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    天皇になろうとした日本人

    天皇陛下の譲位を実現する特例法案が成立した。日本史をひも解けば、天皇の譲位は決して珍しいことではない。ただ、権勢を振るった時代の寵児が皇位簒奪や天皇を超越した存在になろうとした例もしばしばあった。彼らはなぜ「治天の君」を目指したのか。歴史を通して万世一系の意味を改めて考えたい。

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    天皇家への挑戦状、井沢元彦が読み解く天才信長の「自己神格化計画」

    井沢元彦(作家) 正確に言えば織田信長は天皇になろうとしたのではない、それを超えた存在である神になろうとしたのである。 日本は神の子孫である天皇が治める国である。この絶対的ルールが確立された飛鳥時代以降、中国や西洋のような王朝交代は日本で無くなった。壬申(じんしん)の乱のように天皇家内部の政権争いはあったが、天皇家の血を引かない人間が、天皇を殺して自ら天皇になることは絶対に不可能になったのである。なぜなら天皇家以外の人間は「神のDNA」を継いでいないからだ。 そこで藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子供を天皇にするという手段で何とか権力を掌握した。その究極の形が関白で、関白とは本来臣下であるはずの藤原氏が実質的な皇族扱い(敬称は殿下)となり、いわば準皇族が天皇の権限をほとんど代行するという形で天皇家の権限を奪ったのである。 これに対して新興勢力である武士は、天皇から武士団の棟梁(とうりょう)が征夷大将軍に任命されることによって、実質的に日本の統治権を委任されるというシステムを考え出した。これは幕府政治あるいは将軍制と呼ばれるべきもので、だからこそこの制度は幕府の長である将軍、徳川慶喜が天皇家に「これまでお預かりしていた統治権を返還する(大政奉還)」という形で終止符が打たれた。織田信長像(模本、東大史料編纂所蔵) しかし関白にせよ将軍にせよあくまで天皇代理であり、その権限は天皇に由来する。しかも関白は藤原氏の選ばれた家柄(近衛、鷹司など五摂家)、将軍は武士の中でも源氏の嫡流しかなれないというルールも生まれた。だから鎌倉幕府の源氏将軍を実質的に滅ぼした北条氏も、源氏に代わって将軍になることはついにできなかった。 その源氏の嫡流と称する足利氏が北条氏を滅ぼして将軍の座を奪ったのが室町幕府である。だが、さまざまな構造的原因によって室町幕府の統制力は失われ、本来武士の棟梁であるはずの将軍の命令を誰もがきかなくなり、大名同士が勝手に私闘を繰り返したのが戦国時代である。 多くの人が誤解しているが、いくら戦国時代だからといって藤原氏でもない源氏でもない人間がいきなり関白や将軍にはなれない。ましてや、そうした旧来の仕組みを全く利用せず新しい権力体制を築こうと思えば、日本においては「神になる」しか方法がないのである。繰り返せば天皇はなぜこの国の主権者なのか、それは天皇は天照大神という神の子孫であり、その神の子孫がこの国を治めるというルールが古代に定まってしまったからだ。関白あるいは将軍も、その天皇の代理であるからこそ権威がある。権力の源を根本から覆すには金色に輝く織田信長像=JR岐阜駅前(関厚夫撮影) 逆に言えば全くゼロから権威を作るためには、神の子孫である天皇家の権威を超えなければならない。だから、結局「神の子孫」ではなく自ら「神」になるしかない。織田信長は論理的に考えれば当然の結論の実現を目指したのである。 信長が自分を神として礼拝するように命じたということは、彼を近くでよく観察していた宣教師ルイス・フロイスなども記録していることなのだが、一昔前は「信長シンポジウム」などで「信長は神になろうとしていたんです」と言ったら専門の歴史学者の人々に笑いものにされた。そんなことがあるわけないじゃないかとおっしゃるのである。そういう人々に私が言いたいのは信長の後継者が、神になっているということである。 言うまでもなく徳川家康のことだ。日光東照宮の御祭神は東照大権現、すなわち家康である。信長は神になれず、秀吉は死後1度は神になったが(豊国大明神)家康にそれを取り消され(後に明治に復活)、家康だけが完全な神になることに成功した。 確かに日本とは人間が神になれる国である。しかし、それは菅原道真のように死後周囲の人間がその霊威を畏れ神として祀(まつ)り上げた場合だ。生前自ら宣言して神になろうとしたのは織田信長が最初なのである。ただし、どんなことでもそうだが開拓者は最初必ず挫折する。なぜなら誰もやったことのない行為を成功させるためには試行錯誤を重ねなければいけないからだ。フロイスが記しているように信長は自分の誕生日を聖日として、自分を御神体とする宗教施設に礼拝するように命じた。いきなり自分が神だと宣言し「オレを礼拝せよ」と命じたのである。 このころ信長が造った安土城には奇妙な「装置」がある。地下1階に石造りの宝塔があるのだ。大乗仏教最高の経典とされる法華経には釈迦が最高の真理を説いたときに、地下からそれを祝福するために宝塔が出現したという名場面がある。要するに「信長=釈迦」ということである。また、その「信長神殿」である安土城から「上から目線」で見下ろす本丸部分に、最近の発掘調査で天皇の御所とよく似た構造の建物跡が発見された。信長はここに天皇を動座させ、自分が天皇より上の「神」であることを天下に知らしめるつもりでいたのだろう。しかし、本能寺の変ですべての目算は狂い信長は神にはなれなかった。引き継がれた信長の構想 その失敗を近くでつぶさに見ていたのが家康である。まず、この「自己神格化」プロジェクトのために専門家を雇った。天海僧正だ。このブレーンの言うことをよく聞いて、彼は東照大権現の「神学」つまりなぜ家康が神なのかという説明を作らせた。ライトアップされ、宵闇に浮かぶ日光東照宮の国宝「陽明門」。約40年ぶりの大規模な修復作業を終え、金箔や極彩色がひときわ輝く=4月29日、栃木県日光市(飯田英男撮影) 権現とは、そもそも神がこの世を救うために人間の姿を取ってこの世に下りてくるものである。長い乱世で多くの人が苦しんでいるのを見た「神家康」は、その苦しみから人々を救うため人間の姿でこの世に生まれ、苦心の末に天下を統一するという大偉業を成し遂げ役目を果たしたので天に戻られた、今はそこにおられる。というのが東照大権現の神学である。しかも「東照」は大和言葉で読めば「アズマテラス」と読める。つまりこれまでの日本はアマテラスの子孫である天皇家が治めていたが、これからはアズマテラスの子孫である将軍家が治めるという形を作ったのだ。だから徳川の天下は約300年も続いた。 逆に言えば、最初に信長が神になり天皇を超えようと志したからこそ、家康は成功したわけで、それが歴史の連続性ということだ。この点から見ても、信長が本気で神になり天皇を超えようとしていたことはまぎれもない歴史上の事実なのである。 しかし信長の視点から見れば、「家康神学」には大きな弱点があった。それはほかならぬ東照大権現という神号を朝廷に奏請して、つまり天皇からもらってしまったということだ。天皇からもらったのならば、天皇家と徳川家は対等とはいえず、天皇家の権威の方が上であることを認めてしまったことになる。この弱点が幕末に「天皇家の方が尊いのだから将軍家よりも天皇家に忠を尽くすべきだ。つまり討幕は悪ではなく正しいことだ」という勤皇思想の隆盛を生みだすことになり幕府は滅んだ。 家康ですら天才信長の「自己神格化計画」を完全に達成することはできなかったのである。

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    異例の大出世、平清盛の出生に隠された「天皇のDNA」

    渡邊大門(歴史学者) 平清盛(1118-1181)といえば、武家政権を自らの手で樹立し、栄耀(えいよう)栄華を極めた人物として知られる。清盛が強い存在感を示したのは、保元元(1156)年に勃発した保元の乱のときである。清盛は後白河天皇の勝利に貢献し、その軍事力を大いに誇示した。 平治元(1159)年の平治の乱では、ライバルの源義朝を討ち破り、武家政権樹立の布石を築いた。その後の清盛の昇進は目覚ましく、永暦元(1160)年に参議正三位に叙され、武士として初めて公卿(くぎょう)となった。その7年後には、従一位太政大臣にまで上り詰める。その理由はどこにあったのか。 清盛が台頭した背景には、摂関家や天皇家と積極的に婚姻関係を結んだことにあった。関白・藤原(近衛)基実には、娘の盛子を嫁がせた。基実が亡くなると、その遺領は盛子が引き継いだ。基実の子息・基通には、娘の寛子を嫁がせている。こうして清盛は、全国で500余の荘園を手にすることに成功したという。戦前、いかつく狡猾なイメージで描かれた平清盛。『国史画帖大和桜』(昭和10年刊) また、後白河上皇には、妻・時子の妹・滋子を入れ、上皇の皇子の高倉天皇には娘の徳子を入内(じゅだい)させた。治承4(1180)年には、高倉天皇と徳子の間に安徳天皇が誕生する。こうして清盛は外祖父の地位を獲得し、政治権力を掌中に収めた。天皇すらコントロール下に置いたのである。 平氏一門は隆盛を極めた理由として、日宋貿易で巨万の富を築いたことも挙げられる。また、平氏一門は高い官職を得て、「平氏政権」と称される権力体になった。時子の弟、平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したのは、その自信の裏付けであろう。 この段階で、清盛は天皇に近づいたと言っても過言ではないであろう。 このようにわが世の春を謳歌(おうか)した清盛であったが、その異常なまでのスピード出世には秘密があるとされてきた。それは、清盛の出生にまつわる理由にあった。 清盛が異例の出世を遂げたのには、その出自にあったという説がある。元永元(1118)年、清盛は平忠盛の長男として誕生した。このことは系譜上明らかなことなのであるが、清盛の出生にはいくつもの謎がある。その一つが白河法皇の御落胤(らくいん)であったという説である。 今の教科書には取り上げられていないが、明治時代の小学校の教科書には、清盛の後白河法皇の御落胤説が堂々と記されていた。これは江戸時代に伝わった説を引き継ぐもので、世の人々に広く伝播(でんぱ)するきっかけにもなった。 実際、忠盛には何人もの妻がいた。その事実は、系図集の『尊卑分脈』で確認することができる。妻の名を列挙すると、藤原宗兼の娘(池禅尼)、源信雅の娘、藤原家隆の娘、藤原為忠の娘であり、彼女たちは子に恵まれた。側室が多数いること自体は、特に珍しいことではない。平清盛の母は誰なのか? 清盛の母について記しているのは、源氏と平氏の攻防を描いた『平家物語』である。『平家物語』は大きく分けて、(1)語り系の諸本(一方(いちかた)流、八坂流など)、(2)読み本系の諸本(延慶本、長門本など)になる。そして、それぞれが清盛の母として記している女性は異なっている。『源平盛衰記』の説も合わせて、次に分類して掲出しておこう。(1)白河法皇の寵愛(ちょうあい)した祇園女御(ぎおんにょうご)であったとするもの。(2)祇園辺りにいたある女房とするもの。(3)祇園女御に仕えた中臈(ちゅうろう)女房とするもの。(4)祇園女御と中臈女房の区別が明確でないもの。(5)宮人である兵衛佐局とするもの。 このように、同じ『平家物語』であっても、それぞれの記載している内容に大きな差異を認めることができる。ところで、白河法皇の寵妃である祇園女御については、ほとんど知られていないが、いかなる人物なのであろうか。 祇園女御は、両親や生没年が不明である。その出自に関しても、源仲宗の妻またはその子・惟清の妻であるとか、宮廷に仕えた女房との説がある。女御とは天皇の寝所に仕える職であるが、祇園女御は正式にその職に任じられておらず、居住した祇園にちなんで名乗っていたといわれている。 このほかの史料では、平安末期の歴史書の一つ『今鏡』が清盛を白河法皇の御落胤とする説を繰り返し述べている。では、ほかに清盛出生の謎を探る史料はないのであろうか。次に、その点をもう少し掘り下げてみよう。 明治26(1893)年、東京帝国大学文科大学(今の東京大学文学部)の教授を務めていた星野恒が、『仏舎利相承系図』を学界に初めて紹介している。そこには清盛の出生について、驚くべき内容が記されていた。ちなみに『仏舎利相承系図』とは、滋賀県多賀町の胡宮(このみや)神社が旧蔵していた史料である。 『仏舎利相承系図』には、清盛の母という女房は、祇園女御の妹であったと記されている。そして、女房のことを説明する注記の個所では、「女房が白河法皇に召されて懐妊し、そのまま忠盛に嫁いで清盛を出生した」と書かれている。 白河法皇は崩御の際に、釈迦の遺骨という仏舎利を祇園女御に譲った。譲りを受けた女御は女房の産んだ清盛を自分の猶子(ゆうし、養子)とし、さらに仏舎利を譲ったという。猶子とは、相続を目的としない親子関係のことである。『仏舎利相承系図』は文暦2(1235)年7月の段階で成立しており、この頃から清盛の御落胤説が流れていたのだ。 『仏舎利相承系図』の記述は、根も葉もないことなのであろうか。これを補強する材料として、当時の公家日記である『中右記(ちゅうゆうき)』の記述が重要視されている。『中右記』は平安時代の公家・藤原宗忠(1062-1141)の日記で、当時の世相を知るうえで極めて重要な日記である。御落胤説を裏付ける証拠とは? では、『中右記』には、いかなることが記されているのであろうか。『中右記』保安元年7月12日条には、忠盛の妻が亡くなったとの記事がある。宗忠はこの妻について、「これ仙院の辺りなり」と説明を施している。 仙院とは、上皇・法皇の御所または上皇・法皇のことを意味する。つまり、当時でいえば、白河法皇を意味するのは間違いない。その点を考慮すると、忠盛の妻が白河法皇に繋がる女性であった可能性が俄然(がぜん)高くなる。 保安元年の時点において、忠盛は25歳で、清盛は3歳の幼子であった。決して年代的にも矛盾しない。また、『平家物語』の語り系の諸本では、忠盛が御所の女房と通じていたことが記されている。そのような理由から、清盛の母が白河法皇に仕えたことは、ほぼ間違いないと考えられる。 このように、長らく清盛は白河法皇の落胤であり、皇胤であるとの説が流布してきた。明治以降、『仏舎利相承系図』という新たな史料の出現もあって、清盛御落胤説=皇胤説は補強され、揺るがぬものとなった感がある。では、星野恒以降、この説はいかに継承されたのであろうか。まずは、清盛御落胤説=皇胤説を肯定する立場から確認しよう。 大正時代に入ると、東京帝国大学史料編纂(へんさん)所の和田英松は『仏舎利相承系図』を史実として受け入れ、さらに先の『中右記』を裏付けの証拠とした、さらに、当時、白河法皇の御落胤が実際に存在した事実、そして清盛が幼い頃から破格の待遇を受けていたことも理由とした。『仏舎利相承系図』の史料的価値を重視したのが特長である。平清盛像(重文、六波羅蜜寺蔵)  和田英松が見解を述べて以降、歴史家を中心として、清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられるようになった。特に、戦後になると、日本史の通史が数多く刊行されたが、肯定する説が大勢を占めたのである。むろん、全面的にというわけではないが、若干の疑問を呈しつつも肯定に傾いていったというのが近いであろう。 清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられる中で、これを疑問視する考え方も登場した。その中心となったのは、特に『平家物語』を研究する国文学者たちであった。彼らは、どのように考えていたのであろうか。 清盛御落胤説=皇胤説を否定する人々の論拠とは、どのようなものだったのであろうか。代表的なものをいくつか紹介しておきたい。 先述のとおり、『平家物語』(延慶本)は、清盛の母を祇園女御に仕えた中臈女房としている。この延慶本は『平家物語』の諸本の中で、もっとも古い形態を残すものである。したがって、より信憑(しんぴょう)性が高いのではないかと考えられている。未だに解明されない謎 また、別の見解では、『仏舎利相承系図』に記されていた清盛御落胤説=皇胤説が13世紀初頭に広まっていたとし、それが『平家物語』が成立する際に強く影響を受けたと指摘する。清盛在世中は御落胤説=皇胤説の広まりを確認できないが、12世紀末頃から13世紀初頭にかけて流布したのであろう。 『平家物語』(延慶本)は、清盛御落胤説=皇胤説の記事の最後の部分で「この事、信用に足らずという人もあるらしい」と記している。つまり、言外に清盛御落胤説=皇胤説は史実として認められず、作者による創作であることを匂わせているのである。こうして清盛御落胤説=皇胤説を否定したのである。 ところが、近年では『仏舎利相承系図』の史料価値を疑問視し、当該期の史料から裏付けが得られないので、事実として疑わしいと断言する歴史家もあらわれた。同時に、清盛が御落胤であることは、将来の皇統を受け継ぐ可能性があることから、かえって反対勢力の監視にあって不利であったと指摘している。 清盛が破格扱いを受けていたかという点についても、『今鏡』の記事をもとに疑問視している。白河法皇は清盛を昇殿可能な蔵人(くろうど、秘書役)にも任じることなく、これまでいわれたほど厚遇していないのである。ただし、平氏一門が白河法皇から厚遇され、清盛の出世が早かったのは事実である。そうでなければ、異例なまでの大出世はしなかったはずだ。 以上のように、清盛が天皇の御落胤であるか否かについては、古くから歴史学者や国文学者によって論じられてきた。日宋貿易で輸入された青磁の皿や壺が並ぶ特別展「清盛と日宋貿易」=播磨町の県立考古博物館 結論からいえば、清盛の母は祇園女御の妹であった可能性が高いとされている。忠盛の父である正盛は、早くから祇園女御に仕えており、それは忠盛も同じであった。祇園女御に仕える中で、忠盛はその妹と結ばれ、清盛を産んだのである。ただ、清盛が御落胤であるか否かについては、まだ検討の余地があろう。 清盛の御落胤説については決め手となる史料が乏しく、十分に確証を得られたわけではない。通常、歴史研究では同時代の古文書や日記などの一次史料が用いられ、後世に編纂された二次史料は価値が劣るので、証拠としての価値が劣る。ただ今後、清盛の出生にまつわる一次史料が出てくるとは、到底考えにくい。 今後、状況証拠的な史料を収集・検討し、さらに議論を深める必要がある。清盛御落胤説は、いまだ謎といえるであろう。 清盛は出自の問題もさることながらも、天皇家や摂関家と積極的に姻戚関係を結び、天皇を凌駕(りょうが)する権力を保持したのは確かなことである。

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    「日本国王」足利義満の危険思想はこのとき生まれた

    今谷明(帝京大特任教授) 天皇にならんとした人物に、奈良時代称徳朝に弓削道鏡がいる。これに対し、義満は厳密には自ら天皇たらんとしたのではなく、次男義嗣を天皇に、自らは太上天皇として朝廷に臨もうとしたわけである。 このような義満の意図は、当時天皇家において「院政」というスタイルが常態であって、直接天皇の地位を目指すよりも、上皇に収まる方が、ある意味自然な手法であるという事情があった。以下、義満の狙いと意図、その背景について概観する。 1379年の「康暦の政変」によって管領の細川頼之が失脚し、将軍義満の親政が始まるが、まだ二十歳そこそこの若さであり、有力守護大名を統制するのは容易ではなかった。この時にあたって事実上義満の家庭教師の役割を果たし、その政権構想に多大の影響を与えた人物こそ、鎌倉五山から移って建仁寺住職となっていた義堂周信である。  義堂は病により中華留学を果たさなかったが、宋学の意図や四書の新注もよく理解し、当時日本における最高の儒学者であった。1380年8月、紀伝博士の菅原秀長は義満に八朔(はっさく)の祝儀として『孟子』の写本を献じたが、義満は関心すら示さなかった。 それを伝え聞いた義堂は、同年11月、義満に「儒書中、宜く孟子を読むべし」と勧めたので、義満は目が覚めたように孟子に熱中した。孟子は元来、「民を以て重しと為す」とする民本主義を含み、また禅譲放伐を是認するという朝廷にとっては危険思想の面を持つ。公家界の最高権力者になった足利義満(Wikimedia Commons) 理解力の早い義満が孟子に傾倒することを危ぶんだ義堂は、義満を禅宗へ誘導せんとしたものの、時すでに遅し、義満は放伐是認にはまり込み、「力のある者が位も上にあるべきだ」という、歴代武家中にも例がない考えを抱くようになった。 歴代武家で、太政大臣となった清盛を除き、執権北条氏や義満以前の足利二代は、官位が大納言止まりであった。ところが、義満は位階昇進を踏んで清盛も実朝も経験しなかった大臣に昇り、公家界の最高権力者になった。 このような義満の破格は、摂政二条良基はじめ、有力公卿が義満に迎合した故であり、重臣たちに裏切られたかたちとなった後円融上皇の焦慮は深く、一時は自殺を企てるなど、義満との溝は深まった。 一方、幕府の首長としての義満は、美濃の乱、明徳の乱、応永の乱と、次々に有力守護を挑発しては謀叛に追い込ませ、ことごとくこれを弾圧した。このような義満の強勢を見ては、斯波・畠山らの宿老も義満に批判はあっても諫言すらできず、後円融上皇が崩じ、南北朝が合一して以降は、義満の専制権力が確立した。故義満への尊号を拒否した幕府 義満は長子の義持に将軍職を譲り、太政大臣も辞して出家したが、これは天皇の陪臣である限り、明(中国)が入貢を認めないためであり、入道出家後も室町第、のちに北山第において政務を握り続けた。 かくて明国皇帝から「日本国王」に冊封された義満は、公卿界から太上天皇の礼遇を受け、従来宸筆(しんぴつ、天皇の直筆)であった「除目の小折紙」(人事異動の原案)を自ら書き出し、寺社への参詣は後白河上皇や亀山上皇の儀礼にのっとるなど、形式的な人事権を獲得した。 しかし、朝廷には権力・権威とも失ったとはいえ、後円融の皇子であった後小松天皇が在位しており、この天皇を廃立して足利義嗣を皇位に据えるというのは、さすがの義満を以ってしても容易なことではなかった。 1406年末、天皇生母の通陽門院が逝去し、義満の正妻日野康子が「准母」に冊立された。次いで1408年2月、14歳の義嗣が参内して親王元服の準拠として従五位下に叙位された。 同月3月、天皇は北山第に行幸し、義満は繧繝縁(うんげんべり)の畳に座して迎え、天皇が父なる上皇を訪問する朝覲(ちょうきん)行幸の儀礼にならうといわれた。しかし、同年5月、義嗣が参議従三位に叙位されて三日後、義満はにわかに発病し、死亡した。義満が出家後に政務の拠点とした北山第(現鹿苑寺)=京都市北区 義満急死後、朝廷では関白・伝奏(てんそう)らが協議して故義満に「太上天皇」の尊号を宣下し、幕府に伝えた。ところが、案に相違して幕府は尊号を辞退し、朝廷に突き返してきた。これは宿老の斯波義将の主導であったという。 尊号を拒否した幕閣の思惑は、彼ら(有力守護)が尊王思想に傾いていたわけでは決してなく、禁裏仙洞領(上皇の領地)を各地で押領するなど、むしろその逆であった。彼らの本音は、足利氏が天皇と将軍を独占し、しかも国際的に「日本国王」として足利氏が絶対王制となることへの本能的な嫌悪感であったとみられる。 守護家の志向は彼らが封建権力として家職化、すなわち世襲分国を形成することであり、それには足利家が強大すぎるのは望ましくない。そのためには、微弱なりとはいえ伝統のある「天皇家」が存続していた方が、彼らには都合がよいという考え方である。 要するに幕府を支える勢力の政治的思惑から、天皇家は空前の危機を回避することができたといえよう。

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    天皇の子孫だった平将門が自称した「新皇」の謎

    岩田慎平(立命館大学文学部非常勤講師) 桓武天皇の子孫である平将門は、いくつもの戦いを経て関東を支配下に治めた。独自に「新皇」を称したとされる将門のもとへは天慶三(940)年に朝廷から追討使が派遣され、それに呼応した藤原秀郷や平貞盛らの攻撃を受けて討たれた。将門の乱は中世に活躍した武士が登場する画期ともいえるという点でも注目される事件である。中世における武士の特徴とあわせて考えながら、事件の概要を追うことにする。築土神社所蔵の平将門像 天皇の子孫であった将門が坂東で活躍することになったのはなぜか。まずはそこからたどり直してみよう。 平安京への遷都で有名な桓武天皇。その曾孫である高望王は、平姓を賜って臣籍に下った。新たに「平高望」を称することになって与えられた任務は、坂東へ下向することであった。この当時、地位が低下した郡司や、任期切れの後も任地に留まり続けた前任国司、あるいは中央貴族の家人たちが地方での有力者(「富豪層」)として活動し、ときには国司の命令にも従わず、さらには武力蜂起に至るような事件が発生していた。平高望が派遣された坂東は、そうした富豪層による事件がとくに多発していたのである。治安の紊乱(びんらん)が著しい坂東に下向し、地域の安定化という実績を上げることで、藤原氏の優位が確立しつつあった京都の貴族社会での失地回復を図ったのだともいわれる。地方に蟠踞(ばんきょ)する富豪層の反受領武装闘争を鎮圧するために、彼らの武力が期待されたというのである。 しかしこのような見方には問題が残る。 まず、朝廷内において勢力を維持するためには、京都に留まって国政の枢要に関わり続けることが最低条件である。地方に下向すると決めたことは、平高望が朝廷内における主要な地位の維持を半ば放棄したものと見てよい。 また、新たに地方へ下ってゆく彼らにどれほどの武力が期待できたであろう。この時代には、有事において国司が動員・指揮する諸国の兵士も維持されていたとされる。その上で坂東に派遣される平氏に期待されたのは、反受領武装闘争を繰り返す地方の富豪層を、中央との政治的提携を活かして現地の国司らと協力し合いながら支配下に取り込みつつ(「家人化」)、それに従わない者は鎮圧すること(「治安維持」)であった。 平高望は上総介(上総国の国司)であったことに加えて、前常陸大掾(常陸国の前任国司)源護の一族と姻戚関係にあるなど、国家権力の一端を担いつつ、現地の諸勢力とも協調関係を維持しながら活動していた(将門と争うことになる叔父の平国香や平良兼らも源護の一族と姻戚関係を維持していた)。 高望の子・平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子にあたる将門は朝廷に中級官人として出仕する旁ら、太政大臣藤原忠平の家人でもあった。つまり将門は、地方で所領を経営する父親と分担し合うかたちで、在京活動を行っていたのである。 所領を維持するためには、その地方での活動はもちろんのこと、在京活動による政治的地位の保全も欠かせなかった。地方での活動を円滑に行うためには、近隣の国司との関係を良好なものにしておくことが欠かせず、そのために国司との姻戚関係を築いたり、国司の動向を左右しうる有力な中央貴族との提携が必須であった。 つまり関東に下向した平氏は、その当初から朝廷の権威・権力に依存する存在であったのだが、このことはまた、古代~中世にかけての武士の特徴の一つでもある。 ところが、良将が没したため将門は在京活動を休止し、地方の所領を維持するため現地での活動を優先せざるを得なくなる。そして、将門が所領に下向したときには、父の所領の多くは伯父の平国香や良兼、叔父の良正らに横領されてしまっていたとされる。それが将門と一族との間の長い抗争のはじまりとなるのだが、このように一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すこともまた、古代~中世にかけての武士の特徴の一つである。朝廷からの追討命令は私戦の延長 叔父たちのなかでも平良兼とその姻戚である前常陸大掾・源護の一族は、とりわけ激しく将門との間で抗争を繰り広げることになる(その原因は、将門の父の遺領をめぐるもののほかに、「女論」によるとも言われている)。平国香の館跡とされる長光寺=茨城県筑西市 この抗争は互いの一族を殺し合い、拠点となる集落を焼き払い合うなど凄惨を極めた。 抗争のなかで将門は叔父の平国香を殺害し、それまでは(かつての将門のように)朝廷に出仕するため在京していた国香の息子・貞盛をも巻き込むこととなる。 貞盛自身は将門との争いに消極的であったとも言われるが、将門が父の死後の所領支配をめぐって叔父たちとの争いに身を投じたように、父を将門に殺された貞盛もまた、一族との戦いへと駆られたことであろう。この貞盛が、後に藤原秀郷の協力を得て将門を討つことになるのである。 先述のように、一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すことは古代~中世の武士の特徴の一つであったが、このような抗争は、たとえ坂東の平氏やその姻族も含めた一族を広く巻き込んだものであっても「私戦」であり、それ自体は朝廷の追討(「公戦」)の対象とはならない。この時点では、誰も国家への反逆者ではないのである。 しかし、敵対勢力を「朝廷に仇をなすもの」として訴え出てそれが受理されれば、朝廷による追討(「公戦」)が発動されることとなる。朝廷から追討使が派遣されれば、国司を含む近隣諸勢力の支援も得ながら、それに合流する形で戦いを優位に進めることもできる。そうすればより容易(たやす)く敵対勢力を駆逐することも可能になるのだ。そのため両陣営ともに、相手が国司の命令に従わないなどとして朝廷に訴え出るような工作を行っていたのである。 このような経緯で発せられる朝廷からの追討命令は「私戦」の延長という色合いが強く、朝廷によって実施される追討(「公戦」)のなかには、こうした「私戦」的側面を持つものが少なくなかった。 伯父・良兼や源護一族との抗争も将門優位で終息に向かっていた頃、武蔵国では別の争乱が勃発しつつあった。 新任の武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基が、武蔵国足立郡の郡司・武蔵武芝と諍(いさか)いを起こしたのである。将門は「武芝は自分の近親者ではなく、守・介(興世王・経基)も自分の兄弟ではないが、両者の紛争を鎮める」と称して武蔵国に出向き、武蔵国府において興世王と武芝を会見させることに成功した。両者による紛争を調停したのである(経基は京へ逃亡)。 この当時、地方で発生した紛争とそれへの介入の実態は、同時期の史料からもうかがうことができる。 寛平八年(896)の太政官符(朝廷の発する行政命令)には、地方における紛争の当事者双方がそれぞれ別々の貴族に訴え出ることで、もともとは地方で発生した紛争が、中央の貴族同士の対立という形に発展するという弊害が記録されている。 また、延喜五年(905)の太政官符においては、中央の貴族が紛争を私的に裁定することを通じて、地方の人々を支配下に取り込んでゆく様子が描かれている。 このように、地方における紛争の調停には中央の貴族も関与していたとみられる。いずれのケースにおいても、中央貴族より立場の弱い国司や郡司は地方におけるこうした違法行為を制止することができなかった。武蔵国における将門の調停行為も、これと同様のものと見てよい。また、坂東の平氏一族の抗争が将門優位で終息に向かうなか、坂東諸国にあって中央からの強力な政治的バックアップを受け、紛争の調停に当たることができたのは、おおよそ将門だけであったともいえよう。 この興世王と武芝との調停を通じて将門は両者を従属させたとみられ、とりわけ興世王は、将門が後に坂東諸国を制圧した際にはその「宰人」(ブレーン)とも称された。みずからの政治的立場(中央との提携やその地域における広範な支配)を利用して、対立する二者間の紛争に介入し、いずれか(あるいは両者とも)を従属させるという行為もまた、古代~中世の武士の特徴である。文飾に満ちた「将門記」 一方、京都に逃亡した経基は、将門、興世王、武芝らの行状を朝廷に訴え出た。これを受けて太政大臣藤原忠平(かつて将門が家人として仕えていた)は調査に乗り出したが、将門は自らの上申書に坂東五カ国の国司の証明書も添えて提出し、謀反の疑いを晴らすことに成功した。訴え出た経基が、むしろ誣告(ぶこく)として罰せられたのである。朝廷では、坂東における将門の名声を承認し、その功績を評価することなども審議された。 この間の経緯が将門に都合良く運んだのも、将門が中央(とりわけ太政大臣・忠平)との政治的提携を保持していたことが大きく作用したのである。 その後、武蔵国では権守・興世王と武蔵守・百済貞連が対立し、興世王が将門のもとを頼ってきていた。同じ頃、常陸国では富豪層とみられる藤原玄明が常陸介・藤原維幾と対立し、玄明もまた将門のもとを頼ってきた。いまや将門は、坂東の諸勢力から頼りとされる存在となっていたのである。 維幾は玄明の引き渡しを要求するが、将門はこれを承知せず、両者は対立し合戦となる。将門と玄明は維幾を常陸国府に追い詰め、国府の周辺を襲撃し、印鎰(国司が使用する印と国倉の鍵)を奪うに至った。 国府への攻撃は朝廷への攻撃を意味する。将門は、それまでの一族同士の戦いでは国府への攻撃を慎重に避けつつ、戦いを「私戦」の枠内に留めていた。常陸国司である藤原維幾と対立する藤原玄明との「私戦」に介入したことが、結果的に常陸国府襲撃に繋がったのである。この攻撃は朝廷への敵対行為、すなわち「謀反」と見なされて、近隣諸国の国司からただちに京都へ報告された。将門本人に対する調査も行われないまま、将門の乱は朝廷が鎮圧に乗り出す「公戦」と認定され、ついに将門は国家的な追討の対象となったのである。 常陸国府を襲撃した将門は、ブレーンとなっていた興世王の進言(「一国の占領だけでも罪は軽くない。同じことならば、坂東諸国を占領すべきである」)に従って軍を進め、下野国・上野国の国府をただちに占領した。“毒を食らわば皿まで”といったところか。 このときに独自の「除目」(本来は朝廷が行う人事)を行い、坂東諸国の国司を任命するのだが、さらに八幡大菩薩の使者と称する一人の昌伎(しょうぎ/かんなぎ。巫女のことか)までが現れ、将門は「新皇」を称するに至ったというのである。平将門公之像=茨城県坂東市「ベルフォーレ」 将門による「新皇」「即位」を自明視し、そこから将門の居所を「都」とするような見解もある。しかし、そのような見解は妥当なものだろうか。 将門はその存立基盤からみれば、自らの存立のためには中央貴族や国司との政治的提携が必須となる地方の富豪層なのである。いかに将門の支配領域が拡大しても、そのことに根本的な変化はない。 あたかも朝廷に対抗して「新皇」を自称するようになったようにもとれるが、これを伝える『将門記』自体が文飾に満ちた作品であって、事実をそのまま描いているとは言えず、したがってその評価についても意見が分かれるのだ。全体的に、将門の乱はそれに関する史料が限られているため、よく知られている事件であるにもかかわらず、その実態は不明な点が多い。事件の経緯に即して考える限り、「新皇」の自称も突発的なことであったと見られる。たとえ実際に巫女の宣託が行われていたのだとしても、将門と彼の支持勢力(多くは、将門と同様に中央の貴族と結合した富豪層)の存在形態自体に大きな変化はないのだから、宣託(せんたく)を受けての「新皇」「即位」という一連の流れを過大評価することはできない。忠平への恩義も忘れていない 「八幡大菩薩」の使者と称する昌伎の託宣を受けた将門らは、貧者が冨を得たが如くに意気盛んとなり、将門自身は「新皇」を自称するに至ったというわけだが、つづいて朝廷に奏上も行った。 この奏上には、これまでの一族間の「私戦」の経緯の説明と、常陸国衙襲撃において自らに罪はないとする弁明、坂東諸国を占領したことに関する開き直りとも取れる文言が並んでいた。しかしそれに続けて、将門は「傾国の謀」(国を危うくする陰謀)の片鱗を示したものの、その一方で主君である太政大臣藤原忠平への恩義も忘れていないとする文言も明記されている。勢いに任せて常陸・下野・上野の国府を占領したものの、この段階に至ってなお中央との連繋を重視しそれを維持しようとしていたのである。この奏上から“将門が坂東を独立国にしようとした”とった意図を読み取ることはできない。 『将門記』に描かれる将門の「新皇」自称も、将門の指導的立場が坂東の諸勢力のなかで承認されたことを象徴する場面であった、とでも理解すべきであろう。坂東諸国の富豪層もそれぞれが各地で「私戦」の当事者であったとみられるが、朝廷との連繋が良い人物(この場合は将門)と結合することで利権の拡大を図りつつ、勢いに乗じた将門に味方することで、自らと競合する勢力の駆逐を目論んだ者も多かったのであろう。将門を滅ぼすのが同じく坂東にいた藤原秀郷であったように、この段階に至ってもなお将門とその支持勢力は、坂東全域を一元的に支配していたわけでもないのである。 とはいえ、将門の勢いを恐れた坂東諸国の国司らは任国を捨てて逃亡し、将門は武蔵国・相模国なども次々と従え、実効支配の地域を拡大していった。 同じ時期に西国では藤原純友による争乱も報告されており、朝廷ではそれぞれの対応に追われることとなった。比叡山にある将門岩。平将門と藤原純友がここで語り合ったとの伝承が残る=京都市左京区のガーデンミュージアム比叡 純友に対してはひとまず懐柔策を取り、当面は将門追討を優先することが決まった。西国で藤原純友の乱が発生した上に、坂東数カ国の国司を追放したことは、もはや朝廷でも看過できなかったのであろう。 しかし国司相手の紛争で訴えられても、中央との関係次第では罪から逃れられたというケースもあった。先述のように将門自身も一度は朝廷による調査の対象となったのだが、中央政界との連繋を活かしてその時には国家的な追討を回避している。また、たとえば将門の乱から百年ほど後、九州で国司との間で紛争を起こしながら、結局は大きな罪には問われなかった平季基の事例もある。坂東で平忠常が大規模な争乱を引き起こしたのとほぼ同時代のことである。 長元二年(1029)、大宰府の役人であった平季基は大隅国の国司との間で紛争を起こし、国衙や国司の館などを襲撃して、大隅国から大宰府に訴えられた。その裁決が下る前に任期が切れてしまった大隅国司は、やがて直接朝廷に訴え出た。朝廷は事件について大宰府に問い合わせたが、平季基が大宰府の長官に賄賂を贈ってもみ消しを依頼したため、うやむやになっただけでなく、大隅国司が直接朝廷に訴えたのを越権行為であると称して、以後の調査を妨げようとした。それでも平季基は朝廷に召喚されてしまうが、やがて放免され、朝廷の高官には返礼ともみられる大量の贈り物を届けた(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年)。諸方への賄賂はそれなりの代償ともいえるが、追討を受けて滅ぼされることを考えれば…といったところか。 このように、中央との関係を良好に保った上で巧みに立ち回れば、国司との間で紛争を起こしても国家的な追討を回避することもできたのである。将門の乱は「私戦」の延長線 将門の乱への対応に戻ろう。諸社諸寺には将門調伏の祈祷が命ぜられた。また、以前に武蔵国における将門の行状を密告した源経基は、召し出されて従五位下に叙された。そして天慶三年(940)二月八日には、ついに参議・藤原忠文を征東大将軍とする追討使(単なる使者ではなく、追討を目的とする軍隊とその指揮官である)が進発した。 将門自身はその間も関東にあって、従来敵対していた平貞盛や、それと結んだ藤原維幾の子・為憲らとの戦いを続けていた。やがて貞盛と為憲は下野国押領使藤原秀郷の協力を得て将門を攻撃した。この攻撃は京都を発った追討使が到着する前であったが、追討令が発せられた将門に味方する兵力は少なく、秀郷らとの戦いに敗れた将門は討ち取られ、将門の弟たちや興世王、藤原玄明らも誅殺された。楊洲周延画「総州猿島内裏図」。藤原秀郷は平将門の館に招かれ、飛落するカモを眺めている(坂東郷土館ミューズ所蔵) ところで、この秀郷について当初は将門に同調していたというエピソードもある。将門は新皇と号した上で坂東諸国に自ら国司を任じ、さらには大軍を率いて京都へ攻め上り、日本国の主になると主張して秀郷も当初はその構想を感心して聞いたという。しかしその後、秀郷は将門の立居振舞や食事の様子などを見てその乱雑さに落胆し、やがて将門を討ったというのである。このエピソードは『俵藤太物語』に記されたものだが、物語自体は室町時代に成立したものだから、後世に創作された俗説であろう。 最後の戦いでは、朝廷からの追討使派遣と時期を同じくして将門の勢力は減退したとみられる。これは、将門に味方していた勢力が朝廷からの追討対象となることを恐れて、随時離脱していったからであろう。勢いに乗じて坂東諸国の国府を占領していったが、そもそも国司は任国を平穏無事に運営し、所定の税を滞りなく中央に納めることが任務の第一であった。それを武力で追い出したうえで強引に支配しようとしたとしても、広い支持を集めることはできない。また、手段が強引であればあるほど、強い反発も招くことになる。 この戦いで藤原秀郷という味方を得た貞盛と為憲は、以前から将門や玄明らと敵対する勢力であった。つまり、将門の乱は「私戦」の延長線上で「公戦」と認定されつつも、最後はやはり「私戦」の延長線上で決着がついたのである。 以上が、平将門の乱と呼ばれる争乱の概要である。この争乱の経緯は坂東において幾重にも交錯した凄惨な抗争(「私戦」)が主軸であり、それ自体は朝廷の支配を揺るがすようなものではない。「新皇」を称した将門も、拠って立つ基盤は中央の貴族や国司との結合にあり、地方において朝廷の権威を背景に活動する勢力の一つであった。国府襲撃という事件を起こさなければ、将門は国家的軍事・警察権の担い手として朝廷や貴族から重用されていたかもしれないのだ(その可能性はあった)。 将門の“独立”について、たとえていえば、新たな起業を目指したもののように思われるかもしれない。だが実際には、新たな組合の設立を目指したようなものであって、しかもそれは近隣の支持も失った上で潰されてしまったのである。 将門を支持した富豪層も、程度の差はあれど将門のように朝廷の権威に依存する存在であって、その転覆など考えることはできない。彼らは現行の体制を承認しつつ、そのなかで自らの利益の拡大を図るに過ぎないからだ。自らの利益にかなえば将門にも味方するし、利益に反するようなら一度は味方しても易々(やすやす)と離脱するような“支持者”たちなのである。朝廷に依存する面もあった 将門を討った秀郷には従四位下、貞盛には従五位下の位が与えられ、彼らの子孫はやがて武士の家として発展を遂げることとなる。平貞盛…伊勢平氏(平家政権を立てた清盛などを輩出)、北条などの祖。藤原秀郷…小山・結城・長沼、波多野、山内首藤、平泉藤原氏、佐藤(歌人の西行を輩出)、後藤などの祖。平良文…千葉・上総、秩父平氏(畠山・小山田など)、三浦、大庭・梶原などの祖。藤原為憲…伊東・工藤、二階堂などの祖。 中世は「武者ノヨ」(慈円『愚管抄』)といわれるほど、武士がめざましく社会進出を果たしたことが大きな特徴の時代であった。それ以前の、たとえば将門の乱前後の時代にも武勇に優れた人物を追討使に任じたり、京都の警固(けいご)に徴発したりする事例はみられる。しかしこれらはいずれも突発・散発的な事例に留まり、彼らが恒常的に起用されるというようなことはほとんどなかった。 ところが時代も下って院政期になると、皇統の対立や、寺社強訴の頻発などにより、自らの皇統を武力によってより強固に守護する必要に迫られた院による軍事動員が恒常化する。そのときに麾下(きか)の武力として編成された伊勢平氏や河内源氏などのなかには、将門の乱に関わった人々の子孫で武士の家として発展を遂げた者も含まれていた。また、各地に設置された荘園を預かる下司(げし)などにも、諸国の国衙(こくが)在庁を務めていたような武士が起用されるようになり、荘園領主(院や貴族、寺社)らとの関係をそれぞれ独自に展開するようになっていく。 このように、中世における武士の社会進出は彼らが得意とする武芸を活かした奉仕を中心としたものであった。しかし一方では、ほかの貴族たちのようにさまざまな経済奉仕(荘園寄進の仲介、造寺・造塔・造仏、院知行国の運営実務)も行っていたのである。このことは、武士の政権といわれる鎌倉幕府が成立したあとでも例外ではない。 鎌倉幕府は、内裏や院御所などの警備のほか、その造営の費用を御家人らに賦課するなどして積極的に協力しており、それが彼らの主たるアイデンティティーとなっていたのである(「武芸をこととなし、朝廷を警衛せしめたまわば、関東長久の基たるべし(武芸に専念し、朝廷を警備することが鎌倉幕府の繁栄にも繋がるのだ)」『吾妻鏡』承元三年(1209)十一月七日条)。 将門の活動にもその端緒がうかがえたように、中世社会における武士は朝廷の権威を相対化して「私戦」を繰り返す側面をもつ一方で、そのさまざまな活動を展開する上で朝廷の権威に依存する側面もあるというように、背反する特徴を併せ持っていたのである。武士が天皇や貴族、寺社勢力などと対立し合うといった単純な評価のみでは、中世における武士の存在形態を考えることはできない。まして、将門の乱の舞台となった坂東の“自立性”を過度に重視することはできない。 将門の乱や源頼朝の挙兵という事実をもって坂東の「独立」を過度に重視する風潮が顕著であるが、現代人の価値観に左右されることなく、その当時の状況を冷静に分析し、評価を下すことが重要である。〈参考文献〉岩井市史編さん委員会編『新装版 平将門資料集―付・藤原純友資料』新人物往来社、2002年川尻秋生編『将門記を読む』吉川弘文館、2009年。寺内浩「平安時代中期の地方軍制」『古代文化』62-4、2011年3月。野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年。野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年樋口州男『将門伝説の歴史』吉川弘文館、2015年元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年。森公章『古代豪族と武士の誕生』吉川弘文館、2012年。

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    「女性宮家」の議論は急ぐべきか

    秋篠宮家の長女、眞子さまのご婚約が明らかになり、女性宮家創設をめぐる議論が活発になっている。天皇陛下の退位を実現する特例法案の付帯決議にも盛り込まれ、政府は皇族減少、皇位安定継承策の検討に入った。ただ、本当に議論を急ぐ必要はあるのか。

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    眞子さまご婚約に増長する民進党、女性宮家は皇統の「禁じ手」である

    院議員によると、白議員は、女性宮家を議論しない限り参議院憲法審査会は開催しないと述べているという。 皇室を重んじる者が皇室を守るべく発言しているならまだよい。 かたや二重国籍問題が未解決で、いずれの国にアイデンティティーがあるかどうかも不明な蓮舫代表、方や元朝鮮人で朝鮮日報の元東京支社長を務めた白議員が、一体どのような意図があって熱心に女性宮家を提案するのであろうか。彼らが本当に皇室のために意見を述べていると考えるのは、あまりに不自然であろう。 白議員の話が事実であるなら、民進党は、憲法九条改正の審議をするのと引き換えに、女性宮家を作ろうとしていることが分かる。つまり、女性宮家創設は、彼らにとってそれほど重大な課題ということになろう。 たしかに、将来的には皇族が減少し、皇位の安定的継承に問題が生じる可能性が高いことが危惧される。現在皇室には皇位を継承できる皇族男子は、若い世代には秋篠若宮殿下(悠仁親王殿下)のお一方のみである。 しかも、今後皇族がご誕生になるのは、若宮のご結婚の先まで待つ必要があり、また、女性皇族のご結婚によって、今後皇族は激減することが確実である。皇族が極端に減少すると、天皇の外国ご訪問やご不例などで、天皇の国事行為や公的行為を代行する皇族が不在になる恐れがある。天皇の原理は「血統」の原理 陛下のご不例の折には、皇太子殿下が国事行為の臨時代行者をお務めになり、また秋篠宮殿下が公的行為の一部をご名代としてお務めになったが、皇族の減少はそれを危うくする。それだけではない。もし皇族が二人未満になると、皇室典範が規定する皇室会議が開けなくなる大問題が生じる可能性がある。 皇室会議とは、摂政の設置、皇位継承順位の変更、皇族男子の婚姻などを決議する機関で、三権の長をはじめ、皇族二名を含む十名の議員をもって構成される。もし、これが開けなくなると、皇室に関する重大事が決議不能に陥る。ところで、天皇は皇族ではないことも付言しておきたい。 ただし、火急といえども、若宮のご誕生により、皇統の危機は数十年遠のいたのであり、半年や一年程度で結論を必要とするものでもない。女性皇族は天皇の御公務を分担しているわけではないので、女性皇族の減少と、天皇陛下のご公務の増加は、基本的に関係はない。 いくら皇族が減少するとはいえ、皇族を確保するためにいかなる手段を講じてもよいわけではない。 皇室典範は、皇位は皇統に属する男系の男子が継承すると規定している。そのため、いくら女性宮家創設で皇族の頭数を確保しても、皇位を継承することが可能な「男系の男子」を確保したことにはならない。それでは何も解決していないに等しい。 ならば、戦後にGHQの指示によって皇籍を離れた旧皇族一族を活用することが先であろう。旧皇族を一部復帰させるか、あるいは既存の宮家が旧皇族から養子を取ることができるように法整備すべきである。 女性宮家創設とは、すなわち民間出身の男子を皇族に迎え入れることである。もしこれが現実のものとなれば、皇室の歴史上、初めて民間出身の男性が皇族の身分を取得することになる。 そして、その子や孫がなし崩し的に将来の天皇となった場合、男系継承の原則が崩され、初めて歴代天皇の男系の血筋を引かない天皇が誕生することになる。ご婚約された秋篠宮家の長女眞子さま、小室圭さん 女性宮家創設というのは一般人の耳に優しく響くだろう。しかし、女系天皇を容認する国民的合意なくして、女性宮家について論じるのは適切ではない。女性宮家創設の皮をかぶった女系天皇論にほかならず、将に「禁じ手」というべきである。 天皇の原理は、究極的には「血統」の原理である。天皇の基本原理が変更されたら、それは歴史的な天皇とは異なる原理の天皇に変化することを意味する。 その様に成立した新しい原理の天皇は、ある一定の人は認めるかもしれないが、また別のある一定の人は認めないことになる。非の打ち所のない天皇が、非の打ち所のある天皇に変化してしまうことが、最大の問題といえる。 人によっては認めあるいは認めないような天皇が、日本国の象徴、あるいは日本国民統合の象徴としての役割を全うすることは不可能であろう。 女性宮家は「皇室の終わりの始まり」であることを知ってほしい。ゆえに、民進党が九条とバーターにしてでも女性宮家を実現させようとしているのである。甘い言葉に騙されてはいけない。

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    先細りする「ご公務」の担い手、女性皇族をいかに皇室にとどめるか

    いないと、誤解されることもある。 しかし、歴史を遡(さかのぼ)れば、明治維新以後、天皇をはじめとする皇室は、国際親善につとめ、国内の諸地域の人々との交流につとめてきた。戦争で大きな打撃を受けて後も、世界の信頼を取り戻し、国民を励ますなど、復興の原動力となった。 戦後70年、日本は世界の信頼を得て、国内も大きく発展してきた。その底力は多くの国民によるものだが、皇室がそれを支えてきたことも否定できない。 このたび、秋篠宮家の眞子内親王の婚約が明らかになり、皇室と国民は新たな喜びに包まれた。一方、女性皇族は結婚すれば皇室を離れるため、それを惜しむ声も聞かれる。とりわけ、男性皇族の少ない現在の皇室にあっては、女性皇族が結婚で減っていくことで、ご公務はじめ多くの活動が停滞する可能性がある。 そして国際親善や国民との交流がおろそかになり、ひいては社会の活力が低下する危険がある。ご公務を減らすのも一案だが、皇族数が大幅に減少してしまえば、最低限のご公務すら担えなくなる。そのため、女性皇族が結婚しても皇室にとどまっていただく、あるいはご公務を担える立場になっていただくなどの案が考えられている。眞子内親王の婚約が、そうした機運を加速させている。男系継承者不在の度に揺れる女性宮家創設 しかし、女性宮家の創設に慎重な意見を持つ人々もいる。女性宮家創設が、将来の女系天皇の容認につながると懸念しているのである。天皇の地位や役割は世襲のものであり、皇室の長い伝統の中で女系、つまり母親は天皇の子でも、父親が天皇の血筋にないものの子の継承はなかった。皇居を出られる秋篠宮ご夫妻、眞子さま、悠仁さま=5月21日午後、皇居・乾門 神武天皇以来、125代連綿と続いた伝統が天皇家への崇敬への源であり、今後もその伝統を継承することが重要である。125代の天皇の中には何人かの女性天皇も存在したが、そのすべてが男系の子であり、その男系を今後も保持していくのが天皇家の長い伝統を保持するための大事な要素であるというのである。 そして、われわれの代に、古来の伝統を安易に変えていいものだろうかという配慮がその背景にある。 一方、現実には近代以降、男系継承は常に危険な綱渡りであった。明治天皇は正室に実子がなく、5人の側室との間に5人の男子と10人の女子をもうけた。そのうち成人したのは1人の男子と4人の女子であった。 成人した1人の男子も心身の状態が十分ではなく、その先の男子継承に大きな不安が残った。その男子がのちの大正天皇である。そのため、当初の婚約を破棄して、男子出産のための健全な母体として別の妃が求められ、結果として4人の男子が生まれて、男系の皇位は安定した。 ところが、次の昭和天皇には当初、女子しか生まれず、男系継承をめぐりさまざまな議論や策謀がなされた。昭和天皇は側室制度を廃止しており、皇后以外の子を求めなかった。そのため弟宮の継承や養子相続などの案も噴出した。昭和8年になって現在の陛下が生まれ、この問題は解消した。このとき多くの関係者や国民は大いに安堵(あんど)した。 現在の陛下は皇太子時代に2人の男子をもうけられ、男系継承の議論はあえて意識されることなく続いた。この2人の男子は、皇位を継承する長男と、継承とは無縁の次男として育ち、長男は婚期が遅かったが、次男は早々に結婚し、だれもが男系男子の不在が訪れるなど意識せずに過ごしていた。 結局、兄宮の唯一のお子さまが女子であり、弟宮の秋篠宮殿下の2人のお子さまも女子、そのほかの宮家の方々の家でも男子が生まれないという状態となった。かつてのような側室制度がなくなった現代では、後継者たる男子の出産確率はかなり低くなったのであるが、側室制度を復活するわけにもいかなかった。女性皇族を皇室にとどめるのか否か このため小泉純一郎首相は平成17年、安定した皇位継承のため、女子の天皇を容認する法案を国会に提出しようとした。しかし、長い男系の皇室の伝統を壊すものとして、反対する声も上がり、平成18年に悠仁親王がお生まれになることで、女性天皇実現の法案は提出されることなく、事態は一応の落着を見たのであった。 あれから10年がたった。悠仁親王は健やかに成長されたが、男性皇族の薨去(こうきょ)や適齢期を迎えた女性皇族の結婚などでご公務を担う皇族数はさらに減少した。今後もその傾向は続く。 そうした中で、女性皇族方を皇室にとどめる法令はない。女性宮家創設はそうした事態への対応策として提示されているが、これすら反対するとなると、ご公務の担い手は限りなく減少し、結果として国際親善や国内安定が損なわれていく。 国事行為や「祈り」のみならず、世界や国内の人々と触れ合うご公務というものがいかに重要で困難なものであるかは、今回の陛下の退位の「お言葉」からも伝わる。ブータン訪問のため、羽田空港を出発される秋篠宮家の長女、眞子さま=5月31日午前、羽田空港(代表撮影) 私は、女性皇族方にはお好きな伴侶を早く見つけて、一般国民には背負いきれない皇統維持とご公務という重荷から解放させて差し上げたいという気持ちが強いのだが、そうなるとご公務の先細りが加速する。 現状では、女性皇族方に皇室にとどまっていただくしかないと思う。他方、女性皇族の婚姻相手に旧皇族の男子を結びつけようという動きがあり、そのために女性皇族が早急に自ら相手を選び皇室を離れようとしているとも伝えられる。必ずしも良い流れではない。少なくとも、女性皇族方をご自分の将来の展望が見えない状態のままいつまでも放置するのは、国民の態度としてふさわしくない。然るべき法整備をするべきだろう。

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    女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない

     それが許されるなら、妹君の「佳子さん、口説こうぜ!」と考える輩が出てきてもおかしくない。あるいは、皇室典範を改正してでも女帝として即位されることを熱望される向きもある、愛子内親王殿下に狙いをつける輩だっているかもしれない。私が皇室乗っ取りを企むよからぬ輩なら、それを考える。それを可能にする策なのだから。民進党の蓮舫代表がさっそく言い出した女性宮家創設とは、ざっくり言えばそういうことなのである。 皇室の問題を考える際に重要な基準が一つある。「先例」である。皇室において、「新儀」は不吉である。たとえば、玉音放送だ。玉音放送という新儀は、敗戦と外国による国土占領という、これ以上ない不吉に際して行われた。古くは、大化の改新である。この際、皇極天皇は史上初の譲位を行った。神話の時代にも先例がない新儀である。これもまた、宮中における天皇の眼前での殺人事件という不吉が理由だった。 もちろん、いかなる場合でも新儀が許されないわけではない。明治維新は「近代化」という新儀だらけの大変革を行った。もし先例にこだわって改革ができなかったら、日本国は地球上で文明国として生存できなかっただろう。必要な新儀であった。しかし、その際も明治政府の首脳は、「神武創業の精神」を持ち出した。初代天皇、神武天皇の先例に従うという意味である。新たな国づくりを目指す明治政府にとっての吉例は、神武天皇であった。ただし、このような先例の持ち出し方は例外中の例外であって、神話や伝説の時代にしか先例がないことは、吉例とはされない。 歴史的存在である皇室は、伝統を貴ぶ。伝統を貴ぶとは、歴史から吉例を探すことである。また、先例とは不文法である。吉例を積み重ねることによって、皇室は守られてきた。 そして、伝説の神武天皇の時代から一貫している不文法が男系継承である。この男系継承を女性排除と勘違いしている向きもあるようなので、皇室の歴史を検証することでいかなる不文法が存在するのかを明示したい。 皇室における男系継承とは、「父親をたどれば必ず天皇に行きつく皇族だけに皇位の継承資格がある」ということである。今上陛下の父上は昭和天皇、その父上は大正天皇…とたどると江戸時代の光格天皇にたどりつく。その光格天皇は閑院宮家出身で、父親は典仁親王だ。父方の祖父は直仁親王、さらに父方の曽祖父は東山天皇である。このように、歴代天皇はすべて男系で継承されている。一回も例外はない。最大の危機は「道鏡事件」 しかし、何度か危機があった。最大の危機として歴史に名を残すのが道鏡事件である。称徳天皇の祈祷僧で愛人とも噂された弓削道鏡を、次の天皇に据えようとの陰謀が行われ、何とか阻止された。 さて、世の中には女性宮家を創設し、その配偶者の民間人を皇族として扱い、さらに女性宮との間に生まれた子供も皇族にしようとの目論見がある。これは「制度化された道鏡」に他ならない。 道鏡のように皇室を乗っ取ろうとする輩が現代に現れたら、女性宮を口説き落として皇室に入り込もうとする輩が出現しかねないと危惧する理由がわかるだろうか。女性宮家自体は先例があるので、絶対にやってはいけないわけではない。しかし、吉例であろうかどうかの検討は必要である。 江戸時代、桂宮家が絶えそうになった時に、淑子(すみこ)内親王がお継ぎになられた。しかし、婚約者の愛仁(なるひと)親王がお亡くなりになられ、生涯を独身で通したので、桂宮家は断絶した。女性宮家を立てるのは良いが、配偶者が皇族でなければ、その子は皇族にはなれない。 皇室の不文法に「君臣の別」がある。わが国の歴史で、民間人の男性が皇族になった例は一度もない。一方で、民間人の女性が皇族となった例は、古くは藤原光明子が光明皇后となられた先例にさかのぼる。今の皇后陛下が正田、皇太子妃殿下が小和田の苗字を持つ民間人から皇族になったように、女性は排除されていない。男系が絶対だからである。男系とはすなわち「男性排除」の論理に他ならない。全国赤十字大会の会場に到着し、関係者の出迎えを受けられる皇后さま=2017年5月 それだけに女帝の運命は過酷である。歴代八方の女帝はすべて未亡人か生涯独身である。推古、斉明、持統、元明の四方は即位された時に未亡人であった。全員、配偶者は皇族である。だから、自分の子供は皇族であるし、皇位を引き継がせてよい。 一方、元正、称徳、明正、後桜町の四方は、生涯独身であられた。自分の愛人を天皇にしようとした称徳天皇のようになられては困る。また、結婚した男が道鏡のような野心を抱いても困る。元正、明正、後桜町の御三方とも、自らを律した。「眞子内親王殿下には皇籍に御残りいただき、女性宮家の先鞭をつけていただきたい」とは、小室さんを道鏡にしようということか。一番迷惑するのは小室さんだろう。 また、「眞子さんと小室さんの間に生まれた子供に皇族になっていただき、皇族の減少を防ごう」などという暴論が許されるなら、摂関政治などと言う迂遠(うえん)なやり方は必要なかったではないか。平安時代に権力を誇った藤原氏は、「自分の娘を次々と天皇の妻に送り込み、その二人の子を天皇に据える」ということを繰り返した。皇室は男系継承が絶対だからである。足利義満が聞いたら卒倒する ところが、一部の者が主張する女性宮家などが許されるなら、藤原道長のような権力者は内親王と結婚し、自分の子供を天皇にすればよかったではないか。なぜそれができなかったか。仮に道長がそれをやって自分の子供を天皇にしようとしたら、それは女系天皇である。皇室の歴史では許されない。平安時代に権力を掌握した藤原道長 藤原道長と言えば、三条天皇をいじめ殺すなど横暴の限りを尽くした。道長のような横暴を行った権力者は何人もいる。しかし、その誰もが「皇族の女性と結婚して自分の子供を皇族にする」などとは考えなかった。自分が皇族と結婚して子供を天皇にしてよいなら、「天皇をいじめ殺す」などという回りくどいやり方をする必要はない。 道鏡以外で自分の子供を皇族にしようなどと考えていたのは、足利義満だけである。確かに義満は自分の妻の康子を国母として扱わせ、息子の義嗣を親王の儀式で元服させた。足利義満は後円融上皇を廃人同様に追い詰めて、治天の君の如く振る舞った。 しかし、後円融上皇から治天の地位を奪い、それを朝廷に完全に認めさせるのに三十年の歳月をかけている。 史上唯一、「皇位簒奪(さんだつ)に肉薄した民間人」と評される足利義満が、現在の女性宮家の議論、「眞子さんと小室さんの間に生まれた子供に皇族になっていただき…」などという議論を聞いたら卒倒するだろう。「そんなことでいいのか?」と。 繰り返す。女性宮家にも二つの議論がある。 一つは桂宮家の先例である。男性皇族が激減している中で配偶者の方はどなたになるだろうか。あえて探すとすれば、旧皇族の方々になるのではないか。旧皇族の適齢期の方々は、男系でたどると北朝第三代崇光天皇にたどりつく。女系でたどっても、明治天皇の五世の孫の世代となる。この血の遠さが旧皇族の皇籍復帰への批判点として上げられる。ならば、その方々よりも女性宮の配偶者にふさわしいのは誰か。難問である。 もう一つは、まったくの新儀である。女性宮家を創設して、その配偶者は民間人の男性で良い、その子が皇族となり皇位を継承しても構わないとする暴論である。論外である。皇室には、神武天皇の伝説以来、「二千六百七十七年」に及ぶ先例がある。それだけに、生半可な知識で議論には参加できまい。 しかし、国民が皇室についての議論を見守る際、一つの明確な基準がある。その議論がいかなる先例に基づいているのか、である。果たして、女性宮家創設とは、いかなる先例に基づいているのか。

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    女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

    はどこにもない。 それに、もし女性宮家を創設して配偶者も皇族にするとなれば、眞子さまの結婚についても皇室会議の議決が必要になる。現在の皇室典範では、皇族男子の結婚は議決対象だが、女子の結婚は対象でない。 さらに、民間人の男子が皇族となる最初のケースになるわけだから、本人の人格や係累などについて慎重な検討が当然必要になる。そうなれば、ご婚約をいったん保留にせざるを得ない論理的な帰結になるが、それを望む人は少ないだろう。 皇位継承の範囲を広げる議論はいずれやらざるを得ない。悠仁さまの後、男子男系が続くとは限らないからだ。しかし、それなりの時間をかけることを排除すべきではない。むしろ、現時点の国民感情にこだわりすぎるのはよろしくない。 仮に現在のルールと異なる皇位継承が行われるとしても、それは30年以上先のことになるだろう。そのときにおける皇室の状況において適切な議論を重ねるのが大事なのであって、いま個々の皇族に対して親しみを感じていたり、好ましい人だと評価していても、その感情が数十年後も同じように維持されているとは限らない。 逆に、現在は違和感があっても、時間をかけて条件を整備すれば問題は氷解するものである。「式年造替」を終えた春日大社をご訪問、秋篠宮妃紀子さまと長女・眞子さま =2月20日、奈良市春日野町 私がかねてより提案しているのは以下のようなことだ。(1)現在のルールで決まっている順位を変更しないことを明確化すべきだ。つまり悠仁親王を廃嫡して女系天皇とすることはしない。(2)旧宮家などの復活と、女系子孫による継承は両方とも可能性を探らなければ国民的合意が得られないので、互いに排除せず両方の可能性を残す。現状は両陣営が自説にこだわりすぎだといえよう。(3)結婚された女性皇族出身者や旧宮家に公務を分担してもらうべきだが、それは宮内庁嘱託などの形で可能だ。(4)皇位継承候補を増やすためには、旧宮家の人々や愛子さまや眞子さまなども含めた明治天皇以降の女系子孫の男子を、既存の宮家か、秩父宮、高松宮など廃絶した宮家に猶子(ゆうし)(養子)という形で継承させればよい。悠仁さまと同世代の男子に成人前後になって継承させることが適当だろう。(5)形式的にせよ実質的にせよ、天皇陛下の子孫に皇位継承権を限定することは大義名分がなく避けるべきだ。なぜなら、ある天皇の子孫に継承権を限定するとすれば、その天皇が「中興の祖」のような天皇である必要があり、あるとすれば明治天皇しかない。古今東西、現在の君主の血統で王位を独占しようとして君主や取り巻きが起こした禍(わざわい)は枚挙にいとまないからだ。 (3)に関しては、現在の制度だと眞子さまには1億円を少し超える一時金が支給されるが、これは結婚する娘に対する持参金のようなものである。これまで女性皇族の結婚は、かなり裕福な相手との結婚が前提になっており、眞子さまのご婚約報道を見る限り、小室家の経済力で眞子さまが元皇族としての体面が保てるかは正直疑わしい。持参金1億円では足りない なにしろ、小室圭氏は銀行を辞めて法律事務所で補助的な仕事をしながら大学院に通っている状況だ。その収入だけで、眞子さまが元皇族としての体面を保てるめどが立っているとは到底言えまい。その補完という意味も含めて、眞子さまが公務を行うことに対して適正な報酬を支出することは現実的な方策だと思う。 また、女性皇族と結婚した相手についても、その能力に応じて、公的な仕事を与えることがあってもよいのではないか。スペインでは王女の配偶者が金銭スキャンダルに巻き込まれたことで、王制存続の危機に陥っている。そういう皇族を利用しようとする輩を排除するためにも、公的な団体などで適切なポストを与えることは、決して悪いことではないと思う。報道陣の取材に応じる小室圭さん=5月17日、東京都中央区(桐原正道撮影) (4)については、眞子さまに公務を続けていただきたいので、お二人の間に生まれた男子を将来の「皇位継承候補」とするのは、一つの可能性である。たとえば、徳川宗家18代目の恒孝氏や、近衛忠煇(ただてる)氏のように、先代の外孫が祖父母や義理の叔母の養子になって当主を継いだのと同じ形になるので、比較的自然である。 しかし、同時に旧宮家など男系男子の可能性も排除すべきではない。旧宮家が皇籍離脱してから70年がたったこともあり、国民になじみがないという人がいるが、それは現在は何も役割を与えていないからである。前述のように宮内庁嘱託などの形で活動していただくことになれば、状況は大きく変わる。だいたい、いま民間人として活動している成人男子をいきなり天皇にしようなどと言っている男系男子論者などどこにもいない。 しかも、悠仁さまと同世代の男子を宮家の猶子にしても、悠仁さまにお子さまがないまま薨去された場合にのみ皇位を継ぐわけである。仮にその人が皇位を継ぐとしても悠仁さまの後だから、皇位継承の時期は21世紀後半のことになる。もっと言えば、新たに皇族となった本人ではなく、生まれながらの皇族として誕生したその子供に継承される可能性が高いので、違和感はあまりないだろう。 さらに「合わせ技」も考えられる。旧宮家の中には、竹田宮、東久邇宮など明治天皇や昭和天皇の女系子孫もかなりの数がいるわけで、当然彼らは南北朝時代に成立した伏見宮家の流れをくむ男系男子である。さらに、現在の女性皇族と非皇族の男系男子の結婚という方法もある。旧宮家に限った議論の中で、候補者が少ないと主張する人がいるが、明治以降で終戦以前に皇籍を離脱した元皇族の子孫や、江戸時代に五摂家の近衛、一条、鷹司家に臣籍降下した親王の男系子孫も数十人いるので、候補者は意外に多い。 いずれにせよ、悠仁さまの後に皇位継承できる男子男系の維持が難しくなったとしても、それは何十年後も先の話である。ただ、そのときまでにある程度の人数の候補者を準備しておくことが大事だ。その際には、今までのルールからは外れるのだから、本人や配偶者、その子供まで含めた皇族としての資質もそれなりに考慮した方が無難であり、単に継承順位を決めればいいわけではない。 また、悠仁さまのお妃選びについても、これまでの反省を踏まえ、今から交友関係の構築など含めて始めるべきだ。悠仁さまと同世代の男系男子の子孫が多くおられたら、皇室とわが国の安定にとって、これ以上の慶事はないのだから。

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    元皇族の黒田清子さん 最近はスーパーで弁当の長時間吟味も

     婚約が報じられた秋篠宮家の長女・眞子内親王(25)は近い将来、大学時代の同級生・小室圭さん(25)と結婚するのと同時に皇籍を離脱し、民間人になる。その後の暮らしはどうなるのだろうか。眞子内親王の“先輩”にあたる元プリンセスたちの現在から考えてみたい。 結婚後の子内親王の生活に近そうなのは、天皇の第一皇女である黒田清子さん(48・紀宮清子内親王)だろう。夕食会後、皇居を出る黒田清子さん=2016年8月9日夜、皇居・乾門 清子さんは学習院大学を卒業後、山階鳥類研究所の研究員として13年間勤務。2005年に東京都庁に勤務する黒田慶樹さん(52)と結婚した。 黒田さんはこの4月の人事異動で、建設局公園緑地部利用促進担当課長となった。仕事内容は、「都立公園の多面的な活用法を検討する部署です。例えば飲食店の誘致などがそうです」(建設局公園緑地部)という。 都庁の課長級の年収は1000万円強。清子さんは現在、山階鳥類研究所の客員研究員の肩書きを持つが、「頻度は少ないですが、ご関心をお持ちのテーマのセミナーがある時にいらっしゃいます」(山階鳥類研究所広報担当者)という程度。 2013年の伊勢神宮の「式年遷宮」の式典では、祭主である池田厚子さん(86・昭和天皇の第四皇女〈今上天皇の姉〉/皇籍離脱前は順宮厚子内親王)の負担を軽減するため、清子さんが臨時祭主を務めた。 だが、「その時のお役目を終えられて以降、お仕事で伊勢神宮に来られたことはありません」(神宮司庁広報室)とのことで、一回限りのお役目だったようだ。近隣住人が言う。「清子さんは近所にある高級スーパーではなく、歩いて10分ほどの庶民派のスーパーでよくお見かけします。5年ほど前には黒田さんのお母様も近くのマンションに引っ越してきて、清子さんが頻繁に出入りし、お世話をしていると聞きました。 先日は夫妻とお母様の3人で、そのスーパーのお惣菜コーナーでお弁当を10分以上も吟味されていました。 引っ越してきた当初は黒いスーツ姿のSPが張り付いていましたが、ここ数年はあまり見かけなくなりました。先日、家の近所で清子さんとぶつかりそうになりました。以前ならSPの方が出て来たのに、その時は誰も来ず、清子さん自ら“ごめんなさい”とおっしゃっていました」結婚から12年が経過した今、清子さんは“普通の主婦”として馴染んでいた。眞子内親王も、清子さんの結婚生活を、目を輝かせて聞いていたことだろう。「小室眞子さん」としての新たな生活が、間もなく始まろうとしている。関連記事■ NHK有働由美子アナがひた隠す年下実業家との「続行愛」■ 眞子さま 「ネェネ」と慕う黒田清子さんに色々と相談か■ 眞子さま ご結婚後の2世帯同居の可能性に宮内庁も不安■ 城島茂のお相手、E乳グラドルが出していた過激DVDの内容■ 皇族の方々、デートで完全2人になれずNG職種の交際相手も

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    眞子さま ご結婚後の2世帯同居の可能性に宮内庁も不安

    大学大学院に通う学生でもあり、結婚後のふたりの収入面を心配する声もある。「結婚による皇籍離脱の際に、皇室経済法の規定により一時金が支出されます。黒田清子さんは1億5250万円でした。眞子内親王殿下は清子さんと同じ内親王ですが、天皇の孫の内親王のため、1割減の1億3725万円だと思います」(皇室ジャーナリストの山下晋司氏) 一時金の使い道に決まりはないため、生活費や新居購入費用に充てるのでも、貯蓄にまわすのでも自由だ。「皇室経済法には一時金の支出理由として、《皇族であった者としての品位保持の資に充てるため》と明記されています。億単位のお金とはいえ、この先の長い人生をカバーするほどの金額ではありません。一方で、では秋篠宮ご夫妻からの仕送りで、というわけにもいきません。宮家に支出されているお金は、元をただせば税金。それを民間人となった眞子さまにお渡しするわけにはいきません。眞子さまには世の主婦と同じように、家庭の財布の切り盛りが求められます」(皇室記者) おふたりは早ければ来年の夏以降にも新生活をスタートするのではないかという。現在、小室さんが暮らすのは横浜市内にあるマンションの一室。1994年の新築当時、父・敏勝さんが約4000万円で購入した50平方メートル、3DKのその部屋で、母・佳代さんと祖父の3人で暮らしている。10才の頃に突然父を亡くした小室さんの、「母さんのことは、ずっとぼくが守るから」という決意の通り、今も近所では、小室さんと佳代さんが一緒に買い物をしたり、レストランで仲よく食事をする姿も目撃されている。近隣住民が言う。セレブ男子、小室圭さんを育てた母の存在「お母さん思いのいい子ですよ。それよりも女手一つで圭くんをあそこまでセレブ男子に育てあげたお母さんが本当にすごい。二人三脚でやってきた『一卵性母息子』というか…感心してしまいます」文化勲章受章者らと懇談される秋篠宮家の長女眞子さま =2016年11月、宮殿・連翠 小室さんは幼稚園のころ、佳代さんの勧めもあり近所のバイオリン教室に通い始めた。その頃の佳代さんの口癖は「うちの子はバイオリンの天才なの」。横浜市役所に勤めていた敏勝さんと、飲食店などでアルバイトをしていた佳代さんの収入を合わせても、決して裕福という経済状況ではなかったという。それでも横浜から相当な距離にある東京・国立市の音楽大学の付属小に小室さんを進学させたのは、小室さんのバイオリンの腕前に期待を寄せていたからだろう。別の近隣住民は当時の様子を次のように明かす。「とにかく佳代さんがバイタリティー溢れるというか、エネルギッシュで話が止まらない。圭くんの教育についても“私が全部考えているから大丈夫。私に任せていればいいのよ”って。だから、お父さんと圭くんは無口な印象でしたね。ご主人が亡くなってから、佳代さんの“圭くん命”ぶりはより強くなっていったように感じます。佳代さんは “この子を毎晩抱きしめて寝てるの。一心同体なのよ”って話していました」 敏勝さんの死後しばらくしてバイオリンをやめた小室さんは、中高6年間を東京・品川区にあるインターナショナルスクールで過ごす。1年間の授業料が250万円前後という、他の私立の学校に比べても破格の同校に通わせるため、佳代さんはアルバイトを掛け持ちして昼夜を問わず働いたという。「大人3人で暮らすには手狭で、しかもとても豪華とはいえないマンションです。ご主人を亡くされてパートをしながら、すべて圭くんの教育にお金を費やしたということですよね。とても真似できません。そこまでしてくれたお母さんの気持ちを圭くんも痛いほどわかっているんでしょうね。お母さんの望んだ通りの好青年になっていますよ。ただ、それだけに佳代さんが圭くん離れできるかがちょっと心配ですね」(前出・近隣住民) ある宮内庁関係者はこんな心配を口にした。「このご時世には珍しいことではありませんが、もし、小室さんのお母さんとの“2世帯同居”ともなれば、ただでさえ環境の変化に戸惑うことになる眞子さまの、さらなる心労となってしまわないかということに不安が募るのです」 結婚生活に心配はつきものだ。関連記事■ 皇族の方々、デートで完全2人になれずNG職種の交際相手も■ 皇族の買い物事情 百貨店の外商が主流、Amazonもご利用■ アン・シネ 膝上30cmミニスカ美脚で全力セクシー!■ 城島茂のお相手、E乳グラドルが出していた過激DVDの内容

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    NHKの眞子さま婚約内定報道は政治的に絶妙タイミングだった

    が国会審議に影響しないように、法案成立後に発表する算段をしていたが、NHKに出し抜かれてしまった」(皇室ジャーナリスト)眞子さまとの婚約について報道陣の質問に答える小室圭さん=5月17日、東京都中央区(桐原正道撮影) 国会も敏感に反応した。報道当日、自民党の竹下亘氏と民進党の山井和則氏が電話で国対委員長会談を行ない、退位法案の審議入り前に付帯決議で合意を得る方針を決めた。官邸の思惑とは逆に「女性宮家」の文言を入れざるを得ない空気が強まっている。 「眞子さまが皇籍を離脱した後、妹の佳子さまのご結婚の時に女性宮家を創設することはバランスから見ても考えにくい。女性宮家を創設するなら今回が最後のチャンスです。天皇陛下や秋篠宮のお考えを忖度した人物が、国会に問題提起するため、秋篠宮家に近いNHK記者に婚約内定報道のゴーサインを出したのではないか」(同前) お祝いムードの裏で政治的駆け引きが繰り広げられている。関連記事■ 政府発表の女性宮家論点整理に「焦って出した」と皇室専門家■ 眞子さま婚約の裏で… 官邸・宮内庁の複雑思惑と駆け引き■ 眞子さま 大学では「一般学生同様バス通学してる」と級友証言■ 持参金は?住居は?仕事は?「一般人・小室眞子さん」の今後■ 女性宮家創設議論 有識者ヒアリングするも「大丈夫か」の声

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    なぜ日本人は元号を使い続けるのか

    平成の次はどんな元号になるのか。日本国民にとっては最大の関心事であろう。暦に元号を用いるのは、今や世界を見渡してもわが国だけである。ただ、一方で欧米化が進むライフスタイルの変化に合わせて「元号不要論」を唱える人が多いのも事実である。なぜ日本人は元号を使い続けるのだろうか。

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    こうして元号は「時代を映す鏡」になった

    を以て明治元年と為す。今より以後、一世一元、以て永式と為せ。 これを受けて、明治22(1889)年『皇室典範』第12条に「践祚(せんそ)(天皇の位を継ぐ)の後、元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」と定められ、さらに同42(1909)年の『登極令(とうきょくれい)』で次のごとく厳密に規定された。第二条 天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は枢密顧問に諮詢(しじゅん)したる後、これを勅定す。第三条 元号は詔書を以てこれを公布す。 それから3年後(1912)の7月、明治天皇(満59歳)の崩御により大正天皇(満32歳)が践祚されると、直ちに、あらかじめ内閣と宮内省で用意した文字案を枢密院で審議せしめ、全会一致で可決した「大正」を承認して勅定された。そして「明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と為す」という改元詔書が公布されている。 それと同様に、足かけ15年後(1926)の12月、大正天皇(47歳)の崩御により昭和天皇(25歳)が践祚されると、直ちに改元手続きを経て「大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す」という詔書が公布されたのである。 こうして「一世一元」の元号制度は定着したかにみえた。しかし、敗戦後の日本を占領統治したGHQは、昭和21(1946)年明治憲法の全面改定だけでなく、皇室典範と登極令などの廃止を命じた。そのため「昭和」元号は、事実たる慣習として使われたが、次の元号を定める法的根拠はない状態に陥った。そこで、「明治百年」の昭和43(1968)年ころから「元号法」の制定運動が起こり、ようやく同54(1979)年に次のような法文が制定公布されるに至った。1.元号は、政令で定める。2.元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。 この1は、長らく年号=元号を勅定されてきた天皇が、新憲法で「国政に関する権能を有しない」と制約されたため、代わりに政府が「政令」で定めることにしたのである。しかし2で、その元号は「皇位の継承があった場合」に限って改める「一世一元」の原則を続けるとしたところに、大きな意味がある。キリスト紀元を「西暦」と称して併用 それから10年後の昭和64(1989)年1月7日朝6時半、天皇(87歳)が崩御されると、10時半に皇太子(55歳)が「剣璽等承継の儀」を経て践祚された。すると政府は、直ちに、あからじめ用意した元号案(三つ)の中から最良の「平成」に決定し、午後2時ころ公表しえたのである(改元の政令は、天皇が国事行為として署名された上で公布され、翌8日午前零時から施行する措置がとられた)。 その出典は、従来と同じく漢籍に拠り、『史記』の「内平らかに外成る」および『書経』の「地平らかに天成る」から二字を取った。しかもこの新元号は「国の内外にも天地にも平和が達成される、という意味」をこめたものと公表されている。キリスト紀元を「西暦」と称して併用 このように1300年以上の歴史をもつ日本の年号=元号は、いまなお公的制度(「元号法」という法律に根拠をもつ)として存在する。従って、戸籍や出生・婚姻・死亡などの届け出書類、公的な免許証、郵便局・銀行などの通帳など、いずれも元号で統一される。 しかし、一方で21世紀に入るころから、いわゆる西暦を使う人がだんだんふえてきた。全国紙をみても、「元号(西暦)」の欄外標記は今や産経だけしかなく、他は「西暦(元号)」としてあり、本文記事はほとんど西暦となった。これは、いわゆるグローバル化の進む現在(今後も)、西暦の方が前後の通算にも内外の比較にも便利だからであろう。 とはいえ、誰も平気で「西暦」というが、その本質はキリスト生誕紀元である。現に歴史の教科書などで「BC」「AD」と書くのは「Before Christ」(キリスト以前)「Anno Domini」(ラテン語で主の年より)の略称にほかならない。 このキリスト生誕紀元は、AD525年、ローマの神学者ディオニュシウスにより提案されたが、キリスト教圏でも普及するのは10世紀以降であり、キリスト教を奉ずるヨーロッパ諸国の植民地拡大などに伴い、世界の多くで使われるようになった。 わが国には、16世紀後半にイエズス会(カトリック)の宣教師らによりもたらされ、いわゆる切支丹版の書物刊行年は「AD」で記されている。また、京都の妙心寺にある著名な塔頭(たっちゅう)、春光院には、かつて「南蛮寺」にあった釣り鐘(国の重要文化財)を所蔵するが、「IHS」(イエス・人類の救い主 Iesus Hominum Salvatorの略、イエズス会の徽章)と共に「1577」と刻まれている。「併用」こそ日本人に必要な知恵 このキリスト紀元を「西暦」ないし「西紀」と証した初見ははっきりしないが、『日本国語大辞典』などによれば、明治2(1869)年に村田文夫(本姓野村)の著した『西洋聞見録』前編に「某皇暦某月々は西暦の某月々たるを知るべし」とある。また翌3年ころ仮名垣魯文の著した『西洋道中膝栗毛』六篇に「頃は西洋紀元千八百七十年」とみえる。 ただ、それが日本の紀年法として公認されたことはない。むしろ『西洋聞見録』のいう「皇暦」は、『日本書紀』の神武天皇即位紀元(略称「皇紀」)であるが、明治元(1872)年の太政官布告に「今般、太陽暦御頒行、神武天皇御即位を以て紀元と定めらる」とあり、同31(1898)年の「閏(うるう)年」に関する勅令も「神武天皇即位紀元年数の四を以て整除し得べき年を閏年とす。…」としている。 もちろん、皇紀は史実と数百年のズレがある(私は神武天皇の実在を認めるが、その即位をBC660年に設定したことには無理がある)。従って、今日これを日本の紀元として公用することは適切でない。とすれば、元号以外ではキリスト生誕紀元を「西暦」と称して併用するほかないであろう。1989年1月7日、「新元号は平成」を報じる電光掲示板=東京・新宿駅東口 しかも、このような元号と西暦の併用には、それ相応の意義がある。前述の通り、日本の年号は、漢字文化として時代の理想を表明し、とくに一世一元の元号は、「国民統合の象徴」と憲法に定められる天皇の在位年数を明示するシンボルである。また、後から振り返れば、「明治時代」とか「昭和時代」というように、その時期の雰囲気を良く表す。一方、いわゆる西暦は、既に世界の大半で(キリスト教国以外でも)使われており、一本の物差し(長尺)として目盛りの年次を特定し、前後の年数を通算するにも便利なことが多い。 つまり、今や日本にしかない元号は、独立国家の文化的シンボルとして大切にしながら、世界的広がりをもつ西暦を文明の利器として併用することが、独自性と普遍性を併せもつ日本人には必要な知恵だと思われる。私はこれからも、無機質な数字の西暦を活用すると共に、表意的な漢字の元号を常用し続けたいと考えている。 尚、詳しくは編著『日本年号史大事典』および単著『年号の歴史-元号制度の史的研究』(共に雄山閣刊)を参照していただきたい。

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    新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

    て元号が、長く法的根拠を持たなかったことも、そうした廃止論を支えてきた。 大日本帝国憲法下では、旧・皇室典範が元号の法的根拠となっていたが、戦後、皇室典範が新しくなると、元号は法的根拠を失う。その後、昭和54年に元号法が制定されるまで、戦後30年以上にわたって、元号は政府が「事実たる慣習」とする位置づけることによって、何とか存続させてきたのが実情であった。 戦争が終わり、日本国憲法が施行された後、元号廃止法案が国会に提出され審議されたほか、元号法制定をめぐる議論の中でも盛んに元号廃止は唱えられてきた。 元号は、すでに1300年以上存続させている。この制度を、ほかでもない今、廃止する理由は、どういったものが考えられるだろうか。廃止論者がしばしば唱えるような、現在における利便性を主な根拠とするだけでは、議論として弱すぎるのではないか。そもそもなぜ西洋の暦に統一? そして、元号を廃止した場合に、西暦に統一すればよい、という議論もまたしばしば聞こえてくる。けれども、なぜ、わざわざ、西暦という文字通り、西洋の暦、しかも、キリスト教紀元の暦を日本が公的に採用しなければならないのか。その理由もまた、元号を廃止する積極的な理由と同様に、根拠が弱いのではないか。 少なくとも元号廃止論を掲げる以上、「なぜ、ほかならぬ今、廃止しなければならないのか」という明確な根拠が必要なのではないか。もちろん、その根拠については、これまでの元号をめぐる議論をふまえなければならない。 それゆえに、私は、まだまだこれまでの議論に学ばなければならないと考えているし、軽々に元号廃止を唱えられる状況にはないと判断している。元号とは何か さて、そうした私の立場や、簡単な歴史的経緯を確かめた上で、あらためて昭和と平成の「時代の違い」について簡潔に述べておきたい。 そもそも元号とは、いったい何なのか。それは、天皇による治世を示すための、すなわち天皇の権威や権力を示す記号であった。 実際、昭和に至るまでの246個の元号は、たとえ形式的にではあれ、最終的にはすべて天皇が決めてきた。江戸時代に、幕府が実質的に選んでいた当時ですら、最後の決定は、天皇が行なってきた。また、21年間の在位中に8回も改元した後醍醐天皇に代表されるように、自らがこの国の最高権力者だと知らしめるために、元号は改められ、そして続けられてきた。 これに対して、元号法による初めての改元となった平成は、先述のように、天皇ではなく内閣が決定したものである以上、天皇の権威や権力を示す記号としての位置づけは薄くなっていると言わざるを得ない。しかしながら、元号法は同時に、一世一元も定めている。すなわち、元号と天皇の在位期間が一致しているため、両者は無関係になったわけではないどころか、密接に関係している。 あらためてまとめれば、次のように言える。 元号は、昭和までは天皇の権威や権力を示す記号であったゆえに、次の元号を語ることはタブーであった。これに対して、現在の平成においては、次の元号は天皇の権威や権力をダイレクトに示してはいないものの、在位期間と一致しているために、天皇との関係において語らざるを得ない。ただし、そこにはもはやタブーは、ほとんどないと言ってよい。 ここに、平成と昭和との差がある。次の元号の検討に向けて 昭和までの元号は、天皇が自ら決定し、そして、崩御の後には諡号となるものだった。これに対して、平成以降は、天皇自身が決定できない。それにもかかわらず、おそらくは、崩御の後には諡号となり残されていくことになるだろう。 自らの諡号を自身では決定できなくなった存在としての平成。これについては、昨夏以降、また一つ別の課題が浮上している。それは、天皇という立場から退位や譲位という形で皇位を継承した後、どのようにお呼びするのか、という敬称についてである。 現在、上皇という敬称の検討が報じられている。では、「平成上皇」といった敬称を、天皇ご自身はもちろん、象徴として頂く日本国民は、どう捉えたらよいのだろうか。 こうした敬称の問題を例にとってみても、まだまだ私たちは歴史からたくさんのことを学べるに違いない。次の元号についてオープンに議論するとは、そうしたさまざまな知見をできる限り動員することに他ならない。すると、政府は、次の元号についてパブリックコメントを行わないことを検討しているとも報じられているが、現在のメディア環境が、そうした方針を是認するか否かは不透明である。天皇陛下の譲位をめぐる有識者会議の第10回会合=3月22日、首相官邸 次の元号をめぐっては、既にテレビや新聞、雑誌、さらにはネット上で、多くの言葉が飛び交うことによって、オープンな議論が進んでいる。この小論もまさしく、その一環だ。繰り返しになるが、こうした「タブーなきオープンな議論」こそ、平成と昭和の差にほかならない。 現在の元号は、日本国憲法下での元号法という、紛れもない近代的な法体系に位置づけられている。それと同時に一世一元、という明治初期の原則を保っている。すなわち、元号法は、近代でありながらも、近代よりも前の思想を同時に持っている。この元号法という存在を、私たち日本国民が、いかに捉えるのかが試されている。 こうした点で、平成から次の元号への代替わりにおいては、近代と、近代よりも前との関係について、私たちの受け止め方、捉え方、そして意志が、問われている。 近代と、近代よりも前との関係をめぐる問い。この問いは、天皇や皇族という、近代よりも前からの存在に対して、「人権」というまぎれもなく近代的な要素をどのように接合するのか、という問いと同義であることは言うまでもない。*本稿の参考文献等を含めて、拙稿「改元をとおしてみた天皇 「昭和」改元と「平成」改元の比較分析」(『日本研究』第54集、国際日本文化研究センター、2017年)が、下記のURLから閲覧・ダウンロードできます。■閲覧用■PDFダウンロード用

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    67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった

    落合道夫(東京近代研究所代表) 今後、今上陛下が譲位されると改元が行われる。改元はすでに元号法があるので問題ないが、内外の反日勢力が元号反対の宣伝をすると思われるので、我々は、元号について基本的なことを知っておく必要がある。一言でいえば、西暦は「道具」であり、元号は「日本民族の文化」である。元号は現代社会から隠され気味であるが、国家の独立、日本人の歴史、生活、文化、精神に深い関係がある。ぜひ元号を意識して使いたい。 過去、元号制度に反対し、元号を奪おうとしたのはキリスト教勢力と左翼であった。キリスト教徒の狙いは日本のキリスト化であり、左翼の狙いは天皇の権威を失墜させることであった。これは自分たちが天皇に取って代わり、日本の支配者になろうとしていたからに他ならない。一方、元号維持派の目的は伝統文化の維持であり、実際の年数の管理方法としては西暦との併用である。天皇誕生日の一般参賀で、訪れた人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下=2016年12月  この問題の分析で参考になるのは1950年の参議院文教委員会における元号廃止法の動きと79年の元号法制定時の国会討議における賛否の意見である。以下、時の概念、時点と紀元の機能、我が国における元号の歴史を考察する。 時というのは自明のようであるが、物理学者の佐治晴夫氏によると、ナーガルジュナ(龍樹、2世紀のインドの哲学者)、アウグスティヌス、道元禅師は次のように理解していた。すなわち「過去は過ぎ去り存在しない。未来はまだ来ていないから存在しない。現在は過ぎ去ることのない唯一の時間」である。さらに道元は「過去も未来も現在に包含される」と述べた。だから時間とは人間の幻想にすぎないのである。 しかし、人間は農作業など生活の必要上暦を作り、時間を計るために時計を作った。そして時点の意識が社会的に拡大して、皇帝治世の何年という考えとなり、その期間感覚から歴史の起点(紀元)を考えるようになったのだろう。 この始点(紀元)を世界的に見ると、統治者個人によるものとユダヤ、キリスト、イスラムなど宗教指導者を頂(いただ)く紀元がある。これらは世界に20以上あり、各文化圏で使われている。中東の新聞の日付けはイスラム暦が主であり、キリスト歴は従である。 日本人が西暦と呼ぶ暦は、キリスト教のイエスの生誕を紀元とする宗教歴史観である。統治者を頂く紀元の年は一代限りで振り出しに戻る。しかし、宗教指導者は永遠だからそのまま続く。ただ、キリスト教徒は、紀元のままだと年数が長すぎるので百年ごとに区切った。それが「世紀」である。だが、機械的で人間味がないので、さらに生活の記憶で区切ることにした。それが時代である。これは巻き尺と物差しのようなものだ。 米国ではさらに10年ごとの区分もあるが、英国では統治者にちなんで呼ぶ。ビクトリア女王の統治した時代はビクトリア朝時代だ。時代の名前が統治者にちなむのは、それが国民にとって共通であり便利だからなのだろう。極めて自然発生的だ。だから、元号反対論者が言うような、統治者が国民に時代(元号)を押しつけるわけではない。かつて中国では災害でも改元された 元号の歴史をみると、支那で紀元前2世紀に漢の武帝が自分の治政の始まりを「建元元年」としたのが始まりである。古代の人は迷信深く吉凶に敏感であったから時代の世直しを重視した。しかし、皇帝の交代はできないから、その代わりに元号を設け改廃するようにしたのだろう。その後、元号は皇帝の代替わりのほか、迷信により瑞兆あるいは災害により改められた。 だが、14世紀の明の光武帝が迷信による改元を取りやめ、皇帝一代一元制度とし、後の満洲人の清朝もこれをならった。支那は長い歴史があるが、王朝が短命で交代するごとに歴史の始点が戻るので、結果的にのこぎり歯のようになり、連続した紀元の制度は生まれなかった。その後清朝が滅亡すると、支那人はその年(1912年)を中華民国元年とし、今でも台湾は民国紀元を守っている。一方で、中国は無神論なのにキリスト教暦を使っている。共産主義革命と言いながら、自国の歴史に自信がない表れである。 我が国には、西暦645年に支那から元号の発想が導入され、孝徳天皇が大化元年とした。その後、日本でも吉凶による迷信的な改元が行われたので、天皇は125代であるが、元号は250以上ある。しかし、明治維新では日本でも「一世一元制度」が採用され、明治元年となった。以後大正、昭和、平成となっている。全国御巡幸を始め、熱烈に歓迎を受けられる昭和天皇。敗戦にうちひしがれた国民を励まされた=昭和21年2月、神奈川県内 日本の元号の特徴は朝鮮王朝と違い支那王朝の元号を採用せず、独自の元号を用いていることだ。これは支那政治圏からの日本の政治的な独立を意味している。また、日本は支那のような易姓革命が起こらず万世一系なので、元号とは別に民族の歴史を全部つないだ皇紀という概念が成立する。ちなみに今年は皇紀2677年である。 インドネシア独立記念碑の年号は西暦ではなく、日本の皇紀である2605年と刻まれている。これはインドネシアが長年のオランダのキリスト教支配から脱したことを示している。年号は明らかに国家の政治的な独立を意味する。 日本は1945年の敗戦ですべての政治、社会、文化、教育制度が解体された。この中で元号も法的な根拠を失った。しかし、慣行として元号は広く日本社会で使われていた。こうした混乱の中で、50年、参議院文教委員会で元号の正式廃止が検討された。委員長はキリスト教徒の田中耕太郎で、委員はキリスト教関係者や左翼の元号反対派が多かった。時代は米国の極東政策の転換期であり、日本は再独立に向かっていたので、天皇廃絶を謀る勢力が占領軍の残された威力を利用して元号を正式に廃止しようとしたのかもしれない。 しかし、田中が更迭されると後任の山本勇造(有三)委員長は、各委員に対し西暦採用や元号廃止を前提とせず自由な意見を要請した。キリスト教や左派の委員は元号廃止と西暦の採用を主張した。廃止の理由は、年数計算の簡略化と元号の占領憲法の違反性である。 つまり、戦後の天皇は象徴にすぎず、元号を管理する統治者ではないから、元号制度は民主主義にそぐわないというのである。一方、参考人の坂本太郎東大教授は、元号制度は独立国の象徴であり、生活文化上便利であるとして元号の維持を主張した。占領下で独立に言及したのは勇気ある行為であったのは言うまでもない。有名な歴史家、津田左右吉も元号の維持を主張し元号は象徴天皇、占領憲法と矛盾しないと主張した。紀元制度は年数計算に便利というのは確かだが、国民生活の歴史という時代の視点が抜けている。これは「巻き尺オンリー主義」だ。「元号は無形文化財」 一方、日本をめぐる国際情勢は激変していた。1949年には支那満洲が共産化し米国の極東政策は失敗し、米国は支那満州から駆逐された。これにより米国は日本の国防費節減のため日本政府に再独立、再軍備を要求した。このため50年の日本の左翼運動の主要目的は日本の独立阻止(=占領継続)のサンフランシスコ条約反対となり、元号廃止運動は立ち枯れとなった。 50年に朝鮮戦争が始まると日本の正常化はさらに進んだ。53年の池田・ロバートソン会談では、米国は池田に再軍備と日本人の愛国心の回復を要請した。こうした状況で60年代から元号を法的に確保したいという国民の動きが始まった。66年には神社新報は元号の法制化を呼びかけた。賛同の署名が全国から10万単位で集まり、自民党に圧力をかけた。76年、総理府総務長官は、元号を閣議決定し内閣告示をすると述べた。 78年には元号法制化実現国民会議の呼びかけに応じて全国から2万人の国民が日本武道館に集まり、元号の早期法制化を決議した。評論家の清水幾太郎は「我々は敗戦で大切なものを次々に失った。これからは回復して行こう」と演説し、満場の拍手を浴びた。元号法制化実現国民会議の呼びかけに応じて全国から2万人が集まった日本武道館 この時、再度国会に参考人として呼ばれた坂本太郎教授は、概略以下のように述べた。 「今は30年前の元号反対派が優勢を占めた時代とは状況が変わり誠に感慨深い。元号制度を持つのは今や世界で日本だけである。これは無形文化財であるから大事にしたい。 そして元号は歴史的遺物と違い日本人の心に実際に生きている。元号は天皇と国民を結ぶ絆である。元号は新天皇が国家の繁栄、国民の幸福を祈って定めるものであり個人的なものではない。改元は国民には精神一新の効果がある。日本の固有の元号は国家独立の証拠である。西暦主義者は国際的というが、独自性があってこそ初めて国際的といえる。西暦は使いたい人は使えば良い。 ただし、日本の国の正式の紀年は絶対に西暦であってはならない。西暦は所詮キリスト教暦である。西暦の強制は信教の自由を侵すことになる。反対者は、いつも神道には目くじらをたてるのにキリスト歴に沈黙するのは二重基準で不正である。明治時代は日本人にとって偉大な時代であった。これを西暦の数字で表現すればナンセンスになってしまう。何でも一本化するというのは良くない。年の数え方も複数あってよい」 そして79年、政府は元号法案を成立させた。その趣旨は元号の法的根拠を明らかにするという簡単なものであった。ただし、元号擁護派には元号は本来天皇がきめるものだから、政府が元号を決めるのは正しくないという意見もあった。しかし、占領憲法との整合性から元号確保を優先して決めたものである。 元号法反対派の意見は「主権在民の憲法にそぐわない」「国際交流に不便だ」「天皇の政治利用になる」の3点だった。 民主主義論による元号反対については、民主主義の理解が違っている。政府は民主主義を共同体の意思決定の方法として理解しているから、民主的な議会制度による手続きで決まったのだから元号は民主的であるという意見であった。だが、野党は国民主権だから天皇に属する元号で国民を拘束するのは間違っていると主張した。しかし、国民主権といっても国民各人に主権があるわけがない。個人は外国と協定を結ぶことは出来ないからだ。共同体の代表者だけが主権者である。日本人の精神に希望を与える改元 占領憲法論との論争はもともと占領憲法の目的が天皇崇敬を含む日本の生態を破壊することであり、元号擁護は天皇崇敬による生態の回復だから黒と白で、まったくかみ合わない。それでも天皇象徴論による論議では政府側から「天皇は国民の象徴である、元号は天皇の象徴である。だから元号は国民の象徴である」という三段論法が示され、野党議員が反発している。だが、「象徴」という用語には明確な定義はないのだ。昭和天皇の署名がある日本国憲法の公布原本 元号には歴史時間の管理機能の他に豊かな文化的実績がある。例えば「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)という名句がある。しかし、これを西暦で記すと俳句にならない。これは「明治」だから感慨があるのだ。元禄時代の認識もまたしかりである。書道でも西暦では格好がつかない。日本の文化には元号が染みついているのだ。 元号は目に見えないが日本民族の貴重な歴史文化遺産だ。失うともう一度作る事はできない。紀元や年の管理方法は民族により固有である。だから日本人は無条件で元号を護持する。キリスト教徒でもないのにキリスト暦だけを使うというのは、誠に独立心がない行為で情けない。便利というが異文化に屈服し、呑みこまれることだ。文化的植民地になる。キリスト教徒の元号反対は日本の文化的な独立を奪い、キリスト教に従属させることが狙いだから話にならない。民族の伝統はしっかり守り、次の世代にそのままパスするのが我々世代の使命だ。 元号制度は、機能的から見ると公式には天皇と国民を不断に結ぶ縁(よすが)であるが、同時に国民の生活体験から見る歴史の時代区分である。その内容は社会とともにその時代を生きる各個人の体験が決める。まさに等身大の歴史といってよい。 左翼がおどろおどろしく言うように、支配者が元号を通じて国民を支配するというようなものではまったくない。左翼は元号により帝王が時を支配すると言うが、時を支配できる人間などいない。便宜上元号という目印をつけるだけだ。我々の生活には共同体には度量衡と同じように歴史的な時の管理についても共同体共通の基準が必要だ。それが紀元とともに元号なのだ。 反対論者は元号を不便という。しかし、年表をみれば良いだけである。大切な民族文化を守るのに手間を省いてはならない。使い分けをすれば豊穣な民族文化を簡単に維持できる。元号を西暦と併用することには誰も反対しない。 改元は日本人の精神に希望を与える。内外多難な時ではあるが、我々は新しい天皇をお迎えし、新しい時代を創る心の準備を始めようではないか。

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    「昭和」では誤報も 新元号を巡る新聞各社のスクープ合戦史

    ご病気が明らかになる1年前から2人のエース級記者を専従にして取材を開始した。その後、政治部や社会部の皇室担当記者なども加え、“新元号取材班”を編成。考案者と目された漢学者らに張り付き、プライベートの場にまでついていった。それでも『平成』をスクープすることはできなかった」 結局、平成は「各紙同着」とされるが、毎日新聞だけが“光文の汚名”を雪(そそ)ぐためか、「正式発表約30分前にスクープ」と主張した。「毎日は当日の夕刊3版に『平成』と打ち、同4版で報じた朝日や読売より早かったのは事実。ただ、毎日が正式発表より30分早く情報を入手した根拠が薄く、新元号は各社に同じタイミングで行き渡っていたと思う。関係者の間では毎日の部数が朝日や読売と比べて少なく、紙面の差し替えが他紙より容易だったから生まれた“スクープ”だったという意見もある」(前出・羽原氏) 各社のプライドをかけた戦いは、もう始まっている。関連記事■ かつての元号 菅原道真とその子孫が決定に関わっていた■ 「平成」書いたのは総理府職員、発表20分前にしたためた■ 小渕元総理 新元号「平成」テレビ発表時の視聴率は58.1%■ ビジネスマン正解率4% 「二番目はなんだクイズ・歴史編」■ 朝日新聞のセクハラ交番記事 週刊ポストの内容横取りが濃厚

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    元日に即位と改元案は宮中祭祀への配慮がされていない

    が生前退位をめぐる法整備の基本方針について、鳩首会談を開いた。杉田氏は生前退位の準備を進める内閣官房皇室典範改正準備室の最高責任者である。 この会談は首相動静では報じられていないが、譲位後の天皇の称号や住居、改元などについても突っ込んだ話し合いが持たれたと見られている。政治部ベテラン記者が語る。「生前退位の場合、新天皇の即位や改元の時期は政府が決定する。どうせなら1月1日のタイミングで改元すればコンピュータプログラムの改定からカレンダーまで、国民生活への影響が最小限にできるというのは政治家ならではの発想です。 この会議が行なわれたことは、産経新聞が『元日改元』のスクープの中で報じた。それから各紙が裏取りに動いたところ、総理や官房長官もそうした考えに傾いていることがわかって後追い報道が出た」 産経新聞の1月10日付朝刊の元日改元報道では〈複数の政府関係者が明らかにした〉として具体的なスケジュールにも言及している。平成31年の元日に皇位継承にあたって行なわれる最初の儀式「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀(※注)」と、首相ら三権の長が新天皇に謁見する「即位後朝見の儀」を宮中で行ない、官房長官が新元号を発表する──という段取りが検討されているとの内容だ。【※剣璽等承継の儀:皇位を継承した新天皇が、剣、勾玉、鏡の「三種の神器」のうち、「剣璽」といわれる剣の分身と勾玉、法律の公布文や条約の批准書などに使われる天皇の印「御璽」、叙勲の際に渡される証書に押される国の印章「国璽」を承継する儀式】「陛下が納得できる案とは思えません」 だが、この「国民生活への影響を最小限にする」という政治家的発想が、天皇家の意思との齟齬を生んでいるとする指摘がある。皇室ジャーナリストの山下晋司氏が語る。「合理的な考えかもしれませんが、元日に即位と改元を行なうというのは、宮中祭儀への配慮がなされていない。元日には天皇陛下が伊勢神宮や四方の神々を拝する重要な宮中祭儀である四方拝が午前5時半から行なわれるため、午前4時半頃からその準備が始まるでしょう。 この四方拝を新天皇が行なうには、午前0時~同4時半頃までの間に皇位継承の儀式『剣璽等承継の儀』を行なう必要があります。その後、午前5時半から四方拝、そして宮中祭祀である歳旦祭、国事行為である新年祝賀の儀に臨まなければなりません。 今上陛下は宮中祭儀をとても大切にされている。慌ただしい皇位継承の雰囲気の中で、宮中祭儀の“心をこめたお務め”ができるかを考えると、元日即位・改元は陛下が納得できる案とは思えません」 宮内庁側は「元日改元」報道に慌てた。宮内庁関係者が明かす。「杉田官房副長官はじめ、官邸の担当者は宮内庁とすりあわせを行なってきたから、“元日改元は難しい”ことを理解していたはずで、安倍総理や菅長官にもそのことは伝わっていたはず。それなのになぜああした報道が広がったのか、不可解でなりません。 昨年のNHKの『生前退位スクープ』の後、風岡典之・宮内庁長官と、宮家の事務を統括していた西ヶ廣渉・宮務主管が相次いで退任されました。特に西ヶ廣宮務主管は、一部で“NHKに近い”と囁かれ、生前退位のスクープの仕掛け人とも報じられた。 そうした宮内庁幹部の退任により、政治家の“宮中祭祀への理解不足”を改めさせたり、メディアの報道姿勢に目を配ったりする機能が上手く働いていないという見方もある」 官邸と宮内庁、そしてメディアの思惑のすれ違いが混乱を深めてしまったのだろうか。関連記事■ 天皇陛下 元日の祝賀の儀だけでお祝いを受ける人数は686人■ 生前退位巡る報道混乱 政治家や宮内庁意見集約できぬ状況■ 小渕元総理 新元号「平成」テレビ発表時の視聴率は58.1%■ 天皇のお言葉で皇室典範改正なら安倍首相と支持母体に溝■ 天皇会見舞台裏 最大の懸念は「生前退位」の言葉の有無

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    もうこの際ですから「元号」普段使いするの、やめませんか

    、流れとしてはこれがベストだったのではないでしょうか。【天皇陛下の譲位】新元号は平成31年元日から 皇室会議を経て閣議決定へ 法案提出は今年5月連休明け(産経新聞 17/1/10)19年元日に新天皇即位、元号は半年前までに(読売新聞 17/1/11) で、記事中には「国民生活への影響を最小限に抑えるため、新元号は元日から始め、事前に公表することが望ましいと判断した」とあるわけなんですが、さっそく民間では思惑その他舞い上がっており、特需の見込まれる手帳やカレンダーなどの印刷会社やはんこ屋の株価が急騰するなど話題になっています。産経新聞「2年後に新元号」の飛ばし記事、平成31年問題と元号相場に号砲鳴らす- (市況かぶ全力2階建 17/1/10) もちろん、改元と言えばシステム屋の世界も大変な騒ぎになるわけでありまして、前もって改元の日付が予告されていることは歓迎されるべきだというツイートまで出て、おおいに賛同されたりしています。 陛下のご決断に日本中のシステム屋が救われたことは、何らか明確な形で感謝の意を表明したいものです。 元号変更日が決まっててそれも年の切れ目で、新元号も半年前にわかってるなんてどんな天国。出典:茂田カツノリa.k.a.@shigezo 一方で、長らく日本人の生活に密接に関係してきた元号ですが、お役所方面や契約書などでは元号を使い日付を表記するのがいまなお一般的です。直近の話とかであれば数年分まとめて覚えればそれで済むものの、不動産取引で「あれ、昭和58年って築何年だっけ」とか、登記上げてみて「大正11年とか創業何年だ?」とか、国内の文書を海外に翻訳するときいちいち元号を西暦に直すなどの手間が膨大にかかります。施工された法律を遡って逐条解説とか読んでいても、日付を元号で管理するのがどれだけの意味があるのか悩ましいと思うことは多々あります。元号にノスタルジーを感じるのは日本人だけ とはいえ、日本人が日本で暮らすにあたって昔から使い続けてきた元号は大事な文化資産であり伝統であることには変わりありません。そもそも明治維新以降、改元に関する考え方が変わったおかげでそれ以前のコロコロと元号が変わる不合理から解放されたのもまた事実です。元号を考えるとき、まさか現代の日本人が半世紀遡って法律や登記をひっくり返して物事を調べたり、役所に提出する書類の日付が元号縛りになって面倒なことになっているとは思いもよらなかったでしょう。 個人的には、合理性を求められるような公的な書類については元号から西暦に統一し、過去の元号が使われた書式については逆引きできる仕組みを用意する代わりに、もっと生活に身近なところで元号による日付管理や表記が西暦と併記できるような仕組みになるといいなと思うわけです。ある種、ノスタルジーとして「昭和を思い返す」とか「ああ、平成ももうすぐ終わるのだな」という感慨を持てるのは日本人だけです。そういう時代性に紐づくところはしっかりと残しながら、親の歳を思い返すときに頭では「西暦から25をひけば昭和になるのだ」と分かっていてもその一手間がどうにかならないのかなと思うわけでありまして、お役所の書類もせっかくB5からA4になったことですし、何かできんもんだろうかと思うわけであります。 天皇陛下の退位、譲位を見つめながらも、日本の伝統を大事にしつつ合理性も見据えられるような改革が行われるきっかけになるといいのですが。 なお、少し古い記事ですが、日付の連続性や文書取り扱いの合理性を考える上で、参議院での元号にまつわる答弁や、東洋経済での論考記事を参考までに置いておきます。第108回 参議院質問主意書(参議院 1987/4/10)文書は最低西暦を併記、統計からは元号一掃を(東洋経済オンライン 12/2/13)1 国・地方公共団体等の公的機関が元号を使用すべき憲法上の義務はない。また、現在、国・地方公共団体等の公的機関の内部において事務の統一的な処理のため元号の使用を義務づけるような規則等は別として、国民又は国・地方公共団体等の公的機関に対し、一般に元号の使用を強制する法令は存在しないと考える。2 国・地方公共団体等の公的機関の事務については、従来から年の表示には原則として元号を使用することを慣行としてきている。したがつて、一般国民から公的機関への届出等においては、公務の統一的な処理のために、書類の年の表示には元号を用いるよう一般国民の協力を求めてきているが、このような考え方は今日においても変わりがない。(「Yahoo!ニュース個人」より2017年1月12日分を転載)

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    私が「高齢譲位」という言葉にこだわる理由

    まず特別措置法を制定して「高齢譲位」を可能とした上で、70年前に施行されてから一度も改正されていない皇室典範の問題点を総点検して、必要不可欠な条文改正を段階的に進めるほかないと考えられる。 ちなみに、昭和21(1946)年、新しく皇室典範を作成する審査委員会の幹事を務めた宮内省(のちに庁)の高尾亮一氏は、同37年、内閣の憲法調査会に提出した報告書「皇室典範の制定経過」の中で、典範第四条に天皇の終身在位を定めたけれども「予測すべからざる事由によって、退位が必要とされる事態が生じたならば、むしろ個々の場合に応ずる単行特別法を制定して、これに対処すればよい」と明言しておられる。皇室典範の第四条・第八条の改正試案 ここに高尾氏の言う「予測すべからざる事由」に相当する現実として、日本人の平均寿命80歳代という超高齢化社会を迎え、その状況下で陛下ご自身が高齢譲位を決意されたのである。だから、この事態に即応するため特措法を制定することは、実際的な合理性がある。それゆえ、私はこの案を支持し、速やかな成立を念願している。 ただ、これを「一代限り」と決めつけることはよろしくない。何しろ光格天皇(1817年)以来200年行われず、明治典範で否定され、現行典範にも規定されていない「譲位」を、陛下の御意向と現実の必要性から、あらためて可能にするのは、まさに画期的なことである。従って、この新例が実現すれば、おそらくさらに進む次代の超高齢化社会で、再び高齢譲位は不可避となった場合、今回を先例として容易に実現できるに違いない。そういう新しい道を拓くことに大きな意義がある。 とはいえ、今後もその都度あたふたと特措法で対処することは好ましくない。そこで、今回の法整備に続いて政府も国会も本格的に取り組むべきは、皇室典範の段階的改正である。あえて段階的というのは、現実にも将来にも適応困難な条文が少ないけれども、それらを一挙に解決しようとすれば、無用の混乱を生じかねないので、一つずつ解決していく方がよいと思うからである。 そのうち、最初に改正すべきは第四条と第八条である。前者は「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」となっているが、この終身在位を一つの原則として残し、もう一つ「又は皇室会議の議を経て退いた時は、皇嗣が直ちに即位する」という規定を付け加えればよい。 ここに「皇室会議の議を経て」と断るのは、今回のような高齢譲位ではなく、恣意的・強制的な退位問題なども予測すれば、その可否を厳密に審査できる機関として、現在も常設されている「皇室会議」(皇族2名と三権代表8名)で合議することが、最もふさわしいと考えられるからである。 もう一つ第八条に「皇嗣たる皇子(天皇の男子)を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫(天皇の男孫)を皇太孫という」としか規定されていない。そのため、新天皇の皇女はもちろん、皇弟も「皇嗣」として位置づけられない。そこで、これを「皇位継承の第一順位の皇族を皇嗣とし、皇太子と称する」と改正すれば、皇弟(秋篠宮)も皇甥(悠仁親王)も「皇嗣」として「皇太子」となりうる。晴れやかな皇位継承の儀式と新元号晴れやかな皇位継承の儀式と新元号「新年祝賀の儀」であいさつされる天皇陛下と皇后さま=2017年1月1日、皇居・宮殿「松の間」 (代表撮影) これから法整備が行われ諸準備が進められるとして、今上陛下の譲位と皇太子殿下の践祚(皇位に登ること)は、いつどのような形で実現されることになるのだろうか。すでにさまざまな情報が流れているけれども、これは慎重な配慮を要する。ただ、あえて希望的な試案を申せば、およそ次の通りである。 まず時期は平成31年の1月7日、昭和天皇の三十年祭を終えられた翌8日か、10日ころの宮中歌会始を終えられた後(小正月の15日)がよい。その日の昼ころ、国の儀式として、今上陛下(85歳)が、宮殿で皇太子殿下(59歳)に「剣璽(けんじ)等」を手渡され、全国民を代表して総理大臣が陛下への謝意と殿下への祝意を申し述べる。そのあと、長和殿のベランダに出られて、参集する一般国民の祝賀を受けられる、という晴れやかなセレモニーが行われることを期待したい。 一方、政府は譲位の時期が早目(半年以上前)に内定したら、「元号法」に基づき新しい元号を内定して発表する。そのうえで、正式公布は譲位・践祚の儀式直後とし、その施行は翌8日午前零時から、としたらよいのではないかと思われる。

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    天皇譲位「一代限り」のジレンマ

    天皇陛下の譲位をめぐる有識者会議が、論点整理の結果を公表した。「一代限り」の退位が望ましいのか、皇室典範改正を伴う恒久的な退位制度が望ましいのか。議論は分かれるが、いずれにせよ多くの国民が納得できる結論を導く必要がある。陛下が強く望まれる譲位実現の「論点」をiRONNAでも整理してみた。

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    「天皇の意思」に基づく譲位の実現はこんなにも難しい

    。二十三の問題で最も懸念する論点 第一の論点では、譲位自体の問題点が数多く指摘されている。明治時代に皇室典範を起草する時に、①上皇が政治を混乱させるおそれ、②譲位が強制されるおそれ、③恣意的譲位により政治に圧力がかけられるおそれ、の三点を考慮した結果、譲位を制度にするのを見送った経緯がある。政府は現在までこの見解を踏襲してきた。この論点整理でも譲位を制度化した場合の問題点は他にも多数指摘されている。しかし、このような問題をいかに克服して譲位を実行していくかを考えなくてはならないであろう。第193通常国会の開会式でお言葉を述べられる天皇陛下=1月20日、参院本会議場 こういった譲位の問題点は、第二の、将来の全ての天皇を対象とすべきであるかとの問いかけには、そのまま懸念事項となる。制度化にはその他にも問題は多く、論点整理でも計二十三もの問題が指摘されている。 その中で私が最も懸念するのは「天皇の意思に基づく退位を可能とすれば、そもそも憲法が禁止している国政に関する権能を天皇に与えたこととなるのではないか」との指摘である。 譲位を制度化する場合は「天皇の意思」を譲位の要件の一つとすることになる。その場合、国政に関する権能を有しないと規定する憲法四条一項との整合性が問題となる。 たとえ、他に皇室会議や国会の議決を経ることを要件に加えたとしても「天皇の意思」がなければ譲位は実行されないのであるから、天皇が統治に関する決定に関与することになるため、国政に関する権能を有することになる。 天皇の国事行為は憲法六条と七条に列挙される十二項目に限定される。ここに書かれていない以上、天皇が譲位の発議権を行使することは、憲法四条一項の趣旨と合致しない。まして、憲法が定める十二項目の国事行為は、天皇自らが内容を決定する項目は一つも無い。天皇以外の機関がすでに決定していることを、形式的・儀礼的に行なう行為があるだけである。 したがって、四条一項の例外として「譲位の決定」を七条に追記する憲法改正を経ない限り、「天皇の意思」が要件となる制度は、憲法との整合性が取れないといわねばならない。この点は、譲位を制度化する場合の最大の問題と言っても差し支えないであろう。このことは『正論』三月号に詳細を述べたので参照されたい。 そして、論点整理の最後の論点となるのが、今上天皇一代限りを対象とすべきかどうかの議論である。この場合、先述の譲位を制度化した場合の問題点は生じない。今上天皇一代限りを対象とした場合に生じる固有の問題があるかどうか、もしくは、その様な方法が憲法と整合性がとれるかを検討すればよいであろう。 公表された論点整理によると、長寿社会を迎えたため将来も高齢の天皇の問題が生じる点や、特措法で対処することで今後は政権による恣意的な譲位が可能になるのではないかとの懸念が示されている。 論点整理は、必ずしも全ての論点を網羅しているとは限らないが、主要な論点を列挙する目的は達していると思われる。今後、譲位の問題を考察するうえで、大いに参考になるものと思うので、熟読されたい。

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    私はあえて言う、陛下のお言葉は「失敗」だったと

    しました。多くの人々が耳を傾け、各々の立場で親身に考えてくれていることに、深く感謝しています」)。「皇室会議」が開かれる宮内庁特別会議室=1993年1月撮影 また、天皇陛下のご学友などが、不規則なかたちで陛下の意向はああだこうだと言っていたが、これも危ない。君主の意向は首相や正規の顧問会議(日本で言えば皇室会議)のメンバーなどとの頻繁で充実した対話のなかで反映されるべきである。 まして、天皇陛下のお気持ちを友人が代弁したいとしても、学友としての自分の希望として、という程度に留めるべきで、「陛下と電話で話したが、こういうご希望だと自分は理解している」などと話したのはいかがなものかと思う。  さらに、この論議を通じて非常に警戒すべき天皇制をめぐる議論が出てきたことはより深刻な問題で、特に一部の人々の動きには憲政と天皇制の危機を感じるのだ。 冒頭でもふれたが、いまの天皇陛下は尊敬できるから支持するという論理は将来の天皇制廃止をもくろむ人たちの陰謀だ。それは、キャラクターや考え方が気に入らなかったり、能力に問題があったら、憲法に定める国家の象徴として認めないという反憲法思想になるからだ。 また、天皇と内閣を対立的にみて、陛下を自分の陣営に引き込んで政治を動かすような試みもある。「陛下の希望通りに」という人たちの中には、陛下は憲法改正を望まれていないとか、安保法制を悲しまれているはずとか、訪韓して謝罪されたがっているとか、皇位継承についても陛下のご希望をお聞きしてその通りにしろなどとエスカレートしてしまっている。 とりわけ訪韓させて謝罪させようというのが彼らの究極の目標ではないだろうか。言うまでもなく、外交方針について天皇が独自の考え方を示すことは憲法上ありえない(昭和天皇は旧憲法のもとで果たされた役割について見解を明らかにしないと済まされない場合があったので少し違うが、政治的な役割を果たされたことがない今上陛下やこれからの天皇についてはそういう必要はない)。論点整理で何も触れられていない外国との関係 イギリスの女王は、日本の天皇陛下よりは実質的な政治的権能が残っているのだが、それでも、スコットランド独立問題やEU離脱問題で、発言がどちらかの肩を持つようにとれる部分があると厳しい批判にさらされ、王制の存廃まで語られた。スペインでも同様だ。 退位問題について言えば、皇室典範を本格改正せずに退位を認めることは本来筋違いで、ことを急がず、とりあえずは、公務の大幅な削減や摂政制度で乗り切り、議論の収斂を待ってから譲位でも良いと思う。 皇位継承まで含む改革とか、将来の天皇の譲位にも普遍的に適用可能なルールを決めるのが1年や2年の期限をもってされるべきではない。 しかし、陛下が退位の希望を強く表明され、国民も少し熱は冷めてきたとはいえ、陛下のご希望を早くかなえてあげたいというムードが強い以上は、一代限りでという結論は現実論として妥当なのだろう。 しかし、今回の論点とりまとめを見ると、公務削減や摂政とした場合にあって、いちばん課題が多いのは外国との関係で、特に、国家元首の不在ということが日本の外交力を著しく弱めないかというのが最大の問題なのだが、そのあたりは論点整理で何も触れられていない。 また、女帝・女系の問題を横に置いたとしても、今上陛下から皇太子殿下への継承より、はるかに複雑なのは、年齢差5歳の皇太子殿下から秋篠宮殿下、年齢差39歳の悠仁親王というバトンタッチが予定されることだ。 85歳の皇太子殿下から80歳の秋篠宮殿下に継承し、その5年後に悠仁親王に譲位というのが良いとも思えない。円滑にしようと思えば、皇太子殿下から悠仁親王への直接継承か、皇太子殿下の早めの退位で秋篠宮殿下が10年くらいは天皇でおられる期間を確保するか、どちらかがよいと思うが、そうしたことも視野に入れた制度設計が必要なはずだ(ベルギー王室が同様の問題に直面した)。 また今回は、退位されたあとの今上陛下の称号、どこにお住まいになるか、どういう活動をされるのか、財政的措置をどうするか、皇位継承の第一順位となるが、現在の制度では皇太子になれない秋篠宮家をどう待遇するかにも論点整理はふれていない。新年の一般参賀で、一斉に入門する人たち=1月2日、皇居(桐原正道撮影) 東京五輪の時にどういう体制で役割分担するのか、東京五輪という世紀のイベントと即位礼の関係をどうするかなどという大事な問題にも、論点整理はなにも触れていない。 いま検討されている日程では、平成30年の後半に譲位、その翌年正月に改元、その秋に即位礼とかいうことだろうが、もう一年遅らして、即位礼を東京五輪の前年にやるよりも、翌年にした方が賢明だ。 とくに、雅子妃殿下の体調や和装が苦手といわれることを考えると、即位礼を五輪前年にするのが賢明かということもあるし、国民の関心が五輪に集まっているときでは十分な祝賀ムードが確保できるかも疑問だし、経済的にも五輪翌年の需要落ち込みが心配されるときの方が良い(日本の皇室が経済的側面に配慮するのは民の竈を心配された仁徳天皇以来の伝統だ)。  東京五輪は、現在の両陛下、東宮一家、秋篠宮一家が役割分担しながら乗り切るのが賢明だという気がするが、心配性すぎるだろうか。

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    2019年の天皇陛下譲位で悲願の韓国ご訪問もあり得るか

    すが、種々の大会へのご臨席や地方視察といった一般的な公務を担われることはほとんどなくなるでしょう」(皇室ジャーナリスト)新潟県長岡市にある障害者支援施設で利用者の作業活動を視察される天皇、皇后両陛下=平成26年6月 宮内庁関係者が明かす。「大きな動きがあるとすれば、悲願のひとつである韓国訪問。天皇としてのお立場では実現が難しい面もありましたが、退位後なら、というお考えもあるのではないでしょうか」 それでは、退位後のお住まいはどうなるのだろうか。「現陛下が退位後に皇居・大宮御所に移られ、皇太子ご一家が御所に、秋篠宮ご一家が赤坂御用地の東宮御所で暮らされるのがよいというご意向をお持ちだと聞きます」(宮内庁関係者) だが、先代の陛下と「徳仁天皇」が同じ敷地内にお住まいになることが、新たな天皇の精神的なご負担になってしまうのではないかという声もあがる。「機を見て京都御所に引っ越されるか、あるいは那須、葉山、須崎の3つの御用邸に移り住まれる案も検討されているといいます。新たな天皇と皇后への配慮に心を砕かれているのでしょう」(前出・宮内庁関係者) 一方、「雅子皇后」に対して、「果たして重責に耐えられるのか」と不安視する声はやまない。ここ数年はお出ましの機会も増え快復傾向にあるが、依然療養中の身でいらっしゃることに変わりはなく、加えて宮中祭祀といった儀式への欠席は続いている。 だが、皇后となることでの雅子さまの「奮起」に期待する声も多い。「今春、皇太子ご夫妻は外交関係樹立60周年の記念にマレーシアに足を運ばれる予定で調整が進められています。雅子さまにとっては初のアジアの国への訪問。 また、これまで雅子さまの海外訪問は各国王室の祝賀行事が主で、シンプルな『皇室外交』は大変珍しいことです。皇太子さまはプロポーズの際、雅子さまに“皇室外交をしませんか?”と声をかけられたといいます。元来活発な性格の雅子さまにとって、マレーシア訪問は自信の回復につながる。皇后となられたら、皇室外交のトップランナーとして奔走されるお姿もゆうに想像できます」(前出・皇室ジャーナリスト) それでは、次代の到来は私たちの生活にどう影響するのだろう。「陛下の『お気持ち』表明後、印刷業の会社の株価が上がったんです」 そう興味深い話をしてくれたのはある金融関係者だ。「元号が変われば、小切手や手形などの金券類、官公庁や企業の膨大な量の印刷物や伝票類の需要が出る。実は、昭和天皇が崩御されたときにも、同様に印刷関連株が上昇したそうです」 記念切手やさまざまな祝賀グッズも数多く店頭に並び、景気が上向くことが予想される。一方、今から元号が変わることに戦々恐々としているのが手帳やカレンダーを制作している会社だ。「西暦表記の商品なら問題ありませんが、元号を明記するものだと、もし新元号の発表がずれ込んだりしたときに、開発スケジュールがタイトになりそうで心配です」(関係者) 日常生活でいえば、「徳仁天皇」の誕生日である2月23日が天皇誕生日になる。現陛下の誕生日である12月23日は、新たに国民の祝日として名前をかえることになるだろう。「国民的な慶事である即位に合わせて、減刑や刑執行の免除、違反によって取り消された運転免許資格を回復させる復権といった『恩赦(おんしゃ)』が行われることも考えられます。現天皇の即位のときには約250万人が恩赦の対象となりました」(皇室記者)関連記事■ 訪英終えた天皇皇后両陛下のハードな日程に体調心配する声も■ 天皇皇后両陛下が私的旅行の訪問先に青森県を選ばれた理由は■ お年玉ない皇室 故高円宮殿下は同級生羨ましかったと語った■ 「両陛下は公務を減らすとの発想ない」と皇室ジャーナリスト■ 東宮家と秋篠宮家両夫妻 確執報道渦中に笑顔で公の場に登場

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    小林よしのり×八木秀次 天皇退位賛成派と反対派が激突

    皇の退位が認められなかったのは、まず政治利用の問題(*)があるからです。その弊害が大きいので、明治に皇室典範を整備する際、当事者の意思が介在しない形で制度設計を行った。誰かの意思で退位や即位ができると、皇位が安定しない。【*過去、上皇や法皇が政治的影響力を行使したり、時の権力者が天皇を退位させたりする例があった。明治の皇室典範制定時の議論で、伊藤博文は代表例として南北朝の争乱を挙げた】小林:昔は権力が天皇を利用することがあり得たけど、今の天皇は権力と結びついていない。権力者は選挙で決まるんだから、天皇の権威には左右されないでしょ。 わしは承詔必謹の立場だから、天皇の願いを100パーセント叶えるべきだと思う。天皇の立場を経験した人間は他にいないのだから、そのあり方について一番わかっているのは天皇陛下。その陛下が「伝統とは何か」「象徴天皇はどうあるべきか」を考えられた結果が8月8日のお言葉ですよ。 譲位によって皇位が不安定になるというけど、これは逆でしょう。今の不安定要因は、高齢化。もし天皇が認知症になってしまった場合、摂政を置くと、20年も30年も天皇が世の中に姿を見せないことになるかもしれない。つまり、20歳や30歳になるまで天皇を知らずに過ごす国民が出てくるわけ。そのほうが皇位の安定性が失われるよ。八木:日本は伝統的に、天皇個人の意思で国が動くシステムは採っていない。それが近代になって立憲君主制という形になった。ところが8月8日のお言葉は個人の意思を述べられ、そこで具体的な制度変更を希望されました。これは憲法に抵触するので、政府は動けない。天皇陛下がテーマ設定をされたこと自体が、問題解決を困難にしている面があるわけです。水面下でご意向を示されて、政府が独自の提案理由で立法する形ならば良かったのだが。小林:わしもそれを政府がやるべきだったと思う。でも内々に伝えてきたのを政府が無視したんだから、国民の前で思いを述べられる以外にやりようがない。政府が動かないから、ああいう手段を採らざるを得なかったんだよ。 そもそも、天皇陛下が自由意思で発言するのはおかしくも何ともない。八木:いや、それはダメでしょう。小林:なんで? 発言自体は問題ないでしょ。権力側がそれを聞くかどうかを決めればいいんだから。八木:天皇が国民統合の象徴であるためには、国民の間で賛否のある論争の渦中に立ってはいけない。賛成派と反対派に二分されてしまう。小林:もちろん、原発推進か反対かみたいな議論で個人的な意見を言っちゃダメ。でも天皇制をいかに維持するかという問題は、公的な発言でしょ。自分の経験に基づいて、国民に議論を喚起するために話された。それを受けた国民の90%が退位を希望しているのだから、それに見合う法律を作ることに何の問題もない。退位が実現しても留意すべき権威の二分化八木:陛下のお気持ちは強いし、世論調査でも高い比率で支持されているので、政治的には退位を実現せざるを得ないと政府も考えている。ただ、法的な理屈が立たない。皇室典範改正であれ、一代限りの特別措置法であれ、政府としてそれを国会に提案する理由がどこにもない。天皇陛下のお言葉を受けてそのまま動けば、陛下が大事にされている憲法を否定してしまう。小林:天皇陛下のお言葉ではなく、国民がそれを望んでいることを根拠にすればいいだけの話でしょ。八木:国民の意思を把握するために、政府独自の世論調査も検討されている。小林:別に政府がやんなくたって、テレビや新聞がさんざんやってんじゃない。八木:しかし世論調査を根拠に法律を作ったことは過去に一度もない。だから政府は頭を抱えている。法律の最初に提示すべき「目的」を書くことができないんです。他の部分はほとんどできあがっているが、それが書けないと法律にならない。小林:「皇位の安定性を維持するために」と書けば済むことじゃない。八木:それは小林さんの意見であって、政府には「むしろ皇位の安定性を脅かす」という見方があるわけですから。そもそも憲法では、天皇が高齢になった場合の措置として「国事行為の臨時代行」と「摂政の設置」を規定している。政府としては、憲法のこの規定を採用せずに新たな法律を作る理由がありません。小林:摂政はダメ。天皇が精神や身体に重大な疾患を抱えているなど、何もできない場合の制度なんだから。八木:私自身、摂政には反対で、「国事行為の臨時代行」が落とし所だと考えている。現状をしのぐには、それが一番簡単な制度変更でしょう。昭和天皇の最晩年は、この制度でしのいだ。小林:短期間なら「臨時代行」でしのげるだろうけど、皇太子殿下が臨時代行の状態を何十年も続けたら、それこそ権威が二分化するよ。八木:それは退位でも同じでしょう。小林:いや、退位して太上天皇になった場合、国事行為はやらないから。八木:しかし今の天皇が退位した場合、おそらく完全に引退はなさらず、公的行為は続けられると思う。あちこちにお出かけになって国民と接するだろうし、外国訪問もするかもしれません。退位が実現しても、それによる権威の二分化には気をつけなければいけない。小林:それは今の天皇陛下ご自身が細心の注意を払いますよ。太上天皇になられたら、今の皇后陛下が天皇陛下に頭を下げるのと同じように、新しい天皇陛下に頭を下げて敬意を示すでしょう。権威は断然そちらにあるわけだから、国内外から「来てほしい」という要望も、太上天皇より天皇陛下に集中すると思うね。だからこそ、臨時代行ではダメ。外国訪問でも、臨時代行では相手の王族などと対等のパートナーにならないから失礼になる。【PROFILE】こばやし・よしのり/1953年生まれ。『おぼっちゃまくん』でギャグ漫画に新風を巻き起こす。現在、本誌にて『大東亜論 自由民権篇』を連載中。今年2月下旬に刊行予定の『天皇論 平成29年』を鋭意執筆中。【PROFILE】やぎ・ひでつぐ/1962年生まれ。早稲田大学法学部・同大学大学院法学研究科修士課程を経て、同大学大学院政治学研究科博士課程を中退。専門は憲法学。昨年11月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で八木氏にヒアリングが行われた。※構成/岡田仁志(フリーライター)関連記事■ 天皇陛下お手ずから行う「お田植えとお稲刈り」 その数200株■ 村上正邦氏「安倍首相はリオ五輪でワケの分からん恰好した」■ 皇太子殿下 天皇陛下の宮中祭祀取組みを引き継ぐ決意との声■ 天皇陛下 元日の祝賀の儀だけでお祝いを受ける人数は686人■ 「皇太子さまご退位論」への賛否 女性1000人アンケート実施

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    天皇の「譲位」を決める前に知っておくべき皇室の歴史

    理があった。私は妥当と思う。ただ私の賛成する理由は、陛下のご健康や慣習、制度的な問題だけでなく日本と皇室の現状に強く危機感を抱いているからである。そこでまず皇太子殿下に即位していただき新しい天皇を確保したい。国民、も安心する。従ってこの問題では天皇はご退位ではなくシームレスの継承を意味するご譲位でなければならない。 この件に対する外国の反応を見ると昨年8月陛下のビデオ放送に対して早速、中共からこれで日本国内は大混乱に陥り安倍首相は憲法改正は出来まい、と嘲笑する報道があった。また外国と関係の深い野党勢力は退位という言葉にこだわり法制化を要求している。これは将来の天皇の廃絶を狙っている可能性があるので厳重に警戒しなければならない。 一方、国内では肝心の次代を受け継ぐ若い日本人が戦後教育の欠陥で大切な皇室の意義や民族の歴史を知らされていない。このため敵の皇室攻撃を受けても危機感が乏しく正しく反撃できない。これは我々の解決すべき最大の心配であり課題である。そこで、以下、天皇と国民の歴史、民族の生態としての天皇の意義、天皇を敵視するものについて考察し、最後に我々のとるべきアクションを提案した。御参考になれば幸いである。83歳の誕生日を祝う一般参賀に訪れた人たちにあいさつされる天皇陛下=2016年12月 天皇は米軍の強要した占領憲法では日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基くとされている。しかし、天皇は政治的な権威ではなく伝統的権威であり、民族宗教である神道の最高神、天照大神の直系の子孫である。現人神と言われる由縁だ。125代ということは、若狭和朋氏が指摘するように2の125乗という巨大な数に日本人が収斂することであり、日本の国は古来皇室に何らかの血縁を持つ国民が天皇陛下を頂いて作っている家族国家なのだ。 我が国の二千年以上の歴史には神話の天孫降臨から始まる天皇と国民の多くの美しい物語がある。4世紀には仁徳天皇が「高き屋に上りて見れば煙立つ民の竈は賑わいにけり」という有名な御製を詠まれた。国民の生活を心配される天皇のお気持ちがよく表れている。 8世紀聖武天皇の時代には大伴家持が「すめらぎ(天皇の和語)の御代栄えんと東なる陸奥山(みちのくやま)に黄金花咲く」という歌を詠んだ。大仏建立の大事業に今の宮城県涌谷町から黄金が献上されたことを祝賀したものである。また大伴家持がこの時天皇への忠誠を詠った長歌の一節「海ゆかば」は1200年後の昭和12年に信時潔の作曲で愛国歌となり有名だ。13世紀の蒙古襲来では、亀山上皇が自らの生命を身替わりに日本国の護持を神々に祈願し、無事日本国は守られた。 明治時代欧米列強の迫る中、孤立無援の日本が独立を維持できたのは明治天皇のご指導のおかげである。国民は心を一つにしてロシアの侵略を撃退し日本の国を守り発展させた。日本海海戦の朝、旗艦三笠の砲塔から艦長の伊地知彦次郎大佐は乗組員に訓示を行う。「諸士の命は本日ただ今本官がもらい受けた。本官も又諸士と命を共にすることはもちろんである。今からはるかに聖寿の無窮を祈り合わせて帝国の隆盛を祝福するために、諸士と共に万歳を三唱したい」これを聞いた当時20才の水兵、河合太郎は今こそ御国に生命を捧げる時が来たのだ、とその若き日の感激を67年後に記している。 昭和時代には大東亜戦争という今日につながる国難があった。昭和天皇はただ一人戦時、戦後の非常時の日本を指導された。アジア全域に展開していた日本軍が戦後混乱せず無事復員したのは天皇陛下への忠誠心と御稜威の偉大さである。終戦命令を受領したビルマ奥地の日本軍部隊は集結し大事に守ってきた軍旗を焼却する。ガソリンの青い煙がチーク林に流れてゆく。武器を置いた兵士たちは「海ゆかば」を歌い激しく慟哭した。 戦後のラバウルでは豪州軍による軍事裁判で多くの日本人が無実で処刑された。その一人坂本忠次郎中尉(埼玉出身)は「同胞(はらから)の犠牲なればスメラギの弥栄祈り我は散りゆく」と辞世を残している。軍事裁判で日本人の救出に懸命に努めた山崎義教法務大佐は「多くの犠牲者の処刑直前の天皇陛下万歳の叫びは、天皇への最後のお別れであり祈りであり、そして歴史的日本に回帰する自らの生命の最後の光彩への賛歌であった」と記している。天皇は海外抑留者の家族を思い「風寒き霜夜の月を見てぞ思う帰らぬ人のいかにあるかと」という御製を詠まれた。天皇継承問題だけではない日本の課題 戦後、蒋介石は皇族全員を支那に引き渡すように米国に求めた。日本と皇室の大変な危機であった。しかし、マッカーサーは拒否した。ただこれは米国の占領統治に利用するためであり、占領軍の狙いは日本の背骨である皇室を衰退させることだった。こうした戦後の混乱時に国民の心のよりどころとなったのは昭和天皇である。昭和天皇は敗戦の翌年「降り積もる深雪に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき、人もかくあれ」という御製を詠まれ国民に臥薪嘗胆(忍耐)を指示された。戦争で家族を失い家を焼かれうちひしがれた国民はどんなにか心強く思ったことか。マッカーサー元帥 昭和天皇は戦後の混乱の中で全国を巡幸され困窮する国民を慰問された。GHQの狙いは天皇の神格化の妨害と君民の離間であったが、国民は逆に天皇の下に結集し思惑は外れた。天皇は西欧の君主とは違う独特の民族的国民的存在である事が分かる。会場にいざ天皇陛下をお迎えすると、共産党員までがおもわず天皇陛下万歳と叫んだという。広島では七万人の国民がお迎えした。昭和天皇が原爆孤児の頭を抱きかかえるようにして涙されると会場は静まり返りやがてすすり泣きの声がひろがった。天皇は「ああ広島、平和の鐘も鳴り始め立ちなほる見えてうれしかりけり」と詠まれた。天皇は日本人の父である。 1949年国共内戦で中共が勝利し米国は支那大陸から追放された。米国の長年の極東政策は取らぬ狸の皮算用におわり日本占領は無意味になった。そこで米政府は莫大な国防代行費を節約するために日本を独立させて自衛させることにした。占領軍総司令官のマッカーサーは更迭されたが、その際彼は天皇陛下に挨拶もせずに逃げるように日本から去った。これは日本の正統な権威の回復を見て日本の主人気取りでいた自分の錯覚に気づき恥ずかしく思ったからであろう。 1951年、サンフランシスコ講和条約で日本は再び独立を取り戻した。昭和天皇は大変喜ばれ「風さゆるみ冬は過ぎて待ちに待ちし八重桜咲く春となりけり」、「国の春といまこそはなれ霜凍る冬に耐えこし民の力に」という御製を詠まれた。 しかし、その後の日本政府は占領憲法をはじめとする占領反日政策を改めず今日に到る。そのため民族の生態と占領諸制度との乖離が拡大し今回の天皇継承の問題、国防、人口減、老人介護、相続紛争など多くの重大問題が噴出しているのである。 今上陛下は、昭和64年(西暦1989年)昭和天皇が崩御されると、直ちに皇位を継承され矛盾に満ちた占領憲法の下で、全力で国家国民の安泰を祈られ、ご公務を務めてこられた。誠にありがたいことであるが、80才を越えたご高齢であり大病を経験されている。このため国民の間に、我々は天皇陛下に甘え過ぎているのではないか、という気づきと反省が生まれている。我々は状況を理解しておらず猛省を要する。 天皇の意義を日本民族の生態から分析してみよう。生物に生態があるように民族にも固有の生態がある。これを国態と呼ぶことにする。国態は言語から価値観、慣習まで広範である。日本人の国態を生存の2大機能である連続性と連帯性、さらに共同体の公と成員個人の私に分けると、公的な連続性が天皇崇敬、私的な連続性が先祖崇拝、公的な連帯性が国民国防、私的な連帯性が家制度、共通の価値観が教育勅語となる。天皇は国態の柱 先祖崇拝とは子孫の祀りにより我々が永遠の生命を持つことである。家制度は両親の介護義務、家督・資産相続そして結婚の奨励である。現代の老人問題と少子化の解決だ。教育勅語はキリスト教の十戒やイスラムのコラーンにあたる日本民族の不変の道徳である。これらの国態基本政策は独立しているのではなく相互に有機的に関連し機能している。平成24年に東京・上野の国立博物館の保管庫で見つかった教育勅語原本(右)と謄本 国態は日本民族が疫病天災など様々な苦難に耐えて長い間に形成してきた生存のシステムであり、一時的に作られたものではない。戦前の日本はこれらの基本政策を守って繁栄し人口は明治初年に比べて倍増した。国民の道徳は教育勅語により人類史上最高のレベルに達した。これはいまだに日本では遺失物が出てくることで分かる。簡単なことのようだがこれは世界の奇跡である。 また、高齢者は教育勅語を暗唱できる。これは戦前の道徳教育がいかに優れていたかを示している。戦後の日本の廃墟からの復興は世界から奇跡と見られたがこれは戦前教育を受けた世代の日本人が達成した成果である。このように日本民族は危機に当たっての実証済みの生存の基本政策をすでに持っている。これは先人のおかげであり実に有難く素晴らしいことである。 天皇は国態の柱であり、日本民族共同体の宗教、政治、文化などあらゆる分野の正統性を表す至高存在である。このため天皇をいただく日本人は謙虚である。この落ち着きと謙虚さが世界の人々から日本人が貴族的とみられる理由である。知人の日本人の若い女性は、2歳から大学卒業まで米国で育った人であるが、彼女は初めて参賀に伺い天皇陛下を仰ぎ見た時自分でも分からず涙が溢れて止まらなかったという。これは本来の自分の民族のルーツに目覚めたからだろう。同時に彼女は、天皇を失った時日本民族は滅びると感じたという。日本人なら一生に一度はぜひ参賀に伺い天皇陛下万歳を叫んで欲しい。すっきりするはずだ。 このように天皇は日本人の主柱なので日本を滅ぼそうとする敵は天皇崇敬の破壊を狙う。反天皇のテロ、政治、思想、宗教、プロパガンダについて知っておきたい。政治的なテロでは1923年の虎ノ門事件がある。これは摂政時代の皇太子殿下(後の昭和天皇)の御車が虎ノ門交差点を通過中に難波大助が仕込み銃を使って襲撃した暗殺未遂事件だ。犯人の難波大助は山口の名家の出身であったが共産主義者であったという。テロを防ぐ最大の政策は廃止された皇族を戻し皇位継承資格者を増やすことである。 占領軍は日本を滅ぼすため独裁権力の威嚇のもとに日本人の国態基本政策を破壊した。このため日本人は政治や社会が混乱し苦しんでいる。特に占領軍は皇族を減らし天皇崇敬の立ち枯れを狙った。その実害がついに現れてきた。今年の参賀ではお出ましになる皇族の数が減っているのを見て国民は不安を感じ始めている。 米国の占領政策を批判した「アメリカの鏡日本」の著者ヘレン・ミアーズ女史は、戦前の日本を知る日本の専門家である。彼女はGHQ内で日本の社会や文化の破壊に狂奔する若い同僚たちに対して、何千万もの日本人の生活に影響する伝統的な諸制度を簡単に変えて良いのかと疑問を呈すると、戦争に勝ったのだから何をしても良いのだという。そして彼等は日本人の苦しみをよそに数年で帰国してしまい、占領破壊政策の責任を何もとらない。彼女の著作は米国で刊行されたが、日本では有害本としてマッカーサーに発禁にされた。左翼の天皇を含めた人間平等論は誤り また、あるGHQ要員は占領の終了で離日するに当たり、日本人は長い歴史を持つ民族だから占領が終われば、我々に破壊された諸制度を回復して行くだろう、と述べたという。占領政策は民主化、反封建化の美名を借りているが本当は日本の破壊であったことを確認したい。蜂や蟻は敵に襲われても生き残った個体はもとの生態を取りもどす。他に生きる道はないからだ。日本人も同じである。 天皇に反対する政治思想としては左翼の人間平等論がある。しかしこれは誤りだ。というのは平等を実現すれば社会は自由のない地獄となる。現実の社会は役割分担で出来ている。平等は人間の心理的な妬みからの解放妄想なのだろう。共産主義の指導者スターリンは社会主義と平等は何ら関係が無いと言明している。民主主義については誤解がある。独の政治学者であるカール・シュミットは西洋の民主主義を英、仏型に分けている。英国型は選挙と議会制度による共同体の意志決定の方法であり国王制度と矛盾しない。日本は戦前すでに普通選挙法の下で議会制度を採用しており黒人差別の米国よりも進んだ民主主義国家だった。スターリン フランス式の民主主義は左翼のリベラル主義だ。これは18世紀にフランスのルソーがキリスト教の死者の天国をイメージして主張した思想である。平等、人権、人民主権を主張するが皆存在しない概念だから実行すれば必ず失敗する。人権には国籍と義務が必要であり、人民主権もありえない空論で結局は主権の代表者として独裁者の正当化に利用されてしまう。リベラル主義は国民を分裂させ戦わせるだけの有害無益の詐欺思想であるから左翼の反天皇煽動に騙されてはならない。 キリスト教は天皇を認めない。それはキリスト教に他の宗教を認めない独善性があるからだ。戦国時代の切支丹も神社仏閣を敵視し破壊した。戦後日本を支配した米国もキリスト教国家なので神道指令を出して日本の民族宗教である神道を迫害した。そして天皇に人間宣言を要求したがこれは日本の神をキリスト教のゴッドと混同した実に野蛮で無知な行為であった。天皇の権威は固有の伝統によるものであり政治的な強制によるものではない。天皇は現人神であり明治憲法にあるように神聖にして不可侵の存在なのだ。 さらに米占領軍は未来の天皇の乗っ取りを謀った。すなわち皇太子殿下をキリスト教に改宗させるため英語教師として米国キリスト教の原理主義者であるバイニング夫人を招いたのである。しかしこれは当然成功しなかった。なおキリスト教が日本に根付かないのは先祖崇拝を禁止しているからである。このためGHQは家制度を封建的というレッテルを貼って破壊し先祖崇拝を衰退させた。このため今日本は墓や位牌が失われ社会的な大問題になっている。大変危険な状況である。 故倉前盛通教授は、次のように日本人に警告している。「世界で民族宗教を頂くのは日本人、ユダヤ人、(インド人)だけであろう。他はキリスト教やイスラム教に征服され固有の宗教を失ってしまった。このうちユダヤ人はよくユダヤ教を守っているが、民族の指導者モーゼの子孫を失っている。しかし日本民族は古代の指導者を今に守り、またその崇敬が現実に生きている。これは世界の奇跡である。天皇は日本民族の生命の象徴 しかし、民族宗教を失った諸民族は、民族宗教を護持する民族を妬み滅ぼそうとする。それが神道やユダヤ教を敵視するキリスト教やイスラム教である。だから日本人はよほど警戒心を持たないと天皇崇敬を滅ぼされてしまう」昨今の内外の動きに我々は思い当るところがあるのではないか。神道は異教に寛大であるが、外国の宗教は神道に寛大ではない。最近でもイスラム教徒が浅草の仏像を破壊したニュースが報じられている。 米国は占領統治に当たり「米国民主主義」を掲げたが正確な定義はない。米国は欧州のキリスト教の狂信的な過激派がカトリック勢力に負けて移住し、原住民を滅ぼして作った国である。その特殊な宗教風土に18世紀にフランス革命の思想が加わり独特の政治風土を作っている。フランスのトクビルはその特徴を平等主義としている。しかしこれはリンカーン大統領が「人間は平等だ。しかし黒人を除く」という白人の平等主義を嘆いたように偽善である。したがって米国民主主義とは今回の大統領選挙の混乱で見られたように偽善的で独善的なリベラル思想なのだ。米国民主主義を過大評価してはならない。 戦後占領軍が不敬罪を廃止したので、皇室を誹謗中傷するデマが流されている。特に皇太子妃殿下を執拗に狙う。これは民間出身で皇室の一番弱い環であるからだ。敵の本当の狙いは天皇陛下である。これは実質テロ行為だから日本政府はしっかりと敵の邪悪な意図を見破り皇室の権威をお守りする必要がある。このためには不敬罪を再開しなければならない。タイ国では国家と国王への尊厳を守るため違反者を厳しく取り締まっている。尊いものは具体的に守らなければならない。豚に真珠を汚させてはならないのだ。いまだに占領統治の反日政策を引きずる誤った時代を終わらせなければならない。 天皇陛下は日本人にとり空気のような存在である。通常その重要性に気がつかないが、失われればたちまち国民は窒息する。天皇は憲法では政治的な統合の象徴とされているが、それよりも日本民族の生命の象徴なのだ。全日本空手道選手権大会を観戦される天皇陛下=2016年12月 皇族の回復には占領憲法の改正が必要だ。しかし国民投票は時間がかかり実質不可能である。そこで私は占領憲法の前提である世界平和が実現するまでは占領憲法を棚上げすることを提案する。そして皇室護持や再軍備を含めた民族の生存に必要な条項を定めれば良いと思う。棚上げだから憲法改正も国民投票も不要である。マキャベッリは「政治は結果で評価される。結果が良ければ手続きは正当化されてきた」と記している。あとは指導者の決断力だけだ。 今後の天皇陛下のご譲位という大事業にあたり、我々は大変御苦労された今上陛下に深く感謝するとともに、新しく即位される皇太子殿下を全力で支え、一致団結して日本の新しい時代を開いて行こうではないか。

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    皇室の未来と「象徴」の地位を縛りかねない陛下のお言葉

    セージがテレビの画面に映し出されると、街では若者たちが足を止めて陛下の言葉に耳を傾けた。普段は天皇や皇室について強く意識することもない人たちだろう。一様に不安そうな顔をしているようだった。世論調査では8割、9割の人々が陛下の「生前退位」に賛成している。私には、これらの数字もご高齢の陛下への共感・同情とともに、自らの存在根拠が揺らいでいる人々の不安の表れのようにも思えた。自ずと昭和天皇がご病気で明日をも知れない状態であった頃、連日、皇居前に何万人という人たちが集まり、ご快癒を祈る記帳した姿を思い浮かべた。ビデオメッセージでお気持ちを表明する天皇陛下の映像を見る人たち=8月8日午後、東京・新宿 天皇陛下が退位・譲位へのご意向を示されたことは、天皇の位が揺らいでいることを意味している。当事者である陛下が退位・譲位の意向を示されているが、そのままご意志が実現できるかは明らかでない。皇太子殿下が皇位を継承されることは明確であるものの、それまでの間、天皇の位が不安定になっている。人々の不安な気持ちは、国家の基軸ともいうべき天皇の存在が揺らぎ、不安定になっていることの反映でもある。 今回の陛下のご意向は、現在の皇室制度が前提としている終身在位制の否定の表明である。あるいは、いったん天皇の地位に就いたならば、崩御までその地位にあらねばならないという終身在位制と、陛下がお考えになり、追求されてきた「象徴」としての務めとが、ご高齢になるにしたがって「務め」が十分にできなくなってくることから、矛盾を来し始めているとのご指摘でもある。そのことは、「既に80を越え、(中略)次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるではないかと案じています」というお言葉によく表現されている。「象徴」としての務めを全身全霊で果たすことができない天皇は「天皇」とは言えず、そうであるなら自らは退くべきでないかとのご表明でもある。陛下がどれほどの強い責任感で「象徴」としての務めを果たして来られたかを示すものでもあり、国民の一人として限りなくありがたい。 憲法や皇室典範などが示す現在の皇室制度はご生前での退位・譲位を想定していない。想定していないどころか、天皇の生前での退位・譲位を積極的に排除している。現在の皇室制度は明治時代の大日本帝国憲法や旧皇室典範を基本的に継承している。憲法や皇室典範の起草を主導した伊藤博文らは、皇室の歴史を入念に調査した上で、退位・譲位の慣行は皇室本来の伝統ではなく、仏教の影響によるものであり、退位・譲位を許せば、天皇の地位が不安定になり、国家が分裂する。その代表例として南北朝の混乱を挙げて、そのような混乱が生じないように退位・譲位を認めない終身在位制を確立した。事実上、終身在位制を否定された陛下のご意向 この考えは戦後の現在の憲法や皇室典範にも基本的に継承され、政府はこれまでにも国会で繰り返し、退位・譲位が認められない理由を説明してきた。そこで挙げられてきた理由は、(1)退位を認めると、歴史上みられた上皇や法皇といった存在が出て弊害を生ずる恐れがある。(2)天皇の自由意思に基づかない退位の強制があり得る可能性がある。(3)天皇が恣意的に退位できることになると皇位の安定性を脅かす――。そして、退位・譲位ではなく、摂政や国事行為の臨時代行の制度で十分対処できるとしてきた(平成4年4月7日、参議院内閣委員会、宮尾盤・宮内庁次長)。 今回の陛下のご意向は事実上、この明治以来確立された終身在位制を否定された。摂政の制度があるから退位・譲位は必要でないとするこれまでの政府見解を明確に否定された。すなわち現在の憲法や皇室典範が構想している皇室の制度をいったんゼロベースに戻して、ご生前での退位・譲位を可能とする新たな制度設計を求められたということだ。副大臣の認証式を終えられた天皇陛下。右は安倍首相=8月5日、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 陛下が自ら「重い務め」とされる「象徴」としての務めに取り組まれるご姿勢は大変尊く、ご負担の軽減をして差し上げたいと思うのは政府も国民の大多数も共通した思いだろう。しかし、むしろ積極的に排除している退位・譲位を可能とする制度を新たに構築するとなると気の遠くなるほど多くの検討と混乱を生じさせない精緻な制度設計が必要となる。 選択肢は4つだろう。①ご生前での退位・譲位を可能とする皇室典範の改正。②恒久法である皇室典範は改正ではなく、今回限りとする特別立法の制定。③退位・譲位でなく、摂政を置く。④同じく退位・譲位でなく、国事行為の臨時代行の制度を活用する――である。 ①②には大きな困難を伴う。積極的に排除している退位・譲位を認めるに当たってそれを皇室典範でなく、特別立法で可能かについても検討しなければならない。関連して見直さなければならない制度はあまりに多い。退位・譲位の要件や手続きを明確化しなければならない。先の政府見解との整合性を考える必要がある。ご高齢によるものであったとしても天皇の自由意思による退位・譲位を認めると例えば、気に入らない総理大臣を任命したくないために退位を表明したり、表明させられたりするなどして、天皇の信任を得られない総理としてのダメージを与えることも考えられるとの指摘もある(園部逸男著『皇室制度を考える』中央公論新社、2007年)。 また、退位・譲位を認めるとなると、その反映として皇位継承権のある男性皇族が天皇の位に就かないこともできるのかという問題も生じる。「万一継承者のすべてが就位を拒否するという事態に至るならば、天皇という制度は存立の基礎を揺り動かされることになる」との指摘もある(高尾亮一、憲法調査会事務局『皇室典範の制定経過』1962年)。恐るべき事態だ。「生前退位・譲位」ありきであってならない 退位後の称号、処遇、予算、お住まい、スタッフなどの検討はもちろんのこと、ご活動のうち、憲法上、何ができて何ができないのかについて整理する必要がある。退位式はどうするのかの検討も必要だ。とりわけ、今回の陛下のご意向の中でも具体的な言及のあった大喪から即位にいたる一連の儀礼について、これを生前での退位・譲位を前提としたものに組み立てなおさなければならない。現在は一連の儀礼については旧皇室典範に基づく皇室喪儀令などで細かく規定されている。宗教的な色彩を伴うものも多く、専門家による精緻で詳細な検討が必要になる。崩御の際の大喪についても天皇の位を退かれた前天皇の喪儀の在り方や規模についても検討し直さなければならない。元号も変わってくる。 ③④は退位・譲位を必要としない選択肢であり、大掛かりな制度変更を必要しない。しかし、陛下は今回、摂政を置くことを明確に否定された。国事行為の臨時代行についても否定的だ。しかし、政府としては、これらも①②とともに有力な選択肢としてそのメリット、デメリットを挙げて慎重に検討しなければならない。ことは国家の基軸である皇室の存立基盤に関わる問題であり、陛下のご意向は尊重しつつも、ご生前での退位・譲位ありきでの検討であってならないはずだ。他の解決策も併せて考えるべきだろう。日本学士院賞の受賞者らとの懇談に臨まれる天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮ご夫妻=6月27日、皇居・宮殿 陛下は全身全霊で「象徴」としての務めは果たすことができなければ、天皇の地位にあるべきではないと考えていらっしゃるようだ。繰り返し言うように、そのご姿勢は陛下のご人格の誠実さを示しており、限りなくありがたい。しかし、敢えて申せば、そのような天皇としての自己規定は次世代を縛りはしないだろうか。天皇にはそのお役割の重要性とともに、その大前提として神話に由来し、初代の神武天皇以来、一貫して男系の血だけで継承されてきたという、他に代わる者がいない存在の尊さがある。退位・譲位の制度化には、その皇室の尊厳や存在基盤を脅かす危険性も伴う。陛下のご意向は尊重しつつ、皇室がその尊厳を汚されることなく、永続するためにはどうすればよいかという視点での慎重な検討が必要なのではないか。

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    象徴天皇の意味と皇統の危機

    。天皇の地位は、主権者である国民の総意に基づく。陛下のお気持ちを受け止めつつ、改めて象徴天皇の意味と皇室の未来を考えたい。

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    民衆とつながる天皇像 「お気持ち」に表れた今上陛下の自信

    行憲法と同じです。また驚くべきことに、こうした超保守的な方々が、どうも今上の御意思に疑念を投げかけ、皇室典範の改正の必要はないと言っているようなのです。 こうした方々のオピニオン誌への寄稿を見てみると、かつての西郷どんのような暑苦しいまでの尊王の志は感じられません。そこに感じられるのは、ある種ヒヤリとするような官僚的冷たさです。杓子定規的な現行の法解釈に時折混ぜ込まれる(かくかくしかじかの混乱を)「天皇陛下は望まれていないだろう」(八木秀次「皇室典範改正の必要はない」『正論』9月号)という差し込みには、御簾の奥に今上を閉じ込めておこうとする意志があるのではないかとすら邪推してしまうほどです。あるいは、明治時代にさかのぼり、伊藤博文など憲法起草者である元老の当時の議論を援用して、譲位に伴うリスクや天皇制度の趣旨から譲位に反対する保守派の一部の態度には、天皇制度を利用して武士から建国者に上り詰めた長州閥の系譜を感じさせるところがあります。 つまり、平たく言えば、今回の譲位の御意思を快く思わない保守派には、明治~昭和期の伊藤から美濃部のような国家主義者の血が流れているということができるのです。2012年草案に賛同するような改憲派は、「新・天皇機関説」論者と呼ぶことができるでしょう。もっとも、かつての天皇機関説が強い天皇像にかぶせられた制約に過ぎなかったのに対し、「新・天皇機関説」論者は天皇の主権も人格もなくして皇祖皇宗の伝統に閉じ込めておくことによって、より国家主義の度合いを強めているとさえ言ってよいと思います。今上の示された共同体とは今上の示された共同体とは しかし、それに抗ったのが今回の御意思の表明ビデオでした。今上はこれまで作り上げてこられた象徴天皇の解釈によって、民衆とつながる天皇という像を直接国民に語りかけることで実現したからです。今後健康寿命と寿命の差が開く超高齢化社会にあって、仮に深刻なお病気をされた場合、生命維持装置に繋がり続けなければならないこともあるかもしれません。現に多くの高齢者はそのような運命をたどっています。とにかく生きていればよい、というあり方では象徴天皇とはいえない。そのような考え方は、むしろ自身のこれまでの活動を適切に評価しているとは言えないと踏み込んで発信されたのだともいえます。 ここでビデオメッセージの中でとくに目を引いた言葉をあげてみたいと思います。「共同体」という言葉です。市井の人々が慈しみ存続させている、いたるところの共同体に、自らは象徴として息づいているのだというメッセージでした。正直申し上げて、衝撃を受けた人は少なくなかったのではないでしょうか。その共同体が残っているのは日本の地方でしかないかもしれませんが、そここそが自民党の地盤であり、もっぱらイデオロギー活動にいそしむ保守派論客が決して根を下ろそうとはしていない郷里だからです。私には、直後に短い会見をした総理の眼にうっすらと水の膜がかかっているように見えました。穿った見方かもしれません。真相は分かりませんが、多くの地方選出の保守系議員は今上陛下のお言葉を受け止めることができたのではないかと思うのです。天皇陛下の「お気持ち」を受け、発言する安倍晋三首相=8月8日、首相官邸(斎藤良雄撮影) 翻って、リベラルは代替わりをしつつあります。戦前回帰を戒め、天皇の影響力を極小化したい観点からは、今上のビデオメッセージによる直接の国民への呼びかけは心穏やかでない人もいるでしょう。政策に関与しないと明言されたとはいえ、その自信に満ちたご風からは、都市リベラルは戸惑いを感じる向きもあるでしょう。ですが、新しい世代は、より普遍的に物事を見たうえで、天皇家の人権という概念も受け入れる余地があります。もしくは今上の来し方から、すぐに戦前回帰という脊髄反射をしない傾向もあります。制度変更における緊張関係 制度変更ということになると、一人の生身の人間の「引退したい」という意思と、譲位を制度化することによる潜在的な懸念との緊張関係の中で、制度設計が定まっていくことになるでしょう。もう一つの重要な観点は、憲法改正が現実的な問題として議題に上ってくる参院選後の今の日本において、天皇をどのように位置づけていくかということです。君主と国民主権と代議制民主主義という緊張関係を孕んだバランスのもとに、あらゆる人の人権を守っていくということは、天皇の独断も、多数の専制も、政治エリートの暴走も許さないということにほかなりません。今上の人権に配慮しつつ、政治エリートと主権者である国民が議論をしていく必要があるでしょう。(ブログ「山猫日記」より2016年8月9日分を転載)

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    今上陛下の譲位をどのように実現させたらよいか

    ことが窺える。 とすると、譲位を実現させることは、陛下の御懸念を払拭する有力な方法であろう。しかし、皇室典範には譲位に関する条項が無く、天皇は崩御までその地位を退くことはできないと解されている。なぜ譲位が制度化されていないか 歴史的には多くの譲位の例があるが、明治期に皇室制度が整備された折に、なぜ譲位の制度は規定されなかったのだろうか。 『皇室典範』の討議では、①天皇が随意にその位を離れることに理はない、②歴史上の譲位が為政者の事情に左右された、などを理由に譲位の規定は削除された。 その後、終戦後に皇室制度が再び公式に議論されたが、政府は、天皇自身のお考えで譲位なさることは国民の信念と調和しないと答弁し、制度化は見送られた。 次に譲位が議論されたのは、昭和天皇が83歳をお迎えになる年のことだった。当時の山本悟宮内庁次長は衆議院内閣委員会で、①譲位を認めると歴史上見られるような「上皇」の弊害が生じるおそれがある、②天皇の自由意志に基づかない強制退位の可能性がある、③天皇が恣意的に譲位することは「象徴」という立場に馴染まないなどと答弁し、このときも制度化を見送っている。 歴史上の「上皇」の弊害については、歴史教科書を紐解けば、平安時代を中心に上皇の存在が政治を混乱させた事例があることを簡単に知ることができる。また、強制退位は平安時代末期の崇徳天皇をはじめ多くの事例があるし、天皇が恣意的に譲位して政治に圧力を掛けた事例としては、江戸前期の後水尾天皇の例を挙げることができよう。 このように明治維新以降、幾度も譲位が議論されてきたが、弊害が危惧され、常に制度化が退けられてきたのである。 では、譲位は実現させるべきでないかといえば、そうではない。すでに述べたような弊害が生じなければよいと私は思う。 今上天皇が譲位なさったとしても、ほぼ間違いなく、そのような弊害は生じないであろう。天皇陛下の勅語がきっかけとなって国民的議論がわき起こり譲位への道が開けたなら、一体どこに非の打ち所があるといえようか。皇室典範改正か特措法か皇室典範改正か特措法か ここで具体的な方法論を検討していきたい。譲位を実現させるには、皇室典範を改正して譲位の制度を確立させる、もしくは今上天皇一代限りの措置として特措法によって譲位を実行する二つの方法がある。 私は譲位を制度にすることには、一貫して反対の意見を述べてきた。今上天皇が譲位なさっても何の問題も生じないことは述べたとおりだが、何百年も先のことを考慮すると、上皇の弊害、強制退位、恣意的譲位などの問題が絶対に生じない保証は無い。 例えば鳩山内閣は、葉山でご静養中の天皇陛下を、組閣のために東京に「呼びつけ」ただけでなく、自らの都合で閣議の時間を遅らせ、日常的に陛下に待ちぼうけを食らわせた内閣である。しかも、中国の習近平国家副主席(当時)の求めに応じて先例のない引見をも強行した。中国の習近平・国家副主席(右)と会見される天皇陛下=2009年12月15日、皇居・宮殿「竹の間」 この鳩山内閣のように、天皇に対して何の敬意を払うこともなく、天皇を政治利用することをも憚らない内閣が、そう遠くない過去にあったことを忘れてはいけない。 譲位を制度化させてしまうと、天皇の意思に反して譲位が強行されるおそれもあり、長い将来を見据えたなら、譲位の制度化は避けるべきである。特措法で譲位の道を開くのが上策であると私は思う。 ところで、憲法2条が「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と規定していることから、『皇室典範』以外の法律で譲位を実行するのは違憲との主張も見受けられる。 しかし、条文にある「国会の議決した皇室典範」を「国会の議決した皇室に関する法律」と解釈するのは学界の有力な学説であって、違憲とは解されない。 第2条の公式英文で該当箇所は「the imperial house law passed by the diet」となっていること、昭和21年に帝国議会が日本国憲法案を審議した際に、金森徳次郎国務大臣(憲法改正担当)が第2条の「皇室典範」につき「特にこれには憲法上特別なる名称を付与したと云うだけなんです」と答弁していること、また、現行の『皇室典範』が法形式としては一般の法律と何ら変わりはないことなどから、憲法2条の立法趣旨は明白である。 つまり、第2条は、『皇室典範』の定めによらなくては皇位は継承できないという意味ではなく、皇位継承を定める法律は『皇室典範』とういう名称が付与されるという意味に他ならない。 このように解釈した場合、特措法で一代限りの譲位を実行するのに何ら憲法上の問題は生じない。また、『今上天皇の譲位に関する皇室典範特措法』などと、特措法の名称に「皇室典範」の文字があれば、形式的にも憲法2条を逸脱したことにはならない。 以上の理由により、譲位は、これを制度化するのではなく、一代限りの特措法にて行なうべきであると結論する。

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    陛下のご意向を機に天皇の「人権」まで語り出す奇妙な皇室廃絶論

    を考えつづけた方はありえない。国民は、謙虚に天皇陛下のお気持ちに応えていく義務があろう。懸念は奇妙な皇室廃絶論の盛り上がり だが、直ちに譲位を決定するために皇室典範を改正すれば、それで全てが解決するというわけではないことも、敢えて指摘しておかねばならない。明治時代に旧・皇室典範が制定された際、その第10条で「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定められ、譲位は出来ぬものとされていた。伊藤博文の『皇室典範義解』によれば、この理由は次のとおりである。 そもそも神武天皇から舒明天皇にいたるまで譲位の伝統はなかった。そして譲位がなされるようになってから「権臣」が強迫によって「譲位」を利用し、のちに南北朝の乱のような事態に立ち至った。従って、「譲位」が制度的に不可能であれば、「権臣」たちが天皇を強迫し、利用することも不可能になるだろう、ということだ。「象徴天皇」を政治利用しようとする勢力が存在するか、否かはただちに想像できないが、こうした事態を未然に防ぐための準備が必要なのは間違いなかろう。 また、もう一つ重要な問題がある。天皇陛下の譲位の問題を奇貨として、奇妙な皇室廃絶論が盛り上がっていくことへの懸念である。具体的には、日本国憲法下で認められている人権が皇族に認められていないという非難である。例えば、憲法学者の奥平康弘氏は次のようにいう。 「私は『退位の不自由』(および「身分離脱の不自由」にかぎっては、権利保障体系にもとづいて、窮極の「人権」が語られるべきだと思う。ある制度(生活環境・身分など)のために、本来ふつうの人間すべてに保障されているはずの権利・自由が構造的に奪われているばあいには、なんぴともその制度の枠組みから逃れ、ふつうの人になる「脱出の権利」(right to exit)があるべきである」(『「萬世一系」の研究』岩波書店)お気持ちを表明する天皇陛下の言葉をラジオで聞きながら、頭を下げる男性=8月8日、皇居・二重橋前 また社会学者の橋爪大三郎氏も次のように説いている。「ひとり天皇家に不自由を強いて、自分たちはこのままでいいという国民の態度は、虫がよすぎるし無責任である。そもそも象徴天皇をいただいた民主主義は、偽りの民主主義にすぎない」(「日本人のアイデンティティを体現して天皇制が直面する『構造的見直し」『SAPIO』) 天皇陛下のお気持ちを国民の一人として真摯に受け止め、高齢社会における象徴天皇は如何にあるべきかの議論を為すべきだと痛切に感じる。その一方で、御皇室の存在が民主主義とは両立しないと考える人々が「退位」について「人権」の観点から言及してきた事実からも目を背けるべきではない。現代に相応しい、そして、将来に相応しい御皇室のあり方とは、いかなるあり方なのか。我々は真剣に討議すべきであろう。

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    中東君主国と「生前退位」問題

    前退位の意向を天皇が伝えたという報道は、日本全体を大きく揺るがした。既に指摘されているように、現行の皇室典範において皇位の継承は天皇が崩御したときと定められており、天皇の生前退位を実現させるのであれば少なくともこれについて定めている第四条の改正が必須となる。 宮内庁はこうした報道を否定するとともに、天皇の生前退位そのものを認めない方針を示している。その理由として、退位後の上皇や法皇の存在が弊害を生むおそれがある、本人の意思に基づかない退位があり得る、天皇が恣意的に退位する可能性もあることを過去に国会の場で挙げており、生前退位を認めることで天皇の地位が不安定化することを懸念していると伝えられている。HOTOS.com こうした懸念は、諸外国の君主国家の事例を見ていくと、必ずしも見当外れのものとはいえないだろう。中東地域には現代においても君主制の国家が8カ国存在するが、君主の地位を巡る紛争は数多く起こってきた。国によっては病気などの理由により君主が職務の遂行をできなくなった場合には王位の継承が認められている場合があり、生前退位が制度上完全に制限されているわけではない。 しかし、それは生前退位が制度化されているということを意味しておらず、依然として君主の地位は終身であることが前提になっている。そのため、中東地域では君主は統治者として政治的な権力と一体化していることもあって、権力闘争によって既存の法制度や政治的慣習を超越する形で王位の継承が行われてきたという事例も少なくない。日本と中東では歴史や文化、社会が大きく異なるため、単純な比較はできないが、天皇の生前退位を巡る問題について議論を整理するためにも、中東の君主国の事例をいくつか紹介をしてみよう。望まざる退位と宮廷クーデターの懸念望まざる退位と宮廷クーデターの懸念 生前退位を認めることに関する最大の問題は、本人の意思に基づかない退位がありうることであろう。中東においても、王位継承権のある他の王族が君主を追い落とす宮廷クーデターの事例は枚挙に暇がない。例えば、オマーンの現国王であるカーブースは、1970年に英国の支援を受けて父であるサイード国王を追放して王位の座に就いた。カタルでは、先代にあたるハマドは1995年に、先々代にあたるハリーファは1972年に、いずれも君主が国外で不在の間にクーデターを起こし、王位を奪っている。 アラブ首長国連邦(UAE)を構成するシャルジャ首長国では、1965年、1972年、1987年と連続して宮廷クーデターが起き、サクル前首長が従兄弟にあたるハーリド首長に対して起こした1972年のクーデターでは、ハーリド首長が殺害されるという事態に至っている。もっとも、連邦政府はこのクーデターを認めず、軍事力を持ってこれを鎮圧させ、サクルは8年間刑務所に収監されることになった。新たな首長にはハーリドの弟のスルターンが就き、現在までその地位を維持している。iStock こうした宮廷クーデターは、国内外の支持を得て早期に終息する場合もあるが、国家を二分し、外国の介入を招くことにより問題を複雑化させることもある。サウジアラビアでは1950年代から60年代にかけて、兄弟であるサウード国王とファイサル皇太子との間での紛争が顕在化し、大きな問題となった。 サウードは放漫な財政政策や私生活の乱れを諸王族から非難され、首相の座とともに政治的な実権をファイサルに委譲することを余儀なくされた。その後、サウードは改革派王族と結託し、勢力を回復させて首相の座を取り戻したり、国王親衛隊を動員してファイサル派と一触即発の事態をも作り出したりしたものの、最終的に主要王族や部族、聖職者、改革派勢力はファイサル支持で一致し、サウードを国王の座から強制的に退位させた。だが、退位したサウードは当時サウジアラビアと対立していたエジプトに移り、自分の退位はファイサルの陰謀であるとして、自身の君主としての正統性を主張し続けた。 興味深いことに、ここで挙げた事例はシャルジャを除いていずれも皇太子(あるいは事実上の後継者)が主導したクーデターである。すなわち、将来的に君主の座に就くことが約束されているにも関わらず、現君主の追い落としを主導していることになる。これは、宮廷クーデターが王位を巡る権力闘争を理由として発生するだけでなく、現君主の資質が問われる場合にも発生するということを意味しよう。 日本では、天皇の地位は象徴であって、国政に関する権能を有しないことが憲法上規定されているため、権力を目的にした生前退位の強制が行われることは想像しがたい。しかし、政治的な理由によって天皇の資質が問題視され、生前退位が強制される可能性はゼロとは言えないだろう。サウジアラビアの例が示しているように、君主としての資質が問題視され、その理由が多くの者に支持される場合は、君主に退位を迫ること自体が正当化されうるからである。 もっとも、こうした非常事態においては軍の動員などの非常手段が行使されるのが常であり、制度で生前退位を禁止しておくことが宮廷クーデターを防ぐ抑止力になりうるのかは別に検討する必要があろう。院政が生み出す二重権力院政が生み出す二重権力 宮廷クーデターのように君主の意思に反する退位が強制されるのと対照的に、君主の意思一つによって自由に退位が可能である、というのも同じく問題含みである。もっとも、この問題は二つの相反する要素から成っており、一つは退位した君主が権威や権力を持ち続け二重権力が生じかねないという問題、もう一つは君主が恣意的に職務を放棄しかねないという問題である。iStock 前者は、院政という言葉があるように、日本の歴史上においても馴染みの問題と言えよう。他方、現代の中東では、君主が自発的な意思によって生前退位をすることは稀である。君主が政治的な権限を皇太子や首相に分散させ、日常の政務・公務から遠ざかる例は多いが、君主の地位は死ぬまで保持することが一般的だ。例えば、サウジアラビアではファハド国王が1995年に脳卒中で倒れ職務の遂行が不可能になったが、2005年に死去するまでの10年間、アブドゥッラー皇太子が事実上の統治者として政務・公務の全権を担ったものの、王位はファハドが持ち続けた。 UAEでも2014年1月にハリーファ大統領(アブダビ首長)が脳卒中で倒れ、現在に至るまで一度も公の場に姿を見せていない。そのため、アブダビ皇太子のムハンマドが実質的な国家元首として振る舞っているものの、連邦政府の大統領、そしてアブダビ首長国の首長という地位は、ハリーファのままである。もっとも、これらはいずれも病気を理由にしたものであり、仮に生前退位が行われたとしても院政のように前の君主が権勢を振るうことは期待できなかろう。 そのため、2013年にカタルの時の首長ハマドが、息子のタミーム皇太子に生前譲位を行ったことは、従来の慣習を破るものであり内外で驚きをもって迎えられた。サウジアラビアやクウェイトなど近隣の湾岸諸国の君主の年齢が80歳を超えるなか、当時ハマドは61歳とまだ若く、健康を害しているという噂もなかった。ハマドが生前譲位に踏み切った理由は定かではないが、これまで2回連続で宮廷クーデターによる王位の交代が行われていたカタルにおいて安定的な権力の委譲を行うこと、そして自身が推すタミームへの王位継承を確実なものとすることが目的だったと考えられている。 ハマドからタミームへの交代は、当時カタルの外交方針が近隣のアラブ諸国と競合・対立関係にあり、サウジアラビアやエジプトとの関係が悪化していたことから、こうした路線を転換させる契機にもなりうると見られた。しかしながら、タミームが外交においてもハマド同様の路線を進めることが明らかになると、実際の外交案件を握っているのは依然としてハマドであるという見方も出てくるようになり、タミームには決定権がないと評価する向きもある。 政策決定過程が外から見えないため、ハマドがタミームにどのような影響を及ぼしているかは不明である。しかし、ハマドが皇太子の座を3男のジャーシムから4男のタミームに移した背景には、当然ながらタミームを自身の後継者として選ぶのに好ましい素養があったからであろう。院政による二重権力の発生が問題になるのは、権力者のどちらの判断が優先されるのかが判然とせず、両者の間に権力闘争が発生するからであろう。退位した君主と新たに即位した君主との間に政策上の不一致がほとんどないのであれば、二重権力による問題は避けられると考えて良い。 翻って、日本の天皇制について考えてみると、政治的な権力を有しておらず、内閣の助言と承認によって国事行為を行う天皇という地位は、仮に生前退位が実現したとしても、権力の二重構造が生じる可能性は極めて低いのではないだろうか。勝手に辞めてしまう国王勝手に辞めてしまう国王 君主の自由意思による退位に関するもう一つの問題は、君主が果たすべき職務を放棄する事態が起こりうるということだ。院政とは対照的に、君主が権力に固執せず、退位後に影響力を行使しないケースがこれにあたる。もっとも、先に述べたように、通常は終身制をとる中東の君主制において、君主が自発的に退位する例は非常に少ない。 そもそも中東諸国では日本のように生まれによって王位継承の順序が自動的に決まるような制度をとっておらず、国王が王族の中から皇太子を指名するという形式が一般的である。そのため君主になる意思がなかったりその資質がないと見なされたりすれば、現君主の長子であっても皇太子に指名されないということがしばしば起きてきた。 こうした理由から、近年で自発的に退位をした上で権力から完全に遠ざかった人物は中東の君主国家のなかにはほとんどいない。やや時代が遡るが、オマーンのタイムール国王はこれに当てはまる数少ない事例であろう。タイムールは1913年に即位したが、国内では地方部族による反乱が相次ぎ、内陸部には事実上の自治区が形成されてしまった。 こうした状況に嫌気がさしたタイムールは以後繰り返し退位の意向を表明するようになり、オマーンを離れインドに滞在するようになる(当時は両国とも英国の支配下にあった)。英国政府やタイムールの長子であり事実上の後継者であったサイードは、タイムールに翻意するよう説得を試みたものの、タイムールの意思は固く、1932年2月にタイムールからサイードへの生前譲位が実現する。退位後、タイムールは亡くなる1965年までのほとんどの期間をインドで過ごしており(1936年に日本人女性と結婚したことから、神戸で生活を送っていた時期もある)、政務・公務からは完全に遠ざかっていた。iStock オマーンの事例は、本稿冒頭で宮内庁が天皇制を不安定化させる懸念の一つとして挙げた君主による恣意的な退位に当てはまろう。退位後に30年も存命だったことから分かるように、タイムールは君主として職務の遂行ができなくなるような健康状態だったわけではない。言わば本人の希望以外に退位を正当化するさしたる根拠がないわけだが、こうした生前退位が時の君主の意向によって相次ぐようであれば、君主制そのものが不安定化する恐れがあるという指摘は的を射ている。 他方、生前退位を制度上可能にすることで、実際に君主が次々に辞めていくという事態が発生する可能性は小さいのではないかとも考えられる。当時のオマーンは生前退位どころか王位継承に関する法制度そのものが存在しなかったわけだが、それでもタイムールの事例が例外的なケースとして残るのみである。サイードは王位継承時に若干21歳であったが、1929年から閣議を主宰するなど、王位継承前から政務の多くを担っていた。タイムールの生前退位が国内外において認められたのは、こうした後継者の存在が確認できたからであり、そうであれば意欲のない国王の統治を継続するより、新たな国王の下で政治を行う方が良いという判断があったと考えられよう。 生前退位を巡るいずれの問題も、対応を誤れば制度そのものを瓦解させかねない危険性があることから、決して過小評価できるものではない。しかし、その脅威を現実的にどこまで懸念すべきかについては、その国の君主の役割や権能、そしてその社会の置かれている状態によって変化するものであろう。日本の天皇制のあるべき姿について論じる際にも、こうした諸外国の事例を参考に思考実験を重ねていくことが望まれよう。

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    国民に投げかけられた陛下の問題提起 時限特別法は解決にならぬ

    下の「おことば」の意図するところ、いずくにありや。つらつらおもんみるに、陛下の「おことば」は、現在の皇室制度が孕む様々な課題について、御自らのご体調を引き合いに出され、国民に対して問題提起されたものではないかと思われてならない。連合国軍総司令部(GHQ) 現在の皇室制度の法的根拠は日本国憲法及び皇室典範であり、直接的には後者である。今回「おことば」が発せられたのを機に、皇室典範を改めて読んでみた。全37条から成り、大日本帝国憲法下で制定された旧皇室典範全62条(其の外に増補が10条あり。)と比べて、簡素な内容である。ここで個別に分析を行うことはしないが、我が国に脈々と続いてきた皇室について、規定する法律としてはあまりにも簡素過ぎるのではなかと思う。 占領軍によって明治憲法下の様々な制度が解体され、それらを前提としていた旧皇室典範も新たに作り直されることとなった結果ということであろうが、そう短絡的な話でもあるまい。譲位が制度上できなくなったのは明治憲法下の皇室典範から、男系の男子とされたのもまたしかり。江戸時代までは存していた「上皇」(太上天皇)等も規定されていない。その他、皇族は養子をすることもできないという現皇室典範第9条の規定は、旧皇室典範42条と同様の規定である。 この辺りは皇室典範や皇室制度のご専門の方々に是非解説を願いたいが、占領軍は何を考えて現行の皇室典範を許可したのか、現行の皇室典範の立案過程においては、脈々と続き、積み重ねられてきた有職故実を顧み、それらを踏まえる余裕はなかったのではないかといった現皇室典範に関する事項に加え、そもそも明治憲法下での天皇大権という制度の総括は行われたのか、江戸から明治に変わり、皇室制度はどのように改められたのか整理・把握されているのか、そうした旧皇室典範、戦前の皇室制度に関する事項を明らかにすることによって、現行皇室典範とその課題の根元がより明らかとなり、解決の方向性も見出せるのではないかと思う。 陛下はご自身の「象徴」というお立場、現行憲法上国政に関する権能を有しない点を「おことば」の中で強調され、皇室制度に具体的に触れられることは避けられた。だからこそ、国民としては、陛下の「おことば」をしっかりと受け止め、象徴であることを前提として、これからの皇室制度の在り方について思いを馳せるべきであろう。生前退位や今上陛下のご体調の話のみに矮小化されるべきものではあるまいし、ましてや時限の特別法による対応など、もってのほかである。 (公式ブログ「政治・政策を考えるヒント!」より2016年8月9日分を転載)

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    オーストリアメディアが見た天皇陛下「生前退位」のご意向

    ッセ」2016年8月9日付 中欧を久しく掌握していたハプスブルク王朝時代を持つオーストリアでは王室、皇室について元来強い関心がある。天皇陛下が生前退位の意向があるという第1報が流れた時からオーストリア通信(APA)や同国メディアは報じていた。そして8日の天皇陛下のビデオメッセージについて、プレッセ紙のアンゲラ・ケーラー東京特派員が国際面にほぼ一面を使って詳細に報じていた。 長い駐在体験のあるケーラー特派員は、「82歳の天皇は国家象徴の公務を成就する体力に欠けている。ただし、生前退位は皇室典範には何も明記されていない。同時に、後継者問題も明らかではない」と指摘し、天皇陛下の生前退位は容易な問題ではないと伝えている。 記者は後継者問題に言及し、「伝統的には皇太子殿下が継承する。皇太子は既に天皇陛下の公務を代理で行ってきたが、父親の天皇陛下との関係はよくない。その背景には、外交官出身の妃、雅子妃殿下が皇室の世界に順応できなく、後継者となるべき男子を出産できなかったことなどがある」と紹介。皇太子とは好対照に、世襲順位で第2の秋篠宮様には男子の子供もあって、「天皇の男子世襲制という観点から判断すれば、皇太子ご家庭より適している」と報じている。 第2次世界大戦の終戦後、天皇は象徴天皇となり、政治には全く関与しない立場となり、日本国民の統合のシンボルとなった経過を説明し、「現天皇陛下は国民の人気は高い」と指摘。生前退位問題では、「世論調査によると、国民の85%は天皇の生前退位を支持しているが、天皇が変われば元号が変わる。日本の社会全般が大きな変化を余儀なくされる。そのため、安倍現政府は天皇陛下の生前退位の願いを迅速には成就しないかもしれない」と予想している。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2016年8月10日分を転載)

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    陛下のお言葉は歴史的な玉音放送 「天皇のしらす国」のありがたさ

    持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する」(木戸日記)さらに、そのとき陛下は、「自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい」(左近司国務相)とまで言われたという。  以上、一昨日八月八日の、今上陛下のお言葉は、七十一年前の八月九日から十日にわたる御前会議を締めくくる御父君、昭和天皇の、無私の御決断を背景にして述べられている。さらに、その昭和天皇の御決断は、明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲んで為されたものである。  このように、近代国家である日本は、明治、大正、昭和そして平成と、太古から連続し一貫して、「天皇のしらす国」として歩んできて、これからも歩んでいくのである。八月八日の陛下のお言葉の伝達は、やはり玉音放送であり、歴史的である。諸兄姉、天皇のしらす国、日本に生まれた有り難さを噛みしめようではないか! (「西村眞悟の時事通信」より 2016年8月10日分を転載)

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    日本に万人平等の社会をもたらした「天皇」という超越的存在

    黄文雄(評論家)《徳間書店『世界が憧れる天皇のいる日本』より》  「国の誇り」は世界のどの国にもあるものである。 たとえば近代中国は、悠久な五千年の歴史や人口が多いこと、さらには地大物博(土地が広くて何でもあること)などを小学生の頃から教え、それを国自慢にしてきた。 近年よく話題になっているのは、韓国ハングル世代のウリナラ(我が国)自慢である。漢字もサッカーも、人類の文化、文明、文物はたいてい韓国起源と主張し、朴槿恵大統領まで、「韓国人は優れた創造DNAをもつ」などと自慢している。 もちろん西欧においても、大航海時代以後に文明的優位を確立してから、非西洋諸民族への植民地化は宗主国の使命であり、文明化や人道人権を伝えたとしている。現在でも自由、民主、人権などは普遍的価値として、欧米ではそれらを世界に広めたと誇りにしている。 戦後日本は、国に誇りをもつよりも貶める自虐史観が流行った。戦前はすべて否定され、「愛国」は危険な思想とまで見られてきた。だから「日本の誇りを取り戻す」ということは国を思う人々にとっては、むしろ宿願だろう。 だが、日本は「万邦無比」の誇りをもっている。それは「万世一系の天皇」をいただいているということである。そしてこれは世界唯一のものであり、世界の憧れでもあるのだ。象徴としての務めについてのお気持ちを表明される天皇陛下=8月7日、皇居・御所応接室(宮内庁提供) 日本は平安時代や江戸時代に数百年にわたる平和社会が続いた。また、戦後日本も70年近くにわたり平和を維持している。しかも、江戸時代から現在まで、来日した外国人が一様に認めるように、治安が良く、親切で、世界一安全な国である。世界中それほど安定して安全な社会があるだろうか。これも「万邦無比」であろう。 この平和な社会は、全人類にとって貴重な文化財産でもある。では、こうした「万邦無比」の平和と安定、そして安全な社会は、いったいどう生まれたのだろうか。それは「万世一系」が象徴するように、超越的な「天皇」の存在があってこそ、その社会を育んだのである。天皇を中心として国民がまとまり、平和が維持されてきたのである。そうでなければ、「万世一系」自体が不可能である。中華の王朝交替時に見られた反乱や虐殺の歴史を見れば、それは明らかであろう。 日本人にとっても、人類史にとっても「万世一系」の超越的な天皇の存在が、いかに貴重で「万邦無比」あり、未来の人類にとっても福音であるかということを明らかにするのが、本書を世に問う動機の一つである。世界一「何でもある国」日本 本書は主に四つの論題にしぼり、四章に分けて天皇をとりあげている。その主な主眼は次の通りである。(1)まず外国からの天皇観を紹介した。古代から近現代まで、そして東洋人、西洋人から天皇はどう見られ、どう語られてきたかを述べた。もちろんその中には誤解や曲解も含まれている。(2)他国では不可能だった「万世一系」が、なぜ日本では可能だったのか。そして、それが日本にどのような作用を及ぼしたのか。ことに明治維新以後にアジアでもっとも早く近代化し、世界の大国にまでなれた理由を、天皇の存在から読み解いていく。(3)天皇と他国の元首とはどこが異なっているのか。中華帝国の皇帝との違いを中心に、他国の国王や法王などのあり方の差異から、皇統が連綿と続いてきた理由を探る。(4)天皇と日本人の関係について。歴史的に見ても、天皇は日本人にとって「無私」としての公的で超越的な存在である。その一方で、日本人と天皇のつながりは、他国の国家元首と国民の関係に比べて、極めて強い。なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか、その秘密を探る。 日本が海外から誤解されていることは多々ある。たとえば、戦後に民主主義が広まったというのも、その一つである。民主主義にとって必要不可欠な条件は、少なくとも二つある。一つは徳治(人治)社会ではなく法治社会であり、民衆に遵法精神があるということである。日本人の遵法精神については、すでに開国維新以前に確立されていた。そのことは、江戸時代に来日した西洋人の見聞録などにも書かれている(詳しくは拙著『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』〈徳間書店〉を参照されたい)。 もう一つは多様性の是認である。日本は世界一「何でもある国」である。江戸時代は朱子学だけでなく陽明学、蘭学、国学、そして神道も仏教もダイナミックに競っていた。天皇という超越的存在の下で万人平等の社会であったため、それが可能だったのだ。 フランスの民主主義は国王から奪ったものだが、日本の民主主義は四民平等、万民平等という社会のしくみから生まれたものである。 神代の神議から今日に至るまで、日本の民主主義は日本文化の歴史の申し子そのものであることは、本書でも改めて指摘したい。 本書は日本人が書いた天皇論とはやや趣を異とし、台湾で生まれ育ち、その後、日本で半世紀を暮らしてきた筆者が、第三者の目から天皇と日本人について分析したものである。日本の素晴らしさや底力について考えるための一助になれば幸いである。 黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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    なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか

    」から神格化されたものではなく、自然からごく自然に生まれた自然の感情である。 大日本帝国憲法と並ぶ「皇室典範(こうしつてんぱん)」には、皇嗣(こうし)が皇位を継ぐ践祚(せんそ)に際し天皇が「祖宗ノ神器ヲ承」とあり、「祭主」としての相続のあり方が明記されている。 日本は祭りの国として知られる。全国各地でさまざまな祭りが行われ、住民が絆(きずな)を育(はぐく)む場ともなっている。その土地その土地の神社を中心に行われることが多いが、精霊を慰める盆祭りなど寺院中心の祭りや、神社と寺院が半々のものもある。神社によって祭祀の様式に異なりはあるが、だいたいが「国安かれ民安かれ」と日常の罪(つみ)穢(けが)れを祈りによって禊(みそぎはら)祓いするものである。五穀豊穣(ほうじよう)を祈る天皇の祭祀となったものだった。新嘗祭に臨まれる天皇陛下=2013年11月23日、皇居・神嘉殿(宮内庁提供) 天皇は国の祭主として、全国の主要神社に幣帛(へいはく)(神への供え物)も供進している。つまり天皇は国の祭祀の中心的祭主にほかならず、祭主としての君主として、日本人に仰がれてきたのである。それが天皇と国民を結ぶ紐帯(ちゆうたい)となり、天皇が国体の中核的存在になったのだった。 福沢諭吉は『帝室論(ていしつろん)』(1882年)に「古代の史乗に徴するに日本国の人民が此(この)尊厳神聖を用いて直に日本の人民に敵したることなく又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし」と書いている。 洋の東西の歴史を見ると、国と民が敵対することが多いものである。たとえば易姓革命の国、中華の国は、「有徳者」が天命を受けて天子たる皇帝に即位するということを建前としているが、実際には天意と民意が異なる場合が多い。だから皇帝に基づく国権を重んじ、民権に反対してきたのである。 中国では、「国富民窮(こくふみんきゅう)(貧)」という言葉があるように、国富と民富とは対立するものなのである。「剥民肥国(はくみんひこく)」、民をしぼって国が肥(ふと)るという成語も生まれた。奴隷や愚民が理想的な人間像だから、ヘーゲルが「万民が奴隷」と定義する東洋型独裁専制の代表的な「国のかたち」こそ、中華帝国なのである。民は王朝とはまったく利害関係を共有しないので、「生民」「天民」とも称せられるのだ。 天皇が国体の中心となる国、日本の天皇が神聖視されるのは、統治者としての君主であることよりも、祭主であることによるのだろう。「昔の日本人は天皇を知らなかった」のウソ「昔の日本人は天皇を知らなかった」のウソ 戦後日本の「進歩的文化人」は、「江戸時代の日本人は天皇の存在を知らなかった」という主張まで始めた。これに対して里見岸雄(さとみきしお)(1897~1974)は著書『万世一系の天皇』で、こうした進歩的文化人らはただ2、3の特例を拾って、維新前の大部分の日本人が天皇を「知らなかった」と結論づけているが、その論証はあいまいで漠然としており、史実とはかなり乖離(かいり)している、としている。 もし日本人が天皇の存在を知らなかったとすれば、幕末のあの強烈な勤王思想(きんのうしそう)が、庶民の間にですら盛んな勢いで沸き起こったことを説明できないし、明治以降の国民の天皇崇拝意識もあり得ない。薩長(さっちょう)によってとってつけられたような天皇の権威であるなら、決して君民一体の大日本帝国は生まれなかったはずである。 江戸時代の民間文化や伝説の多くは、皇室の雅(みやび)に対する庶民の憧(あこが)れによって生まれたものである。たとえば雛祭(ひなまつり)はもともと宮中の伝統行事だったが、江戸中期以降に庶民の間でも流行した。雛人形は天皇を象(かたど)った人形にほかならない。庶民の間に流行した歌舞伎の戯曲(ぎきょく)や俳句、短歌でも、よく日本は「神国」と表現されたが、それは天照大神の子孫である天皇が治める国々という意味である。庶民に人気の「お伊勢参り」も「皇祖参り」以外の何ものでもなかった。明治初年、奥羽の住民は古来の注連縄(しめなわ)を門前に張って天皇の行幸(ぎょうこう)を仰(あお)いだ。これも天皇が天照大神の子孫であることを知っていたからである。祭りが大好きな日本人が、最高の祭主が天皇であることを知らなかったなどとは、どうしても考えられない。 大君の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)、徳川の権力の根拠はどこにあるかといえば、それは天皇から付与されているという一言につきる。 國學院大學教授の大原康男(おおはらやすお)氏は著書『現御神考試論(あきつみかみこうしろん)』(暁書房)で、日本人は天皇を知らなかったという説について、はっきりと論拠だとする資料がほとんど提示されていないことを指摘している。 江戸中期に来日したオランダ商館長、ティッチングなど西洋人の日本見聞録には、日本の元祖は天皇であり、将軍はそれの武官であると記されている。 西洋人の日本見聞録にさえ書かれているぐらいのことを、日本人が知らないことがあるだろうか。武士にしてもほとんどが源氏か平氏の末裔(まつえい)と名乗り、自らの先祖が皇祖とつながっていることを意識していたのはいうまでもない。武士だけが知っていて、庶民が知らないということはないだろう。もし江戸時代の日本人が天皇を知らなかったら、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を掲げることもなかっただろう。 戦前戦後の天皇観に大きな変化があったことは事実である。天皇を戴く日本の国体は、神代の時代から続く、「万邦無比」(世界唯一)の国体だからだ。 古来、天皇は日本の国土を統一した大和朝廷の後継者としての政治的、権力的天皇と、国の祭主としての日本伝統文化の集約者、代表者という天皇観があった。日本の「万世一系」は「万邦無比」の国体 繰り返しになるが、天皇は国を代表して国家、国土の祭祀を行う祭司王だということである。大嘗祭や践祚などは、その皇権の権威と正統性を伝えるものだからだ。戦後は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と日本国憲法にも明記されている。「万邦無比」の論拠の1つとなっているのが「万世一系」である。「万世一系」論は、20世紀初頭の辛亥(しんがい)革命(1911年)後に清(しん)王朝が崩壊した後、支那(しな)学者や東洋学者から国学者にいたるまで、日本人はしきりに易姓革命の国と「万世一系」の国を比較した。清国旗 清朝末期に制定された欽定憲法大綱は、明治の帝国憲法をモデルに「万世一系」の文言まで条文に入れたが、戊戌(ぼじゅつ)維新も立憲運動も、清の皇統と皇帝の権力を護持することに成功しなかった。満洲人の主張によれば、満洲史は支那史とは並行して5000年を有しているという伝説があるものの、太祖(たいそ)のアイシンカクラ・ヌルハチが後金国を建国してから約300年の歴史しかなく、日本とは異なり神代からの「万世一系」とは言えなかった。 実際には天皇国家日本に類似する国体が20世紀の初頭、アフリカの高地エチオピアに存在していた。しかしこの国体は1974年に消え、今現在「日本の万世一系」の国体はたしかに「万邦無比」のものである。 第2章でも記述したが、「万世一系」に対する批判は戦後起こったものではなく、戦前にもあった。早大教授、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』などの文献学的批判は有名である。 また、こちらも繰り返しになるが、戦後、江上波夫東大名誉教授が1948(昭和23)年に「騎馬民族征服王朝説」を説くと、大きな話題を呼び、論争になった。水野祐(みずのゆう)早大名誉教授が1952(昭和27)年、『日本古代王朝史論序説』を著して「万世一系」思想を否定し、いわゆる「三王朝交替説」を説く。古代日本では、互いに血統の異なる3つの王朝が交替していたとする説である。 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代以前の黄河中、下流域の中原(ちゆうげん)地方も血縁が異なるどころか、夏(か)人、殷(いん)(商)(しょう)人、周(しゅう)人など3つの異民族が約2000年にもわたって混合されて形成された文化集団が、いわゆる華夏の民、漢人の祖先とされている。水野教授の「三王朝交替説」は、日本上古史のことで、実証するには限界があるだろう。こうした「万世一系」否定説は、考古学、民俗学、神話学、国文学など、さまざまな分野や論者から出ている。 「万世一系」説以外に「天皇不親政」論も大きな議論のテーマとして残っている。津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」(雑誌「世界」1946年4月号 『津田左右吉歴史論集』岩波文庫)と題する一文の中で、「天皇親政論」について、「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承(あいう)けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである」と説いている。 実際、超古代史は「謎解き」の説に止まっていることはよく知られている。大和朝廷以後の日本史には、政権を握った蘇我(そが)、平、源(みなもと)、足利(あしかが)、豊臣、徳川などが登場する。文官もあれば武官もあり、政体は異なるが、天皇不親政が伝説となっている。 しかし、天皇不親政についても批判は少なくない。古代の天武(てんむ)天皇前後の天皇や中世の後醍醐天皇などは親政した、戦前の明治憲法では、天皇は国家元首として統治権の総攬者(そうらんしゃ)であるとの規定があり、大権を持っていたので、戦後の「象徴天皇」とは異なるなどの主張もあり、天皇論は続いていく。「現人神」と「ゴッド」の違い「現人神」と「ゴッド」の違い 中国の日本研究者には、日本の天皇を「古代からの奴隷主」と決めつける者が少なくない。それは伝統的中華史観からではなく、人民共和国成立後に跋扈(ばっこ)したマルクス、スターリンの「史的唯物論」のドグマからくる発想である。 人民共和国政権が成立した後、伝統的正統主義的中華史観は全面的に禁止され、革命史観しか許されなかった。唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)に基づく唯物史観である。唯物史観の図式によれば、人類の発展は原始共産社会から奴隷社会へ、さらに封建社会、資本主義社会、そして社会主義社会・共産主義社会へと発展していくというものである。 日本は「日本民主主義人民共和国」の革命成らず、社会主義社会にまで発展することができなかったと、中国人日本研究者は考えた。奴隷社会という中国の史実と現実からの投影もある。 詩人、政治家、そして古代史研究家でもあった郭沫若(かくまつじゃく)は、中国の代表的文化人といえる。『中国古代社会研究』や『十批判書』などの著名な著書の中で、氏は古代中国社会は奴隷社会だと説いている。 中国近代文学の父として、神格化された毛沢東とともに唯一中国で高く評価されている魯迅(ろじん)が唱えた中国奴隷史説も有名である。 魯迅は学者の歴史の時代区分に反対し、中国史を「奴隷になろうとしてもなれなかった時代としばらく奴隷になれて満足している時代」とに二分すればよいと説いている。魯迅だけでなく、中国史を奴隷史と説く近代中国の文人は多い。 人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」は冒頭、「奴隷になりたくない人民よ、立ち上がれ」と勇壮な文句で始まる。しかし、中国人は結局立ち上がることはできず、「社会主義中国」の中身は「新しい奴隷制度」にすぎないとも指摘されている。 マックス・ウェーバーは中国を「家産制国家」(支配者が国家を私的な世襲財産のように扱う国)と呼んだ。ヘーゲルの定義によれば、「一人だけが自由、万民が奴隷」という「アジア型専制独裁国家」の典型である。人民共和国が「真の人民民主主義」と誇りにする「人民専制(プロレタリア独裁)」そのものが、まさしく中国政府が自称する「中国的特色を持つ社会主義」だろう。 山本七平(やまもとしちへい)(1921~1991)によれば、奴隷制度がないのは、世界で日本人とユダヤ人だけだという。  日本人が「現人神」として抱く伝統的な天皇観は、キリスト教を信仰する西洋人には理解できない。自然や人間としての「神」は、西洋人の「GOD」とはまったく違うものだからである。宮内省(当時)の職員運動会を、昭和天皇と一緒に観戦される天皇陛下=昭和22年4月、皇居内の馬場(宮内庁提供) 神話における天照大神は、一神教に見られるような唯我独尊的な排他的な神ではなく、八百万(やおよろず)の神々を集めて「神集えに集え、神議かりに議かる」と衆議を命じた神とされている。その神の直系の子孫として地上の日本を治めるとされる天皇もまた、皇族、臣民の補翼(ほよく)、つまり彼らの叡智(えいち)を結集して政治を行うのが伝統である。つまり独裁という概念が生じないのが、日本の君主制度の一大特色なのである。 戦後、現人神の「神」が「ゴッド」と訳されたため、アメリカ人は天皇をそう理解した。天皇が神、ゴッドなどとは独裁、独断、迷信だと、GHQが昭和天皇の「人間宣言」を命令したのである。アインシュタインをも驚かせた「万世一系」 しかし日本人は天皇を全知全能のゴッドのように考えてはいなかった。日本人は古来、神と通じ、神の心を体現する天皇を目に見える神として「現人神」と呼んできたのである。天皇は決して宗教上の「神」ではなかった。アルバート・アインシュタイン(共同) 1922年、日本を訪問したアルバート・アインシュタインは、早稲田大学の大隈講堂で行った講演で次のように語っている。 「近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。果たせるかな、この国の三千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通じて一系の天皇をいただいていることが、今日の日本をあらしめたのである」 さらにこう続けた。 「世界の未来は進むだけ進み、その間、いくどか争いは繰り返され、最後は闘いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求め、世界的な盟主をあげなければならない。世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まり、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない」(『新世紀の宝庫・日本』名越二荒之助著。アインシュタインの発言については、田中智學の『日本とは如何なる國ぞ』〈1928年〉、雑誌『改造』〈1922年12月号〉などに多く出ている) アインシュタインよりも約6年早く、1916年に日本を訪れたフランスの哲学者、神学者で高名な詩人だったポール・リシャール博士は、日本に魅せられ、その後4年間日本に滞在した。そのとき詠んだ「日本の児等に」と題する詩に、日本の7つの栄誉と使命をあげている。その6番目と7番目を紹介しよう。 (6)建国以来一系の天皇を永遠に奉戴(ほうたい)する唯一の民よ。貴国は万国に対し、人がなお天の子であり、天を永遠の君主とする一つの帝国を建設すべきことを教えるために生まれてきた。 (7)万国に優って統一性のある民よ。貴国は未来の統一に貢献するために生まれ来た戦士として人類の平和を促すために生まれてきた。アインシュタインの思いと似ている。 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で日本は人種の平等を国際連盟の規約に入れるように提案した。これは国際会議における世界で初めての人種差別撤廃の提言であった。それはアメリカのウィルソン大統領の反対で潰えたが、その後、日本は有色人種にとって希望の星となった。そしてそれは、アメリカの黒人たちも同様だった。 アメリカの黒人史の専門家で、ハンプトン大学や神田外語大学の助教授も務めたレジナルド・カーニー氏は、著書『20世紀の日本人』(五月書房)で、当時のアメリカの黒人たちの親日感情について記述している。 当時、黒人差別を撤廃するために汎アフリカン運動を組織していたアメリカのW・E・B・デュボイス博士もその一人で、1937(昭和12)年に満洲と日本を訪れ、「日本人ほど知的で礼儀正しく、清潔好きで、時間を守り、善悪の判断をする国民はいない」と知り、「神道とは善悪を見きわめて行動する教義であり、それを人格化したのが天皇である」と述べたという(『世界に開かれた昭和の戦争記念館』展転社)。 カーニー氏は、著書の中で、「日米戦争を喜んだのは中国人やインド人、フィリピン人などだけではなく、アメリカ黒人も同じように喜んだのである。黒人の中には、この戦争は『人種戦争』だと公言し、日本はアジアを白人から解放する英雄であるというものすら出てきた。白人優位の神話を根底から覆した日本人。そんな日本人と戦うくらいなら、監獄に行った方がましだ。こんな考えが黒人の間を駆けめぐっていた」とも記している。天皇という超越的存在の下の同胞意識天皇という超越的存在の下の同胞意識 明治維新だけがなぜ成功したのかについては、維新から100年以上が経った今もなお、魅力と興味を誘う政治改革の研究テーマの1つである。 近現代、ことに西力東来後の列強の時代になって、「維新」(あるいは変法ともいわれる)をめざしたのは、決して日本だけではなかった。たとえば日本の隣国を見ても清末の戊戌(ぼじゅつ)維新、朝鮮にも同時代に甲申(こうしん)政変があったが、すべて失敗した。戦後、イランのパーレビ国王の維新(白色革命)も失敗に終わった。 なぜ日本だけが成功したのかについて、渡部昇一(わたなべしょういち)氏は、「それは神話の時代以来連綿と続いている天皇という超伝統的な要素が、まず先端をきって近代化したためである」と指摘している。 易姓革命の国、中国で改革維新が唯一成功したのは中華帝国よりはるか昔、戦国時代の秦の商鞅(しょうおう)変法のみだった。これ以外には、歴代王朝の変法は戊戌維新だけでなく、宋(そう)の王安石(おうあんせき)変法をはじめ成功したものはない。血を流す「革命」しかなかった。フランス革命もロシア革命も血の粛清を避けられなかったのである。功臣や同志に対する血の粛清がなければ、革命政権は安定しない。 隣邦の韓国(朝鮮)の易姓革命を見ても、前王朝、あるいは前大統領に対する血の粛清は凄(すさ)まじいものである。たとえば、現在の朴槿恵(パククネ)大統領は、政敵を暗殺した安重根(あんじゅうこん)を民族の英雄として、大々的に造神運動を進めているが、韓国人によるジェノサイドはほぼ民族の特徴ともなっている。明末の明人大虐殺をはじめ朴正熙(パクチョンヒ)時代の南ベトナム解放民族戦線大虐殺、近代でも金玉均(きんぎょくきん)や独立運動指導者の金九(キムグ)や呂運亨(ヨウニョン)などもことごとく政敵に暗殺しつくされ、朴槿恵大統領の両親朴正熙大統領夫妻も暗殺された。 なぜ日本だけが自国民に対するジェノサイドを避けられたのだろうか。そこにも超越的な存在としての天皇の存在と日本人が持つ同胞意識に理由がある。 たいていの社会はないもの、欲しいものを「そうである」「そうすべきである」と強調する。それがごく一般的な常識といえる。しかしあることとあるべきことを区別できる人はそれほど多くはない。 中華の国は仁義道徳を強調し、ことに孝は万徳の本だと強調する。それはそうすべきである(当為(ダンウェイ))という願望にすぎない。中国や韓国は家族を大事にする国だとよくいわれているが、実際には親子兄弟姉妹の殺し合い、いがみ合いはほかのどの国よりも激しい。李(り)朝の例を見ても、李成桂(りせいけい)が高麗朝から政権を奪ってから、諸子たちは殺し合い、第一次王子の乱から第二次王子の乱へと王位をめぐる殺し合いが繰り広げられた。それは近現代には朋党(ほうとう)の争いへと引き継がれ、朝鮮半島の社会のしくみ、歴史の掟(おきて)として今日に至り、南北対峙(たいじ)が続いている。同胞意識が欠如しているだけでなく、祖国から離れても、アメリカの大学で韓国人学生による銃乱射事件が続出し、不特定多数の人間に対する恨(ハン)は消えない。 なぜ韓国人は政敵に対してだけでなく、無差別に、誰に対しても恨をもつのだろうか。日中韓の文化比較はきわめて示唆的(しさてき)である。中華世界では絶対出来なかった明治維新の偉業 そもそも明治維新は、外圧を受ける中で国内の団結が求められたとき、佐幕派も討幕派も敵対し得ない、天皇を中心とした国を造らなくてはならないと痛感した上での「尊皇攘夷」だった。そこで内戦の危機を最小限に抑えるために、大政奉還、江戸城無血開城、廃藩置県という国の大事が無血のまま行われ、国民のエネルギーを結集し、さまざまな国難を乗り越えて近代化を断行できたのである。中国のような国共内戦や韓国のような南北戦争を避けられたのは、天皇という国家の祭主の下で、日本人同士が同胞意識を持っているからだろう。これは易姓革命がなくても維新、改革を可能にした日本の社会のしくみでもある。徳川慶喜 明治維新後では、大政奉還した徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は公爵(こうしゃく)にまで列せられ、徳川家達(いえさと)は貴族院議長を務め、五稜郭(ごりょうかく)で最後まで官軍に矢を向けた榎本武揚(えのもとたけあき)は海軍卿(きょう)、同じく大鳥圭介(おおとりけいすけ)は駐清国公使になっている。徳川慶喜の孫は高松宮妃(たかまつのみやひ)となり、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の孫も秩父宮妃(ちちぶのみやひ)になった。そして本来朝敵だった徳川家の家臣たちは新政府の行政機構の中枢を担い、引き続き国政を支えていった。これは中華世界では絶対あり得ないことである。 中華世界では、政敵の一家皆殺し、いわゆる「滅門」だけでなく、海外まで逃げ隠れても、追っ手がどこまでも追いかけてくるしつこさがある。 たとえば朝鮮の甲申政変の主役であった金玉均は、改革失敗後、東京や札幌など転々と逃亡し続けたが、ついに上海で暗殺され、その亡骸(なきがら)は朝鮮に運ばれて八つ裂きにされた。 その残酷な有り様を知った福沢諭吉が、中華大陸と朝鮮の近代化に絶望し、「脱亜論」を書いたことは有名な話である。 台湾では、蒋経国(しょうけいこく)(蒋介石の長男で第6代・7代の中華民国総統)のことを批判的に書いた『蒋経国伝』の著者で台湾系アメリカ人の江南が、サンフランシスコで台湾からの刺客に暗殺されるという「江南事件」があった(1984年)。これにアメリカ政府は激怒し、蒋介石一族の「帝位継承」は2代目で終わってしまったのである。 佐幕派も討幕派も、「尊皇攘夷」という共通の錦旗(きんき)の前で一変することが可能なのは、まさしく天皇という超越的存在があるからである。内戦のような事態に陥っても、互いが憎悪や不信に駆られて徹底的な殺戮(さつりく)を行うことがなかったのは、天皇という「家長」の下で、日本人同士が同胞意識を強くもっているからである。日本国民は貴賤(きせん)を問わず、この神聖なる天皇という存在の「赤子」であることを喜び、国家と国民が一体感を持っているからなのである。天皇と日本国民の固い絆天皇と日本国民の固い絆 戦後、「一視同仁(いっしどうじん)」という言葉はタブー用語にまではされなかったが、いわゆる進歩的文化人によって嘲笑(ちょうしょう)の的(まと)として頻繁に引用されている。 しかしこの言葉のいったいどこが悪いのだろうか。天皇から見れば、「臣民」であろうと「赤子」であろうと、国民でも「非国民」でも、良し悪しを超えて見る立場にあり、私を超えて「無私」という立場を貫いている。それは、「天皇制打倒」を狙(ねら)う者に対しても例外ではない。 敗戦直後、日本が食糧危機に直面した際、日本の左翼政党に率いられた人々が皇居のまわりを囲い、「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、ナンジ、人民飢えて死ね」というプラカードを掲げ、米をよこせのスローガンを叫んでデモ行動を行った。 侍従(じじゅう)の一人が「陛下、あれは共産党の煽動によるデモです」と言うと、昭和天皇は「あれも日本国民だろう」と答えたという。 第16代仁徳(にんとく)天皇が先代の応神天皇から位を継ぐ前に、さまざまなエピソードがあった。応神天皇は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を皇太子に立てた。ところが天皇が崩御すると、皇太子は兄の大鷦鷯(おおさざき)皇子が天皇に即位するよう望んだ。兄の皇子こそ人格が優れ天皇の大位につくべきだと考えたのである。しかし大鷦鷯皇子は弟の申し出を辞退した。そうこうしているうちに、もう一人の兄の大山守(おおやまもり)皇子が皇太子暗殺をはかったが、失敗に終わった。皇子と皇太子の兄弟2人で皇位を譲り合うこと3年に及んだ末、皇太子はついに自殺して兄に皇位を譲り、皇位についたのが仁徳天皇だった。大阪府堺市の仁徳天皇陵 仁徳天皇は難波に高津宮(たかつのみや)を営んだが、生活は質素だった。即位して4年目に、天皇が高殿から眺めると、民家からかまどの煙が立ちのぼっていないことに気がついた。「民百姓は貧しいために炊くことができないでいる」と群臣に相談して、向こう3年間、徴税を止めた。 それから3年後に煙が上がったので、「朕はすでに富んだ」と喜んだが、皇后は「宮殿の垣根が破れ、建物は荒れ、衣裳もぼろぼろ、それなのに、富んだなどとよくおっしゃるものですね」と言った。 すると天皇は「もともと天が王を立てるのは、民百姓のためなのだ。民百姓のうち1人でも飢えこごえるものがいれば、わが身を責めたのだ。民百姓が豊かならば朕は豊かである。民百姓が富んでいるのに王が貧しいということは聞いたことがない」と答え、さらに3年間、税を免じた。信長も秀吉も家康も天皇に取って代われなかった マックス・ウェーバーが言う「家産制国家」の中華の王朝とは違って、日本の天皇家は中国の「家天下」と異なる。つまり天下の財産はすべて天子・皇帝のものとする中華王朝とは対照的に、皇室は古来質素だった。ことに武家時代にはなおさらである。応仁(おうにん)の乱の時代には、天皇家は貧乏きわまりないものだった。第103代後土御門(ごつちみかど)天皇は1500(明応9)年10月21日に崩御したが、葬儀にあたってその費用さえなかった。幕府から1万疋(ひき)の献上金が用意されるまで、遺骸は43日間も清涼殿北側の黒戸御所に安置されていた。天皇の菩提寺(ぼだいじ)である泉涌寺(せんにゅうじ)で大葬に付されたのは11月7日のことだった。 その子の第104代の後柏原(ごかしわばら)天皇が践祚(せんそ)し即位式を行うときにも応仁の乱のため費用がなかった。朝廷は即位式のための50万疋(5千貫文)の費用さえ調達することができず、即位の式典が実現したのは、践祚から21年後のことだった。 戦後日本は一変して、日本共産党をはじめ、国外の諸勢力を背後にひかえた者たちが「天皇制廃止」を掲げ、「日本革命」と「天皇処刑」を唱えた。何かあるたびにメディアを動員して、皇室バッシングを行ってきた。その一連の策動により、1993(平成5)年10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子皇后が赤坂御所の談話室で倒れ、失声症になる。そして週刊誌の皇后バッシングが始まった。熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影) 宮内庁は同26日に皇室への批判に対する反論を発表した。美智子皇后も「批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会であって欲しくありません」と文書で回答した。 戦後日本の報道の問題は、まさしくそこにあると筆者も痛感している。無責任で悪意に満ちた言論人の驕(おご)りには、つねに憤りを感じさせられる。 どのような世界でも、戦乱にもなるとそれまでの王権が消え、地方の有力諸侯などが覇(は)を競い、王を名乗ることがほとんどである。たとえば春秋五覇(しゅんじゅうごは)や戦国七雄(せんごくしちゆう)はそれぞれ公や王と自称し、五胡十六国の時代は多くの王や帝が乱立した。そうした例はいくらでもある。 日本では応仁の乱以後、天皇の存在が薄くなった時代もあったが、織田信長や豊臣秀吉が天皇に取って代わることはできなかった。徳川の武家政治が300年近く続き、皇室を無力化したが、最後にはやはり、大政奉還せざるを得なかった。 応仁の乱から明治維新に至るまで、天皇は権力も武力も、財力さえジリ貧の時代だった。即位式も、葬式でさえ幕府や有力な大名から費用を出してもらってやっと執り行うことができ、泥棒が宮内に入ってくることさえあったのである。「無私」の超越的存在としての天皇「無私」の超越的存在としての天皇 有史以来、日本人にとって皇室は「私」のない「公的」存在として考えられてきた。100%の公的存在であることは日本の皇室の伝統であり、文化そのものでもある。 法的には明治憲法、大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法にも明記されているが、近現代になってから、その考え方にも若干の変化が見られる。それは、世俗的社会を超越した国家元首としての存在である。 天皇の超越性について、福沢諭吉は『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり。苟(いやしく)も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可(べか)らずとの事は我輩の持論」としている。また、国会開設以前の1888(明治21)年に『尊王論』を著し、政党政治は政争をともなうもの、国論を二分する可能性も潜むので、その「俗世界」を「皇室は独り悠然として一視同仁(いっしどうじん)の旨を体(たい)し、日本国中唯忠淳(ちゅうじゅん)の良民あるのみにして友敵の差別(さべつ)見ることなし」という天皇は、あくまで「不党不偏」の立場に立った超越的、超俗的存在でなければならないと説いた。 吉野作造も「枢府と内閣」の一文で、「我国に於いて君主の統治し得る全能の地位に拠り乍(なが)ら而(しか)も親(みずか)ら統治せず、唯君臨して自ら国民の儀表たり、政界紛争の上に超越して常に風教道徳の淵源(えんげん)たる所に寧(むし)ろ我が国体の尊貴なる所以(ゆえん)が存するのではないか」と論じていた。 日本の天皇は国家の祭主である以上、祈りの心を持つ「無私」の存在として超世俗的な公的存在であることが、伝統であると客観的にみなされる。 ところが近現代になり、時局時勢の変化に従って、政局に左右されざるを得なかった。三島由紀夫 三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、「無私」という天皇政治の本来的性格の「恐るべき理論的変質」が始まったのは1925(大正14)年の治安維持法制定からだと指摘している。 治安維持法の制定直後、左翼運動家たちから「ブルジョア階級が神聖なる国体を自己防衛の具にして悪用した」という批判が上がった。社会主義思想蔓延(まんえん)の危機感から公布されたこの法律の第一条には、「国体を変革し、又は私有財産制を否認することを目的として結社を組織した者」を罰すると規定され、今日では「天皇制ファシズム」を確立するための国民の思想統制の道具だったと非難されている。 三島由紀夫によれば、この法律が国体と私有財産制(資本主義)とを並列したため、両者はその瞬間同義語になってしまったのである。無産階級の国体即資本主義とする考えは無知であり、国体をブルジョア擁護の盾とするのは国体冒瀆(ぼうとく)だと三島は糾弾した。「経済外要因としての天皇の機能」を認めないのは唯物論者だけだったが、この法規定によって彼らの「不敬」の理念が、誰一人として気がつかないうちに日本人の間に定着したことを述べている。 そもそも皇室は超世俗的な「公的」存在であり、私財を有しないのが原則である。明治維新以前に「禁裏十万石」と称されていたのは、皇室の私産ではなく公的な経費だった。宮城、京都御所、各地離宮、正倉院財宝、御用林野などは決して天皇の私産ではない。 昭和天皇崩御にあたり、政府が今上天皇に対して皇位継承にともなう相続税を設定したことは、戦後政府の皇室、公人である天皇の伝統を曲解したものである。 さらに戦後の政党政治の建前として、天皇を政治圏外におくべきだと主張するのも、天皇の権限を制限する日本国憲法の規定に沿うなどといって好意的に解されているが、「君臨すれども統治せず」とは政治からの完全な排除ではなく、政争には介入しない超越的存在としての超俗的「無私」の精神こそ天皇の役割、そして存在理由だ。だから「政治利用」について国民からもタブー視されているのである。真のユニークな日本文化とは何か真のユニークな日本文化とは何か 文化と文明の定義は実に難しく、国によっても民族によっても違う。文化が個々にユニークなものであるのに対し、文明は普遍的で、どの民族も国家も共有することが可能である。物質的なもの、ハードウエアが文明で、精神的なもの、ソフトウエアが文化だと思う。 とりわけ日本文化はユニークだと昔から内外からよく言われ、議論されている。では、いったい日本文化の何がユニークなのだろうか。日本文化のうちもっともユニークな点は何かと問われれば、「万世一系」の天皇と平和の社会的しくみだと私は躊躇(ちゅうちょ)なく答える。これだけは人類史のどこにもない、あり得ない、「万邦無比」のユニークな日本文化である。1月、フィリピンを訪問し「比島戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下(共同) それはいったいどこから生まれたものかというと、日本列島は地政学的、物理学的に一つの定量空間であり、それによる自然の摂理と、社会のしくみからである。そのもっともよく知られ、共鳴共感、共有されているのが「和」の原理である。日本民族が「和」あるいは「大和民族」と自称し他称されるのも、この和の原理を共有しているからである。和の原理は仏教的な衆生(しゅじょう)の思想と神道的な共生の思想の習合によって生まれた自然の摂理と社会のしくみであり、そこから日本人の自然や社会環境に対する対応力が生まれてきたのである。 たとえば、平和社会というしくみについては、「和」や「大和」の社会にしか生まれてこないもので、「同」や「大同」の社会なら必ず抗争や紛争が絶えない。そこが日本と中国やほかの国のしくみの違いというものである。 日本は戦後内戦が起きなかったことはもとより、江戸時代は300年近く、平安時代は400年近く、縄文時代は1万年ほども平和を保ち続けてきた。そんなことがいったいなぜ可能なのだろうか。「平和運動」が盛んに行われたためではもちろんない。平和な社会は自然の摂理と社会の仕組みから生まれたもので、日本文化の基層を支えるものである。だから「平和主義」「平和運動」「平和のしくみ」について、それぞれの次元から語らなければならない。これについては別の機会に述べることにして、もう1つのユニークなしくみが「万世一系」の天皇である。 天皇が「万世一系」であるということについては、さまざまな異議、異論もあるだろう。けれど神代から今日に至るまで、日本史はいかなる紆余(うよ)曲折を経ても「易姓革命」はなかった。古代に王朝が別の一族に変わったという異説を唱える学者も中にはいるが、長い歴史において、律令、摂政、幕藩といった体制、さらに国民国家の時代に至るまで、天皇は日本の歴史とともに存在してきた。皇室の存在を抜きにして日本史を解くことも語ることもできないというのが事実である。日本人の心の中に存在している天皇観は、それぞれの時代によって違いがあっても、無視することはできない。日本文化そのものが皇室を核に形成されたものともいえる。 社会的条件の変化から国際環境の変化によって、人類史にはさまざまな革命があった。易姓革命だけでなく、宗教革命や市民革命、産業革命、社会主義革命、さらに人間革命と呼ばれるものまである。 万物は流転する。有為転変は世の常で、文化も文明も文物も王朝も王家も環境や時代とともに消えていく。しかしなぜ日本の天皇だけが「万世一系」の存続が可能なのか、それこそ「万邦無比」である。いくら饒舌(じょうぜつ)な論客が言葉尻(ことばじり)をとらえても、日本の天皇は今でも存在する。いくら政情の動揺や激変があっても、天皇は今でも存在しているのである。天皇は人類共有の貴重な財産である たしかに戦後、日本は有史以来存亡の危機に直面した。しかしアメリカの夢も、社会主義世界革命、人類解放の夢も、日本の文化伝統に取って代わることはできなかった。日本人の心情と宗教心は神代から国生みの物語とともに、天皇家をコアに続いてきたものである。どんな革命も文化摩擦も、文明の衝突も、日本人の心の奥底にある天皇との絆(きずな)を断ち切ることはできない。 天皇と国家の関係を考える場合、ことに近代国家になってから、天皇は、いっそう国民の心の中で国民ともにある共生的存在となった。「天皇陛下万歳」と叫ぶのは日本人のアイデンティティのシンボルでもある。敗戦後でさえ、日本国民の95%が天皇を支持しているとの調査結果がある(川島高峰『戦後世論調査事始──占領軍の情報政策と日本政府の調査機関』ゆまに書房)。しかも敗戦後であっても、アメリカの占領政策の遂行には、天皇抜きには考えられなかった。日本への進駐軍の目には、戦争中以上に恐ろしい日本であると映ったことだろう。 戦後日本は「象徴天皇制」であるという言論人が多いが、天皇はむしろ日本文化とともにある文化的象徴といえる。天皇陛下の「お気持ち」を表明したビデオメッセージを放送する街頭ビジョンに足を止めて見入る通行人=8月8日、東京都新宿区(撮影・春名中) 少なくとも近現代史を見るに、国際環境がどのように変化しても日本が強かったのは、まさしく日本人の一人一人が天皇とアイデンティティと価値観を共有していたからだった。日本人と天皇は文化、文明を共有していたのだから、課題も夢も共有していたに違いない。 ユーラシア大陸に限定してみても、西洋も中洋(中東・中央アジア)も東洋も、いかなる文明、民族、国家も、あたかも歴史の法則のように興亡を繰り返してきた。ギリシャ・ローマ文明の流れをくむイベリア半島やバルカン半島も、長期にわたってイスラム文明に支配された。東亜世界だけでなく、インド世界に至るまで、草原の力に屈したことがしばしばあった。 中国大陸は万里の長城の存在がそれを示しているように、異民族の侵入による脅威が度々あった。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)、南北朝(なんぼくちょう)時代もそうだし、それ以後も、遼(りょう)、金(きん)、元(げん)や満蒙の諸民族に繰り返し征服された。どの国家や民族も栄枯盛衰の運命を辿り、いったん「易姓革命」が起こったら、まるで法則のように歴史循環が繰り返されていくのである。 世界がこのような状況であったなか、なぜ日本だけが「万世一系」「万邦無比」の天皇の存続が可能だったのだろうか。このことについて、比較文化や比較文明の視点から見ればさらにはっきり見えてくる。 なぜ天皇が人類共有の貴重な財産なのだろうか。それは日本の自然の摂理と社会のしくみから生まれた「和」の日本文化を物語るものだからである。戦後アメリカイズムが拡散していくグローバリズムは、今現在さまざまなひずみに直面している。 今こそまさしく日本の文化を見つめ直すときだろう。黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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    天皇陛下「生前退位」ご意向の波紋

    天皇陛下が存命中に皇位を譲る「生前退位」の意向を示されていると報道され、驚きが広がった。陛下のご意思を尊重し、皇位継承の在り方を慎重に議論する必要があるが、実現にはハードルも高い。一連の「ご意向」報道を読み解く。

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    憲法上の問題をはらんだNHKの天皇陛下「ご意向」スクープ

    るにもかかわらず、報道各社はNHK報道に追従した。一体真実はどこにあるのか、悩んだ人も多いであろう。皇室は非政治的でなければならない 陛下は憲法に定められた天皇の在り方を何よりも大切になさっておいでで、これまで政治発言を差し控えていらっしゃった。小泉政権下で皇位継承問題が盛んに議論された折も、陛下は皇室制度についてご意見を表明なさらなかった。 皇室制度は皇室典範という法律によって規定されているため、その改変は国会の責任事項であるから、いうなれば政治問題である。陛下が皇室制度に関して御発言を控えていらっしゃるのは、憲法の趣旨を踏まえてのことと拝察される。 陛下とて、種々の政治課題について個人的なご感想をお持ちになることはあろう。ご家族やお身内とそのような政治的な会話をなさることもあろう。しかし、それは飽くまでも内々でのことであり、決して公に仰らないのである。 日本国憲法は第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」、また第七条で「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」と定め、続けて10項目、また第6条に2項目、合計12項目の国事行為を列挙している。 これを根拠に、天皇が政治活動を行ない、あるいは政治発言をなさることは憲法を逸脱するものと解され、また同時に、天皇を政治的に利用する行為も憲法の趣旨に反するものとされている。したがって、今般、「宮内庁の関係者」がNHKに情報をリークし、陛下の「御意向」が単独スクープ報道として表に出たことが、果たして陛下の御心に叶ったものであるのか、私には甚だ疑問に思えるのである。憲法を守る陛下、憲法を破る宮内庁関係者 天皇陛下は、ご即位にあたり高御座で「日本国憲法を遵守し」と仰せになり、また御会見などでよく「憲法が定める象徴天皇の在り方」について言及なさっておいでで、憲法の枠から出ないように細心の注意を払っていらっしゃると拝察される。天皇の御発言が政治を動かすような事態はあってはならず、陛下はご即位以来、そのような御発言をなさった先例はない。 もし第三者が陛下の許可なく、陛下が思っていらっしゃることを勝手に発表したらどうなるであろうか。「陛下の御意向」が政治利用されることにもなりかねず、それは皇室を傷つけ、ひいては日本国民が傷つくことになる。第190通常国会の開会式でお言葉を述べられる天皇陛下=1月4日、国会・参院本会議場 今回の報道では「宮内庁の関係者」が外部に陛下の御意向を語ったことになっているが、「宮内庁の関係者」とは一体誰なのか。陛下のお許しを受けて語ったのか分からないだけでなく、その「御意向」が本当に陛下の御意向であるか、検証することも不可能である。仮に検証できたとしても、その結果を発表することも憲法上の問題がある。 NHK報道の直後に、宮内庁次長が会見で「そのような事実は一切ない」と語ったが、当然である。その後も、宮内庁長官、内閣官房長官、内閣総理大臣が事実を認める発言をしていない。 そもそも、陛下のお側に侍る公務員が、上司である宮内庁長官の許可なく陛下の「御意向」を外部に漏らしたのであれば、それは国会公務員の守秘義務違反を構成する。これは「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」と定める国家公務員法第100条に違反する立派な犯罪である。 陛下が、そのような犯罪をよしとなさるとは、到底思えない。スクープ報道は政治的思惑の産物 報道各社は、総理官邸と宮内庁の間で内々に譲位に向けた調整が進められていたと報じているが、もしそれが事実なら、陛下を含めそれに関わる人たちの意思に反して、陛下の「御意向」が発表されてしまったのではないかと思う。 宮内庁も一枚岩ではなく、この流れに反発する誰かが、その流れを妨害するために暴露した可能性も排除できない。もしそれが事実なら、この度のスクープ報道自体が、譲位実現を阻む壁となった可能性もある。 他方、皇室典範改正が思うように進まないと感じた誰かが、一石を投じるつもりで「御意向」をリークした可能性もある。今のところ真相は誰にも分からないが、極めて政治的な思惑によって「御意向」がリークされたことは間違いないであろう。 とはいえ、断定はできないものの、伝えられたことは本当に陛下の御意向である可能性が高い。宮内庁は、表面上は否定しているものの、NHKに抗議をしていない。ことある度に報道機関に抗議をしている宮内庁が、今回だけそれをしないのはいかにも不自然である。その点からしても、おそらく「御意向」は事実と思われる。 では宮内庁は嘘をついているかといえば、そうでもない。「内面では政治的なご意見をお持ちかもしれないが、それを公表なさった事実はない」というのも事実なのであろうから、宮内庁の表面上の説明も一応は筋が通っているといえよう。 このスクープ報道は、本来公表されないはずの陛下の内心、もしくは公表されない前提の陛下の「つぶやき」が何者かによって公表されてしまったことが問題なのである。ではどうすればよいか。 憲法の趣旨からして、天皇陛下の「御意向」が政治を動かすことは許されない。だからこそスクープは真偽不明なものとしたうえで、それとは別に政府が独自の判断で譲位を実現させる動きをするか否かにかかっている。 安倍内閣が本格的に法整備に着手すれば、総理は定期的に陛下に内奏を行なっているのであるから、内々に陛下の御意向を拝聴しつつ進めていることと想像することが出来るわけで、国民はその点においては安心して事の成り行きを見守ることができる。 そのような暗黙の了解こそが、皇室制度を改変するときには重要になってくると私は思う。 陛下の内心は、議論する対象でなければ、断定すべきものでもない。一人ひとりが忖度して、陛下の御心に叶うことを願い、静かにお見守りすることこそが肝要と思う。 譲位を実現するための具体的な方法については、月刊『正論』9月号に拙稿を寄せたので、それを参照して頂きたい。ちなみに、報道各社はNHKが用いた「生前退位」の語をそのまま用いているが、不敬に当たるため、私は「譲位」の語を用いたことをお断りしておく。

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    自問すべきは「日本のかたち」 国民は陛下のご意向を静かに待てばよい

    がある。民主主義体制は、本質的に人々の「平等」を前提とした政治制度であるけれども、立憲君主制度とは、皇室や王室を頂点とする社会の「階層秩序」を自明のものとして受け容れている政治制度である。明治以後、「国体」という言葉で想起された立憲君主国家としての型が強固に出来上がっている中で、民主主義体制の論理を正当に擁護しようとしたのが、吉野作造に代表される「大正デモクラシー」論客の努力の意味であった。吉野作造は、明治憲法下の立憲君主体制に民主主義体制の論理を整合させる難しさを察知すればこそ、デモクラシーを「民本主義」として紹介し、それを擁護したのである。 そして、戦後一転して、民主主義体制の論理が称揚される中、「開かれた皇室」像が模索されたのは、その民主主義体制の論理に立憲君主制度を合わせようとした努力の表れであったといえるであろう。故に今、考えなければならないのは、民主主義体制の論理の暴走や拡散の中で、立憲君主国家としての型を確認し直すことではなかろうか。こうした二つの政治制度の「緊張した関係」に眼を向けなければ、当代の議論は、何時まで経っても吉野作造の時代の議論を越えられまい。総てが民主主義体制の論理で語れるなどというのは、戦後日本の最たる誤謬である。特に立憲君主制度の根幹にある話は、そうである。 もっとも、現行憲法第二条に、「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定められ、皇室典範がその趣旨に沿った法律として位置付けられている以上、その改正に国会議決という「民主主義体制のプロセス」を経なければならないという現実がある。以上のような認識を踏まえて、皇室典範論議に際して留意すべき点があるとすれば、次のようになろう。「民主主義的な議論」には全く馴染まない そもそも皇室典範は、前にも触れたように、「国会の議決した」法律となっているとはいえ、その原型は明治憲法に並列して制定されていた皇室の御家法と呼ぶべきものである。故に、皇室典範の改正に係る具体的な中身は、天皇陛下を含む皇室の方々の御意向を体して決めるべきものであって、政治家を含めて庶民が容喙すべきものではない。小泉純一郎内閣期、女性天皇の是非を焦点にした皇室典範論議が沸騰した折、世に保守論客と目される人々ですら、口角泡を飛ばした論争に及んでいたのは、誠に奇怪な光景であった。 皇室典範改正案それ自体は、たとえば皇室会議のような場で「外部の喧騒」から離れたところで作成され、国会に提起されるべきものあろう。 加えて、皇室典範改正案に絡む国会審議の性格もまた、その改正案の中身を検討するのではなく、それを実質上、承認するかしないかという議論に限ったものになるという諒解は、予め成しておく必要があるであろう。皇室典範改正案審議が政争の渦中に落ちる可能性は、完全に排除されなければならないのである。 さらにいえば 前に触れた現行憲法第二条の条文中、「国会の議決した」という文言それ自体が適切なのであるかは、今後の憲法改正論議の文脈で議論されるべきものであるかもしれない。日本の立憲君主国家としての型が民主主義体制の論理によって浸食される事態を避けるためには、この文言を削除すべきだという議論は、成り立つのではなかろうか。 故に、筆者は、譲位を含む皇位継承の有り様に関しては、仮に宮内庁筋から意見を求められるようなこと〈現実にはあり得ないことではある…〉があれば、政治学者の責任として何かを内々に具申するかもしれないけれども、それ以外は何かを公に語る気はない。この件は、侃々諤々たる「民主主義的な議論」には全く馴染まない。皇室の方々やその周辺の議論の結果が出るのを静かに待つというのが、国民の態度としては相応しいと思われる。

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    「生前退位」は選択肢の一つ、 望ましくない陛下のご意向の既成事実化

    差し上げたいというのが国民大多数の思いだ。しかし、具体策を考え始めると、問題解決はそう簡単でない。 皇室典範には「生前退位」(譲位)の規定はない。「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(第4条)との規定があり、崩御されるまでは在位されるとし、ご生前での譲位・退位を否定している。陛下のお望みをかなえようとするならば、皇室典範の改正が必要になる。 しかし、皇室典範は恒久法であり、ご生前での譲位・退位を制度して認めるような規定を設けると、今後の皇位継承や皇室の在り方に混乱をもたらす可能性もある。譲位・退位の要件や手続きについて明確なルールを設けないと、譲位・退位が政治的に利用され、皇位の安定を揺るがすことにもなる。 歴史を振り返ってみても、政治権力者など外部によって譲位・退位が強要されたり、時の天皇が影響力を残すために恣意的に譲位・退位するケースもある。 皇室典範が生前の譲位・退位を規定していないのは、むしろそれを積極的に排除した結果と言える。現行皇室典範(昭和22年)は明治の皇室典範(明治22年)を基本的に継承しているが、明治の皇室典範にも譲位・退位の規定はなく、むしろ排除している。 明治皇室典範の公的な逐条解説書である『皇室典範義解』(明治22年6月刊)は、譲位は本来の皇室の伝統ではなく、譲位を使って時の権力者が皇室内を対立させたことに言及し、代表例として南北朝時代の混乱を挙げている。 『皇室典範義解』の記述のもとになったのは、皇室典範制定過程における伊藤博文の発言で、伊藤は、譲位の慣行は仏教の影響であり、いったん即位すれば、終身在位が当然であり、自由に譲位することはできない。摂政の制度があれば、譲位を制度として設けることは不要だと述べている。制度の大掛かりな見直しは本当に必要か 明治皇室典範の制定過程での配慮が今日すべて通用するものではないが、それでも現行の皇室典範も排除している譲位・退位を新たに制度として導入することには慎重な検討を必要とする。 譲位・退位後の天皇の法的な地位についても慎重な検討を必要とする。まず、譲位・退位後の天皇を何と称するのか。歴史上は「太上天皇(上皇)」と称するが、これでよいか。身分についてはどうするのか。内廷皇族として処遇するのか、宮家の一つとして処遇するのか。ご公務についても、憲法上の国事行為は出来ないが、その他の「公的行為」の一部を担うとすれば、何が行え、行えないか、その法的な位置付けはどうか、憲法との関係はどうか、についても整理しなければならない。 お住まいはどうするのか、皇居内に別の御所を設けるのか、予算についても天皇や内廷皇族の日常の費用である「内廷費」から拠出するのか、宮家の一つとして「皇族費」から拠出するのか。職員の配置も検討が必要であり、皇室経済法の見直しにも繋がる。 崩御の際の大喪の礼や陵墓についても、現職の天皇と譲位・退位後の「前天皇」と区別する必要はないのか。皇位継承儀礼も終身在位を前提とし、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(皇室典範第4条)とすることから、生前継承を前提としたものに継承儀礼全体を組み立て直さなければならない。 既に述べた通り、天皇陛下の譲位・退位のご意向は強い責任感によるものであり、できることならかなえて差し上げたい。しかし、具体的に考えていくと関連する問題があまりに多く、制度の見直しは大掛かりになる。慎重な検討が必要であり、拙速は避けなければならない。 元号法は「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」(第2条)とすることから、譲位・退位されれば、元号も変わり、国民生活にも大きな影響を及ぼす。 そうであれば、それほど大掛かりでない代案についても検討しなければならない。恒久法である皇室典範ではない特別措置法で、今回に限り、ご生前での譲位・退位ができるようにすることも考えられるが、特別措置法であれ、譲位・退位の前例をつくることになり、その場合も譲位・退位の要件、手続き、譲位・退位後の法的な位置付けなどの大掛かりな検討が必要であることに変わりはない。政治的対立の超越が求められる皇室 皇室典範には「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」(第16条2項)との規定もある。この規定を柔軟に解釈して摂政を置き、皇太子殿下に就任して頂くことも有力な選択肢の一つであろう。天皇陛下はそのまま在位されるので、これまで述べて来たような制度の大幅な見直しは必要ない。元号も変わらない。 摂政を置くという考え以外にも、単純にご公務を大幅に軽減するという案もある。既に前から宮内庁はそれを進めているが、さらにご公務の中身を精査し、皇太子殿下や秋篠宮殿下など他の皇族方が肩代わりできるようにしていくことが必要だろう。新任の石原伸晃経済再生相の認証式に臨まれる皇太子さま=1月28日、皇居・宮殿「松の間」 憲法上の国事行為については天皇陛下にしかできないが、「国事行為の臨時代行に関する法律」によって臨時に代行できる。これまでは天皇陛下の病気療養と外国ご訪問に限られているが、要件を緩和し、国事行為の一部代行を検討してもよい。この場合も天皇陛下は在位されることから、皇室制度の大幅な見直しは必要ない。 天皇陛下は、ご自身が在位されることで迷惑を掛けるとお思いであると拝察するが、国民の一人としては在位して頂くだけで十分にありがたいという気持ちである。在位され、その上でご公務の負担をどのようにして軽減していくことができるかを具体的に検討していくことの方が、時間も掛からず、本当の意味で陛下のご意向にかなうのではないかと思われる。 なお、今回の報道が出所不明の「宮内庁の関係者」からの情報でありながら、天皇陛下の「ご意向」として既成事実化し、政府に制度変更を促していることは、皇室の在り方として望ましくない。憲法が規定する「国民統合の象徴」は、天皇が如何なる政治的な立場に立つことがないことを求めている。特定の政治的な立場に立てば、賛成・反対の議論の渦中に入り、敵をつくることになって国民を統合することはできない。皇室には政治的対立を超越し、国民統合の機能を発揮することが求められている。今後、別のテーマでもカギカッコつきの「ご意向」が示されることがあるとすれば、皇室の尊厳が傷つくことにもなりかねない。

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    福沢諭吉の皇室論を読み解く~皇室の弥栄、日本の永遠を祈る

    平沼赳夫(衆議院議員)皇族に対する不当な差別待遇 平成十七年十一月に政府の諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が、それまでの皇室の伝統を無視して、女系天皇を認める報告書を出しました。百二十五代にわたって守られてきた皇室の伝統を僅か十名程度の「有識者たち」の議論によって変えることはおかしいと考えて、「報告書」に対する反対運動を行いました。平成十八年三月七日には、日本武道館で「皇室の伝統を守る一万人大会」を開催しましたが、このような私たちの活動を「右翼だ」とみなす人が多かったことは残念でした。 官僚たちも、国家公務員の上級試験を通ってきていますが、皇室のことをまともに学んできていません。ですから、天皇陛下が国家の安泰と国民の幸福を祈られる皇居・宮中三殿の補修費用なども、財政難を理由に極力削ろうとする。宮中三殿の塀などがぼろぼろになってしまっていても、少しも気にしていない。 あまり知られていませんが、皇族に対する処遇もおかしいことばかりです。ひげの殿下と呼ばれている寬仁親王殿下は九回も癌の手術をされていますが、皇族は国民健康保険に入ることもできないため、医療費の負担が大変なのです。宮様の場合、一般の人々との相部屋というわけにもいきませんから、入院費が一カ月に何百万とかかるわけです。その費用を決して多くない皇族費から捻出しなければならない。皇族は国民健康保険に入れないだけでなく、選挙権もありません。ところが、税金だけはしっかりと取られる。 昭和天皇の弟宮にあたられる高松宮殿下は港区高輪にお屋敷があって、八千坪もありました。その内、半分の四千坪はご自身の所有地でした。その四千坪の敷地をすべて国に寄付されたんです。昭和六十二年の時ですから、バブルの時代で坪一億として時価四千億ですよ。 それでも高松宮様が薨去(こうきょ)されたとき、税務署の役人たちが高松宮邸に来て、相続税を算定するためにお蔵の財産に査定額の札を貼って莫大な相続税を課した。やむをえず妃殿下は相続税を支払うために、葉山の別邸を売却されたわけです。四千億円も寄付された高松宮家から相続税を取り立てたんですよ。選挙権もなく、国民健康保険にも入れないのに、相続税などの税金は一般と同じく取られる。現行憲法でも「国民統合の象徴」と規定されている皇室に対しては、それにふさわしい処遇が整えられるべきではないかと思います。 そもそもこんなおかしな法体系となっているのは、占領政策が原因です。日本の敗戦後、アメリカの占領軍が皇室を「日本最大の財閥だ」と誤解して財産を没収しただけでなく、最小限の経費しか使えないようにしたからです。国民統合の象徴でありながら天皇陛下も皇族も不当な扱いを強いられてきた。そうした「占領遺制」は戦後半世紀、ほとんど是正されずに今日に至っているわけで、政治家として誠に申し訳なく思っています。「自由な政治論争がもたらす軋轢」を緩和する力「自由な政治論争がもたらす軋轢」を緩和する力 皇室に対して不当な扱いをしている戦後体制を是正するためにはまず何よりも、政治家の見識と世論の支持が必要ですが、現状でははなはだ心もとない。私は若いときに谷口雅春先生の皇室論を読む機会に恵まれて皇室の尊さを理解することができましたが、戦後教育しか受けていなければ皇室の尊さがわからないのも無理はない。 そこで現代の人々にも皇室のことを理解してもらうためにどうしたらいいのか、調べておりましたら、私の母校の慶応義塾大学の創設者である福沢諭吉先生が皇室のことについて立派な論文を残されていることに気付きました。福沢先生と言えば、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉でも有名なように、どちらかというと進歩的な開明思想の持ち主だというのが大方の印象でしょう。その福沢先生が明治時代に「なぜ皇室は尊いのか」「日本の将来にとって皇室がいかに重要なのか」を丁寧に論じていらっしゃるのです。現代の評論家や政治家が主張するよりも、福沢先生が皇室の尊さを力説されていたという事実に非常に価値があると思って、このほど『福沢諭吉の日本皇室論』(島津書房)という本を出した次第です。 この本には、国会設立が決まったことを受けて明治十五年(一八八二)に発表された「帝室(ていしつ)論」と、明治二十一年に発表された「尊王論」の、それぞれの原文とその現代語訳を収めていますが、日本人なら必ず読んでおくべき近代皇室論の古典だと思います。天皇陛下も中等科時代に、東宮職参与となった小泉信三博士とともに、福沢先生の『帝室論』を輪読されておられます。 福沢先生はいわば西欧近代化、自由民権運動のオピニオンリーダーだったわけですが、単純な自由民権論者ではありませんでした。もちろん「国会での自由な政治論争」と「法令に基づく公正な行政」を支持しているわけですが、同時に自由な政治論争や法令に基づく公正な行政の限界、短所も十分に理解していました。福沢先生は国会開設を支持しつつも、予想される短所を次のように予想しています。慶応義塾三田キャンパスに建つ「三田演説館」《国会を開設して、やがて二、三の政党が対立するようになれば、その間の軋轢(あつれき)は大変苦々しいことになるだろう。 政治的な問題に関して政敵を排撃するためには、本当は心に思っていないことでもいろいろと申し立てて、お互いに相手を傷つけることがあるだろう。その傷つけられた者が、相手を傷つけるのは卑劣であるなどと弁論しながらも、その弁論の中で相手に復讐して、逆に傷つけることにもなるだろう。 あるいは人の隠し事を摘発し、あるいはその個人的なスキャンダルを公表し、賄賂や請託はあたりまえのことになる。甚だしい場合は、腕力をもって闘争し、石を投げ瓦を割るなどの暴動があることも予想される。西洋の諸国はたいてい皆そうである。わが国も同じようにそういうことになるかもしれない》 そして、自由な政治論争が党派間に深刻な軋轢を生み、国論が分裂して国家意志をまとめることができずに、外国から付け込まれるような事態になったらどうするのかとおっしゃっています。《政治の党派が生じて相互に敵視し、積年の恨みがだんだん深くなり、解決できないという状況の最中に、外からの攻撃が生じて国の存亡にかかわる事態が到来したら、どうするのか。自由民権が非常に大切であるとはいっても、その自由民権を享受させてくれた国が、あげて侵略され、不自由で無権力の有り様に陥ったなら、どうするのか。 …小さい者どうしがお互いに争って勝敗が容易に決着せず、全身の力をすでに使い果たして残る力もない。こんな状態で他国のことを考えて、それに対処する余裕があるだろうか》 福沢先生がこの論文を執筆されたのは今から百二十年前のことですが、現在の政治の姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。驚くべき先見性だと思います。続けて、このような「国会における自由な政治論争がもたらす軋轢」を緩和させるためにも「一種特別な大勢力」が必要だとして、次のように述べていらっしゃいます。《民心軋轢の惨状を呈するときにあたって、その党派論にはいささかも関係するところのない一種特別な大勢力があり、その力をもって、相争う双方を緩和し、無偏無党の立場から両者を安んじいたわって、各々が度を過ぎないように導くことは、天下無上の美事であり、人民には無上の幸福といえるだろう》 そして、我が国において「相争う双方を緩和し、無偏無党の立場から両者を安んじ、いたわって、各々が度を過ぎないように導く」力をもっているのは、党派をこえて国家・国民のために祈られる皇室しかないと、福沢先生は指摘されているのです。マッカーサーとのご会見に見る「皇室の本質」マッカーサーとのご会見に見る「皇室の本質」 確かに福沢先生の指摘している通り、有史以来我が国は幾度となく国難に出合っていますが、そのときは必ず皇室が中心となって、しっかりとまとまって危機に対応してきました。元寇のときの亀山上皇、幕末・明治維新のときの孝明天皇と明治天皇、そして占領軍が乗り込んできた昭和二十年のときの昭和天皇と、いずれも皇室を中心にまとまってきました。まさに皇室があるから、国家は分裂せずに守られてきたと言えると思います。明治24年(1891年)頃の写真。日本銀行発行紙幣の原画となる(Wikimedia Commons) 日本の敗戦後の武装解除一つをとっても、天皇のご存在がなければ、絶対に失敗していたと思いますね。皇室は常に国家・国民のことをお考えになっていらっしゃる。その皇室に対する敬愛の念において国民がまとまっていなければ、武装解除もあれほど平穏裡に進まなかったでしょうし、ゲリラ闘争が各地で頻発して現在の日本の繁栄もなかったと思いますね。国家が分裂せずにまとまることの重要性は、イラク戦争後のイラクの復興の様子をみればよくわかります。国民を統合する存在がなければ、イラクのように内乱が続いていたかも知れないのです。 では、なぜ皇室に国民を統合する力があるのか。日本の歴史を見れば、源氏にしても平家にしても織田信長にしても、その軍事力と権力によって皇室を無にすることはできた。しかし、そうしなかったのは、神話の世界につながる日本最古の宗家としての重みを持ち、国家の安泰と国民の幸福を日々祈られる皇室の権威を誰もおかすことができなかったからです。 しかも、いざとなれば国民のために捨て身の行動をとられてきた。思い出すのは、日本敗戦後の昭和二十年九月のマッカーサー元帥とのご会見のことです。戦勝国の代表として日本に乗り込んできたマッカーサー元帥は、アメリカの士官学校を最優秀の成績で卒業した軍人で、敗戦国の昭和天皇が会見を求めてきたのに対して、命乞いに来るのだろうという先入観をもっていた。ですから新聞で公表された写真をみると、両腰に手をあてて略式の軍服で陛下をお迎えしているわけです。 しかし陛下は命乞いをされずに「自分はどうなってもいいから日本国民を救ってほしい」と切々とおっしゃられて、マッカーサーは大変感動したわけですね。ですから、最初はぞんざいな扱いであったのが、お帰りになるときは玄関まで見送りに出た。国民のためならば命を投げ出される無私の行動をとられた昭和天皇だからこそ、日本国民も戦争には負けたけれども、皇室に対する敬愛の念をいささかも変えなかったわけです。行政の限界と皇室の役割行政の限界と皇室の役割 福沢先生が皇室に期待した役割は、政治論争に伴う軋轢を緩和することだけではありませんでした。国会が開設され、法令が整っていくと、法令に基づいて公正な行政が行われるようになっていきます。権力者による恣意的な行政が行われなくなることは歓迎すべきことですが、そこに一定の限界があるとして、次のように指摘しています。《近来は法律が次第に精密の度を加え、世間に法理と言うものが次第に喧しくなってきた。それに従って、政府の施政もすべて規則を重んじる傾向になるであろうことは自然の勢いである。それが国会開設の時期ともなれば、政府はただ規則の中で活動するだけとなり、規則から外れた部分では、いささかも自由がないことだろう。 しかしながら、人間社会はそうした規則の中だけに包含・網羅(もうら)することはできない。すなわち、政府の容量は小さく、社会の形は大きいと言えるだろう。小をもって大を包もうとしても、もともと無理な話だ。 例えば、よるべない人々を憐れみ、孝行な子や貞節な婦人を賞するようなことは政府の手にあまる。これらは、人情の世界においては最も緊要なことであり、一国の風俗に影響を及ぼすことが最も大きいことだけれども、道理の中に束縛されている政府においては、決してこれに手を着けることができない。「政府の庫の中にあるものは、一銭の金、一粒の米といえども、その出処は国会で議定して徴収した租税である。金も米も皆これ国民の膏血(こうけつ)なのだ。どうして、この膏血を絞って一部の人々の腹の足しにするようなことができようか」などと理屈をこねれば、道理の世界ではこれに答える言葉もあるまい》 事態はまさに福沢先生の予言した通りになりました。 明治二十三年(一八九〇)、政府は第一回帝国議会に、第一号法律案として「窮民救助法案」を提出しました。障害者・傷病者・老衰者等で自活の力なく飢餓にせまる者と養育者のない孤児を対象に、衣食住給与と医療、埋葬まで行うというものですが、衆議院は法案をなんと否決してしまったのです。「なぜ一部の困窮者を助けるために国民の税金を使うのか」という批判が多数を占めたというのです。 しかし、貧富の格差を放置し、飢え死に寸前の人々を見捨てるような風潮が蔓延すれば、社会は荒みます。助け合い支えあうよき社会としていくためにも、親に孝行を尽くし、困った人に手を差し伸べるような善行を讃える世論を高めていくことが重要ですが、法令に基づいて行政を行う官僚政府がその役割を担うことはなかなか難しい。では、どうしたらいいのか。皇室ならば、社会が荒むことを防ぎ、助け合い支えあうよき社会の美風を高めることができると訴えているのです。明治天皇百年祭でライトアップされる南神門=2012年7月、東京・明治神宮《国会議員の政府は、道理の府であるために、情を尽くすことができない。理を通そうとすれば情を尽くすことができず、情を尽くそうとすれば理を通すことができない。この二者は両立できないものと知らねばならない。 では、このような状況で、日本国中を見渡してみて、こうした人情の世界を支配して徳義の風俗を維持することのできる人がいるだろうか。ただ帝室(皇室)があるのみである》 国家・社会の現実を見据えた福沢先生の「皇室論」は当時の指導者層にも支持され、皇室は、貧民救済など福祉に尽力されるようになります。例えば、明治四十四年、明治天皇は困窮者に対する無料の医療事業を起こすべく「施療済生の勅語」を出され、御内帑金(ごないどきん、ポケットマネー)をもとに恩賜財団済生会が創設され、全国各地に貧しい人向けの病院や診療所が建てられました。 大正十四年には、関東大震災を被災した老人を救済収容する目的で、皇室の御内帑金と大震災に対する一般義捐金をもって財団法人浴風会を創設し、病院を併設し五百人を収容する大養老院浴風園を設立しています。この浴風園のおかげで全国の養老院の水準が大いに上がったと言われています。 明治新政府は、欧米諸国の軍事的脅威から独立を守るために富国強兵を最優先にせざるを得ませんでした。いわば、能率を優先させ、採算重視の資本主義のもとで経済発展をしていかなければなりませんので、資力が乏しい当時の政府は、福祉を後回しにせざるを得なかったわけです。しかし、能率的採算本位の資本主義は、拝金主義を招き、格差を生み、国民精神を退廃させていくことになります。そこで、富国強兵では切り捨てられる部分、つまり学術・文化の高貴さを保ち、福祉を重視して格差を是正する役割を、皇室に担っていただくべきであると福沢先生は考えられ、実際に皇室はそのような役割を担ってこられたわけです。 もちろん、皇室が福祉や伝統文化の顕彰を行おうと思えば一定の財産が必要です。ですから福沢先生の「帝室論」の結論も、福祉や伝統文化擁護のため、皇室には一定の財産をお持ちいただきたいということでした。 幸いなことに明治の時代は、政権担当者たちも精神的分野で皇室が大きな役割を果たされるべきだと考えて、ヨーロッパの王室とは比較になりませんが、一定の皇室財産をお持ちいただくことになりました。行政ができることには限界があるからこそ、それ以外の精神的分野における皇室の役割は大きい。この福沢先生のご指摘は平成の今でも立派に通用すると思いますね。ハンセン病と高松宮殿下ハンセン病と高松宮殿下 現行憲法となって皇室に関する法制度は確かに変わりました。しかし、福沢先生が指摘されたような、行政とは異なった立場から福祉や文化・芸術など精神的分野において皇室が大きな役割を果たされるという点については、ほとんど変わっていないのではないでしょうか。 私がまだ若い代議士の頃、私の選挙区である岡山にハンセン病の療養施設がありまして、高松宮同妃両殿下がお見えになりました。私も随行させていただきましたが、ハンセン病の重い患者などは手も爛れているんですが、高松宮殿下と妃殿下はしっかりと手を握られて激励されたんです。当時はまだハンセン病に対する誤解も残っていて感染するのではないかと、随行の知事や政治家は患者のそばに近寄らなかった時代ですよ。ある患者さんは目が全く見えない。そんな患者さんの手をしっかりと握られる殿下のお姿を間近に拝見していて、やはり皇族というのは違うなと思いましたよ。目が見えないその患者さんに看護師さんが「いま手を握ってくださっているのは高松宮殿下ですよ」と話しかけると、涙が流れたんです。何しろ爛れて手の形をしていない状態です。宮様はいやいやではなくて、本当に心をこめて手を握られる。恐らく誰も手を握ってくれなかったんだと思うのです。 ハンセン病に対する社会の偏見を取り除く上で皇族が果たされた役割は本当に大きかったと思いますし、青年時代に「帝室論」をお読みになっていらっしゃるためなのでしょうか、現在の天皇皇后両陛下も障害者福祉など、時の行政の手が及ばない国民の重要事に精神的な支援をなさっていらっしゃいますよね。御即位十年のときに皇后陛下も、行政との関係を念頭に、次のようにおっしゃられています。「この十年間、陛下は常に御自身のお立場の象徴性に留意をなさりつつ、その上で、人々の喜びや悲しみを少しでも身近で分け持とうと、お心を砕いていらっしゃいました。社会に生きる人々には、それぞれの立場に応じて役割が求められており、皇室の私どもには、行政に求められるものに比べ、より精神的な支援としての献身が求められているように感じます」 実際、皇室の「より精神的な支援としての献身」によって救われた国民は多いと思いますが、そうした「現実」を国民の側がどれほど知っているのでしょうか。現在の皇室に戦前のように多くの財産があれば、もっと福祉や伝統文化振興のために大きな役割を果たしていただけるでしょうに、いまはお気の毒で、乏しい予算ですので、皇族の関係者が結婚される際に宮家が出されるお祝いは申し上げるのも憚られる金額だと伺っています。もちろん、お祝いをいただく側は宮家からいただいたということで有難く思っていると思いますが、一般の会社員並みのお祝いさえお包みになれない状況にあることは本当に申し訳ない次第です。 皇室が「福祉などのために基金を出されたい」とお考えの際に、ある程度自由に使える財産をお持ちいただくことができるように、せめて国民の側が皇室に寄付できるような制度があればいいのですが、占領軍から強制された現行憲法では、国民からの寄付もほとんど認められていません。ですから、一日も早く憲法改正を成し遂げ、国民からの寄付の道を開くとともに、皇室には、自由な政治論争に伴う軋轢を和らげ、行政ではできない精神的な側面でもっともっと大きな役割を果たしていただくようにしていくべきだと思います。 その際、現行憲法では、総理大臣も元首的な機能を持っているし、天皇陛下も国事行為を始めとして元首的な役割を果たされている。このため学会では厳密にはどちらが元首なのかという論争が行われていると聞いていますから、「党派を超えた尊いご存在である天皇陛下こそ日本国を代表される元首である」ということを明記すべきだと思います。 私の知り合いには慶応出身者が多いのですが、ほとんどの人は福沢先生が皇室論を書いていらっしゃることを知りませんでした。『学問のすすめ』だとか『福翁自伝』は知っていますが、『帝室論』と『尊王論』はほとんど知りませんでした。慶応大学の塾長室を訪ねて安西塾長にも差し上げましたが、安西塾長も出版のことを大変喜んで下さったのです。 天皇陛下は御在位二十年を迎えられます。皇室と国民の絆をめぐり様々な議論が交わされてもいます。なかには合点のいかぬ問題提起や心ないと思えるものもあります。我が国にとって天皇、皇室がいかなる存在であるのか。それを今を生きる国民としてしっかり見つめ直さねばならない。しかしそのためには先哲の残された古典を繙き、その叡知に向き合うなかで私たちの先人がどのように考えたのかを学び、自らを省みる営みはとても大切で忘れてはならないように思う。 福沢先生の『帝室論』と『尊王論』はこれまで長い間忘れ去られた論文だったわけですが、「自由民主主義」を推進する立場から皇室の尊さを説く福沢先生の「皇室論」は百二十年の歳月を経た今日でも、将来の日本を構想していく上で、大きな示唆と誇りを与えてくれると思います。

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    天皇陛下「生前退位」のご意向に沿うために、国民は何を論じるべきか

     岡本裕明(Blue Tree Management 株式会社 代表取締役) 週末の早朝、皇室を紹介する長寿レギュラー番組があることをご存知でしょうか?日テレの「皇室日記」とTBS系の「皇室アルバム」、フジ「皇室ご一家」であります。バンクーバーで時折拝見させていただいております。皇室の動きを国民にきちんと紹介する意味ある報道ですが、まず大多数の方はその存在すら知らないかもしれません。「皇室アルバム」は1959年からの番組とのことですから日本で最も長寿な番組の一つなのではないでしょうか? 今上天皇は昭和天皇の難しい過去を引き継いだ意味において非常に困難なご公務をこなしてこられたと思います。また、社会が大きく変化する中で天皇家が大きく庶民の茶の間の話題になることもあり、昭和の初期の時代を知っている年配の方には様変わりを感じられていることかと思います。苗代に稲の種もみをまかれる天皇陛下=皇居・生物学研究所(宮内庁提供) 今般、天皇陛下が退位を打診されているという皇室関係者からの話が漏れ伝えられ、大きな話題となっています。宮内庁はそれを否定しておりますが、これは当然の流れで「噂」を事実として認めることは宮内庁にとっては非常に都合が悪いのであります。宮内庁は格式と伝統と過去の踏襲が全てですので、すわ、そういう事態になれば当然ながら正式なプロセスを踏まざるを得ません。但し、宮内庁は事なかれ主義であり、あくまでも天皇家をお守りする側ですので宮内庁が能動的に動くことはないでしょう。 82歳の天皇陛下にお疲れが見えることが時々話題になっており、そろそろ「引退したい」という趣旨のことをつぶやかれてきたのだろうと察します。日本の皇室典範には「引退」である生前退位の規定がありませんのでできるともできないとも言えない状態であります。これを法制化するには時間がかかるというのが報道の趣旨であります。皇太子さまに「摂政」になっていただくのが良策 しかし、82歳の陛下にあと数年というのも無理を押し付けている気がいたします。そのためには個人的には皇太子さまにまずは摂政になっていただき、そのうえで皇室典範を改正されたら良いかと思います。 そういえば、かつて男子のみの継承について議論がありましたがあれも秋篠宮様に愁仁様がお生まれになったことで忽然と消えてしまいました。本来であれば私は男子継承が物理的に継続できる環境にあったとしてもそれこそ女性の地位の話ではありませんが、議論を継続すべきだったと感じております。お誕生日に先立ち記者会見に臨まれる天皇陛下=2015年12月18日、皇居・宮殿「石橋の間」(代表撮影) 摂政については大正天皇の際に後の昭和天皇がおつきになっております。大正天皇は非常に重い病気にかかられていたため公務ができず、摂政を必要としました。長い皇室の歴史を見るとそれこそ、天皇が即位するのが極端に幼少のときになるケースがしばしば生じています。平安時代の六条天皇は生後7か月11日で即位されています。日本の歴史上、他にも幼少で即位された天皇は多く、明治天皇も14歳で即位されています。 話は脱線しますが、天皇の執務が滞る際に置かれるのが摂政、関白。その多くは身内や外戚から選びますが、唯一の例外が豊臣秀吉と甥の豊臣秀次だけだったと記憶しています。秀吉は近衛家の猶子という一種の養子縁組を通じて無理やり関白になったわけでありますがこれは異例中の異例であります。世を驚かせたという意味で豊臣秀吉らしい一幕でありました。一方、天皇家は血が濃すぎるという弱点を抱えていたのも事実のようですが、同じようなことは海外の王室にも言えたことで日本だけの問題ではありません。  「人間天皇」である以上、天皇陛下も人間としてのゆったりした余生をお過ごしになる権利はあるのではないでしょうか?ましてやご本人がそろそろ、と口にされているのであればそれを積極的に受け入れるのが世の在り方だろうと思います。日本の場合、いったん敷かれたレールを変えることがなかなかできません。良い部分もありますが、個人的にはもう少しフレキシビリティを持たせてもよいのだろうと思います。 ましてや生前退位が200年前までは行われており、明治に入ってできた皇室典範でそれが謳われていないということですからある意味、皇室典範の片手落ちとも言えなくはありません。憲法改正議論が再び盛り上がる今日ですが、まずはこの改正が先にありきではないでしょうか?(ブログ『外から見る日本、見られる日本人』より2016年7月14日分を転載)

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    「天皇の生前退位は憲法違反」は政府高官の詭弁だ!

    猪野亨(弁護士) 今上天皇が退位を表明されていますが、皇室典範の改正が必要ということになります。皇室典範には生前の退位についての規定がないというのがその理由ですが、そもそも天皇自身が退位したいというのに、法の規定がないから退位できないというのも不合理といえば不合理です。天皇の意思が一切、考慮されないということになりますから、天皇の人権はどうなるのかとうことです。 象徴天皇制、世襲制という特殊な地位から天皇には憲法上の基本的人権の適用は制限を受けるとされていますが、とはいえたまたま皇室に生まれたというだけで、かかる差別的処遇を受けなければならない合理的な理由はありません。新年祝賀の儀に臨まれる天皇、皇后両陛下はじめ皇族方=皇居・宮殿「松の間」 皇室典範の改正の要否はともかく、憲法上、生前の退位は無理とする政府高官の発言が報じられています。「政府関係者「天皇陛下の生前退位は無理」」(日本テレビ2016年7月15日)「陛下の意向があると報じられる中で、皇位継承について定めた皇室典範を変えることが、天皇の国政への関与を禁じた憲法第4条に抵触する可能性を念頭に置いたものとみられる。また、「生前退位」という制度を設けることと、摂政を置くことを定めた憲法第5条との整合性を問題視しているとみられる。」 天皇が発言したから、皇室典範を改正するとなると、天皇の発言が政治性を帯びるということになるという理屈のようです。そればかりでなく天皇が自らの意思で退位ができるとなれば、その退位という行為によって政治的影響が出ることも否定できないことになります。時の政権による政治利用も考えられます。皇太子を即位させ、お祭りムードを作り上げるというようにです。生前退位であれば、お祭りムードにすることがやりやすくなるからです。 天皇を特別な地位に見立てたいとする保守・反動勢力は、これを許さず、天皇を祭り上げたいという勢力もあります。こういった勢力は生前の退位などもってのほかと考えているようです。 生前退位を認めない皇室典範自体が人権上も問題なのであり、天皇の発言はきっかけに過ぎず、改正の契機とすること自体、何ら問題はありません。天皇の退位の希望が政治的発言とは言い難いからです。「天皇の退位の自由の次は、皇室離脱の自由の保障だ、天皇の言葉の政治利用を考えながら」退位の自由を認め、皇室離脱の自由こそ認めていくべき 天皇の退位による政治的影響についても、天皇が右向けといえば、政治家が右を向くようでは、天皇の権力が助長されることになり、当然、現行憲法は禁じていますが、退位は、皇室のあり方の問題にすぎず、やめたいという意思まで無視しうるものではありません。憲法上は、国民の総意に基づくとある以上、皇室典範の改正により退位を認めるのであれば全く問題はありません。政権による天皇の政治利用は、憲法上も禁止されていますから政治利用に関する責任は内閣が負うことなります。 なお憲法に摂政の規定があるから退位ができないというのは詭弁の類です。摂政を置くか退位するかは単なる選択の問題に過ぎないからです。今後は、退位の自由を認め、そして皇室離脱の自由こそ認めていくべきものです。英国のウィリアム王子を昼食に招き、玄関で出迎えられる天皇、皇后両陛下=皇居・御所 それにしても摂政とは聖徳太子を彷彿させますが、このような規定はあまりに時代がかっています。右翼が喜びそうですが、自民党の三原じゅん子議員は神武天皇は実在しているとか発言したそうですが、身の毛がよだちます。 「三原じゅん子氏『神武天皇は実在の人物』と認める 池上彰氏が質問(参院選)」 「(池上)――神武天皇は実在の人物だったという認識なんでしょうか?(三原)そうですね。いろんなお考えがあるかもしれませんけど、私はそういう風に思ってもいいのではないかと思っています。」  元号はおろか皇紀をつかって喜んでいる議員もいました。山谷えり子氏です。 「『○山谷えり子君 今年は平成二十三年、西暦二〇一一年ですが、皇紀何年でしょうか。○国務大臣(枝野幸男君) 存じ上げません。○山谷えり子君 神武天皇様が御即位なさってから、今年は皇紀二千六百七十一年。』」 「『建国記念日』に安倍総理がメッセージ どこまで右転落していくやら」 皇紀なんて論外ですが、元号も頻繁に変更されても不便この上もないものです。世界に通用しない元号など廃止し、西暦で統一すべきです。(猪野亨公式ブログ 2016年7月16日分を転載)

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    天皇陛下とローマ法王、「終身制」の功罪

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 天皇陛下が生前退位の意向をお持ちだというニュースは欧州のオーストリアでも大きく報道された。東京発の通信社のニュースを土台に詳細に天皇家の背景を報じるメディアもあった。 天皇陛下の生前退位のご意向を聞き、終身制の良し悪しを改めて考えざるを得なかった。体力の限界まで公務を遂行しなければならない終身制はある意味で非常に酷なシステムだ。 天皇陛下の生前退位のニュースは2013年2月11日のローマ法王べネディクト16世の退位表明とどうしても重なってしまう。前者は世襲制であり、後者はコンクラーベ(法王選出会)による選出制だが、両者とも基本的には終身制だ。ドイツ人のべネディクト16世は当時、健康を理由に生前退位を表明した。自由意思による生前退位は719年ぶりだった。ローマ法王フランシスコ 終身制を基本とする社会で生前退位を表明すれば、様々な憶測が生まれ、混乱が起きることもある。実際、ベネディクト16世の場合も例外ではなかった。生前退位後、様々な憶測が流れた。 バチカン放送によると、フランシスコ法王は最近、ベネディクト16世の生前退位は決して個人的な健康問題が主因ではなかったはずだという内容の発言をしている。南米出身法王は、「べネディクト16世の生前退位は革命的な決定だった」と表現し、ドイツの法王は自身が身を引くことでバチカン内の刷新を図ったという意味合いを示唆している。 「人生50年」といわれた時代とは異なり、100歳の長寿も決して珍しくなくなってきた時代に生きている。だから、終身制はある意味で長い任務を課すことになり、任期が長くなれば、「生き生きとした気持ちで任務を遂行できなくなる」ケースも出てくるだろう。 ヨアヒム・ガウク独大統領は先月6日、2期目の出馬に対し、「与えられた職務に生き生きとした気持ちで応じられなくなるのではないかと懸念している」(独週刊誌シュピーゲル)と述べ、再選出馬を断念する意向を表明したばかりだ。 ガウク大統領の再選出馬断念を思い出していると、静岡県の川勝平太知事が、「階段が上れなくなったら即辞める」と述べたという記事が読売新聞電子版(14日)で報じられていた。簡単に言えば、体力の限界が任務の終わりを告げるというわけだ。本人がやる気いっぱいでも体力が許さない場合、辞任せざるを得なくなる。その意味からも、終身制は非常に酷なシステムと言わざるを得ない。 故ヨハネ・パウロ2世(在位1978年10月~2005年4月)は亡くなるまで法王の任務を遂行したが、晩年はパーキンソン症候群などで肉体的に苦痛の日々を送った。その姿は痛々しかったほどだ。ポーランド出身のローマ法王は27年間、法王の座にあった。近代法王の中で在位期間は最長だった。 もちろん、体力、意志力などは個人差が大きい。だから、何歳までといった明確な年齢制限は適切ではないかもしれない。故ロナルド・レーガン米大統領(任期1981~1989年)が2期、8年間の任期を終え、辞任する時、「どうして米大統領職は2期で終わるのか」と不満を漏らしたと聞く。高齢で大統領に就任したが、2期を終えた後も3期を遂行できる体力と意志力があったのだろう。 全てには時がある。スタートする時も、休む時も、考える時も、時がある。制度でその時を禁じる終身制はやはり再考が必要だろう。その意味で、ベネディクト16世の生前退位は法王の終身制に終止符を打った革命的な決定だった。天皇陛下の生前退位への意思表明については、日本国民として陛下のご健康を祈りつつ、謹んで承りたいものだ。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2016年7月17日分を転載)

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    小林よしのり×所功 女系天皇含む皇室典範改正を語り合う

     国民に大きな衝撃を与えた天皇陛下の「生前退位」報道は、皇室を研究してきた識者らにとっても激震だった。仮に生前退位が実現の運びとなっても次々と課題が浮かび上がる。現行の皇室典範では天皇の直系男子しか皇太子になれないため皇太子が不在になるという問題や、結婚適齢期を迎えられる眞子さま佳子さまのために女性宮家をつくらなくていいのか、天皇の直系にあたる愛子さまはどんなお立場になるのか、といったさまざまな問題を同時に考えざるをえない。 『天皇論』(小学館)を著わした漫画家・小林よしのり氏と『皇室典範と女性宮家』(勉誠出版)などの著書がある法学者・所功氏が対談した。小林:皇太子殿下に後を継いでもらって、どのような象徴天皇の像を築いていくのかを皇后陛下とお二人で温かく見守りたい。そう思われるのは全く自然じゃないですか。そうしてあげられるようにしようというのが国民の感謝の念のはずですよ。この期に及んでもそれに反対する人がいるのは理解しがたい。所:ご公務が多すぎるという問題にしても、陛下が本来なさるべきことと、してほしいとの要望を受けてされることの区別がつかなくなり、両陛下のハードスケジュールが当たり前になってしまった。 国民みんなが陛下に甘えてきたのではないか。そのことも反省しなければなりませんね。小林:すべての問題が繋がってきますからね。先ほども言ったように、皇太子殿下が天皇になると、皇太子が不在になる。では、秋篠宮殿下が「皇太弟」となるよう皇室典範を改めるのか。しかし、お二人がどんどんご高齢になっていくと、たとえば秋篠宮殿下への皇位継承が80歳を超えることもあり得る。すると、新元号の期間が数年しかないという大混乱も起きかねない。悠仁さまは、もっとも重要な皇室祭祀をはじめとする皇位継承のための準備期間がほとんどないまま皇位を継ぐことになってしまう。 皇太子殿下が継ぐのだから、そのあとは直系の子である愛子さまが継ぐのが一番自然だと思います。男系絶対という古い風習にとらわれるべきではない。衆院予算委で維新の党の松野代表(左手前から2人目)の質問に 答弁する安倍首相=2月4日、国会所:きわめて難しい問題ですね。おっしゃるとおり、秋篠宮殿下が皇太子殿下の後をお継ぎになる場合、ご年齢の近い敬宮愛子さまと悠仁さまのどちらを優先するかということは、かなり際どい難問となってくるに違いありません。ただ現在、弟君に悠仁さまという男子がおられますから、それを前提に次の次まで見守っていくほかないと思います。 いまはまず、陛下のご意向実現を最優先に考え、皇室典範第4条を終身在位に限らず生前退位を可能にするよう改めることに的を絞るべきだと存じます。もちろん、その間に独身の皇族女子が結婚して皇族からいなくなってしまうことを回避しなければなりませんから、皇族女子も宮家を継承したり創立できる道を開く典範改正も避けて通れません。小林:小泉政権のときには女系天皇まで認めた皇室典範改正を進めていて、本来はあれでよかったはずなんですよ。それを、悠仁さまがお生まれになったからといって、ぱっと引き揚げてしまったのは、当時、官房長官だった安倍首相ですよ。 その後、今度は野田政権で悠仁さまがいることを前提に女性宮家の創設に関する皇室典範改正が議論された。わしもあの案はひどいものだったと思いますが、それすら政権交代後に潰したのも安倍首相です。女性宮家は女系天皇につながるという男系絶対の支持者の声に従ったわけでしょう。関連記事「皇太子さまの祈りは本物。立派な天皇になられる」と旧皇族皇太子殿下 天皇陛下の宮中祭祀取組みを引き継ぐ決意との声美智子様 子が嫌いなものを食べないと食堂から出さなかった生前退位 ここまで陛下を追い詰めていたと国民気づく女性天皇を認めるなら過酷な祭祀の見直し必要と宮内庁OB

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    宮内庁 生前退位巡り最高幹部ら「4+1」会合重ねた

    をし、「生前退位の意向」と軒並み後追い報道をしたとみられるが、その見方は正しいのか。 元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏は「今回の報道の背景には、様々な思惑がある可能性がある」と前置きしていう。 「天皇陛下が生前退位なさるには皇室典範や関連法の改正が必要です。しかし、憲法4条で〈天皇は国政に関する権能を有しない〉と定められているので、法改正が必要な案件について、宮内庁が“陛下のご意向が示された”ということを公式に認めると、憲法違反の恐れがあります。 そうした状況の中で、宮内庁サイドが“公式には発表できないが、なんとかして陛下のお気持ちを伝えたい”と考え、NHKに報道させるかたちになった可能性はある。否定したのに抗議しない対応も“宮内庁側とNHKとの間で事前に話ができていたのでは”と勘ぐられても仕方ない経緯でしょう」 実際、この数か月間、宮内庁では、「生前退位」を巡って最高幹部が会合を重ねていたとみられている。 「5月頃から風岡典之・長官と山本信一郎・次長という庁内のトップ2に、皇族の身辺のお世話などを担当する侍従職の最高幹部である河相周夫・侍従長と高橋美佐男・侍従次長、それに皇室制度に詳しいOB1人を加えた5人が、定期的に集まって検討を重ねていたといわれています」(宮内庁関係者)宮内庁庁舎 この“5人組”の会合については、関係者の間で「4+1」会合などと呼ばれていたと報じられている(毎日新聞、7月14日付夕刊)。 最高幹部4人とともに、議論に参加していた「OB」については、羽毛田信吾・前宮内庁長官など複数の名前が挙がっているが、有力視されている1人が同庁で書陵部長などを歴任し、今年3月に退職したOBである。現在は宮内庁の非常勤研究員の立場にある。元書陵部長をよく知る宮内庁OBがいう。 「彼は、宮内庁が誇る皇室関連法の第一人者です。現在の関連法規に限らず、大宝律令にまで遡る歴史的な皇室制度や、海外の王室制度にも詳しい。 東大法学部をトップクラスの成績で卒業しながら大蔵省ではなく宮内庁を選んだ異色の職員で、非常に特殊な法体系になっている皇室関係の法改正を議論するのに、彼の知見なしに進められたとは考えにくい」 “5人組”の1人と目されるこの元書陵部長を自宅前で直撃すると、 「いや、(自分が会合に参加しているというのは)勘違いじゃないですか?(他の現役幹部4人とは)格が違いますよ。そんなレベルの高い方々とは。(会合への参加は)ないというふうに考えていただいたほうが……」 と口を噤んだ。 宮内庁は、「生前退位の意向が示されたという報道に関してはコメントを差し控える」(総務課報道室)とするのみで、NHKに抗議しない理由、「4+1」会合の内容やメンバーなどについて、回答しなかった。 いずれにせよ、NHKの報道は宮内庁内部で進められた慎重な議論が下敷きにありそうだ。それは他メディアの報道からもわかる。関連記事「皇太子さまの祈りは本物。立派な天皇になられる」と旧皇族皇太子殿下 天皇陛下の宮中祭祀取組みを引き継ぐ決意との声美智子様 子が嫌いなものを食べないと食堂から出さなかった生前退位 ここまで陛下を追い詰めていたと国民気づく女性天皇を認めるなら過酷な祭祀の見直し必要と宮内庁OB

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    皇室典範を「女性蔑視」とほざく愚昧な人々

    国連が日本の国柄や伝統を無視して皇室典範にいちゃもんをつけたのは記憶に新しい。皇室典範を「差別的規定」と決めつけた国連の一方的な見解は許しがたいが、そもそも今回の騒動の裏には反日・左派勢力の長年にわたる組織的活動があったともされる。日本人よ、国連の横暴に今こそ怒りの声を上げよ!

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    あまりにも無知で粗雑! 皇位継承まで口を出す国連委の非常識

    院大学名誉教授) もう二か月以上前にもなるが、3月9日の産経新聞は一面トップで「国連委男系継承を批判皇室典範改正の勧告案」という見出しの衝撃的な記事を掲載した。その2日前の7日に国連女子差別撤廃委員会が発表した慰安婦問題を含む日本に対する最終見解の原案では、「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と指摘した上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」との勧告がなされていたというのである。記者会見する国連女性差別撤廃委員会のジャハン委員 =3月7日、ジュネーブ この情報を入手した日本政府はただちに委員会側に抗議し、この部分の削除を強く要請、その結果、最終的には皇室典範に言及した箇所は削除された。菅義偉官房長官はこの日の記者会見で「わが国の皇室制度も諸外国の王室制度も、それぞれの国の歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている。わが国の皇室制度の在り方は、女子差別撤廃条約でいう差別を目的としていないのは明らかであり、委員会側がわが国の皇室典範について取り上げることは全く適当ではない」と答弁している。 安倍晋三首相も14日の参院予算委員会で同旨の批判を述べ、さらに「今回のような事案が二度と発生しないように、女子差別撤廃委員会をはじめとする国連及び各種委員会にあらゆる機会をとらえて働きかけていきたい」と強調した。 至極真っ当な見解であり、迅速かつ適切な対応であって、これ以上つけ加える必要はないが、この機会にわが国の皇位継承について改めて考えてみることも意昧なきことではあるまい。周知のように、わが国の皇位経承は男系によって堅持されてきた。皇室における男系とは、父方を通して歴代天皇の系譜につながる方々を指し、女系とは、母方を通してしか歴代天皇の系譜につながることのできない方々を指す。この原則は第2代の綏靖天皇から百二十五代の今上天皇まで二千余年にわたって脈々と受け継がれ、この揺るぎなき伝統を「万世一系」と称する。 したがって、女系による皇位継承はこの定めに背反し、皇統の断絶をきたすものと老えられてきた。これは、力づくによるものではないにしろ、中国の歴史に頻発した易姓革命に類似する王朝の交替と同視されたからである。 本原則は、もともと建国以来の「不文の大法」に基づくものであったが、明治になって憲法および皇室典範において成文化され、日本国憲法の下でも継承されている。憲法第2条は「皇位は世襲のものであって…」とあり、必ずしも男系に限定していないかのように解する向きもあるが、現憲法の制定に際しての政府側答弁でも「男系を意味する」と明言されている。これを受けて現典範は第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定し、旧典範第1条「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」を踏襲していることは明白である。わが国の歴史、伝統に無知かつ非常識 この点に関してよく言われることだが、「わが国にも過去に女性天皇がおられたではないか」という反問について簡単に触れる。たしかに、わが国には八方・十代の女帝(女性天皇)がおられたが、すべて男系であり、しかも、これらの方々の大半は皇嗣が幼少であるなどの事情に基づく「中継ぎ」の即位であって、あくまでも一時的・例外的な存在である。また、過去の女帝は、元皇后または皇太子妃の場合、すべて未亡人であり、未婚の方は生涯独身を通され、配偶者を有されたままで皇位につかれたことは皆無であった。 以上、ごく簡単にわが国の皇位雑承について述べてきたが、国連の勧告がいかにわが国の歴史、伝統に無知かつ非常識な代物であるばかりではなく、論の立て方自体が粗雑に過ぎよう。というのは、勧告は「女性差別撤廃」の視点から「男系男子」と「女系女子」を単純に対比させて、後者にも皇位継承権を与えよと主張しているが、「男系女子」「女系男子」については何の言及もないからである(過去の女帝の存在は全く視野に入っていない)。また、勧告の根拠となっている国連の人権宣言は「人種、皮膚の色、性別」にとどまらず、「宗教、政治上の意見」などの差別を無くすことを謳っているが、今回のような恣意的なものが過去にもあったのか、あらためて検証してみる必要があろう。皇室典範に関する有識者会議で最終報告書を小泉純一郎首相(右)に手渡す吉川弘之座長=2005年11月24日、首相官邸  翻ってみれば、小泉純一郎内閣において女系導入も辞さない皇室典範改定が拙速に推進されようとしたことがあった。女性天皇と女系天皇の違いも明瞭ではない首相の独走に対して少なからぬ国民が反発したため、次の安倍首相によって法案は白紙に戻ったという経緯がある。 その意味で今回はあまり心配しなくてもよいかもしれないが、悠仁親王の世代に男子皇族がほかにおられないという皇統の危機は厳としてある。政府は男系主義を維持しつつ、これに対処する方策(昭和22年にGHQの経済的圧迫によって皇籍の離脱を余儀なくされた方の子孫による皇籍の取得)を速やかに講じていただきたい。