日本を救った「占守島」の真実

日本を救った「占守島」の真実

終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。

敵の無法に敢然として起つ

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    1945年、占守島…日本を分断から救った男たち

    昭和20年(1945)8月15日、玉音放送を受けて、誰もが戦争は終わったと思った。しかし、その2日後に始まった戦いがあった――。

ソ連急襲!「本土分断」の危機

  • 池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い

    池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い

    まさに「教科書に載っていない20世紀の歴史」。池上彰氏がそう指摘するのが、1945年8月17日から起きた占守島の戦いだ。この「知られざる戦い」が、今、注目を集めている。

優勢のまま停戦、戦後日ソの「原点」

ソ連軍が満州で暴虐の限りを尽くしていた昭和20年8月中旬から下旬にかけて、千島列島や南樺太では、日本軍守備隊とソ連軍の間で激しい戦闘が行われていた。
 戦史叢書「北東方面陸軍作戦2」(防衛庁戦史室)によると、ソ連軍は18日午前1時半ごろ、千島列島の最北端に位置する占守(しゅむしゅ)島に対し、対岸のソ連領カムチャッカ半島から突然、砲撃を始め、上陸作戦を開始した。当時、大本営参謀本部から秘密裏に同島に派遣され、ソ連軍の動向を探っていた永井正氏(78)=少佐=は「ソ連軍侵攻の第一報は、(戦史叢書の)記録より二時間早い17日午後11時半だったように記憶している。満州の惨状は聞いていたので、千島にもソ連軍が来るという予想はあった」と振り返る。
占守島(しゅむしゅとう) 千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。南には幌筵海峡(ロシア名「第2クリル海峡」)を挟んで幌筵島がある。面積は230平方キロメートルで、海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原である。(Wikipedia)
占守島(しゅむしゅとう) 
千島列島のほぼ最北端にあ
り、北東は千島海峡(ロシ
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を挟んでカムチャツカ半島
ロパトカ岬に面する。南に
は幌筵海峡(ロシア名「第
2クリル海峡」)を挟んで
幌筵島がある。面積は230
平方キロメートルで、海抜
200メートルくらいの緩や
かな丘陵が続き、沼地と草
原である。(Wikipedia
 占守島北端の最前線に布陣していた独立歩兵二百八十二大隊(大隊長、村上則重少佐)は直ちに射撃開始を命令、濃霧が立ち込める深夜、戦闘が始まった。当時、北方派遣軍(占守島、幌筵島)は約4万6千人。野戦砲、重砲、爆薬、医療機材などの装備は、この時期の日本軍のものとしては、ずば抜けた規模だった。占守島では、1カ月分の食糧が備蓄されていた。17日夜は、日米停戦に対する残念会が催され、しまわれていた酒が振る舞われた。みんな酔って寝ていたところへ出動命令が下ったという。
占守島の放棄された飛行場(Wikimedia)
占守島の放棄された飛行場(Wikimedia)
 永井氏がいた部隊(第九十一師団速射砲大隊)は、戦闘が始まった占守島最北端の国端崎から約35キロ離れた南西部の長崎に布陣、18日午前7時、国端崎へ向け出発した。「7時40分ごろ、国端崎から約六キロの大観台あたりで味方の砲声を聞いた。島北部の四嶺山にあった砲台はカムチャッカに向けて1時間に300発の砲弾を打ち、カムチャッカの要塞砲を沈黙させた」(永井氏)
 永井氏の部隊は行軍途中、大観台の手前で戦車第十一連隊(連隊長、池田末男大佐)と合流。「池田連隊長は白装束で日の丸の鉢巻きを締め、砲頭に馬乗りになっていた。戦車37両は一丸となって敵陣に突入、連隊長は戦死された」(永井氏)
 日本軍は被害を出しつつも、終始優勢に戦闘を進めた。札幌の第五方面軍から「18日午後4時をもって全面停戦」との命令が届き、二度、停戦のための軍使を送ったが、いずれも帰らず、ソ連側と連絡が取れないまま戦闘は続いた。
 戦史叢書によると、この間、日本大本営はマッカーサー司令部に宛て、《八月十八日千島列島占守島ニ対シ一部兵力上陸シ我方ハ自衛ノ為已ヲ得ス戦闘中ナリ 彼我共ニ停戦シアル今日甚タ不都合ト認ムルニ付至急停戦スル様指導アリ度》と打電している。
 しかし、戦闘はなおも続いた。日本軍は21日午前、いったんソ連軍を国端崎近くの豊城川河口まで追い詰め、同日午後7時、ようやく停戦が実現した。日本側は翌22日、武器弾薬を同島中央の三好野飛行場に集めてソ連軍将校に引き渡した。ソ連軍将校は北千島派遣軍の兵力を約4千人と想定していたが、「実数はその10倍」と告げると青くなったという。
 永井少佐は昭和21年元旦、占守島からナホトカ経由でモスクワへ送られ、約6年間の抑留生活を送った。「日本が降伏しなければ、我々はもっと戦い、北千島のソ連軍は完全に粉砕されていただろう。戦闘で勝って捕虜になり、つくづく不思議なものだと感じた」と永井氏は述懐する。
 一方、ソ連軍は占守島での停戦後も島伝いに千島列島の占領を続け、北方四島には米軍の不在を確かめてから上陸した。択捉島への上陸は8月28日。国後島と色丹島への上陸は9月1日。歯舞群島の占領は、日本が米戦艦「ミズーリ」号上で降伏文書に調印した9月3日以降だった。ロシア科学アカデミー極東研究所発行「極東の諸問題」副編集長、ボリス・スラビンスキー氏は平成四年五月、「イズベスチヤ」紙に寄稿、こう書いている。
 《ソ連の文献のどこを探しても、ソ連軍による歯舞群島に対する上陸作戦についての記述が見つからないことに注目する必要がある。…我々の歴史のこれまで論争されてきた諸問題は、数十年間にもわたり偽造されてきた…》
(日ソ問題取材班、産経新聞 平成5年10月17日)

スターリンの野望

  • ソ連の北海道占領計画〝日本分断〟防いだ英断

    ソ連の北海道占領計画〝日本分断〟防いだ英断

    ソ連の北海道占領計画は歴史の教科書に載っていない。もし樋口中将の英断による占守島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、わが国はどうなっていただろうか。

「終戦」はいつか

  • 昭和20年の概念に疑問、攻撃を続行したソ連軍

    昭和20年の概念に疑問、攻撃を続行したソ連軍

    ソ連軍が千島列島北端の占守島に「敵前上陸」を始めたのは8月18日午前だった。小堀敬一郎は正確な意味での「終戦」の日の概念に疑問を呈す。

「千島・南樺太は日本領」ソ連結成時1959年作成の地図で明記

 ソ連内務省が1959年に作成したソ連誕生当時(22年)の領土を表す地図が見つかり、千島列島と南樺太は日本の領土と記されていた。ソ連は戦前から、日ソ基本条約で認めたポーツマス条約を事実上否認して南樺太、千島樺太交換条約で日本に帰属していた千島の返還を主張していたが、地図ではポーツマス条約の有効性を認めていたことになる。(編集委員 岡部伸)
 地図はオランダ大使などを務めた大鷹正氏が外務省ソ連課勤務だった60年、日ソ漁業交渉でモスクワを訪問した際に市内の書店で購入したもの。地図は、ソ連内務省測地・地図整備総局学術編集地図作製部が54年に原案を作成、59年に同局リガ地図製作所で1万部を製作、「世界の政治地図」として販売された。その一部「ソ連結成時の地図」は、ソビエト政権が誕生した22年当時の連邦を構成したロシアソビエト社会主義共和国をはじめとする各共和国の境界や、近隣諸国の国境線を描いている。
1945年7月17日、ドイツ・ベルリン近郊のポツダムに集まった米英ソ3首脳。左からスターリン・ソ連首相、トルーマン米大統領、チャーチル英首相
1945年7月17日、ドイツ・ベルリン近郊のポツダムに集まった米英ソ3首脳。左からスターリン・ソ連首相、トルーマン米大統領、チャーチル英首相
 反革命派のザバイカル政権が誕生し、日本などが出兵した極東シベリアは極東共和国で、領土はウラジオストクから北樺太までで、境界線を隔て南樺太と千島列島は日本とされている。
 一方、第二次大戦直前に侵攻して併合する係争地のフィンランドのカレリア地方は「カレリア労働コミューン」(20年6月8日)と書かれ、独ソ不可侵条約の秘密議定書で40年に併合するバルト三国とポーランドはソ連領と記されていない。ソ連は59年当時、参戦前のソ連結成時点では北方四島を明白に日本領と認めていたことがうかがえる。
 日本はソ連誕生から3年後の25年1月、北京でソ連を国家として承認、日ソ基本条約を締結。この際ソ連はシベリア出兵した日本軍の撤退を確実、迅速にするため、南樺太を割譲した日露戦争後のポーツマス条約の有効性を認めた。しかし、同時に条約については、「ソ連政府が政治的責任を帝政政府と分かち合うものではない」との声明も発表している。
 この声明通り、ソ連は40年に日本が不可侵条約を提案した際や41年4月の中立条約締結時などで、ポーツマス条約に拘束されず、南樺太と1875年の千島樺太交換条約で合法的に日本に帰属していた千島列島の返還を要求した。
 ソ連の千島、南樺太に対する執着が大戦末期のヤルタ密約につながり、中立条約を破った対日参戦で南樺太と千島列島を占領。北方領土問題は現在も続いている。
 プーチン政権は、北方領土領有の根拠を「大戦の結果」としているが、スターリンは日本が降伏文書に調印した1945年9月2日の演説で、「歴史に残した汚点を40年間取り除こうと待っていた。南樺太と千島が引き渡され、日本の侵略から防衛する基地となる」と語っている。

ソ連の傍若無人

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    美しい千島列島の島々が日本の領土だったことを思うと感無量なものがある。どうして、日本のものでなくなったのか。

安全保障と戦史への無知無関心

  尖閣諸島の〝問題〟がにわかに注目されている。しかし日本には、戦争に負けた直後から、北方領土問題が存在することを忘れてはいないだろうか。
 私の友人は、保守派と呼ばれる人に会うたびに北方四島の名前を漢字で書いてもらうアンケートを実施しているが、ほとんどの人は漢字で書けない。それどころか、島の名前を挙げられない人も少なくないという。
サハリン州立郷土史博物館で展示されている旧日本軍の戦車。ポツダム宣言受諾後に日ソ両軍が激戦を交わした千島列島最北端のシュムシュ島(占守島)に放置されていた(共同)
サハリン州立郷土史博物館で
展示されている旧日本軍の戦
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ソ両軍が激戦を交わした千島
列島最北端のシュムシュ島
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 昭和20年8月9日以降、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、満州(現・中国東北部)に、樺太(現・ロシアサハリン)に、攻め込んできたことを知る人は多いだろう。しかしカムチャツカ半島の目と鼻の先、千島列島の占守島で戦闘があったことを、どれほどの人が知っているだろうか。それも日本がポツダム宣言を受諾した後の話である。
 日本人のほとんどが負けるなどと想像すらしていなかった18年11月、米英ソのテヘラン会談で、ソ連はすでにドイツ降伏後の対日戦参加を明言していた。そして「ヤルタ協定」成立後、対日戦略基本構想を決定し、日本の敗戦後も、千島列島全部と北海道北半(釧路市と留萌市を結ぶ線以北)をソ連の担当地域だとして攻撃続行を宣言したのである。
 占守島での、ソ連軍の突然の強襲上陸。内地帰還の準備を始めていた守備隊の将兵たちは必死に抵抗した。しかし国家はすでに負けている。停戦交渉を申し入れ、占守島の将兵たちは極寒の地で抑留生活を送らなければならなかった。
 一方のソ連側は、降伏文書が調印される9月2日より前に、北海道北半までを武力占領することをもくろんでいたが、それはかなわなかった。
 表向きは米国の反対であったが、占守島で予想外に手間取ってしまったことも大きな要因だったといわれている。占守島での戦闘がなければ、北海道は赤化されていたかもしれないのだ。その歴史は、しかし戦後六十余年もの間、顧みられることはなかった。
 尖閣諸島に限らず、領土問題における政府の弱腰ぶりは、戦後日本人の安全保障と戦史への無知無関心をそのまま象徴している気がしてならない。 (ジャーナリスト、笹幸恵 産経新聞2012.08.23)
日本を救った「占守島」の真実

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