亡国の「左傾メディア」
12620

テーマ

亡国の「左傾メディア」

アベノミクス、安全保障法制、日本国憲法…。証拠や事実を示さずに一知半解で政権批判を繰り返し、それでいて自分たちが喧伝した嘘は謝らない。一体、左傾メディアはこの国をどうしたいのだろうか。国なく人もない、亡国へと追いやるつもりなのか。

アベノミクス、安全保障法制、日本国憲法…。証拠や事実を示さずに一知半解で政権批判を繰り返し、それでいて自分たちが喧伝した嘘は謝らない。一体、左傾メディアはこの国をどうしたいのだろうか。国なく人もない、亡国へと追いやるつもりなのか。

偏見、放言、妄言の数々

制服・背広組を対等に

 3月6日、政府は陸海空自衛隊の幕僚監部(制服組)と防衛省内局(背広組)との「内幕対等」を明確にすることを盛り込んだ防衛省設置法改正案を閣議決定した。
 現在の12条は内局の局長らが防衛相を「補佐」するとした上で、防衛相は陸海空自衛隊と統幕に指示・監督を行うと規定。局長らが自衛官を指示・監督する「文官統制」を定めたものと受け止められていた。今回の改正で、背広組が政策的な見地から、制服組は軍事的な見地から対等の立場で防衛相を補佐することを明確にする方針だ。
 中谷元防衛相は6日の記者会見で、政治が軍事を統制する文民統制(シビリアンコントロール)について「(背広組と制服組による補佐が)相互に機能し、より強化される」と強調した。菅義偉官房長官も記者会見で、文民統制が弱まるとの懸念に対し「全くない」と否定した。

文官統制

 文民統制(シビリアンコントロール)を機能させるため、文官を中心とした防衛省の内局が、自衛官を中心とした統合幕僚監部などに対し、指示・承認・監督を行う制度。政府は文民統制の構成要素は国会、内閣、防衛相などによる統制と位置付け、文官統制の存在を否定している。ただ、竹下登元首相が蔵相時代の昭和60年、衆院大蔵委員会で「防衛庁の中で内局の方がコントロールしていく」と答弁。文官のみで占められた防衛参事官制度などを含めて文官統制が機能しているとみなされてきた。

日本で「公正中立」は無理

記者は逃げたら終わり

捏造批判は「死刑に等しい」

第1回口頭弁論後、記者会見する
植村隆氏=4月27日、東京・
霞が関の司法記者クラブ
 朝日新聞の従軍慰安婦報道に関わった元記者の植村隆氏(56)が、捏造(ねつぞう)との批判が原因で名誉を傷つけられ深刻な人権侵害を受けたとして、文芸春秋と東京基督教大の西岡力教授に損害賠償などを求めた訴訟の第1回口頭弁論が27日、東京地裁(原克也裁判長)で開かれた。
 植村氏は「捏造記者と言われることは新聞記者にとって死刑判決に等しい。関係者の証言を録音したテープを聴き、記事を書いた。決して捏造ではない。報道の自由を守る闘いだ」と意見陳述。被告側は「原告の書いた記事は事実を報じずに読者を誤解させる内容で、捏造との論評に問題はない」として、請求棄却を求めた。
 原告側は、文芸春秋が発行する「週刊文春」の記事や、西岡氏の論文が植村氏だけでなく家族への敵意もあおり立て、娘が嫌がらせを受けていると訴えている。

かつて「国益」すら忌避

思い出される福沢の言葉

 個人の信条として非暴力や非戦の考えを抱くのは自由である。しかし先人から受け継ぎ後世に伝え残すべき国家について、戦後憲法を金科玉条として祭り上げ、解釈変更にすらヒステリックに騒ぎ立てることは、無責任極まりない。
 集団的自衛権に戻ると、占領憲法を改正し軍隊の保持を明記するのが筋である。そのうえでの同盟であり集団的自衛であるべきだろう。だが日本の安全を脅かす海外の力が現実のものとしてそこまで来ている状態で、「集団的自衛権は保有するが行使できない」などとするこれまでの珍説をここで改めておくことは、国益上至極まともである。
 この、至極まともなことを国内で騒ぎ立てる方がむしろ異常なのだ。喜ぶのは中国や北朝鮮なのである。同盟国などとともに有事に臨む、という姿勢を明確にすることは、中国などへの抑止となる。逆に集団的自衛権の行使をヒステリックに騒ぎ立てることは、中国などを利することになる。一体、左傾人士たちは国の独立ということをどう考えているのだろうか。
日本の近代洋画の開拓者、川村清雄の作品『福澤諭吉肖像』
 外圧にさらされるなかで懸命に国の独立を保とうとした幕末から明治初めの日本の姿が、改めて想起される。この間の左傾メディアを見ていて思い出すのは、「国なく人なければこれを我日本の文明というべからず」という言葉である。
 言葉の主は福沢諭吉。日本の文明開化を先導した啓蒙(けいもう)思想家、といった紋切り型のイメージで見られがちだが、そんなに単純ではない。諭吉を駆り立ててやまなかったものは、「国の独立」への思いにあったと筆者は理解している。
 単に西洋のものをありがたがる浅はかな連中を諭吉は「開化先生」と呼んで批判する(「学問のすゝめ」)。「今の日本国人を文明に進(すすむ)るは、この国の独立を保たんがためのみ」なのである(「文明論之概略」、以下も)。
 諭吉の視線は極めて現実的だ。国と国の交際はただ2つだと諭吉はいう。「平時は物を売買して互に利を争い、事あれば武器を以て相殺すなり。言葉を替えていえば、今の世界は、商売と戦争の世の中と名(なづ)くるも可なり」。左傾先生が後生大事に擁護する戦後憲法の、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」とする姿勢とは雲泥の差がある。「先(ま)ず日本の国と日本の人民とを存してこそ、然る後にここに文明の事をも語るべけれ」。そう自覚を促して、諭吉は「国なく人なければこれを我日本の文明というべからず」というのである。
 重ねていうが、日本に必要なのは憲法改正である。だが左傾メディアのごとく、改正の手前の、解釈の変更をここまでヒステリックに騒ぎ立てるとは、なにをかいわんや。幕末明治の独立の精神から大きく後退している。というより、精神の退廃でしかない。
 一体、左傾メディアはこの国をどうしたいのだろうか。国なく人もない、亡国へと追いやりたいのだろうか。(産経新聞大阪正論室長・河村直哉、2014.05.17
亡国の「左傾メディア」

みんなの投票

左傾メディアの論調が「無責任」と思うことはありますか?

  • 無責任だと思う

    5898

  • 無責任とは思わない

    6585

  • どっちもどっち

    137