検索ワード:表現の自由/25件ヒットしました

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    コンビニのエロ本規制とおバカな人権感覚

    過剰な性的描写を含む成人雑誌の販売をめぐり、堺市が今年3月からコンビニと協力して「目隠し」する規制に賛否が渦巻いている。性表現の在り方をめぐり国内では出版業界とのバトルが続いているが、この規制の裏にはどうも国連のおバカな人権感覚もプンプン漂ってくるのですが…。

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    コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス

    ないという態度を示した。さらに、回答に先立って堺市の竹山修身市長はTwitterで「雑誌協会等の言う表現の自由侵害はF社との自主協定であり失当(註:的外れの意)です」と、半ば嘲笑するような発言を行った。二月定例会を終え定例記者会見です。提案の議案は全て可決頂きました。記者連から有害図書のコンビニ掲示、相次ぐ政務活動費監査請求、政令市十年の総括等の質問がありました。雑誌協会等の言う表現の自由侵害はF社との自主協定であり失当です。 pic.twitter.com/mcLDLNPhEM— 竹山おさみ(堺市長) (@osamit_sakai) 2016年3月25日  こうした堺市の態度は、さらに出版業界の反発を呼んだ。日本雑誌協会編集倫理委員長の高沼英樹氏は筆者の取材に「的を射ていないのはどちらでしょうか。あなたたちこそ、そうでしょうと言いたい」と怒りを隠さず、堺市の回答に対しては「声明を出して終わる問題じゃない! 徹底的にやりますよ」と話した。 回答の後、両協会では4月4日に「協定」の即刻解除を要求する声明を発表。対して、竹山市長は定例記者会見で「(ほかのコンビニでも進めていきたいという考えに)変わりない」と発言。これを受けて、両協会は新たに申入書を送付しているが、以降堺市からの返答はない。 そこで、堺市に返答しない理由を尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきた。 「(申入書は)特に回答を求めているのはないので、頂いたということで……様々なご意見を頂いてはいますが協定を解除する予定はありません」 堺市には、出版業界の努力を踏みにじる過度な規制が、言論・表現の自由の侵害へと繋がっていくことへの想像力が欠けているようだ。協定による施策を実施しているファミリーマートは、現在も11店舗のまま増減はないという。11店舗で成人向け雑誌を包装したことで女性や子供が暮らしやすい都市ができると、本気で考えているのだろうか。「人権問題になると、基本的に思考停止してしまう」 ここで思い出されるのが、2008年に堺市で起こったボーイズラブ(BL、主に女性読者を対象とした男性同性愛を描く作品)図書撤去問題だ。これは堺市立の4図書館がBL小説を書棚に置いていたことに対して市民から「セクハラではないか」「子どもに悪影響を与える」と苦情が寄せられたことに端を発する。これに対して堺市は「今度は、収集および保存、青少年への提供を行わないことといたします」と回答し書庫に収蔵する措置を取った。ところが、この問題が全国紙でも報道されると、今度は市民から「図書館には実に多様な資料が収集され、利用者に提供されています。それらの資料の中には、ある人にとって気に入らない資料が含まれています」となどとする批判が殺到。結局、堺市では条例の「有害図書」にあたらない、として書庫への収蔵や貸し出し制限は行わないことを決めた。平成28年度当初予算案の記者会見に臨む堺市の竹山修身市長=2016年2月10日 筆者もこの騒動の渦中で、現地を訪れて多くの関係者に取材した。市民のための図書館はどうあるべきか。娯楽本やポルノを公共図書館は収蔵すべきかなど論点は尽きなかった。だが、その中で気になったのは市立図書館の関係者に取材した時である。 「まずは、なにがBL図書にあたるのか洗い出し作業を行っています」 そう話す担当者が見せてくれた資料には、明らかにBLではないジャンルの小説までもが、いくつも記載されていたのである。そこには「とりあえず、嵐が過ぎ去るまで、なにかをやっているフリ」が匂っていた。 その匂いの正体を教えてくれたのは、日本図書館協会・図書館の自由委員会委員長の西河内靖泰氏である。西河内氏が堺市が迷走した背景として、様々な人権問題が行政闘争によって解決されてきた歴史を語り、こう指摘した。 「堺市は人権問題になると、基本的に思考停止してしまう。ほとんど正常な理屈が通らなくなってしまう行政の体質があるんです」 この時の取材から導き出されるのは、堺市では「人権」への取り組みが市民に対する大きなパフォーマンスになると行政が考えていることである。堺市はファミリーマートと協定を結んだことを大々的にアピールするが、施策を実施している店舗は11店だ。電話帳で調べたところ堺市内のファミリーマートは34店。コンビニエンスストアは288店舗である。 これだけで、堺市の行政も、出版業界を挑発する竹山市長も、本気で女性や子供が暮らしやすい街を目指しているとは思えない。出版業界からの声明、申入書にも動じないのは、言論・表現の自由に無理解だからではない。本気で「人権」のことなど考える気すら持っていないからである。 粗悪な「人権」パフォーマンスを自画自賛する堺市。きっと、市民から「協定」に対する苦情が寄せられた途端に、また迷走するだろう。その姿が目に浮かぶ。 だが、最後に歩みを留めて考えたい。社会的に「弱者」とされる側に寄り添うふりをして、錦の御旗を得たかのように振る舞う姿を見るのは、ここだけではないということを。 「弱者」だとか「被差別」とされる側と社会との関わりは、一様ではない。そこには複雑な関係が絡み合っていてなにが真なのか、回答などない。その複雑な社会や人間というものを描くためにも、やっぱり言論・表現の自由は限界まで制限されるべきではないと考える。

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    エロ本に目隠しフィルム 堺市が踏み込んだ「道徳規制」という一線

    る。これらの表現すべてが法の下で規制の対象になってしまったら、笑い話ではすまされない。公権力による「表現の自由」の侵害である。あるいは、殺人を夢想しようが、テロを思い描こうが、行為を伴わない限り、何を思ってもかまわないという「内心の自由」の干犯にもつながっていくのではないか。 ところが、成人向け図書の販売規制は、青少年の健全育成なるものを大義名分に、まるで法と道徳の分離や表現の自由、内心の自由の埒外として扱われているかのようだ。 長野県を除く46都道府県には、青少年健全育成条例が制定されている。一般には、性的描写などの「著しく性的感情を刺激し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められる」図書類を、民間人を交えた審議会での検討を経て、行政が「有害」図書や「不健全」図書に指定し、小売店は指定図書を「成人コーナー」などに区分陳列したり、包装をして中身を見えなくしたりして、18歳未満の青少年の目に触れないようにしなければならないという制度だ。もし18歳未満に指定図書を販売すれば、一定の手続きを経て、小売業者は警察の摘発を受け、刑罰が科されてしまうことになってしまう。成人向け雑誌の表紙を隠す取り組みを始めた「ファミリーマートなかもず駅北口店」=堺市北区 ではなぜ、成人向け図書の販売規制が容認されるのか。「岐阜県青少年保護育成条例違反事件」での最高裁判決は「本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい」(1989年9月19日)としか言っていない。青少年条例による販売規制にお墨付きを与えはしたものの、「悪影響」「風潮」なる理由で“有害だから有害だ”と言うだけであった。一歩踏み込んだ“道徳規制” 青少年条例そのものに、私は疑義があるのだけれど、大阪の堺市は、さらに一歩踏み込んだ“道徳規制”に乗り出した。3月16日、堺市とファミリーマートは「有害図書類を青少年に見せない環境づくりに関する協定」を結び、コンビニに並ぶ成人向け図書の表紙が子どもや女性に見えないよう、フィルムで包む取り組みを進めることにした。具体的には、雑誌の中央を緑色のビニールカバーで覆い、「成人コーナー」の下部には子どもの視線を遮るために横長の板を設置し、「堺市では、女性や子どもに対する暴力のない安全なまちづくり事業〈堺セーフシティ・プログラム推進事業〉に取り組んでいます」という表示を掲げるというものだ。店頭には「女性と子どもにやさしい店」というシールも貼られているという。 販売規制の対象は、大阪府青少年条例によって指定された「有害」図書らしい。ただし、大阪府は2010年以降、タイトルを明示した個別の「有害」指定を実施していない。府条例では「全裸又は半裸での卑わいな姿態、性交又はこれに類する性行為で下記の内容を掲載するページ(表紙を含む)の数が、総ページの10分の1以上又は10ページ以上を占めるもの」を自動的に「有害」図書と見なす「包括指定」制度も設けており、堺市は「包括指定」図書を主な販売規制の対象にしているようである。 だが、大阪府条例の場合は、曲がりなりにも条例による法的規制というかたちをとり、販売方法も条文中に書き込んでいる。にもかかわらず、堺市は府条例をも踏み越え、法的根拠なしに、販売規制を行った。日本雑誌協会と日本書籍出版協会が「今回の措置は、大阪府条例の規定を逸脱するものであり、我々は堺市が締結したこの協定は、図書類への恣意的な規制強化につながるものとして大いに懸念しています」という見解を明らかにしているが、至極もっともなことだ。竹山修身堺市長 青少年の健全育成なるものは、本来であれば価値中立であるべき行政が関与できない、まさに道徳そのものである。青少年条例はそれを逸脱した制度だとは思うものの、かりそめにも行政が直接、成人図書の撲滅などの環境浄化運動を行えないということは理解していたはずだ。浄化運動の多くを肩代わりしてきたのは、(行政主導ではあるものの)建前上は行政の外にある「青少年育成県民会議」「青少年育成市民会議」などの名称で活動している官民一体の団体であったことが、その表れだ(余談ながら、これら地方組織のまとめ役だった内閣府の外郭団体「青少年育成国民会議」は、2009年に解散している。構成団体からは使途不明金の存在を疑う声が上がり、乱脈もあったのではないかと噂されたものだった)。行政の本分を忘れ、一線を逸脱したのが、堺市の取り組みと言えないだろうか。 その上、さらなる逸脱が加わる。青少年条例では、18歳以上の者が性的内容を含む図書類を「読む・読まない」「買う・買わない」自由までは規制していない。行政が「女性のため」「お母さんのため」を標榜して図書類の販売規制に踏み込むのは、はじめての事例になりそうだ。まさしく法と道徳、法と倫理の融合である。 堺市の竹山修身市長は、3月31日の定例記者会見で「子どもやお母さん、保護者の皆さん方が気楽に入れるコンビニの中で、いわゆる有害図書というのが置かれていることが、本当にいいのだろうか」「皆さん方も、お子さんや妻さんがコンビニに行って、そのような有害雑誌が陳列されている状態だったら、何だこれと思われるのではないか」「公権力の行使ではなく、自主協定である」などと説明したという。 首長といえど、素朴な道徳観を個人的に開陳するのはまったくの自由だ。しかし、たとえ住民の一部が喝采しようが、道徳の強制は行政の役割ではない。

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    エロ雑誌は規制に関係なく勝手に滅びていくだけだ

    覆うというこの対策は、立ち読み出来ないようにしたテープ留めの手法を、さらに推し進めたものだ。これが「表現の自由」を侵害するものではないかと、抗議をする動きもある。しかし当のエロ本の現場では、そうは考えてはいないだろう。規制に対して抗議するよりも、その規制にひっかからないようにして、いかにエロくするかを考えるのがエロ業界の発想だからだ。 2004年のテープ留めの時は、立ち読みが出来ないなら、表紙で内容がわかるようにしなければならない、という対策が取られた。その結果、内容を表したキャッチコピーがごちゃごちゃと表紙を埋め尽くした雑誌ばかりになってしまった。アート誌やファッション誌と見間違えてしまうほどに洗練されたデザインの表紙が印象的だった「URECCO」(ミリオン出版)も、テープ留め規制以降は、他のエロ本と同じくキャッチコピーに埋め尽くされた下世話な表紙となった末に休刊した。 おそらく、今度は幅12センチのカバーに覆われない部分だけで、どう目立つかに勝負をかけることになるのだろう。わずか幅数センチのスペースに扇情的な語句を詰め込んだ表紙がズラリと並ぶ、そんな成人コーナーの有様が目に浮かぶ。 しかし、いずれはコンビニから、エロ本は完全に撤去されてしまうだろう。その流れは止められない。 コンビニで売れないならば、書店で売ればいいではないか、そもそもコンビニのような日常的に利用する店でエロ本を販売するのが、間違いなのだ。そういう意見もあるかもしれない。 だが、その書店は毎日2軒のペースで街から消えている。新規にオープンする書店もあるが、そのほとんどが大型書店であり、そうした店にはエロ本コーナーは存在しない。そもそもエロ本の場合、書店とコンビニの販売では部数は10倍ほど変わってくる。コンビニから締め出されて、書店に活路を見出すという選択肢は、難しいのだ。 今回の堺市の試みが、全国に広がっていった場合、既に瀕死であるエロ本にとって、それはとどめとなるだろう。 しかし、既に中高年の読み物であるエロ本を世の中から排除したとしても、青少年の「正常な育成」には、あまり影響はないのではないか。そう思えてならないのだ。

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    コンビニの成人向け雑誌に「目隠しカバー」は法的に許されるのか

    いった目的は含まれていません。この点も過剰な規制であると言わざるを得ません。 有害図書規制は、出版・表現の自由に対する制約ですので、条例や規則の解釈は厳格になされなければならないと思います。(了)大阪府青少年健全育成条例大阪府青少年健全育成条例施行規則【追記】(2016年3月11日) 本日(2016年3月11日)、堺市のホームページに、堺市とファミリーマートとの間で締結される予定の「有害図書類を青少年に見せない環境づくりに関する協定(案)」が公表されました。「協定(案)」によると、以下のような「表示板」を陳列棚に取り付け、以下のような「フィルム」で包装を行うということです。具体的な作業はファミリーマートが行い、堺市はその表示板やフィルムなどの資材を提供することになっています。堺市のホームページより(Yahoo!個人 20016年3月9日分を転載)

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    海外の厳しい性表現規制が「クール・ジャパン」に水を差す?

    ルノ問題に熱心に取り組んできたことで知られています。稲田大臣は、5月14日の会見で記者の質問に答え、表現の自由は憲法上の重要な権利だと認めつつも、「全て無制限というわけではないというふうにも思います」と述べました。 日本のアニメやマンガは、諸外国よりも緩やかな表現規制のなかで創造性を発揮してきた歴史があります。規制と、表現の自由との折り合いをどうつけていくのか。今後の議論の行方が注目されます。

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    性表現漫画を制限する都条例 際立つ「健全」と「不健全」の曖昧さ

    育成条例にもとづき、漫画『妹ぱらだいす!2』(KADOKAWA)を「不健全図書」に指定したことで、「表現の自由」が侵されるのではないかと話題になっています。不健全図書とは、行政側が「性的感情を著しく刺激する」と判断した漫画やアニメを18歳未満が購入できないようにシール止めや成人コーナーへの移動を義務付けるもので、特に作品中の「擬音」や「体液」の多さが問題視されます。 しかし、今回の指定で問題になったのは「わいせつ性」だけではありません。東京都の青少年育成条例は2010年に一部改正され、婚姻が禁止されている近親者間の性行為など社会規範に反する表現も不健全図書の指定基準に加わりました。『妹ぱらだいす!2』は主人公が妹5人と同居して性行為に及ぶ作品です。今回はこの“新基準”が適用された初めてのケースで、そのため今後は「妹」を題材にするだけで不健全図書の烙印を押されてしまうのではないか、と心配する声が上がっているのです。 新基準は本当に「表現の自由」を制限するものなのでしょうか。[図表]憲法が規定する「表現の自由」と東京都の「不健全図書」の指定基準 憲法21条は表現の自由の保障を規定しています。表現の自由とは、“人の内面の精神作用を外部に発表する自由”のことです。過去には、D・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』の日本語訳をめぐって作家・伊藤整と出版社社長がわいせつ物頒布罪に問われた裁判、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』の日本語訳で作家・澁澤龍彦と出版社社長がわいせつ罪に問われた裁判などをはじめ、「わいせつ性」と「表現の自由」をめぐる議論が何度も行われてきました。 国会で実務者協議が行われている児童ポルノ法をめぐっても同様の議論があります。東京都が今回の新基準を制定したときも、やはり表現の自由との兼ね合いが問題になりました。 そこで、東京都青少年・治安対策本部はこうした漫画規制について、漫画を描くことや出版することは自由であり、あくまでも規制は「青少年への販売・閲覧を行わないこと」だとし、新基準の対象を次のように限定しました。(1)漫画やアニメなど「画像により」(2)「刑罰法規に触れる」または「婚姻を禁止されている近親者間の」(3)「性交、または性交類似行為」を(4)「不当に賛美したり誇張するような描写、または表現したもの」――。新基準の対象はこの4つ全部に該当するものだけで、「表現の自由の侵害するものではない」と主張しているのです。恣意的な運用が表現の自由を侵害する恐れ 今回の『妹ぱらだいす!2』の場合、こうした不健全図書の指定基準に関する出版元のKADOKAWAの対応に原因があると指摘する声もあります。もともと、この作品は18禁ゲームのコミカライズ版で、当初連載していたのも表紙に「成年コミックマーク」のある同社グループのアダルトゲーム雑誌でした。単行本化するときに、全年齢向けではなく「18禁」にしていれば今回のような問題にならなかったとの見方もあります。KADOKAWAは、2年前にも「18禁」の雑誌に掲載された漫画作品を全年齢向けの単行本として販売し、“旧基準”での不健全図書の指定を受けています。 とはいえ、それでも『妹ぱらだいす!2』の不健全図書指定に表現の自由の観点から懸念を示す意見があるのも事実です。たとえば、なぜ新基準の初適用が『妹ぱらだいす!2』だったのか、という問題です。新基準が施行されてからすでに2年以上が経過しています。先の4つに当てはまる漫画もあったにもかかわらず、これまで新基準によって指定された「不健全図書」は1冊もありませんでした。 また、新基準の4つの条件にしても、近親相姦の「不当な賛美」「不当な誇張」とは具体的にどういうものかなど、あいまいで主観的な部分が少なくありません。それもあって、恣意的に運用して表現の自由を制限するのでは、と心配されているのです。 行政当局がわいせつな表現や社会規範に反する表現を規制できるとしても、どこまでが「健全」でどこからが「不健全」かの線引がわからないと、権力を持つ側が勝手にマンガ表現を規制できることになります。『妹ぱらだいす!2』の問題をきっかけに、青少年育成条例の不健全図書指定がどのように運用されているのか、しっかりチェックしていくことが大切かもしれません。

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    ろくでなし子独占激白! 国家という「ラスボス」との闘いは続く

    が「ろくでなし子」っていう名前だから伝わりにくいかもしれないですが、警察が恣意的に逮捕できてしまう、表現の自由を許さない社会になってしまったらどうなるんだという疑問を提示できたことは、意義があったのではないかと思います。 これからも変わらず作品をつくり続けていきたいです。判決次第で起訴された作品は日本では作れなくなる可能性がありますが、ほかの作品は戻ってきましたから。いまでも起訴された作品とされなかった作品の違いはわからないままです。私が有罪になったら、これが有罪なの?って声が日本だけでなく海外でも強まると思う。日本っておかしいよねっていう風評が広まってしまうのではないでしょうか。(聞き手 iRONNA編集部 川畑希望)ろくでなしこ 漫画家・まんこアーティスト。2013年秋、まんこを3Dスキャンし、そのデータで今性器(世紀)初のマンボートを制作、たまん川(多摩川)にて進水を果たす。その制作費用に利用したクラウドファンドで、出資者へのお礼に3DデータをダウンロードできるURLを送信した事などが要因で、2度に渡り逮捕される。釈放後は勾留中の体験を漫画や書籍に執筆し、表現の自由を訴える活動を精力的に続けている。単行本「ワイセツって何ですか?—自称芸術家と呼ばれた私—」(金曜日刊)が発売中

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    3Dプリンターに警鐘? ろくでなし子裁判で東京地裁が示した思惑

    を議論し、社会的価値を判定することは、国家の意思に芸術や文芸などの表現活動を依存させることであって、表現の自由にとってはマイナスになりはしないかを懸念します。 やはり、問題の根本は、性表現の何が問題なのかという点です。 確かに、露骨な性表現が多くの人びとに不快感を与え、見たくもない人が性器の直接的な描写を無理やり見せられたりすることや、性器の俗称を聞かされたり、読まされたりすることは、人によってはしゅう恥心や自尊心を大いに傷つけられる場合のあることは間違いありません。しかし、わいせつの裁判では、そのような〈個人の感情的被害〉が問題になっているのではありません。もしもそうならば、見たい人に見せるのは一向に構わないということになります。 では、裁判所は何を問題にしているのでしょうか。 裁判所は、およそ日本のこの社会において、性器や性行為の露骨で直接的な表現、あるいはそのような表現物が流通しているということ自体がダメだと言っているのです。つまり、そのような性表現に直接接することがなくとも、そのようなものが〈この社会に存在していること〉について不快感や嫌悪感をもつ人たちがいて、その人たちの〈仮想的な感情〉を裁判所は問題としています。石膏作品のわいせつ性はなぜ否定された? 〈チャタレイ事件判決〉は、わいせつ性はもっぱら価値判断(法的判断)であって事実認定の問題ではないから、実際にそれを見た人がどう感じたかは問題ではないとされましたが、このような表現の中にもその発想はうかがえます。 わいせつは、〈いたずらに性欲を刺激・興奮させ、普通人の性的しゅう恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの〉と、判例によって伝統的に定義されてきましたが、この定義で重要な部分は最後の〈善良な性的道義観念に反する〉という点であり、〈刑法は道徳を守る最後の砦だ〉という発想です。本判決でも、この点は特に強調されています。 芸術性がわいせつ性を減少させることがあるとした点、そして、露骨な性器表現は道徳的な秩序に反するがゆえに厳格に取り締まられるべきであるとした点では、従来の最高裁の判断を超えるものではありません。 石膏作品のわいせつ性が否定されたのは、事実認定のレベルで〈あのような作品は、従来の基準から判断してもわいせつではない〉とされたものであって、裁判所のわいせつについての考えに変更があったものではありません。 ただ、本件では、3Dデータのわいせつ性を認めたという点で目新しいものを含んでいます。3Dプリンターについては、無限の社会的有用性を含んでいるわけですが、他方で、3Dプリンタで拳銃を製造する事件があったように、その悪用についても予想がつかないものがあります。わいせつについても、将来的には、たとえばポルノ女優の性器データなどを販売したりする事案も出てくるかもしれません。3Dプリンターについての、そのような〈乱れた〉使用の可能性に警鐘を鳴らす意味もあるのかもしれません。そのだ・ひさし 甲南大学法科大学院教授(弁護士)。1952年生まれ、関西大学大学院修了後、関西大学法学部講師、助教授をへて、関西大学法学部教授。2004年からは、甲南大学法科大学院教授(弁護士)。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、青少年有害情報規制などが主な研究テーマ。現在、兵庫県公文書公開審査会委員や大阪府青少年健全育成審議会委員などをつとめる。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『インターネットの法律問題-理論と実務-』(2013年新日本法規出版、共著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。

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    ろくでなし子裁判の顛末がバカバカしい

    自分の女性器をかたどった作品や3Dデータは「芸術」か、それとも「わいせつ」なのか。iRONNAで好評連載中のろくでなし子が性表現の在り方を問いかけた注目の一審判決は「一部無罪」だった。彼女自身も「バカバカしい」と嘆く法廷闘争の行方は今後どうなるのか。

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    ろくでなし子氏は「わいせつの3要件満たしてない」と弁護士

     女性器の3DデータをダウンロードできるURLを支援者にメールで送付したことが罪に当たるとされ「わいせつ電磁的記録頒布」で逮捕された漫画家で芸術家のろくでなし子氏(42)。 ことの発端は、彼女が昨年6月に女性器をかたどったカヤック、その名も「マンボート」の制作資金をネットで募ったことにある。ネットを介して不特定多数の人から資金協力を求めるクラウド・ファンディングの仕組みを使い、100万円の調達に成功した彼女は、一定額以上の出資者には「お礼」として女性器の3Dデータをプレゼントすると約束していた。 ろくでなし子氏が起訴されるか不起訴になるかは不透明だが、いずれにしても弁護団は戦う姿勢を鮮明にしている。 「そもそも、わいせつの3要件を満たしていません」  と語るのは弁護団の山口貴士弁護士だ。3要件とは、伊藤整が翻訳した『チャタレイ夫人の恋人』を巡るわいせつ裁判の最高裁判決(1957年)で示された「【1】いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、【2】普通人の正常な性的羞恥心を害し、【3】善良な性的道義観念に反するもの」をいうが、山口弁護士は「今回はこの3要件を充足しておらず、犯罪は成立しない」と断言する。  性犯罪やインターネット犯罪に詳しい奥村徹弁護士も、「ろくでなし子氏が送付した3Dデータはわいせつ電磁的記録に当たらない可能性があります」とする。 「わいせつな画像データが入ったハードディスクがわいせつ物と見なされたことがありますが、それが『容易に再生閲覧』できる状況だったからです。その点、3Dプリンターはまだ広く普及しておらず、『容易に再生閲覧』できるとはいえない」  仮に3Dプリンターを持っていて再現したとしても、「再現できるのは、実際の女性器とはほど遠い無機質なものです。それをわいせつといえるでしょうか」(同前)関連記事■ ろくでなし子氏の逮捕 新たなる技術・3Dプリンターが原因か■ 乱交パーティーの「公然わいせつ」摘発基準は「挿入確認後」■ 女性器モチーフ作品をわいせつとするのは「日本の恥」と識者■ 破廉恥教師 校内性行為で停職3か月、下半身露出が停職6か月■ ろくでなし子氏への出資者 「凄い作品作ってると感心した」

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    女性器モチーフ作品をわいせつとするのは「日本の恥」と識者

     展示された女性器の石膏模型の数は571人分、今年5月~6月、ロンドンで開かれた展覧会『The Great Wall of Vagina』(直訳すれば「女性器の偉大なる壁」)は大反響を呼び、異例の延長までされた。現地の芸術評論家たちもこぞって高く評価した作品はしかし、いまだ日本公開のメドは立っていない。 女性器をモチーフにした作品は芸術かわいせつか──イギリスをはじめ先進国ではとうに決着しているこの問題が、わが国ではいまだ過去のものではない。『週刊ポスト』は問題提起の意味をこめて、その作品を誌上で掲載した。 日本の識者は、この問題をどう考えるか。写真評論家の飯沢耕太郎氏はこう語る。3Dプリンターを活用して作られた精巧なお面 「『世界の起源』がパリのオルセー美術館に堂々と展示されていることが、欧米のアートに対する姿勢を示しています。しかし、日本においてはこの作品を展示すること自体が難しい。それは日本では『性器が出ているかどうか』を問題にするからです。 欧米では、子供が見る時や宗教的なタブーへの配慮はするものの、性器が出ていること自体はアーチストが表現として使うかぎり拒否はしません。私は日本も欧米の考え方にならうべきだと思います」 この作品をわいせつと捉えることは「日本の恥」というのは、弁護士の内田剛弘氏だ。「私は『愛のコリーダ』裁判ほか、多くのわいせつ裁判に関わってきましたが、もういい加減、わいせつを判断するのに裁判官の主観ひとつで白と黒を左右するような時代錯誤はやめるべきです。 女性器については当局はナーバスですが、こうした彫刻で摘発された事例は聞いたことがありません。この作品はイギリス本国でギャラリーに展示されていたことからも芸術作品であることは明らか。これをわいせつとしては、日本が恥をかきますよ」関連記事■ 破廉恥教師 校内性行為で停職3か月、下半身露出が停職6か月■ 乱交パーティーの「公然わいせつ」摘発基準は「挿入確認後」■ 英女性器芸術家「日本で起きた猥褻論争には失望しています」■ 571人の女性器模型展示の展覧会 大反響で開催期間も延長■ マッカートニー氏 「女性器に肌の色や国籍による違いない」

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    「ろくでなし子」裁判ってゾッとする

    長谷川豊 ろくでなし子さんの一件についてはすでに何度かこのブログ内でも話をしているので、繰り返してもしょうがないのですが、改めて恐ろしいなぁ…と思ったことを一つだけ。 今回のろくでなし子さんの一件では裁判で「わいせつ」について争っているという話なんですけれど、その根拠となっているものが「わいせつ3要件」だ、と大真面目に話し合ってるんですよね。個人的にはその話って… 本気でゾッとするというか、バカじゃないのか?としか思えないです。 説明しときますね。わいせつ3要件って、1.通常人の羞恥心を害すること2.性欲の興奮、刺激を来すこと3.善良な性的道義観念に反することを指します。それだけ言えば、結構分からなくもない話だし、定義づけるのであれば、それでまぁ…どうでもいいというと言いすぎですけど、それでいいんじゃないかと思うんですけれど…っていうか、この話が出たのって… 1957年だよね(涙)? 例のチャタレー事案だよね(涙)?「チャタレイ夫人の恋人」の作者の伊藤整 皆さん、正常な思考の持ち主の人に読んでほしいのですけれど、日本の法廷とか司法って、本気でこんなことを言い合って真剣に「論じてるふり」をして満足してる人たちが多いのですけれど、ちょっと『怖い状況』だと思います。なので「ゾッとする」んだけれど…。 チャタレー裁判って、1951年に、イギリスの「チャタレイ夫人の恋人」っていうちょっとエッチな表現を含む本を訳した本が出版されたわけですね。で、その翻訳した人と販売した人が「わいせつ物頒布罪」っつって裁判で裁かれた件があったんです。 本気であの時、その程度で有罪判決が出たのだけれど…ある意味、すごいですよね。秋元康さん、気を付けろ!AKBのお嬢ちゃんたちのPVとか、ものすごい勢いで有罪っすよ。極刑レベル。 で、そこで示された「わいせつ3要件」が「わいせつの定義だ」っつってギャースカ言い合ってるわけ。 おいおいおい、今、何年だよ? 裁判官系の人たちの非常識は僕のブログで何度も指摘してきましたけれど、ゾッとするうちの一つがこれ。1957年に示された基準を…2015年に大真面目に話し合ってて、まず恥ずかしくないのかを真剣に問いたい。平成27年よ?戦後のGHQ統治下の裁判の基準で、未だに話し合ってるのって、逆に尊敬します。そこまで成長できないのってある意味「伝統芸」。 ちなみに、僕がアナウンサーだから言うんですけれど、例の「わいせつ3要件」って…そもそも破綻してる論理です。ホントに。 何を言ってるのかっていうと、1の「通常人」の定義が確立されていないこと。どうやってアンケート調査を行うのか?どの基準でどの方式でのアンケート調査を行うのか?その調査によって、何%の同意を得られれば「通常人」と表現するのか?何にも書いてないわけです。 どの年代? どの地域? どの文化? どの宗教? 何も書いてないわけ。ジジーとババーに取ったアンケートと、今回のろくでなし子さんの作品に同意した人(3Dデータを受け取った人)の価値観は違います。どっちにアンケート取るの?どういう方法で調査するの?何にも書いてないわけ。 まさか法廷の中でふんぞり返ってるバカ裁判官たちの価値観が「日本全体の価値観」と主張するわけにはいかないですよね?青春時代をつぶしてカリカリ司法試験を勉強してた人なんて、一般的にはむしろ「偏った連中」ですからね。当然。どこを基準にもって「通常人」というのかが示されてないんです。基準が示されていないのに文章が続いてるっていうね、そんな文章… 成立してないだろ。本の裁判って何でもありかよ 少なくともテレビだと、んなユルユルの基準で報道できないんです。なので1周回って羨ましいです。僕らがテレビ上で勝手に「『一般的には』この法案はなしですね!」とか「『通常では』この人の不倫ははオッケーですね!」とか言った瞬間に、大問題になるよ?プロデューサーが飛んできて「『一般的』って基準は何だよ!」って叱られます。そりゃそうでしょう。僕らごときが基準なわけないんだから。ちゃんとアンケート取りますよ。なのでよくこんな定義もちゃんとしていない言葉を平気で使うよ、と感心します。よっぽど、裁判官の人たちって「自分たちは日本の中の常識人だ」と信じ込んでるんだろうね。机の前で勉強してるだけの人がね。こういう人が本気で人を裁くんだから立派です。2についても3についても同じです。「性欲」なんて、どう証明するの?「興奮」ってなに?屁理屈を言ってるんじゃなくて、そんないい加減なもので、「基本的人権」を有している日本人が有罪になったり無罪になったり時代によってコロコロ変えられたら…怖くないです?ゾッとしません?僕、ろくでなし子さんの一件が裁判になってるってだけで、もう、日本の裁判って何でもありかよと思うのですけれどね。なので「ゾッとする」と思うんです。 そんなこんなで、日本ではろくでなし子さんは「自由を奪われて」「拘留されて」「取り調べされて」裁判までされて「ワイセツとは何なんだ~!」と税金使ってギャースカ言っている中、今日もコンビニに行けば、子供たちの目線ですぐ目に付く場所に どう見てもイタズラに性的興奮を刺激するほぼ面積のない水着を着たおねーさんの写真が表紙となった雑誌や中学生くらいならそれだけでいくらでも白いご飯が食べられると思われるエロいイラストを表紙にしたエッチな漫画雑誌が並び、電車の中には10代の女の子が胸の谷間を寄せながら上目づかいで誘ってるような写真がデカデカと並ぶ、 そんな社会が形成されています。 まぁ裁判官や検察の人たちにとっては、ろくでなし子さんの「自分の体にコンプレックスを持つのは辞めようよ」と呼びかけた「マンボート」はワイセツであのコンビニの雑誌はワイセツではないらしい。やっぱ司法試験とかやりまくってると、頭、おかしくなるのね。あのふんぞり返った連中に裁かれたくないわ~。気を付けよう。きっとまともな会話、通じなさそうだしね。 ま、アンケートとか取ってないですけどね。僕のこの意見も。(2015年04月16日 長谷川豊公式ブログ「本気論本音論」より転載)

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    ろくでなし子が「一部無罪」でも控訴を決めたホントの理由

    しかし、裁判所は女性器をデフォルメしているから無罪、精巧に再現しているから有罪と言っているに等しく、表現の自由を軽視し、短絡的思考に陥っているものと思います。 本日直ちに控訴をしましたが、まさに性欲を刺激する目的でしかない性行為を撮影した無修正エロ動画や女性器を精巧に再現したとパッケージにもうたっているオナホールが巷で氾濫する中で、何故、彼女がプロジェクトの過程でスキャンして作成した3Dデータがわいせつであり、その頒布行為が処罰されなければならないのか。改めて控訴審で、強く訴えていきたいと思います。

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    第7回 秋のろくでなし祭りだ祭りだ~ドンドコドンドコドンドコドンドコ!(*゚∀゚)/

     iRONNA読者のみんな、まんにちは!まんこの妖精・まんこちゃんだヨ! 10月15日、やっと再始動したろくでなし子さんのまんこアート裁判♪ 前回は、弁護団が申し立てていた証拠開示請求に対して、検察側の「保留」のおかげでちょっぱやで終わってなんかショボかった、ってお話は、この前したよネ? ということで、弁護団もなし子さんも、この日をたのしみにしてたんだ。 11月2日。裁判がはじまるほんのちょっと前に法廷に入った時、検察側は大きな箱を用意してきてたの。むかし、「舌切りスズメ」って童話があったでしょ? あんな感じの紺色のふろしきをかぶせた大きなつづらとちいさなつづらが計6コ♪ …この26コの作品は、検察がワイセツと判断した3コのデコまんじゃなくて、ガサ入れの時に刑事たちがなんでもかんでも持っていっちゃったやつで、いわば事件とは関係ない押収品。 関係ないなら、なし子さんたちが「返して~」ってさんざんお願いしてきたのに、検察が返してくれない。「んじゃ、裁判官にも見てもらおうヨ~」っていう話になったワケ。 なし子さんは、ワイセツとされた3点よりも、どっちかいうと関係ないとされた26点の方に思い入れがあるの。 たとえば、3Dマンボートプロジェクトの3Dまんこデータで作った「フクシまん」は、話題にすることもタブーとされてしまう福島の原発を、これまたタブーとされているまんこの上で表現した作品だし、「戦場まん」は戦争というマッチョな男性中心社会での人間の殺し合いを、生命がうまれいづるまんこの上に載せた作品。 そして、汚い!醜い!いやらしい! とさげすまれてきたまんこを最新の3D技術を駆使してスマートなプロダクトアートに昇華した「iPhoneが入らないiPhoneカバーまん」(作ってみたらiPhoneが入らなかったので)などなど。 なし子さんが真剣に制作したそれらの作品がたくさんもっていかれてしまってたから。(これらの作品は、ろくでなし子さんの単行本「ワイセツって何ですか?-自称芸術家と呼ばれた私-」でカラー写真で見れるヨ!)  3週間後の、11月2日(月)の第5回公判では、さすがに「保留」って訳にはいかないよネ!  その中には、なし子さんのまんこアート作品26点が入ってる。  これらの26作品を、裁判官にじ~っくり見てもらえば、なし子さんの活動がこれっぽっちもワイセツじゃないということを公平に検討してもらえるはず。 そう思って、なし子さんもまんこもワクテカし てたら、開始5分もしないうちに裁判官が「本証拠は問題となっている作品ではない(起訴された3作品ではない)ので、ここで取り調べる必要性がありません。。」 って言うじゃない!?( ゚д゚)ポカーンポカーンポカーン 裁判なのに、証拠を調べる必要なし???? ありえなすぎて一瞬虚をつかれたやまべんこと山口貴士弁護士や森本憲司郎弁護士が「異議あり!」と申し立てをしても棄却されちゃったの~!!!! …民主主義って、なんじゃらホイ??? まんこ、あまりに理不尽すぎて、頭がこんがらがってきちゃった。 つーかさ、問題となってないから見なくていいんだったら、マジではやく作品返せやコラ~~~プンプン(●`□´●)/ムスッ ってことで、前回も今回も、なんだかナー!な展開だったけど、次回第6回公判11月20日(金)は、弁護側の証人として、上智大学の林道郎先生が法廷に来て証言をしてくれるそうなので、もうちょっと盛り上がりそうだヨ! それとネ、引き続き「秋のろくでなし裁判フェア」開催してまーす(*´∀`*)裁判の傍聴や説明会に来てくれた人にポイントカードを配っているヨ。傍聴できなくても抽選に並んでくれた人や警察手帳を見せてくれた人にはWスタンプ!スタンプを6コ貯めるとろくでもないモノがもらえるんだって! あそびに来てネ~o(^-^)oろくでなし裁判説明会会場:ハロー貸会議室虎の門 3F会議室東京都港区虎ノ門1-2-12 第二興業ビルhttp://www.hello-mr.net/detail/?obj=39(年内の裁判報告会は全てこちらで開催予定です。毎回16時から入室可能です!)(記者:まんこちゃん)

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    神回だったろくでなし子裁判 証人尋問の巻

    第6回公判ではろくでなし子の証人として上智大の林道郎教授が出廷。ろくでなし子作品の「芸術性」を証言するのは荷が重そう…と思ったらスラスラとよどみなく証言してくれて、まるで一休さんのよう。盛り下がりっぱなしだった裁判がやっと盛り上がってきたゾ~!

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    少年Aは本当に更生したのか

    神戸連続児童殺傷事件の被疑者だった元少年Aの手記『絶歌』の出版をめぐり、賛否が渦巻いている。「被害遺族への配慮を欠く」「出版の自由は守られるべき」…。ベストセラーとなった本書は、本当に彼自身の「自己救済」が目的だったのか。またも社会を揺るがせた元少年Aと出版騒動について考える。

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    『絶歌』を批判する人に決定的に欠けている視点

     元少年Aが出版した『絶歌』という本に対して、大変なバッシングが起きている。 もちろんだと思うし、何よりそうあるべきだ。私自身、もともと少年犯罪に対して厳しい態度をとってきた人間なので、発売翌日には本屋に走り、このブログ上で徹底的に叩きのめしてやろうと思ってこの本を購入してきた。要は資料として、だ。 しかし、前回のブログにも示したように、実際に読んでみると、考えていた内容と違った。読めば読むほど、これは、ひょっとしたら意義のあるものなのではないか?という考えが頭をよぎり、(この本は2部構成になっているのだが)第2部を読み終えた段階で、なぜ批判を覚悟で…と言うよりも、批判されることを分かっていたにもかかわらず、大田出版が出版に踏みきったのかも、少し理解できた気がした。 結論から言う。この本の出版も、この本自体も、そもそも元少年Aも、厳しく否定されるべきである。それは前回のブログにも記したとおりだ。 このような出版物を出すにあたって、犯罪被害者に許可をとりもせずに黙って出版はありえない。言うまでもなく、バッシングされるべきだし、今起きている批判は当然のことである。しかし、その点を除けば、批判的意見の中に、私は決定的に欠けている視点が存在すると感じる。そこを提示したことが、この本の意義だと感じているのだが、以下に、この元少年Aの本を批判する方々に『決定的に欠けている視点』を僭越ながら指摘させていただきたい。 前回の私のブログには大変多くのお叱りのコメントを頂いた。それらの批判コメントの中に、「長谷川は、自分の子供たちが被害にあったら同じように言えるのか?」というものがあったが、では、私から逆に問う。この『絶歌』を批判している、自称『正義の味方君たち』に問う。悪をネット上で叩きのめすコメントを書き込み、悦に入っている、そこの貴方だ。 「あなた方は、加害者になったときに、同じように質問してくるのか?」 答えていただきたい。私のブログに汚い言葉でいろいろ書いてきた人間、全員答えていただきたい。もう一度聞こう。答えていただきたい。 「あなた方は、『加害者の側になる可能性がある』のだが、それは考えたことがないのか?」 きわめてシンプルな質問だ。大半の「ええカッコしいの偽善者」はこの質問に対して「考えていない」のだ。住民票をお花畑に変更することをお勧めする。自分は一切巻き込まれないとでもカン違いしているのだろうか? この元少年Aの著書は、前半と後半に分かれている。前半部分、この元少年Aがどのように狂ってゆき、どのような変調を来たし、どのような兆候が見られ、「ごくごくありふれた当たり前の家庭」から、「完全に病気と後に診断される殺人者が生まれる」までの過程を克明につづられている。私がこの第1部で感じた感想、それは… 私の子供たちだって、そうなる可能性がある ということだった。日本中、誰でも子供がいれば感じる気持ちのはずだ。中には、私に「長谷川は独身なのか」とネットをググれば2秒で答えの分かる低レベルな質問をしてきたバカがいたが、私には3人の子供がいる。親として感じたのだ。 元少年Aの家族に、誰でもなる可能性があるのだ。 この視点を、この本は明確に提示しているのだ。同時に、平和ボケした日本人には、この視点がとても足りないのだ。被害者が語り、被害者が涙を流し、被害者の立場を慮る(おもんばかる)ことは、現代の日本ではとても多くのシーンで目にすることがあるのだが、「加害者側」は日本では、くさいものとして扱われ、蓋をされるために何もしゃべることを許されないのだ。 日陰で暮らすしかなくなるのだ。 関係のない人間が寄ってたかってリンチするからだ。 しかし、何故みんな気づかないのだろう?「被害者になる可能性」と「全く同じ数」の「加害者になる可能性」がある、という事実に。批判している人の気持ちは分かるが、もう少し視野を広げるべきだ。 自分は正常だ?いや、子供がそうなる可能性があるじゃないか。 自分はちゃんと子育てしてる?いや、元少年Aの家族もいたって正常だしちゃんと子育てしてる。この本、読んでくれ。 この元少年Aは、のちに国が決めた超専門家たちによって徹底的な分析が行われ、その結果、明確に「病気である」と診断されている。なので「医療少年院」に送致されているのだが、 病気というものは…誰でもなる可能性はあるものなのだ。 カン違いしないでいただきたい。この元少年Aは「殺人鬼」ではなく「病気」だったと診断されているのだ。この判断に文句があるのであれば、それはその診断をした専門家に言ってくれ。私にドーノコーノと言ってくるな。 さらに「被害者の家族のことを考えろ!」というコメントを頂戴したが…もちろん、そんなこと分かった上で、前回のブログは書いている。被害者家族の思いとは、100人に聞いても200人に聞いても同じである。そう。たった一つだ。 もう、二度と同じような悲劇を繰り返させないでほしい。この一点だ。これは全員が同じことを言うのだ。 犯人を恨んでしまう人も多い。生きる気力を失ってしまうことも多い。だが、何を言っても、もう亡くなった人は帰ってこない。被害者家族を救うべく、我々がするべきことは一つだ。 「同じような悲劇を繰り返させないこと」だ。 その為に必要なことは「知識」だ。それも出来るだけ「正確」な「知識」だ。日本では、加害者側からの告白…特に、このように人を2人も殺しておいて病気だと診断され、治療を受け、その後社会復帰している、という人間は、実はほぼ存在しない。そもそも、人を2人殺した段階で、ほぼ死刑だからだ。 しかし、元少年Aは、生きている。確かに存在している。しかも、専門の医師たちが「病気は治った」と判断できた状態で。 この証言は、まぎれもなく、今の無菌状態大好き日本において「極めて珍しい情報源」だ。 この本の第1部には、元少年の人格が次第に壊れていき、どんどん狂っていき、その過程で、どんな兆候が表れたのか、どんな言動になっていったのかを克明に記してある。性的な興奮を求めて、猫を殺し、エスカレートしていく過程などを、とにかく逃げずに描写してある。 皆さんのそばに、似た兆候の人間はいないだろうか? 情報があれば、人間は対処できる。全部とは言わないが、対処できる可能性が広がることは確かだ。元少年Aはまぎれもなく異常状態だった。完全な病気だった。普通の家庭に、異常な少年が生まれただけだ。何度も私のブログで書いていることだが、1億2700万人も人間がいたら『不良品』は存在する。これは事実だ。 私は、メディアにいる人間なので、被害者の味方をすることで、ええかっこしいをするつもりはない。既にそこに悲劇はあった。で、あるならば、その事実から何かを学ばなくて、どうする?被害者家族に同じことが出来るのか?そんな悲劇があったのに、冷静に分析なんてできる訳ないだろう。我々、まだ一歩引いた目線に立てる人間が、冷静に分析しなくてどうする。 私たちこそが、被害者側にも、加害者側にも立たずに、未来の犯罪を減らすために冷静さをもって分析すべきなのだ。少なくとも、私はそう思っているので、正直な感想を書いたまでだ。 この本には、周囲に潜む可能性のある「異常人間」たちを見抜くヒントが多数記されている。読めば、犯罪の予見につながる可能性が高い。それほどリアルに描いてある。 この本の後半には、犯罪予備軍が読めば、「絶対に犯罪なんてしないでおこう…」と感じてしまう、「犯罪者のリアルな出所後」が記されている。これを読んだ直後に「よし!犯罪するぞ!」となる人間はかなり少ないと思う。こちらも、あまりに苦しい状況がちゃんと書いてある。 印税で儲けようとしている、という想像力豊かな人間が多数いるようだが、それもこの本を読めば、ちゃんと書いてある。この元少年Aは金のためにこの本を書いたんじゃない。いや、むしろ、金に執着がとにかく無い方の人間だ。ご遺族への送金か、迷惑をかけた家族への送金にするのだろう。とにかく儲けたくて書いたわけじゃない。それは明確に書いてある。 以上から、私は、出版社のミスは間違いなく糾弾されるべきだと思いながらも、この本は「最低限の意義」は感じられるものとなっている、と判断した。 以上だ。(長谷川豊公式ブログ『本気論 本音論』(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より転載)関連記事■ なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え■ 「ノエル」少年の心と行動を読み解く■ 少年事件を前にして私たち大人は何をすべきか

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    もう匿名「元少年A」のままでは許されないのではないか?

    の側にも出てくると思います。そうでないと、国民は「著者」への批判ができないことになります。 それが「表現の自由」の「自己責任」の帰結です。 今回の書籍「絶歌」の筆者名は、「元少年A」で出してはいますが、自ら匿名で「更生」の機会を得る権利を放棄したも同様というほかありません。 少年Aが自ら出版を持ちかけたというなら、なお一層です。神戸新聞|神戸事件手記、加害男性持ちかけ=2015/6/10 21:07 「加害男性が自ら出版を希望し、仲介者を通じて同社に持ちかけたことを明らかにした。初版は10万部だという」(弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS-BLOG版 『もう匿名は許されないのではないか?=元少年A「神戸連続児童殺傷事件」手記出版の波紋』より転載)関連記事■ なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え■ 「ノエル」少年の心と行動を読み解く■ オウムの失敗に学んだ「イスラム国」と失敗に学ばない日本

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    『絶歌』に猟奇的犯罪を見た 猛毒にもなればワクチンにもなりうる

     神戸連続児童殺傷事件。その家裁決定文の全文が雑誌に公表された騒動の最中に、人々の不意を突くようにして元少年Aによる手記、『絶歌』が出版されました。そしてその是非をめぐる議論が渦巻いたのです。本稿では、私の臨床犯罪心理の視点から、あの猟奇的犯罪の謎の一端に迫りたいと思います。結論を先取りして書けば、『絶歌』は、猛毒にもなれば、ワクチンにもなりうる、となります。動機なき少年事件の共通項 これから書くことによって、ある人は私を非難し、ある人は「目から鱗」と言うでしょう。それだけ重大なことを書く覚悟を決めていることは、読者にあらかじめ知ってもらわなければなりません。 この神戸事件以降も、動機に了解不能な点が多い少年事件が続発しています。「人を殺してみたかった」、「誰でもよかった」、「達成感があった」などと言う彼(彼女)らは、多くは成績のよい、まじめで大人しい生徒でした。私は加害少年の資料を集め、新しい精神医学・臨床心理学の知見に、日々の実践体験を溶け込ませながら、ある仮説を構築していました。別件の例を挙げて解説を試みましょう。 今年の1月28日、名古屋大学理学部の女子学生(19歳)が主婦を殺害し、「人が死ぬ過程を見たかった」と、その動機を語りました。高校生の時に級友に硫酸タリウムを含ませ、大学入学後に他人の家に放火していたこともわかりました。いずれも「死を見てみたい」との衝動から行われたものでした。 女子大生が使用していたTwitterのアカウントは「thallium123」で、毒性の強いタリウムに、多くの犠牲者を出した日航機墜落事故(1985年)の便名である123が付いたものです。タリウムへのこだわりは特別のようで、ここに彼女の衝動の原点を探ることができそうです。Twitterには、『グレアム・ヤング毒殺日記』という本の画像が載せられ、「実は読んだことがありまして笑笑」(2014年9月23日)と書かれていました。『毒殺日記』(アンソニー・ホールデン著)は、イギリスのグレアム・ヤングが14歳の時から始めた継母などに対する連続毒物混入殺害事件の犯行の様子を綴った本で、1997年に邦訳されています。ヤングが用いた毒物の中にタリウムがありました。 タリウムといえば、静岡県伊豆の国市で発生したいわゆる「タリウム事件」が衝撃的でした。2005年10月31日、高校1年の女子生徒(16歳)が母親に酢酸タリウムを含ませ、意識不明の重体に陥らせたのです。そして母親が毒に侵されていく過程は日記のように克明に記録されていました。彼女は、グレアム・ヤングの『毒殺日記』を愛読していました。彼女の7月3日のブログ(6月27日開設)には、「今日は本の紹介します。グレアム・ヤング毒殺日記 尊敬する人の伝記、彼は14歳で人を殺した。酒石酸アンチモンカリウムで、毒殺した」と記されていました。 これら3つの事件は、偶然のように一本の線でつながるのです。『毒殺日記』が日本で発売されたとき、伊豆の国市の女子高生は8歳でした。彼女は、その後に本に接し、中学生になる頃には、毒物・劇物への傾倒を示していました。名大生が伊豆の国市の事件報道に触れたのは、10歳のときになります。そして『毒殺日記』の存在を知り、同じように読み耽り、傾倒していったのです。 ヤングは小学生の頃から毒物が人体に与える影響に関心があったといわれていますが、そのきっかけは残念ながらわかりません。年齢は8歳から12歳の間であると推定されます。ヤングに魅せられた女子高生と女子大生には共通して学力が高い反面、対人関係では困難さを抱いていたようです。グレアム・ヤングに端を発するタリウムは、日本の二人の前思春期の少女の心を次々と虜にするという連鎖現象を引き起こしたのでした。 昨年7月26日の夜、佐世保市で起きた高校1年の女子生徒(15歳)の級友殺害・遺体損壊事件の場合は、7~12歳の間、母親に連れられて何度か農場体験に行き、家畜の豚を食肉にする過程の説明を受けています。家で孤独を過ごしていた少女は、インターネットで食肉化を調べたことでしょう。そして、動物の内臓の画像に異様な興奮を覚えたのでしょう。解剖行為の空想を繰り返すうちに抑制がきかなくなり、中学生の頃には猫の解剖をするまでにその衝動は高まったのでした。彼女も勉強ができ、中学3年のときには版画の作品で県知事賞を受けるなどの才能を発揮していました。少年Aが太田出版から出した手記「絶歌」 少し遡り、2003年7月1日に発生した長崎男児誘拐殺害事件では、中1の加害少年(12歳)は中学でトップクラスの成績を残していたそうです。8歳の時に友人から股間を強く蹴られ、病院に行っています。蹴られたときに「へんな気持ちになった」と語ったとされ、それから男性性器に興味を持ち、高じて男児の性器へのいたずらを繰り返すようになっていったのでした。 翌2004年6月1日の、佐世保市で起きた級友殺害事件では、小6の加害女児(12歳)が「バトルロワイヤル」、すなわち中学生同士が殺し合うゲームに巻き込まれるストーリーの映画に強い関心を抱いていました。2000年公開の「バトルロワイヤル」は8歳のとき、2003年公開の「バトルロワイヤルⅡ」は11歳のときになります。彼女も、クラスで上位の成績を残していました。このような視点で調べていくと、動機に首をかしげるような少年事件に、一定の法則性があることに気づきます。それらにサディズムやサイコパスといった言葉を当てはめるのは意味のないラベリングに過ぎません。「なぜ?」を問う姿勢を、最後まで崩してはならないと考えています。 加害少年らについて、さらに重要な情報があります。2000年以降、精神鑑定医や彼らを診ていた精神科医たちは、高機能広汎性発達障害やアスペルガー症候群など(発達障害の一カテゴリー)を指摘しており、そのうちかなりの割合で家庭裁判所がそれを認定し保護処分を決定していることです。長崎の事件(2003年)で診断名が大きく報じられたことを契機に、発達障害が犯罪に繋がるとの誤解が広がることが懸念され、以降は、自主的な報道規制がなされてきました。なお、これらの診断名は、2013年の米国精神医学会編纂のDSM-Ⅴへの改訂(日本語版は2014年)で、自閉スペクトラム症に統一されています。 自閉スペクトラム症は、(1)対人関係やコミュニケーションの質的な問題、(2)限定的な興味や関心、この2つの特徴を主とし、これに社会生活上の不適応が伴うことによってはじめて診断の対象となります。併せて適応の程度も記載するよう定められています。固着への階層 いくつかの少年事件をあげて、自閉スペクトラム症が指摘される傾向があること、8~12歳の間に事件につながる強い刺激に曝されていること、といった共通項を述べました。もう一つ、これらに挟まれて重要な条件が存在しています。傍目には教育的な、ときに立派と称される家庭で、幼少期から厳しくしつけられたり、勉強や習い事を強いられたりすることで、子どもらしく伸び伸びと過ごすことができなかったというものです。 多くの少年は、内心親に怯えながらも、可能な範囲で期待に添おうとし、学習などで成果を残してきました。この「やらされた人生」というのは、少年たちによって様々に表現され、たとえばタリウム事件の女子高生はネットの日記に「薇仕掛けの人形師」と題して二重のコントロール下に置かれた自分の姿を描写しています。自覚されるコンプレックスの裏に抑圧された負の感情が、のちに事件行動のエネルギーとして動員されてしまうのだと私は考えています。 自閉スペクトラム症が犯罪に直接つながるわけではありません。三つの階層に分けることで、犯罪生起の仕組みを理解する一助となるでしょう。・第一の層 自閉スペクトラム症の2つの症状(先天性) 第一の特徴である対人関係の質的な問題は、親子だけでなく、友人や教師との関係においても、様々な軋轢を生じさせるリスク要因となります。いじめの被害に遭う場合もあります。また、他人の内面を推察したり、自分が他人にどのように映っているかに思いを巡らせたりすることも苦手で、無頓着になるか、主観と客観がずれてしまうことも多いのです。被害者や遺族の心に響くような反省がうまくできないのも、脳機能に一因があるのです。 第二の特徴である限定的な関心は、一人悶々と考えたり、不安を打ち消すための常同行動を生じさせたりするので、それらもしばしばしつけや指導の対象となり、子どもにとっては強いストレスとなります。このため、愛着や信頼関係の形成がうまくいかないことも起こります。・第二の層 被支配的で抑圧的な生育環境(幼児期から児童期)・第三の層 犯罪につながる事柄との遭遇(前思春期:8~12歳) 例にあげてきた『毒殺日記』や「バトルロワイヤル」、「食肉加工」(解剖)など、衝撃的な事柄との出会いは、それがたとえ一回だったとしても、かなり固定的な執着に展開していくことがあります。「固着」と呼ばれる現象です。自閉スペクトラム症の第二の特徴と関わっており、それはスペクトラムの弱い子どもたちよりも生じやすいものです。固着は、その衝撃的体験によって脳が興奮して喜ぶ、つまり快感ホルモンが大量に放出されるため、脳がその再現を求めて習慣化するという現象です。脳で自動的に進む機能なので、本人の意思や努力だけで制御するのは困難です。これが前思春期に起きやすいのは、第二次性徴に由来する「はじめての性的快感」と、衝撃がもたらす快類似体験が結びついてしまうためだと考えられます。男子の場合には、勃起や精通といった身体の変化として本人の自覚が可能ですが、女子にも類似した脳の反応が伴っていると思われます。 男子の固着は、相手の身体への攻撃を伴う場合には性的サディズムとして、幼児に向かう場合は小児性愛として、物に向かう場合にはフェティシズムとして認知されます。女子の場合は、初期の性的満足が明らかな身体的変化を伴っていないため、同様のメカニズムであっても、本人による捉え方が男子とはやや異なってきます。名大生は、殺害を実行したあとTwitterに「ついにやった」と書き、取調べでは「達成感があった」と述べました。それだけ欲求の深い充足が生じたと解されます。 固着は、その対象を繰り返し想像させます。そしてこの繰り返しが想像をいっそう豊かで、具体的に高め、やがて行動の段階へと移行していきます。行動の繰り返しがさらに強い欲求充足を求め、ハードルを高みへと上げてしまうといった現象が起きます。虫や小動物で試した後で人へ向かうプロセスを辿りやすいのは、脳が欲する快の水準が上がっていってしまうからなのです。元少年Aも固着への階層を辿った元少年Aの場合 さて、このような仮説を持っていた私のところに、『絶歌』が届きました。そして、驚愕の事実を見出しました。それはまさしく元少年Aも、この固着への階層を辿っていたように読み取れたからです。 P22、23に記されていたのは、Aが前思春期から虜になっていた対象です。映画『羊たちの沈黙』に始まり、『週刊マーダーケースブック』、ロバート・K・レスラーやコリン・ウィルソンの著書でした。『羊たちの沈黙』は1991年、彼が9歳のときに公開されました(実際に観たのは、レンタルDVDなどで、もう少し後かもしれません)。『週刊マーダーケースブック』は、1995年、つまり13歳のときから刊行され、第2号ではパリ人肉事件の佐川一政が取り上げられています。ロバート・K・レスラーの『FBI心理分析官~異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記~』は1994年、12歳時の発行です。 彼はこう書いています。 クラスの男子が好きなアイドルのプロフィールを覚えるように、僕はキャラの立った殺人鬼ひとりひとりの少年期のトラウマ、犯行の手口、死体の処理方法、逮捕されたきっかけ、裁判の経緯などを片っ端から頭に詰め込んだ。クラスの女子たちがジャニーズとのデートコースを何パターンも考えている間、僕は人を殺す方法を何パターンも考えた。 「透明な存在」と形容するほどに自己感に乏しいAにとって、猟奇的犯罪者と同一視することは、その空想世界を一気に生き生きとしたものに変容させたのでしょう。その歪んだ空想が、現実での出来事と同期したことは、不幸を助長したと思います。彼は、人生が変わった契機を次のように書いています(P35)。 僕の人生が少しずつ脇道へ逸れていくことになった最初のきっかけは、最愛の祖母の死だった。 1992年4月。僕は小学5年に上がったばかりで、10歳だった。 同期と書きましたが、祖母の死が先か、猟奇殺人者への同一視が先か、これは明確にはわかりません。しかし読み耽ったとして列挙された書物は、1994、1995年以降のものですから、祖母の死後だったと考えたほうがよいでしょう。 さて、この本の最大のクライマックスが、「原罪」と見出しがつけられた節にやってきます。「そのこと」は、精神鑑定でも、医療少年院でのカウンセリングでも、誰にも打ち明けることができなかったということです。 彼の言う原罪とは、祖母の死後しばらくして、祖母の位牌の前に正座し、祖母のことを想いながら、祖母の愛用していた電気按摩器を使って性器を刺激し、精通を経験したことなのでした。 僕のなかで、「性」と「死」が「罪悪感」という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。 10歳時に起きたこの結合が、まさに固着が生じた瞬間となったと理解できます。その日以降、彼は「冒涜の儀式」を繰り返すのです。Aは、「その快楽のドラッグはあまりに中毒性が強く、もうそれなしでは生きていけなくなるほど僕の心と身体を蝕んだ」と書いています。そしてこの頃から、ナメクジ集めを始め、瓶に入れて懐中電灯を当てて眺めながら、「この愛らしい生き物のことをもっと知ってみたい」と思い、解剖を始めました。Aにとって解剖(攻撃=死)の対象は、祖母の代償として「愛らしい」ものだったからこそ、意味があったのでしょう。彼は解剖について「命に触れる喜びを感じた。殺したかったのではない。自分を惹きつけてやまない命に、ただ触れてみたかった」と書いています。 その年の冬、祖母の愛犬だったサスケが死に、そして間もなく、最初の猫殺しが起こります。意を決した瞬間、Aの心身を支配したのが性衝動だったのでした。「死を間近に感じないと性的に興奮できない身体になっていた」と自ら明かします。しかし「快楽はドラッグと同じで耐性がある」と書き、同じ行為では十分なエクスタシーが得られなくなります。中学に上がる頃には飽きてしまいました。次に「自分と同じ人間を壊してみたい。その時にどんな感触がするのかこの手で確かめたい」との思いに駆られ、そのことばかりを考えるようになりました。超えるべきハードルが少しずつ上がってしまうのです。恐らくこの段階では猟奇殺人者の本を読み漁り、具体的な殺人の方法を考えていたのだと思われます。 彼のケースも、本稿で解説した「三層説」に合致するのでしょうか? 私はそうだと考えています。すなわち、(1)自閉スペクトラム症の特徴を持ち、(2)親からの愛を知らずに育ち、社会的には異質感に苛まれ、そして、(3)祖母の死後、電気按摩器を使用して初めての性的快感を覚えてから死と快が結びつく固着が生じた…。もちろんこの仮説は、彼が自閉スペクトラム症であることを調べる客観的証拠によって担保されなくてはなりません。関東連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚の場合も、もしかしたらそうなのかもしれません(3つの意見に割れた精神鑑定の結果は、当時、発達障害に対する理解が進んでいなかったために引き起こされたものかもしれないということです)。宮崎元死刑囚は、「殺害行為は嫌い。解剖行為はいいこと」と、何度も私に言いました。 ここであらためて確認させてください。このようなあまりにも悲劇的な三層の連結は、まれにしかおきないこと、つまり、自閉スペクトラム症の子どもが猟奇的犯罪に走ることは滅多にないという事実を、誤解して理解されては困るのです。ただしその逆の論法は成り立つかもしれません。猟奇的なあるいは動機の理解が困難な犯罪が起きた場合、第一の層として自閉スペクトラム症が存在している確率は高いだろうということです。 『絶歌』は、因習的に性的サディズムとして片づけられてきた精神病理を、新たな知見で検証し直す資料としては価値のあるものだと感じます。ただしこれは「一次資料」であり、書いた本人の主観の羅列に過ぎません。一次資料は、犯罪の解明と防止に携わる専門家の目によって咀嚼されてから社会に還元されるべき性質を持つと考えます。 私にとって大きな懸念は、グレアム・ヤングの『毒殺日記』と同じような連鎖現象が今後起きるリスクを孕む点です。Aの描写は現実の犯行をあまりにもリアルに再現しています。そのまま手に取った前思春期の子どもたちにどのような波紋を及ぼすか、予測がつきません。特に、全人口の1~3%程度の割合で存在するとされる自閉スペクトラム症という私たちの仲間は、ここに描かれた世界に衝撃を受け、広義の性がもたらす快と繋がる固着を生じさせてしまうかもしれません。だから、使いようによって猛毒にもなるし、生きたワクチンにもなるということなのです。更生をめぐって 末尾に「被害者のご家族の皆様へ」との見出しで、7ページにわたってお詫びのような文が載せられています。悲しいかな、このパートはAの言い訳のように映ります。 ……でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。 自分の「犯したこと」を書くことへ固着が生じているかのようです。その衝動に向き合い、マネジメントしようとする理性は完敗です。頼もしい理性は、出版することの是非を慎重に検討する姿勢を醸し出したでしょう。あるいは描写をオブラートに包み、優しいものに変換する緩衝材になったでしょう。その兆しが読み取れません。 彼は確かに、同様な犯罪には走っていません。しかし彼の本質は変わっていない…。真の更生は、他人の心を想い、そして自分をも慈しみ、謝罪の気持ちと向き合いながら生かされた命を精一杯に生きられるよう誰かが専門的に働きかけること、その後もソーシャル・サポートを維持することではないでしょうか。彼が自閉スペクトラム症だったとすれば、それは容易なことではありませんが、それでもゆっくり成長する力を信じ続けるべきでした。強い自己愛性を感じさせる本書からは、元少年Aの社会復帰宣言は早すぎたと思います。 また、更生が不十分だということは、この本からある重要な部分が抜け落ちていることによっても示されています。彼は祖母から愛されと強調しますが、親のことは「母親に叱られる」程度で、祖母と対比するために添えられているだけです。彼が本当は愛されたかった親……。どんな辛い経験をもち、その感情とどう向き合ったのでしょう。親子関係の課題から目を背けていては、祖母との甘い記憶、祖母愛用の電気按摩器を性と結びつけた原罪は、払拭されません。 最後に、『絶歌』の最大の問題点を挙げたいと思います。それは、彼がこれを書くことで、あの忌まわしき欲求充足へと回帰してしまわないか、ということです。描きながらリアルな追体験をし、その空想に酔いしれたとすれば、仮封印されていた秘密の箱がまた開いてしまうことも。2000年7月29日に、母親を金属バットで殺害した山口の16歳の少年は、母親殺害のあとシャワーで血を洗い流しているときに射精していたことに気づいたそうです。彼は中等少年院に送られますが、更生を終えたとして2004年3月に本退院しました。しかしその1年半後の2005年11月17日、大阪で27歳と19歳の姉妹を殺害・強姦したのです。裁判長は、アスペルガー障害との鑑定結果を退け死刑判決を言い渡し、2009年7月28日に執行されました。 更生は、誰によってどのように判定できるというのでしょう。関連記事■ 「ノエル」少年の心と行動を読み解く■ 少年の凶悪犯罪に思考停止してしまった新聞報道■ 少年を導く能力を持たなかった普通の大人たち

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    篠田博之が考察 『絶歌』への反発はなぜこれほど広がったのか

     神戸連続児童殺傷事件の元少年Aの手記『絶歌』(太田出版)への反発は予想以上に広がり、いまだに収まっていない。アマゾンの読者レビューを見ると「金になればいいのか?太田出版」などと、著者や出版社への非難があふれている。被害者遺族の悲しみが癒えていないのに、殺人を行った当人が罰せられることもなく、のうのうと社会復帰しているように見えることへの反発、さらにその本が初版10万をほぼ売り切って5万部の増刷という「商売として儲かった」事実も、多くの人の怒りをさらに加速した。 これまで殺人を犯した者が本を著すというのは、私の編集した宮﨑勤死刑囚(既に執行)の『夢のなか』『夢のなか、いまも』もそうだし、秋葉原事件・加藤智大死刑囚も何冊も本を出している。今回、最初に元少年Aが出版を持ちかけた幻冬舎からは、市橋達也受刑者の『逮捕されるまで』も刊行されている。 それらに比して今回の本への反発が大きいのは、たぶん元少年Aが明確な処罰を受けずに社会復帰していることが大きいのだと思う。似た例としては、パリ人肉事件の佐川一政氏のケースがある。彼もオランダ人の女子留学生をパリで殺害し、その肉を食べるという衝撃的な事件を犯しながら、フランスでの精神鑑定で精神障害を認定され、罪に問われることなく日本に送還され、その後社会復帰した。 奇しくも今回の『絶歌』を非難した『週刊新潮』6月25日号の見出しは「気を付けろ!元『少年A』が歩いている!」だった。言うまでもなく、かつて佐川氏を扱った記事のタイトル「気を付けろ!佐川君が歩いている!」をもじったものだ。殺人を犯した者が罪に問われることなく、自分たちと同じ市民社会に復帰していることを指弾したタイトルだ。 今回は、そのタイトルの脇に「遺族感情を逆なでして手記の印税1500万円!」と書かれている。記事の突っ込み具合では同日発売の『週刊文春』に負けているが、『週刊新潮』のこういう市民感情を煽りたてる編集感覚はなかなか巧妙だ。 それは理屈を超えた市民感情で、少年法の精神というものを理屈では理解しているつもりでも、いざ具体的な実例に直面すると釈然としないという多くの市民の感じる気持ちだろう。逆に言えば、我々は、少年法に則った犯罪者の社会復帰というのがどういうものか、特にこの事件のような重大事件の場合について具体的にどのように進行していくのか、今回のように実例に接する経験がこれまでなかったといえる。今回はその初めての体験かもしれない。 被害者遺族が怒って発売中止を訴えるのも、当事者としては当然だと思う。また地元の神戸市などがそれなりに気を配るのもやむをえないと思う。ただ、明石市など行政が書店に販売自粛を匂わせる要請を送ったりするのは、行き過ぎだと思う。出版を非難することと、その出版を行政などの力で封印することとは別のことであることを認識しないと、「出版の自由」を根底から危うくするとんでもないことになりかねない。 幾つかの書店チェーンが販売自粛を決めたことや、地元図書館が閉架などの閲覧制限でなく、本を置くことそのものを拒否したことなども、きちんと議論し検証しないといけないと思う。 そういう出版や販売・閲覧をめぐる今回の問題については、私は共同通信記事のコメントや東京新聞の記事に書いたし、7月7日発売の『創』8月号にも詳述したので、本稿では、もう少し『絶歌』の内容に踏み込んでみたい。 というのも、『絶歌』の構成自体が、元少年に医療少年院でいったいどういう治療がなされたかほとんど書いていないし、それゆえ彼自身が自分の犯した罪についてどう向き合い克服したのか、あまり書かれていないからだ。恐らくそのことも、今回の本が大きな社会的反発を招いた一因だと思う。 例えば元少年Aは、自分の犯した2つの殺人については直接的な記述をすっぽり省いている。彼なりの遺族への配慮なのだろうが、一方で、自分がその殺人行為に突き進んでいく過程での猫殺しやナメクジ解剖については詳細に記述している。特に猫殺しについての描写は、人によっては読むに堪えない部分だろう。それを割愛してしまっては、自分がなぜあの犯罪に突っ走ったか何も説明しないことになってしまうという判断なのだろうが、気になるのは、そうは言ってもその描写が事細かで、書いている者の痛みが感じられないことだ。一見すると、その行為を肯定的に描いているようにも見える。 犯罪を犯した者が、自分の犯行の描写をどう行うかというのは、その人間が自分の罪をどう捉えているか判断する材料になる。例えば私が編集者として11年間つきあった宮﨑勤死刑囚は、言動全体は社会常識から大きくはずれたものだったが、犯行現場について語る際には、「もうひとりの自分」や「ネズミ人間」といった存在が登場し、その「もうひとりの自分」が犯行を犯すのを自分は眺めていたという描写になる。 彼の場合はある種の精神疾患にかかっていた可能性が高いから、それを考慮する必要はあるが、どう見ても、犯行現場の描写に「もうひとりの自分」を登場させるのは、自分を主語にして犯行の描写ができないことの現れだろう。「うしろめたい」という気持ちからの現実逃避である。 逆に、かつて『創』に掲載した奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)の手記については、犯行後に女児の遺体を損壊していく様子を克明に描いていたので、編集者としてそのまま掲載すべきか頭を抱えたものだ(それについては拙著『ドキュメント死刑囚』参照)。小林死刑囚が自分の犯した罪を反省しているのかしていないのかは裁判でも論点になった。 ちなみに前述した佐川一政氏も『霧の中』という本を出版しているが、殺害した女性の人肉を食べた後、主人公は「うまいぞ!」と叫ぶ。物理的な意味でうまいというよりも女性を殺害し食べるという行為が異性を支配・所有したことになるという意味合いだろうが、この描写も恐らく読んだ人は「この人は反省していないのでは」という印象を持ったと思われる。 そうしたことを踏まえて『絶歌』を読むと、児童殺害の記述はないのだが、猫殺しや、児童の遺体をめぐっての描写など、この元少年Aは自分の犯罪をどう克服し得たのか、疑問を感じた読者もいたのではないだろうか。実はこのことは、この『絶歌』という本の本質に関わることだ。あちこちにふんだんに「お詫び」らしい言葉がちりばめられているのだが、この本は全体として元少年Aの「自己肯定」の本という印象を受けるのだ。 例えば多くの論者が批判している、元少年が「なぜ人を殺してはいけないのか?」に答えを出す記述だ。元少年はこう書いている。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」 殺人を犯すと自分も苦しむのだ、というのは、第三者が言う分にはひとつの答えではあるかもしれない。しかし、殺害した本人がそう言ってしまうと、読んだ多くの人は当然反発するだろう。それを言う前に、まず殺された人間や遺族の痛みや思いになぜ想像力が及ばないのだ、というわけだ。この記述に関する部分は、この本を理解するポイントだ。 そして本の中で、この本の執筆に至る動機についても元少年Aは書いているが、自分を突き動かしているのが「生きたい」という思い、「生」への執着だと吐露している。 これもなかなか重要なポイントで、犯行後、少年院に収容された当初「このまま静かに死なせてほしい」ともっぱら語っていたという元少年に、「生きよう」という気持ちを起させた、そのことは恐らく治療の成果なのだと思う。 幼少期に自己肯定を得られなかった元少年が犯罪を犯した後、治療を受けて自己肯定感を持ち、「生きたい」と思うようになった。それ自体は、まさに少年法の精神に則った治療の成果なのだろう。もしかすると今のように社会に復帰してその中で生きたいともがくこと自体も、元少年にとっての長い治療のプロセスなのかもしれない。 ただ、元少年が自己肯定を語れば語るほど、市民感覚からすれば「いや、そのことと自分なりに罪を償うこととはどういう関係になるのか」という疑問が生じるだろう。少年法は恐らく更生を成し遂げることによって本当の償いを行うという精神なのだろうが、『絶歌』を読む限りでは、元少年が「生きたい」という希望を持つことと、罪を償うという一見相反する2つの事柄についてどう整理できているのかが曖昧なのだ。読んだ多くの人が反発を感じるのはそのためだろうと思う。 ある意味では、元少年はまだ自分が解決すべきテーマと格闘しつつある過程なのかもしれない。元少年が社会に出た後、どういう人がどんなふうにサポートしていったかという社会復帰後の事実経過を書いている第2部は、今までこういう記録がほとんどなかったという意味で貴重な素材だと思う。 その意味でも、気持ちはわかるが、この本は置かないと決めた図書館にはその措置が正しいのかもう一度考えてほしい。そしてまた、出版の是非論争だけでなく、犯罪を犯した人間にとって「罪を償う」とはどういうことなのか、この元少年に対してどんな治療が行われ、その成果をどう考えればよいのか、多くの人が改めて議論してほしいと思う。同時に、元少年には、自分の著書がなぜこれほど大きな社会的反発を招いたのか、改めて考えてほしいと思う。 元少年が14歳であの凶悪な犯罪に突き進んだ経過をどう捉えるべきなのか、当時の少年はわかりやすく言えばある種の病気だったのか、もしそうだとすればそれはどうやって克服されようとしているのか。そういう疑問は『絶歌』を読んだだけでは解決できない。 例えばこの本を読んで個人的に驚いたのは、元少年を犯行に駆り立てていく契機になった慕っていた祖母の死、という問題だ。草薙厚子さんの『少年A 矯正2500日全記録』にはそのことが割と詳しく書かれていたが、例えば『文藝春秋』5月号がすっぱ抜いた「少年A家裁審判『決定(判決)』全文」では、本当に簡単にしか触れられていない。 『絶歌』では、その祖母の死がかなり重要なきっかけとして描かれているし、元少年Aが出版社に持ち込んだという幼少期の写真は、その祖母に少年が抱かれているものだ。これとそっくりだと私が驚いたのは、宮﨑勤死刑囚がやはり最初の犯行に至る3カ月前に、慕っていた祖父の死に直面していたことだ。  彼は幼少期の自分への回帰をしばしば語り、その幼少期の表情豊かな写真を、ぜひ載せてほしいと私に希望したのだが(『夢の中、いまも』に掲載)、文中の自筆のイラストでは祖父に手を引かれて歩く自分の姿を描いている。 そしてさらに昨年7月、佐世保市で同級生を殺害し解体した女子高生の場合も、事件の何カ月か前に母親の死に直面している。親しかった人の死が契機になっていることや、殺害後被害者の遺体を解体している点など、これらの事件のあまりの共通性を考えると、それが大きな意味を持っていると考えざるをえない。佐世保事件も元少年Aの事件も、少年法の壁によって詳細な犯行に至る情報が開示されなかったのだが、その元少年が自ら社会に向けて語り始めたというのは、私は記録としては貴重だと思う。 遺族の感情はもちろん理解しなければならないし、本を出版して大金を手に入れた元少年Aを許せないという市民感情も理解できる。しかし衝撃的だったあの神戸の事件を解明するためには、元少年Aに語ってもらうことも、意味のないことではないのではないか、と思うのだ。関連記事■ なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え■ 少年を導く能力を持たなかった普通の大人たち■ 小林よしのり×香山リカ アイヌと差別をめぐる対決対談

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    私の作品ってワイセツですか?

    自分の女性器をモチーフにした作品をつくってきた漫画家、ろくでなし子さん。昨年7月の逮捕を機に、刑法175条の「わいせつ」の定義をめぐる議論に注目が集まった。女性器アートは「わいせつ」なのか。東京地裁で彼女の初公判が行われた4月15日、この問題をいま一度考えたい。

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    「解釈されるテクスト」としてのアートと法律

    表現の自由」をめぐって ここのところ国内外で「表現の自由」に関する事件が続きました。フランスの「シャルリー・エブド誌」の風刺画に端を発するテロ事件。その後、パリにおける大規模デモになった「表現の自由を守れ」という人々の反応。国内ではろくでなし子氏の女性器モチーフの作品群が、わいせつ物とみなされ罪に問われました。また先日は、道路標識に「アート目的だ」とステッカーを貼り逮捕される人が出ました。ここで、アートや自己表現と社会についてもう一度考えてみたいと思います。 自己表現と法規制という問題には必ず「アート活動なのに政治(権力)がそれを封じ込めて規制するのはおかしい。」という論調が多く見られます。その考えは基本的にまちがってはいませんが、そもそも両者の性質をちゃんと知らないと、単純に「声なき市民の自由vs政治権力という巨悪」という、お花畑モードになりがちです。解釈は永遠に一本化しない大阪市内でシールを貼られた一方通行の道路標識 さて、アートというものは六法全書と違い、見ていても楽しいし色彩も豊かで、こういうものを法で規制されるとなんとなく自分の楽しみが阻害された気分になります。しかし、一般的にアートは作家個人の自己表現ですので、みんなの気持ちの総意でもなければ民主的に作られたものでもありません。むしろいつまでたっても理解されないところにその魅力があったりもします。ゆえにアートはどんな解釈をしようと自由です。作者本人の解釈だってそれだけが正しいとは言えないものです。永遠に一本化した解釈に達しないからアートなのです。 対して、法というものは別に法務省の偉い人が創った自己表現作品でもなければ、時の権力が「みんなの好きに解釈していいよ」と作った福利厚生でもありません。アート作品のように解釈の多様化などをゆるしていたら、法治国家など成立しません。 無限の解釈の上に成立するコンテンツ(=アート)は多様な解釈をその運用上、許容しないコンテンツ(=法律)に基づいた社会で作られています。今、ちょっとややこしい言い方をしましたが、アートの創造性と解釈は無限だけどその製作環境は有限だということです。「表現の自由」とはここを理解してからスタートする問題だと思います。才能以外に覚悟のいるもの ろくでなし子氏の作品群を好きか嫌いかは別として、個人的にはあれが「わいせつ」だとは私は思えません。思えませんが法律上、女性器を見せるのはわいせつだからダメということになっています。そういう製作環境下であえてその作品を出したのですから逮捕されても「自分の法解釈ではOK」にはなりません。アートだから何をやっても自由なのではなく、アートはどんな解釈も自由ですから、「あれはわいせつ物だ。」という解釈もありです。たまたま日本の法律だとそう解釈されるので逮捕されます。アートとは才能以外に覚悟のいるものなのです。 ですから「アート活動ですから。」と言って、道路標識に勝手にステッカーを貼れば、当然これも「違法」という解釈をされます。「じゃあ、何も創造できないよね!」と諦めるのなら、アーティストとしてそれまでのことです。法はそのように解釈をしてくるのだから、自分はどう作品で戦うかをアーティストは考え、逮捕され続けてもデコった女性器を作る価値のある作家になるのか、または法律の解釈のさらに上をいくものを創るのか。アーティストの創造性が試されるのはそこだと思います。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 「大阪市長vs在特会会長」のご都合エンタメ志向■ ぐっだらねー! 猿芝居にイチャモンつける阿呆ども

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    女性露出アーティストが告白「私の活動はポルノではない」

    クス地方の小国ルクセンブルク出身の30歳だ。 日本ではこれまで、「性器表現は芸術か猥褻か」について、表現の自由の問題とともに議論を呼んできた。 昨年12月には女性器アーティストで漫画家のろくでなし子氏(42)が、女性器の3Dプリンター用データをメール配信した疑いで警視庁に逮捕・起訴された。 その勾留の是非を問う法廷では、ろくでなし子氏が自らの表現活動を説明しようとして「まんこ」と口にしただけで裁判長が制止した。端から「女性器は猥褻」と決めつけているのが日本の取り締まり当局や司法の現状なのだ。 フランスではデボラは一時的に拘束されはしたものの、芸術活動であることが認められて釈放された。同じ先進国でこの違いには愕然とするとともに、多様な表現活動を許容できない当局や社会には恐怖も覚える。 彼女は女性器露出という物議を醸す行為をなぜわざわざ行なうのか。事件以降、長く沈黙を守っていた彼女が、あの日の「覚悟」と「信念」を初めて語った。 「女性器は生命そのもの。それ以外に何があるというのですか?」 デボラにとって、女性器を用いた芸術表現は「人間の真実を明かすもの」に他ならないという。だが、女性器をエロスのシンボルと捉えるのも男性心理の偽らざる一面だろう。 「もちろん、女性器を見て性的に興奮する男性もいます。ただ、同じように芸術と見る男性だっている。だから、私のことを露出主義者とかポルノという人がいても不思議ではありません。捉え方は人それぞれでもいい。しかし、私のパフォーマンスは、私にとって決して露出でもポルノでもない」 デボラの口調はいっそう熱を帯びる。 「ただし、単なる露出はクリエイティブな行為とはいえません。私の女性器露出は違う。私のパフォーマンスが猥褻なら、『世界の起源』をはじめ女性器を描いた数々の世界的名画もポルノだということになります」 デボラのパフォーマンスについて、オルセー美術館のギ・ゴジュバル館長は、「あの行為は『世界の起源』より、ずっと下品で乱暴」と現地の週刊誌の取材に不快感を露わにした。彼女の行為を報じたメディアでも批判は少なくなかった。 デボラはこう反論する。 「オルセー美術館では『マルキ・ド・サド展』を開催中です。サド侯爵はサディズムの語源ともなった人物で、展示スペースのいたるところで女性器が見られます。そんな展示を許しているのに、館長の私への非難は意味がわかりません」 デボラにとってあの場にいて彼女のパフォーマンスを目撃した人々こそ、最大の理解者だった。 「あのときの観衆の反応には本当に感謝しています。居合わせた女性の中には、涙を浮かべて私のパフォーマンスに喝采を送ってくれた人がいました」 昨年8月、愛知県美術館で開かれた写真展で男性器が写った作品を警察が問題視し、布や紙で覆って展示を続けるという騒動があった。匿名の通報が発端だったという。日本ではその芸術性を問うことなく、「性器=猥褻」と短絡的に捉えて拒絶する人が少なくない。検閲や焚書がまかり通っていた野蛮な時代と何も変わっていないのだ。関連記事■ 女性露出アーティスト 「評価してくれるスポンサーが欲しい」■ 女性露出アーティスト「人前でのパフォーマンスは緊張します」■ BIGBANGのSOL 女性アーティストへのキスでファンが絶叫■ ニッチロー イチロー快挙祝福「負けないパフォーマンスしたい」■ イクラがこぼれるまで乗せる絶品軍艦巻き 一貫525円

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    ろくでなし子が闘うホントの理由

     女性器をモチーフにした作品で知られ、自分の女性器をスキャンした3Dプリンター用のデータを送信したなどとしてわいせつ電磁的記録頒布の罪などで起訴された漫画家、ろくでなし子さん。「チャタレイ事件」や「愛のコリーダ事件」など、過去にもたびたび問われた刑法175条の「わいせつ」の定義とは何か。初公判を前に改めて本人に聞いた。「私、闘います」 こんなくだらないことで国と戦わなければならないこと自体、そもそもおかしいんですよね。逮捕された時は、早く留置所から出たかったし、罰金さえ払えば済む話だと思っていました。でも、留置所で当番弁護士の先生から罰金を払えばすぐに出られるけど、あなたの活動を否定することになるし、これまで行ってきた創作活動が今後はできなくなるかもしれないと説明され、それは困ると思って「私、闘います」って言ったんです。闘いがいつまで続くか分からないけれど、頑張る意思を固めた瞬間でした。インタビューに答えるろくでなし子さん=2015年4月1日、東京都新宿区 私は大学卒業後、デザインの専門学校に通っていたのですが、退屈な授業ばっかりで、そのうち行かなくなりました。ちょうどその頃、お見合い相談所を通して結婚した知人の女性がいて、特にやりたいこともなかったので、私も彼女と同じ相談所に入ってみたんです。 当時はまだ23歳だったので、引く手あまたというか、お見合いパーティー会場では、まさに入れ食い状態(笑)。そこで出会った人と結婚を前提に付き合ったのですが、あっさり振られてしまって…。でも振られる前、その人の家に遊びに行った帰り、置き手紙でイラストとかを書いてみると、「君は絵がうまいから、漫画でも書いてみたら」と言って、漫画の新人賞募集の雑誌を見せてくれたんです。 賞金もそこそこよかったし、小遣い稼ぎができるかなくらいの気分で応募したのですが、出版社の担当の人からも「君のは面白いから頑張ってみなよ」とやる気にさせてくれて。それで、ちゃんとやってみようと思って、漫画家になる夢が膨らみました。 それから1年くらい、出版社に自分の作品を持ち込んでいたのですが、講談社の「Kiss」という女性漫画誌で新人賞をとって、ようやく漫画家デビューしました。当初は、30ページくらいの、下ネタギャグ的な、ラブストーリー漫画を描いていました。 コンペが通って掲載されて、読者アンケートの結果がよくないと連載が続かなくなるのですが、そのうちだんだん載らないことも多くなってきて、これじゃあ食べていけないと思って、コンペがなくても載るような、中堅どころの会社で、体験もの漫画を描き始めました。自分が体験したことがすぐにネタにできるので、描きやすいというのもありましたが、この手の漫画はふつうの体験をしても別に面白くなくて、ちょっと過激だったり、少しエロだったりとか、変わったことをしないとウケないんですよね。 「これってウケるんだ!」  そんなある時、女性器の整形手術というのがあることを知って、特殊な手術を漫画のネタにすれば、仕事も増えるかなと思って、手術までの体験をネタにした連載を始めました。最初はきわどい話もそのまま書いていたんですけど、続きを書いてくれと言われたときにだんだんネタが尽きてしまい、手術後の自分の女性器の型をとってみようと考えたんです。 歯医者で歯型を取る時に使う、ピンクの溶剤を自分の女性器にあてて、石膏の型にしたのですが、手術で小陰唇を取ってしまったので、つるっとしたものができたんです。でも、これだけじゃ面白くないなと思って、当時ギャルたちが携帯電話にデコレーションしていたのが流行っていたのをヒントに、石膏をキラキラさせてみようって思ったんです。保釈後に記者会見するろくでなし子さん=2014年12月 その経緯は漫画にもしたんですが、出来上がったものを友達とかに見せたら、ちょっとウケたんですよ。それで調子にのって、ゴルフ場のジオラマ作品をつくったんですけど、またウケたんですね。「あっ、これってウケるんだ!」と思って、ライターの友人たちと飲みに行った時とかに持っていくと、決まって「これ何?」って聞かれるんです。そしたら、「これは私の〇〇〇」って切り返すと、そこでまた盛り上がるみたいなことをやっていたんですね。 それから、私のところにネットニュースから取材の申し込みがあり、取材というのを初めて受けたんです。そのころ、私のホームページには1日に20件くらいしかアクセスがなかったのに、いきなり1万件くらいに急増して驚いていたのですが、どうやら「2ちゃんねる」でスレッドが立ってたんです。 書き込みをみると、「こんな気持ち悪いものを」とか「なんか臭そうだ」とか、とにかくひどいことばかり書かれていました。それまで、漫画でも女性器の名前は伏字にされていたし、そういうもんだと当たり前のように思いこんでいたのですが、この時初めて、なんで伏せなきゃいけないんだろうって疑問がわいたんです。そして、いろいろ考えていくうちに、実はメディアが勝手に自主規制しているだけで、根底にあるのは女性器が男性のモノみたいな扱いを受けているからではないかと思うようになったんです。 自分の価値観を押し付けるおじさんたち  これまでの創作活動を振り返ると、私がつくった作品に対して、いつもすごい勢いで怒り出すのは大抵おじさんだったんですよね。根底には「俺の女性器観」みたいな考え方があって、それを無理に押しつけてくるんです。女性器は私のものなのに、何であれこれ言われなければならないのだろうと思うようになり、それからは女性器をモチーフにした創作活動を本気で始めました。 本気でやるといっても、単に自分が怒っているだけだと面白くもないので、もっとバカバカしく、もっと脱力させてやると思って、ラジコンと女性器を合体させて走る「リモまん」とか、センサーに手をかざすと水が飛び出す「しおふきまん」とか、暗闇をビカビカ照らす「シャンデビラ」などの作品をつくりました(笑)。 私の作品は、「笑い」が一つのメッセージでもあります。けんかしてて怒ってても、ちょっとおかしなことがあったら、思わず「ぷっ」と吹き出して、一瞬なごんだりして「まあいっか、仲直りしよっか」みたいになったりすることもあるじゃないですか。そういうものは大事にしていたいなと思うんですよね。私の場合、つくった作品はことごとく否定されてきたのですが、「シャンデビラ」をつくったときはインパクトがないとか言われて。女性器にインパクトがない、どうすればいいんだろうと悩みました(笑)。女性器は手のひらサイズなので、小物作品しかできない。大きな作品をつくりたいと考えていて、思いついたのが「3Dデータ」でした。自分の作品のボートに乗るろくでなし子さん 女性器を3Dスキャンしてつくった「マンボート」はネット上で募金を募り、一緒にプロジェクトを作り上げるクラウドファンディングを利用した大型作品でした。支援者には女性も多くて、私がずっと言い続けてきた、なんで女性器の名前を言っちゃダメなのかという主張に賛同してくれたり、勇気づけられたと言ってくれる人もいました。 そのときは同性が喜んでくれたこともあり、私自身すごく励みになりましたね。その後、「個展をやりませんか」という話が舞い込んできて、新宿眼科画廊で初めての個展を開催しました。当時は美術系雑誌など、いろんなメディアに案内資料を送ったんですけど、どこも取り上げてくれませんでした。結局、また2ちゃんねるでまとめができたおかげで広まり、会期中は大盛況でした。でも後から知ったのですが、実はその会場には刑事も来ていたそうです。 自分は悪いことしていない  逮捕当日の2014年7月12日、朝10時30分ごろ。前日は腹痛でそのまま寝てしまい、お風呂も入っていなくて、そろそろ起きてシャワーでも浴びようかなと思った時でした。突然、玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けたら見知らぬおじさんが10人ぐらい立っていて、「警察だ」と告げられました。自分は悪いことをした覚えはないから、何で来たのか分からないんですよ。刑事に「ガサ入れだから」って言われて、部屋に上がりこまれて、私の作品やパソコンを探し始めたんです。「じゃあ証拠品押収だ」とか言って、急に作品などを私に確認して袋に入れ始めて。刑事からは「これはアソコですか?」みたいなことを尋ねられたんですけど、この人たちは、女性器の名前を言えないんだって思って「はい、私の〇〇〇です」ってそのまんま答えました。 たぶん、女性がそのまま口に出して言うのが聞き慣れなかったみたいで、その場がざわついてしまった。私はそれが面白かったから、「これは?」って聞かれるたびに「はい、私の〇〇〇です」って答えてました。その日は出掛ける予定もあったので、いつ帰るんだろうと思っていたら、刑事から「小岩署行くからね」と言われて。「じゃあ、逮捕状ね」っていきなり逮捕状を読み上げられて、手錠をガチャンとかけられました。そこで初めて「うわっ!逮捕かー」って実感しました。 私の起訴内容は、クラウドファンディングの協力者に、自分の女性器をスキャンした3Dプリンタ用データをダウンロードできるURLを送った罪と、個展で同様の3Dデータが入ったCDをおまけにつけた「ミニチュアまんボート」を販売した罪。そして、北原みのりさんのショップで女性器をかたどった作品を展示した罪です。「ろくでなし子」また逮捕 わいせつデータ頒布容疑(ZAKZAK 2014年12月3日) 女性器はわいせつではない  通常は略式起訴で終わる事件であり、あえて公判で戦うことに疑問を持つ人も多いでしょう。でも、これまで略式ばっかりできたから、刑法175条が見直されてなかったという側面もあると思うんです。 裁判で一番訴えたいのは、私がずっと主張してきた「女性器はわいせつではない」ということ。単純な話、人間の女性についているものなので、手とか足とか目とか鼻とか口とかと一緒ですよね。なのに、そこを切り取って「ワイセツ」というのはすごく変だなと思う。もちろん、今すぐ意識は変わらないかもしれないですけど、歴史はそういうものの積み重なりだし、たとえば日本で裁判になった「チャタレイ夫人の恋人」は、発禁処分になったり、出版後には黒塗りされたりもしましたが、いまは普通に読めますよね。何十年後かは分からないですけど、「女性器で裁判した人がいるんだよ」みたいな話にはなるんじゃないのかなと思うんですけどね。 私の作品のコンセプトは「女性の体は女性のもの」だということなので、海外ではフェミニズムアートだと分類されることが多い。でも、日本では「女性器=エロ」っていう意識で凝り固まっている人が多いので、いくら言っても「エロい女」とか、「エロい女が変なことやってる」としか受け止めてもらえないんですよ。 私の作品は、人を笑わせるようなものなので、セックスとはすごくかけ離れたものなんです。私だって、プライベートだったら、笑いながらセックスなんかしませんから。密やかなものも大事だと思っています。それが理解されなくて、「お前は街中で女性器をおっぴろげて歩けるのか」みたいな極端な言い方をする人もいます。 「女性器=エロ」という見方がある一方で、すごく神聖視されることもある。でも、結局は下品に貶めることも、神聖視することも、私にとっては差別でしかないと思っているんです。私自身の体であるものは、単に一つの器官でしかないので。でも、男の人はそれを持ってないから、そこに神秘を求めたがったり、蔑んだりとかしがちなんだと思うんです。 男性器は息子っていう言葉もあるぐらいだから、愛でるんですよね。でも、女の場合にはそんな言葉はない。無視しても生きていけるんですよ。ツイッターで面白いことを言っている人がいて、「性」と「聖」って同じ読み方ですけど、女性は「聖」である処女性が求められて、男性経験があったりすると、とたんに「性」の方に貶められてしまう。 なんていうのかな、そういう二つの分け方をすごくされているなと思って、どっちかなんですよ。女性だって人間だし、性欲はもちろんある。それでも、セックスに積極的なことをちょっとでも言うと変な目でみられてしまう。崇め奉るか、蔑むかみたいに両極端になりすぎていて、すごくバランスが悪いなと思うんです。 女性器の名前なんて言わなくても生きていけるし、気にしなくても生きてはいけますけど、それについて「なんでダメなのか?」と考えていくと、「男尊女卑」という問題にもぶちあたってしまう。 私のペンネームは「ろくでなし子」なんですが、漫画家時代、女性器の整形とか、ろくでもないことをやってきたから「これでいいや」っていうぐらいの軽い気持ちでつけた名前なんです。 よく名前は変えた方がいいとか言われるんですけど、新聞とかに「ろくでなし子逮捕」と載れば、その字面だけを見てもバカみたいじゃないですか。「国と戦うろくでなし子って何だ?」みたいな感じで、それがいかにくだらないかっていうことも、なんとなく伝わる感じがするので、この名前は変えたくないですね。 私が女性器をモチーフにした作品をつくり始めた3年前は、誰に聞いても「バカな女」とか罵られるだけで、大きな湖に一人で石を投げて、ポチャンて跳ね返りがあるぐらいのものでしかなかったんですけど、今では支援者も随分増えて、反応がどんどん大きくなっている。こうして逮捕や起訴されて、起訴自体は理不尽なんですけど、公の場で、みんなで「ワイセツとはいったい何ですか?」ということを議論し合える、いい機会にもなったと思っています。だからこそ、私は自分の主張を貫いて最後まで闘う覚悟です。(聞き手 iRONNA編集部 川畑希望)ろくでなし子漫画家。日本性器のアート協会会員。自らの女性器を型どりデコレーションした立体作品「デコまん」造形作家。 著書『デコまん』(ぶんか社刊)。『女子校あるある』(彩図社刊) 2012年6月米国シアトルにて開催されたエロティック・アートフェスティバルに作品出展。 2012年9月銀座ヴァニラマニアにてデコまん展開催。 2013年4月銀座ヴァニラ画廊にてヴァニラ画廊大賞展にて女性器照明器具・シャンデビラ展示。2015年4月、『ワイセツって何ですか? (「自称芸術家」と呼ばれた私)』(金曜日)が発売された。 関連記事■「センゴク」宮下英樹が語る真実の信長■金沢克彦編集長が語るプロレス誌「ゴング」復刊の真相■全公開! 油画 蒙古襲来