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    日本人好みの「間接自慢」進化系、それがインスタ女子である

    原田曜平(博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー) 若者に人気のSNS「インスタグラム」上で、芸能人が「偽装リア充」をアピールしているというニュースが相次いでいます。華やかなセレブ生活をアピールするために巨額の借金をしていたタレントのGENKINGさんや、友人と食事しているように見せるために、1人で2人分の食事を頼んで写真を撮っていたモデルの西上まなみさんがテレビ番組で言ってましたね。 でも、これはあくまで芸能人の特殊な例で、一般の女の子の場合はもう少し小ぶりな例が多いんじゃないですかね。例えば友達同士で集まって、そんなに盛り上がってもいないのに、SNSに載せるための写真を撮るときにはみんなでジャンプをしてあたかも楽しそうに仲良さそうにみせるとか、その程度のものでしょう。 名古屋で6月に、見た目がかわいいソフトクリームを写真だけ取ってほとんど捨ててしまっている、という写真がツイッターに投稿され話題になったけど、そういった「事件」がその後続いていないことをみると、極端な行動を起こす人はごく一部なんです。 若い女の子たちの「承認欲求」は、SNSというツールによって可視化されることで、エスカレートしているように見えます。例えば、友達と楽しそうな写真を撮ったり、かわいいソフトクリームの写真を撮ったりするのは、日常の記録のためという人もいますが、多くはインスタグラムなどのSNSに投稿し、「いいね」ボタンをたくさん押してもらうという承認欲求を得たいからなんです。 SNSという公衆の面前で、人が見ていることを前提に投稿しているということは、当然その場でどれくらいの人がリアクションしてくれるのか見たいという欲求がわきます。フェイスブックもツイッターも同じで、投稿したものに対してリアクションができるボタンがあるからこそ、反応が気になる、そういうツールですからね。原田曜平氏(博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー) 昔は「君かわいいね」「お前いいよな」と面と向かって言われるのが承認欲求の満たし方だったけど、今では知らない人でも、遠くにいても、「いいね」ボタンがあることで、認める側もライトに「いいね」ができます。そして、認められる側も数多く、幅広く「いいね」を集められる。もともとあった承認欲求というものが表現されやすくなったんでしょう。 いままでは、男なら飲んで酔っ払って深酒して、「実はおれ結構お前のこと認めてんだよ」と、そこまでいかないとなかなか引き出せなかったものが、いまはボタン一つでできるってこと。きっと今のおじさまたちがインスタグラムをやってみたら、同じように承認欲求を表現する行動をとると思いますよ。「いいね」とビックリマンチョコの共通点 そういえば、僕が小さい頃、「ビックリマンチョコ」の買い占めがありました。「おまけ」のシールだけ抜き取ってチョコだけ大量に残すというのが社会問題になりましたけど、インスタグラムに起こっていることと全く同じじゃないですか。 ビックリマンチョコも、所有というワンステップを置いているだけで、最終的にはレアなシールや強いシールを見せびらかして承認欲求を満たしていたんです。ビックリマンシールは今でいう「いいね」ボタンでしょう。別に最近の若者が病んでいるわけでもなく、いつの時代でも若者というのは、承認欲求を得るためにバカなことをするやつが一部いるということなんです。 要は人間の本質って20年、30年では変わりません。ただ、インスタグラムなどのSNSがこれだけ普及すると、ツールが生まれた分、行動も変わってきます。例えば、最近の若者は「写真動機」と呼ばれる動機をもとに行動をしているんです。昔ならおいしいものを食べに行き、いい景色だったから結果として写真を撮っていました。でも、今は旅に行くにしても、SNSで画像検索をして、例えばウユニ塩湖でジャンプした写真を撮りたいからウユニ塩湖に行こう、となります。目的と動機の主従が逆転しているんですね。常にスマホでカメラとSNSを持ち歩いている現状があるからこそ、そういう行動動機になるのは必然といえます。20年前でもカメラとSNSを渡したら同じようになっていたはずです。インスタグラム投稿例 もう一つ、インスタグラムを利用する女の子の特徴的な行動として、「間接自慢」というものがあります。要するに婉曲表現、間接表現による自慢ということです。 例えば、「私、彼氏ができました。ラブラブです」という彼氏とのツーショット写真は絶対に載せない。「栃木の温泉にきています。今旅館でごはん中です」というコメントとともに写真を載せるのに、本来だったら真上から料理を撮ればいいものを、なぜかちょっと引いて撮る。その角度の先に2人分のお皿がチラッと見える。「この子彼氏と来ているの?それとも女友達?」というくらいに匂わせる手法を間接自慢というんです。 この手法を使っている女の子はかなり多いですね。青春18切符を写真に撮って、「これで貧乏旅しています」といいながら、ブランドもののバックをさりげなく映り込ませたり、「今日は東京タワーに来ています」と運転席から東京タワーを引きで撮り、さりげなく車のエンブレムを映り込ませたり、そしてその車がフェラーリだったりするんです。 この間接自慢は、写真を中心にコミュニケーションするインスタグラムの象徴的な文化でしょうね。そもそも写真というものは、いろいろなことを示唆できる。それを一般の女の子たちが気軽に使って表現できるようになったがゆえに、間接的に自分を自慢する行為が生まれたんです。インスタは最も平和なSNS そして、今のトレンドは、「より自然に盛る」ことらしいですよ。例えば最近、自分の後ろ姿を写真に撮ってインスタグラムに載せる子をよく見かけますよね。そこに街並みの全体も見えて、路上の店舗も映り込んでいて、おしゃれな世界観をなにげなく自然に見せてね。でも、よく考えたら自分のページに自分の後ろ姿が載っているのは、すごく不自然じゃないですか。道のどこかにスマホを置いて、カシャッと撮っているわけだから。ただ、写真だけパッとみたら、本当は不自然だけど、なんとなく自然な写真に見えてしまうんです。 どうして間接的に自慢したがるのかといえば、それは日本特有の文化だと思いますよ。海外でも間接自慢の写真はあるかもしれませんけど、基本的に海外の方が階級や階層などの格差が当たり前のようにあって、自慢は悪いことじゃないからこそ、やんわりとした表現はあまり使わないんです。 その一方で、日本はなんとなくみんなが平等じゃないといけない雰囲気があって、直接自慢するやつは嫌なやつ、という島国根性、ムラ社会的な文化があるじゃないですか。だからこそ多くの人が間接自慢をやりたがるんです。直接は言いにくいからね。 とはいっても僕はインスタグラムをわりと肯定的に見ているんです。たしかにうがった目で見ると気持ち悪いかもしれません。ただ、人生は必ずしもいいことばかりじゃなく、能力もないしお金もないし自信もないし、という人がたくさんいるんです。そういう人が写真を投稿して、たった10個の「いいね」をもらうだけで、心がちょっとホッとするならそれはそれでいいのかな、と思います。人に認めてもらうことで、いろいろなものを維持できる人が世の中にはたくさんいますからね。ある意味で心のセーフティーネットになっているならいいことじゃないですか。 そのためだけに写真を撮る、ということを「病んでいる」とみるか、肯定的な見方をするか、それはどちらも間違っていないと思います。ただ、インスタグラムはツイッターと違ってリツイート機能がない分、炎上もほとんどなくて、最も平和なSNSといえます。LINEだって既読になっていないとか、既読スルーとかでもめたりしますよね。人の結婚式で悪口が言えないのと一緒で、インスタグラムはきれいな写真を載せることが多い分、きれいな場所はそんなに荒れませんからね。今までのSNSの中では一番良質で、誰も傷つけないのがインスタグラムだと思いますよ。 インスタグラムを使う若者たちをおじさまたちは受け入れられないかもしれません。でも、それは自己表現するツールが変わっただけで、昔の人が同じものを持っていたら同じことをしていたはずです。いつの時代もそうでしょう、もし江戸時代に車があったら、遠くまで行けるようになることで人々の行動や生活が劇的に変わるじゃないですか。おじさま世代にとってSNSはバーチャルであって、意味のないものに見えるかもしれないけど、実はモータリゼーションと同じくらい大きなことかもしれないと僕は思いますね。(聞き手 iRONNA編集部、中田真弥)はらだ・ようへい 1977年、東京都生まれ。慶応大卒業後、博報堂に入社。現在、博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー。多摩大非常勤講師。近著に『新・オタク経済 3兆円市場の地殻大変動』 (朝日新書)など多数。

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    「インスタ女子」がけしからん!

    写真共有アプリ「インスタグラム」に狂う女子が激増しているという。「いいね!」欲しさに女子力アピールするだけならまだしも、撮影目的で注文した料理を残したり、ゴミ箱にポイ捨てする行為も横行しているらしい。世のおじさんたち、そんなインスタ女子の気持ちを理解できますか?

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    なぜインスタグラムに狂う女子が爆発的に増えたのか

    鈴木朋子(ITジャーナリスト) 「インスタグラム」の勢いが止まらない。インスタグラムとは、写真や動画を共有するSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)だ。ニールセン デジタル株式会社が2017年3月に発表した「SNSやコミュニケーションアプリ」の利用状況によると、国内のユーザー数は1294万人。2016年5月発表の同社の調査によると、2015年から2016年にかけての増加率は84%で1092万人と、その後も着実にユーザー数を拡大していることがわかる。 特に特徴的なのが、若い女性からの支持だ。性年代構成を見ると、インスタグラムの30%が18歳から34歳までの女性であり、LINEやフェイスブックとは明らかに異なるユーザー属性を持つ。インスタグラムの画面 若い女性たちのインスタグラムに対する熱意はすごい。彼女たちは「インスタ映え」(インスタグラムに投稿すると注目を集められる写真)を求め、インスタ映えするスイーツを提供するカフェに長時間行列する。インスタグラム上で人気な人は「インスタグラマー」と呼ばれ、その生活スタイルは憧れを呼び、愛用品を入手するファンも多い。そんな彼女たちをターゲットに、飲食店は撮影用の壁や照明を用意し、インスタグラムによるクチコミ効果を狙い、女性誌は自撮り用のライトを付録に付け、「いいね」をもらえる写真の撮り方や加工のコツを紹介する大特集を組んでいる。 ここまで若い女性を熱狂させているインスタグラムとは何なのか。 インスタグラムは前述の通りスマートフォンで画像や動画を投稿し、コミュニケーションをとるSNSで、写真全体の色味を変更したり、トリミングや回転といった基本的な加工機能を持つ。好きなアカウントを「フォロー」すると、自分のホーム画面に投稿が表示されるようになる。投稿主とは「いいね」やコメントで交流することができる。 実はインスタグラムは最近始まったサービスではない。2010年にアメリカのベンチャー企業がiOS用のアプリをリリースしたのが始まりだ。色調や彩度などを簡単に加工できる「フィルター」機能を持ち、スマートフォンで撮影したスナップ写真が作品として生まれ変わる点が写真愛好家の支持を集めていた。その後、フェイスブック社に買収され、正方形に限定されていた画像も長方形で投稿できるようになるなど、時代に合わせて機能を拡張し続けている。「盛れている」写真の裏側 近年のSNS動向を見ると、テキストでの交流から画像や動画による交流への移行が顕著だ。インスタグラムは初めから写真をベースにしており、時代が追いついたといえるかもしれない。さらに、海外の「セレブ」と呼ばれる女優やモデルが愛用し、日本の芸能人へと広がったことも流行した要因だろう。インスタグラムの投稿 インスタグラムでも写真や動画に文章を付けることができるが、長文を投稿するユーザーはまれだ。「ハッシュタグ」という検索しやすくなるキーワードを付けて投稿する。鎌倉で撮影した海の写真なら「#鎌倉」「#sea」といった具合だ。ハッシュタグをタップすると、同じハッシュタグを付けている投稿が一覧表示される。フォロー関係にないアカウント同士でも、ハッシュタグ経由で投稿を発見し、「いいね」を通じて自然な交流が生まれることもある。 若い女性はハッシュタグをいくつも付ける傾向がある。先の例で言えば、場所や名称のハッシュタグだけでなく、「#今年初めて」「#靴のセレクト失敗」「#ほんとは暑くて帰りたい」などと10個程度並べる人も少なくない。検索による投稿閲覧を目的にしているのではなく、個条書きのように書けば文章にするよりも簡単に思いを伝えられるからだろう。 彼女たちがインスタグラムに投稿するのは、「盛れている」一枚だ。「盛れている」とは、現実よりもかなり良く写っている状態のこと。盛れていない写真は、インスタグラムの加工機能や別の写真加工アプリを駆使して、最高の一枚に仕上げる。「インスタ映え」するとされている、カラフルなスイーツや生クリームたっぷりのパンケーキ、海外ブランドのコスメ、セレクトショップの雑貨などの投稿が多く、真上から撮影している写真が多くみられる。 自撮りを載せるときは、盛れる角度を探して何十枚もの写真を撮る。最近の流行は、「SNOW(スノー)」などの自撮りに特化したアプリで撮影した写真だ。自撮りアプリで撮影すれば、顔に動物のスタンプを施して目を大きくするといった、誰でもかわいらしくなる加工ができる。あからさまな加工を避けたければ、さりげなく美肌にし、顔の輪郭をすっきり整えるアプリもある。 インスタグラムに投稿した写真は自分のプロフィル画面に並ぶため、数日前に投稿した写真が気に入らなくなったら、躊躇(ちゅうちょ)なく削除する。インスタグラムには常に自分のセンスが光るキラキラした写真のみが表示されるのだ。 しかし、これでは「今」を共有できるこの時代においてタイムラグを感じるし、少し窮屈でもある。そこで多用されているのが「ストーリー」機能だ。インスタはマックよりスタバ? 「ストーリー」は、24時間で投稿が自動的に消える機能だ。「エフェメラル」と呼ばれるこの機能は、海外で人気を集めた「Snapchat」というSNSに早くから採用され、2016年にインスタグラムもこの機能を追加した。若い女性にとって盛れている写真しか投稿できないインスタグラムだが、知り合いと繋がっている以上、たまには普段の自分も共有したい。そこで、自動で消えることで写真が残らず安心なストーリー機能を使うのだ。 ストーリーには、静止画と動画が投稿できる。画像を文字やスタンプで飾ったり、他のアカウントへのリンクを設定する機能もある。 ある女子高生は「スターバックスに行ったらインスタに投稿するけど、マクドナルドはインスタに投稿できない。でもストーリーならマクドナルドもあり」と言っていた。友達とマクドナルドでおしゃべりしている様子を他の友達に中継するために投稿することもあるそうだ。 他にもストーリーには、インスタグラムらしからぬ投稿が行われる。黒い背景に愚痴をずらずらと書き連ねた画像や、彼氏とイチャイチャしている動画などだ。「消えるから」と投稿するのだが、投稿を見た人がスマートフォンの画面を撮影すれば、自分の知らないところに画像が残ってしまう。そのリスクは想像できるはずだが、それでも発信したい気持ちが勝つのだろう。 実のところ、清らかな印象のインスタグラムにも怪しい投稿はある。セミヌードや性的なイメージを想起させる画像や動画、風俗店のアカウントといったアダルト系だ。ただしインスタグラムの規制は厳しく、ガイドライン違反をしたユーザーのアカウントはすぐに停止される。 また、「ステマ(ステルスマーケティング)」の問題もささやかれている。若い女性は商品を購入するとき、検索エンジンでWebサイトを検索するのではなく、SNS内を検索することが多い。特にファッショングッズやコスメに関しては、インスタグラムの投稿を参考にする。100円ショップで買えるコスメの使用感やモデル以外の人が着ている洋服など、通常の通販サイトでは見られない写真やクチコミが見られるからだ。インスタグラムでフォロワー数の多いアカウントを持つ人は「インフルエンサー」とも呼ばれ、美容系のサプリやグッズを紹介することで購買促進に影響力を発揮するのだが、企業からの宣伝依頼であることを隠して投稿している「ステマ」もあるという。 この問題にもインスタグラムは積極的に取り組んでいる。インフルエンサーがスポンサー企業の商品を投稿するとき、「XXX(ブランド名)とのタイアップ投稿」と表示される仕組みを提供することが発表されている。現状は少数のクリエイターや企業に限定して提供されているが、今後ガイドラインの公開とともに提供を拡大していく予定だ。 おしゃれな女性誌を自らが編集するように楽しめるインスタグラムは、若い女性が憧れる世界の投影だ。いつまでも夢が続くように、今後も安心で健全な運営を期待したい。

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    精神科医が教える「インスタ女子」心のメカニズム

    熊代亨(精神科医) 「インスタグラム女子」がキラキラした写真を投稿するために、わざわざ着物をレンタルしたり、高価なアイテムを買って写真を投稿したらすぐ売り払ったりする…といった話を最近はよく耳にします。他人から認められない「承認欲求」を満たしたい気持ちはわからなくもないのですが、「そこまでやるか?!」と驚かずにいられません。ただ、「インスタグラム女子」の承認欲求の充足メカニズムについて立ち止まって考えてみると、昭和生まれ世代が20代だった頃にはあまりなかった、新しい感性を想定してみたくもなります。 「何かを蒐集(しゅうしゅう)して、見せびらかして注目されたり褒められたりする」という承認欲求の満たし方は、今に始まったものではありません。  昭和時代を思い出しても、たとえば「ビックリマンチョコ」に付いているレアなキャラクターシールを見せびらかしたり、アニメのキャラクターグッズをコレクションして自慢したりするとか、そういった承認欲求の充足はポピュラーでした。  現在も、これに近い風景を「ソーシャルゲーム男子」にみることができます。近所の学生男子たちがソーシャルゲームの話をしているのに耳を傾けると、「俺の一番お気に入りのキャラクターは○○だ」「こないだ、ガチャ(希少アイテムが当たる有料の電子くじ)をやったら××が出た」といった弾むような声が聞こえてきて、ああ、男子は今も昔もそういうのが大好きなんだなぁと、安堵(あんど)したような気持ちになります。 2015年3月のマーリンズ春季キャンプで、イチローは「ビックリマン」のキャラクター、スーパーゼウスがプリントされたTシャツで施設入りした(撮影・リョウ薮下) 「インスタグラム女子」は彼らとは違います。  何かを蒐集して、見せびらかして、注目されたり褒められたりしたがっている点では、彼女たちも同じといえば同じです。  ただし、彼女たちが蒐集しているのはモノではありません。体験であったり、関係性であったりします。というより、体験や関係性が蒐集されてキャラとして練り上げた、インスタグラムのアカウントそのものです。  ビックリマンチョコのレアなキャラクターを見せびらかしている男子には、承認欲求以外にも、モノが欲しい・モノを手に入れたいという物神崇拝(フェティシズム)の傾向がありました。他人に見せびらかして注目されたいだけでなく、モノそのものに対する執着があったわけです。蒐集対象がキャラクターシールからキャラクターデータに置き換わったソーシャルゲームにおいても、この点はあまり変わりません。 他方、「インスタグラム女子」には、そうしたモノそのものに対する執着があまり感じられないのです。最近は「モノより体験」などとよく言われますが、体験に執着しているとも思えず、どうなんでしょうか。男子も中年も「いいね」集めるのが当たり前 もちろん、着物をレンタルして写真を撮ったり、一日で売ってしまうであろう最新アイテムを手にしてそれらしい場所で写真を撮ったりするのも、体験といえば体験かもしれません。しかし、本当に自分自身の体験を大切にするなら、着物のレンタルはともかく、高価なアイテムを1日で売り払ったりはせず、もっと使い勝手を確かめてみるのではないでしょうか。やはり、インスタグラムのアカウントの見栄えをよくして、他人に見せびらかすことに重きが置かれていて、体験は二の次になっていると想定せずにはいられません。 私個人としては、「プリント倶楽部」がブームになっていた90年代を思い出しても、女子という人々は、男子に比べて物神崇拝のきらいが乏しく、モノより体験を、あるいは、関係性を見せびらかして承認欲求を満たす性質が強かったように思います。そうした体験や関係性を見せびらかすためのツールとして、インスタグラムはとても便利なツールです。いや、おそらく便利過ぎるのでしょう。自分が見せたいものだけを、自分が見せたいように並べて編集して投稿できるツールが、女子の標準装備になってしまいました。これは、何気に大変なことなのではないでしょうか。 いや、女子だけを挙げるのは間違いでしょう。今では、男子や中年男女もインスタグラムのアカウントをつくって、自分の見せたいものだけを見せたいように陳列したキャラを立ち上げて、せっせと「いいね」を集めています。それが当たり前になってしまいました。 昨今、インスタジェニックなシーンのために買い物や旅行に狂奔する、「インスタグラム女子のキラキラアカウント」的なエピソードが、面白おかしく紹介されるのを目にします。もちろん、そのような極端なアカウントは多数派とも思えません。ですが、そういった記事に注目が集まるということは、ユーザーの少なからぬ割合が、それに近いアカウントに出合っているか、自分自身に思い当たる節があるか、どちらかではあるのでしょう。 インスタグラムで「いいね」を集めて承認欲求を満たすことに夢中になっている人たちは、モノを、体験を、関係性を、どこまで愛しているのでしょうか。もし、本当は承認欲求にしか眼中に無くなって、そのためなら手段を選ばなくなってしまっているとしたら、その人は本当に幸福だといえるのでしょうか。そのあたりが、私にはよくわかりません。 ただし、インスタグラムで「いいね」を集めまくっている現代人を、不幸でかわいそうな人々だと言い切ってしまうのも難しいように思います。「盛りまくって」も気にしない ひとこと承認欲求を満たすと言っても、20世紀末のころのそれと、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やインスタグラムを誰もが使用するようになった現代とでは、その前提となる感性が違ってきているように見受けられるからです。 20世紀末においても、承認欲求は人々の重要なモチベーション源でした。高級ブランド品を買ったり、海外旅行に出かけたり、プリント倶楽部を撮ったり… とにかく、承認欲求を満たすための手段になりそうなものには片っ端から手を出していました。 ただ、あの頃の人々が承認してもらいたかったのは、「あるべき自分」や「本当の自分」ではなかったでしょうか。 自分自身から乖離(かいり)したキャラをではなく、「あるべき自分」や「本当の自分」をできるだけ磨き上げて、他者に注目されたり褒められたりして承認欲求が満たされたい-この大原則に沿ったかたちで、モノを買ったり、体験を買ったり、関係性を維持したりしていたのが、20年ほど前にはやっていた感性と処世術だったように思います。だからこそ、自分自身とキャラとの乖離が大きくなり過ぎると、認められているのはキャラであって自分ではない…などと疎外感を感じたものです。 ところが今日の「インスタグラム女子」や、それに類する人々には、これが当てはまらないように思われるのです。 どれほどの虚飾と虚栄を集め、アカウントを「盛りまくった」としても、そこで疎外感を感じたりキャラとの乖離に悩んだりせず、承認欲求を満たせてしまうのが、いまどきの感性なのではないでしょうか。 これは、インスタグラムや女子に限った話ではありません。若い世代に限った話でもなくなっているのかもしれません。 たとえばフェイスブックやインスタグラムを使用している中年男女にも、「盛ってみせる」ことをためらわないアカウントはそれなりあります。ツイッターでも、明らかに等身大のその人自身とは思えない、キャラ立ちの大げさな、キラキラアカウントやネタアカウントが人気を博しています。 つまり何が言いたいのかというと、アカウント上で作り上げたキャラと「あるべき自分」や「本当の自分」との乖離は、もはやたいした問題ではなくなっているのではないか、ということです。それと、そういったことをたいした問題とは感じず、キャラが承認されれば自分自身も承認されるような感性が台頭してきているのではないか、ということです。 自分自身とキャラの乖離を意に介さなくて構わないなら、「インスタグラム女子」的な処世術もそんなに悪くはないかもしれません。「インスタ女子」は承認欲求の無間地獄か 素のままの自分自身では承認欲求があまり満たせない人でも、インスタ映えする写真を撮って、編集して、キラキラしたキャラをでっちあげてしまえば、大量の「いいね」をアカウントに集めることができます。キャラと自分の乖離に悩まない人なら、これでも承認欲求は満たされるでしょう。 むろん、それをやり過ぎて承認欲求がエスカレートしてしまい、炎上したりするようでは話になりませんが、「盛ってみせる」度合いをきちんとコントロールし、アカウントを運営できる限りにおいては、失うものよりも得るもののほうが多いかもしれません。 そういう目線で「インスタグラム女子」を考え直してみると、あれは、アカウントやキャラを複数使い分けるのが当たり前になった現代ならではの、社会適応の先鋭化した姿の一例ではないか、という風にもみえます。ツイッターのキラキラアカウントやネタアカウントについても同様です。そういうことをやっても疎外感を感じたりキャラとの乖離に悩んだりすることなく、承認欲求が満たされ、社会生活も円滑に営んでいけるのなら、そう悪くもないのではないでしょうか。 スマートフォンもインターネットの常時接続もなかった頃は、「インスタグラム女子」的な処世術や感性は、やろうと思っても難しかったでしょう。 しかし、現代は誰もがスマホを持ち、いつでも写真が撮れて、簡単にキャラを編集でき、複数のアカウントを束ね持つのが当たり前になっています。アカウントにつくられたキャラなるものが、選好や編集のうえで成り立っていることを、お互いに知っている時代でもあります。そのような時代において、自分自身が承認されたいと願うことと、自分がデザインしたキャラが承認されたいと願うこととの間に、いったいどれぐらいの距離があるのでしょうか。 「インスタグラム女子」のやり方を、虚飾と虚栄にみちた、承認欲求の無間地獄と見て取るのは簡単ですし、それにそれで事実の一端ではあるでしょう。が、そういう理解だけで本当に構わないのか、私にはだんだんわからなくなってきました。 それと、私たちは忘れてはならないのです。「インスタグラム女子」をツベコベ言う人々にしても、その大半はSNSやインスタグラムとは無縁ではなく、「いいね」のために写真を撮り、140字以内の文章をつぶやき、自分自身のアカウントのキャラを編集している点では似たり寄ったりだということを。 「インスタグラム女子」を揶揄(やゆ)したりバカにしたりしている人の中には、案外自分の中にある「インスタグラム女子」的な部分を直視したくないから、彼女たちのことをあれこれ言って、他人事にしておきたい人もいるのかもしれませんね。

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    「インスタ女子」の闇は本当に深いのか

    ブックは脅威を感じたのかもしれない。10億ドルという破格の買収額がそれを物語っている。 今や日本でも若者を中心に、「インスタ」は共通言語となった。カフェでは若い女性たちが「インスタ映え」する写真を撮る光景が見られ、「インスタ映え」するスポットやサービスが人気を集めている。若者たちの24時間には、当たり前のように他人の写真へ「いいね!」を押す時間が組み込まれ、「いいね!」がほしいから、写真をかわいく「盛る」ための加工アプリがヒットする。美容整形にも通じるインスタ女子の心理 特に若い女性にとって、スマホで何かを撮影することは、すなわちインスタグラムにアップできるかもしれない「ちょっといい写真」の在庫を確保しておくことといっても過言ではない。ツイッターでもフェイスブックでもなく、インスタがいいのだ。なぜかと聞かれても、みんなが使っているからとしか言いようがない。ヒットするアプリとはそういうものだろう。スマホのインターフェースは直感的なものだから、「なぜ良いのか」問われても言語化しづらい。直感的な気持ちよさを味わえるから「良い」のだ。 インスタグラムが提供する気持ち良さは「『少し盛った自分』を味わう中毒性」ともいえる。同アプリの特徴は、アプリ内のフィルタで加工した画像を1枚載せるだけ、というシンプルさにある。タイムラインには画像が大きく表示され、自分のトップページは画像で埋め尽くされるから、いきおいアップする写真に変なものがあってはいけないと身構える。自分の画像一覧。筆者のインスタグラムトップページはこのように表示される 筆者も多くのユーザーと同じく、ツイッターやフェイスブックに載せる画像と、インスタグラム用の画像はしっかり分ける方だ。インスタグラム用の写真はより美しく、よりかわいく、色合いも気になる。インスタを使い続けるうち、アプリの世界観に「適応」した結果だ。せめてインスタグラムの中ではかわいくいたいのである。 現実の「私」は平凡で、日常はつまらない。だからアプリの中くらい、理想の自分を演出したい。あわよくば、その「理想」に合わせて現実をアップデートしたい。この心理は、美容整形にも通じるところがある。『整形した女は幸せになっているのか』(星海社)でも論じたが、顔や体にメスを入れ、より美しく整える美容整形は、「化粧=メーキャップ≒自分を美しく盛る」という概念なしには成立しないからだ。 普段から化粧に親しみ、素顔よりも美しく整えている人ほど、素顔になった際に「落差」を意識しやすい。理想の自分=盛った自分と、現実=すっぴん。その落差を埋めるため、「すっぴんでも、化粧したかのように美しくありたい」と、美容整形にひきつけられるのだ。アイメイクをしなくても大きな目。ハイライトを入れなくても高い鼻。補正下着をつけなくても、大きな胸。それを目指して対価を払い、肌にメスを入れる行為は、特に責められるものでもない。誰でも持っている当たり前の衝動 「理想の自分」に現実を合わせたほうが自意識の安定が得られるなら、他人に迷惑をかけない限り何をしてもいいと筆者は考えている。が、ひとときでも「理想の自分」を手に入れる行為には、快楽と依存性があるので、美容整形をやみくもに勧めていいとも思わない。 インスタグラムにアップする写真は、メーキャップした顔さながらに「加工」が施されている。美容整形に引き付ければ、「現実を化粧しているようなもの」だ。そうして演出した理想の自分に合わせて、現実を引き上げたいと思う人が出てきても不思議はないだろう。 冒頭で言及した「アイスクリームを買って撮影し、その場で捨てる」件などは、「かわいいアイテムと一緒に映るかわいい私」という理想をかなえたいがために、社会的に非難されることをしてしまったケースだろう。美容整形のしすぎとでもいおうか、「そこまでするか?」という行為さえ、快楽の前では正当化される。 最近では、そうした行為が「インスタの闇」として非難されることもあるようだ。インスタグラムに載せて「いいね!」をもらうため「だけ」に連日、衣装を変えて撮影スポットに繰り出す若者や、ブランドバッグを買って撮影し、インスタにアップしたらすぐさまフリマアプリで売るなどの行為が、ネットで嘲笑されている。 「インスタ映え(笑)」と、「(笑)」をつけて揶揄(やゆ)するのもよく見かける。が、笑っているあなたも、平凡な日常にため息が出そうになったことはないだろうか。つまらない自分と、有名なセレブを比べて、うらやましくなったことが一度でもないだろうか。インスタグラムは、平々凡々とした己の現実を、画像1枚で「理想」のシチュエーションへと近づけてくれる。少なくとも、写真を眺めている間だけは「理想」に耽溺(たんでき)できるのだ。皆が嗤(わら)う「インスタの闇」は、私たち誰もが持っている、ごく当たり前の衝動なのである。

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    インスタ「#すっぴん」画像の多くは「すっぴん」ではない?

    わけではなく、アイテムを駆使して“抜けを作る行為”なのだとすれば、「#すっぴん」関連の投稿にはそんな若者の心理がよく現われているのかもしれない。関連記事■ 大江麻理子アナ すっぴんは別人で“ミス・アドマジック”評■ TBS田中みな実アナのすっぴん絶賛にテレ朝D「ウチの方が!」■ TBS田中みな実のすっぴん絶賛されるも お局「調子のるな」■ すっぴん見せぬ中野美奈子 小倉智昭との共通点指摘する声も■ 石田エレーヌアナのすっぴん ウルウルな目が修道女的と評判

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    SNSは「使い分け」が常識か 若者の「裏アカ処世術」とは

    5%と大人の利用率が高い(総務省調べ)。そのため、誰に知られても問題がないことだけを扱うSNSとして若者たちは利用し、盛んに充実した毎日をアピールする投稿を繰り返す大人は、遠巻きに観察されることもある。 とりわけ若年層に特徴的なのは、コミュニケーション内容によって複数のTwitterアカウントを駆使して使い分けていることだろうと前出の高橋さんはいう。「リアルの友人であれば誰にでも教える表のアカウントとは別に、相互フォローしないと投稿内容が見られないよう鍵をかけた裏アカ、闇アカをつくって使い分ける傾向があります。たとえば普段の友人づきあいで明るく、面白いキャラクターで通していると、表のアカウントでも同様の振る舞いを求められます。もし、そこから外れた言動をみせると、友人たちの間で居場所をなくしてしまうかもしれません。裏アカや闇アカをつくるのは、リアルのコミュニティでの居場所をなくさないための処世術です」 裏アカ、闇アカとはそれぞれ裏アカウント、闇アカウントのこと。いずれも鍵をかけて利用されるので、相互フォローしたアカウントでなければ投稿内容を読めない。そこでは、表のアカウントでは言えないネガティブな内容や、趣味の話をしていることが多い。投稿内容を理解してくれると信用できる人とだけ、こっそり教えあっている。 多くの人に知られたくない言葉を、わかってくれる人に向けて発言したい気持ちは理解できる。しかし、その場所がSNSというのは、いくら鍵をかけていても危険ではないか。何かの拍子に白日の下にさらされる可能性がある。なぜ、そうまでしてネットに書き込むのか。「ため込んでいる気持ちを書いて吐き出し、スッキリさせる、というのは、以前ならノートとペンでするものでした。でも、今の若い世代にとって身近な書く道具といえば、手に持っているスマートフォンなんです。複数アカウントの使い分けも、今のTwitter公式アプリにある機能ですから、彼らが特殊なテクニックを駆使しているわけではありません。もっとも、ときどき闇アカに投稿したつもりの暗い内容を表のアカウントに誤爆、つまり間違って投稿してしまい、慌てて取り消すことはよく起きているようです」(前出・高橋さん) SNSやスマホが今ほど身近でなかったとき、人はその場所にあわせて少しずつ顔を変えて存在することが容易だった。人とは本来、そういった複雑な生き物のはずだ。ところが、今のようにいつでもどこでもつながると、複数の顔を見せたら、自分の居場所が消えてしまうかもしれない怖さに怯えるばかりだ。SNSやそのアカウントの使い分けは、姑息な手段ではなく、実に人間らしい行動といえそうだ。関連記事■ NEWSポストセブンがLINEアカウント開設 おすすめ記事を通知■ 「LINE」有名人アカウント登録すれば撮影秘話など見ることも■ FXトレードに役立つツイッターアカウント一覧■ 韓流ペンのLINE使いこなし術 限定新曲やチケットも入手可■ 若い女性の間で拡散中 Twitterを活用したダイエット術とは

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    「帰ってきた連合赤軍」SEALDsはサヨクの足を引っ張る疫病神

    の心を鷲掴みにする。 一方のSEALDsも、ヒトラーの猿真似をすることには日々余念がない。「無党派の若者のデモ」を偽装しつつその実共産党や各種組合のご老人や外国製力がのぼりや旗を掲げて行進する。ナチスの暴力組織突撃隊と見紛う「しばき隊」は書店に押しかけ「焚書」を強要するだけでなく、最近もまた連合赤軍の再来のようなリンチ事件を起こしている。そんな凶暴な連中とさえともに酒を酌み交わし、「安倍は人間じゃねえ!たたっ斬る!」と公言して来たのがSEALDsだ。無能さを暴露したフジロック出演問題 それで大衆の支持を得られているのであれば、それも良かろう。しかし前述の通り、SEALDsが応援する陣営が選挙勝利した試しはない。そんなSEALDsが、またもやヒトラーの足元にも及ばぬその無能さを暴露してしまったのがこのフジロック出演問題だ。フジロック「SEALDs奥田愛基」出演 「政治持ち込むな」vs「そもそも政治フェス」の批判合戦http://www.j-cast.com/2016/06/20270164.html?p=all 毎年恒例の音楽イベント「FUJI ROCK FESTIVAL(フジロックフェスティバル)」にSEALDsの奥田愛基氏が出演することが発覚し、批判が集まっている。 いやいや、批判が集まろうがなんだろうが、SEALDsをはじめサヨク勢力に対する大衆の支持がより集まるのであれば出演もよかろう。しかし各界からの反応を見ても、常識で考えても、到底そうは思えない。むしろこれまで通り、大衆の支持をより失う「疫病神」エンディングになりそうだ。 まず、サヨク連中による「言い訳」が稚拙すぎ、その卑劣さや欺瞞性が大衆の反感を買うことにしかなっていないように見える。彼らの言い訳で多いのが、「音楽に政治を持ち込んで何が悪い!」というものだ。例えば、コラムニストの小田嶋隆はツイッターでこう主張している。安全保障関連法の施行が迫る中、国会前で抗議活動をするSEALDsメンバーら=3月28日 「音楽に政治を持ち込むな」と主張している人たちは、あらゆる人間の営為(恋愛、友情、祈り、嘆き、感謝、生活、歓喜、憎悪、怒り、皮肉、政治、旅などなど)を包摂する芸術である音楽から、特定の要素だけを排除できると考えている点でアタマがおかしいと思うんだが。 「アタマがおかしい」のは小田嶋なのか批判者なのかは置いておくとしても、そもそも批判者の多くは、「音楽に政治を持ち込むな」などと言っているわけではない。オウム真理教が名前を隠してヨガセミナーを催し信者を増やしてきた詐欺的手法そのまんまに、ただの音楽の祭典を装いつつ、国会前で殺人宣言をして憚らない、ミュージシャンでも何でもないサヨク組織を招いて信者を獲得しようとすることが批判されているのである。大体、ヒトラーナチスの演説や集会と比べて、フジロックにSEALDsが出たら「楽しい」などと思ってくれる者がどれだけいるのであろうか。 いや、百歩譲って、それで大衆の支持を得られ、参院選で勝利できるのであればそれもよかろう。しかし現状を見る限り、SEALDsの出演に賛成し声援を送っているのは、小田嶋をはじめとして、旧来からSEALDsのサポーターのような連中ばかりで、「新規」に支持を表明する者など一向に現れない。また小田嶋の「アタマがおかしい」というサヨク連中に典型的な異論を見下す物言いに感動して新たに支持者が増えるとも思えない。少なくともヒトラーは、心の中や著書において大衆を蔑視することはあっても、それをサヨクほどあからさまに公言することはなかった。 そうやって大衆を「芸術をわからぬ連中」と見下し「反知性主義」だのとレッテルを貼るだけで悦に入るような思い上がった連中だからこそ大衆の反感を買いいつまでも負け続けるわけであるが、アメリカのトランプ旋風のようなことが日本で起きたとしても、ヒトラーの猿真似さえまともにやれぬ無能なサヨクどもがそれに気付くことは永遠にあるまい。 彼ら無能なサヨクどもが早いとこ自省し、与党に対抗できるまともな野党勢力を結成することを切に望むが、残念ながらその可能性は、ヒトラーが現代にタイムスリップする確率よりも低そうだ。

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    運動するほど浮いてしまう「エリートな若者」SEALDsの限界

    ちご白書」ではなく「世代内アンケート」 おそらく「SEALDs(シールズ)」とは、現代の「エリートな若者」の一部を象徴する人々のことだ。それは「学年人口」「意識高い系」「ミドルクラス(中流階層)」という三要素でくくられるだろう。 まずは、「学年人口」。若者の数が多ければ、シールズは従来の若者らしく大暴れすればいい。大暴れして、「大人」世代と断絶し、若者は従来の若者らしく、孤独な長距離ランナーになればいいと思う。だが、残念ながら、今は若者が少数派になってしまった。若者一人ひとりがシールズ的にどれだけ大騒ぎしようが、その数が圧倒的に少ない。国会前で声を上げるシールズメンバーの奥田愛基氏(中央)ら=2015年9月15日、東京都千代田区(中村昌史撮影) たとえ18歳以上に選挙権が与えられても、一学年120万人×2学年の240万人に過ぎず、団塊世代一学年よりも少ないという有様だ。若者は「弱者」というよりは「少数派」なのだ。シールズがいくら大きな声で主張しても、学年人口では団塊世代の半分に過ぎない。 だからこそ、「いちご白書」のような学生闘争も、若者の間では共感を呼ぶかもしれないが、社会的には影響力が低いものになる。言い換えると、「シールズ的熱狂」は、若者の間では内輪ウケし、基本リベラルが多いメディアには大きく取り上げられるかもしれないが、それはマニアックな熱狂にしかならない。いちご白書は「白書」にはならず、単なる「世代内アンケート」にとどまる、これが今の「若者の声」のあり方だ。「意識高い系」「意識高い系」 次に「意識高い系」。反安保運動を象徴するシールズに対する微妙な感情は、「意識高い系」という皮肉な言葉が集約している。 シールズは、従来の市民運動とは異なり、そのブランディング手法やファッション戦術等、これまでのコテコテな日本の市民運動とは明らかに一線を画していた。その「画し方」は、ある意味爽快なほどこれまでとは異なっていたのだが、その表象に伴う独特な印象は、ルサンチマン(怨恨)とも言っていい、歪んだ感情を伴うことになった。段ボールのInstagramのフレームで若者の投票を呼びかけ、ポーズする奥田愛基さん(右) それは「ぼっちゃん嬢ちゃんのあそび」とか、「偏差値二流大学のあがき」とか、ネットなどで読んでみて気持ちいいものではなかったが、シールズに対する独特な憧れと反発はあったように思える。その歪んだ精神が、シールズを「意識高い系」として位置づけてしまう動きにつながっていったと思う。 では、意識高い系の人とはどういった存在なのか。以下のような人々と、シールズ的「エリート」は若干重なる。 まず意識高い系は「無邪気」である。無邪気に、「困った人々」や「弱い人々」を支えたがる。でも、困った人や弱い人は、実は彼らが思うほど困ってもいないし、弱くもない。いや、客観的には貧困や児童虐待やドメスティック・バイオレンス(DV)等で困ってはいるが、意識高い系の人々が思うほど直線的に困ってはいない。 そのお困り感を何かに転移しているし、誰かのせいにしている。とても複雑で非常に人間的な葛藤があるのだが、その複雑さは意識高い系の人々には、残念ながらうまく伝わらない。 また、意識高い系の人々は、実は社会問題そのものをあまり知らなかったりする。たとえば、貧困問題や児童虐待の問題の奥深くに存在する、「人間ならではのどうしようもない問題」について、それほど考察を深めていなかったりもする。だが、「闇」をリアルに知らないに越したことはないので、闇を知っている人たちはそんなにうるさいことは言わない。その代わりに、「意識高い系」という皮肉な言葉を使う。 また、「闇」をリアルに知らなくても、あまりにストレートな社会貢献系の「善」の言説に対して違和感を覚える人々は、これらストレートで無邪気な社会貢献の言葉たちに対して斜に構え、独特な位置づけをする。それが「意識高い系」という言葉につながったのだと思う。ミドルクラスの若者ミドルクラスの若者  僕は、主として有名私立大学生で構成されたシールズのみなさんに代表される政治的な若者の動きには、社会分析という点から常に関心がある。若者としても関心あるし、それが有名私立大学という、ミドルクラス(中流階層)以上でないとなかなか入学しにくい大学の出身という点でも関心がある。 ただ基本的には、若者の声が現在の政治に反映されることを歓迎する。シールズを中心として、若者たちは盛り上がっている。記者会見する「SEALDs」の奥田愛基さん(左)ら=2016年8月16日、東京・永田町の衆院第2議員会館(斎藤良雄撮影) ここでシールズの若者たちが補強する文化的武器は、アートであり音楽だろう。アートのことは僕はよくわからないが、端から見てもそれなりにかっこいい。 渋谷は数万人の若者の群衆で埋め尽くされ、フジロック・フェスティバルも苗場の山の中に何万人もの若者を集める。 このように「顕在化」できる、オモテに現れることのできる若者は、シールズのようなミドルクラスの若者か、年に1回のフジロックを楽しみにしてバイトに励む下流階層の若者のいずれかだろう。シールズの「限界」シールズの「限界」 つまり、シールズの若者は自らが意図せずに、いつの間にか「エリート」になってしまった。むろん、シールズとしては大衆運動として自らのムーブメントを拡大したいが、その運動を推進すればするほど、その「エリート」性が浮かび上がり、他の世代や他の経済階層からも浮いてしまう。 それを打破するためには、多様な音楽やアートなどの「文化資本」を導入し、下流階層の若者も熱狂の中に巻き込んでいくことが必要だと思う。シールズが運動で活用したラップ調の主張も、典型的な文化資本の導入だったといえる。言うなれば、シールズの若者は有名私大に属する「ミドルクラス」であり、それをアートや音楽といった文化資本で活動を支えていたのである。 だが、わが国には彼らよりも「下流」の階層の方が多いという現実もある。非正規雇用の割合は全労働者の4割を超えており、その多くは若者である。こうした下流階層の若者の多くは生活に困窮し、知識や習慣、趣味に至るまで「貧困」になるから、とかく政治や選挙といったものを「別世界」だと捉えがちである。 だからといって、恵まれた出身階層を批判しているのではない。下流階層にいる若者にとって、シールズの活動は、一部の若者による政治主張の閉じ込めに過ぎず、活動自体が空虚なモノに映ったのかもしれない。 結果として、シールズの熱狂は、下流階層の若者に響かなかった。ここにシールズの「限界」があったのだと僕は思う。

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    SEALDsの熱狂がイマイチだった理由

    「打倒安倍政権」を旗印に結成された学生団体「SEALDs(シールズ)」の熱狂とは何だったのか。野党共闘に一定の影響力を示し、政治の舞台で存在感を発揮したことは間違いない。ただ、参院選は自民党の圧勝に終わり、シールズは解散する。彼らの活動が「限界」に終わった理由を読み解く。

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    井沢元彦氏がSEALDsに意見 「9条を守れ」の主張は人権侵害

    わせたかったのだろう。 こんな事件が過去にあったことを、つい最近まで国会を包囲していたSEALDsの若者たちは知っているのだろうか? そしてまた同じような事件が起こったら「海外派兵絶対反対」と叫んで、再び「平和憲法を守るため」戦うのか? 以上のような事例を知った上で、まだ「日本に軍隊は必要ない」と叫ぶなら、それはそれで仕方がない。論理を受け付けない人間と議論はできない。しかしそうでないなら言おう。日が落ちても続いた国会前の安保法案反対デモ。学生団体SEALDsのメンバーらも参加した=9月16日夜、国会前 軍隊の必要性を認めた上で「憲法九条を守れ」と主張することは、極めて重大な人権侵害であることに君たちは気がついているのか? 「必要ない」と言うなら仕方がないが「必要」ならば、自衛隊及び自衛隊員は法治国家日本において正式な存在であるべきだ、しかし憲法九条は法律がなんと言おうと彼等の存在を否定している。だから憲法九条を守るということは、実は自衛隊員の地位と権利を正式なものとしては絶対に認めないということになる。 これもわかりやすく時代劇にたとえようか。 ある旗本の家、そこが突然武装強盗に襲われた。先代の嫡男である当主が撃退しようとしたが日ごろから武芸にはうとく、危うく殺されそうになった。そこへ颯爽と登場したのが側室の生んだ次男、つまり当主の弟である。次男の命をかけた奮闘で賊は撃退された。そして、あそこには強い用心棒がいるという評判が立ち賊も敬遠するようになった。何もかも弟のおかげである。 ところが兄は感謝するどころかこう言う。「メカケの子のくせに図に乗るな、お前はあくまで日陰の存在だ。メシは食わせてやるが、名誉も地位も求めるな!」。  どうです? ひどい兄だとは思いませんか? 人間のクズと言っても過言ではないだろう。 しかし「憲法九条を守れ」と言うのは実はこれと同じことで、「自衛隊員よ、お前たちはあくまでメカケの子だ、引っ込んでいろ」と言っているに等しい。そのことに君たちは気がついているのだろうか? たぶん気がついてはいないのだろう。気がついているならばこんな態度をとるわけがない。瀬戸内寂聴さんや大江健三郎さんのような日本の良心と言われている人たちも気がついていないのだから仕方がない。本当の日本の歴史を知らないからだ。関連記事■ ネトウヨは変人が徒党組んでる、相手するのバカバカしいの指摘■ 国会前デモ報道のNHK 報じないことにデモ起こされたためか■ デモは出会いの場 全共闘世代の武勇伝に女子大生「すごい」■ 総選挙で新人議員184名誕生 氏名標作成業者は徹夜で名入れ■ SAPIO人気連載・業田良家氏4コマ「例え話国会」

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    SEALDsは本当の政治的なマイノリティーではない

    渡瀬裕哉(早稲田大学招聘研究員) 昨年からSEALDsみたいなのが出てきて、若者の代表のような顔をしていますが、正直言って相当に違和感を持っています。それは三宅洋平さんのキャンペーン「選挙フェス」にも同じものを感じるわけです。彼らの活動を否定するわけではないのですが、学生時代から「感じてきたこと」を本日は述べたいなと思います。 それは「あなたたちは言うほど少数派ではないし、俺たちの方がよほど少数派で居場所ないんですが」ということ。彼らは自分らしく十分生きているし、それなりに通用するカルチャーの中で生きてますよね、と。 筆者はロックフェスにも行かないような地味な人間ですが、そういうものがセンス良いというような風潮に押しつぶされた感じを持ってきた一人です。SEALDsみたいなチャラい学生がいる一方、地道に大学で勉強したり、起業したりする人間もいます。社会人も一緒でそういうノリのカルチャーの中にいない人もいるのです。だから、彼らが政治にそういう若者文化のメインストリームの音楽を持ち込んできても、戦略としては理解できるものの、彼らとは心の壁というか距離を感じてしまいます。居場所なき「真面目に勉強する少数派」 筆者は現在の政治シーンでは政治や社会について真面目に勉強する少数派の居場所はないよなーと感じています。政党は単なるレッテル貼りを繰り返すばかり、運動系は単純化された政策とイメージを垂れ流すだけ、社会啓発的な取り組みは「選挙に行こう」「政策を比較しよう」という低レベルなものばかり。つまり、政治や政策の初心者や素人向けのものばかりが幅を利かせています。候補者の演説を聞く有権者ら=6月25日 若くても勉強している人々は恥ずかしくて、音楽フェス的なノリの政治イベントには参加できないし、大日本帝国を妄信しているような老人のイベントにも参加できないのです。そして、既存の大政党の歯の浮くようなポリティカルコレクトネスにはウンザリしています。人間関係上たまたま地元の餅つきなどに参加しているかもしれませんが、その場ではあいさつに来た政治家と密度の濃い政策議論を交わすこともないでしょうし、その機会は現状では永遠に訪れないと思います。 大学でマトモに政策の勉強をした人々、自分で事業を起こした起業家の人々などの政治的な居場所はこの国の中にはほとんどないと実感を込めて言えます。「弱者のために云々」は別に良いのですが、その枠にも入れない政治的少数派・弱者として、真面目に勉強した人や実社会で活躍している人が存在しています。 既存の大政党だけでなく、チャラい兄ちゃん・姉ちゃんやヒッピーみたいな人々でも吸収しきれない人々はどうするべきでしょうか。ポスター掲示板の前で感じた政治の劣化 参議院東京選挙区の顔ぶれを見ていても、積極的に投票しようと思えるメンツが一人もいない、わけです。「何でこんなにイデオロギー的に偏っているのか?」と素朴に感じざるを得ないし、その他にも訳が分からないキャッチフレーズの人達が並んでいます。もう少しだけでも中道的で理性的であることが確認できそうな人はいないものでしょうか。これが政治の劣化ってやつなのかと悲しい気持ちになりました。このような政治を育ててきてしまったことについて、ポスター掲示板の前で一有権者として責任を感じざるを得ませんでした。 今回の立候補者の顔ぶれを見て「このままでは日本が危うい」と思う人が増えると良いなと思っています。この有様まで政治を劣化させてきたのは私たち自身であり、政治が理性を取り戻すようにしたいものです。(ブログ「切捨御免!ワタセユウヤの一刀両断!」より2016年6月23日分を転載)

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    だからSEALDsは嫌われた! 失敗に終わった左派のイメージ戦略

    バーは昨年夏、国会前などの安保法案反対集会で一人ひとりが、「僕」「私」を主語にして思いを発していた。若者が声を上げる運動はこれまでもたくさんあった。私が大学生の頃も、湾岸戦争や小選挙区制に反対するデモなどに参加した記憶がある。かつての運動は主導的なリーダーがおり、演説では「私たち」「我々」との主語を使っていた。その意味で、SEALDsのスピーチは新鮮だった。民進党結党大会で登壇してあいさつした「SEALDs」の奥田愛基氏=3月27日、東京都内のホテル(鈴木健児撮影) ただ、私が最も興味があったのは、SEALDs自体よりも、促されるかのように国会前に集まってくる人たちだった。若者だけでなく、中高年や高齢者もたくさん集まった。彼ら彼女らはどんな思いで、国会前に集まるのだろうか。もちろん「安保関連法に反対するママの会」の動きもあったが、SEALDsにも刺激を受けていたことは間違いない。そんな人たちの声を聞いて歩いた時期があった。 親子で参加する人たちや車いすでやってきた人もいた。思いはそれぞれ。法案に反対する女性が、もともと賛成派だったが議論する中で反対派となった友人と、一緒に国会前にきていた人がいた。また、原発事故以降、国の方針に懐疑的になり、脱原発運動や特定秘密保護法、そして安保法制に反対をしに来た女性もいた。その女性は団体が好きじゃなく、いつも一人で行動をしていた。SEALDsが、これまで黙っていた人たちの一部を突き動かしたとも言える。「安倍はやめろ!」で遠ざかった人たち SEALDsはゆるやかなネットワークだ。活動としてはSNSを利用したものが多いが、メンバーの何人かにによると、大学内で話をすることが難しいと言っていた。これが全体の傾向だとしたら、どう評価すべきだろうか。よく言えば、個人が情報を読み取り、自立的な行動を取った結果だ。一方で、身近な場所で安保などの政治の話ができていないとも言える。市民運動は身近な人にどう訴えるが課題だが、こうした点はSEALDsも克服できていない。 ただ、違和感を抱くことがあった。メディアも野党も、SEALDsが若者の動きの「代表」であるかのように取り上げたことだ。昨年の「ユーキャン新語・流行語大賞」は「SEALDs」を年間大賞のひとつに選んだ。カルチャー雑誌「Quick Japan」は奥田さんを表紙にした。民進党の結党大会で奥田さんは来賓であいさつするほどだった。若者による運動はほかにもあったのかもしれないが、目立たなかった。下の世代のT-nsSOWL(ティーンズソウル)は取り上げられたことはあったものの、安保法制や立憲主義以外で、若者が声をあげる政治的なネットワークが広がったとは言えない。2月に行われた、高校生グループ「T-nsSOWL」が主催した安全保障関連法に反対するデモ こうした点は奥田さんも自覚的だ。15歳で起業し、女子中高生のマーケティング集団を運営する大学生の椎木里佳さんとの対談(「SEALDsの“功罪”と若者の政治参加を考える」『News Picks』7月9日付)で、「きっと、日本の若者の政治参加が少ないからSEALDs=若者という見方をされてしまうんだと思います」と述べている。 実は、国会前の集会で「安倍はやめろ!」とコールし始めたとき、私は、この動きはこれ以上の広い層に広がらないのでは?と思った。たしかに、安保法案反対派や非自民勢力の一部を結集することはできた。とてもわかりやすいキャッチコピーだった。しかし、一強多弱で、かつ安倍内閣支持層が4割を超える中、保守層を遠ざけた印象を持った。私の知人で保守的な人間は国会前に行かなくなった。それはSEALDsのせいではない。むしろ、利用した非自民勢力=野党共闘勢力の責任は大きいのではないか。若者に響かなかった「若者代表」SEALDs 今回の参院選でも、そのムードは引きずったのではないか。読売新聞の終盤情勢調査では、10代の過半数、20代の半数近くが与党支持だった。もちろん、SEALDsなどでつくる「市民連合」が接着剤となって野党統一候補が実現し、善戦した選挙区もある。32ある「1人区」では、野党共闘は11勝21敗。負け越しだが、福島県と沖縄県では現職大臣を落選させた。奥田さんが「一定の効果があった」と言ったのは事実だ。しかし、蓋を開けてみれば、「自民 比例2000万票超え 19人当選 01年『小泉旋風』に次ぐ」(朝日新聞7月11日夕刊)結果となった。 メディアでは、若者の投票が期待されていた。私も週刊誌でそうした記事を書いた。参院選では初めて「18歳以上」が投票する国政選挙になる。若者が声をあげて、閉塞感のある国政を変えることができると思っても不思議ではない。たしかに、参院選では、初めて投票する「18、19歳」の投票率は45.45%で関心が高かった。とくに18歳は51.17%だ。全体の投票率が54.70%で、戦後4番目の低水準だった中では、高かったのではないか。しかし、NHKの出口調査では、10代の42%は自民党に投票した。SEALDsの呼びかけは、全体としては影響を与えなかったということか。 メディアは過剰に注目しすぎた。たとえば、毎日新聞WEB版は選挙前の6月20日付で、SEALDs解散を伝える奥田さんのインタビューを掲載した。開票後、朝日新聞のWEB版は「民進の小川氏当選 SEALDsも支援、東京2議席守る」として、SEALDsを見出しに使った。東京新聞は7月12日の社説で「奥田愛基さんを中心とする学生グループSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)は、野党共闘を実現させた事実上の立役者だった」と特筆した。このように、メディアはSEALDsを特別視していたのは明白だ。 特定の団体を取り上げ過ぎれば、むしろ言論の多様性が失われる。SEALDs内にも多様な意見があるはずだし、他の言論が取り上げられないのであれば、若者の政治的イメージが画一化される。そうなれば、「民主主義ってなんだ?」と叫びたくなるのは若者世代の方だ。自民圧勝の背景には、そうしたイメージへの反発(嫉妬も含む)もあったと思うのは考えすぎだろうか。しかし、どんな立場であっても、若者が動き、様々な世代との連動をこれから期待したい。

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    国会前デモは「じいさんたちの同窓会」だった

     昨年、安保法制をめぐり、国会前ではデモをしたり、ハンガーストライキをする人々が登場した。しかしながら、安保法制が成立後、安倍内閣の支持率が上がるなど、皮肉な事態も発生。ネットニュースの専門家・中川淳一郎氏と、ネットに一切触れない評論家・呉智英氏がこうした動きについて話し合った。中川:昨年は左翼の力が弱まった年だったと俺は認識しているんです。安保法制反対の国会前デモは、昔の学生運動のじいさんたちのただの同窓会になっていた。若いのが出てきたから、「奴らに媚びれば、俺たち、もう一回、青春を送れる」っていうくそじじいがいっぱい出てきちゃったの。2015年7月、安全保障関連法案に反対し、国会前をデモ行進する人たち呉:そうそう。新聞や週刊誌の写真見てると、ああ、こいつ、こいつって、知ってるヤツがいっぱい(笑い)。中川:元気そうだな、お前、みたいな。呉:いや、ホント、国会前デモやっていたのとは別の、人権啓発とか部落解放とかの活動をしている若いのに話を聞くと、「年寄りにはうんざりしますよ」っていうんだよ。30年前、40年前と理論がまったく変わっていないって。なぜ変われないかというと、自分の居場所をそこに見つけて、メシも食っていけるし、自分のアイデンティティも確認できるし、他との理論闘争もないしで、安住できるから。中川:ああ、なるほど。呉:だけど、中川君は去年から左翼がうんぬんといったけど、俺は一昨年夏の朝日新聞の慰安婦虚報謝罪から、左翼衰退が顕著になったと思う。あの事件で、今まで左翼の理論は、すごい虚妄な理論やウソの事実のうえに乗っかって組み立てられていたということがわかっちゃったでしょう。── 一方でSEALDsの登場が「リベラルの希望」といわれていますが。呉:あれを取り込もうと思った段階でバカだよ(笑い)。あんなものは何の役にも立たない。大衆を利用する方法はいくらでもあって、毛沢東でもスターリンでもやっているけど、じゃあ、アジったら、あいつら武器もって国会に突入するのかよ。中川:たぶん、「単位落とすぞ」っていわれたら、デモに来る数、激減じゃないですか?呉:俺が住んでいる名古屋でもあちこちにビラが貼ってあったの。ビラじゃなくてフライヤーとか呼んでて、その辺も軟弱で嫌なんだけど、それに「何月何日、何々公園に武器をもって集まれ」って書いてあったの。俺は感動して、ついに機動隊に殴りかかるかと思って、よく見たら武器じゃなくて「楽器」だった。『Yの悲劇』かよ(笑い)。この冗談の解説は入れないように。──了解しました!関連記事■ ネトウヨは変人が徒党組んでる、相手するのバカバカしいの指摘■ 国会前デモ報道のNHK 報じないことにデモ起こされたためか■ デモは出会いの場 全共闘世代の武勇伝に女子大生「すごい」■ 総選挙で新人議員184名誕生 氏名標作成業者は徹夜で名入れ■ SAPIO人気連載・業田良家氏4コマ「例え話国会」

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    SEALDsに群がるトンチンカンな人々

    清義明(フリーライター/オン・ザ・コーナー代表取締役)ロックに政治を持ち込むな??? 今年のFUJI ROCK FESTIVALに、SEALDsという学生団体の人がステージに出るということで、ひと騒動になっているらしい。 どういうことかと言えば、「ロックの世界に政治を持ち込むな」という物言いが多数ついたということ。 これについては、たくさんの方々、とみに当のロック関係者の方々から、それどうなのよ?という反論が来ていて、おおよそこの筋で決着をみると思われます。まあ当たり前ですね。 ロックが政治や思想と切っても切り離せない存在であるというのは、ほんの少しでもその世界を齧ったことがある人ならばわかるものでしょう。 例えば・・・とやるのも野暮なんですが、いくつかだけ。 プラスチック・オノ・バンドの「ハッピークリスマス」が、単なるクリスマスソングだと思っている人がたくさんいる日本だったら仕方がないことかもしれないです。ベトナム戦争の真っただ中で「戦争をやめさせるために立ち上がろう」とアジテーションした歌が、毎年毎年街中に流れている日本はどれだけ反戦左翼の国なのか・・・と錯覚させられるほどです。 ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」は、なんだかアメリカ万歳!の歌だという風に聴こえている人も多いと思いますが、あれは、ベトナムの帰還兵のことを歌っています。 薄汚れた町に生まれ育ったオレが、ある日、黄色いヤツを殺しに行ってこいと銃を持たされてベトナムへ行った。サイゴンで現地のベトナム人の恋人を持った友人は死んでしまった。それでアメリカに帰ってきたら職にもありつけない。これがアメリカなんだよ・・・当時社会問題になっていたベトナム帰還兵のことですね。→こちらどうぞ こうあげていくと当然ながらキリがありません。というか、当たり前すぎる話なので書いているほうが恥ずかしくなってくるという(笑) ひとつだけ付け加えると、フジロックフェスティバルの第一回で伝説ともいえるライブを行ったのはRAGE AGAINST THE MACHINEですが、彼らは極めつけの政治的なロックバンドで知られています。→こちらどうぞ こうしてみると、なんというか日本の英語教育が間違っていたのではないかという情けない結論も導き出されてきたりして(笑) 実質、英語だったらOK、日本語はダメってわけですから。 そのフジロックフェスティバルは、そもそも毎年、反原発やら反差別の団体の出店ブースがあったり、元から「政治的」なわけですよ。いちいち言わずもがなことですが、こうしてロックと政治や思想は表裏一体で、その中には昨年の椎名林檎のようにこれまた議論を呼ぶものもあったわけです。まあアレはご本人は政治的なものでないとおっしゃられて火消しされてましたけれどもね。選挙への参加を呼び掛ける曲を録音中の佐藤タイジさん(右から2人目)、奥田愛基さん(同3人目)ら=6月、東京都渋谷区SEALDsに群がるトンチンカンな人達 さて、おそらく、これが反原発だったり反差別の団体だったら、まあまたいつものアレだよね・・・的に特に指摘されることはなかっただろうと思います。 問題はそのアクター(?)がSEALDsという、安保法制反対で名をあげてメディアに持ち上げられた学生グループだったからというのが大きいのでないのかと思わざるをえないわけです。 ひとつは、ホントにロックは政治抜きで語れると思っていた歌詞抜きでふんふん鼻歌していた「オーディエンス」の方もいらっしゃるでしょう。まあこの人達はとりあえずいいとしましょう。よくないですけど。 さらにもうひとつは、やはり嫉妬めいたものがあるんじゃないですかね。または彼らの政治的な主張に嫌悪する人。 自分も昨年の椎名林檎に関しては、まあ気分はよろしくはないクチなわけです。だから、まだこれは気持ちはわかる。しかし、それならば行かなきゃいいだけじゃねーの?としか言いようがない。それでも嫌だったら、おまえらの主張には賛同できないとブーイングでもしに行けばよい。そのほうがよっぽどロック的じゃないですかね。 このSEALDsというのは、まあなんというか、こういう嫉妬やら生理的な嫌悪みたいなものを一心に集めていて、これがなんともはやある意味壮観なわけです。 そのSEALDsの奥田愛基という人が出した自伝を読んだわけですけど、やっぱりそういう話はあるわけで、呑み屋か何かで隣り合わせたおっさんが、あのSEALDsとかいう連中の言っていることはうんたらかんたらと説教めいた絡まれ方されたらしいんですよ。で、その張本人ですと告げたらびっくりして逃げていった・・・みたいな話とか。 ようは、おっさんども、なんか言ってやりたくて仕方ないわけです。そうして、この団体のまわりには、本当に多数の連中があーでもないこーでもないとやっている。そして、それがまた的を得た話ならともかく、もうどうにもこうにも適当な話が多いわけですよ。SEALDsは戦後民主主義信奉の優等生 SEALDsがおすすめする「選書」とかあるわけですが、ちょうど先ほども、それが「新左翼的」とか「ポストモダン」だとか言って批判している人がいたりして、思わずtwitterで突っ込んでしまったわけです。うーん、「新左翼」「ポストモダン」・・・。それでSEALDs批判・・・。 いや、この選書には竹内好とか新左翼の一部に強い影響を与えた人の本とかありますし、著者が元新左翼というだけなら何人かいるわけです。けど、もう明らかに新左翼とは対極にある選書のラインナップなわけですよ。というか、一番上に『丸山眞男セレクション』がある時点でいわば「新左翼おことわり」と宣言しているようなもんなんですよ(笑) かつても触れましたが、SEALDsの公式見解をつらつらと読んだりすると、もうこれ以上ないくらいに戦後民主主義信奉の優等生すぎるくらいの優等生で、そういう意味では「保守」といえるくらいなわけですよ。 ところが新左翼というのは、その戦後民主主義なんかクソくらえ!というのが基本の「キ」なんです。丸山眞男は新左翼の学生にさんざん小馬鹿にされ、研究室を蹂躙されて、その学生に「こんなことはナチスでもやらなかった」と言って、またこのブルジョアインテリのおっさん邪魔くせ、とやられていたぐらいです。そんな話は以前書いたのでそちらをどうぞ。安全保障関連法施行を前に会見する奥田愛基さん(右から2人目)らSEALDsのメンバー=3月28日、国会   また「ポストモダン」というのもなんだかなーと言う話で、確かにデリダ研究者の東浩樹がはいっていたり、フーコーの研究者が入っていたりしますから、まあ見当はずれにしても、ほんのちょっとは当たっているかもしれません。しかしそれにしても・・・。 そもそもこの「ポストモダン」という言葉も日本独自な使い方です。それとほぼ同義に近い使われ方をする「構造主義者」は、1968年のフランスの学生運動(以上のものでしたが)の中で、「構造はデモにこない」などと揶揄され、その反動ともいえなくはないですが、いわゆる日本でもてはやされた「ポストモダン」のヒーローたちは、そのデリダにしてもフーコーにしても「政治転回」していっているわけです。つまり、日本で言うところの「ポストモダン」が価値相対主義とか「軽やかに逃走する」人たちを指しているのと、全く違う方向にいったわけですよね。 かつてポストモダンの日本におけるローカルヒーローであった浅田彰は、ガタリというホンモノのヒーローがやってきた時に、山谷の労働者支援などをやっていた左翼系の人達を「愚鈍な左翼」と呼んで嘲笑していたのをガタリにたしなめられたというちょっとばかり有名なエピソードがあります。確かに彼らは「愚鈍」かもしれないが、なんもやってないアンタよりはまだマシでしょ、という極めてまともな正論でした。いまや、その浅田彰もそのフォロワーだった坂本龍一なども、いまでは「愚鈍な左翼」路線なのは、各種デモやら政治的発言をしているところをみればわかるでしょう。 まあ、面倒くさい話はともかく、様々な色合いがあるかもしれませんが、おおよそ日本で流通している「ポストモダン」という用語は、日本独自な用法で、ほとんど何かを指し示す術語としては体をなしていないということだけお分かりになればよいかと。 話を戻すと、ようするにSEALDsの推薦図書リストから、そういう「新左翼」とか「ポストモダン」というのはほとんど感じられないわけで、むしろやっぱり優等生的な戦後民主主義ですね。これにそういう表現を使うところで、なんともはやなわけです。 こうして、相手はガキだと思って、ひとこと言ってやんべっかーというような人が群がっていて、トンチンカンな言いがかりをつけているわけです。ロックに政治を持ち込むな、とか。 まあ、これがネットの炎上レベルの話ならば、ともかくとして、最近は『SEALDsの真実』などという本も出ている。これもまたなんというか的外れな論考で、その理由はただひとつ、ネットの情報をつなぎあわせてコラージュした本だからなわけですね。 ネットにある興味本位やウソも混在した情報をつなぎあわせると、なんだかよくわからないモンスターがつくられることがあります。これすなわち陰謀論です。著者の田中宏和さんのブログは、自分は2000年代初頭によく読まさせていただきました。海外のしっかりとしたソースを分析していく手腕がそこにはありましたが、やはり国内のネット情報がソースだとどうにもならないですね。たぶん、この人はこの著作で全くといっていいほど関係者に取材はしてないでしょう。これが『分析と解剖』ということですからなんともはや。これでは、自分の子供ほど年の違うSEALDsの学生さん相手に、40も過ぎた男がヨタ情報で陰謀論書いているといわれてしまいますよ。あの学生さんたち、そこまでの存在じゃないですよ(笑) さらに、千葉麗子さんが書いた『さよならパヨク』という本もありました。これは本の半分以上が単なるゴシップ本なわけで、そういうのが好きでたまらない人にはいいのでしょうが、それ以上の価値がありません。ただ、まあこれは田中さんの記事と同じく、なんでそんなことを書くのか、その心情だけは理解できるので、全面的に批判するつもりにはなれないんですが。 その中で、今の官邸前で反原発運動をしている「反原連」が日本共産党に乗っ取られている、という説を流していらっしゃるようですが、まあぶっちゃけ、日本共産党の関係者の方々が多数いらっしゃるのは間違いないですよ。でも、それとは相対的に自立して行動しているのもこれまた間違いがない。 あのですね、そもそも日本共産党って、3.11まで明確な「反原発」ではなかったわけですよ。遡ると、60年代までは原発推進の立場だったわけですよ。彼らはマルキストですから、テクノロジーの進歩は全面肯定する立場が本来ですから。共産主義とは電化のことである・・・みたい名言(迷言?)をレーニンは言っていたくらいです。そして60年代以降も、即時全面禁止という立場ではなかったわけですね。 もちろん徐々に方針を変えてきたというのは確かですが、それは既存の非政治的な勢力の盛り上がりに足並みをそろえて、むしろそちらについていこうというところが正しい見方かと思います。まあとはいうものの、日本共産党の天敵である、新左翼を排除したり、まだ原水禁と微妙な距離があったり、などというところで、べったりというところまではいかなくとも、相当に影響力があるというのはそれはそれで間違いないでしょう。ただ、チバレイさんが言うように「乗っ取られている」というのはどうかなー。で、SEALDsもその流れにある、と。まあ、これは見当違いでしょう。 まあ、こんなわけで、フジロックの話しかり、SEALDs選書の話しかり、『SEALDsの真実』しかりで、まあなんというか、壮大なモンスター像が出来上がってしまっているわけですよね。いや、あの学生さんたち、そこまでの存在じゃないですよ(笑)流行語大賞で「SEALDs」がトップテン入り。表彰を受けるSEALDsのメンバー 手前は挨拶をする奥田愛基さん=2015年12月1日、東京都千代田区の帝国ホテル闘わない「闘い」は学生運動の失敗が招いた こうして知ったかぶりと陰謀論と親父の説教ぐせ(特にいわゆる往年の活動家界隈)の人達を、SEALDsはものすごい勢いで吸引していっているバキューム状態なわけです。もうね、カオスですよ、カオス。 そんなわけで、別にステマするわけでもないですが、そういう人達にオススメ・・・というか、たぶんそういう人たちにこそ読んでもらいたいという意味もあって出したと思われる奥田愛基自伝『変える』は面白かったわけです。 この本、「自伝」とは書いてないんですが、そういう本です。北九州の牧師の家で生まれ育った奥田が、その牧師の家らしいというべきか、様々な生活困窮者を受け入れてきた話。中学校の頃のイジメ体験。そこから島根の高校を選び、その学校の文化の薫陶を受ける。そして、仲間との出会いからSEALDsの創設へ。 一応書いておきますが、自分はSEALDsの政治的な主張には賛同できません。けれど、まあ二十歳かそこらの若いヤツがここまで大きなムーブメントをつくって、しかもやっていることもたいそうなオトナなところを感服しているわけです。 あなたたち、おい、おっさん。20歳かそこらの時、なにしてました?ファミコンやったりパチンコやってたり、クラブで呑んだくれてたり、ダイヤルQ2や出会い系サイトやっていたり、少年ジャンプ読んでいたり、しょうもないサークル入ってスキー行ったり、テニスしたり・・・そんな感じじゃなかったですかね。はい、自分もそんなひとりです。そうするとやっぱり彼らは立派だな、と。 僕らの若いころ、そして今でも脈々と続いているのは政治回避です。外山恒一は、その著書『青いムーブメント』の中で、新左翼運動の失敗により、「政治的な闘いに関わらないという闘い」がいわゆる日本のいわゆる「サブカル」ではないかと喝破しました。80年代は闘わないという闘いを積極的に理念にあげる時代だったということです。それは今も脈々と、「ロックに政治を持ち込むな」風な流れとして残っています。新左翼のみなさん、あなた若いのが政治を回避しているとか偉そうに説教している場合じゃないですよ。あなたたちの荒唐無稽な「世界革命」や、数百人の死者を出した内ゲバが、その原因なんですよ。 仮にそれが学生運動の時代に比較して、ぬるいものだったとしても、それはあなたたちを乗り越えようとした結果そうなったわけです。もうちょっと、なんというかケチつけるだけではなく、温かい目で見ることもできるんじゃないですかねえ。 さて、興味をもって、この政治的主張ではなく、リーダー格のひとりの「自伝」を読んだわけですが、そしてなんともいえない読後感を抱いたのでありました。3.11後のセカイ系3.11後のセカイ系 ひとつ思ったのは、この人は、まあちょっと前に流行った言葉でいうと、一種の「セカイ系」なわけですね。少なくともこの自伝ではそういう物語をつくろうとしている。  セカイ系というのは、自分の内的な世界の閉塞感を、物語だか現実だかわからないセカイに照らし合わせていこうとしている人たちのことですね。自分の理解ですが。だから、世界の出来事と自分の内的な世界が奇妙に一致してしまっている。本当はそんなことはないんです。世界はあなたと全く関係ない理屈で動いている外部なわけです。彼らは自分が苦しんでいる閉塞感から逃れんがために、世界の滅亡を希求する。または絶対的な変化を求める。それが宇宙戦争でもいいし、天変地異でもいいわけです。もちろんそんなキミのセカイのために、世界が滅亡されても関係ないオレには迷惑きわまりないわけで、そういう意味でセカイ系、ホント迷惑な連中だよな、と思っていました。だって彼らの世界の滅亡はたったひとりの自分のセカイの「革命」のためのものですから。 ところが、3.11っていうのは、実際に世界の滅亡みたいなカタストロフィが起きてしまったわけです。ローカルではありますが、確実に起きた。そうすると、セカイ系の人達は何を考えるか。 奥田自伝の中で、映画『ヒミズ』の公開にあたって、監督である園子温が語ったという言葉が引用されています。全体的に僕はこの映画に、今までの映画、僕の作り続けてきた映画とは明らかに変わっていかざるを得なかったという状況があったというこ とです。僕は非常に、人間って言うのはこんなもんだよという絶望的な姿を丸裸にするような映画を撮り続けてはいたんですけども、それだけではもうやってい けないなというのが3.11以降の自分の映画のあり方で、それをやっぱり「ヒミズ」 は自分の中の映画史、映画を作り続けてきた中で非常に転向したというか変わらざるをえなかったということです。それは1ついうと絶望していられない、へん な言い方で言うと希望に僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった。だから簡単に言っちゃって、「愛なんてくだらねえよ」って言ってたやつがすごい人を好きになって、愛に白旗を揚げた、愛に敗北。そういう意味ではもう絶望とかはいってられなくなったなと。それは 絶望に打ち勝ったというよりは希望に負けたという。希望を持たざるをえなくなったなという。これからはただ単純に絶望感だけではやっていけないっていう、 そういうテーマです。それは誰かを励ましているわけでも、だれかをけなしているわけでもなく、そういう今、非日常を生きていく決意を新たにこの映画で刻ん でいこうという、それがテーマですから。 園子温は、その昔、「東京ガガガ」というパフォーマンス集団をやってきた人ですし、そのパフォーマンスも映画も、自分の情けなくもみじめで悲惨な境遇を、どうやって現実世界に解放していくか、ということばかりを追求してきたような人です。その手段として荒唐無稽な露悪趣味を選んだ。ところが、3.11で、そのぶつけていくべきセカイがいわば崩壊してしまった。そのときに、何をしなければならないか。これは自分が望んでいた世界の滅亡の後なのではないか。だとしたら、そこで自分は初めて何かを成し遂げることができるのではないか、と。ここで露悪趣味は終わりにせざるをえないのですね。これが彼が「敗北」と言っているものです。「転向」と言い換えてもいいでしょう。 もちろん、奥田愛基という人は、生まれ育った家庭環境からして、一種のリベラルのディシプリンをもった人だったわけです。で、それがさらに島根の山奥の自由学校みたいなところで花開く。だから、純粋なセカイ系とはちょっと違うわけです。彼には世界が視えていた。そういう違いはあるわけですが、まあ3.11後に、ノンポリだった人達や既存の政党政治枠にはめられていた人がストリートに出て何かをまじめにやりだしたというところは傾向としてあるのではないかと思うわけです。それを彼はひとつ体現しているのではないか、と。 このマジメさは、先行するアナーキズムに彩られた高円寺系のアウトノミアの人たちや、全く違った革命のための物語、すなわち唯物史観をもった人たちとも別のもので、もう優等生以上に優等生的な立ち居振る舞いや、出来損ないのスクラップの組み合わせでもいいから何かを建設するというような前向きな意志を感じさせるところではないかと思うわけです。 こういうセカイ系の物語として自伝が書かれているから、生臭いことは一切書いてませんが、それなりに面白いので、よかったらどうぞ。 そんなわけで、最後にとってつけたような「分析」があって、おまえもSEALDsに誘引されている蛾みたいなもんで、単になんか言ってやりたいだけじゃねーかもと言われればそれまでですね(笑) 自分はもう少し、この鼻っ柱が強いセカイ系の連中が織りなす3.11後の物語みたいなものを見ていこうかと思っています。私はガタリと同じく、例え愚鈍であっても何かを構築しようという人たちが趣味的に好きですので、まあそういうことになります。(清義明のブログ「Football is the weapon of the future」 2016年6月21日分を転載)

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    実態なき支持層が産み出した「選挙フェス」という都市伝説

    の話題の一つは「選挙フェス」と銘打った選挙運動を展開した三宅洋平氏だろう。 「毎回数千人、万人単位の若者が『選挙フェス』に詰めかけ、これまでにない盛り上がりをみせている」とか「街頭演説のYoutube動画の再生数が数十万回」云々といったことで注目を集めた。三宅洋平氏 山本太郎参議院議員との二人三脚とも言える選挙活動を展開したことによる話題性もあり、「圧倒的な盛り上がりを見せている『選挙フェス』や三宅洋平候補のことを既存メディアは報道しない」とか「ネットやSNSなどで若者層を中心に急激に支持が広がり、既に当選圏内にいる」などの情報が、選挙戦終盤では既存メディアからも出てくるようになった。 これまで選挙に関心を持たなかった(けど、三宅氏の演説を聞いて危機感を持ったという前提の)若者達の草の根的な運動によって、当選圏へと入る急激な支持拡大をしていると言われた一方で、それを正当に評価しようとせず、報道しない既存メディアへの批判も、ネットを中心に話題となった。 ミュージシャンということで、芸能人や著名人を応援に多用しているという「ゲタ」はあるにせよ、「泡沫候補扱いだけど、本当は当選圏にいるダークホース」ということで、関心をもった人は少なくないはずだ。 しかし、結果は、三宅氏はダークホースとして当落を争う激戦をすることもなく、普通に落選。三宅氏と彼の率いた「選挙フェス」による急激な支持拡大という情報が、単なる「都市伝説」だったことを露呈する結果となった。都市伝説だった「三宅洋平ダークホース説」 東京選挙区での開票状況を観察しても、一時的にであれ、三宅氏が当選圏内に入ることはなかった。開票速報では、常に9位前後が定位置で、当落戦上の争い(6位争奪戦)との得票差は広がることはあっても縮まるようなことはなかった印象だ。 当落ボーダーである6位争奪戦は、小川敏夫氏(民進党・当選)、田中康夫氏(維新・落選)によって繰り広げられていたが、8位には横粂勝仁氏(無所属)が常駐していた。そして三宅氏は基本的に「横粂と8位を争うことのない9位」というポジションであった。 むしろ、三宅氏よりもはるかに小さい組織と規模で、三宅氏とは比べものにならないほどの泡沫扱いで選挙戦を戦った横粂勝仁氏の方が5万票も多い得票(約30万票)を得ている。もちろん「フェス」などしていない。 それでも横粂勝仁氏は一度だけとはいえ、衆議院議員の当選を経験している(民主党の比例復活当選)という点においては、多少の有利性はあったかもしれない。選挙の方法も、政策の作り方も、三宅氏よりは熟知しているだろう。 しかし、国会議員を落選してからは弁護士として、「あの人は今」のレベルで、ごくまれにメディアに登場する程度であり、それほど大きなアドバンテージを持っているわけではない。それは、元衆議院議員で財務副大臣や安全保障委員長まで務めた小林興起氏が、扱いも得票も完全に泡沫だったことからも明らかだ。【参考】<おっさん若者?>椎木里佳氏の古すぎる感性は「現代の若者」の縮図 いづれにせよ、選挙期間中、ネットを中心にさんざん目にした「三宅洋平ダークホース説」とは、単なる「都市伝説」でしかなかったことは事実だろう。 このように開票結果を振り返ってみると、あれほど騒いでいた「選挙フェス」とはなんだったのか? 三宅洋平氏と「選挙フェス」にまつわる都市伝説がなぜ生まれてしまったのか? なぜ、「当選圏に入った(けど、報道されない)」などという都市伝説が選挙期間を通じて急速に広まったいったか? 疑問は尽きない。さすがに三宅陣営の宣伝戦略の成果、というだけでは説明もつかないように思う。早朝まで続いた国会前の抗議集会で笑顔を浮かべる若者たち。マイクを持つシールズ中心メンバーの奥田愛基さん しかしながら現段階で分かることは、フェス感覚で「気軽に政治」に参加することが、若者の政治参加を促す方法の一つとして評価される一方で、フェス感覚で盛り上がることを自己目的化しただけの「パリピ(パーティーピープル:派手なイベントやフェスが好きな若者層)」たちの多くが、実態なき支持層にしかなりえなかった、という現実だ。これは、真剣に政治活動として三宅氏の選挙を担った支持者たちの現状把握能力をも狂わせたはずだ。 もちろん、フェス感覚を利用した政治参加という手法だけでなく、フェス感覚を前面に押し出すことで、若者の支持を取り込もうとする(そして政治化させる)SEALDsなどに代表される「フェス標榜政治活動」についても、今後、細かい検証や研究が必要だろう。また、それを利用しようとする政党の動きにも注視すべきかもしれない。 いわゆる「大人の社会」は、思想の是非はさておき、若いエネルギーや若い活動を、どこかしらで支援しよう、支持しよう、応援しよう・・・という心情や土壌を少なからず持っている。そして、その状況を狡猾に利用しようとする「プロ若者」の存在が状況を分かりづらくしている事実もあるだろう。 今回の参院選で多くの有権者が目にした「選挙フェス」という都市伝説。現在進行形の若者層の価値観だけでなく、メディアやネット社会のあり方なども含め、この問題を考える切り口は多い。今後の若者層の政治参加や政治意識の実態を考える上で、非常に有用な参考資料になったように思う。

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    落選運動では政治への関心が低い人を巻き込めない

    年ぶりに変わるということ、それ自体がもちろん大きな変化です。しかし、私は法律的な変化にとどまらず、「若者と政治」あるいは「若者と社会」の関係が大きく変わり、新たな時代に突入したのだと言えるぐらいの動きを作っていく必要があると感じています。そのような理由から「18歳選挙権“時代”」という言葉を使っています。 参議院選挙までまだ半年以上ありますが、各政党・立候補予定者はもちろんのこと、政治に関わる人は選挙に向けた動きを色々と始めています。本稿では、政治への関心が高い人ができる、政治への関心が低い人を巻き込む政治的主張の方法について考えてみたいと思います。 流行語大賞にも選ばれた「SEALDs」。安全保障関連法案への反対を訴えて学生が集い、国会前の集会をはじめとした様々な動きを行い注目を浴びたことは皆さんの記憶に新しいと思います。彼らの想いと反対に安全保障関連法案は賛成多数で成立しましたが、彼らは他の団体など共に、参議院選挙に向けて「落選運動」を始めているようです。落選運動とは、簡単に言えば、自分たちの主義主張とは合わない議員の当選を阻むための行為の総称です。つまり、SEALDsは安全保障関連法案に賛成の立場をとった参議院議員で、来夏改選を迎える人が選挙で当選しないことを目標としているといえます。ですから法案への賛否や、実際の目標を達成するための効力などではなく、冒頭にも書いた“政治への関心が低い人を巻き込む”という視点からみれば落選運動の効果は薄いと考えます。 最大の理由は、一般の人からすれば選挙という決定の機会は遠い先のことだということです。ゴールを選挙の結果に絞り、今から運動を展開することは実感がわきません。安保法案の審議中、国会前の集会に多くの注目が集まったのは、今まさに行われている決定のプロセスに影響を与えるという行動であったからです。しかし、決定のプロセスである選挙の開始は半年以上も先のことであるにも関わらず、すでに選挙を意識しなければならないということはかなり難しいことです。加えて、「安保関連法案はダメな法案で、その法案に賛同した議員を当選させない」という確立した主張以外の考えが入る隙間がないことも、人の巻き込みを更に難しくしています。 つまり「安保関連法案への反対」と「議員を落選させること」、この2つに同意することが運動への参加の要件となるわけです。法案に関心はあったが、結局自分自身の考え方を決めきれずもやもやしていた人や、そもそも安保関連法案の議論を自分事として捉えていなかった人は、これまでの国会前での集会の際に求められていた「安保関連法案への反対」に加え、「議員を落選させること」という大きな決定をしなければなりません。以上のようにかなり先の決定のプロセスに関して、すでに終わった決定のプロセスに基づいた一つの主張を持たなければ参加できないという運動への参加の難しさがあるのです。半年先の選挙に多くの有権者を惹きつける方法 ここからは安保関連法案の話ではなく一般的な考え方を書きます。何らかの主張があるグループが、半年以上先の決定のプロセスである選挙に関して、どうすれば多くの有権者の関心を惹きつけることができるのでしょうか。それは選挙がまだ遠いまさに今、新たな決定のプロセスを作りだせば良いのです。具体的に言えば、選挙の際に候補者や政党が打ち出す政策に影響を与えるという新たなプロセスです。今から有権者として主張をしていくことにより、政策の作成過程に影響を与えることができる可能性を感じてもらうのです。一言で言えば、「○○分野のマニフェストへ有権者の意思を入れよう」運動と言えるでしょうか。グループとしては政治家や政党との対話の機会を積極的に持ち、彼らの政策に対して少しずつの変化を促していくということです。衆院選の街頭演説を聞く有権者ら=2014年12月7日、東京・中野(宮崎瑞穂撮影) また、主張を他の有権者に知ってもらうためのイベントなどを開いて、疑問点に関して主催側との対話が行える機会を作ってもいいかもしれません。主張に賛同していない人でも集える場を作ることで運動の広がりを作る必要があります。「議員を落とす」という議員を向いた運動ではなく、「自分たちの考えを有権者に広める」という有権者の方向へ力を入れた運動になります。 強い主張までは持たなくても、何らかの分野に問題意識や関心を持っている人は多くいます。そのような人に、主催側の気持ちをしっかりと伝え、対話等を通じ、主張に共感してもらう。さらに、その主張により、今まさに行われている決定のプロセスに影響を与えていく。そんな巻き込み方はいかがでしょうか? 最後に、繰り返しになりますが、本稿は落選運動自体を否定しているものではなく、“政治への関心が低い人を巻き込む”という点においての効果は少ないと述べているものであることを改めて述べておきます。

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    「18歳は当たり前」ユルく楽しむ欧米の飲酒喫煙事情

    谷本真由美(コンサルタント兼著述家) 日本では、民法上の成人年齢を18歳以上に改め、飲酒と喫煙の解禁年齢も18歳に引き下げることが政府で検討されているそうであります。自民党では2015年の4月から議論が始まっており、成年年齢に関する特命委員会で論点整理されています。(http://www.sankei.com/politics/news/150901/plt1509010014-n1.html) 解禁年齢を引き下げると、非行が増える、喫煙を促すので健康に悪い、高校生が飲酒喫煙する、不純異性交遊が増える等々の反対意見が出ているようですが、いまさら議論も何もないだろうという感じであります。 そもそも、最近は年齢確認をする店が増えましたが、日本だとその辺の居酒屋で未成年が堂々と飲み会をしていても、誰に何を言われるわけでもありません。未成年が路上で飲酒していても怒鳴りつけるような親父はいません。コンビニも最近は年齢認証がありますが、成人が酒を買ってきて、未成年がどこかで飲んでいても、誰が怒るわけでもありません。親戚の宴会や法事では、親戚のおっさんが甥っ子や姪っ子に「ほれ、一杯飲めや」とやっている光景が普通であります。 日本は米を作る国であり、酒は米から作られます。酒を嗜むこと、酔っ払うことは、米を愛しむことであり、五穀豊穣の象徴でもあります。酒は人と人をつなぐ重要な道具であり、親族固めの盃、建て前など人生において重要な場面において、酒が重要な役割を果たしています。 酔っ払うことは祝うことである日本では、そもそも飲酒に対してはユルユルの土地なのです。したがって、18歳が飲酒しようが、20歳が飲酒しようが、それは大した問題ではありません。 私はアメリカに住んでいたこともありますが、20年以上前でも店屋でアルコールを買う時や、バーやクラブに入る時の年齢確認は大変厳しかったのを覚えています。パスポートですら身分証明書としてはアウトで、州で発行された運転免許書を出さないとビール一本すら買うことができません。 また酒瓶とかビールの缶を丸裸で持ち歩いて外で飲酒していると犯罪なので、酒瓶を紙袋に入れたまま飲酒するという、大変情けない光景を目撃しました。喫煙に対しても異様に厳しく、20年前ですらどこに行ってもほぼ完全分煙か、そもそも喫煙できる場所がありません。 アングロサクソンというのは、なんとも味気ない生活を送っているのだなと思った次第です。 しかし飲酒や喫煙に対して異様に厳しい割には、ヘロイン中毒の学生や、クラック中毒の廃人が街の中にゴロゴロしていました。地元で大人気なのはショットガンやハンドガンを売る展示会で、週末は大手のスーパーで弾丸がセールになります。飲酒も喫煙もかなりユルユルなヨーロッパ アメリカでは、ヨーロッパ諸国に比べてbinge drinking(大量飲酒)が問題になっています。イギリス国立病院機構の定義だと、成人男性の場合一回に1.5リットル程度のアルコール度の強いビール、女性の場合はワインを大グラスで二杯以上飲んだ場合にあたります。 「人生をちょっとだけ楽しくするもの」に対して厳しく対応し過ぎると、かえってストレスが溜まりすぎて、過激な方向に走ってしまうのかもしれません。 ヨーロッパの場合はアメリカに比べると飲酒も喫煙もかなりユルユルです。殆どの国では外でお酒を買えるのは18歳からです。イギリスの場合は、お酒を売り買いできるのは18歳以上ですが、16歳以上だと大人が一緒なら食事と一緒に飲酒可能です。ドイツもお酒の種類によっては16歳から可能です。 フランスやイタリアの場合かつては16歳からでしたが、若年~中年男性のアルコールによる死亡などが問題になったため、年齢が引き上げられています。しかし、相変わらずお酒に対する文化はゆるく、子供には水で薄めたワインを飲ませて、ワインを覚えさせる家もあります。社食ではお昼にワインやビールを飲むのは割りと当たり前です。私も昼食時には飲むことが多いです。午後の仕事のはかどり方が違います。ただし、飲酒にはユルユルとはいっても、あくまで食事を楽しむためのお酒なので、日本のサラリーマンのように泥酔するまで飲むだけではありません。 ただし、普段は本音を言えないイギリス人やスコットランド人は、泥酔するまで飲んで、お姉さんがパンツ丸見えで寝っ転がっていたり、電車を乗り過ごして地の果てに行ってしまうことがあります。金曜日になると路上で立ちションしているお姉さんがいます。白人お嬢様方のおパンツを見たい殿方は金曜日にイギリスの繁華街に来るとよろしいでしょう。 ヨーロッパは喫煙に関してもユルユルです。日本に比べると室内や公共交通機関での完全禁煙が進んでいますが、喫煙室がない場合は、会社の前やらその辺の路上でスパスパやっている人がかなりいます。タバコ代は高く一箱1000円ぐらいする国が多いので、紙巻たばこにして節約しながらスパスパ、人にたかってスパスパ、と各自工夫を凝らして大人の生活を楽しんでいます。 ただし、ストレス解消のために一日二箱吸うなんて感じではなく、あくまで大人の楽しみとして、一日数本をスパスパ。お酒の飲み方と似ています。最初からやる気がない上に、仕事がユルユルなのでストレスがたまらないのです。向上心? 最初からありません。 日本はヨーロッパのようにユルユルと衰退していく老人国家なので、「人生をちょっとだけ楽しくするもの」の解禁を早くしたほうが、路上で人を刺殺したり、危険ドラッグに手を出すような若い子が出てきにくくなるんじゃないでしょうかね。 社会保障も年金も消費税も上がっていく上に、格差が広がるのは目に見えているわけですから。

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    酒たばこ「18歳から」は非常識じゃない!

    選挙権年齢が18歳に引き下げられることに伴い、飲酒・喫煙の18歳解禁の議論にも注目が集まっている。ただ、医学的見地から反対の声は根強く、自民党内の議論も紛糾。どの範囲までを「18歳成人」として認めるか、いまだ着地点は見えてこない。「自己責任」という考えはやっぱり極論ですか?

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    アルコール依存症専門医が警告 自殺者の4割が直前に飲酒していた

    はこの傾向に拍車をかけて、正常な判断を鈍らせ、衝動性を増し、問題行動を起こしやすくさせます。従って、若者の飲酒は急性アルコール中毒のリスクが高いだけでなく、転落、歩行中の事故や入浴中の溺死など不慮の事故の危険性を高めます。アメリカでの疫学調査によると21歳から飲酒を始めた人に比べて、早くから飲酒を始めた人は年齢が早いほど不慮の事故のリスクが高いことが報告されています。従って、飲酒可能年齢を引き下げることは飲酒に関連した事故を増やすことが容易に予想できます。飲酒開始年齢とアルコール依存症の関連性は さまざまな疫学調査や10代の若者を追跡した調査などから、飲酒を始める年齢が早ければ早いほど、将来、アルコール依存症やうつ病になるリスクが高くなり、さらに短期間で依存が形成されることが報告されています。また、スウェーデンの調査では、18歳~19歳の時点の1週間当たりの飲酒量とその後の15年間の死亡率が比例しており、死因の多くが暴行によるものだったと報告されています。このように人生の早い段階で飲酒を始めると、危険な飲酒につながりやすいだけでなく、将来の病気や危険な多量飲酒、さらに事故といった危険性を高めることになります。他国の経験を参考に 飲酒可能年齢を変更した例はいくつかの国で知られており、その前後の調査で年齢を下げた場合と上げた場合の影響が報告されています。 アメリカでは1970年から1975年にかけて、29州で飲酒可能年齢が引き下げられました。引き下げた年齢の幅は州によって異なりますが、最も多かったのは21歳から18歳への引き下げでした。その他、カナダでも全10州で、飲酒可能年齢が引き下げられました。オーストラリアでは、1960年代の後半から1970年代の初めにかけて、3州(南、西オーストラリアおよびクイーンズランド)が21歳から18歳に飲酒可能年齢を引き下げました。また、ニュージーランドも1999年に、20歳から18歳に引き下げています。 年齢引き下げの影響については、多くの報告がありますが、アメリカを中心に若者による飲酒運転関連事故数や事故死亡者数の増加が最も多く報告されています。その他の国でも例えば、オーストラリアでは年齢の引き下げによって交通事故による入院の増加や若者の犯罪の増加が指摘されています。また、ニュージーランドでも酩酊による救急入院の増加、飲酒運転の増加、交通事故死や事故によるけがの増加が指摘されています。一部の例外もありますが、多くの研究で年齢引き下げによって、事故数や死亡者数が増加したことが確認されています。 このような社会的影響の大きさのため、アメリカでは、1970年代後半から1980年代初めにかけて、年齢を引き下げた多くの州で年齢を21歳に引き上げました。年齢引き上げに伴って複数の州で若者の飲酒関連事故数の減少が報告されています。1984年には連邦政府は、年齢引き上げに抵抗する州の高速道路補助金の一部をカットする法律を制定したため、1988年までにすべての州で飲酒可能年齢が21歳に引き上げられました。また、カナダでは一部の州が19歳への引き上げを検討していますし、オーストラリアでも20歳あるいは21歳への引き上げを求める動きが活発になっています。 若い頃、飲酒で失敗した経験は多くの方にあるのではないでしょうか。その多くは笑い話ですむ程度の失敗でしょうが、中には人生を狂わせてしまったり、最悪の場合は命を奪う失敗もあります。アルコールは単なる嗜好品ではありません。特にその影響は若者に顕著に現れます。ですから、飲酒可能年齢の引き下げは、単に飲酒できる年齢が2歳早まるという簡単な話ではありません。アルコールは巨大な産業で様々な利害が関わるので、賛否両論あるでしょうが、医療に携わって健康を中心に考える立場から言わせていただくと、飲酒可能年齢を引き下げることは日本の社会にとって大きなマイナスになる可能性が大きいと言わざるを得ません。特に少子高齢化社会にあって将来有望な若者の健康を害したり、命を奪ったりすることに誰が賛成するでしょうか。 飲酒可能年齢を引き下げる事には様々な角度からその影響を予測し、他国の経験も参考にしていただいて、国民にとって賢明な判断を望みます。まつした・さちお 国立病院機構久里浜医療センター副院長。昭和62年、慶應義塾大学医学部卒。国立療養所久里浜病院(現・久里浜医療センター)精神科、平成5年、米国国立衛生研究所アルコール乱用とアルコール依存研究所に勤務。平成7年、国立療養所久里浜病院精神科に再び勤務。以降同センター精神科診療部長などを経て23年、現職。25年に認知症疾患医療センター長を兼ねる。日本アルコール関連問題学会理事、事務局長。専門領域は一般臨床精神医学、アルコール依存症、認知症。

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    18歳から大人のけじめ 飲酒、喫煙、賭博全て解禁せよ

    拡大され有権者年齢が20歳から18歳に引き下げられる。必然的に投票権を保持する人口は増えるが、これが若者の政治関心と直結するかどうかは不明だ。 これに従って飲酒、喫煙、ギャンブル、さらには少年法年齢も同じように引き下げるべきとの議論が持ち上がっている。ただし、これには反対も多い。日本禁煙学会などは禁煙、飲酒が「依存症や生活習慣病などの健康リスクや、事故、暴力などの社会問題リスクを高め、学校現場に混乱をもたらす」として引き下げをしないよう求める要望書を政府に提出。またNPOアルコール薬物問題全国市民協会の今成知美氏は「18歳、高校3年という進路に向け真剣にがんばっている時期に、道を外す若者が出て来てしまう」と批判している。 これら危惧の声、個別に見ればもっともな感じがしないでもない。しかし、青少年の育成を大枠で考えた場合、根本的に欠落している部分がある。成人の「通過儀礼」としての機能を顧みていないのだ。通過儀礼の消滅 成人式そして成人資格・責任の付与は人生のけじめを設定する重要な機能を担っている。 かつて若者は地域共同体に暮らし、また終身雇用制が盤石な環境の中におかれていた。また社会全体が大人になることの意味を共有していた。それゆえ、若者が「今日から自分は社会的責任を担った大人」と自らに位置づけることは比較的容易だった。 だが、この機能が弱体化した現代では大人になることは容易ではない。 70年代、これらの社会的インフラが消滅、価値観も多様化したため、大人になる、社会人になる指標が消滅してしまった。当時、こういった状況にある若者を精神分析家の小此木啓吾がモラトリアム人間、つまり「いつまでも大人になろうとしない人間」と呼んだのは象徴的だ。 そこで、若者たちはセルフメイドで大人になる通過儀礼を設けた。大学よりも専門学校をめざしたり、一人旅やワーキングホリデー、ボランティア参加などを通じて、私さがしをするようになったのだ。 それからすでに40年あまりが経過し、モラトリアム人間的な心性は50代にまで達している。前述したような私的な通過儀礼ができれば、それはそれでよいのだが、多くの若者たちが通過儀礼不在のまま、いわば生殺し的に大人でもなく子どもでもない傾向を持ち続けるようになったのだ。その典型的な人格がオタクであることはいうまでもない。 それでもなお成人、つまり「二十歳から大人になること」は、残存する最大の通過儀礼だ。20歳になる時点で一斉に社会的資格と責任が与えられるからだ。 だが、もし今回参政権だけを18歳に引き下げて、他については20歳のままとしたら、「二十歳成人」という一括で大人と認定する通過儀礼の機能はこれまで以上に曖昧になってしまうだろう。場合によっては参政権の意味も曖昧になり、ますます投票所離れが進む可能性もある。通過儀礼を復活させるための大胆な提案18歳一括成人化を逆手にとって通過儀礼を復活させる そこで、通過儀礼という社会的機能の側面から少々大胆な提案をしてみたい。すなわち「参政権の引き下げはすでに決定済。ならば他も一斉に引き下げてしまうべきだ」。ただし、前述したような懸念の意見も考慮する必要がある。ではどうするか。 これまで20歳で付与されていた資格、責任は18歳とする。ただし高校在籍者(現在、進学率は96%)の場合、飲酒、喫煙、ギャンブルは卒業まで禁止。少年法も高校在籍中はこれを適用する。つまり規定を「年齢」ではなく「年度」で区切ってしまう(18歳適用になってしまった参政権はもはやどうしようもないので例外とする)。そして、成人という通過儀礼をこれまで以上にアクティブなものにするために、これを逆活用してしまうのだ。 プログラムは以下のようになる。 まず高3時、選挙が行われる歳には事前に選挙、投票についての特別学習プログラムを実施する。これには投票日に18歳に達しておらず、参政権を保有しない生徒も含まれる。こうすることで政治経済の科目をリアルに学習することが可能となる。同様に、卒業が近づく頃には飲酒、喫煙、ギャンブル、少年法についての学習プログラムも実施する。 こうすることで、これら成人に与えられる責任・資格について前向きに取り組もうとする姿勢を涵養することが可能になる。投票については、前述したように授業と実際の投票が重複することで、投票についての認識が高まる。飲酒、喫煙、ギャンブル、少年法についても、これらが高校を出た瞬間適用されるという現実を突きつける状態で教育が施されるため、学習へのモチベーションが高まる。 実は、大学では投票についての教育など実施していない。飲酒や喫煙に関しては、最近その指導を行ってはいるが、大学は高校のように生徒を管理する組織ではない。そして、それらを施した時にはすでに成人に達していることもあり、学生はなかなか耳を傾けようとはしない。ところが、このように成人資格の18歳適用を利用して高校教育の中で「社会人教育」を行えば、いわば「馬の鼻先に人参をぶらさげる」ことになる。実質的なキャリア教育としての学習効果は絶大なのだ。重要なのは若者の政治意識の涵養 そして、こういった18歳一括成人化を利用したプログラムによって社会人としての対応方法を事前に学ぶことは、翻って通過儀礼としての「成人」の認識を若者たちに植え付けることを可能ならしめる。高卒=社会人、そしてそのための準備ということで成人であることとそうでないことの境界線を視覚化できるからだ。 参政権の引き下げは、政治的な側面で若者を利用しようとするような目先の思惑ではなく、こういった若者を将来を考えるよりも包括的な視点からの考察が重要だろう。それは、必然的に日本の若者の将来だけでなく、実は日本の将来を見越した視点でもあると筆者は考える。あらい・かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。昭和35年、静岡県生まれ。法政大卒業後、東洋大大学院社会学研究科修了。専門はメディア社会論。フリーライター、予備校教師などを経て、平成10年に宮崎公立大講師。同大准教授を経て、20年から現職。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。

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    飲酒・喫煙「18歳」引き下げ 根強い反対論の背景とは?

    に検討すべきものではないのです。『早いうちから政治に関心を持つ』という趣旨での引き下げはわかるが、『若者の健康を守る』という趣旨からすると、こちらはスライドする必要はなく、むしろ引き上げたっていいとも思います」海外では解禁年齢「引き上げ」の動きも 最近では米国医学研究所(IOM)が、アメリカでのたばこを購入できる年齢を、18歳以上から21歳以上に引き上げることを支持する報告書をまとめました。その理由は早死にや低体重の赤ちゃんを減らし、15~17歳で喫煙を開始する少年少女を減らすことです。報告書では、最低年齢を21歳に引き上げれば、早産児が約28万6000人、低出生体重児が43万8000人減少すると見込まれています。公衆衛生局の2013年統計で、喫煙者の約3分の2は18歳になる前から喫煙し、10代だとニコチン依存症になりやすいというデータもあります。 このように科学的に喫煙の健康被害が立証され始め、ニューヨーク市やコロンビア市(ミズーリ州)などの都市では、最近最低年齢が21歳に引き上げられました。来年1月からはハワイ州でも喫煙の年齢が21歳以上に引き上げられる予定で、解禁年齢の引き上げの機運が高まっています。 飲酒に関しても、世界保健機関(WHO)が若者の飲酒問題の対策として飲酒禁止年齢の引き上げの提言をしているほか、厚労省も国民の健康づくりを推し進める「健康日本21」の施策の中で未成年者飲酒をゼロにすることが目標とする動きがあるのです。 解禁年齢の設定は、施行当時の時代背景などの影響を受けています。片山弁護士は「事実、今規定されている法律がすべて正しいわけではありません」と指摘し、現在の世界各国の基準に合わせるべきではないとしています。飲酒喫煙に関する世界の潮流の変化や健康被害に関するデータも揃ってきましたので、解禁年齢の引き下げは慎重に進める必要があるでしょう。(ライター・重野真)

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    「飲酒は18歳から」が世界基準 仏では16歳で酒類購入が可能

     飲酒・喫煙を20歳以下に下げる法改正が見送りになった。しかし「お酒は20歳から」という国は意外と世界では少ないという。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が解説する。* * * 「×××はハタチになってから」という標語がある。たいてい「×××」には「おさけ」もしくは「たばこ」があてはめられる。そしてこの「ハタチ」は当面続くことになったようだ。「飲酒や喫煙も18歳から認めるか」議論が続いていた自民党の「成年年齢に関する特命委員会」が、解禁を認める当初案を撤回した。 現在、未成年の飲酒、喫煙を禁じる根拠となっている法律は未成年者飲酒禁止法と未成年者喫煙禁止法だ。どちらも法律の名称に「成年」の2文字が盛り込まれているが、第一条は「満二十年ニ至ラサル者ハ~」という書き出しになっている。「成年=20歳」という前提で整備されている法律だ。そう考えると成年の年齢を引き下げるのなら、飲酒や喫煙を18歳から認めるかどうかという議論になるのは自然な流れといえる。 当然のように引き下げには反対意見も根強く、日本医師会は「国民の健康の維持増進の視点から断じて容認できない」と自民党の稲田政調会長に申し入れた。いっぽう、酒やたばこには社会的、文化的な役割もあるという見方もある。今回の引き下げは税収面もにらんだ施策だと話題にもなった。さまざまな背景を土台に、議論を深めるのは健全だともいえる。 海外に目を向けてみると、飲酒が可能になる年齢は国ごとに14~21歳と幅があるものの、18歳という基準が多い。 たとえば美食とワインの国、フランスでは16歳になれば酒類の購入と、公共の場で3%以下のアルコール飲料を飲むことができるようになる。18歳になればワインなどの少し度数の高い酒も注文できる。イギリスもほぼ同様。ヨーロッパではアルコール度数を目安とした”慣らし”年齢があったり、家庭内にまでは、法律の効力が及んでいないケースが多い。がんじがらめに規制するのではない。”日常の食”につきものの酒を、文化と社会のなかで適合させているのだ。 日本のように一律で20歳以上という基準は、世界的にはごくまれだ。もともと日本でも大正時代までは、未成年の飲酒を禁止する法律はなかった。たばこの未成年者喫煙禁止法が施行されたのが1900(明治33)年。未成年者飲酒禁止法に至っては、さらに20年以上後の1922(大正11)年で、制定されてからまだ100年も経っていない。当時、「20歳」に決まった理由にどれほどの科学的根拠があったのか。18、19歳での飲酒によって健康リスクが高くなるような因子を日本人だけが持っているわけでもあるまい。 もちろん飲酒について何らかの線引きは必要だ。しかし実情は、高校を卒業して進学・就職した人の約8割が飲酒経験あり、という調査結果に尽きる。何を根拠にしたかわからない形骸化した決まりよりも、実情に合わせて運用できるルールのほうが有意なのは言うまでもない。 物事は、上げるよりも下げることのほうが難しい。飲酒や喫煙の年齢だけではなく、体重や健康診断の数値、それに消費税率。どれを見ても、上げることはできても、下げるのは実に難しい。関連記事■ 学生の新歓コンパ SNSで公開する写真撮影時の構図に要注意■ 『罪と罰』等名作の犯罪者を実際に裁判にかけたら…の解説書■ 飲酒・喫煙率トップの青森県が平均寿命最下位 がん死亡率も■ 内柴容疑者 「3Pさせてもらえるならしたい」と発言した■ 2015年相続税改正に5つのポイント 減税に繋がるポイントも

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    大前研一氏が主張「選挙権だけでなく飲酒・喫煙・賭博等も18歳に」

    きだと考えている)。この議論の中でいつも出てくるのは、今の20歳を見てもまともな大人とは言えない幼い若者たちが多いから、成人年齢まで18歳に引き下げるのは反対だという意見である。  しかし、私の意見は逆だ。仮に18歳なら18歳、20歳なら20歳を「成人」と決めたら、その年齢までに成人と呼ぶにふさわしい人間になるよう育てる教育をすべきなのであって、日本人は何歳になったら大人になるのかという議論は、全く意味のない本末転倒の議論だと思う。 むしろ重要なのは、21世紀の日本にはどういう社会人が必要なのか、そのために(税金を投入する)義務教育の内容はどうあるべきなのか、という議論だ。 それはたとえば、お金を借りたら必ず返しましょう、喫煙する時はこういうマナーを守りましょうといった初歩的なことに始まり、自分が住むコミュニティに対してどのような貢献をしなければならないのか、日本の社会人として世界にどういう責任を持つべきなのか、といったことまで幅広い。ところが、そのような教育は今の文部科学省の指導要領の中にはほとんどないのである。これは極めて由々しき問題だと思う。関連記事■ 学生の新歓コンパ SNSで公開する写真撮影時の構図に要注意■ 『罪と罰』等名作の犯罪者を実際に裁判にかけたら…の解説書■ 飲酒・喫煙率トップの青森県が平均寿命最下位 がん死亡率も■ 内柴容疑者 「3Pさせてもらえるならしたい」と発言した■ 2015年相続税改正に5つのポイント 減税に繋がるポイントも

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    競馬やパチンコ18歳引き下げでもサッカーくじだけ19歳の不思議

    ですが、急転直下、どこで論議が転換したのでしょうか。他の報道では、未成年者による討論会などを企画して若者の声を取り入れたなどという「大義名分」が報じられていますが、実態としてはおそらくどこかがロビーをかけたのでしょう。「賭博/飲酒/喫煙」だと、その産業規模や政治的影響力、事業者の性質等から考えると、恐らく酒類の関連産業が最初に動き、それに連動して賭博/喫煙が動いた…というイメージではありますが、これはあくまで私の想像の限りです。 ちなみに、これは大分前のエントリにも書いたのですが、もし民法上の成人年齢が十八歳に引き下げられ、それと連動して公営競技の購入可能年齢が引き下げられた場合、以下のようなアベコベな状況が生まれてきます。【現在】競馬: 成年者(20歳以上)競輪: 成年者(20歳以上)競艇: 成年者(20歳以上)オートレース: 成年者(20歳以上)宝くじ: 年齢制限なしサッカーくじ: 19歳以上パチンコ: 18歳以上【民法改正後】競馬: 成年者(18歳以上)競輪: 成年者(18歳以上)競艇: 成年者(18歳以上)オートレース: 成年者(18歳以上)宝くじ: 年齢制限なしサッカーくじ: 19歳以上パチンコ: 18歳以上 実は、サッカーくじは1998年の創設時に、「スポーツを賭けの対象にすると学校教育に悪影響を及ぼす」と主張するPTAを中心とする反対者の声に配慮する形で、一般的な高校生が既に学校を卒業した年齢、すなわち19歳以上に購入可能年齢が定められました(スポーツ振興投票法第9条)。 ところが、民法改正による成人人口の引き下げに伴って公営競技の購入開始年齢が18歳以上となった場合、競馬、競輪などは18歳から遊べるのに、なぜかサッカーくじだけは19歳まで遊べないという何だか理屈の判らないガチャガチャな状況が生まれる事となります。もし、自民党の特命委員会の提言通りに制度改定が為されるのであれば、合わせてサッカーくじの利用開始年齢に関しても改正をした方がよろしかろうと思われます。 …が、本音を言えば、何でそんな社会的反発が容易に予想されるような制度改正案を出すかね、と言ったところ。正直、賭博業界にとっては開始年齢が18歳だろうが20歳だろうがあまり関係なく、これによって最も利得を得るのは酒類の関連業界。彼らの場合は、大学生の「コンパ」需要を期待できますし、それこそ新歓コンパを「入り口」にして若者の飲酒習慣を促進できるようになりますからね。 なんともはや…と言ったところですが、お酒は健康に配慮しながら、あくまで「楽しく」呑みましょうね。※「カジノ合法化に関する100の質問」2015年9月2日の記事を転載しました。

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    盛り上がるハロウィン仮装、どこまで許される?

    ーンの仮装をして街を歩いていた男性が不審者として通報される事件が起きた。昨年の東京・渋谷では仮装した若者らが集まり、数百人の機動隊が出動している。盛り上がるハロウィーン仮装とイベント、どこに注意して参加すればよいのだろうか。 一般社団法人日本記念日協会の推計によれば、今年のハロウィーンの市場規模は1220億円となり、バレンタインデーを超え、クリスマスに次ぐ規模となった。2011年からわずか4年で2倍に拡大したことになる。アメリカでは子どもが仮装し近所の家からお菓子を貰って回るイベントだったが、日本では「仮装して街を歩く」部分が強調され、子供だけではなく大人にまで広く受け入れられるイベントになった。先週末には、六本木や川崎市で数千人が参加した「仮装パレード」が行われ、今週末にも「池袋ハロウィンコスプレフェス」や渋谷の「渋フェスハロウィン」が開かれる予定だ。仮装やイベントで、問題も起きている 若者を中心に盛り上がりを見せるハロウィーンだが、いくつか問題も起きている。今月13日、熊本県熊本市で「仮面を被りチェーンソーを持って歩いている男がいる」という通報があり、警察が確認するとハロウィーンの仮装だったという事件があった。昨年の東京・渋谷のハロウィーンでは、多くの仮装した若者で街がごった返し、混乱が起きて数百人の機動隊が出動し逮捕者が出る騒ぎとなった。 海外でも、ハロウィーンの「仮装」が関係する事件が起きている。日本人の記憶に残るのは、23年前アメリカ留学中の16歳の高校生が、ハロウィーンの仮装をして近隣の家を訪ねたところ、不審者と間違えられ射殺された事件だろう。アメリカでは、ハロウィーンの仮装をした人が射殺される事件が繰り返されている。仮装して渋谷の街を練り歩く人々=10月31日午後、東京都渋谷区 実際に、「仮装」した犯人が事件を起こすこともある。今月22日にスウェーデンで起きた2人が死亡した学校襲撃事件では、犯人は「ダースベーダー」のようなマスクを着け、生徒らは当初ハロウィーンの仮装だと思い込んだと、AFP通信は伝えている。シャレにならない仮装はNG では、楽しく安全にハロウィーン仮装を楽しむためには、どうしたらいいのか。 警視庁に聞いたところ、「トラブル防止のため、(先日の熊本の事件のような)誤解を招くような仮装は控えていただくようご協力をお願いします」とのことだった。また、ハロウィーン当日は、渋谷駅前スクランブル交差点周辺などは相当の混雑が予想されるため「歩道や交差点内に立ち止まる行為は、通行される方々の迷惑となり大変危険ですので、交通ルールとマナーを守り通行するようお願いします」と答えた。 昨年の渋谷での混乱を踏まえ、警視庁では昨年以上の数百人規模の警備態勢を予定している。警視庁は「昨年の渋谷では、痴漢で逮捕者が出ています。女性の方は被害にあわないように、周囲に注意して行動してください。他の参加者の迷惑とならないよう、マナーを守り行動してください」と呼びかけている。 渋谷周辺を管轄する渋谷警察署は、「危険物と疑われるような物品を所持している際には、職務質問や所持品検査、必要に応じて警察署に同行を求める場合がある」とコメントした。やはり、「シャレにならない仮装」はNGということだ。 マナーについての著書のあるアメリカのコラムニスト、エイミー・アルカンさんは昨年、カリフォルニア州のラジオ番組で「ハロウィーン仮装のためのエチケット」についてこう話している。「マナーの根幹は共感。出会った人が不快に思ったりギョッとするような酷すぎる仮装はよくありません。また、場所と文脈をよく考えましょう。病院の周りで血を流す格好をしていたり、会社のイベントにセクシーな格好で行くのがいいことかどうかよく考えましょう」主催者側もさまざまな対策 主催者側も、混乱が起きないようにさまざまな対策を講じている。31日に渋谷にある20カ所の会場で開かれる4000人規模のイベント「渋フェスハロウィン」は、昨年の渋谷の混乱の反省を踏まえ企画されたという。実行委員会の広報担当者は「昨年の渋谷は、多くの人が仮装して集まり盛り上がったが、その人たちが集まる場所が無かった。だから今年からイベントを作って、集まった人の行き場や遊び場を作った」という。 渋谷では、昨年までデパートのトイレなどで仮装に着替える人もいたことから、今回はイベント専用のクロークと更衣室も用意したという。都や区と協力してゴミ拾いも行うといい、同担当者は「ハロウィーンと言っても何をしてもいいというわけではない。周りに迷惑をかけないよう節度を持って楽しんで欲しい」と話した。(中野宏一/THE EAST TIMES)

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    SNS投稿動画のネタ化進行 ウケ狙いが引き起こす悲劇防ぐには

     今年もコスプレ姿の若者が街にあふれるハロウィンでは、多くの写真がSNS投稿されるだろう。写真だけでなく、最近、増えているのは短時間の動画。そのニーズに応えるアプリも次々とリリースされている。たとえばInstagramが新サービスとしてリリースした動画撮影アプリの「Boomerang」は、起動するとデフォルトの設定が自撮りだ。そしてInstagramやFacebook、LINEなど様々なSNSにシェアできる。出来上がる動画はわずか1秒のため、自撮り動画のネタ化がさらにすすみそうだ。 自撮り画像や動画をSNSに公開するのが当たり前の若者たちにとって、もっとも重要なのは見る人にどれだけウケるかだ。若ければ若いほど、比較的簡単に人から認められるウケる画像や動画の投稿はやめられないと、SNSコミュニケーションや情報モラルに詳しいITジャーナリストの高橋暁子さんは言う。 「若者は自分の投稿がSNSでウケて、話題となり盛り上がることを求めます。少しでも多くの反応を期待して投稿し、ウケたことで承認欲求や自己顕示欲を満たすのです。SNS投稿する動画で人気が高いのは、みんなに笑ってもらえるウケるもの、同性から好かれるカワイイもの、そして一発芸的な内容で見た人が驚くものです。投稿するにあたり写真も変わらず人気が高いですが、最近は動画ブームですね」 SNSに投稿される動画はより簡単に、短時間になる傾向がある。Twitterに直接アップロードできる動画は30秒、変顔を披露する女子高生が人気を集めるVINEは6秒、キス動画や双子ダンスが人気のMixChannelは10秒と短い。そして前出のBoomerangはさらに短くわずか1秒だ。画質の良さより手軽さや面白さが強調されたサービスが目立つ。 「YouTubeはみんな大好きなのですが、若い人ほど何分も続く動画を待てないし待たない。見続けてつまらなかったら時間の無駄だと思っているようで、秒単位で判断しているんです。それに、ある程度の長い動画の構成を組み立てるのは、何の訓練もしていない一般の人には敷居が高い。たとえ6秒でも構成力がないと面白い動画は撮れない。でも、時間が短くなるほどそのハードルは下がるので、1秒は魅力的な短さでしょうね」(前出・高橋さん) 新しい動画のサービスやツールがリリースされ人気が過熱すると、必ずウケるために過激な動画を撮るため無理をする人たちが必ず出現する。ときには深刻な事故にもつながりかねない。ネタ動画目的の悲劇は防げるのか。「当たり前ですが、行き過ぎたネタ動画をつくらないこと。公序良俗に反するものはもちろん、たとえ若気の至りとして笑い飛ばせることでも絶対にネットでやってはいけないと忘れないことです。度を越した投稿はネット炎上を招きますが、トラブルを防ぐには、可能性を考えて自分で気をつける以外にありません。どんな新機能が生み出されても、今のところデジタルの世界では取り返しがつかないことになるからです。 たとえばアメリカで若者に大人気の写真共有アプリSnapchatは、指定した時間を過ぎると投稿画像や動画を消去できる機能があるので安心と言われました。でも、スクリーンショットなどで保存され、投稿した人が望まない形で秘密の画像が拡散される事件がたびたび起きています。ネットはあくまでもリアルの補完ツールです。リアルのほうでしっかり暮らしていった上でネットを楽しんでください」(前出・高橋さん) スマートフォンの所有率は高校生で99.9%、中学生は62.1%、小学生も40.8%にのぼる(デジタルアーツ株式会社調べ)。一方で危険を回避させるためのフィルタリング利用率は48.2%と低いままだ。気づいたら自分の子どもがネットで炎上していた、なんてことにならないために、保護者のリテラシー向上も迫られている。関連記事■ 厳しい検閲を行うYouTubeでもセクシー動画投稿が絶えぬ理由■ 動画職人になってYouTubeで稼ぐ 「動画バブル」が到来か■ YouTubeの動画投稿で稼ぐには経験上「1~3分の動画が妥当」■ 世界デビューの鉄拳 ネタの依頼はなく月4000枚パラパラ漫画描く■ 内職系仕事 ツイッター1クリック1円~動画投稿1万回千円~

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    ハロウィンでバカ騒ぎする若者たちへ

    供なんですが、日本では大人がとにかく羽目を外し、さながら「全国コスプレ大会」のように広がっています。若者のみなさん、日本流ハロウィーンの楽しみ方って何なのでしょうか?

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    なぜ無理矢理? ハロウィンが盛り上がる8つの理由

    論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。

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    ハロウィンこそが全ての人に開かれた本当の祭だ

    森口朗(教育評論家、東京都職員) ハロウィンのバカ騒ぎが世間、とりわけ保守系の人たちから白い目で見られています。しかし、私はハロウィンの盛り上がりは、良い意味で極めて日本的な現象であり、日本を愛する者として、この盛り上がりを喜んで迎えると共に、その背景に一抹の寂しさを覚えています。 まず、白眼視に対する反論から。ハロウィン騒ぎを非難する論の根拠は様々です。ひとつひとつ反論していきましょう。1 単純に西洋の祭で、日本のものじゃないから、「日本人たるもの浮かれるんじゃない」という主張 だったら、クリスマスやバレンタインはもちろん、お釈迦様の誕生日を祝うと言われている花祭りも否定という事になります。ことさらハロウィンだけに当てはめる話じゃないでしょう。2 キリスト教がヨーロッパでケルト人を取り込む際に使った祭だから、少数民族弾圧ぽくってダメという主張 世界宗教が使うよくある手法です。仏教にも色々な仏様がいますが、元をたどれば異教の神様だったなんてざらにありますから。ちなみにクリスマスもケルト人の祭に遡ることが可能です。3 商業主義に乗っかるものだから、くだらないという主張 バレンタインが盛り上がり始めた時もこういう主張はあった気がします。何かと「商業主義」という言葉を使って習俗の盛り上がりを批判する人がいますが、習俗と商業主義と結びつくのはむしろ当然。商売を批判したいのなら、伝統的な日本の祭に出る的屋の背景に暴力団がいる事の方がよほど批判のやり甲斐があると思いますよ。4 バカ騒ぎは日本の祭の本来の姿ではないという主張 誤解ですね。確かに伊勢や出雲の厳かな祭は極めて日本的なものです。庶民レベルで言えば正月に一族なり一家なりが集まって「おせち」を食す時もある種の厳かさが漂います。しかし、一方で盆踊りの時には、江戸時代までは公然と、明治時代も実際は多くの村で老いも若きも乱交をしていたのです。厳粛さと乱痴気騒ぎ。日本人にはまったく異なる「ハレ」の日の過ごし方があるのです。 では、何故これが良い意味で日本的なのか。換骨奪胎して意味なんか考えずに受け入れる。これが極めて日本的です。 クリスマスも戦前は極限られた家庭のものでした。しかし、戦後、夜の街で受け入れられます。昭和の頃の「サザエさん」を読むと、よっぱらったサラリーマンが三角帽子をかぶって家路に向かう姿が描かれています。それが徐々に家庭の祭になり、80年代バブル時代には恋人達の祭になっていった。そこにはキリストの生誕を祝う気持ちなど欠片もありません。 敬虔なクリスチャンは嘆くかもしれませんが、それこそが日本の祭の受け入れ方なのです。 地域の祭にしたって、収穫祭、豊作・豊漁祈願、疫病厄除け等を起源とするものが多くありますが、今それを意識してお参りする人などほとんどいません。御祭神さえ知らない。宗教そのものを意識せず、宗教行事の空気感だけを味わう。これが多数派日本人のあり方なのです。 正月の厳かさ、縁日や神輿が出る祭の盛り上がり、クリスマスの「聖夜っぽさ」。それぞれ空気感だけを味わう。そして、今そこにハロウィンの「バカ騒ぎ」が加わろうとしている。まさに日本的ではありませんか。 しかも、昨年に街が汚れたことが批判されると、今年はボランティアの人たちが出て、繁華街は普段にも増してキレイになった。これも日本人の素晴らしさが現れていると思います。なぜハロウィンなのか しかし、正月があり、春祭り、夏祭り、秋祭り等の地域の祭があり、バレンタインデー・ホワイトデーという恋人達の祭があり、クリスマスがある中、なぜ、ハロウィンが割ってはいり盛り上がっているのでしょう。 私は、ハロウィン以外の全ての祭が、実は「会員制パーティー」と化しているからだと思っています。 正月は、実家や家族を持たない人にとっては孤独を確かめる時間に過ぎません。バレンタインデーやホワイトデーは、もちろん義理チョコさえもらえない非モテ男子、渡すだけで変な空気になる非モテ女子には辛い日ですし、クリスマスさえ最近は家族又は恋人がいない人には辛い日になりました。最も多くの人に開かれていた地域の祭は、今では地主や商店街の人間以外、神輿を担ぎませんかという声さえかかりません。 でも、ハロウィンは地域社会につながりを持たない人、実家も家族もない人、恋人のいない人。全ての人に開かれた祭なのです。奇抜な恰好をして渋谷や六本木を歩けば、たった一人でも色々な人に声をかけられ、写真まで一緒に取ろうと誘われる。 私は、今年、夕方の渋谷に出かけましたが、これこそが本当の祭なのではないかと思った次第です。 どんな人でも、日常とかけ離れた時を楽しみたい。そのためには、全ての人を受け入れる空間や時間が必要です。ハロウィンの盛り上がりは、「富」「社会的地位」「家族」「恋人」等々の価値あるものを何も持たない人が楽しむ空間と時間が、現在の日本にいかに少ないかを象徴しているようにも思います。これが私がハロウィンを楽しみつつも、一抹の寂しさを感じる所以です。(「森口朗公式ブログ」より2015年11月1日分を転載)

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    ハロウィン拡大 日本で仮装実施率が最も高いのは30代の女性

    るが、今では来園者すべてが楽しめる。 日本でのハロウィンはクリスマスのように、家族で楽しむイベントと若者が楽しむお祭りの二つの形で広まった。ハロウィン用コスチュームの売れ筋にも、子ども向けと20~30代の若者向け、大きく二通りの傾向がある。「子ども向けでは動物や妖精、プリンセスなど可愛らしいもの、大人向けでは悪魔や警察官、海賊などセクシーなものが人気を集めています。子どもは明るいパステルや鮮やかな色、大人は黒などシックなものが定番でしたが、最近は大人向けでも、ビビッドな色でモンスターに仮装できるコスチュームがよく売れています」(前出・谷口さん) 映画やテレビ番組などの影響はとても大きく、前出の色鮮やかなモンスターは映画『モンスターズ・ユニバーシティ』のマイクとサリーを意識しているのは間違いないだろう。今年のハロウィン仮装パレードでは、作品を知らなければ理科室の人体標本にしか見えない不気味な全身タイツ姿でマンガ『進撃の巨人』の巨人に扮したグループが目立った。 2012年11月に株式会社ドゥ・ハウスが20~59歳の男女を対象に行った「ハロウィンにおける仮装(コスプレ)実態把握調査」によれば、2012年の仮装実施率は4.2%。もっとも高いのは女性30代(11.3%)、次いで女性20代(6.0%)。前年からの変化がもっとも大きいのは男性30代と女性30代で、前年からいずれも2.6ポイントと大きく伸びている。 仮装実施率について他の年代を見ると、男性は20代が4.0%、30代が3.3%、40代は2.0%、50代は前回が0だったのが0.7%と伸びている。女性は40代が3.3%、50代が2.7%だった。 同じ調査で2012年に仮装した人からは「実施する人が増えたので、自分もやってみようと思った」「子どもが成長して一緒に楽しめる年齢になったから」という声があがっている。そして、2012年は仮装しなかったが2013年は仮装したい人たちも「街中で、子どもや大人の仮装を見て、家族で楽しめそうだと思った」「2012年のハロウィンが盛り上がっていたので、来年は実施してみたい」と答えている。 周囲の盛り上に促されて来年こそは仮装しようという人が増えているハロウィン。しかし人気コスチュームは、早めに確保しないと売り切れてしまうそうだ。「ハロウィン用コスチュームは8月終わりくらいから売れ始めます。10月になると品切れが多くなります。着たいコスチュームがある場合は、なるべく早めに手配されることをおすすめします」(前出・谷口さん) 来年は早めに準備して、あなたも友人や家族とお気に入りのコスチュームに身を包みハロウィンを楽しんでみてはどうだろう?関連記事■ 暴君ハバネロ、チロル…定番お菓子にハロウィンバージョン■ 10月31日はハロウィーン 簡単で失敗しないおうちレシピ■ 【お年玉RQ大放出3】ザックリと開いた胸元を要チェック!■ 【お年玉RQ大放出2】胸の谷間が綺麗に見えるコスチューム■ 【お年玉RQ大放出5】レースクイーンになって「でちゃう!」

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    ハロウィン関連消費額 1万円以上の割合はバレンタイン超え

    パッケージを投入し、一気に認知が広がりました。そして2015年、ハロウィンの認知度はほぼ100%に。若者だけでなく“大人”や“親子”が楽しめるイベントも全国で開催されています」 そもそもハロウィンは、ケルト人の民俗行事が起源。かつては10月末が年末にあたり、死者の魂がこの世に戻ってくる日だった。さらに収穫祭の意味合いもある。日本でいう「お盆」と「秋祭り」と「大晦日」が同時にやってくる感じだ。 ちなみに、その昔、ジャックという老人の霊が、カブをくりぬいてランタン代わりにしたといわれる伝説があり、それが、アメリカでかぼちゃに変化。その後の、ハロウィンでのかぼちゃモチーフにつながる。また、仮装をするのは、ハロウィンの時期にやってくる魔物から身を守るためとの説がある。アメリカの仮装にくらべ、日本は萌え要素なども加わり、かわいい傾向がある。関連記事■ 暴君ハバネロ、チロル…定番お菓子にハロウィンバージョン■ ハロウィン市場1100億円 六本木終夜バス利用者数も過去最多■ 【キャラビズム】紅葉の季節とともに、財布も赤字の季節に!■ ハロウィン拡大 日本で仮装実施率が最も高いのは30代の女性■ 紗栄子 ネコ娘化しベビーシッター男性と仮装パーティー参加

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    ハロウィンは若者層にとって「都合の良い行事」

    は「ハーフタレントブーム」が始まっている。メディアにはハーフ系の日本人離れした美男美女が目白押しだ。若者層の憧れの中心に置かれたハーフたち。「ハーフ顔メイク」がトレンドになるなど「欧風感覚への憧れ」の流れは今も続いている。仮装して渋谷の街を練り歩く人々=10月31日午後、東京都渋谷区(古厩正樹撮影) また、こういった潮流と合わせるように、安価で手軽に「欧風感覚への憧れ」を充足できる欧米資本の安価な雑貨量販店(ファスト雑貨)、アパレル(ファストファッション)などが多数上陸し、急速に普及した。 2006年に船橋店から日本に上陸したスウェーデン発祥の家具・雑貨販売店「IKEA」が2008年には全国展開を開始。同じ頃の2008〜2009年には「H&M」、「Forever21」といったファストファッションが上陸し、急速に定着している。 家具や雑貨・衣料品などを中心とした「舶来の文化」は、従来の日本人の感覚からすれば「ある程度お金がかかるもの」であったり「あまり身近ではないもの」であった。しかしこの時期に、「憧れの欧風文化」と「安価・手軽」という本来背反していた2つの融合が大きなポイントであるように思う。 欧風のおしゃれ感を手軽に堪能できるファスト雑貨店は、その上陸直後からハロウィーン関連の商品も多数販売してきた。結果として、若者たちの安価な消費生活が、身近な行事としてのハロウィーンの浸透に与えた影響は決して小さくないだろう。 このような現象が進んだ2007年前後の時期に中学・高校時代を過ごした層は、現在25歳前後の世代。この世代が現在の日本のハロウィーンの盛り上がりを支えている、いわば「ハロウィーン第一世代」だ。 この「ハロウィーン第一世代」の特徴は、今日のような盛り上がりではないまでも、小さい頃からハロウーンを認識してきた世代である。少なくとも、スーパーや雑貨店などでの、この時期にハロウィーンの装飾やグッズを目にしてきている。これは30代以上との明確な違いだろう。 加えて、SNSによる情報交流が携帯電話以上に重要化・日常化した世代でもある。連絡手段はもとより、あらゆる情報授受やコミュニケーションはSNSを介して行ってきた。 さらに言えば、初めて持った携帯電話がスマホだったり、ガラケーよりもスマホの方が馴染みのあるという、いわば「スマホ・ネイティブ」な世代でもある。SNSやスマホを社会人になってから手にし、意識的に積極利用してきた30代以上の世代との大きな違いでもあるだろう。 このように、日本社会における広い意味での「グローバル化ブーム」を背景に急速な定着を遂げた日本のハロウィーン。一部、中高年からの違和感を持たれつつも、圧倒的な盛り上がりに至っているもう一つの理由、若者たちにとって「都合が良いイベント」である、という側面だ。 完全に日本化してしまったクリスマスに比べ、上陸して日の浅いハロウィーンは、まだまだ特別だ。仮装し、参加することで、特別感覚は味わえるし、凝ったコスプレでちょっとした注目も集めることができる。仮装して街に繰り出すことで、見ず知らず同士でも、盛り上がりが共有でき、初対面とは思えない親近感を持つことも可能だ。 仮装用品などは、欧米資本のファスト雑貨店で小洒落たアイテムが安価に入手できる。学芸会の仮装のような手作り感のない、完成度の高いコスプレが誰でもできる。 もちろん、仮装さえしていれば、初対面同士でもSNSのアカウントなどを交換するなど、個人情報を開示することなく交流を図れるし、ゆるやかなつながりも維持できる。それは結果的に「ネット友達」の拡大というささやかな自己満足、自己顕示欲も満たしてくれる。 仮装して盛り上がる姿は、すぐさまSNSで共有され、「お友達」の共感やコメントを受け付けることで、2度3度と楽しめる。もちろん「リア充」アピールにもなる。それが呼び水になって、「リア充」を体感したいさらなる参加者を誘発する。初対面同士でも「後で写真をSNSにUPするね!」という口実を使えば、SNSの関係を構築するきっかけづくりも容易だ。 このように、ハロウィーンとは、現在の若者のライフスタイルに合致しつつも、若者層の世代の嗜好性や欲求を簡単に充足させることのできる、「都合の良いイベント」になっているのである。 現在のハロウィーンを牽引する「ハロウィーン第一世代」は、これから子供を育ててゆく世代だ。その子供達以下の世代にとっては、ハロウィーンは、クリスマス並みに「当たり前」の行事になってゆくだろう。

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    大人になるってどういうことですか?

    いうことか分からなくて、不安になるときもあります。社会に対し一定の責任を認識すること鳳 日本は子供や若者に甘い国です。もちろん、明らかに弱者というか、弱い立場である子供を思いやり優しくするのは素晴らしいことです。でもその反面、その優しさや思いやりが実は自分を相手に良く見せたい虚栄心というか、見せかけのものであってもダメだと思う。大人になるということは、社会に対して一定の責任を負うことで、だからこそ人生の後輩でもある子供たちの見本となり、時には厳しく指導する責任があるということを認識できることだと思います。山本 なるほど。世の中には色々な大人の方がいると思うのですけど、私は今まさにそれを経験している時期なのだと思います。でも、ふと何をお手本にして生きていけばいいのだろうって思うことがたまにあります。鳳さんご自身は20歳のころ、何をお手本にしていらっしゃったのですか?鳳 私は祖父母に育てられた時間が長かったので、祖母のことはすごく尊敬していて、学ぶことが今でもあります。もうすぐ94歳になるんですけど、女性としてあるべき姿はこうだっていう美意識がすごくあって。子供の時、お手本になるのはやはり家族だと思います。私は祖父母や両親にとても感謝していますし、尊敬しています。社会に出れば常に多くの方に出会うことになるのですが、人それぞれに人生があるように、お手本となる方もそれぞれ千差万別です。それにお手本というか、師や目標、憧れの方がいることはその人生の幅を大きく広げ、彩り豊かなものにすることは間違いありません。ですから、出会う方すべて年齢や立場の差異なく、自分にとっての「師」であると心に決め、他者の悪いところを見つけるようなことをせず、自分にない経験や考えに耳を傾ける、そんな習慣を身につけられたらいいなと思っています。山本 そうですよね。女性の生き方としてのバイブル本って、いま本屋に行けばいくらでもあると思うんですよ。でも実際に出会う方たちから学ぶことの大きさは一味違いますよね。鳳さんにとっての理想の女性でもある、お祖母さまは日本人らしい奥ゆかしさをお持ちだと思います。その奥ゆかしさを持った日本人らしさって、実は今失われているような気がするのですが、鳳さんはどう感じていらっしゃいますか?鳳 私の祖母は最近老いてきたこともあって、箸の運びがすごくゆっくりで慎重なんですよ。何秒かかってるんだろうって思うぐらいゆっくり箸を動かすんです。見るに見かねて「スプーンで食べる?」って聞いても、「大丈夫、大丈夫」と言って、自分でやる姿勢を頑なに崩さない。でも、それって素敵なことだなって今は思っています。 女性にとって、周りから見られているという意識を持つことは、緊張感というか、女性らしさを忘れていない証しでもあると思うんです。日常生活を上手に利用しながら、女性らしさを磨く活力にもなるような気がします。山本 いま国の政策でも女性の活躍が大きな注目を集めています。ジェンダーフリーについてもここ数十年、わが国でも活発に議論されていると思いますが、男女平等という考え方について、鳳さんご自身はどう思っていらっしゃいますか。鳳 男女平等という言葉や、男らしく女らしくという言葉が出ると活発な議論になりがちですが、私はそもそもの論点の多くが間違っているように感じています。男女や年齢で差異があることは当たり前で、様々な役割が分担されることは本来否定されることではないと思います。しかし、その差異が何かしら理屈に合わない言い訳に乱用されている時は、誇りを持って闘うべきだと思います。ただし、私にとって、その刃は他者に向けるものではなく、「女性だから差別をされた」とか、「女性だから成し遂げられなかった」と思い込もうとする自分の弱さに先ずは向けるべきであり、自らを省みてまた新たな目標に向かって突き進む活力に変えるべきなのではと思っています。向き合い吸収していく姿勢が女性を磨く山本 有難う御座います。とても勉強になります。では続いて、この場を借りて鳳さんにはぜひ今の若い女性へのアドバイスをいただきたいと思うのですが、女性として生きていく上で、鳳さんが日頃から気をつけていることってありますか。鳳 女性らしくあることに誇りを持つことだと思います。人は水のように、楽をすれば低きに流れ、そこに留まれば濁りよどむものです。簡単なアドバイスと言えば、姿勢を良くする、笑顔を忘れないなど、周りから常に見られているということを意識する緊張感。その緊張感を持つことが女性として生きる上では重要なポイントです。身だしなみもTPOを使い分けて、周りの人を不快にさせない服装を心掛けつつ、若いうちに思いっきり楽しめるように毎日、目いっぱいお洒落すればと良いと思います。いろんなものと向き合って吸収していく姿勢が女性を磨いていくのかなとも思います。山本 常に吸収するという姿勢ですね。ではさらに内面の美しさを磨くにはどうすればいいのでしょうか。鳳 一言で言えば自分を持つことだと思います。これは傲慢になれという訳では決してなく、自分という「個」を確立していくために自らを客観視することを忘れず、常日頃から教養と知識を高めていくということです。物事を知れば知るほどに、自らの至らなさは浮き彫りになりますし、それを行動や学びで埋めていくことが楽しくなる。実はそれが女性としての内面を磨くことになっていくのではないかと思います。山本 私はすごく飽きっぽい性格なのですが、唯一続けていることが華道なんです。続けることから学んだ経験があるとすれば、私の中では華道です。日本の文化ということもあり、華道を通して日本人らしさというか、日本らしい価値観の多くを学ぶことができました。鳳 私は2歳のときから20歳まで詩吟やらせてもらって、最初は褒められるのがうれしく稽古場に行ったものです。最終的には師範までいただいて、とても大きなものを得た達成感もありましたね。山本 鳳さんにとって、続けることの原点は詩吟であり、初めに知った日本人らしさを感じる理想の女性像がお祖母さまだったということですね。では最後に将来を担う新成人に期待することをお聞かせください。鳳 私は日本が世界で一番素晴らしい国であり、またその素質を秘めていると信じています。日本人であることを誇り、それ以上の責任感を持って世界のリーダーシップをとれる人間を目指してほしいです。関連記事■それでも、若者の政治参加って必要ですか?■終わりなき「原発論争」を考える■指導者たちの言葉によせて 〜私の志〜

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    指導者たちの言葉によせて 〜私の志〜

    は、懸賞論文、エッセイ等々に取り組み、やがて『十八歳の宣戦布告』という文章を世に出した。敗戦国日本の若者が国家観を問うという内容が良くも悪くも話題を呼び、その年は討論番組からの声掛けもあった。結局、「よく隠れしものは、よく生きしもの」というデカルトの言葉を信じるため、その年は表舞台に立つことをなるべく避けて過ごしたが、今年からは、出版5社と提携したオピニオンサイト「iRONNA」の特別編集長として言論界の末席に加えていただいた。ものを書いて世に問うことは、私の人生の軸に据え続けたい。関連記事■終わりなき「原発論争」を考える■それでも、若者の政治参加って必要ですか?■大人になるってどういうことですか?

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    大人になります、教養ってなんですか。

    いまの大人は教養を身に付けているのだろうか。そもそも人としての品格にもつながる教養とは何か。それは知識の量なのか、正しい振る舞いのことなのか。今月、二十歳になったばかりのiRONNA特別編集長、山本みずきが新成人を代表して世の大人たちに問う。大人の教養ってなんですか?

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    自分の言葉で話す大人になりたい

    これからの未来に不安よりも期待が大きいことに気付いて少し嬉しくなったりしている。関連記事■それでも、若者の政治参加って必要ですか?■大人になるってどういうことですか?■指導者たちの言葉によせて 〜私の志〜

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    日本の将来を担う新成人の皆さんへ

    塩澤修平(慶應義塾大学経済学部教授) 昭和 30(1955)年東京生まれ。昭和 53 年慶應義塾大学経済学部卒業後、慶應義塾大学大学院経済学研究科に進み、昭和 61 年ミネソタ大学大学院にて Ph.D.(経済学)取得。昭和 56 年慶應義塾大学経済学部助手、昭和 62 年助教授、平成6年教授。平成7年から平成 13 年まで通信教育部長、平成 17 年から21年まで経済学部長。体育会馬術部長。学外では平成9年から平成 13 年まで NPO 学会理事、平成 13 年から平成 15 年まで内閣府国際経済担当参事官を務めた。主な著書は『現代金融論』『経済学・入門』『基礎コース経済学』『デフレを楽しむ熟年生活』など。I.日本の将来を担う新成人の皆さんへ、かつて同じ年代を体験し、それ以降ある程度年齢を重ね、毎年多くの学生と接し、多少なりとも教育にかかわっているものとして、若いうちにすべきことについて述べさせて頂きたい。 生きるとは、何かを選択することの連続といえる。朝、何を食べるか、何を着るかという小さなことから、進学、就職といった大きなことまで、つねに何らかの選択をしている。 何かを選択することは、それ以外を選択しないことである。これに関して、経済学では機会費用という概念がある。あることを評価するために、それを選択することによって潜在的にどのような機会を失ったかを考えるというものである。たとえば家でゴロ寝をすることの機会費用は、その時間働いていたら得られるはずの賃金であり、しようと思えばできたはずの本を読む機会であり、スポーツをする機会である。大学へ行くことの機会費用は、就職していれば得られたであろう所得であり、そこでのさまざまな体験である。 時間と労力をかけて何かをしようとする。それ自体はそれなりに有益であったとしても、その時間は他のことをする機会を犠牲にしている。やらないよりはやったほうがよいかもしれないが、時間も労力も限られているのである。そこで、機会費用の概念を考慮した選択が重要な意味をもってくる。その時間と労力で他に何ができるかを考えることが求められるのである。機会費用を考えないと、何か多少なりとも有益なことをしている場合、それだけで安心してしまう危険性がある。実はその時間にもっと重要なことを逃しているかもしれないのである。II.このように、何を学ぶか、何をするか、機会費用を考えながら選択することが求められが、ではこの時期に何を選択したらよいのであろうか。 学問でも芸術でもスポーツでも、それぞれの分野に標準的な「型」がある。あるいは「古典」と称されているものがある。それらはもっとも効率的に何かを習得する手段であり、基本であり、あるいは基準となるべきものである。ある程度、「型」を学んだ後で、自由な発想でそれを破る「型破り」はよいが、型を知らない「形無し」は、それ以後あまり伸びることのない単なる自己満足に終わる可能性が高い。 成人式を迎えた今は「型」や「古典」を学ぶのにもっとも適した時期である。それらはすぐには役に立たないかもしれない。しかしすぐに役に立つ知識はすぐに役に立たなくなる知識である。「型」や「古典」を学ぶことは一見無駄なように思われるかもしれないが、それによって物事を「見る目」が養われ、自分なりの価値観や判断基準が形成される。そして将来の「型破り」も含めて、いろいろな形で応用が可能となるであろう。広い意味での「古典」に触れることが望ましい。 では古典とは何であろうか。古典、クラシック、音楽でいえばモーツァルトなどが思い浮かぶが、80年代に今はそれ自体が古典になりつつある『アマデウス』という、モーツァルトと当時の宮廷作曲家サリエリとの確執を描いた、全編モーツァルトの音楽で溢れた映画が製作された。アカデミー賞作品賞や主演男優賞などの主要な賞を総なめにした作品である。当時アメリカに留学していた私は、ハリウッドで行われているアカデミー賞の授賞式の中継をテレビで見ていた。いろいろな賞がつぎつぎに『アマデウス』へ贈られるなかで、もちろん作曲賞は別であった。その年の作曲賞を受賞した作曲家が壇上でトロフィーを手にこう言った「私はラッキーだった、なぜならモーツァルトにはこの賞の受賞資格がないからね」と。このユーモアに満ちた受賞の弁に、場内は笑いに包まれたが、私はその言葉に受賞者の本音が出ていたのではないかと思っている。アカデミー賞はその年に発表された作品に与えられ、モーツァルトは200年前の人間である。しかし、純粋に芸術作品として考えた場合、受賞者の曲よりもモーツァルトの曲の方がはるかに優れていることを本人がもっともよく知っていたのであろう。このように、モーツァルトの音楽はその分野での古典のなかの古典とも言うべき作品であるが、各時代の先端の作品をも凌駕し得る現役の古典なのである。 他の分野ではどうであろうか。飛行機を例に考えよう。ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館には、月へ人間を運んだアポロ宇宙船や日本のゼロ戦などとともに、ライト兄弟のフライヤー号が展示されている。1903年、ライト兄弟はフライヤー号により、人類史上初の動力飛行に成功した。その後の飛行機の驚異的な発達の基礎となった航空工学史上の古典である。しかし今の時代にフライヤー号で実際に空へ飛び立とうという人はいない。フライヤー号は古典であるが、実用的には役に立たない博物館の古典である。 このように古典と言っても現役の古典と博物館の古典がある。しかし博物館の古典であっても、例えば航空工学の分野で先人が試行錯誤を重ね、いかに努力して発展を遂げてきたか、知的格闘の跡をみることができる。その意味で、博物館の古典に触れることも有益といえる。 またオペラでも歌舞伎でも、ジャズでもロックでもクラシックでも、あるいは成人になったのであるから日本酒でもワインでもウィスキーでも、できるだけよいものに数多く触れ、それぞれの文化の違いや深さを味わい、それらを見る目を養って頂きたい。III.そして皆さんには国際的に通用し、活躍できる人材になって頂きたいと思う。そのためには自国の文化や歴史を学び、理解することが必要である。それによって他国の文化や価値観を理解し尊重することができる。  また、物事を長期的、歴史的に考えることも重要である。われわれ日本人の祖先が何をしてきたか。現在、常識とされていることが、いつからそうなったか、考えてみる必要があるであろう。 多数の独立国からなるアジアやアフリカのほとんどの地域は、20世紀中頃まで欧米諸国の植民地であり、現在では考えられないかもしれないが、制度として厳然たる人種差別が存在していた。 コロンブスの新大陸「発見」以来の400年間は、白人が有色人種の土地を植民地化してきた歴史であった。19世紀中葉から20世紀にかけてのアジアやアフリカと欧米列強との関係を端的に表した言葉として 福澤諭吉は「自国の富強なる勢いをもって貧弱な国へ無理を加へんとするは、いわゆる力士が腕の力をもって病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義において許すべからざることなり」(『学問のすゝめ 三編』)と巧みな比喩を用いながらも、日本の取るべき確固たる指針を述べている。 近代科学に基づいた強大な経済力そして武力を手段とした西洋諸国による東洋の植民地化・支配は許すべからざることであり、日本の独立を維持することが喫緊の課題であった。そしてその課題に対する答えとしての、当時の日本における国家意思の基本は富国強兵・殖産興業であった。しかし殖産興業に必要な科学技術は、白人以外には修得できないというのがその当時の常識であった。「西洋」と「東洋」との差は、もって生まれたものであると、世界のほとんどの人が考えていたのである。しかし日本人は違っていた。もって生まれた差ではなく、学問をしたかしないかの差であると捉えた。逆に言えば、学問することにより、豊かで強くなり、独立を維持できると考えた。「黒船」を見た有色人種は多かったであろうが、それを見て数年で実際に「黒船」を造った有色人種は日本人だけである。福澤諭吉はさらに続けて言う、「我日本国人も今より学問に志し、気力をたしかにして先ず一身の独立をはかり、もって一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交り、道理なきものはこれを打払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」。 ここに近代日本の行動原理が凝縮して述べられている。独立を維持することの重要性と困難さ、独立を脅かす存在に対する危機感は、現代の我々にはなかなか想像できないであろう。後世の批判はたやすいかもしれないが、しかしそこを理解しなければ当時の日本人の行動とその世界史的な意義を正しく評価することはできない。 二十世紀になっても制度的な人種差別は続き、有色人種の独立国は日本を含めてほんのわずかであった。1919年1月より開催された第一次世界大戦後の講和会議において、日本は国際連盟の規約の中に人種平等主義を挿入すること提案したが、これに対して、賛成国の方が多かったにもかかわらず、アメリカ大統領ウィルソンは、全会一致で決めるべきだとして、この案を潰したのである。実現はしなかったが、この提案は日本外交史上の金字塔といってもよい。IV.こうした自国の文化や歴史を学んだうえで、他国の文化を尊重する寛容さをもちたい。伝統的に日本人は「和」を尊び、異なる価値観に対しては寛容であった。外国の文化も、その優れた面は取り入れ、それを自分たちの文化に組み入れてきた。古くは「和魂漢才」、近代以降は「和魂洋才」という言葉がそれを象徴している。しばしば日本人は宗教心がないといわれるが、それは一神教的な信仰心をもつ人が少ないというだけで、「八百万の神」の言葉通り、他の人々の信仰に寛容であり、自分が信じないからといって、他の人々が信じている神を否定したり、揶揄したりする人は、特定の政治的意図をもった人を除けばまずいない。こうした日本人の心の在り方は、他者の文化や宗教に対する非寛容な姿勢から生ずるさまざまな紛争が多発している、現在の世界にとってきわめて重要である。他者を思いやる日本人の特質は、2011年3月の東日本大震災において、あれだけの被害を受けながらもお互いを気遣い整然と行動したことにも現れており、世界から賞賛された。 またポケモンやワンピース、ドラゴンボールといったゲームソフトやアニメ・漫画も、和食とともに、世界に誇れる日本文化である。芸術的な感性と遊び心が高度な科学技術と結びついたハードやソフトのさまざまな製品は日本人のもっとも得意とするものであり、世界中から高く評価されている。これらは平和な時代であるからこそ楽しめるものであり、仲間と一緒であればさらに楽しむことができる。V.新成人となった今の時期は、仲間をつくるのにもっとも適した時代でもある。青春時代を共有した仲間は皆さんの一生の宝となるであろう。自分ひとりで得られる体験や知識はきわめて限られている。これから社会に出ていくと、それぞれの仲間がそれぞれの道のプロになっていく。そうした仲間がどれだけいるかで、人生の豊かさは大きく違ってくる。それはお互いに自分のもっていないものをもっている、相互に補完的な人脈なのである。その人脈を保つためにはいい意味でのgive and takeが必要となる。一方的に仲間から何かを得るのではなく、自分も仲間に対して何ができるか、他人に誇れるものを身につけておくことが望ましい。仲間に対しては、その人物のいろいろな面をみて、評価の基準を一つにしないことも大切であろう。学校においても、知識や情報を得るということだけでなく、仲間を得ることもきわめて重要である。 学生時代は何事も過程が重視されてきた。小学校では体育や音楽の授業で、うまくできなくても一生懸命やったことを褒められた経験がある方も多いであろう。努力は努力として評価されたのである。そこには教育的な配慮があった。しかし、社会へ出て、プロとして仕事をするときには、ほとんどの場合に結果がすべてである。皆さんの今の若い時代の貴重な時間を有効に使って自分を磨き、それぞれの道で、日本人としての誇りと気概をもちながら、結果の出せるプロとして国際的にも大いに活躍されることを願う次第である。

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    それでも、若者の政治参加って必要ですか?

    が、斎木さんは大学の先輩にあたります。いまは慶應の大学院一年目でいらっしゃいますけど、大学在学中から若者の政治参加に関する多くのムーブメントを起こした方でもあり、「若者と政治」を語る上では欠かせない存在だと私は思っているので本日対談をお願いしました。斎木:こちらこそ、よろしくお願いします。生活満足度が高い若者たち山本:さっそく内容にはいっていきましょう。「若者と政治」と言えば、いまの若者は政治関心が薄いとよく言われますけど、どう思いますか?また、政治関心は高めるべきか否か、政治関心の意義について意見をお聞かせください。AO義塾塾長の斎木陽平氏斎木:おそらく、若い世代は関心度は低いと思います。しかも日本のみならず、ヨーロッパやアメリカなど先進国においては若い人の政治に対する関心度は低い状態が続いています。慶應の出身者である古市憲寿さんが著書で指摘されていますけど、若者は生活満足度が高いと。治安もいいですし社会インフラも整っていますし、バイトもできています。日本の若者の生活満足度って他国と比較しても相当なものだと思うんですよ。もちろん、貧困率だったり色んな問題はあるにせよ、相対的にみると生活満足度はかなり高い。「変えたい!」という思いが政治への参加に繋がるけれど、 だとすれば、政治に対する不満が少ないから、変革への原動力がやっぱりない部分があると思います。だから若者の政治関心をすぐに高めることは、なかなか難しいことなのかもしれない。山本:いまは満足度が高いという話でしたけど、むしろ逆で、私が大学生として周囲の友人をみていると若者の貧困が激しいと感じるんですね。例えば私の兄も大学生なんですけど、月末には一週間を70円でやりくりしてたんですよ!(笑)斎木:まあ、そういう大学生もいますよね〜山本:はい、だから満足度よりむしろ、恋愛を含めて自分の日々の生活に一生懸命にならざるを得ない環境があるからこそ政治まで及ばないんだと思います。斎木:あとは、満足度に加えると「悟り世代」と言われますよね。高い目標を掲げられない空気があるんじゃないですか。情報も検索すれば何でもでてくるし、何かこう、ワイルドというよりマイルドになっていて、しかも高い目標を掲げたら笑われるわけですからね。「意識高い(笑)」って感じで。山本:斎木さんは、そういう意味では笑われるほうなんじゃないですか?斎木:う〜ん、そうなんですよね。だから意識高いと言っても、「自意識の高い人」と「社会への意識の高い人」でわけるべきなんですよ。ちょっと話それちゃいましたね。とにかく、政治関心の薄れは先進国では共通していることで、投票率って世代別でみると右上がりじゃないですか。これは加齢効果といいますけど、社会を通して結婚など色んな経験をして、より社会や政治との結びつきが深まるほど政治への関心は高まっていくわけですよ。だからある意味、若い人は社会との交わりを感じる環境も同時に少ないですから、先進国全体に言えることですけど、若者が関心を持たないことは当然の結果でもあると思います。ただ!その次を考えるときに、(政治に関心を)持たなくていいか、というと、そうではないと思う。というのは、トマス・ジェファーソンは「教育なき民主主義は無意味である」という言葉を遺しましたように、しっかりと政治教育をしていかないと。若い人たちが政治から離れてしまうと全体として代議制民主主義そのものの根底が覆りかねない。この前の総選挙も50%代でしたよね。これが下回ってしまうと、つまり国民の半分も参加しない選挙によって唯一の立法機関である国会の議席数が決まってしまうことになる。すると議会制民主主義の根幹そのものが揺らぎかねないと思います。だから若い人に政治に参加してくださいと言ってもなかなか難しいとは思いますけど(笑)日本のなかで政治教育をする仕組みを山本:「教育なき民主主義は無意味である」と言いましたけど、ということは教育ありきの民主主義ということですよね。その点はどうですか。いまは教育はされた上で民主主義が成り立っているとお考えですか?斎木:僕はほぼないと思っています。僕らみたいに政治学科に在籍していれば別ですけど半強制的に政治の勉強をする環境はないわけです。義務教育を見渡してもなかなかありませんし、高校教育をみてもどうしても政治的中立性が重視されて、政治教育はされていません。むしろ先生が政治の話題をすることはタブーですよ。山本:どうしてもイデオロギーの話が日本では起こりやすいからですか?斎木:そうですね。そういう部分もあると思います。ただ正直に言って「日本だから」といったわけではないですよ。先生によってイデオロギーはあると思います。例えば、イデオロギーのある教育を受けた結果、みんながそのイデオロギーに染まるかと言えばそうでもないでしょうし、ある意味そのイデオロギーを利用して中立性を説く工夫はできるわけですよね。だからそのためのガイドラインをつくっていって、同時に日本のなかで政治教育をする仕組みをつくっていくことが大切だと思います。つまりイデオロギー教育になってしまうリスクよりも、政治教育をしないことのリスクが大きいのに、イデオロギーというリスクに気を取られているというのが現状です。山本:なるほど。まあ、イデオロギーに気を取られないという発想自体もまたイデオロギーですけどね〜(笑)お話を聞くと、結局(政治の)教育がないということじゃないですか。ではどういった教育を展開していくべきだと考えていますか?斎木:まったくないとは言い切れませんがほぼないと思います。山本:それこそ、アメリカでは政治教育は徹底しているという話があるじゃないですか。模擬投票や模擬選挙がアメリカにはあるとのことでしたけど、日本でもそれらを導入すべきなんですか?斎木:僕は、模擬投票は素晴らしい教育のコンテンツだと思います。やっぱり政治教育をするならば模擬投票が一番だと思います。実際の選挙をみていくことは、教育を受ける側にとっては一番おもしろいと思います。正解のある話ではないので、各党の政策をみたときに「あ、自分はこれがいいな」と思うところからスタートすることは日本でも取り入れていったらいいでしょうし、模擬投票ならば先生のイデオロギーも入りにくいと思います。やはり中立的に、そこには色んな仕組みが必要でしょうけど、模擬選挙を通して体感型の政治教育をしていけばいいのではないでしょうか。民主主義の究極的目標は弱者救済山本:そのお話には、斎木さんがよく言う市民的公共性が前提にあるんですか?斎木:その先に、市民的公共に対する視野が僕のなかではあります。模擬選挙をやったり政治教育をする人たちの全てが市民的公共を最終的に目指しているわけではないでしょうけど、私は市民的公共の意識は強くあります。山本:ちなみに、市民的公共について一度整理をしたいです。私はあまり詳しい分野ではありませんので(笑)市民的公共というのは、教養ある市民が議論することで世論を形成して、その世論が行政を監査する、といった認識で大丈夫ですか?斎木:そうですね。つまり、公共の担い手となる市民一人ひとりが討議に参加していく。その教養ある市民がね。だからこそ、教育なき民主主義は無意味であるわけですよね。教養ある市民が討議に参加して、監査したり、いまならNPOやNGOを立ち上げることによって公共の担い手になることも可能になってきていると思います。山本:その、つまり政府が動くだけではなくて市民自体が積極的に参加をして社会を形成していくっていうこと?斎木:そういうことだと思います。山本:要するに政府の手が行き届かないところで市民が活動していく必要があるっていう認識だと思うんですけど、そのなかで必要になってくるのが教養だったりするわけですよね。だから教育で補っていかなければいけないはずでありながら、現状ではカバーしきれてないように私は思いますが、その点はいかがですか。斎木:政治教育は先ほど言った通り日本では盛んにおこなわれていないですね。やっぱり僕が思うのは、政治や公共とは、社会の構成員みんなに関わるものだと思う。ルールを決めたりね。それから、僕は政治、とりわけ民主主義の究極的目標は弱者救済だと思っています。強い人は市場の原理で政治が介入しなくていいわけですよ。民主主義の究極的目標はロック・ルソー以来の自然権という根本的な理念だと思います。僕は別に西洋かぶれじゃなくて、日本にしても古くから神道や仏教がありますけど、仏教の法然の言葉を借りれば「みんなが幸せになるために生まれてきた」、つまり幸せを追求するために生まれてきた、というのは日本でも普遍的な考え方でした。これは日本の伝統であると思うと同時に、西洋においても同じだったんですよ、昔から。つまり結局何が言いたいかというと人間が生まれながらにして生命・自由・財産をもっている、幸福を追求する権利があるということ。そして今の日本国憲法の根本的価値は第13条の幸福追求権ですよね。そこで重要なのが、幸せではない人たちを救済することによって、みんなが幸せになるという目的の達成ができます。幸せでない人たちに、公共によってアプローチをしていくことが大切です。山本:ただ、その公共を考えた時に、最初に戻りますけど「教養ある市民による良質な議論」、これによってマイノリティの排除という議論もありますよね。結局教養ない市民は排除されるわけですから。斎木:教養ある市民の定義が難しいですけど、民主主義の究極的な目標を理解していることが大前提だと思います。日本国憲法は日本の根幹であり、その根本的価値と言われるのが13条。それを考えると、民主主義の討議のなかでは一番の大前提ですから、やはり「教養ある」にはここが含まれているでしょう。そうすると、教養ある人たちが教養ない人たちを排除する、っていうのはその大原則に反してますよね。山本:ちなみに衆愚政治についてどう思いますか?斎木:私たちは、この(13条の)大前提を理解できていなかったり学ぶ機会がありません。だって、「日本国憲法の根本的価値と言われる条文は?」というのは、(学校教育では)あまり扱わないですよね。結局、その意味や成立背景を学ばないわけですよ。この教育がないために、衆愚政治に陥ったり、集合愚に陥ったり、インターネットの炎上もそうかもしれませんけど(笑)私はやはり、そのところをしっかり教育によって補完する必要性は必ずあると思っています。今一度の『学問のすゝめ』山本みずき特別編集長山本:私たちは慶應義塾大学で学んでいる立場ですけど、今日も『学問のすゝめ』を改めて読み返していてね…(斎木さんに遮られる)斎木:福澤諭吉先生ね!結局、福澤諭吉先生の時代は近代がはじまったとき。近代とはロック・ルソーの考えがまさに日本にはいってきた時代です。そのときに、福沢諭吉が説いたのが『学問のすゝめ』ですよ。「一身独立して一国独立す」、これは独立不羈の考え方ですけれども、やっぱり一人ひとりが学問してこそ国家が独立する。当時は国家の独立が至上命題だったと思いますが、今はやはり(日本は)独立国家として成り立っているわけですよね。細かい点はおいて、独立国家として危ぶまれることは喫緊ではない。では、何がいま大切かと言うと、成熟した民主主義ですね。これから社会の在り方をどうすべきか考える時に、まさに今、福澤諭吉の言葉が再び意味をもってくると思います。誰がエリートだとか、一部の人間だけが決めるのではなく、できるだけ多くの人々が参画して社会の在り方を決めていく必要があります。当時は独立のために学問だったと思いますが、これからは社会の在り方を、民主主義をどう成熟させていくかを考えるための、今一度の『学問のすゝめ』ですよね。山本:そうそう、それでね、市民的公共っぽい記述が『学問のすゝめ』にあったので是非紹介したいんですけど。第四篇では「国民の気風が国を作る」という項目がありましたね。そこにはこう書かれています。「狭い意味での『政治』をなすのは政府だけれども、世間のあれこれの事業の中には、政府が関係しないものも多い。一国全体を整備し、充実させていくのは、国民と政府とが両立して、はじめて成功することである。われわれは国民としての責任を尽くし、政府は政府としての責任を尽くしてお互いに強力しあい、日本全体の独立しなくてはならない」と。まさに斎木さんの提起した内容そのもだと思いました(笑)福澤諭吉先生も論じていたんですね。斎木:いやいや!福澤諭吉先生が論じられたことを私が勝手に解釈しているので、僕が論じているどうこうではありませんけど(笑)福澤諭吉先生は、だからこそ日本の貨幣の肖像に二度も選出されるわけですね。二度、選出されるのは福澤先生だけですよ。やっぱり慶應義塾大学の誇りでもありますけど、日本人としても誇りです。山本:私も同じ思いであります(笑)最後に、いままさに総選挙があっているわけですけど、選挙に対して若い世代である斎木さんから一言お願いします。斎木:とにかく、参加して欲しいです。とにかく一票を投じて欲しいし、少しでもいいから考えて欲しいです。情報を収集しやすいのはインターネットの良い部分ですし、調べればすぐに政党のマニフェストも見られるわけです。あとは政党マッチングを試すこともできますし、それも含めて色んな情報収集をインターネットや本、街頭演説を少し聞いてたりして自分のなかで何となくでいいから参加してほしい。たしかに自分の思想と照らし合わせたり、真面目に選挙に取り組む人もいますけど、30代40代以降の人でも何となくで参画している人もいます。それに何と言っても!初体験なわけですから(笑)参加してみることが大事で、どれが正解かではなく、自分なりの答えでいいわけだから気負いせずに参加してみてほしい。僕自身が偉そうにお話してしまいましたが、それこそ僕はまだ学んでいる立場です。皆さんからも多くのことを学んでいきたいですし、私も自分なりの確信があって投票できているわけではありません。そういう意味でも是非皆さんには参加して欲しいと思います。山本:実は私はまだ19歳なんですよね(苦笑)しかも今回選挙には参加できないし、(投票の)初体験すらまだっていうところなんですよ。そのなかで、選挙権をもっている人たちが、自分たちがもっている権利を行使しないっていうのが勿体無くて仕方がない。もうね、 選挙に参加できる方々が羨ましい限りですよ。だから、今回せっかく機会があるわけですから、一国民としてこの国をどうしていくか考える上でも選挙権をお持ちの方々には行使していただきたいと思います。斎木:そうですね。若い人が投票にいかないと、どうしてもシルバーデモクラシーになっちゃいますから。山本:是非、選挙には参加を!斎木:とくに若い人は!僕も含めて。笑 今回色んな話がでましたけど、私はまだまだ未熟者であり、学んでいる途中なので、暖かく見守っていただきたいなと思っています(笑)自分自身も正すべきは正して、反省すべきは反省していくつもりです。今回は山本さんとお話できて、後輩とは思えないほどしっかりされているので学びも多かったですし、今後も学び続けていきたい思いです。山本:いえいえ。斎木さんとは今年の夏に一緒に講演して以来、何かと関わりがあるんですが、来年の4月にも愛知で一緒に講演する予定があったりと、今後もそういう機会が増えてくると思いますので、どうか皆様、応援のほどよろしくお願い致します。斎木:ほんとうに期待の後輩です(笑)山本:いやいや、ほんとうに期待の先輩です(笑)というわけで今日はありがとうございました!

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    若者は政治に何を望んでいるのか

    若者と政治」。私たちの世代の政治観は、他の世代の方々にまで届いていない気がする―。そんな疑問を抱くのは、iRONNA特別編集長の山本みずき。今の若者は政治に何を望んでいるのか。投開票を明日に控えた衆院選を前に、改めて「若者と政治」というテーマを考えたい。

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    若者の政治離れ」のウソ

    み60%を超えてくる50代以上の中・高年とくらべて、明らかに低いのが実態だ。 このことを踏まえて、「若者の政治離れ」とか、「若者の政治意識の希薄化」が叫ばれて久しい。まずこの前提が本当なのかどうか、疑ってみよう。 次のグラフは、公益財団法人「明るい選挙推進委員会」が公開している、年代別の「衆議院議員総選挙年代別投票率の推移」(http://www.akaruisenkyo.or.jp/070various/071syugi/693/)である。  これをみても分かるように、若者(特に20代)の投票率は、過去(1960年代)とくらべて、長期的に明らかに低下しているのが分かる。しかし注意しなければならないのは、全年齢における投票率は、過去から現在まで、ゆっくりと長期低下(特に平成期)している、という事実だ。 つまり、「投票しないこと」を「政治離れ」と定義するなら、「日本人全体の政治離れが進む中、特に若者についてはその度合いが大きい」という風に解釈するべきだ。ところが一方で次のような統計もある。日米英仏韓の主要5カ国の青年(18-24歳)のそれぞれ各1000人を対象に実施した国際的な意識調査である「世界青年意識調査」の最新統計(第8回・内閣府)によると、政治に「非常に関心がある」は日本=11.7%で、米国=16.4%に次いで高い数値であり、政治に「まあ関心がある」と合わせると日本=57.9%で、主要5カ国の中で最高であった(最低は英国の32.2%)。 このように、日本の若者は「政治には比較的強い興味を持っている」が、しかし「実際の投票行動には繋がっていない」という実態が浮かび上がるのである。 ここからは、「若者の政治離れ」ではなく、むしろ「若者の投票行動離れ」という現実が判明する。どうも、若者が政治に関心がないから投票所に行かない、のではなく「政治に関心はあるが、投票所には行かない」というのが正解に近いだろう。この原因は、まったく制度的な原因に求められると、私は考えている。 つまり、選挙システムそのものが、若者の要求に答えていないのではないか、という疑問が浮かぶ。例えば地方から上京して、一人暮しをしている大学生が投票行為に及ぶ場合、住民票の所在地に投票権利を有するため、一人暮しをしている(生活実態のある)現住所では投票ができず、住民票上の自治体の選挙管理委員会に「遠隔地投票」の手続きを申請しなければならない。 この手続は至極煩雑で、自治体によっても異なるが郵送によって申請しなければならない場合が多い。実際、私もこの制度を利用して遠隔地に投票したことがあるが、選挙管理委員自身も不慣れな場合も多く、書類をたらい回しにされ、危うく投票そのものの意欲が無くなりそうになった。 私が大学生だった時代、周囲の友人・知人の中で「政治には関心があるが投票所には行かない」という人間の、ほとんどすべての理由がこの「遠隔地投票」である。わざわざ元住所の住民票を請求したり、地域の選挙管理委員会に申請用紙を請求したりするのは、よほど奇特な人物ではない限り行わない。この硬直したいわば「住民票主義」のようなシステムを正し、生活実態の存在する自治体で投票行動が可能になるように、法改正するだけで、若者の投票率は随分と変わってくるだろう。 更には、硬直化した投票日や投票時間の問題がある。普通、投票日は日曜日の朝から夜の8時までであるが、それは「週末が休日であることが前提の、模範的な勤労者(サラリーマン)」のライフスタイルを中心とした考え方である。 これだけ非正規雇用が拡大し、若者の多くが親からの仕送り額の減少などに悩み、アルバイトなどを兼任している現在、若者のライフスタイルは多岐に及んでいることから、投票曜日と時間は拡大されて然るべきだ。 投票日数を二日間などに拡大し、24時間に近い形で開放すれば、これも若者だけではなく、全年齢において投票率は格段に向上するだろう。あるいは投票日を祝日にすることなど、法で別途定めるようにしても良い。 投票所の多くは市役所や小・中学校に設置されているが、地の利の不便な場合もある。可処分所得の減少で格差の犠牲になりがちな若年層は、必然自家用車の保有率が少なく、投票所への来所はかえって困難な場合もある。小・中学校の多くは、駅から遠い住宅地の中にあるからだ。 よって、既存の公的施設を転用した臨時投票所の増設や、空港や駅などJRや私鉄、航空会社と連携した投票所開設も有効ではないか。各所に電子認証端末を設置し、住民基本台帳カードによる本人確認が普及すれば、やはり投票率は劇的に改善されるだろう。 現代人のライフスタイルの多様化は、明らかに現行の投票制度から齟齬をきたしている。通販サイトで注文した商品がその日に届くことが当たり前になりつつある中で、投票システムだけは何十年も前の、ハガキ持参と鉛筆書きという、旧態依然としたものに留まっている。これだけ実態と制度が乖離しているのに、それが投票率に作用しないと考えるほうがおかしいと思う。「週末が休日であることが前提の、模範的な勤労者(サラリーマン)」という、日本人の生活や働き方のスタイルは、過去のものになりつつある。その証拠に、「期日前投票」の利用者総数は、選挙の毎に拡大の一途をたどる傾向がある。「日曜日に、決められた場所に、決められた時間に行くことができる人間」は、この世界の中でどんどんと減っている。 その変化に、システムは全く対応していない。「模範的な勤労者」が存在することを前提とした日本のシステムの弊害は、選挙制度にとどまるものではない。年金や健康保険など「模範的な勤労者」が強固に存在した時代に想定された制度の多くに、歪や問題が指摘されているのは周知のとおりである。 住基カード1枚を持って、ふらりと東京駅で投票してから、道後で温泉に浸かりながら選挙速報を観る。そのような時代が到来した時、「若者の政治離れ」というフレーズは消えてなくなっていることだろう。