知られざる幕末佐賀藩の「産業革命」
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知られざる幕末佐賀藩の「産業革命」

幕末、西洋近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩が有名だが、開明派の薩摩藩主、島津斉彬が、その先進性を模範とした藩こそ、佐賀藩であった。幕末佐賀藩が「近代化のトップランナー」とも言うべき存在へ躍進したのはなぜだったのか。

幕末、西洋近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩が有名だが、開明派の薩摩藩主、島津斉彬が、その先進性を模範とした藩こそ、佐賀藩であった。幕末佐賀藩が「近代化のトップランナー」とも言うべき存在へ躍進したのはなぜだったのか。

西洋人も人なり。倍々研究すべし

命がけのプロジェクト

精煉方、始動せよ

佐賀藩を立て直した名君の素顔

 ギリギリまで自分の値をつり上げて、新政府へ高く売りつけようとした幕末の政治家といえば、肥前佐賀の鍋島閑叟であろう。閑叟は、もともと質素倹約や藩政改革で財政を立て直した“名君”である。俗に商人たちにさえ「そろばん大名」と揶揄(やゆ)されたほどで、自ら蘭学を習得し、種痘を藩内に広めたりした。
大納言に就いた鍋島直正の肖像写真(佐賀城本丸歴史館蔵)
大納言に就いた鍋島直正の肖像写真(佐賀城本丸歴史館蔵)
 しかし、閑叟は、殿様の趣味として欧米の学問を修めたのでなく、軍事力や産業力を強化する実利の手段として学んだのだ。反射炉や蒸気船を自前で造り出した技術は、薩摩の島津斉彬(なりあきら)とも甲乙つけがたい水準に達していた。江戸上野の彰義隊を壊滅させた根本要因は、本郷の現東大の場所に据え付けた佐賀藩のアームストロング砲の威力にほかならない。
 閑叟の端倪(たんげい)すべからざるゆえんは、安易に薩長と連合しなかった点にある。それどころか、幕末の激動をよそに幕府、京都の一橋・会津・桑名はもとより、尊皇攘夷派と公武合体派のいずれとも手を組まずに時勢の流れからも超然としていた。
 薩長の島津久光のように積極的に先頭に立つわけでもなく、かといって長州の毛利敬親(たかちか)こと「そうせい侯」のごとく何によらず家臣にまかせる風情でもない。
 また、土佐の山内容堂にならって、朝廷と幕府の周旋外交を展開したのでもなかった。見た目にはとらえどころがなく、まさに「肥前の妖怪」として各所で警戒されたのである。
 閑叟はたやすく腹の中を見せなかったが、その意図が逐鹿(ちくろく)(中央で権力を得るために争う)にあることは一目瞭然(りょうぜん)だった。薩長と幕府との抗争長期化、あるいは消耗戦を見越しながら、混乱に乗じて天下に乗り出す野心を抱いていたはずだ。
 しかし、鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗走し、将軍慶喜にやる気がないのを見切って、勝負の勘所を見誤らなかったのはさすがである。この後、最新式軍備を誇る閑叟の部隊は、江戸開城から五稜郭包囲にいたるまで戊辰戦争を軍事的にリードする存在となった。
 こうして明治新政府では、「薩長土肥」と俗称され、かろうじて権力の一角に食い込むことができたのだ。さらに、大隈重信や江藤新平や副島種臣ら「佐賀の7賢人」など、多くの人材を育てた功績も大きい。
 長い目で見れば、薩長に脅威を与える逸材をつくった閑叟は、自分を高く売るだけの利己心や虚栄心で政局のタイミングを見計らう小人ではなかった。個人プレーでなく、堂々たる政策やビジョンに基づくチーム・プレーを指揮しながら、肥前佐賀を高く売りつけたのである。肥前閥の脅威をいちはやく察知したのは、大久保利通であった。佐賀の乱の鎮圧と江藤新平処断の仮借のなさは偶然でない。(明治大学特任教授・山内昌之、2009.8.27)

日本科学技術史に輝く快挙

佐賀藩近代化を進めた「フェートン号事件」

 150年前、わが国初の実用蒸気船「凌風丸」が現在の佐賀市にある三重津(みえつ)海軍所で完成した。全長18・2メートル、幅3・3メートル、10馬力の蒸気機関で動いた。
 明治維新の原動力となった4つの雄藩「薩長土肥」のうち、肥前佐賀藩は今でこそやや影が薄い。だが、幕末における近代化については、他藩より進んでいた。
 佐賀藩は江戸時代を通して、福岡藩と交代で長崎港の警備を担っていた。
 文化5(1808)年、佐賀藩の当番の年に、イギリス船フェートン号がオランダ船を装い、長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質に薪や食料を要求する「フェートン号事件」が発生する。佐賀藩や長崎奉行所は、フェートン号の武力に対抗することができず、脅迫に屈する結果となった。当時の藩主、鍋島斉直(なりなお)は謹慎処分となる。
 フェートン号事件は、佐賀藩の近代化を推し進めた。外国勢力に対抗するため、洋式海軍の創立や洋式艦船の整備を進めた。その一つが三重津海軍所だった。
 安政5(1858)年、佐賀藩は三重津に海軍教育施設を設立する。その後、藩が保有する洋式帆船や蒸気船の修理のために乾船渠(ドライドック)、船の部品やボイラーを組み立てる施設を整備し、「凌風丸」につながっていく。
 この佐賀藩の動きは徐々に全国に広がり、薩摩、長州両藩へと波及していく。日本の近代化路線のフロントランナーといってよい。
 そして、佐賀藩近代化を引っ張ったマルチタレントがいる。佐野常民(つねたみ)(1823~1902)だ。
 佐野は日本赤十字社の創設者として有名だが、元々は医者として身を立てた。
佐野常民記念館前にある佐野常民の胸像=佐賀市川副町
佐野常民記念館前にある
佐野常民の胸像=佐賀市川副町
 佐賀藩士の五男として生まれるが、10歳のころ藩医・佐野家の養子となり、存分に学才を発揮する。大坂や江戸で緒方洪庵、伊東玄朴らの門弟となる。
 物理、化学、砲術、造船…。佐野は医学だけでなく、さまざまな分野の知識を蓄え、31歳の時に藩立の理化学研究所「精煉方」の責任者となる。
 精煉方には、佐野がスカウトしてきた一線級の人材が集い、さまざまな研究を進めた。そのうちの一人、田中久重は「東洋のエジソン」と呼ばれ、芝浦製作所(後の東芝)の創業者である。佐賀藩が藩の命運をかけて取り組んだ三重津海軍所の監督になったのも佐野だった。
 佐野は佐賀藩代表として、パリ万国博覧会に参加したことがある。その会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、深い感銘を受けた。維新後、明治10年の西南戦争に際して、佐野は博愛社(日本赤十字社)を設立した。
 佐野の出身地、佐賀県川副町(現佐賀市)の町長を務めた佐野常民記念館の元館長、江口善己氏(76)は「佐賀藩は薩摩や長州に負けず劣らず、数多の人材を輩出した。その中でも佐野は抜群の功績を挙げたが、知名度では西郷(隆盛)さんらに後れを取っている。世界遺産登録は、佐野の人物像や功績を、多くの人に伝える千載一遇の好機だと思う」と期待をかける。(産経新聞 2015年7月24日

日本初の実用蒸気船誕生の地

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