信玄と謙信「川中島の戦い」の謎

信玄と謙信「川中島の戦い」の謎

戦国最強の両雄、武田信玄と上杉謙信が12年余にわたり激突した川中島合戦は、現存する史料がほとんどなく、軍記書の『甲陽軍鑑』等が描く内容が定説化してきた。闇に埋もれた戦いの姿と両雄の実像に迫る。

通説 揺れる根拠

  • 戦国史上最も謎に満ちた名将2人の決戦

    戦国史上最も謎に満ちた名将2人の決戦

    川中島合戦の実態はほとんどわかっていない。その理由は、基本史料となる『甲陽軍鑑』の評価にある。現在流布する通説のベースとなった『甲陽軍艦』は、実は明治時代に史料的価値を疑われた。信玄と謙信はなぜ戦い続けたのか。小和田哲男が真実を読み解く。

「三太刀七太刀」

  • 信玄と謙信の一騎討ちは史実か?

    信玄と謙信の一騎討ちは史実か?

    歴史小説やドラマ等にしばしば登場する信玄と謙信の一騎討ち。しかし、大将はふつう、本陣の床几にどっかと座っているもの。いかに乱戦とはいえ、疑ってしまいたくなる話である。歴史研究家の跡部蛮が真偽に迫る。

北信濃 夢のあと

 川中島の戦いは、今から約450年ほど前、北信濃の経路を巡って、甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信が、天文22年(1553)、川中島布施(現長野市篠の井駅付近)で、干戈を交えた布施の戦いから、永禄7年(1564)篠ノ井塩崎の退陣まで、足掛け12年、前後5回の交戦を指している。いずれも北信濃、川中島地方が主戦場になった。この間の戦いを総称して川中島の戦いと云う。
 永禄4年(1561)9月10日の八幡原の大激戦は、第4回目に当たった。戦国末期の名将、信玄と、謙信が一騎討ちをしたと言う大激戦であっただけに、川中島の戦いと言えば、永禄4年の八幡山の大激戦を指すようになった。この戦いにより、川中島は武田領になった。
紀州本・川中島合戦図屏風(右隻)=和歌山県立博物館提供
 信玄は戦いに強かったばかりではなく、信仰心が篤く、領民の暮らしに、心を配った立派な政治家でもあった。八幡原の大激戦が終わった10月、海津城将、高坂弾丞らの将兵を引き連れて、自領となった川中島の地を視察したおり、川中島地方が一望に眺められる茶臼山の南麓、柳沢の地に立ち寄って、駕籠から降り、休息した。この時、眼下に広がる戦乱に荒廃した村里を望見した信玄公、いたくご心痛になり、川中島の戦いによって、犠牲になった多くの人々の菩提と、この川中島に平和が訪れることを願って、この地に禅寺を建立して、寺が完成すると、信玄ご持仏の青面金剛像を奉納して、本尊として奉り、寺領46貫文を寄進し、川中島の名刹、玄峰院二世、宗益を住職として迎えた。この寺が、今日の耕心庵である。この時与えた寺領安堵状など、本寺、玄峰院にあったが、玄峰院は、寛政6年(1794)5月28日夜、諸堂ことごとく焼失する火災にあい、同時に古文書類も焼失した。幸いなことに、玄峰院二世、宗益の記した「玄峰院校割筆記」が、長野市稲里町青木修一郎家に現存し、市立博物館に寄託されている。青木家は上田藩飛び地領、川中島の大庄屋を代々世襲し、玄峰院の有力な檀家であった。(郷土史家 岡澤由往)
■ 第4次川中島八幡原の戦い長野市「信州・風林火山」特設サイト

ただ機に臨みて戦うのみ

  • 先見性をもたなかった凡将・謙信

    先見性をもたなかった凡将・謙信

    謙信が越後と上野(こうずけ)の国境(くにざかい)の三国峠(標高1244メートル)を越えた回数については、12回説と14回説がある。謙信が過労とストレスを溜めこまない方法はあったのか。

  • 天下をとるべく動き出すのが遅すぎた信玄

    天下をとるべく動き出すのが遅すぎた信玄

    信玄には、甲州と信州とを平等に扱おうとした気配も見える。信州の善光寺と瓜ふたつの甲府善光寺を建立したこと、諏訪頼重の娘に産ませた四男勝頼を後継者に指名したことなどはその一例といってよい。しかし、誤算もあった。

  • 「川中島」とうとう勝負がつかなかったわけ

    「川中島」とうとう勝負がつかなかったわけ

    前後5回にわたって信玄と謙信が戦った「川中島の合戦」はとうとう勝負がつかなかったという。その理由は「双方とも名将であったから」ではない。

川中島

紀州本川中島合戦図屏風に描かれた信玄と謙信の一騎討ち
(和歌山県立博物館提供)
 神話と史実、伝説と原像が違っているケースはいくらでもある。「川中島の合戦」を描いた絵で、上杉謙信・武田信玄の両雄が川中で太刀を切り結んでいる図屏風が和歌山県の商家にあったそうだ ▼「川中島」といえば、昔の絵本でも、武田の本陣に謙信が単騎おどりこんでいる光景が“定説”になっていた。信玄は床几(しようぎ)に腰かけ、諏訪法性(ほうしよう)のかぶとをかぶって、馬上で襲いかかる謙信の太刀を軍配で受け止めている。ところが新発見の絵は、川中の集団戦闘だった ▼亡くなった作家・海音寺潮五郎氏の歴史エッセーに、小説を書くため川中島の戦跡を見にゆく話がある。上山点の温泉宿で土地の人が「謙信が単騎斬り込んだのはウソだそうですね」というのに、「そう歴史学者はいうが、ぼくは斬り込ませますよ」 ▼「斬り込まんでは、この小説は撃竜点晴(せい)を欠くことになりますからな」と海音寺さんは笑って答えている。そしていよいよ川中島合戦を書くことになって子細に史実を検討し、両雄の性格を比べて「歴史学者が何といおうと、謙信の単騎斬り込みはあったに違いないと信ずるようになった」 ▼ついでながら「謙信は高血圧、信玄は低血圧だったのではないか」と。両雄とも希代の戦争上手だが、戦いぶりは正反対で、謙信は天才肌で無鉄砲なくらい積極的。信玄は用心深く、平生の訓練を怠らず、軍令と陣法を教えさとした。これは“血圧”の差だろうという(『史談と史論』) ▼「川中島」には諸説があるが、双方の死者なんと七千九百、日本戦史上最大の激戦の一つであることは間違いない。歴史の学問は知らず、小説や講談だから大いに「やらせ」をやって下さい。(産経新聞 1993.2.11 産経抄)

信玄と謙信「川中島の戦い」の謎

川中島合戦の「真の勝者」は誰だと思いますか?

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