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    明智光秀、謎多き出自に迫る

    本能寺の変の首謀者である明智光秀は、その前半生をどのように過ごしたのか、 いまだ謎に包まれている。これまでは美濃国土岐氏の支族、明智氏の系譜を引く 名門と考えられてきたが、実はこれを裏付ける資料どころか、父祖の記録すらな いのである。歴史学者、渡邊大門が「光秀のルーツ」をたどってみた。

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    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が本能寺の変を起こした有力な説の一つとして、足利義昭黒幕説がある。しかし、以前検討したとおり、同説は史料的な根拠が薄弱で否定されている。足利義昭黒幕説が提起された背景の一つとしては、「鞆(とも)幕府」なるものが存在し、実態として強大な勢力を誇っていたからだといわれている。果たして、それは事実なのだろうか。 天正元(1573)年、足利義昭は織田信長に反旗を翻したが敗北。その後は室町幕府再興を悲願としながらも、流浪生活を余儀なくされた。やがて、紀伊国に滞在した義昭は「天下再興」を名目として上杉謙信に「打倒信長」を呼びかけたり、各地の大名間紛争の調停に乗り出したりするなど、その存在感を強くアピールした。 義昭は紀伊国の湯河氏のような中小領主クラスをはじめ、薩摩国の有力な戦国大名・島津氏まで声をかけていた。紀伊国に下向以後も、義昭は各地の大名に檄(げき)を飛ばし、室町幕府再興の夢を追い続けたのである。足利義昭像(Wikimedia Commons) そして天正4(1576)年2月、義昭は密かに紀伊国を船で出発すると、毛利氏領国である備後国鞆津(ともつ)に到着した。広島県福山市にある鞆津は、今も中世の趣(おもむき)を残す港町であり、ちょうど岡山県との県境に位置している。 当時、備後国は毛利氏の支配下にあったが、毛利氏領国の東端に位置していた。義昭は鞆に押しかけ、毛利氏に「信長が(毛利)輝元に逆意を持っていることは疑いない」と主張し、自らを擁立して信長と戦うよう求めた。毛利氏はまだ信長との関係が決裂していなかったので、あえて安芸の本国に義昭を迎えず、鞆にとどめたのかもしれない。 義昭の鞆への渡海は、毛利氏の頭痛の種となった。義昭がいることにより、毛利氏は信長との関係悪化を恐れたはずだ。したがって、義昭の強引な毛利氏に対する申し出は、困惑を持って迎えられたに違いない。しかし、畿内とその周辺の政治的な状況は、一刻の猶予を許さなかった。 天正3(1575)年11月、但馬国山名氏の重臣・八木豊信は吉川元春に宛てて書状を送った。その内容とは、明智光秀がかねてから丹波国に侵攻していたが、やがて抵抗する荻野氏らを攻め滅ぼし、丹波の大半を掌中に収めていたという事実である。つまり、畿内周辺で信長は確実に威勢を伸張しており、さらに西へと進出するのは明らかだったのだ。 播磨国の赤松氏、龍野赤松氏、小寺氏、別所氏そして浦上氏などは、すでに上洛して信長にあいさつをし、配下に収まっていた。各地域の有力な名族といえども、信長の軍門に降るか、攻め滅ぼされるか二者択一を迫られており、それは毛利氏も例外ではなかった。 毛利氏は政治的情勢を分析した結果、全面的な信長との対決は避けられないと結論付けた。天正4(1576)年5月、ついに毛利氏は義昭の受け入れを決断したのである。毛利氏に受け入れられた義昭は、早速「帰洛(=室町幕府再興)」に向けての援助を吉川元春、平賀氏、熊谷氏などに依頼した。副将軍の意義 鞆滞在中の義昭は、毛利氏と連絡するため外交を担っていた僧侶、恵瓊(えけい)との関係を密にした。相変わらず義昭は精力的に活動し、上杉氏、北条氏らの有力大名に援助を呼び掛け、打倒信長の檄を飛ばし続けたのである。 一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。形骸化した栄典授与 そうしたことから、将軍によって毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を得た守護配下の被官人らは、ごく一部に限られ、彼等は守護と同格とみなされた。つまり、毛利氏の家臣は、義昭から最高の栄誉を与えられたことになろう。 しかし、現実には室町幕府の衰えが目立ち始めてから(16世紀初頭以降)、金銭と引き換えに毛氈鞍覆・白傘袋の使用は許可されるようになった。栄典授与の形骸化であり、インフレでもある。ただし、本来の価値を失っていたとはいえ、与えられたほうは大変に喜んだと考えられる。それが、将軍の権威だったのだ。 さらに重要なのは、将軍直属の軍事基盤である奉公衆が存在したことだ。一般的に、明応2(1493)年に起こった明応の政変で将軍権力は大きく失墜し、奉公衆は解体したと考えられている。 ところが、義昭の登場以降、奉公衆は復活しているのである。たとえば、美作国東北部には草苅氏という有力な領主が存在し、当主である景継は義昭の兄・義輝の代から太刀や馬を贈っていた。つまり、景継は幕府との関係を重視していたのである。 景継は幕府との関係を義昭の代に至っても継続しており、奉公衆の「三番衆」に加えてもらうように依頼した。その結果、足利義昭の御内書と上野信恵の副状によって、景継は三番衆に加えられた。景継は奉公衆に加えられたので、その喜びは言葉に言い尽くせないものがあったと想像される。 毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可にしても、奉公衆に加えるにしても、与えられた者にとって何か意味があったのであろうか。要するに、栄典授与などを得ることにより、他者に対して何らかの形で優位に立てるかということだ。 結論から言えば、支配領域での実効支配の強化や戦争などが有利に展開したとは考えられない。ただし、与えられた当人が喜び、権威的なものを手に入れたと感じたことが一番重要だったといえるだろう。実効性はあまり期待できなかったと考えられる。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) 義昭は信長に追放され、将軍としての実権を喪失していた。とはいえ、義昭は半ば「空名」に過ぎない栄典を諸大名に与えることにより、彼らを自らの存在基盤に組み入れる根拠としたのである。それは、実権を失った義昭にとって最後の大きな武器であり、現職の将軍であることの強みでもあった。 義昭は何とか奉公衆を組織し、配下には大名たちもが付き従った。では、義昭のもとに馳せ参じた大名には、どのような面々が揃ったのだろうか。その一員の中には、武田信景、六角義尭(よしたか)、北畠具親(ともちか)などの聞きなれない人物が存在するが、彼らはいかなる人物だったのだろうか。その経歴に触れておこう。 武田信景は若狭武田氏の出身で、父は信豊、兄は義統(よしむね)である。義統の跡を継いだ子息の元明は、越前国朝倉氏の勢力に押され、のちに支配下に収まった。朝倉氏が滅亡すると、織田信長の家臣・丹羽長秀が若狭国を支配した。「ハリボテ」のような幕府 結局、元明にはわずかな所領しか与えられず、若狭武田氏は滅びたのも同然であった。こうした事態を受けて、信景は義昭のもとに参上したといわれている。信長に対しては、良い感情を抱いていなかったはずだ。 六角義尭は近江国六角氏の流れを汲み、義秀の子であるといわれている。六角氏もまた永禄末年に織田信長の攻撃を受け、もはや往時の勢いはなかった。武田氏と同じく、信長には好感を持っていなかっただろう。義尭は義昭の配下にあって、重用されたと指摘されている。それは、かつて六角氏が歴代足利将軍を支えたからだろう。 北畠具親は伊勢国司北畠具教の弟で、当初は出家して興福寺東門院主を務めていた。ところが、天正4(1567)年に織田信長が兄・具教(とものり)を殺害すると、還俗して北畠家の復活を目指した。 南伊勢に入った具親は、翌年に北畠一族や旧臣とともに挙兵したが、具親は北畠信雄(信長の次男)の前に敗れ去り、北畠家の再興に失敗する。そのような事情から、鞆へ来て義昭につかえたのであり、やはり信長は不倶戴天の敵だった。 このように見ると、「鞆幕府」を構成する中心メンバーは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の3人であり、頼りなるのは毛利氏の家臣だった。ただ幕府を構成するには、形式を整えるため、烏合の衆のような存在も必要であった。それゆえに義昭は、彼らに毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を与え、忠誠心を植えつけようとしたのであろう。広島県福山市の景勝地「鞆の浦」 「鞆幕府」に組み込まれた諸大名(武田、六角、北畠の諸氏ら)たちは、いささか頼りない連中ではないだろうか。一つのパターンは、奉公衆の看板に魅了されて従った領主層である。残りのパターンは、「信長憎し」で集まった落ちぶれた大名連中である。 幕府が全国政権を標榜する以上、多くの諸勢力を糾合する必要があったのかもしれないが、毛利氏を除くと烏合の衆と言わざるを得ない。幕臣も京都にいた頃と比較すると、随分少なくなったと指摘されている。「鞆幕府」と称しているが、実際には単なる「寄せ集め集団」としか言いようがない。 「ハリボテ」のような「鞆幕府」であったが、一定の権力とみなされたのは事実である。特に、中小領主が積極的に加わり、「反信長」の対立軸になったことは評価しうるところである。そう認識された理由は、義昭が将軍という権威的な存在であったという一点になろう。 しかし、義昭には政治的権力が乏しく、軍事力は毛利氏頼みであった。各地の有力大名にあれだけ檄を飛ばしながらも、誰もすぐに飛んでこないのは、その証左と言えるだろう。したがって、形式的には「鞆幕府」と称しうるかもしれないが、その存在自体を過大評価すべきではないと考える。※主要参考文献 谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)