なぜ日本人は元号を使い続けるのか
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なぜ日本人は元号を使い続けるのか

平成の次はどんな元号になるのか。日本国民にとっては最大の関心事であろう。暦に元号を用いるのは、今や世界を見渡してもわが国だけである。ただ、一方で欧米化が進むライフスタイルの変化に合わせて「元号不要論」を唱える人が多いのも事実である。なぜ日本人は元号を使い続けるのだろうか。

平成の次はどんな元号になるのか。日本国民にとっては最大の関心事であろう。暦に元号を用いるのは、今や世界を見渡してもわが国だけである。ただ、一方で欧米化が進むライフスタイルの変化に合わせて「元号不要論」を唱える人が多いのも事実である。なぜ日本人は元号を使い続けるのだろうか。

歴史から学ぶべきことがある

生き続ける独立国家のシンボル

暗躍した天皇廃絶を狙う勢力

「赤旗」元号復活なぜこのタイミング? 

 4月3日から実質的な新年度がスタートしたわけですけれども新入生・新入社員に限らず、誰にとっても新年度ですからこの新しい年度でそれぞれに元気を出して頑張っていきましょう。さて、日付的には4月1日から新年度はスタートしていますが、一つ異変が起きています。日本共産党の機関紙『赤旗』がなんと、西暦2017年と共に「元号 平成29年」と併記しました。これは驚きです。
元号表記を復活させた共産党の機関紙
「しんぶん赤旗」の4月1日付紙面
 もともと赤旗には西暦と元号が併記されていましたが、今から28年前、昭和から平成に変わったことを機に西暦だけになりました。ところが今回、平成を記すことになったその理由は、4月1日付の紙面に次のように説明してあります。
 「元号を使用している読者が増え、西暦を元号に換算するのが不便だとの意見が多く寄せられたため、読者の便宜を考えた」
 この説明はその通りと受け止めたとして、何で平成になった時にやめたのかというと、これは元号法に基づいて平成となった平成元年1月7日に当時の共産党の金子満広・書記局長が次のようにコメントを出してかなり厳しく批判しています。
 「元号法は天皇元首化・憲法改悪などの反動的策動の一環」
 実際、昭和54(1979)年、大平内閣によって元号法が制定されたときに、共産党は反対しています。そして新聞赤旗のHPには次のように書いてあったようです。
 「憲法で定められた主権在民の原則に反するものだと考えています」
 「元号法は廃止すべきです」
 「時代錯誤です」
 これが赤旗から元号を無くした理由でしょう。日本国憲法に照らして、主権在民に反する、これが共産党の根幹にかかわるまさに主義主張の行動です。この主義主張でやってきた行動を”読者からの要望によって、利便性を考えて”というのはこれは共産党らしくないです。
 やはり共産党はスジを通してこそですから、4月1日のことですし日本共産党の”エイプリルフール”ということにして下さい。(「中田宏チャンネル」2017.4.3

ノスタルジー感じるのは日本人だけ

大正から昭和の改元で起きた「光文事件」

 政府が31年元日から新元号とする方向で検討しているとの報道を受け、にわかに元号への注目が集まっている。元号はこれまでに247あり、日本が世界に誇る伝統文化の一つ。しかし、その歴史や選定の経緯などはあまり知られていない。なじみのある「明治」から「平成」まで、元号にまつわる話を紹介したい。
 明治期に伊藤博文らによって「皇室典範」などが制定されると、天皇の「終身在位」や天皇の在位期間に応じて元号を変える「一元一世」が確立し、改元手続きも法的に整備された。これらの元号関連の法規定が初めて適用されたのが「大正」だった。明治45(1912)年、明治天皇が病気で昏睡状態となったことを受け、新元号作りが進められた。学者らが考案した数多くの候補から「大正」「天興」「興化」の3案に絞り込まれると、最終的に天皇の諮問機関である枢密院が「大正」を選択。大正天皇の勅定(ちょくじょう)によって同年7月30日に改元された。
 大正から昭和への改元では、世紀の大誤報で世を騒がせた「光文事件」が起きる。大正15(1926)年12月25日未明、大正天皇の崩御直後に毎日新聞の前身である東京日日新聞は、他紙に先駆けて「新元号は光文」と号外で報じた。大正天皇は病弱だったため、大正10年から皇太子の裕仁親王(昭和天皇)が摂政についていた。大正天皇は葉山御用邸(神奈川県葉山町)で療養していたが病状は好転せず、次第に天皇の動向をめぐって新聞各紙の取材合戦が過熱。中でも新元号は誰もが狙っていた特ダネだった。
 そんな中で新元号報道がされたため、事実であれば大スクープだった。だが、政府が発表した新元号は「昭和」。スクープが一転、歴史に名を残す大誤報となってしまったのだ。この誤報をめぐっては、新元号が政府の公式発表より前に報道されたため、「光文」が急遽、「昭和」に差し替えられたという説もあれば、単なる誤報だという説もある。「日本年号史大辞典 普及版」(雄山閣)によれば、宮内省は図書寮編修官の吉田増蔵氏が考案した「昭和」「神化」「元化」の3つに絞り込んだ一方、当時の内閣も「大正」を考案した国府種徳氏に命じ、「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の5案を作成させていた。
1989年1月7日、新元号「平成」を
発表する小渕恵三官房長官=首相官邸
 こうして宮内省から3案、内閣から5案が出されて精査した結果、「光文」を含む国府案はすべて姿を消し、吉田案の3つが残った。中でも「昭和」が最有力候補として枢密院に提出され、これがそのまま決定されたという。こうした経緯を踏まえ、同事典は「『光文』が枢密院で内定していたけども某紙にスクープされたから再度審査して『昭和』に変更したということはありえない」としている。光文事件は、東京日日新聞社長が辞意を表明するまでに発展したが、編集幹部が責任を取る形で事態が収拾された。
 「昭和」から「平成」に改められたのは、平成元年(1989年)1月8日。竹下登内閣の小渕恵三官房長官が「平成」と書かれた台紙を掲げるシーンを覚えている人も多いだろう。平成は「国の内外にも天地にも平和が達成される」という意味が込められている。また、平成が選ばれる際、「修文」と「正化」も候補にあったが、いずれも頭文字のアルファベットが「昭和」の「S」と同じで紛らわしいとの意見もあったことから「平成」になったとも言われている。(産経ニュース「政界徒然草」2017.02.25

「世紀の総力戦」勝者は

天皇のご存在と深く結びついた元号

 思い起こせば、四半世紀前の昭和63年9月19日深夜、昭和天皇が2度目の重患の身となられ、いわゆる“Xデー”の到来を前に、政府内では、御代替(みよが)わりの諸儀のあり方についてひそかに検討と準備が進められた。一口に諸儀というが、その意義を要約すれば、先帝に対する哀悼・追慕の念を示しつつ新帝の御代を慶賀・歓迎するという2つの思いが重なる中で、約2年間にわたって行われる、皇位継承に関わる一連の行為・儀礼・祭祀(さいし)-ということになろう。
 それは践祚(せんそ)・改元・御大喪・即位の礼・大嘗祭(だいじょうさい)の5つから成る。先に少し触れたように、今日の時点でこのことに言及するのは憚(はばか)られるのだが、御大喪が俄(にわか)に世人の注目を集めたという事情に鑑み、一般論として整理しておく必要が出てきたと思われるので、現行憲法下では初めての経験となった平成度の御代替わりの諸儀について改めて振り返ってみたい。そこでの基本的な課題は、皇室の伝統と憲法の政教分離原則をどのように調整するかということに尽きるといってよかろう。
 第1の「践祚」は、先帝が崩御されて新帝が直ちに天皇の位に即(つ)かれることである(現皇室典範では「即位」と称する)。それは、古来より皇位のみしるしとされてきた、「三種の神器」の承継を通してなされるのだが、三種のうち「剣」と「璽」については、「剣璽等承継の儀」と称されて憲法の定める国事行為とされた。一方、「鏡」を奉斎する賢所への奉告の儀は、宗教性を帯びているという理由から、国事行為とは区別されて公的な「皇室の行事」という別の範疇(はんちゅう)を立てて行われた。
 次に「改元」に関しては、そのほぼ10年前の昭和54年に制定された元号法という明文の根拠があったが、法文には「元号は、政令で定める」とあるのみである。しかし、歴史的にみれば、元号は天皇のご存在と深く結び付いている。このため、天皇と無関係に政府の専権で制定されることに強い疑念が寄せられ、公表の前に天皇のご聴許を得るという手順を踏むことで、伝統と法の間隙を埋めたのである(ただし、旧法と違って即日ではなく翌日に改元された)。
 「御大喪」では、「皇室の行事」として旧皇室喪儀令に拠(よ)って国礼・国式(広い意味での神式)で、葬場殿の儀を営んだ後に鳥居や真榊(まさかき)を撤去し、連続して国事行為としての大喪の礼を無宗教式で執り行うという奇妙な2本立ての方式が採られた。その4年後に言い渡された「千葉県八街(やちまた)町仏式町民葬訴訟」最高裁判決が、宗教的儀式を伴う公葬を合憲と判断したことで、今後はこうした二重の儀礼は解消されることになろう。(産経ニュース「正論」国学院大名誉教授・大原康男 2013.12.16
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