人はなぜ宗教に狂うのか
315

テーマ

人はなぜ宗教に狂うのか

一年の計は元旦にあり。新年を迎えると、神社仏閣に参拝してその年の幸福を願うのは日本古来の習わしである。それは宗教が日本人の生活に深く根づいた表れとも言えるが、時に宗教は人を惑わせ、狂わせる。なぜ人は宗教にのめり込むのか。2017年、iRONNAはこのテーマと真正面から向き合う。

一年の計は元旦にあり。新年を迎えると、神社仏閣に参拝してその年の幸福を願うのは日本古来の習わしである。それは宗教が日本人の生活に深く根づいた表れとも言えるが、時に宗教は人を惑わせ、狂わせる。なぜ人は宗教にのめり込むのか。2017年、iRONNAはこのテーマと真正面から向き合う。

洗脳かテクニックか

国家権力と排他的理念

「正しい宗教観」を持つ日本人

 12月24日にはキリスト教徒、12月31日は神道信仰、正月は仏教徒になってお寺詣りという日本人。これから結婚して新しい人生を始める時に「信仰するイエス・キリスト様の前に愛を誓う」とウソから家庭を始める・・・。でも、これが正しい宗教観で、キリスト教徒、イスラム教徒などと区別する方が神様に対して失礼であることは明らかだ。
 もともと、世界の宗教はカスピ海の北方にいたアーリア人の神からでていて、それが紀元前2000年ころにギリシャ、パレスチナ、ペルシャ、インドなどに拡散して、ユダヤ教、キリスト教、バラモン教、仏教になり、さらに時代が下って、同じ神からイスラム教、道教などが誕生している。つまり、神様は一人でカスピ海の北にお住みだった。ゾロアスター教やバラモン教のようにもっとも古い時代にできた宗教も、「宗教ではなく宗派(神ではなく偉人が作ったもの)」で、日本で言えば、真言宗の空海、浄土宗の法然、日蓮宗の日蓮のような偉人が作り出したものだ。真言宗の人が浄土宗のお寺にいっても咎められないように、ゾロアスター、お釈迦様、イエスキリスト、マホメットのような偉人が大きな宗教をつくり、その偉人の教えを学んで弟子たちがさらにカソリック、プロテスタント、ロシア正教、真言宗などを作って、その時代、時代にわかりやすい形にされている。
 神道はすべての神を包含し、教祖も教典も戒律もないので、宗教という意味では、カスピ海の北の神様も包含する。つまり、現代の日本で言われている「信教の自由」とは、「宗派の自由」であって、複数の宗教というものはまだ地上に誕生していない。だから日本人がキリスト教(キリスト宗派)、神道(宗教ではない)、仏教(仏宗派)を一緒に信じても、それは「もともとカスピ海の北にいた神、日本の大地にいた神」を信じているのだから、奇妙でもなく、見境がないわけでもない。まさに「正しい宗教観」に基づいている。
 それは当然のようにも思える。そもそも神様というのは宇宙全体、少なくともこの地球全体は見通しておられるだろうから、神様が複数おられるということはありえない。もし複数の場合でも神道の「八百万の神」のように「仲良く一緒」のはずだ。ただ、人間が神を理解するためには、その時代、その地方で違うだろうし、また人間は戒律が必要だったり、神の形が見えないと不安だとかいろいろあるので、偉人が宗派を作りたくなるのも理解できる。結婚式の愛の誓いや近しい人との死別など、人間には神が必要であることも確かで、神は人間が想像したものか、それとも人間が誕生する前から人間の形をした神がおられたかはわからないので、その答えを求める必要もないように思う。
 ただ、「同じ宗教(神の世界)で違う宗派(偉人の世界)」を間違えて、昔から血なまぐさい戦争や争いが続いているので、それは日本人が世界に向かって声をあげ、「宗教は一つ。宗派争いはやめよう」と呼びかけるのが良いと思う。フランスで宗教が絡んだ銃殺事件があったが、日本から「宗教の争いは同じ神様なのだから、やめたほうが良い」と発信する良いチャンスだ。(武田邦彦公式ブログ 2015.01.10

「強制しないのが本来の宗教」

理解を超えた男

奇妙に思えても信じる自由はある

今こそ宗教リテラシー教育が必要

 教育基本法第15条は、「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と規定している。ところが、この条文ほど機能せず、無視され続けてきた条文はない。この背景には、戦前の「国家神道」への警戒感があり、そこから派生する「宗教アレルギー」は、教育を「機能不全」にしている。教育基本法の規定にもかかわらず、道徳の学習指導要領には宗教という言葉すら明記されていないのはその証でもある。まさに、「触らぬ神に祟(たた)りなし」が教育の宗教への対応であった。しかし、人間が本質的に不完全な存在である以上、自己の能力の過信に陥らないためにも、「超越なるもの」の存在は必要不可欠である。
 バーチャルな世界が日常化し、生と死をリアルな感覚で実感できない子供たちにとって、「生命の根源」や「聖なるもの」を視野に入れない「命の教育」はあまりに無力である。ここには「生かされている命」「自分の命は自分だけのものでない」という自覚を育てることは期待できないからである。そもそも出生前診断、脳死、臓器提供など生命倫理に関わる問題を宗教抜きで考えることは不可能であり、むしろ危険である。
 一方で現代社会を理解するにあたって世界の動きを文化的要因から捉える視点は重要である。世界の宗教制度と政治との関係、宗教を文化システムとして理解するための知識と教養は、現代社会を生きる上で不可欠の要素である。グローバル化が進行する現代社会では、さまざまな宗教、文化的背景を持った人々と接触し、宗教的文化・信念を背景として生きる人々を理解することが国際交流に必須の条件となる。同時にそれは自国の伝統文化を学び「他者」を理解することにも密接につながる。また、宗教的世界観が現代社会の価値観と厳しく対立する事件も激増している。現代社会と宗教運動との関係をマクロな観点から的確に理解することのできる資質・能力の育成は教育の責任である。とりわけ、宗教について「無菌状態」にある日本の学校教育は、結果的に子供たちを「カルト」に無防備に対峙(たいじ)させることになりかねない。
 宗教に関する正確な知識を身につけ、批判的な観点を養うことで「正しい」宗教を見分ける能力を養うことをめざす「宗教リテラシー教育」は、今後の学校教育が検討すべき喫緊の課題である。道徳の教科化に際して学習指導要領の「解説」は「宗教が社会で果たしている役割や宗教に対する寛容の態度などに関しては、教育基本法第15条の規定を踏まえた配慮を行うとともに、宗教について理解を深めることが、自ら人間としての生き方について考えを深めることになるという意義を十分考慮して指導に当たることは必要である」と明記した。大きな前進である。「宗教アレルギー」を払拭し、教育における宗教の意義と役割に関する議論を深めたい。(武蔵野大教授、貝塚茂樹「解答乱麻」産経ニュース 2016.09.07

宗教が持つ力とは

人はなぜ宗教に狂うのか

みんなの投票

あなたは宗教を信仰していますか?

  • 信仰している

    128

  • 信仰していない

    138

  • 信仰していないが、神仏にはすがりたい

    49