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    菅野智之の「魔球」はこうして生まれた

    4戦4勝で7月のセ・リーグ月間MVPに輝いた巨人のエース、菅野智之の勢いが止まらない。160キロ台の剛速球や飛びぬけた変化球があるわけでもないが、菅野の球は打てないのだという。史上最弱と言われる苦境に喘ぐ巨人を救う菅野の「魔球」はなぜ、生み出されたのか。

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    史上最弱巨人の救世主、菅野智之の「魔球」が打てない理由

    小林信也(作家、スポーツライター) 巨人の投手、菅野智之が7月の月間MVPを獲得した。7月は4試合に先発し、4戦全勝。この間、投球回数29で失点わずか1、与四球3、奪三振30。安定感抜群の内容で文句なしの受賞だった。 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも侍ジャパンのエースとして活躍した菅野。いまさら喧伝するまでもない存在だが、大谷翔平(日本ハム)のように160キロ台の速球を投げるわけではない。千賀滉大(ソフトバンク)のような目を見張るフォークボールが武器というわけでもない。その菅野がこれだけ「打たれない理由」は何なのか? 日本の野球界には、いくつかの誤った常識がある。古くからの思い込み。気づいている人、いない人で野球がずいぶん変わる。少年野球や高校野球を見ていると、技術的に古い常識にとらわれて、子供の良さを伸ばしきれない指導者の姿をしばしば見かける。DeNA対巨人で10勝目を挙げた巨人の菅野智之=2017年7月22日、横浜スタジアム(撮影・山田俊介) 菅野はその意味で「常識を覆す」よい見本だ。端的な例を挙げると、菅野のよさは「球の速さ」以上に「左足を踏み出してから球が離れる速さ」にある。 日本の野球ファン、指導者の間には、逆の常識がある。「投手は、右投手なら、左足を踏み出したとき、右腕を後ろに残し、ためを作ってそこから勢いよく投げ下ろすのがいい」という思い込みがある。私自身も少年時代、そう思っていたし、高校野球でもそのように指導された。 ところが、メジャーリーグの好投手の大半は、まったく別の投げ方をしている。ここでは右投手を前提に話すが、左足を踏み出したときにはもう投手の上半身が打者に正対し、ボールを持つ右手が顔の前に出ている。左足の踏み出しと右腕の振りがほとんど同時なのだ。 もちろん、左足をゆっくりおろし、地面すれすれのところまでは右手は後ろにある。しかし、左足が着くか着かないかのわずかの間に上体を反転し、足を着くと同時に右手を前に振り出すのだ。この左足と右手の誤差が少なければ少ないほど、打者は打ちにくい。 まだ来ないはずのボールが、突然目の前に現れるような感覚がある。菅野はまさに、こういう投げ方をしている。ゆっくりと左足を上げ、まっすぐな姿勢を保ち、しっかりと右足に乗ってから打者方法に重心を移動する。その仕種はゆったりと見えるが、次の瞬間、急にボールが飛び出してくる。 だから、スピードガンで測る球速以上に菅野のボールは速く鋭く感じるはずだ。打者にすれば、「アッ」と慌てる感覚になるから、そのボールが鋭く変化したら(スライダー)、腰砕けして手に負えない。菅野の投球は「新常識」 日本のプロ野球の投手たちは、ある時期から「これが大事だ」と新しい常識を共有し始めた。ソフトバンクの工藤公康監督などは、それを後輩たちにしきりに強調していたと、若い投手から聞いたことがある。 ファンにとって印象深いのは、いまシカゴ・カブスで活躍する上原浩治ではないか。巨人に入団した一年目、歴代4位タイとなる15連勝をマーク(新人としては巨人・堀内恒夫をしのぐ最多記録)、いきなり20勝を達成して衝撃のデビューを果たした。 当時、上原の速球の平均は140キロ前後だった。それでも打てない。その秘密はやはり「球の速さ」ではなく、「球が離れるまでの速さ」だった。独特の上原の投球リズムを思い起こせばわかるだろう。ためた状態から左足を着くその瞬間に上原の右腕が出て来る。上原の場合はほとんど同時といってよかった。 古い常識にとらわれて、腕が遅れてくる投手が多かった中で、上原は特別で、衝撃的な投手だった。その影響もあってか、他の投手たちもその核心に目覚め、新しい常識を追求するようになっている。ブレーブス戦の8回に登板し、1回を三者凡退に抑えたカブス・上原=2017年7月、アトランタ もちろん、それ以前にもそれを自覚し、実践していた投手はいる。伊良部秀輝もその一人だった。158キロを投げても清原和博に打たれた。白星に恵まれなかった。その苦悩の末に生み出した投法「伊良部クラゲ」とも形容された投げ方は、右手と左足を一緒に出すための工夫でもあった。 そして菅野は、奇しくも同じ背番号19の先輩である上原が、日本の先がけをなした投法を継承して、大投手への階段を昇っている。 さらに菅野自身は、上原とも伊良部とも違う独自の工夫も凝らしている。とくに走者を置いた場面で、菅野は投げた後、左足をひっかくように後ろに引く動作をすることがある。普通の投手は絶対にしない。勢いをつけて前へ前へ投げようとする投手には、やろうと思ってもできない動作だ。 あるテレビの取材に答えて菅野自身がこう語っている。「左足を引くことによって、右肩が前に出る。加速する。よりボールに力が伝わりやすいんじゃないか」 自然と左足を引くようになって「球も強くなるし、面白いように空振りが取れる感じもあった」という。こうした新しい目覚めが今季の菅野の好調の背景にあるのだ。

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    北朝鮮リスクより危険な「人づくり革命」

    内閣改造の目玉政策と言われる「人づくり革命」とは一体何なのか、実はよく知らない人も多いのではなかろうか。経済を人に例えるなら、人づくり革命とは身体そのものを鍛える政策のことだが、日本経済はいまだ「風邪をこじらせた」ままである。ともすれば、北朝鮮リスクよりずっと危険かも?

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    北朝鮮リスクより危険? 経済最優先「人づくり革命」に足りないもの

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 米領グアム島周辺に弾道ミサイルを発射する準備が整ったとする北朝鮮の発言を受けて、日経平均株価は続落した。また安全志向の高まりをうけて円資産が買われ、円高も進行した。この「北朝鮮リスク」が経済状況に継続して影響を与えるかは現段階では不明である。ただ、日本経済の不確定要因として今後も注意が必要だろう。北朝鮮の労働新聞が7月29日掲載した、「火星14」発射に立ち会い、笑顔で拍手する金正恩朝鮮労働党委員長(中央)の写真(共同) GDPのプラス転換は1年半前からであり、その勢いが増しているようにも思える。だが、本当にこの「好調」は続くのだろうか。そして日本経済は1990年代からの「失われた20年」に最終的な別れを告げることができるのだろうか。 筆者は、今回の「好調」とアベノミクスの初年度に起こった出来事を比較することが重要だと考えている。アベノミクスの初年度とは、2012年第4四半期(10~12月)から2013年第4四半期までである。この時期は、翌年度の消費増税による駆け込み需要が顕在化する前であり、またアベノミクスの成果が最も明瞭だった高いパフォーマンスの期間だった。 実際にこの期間の実質GDP成長率は2・6%という高い水準だった。失業率は急減し、有効求人倍率は大きく改善し出した。アベノミクスの核となる日本銀行の金融政策も順調だった。インフレ目標で対前年比2%を目指していたが、採用前の2012年第4四半期で、消費者物価指数ではマイナス0・1%、生鮮食品とエネルギーを除く総合ではマイナス0・5%だったものが、それぞれ1・6%、0・7%にまで大きく改善した。残念ながら翌年の消費増税によってこの高いパフォーマンスは、「不十分」なものに転落してしまう。 このアベノミクス初年度の高いパフォーマンスを今回の状況と比較すると、共通する特徴がいくつか浮かび上がる。典型的には、個人消費が最も成長率に貢献しているということだ。そして設備投資がそれに続いているのも共通する。公共支出についてはアベノミクス初年度ほどではない。ただしいずれにせよ、「内需」中心の経済成長が生じている点では同じだ。「Aランク」を目指せる資産効果 個人消費の中身をみると、自動車や家電製品などの購入増や、外食の売り上げが伸びている。要するに人々の財布の中身が膨らんで、その結果として消費増加が起きている。なぜ人々の財布の中身(可処分所得)が増加したのだろうか。ここもアベノミクス初年度と共通するのだが、ひとつは資産効果によるものである。 1年前の2016年8月中旬の日経平均株価は1万6千円台だったが、現状では2万円台前後で推移している。伸び率で言えば25%ほどになる。この株高トレンドによって、家計の金融資産残高も増加している。この資産の増加が、耐久消費財などの個人消費の増加を生み出したと考えられる。また為替レート(円ドル)でみても昨年の8月は、1ドル=100円台を割り込む円高傾向だったが、現在は「北朝鮮リスク」に直面しながらも1ドル=110円台で推移している。この円安効果は、日本企業のドル建て資産を増価させ、他方で円建ての負債を圧縮することで、バランスシートの改善をもたらし、設備投資の増加に結びついていく。2万円を超える日経平均を表示する株価ボード=6月2日、東京都中央区(春名中撮影) このような株高・円安による消費と投資の増加経路は、アベノミクス初年度と全く同じである。ただし、資産効果も円安効果も、アベノミクス初年度ほどの効果はない。なんといっても、前回は民主党政権のどん底のような状況からの一大飛躍であり、その分経済への資産効果は極めて大きかった。わかりやすくいえば、全く勉強をせずに零点を採っていた学生が、ようやくやる気を出して勉強し、60点の合格点に達したのが、アベノミクス初年度の資産効果だといえる。それに対して現状では、すでに資産価値の改善は高い水準で実現していて、60点から「Aランク」の80点を目指す状況にあるといえる。前回に比べて伸びしろが限られてると言い換えてもいい。 むしろ今後のポイントは、アベノミクス初年度では不十分だった、人々の所得の増加そのものが焦点になるだろう。例えば、実質雇用者報酬は直近では前年同期比で1・4%の増加である。昨年度はほぼ2%台で推移したので、若干弱含みである。この実質雇用者報酬、つまり人々の給料そのものを増やすことが、今後の「内需」増加のキーポイントになる。 では、どうすればいいか。給料を増やすには、雇用の改善がさらに促される必要がある。確かに現状では、失業率も2・8%にまで低下し、有効求人倍率も全国・地方共に統計上でもまれにみる改善である。その他の雇用関係の指標もよく、しばしばマスコミが喧伝(けんでん)する「人手不足」がもっともらしく聞こえる。日本の雇用はまだ「リーマン前」 だが、実際には全般的な「人手不足」という状況ではない。経済全体での「人手不足」とは、総労働需要に対して総労働供給が不足する現象である。経済全体でみて、求人に対して働き手が足りないために、労働者を採用する側は、報酬を増やす必要がでてくる、というのが教科書的説明である。だが、日本経済の状況をみると、このような報酬の本格的な増加をみせるほどには、全般的な「人手不足」の状況ではない。深刻な人手不足は企業に大方針の転換を迫る。ファミリーレストランのロイヤルホストは全国で24時間営業を取りやめた=福岡市南区 実際のところ、日本の雇用はせいぜいリーマン・ショックの前の水準に戻った程度と考えたほうがいい。つまり堅調だといわれている雇用も最悪期をようやく脱したものの、まだデフレ経済の中に片足がはまった状態である。 例えば、就業率(15歳以上の人口に占める就業者の割合)をみると、現状では59・3%であり、ほぼリーマン・ショック前の水準に回帰した。だが、「失われた20年」が始まる90年代初めまでは就業率の水準は60-62%台であった。つまりまだまだ就業率に改善の余地が大きくあるのだ。例えば、非労働力人口は現状で4323万人ほどだが、このうち働く機会があれば働きたいと思っている人たちが、ざっと300万人ほどいると思われる。この300万人の多くが、働ける状況にもっていくことが重要だ。 現象的には、非労働力人口が減少し、他方で労働力人口が増加、就業率が60%台に上昇していく。もちろんその過程で失業率はさらに低下して、おそらく2・5%台前後にまで到達するだろう。このときになって初めて、全般的な「人手不足」が発生し、働く人たちの実質的な報酬も急増するだろう。報酬が増えれば、消費もさらに増加し、市場は拡大する。企業の設備投資も消費拡大を背景にして堅調に推移し、経済成長を支える。このような好循環が達成するまでは、まだまだ日本経済には不足するものがある。 その不足するものの典型は、追加的な金融緩和と補正予算による財政政策の拡大だ。財政政策については、筆者は以前から消費減税や長期間のインフラ投資を最善のメニューとして薦めているが、政治的な制約を考えれば、次善の補正予算の増加が「現実的」だろう。これらのいわゆるマクロ経済政策をさらに行うことが、いまの日本経済に重要なのだ。楽観的にいえば、あと一押しなのだ。 だが、今回のGDP速報をみて、茂木敏充経済再生担当相は、「人づくり革命」などによる生産性向上を政策対応としてあげている。だが、「人づくり革命」というのは、金融政策や財政政策のように人々の購買力を増やす政策ではない。経済を人間に例えれば、「人づくり革命」は体そのものを鍛える政策である。つまり筋肉増強みたいなものだ。だが、いまの日本経済はいわば風邪をこじらしている状況である。風邪をひいたときには金融・財政政策という「薬」が必要であり、筋肉増強のために訓練することではない。 茂木氏の発言を聴くと、本当に必要なのは「人づくり革命」よりも、政治家たちの「政策認識の革命」なのだと思う。

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    このままでは清宮幸太郎はプロ入りしても「ホームラン王」になれない

    小林信也(作家、スポーツライター)  これまで、早稲田実業の清宮幸太郎について語ることを避けていた。大騒ぎに便乗する気はないし、騒ぎに水を差すほど無粋でもない。実績はそろっているが、まだ10代の少年。高校生同士が戦った結果を過剰に持ち上げる違和感もあった。 清宮が高校3年間で通算107本のホームランを打ったのは事実だ。が、いずれも高校生投手から打ったにすぎない。しかも、プロ野球では使えない金属バットから放たれたものである。 東京の高校野球のレベル差は極端だ。強い高校もあれば、中学の硬式チームより拙い高校も少なくない。それを「107本」という数字でくくるのは、少なからず誇張も含まれる。 将棋の世界では、藤井聡太四段が14歳にしてプロ入りし、29連勝を飾った。彼が戦う相手は紛れもなく一流のプロ棋士であり、プロを相手に29連勝した藤井四段の実力は掛け値無しだ。その彼でさえ、このまま順調に成長するかどうか、100%の確証はない。なぜなら、かつて28連勝した先輩はいま壁に当たり、苦闘を続けている。メディアは平気で、「凡人の作った記録を天才に抜かれて良かった」と謙遜した彼のコメントを真に受けて発信したが、彼だって28連勝した当時は「天才」と呼ばれたはずだ。 清宮は、まだプロ野球の投手から1本のホームランも打っていない。野球界の規則に阻まれて対戦する機会が与えられないためで、清宮のせいではない。対戦すれば打ったかもしれない。 将棋界のように、若い才能がプロ野球選手と直接対戦する機会を野球界も作る必要があるというのは安全性の面で早計だが、新しい方向や発想を出し合い、改善を模索する土壌さえないのはお粗末だ。 ひとつ疑問がある。なぜ清宮は、これほど高校野球に没頭したのか。甲子園出場を逃し、試合後に取材に応じる早実の清宮幸太郎主将 =7月30日、東京・神宮球場 早実野球部で清宮は「青春」を満喫した。敗戦後、チームメイトと過ごした充実感、主将である自分についてきてくれた仲間や後輩への感謝を口にした。まさに青春そのもの。人間的な成長において「大切な経験」を清宮は高校野球で培ったと言っていいのだろう。個人競技の色合いが強い野球だが、一方でチームゲームの現実があり、そのチームゲームの何たるかを高校で体感した。だが、プロ野球選手としてそれがプラスであったかどうかは、にわかには断定できない。プロの世界で感傷(センチメンタル)はあまり役に立たないからだ。その意味では、現役時代、まったくセンチメンタルを感じさせなかった父・克幸さんとは少し違った人間味を感じさせる。 藤井四段が青春を捨てているように、ある道に秀でた天才が、何かを犠牲にするのは選択肢の一つだ。高校時代に「次」を見据えて野球に取り組むなら、清宮が自ら進んでやるべきことは「甲子園出場を目指すこと」や「通算ホームラン記録を抜くこと」以外にあったように思う。そう、いま清宮が最も不安視されている「木製バットへの対応」と「守備力の改善」である。 西東京大会の決勝では一塁手としてふたつのミスをし、それが失点、敗戦につながった。 野球を見る目を持つ人なら、清宮の守備の動き、スローイングのレベルには思わず口をつぐみ、ため息をもらすだろう。お世辞にもプロのレベルとは言えない。打撃と違って、守備は努力で向上する、と一般的には言われるが、清宮がどれほど努力すればプロで一流と呼ばれるようになるのか。正直言って、かなり前途多難だと多くの人は感じることだろう。履正社・安田尚憲との違い 一塁手というポジションは、プロ野球ではある種の「指定席」の色合いがある。巨人の阿部慎之助が捕手を卒業して守っているように、ベテラン選手の生きる道に使われる。守備に難のある強打の外国人助っ人の「指定席」でもある。 18歳のルーキーに最初から喜んで提供できるポジションとは言えない。もしプロ球団がそれを確約するなら、清宮にはホームラン王を争う助っ人並みの数字が求められる。1年または2年、結果に目をつぶって経験を積ませてくれる余裕のある球団がどこにあるだろうか。 高校時代に木製バット対策と守備力強化を行わなかった清宮は、今からその課題を克服しなければならない。 木製バット対応は、打撃の天性を持ってすれば、案外すぐにできても不思議ではない。ただし、特別な知識と指導力を持ち、清宮の潜在的可能性を見いだし伸ばしてくれる名伯楽との出会いが必須だ。今の球界にそのような人物が本当にいるのだろうか。 王貞治には、荒川博コーチがいた。巨人に入って3年間、期待ほどの結果を出せない王にしびれを切らした川上哲治監督(当時)が、「安打製造機」の異名を取った榎本喜八の育ての親である荒川を大毎オリオンズから引き抜き、王の専属打撃コーチにした。二人の師弟関係から「一本足打法」が生まれ、王がホームラン王に変貌した伝説はオールドファンなら誰もが知っている通りだ。松井秀喜には長嶋茂雄監督(当時)が熱心にマンツーマン指導したという逸話もある。 清宮は184センチの恵まれた体躯からホームランを量産してきた。だが、今のバッティングスタイルはむしろ中距離打者である。やわらかなリストワーク、しなやかなバットコントロールは、打撃センスと安定感を感じさせる。投球を捉えるのもうまい。しかし、イチローがホームラン打者でないように、その打ち方がプロ野球に入ってもホームランを生むのに最適な打法かは一考の余地がある。今秋のドラフト候補、履正社の安田尚憲内野手 履正社の安田尚憲は松井秀喜を手本にし、内面でボールを捉えた後、バットと身体をひとつにして、「ブン!」と振り抜く。これは紛れもなくホームラン打者の打ち方だ。清宮は、バットと身体の出方にズレがある。下半身が投手方法に向かった後、上半身(バット)は少し遅れて出てくる。昔の好打者に多かった打撃スタイル。ヒットや二塁打は高い確率で打てても、柵超えを狙うのに最適な打ち方ではない。 フルスイングが代名詞の柳田悠岐(ソフトバンク)も、中田翔(日本ハム)も、中村剛也(西武)も、軽々とホームランを打つときは、ステップとバットとボールが一つになっている。 結論から言えば、「中距離打者」の清宮幸太郎など、誰も求めてはいない。不自由すぎる野球の世界 ホームランこそが清宮に求められる代名詞だ。ところが、今の清宮は「ホームラン王」への道をまっしぐらに歩んでいるとは言い切れない。そういう誤差を指摘し、納得の上で清宮をホームラン打者へと導いてくれる指導者との出会いが何より重要である。もしくは、少年時代、そうして来たように、清宮自身がメジャーリーガーらを参考に、自らフォームの見直しを図ることだ。 U-18(18歳以下)世界大会では不調に終わり、昨秋の東京都大会では日大三高のエース、櫻井周斗に5打数5三振を喫した。今夏の西東京大会決勝では、東海大菅生のエース、松本健吾から丁寧に攻められ、凡打を重ねた。最後の打席で一二塁間を抜いたのはさすがだが、レベルの高い投手から攻められたら、必ずしも結果を出していないのが、早実時代の清宮だった。 次の2年、3年、どんな環境で、どんなコーチと、何をどう改善するかが、清宮の野球人生を大きく左右する。 早稲田大学にそれを満たす環境があるだろうか。通算107号本塁打を放つ早実・清宮幸太郎=7月28日、神宮球場 今の時点で考えると、大学生活の4年は長すぎる。「プロ入りの準備完了」と判断したら、中退してプロ入りしたいだろう。その自由が日本の野球界にはない。社会人野球でも3年は拘束される。唯一の例外は独立リーグだが、清宮には合わないだろう。 アメリカ留学の声もあるが、注意が必要だ。アメリカの野球界に飛び込んだら、MLBの制約を受ける可能性が出てくる。マイナーリーグに所属すれば、自分の意志で日本のプロ野球に入れない立場になる。 こうして考えると、野球界とはなんと不自由な世界なんだろうとつくづく思う。清宮には、今すべきことを、それにふさわしい環境で取り組んでほしい。例えば、アメリカ、南米の環境で自由に野球を謳歌(おうか)するのも、もう一度清宮を大きく飛躍させる糧になるように思える。 プロ・アマ規定や日米の紳士協定が邪魔になるなら、この機会に改善してほしい。清宮のための「特例」ではなく、そうした堅苦しい規制のために、のびやかな野球人生を過ごせない多くの若者に、もっと選択肢を広げ、野球以外の経験も含めたスケールの大きな野球人生を保証するために。 通常ルートでプロに入る選手ばかりでなく、独自の成長過程を過ごして才能を伸ばす選手たちを柔軟に受け入れる懐の深さを野球界は持つべきだ。 清宮が次の2年間をどこでどう過ごすかが重要だ。それは候補に挙げられる「即プロ入り」でも、「早稲田大進学」でも、単純な「アメリカ留学」でもない気がする。そんな杓子定規しか選択肢のない日本の野球界そのものが、常識の枠におさまらない清宮幸太郎には居心地が悪いのではないだろうか。

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    安倍総理、国民の生命より「消費増税ありき」でいいんですか?

    の脱却にあと一押しが足りないのは、2014年4月からの消費増税による消費低迷に原因があることは、この連載でも何度となく指摘してきたことである。 最近の消費統計をみると、今年に入ってからの株高・円安傾向による「資産効果」や所得増などによって消費がやや上向き始めているが、それでも力強さには欠ける。その原因としては将来の増税を予想して現在の消費を手控えて、貯蓄してしまうことが考えられる。その意味では、安倍首相が予定通りの増税実施を確言したことは、消費者のデフレマインドをさらに定着させてしまっただろう。 確かに、現在の政治状況から、この時期に消費増税の「凍結」やあるいは減税などのオプションに言及することは難しい、という指摘もある。ただ、安倍政権が今後、経済政策で積極姿勢を鮮明にしない限り、内閣支持率の上昇を含めて政権の再浮揚は困難だろう。 また、経済政策は単に政権の安定だけが目的ではもちろんない。私たち国民の経済状況、さらには直接に「生命」に関わる問題でもある。7月後半に出された最新の統計によれば、今年前半の自殺者数は前年比で約5・1%減少の1万910人であった。自殺者数は民主党政権時代の後半から減少しているが、その勢いが加速したのは第2次安倍政権になってからである。その要因は、自殺対策への政府・地方政府の予算増加、さらには積極的な財政・金融政策による景気の改善効果によるものが大きい。市場に任せても自殺は防げない 1997年は日本の金融危機と消費増税により経済が大失速した年だ。自殺者数はこの年以降急増、2011年まで14年連続して3万人台であり、ピークの年では3万5千人近くに達した。さらに、自殺未遂した人や自殺しようかと悩んだ人たちまで含めると膨大な数に及ぶに違いない。つまり消費増税による経済失速、その後の経済政策の失敗が、国民の生命を直接に奪ったことになる。4月26日、自殺総合対策大綱の見直しについて議論した厚労省の有識者検討会 実は、経済政策の失敗が人々の「生命」を直接に奪うとした分析を、英オックスフォード大教授のデヴィッド・スタックラーと米スタンフォード大助教授のサンジェイ・バスが『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)で提示している。原題を直訳すると「生身の経済学 なぜ緊縮は殺すのか」というものだ。 スタックラーとバスはともに英国の公衆衛生学の専門家だ。彼らの問題意識は、医療や社会福祉(公衆衛生を含む)に経済政策がどのような影響を及ぼすかどうかにあった。その検証は鋭く、また多くの経済学者が「市場に基本的に任せておけば安心だ」という安易な市場原理主義的信奉に陥りがちなのに比べて、経済学者以上に経済政策の重要性を認識している。 スタックラーとバスの指摘で注目すべきなのは、不況そのものよりも、不況のときに緊縮政策を採用し、経済政策が失敗することで国民を殺してしまうということだ。日本の事例でいうならば、1997年以降の自殺者数の急増は、アジア経済危機や金融危機そのものではなく、消費増税(増税という形ので緊縮政策)であったということになる。また当時の日本銀行による金融政策の失敗が持続したことも大きい。 例えば、不況になれば失業者が発生する。このとき政府や中央銀行が適切に対処しなければ、失業の増加が自殺者の増加を招いてしまうだろう。日本の場合では、失業率が高まるとそれに応じるかのように自殺者数も増加していき、また失業率が低下すると自殺者数も低下していく。この関係を専門用語で「正の相関」という。不況で起こる中高年男性「自殺の引き金」 経済停滞期に緊縮政策を採用することで、男女ともに自殺者数が増加する。ただし、仕事を奪われることによる社会的地位の喪失を、男性しかも中高年が受けやすいといわれている。実際、日本の失業率が増加すると、特に中高年の男性が自死を選択するケースが激増する。現在でも男性の自殺者数は女性のほぼ倍である。もちろん女性の自殺者数も経済政策の失敗によって増加することは同じで、深刻度は変わらない。 スタックラーとバスの本では、2008年のリーマン・ショックで仕事を失ったイタリアの中高年の男性職人が「仕事ができない」ということを理由に自殺したエピソードを紹介している。つまりここでのポイントは、経済的な理由よりも地位や職の喪失そのものが自殺の引き金になっていることだ。 経済政策の失敗の典型は、不況のど真ん中やあるいは十分に回復していない段階での増税だ。先ほどのスタックラーとバスはこう指摘する。リーマン・ショック以後の英政府は当初、積極的な景気刺激策により雇用増加や自殺者減少に貢献したにもかかわらず、それを1年で止め、日本でいうところの消費増税や公務員の人件費カットなど「緊縮策」を採用したことで失業が増え、自殺も増加したとしている。 不幸なことだが、日本の政治家の大半が緊縮主義者だ。政治家の大半は、将来世代のために財政再建が必要であるとか、人口減少社会への対応で福祉を向上させるために「消費増税が必要だ」と語るケースが多い。だが、長期停滞、つまりデフレによる経済低迷を脱しないままで消費増税を目指すことは、確実に国民の生命を傷つけ、最悪の場合、奪ってしまうだろう。 消費税と社会保障があまりも強固に結びついてしまっている日本の制度設計の失敗の問題でもある。いずれにせよ、将来世代と現在の国民の生命と生活の安定を本当に重視するならば、まずはデフレを脱却させ、経済停滞を回避することが最優先であって、「消費増税ありき」「財政再建ありき」ではないのだ。安易な消費増税の確約は、国民の生命を危機に陥れると宣告することに等しい。日本の政治家は、特にこのことを心に刻んでほしい。

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    「利上げして景気回復」枝野幸男の経済理論が凄すぎてついていけない

    ドなものである(参照:「反省なんてまるでない! 「緊縮ゾンビ」だらけの民進党代表選」)。いままでこの連載でも多くを書いてきたので、今回は枝野氏について特に紙数を割きたい。地元の祭りに参加し、住民と言葉を交わす民進党の前原誠司元外相=7月30日、京都市左京区 枝野氏については、2012年に出された著作『叩かれても言わねばならないこと。』(東洋経済新報社)が参考になる。同著では、所得税よりも消費税がむしろ現在の生活水準が高くない層には有利だと説明されている。消費税が、低所得者層に負担が重いという「逆進性」の指摘を否定している。そして消費が多く生活水準の高い「引退世代」に負担してもらうという主張であった。 しかし、この枝野氏の主張ほど実際の消費税の負担について間違ったものはない。消費税の「負担額」は確かに高所得者の方が大きいが、やはり「逆進性」の懸念通りに、低所得者層の方が消費税の「負担率」が高くなっている。 消費増税が直近で行われた2014年4月から8月にかけての統計データを見て、現在の日本銀行審議委員である片岡剛士氏は、『日本経済はなぜ浮上しないのか』(幻冬舎)の中で以下のように指摘していた。「消費税増税が始まった2014年4月から8月にかけて悪化が深刻であるのは、世帯所得が最も低い第一分位及び第二分位といった低所得層の家計消費であり、かつ勤労者世帯の中でも非正規労働者の比重が高い低所得者層の悪化度合いが深刻であることがわかります。消費税増税の逆進性に伴う負担率の高まりが低所得者層を中心に生活防衛意識を高めて支出を抑制しており、家計消費の回復にブレーキをかける一因となっているのです」(同書、180ページ)。 この状況は2014年から16年までほとんど変わらず、低所得層の消費の動きは低迷したままである。枝野氏の主張は現実の動きの前では否定されたといっていい。信じられない枝野氏の「トンデモ経済論」 さらに枝野氏には興味深い主張がある。それは以前から「利上げして景気回復」という主張である。これは端的にトンデモ経済論の域だと思われる。筆者の知る限り、08年9月下旬のテレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」の番組中に表明している。当時はもちろんリーマン・ショックが顕在化したころであり、深刻な経済危機に世界が直面していた。その中での発言である(当時の記録が筆者のブログにある)。 通常は、経済危機や深刻な不況のときは、金利を引き下げることが重要だ。もし金利を引き下げる余地がないときは、今度は中央銀行が供給するマネー自体を増やしていく、さらには物価安定目標(インフレ目標)の導入で人々の予想をコントロールしたりすることが重要だ。なぜ金利を引き下げるかといえば、経済が落ち込んでいるときは、民間の消費や投資が振るわないときだ。例えば、住宅ローンでも車のローンでも金利を安くした方が借りやすくなるだろう。もちろん金利が変動型であればそれだけ返済負担も少なくなる。消費だけではなく、企業の設備投資のための金利負担も軽くなる。 だが、どんな教科書にも経済危機や不況に、金利を引き上げて景気回復が行われるとは書かれていない。当たり前だが、そんなことを経済危機に行えば、経済は壊滅的な打撃を受けるだろう。それをリーマン・ショックの時期に行えというのは、かなり経済政策のセンスを根本的に疑う事態だろう。「朝まで生テレビ」で同席していた嘉悦大学の高橋洋一教授も同様に、枝野氏の経済政策観を批判している。 やはり、枝野氏の経済政策観は、緊縮主義、その一種である「清算主義」に立脚しているかもしれない。不況や経済危機のときに、積極的な金融緩和や財政拡大で介入することは、かえって非効率的な企業や非効率な人々の経済活動(一例で余剰人員など)を温存させてしまう。だから不況や経済危機は市場に任せて放置した方がいいという経済思想である。そしてこの清算主義もまた間違っているにもかかわらず、何度も政策議論の場でよみがえってくるゾンビでもあるのだ。講演後に記者団の取材に応じる民進党の枝野幸男元官房長官=7月29日、さいたま市 ただ枝野氏は「利上げ」という形で積極的に市場に介入して、さらに不況を深めるかもしれないので、積極的清算主義という新種の可能性がある。このような「介入」が、彼が市場に任さないで、政府の活動を重視する「リベラル」という評価の源泉なのかもしれない。ただあまりに「自由すぎる」発想で、筆者はついていけないのだが。 まじめに話を戻せば、前原氏も枝野氏もともに緊縮主義であることに大差なく、蓮舫-野田体制とこの点で変化はみじんも期待できないのではないか。ここに民進党の低迷の真因がある。

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    「加計ありき」で発狂するワイドショーの安倍叩きがヒドすぎる

    田中秀臣(上武大ビジネス情報学部教授) 7月24日に衆院予算委、25日には参院予算委で、いわゆる閉会中審査が行われた。テーマは、加計学園の獣医学部新設計画をめぐる「問題」である。なぜ「」でくくったかというと、この件には具体的な問題が不在だと、私が思っているからだ。しばしば新聞やワイドショーなどのメディアでは、「加計ありき」という言葉を聞く。これは安倍晋三首相と加計学園の理事長が友人関係にあり、そのため獣医学部新設について優遇されたという疑惑があるという。 では、どんな具体的な「疑惑」なのだろうか? そしてそれは違法性があったり、あるいは政治的、道義的責任を発生させる「問題」なのだろうか? 具体的ならば一言で表現できるはずである。だが、繰り返されるのは「加計ありき」というおうむ返しと、なんの実体も伴わない「疑惑」のバーゲンセールである。 「疑惑」を持つことは結構である。実際に政府にはさまざまな権力が集中していて、それをチェックするのは政治家やメディア、そしてなによりも私たち国民の責務である。だが、その「疑惑」は少なくともある程度の具体性を持たなければならない。7月24日、衆院予算委の集中審議で、答弁に立つ和泉洋人首相補佐官(左)と前川喜平前文部科学事務次官(斎藤良雄撮影) 例えば、「総理のご意向」を書かれた文部科学省の内部メモである。出所がいまだにはっきりしないこの内部メモには、和泉洋人首相補佐官から「総理の口から言えないから」としてスピード感を持って取り組むように、と前川喜平前文科事務次官に伝えたとある。どうも「総理の口から言えないから」の存否が論点らしい。前川氏はそのような発言があったとする一方、他方で和泉氏は否定している。 しかしそもそもこの文言があったとして、何か重大な法律違反や不公平な審議が国家戦略特区諮問会議の中で起こったのであろうか。むしろ規制緩和のスピードを速めることは、国家戦略特区のあり方でいえば正しい。ましてやその内部メモには、加計学園に決めよ、という誘導を示すものは何もない。だが、多くの報道は、なぜかこの点を飛び越えてしまい、「加計ありき」のシナリオとして読み込んでいる。「ありき」論者たちの思い込みである。 ちなみにこの内部メモが作成された段階では、京都産業大も候補として残っていたのだから、「京産大ありき」や「加計も京産大もありき」の可能性さえも、「ありき」論者たちの読み込みに付き合えばありえるだろう。だが、もちろん「ありき」論者たちは、加計学園の加計孝太郎理事長が安倍首相の「お友達」なので、「加計ありき」だと証拠も論理的根拠さえもなく、断定するわけである。およそ良識外だ。ニュースの消費は「娯楽の消費」 連日のように新聞やワイドショーなどのテレビ番組が、このような実体のおよそ考えられない良識外の「疑惑」を2カ月にわたり流し続けてきた。他にもさまざまな要因があるだろうが、安倍政権の支持率はがた落ちである。ワイドショーなど既存メディアの権力の強さを改めて実感している。7月25日、参院予算の集中審議で、民進党・蓮舫代表(右下)の質問に答弁する安倍晋三首相(川口良介撮影) 加計学園「問題」の真偽については、筆者も以前この論説などで書いた。また当サイトでも他の論者たちが実証的に議論しているだろう。ここでは、主に森友学園「問題」や加計学園「問題」などで明らかになってきた、ワイドショーなどマスメディアの報道の経済学について簡単に解説しておきたい。 経済学者でハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセン教授が、1976年に発表した「報道の経済学に向けて」という野心的な論文がある。通常の経済理論では、財やサービスに対する消費者の好み自体には無関心である。ある特定の好みを前提にして、単に価格の高低にしたがって需要と供給が一致することで現実の取引が決まると考える。だが報道の経済では、ニュースという「財」そのものが消費者の好みを作り出すことに特徴がある。ここでいうニュースは、政治、経済、芸能などの中身を問わない多様なメディアが提供する広告宣伝以外のサービス総体を指す。 ジェンセン氏は、ニュースの消費は、「情報」の獲得よりも、エンターテインメント(娯楽)の消費であると喝破する。つまりテレビなどの「報道」は、ディズニーランドで遊ぶことや、または映画や音楽鑑賞、アイドルのライブで沸き立つことと同じだということだ。これは慧眼(けいがん)だろう。日本のようにワイドショー的な「報道」方法が主流ではなおさらのことだ。 ジェンセン氏は、この報道=娯楽、という視点から、どんなニュースが消費者の好みを作り出し、また消費者は実際にそれを好むかを主に3点から解説している。1 「あいまいさへの不寛容」…ニュースがもたらす「疑問」「問題」よりも、単純明快な「解答」をニュースの視聴者は求める。証拠と矛盾していても、また複雑な問題であっても、単純明快な「答え」が好まれる。ニュースの消費者の多くは、科学的な方法を学ぶことにメリットを見いだしていない。つまり学ぶことのコストの方が便益よりも大きいと感じているのだ。そのためニュースの消費は、いきおい、感情的なもの、ロマンチシズム、宗教的信条などが中核を占める。単純明快な二元論を好む消費者2 「悪魔理論」…単純明快な二元論を好む。善(天使)VS悪(悪魔)の二項対立で考える傾向が強い。極端なものと極端なものを組み合わせて論じる報道が大好きである。特に政府は「悪魔」になりやすく、政府のやることはすべて失敗が運命づけられているような報道を好む。まさにいまの「学園シリーズ」の報道はこの図式にあてはまる。「天使」は前川喜平氏なのだろうか。「悪魔」は安倍首相であることは間違いないだろう。その友人や知人は「悪魔」の一族なのだろうか。 また対立する意見や見解を明らかにするよりも、「人間」そのものやゴシップを好む。それが「面白い」娯楽になるからで、それ以外の理由などない。戦前も朝日や毎日などの大新聞は、政治家や著名人のスキャンダルを虚実ないまぜにして取り上げては、政権批判につなげていた。このような悪しき人物評論については、戦前もかなり批判があった。政策の議論よりも政治家の「人間性」という実体のわからないものに国民の関心が向き、それで政策の評価がなおざりになるのである。3 「反市場的バイアス」…市場的価値への嫌悪をニュースの消費者は持ちやすい。例えば規制緩和や自由貿易への否定的感情がどの国も強い。例えば、今回の加計学園「問題」は、規制緩和が敵役になっているといっていい。規制緩和は、国民全体の経済的厚生を改善するのだが、それよりも規制緩和は、むしろ国民の利害を損なうものとしてニュースの消費者から捉えられるという。今回も既得権側の日本獣医師会や、また文科省などの官僚組織、そしてそれを支援する政治家たちの方が、安倍政権の批判者たちには人気のようである。 ジェンセン氏の報道の経済学はいまの日本の政治状況、そして報道のあり方を考える上で示唆的である。しかし、いまの日本の報道が、もし真実よりも「娯楽」の提供を中心にするものだったとしたらどんなことがいえるのか。その答えは簡単である。現在、新聞やテレビなどの企業群が、報道の「公正中立」などを担保として持つさまざまな特権が、国民にとってアンフェアなものだということだ。 さまざまな遊園地や映画館、そしてアイドルたちも政府から優遇的な規制を受けてはいない。それと同じように、日本の報道機関は、いまのような「娯楽」中心の報道を重ねるかぎり、政府からのさまざまな優遇措置を保証する国民が納得する根拠はない。軽減税率の適用除外、再販売価格維持の見直し、記者クラブ廃止、新聞とテレビのクロスオーナーシップ禁止、新聞社の株式売買自由化などが検討されるべきだ。今回の新聞やワイドショーなどテレビの「学園シリーズ」をめぐる報道は、日本の報道のあり方を再考するまたとない機会になっている。

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    民進党、勘違いしてませんか? 蓮舫氏「二重国籍」は元凶ではない

    田中秀臣(上武大ビジネス情報学部教授) 世の中に取り組まなければならない政治問題が100しかないとすれば、民進党の蓮舫代表のいわゆる「二重国籍問題」は、その中でも99番目か100番目の重要度しか持っていないというのが私の見方である。日本と台湾の「二重国籍」解消に関する記者会見に臨む民進党の蓮舫代表=7月18日、東京・永田町の民進党本部(酒巻俊介撮影) この二重国籍「問題」について、ネットでは執着して批判する人たちがわりと多い印象を持っていた。ただ「問題」が発覚してからだいぶ時間も経過し、一部の人たちの熱い関心以外は、このまま立ち消えするものと思っていた。ところが最近、またこの「問題」が再炎上している。 そのきっかけは東京都議選の民進党の惨敗である。具体的には民進党の今井雅人衆院議員が「この問題をうやむやにしてきたから、党はピリッとしない」などとツイッターで書いたことがきっかけのようだ。同党の原口一博衆院議員も同じ趣旨のツイートをしている。これらの民進党議員の発言は、安倍政権への支持率の急低下が生じている半面、その反対票の受け皿として全く機能していない同党衰退への危機感が裏側にある。実際に世論調査をみても、民進党への支持は相変わらず低調だ。 私見だが、蓮舫氏の二重国籍「問題」は、まず説明が二転三転したこと、そして過去のメディアでの発言との非整合性など、その政治家としての発言の首尾一貫性への疑問に尽きるだろう。昨秋米国との「二重国籍」状態が発覚、その後解消した自民党の小野田紀美議員が指摘しているように、だいたいの人たちは蓮舫氏の出自や差別の話などはしていないだろう。 もちろん差別主義的な発言も目にするが、蓮舫氏の発言が矛盾していることへの疑問が多数だ。むしろ、蓮舫氏がこの機会に自分の立場を国民の多くが納得する形で発言すれば、差別主義的な発言に抗するいい機会にもなるかもしれない。そのときに戸籍謄本の開示が必要かどうかは、それは単なるひとつの証拠物が必要かそうでないかのレベルだと筆者は思う。別に開示がなくても、蓮舫氏が国民の疑念を払拭(ふっしょく)できると思うならば、それだけの話である。言い換えれば、戸籍謄本の開示なしで説得に失敗しても、またそれだけの話でしかなく、周りが強制すべき話では一切ない。もちろんこの点については議論が分かれるだろう。筆者も自分の見解が最善だというつもりもない。身内が指摘する民進党「低迷の根源」 だが、民進党が本当に国民の信頼を取り戻そうとするならば、その方向性だけは明瞭である。例えば、民進党の金子洋一前参院議員が以下のように発言している。「民進党の議員たちに問う。蓮舫氏が戸籍を公開すれば、党勢は上向く。そう本気で思っているのか。なぜ、野党第1党の民進党が、政権の受け皿として認知されないのか」 金子氏はいわゆるリフレ政策の主張者として長く知られてきている人だ。現在のアベノミクスの骨格部分である、大胆な金融緩和政策を基本とする政策をリフレ政策という。そもそも安倍晋三首相よりも金子氏の方がリフレ政策の理解は熟達している。公平にいえば、安倍首相の理解もかなり上級だ。こう書くとすぐに安倍擁護だという人がいるが、あくまで国会答弁を見た客観的な評価である。民進党の金子洋一前参院議員 いずれにせよ、金子氏が言いたいことは、おそらく民進党の低迷の根源には、その政策無策、特に経済政策の無策があるということだろう。金子氏の従来の発言を追ってみても、そのことは明瞭である。より具体的にいえば、いまの蓮舫代表と野田佳彦幹事長の体制に色濃い、反リフレ政策、消費増税路線への批判である。これらの政策が、民進党が国民に全く支持されない原因であることを、金子氏は言いたいのではないか。 金子氏の著作『日本経済復活のシナリオ』(青林堂、2014年)では、以下の3点をあげている。1)日本銀行による金融緩和は強化すべきだ。また、消費増税の判断は慎重にすべきだ。2)景気対策として数兆円規模の輸入物価上昇対策のための補助金を実現すべきだ3)政府の経済政策を「雇用重視」にかじを取るべきだ。 これらの提言は、多少の修正が必要かもしれないが、現在の日本経済を考えるうえで重要だ。そしてこのような政策提言こそ、いまの民進党にこそ求められているのではないだろうか。大変貌に必要なのはこの政策 例えば「雇用重視」だが、金子氏も強調しているように、いまの日本には「雇用の最大化」すなわち失業を予防するために働く官庁がない。金融緩和政策は、日本の雇用を大幅に改善したのだが、本来、日銀にとってその使命は法的に自明ではない。現在、たまたま安倍政権と協調しているために雇用重視のスタンスをとっているだけだ。そのため「雇用最大化」と「物価安定」のふたつを日銀に課すような日銀法改正を目指すことを金子氏は説いていた。これは現在の安倍政権でも全くなおざりにされている点だ。この日銀法改正によってさらにリフレ政策は強化される。もちろん民進党の政策として採用されるならば、筆者は応援するだろう。2011年11月、民主党政権時代の野田佳彦首相(左)と蓮舫行政刷新担当相=東京・サンシャインシティ文化会館(瀧誠四郎撮影) また消費増税を明確に否定することも重要である。これは民主党時代の野田政権での政治的な大失敗だし、また今日の安倍政権が2014年に行った現実的な失敗でもある。もし消費増税の放棄と、それに代わるリフレ政策による財政健全化を優先することを表明すれば、国民の多くは民進党の性格が大変貌したことを瞬時に悟るだろう。 また民進党ならではの「弱者」保護政策も重要だ。例えば上記2番目の補助金政策は、電気料金の引き下げや、ガソリン税・軽油引取税などの廃止ないし引き下げなど、低所得者層へ恩恵のあるものである。 だが実際には、民進党は金子氏を参院選で見殺しにしたといっていい。神奈川選挙区に複数候補を立ててこの有為な人材を国会から失った。その損失は計り知れない。 他方で、自民党もそうだが、国会議員の多くが「消費増税主義」を全く変えることがなく、しかもバーゲンセールできるほど存在している。この病は深刻である。蓮舫氏の二重国籍「問題」は人によっては重要かもしれない。しかし私見では、その「問題」がどうあれ、ほとんどの国民にとって、政治、経済、外交の多くの課題の前では優先度は限りなく低い。 筆者は民進党の政策を批判する点では、日本の論者の中でも筆頭に位置するくらい辛辣(しんらつ)であると認識している。だが、それでも最大野党が本当にどうしようもない事態であることには危機感もある。 ちなみに、金子氏は経済政策でも卓越しているが、8月13日に東京・ビックサイトで行われている国内最大規模の同人誌即売会、コミックマーケットに参加するらしい。筆者も時間が合えば行くつもりだ。もはや民進党関係では、金子氏のコミケ参加が個人的に最大の注目になってしまったのである。

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    「消費増税、反アベノミクス」石破茂の総理への野望を阻止せよ!

    田中秀臣(上武大ビジネス情報学部教授) 東京都議選の前後から妙にマスコミが熱心に取り上げている政治家がいる。石破茂前地方創生担当相である。どうも最近の「安倍下ろし」とでもいうべき、一部のマスコミが扇動している政治ショーのクライマックスは、この石破政権の誕生であるようだ。これは筆者だけの妄想ではないようで、嘉悦大学教授の高橋洋一氏も最近の論説を読むかぎり、同様の動きを察知しているようである。政治家の野心とそれに乗じる特定のマスコミの動きが連動しているのは、一昔前に比べれば、ネットなどを通じて誰でも見抜きやすくなっている。東京都議選で自民党公認候補の応援演説を行う石破茂前地方創生担当相=6月24日、東京都墨田区(納冨康撮影) 石破氏の経済政策のスタンスは、高橋論説にも言及されているように「反アベノミクス」に尽きる。アベノミクスは3点から構成されていて、大胆な金融緩和政策、機動的な財政政策、そして成長戦略である。このうちアベノミクスの核心部分が大胆な金融緩和政策にある。政府は日本銀行の人事を国会での議決を通じてコントロールし、この大胆な金融緩和政策、いわゆるリフレ政策(デフレを脱却して低インフレ状態で経済を安定化させる政策)を実現しようとしてきた。石破氏の「反アベノミクス」とは、このリフレ政策への批判に他ならない。 例えば、まだ民主党政権の時代に評論家の宇野常寛氏との共著『こんな日本をつくりたい』(2012年)の中で、宇野氏のリフレ政策をとっても良いのではないか、という問いに対して、石破氏は即時に否定している。石破氏の理屈では、リフレ政策は「二日酔いの朝に迎え酒飲むようなもの」で、続けていけばハイパーインフレ(猛烈なインフレ)になる可能性があるというものだった。 石破氏の反リフレ政策の議論は、マネーのバラマキを継続すればハイパーインフレになるというもので、これは石破氏の年来の主張でもある。2010年7月のインタビューで、すでに彼は次のように述べている。(みんなの党(当時)が提出したデフレ脱却法案について) わたしはああいう考え方をとらない。マネーのバラマキは効果的かもしれないが、1年限りで終わるものでなく、2年、3年、4年と続ける必要があり、そのときハイパーインフレにならないという自信がない。麻薬を打つと元気になるが中毒になる前に止めるからいい、という話にならないか。(デフレ脱却法案への反対は)党としてまとまっている。うまくいくかもしれないが、ギャンブルではないのだから(政策として採れない)インタビュー:民主代表選の結果次第で首相交代も=自民政調会長(2010.07.16)石破氏「反アベノミクス」政策の実態 まずマネーのバラマキとリフレ政策はそもそも同じではない。この点は後で説明するとして、とりあえず石破氏の懸念と異なり、日銀の大胆な金融緩和政策が始まってすでに5年目が経過した。しかし、ハイパーインフレになるどころか、14年の消費増税と世界経済の不安定化によって、いまだに事実上のデフレ状態が続いている。もっともこの点についても、単にデフレ状態のままだからという理由で、アベノミクスは否定されるわけではないことは、先に参照した高橋論説でも触れた就業者数の増加などの各種経済指標の大幅改善をみれば、よほどの悪意を持たない限り、誰もが認めるところだろう。 最近でも石破氏は、消費税を必ず上げることを約束していることが国債の価値を安定化させていることと、またプライマリーバランスの2020年度の黒字化目標を捨てることも「変えたら終わりだ」とマスコミのインタビューに答えている。 要するに、石破氏の「反アベノミクス」政策とは、①大胆な金融緩和政策は危険なので手じまいが必要、②財政再建のために消費増税を上げることが最優先、と解読することができるだろう。もしこれらの政策を実行すれば、間違いなく日本経済は再び大停滞に陥るだろう。6月16日、金融政策決定会合のため日銀本店に入る黒田総裁(代表撮影) まず①のようにマネーのバラマキを続ければハイパーインフレになる、という理屈だが、これを「金融岩石理論」という。坂道に巨大な岩があり、それをどかそうとしてもなかなか動かない。だが、一度動きだすと坂道を猛烈な勢いで転げだすというものである。このような「金融岩石理論」は、実証的には支持されていない。むしろ日本の現状をみれば、日銀がマネタリーベース(中央銀行が供給する資金量)を拡大してもなかなか物価水準は上昇しない期間が継続していた。 次期の日銀政策委員であるエコノミストの片岡剛士氏は、日本のマネタリーベースの水準と物価水準との相関が低いことを指摘した。これはいわゆる「失われた20年」で、マネーのバラマキをしてもデフレ脱却に結び付かなかったことを意味する(「金融緩和政策とハイパーインフレ」原田泰他編著『アベノミクスは進化する』所収)。 そのため、片岡氏や先の高橋氏、そして筆者ら日本のリフレ派といわれる政策集団は、一定の物価上昇率の目標を設定し、金融政策を運営する「インフレ目標」を導入することで、マネーと物価の関係が再構築されることを目指した。つまりインフレ目標のない金融政策だと、いつ金融引き締めが行われるかわからないために、人々の予想形成が困難になり、そのためデフレ脱却効果を大幅に下げてしまうことになる。石破氏の主張は「トンデモ理論」 安倍首相は、12年秋の自民党総裁選からこのインフレ目標の導入を掲げて総裁選に勝利した。そして政権の座に就いてからも日銀にインフレ目標の導入を事実上迫り、そして日銀の人事管理(正副総裁選出)を通じて導入の実現に成功した。13年のインフレ率の改善は目覚ましかった。これはインフレ目標によってそれまでとは違い、マネタリーベースの水準と物価水準の相関がよみがえりつつある状況になったといえる。ただ残念ながら、それを妨害したのは財政政策の失敗、つまり消費増税である。 ところで仮にマネタリーベースの水準と物価水準の相関がよみがえり、簡単にいうとマネーを増やせば物価もそれに応じて増加する世界になれば、石破氏の主張するようにハイパーインフレになるのだろうか。それはただのトンデモ理論である。 過去のハイパーインフレの経験をみると、物価が急速に上昇するまでに1年以上の時間の遅れがある。つまりその間に金融引き締めを行えばいいのだ。さらに、インフレ目標自体が重要になってくる。アベノミクスで、マネタリーベース水準と物価水準の相関が戻りつつあるのは、インフレ目標の成果だといま解説した。インフレ目標は現状では、対前年比2%の物価水準を目指す内容である。2%のインフレ目標の導入自体が、ハイパーインフレを起こさない強力な手段になっていることは論理的にもおわかりだろう。 つまり石破氏のリフレ=ハイパーインフレ論はまったくの誤りなのである。むしろ彼がリフレ政策に消極的ないし反対の立場に立てば、日本経済の各種の指標は大きく悪化していくだろう。2012年9月、安倍晋三総裁選出に伴う自民党新三役共同会見で握手する(右から)安倍総裁、石破茂幹事長、甘利明政調会長、菅義偉幹事長代行ら自民党執行部(古厩正樹撮影) さらに問題なのは、石破氏の「消費増税主義」といえる立場にある。まるで消費増税自体が自己目的化しているようだ。現在のリフレ政策が100%ではなく、合格点をなんとかクリアする状況にとどまっているのは、消費増税とその悪影響が続いているからに他ならない。デフレを脱却しないままで、消費増税を実施し財政を緊縮化し、さらにリフレ政策に否定的な消極的金融政策をとるであろう「石破政権」は日本に再び大停滞を引き起こすだろう。

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    都議選惨敗、安倍首相に残された道は「消費減税」しかない

    田中秀臣(上武大ビジネス情報学部教授) 東京都議選は都民ファーストの会の圧勝と、自民党の歴史的大敗北に終わった。公明党、共産党は選挙前の議席数から増やし、民進党も選挙前の議席が少ないとはいえ健闘した。自民党への逆風が猛烈だったぶん、批判の受け皿として都民ファーストが大きく勝った。候補者の名前が並ぶボードを背に開票を待つ自民党の下村博文都連会長=7月2日、東京・永田町の党本部 政治的には、都民ファーストの大勝よりも、自民党の惨敗の方が重要だと思う。国政への影響が避けられないからだ。いくつかその影響を考えることができる。あくまで予測の域をでないのだが、いまの政治状況を前提にすれば、年内の衆議院解散は無理だろう。2018年12月の任期満了に近くなるかもしれない。もっとも、1980年代から現在まで3年を超えての解散が多いので、それほど不思議ではない。ひょっとしたらこれはすでに織り込み済みかもしれない。ここまでの大敗北はさすがに自民党も予測はしていなかったろうが。 国政に与える影響で興味の焦点は、安倍晋三政権の持続可能性についてである。あくまで都議選でしかないことが注意すべきところだが、今後いままで以上にマスコミの安倍批判が加速することは間違いない。都議選の有権者が東京都民だけにもかかわらず、それを世論と等値して、国民から不信任を食らったと煽(あお)るかもしれない。 もちろん煽らなくても、今回の都議選大敗により、世論調査で内閣支持率がさらに低下し、自民党の支持率も急減する可能性はある。ただその場合、国政には都議選で受け皿となった都民ファーストがないし、また野党も受け皿にはなれない。つまり支持率の低下はほぼ無党派層の増加に吸収される可能性が大きい。この現象がみられるとすれば、都議選の大敗北は、安倍政権への世論の逆風が全国的に吹いたままだということを意味するだろう。 この潜在的な逆風が、安倍政権をレームダック(死に体)化するだろうか。ここでのレームダック化は、安倍首相が現状のアベノミクスなど基本政策を実施することが難しくなる状況、あるいは転換を迫られる状況としたい。当面はその可能性は低いと思われる。「増税」で激化する自民の政治闘争 ただし、党内の政治闘争は以前よりも格段に顕在化するだろう。そのキーワードは、やはり消費税を含めた「増税主義」である。2017年度の政府の基本的な経済政策の見立てを描いた「骨太の方針」には、19年10月に予定されている消費増税の記述が姿を消した。また20年度のプライマリーバランス黒字化の目標もトーンが下がったとの識者たちの評価もある。 おそらくそのような「評価」をうけてのことだろう。石破茂前地方創生担当相は、消費税を必ず上げることが国債の価値を安定化させていること、またプライマリーバランスの20年度の黒字化目標を捨てることも「変えたら終わりだ」とマスコミのインタビューに答えている。今回の都議選大敗に際しても、石破氏は即時に事実上の政権批判を展開していて、党内野党たる意欲は十分のようである。日本記者クラブの会見で「こども保険」の構想について説明する小泉進次郎衆院議員=6月1日(佐藤徳昭撮影) また財務省OBの野田毅前党税制調査会長を代表発起人とし、財政再建という名の「増税主義者の牙城」といえる勉強会もすでに発足している。またその他にも反リフレ政策と増税主義を支持する有力政治家は多く、小泉進次郎氏、石原伸晃経済再生相ら数えればきりがないくらいである。また金融緩和政策への理解はまったく不透明だが(たぶんなさそうだが)、消費増税に反対し、公共事業推進を唱える自民党内の勉強会も発足している。 これらの動きが今後ますます勢いを増すのではないだろうか。もっとも安倍政権への世論の批判は、筆者からみれば実体がないのだが、森友学園や加計学園問題、続出した議員不祥事などいくつかに対してである。そもそもアベノミクスに対して世論が否定的な評価を与えたわけではない。それでも自民党も野党も含めて、アベノミクスに代わる経済政策はほぼすべて増税主義か、反リフレ政策(金融緩和政策の否定)か、その両方である。 もちろん世論が、アベノミクスの成果を評価しても、それを脇において安倍政権にノーをつきつける可能性はある。アベノミクスの中核は、リフレ政策(大胆な金融緩和政策)である。現在の政治状況では、いまも書いたが安倍政権が終わればリフレ政策もほぼ終焉(しゅうえん)を迎える。日本銀行の政策は、政策決定会合での多数決によって決まる仕組みだ。日銀にはリフレ政策を熱心に支持する政策委員たちがいるにはいるが過半数ではない。政府のスタンスが劇的に変化すると、それに応じていままでの前言を撤回して真逆の政策スタンスを採用する可能性はある。首相が経済政策スタンスで慢心したわけ都議選での自民党大敗が伝えられる中、飲食店を後にする安倍首相(右)=7月2日、東京都新宿区 そもそも、安倍首相と同じリフレ政策の支持者は、菅義偉官房長官はじめ、自民党内にはわずかしかいない。次の日銀の正副総裁人事が来年の3月に行われるはずだが、そのときに最低1人のリフレ政策支持者、できれば2人を任命しないと、リフレ政策すなわちアベノミクスの維持可能性に赤信号が点灯するだろう。このリフレ政策を支持する人事を行えるのは、安倍首相しかいないのである。それが安倍政権の終わりがリフレ政策のほぼ終わりを意味するということだ。 もちろん日銀人事だけの問題ではない。仮に日銀人事をリフレ政策寄りにできたとしても、政府が日銀と協調した財政政策のスタンスをとらないと意味はない。デフレを完全に脱却するまでは、緊縮政策(14年の消費増税と同様のインパクト)は絶対に避ける必要がある。デフレ脱却には、金融政策と財政政策の協調、両輪が必要なのだ。 さて、安倍首相もこのまま党内闘争に巻き込まれ、守勢に立たされるのだろうか。それとも攻勢に出るのだろうか。そのきっかけは大胆な内閣改造や、より強化された経済政策を行うことにあるだろう。後者は18年夏頃までのインフレ目標の達成や、教育・社会保障の充実などが挙げられるが、端的には減税が考えられる。何より国民にとって目に見える成果をもたらす政策パッケージが必要だ。それこそ筆者がたびたび指摘しているように消費減税がもっともわかりやすい。 実際に、消費増税が行われた14年以降、政府が実施してきた中で、消費増税の先送りや毎年の最低賃金引き上げ、そして昨年度末の補正予算ぐらいが「意欲的」な政策姿勢だったという厳しい評価もできる。2%のインフレ目標の早期実現を強く日銀に要請することはいつでもできたはずだ。ある意味で、雇用の改善が安倍首相の経済政策スタンスの慢心をもたらしている、ともいえる。 いまも書いたように、さらなるアベノミクスの拡大には実現の余地はある。ただ、それを行うだけの政治力が安倍首相にまだ残っているだろうか。そこが最大の注目点だろう。

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    「自然と敵が強く見える」錦織圭が苦しむウィンブルドンの魔物

    小林信也(作家、スポーツライター) まもなく、7月3日にテニスのウィンブルドン選手権が開幕する。 錦織圭が初めて四大大会(グランドスラム)を制覇できるか。現時点で男子シングルス世界ランキング9位の錦織は第9シードと発表された。第1シードは昨年優勝のアンディ・マリー(英国)。第2シードはノバク・ジョコビッチ(セルビア)、第3シードがロジャー・フェデラー(スイス)、全仏オープンを制したラファエル・ナダル(スペイン)が第4シードだ。 ゴルフの全米オープンで松山英樹が2位に入り、モータースポーツのインディ500では佐藤琢磨が優勝するなど、このところ日本の男子選手の世界での活躍が続いているだけに、錦織への期待も当然のように高まる。 だが、芝生のコートで開催されるウィンブルドンと錦織の相性はよいとはいえない。初出場の2008年は1回戦敗退。14年と16年には4回戦まで進んだが、四大大会のうちウィンブルドンでだけはまだ準々決勝に進めていない。ベスト8に進出すれば、1995年の松岡修造以来、戦後2人目となる。 相性がよくない一番の理由は、コートのサーフェス(種類)とみられている。錦織はハードコートが舞台の全米オープンでは14年に決勝、16年には準決勝進出を果たしている。同じくハードコートで行われる全豪オープンでは3度準々決勝に進んでいる。クレーコートの全仏オープンでは15年に続いて今年も準々決勝に進出した。グラスコートのウィンブルドンだけが、高い壁のようになっている。ゲリー・ウェバーOPシングルス2回戦で、試合中にマッサージを受ける錦織圭。結局途中棄権した=6月22日、ドイツ・ハレ(共同) ファンにとっては気になる状況がある。錦織は、ウィンブルドン前哨戦でもあるゲリー・ウェバー・オープン(ドイツ)の2回戦途中、左臀部(でんぶ)を痛めて棄権した。この大会で途中棄権するのは、今年で3年連続になる。これで芝生の大会では5回連続、下部大会を含めると9度目の棄権となった。昨年のウィンブルドンでは、マリン・チリッチ(クロアチア)との4回戦途中(第2セットの途中)で棄権した。今年もまた同じような不安を抱えて晴れ舞台に臨む。錦織はなぜ芝コートでケガをしやすいのか 錦織が芝生のコートでケガをしやすいのはなぜか? 実は芝生のコートが身体に負担を与える実例は、錦織圭に限らない。芝のコートはハードコートやクレーコートに比べてバウンドが低いため、普段より態勢を沈め、体重を乗せて打つことが要求される。軽快なフットワークとその流れで打つイメージでは対応しきれない難しさがある。 しかも、ウィンブルドンの前には全仏オープンがあり、クレーコートになじんだ状態から選手たちは芝への順応と切り替えを求められる。クレーコートを得意とし、今年3年ぶりに全仏オープンを制覇したナダルが優勝後の記者会見でウィンブルドンへの抱負を聞かれて語った言葉にその一端が表れている。「芝のコートでは重心を低く保たなければいけない。足元の踏ん張りが利かなくて不安定。膝の状態次第だね」 足元の踏ん張りが利かない。芝は滑りやすい。そのため、身体とスイングの微妙なずれによって膝や股関節、腰、臀部(でんぶ)などをひねって痛める選手が少なくない。伝統ある憧れの大会でありながら、芝が舞台だからという理由で出場を回避する選手もいる。  テニスは19世紀の終わりころ、芝の上で行う競技として発展した。「ローンテニス(lawn tennis)」が競技名として使われていたくらい、芝が当然の舞台のだった。それなのに芝が敬遠されるのはおかしな気もするが、それが時代の流れ、競技の現実だ。 錦織はハードコートで育った選手だ。抜群のフットワークも、「エアK」に代表されるトリッキーでエネルギッシュなショットも、ハードコートの安定性の上に成り立っている。ボールが一定の高さまでバウンドする。ショットのスピードからバウンドのイメージを容易に想像できる。足元(足裏)とコートがしっかりグリップして、スリップしたり、イメージとの誤差を生じることも少ない。 芝でプレーする場合は、いつ足元が滑るかわからない。ボールのバウンドも低く、はね方も一定ではない。不測の事態が常に頭の片隅から離れない。 「芝生のコートに入ると、自然と敵が強く見える」と錦織圭がつぶやく理由もその不安から生じるものかもしれない。見た目には美しい緑の芝が、選手にとっては恐ろしい魔界でもあるようだ。「最高峰」ウィンブルドンに生じた時代とのズレ2014年10月、楽天ジャパンOP男子シングルス2回戦でエアKを放つ錦織圭=東京・有明テニスの森公園(撮影・中鉢久美子). 錦織と芝生の相性を考えたとき、ふと野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の光景が目に浮かんだ。侍ジャパンの菊池涼介二塁手(広島)は、人工芝で行われた1次ラウンド、2次ラウンドで素晴らしい守備を繰り返し披露した。従来の野手の動きとは少し違う、人工芝の特性を生かした身体のこなし、切り返しだと私は感じた。表面が土や芝だったらできない動きを菊池は開発し、駆使していると感じたのだ。それが、準決勝では痛恨のエラーをした。下は天然芝だった。予想外の打球の伸び、はね方に対応できなかった。広島は普段から天然芝の球場が本拠だから慣れてはいるはずだが、メジャーリーガーの鋭い打球を芝で捕る経験は少ない。その切り替えがうまくできなかったための失策のように見えた。そして何より、野手の技術や動きの基本が、もはや人工芝を前提に培われている事実に気づいて感嘆した。 テニスも同様だろう。打ち方、フットワークの基本は、かつては芝を前提にしていた。いまはハードコートが前提だ。ボールを捉えて打つ間合いやテンポが全然違う。錦織はショットを打つのに止まらない。フットワークとショットはほぼ一体だ。その当たり前のリズムが芝によって制約され、ズレが生じる。バウンドも低いため、いつもの高い態勢で打つことができない場合が多い。そのずれの中で故障が生まれる。 いまスポーツは、伝統と近代のはざまで実は難しい状況にあるとも言えるのだろう。ウィンブルドンは伝統を誇る大会で、賞金も高く、決して軽視できない大会だ。しかし、その舞台は時代の主流とは大きくかけ離れた芝生。陸上でいえば、土のトラックで100メートル競走を行うようなもの。ゴルフで言えば、木製ウッド全盛期にはやったパーシモン(柿)のクラブですべて打つよう制約されているのに近いかもしれない。時代とのズレが、伝統の重さという名で強要されているウィンブルドンを、以前のように世界最高峰を決める大会と認識し続けることを少し見直すべきなのかもしれない。 ボールの高さ、ショットの間合い、この当たり前の感覚を調整するのは、われわれが思うよりずっと難しいだろう。芝生に合わせるのか、芝生でもいつものリズムで打つ感覚で調整するのか。態勢を低くするのか、あまり低くせず、スイングの角度で対応するのか。 錦織圭のウィンブルドンはまず、足元を克服し、足元を意識せずにプレーできるかどうかにかかっている。

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    経済成長不要?内田樹先生、だから鰻重食っただけで炎上するんですよ

    する経済政策であったことは明瞭だ。もちろんこの経済政策の効果を一段も二段も改良することはできる。この連載の読者であれば、「アベノミクス」をさらによくするには、消費税増税路線の放棄、できれば消費減税などの政策が最も効果的であることは自明であろう。ところが、栗原氏らの著作で指摘されているように、日本のリベラルと左派の考えはまったく明後日の方向にいく。北田 小熊英二さんも、SEALDsを擁護する中で、若者の生活保守を認めてあげなきゃいけないということを書いていたけれど、やっぱりズレていると思います。「かつてこんな栄光の時代があったけれど、君たちの時代は成長できない、かわいそうだね」と声をかけたところで何になるんでしょうか。栗原 小熊さんのあの記事(小熊英二「国会前を埋めるもの 日常が崩れてゆく危機感」朝日新聞2015年9月8日付)で、「現政権は、生活や未来への不安という、国民最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている」と書いていて、ここがもうズレているよなあと思いました。(略)『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』206-7ページ そして実際には、リベラルや左派といわれる人たちでさえ、例えば憲法9条をめぐってだけでも思惑の違いがあるにもかかわらず、「反安倍」だけで安易に結びついている状況と、この経済オンチぶりがドッキングしている。栗原 (略)基本的には反安倍で、反資本主義で、反経済成長で、反グローバリズムで、資本主義ではない別の世界が…。という話で止まっている。じゃあ安倍を倒してどうするんだよ、民進党がちゃんとした政策を出せるのかとか、そのレベルでまともな話にならない。同書127ページ北田 経済成長って、別に「ぐんぐん伸びようぜ」とか「バブルをもう一度」とか言っているわけじゃないというのを何百回言っても通じないんですね。同書129ページ「共謀罪」法に反対し、記者会見する神戸女学院大の内田樹名誉教授(右から3人目)ら=6月18日、東京都千代田区 要するに「反安倍」という旗のもとでは結集できても、それに代わる政策、特に経済政策がまったくの空っぽなのが、いまのリベラルと左派の現状である。もっとも何人かの例外が存在している。 例えば、同書でも詳しく評されている英国在住の保育士でライター、ブレイディみかこ氏の反緊縮主義に基づく時論の数々や、左派的な立場からリフレ政策を唱える立命館大の松尾匡教授らの存在である。これに同書ではとりあげられていないが、反安倍政権であると同時に消費減税などリフレ政策を主張している経済アナリストの森永卓郎氏を入れてもいいだろう。あるいは文芸評論家でリフレ的=反緊縮的な立場を評価している斎藤美奈子氏も忘れてはいけない。だがこの人たちはいまのリベラル・左派論壇の中ではすべて批判されるか、無視されているかあるいは都合のいいところだけつまみ食いされているだけだ、と栗原氏らは厳しく指摘している。英労働党「躍進」の理由に気付かない 栗原氏らの本を読むと、日本型リベラルや左派に未来があるのかというと絶望的であるとしかいえない。これは世界におけるリベラル的な政治の復興というべきものとは真逆の流れだ。例えば、英国の総選挙で躍進した労働党のジェレミー・コービン党首の政策は、「人民のための量的緩和」という大規模な金融緩和政策と積極財政政策の組み合わせ、そして大学授業料の無料化などの再分配政策であった。6月9日、ロンドンの選挙区で親指を立てるコービン労働党党首(AP=共同) このコービン労働党の政策に、現在の安倍政権に似たものを見いだすことは容易だろう。だが、日本型リベラルや左派は、このコービン流の経済政策を否定することで成立している。むしろ日本型リベラルや左派の経済政策観は、欧米のネオリベラリズムと似ている。反経済成長は、一種のマクロ経済政策的な介入を放棄し、事実上の緊縮主義と同じだからだ。 日本型リベラルと左派の経済オンチゆえの閉塞(へいそく)感は実際に本人たちは自覚していないだろう。なぜなら「反安倍」という熱狂の中で、日本型リベラルと左派が今日もまた元気に活動中だからだ。これでは多くの国民からまったく相手にされることはないだろう。栗原 内田樹も、もう十分稼いで老後の心配もないから「経済成長は要らない」って言えるんだ、「あんたは要らないかもしれないけど、若い連中には要るんだよ」とよく批判されています。内田センセイは、ご自分が昼食に食べた鰻重の写真をツイートしただけでなぜ炎上するのか、よくお考えになったほうがいいんじゃないですかね(略)。『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』207ページ もちろん内田氏だけではない。リベラルと左派全体にこのような若い世代、経済的に困窮している人たちへの共感の欠落がみられることは、おそらく本人たち以外に自明だ。北田 (略)ご本人が裕福になることは構わないのだけれども、それが生活保守とか彼らが言う新自由主義に当てはまちゃっているということは、少し考えてほしいなとは思いますよね。じゃあ、オルタナティブを出せと言われたら、リフレ派だっていくらでも出している。そういうのを反安倍ということで思考停止して蓋をしてしまうのは、私はよくないと思います。同書210ページ 今回は経済系の話題に絞ったために、後藤和智氏の若者論壇などをめぐる辛辣(しんらつ)な発言を拾えなかったのは残念だ。北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智の三者による『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』は、日本のリベラルと左派にまだ一縷(いちる)の望みを持っている人にも、そしてもちろん絶望しきっている人にも、今の日本の論壇を知る上で欠かせない対談になっている。

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    若者に変化を求めた関口宏の本心はやっぱり「安倍下ろし」だった

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) TBS系列のテレビ番組「サンデーモーニング」で、司会の関口宏氏が11日、いまの若者世代の安倍政権への高支持率を批判的に言及した。街角での若い人たちへのインタビュー映像を交えながら、関口氏は若い世代がいまの「安定」よりも「変化」を望むべきではないか、と疑問を呈したわけである。もちろん、関口氏は若者が就職率の回復をはじめとするいまの経済的安定にひかれていることに一定の理解を示してはいるが、結局は彼の言う「変化」というのは、今の安倍政権を打倒するという「変化」でしかないのだろう。 関口氏のこの「安定」と「変化」論は、「安倍下ろし」という結論ありきの議論であり、端的にいって政治的なものでしかない。ただ、話をこれで終わりにするのはあまりにもったいないので、もう少しこの関口氏に代表される「安定」と「変化」とはそもそも何かを経済学的な視点も交えて考えてみたい。 結論だけ先に書くと、経済が安定的だからといって、若者の気持ちまで安定的であるわけはない。関口氏のいうように「安定をずっと安定かと思ってたら、眠りに入っちゃう」とはいえないのだ。関口宏氏 むしろ経済学の研究成果では、経済が不安定なほうが、若者の心は「安定」志向になってしまうようだ。関口氏の発言は、あまりに若者の心の行方を断定し、その変化と躍動の可能性を軽視している。 例えば、大恐慌期を経験した世代は、経験しなかった世代に比べてリスク回避的な傾向が強いという実証分析もある(ウルリケ・マルメンディア&ステファン・ネーゲル「不況ベイビー:マクロ経済の経験はリスク行動に影響するか?」)。つまり「変化」に伴うリスクを避ける傾向が、不況を経験した世代の方が強く出るというのだ。 カリフォルニア大ロサンゼルス校経済学部准教授のパオラ・ジュリアーノと、国際通貨基金(IMF)アシスタントディレクターのアントニオ・スピリンベルゴの研究「経済危機の長期持続的な諸効果」には、さらに興味深い研究の要旨がまとめられている。たとえば、景気の良し悪しのようなマクロ経済的な環境が、若い世代に影響を及ぼすのは「人格形成期」の18歳から24歳までで、それ以降はそれほど強い影響を与えないという。 今の安倍政権が発足したのは2012年の終わり(実際には同年の自民党総裁選で安倍氏が勝利してから株価などは大きく変化している)からであり、そのときに18歳だった人たちは23歳になっている。24歳だった人たちは30歳近い。いま現在の18歳から30歳ぐらいまでは、アベノミクスの影響下にあるのかもしれない。関口氏は「失われた20年」を忘れてしまったのか 仮にこの大胆な推測が正しければ、彼らの行動は「安定」よりも「変化」を好んでいるだろう。もちろんそれは個々人の行動としてだ。私や関口氏が思いもよらない発想で、旧世代の予想を裏切る変化が生じるかもしれない。たとえば、昔ながらのリベラルや左派的なメディアに疑いの眼を抱いたりしている可能性だってある。その反対の政治勢力に対しても同様かもしれないが。日経平均株価の午前終値を示すボード。1年半ぶりに大台の2万円を回復した=6月2日午前、東京都中央区(春名中撮影) ジュリアーノとスピリンベルゴの論説で興味深い指摘はそれだけではない。おそらく客観情勢を考えれば、いまの安倍政権の経済政策は「偶然」に生まれたものである。たまたま安倍首相が、いわゆる大胆な金融緩和政策を主軸にした経済政策(リフレ政策)を採用しただけだ。実際に自公政権、そして野党含めてリフレ政策の支持者は数人程度しかいない。いわばリフレ政策による最近の若者の雇用状況の改善は、安倍晋三氏が首相にたまたまなったという「偶然」でしかない。 ジュリアーノとスピリンベルゴは、偶然の重みを知っている人たちが「大きな政府」を望むと指摘している。ただし彼らの定義した「大きな政府」の定義は、増税=緊縮なので、本当の「大きな政府」ではない。「大きな政府」とは、緊縮を否定し、金融緩和と財政拡大を支持する政府のことだ。この意味では、いまの日本の若い世代は、安倍政権のリフレ政策が偶然の産物にしかすぎないことを十分知っている可能性がある。 この議論が正しいとすると、「大きな政府」を積極的に支持する気持ちは理解できる。若い世代は、この「偶然」の成果を背景にして、それを支持する一方で、自分たちは自分たちの人生の可能性を切り開いていこうとしているのかもしれない。言い方をかえれば、マクロ経済政策は最低でも現状維持、できればもっと非緊縮型(=大きな政府)を進め、そして個々人の生活はより変化を追求していくことが考えられる。 いずれにせよ、関口氏が本心では期待しているとしか思えない、アベノミクスの否定は、日本の経済と社会を逼迫(ひっぱく)させ、政治勢力の「変化」はあってもそれは混乱だけをもたらすだろう。その政治的混乱は、経済の停滞という形で、若い世代の活躍の場と意欲をくじいていくことだけは間違いない。そのことをわれわれは老いも若きもこの「失われた20年」の体験で十分に知っているはずだ。どうも関口氏とその意見に賛同する人たちは、そのことを忘却してしまったか、違う世界線の住人なのかもしれない。

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    佐藤琢磨、インディ500制覇で叶った「消えた天才ライダー」の夢

    小林信也(作家、スポーツライター) 先週は「佐藤琢磨インディ500初優勝」のニュースが伝えられ、日本が湧いた。その1週間前、二輪の分野では、ヤマハが世界グランプリ(GP)シリーズ通算500勝を達成、世界のモータースポーツファンから喝采を浴びた。 ヤマハ発動機の柳弘之社長は「『世界で通用するものでなければ商品ではない』という創業者の意志を若い会社全体で共有して世界に打って出た」と、ヤマハが世界GPシリーズに挑戦した当初の意気込みを代弁している。 ヤマハの世界GP初勝利は1963年のベルギーGPだ。ライダーは伊藤史朗。2005年3月、来日会見を行い、新しいヤマハのバイクにまたがるオートバイ世界選手権シリーズ、モトGPクラス総合王者のバレンティーノ・ロッシ(手前)(共同) 伊藤に始まった歴史が500勝まで到達したのは、私自身、感慨深いものがある。なぜなら、その後「消えた天才ライダー」と呼ばれ、突如姿を消して16年間も行方不明になっていた伊藤を追い、アメリカ・フロリダ州でインタビューに成功したのが、私だったからだ。 16年間の沈黙を破って日本人ジャーナリストである僕に会い、インタビューに応じてくれた伊藤は、少しずつ人間味あふれる心情を吐露してくれた。あるとき、言った。「オレは、ヤマハの川上源一社長のために命を賭けて走った。あの人の作るバイクを世界一にするためなら、命を捨てても惜しくないと思った。オレの気持ち、伝えて来てくれないか? そして、川上社長がオレを覚えてくれているか、確かめてくれ」 伊藤の言葉の端々から、昔気質(かたぎ)の心情と同時に、まだ草創期のオートバイで高速走行し、可能な限り高速でコーナーに飛び込み、駆け抜けるためには、高等技術と同時に「命知らず」な覚悟が不可欠だったことを切々と感じた。 「川上のオヤジのために」、そういう思いが必要だった。そして、「オレはそれをやり遂げた」、伊藤の背中がそう語っていた。 私は、伊藤の思いを受けてヤマハに取材を申し込んだ。何の縁もない、若いノンフィクション作家の求めに応じて、川上社長は浜松の本社で時間を取ってくれた。そして、少し離れたレストランで、当時、川上社長が力を入れていた「エピキュリアン料理」をごちそうしてくれた。 しかし、伊藤のことを尋ねたときの反応は意外なものだった。同行の社員に、「そういうライダー、いたかなあ?」と、聞いたのだ。おそらく川上社長にとっては、オートバイの技術開発・性能向上で頭がいっぱいで、ライダーにはそれほど関心を寄せていなかったのかもしれない。「あの人のために命をかけて走った」 再びアメリカに渡り、恐る恐る伊藤にその報告をしたとき、「馬鹿な、そんな馬鹿な! オレは日本のために、川上源一のためにやった。死んでもいいと思って、走ったんだ」 なんともやるせない表情で、オールドミルウォーキーという名の安いビールをあおった、伊藤の叫び、黙り込んでうなだれた姿が忘れられない。 ヤマハがオートバイを作り始めたのは、1955年(昭和30年)1月。同じ年の7月、主に楽器などを製造する日本楽器製造(現在のヤマハ)から独立して、ヤマハ発動機株式会社が発足。初代社長には当時、日本楽器製造4代目社長だった川上が就いた。 ヤマハ発動機の社史にはこうつづられている。ヤマハ発動機の創業者、川上源一氏『1953年11月7日、ヤマハ発動機の前身である日本楽器の幹部社員に対し、川上源一社長から極秘の方針が伝えられた。 「オートバイのエンジンを試作する。できれば5-6種類くらいのエンジンに取り組む必要がある。その中から製品を選び、1年後には本格的な生産に入りたい」 日本が復興への道を歩み始めた1950年代、無数の企業が二輪業界へと参入し、その数は一時204社までふくれ上がった。しかし、川上社長がモーターサイクルの製造を示唆した頃にはすでに淘汰(とうた)も始まっており、「そういう市場に最後発として参入して、果たして本当にやっていけるのか」という戸惑いの声も社内にないわけではなかった。 のちに川上社長は「今どきになってオートバイを? という意見もありましたが、自分もヨーロッパを回って、技術部長その他に勉強させた結果、これをやるのが一番よろしいという確信のもとにスタートした」と説明。さらに「木材資源の面から見ても楽器の無制限な増産は困難。楽器産業はいつまでも楽にできる商売ではない」と語り、将来の事業発展の足がかりとしてモーターサイクル製造に賭けたことを明らかにしている』 素人から見ると、楽器とオートバイのどこに共通点があるのか、すぐには理解できないが、ピアノのシリンダーを作る技術がオートバイ・エンジンのシリンダーに通じる、技術陣は、トロンボーンの共鳴原理を排気系の共振に応用させるなど、数々の応用が可能といったひらめきがあった。 ヤマハは、1955年7月、毎日新聞社の主催で行われた第3回富士登山レースに参戦。本田宗一郎率いるホンダもこの大会での優勝を狙って参戦していたが、ヤマハは見事、125ccクラスで優勝。同じ年の11月に開かれた第1回浅間高原レースでも125ccクラスで再び上位を独占した。そしてレース後、この大会の250ccクラスで初参戦初優勝を飾った16歳の伊藤少年とワークスライダー契約を結ぶ。「インディで勝てたかもしれない」 再び、ヤマハ発動機の社史から紹介する。『川上源一社長は、モーターサイクル事業への進出を決めたときからすでに「海外に雄飛する」という構想を描いていた。こうした信念を実現する方策として、1958年5月3、4日の両日、ロサンゼルス沖のサンタ・カタリナ島で開かれるカタリナグランプリに参戦することが決まる。ヤマハにとっては初の国際レースだった。 ヤマハは、250ccクラスに5台のマシンを送り込んだ。第2回浅間火山レースで活躍した「YD1改」に、不整地走行のためのモディファイ(編集部注:アレンジ)を加えたマシンだった。5台のうち1台には伊藤史朗選手が乗り、他の4台にはアメリカ人ライダーが乗った。 このレースでヤマハの最高位は6位に入賞した伊藤選手だったが、全32台中完走わずか11台という過酷なレースの中で、最後尾からの追い上げで6位まで順位を上げた伊藤選手の走りは現地で大きな注目を集めた。また、その後ロサンゼルス市内で行われたハーフマイルレースにも出場し、このレースで優勝を飾ると、はるばる日本から遠征してきたヤマハチームの活躍は現地のマスコミでも話題となり、ヤマハモーターサイクルのアメリカ市場進出に大きな弾みをつけたのだった。』 この話にはもうひとつの因縁がある。伊藤史朗さん=1984年、フロリダ(小林信也撮影) 取材で伊藤と一緒に過ごしているとき、「どうしてもノビーさんを連れて行きたい場所がある」と言って、フロリダからインディアナ州まで僕を乗せ、ロング・ドライブをした。その行き先こそが、佐藤琢磨が快挙を成し遂げたインディアナポリス・モーター・スピードウェイだった。 ちょうど1台のマシンが練習走行をしていた。日本でもモータースポーツ取材はしていたが、インディカーの爆音、オーバル・コースを撥(は)ねるようにして直線に向かってくるスピードと迫力には度肝を抜かれた。少しでも浮力を受けたら、そのまま空に舞い上がるのではないかと思った。 「四輪転向の誘いもあった」という伊藤がインディ500の舞台を見つめ、つぶやいた。「オレだって、レースを続けていれば、ここで勝てたかもしれない」 アメリカで20年近く暮らした伊藤にとって、最大のモータースポーツレース、最大の憧憬といえばインディ500だったのだろう。1950年代、60年代にオートバイレースを戦った高橋国光らはその後四輪に転向し、ルマン24時間などで活躍した。 高橋らが「自分たちとは別格、伊藤史朗は天才だった」と口をそろえる伊藤のインディ500への思いは決して戯(ざ)れ言とはいえない。その夢を、30年以上経って、同じ日本人の佐藤琢磨がついに果たした。日本の快挙は、一朝一夕ではなく、草創期からモータースポーツに尋常ではない情熱とそれこそ命を懸けた先人たちの生き様の先にあるものだ。

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    百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)一橋大附属図書館=東京都国立市 作家の百田尚樹氏が一橋大学の学園祭「KODAIRA祭」で行う予定だった講演会が中止になったニュースは、ここ数日のネット界の話題となった。まず最初に書いておくが、筆者は百田氏の著作や発言には批判的なほうである。そのためか知らないが、彼のTwitterアカウントからブロックされている。ちなみにブロック行為は個人の自由なので最大限尊重されるべきだ。ただ、百田氏と筆者にはかなり意見の相違があるのだ、ということをまずは注記したい。 話を戻すが、この開催の中止理由について、主催した学生側からは、KODAIRA祭のそもそもの趣旨が新入生歓迎のイベントであり、セキュリティーの確保などでこの趣旨の実現をむしろ損ねてしまうために中止したと、述べている。他方で、講演を行う予定だった百田氏はTwitter上で主催側への嫌がらせや圧力があったことを明記し、その圧力を激しく批判している。念のために書くが、ブロックされていても検索サイトで彼の発言は確認できる。これらの一連の経緯をうけて、ネットでの保守系の識者たちの反応はこの記事にまとめられている。 百田氏が批判しているような、「左派系団体」という特定の人や組織が言論の弾圧に動いたのかどうかは、筆者が確かめることはできない。ただその可能性は排除できないし、実際に学生側は、かなりの重圧を大学の外部から不当に受けていたことは想像に難くない。例えば、同大学のOBである常見陽平千葉商科大学講師は、学生側の取り組む態度が不十分であったことを指摘している。 もちろん、常見氏の発言が後輩思いのものであることは、文章からもよく読み取れる。ただ、彼の意見は学生側にいささか酷だと思う。大学や学生側に対して言論を封殺しようとする卑怯(ひきょう)な手段は、匿名での電話や手紙での攻撃、ネットでの脅迫まがいのものなどを含めて、さまざまあったことは想像に難くないだろう。もちろん面と向かって学生側はそのような「脅し」をうけたかもしれない。これは精神的に非常につらく、個人で対処するには限界がある。批判すべきは、そのような事態を巻き起こした「言論を卑怯な手段で封殺する力」にあることは明白である。これはひとつの深刻な暴力である。独り歩きする百田氏のイメージ ちなみに百田氏の社会的なイメージはいささか過度に誇張されて、その実体とかけ離れて独り歩きしている部分がある。例えば、百田氏の批判者側からみれば、彼の発言はヘイトスピーチまがいのものばかりに見えているかもしれない。だが、そのようなニュアンスのものがあったとしても、それは彼の全発言からいえば極めて例外的な「暴言」である。作家の百田尚樹氏 例えば、最近筆者が読んだ百田氏の発言に、『Voice』2017年5月号での、経済評論家の上念司氏との「トランプの核が落ちる日」という対談があった。対談では北朝鮮情勢を中心に、韓国、米国、中国、そして日本などの周辺国のパワーポリティックスに関して議論されている。地政学と経済学の両面を駆使して専門的に鮮やかに語る上念氏に対して、百田氏は各国の勢力均衡論的な見地に立ったごく普通の語りに徹していた。もちろんそこにはヘイトスピーチ的なものはまったくない。他の評論系の著作をいくつか読んでみたが、それらも特に過激なものはなかった。つまりはごく普通の今風の保守系論客のひとりでしかない。 そして百田氏の「暴言」があったとして、ネットなどでは賛否あわせて自由に議論がなされているではないか。この賛否あわせての自由な議論こそが重要だ。もちろんTwitterでの発言を封殺しようとして、同社に抗議する人たちも目にする。あるいは感情的な誹謗(ひぼう)中傷を吐きかける人も多々目にする。これは個人的には正しい批判の仕方とは思えない。発言する場を奪う「圧殺勢力」だ。まさに一橋大の学生を襲ったものと同類であろう。 百田氏の「虚像」に惑わされることなく、その意見を一度は丁寧に聞くべきだ。私のようにTwitter上でブロックされていてもだ。余談だが、実際に百田氏に会った知人たちはおしなべて彼の人柄の優しさを語っている。天下りあっせんを仕切っていた元官僚の「人格者ぶり」を、会ってもいない人たちが称賛する無責任な風潮もある。このような時流に抗する意味でも、百田氏がどのような人物であるのかを実際に知った方が、より深い人物評価を可能にし、学生側にも大きな恩恵があったかもしれない。それだけに残念なことだ。 19世紀の偉大な啓蒙(けいもう)思想家のジョン・スチュアート・ミルは、古典的著作『自由論』の中で、規制されることのない言論の場こそが人々の満足(効用)を増加することができるとした。意見集約で満足は最大化する ミルが言論の自由の根拠としてあげた理由は主に4点あった。1)多様な意見がないと特定の意見を誤りがまったくないものとみなしやすい、2)多様な意見が衝突することで、意見の持つ問題点や改善点が明らかになる、3)反論に出会うことで自分の支持している意見の合理的な根拠を考えることにつながりやすい、4)反論に出会うことがないと、人格や行動に生き生きとした成長の機会がなくなる、というものである。 そして意見の集約するところで、言論をめぐる人々の満足が最大化することになる。もちろん意見の集約がたとえ達成できなくても、議論すること自体で、議論の機会がない場合よりも効用は高まるだろう。ちなみに相手側に不当に議論を迫るのは犯罪行為に等しいので自粛すべきなのはもちろんである。 もちろんミルは異なる立場での意見の集約について常に楽観的ではない。言論の自由がかえって意見の対立を激しくするケースや、またヘイトスピーチにあたるケースにも配慮している。だが、ミルはヘイトスピーチを規制することはかえって言論市場を損ねてしまうと批判的だ。政治的・法的な規制ではなく、ミルは世論の賢慮に委ねている。 どちらの立場で主張している人であれ、公平さが欠けているか、悪意や頑迷さ、不寛容の感情をあらわにした態度で自説を主張する人を批判する。だが、自分とは反対の意見を持っている人に対して、その立場を根拠として、これらの態度を捨てるはずだと予想することはない。山岡洋一訳『自由論』日経BP社 寛容と賢慮。なかなか難しいものだし、また正解や公式があるわけでもない。筆者も常に失敗を重ねている問題だ。だが、少なくとも今回の百田氏のケースは彼に発言の機会を与え、さらに学生たちはその発言の内容を知るべきだったと残念に思っている。

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    誰が「靖国問題」をつくったのか

    戦後、歴代内閣総理大臣が靖国神社に参拝しても関心を示さなかった中国と韓国にありもしない「靖国問題」を突き付けたのは他ならぬ日本人だった。国のために戦って亡くなった方々を私利私欲のために利用した日本のマスコミ、政治家、偽善的な自称知識人。罪深き彼らの行動を決して許してはならない。

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    加計学園、前川氏の爆弾文書よりヤバい「レント・シーキング」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 文部科学省の前川喜平前事務次官の「加計(かけ)学園問題」をめぐる記者会見が波紋を呼んでいる。特に前川氏の会見から、マスコミ、識者、そしてネットなど世論を中心に主にふたつの話題がある。記者会見の途中、弁護士と話す文科省の前川喜平前事務次官(左)=5月25日午後、東京・霞が関 ひとつは学校法人「加計学園」(岡山市)が獣医学部を愛媛県今治市に新設することに関する「怪文書」の内容についてである。この「怪文書」の出所が前川氏であることが判明した。ただし、政府はこの文書に該当する公式文書は存在しないと現時点では明言している。 この「怪文書」については、前回書いたとおり、安倍晋三首相に違法性や道義上の責任を生じさせるものではない。例えば、官僚たちが首相の暗黙の政治的圧力を「忖度(そんたく)」して認可のスピードを速めたというが、このような他人に「忖度させた罪」「忖度させた道義的責任」などは合理的な論点にはなりえない。他人が内心でどう思っているかの責任を「忖度させた」の一言で取らせることは、ただの魔女狩りである。マスコミの多くがこの「忖度させた罪」というものがあるかのように安易に報道していることは極めて危険だ。 もうひとつは、いわゆる「出会い系バー」に前川氏が出入りし、それを「貧困調査」のためだと説明した事例である。この問題については、正直、筆者はそもそも「出会い系バー」という存在の詳細を知らない。この論点については、テレビで取材したと述べたジャーナリストの須田慎一郎氏ら適切な方々が論評していくことだろう。 筆者は主に最初の論点を考える。といっても怪文書の出所が前川氏であることを除いては、前回の論説に付け加えるものはない。このような安易な「疑惑」作りは、民主主義を本当の意味で危機にさらすことだろう。 今回は、この「加計学園問題」をより経済学的な視点から再考してみる。獣医学部の新設については、日本獣医師会やその関係する政治家たち、また文科省自体も長年にわたって反対してきた。52年間もの間、獣医学部の新設が認められてこなかったまさに「岩盤規制」であった。「忖度」批判を繰り広げる既得権者たち 今回の獣医学部新設を安倍首相が「忖度させた」と批判している人たちが、「岩盤」側の既得権者であることは注目していい事実だろう。要するに、加計問題とは単なる既得権者と規制緩和側との政治的抗争であり、そこに「安倍下ろし」を画策する野党や一部メディア、識者がただ乗りしているという構図だろう。さらにいえば、文科省の天下り斡旋(あっせん)問題で引責辞任した前川氏の個人的な思惑も当然に絡んでくるに違いない。 ところで今回の規制緩和の枠組みは、国家戦略特区という極めて限定されたものだ。しかもわざわざ既得権者側に配慮したとしか思えないのだが、獣医学部が周辺にない「空白地域」に絞って、あえて大学間競争の可能性をもできるだけ排除しているようだ。このような極めて限定された規制緩和であっても、猛烈な反発を得ているのが実情だ。それだけ新規参入を規制することによって、既得権者が得ていたレント(規制によって生じる利得)が大きかったということだろう。 またこの「岩盤」が継続された理由を、経済学者のマンサー・オルソンが、彼の代表的な業績である「ただ乗り」の観点から、かつて以下のように分析した。集団の規模が大きくなればなるほど、その組織に属する人たちは、自ら負担して組織改善のために動こうとはせずに、ただ乗りを選ぶだろう。 例えば、これを政府に置き換えてみれば、多くの有権者は自分が政府の改善を熱心に行っても、そこから得る追加的な利益が自分の犠牲に見合わないことを知っている。そのため、他者の努力にただ乗りをする方を選ぶだろう。 またこのようなただ乗りは、自分のただ乗り自体が損なわれない限り、政府がよくなろうが悪くなろうが知ったことではないとする「合理的な無関心」を生み出してしまう。実際に、獣医学部が52年間新設されなかった事実は、今回の問題が発覚するまで、多くの国民は「無関心」だったのではないか。分け前増加しか関心がない集団の正体 オルソンはこの分析を「国家がなぜ興隆し、また衰退するのか」という問題にまで広げた。オルソンは、ここで「分配結託」という考えを強調している。どの国でも保護貿易的な考え方を支持する集団はあるだろう。日本では農協やその関連団体、米国では自動車メーカーがすぐにあげられる。これら「特殊利益集団」と呼ばれる集団は、もちろん自分たちの集団の利益しか関心がない。集団が直接自分たちに利害が発生する仕組みになっているので、こちらは規模が大きくなればなるほど、自分たち一人当たりの分け前が増えることに関心をもつ。2015年10月、JA全国大会であいさつをするJA全中の奥野長衛会長(左)。右手前は安倍晋三首相(西村利也撮影) つまり特殊利益集団は自分の特殊利害という目的に合わせて集団を効率化することが多い。手法も洗練化され、時にはマスコミや政治家と「分配結託」をする場合もある。今回の加計学園問題の件も、この「分配結託」の1ケースといえるかもしれない。 そしてこの「分配結託」を可能にしている組織的な利益が、先ほどのレントの発生であり、これを追い求める行為を「レント・シーキング」という。レント・シーキングが国家の中で大きなウェイトを占めれば、その国は衰退してしまう。オルソンはそのような主張を展開した。 官僚組織は一般的に、規制を設け、それを運用する権限をできるだけ最大化することを最優先の目的としている。そして規制があれば、それによってレントが発生する。つまり規制の権限があるところ「常にレントあり」といえる。そのわかりやすいレントの代表が、「天下り」である。官僚が規制先の対象組織に天下りをする行為こそ、最もわかりやすいレントの一例である。その本質は「賄賂」と変わらない場合が圧倒的だ。それゆえ、天下り規制が行われた。 今回の前川氏の発言や行動はそもそもこのレント・シーキングを具現化しているように思える。天下りの斡旋、そして獣医学部新設のあまりに極端な規制。首相が「忖度させた」罪などというトンデモ議論よりも、筆者にはこのレント・シーキング行動の方が比較にならないほど、日本の問題のように思える。

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    日本人も知らない靖国神社「A級戦犯」合祀のウソ

    一色正春(元海上保安官) 靖国神社を敵視する人たちによる「靖国神社に戦争犯罪人が祀られている」という理屈ですが、実はこれも根拠がありません。特にA級戦犯が合祀されたからうんぬんと言うのは全く理屈になっていません。2016年8月15日、71回目の「終戦の日」を迎えた靖国神社には、祈りをささげるため早朝から参拝者が訪れた そもそも戦争犯罪が国家間で議論されるようになったのは18世紀後半からです。それまでは、そういう概念自体がなく、相次ぐ戦争で疲弊したヨーロッパ諸国の間で何とか戦争を防ごうという動きに伴い、戦争自体を禁止できないのであればせめて一定のルールを課そうと「非戦闘員に対する攻撃や捕虜虐待の禁止」「非人道兵器の使用禁止」などの決まりを定め、それを破ったものを戦争犯罪と呼ぶようになったのです。 逆に言えば、それ以前は、やりたい放題だったということで、戦争犯罪の定義は時代とともに変わってきており、重要なのは問題とされる行為が、その時代に禁止されていたのかどうかということです。その大前提を踏まえず、過去の行いを現在の基準で裁けば、ナポレオンなど祖国で英雄と讃えられている王や将軍のほとんどが「戦争犯罪人」になってしまいます。 これがいかにむちゃくちゃなことか。身近な例で表現するならば、時速60キロ制限の道路に対して、ある日突然「この道を30キロ以上で走った者は懲役刑に科す」という法律をつくり、過去その道を30キロ以上で走った人々を次々と捕まえていけば、車を運転するほとんどの人を刑務所に送ることが可能になってしまいます。 ですから、普通の法治国家では、刑を定めてから罰する「罪刑法定主義」を原則としており、その法を遡(さかのぼ)って適用すれば不利益を被る人間がいる場合、法の遡及(そきゅう)を禁じているのです(ただし、有利になる場合は認められる)。 そこで、彼らが特に問題視している、いわゆる「A級戦犯」が行ったとされる行為が、その時代に禁止されていたのかどうかということを見てみようと思いますが、その前にA級戦犯とは何なのかという話をしておきます。戦勝国が定義した戦争犯罪 順を追って説明しますと、第二次世界大戦の戦勝国がドイツに対して懲罰を加えるために協議した結果、米英仏ソの4カ国が1945年8月8日にロンドンで国際軍事裁判所憲章(ニュルンベルク憲章)に調印し、その中で以下のように戦争犯罪を定義しました。第6条a項-平和に対する罪侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与。b項-戦争犯罪戦争の法規または慣例の違反。この違反は、占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜(ふりょ)または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意(しい)的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を含む。ただし、これらは限定されない。c項-人道に対する罪犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、あるいはこれに関連して行われた、戦争前あるいは戦争中にすべての一般人民に対して行われた殺害、せん滅、奴隷化、移送およびその他の非人道的行為、もしくは政治的、人種的または宗教的理由にもとづく迫害行為。 これが、そのまま極東軍事裁判に適用され、マスコミなどが「項」を「級」に代えて用いるようになったといわれています。つまり、戦勝国がつくった罪の定義をマスコミが呼びやすいように作り出した造語でA、B、Cというのは罪の重さをランク付けしたものではなく、簡単に言えばA級 侵略戦争を始める罪B級 従来定義されていた戦争犯罪C級 ホロコーストなどの非人道的な罪という区分けにすぎません。 しかもc項に関しては、第一次世界大戦終了後に適用が検討されましたが、国際裁判自体が否定され、ドイツ国内で形式的な裁判が行われただけで、第二次世界大戦が終わるまで厳罰に処された人間はいませんでした。a項に至っては、この時初めて定義されたものであり「いわゆるA級戦犯」の方々が罪として裁かれた行為を行った時点では違法行為でも何でもなかったのです。極東国際軍事裁判が東條英機元首相以下、25被告に判決を下す日の法廷全景=昭和23年11月4日 そもそも戦争を始めることが罪になるのであれば、ドイツに対して一方的に宣戦布告し第二次世界大戦を始めたイギリスとフランス、日本に対して先に宣戦布告したオランダは、なぜ罰せられないのでしょうか。曖昧すぎる「侵略」の定義米バージニア州ノーフォーク市役所の旧庁舎を改装したマッカーサー記念館前に立つマッカーサーの銅像 こう言うと日本が起こした戦争は「侵略戦争」だからだと反論する人がいると思われますが、ではいったい何をもって「侵略戦争」と「そうでない戦争」とを分けるのでしょうか。 おそらくそういう人たちは、国連が1974年の国連総会で決議した「国連決議3314」(侵略の定義に関する国連決議)をもって「侵略」を定義しているではないかと主張されるのでしょうが、確かにそこには一応「侵略」の定義らしいことは書かれていますが、よく読むと机上の空論でしかありません。 事実、湾岸戦争のきっかけとなったイラクによるクウェート侵攻でさえも「侵略」と認定されておらず、現在の日本政府の見解も「侵略」の定義は定まっていないとしています。仮に国連が明確な定義を定めたとしても、当時に遡って適用できないことは言うまでもありません。 実際のところ、いまの時代でも、アメリカのような力のある国がアフガンやイラクへ侵攻しても「自衛戦争だ」と強弁すれば罷り通り、ロシアがクリミヤに侵攻すれば経済制裁を受ける現実を見れば、侵略戦争か否かということは国の力関係によって決まるのが実情です。そんな中でも、盧溝橋事件は極東軍事裁判においてさえ侵略戦争と断定できなかったという事実は重く受け止めるべきです。 当時、日本は開戦以来、終始一貫して大東亜戦争は自衛戦争であると主張していました。アメリカ極東軍司令官として日本と戦い、戦後はGHQの総司令官として約6年間日本に滞在したマッカーサー元帥は、朝鮮戦争で日本が感じていた共産主義の脅威を肌で感じ、戦前の日本の立場を理解するようになりました。そして、退任後にアメリカ上院議会で「日本が戦争を始めたのは経済封鎖に対する自衛のため」と証言しました。実際に戦った敵国の大将でさえ認めた日本の主張の正当性は明白であり、日本は決して侵略戦争など行っていないのです。 日本が米英蘭相手に戦争を始めた1941年当時には、自衛戦争を認めた不戦条約しかなかったので、日本は当時の国際法には一切違反していないのです(詳しい日本の戦争目的に関しては、米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書《開戦の詔勅》と帝国政府声明をお読みください)。 さらに言えば、ドイツと同時期にポーランドに侵攻し、その後、1939年11月と1941年6月にフィンランド、1945年8月に日本へと国際法に違反して一方的に攻め込んだソ連はニュルンベルク裁判、極東軍事裁判のいずれにおいても被告席に座ることはありませんでした。つまり「いわゆるA級戦犯」とよばれる人たちは、戦勝国が後から自分たちの都合のいいように作った法令(事後法)と裁判により敗戦国の人間であるという理由で裁かれた人たちで、裁判の名を借りた復讐(ふくしゅう)劇の被害者なのです。 これに対しても「日本は戦争に負けて無条件降伏したのだから仕方がない」「誰かが責任をとらなければいけない」「ドイツを見習え」「サンフランシスコ平和条約で極東軍事裁判を認めた」などと反論される方がいますが、それは日本の立場を無視した戦勝国の言い分です。 まず、多くの日本人がいまだに日本が「無条件降伏」したと誤解していますが、戦争末期に政府が崩壊したドイツとは違い日本は終戦時にも政府機関が機能しており、その日本政府がポツダム宣言という連合国が提示した条件を受け入れたのであって、その条件は後に連合国によって破られましたが、日本の降伏は条件つきだったのです。詳しくはポツダム宣言をお読みください。「ドイツを見習え」なんて見当違い 確かに日本は戦争に負けたのですから、一定のペナルティーを受けるのは仕方がないのかもしれませんが、法治国家において犯罪者にも人権があるように、国際社会も法による支配を目指すのであれば戦争に負けたからといって何をされても仕方がないということはありません。誰かが責任をとるべきであるというのは、その通りなのですが、それは当時の政府首脳が対外的にではなく日本国内に対して「負けた責任」や「多くの命や領土を失った責任」をとるべきで、本来であれば戦後、日本人による日本人のための東京裁判を行わなければならなかったのかもしれません。 「ドイツを見習え」というのは全くの見当違いで、ドイツは戦争を始めたことに対して謝罪しているのではなく、ナチス党員などの一部のドイツ人がホロコーストなどの人道に対する罪を行ったことは同じドイツ人として申し訳ない、とその人たちに罪をかぶせているだけのことです。 そもそも日本は、特定の民族に対して国家単位で迫害を行ったことはなく、むしろ当時、世界で一番多くユダヤ人を助けた国で、そのことに対してナチスドイツが日本に猛抗議してきましたが、いわゆるA級戦犯の代表格である東條英機大将は毅然とした態度でそれを一蹴しました。おそらく、日本も「軍部などの一部の人間が勝手に戦争を始めた」「その人間だけが悪い」と一部の人間に罪をかぶせれば当面の非難を避けることはできるかと思いますが、そういう卑劣な行いは人間として正しくありません。 日本もドイツもマスコミに煽られたとはいえ国民の大半が戦争を望んだという側面もあり、それを今になって一部の人間だけの責任にしようとする行為は卑怯(ひきょう)としか言いようがなく、命を懸けて祖国のために戦った先人に対する冒涜(ぼうとく)に他なりません。 また、日本は下記の「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)第11条で「裁判を受諾」しているではないかと言う人もいますが、それは誤解(誤訳)です。 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(後略) そもそもこの条約は当時の公用語である英仏西の三カ国語で作られており、日本語で書かれているものはそれを訳したものでしかなく、意味が微妙に異なる場合は英仏西語の正文の方が正しいとするのが道理です。 そこで問題の部分の英文を見ると「accepts the judgments」(判決を受諾する)となっています。「裁判を受諾する」と「判決を受諾する」は一見同じように思えるかもしれませんが似て非なるものです。裁判の名に値しない「東京裁判」 「裁判を受諾する」というのは裁判そのものを認めることですが、それに対して「判決を受諾する」というのは裁判全体を認めることではなく判決のみを認めるということで、たとえ身に覚えのない犯罪容疑でも有罪判決が下され、それが確定してしまえば法治国家に住む以上、判決に不服だとしてもそれに従わねばなりませんが「冤罪(えんざい)だ。自分は無実だ」と訴えるのは自由だということです。 だいたい「いわゆるA級戦犯」を裁いた極東軍事裁判は・裁判の根拠法令が極東国際軍事裁判所条例という国際法を無視したマッカーサーの命令・恣意(しい)的な被告の選定(満州事変の首謀者石原莞爾は逮捕すらされていない)・事後法による法の不遡及(ふそきゅう)の原則に反している(前述)・法の公平性に反している(戦勝国の原爆投下や無差別爆撃などの民間人大量虐殺は不問)・裁判官11人全員が戦勝国の出身(中立国出身の人すらいなかった)・裁判官の出身国、英仏蘭は裁判中もアジアを再侵略していた・同じくソ連は国際法に違反して多くの日本人をシベリアなどに強制連行強制労働・11人のうち法律家は2人(国際法の専門家はインドのパール判事のみ)・裁判長が事件の告発に関与(ウェッブ裁判長は日本軍の不法行為を自国に報告)・ポツダム宣言違反(宣言の範囲外の行為を裁いた)・被告側の証拠のほとんどを採用しない一方で、検察側のでっち上げの証拠を採用・結果、ありもしなかった共同謀議や南京大虐殺という虚構を認定 というようなもので、とても裁判の名に値するものではありませんでしたが、当時の日本は敗戦国ゆえに抗弁することができなかったのです。 仮に彼らが本当の戦争犯罪人だったとしても、従来の国際法に従えば戦争犯罪というのは講和条約発効時に無効になり、獄中にいる戦争犯罪人は釈放されるのですが、サンフランシスコ平和条約発効時に限り、そうさせないように作られたのが、この11条の条文なのです。 つまり、この条文は連合国の復讐(ふくしゅう)心を満たすため、あえて従来の国際法の趣旨に反して懲罰的な意味を込め、講和条約発効後も日本独自の判断で受刑者を放免してはならないという趣旨を盛り込んだもので、軍事裁判を認めるとか認めないとかという意味合いのもではないのです。極東国際軍事裁判の際、戦犯容疑者が多数勾留された巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)=昭和27年8月2日(産経新聞社機から撮影) 連合国が、それほどまでして許さなかった、いわゆる戦争犯罪人ですが、当時、大多数の日本人は彼らのことを犯罪者であると思っていませんでした。まず日本が主権を回復したサンフランシスコ平和条約発効直後の1952年5月1日、当時の木村篤太郎法務総裁により戦争犯罪人の国内法上の解釈についての変更通達が出されました。 そして、戦争犯罪人として拘禁されていた間に亡くなられた方々すべてが公務死として扱われるようになったことを皮切りに、全国各地で戦争犯罪人として扱われている人たちの助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動が始まりました。日本に戦争犯罪人と呼ばれる人は一人もいない 日本弁護士連合会も「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出するなど、運動は盛り上がりを見せ、それに呼応して国会でも次々と社会党や共産党を含む全会一致で戦犯受刑者の釈放に関する決議などがなされ、1953年には遺族援護法が改正され拘禁中に亡くなられた方々の遺族に弔慰金と年金が支給されるようになりました。 つまり、彼らの死は戦死であると国権の最高機関である国会が正式に認めたのです。署名は最終的に当時の全人口8千万人の半数である4千万人に達し、これに後押しされた日本政府はサンフランシスコ平和条約第11条にもとづき関係11カ国に働きかけ、その結果、1958年には戦争犯罪人として勾留されていた、すべての方々が赦免されたのです。 このような当時の日本人の戦争犯罪人と呼ばれた人たちへの熱い思いを知らない世代の日本人が、今になって「A級戦犯が~」と息巻いているのを見ると、日韓併合時代を直接知っている人間より知らない世代の方が、反日感情が強い韓国と重なり、情けない思いになります。 近代法では刑罰の終了をもって受刑者の罪は消滅するというのが理念ですから、百歩譲って仮に彼らが本当の戦争犯罪人であったとしても、この時点から日本には死者を含めて戦争犯罪人と呼ばれる人は一人もいないのです。それは、以下のいわゆるA級戦犯のリストを見ていただければ、よくわかるかと思います。 ほかにも、下記のように逮捕勾留されたものの不起訴になった、戦後の日本を牽引してきた方々もおられます。帝国石油社長 鮎川義介首相 岸信介日本船舶振興会会長 笹川良一読売新聞社社長 正力松太郎朝日新聞社副社長 緒方竹虎 そして、この流れの延長線上で1959年に「いわゆるBC級戦犯」が、1966年に「いわゆるA級戦犯」が靖国神社に合祀されたのであり、それをもって軍国主義復活などとは誤解曲解も甚だしい話なのです。

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    疑惑の判定で村田諒太をはめた「カネの亡者」WBAの大誤算

    小林信也(作家・スポーツライター) 20日の世界ボクシング協会(WBA)ミドル級王座決定戦での村田諒太選手の敗戦後、判定への異論が噴出している。プロボクシングの世界には、過去にも不可解な判定で物議を醸した例が少なくない。だが、今回はちょっと事情が違う。不思議なことがいくつかあるのだ。 第一に、村田はどこで戦ったのか? という素朴な疑問だ。ホームタウン・デシジョンという言葉がある。試合の開催地側の選手に有利な判定が出る傾向が強いことから、この言葉が生まれた。 今回の騒ぎでしばしば前例に出される亀田興毅選手の世界タイトル初挑戦の試合はまさに、ホームタウン・デシジョンの一例。日本で開催された王座決定戦で、初回にダウンを奪われ、終始苦戦したと見えた亀田がランダエタを破り、王者と判定された。 ところが今回はホームタウンで戦った村田が、敵地かと思われる不可解な判定で王座獲得を取り逃がした。一体なぜ、日本が「敵地」になってしまったのか?ボクシングWBAミドル級王座決定戦で、アッサン・エンダム(左)に判定で敗れた村田諒太=5月20日、東京・有明コロシアム 会場は有明コロシアム、紛れもなく日本。だが結果的に見れば、「あのリングとリングサイドだけはパナマだった」と言うべきかもしれない。村田はアウェーの中で戦った。そのことに気がつかなかった。あるいは、甘く見ていた? すでに試合後の大騒ぎで多くの人が知っているが、ジャッジのひとり、グスタボ・パディージャ氏(パナマ)は日本人選手キラーだ。何しろ、過去9回、日本人選手の世界タイトルマッチのジャッジを担当し、一度も日本選手に勝ちをつけていない。先に挙げた亀田対ランダエタとの王座決定戦でもジャッジを担当し、他のふたりのジャッジと違い、亀田を負けとしている。 日本人キラーと言えば、野球の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で西岡剛のタッチアップをアウトと判定したデービッドソン審判が有名だ。まさに、グラウンドに敵がもうひとりいた、という象徴的な出来事だった。パディージャ氏は、その上を行く日本キラーであることは過去の実績が物語っている。 だが、彼に作為があったかどうかはもちろん断定できない。なにしろ、亀田戦では敢然とランダエタの勝利と評価しているのだから、一貫して筋が通っていると見るべきかもしれない。 WBAの本部があるパナマから来たパディージャ氏が、WBAの意向を忖度(そんたく)して強引な判定をしたと見る向きも強いが、過去の実績を冷静に見れば、パディージャ氏はあまり忖度(そんたく)するタイプではない。ただし、パディージャ氏が敢然と日本人選手に負けをつけるジャッジだという実績をWBAは当然知っているはずだから、「そこを見込んで連れてきた」と見るべきかもしれない。 彼がジャッジに指名された時点で、エンダム対村田戦のリングは日本でなく、パナマだった? 恥ずかしながら、私も含めて、それを試合前に指摘できたメディアは知る限り、いなかった。「亀田に甘く、村田に厳しかった」ワケ 帝拳ジムの関係者はパディージャ氏の実績を当然知っていただろうが、「判定になったら、どんなに優勢でも負けをひとつ覚悟する必要がある」とまでは認識できていなかった。その危機感を持っていたなら、初回あれほど手を出さず見ることはなかったろうし、終盤優勢を確信したにしても、もっと明らかにポイントを狙いに行っただろう。試合後の記者会見で視線を落とす村田諒太=5月20日、有明コロシアム 村田サイドは、パディージャ氏の存在の大きさを軽視し、自分たちの採点シートを基準に試合を進めてしまった。 「WBAは亀田兄弟には甘く、村田に厳しかった」との声もある。亀田兄弟は、WBAにとってはビジネス的にも大切な看板選手だった。 亀田興毅が13回、亀田大毅が7回、兄弟で計20回のWBA世界タイトルマッチを戦った。これだけのビジネスパートナーはWBAにとっては得がたい存在だったろう。 亀田大毅の世界戦実現のため、亀田側とWBAの間でランキング順位の認定に関して協調する動きがあったとの報道が出たこともある。 亀田興毅、大毅とも、すでに引退している。今後のためにも、新星・村田はWBAにとっても重要な存在だったのではないか。それなのになぜ、地元・日本がアウェー状態になっていたのか? 理由のひとつは、村田が所属する帝拳ジムの本田明彦会長の存在だという。本田会長は、全盛時のマイク・タイソン(世界ヘビー級王者)の来日を二度実現させるなど、世界的にも実績と評価の高いプロモーターである。ファイティング原田氏、ジョー小泉氏とともに、世界ボクシング殿堂に入っている。 WBAは、資金的な苦しさもあり、お金を優先順位の上に設定した運営をせざるを得ないと批判されている。スーパークラスを新設して世界チャンピオンを増産した。そのことで世界王座の価値やプロボクシングの評価が下がることを危惧する声も大きいが、WBAは構わず拡大路線を走ってきた。 本田会長は、これを公然と批判し、プロといえども優先すべき重要なことがあるとの姿勢を貫いて、WBAのタイトル戦はここ数年ほとんど行ってこなかった。すなわち、WBAにとっては煙たい存在なのだ。今回も、WBAが今後一階級一王者の路線に戻す方針を決めたから村田の挑戦を承知した、と本田会長はコメントしている。 私も含め、少年時代にボクシング黄金時代をテレビで見ている世代にとってWBAは世界最高の団体だという、思い込みがあるように感じる。ファイティング原田、海老原博幸、藤猛、沼田義明、小林弘、西条正三、大場政夫…。世界ボクシング評議会(WBC)の併記もあったが、彼らのタイトルには必ずWBAの冠があった。輪島功一も具志堅用高もそうだった。 その後、WBCのほかに国際ボクシング連盟(IBF)、世界ボクシング機構(WBO)が誕生し、いまは4団体がしのぎを削る形だ。 いまも権威があるのは伝統あるWBAだろうとのノスタルジーがあるかもしれないが、実際は違う。いま世界の趨勢(すうせい)は、IBF、WBOにあり、WBAは最も後塵(こうじん)を拝しているというのが近年のボクシング界の共通認識だ。日本のファン全体を敵に回したWBAの焦りWBAのヒルベルト・ヘスス・メンドサ会長 試合後、WBAのヒルベルト・メスス・メンドサ会長自らが判定に異議を唱え、再戦を指示する異例の事態になっている。これは、本田会長への苦い思いがあって設定したパナマ・シフト(WBAの意向)が思いがけない形で奏功し、本田会長への一撃のつもりが、日本のボクシングファン全体を敵に回す事態を生んだことへの大きな焦りの表れではないだろうか。 4団体の中でも、日本マーケットの依存度が最も高く、生命線のひとつとなっているWBAにとって、日本のファンの支持と信頼を失えば存亡の危機にもつながりかねない。 そう考えると、パディージャ氏はいわば確信犯だから、会長の怒りはもうひとりのジャッジ、カナダのヒューバート・アール氏に向いているのではないか。報道によれば、アール氏はあまり実績がないジャッジだという。実績が少ないアール氏を、日本で異様なほど期待が高まっていた「五輪金メダリストの世界挑戦」という大舞台に起用する感覚と意向にこそ、WBAの体質がうかがえる。アール氏は、あまりに完璧にパナマの意向を忖度(そんたく)し、パナマ寄りのホームタウン・デシジョンを実践しすぎた。 手数を重視する判定基準に非難が噴出しているが、かつて採点基準が問題にされたとき、当のパディージャ氏がWBAに見解を送り、「プロである以上、手数より有効打(効いたかどうか)を重視すべきだ」と提言したとの報道もある。まったく同感だが、いかにも皮肉な提言だ。 今後はWBAも、かつて採用を見送り、WBCが採用している公開採点制度(毎回、あるいは4回ごとにジャッジを公表する方式)を実施するなど、明らかな改善が求められるだろう。 最後になるが、エンダムとの試合で村田の強さが際立ち、世界的な評価と注目が高まったのは間違いない。すでにWBO、IBFからも声がかかっているという報道が事実なら、何よりの証明だ。 序盤も終盤も、あまりに手を出さなかったのは反省点だが、リング中央で足をほとんど動かさず、手も出さず、エンダムを危険な距離に立ち入らせなかった。その圧力、パンチを出さずに相手を威圧し、圧倒できるボクサーは過去にどれだけいただろうか。世界王者初挑戦でタイトルは奪えなかったが、村田が証明したものはそれ以上に大きいと言ってもいいだろう。

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    なにがなんでも「安倍降ろし」 フェイク臭あふれる加計学園疑惑

    任もない、加計学園を単に政争のために利用していることは明瞭すぎるほどだ。なお森友学園については以前の連載で書いたので参照されたい。 また最近では、そもそも獣医学部新設の動きは、民主党や民主党議員、つまり現在の民進党議員らが積極的にすすめていたことが明らかになっている。これだけでも政党としてまったく首尾一貫していない。さらに追及の急先鋒(せんぽう)である玉木議員には、現段階でいくつかの問題が指摘されている。日本獣医師政治連盟から玉木議員は政治献金をうけ、または父親が獣医師であることで、既存の獣医師の利益を守るために行動する私的なインセンティブ(動機付け)が存在するということだ。 既存の獣医師たちの多く、特に日本獣医師会は、特区における獣医学部の設置については従来反対であった。つまり、この意図を忖度(そんたく)しての政治的な動きではないか、という疑念だ。もちろん民進党が規制緩和に反対するのなら、それはそれで政策論争の意味で興味深い。加計学園の獣医学部新設計画を巡り、民進党が開いたプロジェクトチームの初会合で発言する玉木雄一郎氏(左)=5月17日、国会 だが、蓮舫代表や玉木議員がやっていることは、なにがなんでも安倍氏を首相の座から引きずりおろすための、怪文書を利用した不公正な扇動だけしかない。そこに朝日新聞など一部マスコミが安易に同調していることは、さらにあきれ果てるしかない。

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    韓国人にとって靖国神社とはいかなる存在なのか

    一色正春(元海上保安官) 今回は前回に引き続き大日本帝国軍人軍属として日本のために戦った朝鮮半島出身者についての話から始めます。 先の大戦において動員された朝鮮半島出身者は軍人軍属合わせて約24万人、そのうち還らぬ人となったのが約2万人です。その中には特別攻撃隊に自ら進んで参加した人や、いわゆる戦犯として刑死した人もおられ、さまざまな思いで亡くなられたことと思います。ですから、この方たちの最期を単に非業の死と一口でくくることはできませんが、すべての方に共通するのは、自ら進んで戦地に赴き、大日本帝国のために戦ったことと、現在は靖国神社に神として祀られ多くの人にお参りされていることです。 そのことに対して日本人の多くは「日本人として戦いに参加してもらった以上、靖国に祀るのは当然だ」として異議を唱えることはありません。台湾出身軍人軍属も同様に3万人弱の方々が靖国に祀られていますが、台湾において、そのことに抗議しているのは極少数の人たちだけです。夕方以降も多くの参拝客でにぎわう靖国神社(財満朝則撮影) それに比べて、現代韓国人の多くは靖国神社そのものの存在に対して不快感をあらわにし、日本国の首相をはじめとする政治家が靖国神社に参拝することに対して抗議するだけではなく、参拝中止を求めるという重大な内政干渉を平気で行い、中には実際に靖国神社まで出向いて爆発物を仕掛ける人間までいるくらいです。 彼らの言い分は「朝鮮民族を無理やり戦わせた人間が祀られている」「植民地支配を行った日本軍国主義の象徴だ」「戦争犯罪人が祀られている」というものですが、いずれも明らかな事実誤認で、日本の立場としては言いがかりをつけられているとしか言いようがありません。 まず「朝鮮民族を無理やり戦わせた人間が祀られている」という理屈は、前回の「もし、今も朝鮮統治が続いていれば、日本はどうなっていたか」をお読みいただければわかるように、無理やり徴兵されて実際に戦地に行った朝鮮系日本人がいないのですから、完全な誤解です。 次に「植民地支配を行った日本軍国主義の象徴だ」という理屈で、あたかも日本が武力により平和で豊かな朝鮮半島を侵略して搾取したかのような印象を与えようとしていますが、日本の朝鮮統治は西欧型の植民地支配ではなく主権国家双方が合意のもとに締結した日韓併合条約という国際条約に基づく併合であり、同条約により大日本帝国と大韓帝国は武力を用いずに一つの国になったのです。日清戦争勝利で独立できた韓国 そもそも19世紀末、朝鮮という国は清国の属国で完全なる独立国ではありませんでした。それを日本が日清戦争に勝利したことにより大韓帝国という独立国となったのです。それは日清講和条約(下関条約)の第一条「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼などは永遠に廃止する」を見れば明らかです。伊藤博文、李鴻章が会談した春帆楼2階大広間を再現した日清講和記念館 日清戦争後、日本は清の冊封体制を脱し独立国となった朝鮮に対して自立を促しましたが、彼らはこともあろうか当時の日本にとって最大の脅威であるロシアの支配下に自ら進んで入ろうと、王宮ごとロシア公館に逃げ込むありさまで、その結果ロシアは朝鮮半島におけるさまざまな利権を手に入れ、次第に日本とロシアは朝鮮半島の主導権をめぐって対立するようになっていきました。 満州だけではなく朝鮮半島がロシアの支配下に入れば「力のある白人国家が力のない有色人種国家を支配する」という当時の国際情勢に鑑みて、次に超大国ロシアに侵略されるのは弱小日本の番であることは火を見るより明らかですから、日本としては何とかそれを阻止しようと外交努力を重ねました。しかし当時、世界一の陸軍国といわれたロシアが弱小国日本に譲歩するはずもなく、日本は座して死を待つか、勝てる見込みは少なくとも打って出て戦うかという選択を迫られることになったのです。 戦うことを選んだ日本は、局外中立を宣言していた大韓帝国の防衛および領域内での軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、それに応えた進歩会などの大韓帝国改革派は鉄道施設などの工事に数万人を動員するなど日本に協力的でしたが、皇帝を中心とする守旧派の腰が定まらないため、外交案件に日本政府の意向が反映されるよう、さらに第一次日韓協約を結びました。 ところが大韓帝国皇帝は、これに違反してロシアだけではなくフランス、アメリカ、イギリスに密使を送ったので、辛くもロシアに勝利した日本は後顧(こうこ)の憂いを絶つため「日本が大韓帝国の外交権を完全に掌握する」とする第二次日韓協約を締結しました。 しかし、その後も大韓帝国皇帝はオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送るなど迷走を止めず、日本の国家安全保障に重大な脅威を与え続けました。(密使は、会議参加国から「大韓帝国の外交権が日本にある」ことなどを理由に門前払いにされています) 日本は、この状態を放置して大韓帝国が植民地拡張政策を続ける欧米諸国の支配下に入れば再び日本は重大な危機に陥ると危機感を抱き、外交だけではなく内政も掌握するため、やむなく併合に踏み切ったのです。日韓併合と靖国神社は無関係 日本としては自主的に独立した大韓帝国と同盟を組んで西欧諸国に対抗することを望んでいたのですが、肝心の大韓帝国にその能力や意思がなく、朝鮮時代からの事大主義を改めることなく大国に擦り寄る政策を続ける姿勢を見て、今の大韓帝国には自主独立する力がないと判断し、他国の保護下になるくらいであれば日本の保護下に置く方が自国のためになると考えたのです。 このように、日本が大韓帝国を併合した最大の理由は自国の安全保障のためで、西欧諸国の搾取を目的とした植民地支配とは異なり、朝鮮半島には搾取するものはなく、併合後は搾取どころか内地から資金や物資を半島につぎ込んだため、内地に住む日本人の生活が苦しくなるほどでした。 しかも併合前は、そうなることを予見した人たちが併合に反対していたため、当時の日本の世論は併合賛成派と反対派が拮抗しており、日本人全員が朝鮮を併合しようと思っていたわけではありません。同様に大韓帝国内も併合賛成派と反対派に意見が分かれており、現在の韓国のようにほぼ100%反対ではありませんでした。 ちなみにアメリカとイギリスは併合に賛成、その他の主要国である清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツなどからの反対もありませんでした。つまり日韓併合は両国の国内に反対派がいたとしても両国政府が話し合いで合意し、かつ当時の国際法上何ら問題のないことで、今の韓国人が反対しているのは後付けの理屈でしかなく、百歩譲って日本の統治を非難するのであれば、その象徴である統監や総督を非難するべきなのですが、下表を見ればわかるように歴代10人の統監と総督のうち靖国神社に祀られているのは、朝鮮統治とは無関係の罪状で服役中に病死した小磯國昭ただ1人でした。 そもそも日韓併合に際して戦争は行われておりませんので戦死して靖国神社に祀られた将兵はいません。したがって日韓併合と靖国神社は無関係なのです。次回は靖国神社に「戦争犯罪人が祀られている」という韓国人の理屈がいかにおかしいかということについて説明をいたします。

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    小泉進次郎が「こども保険」にこだわるホントの理由はアレしかない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 毎年、3月11日になると、2011年3月にどんなことが起きたのか、当時の記録が掲載されている自分のブログを見て思い出すことがある。もちろん東日本大震災の悲惨な被害、そして失われた多くの命、さらには「人間的価値の毀損(きそん)」という事態の前では、いまだ復興への道のりが遠いことに思いを強くしている。だが、今日書きたいのは、当時の「非人道的」ともいえる動きである。2011年6月、党首討論で発言する自民党の谷垣禎一総裁(左)と、菅直人首相(酒巻俊介撮影) それは2011年3月13日、当時の民主党政権の菅直人首相と自民党の谷垣禎一総裁の会談において、復興政策の一番手として増税政策があげられたことだ。その時点では、被害の実態も把握できず、復興自体よりも人命救助に努力を傾注すべきときだった。もちろん福島第二原発の状況は予断を一切許さない緊迫したものであった。 さらにこの増税政策は、後に設置された政府の「復興構想会議」などでも最初の具体的提案として、議長や委員から提起されている。実際に復興政策として何を行うかさえもはっきりしない段階において、である。 この復興構想会議では、事実上、後に「復興特別税」となる増税構想だけが具体的に決まったといっていい。当時、複数の復興構想会議の委員に会ったが、いまでも印象に残るのは、「僕らは経済のことはわからないから」という発言だった。経済のことを理解していない人たちが、なぜか増税だけを最優先にかつ具体的に決めたというのはどういったことなんだろうか。 さらに時間が経過していくにつれてわかったことだが、この復興特別税での当時の与野党の連携は、民主党・自民党・公明党による「社会保障と税の一体改革」、つまりは今日の消費税増税のための「政治的架け橋」になっていたことだ。 つまりは、大震災で救命対策が必要とされる中、消費増税にむけた動きが震災後わずか2日後には本格化していたことになる。つまりは震災を人質にしたかのような増税シフトである。これが冒頭で書いた「非人道的な動き」の内実である。 実際、民主党政権はその政治公約(マニフェスト)の中には、消費増税のことは一切書かれていなかった。だが、この震災以降の増税シフトが本格化する中で、当時の野田佳彦首相(民主党、現在の民進党幹事長)は、自民党と公明党とともに消費増税を決定した。日本では社会と経済の低迷と混乱が続いていたにもかかわらず、ともかく消費増税だけは異様ともいえるスピードと与野党の連携で決まったのである。この消費増税は後に法制化され、第2次安倍政権のもと、日本経済を再び引きずり下ろす役割を果たした。その意味でも本当に「非人道的」であった。「こども保険」に潜むくせ者のスローガン さてこの動きと類似した消費増税シフトをいまの政治の世界でも見ることができる。自民党の小泉進次郎議員が主導する「2020年以降の経済財政構想小委員会」が発表した、いわゆる「こども保険」だ。現在の社会保険料に定率の増加分をのせて、それで教育の無償化を狙うスキームである。「こども保険」と呼ばれているが、実体はただの「こども増税」である。以下でも詐称を控えるためにも、「こども保険」ではなく、正しく「こども増税」と表記する。自民党の小泉進次郎衆院議員(酒巻俊介撮影) 小泉議員らの主張によれば、高齢者に偏重する社会保障体系を、若年層向けに正す効果があるという。この一見するとあらがうことが難しいようなスローガンではある。だが、これがくせ者であることは、冒頭のエピソードを読まれた読者はピンとくるはずだ。 消費増税シフトは、そもそも震災復興を契機に仕込まれ、そして社会保障の充実という名目で選挙公約を無視してまで導入された。この経緯を踏まえると、小泉議員らの「こども増税」は、消費税増税シフトを狙う政治勢力の思惑ではないか、と推察することは可能だろう。 もちろん「こども増税」自体が消費増税ではない。「こども増税」は、消費増税をより実現しやすくするための、政治勢力の結集に使われる可能性があるのだ。小泉議員は国民の人気が高い。いわば「ポスト安倍」候補の一人であろう。 現在の安倍政権は、首相の決断によって過去2回消費増税が先送りされた。さまざまな情報を総合すると、安倍首相の財務省への懐疑心はいまも根深いとみられる。なぜなら財務省は2013年の消費増税の決定時期において、「消費増税は経済に悪影響はない。むしろ将来不安が解消されて景気は上向く」と説明していたからだ。もちろんそのようなトンデモ経済論は見事に外れた。日本経済がいま一段の安定経路に入れないのは、この消費増税の悪影響である、と首相は固く信じているようだ。そのための二度の消費増税延期である。 このような首相の決断は、財務省を中心とする消費増税派からすれば脅威に思えるだろう。今後の消費増税は本当に実施されるのか、また10%引き上げ後も財務省が現段階で狙っていると噂される15%以上への引き上げの道筋が早期にめどがつくのかどうか、彼らは不安であろう。 ある意味で、ポスト安倍の有力候補としての力の結集、または現段階で安倍首相を与党の中で牽制(けんせい)する「消費増税勢力」が誕生した方が得策である、と消費増税派は踏んでいるのかもしれない。もちろん「こども増税は、消費増税を確実にするための前ふりですよね」と、小泉議員らにいっても即座に否定するだろう。だが、同時に思い出されるのは、数年前に復興構想会議のメンバーに「この増税路線は消費増税路線の一環ではないか」とただしたとき、「そんなことはない」と一笑にふされたことだ。今回はだまされたくはないものである。

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    エンゲル係数、29年ぶり高水準が裏付ける「ニッポン貧困化」のウソ

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) エンゲル係数の高水準が続いているという。エンゲル係数とは、消費支出の中に占める食費の割合のことで、19世紀のドイツの社会統計学者エルンスト・エンゲルが発見した経験法則である。この法則は一般にも知られている。 例えば、所得の上昇とともにエンゲル係数は低下する、と学校で習っているかもしれない。これを「エンゲルの法則」と称しておこう。所得が上昇するとともに、食費以外の支出が増えていく。したがって、エンゲル係数が低下するのは生活が豊かになっている証拠だというふうに教えられたかもしれない。反対にいえば、所得が低下すれば、エンゲル係数は上昇することにもなる。 エンゲルの法則は、戦前の日本社会でも話題になった。ユニークな経済学を当時展開していた、京都帝国大学(現京都大学)教授の高田保馬は、エンゲルの法則について興味深い分析を行っていた。 高田保馬は、論文「住居費の一研究」(1924年)の中で、大正後期の都市住民の住居費、食料費の動向について統計的な分析を行っている。高田は、生計費の内訳を、生存費(自己の生命を維持するための費用)、充実費(生活内容の充実のための出費)、誇示費(自らの社会的勢力を誇示するための費用)として区分している。 高田のユニークなところは、最後の誇示費を入れているところだ。彼はこれを、「世間的な対面を気にする際に必要な経費」としていて、所得の高い層ほど住居に対する出費が「安定的である」と主張した。この「安定的である」とは、所得の上昇に応じて、少なくとも住居費が低下することはない、という意味である。 むしろ、住居費には体裁を気にして下限が存在する、あるいは自分の社会的評価を住宅の質で見せびらかしたいという動機が作用して、できるだけ住居費にお金を割くだろう、と高田は考えていた。住居費の下方硬直性という現象だ。他方で、高田は食料費に関する支出については、エンゲルの法則に賛同していて、所得の上昇とともにエンゲル係数は低下すると考えていた。戦間期とタブる「失われた20年」 この高田の生計費の解釈は妥当だったろうか。1910年から1930年までの20年間(いわゆる戦間期)の日本の生計費の動向の中で、私は高田の分析を検証してみたことがある。戦間期の生活水準全体は一般的に上昇したといわれている。これがまず前提だ。 住居費に関しては、高田の見地からは所得と「正の相関」を持つことが予想される。「AとBが正の相関を持つ」という意味は、Aという現象が増加(低下)するときに、Bもまた増加(低下)している、というものである。ただしAが増えたからBが増えた、という因果関係ではないことに注意してほしい。「負の相関」は、正の相関とは違う関係を示している。こちらは、Aが増えるときに(減るときに)Bは減っている(増えている)というものだ。 日本の戦間期では、住居費に関しては、統計的に意味のある負の相関であった。この結果は高田の主張とは整合的ではない。つまり所得が向上しているときに、住居費の割合が低下しているのである。また生活水準が上昇していたとはいえ、この時代では家計の支出の約7割が食料支出であった。私の推計では所得が増加(減少)しても直接には食料支出に関係しなかった。つまりエンゲルの法則はこの時代には成立していなかったのである。 なぜエンゲルの法則に関する高田保馬の解釈をここでまず紹介したかというと、当時の日本の戦間期は今日と同じように長期のデフレ不況だったからだ。つまり最近までの日本の長期デフレ不況と類似しているからである。 ところで、最近のエンゲルの法則を適用した議論はどうだろうか。本当に所得が低下したから食費の割合が上昇したのだろうか。例えば、アベノミクスで私たちはより貧しくなったのだろうか。 答えはノーである。例えば、日本人一人当たりの生活水準はどうなっているだろうか。2012年の一人当たり実質国内総生産(GDP)は390万円だったが、16年にはこれが410万円超にまで拡大している。さらに今年は国際機関の推計では420万円を超えそうである。 一人当たりの所得水準が上昇しているのに、なぜ食費の割合が高くなっているのか。つまりエンゲル係数の上昇がみられるのだろうか。本当は、一人当たりの所得水準の伸び以上に私たちの生活は苦しくなっているのではないか、とアベノミクスの成果を否定したい人たちにこの意見が多い。エンゲル係数上昇が日本の貧困と結びつかない理由 だが、これは端的な誤解である。以下の図表を参考にしてほしい。※世帯主が60歳以上の世帯の割合は、全国消費実態調査の二人以上の世帯における割合 この図は総務省統計局の栗原直樹氏の解説記事「食料への支出の変化を見る(平成26年全国消費実態調査の結果から)」に掲載されていたものである。 「エンゲル係数の推移を見ると、平成元年から平成16年にかけて低下していましたが、平成21年以降上昇しています。これは、エンゲル係数が、世帯主が60歳以上の高齢の世帯では高い傾向があるため、高齢化に伴って高齢の世帯の割合が上昇していることなどが全体のエンゲル係数の上昇にも関係」している、と栗原氏は解説している。 人は高齢化すると、あまりいろいろなものにお金を使わなくなる。そのため高田保馬のいうところの生存費にあたる食費の割合が増加するのだ。当然エンゲル係数は上昇する。おしゃれに気を使い、積極的に社交の場に出る高齢者の方も増えているので、高田の誇示費にあたる支出も増えていいように思えるが、実際には高齢化は、「消費の保守化」と等しいようだ。高田保馬的にいえば、高齢化は充実費や誇示費を抑制していることになる。 エンゲル係数は基本的に高齢化の進展でこれからも上昇トレンドにあると思うが、その他の要因でも影響が起こる。代表例としては、所得が上昇すると外食が増えることでエンゲル係数がやはり上がる。共働き夫婦になると、外食やコンビニなどでの買い物も増える。このこともエンゲル係数の底上げに貢献しているだろう。 エンゲル係数が上昇していることで、日本がより貧しくなっているとはどうもいえないようである。 そもそも最近では、失業率の低下、有効求人倍率の改善も一段と進んでいる。パートやアルバイトの時給も都市部を中心に増加傾向にある。それだけではない。倒産件数や自殺者数の低下傾向もある。このようにわかりやすい範囲でも、経済状況が改善している中で、どうにかしてアベノミクス(その中核であるリフレ政策)を、「日本が貧しくなることに貢献している」と思わせたい人たちがいるようである。そのような人たちにとって、エンゲル係数の上昇は、かっこうの批判のための批判の道具なのだろう。

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    極右ルペン氏の台頭を招いたフランス労働市場の「腐敗」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) フランス大統領選挙の第一回投票が行われた。投開票の結果、中道・無所属のエマニュエル・マクロン前経済相、そして極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首がそれぞれ1位、2位となり、5月7日の決選投票に進んだ。 今回の選挙の争点は、欧州連合(EU)の枠組みの維持もしくは離脱、そして移民の受け入れをどう考えるかをめぐってのものになっている。マクロン氏はEUの枠組み堅持を訴え、保守・左派双方に目配りをした選挙戦術を展開してきた。他方で、ルペン氏はEUから国民投票・憲法改正によって離脱し、移民を制限する政策を訴えることで急速にその支持を拡大してきた。開票状況をみるとこの上位2人の得票数は肉薄したもので、今後半月ほどの選挙戦は白熱したものになるだろう。 上位2人以外の主要候補の得票数も注目されている。3位と4位に終わった中道右派、共和党のフィヨン元首相は、EUの枠組み堅持を支持していて、敗北宣言の中でマクロン氏への投票を支持者たちに訴えている。また急進左派、左派党のメランション元共同党首は、政治的な立ち位置こそルペン氏と真逆なのだが、それでもルペン氏同様にEUの制約に縛られない積極的な経済政策を掲げることで、若者中心に急速に支持を拡大してきた。報道では、メランション氏は、支持者には自由投票を呼び掛けたようである。また5位につけている社会党のアモン前教育相は、反ルペンを訴え、そのため政治信条では異なるマクロン氏への支持を表明している。 単純に第1回投票の票の割合を、ルペン対反ルペンで割り振ってみると、反ルペン票の方が大きく上回りそうである。しかし現状のフランスの中に潜在するポピュリズム的潮流や、移民問題への関心の高まりを考えると、決選投票がどうなるか予断を持たないほうがいいだろう。4月23日、フランス北部エナンボモンで、支持者から祝福されるルペン氏(AP=共同) フランス経済のここ5年ほどの経済成長率は、平均すると0・78%(IMF推計)であり、ユーロ圏全体の状況も含めると長期停滞的な状況である。またフランスの失業率も悪い。もともと若年層中心に構造的な失業率が高いのだが、それでもこの数年は10%を超えている。先に若年層の不満が根強いと書いたが、その不満の背景にはこの失業率の高止まりが存在している。ドイツの経済思想のわなにハマったフランス フランス経済は簡単にいえば、より積極的な財政政策を必要としていることは明白だ。だが、EUの中心国であるドイツは相変わらず財政規律を重視するスタンスを崩していない。フランスはユーロ圏でもあるので、金融政策は自国の自由にはならず、また積極的な財政政策もEUの制約に服さなければいけない。マクロ経済政策的には自由度がかなり限られている。フランス大統領選の投票所近くを警備する兵士=4月23日、パリ(AP=共同) フランスやイタリアの有力な経済学者の多くは、EUにおける積極的な財政政策を支持している。例えば、パリ政治学院の経済学者フランチェスコ・サラセノ氏は、論文「ケインズがブリュッセルにいくとき:欧州経済通貨統合の新しい財政ルール」(2016年)の中で、先進国が従来の景気コントロールに利用していたルール(金融政策中心、財政政策は消極的)を変更して、財政政策と金融政策の協調、特に財政政策の拡大を新ルールの中心にすべきだとしている。ちなみになぜケインズ(財政政策の比喩)がブリュッセルにいくかというと、そこにEUの本部があるからだ。 ドイツ経済も最近の指標をみると、ここ最近では輸出が力強さを回復し、ドイツ経済にとっては現状の政策を大きく変える動機はない。これに加えてドイツの政策担当者や経済学者たちの間では、財政の規律(秩序)を重んじる勢力が根強い。この秩序(オルド)を重んじる経済思想の風土は、戦後のドイツ経済思想の根幹といっていい。 「オルド自由主義」ともいわれる経済思想は、戦後のドイツの経済政策を考える上では欠かせない要素である。オルド自由主義の特徴は、ルペン氏や米国のトランプ政権を支えているようなポピュリズム的傾向を否定していることで知られている。例えば、大衆消費、大衆向きの生産が拡大し、それが産業の独占化を招き、経済を閉塞(へいそく)してしまう、というのがオルド自由主義のひとつの見方である(竹森俊平『逆流するグローバリズム』PHP新書など参照)。 また、債務=借金を否定的にとらえている倫理的な価値判断も強く、そのため積極的な財政政策を嫌い、財政的な秩序を重んじるのである。簡単にいうと、大衆の欲求よりも、道徳的な秩序を最優先に考えるものだ。このオルド自由主義の経済思想が、ドイツの経済政策や世論さえも拘束している。 フランス経済は要するにこのドイツの経済思想のわなにはまっているともいえるだろう。経済低迷を脱することができないために、不満は社会の中のごく一部、ただし大衆にもわかりやすい「問題」に向くことになる。それが「移民問題」である。フランス国内の若年層や低所得者層の雇用を、移民が奪ってしまう。そのことで自分たちの失業率が高まり、また職を得てもより低い生活状況に甘んじなければならない、という不満に論点が移行してしまっている。本当に移民がフランスの雇用を奪ったのか だが、本当に移民(外国人労働者)がフランスの雇用を奪ったのだろうか。欧州の統合に関する代表的な教科書『欧州統合の経済学』(未邦訳)を書いたジュネーブ高等国際・開発問題研究所のチャールズ・ワイプロツ氏とリチャード・ボールドウィン氏によれば、移民が(フランスを含めた)EU内諸国に失業の悪化などをもたらした証拠は乏しいと指摘している。またむしろフランスへの移民は事実上かなり制約されてもいることを指摘している。簡単にいうと、フランスに移動することは、法的には容易なのだが、フランスの労働市場が、経済的な意味では排他的な市場だということだ。つまり、フランスの高い失業率は、移民によるものというよりも、フランス国内の労働市場に内在する問題だ、ということになる。第1回投票が始まったフランスの大統領選で票を投じる有権者=4月23日、リヨン(ロイター=共同) フランスの失業率は、1970年代初めは3%台を切る水準だった。それが急速に上昇し、9%台がほぼ定位置になってしまった。この要因については、フランスの未熟練労働者や若年労働者がきわめて低い報酬しか受け取っていないことに原因がある。そのために、求職の意欲を失いやすい。求職の意欲を喪失している期間が長ければ長いほど、その人の人的資本の蓄積は阻害され、「腐敗」しやすくなる。いざ働こうとしても自分の能力に見合った職が見つからずに、長期の失業状態が続いてしまう。また運よく職についても高い技能を要さない職しか見つけることができないために、さらに人的資本を伸ばすことがないままになる。これらがフランスの構造的失業の主因だろう。 この裏側には、労働組合などの交渉力の強さがあり、既存の産業(職種)への手厚い保護が存在することは明白である。つまり特定の産業(職種)への保護はあっても、本当の労働者の保護に欠けているのである。このフランスの閉鎖的な雇用環境が、外国人労働者に避けられているところなのだろう。 ちなみに同時期のイギリスとの対比をみると興味深い。イギリスもまた80年代後半までにフランスと変わらない10%近い失業を経験していた。それが90年代以降は急速に低下して約5-6%の間で推移してきた。これはイギリスの(フランスに比して)よりオープンな雇用環境、さらにはユーロ圏に所属していないために金融政策の自由度が高いことなどがその主因だろう。いわゆるリーマンショック後は、イギリスも失業の上昇に悩まされてはいるが、それはフランスのような、がんじがらめの状態に比較すればまだましである。 フランス経済をみると、そこにEUの悩みが集約して現れている。今後の大統領選挙の結果次第では、ヨーロッパには大きな変化が生まれるだけに注目していきたい。

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    「100円節約運動」を唱えた経済学者のトンデモ理論

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 経済学者の高橋伸彰立命館大教授のツイッターでの発言が話題と批判を集めている。高橋氏は、「国民ひとり当たりを100円節約し、『アベを買わない運動』を展開すれば、個人消費は4.6兆円減り、アベノミクスは崩壊して安倍政権の落日は近い」などと主張した。高橋氏の発言はすでに削除されているが、ガジェット通信の記事に発言内容が保存されているので参照されたい。立命館大の高橋伸彰教授のツイート 高橋氏はネットでの猛烈な批判を受けて、いろいろ弁解をしているようだが、その発言の意図は間違いなく、安倍政権の打倒のために意図的に100円を節約して経済を悪化させようと、扇動するものだった。 経済学者が政策論争に関与したり、その政策実現のために政治家の助言者や政策ブレーンになったり、あるいは政策実現のために政治運動を展開することは、国際的にもしばしば観察されるし、それ自体奇異なことではない。むしろ、自分の望む政策を実現することに情熱を傾けることは、(経済学者の素養や性格にも依存する部分が大きいが)個人的には望ましいことではないかと思っている。 だが、今回の高橋氏の「100円節約運動論」は言語道断である。経済政策の役目は、人々の暮らし向きを改善することである。しかし、高橋氏の主張は経済の悪化を狙っていることが明瞭である。経済全体の消費を意図的に減少させることは、(その他の条件を一定にすれば)間違いなく経済成長率も下降させてしまうだろう。 確かに、経済がこれからどのように成長していくか否かという議論は今でも熱い論題だ。欧米でもこれからの先進国の多くは長期停滞が避けられないという論調も多い。だが、この種の経済成長論争と、今回の高橋氏の主張はまったく質が異なる。長期停滞論は、経済の構造的な動きなのだが、高橋氏の主張は人為的に経済を減速させるものだからだ。その目的は安倍政権の瓦解である。政策評価より「政権打倒」を優先する経済学者 安倍政権の経済政策が良いか悪いかではなく、安倍政権の瓦解を目指して経済を悪化させる。これほど醜悪な発言はない。過去にも、不良債権など経済の非効率性を淘汰するために、経済の悪化を放置するという経済思想はあった。これは昭和恐慌期の日本や、同時期の世界の経済思想の中で展開されていたが、今日でもその末裔がいる。「清算主義」という経済思想である。だが清算主義は、いわば経済不況を「放置」することが本義である。清算主義者でさえ、わざわざ経済を人為的により一層悪化させるなどと主張はしない。高橋氏はその意味で清算主義者ですらない。国会前集会で安倍首相の退陣を求め訴える人たち=3月23日夜 このような高橋氏の経済論の認識の底には何があるのだろうか。一つは経済成長自体の軽視だろう。これについては後に触れる。もう一つは、高橋氏だけではなく、今も広範囲に観察される「アベ政権打倒」を自己目的化した人たちのイデオロギーである。彼らは安倍政権の個々の政策評価よりも、政権打倒自体が自己目的化しているとしか思えない。 高橋氏は経済成長の低下をそれほど重大視していないのだろう。だが、経済の低迷は多くの人たちの暮らし向きを悪化させ、また人命を危機に陥れる。 経済の安定化に失敗するとそれだけで多くの人命が失われてしまう。長期停滞を背景にして、日本の自殺者数と失業率の関係については21世紀初頭から議論されてきた。  日本の自殺者数の推移をみてみよう。20世紀終盤の1997年は日本の金融危機と消費増税があった年だが、それ以降自殺者数は急増していき、2011年まで14年連続して3万人台で推移し、ピークの年には3万5千人近くに上った。自殺未遂した人や自殺しようかと悩んだ人たちまで含めると膨大な数に及ぶだろう。 人がさまざまな理由で生死を選択しているのには異論はない。しかし、それを認めたうえでも、自殺と景気循環(好況と不況の循環のこと)が極めて密接な関係にあることは矛盾しない。最近では、リーマンショック以降の各国の動向を踏まえて、経済政策の失敗が人間の生き死にを直接に左右するという分析を、英オックスフォード大教授のデヴィッド・スタックラー(公衆衛生学)と米スタンフォード大助教授のサンジェイ・バス(医学博士)が『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)で提示している。原題を直訳すると「生身の経済学 なぜ緊縮は殺すのか」というものだ。ここで言う「緊縮」には、高橋氏が主張しているような「人為的な消費削減」が入っても矛盾しない。 スタックラーとバスによれば、不況になれば失業者が発生する。このとき政府や中央銀行が適切に対処しなければ、失業の増加が自殺者の増加を招いてしまうだろう。日本の場合では、失業率が高まるとそれに応じるかのように自殺者数も増加していき、また失業率が低下すると自殺者数も低下していく。経済減速の主張に感じられない「生命の危機」 スタックラーとバスの本では、2008年のリーマンショックで仕事を失ったイタリアの中高年の男性職人が「仕事ができない」ということを理由に自殺したエピソードを紹介している。ここでのポイントは、経済的な理由よりも地位や職の喪失そのものが自殺の引き金になっていることだ。また精神疾患患者数の推移と景気の関係に対する議論もある。(※画像はイメージです) 失業とうつ病は関係が深い。社会的地位の喪失もうつ病の引き金になりやすい。うつ病が進行しての自殺のケースも多いだろう。また失業率の上昇は、一方でリストラに直面しなかった人たちにも生命の危機をもたらす。首切りを免れて、会社に残った人たちの時間当たりの労働強度を高めてしまう。 つまり辞めたり、新規の採用がなかったりした分だけ、より少ない人数で仕事をすることになる。過労によるストレスは、うつ病の引き金をひいてしまう。不況になれば、なかなか他の職を得ることができないので、つらい職場環境でも我慢して勤めてしまう。このことが不況期でのブラック企業の隆盛をもたらした。高橋氏の主張ではこの種の人命を損失させる経済減速の悪影響に対する配慮が全くない。配慮があれば、経済を減速させようという主張は出てくるはずもないのだ。 経済政策の是非、これから経済成長が安定的に達成可能か否か、そういう論点と高橋氏の「100円節約運動論」は全く異なる。繰り返すが、経済学は一人ひとりの生活を改善することにその目的がある。この点を忘れた経済学者の発言には何の価値もない。

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    「フェイクニュース」を垂れ流す日本の経済報道はもう笑うしかない

    である。「フェイクニュース」の見分けが難しい理由 ところでフェイクは報道の場でも深刻である。前々回の連載でも書いたが、森友学園問題は、安倍首相や首相夫人の違法性や道義的責任にまったく結びついていない。一時期よりも少なくなったが、いまだにメディアの報道では両者を結びつける根拠のない「疑惑」のオンパレードである。 注意しなくてはいけないのは、「フェイクニュース」というものは、核心部分(森友学園問題と首相サイドの違法的な関係)が間違いや偽物であっても、それ以外の部分は「真実」で構成されていることが多いことだ。これが報道を偽物であるか本物であるのか見分けを難くしている。 実は、リフレ派はこの種のフェイクニュースに過去20年以上悩まされてきた。「デフレになったのは中国やインドから安い製品が入ってきたためである」「日本の産業がグローバル化に対応できないので日本は停滞している」「インフレ目標を導入するとハイパーインフレになる」などというものである。 例えばインドと、中国発のデフレをみてみよう。インドと日本の貿易関係は、日本の経済規模からみて規模が小さい。2015年現在、輸出入総額が1兆円超程度で、純輸出はプラスであり、日本からの輸出の方が大きい。一方、中国と日本の貿易関係は巨額である。輸入額(2015年で20兆円近く)だけみても日本のGDPに対する比率は大きい。日本へ中国の安価な製品が流入していることは「真実」である。だが、安価な製品の輸入が多くても、それが日本経済全体の物価を押し下げていることにはならない。 なぜなら日本よりも輸入規模がはるかに大きい米国や、日本の次の貿易関係国である韓国はデフレ経済に過去20年間陥ってきたわけではないからだ。韓国はむしろ中国との貿易関係が縮小している現段階の方がデフレ経済に陥る危機に直面している。このように中国発デフレは、真実(中国との貿易関係が大きいこと)でカモフラージュした、核心部分(中国がデフレの原因)がフェイク=偽、という典型的な主張である。日本と中国、韓国の経済貿易相会合で握手する、(左から)中国の高虎城商務相、世耕弘成経済産業相、韓国の周亨煥産業通商資源相=2016年10月29日、東京都目黒区 同様に、日本の産業の中でグローバル化に対応できていない部門があってもおかしくはないが(真実)、そのこととデフレが関係するわけではない(フェイク)。これは経済学的には財やサービスの総供給面に問題があるということだが、実際の日本経済では総需要が不足していることで、まず簡単に否定できる。 さらに、インフレ目標を導入すればハイパーインフレになるという主張も、これは単にすべてデタラメであったことは自明である。だが、この種の主張もインフレ目標が導入される前は執拗(しつよう)に報道されていた。独り歩きする「景気回復の実感」 とりわけ、最近のフェイク的な経済報道として筆者が注目しているのは、しばしば世論調査で出てくる「景気回復の実感がない人が多い」というものだ。このとき報道の多くが、「景気回復の実感」とはそもそも何かを定義することなく、印象だけを流していることに注目すべきだ。 人によって景気の実感はバラバラだろうし、個々人の感覚は正しいかもしれない。だが、個々の実感と経済全体の景気回復をイコールにしてしまうのは間違いだ。仮に、1年や数年で給料が倍になることを「景気回復の実感」だと思う人がいるとしよう。もしこれを経済全体にまで拡張したらどうなるだろうか。 「マジックナンバー69」というものがあって、これは給料や経済規模が倍になるための成長率を導き出すのに便利な数字である。一例で、年間の経済成長率が3%であれば、3で69を割ると23になる。つまり23年かければ、その国の経済規模が倍になるということである。 もし1年で給料が倍になることを「景気回復として実感する」ならば、日本経済は年間69%も成長しなくてはいけない。先進国の平均的な成長率がだいたい3%前後の中で、このような超高度成長は単なる夢物語にすぎない。もちろん個々人がこのような収入を実現できることを否定しているのではない。個人の景気への実感が、何の定義もされることなく安易に独り歩きをすることを警戒すべきだといいたいのである。 ちなみにリフレ派の目指す経済状況は、(論者によって異なるが)実質経済成長率が3%前後になれば上出来であり、またそのときには完全雇用に達し、なによりもその状況が長期的に安定化することが目的となるだろう。

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    デフレ脱却はどうなった? 黒田日銀総裁4年間の「通信簿」

    田総裁の任期は来年の3月までなので、2%のインフレ目標の到達は難しいだろう。 この理由については、本連載でも何度も書いてきているが、ふたつの要因が考えられる。ひとつは2014年4月の消費増税による消費の急低下とその後の悪化持続である。もうひとつは国際的要因で、これは中国経済の減速、イギリスのEU離脱、そして米国の大統領選などに伴う経済政策の不透明感などである。 後者の国際的要因は、日本の政策ではどうしようもできない。だが前者は対応が可能であった。実際にその後予定されていた消費税のさらなる引き上げは2回にわたって先送りされた。しかし消費マインドは、14年4月以降回復していない。直近で若干の改善傾向が見られ始めただけだ。 ここで注意すべきは、日銀の大胆な金融緩和政策自体の効果を否定してはいないことだ。むしろ反対に、日銀の大胆な金融政策は目覚ましい効果をあげている。ただそれを打ち消す逆向きの効果があるということだ。前者の改善効果を後者の悪化効果が完全に上回っていないことも注意を要するポイントである。つまり、過度な悲観は禁物ということだ。財政政策の失敗のツケは財政政策で払う いまも書いたように、インフレ目標が未達の原因は日銀の政策によるものではない。実際に13年度の消費者物価は0.9%(総合)であり、これは12年度のマイナス0.3%に比較すると、1.2%もの急上昇を果たしている。その後の状況は(消費増税の影響で物価はプラス域に大きく振れるが、これは見かけなので)デフレ的状態に再下降してしまっている。日本のデフレ脱却が困難に直面したのは、金融政策に効果がなかったのではなく、その効果を打ち消す財政政策の失敗(消費増税)があったことは明白である。 消費増税という財政政策の失敗のツケは、財政政策で対応するのが基本である。有効な政策は、減税を中心にする可処分所得を増加させる財政政策である。理想は消費減税だろう。金融政策のさらなる緩和、例えばインフレ目標の3%程度への目標値の引き上げも考慮すべきである。 残念ながら、日銀の大胆な金融緩和政策は継続こそすれ、もう一段の緩和には動き切れていない。ここ一年をみても、短期・長期の金利を操作する「イールドカーブコントロール」やマイナス金利などを追加的に採用しただけである。 これらの政策の効果はきわめて限定的だ。 例えば、イールドカーブコントロールは、具体的には国債の金利を操作することである。これは日銀の保有する国債の金利構成を変更することにもつながる。より大胆な政策であれば、最近、ジョセフ・スティグリッツが指摘し、さらに昔にさかのぼればベン・バーナンキも主張していたように、日銀のバランスシートの構成を変化させて、例えば保有国債の償却期間長期化を財務省と交渉することも一案である。 例えば10年物国債を20年、30年と長期化させることが可能だろう。さらに高等教育無償化などの目的を持つ国債を新規発行して、それを日銀に引き受けさせるのも一案である。いずれにせよ、政府との協調が重要であることは言うまでもない。この財政政策と金融政策の協調こそが、日本経済の安定的な再生のキーポイントである。 さてインフレ目標の未達の真因と、今後の対応は書いた。冒頭にも書いたが、インフレ目標は、経済の安定化(生活水準、雇用環境の改善)のための中間目標でしかない。その最終目標である経済の安定について簡単にみておく。特に注目したいのが、雇用の状況である。報道でも取り上げられたように、失業率がついに2.8%と3%を切った。3%を下回ったのは、日本が「失われた20年」に突入する前にさかのぼり、22年2か月ぶりである。働き手減少で改善したというのは「トンデモ仮説」 しばしば、この失業率の低下や有効求人倍率の4半世紀ぶりの改善について、生産年齢人口が減少説を主張するむきがある(人口仮説)。要は働き手が構造的に減少しているために起きた「改善」である、という指摘だ。これは簡単にいえば、「トンデモ仮説」といえよう。 例えば、生産年齢人口は21世紀冒頭から今日まで約1000万人減少している。今世紀に限定しても17年間、この減少は継続している。もし先の人口仮説が正しければ、この減少トレンドと同時に失業率の低下や有効求人倍率の改善がみられる必要がある。だが実際には、小泉政権後期から08年までのリーマンショック以前、そして第二次安倍政権以降を抜かせば、失業率は高止まりし、有効求人倍率も極めて低かった。 野田政権(民主党政権)のときに失業率が低下に転じているという指摘もあるが、これもトンデモ仮説のひとつである。不況が厳しくて、職探し自体を断念した人たち(求職意欲喪失者)や社内失業が増加しただけだからだ。これは、民主党政権下での失業率の見かけの低下が起きているということである。 黒田日銀の最大の成果は、この雇用環境の大幅な改善にある。失業率の低下や有効求人倍率の大幅な改善は、「人口要因」というトンデモ仮説ではなく、金融政策にその主因が求められるからだ。確かに財政政策(政府支出規模)は13年こそ増加したが、以降は16年後半まで漸次減少スタンスであり、またなによりも消費増税があった。一貫して景気刺激的なスタンスを採用しているのは、日銀の金融政策のみである。 特にここ1年数カ月は正規雇用が増加し、他方で(不安定雇用の代名詞である)非正規雇用が減少に転じている。パートやアルバイト、派遣社員の賃金面での改善も著しい。 ただしいくつか注意が必要である。雇用者の数が増えているので、平均的な賃金が低下してしまう局面があるのは、常識的にもわかるだろう。特に雇用の回復初期では、実質賃金の低下がみられる。だがこれは生活水準の悪化ではもちろんない。短時間労働で働く人間が増えている(当初は女性のパート、アルバイトの増加、高齢者の再雇用などで吸収されていく)ので、平均賃金が低下するだけなのだ。 実際に安倍政権発足後から、雇用者数とその報酬を掛け合わせた名目雇用者報酬は一貫して増加傾向である。また実質賃金もいまでは増加に転じている。現在、さまざまな場で、人手不足の声をきくようになっている。大都市や一部の産業での時間当たり賃金の伸びが目立ってきている。これらの動きがより定着していけば、さらに失業率は低下し、報酬面でも雇用環境は改善していくだろう。いまの雇用改善は「ようやく合格点」レベル そしてこれは通念と異なるが、実はいまの雇用改善もまだ「不十分」な段階である。点数でいえば、ようやく合格点に達している程度だとみなしたほうがいい。金融政策の景気刺激効果は、安倍政権発足後から今日までずっと持続している。他方で、13年と直近の状況を抜かせば、ほぼ財政政策は緊縮的スタンスであった。 だが、先ほども指摘したように、前者の景気拡大効果の方が後者の景気抑制効果よりも大きく、それが雇用の持続的な改善を下支えしている。この理屈でいえば、後者すなわち財政政策も金融政策とともに拡大スタンスで協調すれば、さらに雇用の改善が機能する余地があるのだ。以下では景気刺激策をとれば、まだその雇用改善の「余地」があることを解説する。 失業率には、需要不足による失業と構造的失業のふたつに分かれている。前者は金融政策や財政政策で解消することができる。現在の失業率の低下は、この部分の解消が主に貢献している。他方で構造的失業の方は、金融・財政政策では解消されないと考えるのが「通念」だ。豊富に職があっても自分の技能に見合うものを探し出すコストが高い場合や、性別・年齢などの障壁でこの構造的失業は高止まりするといわれている。そのため構造的失業には構造改革(規制緩和や職業教育など)が政策割り当て的に妥当であると考えるのが「通念」だ。 しかし需要不足の失業と構造的失業は明確に分かれているわけではない。構造的失業と思われている部分も、実は需要不足の失業が長期化したために現出している可能性が大きい。言い換えると、需要不足が解消されれば、通常の需要不足の失業の低下とともに、この構造的失業のいくばくかも低下する可能性がある。 日本の構造的失業率は90年代以降、緩やかに上昇している。例えば、片岡剛士氏の分析によれば、90年代当初の構造的失業率は2%ほどであった(原田泰・吉松崇・片岡剛士『アベノミクスは進化する』中央経済社)。それが四半世紀かけて2%台後半まで上昇している。この構造的失業の緩やかな増加の原因はなんだろうか。 ここではその主因のひとつとして4半世紀に及ぶ非正規雇用の増加を指摘しておきたい。非正規雇用の人たちの報酬水準や働く環境は、現在改善傾向にあるが基本的には不安定なままだ。「失われた20年」というのは、働く人たちの中で、この非正規雇用=不安定雇用が著しく増加したということでもある。スキルの「腐食」で構造的失業率が上がる デフレ不況の下では、不安定雇用を避けるために、求職自体を断念してしまう人たち(女性やまた再雇用を望む高齢者たち)が増加し、他方で正規雇用を求めてもなかなか決まらず長期の失業に甘んじる人たち、あるいはコンビニなどの定型化された職で長期間働いている人たちなどが増加した。例えば、いったん働くことを断念した人の職業面でのスキルは時間の経過とともに「腐食」していく。またコンビニで定型化された仕事に若いうちからついていると、その期間の間に蓄積される予定だったさまざま仕事の技能・対人スキルが失われてしまう。これも人的資本の「腐食効果」といわれるものだ。 大学や高校などを卒業してから、長期間この状態が継続すると、バイトをやめて正規雇用につこうとしても自分の蓄積された人的資本の生産性に見合う仕事が見つからない。このような状況を典型例として緩やかに構造的失業は上昇していく。 これらの構造的失業の上昇要因は、非正規雇用が増大すればするほど拡大していく。逆にいえば、非正規雇用を減少させるような政策対応が行われれば、構造的失業は低下する。現在の金融政策には、非正規雇用を減少させ、他方で正規雇用を増やす効果があることは、データからも明瞭である。 となれば構造的失業自体が、雇用の改善をうけて低下していくことは十分に予想される。イメージでいえば、人手不足が深刻化していき、非正規雇用の層や求職意欲喪失者の層からも人手を積極的に調達していかなくてはならなくなる。現在の日本はこの構造的失業の低下も、需要不足の失業の解消とともに同時並行的に進んでいると思われる。 実際に、失業率が構造的失業の水準までぶつかれば、どんなに金融緩和をしても物価は上がっても、雇用の改善など実体経済には何の効果もない。この段階では物価水準のみの急上昇が観測されるだけだ。そのため構造的失業は、別名でインフレ加速的な失業率ともいわれている。現状では、物価水準にはそのような変化は観測されないため、2.8%の現状の失業率はまだまだ金融政策で低下することができるのだ。では、いったいどのくらいまだ雇用の改善がみられるのか、いいかえれば需要不足、また構造的にみえても実は需要不足を解消すれば下がる構造的失業の部分はどのくらいだろうか。 答えは簡単である。インフレ目標が安定的に達成されたときの水準がまさに「構造的失業」だろう。この水準に到達するために、日銀は一段の取組余地を残している。さらに政府はその運用を妨害しないように、協調的な財政拡大のスタンスと消費増税路線の明白な放棄が望まれる。

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    根拠なき籠池証言と「忖度」に色めくメディアは早く消えてほしい

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) まさか21世紀の日本で大がかりな「魔女狩り」を目撃できるとは、というのがここ最近のマスメディアをみての率直な感想である。言わずと知れた「森友学園問題」についての、一部の新聞やテレビでの論調のことである。 様々な「問題」が喧伝されて何がいったい論点なのかさっぱりわからなくなっているが、簡単にいえば、学校法人森友学園に払い下げた国有地が周辺の取引価格の実勢よりも極端に低かったこと、それについて予定されていた小学校の「名誉校長」であった安倍昭恵首相夫人とまた安倍晋三首相が、その土地の値引き交渉に関与していたか否かである。 この話は二段階になっていて、1)国有地の売却価格が違法なほど低かったのか、あるいは違法ではないまでも過度に「裁量」が働いたような価格だったのか否か、2)首相夫人と首相は本当に関与したのか、そのときの「見返り」はなんだったのか、という問題であった。 1)についての論点はかなり整理されてきていて、簡単にいえば適法ではあるが、森友学園の事例については、財務省近畿財務局の判断に「政策のミス」の疑いが濃厚である。通常は入札により競争者を募り、公正な条件で販売価格を決めればいいはずが、財務省が主導して森友学園側との相対取引で性急に条件を決めてしまった。財務省側は言い分があるかもしれないが、これは現場サイドの致命的な判断ミスである。参院予算委員会の集中審議で、民進党の福山哲郎幹事長代理の質問に答弁に立つ元近畿財務局長の武内良樹財務省国際局長(前列右)と元財務省理財局長の迫田英典国税庁長官(同左)=3月24日(斎藤良雄撮影) もちろんその「言い分」の中には当該する国有地が置かれた歴史的・環境的な要因があるだろう。だが説明が複雑になるだけで、要は現場の判断ミスであると考えれば、いまのところそれでいい。財務省は今回の件で、その責任をやがてとらざるを得ないだろう。実際にはローカルでたかだか一学校法人との取引ミスにすぎないにせよ、問題が拡大しすぎてしまった。 2)については、現在までマスメディアや世論の大半に「疑惑」を抱かせたままである。だがあえて言えば、その「疑惑」には安倍政権への過度な批判が招いたバイアス(偏見)が作用しているように思える。籠池泰典理事長の証人喚問での発言によれば、首相と首相夫人が国有地の値下げ交渉に関与したという発言はなかった。また攻める側の野党やマスコミにもこの「関与」を裏付ける証拠はない。つまりこの国有地の価格引き下げ問題という最大の論点であり、そもそもの森友問題の出発点について事実上問題は“解決”しているはずである。昭恵氏の寄付が「悪」に受け取られる理由山口県下関市長選の候補者の集会であいさつする安倍昭恵首相夫人=3月10日 ではどこについて世論は「疑惑」を抱き続けているのだろうか。私見では主に二点である。ひとつは、首相夫人の森友学園への寄付金問題、もうひとつは、昭恵夫人付政府職員が財務省に国有地における小学校建設について問い合わせた件だ。 前者について籠池氏の国会証言と昭恵氏との間では事実認識が食い違っている。これはもはや国会で明らかになる問題ではない。籠池氏の発言が偽証や名誉棄損などの可能性があるならば、司法や捜査機関の出番である。筆者はその方がこの問題は早急にけりがつくと思っている。ただし念を推しておきたいのは、昭恵氏が学校法人に寄付したこと自体はなんの違法性もないということだ。なぜこれがいかにも「悪」のように受け取られているのか、そこにはマスメディアなどの報道の在り方、問題があるのではないか、という感想を抱いている。 政府職員の問い合わせについては、そもそも国有地の価格引き下げ交渉ではない。政府職員がさらに上長と相談して問い合わせを行ったとしても、違法でもなければ、道義的責任を問われるものでもない。実際に、籠池氏へ政府職員が送ったファックスの内容は問い合わせ以上の関わりを「謝絶」する内容を含んでいた。だが、野党もそして安倍政権に日頃から批判的なメディアも、これを土地取引への「関与」だとして批判し続けている。 問題は、土地取引に関して価格面などで籠池氏側に有利に働いたかどうかのはずだ。現行の法規についての問い合わせには、交渉手段になりえる要素はない。これが常識的な見解だと思うが、単なる問い合わせさえも政権交代を要求するほどのものに映る人たちがいるようだ。さらに、自制のタガが完全に外れたようなマスコミの報道姿勢がこの風潮に作用している面もある。 とどめは、財務省近畿財務局をはじめ、関係した省庁や職員などに、安倍首相や首相夫人を「忖度(そんたく)」して、便宜が図られたのではないか、という「疑惑」である。そしてこの官僚たちの「忖度」(相手の気持ちを慮ること)の責任を、安倍首相に要求していることだ。つまり官僚たちに「忖度させた罪」を首相は認めて、政治的責任をとれということである。メディアがバイアスを増幅していく 例えば、テレビ朝日の報道番組で、コメンテーターの後藤謙次氏が「安倍首相も忖度がないと言うなら、ないという物証を出すべきだと思うんです」と発言していた。忖度は人の心の中で生まれるものであって、それを他人である首相がどうやって物証で「忖度のあるなし」を証明するのだろうか。後藤氏だけではなく、類したことを発言している識者やメディアがかなりいて、それらの人たちはあたかも魔女裁判を現在の日本に復活させているかのようだ。悪質な報道姿勢であると断じていい。 仮に安倍政権への批判があるならば、堂々と政策論争で競えばいい。しかし実体的には、ほとんど根拠のない「疑惑」や魔女狩りめいた「忖度」の有無で、国会での貴重な時間を浪費している。まさに亡国の国会である。裏返せば、野党に安倍政権に代わる政策が打ち出せない無能力が、森友学園問題の膨張を生んだともいえる。世論は、森友学園問題の「疑惑」が解明されてないと思う反面、しっかりと野党の無策はみているようで、民進党など野党の多くはこの二か月近く支持率が低迷もしくは下落していることで明らかだ。衆院予算委員会の証人喚問で、民進党の枝野幸男氏の質問を受け、安倍昭恵夫人付き職員の谷査恵子氏からのファクスを手に答弁する籠池泰典氏=3月23日(酒巻俊介撮影) 人間は合理的判断と不合理的判断の混交体といっていい。合理的判断が勝れば、現代の魔女狩りのような「忖度」という論点は時間の経過とともに消滅していき、具体的な問題がなんなのか、より鮮明になるはずである。他方で、人間には不合理な判断をする余地がとても多い。経済政策の評価についても、専門家ではない大衆の理解にはバイアスが作用しやすいことが知られている。そしてそのバイアスはメディアの力によって強化されていく。 例えば、昭和恐慌期には、当時の朝日新聞や毎日新聞など主要メディアは、デフレや不景気を極限まですすめれば、経済の「悪」が淘汰されてより高い成長が可能であると信じた(清算主義)。主要メディアの大半がそのような報道姿勢であり、政界含めた世論の大勢もこの清算主義の考え方であった。だが、この清算主義は経済学的には間違った経済思想である。実際にこの清算主義を採用した当時の日本経済は恐慌に陥り、失業、倒産、子女の身売りなどが激増した。社会情勢は不安定化し、解決の糸口はまったくなくなってしまった。 このようなバイアスがメディアによって増幅・伝播していく恐ろしさを、今回の森友学園問題でも体験していると筆者は思っている。少なくとも、司法や警察の手を借りなくても、「忖度させた罪」などという歪んだ意見がメディアから消えることを願いたい。まさに罪なきところに罪を見出す最悪の発言だからだ。

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    世界的有名な経済学者がこぞって海外版アベノミクスを支持する理由

    だし、それを行うことができる政治勢力は、いまのところ現在の安倍政権以外に与野党とも不在である。以前の連載でも書いたが、国民に人気の高い小泉進次郎氏らは財政再建=緊縮主義であり、いまの国際的な経済政策に逆行する政策観を持っている。また次の都議選で新党を設立し、将来的には国政を狙う小池百合子東京都知事の政策観もやはり構造改革主義的なもので、国際的なアベノミクス化の流れとは異なる。その意味では、安倍政権に代替する有力な政治勢力が不在である。JA全中の奥野長衛会長(右)と二人三脚での農業改革をアピールする自民党の小泉進次郞農林部会長(左)=2016年6月26日午前、三重県度会町 このポスト安倍の不在こそが、日本の根本的な危機である。

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    信長が戦った最大の敵は、戦国時代の「デフレ経済」だった!

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 評論家とは何か? それは専門的な知と世間知の間を巧みに橋渡しすることで、私たちに現実を見る目を提供する人たちであろう。さらに言えば、時には荒れ狂う大河に橋をわたすというリスクを担うことでもある。最新作『経済で読み解く織田信長』(ベストセラーズ)は、著者である上念司氏が評論というリスクを背負い、世の中に投じたスリリングな剛速球である。 上念氏の『経済で読み解く』シリーズは、「大東亜戦争」「明治維新」に続く三作目であり、ますます著者独特の歴史眼に磨きがかかってきた。しかも前二作が現代に近いこともあり、資料や研究蓄積が豊富であった。対して今回は経済史的には資料が乏しい室町・戦国時代にかけての話題である。それだけに著者の挑むハードルは格段に上がり、またそのリスクを伴うだけに読書の楽しみもより増してくる。2014年7月、ひもで通し、つぼに納められたままの状態で見つかった4万枚の銅銭。唐の「開元通宝」や宋銭、明の「永楽通宝」など約50種類あり、当時の価値で計400万円相当だったとみられるという=京都市 特に上念史観のポイントは「リフレ史観」であることだ。リフレとは、リフレーションの略語である。デフレーション(デフレ)は持続的に物価が下落することであり、しばしば経済に悪影響をもたらす。経済全体の疲弊、失業、倒産、自殺者数の増加など社会的な害悪の原因ともいえる。このデフレを解消して、低いインフレーション(インフレ:物価の持続的上昇)にもっていくことで経済を活性化させることを「リフレーション」といっている。上念史観はこのリフレーションの背後にある経済思想、つまり貨幣量の変化と実体経済との関係に注目することで、異なる時代を共通する視座からみるという実に合理的で総合的な見方を提示している。 通常の経済学では、長期において貨幣量の変化は物価水準の変化だけをもたらして、実体経済(実質GDPの大きさ、消費、投資、雇用など)に影響を与えないとされている。簡単にいうと貨幣は「経済の着物」であり、中身は見かけによって影響はされないと考えている。 しかし「長期」とはそもそも具体的に何年、何十年という年数で考えるものではない。経済をそこそこまともに回すだけの貨幣量が不足する事態が、人為的に何年も続く場合が実体経済を狂わしてしまうケースも実に頻発しているのだ。これを「デフレ不況」と呼ぶ。「デフレ不況時代」だった戦国時代 ここ100年ほどの日本史をみても、1920年代初めから30年代はじめにかけての「昭和恐慌」を含めた「失われた10年」の日本、そして1990年代初めのバブル経済崩壊から2012年頃までの「失われた20年」の日本が、経済を長期停滞に陥れたデフレ不況の時代であった。二つの時代で経済の活力は大きく失われた。その原因は人為的な政策によるもので、デフレ政策という足かせが経済の動きを鈍らせていたのである。 実は「デフレ不況」は、日本史の中でも頻発している。先の昭和と平成それぞれのデフレ不況もそうだったが、江戸時代や本書がテーマにしている戦国時代も基本的にデフレ不況の時代だった。 本書のユニークなところは、なぜデフレ不況が戦国期の室町時代に現れたのか、実に明瞭に説明していることだ。それは「国際金融のトリレンマ」という経済学ではよく知られた話題だ。国際金融のトリレンマとは、「固定相場制」「金融政策の自由」「資本取引の自由」の三つのうち、二つしか一国の経済では採用することができないというルールのことである。 例えば、室町時代の日本は独力で貨幣を鋳造する能力に極めて乏しく、国産貨幣よりも当時の中国の王朝である明の通貨が利用されていた。そのため明との間の貿易が活発であれば、明から通貨が日本に流入するためインフレ経済に陥り、一方で貿易が停滞したり経済関係が途絶すると、国内の貨幣量が減少するのでデフレ経済に陥っていた。要するに、完全に「外国=明」の貨幣量のやりとりに依存しているので、日本独自に貨幣の量をコントロールすることができない。そのため室町時代では「金融政策の自由」はなかったのである。 また、明の貨幣は日本国内に入ってくると、一定量の交換比率が決まっているコメとお金の固定相場制が採用されていた。とりわけ、この日本国内の固定為替レート(コメと明の貨幣との交換比率)を高めに維持することが政策的な目標だった。現代の価値観で表現すれば、円高ドル安を目指していたことになる。室町「デフレ」時代で焼け太りした既得権階級 つまり、貨幣は日本国内で希少価値を持っていて、それは必然的にデフレを伴うものに政策的に誘導されていたわけである。そして日本と中国の間ではお金のやりとりは自由だったので資本取引の自由も担保されていた。このように上念氏は当時の室町・戦国経済の概要を描く。要するに「国際金融のトリレンマ」から、室町時代の経済が基本的にデフレ不況にはまりやすくなっていた。誠に大胆明瞭で、かつ刺激的な考察である。 室町時代のデフレ志向的な経済は、やがて戦国期の幕開けである応仁の乱の背景にもなっている。しばしばインフレが加速すると社会的な不安から荒廃した経済・社会体制を生むと誤解されている(ナチス経済などはその一例)。だが、実際には長期化したデフレ経済の方がよほど社会を荒れたものにするのである。上念氏の本はまずこの基本メッセージを外さない。 さらに、デフレ経済は既得権階級を維持し繁栄させてしまう。デフレでは経済の活発化が損なわれてしまうので、新陳代謝がまず損なわれる。新しい事業をやろうとしても市場が狭いままではビジネスチャンスが潰えてしまいがちだ。「信長公出陣の像」=愛知県清須市の清洲公園(関厚夫撮影) だが、すでに社会の中で既得権を持っている人たちはそうではない。既得権の実質価値はデフレの中で拡大していくだろう。その室町時代の象徴として、上念氏は「寺社勢力」をとりあげる。そして本書の主人公である織田信長こそ、このデフレが生み出した「既得権=寺社勢力」に対抗したリスクテイカーであった、というのが本書の肝だ。信長から始まり、豊臣秀吉、徳川家康はデフレに立ち向かったリフレの戦士でもあったのだ。この視点は極めて野心的だ。戦国時代とは、デフレを終わらせる戦争だったのだ。 織田信長の反デフレ的活動という性格付けは、類書をもたない、まさに革新的な解釈である。特に現代日本との対比も頻繁に言及することで読者の理解を容易にし、また独特のユーモアも楽しい。 これほどの野心的な経済史の評論はめったにお目にかかれないだろう。最近は、応仁の乱の再評価など、室町時代が熱い。本書はその点からも歴史マニアたちの興味を十分以上にひきつけるだろう。注目の一書である。

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    「石原慎太郎は無責任」の影に隠れた豊洲移転の腐敗の元凶

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 石原慎太郎元東京都知事の記者会見は、石原氏の豊洲市場移転問題の「責任」の存否をめぐって激しい議論を引き起している。石原氏は記者会見で、「行政の責任は裁可した最高責任者」としての責任を認めつつも、同時に環境・安全面の判断をした専門委員会、副知事や様々な業務に携わった都官僚、そしてなによりも移転を議決した都議会にも責任があることを指摘した。また小池百合子都知事こそが、今日の豊洲移転問題の停滞の元凶であると指摘した。記者会見に臨む石原慎太郎元都知事=3月3日、東京・内幸町の日本記者クラブ(松本健吾撮影 このような石原氏の記者会見での発言を、「石原氏は無責任である」というのは簡単である。特に大メディアやテレビのワイドショーなどでのコメンテーターの発言は、おおむね石原無責任論に傾斜しているようである。しかし記者会見の冒頭にもあるように、「行政の責任」は自身にあると明言している。ならばどの範囲までの「行政の責任」を負うのかという、客観的で実証的な議論になるはずだ。だが、メディアの報道はそうなっていない。むしろ石原氏をすべての問題の背後にいた巨悪のように扱う「空気」を生み出すことに終始している。 最近のメディアの報道の特徴だが、なにか政治的な事件の裏側に、問題をすべて引き起こしているようなスーパー権力が存在すると読者や視聴者を煽る傾向がある。これは実体が伴わないときには、真に憂慮すべきことになる。もちろん政治的な腐敗や問題を引き起こす真の「権力者」がいる場合もあるだろう。だが、そのときにはその「権力者」が何らかの政治的・経済的利益を得ていることが前提である。つまり「権力者」は腐敗を引き起こす合理的な理由があるはずだ。 石原氏は、豊洲移転を決めることで、何か政治的にも経済的にも利益を得ただろうか。筆者はこの点を考えたところ、その答えは前者については、鈴木俊一知事の時代に既定路線になっていた築地市場の移転を、豊洲に移すということを決定したリーダーシップで、世間から高評価の政治的価値を得ることであったと思う。後者の(石原氏が得た疑いのある金銭的見返りなどの)経済的価値の奪取については、筆者の知る範囲では“ない”。本当に問われるべき石原氏の「行政責任」 前者についてはもちろん「悪い」こととは言い切れない。なぜなら自身の政治的権威を高めることが、そのまま都民の生活向上を生み出すことになれば、その政治的欲望は社会的に肯定できる。もちろん威張った人を見るのが嫌いだ、という感情的な反発は世論の中には常に一定数あるが、それを社会的に議論する意義は乏しい。 豊洲移転は2001年に石原氏によって決定されたのだが、移転先の豊洲が土壌汚染に見舞われていることは当時から明らかだった。2007年に専門家会議が立ち上がり、そこで汚染対策(地面の深掘り、盛り土など)が決定された。 当時の石原知事が汚染対策に強いリーダーシップを発揮していたことは、猪瀬直樹氏の『東京の敵』(角川新書)でも具体的に記述されている。読者にはぜひ猪瀬氏の『東京の敵』を熟読していただきたい。 要点を書けば、豊洲の汚染問題はワイドショー的なものとして過剰に報道されている。きちんとコンクリートを貼るなど対策をすれば安全面では問題はない。問題があるとすれば、技術会議での議事録の取り方、決定のプロセスや情報公開の仕方である、と猪瀬氏は解説している。2012年10月、庁議に臨む石原慎太郎都知事。左は猪瀬直樹副知事=東京都庁「豊洲については長年かけて安全対策を講じてきました。盛り土のはずが空洞になっていた、なぜそうなったのか、そこでどういう意思決定・情報共有があったのかが不明で間違った広報活動があった。それがテーマのはずが、基準値以下の汚染、あるいは周辺の道路とさほど変わりない空気中のベンゼンが密閉空間から検出されたなど、おおげさな報道で風評を煽って不安感を植えつけたのです」(同書、173頁)。 この猪瀬氏の指摘を筆者なりに解釈すれば、記者会見で石原氏が言い切った自身の「行政の責任」が生じ、そのミスの責任が問われるとすれば、情報公開の仕方になる。 また石原氏が決めた土壌汚染対策に含まれるモニタリング調査(全9回を当初予定)は、7回までは汚染物質はなく、8回目で検出されたが微量であった。汚染が大きく報道された9回目のモニタリング調査は、最近の報道によれば不適切な調査が行われていたという。ワイドショー的に、汚染が過大に喧伝されるきっかけになった調査でもあり、その真相の究明が待たれる。経済的見返りを期待できる政治勢力の正体 しかもここが重要だが、もし環境面に問題があるならば、それは対策が可能なはずである。先に書いたように、コンクリートを貼る、地下水は長期間飲まないこと(!)など適切に対応できる範囲ではないか。環境対策を早急に行う方に努力を傾注したほうが都民の経済的負担も少なくなるのではないか。 だがこの面についての小池知事の対応は鈍い。むしろ「犯人捜し」にその政治的努力のほとんどが向かってさえいる。その標的がいまは石原元知事になっている。これはきたる都議選での戦略もからんでいるのかもしれない。 さて筆者は、石原氏には豊洲移転に伴う金銭的報酬などの経済的見返りの証拠がない、と指摘した。だが、経済的見返りを期待できる政治的勢力は実は存在している。猪瀬直樹氏の『東京の敵』では、豊洲市場の建屋建設の入札、また最近ではTwitterなどで築地市場の解体工事の入札に伴う不信な動きに注意を促している。自民党千代田総支部総会後、議員引退を表明した内田茂都議=2月25日、東京都千代田区(鈴木健児撮影) 猪瀬氏は、『東京の敵』の中で、入札に関わった企業の中に、石原時代から都議会を事実上、掌握していた内田茂自民党元都連幹事長が役員をしていたJV(ジョイント・ベンチャー)が加わっていたことを指摘している。これは地方自治法の違反にあたると糾弾している。そしてこの入札の決定プロセスが、知事の権力の空白期にタイミングを合わせておこなわれていると猪瀬氏は指摘している。 先ほど、筆者は政治的な腐敗を引き起こす合理的理由がふたつあるとした。ひとつは政治的権威を高めること、もうひとつは経済的報酬である。さらに議会は、東京都の制度上でも「二重代表制」の一翼を担い、知事と並ぶ都政の「責任」主体でもある。 政治的権威と経済的報酬を得る可能性のあった人物こそ、百条委員会に召喚すべきではないだろうか。石原氏だけを世間の空気から断罪するのは適切ではないのではないか。筆者は、猪瀬氏の指摘を真摯に受け止めるべきだと思う。

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    財務省はやっぱり緊縮病? いっそのこと幼児教育から無償化せよ!

    投資の金銭的裏付けとしては実に有効である。 さて、日本の科学に関する基礎研究の問題点については、この連載「ノーベル賞候補の日本人研究者はなぜ中国と韓国を目指すのか」で既にふれた。経済学者のポーラ・ステファン教授の指摘によれば、科学の生産性を決めるキーは科学者のやる気だ。そしてこのやる気は、従来の知的資産の蓄積や本人の知的好奇心も重要なのだが、なにより金銭的な仕組みが決定的な要因となる(ポーラ・ステファン『科学の経済学』日本評論社)。研究開発投資(R&D)のGDPへの比率でみると、有能な科学者たちが世代ごとに生まれるのかどうかがかなりはっきりする、とステファン教授は指摘している。将来世代への借金の先送りにあらず 日本は米国と並んで、この「研究開発投資/GDP比率」が最も高いグループに所属する。この比率が高い時期に研究を開始し成果をあげた人たちが、現在ノーベル賞を日本で受賞している。しかし最近はこの比率が低迷している。ひとつの大きな要因は、財務省の緊縮主義による研究開発投資の引き締めである。まさに財務省的緊縮主義が、国の根幹を研究開発投資のサイドからも破たんさせようとしているといえる。教育国債はこの観点からは、日本の科学研究を進展させる原資として実に有用である。 もちろん財務省も巨大組織で様々な思惑もあるのだろう。「教育国債」がどのような思惑で出てきたかはわからないが、おそらくプラスマイナスゼロ的な発想の枠内だろう。例えば公共投資としての新規国債発行を抑制する代わりとして、この教育国債の発行を想定しているのかもしれない。いずれにせよ、できるだけ「財政中立」的もしくは財政緊縮的な枠組みの中での発想ではないだろうか? それが麻生財務相の教育国債への否定的な発言につながるのだろう。 さて大学や大学院の授業料への補助金として教育国債を使うことに筆者は賛成している。就学前や義務教育期での教育の投資に比べれば、例えば大学教育で期待される予想収益率(教育の見返りでもたらされる社会的な報酬)が低いことは明白である。だがそれでも大学に行くか高校に行くかで、3割から6割以上までの時給の違いが観察されるという。この時給、さらに生涯年収の違いは、多くはその人が教育をうけたことの見返りで説明できる。もちろんその教育が生産性に結び付かないとこれらの報酬の違いは説明ができない。これを「人的資本仮説」という。国債証券(日本銀行提供)=2010年8月 人的資本仮説は実証的に頑強であることが最近の研究で示唆されている。例えば大学にただいくだけで所得があがる(つまり生産性に結び付かないで所得があがる)というシグナルとしての高等教育論は、実証的に支持が難しい。詳細は東京大学の川口大司教授のこの解説論文を参照されたい。 また大学など高等教育の場では、単なる知識・技能の向上だけではなく、さまざまな人的交流の場として、先ほどのヘックマン氏が指摘していたような、非認知的能力(人格的な陶冶)の向上もみられるのではないだろうか。この点は今後、実証してみなくてはいけないだろう。 問題は、財務省発であるにもかかわらず、あいかわらず財務省的な緊縮病の範囲内で、この教育国債が考えられていることだろう。その点は強く修正していかなかればいけない。人を育てる投資は、将来世代への借金の先送りではない。人々が現在不足するそのお金を国民みんながうすく広く負担することで、将来大きな見返りを生み出す「資産」なのである。 最後に、この「教育国債」など資金的な面を安定的にするために、憲法改正を求める意見もあるが、それは間違いである。教育の資金的な安定は経済政策によって達成されるべきである。それは「憲法に書いてあるから平和になる」と同じ理屈であり、政策の割り当てを間違えた意見にしか思えない。

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    権力の闇に潜む2人のドン、猪瀬直樹が明らかにした「新事実」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)2016年11月、東京都の小池百合子知事が設立した政治塾「希望の塾」で、講師としてあいさつする元知事の猪瀬直樹氏 猪瀬直樹氏は筆者が経済時論を書いたそもそものきっかけを与えてくれた、いわば時論での「マエストロ」である。今世紀の始め(2001年)に開始した猪瀬直樹メールマガジン「日本国の研究」が、その時論の舞台であった。当時、小泉純一郎政権での構造改革が始まっていた。猪瀬氏の活躍は、道路公団民営化を中心にして、国民の多くがまだ記憶に残していることだろう。 猪瀬氏の「構造改革」の独自性は、経済・社会の構造問題はその原因になっている組織や人物が必ず存在する、という点にある。日本人はなぜか経済・社会問題を自然現象のように見なしてしまうが、猪瀬氏の批判的視座はそれとは真逆だ。 この態度は、道路公団民営化、そしてそれに続く東京都の副知事・知事としての改革でも一貫していた。マクロ経済政策については必ずしも筆者と完全に同じではないと思うが、猪瀬氏の構造改革的手法は、いまの日本の問題を「事実検証と論理」で解明するためには欠かせないものだと思っている。 また猪瀬氏は諦めることのない「ファイター」でもある。知事時代の挫折を真摯に反省し、それを強靭なバネにして、猪瀬氏が再び東京都という巨大な「構造問題」に取り組んでいる。小池百合子知事の誕生前後で、ネット媒体NewsPicksや自身のTwitterで積極的に意見を表明する姿は、いわゆる「抵抗勢力」には脅威に違いない。その猪瀬氏の東京問題への格闘の「復帰」を象徴するものが、今回出版された『東京の敵』(角川新書)だ。 冒頭からズバリ書く。「東京の敵」とは、まさに具体的な人物だ。都政の妨げになっている二人のドン。「都議会のドン」である前自民党都連幹事長の内田茂都議、そして「五輪のドン」である元首相であり、現在の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長である森喜朗氏である。 東京都の政治制度は都知事に権力が集中しているわけではない。本書でも詳述しているが、政治的権力は形式的には、共に都民に選出される知事と都議会という「二元代表制」になっていて、国レベルでの首相と議会とは異なる仕組みである。 この「二元代表制」の中で、都民の多くが知らなかった権力集中が都議会で行われていた。それが自民党東京都連幹事長の職を10年以上務めてきた内田茂氏の存在である。内田氏への個人的な権限の集中は強く、国会議員もその影響下にあるといっても過言ではない。知事の職務や発言はしばしばマスコミの話題にするところだし、また都民の視線も厳しい。だが、もうひとつの「代表」である都議会の権力集中が闇の中にあることは問題である、というのが猪瀬氏の基本的な態度だ。 冒頭でも書いたが、東京都が決める様々な政治的決定には、それを生み出した「人物」がちゃんと存在しているのだ。その「人物」は決定の内容に見合うだけの社会的責任を負う必要があり、それはきちんと世間の前で明らかになっていないといけない。東京都議会本会議の一般質問中に談笑する内田茂都議(右)=2016年12月8日(桐山弘太撮影) 猪瀬氏は、「闇に棲む者は光を当てることで力を失う」と何度も本書の中で述べている。内田氏の権力集中は、猪瀬氏の一連の発言によって世間の知ることとなる。その結果、都政における決定プロセスが非常にはっきりしてきた。内田氏は以前のように闇の中での権力行使がしづらい環境に今はあるだろう。これこそ、猪瀬氏がかつて道路公団民営化でも進めてきた「情報公開」の真の意図ともいえる。グランドチャンピオン級の大ボス4者協議を終えて握手する大会組織委員会の森喜朗会長(左)と東京都の小池百合子知事=2016年12月21日、東京都港区(代表撮影) さらに「東京の敵」の本丸が存在する。東京五輪エンブレム問題や新国立競技場問題で、その「責任」がまったくあやふやだった大会組織委の森喜朗会長のことである。「内田氏が、金メダル級のドンだとしたら、森氏はグランドチャンピオン級の大ボスであり、まさしく『東京の敵』です」(同書、78頁)。 『東京の敵』では、特になぜ森氏が東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長になったのか、その詳細が記述されている。要するに、森氏の猛烈ともいえる権威欲がその就任の直接の原因である。森氏の就任で、民間の人材を積極的に登用し、財務についても成果と責任をはっきりさせる客観性を担保しようとした、猪瀬氏の知事時代の試みは頓挫した。 森氏がどのような過程で会長になり、その無責任体制が出来上がっていったのか、その詳細な記述は本書の中でも「新事実」ともいえるもので、筆者にはとても興味深いものだった。なぜ森会長は、新国立競技場問題でも、その責任感をまったく欠いた発言を繰り返していたのか、その問題の根源がよくわかる。 これらの「東京の敵」にどう対峙するのか。小池都政に対しての猪瀬氏の期待は大きくはあるが、同書を読んだ限りでは抑制的で、いわばケースバイケースだ。特に猪瀬氏は豊洲市場の移転問題が、マスコミが主導して過度に安全性問題に傾斜している実情に批判的だ。 猪瀬氏の豊洲問題での視点もはっきりしている。土壌汚染対策は、安全性の問題というよりも、「盛り土」の件についてもそれは広報の情報発信の問題、そして都組織内部の情報共有の失敗である、という指摘である。この点で、小池都政の情報公開のあり方には好意的であり、他方で自身が退いた後の舛添都政での情報発信の後退と、そこに関与した内田氏ら自民党都議の責任を改めて追及している。 情報の非対称性が経済の資源配分を非効率化することは周知のことである。問題はそれを正すにはどうすればいいかだ。テレビや新聞などのマスコミは、ワイドショー的になってしまい、批判的検証ではなく、単なる発言の責任なき「感想」レベルになっているのではないか、と猪瀬氏はここでも厳しい。 既存のマスコミに代わるものはなにか。その解答は容易なものではない。また他人任せにせずに、「事実検証と論理」で我々自身が考察していかなくてはいけないだろう。もちろん我々には時間的余裕もなく、知識の点でも不十分だ。だからこそ、その点を見事に指揮するだろう論壇の「マエストロ」の復帰を、ここに祝いたい。

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    アベノミクスの破綻を煽る「金融岩石理論」は簡単に論破できる

    で、両方とも主張する人が多い。「どアホノミクス」とヘンテコな予測をする人気経済学者 例えば、前回この連載でも登場した朝日新聞編集委員の原真人氏の新刊『日本「一発屋」論』(朝日新書)はその典型である。安倍政権の経済政策は、金融と財政の一体化という名目での「財政ファイナンス」であり、「意図的にバブルを起こそうとする試み」である。低成長が常態になった日本経済で、日銀によってマネーでじゃぶじゃぶにする政策を行えば、バブルが生じてしまう。そしてバブルはやがて破裂するので、経済への反動は深刻化する、だろうというものだ。バブルの破裂を、原氏の著作ではハイパーインフレや財政破綻などとしても表現されている。 この原氏と同様の意見を、経済学者の浜矩子氏と評論家の佐高信氏がその対談『どアホノミクスの正体』(講談社+α新書)の中で語っている。その対談の一部はネットでも読める。浜矩子 アベノミクスは、すでにして行き詰まっていると言えます。屋上屋を重ねるように場当たり的な金融政策を続けているわけですが、いつそれが崩壊してもおかしくない。「アホノミクス」、いや「どアホノミクス」と言うべき状況です。 浜氏によれば、アベノミクス(日銀の金融政策)は、極端な国債の買い取りによりマネーを無制限に供給する政策である。この無責任な政策は、実体経済と乖離したバブルを生み出し、やがて破綻することが目に見えているものだという。 浜氏は経済評論家の高橋乗宣氏と共著で、21世紀に入ってから(リーマンショックが起きた2008年以外)毎年のように、世界や日本の経済危機を予測する書籍を出していることでも著名だ。今年(2017年)の経済危機を予測する高橋氏との共著はまだ出されていないのが、筆者の少し心配するところではある。それだけの人気経済学者でもある。 さて原氏も浜氏も、それぞれ「金融岩石理論」的な主張だといって差し支えないだろう。この「金融岩石理論」が、理論的にも実証的にも成立しがたいことを、丁寧に解説した良書が出版された。原田泰・片岡剛士・吉松崇編著『アベノミクスは進化する』(中央経済社)がそれだ。 現在の先進国(日本、ユーロ圏、イギリス、アメリカ)は、それぞれインフレ目標を設定していて、その目標値を大きく上回るようなインフレになれば、積極的に金融引き締めにコミットするように公約している。どんなに経済が過熱してもその結果としてインフレが目標値以上に高騰すれば、やがて中央銀行が金融引き締めに転じるであろうと、多くの市場関係者たちが予測し、またはすぐに予測できなくても次第に学習することで、自分たちの経済上のポジションを金融引き締めに適合したものに変更する。これによって自己実現的に経済は金融引き締め型に転換していく、というのがインフレ目標の重要なポイントだ。 簡単に言うと、人々の予測をコントロールしていく政策である。人々の多くは、ときにヘンテコな予測をする人がいても、よほど非合理的な思考に陥る人でもないかぎり、時間をかければほとんどの人が経済の状況(ここでは中央銀行の引き締めスタンスの予測)を正確に把握するだろう。中央銀行がインフレ目標から乖離したら引き締めるといっているのは嘘だ、と思い込む人は極めて少数だ、という意味である。日銀と政府の「デフレ脱却」を信じなくなった理由 さてこのようなインフレ目標を採用していなかった時代、1970年代は年率数十パーセントのような高いインフレに見舞われた。日本でも第一次石油ショックの後の「狂乱物価」が代表的だ。『アベノミクスは進化する』の編著者のひとり、現在の日銀政策委員である原田泰氏は、1)マネーと物価は連動している、2)物価はいきなり猛烈に上昇するのではなく半年以上、通常は1年から数年かかる、ことを指摘している。このことから、中央銀行はインフレ目標を設定することで、物価が上昇し始めても十分にインフレを抑制することが可能だ、ということになる。 日本がデフレを継続してきたのは、90年代から2012年までのインフレ目標なき時代の日銀による政策運営の時期にちょうど該当する。インフレ目標は上限も定めるが、デフレに陥らないようにできるだけ目標値に近い水準を目指して経済を運営するのが、いまの中央銀行の標準であり、日本もそうだ。しかし、このインフレ目標のない時代があまりにも長すぎて、マネーと物価(デフレ)は、21世紀に入る頃には連動しなくなってしまった。この時期に何が起きていたのだろうか。 当時の日銀(そしてその時々の政府、第一次安倍政権も含む)は、インフレ目標の導入や積極的な金融緩和を拒否する一方で、「デフレ脱却に努力する」と空手形を出し続けてきた。その10年以上に及ぶ「ウソ」の累積によって、人々は日銀と政府の「デフレ脱却」を信じなくなってしまったのだ。 これはこれで実に合理的な態度であるが、このデフレ予想が固着してしまったことの弊害は深刻である。マネーをどんなに供給してもそれがいつか縮小するのではないか、(デフレ脱却には)不十分なままで終わるのではないか、と人々が予測することで、物価とマネーの連動が壊れてしまったからだ。 いわば十数年かけて、日銀は人々の物価とマネーの連関を見事に破壊してしまったのである。これを再度、連動するような正常な状態に戻すことを、いまの日銀は最終的な目標にしてはいる。ただしまだデフレ脱却の途中であり、過去のしがらみ(デフレ予測)はかなり強靭である。 では、デフレ予想のしがらみが一気になくなるとしたら、どうなるか。これはこれでインフレ目標政策がしっかりと有効になるということなので、高率のインフレがいきなり出現するわけではない。先のインフレ目標政策の効果から自明である。 原田氏らはこのような事例をふんだんに先の著作の中で示し、金融岩石理論を理論的にも実証的にも論破している。ちなみに、原氏などの懸念とは真逆に、積極的な金融緩和政策をすることで、政府の財政は大きく改善することも同書では実証的に示されている。むしろ財政危機は、経済の停滞を自明としてしまい、経済停滞の中で緊縮政策(財政再建政策という名前の政府支出減少や増税)で生じてしまうことも明らかにされている。 まだ一年が始まったばかりである。安易に危機を煽る本よりも、地に足がついた経済書や議論をしっかりとこの一年読んでいきたいと思っている。

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    朝日編集委員の「経済成長が例外」という主張こそ、むしろ例外

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) この記事は、新年初笑いなのか? そんな論説が1月4日の朝日新聞の一面に掲載された。題して「『経済成長』永遠なのか」(経済成長は永遠なのか 「この200年、むしろ例外」:朝日新聞デジタル)。執筆者は朝日新聞編集委員の原真人氏である。この論説はネットでも話題になったが、ひと段落ごとに突っ込みをいれたくなる発言が盛りだくさんで、なにも松の内からこんなにサービスしなくてもいいものを、と思うものだった。ただしサービスの内容はトンデモな経済認識のてんこ盛りだが。 記事全体は、論点が錯綜しているが、要するに、アベノミクスのうち金融政策批判と、それに連動した「経済成長神話」なるものへの批判である。批判ばかりだと申し訳ないと思ったのは、経済成長がなくても十分に幸福に生きられるよ、とでもいった経済観で締めくくっている。 経済成長自体に懐疑的になる立場は経済学の発祥とほぼ同じ段階で始まっていて、別にトンデモでもなんでもない。例えば19世紀初めのフランスの経済学者シスモンディは、富の追求自体ではなく、人間的価値を高める生活を希求し、当時のモノの豊かさだけを追い求める経済学のあり方に否定的だった。この話題についてはまたあとで考察する。 筆者がトンデモな経済認識だと思ったのは、論説の冒頭からいきなり出てくる。原氏は日本銀行が2016年1月に導入したマイナス金利政策について以下のように紹介し、アベノミクスの成長重視、デフレ脱却政策の「希望をくじいた」と主張している。「いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようにせかす狙いだった」 このような記述が、日本を代表する新聞の一面で目にするのはきわめて驚くことである。なぜなら私たちが銀行に預金して、そこで利息をとられてはいないのが常識だからだ。日本銀行もこの種の誤解に対応するためにわかりやすいQ&Aを設けている。「マイナス金利になると、私が銀行に預金しているお金も減ってしまうの?」「マイナス金利といっても、銀行が日銀に預けているお金の一部をマイナスにするだけ。個人の預金は別の話です。」「個人の預金金利はマイナスにはならない?」「ヨーロッパでは日銀よりも大きなマイナス金利にしていますが、個人預金の金利はマイナスにはなっていません。」5分で読めるマイナス金利(日本銀行) 常識的な観察でも私たちはマイナスの金利をとられていないし、そもそもマイナス金利政策は個人の預金をターゲットにしたものではないのだ。本当に若者たちは事実上豊かになっているのか ところでこのマイナス金利への「誤解」を踏まえて、続けて原氏は以下のように記述している。「政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。 だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がりの経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である」 原氏によればアベノミクスは「成長よ再び」に失敗したことになっているので、この名目成長率のほぼゼロという話は、アベノミクスの失敗という誤った印象を読者に与えるにふさわしいものとなっている。 ところがアベノミクス期間中の名目成長率はゼロより高い。年次名目GDP成長率は、2013年度(対前年比)2.6%、14年度が2.1%、15年度が2.8%である。2016年度は進行中なのでデータは得られていない。ちなみに2014年4月の消費増税実施前で、なおかつ駆け込み需要の影響がなかったアベノミクス実施期間での実質経済成長率をみると2.6%と高い水準になっている(2013年第4四半期の対前年比)。名目経済成長率の上昇も(特にデフレ脱却期間中には)重要だが、もちろん実質経済成長率も同じかそれ以上に重要である。 要するに、名目経済成長率がゼロ近くにしかならず、日本は低成長から抜け出せない、という原真人氏のシナリオは、アベノミクスの下での日本経済では成立していない。ちなみに筆者の見解では、2014年の消費増税の悪影響がなく、続く世界経済の不安定性がなければ、さらに日本の経済成長率は高かったと思われる。 まさに「トンデモ」ない日本経済への認識だと思う。さらに原氏は、GDPだけに注目してはだめだという。そのときに彼が例示するのは、日本が「失われた20年」に喘いでいたときでも、若者たちは事実上豊かになっているということだ。「若者たちが当たり前に使う一台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったか」と、原氏は書いている。25年前なら80万円超の価値があると、それがいまや8万円になっている。「ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万円超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ」 原氏のトンデモ経済論はこの記述に極まっている。確かにこのようなGDPの解説では、「見えなくなる」ものがある。25年前なら80万円の価値のあった8万円のスマホを買うことができない若者の存在である。モノが豊富にあっても買うことができない人たちが大勢いれば、その国民の生活は悲惨なものだろう。 モノを手に入れるには、人々の所得が豊かになる必要がある。所得を豊かなものにするには、働きたい人が働けるような環境がまずは大切だ。ところが原氏の論説には、このアベノミクスの期間中に大幅に改善した雇用状況の話は一切触れられていない。これは非常に奇妙なことだ。むしろ「富の追求」を称賛している原氏 なぜ奇妙か? さきに富のみを追求する経済学のあり方に疑問を提起したシスモンディを例示した。シスモンディは、原氏の論説の後段でも出てくる「定常化社会」や経済成長懐疑論の源流である。 シスモンディがなぜ富の追求のみを追う(つまりGDPのみを追う)経済学のあり方に疑問を抱き、それに代わる人間の価値を高める経済学を追求したのだろうか。それはシスモンディの時代に恐慌(経済危機)で働きたくても働けない、困窮した多くの人をみてのことだった。つまり雇用の悪化とそれによる生活苦が、シスモンディにいくら財が豊富でもそれを買うお金がなければ意味がない、それによって人は貧困に陥り、人間の価値を高める機会を失う、とみたのである。 だが、原氏には25年前の80万円の価値があるスマホが8万円になったことを称賛しても、シスモンディのような雇用機会の確保の重要性や購買力(総需要)への重視はない。つまり原氏の認識こそが、実はご本人の意図とは異なり、富の追求それ自体をまさに称賛しているものなのだ。 さて、シスモンディの考え方-人々に購買力をもたらす雇用機会の確保-という経済思想は、富の追求のみを重視する「原真人型」(!)の経済論を否定しながら進展していく。例えば、19世紀から20世紀はじめにかけて活躍したジョン・アトキンソン・ホブソン、現代の福祉社会論の父ともいえるウィリアム・ベヴァリッジ、そしてホブソンやベヴァリッジの意義を認めていたケインズなどである。ベヴァリッジは特に労働という側面だけではなく、病人・幼児・老人あるいは女性などの「社会的弱者」を救済する社会保障の仕組みと、完全雇用のふたつを自らの福祉社会論の骨格とした。 経済危機からの完全雇用の達成には、経済の拡大が必要である。経済が拡大する中で、財政が改善し、それによって社会保障の基盤も充実していく。そればベヴァリッジの基本構想だった。つまり福祉社会は完全雇用をもたらす経済成長とは矛盾しないのである。矛盾しないどころか、完全雇用は福祉社会の重要な核である。 また原氏は論説でGDP懐疑論や低成長「正常」論を唱えているが、日本ではこの種の議論のときにしばしば援用される、『スモール・イズ・ビューティフル』という本がある。著者はエルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー。本の題名からもわかるように、彼は富の追求自体に重きを置く経済成長論に否定的だった。 だが、ここでもシスモンディやベヴァリッジ同様に忘れてはならないことがある。シューマッハーは、ケインズの経済学に多大な影響をうけた「雇用重視の成長」論者であるのだ。シューマッハーとケインズ、ベヴァリッジはそれぞれ生前に面識があり、社会保障の拡充と完全雇用の達成という現代の福祉社会論の構築に大きく貢献した。ベヴァリッジに雇用の重要性を教えたのは、ケインズの影響をうけたシューマッハーであった。 ここまでお読みいただくと、原真人氏に代表されるような低成長「正常」化=GDP懐疑論者が、いかに一面的なものかがおわかりいただけるだろう。それに対して、富の追求ではない、人間の価値を追求してきた経済学者たちの多面的で、豊かな経済認識の格闘があったことも。 アベノミクスを建設的に批判するなら結構である。それはそれで得るものがあるだろう。だが、残念ながら原氏の論説からは、単なるトンデモ経済論の音しか聞こえない。

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    「トランプ円安」はなぜ日本経済にプラス作用するのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 報道によれば、エコノミストの高橋乗宣氏と浜矩子氏の毎年恒例、日本経済の一年を守ってくれる「経済危機予測」シリーズが今年は出ないという。非常な危機感を意味もなく抱いてしまう(笑)。 本来、人間とはすべて合理的にモノゴトを考える動物ともいえず、なんらかしらのバイアス(偏見)を抱懐しているのが通例である。とはいえ、経済合理性の強さもまた歴然としていて、要はその合理と非合理のバランスをどうみていくかが、経済に限らず人間の集団的行動の推移を理解するうえでのキーポイントといえるのかもしれない。 高橋氏&浜氏の「経済危機予測」シリーズが刊行されなかった2008年のリーマン・ショックのような世界的な経済危機は起きなかったが、それでも世界経済は「不連続変化」とでもいっていい出来事に見舞われた。ウィスコンシン州で開かれた感謝集会で演説するトランプ米次期大統領=12月13日(ロイター) 特に今年は、イギリスの国民投票でのEU離脱支持や、トランプ大統領の誕生など、事前の世論調査では予測できなかったような出来事が生じ、それによって経済も思いがけない衝撃をうけた。特にトランプ氏の大統領当選は、世界経済の光景を一変させてしまったといえるだろう。 日本でも日経平均株価は急騰し、ひと月ほどでそれまでのトレンドから10数パーセント上昇、またドル円レートも14円以上の円安になった。これらの事象は日本経済には明らかにプラスに作用するだろう。また外交面ではロシアとの関係のクールダウンが生じてしまうなど、安倍政権にも政治的「誤算」が生じている。 2015年から本格化していた世界経済の動乱ともいえる事象の根源には、アメリカの経済政策が事実上「失敗」していることが原因ではないか、と指摘されてきた。例えば、エコノミストの片岡剛士氏やG・エガートソン教授(ブラウン大学)はその代表的な論客だった。 アメリカ経済が実はそれほど回復していないにもかかわらず、財政政策は議会の反対によって膠着状況が続き、また金融政策は金利引き上げのタイミングを逃し続けていた。世界経済の人、モノ、情報、そしてお金の流れの根幹を担うのは、いまだアメリカ経済であり続けている。このアメリカの経済「覇権」の裏返しで、その経済政策が方向性を見失うことが、世界経済のリスクを増大させてきた。株も為替も2015年夏頃までの水準に戻る? だが、トランプ当選以降、アメリカの経済政策はこう着状態から事実上脱した。トランプ次期政権の経済政策の根幹は、大規模な財政政策だ。他方で減税政策も採用するといわれているため、将来的には国債の増発が予想される。国債の増発は国債価格を引き下げ、同時に国債の利回りを上昇させる。実際にトランプ当選直後から10年物の米国債の金利が急騰している。現状では約2.6%であり、約0.1%の日本を含めて各国との金利差は急上昇している。(AP) 特に日本の場合は、日本銀行の新しい政策手段で、10年物の国債の金利をゼロ近傍に維持することが公約されている。このため米国債との金利格差は将来にわたって拡大ないし維持されることが予想される。日銀とトランプ氏の経済政策は実に「相性」がいいのだ。 日米の金利格差は、投資家にはドル建て資産(高い利回り)を購入し、円建て資産(低い利回り)を売却する動きを促す。これはドルを買い、円を売る動きの加速化につながる。そのため上述したようにドル円レートは円安に一挙に進んでいる。これは教科書的な現象である(参照:藤井英次『コアテキスト国際金融論』新世社他)。 また円安の定着は、日本企業に主にふたつの経路をもって影響を与える。ひとつが輸出に寄与することであり、もうひとつは日本企業のバランスシートを改善させることである。後者は簡単にいうと、日本企業の負債は円建てなので急激に圧縮し、他方でドル建て資産の価値上昇により、バランスシートの改善がもたらされる。このような企業のフロー(収益)、ストック(資産)両面での改善が予測されるので、株式市場ではこの予測をもとに日経平均株価やTOPIXなどの指数が上昇していく。 株、国債、そして為替レートなどの資産の動きを読み切ることはできない。いま描いた図式に沿って、単調に事態が推移していくわけでもなく、時折の変動をみることだろう。ただ片岡氏らの指摘してきたように、世界経済の動乱の根源が、アメリカの経済政策の事実上の「失敗」にあったならば、それが解消されつつある現在、株価や為替レートも世界経済の動乱が本格化した2015年夏頃までの水準に戻っても不思議ではない。ちなみに資産運用は個人の責任で行っていただきたい。トランプとFRBの強調で世界経済に活気? さて2017年、このような資産市場の動きがどう世界経済に影響を与えるだろうか。高橋乗宣氏と浜矩子氏のように大胆な予測をすることは、私にはできない。ただあえて、「世界は日本経済の復活を知っている」といえるだろう。 まず国際的には、2017年も米国経済が主役であり続けるだろう。先日、アメリカの中央銀行であるFRBが金利の引き上げを行った。金融政策の決定をするFOMCのメンバーの多くが来年3回の利上げを予測しているが、他方でFRBのジャネット・イエレン議長はトランプ政権の経済政策次第では今後の金融政策を柔軟に対応させると明言している。実は当たり前なことだが、中央銀行と政府がうまく政策協調できることは難しい。実際に、この日本で安倍政権が始まる前までは、日銀と政府の政策協調が事実上破たんし続けていた。米連邦公開市場委員会後、記者会見するFRBのイエレン議長=12月14日、ワシントン(ロイター=共同) トランプ政権が経済拡張を狙って財政刺激政策を活発化させれば、当然にFRBはそのサポートをしなければいけない。FRBの金利引き上げはそれ自体経済を冷却化してしまうので、今後の金利引き上げは事実上凍結に近い状況になるのではないだろうか。他方で政府と中央銀行の協調がうまくいけば、アメリカ経済の成長余力が発揮され、アメリカの好況は世界経済に活気を与えるだろう。またOPECの減産などをうけて資源価格も上昇しはじめ、ロシア、中国などの新興経済圏の失速リスクはやわらぐだろう。 海外の不安定要因としては、やはり紛争リスクがあることは間違いない。特にアメリカと中国、そして経済・外交的に漁夫の利を得つつあるロシア、もちろんシリアを中心とする中東情勢は予断をまったく許さない。これらの地政学的リスクへの配慮は、世界経済を考える上での必修となっている。 もちろん日本経済は、国際状況のみに依存しているのではない。独自の経済政策によって変えることのできる「人為的現象」だ。2017年における日本の経済政策の方針は、デフレの完全脱却というリフレーション政策におくべきだ。リフレーション政策は、現在のアベノミクスに反映されている政策でもある。日本銀行はインフレ目標2%の早期達成に全力を尽くすべきだし、また安倍政権は積極的な財政政策を行い、その政治力のすべてで財務省が主導する消費増税路線を封殺すべきである。日本が進むべき方向は、世界が知っている。

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    メンバーの確執よりも重い!SMAPロスを招いた「談合」という歪み

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) SMAPは楽しく感動的で、また時に波瀾万丈でもあり、そしてなにより平成という時代をともに生きてきたという実感がもてるただ一つといっていいアイドルだ。そのSMAPの5人が揃う姿をみることが、まもなくなくなってしまう。東京新聞に掲載されたSMAPのデビュー25周年を祝うメッセージ=9月9日、東京都港区 実際には、『SMAP×SMAP』の収録が終わったことで、我々が見ることのできるのは、少し前の5人の姿でしかない。5人そろったSMAPの姿を、もうライブやテレビの生番組で見ることができないのだ。もちろん紅白歌合戦への電撃的な出場があるかもしれない。だが、その可能性は絶望的とも報じられてもいる。 どんな形でもいいので、彼らの「今」の姿、5人そろった現在を一目でも見たいというのは、多くの国民の願いではないだろうか。 できれば5人がお互いに笑顔を交わし合う姿が一瞬でもあれば、それは本当に幸福なエンディングではないか。もちろん終わりであってほしくはない、再び結集してほしい、いまでも解散を撤回してほしい、というのは筆者を含めた圧倒的多数のSMAPファンの偽りなき心境だろう。 最近では、SMAPがアイドル市場から喪失することの経済効果を聞かれることが多い。経済学者なのでこのマスコミの依頼に答えることは義務だと思っているので数字をあげている。ただそのときでも、数字では表せないファンの感情を考慮することが重要だと指摘している。実際にSMAPが喪失することによる心理的な負担は、人によりけりではあっても、かなりのものになると思っている。それだけSMAPは平成に生きる人たちの、個々の人生の中にしっかりと根を張った「物語」だった。 ひとまずSMAPの経済効果を考えてみる。年間でどのくらいの金額を稼ぎ出しているのか、簡単に推計してみよう。売り上げは、ライブの収入、グッズの販売料、ファンクラブの会費、CDやDVDの販売料、テレビやCMなどの出演料、に大別されるだろう。これらの数字をすべてまとめると、SMAPは潜在的に年間約211億円を稼ぎ出すことができるグループだと思われる。 では、SMAPが喪失することでこの211億円の支出がすべて消えてしまうのだろうか。211億円(一説には600億円という数字もある)がSMAP喪失の経済的損失なのだろうか。答えはノーである。確かにSMAPへの支出は211億円から急激に減少するかもしれない。もちろん彼らが解散した後も、その関連商品は売れ続けるかもしれない。そのため、解散後もSMAPへの支出がゼロになることはありえない。 またSMAP解散を悲しむ人たちや、それをなんとか止めたいと願っている人たちが、SMAPの過去のCDやまたベスト盤などを購入することで売り上げを伸ばす分野も出てきている。確かに最近のオリコンチャートをみると、彼らの過去の楽曲が常時上位に名前を連ねている。真の「SMAPロス効果」とは さらにより経済学的にみると、人々の予算と消費性向が一定であれば、そのうちSMAPへの支出が減少しても、その他のアイドルや娯楽、財・サービスへの支出に振り向けられることになる。このときSMAPへの支出が消滅しても、経済全体での消費には影響を与えないことになる。ちなみに消費性向とは、所得のうちに消費が占める割合である。 ただ筆者はこの経済学的説明は不十分だと考えている。そこには「失望効果」が含まれていない。SMAPのファンの人たちは実に活動的だ。ライブやイベントに出かけることはもちろんのこと、昨年の事務所からの「独立」報道の際や今回の解散に際しても、オリコンチャートの上位にSMAPの名曲がランクインするなど、ネットなどを利用した「社会参加」型の運動をすることにも熱心である。 だが、SMAPの解散によって、多くのファンは喪失感を今後抱いていかざるを得ない。そのときの「失望」が、このような積極的な社会参加型の消費を抑制してしまうかもしれない。まさにSMAPロス効果である。 さらにこのSMAPロス効果をそもそももたらしたものは何かを考える必要がある。つまり、なぜSMAPは解散に追い込まれたかということである。メンバー間の確執を伝えるのが最近のメディアの常とう手段であるが、それは筆者からすると、問題の本質から意図的に論点をずらしているように思える。 SMAP解散の原因は、1)メディアのSMAP報道の歪み、2)芸能界のマネジメントに関わる構造的な問題、のふたつによると思われる。前者は間接的な原因で、後者は直接的な原因といえる。 ジャニーズ関連の経済規模は、SMAPや嵐、関ジャニ∞やKis-My-Ft2なども加えると約1000億円になると、筆者は推計している。おそらく日本の芸能界でも屈指の経済規模を誇るものだ。他方で、このアイドル市場最大規模ともいえる経済効果は、負の側面をもっている。ジャニーズ事務所のメンバーに対する報道姿勢が、「御用記者」と「暴露記者」の両極端しか存在しないことは、アイドル批評の世界では既知の事実であった。つまり客観的な批評が成立しがたい世界なのだ。 「暴露記者」的なものとしては、今回のSMAP解散はそもそもジャニーズ事務所内の勢力争いが、一部週刊誌による報道を契機にこじれてしまったことにある。どこの組織にも権力闘争的なものはある。だがそこに第三者(週刊誌など)が介入して面白おかしく書けば、それはノイズとなって当事者たちの判断を狂わせてしまうだろう。ただ「暴露記者」そのものに責任が完全にあるのか、といわれればそうではない。ジャニーズ系のアイドルに対する報道の在り方が、客観的な批判を受け入れる余地を常に持っていれば、そのような「暴露記者」のもたらす弊害を緩和することができたかもしれない。背景にある日本の芸能界特有の構造的問題 「暴露記者」の存在は、実はジャニーズについての報道が「御用記者」が中心になってしまっていること裏返しだ。「御用記者」といっても、実際に事務所側が何かを直接コントロールしているのではない。ジャニーズを批評する上で、多くのメディアが自ら「“事務所のあり方”に触れるな」などと事前に注意を与えることが多い。いわゆる自主規制だ。筆者も昨年の「独立」問題から今回の解散まで、この種の注意を何度も言われたことがある。岩手産リンゴ「冬恋」を来場者にプレゼントするのん=8日、東京都内 またSMAP解散報道が、あたかも事前に示し合わせたように、各スポーツ紙などで一斉に行われた「談合」的事実も周知のことだろう。メディアのジャニーズ事務所への「配慮」は極端に思える。他方で、メンバー個々への人間関係に焦点をずらすことで、事務所とメンバーとの対立は報道の場から消えてしまっている。非常にアンフェアな状況に思える。 さらに日本の芸能界特有の構造的問題がある。これはジャニーズ事務所固有の問題ではない。日本のアイドルやタレントたちが事務所と揉めると、多くの場合、その後の芸能界から「干される」ことになる。事務所とアイドル・タレントが(法的な問題も含めて)揉めても、他のテレビやラジオなど他の企業には一般的には関係のないことだろう。もし揉めていることが(媒体イメージを損なうなどで)問題であるならば、アイドルやタレント側だけではなく、その事務所自体への仕事の依頼も取りやめるのがまだしもフェアだ。だが、実際にはアイドル側しか「干される」ことはない。 例えば、国民的なブームになったNHK朝ドラ『あまちゃん』の主役を演じた能年玲奈(現在の芸名:のん)にかかわるケースはこの典型だ。彼女の所属していた旧事務所との確執が報道され、それが現在も尾を引いていて、テレビやラジオなどへの出演が抑制されてしまっているというものだ。実際に彼女に言及することを自粛するように求められたメディア出演者の証言もある。 ひとつの事務所がいくらその権威が大きくても、メディア全体に影響を及ぼすことは不可能だ。だが、ひとつひとつの事務所の権力が小さくとも、それらが一群となって交渉力を発揮すれば問題は別である。例えばフリーライターの星野陽平氏は、『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)の中で、各事務所がタレントの引き抜き禁止、独立阻止の協定を結んでいて、談合していると指摘している。この談合した独占的な交渉力がもし本当だとすれば、芸能界だけではなくメディアの報道は、わたしたちのメディア受容のあり方を過度に歪めてしまうだろう。 SMAPの件でこの独占的な交渉力に関わる事実を確証することは現時点ではできない。ただ一般的な意味で、このような芸能界の構造的体質が存在するとすれば、アイドルファンに損失をもたらすことは明白である。また多くのタレントたちは事務所から独立する自由、つまり職業選択の自由を持つことができなくなる。 今回のSMAP解散に至る報道で、海外からは現代の奴隷制なる批判も寄せられたが、その背景には日本の芸能界の談合の構造があると指摘されている。SMAPの解散と同様の国民的悲しみが繰り返されないためにも、このメディア・芸能界の構造的問題の批判的検証が必要だろう。

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    日本に「死亡フラグ」を立てるのは民進党さん、あなたたちですよ

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、今年のユーキャン新語・流行語大賞トップ10入りした。大賞の授賞式には、民進党の山尾志桜里議員が出てきて、この「保育園落ちた日本死ね」の受賞者としてスピーチしたという。ネットを中心にして、この「保育園落ちた日本死ね」、特に「日本死ね」の表現をめぐって受賞の賛否両論が湧き上がった。「日本死ね」はヘイトスピーチであると批判する人や、他方でそれは「日本の内部」への批判だから無問題だとする人など多様だ。筆者の私見では、この「日本死ね」という表現自体に賛成しかねる。この手の過剰な表現で注目を集め、世間を扇動するのは最悪の政治的手法だと思っている。「保育園落ちた日本死ね」などと国に不満をぶつけるインターネットの匿名ブログの一部(画面の広告部分をモザイク加工しています) だが、注目したいのは、この言葉の受賞者として民進党の議員が出てきたことだ。率直な感想として、民進党の経済政策に任せれば、本当に日本に死亡フラグがたちかねない。その意味では、この人選は、選考委員や受賞者自身の意に反して皮肉極まるものかもしれない。 なぜ民進党の経済政策は日本を「死亡」させかねないのだろうか? 「どうあってもマクロ経済政策は増税のみ!」その力強いメッセージを感じる「民進党の経済政策」(次期衆院選挙の公約たたき台)の報道を読んだ。ちなみにマクロ経済政策とは、日本全体の経済を良くする政策の総称であり、具体的には財政政策、金融政策に分かれる。民進党では、この日本全体の経済状況を考える政策では、消費増税が最も強調されている。いや、事実上、消費増税のみであるといっていい。 もちろんまだ「叩き台」だという反論はあるだろうが、民進党が民主党政権時代に何を具体的に行ってきたか、そして現在の民進党の蓮舫・野田体制になってからのことあるごとの発言から、その持っている経済政策観は明瞭である。 「緊縮主義」、これ以外の表現を思いつくことが難しい。経済の大きさは一定のままで、増税を財源として再分配政策を実行する。もちろんまともなマクロ経済政策がなければ、経済の大きさは一定のわけもなく縮小するリスクに直面するだろう。その中でパイの分け前を実行するので、パイを切り分ける権力保有者(政治家、官僚)の政治力は増すかもしれないが、パイの取り合いをしなければいけない国民の分断化は嫌でも加速するだろう。これが緊縮主義の「理想と現実」である。教育、子育て政策の裏にある「落とし穴」 民進党の政策の主眼である教育、子育て政策自体は「立派」に見える人もいるだろう。例えば、大学教育までの無償化は、考慮に値する政策提言だ。もっとも大学教育をどう考えるかによる。例えば、大学に進学することを多くの人が望んでいるとしよう。その理由はなんだろうか。ひとつは大学で高度な教育を受け、その人の生涯の生産性(技能、知識など)が向上することで所得増加につながるというものだ。他方で、「大卒」という称号を得ること自体が得だから進学するというものだ。これをシグナル効果という。実際には知識も技能も高度なものは身につけていないのだが、そんなことは第三者からはわからない。ただ単に「大卒」というシグナルだけが世間にまかり通って年収のアップや就職の有利さに貢献してしまう。 前者の、個々の学生の生産性向上のために大学の無償化や、または教育費の公的扶助を大幅に行うことは道理にかなっている。だが、大学教育がシグナル効果しかもたらさないのであれば、完全無償化を正当化することは難しい。実際に大学教育は生産性に貢献するものか、単なるシグナル効果でしかないのか、これは実証すべき問題になる。仮にシグナル効果が無視できない大きさならば、大学教育を完全無償化することは経済的な非効率性を増大しかねない。 さらに重要な問題は、これらの民進党の経済政策の財源が、消費増税で主に調達されることだ。 いまの自公政権とは違い、民進党の経済政策には、金融緩和政策や財政拡張政策は徹頭徹尾出てこない。増税以外では、配偶者控除を廃止して、その分を財源にして教育無償化にまわすという。これはまさに経済のパイの大きさを一定にしたまま、そのパイの切り分け方を変えただけである。右から左へ、というわけだ。ゼロサム的な思考の典型といえるだろう。 長期的には教育や子育てが経済成長に結びつくから問題ない、という意見もあるだろう。だが、教育も子育ても「現在」の経済状況が大きな問題なのだ。例えば「子どもの貧困」とは、現在の家庭の貧困を言っているのである。この現在の貧困状況を解消するには、マクロ経済政策こそその必要条件だ。実際に、2014年までの子どもの貧困率をみると、近年大幅に改善されている。これはアベノミクス、特に金融緩和政策による雇用の改善が、家庭の貧困の解消、そして子どもの貧困率の改善に大きく寄与したことは疑いない(参照:http://www.stat.go.jp/data/zensho/2014/pdf/gaiyo5.pdf )。再分配政策にも矛盾する「緊縮主義」都議会民進党の集いで、挨拶を終え引き揚げる民進党の蓮舫代表=11月29日(菊本和人撮影) 他方で、緊縮主義では、むしろ景気悪化が持続することで、失業や賃金切り下げなどの雇用環境の悪化で、貧困や経済格差はより深刻化するだろう。これでは経済は安定しないし、また貧困や格差を解消するはずの再分配政策にも矛盾するだろう。 問題はそれだけではない。消費増税に依存してしまうと、むしろ「歪んだ再分配」をもたらしてしまう。学習院大学の鈴木亘教授は、著書『社会保障亡国論』(講談社現代新書)の中で次のように指摘している。どんな高所得者でも社会保障給付費の半分が税で補助されてしまう。しかもその税金は、現役世代や将来世代であり、いわば「持たざる若者」から「持てる高齢者」への逆再分配になってしまう。「消費税を安易に引き上げることで、こうした歪んだ所得再分配を認め、固定化することにつながってしま」う、と厳しく批判している。 他に「子ども国債」というものがでてきているが、これは単に「国債」に「子ども」がついただけであり、経済の規模を増やすようなものではないだろう。新規発行の「子ども国債」を日本銀行が事実上引き受けてそれで資金調達をしていけば、経済も拡大し、また長期的に安定化するだろう。ただしそのような目前の経済の大きさを拡大していくという発想はない。繰り返しになるが、「今日」の経済を重視しない経済政策には明日はこないのだ。常識でもわかるこの理屈を、民進党は一切わかろうともしない。 経済産業省などの分割案もどうしてこれがアベノミクスの「対案」になるのか皆目わからない。おそらく民進党の中でこの問題にこだわる特定議員でもいるのだろう。だが、それはその議員の私的なこだわりでしかないのではないか。また歳入庁の導入など他により優先されるべき官庁再編が課題としてあるのではないか。 そもそも国民はマクロ=経済全体の復興、それを通じたそれぞれの生活の安定こそを願っているのだ。緊縮主義による国民生活のしばき上げはご遠慮願いたい。

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    朴槿恵が弾劾されても、韓国経済が逃れられない「無間地獄」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 各種メディアの伝えるところによると、朴槿恵大統領の弾劾訴追案が、与党非主流派によって可決される可能性が出てきた。もし報道の通りの動きになれば、朴槿恵政権は事実上瓦解し、政治的な空白期間が生まれる。4日、ソウルでの集会で、朴槿恵大統領の退陣を求める人々(AP=共同) 弾劾訴追をうければ、その間の大統領の職務代行をそのときの首相が行うことになる。現在の黄教安(ファン・ギョアン)首相は、産経新聞の報道によれば、朴槿恵大統領に近すぎることを問題視されているので、仮に黄氏が大統領代行になっても野党や世論から批判が強く、満足な政策を行えなくなると懸念されている。そうなると韓国の政治的空白は継続することになるだろう。 現在の先進国の経済をみると、EU離脱を問いかけたイギリスの国民投票、アメリカのトランプ大統領の当選などに典型的なように、事前の世論調査などでは予期せぬ大衆の集団的行動が、政権や政策自体の方向性を大きく変更させてしまうことがしばしば観測される。まさに現代はポピュリズムの時代なのかもしれない。 ポピュリズムは、通常は反知的で反エリート的な大衆行動として「否定的」に理解されることが多い。しかし最近の諸外国のポピュリズムは反知性的なものとは思えない。少なくとも先進国でみられる一連の経済的なポピュリズムの動きは、十分すぎるほど経済的合理性をみたしている。 例えば、アメリカ大統領選挙で、トランプ氏が勝利した背景は、低所得な白人労働者たちの支持だけではない。現在のアメリカの経済政策に不満をもつ実に広範囲な人たちの支持をとりつけたからに他ならない。もちろん独自の選挙人制度に助けられた側面は多いが、そもそも「泡沫候補」にしかすぎなかったトランプ氏が、国民的な人気の高いクリントン氏と互角以上に戦えた背景には、既存の政治勢力の経済政策への不満がなければありえなかったことだろう。 民主党自体も候補者選定の過程で明らかになったのは、ポピュリズム的な候補者、サンダース上院議員の根強い人気であった。サンダース氏は自称「社会主義者」であり、いわば政府介入を最も強く志向する人物である。そして政治的には真逆の極右的な立場だったトランプ氏と経済政策だけみると実によく似ている。 もちろん社会保障のあり方や減税の手法、移民対策には決定的な相違はある。しかしマクロ経済政策(財政政策や金融政策)を、ポピュリズム的(国民主体)で推し進めることでは両者はまったく同じで、財政・金融政策とも拡張・刺激的である。つまり、もっとも右ともっとも左がまったく同じ経済観をもっていることになる。 これはイギリス、フランスなどでもみられる政治的な動きである。日本では左派・リベラル層には積極的な財政・金融政策を推し進める勢力は事実上不在であり、ただの消費増税・財政再建派ばかりである。その意味では先進国のポピュリズムブームとは様相は異なる。ただ安倍政権の根強い支持には、やはり国民の経済優先の意識とその改善への期待があり続けていることは間違いない。ポピュリズムブームから見る朴氏が追い込まれた背景 さて、このポピュリズムブームからみると、朴槿恵大統領が追い込まれていく背景も理解しやすい。韓国経済は朴槿恵政権に移行してから継続して「デフレ経済」の中にある。中央銀行である韓国銀行はインフレ目標政策を採用し、2016~2018年の3年間の物価安定目標を年率2%に定めている。それ以前の2013~2015年のインフレ目標は2.5~3.5%に設定されていた。だが、朴政権が誕生してからは、その目標域から逸脱し、デフレが懸念される状況が続いた。 直近のデータでは、消費者物価指数の対前年比が総合で1.3%、農産物や石油関連を除外したコア消費者物価指数では1.5%である。0%割れが懸念された夏頃に比べると大きく改善してはいるものの、いまだにインフレ目標達成に遠い。夏には、政策金利を1.5%から1.25%に韓国銀行は低下させたが、他方で韓国銀行はマネタリーベースをまったく増やしていない。 つまり日本と比較してみると、その金融政策は金利を逐次引き下げているだけである。日本はご承知のように、マネタリーベースを拡大する量的緩和政策とマイナス金利政策を併用している。 この韓国の事実上の非緩和スタンスのため、為替レート市場ではウォン高が進行してしまった。ウォン高の長期持続は、韓国の代表的な企業の「国際競争力」を著しく低下させてきた。さらに最近ではサムスン電子のスマホの発火事件で国際的なブランドに大きく傷がつき、直近の経済の落ち込みにさらに拍車がかかっている。ただ、トランプ・ショックでいまはウォン安の傾向にあるが、日本とは違いそもそも事実上の非緩和的姿勢なので、またウォン高に戻る可能性が大きい。 筆者の見解では、韓国経済の雇用と物価のバランスをみると、韓国経済が「完全雇用」もしくは経済の安定化を維持するには、インフレ率でみると少なくとも2%台後半、できれば3%台前半を維持しているのが望ましい。つまりいまの韓国経済には、韓国銀行や韓国政府が目標としているインフレ率2%は、経済を安定化し雇用を極大化するにはあまりに低すぎるのだ。 韓国の政策当事者たちは、韓国経済の潜在成長率が低くなったために、目標インフレ率を2.5~3.5%から2%に引き下げたという説明をしている。しかしこれは政策の誤りである。 非緩和的な金融政策のスタンスと大胆な財政政策をとれなかったため、インフレ目標を達成できていなかった。そのため現実の経済成長率の低迷を潜在的な経済成長率の低下と読み誤っている。これは、いまでも根強いファンが日本でもいる「経済低迷は構造問題による潜在的成長率の低下説」そのものである。いわば、風邪をこじらせている人に対して、体質を改善するために寒風吹き荒れる屋外で、肉体強靭化をしろとうながすような経済観である。「長期混迷」に向かう韓国経済 このような構造問題化説は、しばしば政策当事者たちのミスをごまかすために、政治家や官僚たちの口にのることが多い。そしてそれを政治家や官僚たちとの親しげな長期的関係を重視するマスコミがさらに増幅して国民に信じ込ませようとする。これは韓国だけでなく、日本や欧米でもよく見られる政治的現象である。 筆者は今年の夏、韓国三大ネットワークMBCのスペシャル番組「低成長時代に生き残る」に出演した。そこでも日本のように「失われた20年」に陥る危険性は大きくとりあげられたが、番組の方向性はまさに構造問題による長期停滞の可能性であった。 ところで、現在の1.3~1.5%水準は、筆者の目線では、上記の理由から事実上のデフレ真只中といっていい。リーマンショック以来といわれる若年者の失業率の高さ、そもそも働き口が見つからずに職探しをあきらめた人たちの多さ、賃金報酬の低迷は、この経済安定からはほど遠い事実上のデフレ経済がもたらしたものだ。これは経済全体でいうと、恒常的に総需要が総供給に不足している状況である。株価指数が映し出されたモニターを見つめるトレーダー。韓国経済は先行きの見通しが立たない状況が続いている=10月12日、ソウル市内(AP) 実際にOECDの経済予測では、韓国の2017年の総需要不足は今年よりもさらに悪化している。最近では、韓国の経済マスコミでは、まもなくマイナス成長に落ち込むという見方が取りざたされている。「ヘル朝鮮」の称号はだてではなく、韓国の雇用状況は想像以上に厳しいままだろう。 朴槿恵大統領の辞任を求める韓国のポピュリズムの背景には、このような政府・中央銀行の事実上のデフレ政策への反感があるのは疑いない。ただ韓国では、日本や欧米と異なり、デフレを克服しインフレ率を高めることで経済を活性化させる「高圧経済」を支持する政治勢力は見られない。「高圧」のインフレで経済を活性化すれば、いままで構造的な雇用問題と思われていたもの、例えば若年者の失業率の高さなども融解するだろう。 だが韓国の現状をみると、ただ単に朴槿恵氏を打倒するのが自己目的化してしまっている。しかも冒頭で書いたように、ただ単なる政治的空白が生まれる可能性の方が大きい。このことは韓国のポピュリズムの勃興が、欧米や日本とはまた異なる帰結をもたらすだろう。そのひとつの帰結―韓国経済は「長期低迷」から「長期混迷」に向かうかもしれない。

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    相性はバッチリ! それでも「トランプノミクス」の恩恵は続かない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) まさかのトランプ大統領の誕生。世界はその衝撃の余波の中にいまもいる。日本の株価と為替レートをみても大荒れだった。当確が出る前後に、東京市場がオープンしていたためもあり、株価は1000円近く下落し、また為替レートも大きく円高にふれた。 しかしトランプ氏の経済政策「トランプノミクス」への期待を表したのか、日が変わると一転して株価が1000円以上の大幅反発、為替レートは円安に進み、執筆の時点では1ドル111円台直前、株価は1万8千円台目前にまでにきている。このような資産市場の乱高下は、日本だけの問題ではなく、全世界的にみられた。 日本についていえば、この急速な円安傾向はまさに「恵みの慈雨」といえるかもしれない。なぜなら円安は輸出を伸ばす効果だけではなく、日本企業のバランスシートの改善(ドル建て資産の価値増加、円建て負債の圧縮など)につながり、それはアベノミクス初期(2013年)にみられたように、やがて消費や投資の増加につながるからだ。この意味で、「トランプショック」は現状の日本経済に対して、リフレ(デフレを脱却しての低インフレをもたらす経済安定化)のためのレジーム転換だったといえるだろう。トランプタワー前で「トランプ大統領」の誕生に抗議する人々=11月17日、ニューヨーク(AP) 日本のマスコミは、米国で起きている反トランプデモやヘイトスピーチの「蔓延」とでもいうべき話題を報じている。私見では、SEALDsの活動や国会前デモ、そして「アベ政治を許さない」系といった日本型リベラルの騒動と、それを過剰に煽ったマスコミを目撃してきただけに、このような反トランプ報道には距離を置いて冷静に見たいところだ。米国でも「ヘイトスピーチは蔓延してない」という発言が出ているだけでなく、むしろトランプ支持者が声を出しにくい状況を懸念する論説もある。 トランプ氏が大統領に正式に就任し、その政策の形が見えるまでは、このような不確実性と予断のカオス的状況は継続するものと思われる。 安倍首相はトランプ氏と世界の首脳の中でいち早く会談をした。1時間半に及ぶ会談の具体的な中味はわからないが、報道では日米の同盟関係やTPPの意義を安倍首相が強調したと伝わっている。TPPの行方、そして日米の安全保障がどうなっていくのか、これも今後注視していく必要がある。ただ現状でひとつわかっていることは、トランプノミクスとアベノミクスの相性はとてもいいのではないか、ということだ。「フランス最大の知性」が見抜いたトランプへの熱望 日米ともに雇用状況は「完全雇用」に近い水準だが、まだそこに到達していないと思われる。日本では失業率は3%、有効求人倍率など高水準で推移しているが、インフレ率でみると消費者物価指数(総合)ではマイナス0.5%であり、その他の指標でもデフレのもたらす負のリスクが極めて高い状況だ。 他方でアメリカ経済は雇用状況がやはり堅調だが、日本と違うのは、どの物価指数をみても1%を上回るインフレ域にあることだ。ただしアメリカ経済でも「完全雇用」には遠く、またインフレ目標になかなか到達できないのはそのためであるという主張もある。そもそもトランプ氏が広範囲な支持を集めたのは、経済の低迷感が米国民に広く共有されていて、その打開策をもっていると期待されたからではないか、という説が有力だ。 フランスの社会人類学者であり、経済問題の発言も多いエマニュエル・トッド氏は、トランプ氏に対して米国民の求める景気浮揚の経済政策への熱望があったとして、勝利の可能性を早くから指摘していた。つまり大衆迎合的な政策ではなく、米国経済の現状(経済低迷の長期化による生活水準の全般的低下)を改善する、ケインズ的な経済政策をトランプ氏なら採用するだろう、という国民の期待である。 実際にトランプ氏の大統領選勝利演説では、インフラ投資を中心にしたケインズ型の財政政策が全面に出ていた。さらに彼はこの財源を増税ではなく(むしろ減税をトランプ氏は志向している)、国債の借り換えを中心に行うことも言明していた。 ところでやや専門的な話になるが、経済活動を考えるキーワードに「自然利子率」というものがある。これは実際に観測できるものではなく、完全雇用をもたらす均衡利子率というものである。消費や投資が完全雇用を満たすだけの水準になっているときに、この自然利子率は成立している。計測には専門的な手法が必要だ。またその計測手法によってふり幅がかなり大きいことも知られている。 米連邦公開市場委員会(FOMC)の多数派の認識は、金利引き上げスタンスを採用している。この金利引き上げスタンスの背景には、米国経済の正常な金利は、この自然利子率の水準であり(言い換えれば米国経済は完全雇用に達しているという認識)、そのため市場利子率を引き上げることが望ましいということだ。仮に現実の経済が自然利子率にあって、市場利子率がそれを下回ったままだと累積的にインフレ率だけが上昇していき、経済的損失が発生する。このFOMCの認識は、トランプ氏の経済認識とは乖離があるだろう。「トランプ効果」じゃ他国まかせ 筆者の私見でもアメリカ経済が「完全雇用」には遠いという認識だ。インフレ率も1%台を上回るものの、まだ目標値には遠く、そして仮に目標値に到達しても安定的に推移できる保証はまったくない。失業率が低下しているのは、そもそも労働参加率が低迷していることが大きいのではないか、という指摘もある。 つまりまだ雇用増加の余地が大きい。その意味でトランプ氏の財政政策は正しく、また他方で金融政策はそれをサポートすることが必要だ。具体的には、自然利子率を下回る程度に市場利子率をFRBがコントロールする必要がある。完全雇用に達していないので、この場合では(現状のFOMCメンバーの認識とは異なり)金融緩和効果によって雇用は増加し、生産はより刺激されていく。 トランプ氏が本当にケインズ型の財政政策を行い、またFRBがそれと矛盾ない金融政策をするならば、この自然利子率以下での市場利子率のコントロールは必要条件である。したがって年内の利上げは確実だとしても、現実的にはFRBの金利上げスタンスは事実上封印される可能性が大きい。 トランプノミクスの発動期待をうけて、市場では米国債を売却し(米国債金利の上昇)、株式などよりリスクのある資産への投資の移動が顕著だ。これは日本にも波及していて、日本国債から株式などでの資産選択のシフトがみられる。日本国債の金利が上昇したために、日本銀行は従来からのコミット通りに、指値での買いオペを実行した。 これは将来時点にわたる日米の金利格差を拡大させ、低金利の円建て資産を売却し高金利のドル建て資産を購入することで、円安ドル高をもたらし、その勢いは現在も持続していることは冒頭でもふれた。この金利格差は名目・実質ともにしばらくは継続していくために、円安の趨勢もまた当面続くだろう。その意味では、アベノミクスとトランプノミクスは現時点ではランデブー状態にある。 ところで、このトランプ効果があるにしても、それはあくまでも他国まかせでしかないことだ。実際に何度強調してもいいが、トランプ氏の経済政策がどんな形で実行されるかは、いまのところ不確実性の方が高い。足元では期待感が強くリードしており、やがて大きく修正される局面も出てくるだろう。会談前、トランプ次期米大統領と記念写真に納まる安倍首相=17日、ニューヨークのトランプタワー(内閣広報室提供・共同) だから日本独自の経済政策を強く打ち出す側面であることにいささかの修正の余地もない。政府は三次補正予算を編成すべきだし、また日本銀行は追加緩和を躊躇すべきではない。なによりも緊縮政策との永続的な決別こそが必要である。 日本の緊縮政策とは、財務省がシナリオを書いた消費増税路線のことである。安倍政権であれ他の政治勢力であれ、この緊縮政策を放棄することが、長期停滞に苦しむ国民の厚い信頼を得る機会となることを、今回のトランプ勝利は実証している。いまこそ日本の政治家たちは、官僚依存から離脱し国民に依存する政策に転換すべきときだ。それが世界の流れなのである。

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    高学歴のトランプ支持者はなぜ中国との「貿易戦争」を歓迎するのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 箸が転がっても「安倍のせいだ」といういわゆるアベノセイダーズに加えて、最近は、「戦争が起きる」「アメリカは分裂する」と煽るトランプセイダーズの活動も盛んだ。そしてこのアベノセイダーズとトランプセイダーズはかなり重なっているように思える。たとえば、トランプ氏が予想を裏切って大統領に当選すると、「安倍首相にはトランプ氏とのパイプがない」と大事のように政権の無能力さの象徴とばかりに批判する。10日、北京で米新大統領にトランプ氏が選出されたと伝える中国紙。「損得勘定」が染みついた中国には、ビジネスマン出身の新大統領を歓迎する向きも(AP) ところが安倍政権はトランプ氏が大統領になる可能性も見越して訪米時にもクリントン氏と会談すると同時に、トランプ氏側にも「保険」としてつながりを構築していた。その成果もあってか、安倍首相はトランプ次期大統領と直接会談を行う見込みだ。ところがこの会談の報道が行われると、今度は「植民地の代表が行くようなものだ」などと批判する。本当にいつまで経ってもまともな検証が行われないまま、揚げ足取りを繰り返すのがこの種の人たちの未来永劫変わりそうもない所業である。 危機は煽ったもの勝ちな側面はある。例えば、「TPPはアメリカの陰謀であり、日本が植民地化される」「TPP賛成という者は亡国の徒だ」という脅し文句は、政治勢力の左右問わず言われてきた「危機」論だ。このTPP亡国論とでもいうべきものは、アメリカという超巨大国家のイメージを悪用した、政治的なプロパガンダの一種だといって差し支えない。脅しによって利益を得る人たちは、主に三種類いる。 ひとつは、貿易の自由化によって不利益を得る人たちだ。そしてこの不利益を得る人たちはまま衰退産業で働いている人や規制で分厚く守られている人たちである。もうひとつは、危機を喧伝することを商売にしている言論人やマスコミである。「危機」も10年、20年続けていっていれば、たまには当たるかもしれず、その意味では割りのいい商売かもしれない。そして、最後のひとつは「危機」的な煽りを好んで消費する人たちだ。これは認知的なバイアスの一種なのだが、残念ながら合理的な推論に導く有効な手段(啓蒙方法)に乏しい。 私の知る範囲でも、日本経済や財政の破綻論が好きな人は実に多く、危機論をまったく信じきっている。特にネット動画などのヘッドライン(見出し)で、物事の判断をする人が多い。評論家の古谷経衡氏は「ヘッドライン寄生」とそのような消費態度を表現したことがある。ただ危機や破綻発言を好む認知バイアスは、前二者の政治的勢力と無責任な言論人のもたらしたものであることは間違いない。破綻論を好んで信じている多くの人たちは、その意味では無責任なマスコミや言論人の「犠牲者」である。トランプの「脅し」に乗る人たち ところでトランプ氏はTPPに反対である。TPPの再交渉があるのかないのか、あるいは再交渉の余地もなく、単にアメリカの不参加でTPPは事実上破綻するのか、そこにいま注目が集まっている。つまり、アメリカ側からTPPに対して拒否姿勢が出ているということである。ということは、TPPはアメリカの陰謀でも、日本の植民地化を実現する手段ではなかったことになる。だが、従来からTPP亡国論の類を主張していたメディアや言論人は、この事態を自省することもなく、別な屁理屈で米国陰謀論(そして貿易自由化脅威論)を仕立てあげる最中かもしれない。 さてトランプ氏の保護貿易的な発言のメニューは豊富である。TPPのようなまだ実効がないものはまだまし(?)であり、候補者のときの発言を拾ってみてもWTO(世界貿易機関)からの脱退、NAFTA(北米自由貿易協定)の再交渉、メキシコや中国へのそれぞれ35%、45%の関税付与などである。これらの政治的な決断をトランプ氏は大統領権限として行うことができる。 もちろんこれらは選挙戦略の一環としていわれていた側面もあるだろう。トランプ氏自らが、日本の「危機」論者と同じようなレトリックを駆使して、彼の政治的支持を拡大していったものと思われる。つまり「貿易自由化が、あなたたちを苦境に陥れる(陰謀である)」という脅しだ。この脅しに乗る人たちは、認知的バイアスに陥っている可能性が大きいが、それでも低学歴であるとか無知な人たちではまったくない。ここが最大の注意点だ。むしろ高学歴(そして高収入)で、隣人に対する共感に優れた人たちが多い。経済学者のタイラー・コーエンは、共和党の予備選挙などを分析して、トランプ支持者の所得が全米の中位層よりもはるかに上の所得であることを指摘し、さらに自分たちが貿易自由化で苦境に陥っているというよりも、むしろ文化的な意味で「貿易自由化」を敵視している可能性があると分析している。 これは日本でも同様なことがいえるかもしれない。このコーエンの分析が正しければ、トランプ支持者は、日本のネットの意見でも散見される貧しい労働者たちや、低学歴の人たちが中核ではない可能性がある。言い換えれば、経済的に追い詰められていない(=物事を冷静に判断する自由な時間がある)高学歴の人にトランプ支持者が多く、なおかつそれらの人が貿易自由化に否定的であれば、それだけ事は深刻である。認知的バイアスは根深いものになるからだ。 アメリカの経済学者たちの試算では、例えば中国との「貿易戦争」(関税引き上げなどの報復競争や全面的な禁輸など)の経済的損失で、最大で480万人の職をアメリカから奪うことになるだろうという。ただこのような経済的で合理的な試算を提供しても、なかなか理解が進まないことは、TPPの日本国内の論争と煽りをみてもわかることである。もちろん貿易自由化がすべてバラ色ではないし、さまざまな問題はあるだろう。しかしすでに十分に発展した経済で、また国内景気をコントロールする手段(マクロ経済政策)が保証されている国が、保護貿易のほうが自由貿易よりも得るものが多いということを想定することは難しい。また過去の歴史をも否定する出来事ともいえる。 今回のトランプ勝利をきっかけに、貿易自由化の意義、その国民の生活にもたらす経済的成果を冷静に考える時間を持ちたいと思う。

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    反省はまるでなし! 民進党はまた消費増税で「自爆」したいのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 蓮舫=野田コンビによる民進党の猛攻がやまない。どこを猛烈に攻撃しているかというと、自分が仕切る民進党そのものに対してだ。NHKなどの報道によると、民進党の「次の内閣」は、消費税10%引き上げを延期する法案に反対する方針を執行部に伝えるという。都道府県連の代表らを集めた「全国幹事会」に出席した民進党の蓮舫代表。右は野田佳彦幹事長=10月8日(撮影・春名中) 消費税はこのまま放置すると来年4月には8%から10%に増税されてしまうので、安倍政権の新しい公約の通りに平成31年10月に再延期するには、国会で法案を成立させる必要がある。民進党はこの延長法案に反対の姿勢を鮮明にした。このような蓮舫=野田コンビの方針は、国民の期待を裏切ることで、民進党の低迷する人気にさらにダメージを与えることだろう。 誤解のないように注釈すれば、民進党は、消費税増税そのものに反対するとか、もっと先延ばしすべきだ、という次元の話をしたいのではない。消費増税を来年4月に予定通りに実施するべしというのがその主張の骨子だ。 「一刻でもはやく消費増税を。しかも財務省の思惑どおりに」 この方針が蓮舫代表、野田幹事長のコンビから国会議員のほぼすべてに遺伝子のごとく叩き込まれているかのようだ。財務省は消費増税の延期はもちろんのこと、公明党がこだわる軽減税率にも反対の姿勢であり、それを受けるかのように民進党も当然軽減税率にも反対している。財務省への「満額回答」こそが、民進党の党是なのだろう。もちろん軽減税率には経済的な非効率性(一部の業者や政治的レントの発生)があるが、嘉悦大学の高橋洋一教授の主張ではないが、それならばすべての消費に軽減税率を適用すればいいだろう(事実上の消費「減税」になる)。あたりまえだが、「財務省様」の意向がともかく尊重されるので、このような大胆な発想は採用できないだろう。 民進党は、「アベノミクスが失敗」したから消費増税ができない経済環境になったといいたいらしい。しかしその「アベノミクスの失敗」とはなんだろうか。これは簡単に言えば、2014年に行われた消費増税による消費急減と現在までの低迷を意味する。消費の力が弱くなったままで、そこにまた消費増税すればさらに経済は失速してしまい、本格的なデフレ経済に陥るリスクがある。つまり「アベノミクスの失敗」とは、いまの民進党が一刻も早く実施したいと思っている「消費増税による経済悪化」に他ならない。 ちなみに安倍政権の打ち出すアベノミクスには昔も今も消費増税自体はそのメニューには入っていない。民主党政権時代から引き継いでいる「負の遺産」である。アベノミクス自体には経済の改善効果があることは明白であり、雇用状況の20数年ぶりの改善をみれば常識でも明らかである。このアベノミクスの改善効果の中心は、積極的な日本銀行の金融緩和政策にある。政策の発想が財務省の緊縮財政レベル だが、蓮舫=野田コンビの民進党には、むしろこのアベノミクスの成功部分を、「富裕層に有利なだけで、格差拡大に貢献するもの」と批判してやまない。この「格差拡大」にはデータ上の根拠は現時点ではまったくない。失業状態にある人々の状況を大幅改善することは、批判されるべきことではまったくない。むしろ消費増税によって労働市場のより一層の改善が阻害されているし、そもそも民主党政権時代の雇用状況は、高失業率や格差拡大に陥っていた。 例えば、民進党は子どもの貧困や奨学金問題などを重視している。だが、その発想は徹頭徹尾、財務省の緊縮財政の発想レベルである。例えば、文科省が毎年度予算化している奨学金の総額は会計規模で1兆1千億円である。これは無利子・有利子の奨学金だが、いずれにせよ返済が義務付けられているものだ。文科省の資料では、最も利用者多いケースで、大学、大学院を卒業するまでにその返済額を900万円超と計算している(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/069/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2016/02/23/1367261_7.pdf)。これでは低所得で教育費に悩む若者やまたその保護者たちに過大な重荷を負わすことは確実である。 ざっくりいえば、たかが年度あたり1兆円程度、政府から学生への所得移転が毎年続いたとしても何の「財政危機」も生まないだろう。政府支出の年度規模はほぼ100兆円であり、1兆円もしくは2兆円増えても経済規模の拡大によって無理なく吸収されるレベルでしかない。「財源」も無論困らない。最低でも20年以上、できれば30年から永久までの長期国債を発行し、日本銀行は国債市場から吸収していけばいい。日本銀行の金融緩和スタンスとも整合的であり、まさに人づくり、国づくりに貢献する政策だろう。 だがもちろんこのような発想は、いまの民進党からは出てこない。むしろ「財政危機」を強く訴え、金融緩和政策は叩きまくるという姿勢だ。先の民進党代表選のときに、玉木雄一郎議員は、「こども国債」の発行により、子どもの貧困などを解消する政策の「財源」にすると言ったが、その具体的な設計は事実上ない。現在の国債発行のスキームを前提にして、いわば「名前だけ変えた」ものにしかすぎない。財政規模を増やし、金融緩和と連動させるという発想ではない。 最後に、筆者の主な関心は経済問題にあるので、ここでは簡単に指摘したいが、民主党政権時代では、尖閣諸島問題などが表面化し、安全保障の枠組みが揺らいで今日にまで尾をひく「失政」が行われたのは記憶に新しい。もちろんわが国の領土を侵犯する諸問題(尖閣諸島、北方領土など)で一切改善はみられなかった。常識的にみて、民主党政権時代は、経済失政、安全保障失政、原発危機・震災危機への深刻な対応ミスなど、まさに日本の暗黒時代だった。 その責任者として首相の座にあった野田幹事長が、「北方領土二島返還など笑止」と言ったとされる。北方領土についての外交交渉が今後どうなるのか、予断は許さない。だが、少なくとも野田氏にだけはこの文句を言われたくない、と思うのは筆者だけではないだろう。経済問題にいたっては、民進党の姿勢が無反省きわまるというのが筆者の偽りのない、また客観的な意見である。

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    ドゥテルテ大統領「鳩山化」で日本が払わされるどえらいツケ

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) フィリピンのドゥテルテ大統領の「暴走」が国際的に注目されている。北京での中国の習近平国家主席との首脳会談後、ドゥテルテ大統領は講演の中で米国との経済面と軍事面での「離別」を強調した。米主要メディアはこの発言をすぐさまトップニュースにして伝え、世界にも驚きが広がった。ドゥテルテ政権内部できちんと意思の疎通ができているのか、各種の報道をみてもよくわからない。10月20日、北京の人民大会堂でスピーチするフィリピンのドゥテルテ大統領(ゲッティ=共同) むしろ今回の訪中におけるドゥテルテ外交は、フィリピン側に安全保障面の端的な成果がなく失敗だったというのが客観的な判断だろう。なぜなら、中国の監視船によってフィリピンの漁船が排除されているスカボロー礁をめぐる状況は、21日の共同声明ではまったく触れられていなかったからだ。ほとんど外交的には成果がなく、ただ単にフィリピンと米国との安全保障面にリスクを残しただけだ。ドゥテルテ大統領は帰国後、さすがに国内・国際世論向けの火消しに懸命になっているが、このように安全保障上の重要なパートナーとの関係がギクシャクすることは、フィリピンだけではなく、南アジアや、日本を含むアジア全域にただならぬ不安定要因を生み出しかねない。 ドゥテルテ大統領の暴走を見ていて思い出すのは、民主党政権時代の日本と米国の安全保障のギクシャクである。鳩山由紀夫内閣では、「対米従属からの脱却」というイデオロギー的な姿勢が顕在化して、沖縄の基地移転問題を契機に米国との関係が緊張化した。そのタイミングを狙うかのように、中国が尖閣諸島での侵犯行為を加速させたのは明らかである。つまり日米の集団的安全保障関係の揺らぎを、中国側は見のがさずに衝いてきたということだろう。フィリピンと米国の間にも日本と類似した安全保障条約(米比相互防衛条約)が存在しているが、今回のドゥテルテ大統領の「鳩山化」は米国との関係だけではなく、アジア全域にわたる不安定要因になりかねない。 そもそも中国は南アジアの安全保障だけを重視しているのではない。中国の世界戦略の一環として切れ目なく構築されているものである。エコノミストの竹内宏氏は著作『経済学の忘れもの』(日本経済新聞出版社)の中で、中国の「世界制覇のための投資」が、主に資源と輸送ルートの軍事的奪取として行われていること、東アジアから南アジア、そしてインド、中東、アフリカまでの全域で漏れなく展開している様子を描写している。もちろん中央アジアやヨーロッパも例外ではない。 経済学の常識では、自分の国だけが経済的な資源や金銭を独占することは、国際的にもまた自国経済にとっても得策ではない。例えば、竹内氏も指摘するように、中国は来たるべき超高齢化社会にむけて国内のインフラや社会保障の構築に力をいれるべきなのに、そのための重要な資源(リソース)を「世界制覇のための投資」に過剰に向けている。これは中国にとって長期的なデメリットになる、というのが経済学の常識だ。だが、中国では「世界制覇のための投資」、具体的には軍事的な過剰投資には歯止めは一切かかっていない。この観点からいうと、今回のフィリピン外交の失敗は、南アジアの安全保障リスクを高めただけではなく、日本の安全保障にも脅威となる可能性が大きい。理屈に合っていた日本の安保法整備 公共財という考え方が経済学にはある。これは公園や道路などをイメージするとわかりやすい。国や地方自治体が運営している公園、または国道や県道などは多くの人が特段の許可もいらずに自由に利用しているだろう。これを「非排除性」という。また公園で散策している人がひとり余計に増えたぐらいでは他の人の散策の邪魔になることはめったにないだろう。これを「非競合性」という。この非排除性と非競合性の両方の性格を備えた財を「公共財」といっている。防衛は公共財の一例とみなされていて、自衛隊による防衛はすべての国民がなんらかの金銭的な負担をしなくとも、国民であるということだけで享受することができるし、また一人余計に守られるべき国民の数が増えてもそれによって既存の自衛力が左右されることはほとんどない。  防衛は公共財であり、また他国との集団的安全保障の枠組みで考えれば「国際公共財」であるともいえる。隣国との摩擦が絶えないところでは、この国際公共財の動きをみておく必要がある。例えば周辺国同士の争いの可能性に直面すると、お互いの国は軍縮が一番いいと思っていても、自分の国だけ軍縮してしまうと相手が軍拡すると不利になってしまう。そこでお互いに軍拡を選んでしまう。この軍事ゲーム的状況を、イェール大学の浜田宏一名誉教授は「戦略的補完」と名付けた。調印式に臨む、フィリピンのドゥテルテ大統領(右)と中国の習近平国家主席=10月20日、北京の人民大会堂(共同) 尖閣諸島などでの中国の脅威、また北朝鮮有事の可能性やロシアの潜在的脅威など、日本周辺でのリスクの高まりは、日本の防衛支出の増大を(ゲーム論的な意味で)合理化させている。もちろん長期的にみれば、先ほどの中国のケースと同じように、対外的な防衛支出の増大は、国内経済的にはマイナスに寄与する。もちろん経済成長に適合させながらの防衛支出の増加はなんの問題もない。むしろ現状では財務省の緊縮路線のために防衛費が過度に抑制されていることに重大なリスクがある。長期的には経済的な非効率を生み出すので、過剰な防衛支出を抑制するために、軍事支出の拡大ゲーム以外の手法が重要になる。例えば、日本と同じ民主的な国々との集団的安全保障の関係を強化することは重要だ(日本からみれば防衛支出の抑制に貢献できる効果も大きい)。その意味では、日本の安保法制の整備は理屈に合っていたのである。 だが、フィリピンと米国の軍事的な協調関係に摩擦が生じれば、東アジアでの安全保障の枠組みにも動揺が生じかねない。ドゥテルテ大統領の発言が暴言のレベルで終わればいいが、残る任期を考えると、暴走大統領はアジア全域の長期リスクとして無視できない要因になるかもしれない。

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    なぜ大新聞の経済記者たちは財務省の「広報紙」をつくるのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 経済評論家の上念司氏の新刊『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済』(講談社+α新書)が話題だ。日本経済の長期停滞を、日本型エリートの構造的欠陥に求めた快著である。 今日でも「消費増税しないと国の借金を未来の世代に押しつけてしまう!」「日本の借金は1000兆円以上で財政危機!」という話題は、いろいろなところで聞かれる。この話題のルーツを見ていくと、たいがいは財務省の官僚たちの作文や発言にたどり着く。財務官僚が政治家やマスコミなどに「ご説明」や「根回し」で利用している資料や説明文のことである。 日本の興味深いところだが、自信満々な民間の企業家や「反体制」的な姿勢をとる言論人の多くが、この財務官僚たちの作文や発言をそのままオウム返しに繰り返していることだ。 特に深刻なのは、大新聞の経済系記者たちである。大新聞の経済系記者たちの大半は、財務省の広報機関としての役割を忠実に果たしている。日本の大新聞だけではない。海外系通信社でも、日本人もしくは日本で長く特派員を務めている人たちの記事には同じ傾向があるので注意が必要だ。 もちろん財務官僚発のものでも正しければなんの問題もない。だが、上念氏の新著は、財務官僚の経済音痴ぶりや数々の間違いを指摘しており、その批判は痛快である。本書では、大新聞の代表として、特に「日本経済新聞」に焦点をあてている。 日本経済新聞の「“国の借金”が(2015年)12月末で1044兆円 国民一人当たり832万円」という見出しの記事を見てみよう。上念氏によれば、この種の記事は「一定の間隔を置いて、定期的に掲載されている」といい、「まるで借金が雪ダルマ式に膨らんでいくかのような印象」を読者に与えるという。ちなみにこの種の「国の借金が大変だ!」的な記事は、日本経済新聞だけのお家芸ではない。多くの大新聞やテレビのニュースなどでも垂れ流されている。 この「国の借金が大変だ!」的な報道は、1)財務省の発表をそのまま記事にしただけ、2)経済や会計の常識を利用すれば、誰でもわかることが無視されている、3)そのため財務省の意図する「財政再建」路線への誘導として利用される結果になる、という特徴を持っている。 上念氏の記述を借りよう。「まるで借金が雪ダルマ式に膨らんでいくかのような印象です。しかし、債務の大きさは、あくまで借り手の資産と収入とのバランスで考えなければ意味がありません。具体的にいえば、国の賃貸借対照表を見ないと、それが多いのか少ないのかは判断できない、ということになります。この記事のどこを読んでも、賃貸借対照表の左側にある資産のことは一言も書いてありません」(『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済』(講談社+α新書)103頁)。 繰り返し指摘するが、この財務省の報道をそのままニュースにして、なんの分析も加えないのは、日本経済新聞だけのお得意芸ではない。大メディアの多くが好んでこのような報道スタイルをとっている。そのためむしろ財務省のホームページを直接見たほうが情報も正しく豊富だ(おわかりだろうが皮肉である)。真のエリートの足を引っ張る日本の醜い「エリート」競争 上念氏の新著によれば、きちんと「国の借金」を資産と負債でバランスよくみれば、実質的な借金はたかだか100兆円にしかすぎないことが指摘されている。しかも最近の経済の好転とそのリフレ政策(一定の物価上昇を目標にする政策)によって、事実上「消滅」していることもあわせて解説されている。つまり大新聞やテレビなどでの財務省発の報道は、事実誤認を国民に伝える役割を果たしているとさえいえるのだ。 では、そもそもなぜ財務省は間違えた財政認識を持っているのだろうか。また大新聞の記者たちは、なぜ財務省の報道をそのまま繰り返すだけなのだろうか。東京・霞が関の財務省の正門前 上念氏の新著では、エリート官僚やエリート記者たちが、実は「エリート」ではないことが明らかにされている。例えば、日本の官僚のトップは財務省の事務次官だが、彼ら(女性はいない)のほぼ全員が東京大学法学部卒業者である。これだけ見ると、「東大=エリートだろう」と思う人たちが大半だろう。しかしエリートは本来知的な意味での選ばれた人たちであるはずだ。残念なことに、上念氏が指摘するように、大学の偏差値ランキングと、知性や専門性とは必ずしも連動していない。むしろ、経済問題を扱う省庁(財務省)のトップが、経済を専門にしていない法学部卒業者であることはどう考えても無視できない問題だろう。 海外のエリート官僚たちと比較しても日本の「エリート」官僚の低学歴&低学力は突出していて、むしろ先進国型よりも「開発途上国」に多いと、上念氏は指摘する。私見では、財務官僚と同省出身の政治家たちの多くは、「嫉妬」が強い人たちが多い。試験の点数は満点という上限がある。では満点ばかりとる人間たちが集まり、そこで出世や自分のプライドをみたすには、どうすればいいだろうか。日本のエリートの評価が、大学卒業までの試験の点数で決められるとすれば、満点以上の客観的な評価は当然「ない」。このため客観的ではない評価に、日本型のエリートたちは走るのである。努力さえすれば満点はどんな人でも到達可能かもしれない。そこで彼らは、特定の大学の特定学部出身者(実際にはさらに細分化されていて、特定の指導教官についていたものなど)が「エリート」であるとふるいをかけた。さらにそれでも競争者が多いので、とるになりないことで足を引っ張り合い、「嫉妬」で他者を排除する手法が磨かれていく。 このような醜い「エリート」競争こそ、財務省だけではなく、多くの日本の組織の頂点で行われていることだ。 官僚だけではなく、大新聞もそうである。もし仮にやる気と公平性の富んだ記者がいて、財務省の発表をそのまま鵜呑みにはせずに、そこに上念氏が指摘したような経済・会計では常識的な解説を加えたとしよう。おそらくそのような行為は、まわりの「エリート」たちからは恰好の足をひっぱる材料になるだろう。ブラックな白鳥の中に白い白鳥がひとりいれば、全員で叩きまくる。それが日本型エリートの組織の特徴だ。 日本型「エリート」たちが勝手に嫉妬と足の引っ張り合いを醜く演じるのはかまわない。だが、問題はそれによって多くの国民に実害が及ぶことだ。上念氏の新著は、この日本型エリートたちの醜悪さと問題性を明瞭に描いている。

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    ノーベル賞候補の日本人研究者はなぜ中国と韓国を目指すのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 今年もノーベル賞の季節がやってきた。ノーベル賞は好意的にみれば、人類の英知の進展に対する世界をあげての賞賛と顕彰の機会ともいえるが、別の側面でみれば愛国心的な名誉欲が露わになる場ともいえる。後者からみれば、日本人もしくは日本出身の人たちが受賞することは、同じ日本人として名誉に思う気持ちが、国民の多くから自然に沸くだろう。4日、ノーベル医学生理学賞に決まり、学生らが祝福する中、記者会見に臨む大隅良典・東京工業大栄誉教授と妻萬里子さん=横浜市の東工大すずかけ台キャンパス 今年も日本はノーベル賞の受賞者を輩出した。これ自体はとてもおめでたいことである。ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典東京工業大学栄誉教授は会見で「基礎研究を日本はもっと大切にして、役立つとか役立たないとかで科学研究を断定的に評価すべきではない」という趣旨の発言をしたが、筆者も大いに賛同したい。 経済学者のポーラ・ステファン教授(アンドリュー・ヤング公共政策大学)の指摘によれば、科学の生産性(進展)を決めるキーは、当たり前のようだが科学者のやる気だ。そしてこのやる気は、従来の知的資産の蓄積や本人の知的好奇心も重要なのだが、やはり金銭的な仕組みが決定的な要因となる(ポーラ・ステファン『科学の経済学』日本評論社)。 例えば、先に「発明」や「発見」をした科学者への先取権認定の仕組みや、研究のための資金調達方法、研究者の雇用の仕組みはもちろん重要だ。ただ、有能な科学者たちの世代ごとの変化は、その国の研究開発投資に大きく依存している。 研究開発投資(R&D)のGDPへの比率でみると、有能な科学者たちが世代ごとに生まれるのかどうかがかなりはっきりする、とステファン教授は指摘している。日本は米国と並んでこの「研究開発投資/GDP比率」が最も高いグループに所属する。実際に1980年代後半から21世紀の今日まで世界でトップもしくはそれに準ずる地位を維持してきた。ノーベル賞の受賞者が21世紀になって日本で相次いでいる背景には、この80年代後半からの経済規模に見合った研究開発投資の高水準があることはほぼ間違いない。 ちなみに最近では、韓国が猛烈に研究開発投資を増加させていて、「研究開発投資/GDP比率」でみると日本から世界一位の座をここ数年奪取している。また博士号取得者数、特許権出願数などで中国、韓国が猛烈にその件数を増やしていることも注目される。後藤康雄氏(経済産業研究所上席研究員)は、特に海外向け特許の出願件数の動向をみて、米国、韓国、中国が順調の増加スピードを上げている中で、トップ水準にあった日本が次第に低迷し始めていることに警鐘を鳴らしている(ステファン前掲書解説)。科学技術の停滞で日本の国力が衰退する! 21世紀に入ってから、日本は米国に次いでノーベル賞の受賞者が多い国だ(自然科学部門のみ。日本出身者含む)。だが、有能な科学者たちは世代ごとにまとまって生まれる傾向が強い(コホート効果という)。コホート効果が「研究開発投資/GDP比率」の規模や、また科学者たちの(雇用、研究面での)金銭的なインセンティブに依存するならば、やがて中国や韓国に日本はアジアの盟主をとってかわられる日も遠くないかもしれない。 このことは単に愛国心的な名誉欲を傷つけるだけではない。日本の科学技術の進展にとっても脅威である。なぜなら有能な研究者たちは、国境をまたいで移動することが一般的だ。つまり従来の欧米だけでなく、中国や韓国の研究者市場に有能な人材が流出する可能性が大きくなるからだ。このことは、特にふたつの意味で日本にリスクをもたらす。ひとつは経済面だ。科学技術の進展は、経済成長をもたらす大きなポイントである。最近の経済学では、研究開発投資や高度な人材育成が、経済全体に波及するプラスの効果を重視している。豊富な実証研究も存在していて、内生的な経済成長には科学の発展こそキーになる。つまり研究へのお金を出し渋り、研究者たちの働き方の仕組みをおざなりにすれば、長期的には日本の国力は衰退する。 またもうひとつのリスクは安全保障面だ。中国と韓国は日本への地政学上のリスクを抱える国だ。有能な人材が日本から中国・韓国にわたることは、地政学的にはゼロサム戦略的になる可能性もある。特に中国はレアメタルなど資源を国際政治の恫喝に利用した前科もあり、科学上の発見・発明を「悪用」するリスクも当然に存在するだろう。このとき、科学技術の国際的なスピルオーバー(世界の経済成長を促すプラスの効果)は絶たれる。もちろん日本への安全保障上の脅威は増大しかねない。この地政学的リスクは、やや非経済学的ではあるが、留意したい点だ。有能な科学者を確保し続けるための経済学 日本が今後とも有能な科学者を集団として維持していくにはどうしたらいいだろうか。 まず日本では国内で博士号を取得しても職がない「専門家に厳しい」雇用環境を解決することが大事だろう。この点を指摘すると、なぜか雇用の流動性を促す政策を打ち出す人たちが多い。早期退職制の工夫とか、または任用制の導入などだ。しかしおおざっぱにいってこのような「雇用流動化」政策は、現場の研究者の不安定雇用に寄与こそすれ、安定的な研究の環境を生み出しているとは到底思えない。むしろ新規の雇用を生み出すことが重要だ。日本ではその雇用先として有望なのは、民間部門だろう。民間の研究所、企業などが博士号取得者をそれなりに吸収できることが重要だ。マクロ経済政策の観点からみれば、それはデフレを脱却し、経済を安定化させ、雇用を増加させることだろう。だが、いまの財務省やその支持勢力(最近では石原伸晃議員の消費増税発言が話題をよんだ)の増税ありきの経済思想では、日本の科学の進展には暗雲が立ち込める。 またここでも財務省の緊縮主義が障害になっているのだが、民主党政権時から極端に振れ始めている財政再建路線によって、科学技術関係経費の枠がかなり抑制されてきた(近年では低下している)ことも大きな問題だ。一例だが、最近、人工知能の研究者たちの声を聞く機会があった。人工知能の開発競争はいまや世界をあげてデットヒートの状態が続いている。この国際的な競争の中で、政府からの金銭的な助成があまりにも乏しいという指摘だ。もちろん産業政策的な資金の拠出には問題は多い。だが、研究開発投資(科学技術関係経費はその代理指数のひとつ)が、科学の発展を生み出すことは確実である。人工知能については、井上智洋駒澤大学講師が「政府はAIの産業育成ではなく、新たなAI技術を生み出す研究開発の促進にこそ力を入れるべきなのです」(『人工知能と経済の未来』文春新書)と指摘していることは正しい。 日本の科学の発展やそれをもとにする国力の増加そのものが、ここでもまた財務省とその支持者たちの、官僚的な意識によって抑圧されている光景を目にする。日本人の英知を育むことに対する「敵」は、中国でも米国でもなく、まさに自らの内部にこそいるのだろう。

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    民進党に教えたい! 国会論戦を一躍ハイレベルにする経済政策

    gendai.ismedia.jp/articles/-/49830)。 特に一番目と二番目は、この連載でも何度でも書いているが、緊縮主義と消費増税主義の亡霊でしかない。消費増税をすれば、経済は縮小する。その中で再分配政策を「強化」すれば、自分たちのひいきする勢力への「再分配」は加速するだろうが、縮小するパイの中では、他の勢力への取り分が急減するだけである。例えば、蓮舫代表は高齢者の福祉を重視しているらしいが、その反動で若年層への福祉や雇用が犠牲になるかもしれない。 縮小するパイの分捕りは、またそれを采配する人たちの政治的権力を歪んだ形で高めてしまう。そして政治とコネのある人たちがますます有利なパイの「再分配」にあずかるというクローニー(縁故)資本主義が加速し、私たちの経済的恩恵をはなはだしく阻害するだろう。対抗勢力同士が政策面で競争すれば政治は機能する ルイジ・ジンガレス教授は以下のように指摘している。「資本主義システムの真髄は、私有財産ではなく、利潤動機でもなく、競争である。競争なき私的所有制は不正な独占につながるが、競争は私有財産が危ういときでも福祉を最大化するという驚くべき成果を挙げられる。政治の競争が高まれば高まるほど、政策と自由の面で結果がよくなる。アダム・スミスが教えた(そして経済学の200年の歴史が立証してきた)とおり、競争こそが、自由市場がこうした経済的恩恵をふんだんにもたらす、その根本的理由である。但し、競争がその優れた効果を発揮するには、ルールが必要だ」(『人びとのための資本主義』NTT出版)。 ジンガレス教授も指摘するように、政治がうまく機能するには、対抗勢力同士が政策の面で競争的な状況になるのが好ましい。政策レースの展開だ。アベノミクスが十分なレベルに遠いのは、経済学の面からも指摘できるし、また常識レベルからも明らかだ。ただし「アベノセイダーズ」(安倍政権批判者のひとつの典型:悪いことはなんでも安倍晋三の責任)のように、「民主党政権時代の方が現政権よりも経済成長率も高く、素晴らしい」などと、雇用改善をすべて無視して不十分な点のみ強調し、アベノミクスをすべて否定する、というものは論外である。完璧な経済政策は一種のユートピアなので、相対的により望ましい政策はどれだ、と政治家は国民に提起する余地があり、またそれが望まれてもいるのではないか。 ちなみに民主党政権時代に経済成長率が高かったのは見かけである。2008年のリーマンショック以降、恐ろしい勢いで経済がどん底にいった状態から、リカバリーしたので見かけの成長率が高まっただけだ。しかもリーマンショック以前の経済状況に戻ることは、民主党政権時にはなく停滞を続けた。失業率は4%台で高止まりし、若年層の雇用も最悪であり、またパート労働や高齢者の再雇用も暗かった。この民主党政権時の雇用の悲惨さに目がいかないように、おそらく「見かけ」だけの成長率の高さの強調と、加えて現状の雇用の改善の無視が、反アベノミクス陣営から垂れ流されているではないか。 さて、経済政策からみた場合で、臨時国会の最大の論点は、もちろん第二次補正予算案になるだろう。望ましい財政政策は、消費税の減税である。だがそれが政治的に難しいのが現状だ。今回の補正予算案は、規模が大きいことと、公共事業中心などであることがマスコミで強調されている。ただし規模については、前回の連載で書いたように、本予算と今回の補正予算を加えてもほぼ前年度並みでしかなく、昨年度ではデフレ脱却ができてないことからも不十分なものだ。しかも今年度は前年度よりも、国際的な経済不安から状況が一段と悪化している。第三次補正予算を早急に組むべきだ。規模的には、5兆円ほどが望ましい。公共事業中心の補正で配慮すべきこと 内容を見ると、公共事業が中心になっている。ちなみに、財政政策を公共事業「だけ」だと思い込んでいる人が多い。経済刺激の面からは減税や社会保険料などの減額、または給付金(補助金)も同じ財政政策であることに注意してほしい。前回でも書いたが、金融政策が緩和スタンスの下であれば、財政政策はかなり効果のある政策だ。公共事業でももちろん例外ではない。ただし公共事業には財政政策上の弱点がある。ひとつ指摘されているのは、人材や資材などの供給制約である。2012年から14年の局面では、公共事業の供給制約は厳しいものがあった。供給制約が厳しいと、要するに仕事が実現しないのだから、その分お金が流通しないことになり、財政政策の経済刺激効果を著しくそいでしまう。また資源(人や資材)が限られていると、公共部門と民間部門で資源の奪い合いになり、特に民間部門の押し出し(クラウディングアウト)が発生しやすくなる。 ただし現状では、建設労働者の需給も、2012~14年当時より余裕のあるものになっている( http://www.mlit.go.jp/toukeijouhou/chojou/rodo.htm などを参照)。公共事業による雇用増加や、また受注による金銭的な刺激効果はかなり高いだろう。 仮に第三次補正予算が考案されたとして、それが公共事業中心であれば、つねにこの供給制約に配慮しなくてはいけない。例えば建設工事費デフレーターをみると、公共事業の「値段」(コスト)は、最近上昇傾向にある。人手が不足しているときに、公共事業のコストが高いということは、他面で働く人たちの給与を押し上げる根拠になる。だが、あまりに高くなると仕事も減る可能性もある。いま話題の東京オリンピックの経費が、工事のコスト高によるものが多く、そのために開催規模を小さくしようという意見もある。これは当然に仕事の量を減らしてしまうだろう。また優先されるべき被災地復興にも影響がでる可能性がある。 もちろん公共事業の供給制約はいまの段階では緩んでいるので、今回の補正予算の効果はそれなりにあるのは疑いがない。繰り返すが問題は、財政規模が全体で足りないこと、もし不足を埋め合わせるならば、公共事業とその他の財政政策をうまく組み合わせる必要がある、ということだ。衆院本会議で代表質問する民進党の野田幹事長=9月27日午後 正直な話、民進党など自民党の対抗勢力となる政党で、金融緩和のさらなる推進や、いまの日本経済を呪縛している消費増税路線の放棄が議論されてほしい。そのとき筆者は立ち上がりはしないが、どの政治勢力であれ熱烈に応援するだろう。

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    消費増税で日銀をジャマする財務省 「チキンゲーム」は終わらない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 「チキンゲーム」というものがある。ここでいう「チキン」は臆病者のことを意味している。昔見た映画では、断崖絶壁めざして猛烈なスピードで車をとばして、いったいどこまで耐えられるか根性を試すゲームであり、途中で断念したものは敗者となるものだった。個人的には断崖絶壁をフルスピードで目指すだけで十分にチキンではないと思うが。 ところで日本の経済政策も、かなり前からこのチキンゲームに似た状況に陥っている。ゲームを競っているのは、日本銀行と財務省である。政策目標で考えれば、日銀は2%のインフレ達成を目指している。他方で財務省は「財政再建」が政策目的と一応考えられる。実際に財務省には国民に対して明示的な政策目標を打ち出す法的義務はないので、あくまでも推測である。しかも「財政再建」というが、本当のところは「財政再建」を狙って財政支出や税率変更などを駆使して省益を向上させることが政治経済的な目的だろう。日銀も組織的な利害はあるが、それでもインフレ目標の達成は、政治側からの強い圧力により、日銀の利害と背反してでも追求しなくてはいけない羽目に陥っている。G7財務相・中央銀行総裁会議に臨み、日銀の黒田東彦総裁(左)と話す麻生太郎財務相=5月20日、仙台市(代表撮影) ここまで書けばおわかりだろうが、ざっくりいえば、日銀は経済を刺激する緩和を追求している。反対に財務省は経済を緊縮させるスタンスを採用しているのだ。これは日本の二つの政策的柱が互いに逆方向を向いていることを意味している。当然、日本のマクロ的な経済政策ははなはだしい矛盾をかかえることになる。 ノーベル経済学賞を受賞したトマス・サージェント(ニューヨーク大学バークレー経済学・経営学教授)は、このようなマクロ経済政策のあり方をさきほどのチキンゲームに例えた。両者の反対方向の政策スタンスは、どちらがチキンであるかがわかるまで、どんどん矛盾を重ねるが、やがてどちらかが自分の政策スタンスを放棄しなくてはいけなくなるだろう。 このとき「矛盾を重ねる」と書いたが、それはいまの日本の状況だと、実質的なデフレ経済が続き、(雇用など大幅改善しているが)日本経済がいまいちぱっとしない状況に陥ったままだということを意味する。働く人や経済的に不利な状況の人たちの生活がより改善する余地が大きくあるのに、それを向上させないままなのである。具体的な例でいえば、失業率も現状の3%から2%台後半まで改善するだろうし、それに合わせて名目賃金や実質賃金の上昇もいまよりもはっきりとみられるだろう。「出口戦略」「緩和後退」など笑止千万 しかし現状では、このチキンゲームはなかなか終わらない。断崖絶壁はまだ遠いままで、チキンは誰なのか容易に決まっていないようだ。しかもどちらかというと財務省の緊縮路線の方がいまは断崖絶壁めがけてフルスピードで突入していこうとしているようだ。その「雄姿」をみて、緊縮主義者(具体的なイメージとしては民進党の蓮舫代表や野田佳彦幹事長ら)たちは大きく歓声をあげている。 さて、21日に日銀は政策決定をして従来の政策のフレームワークを「補強」した。相変わらず日本の反リフレ的なマスコミや識者たちを中心に、この政策決定を金融緩和が手じまいする「出口戦略」だとか「緩和後退」などと評価している。まったく笑止千万な事態だ。 筆者はすでに別の媒体で書いたが、今回の日銀の政策決定は、金融緩和のスタンスは変更せず、むしろインフレ目標を達成してからもしばらくはそれを持続することを明瞭にしたこと、さらにインフレ目標達成のための手段として、従来の「質的・量的緩和」に加えて、金利の上限を目標化する(イールドカーブ・コントロールという)ことで、さらに緩和姿勢を「強化」するものであった(参照:http://www.newsweekjapan.jp/tanaka/2016/09/post-6.php)。ひとつの大きなメリットとしては、人々の国債価格の決定を日銀が主導することで、いままでよりも国債の日銀購入をより効率的に行うことができる。これは日銀の緩和政策の自由度を増したといえる。 ベン・バーナンキFRB前議長も筆者と同じ評価をいち早く自身のブログで与えている(「The latest from the Bank of Japan(日本銀行の最新の公表)」)。「緩和終了」とでもいわんばかりの論調が支配する、日本の論壇・メディアとは大違いである。もちろん政策のフレームワークは変えたが、本当に効果を発揮できるかはこれからの話である。特に注意をしなくてはいけないのは、緩和スタンスを質的な意味で大きく緩和方向に転換したわけではないことだ。いわば使用する大砲をより最新ヴァージョンに変えただけで、武器自体を大砲からミサイルに変更したわけではない。物騒な比喩で申し訳ないが。バーナンキ前FRB議長(左)と握手する安倍晋三首相=7月12日午後、首相官邸(斎藤良雄撮影) その意味では日銀の緩和スタンスのより積極的な変更を求めてきた人たちには失望や批判もあると思う。筆者も今回の政策決定について、緩和スタンス自体を大きく変えてほしかった意味で批判もある。評点を与えれば60点で、なんとか合格なのが本音だ。ただ、緊縮主義者たちが「政策変更を」と唱える中では、なんとかチキンであることを回避したといえる。不合格ではないし、まわりが零点以下なのでここは褒めるのがいい教師だと思っているので、反リフレ論者や緊縮主義者たちから弁護するためには全力を尽くす。勝者を決めるのは官邸以外にない ところで財政政策の方はどうだろうか? 第二次補正予算と今年度の当初予算を含めると約100兆円の財政支出が行われる。特に第二次補正予算は、安倍政権も大きく力点を置いている。しかし財政政策自体は、このチキンゲームで財務省の緊縮主義に汚染されてしまっている。アベノミクス起動の2013年度こそ予算規模は106兆円近くだったもの、14年度は約101兆円に急減(消費増税導入の年なのに!)、15年度は100兆円に満たない額でしかない。今年度もこの予算の緊縮傾向の中でのささいな増額にすぎない。「アベノミクスを再起動」とはおよそいかない財政状況である。金融政策決定会合に臨む日銀の黒田総裁(奥中央)ら=9月21日午前、日銀本店(代表撮影) こう書くと、「財政危機だから仕方がない」という指摘があるが、現状の日本には財政危機はない。これまでの4年ほどのアベノミクスの成果で、財政危機問題はとうに消滅した(参照:http://ironna.jp/article/3464)。だが財務省の緊縮主義者にとっては、この事実は許容できない。チキンであることをどうしても認めるわけにはいかないようだ。そのため第二次補正予算もイメージ戦略で事業規模の大きさや「かさ上げ」などを打ち出しているが、さきほど見たように経済全体への影響はきわめて限定されている。むしろ異常なほど禁欲的だ。 もちろん昨年度と同じ規模だといっても、補正予算の中身は(金融緩和政策と同時に行うならば)景気刺激効果が潜在的に高い公共投資に該当するものが中核である。財政政策の「質」が多少いい程度だ。だが、それでも金額的な不足感を打ち消すことはできないだろう。日本経済が安定的な成長経路にのるためには、少なくとも今回の補正予算であと5兆円は増額すべきだ。第三次補正予算や次年度に執行をするものを前倒しするなど早めの財政対応をとるべきなのだ。 今回の日銀の政策決定では、いままでのインフレ目標の実施状況を評価する「総括的検証」が同時に発表された。「総括的検証」の注目すべき話題のひとつは、消費増税がインフレ目標を阻害したという指摘を、ごくあっさりと日銀が組織として公式に認めたことだ。いままでも黒田総裁や岩田副総裁の発言には消費増税の悪影響を指摘するものはあったが、今回のように日銀の重要な公式文書に明示されたのは意義が大きい。そしてこのことは政策上も重要な意義を持つ。もし日銀がインフレ目標を早期に実現し、実現後もしばらく緩和姿勢を強めたままにするならば、政府が公約している2018年の消費再増税は、日銀の政策と矛盾することになる。これは冒頭でも書いたように、われわれには明示的なことだが、日銀はいままで消費増税がインフレ目標の障害だと明言したことはなかったのだ。むしろ黒田総裁は消費増税をしないと「どえらいリスク」がくると公言してさえいた。だが、この「(増税しないと発生する)どえらいリスク」は、国債利子率の目標化と消費増税のリスクを明言した日銀にとっては、いまは否定される文言である。ただ黒田総裁の財務省出身の遺伝子が動いて、自分たちの組織の方針と矛盾することを言う別のリスクはある。それは日銀の政策スタンス自体をゆるがしてしまうだろう。この(失言や誤認レベルの)黒田リスクはこれからも懸念ではある。 日銀が「われわれはチキンではない。緩和姿勢を貫く」場合、日銀のいまの政策フレームワークと矛盾しない財政政策を取るならば、消費増税の無期限延期や、経済学的に意味がないプライマリーバランスの2020年黒字化の放棄だろう。でも残念ながら、財務省が自分からチキンゲームを降りる気配はない。このチキンゲームの勝者を決めるのは、結局は首相ら政治側のリーダシップ以外にはないのである。

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    日本経済最大の「悪」と為す蓮舫-野田ラインの増税シンパ

    税路線こそ日本の経済が改善する道を妨げている最大の「悪」だと確信している。確信するだけではなく、この連載でも何度も事実と論理を提示してきた。アベノミクスがデフレ脱却という点で困難に陥りそうなのは、この消費増税路線の妨げによることが大きい。もちろんインフレ目標の到達が難しくなっているだけで、雇用面では何十年ぶりの改善がみられるし、実体経済も底堅い。しかし、より発展の余地があるのを妨害しているのは、2014年4月から続くこの消費増税の影響であることは疑う余地はない。消費増税の三党合意まで「復活」 なぜなら2014年4月以降、消費は急激に減少し、その後も低水準を継続しているからだ。例えば消費支出(実質)をみていくと、2014年は前年比マイナス2.9%、2015年はマイナス2.3%であり、直近でも前年同月比でマイナス0.5%(2016年7月)の低水準のままである。ちなみに消費増税のいわゆる「駆け込み需要」の影響を控除した、アベノミクスがフル稼働していた2012年終わりから2013年の実質経済成長率は2.6%の高率だった。消費もプラス成長であった。 このような消費増税の「悪」をいっさい認めることなく、むしろより推し進める勢力の中心が、この財務省―藤井―野田―蓮舫の流れだ。もちろん他にもこのグループの構成員は多く、民進党のほぼ9割超の議員はその先兵である。また与党も例外ではない。一例だが、山口那津男公明党代表が野田幹事長の就任に際して、「消費増税10%引き上げを決めた三党合意のときの首相であり、いまもその枠組みは活きている」という発言要旨で、増税路線への期待感を事実上表明している(http://www.asahi.com/articles/ASJ9K71RJJ9KUTFK00K.html)。筆者の記憶では、この公明党が特に強く推し進める軽減税率導入に民主党が反対することで、事実上、(民主党の側から)三党合意は崩壊したはずだった。それが野田幹事長の起用で、いつの間にか「復活」している。蓮舫=野田民進党の消費増税路線は、党内外で国民の世論とはいっさい関係ない形で“増税シンパ”を増やしているようである。 筆者はかつて民主党政権発足のときに、その経済政策がデフレを推し進め、日本経済に未曾有の危機的状況をもたらすとラジオなどで指摘した。その際に、民主党支持者を標榜する人たちから猛烈なバッシングをうけた。それも「まだ政権が始まったばかりで決めつけるな」とか「一回はやらせてみよう」などと、ほとんどの発言は根拠がないものだった。リーマンショック後の経済停滞期に、経済全体を成長させることなく、ただ単に緊縮(蓮舫代表「二位じゃだめなんでしょうか」発言の事業仕分けなどが典型)や増税をすすめて、そこで得た果実を自分たちのお気に入りの分野に再分配する。このゼロサム思考にどっぷりつかった発想が、いかに国民全体を苦境に陥れたか、その顛末は心ある圧倒多数の国民がいまも生々しく記憶に残っていることだろう。ただ発想の背景には、財務省という日本のタブーともいえる官僚組織がある。財務省がエージェント(代理人たる政治家)を駆使して現実政治にさまざまな影響を及ぼしていることについて、国民の理解は一般的ではない。 蓮舫代表の新しいイメージによって、国民の多数が再び、「民進党にもう一度やらせてみよう」と思うことはきわめて危険だ。そのような安易な発想こそ日本経済を確実に頓挫させてしまうだろう。 実は筆者は「緊縮策」にも期待している。ただし緊縮の矛先は、民進党およびその他の増税主義議員の数に向けられている。反省なき政治家には一刻も早い退去をお願いしたい。

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    もし、今も朝鮮統治が続いていれば、日本はどうなっていたか

     今回は日韓併合時代における朝鮮半島出身者の社会的権利のうち参政権について考えてみます。 参政権とは読んで字のごとく選挙権と被選挙権に代表される政治に参加する権利で公民権とも言い民主主義国家の根幹をなす権利です。それは多くの国において自国民に限定され、一定年齢以上の国民に同等の権利が与えられています。また、一般国民に参政権が与えられているか否かが、その国が民主国家か否かを判断する重要な基準であるとも言えます。 戦前、日本の議会構成は選挙によって選ばれる代議士で構成される衆議院と、皇族、華族、勅任議員によって構成される貴族院の二院制でした。衆議院選挙の選挙権は、当初、納税額による制限がありましたが、1925年から25歳以上の日本国籍を持つ男子であれば本籍や納税額に関係なく投票が可能になり、被選挙権(立候補する権利)も本籍(出身地)による制限はなく、日本国籍を有する30歳以上の男子であれば誰にでも代議士への道は開かれていました。ただし、選挙区は内地に限定されていたため、住む場所によって選挙権は制限されていたと言えます。衆院本会議 それはどういうことかと言えば、朝鮮や台湾などの外地は、日本と同じ国になったといっても、ついこの間まで違う国であったため、内地とは経済や教育の水準だけではなく、生活慣習、ものの考え方や言語が根本的に違いましたから、当初から憲法をはじめとする日本の法律は一部しか適用されていませんでした。ですから外地は日本の法律を作る議員を選ぶ場ではないと考えられ、今のように在外投票というシステムがなかったため外地に住む人間は内地出身者であっても選挙区がないため選挙権や被選挙権がなく、反対に内地は日本の法令が適用されているわけですから、そこに住む日本人は出身に関係なく法律を作る議員を選んだり選ばれたりするということです。 つまり日本と朝鮮は併合により同じ国になったため両国の国民は同等の参政権を持つようになったのですが、法律の適用範囲の問題で出身を問わず外地居住民は国政選挙に投票できなかったということです。そして、内地における参政権は、どこかの国のように空手形ではなく、選挙権に関しては日本語の読み書きができない朝鮮半島出身者にはハングルによる投票も認めており、被選挙権に関しても朝鮮半島出身者の朴春琴が朝鮮名のまま東京の選挙区から衆議院議員選挙に4度立候補し、そのうち2回当選して通算9年間代議士を務めています。 このような選挙制度に対して現代の常識を当てはめれば色々と不備があることは確かですが、アメリカで1970年代まで黒人に事実上の選挙権がなかったことを考えると、この時代としては、かなり先進的であったと評価できるのではないでしょうか。 更に、1945年4月には改正衆議院選挙法と改正貴族院令が公布され朝鮮半島から7人、台湾から3人が貴族院議員に選ばれ、衆議院についても朝鮮、台湾、樺太に新たな選挙区を設け、それぞれ23人、5人、3人の定数を定めました。確かに内地に比べて人口当たりの議員数は極端に少ないですが、順次増やしていく予定であり、彼我の経済や教育の水準の違いなどを考慮すれば開始当初としては妥当だったのではないでしょうか。本気で朝鮮半島出身者の政治参加を進めた日本 これに対して、終戦間際のアリバイ作りだという人もいるでしょうが、それは後知恵というもので、8月15日が来るまで日本が負けると思っていたのは詳細に戦局を知り客観的に判断できる極少数の人間だけでした。それに当時は大多数の日本人が内鮮一体を固く信じており、たとえ戦争に負けたとしても台湾はともかく朝鮮が日本から分離するなどとは夢にも思っていませんでしたから、歩みは遅くとも日本政府は本気で一歩一歩、朝鮮半島出身者の政治参加への道を開く努力をしていたのです。 また、朝鮮半島においては朝鮮出身の日本人に政治家だけではなく高級官僚への道も開かれており、朝鮮総督府では知事13人中5名程度は朝鮮系日本人で主要局の局長クラスにも多数の人間が登用されており、1943年ころになると内地の中央官庁にも朝鮮系日本人が採用されるようになりました。 これらのことは、当時の日本政府が将来的に朝鮮半島出身者であっても政官両面から国政に深く携わることができる様な政策を推し進めていたということで、こういった流れを見ると日本と朝鮮は、いずれ内地外地の区別や本籍地による差別がなくなり完全に同じ国になる方向を目指していたのではないかと思われます。その考え方に対して賛否はあろうかと思いますが、日本の朝鮮統治は当時世界中で欧米列強により当たり前のように行われていた現地を搾取対象としか見ない植民地政策とは明らかに一線を画していたことは否定できません。日韓併合後の朝鮮を統治した旧朝鮮総督府庁舎 もし、今も日韓併合が続いていれば国会議員の半数は外地から選ばれ、霞が関にも多数の朝鮮半島出身者が勤務し、朝鮮総督府は北海道や沖縄の開発庁のようなものになり、最終的には自ら解体していたかもしれません。こういう話をすると、「日本人は朝鮮人を差別していたのだからありえない」と条件反射的に否定し、思考が止まってしまう人がいますが、はたして当時の日本人と朝鮮人の関係は本当にそのように単純なものだったのでしょうか。確かに、言語、習慣、歴史、文化、伝統などが異なる民族がいきなり同じ国民になるわけですから当初は軋轢が生じ、その結果として差別が行われていた事は容易に想像する事ができます。 しかし、問題はそれを国家がそのまま放置するなどして固定化しようとしたのか、それとも差別を否定して解消しようとしていたのかということですが、日本政府は併合当初から李王家の当主は王、その親族を王公族として皇族に準ずるとし、朝鮮貴族も日本の華族に準ずる待遇を与え、生まれたときから人権のなかった人たちを救うために奴隷制度を廃止し、かつてないほど学校を増設して教育機会の均等化を図り、創氏改名により名前に基づく差別の解消を試みるなど、一貫して朝鮮民族をなるべく同等に扱おうとしていました。 確かに現在の基準に比べると不十分な点もあり、一部の不心得者が差別をしたかもしれませんが、少なくとも当時のアメリカが日本人移民を排斥する法律を作るなど国をあげて人種差別を行っていたような事実はなく、この問題も他の問題と同様に個人ではなく国家が何をしたのかを見るべきではないでしょうか。何しろ日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、連盟規約に人種差別の撤廃を明記するべきだと世界史上初めて提案しているのですから、当時の欧米列強とは違い自国内で人種差別を容認できるはずがありません。日韓併合以来、一貫して差別解消を目指した日本 これらの事実を踏まえて当時の流れを振り返れば「日本政府が朝鮮系日本人に参政権を与える政策は終戦前に突然思いついたものだ」という批判がいかに的外れであるかということが良くわかります。そして日本政府が朝鮮系日本人に参政権を与えたのは日韓併合以来一貫して漸進的に取り組んできた差別解消を目指した政策の延長線上にあるものだと言えるのではないでしょうか。 おそらく、このような話を現在の韓国人にすれば、十中八九怒り出し「我々は、そのようなことは望んでなかった。」と言うでしょう。しかし、当たり前のことですが、今の日本人が当時の日本人と考え方が違うように、今の韓国人の考え方と当時の朝鮮系日本人の考え方は違います。日本政府のそのような政策に対して当時の人々の心境は本当のところはどうだったのでしょうか。韓国の朴槿恵大統領(聯合=共同) また、参政権と表裏一体である徴兵制はどのように行われていたでしょうか。徴兵制というと、私が子供のころから繰り返し聞かされてきたのは「朝鮮は力ずくで日本の植民地にされ、徴兵で兵隊にとられて無理やり戦争に行かされた」というような類の話ですが、はたして本当に朝鮮半島の人たちは命ぜられるまま己の欲せざる戦争に行くような主体性のない人間ばかりだったのでしょうか。 自称「他国を侵略したことのない平和国家」の朝鮮半島には地位や名誉を失い投獄されても徴兵を拒否した、カシアス・クレイのような人は1人もいなかったのでしょうか。その答えが、当時の人々の心境を推し量るヒントになると思いますので、まずは日本の軍隊と徴兵制度について簡単に振り返って見ます。 いつ日本に近代的な軍隊ができたのかと言うことについては諸説色々とありますが、戊辰の役が始まりだとすると、その時、実際に幕府側と戦ったのは各藩の藩兵で、実態は諸藩連合軍でした。また、政府直属であった御親兵も実態は長州藩の諸隊の一部と浪人の集まりでしかなく、明治政府設立当初は名実ともに国軍と呼べるものがありませんでした。 当時のアジアは欧米列強の草刈り場と化しており、日本にも何時侵略の手が伸びてくるかわからない状況であるだけではなく、国内的にも各藩がそれぞれ兵を持っているため全国的に治安が安定しているとは言えず、一刻も早く国軍の創設が望まれる状況でした。当時の政府首脳の大半は元々武士であり、しかも薩英戦争や馬関戦争で欧米列強の実力を、身を持って体験した薩摩藩や長州藩出身が多かったので、この状況に危機感を抱き国軍創設のため国民皆兵制度を実施すべく努力していましたが、それにより自らの特権を失う士族の反対が強く難航しました。 紆余曲折を経て日本政府は1872年にようやく徴兵規則を制定し各府藩県に対して1万石につき5人の兵士を拠出するよう求めることができるようになり、これに応えて一部の府藩県から出身階級に関係なく数十名の若者が兵部省に入りましたが、それだけで戦力となりうるには程遠い人数でした。「徴兵制」を始めると何がどれほど必要になるのか そこで翌年、日本政府は戊辰の役の主力であった薩長土から約6000名の献兵を受け、東北と九州に鎮台を設置し各藩の士族兵を解散させたうえで志願者を募り、兵部省に陸軍部と海軍部を発足させて何とか国軍としての体を整えましたが、その時点ではそれが精一杯で本格的な徴兵開始は1873年の徴兵令の発布を待たねばなりませんでした。何とか1873年に始まった徴兵制度も開始当初は、予算などの関係上、召集する人間を抽選で選ぶうえ、「一家の当主」「跡継ぎ」「養子」「役人」などは対象外とされていたため国民皆兵とは言い難い実態でした。 それは、今まで軍事を独占していた士族だけではなく、自分たちが戦の主役になることなど考えたこともなかった百姓や町人出身の人たちの反対が根強かっただけではなく、何しろ徴兵というのは候補者名簿の作成、入所前に行う身体検査、入所に際しての事務的な手続き、入所後の生活費、訓練費用や給与などなど多大な費用と手間がかかるため、当時の日本の国力では一気に制度を整えるのが難しかったからです。 どうも昨年の安保法審議の時に反対派の人間が「徴兵制は戦争を始めるための準備」「実施すれば戦争が始まる」と人々の恐怖心を煽り、「法案が可決すれば、すぐにでも徴兵制が始まる」と、荒唐無稽な理屈を並べ立てていたにもかかわらず、一時的とはいえ少なくない人間が、その出鱈目を信じていたのを見ると、今の日本人の多くは「徴兵制」と聞いただけで条件反射的に反発し、正しく中身を理解していないように思われます。そこで、具体的に今、徴兵制を始めるとなると何がどれくらい必要なるのかを簡単に試算してみます。5野党と安保法制反対諸団体との意見交換会で挨拶する枝野幸男氏(中央)=3月9日 この間の参議院選挙で新たに選挙権を得た18歳と19歳の合計人数が240万人と発表されていましたから、単純計算で一学年の男子は60万人ですが、この人たちの名簿を作り身体検査の案内を発送して、医師等の人材や設備を整えて全員に検査を受けさせるだけでも一苦労です。そのうち8~9割の50万人が検査に合格し20歳から29歳の10年の間に2年間の入隊義務が生じ、彼らが毎年均等に入所すると仮定すれば毎年5万人が入所し、2年任期とすれば自衛隊は常時10万人の徴兵隊員を抱え込むことになります。 現在の自衛官の定員が24万7千人(実際の隊員数は22万7千人)ですから、いかに多い人数であるかということがわかるかと思います。そして彼らのために宿泊や教育訓練のための施設等を新設または増設する必要があり、更に増加した徴兵隊員に関する事務、教育訓練、賄等の支援に携わる人間も増員しなければなりません。公務員は法律や規則がなければ動けませんから、それを作る作業も必要です。 費用の方も徴兵隊員1人当たりの給与(ボーナスを含む)、食費や光熱費等の生活費、福利厚生費、消耗品代などの費用を1日1万円、その他、被覆や訓練教育資材等が年間15万円(計算しやすいように)かかると仮定すれば1人頭1年間で380万円、10万人だと3800億円になります。徴兵制に伴う人員増加を1万人(徴兵隊員10人に1人)、彼らの年間給与を平均600万円、年金保険退職金や福利厚生費、装備品等にかかる経費が年収と同額とすると1人頭年間1200万円、総額で年間1200億円となり、徴兵制に伴う費用の増加は合計で年間5000億円程度となります。(かなり大雑把な計算なので一応の目安として考えてください)現在の防衛予算が年間約5兆円ですから、その数字がいかに大きいかということがわかるかと思います。 徴兵制と聞くと、誰彼構わず出来るだけ多くの人間を集めるというイメージをお持ちの方が多いとは思いますが、人数を集めれば集めるほど前述のように手間や費用が掛かるため平時においては優秀な人間から順番に入所させる方向で行っていたのが実態です。そして忘れてはならないのが徴兵には戸籍と教育が不可欠であるということです。徴兵制の適用なしに不満を抱く朝鮮系日本人 このため開拓に若い労力が必要であったという事情もあったのでしょうが、本土で1873年に発布された徴兵令も、北海道と小笠原諸島はその14年後の1887年、沖縄は更に遅れること11年の1898年になるまで施行されませんでした。そうやって制度的にも地域的にも少しずつ日本全土に徴兵制が定着していった過程に鑑みれば日韓が併合したからといって朝鮮半島で簡単に徴兵制が実施されるはずもなく、徴兵制は長い間朝鮮系日本人に適用されませんでした。また、当初は一般兵士の募集も行われていませんでしたから、当時の朝鮮系日本人が軍人になる道は陸軍士官学校に入校するしかありませんでした。 今の韓国人男性に徴兵制の是非を問えば十中八九「兵役を課せられないのは良いことだ」と答えるでしょうが、当時の朝鮮系日本人たちは「同じ日本人である自分たちだけが徴兵されないのはおかしい」と、自分たちに徴兵制が適用されないことを不満に思い、併合から23年たった1933年には、朝鮮半島出身者に対しても徴兵制を適用するよう帝国議会に請願書が出されるほどでした。しかし日本政府としては、もしかすれば自分たちに反旗を翻すかもしれない何万の若者に軍事訓練を施して武器を与えることに慎重になったのか、兵員が充足していたからなのか「時期尚早」と、彼らの願いは退けられました。 しかし、そんな彼らの願いに応えようとしたのか、支那事変が勃発したからなのか、翌1938年度から徴兵制ではなく陸軍特別志願兵制度が実施され朝鮮系日本人にも一般軍人(高級将校や憲兵補助員などの軍属になる方法は以前からあった)になる道が開かれました。徴兵制は6年後の1944年9月に朝鮮系日本人にも適用されることが決まりましたが、実際の入所が翌年の1月からだったので、全員が訓練期間を終えることなく終戦を迎え、朝鮮系日本人の徴兵兵士は1人も戦地に出征しておりません。 つまり、戦地に赴いたのは志願兵だけだったということで、無理やり戦地に行かされたという心の中の話はともかく、少なくとも「徴兵された」という話は、まったくの出鱈目ということになります。そして、徴兵制開始3ヶ月後の1945年4月に衆議院選挙法が改正され朝鮮半島に選挙区が割り当てられたことは、国家が国民に対して義務だけを課すのではなく、国民が国家に権利だけを求めるのではない、国家と国民の正常な関係の表れで、徴兵制と参政権の両者とも終戦により日の目を見ませんでしたが当時の日本政府の本気度合いを読み取ることができます。  では、実際に戦地で戦った志願兵の実態がどうであったのか、各年度の志願者数と入所者数を見てみます。年 度     志願者数   入所数   倍 率1938年度   2,946     406    7.31939年度  12,348     613   20.11940年度  84,443   3,060   27.51941年度 144,743   3,208   45.11942年度 254,273   4,077   62.31943年度 303,394  約6,000   50.5 初年度こそ倍率は約7倍でしたが年を重ねるにつれ志願者数と倍率はうなぎのぼりに上がっています。志願した理由は様々で、己の立身出世のため、朝鮮民族の地位向上や独立のため、食べるため等々、中には武装蜂起のために入所した人間もいたかもしれません。しかし、約30万人の若者が入隊を希望したにも関わらず、そのほとんどの人間の希望が叶わなかった事を表す、この数字を見れば「無理やり兵隊にされた」という話の真偽がわかるのではないでしょうか。大東亜戦争を共に戦った韓国人に敬意を しかもこの数字は戦争中のもの(入隊=戦場へ行く)であるという点も見逃せません。昨年、徴兵制が始まると風説を流布していた人たちの論法では「集団的自衛権を容認すれば戦争が起こり、入隊希望者が減るから徴兵制が始まる」という幼稚なものでしたが、実際に戦火が激しくなればなるほど志願者が増えています。このことは当時の人たちが、今「戦争反対」と叫んでいる人たちとは、戦争や平和に対して異なる考え方をもっていたということで、彼らが当時の人たちの心境を代弁しても説得力はありません。 こういうことを言えば、当時の人たちは「皇民化教育で洗脳されていた」「騙された被害者だ」などと言って反論する人がいますが、はたして昔の朝鮮民族全員が何年間も騙され続けた愚鈍な人間だったのでしょうか。中には、そういう人もいたかもしれませんが、国力がないばかりに他国に併合され、苦しい生活の中で懸命に生きていた人たちを、今の時代に生きる自分たちの都合のために馬鹿にするのはいかがなものでしょうか。 30万人もの多くの若者が祖国のため死地に赴くに等しい入隊を希望したという事実は消し去ることはできません。人それぞれの意見はあるでしょうが、彼らの中には特別攻撃隊に志願した人もいる訳で、彼らは国が変わっても己にできることを出来る限りやろうと、自らの意志で日本人として西欧諸国の植民地支配に対抗すべくアジア諸国解放のために大東亜戦争を戦った誇りある立派な軍人だったのだと私は思います。八重桜を振って特攻機を見送るなでしこ隊の女学生たち =昭和20年4月12日、旧陸軍知覧基地 そして、そのような彼らに応えるべく日本政府は彼らに参政権を与えて将来的には完全に同じ国になることを目指し、朝鮮民族の中にも日本人になりきろうと努力していた人も少なからずいたはずです。そんな彼らは大韓民国設立後、長年にわたり軍隊で主要な地位を占め、朝鮮戦争においても勇敢に戦い祖国を守りぬきました。そんな祖国の恩人たちを、自分たちの主張を正当化するために「日本に騙された愚か者」「祖国を裏切った親日派」などと売国奴扱いをするのはどうかしているとしか言いようがありません。 同様に、大東亜戦争を日本人として一緒に戦ったにもかかわらず、日本に対して「戦犯国」と恥ずかしげもなく言い、先人たちが命を懸けて戦った象徴である旭日旗の真の意味を知らずに「戦犯旗」とわめき散らすのは、天に向かって唾を吐くようなもので自分たちの先祖を愚弄しているのと同じです。とは言うものの日本人の中にも彼らが日本のためアジアのために戦ったということを知らない人が多いのが実情です。 日韓両国の国民はともに「歴史を直視」して、日本人はかつて同胞として大東亜戦争を共に戦った韓国人に敬意を払い、韓国人は欧米諸国の植民地支配と戦った自分たちの先祖に誇りを持ってもらいたいものです。