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    「性犯罪の中でも小児性愛は別格である」私が見た依存症治療の現実

    斉藤章佳(精神保健福祉士・社会福祉士) 「性犯罪の中でも、小児性犯罪は別格である」 これは、以前担当していたある小児性犯罪者の言葉である。「その常習性と衝動性は他の性倒錯の群を抜いている。好みの子どもを見ると、まるでそれに吸い込まれるように近づいてしまうんだ」。その言葉を一度だって忘れたことはない。だから、筆者は児童への性犯罪を小児性愛と言わずに「小児性犯罪」と明確に呼ぶことにしている。小児性愛というと、どこか子どもを愛しているが故の犯行というニュアンスが強く、以前から違和感を持っていた。合意の有無にかかわらず児童への性的接触や侵入は、愛情ではなく性暴力なのである。リンさんの遺体が見つかった遺棄現場で手を合わせる人 =4月2日、我孫子市北新田(林修太郎撮影) 2017/04 今年3月、千葉県我孫子市で小学3年生のレェ・ティ・ニャット・リンさん(以下、リンさん)が何者かに殺害された。その後、リンさんが通学していた小学校で保護者会会長をしていた男性が逮捕された。 私も含め、多くの人がこの類の事件の報道を耳にすると、2004年11月にあった奈良小1女児殺害事件を思い出す。実は、この奈良の事件をきっかけに2006年からわが国では初めて矯正施設や保護観察所で「性犯罪者処遇プログラム」が始まった。これと同時期に、榎本クリニック(以下、当院)でも社会内処遇の枠組みで、民間医療機関では日本で初めて「性犯罪者の地域トリートメント」に関する取り組みが始まった。そして時は流れ、現在明治時代から110年ぶりに性犯罪に関する刑法が改正される矢先、リンさんの痛ましい事件は発生した。 リンさんの事件に関しては、推定無罪の原則から刑が確定していない現段階で断定的なことは言えない。ちなみに国際的な診断ガイドラインであるDSM-Ⅴ(精神疾患の分類と診断の手引き)では、児童に対する小児性犯罪を「小児性愛障害」と呼んでいる。以下、診断基準を簡単に紹介する。【小児性愛障害(Pedophilic Disorder)】A 少なくとも6カ月にわたり、思春期前の子どもまたは複数の子ども(通常13歳以下)との性行為に関する強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。B これらの性的衝動を実行に移したことがある、またはその性的衝動や空想のために著しい苦痛、または対人関係上の困難を引き起こしている。C その人は少なくとも16歳で、基準Aに該当する子どもより少なくとも5歳は年長である。※青年期後期の人が12~13歳の子どもと性的関係をもっている場合は含めないこと。 小児性犯罪は他の性倒錯に比べ再犯率が高いといわれている。また、先ほど述べたように合意に関するルールについても児童の場合は成立しない。これは相手がどのように受け止めていても全て犯罪とみなされる。そして、被害児童は成人してからもずっとその被害の後遺症に悩まされ苦しむ。これは家庭内性虐待の被害も同様である。 以上のような点で、リンさんの事件を見ても分かるように小児性犯罪は被害児童や社会に与える影響、マスコミの報道の仕方など、性暴力の中でも際立った存在であるといえる。学校などに潜む小児性愛者 小児性犯罪者には、大まかに幼い子どもにのみ性的欲求を感じるタイプと、成人女性にも性的欲求を感じるタイプとに分けることができる。筆者が出会ってきた小児性犯罪者は前者が圧倒的に多く、まれにではあるが男児への性的嗜好を持っている者にも臨床の場で出会ったことがある。男児の場合、加害者に同性愛的傾向があるため治療はより困難を極める。 彼らの頭の中はどのようになっているのだろうか。典型的パターンとして、職業選択や社会的役割を自らの小児性愛的嗜好を基準に選択しているケースがある。つまり、小学校の先生や保育士、本事件のように児童と接することができる学校の役割を担うなど、児童に関わることを何らかの理由を付けることで合理化し意図的に選択している者である。 彼らは口をそろえてこう言う。 「いずれ大人になったら経験することなのだから教育的な観点で性的接触を行っただけだし、相手もそのことについて好意を持っていたはずだ」 「可愛いからついついかわいがるつもりで一線を越えてしまった。決して傷つけようと思ったわけではないし相手もそれを受け入れていた」リンさんも歩いた通学路付近で保護者と下校する児童ら=4月14日、千葉県松戸市(宮崎瑞穂撮影) とんでもない認知のゆがみだ。ここでいう、認知のゆがみとは性的逸脱行動をくり返すための本人にとって都合のいい認知の枠組みと定義できる。児童にとって教師や身近にいる大人は拒否や反発が困難な絶対的存在である。また、大人側が「やってない」と否定すれば当該児童から根掘り葉掘りされたことを聞くことはあまりない。絶対的な立場を利用した卑劣な性暴力。現在ではこのような学校内での性暴力を「スクール・セクシュアル・ハラスメント」というが、被害児童は親にも打ち明けられず不登校になったり、自傷行為でSOSを出すなどのさまざまな後遺症に苦しめられる。子どもの性被害はよく「性的いたずら」と表現されることがあるが、そんな軽い言葉で表現できるほどこの問題は生やさしいものではない。「いたずら」という言葉にはそこまで大したことはないというニュアンスが含まれるため被害児童に使うべきではないし、やはり明確に小児性犯罪というべきだろう。  次に、そんな小児性犯罪の治療について迫っていきたい。 米国ではエイブルの研究があり「未治療の性犯罪者が生涯に出す被害者の数は380人」というデータがある。ところが、筆者が国内の某刑務所で性犯罪のプログラムに参加する受刑者にこの話をしたところ、「その数字は少ない」という反応が多数を占めていた。これは、小児性犯罪を繰り返す受刑者が多い治療グループでの反応だった。ということは、表面化(逮捕)しているのは氷山の一角である。性犯罪者の治療内容 被害者に与えるダメージを考えると、性犯罪者は厳罰に処すべきという意見が根強い。性犯罪は、今回の刑法改正案で厳罰化・非親告罪化されることになる予定だが、果たして再犯は減るのだろうか。実は、厳罰化だけでは再犯率は低下しないという明確なエビデンスが存在する。近年では、加害者臨床の分野にもEBP(Evidence‐Based Practice)のパラダイムが当たり前になり、性犯罪者を罰するだけのアプローチや、GPSによる電子監視だけでは再犯防止にほとんど効果はなく、医療モデル・教育モデル・社会福祉モデルを統合的に加えたアプローチこそが、再犯防止に最も効果的であるということが明らかになってきた(Andrews & Bonta,2010)。 そして、当院では反復する性的逸脱行動を嗜癖モデルで捉え、性依存症という疾病モデルからやめ続けるには専門治療が必要な病であると考え、日々再犯防止のためのプログラムを行っている。 性犯罪者の治療はある程度確立されている。当院では、約10年前から性犯罪および性依存症からの回復のための再発防止プログラムを実施している。性犯罪の治療プログラムは、世界的に共通する「RNRモデル(リスク・ニーズ・治療反応性の原則)」が確立されている。まず、リスクアセスメントの質問シートで低・中・高のリスク判定を施行し、各リスクに応じた密度のプログラムを受講する。高リスク群と低リスク群が共に治療を受けると、低リスク群の再犯率が上がるといわれていることから、いかに正確なリスクアセスメントが重要なのかということがわかる。 さらに、痴漢なら満員電車、盗撮ならエスカレーター、小児性犯罪なら学校のプールなど、各対象者の性的逸脱行動を起こしやすい状況をピックアップし、回避・対処行動を助言し、再犯防止計画(リスクアセスメントプラン)に加えていく。そして、本人の問題に応じた、最も治療効果を引き出せるプログラムパッケージを選択する。集中して治療を行う期間は、低リスク群は半年、中リスク群は1年、高リスク群は3年である。その後はメンテナンスプログラムに移行し、再発防止のための取り組みを継続する。男のサディズムと小児性愛(イメージイラスト) 日本ではグループワークが主で、本人の能力に応じたプログラムパッケージの選択がまだまだ不十分だが、当院では集団療法と個人療法を併用して再発防止のための治療を行う。場合によっては薬物療法も実施している。睡眠不足が引き金になって対象行為に至ってしまう人には、睡眠不足にならないスケジュール管理指導と並行し、睡眠薬を処方する場合もある。抗酒剤、向精神薬、SSRIなど、患者の状態によって薬の種類は異なる。 次に、この問題を理解している治療の協力者であるキーパーソンの立場も重要である。基本的には親、パートナー、友人などで、だれもいなければクリニックのスタッフがキーパーソンを務める。治療内容などの情報を共有し、再発防止のストッパーになってもらう。性犯罪者の常套句 通常、依存症の治療では「再発(リラプス)」は回復のプロセスであると考える。しかし、性犯罪に関しては被害者が背景にいるため、再発を回復のプロセスと考えるのは理論的に無理がある。従って、再発防止に最も重点を置く。このように、加害者臨床は他の心理臨床と異なる視点をいくつか持っている。ここでこの問題を考える際のヒントとして、私が加害者臨床で重視している視点を2つ紹介したい。 まず1つ目は、『従来の心理療法は「自分の行動や症状に対して責任を取る」という範囲にとどまっていたが、加害者臨床では「他者の行動や症状に対して責任をとる」という点を重視する。つまり自分の言動や生き方について被害者が聞いたらどのように感じるかを常に思考し被害者感情に少しでも近づく努力をし続けることである。しかもこの取り返しがつかないことをしてしまった責任性は人権侵害、すなわち「人格的な生存を破壊させてしまいかねないほどの、決定的苦痛を与えた」という、究極の責任性であることを前提としたものでなければならない』と考えている。 2つ目は、『加害者の加害行為の克服は、被害者の回復を促進する方向で進められるため、従来の心理療法とは異なる方針を数多く持つ。加害者は被害者とは非対等であり、問題解決のための負担を被害者に求めない方針をとる』という視点である。この2つの重要な視点をもとに治療プログラムでは「加害行為に責任をとる」とはどういうことかを深めていく。性犯罪はどんな理由があっても再発してはいけない。これはDVなどの加害者臨床でも同様であると私は考えている。 もう一点、近年日本にも導入されてきている新しい治療モデルが「グッドライフ・モデル」である。従来のプログラムでは、「回避する」「~しない」など禁止事項が中心であった。前述のRNRモデルや、依存症治療に用いられる認知行動療法はある程度効果はあるものの、禁止事項が多ければモチベーションが下がり治療継続率も低い。 彼らは「幸せになるための手段」として性犯罪をくり返すという誤った方法をとってきた。グッドライフ・モデルでは、「性犯罪以外の方法でどうなれば幸せな人生を送れるか」に注目し治療動機を高めていく。私は、性犯罪者に理解をという気持ちは毛頭ない。しかし、彼らを社会から排除するだけでは性犯罪はなくならないのだ。 彼らは反省しながらも、また再犯を繰り返すことがある。一見、深い反省をしているようだが、その数日後再犯することもある。そして裁判で同じような発言をする。さらに刑務所では非常に模範囚である。これは性犯罪の前科者だと周囲からいじめられるということがあるからおとなしくしているのかもしれないが、それにしても妙に静かである。彼らの常套(じょうとう)句は「もう絶対にやりません。今度こそ自分の力でやめることができます」である。 確かに一時的にやめることは可能かもしれないので、この発言はあながち嘘でない。しかし、この問題は「やめる」ことよりも「やめ続ける」ことが重要なのである。彼らに「あなたはやめ続けることはできますか」と質問すると、即答で返事は返ってこないことが多い。つまり、彼らは心底から児童への性的接触を悪いとは思っていないのと、この強力な性的欲求はずっと消えないことをどこかで知っているのである。そして、その行為がどれほどの深い傷を与えるのかという想像力が働かない。小児性犯罪は、被害児童の未来を奪う。そして、人間としての尊厳を深く傷つける。悲しいかなそれが小児性犯罪の現実である。

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    厳罰化でニッポンは「性犯罪大国」になる

    性犯罪を厳罰化した改正刑法が施行された。明治40年の刑法制定以来となる大幅な見直しで、被害者の告訴を必要とする「親告罪」規定の撤廃が改正の柱だ。被害者の精神的負担が大きく、事件化は氷山の一角とも言われる。潜在化した性暴力の立件が増えれば、ニッポンは間違いなく「性犯罪大国」になる。

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    「なぜ抵抗しないのか」改正後も性犯罪被害者を苦しめる立件の壁

    上谷さくら(弁護士) 先日の国会で、性犯罪に関する刑法が一部改正され、7月13日に施行された。明治40年の刑法制定以来、法律の不備についてさまざまな指摘がなされていたが、110年たってようやく被害の実態に近づく法律になった。報道などでは一般的に「性犯罪の厳罰化」と言われることが多いが、従前の法律が被害の実態に則しておらず、軽すぎただけであるから、今回の改正は「厳罰化」ではなく、「適正化」と評価すべきである。まだまだ不十分な点は多々あるが、まずは改正されたことを素直に喜びたい。刑法改正を受けて会見する「性暴力と刑法を考える当事者の会」の山本潤代表(前列中央)ら=6月16日、東京都千代田区の参議院議員会館(桐原正道撮影) これまで多くの性犯罪被害者の相談を手掛けてきたが、刑法上、被害者を苦しめてきた問題点は大きく分けて3つあったと考えている。1つ目は、強制わいせつ罪や強姦(ごうかん)罪は、被害者が告訴しなければならない親告罪であったこと。2つ目は、刑の下限が低すぎて執行猶予判決が多かったこと。3つめは、暴行・脅迫要件のハードルが高すぎて、立件されない事件が多すぎたことである。 まず、1つ目であるが、親告罪であること自体、被害者に二次被害を与えていた。被害者は、警察に相談に行くことだけでも相当な勇気を振り絞っている。そして、警察に行きさえすれば、後は警察が捜査してくれて犯人は逮捕され、裁判になると信じている。しかし、警察や検察で「事件にするかどうか自分で決めて」と言われてしまう。このことは、被害者にとって苦痛以外の何者でもない。そこで、加害者からの逆恨みを恐れ、告訴を断念した被害者も多い。 また、ほとんどの刑事弁護人が被害者に対し、「告訴を取り下げるなら被害弁償を支払う」と持ち掛けるし、「告訴を取り下げないなら、被害弁償はしない」とか「今ならそれなりの金額を支払うけど、起訴されたら金額は下がる」などという交渉をする。すると、被害に遭って心身ともに疲弊し、仕事やアルバイトができなくなって経済的に困窮した被害者は、泣く泣く告訴を取り下げて示談金を受け取るしかなかった。本来であれば、罪を犯した者は刑事責任を負い、損害賠償という民事上の責任を負うのが当然である。ところが、強姦罪などは親告罪であったがために、被害者は刑事か民事かという二者択一を迫られ、それ自体が二次被害となり、被害回復に多大な悪影響を及ぼしていた。 しかし、今回の改正によって非親告罪となったことから、被害者の負担はかなり軽減されると思われる。今までの刑罰は軽すぎた 2つ目の問題は、強姦罪の下限が懲役3年であり、強制わいせつ罪の下限が懲役6月であるなど、法定刑の下限が極めて低かったことである。これまで、強姦罪は強盗罪とよく比較され、暴行・脅迫により犯行を抑圧され財物を奪う強盗と、性的自由を奪われる強姦とで、なぜ強姦の方が刑が軽いのかなどと批判されてきた。 また、法定刑の下限が低いことから、検察官の求刑も低めであり、そのために執行猶予付き判決が出やすかったという現実もあった。特に、肛門性交や口腔性交などの悪質な犯行態様でも、これまでは強制わいせつ罪にしかならなかったことから、法定刑の下限は6カ月であり、前科がない場合はほぼ執行猶予判決になるという極めて理不尽な結果に終わっていた。性犯罪被害に遭うと、被害者は学校や会社に行けなくなってやめてしまったり、異性と交際できなくなり結婚を諦めたりする人が多く、被害結果は極めて重大である。それにもかかわらず、被告人が執行猶予判決を受けることは、被害者にとっては無罪放免に他ならない。そのことが司法に対する不信感となり、被害回復を阻害していた。 しかし、今回の改正により、強制わいせつ罪でしか処罰されなかった肛門性交や口腔性交が従来の強姦罪と同様の強制性交等罪とされ、刑の下限が懲役5年に引き上げられたことで、強制性交等罪では基本的に実刑となることから被害者救済に資するようになる。また、性犯罪を犯すと刑務所行き、ということが国民意識として定着すれば、抑止力も期待できる。 3つ目の問題点は、「暴行・脅迫」要件のハードルが極めて高いことである。被害者が問題としているさまざまな論点の中で、おそらく最も問題視されている点であるのに、今回の改正から外れたことは極めて遺憾である。 強姦罪・強制わいせつ罪などの「暴行又は脅迫を用いて」は、「被害者の反抗を著しく困難ならしめる程度」であることが必要というのが判例である。そのため、検察官が不起訴にする事件は非常に多く、検察官が相当絞って起訴しているのに無罪判決が出ることも少なくない。 この「暴行・脅迫」要件は、加害者側の「合意があったと思った」との弁解とも関連する。具体的な事例を紹介すると、まず被害者が行きずりの被害に遭った場合、加害者が被害者に殴る蹴るの暴行を加えたり、刃物を突き付けたりすれば、「暴行・脅迫」は認められやすいが、そこまでいかないケースが圧倒的に多い。現実問題として抵抗できない 例えば、人気のない夜道でいきなり声をかけられたり腕をつかまれたりすると、普通の女の子は驚きと恐怖で固まり、声も出ない。よほど訓練を受けた人か、日ごろからイメージトレーニングをしている人でない限り、逃げたり抵抗したりできない。まさに「反抗を著しく困難にされた状態」である。しかし、取調べや裁判では、「なぜ大声を出さなかったのか」「通りかかった人がいたのに助けを求めなかったのか」などと聞かれ、それをもって合意の証であると言い張る加害者もたくさんいる。 しかし、そのような目に遭った人が誰かに助けを求めることはまず不可能である。仮に助けを求めたとして、その人が助けてくれる保証はない。特に都会では、面倒なことに巻き込まれたくないと思い、その場を立ち去る人が多いのではないか。また、助けを求めたけど、その人に聞こえなかった場合、加害者が激昂して殺されるかもしれない、という恐怖心を抱くのは当然である。相手は行きずりで強姦してくるような人間なのだから。 さらに、被害者は服を脱がされていたりするから、恥ずかしくて助けを求めることができないということもある。それをもって助けを求められるのに黙っていた、だから加害者が合意と思っても仕方ない、よって立件できないなどというケースが非常に多い。これはあまりにも被害者の置かれた立場を顧みない残酷な実情である。 また、夜の時間帯だと、お酒が入っていることも多いので判断力が鈍っており、何が起こったのか分からずにあぜんとしていたら服を脱がされ、抵抗しようにも力が入らなかった。泥酔ではなく意識はあるので、準強姦罪にもならないといったケースも多い。 次に、被害者と加害者が顔見知りだった場合は、立件のハードルはより高くなる。特に難しいのは、上司と部下、先輩と後輩のようなそもそも被害者と加害者の立場が上下関係にあるような場合である。日ごろからパワハラを受けている上司から、仕事の話があると言って呼び出されると、被害者は上司が怖いので、その時点で萎縮している。仕事を失いたくないので上司に迎合せざるを得ない面もある。一度誘いを断ったら、翌日から仕事で嫌がらせを受け、職場にいられなくなったという人もいる。家計が苦しいため、絶対に仕事は辞められないと思い、泣く泣く上司からの求めに応じ続けていたという女性もいた。被害者が救われない現実 このような立場の女性は上司から仕事名目で呼び出され、2人きりになることを余儀なくされて迫られると、応じなければクビになると考える。その場面の写真や動画を取られていれば、「逆らえばネットにばらまかれるかもしれない」とおびえる。そのことが犯行を著しく困難にされた状態といえる。しかし、性体験がある大人の女性の場合、性行為を強要されると、「早く終わってほしい」という強い気持ちから、加害者が早く射精するように協力したり、せめて妊娠だけは避けたいと思って「避妊してほしい」と頼んだりする。それをもって合意と主張されてしまうことも多いが、合意ではなく、最悪の結果を避けるための苦肉に過ぎない。学校や部活の先輩・後輩の関係にある場合も、同じようなことが起きやすい。  以上のようなケースが何の罪にも問われないのは極めて理不尽である。したがって、被害の実情に即し、暴行・脅迫要件を緩和するとか、現在の強制性交等罪よりも暴行・脅迫の程度が弱い罪を創設することが必要である。そうしなければ、性的被害に遭っている多くの人々は全く救われない。この点は、性犯罪被害に関するさまざまな団体・個人から強い要望が出ていたにもかかわらず、先日の国会ではほとんど議論もされずに終わってしまった。今回の法改正で、最も残念な点である。 次に、今回議論の俎上に上らなかったが、性犯罪に関し、緊急に解決すべき課題について述べる。 まず、盗撮規制が必要である。現在、盗撮は各都道府県条例の迷惑防止条例で一定の規制があるに過ぎないことから、次のような問題が生じている。 今や性犯罪と盗撮はセットであるといっても過言ではなく、性犯罪の場面を動画や写メで撮られていることが非常に多い。被害者にとっては性犯罪に遭ったこと自体の被害はもちろん、その写真や動画があることに著しい不安を抱く。警察が画像を削除しても、他にコピーがあるのではないか、既に知らないサイトに流れているのではないかなど、一生不安を抱き続けることになる。その不安が解消されない被害者は、別人になろうとして、髪形や髪の色を変えたり、これまでとは違うファッションをしたりする。これでは自分らしく生きることはできない。つまり、盗撮は直接性的自由を奪う犯罪よりもダメージが大きいともいえる。ネットに流される恐怖 例えば、オイルマッサージ店を経営する男が複数の女性客に対して次々と強姦罪などを犯し、5件が起訴された事件がある。この男は犯行状況をビデオで撮影しており、検察側が任意提出するように促しても拒否した。そこで、裁判所が提出命令を出し、最高裁まで争ってようやく原本が没収された。また、刑事事件でも、ビデオ原本を没収する判決が言い渡されたが、これを被告人は争い、現在もまだ確定していない。 この事件は、性犯罪行為の撮影自体を禁止する法律がないことから生じた不都合である。提出命令や没収判決で対応できるが、あまりにも時間がかかり過ぎる。被害者はそうする間にも、ネットに流されるのではないか、という恐怖心にさいなまれ、刑事事件が終わっても気持ちが安らぐことがない。 また、都道府県条例に盗撮規制があるが、「公共の乗り物、場所」での盗撮しか規制されない条例も多く、私的領域の他、駅のトイレや会社の更衣室の着替えの盗撮などが野放しになっている例が多い。例えば、会社内のトイレの盗撮の場合、条例で規制できないと建造物侵入罪の成否のみ問題となる。建造物侵入罪の被害者は建物の管理者だから、盗撮された人は被害者にもなれないのである。 そもそも都道府県条例は、市民生活の平穏を守るという風紀を保つ観点から定められたものであり、個人の性的自由を守るものではない。誰もがスマートフォンを持つ時代になり、SNSが発達した現代では、盗撮は容易である一方、インターネットに流れると被害回復はほぼ絶望的である。 以上のように、盗撮行為自体を犯罪とする法律の制定が急務といえる。 次に、性犯罪の起訴状に被害者の名前を載せていいのかという問題がある。刑事訴訟法には、起訴状にはできる限り罪となるべき事実を特定しなければならない旨記載されている。しかし、被害者の名前が必要とは書かれていないことから、起訴状で被害者の匿名が認められた時期もあった。しかし、平成28年6月、強制わいせつ致傷罪の被害者が匿名とされた起訴状について、「実名を記載することで具体的な支障は生じない」として、訴訟手続に法令違反があったと断じた判決が出た後は、起訴状の匿名はほとんど認められなくなったようである。 特に通りすがりの犯行の場合、加害者は被害者の名前を知らないことが多い。被害者は加害者に刑務所に行ってほしいと願うが、自分の名前は絶対知られたくないのが当然である。名前が分かれば、今はFacebookなどで、どこに住んでいるか、結婚しているのか、子どもがいるのかなどの個人情報が簡単に分かる。被害者はSNSをやめろ、というのは時代に即さない。もともと加害者は被害者の名前を知らないのに、司法が被害者の名前を犯人に教えるようなことは許されないはずである。起訴状の匿名は条文に反しないのだから、原則として匿名にする運用を徹底するか、明文化するのか真剣に検討すべきである。

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    性犯罪対策のカギは「景色解読力」不審者ではなく場所に注意せよ

    小宮信夫(立正大文学部教授) 犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。犯罪原因論が「なぜあの人が」というアプローチから、動機をなくす方法を探求するのに対し、犯罪機会論は「なぜここで」というアプローチから、機会(チャンス)をなくす方法を探求する。つまり、動機があっても、犯行のコストやリスクが高くリターンが低い、すなわち犯罪の機会がなければ、犯罪は実行されないと考えるわけだ。 3月に起きた千葉県松戸市のベトナム国籍の女児が殺害された事件で、逮捕、起訴されたのは被害者が通っていた小学校の保護者会会長だった。この会長は、ほぼ毎日通学路で見守り活動をしていたため、保護者は「もうだれも信じられない」と嘆き、住民ボランティアは「ニコニコしながら子供に声をかけられない」と戸惑いを隠しきれなかったという。しかし、この苦悩は、間違った防犯対策による当然の帰結であり、正反対の方向に舵(かじ)を切りさえすれば、すんなりと消えてなくなるものである。 結論から言えば、注意すべき対象を人から場所(景色)へ移動すれば、問題は解決する。詳しく解説しよう。 犯罪機会論では「機会なければ犯罪なし」と考える。犯罪は、犯行の動機があるだけでは起こらず、動機を抱えた人が犯罪の機会に出合ったときに初めて起こる。それはまるで、体にたまった静電気(動機)が金属(機会)に近づくと、火花放電(犯罪)が起こるようなものだ。 海外では、犯罪原因論が犯罪者の改善更生を担当し、犯罪機会論が防犯(犯罪の未然防止)を担当している。ところが日本では、犯罪機会論は全くと言っていいほど知られていない。そのため、防犯への関心を高めた人たちが飛びついたのが犯罪原因論だった。もちろん、その人たちが犯罪原因論を意識していたわけではないが、「なぜあの人が」を連発するマスコミの影響を受けて、自然と犯罪者という「人」に目が向いたのだ。殺害されたベトナム国籍の女児が通っていた小学校正門付近にかけられた、不審者への注意を促す看板=3月27日午後、千葉県松戸市(川口良介撮影) しかし、防犯の分野では、まだ犯罪が起きていない以上、犯罪者も存在しない。したがって、「犯罪者」という言葉も使えない。そこで、苦し紛れに登場させたのが「不審者」という言葉である。 本来、犯罪対策にとっては、「事後」に登場するはずの犯罪原因論が、そのまま「事前」に持ち込まれてしまったために、事前の世界にも、犯罪者が姿を変えて、不審者として現れたわけだ。こうして、海外では使われることのない不審者という言葉が、日本では、誰もが知っていて当たり前に使われるようになったのである。外見だけで犯人特定はムリ 今でも家庭や学校では、「怪しい人に気をつけて」「知らない人にはついていかない」というように、子供たちを「人」に注目させている。しかし、こうした教え方では、「親切そうな人」「知っている人」が犯す誘拐は防げない。 私は時々、小学校で授業を行っているが、子供たちに「どんな人が不審者なのか」と聞くと、「サングラスやマスクをしている人」という答えが返ってくる。しかし、そうした姿の誘拐犯は聞いたことがない。こんな教育をしているから、子供は「サングラスやマスクをしていない人」についていく。実際、宮崎勤事件も、神戸連続児童殺傷事件も、奈良女児誘拐殺害事件も、だまされて連れ去られたケースだ。結局、外見だけでは、犯罪をたくらむ者を特定するのは不可能に近い。 それでも、無理やり不審者を探そうとすれば、平均的な日本人と外見上の特徴が異なる人を不審者とみなすことになる。過去にも、外国人、ホームレス、知的障害者が不審者扱いされ、人権が脅かされることがあった。ベトナム国籍女児遺体遺棄事件を受けて、保護者に付き添われ、集団登校する児童=4月17日、千葉県松戸市 さらに、疑心暗鬼になればなるほど誰でも怪しく見えてきて、子供たちは人間不信に陥る。子供は大人を怖がり、大人から離れていき、助けてくれる大人も拒否するようになる。一方、地域住民も自分が不審者扱いされたくないので、子供から離れていき、見て見ぬふりをするようになる。 このように、「人」に注意するやり方は、防犯面での教育効果がないだけでなく、地域の絆を切断し、犯罪者に狙われやすい環境を作り出してしまう。要するに、防犯の分野に犯罪原因論を持ち込んだ「ボタンのかけ違い」は、「百害あって一利なし」なのだ。 これに対し、犯罪機会論は「人」には興味を持たない。犯罪者が「知っている人」だろうが、誰だろうが、犯行パターンには共通点があり、その共通点を抽出することに犯罪機会論は興味を示す。 その共通点を一言で表すと、犯罪者は景色を見て、そこが「入りやすく見えにくい場所」だと判断すれば犯行を始めるが、そこが「入りにくく見えやすい場所」だと判断すれば犯行をあきらめる、ということだ。 「入りやすい場所」とは、だれもが簡単にターゲットに近づけて、そこから簡単に出られる場所である。そこなら、怪しまれずに近づくことができ、すぐに逃げることもできる。「見えにくい場所」とは、だれの目から見ても、そこでの様子をつかむことが難しい場所である。そこでは、余裕綽々(しゃくしゃく)で犯行を準備することができ、犯行そのものも目撃されない可能性が高い。子供がだまされないで済むには 住民によるパトロールというと、とかく不審者の発見を目的にしがちだが、それは有害無益と言わざるを得ない。そこで海外では、犯罪が起こりやすい場所を重点的に回る「ホットスポット・パトロール」が一般的である。ホットスポットとは、実質的には「入りやすく見えにくい場所」のことだ。残念ながら、日本でホットスポット・パトロールを実施している地域は1割にも満たない。 集団登下校やスクールバスの導入、あるいは防犯カメラの設置を提案する動きもある。しかし、子供が外にいる時間は、登下校時間の数倍に及ぶ。公園や塾の行き帰りの安全は、どう確保しようというのか。 防犯カメラにしても、犯罪機会論に基づくシミュレーションを前提にしなければ、犯人の検挙には役立っても、犯罪を未然に防止することは難しい。現状では、防犯カメラと言いながら、その実態は捜査カメラに過ぎない。 やはり、防犯対策の「1丁目1番地」は、子供が1人になったとしても、自分で自分の身を守れるようにすることだ。子供の性的誘拐のほとんどが、だまされたケースであることを考えると、最優先課題は「だまされないための教育」である。 では、どうすれば、だまされないで済むのか。人はウソをつくから、人を見ていてはだまされてしまう。だまされないためには、ウソをつかないものを見るしかない。それが景色である。景色は絶対に子供をだまさない。 私は、景色が放つメッセージを感受する力、言い換えれば、景色に潜む危険性を見抜く力を「景色解読力」と呼んでいる。景色解読力を高めれば、危険を予測して回避することが可能になる。景色に注意するだけで、人には注意しないので、地域の人間関係を損なうこともない。 では、どうすれば景色解読力を高めることができるのか。その簡単な方法が「地域安全マップ」づくりだ。地域安全マップとは、犯罪が起こりやすい場所を風景写真を使って解説した地図である。具体的に言えば、(だれもが/犯人も)「入りやすい場所」と(だれからも/犯行が)「見えにくい場所」を洗い出したものが地域安全マップだ。 ここで注意しなければならないのは、マップづくりとはいうものの、実際には能力の向上という「人づくり」であって、正確な地図の作製という「物づくり」ではない、ということだ。なぜなら、犯罪者は地図を見ながら犯行場所を探しているのではなく、景色を見ながら犯行を始めるかどうかを決めているからである。それは子供たちにとっても同じこと。地図を見ながら学校や友達の家に行ったりはしていないが、景色はいつも見ている。つまり、安全と危険は、地図の中ではなく、景色の中で判断すべきものなのだ。 景色を見ながら、安全と危険のポイントを解説した「写真集」として、『写真でわかる世界の防犯-遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)があるので、ぜひ参考にしていただきたい。そうした知的チャレンジを通して、通学路だろうが初めての場所だろうが、どこに行っても、景色からのメッセージをキャッチし、注意モードをオンにする景色解読力を高めてほしい。

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    性犯罪者の再犯率を半減させた「心理+薬物」ダブル療法の威力

    原田隆之(筑波大教授) 「小児性犯罪を減らす、たった一つの方法」。千葉県松戸市の女児殺害事件を踏まえ、フェイスブックで発信されたこの提案が議論を呼んでいる。提案したのは、子育て支援などに取り組むNPO法人「フローレンス」代表理事で、全国小規模保育協議会理事長を務める駒崎弘樹氏だ。一つの方法とは「子どもに関わる教師や保育士の採用時、またPTA等のボランティア参加時において、性犯罪歴をチェックできる仕組み」をつくることだという。 これに対し、子供を持つある父親が駒崎氏の提案に懐疑的なコメントを寄せた。その理由として、教育関係者による性虐待は全体の1%もないこと(大半は父親によるものである)、教育関係者への不要な疑念を増大させるだけであること、現状でも禁錮刑以上に処せられた者は教職に就けないこと、などを挙げている。私もこの意見に概(おおむ)ね賛同している。レェ・ティ・ニャット・リンさんの遺体が発見された現場で花を手向ける男性=千葉県我孫子市 両者とも子供を残虐な犯罪から守りたいという熱意による意見であり、その目的では一致しているが、対策の有効性に関しては見解が分かれている。また、類似の事件が起きるたびに、怒りや不安からヒステリックで過剰な反応を求める声が起きることはこれまでも度々経験してきたことだ。 このように性犯罪をめぐっては、われわれはとかく感情的、過剰防衛的になりやすく、そのせいで多くの事実とは異なる見解がまかり通っているのも事実だ。その例として、「性犯罪者は再犯率が高い」「性犯罪が増加している」という指摘は、事件が起きるたびにメディアでも繰り返される論調で、これはどちらも事実に反している。 犯罪白書によれば、性犯罪者の同種事件の再犯率は約5%であり、これは窃盗や薬物事犯など他の罪種と比べると「相当に低い」と法務省は述べている。また、刑務所の統計を見ると、刑務所収容人口のなかで、性犯罪者が占める割合は何年もの間一貫して約3%であり、増加しているという事実はない。 もちろん、どれだけ数が少なく、再犯率が低くても被害者や社会に与える影響は計り知れないほど重大で、性犯罪対策は重要な社会的課題でることは間違いない。しかし、だからこそ過度に感情的になったり不安を煽(あお)ったりすることは慎むべきで、どのような対策を講じるべきか冷静に議論すべきであろう。人権上問題も多い米国の対策 いずれにしても、子供を犯罪から守ることは社会の責務であり、それは性犯罪であってもそれ以外の犯罪であっても同じである。しかし、ここで重要なことは、私がたびたび主張していることであるが、「その対処に効果があるのか」という点について、冷静に科学的な視点から考慮したうえで判断すべきだということである。 つまり、科学的エビデンスに基づいた真に効果のある対処を講じなければ意味がない。感情的に反発することは、一時的に溜飲(りゅういん)を下げることには効果があっても、本当に大事な「犯罪予防」には効果がないことが多い。 そこで、一般的な性犯罪を例に取れば、世界的に見てもさまざまな対策が講じられている。駒崎氏が提案するように性犯罪者を登録しチェックする仕組みのほか、GPSによる電子監視、刑務所出所後も病院に監禁する民事拘禁などが代表的なものだ。 性犯罪者の登録について、アメリカの例を見てみると、子供を対象とした性犯罪が起きたことを契機に、1996年に性犯罪者を登録し公開する法律が施行され、それは被害者の名前を取って通称「メーガン法」と呼ばれている。 この年までに全米で数十万人の性犯罪者が登録されているが、その効果には大きな疑問が寄せられている。コネチカット州の矯正当局は、メーガン法の効果を検証した結果、法施行の前後で再犯率にも被害者数にも有意な変化が見られなかったことから、法には何の効果もなかったと結論づけている。 さらに、実際的な問題として、制度の実行は州単位であるため、別の州に移動して犯罪に至るようなケースではチェック機能が働かず、このような「犯罪の転移」を防ぐことはできないという問題なども指摘されている。 GPSによる電子監視についても、その効果は疑問だ。電子監視が犯罪抑制に及ぼす効果を膨大なデータを基に検証した研究者は、「現存するデータでは、電子監視が犯罪を抑制するツールとなることは支持されなかった」としている。 また、民事拘禁は最も極端な手段であり、人権上の懸念も大きい。カリフォルニア州では、刑務所の刑期が終了した後も、複数のメンタルヘルスの専門家によって再犯の危険が残っていると診断された場合、州立病院に「拘禁」することが可能となっている。※写真はイメージ 私もこの「病院」を訪問したことがあるが、病院とは名ばかりで、高い塀と鉄格子、高圧電流の電線で囲まれた重警備刑務所そのものであった。拘禁されている間は、当然再犯に至ることはなく、その効果は確実である。 しかも、大多数の者は事実上、一生涯釈放されることはない。ただし、その経済的コストは膨大で、カリフォルニアでの民事拘禁のための年間総予算は4200万ドル(約42億円)、年間1人当たり20万ドル(約2千万円)かかるとのことである。性犯罪を減らすたった一つの方法 このように見ると、どの対策にも効果がなかったり、コストが膨大であったりすることに加え、人権上の問題もあり、現実的な対策とは言い難い。しかし、悲観するのはまだ早い。ここで再び、膨大な研究データに目をやると、一つだけ確実に効果のある方法がある。 それは「性犯罪を減らすたった一つの方法」の正解であり、つまり「性犯罪者治療」である。具体的には、「認知行動療法」と呼ばれる心理療法や薬物療法がある。前者は、強い性衝動が起きた際にそれをコントロールするスキルを教えたり、女性に対する歪んだ認知を修正したりする。後者は、男性ホルモンの作用を抑制する薬物を投与する。 ケンブリッジ大学のレーゼル教授らの研究によると、これらの治療を受けた性犯罪者の再犯率は、治療を受けていない者に比べると、半分程度になったという。要は50%抑制されたということである。特に、心理的な認知行動療法というアプローチの効果が大きいという。 わが国でも2006年から刑務所で「性犯罪者再犯防止プログラム」が実施され、私もその開発に携わった1人であるが、その効果について法務省は一定の再犯抑制効果があったことを発表している。府中刑務所=東京都府中市晴見町 また、私は民間の精神科クリニックにおいて、性犯罪者の外来治療を行っているが、これまで400人近い人々が治療を受けている。そのほとんどは痴漢や盗撮を行った者であるが、強姦や強制わいせつ、小児性愛などに関わった者もいる。治療成績としては、これまでのところ再犯率は約3%程度である。彼らは受診する前は、再犯を繰り返し、いわば再犯率100%の者たちであるから、その効果は歴然としている。 さらに、われわれの研究グループは性犯罪者の「再犯リスク」を査定するチェックリストも開発し、それはわずか10項目の質問で80%近い正確さで再犯リスクを予測することができる。これを用いれば、まだ軽微な問題行動であるうちに、将来のリスクを予測することができ、ここで適切な治療を行えば、重大な性犯罪へと発展するのを予防することも可能である。 このように、今や科学の力、心理学の力を用いれば、社会的な病気ともいえる犯罪を効果的に「治療」することができる時代となった。もちろん、どんな病気もそうであるように、100%の効果というものは現実問題として不可能である。しかし、一時的な感情で効果のない方法に頼るよりは、よほど賢明であることは言を俟(ま)たない。 被害者の感情などを考慮すれば、今回の性犯罪に関する刑法が大幅改正されたことの意義は大きい。ただ、性犯罪の抑止については厳罰化だけではなく、心理療法や薬物療法といった手法を組み合わせることによって、さらなる効果を生み出すだろう。

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    小児性愛者を見分ける境界線 目で追う、性別で区別するなど

     千葉・松戸市で起きた小3女児殺害事件。ベトナム国籍のレェ・ティ・ニャット・リンちゃん(享年9)は姿を消した2日後、自宅から10km以上離れた我孫子市内の用水路脇で、変わり果てた姿で発見された。死体遺棄で逮捕されたのは、澁谷恭正容疑者(46才)。リンちゃんと同じ学校に2人の子供を通わせる父親であり、保護者会の会長を務めていた人物である。5月26日、リンちゃんの遺影を前に、悔しさをにじませる父レェ・アイン・ハオさん=千葉県松戸市六実 2014年に神戸市長田区で起きた6才女児殺害事件の犯人は離婚歴のある生活保護受給者。2005年に広島県安芸市で7才の女児を殺害し段ボールに詰めた男は定職につかない単身者。過去に子供が犠牲者となった凄惨な事件の容疑者には、常に閉塞感や孤独がついてまわった。 だが澁谷容疑者は、「子供たちがまっすぐ育つように」と地域で積極的に活動する保護者会会長であり、子煩悩で教育熱心な2児の父。率先して通学路に立ち、毎朝登校する子供たちに挨拶を欠かさない、今までの女児相手の性犯罪者のイメージとは似ても似つかない人物だった。 しかし実際、教育熱心に見えて子供の近くにいる大人が起こすわいせつ事件は後を絶たない。文部科学省の発表(2015年度)によれば、わいせつ行為やセクハラによって懲戒処分などを受けた教員の数は前年比19人増の224人で、過去最高を更新した。被害者のうち5.4%は自校の児童、35.3%は自校の生徒、3.6%は自校の卒業生。助けてくれるはずの教師からわいせつ行為を受けていたことになる。  今年に入ってからも、1月に教室で7才の教え子の女児の胸を触った小学校教諭(36才)が起訴され、4月には教室内で教え子の女児の服を脱がせてビデオで撮影した小学校教諭(29才)が逮捕されるなど相次いでいる。 そんな現実に「子供に優しく教育熱心な大人」に、声を大にしては言えないけれど、違和感を抱いてしまう母親は少なからずいる。 「子供たちを公園で遊ばせている時に、挨拶だけじゃなくて親しげに話しかけてきたり、たまに一緒に遊んでくれる中年男性がいますが、ありがたい半面、ちょっと警戒してしまいます」(30代・2児の母) 相手が教師や保育士、スポーツクラブのコーチといった立場にある人でも、男性であればやはり気になってしまうと悩む母親もいる。 「娘の保育園の保育士さんはすごく面倒見がよくて、“子供好きなんだろうなぁ”と思うような男性です。でも、おねしょした時にすぐに飛んできて、着替えさせてくれたと聞いて、“大丈夫かな”と思ってしまった」(20代・1児の母) もちろんそのほとんどが杞憂であり、子供のことを思って行動している大人がほとんどだ。小児性愛者を見分けるには? ただ、リンちゃんの事件では親切な大人の中に“羊の皮をかぶった狼”が紛れ込んでいないとは限らないと痛感させられた。では、子供好きな人の中に潜む、澁谷容疑者のような小児性愛者を見分ける境界線はどこなのか。犯罪心理学者の長谷川博一氏は、こう解説する。「かかわろうとする子供たちを“区別するかどうか”は大きな判断基準。例えば、女の子たちばかりに声をかけているならば警戒しましょう。本来の子供好きならば性別の分け隔てなく接するはずです」澁谷容疑者にも、「女児には優しく話しかけるのに、男児には厳しかった」などの証言があった。 ゆうメンタルクリニック総院長のゆうきゆう氏が言う。 「とくに男性の場合、興味があるものを無意識に目で追いやすいという特徴があります。例えば子供が通るたびに視線を送る、子供の声につい振り返るなど、わかりやすい行動もあります。関心のある対象が目につきやすいのは誰でもそうですが、性的欲求が刺激される対象の場合は関心の度合が違ってくるんです」 スキンシップの取り方も違う。「子供の頭をポンポンとなでるのは珍しくありませんが、小児性愛者の場合、頭をなでる時に髪の毛を指に絡ませることがあります。また、子供のズボンのホコリを払うときでも、普通はサッとはたくだけなのが、なでたりさすったりするなど、疑問に感じるようなスキンシップが見られることも。変だと思ったら、自分の夫に“男性から見てどう思うか”を聞いてみるのも手です」(前出・ゆうき氏) 精神科医の片田珠美氏は「1対1になりたがる人も注意が必要」と話す。 「容疑者も、“家でプールをやるから”と子供たちを呼んでいたという報道がありましたが、そのように好みの子を家に呼んで2人きりになろうとするケースもあります」 今回の事件で、“見守り”をしてきた側も不安を抱えることになった。4月16日の保護者説明会に出席していた男性保護者が打ち明ける。「毎朝“おはよう”と言葉を交わしていた子供たちから、“第二の澁谷”みたいに思われてしまうのではないかって…」すべての子供好きを疑うべきではないにせよ、こういう事件が起こってしまったならば、大人の側も、子供たちやその親を不安にさせるような言動には注意を払うべきだろう。「疑惑の目を持たれないためには男親の場合、必ず自分の子供もしくは妻など第三者を同席させること。何らかの事情で2人きりになるなら、誰かにそのことを一言告げるといった、オープンな連絡を心がけましょう」(前出・ゆうき氏) ベトナムからやってきた未来ある少女の命が奪われた事件は、全国の父母だけでなく、“優しい隣人”たちにも暗い影を落としている。関連記事■ リンさん遺棄現場至近で15年前に消えた「フィリピン少女」■ 松戸女児殺害 澁谷容疑者、最初の結婚相手は未成年■ 澁谷容疑者 あだ名は「澁デブ」、女子は「気持ち悪い」■ 年齢詐称62才山辺容疑者 「38才か39才」は絶妙すぎる■ キラキラネーム「反対」は76.2%、しかし親には命名権あり

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    首相腹心記者の強姦告発会見 全国紙は1行も報じなかった

    「レイプは魂の殺人です。山口氏が権力者側で大きな声を発信し続けている姿を見た時は胸が締めつけられました。この2年間、なぜ生かされているのか疑問に思うこともありました。レイプという行為は私を内側から殺しました」 5月29日、東京・霞が関の司法クラブで行われた記者会見。スラリとした体形に整った目鼻立ちが印象的な美女は、大きな瞳を潤ませて声を絞り出した。 この女性は海外でジャーナリストとして活動する詩織さん(28才)。家族の意向で苗字こそ明かさなかったが、30人以上の記者や多くのカメラが並ぶ前で顔と名前を公開した。彼女が訴えたのは強姦の被害。被害者が身元を明かせば、好奇の目に晒され、さらなる心の傷を負う可能性もある。レイプ被害者として、極めて異例の会見だった。 それでも詩織さんは勇気を振り絞って会見に臨んだ。彼女が被害を訴えた相手は、元TBSテレビ報道局ワシントン支局長でジャーナリストの山口敬之氏(51才)。安倍晋三首相(62才)の腹心として知られ、テレビ出演も多く、「総理に最も食い込む男」と呼ばれている。安倍首相への直接取材を行った著書『総理』や『暗闇』が代表作だ。 今回の問題が根深いのは、レイプという卑劣な犯罪もさることながら、犯罪行為が恣意的にもみ消された疑いがあることだ。それも「私の知り得ない何か“上のパワー”」(詩織さん)が働いた形跡があるのだ。 詩織さんは、2013年、ジャーナリズムと写真を学ぶためニューヨークに留学していた。現地で知り合ったのが山口氏だった。 詩織さんの主張によると、2015年4月、詩織さんは仕事の相談をするため、一時帰国中の山口氏と都内で会食。その最中に記憶を失い、連れ込まれたホテルのベッドの上で裸にされ、山口氏からレイプを受けた。避妊具はつけられていなかった。目を覚ました彼女に向かって山口氏はこう言ったという。「ごめん。きみのことが本当に好きになってしまって」 所轄の警察署は捜査の上、準強姦罪での逮捕状を取り、2015年6月8日、成田空港で帰国する山口氏を逮捕するために待ち構えていた。ところが突然、逮捕は中止になる。捜査員の目の前を、山口氏が通りすぎて行ったという。警察トップからの圧力「当時の捜査員のかたから、“警察のトップの方”からストップがかかったと聞きました。とても異例のことだと」(詩織さん) その後、詩織さんは警察から「示談にしなさい」と言われ、警察車に乗せられ、弁護士のところに連れていかれた。それについて詩織さんは「何かしらの意図」を感じたという。 その後、山口氏は準強姦罪で書類送検されたが、嫌疑不十分で不起訴となった。詩織さんに詳しい説明はなされず、結論だけを言い渡された。当時の刑事部長は官邸から信頼が厚く、将来の警察庁長官候補と目される。この刑事部長は『週刊新潮』の取材に対し、自らが逮捕取りやめの指示をしたことを認めている。「日本の法律は必ずしも私たちを守ってくれるわけではありません。当の捜査機関が、逮捕状をもみ消してしまうからです」(詩織さん) 詩織さんは会見当日、検察審査会に不服申し立てをした。「警察のかたには、“被害者らしく振るまいなさい”という言葉を言われたこともあるんです。被害者らしくというのは、泣いたり怒ったりすること。悲しい、弱い存在でないといけない。隠れていないといけない、恥ずかしいと思わなければいけない。今回、私は何も悪いことはしていません。こういった状況に疑問を感じ、今お話ししなければと思いました」(詩織さん) 強姦疑惑発覚後、山口氏はフェイスブックで《法に触れることは一切していない》と弁明している。避妊具を使用しない性行為については明言していないものの、山口氏は詩織さんに「精子の活動が著しく低調だという病気」だとメールで釈明していたと報じられている。 なお、この会見については翌朝の全国紙はすべて1行も報じなかった。 ひとりの女性の悲痛な訴えを「女性が輝ける社会」を掲げる安倍政権は無視し続ける。それどころか昭恵さんは、報道を否定した山口氏のフェイスブックに「いいね!」を押した。しかも5月15日、都内で開かれた『安倍晋太郎氏を偲び安倍晋三総理と語る会』の席では、「いいね!しただけで、あんなに責めなくてもね」と言い放ったという。関連記事■ 城島茂のお相手、E乳グラドルが出していた過激DVDの内容■ 芸能活動再開の清水富美加、大川総裁長男との結婚説を追う■ 21才グラドルと熱愛の城島茂 「振り回されとるなあ」■ 舛添要一氏「出張費&韓国学校で左右から矢が飛んできた」■ アン・シネ 膝上30cmミニスカ美脚で全力セクシー!

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    なぜ日本人は信仰を聞かれて「無宗教」と答えたがるのか

    島田裕巳(宗教学者) 日本人は自分たちのことを「無宗教」だと考えてきた。 それを裏づける資料もある。アメリカのギャラップ社が2006年から08年にかけて行った世論調査では、日本人のなかで信仰を持っている人間は25%で、対象となった世界143カ国のうち136位という結果が出た。 日本より信仰率が低いのは、香港や北欧諸国などわずか7カ国しかない。たしかに、日本は無宗教の国であるということになる。 しかし、これが果たして正しいのかどうか、実は怪しい。 NHKが1996年に行った「全国県民意識調査」というものがあるが、全国平均では、信仰を持っている日本人の割合は31・2%であった。ギャラップ社の調査よりは高いが、7割近くが無宗教であるということになる。 ところが、都道府県別に考えると、かなりのばらつきがある。最も低いのは沖縄の7・8%で、これが飛び抜けて低いが、次いで千葉県の18・1%である。関東はおしなべて低く、一番高い東京でも27・0%である。東北も低く、すべての県が20%台である。他に20%台は、新潟、山梨、高知である。 反対に、最も高いのが福井の58・0%で、広島も53・7%と半数を超えている。40%台は、富山、石川、長崎、鹿児島、香川である。多くの参拝者が訪れる西本願寺=5月31日、京都市下京区の西本願寺(北崎諒子撮影) 長崎の場合には、キリスト教が5・1%で、このことが信仰率を押し上げているが、他に高い県は、浄土真宗の信仰が強い「真宗地帯」である。鹿児島も浄土真宗は強い。 この点は重要で、浄土真宗の信仰が強いところでは、どこでもかなり信仰率が高いのである。平均してしまうと、この地方による違いが見えなくなる。男女別にみるとさらに興味深い結果が  また、2008年にNHK放送文化研究所も加わっている国際社会調査プログラム(ISSP、International Social Survey Programme)が行った調査では、日本人の信仰率は平均で39%という結果が出たが、この調査では、男女別年齢別に集計しており、興味深いことが明らかになった。春日大社に初詣に訪れた参拝者=2017年1月1日、奈良市 16歳から29歳では、女性が20%で男性が17%とかなり低い。ところが女性の場合には、30歳から39歳で28%、40歳から49歳で39%、50歳から59歳で43%、60歳以上で56%と年齢が上がるにつれて徐々に信仰率が上がっていくのだった。 さらに興味深いのは男性の場合である。30歳から39歳で19%、40歳から49歳でやはり19%と、50歳になるまでは若い頃と変わらず低いのだが、50歳から59歳では41%と急に上昇し、60歳以上では56%と女性と肩を並べるのである。 なぜ男性は50代になると、急に信仰を持つようになるのか。おそらくそこには、定年を意識するようになるということが関係していると思われる。私が今教えている女子大生の父親は、ちょうどこの世代にあたるが、急にお寺参りをするようになったとか、私の本を読んでくれるようになったとか、そう答える学生が多い。 この二つの調査結果を踏まえて考えると、果たして日本人は本当に無宗教といえるのかどうか、そのこと自体がかなり怪しくなってくる。 もしかしたら、無宗教は建前であって、宗教を信仰しているというのが本音なのではないか、そうとさえ思えてくるのである。 自分が無宗教であると標榜(ひょうぼう)するのは、他人から信仰を聞かれたときである。そのときには、自分が信仰を持っているとは答えにくい。それだけで警戒されるかもしれないと思ってしまうからだ。 ところが、世論調査の場合には、こっそりと記入するわけで、調査機関にしかそれは分からない。匿名で記入するのであれば、なおさら、自分がどう答えるかを気にする必要がない。だから、世論調査には本音が出る。そう考えられるのではないだろうか。本音で答えない理由は何か? 世の中で宗教のことが話題になるとき、その対象は新宗教であることが多い。女優の清水富美加が出家したというときにも、出家先は新宗教の幸福の科学だった。 新宗教はかつて「新興宗教」と呼ばれることが多く、そこには布教に熱心で、信仰に凝り固まっているというイメージが伴った。特に、高度経済成長の時代に創価学会や立正佼成会などの日蓮系の教団やパーフェクトリバティー(PL)教団が急成長したときにはそうだった。 そこから、新宗教に対する警戒心が生まれ、自分に信仰があると答えれば、そうした新宗教の信者だと思われるのではないかという意識が生まれた。そこで、聞かれれば無宗教と答えるようになった。そうした面がある。 その点で、日本人の無宗教というとらえ方には、自分は怪しげな新宗教の信者ではないというニュアンスが強くこめられている。女優・清水富美加=2016年9月22日東京・港区(撮影・高橋朋彦) しかし、日本人は無宗教と言いながら、日常的に宗教の世界と深くかかわっている。初詣には大勢の日本人が出掛け、そのなかにはかなりの数の若者が含まれている。葬式離れは進んでいるものの、仏教式で葬られる人はまだ少なくない。 それが真宗地帯ともなれば、「門徒(浄土真宗の信者のこと)」としての自覚は失われていない。四国地方などは、真宗地帯に属する各県に比べれば信仰率は低いが、それは、この地域で根強い真言宗と深くかかわりを持っていても、それを信仰や宗教としては意識していないからだ。 奈良や京都で古寺がいくつも残され、他の地域でも名だたる寺や神社がきっちりと守られてきたのも、日本人には強い信仰があるからだ。無宗教化が進むヨーロッパでは、古いキリスト教の教会でも維持できなくなり、モスクに売られたりしている。 そして、年を重ね、人生の終わりや老後を意識するようになると、日本人ははっきりと自分の信仰を意識するようになる。それしか、死に向かいつつある自己を支える基盤を見いだすことができないからだ。 日本人の本音は無宗教ではない。そのことを踏まえた上で日本人の宗教観を見直す必要があるのではないだろうか。

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    「浄土ってどこにあるの?」日本人の宗教離れはこの問いに隠れている

    向谷匡史(作家) 街を歩けば、そこかしこでコンビニを目にする。全国で約5万5千店。過当競争とも聞くが、「これだけあって、よくメシが食えているな」と、経営努力に頭が下がる。 ところが宗教団体の数はそんなものではない。仏教系単位宗教法人だけで約7万7千、これに神道系やキリスト教系など諸々を合わせれば18万余りが全国に散らばっている。宗教離れが指摘され、「日本人は無宗教」と言われながら、これだけの数が存在していること自体が驚きである。「よくメシが食えているな」という感慨どころか、目をむいてしまう。不謹慎かもしれないが、晩年に至って僧籍を得た私の、これが率直な感想である。 日本人が無宗教であるかどうかはともかく、宗教に対して一定の距離を置いていることは、一般の人でも皮膚感覚でわかるはずだ。 「私は××宗の熱心な信者なんです」 初対面でこう言われれば、 「それはそれは」 と当たり障りのない応対をしながら、「この人、ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなる。 反対に、「人間、死ねば粗大ゴミ」「葬式なんかするわけがないでしょう」「地鎮祭? バカなこと言わないでください」―と鼻で笑う人に対しても、「ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなるだろう。 宗教に対するこの「微妙な間合い感覚」が、現代日本人の「宗教観」ではないか。宗教心について各種調査を見れば、「自分は無宗教だ」と公言する日本人は少なくないが、そのうちの大半が「宗教心は大切だ」と答えている。この矛盾と「精神的なゆらぎ」に、私は現代日本人の実相を見る。 儒教が日本に入ってきたときから、すでに日本人の無宗教化が始まったともされるが、浅学の私に大所高所からの考察はできない。道俗―すなわち、物書き(俗)と僧侶(道)のはざまに立つ「小所低所」から私見を述べたい。 去る4月8日、全国のお寺で「花祭り」(灌仏会[かんぶつえ])が行われた。釈迦(しゃか)の生誕を祝うもので、子供たちがお寺に集い、白い像を引き、稚児行列が行われるのだが、「それは大きなお寺だけですよ。うちなんか、子供の参加者が年々減ってきて、今年は10人足らずでした」と、知人の住職がボヤきながら、子供が「寺離れ」する理由の一つとして、境内を遊び場として提供できなくなったことをあげる。画像は本文と関係ありません 「いまの時代、墓石が倒れて大ケガでもしたら訴訟沙汰になりますからね。本堂の手すりから落っこちてでもすれば管理責任を問われかねない。そんなことを考えると、怖くて『遊び場にしてください』とは言えないんです」 本山は地域と密着する場として、末寺に寺の開放を求めるが、「何でも訴訟」という社会風潮は、お寺をも萎縮させているということになるだろう。幼児が遊びに来なければ若いママも来ない。若いママたちは公園に集まり、公園ママ友になっていく。「境内を交流の場とする境内ママ友なんてことになればいいんですが、現状では無理でしょうね」と、この住職は嘆息する。 若いママが「お寺離れ」すれば当然、両親・祖父母の葬儀は簡素化の一途をたどる。「葬儀はしません。納骨だけお願いします」と檀家(だんか)の嫁さんから電話があり、「うちは霊園じゃねぇ!」と思わず叫びたくなったと、別の住職は自嘲する。「宗教心は大切だ」とアンケートに答えはしても、宗教離れは確実に進行していることが、現場では皮膚感覚としてわかるのだ。それでも宗教はなくならない 日本人が「無宗教」を堂々と口にするようになったのは、先の敗戦が大きく影響しているのではないか。天皇という現人神(あらひとがみ)の「人間宣言」によって価値観が一変。論理と科学に代表される西洋文明が一気に押し寄せた。論理的・科学的に証明されないものを排除し、現代に至ってそれがますます先鋭化してきたように思う。 私が僧侶の立場で浄土往生を説けば、「浄土ってどこにあるのよ」と、必ず意地悪い質問が飛んでくる。 「お浄土は人間界から西方はるか10万億の仏土を隔てたところにあり、阿弥陀如来を教主とし…」 説明を始めるが最後まで聞かず、「それって、証明できるんですか?」とツッコミを入れてくる。科学的に証明できるかどうか、これが価値判断の基準であって、「地獄極楽の存るを問うな。わが心に地獄の棲むを問へ」―という生き方論など「坊さんのたわごと」というわけだ。 それに加えて拝金主義。任俠道という精神性を標榜するヤクザですら、バブルを境に「経済ヤクザ」なるものが登場し、「マネー・イズ・パワー」と嘯(うそぶ)いてはばからない。私は空手道場をやっているが、そういう社会風潮にあって、「清く正しく美しく」と説教しても子供たちに通じない。「縁の下の力持ちになれ」と言えば「そんなの損じゃん」と口をとがらせる。「だます人よりだまされる人になりなさい」と言えばキョトンである。 戦後70年を経て、これが日本の行きついた先であり、現代日本人の「無宗教」は、宗教論として論じるよりも、精神世界を失いつつある結果であると私はとらえている。 その一方、宗教離れを論じるとき、スピリチュアルブームが引き合いに出される。「精神世界を失いつつあると言うが、スピリチュアルはブームになっているではないか」という主張で、これは既存宗教の怠慢であるという批判でもある。画像は本文と関係ありません だが、私はこう考える。人間の意識は常に振り子のように揺れているため、科学万能主義に厭(あ)きてくると精神世界へ回帰していく。既存の宗教に回帰しない理由は、赤ちゃんが玩具に厭きて放り投げるとそれには見向きもせず、新たな興味を引くものに手を伸ばすのと同じである―と、いささか乱暴に考えるのである。 時代がどう変わろうとも、死に対する根元的な恐怖、天変地異、そして日々を生きることの不安と苦悩から私たちが逃れられない以上、死後の救済を説き、心の安逸に資する宗教は決してなくならない。「宗派・教団」には経営努力が求められ、ここにおいて「宗教」は一線を画する。「日本人はなぜ無宗教なのか」という問いに対して「無宗教も宗教」と揶揄(やゆ)するのはたやすいが、日本人の少なからざる人が無宗教と公言し、それが戦後の時代風潮のなかで加速してきた現状について、今一度、考えてみるべきではないだろうか。「小所低所」からの私の提言である。 

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    無神論者は「ならず者」? 外国人には理解できない日本人の宗教観

    小島伸之(上越教育大准教授) 初めての海外旅行に臨む日本人が、ビザ申請や入国審査で記入する書類の「Sex」欄に「未経験(Inexperience)」と書いて恥をかいた、という海外旅行が珍しかったころからの古典的なネタがある(戦後日本で海外旅行が一般化したのは1970年代以降である)。 最近はF(astはやい)、M(ediumそこそこ)、それ以外という新ネタもあるようだが、あくまで大人のジョークの世界である。現実的な問題となりうるのは、「Religion」(宗教)の欄にどう書くべきか、ということである。 日本的な普段の感覚をもとに「なし(None)」とか、辞書を引いて「無神論(Atheist)」と書くことは避けるべきとされている。なぜなら、それによって冷笑されたり、不審がられることがあるからである。SNSプロフィールの宗教の欄や、直接の会話で「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたときも同様であり、私的な人間関係において「無神論者」は露骨に敬遠・警戒される場合がある。 宗教文化にもよるが多くの外国人から見て、無神論者は、他者の信仰を含めてあらゆる神を認めることを積極的に拒否する者とみなされ、宗教こそが倫理や道徳の基礎となってきた宗教文化圏においては、無神論者は自らを日本語における「無法者」「ならず者」であると宣言する存在と見られる可能性がある。 したがって、こだわりがなければ「仏教者(Buddhist)」と書け、「神道者(Shintoist)」でもよい、本人の自覚はさておきそうするのが無難とのアドバイスが旅行者に対して事前にされることもある。 むろん日本人にとっては、特定の信仰の有無と倫理意識・道徳意識の高さが直結しているという意識は薄く、「無宗教」の人物がすなわち「無法者」「ならず者」であるという感覚はない。 むしろ、阪神大震災や東日本大震災による混乱に際しても、火事場泥棒はあれども大規模な暴動や略奪が生じなかったことを外国人が不思議がったように、日本人の倫理観・道徳観は国際比較の観点から相対的にかなり高いともいわれている。 ここには、相対的に高いとされる倫理観・道徳観が特定の宗教と無関係であることが、少なからぬ外国人には理解しがたいというカルチャーギャップが存在しているのである。 このカルチャーギャップは歴史的にもきわめて大きな問題であった。幕末以降日本が国際社会に積極的に再参加するに際し、非キリスト教国である日本が「文明国」であるということを当時の列強諸国(キリスト教諸国)に理解してもらうことが必要となったからである。 かつて明治期に新渡戸稲造が「武士道」という概念を用いて(『BUSHIDO The Soul of Japan』1899年)、また穂積陳重が「祖先教」という概念を用いて(『Ancestor-Worship and Japanese Law』1901年)、キリスト教国ではない日本も、倫理的・道徳的な「文明国」であるという説明を欧米で試みたのも、まさにこのギャップを埋めるためであった。 ちなみに、伊藤博文は、「帝国憲法制定の由来」(大隈重信撰・副島八十六編『開国五十年史』上、開国50年史発行所、1907年)で近世以来の日本社会の「文明性」を主張しているが、そこで展開される日本社会論の説明には「郷党社会」というキーワードが用いられ、日本社会の特徴は神道や仏教などの宗教とは関連付けられていない。総人口を超える「信者数」 さて、特定の信仰を有しないと考えている日本人は今日確かに多く、このことは社会調査によっても裏付けられている。近年の調査結果を見てみるならば、統計数理研究所による「日本人の国民性調査」(第13次調査、平成25年)では信仰や信心を「もっている、信じている」と答えた人の割合は28%だった。 また、読売新聞による「全国世論調査」(第10回、平成20年)では「何か宗教を信じている」と答えた人の割合は26.1%。國學院大日本文化研究所による「学生宗教意識調査」(第12回、平成27年度)では「現在、信仰を持っている」と答えた大学生の割合は10.2%であり、いずれも信仰を有していると答えている割合は少ないことがわかる。 ところが逆に信者ではなく教団側の視点から見てみると、日本人の宗教信者数はむしろ極めて多いことにもなる。宗教法人をほぼ悉皆的に対象とした文化庁の調査によれば、平成26年12月31日現在のわが国の宗教団体の「信者数」は、神道系9216万8614人、仏教系8712万6192人、キリスト教系195万1381人、諸教897万3675人の計1億9021万9862人である(文化庁編『宗教年鑑 平成27年版』)。 総務省による平成26年10月1日現在の日本の総人口推計は1億2708万3千人であり、文化庁の調査による日本の宗教団体の信者数は日本の総人口をはるかに超えている。この一見奇妙な信者数に関する調査結果は、まず、信者の定義自体が調査対象の宗教団体にゆだねられた自己申告による数字であることによる。 同年鑑は、「信者は、各宗教団体が、それぞれ氏子、檀徒、教徒、信者、会員、同志、崇敬者、 修道者、道人、同人などと称するものの全てを含んでいる。信者の定義、資格 などはそれぞれの宗教団体で定められ、その数え方もおのおの独自の方法がとられています」と説明している。宗教団体によっては、実際の信者数よりもかなり「水増し」した信者数を申告することも少なくない。 しかし、人口を超える信者数については「水増し」申告だけに還元できない要因もある。「家の宗教」および多元的・重層的な日本の宗教文化という要因である。個人的にある宗教の信者であるという自覚がなくても、属する家には宗教があることが多い。 江戸時代の寺檀制度などの歴史的経緯から、家は地域の神社の氏子として、また先祖の墓のある檀那寺の檀家として、それぞれ位置づけられていることが一般的である。つまり、日本人の多くは、本人が自覚的であるか否かに関わらず、地域の神社の氏子であると同時に家の檀那寺の檀家であることが多い。 何らかのきっかけでそれを自覚したとき積極的信仰に目覚めることは少なくとも、そうした位置づけられ方を積極的に拒否する人も少ない。こうして、日本人の多くは、「家の宗教」と多元的・重層的な宗教文化によって、地域の住人=氏子、家の一員である=檀家とみなされ、一人が神道の信者でもあり仏教の信者でもあるということになる。人口を上回る信者数は、こうした要因にもよるのである。日本人はいい加減で無節操? さらに、特定の宗教・教団(宗教組織)への自覚的所属意識にかかわらず、宗教的行動は盛んに行っていたり、宗教的感性は大切に思っていたりすることも日本人の特徴である。先に引いた調査においても、既成宗教に関わりなく「宗教的な心」は大切だと思う人の割合は66%(前記「日本人の国民性調査」)、盆や彼岸などにお墓参りをする人の割合は78.3%、正月に初詣でに行く人の割合は73.1%(前記「全国世論調査」)、「去年のお盆の墓参り」に行った学生の割合は56.4%、「今年の初詣」に行った学生の割合は61.4%(前記「学生宗教意識調査」)と、信仰を有していると答えた人の割合に比してそれぞれかなり高い割合となっている。 お盆や正月の帰省ラッシュの存在は、家族と再会する機会という世俗的目的と宗教的目的が相まって生じている現象なのである。 以上のように、総体的にみて今日の日本人と宗教のかかわりは、①主観的に特定宗教の信仰を有していると自覚する者は少なく、②一方で「形式的に」教団に所属しているとされる人数は多く、③特定の宗教・教団への所属意識がなくとも宗教的感性を有し宗教的行動は行う、というものである。 こうした日本人の在り方が無神論とは異なるとしても、「無宗教」であるといえるか否か。そもそも、大半の日本人が「無宗教」であるか否かという論点について、論理的に考えるならば、「宗教」ないし「無宗教」の定義によって、その結論が決まることになる。 しかし、「宗教」の定義自体が容易な問題でない。『宗教の定義をめぐる諸問題』(文部省調査局宗務課、昭和36年)には、104人の研究者による104通りの異なる定義が収録されているほどである。「宗教」の定義が容易でなければ、「無宗教」の定義も容易ではなかろう。容易に定まらない多様な定義のいずれに依るかにより、日本人は「無宗教」であるともないとも言い得ることになる。 少なくとも、すでに述べたように、こうした日本人と宗教のかかわりは国際比較的にかなりユニークなものであり、戦前から説明が試みられてきたものであるが、戦後においても例えば山本七平や小室直樹の「日本教」論(『日本教の社会学』1981年、講談社[2016年復刻、ビジネス社]など)や阿満敏麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996年)、最近では松島公望・川島大輔・西脇良『宗教を心理学する データから見えてくる日本人の宗教性』(誠信書房、2016年)などがそれぞれ多様なアプローチによってこの問題を考察している。 この問題は、個人的レベル(海外旅行)や国家的レベル(外交)の実践的問題であるにとどまらず「われわれ日本人とはいかなる存在なのか」、というアイデンティティの探求にかかわっているため、時代を超えて関心を引き続けるのであろう。 なお、「特定の宗教を信じているわけではないが『宗教性』は大切だと思っている」という人を、「Agnostic(不可知論者)」と表するのが英語の意味的には一番実態と表現のずれが少ないという。 しかし、実際に書類に記入したりする場合「Agnostic」はよくわからないから、面倒くさいので「Buddhist」でいいや、というのがおそらく大方の日本人の心情であろう。これをおおらかで寛容と評するも、いい加減で無節操と評するも、立場によって可能である。

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    【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ

    百田尚樹(作家) 私の一橋大学の講演中止が波紋を広げています。 講演反対運動を積極的に進めていたのは、同大学にある「反レイシズム情報センター(ARIC)」(以下ARIC)という団体です。 ARICは、「人種差別主義者である百田尚樹に講演させるわけにはいかない」という理由で、実行委員会に対して2カ月にわたって執拗に「講演中止」を要請していました。百田尚樹氏の講演会中止問題に揺れる一橋大学の国立キャンパス(桐原正道撮影) 私はこれまで人種差別発言などしたことはないし、ヘイトスピーチもしたことはありません。にもかかわらず、ARICは私のツイッター上の発言を恣意的に解釈して「百田尚樹はレイシストであり、差別扇動をする者」というレッテルを貼り、そんな人物に講演させるわけにはいかないと言い出したのです。 ちなみに、私の講演テーマは「現代におけるマスコミのあり方」というもので、ヘイトやレイシズムなどはまったく関係のないものです。にもかかわらず、ARICは私の講演そのものが差別扇動になると主張しました。 ARICはこうした勝手な前提を設けて、自分たちで作ったいくつかのルールを実行委員会に突きつけ、これを守らなければ講演させないと言いました。彼らのルールそのものは実に不当なものでしたが、中でも一番驚いたのは、以下の要求です。「百田尚樹氏講演会『現代社会におけるマスコミのあり方』に関しては、百田氏が絶対に差別を行なわない事を誓約したうえで、講演会冒頭でいままでの差別扇動を撤回し今後準公人として人種差別撤廃条約の精神を順守し差別を行なわない旨を宣言する等の、特別の差別防止措置の徹底を求めます。同時にこの条件が満たされない場合、講演会を無期限延期あるいは中止にしてください」 啞然とするとは、まさにこのことです。 「百田尚樹は差別扇動する者」という、まったく事実と異なる前提の上で、講演前に私にそれを撤回させ、さらに今後は二度とそのようなことを行なわないことを宣誓させるとは、呆れ果ててモノも言えません。 実行委員会は突っぱねましたが、ARICはその後、何度も執拗に実行委員会に講演中止を要請し、また大学の教員にも働きかけたようです(彼らは「講演反対」の署名運動も始めていました)。手慣れた「プロの活動家」のやり口 ARICは実行委員会との交渉の場で、「脅し」すれすれの言葉を使っています。たとえば、彼らは交渉の場においてこんな発言もしています。「われわれと別の団体の男が講演会で暴れるかもしれないと言っている。負傷者が出たらどうするんだ?」 これは直接的な脅しではありませんが、暴力をほのめかした恐喝と言えるものです。やくざ映画などで、親分が「わしは何もしないけど、うちの若い者の中には血の気の多い奴もいるのでな」というセリフを連想させます。 また、外国籍のある女子学生が「百田尚樹の講演を聞いて、ショックを受けて自殺するかもしれない。その時は実行委員会としてどう責任を取るつもりなのか?」という発言もありました。これなどは悪質なクレーマーのセリフ以外の何物でもありません。いずれにしても、手慣れた「プロの活動家」のやり口です。 対する実行委員会のメンバーは1、2年生が中心です。19、20歳の学生が、こんな悪質な圧力を2カ月近くも受け続ければ、たいていは参ってしまいます。実際、多くの学生が疲弊していきました。聞くところによれば、ノイローゼ状態になった人や、泣き出す女子学生までいたようです。こうして実行委員会の中にも「もうやめよう」と言い出す学生が次第に増えていきました。 それでも「不当な圧力に屈しない」という思いを持つ委員会のメンバーは講演会を実施するために、万一に備えて警備会社に依頼したそうです。しかし反対派の執拗な圧力に、警備の規模が大きくなりすぎ、他の企画にまで影響を及ぼすほどになったようです(これは実行委員会が講演中止に至った理由として書いています)。 そしてついに6月2日の夜、実行委員会のメンバーのほとんどが(一人を除いてと聞いています)、中止にしようと決めました。 以上がことの顚末です。 さて、ARICという団体ですが、その実態は不明です。代表は35歳の在日朝鮮人三世で、一橋大学の大学院生です。その活動のメインは、出版物や新聞、ネットなどから、「差別発言」を探し出し、それをデータベース化することです。2017年6月現在で、私をはじめとする120名を超える文化人や政治家など2700を超える発言が、「差別発言」として認定され、データベースに載せられています。その中には故人の発言もあります。しかし、そうして挙げられた発言のほとんどは差別とは何の関係もないものです。どこがヘイトスピーチなのか ちなみに私の発言は全部で19載っています。たとえば、次のような発言もヘイトとして認定されています。「悲しいことだが、すでに戦後の自虐史観の洗脳を受けてしまった人の洗脳を解くのは無理。これはもうほとんど不可能…(涙) 私に出来ることがあるとすれば、まだ洗脳を受けていない若い人々を、洗脳から守るということ」(ツイッターより)「特攻隊員たちを賛美することは戦争を肯定することだと、ドヤ顔で述べる人がいるのに呆れる。逃れられぬ死を前にして、家族と祖国そして見送る者たちを思いながら、笑顔で死んでいった男たちを賛美することが悪なのか。戦争否定のためには、彼らをバカとののしれと言うのか。そんなことできるか!」(同)作家の百田尚樹氏(宮川浩和撮影) これらの発言のどこがヘイトスピーチであり、レイシズム発言なのでしょうか。まったく意味がわかりません。他の人たちの発言も同様です。ちなみに安倍総理は31の発言がヘイトスピーチであると認定されています。 ARICのデータベースはネットで見られるので、興味のある方は覗いてみてください。なぜこれがヘイトスピーチになるのかと首を傾げるものばかりです。いったい彼らの目的は何なのか、今のところはまるでわかりません。 ただ、今回の講演中止運動を見てもわかるように、彼らは「差別反対」「ヘイトスピーチ反対」を錦の御旗として活動しています。しかし差別やヘイトの定義は曖昧です。例に挙げた私の発言を見てもわかるように、彼らのヘイト認定は実に恣意的です。 恐ろしいのは、ARICは自分たちが「差別主義者」と認定した人物は、発言を封じて構わないと考えていることです。そこにはヴォルテールの有名な言葉、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という精神はどこにもありません。ARICや彼らに賛同する人たちは今後、「言論の自由」や「表現の自由」を口にする権利はないと思います。 驚いたことに、今回の講演中止が別に問題ではないと言う人もいます。ジャーナリストの安田浩一氏もその一人です。安田氏は近年、対レイシスト行動集団(前身はレイシストをしばき隊)と親密になり、活動家としての発言が多いことでも知られています。彼は東京新聞のインタビューで、私の「沖縄の二つの新聞はつぶさんとあかんのですけど」という発言に言及し、「そのような人たちが言論弾圧というのは、チャンチャラおかしい」と言っています。他者の発言を封じる言論弾圧 ここには巧妙な論理のすり替えがあります。私の発言は自民党若手議員の勉強会の場でのものとはいえ、それはあくまで「私的な会合」です。その発言は公式のものではないし、不特定多数に向けてのものでもありません。私自身が沖縄の二つの新聞に過去、さんざん悪口を書かれてきたことに対して、一言冗談で恨み節を述べたものにすぎません。実際、沖縄の新聞に対してどうするかというようなことは一切言及していません。当たり前ですが、私には沖縄の新聞を潰せる力もありません。2015年6月、自民党の「文化芸術懇話会」であいさつする百田尚樹氏(斎藤良雄撮影) しかし、ARICは実際に実力行使して、私の講演を潰したのです。これを同列に並べることこそ、「チャンチャラおかしい」ものです。 漫画家の小林よしのり氏は、「言論弾圧とは政治権力が民間に対して為すもので、これは言論弾圧にあたらない」という趣旨のことをブログで発表したようですが、これも無理があります。「言論弾圧」は何も政府がするものだけとは限りません。民間の人物や団体が不当な圧力でもって、他者の発言を封じてしまう行為もはっきりと言論弾圧と言えるものです。  公正を期して書いたつもりですが、もしかしたら被害者寄りの書き方になったかもしれません。そう受け取られたならご寛恕いただきたい。 この事件は第三者的には、たいした事件ではないのかもしれません。大学祭での一作家の講演が中止になったというだけのことですから、これ自体は大袈裟に騒ぐほどのことでもないとも言えます。 しかしながら、この事件は危ないものを内包しています。というのは、これが前例となり、ARICのような団体が、自分たちの気に入らない人物の発言を封じてしまうようなことが常習化する危険性を孕んでいるからです。 これは決して大袈裟に言っているのではありません。この事件を多くのマスコミが見逃せば、やがてこういう事例が頻繁に起こることになるでしょう。気が付けば、自由に発言できない空気が生まれているかもしれません。そうなった時、「ああ、あれが最初だったか」と思っても、その時はもう手遅れです。

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    百田氏講演中止を報じないマスコミに「言論の自由」を語る資格はない

    一色正春(元海上保安官) 作家であり放送作家である百田尚樹氏が一橋大学の学園祭「KODAIRA祭」で、「現代社会におけるマスコミのありかた」というテーマで行う予定だった講演会が中止になり、同祭のホームページ(HP)でその理由が以下のように発表されました。 このたび本講演会を中止することになった理由についてですが、「本講演会がKODAIRA祭の理念に沿うものでなくなってしまったこと」が挙げられます。当学園祭は一般の学園祭と異なり、「新入生の歓迎」を第一義とするものです。当委員会の企画のために、新入生の考案した企画や、新入生の発表の場である他の参加団体の企画が犠牲となることは、当委員会では決して容認できるものではありません。 当委員会は本講演会を安全に実施するため、これまで幾重にも審議を重ね、厳重な警備体制を用意していました。しかし、それがあまりにも大きくなりすぎたゆえ、(いくつもの企画が犠牲となり、)「新入生のための学園祭」というKODAIRA祭の根幹が揺らいでしまうところまで来てしまいました。(一部抜粋)東京国立市にある一橋大学のキャンパス 話を要約すると「何らかの理由で講演会の安全が脅かされる事態が予測され、それに対応できないと判断したから中止する」ということのようです。その理由とは何なのかという話の前に、まずは発表方法に問題があったことを指摘しておきます。当初、百田氏はツイッターで上記中止発表画面を「私のところにはまだ講演中止の連絡がないのだが…。」というコメントとともにツイートしていました。 つまり、学園祭の主催者は当の本人である百田氏に何の相談や連絡もせず、一方的にホームページで中止を発表したのです。これは契約不履行云々(うんぬん)というビジネスの話以前の問題で、このような信義にもとるやり方は、一般社会では決して許されません。物事を頼んでおきながら自分たちの都合でキャンセルするのであれば、ホームページで一方的に発表する前に、まずは講演を依頼した百田氏に理由を説明し詫びるのが最低の礼儀です。これに対して世間を知らない学生だからと擁護する向きもあるようですが、ならば学生任せにせず良識のある教員等が社会の最低マナーくらいは指導すべきであり、いずれにしても、この一事だけで大学のイメージを損ねたことは間違いありません。公開の場なら言論で戦え とはいえ、百田氏のツイッター等の言によれば、主催者に対して講演会中止を求めるかなり「強力な圧力」があったようです。中には、暗に当日、物理的に妨害するとほのめかす脅迫ともとれるようなものもあったそうで、安全が脅かされると主催者が心配したのも無理はありません。加えて、度重なる嫌がらせなどによって、学生たちが精神的に疲弊してしまったことも中止に至る背景にはあったのでしょう。 それに対して「学生は根性がない」と言う人もいるようですが、誰がどのような形で圧力をかけたり嫌がらせをしたりしたのかを知る術のない私には、主催者の根性がいかほどであったのかは判断のしようがありません。ただ、結果を見れば、彼らが当初の意思を曲げて中止を決断せねばならないほどの重圧を受けていたことは確かであり、それが不当なものであったことは過去の例から想像に難くありません。最近、不当な圧力により中止になった催し物百田尚樹サイン会(厳重警備のもと決行)はすみとしこサイン会桜井誠早稲田祭千葉麗子サイン会(敬称略) この例を見ていただいてわかるように、これらは一般に開かれた催し物ですから誰でも自由に参加できるはずです。もし、この人たちの意見が気に入らないのであれば、自分も催し物に参加し相手の意見を十分に聞いた上で公開の場で質問するなど、言論で戦えば良いだけの話です。ところが、彼らは自分が相手に議論で敵わないことを知っているのか、言論以外の暴力的な方法で圧力をかけて催し物を中止に追い込み言論を封殺してきました。2016年3月、兵庫県警の捜査員らが警戒に当たる中、作家の百田尚樹氏(中央)によるサイン会が開かれた=兵庫県西宮市(小松大騎撮影) 彼らの手法は、まず自分たちの独断と偏見で「弱者」と「強者」、「被害者」と「加害者」などに社会を二分して対立を煽り、自分たちは「弱者」や「被害者」という批判を受けにくい立場に立ちます。一方で彼らは、対立する相手に「レイシスト」などという誰もが嫌悪感を抱くようなレッテルを張り、弱者や被害者は強者や加害者に対して何をしても許されるという自分たちが勝手に作ったルールにのっとり、相手に議論や反論を許さず一方的に罵倒し、それを執拗に繰り返します。これにマスコミが同調すると、さらに手がつけられなくなり、何を言っても無駄な状態になってしまいます。 そうやって今まで何人もの政治家が餌食になりました。このように相手には容赦のない人たちですが、相手が少しでも反撃してくると「差別だ」と大騒ぎして自分たちの陣地に立てこもり、知らん顔をします。本当に、あきれるくらい卑怯な人たちです。 最近はインターネットの普及により情勢が変わりつつありますが、今まで、このような攻撃が自分たちに向くことを恐れたマスコミが真実を報じなかったため、多くの国民が知らないまま、この方法でどれだけ正論が封じられてきたことか分かりません。 彼らに共通するのは「弱者は強者に何をしても良いが、強者が弱者に力を使うのは許せない」という考え方です。そういう考え方が根底にあるので「言論弾圧というものは権力者が一般国民に対して行うものだから、今回はそれにあたらない」という言い訳が出てくるのです。確かに「弾圧」という言葉は権力で押さえつけるという意味ですが、彼らも他人を力で屈服させることができる権力者ではありませんか。そういうと「権力とは…」という話になり、どんどん話が本筋からそれていくので、この辺りでやめておきますが、問題は言葉の定義ではなく、相手の言論を力で封じ込めることの是非です。弱者ならば何をしてもいいのか また、この「弱者や被害者は強者や加害者に対して何をしても良い」という考え方を突き詰めていけば「権力者が国民に対して危害を加える事はけしからんが、国民が正義のために権力者を殺すのは正しい」というテロ行為容認の極論に行き着きます。 彼らの恐ろしいところは自分たちが絶対的な正義であると思い込み、「それに反する人間の行為を正すことが自分の使命だ」「そのためには何をやっても許される」と思い込んでいるところです。これは地下鉄サリン事件などの凶悪犯罪を引き起こした宗教団体の当時の考え方と同じです。 話を百田氏の講演会に戻すと、彼らは「ヘイトスピーチ」なるものを理由として講演会の中止を求めたそうですが、まったく意味が分かりません。今回の講演のタイトルは「現代社会におけるマスコミのありかた」というもので、大人気テレビ番組の放送作家を四半世紀以上務めた百田氏にピッタリのタイトルです。一体このタイトルから、どうやって差別を連想できるのか理解できません。そもそも、彼らに百田氏の発言の善悪を判断できる能力と権利があるのでしょうか。 20年前、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が「いわゆる従軍慰安婦問題に強制連行はない」と発言したことに対して人権を標榜(ひょうぼう)する団体が「差別だ」と圧力をかけて彼女の講演会を中止させたことがありました。当時、彼らが錦の御旗として振りかざした「差別だ」という主張が正しかったのかどうかということは、吉田清治の嘘を朝日新聞が認めた今は言うまでもないことですが、当時はその嘘を信じる人が多かったので圧力が通用し、「嘘が正しい言論を封じる」という結果になったのです。2014年8月15日、自民党議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」で、朝日新聞の慰安婦報道について話すジャーナリスト・櫻井よしこさん(左から2人目)。その右は古屋圭司会長=東京・永田町の自民党本部(早坂洋祐撮影) この教訓から学ぶべきことは、事実が確定していないことに対して安易に「差別」というレッテルを貼り、言論を封殺することは危険だということです。そのような能力や権利は誰も持たないし、持とうとしてはいけないのです。むしろ異なる意見を戦わせることによって真実が明らかになるのが理想ですから、明白な事実誤認でない限り、異論を排除すべきではないのです。勝手な思い込みで人の自由を奪う しかも、百田氏が講演会で話す予定だった内容については、一言も発していないことにも注目すべきです。仮に百田氏の過去の発言が害悪に満ちあふれ人々に危害をもたらしていたとしても、今の時点では誰に何の害も与えていません。これはどういうことかというと、「あいつは過去に盗みをしたから今回もやるに違いない」と断定し、おまけに「泥棒に自由を与えてはいけないから牢屋に入れておけ」と勝手な思い込みだけで人の自由を奪うようなものであり、非常に危険な考え方です。 百田氏の講演会に反対する人とテロ等準備罪に反対する人がリンクしているという前提で話しますが、彼らは今回の法改正で事前の準備段階を捜査するのはけしからんと言いながら、百田氏の発言は内容も把握せず事前に禁止しなければならないと同じ口で言っているのです。自分で言いながら矛盾を感じないのか、それとも百田氏の発言は「テロより恐ろしい」とでも思っているのでしょうか。 そして、圧力や嫌がらせの実態が具体的にわからないので断言できませんが、彼らの行為は下記の法令に違反している疑いがあります。日本国憲法第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。第二十三条 学問の自由は、これを保障する。刑法第二百二十二条(脅迫)第二百二十三条(強要)第二百三十条(名誉毀損)第二百三十一条(侮辱)第二百三十三条(信用毀損及び業務妨害)第二百三十四条(威力業務妨害)  今後、同じような被害者が出ないよう捜査機関には厳正な対処を願いたいものです。もし、現行法で捜査機関が取り締まることが困難であるならば、実際に体調不良などの被害を受けた人間がいるのですから、立法措置による被害防止などを国会で議論すべきです。日本国憲法 どこの世界にも不届き者は一定数存在し、その人間の不埒(ふらち)な言動は社会に害悪をまき散らかします。それは人間が存在する以上、決してなくなることはありません。だから法令により悪事を禁止し、それを破ったものを警察が捕まえて処罰する、それを見た人が事件に関心を持ち、同種の事件発生や被害拡大を図るという仕組みがあるのです。その中でマスコミは事件を広く国民に知らせるという重大な任務を与えられ、社会の正常性を保つ役割の一旦を担っているのです。講演中止を報道しないマスコミ ところが、今回の事件は民主主義の大原則である「言論の自由」にかかわる大問題にもかかわらず、ほとんどの大手マスコミが報じていません。(中には批判にあたらない報道を続けている人たちがいることは重々承知しておりますが、今回はあえて「マスコミ」とひとくくりにして話をします)。どういう理由で彼らが暗闘(だんまり)を決め込んでいるのかは分かりませんが、おそらく被害者が百田氏でなければ大々的に報じたであろうということは、前述した櫻井よしこ氏の講演会が中止になったときと、柳美里氏のサイン会が右翼を名乗る男の脅迫電話により中止になったときのマスコミ各社の報道姿勢の違いを比べて見れば容易に想像できます。 つまり、彼らの「言論の自由」には守るべきものと守ってはいけないものの二種類があり、それを彼らが事件ごと恣意(しい)的に判断しているのです。彼らが最もダメなのは自分たちに都合の悪い事実を報じないところです。情報源をマスコミに依存している人たちにとって、事件が報じられないということは、その事件は発生していないのと同じことになり、その結果、その人たちの「知る権利」は奪われ、さまざまな不利益を被ることになります。 仮に百田氏と反対の意見を持つのであれば、それは堂々と主張すべきであり、「一橋大の学生はレイシストと戦って大学の自由を守った」と報道すればよいだけの話なのですが、彼らは「公平中立」を装うためにそうはしません。テレビは放送法があるので建前上そうはいきませんが、完全中立な報道など不可能に近いのですから、日本の新聞も公平中立を謳(うた)うのではなく、他国のように各社の主張をもっと前面に出すべきではないでしょうか。一見、公平中立を装い、「編集権の自由」や「報道しない自由」を駆使して、自分たちの主張に沿わない事実を報道しないことにより、国民の知る権利を阻害し、自分たちに都合の良い情報だけを流すのではなく、思想的に偏っているのであれば偏っていると正直に言うべきで、それを言わないのは卑怯(ひきょう)です。昔であればいざ知らず、今はインターネットがあるのでマスコミの嘘はすぐばれます。もうマスコミが情報を独占していた時代は終わったのです。そのことに気がつかない、気がついても改善しようとしないマスコミは、これからも凋落していくことでしょう。 いずれにしても今回の事件は、まごうことなき「言論封殺」であり、言論の自由に対する挑戦です。大学はこれに屈するのであれば「学問の自由」や「大学自治」を、この事件を無視するメディアは「知る権利」を、これに異を唱えない言論人は「言論の自由」を、いくら主張しても説得力なんかありません。

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    百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮

    潮匡人(評論家) まず、今年6月7日付「産経新聞」朝刊1面に掲載されたコラム「産経抄」を借りよう。 「一橋大学の学園祭で予定されていた作家、百田尚樹さんの講演会が、中止に追い込まれた一件である。一部の団体から強力な圧力がかかり、大学の一部教員からも中止を求める声が出ていたという。(中略)市民団体による組織的な抗議電話などで、識者の講演会が中止に追い込まれるケースは、大学に限らない。(中略)ただ朝日新聞などは、リベラル派文化人の言論活動が妨害されると大騒ぎするものの、保守系文化人が同じ目に遭っても、それほど関心を示さない。奇妙な二重基準がまかり通っている」 事実そのとおり。上記コラムが掲載された以降も、リベラル派は関心を示さない。現に報道していない(6月8日時点)。産経新聞が取り上げたり、百田尚樹氏が自らツイッターで情報発信したりしたから、問題が露見したが、そうでなければ、埋もれていたであろう。 この件は「表現の自由」に深く関わる。憲法上、優越的地位を占める重要な精神的自由権が侵害されたにもかかわらず、護憲リベラル派は沈黙を続ける。朝日新聞は6月9日付朝刊で目立たない第3社会面でエクスキューズのように報じただけであり、同社の綱領に掲げる「進歩的精神」は死んだといえるのではないか。 そしてなぜ、一橋大学は問題視しないのか。法学部やロースクールで憲法を講義する教授らが、なぜ「自由を守れ」と声を上げないのか。不思議である。それどころか、「大学の一部教員からも中止を求める声が出ていたという」(前掲)。正気の沙汰とは思えない。百田尚樹氏の講演会中止問題に揺れる一橋大学=2017年6月、東京都国立市 百田氏の講演を中止に追い込んだ団体はネット上でこう呼びかけた。 「(前略)百田尚樹氏は、悪質なヘイトスピーチ(差別煽動)を繰り返してきました。下記はその一例です。(中略)『もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく』(中略)これらヘイトスピーチは、日本も95年に批准した人種差別撤廃条約が法規制の対象としている極右活動・差別の煽動行為に当たる違法行為です。(中略)このような殺人・テロをふくむ差別煽動を繰り返す百田尚樹氏が、学園祭に招かれることで、私たちは学園祭期間中に深刻な差別・暴力が誘発されることを憂慮せざるをえません。(中略)また国立大学法人一橋大学という公共性ある大学の施設で、公式に学園祭のゲストとして招かれることじたい、彼の差別・テロ煽動に大学がお墨付きを与えることにもなります。(後略)」 もし本当に、百田氏の言論が「違法行為」に当たるなら、講談社や新潮社、文藝春秋など大手や老舗の出版社は軒並み捜索対象となろう。もとより産経新聞社も無事では済むまい(笑)、などと本来なら一笑に付すべき署名活動だったが、彼らの目論見は成功した。 百田氏のツイートによると、「講演を企画した学生たちは、サヨクの連中から凄まじい脅迫と圧力を受け続けていたらしい。ノイローゼになった学生や、泣き出す女子学生までいたらしい」。ならば、それら自体が明白な「違法行為」であり、刑法上の犯罪に当たる。それも、「深刻な差別・暴力が誘発されることを憂慮」する団体の扇動によって(笑)…。いや、もはや笑い話では済まされない。警視庁は本件を正式に捜査すべきと考える。リベラル派に「自由」を語る資格はない 本件は憲法上も「表現の自由」に加え、「学問の自由」そして「思想・良心の自由」に深く関わる。ともに「内心の自由」と呼ばれ、「表現の自由などの外面的な精神活動の自由の基礎をなす」(芦部信喜『憲法』岩波書店)。とくに「思想・良心の自由は、内面的精神活動の自由のなかでも、最も根本的なものである」。そう、護憲リベラル派が大好きな教科書にも明記されている。 その「最も根本的な」人権が侵害されたにもかかわらず、護憲リベラル派は「自由を守れ」と声を上げない。彼らに、自由や人権、立憲主義を語る資格があるだろうか。少なくとも「内心の自由」を掲げて「共謀罪反対」を唱えるのは、もう止めてほしい。「共謀罪」に反対する国会前デモの参加者ら=2017年5月、東京・永田町 今回、百田氏を含む「保守」陣営の言論に「ヘイト」のレッテルが貼られ、「差別扇動」されたあげく、「違法行為」の誹謗中傷も受けた。脅迫行為を含む「深刻な差別・暴力が誘発」された。そうした「差別・テロ煽動に大学がお墨付きを与えること」になってしまった。だが、懸念の声をあげたのは保守陣営だけ。いまも護憲リベラル派は沈黙を続ける。最も根本的な人権が侵害されたにもかかわらず…。 彼らは口先で「リベラル」と言いながら、拠って立つべき「自由」を理解していない。問答無用で「保守」を断罪しつつ、守るべき「自由」を踏みにじっている。自身が憎むべき全体主義に加担していることに気づきもしない。 最後に、あえて彼らが大好きな思想家ハンナ・アーレントが残した教訓を借りよう。 「全体主義と闘うためには、ただ一つのことを理解する必要がある。全体主義は、自由の最も根源的な否定であるということをである。(中略)自由の否定は、すべての暴政に共通する。(中略)自由が脅かされるときに闘いに参集することができない者ならば、そもそもどのような闘いにも集うことはないだろう」(『アーレント政治思想集成』みすず書房)

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    私は「同性カップルに育てられる子どもがかわいそう」とは思わない

    藤めぐみ(レインボーフォスターケア代表理事) この4月、大阪市の男性カップルが里親に認定され、子どもを育てているというニュースが各種メディアで何度も流れた。関西地域では新聞の一面に大きく取り上げられるなど、全国のほとんどの新聞やテレビで報道された。そしてまた、ネット上では多様な意見があふれた。 私は2013年に任意団体「レインボーフォスターケア」(2015年一般社団法人化、以下「RFC」)を設立した。「同性カップルも里親に」をミッションに掲げて講演会やロビーイングを続けてきたが、今回の報道に対して実はかなり戸惑った。というのも、これまで同テーマに対する人々の反応が薄かったため、これほど大きく取り上げられるとは思わなかったからだ。 近年、LGBTをめぐるさまざまな取り組みは大きな進展を見せている。しかし、今回報道された「同性カップルと里親制度」については、多くの人から関心を持ってもらえなかった。そもそも、児童養護施設や里親制度といった「社会的養護」自体に世間の関心は低く、ある人からは「『同性カップルと社会的養護』ですか。マイノリティーとマイノリティーの話で、『超マイナー』な感じですね」などと言われた。 このように「同性カップルが里親になるなんて、しょせん『超マイナー』な話、到底実現できるわけがない」と世間が思っていた中で、それが実現したからこそ、このような大きな関心を集めたのかもしれない。 なぜ、同性カップルが里親になることが「実現できるわけがない」と思われてきたのか。それは、里親制度があまり知られておらず、養子縁組と混同されることもあり、「同性カップルは『法律上』里親になれない」と思われてきたからだ。要保護児童(保護者のいない児童)のための制度としては、「特別養子縁組」があるが、縁組をするには法律上夫婦でなければならず、民法の改正が必要だ。 しかし、里親制度は、子どもと里親の間に法律上の親子関係を作り出すものではなく、里親になれる人は夫婦である必要もない。実際、私の知人には「成人した娘とその母」で里親になった人もいれば、単身者で里親をしている人もいる。里親制度は「一定期間、お子さんをお預かりする」といった表現をされることもあり、かなり「緩やかな子育て」が行われている。 ところが、RFCの設立以来、「役所に問い合わせたが『(男性と)結婚してから電話してきて』といわれた」という女性カップルや、「偏見にあふれた言葉を口にされた」というゲイ男性の声が寄せられ、「事実上同性カップルは里親にはなりにくい」ことがわかってきた。自治体職員が法律を勘違いしている、あるいは、偏見に満ちあふれていて否定的なことを口にしていたためだ。同時に、自治体職員が勘違いしているということは、里親のなり手である同性カップルもまた、「里親になれない」と思い込んでいると予想された。私はこのような間違った情報や対応によって、里親の人的資源が非常に残念な形で失われていると危機感を覚えた。 今回、同性カップルが里親認定され、子育てをしていることが報道されたことで、このような「断られた」「なれないと思っていた」という状況が各地で起こっていたことが次々と判明しており、4月17日付の北海道新聞では、同性カップルの「私たちは里親になれないと思っていた」の声や法律婚でないと駄目と断られた事例を紹介している。 私は前記のような間違った情報や対応、思い込みといった状況を改善する有効な手段は、まずは自治体から「同性カップルも里親になれる」ということをアナウンスしてもらうことだと思った。認定側である自治体が発信すれば、双方の誤解が解け、同時にマイノリティーも里親の人材として歓迎する、という自治体のメッセージにもなる。そこで、RFCは2015年に大阪市の職員と意見交換を行った。その結果、大阪市の「里親として適任者であれば、差別や偏見でもってLGBT当事者を排除することは絶対にない」というメッセージが淀川区の広報誌に掲載されることとなった。今回報道されたカップルはこのメッセージに応じた形で里親申請を行ったのだ。子どもが欲しいはエゴか 過去には、女性カップルが単身者として同時に里親認定を受けたような例があると聞いているが、今回は自治体がアナウンスし、同性カップルである二人を一つの「世帯」として認定したことが大きなインパクトとなったと感じている。今回、同性カップルが里親認定を受け、子どもを委託されたことは「法律上可能なことが当たり前に可能になった」ということである。 大阪市の吉村洋文市長の言うように「(こうしたことが)ニュースにならないのが在るべき社会だと思う」という言葉が印象的で、「当たり前」に近づく一歩だと感じた。 一方で、ネット上には否定的な意見も見られた。 その一つが「里親制度は子どもの制度。子どもがほしい大人の制度ではない。勘違いしないでほしい」「子どもがほしい大人のエゴだ」といった意見だ。誰に対して「勘違いするな」なのか不明だが、里親制度は子どもたちのための制度であることは間違いない。今回の里親当事者も「『子どもがほしい』大人のための制度ではなく、子どものために『育つ家庭』を用意する、子ども中心の制度です」と述べている。 ただ、現実的に「里親になりたい」大人=「子どもがほしい」大人であることが多いのは事実だ。私のところにも「子どもがほしいんです」という同性カップルの問い合わせが入ることがある(まずは制度を知ってほしいので、社会的養護に関するサイトを紹介したり、勉強会の案内を送るようにしている)。 私は、そういった「子どもがほしい」という動機について、「エゴだ!」と毛嫌いしなくてもいいのではないかと感じている。なぜなら、「子どもがほしい」ということを入り口として、そこから里親制度、社会的養護の現実について学んでいく人が多いからだ。実際に、自治体が行う「里親説明会」に参加する人の大半は「不妊治療をしていたが子どもを授からなかった夫婦」である。テレビ番組で取り上げられる里親も、「子どもができなかったので」というのが最初の動機であると語っていることが多い。 そうした動機で制度に興味を持った大人たちが、里親研修を受け、認定をめざすことになるのだが、里親に認定されるまでの道のりはとても長い。座学の研修、施設の見学や実習、面談などを経て、最後に児童福祉審議会において、その人が里親として適切かどうかが審議される。仕事の休みをやりくりしながら研修に参加する場合、およそ1年の歳月がかかる。 たとえ「子どもがほしい大人のための里親制度」と「勘違い」していた大人がいても、研修の中で「子どものための制度」ということを何度も教えられる。早い段階で「考えていた制度と違った」と、あきらめる人もいれば、社会的養護の現実を知ったうえで「ぜひ子どもたちのために里親になりたい」と考えを変える人もいる。ゆえに、私はことさら「子どものための制度ということを知っているのか」と目くじらを立てる必要はないと思っている。 さらに、報道の反応を見ながら感じたことは、「異性カップルの里親」と「同性カップルの里親」に対しての反応が不均衡だということだ。前述の通り、夫婦で里親の人が「不妊治療で授からず子どもがほしくて」と言ったところで、世間から「エゴだ」「勘違いするな」と言葉を浴びせられることはほとんどない。一方で、同性カップルとなると、途端にそういった言葉が飛び交う。私はそんな現実に対して、「それこそが差別的なのでは」と首をかしげる思いだった。「いじめ」の問題 ほかに、「同性カップルに育てられるなんて、子どもがかわいそう」という意見があったが、それは偏見と差別以外の何物でもない。親元で暮らせない子どもは、現在約4万5000人いる。《厚労省「社会的養護の現状について」(平成29年3月)参照》  その大半が児童養護施設で暮らしており、厚生労働省は「家庭的養護の推進」を掲げて、里親の増加に取り組んでいる。同時に、児童養護施設の小規模化など、環境改善もはかろうとしている。ただ、施設ごとに大きく環境が異なることや、性的マイノリティー児童の中には児童養護施設の集団生活が苦痛となる児童がいるなど(※注)、課題は山積している。児童養護施設の環境を改善していく取り組みと同時に、一つでも多くの里親家庭を増やし、子どもにとっての選択肢を増やすことは喫緊の課題である。 そのような状況の中で、今回の報道は、一人のお子さんに安心して過ごすことのできる家庭が用意されたという喜ばしいものである。「同性カップルに育てられるなんてかわいそう」と言い放つ人は、「嫌がる子どもが無理やり連れ去られた」と想像しているのだろうが、それはとんでもない間違いである。 なぜなら、里親認定を受け、委託の打診がなされた後、すぐに子どもが委託されるわけではないからだ。委託できるかどうか、慎重にマッチングが行われ、小さいお子さんであれば、半年くらいかけて、少しずつ家庭に慣れていく期間が設けられる。4月18日付朝日新聞によると、男性カップルの里親だと説明を受け「抵抗感なく納得していた」という10代男子と引き合わせ、3人は今年2月から仲良く暮らしているという。 と報じられている。お子さんが納得したうえでの委託となっているのである。 「いじめられるからかわいそう」という声もあった。確かに「絶対にいじめられない」とは言い切れないだろう。 イギリスの『Proud Parents』という本には、同性カップルとその里子のインタビューが収められている。同性カップルの里子、ウィル君(17歳)へのインタビューで、「(里親が同性カップルということで)嫌がらせはあった?」と聞くと、彼は「あった」と答えている。以下が、彼のセリフだ。 「生徒たちが、僕がゲイカップルの里親と暮らしていることに気がついたんだ。彼らは僕をからかい、それは学校中に広がった。マークとキーラン(彼の里親)は学校に話をし、このこと(からかわれたこと)について連絡した。その後、その件は落ち着いた。最初にからかった生徒は注意を受けたよ」 彼のセリフから、彼の里親や通う学校が、いじめにきちんと対応していることがわかる。 ウィル君は、以前男女夫婦の里親のところにいたが、彼にとっては今のゲイカップルの里親のほうが自分に合うのだという。以前の里親が合わなかった理由は、「里親の小言が多くって、しかも田舎だったんだよね」だそうで、私はこのセリフを読んで、なんとも若者らしい発言だなと思った。ウィル君は、今の里親と初めて海外旅行に行ったり、日々の生活を楽しんでいる様子を語り、「まるで息子のように接してくれて、家族のようだ」と語っている。 このインタビューは「いじめられるかもしれない」という理由のみで子どもが家庭で過ごすチャンスをつぶしてはいけない、ということを示唆している。また、いじめが起こったとき、子どもが親に自分がいじめられていることを言える環境や、親が学校にいじめについて話し、学校が適切に対応することがとても大切だということが伝わってくる。(※注)RFCは「児童養護施設における性的マイノリティー(LGBT)児童の対応に関する調査」を実施した。集団生活になじめない性的マイノリティー児童の存在が明らかになっている。イデオロギーは関係ない ここで、「いじめ」の本質から「同性カップルの子どもはいじめられるからかわいそう」という意見について考えてみたい。 いじめというのは「マイノリティー性をあげつらう行為」だ。実際に、児童養護施設の子どもや、里親家庭の子どもがいじめにあっているという声を聞く。集団でいじめが行われるとき、子どもたちはそのターゲットの子どものマイノリティー性を見つけ出す。それは「めがね」でも、「デブ」でも、「金持ち」でも、「貧乏」でもいい。いじめのターゲットとなったマイノリティー性は、なんでも「からかい」の言葉に変わりうるのだ。そうだとすると、「●●だといじめられるよ」という言葉自体がいじめに近い言葉なのではないだろうか。「かわいそう」と言い放つ前に、自分自身が誰かのマイノリティー性をあげつらっているのではないか立ち止まって考えてほしい。 私は以前、知人から「同性カップルの里子なんてかわいそうだ。そんな人に育てられるよりも施設で暮らせばいい」と言われたことがある。施設がどういうところか知っているかと聞くと「知らない」と彼女は言った。性的マイノリティーの人に会ったことがあるかと聞くと「会ったことがない」と返ってきた。「AよりもB」と述べる人が「AもBも知らない」と答える姿に私は驚愕した。結局、「かわいそう」と言い放つ人は、子どもたちの状況を何も知らず、知ろうともしていないのではないだろうか。今回の報道を聞いて「かわいそう」と言う人は、ぜひ社会的養護についてもっと関心を持ってほしい。報道のような養育里親だけでなく、季節里親、週末里親、児童養護施設ボランティアなど、大人が子どもと関わる方法はたくさんある。ネット上に「かわいそう」と書き込んだ後、今回の報道を忘れずに、ぜひ社会的養護への関心を深めてほしいと私は願っている。 また、RFCの活動を続ける中で、さまざまな政治家と話をして、非常に興味深いと思ったことがある。それは、今回の報道に関して、政治家のイデオロギー面での思想と、同性カップルの里親認定に対する賛否が一致しなかったことだ。つまり、「保守=同性里親反対」「リベラル=同性里親賛成」というような形では、意見がわかれなかったのだ。 今回の塩崎恭久厚労相の発言のように「子どものための家庭を増やすことだからいいことだ」と応援してくれる保守層の方もいれば、「実現性も低ければ、優先順位も低い」と相手にしてくれないリベラル層の方もいた。塩崎恭久厚労相=4月7日、国会(斎藤良雄撮影) 今回の報道に関して、塩崎氏は「同性カップルでも男女のカップルでも、子どもが安定した家庭でしっかり育つことが大事で、それが達成されれば、われわれとしてはありがたい」と述べている。 私は常に「子どもたちのため、一つでも多くの里親家庭を増やそうとしている中で、マイノリティーへの無理解や偏見がその妨げになっている。そのような構造を変えたい」と訴えてきた。 今回の報道に関し、ネット上では「子どものためならいいがLGBTの人権推進なら反対」という意見も見かけたが、そのような「どちらの人権の問題なのか?」といった無意味な議論を行うのはやめにしよう。 「マイノリティーへの偏見に固執しているうちに、他の誰かのチャンスを摘み取ること」は、「同性カップルと里親」の問題以外にも起こりうることではないだろうか。今一度、社会の課題を振り返り、同じような問題が起こっていないか、皆で考えるきっかけにしてほしいと私は願っている。

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    子供の幸せを奪う同性カップルの「里親」などもってのほか!

    小坂実(日本政策研究センター研究部長)  今年4月、「男性カップル 里親に」という新聞の見出しを見て驚愕(きょうがく)した。虐待などで親と一緒に暮らせない子供を育てる「養育里親」に、なんと大阪市が30代と40代の男性カップルを認定したというのである。4月6日付の東京新聞はこう報じている。 「2人は2月から、市側に委託された十代の男の子を預かっている。厚生労働省は『同性カップルを認定した事例はない』としており、全国初とみられる。/社会が多様化する中、市は2人の里親制度への理解、経済的な安定など生活状況を詳細に調査した上で認定した。/自治体によっては、同性カップルを男女の結婚に相当する関係と認める動きもあるが、里親は夫婦や個人が認定されており、同性カップルに対し慎重な意見もある」 吉村洋文大阪市長は「LGBT(性的少数者)のカップルでは子育てができないのか。僕はそうは思わない。子どもの意思確認もした」とツイートし、市の判断の正当性をアピールした。だが、同市の判断には深刻な懸念を抱かざるを得ない。 というのも、同性カップルの里親認定には、「子供の福祉」の面で重大な疑問が拭えないからだ。論より証拠、同性婚が容認された米国では、同性カップルに育てられることが、子供に及ぼすさまざまな問題が専門家らの調査を通して指摘されている。※写真はイメージ 例えば、テキサス大オースティン校のマーク・レグニラス准教授による18~39歳の男女約3千人の調査だ。同性愛者の親に育てられた人は、結婚した男女の親に育てられた人に比べて、経済的、社会的、精神的問題を抱えている割合が高いことが分かった。 米カトリック大のポール・サリンズ教授が発表した研究結果では、4~17歳の同性カップルの子供は異性の親の子供に比べ、情緒・発達面で問題を抱える割合が2倍前後高いことが判明した(以上は森田清策・早川俊行編著『揺らぐ「結婚」』による)。 実際、同性愛などについての書き込みがあるブログ「ジャックの談話室」には、父母が揃った家庭に生まれ、両親の離婚後に同性カップル(レズビアン)の家庭で育つことになり、成人してから男性と結婚して子供を持った米国人女性たちの、次のような切実な証言も紹介されている。 「結婚して子供を持ってはじめて父親の役割がいかに重要であるか、また母親としての私の存在がいかにかけがえのないものであるかよく分かりました」 「初めて子供とその男親を持ったことは私にとって美しい、畏敬の念に打たれる経験でした。子供には父親と母親の両方が必要であるという信念がますます強まりました」深刻な「同性カップル家族」の認定 もちろん、これらの調査が今度の大阪市の事例に当てはまるということではない。ただ、こうした公開された知見がある以上、いかに里親が足りなかったとしても、同性カップルを里親に認定するのは、子供の福祉の観点から言って、甚だ軽率と考えざるを得ない。 養育里親は、18歳未満の子供を一時的に夫婦や個人が養育する児童福祉法上の制度で、里親認定の基準は、運営主体の都道府県や政令都市によって異なる。東京都は、同性カップルが里親になれない基準を設けているが、他の自治体には同性カップルを除外する規定はないと報道されている(4月16日付毎日新聞)。だが、以上のような知見を踏まえれば、それは同性カップルを容認しているからではなく、そもそも同性カップルを想定していないからだと考えるのが妥当であろう。※写真はイメージ とはいえ、問題はそれだけではない。同性カップルの里親認定の先には、同性カップルの特別養子縁組への参入、さらに同性婚の合法化が見据えられていることも指摘したい。 今回の大阪市の認定の背後には、一般社団法人「レインボーフォスターケア」の活動があったと言われている。事実、同団体の藤めぐみ代表理事はネットメディアBuzzFeedNewsで、最初に区長がLGBT施策に熱心だった淀川区に足を運んだことや、次に大阪市こども相談センター職員と2時間激論を交わしたことなど、実に興味深い「舞台裏」を語っている(「同性カップルの里親」はこうやって誕生した。立役者が語った「舞台裏」)。 見過ごせないのは、同団体の活動方針だ。同団体のホームページには、1 国や自治体に対して、里親・養親の候補として積極的にLGBTを受け入れるよう働きかけます。 とあるが、それに続いて、次のような方針が掲げられている。2 国に対して、特別養子縁組の養親に同性カップルが含まれるよう働きかけます。3 養子縁組あっせん団体に向けて、養親の候補としてLGBTを受け入れられるよう提案・連携をします。 要は、同性カップルの里親認定の先には、特別養子縁組の「養親」に道を開くという明確な目標があるわけだ。これは法律上の「同性カップル家族」を作ることを意味しており、同性カップルの里親認定とは比較にならない重大かつ深刻な意味を持つ。 先に触れたように、養育里親が18歳未満の子供を一時的に養育する制度であるのに対して、特別養子縁組は、養親との間に実の親子と同様の親子関係を成立させる民法上の制度だ。そのため民法第817条の3は、特別養子縁組については、「養親となる者は、配偶者のある者でなければならない」と定めている。この「配偶者」は、法的には「婚姻関係」にあるものに限られており、夫婦共同縁組が原則とされる。危うい大阪市の判断 つまり養育里親とは違い、特別養子縁組は法律上の親子関係を創設するものであり、結婚が条件となる。しかし、日本には同性婚の制度がないので、現状では同性カップルは特別養子縁組の養親にはなれない。同性カップルが特別養子縁組の養親となるには、民法第817条を改正するか、あるいは同性婚を合法化しなければならないわけだ。 いずれにしても、仮に同性カップルが特別養子縁組の養親になれるようになれば、法律に基づく「同性カップル家族」が誕生することとなる。これは「裏口からの同性婚」の容認ともいえ、そうなれば同性婚の合法化に向けた動きが加速するのは明らかだと思われる。 こう考えると、同性カップルの里親認定は、特別養子縁組の議論に進むための「呼び水」でもあり、同性カップルの特別養子縁組への参入は、同性婚合法化への「呼び水」と言うこともできるわけである。「子供の意思確認もした」などと言って、同性カップルへの養育里親を認定した大阪市の判断の「危うさ」は明らかではなかろうか。※写真イメージ  ちなみに、筆者は同性婚の合法化には反対である。同性婚の合法化によって、子供や社会の利益のための制度としての結婚は本質的な変質を余儀なくされるからだ。 長崎大の池谷和子准教授が指摘しているように、同性婚は結婚の定義から「子供の福祉」という視点を完全に抜き去ることで、一夫一婦制や貞操義務を弱め、親が生まれてくる子供を取捨選択する傾向を強め、男女の結婚や血縁に基づく家族の良さを強調できなくなるなど、結婚や家族の制度に重大な影響を及ぼすことが危惧される(月刊『正論』27年12月号)。 今回の大阪市の動きが、同性婚の合法化―つまり、結婚と家族という「子供の福祉」と「社会の持続可能性」を支える最も重要な社会制度の解体へ向けた「アリの一穴」とならないことを願うばかりである。

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    同性カップル里親制度を大学生427人に聞いてみたらこうなった

    水島新太郎(同志社大学嘱託講師) 2015年、オバマ政権下のアメリカで、最高裁によって同性婚を認める判決が出された。それを皮切りに、わが国日本では東京都渋谷区で同性カップルに対して結婚関係に準ずるパートナーシップ証明書が交付された。また、同じ島国で日本と親交の深い台湾では同性婚を認めない民法は違憲とする声が高まるなど、近年LGBT(性的少数者)を取り巻く社会環境が大きく変わろうとしている。 今年4月、大阪市が30代と40代の男性同性愛者カップルを養育里親として認定したことがメディアを中心に大きく取り上げられ話題となっているが、男性同性カップルの里親認定に対して世論は賛成、反対の真っ二つに分かれている。ここでは、明確な「賛成」の立場からセクシュアル・マイノリティーの人たちが生きやすい社会が何なのか、いくつかの点から取り上げ考えていきたい。 2012年、アメリカで公開され話題を呼んだ映画『チョコレートドーナツ』をご存じだろうか。この映画では、男性同性愛者のカップルがダウン症の子供を育てるという、愛に満ちあふれた人間関係が描かれているが、同性愛者であるという理由だけでカップルは裁判で親権を奪い取られ、子供は孤独の中で命を落とすという大変悲しい結末で映画は幕を閉じる。 しかし、この映画は同性カップルの直面する差別問題だけを取り上げているわけではない。作中では、同性カップルの子育てを好意的に受け入れ、理解し、他者からの批判を恐れず彼らのために証言台に立つ心優しい友人たちも描かれている。この作品で同性カップルは裁判に敗れ、自分たちの愛した子供の命まで奪われることになるが、彼らは決して司法に負けたわけではない。なぜなら、彼らには自分たちを受け入れてくれる周囲の優しさあふれる理解があったのだから。映画「彼らが本気で編むときは、」の初日舞台あいさつに出席した(左から)荻上直子監督、柿原りんか、桐谷健太=東京・新宿 『チョコレートドーナツ』のように、海外ではLGBTを主題として扱った映画作品が数多く製作されているが、日本でも数は少ないもののセクシュアル・マイノリティーの人たちを描いた映画作品がいくつか製作されている。今年2月に公開された、トランスジェンダーの男性と異性愛者の男性カップルを描いた映画『彼らが本気で編むときは、』もそんな作品の一つだ。監督を務めた荻上直子氏は、文芸誌『ダ・ヴィンチ』(2017年3月号)の中で自身のアメリカ生活を振り返りながら、日本では「確実に存在するはずのセクシャル・マイノリティの人たちになかなか遭遇しない」と、彼らの存在が見えないことに対する違和感について実直に語っている。「男性同性カップルの里親」大学生は賛成?反対? 政治や司法の在り方を変えていくことも大切だが、荻上氏が言うように、彼らの存在を「見える存在」に変えていく必要がある。近年メディアで活躍するオネエタレントたちの具現する「笑いの対象」としての見える存在ではなく、苦悩の中で必死に生きる、「実話」としてみえる存在の彼らを映画や小説、マンガが描き、大衆に広めていくことで、彼らセクシュアル・マイノリティーに対する理解は深まっていくのではないだろうか。 ここまで、映画の中で描かれてきた同性カップルの里親問題や差別問題について述べてきたが、LGBTの存在が過去にないほど頻繁にメディアで取り上げられる「現代」を生きる若者は、同性カップルの里親制度についてどう考えているのだろうか。彼らの声を聞くべく、ある調査を行った。筆者が同志社大生に行った「男性同性カップルの里親」に関するアンケート結果(氏名と学生ID番号をモザイク処理しています) 5月26日、筆者が同志社大で担当している全学部生を対象とする「国際教養基礎論」の講義の中で、この講義を履修している18歳から23歳までの大学生427人を対象に「男性同性カップルの里親制度を認めることに賛成か反対か?」をテーマに記述形式のアンケートを行った(本アンケートでは、平常点に関係ない協力調査を前提に、学生には自己の主観的意見を実直に述べるようお願いした)。 結果は筆者が予想していた通り、427人中、賛成が344人、反対が83人。反対者の共通意見は、男女の役割を生物学上の「性別」で完全に二分化して捉えたもの、また「差別には屈服して我慢するしかない」と考えるものが多く見受けられた(以下、反対者の共通意見)。「子供が学校でいじめられる」「女同士のカップルは自然だが、男同士はBL(ボーイズラブ)の世界でない限り気持ちが悪い」「自分の腹を痛めて生んでいない子供に愛情を注ぐことは難しい」「男は仕事が忙しくて子育てをする暇がない」「育児や家事は女性の方が得意である」 反対者の中で特に多かったのは、「子供が差別を受ける」とする意見である。これは親側の「エゴ」で子供の将来が大きく変わってしまうことを危惧する世論の声を代弁しているかのようにも思える。また、「休日に男2人が子供を連れて町中を歩いている姿を想像すると違和感を持ってしまう」とする意見も多くあり、「男は外、女は内」といった固定的な性役割を求める社会の声が若者世代にまだ一定の影響力を持っていることが伺える。これまで家事や育児を担ってきたのが主に女性であったことを考えると、女性同士が子供を連れて町中を歩いている姿の方が自然に見えるとする意見はあって当然なのかもしれない。 さらに、反対意見の中で最も興味深かったのは「血縁関係」について「女同士なら精子バンクなどで精子を購入すれば実子を身ごもることができるのに対して、男同士ではそれができない」という意見が多くあったことだ。アンケートで浮かんだ男性中心社会の価値観 日本テレビ系ニュース番組『NEWS ZERO』が5月22日の放送で「女性カップルの子育て」と題して同性カップルの問題を取り上げていたが、この特集からはある解釈ができる。それは、女性を「生殖」や「出産」といった子育てに直結した存在としてみる偏見が社会にいまだ根強くあるということだ。これが男性カップルに置き換えられた場合、「男はそもそも妊娠できない」といった身体観の下、男性カップルに対する「偏見」は女性カップルのそれよりもさらに増大すると考えられるのではないだろうか。 話を学生アンケートに戻すが、男女の違いや性差別に終始した反対側の意見と類似した意見は賛成側からもいくつか上がったが、賛成側の意見の多くからは、人間がいかに柔軟で、多様な生き方を選ぶことのできる生き物であるかを再度考えることを重要視したものが多く見受けられた。ここに賛成側の共通意見もいくつか取り上げてみよう。「男同士の方が経済力があって子供によりよい教育を受けさせられる」「女同士はよくて男同士はよくないのは不平等だ」「異性愛者の親のなかには子供を虐待したり育児放棄したりする親がいる」「他人の目は気になるだろうが幸せを決めるのは他人じゃなくて自分たち」「友人にゲイの人がいるから彼らにも幸せになってほしい」「シングルマザーやシングルファーザーなど1人で子育てしている人たちだっている」「女性同士は連れ子が血縁関係だが、男性同士ならそのようなしがらみがない」「男同士だと子供を産むことができないので、より一層子供に愛情を注ぐはず」「LGBTを否定すること自体、今の時代の流れにそぐわない」 これら賛成側の学生の共通意見で最も多かったのは、「男性同性カップルのほうが経済的な余裕がある」とする意見だった。つまり、賛成側の「男性=経済力」と考える意見は解釈によっては、日本社会が依然「男性中心」であり、そこにおける女性の役割はあくまで従属的であると考えることができるだろう。こうした賛成側の意見からも分かるように、男性カップルの里親問題に対する若者の理解は深まりつつあるように思えるが、彼らの理解のうちにはいまだ「男性=経済力」といった、男性中心社会の価値観が根付いているのだ。 また、賛成者の大半が女子生徒であったのに対し、反対者の大多数が男子生徒であった結果を考えると、男性側の意識を変えていくことがいかに重要であるかが分かる。男性にこれまで期待されてきた性別的役割をいかに流動化し変えていくかが、今後男性同性カップルの里親問題の在り方を考えていく上で重要な課題となりそうだ。里親資格をてんびんにかけるな 筆者は最近、『週刊SPA!』の企画した「女性の専売特許を男性が体験する」特集に論者として参加した。子供の弁当を夫が作って幼稚園の送り迎えをしたり、結婚式で新婦が花束を投げる代わりに、新郎が友人男性に向かって投げる「ブロッコリー・トス」を行うことが日常風景となりつつある現代において、これまで女性だけに限定されてきた性役割を男性が「体験」することは、自分とは違う他者を発見し、理解する上で重要な経験であるに違いないと考える。 しかし、里親制度に関して言えることは、命を預かり育てるという大変重要な役目を担うわけで、「体験」することとはわけが違う。ペットの里親になることですら身辺調査や住宅訪問などさまざまな適性審査がある今日、人間の子供を育てる里親制度の審査基準が厳しく設けられることはあって然るべきである。 ただ、同性カップルであるという理由だけで審査基準を厳しくすることは絶対あってはならない。日本は先進国でありながら6人に1人の子どもが貧困や教育格差という現実に直面している。そんな中、里親資格を異性か同性かだけで、てんびんにかけている場合ではないことを、少子高齢社会に生きるわれわれ国民は自覚する必要があるのだ。 ここまで話してきたように、男性同性カップルの在り方を描いた映画作品や、そういった作品を目にすることで固定概念から解放された場所で彼らを優しく見守ることのできる若者が増える現代、「弱者」が「強者」よりも柔軟で多様性に富んでいることが可視化される動きはより一層広がりを増すに違いない。著書『フラジャイル―弱さからの出発』の中で編集者の松岡正剛氏が示唆しているように、権力を行使する「強者」はその権力を奪い取られることに恐れているだけのつまらない存在で、そんな強者たちからもろく生きることを強いられた「弱者」のほうがとてつもない力、未来の社会を変える力を内に秘めていると信じたい。 数週間前、書店で偶然目に留まり購入したマンガ本がある。鈴木有布子(作画)と北川恵海(原作)の作品『ちょっと今から仕事やめてくる』だ。日々の仕事に疲れ果てた新卒サラリーマンの青年は、駅のホームから身を投げて投身自殺を図ろうとするが、自分を理解してくれる同性の親友に命を救われ、最後は周囲からの批判を恐れることなく会社に自ら辞表を出す。 男性同性カップルであるがゆえに理不尽な批判を受ける方々には、批判を受けることはむしろ自分たちの存在を社会に示す好機であると考えてほしい。「批判を恐れていても何も先に進まない」。そう自分に言い聞かせながら、私は私で男性の新しい生き方を模索し続けたい。

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    同性カップルの「里親」ってどうなの?

    世はLGBT(性的少数者)花盛りである。大阪市で男性カップルの「養育里親」が認定され、大きな注目を集めた。海外ではこうした事例がいくつもあるが、わが国ではほとんど例がないという。親のエゴか、多様な家族のカタチか。賛否が分かれる同性カップルの里親制度について考えたい。

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    LGBTの介護サービス経営者に勇気を与えた言葉

     LGBTをめぐる社会の受け止め方は、この数十年の間に大きく変わった。奇抜なものではなく、当たり前のものとして受け止めようという働きかけも増え、少しずつだが変化してきた。長野県の諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、LGBTをモチーフとした映画『ムーンライト』と、LGBT当事者である介護サービス経営者との出会いを通して、お互いの違いを尊重し合える社会について考えた。* * *『ムーンライト』といえば、アカデミー賞授賞式でハプニングに見舞われた、あの映画だ。作品賞で『ラ・ラ・ランド』の名が発表され、喜びのスピーチが進むなか、『ムーンライト』の間違いだったと発表。ドッキリ番組だとしても、タチが悪い。 その『ムーンライト』を見た。これが実にいい映画だった。キャストはすべて黒人。“白いハリウッド”“白いアカデミー”という批判の反動という人もいるが、そんなヤワな映画ではなかった。LGBTをモチーフとした映画『ムーンライト』の一場面。アカデミー作品賞を受賞した この映画は、LGBTがモチーフになっているが、それ自体がテーマではない。あくまでも少年が自分探しをしながら成長していく物語だ。 画面全体が、月明かりに照らされているようにブルーに輝いている。黒い肌が美しく光を反射する。初めて見る映像美だ。人生の明暗をはっきりと際立たせる太陽の光ではなく、月の光は「生」を悲しく、躍動的に描きだすことにも成功している。 夢と希望の『ラ・ラ・ランド』もよかったが、アカデミー賞作品賞はこの映画で間違いなかった。人種や、LGBTという性の多様性を認めない一部の風潮に対して、「生」の輝きを見せつけようという映画人たちの心意気が込められているように思った。 ただ自然体でいれば、自分らしく生きられるというものではない。 葛目奈々さんは、LGBTの当事者。24歳で性転換手術を行っている。戸籍上の名前も男性名から現在の名前に変えた。水商売を経験した後に介護の世界に入り、介護サービスの経営者として働いている。 奈々さんが「ほかの人と何か違う」と感じたのは、子どものころから。小学校では女の子とばかり遊んでいた。高校生になると、同級生の男性を好きになり、心と体の性の不一致に苦しむようになった。18歳のとき高校を中退し、上京。新宿二丁目のニューハーフの店で働きはじめる。お金をためて、25歳になったら看護学校に入り、看護師になるというのが、彼女の夢だった。 この人のすごいところは、自分を客観視できていることだ。自分の現実をしっかり受け止めているところがいい。「自分らしく」あることの難しさと大切さ しかし、看護学校からLGBTという理由で入学を断られてしまう。10年以上前は、まだLGBTという言葉もよく知られていない時代だった。絶望のなかで彼女は介護の門をたたく。「どういうセクシュアリティーであれ関係ない」 介護の専門学校で言われたその言葉が、彼女に勇気を与えた。貯めたお金で、介護の勉強をし、残ったお金でデイサービスを開設した。現在では、デイサービスを2つ、訪問介護と居宅介護支援事業所も経営している。 奈々さんを精神的に支えたのは、母親の存在が大きかったと思う。彼女が看護師を目指したのも、母親が看護師だったからだ。 高校中退後、奈々さんがアルバイトをしていた店に、母親が飲みに来た。いい機会だと思い、LGBTであることをカミングアウトしたという。こうやって自分で壁を突破していくところがすごい。それでも、母親は「いまは病気みたいなもの。いずれ治るだろう」と思っていたらしい。2016年5月、LGBTへの理解を広げようと、NPO法人「東京レインボープライド」が主催して行われたパレード=東京都渋谷区(伴龍二撮影) 親子でよくケンカをした。20歳を過ぎたころから、「あなたの人生だから」と言ってくれるようになった。それでも酔っぱらうと「いつ嫁をもらうの」と泣きつかれる。母親も揺れているのだ。 奈々さんは、介護サービスの事業所を開設するとき、LGBTの職員を集めようと思ったが、色眼鏡で見られたくないと思い、ふつうの求人をした。 5年ほどして経営が軌道に乗り、ようやく公然とLGBTの人を受け入れられるようになった。それが原因で辞めていく職員もいたが、残ってくれる職員もいて、理解し合うことができた。 事業所では、少しでも働きやすいように、性転換手術のための休暇も認めている。そんな求人を見て、わざわざ引っ越してまで働きに来てくれる人もいた。いまは全体の4分の1がLGBT。人手不足が深刻な介護業界で、そこそこ人材を確保できているという。 堂々と「自分らしさ」を表現できない人たちはけっこう多い。性的少数者だけではない。人種や宗教、性別、年齢、出身地などによって、自分らしく生きることを制限されてしまう現実は、今も相変わらずある。 介護を受けている高齢者も、「年だから仕方ない」と、言いたいことをのみ込み、やりたいことを我慢してしまうことはないだろうか。年齢で人を差別するエイジズムは、自分の首を絞めることである。 以前、奈々さんの経営するデイサービスを訪ねたことがある。明るく、全体的にやさしい空気が流れているような気がした。「自分らしく」あることの難しさと大切さを知っている奈々さんだからこそ、高齢者が「自分らしく」いられるように、気を配っているように感じられた。「オレはオレだ」『ムーンライト』の主人公シャロンのように、だれもが堂々と言い切ることができ、お互いの違いを尊重し合えるような社会をどうやって築いていくか。とても大切なことだと思った。●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に、『遊行を生きる』『検査なんか嫌いだ』。関連記事■ 自治体の介護サービス 練馬区には高齢者の出張調髪サービス■ 公共介護サービス受けるためにまずやらなくてはいけないこと■ 中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化■ 民間介護サービス 「航空運賃割引」「介護タクシー」なども■ 過去18年間の介護殺人 全体の72%は少数派の男性が加害者

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    中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化

     中国で「LGBT」と呼ばれる性的少数者=L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)が7000万人に達していることが明らかになった。 これはイギリスの人口を上回る規模で、その年間消費額も4700億ドル(約53兆円)と推計されているが、中国ではLGBTを蔑視する傾向が強いことから、海外での挙式に関心を示しており、潜在的に大きな市場として海外の旅行業界などが開拓に乗り出している。米タイム誌などが報じた。香港のLGBTの権利保護を訴える団体が開いた集会 中国の同性愛者向け出会い系アプリ「Blued」の最高経営責任者(CEO)・耿楽氏によると、Bluedは世界で最大級の同性愛者向けアプリでユーザー数は1500万人にのぼる。 彼ら(彼女ら)は社会的なステータスが高い層が多く、平均月収は約1万元(約16万円)と全国の労働者の平均月収の5倍にも達しており、可処分所得が高くブランドモノを好む傾向が強いという。 これは大半のLGBTに子供がいないことが大きな原因だとみられる。 欧州や米国に次いで世界3位のLGBT人口を抱える中国が大きな市場として観光業者の関心を集めている。これは日本のみならず、欧米諸国も同じで、中国のLGBTを自国に取り込もうと躍起になっているというほどだ。 これは、中国内でのLGBTにはまだ市民権が与えられていないことも大きな原因だ。 中国では同性愛行為者が罪に問われた時代が長く続いていた。それが、違法ではなくなったのは1997年で、LGBTがタブー視されていない香港が同年7月、中国に返還されたためだとみられる。 その後、2001年からLGBTは精神疾患リストからも外されたが、一般的にはまだまだ認められていない。 ネット上では、同性愛者が「ハワイで結婚式を挙げた」などという書き込みに対して嫌悪感を表明する意見も少なくない。 日本でも同じような傾向はみられるが、中国の場合はこれまで一人っ子政策が適用されていたことから、「子供がいないのは罪悪」という感情がより強く、「一人っ子の男性の場合は『偽装結婚』をして、子供を作ってから、安心して同性愛にのめり込むという傾向が中国では強い」(香港紙「リンゴ日報」)とも報じられている。関連記事■ 同性愛者がなぜ必ずクラスに1人いるのかという謎に迫った本■ 米の性調査 同性愛者比率は60年前からほぼ変わっていない■ 中国大都市圏で同性愛エイズ患者拡大 一人っ子政策の影響も■ 聖火リレーに同性愛者象徴旗持つ男が乱入しプーチン怒り心頭■ 中国・周恩来元首相に同性愛説広まるも国内では反発の声

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    「自由」を履き違えたメルカリと情弱ユーザーは最低な組み合わせ

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 不適切な出品や売買が問題となっているフリマアプリ「メルカリ」。現金の売買といったグレーな取引から、キャッシュバック販売や「妊娠米」のような法律に抵触しそうなもの、引いては悪質なジョーク出品に至るまで、その実態はあまりにカオスだ。本稿では、騒動となっている「メルカリ」について、具体的な利用実態の紹介も合わせて、その実像について考えてみたい。 今年4月に就任したばかりのメルカリ社長、小泉文明氏は「『メルカリ』では基本的には自由な出品を売りにしたいので、制限を設けすぎるのは良くありません」と述べてはいるものの、その実態は自由を履き違えた、いわば「無法地帯」というのが一連の騒動を見たほとんどの人の印象だろう。フリーマーケットアプリ「メルカリ」の画面 無法地帯化したメルカリの報道を見聞きし、驚く人がいる一方で、筆者のようないわゆるアラフォー世代から見れば、そこに「懐かしさ」を覚えることすらある。 チケット不正転売(ダフ屋行為)、違法薬物売買、危険物販売、許可が必要なモノの無許可販売、偽物やコピー品(CDなど海賊版)の売買、情報商材販売、不正金券、裏ビデオ、使用済み下着の出品、販売意思のないいたずら出品、それらを全てに関わる詐欺行為…これを見て「メルカリのこと?」と思う人は多いだろう。 しかし、上記はいずれも1999年にネットオークション最大手「ヤフオク!」(当時は「Yahoo!オークション」)がスタートした当初から近年に至るまで、問題になってきた不正の数々だ。古くは「アングラ掲示板で隠語を使った違法売買」などにも遡(さかのぼ)る。そして、それとほとんど同じような行為がメルカリでもなされていたわけだ。 ネットオークションは、近年に至るまで不適切売買の温床として、運営側とのイタチごっこを繰り返してきた。最近になって、露骨な不正は減少しているものの、完全に駆逐したとは言い難く、それらは「ネット売買の永遠の課題」といっても過言ではない。ゆがんだ急成長の背景 メルカリは、「フリマアプリ」という目新しいキーワードを利用しているが、その実態は従来の「ネット個人売買」と全く同じだ。もちろん、それが抱える問題や課題も上記の通り、ほぼ同じである。 目新しいキーワードを掲げることで、昔からある古典的なモノ・コトを新しいサービスや商品のように見せるテクニックは、DeNA騒動で話題となったキュレーションメディアなどでもみられた手法である。近年のネットメディア、ネットビジネスで頻繁にみられる常套(じょうとう)手段だ。 無許可なコピペや既存のコンテンツの切り張りで作られた「キュレーションサイト」は、基本的にはインターネット黎明期から続くいわゆる「アングラサイト」「違法サイト」と同根であり、その変名に過ぎない。 同様に、メルカリもフリマアプリという目新しいバズワード(明確な意味や定義が曖昧な流行語)を標榜することで、その実態を粉飾してはいるものの、決して新しいものではなく、むしろ極めて古典的なネット個人売買サービスに過ぎないのが実情だ。 しかしながら、既存のネットオークションやネット商取引(いわゆるeコマース)と比べ、2013年に創業したメルカリは、わずか3年でフリマアプリとしては単独首位になり、その成長スピードは驚くほど早い。 その反面、「ヤフオク!」誕生から20年近くたった2017年現在においても、メルカリでは信じられないほど危機意識の低い不適切出品や、今やネット業界では表面化しづらくなった違法・脱法売買が堂々と行われている光景には驚かされる。中には簡単に個人特定されてしまうような低い危機管理意識で不適切売買をしている事例も散見された。 このようなゆがんだ急成長の背景にあるのは言うまでもなく、それがスマホ(とアプリ)というプラットホームであったからに他ならない。 スマホの最大の魅力は、消費者と生産者が既存メディアよりもはるかに短い距離で接続された関係を作れることだ。例えば、テレビの場合、視聴者に消費させるためには、以下のように最低6つのステップが必要である。 ①テレビの前に行く→②テレビの電源を入れる→③チャンネルを合わせる→④CMを見る→⑤商材に感心を持つ→⑥購入(消費)行動に出る。 その中でも特に、テレビの前に行く、テレビを見る、といった2つの行動への誘導は今日、大きな課題だ。多様な娯楽にあふれる今、目的なくテレビの前に座らせることはこの上なく難しい。スマホが全てを変えた 一方で、スマホの場合、消費まではステップはわずかに以下の3つである。 ①スマホを起動(見る)→②商材に感心を持つ→③購入ボタンを押す(ポチる) テレビとの最大の違いは、スマホを起動することと「凝視」がイコールである、ということだろう。また、起動したアプリには自動的に広告が入り込み、消費者に選択を求めない。そもそも起動するか、しないかの選択のみであり、テレビのようなザッピングの概念がないので、手軽な広告回避ができない。 さらに言えば、表示された広告に感心を持った段階で、すぐに購入行動(ポチる)ができるので、後になって「買いにゆく」場合とは違い、タイムラグが発生しづらく、「改めて考え直す」という猶予を与えにくいのも特徴だろう。 テレビが若者の中で「娯楽の王様」から陥落した最大の理由は、スマホコンテンツの多様さもさることながら、スマホの急速な普及と、そこにある驚異的なまでの「手軽さ」にある。そして、そのスマホの特徴を最大限に生かしたサービスがメルカリであった、というわけだ。 アプリを含め、フリーマーケットは本来、不要物を売買する空間だ。いわゆる「蚤(のみ)の市」なわけで、原則として、定価よりも安い値段で売買できることが最大の魅力である。売る側から見れば、本来捨てるべきモノ(ゼロ円)が、たとえ安価でも現金化できることはうれしい。買う方も、市価よりもはるかに安く買えるのでお得感がある。これぞ「Win-Win」の関係、そのもののはずである。 しかし、フリマアプリを標榜(ひょうぼう)しつつも、「メルカリ」ではそのフリマの基本構造が完全に崩壊している。筆者の研究室のある学生から意外な話を聞いたことがある。メルカリを使ったことがあるという男子学生に「何をいくらぐらいで、どのように購入したか?」と聞いたときのことだ。 その学生は次のように答えた。 「定価2万円ほどのシルバーの中古アクセサリーを2万円ぐらいで購入した。新品と同じぐらいの価格だが、原宿にある販売店に買いに行くのが面倒くさいので、メルカリで購入した。中古でも『味がある』と考えれば気にならない」 この消費者意識に驚かされるとともに、スマホ利用が生活の中に浸透し、可能な限りスマホの中で生活のすべてを完了させようとする現在の若者たちのライフスタイルを実感させられた。新品を購入するために原宿に買い物に行くよりも、スマホのボタン一つで購入できてしまう「手軽さ」が優先されるのである。ネットに警戒心がない若者 また、ある女子学生は次のように話してくれた。 「バイト先のアパレルで定価4千円の服を従業員割引で1千円で購入した。それを何度か着て、飽きたらメルカリで2500円ぐらいで売っている」 格安で購入した服を楽しんだ上で、それを転売して1500円の利益を得ているというわけだ。おそらく、そこで買われた中古の服も再びメルカリで販売されるはずだ。場合によっては買ったときよりも値上がりしている場合すらある。いずれにせよ、メルカリが不特定多数のクローゼットをシームレスにつなぎ、その中を一定のお金が循環している。メルカリが値崩れを起こしづらい要因の一つなのだろう。 逆に、中古の服をメルカリで定価に準ずるような価格で購入している学生も少なくなかった。メルカリ利用の認識はさまざまだが、いずれの学生にも共通するのは「店に買いにゆくよりも手軽だから」であった。 コミュニケーション(SNS)も、遊び(ゲーム)も、情報(ニュースサイト)も、調べ物(ググる)も、そして買い物(メルカリ)も、すべてスマホの中にアプリとして「一元化」する。それが現在の若者層が求めるライフスタイルであり、メルカリはそのライフスタイルに最適化された「お買い物」の形式であったのだ。 メルカリはキュレーションメディア同様、極めて古典的なネットビジネスである。もちろん、そこで発生する問題や不正も古典的であることは先にも述べた。しかし、そのような古典的なネットビジネスが、今さら亡霊のように「90年代水準のネット無法地帯」まで生み出している。 その原因はメルカリユーザーの中心が10代、20代の若い女性である、という部分にあるように思う。言い換えれば、アラフォー世代(20歳前後の時期にインターネット全盛を迎えた世代)以上のユーザーが不在の空間である、ということを意味する。 アラフォー世代以上は、ネット社会の過渡期を過ごし、そのメリット、デメリットの多くを経験している。必要に迫られ、高いコンピューターリテラシーを持つ一方で、ネットへの警戒感も非常に強いのが特徴だ。 それに対し、現在の20歳前後の若者層は生まれたときには既にインターネットが一般化しているばかりか、初めて手にしたケータイがスマホの世代である。大学に勤務していると痛感することだが、今日の若者層はその生活環境とは裏腹に、驚くほどコンピューターリテラシーが低い。ワープロ作業も十分ではないどころか、自分でパソコンを所有していない人も珍しくない。90年代水準と何も変わらない その理由は、初めて手にしたデジタルデバイスであるスマホがあまりに「万能」であり、パソコンを所有して利用する必要性を感じていない、ということだ。しかも、「財布以上に携帯率の高いスマホ」である。常に座右にあり、パーソナルなツールとして身体化しているため、自分がスマホというデバイスを介してインターネットにアクセスしていること、またそこで個人情報を含めたさまざまな情報を意図せずに行き来させているという実感もない。ネットゲームの経験から、スマホ課金への障壁もない。 そのため、アラフォー世代以上であれば警戒してしまうようなネット個人売買や、課金、個人情報に対する危機意識があまりにも低い。顔や制服、氏名などがはっきり分かる形で不適切な写真をSNSで公開してしまう「おバカな若者ユーザー」が多いのもそのせいだろう。スマホが手軽で身近すぎるツールであるため、悪意なく、意図せず、軽い気持ちでかかわったことが犯罪や犯罪幇助(ほうじょ)になっている場合も少なくない。 ただ、危機意識の高い年配者がいるからといってネットが健全化するとは限らないが、少なくとも問題の探知はされやすい。それが冷やかしや「晒(さら)し」であったとしても、違法な行為や不適切な売買、記述をおもしろおかしく話題にするのも、「それなりのリテラシー」を持った大人たちだからだ。 若者層、特に若い女性が多いメルカリでは、中高年層がメーンを占める通常のネットオークションやネット売買と異なり、ネットの善悪を経験している「大人の目」が届きづらい空間になっている。これもメルカリが「90年代水準の無法地帯」を生み出している大きな要因の一つであるように思う。 DeNA騒動のキュレーションメディア問題のように、いまメルカリで起きている問題は「90年代水準のネット無法地帯」と酷似する。その実態は、同社が主張するような「自由やポテンシャルの広がり」とは到底思えない。 常に座右にあるスマホに生活の全てを一元化させるライフスタイルは確かに便利だ。しかし、それをフリマのような有機的な活動にまで広げるような在り方には「限界」がきている。このことに、そろそろ若者自身が気づくべきではないのだろうか。

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    「メルカリ」の正体見たり! 正直者が馬鹿をみる拝金ベンチャーの闇

    山本一郎(個人投資家・作家) 国会論戦もたけなわの4月25日、日本維新の会の衆議院議員、丸山穂高さんが質問に立ちました。これが、現在スマートフォンを中心に人気のフリーマーケットアプリ「メルカリ」で現金が出品されるという事態について金融庁などの対応を問う内容であったため、かねてから問題視されてきたメルカリほかアプリ無法地帯ともいえる現状がより広く知られるところとなったわけです。 このメルカリの問題については、かねてからSNSや雑誌記事などでも取り上げてきておりますので、経緯についてはそちらをご覧いただければと存じます。もちろん、表題はメルカリが中心となっていますが、実際には「ヤフオク!(旧・ヤフーオークション)」やC2C(消費者間の取引)のフリーマーケットアプリ全般の話が中心となっています。その意味では、昔から適切ではない商品の出品があったことは事実です。・急成長「メルカリ」にはどんな法的リスクがあるか(PRESIDENT)・「やったもん勝ち」ネット業界のイノベーションが世間を犯罪まみれにするまで(文春オンライン)  昨今、とりわけ問題視されているメルカリについては、大きく分けて2つの問題を抱えています。 ひとつは、本人確認が事実上なされず銀行口座などの情報にもひもづけられないため、問題出品をしている人物を取り締まることは容易ではないこと。もうひとつは、売り主から売掛金をメルカリが事実上の預かり金という形で計上しているにもかかわらず、出資法や資金決済法で定めた適法な措置を取ってこなかった点です。さまざまな物が売買されているメルカリ。「トイレットペーパーのしん」など、一風変った出品もみられる(寺河内美奈撮影) これらの問題の根幹には、日本初の大型ベンチャーを育てていくにあたって、多少の脱法的なビジネスもやむを得ない、グレーゾーンをついてこそベンチャー企業だという姿勢を取る経済産業省の特定部署の責任者や、証券会社、ベンチャー界隈独特の「空気」が存在します。 ある高級官僚は、経済産業省の競争促進を担う責任者がベンチャー企業経営者の集まる席上でむしろ脱法的、潜脱的なビジネスも容認する発言を見て、日本のイノベーションは消費者や生活安全の犠牲の上に成り立っていると深く嘆いたといいます。ここまでアプリ関連のビジネスが大きくなったいま、金融当局が「実は違法でした」と立ち入り検査をすることに逡巡(しゅんじゅん)する背景には、日本の経済が停滞から脱却し、力強い成長路線に回帰するためには活力ある創業環境が必要だという安倍政権のリーダーシップに逆らうのではないかという「忖度(そんたく)」があるともされます。同業者が一斉に「ドボン」する日 しかしながら、現状で発生していることは冒頭で述べた現金の出品を行うような事実上のクレジットカードの貸付枠の現金化であり、つまりはモグリの消費者金融と同様の手口です。しかも、これらは「お手軽なフリーマーケットを楽しませる」というメルカリ特有の本人確認のない匿名性の高さをよりどころに適法性が疑われる売買を黙認し、仲介を志したことになります。とりわけ問題視されるのは、この犯罪行為が明らかになるまでメルカリの利用規約が一時的に「現金類似物も出品可能な状態」にわざわざ書き換えられていたことからも伺えます。現金がチャージされたSuica。すでにSuicaも規制されているがいたちごっこが続く=4月27日 どうせやるなら適法にやればいいのに、真面目に本人確認させたって、メルカリほどの勢いであれば問題にならないだろうと思うのですが、これはメルカリに限らず、果物のりんごに見立てた写真で売買されるApple社のiTunesギフトや、返金可能な商品券や交通系ICカード「Suica」などを使っての売買など、いたちごっこは各所で発生しています。 さらには、本やDVDに特化した新しいメルカリのサービスが立ち上がりましたが、これらの商品の中古売買を行うために必要な古物商の資格は仲介するメルカリも確認していません。直接の売買であれば、業として行うわけではないとリーガル上判断したのかもしれませんが、その匿名で本やDVDを出品している人物が業者でないことをメルカリすらも把握していません。 要するに、お手軽さを追求して顧客を集め、本人確認や古物商の資格の有無、預かり金の管理を行うのに必要な「資金移動業者」としての信託など、いままで生活を安全に送っていくために構築されてきた法制度をすべてスルーすることで販売管理費を下げ、その分を広告宣伝費やシステム投資に回すことで他社よりも効果的に成長する戦略がメルカリの狙いであることは言うまでもありません。 これらの問題は、一種のチキンレースのようなもので、ある一定のタイミングで同業種が一斉に「ドボン」することになります。消費者金融の過払い金訴訟問題や、あるいはテレフォンクラブやダイヤルQ2、出会い系サイトといった生活安全の問題も、途中まではグレーゾーンの成長モデルとしてもてはやされた後で事件が起きて当局対応の果てに輝きを失い、結果として潰されたり大手資本系列に逃げ込まなければならないことになります。 それまでの間に、できる限りのことをやって儲けてしまえ、というのが日本のベンチャー界隈の常識だとするならば、いつぞやのライブドアショックで大いに批判をされた拝金主義と何ら変わることなくこの10年が過ぎたということでしょうか。 進歩がない、と言われればそれまでですが、ソーシャルゲーム業界にせよオンライン決済や仮想通貨の取引に使われるブロックチェーンなどの金融とITを組み合わせた「フィンテック」方面にせよ、この世の中は知らないものが馬鹿を見る百鬼夜行なのだと思えばそう間違いはないのかもしれません。

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    善意のスキマからメルカリにやってきた「怪しい人々」の正体

    北条かや(著述家) 国内最大のフリーマーケットアプリサービス「メルカリ」で、「現金が額面以上の値段で売られている」「チャージ済みのICカードや旅行券が売られている」、さらには「妊娠米」など怪しげな物品が散見されるとのニュースが飛び交った。筆者もメルカリの利用者なので見てみると、確かに「1万円札4枚」が4万7000円(送料無料)などの価格で出品されている。今すぐ手元に現金が欲しい多重債務者などが、クレジットカードで購入している可能性もあり、マネーロンダリング(資金洗浄)にもつながる可能性がある。 指摘を受けて運営側は4月末、監視体制を強化し(「メルカリ、安心・安全への取り組みについて」)、「現行の貨幣を出品禁止」とすること、さらにメルカリ側が「24時間体制で監視・削除の対応」を行っていくことを発表した。なぜこのような怪しげな出品が相次ぐのか。筆者もメルカリや同業のフリマアプリ「フリル」などの利用者であり、売る側、買う側それぞれの立場を経験している。本稿ではその経験もふまえ、フリマアプリで行われているさまざまなモノの売買を「優しさのあふれる空間」というキーワードから読み解いてみたい。 メルカリなどのフリマアプリサービスは、2012年頃に誕生したといわれる。それまでインターネットで個人が売買するサービスといえば「ヤフオク」「モバオク」「楽天オークション」など、大手企業が提供する「オークション型」が中心だった。現在は楽天オークションがサービスを中止し「ラクマ」というフリマアプリの提供をスタートしたため、事実上ヤフオク、モバオクしか残っていない状態だ。 CtoC(個人間取引)のみならず、BtoC(企業対消費者)取引のプラットホームとして非常に優れているが、最大手のヤフオクに出品するためには毎月の利用料が400円ほどかかり、売れても売れなくてもサービスにお金を払わなくてはならない。クレジットカードの登録が義務付けられるなど、利用者にとってはややハードルが高かった。すくいきれないニーズがあったのも事実だ。 そこに目をつけたのがフリマアプリだ。最大手のメルカリは、急速に普及したスマートフォンを「フリーマーケット」のプラットホームに変えた。その手法はあざやかだ。ネットオークションに敷居の高さを感じる人や、これまでオークションを利用してみようとすら思わなかった若者や女性、主婦層などでも「使ってみよう」と思えるシンプルなインターフェース(使用感)に加え、「簡単」「安心・安全」のキャッチコピーを売りに急成長したのである。幅広い層に訴えかけるテレビCMも功を奏し、14年頃から認知度が急上昇。現在は国内で3000万ダウンロード数を誇るという。こんなに簡単に不用品が処分できるのか 経済産業省が今年4月に公表した「平成28年度電子商取引に関する市場調査」によると、ネットオークションにおける個人間取引の市場規模が3458億円に対し、フリマアプリは3052億円に達している。わずか数年の歴史で、この成長はすさまじい。昨年時点でのマーケット規模なので、今年はさらに大きくなっているかもしれない。 86年生まれの筆者は学生時代からヤフオク、楽天オークションを経験してきた世代だが、ここ数年は足が遠のいていた。出品してもしなくても毎月の利用料がかかる上、楽天オークションなどは利用者が少なく、そもそも出品しても売れづらいなどのデメリットを感じたからである。フリマアプリがはやっていると聞き、気軽な気持ちでメルカリやフリルをダウンロードしてみたのが昨年夏。これが非常に使いやすく、初心者でも出品しやすい。 筆者は最先端のサービスには気が引けるタイプだが、使ってみると確かに「安心・安全・分かりやすい」アプリだと実感した。スマートフォンのカメラで撮影した衣類を出品するまでにかかった時間は、わずか5分。出品した商品は2日以内に売れ、定形外郵便でポストに投函(とうかん)して受取評価を待つだけだ。 こんなに簡単に不用品が処分できるのかと感動した。リサイクルショップへ持っていけば10円で買いたたかれてしまう古着が、1000円で売れたりする。送料は「出品者負担」を標準設定にするようなインターフェースになっているので、送料と10%の利用手数料を差し引けば、もうけは数百円程度だが、古着屋に10円で売るよりはマシかもしれない。買った人からは「大切に着ます」とコメントが届き、3段階のうち最も高い評価を付けてもらえた。対面して物を売るフリーマーケットのような気持ちのよいコミュニケーションが続き、はじめは楽しかったと思う。 フリマアプリでは、ネットオークションに多いブランド物やコンサートチケットなどの高額品より、古着や使わなくなったアクセサリー、キャラクターグッズなど、やや安価な商品が多く出品されている。カテゴリ別に見ると「レディースファッション」が最も多く、購入者も女性が目立つ。感覚としては、リユースショップへ持っていくような、もっといえば、そのままでは自分にとって「ゴミ」になってしまうような物をかなりの低価格で売り出し、「まだ使っていただける人に買ってもらう」サービスだと思う。いらないものを「欲しい」と言うありがたさ それこそフリーマーケット並みの価格で売らなければ、なかなか買ってもらえないが、自分が不要になったものを「欲しい」と言ってくれる人がいること自体が「ありがたい」のである。筆者もコメント欄で「値下げ」を要求されることもときにはあったが、買ってもらえるならと応じた。 こちらが商品を購入した際も、非常に安く買える上に「ご購入ありがとうございました」というお礼の手紙が添えられていたりして、ほとんど利益は出ていないだろうに「買ってもらえてありがとう」という気持ちが伝わってくる。何の変哲もない服は、多くの人が競り合うオークションでは値段がつかないことも多いが、フリマアプリなら数百円程度で売れる。それ自体が「ありがたい」のだ。 先述の経済産業省によるレポートでも、ネットオークションとフリマアプリの違いは次のように定義されている。 ネットオークションが「できるだけ高い値段で売りさばきたい」という目的が特徴である一方、フリマアプリは「利用しない持ち物を手軽に処分して換金したい」との想いで利用する人が多い「平成28年度電子商取引に関する市場調査」80ページ まさにフリーマーケット感覚で「不用品を(たとえ安い値段でも)他の人が使ってくれるならうれしい」というコミュニケーションが提供されているのが、フリマアプリなのだ。気軽さと、ある種の善意が満ちている。 ネットに限らず通常のオークションでは「買う側」が複数おり、ニーズに合わせてモノの価格はどんどん上がっていく。「売る側」はそれを黙って見ていればよいが、フリーマーケットはやや事情が異なる。出品されるものの「価値」が相対的に低く、「売る側」は利益の出るギリギリの範囲に価格を設定し、低姿勢で「買っていただく」空間である。それなりの「お得感」を提供できなければ見向きもされずに終わる上、フリマアプリではネットオークションよりも「売る側」がより優しく、低姿勢でいることが求められるのだ。 「私の不用品をあなたに買っていただけてうれしい」という善意がなければ、多くの場合は売れない。もうけようと高値をつけるアカウントや、送料を毎回着払いにするアカウントは人気がなく、とにかく「安くて、そこそこ良いものを譲ってくれる人」が評価されるサービスである。善意なきユーザーも簡単に入り込める このサービスは、出品者が徹底して良心的で、「低価格・低姿勢」でいるからこそ保たれる。買う側はただその善意を受け取ればよく、万が一不良品が届いても運営側に通報すればよいので気分はラクだが、売る側としてはストレスも多くなる。 なぜなら、ここ1、2年でユーザーが爆発的に増えたため、いわゆる常識はずれな購入者にも「低価格・低姿勢」で対応しなければならないからだ。説明文を懇切丁寧に書いても読まれていなかったり、送料を明記していても読まずに「高すぎる」とメッセージが来たりする。商品の状態を細かく質問されたので、じっくり答えたらあっさりスルーされるなど、優しく対応する「相手」が増えれば増えるほど、その思いが届かないストレスも大きくなってしまうのだ。善意にあふれたフリーマーケットの空間に、「普通の消費者」が大量に入ってきたようなものである。 フリマアプリのユーザーは右肩上がりで増えている。わずかな期間に莫大(ばくだい)なユーザーが押し寄せたため、「安くてそこそこ良いものを善意で譲りあう」フリーマーケットの精神性のようなものを「乱す」アカウントが出てくるのも仕方がないだろう。「現金」や「チャージ済みのICカード」、果ては「妊娠米」などを出品し、「グレーな手段でもうけよう」というユーザーが増えてきたのは、「不用品を安く処分できてうれしい」というフリマアプリの理想的な利用者層ではなく、ネットオークションに見られるような「できるだけ高く売りさばきたい」タイプの利用者が増えてきたということではないか。(画像はイメージです) 日本人の2人に1人、若年層でいえばほぼ100%がもつスマホをプラットホームに、できるだけ多くの利用者を集めようとしてきたフリマアプリ。サービスが莫大なユーザーを取り込み始めた以上、当初の「フリマ」とはかけ離れた使い方をし始めるユーザーが現れることは想像に難くない。 「不用品ならほぼ何でも売れる」フリーマーケットの空間だからこそ、ある程度良いものを安く売り買いするための「善意」が求められるが、リアルのフリーマーケットとウェブ上のアプリは利用者のケタが違う。善意のないユーザーも、顔が見えないから簡単に入り込める。 運営側が何度取り締まっても、規模が大きくなればなるほど、怪しげなモノ・サービスの売買は続くだろう。ユーザーの多さにともない悪貨が良貨を駆逐することのないよう、今度はシステム側が「フリマならではの善意」をうながすようなアーキテクチャを構築し、一枚上手をいくことが求められている。

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    高齢者に群がる「情弱ビジネス」の裏側

    老後に欲しいのは「幸せ」よりも「お金」。高齢者を対象にしたある意識調査で、欲しいものが「お金」と答えた人は4割に上り、「幸せ」の15%を大きく上回った。そうした心理につけ込み、老後資金を根こそぎカモにする「情弱ビジネス」と呼ばれる悪質なトラブルも横行しているという。その驚くべき実態とは。

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    残ったのは空室アパートとローン、高齢者を騙すサブリース契約の罠

    のような様々な被害事例に取り組み、多くの事例で円満な和解による解決を実現してきた。今後も、この問題が社会問題として取り上げられ、少しずつでも予防と救済の対策が進むことを願う次第である。

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    「こんなはずでは」アパート経営で大損続出、サブリース商法の闇

      黒田日銀のマイナス金利は金融業界を中心におおむね不評だが、一方で大歓迎している業界がある。その一つが相続税の増税に加え、低金利が二重の追い風となっているアパート・マンション建設や長期の不動産管理を手がける企業群。経済紙の記者が解説する。 「サブリースと呼ばれている業界の景気はすごくいい。東証1部の大東建託やレオパレス21などが最大手で、特に大東建託は『いい部屋ネット』のCMが耳にタコができるほど流れたことからもわかるとおり右肩上がりの業績。2016年3月期の決算は売上高が過去最高の1兆4116億円に上り、8期連続の増収増益。17年3月期も過去最高を更新する勢いです。経営陣の鼻息も荒く、東京五輪後の21年には売上高1兆8000億円を目指すという中期計画を発表しています」 大東建託は1974年創業だから、40年で1・5兆円企業に成長したことになるが、そのビジネスモデルはいたってシンプルだ。遊休地を持つ地主に営業マンが接触してアパートを建設させ、その新築アパートを最長35年間、家賃固定で一括借り上げて、地主に代わってアパート経営をするのである。 地主にしてみれば、遊んでいる土地を活用できるうえ、家賃収入が増えたり減ったりする空室リスクを心配しなくて済む。従って、全額丸々借金でアパートを建築したとしても、返済計画を立てることが容易だ。さらに入居者募集や退去手続き、修繕やら清掃やらの諸々の雑務に煩わされる心配もない。しかも貸アパートは帳簿上の資産価値が下がるため、相続税対策としても有効で、なおかつ事業ローンであっても銀行融資の金利は史上最低。つまり、一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなる話なのだ。「しかし……」と経済部記者が続ける。 「実は、この一括契約が後に問題となるケースが多くなっています。というのも、大東建託を含め多くの場合、家賃固定は当初の10年だけ。その後は空室率などを計算し直して、家賃の改定がおこなわれ、大概の場合は大幅減額になる。営業マンのセールストークを真に受け、まるまる事業用ローンを組んでしまったような場合、10年後には、毎月のローン返済を家賃で賄えなくなる場合もあるのです」 例えば、30年の事業用ローンを組んで5000万円の借金をしてアパートを建設した場合、10年後に約3000万円の残債が残った状態で、大家は毎月、返済に不足する分を持ち出ししなければならないことになるわけだ。さらに5年後、家賃が見直されてさらに減ることになれば、返済不能の状況に陥ることも想像に難くない。 そのため「こんなはずではなかった」と国民生活センターなどに駆け込むケースが目立ってきており、実際、大東建託に限らず、目下、サブリース業界全体でこの種の苦情が急増中なのだ。 これに行政側が応えたのが、国交省による「賃貸住宅管理業務処理準則」の改定だった。昨年8月中旬、国交省は、業者側が大家に対し、将来、家賃が下がる可能性があるという事実を重要事項として説明したり、書面を渡したりしなければならないとルールを変えたのである。逆に言えば、これまではこの点を曖昧にしていても、業者側が厳しいペナルティーを取られることはなかったのである。儲かる仕組み ある不動産業界の事情通が言う。 「もちろん、今までも地主さんとサブリース業者が締結する契約書にはそのことが明記されていました。しかし地主さんは営業マンを信用してアパートを建設するだけで、細かく契約を吟味しないので、家賃が下がるなんて気づかなかったのです。一方、国交省は、アパート経営をする地主は事業者であると捉えてきた。事業者とサブリース業者の契約ですから、お互いに契約書を細かく読むのは当然で、気づかなかったなんて話は通用しないというスタンスでした。ところがサブリース業者の業績拡大と比例するように、地主たちからの苦情が増加し、国交省もついに、地主は事業者というよりも保護されるべき消費者に近い存在であると、スタンスを改めたわけです」 一つのキッカケとなったのは、サブリース業者によるアパートの建設ラッシュが大都市圏だけではなく農村部にまで及び始めたことだ。事情通が続ける。 「大都市周辺のベッドタウンであれば、たとえ10年後にサブリース業者に家賃を下げられたとしても、借金返済の原資程度は何とかなる公算が高いのです。地価も上がっていますし、新たな入居者を探すことも難しくないからです。問題は地方の農村部で、営業マンに勧められるまま畑を潰してアパートを新築したようなケース。人口が極端に減っているため、10年以上経過した古いアパートに入る入居者を探すのは無理。結果、大家はそのアパートを売却して残債を支払うしかない。しかし、買い手を探すにはかなり値を下げる必要があるでしょう。最終的に、地主が土地もアパートも失い、銀行には不良債権が残るという最悪のシナリオが待っているのです」 では、空室ばかりのアパートをサブリースで経営して、どうして業者には儲けが出るのか。それはアパートを新築する際、自社の関連会社に建設させて、大きな利益を上げる仕組みがベースだからだ。  わかりやすい数字をあげて説明すると、大東建託の16年3月期決算では、売上高1兆4116億円に対して、建設事業の売り上げは5953億円、不動産事業の売り上げは7748億円である。売上高に対する比率は建設事業は42%、不動産事業は54%で、不動産事業のほうが規模が大きい。しかし、売上総利益2544億円に占める割合を見ると、不動産事業の利益が626億円で24%しかないのに比べ、建設事業の利益は1762億円でこちらは69%にも上る。建設事業は5953億円の売り上げに対して1762億円が利益だから、利益率約3割という濡れ手で粟の新築工事をしているわけだ。要するに、サブリース業者はその後の入居率を気にしないですむくらい莫大な利益を割高な新築工事で得ているのである。つまり、サブリース業者は新築アパートを立て続けていかなければ、最大の収益の柱を失うことになる。そのために強力な営業部隊を持ち、地方の大地主や、親が持っていた土地の相続人に営業をかけていくわけだ。将来の空き家を量産  さらに、空室になりにくい新築10年の間に、本来、大家に入るべき家賃の上前をはねる仕組みもきちんと存在する。 「アパート経営が始まって最初の3カ月は免責期間とかで、この間は家賃が入りません。また退去者が出ると、半月分の家賃が免責で入らなかったこともある」(サブリース業者と契約したことのあるアパート経営者) ごく一部の大手を除けば、退去者が出た場合の現況回復の修繕費は地主負担で、サブリース業者が指定する内装業者に発注しなければならない。当然割高だが、別の業者に頼むと一括借り上げの契約違反となってしまう。加えて、清掃業者、プロパンガスまでサブリース業者の指定である。見方を変えれば、地主はアパート経営の一切のノウハウを得ることなく、ただ家賃を様々な名目でサブリース業者に搾り取られているのである。 加えて、困ったことに今後、未来永劫、超低金利時代が続くわけではない。空室が目立つようになった新築10年経過の後、金利が上がり、ローン返済額が増えたら、全国のアパートオーナーたちに何が起こるのか。  総務省が5年おきに調査をおこなっている土地統計調査の平成25年版によれば、全国にある総住宅数は6036万戸だが、そのうちの820万戸が空き家。平成20年の調査に比べて空き家の数の伸び率は8・3%にも達している。仮に同じペースで空き家が増えていくと仮定すれば、平成30年には890万戸に達する計算だ。  主を失った家は荒れ果てていき、周囲の景観を損なうばかりでなく、やがて防災と衛生面でも深刻な事態に直面する。とはいえ、これが賃貸ではない持ち家だった場合は、取り壊して売却すれば一件落着となる。しかし、たっぷりアパートローンの残ったサブリースの賃貸アパートだとどうなるのか。  同じ調査によれば、空き家になっている賃貸用の共同住宅、つまりアパートやマンションの戸数は374万戸にも及んでいる。実に全国の空き家総数の42%がこれらアパートやマンションなのだ。そのうち、208万戸は広さが50平方メートル未満、まさにサブリース業者が建設しているタイプの部屋なのである。 アパートを建てたはよいが、全国には、同じタイプの部屋が200万戸も空き部屋になっている。しかも、大東建託だけでも、年間4500億円以上の売り上げが計上できるほど、建設ラッシュが続いていることも忘れてはならない。「月刊ベルダ」定期購読のお申し込みはこちらから そこには、深刻な空き家問題という燃え盛る炎に油を注ぐような構図が浮き彫りになっている。日本中に、ローンが20年も残っている空き家だらけのアパートが林立している光景は想像するだに恐ろしい。遠くない未来に大きなツケとなって社会に跳ね返ってくるに違いない。(月刊ベルダ 2016月9月号「いずれ大問題のサブリース商法」、2017年3月号「将来の空き家を量産「サブリース業界」より)

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    顧客に無断で信用取引! 証券会社に泣かされる高齢者

    山岡俊介(ジャーナリスト) 株取引をめぐる証券会社とのトラブルと言えば、顧客のほうは圧倒的に高齢者が多いことをご存じだろうか。 ネットでの売買が当たり前の今日、ネット上でおこなう単純な売買注文に関しては、トラブルはまずあり得ない。あるのは対面取引の場合だ。 対面の場合、手数料はネット取引より割高になるが、それでも対面で注文するケースがあるのは、「対面でやりとりしたほうが信頼が持てるから」なんていうのはむろん実態を知らない者のセリフで、要するにインターネットが不得手、あるいはパソコンやスマートフォンの操作ができない者、すなわち高齢者がやむなく利用しているからだ。対面だけにつけ入る隙も多く、結果、高齢者とのトラブルが多くなっているのだ。 たとえば、独立系準大手証券「岡三証券」(東証1部上場)の仙台支店から勧誘を受けた男性(69)は、2013年9月、「グーグル」「ツイッター」などの外国企業6社の株式を約1000万円分購入したが、岡三証券の担当営業マンは、約1年にわたり、実際より高い虚偽の株価を顧客男性に教えていたことが昨年5月、明らかになっている。 14年11月、男性の妻が営業マンに運用状況を聞いたところ、態度がおかしかったことから、不審に思って上司に釈明を求めると、実際は約310万円の損失が出ていたのに、56万円の損失と報告していたという。 その岡三証券仙台支店では、昨年5月にも、高齢者の顧客に多額の損害を負わせていた事実が発覚している。交通事故でショック状態の女性(80)に営業をかけ、十分な説明をしないで売買を繰り返させた結果、741万円の損害が出たという。 この女性は07年7月、夫が運転するクルマに同乗していたところ事故に遭いアゴの骨を折る重傷を負った(夫は死去)。そのショックから精神安定剤を服用、株取引に要する判断力を失っていたが、仙台支店の以前からの担当者が入院先の病院を訪れては取引を勧めたため、09年10月までの間に海外社債など実に79回も売買を繰り返していた。 なお、この件では女性は提訴。和解ながら岡三証券は違法行為を確認したうえで、女性側に解決金として285万円を支払った。 それにしても、異様とも思えるのは、この2つのケースとも、金融商品取引法違反に抵触する可能性が高いと思われるのに、地元紙の取材に対し、岡三証券は「個別事案につき、回答できない」(広報部)と実質、取材拒否し、何の反省の色も見せていないことだ。 実は岡三証券は表面化したこの2件以外にも、さらに悪質かつ巨額の損失を顧客に負わせていた重大疑惑がここにきて明らかになってきている。 新たに発覚した被害の舞台は岡山支店。被害男性を仮にS氏としておく。 現在75歳のS氏が対面方式で株式売買を始めたのは、勤めていた会社を定年退職する約1年前の2000年ごろ、60歳の時だった。当初利用したのは「国際証券」(現三菱UFJモルガン・スタンレー証券)で、種銭は老後資金にと貯めていた数千万円。 03年1月ごろ、国際証券でS氏を担当していた営業マンが岡三証券に転職したことから、S氏も口座を岡三に移管した。問題が起きたのは、10年に担当者がK氏に代わってからだ。S氏は株取引を始めた当初、現物株の売買しかしなかったが、06年4月以降、勧められるまま信用取引にも手を出すようになっていた。しかしS氏は、信用取引とはいかなるものか十分に説明してもらっておらず、理解もしておらず、12年1月、いったん信用取引を打ち切ることにした。 ところが14年4月ごろ、K氏にしつこく勧誘され、仕組みを理解しないまま信用取引を再開。その後、K氏がS氏に無断でS氏名義で信用取引をしていたことが同年7月ごろに発覚する。S氏が苦情をいうと、担当がK氏からH氏に変わったが、そのH氏も、呆れたことに、S氏に信用取引を継続させていたというのである。鬱病の高齢者を食いもの 筆者の手元には、S氏が昨年3月、「ガンホー・オンライン・エンターテインメント」株の取引をしていたことを示す「顧客勘定元帳」のコピーがある。 しかしこの時期、S氏は躁鬱病と診断され、精神病院に保護入院していた。病院では患者の携帯電話は取り上げられる。したがって、この時期、担当営業マンのH氏は病院を訪ねてS氏から直接注文を受け、翌日に発注しているので、手書き伝票がある可能性が高い。 S氏の息子が訴える。 「父は64歳の時に鬱病と診断され、その後、一時は回復傾向にあったものの71歳で再発。73歳の時には躁鬱病と診断されました。そもそも、鬱病の高齢者に株取引を持ちかけるようなことが許されるのでしょうか。前任のK氏が14年6月から8月までのわずか2カ月間におこなった信用の無断買い付けは約1000件、約12億円にのぼります。結果、3億5000万円の建玉の処理をせざるを得なくなり、父はそのショックから躁鬱病になったのです。それは医者も認めていることです。ところが岡三証券の営業マンは、その後も、躁状態の時の父に信用取引を勧め、結局、預けていた1億6000万円(数千万円のそもそもの種銭が益を出した結果)の約9割を失いました。父はいまも精神病院に通院しています」 別居している息子は、父親が株取引をしていたことは知っていたが、これほど巨額でかつ異常な取引をしていたことは知らなかった。氏が入院する直前の14年11月、岡三証券岡山支店のN支店長らが、S氏の妻と息子に対し、S氏の預かり金がマイナスになっているとしてその解消の件で相談に訪れたことで、初めて父親の株取引の詳細を知ったのだという。 もちろん、担当営業マンが信用取引で頻繁に売買を繰り返したのは手数料稼ぎが目的だった。S氏側が裁判所に提出した「証拠保全申立書」によれば、岡三証券が得た売買手数料などは14年だけで4500万円にのぼる。S氏が、勝手に信用取引をしていたK氏を問い質した際には、K氏は「現物も信用も一緒ですから」と応じ、後日「信用取引のほうが手数料が高いから」と本音を述べたという。 一方、昨年2月、S氏の息子が岡三証券のS営業次長(当時)と面談した際のやりとり(ICレコーダーで録音されている)を聞くと、K氏は信用取引を無断でおこなっていたことをS氏の自宅で自白しており、それを受け、S次長本人から損失補填の代案が出されたこと、さらには、社内で、S氏の異常な取引が問題になり、「アテンション」(警告)が出ていたことを認めるような発言がなされていたことが確認できる。 また、S氏の息子が昨年3月、S管理課長(当時)と面談した際の録音データには、K氏に関しては以前から顧客からのクレームが頻繁に寄せられて、金商法違反(不法行為)を認めるかのような発言もある。 しかし、岡三証券側はこれらの言を翻し、組織防衛に走ったとして、S氏は前述したように、岡三証券の自分の取引に関する証拠書類を保全すべく、裁判所に申し立てをおこなった。 岡山支店だけでなく、古い証拠などは岡三証券の東京本店に保管されている可能性もあるとして、この申し立ては東京地裁、岡山地裁の両方に対しおこなわれ、昨年4月9日、4月30日午後1時半に同時に裁判官も出向いて証拠保全目録記載の物件を検証するとの決定が出た。 S氏が保全しようとした主な証拠は、S氏との注文などの会話を録音した記録媒体、「顧客カード」「顧客別接触状況履歴」「折衝記録カード」、取引開始に当たっての適合性審査書類、「注意喚起(アラーム・アテンション)顧客リスト」「注文伝票」「顧客勘定元帳」など。裁判所に虚偽説明 岡三証券は「やり得」 裁判所の決定取り、4月30日、裁判官同席のもと、証拠保全手続きがおこなわれた。 しかし岡山支店は求められた証拠を一切出さず、本店から基本情報と業務日誌がサンプルとしてごくわずか提示されただけだった(ただし、約諾書、総勘定元帳は後日送るとして実行)。 証拠を出さない理由を、岡山支店は「(資料は)本店のほうにいっている」と説明。そうかと思えば本店では、例えばS氏との注文などの会話を録音した記録媒体については「外部の専門業者が保存しており、CD─Rなどに焼いてもらって取り寄せると最低でも数日かかる」、適合性審査書類は「支店長が面談して判断するもので書面を作成していない」、「注意喚起(アラーム・アテンション)顧客リスト」も「確認したが、申し立て人から申し述べられたものはない」といった具合。 それでもS氏は、この時点ではまだ期待を持っていた。自分と担当者との会話の記録媒体が入手できれば、岡三証券側の違反行為が明白になると確信していたからだ。 リスクが高い信用取引においては、注文の都度、証券会社の担当者は、信用取引か一般取引か、顧客の意思を確認しなければならない(日本証券業協会の規則にもそう記されている)。しかし、S氏のケースでは岡三証券の担当者が無断で注文していたというのだから、そんな確認作業があるわけがなく、仮にあったとしても、自分から「では信用取引で」と言うはずがないからだ。 ところが岡三証券側は「最低でも数日かかる」といいながら、それから1年半以上経っているのに、未だに1枚のCD─Rさえ送ってきていないという。 もちろん、S氏側の弁護士は何度もせっついているのだが、昨年8月7日の岡三証券の「回答書」によれば、《S氏の息子が地元警察や金融庁への苦情申立などしており、どこまで紛争解決を目指しているのか不明なので》(一部要約)提出できないと、約束を反故にしている。 ところが今年3月、一転、岡三証券から「一部の電話録音を聞かせる(録音物は渡さない。ただしメモは可能)から岡山支店に来てほしい」との連絡が来る。 実は保有する個人情報データの開示には、量が膨大で業務に支障をきたす場合、その一部だけ開示して、それに特に異議が述べられなければそれで済むという例外規定がある。岡三証券はその法の穴を突いた可能性がある。だが、それを察したS氏側はこれを拒否している。「月刊ベルダ」定期購読のお申し込みはこちらから それにしても、裁判で正式に認められた約束を果たさないのは明らかに法律を無視するもので、ならばそれなりの処分が下されて当然だと思うのだが、S氏側が訴え続けているにもかかわらず、未だ何ら処分しない金融庁の態度はおかしくないか。 これでは、岡三証券の“高齢者イジメ”はやり得ではないか。返ってくるに違いない。

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    なぜ高齢者は預金をたくさん持っているのにお金を使わないのか

    浅野千晴(税理士) アパートを建てたりタワーマンションを購入したりして税金対策をする相続税ですが、実際のところ、現在100人中どのくらいの人が納税をしているのかご存知でしょうか? 正解は8人。意外と少ないと感じたのかもしれません。 相続税は平成27年の1月1日から法律が変わり、実質的に対象となる納税者がグンと増えました。それは税金のかからない「基礎控除部分」が大幅に減ったことが原因です。国税庁が今月公表した「平成27年分の相続税の申告状況について」によると、一人当たりの納税額は1,758万円と法律改正前の年の2,473万円と比べて71.1%と3割ほど減少しましたが、多くの人が税金を払うことになったため、税収としては、前年比3割増の1兆8,116億円となりました。 相続税の税収としては政府の見込み通り、収入増となったわけですが、一人当たりの納税額が減ったということは、以前は払う必要がなかった人が税金を納める羽目になったということです。税制改正当初は100人中6人くらいになるだろうとの予測でしたが、結果的には8人で、法律の改正前の4.4人の約2倍ということになりました。相続税も消費税と同じように多くの人に負担を求める税金になっているのではないでしょうか。 また、申告財産の内訳で目立つのは現金・預金や有価証券などの換金性の高いものが、時代とともに増加しています。平成18年度の申告では財産の中の20.6%でしたが、平成27年度分では30.7%と10ポイント以上上昇しています。高齢者はお金をたくさん持っているという証拠はここにも表れています。 しかし、高齢者はお金を使おうとしません。なぜなら老いて亡くなるまでの先行きが不安だからです。 高齢者は若い世代のように働いてたくさんお金を稼ぐことはできません。何よりも問題なのは自分自身の老いゆく人生であり、いつまで健康でいられるかわからない不安があります。実際のところ、毎年目減りする年金支給の不安をあおられながら預金を補助的に切り崩し、生活に充てています。いざ体が弱くなった時には、施設に入らなければならないと考える人も少なからずいます。施設入所はお金がたくさんかかるため、子供にできる限り負担を求めないためにもその時の「まさかのため」にとっておくのでしょう。 内閣府の平成27年度版高齢社会白書によると、貯蓄の目的は大半が「病気・介護」の備え62.3%であって、「子供に遺す」2.7%を大きく引き離しています。お金は高齢者にとって不安を安心に変えることのできる生活防衛手段の一つなのです。お金を使ってほしい政府の目論見 政府は「この動かない資産」を高齢者に何とか使ってもらおうといろいろな税制を考えてきました。例えば、子供の結婚資金や孫の教育資金などに税金のかからないような枠を設けたり、住宅資金の贈与の制度を作ったりすることです。これは、単純に高齢者はお金を使わないけれど、若者はお金を使うからという「お金」だけの価値観で政策を作っているのではないでしょうか?先行きが不安な人に、お金はお墓まで持っていけないから、「お金を使え!」といって使うのでしょうか? そして最後に、将来の不安のためにとっておいた預金も幸いなことに介護の世話にあまりならずに亡くなった結果、預金がたくさん残ってしまう、その結果、相続税がかかる、といった人がお金を消費できずに相続税を納めることになるのです。 もちろん結果論からしてお金はある人から取ればいいという考えのもとからすれば、確かにそうですが、これでは経済を回す云々の問題以前になってしまっています。 相続税は亡くなった人の財産の一部を社会に返還することで富の集中を抑えるという働きがあるといいます。また最近は、高齢者は社会全体で見守っていくものであって、介護なども家族だけが見るということが少なくなりました。そのような背景もあり、相続人だけが遺産を相続するのではなく社会全体に還元する、還元してもよいのではないかとの考えから相続税の徴収を強化するという方針があります。 では、社会への還元は社会への「経済を回す」といった生前の消費が良いのでしょうか、それとも亡くなってから「税」という形での貢献が良いのでしょうか。どちらにせよ「生きた」お金にするための政策が強く望まれるところです。【参考文献】■マイナンバーは税金の無駄遣いの救世主になることができるか (浅野千晴 税理士)■あの有名企業も名指しで経産省から勧告、消費税の転嫁拒否という「パワハラ」。(浅野千晴 税理士)■配偶者控除見直し論議。そもそもパート労働者は労働を調整して節税しているのか。(浅野千晴 税理士)■消費税増税延期でもバラマキ?給付金もらえます。 (浅野千晴 税理士)■高齢者はお金持ち?詐欺集団だけでない、その資産に目をつけているのは、、(浅野千晴 税理士)

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    サプリメントで膝痛が直る? 効果の乏しい健康食品が蔓延

    山岡俊介(ジャーナリスト) 健康食品・サプリメント市場が好調だ。大手広告代理店・電通が公表した2015年度の広告費統計「日本の広告費」によれば、同業界の市場規模は1兆5785億円(トクホも含むがごく一部)。他業界の多くの伸びが止まるなか、毎年成長を続け、15年度も前年比2・9%の伸びを示している。 その市場規模はいまや大衆薬(医師の処方無しに薬局で自由に買える医薬部外品など)の実に2倍にも上る。 また大手調査会社・インテージによれば、健食・サプリの利用者は実に約5340万人(前年比3・4%増。男女比は4:6)。そして60~70代が全ユーザーの約半数を占めるという。高齢になるほど「健康」「アンチエイジング」、そして「美肌」にも関心が高くなるからだろう。 分類別で見ると「美肌・肌ケア」(9・8%)、「健康維持・増進」(8・0%)、「目の健康」(6・4%)、「関節の健康」(6・1%)、「疲労回復」(5・3%)などと続く。 もちろん、この業界が高齢者を始めとする利用者の役にたっているのなら、何とも結構なことだ。というのも、健康食品やサプリメントについては以前から本当に効果があるのか疑問視する向きがあるからだ。 念のために断っておくが、健食・サプリは医薬品ではない。外形は錠剤のような形やカプセル、顆粒状であっても、あくまで一般食品であり、業者側が「広く健康の保持増進に役立つ食品」といっているにすぎない、いわば通称名。むろん、医薬品と違って効能をはっきり謳うことはできず、医学的根拠も証明されているわけではない。 それでも、曖昧ながらも効果を匂わすテレビ通販番組やCMがバンバン流れており、いまや成人の2人に1人が健食・サプリを購入していると思われる。有効成分は患部に届くのか では、実際の効果はどうなのか? そこで、前述のように分類別で4位、特に高齢者特有の膝関節の痛みなどに効くとされる健食・サプリの代表である「ヒアルロン酸」「コンドロイチン」「グルコサミン」の3大成分について検証してみよう。(写真はイメージです) ヒアルロン酸は、肌や関節など人体のさまざまな部位の保水力を保つ成分(多糖類の一種)。膝でいえばその関節液や関節軟骨に多く存在し、クッションの役割を果たしている。ところが、加齢とともにヒアルロン酸は体内から失われていくという。 一方、グルコサミンとコンドロイチンは、膝関節でいえば、加齢とともにすり減り痛みが出て来る軟骨を形成する成分。 簡単に言い切ってしまえば、ヒアルロン酸サプリは、それを口から体内に入れてやることで、膝関節同士の潤滑剤のような働きをし、一方のグルコサミン、コンドロイチンのサプリは、やはり口から体内に入れることで、すり減った軟骨を再生し、膝関節の痛みを抑え、以前のように歩けるようになることを暗に謳っているわけだ。 ヒアルロン酸、コンドロイチンに関しては医薬品も存在するから、その事実をCMに謳うことで信憑性を高めている。 しかし医薬品のほうは、どちらも関節患部に直に注射を打つというもので、経口薬は存在しない。 「健康食品として売られているヒアルロン酸、コンドロイチンは、医薬品と違って注射で患部に注入できない固形物です。患部に直接働きかける注射と経口投与では大違いで、口から入れると強い胃酸の影響などで成分が分解されてしまう可能性もある。仮にそのまま血管に入り全身を巡って患部に到達したとしても、それはごくごくわずか。おまけに、軟骨周辺には血管があまり存在しないので、到達することはないともいわれています。さらに、到達したとしても、それと軟骨が再生されることとはまったく別問題です」(薬学博士) もう一つのグルコサミンに至っては医薬品として認められてもいない。 他の多くの健食・サプリ同様、「効く」といわれているだけで、バッサリ言い切ってしまえば、オカルトの類といえなくもない。 「そもそも、患部の成分と同じものを口に入れたら、そこが再生するという考え自体がナンセンス。毛髪を食べたらハゲが直りますか? 誰でもわかることでしょう」(同)人間に効果なしの研究結果 実際、2006年に『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌に掲載された研究(1583人をコンドロイチン、グルコサミン、その両方、偽薬の4グループに分け6カ月投与)では、痛みの差に改善は見られなかったと報告されている。 2010年に英国医師会誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』に掲載された、3803名の変形関節性関節症患者を対象にした比較試験では、コンドロイチン、グルコサミンを飲んだ群は偽薬群より平均0・4cm改善したというが、これは痛みを10cmの線上で現した値で、同論文は「臨床的に意味があるほど、痛みに対して効果はない」と結論づけている。 健食・サプリ業者は「コンドロイチンとグルコサミンを一緒に摂ればさらに効果が期待できる」とも宣伝しているが(その分、売り上げも伸びる)、実際には何の根拠もないのだ。 まして、経口投与で人を対象にした研究で、画像分析の結果、軟骨再生を確認した報告など聞いたことがない。 ちなみに、ヒアルロン酸の医薬品(患部注射)に関しては変形性関節症や関節リュウマチなどで効果が見られる(かといって軟骨成分が再生されるわけではない)が、コンドロイチンは医薬品でも効果が顕著ではなく、現在ほとんど使用されていないようだ。 もっとも、これだけいっても、読者のなかには「テレビCMでは実験の結果、効果が出たと謳っていた」と反論される方もいるかもしれない。 しかし、それは業者側からカネをもらっている研究者が、不十分な動物実験の段階で「効果が出た」といっているにすぎない。 そもそも、動物実験で好結果が出ても、人では同じような効果が見られないケースは山ほどある。にもかかわらず、こんなCMが登場するのは、健食、サプリは食品の一種で、医学的な実験の必要性がないことを逆手に取っているにすぎない。 こうして検討してみると、その実態はほとんど「詐欺」といってもいいようにも思えるが、なぜ、こんなことが罷り通っているのか?深刻な副作用も 米国では死亡事例 わが国に健食・サプリが登場したのは1990年代後半のことである。 94年には、クリントン政権下の米国で「栄養補助食品健康教育法」という法律が成立。この法律により、米国では健食・サプリでも一定の科学的根拠があれば、米国食品医薬品局に通知するだけで効果効能を表示できるようになり、米国の健食・サプリ企業は急成長した。 そして米国側の圧力を受けた日本の厚生労働省は97~99年にかけ、これまでは医薬品と紛らわしいのでビタミンやミネラル類の食品には錠剤やカプセルなどの形状を認めていなかったのを解禁。以降、わが国でも健食、サプリ市場が急成長を始めたのだ。 ちなみに現在、わが国の健食・サプリ市場で売り上げ第4位は米国発のマルチ企業である日本アムウェイ(419億円)、第9位は同じくニュースキンジャパン(196億円)だ。 健食・サプリに効果が期待できないとしたら大問題だが、問題はそれだけに止まらない。 医薬品会社と異なり、この手の業者の大半は自社工場を持たず、OEM生産で製品を調達している。人の口に入り、しかも健康に影響を及ぼし得る成分が入っているのだから、GMP(医薬品レベルに準じた管理基準)の工場で製造すべきだが(ただし法的に決まっているわけではない)、それを満たしているのは半分程度。つまり、品質が一定でなく、成分や添加物が多量に入った製品を飲んで逆に健康を害することもあり得るのだ。 米国では1977年に液体プロテインで58人が死亡、また死者100人以上を出したダイエットサプリ「エフェドラ」が2003年12月に販売禁止になるなど生命を奪われるケースさえあった。 一方、わが国ではいまのところそこまでのケースはない。 「それは、日本で売られているサプリの成分が米国製の数分の1と低めだからです。つまり、副作用のリスクが低い分、効果も非常に薄いということ。これなら“安全”と、厚労省も黙認というわけです」(前出・薬学博士) それでもまだ「近所の知り合いが確かに効果があるといっている」と反論する向きがあるかもしれない。しかし、そのほとんどはプラシーボ効果(効くと思い込むと、自然治癒力が上がり改善すること)と思われる。そのプラシーボ効果の購入者を「個人的な体験談です」と小さく注記してCMに登場させるのだから、業者側は強かというか悪質というか……。 健食やサプリを買うゆとりがあるなら、その分、食材にこだわるとか、別のものにお金をかけるほうがずっと健康的というのが結論だ。「月刊ベルダ」定期購読のお申し込みはこちらから そんなことは大手マスコミも十分承知しているが、広告のお得意様なので警鐘記事はまず出ない。そして、一番食い物にされているのが高齢者というわけだ。 もっとも、このまま行くとわが国でもいずれ重大な健康被害が発生し、規制強化に乗り出すことになるのではないだろうか。

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    ATM不正引き出し オレオレ詐欺の人脈が流用されている

     偽造カードで現金が引き出されただけなら、世間は「またか」と思っただけだろう。だが、全国のコンビニATMから一斉に引き出された総額が18億円以上ともなると、誰もが気にする事件である。今月、次々と逮捕されている現金を引き出した容疑者は20~30代の男性ばかり。『脱法ドラッグの罠』著者で若者の風俗文化に詳しいライターの森鷹久氏が、事件関係者を名乗る男の告白から見えたATM不正引き出し犯罪の系譜についてレポートする。*    * * 2016年5月15日。早朝午前5時過ぎからおよそ2時間の間に、全国のコンビニATMから偽造クレジットカードを使い現金約18億円が不正に引き出された。昨年12月にも同様の事件が発生しており、約1億円が不正に引き出されている。二つの事件の手口が全く同じである事から、警察当局は同一の国際犯罪組織が関与しているとみて捜査を進めているが、この周到な計画性について、金額やマンパワーの違いはあれど、私は真っ先に「オレオレ詐欺」のシステムそのものであると感じた。 そしてその疑念は、6月7日の読売新聞朝刊を見て確信に変わったのである。「ATM不正「手順書」、オレオレ詐欺捜査で押収」と見出しがついたその記事は、新潟県警が逮捕したオレオレ詐欺容疑者の関連先から、偽造カードでATMから現金を引き出す手引き、注意点等が書かれた書類を押収したことが捜査関係者への取材からわかったと報じていた。 このニュースを読んだ直後、私はすぐにAという人物に連絡を取った。Aは雑誌の仕事で知り合った元読者モデルだ。東京都下のとある市において、そのヤンチャぶりで少しばかり名を馳せていたAは、読者モデルとしてファッション雑誌などで活動していたが、その仕事が無くなるとホストに身を転じ、そのうちオレオレ詐欺や危険ドラッグ流通に関与して日銭を稼ぐようになっていた。「ATMの引き出し、俺の後輩がやってるっすよ。なんなら診療報酬詐欺、あれも関わってるっすよ」 あまりに軽い口調で伝えられた事実に半信半疑になりながら、Aの紹介でその後輩B(22)と顔を合わせた。Bは神奈川県内を拠点とする暴力団の関係者として行動しているが、構成員ではない、いわゆる「半グレ」である。Bは様々な詐欺に関わった自分の経歴を、こともなげに語り始めた。「高校の頃にオレオレの出し子を経験」「社会人になってからはホストを経て、ぼったくり居酒屋の店長に」「友達に誘われて、診療報酬詐欺の患者集めを経験」「後輩を集めて、Bが運転する車に乗せ、都下のコンビニを回った」 Bが語る武勇伝からわかったことは、オレオレ詐欺で培われたノウハウが、その後の「商売」にそのまま流用されていることだ。 オレオレ詐欺で現金を受け取る係を担う「出し子」は、その金を受け取る手順を事細かに伝えられ、その通り仕事をするよう求められる。その金がなんのためのものなのか、誰が集金しているのかを出し子は知らない。多くは地縁や友人経由でつながる「先輩」から、簡単だが断れないアルバイトとして頼まれる。その「先輩」はさらに上の「先輩」に、集金する人足集めを頼まれているだけだ。 この人脈ピラミッドは何層も重なっており、一人や二人の先輩を遡った程度で、すべての金を集めている中心にたどり着くのは不可能だ。Bの話によれば、この集金システムがほぼそのまま、ATM不正引き出しにも流用されている。「所詮、使われている身、先輩のいう事はやる」ではBの「先輩」とはいかなる人物なのか。Bは重い口を開く。「ある組(※暴力団)を破門された地元の先輩ですね。破門といっても偽装破門だと言われています。暴力団員だと法律でできない仕事が多いですよね。だから、組が表立って出来ない仕事を、偽装破門された元組員がやってるんだなと思います」 Bは、ATMで引き出した約140万円をその日の昼過ぎには先輩に手渡し、そこから5万円の報酬を得た。金額だけをきくと、たいしたことがないと思うかもしれない。しかし、これが実働2~3時間程度で得られる報酬だとわかれば、そこまで割りの悪い仕事だとは思わないのではないか。「出し子役」の後輩にBは、自身の報酬とは別途1~3万円の現金を支払った。Bの直属の後輩には3万円、Bの後輩が連れて来た数人の後輩には2万から1万円を用意し、別途先輩に請求する。この辺はいわば「言い値」になってしまうが、それでも先輩はしっかり、要求分を支払ってくれた。まさに「ビジネス」が成り立っているとも言える。 BはこれまでにATM不正引き出しだけでなくオレオレ詐欺や診療報酬詐欺、過去にはニセブランド品販売や違法風俗店で働く女性集めなど、多岐にわたる「ビジネス」を先輩から請け負っている。 この告白は若い男による「犯罪自慢」に思えるかもしれない。しかし、ふと顔を下げたとき自嘲気味に、自身への呪詛とも思える言葉が吐き出されたとき、Bがこの経歴を誇らしいとは思っていないことがわかった。「でも所詮、使われている身。言われた事はやるっすよ。地元の関係とかあるし、先輩のいう事はやる。」 地縁で断れない先輩から組織的に「仕事」を頼まれる若者たち。彼らが暗躍する分野は広がる一方だ。オレオレ詐欺にボッタクリ居酒屋、診療報酬詐欺に、ATM不正引き出し。危険ドラッグの販売や、最近ブームの「水素水ビジネス」にも、参入している。「カネさえ稼げれば良い」とする違法・脱法行為の最前線では、無知な若者たちが半ば「下請け」「孫請け」のコマとして使い捨てられ続けているのが現状だ。そして、悪人どうしのつぶし合いはよその世界の話だと言っていられなくなってきた。ボッタクリ居酒屋の被害者は街をゆく一般市民で、水素水ビジネスの対象も普通の人たちばかりだ。アウトローたちの世界に起きているゆがみは、私たちの日常の世界にも、その影響を及ぼしつつある。関連記事■ オレオレ詐欺 「オレオレ」と言われないからと騙される人も■ 大学のイベサーからオレオレ詐欺の頂点に立った男の実態ルポ■ オレオレ詐欺3人グループ 好景気で今年に入り4000万円獲得■ 中国と台湾でも蔓延のオレオレ詐欺 ケニアから電話の事例も■ ホリエモン「オレオレ詐欺の年間被害額は少ない」発言の真意

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    日本人のセックスは「世界一コスパが悪い」らしい

    山田昌弘(中央大学文学部教授) 21世紀に入って、日本のセックスレス化が止まらない。若者から中高年夫婦に至るまで、さまざまな調査データが、日本社会でセックスする人が減少し、セックスへの関心が低下していることを示している。 2015年に実施された出生動向基本調査によると、若者で言えば、未婚率が上昇しているだけでなく、近年は、交際相手がいない人が増え、未婚者(18-34歳)で恋人がいる人は、男性で約2割、女性で約3割である。その上、交際相手がいない人の中で、交際相手が欲しいと思う人は半数を割ってしまった。性体験率も低下している。 性体験がない人の割合は、20-24歳で男女とも約47%で、2002年の数字(男性34%、女性36%)にくらべ大きく上昇し、男性では1990年以前を上回ってしまった。(第16回出生動向調査・国立社会保障人口問題研究所)。さらに、家族計画協会の調査でも、性に関心をもたない人(既婚者含む)は、20代前半で男性21%、女性39%と2008年の数字(男性11%、女性25%)に比べ大幅に上昇している。恋人が欲しい、性体験したいという意欲までも低下しているのである。 セックスの不活性化は、中高年夫婦にも及んでいる。家族計画協会の調査、そして、日本老年行動科学会セクシュアリティ研究会の経年調査でも、過去の調査に比べ、近年セックスレス夫婦が全世代で増加していること、夫婦間のセックス頻度が減少していることを示している。また、先に述べた出生動向調査の夫婦調査でも、夫婦間で避妊実行率は低下しているのに、妊娠率が低下していることも、夫婦間の性行動が不活発になっていることの傍証として使われている。 そして、これらの結果は、諸外国からも注目を浴びている。もともと日本人夫婦のセックス頻度は、世界最低と言われていた(英国コンドームメーカー、デュレックス社調べ)。欧米人からセックスがひと月なければ普通離婚を考えるだろうとか、セックスがなくて夫婦で何の楽しみがあるのだと揶揄されたこともある。 その日本でさらに、セックスレスが増えているというので、私のところには、欧米からの講演や取材依頼が殺到している状況である。2016年にイギリスで講演したときは、回答者はウソをついているのではという質問が来たが、先ほどの挙げた多くの調査では、昔の調査と比較したデータをとっている。調査でウソをつく人が近年、特に多くなったとは思えない、とも回答しておいたが…。欧米人には分からないセックスレスの理由 日本は、伝統的に恋愛や性に対する関心が薄いという人もいる。しかし、私はそれは間違いだと思う。「万葉集」や「源氏物語」などを読めば、奈良時代や平安貴族の恋愛や性行動はけっこう奔放だったことが分かる。江戸時代には、西鶴が好色物語を書き、春画が流通していた。俳人小林一茶の日記には、毎日何回セックスしたか記されているが、一茶は晩年になっても毎日のようにセックスしていたことが分かっている。このような例をみると、日本人は伝統的にはセックスに寛容で楽しんでいた民族だと言ってもよい。 戦後、1950年ごろまでは、今とは反対に人口政策のテーマは「人口抑制」であった。政府は、人工妊娠中絶をやりやすくし、避妊を普及させようとした。当時は、兄弟の数が平均4、つまり、夫婦は性的関係をもってどんどん子供が生まれていたのである。 それが近年、特に21世紀に入ってから、未婚者も既婚者もセックス回数は減り、性に関する興味関心も低下してしまった。この原因に関しては、さまざまな説が唱えられている。若者に関しては「経済的に余裕がなくなった」「妊娠や性病の恐ろしさを強調する性教育で性や恋愛に関する恐怖心が植え付けられた」「ポルノがネットで簡単にみられるようになりセックスに対する好奇心が薄れた」「恋愛の失敗を恐れて消極的になっている」などの説がある。既婚者では「長時間労働で仕事が忙しくて暇がなくなった」などの説があり、いま私も含めた研究者が調査データを詳細に分析している。 私が、一番大きな要因だと思うのは、恋人や夫婦の間でセックスが「面倒くさいもの」となったというものである。そして、この「面倒くさい」というキーワードは、英語に相当する言葉がなく、欧米人に説明してもなかなか分かってくれない日本特有の概念なのだ。 お互いにセックスを「楽しむ」ためには、さまざまな努力や相手に対する気遣いが要求される。ただ単に身体的な満足だけではなくて、お互いの体に働きかけ、濃密にコミュニケーションが必要である。未婚者にとっては、その上に、恋人になってセックスできる関係にたどり着くという努力が要求される。これが面倒くささの背後にある。 つまり、恋人や夫婦同士でセックスを楽しむに至るプロセスは、けっこう面倒であることがわかる。それでも、世界の人々、20世紀までの日本人の多くは、その面倒くささを乗り越えていたのだ。では、なぜ21世紀に入ると、セックスを面倒だと思う日本人が増えてきたのか。 それは、恋人や夫婦間のセックスが、「コストパフォーマンスが悪い」と考えられるようになってきたと考えられる。つまり、セックスで得られる満足が、セックスにかけるコストを下回ると意識されるようになったのだ。それには、3つの理由が考えられる。順に述べていこう。ロマンスや性欲は面倒くさくない外部で楽しむ未来(1)恋人や夫婦間のセックスによる満足が至高のものだと考えられなくなったこと 近代社会は、「恋愛」に至高の価値を見いだしてきた。お互いに好きになった同士(異性でも同性でも)が、セックスを伴った恋愛によって結ばれることが、生きる意味、時には経済的成功以上の意味を持つというイデオロギー(「恋愛至上主義」)が存在していた。だから、いくら面倒であっても、それを追求するのが人生にとって必要なこととされたのだ。欧米では、このイデオロギーが優勢である。 しかし、日本では、近代社会になっても、カップル間の関係が至上のものだとする「恋愛第一主義」の価値観が、普及しなかったのではないか。すると、恋愛関係におけるセックスは、「特別」なことではなく、「あったらいいけど、なくてもよいもの」、つまり、コスパで考えてもよいものとなったのが、セックスレス化の背後にあると考えられる。(2)恋愛のコストの上昇 一方だけではなく、セックスによって、相手と自分の双方が身体的、精神的に満足することは、けっこうコミュニケーション努力を要する。そして、今、日本社会では、「空気を読む」など、仕事や友達関係で気遣い要求されることが多くなっている。そうすると、プライベートなセックスで、感情的努力をするコストが。ただ、仕事時間が長時間だからではなく、仕事で感情的努力を要求されているので、セックスの場までそのような努力をするのが、面倒くさくなっているのではないか。これが、第二の理由である。(3)コスパのよい性欲満足代替手段の発展 そして、恋人や夫婦とのセックス以外で「コスパのよい性的欲求の満足手段」が発展していることも背後に存在している。 私がバーチャル・ロマンス、バーチャル恋愛といっているように、ポルノや性風俗、キャバクラ、メイドカフェに至るまで、疑似恋愛、性的満足を充足させる産業が発展している。お金さえ払えば、断られることなく、相手に気遣うこともなく、身体的性欲だけでなく、恋愛気分に浸ることも含めて、性的に満足することができる。何より、面倒くささを回避できる「コスパのよい」性的満足代替手段が存在している。 この「恋愛至上主義が普及しなかったこと」「恋愛の面倒くささが相対的に大きくなっていること」「夫婦や恋人とではないコスパのよい代替手段が発達していること」、このような要因が組み合わさって、日本のセックスレス化を促進させているのではないだろうか。 夫婦は経済的関係で子供を育てる共同経営者、ロマンスや性欲は面倒くさくない外部で楽しむ。このような社会に日本が向かっているのかもしれない。

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    なぜ日本人はセックスよりもオナニーが好きなのか

    鈴木涼美(社会学者) 放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ 村上春樹の小説『風の歌を聴け』の有名な一文だが、日本のセックスの現状を調査で見ると、どうやら人は放って置いても死ぬが、放っておくと女と寝ないようである。このほど日本家族計画協会が発表した2016年の調査では既婚者・独身を含めて53%もの男性が、ここ一カ月セックスをしていないと答えており、女性も48%とどちらにせよ半数である。 日本はセックストイやアダルトビデオなどのエロメディア、性風俗産業などセックス周辺のモノやビジネスは高度に発展していると言われる、いわゆるオナニー文化とヌキ産業の国である。そして各国と比較した英国のコンドームメーカーDurex社の調査などを見ると、中心にあるセックスだけがなぜかすっぽりと抜け落ちている。 逆に言えば、そもそもセックスの回数が控えめでそこが抜け落ちているからこそのオナニー、風俗の発展があり、セックスをあまりしないというのはもはや国民性なのではないかと、私などは訝(いぶか)しんでいる。 そんな日本で、セックスレスの悩みは何も現代に限ったことではないだろうが、最近では調査結果などがセンセーショナルに報道されたせいか、テレビや雑誌の特集が散見され、私も取材を受けることが増えた。「彼とセックスレスにならないためにできる努力は?」「夫婦のセックスレスで少子化加速?」「若者たちの草食化でセックスに興味がない?」など。※写真はイメージ 「そんなにセックスさせたいんですか?」というのが私の率直な意見ではある。セックスレス化をさもこれは由々しき問題であるというような見出しを見るたびに、あるいはセックスレスを問題化した番組や雑誌に意見を求められるたびに、ぼんやりと「したくないなら別にしないでも…」とも思う。 そもそもセックスレスを問題視した特集の多くがさらっと深刻な少子化について触れているぐらいで、それ以外の問題点はイマイチ不明瞭である。日本の少子化に夫婦のセックスレスが無関係とは言えないが、トレンドとしての草食化やセックスへの興味の減退が少子化の直接的な要因となるように、私にはどうしても思えないのだ。 大体、セックスレスの対義語が何であるのか知らないが、そういうセックスフルネス思考な人、セックス大好きな人、ヤリマンヤリチン、セックスを日常的によくしている人の方が避妊について万全である。低用量ピルを飲んでコンドームをつけて月に100回セックスするよりも、計画的な子作りのためのセックスを狙い撃ちで数回する方が妊娠する可能性は高い。セックスレスと少子化の相関関係を疑え 特に、若者のセックスへの興味が減退しているという風潮については、無駄なセックスをして性感染症などにかかり、妊娠しづらくなっていた私たちの世代のような失敗がないし、セックスについてある程度冷静であるという点では効率的な子作りを割り切ってするようになるのではないかと個人的に思っている。そういった意味でもセックスレスと少子化の相関関係について私は甚だ懐疑的である。 故に、私は年がら年中セックスばかりしていそうなギリシャやフランス(Durex社2005年の調査ではセックス頻度がいずれも年に120回超)の真似をする必要は別にないし、セックスをあまりしないという国民性によって発展を遂げてきたエロ産業に誇りを持っても良いのではないか、と半ば本気で思っている。それは私自身がAV産業育ちであり、そのオナニー大好きな国民性によって支えられたバックボーンがあるからという事情ももちろんある。※写真はイメージ ただ、人間が「放って置いてもする」とされるセックスをあまりしないというのはやはり不自然であることには間違いない。私は対処すべき問題が大きく分けて二つあると思っている。 第一に、これは初交年齢の上昇や性経験のない20代の増加などに関して特に言えるのだが、セックスをしようという努力と、セックスをしたいという原動力に欠けるのであるとしたら、それは大きな問題である。全ての欲望は性欲につながる、とは極端な言い方だが、学歴をつけ社会で出世する、に始まり、自分のアピールポイントを見つける、容姿に気を使う、人に好かれる努力をする、など多くの善行と消費の根底では「異性に好感を持たれたい、あわよくばセックスしたい」という欲求がかなりのウェイトを占めるのは間違いない。 セックスをしたい、またはしてみたいが、機会に恵まれないのであればそれは何かしらの原動力になり、さらなる努力の後押しになる可能性があるが「セックスに興味がない」のであれば、これといって人に好かれる必要がない、究極的には社会で居場所を確保し、さらに上昇する必要がないということになる。 したくないセックスを強要することはできないが、それならば、それに代替するほどに強力な自分へのドライブの掛け方、原動力、やる気の源のようなものが必要に思えるが、現在のところ、それほど見当たらない。若者のSNSでの言動などが際立って「どこか斜に構えている」感じがするのはそのせいなのではないかと私には見える。夫婦のあり方が曖昧な日本 そもそもセックスへの欲望がなぜ動機付けとしてあんなにもインパクトがあるのかと言えば、セックス及びセックスにつながる恋愛というのが、最も努力や経歴、財力などにかかわらず起こり、またあまりに不確定要素が多いために、人は何かもっと別のもので努力や武装し、幾度もまたそれに挑戦しようとするからである。セックスへの欲望が希薄であれば、その努力がおろそかになるだけでなく、世の不条理への耐性が極めて低い人間が出来上がるように思える。 第二に、夫婦のあり方について、現代日本は極めてヴェイグ(曖昧)な共通認識しかないということである。そもそも日本には欧米諸国のようなカップル文化は存在しない。個人的な話で申し訳ないが、私の両親はやや欧米ナイズされた人種で、仕事のパーティーや会合、出張などにカップルで参加する傾向があったのだが、それは明らかに日本社会では異質であり、やや空気を読まない変な夫婦として扱われていた。※写真はイメージ  米国の離婚率の高さなどは日本でもたびたび取りざたされるが、あれほど「どこに行くにも一緒」のカップル文化の国で2組に1組が生涯添い遂げるというのはむしろ、かなり立派な数字なのではないかと私は思う。 さて、それでは日本の場合はどうか。誤解を恐れずに簡略化して言えば、個人間ではやや欧米化された価値観が共有されつつあり、社会は特にそれに対応していない。結婚式の招待状もパーティーへのお誘いも基本的には個人宛なのであって、別に欧米のカップル文化がこちらに浸透しているとは思わないが、ご主人と奥様が作る運命共同体としての「イエ」という旧来の価値観はやや古いものになりつつある。 恋人のような夫婦でいたいのか、盤石な「イエ」を作りたいのか、もしくは友情で結ばれた新しい形を目指すのか。その辺りの夫婦像というのが全体としてあまり統一して共有されていないため、当然くっついた男と女の間でも齟齬(そご)が起きる。夫婦というものを、そもそもセックス的なものから遠い存在としてイメージしている人もまだ多く残る中、セックスレスが離婚の原因としても認められる。 そして一度セックスを夫婦の外に持ち出してしまえば、日本国中から糾弾される。今一度、夫婦やカップルというものがなんであるのか、一応でも大まかな合意をすべきところに来ているような気がする。

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    セックスレス社会は全然ヤバくない

    「仕事で疲れた」「夫とは面倒だから」。いま日本の夫婦やカップルの間でセックスレスが蔓延しているという。ある調査によれば、その数は全体の半数にも上り、少子化や人口減少の一因になっていると指摘する声も少なくなくない。でも、本当にそうなのか? 日本人と性、セックスレス社会の未来を考えたい。

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    「40歳を過ぎて女に芽生えた…」私が見たセックスレス夫婦の現実

    亀山早苗(フリーライター) 日本家族計画協会の調査によると、2016年の夫婦におけるセックスレスの割合は47・2%に及ぶという。12年前の調査では31・9%だったのだから、いかにセックスレスが多くなっているかが分かる。 セックスレスになっている理由は、男性が「仕事で疲れている」が最も多く、21・3%、女性は「面倒くさい」が1位で23・8%。仕事で疲れ切った男と面倒だと思っている女の間で、セックスという行為が起こらないのは当然だろう。 では独身者はどうなのだろう。2015年の統計では、34歳の男性で3割、女性で4割が「セックス未体験」という結果もある。つまり、独身者も「していない」のである。 「セックスレス」という言葉は1991年、精神科医の阿部輝夫さんが順天堂大学に勤務していたころに、セックスしない夫婦が増加していることに着目、「結婚して同居しているにもかかわらず、身体疾患や特別な事情がないケースをセックスレス」という定義を試みたところから始まっている。その後、94年に日本性科学会によって、「特別な事情が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシャルコンタクトが1カ月以上なく、その後も長期にわたることが予想された場合」をセックスレスと定義された。 こうやって「定義」づけされた言葉ができると、そこにあてはまる人たちは一気に増える。それまで自覚していなかったため、表面化してくるのである。当時はセックスレスというと、「夫に女としてみられていない妻」というイメージが強かった。つまり、セックスを拒むのは男だという認識が強かったのだ。だが、その後この言葉が浸透してくると、実際は「妻が夫を拒んでいるケース」も多々あることが分かってきた。 夫婦ともにセックスしたくないなら、何の問題もない。だが、どちらか一方が「したい」と思っている場合、そしてセックスしたいのに満たされないために夫婦仲が悪くなっていく場合こそが問題なのである。女性たちは我慢しない 以前、セックスレスの既婚女性たちに話を聞いて書籍としてまとめたことがある。当初は、セックスレスになっている夫をなんとかその気にさせようとしたが結局ダメで、最終的には「我慢し続けている」女性が多いのではないかと予想したのだが、実際に取材を重ねてみると、女性たちは「我慢し続けたりはしない」という意外な傾向が顕著だったのである。 そのうちの一人、ケイコさん(45歳)のケースをみてみよう。彼女は結婚して18年、下の子が生まれてから13年ほどセックスレスだ。 「子どもが小さいうちは手がかかってセックスしたいなんて思わなかったけど、40歳を過ぎてパートでもう一度働き始めて、なんとなく気持ちが変わっていったんです」 ママ友以外の女性たちとの会話も増え、夫以外の社会で働く男性たちとも接するようになった。なにより自分自身に目が向いた。 「ヘンな言い方ですが、『女』としての自分がもう一度芽生えたというか…」 そんなとき職場の同僚である男性と急接近した。男女が同じ空間にいるところでは恋愛感情は生まれてしまうものである。久しぶりに男性を好きになる気持ちがわき起こり、自分では止めようがなかったという。 「その時点では10年ほどセックスレスでしたから、いざセックスとなったときは怖かった。彼にそう言ったら、すごく優しくしてくれて…。挿入された瞬間、『ああ、私、まだ女として大丈夫だったんだ』とうれしくて泣けてきました。セックスレスであることを大したことじゃないと自分に言い聞かせてきたのかもしれない。実はしたかったんだと、そのとき初めて思ったんです」 ケイコさんのような女性は案外多い。セックスレスによって自分の気持ちが満たされていないことに、セックスをしてみて初めて気づくのだ。本当は「したい」と思っていたことに。つまり、女性たちは自分の性欲を認識していないことが少なくないのだろう。なんのためのセックスなのか 一方で、30歳になろうとする男性から「来月、4年間付き合った彼女と結婚するのだが、ここ3年くらい彼女とはセックスレス」という話を聞いたことがある。思わず、それで結婚して大丈夫なのかと問うと、彼は平然と「子作りセックスはしますよ」と言った。 家庭を一緒に作ると決めた女性に対しては、男は急速に性的魅力を感じなくなっていくのだろうか。子作りセックスはしても、快感を得るための、あるいはコミュニケーションとしてのセックスはしなくていいと思うのだろうか。 長年連れ添った夫婦がそういう心境になるならともかく、これから結婚しようという人がすでに「子作りセックス」と「快楽セックス」を分けていることに愕然(がくぜん)とした。彼いわく、快楽を得るためのセックスは、妻となる人とはできないというのだ。結婚を「神聖視」しすぎているのか、あるいは快楽を得ることにどこか罪悪感を覚えているのか。 さらにその一方で、今の50代、60代の男性たちは「恋をしたい」「ステキなセックスをしたい」と真顔で言ったりする。置き忘れてきた恋愛感情や、お互いに相手への温かい気持ちをもって抱き合うことへの憧れがあるように思える。だが、妻はそれには応えてくれない。今さら誘うにも照れがあってできない。 セックスレス社会がヤバイとは思わない。「セックスレス=少子化」ととらえられがちだが、そもそも子どもを産むか産まないかは個人の生き方における選択肢の一つだ。したくない人はしなければいいし、したい人はすればいい。 ただ、繰り返しになるが、カップルとして考えたとき、片方がしたくて片方がしたくないのが一番の問題なのである。その場合は、やはり正面切って話し合うしかないのだろう。 「うちも話し合ったんですよね。私がしたくて夫がしたくないと言うから、しないなら外でしてきていいかと尋ねたんです。そうしたら、それはイヤだ、マスターベーションで我慢してほしい、と。それは通らない。私がしたいのはセックスであってマスターベーションではないと、はっきり言いました」 そう話してくれたのは、40歳になったばかりのエリコさん。ちょうど元カレと再会したばかり。このままだとセックスの関係になりそうなのだという。 「もちろん夫には内緒にしますが、おそらく今度、元カレと会ったらしちゃうと思います」 エリコさんはそう言った。男たちは女性の性欲を甘く見過ぎているのではないだろうか。女はセックスしなくても平気なのだと思いすぎてはいないだろうか。 妻に「セックスしたくないから、外でしてきて」と言われた夫もいるのだが、彼は風俗が苦手。本気で恋愛したら家庭を壊すのが目に見えているので、まだ高校生と中学生がいる身では自重しなければならないとつぶやいていた。 セックスレス社会はヤバくなくても、セックスレスカップルはヤバイのだ。互いに優しい気持ちになるために ところが最近、不思議なことをあちこちで聞くようになった。妻が不倫をした場合、結果論ではあるが、家庭がうまくいくというのだ。たまたま夫とはセックスレス、夫はする気がない。だが妻はしたいと思っていた。そんなとき妻が外で恋に落ちた。妻は夫に悪いとは思っていないが、どこかに若干の後ろめたさはある。相手の男性も既婚者だから、いろいろ話すうちに男の気持ちも少しはわかるようになる。夫に対して寛容になるのだ。妻に優しくされた夫もまた、妻を違う目で見る瞬間が生まれていく。 結婚記念日に妻をデートに誘ってみた。久しぶりに外で待ち合わせ、一緒に予約したレストランへ。どこかぎこちなかったが、妻とのデートも悪くないと夫は思う。そしてそんなことを計画してくれた夫に、妻も温かい気持ちになる。 別の男に「女」として認められていることが、彼女にとって自信となり、夫に対しても余裕をもって接することができるのだろう。こんなケースがこのごろ多々あるのだ。今どきの妻たちは家庭を壊す気はなく、恋と家庭を両立できてしまう。女性は浮気はできないといわれていたが、それは男たちの希望的観測だったのかもしれない。誰にもバレずに婚外恋愛ができるのは女性の方である。  セックスしたくない人はしなければいいとは思うが、相手がいる場合、なぜしたくないのかを自問自答してみる必要はあるかもしれない。相手が望むことなら、たとえ多少面倒であっても疲れていても、寄り添ってみてもいいのではないか。特に夫婦の場合、この先も長く一緒にいる関係なのだから。

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    東大元医学部長「死ぬまで現役」は崇高で人間的で健康的

     東京大学医学部の元学部長の石川隆俊氏が、『東大名誉教授の私が「死ぬまでセックス」をすすめる本当の理由』(マキノ出版刊)を上梓したことが話題になっている。「“セックスは高齢者に生きる力を与えてくれる”ということを、真剣に伝えたかった。それが、この本を書いた理由です」と語る石川氏が、高齢者のセックスについて語る。* * * コンドームの老舗メーカー「相模ゴム工業」が、2013年に20~60代の男女1万4100人に調査したところ、40代、50代の男性(既婚者、交際者あり)の約6割がセックスレスだと回答したそうです。 広い世代に広まっているセックスレスの原因は様々でしょうが、厳しい競争社会に生きていることも関係しているのかもしれません。でも、諦めてほしくありません。この高齢者の調査結果はセックスレスに悩む若い世代にとっても励みになると思います。 あらゆる動物はホルモンの作用で発情期が限定されており、その期間にだけ生殖行為を行ないます。人間もホルモンの分泌は加齢とともに低下しますが、それでもセックス可能なのは脳の働きがあるからです。 思考や言語機能をつかさどる脳の“大脳新皮質”は、ヒトが進化する過程で著しく発達してきた。その進化により、人間は異性を生殖の相手だけでなく、恋愛の相手として認識でき、生涯を通して寄り添える関係を築けているのです。高齢者のセックスこそが、他の動物にはない、人間を人間たらしめている崇高な行為なのです。※写真はイメージ セックスは歳をとることによって失われがちな「生きる力」を私たちに与えてくれます。高齢の男女が集まって公園でゲートボールをやっていたり、ダンス教室で踊っている光景をよく見ますよね。こうしたレクリエーション活動にも実は、異性との触れ合いを求めてやっている人が多いのです。 そうした気持ちは“いい歳してみっともない”ことではなく、とても健康的なのです。“気になるあの人がいるからオシャレしよう”や“あの人と会話できたから一日中ウキウキ”とか、そういうささやかなときめきが、生きる力になるんです。 医学的、生理学的には、「性」とは「生」なのですから、「死ぬまでSEX」を謳歌することは人間的で健康的な行為なのです。関連記事■ 地方の人口減少や都市の高齢者激増等の今後の対策を考える本■ 日本医学界の権威が「死ぬまで現役」本を出した理由■ 高齢者性特集に批判の教授「社会的意義があるのでしょうか」■ 所在確認済みの日本最高齢者は佐賀県在住の113才の女性■ 高額講習受ける高齢ドライバーは交通行政の「カネのなる木」

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    「東京タラレバ娘」にリアリティが無い理由

    中嶋よしふみ(シェアーズカフェ・オンライン編集長、フィナンシャルプランナー) 先日、東京タラレバ娘を読んだ。日本テレビでドラマ化され人気を博している事もあり、周囲で男女問わず話題になっていたからだ。そして作品への評価も共感できるという人もいれば今時こんなアラサー女子はいるのか?という人まで、男女関係無く賛否が分かれている。日本テレビ系ドラマ「東京タラレバ娘」に主演した吉高由里子 漫画版を読んだ自分の評価は「独身アラサー女性なら突き刺さるのかもしれないけど、10年前ならトレンディドラマとして見られた古い感覚の作品」といったところだ。「結婚が目標」に共感できるか? 詳しい内容は漫画やドラマ版を見て貰えればと思うが、ドラマの公式HPでは以下のように紹介されている。『「タラレバばかり言ってたらこんな歳になってしまった」鎌田倫子、30歳、独身、彼氏ナシ。職業=(売れない)脚本家。「キレイになったら、もっといい男が現れる」「好きになれれば、結婚できる!!」そんなタラレバ言いながら、親友の香、小雪と3人で女子会ばかりやっていたが、金髪イケメン男に「タラレバ女!」と言い放たれハタと現実にブチ当たる!!「私たちって、もう女の子じゃないの?」「本気出したら恋も仕事も手に入れられると思ってた…。」「立ち上がり方が分からない」「恋に仕事にお呼びでない?」厳しい現実、だけど真実。頑張ってないわけじゃない、でも、まだ幸せにたどりつけてないタラレバ娘たちがもがきながらも、幸せ探して突き進む!!女子のリアルが刺さりまくり! 共感度100%のドラマはじまります。』東京タラレバ娘 イントロダクション 日本テレビ公式HPより ストーリーを大雑把に説明すると、主人公となる独身・彼氏ナシのアラサー女性たち=タラレバ娘は、良い男がいないから結婚できない、もしくは良い男がいても若くて可愛い20代の女子にもってかれる、だから仕方なく彼女や奥さんがいる良い男(?)と泥沼な関係になっては女子会で顔を突き合わせる……といった話が延々と繰り返される。 ラブコメディとしては「結婚したい女性が恋愛で試行錯誤をする」といった王道な内容ではあるが「このご時世に結婚しただけで幸せと言えるのか?」という話が完全に無視されていることを考えると、多分「現代の話」とは言えない。つまりリアリティが無い。 一昔前には少子化が急激に進む→ワカモノが結婚しないことが原因→草食系という言葉が2006年頃から使われはじめ、その後ブームになる(2009年には流行語大賞にランクイン)……という流れがあり、散々結婚しないワカモノが悪いといった話が出尽した所で、「じゃあ結婚して子どもができたら楽しい生活が待ってるのか?」「そもそも結婚したくなるような環境なのか?」 ……といった現代の日本では解決しようがないほど根本的で深刻な問題が浮き彫りとなる。 産休育休がまともに取れない、子どもがいると働ける場所がほとんどない、保育園に入れるかどうかで女性の運命が決まる、待機児童多すぎ、そもそもワカモノは収入が低くて結婚する気になれない……など、タラレバ娘たちが熱望する良い男との結婚も大変だと思うが、その後にはそれ以上の苦労が待っている。※ちなみにタラレバ娘たちの眼中にも入らない年収300万円以下の男性の既婚割合は10%を切る。非正規雇用者に至っては5%以下。「結婚できないワカモノ」が共感されるには「結婚できないワカモノ」が共感されるのはもう少し先かもしれない。 つまり、ドラマでは「結婚して子供が産まれたらもっと大変だよね」という、独身のアラサー女性でも当然気づくであろう問題が無視されている。 もちろん、この程度の話は人気作家である作者が理解していないとは思えず、単純にターゲットをアラサー女子にしぼって、そして読みやすくするために結婚したいアラサー女子というあえて「ベタ」なネタをつかっているだけで、本当は真っ当な人間ドラマを描こうとしているのではないかと思う。 ベタ=古い話=誰でも理解できる・誰もが安心して見られるストーリーであり、子育ての不安から結婚できないワカモノという「新しい話」がリアリティを持って誰にでも理解される主人公として描かれるのはもう少し先になるのかもしれない 待機児童のような深刻な問題であっても、いまだに予算が足りないからと根本的な解決策が打たれていない理由は「消費税を1%上げて、全額(約2兆円)を待機児童解消の予算にブチ込みます」と政治家が言えるだけの環境になっていないことが大きな原因、つまり「新しい問題」だからだ。※新し過ぎる内容は作家としても編集者としても読者の共感を得られるか分からないため、当然の事ながら商業作品としては扱いづらい。待機児童がすぐにでも解決すべき深刻な問題として各種メディアで扱われるようになったのはごく最近の話。東京タラレバ娘は案外真面目な物語かもしれない。 漫画とTVドラマでは多少設定が異なるようだが、3/1に放送された最新の第7話は、ドラマを作ってネットで動画を公開して町興しをしようと考えている田舎の町へ、売れない脚本家として働く主人公が訪れる回だ。同じ話が漫画でもある。 当初はなんでこんなショボイ仕事をこんなクソ田舎に来てまでやらないといけないんだと主人公は憤るが、良い作品を作ってネットでドラマを見た人が一人でも町に来てくれれば……と本気で町興しを考えているオジサン達の心意気に触れて「自分は一体東京でこの年になるまで何をやってきたんだろう……」と改心し、改めて真摯に仕事に取り組むことになる。 決して上品とは言えない内容で、結婚することが目標となってしまったアラサー女子のドタバタなラブコメディが続いてきたはずが、それ以降作品の雰囲気が大きく変わることを暗示させるような内容になっている。ここまでの流れが全部前フリだったの?と思うほどこの話の前後を境にストーリーが俄然として面白くなる(ネタバレになるのでこれ以上は書かないでおく)。 このあたりは深いドラマを描いているのか、深いドラマだとさりげなく見せるテクニックを使っているだけなのか、作品が完結しないと分からないが……。五輪までに問題は解決しそうにない東京オリンピックまでに問題は解決しそうにないが……。 物語のはじめに、2020年に東京オリンピックを一人で見るのは嫌だと3人の主人公たちが心配するシーンがある。では無事その目的が達成できたらタラレバ娘は幸せな人生を送る事は出来るのだろうか。 主人公の3人が理想の旦那と結婚して子供を抱えながら東京オリンピックを見る、となったところでそれでハッピーエンドとはまずならない。寿命まで半世紀もあるのだからなるわけがない。 保育園が見つからずまともに仕事も出来ない状況でギャン泣きする子どもを抱え、旦那はビールを飲みながらテレビで放送されるオリンピックにくぎ付けになる姿を見て、「嗚呼、なんで焦って結婚しちゃったんだろう?」「あの時結婚しなければ、独身だったら楽しくオリンピックを見れたのに」……と、再度タラレバの状態におちいるかもしれない(自営業は保育園を利用しにくい傾向にあり、都心部で自営業的な働き方をするタラレバ娘3人の子どもは待機児童になる可能性も高い)。しかも結婚して生活スタイルが変われば居住地が関わる可能性もある。居住地が離れてしまえば、問題が発生するたびに第四出動などと言って飲み屋で顔を突き合わせて女子会をすることも出来なくなってしまう。結婚前よりもよっぽど深刻な状況がタラレバ娘に降りかかる。 待機児童や女性が働きにくい環境など、残念ながら今の日本が抱えている社会保障関連の問題は数年で解決するとは思えない。夢にまで見た家族でオリンピック観戦をしながら「保育園落ちた日本マヂで死ね!!!」とタラレバ娘が叫ぶ……という話が東京タラレバ娘2として描かれたら、(面白いかどうかは別にして)リアルなドラマになるかもしれない。 その頃には待機児童や女性の働き方の問題は、解決は出来なくとも「ベタな内容」として少なくとも誰もが理解し、共感できる内容になっているのではないかと思う。※関連記事■保育園の騒音トラブルは必ず発生する。~千葉県市川市の開園中止は反面教師である~http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/47328634.html■「奨学金のせいで結婚が出来ない」という勘違いについて。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/47271580.html■待機児童は300万人超?園児一人当たりのコストは50万円?「保育園落ちた日本死ね」論争に終止符を。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/47057721.html■乃木坂46の橋本奈々未さんが両親に家を買った理由。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/48796870.html■元フジテレビアナウンサー・長谷川豊氏の炎上と番組降板を招いた3つの勘違い。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/48590680.html

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    石田ゆり子演じ注目 アラフォー未経験女性の本音

     ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)がアツイ。“契約結婚”というテーマをポップに扱いながらも、登場人物は「中年童貞」「非正規雇用の若者」など時代に即している。中でも注目を集めているのが石田ゆり子演じる「高齢処女」の百合。今、彼女のような女性は決して珍しくない。女優の石田ゆり子さん 国立社会保障・人口問題研究所の発表によると、2010年の調査では35~39才で性交渉の経験がない女性は25.5%。それが2015年になると33.4%に増えている。アラフォー未婚者の3人に1人が処女の時代。彼女たちの胸の内とは――? 石田ほどきれいな人が…現実世界ではあり得ないでしょう!ということは、ない。百合を正視できないという女性からの意見が続々とあがっている。「思わず沈黙。人と一緒に見られません。百合のセリフが刺さりすぎる」(50才)「高齢処女を公の存在にしてくれてホッとしました。私も男性恐怖症でも同性愛者でもないですから」(38才)「自分の振る舞いで処女なことがバレやしないかとドキドキとしていたことを思い出しました」(39才)「処女だって疑われないだけ、百合ちゃんうらやましいです。本当のことを話せる姪っ子もいて…」(43才) そう、今高齢処女は増えているという。なぜなのか――男性経験のないままアラフォーを迎えた女性たちが、今まで語れなかった本音を明かした。 化粧っ気はないけれど、顔立ちは普通。公立大学理系出身で結婚願望もあり、趣味はテニス。飲みに行ける男友達もいるという39才の会社員Aさんは自虐気味に話す。 「誰にも言ってないです。処女って女友達には完全犯罪で隠せちゃうんですよね。この年になると旦那さんとセックスレスという人も多いし、“私も苦手”という雰囲気を醸し出しておけば、つっこまれない。確かにスカートは苦手だしかわいい系女子ではないけど、チャンスがなかったわけじゃないんです。 28才のとき、ちょっといい雰囲気の人はいて。でも、その人の前でそんなところ見せるのも恥ずかしいし、なにバカ言ってるの、とギャグにしてしまってそれっきり。無駄に年を重ねてもうチャンスも見当たりません。正直早く閉経して50代になってしまいたい。そうしたら悩まなくてすむのに」リアルなセックスはそんなに大切ですか? 20代でチャンスを無にすれば、30代、40代ではもっとないですという43才のBさん。このままでいいと思っているわけではないと話す。 「昔からGACKT(43才)と東方神起が好きで、周りからは“夢見すぎだよ”って言われるけど、彼らみたいな人しか男として見られなかったんです。キスまでした男性はいたの。でもその先に踏み込むことができなくて、それっきり。婦人科検診があるから人間ドックも受けられないし、今からでもなんとかしたい」 悩んでいるけど自分を安売りしたくないというのは、IT企業に勤務する派遣社員のCさん(42才)。 「胸が小さいと言われたことがあって、女友達同士でお風呂に入るのも苦手なのに、ましてや男性に見られるなんてイヤ、と慎重になっていただけのつもりが…この年齢です。昔は結婚するまで大切になんて言われていたのが、30才を過ぎると友達も“彼氏の話”もふってきてくれない。妄想彼氏のウソをついたこともありました。私、変じゃないですよね? 本当に普通にしていたつもりなのに。 この前、意を決して婚活サイトに入会したんです。これまで30人くらいに会いました。でもみんな話がつまらなくて、デートの場所も決めてないし、趣味も合わない。高望みしてるわけじゃないけど、やっぱり安売りするのも嫌なんです」 看護師のDさん(38才)は、むしろそういったことから離れているからこそ、有意義な生活を送れていると話す。 「私は昔から恋愛に興味がない。韓流アイドルのライブを見て、スマホでゲームができればそれで幸せ。親は心配していて、家に帰るとテーブルの上にわざとらしく『ゼクシィ』が置いてある(笑い)。高齢処女とはさすがに思ってないでしょうね。ひとりですることもありますけど、それでいい。リアルなセックスってそんな大切でしょうか? ゲームより面白い? 子供を産む以外に必要だとは思えないんですよね」 関連記事■ 高畑淳子が建てた豪邸 完成間近だが近隣住民との関係を心配■ 結婚報道の阿川佐和子 お相手の元妻が余裕のエール■ 31歳地方公務員女性 「このまま一生未経験というのもアリ」■ セクシー演技出色だった石田ゆり子 「一皮剥けた」と評論家■ 30代未経験女子が3割超 「肉食系やらみそ」も存在

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    外国人「単純労働者」の解禁 不足する労働力の精査が先だ

    河合雅司(産経新聞論説委員) 安倍晋三政権が、外国人労働者政策を大きく変えようとしている。これまで認めてこなかった「単純労働者」を解禁しようというのだ。過去の方針を大転換へ 2日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太方針)や「日本再興戦略」には、「経済・社会基盤の持続可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目しつつ、外国人材受入れの在り方について、総合的かつ具体的な検討を進める」との文言が盛り込まれた。 これだけでは何を意味するのかさっぱり分からないが、自民党政務調査会が直前の5月24日にまとめた「『共生の時代』に向けた外国人労働者受入れの基本的考え方」と併せて読めば理解が進む。 「基本的考え方」は、今後の外国人労働者の受け入れの議論において「『単純労働者』という用語を使っていくことは不適切である」と指摘し、「何が『専門的・技術的分野』であるかについては、社会の変化にも配慮しつつ柔軟に検討する」としている。すなわち、高度人材と単純労働者の区分けそのものを無くせとの主張である。 その上で、単純労働者について「必要性がある分野については個別に精査した上で就労目的の在留資格を付与して受入れを進めていくべきである」と求めたのである。具体的に「介護、農業、旅館等特に人手不足の分野がある」との例も示した。「移民国家」と似た状況 だが、「基本的考え方」で最も注目すべきは「単純労働者」を受け入れる理由の一つとして「今後、人口減少が進むこと」とした点だ。労働力人口の不足を外国人に頼る方針を明確にしたものだ。 日本は開かれた国であり、すでに多くの外国人が働いている。「いまさら目くじらを立てるな」という意見もあろう。ただ、安倍政権が打ち出したもう一つの外国人労働者政策を知れば懸念が募る。 高度人材の永住許可申請に必要となる在留期間を、現行の5年から大幅に短縮するため、世界最速級の『日本版高度外国人材グリーンカード』を創設する構想である。 日本再興戦略は「高度な技術、知識を持った外国人材を我が国に惹きつけ、長期にわたり活躍してもらうためには、諸外国以上に魅力的な入国・在留管理制度を整備することが必要」と意義を強調している。 高度人材と単純労働者の区分けを無くそうとする一方で、『グリーンカード』構想では対象を高度人材に絞るというのだから全く矛盾する話なのだが、両政策を併せれば職種にかかわらず世界最速級で永住権を取得できるようにするということになる。 人口減少対策として受け入れるということは、相当大規模な来日者数を想定しておかなければならない。法務省によれば昨年末の永住者は70万500人だ。もし職種にかかわらず世界最速級で永住権を取得できる国に転じれば、配偶者や子供も含め、その数は大幅に増えるだろう。 永住者は日本国籍を取得する「移民」とは異なるが、日本に住み続ける以上、社会の主たる構成員であることに変わりない。一定規模になれば日本社会はその存在を前提として回り始め、参政権付与を求める声も大きくなろう。それは、いつの日か「移民国家」と極めて似た社会が到来するということだ。前提次第で見通し変化 欧州など多くの国が移民や外国人労働者の対応に悩んでいる。「なぜ日本が欧米の後追いをするのか」といった治安や雇用環境の悪化に対する不安の声は少なくない。だが、それ以前の問題としてすべきことをしていない。人口減少に伴って不足する労働力は一体どれくらいの規模かの精査だ。この視点が、日本における外国人受け入れ議論で決定的に欠落している。 これまで通りに仕事を進めようとするならば現在の労働力人口が比較基準となる。しかし、前提を変えれば見通しは大きく違ってくる。 介護を例に引こう。高齢者数も人口減少に伴いいずれ減る。その前に健康寿命の延びで要介護者が減れば、介護ニーズの予測は変わる。イノベーション(技術革新)による省力化をどう織り込むかによっても数字は異なってくる。ボランティアを活用するような介護保険外の仕組みが普及すれば、不足する介護職員数はさらに変わる。 人口が減るからといって安易に外国人労働者に飛びつけば、後に「思わぬ社会コスト」に苦しむことになる。

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    「多死社会」を乗り越える 故郷葬で火葬場不足を解消

    河合雅司(産経新聞論説委員) 日本が「多死社会」に向かっている。厚生労働省によれば2015年の年間死亡者数は130万2000人で戦後最多を更新する見通しだ。 国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の推計では2030年に160万人を突破し、2039、2040両年の166万9000人でピークを迎える。その後もしばらく160万人水準で推移するという。条件次第で1週間待ち 死亡者数の増大で懸念されるのが斎場や火葬場の不足だ。深刻化しそうなのが東京圏(東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県)である。場所や時間帯によっては、すでに1週間や10日間程度待たされるケースが生じている。 対策として、縁起が悪いとして避けられがちだった「友引」の受け付けや、「通夜、告別式、火葬」という流れを見直し、午前中の早い時間帯や夕方へと火葬時間を分散させようといった模索も始まっている。 だが、東京圏の高齢化はこれから本格化する。2014年10月1日時点で75歳以上人口は約380万人だが、社人研の推計によれば2025年には572万人、2040年には602万人に膨らむ。 今後の死亡者数の激増を考えれば、こうした取り組みだけでは十分とは言い難い。 問題解決には斎場や火葬場を増やすことが一番だが、新設には用地取得や地域住民の理解がハードルとなる。将来的には死亡者数が減ることも勘案しなければならない。ピーク時に合わせて増やしたのでは、やがて過剰となる。大都市との接点増やす では、大死亡時代にどう対処すればよいのだろうか。 ヒントは地方創生にある。人口減少が進む地区では斎場や火葬場の利用者も先細りとなる。東京圏の郊外に斎場や火葬場の空きを探すのもよいが、どうせ自宅から離れた土地で行うことになるのならば、故人の出身地に帰ってはどうか。 お手本となるのが、「お葬式はふるさとで」と呼び掛ける石川県小松市の小松加賀環境衛生事務組合だ。2月には神奈川県の男性を霊柩車で搬送した。出身地での葬儀が定着すれば、東京圏の火葬場不足はかなり解消する。 一方、地方にとってもメリットは大きい。多くの自治体は大都市からのUターンやIターンに期待を寄せるが、総人口が大きく減るのにすべてが移住者を呼び込めるわけではない。むしろ都市部との交流を増やし少しでも人口減少対策への時間を稼ぐことが重要となる。その点、葬儀の受け入れは大都市住民との大きな接点となろう。「ふるさと納税」条件に とはいえ、地方住民が斎場や火葬場を利用しづらくなるのでは本末転倒だ。東京圏からの利用者を割増料金とするのもよいが、活用したいのが「ふるさと納税」だ。一定年数の納税を受け入れ条件として課す。納税の特典として「葬儀」の権利を得られるようにするのである。 毎年納税することによって、おのずと先祖を意識するようになるだろう。故郷への帰属意識が高まり、ボランティアや街おこしの手伝いなどに参加する人が増えるかもしれない。 本人の葬儀後に遺族や親族がお墓参りに訪れるようになれば、「ついでに観光も」ということにもなる。地方にとっては、ふるさと納税による財源確保以上の効果を期待できるというわけだ。 ふるさと納税をめぐっては、総務省が換金性の高い商品券などを「お礼の品」として贈らないよう自粛要請を行ったが、その趣旨にも沿うだろう。 課題は棺を運ぶためのコストだが、利用者が増えれば新たなサービスを提供する事業者が増え価格は安くなるのが世の常だ。一方で東京圏の斎場や火葬場の空き待ち時間が長くなれば霊安室の利用料などがかさむ。 遺族や参列者の交通費もかかるが、家族葬などが増え会葬者は減る傾向にある。東京圏ではお墓の不足も予想される。「死んだら先祖が眠る故郷の墓に入りたい」と考えている人は少なくない。これらも含めて総合的に勘案すれば、十二分に選択肢の1つになると思われる。 少子化で、お墓を受け継ぐ子孫がいない人も増え、管理する人が不在の「無縁墓」になることへの懸念も広がってきている。葬儀だけでなくお墓の管理までセットで地方側が担うことにすれば、ニーズはさらに広がるだろう。 柔軟な発想なくして、多死社会は乗り越えられない。

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    移民受け入れが政策として成り立つのか

    河合雅司(産経新聞論説委員) 総務省が公表した2015年の国勢調査(速報値)によれば、総人口が5年前の前回調査より94万7千人減った。人口減少は過去の政府の調査でも報告されてきたが、改めて裏付けた形だ。自民党には模索の動き 人口が減れば労働力も少なくなる。既に一部の業種では少子高齢化に伴って後継者不足が顕在化しているが、今後はあらゆる職種で不足が広がるだろう。 労働力不足の解消策として、外国人による穴埋めを求める声が少なくない。だが、外国人問題を考えるにあたっては「移民」と「外国人労働者」との違いを明確にしておかなければならない。 移民とは日本国籍を付与し永住を前提とする人たちである。これに対し、外国人労働者は企業が一時的に戦力として雇い入れる人々だ。これを混同したのでは議論がかみ合わなくなる。 安倍晋三首相は「いわゆる移民政策については全く考えていない」と繰り返しているが、自民党には移民推進派が少なくない。同党が15日に立ち上げた特命委員会は「移民寸前」まで受け入れの拡大を検討するという。どこの国から来るのか とはいえ、外国人の大量受け入れの難しさは、欧州における難民政策の混乱ぶりを見れば明らかだ。 反対派からは治安の悪化や社会の混乱、日本文化が変質することへの懸念も聞かれる。こうした論点も重要であるが本稿は少々視点を変えて、人口減少対策としての移民が政策として成り立つかどうかを考えてみたい。 第1に確認すべきは、移民政策に踏み切ったら本当にどんどん人が押し寄せてくるのかという点だ。人口減少対策とする以上、相当数の受け入れが前提となるが、移民は一体どこの国からやってくるのだろうか。具体的に想定しておく必要がある。 というのも、移民が大量に来るようになれば、日本社会はそれを前提として形成される。当初は安定的に来たとしても、送り出し国側の事情で突如として来なくなれば、人為的に人口急減を引き起こすのと同じである。ただでさえ日本人が減るのに移民まで減るダブルパンチになったのでは社会は大きく混乱する。 コンスタントに移民が来日するかを知る手掛かりは世界人口の予測にある。国連の推計によれば、世界人口は2015年の73億人から2050年に97億人に増え、2100年には112億人となる。 ただ、伸びが顕著なのはアフリカ諸国だ。「移民」と聞けば、送り出し国としてアジアや南米をイメージする人も多いだろうが、アジア各国は2050年頃から人口が減り始め、ブラジルなども減少に転じるとみられる。 しかも、世界人口の増加を後押しするのは寿命の延びである。2050年にはタイの高齢化率は30・4%、中国239%、ベトナム23・1%など軒並み上昇する。 移民送り出し国にすれば、若い世代を失うのは高齢化や少子化の進行を容認するのと同じである。「日本がお困りでしょう」といって積極的に送り出す政府指導者がどれくらいいるだろうか。わざわざ日本を選ばす 第2は、日本に移民先としての魅力があるかという点だ。多くの日本人が移民送り出し国としてイメージしてきた国々は、目覚ましい経済発展を続けている。母国が豊かになるのに、あえて移民を決断する人が今後どれぐらい増えるかは未知数である。 それでも移民希望者はいるだろう。だが、各国とも高齢化が進む。今後は各国による若い労働力の奪い合いになるとの予測もある。その際、言葉の壁が立ちはだかる日本が魅力的な国であるとはかぎらない。現実的に考えれば、わざわざ日本まで行かず、近隣国に“安住の地”を求めることだろう。 日本が移民政策に踏み切ったとしても、想定する国から人が来る保証などないということだ。国家の一大方針転換を、願望にも近い“甘い根拠”をもとに進めることなどあってはならない。 むしろ急ぐべきは、人口減少を前提として仕事の在り方を見直すことだ。価格の安い商品の大量生産と決別し、高付加価値の商品を生み出すモデルへと転換する。あるいは、女性や意欲のある高齢者などが働きやすい環境を整えていく。ロボットなどでできる仕事は置き換える。外国人という“当座しのぎ”を考える前に、やるべきことはいくらでもある。

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    ショーンKの涙に感動? 謝罪の「うまさ」にこだわる日本人の滑稽さ

    パオロ・マッツァリーノ(日本文化史研究家) じつは謝罪という行為は、なにひとつとして問題を解決していません。それどころか、謝罪は問題の本質をあいまいにする目くらまし効果によって、根本的な解決や改善をかえって遠のかせてしまうのです。 人間は必ずミスをします。そのミスをどうカバーするか、そしてミスの再発防止のためにどんなシステムを構築するか。尽力すべきはそこですよ。なのにちかごろの日本人ときたらどうですか。謝罪という生ぬるい感傷でいかに問題をうまくごまかすか、そればかりに熱心になってしまいました。高木京介投手の野球賭博関与について謝罪するプロ野球巨人の久保博球団社長(右から2人目)ら=3月8日、東京都千代田区(三尾郁恵撮影) 重大な副作用に気づかずに、謝罪という行為に値千金の逆転満塁ホームランのような効果があると妄想し、過大な期待を寄せる日本人は、こどものころから道徳の時間に、失敗したら素直に謝りましょう、と繰り返し刷り込む教育を長年続けてきました。 その努力が結果にコミットしはじめたのか、だいたい西暦2000年ごろから日本では、謝罪会見という儀式がそれまでにはなかったくらいの頻度で執り行われるようになりました。自分とはなんの関係もない芸能人・著名人が開く謝罪会見の模様を見て、その所作の出来不出来で罪の軽重と人間性を判定する悪趣味なゲームは、国民的娯楽としてすっかり日本人のあいだに定着したのです。 謝罪が問題解決の役に立たないという真理を理解できないかたのために、簡単な例でご説明しましょう。 人混みを歩いていて、前の人のかかとをうっかり踏んでしまったら、「すいません」と謝罪しますね。 なんだ、謝罪で問題は解決してるじゃないか? いいえ、それは誤解です。かかとを踏まれたという問題に対して、なんの解決案も再発防止策も提示されてないのですから。 われわれはこのミスを教訓に、いかにすれば他人のかかとを踏まずに歩けるのか、それを研究・練習して事故を未然に防止することで問題解決へ向けて一歩でも前進しなければいけないはず。 しかし謝罪という対応によって、かかとを踏んだのはわざとではないと宣言することで、悪意があったか否かというところに論点がずれてしまうのです。 謝罪は問題の本質をあいまいにし、論点をすり替えてしまいます。非生産的なごまかしでしかないのに、それに釣り合わぬくらいに高い精神的満足感を、多くの人に与えてしまいます。 だからわれわれは死ぬまでに何度も、他人のかかとを踏む単純ミスを繰り返すことになります。 謝罪は問題を解決に導かないばかりか、再発防止の役にも立たないんです。二度と繰り返しません、と涙声でいったところで、具体策を伴わなければ必ず再発します。 こんな愚かな手段なのに、多くの人が謝罪に重きを置いて、謝罪のうまいヘタで有罪無罪を決めようとするさまは滑稽としかいいようがありません。謝罪がうまい人は、問題解決に長けているのではありません。ごまかすのがうまいだけなんです。カン違いしてはいけません。ショーンKさんや乙武さんの奥さんの謝罪がよかった? 最近ですと、ショーンKさんや乙武さんの奥さんの謝罪をよかったとほめてる人がいましたが、そのひとたちは問題の本質を見る目がないし、論理的判断力も曇ってます。 「うまい」謝罪によって、ショーンさんや乙武さんの問題は解決したのですか? なんにも解決してませんよね。うやむやにされただけです。ショーンK氏 学歴や経歴を詐称して仕事や報酬を得るのがなぜいけないのか。それは、詐称がまかり通れば、まっとうな手段で勉強する意味がなくなってしまうから。高い学費払って必死に勉強して学歴を得た人と、なにも努力せずウソついた人が同じ報酬を得られるとしたら、こどもたちはだれも勉強なんかしなくなります。教育システムの信頼性に関するかなり重大な問題です。他にも医者や教師の経歴詐称が以前から問題になってます。経歴確認をどうやるべきか。それをもっと真剣に考えなければならないのに、ショーンさんの涙ながらの謝罪に感動したと盛り上がってる連中のおかげで、その機会は失われました。 乙武さんの浮気グセに関しては、奥さんには悪いんだけど、たぶん一生治らないと思いますよ。 たった1度だったらまだしも、5回も、しかもかなり計画的に同じ手法を繰り返してたんでしょ。だったらそれは過ちではなく、ルーティーンです。金があるかぎりいずれまたやるでしょう。 これは予言や占いではなく、歴史の必然です。これまでの人類の歴史上、浮気がばれて謝罪したにもかかわらず性懲りもなくまた浮気した男は累計何億人にものぼります。 むしろこの件では、障害者が性欲の処理に苦労している切実な問題を検討するチャンスでした。乙武さんは謝罪なんかしなくていいから、政治家になって、性風俗店のバリアフリー化や障害者割引制度導入を提言すべきでした。しかしこれまた謝罪でごまかされ、問題解決が先送りされてしまったのです。 謝罪のうまさにこだわることは、社会にとって無意味どころか有害です。そんなことを続けていたら、問題解決能力を持つ真に有用な人が評価されず、ごまかしのうまいヤツばかりが重用されるよのなかになってしまいます。パオロ・マッツァリーノ イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。著書は『反社会学講座』(ちくま 文庫)、『誰も調べなかった日本文化史』(ちくま文庫)、『13歳か らの反社会 学』(角川文庫)、『つっこみ力』(ちくま新書)、『「昔はよかった」病』(新潮新書)『怒る! 日本 文化論』(技術評論社)、『ザ・世のなか力』(春秋社)、『偽善のすすめ』(河出 書房新社)などがある。 

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    同級生婚の増加 同窓会支援で婚活促進を

    河合雅司(産経新聞論説委員)下げ止まらない婚姻数 日本の婚姻件数が減り続けている。厚生労働省の推計では昨年は63万5000組で、戦後最少を更新する見通しだ。 日本では婚外子は2・21%(2013年)と極端に少ない。一方で、妊娠が結婚に先行する「できちゃった婚」で生まれた第一子は25・3%(2009年)を占める。結婚と出産を一体として考える人が多いということだ。婚姻件数の減少に歯止めがかからなければ、少子化は進む。 希望しながら結婚できない人を減らすには何から着手すればよいのだろうか。国立社会保障・人口問題研究所が2010年に行った「第14回出生動向基本調査(独身者調査)」によれば、25~34歳は男女とも「適当な相手にめぐり合わない」が群を抜く。まず取り組むべきは、出会いの場の提供ということになる。 各自治体も婚活支援に取り組み始めたが、必ずしも結果が表れているわけではない。ミスマッチが生じていることが原因とみられる。内閣府の「結婚・家族形成に関する調査報告書」によれば、男性は20代、30代とも年収300万円未満で未婚者が多い。女性は年収600万円以上の30代で目立つ。単に出会いの場を設定すればよいわけではないのである。「同い年」希望が増加 では、どうすべきか。結婚支援策では、学歴や雇用形態、年収などの属性をある程度絞り込むことが重要となる。既婚者が結婚相手をどうやって見つけたかを分析することから始めることだ。 内閣府の「少子化と夫婦の生活環境に関する意識調査」(2012年)によれば、トップは「社会人になってからの仕事関係」で男性31・1%、女性33・9%だが、職場の出合いに行政が関与する余地はあまりないだろう。 むしろ注目すべきは、高校や大学時代の出合いが結婚に発展しているケースが意外に多いことだ。 「同級生同士の結婚が増えている」との民間調査もある。「アルバイト先」を含めると社会人になる前の出会いは男性が16・4%、女性も15・9%を占める。20代後半では男女とも「仕事関係」を上回っている。 同級生婚の増加を裏付ける興味深いデータがある。独身者調査が結婚相手との年齢差の希望を調べているが、「同い年」と回答した人が男性35・8%(5年前の前回調査比6・4ポイント増)、女性29・0%(同2・2ポイント増)と顕著に増加を続けているのだ。 1987年は男性が「3~4歳年下」の30・0%、女性は「3~4歳年上」の36・8%がトップだから、価値観が「年の差婚」からシフトしてきていることになる。 晩婚化が指摘されるが、平均希望結婚年齢は男性30・4歳、女性28・4歳。男女とも20代で相手を見つけたいと考えている人が少なくない。 これらのデータを勘案すれば、結婚を意識し始める20代半ば以降の人たちを対象に高校や大学の同窓会を開くことが有効といえそうだ。同級生の出会いを政策として支援するのである。ボランティアを通じて 「学校」が男女の出合いの場になるのは、境遇や素養などが似通っており、多くの人が同じようなライフコースを歩むからだろう。共通の話題もあり打ち解けやすい。 だが、年に1度ぐらい同窓会を開いても恋愛に発展するとは限らない。在学中から付き合っていたカップルもいるだろうが、主に同窓会の再会で意気投合し、ゴールインするケースが想定されよう。 そこで提言したいのが、地方創生と結びつけるボランティア活動やサークル活動の展開だ。一緒に汗をかくことで結びつきが深まる。 同級生同士でいくつもの少人数グループを結成し、福祉や観光イベント、地域おこし事業などそれぞれの得意分野に取り組むのである。卒業後、遠方で就職した人は休日のみ参加してもよい。男子校や女子校の出身者は、複数の学校が提携して“合同同窓会”の形にすれば解決する。 自治体は予算を確保し、高校や大学と連携して連絡事務やグループ分け、ボランティア先とのコーディネートなど運営に主体的に携わる。 自治体にとっては、ボランティアを確保できるだけでなく、20代の若者が地域に関心を持つようになれば、やがて地方創生の“応援団”ともなるメリットがある。 男女の縁とは思わぬところにあるものだ。その芽を大切に育てる支援が望まれる。

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    安倍政権は女性を働かせたいのか出産させたいのか不明な状況

    「マイクロ・マネージメント」とは、重箱の隅をつつくように部下の仕事を管理・干渉することだ。もちろん、肯定的な意味ではない。そのマイクロ・マネージメントを実践しているのが安倍晋三政権だと大前研一氏は以前から指摘している。アベノミクスの「成長戦略」について、とくに「女性登用」政策において、マイクロ・マネージャーらしい安倍政権特有の不可解さがあることを大前氏が解説する。 * * * 安倍政権の本質は、官僚依存の「マイクロ・マネージャー」だということを、教育資金の贈与税非課税などを例に挙げて指摘したが、一事が万事で、アベノミクスの「成長戦略」と称する政策はマイクロ・マネージメントのオンパレードだ。 たとえば「残業代ゼロ」制度。これは「年収1075万円以上」で「高度な専門的知識を持つ」為替ディーラー、ファンドマネージャー、研究開発職、コンサルタントなどを対象に、働いた時間ではなく成果で賃金を支払うというものだ。 しかし、なぜ年収1075万円以上なのか? 職種の基準は何なのか? 根拠となったのは労働基準法第14条で定められた有期労働の契約期間の上限を3年から5年に延長できる要件で、その対象となる専門職の年収が1075万円以上となっているため、それを残業代ゼロ制度に転用したという。 だが、期間の定めのある有期雇用の要件を、期間の定めのない無期雇用(=正社員)が前提の残業代ゼロ制度に転用するのは、そもそも無理がある。残業代ゼロ制度に現在の企業社会の実態に即した明確な根拠はないのである。 拙著『稼ぐ力』(小学館)で書いたように、仕事が時間や場所に制限されなくなっている今日、多くのホワイトカラーの仕事は成果と給与の関係について「再定義」が必要になっている。残業代ゼロも、その再定義の中で経営者や管理職と社員が協議して詰めていくべきであり、政府が一方的に決めることではない。「女性登用」政策も同様である。安倍政権は先の臨時国会で、女性登用に向けた数値目標を作って公表することを大企業に義務づける「女性活躍推進法案」を提出した。 女性の登用が進んでいる企業を認定する仕組みも導入し、認定を受けた企業に対しては公共事業の受注機会を増やすなどの優遇策も盛り込まれた。いわば「鞭」(数値目標の義務づけ)と「飴」(優遇策)によるマイクロ・マネージメントの典型である。同法案は衆議院の解散・総選挙によって審議未了・廃案となったが、開会中の通常国会に再提出される見通しだ。 ところが、その一方で地方創生の司令塔となる「まち・ひと・しごと創生本部」は、合計特殊出生率を2013年の1.43から1.8程度に引き上げるという目標を掲げている。安倍政権は女性をもっと働かせたいのか、それとも女性がもっと子供を産みやすい社会にしたいのか、私にはさっぱりわからない。

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    持ち家率低下 若者の生活志向の変化逃すな

    8割が持ち家に住む現在の60歳以上の世代とは異なり、持ち家率が低い世代の老後は、“高齢者の住宅難”が社会問題となりかねないからである。 老後の居住費負担が重くなれば「年金だけでは暮らせない」という層が拡大する。高齢者向けの安価な賃貸住宅も、いまから整備計画を進めなければ間に合わない。「東京回帰」が鮮明に 一方、白書は持ち家率の低下が若者の新たな居住スタイルの模索につながっていることも明らかにした。その一つが「東京回帰」だ。 「近い将来住みたい街」や「老後に住みたい場所」の意識調査で、東京圏1都3県を挙げた若者が、中高年世代より高い割合を示したのだ。 若者の実際の居住地が、こうした志向を裏付ける。2000年以降の若者は、“過去の若者たち”のように郊外や近隣県に広い間取りを求めて引っ越すのではなく、都心を含めた23区にとどまり続けているのだ。むしろ、東京に流入する傾向も見られる。 とりわけ中心市街地の「駅から歩ける場所」の人気が高い。こうした傾向は大阪や名古屋、札幌、福岡といった政令指定都市でも見られる。 未婚・晩婚が進んで、1人暮らしや夫婦のみの世帯が多くなった結果、広い居住スペースを必要としない人たちが増えた。地価の高い中心市街地でも、狭い物件ならば手が届くということだろう。こうした需要に応える物件が増えてきたこともある。移動は公共交通機関 さらに興味深いのが、若者たちの暮らしぶりの変化だ。白書は三大都市圏(東京、大阪、名古屋)に住む若者の通勤・通学手段を調べているが、これまでの自動車中心から、鉄道やバスへのシフトが進みつつある。若者には自転車利用も進んでいる。 休日の外出先についてみると、居住地における中心商店街や片道1時間未満のいわゆる「近場」で用事を済ませている人の割合が高い。極めて都市型で、コンパクトな生活志向が広がっているのだ。 いつの時代も若者が社会を変えていく。つまり、こうした若者の生活志向に今後の社会へのヒントがあるということだ。無計画な拡大開発路線との決別である。 これからは、行政機能の集約や効率的街づくりは避けられない。白書は、医療・福祉や商業施設に公共交通機関で簡単にいける「コンパクトシティ」構想を掲げているが、若者たちの機運の盛り上がりを逃してはならない。