「花燃ゆ」よりよくわかる吉田松陰
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「花燃ゆ」よりよくわかる吉田松陰

「民を救い日本を守るにはどうすればいいのか」。時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯し黒船密航を試みた。そこにあるのは「私利私欲なく日本を守りたい」という一念のみ。維新の英傑を育て上げた稀代の兵学者、吉田松陰の純粋な志に迫る。

「民を救い日本を守るにはどうすればいいのか」。時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯し黒船密航を試みた。そこにあるのは「私利私欲なく日本を守りたい」という一念のみ。維新の英傑を育て上げた稀代の兵学者、吉田松陰の純粋な志に迫る。

至誠と希望

いまだ東北を知らず

「やっとその日が来た」

明治維新の精神的指導者、
吉田松陰の肖像
(国立国会図書館蔵)

吉田松陰が家族に宛てた
処刑直前の「辞世の句」
(山口県文書館提供)

処刑直前の辞世、実名汚さず

 幕末の思想家、吉田松陰(1830~59年)の辞世の句が見つかったと、井伊美術館(京都市東山区)が2014年1月23日、発表した。家族宛ての辞世の句と同じ文言で、専門家は「松陰が同じ句を複数人に宛てて書いたと考えられる」としている。松陰は大老、井伊直弼(1815~60年)による「安政の大獄」で江戸に送られ、処刑された。辞世の句は縦27・5センチ、横19・5センチの和紙に「此程(これほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)はけふきく古曽(こそ)嬉(うれ)しかりける(中略)矩之」(死を覚悟しており、今日やっとその日が来てうれしいという意)と記されていた。
 鑑定にあたった佛教大歴史学部の青山忠正教授(日本近代史)によると、山口県に残された家族宛ての同じ文言の句にも「矩之」と記されていた。松陰が自身の実名「矩方(のりかた)」を誤記したという説もあったが、今回の句にも「矩之」と書かれており、青山教授は「処刑を前に、実名を汚したくないと改名したのかもしれない」と指摘している。
今の日本が誰より忘れべきでない男(産経新聞) ■吉田松陰の名文・手紙(松陰.com)

教えながら学ぶ

下田事件 まさかの暗殺説

日本に来航した黒船(出典「海外舟備考」=霊山歴史館蔵)
 松陰が安政元年(1854年)、伊豆・下田でペリーの黒船に乗り込み投獄された「下田事件」に関し、松陰はペリーを刺殺するために乗り込んだことを明記した肥後藩士の建議書の写しが平成11年、熊本県立図書館の蔵書の中から見つかった。松陰は黒船でアメリカに密航しようとしたというのが定説。写しを発見した岡崎学園国際短期大学の川口雅昭教授(日本教育史)は「松陰は攘夷のせっぱ詰まった気持ちで肥後藩士らの教唆を受け、ペリー刺殺を企てた」とする新説を論文集で発表した。
 発見されたのは、肥後勤王党の中村敬太郎が獄中にあった肥後藩士、永鳥三平を助けだそうと、文久2年(1862年)11月に藩へ提出した建議書の写し。肥後藩士の子息、石原醜男氏らが昭和十年に著した「松村大成・永鳥三平両先生伝」に書かれていた。公文書に当たる建議書では「幕府が和ぼくを決めたため、夷賊(アメリカ)の無礼な態度を眼前に見るに忍びず、松陰は金子重輔の助けを得て、夷賊の棟梁(とうりょう)たる彼理(ペリー)を一刺之間に逞せんと船に乗懸かり申候、…(中略)その後有志の面々も四方に離散して時を相待居申候」とあり、松陰はペリー刺殺に失敗したが、有志の面々が次の機会を虎視眈々と狙っている旨を記載している。松陰自身は下田事件後の獄中で書いた「幽囚録」などの詩や書簡などで「アメリカに行こうとして失敗した」と繰り返し書き残しており、密航説は定説となっており、写しは松陰関係の資料を集大成した「松陰全集」にない。しかし、川口教授は「真相がペリー刺殺のためであれば、他藩の同志への影響と刑の長期化は免れえない。このため、密航を理由に他藩士を守り、早く自由の身になろうとした」と解釈。建議書に「離散して時を相待居申候」とあるのは、松陰らが再起にかけていたことを如実に表している、としている。
山口県公文書館が所蔵している吉田松陰の「思友詩」。上に
朱文字で書いているのがペルー刺殺が目的の僧・月性の批評文
 さらに、すでに見つかっている松陰が遊学中に師事した大和五條の儒学者、森田節斎が安政元年12月に弟にあてた書簡に、「西洋事情を詳しく知るために異船に乗ろうとして失敗したが、本当は主将(ペリー)を殺しに行った」という内容が書かれていたことや、松陰と交際のあった尊皇攘夷派の僧、月性が書いた松陰の詩「思友詩」の批評文などを、ペリー刺殺説を前提に検討し直すと、刺殺目的のために黒船に乗り込んだと結論づけている。

 ■下田事件 嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊の四隻の黒船が浦賀(神奈川県横須賀市)に来航。日米間の通商などを求めた大統領の国書を幕府に渡した。回答が「来春」とされたことから、国内が和親か攘夷かでわき返ったが、翌年の安政元年3月、幕府はペリーと下田(静岡県)、函館(北海道)にアメリカ船の寄港を認めることなどを骨子とした日米和親条約を調印した。ペリー艦隊はその後、下田沖に停泊し、吉田松陰ら2人が黒船に乗り込んだが追い返され、番所に自首し投獄された。


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