寛容さを失う日本人と「一発レッド社会」
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寛容さを失う日本人と「一発レッド社会」

さながら「一発レッド社会」といったところか。不倫騒動が話題になったタレント、矢口真里を起用した日清カップヌードルの新CMをめぐり、「不貞をネタにしている」との批判が渦巻き、たった一週間で放送中止になったことが波紋を呼んだ。日本人は本当に寛容さを失いつつあるのか。

さながら「一発レッド社会」といったところか。不倫騒動が話題になったタレント、矢口真里を起用した日清カップヌードルの新CMをめぐり、「不貞をネタにしている」との批判が渦巻き、たった一週間で放送中止になったことが波紋を呼んだ。日本人は本当に寛容さを失いつつあるのか。

なぜ世間に謝るのか

謝罪は「解決」にならない

「誰が誰に何を?」という問題

「謝罪のようなもの」が溢れてる

 前から思っていて、ここに来て本当によくわからないのが「謝罪」というものの正体だ。
 今年は年初から週刊誌発のスキャンダルが連発されていて、その後には「謝罪」というものがおこなわれる。
 グーグルで「謝罪」と入れて驚くのは、そのニュースの多さだ。別にニュース検索をしているのではない。一応ログアウトしてから普通に検索すると、3月28日午後だと乙武氏と白鵬の謝罪が目立つ。
自身の誕生パーティーで登壇した乙武洋匡氏(提供写真)
 しかし、本当の「謝罪」といえないような発言を、とりあえず「謝罪」と言っているようにも思う。
 謝罪、という言葉には読んだとおりに「罪」の文字がある。何かを報じられたりして、それに対してリアクションした時点で「謝罪」というニュースになる。いわば、自らが何かをいったことで「罪」が後付けされるような感じもして、それが何だかしっくりこない。
 そもそも謝罪は、自らの罪や過ちを認めて、それを被害者や関係者に謝るという行動だろう。日常的に「ごめんなさい」「申し訳ない」というのは、そういった時に使われる。
 ただし、この手のスキャンダルの後の“謝罪”は少々色合いが異なる。
 まず、罪や過ちというのがハッキリしていないことがある。相撲で「立ち合いに変わる」というのは、罪や過ちというより、世間が「好ましくない」と思う行動だろう。
 不倫の場合は、まあ罪と言ってもいいだろうが、今度は謝る相手が問題だ。家族の中で済ませればいいのに、世間に向けて謝り、かつ家族が謝れば強烈な違和感がある。
 つまり、いまメディアに溢れている“謝罪”というのは、「まあ何か言わねばおさまらんし」という中での、敢えていえば「反省的挨拶」というようなものじゃないだろうか。横綱の一言などはまさにそんな感じだし、SMAPもそれに近いだろう。ただし「生謝罪」という言葉が、後からの印象を決定づけた。
 ちなみにショーンKの行為は、明らかに謝罪の対象だと思う。詐称について「別に迷惑をかけてない」みたいに思う人がいるようだが、会社でばれた際には懲戒免職になることもある。別に経歴偏重とかではなく、「嘘をつく」というのは人の良心の根本にかかわる罪だからだ。
 そして、ここに来て米マイクロソフトが人工知能Tayの差別発言を謝罪したというニュースが、「謝罪戦線」の中に入ってきた。
 実はそうした中で「北朝鮮が韓国に対して“謝罪”なければ軍事行動」というニュースがひっそりと入っている。(3/26)立会いや不倫の話よりも、もっと影響力のある“謝罪”が世の中にはたくさんあるだろう。
 罪や過ちがあれば、そこに謝罪がある。しかし、誰に謝るべきかも曖昧なままに発せられた言葉を、「謝罪」と報じて、世間には「謝罪のようなもの」が溢れている。少なくても、そうした「謝罪モドキ」は誰も幸せにしてないと思うんだけど。
 この妙な感覚はうまく表現できないのだが、雨上がりに見たことのないキノコがニョキニョキとあちこちに生えていて、それを遠巻きにしてみているような気持ち悪さのような感じだろうか。少なくても、そうした「謝罪モドキ」は誰も幸せにしてないと思う。
 実際、そんな風景は見たことないんだけれど。(山本直人「from_NY」2016.3.28

STAP騒動に似た非難

いい加減にしてほしい!

日清カップヌードルのCMに思う

 批判によって放送中止になった日清カップヌードルのCMを見ました。比較的短いヴァージョンと、長いヴァージョンの2種類。見た正直な感想は、「この程度の演出で、批判が来て中止になるのか」ということでした。
 特定のタレントさんに特に強い批判があったということですが、その方は、4人の登場人物のひとりで、表現も間接的な示唆にとどまり、要するに、とても控えめなものに感じました。それでも、批判が来たということなのですね。
 どうも、世間(の一部)は、特定のテーマ、人物に対して、たとえそれが薄められていても、許容しないような、一種のアレルギー反応のような心理状態になっているようです。この程度のCMで中止とは、今の世の中の不寛容の程度が計測できて、興味深いです。
 その上で、今回のCMで、たけしさんが、「ばかやろう」(ばかをやろう)とおっしゃっている4事例のうち、2事例は、巨大衣装をつかったり、動物とからんだりといった、新しい「ブルーオーシャン」にかかわるものだったと思いますが、残りの2事例はどうなのでしょうか。
 今回のカップヌードルのCMを、アップルのThink DifferentのCMを比較すると、固定観念を破る、という意味では、巨大衣装と動物との絡みは積極的に評価できるものの、あとの2事例は、もともと、単に困った話、ということだったのかもしれません。
 固定観念を破る、ということがおバカに見える、ということは、Elon Muskあたりも言っていることで、大いにその通りだと思うのですが、もともと、今回のCMのキャスティング中、2事例は、ちょっと趣旨が違っていたのかもしれません。
 もっとも、ちょっと趣旨が違う、ということもバラエティ的に取り上げて楽しんでしまう、ということが、いかにも日本的、という評価もできたと思うのですが、今回の騒動は、日本の世間の許容度の低下を図らずも示すことになってしまいました。
 その一方で、巨大衣装や、動物との絡み、さらにはたけしさんの「コマネチ」のようなおバカについては、日本は肯定的にとらえる振れ幅もあるわけで、そのあたりに今後の希望を見出していくべきなのだろうなあ、とも思ったわけです。(茂木健一郎オフィシャルブログ2016.04.10

「世間を騒がせた」から必要なのか

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