織田信長、築城革命の真実

織田信長、築城革命の真実

織田信長が初めて築城した小牧山城の最新発掘調査で、信長が当時群を抜く高い築城技術を持っていたことが改めて証明された。従来の信長像を否定する最新研究に注目が集まる中、近世城郭の始祖とされる信長の築城術から見えるものとは何か。戦国築城革命の全貌に迫る。

信長はやはり革命児だった

 旧来の秩序を壊し、斬新な発想と類まれな実行力で戦国乱世を切り拓く「革命児」とのイメージが強い信長だが、最新研究では従来のイメージにとらわれない新しい信長像が提唱され、注目されている。
 最新研究によると、信長が目指した「天下」とは、日本全国の統一ではなく畿内の制圧であり、しかも時の権力者である足利家や朝廷を尊重し、旧来の秩序を誰よりも重んじていたとする考察である。これまでの「常識」とはおおよそかけ離れた信長像だが、本当にそうなのだろうか。
 今年2月に愛知県小牧市教委が発表した小牧山城の発掘調査では、信長が自身の手で初めて築いたとされる小牧山城は、従来考えられていた2段備えの石垣ではなく、3段の石垣を構える本格的な城郭だったことが明らかになった。
 小牧山城は、後に信長が現在の滋賀県近江八幡市に築く安土城のルーツとされ、織豊系城郭の系譜をたどる研究においてもその存在価値は高い。今回の発掘調査が意味するのは、近世城郭の始祖とされる安土城にも通じる高度な石垣造りの築城技術を当時の信長が既に有しており、他の戦国大名よりもはるかに優れた技術力やアイデアを持っていたことを顕著に物語る。
 信長研究において、第一級資料とされるポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの自著「日本史」によれば、フロイスが安土城を観覧したとき、技術の粋を結集させた荘厳な天主と他者を圧倒する要塞としての側面を持つ巨大な建造物に「かつて見たことがないほど壮大な宮殿」と驚かずにはいられなかったという。
 この記述に込められたフロイスの真意を想像すれば、当時の信長の「先進性」と「斬新さ」を疑う余地はない。築城技術一つをとっても、信長はやはり革命児だったのである。(iRONNA編集長 白岩賢太)

「織豊系城郭」とは何か

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高度な石垣構築

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信長初の築城、小牧山城

小牧山全景(小牧市教委提供)
 小牧山城は、尾張(現在の愛知県東部)を統一した信長が永禄6(1563)年、美濃(現在の岐阜県南部)の斎藤氏を攻める拠点として築き、稲葉山城(現在の岐阜城、岐阜市)に移るまで約4年間居城とした。従来は美濃攻めのための砦にすぎず、単なる山城とされてきたが、小牧市が史跡整備の一環で本丸部分の発掘調査を始め、山頂を囲む斜面で推定の高さ約2・5~3・8㍍の石垣が見つかった。小牧市教育委員会によると、石垣の形状や矢倉の形跡などから、山頂に御殿のような建物があったと考えるのが自然という。史上初の本格的な城下町があったことも、発掘調査で判明。信長はそれまでの居城だった清洲城(愛知県清須市)から移転する際に、下水溝や道路などを整備。大きな縦長の「長方形街区」を複数建設し、内側を短冊形の区画に分けて町家を密集させた。このような最先端の町づくりは、江戸時代に全国に広まった。
■安土城のルーツ小牧に 発掘調査で見えた信長の石の城 (日本経済新聞 2015.2.28)

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