検索ワード:終活/7件ヒットしました

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    「無縁墓」供養してくれる人はいますか?

    関連記事■無縁墓回避の対策(1)お墓の引っ越し■お墓の引っ越し「4つのパターン」■霊園・墓苑紹介■「終活読本 ソナエ」の購入はこちら

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    「エンディングノート」どう使う

    も増加中だ。特にセカンドライフ突入前後の人をメーンターゲットにしたノートで充実している傾向がある。(終活読本ソナエ 2014年春号に詳報)関連記事■「エンディングノート」を書いてみる(DLページへ)■書いて良いこと悪いこと(上)家族葬を希望したのに、叔父が激怒「そんなの許さん!」■書いて良いこと悪いこと(中)知らない間に貯金が消えた!■書いて良いこと悪いこと(下)私の財産、犬に相続させたいが…■上手に書く秘訣5カ条を伝授、それは…「全部埋めようとしない!」■記入率わずか1・3% こんなに売れているのに?■ノート発展史(上) バブル崩壊が契機 自分を見つめ直す風潮?■ノート発展史(下) 「遺言ノート」 ネーミングに衝撃走る■「終活読本ソナエ」の購入はこちら

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    レッツゴー!「墓トモ」霊園見学ツアー

    入る墓がないし、今のところ子供もいない。この先、どうしようか考えさせられる一日となった。関連記事■「終活読本 ソナエ」の購入はこちら■お墓特集■産経ソナエ終活センターでお墓を探す■「霊園・墓苑紹介」でお墓をチェック/「霊園・墓苑訪問記」を読む

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    手遅れ?妻のサインを見逃すな

    長を務めた。現在は同社雑誌編集副主幹。  男性の「想像力の欠如」「無関心を継続してきたこと」が女性を終活へと誘った。妻と一緒に墓に入りたいなら、今、男性がすべきこととは何か。 かつて夫婦が離婚する1番の理由は、「浮気」だった。それが今や夫の「無関心」になった。「無関心」といえば、心当たりの多い男性が多いのではないか。 例えば、もらったチケットや仕事の付き合いで、妻と一緒にコンサートなどに行く機会があったはず。準備をする妻に向かって「何をグズグズしているんだ。早くしろよ」などと言ってしまった、あるいは、苛立ちを覚えたことがあるという人は少なくないだろう。それこそ、妻への無関心なのだ。 妻は、きっと着飾っていただろう。それは、一緒に出かけることが嬉しいからに他ならない。だが、妻に無関心な貴方はそれに気が付かないのだ。 そんな時に、まさか「何でそんな派手な格好しているんだ!」などと言おうものなら、今度は貴方が「一緒に墓に入りたくない」と、妻から三行半を叩きつけられることになるだろう。 妻が「離婚したい」、一緒に墓に入りたくないと言うまでには、妻のサインを見逃してきた、夫による無関心の蓄積がある。勘違いしてはいけないのが、妻は決して夫のことが嫌いなわけではない。しかし、言葉に出して褒めて欲しいし、自分に興味を持って欲しい。些細な無関心の蓄積が、妻に、「墓に入りたくない」と言わせるのだ。 蓄積は妻の「ゴールデンタイム」から始まる。「ゴールデンタイム」とは45歳から55歳までを指す。この時期は、夫は管理職となり忙しいし、子どもは自立する。親の介護はまだ発生しておらず、子どもの自立で、パート等の給料を自分に回せる金銭的余裕もある。妻は、時間的、精神的、金銭的余裕を持つことになる。しかし、妻にせっかく余裕ができても、妻のことを見ず、褒めず、挙句の果てには家政婦のように扱ってきた人も多いのではないか。男よりも老いや死をリアルに感じる女 夫が自分に接してこない結果、妻は、家族だけでなく、年長者を含めた多くのコミュニティで、コミュニケーションを取り、「死」についてのナマの情報を得る。この情報が、妻が終活にハマるきっかけになった。 その後も無関心が原因の男女乖離は続く。「ゴールデンタイム」のあと、女性は、早ければ40代から、親、特に母親の介護と向き合ってきた。だから、老いや死をリアルに感じる。 介護をしていた女性たちがショックに感じるのは、身の回りを片付けられていなかった母親の姿。それを見て、自分が死ぬときは、片付けておこうと思うようになる。 読者がいま60代で、妻への無関心を続けてきたのであれば、今更後悔しても遅いかもしれない。定年を迎え、会社というコミュニティを失った男性の回りには、一緒に過ごす人はほとんどいない。そこで、「家族や妻と過ごすぞ」と思っても、無関心の蓄積から、家族も妻も横にはいないかもしれない。終活へ女性がハマる姿は、日本の夫婦間の問題を投影しているとも言える。 ではこれから読者がどう過ごすべきか。簡単な事だ。妻に関心を持って接しよう。今日からでも妻に声をかけ、スキンシップを図ろう。別に言葉に心から感情を込める必要もないし、セックスが成立する必要もない。何気ない一言や触れ合いが、凝り固まった妻の心を溶かし、終末に向けた人生を一緒に過ごすきっかけとなるだろう。(文・Wedge編集部)

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    男性は知らない「妻の頭の中」

    がつけば騎手の女房」で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。テレビコメンテーターとしても活躍。  女は終活にハマっているわけではなく、これまでと同じように目の前に現れた課題に取り組んでいるだけ。団塊の世代の女たちは、ひと世代前の女たちが、子どもが独立した後の50代で母親としての役割を失って「空の巣症候群」という状態に陥ることを見てきた。 男たちはそのころ、まだ会社の肩書きという「固有名詞」で生きることができたが、女たちは、ひとりの人間としてどう生き切るかを考え始めた。男よりひと足先に個人としての自分はどう生きたいのかと考えた女たちが、60、70歳を迎え、今度は自分らしい生き方の「終わり」を考え始めた。 私たち団塊の世代の女は、「一番現実にムカついてきた世代」。ずっと、心のどこかで違和感を持ちながら生きてきた。学生時代は、戦後教育のもと「男女平等」と教えられてきた。でも社会に出てみると、それは嘘で、働き口はなく、多くの女は夫の家に入った。日々1人で決める女と決められない男 男は、なぜか自分の最期は妻が看取ってくれると思っているみたい。平均寿命も女の方が長く、男には死の直前も死後のことも人任せで現実感がない。だから、なぜ女たちが自分の人生の終わり方や死んだ後のことを考えるのかなんて理解できないんだと思う。 女がスーパーの買い物で悩む姿を「些細なことで」と、男は馬鹿にしてきた。その場で安い材料を発見し、組み合わせ方や無駄のない利用法を考え、食卓に完成品を並べるまで、すべてを実は自分でゼロから決定しているのに、「俺たちはもっと大きな仕事を動かしている」と。でも、それは会社の方針に従っているだけ。自分では何も決めていなかったことに気がついていない。錯覚から覚めると何もできなくなっている自分に気づく。 よく、「女房が俺と一緒の墓に入りたくないと言う。理解できない」と言う男がいるけど、女からしたら、なんで? と不思議。両家の結婚式から始まり、女は名残の家制度の中で、ずっと生きてきた。核家族になっても家の行事や介護は嫁の役割。死んだ後までも、自分のルーツがない、見ず知らずの人がたくさんいる夫の家の「先祖代々の墓」に入って気をつかうのが、当たり前とはなかなか思えない。 逆に男に聞きたい。自分が女房の実家の先祖代々の墓に入れって言われたらどうですか? そういう想像力を持てることがやさしさなんだけどね。 団塊の世代は、数が多いからこそ常に多くの問題に見舞われてきた。小さい頃は幼稚園が足りず、受験や就職では「狭き門」と言われた。墓が足りないなんて「またか」という話。そこに少子化がセットになってきたから大変。 私たち団塊の世代は、親を看取った最後の世代で、子供に看取られない最初の世代になるんだと思う。それなのに、財産を子供に残すという旧世代の価値観に縛られていたら、とんでもないことになるんじゃないだろうか。自分の財産を処分すれば、自分の最期は自分で決めることができる。処分できる財産がない人に、社会保障の恩恵が厚く回るようにもなる。 本当は、人生の終わり方は女が女同士で考えるのではなく、想像力のない男であっても、理解不能と対立しないで、一緒に考えたいテーマ。考えなければいけないテーマなんだと思う。(文・Wedge編集部)

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    老後・死後「死の社会化」を考える

    研究員)  看取り、弔ってくれる他者がいない、「一人暮らし世帯」が増加している。そんな中で繁盛する「終活ビジネス」だが、社会で受け止めることも必要になる。 「終活」は、2009年に週刊誌がつくった言葉だ。それがいまや金融、流通、旅行業など様々な業種が参入する一大市場となった。タブー視されがちだった死にまつわる行動が、手軽な言葉により、「みんなもしていること」という安心感が生まれ、動きが加速した面はある。また、経済産業省が2011年に「ライフエンディング・ステージ」という造語でレポートを発表し、老後から死後までを一体とした市場の形成を促したことも背景にあるだろう。だが、やはり時代に合ったからこその広がりだった。年齢別人口の推移と将来設計  (出所)2010年までは国政調査による実績値。2015年以降は、国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」(2006年12月推計)の出生中位・死亡中位仮定による推計結果2030年の死亡場所別の死者数推計  (出所)2004年までの実績は厚生労働省「人口動態推計」。2007年以降の統計は国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料(2006年度版)」から推定。自宅や病院以外の「その他」で亡くなる人が2030年には47万人にものぼると国は2006年に予測した。サービス付き高齢者向け住宅の建設などが進むが、少なからぬ人を「地域」で看取る必要があるだろう。 時代とは、一言でいえば「跡継ぎ不在」「おひとり様」社会の到来だ。少子高齢化や晩婚化、生涯結婚しない非婚化(2030年には男性の30%、女性の23%が非婚と予測)などで、子どもがいない人生を歩む人が増えている。2010年の国勢調査では一人暮らしが全世帯に占める割合が32・4%と、「夫婦と子どもから成る世帯」(27・9%)を初めて上回った。近代日本史上、経験したことのないステージに私たちは足を踏み入れている。 高齢者に着目すると、2013年の高齢化率25・1%は、2025年には30%を超え、2060年にはほぼ40%になると国は予測する。65歳以上の高齢者が子どもと同居している割合は、1980年にほぼ7割だったが、2012年には42・3%に。一人暮らしの高齢者が確実に増えていく。 すると、自身の死を考えたとき、葬儀や納骨から始まり、電気・水道など各種契約の解除や遺品整理といった様々な死後事務処理を誰が担うのかという問題が浮上する。誰が人生の最終章を支え、看取り、弔ってくれるのか。その担い手の不在に直面する人々が増えていく。子どもがいても、貧困・格差のため経済的自立が困難で、たとえば葬儀や墓の購入を子どもには頼れないというケースも出てくるだろう。 終活には、自身の最期を飾るべく「自分らしさ」を演出するとか、人生の「棚卸」をすることで残りの人生を充実させるといった積極的、自発的な一面がある。前例のないステージだからこそ、伝統や慣習に縛られずに動けるのだ。だが、自らが動かざるをえない状況があることも否定できない。 終活の先駆け的な動きは1990年ごろから目立ち始めた。戦後、地方から都市へと流れた多くの人々が、都市部で新たな「家」を興した。多くは核家族で、「家」を継ぐ子がおらず、その老後が意識され始めたころだ。 「娘ばかりで墓を守る子がいない」「墓は準備したが、誰が私の骨を墓まで運ぶのか」─。そんな課題に直面した人たちが生み出したのが、継承者がいなくても利用できる永代供養墓や合葬墓、樹木葬であり、死後事務処理などを家族以外の第三者に契約で委ねる生前契約システムだった。助け合いの色合いが濃かったといえる。 国は死後のことに関して、ほとんど「家族」に頼り切ってきた。その家族の機能が揺らぎ、同時に死者が増え続ける(現在の年間死者数は約125万人。2030年には160万人)なかで、課題への挑戦から始まった終活が市場を巻き込み、もしくは市場に巻き込まれながら、その裾野を広げたのは当然の流れだった。 だが、私は市場中心の終活には疑問を抱く。経済力で利用できるリソースが規定される市場に頼りきることには違和感がある。市場からサービスを購入することに目を奪われ、「損か得か」「合理的か効率的か」といった視点にとらわれないかとも懸念する。もちろん、医療や介護など福祉分野に市場原理を部分的に導入することで、効率的で質の高いサービスを生み出す準市場は有用だろう。準市場の成否は、公的規制がカギといわれるが、現在の終活市場はその「公」が弱い。たとえば葬儀をめぐる消費者トラブルが絶えないのは、規制がほとんどないことも一因だろう。その弱点を克服することが欠かせない。 それは、死を個人に委ね切るのではなく、社会で受け止める「死の社会化」の考えにつながる。葬送や死後事務処理を社会的に支える仕組みをつくることで、だれもが死後のことを心配する必要をなくす。たとえば公営墓地を増やしたり、主にNPOが担っている生前契約に公的基準を設け、その信用力を高めて利用しやすくしたりする。 熊本県が3月に発表した、墓地行政に関する報告書はこの点で注目される。これまで公衆衛生面からかかわってきた墓地について、老後の諸課題と同様に「生涯を通した安心の実現に向けた一連の課題」と位置づけた。単身世帯や家族・地域が守れなくなった遺骨を最後は行政が守るセーフティネットの視点での墓地整備にも言及する。 報告書も指摘するように、老後と死後の課題は一連だ。看取りは、介護など生活支援の延長線上にある。終活が死後のみを対象にするのではなく、人生の終章と深くかかわるものだという、当然の認識、事実と向き合う。それが、死の社会化の第一歩だと思う。 いうまでもなく人は関係性の中に生きている。死はその関係性に大きな変容を迫る。終活には関係性の再認識や「縁」の視点が不可欠だと考える。基本的だが、家族や周囲の人々との対話を通じて関係性を再認識する。同じ合葬墓に入る者同士が生前から交流する「墓友」や、遺産を社会活動に遺贈することで自分の後ろにつながる「命」と関係を築くなどは、血縁・地縁とは異なる、終活が結ぶ選択縁だ。いずれもどう生きてきたか、最期までどう生きたいかを考え、行動することと不可分だろう。 いま国は診療報酬改定や介護保険運用の見直しなどで、医療・看護、介護の在宅化を進める。現在、死者の8割は病院で亡くなるが、「地域」に看取りの場が委ねられていく。 訪問医療・看護の態勢が不十分な地域は少なくない。だが、在宅化は地域の人々同士の関係性を見直し、再構築する契機ととらえることもできるのではないか。お互いにどう支え合うかを終活の一環として位置づける。地域はどこかの誰かではなく、自身が参画してつくるものだ。宮崎県では10年前、一人暮らしが難しく、施設や病院にも入れない終末期の人を地域で支えて看取る場として、民間のケア付き共同住宅「ホームホスピス」を住民らが協力して始めた。全国に広がりつつある。 終活を個人の死への準備にとどめず、生き方や、暮らしやすい社会のありようを考える契機につなげたい。

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    夫婦でお墓に入るのは嫌ですか

    夫と同じお墓には入りたくない。終活ブームと言われる今、こんな妻たちの声が増えているという。「夫の無関心が原因」「想像力の欠如」。夫にとっては耳の痛い話だが、ブームの裏側にはたまりにたまった妻たちの鬱憤もあるらしい。一度、みなさんに聞いてみたい。終活の目的って何ですか?