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    私が「高齢譲位」という言葉にこだわる理由

    まず特別措置法を制定して「高齢譲位」を可能とした上で、70年前に施行されてから一度も改正されていない皇室典範の問題点を総点検して、必要不可欠な条文改正を段階的に進めるほかないと考えられる。 ちなみに、昭和21(1946)年、新しく皇室典範を作成する審査委員会の幹事を務めた宮内省(のちに庁)の高尾亮一氏は、同37年、内閣の憲法調査会に提出した報告書「皇室典範の制定経過」の中で、典範第四条に天皇の終身在位を定めたけれども「予測すべからざる事由によって、退位が必要とされる事態が生じたならば、むしろ個々の場合に応ずる単行特別法を制定して、これに対処すればよい」と明言しておられる。皇室典範の第四条・第八条の改正試案 ここに高尾氏の言う「予測すべからざる事由」に相当する現実として、日本人の平均寿命80歳代という超高齢化社会を迎え、その状況下で陛下ご自身が高齢譲位を決意されたのである。だから、この事態に即応するため特措法を制定することは、実際的な合理性がある。それゆえ、私はこの案を支持し、速やかな成立を念願している。 ただ、これを「一代限り」と決めつけることはよろしくない。何しろ光格天皇(1817年)以来200年行われず、明治典範で否定され、現行典範にも規定されていない「譲位」を、陛下の御意向と現実の必要性から、あらためて可能にするのは、まさに画期的なことである。従って、この新例が実現すれば、おそらくさらに進む次代の超高齢化社会で、再び高齢譲位は不可避となった場合、今回を先例として容易に実現できるに違いない。そういう新しい道を拓くことに大きな意義がある。 とはいえ、今後もその都度あたふたと特措法で対処することは好ましくない。そこで、今回の法整備に続いて政府も国会も本格的に取り組むべきは、皇室典範の段階的改正である。あえて段階的というのは、現実にも将来にも適応困難な条文が少ないけれども、それらを一挙に解決しようとすれば、無用の混乱を生じかねないので、一つずつ解決していく方がよいと思うからである。 そのうち、最初に改正すべきは第四条と第八条である。前者は「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」となっているが、この終身在位を一つの原則として残し、もう一つ「又は皇室会議の議を経て退いた時は、皇嗣が直ちに即位する」という規定を付け加えればよい。 ここに「皇室会議の議を経て」と断るのは、今回のような高齢譲位ではなく、恣意的・強制的な退位問題なども予測すれば、その可否を厳密に審査できる機関として、現在も常設されている「皇室会議」(皇族2名と三権代表8名)で合議することが、最もふさわしいと考えられるからである。 もう一つ第八条に「皇嗣たる皇子(天皇の男子)を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫(天皇の男孫)を皇太孫という」としか規定されていない。そのため、新天皇の皇女はもちろん、皇弟も「皇嗣」として位置づけられない。そこで、これを「皇位継承の第一順位の皇族を皇嗣とし、皇太子と称する」と改正すれば、皇弟(秋篠宮)も皇甥(悠仁親王)も「皇嗣」として「皇太子」となりうる。晴れやかな皇位継承の儀式と新元号晴れやかな皇位継承の儀式と新元号「新年祝賀の儀」であいさつされる天皇陛下と皇后さま=2017年1月1日、皇居・宮殿「松の間」 (代表撮影) これから法整備が行われ諸準備が進められるとして、今上陛下の譲位と皇太子殿下の践祚(皇位に登ること)は、いつどのような形で実現されることになるのだろうか。すでにさまざまな情報が流れているけれども、これは慎重な配慮を要する。ただ、あえて希望的な試案を申せば、およそ次の通りである。 まず時期は平成31年の1月7日、昭和天皇の三十年祭を終えられた翌8日か、10日ころの宮中歌会始を終えられた後(小正月の15日)がよい。その日の昼ころ、国の儀式として、今上陛下(85歳)が、宮殿で皇太子殿下(59歳)に「剣璽(けんじ)等」を手渡され、全国民を代表して総理大臣が陛下への謝意と殿下への祝意を申し述べる。そのあと、長和殿のベランダに出られて、参集する一般国民の祝賀を受けられる、という晴れやかなセレモニーが行われることを期待したい。 一方、政府は譲位の時期が早目(半年以上前)に内定したら、「元号法」に基づき新しい元号を内定して発表する。そのうえで、正式公布は譲位・践祚の儀式直後とし、その施行は翌8日午前零時から、としたらよいのではないかと思われる。

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    「天皇の意思」に基づく譲位の実現はこんなにも難しい

    。二十三の問題で最も懸念する論点 第一の論点では、譲位自体の問題点が数多く指摘されている。明治時代に皇室典範を起草する時に、①上皇が政治を混乱させるおそれ、②譲位が強制されるおそれ、③恣意的譲位により政治に圧力がかけられるおそれ、の三点を考慮した結果、譲位を制度にするのを見送った経緯がある。政府は現在までこの見解を踏襲してきた。この論点整理でも譲位を制度化した場合の問題点は他にも多数指摘されている。しかし、このような問題をいかに克服して譲位を実行していくかを考えなくてはならないであろう。第193通常国会の開会式でお言葉を述べられる天皇陛下=1月20日、参院本会議場 こういった譲位の問題点は、第二の、将来の全ての天皇を対象とすべきであるかとの問いかけには、そのまま懸念事項となる。制度化にはその他にも問題は多く、論点整理でも計二十三もの問題が指摘されている。 その中で私が最も懸念するのは「天皇の意思に基づく退位を可能とすれば、そもそも憲法が禁止している国政に関する権能を天皇に与えたこととなるのではないか」との指摘である。 譲位を制度化する場合は「天皇の意思」を譲位の要件の一つとすることになる。その場合、国政に関する権能を有しないと規定する憲法四条一項との整合性が問題となる。 たとえ、他に皇室会議や国会の議決を経ることを要件に加えたとしても「天皇の意思」がなければ譲位は実行されないのであるから、天皇が統治に関する決定に関与することになるため、国政に関する権能を有することになる。 天皇の国事行為は憲法六条と七条に列挙される十二項目に限定される。ここに書かれていない以上、天皇が譲位の発議権を行使することは、憲法四条一項の趣旨と合致しない。まして、憲法が定める十二項目の国事行為は、天皇自らが内容を決定する項目は一つも無い。天皇以外の機関がすでに決定していることを、形式的・儀礼的に行なう行為があるだけである。 したがって、四条一項の例外として「譲位の決定」を七条に追記する憲法改正を経ない限り、「天皇の意思」が要件となる制度は、憲法との整合性が取れないといわねばならない。この点は、譲位を制度化する場合の最大の問題と言っても差し支えないであろう。このことは『正論』三月号に詳細を述べたので参照されたい。 そして、論点整理の最後の論点となるのが、今上天皇一代限りを対象とすべきかどうかの議論である。この場合、先述の譲位を制度化した場合の問題点は生じない。今上天皇一代限りを対象とした場合に生じる固有の問題があるかどうか、もしくは、その様な方法が憲法と整合性がとれるかを検討すればよいであろう。 公表された論点整理によると、長寿社会を迎えたため将来も高齢の天皇の問題が生じる点や、特措法で対処することで今後は政権による恣意的な譲位が可能になるのではないかとの懸念が示されている。 論点整理は、必ずしも全ての論点を網羅しているとは限らないが、主要な論点を列挙する目的は達していると思われる。今後、譲位の問題を考察するうえで、大いに参考になるものと思うので、熟読されたい。

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    天皇譲位「一代限り」のジレンマ

    天皇陛下の譲位をめぐる有識者会議が、論点整理の結果を公表した。「一代限り」の退位が望ましいのか、皇室典範改正を伴う恒久的な退位制度が望ましいのか。議論は分かれるが、いずれにせよ多くの国民が納得できる結論を導く必要がある。陛下が強く望まれる譲位実現の「論点」をiRONNAでも整理してみた。

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    私はあえて言う、陛下のお言葉は「失敗」だったと

    しました。多くの人々が耳を傾け、各々の立場で親身に考えてくれていることに、深く感謝しています」)。「皇室会議」が開かれる宮内庁特別会議室=1993年1月撮影 また、天皇陛下のご学友などが、不規則なかたちで陛下の意向はああだこうだと言っていたが、これも危ない。君主の意向は首相や正規の顧問会議(日本で言えば皇室会議)のメンバーなどとの頻繁で充実した対話のなかで反映されるべきである。 まして、天皇陛下のお気持ちを友人が代弁したいとしても、学友としての自分の希望として、という程度に留めるべきで、「陛下と電話で話したが、こういうご希望だと自分は理解している」などと話したのはいかがなものかと思う。  さらに、この論議を通じて非常に警戒すべき天皇制をめぐる議論が出てきたことはより深刻な問題で、特に一部の人々の動きには憲政と天皇制の危機を感じるのだ。 冒頭でもふれたが、いまの天皇陛下は尊敬できるから支持するという論理は将来の天皇制廃止をもくろむ人たちの陰謀だ。それは、キャラクターや考え方が気に入らなかったり、能力に問題があったら、憲法に定める国家の象徴として認めないという反憲法思想になるからだ。 また、天皇と内閣を対立的にみて、陛下を自分の陣営に引き込んで政治を動かすような試みもある。「陛下の希望通りに」という人たちの中には、陛下は憲法改正を望まれていないとか、安保法制を悲しまれているはずとか、訪韓して謝罪されたがっているとか、皇位継承についても陛下のご希望をお聞きしてその通りにしろなどとエスカレートしてしまっている。 とりわけ訪韓させて謝罪させようというのが彼らの究極の目標ではないだろうか。言うまでもなく、外交方針について天皇が独自の考え方を示すことは憲法上ありえない(昭和天皇は旧憲法のもとで果たされた役割について見解を明らかにしないと済まされない場合があったので少し違うが、政治的な役割を果たされたことがない今上陛下やこれからの天皇についてはそういう必要はない)。論点整理で何も触れられていない外国との関係 イギリスの女王は、日本の天皇陛下よりは実質的な政治的権能が残っているのだが、それでも、スコットランド独立問題やEU離脱問題で、発言がどちらかの肩を持つようにとれる部分があると厳しい批判にさらされ、王制の存廃まで語られた。スペインでも同様だ。 退位問題について言えば、皇室典範を本格改正せずに退位を認めることは本来筋違いで、ことを急がず、とりあえずは、公務の大幅な削減や摂政制度で乗り切り、議論の収斂を待ってから譲位でも良いと思う。 皇位継承まで含む改革とか、将来の天皇の譲位にも普遍的に適用可能なルールを決めるのが1年や2年の期限をもってされるべきではない。 しかし、陛下が退位の希望を強く表明され、国民も少し熱は冷めてきたとはいえ、陛下のご希望を早くかなえてあげたいというムードが強い以上は、一代限りでという結論は現実論として妥当なのだろう。 しかし、今回の論点とりまとめを見ると、公務削減や摂政とした場合にあって、いちばん課題が多いのは外国との関係で、特に、国家元首の不在ということが日本の外交力を著しく弱めないかというのが最大の問題なのだが、そのあたりは論点整理で何も触れられていない。 また、女帝・女系の問題を横に置いたとしても、今上陛下から皇太子殿下への継承より、はるかに複雑なのは、年齢差5歳の皇太子殿下から秋篠宮殿下、年齢差39歳の悠仁親王というバトンタッチが予定されることだ。 85歳の皇太子殿下から80歳の秋篠宮殿下に継承し、その5年後に悠仁親王に譲位というのが良いとも思えない。円滑にしようと思えば、皇太子殿下から悠仁親王への直接継承か、皇太子殿下の早めの退位で秋篠宮殿下が10年くらいは天皇でおられる期間を確保するか、どちらかがよいと思うが、そうしたことも視野に入れた制度設計が必要なはずだ(ベルギー王室が同様の問題に直面した)。 また今回は、退位されたあとの今上陛下の称号、どこにお住まいになるか、どういう活動をされるのか、財政的措置をどうするか、皇位継承の第一順位となるが、現在の制度では皇太子になれない秋篠宮家をどう待遇するかにも論点整理はふれていない。新年の一般参賀で、一斉に入門する人たち=1月2日、皇居(桐原正道撮影) 東京五輪の時にどういう体制で役割分担するのか、東京五輪という世紀のイベントと即位礼の関係をどうするかなどという大事な問題にも、論点整理はなにも触れていない。 いま検討されている日程では、平成30年の後半に譲位、その翌年正月に改元、その秋に即位礼とかいうことだろうが、もう一年遅らして、即位礼を東京五輪の前年にやるよりも、翌年にした方が賢明だ。 とくに、雅子妃殿下の体調や和装が苦手といわれることを考えると、即位礼を五輪前年にするのが賢明かということもあるし、国民の関心が五輪に集まっているときでは十分な祝賀ムードが確保できるかも疑問だし、経済的にも五輪翌年の需要落ち込みが心配されるときの方が良い(日本の皇室が経済的側面に配慮するのは民の竈を心配された仁徳天皇以来の伝統だ)。  東京五輪は、現在の両陛下、東宮一家、秋篠宮一家が役割分担しながら乗り切るのが賢明だという気がするが、心配性すぎるだろうか。

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    2019年の天皇陛下譲位で悲願の韓国ご訪問もあり得るか

    すが、種々の大会へのご臨席や地方視察といった一般的な公務を担われることはほとんどなくなるでしょう」(皇室ジャーナリスト)新潟県長岡市にある障害者支援施設で利用者の作業活動を視察される天皇、皇后両陛下=平成26年6月 宮内庁関係者が明かす。「大きな動きがあるとすれば、悲願のひとつである韓国訪問。天皇としてのお立場では実現が難しい面もありましたが、退位後なら、というお考えもあるのではないでしょうか」 それでは、退位後のお住まいはどうなるのだろうか。「現陛下が退位後に皇居・大宮御所に移られ、皇太子ご一家が御所に、秋篠宮ご一家が赤坂御用地の東宮御所で暮らされるのがよいというご意向をお持ちだと聞きます」(宮内庁関係者) だが、先代の陛下と「徳仁天皇」が同じ敷地内にお住まいになることが、新たな天皇の精神的なご負担になってしまうのではないかという声もあがる。「機を見て京都御所に引っ越されるか、あるいは那須、葉山、須崎の3つの御用邸に移り住まれる案も検討されているといいます。新たな天皇と皇后への配慮に心を砕かれているのでしょう」(前出・宮内庁関係者) 一方、「雅子皇后」に対して、「果たして重責に耐えられるのか」と不安視する声はやまない。ここ数年はお出ましの機会も増え快復傾向にあるが、依然療養中の身でいらっしゃることに変わりはなく、加えて宮中祭祀といった儀式への欠席は続いている。 だが、皇后となることでの雅子さまの「奮起」に期待する声も多い。「今春、皇太子ご夫妻は外交関係樹立60周年の記念にマレーシアに足を運ばれる予定で調整が進められています。雅子さまにとっては初のアジアの国への訪問。 また、これまで雅子さまの海外訪問は各国王室の祝賀行事が主で、シンプルな『皇室外交』は大変珍しいことです。皇太子さまはプロポーズの際、雅子さまに“皇室外交をしませんか?”と声をかけられたといいます。元来活発な性格の雅子さまにとって、マレーシア訪問は自信の回復につながる。皇后となられたら、皇室外交のトップランナーとして奔走されるお姿もゆうに想像できます」(前出・皇室ジャーナリスト) それでは、次代の到来は私たちの生活にどう影響するのだろう。「陛下の『お気持ち』表明後、印刷業の会社の株価が上がったんです」 そう興味深い話をしてくれたのはある金融関係者だ。「元号が変われば、小切手や手形などの金券類、官公庁や企業の膨大な量の印刷物や伝票類の需要が出る。実は、昭和天皇が崩御されたときにも、同様に印刷関連株が上昇したそうです」 記念切手やさまざまな祝賀グッズも数多く店頭に並び、景気が上向くことが予想される。一方、今から元号が変わることに戦々恐々としているのが手帳やカレンダーを制作している会社だ。「西暦表記の商品なら問題ありませんが、元号を明記するものだと、もし新元号の発表がずれ込んだりしたときに、開発スケジュールがタイトになりそうで心配です」(関係者) 日常生活でいえば、「徳仁天皇」の誕生日である2月23日が天皇誕生日になる。現陛下の誕生日である12月23日は、新たに国民の祝日として名前をかえることになるだろう。「国民的な慶事である即位に合わせて、減刑や刑執行の免除、違反によって取り消された運転免許資格を回復させる復権といった『恩赦(おんしゃ)』が行われることも考えられます。現天皇の即位のときには約250万人が恩赦の対象となりました」(皇室記者)関連記事■ 訪英終えた天皇皇后両陛下のハードな日程に体調心配する声も■ 天皇皇后両陛下が私的旅行の訪問先に青森県を選ばれた理由は■ お年玉ない皇室 故高円宮殿下は同級生羨ましかったと語った■ 「両陛下は公務を減らすとの発想ない」と皇室ジャーナリスト■ 東宮家と秋篠宮家両夫妻 確執報道渦中に笑顔で公の場に登場

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    天皇の「譲位」を決める前に知っておくべき皇室の歴史

    理があった。私は妥当と思う。ただ私の賛成する理由は、陛下のご健康や慣習、制度的な問題だけでなく日本と皇室の現状に強く危機感を抱いているからである。そこでまず皇太子殿下に即位していただき新しい天皇を確保したい。国民、も安心する。従ってこの問題では天皇はご退位ではなくシームレスの継承を意味するご譲位でなければならない。 この件に対する外国の反応を見ると昨年8月陛下のビデオ放送に対して早速、中共からこれで日本国内は大混乱に陥り安倍首相は憲法改正は出来まい、と嘲笑する報道があった。また外国と関係の深い野党勢力は退位という言葉にこだわり法制化を要求している。これは将来の天皇の廃絶を狙っている可能性があるので厳重に警戒しなければならない。 一方、国内では肝心の次代を受け継ぐ若い日本人が戦後教育の欠陥で大切な皇室の意義や民族の歴史を知らされていない。このため敵の皇室攻撃を受けても危機感が乏しく正しく反撃できない。これは我々の解決すべき最大の心配であり課題である。そこで、以下、天皇と国民の歴史、民族の生態としての天皇の意義、天皇を敵視するものについて考察し、最後に我々のとるべきアクションを提案した。御参考になれば幸いである。83歳の誕生日を祝う一般参賀に訪れた人たちにあいさつされる天皇陛下=2016年12月 天皇は米軍の強要した占領憲法では日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基くとされている。しかし、天皇は政治的な権威ではなく伝統的権威であり、民族宗教である神道の最高神、天照大神の直系の子孫である。現人神と言われる由縁だ。125代ということは、若狭和朋氏が指摘するように2の125乗という巨大な数に日本人が収斂することであり、日本の国は古来皇室に何らかの血縁を持つ国民が天皇陛下を頂いて作っている家族国家なのだ。 我が国の二千年以上の歴史には神話の天孫降臨から始まる天皇と国民の多くの美しい物語がある。4世紀には仁徳天皇が「高き屋に上りて見れば煙立つ民の竈は賑わいにけり」という有名な御製を詠まれた。国民の生活を心配される天皇のお気持ちがよく表れている。 8世紀聖武天皇の時代には大伴家持が「すめらぎ(天皇の和語)の御代栄えんと東なる陸奥山(みちのくやま)に黄金花咲く」という歌を詠んだ。大仏建立の大事業に今の宮城県涌谷町から黄金が献上されたことを祝賀したものである。また大伴家持がこの時天皇への忠誠を詠った長歌の一節「海ゆかば」は1200年後の昭和12年に信時潔の作曲で愛国歌となり有名だ。13世紀の蒙古襲来では、亀山上皇が自らの生命を身替わりに日本国の護持を神々に祈願し、無事日本国は守られた。 明治時代欧米列強の迫る中、孤立無援の日本が独立を維持できたのは明治天皇のご指導のおかげである。国民は心を一つにしてロシアの侵略を撃退し日本の国を守り発展させた。日本海海戦の朝、旗艦三笠の砲塔から艦長の伊地知彦次郎大佐は乗組員に訓示を行う。「諸士の命は本日ただ今本官がもらい受けた。本官も又諸士と命を共にすることはもちろんである。今からはるかに聖寿の無窮を祈り合わせて帝国の隆盛を祝福するために、諸士と共に万歳を三唱したい」これを聞いた当時20才の水兵、河合太郎は今こそ御国に生命を捧げる時が来たのだ、とその若き日の感激を67年後に記している。 昭和時代には大東亜戦争という今日につながる国難があった。昭和天皇はただ一人戦時、戦後の非常時の日本を指導された。アジア全域に展開していた日本軍が戦後混乱せず無事復員したのは天皇陛下への忠誠心と御稜威の偉大さである。終戦命令を受領したビルマ奥地の日本軍部隊は集結し大事に守ってきた軍旗を焼却する。ガソリンの青い煙がチーク林に流れてゆく。武器を置いた兵士たちは「海ゆかば」を歌い激しく慟哭した。 戦後のラバウルでは豪州軍による軍事裁判で多くの日本人が無実で処刑された。その一人坂本忠次郎中尉(埼玉出身)は「同胞(はらから)の犠牲なればスメラギの弥栄祈り我は散りゆく」と辞世を残している。軍事裁判で日本人の救出に懸命に努めた山崎義教法務大佐は「多くの犠牲者の処刑直前の天皇陛下万歳の叫びは、天皇への最後のお別れであり祈りであり、そして歴史的日本に回帰する自らの生命の最後の光彩への賛歌であった」と記している。天皇は海外抑留者の家族を思い「風寒き霜夜の月を見てぞ思う帰らぬ人のいかにあるかと」という御製を詠まれた。天皇継承問題だけではない日本の課題 戦後、蒋介石は皇族全員を支那に引き渡すように米国に求めた。日本と皇室の大変な危機であった。しかし、マッカーサーは拒否した。ただこれは米国の占領統治に利用するためであり、占領軍の狙いは日本の背骨である皇室を衰退させることだった。こうした戦後の混乱時に国民の心のよりどころとなったのは昭和天皇である。昭和天皇は敗戦の翌年「降り積もる深雪に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき、人もかくあれ」という御製を詠まれ国民に臥薪嘗胆(忍耐)を指示された。戦争で家族を失い家を焼かれうちひしがれた国民はどんなにか心強く思ったことか。マッカーサー元帥 昭和天皇は戦後の混乱の中で全国を巡幸され困窮する国民を慰問された。GHQの狙いは天皇の神格化の妨害と君民の離間であったが、国民は逆に天皇の下に結集し思惑は外れた。天皇は西欧の君主とは違う独特の民族的国民的存在である事が分かる。会場にいざ天皇陛下をお迎えすると、共産党員までがおもわず天皇陛下万歳と叫んだという。広島では七万人の国民がお迎えした。昭和天皇が原爆孤児の頭を抱きかかえるようにして涙されると会場は静まり返りやがてすすり泣きの声がひろがった。天皇は「ああ広島、平和の鐘も鳴り始め立ちなほる見えてうれしかりけり」と詠まれた。天皇は日本人の父である。 1949年国共内戦で中共が勝利し米国は支那大陸から追放された。米国の長年の極東政策は取らぬ狸の皮算用におわり日本占領は無意味になった。そこで米政府は莫大な国防代行費を節約するために日本を独立させて自衛させることにした。占領軍総司令官のマッカーサーは更迭されたが、その際彼は天皇陛下に挨拶もせずに逃げるように日本から去った。これは日本の正統な権威の回復を見て日本の主人気取りでいた自分の錯覚に気づき恥ずかしく思ったからであろう。 1951年、サンフランシスコ講和条約で日本は再び独立を取り戻した。昭和天皇は大変喜ばれ「風さゆるみ冬は過ぎて待ちに待ちし八重桜咲く春となりけり」、「国の春といまこそはなれ霜凍る冬に耐えこし民の力に」という御製を詠まれた。 しかし、その後の日本政府は占領憲法をはじめとする占領反日政策を改めず今日に到る。そのため民族の生態と占領諸制度との乖離が拡大し今回の天皇継承の問題、国防、人口減、老人介護、相続紛争など多くの重大問題が噴出しているのである。 今上陛下は、昭和64年(西暦1989年)昭和天皇が崩御されると、直ちに皇位を継承され矛盾に満ちた占領憲法の下で、全力で国家国民の安泰を祈られ、ご公務を務めてこられた。誠にありがたいことであるが、80才を越えたご高齢であり大病を経験されている。このため国民の間に、我々は天皇陛下に甘え過ぎているのではないか、という気づきと反省が生まれている。我々は状況を理解しておらず猛省を要する。 天皇の意義を日本民族の生態から分析してみよう。生物に生態があるように民族にも固有の生態がある。これを国態と呼ぶことにする。国態は言語から価値観、慣習まで広範である。日本人の国態を生存の2大機能である連続性と連帯性、さらに共同体の公と成員個人の私に分けると、公的な連続性が天皇崇敬、私的な連続性が先祖崇拝、公的な連帯性が国民国防、私的な連帯性が家制度、共通の価値観が教育勅語となる。天皇は国態の柱 先祖崇拝とは子孫の祀りにより我々が永遠の生命を持つことである。家制度は両親の介護義務、家督・資産相続そして結婚の奨励である。現代の老人問題と少子化の解決だ。教育勅語はキリスト教の十戒やイスラムのコラーンにあたる日本民族の不変の道徳である。これらの国態基本政策は独立しているのではなく相互に有機的に関連し機能している。平成24年に東京・上野の国立博物館の保管庫で見つかった教育勅語原本(右)と謄本 国態は日本民族が疫病天災など様々な苦難に耐えて長い間に形成してきた生存のシステムであり、一時的に作られたものではない。戦前の日本はこれらの基本政策を守って繁栄し人口は明治初年に比べて倍増した。国民の道徳は教育勅語により人類史上最高のレベルに達した。これはいまだに日本では遺失物が出てくることで分かる。簡単なことのようだがこれは世界の奇跡である。 また、高齢者は教育勅語を暗唱できる。これは戦前の道徳教育がいかに優れていたかを示している。戦後の日本の廃墟からの復興は世界から奇跡と見られたがこれは戦前教育を受けた世代の日本人が達成した成果である。このように日本民族は危機に当たっての実証済みの生存の基本政策をすでに持っている。これは先人のおかげであり実に有難く素晴らしいことである。 天皇は国態の柱であり、日本民族共同体の宗教、政治、文化などあらゆる分野の正統性を表す至高存在である。このため天皇をいただく日本人は謙虚である。この落ち着きと謙虚さが世界の人々から日本人が貴族的とみられる理由である。知人の日本人の若い女性は、2歳から大学卒業まで米国で育った人であるが、彼女は初めて参賀に伺い天皇陛下を仰ぎ見た時自分でも分からず涙が溢れて止まらなかったという。これは本来の自分の民族のルーツに目覚めたからだろう。同時に彼女は、天皇を失った時日本民族は滅びると感じたという。日本人なら一生に一度はぜひ参賀に伺い天皇陛下万歳を叫んで欲しい。すっきりするはずだ。 このように天皇は日本人の主柱なので日本を滅ぼそうとする敵は天皇崇敬の破壊を狙う。反天皇のテロ、政治、思想、宗教、プロパガンダについて知っておきたい。政治的なテロでは1923年の虎ノ門事件がある。これは摂政時代の皇太子殿下(後の昭和天皇)の御車が虎ノ門交差点を通過中に難波大助が仕込み銃を使って襲撃した暗殺未遂事件だ。犯人の難波大助は山口の名家の出身であったが共産主義者であったという。テロを防ぐ最大の政策は廃止された皇族を戻し皇位継承資格者を増やすことである。 占領軍は日本を滅ぼすため独裁権力の威嚇のもとに日本人の国態基本政策を破壊した。このため日本人は政治や社会が混乱し苦しんでいる。特に占領軍は皇族を減らし天皇崇敬の立ち枯れを狙った。その実害がついに現れてきた。今年の参賀ではお出ましになる皇族の数が減っているのを見て国民は不安を感じ始めている。 米国の占領政策を批判した「アメリカの鏡日本」の著者ヘレン・ミアーズ女史は、戦前の日本を知る日本の専門家である。彼女はGHQ内で日本の社会や文化の破壊に狂奔する若い同僚たちに対して、何千万もの日本人の生活に影響する伝統的な諸制度を簡単に変えて良いのかと疑問を呈すると、戦争に勝ったのだから何をしても良いのだという。そして彼等は日本人の苦しみをよそに数年で帰国してしまい、占領破壊政策の責任を何もとらない。彼女の著作は米国で刊行されたが、日本では有害本としてマッカーサーに発禁にされた。左翼の天皇を含めた人間平等論は誤り また、あるGHQ要員は占領の終了で離日するに当たり、日本人は長い歴史を持つ民族だから占領が終われば、我々に破壊された諸制度を回復して行くだろう、と述べたという。占領政策は民主化、反封建化の美名を借りているが本当は日本の破壊であったことを確認したい。蜂や蟻は敵に襲われても生き残った個体はもとの生態を取りもどす。他に生きる道はないからだ。日本人も同じである。 天皇に反対する政治思想としては左翼の人間平等論がある。しかしこれは誤りだ。というのは平等を実現すれば社会は自由のない地獄となる。現実の社会は役割分担で出来ている。平等は人間の心理的な妬みからの解放妄想なのだろう。共産主義の指導者スターリンは社会主義と平等は何ら関係が無いと言明している。民主主義については誤解がある。独の政治学者であるカール・シュミットは西洋の民主主義を英、仏型に分けている。英国型は選挙と議会制度による共同体の意志決定の方法であり国王制度と矛盾しない。日本は戦前すでに普通選挙法の下で議会制度を採用しており黒人差別の米国よりも進んだ民主主義国家だった。スターリン フランス式の民主主義は左翼のリベラル主義だ。これは18世紀にフランスのルソーがキリスト教の死者の天国をイメージして主張した思想である。平等、人権、人民主権を主張するが皆存在しない概念だから実行すれば必ず失敗する。人権には国籍と義務が必要であり、人民主権もありえない空論で結局は主権の代表者として独裁者の正当化に利用されてしまう。リベラル主義は国民を分裂させ戦わせるだけの有害無益の詐欺思想であるから左翼の反天皇煽動に騙されてはならない。 キリスト教は天皇を認めない。それはキリスト教に他の宗教を認めない独善性があるからだ。戦国時代の切支丹も神社仏閣を敵視し破壊した。戦後日本を支配した米国もキリスト教国家なので神道指令を出して日本の民族宗教である神道を迫害した。そして天皇に人間宣言を要求したがこれは日本の神をキリスト教のゴッドと混同した実に野蛮で無知な行為であった。天皇の権威は固有の伝統によるものであり政治的な強制によるものではない。天皇は現人神であり明治憲法にあるように神聖にして不可侵の存在なのだ。 さらに米占領軍は未来の天皇の乗っ取りを謀った。すなわち皇太子殿下をキリスト教に改宗させるため英語教師として米国キリスト教の原理主義者であるバイニング夫人を招いたのである。しかしこれは当然成功しなかった。なおキリスト教が日本に根付かないのは先祖崇拝を禁止しているからである。このためGHQは家制度を封建的というレッテルを貼って破壊し先祖崇拝を衰退させた。このため今日本は墓や位牌が失われ社会的な大問題になっている。大変危険な状況である。 故倉前盛通教授は、次のように日本人に警告している。「世界で民族宗教を頂くのは日本人、ユダヤ人、(インド人)だけであろう。他はキリスト教やイスラム教に征服され固有の宗教を失ってしまった。このうちユダヤ人はよくユダヤ教を守っているが、民族の指導者モーゼの子孫を失っている。しかし日本民族は古代の指導者を今に守り、またその崇敬が現実に生きている。これは世界の奇跡である。天皇は日本民族の生命の象徴 しかし、民族宗教を失った諸民族は、民族宗教を護持する民族を妬み滅ぼそうとする。それが神道やユダヤ教を敵視するキリスト教やイスラム教である。だから日本人はよほど警戒心を持たないと天皇崇敬を滅ぼされてしまう」昨今の内外の動きに我々は思い当るところがあるのではないか。神道は異教に寛大であるが、外国の宗教は神道に寛大ではない。最近でもイスラム教徒が浅草の仏像を破壊したニュースが報じられている。 米国は占領統治に当たり「米国民主主義」を掲げたが正確な定義はない。米国は欧州のキリスト教の狂信的な過激派がカトリック勢力に負けて移住し、原住民を滅ぼして作った国である。その特殊な宗教風土に18世紀にフランス革命の思想が加わり独特の政治風土を作っている。フランスのトクビルはその特徴を平等主義としている。しかしこれはリンカーン大統領が「人間は平等だ。しかし黒人を除く」という白人の平等主義を嘆いたように偽善である。したがって米国民主主義とは今回の大統領選挙の混乱で見られたように偽善的で独善的なリベラル思想なのだ。米国民主主義を過大評価してはならない。 戦後占領軍が不敬罪を廃止したので、皇室を誹謗中傷するデマが流されている。特に皇太子妃殿下を執拗に狙う。これは民間出身で皇室の一番弱い環であるからだ。敵の本当の狙いは天皇陛下である。これは実質テロ行為だから日本政府はしっかりと敵の邪悪な意図を見破り皇室の権威をお守りする必要がある。このためには不敬罪を再開しなければならない。タイ国では国家と国王への尊厳を守るため違反者を厳しく取り締まっている。尊いものは具体的に守らなければならない。豚に真珠を汚させてはならないのだ。いまだに占領統治の反日政策を引きずる誤った時代を終わらせなければならない。 天皇陛下は日本人にとり空気のような存在である。通常その重要性に気がつかないが、失われればたちまち国民は窒息する。天皇は憲法では政治的な統合の象徴とされているが、それよりも日本民族の生命の象徴なのだ。全日本空手道選手権大会を観戦される天皇陛下=2016年12月 皇族の回復には占領憲法の改正が必要だ。しかし国民投票は時間がかかり実質不可能である。そこで私は占領憲法の前提である世界平和が実現するまでは占領憲法を棚上げすることを提案する。そして皇室護持や再軍備を含めた民族の生存に必要な条項を定めれば良いと思う。棚上げだから憲法改正も国民投票も不要である。マキャベッリは「政治は結果で評価される。結果が良ければ手続きは正当化されてきた」と記している。あとは指導者の決断力だけだ。 今後の天皇陛下のご譲位という大事業にあたり、我々は大変御苦労された今上陛下に深く感謝するとともに、新しく即位される皇太子殿下を全力で支え、一致団結して日本の新しい時代を開いて行こうではないか。

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    小林よしのり×八木秀次 天皇退位賛成派と反対派が激突

    皇の退位が認められなかったのは、まず政治利用の問題(*)があるからです。その弊害が大きいので、明治に皇室典範を整備する際、当事者の意思が介在しない形で制度設計を行った。誰かの意思で退位や即位ができると、皇位が安定しない。【*過去、上皇や法皇が政治的影響力を行使したり、時の権力者が天皇を退位させたりする例があった。明治の皇室典範制定時の議論で、伊藤博文は代表例として南北朝の争乱を挙げた】小林:昔は権力が天皇を利用することがあり得たけど、今の天皇は権力と結びついていない。権力者は選挙で決まるんだから、天皇の権威には左右されないでしょ。 わしは承詔必謹の立場だから、天皇の願いを100パーセント叶えるべきだと思う。天皇の立場を経験した人間は他にいないのだから、そのあり方について一番わかっているのは天皇陛下。その陛下が「伝統とは何か」「象徴天皇はどうあるべきか」を考えられた結果が8月8日のお言葉ですよ。 譲位によって皇位が不安定になるというけど、これは逆でしょう。今の不安定要因は、高齢化。もし天皇が認知症になってしまった場合、摂政を置くと、20年も30年も天皇が世の中に姿を見せないことになるかもしれない。つまり、20歳や30歳になるまで天皇を知らずに過ごす国民が出てくるわけ。そのほうが皇位の安定性が失われるよ。八木:日本は伝統的に、天皇個人の意思で国が動くシステムは採っていない。それが近代になって立憲君主制という形になった。ところが8月8日のお言葉は個人の意思を述べられ、そこで具体的な制度変更を希望されました。これは憲法に抵触するので、政府は動けない。天皇陛下がテーマ設定をされたこと自体が、問題解決を困難にしている面があるわけです。水面下でご意向を示されて、政府が独自の提案理由で立法する形ならば良かったのだが。小林:わしもそれを政府がやるべきだったと思う。でも内々に伝えてきたのを政府が無視したんだから、国民の前で思いを述べられる以外にやりようがない。政府が動かないから、ああいう手段を採らざるを得なかったんだよ。 そもそも、天皇陛下が自由意思で発言するのはおかしくも何ともない。八木:いや、それはダメでしょう。小林:なんで? 発言自体は問題ないでしょ。権力側がそれを聞くかどうかを決めればいいんだから。八木:天皇が国民統合の象徴であるためには、国民の間で賛否のある論争の渦中に立ってはいけない。賛成派と反対派に二分されてしまう。小林:もちろん、原発推進か反対かみたいな議論で個人的な意見を言っちゃダメ。でも天皇制をいかに維持するかという問題は、公的な発言でしょ。自分の経験に基づいて、国民に議論を喚起するために話された。それを受けた国民の90%が退位を希望しているのだから、それに見合う法律を作ることに何の問題もない。退位が実現しても留意すべき権威の二分化八木:陛下のお気持ちは強いし、世論調査でも高い比率で支持されているので、政治的には退位を実現せざるを得ないと政府も考えている。ただ、法的な理屈が立たない。皇室典範改正であれ、一代限りの特別措置法であれ、政府としてそれを国会に提案する理由がどこにもない。天皇陛下のお言葉を受けてそのまま動けば、陛下が大事にされている憲法を否定してしまう。小林:天皇陛下のお言葉ではなく、国民がそれを望んでいることを根拠にすればいいだけの話でしょ。八木:国民の意思を把握するために、政府独自の世論調査も検討されている。小林:別に政府がやんなくたって、テレビや新聞がさんざんやってんじゃない。八木:しかし世論調査を根拠に法律を作ったことは過去に一度もない。だから政府は頭を抱えている。法律の最初に提示すべき「目的」を書くことができないんです。他の部分はほとんどできあがっているが、それが書けないと法律にならない。小林:「皇位の安定性を維持するために」と書けば済むことじゃない。八木:それは小林さんの意見であって、政府には「むしろ皇位の安定性を脅かす」という見方があるわけですから。そもそも憲法では、天皇が高齢になった場合の措置として「国事行為の臨時代行」と「摂政の設置」を規定している。政府としては、憲法のこの規定を採用せずに新たな法律を作る理由がありません。小林:摂政はダメ。天皇が精神や身体に重大な疾患を抱えているなど、何もできない場合の制度なんだから。八木:私自身、摂政には反対で、「国事行為の臨時代行」が落とし所だと考えている。現状をしのぐには、それが一番簡単な制度変更でしょう。昭和天皇の最晩年は、この制度でしのいだ。小林:短期間なら「臨時代行」でしのげるだろうけど、皇太子殿下が臨時代行の状態を何十年も続けたら、それこそ権威が二分化するよ。八木:それは退位でも同じでしょう。小林:いや、退位して太上天皇になった場合、国事行為はやらないから。八木:しかし今の天皇が退位した場合、おそらく完全に引退はなさらず、公的行為は続けられると思う。あちこちにお出かけになって国民と接するだろうし、外国訪問もするかもしれません。退位が実現しても、それによる権威の二分化には気をつけなければいけない。小林:それは今の天皇陛下ご自身が細心の注意を払いますよ。太上天皇になられたら、今の皇后陛下が天皇陛下に頭を下げるのと同じように、新しい天皇陛下に頭を下げて敬意を示すでしょう。権威は断然そちらにあるわけだから、国内外から「来てほしい」という要望も、太上天皇より天皇陛下に集中すると思うね。だからこそ、臨時代行ではダメ。外国訪問でも、臨時代行では相手の王族などと対等のパートナーにならないから失礼になる。【PROFILE】こばやし・よしのり/1953年生まれ。『おぼっちゃまくん』でギャグ漫画に新風を巻き起こす。現在、本誌にて『大東亜論 自由民権篇』を連載中。今年2月下旬に刊行予定の『天皇論 平成29年』を鋭意執筆中。【PROFILE】やぎ・ひでつぐ/1962年生まれ。早稲田大学法学部・同大学大学院法学研究科修士課程を経て、同大学大学院政治学研究科博士課程を中退。専門は憲法学。昨年11月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で八木氏にヒアリングが行われた。※構成/岡田仁志(フリーライター)関連記事■ 天皇陛下お手ずから行う「お田植えとお稲刈り」 その数200株■ 村上正邦氏「安倍首相はリオ五輪でワケの分からん恰好した」■ 皇太子殿下 天皇陛下の宮中祭祀取組みを引き継ぐ決意との声■ 天皇陛下 元日の祝賀の儀だけでお祝いを受ける人数は686人■ 「皇太子さまご退位論」への賛否 女性1000人アンケート実施

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    象徴天皇の意味と皇統の危機

    。天皇の地位は、主権者である国民の総意に基づく。陛下のお気持ちを受け止めつつ、改めて象徴天皇の意味と皇室の未来を考えたい。

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    皇室の未来と「象徴」の地位を縛りかねない陛下のお言葉

    セージがテレビの画面に映し出されると、街では若者たちが足を止めて陛下の言葉に耳を傾けた。普段は天皇や皇室について強く意識することもない人たちだろう。一様に不安そうな顔をしているようだった。世論調査では8割、9割の人々が陛下の「生前退位」に賛成している。私には、これらの数字もご高齢の陛下への共感・同情とともに、自らの存在根拠が揺らいでいる人々の不安の表れのようにも思えた。自ずと昭和天皇がご病気で明日をも知れない状態であった頃、連日、皇居前に何万人という人たちが集まり、ご快癒を祈る記帳した姿を思い浮かべた。ビデオメッセージでお気持ちを表明する天皇陛下の映像を見る人たち=8月8日午後、東京・新宿 天皇陛下が退位・譲位へのご意向を示されたことは、天皇の位が揺らいでいることを意味している。当事者である陛下が退位・譲位の意向を示されているが、そのままご意志が実現できるかは明らかでない。皇太子殿下が皇位を継承されることは明確であるものの、それまでの間、天皇の位が不安定になっている。人々の不安な気持ちは、国家の基軸ともいうべき天皇の存在が揺らぎ、不安定になっていることの反映でもある。 今回の陛下のご意向は、現在の皇室制度が前提としている終身在位制の否定の表明である。あるいは、いったん天皇の地位に就いたならば、崩御までその地位にあらねばならないという終身在位制と、陛下がお考えになり、追求されてきた「象徴」としての務めとが、ご高齢になるにしたがって「務め」が十分にできなくなってくることから、矛盾を来し始めているとのご指摘でもある。そのことは、「既に80を越え、(中略)次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるではないかと案じています」というお言葉によく表現されている。「象徴」としての務めを全身全霊で果たすことができない天皇は「天皇」とは言えず、そうであるなら自らは退くべきでないかとのご表明でもある。陛下がどれほどの強い責任感で「象徴」としての務めを果たして来られたかを示すものでもあり、国民の一人として限りなくありがたい。 憲法や皇室典範などが示す現在の皇室制度はご生前での退位・譲位を想定していない。想定していないどころか、天皇の生前での退位・譲位を積極的に排除している。現在の皇室制度は明治時代の大日本帝国憲法や旧皇室典範を基本的に継承している。憲法や皇室典範の起草を主導した伊藤博文らは、皇室の歴史を入念に調査した上で、退位・譲位の慣行は皇室本来の伝統ではなく、仏教の影響によるものであり、退位・譲位を許せば、天皇の地位が不安定になり、国家が分裂する。その代表例として南北朝の混乱を挙げて、そのような混乱が生じないように退位・譲位を認めない終身在位制を確立した。事実上、終身在位制を否定された陛下のご意向 この考えは戦後の現在の憲法や皇室典範にも基本的に継承され、政府はこれまでにも国会で繰り返し、退位・譲位が認められない理由を説明してきた。そこで挙げられてきた理由は、(1)退位を認めると、歴史上みられた上皇や法皇といった存在が出て弊害を生ずる恐れがある。(2)天皇の自由意思に基づかない退位の強制があり得る可能性がある。(3)天皇が恣意的に退位できることになると皇位の安定性を脅かす――。そして、退位・譲位ではなく、摂政や国事行為の臨時代行の制度で十分対処できるとしてきた(平成4年4月7日、参議院内閣委員会、宮尾盤・宮内庁次長)。 今回の陛下のご意向は事実上、この明治以来確立された終身在位制を否定された。摂政の制度があるから退位・譲位は必要でないとするこれまでの政府見解を明確に否定された。すなわち現在の憲法や皇室典範が構想している皇室の制度をいったんゼロベースに戻して、ご生前での退位・譲位を可能とする新たな制度設計を求められたということだ。副大臣の認証式を終えられた天皇陛下。右は安倍首相=8月5日、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 陛下が自ら「重い務め」とされる「象徴」としての務めに取り組まれるご姿勢は大変尊く、ご負担の軽減をして差し上げたいと思うのは政府も国民の大多数も共通した思いだろう。しかし、むしろ積極的に排除している退位・譲位を可能とする制度を新たに構築するとなると気の遠くなるほど多くの検討と混乱を生じさせない精緻な制度設計が必要となる。 選択肢は4つだろう。①ご生前での退位・譲位を可能とする皇室典範の改正。②恒久法である皇室典範は改正ではなく、今回限りとする特別立法の制定。③退位・譲位でなく、摂政を置く。④同じく退位・譲位でなく、国事行為の臨時代行の制度を活用する――である。 ①②には大きな困難を伴う。積極的に排除している退位・譲位を認めるに当たってそれを皇室典範でなく、特別立法で可能かについても検討しなければならない。関連して見直さなければならない制度はあまりに多い。退位・譲位の要件や手続きを明確化しなければならない。先の政府見解との整合性を考える必要がある。ご高齢によるものであったとしても天皇の自由意思による退位・譲位を認めると例えば、気に入らない総理大臣を任命したくないために退位を表明したり、表明させられたりするなどして、天皇の信任を得られない総理としてのダメージを与えることも考えられるとの指摘もある(園部逸男著『皇室制度を考える』中央公論新社、2007年)。 また、退位・譲位を認めるとなると、その反映として皇位継承権のある男性皇族が天皇の位に就かないこともできるのかという問題も生じる。「万一継承者のすべてが就位を拒否するという事態に至るならば、天皇という制度は存立の基礎を揺り動かされることになる」との指摘もある(高尾亮一、憲法調査会事務局『皇室典範の制定経過』1962年)。恐るべき事態だ。「生前退位・譲位」ありきであってならない 退位後の称号、処遇、予算、お住まい、スタッフなどの検討はもちろんのこと、ご活動のうち、憲法上、何ができて何ができないのかについて整理する必要がある。退位式はどうするのかの検討も必要だ。とりわけ、今回の陛下のご意向の中でも具体的な言及のあった大喪から即位にいたる一連の儀礼について、これを生前での退位・譲位を前提としたものに組み立てなおさなければならない。現在は一連の儀礼については旧皇室典範に基づく皇室喪儀令などで細かく規定されている。宗教的な色彩を伴うものも多く、専門家による精緻で詳細な検討が必要になる。崩御の際の大喪についても天皇の位を退かれた前天皇の喪儀の在り方や規模についても検討し直さなければならない。元号も変わってくる。 ③④は退位・譲位を必要としない選択肢であり、大掛かりな制度変更を必要しない。しかし、陛下は今回、摂政を置くことを明確に否定された。国事行為の臨時代行についても否定的だ。しかし、政府としては、これらも①②とともに有力な選択肢としてそのメリット、デメリットを挙げて慎重に検討しなければならない。ことは国家の基軸である皇室の存立基盤に関わる問題であり、陛下のご意向は尊重しつつも、ご生前での退位・譲位ありきでの検討であってならないはずだ。他の解決策も併せて考えるべきだろう。日本学士院賞の受賞者らとの懇談に臨まれる天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮ご夫妻=6月27日、皇居・宮殿 陛下は全身全霊で「象徴」としての務めは果たすことができなければ、天皇の地位にあるべきではないと考えていらっしゃるようだ。繰り返し言うように、そのご姿勢は陛下のご人格の誠実さを示しており、限りなくありがたい。しかし、敢えて申せば、そのような天皇としての自己規定は次世代を縛りはしないだろうか。天皇にはそのお役割の重要性とともに、その大前提として神話に由来し、初代の神武天皇以来、一貫して男系の血だけで継承されてきたという、他に代わる者がいない存在の尊さがある。退位・譲位の制度化には、その皇室の尊厳や存在基盤を脅かす危険性も伴う。陛下のご意向は尊重しつつ、皇室がその尊厳を汚されることなく、永続するためにはどうすればよいかという視点での慎重な検討が必要なのではないか。

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    中東君主国と「生前退位」問題

    前退位の意向を天皇が伝えたという報道は、日本全体を大きく揺るがした。既に指摘されているように、現行の皇室典範において皇位の継承は天皇が崩御したときと定められており、天皇の生前退位を実現させるのであれば少なくともこれについて定めている第四条の改正が必須となる。 宮内庁はこうした報道を否定するとともに、天皇の生前退位そのものを認めない方針を示している。その理由として、退位後の上皇や法皇の存在が弊害を生むおそれがある、本人の意思に基づかない退位があり得る、天皇が恣意的に退位する可能性もあることを過去に国会の場で挙げており、生前退位を認めることで天皇の地位が不安定化することを懸念していると伝えられている。HOTOS.com こうした懸念は、諸外国の君主国家の事例を見ていくと、必ずしも見当外れのものとはいえないだろう。中東地域には現代においても君主制の国家が8カ国存在するが、君主の地位を巡る紛争は数多く起こってきた。国によっては病気などの理由により君主が職務の遂行をできなくなった場合には王位の継承が認められている場合があり、生前退位が制度上完全に制限されているわけではない。 しかし、それは生前退位が制度化されているということを意味しておらず、依然として君主の地位は終身であることが前提になっている。そのため、中東地域では君主は統治者として政治的な権力と一体化していることもあって、権力闘争によって既存の法制度や政治的慣習を超越する形で王位の継承が行われてきたという事例も少なくない。日本と中東では歴史や文化、社会が大きく異なるため、単純な比較はできないが、天皇の生前退位を巡る問題について議論を整理するためにも、中東の君主国の事例をいくつか紹介をしてみよう。望まざる退位と宮廷クーデターの懸念望まざる退位と宮廷クーデターの懸念 生前退位を認めることに関する最大の問題は、本人の意思に基づかない退位がありうることであろう。中東においても、王位継承権のある他の王族が君主を追い落とす宮廷クーデターの事例は枚挙に暇がない。例えば、オマーンの現国王であるカーブースは、1970年に英国の支援を受けて父であるサイード国王を追放して王位の座に就いた。カタルでは、先代にあたるハマドは1995年に、先々代にあたるハリーファは1972年に、いずれも君主が国外で不在の間にクーデターを起こし、王位を奪っている。 アラブ首長国連邦(UAE)を構成するシャルジャ首長国では、1965年、1972年、1987年と連続して宮廷クーデターが起き、サクル前首長が従兄弟にあたるハーリド首長に対して起こした1972年のクーデターでは、ハーリド首長が殺害されるという事態に至っている。もっとも、連邦政府はこのクーデターを認めず、軍事力を持ってこれを鎮圧させ、サクルは8年間刑務所に収監されることになった。新たな首長にはハーリドの弟のスルターンが就き、現在までその地位を維持している。iStock こうした宮廷クーデターは、国内外の支持を得て早期に終息する場合もあるが、国家を二分し、外国の介入を招くことにより問題を複雑化させることもある。サウジアラビアでは1950年代から60年代にかけて、兄弟であるサウード国王とファイサル皇太子との間での紛争が顕在化し、大きな問題となった。 サウードは放漫な財政政策や私生活の乱れを諸王族から非難され、首相の座とともに政治的な実権をファイサルに委譲することを余儀なくされた。その後、サウードは改革派王族と結託し、勢力を回復させて首相の座を取り戻したり、国王親衛隊を動員してファイサル派と一触即発の事態をも作り出したりしたものの、最終的に主要王族や部族、聖職者、改革派勢力はファイサル支持で一致し、サウードを国王の座から強制的に退位させた。だが、退位したサウードは当時サウジアラビアと対立していたエジプトに移り、自分の退位はファイサルの陰謀であるとして、自身の君主としての正統性を主張し続けた。 興味深いことに、ここで挙げた事例はシャルジャを除いていずれも皇太子(あるいは事実上の後継者)が主導したクーデターである。すなわち、将来的に君主の座に就くことが約束されているにも関わらず、現君主の追い落としを主導していることになる。これは、宮廷クーデターが王位を巡る権力闘争を理由として発生するだけでなく、現君主の資質が問われる場合にも発生するということを意味しよう。 日本では、天皇の地位は象徴であって、国政に関する権能を有しないことが憲法上規定されているため、権力を目的にした生前退位の強制が行われることは想像しがたい。しかし、政治的な理由によって天皇の資質が問題視され、生前退位が強制される可能性はゼロとは言えないだろう。サウジアラビアの例が示しているように、君主としての資質が問題視され、その理由が多くの者に支持される場合は、君主に退位を迫ること自体が正当化されうるからである。 もっとも、こうした非常事態においては軍の動員などの非常手段が行使されるのが常であり、制度で生前退位を禁止しておくことが宮廷クーデターを防ぐ抑止力になりうるのかは別に検討する必要があろう。院政が生み出す二重権力院政が生み出す二重権力 宮廷クーデターのように君主の意思に反する退位が強制されるのと対照的に、君主の意思一つによって自由に退位が可能である、というのも同じく問題含みである。もっとも、この問題は二つの相反する要素から成っており、一つは退位した君主が権威や権力を持ち続け二重権力が生じかねないという問題、もう一つは君主が恣意的に職務を放棄しかねないという問題である。iStock 前者は、院政という言葉があるように、日本の歴史上においても馴染みの問題と言えよう。他方、現代の中東では、君主が自発的な意思によって生前退位をすることは稀である。君主が政治的な権限を皇太子や首相に分散させ、日常の政務・公務から遠ざかる例は多いが、君主の地位は死ぬまで保持することが一般的だ。例えば、サウジアラビアではファハド国王が1995年に脳卒中で倒れ職務の遂行が不可能になったが、2005年に死去するまでの10年間、アブドゥッラー皇太子が事実上の統治者として政務・公務の全権を担ったものの、王位はファハドが持ち続けた。 UAEでも2014年1月にハリーファ大統領(アブダビ首長)が脳卒中で倒れ、現在に至るまで一度も公の場に姿を見せていない。そのため、アブダビ皇太子のムハンマドが実質的な国家元首として振る舞っているものの、連邦政府の大統領、そしてアブダビ首長国の首長という地位は、ハリーファのままである。もっとも、これらはいずれも病気を理由にしたものであり、仮に生前退位が行われたとしても院政のように前の君主が権勢を振るうことは期待できなかろう。 そのため、2013年にカタルの時の首長ハマドが、息子のタミーム皇太子に生前譲位を行ったことは、従来の慣習を破るものであり内外で驚きをもって迎えられた。サウジアラビアやクウェイトなど近隣の湾岸諸国の君主の年齢が80歳を超えるなか、当時ハマドは61歳とまだ若く、健康を害しているという噂もなかった。ハマドが生前譲位に踏み切った理由は定かではないが、これまで2回連続で宮廷クーデターによる王位の交代が行われていたカタルにおいて安定的な権力の委譲を行うこと、そして自身が推すタミームへの王位継承を確実なものとすることが目的だったと考えられている。 ハマドからタミームへの交代は、当時カタルの外交方針が近隣のアラブ諸国と競合・対立関係にあり、サウジアラビアやエジプトとの関係が悪化していたことから、こうした路線を転換させる契機にもなりうると見られた。しかしながら、タミームが外交においてもハマド同様の路線を進めることが明らかになると、実際の外交案件を握っているのは依然としてハマドであるという見方も出てくるようになり、タミームには決定権がないと評価する向きもある。 政策決定過程が外から見えないため、ハマドがタミームにどのような影響を及ぼしているかは不明である。しかし、ハマドが皇太子の座を3男のジャーシムから4男のタミームに移した背景には、当然ながらタミームを自身の後継者として選ぶのに好ましい素養があったからであろう。院政による二重権力の発生が問題になるのは、権力者のどちらの判断が優先されるのかが判然とせず、両者の間に権力闘争が発生するからであろう。退位した君主と新たに即位した君主との間に政策上の不一致がほとんどないのであれば、二重権力による問題は避けられると考えて良い。 翻って、日本の天皇制について考えてみると、政治的な権力を有しておらず、内閣の助言と承認によって国事行為を行う天皇という地位は、仮に生前退位が実現したとしても、権力の二重構造が生じる可能性は極めて低いのではないだろうか。勝手に辞めてしまう国王勝手に辞めてしまう国王 君主の自由意思による退位に関するもう一つの問題は、君主が果たすべき職務を放棄する事態が起こりうるということだ。院政とは対照的に、君主が権力に固執せず、退位後に影響力を行使しないケースがこれにあたる。もっとも、先に述べたように、通常は終身制をとる中東の君主制において、君主が自発的に退位する例は非常に少ない。 そもそも中東諸国では日本のように生まれによって王位継承の順序が自動的に決まるような制度をとっておらず、国王が王族の中から皇太子を指名するという形式が一般的である。そのため君主になる意思がなかったりその資質がないと見なされたりすれば、現君主の長子であっても皇太子に指名されないということがしばしば起きてきた。 こうした理由から、近年で自発的に退位をした上で権力から完全に遠ざかった人物は中東の君主国家のなかにはほとんどいない。やや時代が遡るが、オマーンのタイムール国王はこれに当てはまる数少ない事例であろう。タイムールは1913年に即位したが、国内では地方部族による反乱が相次ぎ、内陸部には事実上の自治区が形成されてしまった。 こうした状況に嫌気がさしたタイムールは以後繰り返し退位の意向を表明するようになり、オマーンを離れインドに滞在するようになる(当時は両国とも英国の支配下にあった)。英国政府やタイムールの長子であり事実上の後継者であったサイードは、タイムールに翻意するよう説得を試みたものの、タイムールの意思は固く、1932年2月にタイムールからサイードへの生前譲位が実現する。退位後、タイムールは亡くなる1965年までのほとんどの期間をインドで過ごしており(1936年に日本人女性と結婚したことから、神戸で生活を送っていた時期もある)、政務・公務からは完全に遠ざかっていた。iStock オマーンの事例は、本稿冒頭で宮内庁が天皇制を不安定化させる懸念の一つとして挙げた君主による恣意的な退位に当てはまろう。退位後に30年も存命だったことから分かるように、タイムールは君主として職務の遂行ができなくなるような健康状態だったわけではない。言わば本人の希望以外に退位を正当化するさしたる根拠がないわけだが、こうした生前退位が時の君主の意向によって相次ぐようであれば、君主制そのものが不安定化する恐れがあるという指摘は的を射ている。 他方、生前退位を制度上可能にすることで、実際に君主が次々に辞めていくという事態が発生する可能性は小さいのではないかとも考えられる。当時のオマーンは生前退位どころか王位継承に関する法制度そのものが存在しなかったわけだが、それでもタイムールの事例が例外的なケースとして残るのみである。サイードは王位継承時に若干21歳であったが、1929年から閣議を主宰するなど、王位継承前から政務の多くを担っていた。タイムールの生前退位が国内外において認められたのは、こうした後継者の存在が確認できたからであり、そうであれば意欲のない国王の統治を継続するより、新たな国王の下で政治を行う方が良いという判断があったと考えられよう。 生前退位を巡るいずれの問題も、対応を誤れば制度そのものを瓦解させかねない危険性があることから、決して過小評価できるものではない。しかし、その脅威を現実的にどこまで懸念すべきかについては、その国の君主の役割や権能、そしてその社会の置かれている状態によって変化するものであろう。日本の天皇制のあるべき姿について論じる際にも、こうした諸外国の事例を参考に思考実験を重ねていくことが望まれよう。

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    今上陛下の譲位をどのように実現させたらよいか

    ことが窺える。 とすると、譲位を実現させることは、陛下の御懸念を払拭する有力な方法であろう。しかし、皇室典範には譲位に関する条項が無く、天皇は崩御までその地位を退くことはできないと解されている。なぜ譲位が制度化されていないか 歴史的には多くの譲位の例があるが、明治期に皇室制度が整備された折に、なぜ譲位の制度は規定されなかったのだろうか。 『皇室典範』の討議では、①天皇が随意にその位を離れることに理はない、②歴史上の譲位が為政者の事情に左右された、などを理由に譲位の規定は削除された。 その後、終戦後に皇室制度が再び公式に議論されたが、政府は、天皇自身のお考えで譲位なさることは国民の信念と調和しないと答弁し、制度化は見送られた。 次に譲位が議論されたのは、昭和天皇が83歳をお迎えになる年のことだった。当時の山本悟宮内庁次長は衆議院内閣委員会で、①譲位を認めると歴史上見られるような「上皇」の弊害が生じるおそれがある、②天皇の自由意志に基づかない強制退位の可能性がある、③天皇が恣意的に譲位することは「象徴」という立場に馴染まないなどと答弁し、このときも制度化を見送っている。 歴史上の「上皇」の弊害については、歴史教科書を紐解けば、平安時代を中心に上皇の存在が政治を混乱させた事例があることを簡単に知ることができる。また、強制退位は平安時代末期の崇徳天皇をはじめ多くの事例があるし、天皇が恣意的に譲位して政治に圧力を掛けた事例としては、江戸前期の後水尾天皇の例を挙げることができよう。 このように明治維新以降、幾度も譲位が議論されてきたが、弊害が危惧され、常に制度化が退けられてきたのである。 では、譲位は実現させるべきでないかといえば、そうではない。すでに述べたような弊害が生じなければよいと私は思う。 今上天皇が譲位なさったとしても、ほぼ間違いなく、そのような弊害は生じないであろう。天皇陛下の勅語がきっかけとなって国民的議論がわき起こり譲位への道が開けたなら、一体どこに非の打ち所があるといえようか。皇室典範改正か特措法か皇室典範改正か特措法か ここで具体的な方法論を検討していきたい。譲位を実現させるには、皇室典範を改正して譲位の制度を確立させる、もしくは今上天皇一代限りの措置として特措法によって譲位を実行する二つの方法がある。 私は譲位を制度にすることには、一貫して反対の意見を述べてきた。今上天皇が譲位なさっても何の問題も生じないことは述べたとおりだが、何百年も先のことを考慮すると、上皇の弊害、強制退位、恣意的譲位などの問題が絶対に生じない保証は無い。 例えば鳩山内閣は、葉山でご静養中の天皇陛下を、組閣のために東京に「呼びつけ」ただけでなく、自らの都合で閣議の時間を遅らせ、日常的に陛下に待ちぼうけを食らわせた内閣である。しかも、中国の習近平国家副主席(当時)の求めに応じて先例のない引見をも強行した。中国の習近平・国家副主席(右)と会見される天皇陛下=2009年12月15日、皇居・宮殿「竹の間」 この鳩山内閣のように、天皇に対して何の敬意を払うこともなく、天皇を政治利用することをも憚らない内閣が、そう遠くない過去にあったことを忘れてはいけない。 譲位を制度化させてしまうと、天皇の意思に反して譲位が強行されるおそれもあり、長い将来を見据えたなら、譲位の制度化は避けるべきである。特措法で譲位の道を開くのが上策であると私は思う。 ところで、憲法2条が「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と規定していることから、『皇室典範』以外の法律で譲位を実行するのは違憲との主張も見受けられる。 しかし、条文にある「国会の議決した皇室典範」を「国会の議決した皇室に関する法律」と解釈するのは学界の有力な学説であって、違憲とは解されない。 第2条の公式英文で該当箇所は「the imperial house law passed by the diet」となっていること、昭和21年に帝国議会が日本国憲法案を審議した際に、金森徳次郎国務大臣(憲法改正担当)が第2条の「皇室典範」につき「特にこれには憲法上特別なる名称を付与したと云うだけなんです」と答弁していること、また、現行の『皇室典範』が法形式としては一般の法律と何ら変わりはないことなどから、憲法2条の立法趣旨は明白である。 つまり、第2条は、『皇室典範』の定めによらなくては皇位は継承できないという意味ではなく、皇位継承を定める法律は『皇室典範』とういう名称が付与されるという意味に他ならない。 このように解釈した場合、特措法で一代限りの譲位を実行するのに何ら憲法上の問題は生じない。また、『今上天皇の譲位に関する皇室典範特措法』などと、特措法の名称に「皇室典範」の文字があれば、形式的にも憲法2条を逸脱したことにはならない。 以上の理由により、譲位は、これを制度化するのではなく、一代限りの特措法にて行なうべきであると結論する。

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    陛下のご意向を機に天皇の「人権」まで語り出す奇妙な皇室廃絶論

    を考えつづけた方はありえない。国民は、謙虚に天皇陛下のお気持ちに応えていく義務があろう。懸念は奇妙な皇室廃絶論の盛り上がり だが、直ちに譲位を決定するために皇室典範を改正すれば、それで全てが解決するというわけではないことも、敢えて指摘しておかねばならない。明治時代に旧・皇室典範が制定された際、その第10条で「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定められ、譲位は出来ぬものとされていた。伊藤博文の『皇室典範義解』によれば、この理由は次のとおりである。 そもそも神武天皇から舒明天皇にいたるまで譲位の伝統はなかった。そして譲位がなされるようになってから「権臣」が強迫によって「譲位」を利用し、のちに南北朝の乱のような事態に立ち至った。従って、「譲位」が制度的に不可能であれば、「権臣」たちが天皇を強迫し、利用することも不可能になるだろう、ということだ。「象徴天皇」を政治利用しようとする勢力が存在するか、否かはただちに想像できないが、こうした事態を未然に防ぐための準備が必要なのは間違いなかろう。 また、もう一つ重要な問題がある。天皇陛下の譲位の問題を奇貨として、奇妙な皇室廃絶論が盛り上がっていくことへの懸念である。具体的には、日本国憲法下で認められている人権が皇族に認められていないという非難である。例えば、憲法学者の奥平康弘氏は次のようにいう。 「私は『退位の不自由』(および「身分離脱の不自由」にかぎっては、権利保障体系にもとづいて、窮極の「人権」が語られるべきだと思う。ある制度(生活環境・身分など)のために、本来ふつうの人間すべてに保障されているはずの権利・自由が構造的に奪われているばあいには、なんぴともその制度の枠組みから逃れ、ふつうの人になる「脱出の権利」(right to exit)があるべきである」(『「萬世一系」の研究』岩波書店)お気持ちを表明する天皇陛下の言葉をラジオで聞きながら、頭を下げる男性=8月8日、皇居・二重橋前 また社会学者の橋爪大三郎氏も次のように説いている。「ひとり天皇家に不自由を強いて、自分たちはこのままでいいという国民の態度は、虫がよすぎるし無責任である。そもそも象徴天皇をいただいた民主主義は、偽りの民主主義にすぎない」(「日本人のアイデンティティを体現して天皇制が直面する『構造的見直し」『SAPIO』) 天皇陛下のお気持ちを国民の一人として真摯に受け止め、高齢社会における象徴天皇は如何にあるべきかの議論を為すべきだと痛切に感じる。その一方で、御皇室の存在が民主主義とは両立しないと考える人々が「退位」について「人権」の観点から言及してきた事実からも目を背けるべきではない。現代に相応しい、そして、将来に相応しい御皇室のあり方とは、いかなるあり方なのか。我々は真剣に討議すべきであろう。

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    民衆とつながる天皇像 「お気持ち」に表れた今上陛下の自信

    行憲法と同じです。また驚くべきことに、こうした超保守的な方々が、どうも今上の御意思に疑念を投げかけ、皇室典範の改正の必要はないと言っているようなのです。 こうした方々のオピニオン誌への寄稿を見てみると、かつての西郷どんのような暑苦しいまでの尊王の志は感じられません。そこに感じられるのは、ある種ヒヤリとするような官僚的冷たさです。杓子定規的な現行の法解釈に時折混ぜ込まれる(かくかくしかじかの混乱を)「天皇陛下は望まれていないだろう」(八木秀次「皇室典範改正の必要はない」『正論』9月号)という差し込みには、御簾の奥に今上を閉じ込めておこうとする意志があるのではないかとすら邪推してしまうほどです。あるいは、明治時代にさかのぼり、伊藤博文など憲法起草者である元老の当時の議論を援用して、譲位に伴うリスクや天皇制度の趣旨から譲位に反対する保守派の一部の態度には、天皇制度を利用して武士から建国者に上り詰めた長州閥の系譜を感じさせるところがあります。 つまり、平たく言えば、今回の譲位の御意思を快く思わない保守派には、明治~昭和期の伊藤から美濃部のような国家主義者の血が流れているということができるのです。2012年草案に賛同するような改憲派は、「新・天皇機関説」論者と呼ぶことができるでしょう。もっとも、かつての天皇機関説が強い天皇像にかぶせられた制約に過ぎなかったのに対し、「新・天皇機関説」論者は天皇の主権も人格もなくして皇祖皇宗の伝統に閉じ込めておくことによって、より国家主義の度合いを強めているとさえ言ってよいと思います。今上の示された共同体とは今上の示された共同体とは しかし、それに抗ったのが今回の御意思の表明ビデオでした。今上はこれまで作り上げてこられた象徴天皇の解釈によって、民衆とつながる天皇という像を直接国民に語りかけることで実現したからです。今後健康寿命と寿命の差が開く超高齢化社会にあって、仮に深刻なお病気をされた場合、生命維持装置に繋がり続けなければならないこともあるかもしれません。現に多くの高齢者はそのような運命をたどっています。とにかく生きていればよい、というあり方では象徴天皇とはいえない。そのような考え方は、むしろ自身のこれまでの活動を適切に評価しているとは言えないと踏み込んで発信されたのだともいえます。 ここでビデオメッセージの中でとくに目を引いた言葉をあげてみたいと思います。「共同体」という言葉です。市井の人々が慈しみ存続させている、いたるところの共同体に、自らは象徴として息づいているのだというメッセージでした。正直申し上げて、衝撃を受けた人は少なくなかったのではないでしょうか。その共同体が残っているのは日本の地方でしかないかもしれませんが、そここそが自民党の地盤であり、もっぱらイデオロギー活動にいそしむ保守派論客が決して根を下ろそうとはしていない郷里だからです。私には、直後に短い会見をした総理の眼にうっすらと水の膜がかかっているように見えました。穿った見方かもしれません。真相は分かりませんが、多くの地方選出の保守系議員は今上陛下のお言葉を受け止めることができたのではないかと思うのです。天皇陛下の「お気持ち」を受け、発言する安倍晋三首相=8月8日、首相官邸(斎藤良雄撮影) 翻って、リベラルは代替わりをしつつあります。戦前回帰を戒め、天皇の影響力を極小化したい観点からは、今上のビデオメッセージによる直接の国民への呼びかけは心穏やかでない人もいるでしょう。政策に関与しないと明言されたとはいえ、その自信に満ちたご風からは、都市リベラルは戸惑いを感じる向きもあるでしょう。ですが、新しい世代は、より普遍的に物事を見たうえで、天皇家の人権という概念も受け入れる余地があります。もしくは今上の来し方から、すぐに戦前回帰という脊髄反射をしない傾向もあります。制度変更における緊張関係 制度変更ということになると、一人の生身の人間の「引退したい」という意思と、譲位を制度化することによる潜在的な懸念との緊張関係の中で、制度設計が定まっていくことになるでしょう。もう一つの重要な観点は、憲法改正が現実的な問題として議題に上ってくる参院選後の今の日本において、天皇をどのように位置づけていくかということです。君主と国民主権と代議制民主主義という緊張関係を孕んだバランスのもとに、あらゆる人の人権を守っていくということは、天皇の独断も、多数の専制も、政治エリートの暴走も許さないということにほかなりません。今上の人権に配慮しつつ、政治エリートと主権者である国民が議論をしていく必要があるでしょう。(ブログ「山猫日記」より2016年8月9日分を転載)

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    国民に投げかけられた陛下の問題提起 時限特別法は解決にならぬ

    下の「おことば」の意図するところ、いずくにありや。つらつらおもんみるに、陛下の「おことば」は、現在の皇室制度が孕む様々な課題について、御自らのご体調を引き合いに出され、国民に対して問題提起されたものではないかと思われてならない。連合国軍総司令部(GHQ) 現在の皇室制度の法的根拠は日本国憲法及び皇室典範であり、直接的には後者である。今回「おことば」が発せられたのを機に、皇室典範を改めて読んでみた。全37条から成り、大日本帝国憲法下で制定された旧皇室典範全62条(其の外に増補が10条あり。)と比べて、簡素な内容である。ここで個別に分析を行うことはしないが、我が国に脈々と続いてきた皇室について、規定する法律としてはあまりにも簡素過ぎるのではなかと思う。 占領軍によって明治憲法下の様々な制度が解体され、それらを前提としていた旧皇室典範も新たに作り直されることとなった結果ということであろうが、そう短絡的な話でもあるまい。譲位が制度上できなくなったのは明治憲法下の皇室典範から、男系の男子とされたのもまたしかり。江戸時代までは存していた「上皇」(太上天皇)等も規定されていない。その他、皇族は養子をすることもできないという現皇室典範第9条の規定は、旧皇室典範42条と同様の規定である。 この辺りは皇室典範や皇室制度のご専門の方々に是非解説を願いたいが、占領軍は何を考えて現行の皇室典範を許可したのか、現行の皇室典範の立案過程においては、脈々と続き、積み重ねられてきた有職故実を顧み、それらを踏まえる余裕はなかったのではないかといった現皇室典範に関する事項に加え、そもそも明治憲法下での天皇大権という制度の総括は行われたのか、江戸から明治に変わり、皇室制度はどのように改められたのか整理・把握されているのか、そうした旧皇室典範、戦前の皇室制度に関する事項を明らかにすることによって、現行皇室典範とその課題の根元がより明らかとなり、解決の方向性も見出せるのではないかと思う。 陛下はご自身の「象徴」というお立場、現行憲法上国政に関する権能を有しない点を「おことば」の中で強調され、皇室制度に具体的に触れられることは避けられた。だからこそ、国民としては、陛下の「おことば」をしっかりと受け止め、象徴であることを前提として、これからの皇室制度の在り方について思いを馳せるべきであろう。生前退位や今上陛下のご体調の話のみに矮小化されるべきものではあるまいし、ましてや時限の特別法による対応など、もってのほかである。 (公式ブログ「政治・政策を考えるヒント!」より2016年8月9日分を転載)

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    オーストリアメディアが見た天皇陛下「生前退位」のご意向

    ッセ」2016年8月9日付 中欧を久しく掌握していたハプスブルク王朝時代を持つオーストリアでは王室、皇室について元来強い関心がある。天皇陛下が生前退位の意向があるという第1報が流れた時からオーストリア通信(APA)や同国メディアは報じていた。そして8日の天皇陛下のビデオメッセージについて、プレッセ紙のアンゲラ・ケーラー東京特派員が国際面にほぼ一面を使って詳細に報じていた。 長い駐在体験のあるケーラー特派員は、「82歳の天皇は国家象徴の公務を成就する体力に欠けている。ただし、生前退位は皇室典範には何も明記されていない。同時に、後継者問題も明らかではない」と指摘し、天皇陛下の生前退位は容易な問題ではないと伝えている。 記者は後継者問題に言及し、「伝統的には皇太子殿下が継承する。皇太子は既に天皇陛下の公務を代理で行ってきたが、父親の天皇陛下との関係はよくない。その背景には、外交官出身の妃、雅子妃殿下が皇室の世界に順応できなく、後継者となるべき男子を出産できなかったことなどがある」と紹介。皇太子とは好対照に、世襲順位で第2の秋篠宮様には男子の子供もあって、「天皇の男子世襲制という観点から判断すれば、皇太子ご家庭より適している」と報じている。 第2次世界大戦の終戦後、天皇は象徴天皇となり、政治には全く関与しない立場となり、日本国民の統合のシンボルとなった経過を説明し、「現天皇陛下は国民の人気は高い」と指摘。生前退位問題では、「世論調査によると、国民の85%は天皇の生前退位を支持しているが、天皇が変われば元号が変わる。日本の社会全般が大きな変化を余儀なくされる。そのため、安倍現政府は天皇陛下の生前退位の願いを迅速には成就しないかもしれない」と予想している。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2016年8月10日分を転載)

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    陛下のお言葉は歴史的な玉音放送 「天皇のしらす国」のありがたさ

    持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する」(木戸日記)さらに、そのとき陛下は、「自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい」(左近司国務相)とまで言われたという。  以上、一昨日八月八日の、今上陛下のお言葉は、七十一年前の八月九日から十日にわたる御前会議を締めくくる御父君、昭和天皇の、無私の御決断を背景にして述べられている。さらに、その昭和天皇の御決断は、明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲んで為されたものである。  このように、近代国家である日本は、明治、大正、昭和そして平成と、太古から連続し一貫して、「天皇のしらす国」として歩んできて、これからも歩んでいくのである。八月八日の陛下のお言葉の伝達は、やはり玉音放送であり、歴史的である。諸兄姉、天皇のしらす国、日本に生まれた有り難さを噛みしめようではないか! (「西村眞悟の時事通信」より 2016年8月10日分を転載)

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    なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか

    」から神格化されたものではなく、自然からごく自然に生まれた自然の感情である。 大日本帝国憲法と並ぶ「皇室典範(こうしつてんぱん)」には、皇嗣(こうし)が皇位を継ぐ践祚(せんそ)に際し天皇が「祖宗ノ神器ヲ承」とあり、「祭主」としての相続のあり方が明記されている。 日本は祭りの国として知られる。全国各地でさまざまな祭りが行われ、住民が絆(きずな)を育(はぐく)む場ともなっている。その土地その土地の神社を中心に行われることが多いが、精霊を慰める盆祭りなど寺院中心の祭りや、神社と寺院が半々のものもある。神社によって祭祀の様式に異なりはあるが、だいたいが「国安かれ民安かれ」と日常の罪(つみ)穢(けが)れを祈りによって禊(みそぎはら)祓いするものである。五穀豊穣(ほうじよう)を祈る天皇の祭祀となったものだった。新嘗祭に臨まれる天皇陛下=2013年11月23日、皇居・神嘉殿(宮内庁提供) 天皇は国の祭主として、全国の主要神社に幣帛(へいはく)(神への供え物)も供進している。つまり天皇は国の祭祀の中心的祭主にほかならず、祭主としての君主として、日本人に仰がれてきたのである。それが天皇と国民を結ぶ紐帯(ちゆうたい)となり、天皇が国体の中核的存在になったのだった。 福沢諭吉は『帝室論(ていしつろん)』(1882年)に「古代の史乗に徴するに日本国の人民が此(この)尊厳神聖を用いて直に日本の人民に敵したることなく又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし」と書いている。 洋の東西の歴史を見ると、国と民が敵対することが多いものである。たとえば易姓革命の国、中華の国は、「有徳者」が天命を受けて天子たる皇帝に即位するということを建前としているが、実際には天意と民意が異なる場合が多い。だから皇帝に基づく国権を重んじ、民権に反対してきたのである。 中国では、「国富民窮(こくふみんきゅう)(貧)」という言葉があるように、国富と民富とは対立するものなのである。「剥民肥国(はくみんひこく)」、民をしぼって国が肥(ふと)るという成語も生まれた。奴隷や愚民が理想的な人間像だから、ヘーゲルが「万民が奴隷」と定義する東洋型独裁専制の代表的な「国のかたち」こそ、中華帝国なのである。民は王朝とはまったく利害関係を共有しないので、「生民」「天民」とも称せられるのだ。 天皇が国体の中心となる国、日本の天皇が神聖視されるのは、統治者としての君主であることよりも、祭主であることによるのだろう。「昔の日本人は天皇を知らなかった」のウソ「昔の日本人は天皇を知らなかった」のウソ 戦後日本の「進歩的文化人」は、「江戸時代の日本人は天皇の存在を知らなかった」という主張まで始めた。これに対して里見岸雄(さとみきしお)(1897~1974)は著書『万世一系の天皇』で、こうした進歩的文化人らはただ2、3の特例を拾って、維新前の大部分の日本人が天皇を「知らなかった」と結論づけているが、その論証はあいまいで漠然としており、史実とはかなり乖離(かいり)している、としている。 もし日本人が天皇の存在を知らなかったとすれば、幕末のあの強烈な勤王思想(きんのうしそう)が、庶民の間にですら盛んな勢いで沸き起こったことを説明できないし、明治以降の国民の天皇崇拝意識もあり得ない。薩長(さっちょう)によってとってつけられたような天皇の権威であるなら、決して君民一体の大日本帝国は生まれなかったはずである。 江戸時代の民間文化や伝説の多くは、皇室の雅(みやび)に対する庶民の憧(あこが)れによって生まれたものである。たとえば雛祭(ひなまつり)はもともと宮中の伝統行事だったが、江戸中期以降に庶民の間でも流行した。雛人形は天皇を象(かたど)った人形にほかならない。庶民の間に流行した歌舞伎の戯曲(ぎきょく)や俳句、短歌でも、よく日本は「神国」と表現されたが、それは天照大神の子孫である天皇が治める国々という意味である。庶民に人気の「お伊勢参り」も「皇祖参り」以外の何ものでもなかった。明治初年、奥羽の住民は古来の注連縄(しめなわ)を門前に張って天皇の行幸(ぎょうこう)を仰(あお)いだ。これも天皇が天照大神の子孫であることを知っていたからである。祭りが大好きな日本人が、最高の祭主が天皇であることを知らなかったなどとは、どうしても考えられない。 大君の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)、徳川の権力の根拠はどこにあるかといえば、それは天皇から付与されているという一言につきる。 國學院大學教授の大原康男(おおはらやすお)氏は著書『現御神考試論(あきつみかみこうしろん)』(暁書房)で、日本人は天皇を知らなかったという説について、はっきりと論拠だとする資料がほとんど提示されていないことを指摘している。 江戸中期に来日したオランダ商館長、ティッチングなど西洋人の日本見聞録には、日本の元祖は天皇であり、将軍はそれの武官であると記されている。 西洋人の日本見聞録にさえ書かれているぐらいのことを、日本人が知らないことがあるだろうか。武士にしてもほとんどが源氏か平氏の末裔(まつえい)と名乗り、自らの先祖が皇祖とつながっていることを意識していたのはいうまでもない。武士だけが知っていて、庶民が知らないということはないだろう。もし江戸時代の日本人が天皇を知らなかったら、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を掲げることもなかっただろう。 戦前戦後の天皇観に大きな変化があったことは事実である。天皇を戴く日本の国体は、神代の時代から続く、「万邦無比」(世界唯一)の国体だからだ。 古来、天皇は日本の国土を統一した大和朝廷の後継者としての政治的、権力的天皇と、国の祭主としての日本伝統文化の集約者、代表者という天皇観があった。日本の「万世一系」は「万邦無比」の国体 繰り返しになるが、天皇は国を代表して国家、国土の祭祀を行う祭司王だということである。大嘗祭や践祚などは、その皇権の権威と正統性を伝えるものだからだ。戦後は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と日本国憲法にも明記されている。「万邦無比」の論拠の1つとなっているのが「万世一系」である。「万世一系」論は、20世紀初頭の辛亥(しんがい)革命(1911年)後に清(しん)王朝が崩壊した後、支那(しな)学者や東洋学者から国学者にいたるまで、日本人はしきりに易姓革命の国と「万世一系」の国を比較した。清国旗 清朝末期に制定された欽定憲法大綱は、明治の帝国憲法をモデルに「万世一系」の文言まで条文に入れたが、戊戌(ぼじゅつ)維新も立憲運動も、清の皇統と皇帝の権力を護持することに成功しなかった。満洲人の主張によれば、満洲史は支那史とは並行して5000年を有しているという伝説があるものの、太祖(たいそ)のアイシンカクラ・ヌルハチが後金国を建国してから約300年の歴史しかなく、日本とは異なり神代からの「万世一系」とは言えなかった。 実際には天皇国家日本に類似する国体が20世紀の初頭、アフリカの高地エチオピアに存在していた。しかしこの国体は1974年に消え、今現在「日本の万世一系」の国体はたしかに「万邦無比」のものである。 第2章でも記述したが、「万世一系」に対する批判は戦後起こったものではなく、戦前にもあった。早大教授、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』などの文献学的批判は有名である。 また、こちらも繰り返しになるが、戦後、江上波夫東大名誉教授が1948(昭和23)年に「騎馬民族征服王朝説」を説くと、大きな話題を呼び、論争になった。水野祐(みずのゆう)早大名誉教授が1952(昭和27)年、『日本古代王朝史論序説』を著して「万世一系」思想を否定し、いわゆる「三王朝交替説」を説く。古代日本では、互いに血統の異なる3つの王朝が交替していたとする説である。 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代以前の黄河中、下流域の中原(ちゆうげん)地方も血縁が異なるどころか、夏(か)人、殷(いん)(商)(しょう)人、周(しゅう)人など3つの異民族が約2000年にもわたって混合されて形成された文化集団が、いわゆる華夏の民、漢人の祖先とされている。水野教授の「三王朝交替説」は、日本上古史のことで、実証するには限界があるだろう。こうした「万世一系」否定説は、考古学、民俗学、神話学、国文学など、さまざまな分野や論者から出ている。 「万世一系」説以外に「天皇不親政」論も大きな議論のテーマとして残っている。津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」(雑誌「世界」1946年4月号 『津田左右吉歴史論集』岩波文庫)と題する一文の中で、「天皇親政論」について、「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承(あいう)けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである」と説いている。 実際、超古代史は「謎解き」の説に止まっていることはよく知られている。大和朝廷以後の日本史には、政権を握った蘇我(そが)、平、源(みなもと)、足利(あしかが)、豊臣、徳川などが登場する。文官もあれば武官もあり、政体は異なるが、天皇不親政が伝説となっている。 しかし、天皇不親政についても批判は少なくない。古代の天武(てんむ)天皇前後の天皇や中世の後醍醐天皇などは親政した、戦前の明治憲法では、天皇は国家元首として統治権の総攬者(そうらんしゃ)であるとの規定があり、大権を持っていたので、戦後の「象徴天皇」とは異なるなどの主張もあり、天皇論は続いていく。「現人神」と「ゴッド」の違い「現人神」と「ゴッド」の違い 中国の日本研究者には、日本の天皇を「古代からの奴隷主」と決めつける者が少なくない。それは伝統的中華史観からではなく、人民共和国成立後に跋扈(ばっこ)したマルクス、スターリンの「史的唯物論」のドグマからくる発想である。 人民共和国政権が成立した後、伝統的正統主義的中華史観は全面的に禁止され、革命史観しか許されなかった。唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)に基づく唯物史観である。唯物史観の図式によれば、人類の発展は原始共産社会から奴隷社会へ、さらに封建社会、資本主義社会、そして社会主義社会・共産主義社会へと発展していくというものである。 日本は「日本民主主義人民共和国」の革命成らず、社会主義社会にまで発展することができなかったと、中国人日本研究者は考えた。奴隷社会という中国の史実と現実からの投影もある。 詩人、政治家、そして古代史研究家でもあった郭沫若(かくまつじゃく)は、中国の代表的文化人といえる。『中国古代社会研究』や『十批判書』などの著名な著書の中で、氏は古代中国社会は奴隷社会だと説いている。 中国近代文学の父として、神格化された毛沢東とともに唯一中国で高く評価されている魯迅(ろじん)が唱えた中国奴隷史説も有名である。 魯迅は学者の歴史の時代区分に反対し、中国史を「奴隷になろうとしてもなれなかった時代としばらく奴隷になれて満足している時代」とに二分すればよいと説いている。魯迅だけでなく、中国史を奴隷史と説く近代中国の文人は多い。 人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」は冒頭、「奴隷になりたくない人民よ、立ち上がれ」と勇壮な文句で始まる。しかし、中国人は結局立ち上がることはできず、「社会主義中国」の中身は「新しい奴隷制度」にすぎないとも指摘されている。 マックス・ウェーバーは中国を「家産制国家」(支配者が国家を私的な世襲財産のように扱う国)と呼んだ。ヘーゲルの定義によれば、「一人だけが自由、万民が奴隷」という「アジア型専制独裁国家」の典型である。人民共和国が「真の人民民主主義」と誇りにする「人民専制(プロレタリア独裁)」そのものが、まさしく中国政府が自称する「中国的特色を持つ社会主義」だろう。 山本七平(やまもとしちへい)(1921~1991)によれば、奴隷制度がないのは、世界で日本人とユダヤ人だけだという。  日本人が「現人神」として抱く伝統的な天皇観は、キリスト教を信仰する西洋人には理解できない。自然や人間としての「神」は、西洋人の「GOD」とはまったく違うものだからである。宮内省(当時)の職員運動会を、昭和天皇と一緒に観戦される天皇陛下=昭和22年4月、皇居内の馬場(宮内庁提供) 神話における天照大神は、一神教に見られるような唯我独尊的な排他的な神ではなく、八百万(やおよろず)の神々を集めて「神集えに集え、神議かりに議かる」と衆議を命じた神とされている。その神の直系の子孫として地上の日本を治めるとされる天皇もまた、皇族、臣民の補翼(ほよく)、つまり彼らの叡智(えいち)を結集して政治を行うのが伝統である。つまり独裁という概念が生じないのが、日本の君主制度の一大特色なのである。 戦後、現人神の「神」が「ゴッド」と訳されたため、アメリカ人は天皇をそう理解した。天皇が神、ゴッドなどとは独裁、独断、迷信だと、GHQが昭和天皇の「人間宣言」を命令したのである。アインシュタインをも驚かせた「万世一系」 しかし日本人は天皇を全知全能のゴッドのように考えてはいなかった。日本人は古来、神と通じ、神の心を体現する天皇を目に見える神として「現人神」と呼んできたのである。天皇は決して宗教上の「神」ではなかった。アルバート・アインシュタイン(共同) 1922年、日本を訪問したアルバート・アインシュタインは、早稲田大学の大隈講堂で行った講演で次のように語っている。 「近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。果たせるかな、この国の三千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通じて一系の天皇をいただいていることが、今日の日本をあらしめたのである」 さらにこう続けた。 「世界の未来は進むだけ進み、その間、いくどか争いは繰り返され、最後は闘いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求め、世界的な盟主をあげなければならない。世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まり、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない」(『新世紀の宝庫・日本』名越二荒之助著。アインシュタインの発言については、田中智學の『日本とは如何なる國ぞ』〈1928年〉、雑誌『改造』〈1922年12月号〉などに多く出ている) アインシュタインよりも約6年早く、1916年に日本を訪れたフランスの哲学者、神学者で高名な詩人だったポール・リシャール博士は、日本に魅せられ、その後4年間日本に滞在した。そのとき詠んだ「日本の児等に」と題する詩に、日本の7つの栄誉と使命をあげている。その6番目と7番目を紹介しよう。 (6)建国以来一系の天皇を永遠に奉戴(ほうたい)する唯一の民よ。貴国は万国に対し、人がなお天の子であり、天を永遠の君主とする一つの帝国を建設すべきことを教えるために生まれてきた。 (7)万国に優って統一性のある民よ。貴国は未来の統一に貢献するために生まれ来た戦士として人類の平和を促すために生まれてきた。アインシュタインの思いと似ている。 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で日本は人種の平等を国際連盟の規約に入れるように提案した。これは国際会議における世界で初めての人種差別撤廃の提言であった。それはアメリカのウィルソン大統領の反対で潰えたが、その後、日本は有色人種にとって希望の星となった。そしてそれは、アメリカの黒人たちも同様だった。 アメリカの黒人史の専門家で、ハンプトン大学や神田外語大学の助教授も務めたレジナルド・カーニー氏は、著書『20世紀の日本人』(五月書房)で、当時のアメリカの黒人たちの親日感情について記述している。 当時、黒人差別を撤廃するために汎アフリカン運動を組織していたアメリカのW・E・B・デュボイス博士もその一人で、1937(昭和12)年に満洲と日本を訪れ、「日本人ほど知的で礼儀正しく、清潔好きで、時間を守り、善悪の判断をする国民はいない」と知り、「神道とは善悪を見きわめて行動する教義であり、それを人格化したのが天皇である」と述べたという(『世界に開かれた昭和の戦争記念館』展転社)。 カーニー氏は、著書の中で、「日米戦争を喜んだのは中国人やインド人、フィリピン人などだけではなく、アメリカ黒人も同じように喜んだのである。黒人の中には、この戦争は『人種戦争』だと公言し、日本はアジアを白人から解放する英雄であるというものすら出てきた。白人優位の神話を根底から覆した日本人。そんな日本人と戦うくらいなら、監獄に行った方がましだ。こんな考えが黒人の間を駆けめぐっていた」とも記している。天皇という超越的存在の下の同胞意識天皇という超越的存在の下の同胞意識 明治維新だけがなぜ成功したのかについては、維新から100年以上が経った今もなお、魅力と興味を誘う政治改革の研究テーマの1つである。 近現代、ことに西力東来後の列強の時代になって、「維新」(あるいは変法ともいわれる)をめざしたのは、決して日本だけではなかった。たとえば日本の隣国を見ても清末の戊戌(ぼじゅつ)維新、朝鮮にも同時代に甲申(こうしん)政変があったが、すべて失敗した。戦後、イランのパーレビ国王の維新(白色革命)も失敗に終わった。 なぜ日本だけが成功したのかについて、渡部昇一(わたなべしょういち)氏は、「それは神話の時代以来連綿と続いている天皇という超伝統的な要素が、まず先端をきって近代化したためである」と指摘している。 易姓革命の国、中国で改革維新が唯一成功したのは中華帝国よりはるか昔、戦国時代の秦の商鞅(しょうおう)変法のみだった。これ以外には、歴代王朝の変法は戊戌維新だけでなく、宋(そう)の王安石(おうあんせき)変法をはじめ成功したものはない。血を流す「革命」しかなかった。フランス革命もロシア革命も血の粛清を避けられなかったのである。功臣や同志に対する血の粛清がなければ、革命政権は安定しない。 隣邦の韓国(朝鮮)の易姓革命を見ても、前王朝、あるいは前大統領に対する血の粛清は凄(すさ)まじいものである。たとえば、現在の朴槿恵(パククネ)大統領は、政敵を暗殺した安重根(あんじゅうこん)を民族の英雄として、大々的に造神運動を進めているが、韓国人によるジェノサイドはほぼ民族の特徴ともなっている。明末の明人大虐殺をはじめ朴正熙(パクチョンヒ)時代の南ベトナム解放民族戦線大虐殺、近代でも金玉均(きんぎょくきん)や独立運動指導者の金九(キムグ)や呂運亨(ヨウニョン)などもことごとく政敵に暗殺しつくされ、朴槿恵大統領の両親朴正熙大統領夫妻も暗殺された。 なぜ日本だけが自国民に対するジェノサイドを避けられたのだろうか。そこにも超越的な存在としての天皇の存在と日本人が持つ同胞意識に理由がある。 たいていの社会はないもの、欲しいものを「そうである」「そうすべきである」と強調する。それがごく一般的な常識といえる。しかしあることとあるべきことを区別できる人はそれほど多くはない。 中華の国は仁義道徳を強調し、ことに孝は万徳の本だと強調する。それはそうすべきである(当為(ダンウェイ))という願望にすぎない。中国や韓国は家族を大事にする国だとよくいわれているが、実際には親子兄弟姉妹の殺し合い、いがみ合いはほかのどの国よりも激しい。李(り)朝の例を見ても、李成桂(りせいけい)が高麗朝から政権を奪ってから、諸子たちは殺し合い、第一次王子の乱から第二次王子の乱へと王位をめぐる殺し合いが繰り広げられた。それは近現代には朋党(ほうとう)の争いへと引き継がれ、朝鮮半島の社会のしくみ、歴史の掟(おきて)として今日に至り、南北対峙(たいじ)が続いている。同胞意識が欠如しているだけでなく、祖国から離れても、アメリカの大学で韓国人学生による銃乱射事件が続出し、不特定多数の人間に対する恨(ハン)は消えない。 なぜ韓国人は政敵に対してだけでなく、無差別に、誰に対しても恨をもつのだろうか。日中韓の文化比較はきわめて示唆的(しさてき)である。中華世界では絶対出来なかった明治維新の偉業 そもそも明治維新は、外圧を受ける中で国内の団結が求められたとき、佐幕派も討幕派も敵対し得ない、天皇を中心とした国を造らなくてはならないと痛感した上での「尊皇攘夷」だった。そこで内戦の危機を最小限に抑えるために、大政奉還、江戸城無血開城、廃藩置県という国の大事が無血のまま行われ、国民のエネルギーを結集し、さまざまな国難を乗り越えて近代化を断行できたのである。中国のような国共内戦や韓国のような南北戦争を避けられたのは、天皇という国家の祭主の下で、日本人同士が同胞意識を持っているからだろう。これは易姓革命がなくても維新、改革を可能にした日本の社会のしくみでもある。徳川慶喜 明治維新後では、大政奉還した徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は公爵(こうしゃく)にまで列せられ、徳川家達(いえさと)は貴族院議長を務め、五稜郭(ごりょうかく)で最後まで官軍に矢を向けた榎本武揚(えのもとたけあき)は海軍卿(きょう)、同じく大鳥圭介(おおとりけいすけ)は駐清国公使になっている。徳川慶喜の孫は高松宮妃(たかまつのみやひ)となり、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の孫も秩父宮妃(ちちぶのみやひ)になった。そして本来朝敵だった徳川家の家臣たちは新政府の行政機構の中枢を担い、引き続き国政を支えていった。これは中華世界では絶対あり得ないことである。 中華世界では、政敵の一家皆殺し、いわゆる「滅門」だけでなく、海外まで逃げ隠れても、追っ手がどこまでも追いかけてくるしつこさがある。 たとえば朝鮮の甲申政変の主役であった金玉均は、改革失敗後、東京や札幌など転々と逃亡し続けたが、ついに上海で暗殺され、その亡骸(なきがら)は朝鮮に運ばれて八つ裂きにされた。 その残酷な有り様を知った福沢諭吉が、中華大陸と朝鮮の近代化に絶望し、「脱亜論」を書いたことは有名な話である。 台湾では、蒋経国(しょうけいこく)(蒋介石の長男で第6代・7代の中華民国総統)のことを批判的に書いた『蒋経国伝』の著者で台湾系アメリカ人の江南が、サンフランシスコで台湾からの刺客に暗殺されるという「江南事件」があった(1984年)。これにアメリカ政府は激怒し、蒋介石一族の「帝位継承」は2代目で終わってしまったのである。 佐幕派も討幕派も、「尊皇攘夷」という共通の錦旗(きんき)の前で一変することが可能なのは、まさしく天皇という超越的存在があるからである。内戦のような事態に陥っても、互いが憎悪や不信に駆られて徹底的な殺戮(さつりく)を行うことがなかったのは、天皇という「家長」の下で、日本人同士が同胞意識を強くもっているからである。日本国民は貴賤(きせん)を問わず、この神聖なる天皇という存在の「赤子」であることを喜び、国家と国民が一体感を持っているからなのである。天皇と日本国民の固い絆天皇と日本国民の固い絆 戦後、「一視同仁(いっしどうじん)」という言葉はタブー用語にまではされなかったが、いわゆる進歩的文化人によって嘲笑(ちょうしょう)の的(まと)として頻繁に引用されている。 しかしこの言葉のいったいどこが悪いのだろうか。天皇から見れば、「臣民」であろうと「赤子」であろうと、国民でも「非国民」でも、良し悪しを超えて見る立場にあり、私を超えて「無私」という立場を貫いている。それは、「天皇制打倒」を狙(ねら)う者に対しても例外ではない。 敗戦直後、日本が食糧危機に直面した際、日本の左翼政党に率いられた人々が皇居のまわりを囲い、「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、ナンジ、人民飢えて死ね」というプラカードを掲げ、米をよこせのスローガンを叫んでデモ行動を行った。 侍従(じじゅう)の一人が「陛下、あれは共産党の煽動によるデモです」と言うと、昭和天皇は「あれも日本国民だろう」と答えたという。 第16代仁徳(にんとく)天皇が先代の応神天皇から位を継ぐ前に、さまざまなエピソードがあった。応神天皇は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を皇太子に立てた。ところが天皇が崩御すると、皇太子は兄の大鷦鷯(おおさざき)皇子が天皇に即位するよう望んだ。兄の皇子こそ人格が優れ天皇の大位につくべきだと考えたのである。しかし大鷦鷯皇子は弟の申し出を辞退した。そうこうしているうちに、もう一人の兄の大山守(おおやまもり)皇子が皇太子暗殺をはかったが、失敗に終わった。皇子と皇太子の兄弟2人で皇位を譲り合うこと3年に及んだ末、皇太子はついに自殺して兄に皇位を譲り、皇位についたのが仁徳天皇だった。大阪府堺市の仁徳天皇陵 仁徳天皇は難波に高津宮(たかつのみや)を営んだが、生活は質素だった。即位して4年目に、天皇が高殿から眺めると、民家からかまどの煙が立ちのぼっていないことに気がついた。「民百姓は貧しいために炊くことができないでいる」と群臣に相談して、向こう3年間、徴税を止めた。 それから3年後に煙が上がったので、「朕はすでに富んだ」と喜んだが、皇后は「宮殿の垣根が破れ、建物は荒れ、衣裳もぼろぼろ、それなのに、富んだなどとよくおっしゃるものですね」と言った。 すると天皇は「もともと天が王を立てるのは、民百姓のためなのだ。民百姓のうち1人でも飢えこごえるものがいれば、わが身を責めたのだ。民百姓が豊かならば朕は豊かである。民百姓が富んでいるのに王が貧しいということは聞いたことがない」と答え、さらに3年間、税を免じた。信長も秀吉も家康も天皇に取って代われなかった マックス・ウェーバーが言う「家産制国家」の中華の王朝とは違って、日本の天皇家は中国の「家天下」と異なる。つまり天下の財産はすべて天子・皇帝のものとする中華王朝とは対照的に、皇室は古来質素だった。ことに武家時代にはなおさらである。応仁(おうにん)の乱の時代には、天皇家は貧乏きわまりないものだった。第103代後土御門(ごつちみかど)天皇は1500(明応9)年10月21日に崩御したが、葬儀にあたってその費用さえなかった。幕府から1万疋(ひき)の献上金が用意されるまで、遺骸は43日間も清涼殿北側の黒戸御所に安置されていた。天皇の菩提寺(ぼだいじ)である泉涌寺(せんにゅうじ)で大葬に付されたのは11月7日のことだった。 その子の第104代の後柏原(ごかしわばら)天皇が践祚(せんそ)し即位式を行うときにも応仁の乱のため費用がなかった。朝廷は即位式のための50万疋(5千貫文)の費用さえ調達することができず、即位の式典が実現したのは、践祚から21年後のことだった。 戦後日本は一変して、日本共産党をはじめ、国外の諸勢力を背後にひかえた者たちが「天皇制廃止」を掲げ、「日本革命」と「天皇処刑」を唱えた。何かあるたびにメディアを動員して、皇室バッシングを行ってきた。その一連の策動により、1993(平成5)年10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子皇后が赤坂御所の談話室で倒れ、失声症になる。そして週刊誌の皇后バッシングが始まった。熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影) 宮内庁は同26日に皇室への批判に対する反論を発表した。美智子皇后も「批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会であって欲しくありません」と文書で回答した。 戦後日本の報道の問題は、まさしくそこにあると筆者も痛感している。無責任で悪意に満ちた言論人の驕(おご)りには、つねに憤りを感じさせられる。 どのような世界でも、戦乱にもなるとそれまでの王権が消え、地方の有力諸侯などが覇(は)を競い、王を名乗ることがほとんどである。たとえば春秋五覇(しゅんじゅうごは)や戦国七雄(せんごくしちゆう)はそれぞれ公や王と自称し、五胡十六国の時代は多くの王や帝が乱立した。そうした例はいくらでもある。 日本では応仁の乱以後、天皇の存在が薄くなった時代もあったが、織田信長や豊臣秀吉が天皇に取って代わることはできなかった。徳川の武家政治が300年近く続き、皇室を無力化したが、最後にはやはり、大政奉還せざるを得なかった。 応仁の乱から明治維新に至るまで、天皇は権力も武力も、財力さえジリ貧の時代だった。即位式も、葬式でさえ幕府や有力な大名から費用を出してもらってやっと執り行うことができ、泥棒が宮内に入ってくることさえあったのである。「無私」の超越的存在としての天皇「無私」の超越的存在としての天皇 有史以来、日本人にとって皇室は「私」のない「公的」存在として考えられてきた。100%の公的存在であることは日本の皇室の伝統であり、文化そのものでもある。 法的には明治憲法、大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法にも明記されているが、近現代になってから、その考え方にも若干の変化が見られる。それは、世俗的社会を超越した国家元首としての存在である。 天皇の超越性について、福沢諭吉は『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり。苟(いやしく)も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可(べか)らずとの事は我輩の持論」としている。また、国会開設以前の1888(明治21)年に『尊王論』を著し、政党政治は政争をともなうもの、国論を二分する可能性も潜むので、その「俗世界」を「皇室は独り悠然として一視同仁(いっしどうじん)の旨を体(たい)し、日本国中唯忠淳(ちゅうじゅん)の良民あるのみにして友敵の差別(さべつ)見ることなし」という天皇は、あくまで「不党不偏」の立場に立った超越的、超俗的存在でなければならないと説いた。 吉野作造も「枢府と内閣」の一文で、「我国に於いて君主の統治し得る全能の地位に拠り乍(なが)ら而(しか)も親(みずか)ら統治せず、唯君臨して自ら国民の儀表たり、政界紛争の上に超越して常に風教道徳の淵源(えんげん)たる所に寧(むし)ろ我が国体の尊貴なる所以(ゆえん)が存するのではないか」と論じていた。 日本の天皇は国家の祭主である以上、祈りの心を持つ「無私」の存在として超世俗的な公的存在であることが、伝統であると客観的にみなされる。 ところが近現代になり、時局時勢の変化に従って、政局に左右されざるを得なかった。三島由紀夫 三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、「無私」という天皇政治の本来的性格の「恐るべき理論的変質」が始まったのは1925(大正14)年の治安維持法制定からだと指摘している。 治安維持法の制定直後、左翼運動家たちから「ブルジョア階級が神聖なる国体を自己防衛の具にして悪用した」という批判が上がった。社会主義思想蔓延(まんえん)の危機感から公布されたこの法律の第一条には、「国体を変革し、又は私有財産制を否認することを目的として結社を組織した者」を罰すると規定され、今日では「天皇制ファシズム」を確立するための国民の思想統制の道具だったと非難されている。 三島由紀夫によれば、この法律が国体と私有財産制(資本主義)とを並列したため、両者はその瞬間同義語になってしまったのである。無産階級の国体即資本主義とする考えは無知であり、国体をブルジョア擁護の盾とするのは国体冒瀆(ぼうとく)だと三島は糾弾した。「経済外要因としての天皇の機能」を認めないのは唯物論者だけだったが、この法規定によって彼らの「不敬」の理念が、誰一人として気がつかないうちに日本人の間に定着したことを述べている。 そもそも皇室は超世俗的な「公的」存在であり、私財を有しないのが原則である。明治維新以前に「禁裏十万石」と称されていたのは、皇室の私産ではなく公的な経費だった。宮城、京都御所、各地離宮、正倉院財宝、御用林野などは決して天皇の私産ではない。 昭和天皇崩御にあたり、政府が今上天皇に対して皇位継承にともなう相続税を設定したことは、戦後政府の皇室、公人である天皇の伝統を曲解したものである。 さらに戦後の政党政治の建前として、天皇を政治圏外におくべきだと主張するのも、天皇の権限を制限する日本国憲法の規定に沿うなどといって好意的に解されているが、「君臨すれども統治せず」とは政治からの完全な排除ではなく、政争には介入しない超越的存在としての超俗的「無私」の精神こそ天皇の役割、そして存在理由だ。だから「政治利用」について国民からもタブー視されているのである。真のユニークな日本文化とは何か真のユニークな日本文化とは何か 文化と文明の定義は実に難しく、国によっても民族によっても違う。文化が個々にユニークなものであるのに対し、文明は普遍的で、どの民族も国家も共有することが可能である。物質的なもの、ハードウエアが文明で、精神的なもの、ソフトウエアが文化だと思う。 とりわけ日本文化はユニークだと昔から内外からよく言われ、議論されている。では、いったい日本文化の何がユニークなのだろうか。日本文化のうちもっともユニークな点は何かと問われれば、「万世一系」の天皇と平和の社会的しくみだと私は躊躇(ちゅうちょ)なく答える。これだけは人類史のどこにもない、あり得ない、「万邦無比」のユニークな日本文化である。1月、フィリピンを訪問し「比島戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下(共同) それはいったいどこから生まれたものかというと、日本列島は地政学的、物理学的に一つの定量空間であり、それによる自然の摂理と、社会のしくみからである。そのもっともよく知られ、共鳴共感、共有されているのが「和」の原理である。日本民族が「和」あるいは「大和民族」と自称し他称されるのも、この和の原理を共有しているからである。和の原理は仏教的な衆生(しゅじょう)の思想と神道的な共生の思想の習合によって生まれた自然の摂理と社会のしくみであり、そこから日本人の自然や社会環境に対する対応力が生まれてきたのである。 たとえば、平和社会というしくみについては、「和」や「大和」の社会にしか生まれてこないもので、「同」や「大同」の社会なら必ず抗争や紛争が絶えない。そこが日本と中国やほかの国のしくみの違いというものである。 日本は戦後内戦が起きなかったことはもとより、江戸時代は300年近く、平安時代は400年近く、縄文時代は1万年ほども平和を保ち続けてきた。そんなことがいったいなぜ可能なのだろうか。「平和運動」が盛んに行われたためではもちろんない。平和な社会は自然の摂理と社会の仕組みから生まれたもので、日本文化の基層を支えるものである。だから「平和主義」「平和運動」「平和のしくみ」について、それぞれの次元から語らなければならない。これについては別の機会に述べることにして、もう1つのユニークなしくみが「万世一系」の天皇である。 天皇が「万世一系」であるということについては、さまざまな異議、異論もあるだろう。けれど神代から今日に至るまで、日本史はいかなる紆余(うよ)曲折を経ても「易姓革命」はなかった。古代に王朝が別の一族に変わったという異説を唱える学者も中にはいるが、長い歴史において、律令、摂政、幕藩といった体制、さらに国民国家の時代に至るまで、天皇は日本の歴史とともに存在してきた。皇室の存在を抜きにして日本史を解くことも語ることもできないというのが事実である。日本人の心の中に存在している天皇観は、それぞれの時代によって違いがあっても、無視することはできない。日本文化そのものが皇室を核に形成されたものともいえる。 社会的条件の変化から国際環境の変化によって、人類史にはさまざまな革命があった。易姓革命だけでなく、宗教革命や市民革命、産業革命、社会主義革命、さらに人間革命と呼ばれるものまである。 万物は流転する。有為転変は世の常で、文化も文明も文物も王朝も王家も環境や時代とともに消えていく。しかしなぜ日本の天皇だけが「万世一系」の存続が可能なのか、それこそ「万邦無比」である。いくら饒舌(じょうぜつ)な論客が言葉尻(ことばじり)をとらえても、日本の天皇は今でも存在する。いくら政情の動揺や激変があっても、天皇は今でも存在しているのである。天皇は人類共有の貴重な財産である たしかに戦後、日本は有史以来存亡の危機に直面した。しかしアメリカの夢も、社会主義世界革命、人類解放の夢も、日本の文化伝統に取って代わることはできなかった。日本人の心情と宗教心は神代から国生みの物語とともに、天皇家をコアに続いてきたものである。どんな革命も文化摩擦も、文明の衝突も、日本人の心の奥底にある天皇との絆(きずな)を断ち切ることはできない。 天皇と国家の関係を考える場合、ことに近代国家になってから、天皇は、いっそう国民の心の中で国民ともにある共生的存在となった。「天皇陛下万歳」と叫ぶのは日本人のアイデンティティのシンボルでもある。敗戦後でさえ、日本国民の95%が天皇を支持しているとの調査結果がある(川島高峰『戦後世論調査事始──占領軍の情報政策と日本政府の調査機関』ゆまに書房)。しかも敗戦後であっても、アメリカの占領政策の遂行には、天皇抜きには考えられなかった。日本への進駐軍の目には、戦争中以上に恐ろしい日本であると映ったことだろう。 戦後日本は「象徴天皇制」であるという言論人が多いが、天皇はむしろ日本文化とともにある文化的象徴といえる。天皇陛下の「お気持ち」を表明したビデオメッセージを放送する街頭ビジョンに足を止めて見入る通行人=8月8日、東京都新宿区(撮影・春名中) 少なくとも近現代史を見るに、国際環境がどのように変化しても日本が強かったのは、まさしく日本人の一人一人が天皇とアイデンティティと価値観を共有していたからだった。日本人と天皇は文化、文明を共有していたのだから、課題も夢も共有していたに違いない。 ユーラシア大陸に限定してみても、西洋も中洋(中東・中央アジア)も東洋も、いかなる文明、民族、国家も、あたかも歴史の法則のように興亡を繰り返してきた。ギリシャ・ローマ文明の流れをくむイベリア半島やバルカン半島も、長期にわたってイスラム文明に支配された。東亜世界だけでなく、インド世界に至るまで、草原の力に屈したことがしばしばあった。 中国大陸は万里の長城の存在がそれを示しているように、異民族の侵入による脅威が度々あった。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)、南北朝(なんぼくちょう)時代もそうだし、それ以後も、遼(りょう)、金(きん)、元(げん)や満蒙の諸民族に繰り返し征服された。どの国家や民族も栄枯盛衰の運命を辿り、いったん「易姓革命」が起こったら、まるで法則のように歴史循環が繰り返されていくのである。 世界がこのような状況であったなか、なぜ日本だけが「万世一系」「万邦無比」の天皇の存続が可能だったのだろうか。このことについて、比較文化や比較文明の視点から見ればさらにはっきり見えてくる。 なぜ天皇が人類共有の貴重な財産なのだろうか。それは日本の自然の摂理と社会のしくみから生まれた「和」の日本文化を物語るものだからである。戦後アメリカイズムが拡散していくグローバリズムは、今現在さまざまなひずみに直面している。 今こそまさしく日本の文化を見つめ直すときだろう。黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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    日本に万人平等の社会をもたらした「天皇」という超越的存在

    黄文雄(評論家)《徳間書店『世界が憧れる天皇のいる日本』より》  「国の誇り」は世界のどの国にもあるものである。 たとえば近代中国は、悠久な五千年の歴史や人口が多いこと、さらには地大物博(土地が広くて何でもあること)などを小学生の頃から教え、それを国自慢にしてきた。 近年よく話題になっているのは、韓国ハングル世代のウリナラ(我が国)自慢である。漢字もサッカーも、人類の文化、文明、文物はたいてい韓国起源と主張し、朴槿恵大統領まで、「韓国人は優れた創造DNAをもつ」などと自慢している。 もちろん西欧においても、大航海時代以後に文明的優位を確立してから、非西洋諸民族への植民地化は宗主国の使命であり、文明化や人道人権を伝えたとしている。現在でも自由、民主、人権などは普遍的価値として、欧米ではそれらを世界に広めたと誇りにしている。 戦後日本は、国に誇りをもつよりも貶める自虐史観が流行った。戦前はすべて否定され、「愛国」は危険な思想とまで見られてきた。だから「日本の誇りを取り戻す」ということは国を思う人々にとっては、むしろ宿願だろう。 だが、日本は「万邦無比」の誇りをもっている。それは「万世一系の天皇」をいただいているということである。そしてこれは世界唯一のものであり、世界の憧れでもあるのだ。象徴としての務めについてのお気持ちを表明される天皇陛下=8月7日、皇居・御所応接室(宮内庁提供) 日本は平安時代や江戸時代に数百年にわたる平和社会が続いた。また、戦後日本も70年近くにわたり平和を維持している。しかも、江戸時代から現在まで、来日した外国人が一様に認めるように、治安が良く、親切で、世界一安全な国である。世界中それほど安定して安全な社会があるだろうか。これも「万邦無比」であろう。 この平和な社会は、全人類にとって貴重な文化財産でもある。では、こうした「万邦無比」の平和と安定、そして安全な社会は、いったいどう生まれたのだろうか。それは「万世一系」が象徴するように、超越的な「天皇」の存在があってこそ、その社会を育んだのである。天皇を中心として国民がまとまり、平和が維持されてきたのである。そうでなければ、「万世一系」自体が不可能である。中華の王朝交替時に見られた反乱や虐殺の歴史を見れば、それは明らかであろう。 日本人にとっても、人類史にとっても「万世一系」の超越的な天皇の存在が、いかに貴重で「万邦無比」あり、未来の人類にとっても福音であるかということを明らかにするのが、本書を世に問う動機の一つである。世界一「何でもある国」日本 本書は主に四つの論題にしぼり、四章に分けて天皇をとりあげている。その主な主眼は次の通りである。(1)まず外国からの天皇観を紹介した。古代から近現代まで、そして東洋人、西洋人から天皇はどう見られ、どう語られてきたかを述べた。もちろんその中には誤解や曲解も含まれている。(2)他国では不可能だった「万世一系」が、なぜ日本では可能だったのか。そして、それが日本にどのような作用を及ぼしたのか。ことに明治維新以後にアジアでもっとも早く近代化し、世界の大国にまでなれた理由を、天皇の存在から読み解いていく。(3)天皇と他国の元首とはどこが異なっているのか。中華帝国の皇帝との違いを中心に、他国の国王や法王などのあり方の差異から、皇統が連綿と続いてきた理由を探る。(4)天皇と日本人の関係について。歴史的に見ても、天皇は日本人にとって「無私」としての公的で超越的な存在である。その一方で、日本人と天皇のつながりは、他国の国家元首と国民の関係に比べて、極めて強い。なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか、その秘密を探る。 日本が海外から誤解されていることは多々ある。たとえば、戦後に民主主義が広まったというのも、その一つである。民主主義にとって必要不可欠な条件は、少なくとも二つある。一つは徳治(人治)社会ではなく法治社会であり、民衆に遵法精神があるということである。日本人の遵法精神については、すでに開国維新以前に確立されていた。そのことは、江戸時代に来日した西洋人の見聞録などにも書かれている(詳しくは拙著『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』〈徳間書店〉を参照されたい)。 もう一つは多様性の是認である。日本は世界一「何でもある国」である。江戸時代は朱子学だけでなく陽明学、蘭学、国学、そして神道も仏教もダイナミックに競っていた。天皇という超越的存在の下で万人平等の社会であったため、それが可能だったのだ。 フランスの民主主義は国王から奪ったものだが、日本の民主主義は四民平等、万民平等という社会のしくみから生まれたものである。 神代の神議から今日に至るまで、日本の民主主義は日本文化の歴史の申し子そのものであることは、本書でも改めて指摘したい。 本書は日本人が書いた天皇論とはやや趣を異とし、台湾で生まれ育ち、その後、日本で半世紀を暮らしてきた筆者が、第三者の目から天皇と日本人について分析したものである。日本の素晴らしさや底力について考えるための一助になれば幸いである。 黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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    憲法上の問題をはらんだNHKの天皇陛下「ご意向」スクープ

    るにもかかわらず、報道各社はNHK報道に追従した。一体真実はどこにあるのか、悩んだ人も多いであろう。皇室は非政治的でなければならない 陛下は憲法に定められた天皇の在り方を何よりも大切になさっておいでで、これまで政治発言を差し控えていらっしゃった。小泉政権下で皇位継承問題が盛んに議論された折も、陛下は皇室制度についてご意見を表明なさらなかった。 皇室制度は皇室典範という法律によって規定されているため、その改変は国会の責任事項であるから、いうなれば政治問題である。陛下が皇室制度に関して御発言を控えていらっしゃるのは、憲法の趣旨を踏まえてのことと拝察される。 陛下とて、種々の政治課題について個人的なご感想をお持ちになることはあろう。ご家族やお身内とそのような政治的な会話をなさることもあろう。しかし、それは飽くまでも内々でのことであり、決して公に仰らないのである。 日本国憲法は第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」、また第七条で「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」と定め、続けて10項目、また第6条に2項目、合計12項目の国事行為を列挙している。 これを根拠に、天皇が政治活動を行ない、あるいは政治発言をなさることは憲法を逸脱するものと解され、また同時に、天皇を政治的に利用する行為も憲法の趣旨に反するものとされている。したがって、今般、「宮内庁の関係者」がNHKに情報をリークし、陛下の「御意向」が単独スクープ報道として表に出たことが、果たして陛下の御心に叶ったものであるのか、私には甚だ疑問に思えるのである。憲法を守る陛下、憲法を破る宮内庁関係者 天皇陛下は、ご即位にあたり高御座で「日本国憲法を遵守し」と仰せになり、また御会見などでよく「憲法が定める象徴天皇の在り方」について言及なさっておいでで、憲法の枠から出ないように細心の注意を払っていらっしゃると拝察される。天皇の御発言が政治を動かすような事態はあってはならず、陛下はご即位以来、そのような御発言をなさった先例はない。 もし第三者が陛下の許可なく、陛下が思っていらっしゃることを勝手に発表したらどうなるであろうか。「陛下の御意向」が政治利用されることにもなりかねず、それは皇室を傷つけ、ひいては日本国民が傷つくことになる。第190通常国会の開会式でお言葉を述べられる天皇陛下=1月4日、国会・参院本会議場 今回の報道では「宮内庁の関係者」が外部に陛下の御意向を語ったことになっているが、「宮内庁の関係者」とは一体誰なのか。陛下のお許しを受けて語ったのか分からないだけでなく、その「御意向」が本当に陛下の御意向であるか、検証することも不可能である。仮に検証できたとしても、その結果を発表することも憲法上の問題がある。 NHK報道の直後に、宮内庁次長が会見で「そのような事実は一切ない」と語ったが、当然である。その後も、宮内庁長官、内閣官房長官、内閣総理大臣が事実を認める発言をしていない。 そもそも、陛下のお側に侍る公務員が、上司である宮内庁長官の許可なく陛下の「御意向」を外部に漏らしたのであれば、それは国会公務員の守秘義務違反を構成する。これは「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」と定める国家公務員法第100条に違反する立派な犯罪である。 陛下が、そのような犯罪をよしとなさるとは、到底思えない。スクープ報道は政治的思惑の産物 報道各社は、総理官邸と宮内庁の間で内々に譲位に向けた調整が進められていたと報じているが、もしそれが事実なら、陛下を含めそれに関わる人たちの意思に反して、陛下の「御意向」が発表されてしまったのではないかと思う。 宮内庁も一枚岩ではなく、この流れに反発する誰かが、その流れを妨害するために暴露した可能性も排除できない。もしそれが事実なら、この度のスクープ報道自体が、譲位実現を阻む壁となった可能性もある。 他方、皇室典範改正が思うように進まないと感じた誰かが、一石を投じるつもりで「御意向」をリークした可能性もある。今のところ真相は誰にも分からないが、極めて政治的な思惑によって「御意向」がリークされたことは間違いないであろう。 とはいえ、断定はできないものの、伝えられたことは本当に陛下の御意向である可能性が高い。宮内庁は、表面上は否定しているものの、NHKに抗議をしていない。ことある度に報道機関に抗議をしている宮内庁が、今回だけそれをしないのはいかにも不自然である。その点からしても、おそらく「御意向」は事実と思われる。 では宮内庁は嘘をついているかといえば、そうでもない。「内面では政治的なご意見をお持ちかもしれないが、それを公表なさった事実はない」というのも事実なのであろうから、宮内庁の表面上の説明も一応は筋が通っているといえよう。 このスクープ報道は、本来公表されないはずの陛下の内心、もしくは公表されない前提の陛下の「つぶやき」が何者かによって公表されてしまったことが問題なのである。ではどうすればよいか。 憲法の趣旨からして、天皇陛下の「御意向」が政治を動かすことは許されない。だからこそスクープは真偽不明なものとしたうえで、それとは別に政府が独自の判断で譲位を実現させる動きをするか否かにかかっている。 安倍内閣が本格的に法整備に着手すれば、総理は定期的に陛下に内奏を行なっているのであるから、内々に陛下の御意向を拝聴しつつ進めていることと想像することが出来るわけで、国民はその点においては安心して事の成り行きを見守ることができる。 そのような暗黙の了解こそが、皇室制度を改変するときには重要になってくると私は思う。 陛下の内心は、議論する対象でなければ、断定すべきものでもない。一人ひとりが忖度して、陛下の御心に叶うことを願い、静かにお見守りすることこそが肝要と思う。 譲位を実現するための具体的な方法については、月刊『正論』9月号に拙稿を寄せたので、それを参照して頂きたい。ちなみに、報道各社はNHKが用いた「生前退位」の語をそのまま用いているが、不敬に当たるため、私は「譲位」の語を用いたことをお断りしておく。

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    天皇陛下「生前退位」ご意向の波紋

    天皇陛下が存命中に皇位を譲る「生前退位」の意向を示されていると報道され、驚きが広がった。陛下のご意思を尊重し、皇位継承の在り方を慎重に議論する必要があるが、実現にはハードルも高い。一連の「ご意向」報道を読み解く。

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    「生前退位」は選択肢の一つ、 望ましくない陛下のご意向の既成事実化

    差し上げたいというのが国民大多数の思いだ。しかし、具体策を考え始めると、問題解決はそう簡単でない。 皇室典範には「生前退位」(譲位)の規定はない。「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(第4条)との規定があり、崩御されるまでは在位されるとし、ご生前での譲位・退位を否定している。陛下のお望みをかなえようとするならば、皇室典範の改正が必要になる。 しかし、皇室典範は恒久法であり、ご生前での譲位・退位を制度して認めるような規定を設けると、今後の皇位継承や皇室の在り方に混乱をもたらす可能性もある。譲位・退位の要件や手続きについて明確なルールを設けないと、譲位・退位が政治的に利用され、皇位の安定を揺るがすことにもなる。 歴史を振り返ってみても、政治権力者など外部によって譲位・退位が強要されたり、時の天皇が影響力を残すために恣意的に譲位・退位するケースもある。 皇室典範が生前の譲位・退位を規定していないのは、むしろそれを積極的に排除した結果と言える。現行皇室典範(昭和22年)は明治の皇室典範(明治22年)を基本的に継承しているが、明治の皇室典範にも譲位・退位の規定はなく、むしろ排除している。 明治皇室典範の公的な逐条解説書である『皇室典範義解』(明治22年6月刊)は、譲位は本来の皇室の伝統ではなく、譲位を使って時の権力者が皇室内を対立させたことに言及し、代表例として南北朝時代の混乱を挙げている。 『皇室典範義解』の記述のもとになったのは、皇室典範制定過程における伊藤博文の発言で、伊藤は、譲位の慣行は仏教の影響であり、いったん即位すれば、終身在位が当然であり、自由に譲位することはできない。摂政の制度があれば、譲位を制度として設けることは不要だと述べている。制度の大掛かりな見直しは本当に必要か 明治皇室典範の制定過程での配慮が今日すべて通用するものではないが、それでも現行の皇室典範も排除している譲位・退位を新たに制度として導入することには慎重な検討を必要とする。 譲位・退位後の天皇の法的な地位についても慎重な検討を必要とする。まず、譲位・退位後の天皇を何と称するのか。歴史上は「太上天皇(上皇)」と称するが、これでよいか。身分についてはどうするのか。内廷皇族として処遇するのか、宮家の一つとして処遇するのか。ご公務についても、憲法上の国事行為は出来ないが、その他の「公的行為」の一部を担うとすれば、何が行え、行えないか、その法的な位置付けはどうか、憲法との関係はどうか、についても整理しなければならない。 お住まいはどうするのか、皇居内に別の御所を設けるのか、予算についても天皇や内廷皇族の日常の費用である「内廷費」から拠出するのか、宮家の一つとして「皇族費」から拠出するのか。職員の配置も検討が必要であり、皇室経済法の見直しにも繋がる。 崩御の際の大喪の礼や陵墓についても、現職の天皇と譲位・退位後の「前天皇」と区別する必要はないのか。皇位継承儀礼も終身在位を前提とし、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(皇室典範第4条)とすることから、生前継承を前提としたものに継承儀礼全体を組み立て直さなければならない。 既に述べた通り、天皇陛下の譲位・退位のご意向は強い責任感によるものであり、できることならかなえて差し上げたい。しかし、具体的に考えていくと関連する問題があまりに多く、制度の見直しは大掛かりになる。慎重な検討が必要であり、拙速は避けなければならない。 元号法は「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」(第2条)とすることから、譲位・退位されれば、元号も変わり、国民生活にも大きな影響を及ぼす。 そうであれば、それほど大掛かりでない代案についても検討しなければならない。恒久法である皇室典範ではない特別措置法で、今回に限り、ご生前での譲位・退位ができるようにすることも考えられるが、特別措置法であれ、譲位・退位の前例をつくることになり、その場合も譲位・退位の要件、手続き、譲位・退位後の法的な位置付けなどの大掛かりな検討が必要であることに変わりはない。政治的対立の超越が求められる皇室 皇室典範には「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」(第16条2項)との規定もある。この規定を柔軟に解釈して摂政を置き、皇太子殿下に就任して頂くことも有力な選択肢の一つであろう。天皇陛下はそのまま在位されるので、これまで述べて来たような制度の大幅な見直しは必要ない。元号も変わらない。 摂政を置くという考え以外にも、単純にご公務を大幅に軽減するという案もある。既に前から宮内庁はそれを進めているが、さらにご公務の中身を精査し、皇太子殿下や秋篠宮殿下など他の皇族方が肩代わりできるようにしていくことが必要だろう。新任の石原伸晃経済再生相の認証式に臨まれる皇太子さま=1月28日、皇居・宮殿「松の間」 憲法上の国事行為については天皇陛下にしかできないが、「国事行為の臨時代行に関する法律」によって臨時に代行できる。これまでは天皇陛下の病気療養と外国ご訪問に限られているが、要件を緩和し、国事行為の一部代行を検討してもよい。この場合も天皇陛下は在位されることから、皇室制度の大幅な見直しは必要ない。 天皇陛下は、ご自身が在位されることで迷惑を掛けるとお思いであると拝察するが、国民の一人としては在位して頂くだけで十分にありがたいという気持ちである。在位され、その上でご公務の負担をどのようにして軽減していくことができるかを具体的に検討していくことの方が、時間も掛からず、本当の意味で陛下のご意向にかなうのではないかと思われる。 なお、今回の報道が出所不明の「宮内庁の関係者」からの情報でありながら、天皇陛下の「ご意向」として既成事実化し、政府に制度変更を促していることは、皇室の在り方として望ましくない。憲法が規定する「国民統合の象徴」は、天皇が如何なる政治的な立場に立つことがないことを求めている。特定の政治的な立場に立てば、賛成・反対の議論の渦中に入り、敵をつくることになって国民を統合することはできない。皇室には政治的対立を超越し、国民統合の機能を発揮することが求められている。今後、別のテーマでもカギカッコつきの「ご意向」が示されることがあるとすれば、皇室の尊厳が傷つくことにもなりかねない。

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    自問すべきは「日本のかたち」 国民は陛下のご意向を静かに待てばよい

    がある。民主主義体制は、本質的に人々の「平等」を前提とした政治制度であるけれども、立憲君主制度とは、皇室や王室を頂点とする社会の「階層秩序」を自明のものとして受け容れている政治制度である。明治以後、「国体」という言葉で想起された立憲君主国家としての型が強固に出来上がっている中で、民主主義体制の論理を正当に擁護しようとしたのが、吉野作造に代表される「大正デモクラシー」論客の努力の意味であった。吉野作造は、明治憲法下の立憲君主体制に民主主義体制の論理を整合させる難しさを察知すればこそ、デモクラシーを「民本主義」として紹介し、それを擁護したのである。 そして、戦後一転して、民主主義体制の論理が称揚される中、「開かれた皇室」像が模索されたのは、その民主主義体制の論理に立憲君主制度を合わせようとした努力の表れであったといえるであろう。故に今、考えなければならないのは、民主主義体制の論理の暴走や拡散の中で、立憲君主国家としての型を確認し直すことではなかろうか。こうした二つの政治制度の「緊張した関係」に眼を向けなければ、当代の議論は、何時まで経っても吉野作造の時代の議論を越えられまい。総てが民主主義体制の論理で語れるなどというのは、戦後日本の最たる誤謬である。特に立憲君主制度の根幹にある話は、そうである。 もっとも、現行憲法第二条に、「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定められ、皇室典範がその趣旨に沿った法律として位置付けられている以上、その改正に国会議決という「民主主義体制のプロセス」を経なければならないという現実がある。以上のような認識を踏まえて、皇室典範論議に際して留意すべき点があるとすれば、次のようになろう。「民主主義的な議論」には全く馴染まない そもそも皇室典範は、前にも触れたように、「国会の議決した」法律となっているとはいえ、その原型は明治憲法に並列して制定されていた皇室の御家法と呼ぶべきものである。故に、皇室典範の改正に係る具体的な中身は、天皇陛下を含む皇室の方々の御意向を体して決めるべきものであって、政治家を含めて庶民が容喙すべきものではない。小泉純一郎内閣期、女性天皇の是非を焦点にした皇室典範論議が沸騰した折、世に保守論客と目される人々ですら、口角泡を飛ばした論争に及んでいたのは、誠に奇怪な光景であった。 皇室典範改正案それ自体は、たとえば皇室会議のような場で「外部の喧騒」から離れたところで作成され、国会に提起されるべきものあろう。 加えて、皇室典範改正案に絡む国会審議の性格もまた、その改正案の中身を検討するのではなく、それを実質上、承認するかしないかという議論に限ったものになるという諒解は、予め成しておく必要があるであろう。皇室典範改正案審議が政争の渦中に落ちる可能性は、完全に排除されなければならないのである。 さらにいえば 前に触れた現行憲法第二条の条文中、「国会の議決した」という文言それ自体が適切なのであるかは、今後の憲法改正論議の文脈で議論されるべきものであるかもしれない。日本の立憲君主国家としての型が民主主義体制の論理によって浸食される事態を避けるためには、この文言を削除すべきだという議論は、成り立つのではなかろうか。 故に、筆者は、譲位を含む皇位継承の有り様に関しては、仮に宮内庁筋から意見を求められるようなこと〈現実にはあり得ないことではある…〉があれば、政治学者の責任として何かを内々に具申するかもしれないけれども、それ以外は何かを公に語る気はない。この件は、侃々諤々たる「民主主義的な議論」には全く馴染まない。皇室の方々やその周辺の議論の結果が出るのを静かに待つというのが、国民の態度としては相応しいと思われる。

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    福沢諭吉の皇室論を読み解く~皇室の弥栄、日本の永遠を祈る

    平沼赳夫(衆議院議員)皇族に対する不当な差別待遇 平成十七年十一月に政府の諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が、それまでの皇室の伝統を無視して、女系天皇を認める報告書を出しました。百二十五代にわたって守られてきた皇室の伝統を僅か十名程度の「有識者たち」の議論によって変えることはおかしいと考えて、「報告書」に対する反対運動を行いました。平成十八年三月七日には、日本武道館で「皇室の伝統を守る一万人大会」を開催しましたが、このような私たちの活動を「右翼だ」とみなす人が多かったことは残念でした。 官僚たちも、国家公務員の上級試験を通ってきていますが、皇室のことをまともに学んできていません。ですから、天皇陛下が国家の安泰と国民の幸福を祈られる皇居・宮中三殿の補修費用なども、財政難を理由に極力削ろうとする。宮中三殿の塀などがぼろぼろになってしまっていても、少しも気にしていない。 あまり知られていませんが、皇族に対する処遇もおかしいことばかりです。ひげの殿下と呼ばれている寬仁親王殿下は九回も癌の手術をされていますが、皇族は国民健康保険に入ることもできないため、医療費の負担が大変なのです。宮様の場合、一般の人々との相部屋というわけにもいきませんから、入院費が一カ月に何百万とかかるわけです。その費用を決して多くない皇族費から捻出しなければならない。皇族は国民健康保険に入れないだけでなく、選挙権もありません。ところが、税金だけはしっかりと取られる。 昭和天皇の弟宮にあたられる高松宮殿下は港区高輪にお屋敷があって、八千坪もありました。その内、半分の四千坪はご自身の所有地でした。その四千坪の敷地をすべて国に寄付されたんです。昭和六十二年の時ですから、バブルの時代で坪一億として時価四千億ですよ。 それでも高松宮様が薨去(こうきょ)されたとき、税務署の役人たちが高松宮邸に来て、相続税を算定するためにお蔵の財産に査定額の札を貼って莫大な相続税を課した。やむをえず妃殿下は相続税を支払うために、葉山の別邸を売却されたわけです。四千億円も寄付された高松宮家から相続税を取り立てたんですよ。選挙権もなく、国民健康保険にも入れないのに、相続税などの税金は一般と同じく取られる。現行憲法でも「国民統合の象徴」と規定されている皇室に対しては、それにふさわしい処遇が整えられるべきではないかと思います。 そもそもこんなおかしな法体系となっているのは、占領政策が原因です。日本の敗戦後、アメリカの占領軍が皇室を「日本最大の財閥だ」と誤解して財産を没収しただけでなく、最小限の経費しか使えないようにしたからです。国民統合の象徴でありながら天皇陛下も皇族も不当な扱いを強いられてきた。そうした「占領遺制」は戦後半世紀、ほとんど是正されずに今日に至っているわけで、政治家として誠に申し訳なく思っています。「自由な政治論争がもたらす軋轢」を緩和する力「自由な政治論争がもたらす軋轢」を緩和する力 皇室に対して不当な扱いをしている戦後体制を是正するためにはまず何よりも、政治家の見識と世論の支持が必要ですが、現状でははなはだ心もとない。私は若いときに谷口雅春先生の皇室論を読む機会に恵まれて皇室の尊さを理解することができましたが、戦後教育しか受けていなければ皇室の尊さがわからないのも無理はない。 そこで現代の人々にも皇室のことを理解してもらうためにどうしたらいいのか、調べておりましたら、私の母校の慶応義塾大学の創設者である福沢諭吉先生が皇室のことについて立派な論文を残されていることに気付きました。福沢先生と言えば、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉でも有名なように、どちらかというと進歩的な開明思想の持ち主だというのが大方の印象でしょう。その福沢先生が明治時代に「なぜ皇室は尊いのか」「日本の将来にとって皇室がいかに重要なのか」を丁寧に論じていらっしゃるのです。現代の評論家や政治家が主張するよりも、福沢先生が皇室の尊さを力説されていたという事実に非常に価値があると思って、このほど『福沢諭吉の日本皇室論』(島津書房)という本を出した次第です。 この本には、国会設立が決まったことを受けて明治十五年(一八八二)に発表された「帝室(ていしつ)論」と、明治二十一年に発表された「尊王論」の、それぞれの原文とその現代語訳を収めていますが、日本人なら必ず読んでおくべき近代皇室論の古典だと思います。天皇陛下も中等科時代に、東宮職参与となった小泉信三博士とともに、福沢先生の『帝室論』を輪読されておられます。 福沢先生はいわば西欧近代化、自由民権運動のオピニオンリーダーだったわけですが、単純な自由民権論者ではありませんでした。もちろん「国会での自由な政治論争」と「法令に基づく公正な行政」を支持しているわけですが、同時に自由な政治論争や法令に基づく公正な行政の限界、短所も十分に理解していました。福沢先生は国会開設を支持しつつも、予想される短所を次のように予想しています。慶応義塾三田キャンパスに建つ「三田演説館」《国会を開設して、やがて二、三の政党が対立するようになれば、その間の軋轢(あつれき)は大変苦々しいことになるだろう。 政治的な問題に関して政敵を排撃するためには、本当は心に思っていないことでもいろいろと申し立てて、お互いに相手を傷つけることがあるだろう。その傷つけられた者が、相手を傷つけるのは卑劣であるなどと弁論しながらも、その弁論の中で相手に復讐して、逆に傷つけることにもなるだろう。 あるいは人の隠し事を摘発し、あるいはその個人的なスキャンダルを公表し、賄賂や請託はあたりまえのことになる。甚だしい場合は、腕力をもって闘争し、石を投げ瓦を割るなどの暴動があることも予想される。西洋の諸国はたいてい皆そうである。わが国も同じようにそういうことになるかもしれない》 そして、自由な政治論争が党派間に深刻な軋轢を生み、国論が分裂して国家意志をまとめることができずに、外国から付け込まれるような事態になったらどうするのかとおっしゃっています。《政治の党派が生じて相互に敵視し、積年の恨みがだんだん深くなり、解決できないという状況の最中に、外からの攻撃が生じて国の存亡にかかわる事態が到来したら、どうするのか。自由民権が非常に大切であるとはいっても、その自由民権を享受させてくれた国が、あげて侵略され、不自由で無権力の有り様に陥ったなら、どうするのか。 …小さい者どうしがお互いに争って勝敗が容易に決着せず、全身の力をすでに使い果たして残る力もない。こんな状態で他国のことを考えて、それに対処する余裕があるだろうか》 福沢先生がこの論文を執筆されたのは今から百二十年前のことですが、現在の政治の姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。驚くべき先見性だと思います。続けて、このような「国会における自由な政治論争がもたらす軋轢」を緩和させるためにも「一種特別な大勢力」が必要だとして、次のように述べていらっしゃいます。《民心軋轢の惨状を呈するときにあたって、その党派論にはいささかも関係するところのない一種特別な大勢力があり、その力をもって、相争う双方を緩和し、無偏無党の立場から両者を安んじいたわって、各々が度を過ぎないように導くことは、天下無上の美事であり、人民には無上の幸福といえるだろう》 そして、我が国において「相争う双方を緩和し、無偏無党の立場から両者を安んじ、いたわって、各々が度を過ぎないように導く」力をもっているのは、党派をこえて国家・国民のために祈られる皇室しかないと、福沢先生は指摘されているのです。マッカーサーとのご会見に見る「皇室の本質」マッカーサーとのご会見に見る「皇室の本質」 確かに福沢先生の指摘している通り、有史以来我が国は幾度となく国難に出合っていますが、そのときは必ず皇室が中心となって、しっかりとまとまって危機に対応してきました。元寇のときの亀山上皇、幕末・明治維新のときの孝明天皇と明治天皇、そして占領軍が乗り込んできた昭和二十年のときの昭和天皇と、いずれも皇室を中心にまとまってきました。まさに皇室があるから、国家は分裂せずに守られてきたと言えると思います。明治24年(1891年)頃の写真。日本銀行発行紙幣の原画となる(Wikimedia Commons) 日本の敗戦後の武装解除一つをとっても、天皇のご存在がなければ、絶対に失敗していたと思いますね。皇室は常に国家・国民のことをお考えになっていらっしゃる。その皇室に対する敬愛の念において国民がまとまっていなければ、武装解除もあれほど平穏裡に進まなかったでしょうし、ゲリラ闘争が各地で頻発して現在の日本の繁栄もなかったと思いますね。国家が分裂せずにまとまることの重要性は、イラク戦争後のイラクの復興の様子をみればよくわかります。国民を統合する存在がなければ、イラクのように内乱が続いていたかも知れないのです。 では、なぜ皇室に国民を統合する力があるのか。日本の歴史を見れば、源氏にしても平家にしても織田信長にしても、その軍事力と権力によって皇室を無にすることはできた。しかし、そうしなかったのは、神話の世界につながる日本最古の宗家としての重みを持ち、国家の安泰と国民の幸福を日々祈られる皇室の権威を誰もおかすことができなかったからです。 しかも、いざとなれば国民のために捨て身の行動をとられてきた。思い出すのは、日本敗戦後の昭和二十年九月のマッカーサー元帥とのご会見のことです。戦勝国の代表として日本に乗り込んできたマッカーサー元帥は、アメリカの士官学校を最優秀の成績で卒業した軍人で、敗戦国の昭和天皇が会見を求めてきたのに対して、命乞いに来るのだろうという先入観をもっていた。ですから新聞で公表された写真をみると、両腰に手をあてて略式の軍服で陛下をお迎えしているわけです。 しかし陛下は命乞いをされずに「自分はどうなってもいいから日本国民を救ってほしい」と切々とおっしゃられて、マッカーサーは大変感動したわけですね。ですから、最初はぞんざいな扱いであったのが、お帰りになるときは玄関まで見送りに出た。国民のためならば命を投げ出される無私の行動をとられた昭和天皇だからこそ、日本国民も戦争には負けたけれども、皇室に対する敬愛の念をいささかも変えなかったわけです。行政の限界と皇室の役割行政の限界と皇室の役割 福沢先生が皇室に期待した役割は、政治論争に伴う軋轢を緩和することだけではありませんでした。国会が開設され、法令が整っていくと、法令に基づいて公正な行政が行われるようになっていきます。権力者による恣意的な行政が行われなくなることは歓迎すべきことですが、そこに一定の限界があるとして、次のように指摘しています。《近来は法律が次第に精密の度を加え、世間に法理と言うものが次第に喧しくなってきた。それに従って、政府の施政もすべて規則を重んじる傾向になるであろうことは自然の勢いである。それが国会開設の時期ともなれば、政府はただ規則の中で活動するだけとなり、規則から外れた部分では、いささかも自由がないことだろう。 しかしながら、人間社会はそうした規則の中だけに包含・網羅(もうら)することはできない。すなわち、政府の容量は小さく、社会の形は大きいと言えるだろう。小をもって大を包もうとしても、もともと無理な話だ。 例えば、よるべない人々を憐れみ、孝行な子や貞節な婦人を賞するようなことは政府の手にあまる。これらは、人情の世界においては最も緊要なことであり、一国の風俗に影響を及ぼすことが最も大きいことだけれども、道理の中に束縛されている政府においては、決してこれに手を着けることができない。「政府の庫の中にあるものは、一銭の金、一粒の米といえども、その出処は国会で議定して徴収した租税である。金も米も皆これ国民の膏血(こうけつ)なのだ。どうして、この膏血を絞って一部の人々の腹の足しにするようなことができようか」などと理屈をこねれば、道理の世界ではこれに答える言葉もあるまい》 事態はまさに福沢先生の予言した通りになりました。 明治二十三年(一八九〇)、政府は第一回帝国議会に、第一号法律案として「窮民救助法案」を提出しました。障害者・傷病者・老衰者等で自活の力なく飢餓にせまる者と養育者のない孤児を対象に、衣食住給与と医療、埋葬まで行うというものですが、衆議院は法案をなんと否決してしまったのです。「なぜ一部の困窮者を助けるために国民の税金を使うのか」という批判が多数を占めたというのです。 しかし、貧富の格差を放置し、飢え死に寸前の人々を見捨てるような風潮が蔓延すれば、社会は荒みます。助け合い支えあうよき社会としていくためにも、親に孝行を尽くし、困った人に手を差し伸べるような善行を讃える世論を高めていくことが重要ですが、法令に基づいて行政を行う官僚政府がその役割を担うことはなかなか難しい。では、どうしたらいいのか。皇室ならば、社会が荒むことを防ぎ、助け合い支えあうよき社会の美風を高めることができると訴えているのです。明治天皇百年祭でライトアップされる南神門=2012年7月、東京・明治神宮《国会議員の政府は、道理の府であるために、情を尽くすことができない。理を通そうとすれば情を尽くすことができず、情を尽くそうとすれば理を通すことができない。この二者は両立できないものと知らねばならない。 では、このような状況で、日本国中を見渡してみて、こうした人情の世界を支配して徳義の風俗を維持することのできる人がいるだろうか。ただ帝室(皇室)があるのみである》 国家・社会の現実を見据えた福沢先生の「皇室論」は当時の指導者層にも支持され、皇室は、貧民救済など福祉に尽力されるようになります。例えば、明治四十四年、明治天皇は困窮者に対する無料の医療事業を起こすべく「施療済生の勅語」を出され、御内帑金(ごないどきん、ポケットマネー)をもとに恩賜財団済生会が創設され、全国各地に貧しい人向けの病院や診療所が建てられました。 大正十四年には、関東大震災を被災した老人を救済収容する目的で、皇室の御内帑金と大震災に対する一般義捐金をもって財団法人浴風会を創設し、病院を併設し五百人を収容する大養老院浴風園を設立しています。この浴風園のおかげで全国の養老院の水準が大いに上がったと言われています。 明治新政府は、欧米諸国の軍事的脅威から独立を守るために富国強兵を最優先にせざるを得ませんでした。いわば、能率を優先させ、採算重視の資本主義のもとで経済発展をしていかなければなりませんので、資力が乏しい当時の政府は、福祉を後回しにせざるを得なかったわけです。しかし、能率的採算本位の資本主義は、拝金主義を招き、格差を生み、国民精神を退廃させていくことになります。そこで、富国強兵では切り捨てられる部分、つまり学術・文化の高貴さを保ち、福祉を重視して格差を是正する役割を、皇室に担っていただくべきであると福沢先生は考えられ、実際に皇室はそのような役割を担ってこられたわけです。 もちろん、皇室が福祉や伝統文化の顕彰を行おうと思えば一定の財産が必要です。ですから福沢先生の「帝室論」の結論も、福祉や伝統文化擁護のため、皇室には一定の財産をお持ちいただきたいということでした。 幸いなことに明治の時代は、政権担当者たちも精神的分野で皇室が大きな役割を果たされるべきだと考えて、ヨーロッパの王室とは比較になりませんが、一定の皇室財産をお持ちいただくことになりました。行政ができることには限界があるからこそ、それ以外の精神的分野における皇室の役割は大きい。この福沢先生のご指摘は平成の今でも立派に通用すると思いますね。ハンセン病と高松宮殿下ハンセン病と高松宮殿下 現行憲法となって皇室に関する法制度は確かに変わりました。しかし、福沢先生が指摘されたような、行政とは異なった立場から福祉や文化・芸術など精神的分野において皇室が大きな役割を果たされるという点については、ほとんど変わっていないのではないでしょうか。 私がまだ若い代議士の頃、私の選挙区である岡山にハンセン病の療養施設がありまして、高松宮同妃両殿下がお見えになりました。私も随行させていただきましたが、ハンセン病の重い患者などは手も爛れているんですが、高松宮殿下と妃殿下はしっかりと手を握られて激励されたんです。当時はまだハンセン病に対する誤解も残っていて感染するのではないかと、随行の知事や政治家は患者のそばに近寄らなかった時代ですよ。ある患者さんは目が全く見えない。そんな患者さんの手をしっかりと握られる殿下のお姿を間近に拝見していて、やはり皇族というのは違うなと思いましたよ。目が見えないその患者さんに看護師さんが「いま手を握ってくださっているのは高松宮殿下ですよ」と話しかけると、涙が流れたんです。何しろ爛れて手の形をしていない状態です。宮様はいやいやではなくて、本当に心をこめて手を握られる。恐らく誰も手を握ってくれなかったんだと思うのです。 ハンセン病に対する社会の偏見を取り除く上で皇族が果たされた役割は本当に大きかったと思いますし、青年時代に「帝室論」をお読みになっていらっしゃるためなのでしょうか、現在の天皇皇后両陛下も障害者福祉など、時の行政の手が及ばない国民の重要事に精神的な支援をなさっていらっしゃいますよね。御即位十年のときに皇后陛下も、行政との関係を念頭に、次のようにおっしゃられています。「この十年間、陛下は常に御自身のお立場の象徴性に留意をなさりつつ、その上で、人々の喜びや悲しみを少しでも身近で分け持とうと、お心を砕いていらっしゃいました。社会に生きる人々には、それぞれの立場に応じて役割が求められており、皇室の私どもには、行政に求められるものに比べ、より精神的な支援としての献身が求められているように感じます」 実際、皇室の「より精神的な支援としての献身」によって救われた国民は多いと思いますが、そうした「現実」を国民の側がどれほど知っているのでしょうか。現在の皇室に戦前のように多くの財産があれば、もっと福祉や伝統文化振興のために大きな役割を果たしていただけるでしょうに、いまはお気の毒で、乏しい予算ですので、皇族の関係者が結婚される際に宮家が出されるお祝いは申し上げるのも憚られる金額だと伺っています。もちろん、お祝いをいただく側は宮家からいただいたということで有難く思っていると思いますが、一般の会社員並みのお祝いさえお包みになれない状況にあることは本当に申し訳ない次第です。 皇室が「福祉などのために基金を出されたい」とお考えの際に、ある程度自由に使える財産をお持ちいただくことができるように、せめて国民の側が皇室に寄付できるような制度があればいいのですが、占領軍から強制された現行憲法では、国民からの寄付もほとんど認められていません。ですから、一日も早く憲法改正を成し遂げ、国民からの寄付の道を開くとともに、皇室には、自由な政治論争に伴う軋轢を和らげ、行政ではできない精神的な側面でもっともっと大きな役割を果たしていただくようにしていくべきだと思います。 その際、現行憲法では、総理大臣も元首的な機能を持っているし、天皇陛下も国事行為を始めとして元首的な役割を果たされている。このため学会では厳密にはどちらが元首なのかという論争が行われていると聞いていますから、「党派を超えた尊いご存在である天皇陛下こそ日本国を代表される元首である」ということを明記すべきだと思います。 私の知り合いには慶応出身者が多いのですが、ほとんどの人は福沢先生が皇室論を書いていらっしゃることを知りませんでした。『学問のすすめ』だとか『福翁自伝』は知っていますが、『帝室論』と『尊王論』はほとんど知りませんでした。慶応大学の塾長室を訪ねて安西塾長にも差し上げましたが、安西塾長も出版のことを大変喜んで下さったのです。 天皇陛下は御在位二十年を迎えられます。皇室と国民の絆をめぐり様々な議論が交わされてもいます。なかには合点のいかぬ問題提起や心ないと思えるものもあります。我が国にとって天皇、皇室がいかなる存在であるのか。それを今を生きる国民としてしっかり見つめ直さねばならない。しかしそのためには先哲の残された古典を繙き、その叡知に向き合うなかで私たちの先人がどのように考えたのかを学び、自らを省みる営みはとても大切で忘れてはならないように思う。 福沢先生の『帝室論』と『尊王論』はこれまで長い間忘れ去られた論文だったわけですが、「自由民主主義」を推進する立場から皇室の尊さを説く福沢先生の「皇室論」は百二十年の歳月を経た今日でも、将来の日本を構想していく上で、大きな示唆と誇りを与えてくれると思います。

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    「天皇の生前退位は憲法違反」は政府高官の詭弁だ!

    猪野亨(弁護士) 今上天皇が退位を表明されていますが、皇室典範の改正が必要ということになります。皇室典範には生前の退位についての規定がないというのがその理由ですが、そもそも天皇自身が退位したいというのに、法の規定がないから退位できないというのも不合理といえば不合理です。天皇の意思が一切、考慮されないということになりますから、天皇の人権はどうなるのかとうことです。 象徴天皇制、世襲制という特殊な地位から天皇には憲法上の基本的人権の適用は制限を受けるとされていますが、とはいえたまたま皇室に生まれたというだけで、かかる差別的処遇を受けなければならない合理的な理由はありません。新年祝賀の儀に臨まれる天皇、皇后両陛下はじめ皇族方=皇居・宮殿「松の間」 皇室典範の改正の要否はともかく、憲法上、生前の退位は無理とする政府高官の発言が報じられています。「政府関係者「天皇陛下の生前退位は無理」」(日本テレビ2016年7月15日)「陛下の意向があると報じられる中で、皇位継承について定めた皇室典範を変えることが、天皇の国政への関与を禁じた憲法第4条に抵触する可能性を念頭に置いたものとみられる。また、「生前退位」という制度を設けることと、摂政を置くことを定めた憲法第5条との整合性を問題視しているとみられる。」 天皇が発言したから、皇室典範を改正するとなると、天皇の発言が政治性を帯びるということになるという理屈のようです。そればかりでなく天皇が自らの意思で退位ができるとなれば、その退位という行為によって政治的影響が出ることも否定できないことになります。時の政権による政治利用も考えられます。皇太子を即位させ、お祭りムードを作り上げるというようにです。生前退位であれば、お祭りムードにすることがやりやすくなるからです。 天皇を特別な地位に見立てたいとする保守・反動勢力は、これを許さず、天皇を祭り上げたいという勢力もあります。こういった勢力は生前の退位などもってのほかと考えているようです。 生前退位を認めない皇室典範自体が人権上も問題なのであり、天皇の発言はきっかけに過ぎず、改正の契機とすること自体、何ら問題はありません。天皇の退位の希望が政治的発言とは言い難いからです。「天皇の退位の自由の次は、皇室離脱の自由の保障だ、天皇の言葉の政治利用を考えながら」退位の自由を認め、皇室離脱の自由こそ認めていくべき 天皇の退位による政治的影響についても、天皇が右向けといえば、政治家が右を向くようでは、天皇の権力が助長されることになり、当然、現行憲法は禁じていますが、退位は、皇室のあり方の問題にすぎず、やめたいという意思まで無視しうるものではありません。憲法上は、国民の総意に基づくとある以上、皇室典範の改正により退位を認めるのであれば全く問題はありません。政権による天皇の政治利用は、憲法上も禁止されていますから政治利用に関する責任は内閣が負うことなります。 なお憲法に摂政の規定があるから退位ができないというのは詭弁の類です。摂政を置くか退位するかは単なる選択の問題に過ぎないからです。今後は、退位の自由を認め、そして皇室離脱の自由こそ認めていくべきものです。英国のウィリアム王子を昼食に招き、玄関で出迎えられる天皇、皇后両陛下=皇居・御所 それにしても摂政とは聖徳太子を彷彿させますが、このような規定はあまりに時代がかっています。右翼が喜びそうですが、自民党の三原じゅん子議員は神武天皇は実在しているとか発言したそうですが、身の毛がよだちます。 「三原じゅん子氏『神武天皇は実在の人物』と認める 池上彰氏が質問(参院選)」 「(池上)――神武天皇は実在の人物だったという認識なんでしょうか?(三原)そうですね。いろんなお考えがあるかもしれませんけど、私はそういう風に思ってもいいのではないかと思っています。」  元号はおろか皇紀をつかって喜んでいる議員もいました。山谷えり子氏です。 「『○山谷えり子君 今年は平成二十三年、西暦二〇一一年ですが、皇紀何年でしょうか。○国務大臣(枝野幸男君) 存じ上げません。○山谷えり子君 神武天皇様が御即位なさってから、今年は皇紀二千六百七十一年。』」 「『建国記念日』に安倍総理がメッセージ どこまで右転落していくやら」 皇紀なんて論外ですが、元号も頻繁に変更されても不便この上もないものです。世界に通用しない元号など廃止し、西暦で統一すべきです。(猪野亨公式ブログ 2016年7月16日分を転載)

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    天皇陛下「生前退位」のご意向に沿うために、国民は何を論じるべきか

     岡本裕明(Blue Tree Management 株式会社 代表取締役) 週末の早朝、皇室を紹介する長寿レギュラー番組があることをご存知でしょうか?日テレの「皇室日記」とTBS系の「皇室アルバム」、フジ「皇室ご一家」であります。バンクーバーで時折拝見させていただいております。皇室の動きを国民にきちんと紹介する意味ある報道ですが、まず大多数の方はその存在すら知らないかもしれません。「皇室アルバム」は1959年からの番組とのことですから日本で最も長寿な番組の一つなのではないでしょうか? 今上天皇は昭和天皇の難しい過去を引き継いだ意味において非常に困難なご公務をこなしてこられたと思います。また、社会が大きく変化する中で天皇家が大きく庶民の茶の間の話題になることもあり、昭和の初期の時代を知っている年配の方には様変わりを感じられていることかと思います。苗代に稲の種もみをまかれる天皇陛下=皇居・生物学研究所(宮内庁提供) 今般、天皇陛下が退位を打診されているという皇室関係者からの話が漏れ伝えられ、大きな話題となっています。宮内庁はそれを否定しておりますが、これは当然の流れで「噂」を事実として認めることは宮内庁にとっては非常に都合が悪いのであります。宮内庁は格式と伝統と過去の踏襲が全てですので、すわ、そういう事態になれば当然ながら正式なプロセスを踏まざるを得ません。但し、宮内庁は事なかれ主義であり、あくまでも天皇家をお守りする側ですので宮内庁が能動的に動くことはないでしょう。 82歳の天皇陛下にお疲れが見えることが時々話題になっており、そろそろ「引退したい」という趣旨のことをつぶやかれてきたのだろうと察します。日本の皇室典範には「引退」である生前退位の規定がありませんのでできるともできないとも言えない状態であります。これを法制化するには時間がかかるというのが報道の趣旨であります。皇太子さまに「摂政」になっていただくのが良策 しかし、82歳の陛下にあと数年というのも無理を押し付けている気がいたします。そのためには個人的には皇太子さまにまずは摂政になっていただき、そのうえで皇室典範を改正されたら良いかと思います。 そういえば、かつて男子のみの継承について議論がありましたがあれも秋篠宮様に愁仁様がお生まれになったことで忽然と消えてしまいました。本来であれば私は男子継承が物理的に継続できる環境にあったとしてもそれこそ女性の地位の話ではありませんが、議論を継続すべきだったと感じております。お誕生日に先立ち記者会見に臨まれる天皇陛下=2015年12月18日、皇居・宮殿「石橋の間」(代表撮影) 摂政については大正天皇の際に後の昭和天皇がおつきになっております。大正天皇は非常に重い病気にかかられていたため公務ができず、摂政を必要としました。長い皇室の歴史を見るとそれこそ、天皇が即位するのが極端に幼少のときになるケースがしばしば生じています。平安時代の六条天皇は生後7か月11日で即位されています。日本の歴史上、他にも幼少で即位された天皇は多く、明治天皇も14歳で即位されています。 話は脱線しますが、天皇の執務が滞る際に置かれるのが摂政、関白。その多くは身内や外戚から選びますが、唯一の例外が豊臣秀吉と甥の豊臣秀次だけだったと記憶しています。秀吉は近衛家の猶子という一種の養子縁組を通じて無理やり関白になったわけでありますがこれは異例中の異例であります。世を驚かせたという意味で豊臣秀吉らしい一幕でありました。一方、天皇家は血が濃すぎるという弱点を抱えていたのも事実のようですが、同じようなことは海外の王室にも言えたことで日本だけの問題ではありません。  「人間天皇」である以上、天皇陛下も人間としてのゆったりした余生をお過ごしになる権利はあるのではないでしょうか?ましてやご本人がそろそろ、と口にされているのであればそれを積極的に受け入れるのが世の在り方だろうと思います。日本の場合、いったん敷かれたレールを変えることがなかなかできません。良い部分もありますが、個人的にはもう少しフレキシビリティを持たせてもよいのだろうと思います。 ましてや生前退位が200年前までは行われており、明治に入ってできた皇室典範でそれが謳われていないということですからある意味、皇室典範の片手落ちとも言えなくはありません。憲法改正議論が再び盛り上がる今日ですが、まずはこの改正が先にありきではないでしょうか?(ブログ『外から見る日本、見られる日本人』より2016年7月14日分を転載)

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    天皇陛下とローマ法王、「終身制」の功罪

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 天皇陛下が生前退位の意向をお持ちだというニュースは欧州のオーストリアでも大きく報道された。東京発の通信社のニュースを土台に詳細に天皇家の背景を報じるメディアもあった。 天皇陛下の生前退位のご意向を聞き、終身制の良し悪しを改めて考えざるを得なかった。体力の限界まで公務を遂行しなければならない終身制はある意味で非常に酷なシステムだ。 天皇陛下の生前退位のニュースは2013年2月11日のローマ法王べネディクト16世の退位表明とどうしても重なってしまう。前者は世襲制であり、後者はコンクラーベ(法王選出会)による選出制だが、両者とも基本的には終身制だ。ドイツ人のべネディクト16世は当時、健康を理由に生前退位を表明した。自由意思による生前退位は719年ぶりだった。ローマ法王フランシスコ 終身制を基本とする社会で生前退位を表明すれば、様々な憶測が生まれ、混乱が起きることもある。実際、ベネディクト16世の場合も例外ではなかった。生前退位後、様々な憶測が流れた。 バチカン放送によると、フランシスコ法王は最近、ベネディクト16世の生前退位は決して個人的な健康問題が主因ではなかったはずだという内容の発言をしている。南米出身法王は、「べネディクト16世の生前退位は革命的な決定だった」と表現し、ドイツの法王は自身が身を引くことでバチカン内の刷新を図ったという意味合いを示唆している。 「人生50年」といわれた時代とは異なり、100歳の長寿も決して珍しくなくなってきた時代に生きている。だから、終身制はある意味で長い任務を課すことになり、任期が長くなれば、「生き生きとした気持ちで任務を遂行できなくなる」ケースも出てくるだろう。 ヨアヒム・ガウク独大統領は先月6日、2期目の出馬に対し、「与えられた職務に生き生きとした気持ちで応じられなくなるのではないかと懸念している」(独週刊誌シュピーゲル)と述べ、再選出馬を断念する意向を表明したばかりだ。 ガウク大統領の再選出馬断念を思い出していると、静岡県の川勝平太知事が、「階段が上れなくなったら即辞める」と述べたという記事が読売新聞電子版(14日)で報じられていた。簡単に言えば、体力の限界が任務の終わりを告げるというわけだ。本人がやる気いっぱいでも体力が許さない場合、辞任せざるを得なくなる。その意味からも、終身制は非常に酷なシステムと言わざるを得ない。 故ヨハネ・パウロ2世(在位1978年10月~2005年4月)は亡くなるまで法王の任務を遂行したが、晩年はパーキンソン症候群などで肉体的に苦痛の日々を送った。その姿は痛々しかったほどだ。ポーランド出身のローマ法王は27年間、法王の座にあった。近代法王の中で在位期間は最長だった。 もちろん、体力、意志力などは個人差が大きい。だから、何歳までといった明確な年齢制限は適切ではないかもしれない。故ロナルド・レーガン米大統領(任期1981~1989年)が2期、8年間の任期を終え、辞任する時、「どうして米大統領職は2期で終わるのか」と不満を漏らしたと聞く。高齢で大統領に就任したが、2期を終えた後も3期を遂行できる体力と意志力があったのだろう。 全てには時がある。スタートする時も、休む時も、考える時も、時がある。制度でその時を禁じる終身制はやはり再考が必要だろう。その意味で、ベネディクト16世の生前退位は法王の終身制に終止符を打った革命的な決定だった。天皇陛下の生前退位への意思表明については、日本国民として陛下のご健康を祈りつつ、謹んで承りたいものだ。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2016年7月17日分を転載)

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    小林よしのり×所功 女系天皇含む皇室典範改正を語り合う

     国民に大きな衝撃を与えた天皇陛下の「生前退位」報道は、皇室を研究してきた識者らにとっても激震だった。仮に生前退位が実現の運びとなっても次々と課題が浮かび上がる。現行の皇室典範では天皇の直系男子しか皇太子になれないため皇太子が不在になるという問題や、結婚適齢期を迎えられる眞子さま佳子さまのために女性宮家をつくらなくていいのか、天皇の直系にあたる愛子さまはどんなお立場になるのか、といったさまざまな問題を同時に考えざるをえない。 『天皇論』(小学館)を著わした漫画家・小林よしのり氏と『皇室典範と女性宮家』(勉誠出版)などの著書がある法学者・所功氏が対談した。小林:皇太子殿下に後を継いでもらって、どのような象徴天皇の像を築いていくのかを皇后陛下とお二人で温かく見守りたい。そう思われるのは全く自然じゃないですか。そうしてあげられるようにしようというのが国民の感謝の念のはずですよ。この期に及んでもそれに反対する人がいるのは理解しがたい。所:ご公務が多すぎるという問題にしても、陛下が本来なさるべきことと、してほしいとの要望を受けてされることの区別がつかなくなり、両陛下のハードスケジュールが当たり前になってしまった。 国民みんなが陛下に甘えてきたのではないか。そのことも反省しなければなりませんね。小林:すべての問題が繋がってきますからね。先ほども言ったように、皇太子殿下が天皇になると、皇太子が不在になる。では、秋篠宮殿下が「皇太弟」となるよう皇室典範を改めるのか。しかし、お二人がどんどんご高齢になっていくと、たとえば秋篠宮殿下への皇位継承が80歳を超えることもあり得る。すると、新元号の期間が数年しかないという大混乱も起きかねない。悠仁さまは、もっとも重要な皇室祭祀をはじめとする皇位継承のための準備期間がほとんどないまま皇位を継ぐことになってしまう。 皇太子殿下が継ぐのだから、そのあとは直系の子である愛子さまが継ぐのが一番自然だと思います。男系絶対という古い風習にとらわれるべきではない。衆院予算委で維新の党の松野代表(左手前から2人目)の質問に 答弁する安倍首相=2月4日、国会所:きわめて難しい問題ですね。おっしゃるとおり、秋篠宮殿下が皇太子殿下の後をお継ぎになる場合、ご年齢の近い敬宮愛子さまと悠仁さまのどちらを優先するかということは、かなり際どい難問となってくるに違いありません。ただ現在、弟君に悠仁さまという男子がおられますから、それを前提に次の次まで見守っていくほかないと思います。 いまはまず、陛下のご意向実現を最優先に考え、皇室典範第4条を終身在位に限らず生前退位を可能にするよう改めることに的を絞るべきだと存じます。もちろん、その間に独身の皇族女子が結婚して皇族からいなくなってしまうことを回避しなければなりませんから、皇族女子も宮家を継承したり創立できる道を開く典範改正も避けて通れません。小林:小泉政権のときには女系天皇まで認めた皇室典範改正を進めていて、本来はあれでよかったはずなんですよ。それを、悠仁さまがお生まれになったからといって、ぱっと引き揚げてしまったのは、当時、官房長官だった安倍首相ですよ。 その後、今度は野田政権で悠仁さまがいることを前提に女性宮家の創設に関する皇室典範改正が議論された。わしもあの案はひどいものだったと思いますが、それすら政権交代後に潰したのも安倍首相です。女性宮家は女系天皇につながるという男系絶対の支持者の声に従ったわけでしょう。関連記事「皇太子さまの祈りは本物。立派な天皇になられる」と旧皇族皇太子殿下 天皇陛下の宮中祭祀取組みを引き継ぐ決意との声美智子様 子が嫌いなものを食べないと食堂から出さなかった生前退位 ここまで陛下を追い詰めていたと国民気づく女性天皇を認めるなら過酷な祭祀の見直し必要と宮内庁OB

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    宮内庁 生前退位巡り最高幹部ら「4+1」会合重ねた

    をし、「生前退位の意向」と軒並み後追い報道をしたとみられるが、その見方は正しいのか。 元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏は「今回の報道の背景には、様々な思惑がある可能性がある」と前置きしていう。 「天皇陛下が生前退位なさるには皇室典範や関連法の改正が必要です。しかし、憲法4条で〈天皇は国政に関する権能を有しない〉と定められているので、法改正が必要な案件について、宮内庁が“陛下のご意向が示された”ということを公式に認めると、憲法違反の恐れがあります。 そうした状況の中で、宮内庁サイドが“公式には発表できないが、なんとかして陛下のお気持ちを伝えたい”と考え、NHKに報道させるかたちになった可能性はある。否定したのに抗議しない対応も“宮内庁側とNHKとの間で事前に話ができていたのでは”と勘ぐられても仕方ない経緯でしょう」 実際、この数か月間、宮内庁では、「生前退位」を巡って最高幹部が会合を重ねていたとみられている。 「5月頃から風岡典之・長官と山本信一郎・次長という庁内のトップ2に、皇族の身辺のお世話などを担当する侍従職の最高幹部である河相周夫・侍従長と高橋美佐男・侍従次長、それに皇室制度に詳しいOB1人を加えた5人が、定期的に集まって検討を重ねていたといわれています」(宮内庁関係者)宮内庁庁舎 この“5人組”の会合については、関係者の間で「4+1」会合などと呼ばれていたと報じられている(毎日新聞、7月14日付夕刊)。 最高幹部4人とともに、議論に参加していた「OB」については、羽毛田信吾・前宮内庁長官など複数の名前が挙がっているが、有力視されている1人が同庁で書陵部長などを歴任し、今年3月に退職したOBである。現在は宮内庁の非常勤研究員の立場にある。元書陵部長をよく知る宮内庁OBがいう。 「彼は、宮内庁が誇る皇室関連法の第一人者です。現在の関連法規に限らず、大宝律令にまで遡る歴史的な皇室制度や、海外の王室制度にも詳しい。 東大法学部をトップクラスの成績で卒業しながら大蔵省ではなく宮内庁を選んだ異色の職員で、非常に特殊な法体系になっている皇室関係の法改正を議論するのに、彼の知見なしに進められたとは考えにくい」 “5人組”の1人と目されるこの元書陵部長を自宅前で直撃すると、 「いや、(自分が会合に参加しているというのは)勘違いじゃないですか?(他の現役幹部4人とは)格が違いますよ。そんなレベルの高い方々とは。(会合への参加は)ないというふうに考えていただいたほうが……」 と口を噤んだ。 宮内庁は、「生前退位の意向が示されたという報道に関してはコメントを差し控える」(総務課報道室)とするのみで、NHKに抗議しない理由、「4+1」会合の内容やメンバーなどについて、回答しなかった。 いずれにせよ、NHKの報道は宮内庁内部で進められた慎重な議論が下敷きにありそうだ。それは他メディアの報道からもわかる。関連記事「皇太子さまの祈りは本物。立派な天皇になられる」と旧皇族皇太子殿下 天皇陛下の宮中祭祀取組みを引き継ぐ決意との声美智子様 子が嫌いなものを食べないと食堂から出さなかった生前退位 ここまで陛下を追い詰めていたと国民気づく女性天皇を認めるなら過酷な祭祀の見直し必要と宮内庁OB

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    皇室典範を「女性蔑視」とほざく愚昧な人々

    国連が日本の国柄や伝統を無視して皇室典範にいちゃもんをつけたのは記憶に新しい。皇室典範を「差別的規定」と決めつけた国連の一方的な見解は許しがたいが、そもそも今回の騒動の裏には反日・左派勢力の長年にわたる組織的活動があったともされる。日本人よ、国連の横暴に今こそ怒りの声を上げよ!

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    「天皇の原理」に難癖をつける国連委の日本差別

    七日、日本への最終見解を発表した。しかし、産経新聞によると、当初案に「特に懸念を有している」として「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と述べ、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告する文言が含まれていたという。日本側はジュネーブ代表部行使が同委員会副委員長と面会し、反論して削除を求めた結果、最終見解では皇室典範に関する記述は削除されたらしい。ということは、日本側が抗議をしなければ、最終見解にこれが盛りこまれていたということだろう。参院予算委員会で自民党の山谷えり子氏の質問に答える安倍晋三首相 =3月14日、国会(斎藤良雄撮影) 国連女子差別撤廃委員会は、一九七九年に署名された女子差別撤廃条約の実施状況を審査する組織として設置され、外部専門家の委員によって構成されている。このような国連機関が、日本の皇位継承制度は性差別であると指摘することは、多くの日本人が想像もしていなかったことと思う。 この点につき安倍晋三総理は十四日の参議院予算委員会で「わが国の皇位継承のあり方は条約のいう女子に対する差別を目的とするものではないことは明らかだ。撤廃委が皇室典範について取り上げることは全く適当ではない」と不快感を顕わにし、「わが国の皇室制度も諸外国の王室制度もそれぞれの国の歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている」と発言した。当然であろう。 日本は、二千年以上の長きにわたり、例外なく皇位は男系により継承されてきた。かつて百二十五代の歴代天皇のなかには、十代の女性天皇の例があるが、「先帝の娘」など、いずれも男系の女子であり、女帝の子が即位した事例はない。そのため、男系の血筋を受け継がない者が即位した例はない。国柄の根本を「国体」というが、皇位継承の原理は日本国の国体原理そのものである。したがって、これを国連などにとやかく言われる筋合いはない。 確かに国連憲章第一条に、国連の目的の一つとして人権の尊重が掲げられているが、国民の自決、主権国家としての自決は、国連成立以前から国際社会で尊重されてきた基本事項である。果たして女子差別委員会は日本の皇室制度に文句を付けるにあたり、日本の文化や伝統を尊重し、あるいは敬意を表した形跡はあるだろうか。日本の国柄の根幹である皇室を尊重する態度を持っていただろうか。否、日本政府から抗議を受けて取り下げたことから、十分な検討を経ずに書き込まれたものであると思える。天皇になるのは「権利」なのか? そもそも、皇位の男系継承が女子差別であるというのはあまりに短絡的な意見である。皇室制度の内容を理解すればそのような結論に至ることはあり得ない。女子差別撤回委員会の考えは、「女子だからといって天皇になれないのは可哀想」というものである。これは、天皇になるのが何かの権利であるという前提に立っているが、果たして天皇になるのは「権利」なのであろうか。 よく「皇位継承権」という言葉が使われ、皇太子殿下以下、皇族男子に番号が付けられているので誤解されやすいが、天皇に即位するのは「権利」ではなく「義務」である。天皇には、一般国民が憲法で保障されている人権というものがほとんどない。たとえば、選挙権、被選挙権、居住移転の自由、言論の自由、宗教の自由、政治活動の自由等々、天皇にあるわけもないし、一度天皇に即位すると、天皇を辞める自由もない。 にもかかわらず、その星に生まれた者が運命を背負って皇位に就き、民の父母として、国民一人ひとりの幸せを祈るのが尊いのである。中国清朝の皇帝や、フランスのルイ王朝の王のように、権力闘争の末に王座に就き権勢を振るうのと同じものとして天皇をとらえると、大きな間違いを犯すことになる。日本の皇室のことを知る者は「天皇になれなくて可哀想」と思うことはない。皇居(東京都千代田区) 世の中に様々な種類の職業や地位がある。実際にその職業に就けるかどうかは、本人の実力や運など、多くの要素に左右されるが、いかなる職業や地位にも就く方法は必ずあるだろう。しかし「天皇」だけには「成る方法」は存在しない。つまり、いかに頭が良くても、人気があっても、努力しても、人格が優れていても、「天皇」だけには「成る方法」はない。天皇になる運命の者が、その宿命を粛々と背負っていくから、天皇は尊いのである。したがって、天皇を何か甘い汁を吸える地位であるかのような話をするのは、女子差別撤廃委員会が、天皇を理解していない証であろう。 つまり、天皇は「血統の原理」なのであって、天皇から血統を取り上げてしまったら、それはもはや「天皇」と呼べるものではなくなってしまうと考えなくてはいけないのである。皇統はなぜ男系で継承されるのか では男系継承の制度趣旨は何であろうか。これについては様々な角度から解説されてきたが、ここでは決定的なことを一点だけ述べておきたい。 男系継承は宮廷から女子を締め出すのが目的ではなく、実際はその逆で、宮廷から男子を締め出すのが主旨である。皇室は確認できるだけでも一八〇〇年以上、蘇我氏、藤原氏、足利氏をはじめ、おおくの民間出身の女子を后として受け入れてきた。近代以降でも明治天皇・大正天皇・今上天皇の后はいずれも民間出身であらせられる。だが、民間出身の男子を皇族に迎え入れたことは、日本の歴史上、唯の一度の先例もない。民間の女性は皇族との結婚で皇族となる可能性があるが、民間の男性が皇族になる可能性はないのである。皇位の男系継承は、女子差別には当たらない。男女の性別の問題ではない 男系による皇位継承は、男女の性別の問題ではなく、家の領域の問題というべきである。男系継承とは「皇室の方に天皇になってもらう」ことに尽き、それは皇族以外の人が天皇になることを拒否することに他ならない。愛子内親王殿下の即位までは歴史が許すが、たとえば田中さんとご結婚あそばしたなら、その子は田中君であって、皇室に属する人ではない。もし田中君が即位すれば、父系を辿っても歴代天皇に行きつくことのない、原理の異なる天皇が成立することになる。これは男系による皇位継承が途切れたことを意味する。 民間であっても、息子の子に家を継がせるのが自然で、娘の子たる外孫に継がせるのは不自然である。しかし民間なら、継承者不在で外孫を養子にとって家を継がせることもあるだろう。あるいは外から養子を迎えることもある。これにより、たとえ血統は途絶えても、家は残すことができる。 しかし、皇室はそれができない。なぜなら、天皇が継承するのは、その地位や三種の神器だけではなく、むしろ血統が本質であるからだ。また、先述のように、民間男子を皇室に迎え入れることになる。皇位継承者がいなくなる度に養子を取り、あるいは民間の男子を皇族にしてその子が即位するようなことがあれば、伝統的な血統の原理に基づかない、天皇が成立することになり、それはもはや天皇ではないのである。 一点理由を述べたが、本来「天皇の皇位がなぜ男系によって継承されてきたか」という設問に答えるのは容易ではない。そもそも、人々の経験と英知に基づいて成長してきたものは、その存在理由を言語で説明することはできない。なぜなら、特定の理論に基づいて成立したのではないからだ。天皇そのものが理屈で説明できないように、その血統の原理も理屈で説明することはできないのである。 だが、理論よりも前に、存在する事実がある。男系継承の原理は、最も短く見積もっても二千年来、変更されることなく現在まで貫徹されてきた。これを重く捉えなくてはいけない。例えば、現存する世界最古の木造建築である法隆寺は、その学問的価値の内容にかかわらず、最古故にこれを簡単に立て替えてはいけない。同様に、天皇は男系により継承されてきた世界最古の血統であり、これを断絶させてはいけないのである。 もはや理由などどうでもよい。男系により継承されてきた皇統は、特定の目的のために作られたものよりも、深く、複雑な存在理由が秘められていると考えなくてはいけない。 とはいえ、学者のなかには、父を辿っていっても永遠に歴代天皇に辿り着かない、いわゆる「女系天皇」が成立しても、それは正統だと主張する人もいる。たとえ男系継承が途切れたとしても、天皇の子孫が皇位を継承しているなら、それだけで正統だという意見は、男系継承こそが正統という私の意見とは真っ向から対立するものである。何を正統な天皇とするかの議論は、一般の人には分かりにくい議論かもしれない。「女性天皇」の問題点 ところが、もし男系継承が途切れたら、学問的論争とは全く別の次元で、日本の国を揺るがす大きな問題が生じる。現在の天皇陛下が天皇であられることは、何人も疑問を差し挟むことはできないであろう。今上天皇を差し当り「非の打ち所のない天皇」と申し上げておく。それに対して、もし「女系天皇」なるものが成立したら、その天皇は、全く原理の異なる天皇でるが故に、ある人は認め、またある人は認めないという事態が生じる。つまり、その天皇は「非の打ち所のある天皇」になってしまうのである。 「非の打ち所のない天皇」が「非の打ち所のある天皇」になってしまうのは、大問題である。日本国憲法第一条は、天皇が「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」として機能することを求めている。「非の打ち所のある天皇」が日本国や日本国民統合を象徴できるはずはない。もしそうなったら、日本の国体が破壊されたことを意味する。 もしそうなったら、旧皇族の子孫には、歴代天皇の男系男子が複数いるのであるから、将来「女系天皇は正統ではないから、旧皇族から天皇を擁立すべきだ」という運動が起きないとも限らない。二つの朝廷が並び立つという、南北朝の再来ともいえる事態に陥る可能性もある。 もはや、皇位の男系継承は、我が国の基本原理であって、これはいかなり理由によっても決して動かしてはいけないものなのである。もはや学問的理由や、正当性の議論はなど、どうでもよいというべきであろう。「女性天皇」の問題点 さて、これまで皇位の男系継承の意義について述べてきたが、「女性天皇」、つまり女性が天皇になることの問題点を一つ指摘しておきたい。 天皇と皇后では、お役割が異なり、もし女帝天皇が成立すると、その天皇は、天皇のお役割と皇后のお役割の両方を一手に担うことになってしまう。そして、その両方を全うすることは、全く不可能なことである。 皇后固有のお役割とは、分かりやすくいえば「将来の天皇の子を産み育てること」である。無論、民間人であれば出産しない自由は認められるが、皇后にはそのような自由は実質的に認められない。 天皇陛下が皇后を兼ねていらっしゃったら、また皇后陛下が天皇を兼ねていらっしゃったら、どうであったか。皇后陛下は失語症になられたこともあった。しかし、見事に克服あそばし、立派に皇后としてのお役割を全うされていらっしゃる。このように、皇后だけでも大変なお役割であって、一人の女性が天皇と 皇后の両方のお役割を担うとしたら、それは無理というべきだろう。天皇が皇后を兼務することも然りである。日本差別ではないのか 女性に生まれたから全う不能な職務を背負わせられるとしたら、それこそ女性天皇は「女性差別」であると言わねばならぬ。国連機関が女性天皇を奨励するなど、差別撤廃に真っ向から刃向かうことであり、国連の理念に反する主張である。これまで一二五代の天皇があったが、その内女性天皇は僅か十代に過ぎない。歴史的に、男性が天皇になることを原則とし、女性天皇は極めて特殊な事情がある場合に限られてきたのは、そういった意味合いもあったことと思う。日本差別ではないのか 次に、国連女子差別撤廃委員会が皇室制度に言及しようとしたことにつき、総理がいみじくも「国民の支持を得て今に至るものである」と指摘した点についても触れておきたい。よく皇室制度の歴史は明治からであるといわれる。たしかに皇室制度が法律の条文に規定されたのは明治時代のことだが、それは二千年以上継承されてきた皇室の慣習法を、条文に書き起こしたのであるから、皇室制度自体が明治時代に創設されたものではない。 日本では、いつの時代をとっても、国民が天皇を支えながら歴史を刻んできた。もし日本人にとって皇室が不要なものであれば、とっくに皇室は滅びていたに違いない。そして、現在も国民の圧倒的多数が皇室に親しみを持ち、皇室を支持しているのである。天皇と国民の繋がりは「国体」そものといえる。日本から「天皇」を取り払ってしまったら、それはもはや「日本」ではないといえば大げさに聞こえるかもしれないが、それほど、天皇と国民の繋がりは日本の国柄の根本を形成しているのである。 女子差別撤廃委員会が男系継承の皇室典範を改定するように勧告することは、古事記と日本書紀の原理を変更するように求めるのと同じで、これは日本が日本であるのを止めるように勧告するに等しい。「聖書やコーランに差別的なことが書いてあるから書き換えろ」と言うのに等しいと表現すれば分かりやすいだろうか。 今回、同委員会は日本の皇室制度について勧告しようとしたが、では彼等はバチカンやアラブの君主国に「女子が王や法王になれないのは女子差別だ」と勧告したことがあったか。無論、他の君主国の王と日本の天皇は成立背景も意味合いも全く異なるので同列に比較することはできないが、もし日本だけにそのように勧告するのなら、それは「日本差別」であると反論すべきである。林陽子委員長を国会で尋問すべき また本件では、日本を攻撃する道具として国連が政治的に利用された可能性が高い点も見逃せない。皇室典範に関する話題が委員会で一度も提示されていなかったにもかかわらず、何の前触れもなく最終見解案に書き込まれた。これは、日本の反論権も無視するもので、水面下で何らかの工作がなされたものと思われる。一体誰が何のために、明らかな手続違反をしてまで皇室典範を盛りこむ必要があったのだろうか。 その答えは委員会の顔ぶれから見えてくるように思う。日本向け勧告をとりまとめた同委員会の副委員長は中国人だった。中国が国として関与した可能性も想定しておくべきであろう。 しかも、同委員会の委員長は日本人であることは、あまり報道されていない。林陽子という人物で、フェミニズム運動に取り組む弁護士である。林氏は昨年二月から二年の任期で、委員長として全ての議事を司る責任を負う立場にある。また、日本から大勢のNGO団体が参加した。皇室典範の改定など、日本人の入れ知恵がなければ議論に登ることもなかったであろう。国連女性差別撤廃委員会の対日審査会合 =2月16日、ジュネーブの国連欧州本部 つまり、告発者である日本のNGOと、日本人委員長、そこに中国人副委員長が力を合わせて皇室典範改定の勧告を作り上げたという背景が見えてくる。では林委員長は一体何をやっていたのだろうか。対日最終見解案に皇室典範のことが記載されたことを、知らなかったとは考えにくい。 私は、国会が林陽子氏を参考人として招致し、皇室典範のことが最終見解案に書き込まれた経緯を説明させるべきであると思う。皇室典範のことを知らなかったのであれば、まじめに仕事をしていなかったことを意味する。また、知っていたのであれば、なぜ日本の立場を説明して回避する努力をしなかったのか、大いに疑問を呈すべきであろう。 日本政府が抗議しただけで取り下げたのであるから、日本人の委員長が説明すれば、簡単に皇室典範への言及を削除させることができたはずだ。あるいは、林氏自身が皇室制度を変えようとする中心人物だったと考えれば辻褄が合うのだが、真相は国会で追及して欲しいと思う。もしそうだとすれば、本件は委員長自身が国連機関を政治利用した由々しき事件だったことになる。 男系継承の原理は簡単に言語で説明できるものではないが、この原理を守ってきた日本が、世界で最も長く王朝を維持し現在に至ることは事実である。皇室はだてに二千年以上も続いてきたわけではない。歴史的な皇室制度の完成度は高く、その原理を変更するには余程慎重になるべきである。今を生きる日本人は、先祖から国体を預かり、子孫に受け継ぐ義務がある。国体の継承は私たちの責務であると考えなくてはならない。(本稿は、『正論』平成二十八年五月号「君は日本を誇れるか~皇室典範に口を挟む国連」に大幅に加筆したものです)

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    あまりにも無知で粗雑! 皇位継承まで口を出す国連委の非常識

    院大学名誉教授) もう二か月以上前にもなるが、3月9日の産経新聞は一面トップで「国連委男系継承を批判皇室典範改正の勧告案」という見出しの衝撃的な記事を掲載した。その2日前の7日に国連女子差別撤廃委員会が発表した慰安婦問題を含む日本に対する最終見解の原案では、「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と指摘した上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」との勧告がなされていたというのである。記者会見する国連女性差別撤廃委員会のジャハン委員 =3月7日、ジュネーブ この情報を入手した日本政府はただちに委員会側に抗議し、この部分の削除を強く要請、その結果、最終的には皇室典範に言及した箇所は削除された。菅義偉官房長官はこの日の記者会見で「わが国の皇室制度も諸外国の王室制度も、それぞれの国の歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている。わが国の皇室制度の在り方は、女子差別撤廃条約でいう差別を目的としていないのは明らかであり、委員会側がわが国の皇室典範について取り上げることは全く適当ではない」と答弁している。 安倍晋三首相も14日の参院予算委員会で同旨の批判を述べ、さらに「今回のような事案が二度と発生しないように、女子差別撤廃委員会をはじめとする国連及び各種委員会にあらゆる機会をとらえて働きかけていきたい」と強調した。 至極真っ当な見解であり、迅速かつ適切な対応であって、これ以上つけ加える必要はないが、この機会にわが国の皇位継承について改めて考えてみることも意昧なきことではあるまい。周知のように、わが国の皇位経承は男系によって堅持されてきた。皇室における男系とは、父方を通して歴代天皇の系譜につながる方々を指し、女系とは、母方を通してしか歴代天皇の系譜につながることのできない方々を指す。この原則は第2代の綏靖天皇から百二十五代の今上天皇まで二千余年にわたって脈々と受け継がれ、この揺るぎなき伝統を「万世一系」と称する。 したがって、女系による皇位継承はこの定めに背反し、皇統の断絶をきたすものと老えられてきた。これは、力づくによるものではないにしろ、中国の歴史に頻発した易姓革命に類似する王朝の交替と同視されたからである。 本原則は、もともと建国以来の「不文の大法」に基づくものであったが、明治になって憲法および皇室典範において成文化され、日本国憲法の下でも継承されている。憲法第2条は「皇位は世襲のものであって…」とあり、必ずしも男系に限定していないかのように解する向きもあるが、現憲法の制定に際しての政府側答弁でも「男系を意味する」と明言されている。これを受けて現典範は第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定し、旧典範第1条「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」を踏襲していることは明白である。わが国の歴史、伝統に無知かつ非常識 この点に関してよく言われることだが、「わが国にも過去に女性天皇がおられたではないか」という反問について簡単に触れる。たしかに、わが国には八方・十代の女帝(女性天皇)がおられたが、すべて男系であり、しかも、これらの方々の大半は皇嗣が幼少であるなどの事情に基づく「中継ぎ」の即位であって、あくまでも一時的・例外的な存在である。また、過去の女帝は、元皇后または皇太子妃の場合、すべて未亡人であり、未婚の方は生涯独身を通され、配偶者を有されたままで皇位につかれたことは皆無であった。 以上、ごく簡単にわが国の皇位雑承について述べてきたが、国連の勧告がいかにわが国の歴史、伝統に無知かつ非常識な代物であるばかりではなく、論の立て方自体が粗雑に過ぎよう。というのは、勧告は「女性差別撤廃」の視点から「男系男子」と「女系女子」を単純に対比させて、後者にも皇位継承権を与えよと主張しているが、「男系女子」「女系男子」については何の言及もないからである(過去の女帝の存在は全く視野に入っていない)。また、勧告の根拠となっている国連の人権宣言は「人種、皮膚の色、性別」にとどまらず、「宗教、政治上の意見」などの差別を無くすことを謳っているが、今回のような恣意的なものが過去にもあったのか、あらためて検証してみる必要があろう。皇室典範に関する有識者会議で最終報告書を小泉純一郎首相(右)に手渡す吉川弘之座長=2005年11月24日、首相官邸  翻ってみれば、小泉純一郎内閣において女系導入も辞さない皇室典範改定が拙速に推進されようとしたことがあった。女性天皇と女系天皇の違いも明瞭ではない首相の独走に対して少なからぬ国民が反発したため、次の安倍首相によって法案は白紙に戻ったという経緯がある。 その意味で今回はあまり心配しなくてもよいかもしれないが、悠仁親王の世代に男子皇族がほかにおられないという皇統の危機は厳としてある。政府は男系主義を維持しつつ、これに対処する方策(昭和22年にGHQの経済的圧迫によって皇籍の離脱を余儀なくされた方の子孫による皇籍の取得)を速やかに講じていただきたい。

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    国連委員会の勧告なんて聞き流すのが「世界の常識」

    八幡和郎(徳島文理大教授、評論家) 日本の皇位継承が男系男子に限定されていることをやめるように国連女子差別撤廃委員会が勧告しようとしたが、日本政府代表部の抗議で中止されたと報じられた。慰安婦問題では動きが鈍かった外務省も、さすがに今度は素早く動いたようだ。いつも、こうあって欲しい。 このニュースを聞いて、保守派は激怒し、中韓の意を汲んだ人も含めて反天皇制をもくろむ勢力は、何か利用できないかほくそ笑んでいる。 しかし、大事なことは冷静な議論である。ポイントは三つだ。(1)国連委員会がこのような勧告をするのはヨーロッパでの王位継承原則の変更の動向もあるので国際的常識として無茶苦茶なことではない(2)しかし、日本の天皇制とヨーロッパの君主制の違いを理解すれば同じ扱いをする必要は無い(3)そもそも、国連の委員会の勧告などたいした権威は無いので一喜一憂すべきでないという三点を説明したいと思う。 男子優先をやめる方向のヨーロッパ王室 ヨーロッパのロイヤル・ファミリー事情については、『世界の王室うんちく大全』(平凡社新書)という本を書いて、それぞれの王位継承がどのようにされてきたかを紹介したことがある。この方面ではいちばん詳しい本である。 歴史的には、フランスのブルボン家のように男子男系にこだわってきたところもあるが、これは、英仏百年戦争でイギリス王家に乗っ取られかかった記憶がゆえである。イギリスは、女系も女子もいいが男子優先だった。またデンマークでは、女系はいいが女王はダメということになっていた。 ところが、多くの国で年長の子供を男女に限らず優先にするようになってきている。イギリスは、エリザベス女王のあとチャールズ、ウィリアムの次はウィリアムの長子ということになっていたが、男子のジョージが生まれたので三代男王が続くことになるが、スウェーデンは女王になった。 ただし、ヨーロッパの条約などで強制されたのではなく、各国の自主判断の結果である。そういう意味で、国連の委員会が何を言おうが、それに従うかは各国の問題だ。 それに、おかしいといえばおかしいのは、男子優先がいけないなら長子優先はどうしてよいのか理由がない。国連の委員会はうちの管轄ではないとでも言うのだろうが。また、ヨーロッパの王位継承は、特定の宗教の信者であることが条件になっていることが多い。イギリスでもオランダでもカトリックは排除されているが、これは信教の自由に反しないのだろうか。 いずれにしろ、国連の女子差別撤廃委員会などというものは、総合的な判断をしている場ではないし、自分の立場からの意見を気ままにいうだけの機関だ。ヨーロッパの王位継承は財産相続でしかないヨーロッパの王位継承は財産相続でしかない 男子優先をヨーロッパの王室がやめる方向なので日本もそうしたらということを、外国人が思うことくらいはそんなに目くじらを立てることではない。ただ、日本とヨーロッパの君主制の性格の違いを説明し、きちんと反論すべきである。 ヨーロッパの国王というのは、江戸時代の大名などと同じ封建領主である。したがって、領土は個人財産なのである。そこで、フランク族のサリカ法典に女性は財産を引き継げないと書いてあったことを理由に、フランク王国を継承する国では男系男子が原則とされたのである。 この理屈は、フランスでイギリス王が女系でフランス王の孫であることを理由に王位を要求してきたときに援用されたもので、王位を失ったのちも、ブルボン家の当主は10世紀のユーグ・カペー王からいまのパリ伯爵アンリ7世にいたるまで、男子男系嫡出の原則を守っている。 したがって、サリカ法典を継承する立場にないイギリスやスペインでは、もともと女系も女王もありだったと言うだけのことである。 それに対して、日本の皇位は、人々のかすかな記憶のはてにある神武天皇以来、少なくとも3世紀における崇神天皇による日本国家の成立と、4世紀の仲哀天皇による国家統一からのち、男系による同一家系からしか天皇を出さないという原則をもって国家としての統一の破壊を防いできた。 そうした正統性の維持は、もし恣意的に皇位継承原則を変えれば、より脆弱なものになることが予想される。 それなら、男系の女帝はよいのでないかといわれれば、女帝を想定していないのは、中継ぎの天皇というものを排除した結果であって、男女差別とは関係ないといえばよい。また、伝統的に女帝は独身の女性か天皇の未亡人に限られてきたことも言えば良い。 いずれにせよ、基本的には私有財産の継承論理であるヨーロッパの王位継承とは本質的に違うのであるし、それを丁寧に説明して、国連の委員会が不愉快な干渉をすることをやめるように説得すればいいのである。 ちなみに、私は女帝にも女系にも絶対的に反対していないのだが、一方で、こういった継承原則は、誰にも異論をとなえにくい場合にのみ変更されるものでないと、正統性が弱くなるし、それは国会の独立と統一の維持に悪影響を及ぼすと思う。 したがって、さまざまな努力をしても従来の原則をどうしても崩さざるを得ない場合においてのみ、許されるという立場だ。具体的には、将来において現在の皇族の男系男子の子孫がいなくなった場合に備えて、旧皇族の復帰をスムーズに行える可能性を探り準備もし(たとえば旧皇族のなかから適当な男子を宮家の継承者とするとか)、それでもうまくいかなかったときに、はじめて女帝女系は選択肢に入ると考えている。国連委員会の勧告を有り難がるのは田舎者国連委員会の勧告を有り難がるのは田舎者 日本人は国際機関のいうことを有り難がりすぎるが、これもひとつの例なので紹介しておく。 フランス議会下院は、昨年11月のパリ同時多発テロを受けて発令された非常事態宣言を3カ月延長する法案を賛成212、反対31の賛成多数で可決し、非常事態宣言は5月26日まで延長されている。 これについて、国連の人権問題専門家5人が1月に「過剰でバランスを欠く」として、これ以上延長しないよう求める共同声明を出したそうだが、左翼のオランド政権は、まったく無視し、圧倒的多数で延長が決まった。 対ISの戦いは戦争だという認識から当然だ。国連の委員会などのいうことを有り難がる人など、フランスであろうがアメリカであろうがほとんどいないし、左翼政権であってもそうだ。 あるいは、内部告発サイト「ウィキリークス」創設者のアサンジ容疑者が在英エクアドル大使館で約3年半籠城していることにつき、国連人権委員会作業部会は、「不当拘束に当たる」と裁定した。 しかし、イギリス、アメリカ、スウェーデンは当然のことのように無視している。この委員会は慰安婦で「日本は責任を公式に認めて謝罪し、元慰安婦らに『完全な賠償』をするように」という寝ぼけた勧告をしたことがある。 従えと田舎者の国連崇拝論者は騒いでいたが、国連の委員会の権威は英米やスウェーデンにすら鼻であしらわれるようなものなのだ  少し前に、「署名も批准もするな! TPP署名式の直前に国連が各国政府にたいして異例の呼びかけ」という見出しのHPをTPP反対派がばらまいて悦にいっていた。これも、国連人権理事会の「独立専門家(Independent Expert)」であるアルフレッド・デ・サヤス氏が、TPPの署名式が直前に迫っている2016年2月2日に、関係各国政府に署名も批准も拒否するよう要請したそうだが、理事会の「独立専門家」の要請が「国連の要請」になってしまうのも困る。 国連総会の決議でもアメリカなど相手にしてないくらいであるのに、委員会とか、あるいは単なる専門家がなに言おうが気にする必要ないのだ。 私は、国連の委員会というものについて、一概に批判しているのではない。彼らはその分野の専門家として意見を言っているのであって、それはそれとして価値がある。 たとえば、国内でも少年法についての委員会が、罪を犯した少年を過度に保護するような勧告を出してもいいのであって、ただ、それを社会的に採用するかは別の観点からの検討をすればいいだけだ。 世界でも日本でも、専門家はしばしばマフィア化し、偏っているのも事実だ。そういうものとしてバランス良く彼らの活動を評価すればいいだけのことだ。少なくとも鵜呑みにする必要はない。 国連の委員会など大して有り難がられているわけでないことを、英米仏などの馬耳東風ぶりからも認識しておくと良い事だけは間違いない。

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    若き女性皇族の活躍 フィーバーだけでは済まない国民的課題

    は一切言及がなかった。その後に発売された『週刊文春』(6月11日号)は彬子女王、瑶子女王が「信子妃を皇室(三笠宮家)から追放するクーデター計画がある」と報じた。 彬子女王、瑶子女王に注目が高まる背景には、未婚女性皇族が近い将来、直面する難問が絡んでいる。〈「お前達は結婚したら民間人だから」と、子どもの頃から父に言われてきました〉──彬子女王が2012年1月7日の毎日新聞のインタビューに語った言葉だ。「彬子女王と瑶子女王が結婚した場合、三笠宮家の当主である崇仁親王は今年12月で100歳、百合子妃は92歳で、いずれ母・信子妃だけが三笠宮家に残る状況になる。今回の問題の背景には、そうした状況への両女王のご心配があるのではないか」(宮内庁関係者) 皇室ジャーナリストの松崎敏彌氏はいう。「女性皇族は結婚を契機に皇籍を離れることになる。それを定めた皇室典範は、本当に時代に合ったものでしょうか。女性皇族が結婚後も皇籍に留まることのできる『女性宮家』の創設などについて具体的な議論が必要だと思います。彬子女王と信子妃の関係が注目されれば、その議論が進むきっかけになるでしょう」「天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典」で国旗と提灯を持ってお祝いする参加者=2009年11月12日午後、東京都千代田区(松本健吾撮影) 彬子・瑶子両女王の他に未婚の女性皇族には今年4月のICU入学後、その言動が過熱気味に報じられる秋篠宮家の佳子内親王、英国留学中にSNS上での奔放な発言で騒動を巻き起こした高円宮家の承子女王など7人がいる。対して男性は悠仁親王だけ。必然的に公務における女性皇族の役割は今後、大きくなる。「紀子さまは長女の眞子さまにも次女の佳子さまにも、卒業後は就職せず公務に専念し、悠仁さまの助けになってほしいとお考えのようで、公務へのアドバイスも精力的に行なわれているようだ」(皇室担当記者)といい、現実的に考えれば結婚後も公務を続けられる制度の整備は一刻の猶予もない。 しかし女性皇族の「難問」は制度だけでは解決しない。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏がいう。「公務へのアドバイスとともに、紀子妃殿下は眞子・佳子両内親王殿下に『いずれは皇籍を離れる身だ』と教えてきたと思います。つまり前提が変わることになる。最も大変なのは愛子内親王殿下でしょう。 物心ついた時から女性天皇、女性宮家などの議論がされていて、将来ご自身がどういう道を歩んでいくのかが定まらない。皇太子殿下と雅子妃殿下もどういう教育をすべきか、悩まれているのではないでしょうか」 彬子女王は2012年1月、毎日新聞のインタビューで女性宮家問題について「お国の決定に任せるしかないと思っています」と語り、「前提が大きく変わるかもしれないというので、私自身、落ち着かない状態です」としながらも、「結婚後も公務をすることに抵抗はありません」と、揺れる胸の内を明かした。 若き女性皇族の活躍は、「フィーバー」だけでは済まない国民的課題を秘めている。関連記事■ 就職する女性皇族多数だが眞子さまと佳子さまは就職しないか■ 眞子さま 就職せず公務専念 悠仁さまの相談相手にという声■ 佳子さまフィーバー 雅子妃や愛子さまに好影響を与えている■ 佳子さまにご公務依頼殺到 秋篠宮家担当の宮内庁職員は歓迎■ 「寛仁親王家廃止」苦渋の決断の背景に母娘による当主問題が

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    安倍政権 参院選後に女性宮家創設を検討か

    、皇太子は今上天皇が即位した時の年齢、55歳を迎えた。残された時間は決して多くはない。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏はこう指摘する。 「御代替わりがあれば、皇室典範では〈皇嗣たる皇子を皇太子という〉と定められているため、秋篠宮殿下は皇太子にはならず皇太子不在になる。そうなると様々な弊害が出てくる。例えば、両陛下と東宮ご一家に支給される内廷費は3億2400万円だが、秋篠宮家はご一家合計6710万円の皇族費しか支給されない。 実質、秋篠宮殿下が“皇太子”としての役割を担われるだろうが、皇太子ではないので内廷費は回せない。秋篠宮家には皇位継承者がお二方いるにもかかわらず、待遇には大きな差が生まれる。 また、宮中祭祀の際、宮中三殿に上がれるのは天皇、皇后、皇太子、皇太子妃、皇太后に限ります。宮家皇族はお庭からの拝礼である。天皇皇后が不在の場合、殿上で拝礼する方がいらっしゃらないということもあるだろう。 皇統問題はもちろんだが、他にも見直さなければならない制度がたくさんあるのに、政府からは何の声も聞こえてきません」 政治家が動こうとしないなか、「三者会談」で決めた新たな方針は、皇室自らが動くことだったと皇室ジャーナリスト・神田秀一氏は推察する。「皇族方は政治的な発言は御法度ですから、皇室典範改正に関して自由に意見を発言できません。そんな中で、ご自分たちが出来ることを実行することで、何かを変えたいという“新たな皇室”の姿が見えた気がしました」『皇后の真実』などの著書があるノンフィクション作家の工藤美代子氏も今回の神武天皇の式年祭での天皇家の姿に胸をなでおろす。「皇室の将来を考えると喜ばしく、意義があること。皇族方がそれぞれに考えられ、同じ未来を見始めた象徴的な出来事になってくれれば良いと思います」 皇室の思いを察知したのか安倍政権もついに重い腰を上げようとしているという。自民党幹部が言う。皇居での認証式に向かう安倍首相=2015年10月7日午後、首相官邸「昨年の“安倍談話”問題(※注)以降、安倍首相と天皇陛下との間にすきま風が吹いており、皇室問題には手を付けたくないというのが総理の本音だったのではないか。【※注/天皇は終戦記念日に述べられたおことばで、初めて「深い反省」に言及。その前日に「戦後70年談話(安倍談話)」を発表し、それまで「(過去の村山談話と)同じことをいうなら出す必要はない」と歴史認識の転換を臭わせていた安倍首相は天皇のおことばに神経を尖らせていたとされる】 だが、このままでは悠仁親王が成人された頃には、皇室に皇族が誰一人残っていないという状況も起こりえます。 その問題を解決するために、夏の参院選後に野田政権時とは全く異なる有識者会議を発足させて女性宮家創設の検討に動き出すようです。陛下の孫である眞子さま、佳子さま、愛子さま、3人の内親王に一代限りの宮家を認めるかが議論の中心になる。安倍首相は慎重に議論を進める姿勢ですが、菅官房長官を中心に柔軟に対応することになる」 とはいえ、これまで女性宮家の創設は俎上にのっては消えてきた。また、仮に女性宮家が創設されても、男系男子が誕生しなければいずれ皇統が絶えるという根本的な問題は解決されない。関連記事■ 皇太子家の敷地は秋篠宮邸の3.8倍で居宅の部屋数は2倍■ 半蔵門使用は天皇、皇后、皇太子一家のみ 他の皇族は乾門へ■ 佳子さまの伊勢参拝で見えた東宮家と秋篠宮家の明確な格差■ 宮内庁の予算約170億円 天皇家のプライベート予算約3億円■ 佳子さま初参加 皇族が唯一選挙を行う「皇族議員選挙」とは?

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    万葉集にみる皇位継承へのおおらかな真情

    日本側に求めた。 その時、それを阻止したのは、民社党初代委員長となった西尾末広らである(梅澤昇平著「皇室を戴く社会主義」展転社)。 このように、もともと国連(連合国)には、一方的な自分勝手な理屈で、もしくはコミンテルン戦略によって、日本の歴史と伝統を危険視・敵視して解体するというコミンテルン的日本分断の衝動(遺伝子)がある。 そこに、同じコミンテルン的衝動をもついろいろな国籍の者が入り込んで、国連に元々あった遺伝子を再活性化している。 (その国連の運営に巨額の国費をつぎ込んで、彼らの給料を支払っているのが我が国という訳だ)  近年においても国連は、朝日新聞の虚報・捏造報道に飛びついて、日本軍が朝鮮人女性を強制連行して性奴隷にしたというおぞましい見解を公表して我が国の名誉を毀損したが、この度の、国連の委員会による我が国の皇位継承の伝統を一方的に女性差別とする原案作成もこの国連のコミンテルン的日本分断衝動と無関係ではない。  我が国政府は、この国連の委員会の構成員とその素性を調査して発表し、国民が国連の本質を知る機会と材料を提供するべきである。 この国連の委員会の動きに対する安倍総理の判断と答弁は適切であり、ここで筆を止めて安倍内閣の対処に待ち、以下は私の付け加えたいことを記す。 それは、皇室典範と万葉集についてである。 現行の「皇室典範」は、GHQの占領統治下である昭和二十二年に、日本国憲法の付属法として法律として制定された。 従って、皇位の継承の在り方は、国会における多数決で決めることができると思われがちである。 しかし、それは戦後体制という一時期の思い込みである。皇室典範とは、法律ではない  皇室典範とは、そもそも「皇家の成典」であり、法律ではない。  つまり皇室典範とは、天照大神の「天壌無窮の神勅」に発する神武天皇以来の「皇室の家訓」である。 その神武天皇以来の「家訓」を、大日本帝国憲法発布の日である明治二十二年二月十一日に、「皇室典範制定の勅語」によって「勅定」されたものが皇室典範である。  すなわち、その勅語にあるとおり、 「今の時に当たり、宜しく遺訓を明徴し、皇家の成典を成立し、 以て丕基(ひき)を永遠に鞏固にすへし」 として制定された神武天皇以来の二千六百七十六年にわたる天皇家の「遺訓」が皇室典範であり、皇位は「皇男子孫之を継承す」と定められている。「万葉集」(桂宮本)=「日本の歴史」(暁教育図書) これが太古から今に至る万世一系の天皇を戴く我が国の歴史と伝統である。ここから「日本のこころ」が湧き上がる。このような国は、我が国以外、世界にはない。つまり、我が国は山鹿素行の言うとおり「万邦無比の國」である。 では、「皇男子孫之を継承す」の姿とは何か。そこで、世界に誇る日本のこころである万葉集を観よう。 万葉集第一巻冒頭の歌、すなわち、万葉開幕冒頭の歌、それは、泊瀨の朝倉宮におられた第二十一代雄略天皇ののどかな春の岡で、菜を摘む美しい乙女を眺めて詠まれた、おおらかで雄大な求愛の御製である。   籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ    みぶくし持ち この岡に 菜つます児   家告(の)らせ 名告らせ    そらみつ 大和の國は、押しなべて 我こそ居れ    しきなべて 我こそいませ    我こそば 告らめ 家をも名をも そして、この天皇の求愛に応えたであろう娘の歌が作者不詳で第十三巻に載せられている。   隠口(こもりく)の 泊瀬小國に 結婚(よばひ)せす    我が天皇(すめろき)よ    奧床に 母は寝(い)ねたり 外床に 父は寝ねたり   起きたたば 母知りぬべし    出でて行かば 父知りぬべし    ぬばたまの 夜は明け行きぬ    ここだくも 思ふごとならぬ 隠(こも)り夫(つま)かも この天皇の御製と娘の歌は、ながく詠われ続けてきて、伝承発展をとげ、宮廷の大歌として、舞などともなってのこされたものであろう(犬養 孝博士)。  さて、菜を摘んでいた娘の歌で明らかなことは、古代日本の社会では、明らかに女性が上位であるということだ。 なにしろ、娘の家の奧には母が寝ていて、父は外に寝ている。しかも、天皇でさえ、娘の同意がなければ家の中に入れない。そして、娘は、父母を気にしてなかなか天皇を家の中に入れない。 それ故、天皇は、あの雄略天皇が、娘の家の外で、夜が明けてくるまで、じっと待っている。  とはいえ、天皇と娘が結ばれた時のことを考えよう。 つまり、この第二十一代の天皇の時代、天皇と娘が結ばれて、娘に男子が産まれればどうなる。  生まれた男子は皇位継承権をもつ。天皇になるのだ。これが男系の継承である。  すなわち、日本の全ての女性が「天皇の母」になりうる伝統が男系の継承である。この岡で菜を摘んでいた娘が、天皇の母となる。なんと、おおらかな、ほほえましい、自然なことであろうか。 そう、日本の全ての女性が「天皇の母」になる体制が男系継承なのだ。それ故、万世一系、百二十五代の現在に続いてきた。世界に、我が国以外にこの類(たぐい)なし。  万葉集は、第一巻の冒頭に、雄大な雄略天皇の求愛の御製を載せて日本の一番大切な皇位継承における、おおらかな真情に基づく伝統を歌いあげているのではなかろうか。そういう気がしてならない。  このどこに女性差別があろうか。(2016年03月16日 「西村眞悟の時事通信」より転載)

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    パラオ・ペリリュー島で両陛下をお迎えして

    西村眞悟(前衆議院議員)行幸啓は「とてつもない」こと 天皇皇后両陛下は、大東亜戦争において、祖国を遠く離れた地で戦没した帝国陸海軍将兵を慰霊するため、四月八・九の両日、南洋のパラオ共和国に行幸啓された。 そして九日、同国ペリリュー島に渡られ、その南端において「西太平洋戦没者の碑」に献花され海に向かって深く頭を垂れて黙祷され、続いて西海岸において戦没アメリカ軍将兵の霊を慰霊された。パラオ・ペリリュー島=3月24日(共同) この両陛下の慰霊の行幸啓によって、我が国内では英霊を忘れることなく慰霊される天皇を戴くことへの安堵と感謝の思いが静かに国民の心のなかに湧き上がっているように思える。また、海外の人々も、敵味方の区別も無く戦没将兵を慰霊される天皇のお姿に接し、あらためて、政治的存在としてではなく祈る御存在としての天皇を感じたと思う。 私は、日本は、過去現在未来の国民に支えられて現存し永続する国家であると実感している者である。それ故、太古より我が共同体の存在の中枢にある万世一系の天皇が、遙か南の太平洋に浮かぶ激戦の島ペリリューに慰霊のために皇后と共に行幸啓されることは、目に見えない世界における「とてつもない」ことだという予感を抱いたのだった。 そして、ペリリュー島に行幸啓される両陛下を同島でお迎えしようと思い立った。 そもそも「祈る存在」としての元首を戴いている国が、日本以外の何処にあろうか。しかもその地位の継承は、万世一系である。 古代ローマ建国の英雄やギリシャ神話のゼウスの直系の子孫が現在の国家元首である国がヨーロッパに存在するということを、ヨーロッパ人自身が想像できるだろうか。しかし、彼らの極東の地にある日本は、まさにそのような国なのである。 その国家の元首である天皇が慰霊のためにペリリューに行かれた。これは、世界の諸国民の歴史において、とてつもないことではないか。 そこで、このペリリューへの行幸啓に至る歩みをたどったうえで、ペリリューで両陛下をお迎えした情景をご報告したい。硫黄島、サイパンに眠る英霊とのご対話 昭和二十年八月十五日、「大東亜戦争終結の詔書」が国民に伝達された(玉音放送)。其の詔書において、昭和天皇は「堪え難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ、以て萬世の為に太平を開かむと欲す」と国民に訴えられた。この詔書によって、帝国陸海軍は戦闘行動を停止し、約三百万人の戦死戦没者を出した大東亜戦争は終結した。 それから初めて迎えた昭和二十一年の正月元旦に、天皇は「新日本建設に関する詔書」を発せられ、その冒頭、明治天皇の下された国是である五箇条の御誓文の趣旨に則り、「我が国民が現在の試練に直面し、且つ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克く其の結束を全うせば、独り我が国のみならず全人類の為に、輝かしき前途を展開せらるることを疑わず」と述べられ、「一年の計は年頭にあり、朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして自ら奮い自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾ふ」と結ばれたのである。 この詔書を発せられた後、天皇は、戦禍に打ちひしがれた国民を励ます為の全国巡幸を開始された。しかし、昭和六十二年に予定された沖縄行幸は、病のため断念せざるをえなくなり、次の御製を詠まれたのだ。思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果たさむ つとめありしを そして、昭和天皇は、昭和六十四年一月崩御される。 今上陛下の慰霊の行幸は、この先帝陛下の「たづねて果たさむつとめ」を継承されたものである。 従って、そのお立場は、万世一系の故に昭和天皇そのもの、つまり大東亜戦争の「開戦を命じた天皇」としてのものである。即ち、それは昭和十六年十二月八日、昭和天皇が、開戦の詔書において、「天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す」、「朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事せよ」と命じたお立場である。 そのお立場を継承された今上陛下が皇后陛下と共に、日米両軍の激戦の地である沖縄への度々の行幸啓を果たされつつ、玉砕の島である硫黄島とサイパンへの慰霊の行幸啓を、それぞれ平成六年と同十七年に済まされた。 それから十年の歳月の後、いよいよ本年四月九日、パラオ国ペリリュー島に行幸啓されたのである。これら、硫黄島、サイパンそしてペリリューは、ここが陥落すればフィリピン、台湾、沖縄そして本土への敵の直接攻撃必至の絶対国防圏線上にある。従って、陸海軍将兵は、ここで敵を断固として阻止して祖国を守らんと、最後の一兵に至るまで勇戦敢闘し玉砕したのだった。 従って四月十六日、この絶対国防圏の南端にあるペリリュー島への慰霊の行幸啓を終えた両陛下は、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇と香淳皇后の御陵を参拝され、ペリリュー慰霊を終えられたことを先帝陛下に報告されたのだ。 そこで、天皇皇后両陛下の、西太平洋の硫黄島、サイパンそしてペリリューへと南に下るラインの最初の硫黄島行幸啓に際して歌われた御製と御歌を思い起こすとき、込み上げる思いを禁じ得ない。 天皇陛下は、硫黄島において、精魂を 込め戦いし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しきと歌われた。 この御製は、明らかに二万の将兵と共に玉砕した指揮官栗林忠道中将の大本営に対する訣別電の、「国のため 重き務めを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」を受けて、その「悲しみ」に応答されたものである。これこそ、我が国の伝統である歌において対話を果たす「天皇と民の絆」であろう。 そして、皇后陛下は、慰霊地は いま安らかに 水をたたふ 如何ばかり君ら 水を欲りけむと歌われた。 硫黄島は火山島であり雨水以外の飲料水はない。従って、この島の地熱で五、六十度の高温になる地下壕に潜って戦った二万の将兵の想像を絶する渇きを、皇后陛下は察せられて、将兵らに、「君ら」、と呼びかけられたのだ。 天皇皇后両陛下は、戦没英霊と対話をされ、まさに彼らの苦しみを我が苦しみとして感じようとして慰霊の行幸啓を、硫黄島からサイパンそしてペリリューまで続けられたのである。 これまで、硫黄島に駐留している自衛官達の間では、夜寝るときは枕元に喉が渇いた戦没者の為にコップ一杯の水を入れておかなければうなされるとか、夜中宿舎の外を大勢の隊列が通るような軍靴の音がするとか、夜中に部屋の中で旧軍の兵隊としきりに話している者がいるとかの怪奇な現象が報告されていたという。しかし、天皇皇后両陛下の行幸啓以来、それらの怪奇現象の報告は無くなったと聞いた。島における天皇と皇后の慰霊によって、未だ島の地下に眠る将兵の霊が慰められて鎮まられたのであろうか。 即ち、天皇皇后両陛下の玉砕の島への行幸啓は、両陛下の「英霊との対話という鎮魂」であったのだ。 次に、この度のパラオ国ペリリュー島における、両陛下のその鎮魂の情景をご報告する。これまで、両陛下が慰霊の行幸啓をされた硫黄島とサイパンに、後を追うように慰霊の旅を果たしてきた私は、この度、七名の同志とともにペリリュー島で両陛下をお迎えし、両陛下と共に英霊の慰霊を果たすことができた。目眩するほど広大な戦域に眠る英霊たち目眩するほど広大な戦域に眠る英霊たち 昨年に、両陛下がパラオ共和国の日本軍玉砕の島ペリリューに慰霊の行幸啓をなさることが知らされたとき、これまで硫黄島からサイパンまで慰霊されてきた両陛下が、いよいよ広大な西太平洋と東アジア全域を俯瞰される位置にあるペリリューにおいて、大東亜戦争の全戦没者を慰霊されることになるのだという思いにかられ、その広大な海空域を脳裏に思い描こうとした。そして目眩に似た感覚に囚われた。 大東亜の戦域はこのように広大であり、百万を超える英霊は未だここに眠っている。そして、万世一系の天皇は、皇后と共に国家元首の「たづねて果たさむつとめ」としての、英霊との対話という慰霊の行幸啓を続けられてきた。このような「祈る存在としての元首」を戴く国が日本以外のどこにあろうか。 従って、天皇のペリリュー島での慰霊は、世界諸民族の精神史上、とてつもないことではないか。ひょっとしたら英霊が喜び広大な地面の底から海の底から、祖国を支えようと力強く出てくるのではないか。このような思いを止めることができなかったのである。 そして、行幸啓が行われる本年の一月一日の元旦、産経新聞朝刊の一面には、「米軍を畏怖させた忠誠心 パラオ・ペリリュー島の戦い」という大見出しのもとに、パラオの透き通ったサンゴの海に沈む帝国海軍の零式艦上戦闘機の写真が掲載され、「天皇の島から」の特集が掲載されていた。そして、「天皇、皇后両陛下は今年、パラオ共和国を慰霊のため訪問される。…両陛下の念願だったとされるパラオご訪問を前に、米軍が『天皇の島』と呼んだ南洋の小島(ペリリュー島)から歩みを始める」と特集の動機を書いている。 この産経新聞の一面大見出しを見たとき、いよいよ両陛下のペリリュー島行幸啓によって、「戦後の転換点」つまり「日本を取り戻す転換点」がきたとの思いを深くした。空港があるバベルダオブ島と中心街があるコロール島をつなぐ日本のODAで建設された通称「日本・パラオ友好橋」では、日本国旗の取り付け作業が行われた=4月6日、パラオ(松本健吾撮影) 何故、アメリカ軍がペリリュー島を「天皇の島」と呼んだのか。それはペリリュー島に立て籠もる日本軍兵士の驚くべき勇戦敢闘に直面したアメリカ軍が、その日本軍の兵士一人一人の強さが天皇への忠誠心からもたらされていると判断したからである。 その判断は正確であった。圧倒的な物量を投入して二、三日で日本軍を駆逐できるとみて島に上陸してきたアメリカ第一海兵団は、損耗率六割を超えて「全滅」の評価を下され撤退したのである。これは、アメリカ軍にとって想像を絶することであった。天皇への強い忠誠心即ち祖国への強い忠誠心を心に秘めた日本軍兵士が、この想像を絶することを為したのだ。警備を心配したが… さて、この「天皇の島」であるペリリュー島への行幸啓が、画期、転換点となると感じた時から、日を経るに従い、私には、警備への懸念、心配が大きくなっていった。 両陛下のご日程は東京パラオ間往復六千キロを一泊二日であり、しかもご宿泊先は狭いエンジン音の絶えない巡視船艦内である。大丈夫かと思った。 さらに、ご宿泊先が巡視船になったのは、警備上の問題であるという。そうであれば巡視船で大丈夫なのか。そもそも天皇陛下の「お召し艦」は国家の存在そのものである「軍艦」でなければならんではないか。イージス艦を含む数隻の護衛艦と潜水艦が「お召し艦」の護衛に当たり両陛下にご宿泊していただく。これが元首移動時の世界の常識ではないか。 戦前と同じ軍艦旗を掲げたこの護衛艦群がコロール沖に来れば、親日国パラオの国民は、「ああ、あの懐かしい日本が戻ってきた」と如何ばかり喜ぶか。安倍内閣は、何故、このような当然の措置を決断できないのか。 また、陛下が皇太子であられた昭和五十年七月十七日、妃殿下とともに沖縄糸満の「ひめゆりの塔」に献花されようとした際、六日前から塔の横にある壕の中に潜んでいた過激派が皇太子殿下に火炎瓶を投げつけるという事件があった。彼ら過激派は、沖縄戦の戦い方を学び、日本軍がしたように壕に潜んでいたのである。私は、ペリリュー島の至る処に壕を掘って立て籠もった日本軍の戦法通りにテロリストが島の何処かの壕に潜んで、両陛下を待ちかまえる可能性を思い心配で仕方がなかった。自衛隊の特殊部隊員が事前に密かに島内のジャングルに何日も前から潜んでいてテロリストを監視していなければ安心できない。 私の心配は、杞憂に終わった。しかし、自衛隊や警察の特殊部隊が動いていないはずはないという予感が、妙に私を安心させていたことも確かである。だいたい、監視は目に見えるところではしないのだ。潜水艦はそもそも何処にいるか分からないのであり、特殊部隊は動いているのか動いていないのか分からないから特殊なのである。私が、平成九年五月に尖閣諸島魚釣島に上陸したときも、見渡す限りの海と空に何も無かったが、後に、その時の沖縄の南西航空混成団の司令閣下から、警戒態勢を敷いてレーダーで総て把握していたと、にやりと笑って教えられた。両陛下、ご到着両陛下、ご到着 パラオ共和国は、我が国から三千キロ南の海洋に浮かぶ群島国家であり、人口は二万三百人で、その九割近くがコロール島に住む。コロール島から南に高速ボートで一時間の海上に人口六百人のペリリュー島があり、同島からさらに南に一時間のところに人口百三十人のアンガウル島がある。ペリリュー島では水戸歩兵第二聯隊の日本軍兵士一万一千人が、アンガウル島では宇都宮歩兵第五十九聯隊の千二百人が玉砕した。 両陛下がペリリュー島に行幸啓された九日は、早朝から雲一つ無い快晴であった。黒い礼服を着て表に出ると、フライパンの上の卵のように、肌が太陽に焼かれるのが分かった。そして、家から持参した赤い日の丸に「七生報国」と書いた鉢巻きを眺め、それを額に巻いた。 その時、遙か文永の昔、わずか八十四騎で雲霞の如き蒙古の軍勢に微笑んで突撃して玉砕した対馬の宗助國ら、またその六十余年後に兵庫の湊川で「七生報国」を誓って笑って自決した楠木正成ら、さらに幕末の志士そして維新から大東亜戦争に至るまでお国のために命を献げた英霊が、総てこのペリリューの海空域に集まって来ているように感じた。それ故、一人、海岸に出て、「海ゆかば」を歌った。 巡視船「あきつしま」で宿泊された両陛下は、同船に搭載されているヘリに乗られてペリリュー島に着陸される。 そこで我々は、島の南部のジャングルに隠れた旧滑走路上にアスファルトを敷いて急設されたヘリポートから三百メートルほど離れた十字路に並んで両陛下の到着をお持ちした。炎天下の十字路には、私と奉迎の同志7名以外、パラオの警察官が一人いるだけである。 一時間ほど待機した後、ヘリの轟音が響いてきてジャングルからヘリが現れヘリポート地点のジャングルのなかに降下していった。そしてしばらくすると、両陛下の乗られた中型バスを中心にした六台ほどの車列が道に現れ超低速で近づいてきた。そこにいるのは、パラオの警官と我々八人だけである。しかし、両陛下のバスは、我々の前でほとんど停止したのである。そして、ゆっくりと慰霊地の方に通り過ぎていった。天皇陛下が開けられた窓から手を振られ、皇后陛下はほとんど立たれていた。低頭しているので、停止したように低速になった車輪をみてありがたさが込み上げてきた。その時、隣の友が言った。「皇后陛下と目と目が会った。その瞬間や、涙が吹き出てきた。不思議や」両陛下の車列を追う子供たち 両陛下は、ひとまず休憩所に入られ、それから島の南端の慰霊地に向かわれる。それで我らは、慰霊地から四百メートルほど離れた丁字路に立って慰霊地に入られて出られる両陛下をお迎えしお見送りすることにした。その丁字路にも、我々以外はパラオの人の良さそうな警官が一人立っているだけだ。天皇、皇后両陛下が訪問されるパラオ共和国のペリリュー島にある、日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」で靖国神社と明治神宮の神職らによる慰霊祭が行われた。両陛下のご慰霊に先立ち行われた露払いの神事で、祝詞が奏上され、巫女による神楽も奉じられた=4月7日午後、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) 午前十一時前、両陛下の車列が超低速で慰霊地に入って行かれた。低頭してお迎えしていても皇后陛下がまた立ち上がっておられるのが分かった。そして、三十分後に、慰霊地から出てアメリカ軍慰霊碑に向かわれる両陛下に対し、我々は、元陸上自衛隊大佐殿の音頭で「天皇陛下万歳」を三唱した。 頭を下げて万歳をするわけにはいかないので、「七生報国」の鉢巻きをした私は顔を上げて万歳をした。その前を両陛下が手を振られながらゆっくりと通り過ぎていかれた。 天皇陛下はお顔の色がよく、ご健康そうだと拝見した瞬間に安心した。皇后陛下は透き通るようで弟橘姫の生まれ変わりのお方ではないかと思えた。 私は、衆議院の委員会委員長在任中、国会の開会の際、国会議事堂正面玄関で正装して天皇陛下をお迎えしたことが度々ある。そのお迎えの際、いつも低頭するので、五十センチほど前を通っていかれる陛下の靴や手を拝しても玉顔を拝したことはなかった。従って、ペリリューのジャングルに囲まれた炎天のほこり舞う地道で、初めて両陛下のお顔を間近に拝したのだ。 アメリカ軍戦没者の慰霊を終えられれば、いよいよ両陛下は、ペリリュー島の御日程を終えられて帰国の途につかれる。それで我らは、ヘリポート近くの先ほどの十字路に戻りお見送りをすることにした。 十字路につくと警官は先ほどの一人のままだが、ペリリュー島の人口の半分ほどの人が集まっていた。そして、若い娘さんが我々にも、日本の白地に赤の日の丸の旗とパラオの青地に黄色の月の旗を配ってくれた。 我々は、ここはペリリューの人々が両陛下をお見送りする所だと思い、「七生報国」の鉢巻きを外し、彼らペリリューの人々と共に並んで両陛下をお待ちした。 しばらくして、両陛下の車列が彼方から超低速で近づいてきた。両陛下は、現地の人々一人一人と挨拶を交わされているように見受けられた。 ヘリポートがあるジャングルの方に過ぎ去って行く陛下の車列を、日の丸と月の丸の旗をもった数十名の子供達が喊声を上げて追いかけていった。そして陛下のお車はその子供達の走る速さと同じくらいの低速で進んでいく。一人いた警官は子供達を止め無いので、彼らはジャングルに隠れるヘリポートの間近まで走って行く。その光景を眺めていて、私は、数人の友だちと砂ほこりの田舎の道を走って珍しい車を追いかけた少年時代を懐かしく思い出した。 しばらくしてジャングルのなかからヘリの回転翼が回り始めるエンジン音が聞こえ、それがひときわ高くなって次第に遠ざかっていった。 天皇皇后両陛下は、「天皇の島」ペリリュー島への慰霊の行幸啓を終えられ帰国の途につかれたのである。 翌日、コロールに戻って七名の同志が帰国してから一人になった私は、コロール在住の知人から天皇皇后両陛下の警備に関して次のように聞いた。 パラオ共和国は、二十数年前までアメリカ領だったので、警備はアメリカ流にして、空港からコロールの晩餐会場まで、両陛下の乗られた車を厳重に護衛して百二十キロのスピードで一挙に街中を走り抜けるつもりだった。しかし、陛下の強いご希望で最徐行で走行されることに変更された。そして、両陛下は、コロールの街の人々にゆっくりと挨拶をされながら目的地まで来られたという。 これを聞いて私は、何故、両陛下のお車が、ペリリュー島の人のいないジャングルに囲まれた小道においても、街中と変わることなく最徐行で進んでいたのかが分かった。 両陛下は、かつて七十一年前にこのジャングルのなかに潜んで徹底抗戦して斃れていった一万一千の将兵に挨拶をなされ、彼らと対話をなされながら、人のいないジャングルのなかの道を通られていたのだった。 西村眞悟氏(にしむら・しんご) 昭和23(1948)年、大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。弁護士を経て平成5年の衆議院選に初当選、6期務める。拉致問題、国防など国家の根本問題に積極的に取り組む。平成9年、尖閣諸島・魚釣島に上陸視察。著書に『誰か祖国を思わざる』(クレスト新社)、『国家の再興』(展転社)など多数。関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い

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    両陛下パラオご訪問が意味するもの

    今年4月、天皇皇后両陛下が戦没者慰霊のためパラオ共和国に行幸啓された。パラオの人々の親日感情、日本軍の忠誠心あふれる敢闘ぶりから「天皇の島」と呼ばれたペリリュー島の激戦など、話題の多かった両陛下の行幸啓を振り返りたい。

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    ペリリュー英霊が問う戦後精神

    新保祐司(文芸批評家、都留文科大学教授) 8日から天皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で戦没者を慰霊される。これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。「海ゆかば」を知らない日本人 戦後60年の年には、サイパン島に慰霊の訪問をされた。そのときも、先の戦争を深く回想する契機を与えられたが、サイパン島は、バンザイクリフなどによって玉砕の島として日本人に知られているであろう。戦争の記録映像などでも、よく出て来るからである。 しかし、そのサイパン島や硫黄島などに比べてペリリュー島の方は、慚愧(ざんき)の至りであるが、戦後生まれの私も、この島の名前を知ったのは、そんなに古いことではない。日本人の多くが、知らなかったのではないか。 そのような島に天皇、皇后両陛下が訪問され、戦没者を慰霊されるということは、戦後70年間、大東亜戦争を深く記憶することを怠りがちであった日本人の精神の姿勢を厳しく問うものである。戦後の日本人が、いかに民族の悲劇を忘れて生きてきたかを叱責されるようにさえ感じる。 今年1月3日付産経新聞の「天皇の島から」の連載で、ハッとさせられる話が載っていた。パラオ共和国の94歳になる老女が取り上げられていたが、明快な日本語で「君が代」を歌い上げ、続けて「海ゆかば」を口ずさみ始めたという。歌詞の内容も理解していた。 この記事を目にしたとき、戦後60年の年に両陛下がサイパン島を訪問されたときのエピソードを思い出した。敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという話である。玉砕の悲劇を回想するとき、島民の心からおのずから「海ゆかば」が湧き出てきたのであろう。それに対して、日本人の方が「海ゆかば」を知らないのである。日本が失ったものの大きさペリリュー島にある戦没者慰霊碑「みたま」=2014年12月10日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) このように「海ゆかば」を通して先の戦争を記憶しているサイパン島の島民やパラオ共和国の老女に比べて、日本列島の島民はどうであるか。私もそうであったが、ペリリュー島を忘れていたではないか。サイパンやパラオの島民はずいぶん貧しいかもしれない。しかし、歴史の悲劇と戦没者を忘れないという精神においてどちらが品格が上であろうか。それを思うと、戦後70年間、日本が経済的発展の代償として失ったものの大きさに改めて気づかされる。 ペリリュー島については、40年ほども前に産経新聞社の前社長の住田良能氏が、支局時代にとりあげていたことを最近知って感銘を受けた。1978年、本紙の茨城県版に掲載された「ペリリュー島’78」には、「犠牲の大きい戦いであっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後、太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は『制空、制海権を手中にしていた米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである』と述べ、また米軍公刊戦史は『旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』と讃(たた)えた」と書かれていた。 この「旅人よ、日本の国を」は名訳といっていいが、この文章の原型は、紀元前480年のギリシャでのテルモピレーの戦いを讃えた碑文につながっている。テルモピレーの戦いといえば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』初版の跋文(ばつぶん)に、三島由紀夫が「感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである」と絶賛したことを思い出す。 戦艦大和の激闘が、テルモピレーの戦いの如くであったように、ペリリュー島の激戦も、テルモピレーの戦いであったのである。両陛下の慰霊に合わせ黙祷を この玉砕を悲惨な戦争とか戦没者を戦争の犠牲者とか決して言ってはならない。テルモピレーの戦いのように「祖国」のために戦った勇者に他ならないからである。 天皇、皇后両陛下が慰霊される時刻には、終戦記念日の正午に国民が黙祷(もくとう)をささげるように、ペリリュー島の戦没者に国民が黙祷するようにしてはどうであろうか。これまでほとんど忘れていたことに対するおわびも兼ねてである。 そして、今年の8月15日の全国戦没者追悼式には、「海ゆかば」を流してはどうか。明治から大正にかけて諜報活動に従事した石光真清は有名な手記を書き遺(のこ)したが、その中で明治天皇の崩御に触れて「遠く満洲の涯(はて)に仆(たお)れた人々も、一斉に大地から黒く浮び上って、この偉大なる明治の終焉(しゅうえん)を遙(はる)かに地平線の彼方(かなた)から眺めているかに思われた」と書いた。 追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。そして、われわれはその視線に戦後の精神の在り方を厳しく問われることになるのではないか。しんぽ・ゆうじ 昭和28年、宮城県生まれ。52年、東大文学部卒。出光興産勤務を経て都留文科大助教授に。平成10年、同大教授。19年、正論新風賞受賞。共著に「歴史精神の再建」など。関連記事■ 「侵略戦争」という言葉は歴史を見る目を歪める■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ もう一つの「終戦詔書」 ―国際条約の信義を守る国、破る国

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    陛下、靖国、富士、桜… 「日本人になりたかった」パラオ人

    した」 「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。それで日本を尊敬しているわけです。皇室と神社がある限り日本は倒れない。日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。 天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。先生に毎朝「おはようございます」 1914年、第一次世界大戦でコロール島を占領した日本は、ベルサイユ平和条約でパラオ共和国を20年に委任統治下に置き、2年後、南洋庁を設置した。小学校や実業学校、病院、郵便局などを設置したほか、インフラ整備も進め道路や港湾、飛行場などを建設した。法律は原則、日本の法律が適用された。 日本政府による統治は45(昭和20)年までの31年間続いた。パラオは日本の小都市のような発展を遂げ、日本人も23年に657人だったのが38年には1万5669人を数え、パラオの総人口の7割を占めた。44年時点では、パラオ人約6500人に対して約2万5千人の日本人(軍人を除く)が住んでいた。 元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は「どんどん日本人が移住してきて、コロールの中心街は日本政府の出先機関やショッピングセンター、飲食業、娯楽施設が軒を連ね、『第2の東京』とさえ呼ばれた。農業や漁業などの産業も発展し、稲作やパイナップルなどの生産を促し、余剰作物は輸出に回した」と話す。 この間、日本政府はパラオ人に対する日本語教育にも力を入れ、3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成される公学校が6カ所建設された。「先生の子と歌った」「先生の子と歌った」 日本政府の対パラオ政策の恩恵はペリリュー島にも及んだ。 ロース・テロイさん(94)によると、当時、ペリリュー島には病院が1軒あり、日本人の医者2人が常駐。日本人が経営する「シホ」という雑貨屋があり、50円で何でも買えたという。日本の会社も多く、島民は働き場所を得ていたという。 公学校は「中山」と呼ばれた山の麓にあった。戦後70年となる今、ジャングルに覆われ、わずかに門柱が残るだけだが、鉄筋コンクリート造りで、高さは5メートル近い。敷地内には畑があり、野菜を作っておいたといい、いかに立派な校舎だったか想像できる。 テロイさんのクラスメートは男女合わせて20人で、3クラスあった。パラオ人の先生も1人がいたが、日本語や日本の歌はハシモト先生に教わったという。 「夫婦で先生をしていて、奥さんは着物のときもありました。『親を大切にしよう』『ありがとうございました。どういたしましてと言おう』と教えられました。先生の2人の子供と一緒に歌ったこともあります。正月に日本人と一緒に遊んだことが今でも思い出されます」と、テロイさんは楽しそうに笑顔を見せた。ペリリュー島の日本軍司令部跡。長年の月日でツタや植物に覆われていた。一歩、踏み込むと弾痕や破壊された跡も生々しく残っていた=2014年12月11日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) マルタンサン・ジラムさん(83)は公学校跡地の門柱の前を通ると、毎朝「おはようございます」とヒラマツ先生にあいさつしていたのを思い出すという。公学校の2年生まで日本語の勉強をしたが、3年生の時、空襲で学校がなくなり、疎開した。 ジラムさんは当時を懐かしむように、「桃太郎」を歌ってくれた。「ヒラマツ先生に会いたい。優しくていい先生だった。『お父さん、お母さんを大事にしなさい』『家のことを手伝いなさい』『ありがとうと言いなさい』『困っている人がいれば手伝いなさい』と教えられた」 悪いことをすると叱られたという。「だから、私も子供が悪いことをすると謝るまで手を上げた。ヒラマツ先生に教えられたことは5人の息子に伝えてきたし、息子には子供ができたら同じように伝えなさい、と話している」と語った。新しい生活様式伝承 アマレイ・ニルゲサンさん(79)によれば、「半ズボン」「便所」「草履」「熊手」「大丈夫?」「先生」「大統領」「飛行場」「バカ野郎」「ごめんなさい」「よろしく」「面白い」「飲んべえ」「ビール」「野球」「勤労奉仕」「炊き出し」など、多くの日本語がパラオ語として定着しているという。 イサオ・シンゲオ・ペリリュー酋長(しゅうちょう)は「戦争は良くない。だが、日本は新しい生活様式を伝えてくれた。われわれの生活スタイルが近代化し、生活が向上したのは日本のおかげだと感謝している」と笑顔を見せた。ウエキさんも「統治時代の教育や経済発展を通して、パラオ人は日本人として育てられた。パラオ人は日本に感謝している。今は日本語を話すのは少なくなったが、われわれは日本に戻るべきだと考えている」といい、「天皇陛下がいらっしゃるのがうれしい」と何度も繰り返した。 イナボさんは雑誌のインタビューに「(日本人から)勉強、行儀、修身、男であること、責任を持つこと、約束を守ることを教えられた。男とは自分に与えられた義務を成し遂げる、任務を果たすことなんです。パラオは昔の日本と近い」とも語っている。 パラオの人たちの心のどこかに、日本を“親”“身内”のような存在ととらえているのではないだろうか。そして、パラオには日本以上に日本の心が生きているではないか-。そんな印象を抱いた。(編集委員 宮本雅史)関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 大切にしたい日本の美徳

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    もう一つの「終戦詔書」 ―国際条約の信義を守る国、破る国

    正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録※肩書、年齢等は当時のまま小堀桂一郎(東京大学名誉教授)(一)終戦の日付 普通「終戦の詔書」と呼ばれてゐるのは昭和二十年八月十四日の日付を有し、翌八月十五日正午に昭和天皇御自身による御朗読の録音を以て全国民に向けて放送され周知徹底せしめられた、あの歴史的文書である。詔勅集成として最も大部であり校訂上の権威を有すると思はれる森清人撰の『みことのり』の中ではこれは「大東亞戰争終結の詔書」と題されてをり、それが正式の呼称なのかもしれないが、一般には「終戦の詔書」と呼ばれてゐる。他に取り違へる様な詔書は全く無いのだから、その簡単な呼び方でよいのだらう。〈朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク〉との一節で説き起され、要するに天皇御自身が帝国政府に対し、去る七月二十六日付米英支ソ四箇国共同のポツダム宣言を受諾して戦争終結の手続きに着手する様命じられた、といふことを全国民に布告せられた詔書を指していふのである。 詔書は(此処に引用するまでもないと思ふが)この後の本文で、米英に対する抑々の宣戦の動機を回顧し、皇軍全將兵の善戦敢闘にも拘らず戦局は次第に不利となり、非命に斃れる国民の数と国土に受ける物的損害の増大、殊に原子爆弾の出現による非戦闘員の大量死傷の今後も測り知るべからざる惨害への憂慮を述べられる。そしてポツダム宣言受諾以後の正規の終戦手続の完遂までの前途の苦難の尋常ならざるを予想され、御自らも〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ〉平和恢復に向けて尽力する覚悟なのだから、といふことで国民の隠忍自重と志操の鞏固ならんことを求めてをられる。 有体(ありてい)に言ふと、この詔書の中で明白なる事実として天皇が確言せられてゐるのは、ポツダム宣言の受諾と、従つてその宣言が求めてゐる降伏条件に天皇は同意してをられる――と、そこまでである。そこから後の話、〈萬世ノ為ニ太平ヲ開カム〉との御念願が、どの程度、又どの様な形で実現できるのか、それは全く未知数の事に属し、又〈朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ〉と仰せられてはゐるが、それに確たる保證はあるのか、〈總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ〉、又国民による〈國體ノ精華ヲ發揚〉するとの御嘱望も果して可能なことかどうか、全ては是天皇のひたすらなる御希望・御念願の中にあることであつて、詔書自体がそれを予言、況してや約束してゐるわけのものではない。 右に暗示されてゐると筆者が読んだ終戦手続の完遂といふことにしても、それが具体的には講和条約の締結を意味することになるのはまあ国際法上の常識であるが、詔書の中に具体的に講和条約締結への御要請が言及されてゐるわけでもない。最も基本的な線にまで絞つて言ふとすれば、この詔書は、――四箇国共同宣言を受諾し、降伏要求に応ずる、武器を措け、戦闘行為を停止せよ、との御命令以上のものではない、と読むべきものである。 ところがこれを「終戦の詔書」と呼び慣はすことによつて、この一片の詔書を以て戦争が「終つた」かの如き錯覚が国民の間に生じた。そして九月二日の停戦協定調印は詔書に窺ひ見られる所の「終戦」の敵味方相互間の確認であるかの如き重ねての氣楽な錯覚が此に続いた。そして実は甚だ苛酷なものであつた占領政策実施の期間を経て、昭和二十六年九月六日のサンフランシスコでの平和条約の調印、翌二十七年四月二十八日の条約発効の日付こそが眞の終戦の日であり、その時まで連合国による日本への追撃戦は続いてゐたのだ、その期間はまだ戦争中だつたのだといふ厳しい現実を認識できず、六年八箇月の軍事占領の期間を既に「戦後処理」の歳月であつたかの様に思ひ做してしまふといふ大きな誤りを多くの国民が冒したのだつた。「戦後」は昭和二十年九月に始まつたのだとするこの誤認の悪しき影響は甚だ広く又深くに及んでゐる。(二)同一主題反復主張の弁明(二)同一主題反復主張の弁明 本稿の主題である「もう一つの終戦詔書」の意味に立ち入る前に、なほ少々この広く知れ渡つた文脈での終戦の詔書の果した意義に拘泥(こだは)つてみよう。但し一つお断りしておくべきは、この詔書の歴史的意義は多くの現代史家の手によつてほぼ論じ尽されてをり、筆者が今更木稿に於いて新たに付加へる様な新しい情報や解釈は皆無だといふ事実である。一時多少の謎を含むものの様にも思はれ、複数の相容れない見解が提出されてもゐたこの詔書の成立史的経緯についても、茶園義男氏の入念緻密な考証『密室の終戦詔勅』(昭和六十四年一月(ヽヽヽヽヽヽ)、雄松堂刊)が出、現在それと信ずるより他ない実相が明らかにされた。念の為に言へば、なるほど複雑で錯綜したその成立史的謎があらかた解明されたとはいへ、この詔書が昭和天皇その人の「みことのり」であるといふ事実には毫も変更はない。詔書とはさうしたものであつて、その事情は成立史的経緯が未だ余り問はれてをらず、またその必要も認められてゐないかに見える「もう一つの終戦詔書」についても同じことである。さうでなければ抑々拙稿の主題が成立し得ないことになつてしまふ。 論は出尽したと思はれる上に、筆者自身も終戦をめぐる二つの詔書の史的意義については既に一度ならず見解と主張の文を草してゐる。筆者は学界の末席に列る身であるが故に、同じ主題について二度以上文稿を草するのは文章の士として恥づべきことである、それは〈著者は自著を話題にして語るものではない〉(極く初歩の英和辞典にも文例として出てゐるThe author should be the last man to talk about his work.)との金言と同様、筆執る身にとつての御法度である、といつた教育を若年の日以来受けて来た。公けに人の眼にふれる紙面に文を售(う)るといふ履歴を踏み出してより四十年余、この禁忌を守り通し得たとはとても思へないが、受けた教を遵守するといふ意識だけは身から離した覚えがない。少なくとも研究者生活の枠内ではそのつもりであつた。(但し研究論文には過去の誤謬訂正や新発見の資料・情報に基づいて旧作に改訂増補を施す責任が生ずる場合があり、此は同一主題の二重発表とは話が別である。) 然し凡そ知識といふものが公開された形で広く世間大衆の耳から耳へと飛び廻る現今の情報社会の在り様と、その知識の一々の項目に然るべき固有の価値が託されて授受される学界とでは、同一主題の反復といふ行為にも、微妙ながら明らかに或る性格の違ひがついて廻る。簡単に言へば情報社会に於いては反復は避けることのできない重要な伝達技術の一方法である。 手近な例を以て語るならば、――大東亜戦争の真の終結の日付は決して昭和二十年の八月十五日でも九月二日でもない、それは正しくは対連合国平和条約が国際法上の効力を発生した昭和二十七年四月二十八日の事である――と、この簡単明白な事実についての認識が意外なほど世に疎かにされてゐるといふ実情がかねてより甚だ氣になつてゐたのだが、そのことの表現の一端として同憂の友人(入江隆則氏、井尻千男氏)と語らひ、「主権回復記念国民集会」といふ催しを計画したのが平成八年の秋、その第一回集会の開催を実現したのが平成九年四月二十八日である。爾来、早くも八年の歳月が流れ、「終戦の詔書」奉戴六十周年の記念年に当る平成十七年にはその第九回の記念集会を盛会裡に実行することができた。 記念日である四月二十八日を間近に控へて毎年配布する集会の趣意書は、その年々の国際政治の状況を反映して多少の変化(北朝鮮の最高実力者が何件かの日本人の誘拐を自ら認めた事件はその最も大きな一つだつた)はあつたけれども、基本的には毎回同じ趣旨の主張である。講演会か討論会形式か、集会の形は年々これも多少の変化を有するけれども設定された主題は所詮常に同じものであり、前記両氏と筆者を含む三人の代表発起人は毎年ほぼ同じ主張を繰返して壇上から述べることになる。論文といふわけではないが、同一主題の反復発表といふ禁忌を私共は連年犯してゐるわけである。若干の羞恥を覚えないわけにはゆかない。 然し乍ら、この集会を九年も続けてゐるうちに、私共は自分達の一種の弘報(宣伝と呼ばれてもそれは構はない)活動が次第に効果を表してきてゐることを判然と認め得る様になつた。運動の初期の頃には、「四月二十八日は何の日か」といふ問ひかけが、何か奇矯な質問の如くに受取られ、取り分け若い世代の人々の間には、それが何か不思議な謎ででもあるかの様な、答に窮するのみといつた反應をよく目にしたものであつた。それが昨今では、眞の終戦の日付は二十七年四月二十八日なのだ、との認識を含んだ言表に接することが少しも珍しいことではなくなつた。それを通じての一般の意識の変革が成つたといふにはまだ程遠いと言はざるを得ないが、この日付に関しての認識だけは定着に近づいてゐると言へるであらう。 それならば――、この効果に我と我身を励まされて、なほ同じ様な懲りずまの反復主張による成果を収めたいと思ふ弘報目標とでもいつたものがなほいくつか思ひ浮んでくる。そのうちの重要な一項が即ち「無条件降伏論争」の始末についての念押しの追論である。(三)再検討「無条件降伏」(三)再検討「無条件降伏」 所謂「無条件降伏論争」とは昭和五十三年に江藤淳氏と本多秋五氏との間に生じた紙上の論争であつて、この論争の抑々の発端と結末、その両者の議論が戦後の日本の思想界に対して有した意味等については筆者の旧稿「欺かれた人々――「無条件降伏」論争以後二十年」(PHP研究所刊の拙著『東京裁判の呪ひ』〔平成九年十月〕に収録)の中で、それ自体既に追論の形で述べてゐるので此処に繰返すことは慎む。但、その結論を一言以て要約しておくならば、昭和二十年夏のポツダム宣言に述べられた停戦条件の受諾を以てしての対連合国戦争の終結方式を、占領後の米軍の邪悪な宣伝工作によつてあれは無条件降伏といふ終戦形態だつたと思ひこまされてしまつたこと――、この歴史的事実と一般の認識との間の重大な齟齬に戦後の我が国の思想界を昏迷に陥れた全ての不幸の原因がある、との判断を言ふ。 本稿の此の節で又しても繰返しておきたいのは、右に記した昏迷や不幸のことではなくて、大東亜戦争の収拾過程に於いて、日本が最も避けたかつた、といふより此だけは絶対に回避しなくてはならぬとの決意を固めてゐた終戦方式が無条件降伏といふ負け方であり、又連合国の中核をなすアメリカ合衆国が初めから強烈に志向し、最後まで固執してゐたのが無条件降伏方式による日本打倒であつたといふ、その双方の執念の衝突のことである。付加へて言へば、日本はポツダム宣言の受諾によつて、無条件降伏の回避といふ念願を達成し得たことを確認したが故に停戦協定に調印し、一方アメリカ側は、当初の目標を獲得できなかつたが故に、日本武装解除終了の瞬間から欺瞞と謀略を以て実質上その目的を達成するための工作を開始した、といふ構造が生じた、その経緯である。我々は半世紀余の長きに亙つてこの構造の呪縛から脱出できないことの不利を甘受し続けた。 扨、この様に、日本国の戦後処理の上での重大な鍵概念となつた無条件降伏とは元来如何なる事態を指し、其処には又如何なる意味が籠つてゐるのであらうか。是亦筆者の旧稿(「戦争犯罪裁判と歴史の実相」(PHP研究所刊『再検証東京裁判』〔平成八年六月刊〕に収録)に於いて既に論じたところではあるが、その国際法上の定義について此処に反復略述しておくことの意味はあると思ふ。 その学術的定義を下してゐるのは、極東国際軍事裁判が弁護側反証段階に入つた昭和二十二年二月二十四日、弁護側の冒頭陳述として、清瀬一郎氏の有名な弁論(「総論A」)と同時に法廷で陣述される予定であつた、高柳賢三弁護人の「総論B」の第一部第一章「降服((ママ))文書と裁判所条例」に含まれてゐる論述である。 この冒頭陳述は裁判所によつて却下(法廷での朗読不許可)の扱ひを受けて一時弁護人の筺底に逼塞することを余儀なくされたが、一年余り後の昭和二十三年三月、弁護側の最終弁論段階に至つて、その間の著者の大幅な改訂増補により、却下された初稿の二倍余の長大な論文となつて復活し、陽の目を見た。これは現在高柳氏の著書『極東裁判と国際法』(昭和二十三年、有斐閣刊)に収められてをり、著者が自信を以て世に問うた決定稿と見られる。 この弁護側最終弁論稿の中で高柳氏は無条件降伏の実体について、ドイツ降伏の場合と日本のそれとを対比させて説明してゐるので甚だ解りやすい。要旨は以下の如くである。――ドイツは一九四五年五月一日ヒトラー総統が市街戦の唯中に、ベルリンの地下壕で自決を遂げたことで国家元首を失つた。翌二日ベルリン守備隊は降伏し、ソ連軍はベルリン全市を完全占領したが、其処には最早ドイツ政府なるものが存在しなかつた。ヒトラーの遺志によつて(と伝へられてゐた)海軍のデーニッツ提督が後継首班に指名されてゐたが、外交関係の中で新しいドイツ国元首と認められてゐたわけではなく、ただ五月七日正午にデンマークとの国境に近いフレンスブルクの海軍基地からラヂオ放送を通じて全ドイツ軍の米英ソ三国に対する無条件降伏を命令できただけであつた。 この降伏命令に先立つて米英ソの連合三箇国とデーニッツとの間に何らかの形での停戦交渉が行はれてゐたわけではなかつた。戦闘行為はドイツ全土の占領・政府の消滅を以て終つた。この様な敗戦の様態を高柳氏は国際法に謂ふ所のdebellatioであると定義した。これは法律学の術語で従つてラテン語であるが、Debellationといふ形のドイツ語として登録してゐる独語辞書もあり、戦争当事国が相手国の全土を占領しその政府が消滅した形での戦争終結形態である、と説明してゐる。ドイツの敗戦は正にこのデベラチオの定義にぴたりと嵌つたものである。たぶんこの様に書いただけで既に、日本の敗戦様態はドイツとは違つて国際法上の学術的意味でのデベラチオ=無条件降伏ではないことが、如何な素人の眼にも瞭然たるものがあるであらう。 二十年八月十五日、大本営が全軍に向つて武力抵抗の中止、戦闘停止を命令した時、日本国政府は健在であつた。沖縄本島及びその周辺と硫黄島以外の日本国領土は占領されてゐなかつた。国家元首たる天皇も毅然として帝都に留つてをられた。鈴木貫太郎内閣は、天皇の御決断を仰いで、といふ日本の立憲君主政治としては例外的な形をとつてではあるが、閣議決定といふ正規の手続を履んだ上でポツダム宣言の受諾を決定した。受諾決定に至るまでには、連合国の側から四箇国共同宣言(言ふまでもなく発出当時は米英華三箇国宣言、ソ連は八月九日の対日宣戦布告によりこの宣言に後から加入して四箇国となつた)といふ形での停戦交渉が提議されたのであり、日本は多分に時機を遷延させてしまつた形でではあるがこの交渉に応じ、相互の条件が折合つたが故に停戦の呼びかけに同意したものである。 ポツダム宣言はその後半部で七箇条に及ぶ日本降伏容認の条件を提議し、日本側は内部では申し入れるべき四箇条の条件を用意したが、交渉が長びくのを恐れて三箇条は伏せたままにし、実際に相手方に伝へたのは国体護持の保証といふ唯一箇条のみとなつた。交渉応諾条件の数の上での不均衡は覆ふべくもないが、壓倒的な優勢に立つ勝利者側に対して継戦能力をほぼ完全に失つてしまつた敗北者側としては要するに為す術もない厳しい現実だつた。 然し乍ら、幾重にも強調しておかなくてはならないが、八月十四日付の詔書は連合国からの条件附停戦申し入れを受け容れよ、との御下命を意味するものであり、その結果として、東京湾に進入してきた米軍艦ミズーリ号上での停戦協定調印式があつた。署名したのは日本帝国政府と大本営を代表する全権委員(外務大臣と参謀総長)であり、このことは執拗い様だが外交権を有する政府の健在を意味してをり、その権威が厳存してゐたが故にこそ、政府はポツダム宣言の要求に従つて全日本国軍隊(ヽヽ)の無条件降伏・抵抗中止を下命することができたのである。 近代に於ける対外戦争での敗戦を経験してゐなかつた日本国ではあるが、ポツダム宣言を溯ること三箇月前に生じた同盟国ドイツの真の意味での無条件降伏を観察する機会には恵まれた。他者の運命も、それを注意深く観察する眼にとつては立派な経験である。日本はこの経験に学んだ。その教訓は、どんなことがあらうと無条件降伏だけは避けよ、といふことだつた。 それにしても無条件降伏とは何故にそれほど恐るべき事態なのか。又その様な破局的事態をうみ出す思想は何時、何処で、如何様にして生れてきたものなのだらうか。終戦直後の大阪・梅田の闇市 無条件降伏の思想はアメリカの南北戦争(A.D.一八六一―六五)の終末時にグラント將軍の率ゐる北軍が、リー將軍麾下の南軍を徹底的に撃破した際の戦争終結様式に於いて初めて現れたもの、といつた記述を何かで読んだ記憶があり、そのあたりの事情を少し詳しく知りたいものと思つてゐたところ、平成十七年一月、戦史研究家吉田一彦氏の新著『無条件降伏は戦争をどう変えたか』(PHP新書)が刊行された。これある哉と早速求めて繙いてみたのだが、吉田氏の記述によればグラントはリーに対してそれほど苛酷な全滅作戦を展開したわけではなく、むしろ比較的寛大な条件を以て降伏を容認したといふことである。問題はこの時の戦争終結様式を不正確に記憶してゐたF・D・ルーズベルトが、一九四三年一月、英米首脳のカサブランカ会談後の記者会見で、独・伊・日の枢軸に対する戦争は無条件降伏方式で決着をつける、と語り、その無条件降伏の実態を説明するのに、南北戦争終結時の方式だ、と付加へたことにあつたらしい。吉田氏によればそれはルーズベルトの記憶違ひで、実際に無条件降伏方式と言へる様な徹底した破壊をもたらす焦土作戦が北軍によつて行はれたのは一八六二年のテネシー州フォート・ドネルソン包囲攻撃の際のことであつたといふ。 とすれば、それは所詮南北戦争といふ全体の中での一局面の戦闘での話にすぎないのだから、第二次世界大戦のドイツに於いて現出した如き一の国家の潰滅といふ現象とは大分話が違ふ。つまり一部に伝へられてゐた無条件降伏=南北戦争起源説は事実に即しての観察によるものではなく、F・D・ルーズベルトといふ一アメリカ人の頭脳が紡ぎ出した敵国撃滅への苛酷なる妄執の図式化だつたといふことになるらしい。 因みにルーズベルトはその時debellatioなる学術語で定義される様な敵国殲滅を思ひ描いてゐたわけではなく、字義通りのUnconditional Surrender=謂はば「一切の妥協を許さぬ完全な降伏」を以て枢軸国を屈服させることを考へてゐた様である。それは彼の後継者によつてやがて具体化された如く、日本(及びドイツ)が二度と米国に対する敵対者として彼等の国家発展の前途に立ち塞がる様な力を保持できないほどに完璧に叩きのめすといふことであつた。そのために敵国の降伏後にはその敵に対しアメリカが全権を以て戦後処理に当り得る様な徹底的な優越性を持つた上で降伏を承諾せしめることであつた。高柳賢三氏がドイツのデベラチオによつて連合国は諸地域に於いて、〈いはばルイ十四世のやうな専制君主の如く振舞ふこともできるのである〉との比喩を述べてゐるが、ルーズベルトの意図した無条件降伏も、つまりは敗戦国日本に対して己れが絶対専制君主に等しい権限を獲得し、以て日本を自分の思ふがままに処理し改造しようといふ所にその眼目があつた。 米大統領の主唱によつて(とは後から分つたことであるが)米・英・華の連合国が企んでゐるのはあの恐るべき無条件降伏方式によつて枢軸国を打倒することなのだ、と日本人が知つたのは昭和十八年十一月のカイロ宣言を通じてのことであつた。然しこの時、一般の日本人はこの方式が含んでゐる恐しい思想の意味を深刻には受けとめてゐなかつた、或いは理解してゐなかつたと思はれる。といふのも、その後戦闘が終つて米軍の日本占領が始まつた頃になつても、国民はそれほどの抵抗感もなしにこの詞を口にし、又自分達の祖国は連合国に無条件降伏したのだ、現在の占領状態はその結果なのだ、と思ひこんでゐる人が大半だつたからである。なるほど、降伏条件のうち日本から提出した最低限度の一項目たる国体の護持だけは一応相手方が遵守してくれてゐる様に見えてゐた。その上で、これが無条件降伏の結果生じた事態だと認識すれば、確かに無条件降伏はそれほど恐しい終戦方式だとは思へなくなつてしまふ。中には(これは実は昭和天皇の捨身の外交的御尽力の結果であるが)占領軍が敗戦直後の日本国民の飢餓状態を救つてくれたのだ、との恩誼を深く胸に刻んだ人々もゐた。 さすがに日本帝国の為政者層の事前の認識はそれほど甘いものではなかつた。殊に同盟国ドイツがデベラチオの実現といふ形で潰滅し、ルーズベルトの急死で急遽登場した新大統領トルーマンが、対ドイツ戦で得た勝利の方式を対日戦にも適用する、と公式の聲明を発するに及んで、時の日本国政府鈴木貫太郎内閣の受けた内心の衝撃は深刻なものとなつた。その時以降この内閣が天皇の御意向を体して挺身した終戦工作の努力が如何に苦しく且つ真剣なものとなつたか。そして鈴木首相が二十年六月の第八十七臨時帝国議会の施政方針演説を以て発信した米国内知日派向けの暗号通信が幸運にも受信相手に把握・解読され、決定的にその効果を発揮した次第、即ちポツダム宣言といふ形での停戦交渉提案に結実して行くまでの迂余曲折、このあたりの終戦工作の経緯は既に筆者が何度も論及したことなので此処での反復は慎むことにする。付加へて言へば、鈴木首相の暗号通信を解読したジョセフ・グルーを筆頭とする米国内の知日派が、無条件降伏方式の回避、国際法上筋の通つた停戦交渉の発議に向けて米国内で様々の政治工作を展開した、その始終についての研究は既に「完成」した状態にある様である。筆者はそれを岡崎久彦氏の『吉田茂とその時代』(平成十四年、PHP刊)及び杉原誠四郎氏の『日米開戦とポツダム宣言の真実』(平成七年、亜紀書房刊)を通じて間接に知つたのだが、その調査の完成を成就したのは五百旗頭真氏が『米国の日本占領政策』上・下(昭和六十年、中央公論社刊)で提出された詳密精細な考証の成果だつたとされてゐる。(四)「誓約履行」の御下命(四)「誓約履行」の御下命 扨、大東亜戦争の終結といふ難事業達成のための最後の鍵となつたポツダム宣言発出の経緯、そこに至るまでの日米両国の政治・戦争指導者達の苦心惨膽の努力の迹に関しては、是亦十分過ぎるほどの多くの研究が簇出してゐることでもあり、本稿では一切省略に従ふ。 語つておきたいのは、天皇をはじめとする日本国内の和平希求派と米国内の知日派及正常な国際法上の戦争観の持主達との間に、交互の通信杜絶状態にあつて猶且つ成立した不思議な連繋工作の存在である。このことによつて大東亜戦争は無条件降伏方式の回避といふ文明の流儀に則つて戦闘行為の終結にまで到達することが出来たのだ。それにも拘らずこの貴重な成果を蹂躙し、文明の作法に深甚な侮辱を加へた国がある一方、ポツダム宣言の受諾とそれに基く停戦協定への調印が国際法上の条約締結に当ることを正確に認識され、敗者といふ屈辱的な位置に在りながら、毅然として、条約の信義を守れ、との詔勅を発布せられた先帝陛下の御事蹟を、何とも不思議なる東西文明の対比図としてここに掲げておきたい。それを「昭和天皇と激動の時代・終戦編」に寄せるささやかながらふさはしい寄与たらしめたいとの筆者の念願が本稿執筆の動機である。 実は昭和二十年八月十四日付「大東亜戦争終結の詔書」に続いて八月中に二つのみことのりが発せられてゐる。八月十七日付「戦争終結につき陸海軍人に賜はりたる勅語」と同二十五日付「復員に際し陸海軍人に賜はりたる勅諭」とである。これも終戦に伴ひ、十四日付詔書の一種の補遺として、特にこの大事件の当事者である陸海軍の將兵に向けて発せられたねぎらひのお言葉である。それは国政に関はる御下命事項ではなく、天皇御自身の御心に発する人としての情の表現であるから「勅語」「勅諭」の題に窺はれる如く、国務大臣の副署も御璽の捺印もない、何らかの御奉答をも必要とするわけではない文書である。ところが次の二十年九月二日付「ポツダム宣言受諾誓約履行の詔書」は再び「詔書」であり、臣民に向けての御下命である。その有する意味は重い。その意味について、此も筆者は既に別の箇所で論及したことはあるが、今茲に再説に値すると思ふので、先づその本文を掲げよう。  朕(ちん)ハ昭和(せうわ)二十年(にじふねん)七月(しちぐわつ)二十六日(にじふろくにち)、米(べい)英(えい)支(し)各國(かくこく)政府(せいふ)ノ首班(しゆはん)カポツダムニ於(おい)テ發(はつ)シ、後(のち)ニ蘇聯邦(それんはう)カ參加(さんか)シタル宣言(せんげん)ノ掲(かか)クル諸條項(しよでうかう)ヲ受諾(じゆだく)シ、帝國(ていこく)政府(せいふ)及(および)大本營(だいほんえい)ニ對(たい)シ聯合軍(れんがふぐん)最高司令官(さいかうしれいくわん)カ提示(ていじ)シタル降伏(かうふく)文書(ぶんしよ)ニ朕(ちん)ニ代(かは)リ署名(しよめい)シ、且(かつ)聯合國(れんがふこく)最高司令官(さいかうしれいくわん)ノ指示(しじ)ニ基(もとづ)キ、陸海軍(りくかいぐん)ニ對(たい)スル一般(いつぱん)命令(めいれい)ヲ發(はつ)スヘキコトヲ命(めい)シタリ。朕(ちん)ハ朕(ちん)カ臣民(しんみん)ニ對(たい)シ敵對(てきたい)行爲(かうい)ヲ直(ただち)ニ止(や)メ武器(ぶき)ヲ措(お)キ、且(かつ)降伏(かうふく)文書(ぶんしよ)ノ一切(いつさい)ノ條項(でうかう)竝(ならび)ニ帝國(ていこく)政府(せいふ)及(および)大本營(だいほんえい)ノ發(はつ)スル一般(いつぱん)命令(めいれい)ヲ誠實(せいじつ)ニ履行(りかう)セムコトヲ命(めい)ス。終戦直後の大阪駅。目の前の広場は食糧難のため農園に変えられた この詔書は本来の「終戦の詔書」に比べると、その成立史的詳細がまだ問はれてもゐないし、その必要がないかにも見える、とさきに記したが、それはその単純な成立事情が文献的に追跡可能であり且つそこに何らかの謎も認められない以上、むしろ当然のことといふべきかもしれない。その文献とは、直接的には江藤淳氏の編・解説に成る『占領史録』(全四冊、昭和五十六―七年、講談社刊、現在同社學術文庫で全二巻)第一部Ⅲ「降伏調印」の章である。この詳細にして正確な校訂を経た第一次史料の集成本に拠つてみるに、米軍総司令部の厚木進駐・到着に先立つて日本国政府は代表をマニラに派遣して連合国軍と降伏手続の打合せに入る様要求された。マニラに飛んだ日本代表の参謀次長河辺虎四郎中將とアメリカ太平洋軍司令部参謀長サザーランド中將との間に会談が行はれたのは八月十九日夕刻の日本代表のマニラ到着後、少休を経て直ぐの午後八時半から深夜にかけてである。 この席上で日本代表は米軍側から三通の文書を手交される。一に「降伏文書」の草案、二に「天皇の布告文」の案文、三に日本軍の降伏を実施するための「陸海軍一般命令第一号」の案文である。 「降伏文書」(Instrument of Surrender)はこの草案が些細な字句の文法的訂正を経ただけでそのまま正式の「降伏文書」となつた。これは元来が「停戦協定文書」と名付けられるべき性格のものであるはずだが、強引にも「降伏文書」なる標題を有してゐた。日本代表の河辺中將に微妙ながら重要な意味を有するこの文書の標題に氣付くべきであつたと責めることは外交慣例に習熟してゐるわけではない軍人に対して無理な要求だつたであらうし、又仮令河辺中將がそれに氣付いてサザーランド参謀長に抗議したとしてもおそらくは聴く耳を持たぬとの扱ひを受けただけであつたらう。 この文書の中で「無条件降伏」といふ詞が「全日本国軍隊」に限つて使はれてゐることはポツダム宣言の文言をそのまま受け継いでのことであるし、又文書の末節〈天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス〉といふ部分は、日本政府のポツダム宣言の受諾通告に対するアメリカ国務省のバーンズ回答の文言そのままである。占領軍司令官の制限の下に置く(原文は…shall be subject toで、本来「従属す」と訳すべき有名な部分、日本側も占領開始後に作成した降伏文書説明文では〈ソノ間日本ノ主權ハ聯合國最高司令官ニ隷属シ〉といつた表現を使はざるを得なくなる)とされた天皇及日本国政府の国家統治権は、裏から見ればその存立を容認されてゐるからこそこの表現になるわけで、つまり国際法上のデベラチオではないことの客観的事実の承認に等しい。河辺代表の持ち帰つた文書草案を検討した日本政府はもちろん上記の関連に十分の注意を払つた。『占領史録』には、録された史料の政府当路者の発言の端々に、――これならばまあよい、それほどひどい事態にはならないだらう、との安堵の感が透けて見える。 さうであればこそ、つい昨日までの敵であつた米軍から手交された第二文書「天皇の布告文」の草案に則つて「詔書」を起草する、といつた前代未聞・空前絶後の国辱的事態にも、日本政府は正に〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ〉の聖旨に則つて第一の試煉として九月二日付詔書の発布を実施せねばならなかつたし、おそらくは敢然たる決心を以て積極的にそれを断行したのだつた。 詔書の指示内容は手交された米軍起草の文案と意味の上ではほぼ同じである。然し、些細なことの様だが、原案の西暦による日付は昭和年号を用ゐてをり、且つ〈朕〉は原案に於いてI, myであつたのを、この詔書を英文に訳し返して米軍との終戦連絡事務上の記録に留めるに際しては尊厳の複数We, Ourに訂するといふほどの心得は見せてゐる。米軍側の心ある者が見れば、自分達が皇帝勅書の様式を知らない国民である、との自覚が一瞬念頭を掠めるくらゐのことはあつたかもしれない。 幸ひにして、この段階では単なる外面的様式のみならず、文体の面でも詔書にふさはしい威厳を具へた文章を構成し得る人材が政府部内に居た様である(余計な注釈かもしれないが、昭和二十一年一月一日付の「年頭、國運振興ノ詔書」の起草が課題となつた時には、政府部内には詔勅の文則を的確に駆使し得る人が最早居なくなつてゐた)。原文が英語の公文書であるにも拘らず、この詔書は「みことのり」の品位を具へてゐた。そして実際に『占領史録』中「降伏調印」の章によれば〈聯合國最高司令官ノ要請ニヨリ公布セラルル詔書ハ同司令官ノ要請ニ基キ之ニ與フルノ要アルニ付詔書別紙ノ通奉供 欽閲候間御親書(〔ママ〕)ノ上御下付相成様仕度此段謹テ奏ス/昭和二十年八月三十一日/外務大臣〉なる文書が殘つてゐるのであるから、詔書文案を陛下の御親閲に供し奉つた上で公布の御裁可を得たことは確かである。つまり実に異常な成立経緯を有するとはいへ、是は真正のみことのりに違ひないのである(編者により〔ママ〕を付せられた〈御親書〉が「御宸筆」の意味だとしたら慥にこれは一寸考へ得られぬことであり、存疑の表現とされるのが尤もである。おそらくは「親署」の字違ひで、署名と御璽押印の意ででもあらうか)。 真正のみことのりであるが故に、詔書に言及されてゐる所の「陸海軍一般命令第一號」が、その布告後、全軍によつて如何に厳密・忠実に遵守せられたか。それは最高司令官D・マッカーサー自身を始め、その幕僚達及び降伏受容れと武装解除の実施現場でその任に当つた連合軍將士の感歎を喚び起すに十分な規律厳正なものだつた。それは吉田茂が口にしたとされてゐる「負けつぷりのよさ」といつた通俗概念を以て評価するのでは到底足りない、といふよりもそれでは明らかに不当といふべき、実に重大な歴史的事実がそこに示されたと見るべきである。 我々日本人は皆、聖徳太子の十七條憲法第三條の「承詔必謹」のおさとしが千二百五十年の歳月を距てて茲に蘇つた、いや生き続けてゐたのだと考へて停戦時の軍の規律の正しさに深く納得する。日本国民である以上それは当然のことで、特別に殊勝の振舞ひであつたと己惚れるわけでもない。 このあまりにも指図がましい三種文書の受諾並に布告要求に対し、日本側でも文書原案到着直後に、いつたいこの様な要求に唯々諾々として屈服してしまつてよいものか、これらの文書の正文化及び発出は国内法上如何なる手続を取れば正当化できるのかについては大いなる疑問があり、議論も生じた。その疑問と議論の記録は極めて重要な先人達の苦心の痕を留めた史料である。残念ながら本稿ではそれを再確認して示すだけの紙幅の余裕がない。結局のところポツダム宣言の受諾によつて辛うじて終戦の機会を掴み得たといふ事実の重みが決定的だつたのだ。その名も忌はしい「降伏文書」は実質上「停戦協定」なのであるから、〈右ハ一種ノ国際約束ト見ルベキモノニシテ我方ハ之ニ依リ寡クトモ國際上ノ義務ヲ負フ次第ナリ〉といふ八月二十二日付外務省条約局作成の見解は正しい。とすれば、〈…降伏文書ノ一切ノ條項竝ニ帝國政府及大本營ノ發スル一般命令ヲ誠實ニ履行セムコトヲ命ス〉との詔書の結びの文言は元来「約束を守れ」との至高の道徳的御訓戒と読むべきもので、凡そ日本臣民たる以上、このみことのりに叛く者一人たりともあらうとは思はれぬ。勅命とその遵奉といふ伝統的君臣関係での千古未曽有の切羽詰つた非常事態が此処に現出したのだと見てもよい。 事実、この時の日本国民は勅命を奉じて世界史に比類なき誠実さで「約束を守つた」。連合国最高司令官マッカーサーの任務としての平和条約締結までの「日本保障占領」といふ大きく困難なる歴史的事業は、彼等の見地からすれば十分な、もしくは過分な成功を収めたと見るべきだらう。成功の原因は総じて言へば湊合的なる時運の然らしむる所、としておけばよいわけだが、その成功の大前提となるのは、日本といふ国家と国民が、ポツダム宣言に基く停戦協定が列記した諸般の国際的「約束」を忠実に履行したことである。(五)彼我の深刻な対照(五)彼我の深刻な対照 日本帝国は大東亜戦争収拾過程に於いて、天皇の詔書の文言そのままに飽くまでも国際条約の信義を守つた。九月二日付の詔書を奉戴したか否かに拘らず、他者との約束を守るといふ徳目は日本人の国民性の一端として人々の意識の中に深く染みついてゐる公準である。十七条憲法の第九条も〈信是義本、毎事有信、其善悪成敗、要在于信〉(信(まこと)は是義(ことわり)の本なり。事毎に信(まこと)あるべし。其れ善悪成敗、要(かならず)信に在り)とされてゐる。だが是亦、改めて聖徳太子の教を持ちだすまでもないであらう。近代では新渡戸稲造も『武士道』の中で約束遵守の「誠」が日本人の道徳性の重要項目である所以を著名な「武士の一言」を標語として論じてゐる。事の善し悪し、成功か失敗か、その要は信義を守るか否かにある――と、此は国民の遺伝子の中に潜んでゐた信念である。大戦争の終結時に際しても国民性の中の遺伝子がその然るべき特性を発揮したまでのことである。 故に国民は約束の遵守の結果として己が権利が侵され、身体が深い傷を受け、長く健康を損ふ様な不利を身に受けようとも約束の信義だけは守る、といふ途を選んだ。 それに対して、停戦協定の締約相手たる連合国側はどうであつたか。協定調印以前とはいへ、日本帝国の大本営が既に全戦線の將兵に停戦命令を下達し、且つその事を連合国側に通知した八月十六日以後の段階でソ連極東軍がどの様な暴挙に及んだか、此こそは六十年後の今日に及んで本稿が今更指摘するまでもない天下周知の史実であるから今は全て省略する。又九月二日付昭和天皇の第二の終戦の詔書とあまりにも対照的な、同じく九月二日付の「連合国最高司令官総司令部布告」第一、二、三号の含む米国側の激しい裏切り、約束の信義の蹂躙といふ事実に就いても、筆者はこれも前掲の「欺かれた人々――「無条件降伏」論争以後二十年」の中で十分具体的に詳述してゐる。此も要約の形にせよ再説するのは不謹慎であらう。唯一言だけ、此だけは何度反復して記しておいてもよいと思ふ件りだけを此処に記しておく。 昭和二十年九月二日午前九時、東京湾内に碇泊した米戦艦ミズーリ号艦上で米軍の呼ぶ所の「降伏文書」調印式が行はれ、日本側では政府代表として重光葵外相、梅津美治郎参謀総長が署名し、連合国側では最高司令官マッカーサー元帥、合衆国代表ニミッツ提督他八箇国の代表が署名した。調印式に先立つてマッカーサーは〈日本ハ吾人ノ条件(ヽヽ)ヲ以テ降伏シ吾人ハ之ヲ受諾ス〉(加瀬俊一氏聽取覚書)の一句を含む、短いが極めて紳士的態度のスピーチを行つた。〈降伏条件(ヽヽ)の遵守〉といふ表現は随員の一人であつた横山一郎海軍少將の手記の中にも録されてゐる。調印式の終了は午前九時二十分、日本政府代表団が首相官邸に帰着して総理大臣東久邇宮稔彦王に任務の無事終了を報告したのが午前十一時十五分だつた。日本側の理解では、調印によつて終戦への外交手続の第一段階に足を踏み入れ、爾後は詔書に仰せられた通りのポツダム宣言=停戦協定に謳はれた降伏条件の誠実な履行が外交上の最大の課題になる、と思はれた。協定が一種の国際条約である以上、協定に記された諸条件は相互的なもので連合国側にもその遵守の義務は生じてゐる、といふのが国際法上の正統な解釈だつた。戦災で焦土と化した日本橋付近(米軍撮影、産経新聞社所有) ところが、その日の午後四時、横浜(山下町のホテル・ニューグランド)に入つてゐた連合国軍総司令部に呼び出され、出頭した終戦連絡事務局長鈴木九萬(ただかつ)公使は、其処で前記の三種の「総司令部布告」なる文書を手交される。その第一号布告はマッカーサー元帥の名を以て次の様に書き起されてゐた。 〈日本国民ニ告ク/本官ハ茲ニ聯合国最高司令官トシテ左ノ通布告ス/日本帝国政府ノ聯合国軍ニ対スル無条件降伏ニヨリ日本国軍ト聯合国軍トノ間ニ長期ニ亙リ行ハレタル武力紛争ハ茲ニ終局ヲ告ケタリ……(後略)〉 以下多言に及ぶ旧稿の反復は慎しむ。日本帝国の「国としての無条件降伏」といふ無稽の神話は此処に胚胎してゐた。わづか七時間のうちに発生し、その効果を実現させてしまつたこの裏切と瞞着が以後どれほどの長きに亙つて我が国にとつての重大な禍であり続けたか。それは最早縷々説くを要しないだらう。 唯一言、日本国民は詔書の聖旨を奉じて誠実に国際条約の約束を守つた。それに対して連合国側の複数諸国が無殘にも条約の信義を蹂躙して顧みなかつた。この事実からは様々の教訓を、又凡そ国際関係についての深刻な考察の材料を汲み取ることができる。それは既に多くの研究者によつて試みられてきたし、今後もなされるだらう。但、本稿としても一言付加へておきたいことはある。国際条約に明文化された約定の遵守は相互的な義務である。二国間条約に於いて、我国が約定の信義を守るのは当然の事として、相手側にもし約束を破る態度が現れた時はどうするのか。相手側にも忠実にそれを守らせるといふ厳しい姿勢を我方が見せなければ、その条約の信義は真に守られたとは言へない。つまり真に信義を守るといふ姿勢には、当方が守ると同時に相手にもそれを守らせるといふ相互性を貫徹することが是非必要なのである。 このことを近年我々は日中平和友好条約(昭和五十三年)や日中共同宣言(平成十年)に約定した〈内政に対する相互不干渉〉の原則を、我方では常に遵守し相手側ではそれを度々毀損して恬然たるものがある、といふ関係に陥つてしまつたことで改めて痛感してゐる。自分さへ手を汚してゐなければ、なるほど良心の疚しさに嘖まれることはなしで済むかもしれないが、相手の破約を黙認したままでゐることは、法にひそむ信義それ自体を守るといふ究極の第一義にはやはり悖ることである。更には、対連合国平和条約(通称サンフランシスコ条約)第十一条の場合の如く、如何なる迷妄のなせるわざか知らないが、故意に自らに不利に、自己毀傷的な解釈を施すといふ我国の一部の政治家の心理も、不可解であると同時に先づ法の有つ義といふものの尊重に於いて却つて悖徳であり、罪過なのだ。 六十年後の後世からあの昭和二十年といふ年の悲痛な記憶を更新してみた結果の感慨は結局この様な暗澹たるものになつた。 こぼり・けいいちろう  昭和八年(一九三三年)、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。昭和六十年より同大学教授、平成六年から十六年三月まで明星大学日本文化学部教授。専攻は比較文化論、日本思想史。主著に『若き日の森鴎外』(読売文学賞)『宰相鈴木貫太郎』(大宅壮一ノンフィクション賞)『東京裁判 日本の弁明「却下未提出辯護側資料」抜粋』(講談社)『さらば東京裁判史観』(PHP文庫)『和歌に見る日本の心』(明成社)など多数。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    昭和天皇と激動の時代

    「昭和天皇が懐かしいです」と編集者仲間が言った。彼はまだ30代。昭和天皇がご健在のときは10代だったはず。となれば、それ以上の年代にはもっとたくさんの懐かしむ気持ちがあるにちがいない。

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    国破れて、廃墟に立つ

    正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録※肩書、年齢等は当時のまま中曽根康弘(元首相) 中曽根康弘元首相は大正、昭和、平成の三時代を生き、先の大戦に出征し、敗戦を体験、その後の日本の復興に政治家として尽くされた。最後の「首相らしい首相」と評される。その中曽根氏に、終戦時を中心とした自らの体験と、戦後六十年を振り返っての感想を率直に語ってもらった。 (聞き手/産経新聞正論調査室次長 奥村茂)海軍主計中尉として参戦 ――中曽根元首相は昭和十五年(一九四〇年)に高等文官試験に合格し、内務省採用が決まっていました。それがあえて海軍を志された動機はどこにあったのですか。 中曽根 東大法学部にいる頃から、自分は将来どういう人生を送ろうかと考えていました。しかし、次第に時局が切迫してきて、やはり大事なのは日本の統治、国政の問題だと思いました。そのためには高等文官試験に合格した上で国政に参画し、影響を及ぼし得る役職に就こうと決意しました。大蔵省か内務省かの選択では、当時の内務省には総合国策を推進するうえで非常に大きな権限がありましたので内務省を選びました。 海軍へ行った理由は当時、当然徴兵検査、軍務というコースがありました。海軍は臨戦態勢を覚悟したのでしょう。主計官を大幅増員しなければ間に合わないと、二年現役の主計科士官制度を作って募集していました。陸軍へ行って二等兵から始めるよりも、主計科士官になればすぐ主計中尉でしたから海軍を受けた。幸い合格して、四カ月間東京・築地の海軍経理学校で訓練を受け、十六年(一九四一年)八月半ばに連合艦隊に配置されて、巡洋艦「青葉」の乗組員として赴任しました。 ――海軍軍人になってどうでしたか。 中曽根 「青葉」に乗り組んでからは、駆逐艦隊を引き連れて敵の戦艦を攻撃する猛訓練を土佐沖へ出て行いました。それが終わると大分県の佐伯湾に来て休養してまた出ていくという繰り返しでした。艦にはガン・ルーム(青年士官室)というのがありまして、その長が海軍大尉の星野文三郎さんという通信長でした。兵学校出の少・中尉、われわれ大学出の二年現役主計、あるいは軍医の部屋を取り仕切っていました。この星野さんが十月頃でしたか、訓練が終わった後、甲板にデッキチェアを出してみんなを休ませていた。そのときに「いよいよ戦争だ」と言明しました。戦災で焦土と化した東京。日本橋上空から、本所方面をのぞむ そのとき、私は戦争のような大きな問題を急いで決断すべきでない、と言いました。ドイツのヒットラーは、当時ソ連に深入りして戦っており、まだ勝つか負けるか必ずしも決定していませんでした。ソ連はいつもモスクワまで退却して迎え撃ち、ナポレオンを破った歴史がありますから、独ソ戦の将来はまだ決断できない、もう少し情勢を見たほうがいい、と言ったのです。青年士官室内が「もう戦いだ」と極めて士気高揚していたときに、このようなひんやりした発言をしたものですから(笑い)、星野さんも「いや、もう石油は六百万トンしかない。今やらなければ石油がなくなってしまって戦いができなくなる」ということを言いました。それで、今度来た主計中尉には変なやつがいるという風評が艦内に一時立ったそうです。兵学校出のみなさんから見ればそう思ったのでしょう。 その星野文三郎さんは、私が昭和四十五年(一九七〇年)に防衛庁長官になったとき、自衛艦隊司令官になってた。それで横須賀へ私が巡視に行ったときに自衛艦隊司令官として拝謁にきました。 ――奇遇ですね。 中曽根 妙にこそばゆい感じがしました(笑い)。しかし、星野さんは非常に立派な軍人でした。 ――日本に燃料が少ないということを海軍はわかっていた。にもかかわらず戦争に突き進んで行った。それが戦争だといえば戦争なんでしょうけれども、もう少し冷静に考え、対応できなかったのでしょうか。 中曽根 そこが大学出の士官と兵学校でみっちり教育を受けた士官とには、ある程度の格差はあったのですね。しかし、いったん戦争になったら格差はまったくなくなりました。みんな一生懸命、国のために働いたということです。 ――実際に砲弾が飛び交う中での経験はありましたか。 中曽根 私は開戦の直前、設営隊主計長に転勤を命ぜられました。つまり飛行場は壊されてるし、地雷がたくさん埋められている。そのため敵前上陸して敵の飛行場を奪取し、修復して味方の零戦が三日以内に飛べるように直す。零戦がきたら一週間後には中型陸攻(海軍の爆撃機)を飛ばせるようにして南下して行く。そういう部隊の主計長に任ぜられて、呉で十一月二十日頃から約九日間、二千人の徴用工員を死にもの狂いで編成し、戦争機材を輸送船に積み込む指揮をしました。もう戦争だということははっきりしている。南方戦線で戦火をくぐる南方戦線で戦火をくぐる というのは、転任を命ぜられて呉の海軍に行き、参謀長に着任の挨拶をしました。「設営隊の主計長を命ずる」という辞令をもらった。それから二千人の部隊を編成し、必要な武器弾薬、セメント、工作機械など全部積み込んで、今月末には出航だという。参謀長に「一体どこへ行くんですか」と聞いたら、「そんな秘密をお前にいえるか」って黙ってしまった。そこで「しかし、いよいよ戦争となれば軍票がいります。行く先がわからなければ、どこの国の軍票を持っていっていいかわかりません」。そう言ったら、「そういえばそうだな。絶対ほかに言うなよ」と、紙にフィリピン三カ月、蘭印(あの頃はインドネシアのことを蘭印と言いました)三カ月。「二千人の徴用工員と、そのほかの工作関係の費用を計算して持って行け」と言われました。それで経理部から、フィリピンとインドネシアの軍票を七十万円受け取った。新しい部隊ですから置き場がない。だから、お棺のような木箱を七つ作って十万円ずつ入れて、呉の建築部長の部屋に並べ、その上に戸板と毛布をたくさん敷いて、蚊帳を吊り、その中で私は寝ていました。当時の七十万円は今に換算すると七十億円ぐらいです。七十億円の上に寝た者は私しかいないと(笑い)、威張ったものです。 出港したのが十一月二十九日です。九日間で全国から徴用で集まった工員二千人を編成して、セメントとか重油、あるいは武器弾薬、工作機械類を積み込んで、昼間は編成、夜は積み込みでほとんど寝なかった。 二十九日に十四隻の船団で呉を出港し、十二月三日か四日にパラオに着いて、待機していました。そして八日に開戦となり、真珠湾攻撃をパラオで聞きました。そのときはよくやったと、感激しましたが、それでも「勝てるかな?」という疑いは持っていました。 それからフィリピンのダバオに敵前上陸して飛行場を造った。それが戦争の始まりで、マニラの基地から飛んできたアメリカ軍のB17による爆撃をたくさん受けました。1983年11月、東京・西多摩の山荘で、来日したレーガン大統領(奥)、ナンシー夫人にお点前を披露する中曽根康弘首相 ――まさに戦火をくぐってこられた。 中曽根 そうです。それから次はタラカン、その次はバリックパパンと南に下がって行って飛行場を作っていったのです。バリックパパンに移動の途中、マカッサル海峡で十四隻の輸送船の中、四隻が爆撃と潜水艦でやられ、さらにバリックパパン上陸時、敵のオランダと英国の駆逐艦に、十隻のうち私の乗っていた「台東丸」の前後左右四隻が撃沈されました。泳いできている人たちを救援してるときに船尾に敵の砲弾が当たって火事が起きた。主計長というのは防火隊長ですから、飛んで行って防火作業をやろうとしたら、第四ハッチ(一番底のハッチ)で敵の砲弾が爆発した。そりゃあ、首は飛んでる、手足は転がっている。 私が一番かわいがっていた古田という班長は、前科が幾つかある剛の者でした。しかし、そういう刑余者がかなりいましたから、「台東丸」の中でそういう者の班長に彼を任命したのです。彼は一生懸命やってくれまして、非常にかわいがっていたんです。その彼が砲弾にやられて、背中におぶわれてきたのを見たら足首がぶらぶらしてました。それから胸の辺りに傷を負って血がだらだら流れていました。私が懐中電灯で、「古田、しっかりしろっ」と言ったら、ただ一言「隊長すまねえ」と言ったね。「早く医務室へ連れてけ」と言ったけど、着いたときにはもう死んでいました。 ――古田班長との間には、ちょっとしたエピソードがあったそうですが。 中曽根 古田を班長に任命するときに刑余者を全部集めたら、古田が一番統御力がありそうな親分肌の顔をしていた。それで「おい、古田、下へ来い」と、主計長の私の部屋へ連れて行って、「お前も随分天皇陛下に迷惑をかけたな」という話をした(笑い)。そして「お前、おれの子分になるか。班長やってくれるか」と言ったら、「ご命令なれば引き受けやす」と受けてくれた。「それじゃ一杯飲もう」と、従兵に一升ビンを持ってこさせて、茶碗に私が一杯ついで、「おい、古田、飲めよ」と言ったら、「こういうものは隊長が先に飲むもんです」。 ――ほとんど任侠の世界そのものですね。 中曽根 そういわれて、「あ、そうか」と私が飲んで彼に茶碗を渡し、これでもう親分子分です。私は上州・国定忠次の気風を受けている。大学出のシャバを全然知らない者が戦争へ引っ張り出されてやれるには、そういう何か思い切ったことをやらなければこれはできない。しかし、その古田が戦死したんです。 ――そのときは、どのくらいの方が戦死されましたか。 中曽根 私の船でも五十人以上です。それから周りの四つの船から泳いでくる者を助けたから、船は一杯になりました。しかし、そこから敵前上陸してバリックパパンの飛行場を奪取し、建設をしたんです。バリックパパンへ行ったのは、石油の精製所があるので、石油獲得が大きな目的でした。玉音放送を聞き、頭が空白に ――敗戦の玉音放送はどちらでお聞きになりましたか。 中曽根 私は南方作戦が終わったころ、台湾へ転勤を命ぜられて高雄の海軍施設部にいました。敵は台湾へ来るというので台湾に飛行場をたくさん造った。そうしているうちに十九年(一九四四年)九月ごろ、また転勤になり、海軍省兵備局補佐官を任命された。 二十年(一九四五年)六月ごろ、いよいよもう沖縄がだめになってきた。そこで、東京にいる補佐官は一斉に地方へ行って戦えということになった。私は高松の海軍運輸部に赴任して、呉と土佐湾の特攻隊との連絡を行っていました。そのときに終戦となった。だから、高松で天皇陛下の玉音放送を聞いたのです。 ――どのような気持ちで、お聞きになりましたか。 中曽根 玉音放送を聞いて、頭が空白になりました。一日半ぐらいは手つかずの状況でした。しかし、そのうち本省から、海軍の物資を民間に払い下げろという命令がきました。そこで、機帆船を四隻調達し、呉へ行って、軍需部から重油を四隻分もらった。そして高松へ戻り、漁業組合に重油をすべてタダで渡しました。つまり物質不足の時代ですから、魚をとって国民に供給してもらいたいということです。それが一段落したころ、軍籍を離れて故郷へ帰ってよいとなり、女房が疎開していた山梨県小淵沢に行って家族に会いました。 それから内務省へ戻って官房調査部に配置され、第八軍司令部との連絡官、リエゾン・オフィサーをさせられました。マッカーサー司令部は東京にありましたが、実際に日本の行政を担当したのは第八軍のアイケルバーガー中将で、横浜にいたんです。向こうの命令を受け取るわけです。とくに海軍や陸軍が持っていた敗戦後の物資をどういうふうに処理するか、ということを行ったのです。 しかし、そうしているうちに日本の社会は荒れてくるし、食糧はない。米軍が共産党を一時応援したことがありますから、共産党が猖獗を極めていました。この国はどうなるか、どうするか。もう官吏でいる段階ではない。GHQ(連合国軍総司令部)、マッカーサー司令部の占領行政に対してものを言うのは国会議員でなければだめだと思いました。当時追放令が出て、群馬県でも古い政治家が追放になっていたので、立候補を決断して当選したのです。 ――内務省に戻られたとき、首都・東京をご覧になられました。 中曽根 東京の焼け野が原を見て慄然としました。まさに廃墟でした。この国を再建することは非常に難しい、どうしたらいいのか、と一国民として心痛したものです。 リエゾン・オフィサーを務めていたとき、占領軍が無理をいうこともかなり多かったのです。いいことも行ってくれましたが、結局、占領軍に対して発言権を持つには役人ではなく、国民の支持で出てきた国会議員でなければだめだと強く感じました。そのような経験もあり、国会議員に立候補したのです。 ――家族は反対しませんでしたか。 中曽根 いやもう父は絶対反対、兄も絶対反対、家族も反対です。しかし、私は高松にいる頃から父に手紙を出し、内務省を辞めると伝えていました。そうしましたら、「絶対辞めるな」と、義理の兄がわざわざ高松まで説得に来ました。私は日本の状態を見たら、もう内務省にはいられないと、警視庁の監察官に転勤したときには辞める決心で東京へ出てきました。しかし、それでも家族や父は反対しましたね。 二十一年(一九四六年)十二月に辞表を出しましたら、警視総監が「お前辞めるな」と大分止められました。「辞表を受け付けない」と言われましたが、十二月末には辞表を出しっ放しにして故郷の高崎に帰りました。高崎では青年運動を行って、立候補の準備をしたんです。廃墟を前にし、政治家として立つ廃墟を前にし、政治家として立つ ――それが青雲塾ですか。 中曽根 そう、青雲塾。私の政治家としてのスタートと生涯は、利権とか、便宜供与とかで代議士になるのではなく、むしろ自分の思想とか、理想とか、国家論というようなものを中心に代議士になったと思います。それは一貫してきたと思います。 ですから占領中にマッカーサーに建白書を出しました。あれは昭和二十六年(一九五一年)一月、占領政策の是非を論ずる建白書です。GHQに行き、国会課長のドクター・ウィリアムスに会って、プレゼンテーション・トゥ・ジェネラル・マッカーサーと英文の建白書を持っていったのですが、受け取らない。占領下の国民が建白書を持ってきても、GHQは受け取らないという。 実は、私はその前年にアメリカに行って、上院議員のバークレー外交委員長とタフト上院議員に会ったときに、「マッカーサーの占領政策はどうか」と聞かれた。私は「これは一言では、また短時間では言えないから、日本へ帰って文書で申し上げましょう」と言って帰ってきて、改めて英文にしたためてマッカーサー司令部へ行く前日にアメリカに空送したんです。同じ英文を持ってマッカーサー司令部へ行きましたら、ウィリアムスが受け取らない。そこで、「実はこれはもうきのう航空便でタフト上院議員とバークレー外交委員長に送った」と言いました。彼は驚いて、慌てて読み出したら七面鳥のように顔色が変わりました。それでも彼は「受け取らない」と言うので、私は「勝手にしろ」と帰ってきました。 あとで聞くと、ウィリアムスは非常に驚いて、すぐにマッカーサーのところへ駆け込んだ。というのはマッカーサーは当時大統領選に出るつもりだったから、アメリカの上院議員の実力者にそういう文書が行ったということは大変な打撃なのです。それでマッカーサーは受け取って、読んでるうちに怒ってしまい、破ろうとしたんです。ところが少し厚い紙で、上と下はボール紙だったから破れないんです。ねじって屑紙箱へ投げたらぽんと飛び出してしまった。そのことがあとの検証でわかったんです。それはアメリカのメリーランド大学の図書館に今でも残ってます。1986年5月、東京での先進国首脳会議(サミット)に出席するために来日したレーガン大統領(右)の歓迎式典(迎賓館)。左隣は中曽根康弘首相 ――戦後のエピソードの一つですね。 中曽根 ええ。マッカーサーが怒ったのは、建白書の中にいかなる聖将、ホーリー・ジェネラルといえども、近代的な国民を五年以上も占領統治することは不可能である、という文章があった。それが気に入らなかったんでしょう。昭和天皇は気概を持たれた聖天子 ――戦後六十年たちましたが、振り返って印象に残ることがありましたら。 中曽根 まず第一に感ずるのは昭和天皇です。昭和天皇は、従来の日本の天皇の在り方の最後のお方ではなかったかと思います。昭和天皇の前半というものは非常に苦難に満ちた時代でした。大正天皇の摂政の時代から、関東大震災があり、大不況があり、それから満州事変、日支事変等で国際的に日本がもまれ、苦しみのうめき声を持っていた時代です。ついには大東亜戦争へ突入してしまいました。陛下は非常に平和主義者であられたが、そういう経験をされ、そして占領されて、昭和天皇としてはおそらく日本の皇祖皇宗の霊や歴史に対し甚だ申し訳ない、とお考えになっていたと思われます。 ですからそういう経験を経て、敗戦後の日本の建て直しに非常に責任を感ぜられた。あの頃一時は天皇退位論もありました。しかし、昭和天皇は自分が責任をもって日本をもう一回回復しなければならないという決意で、全国を行脚されて国民に接触されました。それはやはり日本を回復し、祖先の霊に報いなければならないという大きな責任感と、国を愛する気持ちからおやりになったと思います。 そういう体験が体に、顔に映っていました。だからある意味において聖天子という印象を私は持っています。総理として天皇陛下に五年間接してきましたから、非常に聖天子、ホーリー・エンペラー、そういう感じがしました。 天皇としての気概を持たれていらっしゃいました。皇祖皇宗の歴史をうけた天皇としての気概を持たれていた。ですから、例えば宮中でわれわれ少数のものが天皇陛下と会食の栄を賜わった。そういうときに待合室でみんなで話していると、陛下がおいでになって「みなの者、食事に行こう」といわれた。「みなの者」です。やはり厳然たる天皇の威厳を持っておられました。 今の陛下は民衆的天皇です。例えばお年寄りの養老院などに行かれると、天皇陛下も皇后陛下もひざまずいてお年寄りに話しかけている姿がテレビに映ります。あのような光景を見ますと、昭和天皇と平成天皇では非常に違ったと感じます。片方は歴史と伝統という長い、ある意味においては神秘的なものを背負った天皇ですし、今の陛下はむしろオープンマインドというか、民衆天皇として天皇制を維持しておられる。そういう感じがします。 また、新しい憲法の下の天皇ですから、政治に対する発言はされません。しかし、大正天皇の摂政以来、長い日本の歴史や政治を経験されていらっしゃる方ですから、政治に対する感覚は非常に豊富に持っておられる。総理大臣以上にお持ちです。それを黙っておられる。私はわりあいざっくばらんに、陛下に国情を申し上げたり、外国の情勢を申し上げましたら、「それからどうした」「それからどうした」と常々ご下問がありました。 あるとき、ご進講が終わって宮殿の下へ降りてきて自動車へ乗ろうとしたら、宮内庁長官が私を追いかけてきた。それで「総理、総理」というから、「なんだい」といったら、京都大学の猪木正道教授が書いた「近衛文麿論」がある。「あの本は非常に正しく書いてある。それを中曽根に伝えろ」ということを言いました。 開戦に至るまでのいろいろな過程で日本の重臣の挙措をよく見ておられた。それで頭にあった一つのことを、ある意味においては残しておこうというお考えがあったのかもしれません。政治家は国家像と国家路線を持て政治家は国家像と国家路線を持て ――今の政治、今の日本には、何が欠けていますか。 中曽根 戦後六十年経ちました。六十年というのは還暦の年、本卦がえりなんです。この六十年の大部分は冷戦の時代でした。冷戦の時代は自民党内閣の時代で、失われた国権の回復を行いました。沖縄を取り返すとか、韓国と国交回復するとか、ロシアと国交回復するとか、日中国交回復とか、そういう国権の回復を行った。しかし、平成三年(一九九一年)に冷戦が終わった。それまではアメリカ体系、ロシア体系、第三勢力体系に入っていたけれど、共産主義・ソ連が崩壊してロシアが敵でなくなった。そうすると、その中に依存する必要がないというので、各国が自立、独立の方向へ動きました。アメリカに対抗するヨーロッパということで、EUを作り、イラク問題でもフランス、ドイツ、ロシアはアメリカに同調しない。そういうナショナリズム、アイデンティティー、リージョナリズムがたくさん出てきた。中国にしても共産主義ではなく、ナショナリズムで国を動かしているのです。 日本がその間十年間、漂流してしまいました。大きな不況もありました。自民党の腐敗が出て、金丸問題以降は連立内閣になり、すべて一年半ぐらいで潰れてきました。その漂流していたのを小泉内閣が止めました。これは小泉首相の一つの功績です。 しかし、日本が漂流している間に、他の国はみんなナショナリズム、アイデンティティーを確立し、国家像や国家路線を持ちました。小泉首相は漂流を止めただけで、日本の二十一世紀の新しい国家像とか国家路線というものには手をつけず、目前の郵政と道路問題に熱中しています。非常に大きな政治のマイナスです。 国民の六三%が憲法改正に賛成に変わってきました。とくに若い人が多い。日本もナショナリズム、国の独立自尊の思いが、国民のほうからじわじわ湧き上がり、憲法改正賛成が多くなりました。政治が誘導したよりも、国民の中から湧いてきたような現象が出てきています。だから小泉内閣は、国民のその大きなうねりに対して追いつけないで歴史的に見て大きなマイナスが、私は出ていると思います。 この六十年の前半の日本の国権回復を行った時代というのは、大東亜戦争を経験した総理大臣です。吉田茂さん、鳩山一郎さん、佐藤栄作さんなど、われわれまでは体の隅々まで国家とか民族というものがしみている。ところが、それ以降の今の政治リーダーたちは、幼少から中学、高校へ行った頃には食糧は何でもある。自動車もある。テレビもある。そういう時代に学校へ行ったりした人たちで、われわれのような国家というものを体で体感するチャンスはなかった。だから理論で国家とか民族というのがわかっていても、体で本当にしみてわかってるとは思えません。だから佐藤さんでも、池田勇人さん、田中角栄さんも重みがありました。それはそういう経験がしみているからです。今の政治指導者たちを見ると、カリスマ性と重みがない。やはりそういう経験不足があると思います。そのことを今の政治家は自覚しなければいけません。 昔の政治家は、吉田さんでも、河野一郎さんでも、国会の廊下ですれ違うと風圧を感じたものです。吉田さんなんかとくにそうでした。ところが今の政治家の皆さんは、逆に向こうが風圧を感ずるのではないですか(笑い)。やはり戦争体験というものが、それだけの落差を作っていると思います。 また、最近の憲法改正論を見ますと、二十代、三十代が圧倒的に強いんです。六十代、七十代はむしろ改正に消極的な人が多い。二十代、三十代には非常に希望を託していい。今の年寄りよりは希望が持てる気がします。 日本の歴史の中で冷たい戦争の時代の政治、それから冷たい戦争が終わり、とくにニューヨークの大テロ事件以後、アメリカは新しい航路に動き出しています。トランスフォーメーションと称して日本からインド洋、湾岸に至るユーラシア大陸の南岸の腹の柔らかい部分に中心の対象を昔の共産ソ連から移動させています。そういう実体をよく見極めて日本の進路や行動を誤らないようにすることを今の政治家に期待しています。情勢によっては忠告をしたいこともあると思います。 ――大いに忠告していただきたいと思います。 なかそね・やすひろ 大正七年(一九一八年)群馬県生まれ。昭和十六年(四一年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業、内務省入省。同年、海軍主計中尉に任官、終戦時は少佐。同二十二年(四七年)衆議院議員初当選。同五十七年(八二年)~六十二年(八七年)自民党総裁、首相。同六十三年(八八年)から世界平和研究所会長。平成三年(九一年)から自民党最高顧問。同九年(九七年)大勲位菊花大綬章受章。同十五年(二〇〇三年)国会議員引退。著書は『政治と人生』(講談社)『天地有情』(文藝春秋)『自省録』(新潮社)など多数。※記事の内容、肩書等は掲載時のものです。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    『昭和天皇独白録』を再読する

    代の目で改めて検証しておく必要がある。それを考えることは実は、日本という国のアイデンティティ、そして皇室という存在のありようが表面上大きく変化した時代しか知らない世代が、逆に誤って〝新しい視点〟の陥穽に落ち込む危険を避けることにもつながる。さらにはそこから、昭和天皇だけではなく明治天皇以来、この国が国際社会の中で歩んできた道筋、世界と日本の関わりを、皇室の伝統を通じて「日本」を考える大切な視点として次の世代に受け渡していく必要があるからである。そしてそれは、混迷の度を深める国際社会における日本の行き方にも大きな指針を与えてくれるであろう。 ここでは、敢えて『昭和天皇独白録』(以下『独白録』、文春文庫)から、あの厳しい時代を生きた昭和天皇の世界観、国際政治観を読み解いてみたい。というのは、この書をもって、今日一部に、東京裁判に際して昭和天皇の戦争責任を回避するための弁明を専ら目的としたもの、と決めつける見方が広がっており、これが冷戦後崩壊した社会主義イデオロギーの代替イデオロギーとしての戦争糾弾史観と合流する傾向すら見られるからである。 なお『独白録』は、昭和二十一年三月から四月にかけ、松平慶民宮内大臣ら側近五人が、一九二八年(昭和三年)の張作霖爆死事件から終戦にいたるまでの経緯を四日間五回にわたって昭和天皇から直接聞いてまとめたもので、五人のうちの一人、寺崎英成御用掛が遺した文書類を調べた遺族らの手によって世に出ている(初出は『文藝春秋』一九九〇年十二月号)。このことから考えると、『独白録』には確かに東京裁判を意識してまとめられている側面はあったかもしれない。しかし、その観点からは逆に不利になるような述懐が余りに多く、何よりも昭和天皇の肉声が伝わるような「本音」が実に率直に語られている第一級の史料なのである。君臨すれども命令できず まず、戦前の日本の国家体制を確認しておきたい。天皇の政治的役割については、『独白録』で注釈者の半藤一利氏(昭和史研究家)が補注した木戸幸一内大臣の東京裁判での証言が簡潔かつ的確に言い表している。《国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である》(57頁) この点は、昭和天皇に憲法についてご進講した清水澄の講義録(『法制・帝国憲法』)にも「もし天皇が、国務大臣の輔弼なくして、大権を行使せらるることあらば、帝国憲法の正条に照らして、畏れながら違法の御所為と申し上ぐるの外なし」とされており、内閣の決定を天皇が拒否する、あるいは裁可しないということは憲法上あり得なかったのである。この意味で、戦前の日本の「主権者」は内閣なのであり、これが明治天皇以来、一貫した日本の立憲君主制の内実だったのである。 これは立憲君主制の国家ならどこも同じであり、イギリス国王も政治には基本的に関与しないけれども、内閣に対して「質問」と「助言」をすることができる「クエッション・アンド・アドバイス」という権利が憲法で認められている。 つまり、国民の君主に対する大きな尊敬と信頼に応えるという意味で、政治が一定の範囲から道を踏み外したりしないよう、憲法の枠内において配慮する責任を君主が負うことを認め、かつ求めるのが立憲君主制であって、現代の象徴天皇制も基本精神においては同じである。でなければ、およそいかなる君主制も成立し得ないからである。憲法上、日本と比べはるかに大きな政治的機能を君主に与えているデンマークやタイの王制も基本においては同様である。 戦後の日本では、天皇はたとえいかなる形でも一切政治に関わってはならない、というのが憲法上また民主政治の上から厳格に定められている、という誤った解釈がまかり通っているが、同じ発想で戦前の天皇は絶対最高の権力者であり、「全てが思うままになった」という非常に粗野な理解に基づく歴史教育が行われ、いまだに大きな影響力をもっている。天皇の「戦争責任」を主張する左翼勢力の典型的な議論も、「終戦は天皇が裁断を下した。天皇のいわば鶴の一声で、戦争は終わった。ならば開戦時も始めさせないという形で、独裁権を発揮できたはずだ」というものであるが、これも戦前の国家体制について余りに歪んだ理解をしていると言わざるを得ない。 確かに終戦時と二・二六事件に際して昭和天皇は自ら決断され、その判断が国家意思とされた。しかし、この二つのケースは、日本の内閣の意思、つまり政府が実質的に存在しなかった、あるいは機能しなくなっていたから、憲法に従って天皇の裁断が行われた特殊な事例であり、憲法上もまったく問題なかったのである。両国駅上空から南方向を撮影した写真(中央は隅田川)。終戦直後に米軍が撮影した東京(左、東京大空襲・戦災資料センター提供)は、空襲で焼け野原となり、幹線道路が露わになっている。一方で現在の東京(右、本社チャーターヘリから、松本健吾撮影)は、ビルが林立し見事な復興を遂げている いわゆる終戦の「聖断」は、八月九日深夜から十日未明にかけての御前会議で下された。ソ連参戦を受けて九日午前から開かれた最高戦争指導会議、さらに午後から夜にかけて二度にわたって開かれた閣議でもポツダム宣言を受諾するか否か結論は出なかった。議論が持ち越された御前会議も二時間半が経っても結論が出ず、内閣総理大臣の鈴木貫太郎が、内閣は機能しなくなったから「天皇の御裁可をお願いいたします」と申し出てご裁断を仰いだのである。つまり、戦争終結か継続か「全てを天皇に委ねる」ということが、内閣の決定だったのである。 これに対して開戦時は、天皇のご裁断を仰ぐという内閣の決定はなかった。対米開戦を辞さぬとした「帝国国策遂行要領」を決定した昭和十六年九月六日の御前会議では、あらゆる証拠から見て対米開戦反対の避戦論者であった昭和天皇にとって、明治天皇の「四方(よも)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」との御製を二度にわたって読み上げるのが精一杯の「抵抗」であった。さらに事実上開戦を決定した同年十一月五日、最終決定をした十二月一日のいずれの御前会議でも、「開戦」が内閣の決定事項として諮られたのであり、天皇がそれを拒否されたら、憲法を無視した「上からのクーデター」となり、明治天皇以来の日本の国家体制の根底を揺るがすような事態になっていたのである。 当時を振り返った『独白録』の記述には、こうある。《(高松)宮は、それなら今(開戦を)止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条(英機首相)は辞職し、大きな「(下からの)クーデタ」が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。/十二月一日に、閣僚と統帥部との合同御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた》(89頁)※( )内は筆者註。 このように、昭和天皇ご自身も「君臨すれども命令できず」という日本型民主主義、あるいは君主国体下の民主主義という政体を遵守されていたことは疑問の余地がない。 一方、昭和十一年の二・二六事件で昭和天皇は、『木戸幸一日記』によれば、「今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり。国体の精華を傷(きずつ)くるものと認む」「速やかに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と機能を停止していた内閣を飛び越え、後藤文夫臨時首相代理に直接下命された。 つまりこの時、岡田啓介首相が首相官邸で反乱軍に襲われて「行方不明」となり、一時は「死亡」したと伝えられた(実は官邸の地下に隠れて無事だった)ほか、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長も重傷を負って、内閣はもちろん政府全体がまったく機能しなくなっていた。つまりこの時の天皇の「討伐命令」も決して憲法を無視した決定ではなかったのである。伝統と合理主義の共存伝統と合理主義の共存『独白録』などによって昭和天皇の世界観というものを見るとき、三つの大切なものがあることが分かる。 第一は、平和への強い思いである。昭和天皇は戦前も戦後も一貫して平和主義者であられた。この事は、昭和天皇が日米開戦をなんとか避けようとされていたことなどが種々の資料から明らかになっており、もはや改めてここで詳しく触れる要もないであろう。またこれは昭和天皇だけのことではなく、先に紹介した御製を詠まれた明治天皇、さらに遡って日本の天皇家、皇室の根本精神が平和と民草(国民)の安寧にあることは言うまでもない。この日本皇室の顕著な平和志向の伝統が、帝国主義の跋扈した近代を通じ明確に継承されていたことは特筆すべきところであろう。 第二は、日本の伝統、今風の言葉でいえば「アイデンティティ」を体現され、特に天皇という地位と神話、神との絆を戦後も一貫して持ち続けておられたことである。このことと皇室の平和主義の伝統とは無関係ではない。またその「神につながる系譜」の体現者ということの一方で、現実の世界には、あくまで合理主義的で、プラグマチックな対応に徹しておられたことも昭和天皇の国際関係観を見る上で特筆すべきところである。「神の裔(すえ)」というアイデンティティと堅固な合理主義が互いに支え合うものとして昭和天皇の精神構造の特質としてあったのであり、それはまた皇室の伝統精神でもあった。この一見相反する二つの精神の在りようの共存こそ、実は日本人が現実の世界を相手にするとき、つねに心し、大切にしなければならないものなのである。日本人が伝統的精神を忘れ、西洋の物質論的合理主義―それがキリスト教道徳に支えられていることを知らずに―と、その対極を揺れ動いている近現代の日本社会の問題の所在は容易に理解できよう。 昭和天皇は、昭和二十一年の年頭にあたって出された詔書で、この二つの精神の大切さを説かれた。この詔書はGHQの意向によって〝現御神(あきつみかみ)〟〝現人神〟を否定された「人間宣言」として知られているが、実は書かれていない大きなポイントがある。GHQが当初内閣を通じて示した宣言案には、神格否定だけではなく、「皇室が神の子孫(裔(すえ))であることをも否定せよ」と指示されていたのである。しかし、昭和天皇は、この点は断固として拒否された。つまり昭和天皇は、天照大神、あるいは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の神、いわゆる天(あま)つ神と国造りの神々からの系譜を継ぐ立場であられるという神話的・歴史的、精神的アイデンティティについてはGHQに一歩も譲らない姿勢を示されたのである。銀座の中央通りを走る都電1系統(手前は銀座2丁目停留所、奥が銀座4丁目方面)=昭和42年、東京都中央区 「人間宣言」には、もう一つ重要なポイントがある。「五箇条の御誓文」を詔書の冒頭に置かれたことである。 終戦後初めて新しい年を迎えるにあたり、昭和天皇は、『五箇条の御誓文』に依拠して民主主義の重要性を改めて説き(「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」)、同時に国際関係においては合理主義と日本の存立の根幹である伝統との絆を大切にして世界とともに進んでいくよう(「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」)国民に呼びかけられたのである。 昭和天皇のこの時のお気持ちがいかに強いものであったかは、それから三十年以上後の昭和五十二年の記者会見で、「人間宣言」について話が及んださい、「あの宣言の第一の目的は『御誓文』でした。神格(否定)とかは二の問題でした。…民主主義を採用されたのは明治大帝のおぼしめしであり、民主主義が輸入のものでないことを示す必要があった。…日本の誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました」とお話しになったことからも分かる。先に述べたように、現代日本の荒廃を考えるとき、われわれは昭和天皇がこの言葉を国民に示された意味を改めて考える必要があるであろう。国際社会において「誠」を貫く大切さ 第三は、昭和天皇が国際社会における信義、世界の中での「日本の誠」というものをどれだけ重んじておられたかということである。国際関係においては、一旦他国と結んだ条約は守り抜く、という強い信念を一貫して持たれていたことは、『独白録』だけでなく他の多くの史料からも明らかである。 例えば昭和十六年六月、ドイツが独ソ不可侵条約を破り、突如としてソ連に侵攻した。この時、外務大臣の松岡洋右は、同盟国のドイツがソ連と戦争を始めたのであるから日本もソ連を攻めるべきだと昭和天皇に上奏するのであるが、松岡は、その二カ月前にモスクワに行き、スターリンと日ソ中立条約を結んだばかりであった。 この事に昭和天皇は激怒された。《松岡はソ聯との中立条約を破る事に付て私の処に云つて来た、之は明かに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云つたが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣々僚刷新を名として総辞職した。/松岡の主張は、イルクーツク迄兵を進めよー(ママ)と云ふのであるから若し松岡の云ふ通りにしたら大変な事になつたと思ふ。彼の言を用ゐなかつたは手柄であつた》(『独白録』68頁) 昭和天皇は、松岡が日本外交の基本精神を踏み外している点を特にお怒りになったわけである。一旦結んだ条約は是非とも守らなければならない。日本の法治主義という伝統は、「言葉に出した約束はいかなることがあっても守る」という日本精神のアイデンティティ感覚によって支えられ、これを踏みにじるようなことがあってはならない。そしてそれは、たとえ弱肉強食の国際情勢にあっても貫かれねばならない。こうした思想が、昭和天皇の国際関係観の中核にあった。 このことは、昭和十五年九月に日本が三国同盟を結んださい、昭和天皇がドイツ、イタリアと同盟関係を結ぶことに強い懸念を示されたことからも読み取れる。 「独伊のごとき(ヽヽヽ)国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(傍点筆者)とおっしゃったうえ、「日英同盟の時は宮中では何も取行はれなかつた様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只(ただ)慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によつては重大な局面に直面するであろう」と述べて、賢所への参拝と祖宗への報告をご希望になった(『昭和天皇語録』講談社学術文庫)。 昭和天皇が三国同盟の締結を躊躇された理由の一つはやはり、ドイツ、イタリアがファシズムの国だったからであろう。周知の通り、独伊ではナチス党とファシスト党という政党、つまり私的集団が国家を乗っ取り、いかなる意味でも立憲体制ではなくなっていた。そんな国と立憲君主制の日本が歩を揃えて行動すべきでないと天皇がお考えになったのは自然なことだろう。昭和54年6月、日本が初めて議長国を務めた東京サミットの全体会議で席につく各国首脳=東京・元赤坂の迎賓館 しかし、ここには、もう一つの重大な理由がある。戦前の日本は、実は他国と同盟関係や条約を結ぶときには、相手国の条約や同盟関係に対する態度、過去にどれだけ誠実に国家間の約束を守ってきたのか、あるいは破ってきたのかという歴史の記録を詳しく調べていたのである。 明治時代の日英同盟では、この調査によってイギリスは同盟の相手国として信頼できるということが分かり、同盟締結に向けて日本の国全体が動いた。ところが、ドイツは、ロシアに次いで最も頻繁に同盟や条約を破ってきた国だったのである。昭和天皇もドイツが条約破りの常習国家だということをご存じだったのであろう。「ドイツやイタリアのごとき」という厳しい言葉の裏には、そのようなお気持ちが隠されていたのである。 『独白録』では、真珠湾攻撃の三日後の昭和十六年十二月十一日、日本、ドイツ、イタリアの三カ国が結んだ「単独不講和の確約」、つまり、それぞれ単独では連合国と講和しないという協定に対する昭和天皇のお考えも紹介されている。 《三国単独不講和確約は結果から見れば、終始日本に害をなしたと思ふ》(62頁) 日本は、単独講和をしないというこの約束を最後まで律儀に守り抜いた。その結果、日本は連合国と停戦するきっかけを失って最後までドイツと運命を共にし、無条件降伏を要求されるような状態になってしまったのである。 ところが、ドイツはスターリンと講和のための秘密交渉を一九四三年から四四年まで何度も試みていたし、イギリスやアメリカとも単独講和しようとしていたのである。イタリアにいたっては一九四三年に連合軍がシチリア島から上陸してくると、国内のドイツ軍にまで攻撃を加えてムッソリーニをリンチの末に殺害し、それでいわば「落とし前」をつけたとして、「自分たちも今や連合国の一員だ」と言い張ったのである。さすがにアメリカは認めなかったが。 日本は、そういう国々を同盟国にして、大東亜戦争ではあれだけ多大な犠牲を払うことになったのである。個人的な話になるが、私も若い頃は、大東亜戦争で日本は単独不講和の約束を守るのに律儀にすぎた、日本もシンガポール陥落、あるいはミッドウエイ海戦の直前に連合国と条件交渉に踏み切っていたとしても、冷徹な国際政治の現実からすれば決して一方的に非難されることではなかったのではないか、と考えることもあった。 また前述のところでは、松岡外相の進言を容れ、たった二カ月前に結んだ中立条約を無視してでもナチスと協力してソ連を攻撃しておけば、日本自身が南進する余裕はなくなり、東南アジアや太平洋で米英と衝突することはなかったし、共産主義のソ連を倒すのであるから対ソ侵攻の大義名分も成り立つだろうと考えたこともあった。 しかし、国際政治史の研究を重ねるうちに、昭和天皇が、日本的価値観である「誠」というものに基づいた外交を通さねば国の基軸が立たなくなるとお考えになった、あの大きな判断によって、敗戦やその甚大な被害をも超えた、数百年という単位でわれわれが誇りとすべき日本史の記録というものが残されたのだと考えるようになった。 当面の戦略的必要から条約を破る、あるいは同盟関係を踏みにじるということをすれば、目先の利益は確保できるかもしれない。しかしそうして一旦国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益を被るか。言い換えれば、昭和天皇がドイツやイタリアを同盟相手とするのに躊躇されたような目で、将来日本は国際社会から見られるようになっていたかもしれないのである。 しかし、現代の日本は、その点では欧米をはじめ東南アジアの国々やインド、さらには中東に至るまで、中国や韓国などが決して得ていないような信頼、「約束は守る国だ」という深い信頼を得ている。このことは、たとえ日本のメディアが報じなくとも、現代の日本人はよく知っておくべきであろう。これは何も先の大戦でドイツやイタリアとの約束を守り通したからだけではない。例えば明治五年の新橋―横浜間の鉄道敷設の資金とした外国からの借款をはじめ、近代化のために外国から借りた資金を、あの弱肉強食の時代に全て完済したという歴史も、国際社会の記憶となっているのである。 日本が語るべきものは、軍事力でも経済力でもない。まさに、「信義」というものが日本外交の最大の財産である、と昭和天皇は、われわれに示されているのである。しかもこれは百年、千年という単位で国家の行き方を考える視点に基づくものであり、神代に繋がる連綿たる歴史観の中で日本という国の安泰を祈り続けてきた皇室という存在なしには考えられないことに思いを致し、その昭和天皇の御心、つまり倫理観をわれわれは受け継がなければならないのではないか。 またこうした点での昭和天皇のお考えは、日本が今後国の命運をも共にすべき国家を選択するさいの教訓もわれわれに示唆するものがあると言えるかもしれない。アングロサクソンは計算高く油断も隙もない民族ではあるが、ロシアやドイツと比べれば遙かに信頼度は高く、条約を遥かによく守ってきた。中国や北朝鮮というもう一つのタイプの大陸国家と比べてもアングロサクソン勢力は遙かに信頼性が高いことはもはや明白、と言えるかもしれない。かつての「ドイツやイタリアのごとき国家」は日本の周囲にもあるということである。「リットン報告書」に関する記述の真意「リットン報告書」に関する記述の真意『独白録』が世に出たさい、多くの歴史家の目を引いたのが「リットン報告書」に言及された点であった。 《例へば、かの「リットン」報告書[昭和六年の満州事変のさいの国連(国際連盟、筆者註)調査団による報告書]の場合の如き、私は報告書をそのまゝ鵜呑みにして終ふ積りで、牧野(伸顕内大臣、筆者註)、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのはおもしろくないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止つたやうな訳である》(30頁) 日本は結局「リットン報告書」を受け入れずに国際的に孤立して国際連盟を脱退したが、昭和天皇のお考えは、この報告書は受け容れられる内容ではないかというものだった。「リットン報告書」、つまり国際連盟は満州事変が日本の侵略だと断定はしたけれども、日本の満州における権益は認めるという立場であり、その現状について日中間で新しい条約を結ぶよう勧告していた。中国は満州における日本の権益はこれを正面から認めて排日運動などによって日本の権利を侵すようなことはしてはならず、日本も満州は中国の領土であると認める条約を結べ、というわけである。 満州事変は、日露戦争以来日本人がかの地に苦心して築いてきた合法的な権益を、中国共産党が中心となって排日、侮日運動によって日本人を追い出して力で日本の権益を根底から覆そうとしたのに対し、政府、幣原外交が無策であったために、関東軍が自衛のために立ち上がって起きた。その言い分は正しかったのだが、謀略的手法によって柳条湖で鉄道を爆破し、一挙に全満州を軍事制圧するというやり方が余りにお粗末であったのである。現在も残る大阪砲兵工廠跡(写真中央)。旧日本陸軍の兵器製造を担ったアジア最大規模の軍事工場は、戦後70年を経た現在、大阪ビジネスパーク(OBP)や大阪城公園の一角にひっそりとたたずんでいる=大阪市(安元雄太撮影) 「侵略」といえるかどうかは別にして、満州事変には他にも問題点はある。日本の権益を過剰に押し広げ、ソ連と国境を接してしまったことである。ソ連との暗黙の了解であった中部満州の南北を分ける線を超えて北部に出ていってしまった。これは中ソの両方を敵とすることを意味した。たとえソ連と直接軍事衝突することはないにしても、当時日本国内にもコミンテルンの指令を受けている共産主義者が大勢いたわけであるから、彼らの国家転覆活動が活発化する可能性も合わせて考えるべきであった。実際、ソ連の指令を受けた尾崎秀実やゾルゲらは、この満州事変の直後から動き始めて日本を日米戦争の奈落に誘い込んでいったのである。 そのように考えると、満州事変は戦略的には誤った行動ではあったが、本来正当な日本の権益は守られなければならないという点では決して間違ってはいなかったのである。従って、「リットン報告書」を受け容れれば、日本の主張の正当性を国際社会が認めることになるのだとお考えになった点でも、昭和天皇の大きなプラグマティズムに基づく国際政治観、大義と国益とをバランスよく見据えていくという戦略眼がうかがえるのである。 ところが、この天皇のお言葉を取りあげて、いまだに生き残っている左派歴史家たちの中には、「昭和天皇は満州事変を是認していた」「侵略肯定論者だ」と捻じ曲げて解釈する向きがある。『独白録』は専ら東京裁判で昭和天皇の戦争責任が追及されたときの弁明資料として作成されたものだとして、天皇の戦争責任を追及する藤原彰・女子栄養大教授、粟屋憲太郎・立教大教授、吉田裕・一橋大助教授、山田朗・東京都立大助手の共著『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店、共著者肩書きは平成三年の初版発行時)にも、同様の批判が記述されている。 《満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の畏(おそ)れがあると思つた》(『独白録』42頁) このお言葉についても、藤原らの『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、「昭和天皇は満州は田舎で英米の目に付かないのだから侵略してもいいと考えていた。侵略を明確に肯定している」と批判している。 しかし、これらは根本的に歪んだ前提に立った批判である。この部分の天皇のお言葉は、前述の通り満州事変それ自体は、国際社会から日本が認められた権益を守るための行動であったが、その入り方が間違っていたし、明白に中国政府の支配下にある北支で同様の衝突をすることは国際秩序に対する挑戦であり許されない、という意味なのである。 だから、藤原や粟屋らの批判は、どんな地域でも、いかなる場合でも武力を用いてはならないという戦後の「日本国憲法」第九条に根ざした空想的平和主義から一歩も出ない立場を前提としたものである。歴史を論じながら、当時の国際状況をまったく無視しており、国際関係が「彼我の関係」という相対性を本質とすることを敢えて否定する一方的な批判である。戦後平和主義をもって正統的平和主義を批判する愚 この関連で、さらに踏み込んで見ていくならば、第二次上海事変(昭和十二年八月)勃発後に支那事変が拡大する局面における『独白録』の記述からは、昭和天皇の正統的な平和主義と卓越した戦略観の一端が見えてくる。 《その中(うち)に事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張してゐたが、私は上海に飛び火した以上拡大防止は困難と思った。/当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つていたのだ。湯浅[倉平]内大臣から聞いた所に依ると、石原(莞爾、筆者註)は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ。/私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をこゝでも取り逃した》(44頁) 左派史観は、これを「天皇の好戦性」を示すものとしてしきりに批判の対象とするのだが、もしかしたら、戦後の平和教育の中で育った日本人の中にも同様の見方をする者が一部に現れてくるかもしれない。しかしこれは全く平和の何たるかを理解しないものと言わなければならない。 その五年前の昭和七年一月に起きた第一次上海事変についての『独白録』の記述では、白川義則大将が上海派遣軍を率いて十九路軍(国民党軍)を撃退しながら深追いせずに停職したのは、《私(昭和天皇、筆者註)が特に白川に事件の不拡大を命じて置いたからだ》と明らかにされている(34頁)。 白川大将が国際連盟との衝突を避けたい天皇の戒めを守ったことにより、この時の日本軍の行動は国際連盟でも評価されることとなった。 ところが、先の『独白録』にあるように、第二次上海事変で日本は兵力の逐次投入という愚かな策をとった。一方の蒋介石軍は西安事件(一九三六年十二月)後の第二次国共合作により、国を挙げての大々的な日本攻撃を準備して、条約上の権利で上海に駐留していた僅か二千五百人の日本軍に十数万人の大軍をもって先制攻撃する挙に出たのである。そうである以上、昭和天皇は第一次上海事変と同じようにむしろ一挙に大規模な兵力を投入することによって和平への道を確保しようと考えられたのであった。ところが、石原莞爾ら不拡大派の主張によって陸軍は最初に二個師団を派遣しただけで、その後も戦況が不利となるたびに逐次増派するという泥縄の作戦しかとれなかった。このため上海での戦闘は泥沼化し、最終的に四万の日本兵が死傷する日露戦争の旅順攻撃以来の大損害を出したのである。 さらに、その大損害のために蒋介石・国民党軍と全面戦争に突入すべしの世論が高じ、「南京進撃」へと繋がった。確かに対ソ戦を優先して考えていた石原らの戦略にも一理はあったが、昭和天皇のほうがより現実を見据えた平和論として戦略的にも優れた見識であったように思われる。もし昭和天皇の見識が事態を支配していたら、結果的には平和的な解決につながっていたであろうし、そもそも国際政治のロジックを踏まえた大きな戦略観を天皇が持っておられたことに注目すべきではないだろうか。 ここでもまた、『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、《私は盛に兵力の増加を督促した》との記述をもって、「昭和天皇は平和主義者とは決して言えない」と批判している。しかし、これも武力の行使は一切してはならないという戦後憲法の前文と第九条的思考に縛られ、それを前提に戦前の日本の行動を裁断しているにすぎないことは改めて言うまでもない。 当時の日本は、上海で、三万人以上の日本人が住む「日本租界」という日本の法律が通用する地域を持つことが国際法上の権利として認められていた。ところが、それを守る兵力として前述の通り二千人強の海軍陸戦隊しかいない日本租界を蒋介石軍が十二万もの圧倒的兵力で攻撃しようとしたのであり、上海事変は完全な日本の防衛戦争、あるいは自衛戦争だったのである。混迷する時代にこそ心に刻むべき御心混迷する時代にこそ心に刻むべき御心 以上見てみたように、昭和天皇は満州事変には明確に反対しておられた。満州の権益を守ることは正しいが、そのやり方が国際秩序に反していて日本を危険に陥れていたからである。他方、支那事変に対しては反対されていない。むしろ第一次上海事変のように、上海での日本人の生命・財産と日本の威信を守るために積極的な軍事行動に出て、ある程度の成果を収めたら追撃せず即座に和平するというお考えであった。実際、あのとき平和を確保するにはその方法しかなく、その後の支那事変がたどった悲劇は間違いなく避けられたと思われる。 この昭和天皇の平和観と戦略感覚もまた、非常に大切な事をわれわれに教えている。国際秩序に決して挑戦してはならない。このことは天皇が繰り返し様々な場面で強調しておられた。他方、自らの利益を守り、自衛の権利を発動するときには、正々堂々、明確なかたちで国際法にのっとり断固とした態度を示すこと。それが憲法九条的な戦後平和主義ではない、もっとも正しい意味での普遍的平和主義だということである。 冷戦終結後、混迷の度を増す国際社会の中で、日本は自立した国家への手探りを始め、「このままでは国家としては立ち行かない」という意識も国民にようやく浸透してきた。しかし、自衛隊の扱いひとつをとってみても、憲法改正後の位置づけや海外派遣をめぐって議論は錯綜したままである。本来の平和主義とはいかなるものかという認識、国際関係の基本を踏まえた戦略の文化も育っていない。これは、国際社会で、日本がとるべき行動の基準、国家の基軸という意識がいまだに日本国民に根付いていないからである。 日本の国体というものは、お互いを思いやる「仁」と「誠」の精神を重んじ、日本の国と国民の安泰を祈り続けてきた皇室が厳然としてあり、国民がそれを尊崇し、そして自己の意志だけでは乗り越えられない存在の前に謙虚になって常に自己抑制を忘れず、そして国際社会の潮流、つまり「世界の進運」(終戦の詔勅)に遅れることなく、常に国際社会と軌を一にして発展していくところにある。そのベースとなるのは、二千年の歴史に根ざす伝統への絆から生じる、ゆったりとした大きな誇りであり、これが堅実な合理主義と強靭なプラグマティズムを支え、他国と真に平和的に共存できる「柔らかき心」を生み出してくれるのである。 昭和天皇は昭和五十年、戦後三十年を迎えて初めて記者会見に臨まれた。その場で「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と記者が正面切って聞いたのに対して、昭和天皇は「そういう言葉の綾(あや)については、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」とお答えになった。私はこのお言葉に昭和天皇の万感の思いが込められていたと強く感じる。本来の文脈を虚心にたどれば、そこには歴史観、あるいは歴史と国際関係の大きな基軸を踏まえ、立憲君主としての立場、また国家はいかにあるべきかという哲学がうかがい知れる。 「言葉の綾」という表現には、「そのことを論じ始めれば、実にたくさんのことを論じなければならない」という感慨、そして何よりも、「私は当事者だったし、あなた方の中にもその時代を生きた人たちがいる。この問題は後世の歴史家がしっかりと冷静に論じられる時代になったときに、自ずと真実が明らかになるはずだ」という万感の思いをむしろ率直に込められたのだと思う。 日本が国として立っていくための基軸について昭和天皇が遺されたこと、そして孫子の世代に受け継いで欲しいと願われた御心を、われわれは八月十五日を迎えるたびに、あの「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と唱えられた終戦の詔勅とともに繰り返し思い出すべきなのである。それが、戦後六十年という節目を迎え、またこの春に昭和天皇の御誕生日が「昭和の日」という国民の祝日として制定された今、われわれに改めて求められる決意であろう。 なかにし・てるまさ 昭和二十二年(一九四七年)大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。同大学院修士課程(国際政治学)、ケンブリッジ大学大学院修了。静岡県立大学教授を経て現職(総合人間学部教授)。著書に『大英帝国衰亡史』『なぜ国家は衰亡するのか』(以上、PHP)『日本の「敵」』(文藝春秋)『国民の文明史』(扶桑社)『帝国としての中国』(東洋経済新報社)など多数。※記事の内容、肩書等は掲載時のものです。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    昭和は日本の二十世紀だった

    象徴していた「鳥居」 平成元年2月24日、東京・新宿御苑に設けられた昭和天皇のご葬儀のための葬場で、皇室行事の「葬場殿の儀」が終わった。すると葬場殿前の幔門(まんもん)が閉じられ、内側で作業員10人が、白木の鳥居を固定してある根元のボルトを外し、“張りぼて式”の鳥居をわずか数分で撤去した。再び幔門が開き、国の儀式「大喪の礼」が始まる。 実はこの鳥居は、昭和天皇のご葬儀をどう行うか、という政府の苦悩を象徴していた。 戦前は、旧皇室喪儀令や登極令などの皇室令により、大喪、即位関連の儀式は国事行為として行われてきた。だが、新憲法施行に伴い旧皇室令は効力を失う。「政教分離」を規定した憲法と、宗教色が濃い皇室伝統との妥協点をいかに見いだすか―政府はひそかにその研究を行っていた。 福田内閣当時の52年6月首席内閣参事官の藤森昭一(69)=現宮内庁長官=を中心に、内閣審議室、法制局、宮内庁の幹部四人による極秘の勉強会がスタートする。メンバーの一人で、内閣審議室長だった清水汪(69)=現農林中金総合研究所理事長=はこう証言する。 「元号と、大喪、即位の諸儀式をテーマに、キャピトル東急ホテルで月に2、3回開いた。どこまでが政教の『教』なのかはっきりせず、議論すればするほど難しかった」 勉強会は53年秋まで続き解散。その後、本格的な検討に着手したのは57年11月に発足した中曽根内閣である。中曽根康弘(77)はこう明かす。 「内閣発足と同時に、官房副長官の藤森君、首席参事官の森幸男君らに研究を命じた。諸儀式の性格と範囲に始まり、参列者の範囲、皇位継承、大喪儀委員会の設置、経費などあらゆる問題を検討した。60年3月には総合的な研究に取りかかり、秋になると“鳥居”などの問題も議論し、想定問答も作成している」 検討結果は、62年11月に発足した竹下内閣にそのまま引き継がれる。中曽根は「竹下君に渡したときには大体準備ができていた。ほぼその通りに竹下内閣では実施された」と語る。 63年夏、政府は「大喪儀案」を作成する。だが、宮内庁の掌典職はこれに反発した。大正天皇の大喪を踏襲した掌典の当初案とはあまりにかけ離れ、鳥居や、皇居-新宿御苑と葬場内の徒歩列、牛車、弓矢などが姿を消していたのだ。掌典長だった東園基文(84)は、こう振り返る。 「本当に情けないことだった。こちらとしてはこうやりたいと言うと、クレームがつく。宮内庁の主張は通らないことが多かった」 その後の調整で、葬場内の徒歩列は了となったが、鳥居については最後まで再検討の動きはなかった。ところが、昭和天皇が崩御された直後から「国家基本問題同志会」の座長、亀井静香(59)ら自民党議員が猛烈に巻き返した。「大喪の礼」を終えて武蔵野陵に到着した昭和天皇の棺(ひつぎ)を乗せた御料車=平成元年2月24日、東京都八王子市 平成元年1月12日、亀井らは首相官邸で竹下登に会い、「牛車を使うことにしてほしい。せめて鳥居は建立していただきたい」と詰め寄り、竹下も「どうにか工夫してみる」と答えた。 官房副長官だった石原信雄(69)=日本広報協会会長=はこう振り返る。「鳥居は宗教的意味あいをもち、国の儀式である大喪の礼では外す必要があった。法制局は政教分離に厳格で、宮内庁は伝統を重んじる。激しい議論となったが、苦肉の策として、持ち運びができる鳥居にするという知恵が浮かんだ」 昭和天皇の柩(ひつぎ)を乗せた葱華輦(そうかれん)の担ぎ手の中には、歴代天皇の柩を担いできた「八瀬童子」(やせのどうじ)の姿はなかった。京都市左京区八瀬。今も百127世帯が「八瀬童子会」を組織している。起源は約650年前。足利尊氏に追われる後醍醐天皇を、八瀬の村民が助け、その功績から柩を担ぐ駕輿丁(かよちょう)として仕えるようになった。 会長の山本六郎(80)=現名誉会長=らは、崩御の翌日に上京し、宮内庁幹部に「今回もご用命いただければ」と申し出た。だが、八瀬童子会の約九割は会社員。アンケート調査も行い、大方は「数日ならば会社を休んでもご奉仕したい」と回答したが、消極的な者もいた。 結局、宮内庁の回答は「今回はご遠慮いただきたい」。式部官長だった安倍勲(81)は「お柩は大正天皇のものとは材質も違い相当重い。八瀬童子では難しいと、皇宮警察になった」と言う。だが、宮内庁は八瀬童子の内部事情を察知し断った、というのが真相のようで、山本も「時代の流れで伝統もああなった」と話す。 大喪の礼には164カ国もの国から元首などが参列した。 外務次官だった村田良平(66)=現外務省顧問=は「戦後、戦争の重みを背負い歩んできた日本が国際社会で地位を得て、重要な国だと認められたあかしがご大喪であり、昭和の仕上げだった」と語る。 外相だった宇野宗佑(73)=元首相=は、昭和天皇にお目にかかり、日本外交の在り方などについて所信を表明したことがある。「陛下は目を閉じられじっと話を聞いておいでになる。『昭和』を感じ、開戦、敗戦の時はどういうお気持ちだったろうと思った」 崩御の際、海外の一部マスコミは昭和天皇の戦争責任問題を取りあげたが、侍従だった卜部亮吾(71)には、「陛下はご自分で、戦争責任を背負っていらした」と映る。 外交評論家の岡崎久彦(65)=現博報堂特別顧問=はこう語る。 「昭和は日本の二十世紀だった。昭和天皇とともに二十世紀は終わり、実質的に二十一世紀に入ったといえる。ひとつの区切りでした」 (文中敬称略)関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    全国巡幸 国民を慰め、励まされるための旅

    「戦後史開封」天皇御巡幸産経新聞連載再録(1995年8月8日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま 昭和天皇は終戦の翌年の昭和21年から29年にかけて全国を巡幸された。敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まされるための旅だった。全行程は3万3000キロ。東京、ロサンゼルス間を2往復する勘定になる。一日平均200キロの強行軍だった。国民はそれまで現人神(あらひとがみ)とされていた天皇の姿に直接触れ、国家再建の道を歩むことになる。通りすぎるはずが突然お声を 昭和21年2月19日、神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場で農業用濃硫酸係をしていた安藤義雄(75)は、工場の正門で同僚約20人と整列し、頭を下げていた。 昭和天皇はこの日、全国巡幸の第一歩として同工場を訪ねられた。食糧生産に不可欠の化学肥料を生産する工場だった。事務所は戦争で焼け、急ごしらえのテントで社長の森暁(故人)から説明を受けて視察を終え、帰ろうとしておられた。 予定では正門は歩いて通り過ぎるだけだった。しかし、ハプニングが起きた。天皇が足を止められたのだ。 「通り過ぎられたと思って顔を上げると、陛下と目が合いました」と安藤。天皇は安藤に話しかけられる。 「何年勤めているか」 「5年ちょっとです」 「生活は苦しくないか」 「何とかやっております」 「あっそう。頑張ってください」。これが天皇と一般国民が声を交わした最初だった。 「その日の朝、工場内放送で(巡幸を)知らされました。まさか、お声をかけていただくとは夢にも思いませんでした。目と目が合ったときは、どきどきしました。夢を見ているようだった」 天皇はさらに進まれた。そして女子事務員の佐久間信子(73)にも声をかけられた。 「何年勤めているのか」「生活はだいじょうぶですか」 「“はい”と答えるだけで、もうドキドキして、ぼーっとしてよく覚えていません。負けたのだから仕方ないと思いましたが、MP(米軍憲兵)や見物の米兵が陛下の目の前を横切ったりして失礼ではないかと憤慨したのを覚えています」 終戦から1カ月余りたった20年9月27日、天皇は連合国軍総司令部(GHQ)に最高司令官、マッカーサーを訪問された。その際、「わたしは失意と虚脱にあえぐ国民を慰め励ましたいので、日本全国を回りたい。しかし、一部に反対の声もあるのだが…」と申し出られた。マッカーサーは「遠慮なくでかけるべきです。それが民主主義というものです」と答えた。 天皇はただちに宮内省(22年5月から宮内府、24年6月から宮内庁)の幹部に巡幸の準備を命じられた。 旅立ちは背広にソフトの帽子、夏はカンカン帽といった軽装。隊列も鹵簿(ろぼ)と呼ばれた戦前の物々しさとは打って変わり、警護も当初はGHQが付けたMP二人だけだった。 21年2月19日の最初のご巡幸は朝、皇居を車で出発。MPのジープが先導、宮内相、侍従長らがお供をした。 昭和電工の工場では、天皇が説明を受けておられる間、待ち構えていた米兵が写真を撮るため、天皇のそでを引っ張ったり、小突いたりした。天皇は全く逆らわず、何ごともないような顔をして説明を聞かれた。 午後は横浜に向かわれた。戦災者用のバラック住宅では被災者に「これでは寒いであろう」「はい、大変寒うございます」「あっそう」。 天皇の「あっそう」はぎこちない印象を国民に与えたが、初めて庶民に接する天皇の精いっぱいの言葉であった。やがて「あっそう」は流行語になる。 翌20日は横須賀市の浦賀引揚援護局を訪問になった。援護局内の引き揚げ者に声をおかけになり、17日にパラオ島から復員してきた宇都宮の歩兵第五十九連隊を中心とした将兵から復員報告を受けられた。 五十九連隊は第一大隊がアンガウル島で玉砕、第二、第三大隊はパラオ島で終戦を迎えた。傷病兵は先に帰還したが、高崎の歩兵十五連隊の一部をふくむ550人はコロール島の清掃作業に従事、この日の復員となった。 同連隊は終戦後も階級章をつけ、戦時中と同じように軍紀を保っていた。 大尉で連隊副官代理をしていた深堀泰一(72)は「復員手続きが終わるまでは軍隊として行動した。階級章もそのまま、歩調をとって行進、週番肩章やラッパも持ち出して起床、点呼、食事、消灯などを実施した」という。 援護局の担当者は当初、やめるよう要請したが、連隊長、江口八郎(故人)は拒否する。援護局側もその姿勢に次第に尊敬心を抱き、復員業務を1日遅らせて、巡幸される天皇に復員報告をするように勧めたのだった。 宿舎に整列した将兵の前に天皇は進まれた。江口は挙手の礼をして上奏文を読み上げた。 「臣、八郎、歩兵五十九連隊連隊長としてパラオ諸島に転進、祖国防衛の任に当たりました。将兵は困苦欠乏に耐え、団結して最後まで米英撃滅のため戦って参りましたが、股肱輔弼の任を全うすること能わず、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況に立ち至りましたことは、誠に申し訳なく慚愧の至りであります」 天皇は終始、沈痛な表情で聞かれ「あっそう」と相づちを打たれた。終わると兵の中を歩まれて声をかけられた。 侍従のひとりが連隊副官のところに来て小声で「米英撃滅ということばは慎まれるように」と注意した。周りにはMPや進駐軍関係者、米国人記者などが多くいたからだ。 江口のすぐ後ろに立っていた当時、中尉の橋本宏(75)=現栃木県南那須町長=は「陛下は軍服で来られると思っていたが背広だった。号令が“頭右”ではなく“最敬礼”だった。戦争は負け、軍隊はなくなったと実感した」と振り返る。 海外から復員した約300万人のうち、天皇に直接、報告したのはこの部隊だけだった。役場から「モンペ姿で農作業して」  神奈川県下で昭和天皇の初の巡幸が行われて9日後の昭和21年2月28日午後、東京・新宿のデパート「伊勢丹」前に大勢の人々が集まりだした。天皇が巡幸の一環として伊勢丹で開催されている「平和産業転換展」をご覧になるということを知った人たちだった。 東京への巡幸は当初、いちばん最初の2月14、16の両日が予定されていたが、一部新聞に漏れ、警備の都合から神奈川の後の28日と3月1日に変更されたいきさつがあった。 28日にはまず日本橋の焼け跡を視察の後、小石川の被災者用バラックを回られ、早稲田・鶴巻小学校で授業を参観。午後、伊勢丹に回られた。 天皇が伊勢丹を出られると取り囲んだ人たちから、「天皇陛下バンザイ」の絶叫が繰り返された。天皇は帽子を取ってお応えになり、車に乗ってからも手を振られた。 政府関係者たちもこの時点までは、敗戦による国民の天皇に対する感情をつかみかねていた。だが、この光景を目の当たりにして、国民の天皇に対する尊敬心は戦前と大きな変化はないと胸をなで下ろし、以後、巡幸は予定通りスムーズに行われるようになる。 翌3月1日は三多摩地区に足を運ばれ、八王子の都立第四高女(現南多摩高校)を視察になった。雨が降り、天皇は自ら傘をさされた。戦前では考えられなかったことである。 学校は戦災で全焼したが、教職員、生徒が一丸となって自分たちの手だけで仮校舎を作り上げていた。校長の岩崎源兵衛(故人)がそのことを報告すると「よく建てられましたね」とねぎらい、生徒の間を回って「食料に困っていないか」「家は焼かれたか」などと聞かれた。 4年生だった野尻(旧姓島田)和子(65)はこう覚えている。「長靴をはいておられました。“大変ですね”といわれて感激しました。口をきけるとは思っていなかったから、親しみを感じました」 巡幸をめぐってケガ人も出る。3月25日、群馬県群馬町の堤ケ岡開墾場にお着きになったとき、堤ケ岡農業会会長、大沢半之丞(故人)を先頭に多くの農民が整列して待っていた。 お車が到着して運転手がドアを開けたとたん、ドアが車のすぐ近くで最敬礼をしていた大沢の額を直撃してしまった。大沢は額から出血をしたが、めげずに直立不動を続け、天皇をお迎えした。 驚いたのは天皇である。目の前に額から血を流した老人が立っている。視察を後回しにされ、「大丈夫か」とすぐに侍医を呼び、手当てを命じられた。 後日、群馬県知事の北野重雄(故人)はお礼に皇居を訪れたが、侍従から天皇のお見舞いとして、大沢のための包帯、ガーゼ、脱脂綿などが贈られた。 埼玉県埼玉村(現行田市)で農業をしていた新井(旧姓木村)ハル子(72)は、村役場の人から「天皇陛下が来られるから、かすりのモンペ姿で農作業をお見せするように」といわれた。3月20日ごろのことだった。今でいえば“やらせ”っぽい話だ。 「辞退しましたよ。震えちゃう。勘弁してくださいってね。でも決まったことだからといわれて」 天皇は群馬県から3月28日、埼玉県に入られた。新井は継母のヒデ(故人)とともに、農作業のふりをした。役場からは「手ぬぐいをして農作業をし、お車が着かれたら手ぬぐい取って腰に挟み、最敬礼をしてください。お声をかけられても返事をしないように」と言われていた。 畑の周囲には何百人の歓迎の人がいた。後ろには小学校の児童も整列していた。 「お車が着いたので最敬礼しましたが、怖くなって義母と二人で、逃げようかと言って後ずさりしたら、役場の人から『ダメダメ』と元の位置に連れ戻されました」と笑う。 天皇は二人の前で「大変でしょうが、頑張ってください」とねぎらわれた。返事をしてはいけないといわれていたが、何も答えないのは失礼だと思って、新井はとっさに「ありがとうございます」と答えた。天皇が車に戻られて、二人は「もう大丈夫ね」と目配せして頭を上げた。 10月22日は名古屋に着かれた。名古屋駅近くの歓迎はすさまじかった。群衆は天皇をもみくちゃにしてついに警護のMPが威嚇発砲する事態にまでなり、侍従の一人が財布をすられてしまう。天皇はそれを聞くと「ほう、そういうこともあるのか」と妙な感心の仕方をされた。 22年8月には15日間にわたって東北をご巡幸になった。天皇の洋服がみすぼらしいため、侍従の入江相政(後に侍従長、故人)が「米国人も見ていますので」と背広の新調をすすめたところ、「米国は戦争に勝って裕福なんだからいい洋服を着ても当たり前である。日本は戦争に負けて(国民は)着るものにも不自由しているのだからいらぬ」と断られた。 山形では初めて民間の旅館にお泊まりになった。それまでは列車内や知事公舎、県庁、公会堂、学校、地方の豪農宅などにお泊まりになっていた。学校などでは教室の板の間にゴザを敷き、そのうえに布団を敷いて、黒いカーテンをかけてお休みになった。初めての民間旅館、山形県上山市の「村尾旅館」では部屋に入られた後、「ちょっと、みんなの泊まる部屋を見て来るよ」といって侍従らが泊まる部屋を見て回り、「宿屋というものは人を泊めるのに実に具合よくできているね」と感心された。涙でレンズが曇り撮れなかった写真涙でレンズが曇り撮れなかった写真 栃木県岩舟町で石材店を経営する川島健三郎(七九)は県庁から昭和天皇の巡幸の公式記録写真の撮影を依頼された。天皇は那須の御用邸を宿舎に昭和22年9月4日から5日間、皇后(現皇太后)を伴われて栃木県内を回られた。 川島は中学時代、体をこわしたとき、父から与えられたカメラが病みつきになり、撮影の腕は県下でも有数だった。しかも、プロのカメラマンでも手に入らないミノルタ・フレックスとドイツ・ツァイス社のスーパーシックスの2機種を持っていた。 川島の最初の写真は天皇が那須から国鉄宇都宮駅にお着きになり、お車に乗り込まれるときのものとなるはずだった。 「だめでした。周囲は歓迎の波。万歳の歓声に自然と涙が出て、レンズがくもってしまい、撮れませんでした。当時のカメラはピントを合わせるのが難しかったし、やはり、緊張したのですね」 結局、お車の後ろ姿を撮るのがやっとだった。それもピントがずれてしまった。その写真は県が後に発行した「昭和二十二年栃木県御巡幸誌」ではお帰りの時の写真ということで掲載された。 川島は陸軍幹部候補生出身の少尉だった。「(自分が軍人だったことを)意識したわけではないが、天皇は大元帥だったですからね」 両陛下は宇都宮市内をご視察の後、県庁に立ち寄り、さらに市内の母子寮を訪ねられた。夫、父を戦争で失った31世帯が入居していた。 どの部屋にも位はいが安置され、母子が正座してお迎えした。「随分つらいだろうが、辛抱してね」「お子さんたちを立派に育てるために、一生懸命頑張ってね」と励まされた。この後、子供たちの遊戯をごらんになった。終わって手を差し伸べる皇后に子供たちがすがった。「おばちゃんの服はきれいだね」「また来てね」というと、皇后は目頭を押さえながらほほ笑まれた。この時の様子を皇后は和歌に詠まれている。 「われもまた手をさしのべてはぐくまむみよりすくなき引揚の子を」 6日は真岡町の益子焼の絵付けをごらんになった後、日光市の古河電気工業日光電気精銅所に着かれた。ここで思わぬハプニングを川島は目撃する。 工場を1時間かけてご視察になった後、労働組合幹部の席に進まれると、整列していた中から労組委員長が、突然、大きな声を上げた。 「生産の向上と組合の発達を望む陛下のおぼしめしはありがたい。自分たちも努力するつもりである。労働者を激励する意味において、代表として自分に握手を賜りたい」と話し、右手を差し出したのだ。 川島はびっくりした。しかし、内心では期待もあった。握手の写真が撮れれば特ダネになる。侍従長も知事も立ちすくんでいる。川島は天皇の横に回ってカメラを構えた。 天皇はゆっくり口を開いた。「大変だろうが、一生懸命にやってください。握手の件は日本風にやりましょう」とカンカン帽を取られて会釈された。周囲から「ハァー」という安どのため息が漏れた。委員長は手を差し出したまま、ぼう然として天皇の後ろ姿を見送った。 「特ダネ写真は逸しましたが、内心ほっとした。それよりも、天皇は決められたスケジュールに従ってお話しされているだけと思っていましたが、委員長へのとっさの返事を聞いて、自分の意思でお話をされていると痛感しました」と、畏敬の念が深まったという。 巡幸取材では先回りするため、天皇の横を通り抜けたりすることもあったが、天皇はにこにこしておられた。また、お車や列車にお乗りの時はカメラを構えて待つが、シャッターを切るまで姿勢を崩されなかったという。 「あのころは陛下がいかに国民の間に溶け込もうとしていたかがはっきり分かった。しかし、その後は菊のカーテンの中に戻られてしまった」と川島は回想する。 新潟県にお出かけになったのは10月8日から5日間だった。その4日目は疲労も重なって公式の行事はなく、休養日に充てられた。高田村(現柏崎市)の豪農、飯塚家にお泊まりだったが、午前10時過ぎ、数人の側近とともに通称デコ山と呼ばれる山を散策になられた。 その少し前、若い女性二人が山へ入って大きな声で鼻歌を歌いながらキノコを採っていた。幼なじみの宮島トミ(69)と今井スミ子(69)だ。下から人が登ってくる気配がした。 案内していた写真館の主人が二人に「あんたら、ここに立っていてくれ。いま天皇陛下がおいでになるから」という。 「やだー。逃げよう」 だが、片方はがけ。道にはすでに天皇のお姿があり、侍従が追い付いて手を引き、「逃げたら失礼でしょう。道に出てかさを取ってください」。 天皇は二人を見つけるとニコニコされながら「これは何ですか」と竹籠の中をのぞき込まれた。 「ズボダケ」 「あっそう。ではこれは」 「ハツタケ」 「いっぱい採ったね。気を付けてね」 二人は深く礼をすると、山を下りた。 「陛下に会ったときは足ががたがた震えました。でも、帰りは足が軽くなった感じ。物柔らかな、お優しい声でした。陛下が登って来られたときは、私たちが見下ろす格好になり、申し訳なく思いました」。宮島はいまもデコ山の近くに住み、思い出を大切にしている。原爆孤児の少年僧に「声をかけたい」 昭和22年12月7日、昭和天皇は被爆地、広島市に入られた。宮島口から市内に向かう途中、五日市で広島戦災児育成所に立ち寄られた。ここには家族を原爆で失った84人の孤児が天皇をお迎えした。その先頭の墨染の衣をまとった5人の少年僧が人目を引いた。 最年少は小学生の朝倉義脩(60)=旧姓増田修三、現真宗大谷派大谷祖廟事務所長=だった。 朝倉は20年4月、広島市内から8キロ離れた寺に学童疎開した。「8月6日朝、体操が終わってしばらくすると、広島市の方が光って、間もなくドーンというものすごい音がしました。夕方には焼けただれた避難民がやってきた」 終戦。子供たちは迎えに来た家族や親せきに連れられ帰っていった。しかし、朝倉を迎えに来る者はだれもいない。父は前年に亡くなっていた。母と妹の住む自宅は爆心地に近く、絶望だった。 「自分が最後の一人になってしまい、12月になって育成所に入ることになりました」 育成所はこうした孤児を見かねた真宗本願寺派の僧侶、山下義信(故人、元参院議員)が私費を投じて開設した。 子供たちは夜になると泣いた。「お父さんに会いたい。お母さんに会いたい」。中には「どうすれば会えるの」と涙をためて山下に詰め寄る年長の子供もあった。山下はさとした。「お経をあげれば会える。坊さんになって修行しなさい」 朝倉らは21年11月に京都・西本願寺で得度して僧になった。新聞は「原爆少年僧」と呼んだ。この話を知った天皇が「広島市に入る前にぜひ声をかけたい」と立ち寄られたのだった。 天皇は整列する子供たちの前に進まれた。山下が原爆で頭髪が抜けた子供を抱えるようにして天皇にお見せした。天皇はその子の頭をなで、目頭を押さえられた。さらに少年僧らを「しっかり勉強して頑張ってください」と激励された。側近や多くの報道関係者がいたが、水を打ったように静まり返った。 「陛下に励まされたわけですから、正しい道を歩まなくては、と思ってやってきました」と朝倉は振り返る。 朝倉らの後ろに、朝倉とともに得度した今田義泰(60)の弟、荒木恒雄(五八)がいた。荒木は「ほかの人が会えない人に会えたんだ、という自負心が生まれた。ここまでやってこれたのは多くの人のおかげ。少しでも恩返しできればと思っています」という。荒木は高校を出た後、産経新聞の配達などをしながら大学を卒業、かつての育成所近くの精神薄弱者施設、「見真学園」の指導員をしている。 天皇は広島市内に入り、約七万人が集まった護国神社跡地の歓迎場にお着きになった。平和の鐘が鳴り響き、君が代の合唱の中、お立ち台に上がられた。市民からは万歳の声が上がった。正面には原爆ドームが見えた。天皇は終戦以来初めてマイクで直接市民に語りかけられた。 「広島は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、世界平和に貢献しなければならない」皇居・千鳥ケ淵のサクラ この様子を見て恐怖心を抱いた米国人がいた。“目付け役”として随行していたケントというGHQの民政局員である。侍従としてお供していた徳川義寛(89)=後に侍従長=も「ケントという変な男がついてきてあれこれ探っていた」と証言。広島の会場をそれまでの「奉迎場」から「歓迎場」と名称を改めさせたのもケントらだった。 「昭和天皇の御巡幸」(鈴木正男著)によると、「原爆が投下された広島市民は天皇を恨んでいなければならないとケントは思った。しかし、市民は熱狂して天皇を迎え、涙を流して万歳を叫ぶ。天皇制廃止論者のケントは怖くなった。このままご巡幸を続けてると、天皇制はますます確固不動になる。ご巡幸をやめさせねばならないとケントは考えた」。 民政局は巡幸の中止を政府に働きかけることにする。問題にしたのが、日の丸事件である。GHQは占領以来、日の丸の掲揚を禁止していたが、巡幸の先々で日の丸が振られた。民政局はその都度、宮内府に抗議した。宮内府は「国民が日の丸を振ることを禁止する権限は宮内府にはない」とかわしていたが、GHQは納得せず、宮内府の責任だと強硬姿勢に出た。 後の東宮大夫、当時、侍従の鈴木菊男(89)も「民政局はご巡幸で天皇の権威が復活するのを恐れていた」と証言する。 21年2月に始まった巡幸は22年末までに関東、関西の一部、東北、北陸、中部、中国をめぐり、順調にいけば23年中には終わる予定だった。 だが、22年12月、中国地方の巡幸が終わると、GHQは政府に宮内府の機構改革と首脳の更迭を指示。当時芦田内閣は何の抵抗もなく従った。この結果、宮内府長官、侍従長、宮内府次長の3人が辞職。巡幸は中止となった。 九州、四国を中心に全国からGHQ、政府、宮内府に巡幸復活の嘆願書が寄せられた。鈴木、徳川によれば「陛下も直接、マッカーサーに復活を願われた」という。 供奉員を削減するなど一層簡素化して、巡幸が復活するのは24年5月になってからである。 東西冷戦が顕在化し、米国としても日本を自由主義国家として確保する必要が高まり、GHQ内でも巡幸反対の民政局の勢力が衰え、冷戦担当のG2(情報二部)が力を得るようになっていた。引き返してもう一度「さようなら」引き返してもう一度「さようなら」 昭和24年6月6日、昭和天皇は宮崎市内の県立盲学校をお訪ねになった。目の不自由な子供たちにどうやって、天皇が来られたことを認識してもらおうか。関係者は考えた末、教室では天皇以外は裸足になり、靴音の主が天皇だと判断してもらうことになった。 小学部の2年生だった村社マツ子(55)が振り返る。「コツコツと靴音が聞こえました。先生が『いま、みなさんの教室に天皇陛下がお入りになりましたよ。マツ子さん、あなたのそばにいらっしゃいますけど分かりますか』というので、『どこにいらっしゃいますか』と反射的に両手を出しました」 差し出す村社の手に天皇の手が触れた。すると天皇は目を潤ませながら、体を村社の方に寄せられた。村社は天皇の左腕をつかんだ。 天皇は「不便でしょうが、しっかり勉強して立派な人になってくださいね」と励まされた。教室を出るとき、村社らが「天皇さま、さようなら」と叫ぶと、天皇はもう一度教室に戻られ、「さようなら、さようなら」と繰り返された。 「あの後、励ましの手紙をたくさんいただきました。『あなたは幸せです。うちの子は陛下にも会えず、寝たきりのまま死にました』というのもありました。自分より不幸な人もいる。くじけちゃいけない。そう思って生きてきました」。今、宮崎市でマッサージ師をしている村社の部屋には、天皇とお会いしたときの写真が飾ってある。 24年に巡幸が復活したさい、天皇はまず九州地方を回られた。5月27日には被爆地・長崎で、「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書で知られる医学博士、永井隆を長崎医大病院にお見舞いになった。永井夫人は原爆で死亡、永井も白血病に苦しんだ。 枕元には14歳の長男と9歳の長女がいた。天皇は永井のベッドに進まれ、「どうです、ご病気は?」と声をかけられた。「早く回復してください。あなたの書物(「この子を残して」)は読みました」。永井は「それがこの子たちです」と二人を紹介した。 永井は手記に「(天皇の)全身の表情から私は、いつも顔つき合わせてゐる隣人のやうな、親しいものを感じた」と書いている。そして友人に「天皇陛下は巡礼ですね。洋服をおめしになっていても、大勢のおともがいても、お心はわらじばきの巡礼のお姿だと思いました」と語っている。永井はこの2年後に亡くなる。 今でも語り草の楽しい話も生まれた。雲仙・仁田峠から阿蘇山を双眼鏡で望まれたとき、側近が「あれが阿蘇山でございます」というと、天皇は「あっそう」。皆ふき出し、天皇も照れ笑いをされた。 福岡県久留米市では久留米医大を訪問された。一私立大を訪問というのは異例だったが、その陰には一人の学生の奔走があった。現在、長崎県琴海町の大石共立病院長の梶山茂(69)。「福岡県においでになるなら、ぜひお寄りいただこう」と大学に相談。大学は「難しいだろう」と本気にしなかった。しかし、梶山は一人で上京、宮内府に侍従の入江相政を訪ね、お立ち寄りを懇請する。入江から事情を聴かれた天皇は「そういうことなら」と行幸が決まった。 「全学挙げての歓迎でした。左翼の連中もおとなしくしていましたよ」と梶山は笑う。 巡幸はどこでも大歓迎だったが、時として天皇に反発する動きもおきた。 九州巡幸のさいの24年5月22日、佐賀県基山町の因通寺境内の戦災孤児収容施設「洗心寮」をお訪ねになった。住職、調寛雅(74)が父から引き継いで運営しており、多くはフィリピンなどからの引揚孤児。天皇は「お健やかにね」と子供たちの頭をなでられ、山門を後にされた。 このとき、調にはひとつ気になることがあった。沿道にシベリア帰りの共産党系の一団が戦争責任を追及しようと待ち構えていたのだ。 だが、天皇のひとことが、心配を吹き飛ばす。彼らの前で立ち止まられてリーダーのMに「長い間、外国で苦労をさせて申し訳ない。これからは日本再建のためにしっかり頑張ってほしい」と帽子を取られた。Mに感動の衝撃が走った。全員泣き出し、後に天皇制護持論者に転向した。 26年11月の京都大学への行幸では一部の学生が「再軍備について」などの質問状を手渡したいと騒いだ。 京大に着いたお車を約千人の学生、職員が取り囲んだ。降り立った天皇は一瞬、歓迎と勘違いされて、帽子を振ろうとされた。帰りはもっとひどかった。お車の窓をたたいたり、前に寝転んでインターナショナルを歌うなどして妨害した。警官隊が出動して学生を排除した。 法学部助手だった勝田吉太郎(67)=鈴鹿国際大学長=は「騒然たる状況でした」と振り返る。「車の前に寝転んだ学生に1年後輩がいた。彼は後に検察庁の首脳になったが、その話をすると『その話だけは忘れてください。一生のお願いです』といまでも頭を下げますね」 戦前、自由主義的として京大を追放された滝川幸辰(故人)がご進講した。「先生は天皇制に批判的だったが、ご進講の後、すっかりファンになって、天皇制擁護一辺倒になっちゃたんだ」と教え子の勝田は笑う。 巡幸は29年の北海道を最後に終わった。まさに巡礼であり、行脚だった。天皇は側近に「戦前からこうして国民と直接話ができたらいいと考えていた」と語られた。崩御されて六年半、最後まで沖縄への巡幸を果たさねばと気にかけておられたという。(文中敬称略)関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係