渡邊大門(歴史学者)

 豊臣秀吉の出自は、これまで単に百姓ということになっていた。しかし、実際はかなり複雑で、さまざまな説が残っており、本稿ではそれらの説を検討してみようと思う。

 最初に、秀吉の生誕年について触れておこう。かつて秀吉の生年月日は、天文5(1536)年1月1日と考えられてきた(『太閤素性記』)。しかし、歴史学者の桑田忠親氏は秀吉の生年について、『豊臣秀吉研究』(角川書店)で、次のように指摘している。

・「関白任官記」(『天正記』所収)の中に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり。周易の本卦復の六十四に当れり」とある。丁酉の年は天文6(1537)年であり、秀吉の誕生日は2月6日になる。

・天正18(1590)年12月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正18年に54歳であると、誕生年は天文6(1537)年になる。

 以上の点から、従来説の天文5(1536)年1月1日説は否定され、現在、秀吉の生誕年は天文6(1537)年2月6日説が定説となっている。

 次に秀吉の出自について考えてみよう。最初に検討する史料は、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素性記』である。同書は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であった知貞の父、円都や母からの聞き書きがベースとなっている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出する。

「父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった」(現代語訳)

 鉄砲伝来は諸説あるが、一般的に天文12(1543)年とされている。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたく、「鉄砲足軽」というのは知貞の勘違いなのかもしれない。
木下藤吉郎秀吉像=滋賀県
木下藤吉郎秀吉像=滋賀県
 また、木下という姓を名乗っているならば、秀吉の父は有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。しかし、秀吉自身の述懐するところでは、少年期の暮らしぶりは非常に貧しく、百姓身分だったと考えた方が自然で、木下姓は不審であるといえる。

 以上の点は、先学が指摘するように、おおむね次のように整理できると思う。

(1)土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった(小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書)

(2)朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作である。本来は、姓氏などなかった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店)

 つまり、弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった可能性が高い。