信長はなぜ戦い続けることができたのか
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信長はなぜ戦い続けることができたのか

戦国期、弱兵で知られた織田軍を率いて天下布武を目指した信長。それでも強敵を次々と打ち破れたのは他家を圧倒する経済力があったからに他ならない。戦国のマネー革命とも言われる信長の経済政策。そこには現代に通じるヒントがたくさんある。

戦国期、弱兵で知られた織田軍を率いて天下布武を目指した信長。それでも強敵を次々と打ち破れたのは他家を圧倒する経済力があったからに他ならない。戦国のマネー革命とも言われる信長の経済政策。そこには現代に通じるヒントがたくさんある。

既得権益と闘え

見えていた大交易圏

旗印に込められた決意

革新的だった信長の撰銭令

 戦国時代後半、銭の信用低下が進むなか、各地の戦国大名たちが発布した撰銭(えりぜに)令。なかでも浅井長政と織田信長の撰銭令は、義兄弟ながら実に対照的な内容となっている。
 長政が治める近江は、北陸道・中山道・東海道を抱える日本一の流通の要衝である。馬借(ばしゃく=輸送業者)や問丸(といまる=米の倉庫・委託販売業組織)も発達し、銭取引の安定化がなによりも必要な地域であった。そこで出された撰銭令(1566年)は実にシンプルで、「破銭(欠け銭・割れ銭)や文字のない銭は使用禁止」-逆に捉えると「これ以外の銭は、人気の低い悪貨でも、良貨と同等に扱え」という意味だ。こうして使える銭の量を増やし、取引の利便性を高めれば銭の信用も回復する…と考えたのだろう。
 しかし、この撰銭令は失策であったと私は見る。なぜなら、悪貨の使用量に制限をつけず良貨と同じ1文として扱うと、他国で使用制限されている悪貨が浅井領に大量に流れ込んでしまうからである。結果、そこから吸い上げる税金も悪貨ばかりになり、他国との交易で不利を被る。
 これに対し、信長の撰銭令(1569年)は、「貨幣流通量の増加」と「悪貨の流入防止」を同時に達成しようとする革新的なものだった。まず宋銭・永楽銭などの良貨を1文と定める(基準銭)。そして、宣徳(せんとく)銭などは基準銭の1/2の価値、破銭などは1/5、南京銭(私鋳銭の一種)などは1/10…と、基準銭以外の10種の貨幣(増銭)を3グループに分け、それぞれにレートを定めた。
 このような貨幣レートは民間の撰銭でも使われていたが、人によって基準が異なる上、日々レートが変動する不安定なものだったと思われる。信長はこの無秩序な現場ルールを統一し、安定した「固定相場制」を導入したのである。
 また、他国で悪貨とされる銭も「増銭」の範疇に含めて価値を認め、銭の流通量を積極的に増やそうとした。一方、増銭は1文とカウントせずレートに応じて価値に差をつけることで、悪貨が過剰に流入するのを防いだのだ(さらに、取引額の半分は基準銭で支払うよう命じている)。残念ながら、信長の撰銭令の効果をうかがい知る史料はほとんどないが、銭の信用低下を食い止め、領国の経済力を高めることに一定の効果はあったと思われる。経済力の差は、軍事力の差として現れる。信長の貨幣経済への洞察力が、翌年の姉川の戦い、その後の小谷城の戦いでの浅井方に対する勝利に結びついたのかもしれない。
 なお、信長は永楽銭(永楽通宝)を旗印にするが、これには一般に言われる「経済重視説」より深い意味がある、と私は考える。永楽銭は新しい銭で信用が薄く、大抵の人は悪貨として嫌ったが、信長はその質の高さから基準銭として扱った。『歴史が浅くとも、良質なものは受け入れる』-永楽銭は、そんな信長の価値観を示す格好のシンボルだったのではないだろうか。(公認会計士、税理士・山田真哉 夕刊フジ、2012.09.11

信長の失敗を教訓にした家康

経営者は戦国武将を見習う

コストカット重視は昔から

信長はイノベーター

 信長・秀吉・家康、という3人はよくできた組合せだと思う。「誰が好きか」という話は、日本人の大人同士だとそれなりに成り立つと思うけど、細かい業績以上にキャラクターが立っているからだろう。「ホトトギス」のように、わかりやすい喩えもある。
織田信長
織田信長
 僕は子どもの頃は、「家康派」だった。3人の伝記を読んで、「最後に勝つ」というところに惹かれたのだと思う。あとは「江戸をつくった」ということにも親近感があった。先祖が会津の佐幕派であったことは後に知った。ピンと来ないのは秀吉で、信長は面白いけれど、その凄味が理解できなかった。その後は、どちからというと「信長、すげえなぁ」と思うようになったが、やはり家康の方に馴染みがある。
 時代によっても変化はあると思うが、70年代前半の高度成長期は秀吉も人気があったと思う。田中角栄が「今太閤」と言われたのが典型だろう。小泉政権の頃は信長が流行ったが、その後はゲームの中での特異な造形と相まって、やはり人気は強い。家康については、緩い追い風のようなものを感じるが、これは江戸時代への関心が高まっていることと関係あるだろう。「エコシティ」的な視点もあれば、歌舞伎や落語が注目されてることも関係あるだろう。オリンピックを前にして、東京についての「都市論」が再度注目される中で、江戸への関心が高まっていると思う。そして、家康については「経営者」として評価されている側面もあるだろう。信長は天才肌で一代限りのイノベーターだし、秀吉はサラリーマンの出世譚だ。起業と永続的な繁栄、という命題をもっとも具現化したのは家康ということになる。
 門井慶喜の「家康、江戸を建てる」(祥伝社)は、まさに「幕府創業」の物語だ。秀吉が家康に「関八州」を譲るシーンで、「小田原か鎌倉あたり」を本拠にするのだろうというのに対して、家康が江戸を選ぶという場面がある。つまり、相当に突飛な選択だったのだが、その後の「奮闘」を描いた本でもある。
 この小説は、5つの章からなる。5つのプロジェクトについて、それぞれに奮闘した人がいて、隠れたドラマがある。話は一代限りでは終わらないし、現代までその名残を感じることもできる。湿地帯だった江戸に街を築くために、川の流れを変えて埋め立てをおこなう話から、小判の鋳造、さらには江戸城建築まで「何となく知ってたこと」をクッキリ浮かび上がらせる。家康は「待つ」人だったと言われる。それは間違いではないけれど、「待った後」のことを常々考えていて、実行に移した。その事実に惹かれる人は、また多いのだろう。本書は、先般の直木賞の候補作だった。受賞は逃したが、次作以降も楽しみだ。(山本直人公式ブログ 2016.07.21

戦上手は経済通

信長はなぜ戦い続けることができたのか

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