信長はなぜ安土城を築いたのか
1463

テーマ

信長はなぜ安土城を築いたのか

1579年5月、琵琶湖のほとりに空前絶後の建造物がそびえ立った。「天下布武」の象徴として織田信長が築城した安土城である。信長の世界観を具現化した天主はわずか3年後に焼失し、その実像はいまだはっきりしない。謎多き覇王の城の真実とは?

1579年5月、琵琶湖のほとりに空前絶後の建造物がそびえ立った。「天下布武」の象徴として織田信長が築城した安土城である。信長の世界観を具現化した天主はわずか3年後に焼失し、その実像はいまだはっきりしない。謎多き覇王の城の真実とは?

安土城の謎

築城の目的とは

大手道から安土城の天主を見上げた復元CG(滋賀県近江八幡市提供)

現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。築城した目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。


関連記事

安土城跡をめぐる




JR安土駅の北東、標高199mの安土山一帯にある織田信長(1534-82)の居城跡。国指定の特別史跡です。天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて完成しました。安土・桃山時代の幕開けとして築城されましたが、織田信長が倒れた本能寺の変後、焼失して石垣だけが残っています。安土山の南側には、堀が巡っていて往時の名残りを留めています。天主跡と本丸跡には礎石が、また二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長廟が残っています。天主閣跡から東へ少し下った黒金門跡(くろがねもんあと)付近には、壮大な石垣もあります。また、山の中腹には家臣団屋敷跡があり、山の尾根づたいに北へ行くと八角平や薬師平があります。城山の中心部への通路は、南正面から入る大手道のほかに、東門道、百々橋口道、搦手道などがあります。城の外面は各層が朱色・青色・あるいは白色、そして最上層は金色だったといいます。内部は、狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や、金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれています。わが国最初の本格的な天主の建築は、この安土城が始まりとされ、歴史上に名を残す名城跡です。現在、平成元年より20年計画で学術調査と整備事業が行われています。


信長人気は衰え知らず

2014年10月13日(月)から始まる織田信長が主人公のドラマ


信長はなぜ安土城を築いたのか

みんなの投票

安土城を焼失させたのは誰だと思いますか?

  • 明智秀満説

    506

  • 織田信雄説

    821

  • 野盗説

    136