信長は「革命児」ではなかった
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信長は「革命児」ではなかった

信長が戦国乱世の「革命児」というイメージは、後世が作り上げた虚像だったのか。最新の研究では、従来の信長像に否定的な見方を示す学説が提唱され、大きな注目を集めている。これまでの常識にとらわれず、全く別の角度から光を当てることで、真実の信長の姿が浮かび上がる。

信長が戦国乱世の「革命児」というイメージは、後世が作り上げた虚像だったのか。最新の研究では、従来の信長像に否定的な見方を示す学説が提唱され、大きな注目を集めている。これまでの常識にとらわれず、全く別の角度から光を当てることで、真実の信長の姿が浮かび上がる。

金子拓が提唱する実像

クリエイターではなくモノマネの天才

 信長の家はもともと、尾張下四郡の守護代・織田大和守に仕える一奉行だった。父の時代に、彼らの本拠地・津島で行われていた水運を利用した物流業をテコ入れした。その見返りとして業者に積み荷の何%かの税金を課して蓄財し、尾張半分を領土にするまでに成長する。
豊臣秀吉が出した
「楽市」制札=神戸市
北区の淡河歳田神社
 それを継承した信長は加えて、「座」に新しい経済システムを導入した。それまでの地子銭(=固定資産税のようなもの)などを撤廃した「楽市楽座」だったが、これで既得権を失った「地主たち」の不満は、しっかり武力で封じ込めた。
 このほか、関所を廃止して、それまであった通行税や往来税にも楔を打ち込み、代わりに「お前たちを守ってやるから」という名目で、領内に住む人々に、治安保障税のような新税を課した。
 彼の急伸長の影には「武力」だけでない「経済力」の裏付けもあったのだ。ただ、この「楽市楽座構想」は信長の発想ではない。同じ趣旨の試みを信長以前に、近江の守護大名、六角定頼(さだより)が小規模だが実行していた。それを言えば「兵農分離」は、越前の戦国大名、朝倉義景(よしかげ)がやっていた雇兵制度を参考にした、といわれている。
 つまり信長は、白紙状態の、全くのゼロから新しいものを作り出すクリエイターではなかった。他人が作った作品を参考に、それを自分方式の「新しいもの」に、「自分の解釈」で作り直す大天才だった。しかし、そこには、「それ」に対する、正確な「理解」と、深くて鋭い「洞察」が必要だったのである。(後略)(元NHKアナウンサー・松平定知 夕刊フジ、2015.01.07

小和田哲男の考察

「神」たらんとしたのか

 「(信長は)全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、(略)自らが単に地上の死すべき人間としてではなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人に礼拝されることを希望した」
 信長とは18回も謁見したポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』のなかの一節である。信長は「絶対神」になろうとしたというのである。
天主閣跡まで急な石段が長々と
続く安土城
 フロイスによると、安土城内にある摠見(そうけん)寺という寺に、「ボンサン(盆山)」と呼ばれる石を置き、それを信長の「御神体」とさだめた。5月の誕生日には万人を集めて、御神体を崇拝させる祭典を開いた。
 貧者は富み、子なきは子を授かり、80歳の長寿を得るという御利益もあった、とされた。当日は「信じられないほどの数」の参拝客があった、と続く。このくだりは信長に仕えた太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』など、日本側の史料にはない。フロイスの「過大表記」とみる説が多い。
 だが天正9年正月、京都での馬揃えのさい、はなやかな出で立ちで登場した信長について、太田は「住吉明神の御影向(ようごう)も、かくや」と書いた。馬揃えは、天皇や公卿らを前にした観兵式のようなものである。
 作家、遠藤周作は太田の記述をもとに、小説『反逆』のなかで、信長は神のマネをしたのではなく、
 「神になる姿をこの絢爛たる姿で示したのである」
 と記し、クリスチャンらしく、フロイス説に同調した書き方をしている。(後略)(産経新聞、2015.03.25)

「虚像」の打破なるか

信長は「革命児」ではなかった

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