天皇になろうとした日本人
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天皇になろうとした日本人

天皇陛下の譲位を実現する特例法案が成立した。日本史をひも解けば、天皇の譲位は決して珍しいことではない。ただ、権勢を振るった時代の寵児が皇位簒奪や天皇を超越した存在になろうとした例もしばしばあった。彼らはなぜ「治天の君」を目指したのか。歴史を通して万世一系の意味を改めて考えたい。

天皇陛下の譲位を実現する特例法案が成立した。日本史をひも解けば、天皇の譲位は決して珍しいことではない。ただ、権勢を振るった時代の寵児が皇位簒奪や天皇を超越した存在になろうとした例もしばしばあった。彼らはなぜ「治天の君」を目指したのか。歴史を通して万世一系の意味を改めて考えたい。

万世一系はいかに保たれたか

京都市上京区の相国寺に伝わる
足利義満の出家後の肖像
(模本、東大史料編纂所蔵)
 のっけから私事で恐縮だが、筆者にとって忘れられない一冊がある。作家、井沢元彦氏の『天皇になろうとした将軍』(小学館)である。あとがきを読んで知ったが、井沢氏にとっても歴史ノンフィクションに進むきっかけを作った思い出深い作品だったという。
 同著で取り上げた人物は、室町幕府3代将軍、足利義満である。義満と言えば、わずか10歳で将軍となり、60年続いた南北朝を統一、日明貿易を奨励して莫大な利益をもたらし、幕府権力を確立した剛腕将軍として日本史でもおなじみの人物である。
 義満は36歳の若さで将軍職を譲った後、権謀術数の限りを尽くし、武家としては平清盛以来となる太政大臣に就任した。太政大臣は天皇の臣下としては最高位、つまり人臣を極めた要職だったが、義満はそれに飽き足らず、隣国の明に従属する形で「日本国王」として認めさせ、しかもその威光を借りて実子、義嗣を天皇として即位させ、自らは上皇として権勢を振るう皇位簒奪を画策したのである。ところが、義嗣を親王として元服させた直後に義満は発病し突然死する。
 井沢氏は、この不可解な死の謎解きを大胆な仮説で迫った。詳しくは同著をお読みいただければと思うが、筆者が最も衝撃を受けたのは天皇の血統、すなわち「万世一系」を保つために、朝廷をはじめとするあらゆる勢力が時の権力者と対峙してでも成し遂げた歴史的事実である。
 くしくも、天皇陛下の譲位を実現する特例法案が成立した。皇統の危機が叫ばれる中、iRONNAでは前回、「女性宮家」の是非をテーマに取り上げた。今回は日本史をひも解きながら、125代にわたる天皇の万世一系はいかにして保たれたのか、井沢氏をはじめとする著名な歴史家たちの論考をぜひご覧いただきたい。(iRONNA編集長、白岩賢太)

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 家督を譲る前の平清盛は、明確な国家像というものを持たなかったのかもしれない。しかし本格的に日宋貿易に乗り出すにつれ、新たな時代のビジョンを持ち始めたに違いない。清盛は貿易による富の大きさに驚嘆し、日宋貿易を盛んにし、さらなる富を手にしようとした。それは私利私欲からではなく、九州沿岸部や瀬戸内海の海賊の掃討による海の道の安全確保や、福原を風波から守るための経ケ島の構築など、私財をなげうってもやり遂げねばならない国家事業だと考えていた。つまり清盛こそ、国家像を持った初めての天下人だった。
神戸市兵庫区の琵琶塚にある平清盛像
 しかしこの時代、新しいことは悪とされ、旧習を墨守することが善とされた。それは、ひとえに天皇家と公家社会を守るための方便にすぎないのだが、清盛が新たな国家像を描いた時、平家の滅亡は約束されたと言ってもいいだろう。平家勢力を一掃しようとした鹿ケ谷事件は、後白河院とその取り巻きによる平家打倒の陰謀を、清盛が未然に防いだとされてきた。しかし実際は、取り巻きが宴席で平家の悪口を言っただけで、それを密告者から聞いた清盛が陰謀を捏造(ねつぞう)、一気に反対勢力を粛清したものだ。
 これにより治承2(1178)年、後の安徳帝が誕生すると、清盛は皇太子外戚(がいせき)の地位を得る。まさに、わが世の春を謳歌(おうか)する平家だが、暗雲は目前に迫っていた。つまずきは治承3年の重盛の死に始まる。清盛と後白河院との間に入り、調整役を担っていた重盛の死は、院と清盛の関係をさらに悪化させた。跡を継いだ宗盛は、無能を絵に描いたような人物である。院は平家の所領や知行国主の座を取り上げ、清盛の気持ちを逆撫(な)でするようなことを平気で繰り返す。しかも清盛は、持ち前の忍耐強さと冷静さを失いつつあった。老耄(ろうもう)が訪れたのである。
 それが治承3年の政変につながる。この大粛清により院近臣勢力は一掃され、院は政治力を失い、清盛の独裁体制が確立される。その翌年には安徳帝が即位し、天皇外戚となった清盛と平家一門の栄華は、ここに極まる。この後、福原に強引に遷都しようとした清盛と、公家社会の軋轢(あつれき)が高まり、ほぼ時を同じくして、頼朝の挙兵となる。治承5年閏(うるう)2月、東国から押し寄せる源氏に抗すべく陣頭指揮を執っているところで、清盛は突然、この世を去る。その後、一門が壇ノ浦で滅亡を迎えることは、周知の通りである。
 清盛には、敗者の臭いがしない。おそらく源氏との対決に決着をつける前に、死が訪れたからだろう。しかし冷静沈着な40代までと、短気で独善的な晩年の清盛では、別人のようである。おそらく老耄が始まっていたと思われるが、独裁体制確立の反動は大きかったと言わねばならない。すなわち皇統を奪取し、知行国家を独占し、権門寺院の権益を取り上げた平家一門に対する公家や寺社の反発は大きく、それが源氏の後押しをしたのである。
 仮に老耄していなかったとしても、清盛の敗因は「性急に過ぎた」ことである。己一代で平家一門の地位を確立し、藤原氏のように未来永劫(えいごう)、子々孫々まで繁栄させていこうとしたかったのは分かるが、一代でやれることは限られており、そのラインをどこで引くか、見極めていなかったのだろう。事業拡大を急ぐ企業と同様、清盛は事を急ぎすぎたのである。
 人は感情の生き物である。感情によって歴史は作られてきたと言っても過言ではない。そうした中で、感情に負けなかった者だけが勝者になれる。
 老耄した清盛は、感情の赴くままに事を急ぎ、すべてを失った。一代で高い頂にたどり着いたことは、逆に没落を急がせたのだ。「急(せ)いては事をし損じる」という言葉は、清盛のためにあるような気がする。(作家・伊東潤「敗者烈伝」産経新聞 2014.04.10)

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