検索ワード:歴史/82件ヒットしました

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    畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見

    ており、最大の謎といえるのが、女王・卑弥呼が治めていた邪馬台国はどこにあったのかということ。 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀後半に倭国で起きた大乱が、卑弥呼を女王に立てることで収まり、邪馬台国を中心とする小国の連合が誕生したと書かれている。 だが、肝心の場所については、邪馬台国へ至る道筋をそのまま行くと太平洋上に行き着くなど謎が多く残されており、その解釈を巡って意見が分かれてきた。 論争の歴史は古く、江戸時代後期には、新井白石や本居宣長らが議論を始め、長らく「畿内説」と「九州説」の間で論争が続いてきた。そして、これまでは1986年に吉野ヶ里遺跡が見つかるなど邪馬台国の時代の遺跡や遺物が多数出土する「九州説」がやや優勢だった。 しかし、2009年に邪馬台国の有力候補とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良・桜井市)で、3世紀半ばの大型建造物跡が見つかったことで、この論争は大きな転機を迎えた。卑弥呼の墓との説もある国内最大規模の前方後円墳、箸墓古墳も近くにあり、研究者の間で「卑弥呼の宮殿ではないか」と期待が高まり、「畿内説」がにわかに活気づいたのだ。 今年2月には、陵墓への立ち入りを原則的に禁止してきた宮内庁が、箸墓古墳への日本考古学協会などの研究者の立ち入り調査を許可し、初調査が行なわれたことも、関心の高さを表わしている。発掘調査を担当した市纒向学研究センターの橋本輝彦・主任研究員が語る。 「邪馬台国の女王である卑弥呼が政治機構を持つには、大規模な人工集落があったと考えるのが自然で、纒向遺跡の規模はそれに相応しい。九州説の弱点は、吉野ヶ里遺跡を始めとした複数の遺跡群があるものの、それほどの規模を持つ象徴的な遺跡がないことです」奈良県櫻井市にある箸墓古墳 しかし一方で、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする“科学的物証”もまだ存在していない。九州説を主張する元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう反論する。 「邪馬台国は中国、朝鮮半島と交易していたが、九州北部からその交易を裏付ける文物が多数出土するのに対し、畿内からはほとんど出土例がない。それに加え邪馬台国ほどの国なら、当時交易の中心だった鉄の流通システムを持っていてしかるべきなのに、鉄の出土例も、九州に比べて圧倒的に少ないのです」 双方とも一歩も引く気配のない「邪馬台国」論争。この論争に終止符が打たれるかどうかは、魏から卑弥呼への贈答品の封として使われた「封泥」(ふうでい)の発見にかかっているという。 「封泥とは、箱を縛った紐がほどけないように上から粘土で固め、印を押したもの。公式な贈答品は卑弥呼の前でしか開封されないはずなので、封泥の発見場所こそ卑弥呼のいた場所だといえます。広大な纒向遺跡の発掘調査は継続中で、封泥や何らかの文字資料が出土しないかと期待しています」(橋本氏) 論争はまさしく“泥試合”の様相を呈している。※週刊ポスト2013年5月24日号■ 日本語は英語の原型を話す集団が日本にたどりついてできた■ 織田信長、坂本龍馬…日本では突出した人物は非業の死遂げる■ 21世紀の邪馬台国? Google Mapにも載っている島が消えた!■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 武井咲、忽那汐里の同期は逸材揃い 「平成の吉永小百合」も

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    真田幸村の兄はこんなにも偉大だった!

    真田家が生き残りをかけ、父子が袂を分かつ「犬伏の別れ」。NHK大河ドラマ「真田丸」でもこのシーンが放映され、「神回」と呼ばれるほどの注目を集めた。徳川側についた幸村の兄、信之は、大坂の陣で華々しく散った弟に比べると随分地味だが、一族を守った彼の功績は、実は幸村よりも偉大だった。

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    知られざる「中世の要塞」熊本城

    築城の名手加藤清正によって建てられた熊本城は、外観の美しさだけでなく、実戦と籠城にも適した「中世の要塞」だった。いまでこそ熊本地震で痛々しい姿を見せている熊本城だが、かつては隣国の雄藩薩摩も恐れさせた難攻不落城の魅力に迫る。

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    知られざる幕末佐賀藩の「産業革命」

    幕末、西洋近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩が有名だが、開明派の薩摩藩主、島津斉彬が、その先進性を模範とした藩こそ、佐賀藩であった。幕末佐賀藩が「近代化のトップランナー」とも言うべき存在へ躍進したのはなぜだったのか。

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    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

    浦川和也(佐賀城本丸歴史館学芸員)司馬遼太郎「佐賀ほどモダンな藩はない」 「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。退屈せず、倍々(ますます)研究すべし」 嘉永5年(1852)、薩摩藩は鉄製大砲などを鋳造するための反射炉の築造に着手しました。その際、幕末きっての開明派と謳われた薩摩藩主・島津斉彬は、技術者たちを一堂に集めて、そう激励したといいます(『島津斉彬言行録』所収)。 反射炉といえば、薩摩や韮山(静岡県伊豆の国市)のものが有名です。しかし、最初に築いたのは、実は佐賀藩でした(嘉永3年〈1850〉)。当時、佐賀藩の大砲鋳造成功を聞いた斉彬は、「佐賀人」を「西洋人」と並べて、「西洋人も佐賀人も同じ人間である。我々薩摩人にできないことはない」と藩士たちに呼びかけ、鼓舞したのでしょう。 幕末、近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩などを連想する方が多いかもしれませんが、冒頭の斉彬の言葉が示す通り、佐賀藩こそが「近代化のトップランナー」だったのです。 昨年平成27年(2015)にユネスコ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素の中に、佐賀の「三重津海軍所跡」が含まれています。佐賀県の三重津海軍所跡。昨年、世界遺産に登録された(写真提供:佐賀県) その他にも、佐賀市内には、日本で初めて鉄製大砲鋳造に成功した「築地反射炉」や幕府注文の大砲を鋳造した「多布施反射炉」(公儀石火矢築立所)、蒸気機関・写真・ガラスなどを研究した理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」など、幕末佐賀藩の「産業革命」の拠点となった場所があります。作家の司馬遼太郎氏も、「幕末、佐賀ほどモダンな藩はない」と、佐賀藩の先進性を評しました(『アームストロング砲』〈講談社文庫〉)。 ではなぜ、佐賀藩は他藩に先んじて近代化を成し遂げることができたのでしょうか。それはまず、10代藩主・鍋島直正の先進性、マネジメント力、リーダーシップを抜きには語れませんが、ここでは佐賀藩の歴史と、置かれた環境を紐解きながら、「近代化のトップランナー」となった背景を紹介していきましょう。「近代化のトップランナー」の背景「近代化のトップランナー」の背景 佐賀藩といえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠れ』のイメージが強いかもしれません。しかし、実は蘭学の登場も他藩より早く、安永3年(1774)に杉田玄白と前野良沢が『解体新書』を翻訳した頃には、すでに島本良順が藩内に蘭方医の看板を掲げ、その門下からやがて伊東玄朴、大石良英、山村良哲らの名医が育っています。 背景には江戸時代初期より、佐賀藩が幕府より命じられていた長崎警固役がありました。 江戸時代の日本の対外関係は、その多くの時期が〈長崎口〉〈対馬口〉〈薩摩・琉球口〉〈松前口〉の4つの窓口を持つ、いわゆる「四つの口」体制を採っていました。〈長崎口〉は長崎における中国人・オランダ人との通商関係、〈対馬口〉は対馬藩を仲介役とした朝鮮国との交隣関係(通交関係)、〈薩摩・琉球口〉は薩摩藩を通じた琉球王国(日中両属)との宗属関係、〈松前口〉は松前藩を通じたアイヌ民族との関係を言いますが、いずれも中国(明国・清国)を中心とした冊封体制(東アジア朝貢体制)の周縁部にありました。〈長崎口〉は「西洋」を垣間見る唯一の窓口でした。 このような「四つの口」体制になる前に、16世紀から盛んに通商を行なっていたのがポルトガルです。寛永17年(1640)、ポルトガルは通商再開を求めて、長崎へと使節船を派遣しましたが、幕府はポルトガル船を焼き払うなど拒絶します。そして、時の3代将軍家光が、ポルトガルの報復を恐れて設けたのが長崎警固役でした。 長崎警固役とは、長崎警備の軍役のことで、寛永18年(1641)に福岡藩に命じられ、次いで翌寛永19年(1642)に佐賀藩にも命じられ、1年交代で軍役を務めました。佐賀藩が、この長崎警固役を命じられたことは、その後の佐賀藩の進路に影響を与えました。迫りくる列強の脅威を前に 長崎警固役は、大きな財政負担を要しますが、一方で「異国」「西洋」に接する機会がありました。『阿蘭陀風説書』『唐船風説書』を佐賀藩、福岡藩は内々に読むことができました。また、長崎に詰めていた佐賀藩士は、西洋人や、長崎に留学していた知識人と会うこともできたでしょう。佐賀藩の国際感覚は、こうした背景から醸成されたものと思われます。 18世紀後半のイギリスから始まった産業革命の波は、すぐにヨーロッパ各国やアメリカ大陸に及びました。産業革命は、紡績業の発展や製鉄技術の向上、蒸気機関の実用化と蒸気車・蒸気船の開発などをもたらしました。すなわち、欧米列強諸国は、鉄製大砲と蒸気船を手にし、国外の市場や植民地の獲得を目指して、アジア侵出を開始したのです。 また、16世紀後半以来のロシアの東方進出・南下政策も機を一(いつ)にしてこの時期に日本や東アジアに及びました。 文化5年(1808)の英国軍艦フェートン号の長崎港侵入事件(フェートン号事件)も、その流れの中で起こった事件ですが、長崎奉行松平康英は責任をとって切腹し、大きな政治問題になりました。同年に長崎警備を担当していた佐賀藩は、番頭千葉三郎右衛門・蒲原次右衛門を切腹に処すなどの関係者の処分を行ないましたが、幕府から9代藩主鍋島斉直が100日間に及ぶ逼塞(ひっそく)の処分を受けるなど、大きな衝撃を受けました。長崎警固役の緊張感が薄れ、惰性に陥っていたことが、この失敗を招いたものと思います。 よく一般に、幕末佐賀藩にとっての「黒船来航」はフェートン号事件で、ペリー来航よりも45年も早く外圧にさらされた、と言われることがあります。しかしながら、実は、その後20年余り、佐賀藩でも近代化に向けての目立った動きはありませんでした。 9代藩主斉直の時代は、長崎の台場の一部強化などを行ないますが、何より藩財政の破綻が大きな問題となりました。しかしながら、藩主自身の奢侈も改まらず、藩士は世子貞丸(直正)に期待する状況でした。稀有なリーダー・鍋島直正稀有なリーダー・鍋島直正 佐賀藩の財政改革と近代化政策の取り組みは、鍋島直正が10代藩主となった天保元年(1830)が起点となります。 直正は、なぜ近代化を推し進めることができたのか。それは、彼自身の国際感覚と進取の気性、マネジメント力とリーダーシップによるものと思います。その背景には傅役であった古賀穀堂の薫陶がありました。 直正は、藩主となって初めて帰藩した直後に長崎警備を視察し、その際にオランダ商船に自ら乗り込み船内を見学しました。藩主として「前代未聞」の行動です。神ノ島・四郎島填海工事図。佐賀藩が長崎警固役のために嘉永5〜6年(1851〜52)に自力で行なった埋め立て工事の様子を描いたもの。この砲台には、築地反射炉で製造された鉄製大砲が配備された(公益財団法人鍋島報效会蔵) 危険を伴なう蘭船乗り込みは長崎奉行所の特別の許可を得て実現しましたが、以後、直正のオランダ船乗り込みは恒例となりました。アヘン戦争(1840〜42年)後の天保15年(1844)に開国勧告のため来日したオランダ軍艦パレンバン号にも直正は乗船し、艦内を隈なく視察しました。 藩主でありながら身の危険を伴う行動の妥当性は措いて、兎にも角も天保期には既すでに、直正は自らの目で西洋の進んだ文明を実見し、体感していたのです。直正は、オランダ船の頑丈な構造を実見するとともに、海上から陸地を見渡すことで、改めて海防感覚を磨いたことだろうと思います。また、若き藩主の実行力やリーダーシップに藩士たちも感化されていったことでしょう。「近代」=「西洋」に負けないため さらに、アヘン戦争の衝撃も欠かすことができません。東アジア社会に君臨した中国が、欧米の砲艦外交に為すすべもなく敗れ、その後、植民地として蚕食されていく端緒になりますが、この衝撃は日本国内を震撼させました。そして、これに最も敏感に反応したのが直正でした。 「近代」=「西洋」に負けないように、それを誰よりもよく知る直正が出した答えが、鉄製大砲と蒸気船を自力で開発することだったのです。だからこそ、黒船来航(嘉永6年〈1853〉)の時に、唯一佐賀藩だけが鉄製大砲製造が間に合い、日本初の実用蒸気船製造も実現したのだと思います。  日本の近代化のトップランナーだった佐賀藩。その躍進は、藩主鍋島直正の存在を抜きには語れません。●「三重津海軍所跡」公式HPhttp://mietsu-sekaiisan.jp/関連記事■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡

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    若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」

    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    海軍育成と造船所建設、そして実用蒸気船「凌風丸」誕生へ

    幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    アームストロング砲をいち早く造った佐賀藩の「ものづくり力」

    たことに「ものづくり」に特別の関心を寄せる日本社会があったと考えられる。 実は、この時期、後の日本が歴史を刻んできた驚くべきこと・・・日本海海戦、プリンスオブウェールズの撃沈、ホンダのマン島レースの制覇・・・の萌芽が見られた時期でもあった。それが、このシリーズで触れる「蒸気機関の製作」、「スームビング号の江戸回航」、そして佐賀藩の「アームストロング砲」だった。 余談だが、幕末には伊豆の韮山や佐賀の反射炉は立派なものだった、それに続こうと諸藩が急ごしらえで作った反射炉には役立たずもあった。たとえば長州藩の萩にも反射炉があったが、筆者が詳しい調査したところによると、萩市の反射炉には火を入れた形跡はなかった。下関戦争で使った青銅砲も砲弾もともに輸入品と思われる。 製鉄と言えば、安政2年にイギリス国のベッセマーが転炉を発明している。19世紀の初め、トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求めたのでイギリス国の鉄工業は隆盛を極めていて、それがベッセマーの転炉の発明につながる。 この製鉄の技術は戦闘用武器の発展に結びつき、ヨーロッパの軍事力を飛躍的に高めていった。これに対して、アジア・アフリカで追従できる国は日本以外にはただの1カ国も存在しなかった。 「近代鉄鋼技術の罪」は重い。それはヨーロッパ、アメリカにとっては「優れた」技術だったが、アジア、アフリカ人にとっては「悪魔の」技術になった。技術とは、かくも難しいものである。技術の話と言えば白人しか視野に入っていないが、本当の意味の「技術の受け手」は白人の数倍の人口を要していた有色人種だったのである。 鉄鋼の技術を擁して、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカを席巻し植民地化した勢いから考えれば、開国からまもなくして、日本が植民地になるのは確実と思われた。 日本というこの小さな東洋の島国は、250年にわたって鎖国を続け、蒸気機関や火力の強い武器もなく、サムライと呼ばれる刀を差し、甲冑に抜刀という弓矢で戦う武士軍団を形成していた。 それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に、これまでのアジアの諸国と同様、たちまち植民地となり傀儡政権ができて何らの不思議もない。北海道はロシア、本州はアメリカ、四国はイギリス、そして九州はオランダに分割統治されるであろうと感じるのは当然でもあった。  イギリスが中国を理不尽な理由で攻めたアヘン戦争の激戦、鎮江の戦いでは、イギリス軍の損害37名に対し、清国は1600名の損害をこうむっている。それが19世紀のヨーロッパ列強とアジア諸国との間の戦いの哀しい現実であったのだから、日本の植民地化は時間の問題だった。(「武田邦彦ホームページ」より2010年10月6日分を転載)

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    独力で最強海軍を創設 佐賀藩「火術方」は日本一のハイテク研究所

    技術史上の快挙とされている。佐賀藩の海軍基地となった三重津の船手稽古所の図=鍋島報效会蔵(佐賀城本丸歴史館提供) この成功と同じ嘉永5(1852)年には、藩直属の理化学研究所ともいうべき「精煉方(せいれんかた)」を開設。大坂の適塾(緒方洪庵塾)をへて江戸の象先(しょうせん)堂(伊東玄朴塾)塾頭になっていた藩士・佐野常民(つねたみ)を呼び戻す。佐野は帰藩に際して「からくり儀右衛門」とはやされた異能の器械師・田中久重父子や蘭方科学者・石黒寛次、物理・化学者の中村奇輔の在野4人を同伴。彼らは蒸気機関の模型をはじめ、雷管・電信機・火薬・機械・金属・ガラス・薬品など多彩な技術開発に成果を上げる。精煉方はハイテク日本の先駆けとなる超一流の研究機関で、その人材は明治に引き継がれる。 黒船の来航で開国に踏み切った幕府は安政2(1855)年、海軍近代化のためオランダの協力で長崎「西の奉行所」(現在の長崎県庁、出島の北側)に「海軍伝習所」を置き、オランダ国王から将軍に贈られた気帆船スンビン号(日本名「観光丸」=全長53メートル、720トンの木製外輪蒸気船)を操る実地訓練を開始することになった。伝習生は計130人。幕府からは勝海舟や榎本武揚(たけあき)ら40人の幕臣が派遣されたが、佐賀藩からは佐野、石黒ら火術、精錬方の俊秀48人が送り込まれ、伝習所はさながら幕府と佐賀藩のための訓練所になった。 直正はこの伝習所も視察し、オランダ人教官たちと交流している。伝習隊長のカッテンディーケの記録『長崎海軍伝習所の日々』には、直正が伝習所の士官たちを長崎湾を見下ろす別荘に招待し、旺盛な好奇心と知識欲、オランダに対する親近感などを示したことが生き生きと描かれている。 2年後、佐野は直正に「佐賀藩海軍創設建白書」を提出。翌安政5年、佐野の郷里でもある三重津(みえつ)(佐賀市川副町・諸富町)に「船手稽古所(ふなてけいこしょ)(海軍学校)」を仮設し、藩独自の伝習と造船が始まる。三重津には佐賀藩が購入した艦船が続々と集結し、近代日本海軍発祥の地となった。慶応元(1865)年には国産初の蒸気船「凌風(りょうふう)丸」(長さ18㍍、幅3・3㍍、10馬力)がここで進水する。 佐賀藩海軍は明治2(1869)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘となった箱館(函館)戦争(五稜郭の戦い)に政府軍として出動し、榎本武揚率いる旧幕艦隊と激突する。派遣した3隻のうち「朝陽丸」は旧幕府軍の砲撃で火薬庫が爆発を起こして沈没、艦長の中牟田倉之助(のち海軍中将)が重傷、乗員51人が即死するという大惨事に遭うが、海戦には勝利し、戊辰(ぼしん)戦争の幕を引いた。「薩長土」に「肥」が並んだのである。

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    幕末当時の海軍所を「体感」できる三重津の世界遺産

    前田達男(佐賀市世界遺産調査室室長) 世界遺産に登録された三重津海軍所跡の遺跡は、すべてが地下に眠っており、残念ながら現地でそのものを見ることはできません。「三重津ウォーカー」のVRスコープで見た三重津海軍所(提供:佐賀県) では来訪された方に、イメージを膨らませていただくには、何を「見せ」ればいいのか。そうした思いから、現在、佐賀県と協力し、VR(バーチャルリアリティ)をはじめ、映像やイメージ画像でかつての三重津海軍所を見ることができるよう工夫を凝らしています。来訪された方は、隣接する佐野常民記念館で借りることができるVRスコープを持って歩けば、幕末当時の海軍所を〝体感〟できるでしょう。 また、佐野常民記念館の3階では発掘や文書の調査成果も展示しており、跡地と併せて2時間以上かけてじっくりと見て回って、堪能される方も少なくなく、ご好評をいただいています。現在は単なる草地になっている三重津海軍所跡=2015年9月6日、佐賀市 私は、世界遺産調査室室長として遺跡発掘や文書調査に携わりました。そして、幕末、西洋列強の脅威が忍び寄る中で創設された海軍の様子や、日本の伝統技術によって造られたドライドック(船渠)の実像に触れることで、三重津海軍所は日本の近代化の過渡期を象徴する存在だと強く感じたものです。同時に、遺跡発掘や文書調査を行なうことで、実に様々なことが分かるのだということを、改めて教えられました。 たとえば、三重津海軍所の特徴のひとつに、ドライドックがあります。これは現時点で現存が確認できる日本最古のドックで、存在自体は以前より認識されていました。しかしそのスケールや構造、周囲に製作場などの様々な施設があったことは、平成21年(2009)に発掘を行なってはじめて分かったことです。文書などの記録で残るものと、現地に残るものを組み合わせることで、色々なことが見えてくるのだと肌で感じることができました。発掘の最中、ドックの一部を掘り当てた時の驚きは、今でも鮮明に覚えています。昨年(平成27年〈2015〉)10月からは、出土した遺跡の大きな写真パネルを、実際に埋まっている位置の上に置くことで、調査成果を〝体感〟していただく新たな試みを始めています。また、VRスコープを用いた仕掛けも、他の文化遺産に先駆けたものだと思います。  文化財に関心を抱いている方も、世界遺産の雰囲気を味わいたい方も楽しむことができる――三重津海軍所跡は、そんな史跡を目指しています。関連記事■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(後編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

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    豊臣秀吉は史上最強の「大悪党」だった

    天下人、豊臣秀吉の実像に迫る貴重な文書が見つかり、歴史ファンらの注目を集めた。見つかったのは「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる重臣、脇坂安治へ宛てた朱印状33通。かつての主君、織田信長へのコンプレックスを窺い知る中身もあったという。天下を簒奪した秀吉は史上最強の「大悪党」だったのか?

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    真田昌幸のギャンブル人生がヤバすぎる!

    大河ドラマ『真田丸』で、草刈正雄演じる真田昌幸の存在感に圧倒された人も多いのではないだろうか。主役をしのぐ強烈なキャラに魅せられる理由は、戦国の騒乱を生き抜いた昌幸のギャンブル人生があまりにヤバすぎるからに他ならない。戦国の世で「表裏比興」と呼ばれた男。その壮絶な生き様を見よ!

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    日本人は真田信繁の誇りを知れ

    日本人はなぜ真田信繁に魅力を感じるのか。その答えはひとえに信繁の生き様にある。いかなる大敵であっても、臆することなく挑んだ「六文銭」の誇り。では、信繁は何のために戦いに明け暮れたのか。「戦国最後のヒーロー」の人生訓には、日本人がいま学ぶべきヒントがたくさんある。

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    「日本一の兵」真田三代の鬼謀

    大坂の陣の活躍で「日本一の兵(つわもの)」と称えられた真田信繁。信繁の活躍の裏には小領主から身を起こし、実力者たちを翻弄し続けてきた祖父や父から受け継いだ戦国最強の智謀があった。乱世を行き抜いた信繁、昌幸、幸隆と真田家三代の血筋を遡る。

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    朝鮮出兵、日本武士が一つになった日

    戦国乱世に終止符を打った天下人、豊臣秀吉にとって、二度にわたる朝鮮出兵は、晩節を汚す無謀な賭けだった。それでも、文禄の役で雌雄を決した「碧蹄館の戦い」は、日本武士が一丸となって奇跡の勝利に導いた数少ない武勇伝でもある。見知らぬ大陸で命を賭けた戦国の漢たちの雄姿に迫る。

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    信長は「革命児」ではなかった

    信長が戦国乱世の「革命児」というイメージは、後世が作り上げた虚像だったのか。最新の研究では、従来の信長像に否定的な見方を示す学説が提唱され、大きな注目を集めている。これまでの常識にとらわれず、全く別の角度から光を当てることで、真実の信長の姿が浮かび上がる。

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    「センゴク」宮下英樹が語る真実の信長

    織田信長とはどんな人物だったのか。多くの研究者や歴史ファンを虜にする彼の人物像は、いまだ多くの謎に包まれる。数々の古戦場や城跡を踏査し、膨大な資料を読み解いた独自の解釈が専門家をも唸らせる人気漫画「センゴク」の著者、宮下英樹氏に、自身が思う信長像を大いに語ってもらった。

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    織田信長、築城革命の真実

    織田信長が初めて築城した小牧山城の最新発掘調査で、信長が当時群を抜く高い築城技術を持っていたことが改めて証明された。従来の信長像を否定する最新研究に注目が集まる中、近世城郭の始祖とされる信長の築城術から見えるものとは何か。戦国築城革命の全貌に迫る。

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    信玄と謙信「川中島の戦い」の謎

    戦国最強の両雄、武田信玄と上杉謙信が12年余にわたり激突した川中島合戦は、現存する史料がほとんどなく、軍記書の『甲陽軍鑑』等が描く内容が定説化してきた。闇に埋もれた戦いの姿と両雄の実像に迫る。

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    「花燃ゆ」よりよくわかる吉田松陰

    「民を救い日本を守るにはどうすればいいのか」。時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯し黒船密航を試みた。そこにあるのは「私利私欲なく日本を守りたい」という一念のみ。維新の英傑を育て上げた稀代の兵学者、吉田松陰の純粋な志に迫る。

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    久坂・高杉・伊藤-松下村塾に集まった若者たち

    吉田松陰が塾生1人ひとりに贈った言葉は若者を感激させ、自信を与え、奮起させた。 松下村塾に学び、志を抱いた主な若者たちを紹介しよう。久坂玄瑞(くさか・げんずい)1840~64 享年25 藩医の三男に生まれた眉目秀麗の青年才子・玄瑞は、松陰の妹・文との縁談を打診され、器量を理由に拒む。すると、仲立ちした中谷正亮に「色香に迷うとは何事か」と一喝されたという。 松陰が最も信頼した一番弟子の久坂は、「才能は自由自在、縦横無碍」「才あり気あり、獣心として進取す」と師から最大級の賛辞を贈られている。 晩年の松陰が牢内から弟子たちに指示した、攘夷実行のための「伏見要駕策」には反対。無謀であることを手紙で師に諄々諭した。しかし松陰の処刑後は師の熱情を継承、長州の若き重鎮として攘夷・反幕運動へと奔走し、下関で外国船砲撃の指揮を執る。禁門の変で落命するが、その短い生涯はまさに松陰の愛弟子と呼ぶに相応しい。高杉晋作(たかすぎ・しんさく)1839~67 享年29 百五十石どり上士の一人息子で、親は晋作が村塾に通うのを許さなかった。 晋作を松陰に引き合わせたのは久坂であったという。松陰はわざと晋作の前で久坂を誉め、晋作を発奮させた。松陰の狙い通り学力が「暴長」した晋作は、久坂とともに「松門の双璧」と称されるに至る。晋作は松陰にいかに死ぬべきかと問う。その答えが、あるいは晋作の生涯を決定づけたかもしれない。「死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」「死生は度外に置くべし」。松陰の死後、身分に縛られない近代的軍隊「奇兵隊」を組織、四力国連合艦隊との交渉、功山寺挙兵、四境戦争と命を削って疾駆した晋作の死生観は、松陰の教えではなかったか。門下生にはさまれた吉田松陰の像(中央)。左は高杉晋作、右は久坂玄瑞(山口県萩市の道の駅「萩往還公園」)吉田稔麿(よしだ・としまろ)1841~64 享年24 足軽の長男で通称栄太郎。松陰に可愛がられ、無逸という字〈あざな〉を授けられた。 人物評が得意で、松陰が野山獄で同囚だった富永有隣を塾に迎えると、「一見、容貌魁偉の偉丈夫ながら気立ては婦女子のように優しい」と有隣を評し、松陰も交えて塾生が大笑いしたという。 老中間部詮勝要撃計画を進めた松陰が投獄されると、稔麿も謹慎を命じられ、以後、親から同志との交わりを禁じられた。松陰も稔麿の心中を察し、理解を示している。しかし松陰の刑死後、脱藩・江戸の旗本妻木田宮に仕えて、徳川の内情を探った。妻木に信用された稔麿は幕臣に人脈を得て、長州藩に帰参後、藩と幕府を繋ぐ重要なパイプ役となる。しかし江戸に向かう途中、京都で池田屋事件に遭遇し闘死。入江九一(いりえくいち)1837~64 享年28 足軽の長男で通称杉蔵。弟・和作の紹介で松陰と出会い、村塾に入門する。 下級役人に過ぎない九一を、松陰は「甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」と評価し、九一を感激させた。それもあり、師の間部詮勝要撃計画を弟子たちが反対する中、九一・和作兄弟のみは従い、獄中の松陰も同志として信頼した。その後、伏見要駕策に動いた件で兄弟ともに投獄。九一は師の江戸檻送に落涙している。 松陰の死後、武士身分となり、下関で外国船砲撃、奇兵隊創設に尽力。禁門の変では鷹司邸で久坂より後事を託されるが。重傷を負い自刃した。久坂、高杉、吉田、入江を松門四天王という。野村 靖(のむら・やすし)1842~1909 享年68 入江九一の弟で通称和作。兄の入江姓は九一が入江家を継いだためで、兄弟の本来の姓は野村である。 16歳で村塾に入門。松陰より「才気あり、頗る読書を好み候」「小年中の傑出」と評された。兄とともに師の計画のために動き、投獄。松陰の死後、士分に抜擢され、下関攘夷戦、四境戦争に参加する。維新後、枢密院顧問、内務大臣、逓信大臣などを歴任した。前原一誠 (まえばら・いっせい)1834~78 享年43 四十石の下級藩士佐世家の長男で、はじめ佐世八十郎と称した。父親の勧めで入門。その時点で最年長の塾生に。 松陰は一誠の人柄を愛し「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ。その才は久坂に及ばす、その識は高杉に及ばざるも、その人物の完全なること、2人も遠く及ばない」と語った。藩命で洋学を研究。四境戦争では小倉攻撃軍の参謀、戊辰戦争では北越征討総督府参謀を務める。維新後、政府の旧士族への処遇を見かね、萩の乱を起こし処刑された。伊藤俊輔(いとう・しゅんすけ)1841~1909 享年69 庄屋下役の農家に生まれ、親子ぐるみで足軽伊藤家に養子入りした。利介とも称し、のちに博文と名乗る。 来原良蔵の紹介で村塾に入門。松陰から「中々周旋家になりそうな」と評されるが、在塾期間は短い。師の死後は高杉らと親しく、英国から帰国後、功山寺挙兵に加わった。維新後、政府の要職を歴任し、初代内閣総理大臣。八ルビン駅頭で凶弾に倒れた。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは

    安藤優一郎(歴史家、文学博士 [早稲田大学] )僅か30年の生涯――遺された時代を動かした魂が 安政6年(1859)10月27日。長州藩士吉田寅次郎こと吉田松陰は江戸城近くの評定所に呼び出され、幕府から死罪を申し渡された。 時を移さず、日本橋近くの伝馬町牢屋敷に連行された松陰は、首切り浅右衛門こと山田浅右衛門介錯のもと刑場の露と消える。わずか30年の生涯であった。 この日、松陰は波乱の生涯を終えた。だが、その魂は『留魂録』という形で生き続ける。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という松陰の歌はあまりにも有名だが、実は「留魂録」の冒頭に掲げられた歌だった。150年以上経過した現在でも、松陰が放つ言葉の数々は人々の心に深い感動を与えるが、その象徴たる著作なのである。 『留魂録』を遺した松陰とは、いったいどんな人物だったのか。破天荒な行動と投獄生活――「松下村塾」への源流となる 文政13年(1830)8月4日、松陰は萩城下郊外の松本村で生を享けた。父は長州藩士杉百合之助。母は滝。兄と弟が1人ずつで、妹が4人の計9人家族。杉家は家族が多い上に、藩内での家格は低かった。そのため、武士でありながらも田畑の耕作により生計を支えざるをえず、松陰一家は城下を離れて松本村に土着していた。吉田松陰の生誕地から広がる萩の夜景 松陰は嫡男ではなかったため、叔父吉田大助の養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範の家柄であり、以後兵学者としての道を歩んでいく。 天保11年(1840)に、松陰は藩主毛利慶親の前で兵書「武教全書」を堂々と講義し、一躍注目を浴びる。まだ11歳になったばかりであった。 その後、軍学稽古のため江戸へ出府するが、江戸滞在中に人生最大の師と出会う。西洋兵学者として知られた松代藩士佐久間象山である。 異国船の度重なる来航という対外的危機を受けて、「東洋の道徳、西洋の芸術」を唱える象山の強い影響のもと松陰は破天荒な行動に出る。西洋の文明を知ろうと、密かにアメリカに渡ろうとしたのだ。 まさしく密航である。国禁を犯すことに他ならない。 嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約締結に成功したペリーは、同条約により開港が決まった下田港に艦隊を向かわせた。ペリーの乗船する旗艦ポーハ夕ン号が入港したのは3月21日。 同27日、松陰は足軽金子重之助とともに漁船でポーハタン号に近づき、アメリカに連れて行って欲しいと訴えるが、その拒絶に遭ってしまう。 密航に失敗した松陰は幕府に自首。吟味の結果、国元に強制送還されることとなった。松陰25歳の時である。 10月24日、萩に戻った松陰は幕府に遠慮する藩当局によって城下の野山獄に投獄される。獄中生活は1年以上にも及んだが、その間、松陰は決して無為に過ごしたわけではなかった。自分と同じ境遇の囚人に対して『孟子』や『論語』を講義し、その更生をはかっている。 松陰が出獄したのは翌安政2年(1855)12月15日のことだが、実家の杉家に戻って2日後の17日より、今度は父や兄に対して『孟子』の講義を開始した。『孟子』が終わると、次は兵学書や歴史書の講義へと進んだが、時事問題について熱く論議することもあったという。 その頃になると、松陰の講義の評判を聞き付けた藩士たちがその教えを受けるようになる。松下村塾への源流であった。再び幽囚の身に――老中間部の暗殺計画を宣言 松下村塾は松陰とセットで語られることが多いが、当初は杉家の一室四畳半が教室だった。その後塾生が増えたため、杉家敷地内の小屋を改造して八畳の教室を作ったが、これでも足りず、安政5年(1858)3月に十畳半分の控室を増築した。主宰する松下村塾が幾多の有為の人材を排出したことは、これから述べていくとおりである。 松下村塾の活動が軌道に乗ったのとは裏腹に、アメリカとの通商条約の締結問題を契機として政治情勢は混迷の度を増す。時勢への関心が元々強かった松陰は、事が外交問題であったがゆえに、とても黙ってはいられなかった。先述のように、ペリー再来航時には国禁を犯してアメリカに密航しようとはかったほどである。 よって、自分の思いを貫くために再び破天荒な行動に出た。しかし、これが松陰の人生を太く短いものにする。 幕府は世界情勢を踏まえてアメリカとの通商条約締結に傾いていたが、国論を統一させるため天皇(朝廷)の承認を得た形での条約締結を目指した。外交問題には挙国一致で臨むことが不可欠であり、天皇の政治的権威を利用しようとしたわけである。 ところが、幕府にとり大きな計算違いだったのが、通商条約に対する孝明天皇の強い拒絶姿勢だった。天皇は極度の攘夷主義者であり、元々外国人に対して強い嫌悪感を持っていた。外国との貿易開始によって国内の産物が外国に流れることにも、拒否反応を示した。こうして、通商条約締結の承認を求めてきた幕府の申請を却下してしまう。 通商条約締結問題は暗礁に乗り上げるが、安政5年6月19目、大老井伊直弼は天皇の許可つまり勅許を得ること、なく通商条約の締結に踏み切る。天皇や朝廷はもとより、井伊を快く思わない大名や藩士たち、そして尊王攘夷の志士はその非を鳴らすが、逆に弾圧を受ける。世にいう安政の大獄だ。 勅許を得ず通商条約を締結した幕府に、松陰も激しく憤る。ついには、倒幕まで宣言する。実力行使に出るべく、老中間部詮勝の暗殺を松下村塾の塾生にはかるとともに、それに必要な武器弾薬の貸与を藩当局に願い出た。間部は井伊の指令を受け、京都で弾圧の指揮を取っていたからである。 驚愕した藩当局は、松陰を再び野山獄に入れてしまう。安政5年も終わろうとする12月26日のことであった。松陰の過激な行動を放置すれば、長州藩は幕府から危険視されるに違いない。 果たせるかな、翌6年(1859)4月20日、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう長州藩に命じてきた。いうまでもなく、安政の大獄の一環である。 5月25日、幕命を受けて松陰を護送した駕籠が萩を出立する。1ヶ月後の6月25日、縄目の身の松陰は江戸の長州藩上屋敷に到着した。 幕府の評定所に最初に呼び出されたのは7月9日のことだが、松陰には2つ嫌疑が掛けられていた。京都で捕縛された小浜藩士梅田雲浜と親密な関係だったのではないか。御所内で発見された落し文の主ではないかの2点である。 一方、松陰は間部暗殺計画の件で召喚されたと思い込んでいた。実は幕府はその計画の存在などまったく知らなかったのである。そして梅田雲浜と落し文の件は吟味の結果、嫌疑が晴れてしまう。 ところが、拍子抜けしたのか松陰は流罪に相当する罪を2つ犯したと自ら申し立てる。尊攘派公家大原重徳の長州下向計画と老中間部の襲撃計画だ。 後者の間部の件については、さすがに暗殺計画とは申し立てなかったものの、寝耳に水だった担当の奉行たちは仰天・幕府最高首脳部の襲撃計画だから当然だろう。長州藩邸に戻ることは許されず、そのまま伝馬町の牢屋敷に送られて吟味続行となった。 5年前、アメリカ密航をはかった際に投獄されたのも同じ伝馬町牢屋敷。だが、今回は二度と萩に帰ることはなかった。2日でしたためた遺書 筆まめだった松陰は、獄中から高杉晋作たち弟子に向けて何通も手紙を出している。一連の手紙を読むと、10月16日の吟味までは、死罪に処せられるとはまったく考えていなかったようだ。吉田松陰が獄中で記したとされる「三余説」 間部襲撃計画を自白したことを、さほど深刻には考えていなかったのである。なぜなら、初回の吟味こそ厳しかったものの、その後の吟味は打って変わって穏やかなものだったからだ。国元に送還され、以前のとおり塾を主宰できるのではないかとまで楽観視していたほどである。 だが、吟味側の奉行たちは松陰の自白を重く受けとめていた。間部襲撃計画の報告を受けた井伊は松陰を非常に危険視し、極刑に処す方針を固める。 運命の10月16日がやって来た。評定所に呼び出された松陰は、奉行に署名を強要された口書の内容から、幕府が間部襲撃計画を重く受けとめていることを悟った。極刑は免れられない。 この日から、松陰は身辺の整理に取り掛かりはじめる。もう、時間はさほど残されていなかった。20日には、父百合之助・叔父玉木文之進・兄梅太郎宛に書状をしたためている。後に「永訣の書」と称されることになる家族宛の遺言だ。 同日には、江戸にいた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞に処刑された後の遺体処理を依頼する書状。同じ頃には、「諸友に語〈つ〉ぐる書」もしたためた。 生きて再び、萩に戻ることはできない。文字で書き残すことでしか、家族や弟子たちに自分の思いを伝える道は残されていなかった。 そして25日、松陰は門下生たちにあてた遺書の執筆に取り掛かる。「留魂録」である。松陰は数多くの著作で知られるが、まさしく最後の著作。それも26日夕方には書き上げるという速さであった。 翌日に迫った死期を知っていたかのように、わずか2日で、魂を込めた思いの丈を言葉にした。 死罪の判決が下れば、即刻執行されるのが当時の習い。いつ、評定所から呼び出されて死罪を申し渡されるかわからない。だから、読む者に切迫感が伝わってくるのだ。「留魂録」とは、松陰の鬼気迫る気持ちが凝縮されている題名なのだ。 16ヶ条から成る『留魂録』を、松陰は念のため2冊作成した。1冊は飯田正伯たちを通して萩に届けられ、門下生の間で回し読みされたが、しばらくして消息不明となってしまう。 もう1冊は牢名主の沼崎吉五郎が保管し、明治に入ってから、同じく門下生の野村靖のもとに届けられた。現存しているのは、こちらの『留魂録』である。《PHP文庫『30ポイントで読み解く 吉田松陰『留魂録』より》 あんどう・ゆういちろう 1965年、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業、早稲田大学文学研究科博士後期課程満期退学。江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。JR東日本大人の休日・ジパング倶楽部「趣味の会」、東京理科大学生涯学習センター、NHK文化センターなど生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)『幕末維新 消された歴史』(日経文芸文庫)『山本覚馬』(PHP文庫)などがある。関連記事■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心

    親切このうえもない人たちだからである。 しかし、講演が終わって質疑に移ると、穏健な萩人の内面にひそむ歴史への誇りと先人への奥ゆかしい尊敬心がにじみ出てくる。こと歴史となると、人びとは熱く過去を語り現在に及ぶのである。なかでも「松陰先生」と必ず敬称をつけるのがならいの地では、松陰への敬愛の念が自然ににじみ出てくる人も多く、職業柄歴史上の人物を呼び捨てにする私などはいかにも“異邦人”めいた存在というほかない。それでも、外から来た人間、それもイスラムや中東を本来の専門とする学者の松陰論を虚心坦懐(きょしんたんかい)に聞いてくれるあたりに萩人の懐の深さがあるといえよう。 松陰の生きた時代は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への加盟交渉への参加すら逡巡(しゅんじゅん)し、円高・金融不安に揺れながら、まかりまちがえば沖縄県民の離反を招きかねない日米関係の歪(ゆが)みが進行する現在と共通する点も少なくない。 松陰は、外国人の圧迫で日本が消滅しかねない危機の深化のなかで、日本史と世界史が人びとの日常生活から外交安全保障に至る多領域で切迫した危機を最初に意識した日本人の一人である。焦りにも似た義務感 浦賀にペリーの黒船到来と聞くと、松陰は矢も盾もたまらず夜に船を出したが船脚は遅く、風も潮も思わしくなく翌朝10時にやっと品川に着いた。すぐに上陸し陸路で目的地に向かい、夜10時にたどり着いた。明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像(国立国会図書館蔵) この行動力こそ現代人が松陰から学ぶべき点である。船の方が理屈では早く着き、身体にも疲れが残らないはずだ。しかし自分だけの楽や、わがままを求めないのが松陰なのだ。 風も潮流も順調でなく思いや気だけはせく一方である。それでも、浦賀に寸秒も遅れずに見るべきものがあると信じるからこそ、自分の目で見届けたいのだ。何をおいても気迫が理屈に勝るのが松陰なのである。 自分の見聞が一秒でも遅れるなら、国の滅びもそれだけ早まると考えるのが松陰の発想であった。この焦りにも似た義務感が松陰に陸路をとらせ昼夜兼行の強行軍となった原因である。松陰も初めて見た蒸気船の威容に度肝を抜かれた。 松陰は、日本の台場(砲台)にある大砲の数もすこぶる少ないと地団太(じだんだ)を踏んでくやしがる。こうした混乱状況で松陰の師筋たる佐久間象山と塾生たちも多数集まってきたが、「議論紛々に御座候」と師たちも周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するありさまが手にとるように分かる。松陰が幕府の老中など門閥大名はもとより象山とも違うのは、国際情勢など冷静に分析し、何故に日本がかかる事態に陥ったのかを学び、何をなすべきかを検討するあたりであろう。松陰といえば熱情をすぐに連想するが、緻密な冷静さでも際立っていたのである。東アジアの国際戦略 松陰は、遅れた軍事力を抱えたまま国際政治のパワーポリティクスに対面した日本が外国軍艦の襲来に対処できる道筋を考えた。第一は西洋兵学の採用による軍事的近代化と貿易勧業による富国強兵への道である。第二は、「帝国主義の時代」が近づく19世紀半ばの東アジアで国際戦略を作りあげることだった。 松陰は、養家の吉田家が山鹿流兵学を教える師範であり、軍事戦略にも関心を示したのも当然である。吉田寅次郎こと松陰は、わずか10歳で藩校明倫館で兵学を講義し、11歳で御前講義をした神童の誉れ高い少年であった。それでいて才に溺れ傲慢になることもない。西洋式の大砲や軍艦の購入や製造から洋式訓練や陣立の導入、外国語教育の実施など説く方向は多岐に渡っていた。 松陰は人に向かって説教するだけでなく、自らも西洋兵法を学ぶことを決意した。懸案があれば、教師でありながら生徒として新たに学ぼうとするのだ。松陰の底知れぬ謙虚さはいつも向学心に結びつくのである。TPPの問題などに直面して狼狽する政治家に必要なのは、松陰のように「教えながら学ぶ」「学びながら教える」といった柔軟な姿勢であろう。歴史を学習する政治家 松陰は、黒船来航を機にめまぐるしく変転する幕末の状況を、世界史における西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を受けた日本の危機としてとらえた。 松陰は危機を抽象的な世界観でなく、歴史で人間に示された具体的な行為のなかで理解しようとした。純粋な理屈でなく事実に即して人びとにリアルに訴えるほうが、効果も大きく切実に納得してもらえると信じたからだ。 哲学的観念論でなく賢人や豪傑の仕事ぶりを実例で学ぶ作業のほうが、危機の説明として分かりやすいという主張は現代にも通じる。 松陰は代表作『講孟余話(こうもうよわ)』のなかで、いつも歴史書を読んで古人の仕事を学び自分の志を励ますことを勧めながら、「是亦(則)故而已矣の意なり」という有名な言葉を残した。「これまた故(こ)に則(のっと)るのみ」とは、自分の行いもすべて歴史の故事や偉人の振る舞いに学んだという意味にほかならない。しかし行動派でもある松陰は、西欧に侵略された清帝国やオスマン帝国が洋務運動やタンジマート改革の近代化を始めた動機にもまして、日本の行く末にもっと切迫感をもっていた。その結果、彼は守勢一辺倒でなく積極攻勢に出て侵略をはねかえすべきだと信じるにいたった。軍事政略と通商航海の結合 安政5(1858)年に入って修好通商条約の締結が日程に上ると、世上の論議もかまびすしくなるが、条約を拒否する主戦論者の説は古典的な鎖国論にとどまり、平和論者の航海貿易策は欧米諸国に屈従しかねない避戦論であり、一種の“ねじれ”が生じていた。松陰神社の桜=東京都世田谷区 この矛盾を解くために松陰は、「雄略」というアイデアで軍事政略と通商航海とを有機的に結合し、大攘夷(じょうい)や開国攘夷と称される遠大な戦略デザインを構想した。 彼のデザインは、大艦をつくって海軍を伝習調練し国内各地を往来して航海に習熟した後に、朝鮮・満州や清国とも交渉を始め、広東・ジャガタラ(ジャワ)・喜望峰・オーストラリアに居館をつくり将士を置いて、四方の情勢を分析しながら通商貿易で利をあげるというスケールの大きなものだった。吉野誠氏の要約に従えば、この事業を3年ほどで終わらせた後、米国のカリフォルニアに赴いて交渉に入り、日本にやってきたペリーら使節らの努力に酬いて条約を結べば、「国体」を失わずに列強争覇の世界で日本の独立を堅持できるというのが松陰の壮大な構想なのである(『明治維新と征韓論』明石書店)。 何というスケールの大きさであろうか。全然萎縮したところも卑屈な点もない。この構想は未完に終わったが、松陰独特の開国攘夷論は単純なアジア侵略の第一歩だったとは必ずしも言えない。松陰の未完の言説には少なくとも、明治政府成立から日清戦争や日露戦争に向かう時代の政治感覚との連続性だけで議論できないセンスや志が含まれているからだ。 政治外交の懸案解決策として武力攘夷や武力遠征だけに頼る愚をたしなめた松陰にとっては、むしろ東アジアからそれを越える大アジアの国々との連携や同盟さえ見えていた可能性も高いからだ。彼が生き永らえ大好きだった歴史への関心を、中国や朝鮮だけでなく、インドやイスラムの世界にまで視野を広げていたなら、同時代の欧米人とは異なる独特な歴史解釈を発展させていたかもしれない。松陰が欧米によるアジアやアフリカの植民地化の動きに単純に追随し模倣したとは思えないのだ。 29歳の若さで刑死した吉田松陰は、「空言」(抽象的言辞)よりも「行事(こうじ)」(具体的仕事)で考える歴史的思考法を大事にした孔子の言葉に何度も触れている。松陰は、孔子が歴史の名著『春秋』を作り、孟子も聖人と賢人の業績について事実を挙げながら具体的に称賛した面を高く評価したからである。「観察者」であり「行為者」に 政治と歴史を常に結びつけて発想した松陰は、歴史を学習すれば世のために2つの面で役立つと強調した。 第一は、歴史家が時事をきちんと遠慮せずに書くために、官僚も畏怖して不正をおこさないことだ。第二は、時事のプラスマイナスや施策の善悪をきちんと学べば、別の政策を考える場合にも大いに役立つからである。いまの政治家や官僚には是非に耳を傾けてほしい言葉なのだ。 松陰の考えは、歴史的な実例を手本にすれば宗教と世俗のいずれでも有益な効果をあげられると述べたチュニジア生まれのイブン・ハルドゥーンの言説にも似ている。『歴史序説』を書いた14世紀アラブの歴史家と19世紀の吉田松陰が時空を超えて問題関心を天才的に共有していた点は興味をそそられる。いずれにせよ、政治家と歴史家は、事物の観察スタイルにおいて似通った面がある。それは、過去と現在の人間のいずれを重視するかの違いがあるにせよ、人間の行為の「観察者」であると同時に「行為者」でもあることだ。 政治家は歴史家にもまして、自然科学のような外的な観察でなく、内側から理解する能力がないと務まらない職業なのだ。歴史家に要求されるのは、人びとや物事の動機・態度・意図・出来事を順序だてて整理できる能力である。そして、歴史で重要なポイントを無駄なく指し示せる歴史家の仕事は、政治をできるだけ複雑にせず紛糾させない政治家の営みによく似ている。私が最新著『リーダーシップ』(新潮新書)で強調したように、政治家に過去の偉大な歴史家の古典的書物に接してほしいと願うのはこの点にあるのだ。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    幕末の日本人に見る進取の気性

    のもうなずけよう。琉球王国の首里を訪問するペリー(出典「ペルリ提督日本遠征記(1857年版)」=霊山歴史館蔵). もちろん、オランダから情報が提供されていたこともあるが、ここでは幕末日本人による国際認識の事例として、嘉永3(1850)年に長州の萩から平戸、長崎、熊本に遊学した吉田松陰を取り上げてみたい。 松陰は遊学先で清国やオランダから持ち込まれた文献の漢訳本を片っ端から読破するが、その一つにフランスの砲将ペグサンが著した『百幾撤私(ペキサンス)』がある。そこには蒸気船の優位性とともに、ペグサン開発のボンベ・カノン(ペグサン砲)が紹介されていた。 従来の大砲は誤爆の危険もあり、軍艦に搭載する大砲の玉は内部に火薬を詰め込まない単なる鉄球だったが、新式大砲は火薬入りの玉を安全に発射できる。 若き兵学者は刮目(かつもく)して筆録した。「葛農(カノン)蒸気船は何方の風にも、又風なきも、皆意に従ひて港内に出入し得るなり。…水浅けれども渡行すべく、檣(ほばしら)を建てず、帆を揚げず、近きに至らざれば認め難し。故に盆鼈葛農(ボンベカノン)を備へ、敵に一驚を食(くら)はしむべし」と。 この時松陰は21歳、ペリー来航の3年前のことである。無名の若者がこれだけの情報を得ていたのだから、幕府の役人が知っていて当然なのである。 異なる文明に接して衝撃を受けながらも、一方で可能なかぎりの最新知識を身につけて対応した幕末日本人の進取の気性。──われわれもあやかりたいものである。(中村学園大学教授 占部賢志)関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち

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    志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒

    つ)する。かつ西は満州に連なり、北はロシアに隣する。国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗の歴史の地である。だが残念至極、自分はまだ東北を知らない」 だから、ゆくのだ-。 嘉永4(1851)年末(旧暦)、満21歳の吉田松陰は『東北遊日記』の冒頭にそう記している。 松陰が奥州の起点・勿来の関を越えたのは翌年1月23日のこと。ここに至るために彼は、長州藩のエリートコースから逸脱するばかりか、藩主を見限る脱藩という大罪をおかしていた。 旅の前半は雪また雪。《雪の深さ幾丈か測ることできず》とは会津から新潟に向かう山中の漢詩だ。 そして佐渡へ。金山の採鉱現場を訪ね、頑健な者でも数年で「体が動かなくなるか、死に至る」という過酷な労働環境を知る。 その後北上し、津軽では数々の義憤に駆られた。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいた。また近年、津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりだったからだ。「黒船来航」は約1年半後のことである。 松陰の旅は続く。 盛岡城の西北にある厨川(くりやがわ)の古戦場では、源氏と戦って「実に八百年前」に滅亡した俘囚(ふしゅう)(帰順した蝦夷(えみし))の長、安倍氏を追想。その後南下し、平泉・中尊寺で奥州藤原氏をしのんだ。 以降、南東に道を取り、石巻から塩竃(しおがま)神社、多賀城跡を経て仙台へ。松陰は当時、無名の若者で、見方によっては「お尋ね者」だった。しかし、みちのくはどこも彼に温かかった。仙台藩では藩校・養賢堂の学頭で、西洋学問所や庶民の教育所を開設した重鎮、大槻習斎が快く迎えた。■ ■ ■ 松陰の本名は「矩方(のりかた)」。通称は寅(大)次郎。「松陰」は雅号である。彼は別に「二十一回猛士」という雅号を「松陰」以上に愛した。 これは、生涯で21回の猛(「常識を覆す壮挙」とでも訳すべきか)を発する武士という意味である。松陰は、脱藩・東北行を猛の「第1回」とした。みちのくへの思いが史上の志士「松陰」を生んだといえようか。 松陰はこの旅を10歳年上の熊本藩兵学師範、宮部鼎蔵(ていぞう)、また博覧強記の元盛岡南部藩士で3歳上の那珂通高(なか・みちたか)とともに計画。長州藩は当初、松陰の東北行を認めていたが、直前になって「不可」とした。 同行する那珂が敵討ちを計画しており、松陰がそれに助太刀する覚悟であることを察知したからだとされる。松陰には脱藩するしか、友への誠を証明するみちはなかった。■ ■ ■ 《宮部痛哭(つうこく)し、五蔵(ごぞう)(那珂の変名)五蔵と呼ぶこと数声、余(松陰)も亦(また)嗚咽(おえつ)して言ふ能はず。五蔵顧みずして去る》 残念ながらNHK大河ドラマ『花燃ゆ』では割愛されたようだ。が、嘉永5年1月28日、福島県白河市郊外で、助太刀を申し出る松陰と宮部を振り切り、一人ゆく那珂。その描写は『東北遊日記』の絶唱である。 しかし…。 那珂いわく《屡(しばしば)機会を失》っている間に、南部藩の重臣だった敵(かたき)は失脚し、敵討ちはうやむやのうちに終わる。「武士の鑑(かがみ)」から一転、那珂は失望と中傷の的となった。 那珂の後半生は数奇である。1859年、安政の大獄で松陰が刑死するのに前後して南部藩に復帰、藩校教授に登用される。そして戊辰戦争では藩参謀格として、皮肉にも松陰の弟子たちが率いる「官軍」と刃を交えた結果、幽閉される。《遺恨、勤王の心撤せず(中略)受ける逆臣の名》とはその無念を詠んだ漢詩である。 その後、那珂は新政府の官吏に。「低い地位だったが、当時、文部省から出る教科書は一々那珂通高閲とあって、文部省の送り仮名の元祖だった」(金田一京助)ことで才能の片鱗(へんりん)をみせたが、明治12(1879)年、急逝した。51年と半年の生涯だった。■ ■ ■ 松陰と那珂の交遊は年々薄くなっていった。しかし、郷土史家、高野豊四郎さん(70)は「那珂と松陰は後々も友情を保っていた。進む道は違ってしまったが、通高はひとすじに道を歩む松陰を終生、認めていたはず」と話す。 松陰と那珂の「志士のみち」は対照的となったが、教育者としてはともに門弟に恵まれた。ご存じの通り、松下村塾からは幕末維新の英才が輩出。一方で「那珂門下」も偉才を発揮した。 その一人が原敬である。「平民宰相」となる前年、故郷・盛岡で開かれた戊辰戦争後50年の追悼式典で、彼は「逆臣」とされた人々の無念を代弁する格好で、「(東北人の)勤王の心は昔も今も変わらない」などと述べたうえでこう断言した。 《戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其(その)真相を語るものなり》◇ ◇ ◇陽気で草木も芽が出たいと思うが「おめでたい」なり 《不忠不孝の重罪人恙(つつが)なく今日帰着仕(つかまつ)り候》 脱藩から東北行を経て故郷に送還された嘉永5年5月、妹婿となる小田村伊之助-ではなく、門下生に送った吉田松陰の手紙だ。同じころ宮部鼎蔵には「天気晴朗だが内心憂鬱、でも時に持ち前の諧謔(かいぎゃく)を発揮している」としたためている。松陰の妹の文、後の楫取美和子 諧謔とは滑稽、ユーモアのこと。松陰はどんな逆境にあっても、明るさを失わない人だった。 「目というのは目玉の事ではない。目玉どもが元日から出たらろくな事ではあるまい。目というのは木の芽、草の芽の事じゃわい。冬至から一日一日と陽気(はるのき)が生ずるに従って草も木も萌(もえ)出づる。この陽気は物を育てる気で、人の仁愛慈悲の心と同様、天地にとっても人間にとっても好ましき気なり。ゆえに陽気が生じて草も木も芽が出たいと思うのが『おめでたい』なり」 これは安政2年元日、獄中から末妹の文(ふみ)-ではなく長妹の千代にあてた手紙。「あけましておめでとう」を説き明かした一節だ。 2歳下の千代は松陰と一番親しかった妹(文は13歳年下)。おそらく『花燃ゆ』の主人公「文」は、文と千代の2人を投影した人物像だろう。でも、「史実と違う」と目くじらをたてるのはやぼというもの。史上の名画『シンドラーのリスト』の名脇役「シュターン」も、実在した何人かの人物の「合作」とされる。 少々横道にそれたが、最後にもう一つ、お正月にちなんだ松陰の別の手紙を。以下は、やはり獄中から千代にあてた一節である。 「神前で柏手(かしわで)を打ち、立身出世や長命富貴を祈るのはみな大間違いなり。神と申すものは正直なる事、清浄なる事を好みたまう。それゆえ神を拝むにはまず己(おの)が心を正直にし、己が体を清浄にしてほかに何の心もなく、ただ謹み拝むべし。これを誠の神信心という」関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    今の日本人が誰よりも忘れるべきでない男

    【時空を超える偉人たちの一声 辞世のうた 田中章義】身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂どんな時代のどんな将軍よりも、どんな業績を成したどんな総理大臣よりも、今の日本人が忘れるべきでない男がいるとしたら、それは吉田松陰なのではないだろうか。 1830(文政13)年8月4日、萩城下松本村に長州藩士の次男として生まれてから、1859(安政6)年10月27日に亡くなるまでに、松下村塾の主宰者として、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義(あきよし)らを育てた松陰。ここでは単に文学や机上の学問のみならず、登山や水泳も実施していた。吉田松陰と2人の弟子の久坂玄瑞、高杉晋作を取り上げた修身教科書 自ら東北から九州まで足を伸ばして、現場現場を己の両目で見つめた松陰は、「飛耳長目(ひじちょうもく)」の実践者として知られている。飛耳長目とは、いかなる時も情報を収集し、然るべき未来の判断材料として役立てよ、という意味だ。 「百年の時は一瞬に過ぎない」「志を立て、それをもって万事の源と為せ」「志を実践していくためには人と異なることを恐れてはならない」「君たちよ、どうかいたずらに時間を過ごすこと勿(なか)れ」等、松陰の遺した言葉は今も古びることなく、胎動を続けている。 そんな松陰が幕府の大老・井伊直弼が推進した安政の大獄によって、捕らえられ、斬刑に処されたのが1859年10月27日だった。 自らの死を覚悟した松陰は、その前日に友人や弟子たちに向けて遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を書いた。「身は~」の歌はその冒頭に置かれたものだった。時に、本人が語り遺した三十一文字(みそひともじ)は、どんな長い評伝にも優り、人格と人柄を偲ばせる。 松陰は翌日(死の当日)、「吾(われ)今、国の為に死す。死して君親(くんしん)に背(そむ)かず。悠々たる天地の事、鑑(かがみ)照らす明神(めいしん)あり」という言葉も遺している。 家族あてには『永訣書』も綴り、この中に記された「親思ふ心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」という歌も、辞世の歌として名高い。 今一度、思い返したい。これらの歌を詠んだとき、吉田松陰はまだかぞえ年歳だったのだ。あの時代、20代・30代の青年たちが国を思い、世を思いながら、生命がけで事にあたろうとしていたのだった。こうした人々が本気で歩んでくれたからこそ、今の日本が存在している。 松陰の首を斬った人は明治17年まで生き、この時の松陰の様子を語り継いでいる。「悠々と歩み、首を斬る私たち役人たちにすら、御苦労様ですと一礼をしてくれました」。あまりに毅然とした立派な態度に思わず心を揺さぶられたそうだ。◇ たなか・あきよし 歌人・作家。1970年、静岡生まれ。第回角川短歌賞受賞。國學院大學神道文化学部和歌講座講師。TVコメンテーターも務める。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    松陰24歳 佐渡屋の長逗留から

    維新の激動で、高杉晋作や久坂玄瑞ら松陰の門下生の多くは、死んでしまった。このため、松陰の名前も一時、歴史から消えかかった。 それを発掘したのが蘇峰である。その点では、土佐の坂本龍馬と似ている。龍馬も行動家だったが、松陰の「行動」はもっぱら同志と知り合い、師を探すための旅であった。その足跡はハンパではない。 嘉永3年の九州北部一帯の旅からはじまり、わずか4年間ほどで、中国地方はもちろん、京、大坂など畿内一帯、東海道、中央道、東北と、北海道と南九州をのぞく、日本の主要地域を、ほぼ踏破している。東北では竜飛崎まで足をのばし、新潟では佐渡島にもわたっている。幕末には吉田松陰も滞在した仲村家住宅=大阪府富田林市 畿内を訪れたのは大和五條に住む儒者、森田節斎の塾で学ぶためである。ところが節斎は松陰が訪れたとき、所用で佐渡屋に行く約束をしていた。 松陰は五條から葛城山越えで富田林に入り、もっぱら佐渡屋で、節斎から厳密な文法に従った文章術の教えを受けた。萩にある家元には「節斎文律を論ずる精緻、毫厘(ごうりん)を析(ひら)き、而も大眼、全局を一視す、最も其の長ずる所なり」と感激したように書きおくっている。*  *  * 松陰は佐渡屋を「拠点」がわりにし、堺や岸和田まで足をのばした。行く先々で同じ志を持った武士たちと夜を徹して、論争した。 節斎もいくぶんかは、持てあまし気味だったらしい。なにしろ駕籠(かご)に乗った節斎の横にぴたりと伴走し、質問しつづけたほどである。 節斎が佐渡屋に長逗留したのは、同家の息子の結婚にまつわるモメ事を解決するためだったらしい。だが徳兵衛にとっては、節斎は「先生」だが、いつもぴたりとついてくる松陰はたんなる同伴者である。 徳兵衛は文化的な造詣も深く、空海の書や雪舟の画なども収集していた。寺内町でも文化サロンのような場所で、さまざまな文人が出入りしていた。 松陰について、佐渡屋の記録には、「長洲浪人吉田と申すもの」が長逗留したと記載されているだけである。 下アゴがほそくとがり、つねに激したようなつり上がった細い眼をした若者は、佐渡屋の邸内でも異彩をはなっていたはずである。酒造りの職人などは、「けったいな、やっちゃな--」とウワサしあっていたかもしれない。 大坂を離れた松陰は江戸にむかった。着いた直後、ペリーの黒船が浦賀に来航し、国交を開くことを求めた。松陰は驚愕(きょうがく)した。翌7年3月、伊豆・下田に再来航した米国艦船に乗り込もうとしたイキサツは、あまりにも有名なのではぶく。 このとき、萩から江戸に向かう途中の京で、松陰は1年ぶりに節斎とあった。松陰の渡航計画にたいし、節斎は「暴挙」だと諭した。だが松陰は無視し、のちに「先生には二度と会うことはない」という手紙を送りつけた。少々、無礼な態度である。 蘇峰は「彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり」と評した。節斎は、その革命性を見抜くことができなかったのであろう。(福嶋敏雄) 関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    「家康が恐れた男」 石田三成の誤算

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    大坂城炎上! 真田幸村最期の戦い

    紀伊・九度山で蟄居していた真田信繁は、なぜ豊臣方の誘いに応じ、大坂城へ入ったのか。ただ朽ちるだけの無為の日々を脱し、「真田の誇り」という武名を残すことに賭けたのである。戦国の世の終わりを告げる戦いに散った信繁。「大坂の陣」400年目の真実を総力特集する。

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    もうひとつの関ヶ原 官兵衛の大博打

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