やっぱ大阪弁はええなぁ
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やっぱ大阪弁はええなぁ

近年、お笑いの世界にとどまらず、映像や文学作品でも大阪弁がよく使われている。ただ、言葉のプロが聞くと不自然さを感じることも多いらしい。それでも日本語表現で最も難しいといわれる「敬称」の使い方をみれば、大阪弁の奥深さの一端がみえてくるという。やっぱ大阪弁はええなぁ。

近年、お笑いの世界にとどまらず、映像や文学作品でも大阪弁がよく使われている。ただ、言葉のプロが聞くと不自然さを感じることも多いらしい。それでも日本語表現で最も難しいといわれる「敬称」の使い方をみれば、大阪弁の奥深さの一端がみえてくるという。やっぱ大阪弁はええなぁ。

「はん」と「さん」

 芦屋雁之助という怪優の存在を初めて知ったのはテレビの公開コメディ番組『番頭はんと丁稚どん』だったと思う。まだ、小学生の頃だ。大阪の薬問屋の小番頭に扮し、丁稚役の大村崑、茶川一郎、芦屋小雁らをいびり倒す。後年の当たり役になる裸の大将とは大分、イメージが異なるが、存在感はあった。
 ネットで調べると、1959年3月、大阪の毎日放送テレビの開局にあわせて始まった30分番組で、ほぼ2年間、続いている。
 東京の下町のよい子だった私などは、日本教育テレビ(現テレビ朝日)で毎週月曜日には欠かさず観ていた記憶がある。当時の東京と大阪とでは、いまなら海外旅行に行くほどの距離感があった。遠く離れていたのだ。「番頭」という言葉も、「はん」という敬称があることも、初めて知ったのは確かあの番組だった。
 ところで、タイトルは『番頭はんと丁稚どん』だったか、それとも『番頭さんと丁稚どん』だったのか。そもそも「はん」と「さん」、どっちが正しいんやろ。どっちやねん。う~ん。産経新聞、清湖口敏論説委員の名物コラム『国語逍遙』58 「訃報と敬称 ベイチョウさん、おおきに」を読んで、改めて考える。
 敬称の話に興味は尽きない。ついついそう思ってしまうのは、関西弁の魅力か、清湖口マジックか。おそらくその両方だろう。言葉にはルールがあり、ルールがある以上、例外もあるし、世の中の変化によってそのルールが少しずつ変わっていくこともある。「はん」と「さん」には限らない。たとえば、太夫に「さん」をつけたらおかしいか、おかしくないのか。『国語逍遙』では書ききれなかった話も清湖口論説委員に改めて執筆してもらった。(宮田一雄)

日本人でも難しい日本語の「敬称」

若者言葉にも入り込む

もし桂米朝なかりせば

 米朝さんは昭和22年、四代目桂米団治に入門した。東京での学生時代に作家で寄席文化研究家の正岡容(いるる)に師事した。郷里の姫路に戻って会社勤めをしていたころ、正岡から手紙が届く。「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」
2010年8月23日、第14回上方演芸の殿堂入り
表彰式に出席した桂米朝さん(沢野貴信撮影)
 「師の声は天の声」。当初は正岡のように演芸の研究家を目指そうと考えないでもなかったが、何か満たされず、自分も高座に上がりたいという思いが頭をもたげたという。
 「爆笑王」の異名をとった初代桂春団治はすでに亡く、戦災で寄席はあらかた焼け、大阪の笑いはスピーディーな漫才が主役だった。落語家になろうという者などめったにいない。米団治も弟子入り志願に「やめときなはれ」とは言わなかったが、「この商売は食えまへんで」。
 米朝さんとともに四天王と称された六代目笑福亭松鶴、三代目桂春団治、五代目桂文枝も相次いで落語界の門をたたいているから、昭和22年は上方落語にとって記念すべき年である。
 米朝さんの功績を列記するなら、一に埋もれた演目を掘り起こして現代に甦(よみがえ)らせたこと。多くの弟子を育てたこと。そしてホールでの独演会、一門会を成功させ落語の舞台を広げたことである。大手のプロダクションに所属せずに個人事務所を持ったのも初めてだ。演者にして研究家、教育者、プロデューサーと何役もこなしてきた。(中略)
 今、上方落語は念願の定席「天満天神繁昌亭」ができ、落語家も米朝一門だけで60人を超える。息子の五代目桂米團治をはじめ桂塩鯛、桂米紫など襲名ラッシュで活況を呈す。
 その昔、船場の商家の奉公人は大阪の風俗、しきたり、季節のあいさつなどを寄席で学んだ。落語は学校だったのだ。「もし桂米朝なかりせば…」。最初の問いかけに戻ると、上方落語だけでなく、大阪の文化の伝承も途絶えていたかもしれない。
 師の米団治はこう語ったそうだ。
 「今に想像もできん、ええ時代が来るで。これほど洗練された芸はないんやさかいな。廃れてしまうことは絶対にない」(産経新聞特別記者兼論説委員・鹿間孝一、2010.10.19)

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融合されて生まれた大阪コトバ

梅田スカイビル展望
フロアから望む大阪城
天守閣=6月22日夜
(竹川禎一郎撮影)
 興行万歳から彦八咄へと、大阪に笑いの伝統が生まれた理由をあれこれさぐると、どうしても豊臣秀吉にいきつく。秀吉が大坂城を築城し、城下町をつくるさい、近江や京、伏見などから多くの商人を集め、船場一帯で商売をさせた。町造りのための土木技術者は、道頓堀を造った安井道頓がそうであったように、もっぱら河内の出身者だった。ヨソ者ばかりが集散する町には、各地の放言が煮えたぎる窯にぶち込まれて融合(アマルガム)され、独特のコトバが生まれる。もっぱら商業でなりたっていた町だから、取引などのさい、カドの立たない潤滑油としてのコトバ遣いも形成されていく。
 かくして大阪弁(大阪コトバ)が誕生した。その特徴を、新潟出身の作家、坂口安吾はエッセー「道頓堀罷り通る」のなかで、こう書いている。
 「表現が適確である。人を罵倒する無数の汚らしい言葉が発達している上に、実にエゲツなくグサリと人の弱点を突き差す言い方が自在に口から出る仕組みになっているらしい」
 「その場に即して写実的であり、臨機応変即物的に豊富多彩な言い廻しが自ら湧いてつきないという趣きがある。おまけにその口の早いこと」
 このような大阪弁は「笑いコトバ」としても最適だった。漫才作家、秋田実も「大阪人がふたりで会話を始めれば、そのまま漫才になる」と書いたように、とりわけ漫才向きであった。だが「笑う」のは簡単だが、「笑わせる」のはむずかしい。明治中期の落語ブームにはじまり、「笑いの王国」、あるいは「吉本王国」とも呼ばれ、現在までえんえんと続く笑芸ブームの裏面には、おびただしい数の死屍(しし)が累々と貼りついている。(産経新聞論説委員・福島敏雄、2015.05.27)
やっぱ大阪弁はええなぁ

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