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    本能寺の変、足利義昭「黒幕説」の真偽

    信長殺しの首謀者、明智光秀が本能寺の変直後に紀州の豪族に送った書状の原本が見つかり、その記述内容に注目が集まった。「将軍の命に従い協力すべし」。これを額面通り受け止めれば、足利義昭の黒幕説を補強する歴史的発見と言えるが、この説だけはどうも腑に落ちない点が多いのも事実である。

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)