朝鮮出兵、日本武士が一つになった日
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朝鮮出兵、日本武士が一つになった日

戦国乱世に終止符を打った天下人、豊臣秀吉にとって、二度にわたる朝鮮出兵は、晩節を汚す無謀な賭けだった。それでも、文禄の役で雌雄を決した「碧蹄館の戦い」は、日本武士が一丸となって奇跡の勝利に導いた数少ない武勇伝でもある。見知らぬ大陸で命を賭けた戦国の漢たちの雄姿に迫る。

戦国乱世に終止符を打った天下人、豊臣秀吉にとって、二度にわたる朝鮮出兵は、晩節を汚す無謀な賭けだった。それでも、文禄の役で雌雄を決した「碧蹄館の戦い」は、日本武士が一丸となって奇跡の勝利に導いた数少ない武勇伝でもある。見知らぬ大陸で命を賭けた戦国の漢たちの雄姿に迫る。

奇跡の勝利を導いたもの

知られざる同胞愛

碧蹄館の戦いとは

熊本県八代市立博物館未来の森ミュージアムが、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した農民の持ち帰り品だったとする調査結果を発表し、朝鮮製と確認された熊本県八代市の旧家に伝わる黒漆塗りの仮面
熊本県八代市立博物館未来の森
ミュージアムが、16世紀末の豊
臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した農
民の持ち帰り品だったとする調
査結果を発表し、朝鮮製と確認
された熊本県八代市の旧家に伝
わる黒漆塗りの仮面
 碧蹄館…何と読むのだろうと思われる方も多いかもしれません。「へきていかん」という韓国の地名です。この碧蹄館の地で、豊臣秀吉の朝鮮出兵である文禄の役において、文禄2年(1593)、日本軍と明・朝鮮連合軍との歴史に残る戦いが繰り広げられました。
 この戦いを一言で説明すると…立花宗茂、小早川隆景、黒田長政、宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継など、多士済々な戦国武将たちが、おのれの家名や所領のためではなく、「オールジャパン」のメンバーとして一丸となって戦い、勝利を得たと表現することができるかもしれません。
 戦いに至る経緯を簡単にご説明しますと、朝鮮上陸以来、快進撃を続けていた日本軍は、平壌で小西行長隊が明軍に敗れ、諸将が漢城へと撤退することを余儀なくされます。
 「籠城か」「迎撃か」で軍議は紛糾しますが、闘将・立花宗茂の「日本人として恥かしい戦い方ができようか」という主張に智将・小早川隆景ら諸将が賛同し、石田三成らが唱える籠城策を覆します。
 この時、日本国内で敵同士として戦ったこともある武将たちに、「自分たちは日本国の武士である」という意識が芽生え、危機的な決戦に一致団結して立ち向かうことになるのです。
 碧蹄館の戦いに投入された明・朝鮮軍の兵力は、史料によって記述が異なり、一説には15万とも、30万ともされていました。今回の特集では、日本・明・朝鮮の史料比較から、日本軍2万、明・朝鮮連合軍2~3万と推定しました。
 数的には拮抗しているように感じられるかもしれませんが、明軍は精強な騎馬部隊と大砲などの重火器部隊を擁し、何より平壌での勝ちに乗じた勢いのままに攻めてきます。日本軍の劣勢は覆うべくもなく、諸将は決死の覚悟でこの決戦に臨みます。
ただし、日本軍には何にも代え難い最大の武器がありました。それこそが、群雄割拠の戦国時代で数多の合戦をくぐり抜けてきた豊富な経験です。
 明の騎馬兵の威力を削ぐために、彼らが立てた作戦とは? 日本武士の鍛え上げられた戦術と戦闘能力は、どのように発揮されたのか? 詳細な戦闘解説図とともに、手に汗握る戦いの全貌をご紹介しています。ぜひご一読ください。(立)(2015.08.05「歴史街道」編集部)
   

見事なり 勇将・忠臣

立花宗茂、10倍の敵勢を撃破

 文禄2年(1593)1月26日、漢城北方の碧蹄館の戦いで日本軍が明の大軍を撃退したことにより、講和交渉が進展。日本軍の主力は漢城から釜山付近へと南下し、これによってそれまで不安であった補給問題は解消されることになりました。
すると豊臣秀吉は、朝鮮在陣の諸将に、慶尚道の晋州城攻略を命じます。晋州城は釜山と漢城を結ぶルートから外れていたため、当初は攻略対象ではありませんでしたが、それでも前年10月、長谷川秀一、細川忠興ら1万数千が攻め、落とすことができませんでした(第一次晋州城の戦い)。
 この時、城を守ったのが牧司・金時敏で、金は鉄砲傷がもとで落命しますが、日本軍は金の手腕を高く評価しました。そして彼の官職「牧司(現地の発音は〈モックサ〉)」から晋州城を「木曽〈もくそ〉城」と呼んでいたのです。
 秀吉は朝鮮半島南部に未攻略の城があることを許さず、総大将の宇喜多秀家に再度晋州城攻撃を命じます。秀家は大手を加藤清正・黒田長政ら2万5,000、搦め手を伊達政宗、浅野幸長ら1万数千に攻めさせることにしますが、これに対し、明軍が援軍を組織しました。
 すなわち明の劉廷〈りゅうてい〉(ていは糸偏)配下の琳虎〈りんこ〉率いる4万で、晋州城下に迫ります。攻城か、援軍との戦いかで日本軍が評定を行なう中、「及ばずながら、我が手勢が明の援軍にあたりましょう」と進言したのが、立花宗茂(当時は統虎〈むねとら〉)でした。
 宇喜多秀家はこれを了承し、宗茂に高橋統増〈むねます〉(宗茂の実弟)、小早川秀包〈ひでかね〉(宗茂と義兄弟)を加えた4,000を、これにあてます。宗茂は晋州城の南西方向に20里進み、布陣しました。
 6月13日、琳虎率いる4万が来襲。宗茂は200人のほどの兵を敵近くに出して挑発しますが、敵はこれに応じず。さらに夜襲の機を窺いますが、敵は警戒が厳しく、つけ入る隙がありません。
 そこで宗茂は秀包らと相談し、軍勢を20余町(2km余り)後退させた上で5隊に分け、各所に埋伏させます。翌14日早朝、日本軍が消えていることを知った明軍は、恐れをなして逃げたと判断し、追撃開始。先陣のおよそ7,000は、進んでも日本軍の姿のないことに油断し、陣形を緩めました。
文禄の役後、敵軍の侵入を防ぐために設置された聞慶の嶺南第一関門
文禄の役後、敵軍の侵入を防ぐために設置された聞慶の嶺南第一関門
 その機を捉えて、立花、高橋、小早川らの伏兵が一斉に襲いかかります。虚を衝かれた敵先陣は数の上では優っているにもかかわらず、態勢を立て直せずに壊滅しました。鮮やかな「釣り野伏」というべき戦法です。
 しかし、先陣を失っても明軍の兵力は圧倒的で、およそ3万3,000が4,000の日本軍に迫りました。するとまず小早川秀包率いる1,000が、敵の第二陣1万7,000に挑みます。もちろん敵陣深くは攻めこまず、頃合いを見て宗茂の先陣800と交代。立花の先陣には森下備中・内匠〈たくみ〉の兄弟がいました。彼らは先頭に立って戦いますが、やがて弟の内匠が草摺〈くさずり〉の外れを深く射られました。内匠が草摺を外して捨てていると、兄の備中が駆け寄って言います。
 「傷が浅ければ退け。傷が深ければ、敵中に駆け入って死ね」。内匠は「兄者、心得ておる」と言うなり、主従8人で猛然に敵陣に斬り込みました。それを見た兄の備中は、弟を見捨てることができず、自らも手勢30人を連れて突撃します。
 追ってきた兄に内匠が「兄者、下がって殿のおそばにいてくだされ」と言うと、備中は「どうして退かれようか」と喚き、敵を斬りまくります。その様子を注視していた立花宗茂は、采を振るいました。「備中を討たすな、者ども、進めっ!」
 宗茂の号令に、小野和泉、丹〈たんの〉八左衛門ら第二陣およそ1,000が攻めかかり、勢いで敵を圧倒します。立花勢の奮戦を突破口として、これに高橋勢、小早川勢が次々と加わり、ついに敵の第二陣を突き崩しました。
 かくして先陣、第二陣が崩れた敵の軍勢は戦力が半減、それ以上、攻めることはできず、後退していきます。宗茂らは見事に十倍の敵を撃退、これを河東の戦いと呼びます。(立花宗茂と第二次晋州城の戦い、歴史街道編集部)

朝鮮出兵で名を上げた戦国武将

李氏朝鮮を救った名将

 16世紀後半は途方もない激動期だった。スペイン王フェリペ2世は、父王からアメリカ大陸の植民地をふくむスペインのみならず、ネーデルランド、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、ミラノを継承し、1580年にはポルトガルをも併合してしまう。ヨーロッパ勢力の世界進出は、インドにとどまらず、東南アジアから東アジアにもおよぶものだった。空前の国際交易ブームのなかで、利益を吸い上げた強力な王権が生まれ、タイのアユタヤ朝、ジャワのマタラム王国、スマトラのアチェ王国、ベトナムのレ朝などの国家が形成されている。
李舜臣像(Wikimedia Commons)
 わが国でも、織田信長、豊臣秀吉らの武将はこの国際商業と結びつきながら、鉄砲などの新しい軍事技術を取り入れ、日本全土を統一した。これらの新興国家の軍事力が膨張し突出した現象の一つが、秀吉の朝鮮侵攻である。
 われわれは「文禄・慶長の役」とよびならわしているが、かの国では「壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)」とよばれる。日本軍撃退のために尽力した李氏朝鮮側の宰相・柳成竜(ユ・ソンニョン)は引退後、倭乱をめぐって『懲毖録(ちょうひろく)』(朴鐘鳴(パク・チョンミョン)訳注、平凡社東洋文庫)を残しており、今日では国宝に指定されているという。書名は『詩経』の「予(われ)、其れ懲りて、後の患いを毖(つつし)む」からとられており、ありのままの事実を記録し、その教訓を後世の戒めとしようとした。朝鮮軍の弱さも政府内の対立も赤裸々に描いているから、その慎み深い姿勢には瞠目(どうもく)すべきものがある。
 ところで、日本軍は破竹の勢いで突き進んだが、明の援軍や僧侶らの義兵の参戦もあって、やがて朝鮮劣勢の戦況にも変化が兆す。だが、戦局の大きな変化は、なにはともあれ李舜臣の率いる水軍の活躍だった。舜臣軍のめざましさを『懲毖録』は次のように記している。
 「戦士や漕(こ)ぎ手はみな船内におり、左右前後には火砲を多く載せ、縦横に動きまわること梭(ひ)のようで、賊船に遭遇すればいっせいに大砲を放ってこれを打ち砕くものであった。諸船が一時に勢いを合わせて攻めたので、烟烟(えんえん)が天にみなぎり、賊船を焚焼(ふんしょう)すること数知れなかった」
 李舜臣はもともと剛直でおもねらない性格のために立身出世とは縁遠かった。だが、幼友だちであった柳成竜は舜臣に将帥の器があることを誰よりも認めていたという。成竜の推挙で水軍の指揮官となった舜臣は、やがて敗軍を収拾し、日本の水軍を迎撃する。潮流を利用した海戦などで活躍し、形勢を挽回した。
 1598年、秀吉の逝去をもって、日本軍は撤退する。しかし、最後の海戦の際に、舜臣は狙撃された。「戦いの最中だ、自分の死を知らせるな」と言い残したという。まぎれもなく勇敢であり、深謀遠慮の人物であった。まさしく救国の英雄とよばれるにふさわしい。(東大名誉教授・本村凌二 産経新聞、2012.05.31)

隆景の英断

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