知られざる「中世の要塞」熊本城
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知られざる「中世の要塞」熊本城

築城の名手加藤清正によって建てられた熊本城は、外観の美しさだけでなく、実戦と籠城にも適した「中世の要塞」だった。いまでこそ熊本地震で痛々しい姿を見せている熊本城だが、かつては隣国の雄藩薩摩も恐れさせた難攻不落城の魅力に迫る。

築城の名手加藤清正によって建てられた熊本城は、外観の美しさだけでなく、実戦と籠城にも適した「中世の要塞」だった。いまでこそ熊本地震で痛々しい姿を見せている熊本城だが、かつては隣国の雄藩薩摩も恐れさせた難攻不落城の魅力に迫る。

信玄、家康よりも愛された

井戸120カ所の脅威

清正に負けた西郷

西郷を苦しめた清正の石垣

 熊本市のシンボルである熊本城(熊本県熊本市)は、慶長12(1607)年に加藤清正によって築城された。
 城郭の全長は5・3キロメートル、敷地面積は98万平方メートル。5層6階地下1階の天守を擁し、各郭に5層櫓、3層櫓という重層櫓が配され、縁辺部をほとんど多聞櫓で囲い込んでいた。各郭が1つの小城郭のように機能し、本丸へ至るためには、これら小城郭を落城させなければならなかった。堅固な城郭から「不落の名城」とも呼ばれている。
被災する前の熊本城
被災する前の熊本城
 清正は熊本城の築城において40メートルを超える高石垣に反りをつけた「扇の勾配(下は緩やかで上にいくほど垂直になる)」の石垣を編み出した。これが有名な「武者返(むしゃがえ)し」だ。
 この「武者返し」の能力が実戦で遺憾なく発揮されたのが、築城から270年後に起きた明治10(1877)年の西南戦争のときである。西郷隆盛率いる薩摩軍の兵は、誰1人として城内に入ることができなかった。
 西郷は終えんの地である鹿児島の城山で「私は官軍に負けたのではない。清正公(せいしょうこう)に負けたのだ」という言葉をつぶやいたともいわれている。
 ただ、薩摩軍が熊本城に総攻撃を仕掛ける3日前、原因不明の出火によって、天守(大天守・小天守)などの本丸部分のほとんどを焼失してしまう。現在の天守は昭和35(1960)年に外観復元されたものだ。
 西南戦争では落城しなかった熊本城も、4月14日と16日に熊本地方を震源とする二度にわたる震度7の揺れには、持ちこたえられなかった。
 天守や重要文化財の櫓、石垣に甚大な被害が出る。熊本城の哀れな姿にショックを受けた人も多かっただろう。完全な修復には10年以上かかり、費用も100億円以上ともいわれている。気象庁は熊本地方を襲った地震を「熊本地震」と命名した。
 地球物理学者の寺田寅彦は「天災(災害)は忘れたころにやってくる」という言葉を残した。5年前の東日本大震災がまだ記憶に新しいなか、熊本地震は「天災は忘れる前にやってくる」ということを、日本人に認識させる地震となった。
 熊本城が再び元の姿を取り戻すまで、熊本の復興は終わることはない。(濱口和久 夕刊フジ 2016.6.6

熊本城を守り続けた県民性

寿命を迎える建築物

熊本城復元の障害は?

 重要文化財に指定されている熊本城の一部や阿蘇神社が崩壊して、「永遠に失われた」と思っている人が多い。
 しかし、火事で焼失したもの以外は、部材さえ残っていたら修復復元されれば指定解除にはならない。阿蘇神社楼門や熊本城の場合は大丈夫だと思う。
 たとえば、福井地震で坂井市の丸岡城の天守閣は崩壊し、部材の多くは住民が持ち去ったと言われるが、残った部材に新しい部材を付け足して復旧している。
 もっとも、それが国宝指定の障害になっているという話は聞いたことがある。その意味では、今回は国宝は含まれていないが、国宝は解除されるが重要文化財としては残るというようなこともあり得るのかもしれない。
 ちなみに、何らかの理由で移築することも、国宝は原則ダメだが、重要文化財の場合は許されることが多い。
 それから、熊本城の復元には何十年もかかると言われるが、重要文化財に指定されていないものについては、もとの工法での復元にこだわるべきでないと思う。城跡が史跡になっている場合、外観復元で十分なものまで在来工法での復元に文化庁は無理にこだわるが、文化財マフィアの利権保護の悪行だ。(徳島文理大教授、評論家・八幡和郎、2016.04.18

被災熊本城の光と影

知られざる「中世の要塞」熊本城

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