坂本龍馬が「新国家」に託したもの
112

テーマ

坂本龍馬が「新国家」に託したもの

幕末の志士、坂本龍馬はどんな「日本の夜明け」を夢見ていたのか。暗殺される5日前に記した書簡は、この謎に迫る第一級の発見である。あの時代に、幕府や公儀という言葉ではなく、なぜ「国家」という新しい政体を意味する二文字を使ったのか。龍馬が専心した新政府樹立の意義を考えてみたい。

幕末の志士、坂本龍馬はどんな「日本の夜明け」を夢見ていたのか。暗殺される5日前に記した書簡は、この謎に迫る第一級の発見である。あの時代に、幕府や公儀という言葉ではなく、なぜ「国家」という新しい政体を意味する二文字を使ったのか。龍馬が専心した新政府樹立の意義を考えてみたい。

歓迎され、標的にされた男

新政府の財源を憂慮

肥大化した実像

日本人はなぜ龍馬が好きなのか

坂本龍馬の肖像写真
(高知県立坂本龍馬記念館提供)
 日本人はなぜ、坂本龍馬を好きなのだろうか。理由は、龍馬がいちばん志士らしい志士だからという点に尽きる。自ら求めた政治の理想や目標を実現する志に忠実な人物こそ志士なのである。志を果たすためには、既成の権威から迫害を受けることもあり、その結果として死の悲劇に行きつくこともある。
 この意味で志士は、ロシアでいう「インテリゲンツィア」と似たところがある。インテリゲンツィアは、英語の「インテレクチュアル」(知識人)と似て非なるものだ。インテリゲンツィアは、理想社会や人民の幸福を求める志のために、一身を犠牲にする覚悟のある知識人を意味する。
 机上の議論だけでなく、実践において自らの知性や抱負を世に問うのである。19世紀ロシアのナロードニキ運動(「人民のなかへ」と呼びかけ、帝政の変革を求めた運動)の指導者らは、どこか坂本龍馬のような幕末の志士を彷彿(ほうふつ)させないだろうか。
 山脈と大洋に挟まれた土佐人ほど性格が類型化される例も珍しいだろう。井上勲氏の近著『坂本龍馬』(山川出版社)は、土佐人に山岳型と海洋型の2種類の志士を見いだした先人の説を紹介している。それによれば、自己の主義を直截(ちょくせつ)に語り続けることで志を実現するタイプと、変化してやまない海洋の様相が育てる、異質な他者に寛容なタイプの2つにほかならない。前者は武市半平太や中岡慎太郎であり、後者は坂本龍馬だというのである。
 屈曲した歴史の構図を整理し、複雑な人間模様を解剖してみせる井上氏の技量は、出されたばかりの小ぶりの書物でも発揮されている。そこで井上氏は、龍馬が姉たちとともに和歌や随筆といった和書の古典に親しんでいた事実を重視した。確かに、有名な「日本のせんたく」論はじめ、龍馬には仮名の多い気取らぬ文章が多い。漢語は、文字から連想させる観念に、抽象的にからめとられる危険もある。
 しかし、仮名は事物の具体性を浮かび上がらせながら、明快に論理に従った文章を書くのに都合がよい便法なのだ。日本人に龍馬が好かれる原因は、この気取りのなさにもあるのではないか。女性に龍馬ファンが多いのも、姉にあてた簡明な文章が分かりやすく、人柄を素直に浮かび上がらせる点と無縁ではない。師として仰いだ勝海舟の素晴らしさを描写するときでも、「達人の見るまなこ(眼)は、少しも誤る所あるべからず」と『徒然草』の表現をもじる作文は、武士にしては珍しいほど洒脱(しゃだつ)に富む。『徒然草』とは、隠者の文学である以上、歴々の武士がなじむ古典でなく、郷士の気楽さゆえに姉と一緒に読めた面白い作品なのだ。こうしたとらわれのなさこそ、それと知らぬ女性さえ引き付ける龍馬の魅力がある所以(ゆえん)なのだろう。
 また、独立自尊と自由闊達(かったつ)さも龍馬の個性にふさわしい形容である。封建制度の只中(ただなか)に生まれながら、そこから自然に脱皮しようとするコスモポリタンぶりが平成の日本人に好かれる点なのだろう。しかし、この龍馬でさえ、脱藩という“重大犯罪”のツケのために苦しんだ。「脱藩は藩主の命に背いて藩を捨てることを意味していたから、謀反に近いのである」という井上氏の指摘は、身命を賭(と)した脱藩という決断の行動こそ龍馬が最期に陥る死の悲劇をもたらす遠因だったことをさりげなく示唆している。(明治大学特任教授・山内昌之 産経新聞、2009.12.31)

「龍馬アホ説」に騙されるな

共鳴できた二人

最大の謎「誰が殺したか」

 今回は、龍馬の「謎」について、です。歴史上の人物には大なり小なり「謎」がつきまといます。現代に生きる私たちは、その時、その現場にいられないのですから、当然のことです。龍馬も例外ではありません。
西郷隆盛が自刃した鹿児島市城山に建つ銅像
 例えば、いま、薩長連合(同盟)だけとっても、慶応2(1866)年1月上旬、桂小五郎はじめ長州藩の代表が薩摩藩伏見屋敷に入ってさあ仕上げの談判、と思ったその席に龍馬が天候不良を理由に遅刻したのはなぜだったか(その前の年の閏5月に下関での薩長会談を西郷がすっぽかした後の会談ですから成約のためには極めて重要な会談だったのです。薩長双方の儀礼的、虚礼的な「ご挨拶」一切なしの、自分が着いたらいきなり実質的会談に入れるようにする為のこれは龍馬の「確信犯的遅刻」と指摘する向きもあります)とか。
 また、薩長連合成立の決定的要素になったバーター取り引きにしてからも、7300挺もの銃をあんなに短期間にグラバーから調達出来たのはなぜだったか、とか、あるのですが、ここでは紙幅の都合上「暗殺」に限定します。
 最大の謎は「誰が殺ったのか」。まあ、実行犯は「見廻組」だったとして、じゃあ、それは彼らの単独犯行だったのか、ということです。かつてNHK「その時歴史が動いた」では、視聴者参加番組という形でこのことを取り上げましたが、このときはなんと「薩摩藩黒幕説」が有力、という結果が出ました。
 もちろん、かつての寺田屋事件で龍馬が逃げ込んだ場所は薩摩藩邸だったではないか、そこで薩摩藩は龍馬をあんなに大事に介抱したではないか、加之(しかのみならず)、その傷が一段落した時、お龍さんへの感謝と慰安のための(新婚)旅行をセットしたのは他ならぬあの西郷さんではなかったか、とか、反論も当然ありました。
 実際に薩摩藩と見廻組はお互いにどう事前の細かい連絡を取り合ったのか、あの日、龍馬と一緒にいた自分たちのシンパの中岡慎太郎をどうするつもりだったのか、とか、まだ解明できていないことが多いのです。勿論、軽々に結論は出ません。でも、大政奉還以後の新しい日本をどういう「政体」にしていくかの路線の違いは、彼らを「そういう仲」にしたという「言い分」もそれなりに理解できないことではないのです。(フリーアナウンサー・松平定知 夕刊フジ、2010.01.15

謎が多すぎる龍馬

坂本龍馬が「新国家」に託したもの

みんなの投票

幕末の志士、坂本龍馬は、傑出した先見性を持つ人物だったと思いますか?

  • 思う

    74

  • 思わない

    27

  • どちらともいえない

    11