今も生きる「大和」と「武蔵」
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今も生きる「大和」と「武蔵」

先の大戦、旧日本海軍の大艦巨砲主義を象徴する主力艦と言えば、戦艦大和と同型艦の武蔵だった。世界屈指の艦戦能力を持ちながら、さしたる活躍もなく海に消えた姉妹艦は、なぜ時代を超えて人々を魅了するのか。戦後70年たった今も受け継がれる大和と武蔵の記憶をたどってみたい。

先の大戦、旧日本海軍の大艦巨砲主義を象徴する主力艦と言えば、戦艦大和と同型艦の武蔵だった。世界屈指の艦戦能力を持ちながら、さしたる活躍もなく海に消えた姉妹艦は、なぜ時代を超えて人々を魅了するのか。戦後70年たった今も受け継がれる大和と武蔵の記憶をたどってみたい。

伝統的な「モノづくりの力」

「大和」の旋盤が支えた重厚長大

 世界最大の戦艦「大和」は世界最大の大砲9門を備えていた。口径46センチ、長さ21メートル。砲弾の飛距離は約42キロで、ほぼマラソンの距離に匹敵する。広島県呉市の海軍工廠(こうしょう)で、この主砲身製造を担った超大型旋盤も長大で蒸気機関車級だった。昭和13年のドイツ製で、長さ25メートル、幅3メートル、重量150トン。
 なぜ分かる? 「大艦巨砲」の生みの親は、機械加工メーカー「きしろ」の播磨第一工場(兵庫県播磨町)で68年後も営々と働いているからだ。戦後、一台だけが占領軍の破壊を免れ、民生用に。神戸製鋼を経て平成8年、移ってきた。ハイテク艦に込められた技術は、水力発電用の発電軸、原子力発電所の諸施設製造など平和産業に役立っている。「旋盤は私と同じ年齢ですが、さほど性能は衰えない。ものづくりの伝統は日独ともにすごい」と松本好雄社長(68)。
 きしろは、大型船舶で動力を伝えるクランク軸(神戸製鋼製)加工での世界シェアが4割。日本の底力、ここにありだ。創業九十周年を迎え昨年、日本標準時の子午線(東経135度)が通る明石市天文町に本社を移転した。窓外に天文台が聳(そび)える。今や世界の海は20万、30万トンのタンカーが航行する。「スクリュー軸だけで100トン。クランク軸も25メートル。まさに重厚長大です」。造船をめぐっては韓国メーカーとの激しい価格競争が続く。お隣は国家のバックアップもあり、最新鋭の工作機械を揃(そろ)えて驚異的な発展を遂げてきた。
 「でもね、金を掛けたラインより、現状で本当に不便を感じ、ギリギリ必要に迫られて、やっと買えた機械の方が『いい仕事』をしますね」
 造り手の望み、高みに機械が追い付いてくるような感じ、と松本さんは表現した。実際、父の金次さんは、コストダウンのため、金属で固定すべき大型旋盤の土台をコンクリートで代用するなど、創意工夫を惜しまなかった。だが工場立ち上げの最中、病没。松本さんの苦闘が続いた。大阪万博が開催された45年、ドイツから、独海軍艦艇を造った旋盤を買い求め、使ってきたが、じつは大和旋盤と兄弟とわかった。現在、世界に2台しか残存しない「歴戦の勇士」が並び、続々と製品を生み出す姿は壮観だ。呉の関係者も時折、工場見学に来る。(後略)(産経新聞、2006.04.17)
■【雑誌ブログ】戦艦大和の生産方式(日経ものづくり、2005.02.02)

■木製精密模型 1/250 戦艦大和 日本で唯一のレーザー加工技術で進化した木製模型の「大和」、製作に130時間を要する「大作」ですが、夏休みのホビーにもおすすめです。 購入を希望される方は産経netShopへ

現代に活きる最新技術

「武蔵」を建造した男

 作家・吉村昭さんのデビュー作「戦艦武蔵」は、九州一円でシュロの繊維が姿を消し始めるエピソードから始まっている。長さ263メートル、幅38・9メートル、排水量7万1000トンという世界一の巨艦「武蔵」建造の機密を守るため、シート代わりに使われたのだ。
昭和20年9月24日に米軍が撮影した
とされる、三菱重工業長崎造船所の
ジャイアント・カンチレバークレーン
(長崎市提供)
 長崎造船所で昭和11年に「建造主任付」を命じられた古賀繁一さんは、「一番苦労したのは機密保持ですね。何か漏らしたら、『いかなる処分を受けても異議はございません』という誓約書を書かされました」と後のインタビューで語っている。
 福岡県柳川市に生まれた古賀さんは、東京帝国大学工学部船舶工学科から大正15年三菱造船(現在の三菱重工業)に入社。以来34年間、長崎造船所で船造りに携わってきた。
 が、心血を注いだ「武蔵」は昭和19年10月24日、フィリピンのレイテ沖海戦で多数の魚雷、爆弾を受けて沈没。そして原爆投下の日、造船所にいた古賀さんは、海に投げ出され九死に一生を得たが妻を失った。
 古賀さんの戦後は造船王国の再建に明け暮れる。昭和46年社長に就任した。吉村さんの半年間の取材に対して、「『(三菱)重工の株も下がるかもしれない』などと、ジョークを飛ばすこともあった」という。6、7年前には、長崎で酒を酌み交わし、2人で二升を空にした。
 「彼はとにかく精魂こめていい船を造ろうとした。武蔵も客船を造るのも同じだったのです」(後略)(産経新聞、1992.12.08)

超弩級戦艦が2隻並んだ

航空戦時代のもとの悲劇

 世界最大最強の戦艦といわれた「大和」。現役時代を知る人は時とともに少なくなったが、千葉県酒々井町の門脇尚一さん(85)は戦前、大和の操艦を担当した唯一の生存者。「大和は不沈艦といわれたが、装備は古く、対空防御能力は劣っていた」と悲劇の“真相”を語った。
 門脇さんは海兵六十九期の元海軍大尉。山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した約1カ月後の昭和18年5月、大和に乗り組んだ。門脇さんは「長官の敵討ちができる」と思ったそうだ。大きさ、居住性から「大和ホテル」と揶揄(やゆ)された大和は同年12月25日、南方の拠点トラック島近くで初めて被弾する。門脇さんの当直直後だった。
戦艦大和(Wikimedia Commons)
 右舷へ約4度傾き、トラック島に入港した大和。乗員の多くは「不沈艦」を確信したが、門脇さんは大和の限界を感じ始めていた。洋上戦を念頭に造られた大和は被弾し艦側に穴が開いても水平を保てるため、敵戦艦には強い。が、すでに飛行機主流の時代。「対空射撃、対空防御で大和は劣っていた。レーダーは見張り用で射撃には使えず、すべて目で測り、手で動かさねばならなかった」と振り返る。
 ドイツの武官がある日、大和を視察したが「後で『アンテナを見れば分かる』と言っていたそうです。レーダーによる測距、照準の機能もない。大和の悲劇です」。アキレス腱(けん)を見破られた瞬間だった。
 19年5月、門脇さんは大和を降り駆逐艦「清霜」に移るが、それから半年もたたない同年10月24日、フィリピン・ルソン島南方のシブヤン海で戦艦「武蔵」が米軍の猛攻で沈没した。門脇さんらは海面に漂う武蔵乗組員の救出に努めたが、このとき「敗戦を確信した」という。
 大和は翌年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途上、鹿児島沖で米艦載機386機から爆弾6発、魚雷10本を受け沈没した。戦死者2498人。そのとき門脇さんは清霜の艤装(ぎそう)員として神奈川県の浦賀におり、悲報は数日後に届いた。(後略)(産経新聞、2006.03.22)

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