邪馬台国は「99・9%」九州にあった
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邪馬台国は「99・9%」九州にあった

畿内か九州か。古代史最大のミステリー「邪馬台国論争」。女王卑弥呼の墓とされる遺跡の発掘や、中国の歴史書に基づく文献研究などが進み、双方の説を裏付ける学説はいまだ後を絶たない。そこでiRONNA編集部では、あえて「99・9%九州説」の立場から論争に加わり、邪馬台国の謎に迫ってみた。

畿内か九州か。古代史最大のミステリー「邪馬台国論争」。女王卑弥呼の墓とされる遺跡の発掘や、中国の歴史書に基づく文献研究などが進み、双方の説を裏付ける学説はいまだ後を絶たない。そこでiRONNA編集部では、あえて「99・9%九州説」の立場から論争に加わり、邪馬台国の謎に迫ってみた。

新たな学説に揺れる邪馬台国

 300年も前から続く邪馬台国論争に「今さら」と思われる方も多いかもしれないが、日々、新たな学説や発見のニュースが流れるたびに、有力視される方向は大きく変化している。
 たとえば、今秋出版された歴史研究家、伊藤雅文氏の著書「邪馬台国は熊本にあった!」はそのタイトル通り専門家や歴史ファンらに衝撃を与えた。同書では邪馬台国の根拠となる資料「魏志倭人伝」を重視しつつ、「後世に改竄された」と新説をとなえた。記述のあった朝鮮半島から邪馬台国までの距離を再検討した結果、邪馬台国は熊本平野にあったと結論づけたのだ。
 一方、ささやかなニュースでしかなかったが、今年3月、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で弥生時代後期のものとみられる硯(すずり)の破片が出土した。この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の中枢をなし、朝鮮半島北西部で見つかった硯と似ているという。伊都国は中国の外交使節の滞在場所とされるだけに、やはりこの近隣に当時の日本を統治する拠点があったことを推論する根拠になり得るのではないか。
 邪馬台国論争において「畿内説」が有力であることは間違いないが、中国や朝鮮半島との外交に欠かせない海洋ルートに加え、出土品の数などを考慮すれば、「畿内説」に遜色ない根拠は十分にある。もちろん、邪馬台国論争は「九州」や「畿内」だけではない。少々、突拍子もない印象もあるが、沖縄や滋賀の琵琶湖畔といった学説があることも事実だ。
 iRONNA編集部は今回、こうした現状を踏まえたうえで、地理的な要因や出土品の数といった根拠から導き出された「九州説」の視点を柱に据え、「邪馬台国はどこにあったのか」という長年決着のつかないまま現在にいたるこのテーマについて議論したい。

奈良県にあった確率「0%」

2千年前の日本に起きた激変

重要なのは「どこ」よりどんな国

神功皇后は卑弥呼ではなかった

 『日本書紀』において、なぜ神功皇后紀が設定されたかは、難しい問題です。記述の大半は新羅征討の伝承です。常に立ちはだかっている問題は、なぜ天皇紀の原則をまげて皇后紀という章立てをしたか、ということです。神功皇后は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と呼ばれていたとありますから、息(気)長(おきなが)氏との関わりを考えねばなりません。息長氏は、近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市周辺)を拠点とした豪族ですが、大和に進出し、天皇家と密接な関係をもっていきます。
「日本書紀」において特別扱いされた
と考えられる神功皇后陵=奈良市
 私は神功皇后の息長氏との関わりを、ユング心理学でいう「グレート・マザー(偉大な母親)」という次元で考えてみることもできると思っています。グレート・マザーとは、次のように説明されます。誰もがイメージする偉大な母の存在を言います。しかし、偉大な母に2つの面があります。1つには子供を慈しんで育む力、あるいは生命を生み出すもの。もう1つは子供を束縛し、のみこんで破滅させてしまう恐ろしい力です。ユングは、人間に備わっているこのようなものを元型とよびました。グレート・マザーもまた、元型の一つとみなしました。
 『日本書紀』によれば、神功皇后の父は気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)とありますから、神功皇后は、息長氏の政治的展開を生み出す母親的な存在として、『日本書紀』において特別扱いされたと考えられます。しかし、『日本書紀』の編者たちには、グレート・マザー的な存在のイメージだけではなく、実在する皇后という解釈も試みました。それは、『魏志』にいう倭の女王(卑弥呼)を神功皇后にあてることでした。
 中国の史書を参照して、『日本書紀』の編集がされていた時、倭の女王をどのように『日本書紀』に盛り込むか、議論があったと思います。編集委員のメンバーには、卑弥呼についての伝承がなかったとしか思われません。そこで、神功皇后をもって卑弥呼とする歴史的叙述をすることに決定されたのでしょう。
 卑弥呼は、中国の魏という国と外交関係をもっていましたが、『日本書紀』において、魏の時代をどの天皇の時代に相当するかは、全くわからなかったといってよいでしょう。今のような西暦という国際的な年代がなかったのですから、それぞれの国は、干支で年代を用いました。同じ干支でも、例えば「壬申」という年は、60年を一回りにして同じ「壬申」という年がめぐってくるわけですから、倭国の「壬申」と朝鮮半島や中国の「壬申」とは、同年かどうか判別できないのです。
 神功皇后紀は、『魏志』の干支で倭の女王を記述し、さらに『百済記』という史料も用いられました。もちろん、この史料も干支で年代を記述しています。
 そして、明治になって西暦によって比較することが可能となり、当時の歴史学者は、神功皇后紀に西暦による実年代を与える研究に取り組みました。一例をあげますと、神功皇后43年は魏の正始4年とあり、西暦243年となります。とすると、神功皇后47年は247年となります。ところが、その年は『百済記』によると、西暦367年にあたる出来事が記されています。史実的には、『百済記』を信用することができます。つまり、神功皇后紀の『魏志』の年代を干支二回り(120年)させないと、『百済記』の実年代と合致しなくなります。
 となりますと、神功皇后紀における『魏志』の取り扱い方は、年代の上で無理があることがわかります。結論として、神功皇后は卑弥呼ではないということになります。(奈良県立図書情報館長、帝塚山大特別客員教授・千田稔 産経新聞 2013.01.14)

「やっと対等になれる」

「女王国連合」の正体

卑弥呼は旅行代理店の女社長?

 卑弥呼の王国の所在地を議論する前に、まず「なぜ、都市国家連合に君臨でき、どのように卑弥呼は財力を得たか」を考えたい。その答えは、言うまでもなく鉄の交易の支援である。卑弥呼は、鉄を巡る対岸交易で、「海を渡る」というノウハウを提供したサービス業の女社長だということができる。そう考えれば、交易を行った都市国家に君臨し、朝貢を行ったことの説明がつく。私は、女王というのは卑弥呼の虚像であると考える。
 九州全域、北陸から山陰までの日本海全域の都市国家の対岸貿易航路を支配し、祈禱や交易業務の取次サービスを行うことで、お布施、手数料を得ていたと考える。具体的には、渡航する際の漕ぎ手の手配、宿、食料の提供、船の修理などサービスの提供、船の提供まであったと考える。その対価はモノの上納で、これが卑弥呼の収入源であった。
 今でいう旅行代理店、船貨し業、乗組員手配業、さらに天気予報業務である。それから忘れてはならないのは疫病である。遣唐使の時代もそうであるが、この時代も大陸からコレラやチフス、赤痢などの伝染病が流行った。それを治癒するのは巫女の祈禱であった。(元国土交通省港湾技術研究所部長・長野正孝、PHP Online衆知 2015.02.21

議論はアカデミズムを超えて

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