総力特集! 田原総一朗とは何者か

総力特集! 田原総一朗とは何者か

テレビ朝日の名物討論番組『朝まで生テレビ!』で司会を務める田原総一朗といえば、80歳を超えた今も歯に衣着せぬ発言で番組を仕切り、圧倒的な存在感をみせる。「政治をテレビ化した」ともいわれる彼はいったい何者なのか。iRONNA編集部が総力特集で「田原総一朗」の人物像に迫る。

日本社会に挑み続けてきた男

  • 好奇心と公平さ、そして流れを作る嗅覚 田原総一朗に後継者はいない

    好奇心と公平さ、そして流れを作る嗅覚 田原総一朗に後継者はいない

    私がもっとも評価をしているのは、田原氏の存在によって日本の言論の空間が広がったことである。昨年から「朝生」に出演し、激論を闘わせている三浦瑠麗が感じた田原総一朗とは。

今後もバッサバッサと辻斬りを

  • 「反骨」の男、田原総一朗はテレビ界の妖刀だ

    「反骨」の男、田原総一朗はテレビ界の妖刀だ

    田原総一朗=サヨク・反日という思い込みは、世間では未だ根強いが単純に反日サヨクとみなすのは誤りだ。サヨクウオッチャー、中宮崇は「反骨」という言葉こそふさわしいと評する。

絶えて久しい「激論」

  • あのワクワク感をもう一度 「朝生」はリベラルと漂流し自壊した

    あのワクワク感をもう一度 「朝生」はリベラルと漂流し自壊した

    月末が近づくとワクワクしたあの感覚。今の「朝まで生テレビ」に一昔前のようなあの感覚があるだろうか。潮匡人が激論を目にすることが絶えて久しい「朝生」を語る。

年季が入った親父の職人芸

  • 来月末も、もう一杯。「朝生」は定期的に食べたいカツ丼だ

    来月末も、もう一杯。「朝生」は定期的に食べたいカツ丼だ

    「朝まで生テレビ」という番組は田原総一朗氏が創ったカツ丼だ。毎日ではないけれども定期的に食べたくなる「朝生」の魅力に古谷経衡が迫る。

「常識を疑え!」田原総一朗の原点

 また8月がやってきた。69年前、僕は11歳だった。学校の教師は、あの戦争を「聖戦」だといった。「お前たちはお国のために死ぬのだ」ともいっていた。もちろん僕もそう信じていた。将来は海軍に入って、みごとお国のために死ぬのだと思っていた。だが、それは「夢」だった。
 69年前の8月のあの日。正午から天皇陛下のラジオ放送があるという。当時は、すべての家庭にラジオがあるわけではなかった。だから、ラジオのあるわが家に近所の人たちが集まり、あの放送を聞いたのだ。あのころのラジオは性能が悪く、雑音が多かった。それでも、ときどき明瞭になる陛下の声を必死で聞いた。
テレビ東京を退社し、フリーとなった田原総一朗氏=1978年3月
 意味はよくわからなかった。放送が終えると、みんなの間で意見が分かれた。「まだがんばって戦え」ということだろうという人もいた。「戦争は終わった。日本は負けたんだ」という人もいた。その後、役所から連絡がきた。そこで、よくやく日本が負けたのだ、ということがはっきりした。
 僕は悲しくなって、自分の部屋にこもって泣きに泣いた。海軍に入って、日本のために死ぬという、「夢」がかなえられなくなったからだ。いつの間にか、寝てしまっていたようだ。気がつくと、すっかり暗くなっていた。窓から外を見た僕は、とても驚いた。家々に灯がともっているのである。それまでは、灯火管制のため、夜は真っ暗になっていた。空襲に備えなければならなかったからだ。そのときになってやっと、僕は何か開放されたような、不思議な高揚感を覚えた。
 9月になり新学期が始まると、あらゆることが逆転していた。「この戦争は聖戦だ」といっていた先生が、「間違った戦争だった」といい始めたのだ。「鬼畜米英」といっていたアメリカが、「いい国」となっていた。総理大臣だった東条英機などは、一転して大悪人になった。教科書を墨で塗りつぶす作業も続いた。
 いったい何なのだ、と僕は思った。あの日を境に、自分が正しいと信じていたことが、すべてひっくり返されたのだ。それから僕は、「国、そして偉い人というのは嘘をつく」と肝に銘じ、疑うようになった。
 そのときの想いを、僕はずっと持ち続けた。この「常識を疑う」という気持ちは、その後、僕のジャーナリスト人生の原点になった。僕のエネルギーの源となったのだ。
 多くの人びとが、あの戦争で亡くなった。僕の大好きだったいとこも、戦死した。戦争が終わって、69年。戦争を知る人間が、どんどん少なくなっている。だからこそ、このことを僕は、何度でも書くし、いっておきたい。二度と戦争をしてはいけない、と。(「田原総一朗 公式ブログ」2014.08.15

「おもしろがり人間なんですよ」

  • 「極端に言うと嫌いな人がいないんです」田原総一朗、原動力は好奇心

    「極端に言うと嫌いな人がいないんです」田原総一朗、原動力は好奇心

    テレビ・ラジオ出演、講演、公開講座、著作や連載の執筆と、田原総一朗氏の精力的な活動は衰えることを知らない。元気に仕事を続けられる原動力を田原氏に聞いた。

「朝生」の“爆弾”野坂昭如氏の死に思う

 12月9日、野坂昭如さんが亡くなった。ご存じのかたも多いと思うが、野坂さんと僕とのつきあいは、「朝まで生テレビ!」だ。野坂さんと、そして大島渚さんは、番組の爆弾だった。ふたりが何を言いだすか、いつもヒヤヒヤしていた。その一方、僕は彼らの発言力に期待してもいたのだ。
 1945年の敗戦のとき、野坂さんは中学生だった。多感な年頃に敗戦を迎えた野坂さんは、「国に騙された」「権力者はウソをつく」、という意識が非常に強かった。僕の中にも当時、「えらい人はウソをつく」という感情が生まれた。だが、敗戦時に小学生だった僕は、野坂さんほど強烈な意識を持てなかったように思う。野坂さんは発言をし続けた。「国や権力者は信用ならん、それは今も変わらない」その「念」には、すさまじいものがあった。
 「KY」という言葉がある。野坂さんはあえて、「俺は空気が読めない」と言い切って、何にも縛られない自由な生き方をした。だからこそ「朝まで生テレビ!」でも、あれだけの発言ができたのだ。天皇制、アメリカ、自衛隊……。あらゆる事に「ノー」と言い続けた。鮮烈に、焼け跡の時代を生き抜いた代表選手だった。
 ひとつの時代が終わった、と野坂さんの訃報を聞いて、僕は思った。戦後70年という節目に、しかも、その年の暮れに野坂さんが亡くなったことは、とても象徴的だ。
 「朝まで生テレビ!」をひっかき回したもうひとりの人物、大島さんも一昨年、亡くなられてしまった。「戦後」は、今年で終わるのかもしれない、と僕は思う。
 そう思うと同時に、僕は強く誓いたいことがある。生き残っている僕は、確かにだらしのない人間ではある。だが、そうではあるのだけれど、ここに僕が生きている限り、まだ「戦後」を終わらせてはいけない、戦争の記憶までをなくしてしまってはいけないのだと。これが僕なりの野坂さんへのお悔やみである。ご冥福をお祈りいたします。(「田原総一朗 公式ブログ」2015.12.21

ジャーナリストの使命とは

  • 田原氏の「ジャーナリストの使命」という考え方は前時代の残滓だ

    田原氏の「ジャーナリストの使命」という考え方は前時代の残滓だ

    「ジャーナリストが危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る」。田原総一朗氏が示す「ジャーナリストの使命」について、木走正水はネットの発達による大きく変わると説く。

  • 「朝生」のやらせ問題で一番ひどいのはテレビ局

    「朝生」のやらせ問題で一番ひどいのはテレビ局

    1月1日に放送されたテレビ朝日系「朝まで生テレビ!」に観覧者として出演していた大森昭彦大田区議会議員が自民党所属であることを隠し、「建設板金業」の肩書きで自民党安倍政権を持ち上げる発言をしたヤラセ問題を弁護士の猪野亨が斬る。

総力特集! 田原総一朗とは何者か

田原総一朗氏が長年司会を務める『朝まで生テレビ!』を観たことはありますか?

  • 176

    よく観る

  • 633

    たまに観る

  • 1272

    観たことがない

返信を入力