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    大阪社会部記者の「ド真面目」開発秘話

    大阪とラーメンの意外な関係 古くは「天下の台所」ともてはやされ、今もくいだおれの街を誇る大阪。ところが、意外なことにご当地ラーメンと呼べるものがない。すべての始まりは、そんな素朴な疑問からだった。 2010年4月、産経新聞大阪社会部の若手記者が意気投合し、ありそうでなかった大阪のご当地ラーメン作りを目指す「ラーメン部」を結成。大阪の食文化やラーメン事情を取材しながら、開発がスタートした。 大阪が「ラーメン不毛の地」であることを示すこんなデータがある。NTTの電話帳、タウンページに「ラーメン店」として登録されている店舗数を、総務省が公表した最新の住民基本台帳に基づく都道府県別人口で割り、10万人あたりの出店数を比較したところ、大阪府は12.53店で47都道府県中最下位だった。 トップの山形県(70.44店)に比べると、その数は6分の1にとどまり、東京都(31.26店)とも大きな開きがみられた。 今や「国民食」とも呼ばれるラーメンが、なぜ大阪では根付かないのか。 大阪ではお好み焼きやたこ焼きといった“粉モン”に加え、昆布だしの効いたうどんの方が好まれる傾向があるが、日本コナモン協会会長で食文化研究家の熊谷真菜さんは「大阪人が『食』に関して意外なほど保守的だったことも色濃く影響している」と指摘する。 取材を進める中で次々と明らかになった大阪とラーメンの意外な関係。取材を通じて一つの結論を導き出した。 それが「甘辛」と「始末」。大阪人には、味が濃いと感じる一歩手前にうまさを感じるポイントがあり、大阪ではそれを「甘辛」と呼んで好まれていること。そして、食材を無駄なく使い切り最高の味を引き出す「始末」の心。この二つが大阪の食文化の礎になってきたことを柱に据え、大阪ラーメンのコンセプトが固まった。 2011年1月にはラーメン店主らの協力を得て、イベント会場で生麺を販売。用意した1000食がわずか5時間で完売し、大きな反響を呼んだ。 ただ、ラーメン部といっても調理に関しては素人の集まりにすぎない。単発のイベントで自分たちが提案した大阪ラーメンを振る舞っても、ご当地ラーメンとして認知してもらうのはかなり難しい。 そこで考えたのが、カップ麺の開発だった。安価で気軽に食べられる即席麺の商品特性を生かせば、より多くの人に知ってもらえる可能性がある。 大阪府吹田市に本社がある即席麺大手、エースコックに部の思いを伝えたところ、すぐに開発が決定。前代未聞の社会部記者と即席麺メーカーの“異色コラボ”が生まれた。秘伝のたれで「始末の心」表現 コンセプトは生麺と同じ「甘辛」と「始末」を踏襲し、スープも生麺と同じ鶏がら醤油がベースで、甘辛味を引き出す隠し味として「とろろ昆布」を使うことも決まった。 順調に進んだ開発の中で最も苦慮したのが、「始末の心」をカップ麺でどう表現するかだった。「数量が限定的な生麺なら可能であっても、大量生産の即席麺で始末を表現するのは難しい」。エースコック開発担当の植田浩介さん(29)は、ラーメン部とのプロジェクトが始まって以来、この難題と向き合い続けた。 バイプロ。この聞き慣れない業界用語は、日本語で副産物を意味するバイプロダクトの略語だが、今回はインスタント食品で使われるフレーバー(風味)の製造過程に注目した。 即席麺で使用するフレーバーは、香味野菜や魚介類、香辛料などの食材をじっくり時間をかけて油で炒め、風味を引き出す。通常の工程では、スープとオイルを分離し、「調味油脂」としてオイルだけを使うが、残ったスープは捨てられる。このスープこそ、バイプロの正体だった。 「もったいない」という言葉は、ラーメン部がコンセプトに掲げる始末の心にも通じる。理想通りのカップ麺作りのめどがようやく立った。 2011年11月10日。産経新聞朝刊とグループ媒体各紙に「それゆけ!大阪ラーメン」の12月発売の告知記事が掲載された。全国のコンビニやスーパーなどで商品の取り扱いが決まり、掲載日には植田さんから「商談はいずれも予想以上の好反応です」とうれしい電話もあった。 ラーメン部は、発売目標として業界内で大ヒットの目安となる100万食を掲げる。東日本大震災以降、低迷する業界では異例とも言える高い目標だが、部員たちの士気は高い。即席麺発祥の地、大阪の若手記者たちの挑戦はまだ始まったばかりだ。チームの和が結実「とろろ昆布味」 「それゆけ!大阪ラーメン」プロジェクトには、エースコック開発室のメンバーも多く参加した。開発担当、エースコック商品開発グループの植田浩介さんは、まだ入社6年目の若手社員。これまでにもご当地カップ麺の開発を任されたことがあり、そのときは4日間で札幌と博多の20店近くをハシゴした経験を持つ。 「商品の企画マンであると同時に一人のラーメンファンであることを意識しながら、商品を創ることを心がけています」 スープの調合を担当した中野雅文さん(38)は、大阪人が愛して止まない昆布だしの調合に最も頭を悩ませたという。「最初は粉末スープに昆布パウダーを混ぜてみましたが、甘辛感がうまく出せずに苦戦しました」 これまで数々のカップ麺を世に送り出した中野さんをも悩ませたスープ作り。挫折しそうになった中野さんを救ったのは、研究チームの後輩でもあり、かやく担当の伊集院兼宣さん(29)の一言だった。 「かやくの中にとろろ昆布を落としてみてはどうでしょうか?」 粉末スープの調合にこだわり続けた中野さんにとって伊集院さんの提案は「思いも寄らない発想だった」という。 さっそく2人で開発に取り掛かり、繊維状の乾燥昆布を使ったスープ作りに着手。昆布の量や調味料の配合を調整しながら、2カ月かかってようやく試作品が完成した。 まさにチームワークの賜物だが、これに限らず、今回のプロジェクトを支えたのは、エースコック開発陣の一体感が大きかった。 「今回はいつもと違って、会社の都合に関係なく、僕たちがやってみたかったことがすべて挑戦できた。ラーメン部さんのおかげで理想の仕事をやらせてもらったような気がします」 2人の上司にあたる開発室課長、朝平慶太さんはこう振り返る。決して妥協を許さない、開発のプロとしての誇り。このカップ麺にはそんな思いもたくさん詰まっている。平成に入りカップ麺が袋麺を逆転 日本即席食品工業協会の統計によると、国内のインスタントラーメン生産量は2010年度、袋麺とカップ麺、生タイプ麺を含め53億1000食。前年と比べ0.8%減。1人当たり年間42食を食べる計算で、最近では2004年の55億3000万食がピークとなっている。 1988年まではカップ麺よりも袋麺の方が生産量が多かったが、平成に入った89年にカップ麺が袋麺を逆転。以後、カップ麺はほぼ右肩上がりでマーケットを拡大している。値段は袋麺よりも高いが、手間のかからない手軽さが支持されたとみられ、日本の「食」のスタイルの変化を表しているといえるかもしれない。 ちなみに2010年に麺類全体に使用された小麦粉は計124.5万トン。パン類に使用された小麦粉(120.5万トン)を上回り、この数字からも麺類が日本の食卓を支えている実情がうかがえる。 一方、世界に目を向けてみるると、2010年に全世界で消費された即席麺は954億食。日本の年間輸出量は5980万食にすぎず、大半が現地生産でまかなわれている。 国内出荷額シェアをみると、1位が日清食品で約40%、2位は東洋水産で約20%、3位以下はサンヨー食品、明星食品、エースコックと続く。≪FROM WRITER≫ ひとたび大事件や大災害が起これば、すぐに現場へ飛び出し、一日3度の食事すらままならないことがよくある。社会部記者という職業柄、当然といえば当然なのだが、そんなとき、手軽に食べられるカップ麺は昔から重宝した。そのカップ麺開発に自分がかかわることになるとは、よもや思わなかったが、プロジェクトがきっかけで大阪の「食」の豊かさを改めて知ることができたのは幸いだった。大阪にご当地ラーメンが根付かない理由はさまざまだが、個人的には「他にもうまいもんがたくさんあるからや」の一言に尽きるのではと思う。日本のどの地域よりも個性的で、独創的な食文化を育んできた大阪。自分たちが開発したカップ麺が、豊かな大阪の食文化を発信する一つのツールになれば、と切に願っている。(白岩賢太)

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    なぜ大阪にはご当地ラーメンがないのか

    「食いだおれ」の街とも言われる大阪にはなぜご当地ラーメンがないのか。新聞記者が大真面目に取り組むご当地ラーメン企画があるのをご存じだろうか。大阪の食文化にこだわり、食材も味もとことん追求した大阪生まれのご当地カップ麺が2月16日、全国一斉発売されました。

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    育ててくれた大阪に恩返ししたかった

    嶋田隆司さん(漫画家 ゆでたまご)相棒・中井君も僕も母子家庭やから高校卒業までにプロに!と切磋 ドジで弱虫で、けっこう下品、でも友情を大切にし最後は「火事場のくそ力」で悪をやっつける-。そんなヒーローに小学生たちは夢中になった。社会現象にまでなった漫画「キン肉マン」の作者「ゆでたまご」は、大阪出身の嶋田隆司さんと中井義則さんの共同ペンネームだ。2人は「キン肉マン」でデビューし、今も描き続けている。 ──お二人は大阪市立住之江小学校の同級生。家も近かったのですか 嶋田 4年生の3学期に相棒が転校してきたんです。どうやら転校生も同じ団地に住んでいるみたいやってなって。通学のバスの中で転校生で分からないこと多いだろうからって、いろいろ教えて。そんな中で、自分が描いている漫画をみせたりしてたんです。 ──漫画は小学生のころから描いていた? 嶋田 ぼくはずっと描いていましたね。でも、中井君は漫画を読んだこともなかったみたいで。で、最初に見たのがぼくが大学ノートに描いていたキン肉マン。それみて「わあおもしろいな」って。普通はジャンプとかマガジンとか売っている雑誌をみて漫画を覚えるんですけど、彼の場合は初めが僕が描いたキン肉マンをみて、おもしろいなあって。それで自分もキン肉マンを描くようになったんですよ。 ──2人の漫画は同級生の間で人気があったとか 嶋田 「嶋田マガジン」とか「中井マガジン」みたいなものを作ってました。そしたらいろんなクラスに回覧されて、どこに行ったか分からないぐらい人気があったんです。 ──プロになりたいと思ったのはいつごろ 嶋田 小・中学校のときはほんとに好きで描いてただけで。中学3年生ぐらいからかな。で、とにかく、高校はデザイン科があるところがいいやろうと初芝高校を選んだ。漫画を描くためにいろんな道具があるんですけど、それが高いんですよ。でも授業のために必要なら親も出してくれるじゃないですか。そんな計算もあって。結局ぼくは、商業科のほうが女の子が多いって聞いて直前で変えちゃったんですけど。 ──漫画は家で描いてた? 嶋田 クラブ活動はせず、まっすぐ家に帰って描いてました。通学中は漫画の話ばっかりして。とにかく高校卒業までに漫画家にならないと、というのはありました。うちも中井君とこも母子家庭だったので、高校を卒業したら働きにいかないとアカンということになっていた。で、「週刊少年ジャンプ」に赤塚賞と手塚賞って2大漫画賞があるんですけど、その漫画賞に毎回送ってました。 もうホント高校3年生のぎりぎりに赤塚賞の準入選をとったんです。そのときの作品もキン肉マン。で、読み切りをジャンプに載せたらめちゃめちゃ人気があって。それで、編集長と担当編集がわざわざ大阪まで来てくれました。学校で決まった就職を断ると次からそこから斡旋(あっせん)がなくなるかもしれないじゃないですか。だから断りを入れにきてくれて。それとまず、うちのお袋と中井君のお母さんの説得ということで。 ──やっぱり反対? 嶋田 大反対でした。「読者人気1位をとりたい」 ジャンプ黄金期にライバルと激闘 ──どうやってお母さんたちを説得したのですか 嶋田 そのころ漫画家なんて社会的地位なんて、なかったですから。母親らは、言い方悪いですけど「やくざな商売や」って言って。就職したら月給もボーナスもある。なんにもない漫画家の世界に飛び込んで「大丈夫なんか」と。漫画家の世界っていうのは人気商売ですから人気がなかったらすぐ辞めさせられる。「そうなったとき次の仕事どうしてくれるんや」って。そしたらその当時の編集長、西村繁男さんっていうんですけど、「そのときは東京で就職探します」って。それでやっと許してもらえた。 ──18歳でキン肉マンでデビュー。当時の「週刊少年ジャンプ」は黄金期を迎えつつあったときです 嶋田 そうですよ。車田正美さんの「リングにかけろ」が一番人気があって、「あれに勝たないと」っていうのはありましたけど、なかなか勝てないんですよ。 1年後に鳥山明さんが「Dr.スランプ」でデビューしてこれも強敵で。やっぱり絶えず1番とらないとダメ。でもやっぱり鳥山さんも強いし。それからのジャンプはすごかったですね。「キャプテン翼」の高橋陽一くんとか「北斗の拳」の原哲夫くんとかどんどんすごいのが登場してきて。毎回競争ですよね。同年代ですからね、みんな。負けられない。 とにかく読者アンケートの1位が目まぐるしくかわって、ずっと1位って漫画ないんですよ。ちょっと油断すると1位をとれない。担当の編集者同士も仲悪いんですよ。 原哲夫くんは近くに住んでたんで、打ち合わせが一緒の喫茶店になることがあるんです。そしたら向こうは、ぱっと出て行く。やっぱり打ち合わせを聞かれたくないんでね。すごい情報戦でしたよ。「北斗の拳が、次々週ぐらいにクライマックスもってくる」って情報入ったら、「じゃあぼくらは次の週にクライマックスをもっていってつぶしにかかろう」とか。だから、おもしろい物を描くというより、とにかく1位をとろうっていう。その一心でした。 ──競争はアンケートの結果として表れる 嶋田 アンケートの結果がよくなければ、ジャンプって切られます。ジャンプは当時の恒例だったんですけど、お正月号になると表紙に漫画家の紋付き羽織袴(はかま)着てばあっと写るっていうのがあって。とにかくそれに写りたくて、それがステータスだったんですね。で、ぼくらも、けして順調ではなくて人気がなかったころもあって。そのときは担当編集者から「君らは来年はこの中にいないよ」っていわれて、「それは終わらせられるってことやな」って感じた。あの表紙は発奮材料になりましたね。 ──キン肉マンもアニメ化されてブームも巻き起こした。私が子供のころ「キンケシ(キン肉マン消しゴム)」を集める男子も多かった 嶋田 仕事でこもってますからブームになっているというのを、わかんないですよね。ひたすら描いて。アニメもビデオに撮ってましたけど、毎回チェックしてなかったですね。ただあるとき、1人暮らしをしているアパートの近くのスーパーに行ったとき、そこのおもちゃ売り場で子供がぶわーって長蛇の列を作って何かを買ってるんですよ。ぼくもその列の中にはいって。そしたらキン肉マンのガチャガチャの列だったんですね。「え、こんな商品でてるの」って思って。 そのときかな。鈴なりに並んでいる少年たちを見たときは、こうなんか興奮しましたね。自分たちが作ったもので何かすごいことが起こっているんやな、っていう。小学校の落書きでキン肉マン誕生、熱血・根性より親しみあるキャラに ──ドジで親しみやすいキン肉マンのキャラクターはどうやって生まれたのですか 嶋田 小学校の時に描いていた落書きですね。テストの答案用紙ってわら半紙じゃないですか。で、休み時間になると、裏に落書きしてた。コマにわってるんじゃなくて、自分で適当なストーリーをしゃべりながらキン肉マンの絵を描いていくんです。「キン肉マンが変身してオカマラスという怪獣と戦いました」とか。みんなゲラゲラ笑うんです。子供にとって、なんか筋肉っておもしろいですよね。ボディービルとかみたら笑うじゃないですか。そんな子供の感覚で描いていた。 ──小学生で、オリジナルのキャラクターを作るのがすごい 嶋田 まねをするのがいやで。女の子も漫画描いてるんですけど、まねやったりするんですよね。漫画クラブとかそういうのに入るのはいやでしたね。 ──絵ははじめからこのイメージだったんですか 嶋田 額の「肉」の字はなかったですけど。この肉は、ほんとに赤塚賞に出すときに最終的にどうしようかと。ここははじめ、ウルトラマンのビームがついていたんですよ。でもなにか絶対、特徴的なものをってずーっと考えて。締め切りぎりぎりに「じゃあこれ肉って付けよう」って。まさか今ね、教科書の偉人のおでこに「肉」とか「中」とか付ける遊びがはやるようになるとは思わなかったですね。 ──みんなやってました。だいたいの子の教科書の伊藤博文の額には肉の字があった。キン肉マンの性格はどう考えたのですか 嶋田 ぼくが読者だったころって、はやっていた漫画って「巨人の星」とか「あしたのジョー」みたいな、なんか熱血で根性もので。努力があってっていう感じのキャラクターが多かった。ウルトラマンもまじめじゃないですか。だから、そういうスーパーヒーローばっかりだと読者もなんか、あまりにも完成されすぎてていやなんじゃないかな、と思って。自分たちと同じような感じで親しみをもてるようなキャラクターにしたかった。 キン肉マンはまず努力しない。で、ぜんぜん努力しないのに「火事場のくそ力」という訳の分からないパワーで相手をやっつけるって、子供ってそういうの好きやろうなって。まあそのうち、キン肉マンも成長して努力するようになるんですけれど。でもやっぱりあのスポ根漫画へのアンチテーゼみたいなところはありましたね。これからはそうじゃないんと、ちゃうかなと。漫画家「ゆでたまご」の1人、嶋田隆司さん ──キン肉マンもまじめです 嶋田 キン肉マンはとにかくまじめに描こうと。彼がまじめにやればやるほど笑えるっていう。彼は地球を守るために必死なわけじゃないですか。けど結局、街を壊したり迷惑かけてる。でもすごく日々は体を鍛えてて。そのキャラクターが連載して何年かたったときに「かっこいい」っていわれるようになったんです。ぼくらは、そういうふうに思って描いてなかったんですけど、たまたまウォーズマンに勝ってタイトルとって、コーナーマットでベルトを差し上げるっていうシーンがあるんですけど、そのシーンのときのファンレターが「キン肉マンってかっこいい」って。「えっ、こんなたらこ唇で団子っ鼻のやつがかっこよく思えるんや」 そこからはなんとなく、キン肉マンのかっこよさも意識するようになりましたね。とにかくキン肉マンは逃げ腰で、いつも逃げようとするんですけど、戦って勝つときは、すごくかっこいい絵で。その二面性がよかったんじゃないですかね。おふざけするときは、思いっきり3等身とかになるんですけど、かっこよく勝つときはほんとに筋肉もリアルにしました。東日本大震災を機にウェブで復活、日本を元気づけるためにやろうと ──キン肉マンは昭和62年、「週刊少年ジャンプ」での連載が終わります 嶋田 やる気は十分だったんですよ。キン肉マンたちがタイムスリップする未来超人編っていう続きも考えていた。でも読者アンケートで1位がとれなくなってきたんですよ。ドラゴンボールとかが1位をとって。今思えば、人気ないといっても5位以内に入っているのにやめるのはもったいなかったけど、その当時の漫画家には美学があって。「思いっきり人気のあるうちにやめる」っていう。車田(正美)さんの「リングにかけろ」が終わったときも巻頭カラーで終わっていますし、ぼくらのキン肉マンも31ページの増ページで終わっています。一番後ろに載って終わっていくというのはかっこ悪いという時代でしたから。 ──キン肉マンを超えるヒット作品がでないまま10年がたち、平成10年、週刊プレイボーイで「キン肉マンII世」の連載が始まりました 嶋田 はじめは「キン肉マンを描いてもらえませんか」って話でした。でもそれは嫌だった。キン肉マンはもう書き終えた気持ちがあって。そしたら毎週のように来られて「じゃあ息子の話はどうですか」って。キン肉マンが年老いたころにまた地球に危機がおとずれるけどヨボヨボで地球が守れない。息子はいるが現代っ子で父の跡を継ぐ気持ちなんてない-。「そういうジェネレーションギャップを描いてもらえませんか」って言われて、おもしろいと思ったんです。それで読み切りを3回ぐらいやったら完売になるぐらいの反響で連載することに。アニメにもなって、キン肉マンの8年よりも長い13年の連載になりました。 ──平成23年、ついに「キン肉マン」を再開。何があったのですか 嶋田 ウェブの「週プレNEWS」で漫画を連載するので、目玉がほしいと言われたんです。本誌はもう漫画を扱わないと。最初はウェブコミックなんて誰が読んでいるか分からないし「ちょっとなあ」って思ってて。「キン肉マンをネットですることないでしょ」っていう腹立たしさもありました。中井君も「雑誌でやりたい」って反対だった。 でも、そのとき東日本大震災が起きたんです。あのときネットのパワーみたいなのを感じたんですよね。ぼくもツイッターはやっていたので、キン肉マンのファンの方で被災された人とかとやりとりして。で、本は道路が寸断されていて届かないけど、ウェブだとみられる。「これは新しいかもしれないな」って。 週刊誌も遠隔地だと届くのが遅れるけど、ウェブだともう出したその瞬間に全世界でみられるじゃないですか。で、殺し文句やったのが週プレ担当者の「今までゆでたまごって超人募集とかいろんなこと開発してきたじゃないですか。だからウェブのパイオニアになろうじゃないですか」って。それで落とされましたね。 ──作品はキン肉マンで 嶋田 それしかなかったです。被災地に行ったときも子供とかお年寄りを面倒みてるのが、キン肉マンの世代の35歳ぐらいの人が多かったんです。被災地で漫画教室をやったときも、「キン肉マン知っている人」って聞くとお父さんお母さんたちの手が挙がる。で、日本を元気づけるためにも、ウェブコミックが根付くためにも、やろうと。 ──ウェブの反響は 嶋田 最初は、なかなか広がらなかったんですけど、みんなタブレットとかiPhoneとか持つようになってそこからどんどん。月曜日にキン肉マンを更新するんですけど、今では、その直後にツイッターがキン肉マンの感想で埋め尽くされるようになりました。週プレのサイトにほかの漫画家の作品も増えています。 ──コミックになれば即完売 嶋田 ありがたいです。みんな、キン肉マンを待ってくれてたのにぼくらが描かなかったんやなって感じました。通天閣と新世界100年でコラボ、育ててくれた町に恩返ししたい ──今、キン肉マンは大阪・新世界の100周年を記念する事業の盛り上げ役を担う公式キャラクターです。通天閣や商店街には、キン肉マンのフラッグや人形が飾られて、イベントも開かれています 嶋田 通天閣と新世界が100年を迎えるということで、キン肉マンとコラボできないかと依頼があって。新世界は、ぼくら小さいときに遊び場のように行って、串カツ食べたりしていたところです。そこがぼくらの作品で協力してくれないかと。「そんないい話ないな」と喜んで引き受けさせてもらいました。 ──記念事業は平成27年までの5カ年計画ですが、特にスタート時は新世界中にキン肉マンがいました 嶋田 初日に行ったときはちょっと感激しました。大阪を出てからもう30年以上たってたんですけど、凱旋(がいせん)帰国したみたいな感じで誇らしかったです。だって、上京するときは大阪の人はぼくらのこと何も知らないわけじゃないですか。で、東京でちょっとずつ有名になっていって、で、今度は大阪に迎えられたっていうのがすごくうれしかった。ぼくらを育ててくれた町ですから、何か恩返ししたいと思っています。 ──記念事業とコラボレーションする形で産経新聞とエースコックが作っているカップ麺「大阪ラーメン」の、キン肉マンバージョンが発売されました 嶋田 大阪らしい企画でおもしろいなあと思ったのと、実はぼくはもう小さいときからエースコックのワンタンメンが大好きだったんです。朝食はいつも、ごはんとワンタンメンの溶き卵入りを食べてて。なのにぼくが上京してきた34年前は、ぜんぜん東京で売ってなくてそれで寂しくて。大阪のオカンから送ってもらってずっと食べてました。だから、エースコックさんから依頼をもらったというのもまたうれしくて。 ──東京からみて、今の大阪はどうみえますか 嶋田 ぼくはいまだに東京の食べ物があわないんで、大阪においしいもの食べに帰りますが、ただあれですよね。地元の住之江の商店街をみても今、シャッターが閉まってて元気ないなって。こんなとこやったかなって。東京はおいしいものぜんぜんないのに人はいっぱいいる。まねばっかりで、串カツだって今、東京でブームですよ。でも、なんでか本家が元気がない。それはすごい悲しいことです。大阪は力があるのに使い方が下手くそなのかな。 ──キン肉マンも、大阪だからこそ生まれたキャラクターのような気がします 嶋田 デビュー当時、大阪を出たら作品がつまらなくなると言われました。大阪に住んでいるからこそおもしろいんであって、できるだけそういう感覚はなくさないようにしてきた。 大阪人のサービス精神というか。昔はギャグを10も20もいれるとかしてて、今はとにかく技をいっぱい入れていくっていう。そんなに入れなくてもいいんじゃないかってとこでも、ちょっとこらえ性がないんですよね。なんとか、おもしろがってほしい。そのへんは大阪人やなあと思います。 いまでも僕らは、小学校高学年を読者ターゲットとして作品を描いていますが、実際は35歳から40歳ぐらいの人が見てくれています。ふつうはそんな小学生向けの漫画なんて読まないじゃないですか。でもその世代の人は小学生の当時に戻れるんでしょうね。「ああ、またゆでたまごがこんなアホなこと描いてるわ」って思ってほしい。ウェブが更新された日は、感想は突っ込みだらけですからね。そしてぼくらはまた、みんなから突っ込まれる作品を描いたろって思って。 ──キン肉マン自身、突っ込みどころ満載のヒーロー 嶋田 屁で空を飛ぶとかね。(聞き手 中井美樹)

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    PR】日本で唯一のレーザー加工技術で進化した木製模型

     Woody JOE(ウッディジョー)は、日本で唯一のレーザー加工技術を駆使して作る木製模型メーカー。城郭や戦艦、飛行機などいずれもその完成品は本物さながらの精密さで見れば見るほど引き込まれていくような独特な世界観がある。 従来の刃物加工では、大まかな加工しかできず、実物と比べるとディテールで見劣りしたが、コンピューターによるレーザー加工で作ったパーツは細部まで高い精度で再現。同社の常木則男社長は、「以前は『現物と比べるとやっぱり粗いね』という声もありましたが、今はもっと近くに寄って見てほしいぐらいです」と笑う。「感動を味わってほしい」と話す常木則男社長 木製模型のよさは、肌触りや木の香りを味わえるのはもちろん、20年、30年と経年変化による風合いを楽しめるところ。また、こすったり、削ったり、ペーパーをかけたりと、自分なりにパーツをアレンジできるのも魅力だ。常木社長は、「城は、現存しない部分については学者が調査・研究した形が世間で認知されていますが、当時を勉強して想像しながら『自分はこう思う』というアイデアを反映させられるのも木製模型の良さだと思います」と話している。 レーザー加工で作った白木建築の作品は精巧さに加え、レーザー効果で陰影が強調され、より深みのある見栄えのよい作品に仕上がる。「1/150 安土城」の製作時間はおよそ70時間。「コツコツと作業をして完成したときの感動を味わってほしい」と、あえて時間がかかるように設計されている。ひとつひとつの小さなパーツと向き合いながら作品作りに取り組む時間は、まさに至福の時となるだろう。 戦国武将、織田信長の天下統一事業の象徴である安土城は、今から430年前の天正7年に当時の建築技術の粋を集めた比類なき建造物。安土桃山時代の西洋文化志向を色濃く打ち出した五層7階の壮麗なたたずまいは、天正10年に焼失するまでは、まさしく日本が世界に誇る城郭であった。 西洋風の様相を醸し回廊を備えた八角の段。そこに、異国からの客を招き天下人として野心を語ったであろう信長が見渡した広大な平地と各種各様の舟が行き交う琵琶湖の光景が目に浮かぶようだ。 ウッディジョーは、昭和22年創業の木製品製造メーカー、常木教材の社長でもある常木則男氏が平成14年に設立した木製模型メーカー。取引先だった帆船模型メーカーの倒産をきっかけに、「日本製の帆船模型キットの灯を絶やすまい」とその事業の一部を引き継いだ。その際に導入したレーザー加工機を使って改良と新製品の開発に取り組み、より精密で作りやすいまったく新しいタイプの木製模型キットが誕生した。 本社がある静岡市は、戦前から続く日本の模型づくりの聖地。このモノ作りのDNAを受け継ぎ、木製模型に新たな風を吹き込んでいる。 購入を希望される方は産経ネットショップへ。