韓国がうらやむ日本人ノーベル賞の秘密

「世界が賛辞を贈る日本の科学技術の底力を前に、韓国の現実はみすぼらしい」。東京工業大栄誉教授、大隅良典氏のノーベル医学・生理学賞の受賞が決まり、韓国紙は日本の基礎研究の実力を称賛した。なぜ日本人は毎年のようにノーベル賞を受賞できるのか。韓国もうらやむノーベル賞ラッシュの秘密を読み解く。

この先は日本人受賞者が激減?

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「誰もやらないことへの挑戦」

 ノーベル生理学・医学賞受賞が決まった大隅良典氏、オートファジーの解明という偉業を達成されました。心よりお慶び申し上げます。それにしてもノーベル賞の受賞理由は難しくて一般人には皆目見当がつかず、3日もすれば忘れてしまう内容ばかりでありますが、非常に狭い分野で深掘りした結果が数多くのノーベル賞に結びついているとも言えます。
「オートファジー(自食作用)」
と呼ばれる仕組みを解明した
大隅良典・東工大栄誉教授
 大隅氏もそのおひとりでありますが、氏のおっしゃる「誰もやらないことへの挑戦」が開花したとも言えます。私は長年、日本のビジネスを中から、あるいは外から見続けてきてある懸念を持っていました。それは物まねが過ぎるという点であります。あるビジネスがヒットすれば必ずそれを真似、且つ、改良したり価格的により魅力的なものにして先駆者を凌駕するというものです。その結果、一番苦労した開発者は思ったほど利益がなかったり、足元をすくわれるような事態すら生じてしまいます。
 大隅氏はわざわざ人がやらないことを選んでいったそうです。それは自分でそういう分野を探し当て、開拓するために勉強と努力をしたことが結びついています。
 人がやっていることを「俺もやってみよう」という精神は何もやらないよりずっとましであることは確かです。しかし、日本人の独創性が欠けると言われてきたのは「あいつがそれをやるなら俺はこれをやるぞ」という非ものまね精神が足りないからでしょうか?
 バラエティ番組でものまね選手権がありますが、日本人は特徴をつかみ、ものまねするのが得意であります。しかし本人より個性的にうまく歌う選手権はないですよね。演歌をロックにしたり、クラッシック曲に歌詞をつけたりして新しいものを作り出すような発想は少ないと思います。よさこい祭りが各地で開かれていると思いますが、あれも集団が一糸乱れなく同じ動きをするところに良さがありますが、バラバラの動きの中に統一感を持たせるという踊りは何故ないのでしょうか?
 我々も個性を引き出す時代がやってきたと思います。数多くのノーベル賞受賞者が生み出してきたその発想の根源は何処にあるのか、そこに気がついたら自分の日々の生活や当たり前を見直してもよいかもしれませんね。(岡本裕明「外から見る日本、見られる日本人」2016.10.05

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「制度疲労」を起こし始めたノーベル賞

 近年の化学賞の受賞者をみると、数年ごとに「これは生物学ではないか」と思われる研究が受賞対象になっている(Wikipediaより)。ここ数年をみても、2008年の緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見とその応用、翌2009年のリボソームの構造と機能の研究、そして2012年のGタンパク質共役受容体の研究、そして2015年だ。生理学・医学賞をみると、2006年のRNA干渉-二重鎖RNAによる遺伝子サイレンシング-の発見、2009年のテロメアとテロメラーゼ酵素が染色体を保護する機序の発見などは、化学賞であってもよいように思う。細かい話だが、分子生物学が化学賞、細胞生物学、発生生物学は生理学・医学賞にあたるようだ。とはいえ、その境界はあいまいだ。
 生物学賞のような化学賞がなぜ生まれるのか。これは、近年の生物学が、100年以上前に設定されたノーベル賞の分野分けにあてはまらない状態になってきていることを示しているといえる。
 これは現在の国際情勢にもつながる。20世紀初頭に列強によって分割された国境線をまたぐように民族が居住しているかのようなものだ。
 もともと化学賞の受賞対象だった諸分野にとっては「領土が奪われている」かのような感覚を持つかもしれない。生物学のさばりすぎ、というように。生理学・医学賞からみても、「それ医学じゃない」みたいな内容に賞が与えられ、「人を救ってナンボでしょ」という批判があるかもしれない。
 生命現象を分子の言葉で語る分子生物学が化学から分かれて生物学、医学を席巻した20世紀後半。もはや生命現象を分子で語ることは特別なことではなく、主食はお米です、ということくらい当たり前になった。しかし、100年前に行われた研究分野の「領土分け」は変更ができない。こうして生物学のような化学賞が生まれている。また、20年以上前から教科書に載るような研究が今になって受賞対象になったのは、この分野に関わる研究者が多数いて、誰を受賞者するのかが難しかったからという声がある。
 選に漏れた研究者が「私は受賞の価値がある」と異議をとなえるのは、もはや恒例になった。また、共同研究は当たり前になり、チームで研究に取り組むのも今や当然だ。論文の著者が1000人を超えるようなものさえ生まれている。たった3人までしか受賞対象がいないノーベル賞は、時代にあっていないのだ。このほか、情報科学など新たな分野が次々に登場し、分野の境目はあいまいになっている。こんななか、100年前の分野に無理やりにでもあてはめなければ、受賞はあり得ない。
 ノーベル賞が「制度疲労」を起こしているのは誰の目にも明らかだ。とはいえ「老舗」は強い。一度得た信頼、ブランドは揺るぎそうにない。フィールズ賞が「数学のノーベル賞」と呼ばれることがあるように、分野の「ノーベル賞」も出てきているが、一般の人々が認知するのはフィールズ賞など一握り。「料理界の東大です」のようなもので、ノーベル賞のブランドは盤石だ。
 私たちは、もうちょっとノーベルブランドを斜に構えてみてもいいのではないか。老舗ブランドとはいえ、まだ115年。人が作ったものは永遠ではないのだから。(病理専門医・榎木英介、Yahoo!ニュース個人 2015.10.09

日本人ノーベル賞ラッシュの波紋

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