語とラテン語に変えて勉強しましたが、ただこれらを学んでも果たして仕事になるのかどうかと疑問に思いはじめました。そのようなときに、日本の万葉集の英訳に出会い「美しいな、この世界は」と感じたのです。 ──万葉集ですか。モーガン 大学では日本についての講義がありましたので、受講したところ、日本人の留学生が4人いました。そこで会話の練習相手として、たどたどしい日本語を話しているうちに岐阜県出身の人と仲良くなり、彼が帰国したときに、1カ月ほどホームステイさせてもらいました。岐阜で日本の生活を体験することで、日本という国をもっと勉強したいという気持ちが強まりました。 ──なにか特別に面白いことがあったのですか。モーガン たとえばちゃぶ台で座って食事をするときに……。 ──まだちゃぶ台がありましたか。モーガン そうなんです。床に座ることもそうですが、人の作法やマナーなど、気になるポイントが自分の国とはまったく異なりますので、その差が面白いと感じましたね。なんというか……、日本はくつろげる国なんですよね。外国なのに。なんだか故郷に帰ったような気持ちになるんです。 ──日本の空気が合ったんでしょうね。モーガン そう、空気がいい。ピッタリです。今までに何度も文化の差で苦労をしましたが、一生この国を勉強したいと思いました。 ──でも、今は歴史ではなく……。モーガン はい、法社会学と言いますか、法制史ですね。法律制度に興味がありまして。 ──先ほども伺いましたが、末弘厳太郎さんの研究をされていらっしゃるんですよね。モーガン 労働法の元祖として知られていますが、関東大震災のあとに起きた隣保館(セツルメントハウス)のこととかに興味があります。 ──当時は、共産党系の人が多かったですね。そこを拠点にしてオルグ(オーガナイズ活動)をしていたんですね。モーガン そうですね。意外なことにそのことについて、英語ではほとんど論文がありません。日本帝国は正しかった日本帝国は正しかった ──共産主義と言えば、占領軍として日本に来た、いわゆるニューディーラーたちもその系統の人たちですよね。モーガン 私は祖父も含めて、アメリカ軍の全員がヒーローだと考えていました。勇敢に戦ったことは尊敬しております。しかし、今考えているのは、それとは正反対のことです。まだ心の整理ができておらず、矛盾しているのですが、日本側のほうが正しかったと思うことがあります。なぜアメリカがあの戦争に参加したのかを考えると、ニューディールの宣教師としての役割があったのではないかと思います。世界にそれを広めるために、言い換えればルーズベルト大統領の目的を達成するために、何十万人の犠牲者を出してまで日本と戦ったのは、本当にアメリカにとって正しい行動だったのか、深く疑問を抱いています。当時の米政府、特に連邦政府は共産党ばかりでしたね。共産党を敵にした日本帝国は間違いなく正しかったです。 ──左翼思想を持ったニューディーラーたちが、日本にもその思想を根付かせようとした、ということでしょうか。モーガン ルーズベルトには、もともとそうした考えがあったのかもしれませんね。 ──欧州の戦争に国民を参加させるために、裏側の太平洋(バックドアーズ)から戦いに行ったと言われていますが、いかがですか。モーガン それは一石二鳥ですからね。大西洋の戦争に参加できれば、ロシアの負担が軽くなり、日本と戦争を始めたら、ロシアの負担が半分軽くなるわけですからね。 ──当時のアメリカは、中国に対してはどのような認識を持っていたんでしょうか。ヨーロッパの帝国主義に支配されていたり、日本に痛めつけられているかわいそうな国としてのイメージが強かったのでしょうか。モーガン その通りだと思います。中国自身がもっとしっかりしていたら、というか、もっと為すべきことをしていれば、帝国主義の標的にはならなかったと思います。 ──日本はアヘン戦争を見て、一刻も早く近代化を成し遂げなければいけないと考え、富国強兵、殖産興業を目標にして、何とか植民地にならないで済みました。だから朝鮮半島と中国と手を携えて欧米列強に備えようとした。それぞれ有力なグループと手を組みましたが、うまくいかずに、かえっていろいろと恨まれることになってしまいました。モーガン 賛成です。日本にも日本の都合がありますが、ヨーロッパの帝国主義から朝鮮半島を守るために植民地にしたと考えると、朝鮮は日本に対して感謝するべきだと思います。朝鮮半島の半分が、現在の中国のような独裁社会にならなかったことだけでも、日本に感謝するべきだと思いますよ。まあ、事はそう簡単ではありませんが。 ──日本で気になる人はいますか。モーガン 田母神俊雄さんですね。以前、早稲田の講演会で話を聞いてとても面白かった。ユーモアのある方です。 ──何かにつけ率直な人ですよね。でも田母神さんが好きだとか、面白いと言うと、右翼のレッテルを貼られる風潮がありますけど。モーガン そうですね……日本の伝統に興味を持つと。もうすでに札付きの右派ですからね(笑)。あとは安倍晋三さん、石原慎太郎さんも気に入っています。日本に対して侮辱的 ──モーガンさんは、幕末の志士のような志を持っておられるのですね。ちなみに日本の歴史についてはどのような書物から学ばれたのですか。モーガン もともと天邪鬼なところがあって、アメリカで言われていることに対して反発したというのがあります。「これは全部違う。自分でゼロから学びはじめるぞ!」という下剋上の気持ちから始まったのかなと(笑)。ですから独学です。米国の学者のものも読みましたが、たとえばジョン・ダワーさんなどは、自分の思想に合う資料を集めて、そこから書くという手法を感じます。まずは政治的な解釈があり、そこから始まる。平川祐弘先生がダワーの『敗北を抱きしめて』という本について批評していますが、それは非常に面白いですよ。その論文を読んで初めてわかったんですけれども、『敗北を抱きしめて』というのは日本に対してあまりにも侮辱的だと思います。だって負けてよかったなんていう気持ちなど、あり得ないです。 ──ダワーさんの『容赦なき戦争』は、日米戦争は人種戦争という色合いが非常に強かったと指摘していて、大変面白かったんですけどね。モーガン 太平洋戦争は確かに人種戦争でしたね。米側のプロパガンダを見ると、日本人を猿にしたり、虫にしたり、そのようなものばかりでした。 ──あのイメージは、やはりルーズベルト大統領個人の中にもあったのでしょうか。モーガン そうだと思います。彼はアメリカで聖人扱いされていますが、人種差別感情は激しかったと思います。ルーズベルトは大変裕福な家庭で生まれ育っていましたので、周りの人に対して、特に黒人や貧しい人に対して侮蔑する気持ちがあったのではないかと考えています。貧しい人々のために働いているというイメージもありますが、それを鵜呑みにしてはいけないのではないかと。 ──日本に対する警戒心といいますか、我々の目から見ると「ええ、そんな風に見てるの」と驚くくらいに「過大評価」していますよね。世界征覇を夢見ているとか……。モーガン そうですね。さすが昭和天皇 ──それはやはり差別意識があるからこそ、逆に恐怖心が芽生えたのではないかと思います。いま『昭和天皇実録』が刊行されはじめましたが、昭和天皇は日米戦争の最大の理由は「排日移民法」だと述べられています。つまり日本人の移民を排斥する運動が、法律になったことが決め手だったと。アメリカに対して好意を持っていた日本人も、「なぜ日本人だけをそんなに差別するんだろう」という思いが募ってきたという背景があったのでしょうね。同じ時代を生きた人たちは、よく見ているものだと感じました。それと貿易戦争になってきますよね。ホーリー・スムート法ができてブロック経済に入っていく。モーガン さすが昭和天皇、よく見ていますね。ちなみに私が一番不満を持っている点は、昭和天皇に対する扱いです。アメリカでは、昭和天皇がヒトラーのように扱われていますが、とんでもない。陛下は非常に観察の鋭い、頭のよい、優しい、人間性にあふれた、本当に立派な天皇でいらっしゃったと私は思っています。しかし、現在はあまりにもアンフェアな解釈をしている学者が多いですね。陛下は、あの戦争を仕掛けたのではなく、戦争を回避するためにあらゆることを行なわれました。昭和天皇はもう一度、キチンと見直される必要があるのです。 ──日本のリベラルな人たちやジャーナリズムもひどいものです。「米国の教科書で慰安婦は天皇の贈りもの」なんて記述した“三文教授”がいましたが、これなんか日本の左翼の口移しなんでしょうね。モーガン はい、そもそも帝国主義を悪いものとして考えている学者がほとんどですが、それは果たして本当に正しいのか。たとえば慰安婦問題などに関する声明を発表した187人の研究者は〈民主主義のために歴史解釈を前向きにしましょう〉と述べていますが、民主主義はそれほどまでによいものなのか。民主主義は原爆を投下したんですよ。民主主義は東京を空襲したんですよ。その民主主義が無罪であり、理想のものだと考えている学者が多いのですが、帝国主義はそのようなことはしていません。だからこそ偏見を改めるべきだと言いたいですね。民主主義への過剰信仰 ──ヒトラーを生んだのも民主主義ですからね。モーガン まさにその通り、民主主義です。ヒトラーは逆に帝国主義者カイザーを裏切り、民主主義を主張して独裁者になったのです。スターリンもある意味では民主主義です。毛沢東も民主主義。あの北朝鮮も民主主義です。民主主義はそれほど理想的なものではないと思います。 ──「人民民主主義」「人民解放軍」……。モーガン 人民解放軍は矛盾していますよね。 ──米国が生んだアメリカンデモクラシーを大切にしたいというのはわかりますが、世界中にその考えを広げようとして……。モーガン どうしてイランやイラクで民主化ができないのか、そういうところから始めないといけませんね。傲慢にも日本を民主化したのはアメリカだと主張していますが、イラク戦争のときには民主化を止めようと言っていますので、どっちですかと。民主化が本当に理想であれば、イラクも民主主義化してもいいのではないかと言いたいですね。民主主義への過剰な信仰が昭和天皇のよさを隠しているのではないかと考えています。その偏見を捨てて、昭和天皇を見直すべきではないでしょうか。 ──少し話題を戻しますが、日本研究を行われているうちに法社会学に向かわれたとのことですが、それにはきっかけがあるのですか。ロースクールを卒業した頃の祖父モーガン そうですね。これもまた祖父の話ですが……祖父はニューオリンズの貧しい家庭に生まれました。子供の頃、曾祖父が第一次世界大戦に参加し、生きて帰ってきたのですが、いろいろあって、祖父と曾祖母の二人暮らしになったと聞いています。そこで祖父は学校を辞めて、食材の配達や、日雇い労働のような仕事をしていました。それからしばらくして、太平洋戦争が勃発し、海軍に入り、戦争が終わったらアメリカに戻って働いて、朝鮮戦争勃発とともに、また海軍に入って……。そして朝鮮戦争が終わったら、帰国して、中学校、高校、大学、ロースクールと進学し、12年かけて弁護士になりました。 ──すごい努力家ですね。モーガン 弁護士になってから、先ほどお話ししたことを私に聞かせてくれました。だから法律にも興味があるのでしょうね。あとは日本で翻訳の仕事をしていたときに、契約書の翻訳も行っていましたので、法律って面白いと感じたこともありますね。それで法律制度について勉強を始めたという次第です。 まず判例に興味がありましたので、末弘先生について勉強をしました。法社会学全般としては川島武宜先生なども研究しています。 ──最初に日本に来られたときは、どこの大学へいらっしゃったのですか。モーガン 最初は名古屋外国語大学ですね。そこで半年くらい日本語を勉強し、そこから名古屋大学に研究生として入り、明治維新や歴史について学びはじめました。 ──そのころから本格的に研究生活に入られたのですね。モーガン そうですね。15年くらい前の話ですね。 ──名古屋には何年ほどいらっしゃったのですか。モーガン 1年半弱ですね。 ──それからまたアメリカにお帰りになる。モーガン そうですね。帰国してからは、出来る限りアジアに近いところで、英語で勉強ができる大学を探していました。そこでハワイ大学か香港大学に行きたいと考えたのですが、ちょうどそのころにSARSが発生しましたので、香港大学ではなく、ハワイ大学へ行くことを決めました。ハワイ大学は二年ほどですかね。修士課程でしたので。“猫かぶり”はやめなさいハワイ県 ──どのようなことを学ばれたのですか。モーガン アジア研究です。そのときに中国の歴史として、張作霖の息子の張学良について学びました。中国に学問を切り替えたのは、名古屋大学で中国人と友達になり、「あ、そうか! 中国について何も知らないな」と思ったのがきっかけですね。そこから急いで勉強を始めて、中国の昆明で半年ほど中国語を学び、3年ほど中国史の勉強をしました。でも文化史は向いていないですね。 ──中国にいらっしゃったのは……。モーガン 半年くらいですね。中国からアメリカに戻って、さらに半年ほど勉強し、その後にハワイ大学で中国史を2年間学ぶというかたちで3年ですね。でもハワイ大学はあまりにも左傾化していて……。アメリカから独立したいということかもしれませんが。 ──ハワイが独立? ……今は世界的にそうした風潮がありますね。モーガン でも米海軍が去れば、中国の脅威を感じるのではないかと思います。ハワイに住んでいるときは、ハワイ県と呼んでいましたよ。日本からの観光客が非常に多かったので。アメリカというよりは、日本という雰囲気がありますね。 ──日本人には日本語が通じるという安心感がありますね。モーガン よいところです、ハワイは。大学はちょっと問題があるけれども(笑)。 ──ところで最近の日米の歴史論争というか、中国や韓国が政治的な理由で吹っ掛けている歴史問題についてはどのようにお考えですか。モーガン 最近187人がサインした声明を読みましたが、本当にびっくりしました。中国や韓国の内側は「ユアビジネス」というように批判されていますが、もう日ごとに意見がひっくり返っている。日替わりランチのように、毎日違っていますよね。 ──まったく。モーガン 自分の都合によって意見を変えるという点は、やはり問題でしょうね。しかし、中国や韓国が持ち出す歴史問題はどう見ても政治の動きとしか解釈できない。中国や韓国は安倍政権が大嫌い、もしくは安倍政権だけでなく日本が好きじゃないということが根底にあります。もし習近平がアメリカ議会で演説したとして、毛沢東の罪を認めろと言う人はいますか。いないでしょ。毛沢東の方が日本にとっても、アメリカにとっても、はるかに罪が大きいですが、そのようなことは起こらない。私は毛沢東が20世紀の中で最も悪い人間だったと思っているのですが、それでも起こらない。“猫かぶり”はやめなさい ──平川祐弘さんは、先ごろの産経新聞のコラム「正論」で、「スターリンは少数民族強制移住だけでも千数百万人、毛沢東は二千数百万人の死者を出した」と記述されていました。モーガン ヒトラーをはるかに超えていますね。毛沢東は本当に恐ろしい。しかし、今でも天安門に行くと、毛沢東の大きなポスターが掛けられています。それで本当に歴史の罪を認めているのかと聞きたいですね。そしてなぜ日本だけを批判しているのかとも。 彼らは誤魔化しているんですよね。中国の学者は政治と関わりたくないと言っていますが、植村隆氏が向こうに行けば大歓迎ですよ。植村氏はコロンビア大学で演説などをしているそうですが、なぜ植村氏だけを招いて、植村氏に反対している人、たとえば秦郁彦氏や藤岡信勝氏は招かれないのか。政治と関わりたくないと言っていますが、それは完全に違う。行動を見ればわかります。“猫かぶり”はやめなさいと言いたいですね。 向こうはご存じの通り、左翼ばかりです。しかも反対意見を主張すれば、自分の仕事が危なくなるという社会です。そういう面があるからこそ、187人が声明にサインをしたのではないかと思っています。反対すれば仕事が危ないよって。あとジグラーとベントリーの教科書の二段落については、ほとんど何も言っていないんですよね。慰安婦が天皇陛下からの贈りものとかそのような点について触れていません。それは謝るべきですね。日本政府に対して、侮辱してごめんなさいと。 ──あれは教科書の記述とは思えませんね。モーガン はい。 ──「天皇からの贈りもの」っていう発想からしてよく理解できない。モーガン それはフィクションで、且つ、侮辱が目的だからですよ。 ──ある種のブラックジョークですかね。モーガン そうですね。日本に対して説教するのではなく、まずは自分たちの歴史観をしっかりと整理してほしいです。そして、他の人の意見を受け入れようとしてほしいですね。あとアメリカ人は歴史観にあまり興味を示さない人が多いんです。若い人に「南北戦争はどっちが勝った?」と聞くと「フランス!」なんて答えが返ってくるほどですから(笑)。本当に恥ずかしい ──アメリカの歴史学会が、あれほどひどいものとは思わなかったですね。「勝者の歴史観」そのままで、東京裁判史観のまま時間が止まったままです。それでも学者で通るんですね、米国では。モーガン 私も敬意を失いました。まだ尊敬する人もいらっしゃいますが、全体的に腐敗していると言うか、そこまで傾いているのかという感じですね。 ──少なくとも彼らのレベルは、日本でいえば三流週刊誌なみです。ウラをとってないでしょ。モーガン 本当に恥ずかしい限りです。逆に日本の学者がアメリカに対してお説教をすればいいと思います。このように学者として周りの人の意見を聞き、じっくりと資料を見て安易に即断しない。それは歴史学の一番基本的なことです。彼らには改めてそのことを勉強してほしいですね。 ──米国の学者で日本語の文献を読める人はどれくらいいるんでしょうか。左翼学者の書いたものばかりが英訳されるから、そもそも参考文献の段階で偏向しているわけです。モーガン すると私の批判は、ほとんど日本語で書いていますので、向こう側が読んでいるかどうかということですね(笑)。 ──でも存在を知られると、けしからん奴がいるといって、とんでもないイジメに遭う可能性がありますね。モーガン 自信を持っていますよ。ぶつかって来いと思っています。正しいものは正しいと信じていますから。※注 フルブライト奨学金制度で来日しましたが、本稿の意見は個人のものであることをお断りしておきます。Jason Morgan Born: 1977, Metairie, Louisiana, USAAge: 37BA, History and International Studies, University of Tennessee, Chattanooga (2001) Kenkyuusei, Nagoya University (2001-2002) MA, Asian Studies (China focus), University of Hawai'i, Manoa (2005) MA, History, University of Wisconsin, Madison (2013)PhD candidate, University of Wisconsin, Madison (History)

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    史実に基づく修正までなぜためらうのか

    らせて米国を参戦させ、連合国を勝利に導いたルーズベルトは悪辣だが偉大な大統領であった、というのが私の歴史認識である。ユダヤ人の絶滅を企んだナチス・ドイツを破るためには米国の参戦は不可欠だったからである。 そしてかくいう私は、時に率直にアメリカ批判はするけれども、日米同盟の支持者である。私はまた現在の、国内的に格差大国と云う矛盾を孕む中国を盟主とする東アジア共同体に加わる気持はない。さらに付言すれば、今日の日本は鎖国して自活はできない。精神的鎖国ともいうべき一国ナショナリズムを説くのは不可であり一国平和主義は不可能である。第四問  2015年の「正論」とは第四問  2015年の「正論」とは ここで今日の日本の言論事情について考える。一、戦前の日本の正義を主張することは結構だが、戦前の日本がすべて正しかったように言い張る日本人は真に愛国者といえるか(ア  )。それとは逆に、日本の悪を指摘することは良心的だが、その悪を誇張して外国に向け宣伝する人は、へつらいを行なっている人ではないのか(イ   )。二、日本国内だけで「正論」を唱える人が多いが、それだけでよいのか(ウ  )。国内の反日気分の人たちだけでなく広く外国人をも説得することが大切なのではないのか(エ  )。三、しかし下手な外国語で抗議して誤解を招くよりは黙っている方がよい(オ  )。いや、下手でも抗議する方がよい(カ  )。日本に好意的な外国人に真意を伝えてその人に外国語で説明してもらう方がよい(キ   )。四、左翼系・右翼系を問わず、新聞や雑誌が、はじめから「結論ありき」の掛け声だけ大きな論客の文章をさかんに印刷するが、はたしてそれだけでよいのか(ク   )。結論 ナチス・ドイツと手を握った軍国主義日本が悪者扱いされたのはやむを得ない。しかし近衛文麿首相にせよ、東條英機首相にせよ、ヒトラー・ドイツによるユダヤ人虐待は知っていたとしてもユダヤ人絶滅計画の実行については、当時の日本人のほとんどすべてと同じく、なにも知らなかったのではないか。昭和日本ではまだ武士道という倫理が説かれ、人種絶滅を実行しようとする政策を容認するはずは全くなかった。しかし相手がいかなる独裁国家であろうとも、敵の敵は味方という論理で同盟は成立する。アメリカがソ連と手を握ったのはソ連が民主主義国であったからではなく、敵の敵は味方という論理によってであろう。 日米戦争直前の日本側の開戦回避の努力が空しかったのは、当時の米国国務省関係者に日本を蔑視し、日本を理解していない者がいたこととも関係があるのではないか。しかし日本についての情報を英語文献に頼る傾向はその後75年経っても必ずしも変わっているとは言えないようである。今回声明を発したようなself-righteous(独善的)な歴史家集団の日本認識は日本語文献にきちんと目を通しておらず判断は政治的先入主に基づくものであり、ほとんど人種差別的といえるものではないか。しかし声明に署名した人々もそのうちに「一抜けた、二抜けた」とマグローヒルの世界史教科書の出鱈目に頭のよい人ほどはやく気づいて声明支持を撤回するであろう。 なお彼らアメリカの史学者たちのために弁明すれば、このような歴史教科書を出まわらせたについては、責任の一半は、いままでの日本国内の『朝日新聞』をはじめとする意図的なミスリーディングの結果にある。しかし政治的情念にひきずられ、あまりにも大きなをふくむ日本批判のプロパガンダを繰り返すうちに『朝日新聞』は信用を失った。『朝日新聞』は誤報の蓄積の重みに耐えかねていわば自壊したのである。 またこの種のバランスを失した日本批判を繰り返すうちに韓国政府も信用を失うであろう。世界各地に慰安婦像を建てようとする人たちの主張は、女性の人権保護の名を借りた反日運動である。かれらの主張がもし普遍的に通用し得るものであるなら、その主張は日本でも歓迎されるはずである。その正義について確信があるならば朝日新聞社社員も少し募金をつのって、日本国内でも朝日新聞社の社屋の正面に慰安婦像と吉田清治像を建てるがいいだろう、そして「二度とこの過ちは繰り返しませんから」という碑銘をそれに添えるがよいだろう。 しかしそのように言われてもなんらの返答もできない大新聞社とは一体何であろうか。 また『朝日新聞社』の支持や庇護を得られなくなった「良心的」な学者や記者が、あたかも言論弾圧の犠牲者のごとく外国で振舞うのは苦々しいかぎりである。そうした人の家の前にも慰安婦像を建てたい気がするが、その人たちの子供や孫ははたしてそうした「良心的」なご先祖の行動を将来よしとするだろうか。そうした人たちこそ女性の人権を救うと称して日本と韓国の関係を深く傷つけた偽善的な人たちなのではあるまいか。その人たちの行動は当初は善意に始まったのかもしれない。しかし「地獄への道は善意で敷き詰められている」(The Road to Hell is paved with good intention)とはこのことであろう。 いまや問題の核心は日本国内でなく外国世界に移った。「二十万人の性奴隷という神話をいかにして打破するか」(How to Debunk the Myths of 200000 Sex Slaves)が肝心だ。それを上手にやらねばならない。アメリカの特派員の中には日本左翼の主張を繰り返して、安倍首相による言論弾圧と喧伝している者もいる。それならば野党代表が積極的に記者会見を開いてアメリカ歴史教科書についての意見をすなおに述べればよいのである。私は鳩山由紀夫、菅直人氏らを切り捨てた後の民主党が再生するには、日本に対する中傷を退ける主張を堂々と行えば内外の多くの人の共感を得るであろう。Honesty is the best policy(正直は最善の策)とはこのことである。(2015年4月14日)注1 それだから私はSukehiro Hirakawa, Japans Love-Hate Relationship with the West(Global Oriental)や『平和の海と戦いの海』でグルーと斎藤實夫妻や鈴木貫太郎について書いたのである。注2 Joseph Roggendorf, Between Different Cultures, a memoir, Global Oriental, 2004, p62. ヨゼフ・ロゲンドルフ『異文化のはざまで』(文藝春秋、一九八三、90頁)。なお日本訳には平川が修正をほどこした箇所がある。※シンポジウム「『歴史戦』をどう闘うか」(日本戦略研究フォーラム主催)基調講演に加筆したものです。ひらかわ・すけひろ 1931(昭和6)年東京都生まれ。1953(昭和28)年、東京大学教養学部教養学科卒業。フランス、ドイツ、イタリアに留学し、北米、中国、台湾などで教壇に立つ。平成4年、東京大学名誉教授。著書に『和魂洋才の系譜』(平凡社)、『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』(白水社)、『ダンテ「神曲」講義』『西洋人の神道観』『日本の正論』(河出書房新社)、『竹山道雄と昭和の時代』(藤原書店)『市丸利之助伝』(肥前佐賀文庫)、『日本人に生まれて、まあよかった』(新潮新書)等多数。