「家康が恐れた男」 石田三成の誤算
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「家康が恐れた男」 石田三成の誤算

「奸臣」と蔑まれながらも豊臣政権の行政官として外交や軍事に卓越した手腕を発揮した石田三成。関ヶ原での敗戦により被った悪評は、徳川政権下で一層おとしめられてしまった。「悲劇の智将」の実像に迫る。

「奸臣」と蔑まれながらも豊臣政権の行政官として外交や軍事に卓越した手腕を発揮した石田三成。関ヶ原での敗戦により被った悪評は、徳川政権下で一層おとしめられてしまった。「悲劇の智将」の実像に迫る。

豊家に生涯を殉ず

石田三成
 秀吉への「三献茶」、「君臣禄を分かつ」美談、「柿は痰の毒」など、石田三成には高い志を抱く能吏ぶりを示す逸話が多い。一方で秀吉の側近として台頭した実力者がゆえの驕慢ぶりもうかがえる。
 だが上杉と計らい、毛利・宇喜多の大老を纏め上げ、「海道一の弓取り」と謳われた老練な徳川家康を挟撃せんとし、日本を二分する争いに持ち込んだ三成の才覚を否定する者は少ないだろう。
 しかし三成はわずか1日で賊将となり、刑場の露と消えた。忠義を尽くした豊臣家も滅亡の道をたどる。最大の障害を取り除き、豊臣政権の安寧を築こうとした忠臣は、一大決戦の地、関ケ原でなぜ敗れなければならなかったのか、様々な角度から検証してみたい。(iRONNA編集部)

敗れるはずのなかった者

三成、赦すまじ

 大坂城周辺の大名屋敷を舞台に石田三成襲撃事件は起きた

「生かして、殺す」
三成襲撃…家康の深謀遠慮

 豊臣秀吉の死から7カ月余り。徳川家康とともに豊臣政権の双璧とされてきた前田利家が亡くなった慶長4(1599)年3月3日の深夜から4日未明にかけて、大坂・石田三成屋敷に向かう一団があった。三成と対立していた肥後熊本城主・加藤清正や尾張清洲城主・福島正則ら武闘派集団だった。三成を討つために奇襲をかけたはずが、屋敷内はもぬけの殻。事前に計画を知り、伏見城に向けて脱出したあとだった。「城に入られては…」。清正らは三成のあとを追って一気に京街道を駆け上がった。
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加藤清正(右上)や黒田長政(左
下)、福島正則(右下)ら武断派
は石田三成を急襲した

 直前に襲撃の情報をつかんだ三成は脱出し、京都・伏見城へ。城内の屋敷に立てこもる三成と堀を挟んでにらみ合う七将。しばらく膠着する中、三成は事態打開のため、ある人物に調停役を頼んでいた。その人物とは、秀吉亡きあと政権を牛耳り常に対立関係にあった徳川家康だった。
 七将寄りの家康だったが、七将を叱責する一方で三成を謹慎させることで事態を見事に収める。家康の公平なお手並みに世論も拍手喝采。ところが、この裏には大仕掛けが潜んでいた。三成の謹慎で目の前の障害が取り払われた家康は幼い豊臣秀頼に代わって政務をとることを天下に明言する。そして、追い込まれていく三成派がとった打開策。ここに関ケ原の戦いが切って落とされる。

名を惜しみ 輝く

豊臣滅亡の責任

生ある限り大義を忘れず

「家康が恐れた男」 石田三成の誤算

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