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    日本人力士よ、恥を知りなさい

    えた春場所も日本人力士を寄せ付けぬ圧倒的な強さで34度目の優勝を果たした。外国人力士に押されっ放しの相撲界。日本人力士たちよ、少しは恥を知りなさい。

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    何が相撲の伝統を守ったか

    舞の海秀平(元小結、スポーツキャスター) 大相撲の世界には、ここ何年間でいろいろな不祥事がありました。本場所が中止になったこともあり、天皇陛下をお迎えする天覧相撲も平成23年1月を最後に、もう3年以上も行われていません(編集部注:その後、天皇、皇后両陛下は4年ぶりに平成27年初場所をご観戦)。大相撲界の不祥事が原因であり、やむをえないことなのかもしれませんが、これは本当に残念なことです。 私自身、現役時代に何度も天覧相撲を経験し、現役引退後にもNHKなどで大相撲の解説もしていますが、天覧相撲というのは、力士に不思議な力を生み出すものなのです。また、国技館のお客様が、自然と立ち上がって拍手を送る。こういう光景を見ると、なんと素晴らしい国に生まれたのだろうと思います。私たちは、天皇という大きくて深い、懐の中で、生きているのであろうと感じられるのです。 それはなぜか。単に、陛下がご覧になっていることを意識している一人一人の感覚によるものともいえるでしょうが、私は、それだけではないと考えています。それは日本の伝統文化の一つである大相撲が、実は天皇、皇室のご存在によって、1500年近く守られてきたという歴史的事実と無関係ではないのではないかと思うわけです。そのことを、いま私たちは改めて思い出し、襟を正す必要があるのではないか。私はそう考えています。相撲界に携わる者として、一日も早く、晴れて陛下にご覧いただける大相撲を取り戻さなければならない、そう考えるわけです。大相撲 住吉大社で奉納土俵入りを披露する横綱、白鵬ら=2月28日、大阪市住吉区単なるスポーツではない まず初めに大相撲が、単なるスポーツではなく、日本の伝統文化、伝統芸能であり、そして何より相撲は神事であるということを確認しておく必要があるでしょう。 神事だということは、日本の伝統的な信仰で、皇室と深くつながる神道に関わるものでもあるということです。大相撲の不祥事報道では、スポーツとしての公平さ公正さの重要性ばかりが強調されますが、これはあまりに一面的な見方なのです。 大相撲本場所のテレビ放送を見ると、誰でも相撲が伝統芸能であり、神事であるという証拠を目にすることが出来ます。例えば、呼出が扇子を持って「東~」「西~」と、力士を呼び上げます。ただのスポーツならば、観客のためにマイクで場内アナウンスをすれば済むことですが、大相撲は伝統芸能であるが故に、あの独特の所作が生むムードを必要とするわけです。歌舞伎役者がどんなに見得を切っても、音を響かせるツケ打ちさんの高い技術がなければ見栄えしないのと同じです。 相撲の取組には、神事であるからこそ、さまざまな作法があります。 土俵の力士は蹲踞をして、大きく手を広げて、ぱちっと手を叩きますが、あれは、私は武器を持っていません、正々堂々と闘います、ということを示すと同時に、柏手の意味があるそうです。丁寧な力士は叩いた手を揉んでいますが、実はこれが正式な所作であり、神社にお参りするとき、手を洗って口をすすぐ行為の代わりなのです。昔はどこにでも水がなかったから、力士は手を下に伸ばして、草をむしり、その草で手を揉んで、手を洗ったことにしたのですが、その名残なのだそうです。 土俵の中央で向かい合った後、わざわざそこで四股を踏むのもまた神事からきているそうです。大昔の人は、土の中に魔物がいると考えたそうで、力持ちの力士が大地を踏みしめて魔物を退治し、五穀豊穣を祈る意味があるそうなのです。 塩をまくのもそうです。塩は、いろいろな神事に使われますが、大相撲でも土俵を清め、邪気を払う役割もあるのです。宮中儀式にならなければ… ここで大相撲が、いかに天皇、皇室と関わりが深いものであったかということに触れておきたいと思います。 『力士漂泊』を書いた宮本徳蔵は、力士の起源を2、3世紀のモンゴル辺りとみていますが、日本では、西暦642年(皇極天皇元年)に、古代朝鮮半島の百済から来た使者を饗応するため、飛鳥の宮廷の庭で相撲を見せたという史実が、文献で確認されているそうです。 734年、聖武天皇の代には、初めて天覧相撲が行われたといわれています。聖武天皇は諸国の郡司に対して、強い力士を選んで貢進するように勅令も出しており、国家儀礼として宮中で行われる相撲相撲節会」が正式に形作られていったのです。「すもうせちえ」と読みますが、相撲は「すまい」と読まれていたことから、「すまいのせちえ」とも読みます。 平安時代に入った頃から、天覧相撲は毎年恒例となり、833年、仁明天皇の頃になると、「相撲節会というのはただ単に娯楽遊戯のためではなく、武力を鍛錬するのが、中心の目的である」と勅令を出し、諸国のすぐれた相撲人を探し求めるようになりました。 このようにして、相撲は、天皇に認められ、宮中儀式となり、そして国家的な文化として隆盛を極めるようになったといえるでしょう。 平安時代、相撲は民間各地でも豊作祈願の農耕の儀式として行われていましたが、宮中で相撲節会として扱ってもらっていなければ、やがて廃れてしまい、続いていなかったかもしれません。実際に、その後、相撲は危機に瀕することもあったのです。天覧相撲に救われた伝統天覧相撲に救われた伝統 12世紀になると武家社会が到来し、相撲は宮中から、武士の手に渡り、戦のために鍛錬するという武芸の一種のような性格が強くなっていきました。室町時代になると、いろいろな文化、芸能が起こり、芸能文化としての相撲は段々衰退していき、野蛮なものだと思われるようになっていくのです。 しかし、戦国の英雄、織田信長が相撲好きで、上覧相撲も行われるようになり、また見直されます。豊臣秀吉もそれにならいました。江戸時代になると、寺社仏閣を建てる、橋を建てるという名目で、営利目的の相撲の興行が起きるようになりました。これを勧進相撲といいます。 平和で、力のある外様大名が中央政治に関与する機会が殆ど無かった江戸時代には、各藩の大名が強い力士を探して、それぞれ抱え、藩の名誉を競うようになったようです。年に何度かある江戸、京都、大坂であった相撲の大会に出場させるわけです。たとえばいまの青森県の津軽家や鹿児島県の島津家は、本当に強い力士を探すのに熱心だったそうです。こうした熱心な大名家の領地だった土地には、いまでも輩出する力士の数が多いのです。 ちなみに、相撲に土俵が生まれたのは江戸時代だという説があります。土俵がない時代の相撲は、力士の周りに人が集まって相撲を観るために、力士双方が四つに組んで、どちらかが倒されるまで続けなければならず、なかなか勝負がつきませんでした。気が短い江戸っ子は、いつ終わるか分からない相撲を観ていられなくなり、土俵をつくるようになったというのです。 相撲の歴史では大きな進歩というべきでしょうが、一方で、土俵ができたことによって、立ち合いに変化が生まれ、力と力のぶつかり合いが必ずしも行われなくなっていったという一面もあります。現役当時の私のように、猫だましをしたり、八艘跳びをしたりする「卑怯」な力士には、いいことだったかもしれません。もちろん、これはある種の冗談というか、土俵がなかった時からみたらそう見えるということで、いま、それをしている力士が卑怯ということではありませんが…。大相撲 春場所千秋楽 初の全勝優勝で、北の湖(左)は、往年の名人横綱栃錦、現春日野理事長から天皇賜杯をうける=1977年3月27日、大阪府立体育会館  それはともかく、宮中から舞台が移っても、相撲と皇室との関わりは消えませんでした。明治時代、天皇が京都から江戸に移る時、京都の力士達は菊のご紋の陣羽織を着て先頭に立つことを名誉としたそうです。文明開化で西欧のものを取り入れるようになると、相撲はまた室町時代のように野蛮な競技だとみられるようになり、裸になることすら憚られるようになったのですが、そのとき、相撲を救ったのは明治天皇でした。 明治17年、芝延遼館で天覧相撲が行われ、明治天皇がご覧になったことで、一気に相撲が見直されるようになったのです。もし、ここで天覧相撲が行われていなかったら、時代とともに相撲はなくなっていたかもしれません。 天覧相撲とともに、相撲という伝統文化が残った大きな理由に丁髷があると私は思います。明治後、世の中の人はみな、丁髷を切ったのですが、相撲界だけは丁髷を残しましたが、これは今考えると、重要だったのではないかと思います。相撲というのは丁髷をつけているから神々しく見える。丸坊主の太った男が土俵に上がって闘っても、それほど神々しく見えないのではないでしょうか。 言い換えると、皇室によって守られた相撲が存続することで、丁髷という伝統技術も残されたということなのです。一度、丁髷をやめれば、そこで髷を結う床山は必要なくなります。そうすると床山の持っていた伝統技術もなくなるのです。復活させようとしても、もうできません。丁髷を結える人がいなくなってしまうのですから。こう考えると、皇室の存在は相撲の持つさまざまな伝統文化、技術を守っていたともいえるでしょう。身を乗り出された昭和天皇 昭和天皇は大変な相撲好きでいらしたことが知られていますが、昭和天皇のご存在が、大相撲を現在の形にしたと言っても過言ではありません。 まず、力士にとって最高の名誉である天皇賜杯。大正14年、昭和天皇が摂政宮でいらしたときに、赤坂の東宮御所で台覧相撲が行われましたが、このときの御下賜金で摂政盃(優勝賜杯)が作成され、これが現在の天皇賜杯につながっているのです。 また、天皇賜杯をいただくのに、大相撲を行う団体はきちんとしておかなければいけないということもあって、財団法人となる動きは加速し、大日本相撲協会が認可されるのです。これが現在の公益財団法人「日本相撲協会」へとつながっていくわけです。 昭和天皇はありがたいことに戦後も40回にわたり、蔵前、両国国技館にお出ましになり、大相撲をご覧になりました。東京では年3場所ありますが、3場所ともご覧になった年も何度もあるわけです。 天覧相撲といえば、昭和50年5月場所、麒麟児と富士櫻戦が有名です。麒麟児と富士櫻はお互いにまわしを取らずに突っ張るタイプの力士で、いまの力士に多いタイプとは違って、押せなかったからといって、はたかず、突っ張り合いで勝負するのです。テレビ中継では、100発を超える突っ張り合いを、昭和天皇が身を乗り出されて、香淳皇后とご一緒にご覧になる姿が放映され、非常に印象的でした。 天覧相撲では、この両力士が激突することが多かったように思います。本当かどうかは定かではないのですが、相撲協会も天覧相撲になると、わざわざ麒麟児、富士櫻戦を用意したのではないかといわれています。 プロ野球の天覧試合では、巨人・阪神戦で、巨人の長嶋茂雄選手が逆転サヨナラホームランを打った映像が有名ですが、私たち力士は、天覧相撲になると、何か不思議な力をいただくのではないかと思えるのです。ひ弱な日本人力士たちひ弱な日本人力士たち 大相撲は、現在の日本社会に大きな影響を受けています。日本社会の縮図と言っても過言ではありません。たとえば、日本の若者はひ弱になったとか、内向きになったとか、そういうことが言われますが、大相撲も最近、強いのは外国人ばかりで、つまらなくなったという声をよく聞きます。 いま大相撲を支えているのはモンゴル人なのです。モンゴル人がいるからこそ、私たちは横綱の土俵入りが見られるわけです。彼らの目的は何か。日本の大相撲界に入って、そして早く強くなって、お金を稼いで、祖国の両親、家族の面倒を見るということです。勝てるようになるまで、帰れない。そういう強い気持ちが、日本人の力士と違ってあるわけです。 朝青龍から聞いた話なのですが、朝青龍の父上は、息子に、どういう気持ちで相撲に臨むべきか、このように教えたそうです。「相手のことを、自分のお母さんのことを殺した犯人だと思って闘え」と。これを聞いた時、日本人力士は勝てないなと思いました。 それに比べて、このごろの日本人力士には「3~5年やってだめなら、田舎に帰って何か仕事を探せばいいかな」と考えている力士がたくさんいるのです。力士の親も変わってきました。昔は、息子が相撲界に入るとなると、親も「強くなるまで帰ってくるな」と送り出したものですが、いまの親は「苦しかったら、すぐ帰ってきなさい」「何も我慢することはないのよ」と送り出すのです。そうすると、すぐ帰っていきます。ひどいのになると、朝来て夜には帰ってしまうのもいるのです。 これは、相撲界だけなのでしょうか。企業の社長と話していても、「最近の若いのはすぐやめていくんだよね」というのです。「どうしてですか」ときくと、「いや、『理想の職場じゃなかった』というんだよね」というのです。どんな世界でも、いいところと悪いところがあります。みんな、我慢をしながら、仕事をしていくのになあと思います。 相撲界に外国人が増えるのは、やはり国際化、グローバル化の影響であり、もはや止めようもないことです。外国の力士を排除すべきという意見もありますが、これも難しいと思います。もし、そういうことでもすれば、外交問題に発展するでしょう。モンゴル政府は本当に怒ると思います。 ただ、その一方で相撲が日本の伝統文化、伝統芸能であり、神事であるということも忘れてはならないと思います。相撲をオリンピック競技にしてはどうかという声も出てきていますが、五輪競技になれば、スポーツの国際的基準にあわせるために、相撲の伝統的部分がどんどん失われることになるでしょう。私はそれは、決していいことだとは思いません。大相撲 初場所初日 逸ノ城(右)を寄り切りで下した遠藤 =2015年1月11日、両国国技館 (今井正人撮影) ずぶ濡れになってお見送り なぜ、大相撲がここまで続いたのかというと、日本に天皇がいらしたから、日本に皇室があったからだと思うのです。 明治時代に相撲が廃れかけたときに、明治天皇が天覧相撲を行って下さった。昭和天皇が何度も国技館に足を運んで下さり、大相撲を見守って下さった。そして今上陛下も何度も国技館に足を運んで下さいました。 クラシック音楽が宮廷音楽として発展したのと似ていますが、相撲という文化を発展させたのは天皇・皇室のご存在なのです。相撲界には谷町という存在がありますが、皇室は、大相撲の精神的な谷町であるというと、言い過ぎでしょうか。 しかし、相撲に限らず、皇室のご存在を精神的支柱とし、その中で発展してきた伝統文化は多いはずです。同じようにさまざまな伝統文化が、皇室のご存在によって生まれ、維持され、発展してきたはずです。そういう意味では、天皇・皇室は、伝統文化を守る大きなシステムであるともいえるのではないかと、私は考えています。 私たち相撲関係者は、皇室への敬意を決して失いません。相撲界の先輩から聞いた話ですが、昭和天皇が崩御された時、大相撲の親方、力士は、ご遺体が運ばれるのを、土砂降りの冷たい雨の中をずっと立って待っていたといいます。いつ到着されるか分からなかったこともあり、はじめは、みな傘を差してお待ちしていたのですが、当時の相撲協会の二子山理事長が「傘をとれ」というと、力士がみなズブぬれになりながら、頭を垂れて、ご遺体を見送ったそうです。私は、この話を聞いた時、本当に胸が熱くなりました。 私は、相撲界に携わる一人として、皇室の弥栄を心よりお祈りして参りたいと考えております。(構成/月刊正論編集部・菅原慎太郎)舞の海秀平氏 本名は長尾秀平。昭和43(1968)年、青森県生まれ。日本大学経済学部卒業。平成2年、大相撲出羽海部屋入門。基準の身長に足りず1度目の新弟子検査に不合格。頭にシリコンを入れ1カ月を過ごし、2度目の検査で合格。3年3月新十両、9月新入幕。最高位小結。11年に引退後は大相撲解説者、スポーツキャスターとして活躍。関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 元海自特殊部隊小隊長が問う 日本人よ、この覚悟が理解できるか■ 大切にしたい日本の美徳

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    かげりが見えない白鵬 モンゴル勢の強さの秘密を科学する

    玉村治 (スポーツ科学・科学ジャーナリスト) 大相撲九州場所(11月場所)で、希代の大横綱、大鵬と並ぶ32回目の優勝を成し遂げた白鵬。他を寄せ付けない圧倒的な強さの裏には、力と力がぶつかり合う相撲において、自分の力だけでなく、相手の力をも有効に利用してしまう「柔らかさ」「うまさ」がある。細い体から肉体を作り上げ、大鵬の最大の長所の柔らかさに加え、剛の両面を持ち、重心のスポーツとされる相撲の極意を知り尽くしたセンスは、追随を許さない。40回の優勝も現実味を帯びている。 この白鵬に続き角界を引っ張ると期待されるのが、幕下付け出しから5場所で、史上最速の関脇に昇進した逸ノ城だ。九州場所では、上位陣と当たる難しい番付ながら勝ち越し、類い希な才能を見せつけた。角界を席巻するモンゴル出身の白鵬、逸ノ城の躍進の秘密はどこにあるのか、日本人力士はどこと違うのか、迫りたい。大相撲 春場所14日目 横綱白鵬(左)は大関稀勢の里を注文相撲で下し、 1敗を堅持した=3月21日、ボディメーカーコロシアム9割の勝敗を決める立ち合い 相撲の立ち合いは、勝敗の8~9割を決めると言われる。体重150KG同士の力士が正面からぶつかり合った時の衝撃は800KG。体重が200KG同士では、1トンを超える。 この衝撃力をまともに受け止めることはどんなに鍛えていても難しい。自らも前のめりになって当たっていくか、あるいは力を逃がしたり、かわしたりしななくてならない。互いにバランスが崩れやすい瞬間であり、ここで先手をとれば、技をかけやすい有利な体勢に持ち込むことができる。 この立ち合いに絶対的な自信を持つのが白鵬だ。クッションなみに力を吸い取り、多様な攻めにつなげる柔らかい相撲を取る。それは昭和の大横綱「大鵬」(1940-2013年)と共通する。 「巨人、大鵬、卵焼き」と一世を風靡した大鵬と対戦した力士は、立ち合いでのぶつかりを異口同音にこう表現した。 「思い切ってぶつかったが、手応えがない。衝撃を吸収されてしまう感じ」。 大鵬の体の柔らかさをデータも示す。1973年に東京教育大学(現筑波大学)が、横綱の大鵬、玉の海(1944-71)ら十両以上の力士47人を対象に身体能力を測定したデータがある。大鵬は、伏臥上体そらしなど体の柔軟性を示すデータが飛び抜けていた。ちなみに、もう一つ目立ったのが「肺活量」だった。 この大鵬に対する表現と同じことを、白鵬と対戦する力士も口にする。白鵬は、立ち合いで、出遅れることなく踏み込み、相手の出方を受け止める余裕もある。変貌自在なのである。自分の型にはめ込む幅(遊び)が大きい。 白鵬は、立ち合いの時に、横綱「双葉山」(1912-1968年)が得意とした「後の先」(ごのせん)を目指している。後の先は、立ち合い時に相手の動きを見て、かすかに遅れ気味に立つことである。双葉山は、これによって相手を下から攻め、主導権を握った。一歩間違えば、相手に付け入れられてしまう危険もある。しかし、この後の先は、相手の力を吸収し、有効に利用するのに理にかなっているやり方なのである。膝を抜き、地面反力で相手の力を吸収図1 立ち合い時に力士に働く力。白鵬の力を吸収する原理 (出典:『一流選手の動きはなぜ美しいのか』(小田伸午著、角川選書)) 図1を見て欲しい。両力士が勢いよくぶつかった立ち合いである。右図から左図へと相撲が展開していく。左の力士を白鵬とすると、下位の力士は頭を下げてぶつかっていくが、「後の先」で構え、白鵬はびくともせず受け止める。そして、相手力士の力を上に押し流す(押し上げる)。力を逃がした格好だが、相手力士は力が吸収されたと感じ、白鵬は相手の力を巧みに使い、自分の型にはめ込んでいける。 関西大学人間健康学部の小田伸午教授は「稽古で鍛えられた強靱な筋力に裏打ちされた、うまさがある。具体的には、『膝の抜き』によって、強力な地面反力(地面からの力)を活用している」と指摘する。 膝の抜きとは何か。稽古が十分な横綱は、突進してくる相手に足を踏み込み、膝の力を抜き、重心を落としていく。この重心の落とし方が絶妙であればあるほど、地面から大きな力「地面反力」を受けることになる。物理でいう「作用と反作用の法則」だ。体がかたいと十分に落とせず、しかも重心を最大限、落としたところで相手を胸で受け止めれば、それだけ大きな反力を引き出すことができる。一見、体が立っているように見えるが、相手の突進力を上に押し上げることで、白鵬の足の裏には自重だけでなく、相手の体重もかかる。これによって強力な地面反力がさらに大きくなっていく。 小田教授は、「横綱はインタビューで、踏み込みがいいというが、これは膝の抜きが良かったということ。重心を落とせる筋力と、バランスが不可欠だ。稽古を積んだ力士は、このコツを体得している」と強調する。四股、鉄砲の基本動作がバランス、うまさを引き出す四股、鉄砲の基本動作がバランス、うまさを引き出す これを難なくこなすのは、白鵬が胴長短足の理想的な体形に加え、質、量ともに群を抜く練習量の裏付けがあるからだ。野球でいうキャッチボールやトスバッティングのような基本練習「四股(しこ)」「鉄砲」「股割り」「すり足」などの反復をけっして怠らない。「組んでよし、離れてよし」という柔らかさと、攻撃の両面性を持つ白鵬の原点になっている。HP「相撲健康体操イラスト図解」 (http://www.sumo.or.jp/pdf/kyokai/sumo_taiso.pdf))より 基本の稽古は、大型化が進む力士の筋力を向上させるだけでなく、柔らかさを生む。何より大事なのは、下半身と上半身をうまく連動させるための「バランストレーニング」であることだ。おろそかにはできない。 「四股」は、両足をほぼ180度開き、高く振り上げた足を降ろすと同時に、重心を落として、地面を強く踏む動作。四股を踏むという。これは、お尻の肉を鍛えるとともに、股関節周りの柔軟性と安定性を得るための練習だ。 「鉄砲」は太い木柱を腕で押すトレーニングで、腕力向上を狙うように見えるが、実は押しと足の運び方、つまり上半身と下半身をバランスよく使う「型」を覚えるものである。図3 相撲の股割り(出典:日本相撲協会HP「相撲健康体操イラスト図解」(http://www.sumo.or.jp/pdf/kyokai/sumo_taiso.pdf))より「股割り」は、足を一直線に広げて伸ばすトレーニング。下半身、特に股関節や大腿の内側の筋肉の柔軟性を高め、けがを防ぐ狙いがある。股関節の柔軟性を高めることで、膝、足首、腰などの負担が軽減する。 「すり足」は、中腰姿勢で、足を地面にスルようにして前進するトレーニング。「右脚と右腕」「左脚と左腕」を同時に動かすのがコツ。膝、股関節の筋力と下半身と上半身を連動させることを習得する。 これらのトレーニングは昔に確立された伝統的な練習だが、実は股関節などの可動域を広げ、柔軟性とけが防止、バランスを確保する意味で科学的なのである。絶対的な右四つと、多彩な取り口 白鵬がすごいのは、こうした稽古を続けながら100KG近く、体を大きくしたことにある。来日当時は身長175CM、体重62KGしかなかったが、14年経過した今は192CM、157KG。モンゴル勢は魚、野菜を食べる習慣がなかったが、白鵬は、食事について「ちゃんこを基本にし、特段、苦労はなかった」と語っている。 横綱昇進の2007年の7月場所以来、7年経ってもけがで休場したことは一度もない。それも基本練習のおかげだ。稽古場では、土俵に上がる前に四股、鉄砲を100回以上やる。ここまで徹底する力士はそう多くない。 「小学時代から肥満で、相撲しか選択肢がないという日本人力士と異なる。脂肪の少ないだけでなく、柔らかい筋肉がついていったのだろう」と専門家は分析する。図4 白鵬の得意とする右四つ左上手(手前の力士)。差し手(下手)が 右腕になっている(出典:『大相撲の見方』(桑森真介著、平凡社新書) 剛と柔をこうして培った白鵬は、「右四つ左上手」という絶対的な必勝の型を持つ。四つは両者が胸を合わせた状態のことで、右四つは、差し手(下手)が右の組み方をいう。この形から、低い姿勢で多彩な攻めを展開する。 決まり手は、四つに組んだまま、相手を土俵外に出す「寄り切り」が最も多いが、右四つ左上手からの「上手投げ」「上手出し投げ」などの投げも少なくない。大鵬よりこの上手投げなどの決まり手が多いとも言われる。絶対的の得意の型から相手の重心をずらし、投げに打つタイミングは絶妙だ。白鵬が安定しているのは、それだけではない。得意の型以外でも勝てるところにある。それは今年1年の決まり手を見ても言える(図5)。          図5 今年1年間の白鵬の決まり手モンゴル勢の強さの秘密 白鵬の強さは彼がモンゴル出身であることも大きく関係している。鶴竜、日馬富士の横綱、人気急上昇中の関脇逸ノ城を含め、九州場所の幕内力士42人中10人がモンゴル勢。今やモンゴル勢なしに、大相撲の人気は考えられない。 彼らが強いのは、日本より恵まれない環境で育った「ハングリー精神」だけではない。骨太で、筋肉が多く、子どものころから馬にまたがる機会があるため体のバランスがよい。さらに伝統のモンゴル相撲の環境要因が大きい。白鵬の父親はモンゴル相撲の永久横綱で、メキシコ五輪レスリング銀メダリストでもある。 大相撲と、どこが違うのか。論文「モンゴル人力士はなぜ強いのか」(「ユーラシア」、蓮見治雄・東京外大名誉教授)によると、大きな違いは土俵の有無。大相撲は直径5.5Mの土俵の外にでると負けになるので、「押し出し、突き出し、寄り切り」が主な決まり手になる。これに対しモンゴル相撲は土俵がなく、相手を倒す(膝から上のどの一部も土についたら負け)ことで勝敗が決着する。必然的に引き、突き、足技、投げ技などが勝負手になる。 モンゴル勢の決まり手は36種類(大相撲の決まり手は82種類)あり、このうち大技は10種類だが、「小さい技は三歳牛の毛の数ほどある」と言われている。それらの技をよく見ると、組み手争いから始まり、組み手の崩し方、引き技、突き技、かつぎ技、投げ技など多彩なのである。 しかし、モンゴル相撲の優れた力士の大半は、2、3種類の技で勝ち進んでいる。「技を器用にこなすより、自分にあった技を習熟することの方が優れている。大相撲で言えば、型を持った力士と言える」と強調する。 こうした得意の型を持ちやすいモンゴル勢に対し、日本勢は上位陣でも絶対的と呼べる型がない。大相撲解説者で、「技のデパート」と異名をとった舞の海秀平さんは「日本人力士は絶対的な自分の型がない。それがここぞというときに勝てない理由だ」と強調する。 論文の中で、蓮見名誉教授は、モンゴル力士に伝わる遺伝子(DNA)をこうまとめる。「相撲は力が強ければいいというものではない。また、腕力でとるものではない。知力や俊敏さも必要だ」ということを受け継いでいる。 そして、「上半身は前頭で、足腰は小結だ。けれども全体で横綱です」と語った白鵬の言葉を引用し、その知力の高さ、考える相撲の伝統も絶賛する。逸ノ城は白鵬を抜けるか?大相撲 出稽古先の追手風部屋で遠藤(右)を相手に取り組みを行う関脇、逸ノ城=2015年12月22日、埼玉県草加市(撮影・春名中) 白鵬と同じ、モンゴルの遺伝子を引き継ぐ逸ノ城は、白鵬を抜けるのか。多くのファンの関心事でもある。モンゴル勢初の遊牧民出身で、小さい時から馬のミルクを毎日2リットル飲み、丸太をトラックに積み込む作業で上半身、下半身を鍛えた。2010年の来日時にすでに135キロの巨体。今は193CM、199キロまで大きくなった。強みは太もも周りが92CMもあること。鳥取城北高校時代から200KGもあるタイヤを裏返すトレーニングで鍛えたという。 秋場所(9月場所)では、1横綱2大関を倒し13勝の快進撃を続けた時は、立ち合い時に白鵬が得意とする「相手に胸を合わせる」ことができていたという。 小田教授によれば、「胸を合わせるためには、膝を抜き、重心を落とすことが必要。逸ノ城は長身で、一見、腰高に見えるが、最初の位置から重心を落として、つまり膝を抜いて、落下を支えた時、体重がある分地面反力が上方向に突き上げる。これで相手はどんなに頭をつけても吸収されてしまう。地面反力の使い方が白鵬同様にうまい。ここからは投げでも、押しでも、突き上げでも何でもあり。すでに横綱相撲。剛ではなく、柔の技」と指摘する。 地面反力を活用できるのは、あの太もも裏の筋肉「ハムストリングス」だ。 秋場所終了時に逸ノ城は「体が自然に動いた」と語っていたのは、上記の地面反力をうまく使えていたことを意味する。しかし、11月場所は関脇に昇進したこともあるが、立ち合いが甘く、簡単にかわされ、あっけなく土をつく場面が多かった。 得意の右四つに持ち込んでも、9月場所のような地面反力を有効に使う前に、体制が崩れてしまうケースが目立った。立ち合いの「俊敏性が足りない」のが要因の一つと言われる。場所前に帯状疱疹に見舞われるなど本調子でもなく、稽古も不十分だったのだろう。 9月場所に横綱相手に注文相撲(立ち合い時に正面から当たらず、相手の突進をかわす取り口)について批判が集まるが、「相手をしっかり見ていないとああいう相撲はとれない。新入幕力士はガチガチで突っ込めばいいとうものではない。状況や動きを見てとれる余裕が大事」という見方もある。 落ち着き払った風格は、みるものを楽しませてくれる。白鵬並の努力家でもあり、ポスト白鵬の中心的な存在になるのは間違いない。 日本人力士も全く逸材がいないわけではない。11月場所で、白鵬から金星をとった高安のほか、妙義龍、遠藤、琴奨菊なども横綱の可能性はあり、注目したい。 今年3月場所で、引退した元大関琴欧洲は「大相撲は、基本練習の反復の精神的修練だけでなく、科学的な稽古を取り入れるべき」と朝日新聞のインタビューに答えている。特に日本の力士は、自分の育った環境がモンゴル勢などと違うことを自覚した上で、科学的なトレーニングを積む必要があろう。琴欧洲の苦言は、納得出来る面は多い。相撲は、重心のスポーツであること、地面反力の有効活用することが大事であること、バランスの崩し合いであること、柔らかさ、俊敏性など身体を知り尽くすことが心技体の充実につながることなど科学的な視点が重要だからだ。この科学的な目を持ち、稽古を積んでいくことが大相撲には必要な時期に来ている。関連記事■アントニオ猪木インタビュー『プロレスはもはや「老人ホーム」になった』■金沢克彦編集長が語るプロレス誌「ゴング」復刊の真相■男たちの聖域になぜ? プロレス会場に女性が殺到する理由

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    白鵬よ、日本人の心を持て

    荒井太郎(相撲ジャーナリスト) 白鵬はいったい何に怒っていたのか。先の春場所では報道陣に背を向け続け、取組後の囲み取材では15日間、一言も口を開くことはなかった。その理由について一夜明け会見で「思いはたくさんありますけど、それが伝わらなかった。相撲だけに集中したかった」などと語った。 大相撲初場所 一夜明け会見をする横綱白鵬 =2015年1月26日、東京・墨田区(撮影・今井正人) そもそもの発端は、史上単独1位となる33回目の優勝を果たした初場所直後の一夜明け会見で、審判部を痛烈に批判したことだった。「疑惑の相撲があった。子供が見ても分かるような相撲。なぜ、取り直しにしたのか」と13日目の稀勢の里戦を取り直しにさせられた不満を一気にぶちまけた。結局は取り直しの一番でも勝利を収めるのだが3日も経って、しかも全勝優勝という有終の美を飾ったにもかかわらず、言わずにはいられなかった。さらにこうもまくし立てた。「肌の色は関係ない。この土俵に上がってマゲを結っていれば日本の魂。みんな同じ人間です」。 取り直しにされたのは背後に“人種差別”があるからだと言わんばかりの口ぶりだ。そして、怒りの矛先は審判部に向けられた。「ビデオ判定(係の審判員)は何をしていたのか。もう少し緊張感をもってやってもらいたい」と大先輩の親方衆に対し、まるで上司が部下を叱責するかのような“上から目線”の言いようだ。面目を潰された審判部は真っ向から反論。稀勢の里が俵を割るより前に白鵬の右足甲が裏返って先に土俵についていたことが、のちに決定的写真の存在もあって明らかになる。白鵬が「子供が見ても(自分が勝ちだと)分かる」とした相撲は、実は自分が負けにされていてもおかしくはなかったのだった。 やや唐突とも思える「肌の色」発言だが、そこに白鵬のいらだちがうかがえる。現役トップとしてこれまで角界をけん引してきたにもかかわらず、稀勢の里戦や遠藤戦では相手の大コールが沸き起こる“完全アウエー”の中で戦わなくてはならないことに虚しさを感じていても不思議ではない。ただ、こうした現象は多分に日本人特有の“判官贔屓”という気質が含まれており、王者の宿命であることはおそらく白鵬自身も理解していることだろう。 “ヒール役”になるのは何も外国出身力士だけではない。憎らしいほど強かった北の湖が全盛を誇っていた時代はこんなものではなかった。“肌の色発言”の真意はもっと深いところにありそうだ。 白鵬は引退後、親方となって弟子を育てたいという希望を持っている。すでに自らスカウトした幕内経験者で現在は三段目の山口や新十両の石浦を「内弟子」と公言し、マスコミでもしばしばこの2人は「白鵬の内弟子」として取り上げられている。しかし、日本相撲協会寄附行為施行細則第55条2の「年寄名跡の襲名は、日本国籍を有する者に限ることとする」という条件を白鵬は現時点で満たしていないため、「内弟子」という表現はルールに従えば正しくない。 こうした事実から、白鵬は大きな実績を盾に引退後は外国籍のまま、特例で協会に残ろうと画策しているようにもうかがえる。北の湖理事長は日本国籍を取得していない白鵬には、顕著な功績を残したケースに限り力士名のまま親方になれる「一代年寄」の資格を授与しないとする以前からの見解を変えるつもりがないことを昨年九州場所中、改めて表明した。 初場所後の一夜明け会見での白鵬の“暴発”は、前人未到の大記録を達成したことで緊張感が緩み、抑えていた感情が一気に噴出してしまったのかもしれない。本当の不満の矛先は審判部ではないとも考えられる。ここ最近の白鵬の土俵態度の悪化ぶりは特例が叶わず、万策が尽きたがための絶望感が根底にあるのではないだろうか。 一連の騒動後から一気に噴出した“白鵬バッシング”とも言える報道に、本人も相当戸惑ったに違いない。一言、謝罪なり弁明をしていたら、ここまで尾を引くことはなかっただろうが、そこにこそ、日本人とモンゴル人の文化や価値観の違いがあるような気がしてならない。大相撲初場所 千秋楽 史上最多となる33回目の優勝を15戦全勝で飾り、 父ムンフバトさんにキスされる白鵬。右手前は母タミルさん=両国国技館 誤解を恐れずに言えば、モンゴルでは強い男がことさらもてはやされる国である。小生は平成20年のモンゴル巡業を取材した経験があるが、そのことをヒシヒシと感じる場面は多々あった。「権力者やチャンピオンに対するリスペクトは尋常ではない」と現地のモンゴル人ガイドも言っていた。王者=ルールブックという風潮も強い。 春場所前、仕切りでの大きな咳払いがファンの注目を浴びていた千代鳳、琴勇輝に対し「犬じゃないんだから吠えるな」と白鵬は一喝した。部屋の師匠や協会幹部から注意されるのならともかく、いくら横綱とはいえ相撲界でもこれは完全な“越権行為”だ。しかし、モンゴル人の感覚からすれば、王者としての当然の発言だったのかもしれない。“審判部批判”も優勝回数で歴代トップに立った自分こそ、言う権利があると思っていたとしても不思議ではない。 いずれにしても「実るほど頭を垂れる稲穂かな」「和を以て貴しとなす」「武士の情け」といった日本的精神がこの横綱からは見えてこない。我が国固有の伝統文化の世界で綱を締める者がそれでは困る。異国の地での文化や風習、言葉の壁を乗り越える苦労は想像に難くないが、それこそ肌の色が違っていても髷を結って土俵に上がる以上は、日本人の心を持っていなければならない。それでも自己を貫くのであれば、角界にとっても自身にとっても不幸な結末しかもたらさないだろう。朝青龍がそうであったように。荒井太郎(あらいたろう)1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、百貨店勤務を経てフリーライターに転身。相撲ジャーナリストとして専門誌に寄稿、連載。およびテレビ出演、コメント提供も多数。2015年1月に創刊した『相撲ファン』の監修を務める。著書に『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』『歴史ポケットスポーツ新聞 プロレス』『東京六大学野球史』『大相撲事件史』など。関連記事■ プロレスはもはや「老人ホーム」になった■ 内も外もよく知る「二本」人たれ■ 世界の人々が惹かれる「日本の心」