電通女性社員の「過労自殺」をどう読む
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電通女性社員の「過労自殺」をどう読む

日本を代表する広告大手、電通の女性社員の過労自殺が波紋を広げている。違法な長時間労働が常態化していた疑いが浮上し、東京労働局が立ち入り調査、刑事事件に発展する可能性も出てきた。今後、電通の労務管理の在り方が焦点となるが、なぜ日本では「過労死」が後を絶たないのか。

日本を代表する広告大手、電通の女性社員の過労自殺が波紋を広げている。違法な長時間労働が常態化していた疑いが浮上し、東京労働局が立ち入り調査、刑事事件に発展する可能性も出てきた。今後、電通の労務管理の在り方が焦点となるが、なぜ日本では「過労死」が後を絶たないのか。

明日はわが身

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過労死は日本文化じゃない!

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個人を処分しても本質は解決しない

 武蔵野大学の長谷川秀夫教授が、「残業100時間で過労死は情けない」というコメントを書かれて批判されたことに対して、武蔵野大学が「処分」を検討しているという。このニュースを読んで、大学の対応に、強い違和感を覚えた。
 長谷川先生のご発言が、適切でないことは当然として、言論の是非は言論の中で決着をつけるべきであって、それを「処分」という形で対応することが、言論の自由、という視点からみて疑問、というのがまずひとつ。
亡くなった高橋まつりさんの労災認定について記者会見する母の幸美さん(右)と川人博弁護士=10月7日、厚労省
 さらに、「組織文化」の問題である。「残業100時間」を強いる企業があったとしたら、そのような組織文化、体質が問題なのであって、そのことを是正する、というのが、正しい理路であろう。
 同じことが、武蔵野大学についても言える。長谷川先生の「残業100時間で過労死は情けない」という発言が、個人の言論として批判されるのは当然として、より本質的に問われるのは、果たして、そのような方が教授をされている武蔵野大学は、学問の府として大丈夫なのか、ということだろう。
 すべての学問は、人間の本質を理解することにつながる。現代における学問のあり方として、「残業100時間」を正当化するような発想は、あり得ない。だとすれば、「残業100時間」と発言された長谷川先生、そして武蔵野大学の「学問」の質が問われることになる。
 武蔵野大学として、本当にやるべきことなのは、大学として、「残業100時間」を当然とするような文化が、自分たちの中にないかどうか、働き方や多様性などに関する価値観は大丈夫か、という自己点検、改善への取り組みだろう。教授一人を処分しても、大学としての質の担保にはつながらない。
 日本の組織は、ほんとうに「処分」が好きだが、多くの場合、意味がない。「処分」で前提になっているのは、処分する組織側が「正しく」、無謬ですらあるということだが、そのような仮定は、多くの場合成立しない。とりわけ、働き方などの文化においては。
 「残業100時間」を強いる組織だって、その社員を「処分」したりすることだろう。ほんとうに大切なのは、個人を「処分」して組織を守ることではなく、組織自体のあり方を自省することだ。武蔵野大学が、「処分」すべきなのは、長谷川先生個人ではなく、むしろ大学組織としての自分自身である。(茂木健一郎 facebook、2016.10.12

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見過ごされる「退路」の問題

減らすべきは「働いて不幸になる」人

 一昨日に書いた、「『自分はこれだけたくさん働いた』と言うのは、もうやめよう」という記事について補足を書いておきます。過労が原因で自殺に追い込まれる場合、労働時間だけが原因ではありません。それは同記事にも既に書いています。しかし、「自分だってたくさん働いたけれど周囲にフォローされた」という声も、あちらこちらでたくさん目にしました。だから、「労働時間だけに目を奪われずに、職場として助け合うことが大切」という考え方は正しいと思います。それでも、まず「長時間労働自体が問題」ということは改めて訴えたいと考えます。理由は3つです。
 まず、1つ目。「長時間働いたけど平気」という人はもちろんいます。一方で標準的な労働時間の人に比べて、「長時間労働で心身が蝕まれる」ということもたくさんあります。さまざまなケースから、長時間労働は人を追い詰める可能性を高めることはわかってます。また職場全体の労働時間が長くなれば、互いを助け合う余力が低下するでしょう。労働時間が長くなることは危険性を高めるのだから、そうしたことは早めに除去するのが当然だと考えます。
 2つ目は、そうした「経験談」がネットなどで独り歩きすることで、何らかの「空気」になるリスクが高まっていると思うからです。直接聞く時には、より具体的な話として、いわば「注釈つき」で理解できますが、いまの時代では空気だけが先行します。もう1つの理由は、「強者の論理」で議論が進むことへの危惧があるからです。
 「長時間働いても大丈夫だった」という経験はその人固有のものです。もちろん個人的経験を語るのは自由でしょうが、そうした声が輪のように重なり、それが空気のようになっていくことを心配しているのです。強い人は、長い時間働き、また言葉や主張も強いと感じます。しかし、世の中には弱い人もいます。仕事は断れずに、何かあっても言い出せない。そういう人にとって「自分はこれだけたくさん働いた」という言葉は、どのように作用するのでしょうか?「他人のことは気にしなくてもいい」という人もいます。でも「気にしない人」というのも、また強い人だと思うのです。
 「周囲の空気を感じて、自分の考えを貫けない」という人はたくさんいると思います。そうした思いがあるので、敢えて「自分はたくさん働いた」と言うこと自体を考え直してみようと考えました。「働いて、不幸になる」そんな人を少しでも減るようになればと思っています。なお、特定企業を「ブラック」扱いするような議論は、不毛であるばかりか、問題の本質を見えなくするマイナス面の方が大きいと考えます。すべての職場で「起こり得るリスク」として考える機会を奪うからです。(山本直人公式ブログ 2016.10.10

ビジネス戦線のリアルはどこにある

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